シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年05月16日
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カテゴリ: 神秘体験空間
もはや世界的な人気といえるジブリ映画だが、ジブリの最新作の映画「君たちはどう生きるか」はまだみていないのだが、先日、宮崎駿氏のそのメイキングみたいなものをBSNHKでみた。賛否両論の評価のようだが、前回紹介したように、唯人間論が浸透している現代での、恐らくファンタジーへの認識が低いせいに思われ、それは恐らく、人智学についての評価も、同等に思えてくる。

君たちはどう生きるか ( 映画 ) - Wikipedia


死を身近に感じると、なぜだか、ファンタジーを感じ、現実なのか、夢なのか、の区別がなくなっていくはずである。宮崎駿氏の、「脳を壊すとか、溶かす」というような口癖が印象的だったが、その姿はまるで、シュタイナーが説いている、霊界参入の修行者のようにみえた。おそらく、覚醒意識では捉えられない、物質界の奥に隠れた世界の謎を、自分の人生から解き明かそう、としたのかもしれない。

かつて古代人がもっていた霊能力を、現代人が獲得するには、自分の存在を物質界に現実化させている覚醒意識を、つまり脳をどう取り扱い、脳からどう脱出するか、にある。現代人は、脳科学などから、人間の自我が脳にあると思い込んでいるが、人智学では、自我は、血液にあるのがわかっている。自我が血液にあるからこそ、免疫を司り、硬い骨を基盤にしながら内部の骨髄から造血できるわけなんである。

血液こそが、人体のホメオスタシスの中枢で、バランスの中心なんである。

血判状が信頼の証だったのは、自我の集合化ともいえるかもしれない。個人の自我の、集団自我へのいわば先祖返りといえるからである。だから、古代人の血液は物質ではなく、霊的なものだった。だから青い血ともいわれた。青い血を貴族の白い肌に結び付けて静脈の色と唯物論で解釈しているのは間違いである。そもそも貴族が労働をしないから白いというのも偏見でしかない。それは貴族が白人種という嘘を述べているのと同じである。ホンモノの貴族に人種など関係がないからである。

それなら、なぜキリストの血は青くなかったのだろうか?

キリストの血は赤く、サンタクロースの赤として伝承されている。だから、青い血とは、現代の物質界からみえる色ではなく、物質界を超えた世界での色彩なのである。例えば、青い火の温度は、他の色よりも高いのが現代化学でもわかっている。つまり、最も熱い火の色なんである。

なぜ XEBEC は青い炎なのか? | 株式会社ジーベックテクノロジー (xebec-tech.com)

赤い血というのはヘモグロビンの鉄の酸性の色で、物質性を意味し、だから物質性のエゴの自我で、活動的な赤の物質的運動の、酸素消費の象徴といえる。対照的に、青い血は、静寂で、細やかな不動の感性の、バランスのとれた安定性を、つまり冷静さの象徴といえる。

赤と青は、いわば自我の物質性と霊性を象徴していて面白い。赤はまた火星の色で、青は木星の色と、五行説ではあてられている。人智学では、人種の起源を、五惑星に求めている。水星は人種の起源とされるアフリカのエチオピア人で、金星はマレー人、火星はモンゴル人、木星はヨーロッパ人、土星はアメリカ先住民である。

五行思想 - Wikipedia

エチオピアでヒト属最古の化石発見! | Nature ダイジェスト | Nature Portfolio (natureasia.com)

マレー人 - Wikipedia

モンゴル人 - Wikipedia


現代科学の、特に物理学では、唯物論から物理法則をつくっているが、残念ながら、この法則には生命のカルマの法則が記述できないので、生命体や人種の起源なども解き明かせない。タンパク質論や情報理論でDNAをいくら唯物的に解釈しようが、所詮、確率統計学の線形理論での経験則であるので、非線形現象を直接記述できずに、無駄な徒労で終わるしかないので、ただ論争を招き、現にヘゲモニーの還元論による支配論で、地球の資源や土地を巡って核兵器で戦争をしている始末なんである。

1 分解説】ヘゲモニーとは? | 石附 賢実 | 第一生命経済研究所 (dlri.co.jp)


