全3996件 (3996件中 1-50件目)
巷では、なんでもアニメにしてしまうアニメブームにより、日本刀も擬人化され、アニメになっている流れから、オタク市場狙いの金儲けの商業主義のアイドル戦略と絡みあい、一時期、歴女なる言葉が流行り、日本人なのだから、日本史ぐらい知っておくべきと、インチキ大河ドラマの視聴率とのタイアップで、歴史オタクが通ぶりを発揮しているが、肝心な日本史はインチキ塗れであるのに、気づいていないから、仏造って魂入れず、と言わざるを得ない。例えば、徳川家康の有名な遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」は、家康の遺訓ではなく、後の創作である。edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html八切史観では、この遺訓は、恐らく勝海舟の創作ではないか、と推測している。また家康の美談と共に、江戸時代が、太平天国のように語られているが、これも家康を神格化するための創作である。自分も八切史観に出逢う前までは、すっかり司馬史観に洗脳され、歴史上の人物で人気の、坂本龍馬などを実在の人物と信じ切っていた。勿論、龍馬のモデルとなる人物は実在していたようだが、司馬氏の著書にもあるように、直柔という名で、変名とされる、才谷梅太郎が、どうやら本名であるようだ。残っている史料の信憑性も疑わしいのは、八切史観で詳しく紹介されていて、一つの種本から写本され、嘘が罷り通るからである。例えば、西郷の写真が残っていないのは、明治政府からの下野に際して、写真から身元が割れ、生命を狙われないために、手当たり次第に燃やし消滅させたようである。要人となる前の写真が残っていたら、身元がバレるからである。というのも、当時の志士たちのほとんどが被差別部落民出身なので、身元を隠して隠密行動をするわけで、また表向きには、日本に差別史があっては、諸外国との外交に支障をきたすから、当時の明治政府の見栄のために、維新の元勲たちは日本史の都合で身元がバレては困るので改名し、だから、西郷南洲なども、菊池源吾が本名で、銅像も、実在の人物とは異なるわけなんである。この改名は日韓併合にも使われたようである。この改名は、ユダヤ人が米国民になるときにも使われていたから、昔からあったようだ。フリーメーソン経由で伝わったのかもしれない。もっともこの国にマッカーサーとしてきた唐人の郭無双が、藤原鎌足という改名をしている時点で、白村江の戦いから既にあったわけだが。つい最近まで、BBCが問題にしなければ、ジャニーズ問題も露わにならなかったわけで、いまでいうコンプラと同じで、ブラック企業の奴隷商売をしていたら、外国に対して、恰好がつかないわけなんである。もっとも、当時の日本だけが奴隷国家でないのは、宣教師による人身売買の奴隷貿易でも明らかで、そのための海外への植民地政策でもあったわけだが、だから、革命による王政打倒の背景には、奴隷解放運動が底力となっているのは、古今東西どの国でも同じ道理である。もっとも、その裏事情は英国もフリーメーソンを通じて、アーネストサトウなどにも知られていて、有名なフルベッキ写真などは、その断片を物語ってもいる。歴史家は、フルベッキ写真はニセモノと断定するが、歴史史料についてはほとんど疑いの目を持たないのも不思議である。サインの偽造は現代でも頻繁にあり、つい最近でも、投資詐欺広告が問題になったぐらいである。確かに現代的な詐欺技術を使ったものはないだろうが、その源流となる詐欺技術はあっただろう。結局は、歴史的経緯の全体像を見渡さないとダメなんである。フルベッキ群像写真 - Wikipediaだから、八切史観の説くように、戦国時代も、幕末の倒幕運動も、権力者により、虐げられてきた部落解放運動と考えたほうが、日本史の謎や疑問がすっかりくっきりお見通しよく解き明かされてしまうわけなんである。現代だって、裏金議員が悪いのに、選挙利権で選民された上級国民のためか、下級国民ばかりが割を食い、挙句の果てには、増税で虐げられているわけで、貧乏人は麦を食え、といった池田勇人の差別発言の如く、女性は産む機械やら、うむのが女性の差別発言の連鎖が、令和の現代まで続いているわけなんである。そこで、令和の現状の差別発言を遡って、八切史観から解き明かすと、日本列島に、人種差別を持ち込んで、選民思想で、互いを差別しあってきた、被差別民史が浮かび上がるわけなんである。例えば、八切史観では、いまの定説となっている日本史のインチキを解き明かしているので、以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆TwitLonger — When you talk too much for Twitter だから日本の古代史は、縄文時代が武力で弥生時代に変えられた七世紀以前を調べてゆかねばならない。が日本書紀や古事記などは藤原王朝になってからのもので、しかも江戸時代に完成というか出来たものだが、この徳川時代史というのが明治新政府が解明をぜんぜんせずに、華族会長に徳川公爵がなり史学会を統轄したので、徳川家の会社の社史みたいなものがその侭で確定史料。家康は世良田の二郎三郎だったことも、死人に口なしの侭で押し通されている。 日本では歴史屋は真実追求よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえでである。 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ、被差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広められたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」、それとこの「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すゑの「橋のない川」である。 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。 「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人」を作ってきたのである。「天の古代史研究」[八切史の著作]さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄剣部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して奴隷にし差別歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。 が売れて広まってしまったこれらの本のため、大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の3800人が押し寄せ、村田銃をうちかけ火をつけて乱入し、片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。 というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名ととった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝されていた土地。特殊部落とはいえ長吏岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンへ行っていた。だが、当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康は松平元康の改名せしものなり」という故山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布(「松平記」として日本シェル出版4800円)。 そこで、周辺近郊の者らが、世良田の徳川にはこれまで冥加米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地元の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集まってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追い払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑 徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。 しかし当時の学士会は華族の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれ華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理を立て、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、遡った奥付年月にした「松平記」を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。 なにしろ、彼ら明治史学会の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長慶天皇を明白にした事と楠木正成の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その侭で解明できずだった。脇屋・湯浅・新田の地名が特殊部落にどこも多い。 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷朗詠集」からはじまって「傀儡記」、遊行衆説教師達の「鉢屋由来記」から「賎者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」、そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」、菊池山哉の「賎とされし先住民族‥‥日本部落史料」「長吏部落→日本の特殊部落」だけが主らしい。 しかし、国定教科書編集委員だった喜田貞吉だけが学会では評価され、部落者の著としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及び非人・社会外の人」は、明治時代までは口伝えに残っていたユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致するものだけを己が名で発表し、アイヌ研究の権威となった金田一京助に対し、アイヌの遺産を返すよう、その伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し、三部作を出しているポン・フチである。 はじめ東大出の教授の肩書きの喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊池山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は全く出してくれぬからと、東京史談会を作ったのである。 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが、昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で、戦国時代の村山七党の流れを汲む武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召し抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。<野史辞典>に、三河[出身の]の旗本は二名とはそれゆえである。 今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国中で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、この時裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河屋いなりに犬のくそ」とまでいわれる。 岡崎城も御三家どころか、僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の「後三河風土記」が広まったのも、三河旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。 さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。旗本になった連中は後から採用され三十人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか、「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。 明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と、駿河七十万石へ移封したのは、家康が徳川(得川村、新田荘徳川郷とも)の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重き荷を背負いて‥‥」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作り上げ、徳川家達を公爵にし華族会長にまでした。 それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で、両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され、[尾張徳川家の]家康の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。 が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。 国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。 江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。 こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。 彼ら歴史家は。崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。 三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。 「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。 「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。 彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。 恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「刀イ(伊)の乱」。この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。 ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。 「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。 また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。 また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。 俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。 「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。 八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。 裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。 治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。 その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。 伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。 ----己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。 日本では古代史を無視し、みんな昔噺にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。「古事記」にしても、本居宣長によって「古事記伝」として今日のものができる迄は、つまり江戸時代の大岡忠相が死ぬ迄は「骨事記」とか、ただ「こじき」と、ひとつかみの豆を投げて貰って拾って喰って退散してゆく哀れな乞食みたいなハングリーな存在。大安万侶が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、それを日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な古事記伝にしあげたのは本居宣長の労作なりといえよう。なにしろ隠忍[鬼(当時の被差別原住民を、唐の舶来系の権力者は、オニと呼んでいたようである)]とされていた原住民は、野や山に自生するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような加工業は舶来系の縄張りとされていたのである。 つまり幕末までは、筆は竹、穂は狸の毛だから、もの書きや版行の出版業は原住民限定職。北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、梶原源太を下手人と[して]殺して、次々と田、三浦と源氏の主だった連中を処分。郎党や女子供をゲットーへ入れたものの、叛乱防止のために、身分保証みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年[1180]の年号は石橋山で敗れた頼朝を、政子が平氏の本関地千葉へ逃した年。頼朝御判二十四種は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ伝わっている。 さて、今日の新聞が土地など賜ってオカミ御用となりだした明治二十に年迄は、「明治密偵史」の宮武外骨の著に詳しい[日本シェル出版より復刻版が出ていた]。それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣より、中国本土の血の濃い司馬遼太郎のほうが人気があると報道されているのも、古代史の権力者は占領軍の中国人だった隠然とした匿された歴史があるからして、血は水よりも濃しで、またむべなるからぬ話。 なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒し九州より御所入りし、<天の古代史研究>[日本シェル出版]にも、「藤原鎌足」と郭は日本名をつけ、則天文字つまり漢字の強制使用と(北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭)、築城用巨石の全国供出令を発布した。 ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史[では]ないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築。当時は今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから、御国を離れて何百里と昔は彼らが歌っていたから、万一の時は冬までは立てこもらねばならぬから、郭ムソウ将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。なにに日本では文部省が金田城を昨年たしかに国の重要文化財に指定している。 昔は沢田美喜みたいな豪い人がいなかった。それゆえ、郭将軍部下兵四千軍属のチャン輩(バラ)一万二千が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付け、一人で九人くらいに孕ませて廻ったかて、原住系の日本人女はカイト、界戸、皆戸、海渡いろんな当て字を今ではつけられる個所で、エリザベス・サンダースホームがなかったから堪え忍んで育てあげた。 わが世とぞと想うと詠じた足利時代の義満でさえ、臣源道義と大陸へは絶対服従。日本が被占領国の中国と対等になれたのは秀吉の対明交戦で初めて解放されたと言ってもよかろう。 その国の立場というものがそれぞれある。侵入や進攻の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で黒人女が白人の旦那に産まされた子でも、奴隷として売買されるみたいな有様で、嫡民ならぬ庶民とされ、賎民の奴隷扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に昔の事と言わず検討してから、よく考えてほしい。「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と解放記念日には、テレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、彼らの先祖のナラ王朝。 馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。 中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ねぶた)までやってくれている。 しかし藤原鎌足の子孫が作った勧学院日本書紀を金科玉条として、古代史を真剣に勉強し、確り取り組んでいないものだから、日本の歴史屋は哀れ何も言い返しが出来ないのである。 古代史さえよく研究していたら、逆手にとって反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議に対せるのだが、まったく不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。 といって、まぁ過ぎ去った過去のことを言いだしたら、それこそ切りがないかも知れぬ。 それを良い事に、被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。家永裁判では民主主義でなく、又しても皇国史観の昔へ逆戻りさせた判決を、せっかく勝ちとったばかりの文部省も、歴史屋の不勉強さで何ともならず、まこと気の毒である。 かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。 新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。 恐れ多くも桓武帝のごときは、「桓武焚書」と今ではよばれるごとく、前からの日本書紀はことごとく集めて焼き、オンモン日本書記まで作成しなさったくらいに、好きなようになされ遊ばした。 韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉は、千代田城を朝廷と呼ばせ閣老を公家とし、王政をしき、よって東下りの公卿は大納言や侍従でも退官して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、京へ戻ると前大納言や前侍従がまた復官したのは<赤穂義人纂書>[日本シェル出版]に明記されていて証拠も残っている。 それなのに日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニティードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。なにしろ、日本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえ責めても、不勉強の歴史屋が悪いのだから仕方がない。 もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。 無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からはトウのトウゲン[桃源=藤原]王朝史だと判らぬのか知らぬのか、何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」という事になるのだろう。世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。 長州より招かれて御抱え教師となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リースが、先進国にならって日本でも、「博士号設定」となった際に、彼は歴史屋なのに理学博士や医学博士は認めたけれど、独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」と、後にベルン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表しナチスに利用させたリース歴史学博士は、日本では開明学校が東京大学になると、「史学会雑誌」を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さずに帰国した。 産業革命以来でも、主だった発明や発見は、みな専門分野の者ではなくて素人だったという。 現在の天気予報でも、気象衛星まで使っているオカミよりも民間のお天気おじさんの方が確率がはるかに高いみたいに、天文学でも新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、素人で見つけている例の方が多い。歴史の分野でも、やはり保守的な日本書紀派より、畑違いの人による解明の方が、昇進とか教科書作成といった夢をもたぬだけに、きわめて大胆である。 私にしても、父方と母方の宗旨違いで、亡兄の入籍に数年かかり、ようやく届出ができた時には、当人は小児急性肺炎で天野病院で亡くなっていたので、またもめるのは厄介だからと亡兄の戸籍をその侭で引き継がされ、名も生年月日も亡兄のもので、私には本当の名も生れた年も知らされていない、さながら透明人間みたいな存在ゆえ、たえずそれに悩み自殺未遂も何度もして、「真実とは、はたして実存するものか」と、過去の具象としての歴史を、まことに本当なのかと生まれてきた時よりの挫折感を、なんとかして打破しようとして取り組んできてしまった‥‥ 初めは当時の日本へきていたイエズス派資料という裏付けのある戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」とするのも、光秀のライバルだった秀吉、本当の黒幕は家康だが、仏敵と信長光秀をみたて負けた石山本願寺の一向宗の今の本願寺派が説教節できめつけてしまって、日本全国の居付き部落に説教僧を送り込み、面白おかしく説教にして定説化しただけと判りもした。 美化というか天下一の豪傑とされる山中鹿之助も、本当は殺人鬼みたいに毛利方を、片っ端から討ちとったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙にかきスタンプ印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが、約束手形の始まりで、首落し前の談合ゆえ「落し前(をつける)」という。 紙がない時には口約束ゆえ、「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。 江戸期に入っても外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」とよぶのも、万一の際に落し前の約手をかくための大切な用紙だった名残り。 プロとは、今のプロレスみたいに、やたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は約手をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、「約手のパクリ屋」なみの毛利方の者によって、上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。だから、その伜が大阪で鴻池の店を開くにあたって、約手の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである‥‥といった従来の歴史とは相反する資料が得られたが、発表すると、勇ましい講談を頭から信じこんでいる人々からは、ただ意想天外とされたにすぎぬ。 しかし尼子方は滅亡しているから何も残っていないが毛利方の「吉田篭城記」によれば、「本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。常識で考えても人口の僅かな時代に、とっては投げ突き刺して殺すみたいに派手にしていたのでは、みな死に絶えてしまって両軍とも戦う者がいなくなってしまう。 美化というか勇壮化されて伝承されているものの、プロの武士道は、落し前をつけるだけのものが本当の処。となると中世紀の宗教戦である戦国時代の前は、どうなるかと問題になる。 江戸期でさえ、「やつこさんは辛いね」とか「奴女郎」の名称があり、「町奴幡随院長兵衛」は勇ましく水野十郎左に突き殺されるが、奴とは寺の奴隷のことゆえ、寺奴で、仏教側のガードマン。 とすれば後までそうだとなると、古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史つまり奴隷社会の始まりということになると、それへ突入し真実とは何かと逆のぼって解明していったのが、この入門書をかきだした私のノートともいえる。 何故に歴史を知りたがるか「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。 若い人では中学生ぐらいから、なにか歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。 そのうちに高校受験とか色んな口をあけて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しにおわれて、それっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取りつかれたように、戻ってくる人も、女性では多い。 それに近頃の現象は、50代になり、ようやく我に返りはしたが、今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに真実をと歴史の中へ突入してくる向きもいる。 もっと高年齢層で、死ぬ前に本当のことを知ってから、この世から別れてゆきたいという安心立命型の方も、そう沢山ではないがいらっしゃるのは、十万余枚の年賀状を熱心な読者から頂くが、その内の二百枚余りが、老人ホームの住処だったから、そう明確に、私は言えるのである。 まあ父から祖父母の代まで逆のぼって判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという大阪の何とかの友社からの広告が、今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。「死せる子は、みめよかりき」とか、大正から昭和までは身投げした娘は、実際は水ぶくれで、ふた目とはみられぬものなのに新聞記事は、故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。 だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞にでているくらいだから間違いない」と、生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが整形美容の流行せぬ時代だったので、美人とよばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがある。「過去は‥‥過ぎ去った昔は美しい思い出である」と水中美人なみに歴史もかつては扱われた。 中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女史中学生の沖田総司讃美、そして次は、「自分の先祖は、江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのがすこぶる多い。 ここまでくると日本の歴史は芝居や講談からのものだけだと、情けない想いにされてしまう。「城代家老」などという呼称は、仮名手本忠臣蔵が、時代設定を足利時代にし、大星由良之助をも架空のこうした肩書きにして、おかみの取締り逃れにしただけのものであって実存ではないもの。「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長大隊長聯隊長中隊長といった具合に、組頭が下にあって、それぞれ戦場で生死を倶にする者らが堅に累っていて、浅野家でも岡林杢助が壱千石の城代で直属の部下二百名を擁していた。「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には、糧まつ、兵の食糧や馬糧をととのえ、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。赤穂では、お浜方の塩問屋木津屋などを取締まるだけの仕事。 だから直属は若党二人に仲間一人で、士分の者など大石内蔵介にしても一人もついていない。 まったく別個の役目のものを二つくっつけてしまっているのだから、赤穂浪士討入りの真相さえも、討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている。岡林は旗本松本孫左衛門の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、公儀では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのは黙認。(坂本勝説) しかし武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった。京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」「元禄泰平記」[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭。 明治時代のことすら国民には知らす要はないと隠されている学校歴史しか教わっていないのに、一足とびどころか大飛躍して、古代史を探求したがる人が、きわめて多いのには愕かされる。 日本史と対比できる唯一の史書として「魏志倭人伝」が、ひっぱりだされて、白髪三千丈的の誇大化を美化する国のものなのに、これをそれぞれがみな、自己流に解釈して一冊にしたものが、「耶馬台国はどこか」とか「ヒミコは美女だったか」、と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して、「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに、歴史まがいで次々と出版。 書店の古代史部門のコーナーへゆけば、こうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でも、こうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理な出来っこない話である。 日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷きにしたものであるとは、詳しく後述するけれど、西での発見ならば、これは第三次勧学院のものであってトウ[唐]製である。 第四次第五次の日本書紀は鎌倉できだから、東で発見の筆写本の残片でなくては、判る筈はない。が鎌倉が北条九代で終わってしまった後は、足利体制は「白旗党余類」の名で、室町文書に書き残されているよう蘇民の源氏を、みなアミかけで散所奉行によって居付き(五木)部落へ、今いう橋のない川のゲットーへ連行収容。その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。「せっかく大同団結して富士王朝、回復をめざしたものの、追われた日本原住民の蜂起(年号では宝亀)は、後の平氏、平民で『八つ』とよばれた太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗にいう古代海人族は、今の田子浦から江尻、大井川まで、アイウエオ(秋田、胆(夷)沢、宇賀、江刺、雄勝)を先登に逆攻」日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、白頭山の羅津からなら四時間で能登半島や新潟につく。崇神王朝の曾孫ヤマトタケルノミコトが、伊吹山中で、竹内宿弥の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ四つ足とか四ツとよばれた連中は箱根越えに進攻。藤原王朝が身代わりにたてたクダラの桓武帝は天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火によって撃退できると、先住民を限定の囲地のセンゲンに封じ込めにした。 今では信州のアサマと同じ浅間の当て字がつけられている。このセンゲンは、出雲節にでてくる安来千軒と同じで、幕末の黒駒の勝蔵が金を掘りに行った千軒とも同じことで、先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことではあるが、橋のない川の土地ゆえ出入りは不許可だから、「居付き」ともよばれる。歌手の五木ひろしにしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、五木と39回目の芸名を変えたから、かつてイツキに収容されていた人々の子孫がレコードを買いだし、それで大人気歌手になれたし、「厳戒令の夜」をかいた作家も、やはりその苗字で人気がある。昭和初期までは、井口は山手樹一郎。藤野は山岡荘八。清水姓が山本周五郎と大衆に信頼されるヤ印の筆名にし韓国人の立原正秋も日本名でかいた。 しかし全人口の一割や五分が奴隷では、残りの人々の食糧増産など出来ようわけはありえぬ。 西暦663年に郭将軍が御所に入って、藤(とう)原鎌足と日本名をつけて、藤原王朝をたて則天文字つまり漢字強制当て字令をだした頃は、彼らの軍隊ははじめは二千に人夫や軍属。それに一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけ。レジスタンスをしていた連中や山や海へ逃げ込んでシノガラのサンカになった人々の他はみな降参させられ、日本原住民は奴婢にさせられた。 七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行されていった日本原住民の「四つ」の飼戸の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、水軍奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、老幼を含めた人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、「クダラぬやつ」「クダラぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂非人だった事になる。 それにクダラが敗戦して日本列島のクダラ人も奴婢にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ、奴婢の割合は、5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、二百の奴婢で一人の御主人さまに仕えたのが正しい。のち桓武さまの時より、クダラ人は、貴賎の大宝律令の中で良に格上げされ、戦国時代からは「四つ」の騎馬系の戦国武者がブシン(不信)と蔑まされていたのを「ン」をとって武士とよぶ新興階級にのし上がったから、非人とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった。が大岡忠相の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに、各大名領ごとに国法が違っていたのを、五街道で一斉に取締まろうと「八つ」の海人族の流し行商や旅芸人の道(堂)の者らに朱鞘の公刀と捕縄をわたしてハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた。 後には街道ごとに縄張りを決め合って、鉄火場を開帳してあがるテラ銭で費用にあて、「御用ッ」「御用ッ」と捕物をやらせ、日没になると、彼らに「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。つまりテレビや講談で悪くいう二足草鞋が、実は公認の本可打ちで本物なのである。 のち幕末近くになると、抜刀禁止令の法破りしだしたので、うっかり召捕りにゆけば怪我をするからと、分久二年までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し縄張りをして、香具師に総転業。そこで空き巣狙いみたいに、半可打ちとよばれていた素人(ねす)あがりの連中が、その縄張りの奪い合いで、清水次郎長や天保水滸伝になっていったのは、私の<仁義と任侠>の本に詳しい。 つまり、彼らは明治までは非人扱いだったから、殺されても殺され損だと本可打ちは転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は寺人別には入っていない連中ゆえ、犯罪にはならなかった。 つまりテレビや映画では郵便制度がなくても、郵便法で戸口配達のためみたいに、クマさんハッツァンの表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、前途亨保年間の大岡忠相の道の者の街道目付ができるまでは、八部族は居附部落に入れられて農耕、海浜では漁撈や製塩の課役奴隷だった。しかし同じ「八つ」の「道の者」が街道目付になると、目こぼしで街道へ出してもらえた。つまり、それまでの今の庶民はみな各地のゲットーに入れられていた。 領主や代官にとっては、住民をみな居付き部落に入れて働かせ、逃げ出せば逃散の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。 私の祖母の先祖も、この貞亨年間に、尾張の徳川継友が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後をついだが、やはり睨まれ家康の曾孫の彼が、「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされた混雑にまぎれて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに大正の末に教えてくれた。 なんの生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も、祖母の先祖らと同じで、道の者の街道目付の目こぼしで居付き部落から出てきた為らしい。 しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、馬方みたいな「四つ」は白褌。馬をつかわぬ駕かきや蓮台の川越人足は赤褌で「八つ」と、一見してる色分けで稼ぎをした。 江戸体制は、「四つ」の騎馬系の弾左衛門の下に「八つ」の車善七を、その下に四谷者。またその下に谷津者と交互に組み込んだ。 相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」、今では簡単に野次馬とよぶが、反目しあうどうしの両者の融合を狙ったのが弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で濡れ場もないものなのに、貸本のベストセラーとなり、御一新の大衆動員の起爆剤となったのは今では余り知られていない。 幕末になっても限定地のまだ居付き部落に入れられ、界化の非人と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。貞亨年間から部落抜けをして町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末孫だったと考えられるのである。両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子。つまり庶民とは、テレビ[ドラマ]の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、日本では徹底して全部がみな奴婢だったのである。 受難の日本書紀 学校歴史の古代史は、北条政子の歿った西暦1225年までを一括して、安易に教えている。という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から、十三世紀まで引っぱって延長した期間を、アミカケ方式で制定している。「日本人の歴史好き」というのは、なにも向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。「侵略」を「進出」と変えてしまって、韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は、「臭いものには蓋をしろ」と、なんでも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。 それまで幕末までは各地方面に、民間に口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし中央集権制度をとったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、他の国ではディスカッションして覚えさせているものをば、暗記物にした。 だからして学校で教わる歴史では、さっぱり、どうにも呑みこめぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが歴史好みというか探求型にもなるのである。 近江八幡で「解放」を発行している西川秀夫氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして古代史入門の手引にと並列している。しかしである。それらの本の中で注意したいのは、「日本書紀」や「古事記」を信用してか、それを参考にしている本だけは、絶対に除外してほしい。 なにしろ学校歴史で「西暦720年五月に、日本書紀三十巻成る」と教えているからして、さも、(いま活字本で廻っている日本書紀は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である)と誤っている方が多いが、私の「天の古代史研究」に詳しく解明してあるように、その六十年後に河内より高野新笠の御子を迎えて、人皇五十代桓武さまとなし、日本書紀をつくったトウの人々が昔の中ツ国、今の中国地方の岡山へ財宝をつんだ牛車の群れをひいて逃避行をしたあと。「彼ら弁髪は日本原住民どもが一致団結して富士王朝復活のため清見潟(今の田子浦)まで、怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして逃げてしまったのゆえ、もはや構ったことはない」とおおせられて、それまでトウ一族が、自分らが中国大陸から渡来とするよりも(遥かに高い天から下ってきた、選ばれた民族)とした方が恰好がよいから、おおいに美化するために創作した処の日本書紀だけでなく、六国史と称される他の史書類もみなことごとく一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げ皆これを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」といわれる。 富士王朝のアラビア文字を縦書きにしたような歴史書も、悉く集めて燃やしてしまい、オンモン日本書紀というような、ハングル文字の桓檀古記をタネ本にして、桓武さまの御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、クダラ人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の全面改訂の日本書紀の新版が出来上がったのである。 一時は長岡の山の中にまで逃げたが、賎から良に格上げしてもらえたクダラ兵は勇戦敢闘し、原住民を撃退、この時代が本当のナラ時代だが、彼らは威張って、「クダラ人にあらざれば人にあらず、非人である」と、教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人。しかし驕る何とか久しからずである。 今でも「クダラぬやつ」とか「クダラぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、桓武さまの血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷に皆され、シラギやコマ系は、「蕃族」として追討された。現代のシラギが慶尚道人で朴前大統領もそうだが今の全大統領や金日成父子やその他南北の軍部も同じである。金大中はクダラ系だから釈放されても国外追放。 日本列島における確執だけでなく朝鮮半島でも、馬韓、辰韓、弁韓の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が桓武さまの時代でも、光州事件の現代でも続いているだけで、民族の血の流れというのは、二千年や三千年たっても変らないものである。ナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代では、ユダヤがイスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして極めて強力である。 さて西南に向けて潮流が変り、瀬戸内の海から鉄製武器が、どしどし送られてくるようになった。初めは護身のための、影武者のようなつもりで王位につけたクダラ系にも援助して勝たせはしたが、やがて延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が、クダラの坂上田村麿に追われ谷底に生き埋めにされ、根つまり死の国へ皆送りこまれた。 ほっとして牛車をつらねて戻ってきたトウの人々は、もはや治安が回復したので、の必要もなしとみた。そこで桓武さまの御孫の嵯峨さまの代になると、せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。が、トウの日本書紀は焚書後四十年も既にたっていたから、「勧学院」をもうけて、武器と共に渡来した医師や漢学者たちに、もう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。しかし一ヵ所だけでは、すっかり燃やされてしまった日本書紀を復元するのは難しく、藤氏一門は勧学院。和気氏には弘文院、王氏に奨学院といったのを、次々と設立させて、百済史の焼き直しの桓武日本書紀を集めて悉く燃やし、第三次の新々日本書紀は、高野山の中国渡来僧たちの綜芸種智院にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも対比して今では、言われるごとく司馬遷の史記の中よりも、当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。 かくして第三回目の「日本書紀」は西暦833年の「令義解」ができた前後に書きととのった‥‥「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」にも、はっきりと明記されている。 が、これが今日そのまま残されている日本書紀ではない。藤原道長の全盛期をへて、前九年後三年の役、ついで、平清盛の時代にまた焚書されて、第四回目の新々日本書紀が、熊野権現で書き直され、新平氏こそ日本開祖の民族であるとしたものを作らせたが、これは壇の浦合戦で水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時の手に入り、北条政子に献上された。 頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、京へ大進攻をさせた。「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せるわけだったが、大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。 美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦ニ夫にまみえずで、髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他は、男も女も、坊主や尼の官忍の得は受けられなかった。平氏の政子が尼になろうとしても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、くるくる坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。政子が比丘尼になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当らしく誤られる。 富士王朝の残党ともいうべき北条政子は、夷頭(伊東)に逃げ、潮をくんで製塩。漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、藤と名乗る公卿の主だった者を斬首。後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき見張り侍所をおいた。平政子は生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀をもとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。 しかし北条時宗の時に、(かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。だから、沿海州から中国本土を席巻して、元の国をたてた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じて、源氏の仇討ちに失地回復のための進攻なり)と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。 文永五年(1268)には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。なんでも今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもって、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。通交の為にきた国使のすることではない。挑戦でしかありえない。 やがて五年後の文永十一年十月、壱岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代宗助国、平景隆は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕、少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風の目が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底。時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で並べて斬首。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。 新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。それゆえ時の執権北条時宗は、(元が又も懲りずに攻めてくるというのは、北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、すべての証拠の書類は燃やすべし)間柱所文書から、大江広元に書かせた改訂第五次日本書紀も、まさか次の次の弘安四年の来攻の十万の元兵も、台風で又しても海の藻屑になってしまうとは、神ならぬ身の知るよしもなく、万全を期して片っ端から文字のでている物は、みな集めことごとく焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。学校歴史では、元寇の実際も明白にしていないが、今もハバロフスク民族館の正面入口の扉の上には、沿海州人の民族章として大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。つまり元は、日本では源であって、同じ民族なのである。 明治時代の内田弥八の「義経再興記」つづいて小谷部圭一郎の「ジンギスカン義経説」は、源氏の風俗や言語が、沿海州人の元の民族とまったく同じなのが裏日本から入ってきた源氏ゆえ、そこから連想されたもので、ここが判らなくては元寇の意味も判らぬし、ジンギスカン義経説の由来も、ただ奇をてらうものとしか想われないかも知れぬ。が、バイカル号でハバロフスクへ立ち寄った者なら、源氏の笹りんどうの紋や、パンダがその笹を囓っているマークも見ている筈である。(八切史観には、「青春」の本来の意味が解説されているが、人身売買の実態を示すので以下に紹介する。)[『庶民日本史辞典』(日本シェル出版)』という八切氏の著書に、『青春』について解説されてますので、御参考の為に以下に転載しておきます。*************************************************************************** 青春 現代では良い言葉だが、幕末までは、お寺の隠語で「見頃食べ頃」の少年少女を、人買いが雪どけを待って訪れてきた時に渡すため寺人別帳に記入していた符牒。 親の為に身売りをするとか、年貢を納める為に女郎屋へ売られてゆくといったようなプロセスは、ずっと後世の江戸期に入ってからのことです。それより昔は飼っている牛や豚に子をうませたのを、市場へだしてせりで売るようにしていたのです。つまり庭子とよばれたのが男女別々に寝泊りさせられていたのも、女達を主人専用にする為だったと歴史家は説明していますが、そういうことも実際は当然あったでしょうが、改良品種を市場へ出して値を良く売る為に、主人の眼鏡にかなった男と女だけが、時々交配させられたのは、種とりが目的でもあったのです。つまり雪どけの春がくると人買いが、せり市へ出す為に、器量の良い少女や働き者らしくみえる少年を求めに訪れてきます。ですから食物なら食べ頃というのでしょうが、青の子供の「しし」たちの売り頃が、青春なのでした。 唐突のように思われるかもしれませんが、その為にこそ寺人別帳なるものが明治まであったのです。荘園はなくなっても寺院はずっとあったので、各寺の和尚さんは私有財産の台帳として、太郎兵衛とお花の間に生まれたのが、ぼつぼつ十三、四になるから値をよく売ってやろうと筆を動かし勘定をしていたのです。なにも御慈悲で親切に戸籍係のような帳面をつけていたのではありません。<野史辞典>の巻末には、天平十八年頃の25歳の娘の奴婢として値段がキビ千束とありますが、本当の処は高梁の束のことで、奴隷市では売買されていた実存の奈良東大寺の売買記録もでています。恰好よく使われても、本当の歴史で真実をたぐってゆくと庶民には哀れ悲しい苛酷な恥辱の語源。 「本当のことを言ってしまっては、実も蓋もない」と古来よく言い伝えられてきているのも、こうした訳け合いからでしょうし、「木が沈み、石が流れるのが世のならい」とも賢しい方はおっしゃっています。*************************************************************************** これは「庶民史辞典」に詳しく出ているが、つまり日本での古代史とはウエツフミはホツマツタエ。竹内文書の世界では木村鷹太郎の「海洋渡来日本史」や「旧約聖書日本史」の方が、今イタリア語フランス語で訳され出廻っているのもあるが、判りやすく難解でなく楽に読め入ってゆけるが、その後の西暦一世紀から「倭の五王」までの時代となると、学校歴史とは全然相違していても、「天の古代史研究」[八切氏の著書]から読んでゆくしかない。真実の探り出しは他書では無理だろうと想う。 この「古代史入門」と「天の古代史研究」の二冊しか、前人未到の分野の解明に突入のものはないからである。つまりわけのわからぬ謎ときを何とかできる手引書は全然ないゆえである。 なにしろヨーロッパなら近接諸国の歴史からでも、ある程度の分析はできる。しかし日本は明治大帝の仰せをかしこみ朝鮮までゆき、都合の悪い石碑の文字は削ったり、史書は集め伊東博文が焚書し、ハルピンで安重根に暗殺されている。中国にあるものはヒミコの出てくる魏誌倭人伝だけで、明確に現存の15世紀のイエズス派史料は参考にせぬ万邦無比の、ひとりよがりの歴史。 