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2019年06月21日
日向神話の本舞台3
天孫降臨の高千穂はどこか
「天孫降臨の高千穂はどこか」を考えてみましょう。日本神話の天孫降臨伝説に描かれる高千穂に関しては「西臼杵高千穂説」と高千穂峰がある「霧島山説」の2説があります。
杉本さんによると、奈良、平安時代の記述などを見ると、西臼杵高千穂説が有力なのですが、鎌倉時代辺りから霧島山説が浮上。昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、「襲の高千穂は西臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白」とまで断言しています。実はこの「襲」(そ)という記述が食わせ物のようなのです。
西臼杵高千穂説
文献を見てみましょう。
古事記には「竺紫日向之高千穂之九士布流多気」に「天降りあそばされた」と記されています。
「竺紫」は筑紫、今の福岡県付近のことで九州を示しています。「日向」は日向国、当時は今の宮崎県と鹿児島県が日向国でした。「九士布流」は「くしふる」と読み、「多気」は「嶺」「嶽」(たけ)の意味です。高千穂町にある「?觸(くしふる)神社」付近とされています。
つまり、九州の日向国高千穂にある「くしふるたけ」に降臨したと書いてあるのです。
日本書紀では前回のブログで紹介したように、「日向襲之高千穂峯」」、「筑紫日向高千穂?觸峯」、「日向?日高千穂峯」、「日向襲之高千穂?日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といくつかの説が併記してあり、降臨地に若干の違いがあるにせよ、「日向」の「高千穂」という点では共通しています。
鎌倉時代中期にできた日本書紀の注釈書「釈日本紀」(しゃくにほんぎ、卜部兼方著)には、日向国風土記にある次のような記述が引用されています。
「臼杵郡内知鋪郷(うすきのこおりのうちちほのさと) 天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 離天磐座(あめのいわくらをはなれ) 排天八重雲(あめのやえくもをおしわけ) 稜威之道別道別(いずのちわきちわきて) 天降於日向之高千穂二上峰(ひゅうがのたかちほのふたがみのたけにあもりましき)…」
この文章を現代文的に直すと「臼杵の郡の内、知鋪(ちほ=高千穂)の郷。天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を排(おしの)けて、稜威(いつ=神聖なこと)の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯(高千穂町にある二上山)に天降りましき」となります。
風土記は、奈良時代初期の官選の地誌で、元明天皇の詔(みことのり)により各令制国の国庁が編さんしたものです。この風土記の引用は、鎌倉時代に萬葉学者・仙覚が著した万葉集の注釈書「萬葉抄」の中にも見られます。
天皇から風土記編さんの詔が出る前の和銅6年(713)、日向国は日向国、大隅国、薩摩国に分離されており、この日向国風土記は現在の宮崎県内に限定した最も古い地誌といえます。
平安時代になると、国史である六国史(日本書記もその一つ)の中に、西臼杵の高千穂と霧島山の違いを見ることができます。当時は日向国の高千穂と大隅国の霧島が明確に区別されていたことが見て取れます。
「続日本後紀」(837年)では、高千穂は「日向国無位高智保皇神−従五位下」とあり、霧島に関しては「霧嶋岑神(きりしまたけじん)−官社」と記されています。
その後の「日本三代実録」(858年)では「高智保神−従四位上」となっているのに対し、「霧島神−従四位下」となっており、高千穂神社が無位から従四位に格上げになり、霧島神社よりも官位が上になっていたことが分かります。
霧島山周辺はご存じのように活火山で、古来から信仰の対象とされてきました。霧島山信仰は、ここで修業し霧島六社権現を創建した天台宗の僧・性空上人(しょうくうしょうにん、910−1007)による影響が大きく、性空上人の流れをくむ修験者たちの修行の地となっていきました。