これらの物質科学は、所詮、神秘学で預言された火星の科学といわざるをえない。それは物質のように互いにヘゲモニーを巡って対立し、闘い崩壊に向かうだけなんである。地球人はいまのこの低次の知性を乗り越える意志さえ持ち合わせていない。まるで低次の知性の奴隷と化している。ひたすら、この無神教の信者に成り下がっている。

ジブリの新作から、いまの地球での人種問題の話になってしまったが、よくジブリの作品の中で何が好きか?という質問がバラエティ番組でなされるが、どれも面白いが、やはりジブリの原点は、「風の谷のナウシカ」にあるように思われる。いまシンウルトラマンとか、シンゴジラとか、シンライダーとか作られているが、シンナウシカがあってもいいのではないかと思った。

風の谷のナウシカ - Wikipedia


エヴァンゲリオンの監督がつくるという噂もあるが、是非、リメイクしてほしいものである。というのも、風の谷のナウシカこそ、我々地球人の使命を語っている映画のようにみえるからである。種を超えた愛の融合こそ、地球の課題であると、シュタイナーは説いている。戦いを止めることこそ、ヘゲモニーに終止符を打つ事こそ、人類の現状の進化の課題である。

ナウシカは、愛の武人にみえる。武とは、破壊を止めるという字形からなる。戈は破壊で、止める字がついているわけなんである。これはバランスのとれた公正で公平な高次の愛を意味する。

さて、いま巷には、いかにも如何わしく胡散臭い、意味不明な「世界を恐れさせた日本人」とか、日本賛美の広告が、詐欺迷惑メールと共に、滅多矢鱈と流れ、失言で有名な政治家の影を感じさせるが、バラエティのエンタメで取り上げるのならまだしも、性懲りもなく、皇国史観の民族主義者の老害たちが、かつてのソ連崩壊のロシアのように跋扈し始めると、流石に天邪鬼で、猜疑心が強い自分には、日本人を褒め殺しにする策略か、逆に、こんな広告に騙されるような、いまでも、そんなに世界にコンプレックスをもつ日本人がいるのか、と呆れ果ててしまうばかりで、これらの過剰宣伝に騙されないように注意すべきである。

というのも、自分は、日本人離れの東南アジア系のルックスをしていたために、肌色も黒く、昭和当時の東南アジアへの差別感覚で、子どものときから揶揄われたりして、嫌というほど非日本人感を味わってきたので、表向きは日本らしさを忖度してきたが、内心は、日本らしさが大嫌いだったからである。

子どものときは特に食卓の和食感が大嫌いだった。日本人らしさの押し付けのようにもみえた。海外で暮らすならまだしも、日本に暮らしながら、日本人らしいってどういう差別なんだと思う。家柄がどうとか、天皇に近いとか遠いとか、武家出身とか、百姓出とか、昭和の大人たちはよくそのような下世話な差別話や身分差別をしていたように記憶している。これらの差別感は昭和では、世間体とよばれていた。

令和の現在では、このような昭和の差別感が薄まっているとはいえ、まだ、わずかに韓国や朝鮮、中国など東アジアに対して残っているのは否めない。この傾向は、自分を日本人だと自負し、それを当たり前に感じている人に多い差別感にみえる。その多くが海外経験不足からくるものかもしれない。どの人間社会にも差別はあるが、それを無くそうとする努力があるかどうかで、地球人の知性への意識や、人間社会の未来が問われるのは、地上のどこでも同じである。

いまは令和の、和食といえば高級イメージが強く、コンビニの世界的認知で、おにぎりでさえも好評で、想像し難いが、昭和当時は和食といえば貧困さを連想するものでしかなかった。和食といっても、子どものときは、焼き魚に白飯味噌汁、たまに海苔くらいの貧弱なものだったから、いまの和食とは月とスッポンかもしれない。だからインスタントラーメンばかりを食べていた記憶があり、ハンバーグや寿司は贅沢で、魚肉ソーセージのマルシンハンバーグなどで食を満たし、マクドナルドが近くにできたときは憧れの洋食で、はじめてケンタッキーフライドチキンを食べたときの驚きは半端なく、映画スターウォーズをみたときの驚きと、双璧だった。

