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2019年06月28日
日向神話の本舞台8
今回は延岡市内の町名と、前々回書き切れなかった一部の川の名称について紹介します。
「安賀多(あがた)」は、延岡が縣(吾田、英田)だった名残です。安賀多町のほか、古川町には「安賀多神社」があります。
愛宕山の南側に当たる「片田(かただ)」は、愛宕山の旧名「笠沙(かささ)山」が転じたものとされています。「小野(この)」は、笠沙の姫・コノハナサクヤヒメにちなむ地名と思われます(私見です)。
「三輪(みわ)」は、スサノオノミコト(須佐之男命)の6世孫に当たるオオクニヌシノカミ(大国主神、オオナムチノミコト)にちなむ名称で、奈良県の三輪山大明神につながります。その隣にある「三須(みす)」は「御簾」(みす、神殿や貴人の御殿に用いる簾=すだれ=)に通じ、三輪(御輪)の神様の前に座するとの意味があります。
「三輪」に関しては、三輪神社(延岡市下三輪町)の由緒に「大己貴命(オオナムチノミコト=大国主神)、豊葦原を巡狩して国家を経営される時、この地に来られ住まわれた。その処を青谷城(あおやぎ)山と言う。此処(ここ)に後人が命の幸魂奇魂を祀って青谷城神社と尊称し、後に三輪大明神と号した」とあり、大和(奈良県)の明神は青谷城神社の分神であるとされています。青谷城神社は村里から遠く離れていることから、三輪大明神として村里に遷宮され、現在の三輪神社となったと伝えられています。
「天下(あもり)」は、高天原の下の意味で、地上世界を指します。延岡市の天下は、ニニギノミコトの一行が当時の吾田(縣=延岡)に到着した場所、もしくは上陸地点だったと考えられます。
三重大学名誉教授の宮崎照雄氏は著書「日向国の神々の聖蹟巡礼」の中で、「記紀」に出てくる「高千穂の宮」について、その地勢などから「高千穂の霊峰から五ヶ瀬川に沿って下り、到り着いた『天下』に建てられたことで、『高千穂の宮』と称されたのです」としています。
「天下」の隣には「吉野(よしの)」があります。奈良県の「吉野」地方は、狩りに適した良い野という意味で、古来は離宮が於かれ、天皇の遊興の地だったそうです。延岡の吉野の名称が、奈良に移されたと推測されます。吉野町にある水谷神社はイツセノミコトの新居が建てられた場所とされています。
また、延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから、「水谷神社の由緒には『またこの吉野をはじめ、近隣の三輪・高野(たかの)などの地名は大和の国へ移られた神武天皇ご一行が、故郷を偲んでかの地に付けられた地名じゃ、と古老は自慢したものである 』 とあります」と教えてもらいました。
「中の瀬」と「祓川」
延岡市には「中の瀬町」があり、そこを流れる川が「祓川(はらいがわ)」です。
黄泉国(よみのくに)から帰ったイザナキノカミは、身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊祓(みそぎはらい)を行いますが、その時、上の瀬は流れが速く、下の瀬は流れが弱いと言って「中の瀬」でそれを行いました。
大正14年(1925)刊の「延岡大観」(山口徳之助著)には、郷土の国学者・樋口種実(1793〜1864)が、イザナキノカミの禊祓(みそぎはらい)の地として、延岡市の「中の瀬」しか考えられないと述べていることが書かれています。禊祓をした川が祓川です。
ニギハヤヒノミコトと速日の峰
ニギハヤヒノミコト(邇芸速日命、饒速日命)はニニギノミコトより先に降臨した天つ神です。神武天皇が東征した際、天津瑞(あまつしるし=天つ神の子孫であることの印)を献上して、神武天皇に仕えました。
「日本惣国風土記」(天明年間編)には、アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫のニニギノミコトの兄であるニギハヤヒノミコトが「速日(はやひ)の峰」(延岡市北方町)に降臨したことから、「速日」になったと記されているそうです。
ニニギノミコトが諸々の神々を率いて天降ったところが速日の峰であるとする文献もあり、それぞれの降臨の地として信じられてきました。
ヤマトタケルノミコトと行縢山
ヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)は12代・景行天皇の皇子です。景行天皇の命を受けて、日本国内を平定するため東奔西走しました。
「行縢(むかばき)神社由来記」(宮崎県史別編 神話・伝承資料)には、ヤマトタケルノミコトが熊襲(くまそ)を退治するためこの地を訪れ、行縢山の麓の野添で祭殿を営み、御祭神の前で祈りを捧げる際に「布引(ぬのびき)の矢筈(やはず)の滝を射てみれば 川上梟師(かわかみたける)落ちて流るる」と詠んだと記されています。
「矢筈の滝」は行縢の滝の別名。川上梟師は熊襲の将。川上梟師を討ち取ったヤマトタケルノミコトは、舞野村で戦勝の舞を舞い、竹宮にしばらく住まわれました。その場所が現在の「下舞野神社」で、昔、竹宮神社といわれていました。
「稲羽の素兔」の舞台は稲葉崎?