室町時代には「長門本−平家物語」の中に、「日本最初の峰、霧島のたけと号す」という文が出てきます。霧島山説をとる学者は、この内容から「高千穂峰」のことを言っているとしていますが、西臼杵高千穂説の学者は「高千穂という名前があるなら高千穂と書くべきじゃないか。高千穂という名称が無かったから『最初の峰』としている」と反論しています。
杉本さんは「私見ですが、弟子の修験者たちが性空上人が修業した霧島山を神格化したいという意思もあって加筆したのかなと思う」と話しています。
こうしたことから宮崎県は大正13年(1924)3月に公表した「史蹟調査報告」の中で、「現下学会の斉しく認める所は、西臼杵郡説を以って真の伝説地なりとするに一定したるものの如し」と裁定。西臼杵郡の高千穂こそが、記紀において伝承された天孫降臨の地であるとして、霧島山説を切って捨てています。
霧島山説
一方、霧島山説は鎌倉時代の百科事典とも言える「塵袋」(ちりぶくろ、作者未詳)に、「皇祖褒能忍耆命(こうそほのににぎのみこと) 日向国囎唹郡高茅穂?生峰(ひゅうがのくにそおぐんたかちほのみね)にあまくだりまして是より薩摩国閼馳郡?竹屋村(さつまのくにあたぐんたけやむら)にうつり玉ひと…」とあるのが最初です。
ここに出てくる「囎唹郡」が、霧島山の西にある鹿児島県曽於郡(そうぐん=現・曽於市)に当たると解釈されています。
にわかに霧島山説が発言力を持ってくるのが、江戸時代です。
6代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を実質的に主導した新井白石が元禄5年(1692)、高千穂峰に登頂した深見作左衛門ら3人の登頂体験を代作した「霧島嶽の記」の中で、高千穂峰にある??天の逆鉾?≠フことを具体的に紹介。「あい伝えて言うには、これは天孫が天降りされた時、これをもって標しとされた。古のいわゆる国柱である」と書いた影響が大きかったようです。
「古事記傳」を書いた本居宣長は、悩んだ末に「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし」と記述。簡単に言えば、どちらも高千穂で、どちらかに決めるのは無理だとしました。
さらに、この悩み解決のために「最初に高千穂に降臨し、それからずっと下がって再び高千穂峰に降臨した」という高千穂移動説を提示しています。
霧島説に決定的なインパクトを与えたのが、幕末の英雄・坂本龍馬です。負傷した龍馬は西郷隆盛らの勧めで、おりょう(楢崎龍)を連れて静養のため鹿児島を訪れ高千穂峰に登頂した際、天の逆鉾を引き抜いてみせ「ここは天孫降臨の地だ」と言ったそうです。
「日本最初の新婚旅行」と言われるほど有名なこのエピソードは、霧島高千穂説を大きく後押ししたと言っても過言ではないでしょう。
このため昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、日本書記にある「襲」(そ)は熊襲の襲、「豊後国風土記・肥前国風土記・肥後国風土記等にある球磨・囎唹・球磨・贈於・玖磨囎唹の贈於であり、後の囎唹の地であろうから、後世永く霧島山の西にある囎唹郡に比定しても支障がないことであろう」と断定。
さらに「日本書紀に見ゆる襲の高千穂が、遙か北方に隔たった日向国臼杵郡の高千穂を指すものとは考えられない。即ち、襲の高千穂は臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白と云われよう」として、西臼杵高千穂説を完全否定しています。
西臼杵高千穂説は、文献的には極めて信憑性が高いと言えますが、霧島山説は江戸時代から明治維新にかけて国を牽引した人たちの言動が、大きく影響していると言わざるを得ませんね。
「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」という杉本さんを含め、??心優しい?°{崎県民との県民性の違いを痛感します。
さて、あなたはどちらの高千穂説を支持しますか?
