Lorca ロルカ 〜 Villamayor de Monjaldin ヴィラマヨール・デ・モンハルディン (18.4km)
快適なロルカの宿を8時半に出発し歩き始めるとすぐ、右足の膝裏にカクンと激痛が走るようになった。夕べは平気だったのに、この痛みは一体何なのだろう。
両側から迫りくるような丈の高い草が生い茂る道を、私は右足を引きずるように歩いた。この痛みだと今日は9キロ先のエステージャまでしか行けないかもしれない。
3日目にいきなり襲ってきた筋肉痛とよくわからない右膝の痛み、そして肩に食い込むバックパック。ただでさえ重いその荷物は、足を引きずって歩くたびに左右に傾きいつもより余計重く感じる。
凝りすぎた肩をほぐすため、時には両手を肩とリュックの持ち手部分の間に挟み荷物を持ち上げるようにして歩く。すぐに腕が痺れて結局肩で背負うことになるのだが、この頃の私はまだバックパックの背負い方も知らずに、なんの調整もしないままだったので、毎晩肩と首の凝り方は尋常ではなく、夜はひどい頭痛に悩まされていた。
どこかで疲れが一気に来ると覚悟はしていたものの、肉体の痛みがこんなに精神に影響を及ぼすとは予想していなかった。前後にほとんど人がいないのをいいことに、私はかなり独り言を叫んでいたような気がする。
それはまさに、呟くというより叫ぶに近く、誰にも言えない罵倒のようなものだった。そうでもして気を散らさなければ立ち止まってバックパックをドサッと地面に投げ捨て、泣き出していたに違いない。
折りも折り、道は細い畑の脇を通って幾つもの丘を越えるように続いており、どこがエステージャなのか目視できない。
そこはエステージャの街の入口で、少し先の石橋を渡って古い街へと入るのだった。エステージャへようこそ、のような石碑の前のフエンテ(泉)で喉を潤す力も残っておらず、私は倒れ込むようにベンチに腰を下ろした。
もちろん見るのも嫌なバックパックは体から切り離して。そこまでの道のりでベンチのような休む場所はまったくなかったので、8時半にロルカを出て途中小さな町で朝食をとるためにバルに寄った以外、一度も休みを取らずに2時間半歩き続けたことになる。
ベンチ、もしくは大きな石のような座るものがないと、バックパックを地面に下ろすしかなく、再び背負う時に持ち上げて背負うことが困難になる。ベンチの上にバックパックを下ろせれば、ベンチに腰掛けて装着してから立ち上がればよいので、その分ラクなのだ。だから、極力座る場所がない所ではバックパックは下ろさない。
「苦しみのエステージャ painful Estilla」
午前11時、エステージャの街の入口でベンチに腰掛けたまま、私は悩んでいた。
案内板によると、エステージャに点在するアルベルゲはどれも橋を渡って更にしばらく歩かなければならない。もう歩けない、と思うほど疲れているが、アルベルゲが開くのは通常1時過ぎである。
あと2時間、どうやって時間をつぶせばいいのだろうか。また、1時にアルベルゲに入ったとしても、就寝までの8時間という長い時間、またしてもすることがないのだ。それも困ってしまう。
他の人々はどうかわからないが、巡礼の間私はけっこうこの種の問題に悩みながら、アルベルゲに入る時間を計らねばならなかった。
そこへ後から来た中年の男性二人組が通りかかる。あまりにぐったりと、まるで酔っ払いのようにベンチに埋もれる形で座っていた私が気になったのか「大丈夫?」と声をかけてきた。
先ほどまで半べそ状態で悪態をつきながら歩いていた拗ねた気分の私は「大丈夫じゃない、疲れすぎて」と苦笑して答えると、彼らは泉の水をペットボトルに入れながら「この水を飲めばまた元気になるさ。元気出せよ!」と言い、ガハハと笑いながら先へ進んでいった。
彼らはきっとまだ10キロも20キロも先まであの調子でラクラクと歩いて行ってしまうのだろう。私も負けてはいられない。とりあえず水を飲もう。
私を立ち上がらせて、再び歩き出させたのは何の力だったのだろう。
歩きながら「さて、どうしよう」と考えている。
巡礼していて不思議なのは、時々自分以外の者の意思が働いている気がすることである。自分の意思で「ここに泊まろう」とか「ここで休もう」とか考えてはいるのだが、結論が出たと思う前に体が次のアクションを勝手に起こしているのである。
この時も私はエステージャに泊まるかどうか決めかねたまま歩き出し、再び巡礼の矢印に沿って歩き始めていた。エステージャのアルベルゲは巡礼道を少し外れた場所にあったので、このまま歩き続けると街を通り過ぎてしまうことになる。
まぁいいか、とにかく私はまた歩いているのだし、次の2キロ先の村に泊まるのも手だ、とにかく進もう。
そう考えながら歩いていると、旧市街の?の中から夕べの南アフリカから来た夫婦が手を振っていた。