古事記の出雲神話で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が因幡国(鳥取県)で、毛をむしられて皮膚が真っ赤になった1匹の兔を助けた話、「稲羽(いなば)の素兔(しろうさぎ)」の話をご存じでしょうか。
隠岐の島(沖の島)から渡ろうとして海に住む和邇(わに)を欺いたために毛をむしり取られた兔の話です。
実は延岡市の稲葉崎(いなばざき)町には「船着」と呼ばれる、周辺の水田より少し高くなった場所があるそうです。日豊本線の西側、現在は住宅地になっている付近で、その沖合は昔、海でした。その沖にある「二ツ島町」が古事記に出てくる「沖の島」であり、現在の稲葉崎こそが「稲羽の素兔」の舞台だったというのです。
祝子町で祝子農園を営む松田宗史さんが、熊本から来た考古学者がそう説明してくれたと言っていました。
延岡の地名は調べれば調べるほど「実に面白い!」。
「安賀多(あがた)」は、延岡が縣(吾田、英田)だった名残です。安賀多町のほか、古川町には「安賀多神社」があります。
愛宕山の南側に当たる「片田(かただ)」は、愛宕山の旧名「笠沙(かささ)山」が転じたものとされています。「小野(この)」は、笠沙の姫・コノハナサクヤヒメにちなむ地名と思われます(私見です)。
「三輪(みわ)」は、スサノオノミコト(須佐之男命)の6世孫に当たるオオクニヌシノカミ(大国主神、オオナムチノミコト)にちなむ名称で、奈良県の三輪山大明神につながります。その隣にある「三須(みす)」は「御簾」(みす、神殿や貴人の御殿に用いる簾=すだれ=)に通じ、三輪(御輪)の神様の前に座するとの意味があります。
「三輪」に関しては、三輪神社(延岡市下三輪町)の由緒に「大己貴命(オオナムチノミコト=大国主神)、豊葦原を巡狩して国家を経営される時、この地に来られ住まわれた。その処を青谷城(あおやぎ)山と言う。此処(ここ)に後人が命の幸魂奇魂を祀って青谷城神社と尊称し、後に三輪大明神と号した」とあり、大和(奈良県)の明神は青谷城神社の分神であるとされています。青谷城神社は村里から遠く離れていることから、三輪大明神として村里に遷宮され、現在の三輪神社となったと伝えられています。
「天下(あもり)」は、高天原の下の意味で、地上世界を指します。延岡市の天下は、ニニギノミコトの一行が当時の吾田(縣=延岡)に到着した場所、もしくは上陸地点だったと考えられます。
三重大学名誉教授の宮崎照雄氏は著書「日向国の神々の聖蹟巡礼」の中で、「記紀」に出てくる「高千穂の宮」について、その地勢などから「高千穂の霊峰から五ヶ瀬川に沿って下り、到り着いた『天下』に建てられたことで、『高千穂の宮』と称されたのです」としています。
「天下」の隣には「吉野(よしの)」があります。奈良県の「吉野」地方は、狩りに適した良い野という意味で、古来は離宮が於かれ、天皇の遊興の地だったそうです。延岡の吉野の名称が、奈良に移されたと推測されます。吉野町にある水谷神社はイツセノミコトの新居が建てられた場所とされています。
また、延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから、「水谷神社の由緒には『またこの吉野をはじめ、近隣の三輪・高野(たかの)などの地名は大和の国へ移られた神武天皇ご一行が、故郷を偲んでかの地に付けられた地名じゃ、と古老は自慢したものである 』 とあります」と教えてもらいました。
