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2023年02月13日
2003年9月 阪神18年ぶりの優勝!
2003年9月15日。
1978年生まれの私は、大学4年生の秋を過ごしていました。
夕方、バイト出勤前にテレビを点けると、
甲子園での阪神-広島戦で赤星選手のサヨナラヒットで阪神が勝ち、
他球場の結果次第で18年ぶりの阪神リーグ優勝という状況でした。
そして、その夜・・
見事にリーグ優勝が決まり、星野監督の優勝インタビューの模様を
バイト先休憩所のテレビで観ていました。
「この縦ジマで、そしてこの甲子園で・・。みんなの前で胴上げされたかった」
この名言は今でも耳に残っています。
かつては巨人と日本球界の雄を争ってた時代もありましたが、
90年代から4年連続最下位となるなど暗黒時代だった阪神タイガース。
その弱小球団を就任からわずか2年目にして優勝へ導いた星野監督。
阪神ファンとして感謝の念を禁じ得ませんでした。
1978年生まれの私は、大学4年生の秋を過ごしていました。
夕方、バイト出勤前にテレビを点けると、
甲子園での阪神-広島戦で赤星選手のサヨナラヒットで阪神が勝ち、
他球場の結果次第で18年ぶりの阪神リーグ優勝という状況でした。
そして、その夜・・
見事にリーグ優勝が決まり、星野監督の優勝インタビューの模様を
バイト先休憩所のテレビで観ていました。
「この縦ジマで、そしてこの甲子園で・・。みんなの前で胴上げされたかった」
この名言は今でも耳に残っています。
かつては巨人と日本球界の雄を争ってた時代もありましたが、
90年代から4年連続最下位となるなど暗黒時代だった阪神タイガース。
その弱小球団を就任からわずか2年目にして優勝へ導いた星野監督。
阪神ファンとして感謝の念を禁じ得ませんでした。
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2023年02月12日
冷夏だった2003年
内定が全然もらえず、就活を投げ出した2003年。
この年の夏は冷夏でした。
前年から始めたトラック荷卸しバイトを屋外でやってましたが、
この年は夏でもあまり汗をかかず、楽に作業ができました。
確か8月15日は、東京の最高気温が20℃にも届かず、
肌寒い思いをした記憶があります。
屋外作業にとって夏が一番キツい季節ですが、
涼しい日が続くのでバイト三昧でした・・
この年の夏は冷夏でした。
前年から始めたトラック荷卸しバイトを屋外でやってましたが、
この年は夏でもあまり汗をかかず、楽に作業ができました。
確か8月15日は、東京の最高気温が20℃にも届かず、
肌寒い思いをした記憶があります。
屋外作業にとって夏が一番キツい季節ですが、
涼しい日が続くのでバイト三昧でした・・
2023年02月10日
大学4年の夏...就活を投げ出した
100社以上に応募したものの、いまだに内定ゼロ。
私なんてどこの企業からも採用されないんだ・・・
突きつけられた現実の前に、途方に暮れました。
もう就職は決まらない。高い交通費払って会社説明会に行くのもムダだ。
就活を投げ出して、またバイトに明け暮れる毎日がスタートしました。
2003年7月末のことでした。
私なんてどこの企業からも採用されないんだ・・・
突きつけられた現実の前に、途方に暮れました。
もう就職は決まらない。高い交通費払って会社説明会に行くのもムダだ。
就活を投げ出して、またバイトに明け暮れる毎日がスタートしました。
2003年7月末のことでした。
2023年02月08日
研究室の教授からダメ人間認定された
7月になっても内定ゼロなのはついに私だけ・・・
そんな私に対し、研究室のメンバーは腫れ物に触るようでした。
就活の話題になると、気まずい空気が漂いました。
他の人たちは内定もらえて意気揚々と前途について語りたいのだが、
あっ、内定もらえていない人がまだいたよね・・みたいなことを
内心思っていたでしょうね、きっと。
そして研究室教官の教授からは、
「就職はまだ決まらないのか?どうするんだ?」
と怒気を含んだ聞き方をしてきます。
どこからも内定をもらえないメンバーを抱えるのは、
研究室の筆頭教官として恥に当たるのでしょう。
日に日に風当たりが強くなっていきました。
挙句の果てには、
「私に話しかけるな、こちらのレベルが下がる!」
と吐き捨てられる始末でした。
もう、大学に私の居場所はありませんでした。
就活を続ける気力も失くしてしまいました。
そんな私に対し、研究室のメンバーは腫れ物に触るようでした。
就活の話題になると、気まずい空気が漂いました。
他の人たちは内定もらえて意気揚々と前途について語りたいのだが、