仕事をリタイアした初老のダンナは昨夜、3月に日本で起こった地震に伴う日本人の秩序ある行動についてとても感心していた。それに比べケープタウンやヨハネスブルグの治安の悪さを嘆き、南アフリカの大統領には4人も奥さんがいるのだと吐き捨てるように言って私の肩をバンバン叩いていた。興奮するたびに叩くので痛かったが、感じの良い日本人である私は笑顔を絶やさず彼の質問に答えていた昨晩を思い出す。
髭面の旦那に不似合いの上品そうな金髪の奥さんもアパルトヘイト時代、黒人差別をしていたのだろうか。話すだけならとても楽しい人達だったが、発言の端々に黒人に対する敵意を感じ、少し複雑な心境になったのだった。彼らは主にバスを使って巡礼すると言っていたので、もう会うこともないだろう。
大通りの向こうに薬局を見かけたとき、筋肉痛を和らげる薬を買いたいと思ったが、車の往来が激しいその大通りを渡って薬局まで行くのが面倒だったので、そのまま歩き続けた。
少し休んだとはいえ、まだ膝の痛みは去っていない。次のアルベルゲはエステージャの新市街のすぐ隣にあるはずだ。距離にして2キロ。今日はそこで休もう。
そう決めていたはずなのに、現代的な町の団地の脇を矢印に従って歩くうちにいつの間にか町を通り過ぎてしまった。
よくあることなのだが、アルベルゲが巡礼道から少しそれていたり、大きな都市だと矢印がわかりにくい所に描かれていて見落としたり、幾つもの方向に導かれたりして余計な手間がかかることがある。
この時もどこかでアルベルゲの表示を見逃したようで、いつの間にか通り過ぎてしまっていた。こうなるともうせっかく苦労して歩いてきた道を戻るよりも、先へ進もうという欲深い私である。
エステージャから緩やかに登り始めていた道は明らかに山道に変わろうとしていた。地図にもある教会を過ぎると、あとはひたすら登りになる。ほとんど息切れ状態でヨロヨロと歩く私に、見るからにスパニッシュという濃い髭面の太ったオヤジが後ろから追い付いてきて、スペイン語で何か話しかけてきた。
励ましているようだ。英語のわからないスペイン親父と、スペイン語のわからない私との間で身振りや手ぶりを交え何とかできた会話は、今日の目的地と私が日本人だということ。黒い長傘を杖代わりに使っていたそのオヤジは「頑張れ、ヴィラマヨールで待ってるぞ!」(と言ったと思われる)と叫んでグングン先へ進んでいった。
ヴィラマヨールまでたどり着けるかわからないけどね、と心の中で呟きながら強く何度も頷き返した私だったが、地図によるとそこまで行かないとアルベルゲがないのだから、もう行くしかない。こんな山の中に野宿するわけにはいかないのだ。
「予兆 An omen」
正午、陽は高く昇り、今日も容赦なく照りつけている。私はウィンブレを脱ぎ、バックパックを覆う形で被せて上蓋のフックを留めた。道は山へと分け入り、再び前後に人のいない孤独な闘いが始まった。
今となってはそんな時、何を考えて歩いていたのか思い出せない。独り言はやたらと多かった気がするので、何事か考えて歩いていたに違いないのだが、それがどんなことだったのか日記にも書いてはいない。
やがて山を越えると、フエンテ(泉)のある小さな村に入った。フエンテを囲んで小さな公園になっており、ベンチがあったのでこれ幸いと腰を下ろす。朝食のマフィンを食べたバルで買っておいたチョコレートを食べる。甘いものは疲れを取るのに最適、至福の一時を過ごし、再び立ち上がる。
歩き出すと、バックパックに提げたホタテ貝がカランカランと鳴った。長い紐で括りつけてあるだけなので、バックパックの上蓋の閉め方によっては歩くたびに左右に揺れて音を立てることがあるのだ。
アルベルゲのあるヴィラマヨールまであと2.5キロ、それだけ歩けば今日はもう充分だ。よく頑張った、この足の痛みに耐えて、偉いぞ、私。
自分で自分を励ましながら、田舎の香水漂う牛舎を通り過ぎると、道はブドウ畑の脇をぐるっと周って丘の上へと延びていた。丘というより山のような高所に教会の尖塔が見える。おそらくあれが目指すヴィラマヨールだろう。遥か遠くの山の頂に陽を浴びて輝く塔はどこか神々しく見えた。
ゆるやかではあるが着実に登っており、次第に左側にブドウ畑の連なる下方に谷が現れてきた。振り返ると、先ほど休んだフエンテのある村が豆粒のように小さくなっている。
人の足ってすごいなぁ、こんな短時間でこんなに遠くまで運んでくれるんだもんなぁ、と感心する。人の足は車の入れない狭い道へも入って行けるし、自転車で登れない急な坂道も登ってしまう。まさに最良のアシである。
★スペイン巡礼記?Eへ続く…
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