「中の瀬」と「祓川」
延岡市には「中の瀬町」があり、そこを流れる川が「祓川(はらいがわ)」です。
黄泉国(よみのくに)から帰ったイザナキノカミは、身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊祓(みそぎはらい)を行いますが、その時、上の瀬は流れが速く、下の瀬は流れが弱いと言って「中の瀬」でそれを行いました。
大正14年(1925)刊の「延岡大観」(山口徳之助著)には、郷土の国学者・樋口種実(1793〜1864)が、イザナキノカミの禊祓(みそぎはらい)の地として、延岡市の「中の瀬」しか考えられないと述べていることが書かれています。禊祓をした川が祓川です。
ニギハヤヒノミコトと速日の峰
ニギハヤヒノミコト(邇芸速日命、饒速日命)はニニギノミコトより先に降臨した天つ神です。神武天皇が東征した際、天津瑞(あまつしるし=天つ神の子孫であることの印)を献上して、神武天皇に仕えました。
「日本惣国風土記」(天明年間編)には、アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫のニニギノミコトの兄であるニギハヤヒノミコトが「速日(はやひ)の峰」(延岡市北方町)に降臨したことから、「速日」になったと記されているそうです。
ニニギノミコトが諸々の神々を率いて天降ったところが速日の峰であるとする文献もあり、それぞれの降臨の地として信じられてきました。
ヤマトタケルノミコトと行縢山
ヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)は12代・景行天皇の皇子です。景行天皇の命を受けて、日本国内を平定するため東奔西走しました。
「行縢(むかばき)神社由来記」(宮崎県史別編 神話・伝承資料)には、ヤマトタケルノミコトが熊襲(くまそ)を退治するためこの地を訪れ、行縢山の麓の野添で祭殿を営み、御祭神の前で祈りを捧げる際に「布引(ぬのびき)の矢筈(やはず)の滝を射てみれば 川上梟師(かわかみたける)落ちて流るる」と詠んだと記されています。
「矢筈の滝」は行縢の滝の別名。川上梟師は熊襲の将。川上梟師を討ち取ったヤマトタケルノミコトは、舞野村で戦勝の舞を舞い、竹宮にしばらく住まわれました。その場所が現在の「下舞野神社」で、昔、竹宮神社といわれていました。
「稲羽の素兔」の舞台は稲葉崎?
古事記の出雲神話で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が因幡国(鳥取県)で、毛をむしられて皮膚が真っ赤になった1匹の兔を助けた話、「稲羽(いなば)の素兔(しろうさぎ)」の話をご存じでしょうか。
隠岐の島(沖の島)から渡ろうとして海に住む和邇(わに)を欺いたために毛をむしり取られた兔の話です。
実は延岡市の稲葉崎(いなばざき)町には「船着」と呼ばれる、周辺の水田より少し高くなった場所があるそうです。日豊本線の西側、現在は住宅地になっている付近で、その沖合は昔、海でした。その沖にある「二ツ島町」が古事記に出てくる「沖の島」であり、現在の稲葉崎こそが「稲羽の素兔」の舞台だったというのです。
祝子町で祝子農園を営む松田宗史さんが、熊本から来た考古学者がそう説明してくれたと言っていました。
延岡の地名は調べれば調べるほど「実に面白い!」。