だから今でも、天から高千穂の峯へ落下傘もつけずスーパーマンのごとく、来臨された天孫民族であるとする藤[唐]の勧学院製を下敷きにした江戸期の後西さまの日本書紀を金科玉条としている学校歴史は、悲しいが、本当のところは何とも探求しようもない。もちろん後述のごとく焚書につぐ焚書の運命に史書はあってきていて、いつの時代でも日本という国にあっては、「歴史」とは過去の真実を解明するような、一銭にもならぬ無駄な徒労をする事ではなかった。 リースを伊東博文が招いたのも、明治二十二年の憲法発布に利用するだけが目的であった。ところが突然に日本へ来たばかりのリースは、天孫民族説の神話を鵜呑みにしてあっさりと、「大和民族は単一民族なり」と発表し、当時大陸進出を志していた明治軍部にすっかり歓ばれて、「対外戦争をするには国民の一致団結が必要。よって国定教科書の歴史は彼に一任すべし」となって出来たのが、彼の門下三上参次や小川銀次郎、重田定一による、今も検定教科書とされるもので、学校歴史とよばれる。つまり戦争目的に作成されたものゆえ、国民精神作興に利用できれば可といったものだけゆえ、真実追求とは全く縁遠いのも、これまた無理からぬ話である。戦前は国定教科書で丸暗記だったから、天孫降臨でよく紀元節とよぶ日に、紅白の饅頭を貰えた義理で、私も昔は頭から信じていたが、テレビで「ルーツ」など放映されだし皆も変ってきた。 「単一民族と学校の歴史では教わったが、鹿児島県人と青森県人がはたして一緒なのだろうか?」 「同一民族というのは、同一宗教で同一通貨というが、日本では仏教に神道に富士講、四方拝講から、若狭の神宮寺講に伊勢講中と数も知れないし、明治までは箱根から東は金本位。西は九州まで銀本位と、まっ二つに分かれていて、とても同じ民族とは思えない」という事になってきた。 「契丹日本史」[日本シェル出版]を一読すれば、日本古代史の謎も解ける。だが、自分ら日本人のルーツ探しに、あまりに従来の通俗史は都合よく、きわめて美化され恰好良くされすぎているのを読んでいては、どうも徒労で誤ってしまい、真実の裏目ではなかろうかと疑心暗鬼になる。 もっともらしくされすぎの歴史ではない真実をという方には、記紀に誤まされぬようにするための「天の古代史の研究」にあるごとき「天の何々」とされた遠い先祖のための挽歌としたい。 古代史は越多非人の創世紀一、皮田の奴隷どもは近年まこと風儀良しからず、間々不らちの儀もこれ有り候間、 同奴隷共へ別紙箇条の通り、かたく触れさせ候事。一、市中は勿論居付地に在りたりといえども、通行の節は片寄り候て、往来の人へ いささかたりとも無礼がましきことは致すまじく。一、朝の日出よりその日没まで之外は、市中は勿論、町はずれとても徘徊は絶対に 禁止。居付地の垣内にても夜分みだりに往来相い成らざる事。 但し節分の日は夜五時迄、大晦日だけは夜九時迄、に限って徘徊を差し許さ れ候事。一、町内にては一切の飲食致し候儀は相成らざること。一、雨天之外は笠かぶりものは絶対に相成らざる事、一、履物は草履の外は総て相成らざる事。 江戸時代か幕末までの居付部落に対する取締りの古い書付きの現存するものであるが、「除地」と江戸初期は部落の弾正や長吏に年貢を免除し、代りに人頭税をとらせ保護したのは、今は松平元康の改名とごま化されている家康が、実は部落出の世良田の二郎三郎だった為である。 「天の古代史研究」の「世良田事件」の項目に詳しいが、なにしろ荒川の中川の三河島に足利の散所奉行によって、収容されていたのを救出。旗本や御家人にした同系統の家康ゆえ、居付き部落も生存中は庇護した。だが徳川の世も五代将軍の綱吉の皮革業の大弾圧の、獣の皮を剥ぐなと、「生類憐れみの令」の発布から、柳沢吉保が吉良上野介に堺の中村内蔵助へ銅を半分近く混ぜた元禄小判製造で、インフレ化すると違ってきた。しわよせは弱い立場の居付き部落に押し寄せた。 従来は部落の頭に人頭税を納入の他には、これという課税はなかったのに、各大名や天領の代官が、川銭とか雨ふりにきる蓑にも課税したり、掃除や埋めたてにかりだし彼等を酷使した。 土を耕す百姓ならヒエやアワを、漁をする部落ならアー元、地曳網もなかった昔なのに網元というが、納入の魚介の他に、若干の鰯や小魚は塩にしたり乾かして、すこしは余裕もあったが、漁も農も許されぬ居付き部落には何の余裕もないゆえ、貧窮が目にみえて厳しくなった。 (キヨメ或は河原の者と呼ばれて、社寺都邑の掃除夫・井戸掘・駕篭丁・植木屋などの雑職をつとめ、勿論その職業上、世間から幾分賎視されて居たであろうが、決して彼等のみが特別に汚れたものとし疎外されるというような事はなかつたに相違ない。ことにその賎視されたのは、必ずしも彼等ばかりではなかった。古代の雑戸時代・傀儡子時代から大多数の工業者・遊芸者等は皆賎しいものとされて居たのである。ことにもと家人・侍などと呼ばれた賎者も、時を得ては武士となつて社会を睥睨するようになる世の中となっては、昔は「大みたから」と呼ばれた農民までが、同じように賎者として、奴隷百姓とし見下されて居たのである。「三十二番職人歌合」には 千秋万歳法師 絵解き 獅子舞い 猿 鴬引飼 鳥さし 鋸挽き 石切り 桂女 髪 捻り 算置易者 薦置 薦僧(虚無僧) 高野聖 巡礼 鐘叩 胸叩 へうぼう絵師 張殿 渡守 興舁農人 庭掃 材木売 竹売 結桶師 火鉢売 糖粽(ちまき)売 地黄煎売 箕作 樒売 菜売 鳥売らの三十二者の名を並べて「ここに我等三十余人、賎しき身にて、品同じもの」と云つている。この中にも、興舁き・庭掃きなどの或る者は、エタの源流の一をもなしたものであるが、その庭掃き、即ち掃除夫が、歌合せに於て耕作課役の奴隷の農人と合合せられて居るがごときは、もって当時の状勢を見るべきものであらう。つまり、「鎌倉殿中問答記録」に、「鍛冶・番匠のようなる言いかいなき者」と云い、「当道要集」に、「舞廻・猿楽等のしき筋目の者」というかごとき、ともかくこれらの徒が賎者と見られて居た事は疑ない。それらの中に於て、ひとりキヨメ・河原の者等のみが、特別に賎しかったとは思われぬ。むしりエタの方が慶長以前に於て既に、「音楽のやからは青屋・墨焼・筆結らの上だ」と言われて居た) 歌舞音曲のミュージシャンは貴人の慰みものとして、召されることもあるから、その方が刀鍛冶たちより身分が上だというのであると、喜田貞吉説は続けられている。つまりである。 今では京五山の住持は日本人かと誤られているが、鎌倉五山とは違い対明の黄金積みだしの立会いで御所を五方から囲んで監視していた。京五山の漢詩集をみれば日本人でない事が判る。 つまり京の五山は、唐につぐ明僧のせいもあるが、反仏派である彼等を忌み嫌っていたから、「臥雲日件録」の、文安三年十二月二十一日の条に、原文は明国の漢文であるが、「宮に仕える役人が馬にのって、犬を射るのは、噛む犬だと、わざわいをもたらすからであるが、野犬は群がると逆襲してくる。よって一匹を捕らえたものに銭を十枚やってもよい。けだし人間の中でも、犬なみなのは最低であって、死んだ牛馬を食する輩こそそれで、とても人間といえぬ」とまで中国的に言い切っている。つまり騎馬系のカラ神や、祇とよぶ宮の信者、七福神信仰で絶対に中国大陸よりの仏教を忌み嫌う連中は、寺へ銭を納めぬからして坊主はみな厭がった。 「神仏混合令」から、仏を信仰するのが国教と定められたので、それでも白山さま始め神祇への信仰をやめぬ反仏派の居付き部落の者は、今で言えば、非国民として扱われだしたのである。 それゆえ、「生類憐れみの令」発布後の元禄十二年から転向せぬ者らへは、次々と課役を増やし、「身居り(居付き)棟付け帳」なる宗門帳が、寺の奴隷人別帳とは別に元禄十二年より十四年後に各国に反仏帳とて付けられだした。歴史屋さんの中には、「宗門調べ帳」を幕末になっても切支丹伴天連の調べと誤っているが、島原の乱を宗教一揆として公表したからであって、いつまでもキリシタンなどオカミは怖れていた訳ではない。拝仏でない者を苛酷になる為の人別帳である。「居付き」のことを「棟付き」といったのは、「明治密偵史」[宮武外骨著、日本シェル出版刊]の最後に風祭の部落の者が人力鉄道に使われ、逃亡せぬよう棟柱に八人ずつ鎖につながれ「タコ部屋」とよばれた語源にもなるのである。 亨保二年に八代将軍に吉宗がなり、大岡忠相を登用すると、彼は江戸では新地の弾左衛門に由緒提出を命じ、京では水上のオンボ頭を始め、アマベ、六条、北小路、山科、桂ら各地の部落に、「棟付き由来書」を京の町奉行所へ提出させた。仏教が国教ゆえ彼らは反体制集団とされていた。 テレビの大岡越前守は水戸黄門と共に、ええ恰好しで、きわめて美化されすぎているけれど、「髪はマゲなどゆわず断髪のザンバラ髪にして、冠り物は雨天にても許さず、一見してすぐ判別できるよう致すべきこと」と、今でいうなら人権無視の法令を亨保八年に大岡は出している。 定廻り同心八人に江戸の朱引内を見張らせていたので手が廻りかね、大岡越前はスリには、「判別できるよう常人のごとく白元結にて髪を結ばず、スリ常習犯は黒元結をば用いるべし。さすれば一見して、それと判るゆえ、盗む者より、すり取られる方が粗相となって罪なしである」と定め、大岡裁きといわれ、以降明治三十八年に仕立屋銀次が児玉源太郎の金時計をすって軍部よりの強硬談判で犯罪とされる迄は、スリは泥棒ではなくて、手職人とよばれたものである。 スリは仕事をする時だけ黒元結とつけかえれば罪にならずで良かったが、強制断髪で頬かむりしても捕えられる棟付き者は災難だった。松平定信が老中筆頭となった天明七年からの、「寛政の改革」では、徳川家の財政難を打破するために、百姓は搾りすぎれば一揆を起すが、彼らはいくら苛酷に扱っても各棟付地に分散居付きで、騒乱はできぬし皆殺しにしても御定法には反せぬからと、搾取の限りをつくした。英国船渡来の頃ゆえ、部落圧迫は十八世紀からである。 福沢諭吉が明治になって「天は人の上に人を作らず」と叫んで大衆に随喜の涙を流させたのは、日本の人口の殆ど大半を実質上しめている彼らが、徳川の御政道では「人の下に人を作っていた」せいである。人間は他人の不遇や不幸をみれば微かでも自己満足をするというが、「わしらは、あいつらよりは増しだべさ」と、寺の奴百姓や私有民として、税金をかける対象としてしかみない領主や代官の横暴に対しても、今の庶民の御先祖さまは歯をくいしばって堪えた。 幕末になると「四つ」も「八つ」も喘いで世直しを求めたが、彼らの大衆動員にお陰げ詣りをさせ、薩長はまんまと天下をとり、鹿児島の棟木部落の鍛冶町からでた西郷や大久保、海江田が世直しをし、のちに同じ部落より大山とか東郷といった偉い元帥がでたので、伊集院に特殊部落をすりかえたが、同部落の益満休之助や自決した田中新兵衛。土佐の部落から京へ、殺し屋として送りこまれた岡田以蔵も、捕えられると、斬髪していなかった為に、無宿人以蔵として獄門さらし首。 大戦中に玉砕ときまっていたテニアンへ送りこまれた混合師団は、大阪の住吉もんや河内もんを主にする彼らだけだったから、今でもテニアンには住吉神社の移された跡が残っている。 つまり昭和になっても藤原体制のオカミは、彼らは反体制的存在という考え方を変えていぬ。 さて、喜田貞吉博士は、契丹系で頭のよい人ゆえ、そうしたオカミの意向を旨としているが、「壬申戸籍」つまり明治五年の第一回国勢調査を、もってきて、(明治五年初めに約三千三百十一万と言われて居つた内地人の数が、大正五年末には約五千五百六十四万となつて居る。近年の増加の数は、一年に約七十万乃至八十万であるから、大正九年初の数は恐らく約五千七百二十万にも達して居る事であろうと思う。その毎年増加の率は、年と共に増して来る方で、明治五年以来の割合は、大体に於て千人につき八人乃至十五人という事になって居る。大変な人口の増え方である。かくも盛な増殖率を有するをみると特殊部落民の増加率はきわめて盛である。 明治四年八月二十八日にエタ非人の称を廃した際の数を見るに「棟上げ宗門人別帳」ではエタ二十八万と三百十一人、非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千と九十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。この中非人と言われた方のものは、其後大抵解放されて、もはや今は、特殊部落の待遇を受けて居ないのが多い。又右の雑種ものの中にも、普通民に混じたのが多数であるとは察せられるが、仮にエタ及び皮作等雑種と言われたものの全部が、今日の特殊部落のもとをなした、として見ても、明治四年の称号廃止当時の数は三十五万九千四百と六人である。されば明治五年正月二十九日調査の内地人口三千三百十一万と七百九十六人という統計にあらわれた数を以て、その五ヶ月前に遡って、仮に三千三百と五万から六万の人口があつたとすれば、こうした特殊部落民の増加は、まこと愕くべきである) ‥‥明治五年の壬申戸籍は、各町村役場でも初めてのことで不馴れゆえ、各寺の奴隷人別帳と、「棟上げ居付反仏宗門帳」をもとにしたから総人口三千三百万だったが、明治三十七年の日露戦争の時には乃木大将の機関銃への人海戦術で人手不足になり、応仁の乱の時みたいに徹底的に人間狩りをして、捕えてきた者に居住地の名称を姓にして新しく戸籍をこしらえたのである。 故に大正五年の国勢調査には、それが加わったから倍近い五千五百万。大正九年では五千七百万と推定しているのも比例算である。 しかし間違っているのである。各寺の私有財産目録の寺人別や、何処へも出られぬ棟付き人口に、士族となった各旧大名の侍人別の合計では三千三百万が数字の上では総人口でも、戸籍に縛られず放浪したり匿れていた者は遥かに多い。 だからシベリア出征の頃には倍近くなっただけの話である。「貧乏人の子沢山」で、彼らの子供の数が明治の聖代になって増加との考え方も違っている。明治四年八月の称号廃止の時に計38万余だったものなら、翌年の壬申戸籍の時でも大差ない話で、比例算でゆくなら半世紀で倍近くも日本人口の住民が増えているならば、彼らが50万から60万で残りの五千五百万は一般人口となる計算である。それを全部そっくりと、彼らの増加にもってゆくのは可笑しい。なのに、(単に部落民だけの其の後の人口の統計に就いて調査してみると、案外にも増加数の余りに夥しいのに驚かされる。ところが大正期に入ると、「治世方針報告書」の東京府の一部、及び神奈川・宮城・岩手・秋田の四県を除き、其の他に於ける部落人口の総数が八十三万四千七百四十五人。部落外居住者人口総数六万九千六百六十七人、合計九十万四千四百十二人とある。この以外に他へ転籍もしくは移住し普通民の中に没したり、またはもはや部落民として認められなくなつて射るものの数も、まったく驚くべき増加ぶりである。過去四十余年間にわたつて少なからぬものであらうと思われる。現に北海道へ移住したものの如きは、一般社会からも殆ど区別することなく、従って一人も右の統計には載つて居ないのである。東京のごとく雑多な地方人の混住の場所にあつても、今や殆ど忘れられ、右の統計に載つて居ないのが多い。恐らく彼等の子孫自身も、父祖がもと、そんな筋であつた事を知らないのであらう。 そこで近ごろ或る部落有志者の概算では、大略百二十万乃至百三十万はあるであらうという。甚だしいのに至つては、百五十万もあらうなどという統計を見積もって居るが、今仮りにまづ最も少なく見て、概算百十三万人としたならば、部落民の総数は内地人総数の約五十分の一、即ち五十人中にいる割合に相当することとなるのである。即ち内地人全体が明治四年から四十七年余の間に七割六分弱を増す間に、部落民のみの間では、その二倍と一割強の数を増して居るのであります。その増加率に於ては、実に普通民の、二倍八部にも相当して居るのである)と博士は説明する。 がこれは喜田貞吉説の「日本にかつて存在した奴隷人口は、僅か五分なり」の自説を守るもの。 つまり古代では人口百人に五人だったのが「良」になってしまい二人にまで減少というのだが、それでは(部落民人口の総計の調査をしてみると案外にもその増加数が多い)とでは矛盾する。 そもそも大宝律令の「良」のえらいさま95人を「賎」の奴隷が強制使役でも僅か五人や二人で食わせ贅沢させられる訳はない。まるっきり反対の割合でなくては常識的にもおかしい。 歴史家ケントは「古代ローマ帝国のローマ市民は、一人で30から50名の奴隷をもち、貴族は何百という耕作奴隷とは別に戦士奴隷を、それぞれ五百名以上はもっていた」と著に書いている。 判りやすい例では西暦663年の白村江の戦いの時に、クダラ系の官人が母国救援に将軍となり将校となって、「四つ」の防人の戦奴二万七千をかりだしているから、仮に壮丁は人口50名に一人とし、昔は赤紙の召集令状をだす市町村の兵事課もなかったから、百名に一人とすれば日本列島の当時のクダラでない系統の原住民人口は約二百七十万人となる。終戦後、進駐してきた郭ムソウ後の藤原軍が初めは二千、後からは倍加。軍夫軍属や一旗組を倍とみて計二万余が。後の「良」で日本原住民は討伐され捕虜となったのが「賎」ゆえ、喜田試算はまったく逆であって、古代でも部落民は、良一人に対して二百七十人以上ということになる。奴隷は5%どころか、その50倍近い数字となる。それなのに「京都役所向大概覚書」の江戸時代の正徳五年の、百八十軒 七百八十九人 六条村四十六軒 百二十三人 蓮台村二十軒 百十六人 北小路村四十四軒 二百三十三人 川崎村百二十八軒 五百九十人 天部村十七軒 七十一人 小島村七軒 二十七人 龍ヶ口村十四軒 五十八人 舁揚村八軒 三十五人 西代村二軒 十五人 北河原村二軒 七人 柳内村合計十一部落、四百八十六軒、二千六十四人に対比し、百九十二年後の明治四十年調査の、千百六十九戸 五千三百九十六人 旧六条村三百六十四戸 二千と一人 旧天部村百六十三戸 千二百七十六人 旧蓮台野村四十三戸 二百六十五人 旧川崎村九十六戸 六百七十一人 旧北小路村二百五十三戸 千五百八十七人 旧小島村八十三戸 四百五十六人 旧龍ヶ口村五十八戸 四百五十二人 旧舁揚村、北河原村三十三戸 二百十六人 旧西代村二十戸 百三十二人 旧柳内村 この合計二千二百八十万戸にて一万二千四百五十二人と、前の約七倍となっているとする。 そして京の五条橋は昔の六条坊門で本能寺のあった処で、信長は故意に反体制の立場から後の所司代役にあたる村井道勝邸をも、此処の居付地にわざわざおいていたのである。 つまり本能寺は当時は秘密に匿されていたチリー硝石によって、せっかく戦わずに各大名の京屋敷よりの応援を待っていたのに信長も毛髪一本残さず、主従三十余名が一度に吹っ飛んだ。 そのサイカチの森から松原通りまでをば昔は六条河原とよんで、橋のない川の居付部落だった。 つまり江戸期の寛文時代までは、松原通り東洞院の東の「夷也」(今は稲荷)地だったが、承徳二年から六条河原へ移ったのを、高瀬川にまた所変えしたのが、柵原六条部落になったという。 のち大岡越前の時に三軒七条出屋敷部落に、斬髪になれ追われて刑場や牢の番人に使われた。 七世紀から八世紀にかけ捕虜として連行され囲地収容の日本原住民は時代により場所換え。(明治四年以来全国人口が七割六分弱を増す間に、特殊部落民は二倍と十割強の増加をなし、明治四年に全国人口の九十二分の一にしか当たらなかった部落民は、今は五十分の一にも達して居ることの統計は、既に前に述べて置いた通りである。この著しい増加率の相違は、更にそれ以前に於て如何なる状態であったか、普通民との増加率の比較如何であつたであらうか、となる。 徳川治世三百年間は、太平無事であつたが故に、我が人口も必ず大いに増加したであらうとは、何人も手軽に想像し得る所であるが、事実は反して、増殖率の案外低いのには驚かざるを得ぬ。徳川幕府の人口調査は、亨保六年以後は、六年目に実施せられて居る。これより元治元年に至るまで二十五回の実施のうちで、十五回だけの数は今日知る事が出来るが、その第二回目の亨保十一年の調査は二千六百五十四万八千九百九十八人。第二十二回弘化三年が二千六百九十万七千六百二十五人で、百二十年間僅か三十五万八千参十七人の増加を見るに過ぎなかつたのである。勿論この統計は、決して正確とは言いがたいものであらうが、当時宗門改めのやかましかつた時代であるから信用するにたるものであらう。もちろんこの中には、公家・武家、並びにその奉公人等を除外した数であるから、実際上の臣民の数は、更にこれよりも数割を見る必要あるべく、かくて明治五年に至つて、三千三百十一万の統計を見るに至つた事であるが、徳川時代を通じて、甚しい増減のなかつたものなることだけは、承認して差支えなからうと思われるのである)と「民族と歴史」の「特殊部落の人口増殖」の153Pから154Pにかけ喜田貞吉説は、さももっともらしく展開されている。 徳川時代に泰平なのに人口が増えなかったのは、部落が苛酷に搾取されていて、子供が生まれても育ててゆけず、大きくなれば人買いに売られてゆくのが関の山ゆえ、水子にみなした為か。 つまり現代のように美容上から不妊手術したり、避妊に失敗して中絶して水子にしてしまうのとは違い、殺したくないのに処分を部落ではしたのだから圧迫のひどかったのも判りうる。 それに明治四年壬申戸籍の時より居付き部落の人口が倍以上に増加したのは、日露戦争の時に消耗品として戸籍のない者まで人間狩りをし、新戸籍を作って戦死者の多い第三軍の乃木大将の指揮下へ編入。それと軍事的資源として、将来の兵隊にするために堕胎罪という法律で水子が禁止、生活は苦しくても御国のために、なんとか部落でも育てねばならなかった為もある。 それゆえ部落は、新戸籍者と育児で人口が倍加したが、それでもサンカのごときは無戸籍の侭で、匿れ住んでいたし、部落からの脱出者は戸籍を作ると本籍で苗字が付けられると避けている。つまり部落をよく知っている者は、戸籍台帳にいれられつけられると税金や徴兵だと嫌がる。つまり古代史とは良の鉄武器人が、縄文・原住民を征服し弥生期にエタ非人とした歴史。ここの処を明確にしない事には、日本の古代史の解明などは不可能。できはしないだろう。 ☆ ☆ ☆長々と転載紹介したが、八切史観によれば、家康の遺訓が、インチキなのがよくわかる。家康が言ったわけではないが、その内容はなかなか面白いもので、人生を要約しているようで、どこか、キリストの言葉を連想させる。重荷を、カルマの十字架に、代えれば、以下のように要約できる。人の一生は、前世からのカルマを負うて、遠き進化の道を行くがごとし。急ぐべからず。差別をうける人種の不自由を常と思えば不足なし。こころに物欲などの望みおこらば、困窮したる時の精神を思い出すべく、長い目をもつべし。堪忍の修行は、無事長久の霊能力の基、いかりは敵の悪魔を呼ぶと思え。自分が勝つ事ばかり知りて、他者が負くることの思いやりを知らざれば、巡り巡って、害その身にいたる。おのれの自我を責めて、無責任に人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされりの、分相応のバランスを保ちなさい。八切史観では、歴史を学ぶのは、愛国心育成のためと説いているが、残念ながら、それでは狭い視点にならざるを得ない。というのは、それだけでは、故郷喪失者にはなれないばかりか、歪んだ愛のルシファーの権威主義にハマり、知性のバランスを欠いてしまうからである。歴史を学ぶのは、国を超えて、人類全体を愛するためである。それは人間の愚かさや醜さ、過去の愚行や醜行を知り、二度と同じ過ちを犯さないためで、常に視点を拡大し、宇宙全体を広く見渡せる視野をもつための進化のためである。歴史を学ぶのは、なによりも差別をなくすためである。だから、歴史を学び、遡ることで、人種が生まれる前までを正確に現実の経験として、特に被害者や弱者の立場に立って、自分はなんて愚かで、醜い行為をしたのか、人類全体の責任を反省して、宇宙への愛に感謝するためである。だから、歴史を、金儲けや、虚栄心や名誉欲や、権力奪取の道具にしてはいけないわけなんである。巷の自称歴史家たちをみていると、ルシファーやアーリマンの悪魔の罠に堕ちているのがいかに多いのか、驚かされる。人類に人種などない、霊魂に性差がないのと同じである。ただ神の愛が1つあるだけで、それをいかに多く広くわかちあえるかでしかない。一灯照隅、万灯照隅。人種や民族や文化に囚われ、ルッキズムに陥る人は、歴史読みの歴史知らずであろう。
2024年05月30日
コメント(3)
ジャマイカからレゲエ文化を発信したボブマーリ―の作曲、「アイショットザシェリフ」はエリッククラプトンのカバーで世界的なヒットを生み有名だが、英語の歌詞なんで、意味がイマイチわからなかったのだが、最近、ベストヒットUSAで特集され、ボブマーリー自身の体験を語ったエピソードソングで、和訳されていたので、クイーンのボヘミアンラプソディーと似たような意味をもつのが、なんとなくわかってきた。ボブ・マーリー - WikipediaベストヒットUSA - Wikipediaボヘミアン・ラプソディ - Wikipediaエピソードソングといえば、ディープパープルの「スモークオンザウォーター」が有名だが、フランクザッパのコンサートでの出来事を歌った曲だが、なぜだか、世界的な大ヒット曲になっている。このフランクザッパが、ボブマーリーに匹敵するほど面白い人らしいのだが、なぜか日本では無名で、恐らく、当時の米国忖度のためか、奇人変人扱いにされ、あまり紹介されていなかったので、再度ググってみると、米国での反体制の象徴的人物なのがわかる。スモーク・オン・ザ・ウォーター - Wikipediaフランク・ザッパ - Wikipedia特に米国当時の保守本流を気取るキリスト教原理主義を批判していたようである。現代では、キリスト教原理主義は差別主義と認識されているようである。ザッパは移民に寛容な民主党支持者だったので、恐らく、共和党過激支持者の妨害工作で、コンサートで炎上し、ジョンレノンと同じように、大衆を扇動する思想家として、しばしば命を狙われていたようである。当時の米国でのソ連への反共主義から、思想検閲などが行われていたのは、バックミンスターフラーの書からもわかり、ザッパの父が軍関係者だったことから、要注意人物としてリストアップされていたのかもしれない。当時は情報操作されていたから、米国傀儡政権の極東の地にそのような情報が流れるわけがない。バックミンスター・フラー - WikipediaベストヒットUSAは洋楽のバイブルともいうべき番組で、極東の地に、様々なアーティストの音楽活動を学ぶ機会を与えてくれて、感謝している。アメリカには、サミーへイガ―のロックンロールロードトリップという番組があり、アーティストの音楽活動をセッション付きで紹介し、洋楽の音楽馬鹿ともいえる素晴らしさを堪能させてくれるが、反面、なぜ日本には、このような番組がないのか、非常に残念に思わされる。自分は、東南アジアのルックスで揶揄われた経験から、反社が芸能界に暗躍しているよからぬ噂も垂れ流されていたりして、どのアイドルが軍団とつながってという類の下世話な話に、どこか日本の金儲け優先のアイドル洗脳音楽が大嫌いだったせいもあり、当時の芸能界は、いまの売れればなんでもありの、ユーチューバーのようなノリに嫌気が差していたせいもある。音楽性よりも金儲け重視の姿勢は今も変わりがなく、益々物質化し、幼少化しているのが問題ともいえる。サミー・ヘイガーRock & Roll Road Trip – ミュージック・エア (musicair.co.jp)サミー・ヘイガーRock & Roll Road Trip シーズン2~4 – ミュージック・エア (musicair.co.jp)さて、小林克也氏は、YMOとコラボした経験があるみたいだが、純粋にミュージシャンではないし、日本の歌手でサミーへイガ―のような存在を改めて考えてみると、なかなか思い浮かばないが、サザンの桑田佳祐氏あたりだろうか。或いは少し洋楽よりだが、ボウイで一世風靡した布袋寅泰氏かもしれない。邦楽というよりもっと洋楽よりになると、B’zの稲葉浩志氏かもしれない。いずれにしても、これという人物が思い浮かばない。思うに、日本では上下関係や他ジャンルとの壁や、売れるのをあまりにも重視しすぎていて、音楽業界でバイトしたこともあるが、体育会系のノリなのに閉口した思いがある。体育会系で、バイトを見下している雰囲気が如何わしい宗教団体のようで残念だった。当時は、そのような似非宗教団体が多かったのが昭和のブラックな雰囲気を増強させていた。反体制で自由なのがロックなはずなのに、意外と体制どっぷりで、全共闘世代ではないので、フォークロックでの反米活動の経験は皆無なんで、その事情はよくわからないが、売れることばかりが、正義とみなす雰囲気が業界に残っているような気がする。ジャニー喜多川氏の悪しき例がその典型だろう。ジャクソンファイブの売れせん狙いのパクリで、権力者に媚を売る北の喜び組接待と実体は何ら変わりがない。ジャクソンファイブにはまだ被差別黒人種の虐げられた生活背景があったから、人種差別撤廃のリズム&ブルースと調和したのだろう。武器を捨てて楽器で戦ったのがソウルミュージックの原点にある。勿論、米国だって売れてナンボの世界に変わりはないが、日本には音楽に人生をかけている音楽馬鹿、音楽マニア、いまでいうオタクが少ないような気もする。音楽というよりも、アニメや漫画業界に、そのような馬鹿やマニアやオタクが多い。何よりも、音楽などの芸術で、世界を変えたいという欲望に乏しく、現存する権力者に媚を売る姿勢が鼻について仕方がなく、権力の裏で私腹を肥やす裏金議員などはその典型で、それでは、創造どころか、破壊者の追従でしかない。そんなバカな政治家に、音楽家は政治に口を出すなと言われる始末なんで、日本の音楽に、政治を変える力はなく、だから、せめてもの、日本の漫画に、世界を変えたいという希望や反骨精神が描かれるのを期待するわけなんである。権力者に従うのにどこに自由がある、といえるのだろうか? 最終的には、そのまま戦場に行かされるだけである。ロシアやイスラエルを見れば権力者に騙され、民主主義を奪われて、忖度した挙句がいまの戦争で権力者にしか物質的利益がないのが明らかである。若者たちが老害を追い出して、自分たちで平和な世の中をつくる、という努力が足りなかったせいである。独裁者に媚を売る事でしか生きられない地獄の世界に、奴隷の世界になってしまっては、皆が地獄に堕ちるだけなんである。ブラック企業やブラック国家はなくさないといけないのが、いま現代の人類の進化の課題なんである。その背後には特定の悪魔の僕のような連中が全体のバランスを失わせて、偏らせ、搾取し続けるだけだからである。老子の、「大道廃れて、仁義有り」で、仁義は、芸術のなかで、説かれるわけなんである。大道とは、霊能力の事で、霊能力が失われたから、再獲得するために、仁義を説くしかないわけなんである。その仁義を説くにも、東洋では、善き師につくのを求めるが、西洋では、個人が師になる違いがあるような気がする。だから、東洋はまだ、既成の人種や民族や文化を脱せられていない、遅れた文化で、米国は、英国のそのような過去の価値観の伝統から解放され、個人が自由になった国とはいえ、特に音楽には、そのような自由があるが、いまだに白人主義やキリスト教原理主義などの差別主義が残っていて、逆に経済化して、格差社会をつくり、ルシファーから解放されたはいいが、対ロシアとの関係などから、アーリマンの虜になりつつある。そのような悪の観点から、人類の進化を捉えるのに良い動画をみつけたので、以下に紹介する。進化と悪 | ルシファー・アーリマン | ペンターブシステム〜負荷・反映・等化・中和・進化〜 - YouTube 日本の音楽にはまだ権力者に媚びたり忖度する古さが残っているが、漫画には、浦沢直樹氏の漫勉という素晴らしい番組があり、世界にも、日本の漫画文化の素晴らしさは伝わっているが、日本の音楽にはないもので、特にクラッシックにもいえることだが、小沢征爾氏とN響の関係からも、日本の音楽業界の上下関係の不自由さに、老害が、若手の芽を摘んでいるようにみえて、残念で仕方がない。 浦沢直樹の漫勉 - Wikipediaいまだに音楽のなかにクラッシックを上位と捉える風潮がみられるのは残念で、全く粋でない。古さが斬新さにかわっていない。貴族のためでなく、民衆のために書いたのが飲んだくれのベートーベンで、もはやその後追いだけでは、創造性も現代では乏しいばかりである。日本のクラッシックは化石ですらない。ジブリの久石譲氏の映画音楽のなかに、わずかにクラッシックの断片が見え隠れするだけである。確かにその道の権威に従い売れてナンボの世界かもしれないが、それだけでは、人生を生きる意味を失っているような味気なさを感じてしまう。西洋を乗り越える東洋でさえなく、ただ西洋の古さだけをありがたがる骨董趣味でしかなく、もはやゾンビでしかない。音楽業界に階級をつくってどうするのだろうか?やはり、アーティストは食える食えないを超越して、個人の生き様を演じてほしい。食えないオタクの扱いに、世間的な評価や従来の古めかしい伝統的な価値観は困るのかもしれないが、それを乗り越えるのが、人類の進化であり、新しい価値観や平和への飽くなき探求の精神に思える。自由が物質界に根付き、安定性をもって、石となるために、ロックは既成概念から自由でなければならないが、そのために、ロックンロールは、輪廻転生で、地上の多種多様な人種や民族や文化に生まれ、経験から音楽を奏でて、死んで仏となって、天空の音楽に加わり、人類は進化して、自由を愛の名の下に確立していくが、その自由が横暴でないのは、愛の名を、人類全てが、天使の位階の課題として背負っているためである。地球人の人類がいま育成している野蛮な自我が、自由な愛の天使という名となるのが預言されている。いまの地球紀の進化を卒業できた霊魂は、天使となり、次の人類の木星人には、自由な霊と呼ばれると、人智学では解き明かされてもいる。だから、権力に命乞いをして同じ人類を差別し、虐げるのは、自由ではなく横暴でしかない。武器を捨てて、楽器を奏でよう、と自由な愛のアーティストは地球紀に生きている。だから、職業はアートや芸術にならなくてはいけないと、シュタイナーも説いている。仕事を単なる物質的活動にしてしまっているのでは、過去に縛られて生きるだけでしかない。それでは、人間を機械にしているだけで、いずれAIに取って代わられるだけにすぎない。機械へと継承する一つの歯車でしかない。いま確かにAIも芸術をつくれるというが、そこにボブマーリーの思想はあるだろうか? 未来への希望や、世のなかを変えたい、という思いがあるだろうか?さて、ボブマーリーのアイショットザシェリフと、フレディマーキュリーのボヘミアンラプソディーの共通の意味は、自分のなかにある、悪魔を殺し、自由に生きる、愛の決意表明だったのだろう。自分のなかにある○○でなければいけないという体裁や面子、プライドや権威主義との決別だったのだろう。古い過去に縛られる自分との、幼少から少年期を育んだ環境や土壌との悲しい別れなのだろう。神秘学でいえば、故郷喪失者である。霊能力の獲得のための、初歩であり、仏教の出家である。過去を捨てなければ、新しい未來はやってこない。過去がそのまま古く続けられるだけで、人間の精神は退廃し、物質化され、奴隷化されていくだけで、いたずらに時を持て余すだけにすぎない。だから他の誰かを傷つけるしかできなくなる、創造的に無能な破壊者でしかなくなるわけなんである。老害として、若者をパワハラするしか自分の存在を証明できない無能な物質的奴隷でしかない、承認欲求に塗れた白髪の老人なんである。ハゲはまだ他者を笑わせるだけマシかもしれない。笑われないハゲは笑いさえも生み出さない他者には無能で無用な存在である。笑いも、音楽と同じように芸術であり、権力に媚を売る笑いが下品であるのは、音楽と同じである。神様は笑いを平等に与えてくれるはずである。地獄にいるときこそ、笑いを与える存在であるかもしれない。いまロシアに欠けるのは、この笑いの精神である。ロシアに、チャップリンの独裁者を笑う精神がないのは非常に残念で、日本にはまだ、権力を笑う文化、貧乏してでも、笑える反骨心が少しは残っているが、最近は、毒舌を嫌う風潮は非常に残念で、確かに少数や弱者への毒舌は差別でよくないが、多数や権力に対しての毒舌は、ガンジーの無抵抗主義なのである。武器を捨てて、口の言論で戦ったわけである。独裁者 (映画) - Wikipedia権力に言論で戦うのは、頓智にはじまるが、孫子も戦わずして勝つのが肝要と述べているように、理性をもって真実で戦うのが、頓智なんである。頓智は、アニメの一休さんで、有名になったが、一休さんは、当時の独裁者ともいわれた足利義満と頓智合戦の話である。真偽は定かではないが、当時の一休宗純は、反体制論者だったのが記録に残っているほどなので、現代でいえば、お笑いの毒舌を語る道化師だったのだろう。古来から、為政者が、民衆の気持ちを掴むために、側近に道化師を置いたのが、宮廷道化師となっている。頓智話 - Wikipedia道化師 - Wikipedia宮廷道化師 - Wikipedia日本の宮廷道化師は、陰陽師が担っていたようだが、霊能力を失っていくにつれて、朝廷では形骸化して、武士階級の幕府が政治を担うようになってから、僧侶に代わっていったようである。江戸時代からは、民衆化して、幇間になったようである。幇間の視点から戦国時代を描いたのが、北野武監督の映画「首」で、従来の古風な戦国史とは異なり、面白かった。いずれにしろ、俗世の物質界を超えた霊界から預言をとってくる霊能者が宮廷道化師の原型になったものと思われる。陰陽師 - Wikipedia僧 と 陰 陽 師 木 場 明 志 - J-Stage ja (jst.go.jp)幇間 - Wikipedia映画『首』公式サイト (kadokawa.co.jp)「首」は、生まれ育った出自に取り入り、戦国時代の身分制度による伝統継承に拘る愚かさや馬鹿らしさを立身出世競争で描きだすが、それらは、現代の、お笑い芸人からみた芸能界や、現代社会の暗部を同時に描きだしているようにみえる。つまり、生まれ育った環境から差別されてきた被差別階級には、故郷喪失者にならなくては生きていけない切羽詰まった生と死が眼前にあり、その視点からみれば、当時のお上といわれている権力者たちの姿の方が、滑稽を演じる者にとっては滑稽でしかないわけで、どちらが本当に生きている存在なのか、わからないわけで、少なくとも、身分差別のない平和な新しい時代を築こうとする、いまは笑われる存在でも、その奥底の平和を願う意志の上では、被差別民に利がある、のを説く作品といえるかもしれない。先日、「にけつッ!!」でケンド―小林氏が、乗ったタクシーの運転手に、息子がお笑いをやりたいのを、安定した職ではないので、見切りどころをアドバイスしてほしいと相談され、親身になってアドバイスしたら、悉く撤回され、お笑いまでを否定されたので、タクシーを降りたくなった、という面白い話をしていたが、お笑いブームといっても、まだまだ、この国には古めかしい価値観が蔓延り、自分の生き方にとやかく言われる老害が蔓延っているわけで、その人が息子の愚痴が出るくらいの、タクシー運転手をやりたくてやっているわけではないのが、よくわかる話でもあった。当時の世間的評価を選んで、自分のやりたい職を選べなかった自分を反省すべきだろう。にけつッ!! - Wikipedia世間的評価を選べば、その過去の栄光にすがる誰かを演じるしかないわけなんである。地盤を引き継ぐというのは、その過去の栄光にすがるしかない無能な二世、三世の看板でしかないのである。時代遅れの国では通用するかもしれないが、世界では手遅れになるだけだろう。他人に厳しく自分に甘い無能な政治家を見れば明らかである。つまり、日本には職業選択の自由など幻想でしかなく、いまだ職業差別が蔓延り、裏金議員のような犯罪者が出ても、政治家が卑賎の職業と罵られる気配もないわけで、少子化を女性のせいにする女性うむ発言などにも、金銭欲から権力に媚びを売るのが体質となっていて、せいぜい増税メガネ心理狂政権と毒舌するだけなんである。いかに権力に騙されている奴隷が多いのかわかり、民主主義も、単なる弱い犬の遠吠えでしかない張子の虎なんである。人間に与えられた、笑いは、神の恵みである。絶望の淵に現れる神は、笑いであると思う。敵味方、上下関係なく、互いに心底から笑いあえる世界は、少なくとも平和な世界だろう。お笑い芸人は、その一瞬の天国を現実に降ろしてくれる霊能者である。人類は、笑いの言葉を勉強するべきなのだ!残念ながら、日本の音楽にはいま、その力が欠けている。売れればいいという経済的関係しかみえない。異性に対する低俗な欲望にしかみえない有り触れた俗曲が多い。売れせん狙いのヒット曲なんかその典型で、売れ狙いのカラオケ狙いの商売道具でしかない。ヒップホップが流行れば皆ヒップホップ紛いで、物欲の延長上になる単なる憧れでしかない。差別主義をやめろという主義主張もない。多数派が少数派に耳を傾けるのが意味を持つ、音楽のパワーである事を知らない。単なる流行では何も変わらない看板のすげかえでしかない。それでは、政治が二世三世の権力の道具でしかない、無能な国家で退廃の宿命を背負い、独裁者と共に地獄に堕ちるしかないだろう。政治改革が何度も唱えられたが、何も変わらず、増税ばかりで、裏金議員も辞職すらしない。若者は選挙にいかずに、流行で外見を虚飾する節操のなさに、金銭や異性を射止めるのに承認欲丸出しで、権力に飼われた犬を演じて現を抜かしている。ボブマーリーの音楽は聴いたことがあっても、ドレッドヘアの意味がわかる人もほとんどいない。音楽が単なる環境音楽と化し、アーティストの音楽運動を錯覚し、音楽を性の道具だと勘違いしている。自分も、ググる前までは、ボブマーリーの音楽の底にあるラスタファリ運動を知るまでは全く無知で、無関心だった。 ラスタファリ運動 - Wikipediaシュタイナーは、人種はエチオピア人から生まれたと述べている。つまり、ラスタファリ運動とは、人種が生まれる以前の人類に回帰しようという、人種差別をなくす運動と思われる。地球のどこに生まれようが、それは輪廻転生の一形態でしかない、霊魂の修行に必要な経験でしかない。つまり、我々人類は、人種に意味があるのではなく、人種から学び、それを乗り越える事に意味がある、とする運動なんである。歌詞・和訳 ボブ・マーリー(BOB MARLEY)のONE LOVEを和訳してみました☆ | kazuu洋楽大好きのブログ (ameblo.jp)地球人は、一つの神の愛、人類への愛に回帰すべきなのである。ワンラブがそのメッセージに込められているようにみえる。自分への拘りに打ち克ち、それが本当の自我の霊我への勝利なんである。自分を人種により着飾る必要はなく、自分のなかにある本性に目覚めればいいだけなんである。自分のなかにある差別心を無くそう、その悪魔の差別心、世間体や体裁が、シェリフの保安官であり、権力への依存心なんである。権力への依存心が付きまとうのを、切り離し、自由に、天の主に仕える助手の精神は失わずに、自由に生きることこそ、愛の志なんである。アイショットザシェリフの意味がわかった。性差を超えて人間として生きるために、フレディマーキュリーは、故郷喪失者となった。ドレッドヘアは、髪形に拘らない、人種が生まれる前の、聖書の記述に端を発しているようである。聖書の髪とは、民族の頭から、人種の髪が生まれる意味をもち、だから、頭を着飾るために、髪を切ったりしてはいけない、という記述は、民族問題のために、人種同士で争ってはいけない、と説いているのである。そんなことをすると、不毛の地の禿になるわけで、独裁者に若ハゲが多い特徴にもなっている。愛嬌のない禿げは、どこか冷酷な人情を感じさせる。だから、中世ではハゲ隠しの鬘が重宝された。ハゲが転じて俗物的にスケベといわれるのも、若禿げの精力の生命力のなさを根拠にしているようである。生命力は、毛として現れるからで、髪の毛は女性ホルモンに関係しているのが、現代科学でもわかっているが、女性というよりも霊魂の両性具有性の意味が大きい。シュタイナーは、男性の頭は珪酸が不足しがちなので、髪の毛の先から珪酸を吸収するので、短髪にすべきだと述べている。珪酸は霊能力とも関係し、髪の毛が長いと、俗物化しやすく、修行者が髪を切るのは、雑念を取り払う意味もある。女性は男性よりも霊魂が天界に近く、肉体にあまり入り込んでいないために、珪酸が不足する可能性は少ないが、鉄分が不足しやすく、現代医学でも、妊娠時の鉄分不足からの貧血が指摘されている。ドレッドヘアのような人類の人種が生まれる祖への回帰思想は、ジャイナ教にもみられる、自然回帰思想でもある。老子風にいえば、大道廃れる前に回帰せよ、となるかもしれない。 ☆ ☆ジャイナ教 - Wikipedia基本は出家者のための五つの大禁戒(マハーヴラタ、mahāvrata)、生きものを傷つけないこと(アヒンサー)虚偽のことばを口にしないこと、他人のものを取らないこと、性的行為をいっさい行わないこと、何ものも所有しないこと(無所有)である。このジャイナ教は古代インドでのみ通用する理念で、いまではドグマになっていてよくない。当時は外の世界が、つまり物質界が不浄の、偽りの幻想のマーヤだと説かれていたので、修行に際して、霊能力を獲得するための秘儀参入法だったのである。出家というのは、物質界を捨てることなので、物質界と交わらないという意味で、性的行為を一切行わないのも、含まれるわけなんである。つまり、性的行為を行わないというのは、現代に翻訳すれば、人間を性差で差別しないという意味になるだろう。ルッキズムをしないという、自然回帰を実践したものといえるかもしれない。ジャイナ教を、唯物論で考えるから、おかしなものになり、またそれに人種や民族や文化などの物質欲に搦めるから、ヘンテコな偽宗教になってしまうわけなんである。どんな教えも、自我の本性に回帰すれば、矛盾するものはなく、神の一つの愛の多様な表現にすぎない。どれかに偏るから、バランスを失うわけなんである。自然回帰のバランスを回復するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(今回、地球紀の講演の、この部分の翻訳の意味を掴むのが非常に困難だったので、改めて、少し前からはじめる。) この経験を、イメージで思い描くなら、別の場所で目的を果たせた犠牲を、保持せざるを得なかった結果、拒絶された犠牲が煙となって排除され、その犠牲は、宇宙の進化過程からも疎外された。 いま表現しているイメージを、知性ではなく、というのも、知性では、解き明かせないからだが、感情で把握するなら、宇宙の普遍的な進化過程からの疎外が、どういうものなのか、経験できる。 犠牲を拒絶した存在たちにとっては、犠牲を遠ざけたに過ぎない。しかし、犠牲を持ち越した存在たちは、代わりに、疎外という刻印を担う。そして、地球紀にいるのは、本来の自我=霊我から疎外された存在たちである。 この疎外という出来事のなかに潜む感情について、霊魂から詳細に解き明かすなら、それは死の感情なのがわかる。宇宙における死とは、犠牲が拒絶された為に、保持せざるを得なかった、低次の存在たちのなかで生じた感情に他ならない。 このように、地球の進化の、第3段階で霊視した「諦め」と「拒絶」から、高次の存在たちにより拒絶された、すなわち死の概念に到達した。そして、死の真の意味とは、本来の場所にない、本来の場所から疎外された、自我に他ならない。 人生に生じる、リアルな死にも、同じ疎外が働く。物質界という、幻想の世界に取り残される死体は、自我を中心にして、アストラル体、エーテル体から疎外され、本来の意味を失い、肉体として置き去りにされる。 人間の肉体は、エーテル体、アストラル体、自我がなければ意味がない。死の瞬間、肉体は意味を失う。肉体に意味を与えていた他の自我ら3つの体から疎外される。人間が死ぬとき、日常の感覚では、知覚できない、それらの体=霊魂が、大宇宙のなかで、自我の本性=霊我を開示する。 高次の宇宙存在たちが、犠牲を差し戻したために、自我は、死を免れないものとなった。というのも、死とは、宇宙的な存在が、真の進化目的から除外されることだからである。 このように、宇宙の第4の要素と呼べる、「土」に到達した。 第1の要素の、「火」は、純粋な精神の意味で、犠牲であり、火、もしくは熱が生じる背後には、犠牲が横たわっている。そして、地球の周りに拡がる、第2の要素の、「空気」の背後には、授与、もしくは徳の付与が見つかる。そして、第3の要素の、「水」、すなわち液体の背後に、精神的な「諦め」、もしくは「拒絶」が見出され、そして、第4の要素の、「土」は、死を担い、拒絶を通して、真の意味の進化目的から疎外された存在として特徴づけられる。 もし、土という要素がなければ、死はなかった。土のなかで、液体から固体が生じ、本来の意味から疎外された死が、具体的な形態を示す。そして、それはまた、ある精神過程を反映している。例えば、池に氷が張り、液体の水が固体になるのを想像してみる。水が氷になるのは、水の意味を与えている精神的な「諦め」や「拒絶」からの、疎外である。 この固体への過程には、土という疎外の、精神的な表現がある。というのも、4大元素の特徴でいえば、氷は、実際に土=固体で、液体は水だからである。自我の、真の目的と意味から疎外されるのは、死であり、死は、土の要素のなかで、自我を開示する。 地球紀の霊視は、幻想(マーヤ)の物質界に、リアルなものがあるか、という問いから始めた。霊魂のなかに、そのような概念を霊視してみる。最初に、わかったのは、地球紀にみつかる概念は、かなり複雑で、混み入ったものだった。 だから、知性ではなく、経験で解釈しなければならない。そうしてはじめて、明らかになる。この死の概念、すなわち、土の概念を取り上げてみる。それは実に注目すべき側面を示す。 いま取り扱った死以外の概念は、周囲に広がるマーヤのなかには、リアル性が見つからず、根源的な精神のなかにだけ見出せる。そして、地球紀のいま、マーヤの領域で、何かが、自我の死を特徴づけるのが確認できる。 それは正に、本来の進化目的からの疎外であり、本当は精神の領域のなかに存在すべきものだった。つまり、それは、精神から切り離され、このマーヤのなかに閉じこめられた。本当は、マーヤのなかにあるべきではなく、広大なマーヤの領域のなかに見つけられるのは、ただ幻想と偽りだけである。 しかし、マーヤのなかにリアルな真実を示すもの、つまり、何か真実のものが、本来は、精神的な存在のなかで、それに意味を与えるものから切り離される瞬間、破壊や死を被る、のが見つかる。ここに、正に大いなる真実と言えるものがある。 つまり、死は「マーヤの世界で、ただ1つの、幻想や偽りでない、リアルな個人を現している」。 死以外の、他の要素は、霊魂のなかに、現実(真実)を辿る必要がある。マーヤのなかに生じる死以外の他の、自我の表現の背後には、霊的な現実(真実)が横たわっている。ただ、自我の死だけが、リアルな個人として現れるのは、マーヤのなかだけである。つまり、マーヤ全体を通して、自我の死だけが現実(真実)なのである。 だから、もし、マーヤのなかの至るところに、普遍的に広がる死から、偉大な宇宙の進化へと向かうなら、人智学にとって、最も重要で、最も適切な帰結とは、次のような命題、つまり、マーヤの世界で、現実(真実)として存在するのは、個人の死だけなのがわかる。
2024年05月28日
コメント(0)
シュタイナーの人智学や神智学などのオカルトの古代叡智に全く関心がない人は、というよりも、関心がない人がこのブログに辿り着くわけでもないが、完全にスルーしてもらった方がよいでしょう。そのような人に、反感をかって、反論されたりして論争し、かえってストレスをためる必要もないからである。自ら必要と思ったときに、必要な努力をすれば、いつでも人智学などの古代叡智を学べるからである。遅かれ早かれ、いずれにしろ、知性が成熟したときに、人智学を学ぶようになるからである。だから人智学を学ぶのを強制する必要は全くないわけで、むしろ、強制するものこそ、偽人智学者といえるかもしれない。学びたいと思ったときに学べばいいだけで、誰かにいわれたりして、学ぶのでは意味がなく、自主的に学ぶのみ意味がある。というのも、カリユガの時代を経験してきた者にとっては、理解困難な内容を説いているからで、益々嫌悪感や反感を覚えても、かえってストレスを溜めるだけだからでもある。というわけで、人智学に全く無関心で、興味がない人は、以下の話はスルーしてくだされ。しかし、人智学を学べば、世界紛争の原因がわかり、宗教や哲学や科学の由来がわかってくるから不思議である。哲学は、霊能力による叡智のことで、宗教は霊能力で解き明かした神話のことで、科学は、そのなかの形態霊の働きを表面的に記述したもの、とわかってくる。つまり、現代人がいま世界紛争を起こしてるのは、高次の宇宙人である神々との交信の霊能力を失い、無知になってしまった、のがわかってくる。ぶっちゃけていえば、悪玉の宇宙人に唆されて、人類同士で戦わされているのが、地球の現状なんである。だから、霊能力を再獲得して、科学を哲学にして、更に宗教にすれば、世界紛争など馬鹿らしくて、やってられなくなるわけなんである。問題なのは、現代の宗教が言い伝えを基にして唯物化されすぎ、複雑化していることで、非常に曖昧になり、人種や民族や文化が一緒くたに混沌としてとりとめのないカオスになって、収拾がつかなくなっていることにある。要するに、物質面であちらこちらを塞がれて、視野が狭くなっているだけなんである。物質界の迷路に迷い込んでいるだけで、あーでもない、こーでもないといって、思う通りに進めずに、ストレス塗れになっているだけなんである。お互いが自分の責任をとらずに、相手に責任を擦り付けているだけなんである。そして、その根本の紛争の要因は、他人に自分を認めてほしいという欲求であり、コンプレックスの裏返しで、なんのことはなく、承認欲求が強く、孤独を恐れるからにすぎない。自分に魅力や芸がないのに、観衆や聴衆のせいにしているだけで、例えば、異性を求めるのも、孤独感の恐れでしかない。もし、両性具有なら、孤独を恐れる必要もない。物質的には、男女のどちらかを選択しないといけないので、孤独を感じるわけで、その孤独の恐れに、悪魔が好んで憑りついてきて、人類を分断して、仲間割れを誘発し、互いを闘争に追い込むわけなんである。だから、真実を見極める霊眼さえあれば、承認欲求など自ずと充たされるものなんである。現代の唯物論的な物質科学が、大きな錯誤に陥っているのは、現状の戦争状態でも明らかである。なぜ戦争に陥るのかすらわからない、その無知さにある。ソクラテスが説いた無知である。馬鹿は死ななきゃ治らないと、誰が言ったらわからないが、戦争を起こす権力者などは、その最たる馬鹿の極みの類だろう。少なくとも、自分が地獄に堕ちていくのがわからないからである。戦場に人を送るというのは、死後、送られた人の気持ちを知り、次の転生で、その体験をして、贖い、償わなければ、孤独の地獄で暮らすしかないからである。だから、地球は、贖い、償いの星と、神秘学では呼ばれている。現代風にいうなら、刑務所となるかもしれない。そして、物欲を求めるほど、孤独の独房へと孤立化していく。地球人が罪人なのは、聖書にも書かれているが、未熟な知恵の実を、悪魔の蛇に唆されて食べてしまい、熟すまで食べてはならないと、神々の形態霊の言いつけに背いたからで、これが失楽である。そのために、神々の言いつけに背けるようになって、地球人は、宇宙の進化から逸脱し、悪魔と共に、自由な身にはなったが、神々の思いやりがみえなくなり、霊能力を失い、自らの欲望を満たすようになっていった。形態霊の神々は、霊能力が充分に熟してから、つまり、モラルを完全に身に着けてから、地に受肉しなさいと命令していたのを、宇宙の進化から逸脱した悪魔がやってきて、未熟なままで、早熟で受肉し、覚醒意識を獲得してしまったので、神々の働きがみえなくなり、その上辺のベールとなっている物質界しかみえなくなってしまった。つまり、半分しかみえなくなった。そして、形態霊の働きは、例えば、科学用語の、エネルギーなどに置き換えられてしまい、4次元時空の先がみえなくなってしまった。つまり、高次の霊能力が低レベル化して、物質的な欲望の、虚栄心や名誉欲などの承認欲になってしまったわけなんである。だから、形態霊の愛の働きが、単なる物質概念からの数値化されたエネルギーになってしまったわけなんである。そして、そのエネルギーを私物化しようとして、核兵器などをつくってしまったわけなんである。しかし、いかに私物化しようとも、物質は、霊性の表面で、一部でしかなく、私は公に帰するので、カルマの法則の鏡像対称性で、例えば、私物化した分、他に損害を与えれば、いずれ、その損害を被る立場になるわけで、この変換のカルマの法則を、ハムラビ法典などは、「目には目を歯には歯を」、と記述しているわけだが、これは、自分がしたことは自分にブーメランのように返ってくる、カルマの法則を述べているわけなんである。ハンムラビ法典 - Wikipediaだから、キリストは、「眼が見えない人がいれば、眼の代わりになってあげなさい。歯がない人がいれば、代わりに咀嚼してあげなさい」というように、カルマの法則でモラルを説いているわけである。要するに、相手の気持ちや立場を思いやりなさい、というのが、物質界を超えたなかの、形態霊の働きを見通す、心眼の獲得法なんである。というのも、形態霊の働きのなかに、人間の内側の精神性と、外の自然の物質性を、三位一体として統合する働きが隠されているからで、それがカルマの働きだからである。そして、キリストは、形態霊の使者ともいえ、太陽霊として、地球人に、真実を見通すための、霊我となる、悪魔ルシファーに代わる、新しい真に自由な自我を与えたのが、人智学を学べばわかるようになってくるからである。形態霊の働きは、現代人には太陽光としてみえるが、人智学でいえば、エーテルの生命エネルギーの働きである。そして、それは重力をなす意志霊と、重力と対抗する運動霊との間に三位一体の均衡の働きをなす。ニュートンはそれを万有引力として表現したが、後の人間は、唯物論で、半分誤解して伝承しているから、核兵器などをつくって戦争しようとして、古代アトランティス時代と同じく破局を招こうとしている。この太陽霊の形態霊のバランスの働きを、地球人の未熟な自我に、霊我として灯すのが、キリストの救世主の働きで、それは西洋から生まれる処女マリアの精神と、東洋から生まれるアバターによる出家故の仏性の父性の精神との父母の天と地の受胎なんである。つまり、西洋には霊的な父性が欠け、東洋には霊的な母性が欠けているわけで、互いを補い合うのが、第6文化期の、東欧のスラヴ文明の課題なんである。いまロシアとウクライナでまさに戦いがおこっているが、この戦いをどう解決するかが、次の第6文化期の人類の課題で、いま宇宙はその行方を見守っているわけなんである。東欧や西南アジアでの霊性の受胎の神話から、第6文化期の時代霊と昇天する民族霊が旗頭となるのが預言されている。東と西を結び付けるキリストの融合民族なのである。シュタイナーは、その第6文化の特徴を、ソロヴィヨフに言及している。ウラジーミル・ソロヴィヨフ (哲学者) - Wikipediaこのソロヴィヨフのキリスト論は、誰もがキリストの高次の自我=霊我のバランス力で、悪魔の低次の自我を三位一体で統治できるのを理論的に示したものである。そこで、現代が、物質界という、錯誤に塗れているのを、要約している、シュタイナーの動画を以下に紹介する。物質界の奥で働く形態霊が霊視できるようになると、時代霊や、民族霊の大天使の働き、そして天使たちや、また天使たちに抵抗する堕天使たちの、特にアーリマンの錯誤を、地球人が見破れるようになるからである。ルドルフ・シュタイナー「人類をあざむくアーリマンの重要な手段」 - YouTubeルドルフ・シュタイナー「アーリマン(サタン)存在の受肉 / アーリマンとは」 - YouTube進化と悪 | ルシファー・アーリマン | ペンターブシステム〜負荷・反映・等化・中和・進化〜 - YouTubeさて、現代になっても、中国とインドがあまり仲がよいとはいえないのは、古代アトランティス時代からの因縁をひきづっているのを、シュタイナーは解き明かしている。現代の大西洋の真中にあった古代アトランティス大陸の大破局後の、人類は、東に向かったという。その中心が、聖書で記述されたノアの民族で、神秘学ではマヌとも呼ばれている。そして、当時最も古代叡智を継承していたそのマヌ民族が、東のゴビ砂漠に辿り着いた。当時の大陸はまだ現在のように固くなく、沈没した古代アトランティス大陸も、固くなく、まだ液体のようだったので、その痕跡が残っていないという。古代アトランティス大陸が沈没したので、太平洋側のかつて海底だったシベリアなどが隆起したらしい。勿論、大気も水蒸気のような澱んだ、いわば、ミストサウナのような状態だったので、特に北欧人がサウナを好むのは、古代アトランティス時代の思い出が霊魂の潜在意識のなかに蘇り、活気をもたらすからである。精神がリラックスするのは、霊魂が古代アトランティス時代の神々との交流を思い出すからである。ゴビ砂漠 - Wikipediaミストサウナの効果って?メリットと正しい入り方を解説 - お風呂メディア (bathlier.com)だから、古代アトランティス時代の古代叡智を最も継承していたマヌの民族による、古代中国文明は、当時、最も高度な文明だったので、そこにルシファーが目をつけて、受肉したのが、中華皇帝の中華思想となったのだろう。有名な万里の長城による石による防御要塞は、いかにもルシファーの秘密主義が現れているからである。それは継承した古代叡智が外に漏れるのを禁じたのと、モンゴル人種が、赤の火星で、戦いの星を象徴としているので、太陽に対立し、自立する宿命を負っているからにみえる。万里の長城 - Wikipedia失われた万里の長城、モンゴルで発見 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)つまり、古代中国は、古い霊性を継承する土地で、いまでも国境が曖昧なのは、霊性をもった人治主義で統治する民族性を負っているためで、物質性にはほとんど無関心で、物質文明には疎いからである。物質的発展よりも、むしろ精神的機密性を尊ぶ、懐古主義の、時代遅れの文化なんである。だから、いまでも、古代アトランティスをどこかで憧れているような文化をもつわけなんである。眠れる獅子と譬えられるのは、獅子を古代アトランティス文明とすれば、的確な表現といえるかもしれない。マヌに継承された古代叡智はその後、7聖仙と呼ばれた7民族に受け継がれ、特に古代インドで、古代アトランティス時代までに霊能力が高められたという。その名残がヴェーダで、ヴェーダンダ哲学だと、シュタイナーは述べている。ヴェーダ - Wikipediaヴェーダーンタ学派 - Wikipediaそして、古代インド民族を指導した民族霊は、時代霊までに昇格し、古代インド文化期を興したという。それは再び古代アトランティス時代の古代叡智の霊能力を獲得する文化であり、その修行法である。だからいまでもインド人は、言語は民族霊から与えられるものなので、サンスクリッド語が神の言葉に近いなどで、言語能力に優れているわけなんである。そして、古代アトランティス時代の文化が主に呼吸のエーテルの気の文化だったので、エーテルの創造まで、形態霊の創造域まで、言葉を駆使できたので、逆に、物質は幻で、無関心だったために、物質文明は不得手で未発達だったが、昨今のITなどの電子言語は、そのエーテルの光の特質から、得意なわけである。現代でも、世界人口で、インドと中国が約14億人と他よりも突出しているのは、古代アトランティス時代の文化の恩恵といえるだろう。同じ古代アトランティス文化でも、インドと中国が異なるのは、中国がルシファーに浸透され、モンゴルの火星の特徴から対抗し、閉鎖的になり、逆に、インドには7聖仙の指導が行き届き、解放的になった違いが根底にあると思われ、特に古代インドの民族霊が時代霊に昇格し、人類の進化を指導したのが大きいと、シュタイナーは述べている。ちなみに、日本の人口が減っているのは、それだけ、霊性に乏しく、物質化しすぎたため、霊魂が活力を失っているわけで、消滅する時代遅れの民族といえるかもしれない。というのも、貨幣経済の奴隷となっているからである。カスハラなど我儘なエゴ人間が増えているし、無能な政治家を見れば明らかで、日本は無能な政治家により滅んでいくだろう。【2024年最新】世界人口ランキング(国連) | 世界人口は81億人を超える一方、日本人口は約70万人減少する見込み|セカイハブ (sekai-hub.com)そして、我々のポストアトランティス時代の、古代インドの霊性は、その後、古代ペルシャに引き継がれ、ゾロアスターの拝火教などに継承されていくが、古代エジプトで興隆を迎え、古代ギリシアと次第に黄昏へと霊性を失っていき、古代ローマになってついに、神々との対話が完全に失われ、地上に私法となるローマ帝国が築かれるに至り、カリユガの闇の時代を迎えることになるわけである。大まかな流れは以下を参照にしてくだされ。【シュタイナー】地球紀の進化過程について~現在はポスト・アトランティス時代~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)そして、暗黒が極まった古代ローマの時代に、キリスト太陽霊がイエスに受肉し降臨したのは、まさに神の恩寵といえるだろう。そして、第6文化期にまた、キリストの蘇りが現実にみれる、霊能力の獲得が準備されていくのが預言されている。シュタイナーは前世を記憶する子どもたちが生まれてくると述べている。キリストの神の恩寵を感じ取れる子どもたちなのである。神の恩寵に応えるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ もし、高次の存在たちと、低次の存在たちを、太陽と、太陽を中心に集まる惑星として象徴化するなら、これまで霊視してきた関係の意味が明確になる。低次の惑星存在たちが、その犠牲を高次の太陽に捧げたいと仮定する。しかし、太陽はその犠牲を差し戻し、犠牲は、捧げた存在たちに留まる。 犠牲を拒絶された存在たちは、その孤独と隔離のなかで「憧れ」にみたされる。そして、運動霊が、それら低次の存在たちを、高次の存在たちの周りを巡る周回へともたらす。犠牲を保持する低次の存在たちにとって、高次の存在たちに、犠牲を捧げる代わりに、その周りを巡る運動にかわり、犠牲が、高次の存在たちとの周回の関係に代わった。 それは、深い「憧れ(欲望)」が、一気に叶うようなものではなく、一連の段階的な経験によって部分的な満足で慰められるような関係である。そのような一連の部分的な満足によって、人間の魂のなかに、運動がもたらされる。以前、この事を割と正確に記述した。 そのときは、高次の存在たちと内的に結ばれていると感じられない存在には、外から来る印象が代替物として生じるのを見た。これらの代替物は、低次の存在の、部分的な満足を示している。 しかし、捧げられた犠牲が、高次の存在たちに受け取られた場合は、低次の存在たちに留まった場合とは異なる形態を取ったのは否定できない。というのも、その異なる形態となるべく必要条件は高次の存在たちに委ねられるからである。また、ここでも、この事をイメージで想像できる。 もし、ある惑星の犠牲が「太陽」に流れ込んでいたなら、そして、「太陽」が、それを拒絶しなければ、この惑星存在たちは、「太陽」存在として、犠牲が差し戻された場合とは異なる存在条件に到達していたはずである。だから、犠牲の内容と呼べる「疎外」(太陽という起源からの疎外)は、犠牲の拒絶から生じた。 次のような心境についてよく考えてみる。 喜んで捧げようとし、その目的を達成し、捧げものとして差し出したときに感じるものを、自身のなかに保持せざるを得ない。もし、そのような存在たちの経験を甦らせたなら、 「宇宙の存在たちの、ある一部が、自らのもつ本性により、偉大な宇宙の進化目的から排除された出来事」 と呼べるプロセスを経験するはずである。 もし、この経験を、イメージで思い描くなら、それらの存在たちは、実際には別の場所で目的を果たせた犠牲を、自身のなかに保持せざるを得なかった。その結果、拒絶された犠牲が煙となって排除され、その犠牲は、宇宙の進化過程からも疎外された。 もし、いま表現しているイメージを、知性ではなく(知性では、解き明かせない)、感情で把握するなら、宇宙の普遍的なプロセスから引き離されるのが、どういうことなのか、を経験できるだろう。 犠牲を拒絶した存在たちにとっては、その犠牲を遠ざけただけに過ぎない。けれども別の存在たち、自身に犠牲が留まる存在たちにとっては、それは起源からの疎外という刻印を担う。そのとき、そこにいるのは、自我の起源から疎外されたのを示す存在たちである。 もし、この出来事を詳細に理解するなら、もし、自我の起源からの疎外という出来事に潜む感情について、詳細に霊魂から解き明かすなら、それは死に対する感情である、のがわかる。宇宙における死とは、犠牲が拒絶された為に、自身のなかに保持せざるを得なかった、低次の存在たちのなかで生じた感情に他ならない。 このように、地球の進化の、第3段階で霊視した「諦め」と「拒絶」から、高次の存在たちにより拒絶されたもの、すなわち死の概念へと到達した。そして、死の真の意味とは、本来の場所にない、本来の場所から疎外された状態に他ならない。