昭和の子どもにとって、その驚きは、日本史で習う、1853(いやござんなり)の、幕末のペリーの黒船来襲と同じで、ダースベイダーがフライドチキンをもって、スターデストロイヤーで侵略してきたような衝撃といえるかもしれない。恐らく、日本への外圧が変革につながるのは、このような驚きにあるのかもしれない。幕末の黒船から、GHQのマッカーサー、そしてビートルズなどのロック侵攻が、この国の若者を、老害の皇国史観から解放していったのは、想像しやすいだろう。

スター・デストロイヤー - Wikipedia


現在の令和からみれば、昭和は明らかにブラック社会で、日本人という皇室と米国のダブルスタンダートの差別意識満載で、米国系の白人を賛美しながら、皇室に仕える日本人として、忖度し、同じ黄色人種の東南アジア人を見下していた差別感が残っていた。このような人種差別感は、何も昭和からの話ではなく、八切史観では、古来の唐の藤原氏から、被差別部落民への差別感を継承してきたようで、いまでも唯物化した金儲け主義の仏教の悪しきカースト制度となっている。選民主義は奴隷化問題と一体となっていて、いまでも上級国民と下級国民にわかれ、加藤という姓の由来が、下等からきているのを知る日本人はほとんど皆無である。貴族がつける仇名が姓の由来なんである。だから天皇には姓がないわけなんである。

仏教カースト制度については、八切史観により、古くは大陸の唐から仏教輸入と共にもたらされたのがわかっているが、昭和の日本人に残っていた、その選民感覚を解き明かすと、貴族や薩長藩閥政治の為政者が日本人で、つまり万世一系を奉ずる民族主義支配層たちだけが選民で、他は卑賎民というような差別意識が、大東亜戦争という標榜のなかに隠され、そんな偽善の胡散臭さが、東南アジア人に見透かされ、当時の日本の支配層のなかにあるヘゲモニーの醜悪な覇権主義を際立たせるに至って、物質主義自体の崩壊へと埋没していったわけなんだろう。

覇権 - Wikipedia


だから、八切史観によれば、大東亜戦争は、仏教カースト制度の自滅と考えるとわかりやすいが、その選民思想は、現在の政治家や官僚の上級国民という言葉にも薄っすらとゾンビのように残っているのがわかる。現代の裏金問題が一向に解決できないのは、日本人のなかに、いまだこの上級国民意識が残っているせいである。原爆を2発も落とされて大量殺戮をされても自戒の念もなく、米国を批難できずに、「世界を恐れさせた日本人」などと亡霊を追っかける始末なんである。そのような偽善がみえるから、このような虚偽宣伝には注意し警告しているわけなんである。

大体、特定の人種や民族や文化に偏るような、浅はかで愚かな知性をもつのは、地球人の特徴といえば、わかりやすいかもしれない。前回、人種や民族や文化の起源を、人智学から少しだけ紹介したが、人種があるのは、古代アトランティス時代の早熟故の失楽だからである。

端的にいえば、バランスを欠いた知性を意味するので、それはヘゲモニーと呼ばれている。知性とはバランスが大切なのに、バランスを失うこと自体が知性の放棄で、それは主に唯物論に現れ、ソクラテスが説いた無知そのものなのである。ある人種が優れているという知性は、人類に対する背徳であり、バランスを崩す由縁となる。

どの人種にも長所と短所があり、ヘゲモニーなどはあり得ない、唯物的観点なんである。これは人種だけでなく、民族や文化にもいえることで、どれも輪廻転生のカルマからすれば、平等で公正で、バランスを保つのに必要なだけである。陽のプラスだけあっても、偏るだけで、陽と陰が調和を保ち、バランスすることではじめて、満足な安定が得られるわけなんである。

だから、いまは日本人に生まれているかもしれないが、前世は東南アジアのどこかの国で、その前の前世では、アフリカで、また更にその前は、ヨーロッパのどこかと、多種多様な人種に転生し、経験しているはずなので、現在だけが全てと思い込んでいるのは、浅はかな唯物的観点にすぎないわけなんである。この低次の知性を脱しないと、高次の知性には進めないわけで、このいわゆるバカの壁を自分で壊さないと、ベルリンの壁のように、同じ人種でさえも、東西にわかれて戦う馬鹿に陥るわけなんである。

