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2017年09月10日

赤塚不二夫はこれでいいのだと言って2億円を騙し取られてた相手を許した






ギャグ漫画のパイオニアとして、日本のアニメや漫画文化に多大な影響を与えた漫画家、赤塚不二夫氏。

そんな赤塚先生は、漫画家としてだけでなく、一人の人間として、その生き様は多くの人に笑いや驚き、感動を与えた。

そんな赤塚先生の伝説を紹介しよう。






赤塚先生の生い立ちは、正に衝撃の一言だ。

生まれは、1935年の満州。

当時は、世界中が戦争の舞台であり、日本も例外ではなかった。

そして、そのまま10歳の時、満州で終戦を迎えた。

その終戦直後、満州では、中国人からの報復があちこちで行われており、多くの日本人が殺害されたそう。

しかし、戦時中から、中国人を分け隔てなく扱った赤塚先生の父親のおかげで、赤塚先生一家は、報復に合わなかったのだとか。

そして、赤塚先生は、二人の妹を幼いころに失っている。

一人は、病、もう一人は、栄養失調であった。

そんな激動の幼少期を過ごした赤塚先生は、手塚治虫先生の影響で漫画家を志す。

しかし、その道のりも平坦ではなかった。

長い間芽が出ず、一時期は、漫画家を諦めようとしたこともあったのだとか。

そんな赤塚先生には、ある衝撃的な都市伝説が語られている。

それが、巨額の横領事件の被害者でありながら、犯人を告訴しなかったというもの。

ことの経緯はこうだ。

ある年、税務署から、多額の税金滞納が見つかったと報告を受ける。

延滞料だけでも、その額は6000万近いとも言われたが、なんと、赤塚先生の税処理を担当していた人間が、赤塚先生の納税用のお金を大量に横領していたのだ。

赤塚先生が、全幅の信頼をおいていたその人物は、忽然と失踪するが、後に警察に捕まった。

その際、赤塚先生は、驚愕の行動を取る。

なんと、その犯人を告訴しなかったのだ。

横領額は2億円近くとも言われていたのだが、赤塚先生は、まだ若い犯人の将来を案じ、告訴しなかった。

その際に、告訴しなくて良いのか?と聞かれた赤塚先生は、こう言ったのだとか。

「これでいいのだ〜」

そして、赤塚先生の都市伝説はまだある。

赤塚先生が書き上げた原稿を編集部の人間に渡した所、その人間が、タクシーで移動した際に、その原稿を紛失。

そのことを赤塚先生に恐る恐る伝える編集部。

すると、赤塚先生は、起こるそぶりを見せることもなく、また書き直せば良いと笑い飛ばした。

それどころか、一度書き上げた原稿だから、どうせすぐまた書けると言い、それまで時間があるからと、その原稿を無くした編集者を誘い、一緒に飲みに行ったというのだ。

更に、こんな一風変わった都市伝説も。

赤塚先生は、麻雀が好きで、良く知り合いと卓を囲んでいたのだが、なんと、赤塚先生は、絶対にロンをしなかったのだとか。

麻雀をしない人からすれば、何のこっちゃと言った話かもしれないが、ロンをしないというハンデは、ほとんど勝負にならない。

ここまで来ると、どこまでが本当かは分からないが、心が広く、人を怒るということを知らなかった赤塚先生のことだから、人の痛みが分かるのかもしれない。








タグ: 赤塚不二夫
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