2024年05月23日
コメント(0)
現代の物質科学での観測によれば、我々地球人の知識から、およそ138億年前に宇宙がはじまったとされているが、その物質科学では、人類が我々地球人だけだと考えるのは、138億年をいかにも無駄にしているような話ではないだろうか? 138億年の間に生み出した知性で、現在では人類同士で戦争をしているような無様な様子に、そのような愚かな知性に、宇宙の進化が委ねられていると思うのはあまりにも自己都合的な知性で、全く馬鹿げているようにみえるからである。つまり、地球人の現代の知性は少なくとも破壊的で創造的ではないのがわかる。138億年もかけた知性だとはとても思えないわけなんである。宇宙の年表 - Wikipedia138億年もかけた知性で、このまま人類が滅亡してしまったら、人類の知性のその責任は、とても知性とはいえない恥性を証明するようなもんである。地球上での人類が最も進化し、発達していると考える、その恥性は、138億年もかけて育んできた宇宙に対して、あまりにも失礼で、侮辱しているようにもみえる、裏切り行為で、いまも地上の土地を巡り、核兵器で恫喝して戦争を続け、金持ちが贅沢をやめずに、同じ人類の貧困問題を真剣に解決しようと思わずに、金銭的な富を独占集約化し、半ば奴隷化して、格差社会を増やし、一向に差別や貧困がなくならない社会現状をみれば、その宇宙に対する裏切り行為は、既に現状から明らかなのではないだろうか?つまり、人類の現状の知性を改める必要を考えるべき段階にある、といえるかもしれない。シュタイナーによると、いまの地球人となっている人類をつくり、人類の進化を指導してきた主な神々が、エクスシアイと呼ばれる形態霊たちであり、いわば地球の物質界を形作り、形態の存在として表現しているので、形態霊と呼ばれるという。地球人に善玉と悪玉がいるのと同じで、天使たちにも、宇宙の進化から逸脱するのもいるのは、前回紹介したが、善玉と悪玉が時には戦い時には共同し、切磋琢磨して、進化してきた宇宙の歴史が138億年と、いわれているわけでもある。その人類史を含む宇宙進化史の、つまり知性進化史を、シュタイナーの人智学的宇宙進化学として紹介しているわけで、我々の地球紀が、その集大成でもあるが、同時にその底辺ともいえるわけなんである。最底辺の知性から上をみれば、見上げる空は輝く星ばかりでしかない。我々地球人はなぜ地上で敵と味方に分かれて戦うのだろうか?その理由を考えるべきだろう。人智学によれば、天使の位階は、宇宙の進化に寄与し貢献してきた業績や能力に応じているようで、形態霊は、地球人の4つ上の位階に属し、宇宙のカルマによりバランスした知性が進化しているので、いまの人類よりも、遥かに進化したバランスのとれた叡智を身に着けているわけで、正統に進化し、カルマのバランスがとれた形態霊は、当初、地球人を皆同じに、つまりカルマのバランスのとれた差別のない形に、つまり人種のない形につくろうとしていたという。人種ができると恐らく、その違いでヘゲモニーから戦争してしまうのが、神々のバランスした知性から明らかだったからだろう。現にヘゲモニーで戦争しているしね。つまり、神々の叡智の進化段階に比べれば、比較するのもおこがましいが、我々地球人の現在の叡智はまだまだ未完成で未熟なわけで、そのために人種があり、それに付随して、物欲や名誉欲や承認欲などの虚栄心や目立とう精神などが、汚れたゴミのように、心にこびり付いて、障害物のように、バランスを偏らせて、進化を邪魔しているわけで、それこそが、心の中に巣食う悪魔となっているわけなんである。だから、地球人である人間は、自らで判断する前に、まず心の中に巣食う悪魔を取り除く必要があるわけで、つまりこれまでの知性を捨てて改めないといけないわけで、これがソクラテスが説いた無知の知なんである。この現代人の知性では、人種も民族も文化も一緒くたに曖昧に同じようにルッキズムの外見で唯物的に比較し考え、判断しているが、同じような服を着ているからといって、同じ精神の人間でないのと同じで、ポストアトランティス時代の人種はエチオピアのアフリカ人からはじまり、民族は、民族霊たちの指導からはじまり、文化は、民族霊が時代霊に昇格して、古代インド文化からはじまったと、前回紹介したように、物質界の唯物的な知識からは解き明かせないので、ソクラテスの無知の知を再度強調するわけなんである。無知のままで判断しても、錯誤が錯誤を生むだけにすぎない。錯誤が溜まり溜まって収拾がつかなくなりその混乱のなかで敵味方に分かれて戦わされるだけなんである。それに唯物的な知識には、悪玉たちの錯誤が混じっているので、その分、自惚れた知識になっているので、錯誤の混じった知識を使うのは益々錯誤に人類を導き、崩壊に向かわせるだけなんである。そのような自分のなかの悪の錯誤に気づかずに、権力者に成り上がろうとするのは、また別の悪魔を召喚して、地獄のゲヘナに堕ちていくだけなんである。悪魔の王国づくりに奴隷として加担し地獄におちるだけなんである。かつて、古代ローマの箴言では、冥界の王になるよりは、この世で乞食をやる方が遥かにマシといわれていた。冥界の王とは、悪魔に加担する悪の奴隷であり、乞食とは、心の貧しい、つまり欲望のない純粋で、純真な霊魂を意味し、それは穢れを知らない、処女マリアとして象徴化されている。キリストは、心の貧しきものは幸いで、天国はその人達のためにある、と述べている。処女マリアとは、けっして、物質界に受肉しない天国の霊魂のことで、お釈迦さんが、出家を説いた仏の解脱のことでもあり、神秘学では、受肉しない霊魂のことで、アバターと呼んでいる。つまり、両性具有の仏の霊魂の存在である。だから、性も人種も民族も文化ももたない普遍な純粋に霊の存在で、お釈迦さんの時代は、来るべきカリユガの時代に転生しないように仏教を説いたので、それは当時の古代インド思想の名残りでもあったが、当時の霊眼獲得法でもあり、後の東洋の神秘学の基本理念となったという。アヴァターラ - Wikipediaつまり、処女マリアの受胎と、仏のアバター=アヴァターは、神秘学では同じ意味に捉えられるが、西洋と東洋では、進化を指導してきた民族霊が違うので、表現が異なり、霊眼獲得法も、民族から、受肉し、生活した土地に依存して人種に分化してきたために、東西で、異なっているわけなんである。シュタイナーは、西洋人が東洋の霊眼獲得法の修行をしても、肉体が異なるので、無意味と言っているし、またその逆も、無意味と説いているが、東西で、否定し合うものではなく。とにかく、霊眼を獲得すると初めに出くわすのが、霊的な悪玉たちなので、注意すべきだと教訓を示唆しているだけで、それは禅でも、仏陀に出逢えば、仏陀を殺せ、と説いているのと同じである。だから、安易に霊眼をもつのはかえってリスクを冒すだけなんである。それは、未知の地に行って最初に出くわすのが必ずしも親切な人とも限らないわけで、怪しい詐欺師が紛れ込んでいるのは、物質界でも同じで、だからこそ物質界で学ぶ必要がある。物質界でも、ある程度、前もって調べて、知識がないと、騙されるわけで、霊界では猶更、悪に染まってしまうわけなんである。ましてや霊界では、人間の知性は遥かに劣っているから、郷に入っては郷に従わざるを得なくなり、地獄に入れば、鬼に従わざるを得なくなるわけなんである。つまり、自らの人種や民族や文化の欠点を知らずに、物質界でも偏ったままで、霊眼をもつのは、それだけダークサイドに堕ちやすくなるだけなんである。霊界の悪玉にとっては都合の良いカモになるだけである。勿論、天国から拒否されて、出禁にされ、また転生して、カルマでの禊を済まさないと、追放処分にされるわけで、地獄に住み着くしかなくなるわけなんである。少しでも悪魔の心をもっていると、重力により引き寄せられるわけなんである。悪魔と言ってもこの場合は、運動霊から形態霊に下降した天使たちだが。重力というのは物理学で分かっているのは表面的なもので、ニュートンの万有引力は、ニュートンが考えていた記述できる一面にしかすぎない。ニュートンは当時の神学者で、重力の本質が、座天使=意志霊の能力から生まれるのを恐らく知っていたと思われるからである。三位一体とは、天使たちの3つの力から生まれる世界のことである。だから、重力も、三位一体の力で、その記述形式を、形態霊と運動霊の働きから、万有引力として数式化したにすぎないが、ニュートン本人は、数式は一切使っていない。というのも、天使たちの能力は数式では表記できずに、幾何学で解き明かされると、古代ギリシア当時から信じられていたからである。アイザック・ニュートンのオカルト研究 - Wikipediaニュートンの運動論は、アリストテレスの霊視による運動霊の働きの焼き直しにみえる。だから、現代が考える時間論などは、ニュートンは考えていなかったし、現代人が、時間と捉えた記述を、デュレイションと呼び、運動が、安定に達するまでの「猶予期間」と考えていたようである。つまり、神の力が働いている間が時間なのである。慣性力とは神である運動霊の能力となる。ニュートンが近接力で有名なエーテルを否定するために遠隔力を仮定したのではなく、恐らく、当時の、エーテルの有無論に巻き込まれるのが煩わしかったのだろう。神の力を、当時は唯物論的なエーテルで考え、現代もエーテルを物質と考えて否定しているからである。ニュートンは近接力で有名な光の探求もしているし、光のプリズムによる分光実験は有名であり、恐らく、光のなかに、神々の7柱の働きを探求したのだろう。だからニュートン力学のガリレイ変換や絶対時間の考えは、恐らくニュートンにはなく、後に特殊相対論でアインシュタインが言及したローレンツ変換を支持していたように思われる。光そのものがエーテルであり、神々の叡智の働きだからである。ニュートンのデュレイションは、神々の力の関与期間なんで、アインシュタインが、それをローレンツ変換で、光速度に置き換えたのは、物質界では妥当な成り行きだからである。そしてまた、アインシュタインは、一般相対論で、慣性系による質量と時空の等価原理で、再び、ニュートンが想定していた三位一体の相互作用の、運動霊と意志霊とカルマによる曲線の幾何学を、形態霊の表現として、ユークリッドの原論を基にしたリーマン幾何学で記述したが、これはあまりに唯物的なので、カルマの物質的記述ではある程度意味があるが、非線形な生命現象に言及せずに、三位一体を線形の相互作用に解釈しただけで、宇宙の進化を解き明かすにはまだまだ未熟と言わざるを得ない代物であろう。さて、現代の物質科学的な解釈では、人類は約20万年前からはじまったとされているが、それは現代人のような物質的な肉体をもつ地球人が生まれたのが、約20万年前で、神智学では、宇宙の誕生と共に、現代とは全く異なる形で、既に存在し、アダムカドモンと呼ばれている。頭をもつヒト型となったのが、いまから約2万年前の、古代アトランティス時代で、男女に分かれたのが、それよりも約数百万年前の、古代レムリア時代で、それらは、虚空アカシャ年代記を読み解けばわかるという。地球46億年の歴史と生命進化のストーリー | JAMSTEC×Splatoon 2『Jamsteeec(ジャムステ〜ック)』ここで疑問に思うのは、進化をどうとらえるか?にある。虚空アカシャ年代記というのは、宇宙の叡智の、宇宙意識の、いわば進化計画として存在し、神智学では、それを宇宙の微粒子として、コスミックダストと呼んでいるが、この純粋性からつくられる霊魂が、その進化から逸脱し、地上に受肉するたびに穢れて、本来はカルマにより、物質性のネガティヴが解消されていくべきで、この本来のコスミックダストに、アクセスできるようになるはすが、逆に物質性に染まり、できなくなっていくと、神智学では、この事をネガティヴに取り込まれ、陥る、と呼んでいるが、ついには、独房に入れられたような孤独のゲヘナに埋没していく、自分で自分の生命を殺すような自縄自縛に陥るのを、現代の唯物化の知識では、進化と捉えている節がみられるわけなんである。これは現代人でも、心のなかで、常に、悪魔と聖霊が戦っている状態と同じである。孤独になると、外にむかっていた攻撃性が、内に向くために、悪魔の存在が明らかになってくるわけなんである。死後に孤独になると、この悪魔の存在が露わになるのが、同じ構図からわかるだろう。外にいたはずの攻撃性の対象である悪魔が、実は、自分の心の中に住み着いていたとわかるのは、脅威で恐怖でしかなく、もはや手遅れだからで、自分のなかの攻撃性そのものをなくさない限りは、何をしても無駄であり、無くそうとすれば益々増えるからである。地上での修行は、この攻撃性を、バランスの偏りをなくすためにあるといってもいいかもしれない。内の錯誤の悪魔に対しての、外の錯誤の悪魔のマッチポンプの連鎖を食い止めるために、その天秤に釣り合いとバランスを、それぞれの自我にもたらすために、我々地球人は、日々知性を改めるために、この地球の地上に、生きているわけなんである。知性で他を見下すための判断に使うのではなく、自分の判断を改めるために、知性を使わないと意味がない。知性を絶えず新しく循環させないと、新しい判断や観点や見識が生まれずに、進化とはいえない。少なくとも、唯物論からでは、外見からでは何も創造的なものはうまれない。ルッキズムを改めないと、進化とはいえない。内と外で戦っても意味はなく、地上の戦争とは、内と外との悪魔の戦いに人類を巻き込んでいるだけにすぎない。現代人のこれまでの現代的な価値観を改めないとなにもはじまらない。我々地球人は、悪魔の知性の奴隷となっているだけなんである。地上に王国を建設しようとも、それは悪魔の王国であって、天国につながるものではない。現に地上の王国には資源が必要で、金銭が必要だといいながら、浪費し、環境破壊を続けるだけなんである。この国の政治家の虚言癖をみればわかるだろう。いま現代に亡霊の如く残る悪魔の残像の知性から自らを解放するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、地球紀のここで、以上の土星紀から太陽紀の概念と、地球紀の直前の、月紀の概念との間に橋を架けてみたい。 土星紀から太陽紀に示したのは、喜んで犠牲を捧げようとする存在たちがいること、そして、ある存在たちが、捧げられた犠牲の受け取りを拒み、犠牲が捧げた存在たちに戻ることで、進化がもたらされるか、ということだった。そして、差し戻される犠牲のなかに、古「月」進化紀での重要な要素の1つを認めた。実際、ある存在たちが、より高次の存在たちに犠牲を捧げ、それが差し戻されたのが、古「月」進化紀での最も重要な側面の1つである。このように、月存在たちの犠牲の煙が、高次の存在たちに向かって立ち上るが、その存在たちは犠牲を受け取らず、そのため、その犠牲の煙は、犠牲を捧げようとした存在たちに戻された。「月」存在たちについて最も特徴的なのは、高次存在たちへと送り届けようとしたものが、犠牲の実質として、自身の中へと突き返される、のを感じた、という点であるのを見てきた。 確かに、これまで見てきたのは、高次の存在たちの一部になろうとしたが、なれなかった実質が、それを送り出した存在たちに戻され、そして、それにより、拒絶された犠牲を差し出した存在たちに、憧れが生じ、その理想に向かう能力への努力が生まれた。実際、魂の中で、憧れとして経験する全ては、古い「月」の上で生じた遺産(犠牲が拒絶された存在たちの遺産)が今なお存在している。古い「月」の進化期と、その精神的状況を精神的観点から理解するなら、それは、当時、犠牲を捧げようとしたが、高次存在たちが、受け取りを差し控えたために、受け入れられなかった存在たちがいた、という事実によって特徴づけられる。古い「月」の特徴的な状態の背後には、他に類を見ないような憂鬱な状況、つまり、拒絶された犠牲がある。そして、また、カインも犠牲が受け取られなかったが、その出来事は、地球紀の人類進化の出発点を指し示し、このカインの拒絶された犠牲は、カインの魂を捉えた、古い「月」進化の基本則の繰り返しとして現れる。古い「月」状態での存在たちのように、その拒絶とは、地球においては、「憧れ」から、悲しみや痛みを生じさせる。 以前、古い「月」上に運動霊が入ってきたことで、犠牲と、それが受け取られなかったことで、存在たちに生じた「憧れ」との間にバランス、もしくは矯正が生じた、のを見てきた。少なくとも、犠牲が拒絶された存在たちに生じた「憧れ」が、ある程度、満足させられる可能性が創出された。月紀でのその出来事を、現代の生命的な方法で、次のように想像してみる。 犠牲を捧げられる高次存在たちが、犠牲の実質を送り返す。犠牲行為を行おうとした存在たちに「憧れ」が生じ、次のように感じる。「もし、私が犠牲を捧げられたら、私の最良の能力が、高次存在たちと共に生きただろう。実際、私自身が高次存在たちのなかに生きていただろう。しかし、私は、高次存在たちによって拒絶された。そして、私はここに、そして、高次存在たちは向こうに立っている!」そして、この言葉通りに解釈すると、この言葉を発する存在たちには拒絶された犠牲から来る「憧れ」が、高次存在たちに向かって煌めいているが、いま、運動霊により、多くの異なった側面から、高次存在たちにアプローチできるような、自由な地点へともたらされる。そして、拒絶された犠牲を捧げた存在たちを取り巻く、高次存在たちから受け取る豊かな印象によって、拒絶された捧げものとして、これらの存在たちに、憧れとして留まる欲望に、均衡と補償がもたらされる。このように、犠牲を捧げようとした存在たちと、それを拒絶した高次の存在たちとの間に1つの関係が創り出される。そして、その新たな関係によって、捧げものが差し戻されたために満たされなかったものが、あたかも犠牲が受け取られたかのように、補償される。
2024年05月21日
コメント(0)
もはや世界的な人気といえるジブリ映画だが、ジブリの最新作の映画「君たちはどう生きるか」はまだみていないのだが、先日、宮崎駿氏のそのメイキングみたいなものをBSNHKでみた。賛否両論の評価のようだが、前回紹介したように、唯人間論が浸透している現代での、恐らくファンタジーへの認識が低いせいに思われ、それは恐らく、人智学についての評価も、同等に思えてくる。君たちはどう生きるか (映画) - Wikipedia死を身近に感じると、なぜだか、ファンタジーを感じ、現実なのか、夢なのか、の区別がなくなっていくはずである。宮崎駿氏の、「脳を壊すとか、溶かす」というような口癖が印象的だったが、その姿はまるで、シュタイナーが説いている、霊界参入の修行者のようにみえた。おそらく、覚醒意識では捉えられない、物質界の奥に隠れた世界の謎を、自分の人生から解き明かそう、としたのかもしれない。かつて古代人がもっていた霊能力を、現代人が獲得するには、自分の存在を物質界に現実化させている覚醒意識を、つまり脳をどう取り扱い、脳からどう脱出するか、にある。現代人は、脳科学などから、人間の自我が脳にあると思い込んでいるが、人智学では、自我は、血液にあるのがわかっている。自我が血液にあるからこそ、免疫を司り、硬い骨を基盤にしながら内部の骨髄から造血できるわけなんである。血液こそが、人体のホメオスタシスの中枢で、バランスの中心なんである。血判状が信頼の証だったのは、自我の集合化ともいえるかもしれない。個人の自我の、集団自我へのいわば先祖返りといえるからである。だから、古代人の血液は物質ではなく、霊的なものだった。だから青い血ともいわれた。青い血を貴族の白い肌に結び付けて静脈の色と唯物論で解釈しているのは間違いである。そもそも貴族が労働をしないから白いというのも偏見でしかない。それは貴族が白人種という嘘を述べているのと同じである。ホンモノの貴族に人種など関係がないからである。それなら、なぜキリストの血は青くなかったのだろうか?キリストの血は赤く、サンタクロースの赤として伝承されている。だから、青い血とは、現代の物質界からみえる色ではなく、物質界を超えた世界での色彩なのである。例えば、青い火の温度は、他の色よりも高いのが現代化学でもわかっている。つまり、最も熱い火の色なんである。なぜXEBECは青い炎なのか? | 株式会社ジーベックテクノロジー (xebec-tech.com)赤い血というのはヘモグロビンの鉄の酸性の色で、物質性を意味し、だから物質性のエゴの自我で、活動的な赤の物質的運動の、酸素消費の象徴といえる。対照的に、青い血は、静寂で、細やかな不動の感性の、バランスのとれた安定性を、つまり冷静さの象徴といえる。赤と青は、いわば自我の物質性と霊性を象徴していて面白い。赤はまた火星の色で、青は木星の色と、五行説ではあてられている。人智学では、人種の起源を、五惑星に求めている。水星は人種の起源とされるアフリカのエチオピア人で、金星はマレー人、火星はモンゴル人、木星はヨーロッパ人、土星はアメリカ先住民である。五行思想 - Wikipediaエチオピアでヒト属最古の化石発見! | Nature ダイジェスト | Nature Portfolio (natureasia.com)マレー人 - Wikipediaモンゴル人 - Wikipedia現代科学の、特に物理学では、唯物論から物理法則をつくっているが、残念ながら、この法則には生命のカルマの法則が記述できないので、生命体や人種の起源なども解き明かせない。タンパク質論や情報理論でDNAをいくら唯物的に解釈しようが、所詮、確率統計学の線形理論での経験則であるので、非線形現象を直接記述できずに、無駄な徒労で終わるしかないので、ただ論争を招き、現にヘゲモニーの還元論による支配論で、地球の資源や土地を巡って核兵器で戦争をしている始末なんである。【1分解説】ヘゲモニーとは? | 石附 賢実 | 第一生命経済研究所 (dlri.co.jp)これらの物質科学は、所詮、神秘学で預言された火星の科学といわざるをえない。それは物質のように互いにヘゲモニーを巡って対立し、闘い崩壊に向かうだけなんである。地球人はいまのこの低次の知性を乗り越える意志さえ持ち合わせていない。まるで低次の知性の奴隷と化している。ひたすら、この無神教の信者に成り下がっている。ジブリの新作から、いまの地球での人種問題の話になってしまったが、よくジブリの作品の中で何が好きか?という質問がバラエティ番組でなされるが、どれも面白いが、やはりジブリの原点は、「風の谷のナウシカ」にあるように思われる。いまシンウルトラマンとか、シンゴジラとか、シンライダーとか作られているが、シンナウシカがあってもいいのではないかと思った。風の谷のナウシカ - Wikipediaエヴァンゲリオンの監督がつくるという噂もあるが、是非、リメイクしてほしいものである。というのも、風の谷のナウシカこそ、我々地球人の使命を語っている映画のようにみえるからである。種を超えた愛の融合こそ、地球の課題であると、シュタイナーは説いている。戦いを止めることこそ、ヘゲモニーに終止符を打つ事こそ、人類の現状の進化の課題である。ナウシカは、愛の武人にみえる。武とは、破壊を止めるという字形からなる。戈は破壊で、止める字がついているわけなんである。これはバランスのとれた公正で公平な高次の愛を意味する。さて、いま巷には、いかにも如何わしく胡散臭い、意味不明な「世界を恐れさせた日本人」とか、日本賛美の広告が、詐欺迷惑メールと共に、滅多矢鱈と流れ、失言で有名な政治家の影を感じさせるが、バラエティのエンタメで取り上げるのならまだしも、性懲りもなく、皇国史観の民族主義者の老害たちが、かつてのソ連崩壊のロシアのように跋扈し始めると、流石に天邪鬼で、猜疑心が強い自分には、日本人を褒め殺しにする策略か、逆に、こんな広告に騙されるような、いまでも、そんなに世界にコンプレックスをもつ日本人がいるのか、と呆れ果ててしまうばかりで、これらの過剰宣伝に騙されないように注意すべきである。というのも、自分は、日本人離れの東南アジア系のルックスをしていたために、肌色も黒く、昭和当時の東南アジアへの差別感覚で、子どものときから揶揄われたりして、嫌というほど非日本人感を味わってきたので、表向きは日本らしさを忖度してきたが、内心は、日本らしさが大嫌いだったからである。子どものときは特に食卓の和食感が大嫌いだった。日本人らしさの押し付けのようにもみえた。海外で暮らすならまだしも、日本に暮らしながら、日本人らしいってどういう差別なんだと思う。家柄がどうとか、天皇に近いとか遠いとか、武家出身とか、百姓出とか、昭和の大人たちはよくそのような下世話な差別話や身分差別をしていたように記憶している。これらの差別感は昭和では、世間体とよばれていた。令和の現在では、このような昭和の差別感が薄まっているとはいえ、まだ、わずかに韓国や朝鮮、中国など東アジアに対して残っているのは否めない。この傾向は、自分を日本人だと自負し、それを当たり前に感じている人に多い差別感にみえる。その多くが海外経験不足からくるものかもしれない。どの人間社会にも差別はあるが、それを無くそうとする努力があるかどうかで、地球人の知性への意識や、人間社会の未来が問われるのは、地上のどこでも同じである。いまは令和の、和食といえば高級イメージが強く、コンビニの世界的認知で、おにぎりでさえも好評で、想像し難いが、昭和当時は和食といえば貧困さを連想するものでしかなかった。和食といっても、子どものときは、焼き魚に白飯味噌汁、たまに海苔くらいの貧弱なものだったから、いまの和食とは月とスッポンかもしれない。だからインスタントラーメンばかりを食べていた記憶があり、ハンバーグや寿司は贅沢で、魚肉ソーセージのマルシンハンバーグなどで食を満たし、マクドナルドが近くにできたときは憧れの洋食で、はじめてケンタッキーフライドチキンを食べたときの驚きは半端なく、映画スターウォーズをみたときの驚きと、双璧だった。昭和の子どもにとって、その驚きは、日本史で習う、1853(いやござんなり)の、幕末のペリーの黒船来襲と同じで、ダースベイダーがフライドチキンをもって、スターデストロイヤーで侵略してきたような衝撃といえるかもしれない。恐らく、日本への外圧が変革につながるのは、このような驚きにあるのかもしれない。幕末の黒船から、GHQのマッカーサー、そしてビートルズなどのロック侵攻が、この国の若者を、老害の皇国史観から解放していったのは、想像しやすいだろう。スター・デストロイヤー - Wikipedia現在の令和からみれば、昭和は明らかにブラック社会で、日本人という皇室と米国のダブルスタンダートの差別意識満載で、米国系の白人を賛美しながら、皇室に仕える日本人として、忖度し、同じ黄色人種の東南アジア人を見下していた差別感が残っていた。このような人種差別感は、何も昭和からの話ではなく、八切史観では、古来の唐の藤原氏から、被差別部落民への差別感を継承してきたようで、いまでも唯物化した金儲け主義の仏教の悪しきカースト制度となっている。選民主義は奴隷化問題と一体となっていて、いまでも上級国民と下級国民にわかれ、加藤という姓の由来が、下等からきているのを知る日本人はほとんど皆無である。貴族がつける仇名が姓の由来なんである。だから天皇には姓がないわけなんである。仏教カースト制度については、八切史観により、古くは大陸の唐から仏教輸入と共にもたらされたのがわかっているが、昭和の日本人に残っていた、その選民感覚を解き明かすと、貴族や薩長藩閥政治の為政者が日本人で、つまり万世一系を奉ずる民族主義支配層たちだけが選民で、他は卑賎民というような差別意識が、大東亜戦争という標榜のなかに隠され、そんな偽善の胡散臭さが、東南アジア人に見透かされ、当時の日本の支配層のなかにあるヘゲモニーの醜悪な覇権主義を際立たせるに至って、物質主義自体の崩壊へと埋没していったわけなんだろう。覇権 - Wikipediaだから、八切史観によれば、大東亜戦争は、仏教カースト制度の自滅と考えるとわかりやすいが、その選民思想は、現在の政治家や官僚の上級国民という言葉にも薄っすらとゾンビのように残っているのがわかる。現代の裏金問題が一向に解決できないのは、日本人のなかに、いまだこの上級国民意識が残っているせいである。原爆を2発も落とされて大量殺戮をされても自戒の念もなく、米国を批難できずに、「世界を恐れさせた日本人」などと亡霊を追っかける始末なんである。そのような偽善がみえるから、このような虚偽宣伝には注意し警告しているわけなんである。大体、特定の人種や民族や文化に偏るような、浅はかで愚かな知性をもつのは、地球人の特徴といえば、わかりやすいかもしれない。前回、人種や民族や文化の起源を、人智学から少しだけ紹介したが、人種があるのは、古代アトランティス時代の早熟故の失楽だからである。端的にいえば、バランスを欠いた知性を意味するので、それはヘゲモニーと呼ばれている。知性とはバランスが大切なのに、バランスを失うこと自体が知性の放棄で、それは主に唯物論に現れ、ソクラテスが説いた無知そのものなのである。ある人種が優れているという知性は、人類に対する背徳であり、バランスを崩す由縁となる。どの人種にも長所と短所があり、ヘゲモニーなどはあり得ない、唯物的観点なんである。これは人種だけでなく、民族や文化にもいえることで、どれも輪廻転生のカルマからすれば、平等で公正で、バランスを保つのに必要なだけである。陽のプラスだけあっても、偏るだけで、陽と陰が調和を保ち、バランスすることではじめて、満足な安定が得られるわけなんである。だから、いまは日本人に生まれているかもしれないが、前世は東南アジアのどこかの国で、その前の前世では、アフリカで、また更にその前は、ヨーロッパのどこかと、多種多様な人種に転生し、経験しているはずなので、現在だけが全てと思い込んでいるのは、浅はかな唯物的観点にすぎないわけなんである。この低次の知性を脱しないと、高次の知性には進めないわけで、このいわゆるバカの壁を自分で壊さないと、ベルリンの壁のように、同じ人種でさえも、東西にわかれて戦う馬鹿に陥るわけなんである。このような低次な知性からくる闘いを避けないと馬鹿をみるだけなんである。何より、知性の進化には果てがなく、地球人の上には遥かに高次な宇宙人たちが、現在の地球人を、地球に生み出し、つくってきたわけなんである。地球は、神秘学では、「贖いの星」と呼ばれ、また現代風にいうなら、刑務所といえるかもしれない。物質界とは、いわば、地球人の牢獄でもある。牢獄を監視し、監督しているのは、堕天使たちで、現在の地球人の知性の由来でもあるので、まずは、この知性を乗り越えないといけない。この知性の牢屋を乗り越えるのはほとんど不可能で、多種多様な人生を、輪廻転生で経験を積まないといけないわけで、それでも、最初に出逢う存在は、堕天使たちの勧誘だと、シュタイナーは説いている。堕天使の誘惑に容易く勧誘されないために、地球人は、霊能力を失ったわけで、再び霊能力を獲得すると、はじめに、これら悪魔の勧誘を受けるのは、仏教のゴーダマシッタルダが仏陀となる悟りの過程でも、はじめに悪魔に出くわしたのでわかる。だから、禅では、悟る前に、仏陀に遭えば仏陀を殺せと説いてもいる。また人間が死後にはじめに遭うのも堕天使たちの誘惑だと、シュタイナーは述べている。それは、物質界でも、似非宗教者や、民族主義者や、詐欺師の勧誘が頻繁なのと同じであり、下にあるのは、上にもあるといえる。我々地球人は、高次の善玉の宇宙人だけでなく、悪玉の宇宙人とのつきあいで、この地球に生まれ、死んでいくわけで、そして、善玉というよりも、むしろ悪玉によって、輪廻転生を経験させてもらっているといえるかもしれない。というのも、地球上に人種が多種多様になったのは、悪玉との失楽の、付き合いが長かったせいだからである。例えば、いま日本人でいられるのは、進化から逸脱した堕天使のお蔭で、いわば落第の恩恵を受けて、日本人になれたわけで、いずれは、恩返しして、日本人を超えていかなければならない。だからまた、日本人だからといって、日本の詫び寂び文化を理解できるわけではなく、我々地球人が現在のような姿や形で生きられるのは、高次の宇宙人たちのお蔭であるのを、認識できなければいけない。日本文化の詫び寂びとは、日本人を超えて、むしろ日本人らしさをなくし、故郷喪失者になれたときにはじめてわかる、霊感覚といえるかもしれない。日本人に囚われない、どの人種にもある調和のとれたバランスの美的感覚なんである。だから、日本人に拘るのは、偽善のニセモノの、いずれ物質文明のように消えていく崩壊の文化でしかない。それはむしろ日本人の美というよりも、日本人にない美で、コスモポリタンの美であるかもしれない。それは人種や民族や文化を超えたバランスのとれた愛の美なのである。我々の地球は、贖いの星と呼ばれ、それは、いまや戦いの星と化しているが、だからこそ、我々地球人の使命が、ここに明らかになる。それは戦いをやめさせて、愛による平和を確立する使命である。だから、地球人はありとあらゆる人種に転生し、民族とともに、多種多様な経験を積んで、多種多様な文化と関わらないと、それらのヘゲモニーを融合統合し、鎮め、愛のバランスを確保できないわけなんである。それはまず自分の人体からはじまり、自我による、物質体や、エーテル体、アストラル体の各々のヘゲモニーに対しての融合統合にある。いわば、地球で、高次の愛に目覚める修行をしているわけである。病気になるのは、人体のヘゲモニーに自我が負けているせいであり、だから、眠ると、自我は宇宙のバランスを回復し、その愛のバランスを人体にもたらし、病気が癒されるのである。だから、地球は贖いの星から、愛の星に変わらないといけないと、シュタイナーは人智学で説いているわけなんである。ジブリの映画には、どこか日本文化に残っている、詫び寂びを感じさせる。ナウシカの世界は、どこか、この地球の懐かしい世界を思い出させる。だから、いまみえる自然は、本当の自然ではなく、その奥に神々の世界の力からなる大自然が隠されているわけなんである。善玉だけでなく、悪玉の、人種と民族と文化を利用して、人類を闘争に巻き込み、敵対させるアーリマンの勢力がいるのを、次の動画は端的に紹介しているので、以下に掲載する。ルドルフ・シュタイナー「いがみ合いを超えて / アーリマンの誘惑」 - YouTubeナウシカの世界や、最近、映画になり話題の、ボブマーリ―のワンラブのレゲエ音楽のなかに、この戦争の絶えない物質界を平和に変える力が眠っているのに気づかされる。ボブ・マーリー - Wikipedia自らの愛の融合で、自然を溶かし、その奥にある大自然の詫び寂びの世界に旅立つアクエリアスのときの一躍を担うために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ところで、「驚き」の起源とは何か? 「驚き」、すなわち、「外への驚嘆」が魂に生じるのはなぜか? 「驚き」や「驚愕」が生じるのは、何らかの存在や事物、もしくは事実によって不思議な喜びを感じるからである。この不思議さが「驚き」や「驚異」に導く起源である。しかし、不思議さ全てに、「驚き」や「驚愕」を感じるわけではない。不思議さから「驚き」を体験するのは、同時に、その対象との関係を感じるときだけである。 この感情は次のように表現できるかもしれない。 「このモノ、もしくは存在は、まだ自分の一部にはなっていないが、将来、自分の一部になり得るかもしれない」。 このように、「驚き」や「驚愕」をもって何かを受け取るとき、それを不思議に感じ、同時に、自分に関係している、と感じる。 「(不思議に対する)驚き」、「(雷に打たれたような)驚愕」は、自分との何らかの関係を暗示させる。それは「驚き」という現象を通じて、知覚できない関係を付け加えるが、それは単なる思い込みかもしれないが、それでも、その思い込みの責任は自分にある。そして、その「不思議な」ものが、自分に関係すると感じないかぎり、拒絶や反感をもち、そのモノ、もしくは出来事にアプローチしない。 例えば、唯物論的な、もしくは現代の知的概念に基づいて行動する人たちは、このような驚きと認識される、不可視の存在を、嘘、もしくは不正の証拠もないのに、何故、否定するのか? 今日では、哲学者でさえ、目の前に広がる物質界の現象に基づいて、ナザレのイエスに受肉したキリストが、死から甦った事が証明不可能なのを認めざるを得ない。この証明不可に対する反論は可能だが、どのような反論であれ、論理的な整合性をもちえない。 今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既にそれを認めている。というのも、唯物主義の側から持ち出され得る反論、例えば、キリストが死から甦ったように、死から甦った人を今までに見た事がない、というような反論は、論理的に、魚しか見たことがない者は、鳥は存在しないと結論づけなければならない、という主張と同レベルにある。 ある存在に基づいて、別の存在がいない、という結論を導き出すのは、首尾一貫した論理的方法では不可能である。同様に、物質界のなかでの、人間の経験に基づいて、ゴルゴダの出来事について、それは「驚き」として記述できるが、何も導き出せない。 とはいえ、もし、誰かに「奇跡」として記述できる出来事を語り、その人物が「私には理解できない」と言ったとしても、この人物は、「驚き」が、ある不可視の関係をもたらすのに反対しているわけではない。というのも、その人物も、同じように真実を読み解く知識へと向かうときには、「驚き」から出発するからである。 その人物は、その表現が、自分のなかでコダマするのを求めている。ある意味、その人は、自分に伝えられる、その関係を、精神的、もしくは概念的に自分のものにしたいが、それが可能とは信じられず、自分に関係があるとも思えないために、その受け入れを拒否しているだけである。 現代人でも、自我から「驚き」の概念に到達できるが、驚きや驚愕が生じるには、古代ギリシャ哲学の観点から言えば、不思議なものに遭遇し、同時に、何らかの関係、かつてよく知った関係がある、と認識できなければならない。
2024年05月16日
コメント(2)
"We are not alone."は、映画「未知との遭遇」のキャッチコピーで、「宇宙にいるのは、われわれだけではない」、という邦訳がつけられているが、シュタイナーによれば、人間がいまのような人間でいられるのは、人間だけの力ではないのを、人智学の天使論で解き明かしている。We are not alone?! (granular.com)映画チラシサイト:未知との遭遇 (eiga-chirashi.jp)現代人は、人間の前に人間はなく、人間の後にも人間はないと思い込んでいるが、かつて人間だったのが、天使で、天使が人間だったときの天使が、大天使で、その進化の繰り返しで、現在の人間の上には、9柱の神々がいて、そのなかの7柱の神々の天使たちが、現代の地球上の人間の進化に関わっていると、人智学の天使論で解き明かしている。旧約聖書の天地創造では、デウス=デイを日として、7日でつくられた、と唯物論で誤解釈しているが、本来は7柱で、現在の人間の進化に関わる、神々が7柱で、つまり、意志霊、叡智霊、運動霊、形態霊、人格霊、民族霊、薄明霊の7位階を意味しているという。だから、人間についての天地創造とは、この7柱の天使たちと共に人間が生きているわけで、この7位階の神々に、人間は創造のエネルギーを与えられて生かされているわけなんである。天地創造 - Wikipediaデウス - Wikipediaしかも、宇宙では、最も上位の存在が、同時に、最も下位の存在になっていて、上下が逆転した入れ子の構造のように、以前、このブログでも紹介したが、上下がアベコベの、ウロボロスの、蛇が自分の尻尾を銜える4次元のような構造になっているので、人間にとっては最も身近に感じる下位の物質界が、最も上位の天使たちの能力に負っているわけで、人間にとっては、上下がサカサマにみえるわけで、これはまた、人智学で、アストラル界と呼ばれる心の世界も、物質界とは、サカサマの鏡像対称性でみえるわけなんで、迷路のように、非常に複雑で、混み入って、上を見れば、下から覗かれて、内から外へと遠くをみれば、外から内へと近くを覗かれるわけで、非常にヤヤコシイわけなんである。ウロボロス - Wikipedia鏡像 - Wikipediaだから、人間にとっては左右均等のような対称性をもつ運動などは、例えば、回転体などは、高度に円形や球形を保てば、その変化がみえないし、捉えどころがないから、違いがわからないわけなんである。例えば、円盤が回転しているのか、止まっているのかは、それを映す光が全く対称性を確保していたら、見分けがつかないわけで、それは、双子の見分けがつかないのと同じである。双子の場合は、名前を聞いたりして、性格や、ちょっとした仕草の違い、いわゆる非対称性、不均一性を見分ける視点をもたないとダメなわけで、外見や物質的区別が不可能な高度な対称性をもつ天使などの存在などは、覚醒意識から認識できないわけで、とても7つの位階の区別やら、更には7つの位階を超える天使たちの上位の位階の、愛の霊セラフィムと、調和霊ケルビムの存在を感じるのは不可能なんである。外見からでは、双子の区別も困難なのに、ましてや、人種や民族や文化の区別など、現代人の知性でできるわけがないだろう。それら差別化の要因となっている天使の区別がほとんど不可能だから、現代人のもつ、宇宙には人間しかいないと考える知性は、最も低次な、高次の知性の放棄とでもいえるような愚かな知性の成れの果てといえるかもしれない。そのような愚かな知性をほおっておくと、退廃して崩壊に向かうのが関の山である。その代表的人物が、プーチンやら、ネタニヤフやらの悪魔の支配下奴隷となっている獣の動物人間であろう。現代人の愚かさの特徴は、戦争をするような独裁者により明らかになっているが、それが過大な承認欲求からくるのは、現代がルシファーの唯物論に染まり、物質界に足場を築こうとするアーリマンの誘惑にハマり、物質科学が万能だと錯覚してしまう自我の未熟さにある、連中は核兵器さえあれば全てが解決すると思い込んでいるが、核兵器を使えば、自分が奈落の地獄に堕ちる事さえ理解できないおバカといえるだろう。4次元空間では、物質的に多くの死をもたらしたものは、精神的に多くの死を被る宿命を背負うことだからである。カルマの法則はバランスにより成立するからである。現代人は生命現象を物質的に解き明かし、唯物論から、細胞を最小単位にして、生命体を、その電気信号に置き換え、遺伝子情報理論から、唯脳論をつくり出し、更には人工知能のAIをつくりだして、唯人間論にまで進みつつあるが、人間だけで、宇宙や自然が成り立っているわけではないのは、人間同士の戦いが無意味なのが理解できない独裁者のような愚かな化け物を生み出している点で明白なんである。かつて、愚かな承認欲求塗れのヤンキーという名の独裁者がいたらしいが、その名は、いまではニューヨークヤンキースに残るだけである。唯脳論 - Wikipediaヤンキー - Wikipediaつまり、人間が唯一の知的生命体という、現代の唯人間論は、ソクラテスの無知を地で行っているので、ソクラテスが説いたように、現代人のその無知さを知り、神々との対話を取り戻すべきであろう。古代ギリシアの賢者が説いた神々との対話は、現代人風にいうなら、高次の宇宙人との対話となるかもしれない。人間の覚醒意識は、物質界を破壊し、分解することで、つくられるので、悪玉の宇宙人の知性によっているといえる。そして、その悪玉の宇宙人の代表がルシファーと、ルシファーよりも更に高次な悪玉の親分みたいなのが、アーリマンである人類の悪玉の代表の独裁者が、ルシファーやアーリマンに洗脳されているのは、唯人間論の奴隷になっていることからもわかり、連中が、物質界の土地に拘り、土地の収奪に承認欲求を求めるのは、悪魔の早熟性にあり、忍耐力のなさにあるのがわかる。人間の早熟性が土地を求め、土地に承認欲求を求めるのは、人間が予定されていた進化よりも早く、宇宙の進化から逸脱した形態霊により、つまり、ルシファーらにより自我が与えられたためで、それが聖書に書かれている、蛇に唆されて知恵の実を食べてしまった人間の失楽によるものと、シュタイナーは、人智学の天使論により解き明かしている。シュタイナーは、天使論において、自我の土地への執着により、人種が生じるのを解き明かしているが、人種と民族は全く異なる、と述べている。現代人が混同しがちなのが人種と民族と文化で、それは人類と天使との関わりの違いにあり、人間の早熟の傾向が、堕天使たちによっているせいだと、人智学から、説いている。人間の子どもの教育も、非行に染まりやすいのは、早熟の傾向にある、といえるかもしれない。だから、シュタイナーは早熟の俗にいう英才教育は、晩年に硬化症や痴呆症を発するようになると警告している。非行も、英才教育も、人間にとっては自由を学ぶ機会にはなるが、諸刃の剣で、そもそも人間は、正統な形態霊の命令で、20、21歳になってはじめて、自我を獲得し、物質界に受肉することが想定されていたというのである。しかし、人間は産まれながらにして、自分というのを物質界に何とかして打ち立てるように、早熟性をもって教育されるので、故郷や生まれ育った土地に執着するような、予めホームシックに罹るように育てられるわけで、つまり、熟す前の早期に出荷される農作物と同じで、長い目でみれば、未成熟な段階で、物質界に曝されるので、堕天使悪魔の洗脳や術中にハマりやすく、その奴隷や構成員になっているのに気づかずに、晩年になってもはや取り返しがつかなくなって、硬化症から、痴呆症になっていくわけなんである。一種の早熟性の麻薬患者と同じなわけである。このような早熟的な、唯人間論に染まっている現代人が、人種と民族と文化の違いを理解するのはほとんど不可能で、それはホームシックを現代医学が解明できないのと同じである。もし、人種がなくなれば、土地や故郷への執着もなくなり、ホームシックもなくなるだろう。ホームシックというのは、いわば自我の病気で、その早熟性に起因するからである。人間に、善悪の判断をもつ自由な自我を与えたのは、ルシファーら宇宙の進化から逸脱した堕天使たちで、そのために、個人的自我は、民族霊の命令がみえなくなく、独自の判断をもてるようになったからである。地上の物質界では、個人が民族霊の命令を無視して、民族の代表になり得るようになったわけである。ホームシックになる原因は? 対処法・治し方を知って乗り越えよう | マイナビニュース (mynavi.jp)だから、人種と民族の違いとは、簡単にいえば、ルッキズムと精神主義の違いといえるかもしれない。前回、故郷喪失者を紹介したが、その対極にいるのが、民族主義者で、そんな輩が、人種優越的な、選民観点を併せ持つと、忽ち、独裁者になりやすいのがわかる。民族には、民族霊による進化での役割が与えられているが、人間の自我の早熟性に起因した失楽の人種には進化の役割などはなく、人類の進化と共に、いずれ、人種は消えていく運命にあるからである。というのは、人種はあくまでも物質性に負っているからで、自我が物質性のエゴを失って、健全な霊我になっていくにつれて、人種などは消えて、民族も消えてしまい、全人類的な発想に変わっていくからである。人種はなくなり、勿論、民族も、その役割を果たせばなくなっていくもので、例えば、シュタイナーは、ユダヤ民族は、キリストの降臨を準備する役割を果たすのが使命だったと述べていて、現在のユダヤ人は、いわば故郷喪失者であり、霊視を獲得し、霊体で復活したキリストに従い、キリスト教徒として神々との対話から、人類の進化に寄与していくべきで、彷徨えるユダヤ人のようになっては、ゲヘナに堕ちていくだけなんである。精神主義 - Wikipediaそもそも、民族霊が見えない人間に民族を語れるわけがなく、民族を代表する人物なら、民族霊と対話して、命を受けないと、民族の使命を果たせないわけで、民族霊といっても、薄明霊の天使から、正統に進化して民族霊になったのか、時代霊でもある人格霊に進めずに降格して、民族霊に甘んじているのか、の違いが、霊能者でもなかなか見分けるのが困難らしく、とても唯人間論では見当もつかない、猫に小判の話なんである。人間だって、どの動物が優秀で、どの動物が劣等なのか見分けるのは困難で、ネズミなどのげっ歯類の動物実験に、優秀なマウスを選抜するわけでもなく、マウスを人間のような病気に遺伝子操作で故意に罹患させて、その人間の病気に対してのクスリの効果を委ねている現状なんである。つまり、その現状を言い換えるなら、唯人間論では、人間の病気とネズミの病気の些細な違いも区別できない証拠となるだろう。実験する前に、ネズミに人間のようなホームシックがあるのか、考えるべきだろう。シュタイナーは、人間と異なり、動物は、物質界に自我をもたないので、動物実験の結果は全く無意味でしかなく、肉体操作の上で有効となっても、カルマの法則で、次の転生へと、病苦が持ち越されるだけで、勿論、物質的な意味での病気、例えば、事故や外傷などの純粋に外的な病気なら、外科手術も意味があるだろうが、肉体以外の他の3つの人体、つまり、エーテル体、アストラル体、自我などに起因する病気の治療は、治療者のモラルに負う治癒力は意味をもつが、患者と治療者の関係によるのが大というような話を、人智学で語っている。ともかくも、人間と動物の違いは、個人的な自我を人間がもち、動物は、集合的な自我を、あの世に持っている点で、大きく異なるわけで、いずれ現在の人間が天使に進級できたときに、落第して、また動物から進化した次の人間と共に、物質界で暮らすかどうかは、現在の個人的な自我をもつ人間が、現在をどう生きるかによっているわけなんである。あくまで物質的に生きようとするのなら、進級を断念しないといけないわけで、早熟性が強いと、それだけ後の祭りになりやすいわけなんである。それが、晩年の硬化症や痴呆症、現在の認知症などに現れてくるわけなんである。人種の違いは、物質性への早熟性に負っているわけだが、その早熟は、晩年になって、崩壊をもたらすので、人種を乗り越える精神性を発揮させないと、自己を滅ぼす要因となる。つまり、人間は、地球に、遺伝性をもって生まれ、子どもは遺伝性により育まれるが、青年期になってからは、遺伝性による物質性を乗り越えるために、精神的に生きないと、晩年になって物質性の遺伝性により崩壊する。本来の、成人とは、物質的な早熟を乗り越えるための、精神性の自我の獲得を意味する、霊我の受胎なんである。キリストは、イエスの30歳の肉体に受胎し、降臨したが、シュタイナーによると、形態霊が、当初予定したのは、成人の肉体への、自我の受胎なんである。現在の人間は、ルシファーにより、生まれてまだ肉体が未完成なときから、既に、自我の萌芽を与えられ、遥かに早熟に偏っている。それはいわば、収穫を急ぐ農家により早めに種付けされて、ビニールハウスなどで早熟に成長させられた農作物と同じである。霊能力が未完成で未熟なまま、つまりモラルや道徳が確立されていないうちから、悪に曝される危険性を孕んでいる。だから、毒災者のようなのが、渡る世間は鬼ばかりのように、闊歩し、民族主義を標榜しながら、社会を崩壊させ、文化繁栄を説きながら、戦争し、地球環境を崩壊させるのである。形態霊が予定していたような進化計画ならば、貧富の差も、格差社会もなく、平和な世の中になっていただろう。しかし、人類は皆同じ種で、金太郎飴のように、クローン人間のように、似たモノ同士だっただろう。ルシファーにより早熟化した人類から人種が生まれ、人類は個人に分かれて闘争し、物質的に、多様な社会をつくった。しかし、次の進化段階に進むには、多様な社会を乗り越えて、分かち合える共生共存の平和の社会をつくらないと、人種や民族、文化を乗り越えて、互いの理解や和解へと、早熟を無くして、適度に熟練した人間にならないと、そして、再び、神々との対話を獲得しないと、古代アトランティス時代の崩壊の二の舞となるだろう。ポストアトランティス時代の崩壊を免れるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化論を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー真相から見た宇宙の進化Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen(GA132)第5講 地球紀における地球の内的側面ベルリン 1911年12月5日佐々木義之訳を意訳 -------------------------------------------------------------------------------- 今回の連続講義で探究してきた主題は、マーヤ、もしくは大いなる幻想と呼ばれる外界の背後に、天使たちの能力を指し示す霊視の成果だったが、今回は、改めて再考してみる。人間を取り巻く周囲の、自然環境の背後に、神霊たちが認識できる事実を、物質体=肉体を通じて与えられる感覚や、宇宙への知的な理解から、どうすれば獲得できるか? これまでの探求から、物質との直接の、外的な現象は度外視し、真実が発する霊的な特徴を掴む事で、霊を特徴づけた。そして、その特徴を、「喜んで犠牲を捧げる」、「徳を与える」、「諦め」、「拒絶」など、自我のなかに参入した際にわかる特徴から、見なした。 実際、霊の特徴は、自分の魂の気配からわかり、受け取れる。言い換えれば、もし、幻想の背後で、現実、かつ真実を体現する、霊の特徴を把握したければ、その真の本性のままで、捉えたいなら、次のような感覚に至る。 「この物質界は、霊の実在から成り、その現実のなかに、霊の生きる特徴や性質をリアルに感じる。しかし、それは、自分の魂を通じて知覚できる特徴とのみ共感できる。」 例えば、外界の、熱として顕現する霊を特徴づけたいなら、その霊を、物質界のなかに犠牲を捧げる、というような本性で特徴づけるなら、この熱の要素を、霊にまで辿ると共に、外界のヴェールを取り払い、外界の中の、この熱の特徴を、人間の霊魂のなかにある本性と同じ気配で示さなければならない。 霊的な観察を続ける前に、また別の考察が必要となる。それは、幻想として物質界は、本当に無のなかに消滅していくのか? である。感覚から、外界を認識するために、いわゆる真実、もしくは現実を反映する何かがないのか? 次のような比喩がわかりやすい。塊という水、もしくは大海のなかに、内側の流れが隠れているように、真実、もしくは現実の世界が隠れている。だから、マーヤの世界は、その水面の波と比較できる。それは、大海の底から、実際に湧き上がり、表面に、さざ波を生じさせる力、と同じである。 このような比較から、真実の「何か」とは、水のなかの波を起こす力の匙加減を示す。しかし、これはほんの比喩でしかなく、更に理解を進めるには、広大なマーヤの領域内に「真実」が全くないのか?と問わなければならない。 今回は、これまでの講義より、更に話を進めて行きたい。ここでもまた、前世からの魂の経験を基に、魂のなかに霊視できる存在に徐々にアプローチしていく。「土星」、「太陽」、「月」存在の進化を、精神的に辿った後、今回は「地球」存在へと辿り着いた。 だから、前回までと比べると、より親しみのある(より一般的とさえ言える)魂の経験から始められる。前回は、魂のなかの、隠れた深み、すなわち、人智学がアストラル体と呼べるなかを見てきた。そこでは、憧れが囁くのを感じると共に、人間に、憧れが作用するのを見てきた。 また、魂のなかの、この憧れが、イメージの世界による癒しに和らげられのも見てきた。そして、イメージの世界を、魂のなかの運動として理解できるようになった。そして、それによって、個々の魂の小宇宙から、運動霊を通じて、創造する大宇宙へと続く道を見い出した。 それは、よく知られた魂の経験、そして、それは、古代ギリシャ人によく知られていたと同時に、よく示唆されてきた経験で、今日でも、その真実性において究めて意味深いが、そのような経験からはじまる。この経験は、次のような言葉によって暗示される。 全ての哲学、人間が獲得可能な知性に向かう全ての努力は、「驚き」から生じる。実際、この言葉は的を得ている。多少なりとも、思考し、何らかを学ぼうとする際に、自分の魂のなかに生じるプロセスに注意を払えば、健全なる、認識への道の起源が、「驚き」もしくは「驚嘆」に端を発するのがわかるだろう。 「驚き」や「不思議」、全ての学びの動機は、ここからはじまるが、同時にまた、それらは、あらゆる単調で、空虚で、無味乾燥なものを高揚させ、それらに生命を吹き込む。というのも、我々人間の魂のなかに生じた知識で、「驚き」から生じなかった知識とはどういう種類なのか? それは空虚と学者趣味に浸かった知識に違いない。「驚き」から生じて、謎を解くなかで経験する無上の喜びに導く魂の成長プロセスだけが、そして、それは驚きを超えて上昇するが、つまり、「驚き」に始まる魂の成長プロセスだけが、学びを高貴にし、内側から活力ある、活気を満たす。実際、これら内的な充足感のない知識が、いかにも無味乾燥なのを感じ取れるようになるべきである。 真の健全な知識は、驚きと、謎を解く喜び、という魂の成長につながる。それ以外の知識は、外見から獲得され、多様な用途のなかに適用される。しかし、これら2つの感情に充たされない知識は、いかに真剣であれ、真に人間の魂から湧き上がっては来ない。知識のなかに生きる生命的な要素が醸し出す気配から生じる知識の「アロマ(芳香)」全ては、これら2つの「驚き」、そして「不可思議な謎」を解く喜びから生じる!