あっ、内定もらえていない人がまだいたよね・・みたいなことを
内心思っていたでしょうね、きっと。
そして研究室教官の教授からは、
「就職はまだ決まらないのか?どうするんだ?」
と怒気を含んだ聞き方をしてきます。
どこからも内定をもらえないメンバーを抱えるのは、
研究室の筆頭教官として恥に当たるのでしょう。
日に日に風当たりが強くなっていきました。
挙句の果てには、
「私に話しかけるな、こちらのレベルが下がる!」
と吐き捨てられる始末でした。
もう、大学に私の居場所はありませんでした。
就活を続ける気力も失くしてしまいました。
2023年02月06日
ついに・・・内定ゼロは私だけになった
2003年、大学4年の6月になりました。
リクナビで求人を探しては、会社説明会に申し込む毎日でした。
しかし、会社説明会に参加するものの、なかなか面接まで漕ぎ着けることができません。
書類選考で落とされ続けるからです。
そして7月になりました。
研究室で私以外に内定がもらえてない男が1人いたのですが、
彼がついに内定をもらってきたのです・・
完全に私は取り残されました・・
リクナビで求人を探しては、会社説明会に申し込む毎日でした。
しかし、会社説明会に参加するものの、なかなか面接まで漕ぎ着けることができません。
書類選考で落とされ続けるからです。
そして7月になりました。
研究室で私以外に内定がもらえてない男が1人いたのですが、
彼がついに内定をもらってきたのです・・
完全に私は取り残されました・・
2023年01月27日
大学4年春 所属先の研究室メンバーで内定が出ていないのは私ともう1人だけだった
2003年4月、大学4年に何とか進級し、研究室に配属となりました。
メンバーは私含め11名です。
研究室に配属された際に、メンバーが集まって自己紹介をしました。
そして自ずと就活の状況も各自が話す流れになりました。
どのメンバーも既に内定、内々定をもらっていたのです。
大手商社やメーカーなど有名企業から内定をもらっている人もいました。
まだもらっていないのは私含めたった2名だけでした。
私以外のもう1名は、ボソボソとした話し方で見た目も陰気でした。
どう見てもオタクで、女子から絶対モテそうにない男でした。
「ああ、俺はコイツと最下位争いなのか・・。でもコイツには負けるわけないだろう」
とライバル心を持ちながらも、内心たかを括りました。
メンバーは私含め11名です。
研究室に配属された際に、メンバーが集まって自己紹介をしました。
そして自ずと就活の状況も各自が話す流れになりました。
どのメンバーも既に内定、内々定をもらっていたのです。
大手商社やメーカーなど有名企業から内定をもらっている人もいました。
まだもらっていないのは私含めたった2名だけでした。
私以外のもう1名は、ボソボソとした話し方で見た目も陰気でした。
どう見てもオタクで、女子から絶対モテそうにない男でした。
「ああ、俺はコイツと最下位争いなのか・・。でもコイツには負けるわけないだろう」
とライバル心を持ちながらも、内心たかを括りました。
2023年01月25日
初めての就職面接に挑む
会場は有楽町にある国際フォーラムの会議室だったと思います。
某有名メーカーの子会社の面接に臨みました。
自分の思い描いていた面接のイメージは、
学生1人に対して面接官数人が向き合うというものでした。
しかし、初めての面接は、
面接官1人に対して学生が5人だったのです。
志望動機や学生時代にやってきたことについての質問に対し、
私以外の学生たちはハキハキと答えていました。
自分以外の人たちがとてつもなく優秀に見えました。
私は緊張のあまり、しどろもどろになり、
自分でも何を話しているか分からなくなるほどでした。
いつの間にか面接は終わりました。
全く手ごたえもなく、頭が真っ白の状態で帰りの電車に乗りました。
数日後、不採用のメールが届きました・・
2003年4月初めのことです。
某有名メーカーの子会社の面接に臨みました。
自分の思い描いていた面接のイメージは、
学生1人に対して面接官数人が向き合うというものでした。
しかし、初めての面接は、
面接官1人に対して学生が5人だったのです。
志望動機や学生時代にやってきたことについての質問に対し、
私以外の学生たちはハキハキと答えていました。
自分以外の人たちがとてつもなく優秀に見えました。
私は緊張のあまり、しどろもどろになり、
自分でも何を話しているか分からなくなるほどでした。
いつの間にか面接は終わりました。
全く手ごたえもなく、頭が真っ白の状態で帰りの電車に乗りました。
数日後、不採用のメールが届きました・・
2003年4月初めのことです。
2023年01月24日