「天孫降臨の高千穂はどこか」を考えてみましょう。日本神話の天孫降臨伝説に描かれる高千穂に関しては「西臼杵高千穂説」と高千穂峰がある「霧島山説」の2説があります。
杉本さんによると、奈良、平安時代の記述などを見ると、西臼杵高千穂説が有力なのですが、鎌倉時代辺りから霧島山説が浮上。昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、「襲の高千穂は西臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白」とまで断言しています。実はこの「襲」(そ)という記述が食わせ物のようなのです。
西臼杵高千穂説
文献を見てみましょう。
古事記には「竺紫日向之高千穂之九士布流多気」に「天降りあそばされた」と記されています。
「竺紫」は筑紫、今の福岡県付近のことで九州を示しています。「日向」は日向国、当時は今の宮崎県と鹿児島県が日向国でした。「九士布流」は「くしふる」と読み、「多気」は「嶺」「嶽」(たけ)の意味です。高千穂町にある「?觸(くしふる)神社」付近とされています。
つまり、九州の日向国高千穂にある「くしふるたけ」に降臨したと書いてあるのです。
日本書紀では前回のブログで紹介したように、「日向襲之高千穂峯」」、「筑紫日向高千穂?觸峯」、「日向?日高千穂峯」、「日向襲之高千穂?日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といくつかの説が併記してあり、降臨地に若干の違いがあるにせよ、「日向」の「高千穂」という点では共通しています。
鎌倉時代中期にできた日本書紀の注釈書「釈日本紀」(しゃくにほんぎ、卜部兼方著)には、日向国風土記にある次のような記述が引用されています。
「臼杵郡内知鋪郷(うすきのこおりのうちちほのさと) 天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 離天磐座(あめのいわくらをはなれ) 排天八重雲(あめのやえくもをおしわけ) 稜威之道別道別(いずのちわきちわきて) 天降於日向之高千穂二上峰(ひゅうがのたかちほのふたがみのたけにあもりましき)…」
この文章を現代文的に直すと「臼杵の郡の内、知鋪(ちほ=高千穂)の郷。天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を排(おしの)けて、稜威(いつ=神聖なこと)の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯(高千穂町にある二上山)に天降りましき」となります。
風土記は、奈良時代初期の官選の地誌で、元明天皇の詔(みことのり)により各令制国の国庁が編さんしたものです。この風土記の引用は、鎌倉時代に萬葉学者・仙覚が著した万葉集の注釈書「萬葉抄」の中にも見られます。
天皇から風土記編さんの詔が出る前の和銅6年(713)、日向国は日向国、大隅国、薩摩国に分離されており、この日向国風土記は現在の宮崎県内に限定した最も古い地誌といえます。
平安時代になると、国史である六国史(日本書記もその一つ)の中に、西臼杵の高千穂と霧島山の違いを見ることができます。当時は日向国の高千穂と大隅国の霧島が明確に区別されていたことが見て取れます。
「続日本後紀」(837年)では、高千穂は「日向国無位高智保皇神−従五位下」とあり、霧島に関しては「霧嶋岑神(きりしまたけじん)−官社」と記されています。
その後の「日本三代実録」(858年)では「高智保神−従四位上」となっているのに対し、「霧島神−従四位下」となっており、高千穂神社が無位から従四位に格上げになり、霧島神社よりも官位が上になっていたことが分かります。
霧島山周辺はご存じのように活火山で、古来から信仰の対象とされてきました。霧島山信仰は、ここで修業し霧島六社権現を創建した天台宗の僧・性空上人(しょうくうしょうにん、910−1007)による影響が大きく、性空上人の流れをくむ修験者たちの修行の地となっていきました。
室町時代には「長門本−平家物語」の中に、「日本最初の峰、霧島のたけと号す」という文が出てきます。霧島山説をとる学者は、この内容から「高千穂峰」のことを言っているとしていますが、西臼杵高千穂説の学者は「高千穂という名前があるなら高千穂と書くべきじゃないか。高千穂という名称が無かったから『最初の峰』としている」と反論しています。
