島原城は、「森岳」と呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので別名を森岳城とも言います。
南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所、内郭には堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北に松倉重政の居館である三の丸という造りだったそうです。
本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込めの五層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓がそびえ立つ豪壮堅固な城構えだったそうです。
子の勝家は島原の乱の責任を問われて所領没収・断罪となりました。
昭和39年に,天守閣、巽の櫓、丑寅の櫓が復元され,現在はキリシタン史料館(天守閣)、北村西望記念館(巽の櫓)、民具資料館(丑寅の櫓)などに利用されています。
なかでもキリシタン史料館には、有名なキリシタン大名有馬晴信(ドン・プロタシオ)時代に盛んであった南蛮貿易時代から、宣教時代・禁教時代・弾圧時代と続き、島原の乱関連の資料が展示されていました。
訪れた時、着物や鎧や刀等を身に着けて写真を撮ってもらうイベントを行っていました。
また、くの一に扮した女性が、とても親切に、写真撮影をしてくれたり、お勧めの観光コースやお食事処を紹介してくれました。
天守閣からは平成新山を望むことができます。
平成新山は、1991年5月20日から5年間ほど続いた溶岩の噴出により成長した山で、日本で 一番新しい溶岩ドームです。
この溶岩ドームは粘性の高いデイサイト質の溶岩で,わき出し場所を変えては斜面上に張り出し,先端が崩落を起こし、その結果,火砕流が繰り返し発生し、尊い人命がたくさん奪われたそうです。
雲仙普賢岳火砕流の発生状況(平成3年)
https://www.youtube.com/watch?v=r0gFFJUsIrE
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