2024年05月14日
コメント(2)
人智学では、高次の宇宙人を、霊体として解き明かしていて、天使の位階で表現している。現代人は、カリユガの時代で、唯物論に染まったために、睡眠中の潜在意識で、天使たちと出会っているのだが、目覚めた後の覚醒意識では認識できないので、夢のような曖昧な感覚で、日常生活の身近な存在に置き換え、物質界で解釈した形で思い出すのがせいぜいである。古代人は、民族の同族婚によりまだ霊能力を遺伝的に継承していたので、潜在意識に、霊眼の、いわゆる心眼をもっていたので、睡眠中に、月光を通して、高次の宇宙人の天使たち、つまり神々がみれて、現代人が互いにコンタクトするのに、言葉を使うように、いまでいう幾何学で命令を受けていたという。だから、空海さんの説く真言宗の真言のマントラのような、現代人が使う言葉というよりも、幾何学の文字のようなもので、神々と交信したようである。だから、現代風に表現するなら、数学を用いて神々と交信していたことになる。マントラ - Wikipedia現代でも、母国語以外の、数か国の外国語を話せる人が、理解力や和解力に優れているように、多様な文字を習得できる能力は、いわば遺伝的な霊能力を受け継いでいるのかもしれない。このような能力の継承は、現代でも、例えば、サヴァン症候群などで、垣間見られる。また、現代の、インド人は数学に強い、という噂や、数字の無というゼロの発見も、古代インドに起因し、インド人に優秀なコンピューターのプログラマーが多く、IT大国となっている現状を遡ると、古代インドの、この継承された霊能力に辿り着く。シュタイナーは、古代インドのサンスクリット語こそが、現代の文明の原点で、現代のアーリア文化期が幻の文明と呼ばれるのは、このサンスクリット語の、本来の意味の、ソクラテスが説いた、神々との対話を失ったため、と述べている。サヴァン症候群 - Wikipedia数字の0(ゼロ)が発見される前はどんな世界だった?数字と仏教、不思議な繋がり | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! (intojapanwaraku.com)早い話、現代の過剰宣伝風にいうなら、サンスクリット語は、高次の宇宙人により、地球人に与えられた言語というわけなんである。つまり、我々の文化期が、アーリアと呼ばれるのも、サンスクリット語に起因した文化の興隆にあるからで、西洋の大航海時代が目指したのも、黄金の不老不死薬となる、サンスクリット語での神々との対話で、それを金銀財宝と勘違いした愚かなコロンブスは誤ってアメリカ大陸に辿り着き、アメリカ先住民をインディアンと呼んでしまったわけなんである。サンスクリット - Wikipedia大航海時代 - Wikipedia新大陸を「最初に発見した」のは「コロンブス」ではなかった(石田雅彦) - エキスパート - Yahoo!ニュースアメリカ大陸の発見 - Wikipedia古代中国や日本では、古代インドを、天竺と呼び、天竺に行くのは、現代では、お釈迦さんが広めた仏教の経典を持ち帰る旅と解釈されているが、本当の意味は、遺伝継承されてきたサンスクリッド語を習いに行き、再び神々との対話の、霊能力を獲得するためで、仏教の修行でもあり、当時の仏教が、お釈迦さんによる古代インド文化の再生で、これはユダヤ教に対するキリスト教と同じで、我々地球人の使命を、つまり人類の進化の担い手となるため、と考えられるわけなんである。天竺 - Wikipedia上のウイキの解説によると、西遊記で有名な三蔵法師の玄奘が、天竺を印度と書き換えたらしいが、恐らく、天竺とは、この物質界にはなく、サンスクリッド語での神々との対話を意味する、人智学でいうところの神界のデーヴァ界のことを指すからかもしれない。玄奘 - Wikipediaデーヴァ - Wikipedia古代インドのサンスクリッド語を話せる現代人は、カリユガの時代に転生し、前世を経験しているから、ほとんど皆無に思われる。日本語でも、昔の訛りや方言をそっくりそのまま話せる現代の日本人はほとんど皆無で、現代解釈に染まった古語を、学校で改めて習うしかないわけで、とてもネイティヴとはいえない。現代では、むしろ外国人のほうが、日本に詳しいくらいで、それは、ある意味、前世が日本人だった可能性もあるからだ。つまり、現代の日本に染まっていない外国人のほうが、カリユガを経た先入観や自負心が少ないので、むしろ、カルマの法則により、個人的な虚栄心や名誉欲がなく、日本人よりも、日本人らしいかもしれない。この、むしろ異邦人のほうが、民族の本質がピュアに受け取られるのを、お釈迦さんは、出家と呼び、神秘学では、故郷喪失者と呼んでいる。ただし、現代人が唯物論から説く知識人のことではない。故郷喪失者たち——新明正道の「研究の現場」とは – 立命館大学生存学研究所 (ritsumei-arsvi.org)故郷喪失者とは、例えば、連日、大谷選手がただ日本人だからという理由で、報道されるように、同じ民族の成功者という理由だけで、忖度し依怙贔屓するのは、故郷喪失者とはいえない。むしろ、大谷選手を、外国人として捉え、外国人の視点から、その役割を、人類の普遍性から、道徳的な意味を問う姿勢を、故郷喪失者というようである。簡単にいえば、大谷選手の活躍に一喜一憂しない態度である。大谷選手は、野球が仕事なので、野球で、故郷喪失者を説明するなら、ダイヤモンドのグラウンドが、いわば人生の物質界で、表現の場といえる。大谷選手は、ドジャースの一員なので、ドジャースが、いわば民族といえる。そして、ドジャースのロバーツ監督が、いわば現場監督の民族長で、その精神が、民族霊といえる。ロバーツ監督はただ大谷選手の活躍を見守り、助言するだけで、不調だと、時には出場機会を交代させる。民族長の指示や伝令を、選手に伝えるのがコーチたちで、それらは、人間でいえば、現役を引退した天使たちになる。つまり、人間の上には、現役を退いた天使たちがいて、その天使たちの上に、大天使の民族霊がいるわけなんである。そして、大天使の上には、時代霊と呼ばれる、運動を司る権天使がいて、人格霊とも呼ばれている神々がいる。だから、先の大谷選手の話で譬えるなら、時代をつくる権天使は、野球というスポーツで一時代をつくるMLBの会長になるかもしれない。そのなかで、故郷喪失者というのは、個人やチームの勝利に貢献するが、それに囚われない、野球全体のパフォーマンス、更には、人間社会のモラルに寄与する役割を自覚できる実践者ということになるかもしれない。いまは大谷選手を題材にして、野球で、高次の宇宙人たちとの関係を説明したが、故郷喪失者とは、簡単にいえば、野球もできるが、野球以外のスポーツもできるし、言語においては、多国語を操れるような、仏教でいえば、執着心のない、出家の修行者的立場に立てる人といえるかもしれない。根無し草というよりも、多様な雑草魂というべきかもしれない。だから、輪廻転生を何万回も繰り返し、ほぼ浄化に近い霊魂といえるかもしれない。自国や自民族に拘るのは、まだ故郷喪失者ではなく、故郷望郷者、待望者でしかない。そこには、故郷を捨てた代わりに、何らかの見返りを求める名誉欲や虚栄心への憧れが隠れているからである。古代人にとっては、人間の上に立つ、天使や大天使、権天使や、更には能天使、力天使、主天使と、知性が高次になるほど、人類の知性では意識できずに、捉えられなくなっていく、高次の宇宙人の、神々との対話が、自らの存在証明だったわけである。だから、古代インド人は、生まれながらの高次の知性を失った故郷喪失者で、ヨーガや、ヴァーダ哲学により、サンスクリッド語を駆使し、神々との対話による、故郷を天竺に求めたわけである。だから、お釈迦さんは出家して、来るべきカリユガの闇の時代に、サンスクリッド語が失われてしまうので、転生してはならない、生まれてはならない、と警告したわけである。しかし、キリストが降臨して、カリユガの闇の時代をのり超えれる、道徳の実践を説いたので、誰でも、個人のパフォーマンスにより、民族を超え、時代を超え、人格さえ超えて、神の子として、聖霊となれるのを、人間の死からの蘇りで示し、いまも救いの力を個人のなかに、個人の道徳的運動を促すポテンシャルとして送っているという。この道徳の実践をなす、物欲とバランスを保つ、自己の欲望を放棄させ、故郷喪失者の個人を救うポテンシャルを、パウロは、「私の自我のなかのキリスト(霊我)」と呼んだと、シュタイナーは説いている。現代風にいうなら、バランス回復力である。それを、もし、現代物理学風の、ニュートン流で解き明かすなら、道徳の力学的エネルギーが、個人の人生での、質点の運動エネルギーと、個人が持つポテンシャルエネルギーの和で、表現できるだろう。つまり、個人がもつ道徳実践エネルギー=(覚醒意識での、運動エネルギー)+(睡眠の潜在意識での、ポテンシャルエネルギー)で、そのラグランジアンは、光の最小作用の原理から、キリストの人生へのカルマの救済原理として、個人が救われるように、人生がつくられているのが、自我を霊我から観測できるようになっているのが、霊能力獲得から、わかるようになるだろう。最小作用の原理 - EMANの解析力学 (eman-physics.net)キリスト原理により、人類が救われるのを感知できるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(シュタイナーのクライスト論を続ける ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia 【戯曲】クライスト『ハイルブロンの少女ケートヒェン』あらすじと感想 : びょうびょうほえる~西村俊彦のblog (livedoor.jp)) そしてまた、ハイルブロンのケートヒェン(クライストの戯曲)に表現されている状況、ケートヒェンと、シュトラール伯爵との関係、その関係は覚醒意識で遂行されるが、それに気づかれることなく、潜在意識のなかを行き来する、魂の奥深い憧れから生起されるが、潜在意識のなかのこの低次の欲望はどのような役割を果たしているのか? 人智学徒が、この状況を霊視すれば、重力や引力といった物質界の力のなかにある霊性を感じ取れる。物質力のなかにある本性を霊視できる。例えば、ケートヒェンが、憧れの人の前に立つ場面で、潜在意識のなかに何が生きているのか、そして、それが、外界にある重力、つまり諸惑星との引力として唯物論で言及される力学と、どのような関係にあるのか、を霊視できる。一世紀前には、クライストのような霊感の持ち主の、苦闘する魂でさえ、この潜在意識の深いレベルまでには潜入できなかった。今日の人智学徒には、それが可能になっている。 悲劇「ホンブルクの公子フリードリヒ」(1810年に書かれたクライストの最後で偉大な作品)もまた、今日では、一世紀前とは違った形で感銘を与える。人間が成し得る全行為を理性に帰属させようとする現代の抽象的な思想家たちは、ホンブルクの公子のような人物、つまり彼の偉大な行為、最終的な勝利へと導いた行為さえも、潜在意識のなかの、一種の夢想状態で成し遂げた人物を、どのように説明するのか、知りたいものである。 実際、クライストは、公子が、覚醒意識から勝利を達成し得たのでも、高次の意識という意味ではとりわけ秀でた人物でもなかったのを、というのも、彼は後に、死に直面して、メソメソと泣いたからだが、はっきりと示している。公子が力を発揮できたのは、 彼の魂の奥深くに生きるものが途方もない意志の努力を引っ張り出してきたときだけだったのである。 人類にとって、「月」の意識からの遺産として残ったものは、抽象的な科学では取り扱えないものである。それは、多面的で繊細で微妙な概念、自由で緩やかな輪郭を持った精神的な感性でしか把握できない概念なので、つまり、人智学によってもたらされるような霊的な概念から導かれなければならない。最も偉大な諸概念は、中立的な性質をもち、普遍的な諸概念を、自ら互いに結びつける。 このように、今日の魂のなかで経験する状態や気配、つまり精神性は、宇宙の進化と、宇宙全体に結びつけられている、ということを、人智学が示すのがわかるだろう。また、魂のなかで経験できる内容だけが、外界の事物のなかにある、精神的な根拠についての概念を形成できる、ということも理解できるだろう。更に、我々の時代においては、 先立つ時代での憧れが、我々の時代になって、はじめて、その憧れに対しての満足を与えるのが可能になり、その満足を、当面は達成できるようになった、というのも理解できるようになる。 このように、過去の時代の人間たちに対して、つまり、心の奥底にある、憧れに到達できる、リアルな道を見い出せなかった人間たちに対して、当時の物質界は、精神的な憧れに、物質的な満足を与えることができなかったが、絶え間なく憧れを追求した、その精神的苦悩に、一種の賞賛が生じる。 全ての人生は、宇宙全体の進化のなかの、1つの総体である、ということ、そして、今日の人間は人類が既に遥か昔に必要としていたような、彼らの運命は、本当に、それを自伝として、我々に示すが、その憧れを通して、精神的な運動に、人生を捧げることができる、のを思いやるとき、確実に、そのような人物たちに対する、ある種の賞賛が生じて来る。 だから、人智学を人類の憧れに対する救済を担うもの、として指し示せるかもしれない。荒れ狂うと同時に、悲惨に満ちた人間たちが長い間探し求めてきたものを、人智学は今、与えられる、という事実を、思い出すのに適した今日という日は、というのも、これらの憧れに満ちた人物たちの一人が悲劇的な死を遂げてから一世紀も経つからだが、特に、尊敬を込めて、賞賛と共に、与えることができるかもしれない。このような考え、多分に人智学的な考えも、カルマを通して今日という日に、胸に抱けるのは、ドイツの最も偉大な詩人の一人が亡くなって百年経った、この記念の日においてかもしれない。
2024年05月09日
コメント(0)
現在では、唯物論のドルトンの原子仮説により、還元論の代名詞ともなっている素粒子論だが、古代ギリシア時代にまで遡ると、デモクリトスの原子論に辿り着く。現代物理の素粒子論の基盤となっているのが場の量子化の第2量子化の生成消滅演算子の根拠となっている量子力学だが、これまで述べてきたように、いまだに観測問題という唯物論を超えられずに、確率統計のような曖昧な数学を用いて記述している表現力では、非線形現象を線形化し、単純化し、物質に置き換えた、真相とは程遠い経験的な現象は後追いで記述できても、生命現象を予め見積もって、預言者の如く、予知するのは、シュレディンガーの猫からも不可能であるのは人智学から明白である。ジョン・ドルトン - Wikipediaデモクリトス - Wikipediaというのも、アインシュタインのいうように、神はサイコロを振り給わずで、カルマを書き給うからで、シュレディンガーの猫の生死は、猫と飼い主の物質界を超えたカルマの関係で決まるからである。端的にいえば、波動関数は、物質界だけで都合よく首尾よく、確率統計学で決まるのではなく、物質界を超えた全宇宙のカルマの法則から決まるからである。つまり、客観的な証拠は物質界だけにあるのではなく、物質界を超えた、虚空と呼ばれる、俗にエーテルやアストラルで書かれたアカシャ記録のカルマにある。人智学によれば、客観的な証拠は物質界というよりもむしろ物質界を超えたところにあり、物質界では、常に個人的な感覚が問題視されるが、客観的というのは、個人の感覚を超えたところにあるからである。脳科学者はどの脳も似たような機能をもち、電子回路のような違いでしかないと考えているが、そのような類似化は、物質界でしか通用しないのは、互いの議論を巡って、論争し、闘争し、戦争することから、少なくともわかるはずである。誰もが納得するような客観的な証拠があるのなら、互いの議論を巡って論争するわけがなく、それらが個人的感性に負っているせいなのは明白なんである。なんのことはなく、悪魔に騙され。唆されて、互いに闘わせられているにすぎない。ホンモノの客観的な証拠、つまり真実であるなら、そこには理解力と和解力が、そして、人類を次の進化へと導く愛が隠されているはずだからである。物事は我々地球人が考えるよりも遥かに複雑で、物理学者の思考実験なる単純化したモデルでは想定できない、宇宙の全生命体の意向が波動関数の一点に集約し、その重ね合わせとして現れているわけなんである。そして、波動関数は宇宙のカルマの進化と共に、常に新しく書き換えられている。例えば、ハイゼンベルグの不確定性関係からもわかるが、位置と運動量の交換関係は、どちらを選ぶかで、その後の関係が変わってしまうように、量子力学の物質化を超えた非線形現象は、常に線形化を受けて、同時に非線形化されてしまうわけなんである。この物質界での観測経験による線形化に対しての、それを超える非線形化こそが、カルマの法則というべきものだろう。つまり、ハイゼンベルグの不確定性関係は、観測者である猫の飼い主が、猫の生死のどちらかを選択し、観測することで、後に生まれ変わったときに、最初に優先しなかった状態(最初に死なら、次は生を、最初に生なら、次は死を)を観測する人生を経験するカルマの法則に置き換えられるのを意味するのである。この不確定性関係をカルマの法則に置き換えるのは、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスによく似ている。不確定性原理 - Wikipediaアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス - Wikipedia量子力学では、物質界での観測を前提にしているので、この問題を縮退と数学的に記述している。この問題は、例えば、人体外の電子と、人体内の電子の区別がミクロでは不可能なのを意味している。それはまた、方位磁石の針が北を向くのを、方位磁石の針に要因を求めるのと同じ間違いである。方位磁石は、地球が発する地磁気の方向を指しているだけにすぎないのはいうまでもない。縮退 - Wikipedia我々地球人は、磁石のNとS、つまり電気のプラスとマイナスがひき合うのを経験から知っているが、それがなぜなのかは理解していない。ただ、引き合う現象を、物質的に、プラスとマイナスに数学的に記述し、観測から評価しているにすぎない。例えば、男女がなぜ惹かれ合うのかを、男、もしくは女に追及していっても、わからなくなるのと同じで、人類全体から、人間の進化から解き明かさないと意味がない。男なるもの、女なるものは、物質界からではただテストステロン、アンドロゲンなどの男性ホルモン、もしくはエストロゲンやプロゲステロンなどの女性ホルモンの分泌がどうたらこうたらで説明し、多様な個人的な観測立場から、論争するだけなんである。プラスを選択するほど、次にはマイナスを選ばずを得なくなるのを考えないと、バランスを失うわけなんである。だから、シュタイナーは、特殊なカルマでの事情がない限りは、男に生まれた後は、次には女に生まれる、と語っている。物質界での線形的な観測論しか唯物論で言及しないから、特定の自分が観測した固有値に囚われ、それに固執し、物事を単純化しすぎて、その背後にある非線形化を考えないから、馬鹿で愚かな独裁者のような権力者が愚かな正義を振りかざし、悪魔に唆されているのに、その自覚がなく地獄に行くような戦争をはじめてしまうわけなんである。つまり、生と死や、物質の生成と消滅を理解し、自他共に和解するのは、物質現象の背後にある、カルマの法則を知らないと、ソクラテスが説いたように、無知なままの、馬鹿で愚かなままで、論争や闘争や戦争で人生を費やし、結局、死後に執り行われる最後の審判で、地獄に堕ちるだけなんである。プラスとマイナスのバランスをとる働き、つまり、バランスのバランスが、カルマの法則で、真相なんである。プラスとマイナスが惹かれ合うのは、その背後で、バランスをとる、カルマの法則があり、バランスにより、共生共存のモラルの法則を満たしているわけなんである。だから、現在の自分の立場を知り、その立場を乗り超えて、宇宙のバランス能力の、モラルを理解し、個人に囚われずに、他との和解が重要なんである。さて、デモクリトスの原子論にまで遡ると、デモクリトスが、ドルトンのような唯物論の原子説を説いたわけではないのが、人智学より明らかになる。古代ギリシア時代では、それでも、十分に唯物的だったので、プラトンのイデア論により、将来の民衆のカリユガ化を薄めるために、排斥されたようだが、アリストテレスの「運動は不変の安定に向かう」という慣性の運動論に影響を与えているようである。デモクリトスの原子論を、ウイキから以下に抜粋する。『「原子(アトム)」は不生・不滅・無性質・分割不可能な自然の最小単位であって、たえず運動し、その存在と運動の場所として「空虚(ケノン)」の存在が前提される。無限の空虚の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、すべての感覚でとらえられる対象や生滅の現象が生じる。また魂と火(熱)とを同一視し、原子は無数あるが、あらゆるものに浸透して他を動かす「球形のものが火であり、魂である」とした。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、「いかなることも偶然によって起こりえない」と述べた。』この文からもわかるが、「空虚」とは、現代の物理から解釈すれば、ディラックの海と考えられ、物質界で記述すれば、ハイゼンベルグのヒルベルト空間で、原子(アトム)とは、数学的にいえば、エルミート作用素の演算子になるだろう。ディラックの海 - Wikipediaヒルベルト空間 - Wikipediaエルミート作用素 - Wikipediaエルミート演算子を使うかどうかは観測者で、使えばそれに伴い、観測者と、観測対象との不確定性関係が、カルマの法則に書き換わるわけで、現世で観測できなかった他の、いわゆる仮想の量子状態は、カルマの法則により、観測者の知的な進化と共に、来世へと持ち越されるわけなんである。つまり、デモクリトスのアトム論は、仏教の色即是空と同じで、観測者が、「量子あれ」と念じて、エルミート演算子やらを、空虚のヒルベルト空間の場に、用いて共感すると、現世の経験が線形化し実数となって現れるが、同時に、選択されなかった非線形化した他の虚数の状態は、次回へと持ち越され、最後は、その経験が、観測者の死と共に、物質界から回収され、再度、今度は陰と陽の自他が逆になり、観測者と、観測対象が入れ替わり、強化されて、次の転生での経験として持ち越され、観測者の進化の課題となる、というような、カルマの法則を、空虚で表現しているようにみえる。科学の歩みところどころ (shinko-keirin.co.jp)アリストテレスの運動論の、運動は不変の安定へと向かう、というのを、カルマの法則で考えれば、プラスとマイナスが入れ替わったり、全体として統合され、全体のバランスへと向かう、バランスの調整で、つまり、全体のバランスが保たれた、つまり、無秩序から、秩序へとモラルに向かっていくのがわかる。アリストテレスの運動論でいうなら、局所的に不均衡なプラスか、マイナスの陰陽のどちらかに偏っている状態は、全体をみてみないとわからない。人間の感性は個人化されて、自己を中心にみているが、地球の中心にいるわけではなく、ましてや太陽系の中心でもなく、宇宙の中心でもないから、とりあえずは、自己の中心がバランスを崩さないように、人生を通して、地球の中心とバランスをとるのが、肝要になるといえる。つまり、自分が全体からどの位置にいるのか、どの速度で、安定に向かっているのか、人類の進化全体からどれだけ遅れているのか、を確認しないといけないわけだが、その確認は非常に困難で、ましてや量子力学の不確定性関係では、確率統計論に陥ってしまい、現在の自分すらもほとんど客観視できないでいるわけで、迷える子羊なんである。我々地球人は個人的自我をもったわけだが、その個人が、民族全体から、更には人類全体から、その中心からどれだけ離れ、運動しているのか、古代人なら、会社のなかの役割のように、例えば、民族霊から、お前の立場は、いまは民族の課長クラスで、使命感や責任はコレコレだと、霊能力で見通せたが、カリユガ化した現代人は、自分しかみえず、しかも肉体の物質しかみないから、いまいる位置すら、どういう速度で進んでいるのかも、中心すらもわからずに、だから、物質界で、肉体という物質に質量を与えて、地球の中心に魅了されながら、物欲を満たしながら、物質に洗脳されずに、とりあえず現時点のバランスを取りながら生きていくわけなんである。そして、地上の物質界から、地球の中心の重力に引き寄せられながら、物質的な質量で、偏りながら、バランスをとって、現代社会の物質的な変化に流されずに、自分の生活圏の安定を保障する通貨を稼いで、自己のバランスを取りながら、自己の中心をどうにか確保しているわけでもある。しかし、その自己の中心をみる物質的な感覚は、物質界での一面的な偏りをもった通貨などの人間関係のなかの信頼による仮想の見方なので、その偏った自己を基点にして、全体の中心にむかって、絶えず運動し、経験を糧にして、自己の中心を新しく求めながら、人生の川を流れ、立場を入れ替え、回転しながら、摩擦を少なくして、自己という固い石の角をとり、丸くなって、「転石苔むさず」の諺のように、輪廻転生を繰り返しながら、完全な丸い、摩擦のない回転の球体になっていくのが、人類が、物質界に転生し、経験しながら、宇宙のモラルのバランス感覚を獲得していくための、いわば進化のための運動といえるかもしれない。転石苔むさず - Wikipediaこのように、古代ギリシア時代の、デモクリトスの原子論や、アリストテレスの運動論は、物質の運動だけを想定し、語ったものではなく、宇宙の中心や、太陽系の中心、そして、人類進化全体の中心や、人生の中心となるべき、個人の中心を語ったものなのが、人智学のカルマ論により解き明かされる。例えば、素粒子論の粒子と反粒子の入れ替えで対称性が保存するか破れるかが議論され、CPTの対称性などと名付けられているが、宇宙が偏りをなくすように、つまり無秩序を秩序化するように、陰と陽を調節しながら、バランスし、運動しているカルマの背景を考えるべきだろう。CPT対称性 - Wikipedia人智学によれば、アリストテレスの運動論の究極は、バランスを保つ中心点をみつけるカルマ論にあると考えられる。ニュートンは、流率法により、中心からの偏りを、微妙な変化の文字を、оや・で示し、古代ギリシア時代の幾何学的手法から、微積分を確立したが、有名な著書プリンキピアでは、本人曰く流率法を用いずに、古代ギリシアの幾何学的手法でもあったカルマ論の対称性からニュートン流の慣性の法則を導入し、ケプラーの天体の運動を説いている。だから、ニュートン力学は唯物論により絶対時間だと誤解されている。ニュートンの記法 - Wikipedia絶対時間と絶対空間 - Wikipediaニュートンは、絶対時間や絶対空間を、つまり現代人が考える物質的運動の時間や空間と考えていたのではなく、カルマ論を説いていたと考えられる。以下にニュートンの考えをウイキから引用する。『ニュートンの言葉によれば、絶対時間はいかなる観察者とも無関係に存在し、宇宙のいかなる場所でも一定の早さで進んでいく。相対時間と異なり、絶対時間は知覚できるものではなく、数理的に理解するものだとニュートンは信じていた。ニュートンによれば、人間が知覚できるのは相対時間だけで、それは知覚可能な物体(月や太陽など)の運動を測定することと同義である。我々は物体が動くのを見て時間の経過を知るのである。』この文からもわかるように、ニュートンは物質界だけではなく、物質界を超えた宇宙の中心を考えているのがわかる。だから、「絶対時間」と日本語で訳しているが、デュレーション(英: duration)である。日本語に直訳すれば、「継続期間」となる。これは意訳すれば、時間というよりも、保証期間とか、修行期間とか、発展段階とか、プロセスと呼んだほうが意味がわかる。ニュートンがカルマ論を想定していたとすれば、カルマの代償期間、もしくは補完期間といったほうがわかりやすいかもしれない。デュレーションとは、アリストテレスの運動論からもわかるように、不変な安定の、完全なものになるための猶予期間といえるかもしれない。つまり、ニュートンは、物質界での物質の運動から観測できる時間なるものは、仮の相対的なもので、その運動体だけに意味をもつ、と言っているようにみえる。人間に当てはめるなら、死後に執り行われる最後の審判までの人生のことになるだろう。人生の生き方が、いかにモラルに則ったものか、太陽の中心のキリストの生き方に近いか、が、その人間のデュレーションなのであり、カルマなのである。中心から離れた偏りが、死後の最後の審判で裁かれ、それに応じて、地獄に堕ちて、反省し、次の転生で、その偏りを背負って生まれてくるわけなんである。だから絶対なのは、カルマであって、時間ではなく、ニュートンは物質界での時間を、物体の運動量から観測し、相対と述べているように、絶対時間や絶対空間ではなく、物質界を超えた話と考えるべきである。ちなみにアインシュタインの相対論は、このニュートンの相対時間を、光速度を基準にして焼き直したものと考えれば、人によって、時間感覚が異なるのが、わかりやすくなるかもしれない。光の見えない真っ暗闇では、時間感覚が偏っていくからである。つまり、人間は物質界での覚醒意識を基点とした時間感覚に依存しているわけなんである。我々地球人は覚醒意識を基点にして、物質界から、物理法則を記述したが、それらが通用するのは、あくまでも、物質界だけでしかないのを無知の知により知るべきなんである。この物理法則から物質界を幸福に生きようとしても、砂上の楼閣で、物質界の中心は、物質界にはなく、物質界を超えたカルマの法則の物質と霊の対称性にあるからである。我々地球人が、人類進化の中心点をみつけるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(シュタイナーは、クライストをカルマから読み解いた主題として話を進める。 ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia) クライストが手紙で表現した内容が、いま解き明かせるのは、まさに天の配剤といえ、これこそ現代へのカルマの恩寵とも言えるだろう。それは、これまで述べてきた宇宙の進化と連動し、つまり犠牲への意志が拒絶されたため、憧れに変わり、代わりに運動霊によって、その憧れが慰められ、最終的な満足へと向けられた努力が、「贖いの惑星」の地球上で達成される、のをよく表現している。 この行き場のない憧れを、気高い言葉で表現し、その切なる望みを悲劇的な行いに体現し、注ぎだした、この魂を髣髴とさせる葛藤の内容について、いま解き明かせるのは、前世のカルマの解消だった、という霊的な事実である。 この事実に気づくなら、この男の精神が、人類全体のなかの、真に魂の奥深くに生きている、個人的な憧れによる渇望を、地上的な存在を超えた領域へと連れ戻すような生の体現なのに気づくはずである。クライストの手紙が、意味深なのは、自分を超えた領域に、憧れの存在を探し求めるように、人間に強い、人間が経験できる高次の存在について、それは、もし、彼が未発達なままで生命の糸を断ち切らなかったら、発達した後にわかる存在についてである。正に「人間と人類への霊的導き(シュタイナーの講演録で、本になっている)」の最初のページの記述を、彼は経験しただろう。 例えば、フォン・クライストの「ペンテシリア」(アマゾンの女王ペンテシリアとアキレスの血みどろの戦いについて、ギリシャの伝承に基づいて書かれた凄惨な悲劇)について考えてみて欲しい。ペンテシリアのなかには、彼女の自我の、地上的な意識で推し量れる存在よりも、遙かに多くが存在している! もし、彼女の魂、勿論、偉大な魂だが、その地上的な覚醒意識で包含できるよりも遥かに無限の広がりを持つのを、仮定しなければ、彼女を理解するのは全く不可能である。だから、その潜在意識を芸術的な方法で読み解いた状況が、劇中のドラマのなかで生じなければならない。 こうして、一連の出来事(クライストがアキレスのために設定した出来事)が、高次の意識で審査される可能性を阻止しなければならない。もし阻止しなければ、その悲劇の重大さを現実のものとして経験できない。ペンテシリアは、アキレスによって囚われの身となるが、アキレスの方が彼女の囚人である、と思い込まされる。「彼女の」アキレス、という表現はそれを示している。覚醒意識で捉えられないものは、潜在意識のなかに霊視から投影しなければならない。
2024年05月08日
コメント(0)
人智学によれば、我々地球人は、いわば地球に旅行しにきているわけだが、現代人は、カリユガの時代が長かったためか、前世を忘れて、地球に満足できずに、最近は月に行きたいとか、火星に行きたいとか、地球での環境問題や貧困問題も解決できずに、この国の政治家の如く、国内問題を放置したままに、外遊を続けて、浪費放蕩生活を辞めないのには、現代人特有の獣性が感じられて、呆れ果ててしまうばかりである。地球の物質的な生活も、満足に暮らせないのに、他の天体の物質性に満足できるわけがない。国内生活が嫌だからといって海外生活に憧れるのと同じである。人智学から厳密にいえば、地球の物質的な生活は、肉体上での制御の問題で、いかに脳から覚醒意識を満足し得るかどうかで、つまり物質界で矛盾なく暮らせるかどうかで、精神を物質で満たし得るかにある。しかし、現状は国家をつくって物質的に平等な暮らしを確保するどころか、貧富の格差が拡がり、貧困問題から、国家間紛争に陥っているわけで、悪しき民族主義が、土地を巡っての利権問題に陥るモラルハザードから、しばしば制度政策不備に陥っているわけなんである。端的にいえば、霊の物質化が制度破綻をきたしているわけで、古代ギリシア時代の哲学が、中世のルネッサンスを経て、霊的な幾何学が、物質化された代数の数学となり、ついには、近代のカリユガ時代に、物質構造化の力の概念の物理となり、集合自我から、個人主義に目覚めたのは良かったが、神的な存在が、みえなくなってしまい、物欲の強欲さやエゴ、名誉欲や虚栄心がもたげてきて、二―チェの有名な「神は死んだ」の象徴的な言葉を連想させる、現代人のエゴ性を、古の民族主義として引きづる現代に至っているわけなんである。だから、先進国では少子化問題を解決すべく、こぞって多民族共存共生へと舵を切っているわけなんである。神は死んだ - Wikipedia人智学によれば、この「神は死んだ」というニーチェの発言は、カリユガにより、人間が古の古代叡智を失ったという意味で、神がみえなくなってしまったという意味でもあり、古代エジプト人のミイラをつくる働き、そして、キリストが降臨し、人間の肉体による死を知ったという意味をもつらしい。だから、人間は、民族霊という神から、その手足として個人で生まれたが、カリユガによって、ルシファーの低次の知性に染まっていくに従い、地に数学などのリベラルアーツを確立し、宇宙進化のモラルの十戒から逸脱していくが、キリストが降臨し、改めてモラルを説き、エゴからの個人的な救済にあたる、肉体からの脱却を、神の死と説いたわけで、来るべきアクエリアス時代での、キリストの再生の蘇りを想定したものなんである。仏陀もキリストも、死ぬ事はなく、いまも生きているのだが、肉体という死の感性からは、というのも、物質は分解され、解体されてはじめて、その内容が、構造がわかるわけで、精神的な満足を完全に満たすものではないからである。だから、地球という物質界に満足できずに、月や火星に行きたいというのは、正に金持ちが地獄に行く道理の裏返しでもある。死の感性が辿り着く果てが魂の墓場ゲヘナだからである。この物質界から飛び出したいという強欲さは、死の感性を持つ限りは、孫悟空がお釈迦様の掌中にある話と同じで、己の愚かさに無知さに気づかない馬鹿なんで、その馬鹿さ加減をみていると、カリユガ時代の宇宙論で有名な天文学者のカールセーガンが書いたコンタクトという映画を思い出す。コンタクト (映画) - Wikipediaこの映画を人智学で解き明かせば、ロケットなど宇宙船に乗らずとも、地球人は睡眠中に、月や火星に行っているのである。地球にいるのは、肉体という地球の乗り物に乗っていて、乗り物の地動説から宇宙を解釈しているせいなんである。量子力学や超弦理論が、奇想天外にみえるのは、物質界の線形観測から強引に解釈しているせいなんである。さて、巷はGWで、GWに浸りたい気分もあるが、この地球のどこかで戦争が行われ、低次の宇宙人である、悪魔が人類を戦場へと送り続け、支配を拡大し、いまも高笑いをしているのを見過ごすわけにもいかず、この国の指導者も、そのような低次の悪魔に洗脳され、獣化しているのに少しでも警笛を鳴らすために、高次の宇宙人とのコンタクトを続ける意味でも、人類同士に和解をもたらせる可能性がある人智学を紹介していく。GWに、日本人が海外へ、外国人が日本へと、短い期間だが、海外との文化交流で、この国の文化が海外から、いかに遅れているのか、を知るのにいい機会といえるかもしれない。この国の政治をみれば、いまだに個人主義がみえない、サル山のサルの獣のような派閥主義や党利党略が優先され、国民の生活は置き去りにされ、官僚主義のヒエラルキーが悪しき文化として残っている。それはかつてのロシアのノーメンクラトゥーラを髣髴とさせる。ノーメンクラトゥーラ - Wikipediaいまだにこの国は、古く悪しき形骸化した民族主義の集団主義を抜け出せないでいる。それがいま、若者と高齢者の間で社会的論争や闘争を巻き起こし、低レベルな政治が経済的に放置しているために、少子高齢化を招いているのが現状である。外遊はすれど何も学べない学ばない無能で馬鹿な政治家がやる事は虚栄に満ちた自己欺瞞の浪費による自己保身で、赤字国債を発行してはただただ増税でしかないのが笑止千万で益々社会的混乱を生み出している。悪しき古き文化にすがる老害が巷をゾンビのように跋扈している。対照的に、北欧ではジェンダーフリーが唱えられ、個人が性差別を乗り超えて、かつての両性具有の精神性への回帰に目覚めている新しい時代、つまりアクエリアスの水瓶座の到来の予感が既にあるにも関わらずにアジアの多くの国は、かつて仏陀が出家を説いたのにも関わらずに、いまだに民族主義から脱却できずに、民族主義をそのまま、まるで物質生産工場の歯車のような機械に構造化している。そこには人間はなく、悪魔に奴隷化された獣のゾンビのような、生き血を吸う吸血鬼のような資本家しかいない。そして、資本家が始めるのは権力を懐柔する土地利権の収奪である。ジェンダーフリー - Wikipedia強欲な資本家を生み出した背景は、カリユガの暗黒時代、つまり悪魔の洗礼ならぬ染霊を早くから経験してきたのが、西欧の植民地化政策で、ルシファーの分別知、いわゆる霊の物質化による産業革命、つまり、民族主義脱却のための個人の物質的な独立運動といえる。仏陀時代の出家が、物質的な強欲に置き換わり、悪魔化されたといえるかもしれない。仏陀の時代は、まだ古代叡智を読み解く霊能力があったので、仏陀は、来るべきカリユガの時代に染まってはいけないと、予めに出家と輪廻転生の教えを説いたわけだが、その仏陀の教えも物質化されてしまい、この国では銭儲けに明け暮れて、詫び寂びの本来の意味もなくしている。本来の詫び寂びとは、死者をみれる霊能力の事なので、物質文明に染まらない、霊を物質化しない力、もしくは物質化からの霊の解放能力を意味する。詫び寂びを知らずに、新興宗教のように、宗教を金儲けの集団主義の道具にしてしまっているのが、悪魔の洗脳によるトラップで、いわば詐欺宗教なんで、そのまま地獄へと集団旅行の地獄観光ならぬ観闇巡りへと堕ちていくだろう。統一妖怪などやインチキ教団が巷に溢れている。仏教だって高額な墓料を売りつけたりしてインチキなものばかりだ。これらは霊感商法と呼んでいるが、霊感がないから、地獄に堕ちるのがわからないからできるわけで、本当は不霊感、もしくは悪霊商法というべきだろう。そもそも、霊感とは人類全体の発展のためにある精神的な感覚なんで、つまり、いかに迷える子羊を救えるかの公正で、平等的なモラルの感覚なんで、自分だけ利益を上げ、得をしようというような不埒で強欲な感覚は、悪霊のものなんで、悪霊感というべきだろう。だから、カリユガの時代に多くの悪魔教が生まれたわけなんである。自分だけ解脱しようというのも同じである。カリユガの暗黒時代の、霊の物質化による土地の支配欲は、ルシファーからアーリマンへと、悪しき遅れた民族主義による精神的な欲望の文化が、物欲へと引き継がれていく文化の負の遺産ともいえるが、その負の遺産がいまだに戦争という形で残っているのが、現代のアーリア文化期の課題である。古い文化にも確かに良い面はあるが、良い面とは、悪しき面を新しく良い面に変えるものなんで、新しい文化のなかに、その根底に生きているはずである。それは日本人の手抜きのないモノづくりのなかに現れているはずである。それが、霊の物質化のなかに、霊を読み解く詫び寂びの感性である。詫び寂びの感性は、簡単にいえば、依怙贔屓やインチキをしない、モラルの道徳性の、虚栄や物欲、強欲を捨て去り、足るを知る精神の、心の働きである。詫び寂びのモラルの感性があったので、この国の文化は、新しいモノづくりや心のもてなしの精神へと霊化できたのかもしれない。詫び寂びの感覚は、睡眠中に目覚め、大自然のなかに、物質性を超えて、仏の霊の働きをみる、つまり季節感により育てられる。先日、現代人は味覚力を失いつつあるのを、巷のTVでみたが、本来の味覚は物質性に囚われない霊性で、大自然の営みをそのまま感じる感性である。TVの番組では、薄味の新鮮な食材を食べ、些細な感覚力を養うことで、味覚力を取り戻す方法を提案していた。特に塩分の微妙な匙加減が重要になるようである。和食は季節感を重視しているように、味覚から、大自然の働きを見通すように、食材を生かし調理するのだろう。和魂洋才と言われて久しいが、和食ブームといわれる現代の和食に季節感から詫び寂びの霊能力再獲得の輪廻転生を読み解ける能力があるのかは、和食調理師の心掛け次第といえるかもしれない。いずれにしろ、強欲さ、虚栄心、名誉欲を捨てるためには、足るを知る必要があるだろう。心を満たすには、物質性にはない、心のなかの問題を解決するしかないだろう。心のなかに安らぎがない限りは、外に何を求めようが無駄だからである。だから、心のなかの中心の足るを知る必要がある。「足るを知る」と、幸せになれる / 植西 聰【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア (kinokuniya.co.jp)和の本当の意味、民族主義を超えて、地球の季節感と一体となり、足るを知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 現代人は、外界から、表面的に、覚醒意識を満足させ、あらゆるものを認識するのを学ぶ。しかし、潜在意識から脈打って来るのは、外的な事情からは決して満足させられない、前世に起因するカルマによる人生の中心的な課題解決への切望である。 しかし、この中心的課題を、解決できるようになるには、人生に生じる物質的な事柄だけでなく、その全体に関与するカルマを読み解ける能力を手に入れたときだけである。今日、魂の奥深く生じた憧れは、本来は、高次の意識へともたらされるべきで、宇宙のなかに生きる神々や天使たちの存在と交われるように、寄与しなければならない。もし、 この霊的な存在との接触がなければ、その存在への憧れが、魂の奥底から、意識されずに生じてくるだろう。 この意味で、人智学は魂の奥底に生きる憧れへの1つの回答である。そして、世界中で生起している出来事の序章が、遥か昔にあったとして考えると、今日生きる人々が、魂の中にある憧れの力を、人智学によって和らげようとし、特に、そのような憧れが、覚醒意識を超え、脅威となるように、消耗させる場合に、人智学が語る内容が、心を和らげるのは、驚くべきことではない。 もし、憧れを脅威と感じるような人物が、人智学のような、精神的な叡智がなく、手に入れられなかった時代に生きていたなら、正に「偉大な精神」であるが故に、精神的な叡智に対する絶えざる憧れに悩まされ、人生の意味を把握する可能性から疎外されて来たはずである。 他方、今日では、かつての霊的な像(イメージ)への憧れを和らげ、それへの絶望を沈黙させ、憧れを退治するようなものが、その魂の中に滴り落ちる。以前には、 この一連の像(イメージ)の行進が止むのを待ち望み、像が益々大群となって居座るほど、益々更に待ち望むしかできなかった。 ハインリッヒ・フォン・クライストが友人に宛て、次のように書き送っているのを見ると、魂の憧れが、まるで香油のようになって、自らの欲望を注ぎ出し、人智学のようなカルマ学を、手に入れられなかった時代に生きていた人の言葉から、次のような内容が表現されているのがわかる。 「この地球上で幸せになりたいって? そんなことを言う奴がいたら、恥を知れ!とでも言いたい。全てが死で終わる場所で、なにかしかの目的に向かって努力するなんて、いかにも先が読めない、ご立派な人間のすることだ! 我々は出会い、三度の春を互いに愛し合い、そして、永久に互いから逃げ出す。愛がないのに、その努力にどんな価値があるというのか。ああ、何か愛以上の、幸せ以上の、名声以上の、xyz以上の、何か、我々の魂が夢想さえしないようなものはないのか! 世界の頂点にいるのは悪い精神ではあり得ない。それは何か不可解なものに過ぎない。我々だって、子供が泣いているとき、笑わないか? この無限の広がりについて少し考えてみたまえ! 無数の時間領域、それぞれが1つの生命、それぞれが、この世界のように、顕現した存在なのだ! ああ、静止した瞬間よ、教えてくれ、これは夢なのか? 我々が夜、仰向けになって見る二枚の菩提樹の葉の間には、その先見性において、我々の思考が捉え、言葉が表現できるよりもずっと豊かな見通しが広がっているではないか。よし、何か善い行いをしよう、そして、それをしながら死のう! 我々は既に無数の死の1つを死に、そして、未来にもまた死ななければならない。まるで、1つの部屋から別の部屋に行くようなものだ。ほら見てごらん、僕には世界が大も小もなく一緒くたに箱詰めにされているように見える。」 これらの言葉で表現された憧れは、この人物を促し、その友人に宛てた、この手紙を書かせた。けれども、このクライストの精神は、現代の魂が、精力的な理解力で、人智学にアプローチするような方法で、その憧れを充足する手段を見つけ得なかった。 というのも、この精神は、百年前に、まず友人のヘンリエッテ・ヴォーゲルを、次に自身を撃って、その生涯を閉じたが、いまは、彼の亡骸が葬られたヴァンシー河岸にある寂しい墓の下に眠っているからである。ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia
2024年05月03日
コメント(5)