杉本さんは「私見ですが、弟子の修験者たちが性空上人が修業した霧島山を神格化したいという意思もあって加筆したのかなと思う」と話しています。
こうしたことから宮崎県は大正13年(1924)3月に公表した「史蹟調査報告」の中で、「現下学会の斉しく認める所は、西臼杵郡説を以って真の伝説地なりとするに一定したるものの如し」と裁定。西臼杵郡の高千穂こそが、記紀において伝承された天孫降臨の地であるとして、霧島山説を切って捨てています。
霧島山説
一方、霧島山説は鎌倉時代の百科事典とも言える「塵袋」(ちりぶくろ、作者未詳)に、「皇祖褒能忍耆命(こうそほのににぎのみこと) 日向国囎唹郡高茅穂?生峰(ひゅうがのくにそおぐんたかちほのみね)にあまくだりまして是より薩摩国閼馳郡?竹屋村(さつまのくにあたぐんたけやむら)にうつり玉ひと…」とあるのが最初です。
ここに出てくる「囎唹郡」が、霧島山の西にある鹿児島県曽於郡(そうぐん=現・曽於市)に当たると解釈されています。
にわかに霧島山説が発言力を持ってくるのが、江戸時代です。
6代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を実質的に主導した新井白石が元禄5年(1692)、高千穂峰に登頂した深見作左衛門ら3人の登頂体験を代作した「霧島嶽の記」の中で、高千穂峰にある??天の逆鉾?≠フことを具体的に紹介。「あい伝えて言うには、これは天孫が天降りされた時、これをもって標しとされた。古のいわゆる国柱である」と書いた影響が大きかったようです。
「古事記傳」を書いた本居宣長は、悩んだ末に「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし」と記述。簡単に言えば、どちらも高千穂で、どちらかに決めるのは無理だとしました。
さらに、この悩み解決のために「最初に高千穂に降臨し、それからずっと下がって再び高千穂峰に降臨した」という高千穂移動説を提示しています。
霧島説に決定的なインパクトを与えたのが、幕末の英雄・坂本龍馬です。負傷した龍馬は西郷隆盛らの勧めで、おりょう(楢崎龍)を連れて静養のため鹿児島を訪れ高千穂峰に登頂した際、天の逆鉾を引き抜いてみせ「ここは天孫降臨の地だ」と言ったそうです。
「日本最初の新婚旅行」と言われるほど有名なこのエピソードは、霧島高千穂説を大きく後押ししたと言っても過言ではないでしょう。
このため昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、日本書記にある「襲」(そ)は熊襲の襲、「豊後国風土記・肥前国風土記・肥後国風土記等にある球磨・囎唹・球磨・贈於・玖磨囎唹の贈於であり、後の囎唹の地であろうから、後世永く霧島山の西にある囎唹郡に比定しても支障がないことであろう」と断定。
さらに「日本書紀に見ゆる襲の高千穂が、遙か北方に隔たった日向国臼杵郡の高千穂を指すものとは考えられない。即ち、襲の高千穂は臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白と云われよう」として、西臼杵高千穂説を完全否定しています。
西臼杵高千穂説は、文献的には極めて信憑性が高いと言えますが、霧島山説は江戸時代から明治維新にかけて国を牽引した人たちの言動が、大きく影響していると言わざるを得ませんね。
「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」という杉本さんを含め、??心優しい?°{崎県民との県民性の違いを痛感します。
さて、あなたはどちらの高千穂説を支持しますか?
2019年06月20日
日向神話の本舞台2
前回に続いて、日向神話のお話です。
まず「天孫降臨の高千穂はどこか?」に関して、杉本さんのお話を紹介したいと思いますが、その前に日本神話の基礎となる「古事記」、「日本書紀」(以後、二つの最後の文字をとって「記紀」とします)について触れてみましょう。
明治天皇の玄孫で延岡でも何度か講演された竹田恒泰さんの著書によると、日本が第二次世界大戦に負け連合国の占領下にあったとき、「歴史的事実ではない」、「創作された物語にすぎない」、「科学的でない」などの理由で、「記紀」は「学ぶに値しないもの」とされ、さも有害図書であるかのような扱いを受けてきたようです。