エントリーシートを通過したのは有名企業の・・・
それまで書いたことのないエントリーシートを、どうにかこうにか仕上げ
10数社に提出してから数日後。
続々と返信メールが届いていました。
メールを開くと・・
「誠に残念ですが、貴意に沿えない結果となりました」
残念な文章です。
悲しいというよりも、虚しさを覚えるものでした。
有名企業は見事に全滅でした。
こうなると、数撃てば当たる作戦に出るしかありません。
初任給が高めで首都圏の企業に片っ端からエントリーすることにしました。
50数社ほど応募しました。
そしてやっと1社エントリーシートを通過し、会社説明会の案内通知が来たのです。
某有名メーカーの子会社でした。
2003年4月のことです。
10数社に提出してから数日後。
続々と返信メールが届いていました。
メールを開くと・・
「誠に残念ですが、貴意に沿えない結果となりました」
残念な文章です。
悲しいというよりも、虚しさを覚えるものでした。
有名企業は見事に全滅でした。
こうなると、数撃てば当たる作戦に出るしかありません。
初任給が高めで首都圏の企業に片っ端からエントリーすることにしました。
50数社ほど応募しました。
そしてやっと1社エントリーシートを通過し、会社説明会の案内通知が来たのです。
某有名メーカーの子会社でした。
2003年4月のことです。
2023年01月22日
リクナビに登録してみた
一緒に就活を始めた中学時代の友人に教わりながら、
マンガ喫茶のパソコンでリクナビに登録しました。
私が就活を始めた2003年当時は、今ほどパソコンが普及していなかった時代でした。
ノートPCでも20万円弱もする高価なもので、学生にはなかなか手が届くものではなかったのです。
そして、リクナビに登録した後、様々な企業の求人を眺めました。
誰もが知っている有名企業は続々と会社説明会を始めていました。
その説明会に申し込みをするため、エントリーシートを作成し、
10数社の企業宛に送信をしました。
来年の今頃は大手企業の新入社員として、意気揚々と仕事に立ち向かっているだろう・・
そんな期待を胸に秘めていました。
弁理士の資格を取るのは社会人になってからにしようと方針転換することにしました。
マンガ喫茶のパソコンでリクナビに登録しました。
私が就活を始めた2003年当時は、今ほどパソコンが普及していなかった時代でした。
ノートPCでも20万円弱もする高価なもので、学生にはなかなか手が届くものではなかったのです。
そして、リクナビに登録した後、様々な企業の求人を眺めました。
誰もが知っている有名企業は続々と会社説明会を始めていました。
その説明会に申し込みをするため、エントリーシートを作成し、
10数社の企業宛に送信をしました。
来年の今頃は大手企業の新入社員として、意気揚々と仕事に立ち向かっているだろう・・
そんな期待を胸に秘めていました。
弁理士の資格を取るのは社会人になってからにしようと方針転換することにしました。
2023年01月17日
目の色を変えた友人につられて就活開始
2003年3月。
テレビでは連日、イラクで始まったアメリカ軍の空爆の映像が流れていました。
ちょうどその頃、中学時代の友人が函館から就活のため上京してきました。
企業の合同説明会が東京ドーム近くのホールで開催されるらしく、
それに私も誘われたのです。
私は、その頃も連日トラックの荷卸しのバイトをやっていました。
バイトと学業を何とか両立させて、毎日がそれなりに充実していました。
卒業したら就職はせずに、資格を取るための専門学校に通って、
いずれは弁理士として働きたいな・・
と漠然とした夢を持っていました。
しかし、本来のんびり屋の中学時代の友人が
目の色を変えて就活に臨もうとする姿を目にし、
私も一度試しにやってみようと思いました。
始めればすぐに内定をもらい、一緒に就活始めた友人を出し抜けるだろうと思っていたのです・・
テレビでは連日、イラクで始まったアメリカ軍の空爆の映像が流れていました。
ちょうどその頃、中学時代の友人が函館から就活のため上京してきました。
企業の合同説明会が東京ドーム近くのホールで開催されるらしく、
それに私も誘われたのです。
私は、その頃も連日トラックの荷卸しのバイトをやっていました。
バイトと学業を何とか両立させて、毎日がそれなりに充実していました。
卒業したら就職はせずに、資格を取るための専門学校に通って、
いずれは弁理士として働きたいな・・
と漠然とした夢を持っていました。
しかし、本来のんびり屋の中学時代の友人が
目の色を変えて就活に臨もうとする姿を目にし、
私も一度試しにやってみようと思いました。
始めればすぐに内定をもらい、一緒に就活始めた友人を出し抜けるだろうと思っていたのです・・