巷の世間はGWで、ゲルマン民族の大移動ならぬ、円安なのに、日本人は海外旅行に行き、インバウンドで、海外から外国人が押し寄せ、この時期は、まるで日本ではないかのような、国際色豊かの観光地になっているようだが、観光地でもない住宅地では、かえって人や自動車の行き来が少なくなって、非常に静かで快適なので、家に居ながらして、どこかの旅館にでも、旅行しているかの気分に浸っている。民族移動時代 - Wikipediaせっかくの休息観に浸りたいのもあって、ブログ更新も休息しようかとも思い、これと言って紹介し、書きたい話もないのだが、TVでエジプトのピラミッドをまたやっていたのをみたので、人智学から、古代エジプト人と、現代人の死生観の比較でも改めて紹介したいように思う。古代エジプト人と現代人との違いは、霊魂に現れるという。霊魂を波動で考えると、現代人は昼の太陽光の覚醒意識に共鳴し、粗い波長をもつが、古代エジプト人は夜の月光の潜在意識に共鳴し、精妙な波長をもち、霊能力を同族婚で遺伝継承していたので、特にファラオには、現代人のような死の感覚はなく、死の概念もなかった。現代人のように個人的自我はなく、物質界を捉える覚醒意識もなかった。だから、輪廻転生を知っていたために、肉体は、他の霊魂と交流するための、アカウントのような窓口でしかなく、肉体を失っても、IDとパスワードで、再び開けるために、生前の肉体と関係する忘れ形見などを一緒に埋葬し保管したようである。現代でも交霊術で、霊媒の肉体を使って、いわばアカウントの窓口として霊魂と交流するのと同じだが、間違った霊魂や、悪霊などを降霊しがちなので、俗に黒魔術となっているので注意しないといけない。霊と交流するには、当人のモラルが問われるので、下心があれば、見透かされて、詐欺師のような悪霊がやっていくるのは、観光地でのスリなどの盗賊と同じである。霊能力があれば肉体は仮の姿であり、死も肉体を失うだけにすぎない。だから、古代エジプト人の墓とは、現代人が考える墓というよりも、生きた証の記念碑のような感覚に近い。だから、かつて、墓は、この地を生きた霊魂の遺産で、使い物にならない死体のミイラではなく、再び、その霊魂とアクセスするための、IDとパスワードのようなものといえる。空海さんが唱えた真言宗も同じで、空海さんは肉体を地に置いて、霊魂のままで成仏し、いまも生きているが、死体はミイラとして残っているが、そのIDとパスワードがわからずに、アクセス方法を知らないだけなんである。本来、ミイラという言葉も、霊魂の排出物という意味があり、肉体も霊魂の排出物で、その排出物に、名前をつけているから、霊魂の名前ではなく、肉体という乗り物の船の名前なので、名前に丸を付けて呼ぶようになったのかもしれない。だから、ミイラとは、霊魂のIDやパスワードといえるかもしれない。このIDとパスワードを知りアクセスする方法が、俗にイニシエーションと呼ばれる、宗教施設でのチャンネリングである。だから、古代エジプトのピラミッドをクフ王の墓だと思い込んでいる現代人の無知さには呆れ果てるばかりだが、それこそが、現代人の物質知に巣食っている悪魔の計略でもある。人間が動物実験をしているように、悪魔も人間を使って霊魂の実験をしているわけなんである。つまり、各宗教に教義があるのは、イニシエーションのための宗教施設でのチャンネリングに必要なもので、昔は、人間の意識が潜在意識に傾倒していたので、睡眠中に民族霊と対話できていたので、宗教施設が、チャンネリングの幽体離脱のためのいわば仮眠施設だったわけなんである。いまでいえば、差し詰めクラウドサーバーといえるかもしれない。古代エジプト人には、勿論、現代人のような個人的感覚はなく、民族霊の手足となる潜在意識からの命令を受けていたわけで、現代に譬えれば、動物のような種の感覚であり、巷の政界の如く、サル山のサルみたいなものだったわけなんである。だから、クラウドサーバーから命令が端末に通達されたというわけで、宗教施設に呼び出されて、お伺いにいくようなものである。この族長が族員を呼び出し命令する慣習は、現代の会社組織にも残っている。勿論、当時はイエスマンしかいないわけで、ノーという判断は覚醒意識がないので、ありえなかったし、個人的な判断や拒否もなく、ただ手足でしかなかった。このような古い習慣が、この国に残っているのは、この国が遅れた文化を引きづってる証でもある。つまり、ルシファーの虜になっているわけなんである。だから、民族霊から命令され、民族のために犠牲になって死ぬのは死ではなく、次の輪廻転生での生なので、そもそも個人的な死もないので、手足の手を失っただけで、民族霊に命令されれば、次の年代にまた手が生えてくるので、いわば現代のトカゲの尻尾と同じ感覚なんである。だから、古代人が地に生まれる理由は、民族の使命に負っていたわけなんである。古代エジプト人は、民衆にも、霊視力がある程度残っていたから、族長の命令に対して個人的なストレスを感じることもなく、抵抗力も皆無だったわけである。この国の会社員の過労死などは、個人的な自我にいまだに目覚めていない証拠で、先祖返りしているのかもしれない。というのも、この国の民族の祖を辿っていくと、ツァーリズムのツランに遡れるからである。シュタイナーは、各民族には、人類の精神的な、霊魂の進化のための課題が割り当てられていて、古代ユダヤ人には、地にキリストの自我の個人的な救済のために、一神教をもたらし、広める役割を担った、と述べている。だから、キリストが地に降臨した時点で、ユダヤ人の役目は終了したので、いまだにユダヤ人に拘るのは、彷徨えるユダヤ人のように、無間地獄のゲヘナへと月紀に落第したルシファーと共に地球紀から落第するわけで、そのような拘りが輪廻転生をして、民族を滅亡にもたらし、現に選民思想から、人種差別を生み出し、霊界での見えないものへの恐怖感の高まりとともに、論争、闘争、戦争をもたらしているわけである。ユダヤ人だけでなく、この国の大和民族も、いつまでもツランに拘っていて、個人的な自我に目覚めないと、滅亡していくだろう。つまり、キリストはユダヤ人の終わりを告げたユダヤ人の祖なんであるから、アルファでありオメガなんである。だから、どの民族も同じで、人類の進化のために役割が異なるだけなんであり、そのような民族も役割を遂行すれば、解体され、個人として解消していき、結局、常に後ろ向きで過去の栄光を忘れられない遅れた悪人になるか、新しく多様で自由な人類全体への奉仕の愛に目覚めていく善人へと進化し努力していくかの、ヨハネの預言のように、善人と悪人に分かれていくわけなんである。次の進化のステージに進めるかどうか、いまモラルをもって生きるかどうかで、モラルを実践していけば、必ず再び霊能力を獲得し、キリストや、仏陀や、空海さんが生きて、愛を送っているのがわかるわけなんでである。要するに、現代人の心の眼が曇っているだけなんである。人種や民族の壁を乗り越えて、ベルリンの東西の壁を壊すには、壁をつくっている物質知を無くすしかなく、それはいわば現代人の死生観の死そのものである。だから、現代人は、死を理解しなければ何もはじまらないわけで、死とは、自我の覚醒意識からはじまっているわけで、その元々は、民族霊から与えられた文化的な死生観なので、それを個人的な生を生きることで、輪廻転生のなかで、個人で解消していかなければならない。巷に溢れる老害たちを見れば一目瞭然だが、特に日本人の文化は遅れすぎているので、個人で自らの人生経験のなかからモラルを確立し、解消していかなければならない。天は自ら助くる者を助く。この国の腐敗度の凄まじさ、巷の裏金政治家が、いまだに解党できずに、個人的信条で政治を遂行できる能力に乏しいのでも、この民族の役割は遅れたルシファーに依存体質なのが明らかである。その証拠に、いまだに肩書のような外見やルッキズムに走ってコンプラを考えられない老害が多い。指導者が人類としても最も遅れた存在なのは国民生活や国家存亡に関わる大問題といえるだろう。ルッキズム - Wikipedia国民闘争や、国家紛争など、そのような悪魔の手段になりえるような思想をすみやかに手放すのが、次の人類進化に必須の課題解決なんである。人類全体の進化のために、宇宙全体の進化のために、地上の特定の領域に国があるわけで、国のために国があるわけではない。国は個人を生かす愛の精神的な発情の舞台でないと意味がない。国は人間の霊魂の芸術表現のキャンバスや舞台、音階でないと意味がない。少なくとも、人類の破壊的な表現の場ではなく、創造的な表現の場でないと、生きる意味がない。唯物的な地上的発想で、国を捉えているから、国家間紛争などを起こして地獄に堕ちていくわけで、人間の死すらも理解できない、高次の宇宙人が呆れて、見守るしかない、天変地異に身を委ねるしかない低次の宇宙人のまわりを忖度してウロウロ歩き回るゾンビになっているわけなんである。現代のような精神的に腐敗していく死生観は、シュタイナーによれば、カントーラプラスの宇宙進化論に負ってるという。この唯物論による地球という生命体の物質構造化から、覚醒時の地上生活を物質構造化し、その物質空間のなかで、数学などにより、自己の運動を位置づけ、数理学的な換算評価による時間感覚から、自己を物質構造化して、肉体を制御することで、物質空間に生きる事で、物質のなかに自己目的化した。カントラプラスの星雲説(カントラプラスのせいうんせつ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書それを物質科学的にいうなら、地球上の物質空間に生きるために、霊と物質の均衡の、対称性を、自発的に破り、自己目的化して、物質界を制御するために、自己存在という自我を物質化し質量を与えたのである。それは、物質科学での自発的対称性の破れと呼ばれ、物質構造化による自己組織化ともいえるかもしれない。自発的対称性の破れ - Wikipedia自己組織化 - Wikipedia古代エジプト人にとっては、民族霊の命令による輪廻転生での生から生への繰り返しの、霊魂の、いわば昆虫の変態か、蛇や海老の脱皮のような変態を、現代人は、新しい個人的自我の目覚めのために、民族の集合自我から、自由な個人の自我の経験の糧とするために、そこに物質的な障壁が必要だったのである。端的にいえば、現代人は、個人として生きるために、民族の死が必要だったのである。そのために、古代エジプトから、個人的なミイラづくりが始まったといえるかもしれない。来世への肉体や、霊魂を乗せる船の、つまりノアの箱舟を、個人的につくることで、民族の死を表現し、新しい個人の生を物質的に表現したのである。それまでは、民族霊の手足でしかなかった肉体を、地に埋葬する事で、民族霊が個人の霊に分割し、いわば分霊し、生まれ変わる蘇りを、物質界に求め、そのような死生観が、古代エジプトのオシリスとイシスの伝説として残っている。オシリスとイシスの伝説 - Wikipediaオシリス、つまり民族霊が死んで、個人の自我に分割され、そして、キリストの霊我により死から甦る、のを語った伝説で、古代エジプトの民族霊が、現代の、個人の自我に分かれる、のを意味するようにみえる。それは古代ギリシアの幾何学から、古代アラビアの代数学へと分かれていき、更には中世での唯物論により、天体運動に地動説から力学的構造学が付け加えられ、現代の代数幾何学へと数値数量化されることで、唯一の神性の数1から分かれ、更には、20世紀の量子論により確率統計の分配分布の観測論に辿りつくことで、物質構造による現代の死生観になっていくという、霊の生命源流について、ある意味、預言しているようにもみえる。古代エジプトの霊的な感覚からすれば、現代の唯物論による死生観の素となっている自我の覚醒意識は、例えば、物質界は、物質のバランスを保つように、つまり物質的エネルギーを保存させるように運動し、その物質的エネルギーとバランスを保つ霊的エネルギーこそが、霊我の潜在意識で、バランスのためのバランスであるのがわかる。この国の古く悪しき文化を捨て去り、物質科学の死から、霊的なエネルギーにより甦るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ では、この魂の奥底の憧れが、表面に現れて来ると、どうなるのか? この魂の潜在意識の営みを、宇宙的な出来事から理解すれば、魂の奥底から生じる憧れは、「月」の進化紀に生じたが、正に「地球」紀になってはじめて、魂のなかに浸透した変化(運動)により満たされ、バランスがもたされるのがわかる。そして、「月」の霊性と「地球」の霊性との相互作用を考えれば、古い「月」から「地球」状態へと、精神的にもたらされた変化(運動)の真の働きがわかるようになる。 重要なのは、今述べたように、停滞(退屈)、もしくは荒廃(退廃)を少しでも緩和するために、心のなかに、絶えず像が浮かび上がる必要があった、という点にある。そうすれば、非常に重要で意義深い概念に到達できる。つまり、渇望と空虚の苦しみのなかで憧れる魂は、次から次へと生じる一連の像によって充足し、この憧れを、なんらかの調和のなかに保つ、という概念に到達できる。 そして、憧れから、像が生じ、それがしばらく続いた後で、また別の憧れが、また別の像を生じさせる、という一連の流れ、つまり、古い憧れが、魂の奥底で起こり、運動霊が新しい像を呼び起こす流れが続くと、新しい像が再起し、結局はまた別の像への憧れが新しく生じてくる。このような魂の一連の流れについて、いま言うべき重要な点は、絶えず新しい像を求め、憧れが一時的に満足させられても、この際限なく続く流れに終わりがない、という事実にある。 この一連の過程に介入し、完結させる唯一の方法は、この際限なく続く像の流れに何かが加わり、それがもはや像以外の、すなわち、憧れを購え得る「現実」でないといけない。言い換えれば、「地球」が、現実の惑星となり、そこでは運動霊の活動によって導かれる像が、憧れを一時的に満足させるが、そのような繰り返しの流れのなかの「地球」という惑星が、「救済」と呼ばれる「現実」によって終結させられなければならない。 実際、これから解き明かしていくように、「地球」以前の「月」存在が「憧れの惑星」と呼ばれるように、そして、それは無限に続き、決して終わらない像の一連の経過を通して一時的に満たされる憧れだが、「地球」は、それを終結に導く「贖いの惑星」と呼べるのである。 地上的な覚醒意識で、人生を通して、人間が個人として生きるとき、既に霊視で解き明かしたように、ゴルゴダの秘儀による、キリストの贖いの行為が、個人的な自我の魂の上層に、憧れへの贖いの、バランスとして現れる。 魂の奥底から絶えず生じてくる憧れを、このキリスト意識は、贖いへともたらす。それはまるで、覚醒意識の波を、潜在意識の表面にもたらし、その下の、魂の海底から生じる憧れを取り込んで、堅固な岩盤として生きるように、現実の生の営みに贖える。 そして、この憧れを、まるで、完全に満足させてくれる宇宙的で、完全な存在がキリストの贖い行為で、それは無限に続く一連の像により一時的に慰められるだけでなく、最終的に完全な満足に到達させてくれる存在だが、いまもなお、宇宙全体から、供儀を遂行しようと飽くなき熱望し、自我を通じて、遍く愛を伝える事で、救済活動を永遠に完遂している。 現代人は地上に生きる人間として、これらの魂のなかの、贖いの気配を実際に良心として感じ取れる。そして、これらの良心の気配は、人間が経験できる最良の精神である。実際、地上に生きる人間のなかで、今日(1920年頃)、この憧れを感じる人たちが(特に、近代において)、人智学運動に参加するようになっている。
2024年05月01日
コメント(0)
我々地球人は、地球紀に経験を積むために、地球に生まれているわけで、だからして、地球紀のポストアトランティス時代のアーリア文化期、つまりカリユガの時代特有の唯物論から、唯物的な物欲塗れの自我を認識し、物質科学的思考を手に入れたわけだが、今度は、その思考を捨て去るために、地球に生きる経験から、物質的な自我を、霊我=マナスに浄化しなくてはならない。このカリユガの物質的な自我により、個人個人を比較できる物質的な覚醒意識を、量や質を吟味する数学などを用いて思考することで、地上での経験から獲得したわけだが、そして、それは現代のDNA生物学や脳科学やAIを生み出しているが、代わりに古代から継承されてきた霊能力を失ってしまった。だから、地球紀とは、物質的翻訳なしでは、自己を確立できない時代といえるかもしれない。この霊を物質化する働きが、ルシファーの善悪を判断する知識の実であり、それが社会問題化しているのが、様々な対立や紛争や戦争を生み出している選民思想という差別主義、民族主義で、古代から言われている、覇道の権力志向でもある。さながら、現代人は、自己を物質化し大きくみせるのに専心している、物質界の奴隷といえるかもしれない。物質が全てであるという唯物論は、現代に至って、脳が全てであり、神経細胞の電気信号に還元されるという、いわばルシファーの権威主義、権力志向が、形を変えて、確率統計論などの、アーリマンの物質科学に洗脳されている。そして、そこには、虚栄心や名誉欲という強欲な物欲への憧れが、つまり悪魔が微睡み、巣食っている。だから、戦争とは、悪魔、つまり悪い宇宙人によって人類同士が戦わせられている実態に気づくべきである。悪魔は、「お前は誰よりも価値があり、誰よりも尊重されるべき存在なのだ。だから、お前は戦ってそれを示す必要がある」と個人的自我に、物欲で訴えかける。そして、「お前こそが、地上の支配者なのだ」と、地球人同士を対立させ、戦場へと駆り立てる。その陰で、「人類などちょろいものだ。直接手を下す必要もなく、滅ぼせる」と悪魔の高笑いが聞こえる。物質科学主義に走るほど、悪魔の手下に加えられていく。確率統計など何の役にも立たない。人類を分割し、勝ち負けを演出し、対立を生み出すツールにすぎない。アインシュタインは、量子力学の確率論に対して、神はサイコロを振り給わずと反論したが、その反論は、彼が無神論者でない、つまり悪魔主義者でないのを証明している。大人のため数学カフェ 量子力学入門シリーズ 第1回 量子を求めて: 桜井進 "Journey for Infinity" (ssfactory.sblo.jp)さて、前回は、量子力学の観測問題を、シュレディンガーの猫を譬えにして、人智学の解釈を用いた仏教、特に真言宗から解き明かし、紹介したが、仏教から、量子力学の波動関数を考えると、観測者の観測能力の問題に帰着するのがわかる。多世界解釈から平行宇宙へと、仏教的解釈を用いると、物質科学で定義されている、いわゆる4次元時空と呼ばれる物質界を超えて、多次元宇宙の世界が想定できる。シュレディンガーの猫は、量子力学の、猫の生と死の確率の波動関数で表現されるが、それを観測する観測者の能力により、重ね合わせの状態がデコヒーレンスされ、一つの固有状態が選択される。量子デコヒーレンス - Wikipediaデコヒーレンスの際に、マクスウェルの悪魔のような知性を用いれば、エントロピーの減少も思いのままに、猫の生死を操ることも可能となるかもしれない。それはさながら量子力学の観測問題を黒魔術にする悪魔といえるかもしれない。マクスウェルの悪魔 - Wikipediaしかし、それはもはや人間の思考実験というよりも、人間のなかの悪魔の思考実験というべきものだろう。人類の思考のなかに、どれだけ悪魔の干渉が混じっているのか、どれだけ悪魔の波動に影響され、未来の選択を委ねてしまっているのか、いずれにしろ、シュレディンガーの猫の生死の波動関数は、人間の観測という知性に悪魔が干渉しているという、人間と悪魔の感性の波動関数に置き換えられる。ψ(生+死) ⇒ ψ(ヒト+悪魔)観測者の物欲が大きいほど、現世への執着心が多いほど、確率統計論になり、論争、闘争、戦争の未来に委ねやすくなり、例えば、権力者や独裁者の破壊的な現世の物質的思考となり、死を望むものとなるだろう。そして、ヒト足る善意の友愛をなくし、孤独となり、死を最大の恐怖と感じるようになるだろう。かつて古代ギリシア人には、死がなかった。古代エジプト人にも、死はなく、あるのは、来世への輪廻転生で、それは蛇の脱皮のような、生のための死であった。それを可能にしているのが、霊能力の超感覚で、死を乗り超える、死から生への神の観測能力である。だから、古代エジプトにも、古代ギリシアにも、質と量を記述する数学は必要なかった。数学の素となる幾何学が、霊能力のなかに神々の啓示としてあったからである。だから、プラトンがつくった学院の門に、幾何学せぬもの通るべからず、とわざわざ掲げたのは、師ソクラテスが説いた神々との対話の出来ぬものは、哲学をする資格がない、のと同じ意味をもつのがわかる。だから、古代ギリシア人には数学は必要なく、哲学さえあれば、神々と対話することで、未来が一律に定まったからである。ソクラテスにいわせるなら、数学は無知の一つで、人間が未来を予測できないために、編み出したというよりも、悪魔に唆された物欲の一つなんである。量と質を物質的に捉え、自他を比較して、論争、闘争、戦争の対立を生み出す根拠となるものである。そこに介入するのは、神々という名の悪魔でしかない。アインシュタインの神はサイコロを振り給わずが、悪魔はサイコロでヒトを迷わし敵対させる、にかわるといえる。だからして、現代の数学を再び古代ギリシアの幾何学的思考の哲学へと、純化していく必要がある。悪魔は数学などの物質科学の知を用いて、人類を物質界の地に束縛し、奴隷化し、死に拘束しようとしている。つまり、悪魔は、ψ(生と死)⇒ φ(生)に確率論で生に執着させ、収束させようと、ヒトを翻弄するが、実際は、φ(死)に時間発展しているだけなんである。というのも、量子の生成、消滅は、生命体の生と死ではなく、単なるエネルギーの変換でしかないからである。シュレディンガーの猫の何が問題かといえば、生命体である猫を、物質化して、量子の生と死に、単なるエネルギーの光量子にしているところにある。量子力学で生命体を扱えない矛盾に気づいていないのが、物質科学の欠点なんである。だからして、量子力学の観測論は、量子場という時空間をエネルギーの箱とすることで、ドラえもんの四次元ポケットのように、任意に取り出し可能にし、猫の生と死は、量子の生成と消滅のエネルギー論に転嫁できたわけなんである。だから、丁半博打のサイコロが、電子のシュミレーションゲームに置き換わったわけで、数学が困難な生命問題を回避して、DNA生命学や脳科学になったわけなんである。しかし、悪魔はそのなかに正体を隠して潜んでいるのに変わりはない。シュタイナーは、ポストアトランティス時代のアーリア文化期の特徴として、このカリユガの風潮の、悪魔による霊の物質化に警笛を鳴らし、人智学を興したわけだが、この風潮の克服のために、東洋の仏陀と、西洋のパウロの地上での役割から、解き明かしている。仏陀は、地上に染まってはいけない。物欲を放棄し、執着してはいけないと、民族主義の放棄を地上で説き促したために、当時の人類を束縛していた民族主義から人間を解放するために、仏教を興したわけなんである。当時は歪んだ民族主義のために戦乱が絶えず、カースト身分制度が確立していたためでもある。だから、ゴーダマシッタルダは、王の家系に生まれた釈迦族から、民族を捨て、出家して、全人類の師となり成仏し、霊能力を説いてまわる仏陀となったわけなんである。仏陀の時代の古代インドのヴェーダンダ、サンキヤ―、ヨガ哲学などはもはや形骸化し、単なるカースト身分制度となっていたために、霊能力の再生のために、仏教を興したわけなんだろう。だから、仏教は、とにかく物欲や執着心を放棄するのを、民衆に教えたわけだが、現代人もそうだが、どうして地上の生活に幸福を求めてはいけないのか、現に物臭坊主などでさえも、古のホームレスの自給自足生活、質素倹約とは程遠い、高級車などに乗り、高級住居に居座っているではないか、という物質文明の恩恵の麻薬中毒に浸り切っている現実がある。現代人はすっかり悪魔の掌中にある。霊の物質化の流れに逆らえない現実がある。だから、仏陀の教えは現代人には役に立たないどころか、かえって現仏教教団をみれば、地獄に堕ちる根拠を与えてしまっている。誰が霊を信じるだろうか?輪廻転生など戯言で、物質世界こそわが世の幸福だと謳歌する風潮が支配的で、冠婚葬祭に贅を尽くす。仏陀の教えは現代人に殺されてしまったといえるだろう。金銭さえ支払えば成仏できると思い込んで悪魔に洗脳されている人間が横行し、渡る世間は鬼ばかりである。高僧ほど地獄に堕ちている現実を知るべきだろう。現代人には空海のように生きれない現実があり、未来を解き明かす霊能者は皆無である。東洋人は、この現実を反省しないといけない、中東などは盛んに戦争しているが、戦争が生み出すのは互いへの憎しみでしかなく、それは悪魔の策略でしかない。地の現実に幸福はないのは、仏陀の時代から仏陀が霊能で解き明かしている人類の進化で、未来である。戦争を超えるモラル、道徳を確立しないと意味がない。対立を生み出す宗教など悪魔のものにすぎない。問題は、霊の物質化を食い止め、再度、物資化された霊を解放し、物質を再び霊化することにある。それは民族や国家のような集団ではなく、個人としてなされるべきで、だからこそ、各個人には新しい宗教を自らで確立する使命を、この地球紀に負っている。シュタイナーは、そのような個人的信仰を糧としたパウロの信仰を題材にして、私の自我のなかのキリストを提唱している。つまり、私という、自我のなかには、エゴという権威主義の物質性の、悪魔が巣食っているが、この悪魔を退治し、純化するために、そして、そこに均衡とバランスをもたらすために、キリスト精神を導くのである。キリスト精神を宿したマリアのように、心を純化し、人類愛により、物欲から個人を解放するのが、パウロの「私のなかのキリスト」の精神だと、シュタイナーは述べている。先の量子力学の観測論で譬えるなら、観測者のモラルにより、悪魔を退散させ、ψ(人と悪魔) ⇒ φ(キリスト)へと、物質界から自らを解放させる超感覚を獲得する方向に観測を導くことである。つまり、波動関数を、モラルのある道徳律により、デコーレンスすれば、人も悪魔も、神に起因し、生と死も、カルマの法則により導かれているのがわかる。だから、シュレディンガーの猫は、シュタイナーのカルマ論により確率ではなく、確立される。猫の生死は、毒物の量子が決めるわけではなく、猫のそれまでの生き方や飼い主との関係、更には、宇宙の進化目的により左右されるわけで、猫が死ぬべきか、生き続けるべきかは、猫の自我を司っている、猫は動物なので、集合魂が決めることなので、観測者は、この集合魂を読み取れるべく、猫との愛の絆を育むべきなんである。だから、猫を平和的に、人間の自我でもって感化させるべきなのである。ψ(生と死) ⇒ ψ(キリスト)とは、神はサイコロを振り給わず、神はカルマの愛をもたらす、となるだろう。神は何よりも宇宙を愛で満たすように、道徳とは、多様な生命体の共生共存の法則なのだから、生も死もなく、ただ愛を学び合うカルマがあり、そのために輪廻転生があり、民族により物質化された霊は、個人の道徳観から、再び霊化されるべきなんである。この物質の再霊化、パウロの私のなかのキリストは、個人のこの地球紀での経験に依存している。前回も紹介したように、覚醒時の地球での経験は、睡眠時に反復され、審査される。その審査から、霊能力への道徳化が導かれる。いかに一日を道徳的に過ごすかで、そのヒトは霊能力を少しづつ獲得し、キリストを糧にして神に近づいていく。量子力学の観測論には、キリストのモラル論が必要で、猫ではなく、人間の場合は、自我のモラルにより、自我の霊我への進化過程により、デコビーレンスされ、決定される。量子力学の観測論は、表向きには、量子場の理論により統合されたが、全てを唯物論の粒子で説明しようとする立場が、生命現象だけでなく、点粒子に、エネルギーを還元する数学の局所幾何学を用いた代数の群論で、無限大として破綻し発散するが、それを電子回路のように繰り込んで辻褄合わせているのが、悪魔の現代物質科学の顛末である。場の量子論 - Wikipediaしかし、面白いことに、点を紐でつなげることで、多世界解釈の平行宇宙論が、超弦理論の双対性で表向きに統合されてしまうところにある。この双対性は、Tデュアリティと呼ばれているが、これは物質と霊の世界の双対性をよく表現している。最も遠くを眺めると、例えば、宇宙の最果てをみようとすれば、観測者の内面に達するというような話なんである。T-双対 - Wikipedia時間に依存する運動は、時間のないところからしか観測できないため、物質界では、初期条件を求めることからはじまるが、これはどういうことかといえば、遠くを観測しようとすると、観測する基準に戻ってくる、という四次元の特徴が明らかになる。以前も紹介したと思うが、孫悟空とお釈迦さんのやり取りを思い出す。孫悟空は遠くまでに行ったと思ったが、実はお釈迦さんの掌の上だったという話である。『西遊記』で、悟空はお釈迦様の手のひらから出られなかった。どんな手だ!?|空想科学研究所 (note.com)結局、観測者の遠くとは、観測者の基準でしかないわけで、物質界の基準は、ローカルルールにすぎないというわけなんである。物質界を成り立たせているのは物質なので、その遠くに行くには、物質概念を捨てて、出ていくしかないわけで、物質界を超えるルールをみつける観測体系を確立しないと意味がないわけなんである。つまり、物質界の果ては、物質を捨てたところにあるわけで、仏教の色即是空なんである。物質を再霊化するために、愛の超弦理論をもたらすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 魂の奥底にある、「憧れ」を満たすのに、「心の変化」以上のものがあるのか? それはまた、「憧れ」をもつ存在たちが新しい存在たちを求め続けることからもわかる。「憧れ」による、耐え難い苦しみは、絶えず変化する、新しい存在たちとの関係から、次第に克服されていく。 このように、「地球」が、「月」の状態で進化する間、運動霊が、もし来なければ、退屈という荒廃に陥った存在たちの生活に、変化(運動)を与え、新しい存在たちや環境との絶え間ない更新の、新鮮な関係をもたらしたのが霊視できる。 現代人が考える、空間の移動は、いま述べている運動のなかの一側面に過ぎない。また別の運動、つまり、心の変化を経験するのは、例えば、朝起きて、夢の内容を、隠さずに、他の誰かに話すときなどである。このように、人間は、心の変化を経験し、多様な運動を通して、「憧れ」を徐々に克服していく。外的な物質性の、空間の運動は、変化の後付けに過ぎない。 太陽に憧れる惑星を霊視してみる。もし、その惑星が、太陽との関係で、常に同じ位置で、全く動かなければ、その惑星は、憧れという一面に拘束されてしまう。その惑星は常に同じ面を太陽に向けて固定されてしまう。 しかし、運動霊がやって来て、その惑星が太陽の周りを回転するように導き、位置に変化をもたらす。位置の変化は、心の変化に生じる影響に過ぎない。そして、運動霊が、位置の変化を宇宙にもたらすのは、心の動き(変化)という主現象からの、副産物なのである。 運動霊が、運動と変化を、宇宙の進化に導入したことで、また別の存在が生まれた。つまり、宇宙の進化のなかに、運動霊(デュナミス)、人格霊(エクスシアイ)、叡智霊(キュリオテテス)、意志霊(トローネ)らがもたらした、それぞれ、供犠の熱や、叡智へと放射する流れの空間、与える徳による光などの精神的な要素に、物質的な要素が加わった。 この物質的要素は、「憧れ」に変わった拒絶された供犠(意志)に付随して流れ、人間が「像」として感知するものとなる。その動き(心の変化)となった「像」は、覚醒意識には上らずに、まだ思考にはならない。この「像」は、夢を見るときのイメージによって最もよく視覚化できる。流動的で過ぎ去る夢の像のなかには、「憧れ」として生きる意志の存在、つまり、運動霊によって他の新しい関係へともたらされる存在などを生じさせるイメージを呼び起こす。 新しい別の存在の前に立つとき、その存在に完全に帰依するのは不可能で、それは自分のなかに自我が生きているからである。しかし、代わりに、その存在が、夢の像のように、変化していく像を感知できる。このように、イメージの潮流とでも呼べる気配が魂のなかに生じる。 言い換えれば、この月進化紀の間に、像の意識(霊的な潜在意識)が存在するようになった。そして、人間は、現在の地上的な自我の覚醒意識なしに、この進化紀を通過したので、今日の自我を通して、自分が到達できる、この像の潜在意識を欠きながら、思考しなくてはならない。当時の人間は、宇宙の進化のなかに存在し、織り込まれていたが、一方で、「憧れ」の経験に匹敵するような存在が、人間たちの心のなかに生きていた。 ある意味、苦しみとは、地上に現れる物質的な欠乏の苦しみを度外視すれば、詩人が述べているように「憧れを知る者だけが苦しみを知る」に他ならないのが想像できる。魂の「憧れ」の表現としての苦しみや痛みが、人間の心のなかに、人間の進化と結びついた、他の存在たちと共に入り込んで来たのは、「月」の進化紀だった。 それ以降、「動き(心の変化)」が入り込まなければ、「憧れ」に苛まれ、空虚だった自我が、次第に、治癒的な慰めに満たされるようになったが、それは運動霊の活動を通して、「憧れ」に苛まれる、月の存在たちのなかに注ぎ込まれた像という、夢見の潜在意識による、心の変化の形でなされた。 もし、このような出来事が生じなかったら、「月」存在たちは、その魂の中に「憧れ」以外の何もない退屈で、空虚な存在となっただろう。しかし、像という慰めが、その孤独と空虚の中に滴り落ち、多様性で満たし、堕天使たちを、追放と非難から解放した。 このような言葉を真剣に受け止めれば、地球が「月」の進化状態にあったときに、進化した存在の根底に精神として横たわる「憧れ」と、そして、いまも人間の意識の奥深くに、「地球」進化状態の下に、上層を成し、横たわる「心の変化」の両方が把握できる。 しかし、それは、現代人には、あまりにも魂の奥深くに横たわるために、この事については、次回以降の公開講演(GA61)で、分かりやすく示すが、海底から上層へと押し寄せる海水が、海面に波を生じさせるように、気づかれることなく活動を始め、現代人の覚醒意識のなかへと気づかれることなく、現れて来る。覚醒時の自我意識の表層下に、表面へと押し寄せる、「憧れ」の波動が、現代人の、魂の奥深くに根ざし、生きている。
2024年04月25日
コメント(0)
前回は空海さんの真言宗の世界をシュタイナーの人智学で解き明かし、紹介したが、真言宗は、量子力学の観測問題の解釈の一つの多世界解釈でも解釈できる。簡単にいうと、人間は曼荼羅という多世界が干渉する重ね合わせの波動の世界のなかに生きているが、そのうちのどれかの波動を発する世界に共鳴することで、自他の世界を演じわけられる人生を、例えば、TVのチャンネルを選択するような感じで、現実の世界=物質界に生きている、というような話になる。多世界解釈 - Wikipediaつまり、宇宙には時間はなく、時間があるようにみえるのは、各人が、各人の志向性という能力の成長に沿って、波動というチャンネルを選んでいるにすぎないという考えである。早い話、人間はタイムマシンに乗って、多様な時間の世界を選択しているだけなんである。例えば、量子力学の観測問題で有名なシュレディンガーの猫のような問題も、猫が生きている世界を見たいのか、猫が死んでいる世界を見たいのか、の観測者の選択問題に帰されるわけなんである。それを真言宗で表現するなら、猫が生きている物質界にとどまるのか、猫が死んだ非物質界まで観測できる超感覚を高めるのか、の二択に帰されるわけなんである。観測者が現代人特有の覚醒意識のままであれば、猫が死んだ世界をみることはないが、潜在意識を開発して、睡眠中にでも覚醒できれば、猫が死んだ世界を超感覚でみることができるわけで、観測者の視点が、物質の自然界から、非物質の真言の世界にまで拡がるかどうかの、曼荼羅を見れるかどうか、の観測者の能力に負うことになる。だから、曼荼羅をみれる叡智を獲得できるかどうか、の観測能力に負うわけで、現在の量子力学の観測問題が不完全なのは、唯物論でしか問題を想定できていない現代人の能力の限界に帰される。つまり、カリユガの時代の名残りの幻覚に惑わされているにすぎない。多世界解釈は、現代物理でも、パラレルワールドとして理論化されているが、この物質界がリアルではなく、幻覚であるのを考慮していない点で、真言宗の方が優れている。パラレルワールド - Wikipediaシュタイナーは、現代人は各個人が、宗教をつくるべきで、60億人いれば、60億もの異なった宗教があっていいというようなのを説いているが、だから、キリストはその基盤、基礎づけを与えたようなもんである。各個人で、死者とのつながり、霊界を超感覚でみる叡智を獲得すべく努力し経験するしかない。そのために、この世を生きて経験し続けているわけなんである。そのような各個人の経験から、芸術が生み出されるわけで、芸術は宗教作品といえるかもしれない。優れた作品は、物質界とは異なるリアルな世界を、少なくとも美しい世界、天国を表現している。空海さんの曼陀羅はそのような美の天国の世界の作品でもある。曼荼羅が表す意味とは?意外と知られていない、身の回りの曼荼羅も紹介 - 家族葬のファミーユ【Coeurlien】 (famille-kazokusou.com)曼荼羅といえば、先日懐かしいアニメ「うる星やつら」のビューティフルドリーマーをTVでみたが、この作品は、曼荼羅の世界を夢としてよく表現しているようにみえた。人間は夢を見る事で時間感覚を手に入れている、ともいえるかもしれない。うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー - Wikipedia睡眠中に見る夢も、覚醒時の人生の夢も、同じ夢という言葉を使うのも、夢の秘密を意味していて、面白い。シュタイナーは、夢を覚醒意識で正確に分析できるようになることが、霊能力獲得の初歩であると述べている。人智学では、人間は眠ると、その日の覚醒時の経験を再生し、睡眠時から遡って、目覚めた時までを反省するのがわかっている。その日の経験全ては、人体のいわば時間を司るタイムマシンのエーテル体に書き込まれ、記憶されているという。いわば、その日のアカシックレコードといえるかもしれない。アカシックレコードには感情も伴うので、厳密にいえば、エーテルは映像と音声だけなので、異なる。それを空海さんは、真言の光と音の波動で表現している。光といっても、陽と陰があり、物質界での言葉でいう太陽光は陽で、陰の光は、負のエネルギーの霊光のことである。霊光は、人体の太陽神経叢に集約されていて、呼吸による火の熱により、自我の本体の霊我の灯となるようだ。霊我の灯が、伝教大師の説く、万灯照隅一灯照隅でもある。一燈照隅 萬燈遍照|致知出版社 (chichi.co.jp)犬も歩けば棒に当たる、という諺の意味が長らく不明だったのだが、この一灯照隅という最澄さんの諺を知って、どんな経験も無駄になることはない、という意味をもつのがわかった。犬でさえも、棒にあたる経験を、教訓を得るわけで、つまり、覚醒時の経験は、睡眠時の記憶の糧となり、自分がどの成長期にいるのかの時間の確認になるというわけなんである。この成長というのは、霊的な成長であり、超感覚を獲得するための反省でもある。日々の経験から、自分には何が足りないか自覚できるわけである。犬も歩けば棒に当たる - Wikipediaだから一灯照隅とは、自分の成長を確認する時間を推し量る経験といえるかもしれない。転じて自我の発達度、未熟度を推し量る時計ともいえる。万灯照隅は、各々が互いの未熟を補い合う助け合いの、多世界解釈の重ね合わせの波動関数を表わしてもいる。だから、伝教大師の最澄の顕教は、弘法大使の空海の密教の、真言があってはじめて意味をもつのがわかる。まさに、日本仏教の陽と陰といえるかもしれない。唯物論の物質界では、他者を援けるといっても、何事も金銭的に考えがちで、現代の宗教もそのような堕落腐敗した悪魔の詐術にハマってしまっている。覚醒意識での物質界が全てだと思い違いしている。確かに、生きているシュレディンガーの猫をみる波束の収束を望むのなら、金銭を貢ぐのが高確率と考えがちかもしれないが、それこそ悪魔の知識の罠なんである。物質界の背後の多世界を読み解く能力を失い、現状に固執し、犬も歩けずに棒に当たらないだけなんである。キリストも金持ちは天国には行けないと説いている。金持ちは物質界に固執しているからで、それは悪魔の罠にハマりこんで虜になり、金銭という、いわば麻薬中毒患者になっているだけなんである。物質界は、カリユガの時代の恩恵だが、そこだけに止まっていると、地球紀を卒業できないで、ソラトの仲間のアスラの一員に加わり、次の木星紀に進むことができずに、永遠に彷徨えるユダヤ人にならざるをえないだろう。この審判が古代エジプトで説かれた最後の審判である。死者の書 (古代エジプト) - Wikipedia人智学によると、古代エジプト人にはまだ古代アトランティス時代の霊能力が引き継がれていて、死者の世界を身近に感じていた。だから、覚醒時よりも、睡眠時に活動的だったという。死者の書は、その伝承の一部でしかない。当時の古代エジプト人は、わざわざ書くという伝承法が必要なかったからで、筆記が発達したのは、テレパシーで伝承する霊能力を失ったせいでもある。日本文化の詫び寂びも元々はテレパシーの伝承能力だった可能性が高い。空海さんが各地を旅したのもテレパシーだった可能性が高い。テレパシーの伝承法を生霊と呼んだりしているが、生霊とは、肉体をもつ霊魂のことで、死霊とは、肉体をもたない霊魂の違いで、肉体を通して感じるのが覚醒意識で、つまり文字を書いて伝承する感覚で、肉体がなくても、いわば心眼の超感覚で、テレパシーでみれる場合、肉体には拘らないから、いわば暗号や隠語のようなもので、それが伝承され、今では業界語のようになっているともいえるかもしれない。生霊 - Wikipedia先日、面白いトーク番組に挙げた「にけっッ!!」で、芸人のチャンス大城氏が憑依体質で、度々生霊を飛ばすような面白トークが繰り広げられていたがその真偽はわからないが、千原ジュニア氏だけは霊能力のない現代人であるのははっきりとわかったと自覚しているのが非常に笑えた。恐らく千原氏の前世が他の人よりもカリユガの時代に近く、割と最近なのかもしれない。新しい魂は現代感覚に適合しやすく斬新的で、古い魂ほど不適合で遅れているので、憑依体質だからである。つまりタイムマシンでいえば、遠出するよりも、身近の時間旅行を好む霊魂なわけである。逆に霊能が残っている人は遠出の冒険を好む。にけつッ!! - Wikipedia話が少し逸れてしまったが、睡眠中に見る夢が、覚醒時の夢でもあり、いわば次のステージに進むための人生の目的で、霊的な成長を遂げる目安といえるわけで、睡眠中にその審判を受けているわけで、その審判がたまりにたまって罪と罰が少しも消化できずに、課題が遅々として進まないと、再審から再審へと引き継がれ、最終的には、生きる意味も失い、最後の審判になってしまうわけなんである。だから、人生の経験を、霊魂の成長にどう生かすかが重要なわけで、あらゆる宗教はその時代に必須の霊魂の課題の解決と、その重要性を説いている。現代は末法の時代ともいわれ、金持ちが賛美される傾向にあるが、先日、石油王のゲッティ家の誘拐話をTVでみたが、世界一の金持ちだったゲッティが、「金は必ずしも幸福とは関係ない、あるのは不幸の方かもしれない」と言葉を遺しているように、金は幸福の幻想を生み出すだけにすぎないのがわかる。大谷選手も、1000億円もの大金を持つことで、以前よりも厳しい目が注がれ、アンチが増えた感がある。ホームランを打つことが期待され、打たないと野球を知らない奴からも批判される。ホームランを打ったことのない奴に打たないと批判されるのは、ある意味不条理である。おカネの力は恐ろしいと思う。おカネは物質界での波束収束の確率性を増す幻想でしかない。物質界での安定をもたらす力かもしれないが、物質界自体が狭い領域で、変化に富む幻想なんで、キリストが砂上の楼閣と呼んでいる不安定な地獄の世界なんである。地獄の世界を暮らすことで、地獄から抜け出す術を獲得できる。醜悪な世界から、美の芸術の世界へと昇天できる。芸術こそが、神々との交流なのであり、霊能力の再獲得法なんである。芸術があるからこそ、人生を生きる意味があり、芸術から霊能力を獲得するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ いま、魂の奥底に眠る、意志について述べているが、これは、宇宙の存在を含む、より高次な存在への犠牲である。犠牲を捧げた存在たちは、歓喜から見上げたために、高次の存在たちにより受け取られず、差し戻された、その意志は、抑圧され、憧れとなってしまったので、犠牲が受け取られ、歓喜となっていた場合の、魂の内的な気配、内容とは、全く違うものとなった。 もし、犠牲を捧げた存在たちの、その犠牲が受け取れられていたら、捧げた相手の一部となっていただろう。この事実を、宇宙で喩えるなら、地球や他の惑星存在たちの、太陽への供儀が受け取られていたら、太陽と1つに結ばれていただろう。 しかし、太陽への供儀が受け取られず、捧げた意志は返却され、そのまま保持せざるを得なかったので、太陽と供犠を捧げた存在は離れたまま、その犠牲も自らそのまま保持された。 以上を総括するなら、宇宙進化全体の中に、新しい存在が加わる、のがわかる。その新しい存在は、これまでの存在では表現できないのを、はっきりと理解して欲しい。 つまり、自らのなかに生きる意志を、高次の宇宙存在に、犠牲として捧げようとする存在たちは、その供儀が受け取られなかったので、自分のなかに担うように導かれた。ここで、「エゴ(自我)」、もしくは「自我性」と呼ばれる存在、それは後に「エゴイズム」として、あらゆる形態のなかに現れるが、そのような新しい存在が煌めく、のが感じ取れる このように宇宙の進化のなかに、新しい存在が流れ込み、ある存在たちの内部で、遺産として生き続ける、のを感じ取れる。魂の内部の奥底に、憧れがあり、たとえ、その憧れが弱く小さくても、新しいエゴイズムが、稲妻のように光りながら、宇宙の進化のなかに忍び込んで来る、のが霊視できる。 このように、憧れに身を委ねる存在たち、つまり、自らのエゴイズムに屈服する存在たちに、もし、ある別の存在が介入しなければ、ある意味、一面性の絶望の淵に突き落とされ、自らのなかだけで、独房のように生きる他なかったのが、霊視できる。 供儀が受け取られた存在を霊視すれば、この存在は高次の存在のなかで永久に生きるが、供儀が受け取られずに、返還された存在は、自分という存在の中に生きるしかできない。だから、そのような存在は、高次の存在のなかでの経験全てから排除される。 実際、そのときの問題の存在たちは、進化から排除され、一面性へと突き落とされ、もし、その一面性を取り除くために、進化への介入が新たに生じなかったら、消滅してしまっただろう。この介入とは、一面性への宣告と追放を阻止する、新しい存在たちの介入である。 「土星」上の意志存在や、「太陽」上の叡智存在と同じように、「月」上では新しく、運動霊が出現するのが霊視できる。この「運動」という言葉は、空間中での運動のイメージではなく、思考や精神上での感情の「動揺」に近い。 「思考の運動」という表現は、人間の自我の、思考の流れや流動性を表し、このような表現はよく知られているが、この運動を包括的に捉えるなら、空間中の位置変化以上であるのを理解する必要がある。 もし、ある高次の存在に対して、多数の人間たちが自らを捧げ受け取られたなら、その高次の存在は、犠牲として捧げられた人間たちのなかにある意志全てが表現され、その人間たちは、その1つとなった高次の存在のなかに生き、そのなかで歓喜に満ち足りるだろう。 しかし、もし、その犠牲が拒絶されれば、その人間たちは 自身のなかで生きざるを得ず、決して満ち足りることはない。そうなった場合、運動霊がやって来て、自分にのみ依存しなければなかった孤立し消えていくべき存在たちを、他の存在たちとの関係へと導く。 この運動霊を、空間の位置変化を生じさせる存在として考えるべきではない。それでは間違いで、運動霊は、ある存在を絶えず別の存在との新しい関係に導くような機会を与える、いわば一期一会の救いの存在である。 このことから、魂のなかに、この事実に相応する気配を考察すれば、宇宙進化の、この月の段階で達成された進化が読み解ける。憧れが停止させられ、行き詰まり、いかなる変化も経験できなくなり、無味乾燥の停滞状態に陥ったときに、いかに魂が、苦痛に満ちたものとなるのか? 知らない人がいるだろうか? 人間は、この停滞によって耐え難い状態、退屈と呼ぶ状態に陥る。「退屈」という表現を、表面上で捉えがちだが、退屈にも多様な段階がある。偉大で高貴な神々の本性にも、外界では満足できない精神的な憧れとして、心のなかでの、運動の停滞の、いわば不毛という表現が生きているが、退屈には、そのような精神性、創造性に影響を及ぼすような高レベルの、なんら新鮮味のない、退屈もある。
2024年04月23日
コメント(0)