確かに、黄泉国から戻ったイザナキノミコトが御祓(みそぎはらい)をした際に、いろんな神様が生まれたこと、コノハナサクヤヒメの火中出産、トヨタマヒメが八尋和邇(やひろわに)になって出産したシーンなど、今日の常識では信じられないような話がたくさん出てきます。
でも、どうでしょうか。キリスト教のバイブルである「聖書」でも、天地創造やマリアの処女懐胎など、とても事実とは思えない記述がたくさんあります。アメリカでは「聖書」を知らなければ、ジョークも理解できないといわれるほどで、欧米人、特にキリスト教信者から「聖書は史実ではない」、「科学的でない」などの話を聞いたことはありません。
竹田さんは「ここに書かれている記述が『真実』なのであって、『事実』かどうかはさして重要ではない」と指摘。「十二、十三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」という、二十世紀を代表する歴史学者アーノルド・J・トインビー(1889−1975)の言葉を引用し、警鐘を鳴らしています。
「新訳聖書」でのキリストの教えが比喩に満ちたものであるように、日本神話の物語の多くも事実を反映させたものであると考えられ、近年の考古学では事実ではないと思われていた事柄の事実性が確認された例も多いと聞きます。
日本の若者が外国に行くと、「日本とはどんな国ですか?」、「宗教は何ですか?」などと聞かれ、うまく答えられないケースが多いと聞きます。「記紀」に記されている日本神話はまさに、日本人のアイデンティティーに関わる重要な物語だと言っても過言ではなく、それを学んで自分たちの国の成り立ちを知り、誇りを持つことで、諸外国の人とも対等に渡り合える人材が育つのではないでしょうか。特に、その舞台の一つとなっている日向人(宮崎県民)には、ぜひとも読み込んでほしいと思っています。
古事記は日本最古の歴史書で、全3巻からなっています。712年にできています。「上巻」が神代の物語、「中巻」が神武天皇から応神天皇までの記事。下巻が仁徳天皇から推古天皇までの記事で、和漢混交文の原型といわれる文体で記述されています。
日本書紀は古事記編さんから8年後、720年にできた「最古の正史」です。奈良時代から平安時代にかけて日本では、「六国史」と言われる国の正史が編さんされていますが、その最初が日本書紀です。全30巻あり、中国を意識して作られたため、漢文で記述されています。
古事記はそれまで語り継がれてきた歴代天皇の系譜(帝紀)、神々や英雄の物語(旧辞)の内容を元明天皇の命を受けた太安万侶(おおのやすまろ)が苦心してまとめたものです。
しかし、当時の有力氏族の間には、その氏族それぞれに記録や伝承が残っていて、氏族が違えばその内容も若干違ったりしていました。日本書記ではそれら諸氏の記録や寺院の縁起、朝鮮側の資料などを網羅する形でまとめたものです。
ですから、天孫降臨の地一つとっても、「日向襲之高千穂峯」や「筑紫日向高千穂?觸(くしふる)峯」、「日向?日高千穂峯」、「日向襲之高千穂?日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といった記述に分かれています。
杉本さんによると古事記は「天皇や天皇を取り巻く人達、子孫の人達が勉強するために作られた参考書」だったそうで、できたのは日本書紀よりも古いものの、「国史」扱いはされていません。これに対し日本書紀は、当時も日本にとって驚異だった中国に対し、日本とはどういう国かを説明する意味でまとめられたものだったようです。
ありゃりゃ。長々と書いていたら、「天孫降臨の高千穂はどこか?」に関する杉本さんの話を書くスペースがなくなってしまいました。次回に回します。
古事記を読みたいと思う人には、竹田さんが古事記全文を完全現代語訳した「現代語 古事記」(学研)がオススメです。今回のブログの参考にさせていただきました。
まず「天孫降臨の高千穂はどこか?」に関して、杉本さんのお話を紹介したいと思いますが、その前に日本神話の基礎となる「古事記」、「日本書紀」(以後、二つの最後の文字をとって「記紀」とします)について触れてみましょう。