このような低次な知性からくる闘いを避けないと馬鹿をみるだけなんである。何より、知性の進化には果てがなく、地球人の上には遥かに高次な宇宙人たちが、現在の地球人を、地球に生み出し、つくってきたわけなんである。地球は、神秘学では、「贖いの星」と呼ばれ、また現代風にいうなら、刑務所といえるかもしれない。物質界とは、いわば、地球人の牢獄でもある。

牢獄を監視し、監督しているのは、堕天使たちで、現在の地球人の知性の由来でもあるので、まずは、この知性を乗り越えないといけない。この知性の牢屋を乗り越えるのはほとんど不可能で、多種多様な人生を、輪廻転生で経験を積まないといけないわけで、それでも、最初に出逢う存在は、堕天使たちの勧誘だと、シュタイナーは説いている。

堕天使の誘惑に容易く勧誘されないために、地球人は、霊能力を失ったわけで、再び霊能力を獲得すると、はじめに、これら悪魔の勧誘を受けるのは、仏教のゴーダマシッタルダが仏陀となる悟りの過程でも、はじめに悪魔に出くわしたのでわかる。だから、禅では、悟る前に、仏陀に遭えば仏陀を殺せと説いてもいる。また人間が死後にはじめに遭うのも堕天使たちの誘惑だと、シュタイナーは述べている。それは、物質界でも、似非宗教者や、民族主義者や、詐欺師の勧誘が頻繁なのと同じであり、下にあるのは、上にもあるといえる。

我々地球人は、高次の善玉の宇宙人だけでなく、悪玉の宇宙人とのつきあいで、この地球に生まれ、死んでいくわけで、そして、善玉というよりも、むしろ悪玉によって、輪廻転生を経験させてもらっているといえるかもしれない。というのも、地球上に人種が多種多様になったのは、悪玉との失楽の、付き合いが長かったせいだからである。例えば、いま日本人でいられるのは、進化から逸脱した堕天使のお蔭で、いわば落第の恩恵を受けて、日本人になれたわけで、いずれは、恩返しして、日本人を超えていかなければならない。だからまた、日本人だからといって、日本の詫び寂び文化を理解できるわけではなく、我々地球人が現在のような姿や形で生きられるのは、高次の宇宙人たちのお蔭であるのを、認識できなければいけない。

日本文化の詫び寂びとは、日本人を超えて、むしろ日本人らしさをなくし、故郷喪失者になれたときにはじめてわかる、霊感覚といえるかもしれない。日本人に囚われない、どの人種にもある調和のとれたバランスの美的感覚なんである。だから、日本人に拘るのは、偽善のニセモノの、いずれ物質文明のように消えていく崩壊の文化でしかない。それはむしろ日本人の美というよりも、日本人にない美で、コスモポリタンの美であるかもしれない。

それは人種や民族や文化を超えたバランスのとれた愛の美なのである。

我々の地球は、贖いの星と呼ばれ、それは、いまや戦いの星と化しているが、だからこそ、我々地球人の使命が、ここに明らかになる。それは戦いをやめさせて、愛による平和を確立する使命である。だから、地球人はありとあらゆる人種に転生し、民族とともに、多種多様な経験を積んで、多種多様な文化と関わらないと、それらのヘゲモニーを融合統合し、鎮め、愛のバランスを確保できないわけなんである。

それはまず自分の人体からはじまり、自我による、物質体や、エーテル体、アストラル体の各々のヘゲモニーに対しての融合統合にある。いわば、地球で、高次の愛に目覚める修行をしているわけである。病気になるのは、人体のヘゲモニーに自我が負けているせいであり、だから、眠ると、自我は宇宙のバランスを回復し、その愛のバランスを人体にもたらし、病気が癒されるのである。

だから、地球は贖いの星から、愛の星に変わらないといけないと、シュタイナーは人智学で説いているわけなんである。ジブリの映画には、どこか日本文化に残っている、詫び寂びを感じさせる。ナウシカの世界は、どこか、この地球の懐かしい世界を思い出させる。だから、いまみえる自然は、本当の自然ではなく、その奥に神々の世界の力からなる大自然が隠されているわけなんである。