いまの令和から、昭和の思い出を語ると、なぜか、昭和は盛んに「青春」という言葉が氾濫していたようにみえる。青春を謳歌した気などはサラサラないが、わが青春時代に音楽がなければ、無味乾燥な競争生活の日々に、とっくに自殺していたかもしれない。ただ自殺する勇気がなかったし、サッカーなどのスポーツや音楽に没頭できたのが救いだった。勿論、恋愛沙汰などは失恋以外何もなかった。いまだからこそ、昭和が懐かしくも語られるようだが、戦前や戦中の話と比較すれば遥かにマシだったが、輝かしい高度成長期という標語が煌びやかな体裁で、まるで電通の広告宣伝かのように常に語られ、どんな輩もバブル時代をまるで麻薬中毒患者のように、酒池肉林の幻想幻覚に戯れ、昭和の成長期を謳歌してきたかのような印象をもって語られるのは、なんだか、亀を助けて竜宮城に行って帰ってきて、玉手箱を開けた浦島太郎の老化現象のようで、そんな良い思い出すら皆無の、現実逃避の昔話のように感じられてくる。もし、この世に音楽がなかったら、私には、昭和は地獄そのものだった。青春時代の、地獄のなかの唯一のオアシスが、音楽だった。当時は、ネアカとネクラのレッテル貼りが、後の勝ち組と負け組のように流行ったが、ネアカの概念が意味不明で、男子校だったので、女子を宇宙人とみなし、宇宙人との交流が、映画ET公開前の火星人襲来の宇宙戦争に染まり切った時代では、いかにも軟派にみえたのもあるが、宇宙に出ていくよりも、防空壕に隠れるような自分は、明らかにネクラ組だったが、当時まだオタクの概念はなく、ネクラの疎開場所もなかった。だから、昭和の青春時代を思い出すと、パニック症候群に罹っていた自分を思い出す。改めて考えてみると、常に弱者組にいたのに気づかされる。ネクラ - Wikipedia芸人のアンガール田中氏が、ヤンキーが大嫌いで許せないと唱えているのに酷く共感する、わがネクラ組の青春時代である。昭和はなんだかワルが推奨され、ちょい悪が持て囃される酷く歪んだ時代のようにみえてくる。まさしくカリユガの時代そのものである。その後社会に出てからわかったが、団塊世代が競争原理を持ち込むためにつくったパワハラ原理だったように思える。悪い奴でも先輩なのでたてないといけない。そいつらはいまでも老害のように自己保身に走っている。例えばナベツネのような偽善な奴だ! 自分の場合、不良に直接虐められる事はなかったが、中途半端な奴に弄られるのはよくあった。昭和とは歴然とした上下関係があり、先輩に可愛がられないと自分の身が危うい時代といえるかもしれない。親方日の丸である。イエスマンでないと生きられなかったシンドイ世界だった。だから、スポーツと音楽がなければ、わが青春時代は、勿論の如く、恋愛などは、受験勉強の現実を前にして、遊び惚けるわけにはいかない御法度モノなので、無味乾燥でしかなかった。当時の多くの若者が大学時代で、青春時代を取り戻そうとするのも、なんだか、昭和バブルを感じさせて、虚しく白々しいものに思えてくる。恋愛偏差値を向上させる経験は、受験時代には、ましてや男子校では教えられない科目だからで、当時は同じ地球に住む宇宙人との交信だったからである。タラタラと自経験を吐露してしまったが、自分にとっては、恋愛よりも、音楽が、地獄への救いで、神とのつながりだったのである。最近、巷でも、世代をテーマにして、心に残る音楽を挙げているが、それに倣って、わが青春時代の、心に残る音楽を一つ挙げるなら、ヴァンヘイレンのアルバム「バランス」を選びたい。バランス (ヴァン・ヘイレンのアルバム) - WikipediaVan Halen - Balance (Performed Live) - YouTube一般的に青春時代といえば、思春期を挙げるだろうが、自分の場合、思春期というよりも、勿論、男子校時代は、レッドツェッペリンやらクイーンなどの曲にハマったが、青春真っ只中というよりも、少し遅れた、青春時代を取り戻そうと、受験戦争後に聴くオアシスとして力を与えてくれた音楽として思い出深い。青春真っ只中といわれれば、ヴァンヘイレンの1984のジャンプだった。1984 (アルバム) - Wikipedia「ヴァンヘイレン ジャンプ」の検索結果 - Yahoo!検索いまでもかなり有名な曲となっているが、当時はジャンプを聴くだけで、元気が出た。競争社会を乗り越える元気を与えてくれた。英語なので、当時はCDの輸入盤で、訳もなく、詩の意味もわからなかったが、ネクラを解放させてくれるツールのような、周囲の無味乾燥な雑踏から生み出される利害関係の波が押し寄せるときの防波堤のような役割を演じてくれた。将来を悲観しかできない鬱屈したネクラ組に、未来は明るいよ、さぁ、飛び出そうぜ!とイントロのシンセが歓迎してくれているような曲調なんである。どこか未来志向の明るい世界がやってくるような♪トッ、トゥ、トッ、トトッ、トゥ、ト、トゥールルという、まるで未知との遭遇のUFOが宇宙から交信しているようなリフなのである。こんな競争の世界はニセモノなんだ、ホンモノの宇宙へと飛び出そうぜ!と叫んでいるように聴こえる。ジャンプは全米1位になり、有名になりすぎてしまったが、自分はアルバム「バランス」が好きで、特に、キャントストップラヴィユーと、ノットイナフに共感し、元気をもらった思い出がある。Van Halen - Can't Stop Lovin' You (Official Music Video HD) - YouTube Van Halen - Not Enough (1995) (Music Video) WIDESCREEN 720p - YouTube何よりこのアルバムのタイトルのバランスがいい。人間の二面性を表わし、そのバランスをとるのが大切だと説く音楽のようである。人間の二面性とは、善と悪で、人智学でいうなら、ルシファーとアーリマンの二大悪のバランスをとるのが、キリストの善であるといえる。人間は愛するが故に、自己陶酔しやすいが、その愛はホンモノの愛なのか、それとも、叶わない愛の憎しみにかわるニセモノの愛憎なのか、自己を超えて自己を確立する美こそ、そのバランスを確立する美こそ、ホンモノの愛で、バランスの欠けた愛は、ニセモノの愛であると、説いているようにみえる。特に、キャントストップラヴィユーは印象的で、PV映像の最後に罪を犯して刑務所にいた主人公が、出所して待ち望んでいた家族の元に返るシーンは、失楽した人類が再び天国へ帰る未来を想起させる。神は人類を決して見捨てはしないよ、ホンモノの愛は耐え忍ぶ努力のなかに築かれる、と説いているようにもみえる。霊界で、現世を思い出しながら、あんなこともあったね。こんなこともしたな、と最後は一緒に語り合える存在でいたいねと、問いかける曲にみえる。ノットイナフは、十分に愛せない愛はニセモノで、ホンモノではない、と説いているようにみえる。皆目くらましの、詐欺の、ニセモノの愛に騙されているよ、そんな愛は愛ではなく、欲望だよ、欲望を失わせるほど、愛するには努力がいる。というのも、愛は目には見えないし、目に見えるモノで証をすることもできない、不変で、永遠の、不死だからだ、と説いているようにみえる。この2曲を代表に、愛にはバランスが必要と音楽で表現しているようにみえる。そして、愛に形はない、男女もない、というのもバランスのとれた完全体で、両性具有で、陰陽の両極性を一つにバランスする一元性だからである。なぜ人類は愛に形を求めるのだろうか?それは人類が愛を信仰していない証ともいえるだろう。だから、音楽とは、神々の天国とつながる天界からのメッセージで、音楽を慰霊祭などで歌うのは、霊との絆を深め、霊能力を獲得するためともいえるだろう。人間は、実はあの世の存在で、この世のアカウントを貰い産まれてネットワークをして、仮想の自己をつくりあげて、その仮想の自己から、あの世でオフ会をしながら、互いに自己の違いを超えて高めあい、死を乗り越えて、本当の美しい自己をつくりあげている、といえるかもしれない。最近の結婚相手をネットなどでみつけるのは、霊界と物質界との関係そのままネットに反映しているといえる。さて、前回は、結婚が、本来もつべき人間の両性具有の愛の補完であり、神とのつながりの再結合なのを紹介したが、そもそも、冠婚葬祭が、神とのつながりで、古くは宇宙人との交流であったわけで、霊能力のテレパシーを失うにつれて、人間は神々から離れ、悪の宇宙人でもある堕天使悪魔の誘惑に負け、聖書に書かれた善悪の実を食べることで、自我を私物化し、個人的な自我を手に入れる事が出来たわけだが、この個人的自我は、神々に比べれば赤ん坊のようなものなんである。人間の自我が赤ん坊というのは、シュタイナーによれば、土星紀に、人間は物質体の原型で、次の太陽紀に、エーテル体を獲得し、その次の月紀にアストラル体を獲得し、そして、現代の地球紀に、自我を獲得した、いわば人類史の経緯から、高次の宇宙人たちの天使と比べて、宇宙全体のバランス感覚からいえば、低次元すぎるので、そのバランスの統合性や協調性という意味で、我儘で、横暴で、幼稚で赤ん坊というわけなんである。だから、現代人は、古代人に比べて我儘で、すぐに自己主張して、対立してしまうが、その分、個人的に自由でもある。逆にいえば、古代人には自由がなく、対立の概念などなく、ただ高次の宇宙人の手足にすぎなかったわけで、コンピュータに譬えるなら、メインフレームの端末でしかなく、現代人が操るスマホのような個人用の端末などあり得なかったわけなんである。だから、冠婚葬祭も上からの命令で、強制参加で、結婚だって、許嫁やお見合いで強制的に決められていたわけなんである。遥か昔に遡るなら、霊能力を保持するために、霊能者同士の同族で結婚したので、同族婚だったわけなんであり、そのような風習が形骸化して、この国の天皇なども、昭和帝までは、貴族同士の同族婚だったわけなんであろう。この国の芸術の技芸をつくってきた文化風習の素は、詫び寂びの文化からもわかるように、霊能力であるのはいうまでもなく、昨今などは、安倍晴明などが好んで取り上げられるが、当時の人から畏れられ、大宰府に左遷された菅原道真の方が優れていたようにもみえる。この国の偉人を一人選べといわれたら、迷わず空海を挙げるだろう。もし空海がいなかったら、現在の日本という国があったかどうか疑問に思える。先日NHKだったかで、空海の特集をしていたが、相変わらず唯物論的な現代解釈で人物像を紹介していたが、秘教についての勉強不足が拭えない。真言宗の真言は、物質界での感覚から捉えられないという意味で、だから、密教の、つまり超感覚力の霊能力で解き明かした世界を教える宗教なわけで、仏とは、宇宙人である神と愛でコンタクトできる、神々や天使とつながれる霊能者の事に他ならない。曼荼羅は、その世界を芸術として描いた教科書みたいなものである。人智学を学べばわかるが、物質界の奥に感覚を超えた仏の世界、いわゆる霊界がある。それは素粒子を超えた高エネルギーの世界である。我々は、正のエネルギーからできているが、正のエネルギーからみれば、霊界は負のエネルギーにみえる。つまり、負のエネルギーが鏡のように、ゼロ点で反射し、正のエネルギーとして時空のなかで、物質として現れているわけなんである。だから、人間の霊性の負のエネルギーは、物質の正のエネルギーとして鏡のように外から反射されてはじめて、自己という物質体で認識される。空海さんは、この原理を、真言で説いたのである。勿論、般若心経でも、空即是色と言って説いている。それは負のエネルギーと、正のエネルギーが交わって、自己のような鏡ができる、と言うのと同じだ。霊がモノをつくっているから、我々は、覚醒意識で、自己を認識できるわけで、それは自己の仮想でしかなく、ホンモノは、潜在意識の眠ったときにある。空海さんが説いた即身成仏とは、現代人の眠っている潜在意識を、起こして覚醒意識に転じて、寝ながらにして、起きているわけで、つまり通常なら、死んでいる状態を覚醒させ、物質体の肉体を失っても、ホンモノの自己を確立しているので、目には見えなくても、心でわかる存在のことである。だから、キリストと同じで、いまでも人間の心のバランスのなかに生きている。だから、現代人の未開発な覚醒意識では見えないので、空海もキリストも、睡眠中にみているのだが、覚醒意識では見えないので、起きるときに夢としてその面影を似た人に生き映してみるわけなんである。各地に残っている空海の伝説などは、夢のなかで出会って、空海という僧の言う通りに、起きてから、してみたら、その通りになったというので、改めて、信仰心が沸いてきた、というわけなんだろう。あの世に時空間などはなく、こちらが覚醒意識による正のエネルギーの囚われをなくせば、つまり物質的な感覚を捨て去れば、魂自体は、皆が同じなので、快川和尚が説いたように、心頭滅却すれば火もまた涼しのごとく、死者も生きているかのごとく、みえるわけなんである。魂を、日本語では、たましいと玉や球に譬えて呼んでいるのも、全ては宇宙の球体の意識、バランスの自我意識に帰するということなんだろう。地球人がやるべきことは、愛を深め合うことなんである。物質は生きている動的な愛を、死んだ静的な私物化して捉えた感覚でしかない。我々地球人は、地球で生きる事で、愛を外から感知するが、それは見かけの光でしかなく、本当は、内からの愛の光を感知できなくてはならない。シュタイナーは、人間は生きているときに、外の大自然から生かされていると感じるが、死ぬと、人間は自分の内に神々の視線を感じ、宇宙の彼方から、全てが見通されている、と感じると述べている。この内と外の違いは、プラトンのイデア論、洞窟論でもわかるかもしれない。プラトンのイデアとは現代風にいうなら、負のエネルギーで、肉体的に感知する正のエネルギーは、その似姿でしかない。イデア論 - Wikipedia洞窟の比喩 - Wikipedia 神々の愛のメッセージを読み解くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ この魂の奥底に眠る、潜在意識下の力の、外の物質界での名前をいくつか知っているが、あまりに漠然としすぎていて比較にならない。というのも、これらの名前は複雑な関係性を仄めかすだけで、覚醒意識には決して到達しないからである。 そこで、この力の、良く知られた現象を取り上げてみる。それは、生まれた町に暮らす場合には現れてこない、「ホームシック」と呼ばれる感情である。ホームシックを探求すれば、各人で異なるのがわかる。 ある人には特別な感情として現れるが、また別の人には、別の感情として現れ、多種多様である。家にいるときに知った、懐かしく親しみのある物語などに憧れるが、心の底では、家そのものを恋しがっている。そのように、個人の魂のなかには、とりとめのない憧れや、当てのない望みが生きている。 また他には故郷の山、もしくは小波を見たときに、よく遊んだ川などを思い出し、憧れる。これらの憧れ、望みは、魂のなかで、しばしば無意識に働くが、総じて「ホームシック」という言葉で括れる。そして、ホームシックは各人で異なり、何千もの形で演じられるが、まとめると「憧れ」の類として表現できる。 更に漠然としているのが「切望」だが、これは多分に、人生において人を最も苦しめる。魂の奥底にある憧れとの関係に、人は全く気づかないが、この切望は憧れの一種である。とはいえ、 この憧れとは何か? 犠牲を捧げるのを望みながら、犠牲を諦めざるを得なかった存在たちの気配に、憧れを関連づければ、憧れが、意志と関係するのを、以前示唆した。そして、この憧れを検証すれば常に、意志から起こるのがわかる。けれども、この憧れとは一体、意志がどうなったものなのか? それは、成就しない意志(意図)なのである。というのも、もし、それが成就したなら、もはや憧れにはならないからである。憧れは、実現されない意志なのである。憧れをこのように定義しなければならない。 なので、犠牲が拒絶された存在たちの魂の気配について、次のように記述すれば、多少とも特徴づけられる。現代人の、魂の深みに感じ取れる「憧れ」とは、これまで述べてきた、太古の時代から受け継がれ、魂の奥底にとどまる、ある未発達な意志なのである。 それは丁度、「憧れ」とは、時間という性質を、太古の土星から太陽への進化の遺産として受け取ったのと同じように、古「月」の進化から 受け取るのは、魂の深みに見つけられる「憧れ」、未成就の意志、もしくは抑圧された意志なのである。 この進化期に捧げられた犠牲が拒絶され、抑制され、阻止された意志を持つ存在たちが創造された。この天使たちは、意志を抑制し、抑圧された意志を、自身で保持するしかなかった為に、非常に特別な状況に置かれた。 もし、これらの事柄を感じ取り、経験したいなら、自身の魂のなかに身を置かなければならない。というのも、思考だけでは、これらの状態に浸透するには、不十分だからである。 意志を捧げ、受け取られた存在は、ある意味、犠牲を捧げた相手と1つに結ばれる。この成就も、つまり、犠牲を捧げた存在のなかで、共に生き、生を織りなし、犠牲を捧げた存在と共に生きることで、充足感と幸福を感じるのを、人生のなかで感じ取れる。
2024年04月18日
コメント(3)
この国の少子高齢化を色々と考えてみたのだが、あまりに物質的に捉えすぎていたのに気が付いた。単純に考えると、少子化になるのは、結婚して子どもを産まない人が増えているためだが、この国の文化、つまり結婚観が大きく変わっているのに、ほとんど誰も言及しないのは、精神的なバランスを加味せずに、片手落ちといえるだろう。いうまでもなく冠婚葬祭のうちの結婚自体が人生の一大イベントで、どの国も文化行事として国を成り立たせるために、公共的に力を入れてきたいわば事業だが、精神的な結びつきよりも、ほとんど形骸化した行事のように、商品化して、物量的に金銭だけが費やされ、若者には結婚がハードルの高いものになりつつある。そして結婚後の子育てとなると、教育費、医療費などの生活全般にわたって、更にハードルが一気に高くなっていく傾向を帯びてくる。そこで冠婚葬祭の文化史を遡ってみると、宗教が深く絡んでくるのがわかり、宗教史から、結婚史や結婚観がある程度読み解けるのがわかる。そして、人智学による結婚観の大まかな歴史は、以下のようである。ポストアトランティス時代の古くは産めよ増やせで、一夫多妻か、一妻多夫で、民族的に増殖してきたが、霊能力の保持のための、同族婚から、民族を超えて増殖するために、異族婚となり、霊能力を失うにつれて、個人的な自我を確立するためと、民族内外でのいざこざを収拾するために、一夫一妻の結婚が物質経済的にも推奨されるようになっていった。つまり、ポストアトランティス時代の人類進化上の、結婚の理想とは、個人的な自我の確立のために、キリストによる精神的な意味での両性具有の一夫一妻制の結婚観にあったのだが、次第に、宗教が唯物論のルシファーにより権威化され、アーリマンの物質文明により物量的な略奪経済により日常生活が贅沢化するにつれて、例えば、坊主が高級外車を乗り回すなどが流行り出した経緯をみれば、統一妖怪などの似非宗教に侵略感染されたのも、カリユガという時代の成り行きともいえるかもしれない。カリ・ユガ - Wikipedia以下、上のウイキの「カリユガの特徴」を紹介する。この国の巷によくあてはまっている。カリ・ユガの特徴マハーバーラタにおけるマールカンデーヤ(英語版)の会話から、カリ・ユガのいくつかの特徴が確認できる。支配者に関して支配者は理性を欠くようになり、不公平に税金を徴収するようになる。(この国の政治家、裏金議員などをみればわかるが、政治活動費として税を優遇されている。)支配者はもはや崇高であることや、被統治者を保護することを義務だと思わなくなる。彼らは世界にとって危険な存在となる。(この国の国民の代表の政治家は国民を馬鹿にし、総理大臣は震災復興よりも外交での自己保身の無駄使いに費やしている。)人々はコムギやオオムギが主食であるような地域を探し、そこに移住を始める。しかしその一方で、彼らは自分たちのものを好んでいるので、そのために自分たちの生活を犠牲にする。(人件費や税金の安い土地に労働者を求め、貿易で経済資本を成り立たせようとするので、エネルギー、農産物自給率が下降する。)人間との関係七つの大罪や復讐が普通に行われる。人々はお互いに強い憎しみをあからさまに示すようになる。法は忘れ去られていく。人々は正当化できない殺人について考え始め、そしてそれが悪いことだと考えなくなる。性 欲は社会的に容認されるものと見なされ、性 行為こそが人生において最も必要なことであると考える。善意が衰えていき、犯罪が飛躍的に増加する。人々は直後に破るためだけに誓いを立てる。人々は酒と薬物に溺れる。男は自分たちの仕事のストレスが大きいことを自覚し、仕事から逃亡するためひきこもる。グルはもはや尊敬されなくなり、彼らの弟子たちは師を痛めつけようと試みる。彼らの教えは侮辱され、カーマ(官能的な欲望)の信奉者は全ての人間から心の制御を奪い取る。バラモンは学ばれることも尊敬されることもなく、クシャトリヤは勇敢ではなく、ヴァイシャは公平でなくなり、シュードラは正直でなく、彼らの義務や他のカーストに対して謙虚でなくなる。(この国でいえば、バラモンは教師などの先生といわれる職業。クシャトリヤは官僚や警察や消防などの公務員全般の職業。ヴァイシャは会社の社長や経営者など資本家の職業。シュードラは労働者一般。それぞれが、悪徳に走っている。)バラモン - Wikipediaクシャトリヤ - Wikipediaヴァイシャ - Wikipediaシュードラ - Wikipediaこのように、この国はカリユガを地でいっているわけだが、だからして、支配者の堕落ぶりさながら、人間の徳性の道徳も腐敗し、宗教観も銭儲けに走り、結婚観も銭儲けで、巷には偽メールのごとく詐欺が横行しているわけなんである。端的にいえば、人類が悪魔に操られ、対立し、論争し、闘争し、戦争する時代といえるだろう。だから、あらゆる関係が金儲け銭儲けの対立を生む源泉になり、実際に銭ゲバのウインウインの関係などといわれたりしているが、そのような関係を与えているのが、ルシファーやらアーリマンやらの悪魔たちであるのに、全てが物質界においては目くらましされているので、気づいていない。Win-Winの関係とは?【意味・使い方をわかりやすく】実現方法 - カオナビ人事用語集 (kaonavi.jp)ウインウインの関係は利害だけではなく満足を意味するというが、あくまで満足というのは精神性からくるもので、多様的な価値観を生み出す必要があり、勝利のウインとは、利益を物量的に求めている獣性にあり、人と人とが対立し、世代間対立を生み出している根拠となっているわけで、そもそも勝ち負けを判定している段階で、物質界ではありえない非現実的な理想である。宗教観がカリユガし、冠婚葬祭にウインウインの関係を持ち出すにつれて、物質界では非現実的な、悪魔による獣性に、人類が目覚め、踊らされていくにつれて、純粋に精神的な神聖から遠ざかり、結婚観も非現実的な敷居の高いものになり、若者が物量的に脱落していく現実が、少子高齢化として現れてくるわけなんである。そして、物質文明下での、若者の結婚観は、バブル略奪資本経済とともに、期待感が増殖し、派手で見栄えがいい獣性の名誉欲と虚栄心を満たす商品と化していき、株価の水準と連動し、結婚自体が投資となり過剰な期待から、実体物量経済が追い付かなくなり、結婚詐欺やら、不倫の横行などで、一気にバブル崩壊と共に、株価と連動し、結婚から離婚へと転じていく。そして、いまは、実体物量経済を電子化する事で、ルシファーの獣性を、アーリマンの確率統計へと先送りすることで、仮想株価の略奪資本電子経済をネット構築でつくりあげて、人工知能のAIで運用している。全てはアーリマンの計略にハマっている。そのうち、人間も結婚も電子化されていくのかもしれない。しかし、それは正真正銘の人間ではなく、人間かのような人工人間で、株価のように資本略奪経済のなかでの電子人間でしかないだろう。さて、このように結婚観も、カリユガし、悪魔の支配の下に、男女対立する関係になりつつある。それも結婚観が株価のように資本投資化したためと考えられる。そのうちに離婚を損切りなどと言い出す輩が出てくるだろう。損切りもできない離婚は死んだも同然と言い出すだろう。例えば、米国のセレブのなかでは、結婚は、離婚時の慰謝料請求のために行うというような、まるで投資家の投機と同じような実態となっている。つまり、結婚が、獣性化を通じて、完全に金銭の如く、物質化してしまっているのに気づかされる現代の結婚観が、悪魔により与えられた獣性により物質化してしまい、精神的な退廃から、対立を生み出す源泉になってしまい、詐欺や破壊的行為と化してしまっているので、少し前の、例えば、平成の若者たちは結婚を夢見て、期待し、裏切られた報いから、令和の現代の若者たちは、結婚に絶望を感じてしまい、乗り越えられない高い壁を感じて、躊躇してしまうので、少子高齢化に進んでしまうわけなんだろう。シュタイナーによれば、カリユガの時代は、既に20世紀に終焉を迎えたという。だから、人間が、キリストが与えた本来の自我性に目覚めたなら、結婚の意味を、物質性から霊性への、本当の創造性への神聖へと回帰できるはずなんである。現代の結婚観は、若者に金銭的な絶望に近い拘束閉塞感を与えているが、例えば、巷で話題になった、期待するよりも期待される人間の、大谷選手の結婚のように、精神性で、期待される人間へと回帰する必要がある。つまり、カリユガにより物質性に過度に傾いた結婚観を、精神性を回復する事で、バランスを回復させる必要があり、シュタイナーは、人智学をして、霊性の回帰を説いているわけなんである。本来、少なくとも、結婚とは、地上での霊能力の保持のために、神聖を失わないため、神々とのつながりを保持するため、宇宙の進化に沿う為の創造性の愛のメッセージを受け取るために、行われた神的行事なんである。だから冠婚葬祭は全て神事で、神降ろしのために行われてきた。古代エジプトのピラミッドも、日本の伊勢神宮も同じ神事の施設なんである。結婚を神社仏閣で行うのは神事の形骸化にすぎない。神とのつながり、絆を、古代インドでは、ヨーガと呼んだが、宗教を英語でリリジョンというのは、再結合の意味をもつからである。だから、ヨーガもリリジョンも、同じ神とのつながりを求める行為で、広義の結婚の意味なんである。だから、カリユガの時代とは、悪魔の獣性により、神とのつながりが隠されて、遠ざけられる人類の進化段階を意味しているわけなんである。それは、人類が神から生まれて、自立して、キリストによる個人的な自由の意志で、神の子から、神へと一歩づつ、自我の赤ちゃんが、神から与えられたバランス感覚を身に着け、そのバランス感覚を新たに宇宙にもたらし、宇宙のバランスを期待するよりも、宇宙からバランスを期待される死から不死の永遠の存在になるためである。結婚とは、ヨーガの一種であり、外なる獣性を払拭し、内なる神とのつながりを認識する、霊性への覚醒なんである。だから、結婚に際し、獣性を諦めないと、外から内へのつながりを確保できず、物質界から、精神界へと次元移動できない。何事もバランス感覚が重要である。結婚とは、実は見える存在のなかに、見えない存在とのつながりをみつける旅なんである。最近の科学でも、宇宙が多次元時空の、平行宇宙になっているのがわかっている。素粒子物理学でいえば、物質界とは、正負のエネルギーが釣り合ったバランスされた物質空間の世界である。この固体のバランス感覚を、人間に覚醒意識として、与えているのが、四大元素霊の、土の精霊といわれるノームである。パラレルワールド - Wikipediaノーム (妖精) - Wikipediaノームの親玉の大親分、マフィアの頭目なのが、アーリマンである。だから、ノームは太陽光の光とは逆に、負のエネルギーで重力を操っている。人智学では、地球の原型は正四面体で、その4つの辺に分布する地球の隙間から、太陽光の熱を大地のノームを操ったアーリマンが吸収し、重力を操作することで、火口から熱を吹き出し、地震が起こされる、のを解き明かしている。素粒子レベルでも、光から対電子生成が行われているように、上にあるものは下にもあるが如く、宇宙はフラクタル構造になっているが、大は小を兼ねるように、マクロからミクロは解されるが、その逆のミクロからマクロは解されない。だから、ミクロを解するには、マクロの世界を、見えるものを解するには、見えないものを解する必要がある。結婚は物質界を解するのが目的ではなく、本当は見えない世界の、四大元素の世界と、悪魔の魔界と、神霊の精神界を読み解くための、人間の赤ん坊の自我を育てる初歩段階にすぎない。だから、愛を求める自我ではなく、愛を与える自我にならなくては、見えるものばかりをみていては、結婚は失敗に終わるだろう。神との目には見えない絆、愛のつながりを求めるために、結婚に際し、キリストに誓うのである。互いが、目の前にある男女もしくは精神的な対極にある物質的存在の奥に、バランスのバランスの精神的な神聖を求めて、愛の誓いを立てるのは、人類の進化に沿った必然なんである。ホンモノの愛は、物質的な死によって、物質的なつながりに目隠しされ、切り離されるものではなく、だからこそ、結婚に際しては、キリストなどの宇宙意識の名の下に、永遠の愛を誓いあうのである。宇宙全体から祝福されてこそ、永遠の絆の証として保障されるわけなんである。神聖な愛の証がなければ、結婚には何のいかなる効力もない。獣性に目覚めるだけなら、ただ虚しいだけで、マヤカシの物質的な奴隷生活へと化するだろう。現代人の結婚観は、株価の投資欲と変わりがなく、虚しいものでしかない。だからして、この国のカリユガに拘束される連中と共に滅んでいくだろう。滅亡から再生に向かう為に、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 魂の中にある、この気配は、地上の人間の生へと次第に近づいてきたが、実際に、この気配の不確かさというか、苦しみ、もしくは苦痛などは、地上で暮らす、どの魂にもお馴染みだが、次の講演「魂のなかの隠れた深層(潜在意識のなかの真相)」(GA61)で取り上げるつもりである。 どの魂にも、お馴染みな、この気配というか、状態は、魂の深部=潜在意識を支配しているが、苦しみをあまり生じさせない場合、魂の表面=覚醒意識に向かって上昇してくるが、直接気がつくことなく、しばしばその周辺を巡るだけにとどまる。現代人は、高次意識の知性では、この気配に気づかずに、魂の深部の、苦悩として担っている。 「憧れを知る者だけが、苦しみを知る」という、ゲーテの詩「ウィルヘルム・マイスター」の言葉を思い出すかもしれない。この言葉は、漠然としているが、魂の奥に隠された苦悩と共に、苦しみの感情を伴う、「憧れ」をよく捉え、魂の奥底の気配を表現している。それは、魂が、様々な熱望から、苦闘するだけでなく、実際に、魂のなかで、憧れが絶えず気配として生きている、のを解き明かしている。 古「土星」から「太陽」への進化において、精神に生じた事象を、魂で追体験するなら、この魂の特別な状態、つまり、高次の努力に向けて舵を取り、苦闘し始める際に現れる状態に注目すべきである。この状態は以前、第2講の「太陽紀の霊視」で、諦めや犠牲の本性を、魂の追体験から描き、明らかにしたものである。 そこでは、「喜んで与えること」、もしくは「自我の成長のために諦めること」とでもいえるような精神的出来事に還元し、そして、それから生じるような叡智から、人間が、将来、何を達成できるか、を見てきた。太古の状態から進化し、地球の現状に近づくほど、現代人でもまだ追体験できるような魂の状態に接近できる。 しかし、これまでの前世などを含んだ魂の表層は、地上的な肉体のなかに挿入され、覆われていることで、その表面下を流れる、隠れた水の流れのように、憧れの、深海の魂の表面の、最上層のように横たわっているのを、明確にすべきである。 魂のなかに、前世などの隠れた経験がある、のに気づかないでいられるだろうか? 人生は、そのような隠れた経験がある、のを十分に教えてくれる。 この隠れた魂の経験を明らかにするには、例えば、7才か8才辺りの子どもがする様々な経験を考えてみる。実際にやってもいないことを問い詰められ、不条理な経験をするかもしれない。子どもはしばしば、このような不条理さに対して特に敏感である。 しかし、その子が、やってもいないことをやったとし、その子を叱って問題を丸く納めるのが、周囲の大人たちにとって都合がよい場合もある。実際に、子どもは、このような不条理に苦しめられるのには特に敏感である。 しかし、この不条理な経験が、子どもの魂に深く食い込んだ後、歳を経るに従って、魂のその上層に、更なる経験が付け加えられ、少なくとも日常生活上では、その不条理な経験は忘れ去られていくものである。 恐らく、そのような不条理な出来事は、全く同じ形では生じないが、その子が15歳か16歳の若者になったとき、例えば学校で、新たな不条理を経験するとする。すると、波打つ魂の奥深くに眠っていた子どものときの不条理な出来事が呼び起こされる。 この若者は、子どものときの経験が思い出として作用しているのを知らず、実際、子どものときとは全く別の考えや概念に至るが、もし、子どもときの出来事が生じてなければ、帰宅して、多少の涙を流し後で、多少の不満を言ったりするかもしれないが、すぐに立ち直るだろう。 ところが、子どものときの出来事のために、その出来事さえも知らずに、まるで静かに見える水表面下に、下から上へと流れが押し寄せるように、かつての不条理な経験が、魂の表面下に働きかける。そして、そのような経験がなければ、多少の涙と不平、愚痴で済んだはずのものが、ついにはその若者に自殺という結果をもたらし得る! このように、魂の深みにある隠れた経験が、奥底から表面へと上昇し、その役割を果たす。そして、この深みを支配する最重要な、潜在意識下の力とは「憧れ」なのである。
2024年04月17日
コメント(0)
ニュートン力学の生みの親アイザックニュートンだったと思うが、子どものとき、周囲のものに、自分の名をとにかく書きたがり、自分のものにしたがったという伝記の逸話が残っている。ウイキペディアにも載ってないので、真偽は定かではないが、いかにもニュートンらしさを示しているエピソードにもみえる。ニュートンが科学の発展を100年遅らせた?!存在を消された科学者・フック|もうひとりの偉人伝|こざきゆう/真山知幸 - 幻冬舎plus (gentosha.jp)現代人は、物質界に親しみ、そこに名を刻み、いわば自分史の記憶を記念として打ち立て、その履歴を下に活動し、物質界のなかに、自己を確立していく。それは大自然のなかに、記念碑を立て、人類の足跡を残し、人類史を構築していくのと同じである。大自然の過酷な環境、ときには南極に旗を立てたいと思うのも、自己顕示欲の為せる業といえるかもしれない。ニュートンを代表としなくても、物質界に生きた証拠を残したい、という名誉欲や功名心、虚栄心は、現代人が持つ第一の特徴といえるかもしれない。現代は唯物論による物質文明の時代で、太陽光を通じて覚醒意識で、物質の運動を記述し、時間感覚を身に着け、生活環境から、生きるという自我感覚を体験し、記憶として整理し、知的生命体の人間として生の経験を積んで、現代人として生きている。我々現代人は、現代のなかを運動しながら、動的に生きているのだが、覚醒意識の感覚では、静的にしか捉えられない。いわば、仏教観のように、動的な乗り物に乗りながら、その瞬間瞬間を静的に経験している。例えば、還元論を使って、人間を素粒子のネットワークとしてミクロ化していくと、ファイマンダイアグラムのようなエネルギーの挙動の総体として、人間が成り立っているのが、現代的な理念から解き明かせる。いわば、人間は、大自然との共生による相互作用から、自分を知的生命体として切り取って、認識し、時間と共に経験し生きている。ある意味、人間は大自然からつくられた詩といえるかもしれない。ファインマン・ダイアグラム - Wikipediaそこで、立ち止まって考えると、現代人を生かしているものとは何か?現代人は自己を認識する事で生きているのだから、自己の認識を成さしめているものとは何か?現代風にいうならば、自己のエネルギーはどこからくるのか?大自然でいうなら、小さな川が大きな河に由来するように、自己のエネルギーが、親族のエネルギーに、また民族のエネルギーに由来していくのだろうか? 川の流れを、血のつながりに譬えれば、そうなるだろうが、血とエネルギーとは、若干意味が異なる。人智学では、現代をポストアトランティス時代のアーリア文化期と呼んでいるようである。しかし、シュタイナーの講義録の日本語訳本をみると、アーリアという言葉は使わずに、ほとんどが第5文化期としている。シュタイナー自身も命名には拘らずに、説明の便宜上で仮につけているらしく、第5文化期をゲルマン文化と呼んだりもしている。そこで、アーリアとは何か?とググってみると、トゥーラーン=ツランに由来するのがわかる。ツランは、かつてイランの北東の中央アジアにあったらしい。そして、古代ペルシャにおける、ツランとイランの対立から、アーリマンとアフラマズダ=キリストの対立の、ゾロアスターの教えが浮かび上がって来る。アーリア人 - Wikipediaツァーリズム - Wikipediaそして、ツランはツァーリズムとして、現代のロシアに影響を及ぼしているのがわかる。歴史は繰り返すといわれているが、古代ペルシャでのかつてのツランとイランの対立が、現代のゲルマンとスラブのロシアとの対立に波及しているのが、アーリア文化期の特徴から明らかになる。そこで、古代ペルシャでのツランとイランの対立を、このブログで、約10年前に紹介したが、ほとんど忘れてしまっているので、再度、紹介してみたい。 ☆ ☆ ☆「ツラン(トゥーラーン)民族 高橋 巖:訳」の要約 ヘブライ民族の使命を理解するには、人類の進化を、なにより一層深く霊視する必要がある。著書『神秘学概論』や連続講義の中で素描した事象を、更に詳しく読み解く必要がある。 少なくとも、古代アトランティス時代の破局(大洪水)の結末を、簡単にでも取り上げなければ、人類の進化に対して、ヘブライ民族の関与を正しく理解できない。 古代アトランティス時代の大破局が、後に、地上に大変化をもたらすようになったとき、当時、古代アトランティス大陸に居住していた人々は、西から東へと移住していった。この移動には、基本的に、2つの大きな流れがあり、北方の移動と、南方の移動である。 従って、古代アトランティス居住民による大きな民族移動の1つは、北方のヨーロッパを通ってアジアにまで渡って行った。 従って、カスピ海周辺の地域を考察すると、古代アトランティス居住民による、この民族移動がどのような形で行われたかがほぼ理解できる。 一方、南方の別の流れは今日のアフリカを横断した。そして、アジアで、いわば2つの水流が衝突し合い渦となるように、この北方と南方の2つの流れに一種の合流が生じた。 その際、特に関心をひく出来事は、古代アトランティスから東方へとつき動かされていった様々な民族、もしくは少なくとも、その主要部に相当する魂の様子が、全体として、どのようなものであったか、ということにある。 実際、ポスト(後)アトランティス時代の初期の人々の魂の様子は、全体として、その後の人々、特に今日とは全く異なっていた。 移動した全ての民族において、環境を、霊的に知覚する能力がまだ存在していた。当時の人は、霊的存在を、ある程度、見れて、現代人が物質として見ている存在を、霊的な形で見ていた。 従って、当時の人々は見霊的な生活様式や、見霊的な魂をもつ人間だった。 しかし、特に重要なのは、ポストアトランティス時代の根源的な住民の見霊能力が古代アトランティス時代の最盛期の頃の住民の見霊能力とは異なっていた、ということにある。 古代アトランティス時代の最盛期の人間において高度に存在していた見霊能力は、純粋な形で霊界を見ていたので、霊界の啓示は、人間の魂に善への衝動を生じさせていた。当時、霊界に深く参入できた人は、それだけ善への衝動をより深く得ていた。 霊界をより深く見れるほど、善への高次の衝動を獲得していた。 しかし、古代アトランティス時代の大体3分の2が過ぎた頃、特にその後のポストアトランティス時代になると、古代の見霊能力の善なる側面は次第に消えていった。 秘儀参入の場で特別の修行をした人たち(秘儀参入者)だけが、古代アトランティス的な見霊能力の善なる側面を保持していた。 対照的に、自然(遺伝的)な形で、古代アトランティス的な見霊能力を受け継いだ人たちには、誘惑の悪の力と遭遇するようになった。当時の人間の見霊能力は、善なる力だけを見るのに十分な力強さを、保てなくなった。 そして、人間には悪しき存在、すなわち誘惑する存在だけを見ることが残された。ポストアトランティス時代の特定の居住地域には、善から全く離れた見霊形式が普及するようになった。見霊能力自体が一種の誘惑者になった。 (スターウォーズでいえば、フォースの暗黒面に堕ちたというところだろう。ダースベイダーの誕生だろう。) 今日の人間が通常もつ感覚的な知覚能力は、古代の見霊能力の衰退と結びつき、次第に発達してきた。 (ジェダイが衰退するとともに、悪の皇帝が出現する。ヨーダーはヨーガ「ヨガ」を類推させる。) ポストアトランティス時代の初期の人間が見ていた事物は、今日、現代人が通常の眼で見る事物のようには、当時は全く誘惑(=詐欺)的ではなかった。なぜなら、誘惑されるような魂の傾向が、まだ当時存在しなかったからである(騙され難かった)。 今日の現代人なら、欲しくてたまらなくなるような外(物質)的な事物があっても、当時のポストアトランティス人はあまり惑わされずにいた。 にも関わらず、当時の古代とは劣る見霊能力が覚醒したとき、当時の人間の心は激しく揺さぶられた。霊界の善なる側面を見ることがほとんどなくなり、その際、ルシファー的、アーリマン的な悪霊的な存在が、強い力で働きかけた。 従って、当時の人間は、誘惑者、欺瞞者となり得るような働きだけを、見霊能力により体験した。もし、古代アジアの後に、古代ギリシア、ローマが続かなかったら、今日のような人類は決して生まれなかっただろう。今日の人類は、個人的(パーソナル)な、1人1人別個の個性に基づく人類である。 古代東洋の個性、すなわち古代東洋の人類は、今日のような1人1人別個の個性に基づく存在ではなかった。1人1人は、自らを、絶えざる神的存在のプロセスの1分岐と感じていた。 (日本人の感性に近い。天皇を神的存在とみなし、天皇の行為の1分岐を、自分の宿命と感じている感性である。日本人の名前の姓が、歴史的には、天皇から派生し、由来していることからもわかる。) 神々は地球の進化に対して、意図をもって様々に意志したので、地上で様々な出来事が起こった。神々は、人間の意志のなかにインスピレーション(霊聴力=波動)を与えながら、働きかけた。これまで述べ、示唆してきた力強い人物たちが、東洋で行ったこと全ては、神々のインスピレーション(霊聴力=観音力)だった。 神々が意志し、人間が、行為した。そして、古代の世界では、秘儀とは、神々の意志と、人間の行為とを正しい軌道に導くのを命題としていた。 エフェソスにおいて、はじめて状況は変化した。これまで述べてきたように、エフェソスでの秘儀の入門者(参入者)たちは、(秘儀に参入するのに)もはや季節の経過ではなく、自身の成熟度(徳性)を拠り所にせざるを得なかった。 エフェソスにおいてはじめて、最初の個性というべき痕跡が現れてきた。過去生(前世)の受肉におけるアリストテレスやアレクサンダー大王も、当地で個性の衝動を受け取った。しかし、古代東洋における秘儀の本質たるべき人間でありたい、という最後の憧れをもつ背教者ユリアヌスの時代、すなわち、古代東洋の秘儀の黎明となるべき時代が訪れた。 人間の魂において、古代ギリシアでさえも存在していた状態とは全く別の状態になる時代が到来した。 エフェソスの秘儀から、例えば、ある魂の状態に到達したような人間をイメージしてみる。エフェソスの秘儀だけでなく、エフェソス当時を生きたことで、その人間の魂は、ある状態に到達した。 例えば今日、通常言われるように、現代人が、(記憶から)体験を思い出すとき、何を思い出せるか? 現代人は、生まれてから、個人的な体験を思い出せる。ある年齢の人がいる。その人は20年前、30年前の体験を思い出せるが、内(精神)的な記憶の想起は、個人的な人生を越えていくことはありえない。 しかし、例えばエフェソスの文明に参加していた古代人の場合は、現代人とは全く異なっていた。エフェソスで達成した魂の状態の僅かな痕跡を獲得しただけで、古代人は、全人類(民族)の体験を思い出した。 今日、現代人が、個人的な人生の記憶を浮かび上がらせるように、古代人は、地上以前の生存や出来事を、魂のなかに浮かび上がらせ、例えば、地球の進化に先立つ(太古の)月進化、(太古の)太陽進化、といった出来事が、自然の個々の領域のなかに、浮かび上がった。 (例えば、植物や動物をみて、その昔の姿が思い浮かぶ。現代人は、いまある姿しかみえないが、古代人は、例えば、植物の花をみて、同時に種子がみえ、植物の昔の形もみえる。動物も、どんな動物から進化してきたのかがみえる。) 当時の古代人は、自らの内(精神)を覗き見れて、そして、宇宙的な存在や、人間と宇宙的存在との結びつきや、いわば人間のなかの宇宙的存在への依存を見つけた。当時の古代人の魂のなかに生きていた体験は、自己意識の成長過程や、宇宙的進化というべき宇宙意識を伴った自己認識だった。 つまり、次のような結論に到達する。 エフェソスで宇宙の秘密を体験できた時代が存在した。当時は、人間の魂が、太古の宇宙を思い起こすことができた。このいわば自己意識の誕生以前は、太古の宇宙のなかに実際に生きる(神と共に生きる=天国の)体験ができた。そのうち、太古の時代を、束の間に覗き見る体験だけが残った。 ギルガメッシュ叙事詩が語る時代では、すでに、太古の宇宙に対する人間の体験そのものが魂の状態ではなくなっていた。当時は、当時を現在とする太古の体験を記憶にもつ魂の状態であった。 そして、アレクサンダーから背教者ユリアヌスへと至る時代が到来した。さしあたり、この時代を先送りする。次いで、中世や、近代の西欧文明が育ってきた時代へと至る。この時代にはもはや、太古の宇宙に対する人間の魂のなかの体験も、当時を現在とする太古の体験の記憶もなく、残されていたのは(形骸化した)伝統だけだった。 第一:太古の(直接的な)体験 第二:太古の宇宙に対する(間接的な)体験の記憶 第三:伝統 当時の古代人は、出来事を記録でき、歴史が生じた。この記録による「歴史」は、ローマ時代に始まった。 ゴルゴダの秘蹟前後の圧倒的な違いを考察すべきである! エフェソスの秘儀への入門者(参入者)たちの時代を霊視してみる。当時、歴史的な書物は必要なかった。出来事を書き留める等は、当時の古代人にとっては滑稽にみえた。というのも、精神集中し、霊視すれば、意識の底から、過去生じた体験が浮かび上がってきたからである。 (現代人の記憶力と同じで、若い時にはそのまま覚えれたのが、老化して記憶が衰え、メモが必要になるのと同じ) このような体験を心理分析して描写する現代の心療医師などはいなかったが、魂のなかに生きる記憶から過去に存在した体験を取り出してくるのは、当時の人間の魂の歓喜に通じた。 (一時期、前世療法という心理分析が行われたが、この古代人の魂の歓喜に通じるものなのかもしれない。) エフェソスの時代以降、人類は、上記のような体験を忘れてしまい、かろうじて、出来事を記録せざるを得なくなった時代になった。 しかし、古代の人間の魂のなかの、いわば宇宙的な記憶力を、人類が退化させて行かざるを得なかった、この期間に、つまり、世界の出来事を記録し、歴史の記述云々という、人類が不器用にならざるを得なくなった、この期間に、逆に人間の内部では個人的な記憶力や個人的な記憶(想起)が発達した。 どの時代にも独自の使命や独自の課題が存在する。 ここで、以前述べた、時間的な記憶が登場した、という説明の別の面が現れる。この時間的記憶の最初の揺籃期の地は古代ギリシアだったが、この記憶は、その後、ローマ・ロマン文化を経て、近代にまで至る中世へと発展してきた。 そして既に背教者ユリアヌスの時代に、この個人文化への前兆が芽生えたが、これを証明しているのが、背教者ユリアヌスは、エレウシスの秘儀への参入を受け入れたけれども、もはや彼には何の役にも立たなかった、という事実である。 さて今や、西洋の人間は紀元前3、4世紀から現代に至るまで、地上の生活の間、霊界の外で生きる時代となり、単なる概念や理念、抽象論のなかに、それを糧として人間が生きる時代となる。古代ローマでは、神々でさえ、抽象的存在となる。 もはや人類が、霊界との直接的な活きた関係に全く無知な時代がやってきた。もはや、地球は、上層にある様々な天の最下層の領域であるアジアではなく、地球自体が、1つの(閉じた)世界となり、様々な天は遥か遠く、人間の観照のなかで薄れていった。 (ソクラテスが無知の知を説いた霊界への無知の時代がはじまった) そして、次のような結論に達する。 「古代ローマ文化として西洋に到来した叡智の影響の下に、人間は個(人)性を発達させる。」 霊界では、上位の霊の国に接し、下位に魂界があるのと同じように、時代の推移に従って、西洋の文明、いわゆる一種の魂界も、霊的な古代東洋の世界の下位に接している。そして、西洋文明という魂界が、本質的に直接、現代の日常にまで、入り込んでいる事実が明らかになる。 しかし、今日の人類の大多数が、いまだに大きな転換が、実際に進行中である、という事実に気づいていない。このような話を聴いた友人が、時代が過渡期に直面している、という事実について述べるのを好まないのを、人智学徒はよく知っている。なぜなら、どの時代も、(過去の時代の)過渡期であり、すなわち、過去の時代から後(未来)の時代へと常に、過渡から移行しているからである。 問題はただ、時代の転換期に、どのような移行が起こっているのか、ということである。けれども、これまで述べた事実は、この移行が霊の国から魂界へ、そして、魂界から物質界へ至る、というような事実である。 今まで発展してきた文明のなかには、常に、ある種の霊的な反響があった! 唯物主義(マテリアリズム)のなかですら、ある種の霊的な反響が漏出していた。様々な分野での本質的な唯物主義は、19世紀半ばになりはじめて出現してきたもので、まだ極めて僅かの人間にしか、完全な唯物主義の意味は理解されていない。 しかし、唯物主義は巨大な力をもって今日存在し、今日の時代は、第3の世界への過渡期にあたり、前の古代ローマ世界が、古代東洋の世界と違っていたように、現代は、この古代ローマ世界とも全く違う第3の世界への過渡期である。 さて、古代アトランティス大陸没落後に東へと渡っていった人々は、様々な進化の過程を辿った。その進化を辿る人間は、東へ向かう程、より道徳的になり、霊的に高次になった。そして、外なる対象世界は、新しい世界として益々はっきりと眼前に現れてきた。 外なるその世界は益々偉大なる存在、壮麗なる存在として人間に働きかけるようになった。この傾向は、東へ移る程、益々強くなった。特に、上記のような傾向を強くもっていた民族は、例えば、今日(1910年)のインドよりも北方のカスピ海やオクソス川、ヤクサルテス川に至るまでの地域に居住していた民族だった。 このアジア中央部には、後に様々な方向へと移住していった民族の源流となる集団が居住していた。その民族集団は、人智学者が、しばしば霊界認識に基づいて語ってきた古代インド民族の源流でもあった。 アジア中央部の、この民族の大集団のある一部の民族においては、古代アトランティス大陸の没落後まもなく、没落の過程で、既に外なる現実(物質)界に対する感覚が非常に強度に発達していた。しかし、この民族の場合でも、この地域に生まれた人の心には、かつて古代アトランティス世界で体験してきた前世の思い出が、一種の記憶の認識として生きていた。 後にインドヘと下りていった民族のある集団には、この傾向が特に顕著に現れていた。この民族集団は、外界の素晴らしさを非常によく理解し、外に対する知覚内容の観察にかけては、最も進歩していたが、同時に古代アトランティス時代の霊的な知覚内容も強く前世の思い出として残っていた。 従って、この民族には、前世として思い出せる霊界への衝動が強く発達していた。霊界の中への参入が容易である一方で、外的な感覚が示す存在はマーヤ(幻)であり、幻想である、という感情を合わせもっていた。 従って、特別に外界を観察するのではなく、古代アトランティス時代に直接霊界から得た前世の記憶に、到達するために、ヨーガという人工的方法などを駆使した。 外界をマーヤ、もしくは幻想と観じ、代わりに霊的な存在に到ろうとする衝動だけを発達させる特質は、古代インドより北方の地域に移住する民族の場合には、それ程顕著ではなかった。その北方民族は、悲劇的な状況下にあった民族の集団で、歴史上は狭義のアーリア人と呼ばれるペルシア人、メディア人、バクトリア人など、北方の様々な民族のことである。ペルシア人、メディア人、バクトリア人などは外(物質)的な直観と外(物質)的な知力を非常に発達させていたが、古代アトランティス人が生まれつき持っていた霊能力を、(古代インド人のように)一種のヨーガのような内的修行によって獲得しようとする衝動は、それほど強くなかった。 これらの北方民族には(前世の)活き活きとした記憶力があまりなかったので、外界の幻想を認識により克服するために、太古の前世の思い出を修行に置き換えようとはしなかった。 古代インド人のような魂の様子(状態)は、これらの北方民族にはなかった。これらペルシア人、メディア人、バクトリア人等の北方民族に見られる魂の様子(状態)は、今日の言葉をかりれば、次のような感覚だった。 「かつて人間は霊界の中で、霊や魂的存在を直観し、体験していたが、今、物質界の中に移され、物質界を眼で見、脳と結びつく知性で理解する理由は、人間側だけにあるのではない。克服すべき対象を人間の内部だけでは克服できない。内部だけで克服しようとしても、何も変わらず、起こらない。」 また、古代ペルシア人は、次のように語った。 「人間が地上に降下したときの変化は、人間だけに生じたのではない。自然を含む地上の全てが変化した。だから、人間が周囲の事物をそのままに放置すれば、全てが幻想で、マーヤ(幻)なのだから、人間だけが霊界へ上ることを願うだけでは不十分である。内部だけを変えた場合、自分は変わるが、周囲の世界全体が変わるわけではない。」 従って、古代インド人のように「外にはマーヤ(幻)が拡がっている。自分は、このマーヤを乗り超えて、霊界に到達する」とは、古代ペルシア人は考えなかった。 「人間は周囲の世界と結びついている。人間は周囲の世界の一分岐である。高度な神霊界から下りてきた人間の中の神的な存在を変化させるべきなら、人間の中だけを、元の存在へと変えるだけでは許されない。周囲の世界も、元の存在へと変えなければならない。」 上記のことが、北方の民族(古代ペルシア人)に、世界を作り変える為の衝動として、力強く働いた。 古代インド人は、「世界は堕落した。今、(周囲の)世界が示しているのはマーヤ(幻)である」と考えた。 北方の民族(古代ペルシア人)は、「確かに世界は堕落したが、人間が、世界を変化させて、再び霊的な存在にまで高めなければならない」、と考えた。 認識について考察することが、古代インド民族の基本的性格だった。感覚的知覚の内容を幻想、もしくはマーヤ(幻)と呼んだら、もう十分だった。 自然の中に存在する外的な存在を作り変えようとする意志や行動力や外に対するエネルギーが、ペルシア他の古代の北方民族の基本的性格だった。 「周囲の事物は神的存在から下降してきた。しかし、人間はそれらを再び、神的存在に導き、戻す使命を受けている」と、北方民族は語った。 基本的には、古代ペルシア(北方)民族の中に既にある上記の性格が、秘儀を伝授された霊的な指導者たちの場合には、最高度に高められ、最大のエネルギーで充たされていた。カスピ海の東側と南側で生じた事柄を完全に(外的にも)理解するなら、それよりも北側で生じた事柄、つまり今日(1910年頃)のシベリアまで至るロシアと境を接する様々な地域や、ヨーロッパにまで拡がる様々な地域で生じた事柄とを比較する必要がある。 当時、カスピ海の東側と南側に居住していた民族は、高度に太古の霊能力を保持していた。そして、その東と南の民族において、太古の霊的な知覚能力と、新しい感覚的な直観や悟性的思考とが、或る点において釣り合いがとれていた。 その民族の大部分は、まだ霊界を見ることができた。この霊視能力は、この民族のある集団では、既に低次な段階に堕落し、「低次のアストラル界の霊能力」になっていたが、この霊能力の特徴を考察すると、人類の進化全体にとっても無視できない悪しき結果が生じている、のに気がつく。 この霊能力を備えた民族は全く特別の人間になった。その民族は特別な性格を身につけた。この特別な性格は、この霊能力をもっていた様々な民族集団の場合、特に顕著に見られる。 そのような民族は、本質的に、生きるために必要なものを、周囲の自然環境に求めようという衝動をもっていた。そして、必要なものを、自然から奪い取る以外には、できるだけ何もしようとしなかった。 要するに、今日の感覚的な人間が、植物や動物などの存在を熟知するのと同じ確かさで、植物や動物などの種全体の中に、神霊たちが存在するのを熟知していた。なぜなら、霊視により、神霊たちが見れたからである。 また、この民族は、神霊たちが強力な霊として、物質の背後に立っている事実を知っていたので、神霊たちと親しくし、あまり労働をしなくても、自分たちが置かれた環境の中で細々と暮していけるように、神霊たちに配慮してくれるように要求できた。 (自らで働いて生活費を稼がずに、消費者金融に借金して生活するようなもの) このアストラル的な見霊能力をもった民族の気持ちや考え方に関しては色々なことを話せるが、今は、そのうちの1つだけを述べるにとどめる。 いま考察している当時の時代では、堕落しつつある見霊能力を備えた上記の民族集団は、全て遊牧民族だった。定住せずに、遊牧民として放浪し、どんな場所にも特別の愛情を寄せることなく、大地が提供するものを、特に大切にもせず、生活するために必要ならば、周囲を破壊することも厭わなかった。 この民族には、文化水準を引き上げるために、地球環境を作り変えようとする気などなかった。 上記の民族の基本的性格の違いから、ポスト(後)アトランティス時代の歴史にとって、最重要な事件の1つである、深刻な対立が生じた。 北方の様々な民族、つまりペルシア人、メディア人、バクトリア人と、上記の遊牧民との間に大きな対立が生じた。 ペルシア人の場合は、定住して周囲の出来事にも関心を向け、人間集団としての課題を人間としての労働により達成し、人間の精神能力により自然を作り変えるのを渇望していた。このことが、この地域においては、最大の関心事だった。 ペルシア人の居住地域の北側には、直接、境を接して、霊界を霊視できた上記の遊牧民族がいた。その遊牧民族は、上述したように、神霊たちと親密な関係にありながら、働くのを好まず、定住もせず、物質界で文化的作業を前向きに行うのに、何の関心ももたない民族だった。 ペルシア人と遊牧民の最大の対立は、外面的には、ポスト(後)アトランティス時代の歴史の中で生じた対立であり、霊的には、魂の様々な進化過程の1つの結果として生じた対立だった。 