明治天皇の玄孫で延岡でも何度か講演された竹田恒泰さんの著書によると、日本が第二次世界大戦に負け連合国の占領下にあったとき、「歴史的事実ではない」、「創作された物語にすぎない」、「科学的でない」などの理由で、「記紀」は「学ぶに値しないもの」とされ、さも有害図書であるかのような扱いを受けてきたようです。
確かに、黄泉国から戻ったイザナキノミコトが御祓(みそぎはらい)をした際に、いろんな神様が生まれたこと、コノハナサクヤヒメの火中出産、トヨタマヒメが八尋和邇(やひろわに)になって出産したシーンなど、今日の常識では信じられないような話がたくさん出てきます。
でも、どうでしょうか。キリスト教のバイブルである「聖書」でも、天地創造やマリアの処女懐胎など、とても事実とは思えない記述がたくさんあります。アメリカでは「聖書」を知らなければ、ジョークも理解できないといわれるほどで、欧米人、特にキリスト教信者から「聖書は史実ではない」、「科学的でない」などの話を聞いたことはありません。
竹田さんは「ここに書かれている記述が『真実』なのであって、『事実』かどうかはさして重要ではない」と指摘。「十二、十三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」という、二十世紀を代表する歴史学者アーノルド・J・トインビー(1889−1975)の言葉を引用し、警鐘を鳴らしています。
「新訳聖書」でのキリストの教えが比喩に満ちたものであるように、日本神話の物語の多くも事実を反映させたものであると考えられ、近年の考古学では事実ではないと思われていた事柄の事実性が確認された例も多いと聞きます。
日本の若者が外国に行くと、「日本とはどんな国ですか?」、「宗教は何ですか?」などと聞かれ、うまく答えられないケースが多いと聞きます。「記紀」に記されている日本神話はまさに、日本人のアイデンティティーに関わる重要な物語だと言っても過言ではなく、それを学んで自分たちの国の成り立ちを知り、誇りを持つことで、諸外国の人とも対等に渡り合える人材が育つのではないでしょうか。特に、その舞台の一つとなっている日向人(宮崎県民)には、ぜひとも読み込んでほしいと思っています。
古事記は日本最古の歴史書で、全3巻からなっています。712年にできています。「上巻」が神代の物語、「中巻」が神武天皇から応神天皇までの記事。下巻が仁徳天皇から推古天皇までの記事で、和漢混交文の原型といわれる文体で記述されています。
日本書紀は古事記編さんから8年後、720年にできた「最古の正史」です。奈良時代から平安時代にかけて日本では、「六国史」と言われる国の正史が編さんされていますが、その最初が日本書紀です。全30巻あり、中国を意識して作られたため、漢文で記述されています。
古事記はそれまで語り継がれてきた歴代天皇の系譜(帝紀)、神々や英雄の物語(旧辞)の内容を元明天皇の命を受けた太安万侶(おおのやすまろ)が苦心してまとめたものです。
しかし、当時の有力氏族の間には、その氏族それぞれに記録や伝承が残っていて、氏族が違えばその内容も若干違ったりしていました。日本書記ではそれら諸氏の記録や寺院の縁起、朝鮮側の資料などを網羅する形でまとめたものです。
ですから、天孫降臨の地一つとっても、「日向襲之高千穂峯」や「筑紫日向高千穂?觸(くしふる)峯」、「日向?日高千穂峯」、「日向襲之高千穂?日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といった記述に分かれています。
杉本さんによると古事記は「天皇や天皇を取り巻く人達、子孫の人達が勉強するために作られた参考書」だったそうで、できたのは日本書紀よりも古いものの、「国史」扱いはされていません。これに対し日本書紀は、当時も日本にとって驚異だった中国に対し、日本とはどういう国かを説明する意味でまとめられたものだったようです。
ありゃりゃ。長々と書いていたら、「天孫降臨の高千穂はどこか?」に関する杉本さんの話を書くスペースがなくなってしまいました。次回に回します。
古事記を読みたいと思う人には、竹田さんが古事記全文を完全現代語訳した「現代語 古事記」(学研)がオススメです。今回のブログの参考にさせていただきました。
2019年06月19日
日向神話の本舞台その1
6月15日夜、延岡市の川中コミュニティーセンターで五重縁の会が主催する「のべおか郷土愛」講演会が開かれました。