善玉だけでなく、悪玉の、人種と民族と文化を利用して、人類を闘争に巻き込み、敵対させるアーリマンの勢力がいるのを、次の動画は端的に紹介しているので、以下に掲載する。

ルドルフ・シュタイナー「いがみ合いを超えて / アーリマンの誘惑」 - YouTube

ナウシカの世界や、最近、映画になり話題の、ボブマーリ―のワンラブのレゲエ音楽のなかに、この戦争の絶えない物質界を平和に変える力が眠っているのに気づかされる。

ボブ・マーリー - Wikipedia

自らの愛の融合で、自然を溶かし、その奥にある大自然の詫び寂びの世界に旅立つアクエリアスのときの一躍を担うために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

                                         ★           ★       ★

 ところで、「驚き」の起源とは何か? 「驚き」、すなわち、「外への驚嘆」が魂に生じるのはなぜか?

 「驚き」や「驚愕」が生じるのは、何らかの存在や事物、もしくは事実によって不思議な喜びを感じるからである。この不思議さが「驚き」や「驚異」に導く起源である。しかし、不思議さ全てに、「驚き」や「驚愕」を感じるわけではない。不思議さから「驚き」を体験するのは、同時に、その対象との関係を感じるときだけである。

 この感情は次のように表現できるかもしれない。

 「このモノ、もしくは存在は、まだ自分の一部にはなっていないが、将来、自分の一部になり得るかもしれない」。

 このように、「驚き」や「驚愕」をもって何かを受け取るとき、それを不思議に感じ、同時に、自分に関係している、と感じる。

 「(不思議に対する)驚き」、「(雷に打たれたような)驚愕」は、自分との何らかの関係を暗示させる。それは「驚き」という現象を通じて、知覚できない関係を付け加えるが、それは単なる思い込みかもしれないが、それでも、その思い込みの責任は自分にある。そして、その「不思議な」ものが、自分に関係すると感じないかぎり、拒絶や反感をもち、そのモノ、もしくは出来事にアプローチしない。

 例えば、唯物論的な、もしくは現代の知的概念に基づいて行動する人たちは、このような驚きと認識される、不可視の存在を、嘘、もしくは不正の証拠もないのに、何故、否定するのか?

 今日では、哲学者でさえ、目の前に広がる物質界の現象に基づいて、ナザレのイエスに受肉したキリストが、死から甦った事が証明不可能なのを認めざるを得ない。この証明不可に対する反論は可能だが、どのような反論であれ、論理的な整合性をもちえない。

 今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既にそれを認めている。というのも、唯物主義の側から持ち出され得る反論、例えば、キリストが死から甦ったように、死から甦った人を今までに見た事がない、というような反論は、論理的に、魚しか見たことがない者は、鳥は存在しないと結論づけなければならない、という主張と同レベルにある。

 ある存在に基づいて、別の存在がいない、という結論を導き出すのは、首尾一貫した論理的方法では不可能である。同様に、物質界のなかでの、人間の経験に基づいて、ゴルゴダの出来事について、それは「驚き」として記述できるが、何も導き出せない。

 とはいえ、もし、誰かに「奇跡」として記述できる出来事を語り、その人物が「私には理解できない」と言ったとしても、この人物は、「驚き」が、ある不可視の関係をもたらすのに反対しているわけではない。というのも、その人物も、同じように真実を読み解く知識へと向かうときには、「驚き」から出発するからである。

 その人物は、その表現が、自分のなかでコダマするのを求めている。ある意味、その人は、自分に伝えられる、その関係を、精神的、もしくは概念的に自分のものにしたいが、それが可能とは信じられず、自分に関係があるとも思えないために、その受け入れを拒否しているだけである。

 現代人でも、自我から「驚き」の概念に到達できるが、驚きや驚愕が生じるには、古代ギリシャ哲学の観点から言えば、不思議なものに遭遇し、同時に、何らかの関係、かつてよく知った関係がある、と認識できなければならない。





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Last updated  2024年05月17日 11時08分12秒
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