人生の散り際の美しさを描いた文学作品は多数ある。
しかし散り際の美しさを説明するかのように自ら自殺してしまう人の生き方は評価しない。
太宰治、芥川龍之介、川端康成等。
三島由紀夫は少し違う。
その責任を100%果たせるかどうかは別にして、生きている以上、人は誰でも自分の人生に責任がある。
責任を果たせなかった事をとかく責めがちだが、
むしろ少しでも前向きに取り組めるよう励ましの言葉をかけたいものである。
責任を放り出したくなる不幸がたくさん存在する現実を描くのもアーティストの仕事だが、
私が評価しないタイプは、
死に魅いられて、死に酔ってしまう人のように見える。
宇宙戦艦ヤマト_沖田艦長も言っている。
『戦場には死が巣くっている。
人はともすると自己犠牲と英雄的行動として死に魅いられる。
だが忘れてはいけない、
死を恐れろというのではない、
死線を越えて生き抜く心こそ行動に意味と力を与える希望なのだ。』
comics vol.7
人の世全ての不幸の色合いを濃くする物は死である。
いい歳になったら、死が不幸を撒き散らす事がどういう事か、自分なりの言葉で語れるようになっておきたい。
先頃起こったばかりの電通過労死自殺にしてもまさにそうだ。
自殺さえ選択しなければやり直すチャンスは掴めたはずなのだが、
死に魅いられて、しかも尚、
上から目線の人ばかりが周囲にいると、視界が狭められて何も見えなくなってしまうようである。
死んで花見は咲かないし、
死を鬱の終局的ゴールにしないために全てのカウンセラーと精神科医は頑張っているのだし、
死という最大のイベントの意味をちゃんと理解し、不幸の中心としないために全ての宗教家は心に届く言葉を語っている。スピリチュアルなものは聖なるものであり、とらえどころの無いものである。それが何かと言えば自らの心の存在
その物に過ぎない。
スピリチュアルなものを信じない、自分は合理的に判断する、という宣言は、『他人の言葉で自分自身を定義する』というリスクを犯す事になりやすい。
『自分を定義するのは自分自身の言葉』これに例外は無い。
死は究極の曖昧な闇であり、
それに負けないために自分自身の内なる曖昧さを受け入れて鍛える必要がある。
曖昧さを否定してはだめだ。
自分自身を受け入れ、他者を受け入れて行くことは、
死という理不尽な楔で自分の人生の旅路を寸断されないための、
厳しくも暖かい修練の旅である。
死に魅いられて自己満足を周囲に撒き散らすような人間には、
最後の最後まで人としての生き方を説くのが筋と言うものだろう。
後に残る人に託せるものは常に第三者の正直な客観的評価によるものでありたい。
人生、抗(あらが)えないと悟るのは重要だが、それでも尚、
最後まで歌舞(かぶ)いてまわりを明るくし続ける事ができたら、それも本望だ。
池袋サンシャインクリニック_「患者様の安心と満足を目標にする。」という当たり前のことを第一に考え、本物の美容形成外科を開設いたしました。「美のホームドクターになれたら…」が私たちの願いです
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