講師は、前延岡市副市長の杉本隆晴さん。副市長時代から日向神話を観光振興に結びつけようと様々な施策に取り組まれていました。
特に、西南戦争で政府軍に敗れた薩摩軍が、北川町俵野の児玉熊四郎邸(現・西郷隆盛宿陣跡資料館)に宿陣したのは、児玉邸の裏手に皇室の先祖に当たるニニギノミコトの御陵墓があることを知っていたからだと提唱。西郷軍に従軍した深江権太郎の手記や、隆盛のひ孫に当たる西郷隆夫氏の証言などから裏付けされ、俵野を「時空を超えた出会いの聖地」としてPRされてきました。
副市長退任後は、日向神話研究会(会長・有留秀雄笠沙の会会長)副会長として、高千穂、日向と連携しながら、日向神話をあらゆる角度から深く分析されています。
杉本さんは「宮崎県北は日向神話の本舞台」をテーマに、日向神話のあらすじを説明した後、文献などを紹介しながら「天孫降臨の高千穂はどこか」、「ニニギノミコトはどこから来たのか」、「笠沙の岬はどこか」、「可愛山陵はどこか」、「神武東征の出発地はどこか」などについて詳しく考察されました。
個人的に私は、「天孫降臨の地は西臼杵の高千穂」、「笠沙の岬は延岡市の愛宕山」、「可愛山陵は北川町俵野にある陵墓参考地」と思っています。
しかしながら、高千穂説に「西臼杵高千穂」と「霧島連山高千穂の峰」の2説あるように、笠沙の岬、ニニギノミコト御陵墓、東征出発地に関しても、既に鹿児島県内に比定地があり、宮崎県北はむしろ??後発組?≠フ感が否めません。
杉本さんは「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」と前置きした上で、そうした論点について文献史学から見た変遷を分かりやすく説明してくれました。
江戸時代には笠沙山と呼ばれていたものが愛宕山になっていたり、逢瀬川が大瀬川に、五ツ瀬川が五ヶ瀬川になっていたり、私たちは知らず知らずのうちに神話にちなんだ古き良き名前を消し去ってしまっていたようです。
次回からは、杉本さんの講演内容に基づいて、宮崎県北が「日向神話の本舞台」と言われる根拠を考えてみたいと思います。
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講師は、前延岡市副市長の杉本隆晴さん。副市長時代から日向神話を観光振興に結びつけようと様々な施策に取り組まれていました。
特に、西南戦争で政府軍に敗れた薩摩軍が、北川町俵野の児玉熊四郎邸(現・西郷隆盛宿陣跡資料館)に宿陣したのは、児玉邸の裏手に皇室の先祖に当たるニニギノミコトの御陵墓があることを知っていたからだと提唱。西郷軍に従軍した深江権太郎の手記や、隆盛のひ孫に当たる西郷隆夫氏の証言などから裏付けされ、俵野を「時空を超えた出会いの聖地」としてPRされてきました。
副市長退任後は、日向神話研究会(会長・有留秀雄笠沙の会会長)副会長として、高千穂、日向と連携しながら、日向神話をあらゆる角度から深く分析されています。
杉本さんは「宮崎県北は日向神話の本舞台」をテーマに、日向神話のあらすじを説明した後、文献などを紹介しながら「天孫降臨の高千穂はどこか」、「ニニギノミコトはどこから来たのか」、「笠沙の岬はどこか」、「可愛山陵はどこか」、「神武東征の出発地はどこか」などについて詳しく考察されました。
個人的に私は、「天孫降臨の地は西臼杵の高千穂」、「笠沙の岬は延岡市の愛宕山」、「可愛山陵は北川町俵野にある陵墓参考地」と思っています。
しかしながら、高千穂説に「西臼杵高千穂」と「霧島連山高千穂の峰」の2説あるように、笠沙の岬、ニニギノミコト御陵墓、東征出発地に関しても、既に鹿児島県内に比定地があり、宮崎県北はむしろ??後発組?≠フ感が否めません。
杉本さんは「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」と前置きした上で、そうした論点について文献史学から見た変遷を分かりやすく説明してくれました。
江戸時代には笠沙山と呼ばれていたものが愛宕山になっていたり、逢瀬川が大瀬川に、五ツ瀬川が五ヶ瀬川になっていたり、私たちは知らず知らずのうちに神話にちなんだ古き良き名前を消し去ってしまっていたようです。
次回からは、杉本さんの講演内容に基づいて、宮崎県北が「日向神話の本舞台」と言われる根拠を考えてみたいと思います。
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