その出来事は、外見的な歴史では、「イランとツラン(トゥーラーン)の対立」として知られた、一大対立であった。 北方地域では、シベリアに至るまで、ツラン(トゥーラーン)民族が存在していた。この民族は、いわば混合体で、上述したように、高度に、低次アストラル(月を起源とする魔界)の見霊能力を備えていた。 霊界での生活が豊かであった為に、外(物質)的文化を創造しようとする傾向や感覚ももたず、人々は、受身的な態度を保ち、民族の祭司たちは、低次の魔術師(黒魔術師)だったので、霊的な事柄に際し、低次の魔術、時には黒魔術さえも行使した。 その南方の古代ペルシアでは、以前から、素朴な手段で周囲の感覚世界を、人間の精神力で作り変えようとする衝動が働いていた。そして、その結果、外(物質)的な文化を生み出した。 この事が、古代ペルシアとツラン(トゥーラーン)の大きな対立となった。 この物質文化の方向性で、最も進歩を遂げた民族が、北からペルシア(イラン)地域まで南下してきたという事実は、神話や伝説の中にも美しく表現されている。 様々な北方の民族を率いて、ペルシア(イラン)ヘと下りてきた伝説の王ジェムシッド(?)をめぐって、次のような物語が伝わっている。 王は地上での使命の実現のため、アフラ・マズダー(太陽)神から黄金の短剣を受け取り。ツラン(トゥーラーン)人という怠惰な大衆の中から、黄金の短剣の力で、叡智に従って体力を行使できるように、様々な自分の民族を作り上げた。 (日本の神話のスサノオの草薙の剣との類似もみられる。) それまでの体力は頽廃していたが、体力を再び発展させて、この世のために精粋を発揮できるようにした。黄金の短剣は犂となって大地を耕地に変え、人類最初の様々な器具の発明を可能にしたが、その後も、力を発揮して、人間が誇りとする様々な全ての文化の成果として、今日に至るまで作用し続けている。 プラウ(犂) プラウ - Wikipedia ツラン(トゥーラーン)からペルシア(イラン)まで移動してきたジェムシッド王が、アフラ・マズダーから、この短剣を受けたという事実には、非常に大きな意味がある。この短剣の力こそが、人間に外なる感覚世界を作り変える力を生じさせたからである。 この黄金の短剣を授けた神は、ツァラトゥストラ、もしくはゾロアスターと呼ぶペルシア人の指導者に霊感を与えた偉大な神でもあった。 (アフラ・マズダーは、天照大御神のことと思われる。アフラは「オーラ」、マズダーは「巨大な」という意味である。つまり、「巨大なオーラ」という意味になる。) ゾロアスターは、太古の時代(アトランティス没落直後)に、聖なる秘儀の叡智の力により、物質文化を人間の精神力で発展させようとする衝動をもったペルシア民族を支配した。 ゾロアスターは霊界に参入できる古代アトランティスの能力を失っていた様々な民族に、霊界への参入に対する新たな展望や、新たな希望を与える使命をもっていた。そのような意味で、ゾロアスターは、人智学徒がしばしば語ってきた、秘儀参入の「道(方法)」を開いた。 それは、人間の小さなオーラとは対照的に、「大きなオーラ」、つまり「アフラ・マズダー」と呼ばれた高次の霊的存在の体が、日光という体である事実を、様々な民族に霊視させる方法なのである。 ゾロアスターが、上記の事実を教えた当時は、まだ地上からは遥かに遠い、この霊的な存在が、いつかは地上に降りてきて、人類史のなかで、自らの実体を、地球に結びつけ、そして人類の救いのために、その後も更に影響を与え続ける、という事実だった。 つまりゾロアスターは、後にキリストとして歴史上を生きる存在を、当時の人々に示そうと預言した。 ここで強調すべきことは、今述べたゾロアスターは、既に古代ギリシア人たちにより、トロイア戦争(紀元前1000年頃と考えられている)よりも、5000年も前の時代の存在と考えられていた。この太古のゾロアスターには後にグシュタスブ(?)と呼ばれた後継者がいた。 ゾロアスターは偉大な祭司として、当時の人々を外なる物質界から再び霊界へと導く太陽神アフラ・マズダーの存在を教えたが、グシュタスブはこの教えを普及させるのに尽力した王だった。 古代ペルシア(イラン)では、ゾロアスターやグシュタスブが与えた霊感や意図は、この古代ペルシア地域の北に隣接する北方の民族(ツラン)と衝突する要因となった。 古代ペルシア(イラン)民族とツラン民族の衝突から、地上で最大の戦争の1つが生じた。一般には、この太古の歴史的事実があまり知られていないのは、あまりにも古い時代(紀元前5000年あたりか)のことだったからである。 ペルシア(イラン)とツラン(トゥーラーン)との間に、凄まじい衝突が生じた。数10年どころか、数100年にも及ぶ、この戦争から一種の緊張感が生じ、その気分はアジアの内陸部に、その後長らく続いた。ゾロアスターの教えを守るペルシア(イラン)人は、次のように自らを語っていた。 「見渡す限りのいたる場所には、神霊から生じた世界が広がっている。世界は、まるで高次の存在から堕落してしまったように現われている。我々を取りまく動物、植物、鉱物の世界全ては、かつては、もっと高次の存在だった。今、頽廃してしまったが、人間は、それらを再び高めようとする希望を抱いている。」 動物を例にあげて、このペルシア(イラン)人の感情の中に生きていた理念を、今日の表現に置きかえてみる。教師が学校で、生徒に語る様な表現で言えば、次のようになる。 「周囲にあるものを見てごらん。それらは、昔はもっと精神的な存在だった。今は堕落し、頽廃してしまっている。 では、狼を見てみよう。感覚を通して見る狼という動物は、堕落し、頽廃している。昔の狼には悪しき特性などなかった。しかし、いまから君たちが、自分の良き特性や精神力を結集させ、今の狼を飼育できる。 この動物に君たち自身の特性を付与して、狼を、君たちに仕える犬にできる。狼と犬は、いわば2つの世界、悪と善の流れをそれぞれ特徴づける存在といえるよね!」 環境に手を加えるのに、精神力を行使する人間たちは、動物を飼育して、動物を高次の段階へと引き戻せた。 これとは対照的に、動物等のために、自分の力を行使しなかった別の人間たちは、動物を、そのまま放任し、放置してきたので、動物は益々堕落していかざるを得なかった。上記の2つは異なる力の働きを現わしている。 上記の二元性の、対極的な力は、次のような意志のなかで働く。 「もし自然をあるがままに放置するなら、自然は益々悪しき深みに沈み、全てが無秩序に悪化し、野生化してしまう。しかし、私が精神の目を、私の信奉する善意に向けることができれば、その善意が、私を助けて、深みに沈んでいく存在を、再び上方へと導けるようになる。私が尊敬する、この善意は、更なる進化への希望を私に与えてくれる。」 ペルシア(イラン)人にとって、この善意の力こそアフラ・マズダーに他ならなかった。ペルシア(イラン)人は、次のように考えた。 「自然の働きを、高貴にする力は、人間が、アフラ・マズダー、つまり上方へと向かうオルムズド(アフラ・マズダー)の力と結びついたときはじめて達成される。しかし自然を、あるがままに放置しておくなら、全てが野生化してしまう。 この野生化は、アーリマン(アンリ・マンユ)により生じる。」 更に、古代ペルシア(イラン)の地域には、次のような考え方が広まった。 「北の地方にも、多くの人間が徘徊しているが、北の人々は、アーリマンの手先である。アーリマンの僕の人間たちである。アーリマンの手下は、ただ世界を歩き廻って、自然が提供するものを受けとるばかりである。自然を再び精神化するために働こうとしない。 しかし、我々はオルムズドの力であるアフラ・マズダーと同盟している。」 ゾロアスターの教えを守るペルシア(イラン)人は、自分たちが感じた善意を、法律の中にも表現した。つまり外(物質)的な律法の中に、上方への衝動を表現することで、生活を整えようとした。 これがゾロアスター主義の外(物質界)に現れた結果だった。ペルシア(イラン)とツラン(トゥーラーン)の対立を、上記のように見るべきである。 秘教学史の多くを、正確に報告する、アルジャスブとグシュタスブの間の戦争、つまり、ツラン(トゥーラーン)人の王と、ゾロアスターの守護者との間の闘い、そして北と南の対立でもある、この戦争が、ペルシア(イラン)でもツラン(トゥーラーン)でも、その両地域の気分として継続していった事実を、知る必要がある。 この闘争が理解できれば、どんな魂の働きが、ゾロアスターから、全人類にまで流れ、広がっていったのか、を知ることができる。 ☆ ☆ ☆ というように、以前紹介したポストアトランティス時代の最初の対立を再紹介したわけだが、現在の石油を巡る中東紛争や、ロシアのクリミヤ侵攻にはじまるウクライナ侵攻の根底にも、ツランとイランの対立からはじまっているのがわかる。シュタイナーは、ツランとイランの対立が、ゾロアスターのアーリア文化を通じて、スラブ文化とゲルマン文化の衝突として現代に現れる、のをいわば預言していたわけで、その背後には必ず、人類の進化を巡って、霊的な対立が隠され、それがルシファーアーリマンの堕天使悪魔連合と、キリストの善天使聖霊連合であるのを、人智学で説いてきたわけなんである。 現代人は動的ななかで、静的に生きているが、静が動から生まれる視野を失ってしまい、質量やら時空やらといった、可視の存在しかみえなくなり、それら可視の存在がエネルギーから動かされるのを知りながら、エネルギーをいわば静的な保存則としてしか考えられないので、同じ人間を動かしているエネルギーを、精神的に捉えられなくなっている。それはいわば暗闇のなかで、必要のないメガネをかけるようなものである。科学が生み出した自然法則とは、明るい日の出の下で、はじめて意味をもつメガネにすぎない。陰と陽のエネルギーがバランスよく保たれた環境の下で、はじめて、見渡せる幻影の世界なのである。現代人は、知らぬ間に悪魔に3Dメガネをかけさせられているだけにすぎなく、そのなかで、お互いに戦わさせられている。いわば悪魔にブリンカーをかけられた競走馬にすぎない。騎手を選ぶ能力さえもない。善き騎手の導きにより、競走馬は、勝利を得ることができる。競走馬はレースに勝ち、人間との信頼が深まり、互いに愛情も深まるが、人間の場合は、人生を乗り越えて、宇宙の進化に沿って、宇宙を遥かに見渡せる善の能力を獲得するのが、宇宙の愛につながる。不可視のエネルギーのなかに、バランスをとるバランスの愛の本性が隠されている。宇宙の進化はバランスよりなりたっているので、質量と時空はエネルギーによりバランスされているわけなんである。何のために、戦うのか、人間は何により動かされているのか? 戦いには憎しみだけがあり、憎しみのなかには、名誉欲や虚栄心が深く隠れている。そこに愛の入り込む余地はない。深く考えないアホ馬鹿地獄を抜けだそう! 馬鹿の壁ならぬ、馬鹿の地獄の世界から自らを解放し救うのは、自らの愛の能力だけだからである。ただし、愛の能力の開発には苦痛や苦悩が伴う。創造性の恩恵には苦痛や苦悩が伴うからである。善と悪は表裏一体なのだから。
2024年04月11日
コメント(0)
大谷選手がドジャースに移籍してから、野球からサッカーに転向していたスポーツ観戦が、子どものときの野球少年時代が蘇ってきて、青年時代に古館氏のスポーツUSAを通じてバレンズエラのドジャースに魅了された懐かしい思い出として、大学受験時代から、野球観戦が遥か彼方に宇宙戦艦ヤマトのイスカンダル星の如く遠のいていたのだが、今年年頭から、能登震災などの天変地異やら裏金議員の暗躍やらロシアはデスラー総統のようなプーチンがウクライナにガミラスばりの侵攻するわで、放射能除去装置ならぬ、不幸除去装置が必要とばかり、大谷夫妻を古代守と森雪にみたてて、宇宙戦艦ヤマトの波動砲を、大谷のホームランに模して、ここ一カ月は、ドジャース一色の野球観戦漬けになっている。古舘伊知郎 - Wikipedia(20+) Facebook宇宙戦艦ヤマト - Wikipedia暗雲立ち込める、この国の現状が、まるで宇宙戦艦ヤマトと敵対するガミラスに侵攻され放射能塗れの地球のように感じてしまうのは、なぜだろうか? 毎日暗い詐欺盗難ニュースが盛り沢山のなかで、唯一の救いといえるのが、大谷翔平のホームランなんである。その大谷選手が、長年二人三脚で歩んできた通訳に裏切られた経緯をみると、野球界のキリストのように感じられてしまうのである。シュタイナーは、レオナルドダビンチの最後の晩餐には、悪が善から生まれた由来が描かれ、それは、中央のキリストと、その近くのユダにある、と述べているが、大谷と通訳の関係が、キリストとユダのように思えてしまうのはなぜだろうか?「最後の晩餐」とは?レオナルド・ダヴィンチの名作や意味・裏切り者の謎 | thisismedia (thisisgallery.com)さて前回は、男と女の違いから、生と死の輪廻転生を紹介したが、善が最善となるには、悪が必要で、宇宙の進化には、悪が善から生じる可能性が必要で、キリストとユダの関係が、大谷と通訳の関係にも現れ、大谷が更なる進化を遂げるには、通訳の裏切りが必然だったようにも思えてくるわけなんである。それは例えば、人体にも甲状腺と副甲状腺があり、正と負のアクセルとブレーキの関係を保っているのでわかる。シュタイナーは、甲状腺は、思考を言葉につなげる人体器官だと述べている。甲状腺が喉頭の声帯を覆う形で人体に配置されているのは、思考を声帯の言葉につなげる役割を果たしているわけなんである。甲状腺が肥大すると、思考が言葉に追いつかなくなり、馬鹿になるという。甲状腺が出すホルモンが発見されていない18世紀の昔は、外科手術により取り除かれていたが、一緒に副甲状腺も取り除いてしまっていたので、機能不全に陥り、亡くなってしまっていたという。現在は切除も一部で、全摘出しても、ホルモン投与でそのようなことはない。甲状腺機能亢進症について | メディカルノート (medicalnote.jp)手術後の合併症について|甲状腺|名古屋大学医学部附属病院 乳腺・内分泌外科 (nagoya-u.ac.jp) 前回紹介したが、甲状腺と副甲状腺はいわば毒と解毒の関係にあるといえるかもしれない。甲状腺の機能が亢進し、思考を超えてしゃべりすぎて毒舌にならないように、副甲状腺が、もっと考えてしゃべりなさいよ、と解毒しているかもしれない。副甲状腺機能亢進症 - Wikipedia端的にいえば、甲状腺が言葉のアクセルで、副甲状腺が言葉のブレーキといえるかもしれない。或いは、大谷がしゃべったことを通訳が適度に要約する関係に似ていたといえるかもしれない。正と負の役割分担ともいえる。役割分担が全体としてバランスがとれたなら理想だが、互いに暴走すると、分裂してしまう。裏切り者のユダは、キリストを皇帝にしたかったが、キリストは人類の自主的な進化のために望まなかったので、キリストを役人に差し出して、逮捕に協力し、裏切る。似たように、通訳は、大谷のカネを当てにし、野球のみならず金儲けに走るが、大谷は金儲けに興味がなく、野球に専念したいので、通訳はギャンブルにハマり借金を返すために、大谷を裏切る。両者は、裏切る側と裏切られる側の役割分担からなっている。恐らく、前世からの因縁なのかもしれない。前世からの因縁から役割分担がなされ、カルマの解消が果たされるからである。役割分担といえば、ロールプレイングゲームが思い浮かぶ。RPGといえば、ドラクエが代名詞といえるだろう。ドラクエの裏切りといえば、ラスボスに、「もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを ○○○○に やろう。」と裏切りの誘いをされる最後の誘惑である。この裏切りへの誘惑はキリストへの荒野の誘惑を髣髴とさせる。ロールプレイングゲーム - Wikipediaドラゴンクエストシリーズ - Wikipedia【もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを ○○○○に やろう。】 - ドラゴンクエスト大辞典を作ろうぜ!!第三版 Wiki* (wikiwiki.jp)荒野の誘惑 - Wikipedia ☆ ☆ ☆第二の試みそれから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」— ルカによる福音書4章5節から8節(口語訳) ☆ ☆ ☆ラスボスの裏切りの誘惑は、キリストへの悪魔の誘惑とよく似ている。このキリストを誘惑する悪魔は物質悪魔のアーリマンである。アーリマンは、地球が太陽だったときの太陽紀の進化からの脱落者で、ルシファーは月紀の脱落者である。そして、現在の地球紀の人類からも脱落者が出て、それはアスラと呼ばれ預言されている。どことなく、デスラーという言葉にも似ている。ググると、デスラーは、「死の太陽」という意味らしいから、アスラというよりも、太陽紀で死んだ悪魔アーリマンといえる。デスラー - Wikipedia阿修羅 - Wikipedia地球紀の現代人のなかから、人類を裏切り、アーリマンの配下に加わる者が、進化から逸脱し、次の木星紀には進めずに、脱落し、アスラとなる、とシュタイナーに預言されている。スラブ文化やスラブ民族主義者から、悪魔アスラとなる脱落者が生まれる、と預言されているので、恐らく、プーチンら独裁者であろう。人類の進化のための役割分担、ロールプレイングのために、民族主義者は悪魔のように進化から脱落し、更なる進化を推し進めようとする人類の敵対者や妨害者となる、と預言されている。それはまるで、巷の老害といわれている人物をみればわかるだろう。面白いことに、最近巷の動画でみたのだが、霊能力があるのか、美輪氏は、安倍元総理が悪霊に憑りつかれ、悪魔の仲間になってしまったのを悔やんでいるのがわかるらしい。プーチンに関わった連中はどうやらアスラと化していくようである。だから、以前紹介したように、ヨハネの黙示録の預言とも符合するが、人類は悪人と善人に二分されていくようである。ちょうど現在は、ゲルマン文化期からスラブ文化期の移行期にあり、物質悪魔のアーリマンの傘下に加わって物質兵器で戦争し、精神を蔑ろにした人物は、輪廻転生から逸脱し、無間地獄に堕とされて脱落者となるようである。スラブ民族主義のまま、遅れていくと、人類と敵対する悪魔となっていく、永遠のユダヤ人ならぬ、スラブ人となっていくようである。自民族に固執する者は自民族によって物質的に破壊されるのである。民族を超えて人類を進化させるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー真相から見た宇宙の進化Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen (GA132)第4講 霊視から読み解く月紀の地球の内面の姿ベルリン 1911年11月21日佐々木義之訳改訳 -------------------------------------------------------------------------------- これまで地球の進化を読み解くのに困難な内面を、つまり、外見の感覚界の背後に横たわる精神の現実を霊視するのを学び、実際に読み解いた。とはいえ、感覚界の背後に、特徴のある精神が実際に存在するという真実は、外見からはわからないので、魂のなかで実際に経験する必要がある。 そして、現在の外見の背後に、精神的活動や性質、特徴を持つ存在がいる、のを認識できるようになった。例えば、覚醒意識による日常生活のなかに、温かさ、熱、もしくは火として現れるものは、その背後にある精神的な存在による、犠牲の表現であるのを知った。 そして、空気として現れるなかには、ある宇宙的な存在によって、「与えられる徳」が認められる。そして、水の背後には、「諦め、拒絶」と呼べる精神的存在がいる。 太古の宇宙観においては、外的、物質の内の背後にある精神的な存在は、現在よりも遥かにすみやかに直感され、認識された。このような証拠として、日常的に使う「スピリット」という言葉が、魂の意味というよりも、いまでは揮発性の高いアルコール類に用いられることからわかる。 人智学徒は、魂の、精神的な意味には、「スピリット」を用いるより、「スピリチュアル」を好んで用いる。しかし、物質界では、一般的に、「スピリチュアル」という言葉を、精神的な現実、もしくは感覚を超えた霊的な存在には、ほとんど使わない。かつて、ミュンヘンのスピリチュアル=精神主義協会に宛てられた手紙が、ミュンヘンのアルコール飲料協会本部に届けられたことがあった。 話を戻すと、今回は、地球の進化が古「太陽」から古「月」にまで進んだときに生じた、重要な出来事について見ていく。この出来事から、また別種の精神的な進化を考察する。 以前の講義で取り上げた拒絶という行為から始める。以前、精神的な存在たちが、この拒絶、もしくは「差し控える」という行為の中で、犠牲を受け取る機会を諦めるのを見てきた。 ある存在たちが、意志を捧げたいと望み、一方で、高次の存在たちが、それを差し控える行為により、この意志を拒むのを霊視すれば、この意志は、拒絶され、捧げたいと望んだ存在たちと共にとどまざるを得なかった、という精神的な概念に到達できる。 だから、宇宙の進化のなかには、犠牲を捧げる準備、意志を献身的に捧げる準備ができているのに、それが受け取られず、拒絶され、自らの内にとどめなければならない存在たちがいる。 また別の言い方をすれば、これらの存在たちは、 その犠牲の拒絶により、もし犠牲を捧げられたなら、高次の存在たちと結びついたのに、できなかった。聖書の記述のなかの、カインとアベルの対照的な場面は、この「拒絶された犠牲」の意味が、多少強調された形だが、擬人化され、歴史的象徴となっている。 カインもまた犠牲を神に捧げたかったのだが、その犠牲は神の喜ぶものとはならず、神はカインの犠牲を受け取らなかった。一方、アベルの犠牲は神によって受け取られた。ここで注目したいのは、その犠牲の拒絶を知ったときのカインの内的な経験である。 この出来事の理解を高めるには、日常生活のなかだけで意味を持つ考えを、高次の領域に持ち込んではならない。犠牲の拒絶は、日常生活の欠陥や悪行から生まれたと解釈するなら、間違える。高次の領域での振る舞いは、日常の生活で知るような罪や贖いなどでは言及できない。 なので、犠牲を拒絶した、高次の存在たちの、神々の観点から見なければならない。言い換えれば、高次の存在たちは、犠牲の受け取りを差し控え、譲り渡しただけに過ぎない。以前の講義から読み解いた、魂のなかには、何らの欠陥や失敗もない。 むしろ、諦めや拒絶は、偉大で意味深い、不死なる存在を包含している。とはいえ、犠牲を受け取ったケルビムのなかに、トローネの犠牲を拒否したケルビムとは、反対となるような精神的な特徴が始まる気配が、確かに生じるのが感じ取れる。 なので、この反対の気配が、例えば、カインの場合のように、後の時代の、我々の前には、より強調され、増幅された形で提示される。カインに見て取れる気配を、「太陽」から「月」へと進化できた存在たちには見つけられない。この存在たちには、反対の気配はほとんどなく、カインとは全く比較にならない。 また信頼できる形で、この気配を知るには、以前の講義で行ったように、自身の魂の中を覗き込み、自分の魂のなかの、何処に、そのような気配が見つかるのか、そして、どのような魂の状態が、そのような気配、つまり、犠牲を捧げるのを拒絶された精神のなかに生じた気配、に相当するのか、と問わなければならない。
2024年04月10日
コメント(0)
ヒトはなぜ異性を求めるのか?誰しも考えたことがあるだろう。自分に無いものを求める、新しい未知の経験を求める、性差を超えた一体感を求めたいなど、様々な答えがみつかるだろうが、その根底には、世の中がプラスとマイナス、陽と陰、生と死等の二元性=双極性からつくられる現実がある。令和の男女から昭和の男女をみると、総じて、昭和のルックスが大人びてはいるが、反面老けていて、男女の差が割と明確だったのがわかるだろう。つまり、裏を返せば、性差がだんだんとなくなり、中性化しているのに気づくはずである。昭和に「転校生」という男女が入れ替わる話があったが、男女の差がなくなり、中性化していけば、そのような昭和の物語も、また別の話へと変わっていくかもしれない。転校生 (映画) - Wikipedia昭和は、リボンの騎士やベルサイユのばらのような、女性が男性の振りをして活躍する物語が、ある意味、男女の性差を明白に表現し、非現実なファンタジーの世界を演出していたが、令和では、昭和には男性しかいなかった職場にも、女性運転手や女性自衛官など、女性が進出し、また、かつての女性の職場にも、男性看護師や、男性客室乗務員など、ジェンダーフリーが唱えられる現代では、男女の性差も次第になくなりつつあり、リアルな世界となってきている。リボンの騎士 - Wikipediaベルサイユのばら - Wikipediaそれに伴い、聖書のソドムとゴモラの物語のように、金銭欲や物欲に塗れた、ホストやホステスといった性差の特徴を際立たせる職業はいずれ消滅していくだろう。ウイルス感染は人類への警告のようにみえる。金銭欲や物欲が進むほど、性差が退廃的になっていくからである。ソドムとゴモラ - Wikipedia人智学では、人間が地球に生まれるのは、新しい経験を獲得する為と解き明かしている。だから、前世とは異なる経験を獲得するために、現世に産まれてくる。カルマの法則は、この異なる経験の獲得を保障し、前世の行為を、現世で結果として補完する。例えば、前世で誰かを殴れば、現世で誰かに殴られる、という経験、因果の法則、因縁を保障する。だから、お釈迦さんは、善因善果、悪因悪果と説いた。善因善果(ぜんいんぜんか)とは? 意味・読み方・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書善因善果、悪因悪果 | 臨済宗大本山 円覚寺 (engakuji.or.jp)善因善果・悪因悪果・自因自果(ぜんいんぜんか・あくいんあっか・じいんじか) | 成田山 東京別院 深川不動堂 (jugem.jp)ヒトは、新しい経験を獲得するために、地球に産まれてくるので、前世の善因、もしくは悪因が、現世の善果、もしくは悪果となるが、前世と現世では同じ善や悪でも、全く異なる状況となる。地球がより進化した状況で、因縁を受け継ぐので、善も悪も地球の進化とともに変化する。昔は良かったことが、いまは悪いことになり、逆に昔は悪いことが、いまは良いことになるので、善悪の判断は時代に応じて移り変わる。例えば、昔は男らしさ、女らしさが良いとされたが、いまは、性差を問わない、ジェンダーフリーの中性が良いと変化しているわけで、巷も肉食系から草食系の価値観にかわりつつあるのがわかる。時代の移り変わりに、アップデートできない価値観の押し付けが老害とされる。シュタイナーは、特別な事情がない限りは、続けて同じ性に産まれないと述べている。だから、前世で男だったら、現世は女で生まれ、前世で女だったら、現世は男で生まれくるという。何より新しい経験を獲得するために生まれてくるのだから、昔と今で、男女も異なってくる。だから、昭和の男女と令和の男女が異なってくる。大正や明治、江戸や戦国時代と、時代に応じて男女も変わってきたのは、日本史を学べばわかる。例えば、昔の男女はふくよかな肥満気味のほうが美しいとされた。昔の美人絵をみればほぼデブである。武将だってデブっている。古代ローマ人も現代からみればデブだらけで、まるでアメリカ人のようである。だから、昭和が老けているようにみえても時代の変化にすぎない。昭和の時代感覚を、現代からみれば、男尊女卑が強いが、このブログで紹介している八切史観からわかるように、戦国時代までの庶民は、女尊男卑の感覚が強かったらしい。江戸初期の春日局の権勢や、関ヶ原の戦いが、秀吉の正室おねと、妾茶々の戦いと裏で語られていたことからもわかる。徳川幕府が潰れたのも、大奥の無駄使いが原因と大久保一翁に嘆かれてもいる。つまり、時代に応じて、男女関係も変わっていくわけで、昔は一夫多妻制もなかば跡継ぎ問題で公認されていたが、現在は一夫一婦制になっている。人智学によると、物質界に適合するために、男女の性差が生まれたという。霊的には男女の差はなく、中性で、霊は両性具有である。霊魂が肉体に受肉する状態によって、偏りが生じて、男女の差が生まれる。神智学では、物質性をネガティヴ、霊性をポジティヴと呼んでいるが、男性は、中性よりもネガティヴの物質性に傾いて受肉しているために、筋肉が発達し、肉体の左側が優位になりやすいので、左利きのアスリートが多くなりやすい傾向をもつ。対照的に、女性は、ポジティヴの霊性に傾いて受肉しているため、精神性が発達し、宗教や占いを信じやすい。面白いのは、傾向からいうと、女性の左利きのアスリートは稀少価値があるかもしれない。日常生活は、右利きの道具が多いので、逆に、女性の左利きアスリートは特殊能力を発揮しやすい環境にあるといえるかもしれない。左利きの女性の特徴とは?手の使い方や性格、能力について - mgram性格研究所男女の差は、物質界に適応するため、主に肉体の物質性に負っているので、アスリートなどが物質性、つまり運動性を高めようとすると、自然と左利きになっていく。逆に、精神性を高めようとする場合は、人体の右側が非物質のエーテル性に負っているので、自然と右利きになっていく。地球に近い側は左側で、宇宙に近い側は右側なのである。心臓が左側にあり、胃や脾臓なども左側にあるのは、人体の腹部が栄養摂取の物質性に依存するからである。神智学では、古代人は、盲腸から栄養を吸収していたという。人間は物質性を帯びるほど破壊力に目覚めるので、筋肉が発達し、覚醒意識に負いやすく、自我が目覚めてくる。所有欲から、自我に目覚め、エゴが生まれる。それはいままでの自分にはない、新しい未知の経験を物質的に獲得することで、新しい自分を獲得していく作業といえるかもしれない。しかし、死後に、物質性から生じた自我は、永遠の不死なる霊性ではないので、宇宙から拒絶され、彷徨えるユダヤ人のように、自分探しの旅に時間と共に出ていかないといけない。時間と共により新しい自分となるための経験を獲得するために、人間は、地球に生まれる。それは、「わたし」という自我の蛇を新しい経験から育て、脱皮して、生まれ変わるためといえるかもしれない。さて、人智学によれば、男女の差は人間がエーテル体をもったときに生じ、それは古代レムリア時代で、はじめは女性化に向かったという。古代神のほとんどが女神像なのは、かつては女性しかいなかったからである。やがて月紀が終わり、地球から、月が分離したときに、人間が肉体を持つに至って、男性が生まれたという。だから、ネガティヴに傾いているのが、男性で、ポジティヴに傾いているのが、女性なんである。ヒトは、女性の体に過去をみて、懐かしさを感じ、男性の体を未来にみて、新しさを感じる。ヒトそのものは中立で中性なのである。物質界に適合するために、偏っている。だから、仏像は中性につくられている。古代の祭司の衣装は、過去の女性の体に似せてつくられたのは、月紀の人類が女性形だったからである。女性形といっても、当時は、肉体ではなく、エーテル体だったので、現代の肉体で表現するために、衣装で仕立てた。ややこしいのは、現代の地球では、エーテル体と肉体の性差が逆になることで、男性の肉体には、女性のエーテル体が、女性の肉体には、男性のエーテル体が宿り、中性を保つところにある。だから、肉体の外見が女性なら、中身の気性は男性なのである。外見と中身が逆なので、唯物論で、性差を捉えると、中身を混同する。女性の外見から中身も弱く見がちとなる。しかし、最近の物質科学でも、女性の方が生物学的に頑丈で、痛みに強い、のがわかっている。昔から、女性の方が気が強く、気性が荒く、女心と秋の空といわれるように、天気のように、女性の気持ちはかわりやすく、昨今では、「低気圧女子」という言葉もある。現代の、女心とは、肉体の外見が女で、その心だから、昔の霊視でいえば、中身の気性は、男心になり、現代は、外見を基準にしているのでややこしいが、天気のように変化に富むほうが、柔軟性があるので、生物的に多様で、愛情が深いので、強い。「低気圧女子」が急増中! 悪天候と女性のカラダの関係 | 健 康[最新記事一覧] | Predeli Style[プレデリスタイル]-暮らしを賢く、おいしく、シンプルに女心と秋の空とは女性の気分が移ろいやすいこと|意味や由来、言い換え表現など | Oggi.jp物質は固い方が強いが、精神は柔らかい方が強い、アベコベの関係、鏡像の関係がある。だから、価値観もどちらに重きを置くかで異なってくる。時代に応じて価値観も相対的に変わってくる。柔よく剛を制すの、柔道は、精神を意味する。柔らかい精神は、硬く剛い筋肉の肉体を動かすという意味になる。霊的な意味で、柔らかい精神を、男心と呼び、緊張を弛緩でき、技を駆使できるとしている。つまり、柔道とは、肉体の完成ではなく、精神の完成を意味している。禅と同じである。だから現代風の外見重視のルッキズムでいえば、古の男心は、外見の肉体を基準にすれば、女心ということになる。ルッキズム - Wikipedia昔は外見の肉体から性差を判断するのではなく、気性や精神から性差を判断したので、男心と呼んだのだろう。だから、現代のルッキズムでいえば、女心になるからややこしい。現代人は外見から判断し、外見に囚われているから、悪魔に騙されやすいわけでもある。どんなものにも仏性や神聖が宿っているから、外見ではなく、その外見をつくっている本体の仏性や神聖をみて判断しなければいけない。このように時代と共に、男女の性差やまた表現もアベコベにまで変化するので、何が善で何が悪なのかも、時代に応じて変化するので、なかなか判断が難しい。要は価値観というのは相対的で、時間と共に新しく生まれ変わるので、価値観も人間と共に輪廻転生していくわけなんである。しかし、男女の性差が移り変わっても、互いの違いを認め合う、愛し合うのが、老化を阻止する、若返りの秘訣であるのは変わりがない。前回紹介したように、性ホルモンが、若返りの不老不死のクスリであるのは、新しい経験を獲得するために、地球に生まれ、活動する生の営みに起因している。ヒトを愛する事が若返りのクスリとなり性ホルモンを人体内に分泌するように、人間は実は不老不死のクスリを半ば手に入れている。灯台下暗し、というか、それは、睡眠である。寝る子は育つ、といわれるように、ヒトは寝ている時に、創造され、構築される。将棋の千日手のように、何度も同じ手や、似たような経験をしていると、水が澱んで腐敗汚染するように、新しい経験を獲得できずに、人体も老化していくわけなんである。人間は、起きている時には破壊活動しかできない。破壊活動は、新しい経験を獲得するためにはじめて意味がある。神智学でいえば、ネガティヴをポジティヴに変換していくために、悪を善導するためにはじめて意味がある。しかし、破壊活動はやりすぎると、解毒できずに、毒に染まってしまう。悪を善導するどころか、悪に染まってしまう。権力を手に入れると、権力に染まってしまう。解毒するために、人間には睡眠が必要で、睡眠中に、仏性や神聖を取り戻す。人智学では、人間の自我とアストラル体は、睡眠中に、肉体とエーテル体を残して、霊界に旅立つのがわかっている。代わりに、天使たちがやってきて、肉体とエーテル体のメンテナンスを行い、解毒能力を授けるという。だから、人体は、睡眠中に再構築される。天使たちは、その人間の前世のカルマに沿って、エーテル体と肉体を再構築するので、霊界から戻ってきた、その人間の自我とアストラル体にとっては、人生の指針となる。そして、起きる前の夢のなかで、今日起こる予知夢を予め知るという。次第に人類は夢を思い出せるようになっていくという。男女の性差がなくなり、中性へと霊的になっていくにしたがい、前世もみれるようになっていく。というのも、男の前世は女で、女の前世は男だったからである。つまり、結婚とは互いの異性を知るためにあり、そこから、前世を思い出すためにある。そして、新しい経験を、地球で獲得し、新しい自由な愛に目覚めるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 無意識による芸術は過去のものとなった。人智学により、息を吹き込まれる、意識的な芸術は、進化の初期段階にある。過去の芸術家は、芸術の根底の宇宙秩序を知る必要はなかった。しかし、未来の芸術家は、再度、不死が描き出す力によって、知らなければならない。 知的な、物質科学により、芸術を表現しようとする人は、それを理解しないが、この講義で展開した、犠牲、与える徳、犠牲の拒絶などの概念によって、その言葉の細部にわたり、その言葉から湧き出てくる考え方、イメージを経験するなら、人智学による芸術が理解できる。 宇宙の進化を、抽象的な概念で表現できると信じるなら、絵に描いた餅となるだろう。しかし、犠牲、与える徳、諦めのような生き生きとした概念で感じるなら、直接、魂のなかに現れてくる。 この3つの言葉の、文字の向こうにある存在を、見通せなければ、幻想のままに止まる。しかし、この文字の向こうの、犠牲、与える徳、拒絶の生き生きとした概念を見通したいなら、犠牲を捧げるトローネ、ケルビムに供儀を送る天使たち、犠牲の煙を拒否する天使たち、大天使から反射された光を受け取る天使たちなどのイメージを、芸術として自分で描く必要がある。 次の「月」紀の考察へと進めば、その絵画が生き生きと、より豊かになるのが経験できる。雲の塊が集まり、液体となり、「月」の塊として、さざ波を立てるのを、そして、それに、セラフィムの魅了する光が加わるのが経験できる。そのとき、我々は、完全な理解に達するように努めなければならない。 これについては、次のように言っておきたい。 人類は、将来、外界で、外界のために、アカシャ(虚空)年代記のなかに読み解ける事実を表現するための意識的な芸術を創出するだろう。
2024年04月05日
コメント(10)
先日またエジプトのピラミッドの番組をみたが、相変わらずソクラテスの無知の知を知らない現代人のやることに呆れてしまった。理系馬鹿と文系馬鹿が組んでも現代の物質知の先入観にとらわれていては何をしようが無意味に終わるだろう。番組によると、ミュー粒子の観測を用いて、ピラミッドに未知の空間があるのを発見した、というのだが、その空間が何を意味するのか不明で、金銀財宝やファラオの死体があるのではと目論んでいるというのである。せっかくミュー粒子が未知の空間に集積しているのを発見しておきながら、その意味に触れないのは、やはり文系馬鹿と理系馬鹿の寄せ集めでしかないのを象徴している。物質的知識は豊富だが、所詮それは破壊的知性にすぎない悪魔の知性なんである。ミュー粒子 - Wikipedia例えば、ミュー粒子が、未知の空間を通じて、集積しているのなら、ミューニュートリノはどうだろうか?はたまた電子やタウ粒子はどうだろうか?と考えるのが素粒子物理学的な読みだか、考古学に囚われているために、そのような発想に至らないのが現代人の知性の性というべきだろう。そもそもピラミッドを解明するには、現代の学問を一教科修めても知識足らずで、少なくとも、リベラルアーツの自由七科を修めないうちは、猫に小判だろう。リベラル・アーツ - Wikipediaピラミッドは、宇宙と人間の仕組みを読み解くいわば図解であるのを何度も紹介してきた。それを読み解くにはそれなりの知識が必要で、一人生で習得可能な学問による知性では不可能で、何度も輪廻転生を必要とし、全ての学問に習熟する必要がある。さて、巷ではサプリ問題が相変わらず騒動となっているが、ピラミッドの未知の空間のように、人間が物質だけで生きていないのを象徴する事件といえるかもしれない。昔、読むクスリという本があった。感動話が盛り沢山の本だと記憶しているが、人体を動かしているのは、人間の心である。だから、心を正常に動かせば、自然に人体も正常に働くという意味で、心のクスリの本だったように記憶している。いわゆる心のサプリメントである。人それぞれの好みがあり、読書だけでなく、精神のため、こころのためのサプリは、人生に色々と散りばめられている。上前淳一郎 - Wikipedia人生には多種多様の心のサプリが隠されている。しかし、現代人は物質現象しか五感で捉えられないので、第六感が働かずに、物質的な運動の背後にある精神的な運動を見逃しがちで、人間がロボットやコンピュータでないのと同じように、物質的な栄養だけを摂取していても、精神的な運動、つまり感動を生じさせない。昔の日本人が呼んだ本当の意味での気配りができていない。気の利いた科白やウイットに富んだ受け答え、思いやりなどである。感動させる作品は心のサプリといえるかもしれない。だから、あながち、物質的な運動のなかに、愛はあるんか?と某消費者金融のCMのように問答するわけではないが、実はそこに灯台下暗しといえるような不老不死のクスリの意味を説くカギが眠っている。物質文明では解決できない精神的文化が隠されている。例えば、聖書が読むクスリとなるのは、キリストの行為が読者に感動を与えるからである。ドラゴンボールの作者がつい最近亡くなって、世界的な追悼となったのは、ドラゴンボールが世界的に感動を与え、読むクスリとなって、いわゆる元気玉を与えたからだろう。「感動」というと、個人的には、巨人の星の感動キャラの伴宙太を思い出し、漫画の世界だが、伴にとっては、星飛雄馬が、心のサプリになっていたといえるかもしれない。感動を与える人は心のサプリを与えている。漫画やアニメの世界は、感動キャラを通じて、子どもに多くの感動を与える心のサプリになっている。伴宙太 - Wikipediaそして、心のサプリの延長上に、ピラミッドの未知の空間、つまり不老不死のクスリについての鍵がある。先日、よく見るバラエティ番組の、「にけつッ!!」と「私のバカせまい史」の両番組で、不老不死について面白い話を知った。「にけつッ!!」は、千原ジュニア氏とケンコバ氏のトーク番組で、IKKOさんの爆笑エピソードを披露していた。にけつッ!! - Wikipedia私のバカせまい史 - Wikipediaその話とは、IKKOさんは女性に憧れ、女性になりたいために、どうしても自分の肉体にある男の象徴、男根が邪魔で気になるので、植物を褒めて育てる逆の意味で、四六時中、男根を罵倒していたら、豆のように小さくなったという。つまり、内的にホルモンを調整し、恐らく女性ホルモンのエストロゲンを精神的に上昇させたと考えられる。シュタイナーによれば、肉体を制御するのが精神なので、精神さえ強化すれば、心のサプリ=クスリと同じように、ホルモンも調整できると説いている。そもそもホルモンとは、自らの精神による心のクスリであり、勿論、外から物質的にエストロゲンを血中に摂取する方法もあるが、それだと所詮精神が伴わないので、物質的に耐性になり、麻薬のように、依存症になってしまい、いずれリバウンドして効かなくなる。また、「私のバカせまい史」では、古代からの不老不死のクスリを探求した人物で紹介していたが、古代人が不老不死のクスリに、錬金術の古代の意味で、水銀に求めたのを、現代的に、物質的に捉えてしまっているので、つまり、古代の水銀を、現代語の物質の水銀と捉えてしまっていたのがバラエティの限界といえた。古代の水銀とは、水星の意味でもあり、燐と塩を仲介する存在で、人体のなかでは、水の液体を意味する。人体の60~70%は、水なので、古代人が水銀と呼んでいた液体の水なのだが、現代人が呼ぶ、物質的な水ではなく、霊的な水の液体なので、アリストテレスの四大元素霊の水で、ヘラクレイトスが万物は流転すると説き、タレスが万物の根源は水と説いたように、物質的にも精神的にも、人体を流転させ、居つかせない心の動き、絶えず目まぐるしく変容し、運動する、人智学でいうところのアストラル体の純化、エーテル体の元気を保つ事を意味する。だからピラミッドの未知の空間を現代的に解釈するのと同じように、水銀を物質的にサプリやクスリとして摂取しても毒になるだけなんである。水銀という金属が常温でも液体という性質をもつので、常時、精神を液体のように流転させる、という液体の流転の意味で、水銀と呼んでいたにすぎない。古代語をそのまま現代語の物質知で解釈するから、間違えるが、本当の意味は、仏教の不動心と似た意味に近い。明鏡止水の精神ともいえるかもしれない。つまり、精神の意のままに肉体を動かすことである。自我アストラル体、エーテル体、肉体の4つが1つと混然一体で働く、老子の上善如水といえるかもしれない。最高の善とは周囲に感動を常に与える存在である。水は心を洗ってくれる。上善水の如し(じょうぜんみずのごとし)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書「私のバカせまい史」が良かったのは、シュタイナッハの不老不死のクスリの探求を取り上げていたところにある。このブログでも以前紹介したシュタイナッハについてググっても、あまり記録が出てこない。睾丸摘出手術については、ほとんど載っていない。医療の社会史 生・老・病・死 | 医学書専門店メテオMBC【送料無料】 (molcom.jp)植木 是「1937年の文献にみる2つの睾丸摘出事例と精神医療現場――「救治会」機関紙の座談会記録と『脳病院風景』にある「睾丸有柄移植事件」」 (arsvi.com)シュタイナッハが睾丸移植を考えたのは、性ホルモンが若返りのエキスだと考えたからなんである。性ホルモンから、ミュー粒子の集積を連想すれば、古代エジプト人が、電子の第二世代のミュー粒子を性ホルモンの如く、若返りのエキスと考えていた可能性が思い浮かぶだろう。少なくとも、物質を形作る電子の構造からなる肉体だけでない、ミュー粒子の構造体を想定していたのがわかるだろう。つまり、ミュー粒子を浴びるのが、若返りと考えていた節がある。現代のミュー粒子を用いた観測機器などを、既に手に入れ、しかもコンパクトに用いていたと考えれば、古代エジプト人がどうやってピラミッドをつくったのかわかるだろう。モーセが海を割った力の源が明らかになるだろう。ミュー粒子は電子よりも200倍も重いために、電子とニュートリノにすぐに崩壊してしまう。古代エジプト人風にいえば、電子に毒されてしまう、といえるかもしれない。ミュオンとは | ミュオン科学研究系 - KEK IMSS MSLだから、ピラミッドの未知の空間を解き明かすには、なぜ、ヒトは老いるのか?に答えを求めないといけない。現代人が日光浴や紫外線浴をするように、不老不死のために、ミュー粒子浴をしていたかもしれない。分解された電子をニュートリノとともにミュー粒子に戻すために若返りの性ホルモンとして活用していたのかもしれない。ヒトはなぜ老い、死ぬのか?その答えに、シュタイナーは、メチニコフという人物を取り上げて紹介している。澱んだ水が濁り腐るのと同じように、メチニコフは、人間の精神が、周囲の物質に染まり、物質に毒されるのを、人間の老いと解釈した。つまり、メチニコフにいわせると、老いとは、ペンのインクが紙に染み込み文字となるように、人体が、周囲の物質に浸透され毒された結果生じると考えた。イリヤ・メチニコフ - Wikipediaだから、人間は周囲の毒から人体を解放する解毒作用が常に必要と考えた。このメチニコフの考えを発展させると、人間が感動を求めるのは、物質の毒を解毒するためで、物質を超越するためにあり、つまり、物質を積極的に諦める、拒否する精神に到達できる。物質を超越する精神力、つまり、解毒する働き、老化を阻止する働きを、免疫に求めたのである。メチニコフの数年後にシュタイナッハが、不老不死のクスリを求めて、性ホルモンの働きに辿り着く。シュタイナッハは、ラットを用いて、睾丸移植術から、性ホルモンの血中濃度を高め、老化を抑制する外科手術法を考え出し、実際に、人間にも、若者の睾丸から取り出した性ホルモンを血中投与して、老人の老化を2、3カ月抑制したらしい。しかし、いずれにしろ、肉体が、炭素化合物と電子の構造体の、物質で出来ている限り、物質的に、死を乗り越えるのは不可能である。物質は、ミュー粒子が電子とニュートリノに崩壊するのと同じく、崩壊の運命にあるが、精神は死なずに、不老不死であるので、次の肉体を求めて輪廻転生する。つまり、生きるとは、物質をどれだけ解毒し、非物質化させるか、精神的にいうなら、感動を与えられるか、で、不老不死の永遠の天国への階段を上る事ができる。ヤコブの梯子は感動の階段から成り立っている。ヤコブの梯子は、モーセの杖の、兄アロンの杖でもある。ヤコブの梯子 - Wikipediaアロンの杖 - Wikipediaアロンの杖から、ミュー粒子が照射されたかどうかは謎のままだが、神秘学では、解毒の生と、毒の死を、白い蛇と黒い蛇で表している。白い蛇は、愛の力で、黒い蛇の毒を、解毒し救う、キリストの霊化の働きの象徴である。この白い蛇の解毒作用が医学の紋章となっている。ツタンカーメンのマスクの頭部の象徴には、生と死の、解毒と毒の象徴の、ハゲタカと毒蛇が掲げられている。この2つは、古代エジプトでは、不老不死の、つまり輪廻転生の象徴なんである。ツタンカーメンのマスク - Wikipediaハゲタカ - Wikipedia解毒酵素から動物・環境・人の健康を考える | 環境科学 | リサーチタイムズ (hokudai.ac.jp)だから、ピラミッドの財宝とは、人間の不老不死のクスリで、若返りと、輪廻転生の教えなんである。だから、むやみやたらと、侵入するとかえって物欲を求め、老化を早める結果となるだろう。シュタイナーによれば、人間が病気に罹るのは、前世からの因縁であり、つまり前世で解毒できなかった毒を現世に持ち込むためである。前世の毒を現世で解毒するために、人間は感動を求め、生きている。だから、ワクチンなどで、毒を以て毒を制すのでは、本当の意味での、解毒能力、解毒作用を獲得したわけではなく、来世に再び毒として持ち越すことになるという。ウイルスによる大流行が蔓延るのは、かつてのワクチンによる毒で毒を回避した前世に起因するというわけなんである。ホンモノの解毒能力、精神から発する感動がなければ、人生を物質的に生きていても、精神では死んでいるのである。それは真の北斗神拳のケンシロウからいわせれば、お前はもう死んでいる、毒がまわった存在なんである。ひでぶ、といって、死んでいかないために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 最後の晩餐に秘められた本当の意味は、例えば、火星人が地球に降りてきて、見ることになる地球全てを、たとえ、それらを十分に理解できなくても、ある程度、興味深いものにはなるかもしれないが、レオナルドダビンチの手による最後の晩餐の絵を見たなら、宇宙全体の観点から見ても、地球だけでなく、火星についても、そして、実際には、太陽系全体の、つまり宇宙全体の進化の謎が読み解けるだろう。 そして、最後の晩餐によって、「地球」の意義が認識されるだろう。「最後の晩餐」のなかに、地上的な関係で示された事実は、全宇宙にとっても意味がある。つまり、神の不死の力に対抗し、ある力が、不死と対立する位置に置かれたのを示している。 そして、死を克服し、地上で不死の勝利を具体的に示した「キリスト」が証しているのは、時間に捉われた存在たちから、神が自らを区別し、時間に対する勝利を達成し、つまり、不死になったときに生じた意義深い宇宙的な瞬間である。人智学徒がレオナルドダビンチの「最後の晩餐」を霊視すれば、このような全体像が、心の中に感じられる。 「最後の晩餐」を未熟な感性で見る人は、いま述べた地球の意義を理解できないとは言わないでほしい。そのような人が、この意義を知る必要はない。というのも、人間の神秘的な深み、魂のなかに感じられる地球の意義を、知る必要はないからである。 花は、自分が育つ法則を知っているのだろうか? 花は、成長の法則を知らずに育っている。花は自然法則を知る必要がない 神と、その対立者が、目の前で繰り広げる出来事を見るとき、地上で最も高貴で意味深い出来事、つまり、不死と死の分離が、人間の眼前にもたらされるとき、その圧倒的重要性が感じられるなら、人間の魂が、それらを知る必要があるだろうか? 地球の意義を知る必要はない。最後の晩餐という、宇宙の意義を写し出す、この絵の前に立つとき、むしろ、その経験が、不思議な力によって、魂の中に浸透する。その絵を描くために、画家が神秘家である必要もない。ダビンチが神秘家でなくても、レオナルドの魂の中には、この最高の意義を表現できる力が存在していた。 偉大な芸術作品が、力強い効果をもたらすのはそのためである。つまり、芸術作品が力強い効果をもたらすのは、芸術作品が宇宙秩序の意味と密接に結びついているからである。太古の時代には、芸術家たちは、知ることなく、ボンヤリとした意識の中で、宇宙秩序の意義と結びついていた。しかし、また将来において、もし、人智学が、新しい知の体系として、芸術に対する新しい基礎をもたらさなければ、芸術は存続できないだろう。
2024年04月02日
コメント(585)
先週からの巷の大谷騒動は大谷会見でようやく終息に向かいつつあるが、今度は、紅麹騒動が巷を賑わせている。この問題は、改めてパラケルススの箴言「どんなものでも許容量を超えれば薬から毒になる」を教訓として蘇らせる。MESSAGE #01 | 先輩からのメッセージ | 厚生労働省 薬系技官 採用情報 (mhlw.go.jp)ベニコウジカビ - Wikipediaスタチン - Wikipedia筋肉痛はコレステロールの薬の副作用なのか? - 大久保駅前・林クリニック (okubo-hayashi-clinic.com)170861-1-09.pdf (kyorin-pharm.co.jp)コレステロールの薬の副作用、血液検査の必要性について | 天沼きたがわ内科 (amanuma-naika.jp)コレステロール降下薬(スタチン)ほど、高齢者を苦しめている薬はない 動脈硬化予防を目的に、多くの高齢者に処方されている ところが、スタチンの副作用で腰痛、大腿部痛、頭痛、物忘れ、めまい 下肢筋力低下によ|悪魔の代弁者 (note.com)宇都宮市の猪岡内科によるコラム。糖尿病、生活習慣病、高血圧が気になる方へ (inooka-naika.com)薬の副作用は怖い | 「柿茶」柿茶本舗ブログ 美容と健康に柿茶 (kaki-cha.co.jp)紅麹はそもそも漢方の生薬で用いられていたようで、少し前に、医学で降圧剤として有名になったスタチンの一種のロバスタチンが、紅麹の製薬剤として使われるようになったらしい。スタチンは、高コレステロール血症の治療薬なんで、そのサプリメントだから、当然、許容投与量を超えると毒になるのは当たり前の話である。大学の医学研にいたときに、スタチンの話は耳にしているし、スタチンのサプリではないが、軟骨のコンドロイチンやらグルコサミン、魚油のDHAやらEPAなどの人体への有効性などの実験を手伝った覚えがある。数十年前の当時は、サプリ云々が流行りつつあったが、怪しいネットビジネスのアムウェーなどもサプリをやりつつある利潤追従の世の中の流れについていけずに、また薬学畑卒ではないので、クスリには興味がなく、当時はクスリといえば、抗ガン剤のほうに関心があったので、人智学から、メラノーマに効くヤドリギ薬、欧州では代替医療となっているイスカドールなどを個人的に探求していた。生薬となっていたヤドリギを使ってのマウス実験でそこそこ巧くいったのだが、人智学が如何わしいと思われているので、発表しても相手にされないので、そのままボツってしまった。あまりに周囲からも馬鹿にされるので、やる気もなかったしね。そもそも当時のなんでも利益追従の世の中の流れが気に入らなかったせいもある。なんでも物質科学で利潤を求める姿勢に嫌気がさしていたのもある。話が逸れてしまったが、紅麹騒動は、クスリの飲み合わせ問題の、グレープフルーツと降圧剤のカルシウム拮抗剤の副作用とよく似ているようにみえる。腎臓は血圧の調整をしている器官なので、極端な降圧は、腎臓の負担になり、また降圧剤となっている紅麹の成分が、肝臓からの、なんらかの代謝酵素と反応して複合体を形成してしまい、腎臓の透析効果を弱めてしまう可能性もあるのかもしれない。薬局で、血圧のお薬とグレープフルーツジュースを一緒に飲んではいけないと言われましたが、どうしてでしょうか|オムロン ヘルスケア (omron.co.jp)公益社団法人 鳥取県医師会 (med.or.jp)だから、紅麹を使ったサプリは、降圧剤のクスリとして医師の問診管理下での投薬が推奨されるわけなんである。人体のコレステロールバランスを測定してから、不足分を補う意味で投薬しないと無意味である。「カラダにいい(この表現こそウソ)」からといって、一成分効果を過剰に宣伝しては、嘘や詐欺行為につながるものでしかないだろう。悪玉LDLコレステロールも人体にとっては必要な場合もあるわけで、善玉HDLによる回復能力があれば、わざわざなくす必要などなく、過剰宣伝が災いを招いた例といえるかもしれない。滅多矢鱈に薬を飲むのはかえって体力を阻むもので、過ぎたるは猶及ばざるが如し、なんである。大谷騒動といい、紅麹騒動といい、巷には詐欺宣伝メールが横行し、詐欺広告を垂れ流すアホ馬鹿マスゴミが、追求すべき裏金議員問題を放置し、不必要なウソ虚言過剰宣伝報道が跋扈しているので、猶更の、情報リテラシーが必要とされるわけなんである。特に昨今は広告料が減っているのか、なんでもかんでも安易に宣伝し利潤を追求する詐欺番組が多いのも問題である。SNSを批難するどころか、マスゴミも劣化しているのがわかる。バラエティ番組なのに、中途半端な「カラダににいい」とか権力に忖度した報道がそもそもの間違いなんである。そもそも視聴者もバラエティ番組をエンタメだと思わないで鵜呑みにするのも問題だけどね。どんな薬も麻薬のような依存症にもなりえるのだからね。現にギャンブル依存症の水原ロスで大谷を責めている水原忖度報道依存症馬鹿もいるし。バラエティ番組はエンタメだけにして、放送大学のような教養番組をみないと、過剰宣伝に踊らされて、騙される日々なんである。放送大学は確かにエンタメではなく、みていても面白くも糞もないが、現代社会の知識を獲得するには持って来いのツールである。情報リテラシーのために、エンタメ番組をみた分を放送大学もみてバランスをとるべきだろう。放送大学 - Wikipedia病院にも勤めていた経験からいえば、まぁ低レベルの病院だったので、プライドだけは馬鹿高くて、中身空っぽな奴が非常に多かったし、世間一般と同じで、渡る世間は鬼ばかりだったから、職業は金儲けの一手段と割り切って付き合っていくのがよいだろう。世の中には詐欺師のようなのが盛り沢山で、前回紹介したように、ルシファーに憑依された某自衛隊出の歴史教育馬鹿老害のようなのがネットウヨ右翼しているので、人付き合いというのは大変ストレスが溜まり、人体に腫瘍をつくりやすくさせ、終いには過労死か、ガンで死んで行くので、適当な見切りどころを間違えると、裏金議員のような妖怪老害ゾンビに変身して、地球紀を落第してしまうので、注意して生きなくてはいけない。我々地球人の使命は、地球紀をバランスよく生きることにある。地球紀の地球人の課題とは、太陽霊キリストによって与えられた自我を、地球や宇宙の進化に沿って、バランスよく育てることにある。だから、十戒にあるように、自我は宇宙のバランスを保つ、バランスの源なので、そのバランス力を、愛を開発し、育てることにある。他人を騙して自己の利益を上げようとするのは、バランスを乱す素なのである。シュタイナーは、キリストの自我バランスは、ルシファーとアーリマンの均衡により成り立つと説いているが、紅麹騒動も、血圧のバランス、コレステロールのバランスなんである。というのも、それら人体のバランス、つまりホメオスタシスは、自我の恒常性、永遠性のバランス回復力にあるからである。与えられた自我のバランス能力を、地球上に確立することが、人類の使命なんである。バランスを保つのが平和で、愛する者を守る秘訣なんである。だからなんでも食べ過ぎはよくないわけで、食べ過ぎると、人体器官に負担がかかり、処理しきれずに過労死になって、食物アレルギーとなってしまうわけで、パラケルススが言ったように、なんでも毒になってしまうわけなんである。詐欺広告に騙されてはいけない。我々地球人は、日常の生活からは、物質しかみえないが、それは物質という幻想から、私という自我がつくられているからで、物質という自由の中でしか、自我の自由が得られていないからである。科学的にいえば、線形現象しか測定できないので、線形の自己しか感覚的に捉えられないわけで、それらの濃淡を7つに分解分類しているにすぎない。地球人は、非線形現象をそのままカオスとして捉えられないから、物質しかみえないわけなんである。いまの地球人の知性では、線形現象でしか、法則をつくりえないし、だからこそ、カオスの非線形現象から、対称性により、自己を分離し、自由にできるわけなんである。地球人の知性よりも高度な宇宙人、つまり堕天使たちは、カオスの非線形現象をそのまま捉えられる知性をもっている。それが霊感、第六感で、超感覚能力である。予期せぬ出来事が起こる、天災や地震が起こるというのは、この非線形現象を意味するので、今の地球人の線形解釈の知性では、捉えられないわけなんである。だから、我々地球人は、ルシファーの知性をかりて、物質界を生きているわけで、大谷騒動でいえば、ルシファーに通訳してもらっている大谷選手なんである。非線形現象を線形化しているのが、ルシファーという通訳なんである。ルシファーは、地球人に非線形現象を線形化して与え、通訳しているが、その通訳で、地球人をいわば支配しようとしているわけなんである。つまり、前回紹介した歴史教育推進者のように、よい日本史を教えることで、生徒を日本史で洗脳しようとしているわけで、その歴史教育者のように、道徳が大切と説くわけなんである。道徳を教えるのに、反対するものはないだろうが、道徳というのは日々移り変わるバランスを保つ能力のことなので、善だったものが、悪にもなるわけで、当人にとっては善であっても、他人には悪にもなる。当人にとっての自由は、他人への不自由になる。物質界ではそれでよく衝突し、戦争になってしまう。だから、道徳というのは、教えられないもので、キリストのように、実際に行動して、みせるしかないわけなんである。現実世界での良きバランスのとれた行動のみが道徳になり得る。だから、紅麹のように、当人には薬になっていても、他者には毒となることがあり、良いモノも悪いモノになる。だから、むしろ、悪いモノを良いモノにするのが、教育で、かつての悪しき行為を反省し、良き行為につなげていくのが、歴史教育といえるわけで、教えるなら、過去の悪しき日本史でないと少なくとも意味がないわけなんである。というのは、過去の過ちを認め、反省し、二度と過ちを起こさない知性を獲得するためだからである。日々、知性をアップデートして、問題を解決していかなければならない。だから、教育は、時代と時代の対話、過去の悪を、未来の善へとつなげる会話といえるかもしれない。人間の心には、この過去の悪を善導する天使、聖霊が眠っていて、それが善天使の良心なんである。過去の悪を善導すると、良心が喜ぶので、気持ちがよく、快適になり、天国にいる心地がして、感激、感動するわけなんである。悪を善に導くバランス感覚が道徳で、親鸞が説いた悪人正機説である。悪人をそのままに放置するのではなく、悪人を善導するのが、天国の働きという意味である。悪人を更生させ、悔い改めさせるのが、地獄から、天国への道なんである。それには、バランス感覚が不可欠で、物質的な感覚を越える、霊的な感覚が必要というわけなんである。人体のバランスを考えずに、矢鱈と薬を飲めばバランス崩して毒になるのは当たり前の道理で、日本史を美化しすぎると、偽証し、隣人と闘ってしまうのも、同じ道理である。悪人正機 - Wikipedia線形現象化として翻訳された通訳を超えた、非線形現象をカオスをカオスで解き明かす知性を獲得するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 例えば、アブラハムの物語では、「神」に自分の息子を犠牲として捧げるが、「神」は受け取らない。もし、この拒絶という概念を、霊視すれば、これまで述べてきた宇宙の進化のイメージが再現される。 アブラハムの犠牲が受けとられ、子のイサクが犠牲になっていたら、もし、「神」がイサクの犠牲を受け取っていたら、イサクに発する古代ヘブライ民族が地球からいなくなっていただろう。 「神」は、ヘブライ民族を拒絶し、諦めたので、神の勢力圏から、ヘブライ民族を締め出し、神の外の存在にすることで、アブラハムに由来する民族を贈り物として地球に与えた。もし、「神」がアブラハムの犠牲を受け入れたら、「神」は古代ヘブライ民族の活動領域全体を、天界から支配しただろう。 というのも、犠牲になったイサクは「神」と共に天界に召されたからである。しかし、「神」はイサクを放棄し、ヘブライ民族の進化が地球上で行われるのに委ねた。太古の人類の父祖によって提供された「犠牲」の意味深いイメージを通じて、「諦め」や犠牲の概念が、我々の自我の中に呼び起こされる。 また、高次の存在による「諦め」、もしくは犠牲の別の例を、地球の進化の中に霊視できる。それは既に前に触れた、レオナルドダビンチの絵、「最後の晩餐」のなかに読み解ける。「地球」と「キリスト」双方の本当の意味を、その本質を目の前にする場面を思い描いてみる。 その絵が持つ完全な本質のなかに没頭してみる。キリストが「私が父に願って、天使の大群をいま遣わしていただくのができないとでも思うのか?」(マタイ26章53節)と言った福音書の言葉を思い出してみる。 この父への願いを諦めたことで、「キリスト」が可能だった、父による、この明確で安易な解決法を拒否した。キリスト=イエスが、最後の晩餐のなかにもたらす、最たる偉大な父への願いの「拒絶」、「諦め」の例は、キリストを裏切るイスカリオテのユダが、最後の晩餐会に参加するのを許したときに、生じたのである。 キリスト=イエスの本性を霊視するなら、その自我のなかに、「犠牲」を諦めたケルビムの本性、つまり時間を「諦めた」永遠不死の存在たちの反映を見るべきである。「キリスト」は、神々が、古「太陽」紀に、拒絶によって、反対者たちをつくったように、ユダが反対者として行動するのを許し、その拒絶を受け入れた。 このように、この宇宙進化のなかの敵対者たちの出現が、「地球」上の絵画のなかで繰り返されているのがわかる。いま、十二人の真ん中にいる「キリスト」が、裏切り者のユダと共にいるのがわかる。人類にとって不可視の価値をもつ存在が進化に参画するために、「キリスト」は敵対者を、対立する位置に置かなければならなかった。 この絵が、霊視により深い印象を与えるのは、「最後の晩餐」から、宇宙進化の力強い、受難の瞬間を、再現させるからである。 「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(マタイ26章23節)という「キリスト」の言葉を霊視すれば、神々により、相対する位置に置かれた敵対者たちの、地上での反映を読み解ける。
2024年03月28日
コメント(0)
金持ちを騙すのならまだしも、貧乏人を騙すような、迷惑詐欺メールが相も変わらず送られてくる、ネット環境が必ずしも良好とはいえない毎日で、先週から、巷の大谷騒動に引きづられてしまい、ワイドショーに夢中になる、昭和の家庭の主婦と化してしまい、大谷選手の通訳水原氏に、まるでリアルな「コンフィデンスマン」を髣髴とさせるドラマをみるような感じで、詐欺などの、ウソの恐ろしさ、人類の絆を分断する働きに、改めて気づかされる今日この頃である。コンフィデンスマンJP - Wikipediaコンフィデンスマンは、「ダー子・ボクちゃん・リチャードの3人を中心としたコンフィデンスマン(信用詐欺師)たちのチームが、悪徳企業のドンやマフィアのボスなど欲望にまみれた金の亡者達から、あらゆる手段を使って金を騙し取るストーリー。」で、スポーツ選手を騙すエピソードはなかったように思う。ましてや国民から好かれるスーパースターを貶める話がウケるわけがない。このフィクションドラマは、悪者を懲らしめるのが醍醐味で、ドラマ自体がフィクションの嘘だから、ウソのエンタメなんで、嘘の中の嘘だから、面白いのだが、逆に嘘がリアルな現実となると、かえって興ざめしてしまうだろう。詐欺師はフィクションのなかでしか生きられない。詐欺師はリアルなスターにはなり得ない。所詮、偽物だからである。例えば、スーパースターが犯罪を犯すドラマといえば、古畑任三郎のイチロー選手のエピソードが思い浮かぶ。古畑任三郎 - Wikipedia古畑任三郎事件ファイル-episode41/フェアな殺人者 (coocan.jp)古畑任三郎の場合も、イチローの兄(勿論フィクションなんでウソ設定だが)が重要な役回りを演じていた。このドラマでは、イチローの兄がイチローを庇う話だったと思うが、水原氏の借金肩代わり美談説は、このドラマに非常に良く似ているようにみえるが、所詮、フィクションなんで、ウソの虚構の世界の話なんである。このように、現代人は日常の詐欺に飼いならされている、といえるくらい、フェイク情報に踊らされやすいのが、今回の大谷騒動の水原借金肩代わり発言に現れている。そのような意味で、水原氏は、ウソの演出家ともいえるのかもしれない。水原氏は、ギャンブル依存症と告白しているらしいが、以前紹介した、某芸人の脳が悪い無責任発言と同じように、ギャンブルのせいにして、責任逃れをしているようにみえる。1000億円もの日常生活とはほど遠いまるで虚構の金持ちの世界でのみ生きられたウソの演出家だったのかもしれない。ウソの演出家が、リアルな借金をノミ行為で拵えたのを、どのようなリアルな世界の着地点にソフトランディングさせるかで、ホンモノのスーパースターが隣人として現れ、全てを知ってしまったことで、それまで蓄積してきたウソの演出による偽証がバビルの塔のように崩壊してしまった。それは助けた大谷亀に乗せられて、カジノ竜宮城で遊び惚けて、帰りに借金の玉手箱を渡されて、借金玉手箱を電信で振り込んで賭博胴元口座を開けてしまい、その記録から、実は多額の借金を拵えた詐欺師だった浦島太郎の物語のようで、あるいはまたその妻の一夜限りのシンデレラ物語のようで、結局リアル世界でいうなら、それはキリスト降臨の前に偽キリストとして現れたルシファーのようでもある。ルシファーはウソの演出家で、人類を巧みに嘘で騙し、虚構や幻覚の世界を与えるからである。前回も紹介したが、そもそも、ウソとは、ルシファーの自惚れた知性にあり、換言すれば、ホンモノと偽物の区別ができない、リアルな認識が欠けている、妄想癖に原因があり、ウソをつくことで、ホンモノを区別する自分の知性を破壊しているのに気づいていない。つまり、今風にいえば、知性のアップデートを放棄するのが、ウソといえるかもしれない。だから、ウソとは、飲酒で酔っぱらうように、知性に酔っ払うようなものかもしれない。ウソから虚言癖へと進行し、最終的には妄想に生きるようになってしまうわけで、ギャンブル依存症などは、確率的に非常に低い事象が起こるのを期待して、幸福感を高めてしまうわけで、無限の皮算用をはじめ、利益ばかりを求めてしまうので、逆にいえば、自らの知性の低さに虜になり、知性をどんどん遅れさせ、貶めて、退化させているにすぎないのがわかる。無限のバカ、非現実世界を求める行為なのである。このような妄想に憑りつかせるのが、ルシファーの働きであり、洗脳である。水原氏は、スーパースターの影の功労者として、中学の教科書にも載るように美化されたが、過去の栄光にすがる、その美化されたイメージは、私の記憶のなかでは、大学入試の模試だったかの、国語の問題に、徳川家康が言ったとされる、「世間は事実よりも嘘が少し混じった話を好む」という話を呼び起こした。家康曰く、世間は事実よりも美談を好むので、リアルそのままよりも、少しばかり虚飾され、盛られた話を真実として信じやすいらしく、有り体にいえば、世間は事実よりも嘘を好みやすいらしい。だから、特に、日本史が美化されたり、戦争から美談が生まれやすく、同じ過ちが繰り返され、繰り返されるうちに、美化されてしまうわけなんである。ついには戦国時代の戦が美化されて、信長の野望のような架空のゲームが生まれる。ウソの世界のエンタメで済んでいれば自由だが、リアルの世界に持ち出されると忽ち厄介な悪魔の存在のようになる。信長の野望シリーズ - Wikipedia徳川家康が、戦国期から江戸はじめの時代に、そんなことを言ったのかどうかはわからないが、日本史には年号の問題でもわかるが、美化された嘘が多いのは確かで、それは日本史についての知識が時代によりアップデートされていくからである。日本史の教育が従来の暗記から、歴史的思考を重んじるように変わったのを、巷の最近の動画から知った。それは、現代の科学的思考の流れから、単なる暗記科目では無意味と論破されたために思われる。その動画をみると、歴史教育の重要さを唱える人達のほとんどが、民族主義者で、歴史上の美談を妄想化しているのに気づき、日本史教育の重要さを唱える人の日本史の知識の浅さに逆に驚かされた。まるで日本史馬鹿の一つ覚えで、日本史の画一的価値観の押し付けで、老害にもみえる。その歴史教育を説く姿は、かつての軍国皇国史観に近い妄想の押し付けといえるかもしれない。私見では、その中で、唯一マトモだったのが、東大史料編纂所の歴史学者だけだった。一番愚かなのが、日本は美しい国で、美しい文化を持つのを教えるべきという一点張りの姿勢を持つ某自衛隊出の評論家だった。まるで、統一妖怪の教義のように、日本史を捉えているようであった。ギャンブルで一点張りをするのはハイリスクハイリターンである。木を見て森を見ず、といわざるをえない。どの国にも美しい面と醜い面があるのがリアルな現実である。好きなモノだけを食べていると、それに対応した器官だけが過剰に成長してしまい、病気になるように、全体のバランスが重要で、美しさと醜さは表裏一体なのである。その評論家が間違っているのは、自分の美意識が正しいと思いこんでいるところにある。つまり、その根底には、承認欲や名誉欲、虚栄心が隠れているわけで、これがルシファーの知性、知識欲なんである。ルシファーの知性、知識欲の本質は、物欲で、支配欲でしかないのに気づいていない。だからその知性には謙虚さが欠けている。謙虚さに欠け、アップデートしない知性は、盲信でしかなく、自滅の知性で、いわば馬鹿の壁を超える、知性のブラックホールといえるかもしれない。要するに、自分が他者から褒められたいために、日本史信仰しているわけで、自分だけが救われたい、と願っている地獄行きの知性なんである。このような知的態度で、日本史を勉強しても、自分は偉い、凄いと勘違いさせるだけで、日本人は偉い、日本は凄いという知性の麻薬を与えられ、悪魔に懐柔されているにすぎないわけで、その麻薬がなくなると、つまり、美談がなくなると、逆に日本人の悪しき面や、醜い面を覆い隠すだけになるわけで、現に、そのような日本史教育から、日本人や日本は間違いを犯さないという信仰になってしまい、詐欺や詐欺師が横行し、裏金議員のような顛末になってしまうわけなんである。気づいてみると、現代ではほぼ死んだかのようなゾンビの化石の老害となってしまっている。ウソ詐欺知性の玉手箱を開いた老害浦島太郎である。昔、インディアン嘘つかない、という宣伝文句があったのと同じで、日本史はウソつかないである。その某評論家は、日本史を学べば、自信がつくと言っていたのが象徴的だった。これは麻薬がないと生きられないと告白するようなものなのである。端的にいえば、外見だけの中身空っぽの思想なのである。どこかから、美談をもってきて、着飾れば自信がつくのと言っているのと同じで、要するに箔が付く看板を掛け買えたり、ブランド志向なんである。だから日本史の詐欺師を量産するだけなんである。日本史の美談で金儲けしようとする詐欺師にすぎない。つまり、スーパースターを利用した通訳と同じなんである。歴史の英雄を美談に仕立て上げて、ウソを演出して、歴史家という詐欺師で金儲けするわけなんである。いかに現代人の醜く卑しい下品な、とても美しいとは言えない醜悪な、ルシファーの悪魔の知性の賜物と言わざるを得ない。昭和でいわれた、目立とう精神そのものである。日本史で目立とう儲けようである。日本史から真実を探求するのではなく、日本史を利用して儲けようという魂胆なんである。歴史を学ぶのは、知性をアップデートするためで、過去の過ちを繰り返さないため、なのがわかっていないアホ馬鹿なんである。あまりにもアホ馬鹿な主張なんで途中で視聴をやめてしまった。なんかそういう妖怪みたいな詐欺師が、巷には老害として跋扈している。知性が手遅れなのに、当人が気づいていないのは、知的ギャンブル依存症に罹っているからだろう。ギャンブル依存症というよりも、日本史美談妄想狂というべきかもしれない。何より日本史を学ぶ前に、どのように日本史が美化されてきたのかの、日本史編纂史を先に学び直す必要がある。日本史は、その時代によってどのように改変、再編されてきたのか?の方が重要で、その時代の歴史教育がどのように行われ、変わってきたのかの、日本史の教育史をまずはじめにやるべきであろう。歴史上の人物一人とっても、時代に応じて評価が異なるわけで、それこそが現代に歴史が生きている証拠ともいえるかもしれない。歴史よりも歴史評価史をはじめにやるべきかもしれない。日本史を利用して社会がどのように変わってきたのか、日本史の思想が、人間社会をどう変えてきたのか、が重要なんである。教員が教える内容よりも、学生が日本史を学ぶ姿勢から教えられる事は多い。とにかく教育は一方通行では無意味で、というのも、教育とは、時代と時代の対話だからである。日本史美談妄想狂から脱出し、知性をアップデートするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、次のような反論も十分に考えられる。 「神は全能なのだから、わざわざ悪を創造しなくても、自由の舞台を人間に与えられたはずだ。どうして、神は、悪無しに人間に自由を与えられなかったのか?」と反論するかもしれない。 しかし、この反論は、世界があまりにも複雑すぎる、と考えたスペインの王が、もし、神が、世界の創造を、私に任せてくれたら、もっとずっと簡単にしていた、と述べたのを思い起こさせる。 人間は、その低次の知性から、世界はもっとシンプルにできたはず、と考える。しかし、賢明な神は、世界の創造を人間たちには任せなかった。 更に、人智学の観点から見ると、この状況を正確に特徴づけられる。例えば、台が必要な人に、柱を立てれば、物を置ける台になる。それに対して、「いや、他の方法もある! どうして他の方法でやらないのか?」と反論するのと同じである。 或いはまた、例えば、建物の建設中に三角定規を使いながら、「どうして、この三角定規には三つの角しかないのか? 神様は、三つの角を持たない三角定規を作れたはずだ!」と言うのと同じで、神様は悪や苦の可能性無しに自由を創造できたはずだ!と言うのは、三角定規は三つの角を持つべきではない、と言うのと同じくらいナンセンスなのである。 三つの角が三角形をつくるように、自由は、精神的存在たちの「諦め」によりもたらされた悪への可能性からつくられる。いま述べてきた全ては、神の「諦め」からつくられる。というのも、神々は、犠牲を受け取るのを「諦め」ることで、永遠に不死のレベルに上昇した後、悪を善に導き戻すために、不死から永遠への進化を創造したからである。 この永遠への進化は、この「諦め」という手段からなされた。神々は、自由を与えられる悪を避けなかった。もし、神々が悪を避けていたら、世界は脆弱で単調で退屈なものになっただろう。神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許し、同時に、悪を善へと導くのに必要な力も獲得した。そして、この力は「拒絶」と「諦め」の結果生じた。 「諦め」は、偉大な宇宙の神秘を反映する像やイマジネーション(霊視)を与える精神的な存在である。太古の宇宙進化を霊視していくと、犠牲や、与える徳に「諦め」が加わるのがわかり、マーヤや幻想に対峙する真の現実へと到達する人類の永遠への進化として現れる。 宗教は、このような精神的な像や概念を提供する。だから、聖書を基にした宗教から、犠牲や諦め、もしくは犠牲の拒否といった概念にアプローチできる。
2024年03月27日
コメント(0)
今回は冒頭愚痴から始まるのをご容赦ください。ほぼ毎日くる迷惑詐欺メールの掃除のために、ネット接続の支払いが馬鹿バカしくなり、ブログ更新も遊び半分で行っているのだが、遊び半分が遊びでなくなるほどの、1日百件ほどの、ほとんどがゴミみたいな宣伝メールで、国税庁を語ったり、入ってもいないカードから警告メールがくる不思議さに驚かされ、日々の煩わしい詐欺詐称メール掃除のために、ブログ更新などのネット活動が億劫になりつつある。現代社会の情報リテラシーにネット環境は確かに必須だが、その手口が巧妙になり、詐欺メールが横行するにつれ、かえって社会不安を増幅させ、巷には、現に、嘘つき裏金政治家などの、記憶にない発言をみるにつれ、人類へのモラルハザードへの警告や、地震などの天変地異への影響を深刻に考えざるを得なくなる。地上に悪が蔓延るにつれて、天変地異が頻繁に起こるのを、人智学は解き明かしている。日本を生かすも殺すも、日本列島に住む日本人の生き様によるのと同じように、地球を生かすも殺すも、地球に住む地球人の生き様である知性によるのである。地球人が高度な知性を持つと自慢するのならば、それを地球環境を永らえる宇宙船地球号に生かすべきである。地球を生かすのと同程度の知性を地球人がもつのを、高度の知性をもつ宇宙人は知っていて、愛を送って警告しているわけなんである。詐欺メールについては、なにより詐欺メールを送る側に、多くの人に迷惑をかけている自覚がない、のが大問題で、裏金政治家のようなアホ馬鹿が、公的な場でウソをつくのが、社会全体に多大な迷惑と、錯誤を生み出す自覚がない、のと同じように、それら自覚のなさを霊的にみれば、悪のウイルスを流し、ウソの虚言癖を撒き散らせているわけで、騙されないように、悪のウイルスや嘘の虚言癖の増殖に迷惑を受けつつも、手を貸さないように注意しないといけない。詐欺メールといえば、昔、「不幸の手紙」問題があって、手紙といえば年賀状くらいしか来なかった自分には、不幸の手紙がくる不幸には出くわさなかったが、恐らく、そんな手紙がきても、筆不精な性格から無視していたように感じる。何しろ切手代も馬鹿にならない。不幸の手紙が来るだけでも不幸なのに、そのような不幸をわざわざ拡散する迷惑さに呆れ果ててしまうのだが、この不幸や迷惑の連鎖は、公的な場でのウソ証言と似ているかもしれない。不幸や悪事の連鎖は誰かが責任をもって止めない限りは拡大し拡がってしまうだけなんである。チェーンメール - Wikipedia例えば、欧米の公的な場では、聖書などに手を置いて偽証しないとの宣誓から発言が求められることもあるが、その真意は十戒からきているようにみえる。というのも、前回紹介したように、人間のウソと悪魔の関係から天変地異との関わりが、霊的に解き明かせるからでもある。人間が自由にウソをつけるようになったのは、ルシファーのネガティヴな影響によるのが大で、人間がネガティヴに陥った力を利用して、幻覚や幻惑の虜の罠に嵌めていくのがアーリマンであり、人間にネガティヴな負債を背負わせ、天変地異を司り、人類の進化に介入してくるのを、シュタイナーの人智学から、前回紹介した。有名な黒魔術も、アーリマンの人類への介入から生まれたという。ルシファーは、人類を、自分しかみえないような、知性的な目隠しをして拉致し、ネガティヴな領域に引き入れて、アーリマンに引き渡し、アーリマンは、人類を唯物論的な迷路の支配下に置いて、天変地異などで揺さぶり、人類の進化に介入している、といえるかもしれない。現代の振り込み詐欺で譬えるなら、ルシファーが、親族などの信頼者になりすまして、ウソや擬態で偽証を誘発し、騙された人間が、偽証された金額を、アーリマンの口座に振り込む、というような詐欺手口といえるだろう。このような巧妙な手口に引っかかり、人類がしばしば錯誤に至るのは、ウソをつくことをそれほど悪いとは思っていない知性にあるのは、前回紹介した通りである。ウソをつく罪悪感が究めて薄いので、それが悪魔の手口なのに気づかずに、人体に病気としてあからさまに現れるまで、放置しがちにしてしまう。ウソをつけば、ガンに罹りやすくなるといっても、現代人のご自慢の知性から、笑い飛ばされるのがオチである。例えば、もし、ウソをつくことで、知性が失われるのに気づける知性を人間が持ち、ウソをつくことで、馬鹿になるのを恥じる知性があれば、記憶にない、というような恥知らずの証言がでるはずもない。ウソをつけるとは、ルシファーのネガティヴな知性に負っているのを告白しているわけでもある。自分は悪魔に憑りつかれているのを公言しているようなもので、古代では、悪魔祓いが必要とされたわけなんである。というのも、ウソをつく者の、嘘がばれるほど自分の知性は不完全ではない、と考えている知性は、自惚れているルシファーの知性で、勿論、ルシファーやアーリマンら悪魔の知性は、人類の知性よりも遥かに高度だから、悪魔の高度な知性を一時かりているだけのおバカな借用知性であるのに気づかないほど低次なんである。悪魔の知性が人類よりも遥かに賢いのは、ルシファーが、月紀の落第者で、アーリマンが、太陽紀の落第者だからである。だから、ルシファーとアーリマンは、人間の知らないことを知っているし、人間の知性を超える知性をもっているので、人類を騙すのも容易だからである。知的生命体と自負する名誉欲や虚栄心だらけの知性に憑りつかれている現代人の生態については、前回も紹介したが、現代人は高度の知性と自らを語るが、ウソをついても、人体がすぐに破壊されないのが、高度でない証拠なんである。つまり、それは、ウソが即座に現実に反映されない、リアルでないのを意味する、からである。かつての人類は、いまの動物のように、ウソがつけなかった、というよりも、ウソを嘘と見抜けなかった。例えば、動物はウソをつけないが、代わりに、ウソに似た擬態を演じる。人間にも擬態に似た人体反応があるので、ポリグラフなどがウソ発見器として用いられるが、現代の科学信仰からいえば、証言者にポリグラフ検査をしないのも不可思議といえるかもしれない。擬態 - Wikipediaポリグラフ - Wikipediaポリグラフは、通常とは異なる生理現象からウソを判断する機械らしいが、人智学では、人間が恥ずかしいときに顔を赤らめるのは、血流を表面に分散し、自我を薄めるためで、人間が恐怖を感じるときに顔を青ざめるのは、血流を深部に集約し、自我を濃くするためと、解き明かされ、笑いは、アストラル体を膨らませ、悲しみは、アストラル体を萎ませる、と人体の現象から解き明かしている。だから、現代人が高度の知性と呼んでいる人類の知性とは、物質界に住み、物質界を作り変える知性でしかなく、それは物質界しか想定できず、覚醒意識を基盤にする活動で、より高度な知性からみれば、破壊活動にすぎないわけで、物質界を破壊する条件に、ウソをつけるような知性は好都合である。だから、ソクラテスの高度な知性からも、この知性を無知と呼んだわけなんだろう。無知の知 - Wikipediaソクラテスの無知の知からいえば、現代人の、ウソをつくのが人類にどれだけ害を与えるのか、知らずに、ウソをつく知性を、無知というわけで、それはせいぜい、物質界でのみ通用する破壊行為というわけなんである。眠ったり、死んで、覚醒意識を失い、物質界から出ると、ウソは通用しないばかりか、ルシファーという悪魔に出くわし、魂の負債を背負わされ、ネガティヴな領域の地獄への入口の、負債口座アカウントが開かされた、と気づくわけなんである。ルシファーらは、人間よりも高度な知性をもつために、それよりも低次な物質界に直接手を下す事は出来ない。だから、人間がウソをつくことで、自我の核心となっている神から離れ、自我を低次にすることに付け込んで、憑りついて、自由を与えたふりで自由で拘束し、意のままに操ろうとする。小人閑居して不善をなす、で、猫に小判という意味で、「人間に自由」というべきかもしれない。人間に自由を与えても、ウソをつくことに用いる、というわけで、ウソから転じて、悪魔により、大震災を起こされると言った方がいいかもしれない。ウソから大地震が起こるというのは、カオス理論のバタフライ効果のようにみえるが、カオス現象のような非線形現象を現代人が理解できないのは、ウソをつくのを平然と行える物質界しかみえないからでもある。バタフライ効果 - Wikipediaつまり、人類はルシファーにより、自由の名の下に、物質界に閉じ込められている。シュタイナーによると、ルシファーらは、月紀に宇宙の進化から外れて、地球紀には進めなかったが、人間のアストラル体に影響し、エーテル体や物質体を操作できる知性をもっているという。人智学では、この知性は、4大元素霊でいうところの、風や水を司る知性で、地球の大気や海水に影響を及ぼすために、天候は月を通じて、ルシファーが司っているのがわかっているが、現代科学では、潮汐力を月の引力の一因にしているが、厳密には間違いで、本当は、地球の天候などを司るルシファーの影響で、悪魔の高度な叡智の賜物なのである。かつての月だった地球のときの人類は、現在の人類が物質界を作り変えているように、かつての月を作り変えていたわけで、天使となった存在たちは、いまでもその能力で、地上に介入しているという。ただ、人類の地球人は、その介入を物質的にしか解釈できないわけで、というのも、物質的知性で、自由に翻訳、解釈するしかできないからである。だから、落第し、堕天使となったルシファーたちは、地球人が自由にウソをつくほど、介入の余地が増す。また、太陽紀に進化から逸脱したのが、アーリマンたちで、その当時の能力を今でも保持しているので、当時の能力は、4大元素霊でいえば、火と土を司る知性で、地球の内部の熱と固体のエネルギーを操って、地震などを起こす天災の元凶となっている。重要なのは、宇宙にはカルマの法則があるので、やられたらやり返される、自業自得の法則があるので、悪魔が勝手に人類に介入するわけにもいかない、ことにある。悪魔が地球人を勝手に苦しめたりするのは、自分たちにも苦しみが及ぶわけで、地球人が自ら求めない限りは行使できない。だから、地球人が身勝手に地球の環境を破壊すれば、悪魔にも、それを根拠に介入の余地が発生するわけである。大袈裟に極論すれば、ウソをつくことは、地球人全体を裏切る行為なので、地球人でないものからすれば、特に悪霊たちの標的になりやすいわけで、地球人釣りをしている悪魔にとっては奴隷にしやすいわけで、権力者であるほど、自分たちの目論見通りに、地上を支配しやすいので、益々介入していくわけである。地球人の結束を奪うのに好都合な人選というわけなんである。かつて人類のなかでも民族同士で、このような裏切り行為などが頻繁に起こって、かつて火と土の世界だった太陽が地球から分かれて、太陽に進化できなかった堕天使アーリマンが生まれ、またそこから風と水の世界の月が地球が分かれて、いまの地球に進化できなかった堕天使ルシファーが生まれ、月を主の舞台にして地上にも天候などで影響を与えている。人類の地球人が、地上で、固体という土の、地の物質界でしか通用しない知性しかもてないのは、かつての火の大破局や、水の大破局を招いて滅亡しないためである。しかし、核兵器を手に入れて、いまや、土の大破局を招こうとしている。自分たちにだけ都合よく、知性を用いるのは、黒魔術で、ルシファーは風や水、アーリマンは火や土の知性で、その黒魔術を、人類に与えて、奴隷化しようとしている。このような全体像を、宇宙の進化に沿った人類の正規の進化を見守るのが、聖霊たちで、かつてマーダックと呼ばれたミカエルが天使長で、太陽霊キリストと共に、地上の人類に愛への目覚めを教え諭しているという。キリストの愛の教えに目覚めるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 既に述べたように、「永遠」は、「土星」紀に準備され、時間とわかれたのは、実際は「太陽」紀ではない。しかし、現代の概念で表現できるほど明確に現れたのは「太陽」紀である。現代の概念と言葉では、永遠が、古「土星」の進化にも存在したのを正確に特徴づけるのは不可能で、時間からの永遠の分離を「土星」上ではほとんど知覚できない。 この出来事を通じて、「諦め」という、古「太陽」紀の神々による拒絶と、不死の獲得という、両方の意味が明らかとなった。この両方からもたらされる結果とは何か? 以前、「神秘学概論」にも書いたが、そこでの記述は、ある意味、幻想のヴェールをかけたが、「月」進化紀が「太陽」紀に続き、「太陽」紀の終わりに、全存在が一種の黄昏と呼ばれる、宇宙的なカオスのなかに沈んだ後に、再び「月」として現れる。 いまの地球紀でも、天使たちの犠牲が、熱の背後に現れるが、「太陽」上の熱もまた、「月」上では外的な熱として現れ、また、与えるという徳は、いまでも、気体もしくは空気として現れ、「諦め」という、犠牲の拒絶もまた今の地球にも現れている。 いまの地球に、「諦め」と呼べる永遠は、古「月」上で生じた全事象にもあった。これが永遠の真実である。つまり、「太陽」上で、時間を手放し、諦めを経験できた存在を、「太陽」の次の古い「月」上の全存在のなかに霊視するには、外界の存在とは異なる存在を想定しなければならない。 つまり、土星紀の「犠牲」は、マーヤという外界では、熱として現れ、太陽紀の「与える徳」は、気体もしくは空気として現れ、月紀の「諦め」は、液体もしくは水として現れる。外界での、水はマーヤ(幻想)であり、もし、太陽紀の天使たちが、拒絶と諦めの精神的基礎をもたなかったら、存在しなかった。だから、いまの地球の、水があるところには必ず神的な拒絶がある! それは熱が幻覚で、その背後に「犠牲」があるのと同じように、気体もしくは空気が幻覚で、その背後に「与える徳」があり、また外界で、物質の水として現れるのは、物質的幻覚で、その背後の真なる存在は、「拒絶」、「諦め」の行為である。 水のような液体現象の背後に、「諦め」が横たわるとき、それらは、水を通じて、地球に流れる。人智学徒は、「太陽」から「月」への移行に際し、空気が水に濃縮したのを知っている。水が生じたのは「月」上であり、「太陽」紀にはなかった。古「太陽」進化紀に集積する雲の塊が圧縮され、水となり、「月」進化紀に「月」の海として現れた。 この事実を考慮すれば、次の疑問に終止符を打てる。水は「諦め」から生じる。実際、水は「諦め」である。だから、水とは一体何なのか?という疑問に対して、「諦め」「拒絶」という特別な精神、想念が獲得できる。 しかし、次のような疑問も生じる。もし、ケルビムが「諦め」ずに生じた状態と、提供された供犠を「諦め」て、自由になった状態との相違とは何か? この違いは、表現できるのか? この問いへの答えは是で、その相違は表現できる。そして、それは「諦め」の結果、「月」状態に生じた事実から現れる。 もし、諦めが生まれてなかったら、ケルビムが拒絶せず、犠牲を受け取っていたら、自我の中に犠牲の煙をもち、犠牲の受容が、犠牲の煙の中に表現されただろう。 ケルビムが多様な行為を遂行できると仮定し、ケルビムの行為を、外的に表現すれば、絶えず変化する空気の雲のように現れただろう。捧げられた犠牲を受け取る毎に、ケルビムの行為は、空気の多様な形で外的に表現されただろう。しかし、ケルビムは、捧げられた犠牲を拒絶し、時間と共に死ぬ運命から退いて、不死を獲得した。 ケルビムは時間という犠牲の、一時的で多様な存在から退き、永遠の存在となった。拒絶された犠牲は後に残され、犠牲を受け取らなかった存在の力に拘束されず、解放される。拒絶された犠牲はもはやケルビムに従う必要がなく、ケルビムの力から解放され、後に残された。 この後に残された犠牲はどうなるのか? また別の存在たちが、受け取り、独立できるようになる。この別の存在たちはケルビムの近くにみつかるが、もし、ケルビムが受け取っていたら、犠牲は、ケルビムの配下となっただろう。しかし、犠牲はもはやケルビムの内にはなく、外へと独立した。この独立により、「諦め」とは正反対の精神、想念が生じる可能性が芽生えた。 つまり、別の存在が、後に残された犠牲を、また別の自我へと引き寄せ、その内で活動するようになる。この別の存在が、後に取り残された堕天使たちである。だから、後に取り残された堕天使たちは、ケルビムによる拒絶行為の結果生まれた。後に取り残された堕天使たちを生み出したのはケルビムの自我である。 ケルビムは上記のように「後に取り残される」可能性を生じさせた。ケルビムによる犠牲の拒絶を通して、供犠を諦めず、自我の欲望や望みに身を委ねながら、供犠を外に表現する他の堕天使たちが、供儀をまた別の自我にする可能性、つまり他の天使たちと並んで独立した堕天使になる可能性を得た。 こうして、「太陽」進化から「月」への移行に際し、ケルビムが 不死になるとともに、また別の存在たちが、自我の中で、ケルビムの継続する進化から逸脱し、自我を分離する可能性を得て、実際、不死なる自我存在からまた一時的で多様な自我を完全に引き離す可能性が生じた。 進化から、後に取り残される深い理由を霊視するなら、堕天使存在を生じさせた責任は、究極的な要因を求めれば、堕天使たちにないのが理解できる。この事実は最重要で、現代人が把握すべき必須の叡智である。もし、ケルビムが犠牲を受け取っていたら、ルシファー的な存在たちが後に取り残される可能性はなかった。 というのも、ルシファーたちが、この犠牲を受け取る機会がなかったからである。「諦め」こそ、ルシファー存在たちが、独立するための前提条件だった。賢明なる宇宙進化の導きは、神々自身が、その反対者たちの存在を生み出すように命じた。 もし、神々が自由にならなかったら、ルシファーたちが、神々に離反するのも不可能だった。もっと簡単に言えば、神々が、もし、「土星」から「太陽」への移行後も、以前と同様に創造行為を続けていたら、自我の主体性から行動する自由な存在たちは、決して生まれなかった、のを神々は見通していた。 神々は、自由な存在を創造するために、敵対者たちが全宇宙のなかで、時間に左右される全てのなかで、神々に反抗し、その抵抗に遭遇する可能性を与えねばならない、のに気づいていた。 全てを支配する者が神々だけだったら、上記のような反対者を見つけるのが不可能なのを知っていた。もし、神々が全ての犠牲を受け入れたら、物事は、非常に容易となり、全ての進化は、神々の思い通りになっていたのを、人智学徒は霊視できる。しかし、神々は、容易な道を選ばないことに決めた。 神々は、自由な存在たち、神々に反抗できる存在たちを望んだ。そのため、神々は、全ての犠牲を受け取らず、神々の自我のなかの「諦め」を通して、別の自我が、後に残された一部の犠牲を受け取った、という事実を通して、反対者になるように定めた。 なので、悪の起源は、いわゆる悪の存在たちではなく、いわゆる善なる存在たちのなかに、つまり、犠牲の拒絶によって、宇宙に悪をもたらす存在たちを通じて、悪が生じる可能性を与えた、善なる存在たちのなかに探さなければならない。
2024年03月22日
コメント(0)
前回は、この国のリサイクルを紹介したが、ヘラクレイトスの万物は流転する、を現代風にいうなら、全てはリサイクルする、といえるかもしれない。先日、BSNHKでオッペンハイマーの番組をみたが、巨大な原子核の核分裂崩壊を生み出したツケは、どこかに巨大な原子核の核融合を生み出す可能性をもたらすのは、宇宙がカルマの法則から永遠に成り立つことで明らかだろう。カルマの法則とは、宇宙で為したことは、為したものに返ってくることで、いわゆるバランスの法則であり、これは4次元の特性としてもわかっている。時間は前後のバランスをとるため、永遠との均衡を図るために、存在する。だから生には死を、死には生をもたらすのが時間で、左は右になり、上は下にもなる。人智学では、この4次元の特性を、アストラル空間の鏡像対称性で示している。だから、破壊的行為を行えば、その破壊的行為を贖う創造的行為が求められるわけで、それには、まずその破壊的行為の犠牲となることからはじまるわけなんである。人間の脳は、昼壊されることで覚醒意識が生まれ、夜に眠ることで、脳は再構築される、のを以前紹介したが、だから、人間は眠らないと、脳が破壊されたままで、痴呆症になっていくわけで、人間の生の昼のリサイクルは夜の睡眠で行われる。だから、人間の脳の昼の破壊と夜の創造と同じく、人間の行為も、創造と破壊のバランスから生じる。だから、広義に考えれば、今生で大量の破壊行為を行えば、その破壊行為と同等の創造行為を行うまで、その負債を返すまで、来世からの地獄の試練の、輪廻転生を繰り返すわけなんである。現世では破産申告できるが、生命の破産申告はできない。生命を奪えば、奪った分だけ繰り返し奪われる人生を送ることになるだろう。永遠にバランスをとるために時間が存在するからである。オッペンハイマーは原爆を発明し、殺人兵器に使ってから、その大罪に気づいた愚か者だったが、現代人はオッペンハイマーの過ちを果たして笑い過ごせるだろうか? 核兵器をつくった記憶がない、とウソをつくかもしれない。現代の負の遺産ともいえる核兵器を放棄できずに、古代文明や古代遺産を読み解こうなどとは不届きモノのなせる業である。昨今、巷のこの国では、古代文明についての地上波の番組が多いが、古代遺跡を読み解くには、現代人の知性からは不可能なのを何度も警告してきた。というのも、現代人の知性では、承認欲や名誉欲のために、平然と嘘をつけるからである。大体、何のために古代遺跡を解明したいのか、興味本位だけでは無理がある。まずは足元を見つめ直すのが先決であろう。古代文明を評価できるに足る思考力や高度な知性を養成する必要があり、そもそも、十戒すら守れない知性では、道徳観が低レベルすぎる。現代人の知性では、嘘をつくことに罪悪感の欠片もないからである。少なくとも、ウソをついたら、人体のどこかが破壊されるというような、ポリグラフがなくても、目視でわかるようでなければ、ホンモノの知性とはいえない。ウソをつきすぎて、ヒョットコみたいに口がひん曲がるとか、人相が悪くなるのは、現代科学からは解明されていない。ウソをつくのは、人間特有の生命現象ともいえるが、それを動物実験から、類推するのも不可能で、現代医学の研究テーマのほとんどがマウスなどのげっ歯類を使った動物実験での物証では、かえって動物と人間の類似点から知性が同レベルと言っているようなもので、それこそ、ルシファーの詐術策略的な思考といえるだろう。人間がつくった法は破れるが、神のつくった法を破れば、人間が破れないとおかしい。完全な知性とは、ウソをつけない知性でないと意味がない。記憶がないのなら、そのヒトから知性全てがなくならないとおかしい。記憶がないと言った瞬間に、そのヒトの存在が消滅しないと少なくとも完全な知性とはいえない。だから、記憶のない状態をマウスに求めれば、ヒトはそのようなマウスの知性に擬態化していくだけである。そもそも、古代文明の解明は、知性の問題ではなく、道徳の問題なのに、知性で解決しようとするのが間違いなんである。記憶がないという記憶は、知性としては使い物にはならず、無意味だからである。せめて、なぜ記憶がないのかに言及しないと理性とはいえない。理性のないものが政治をすれば、国が乱れるのは当たり前である。記憶が無いことで他の多くの人への迷惑を考えないといけない。古代人を現代人から考えるのは無意味なんである。第一、古代人には、現代人のような自我がなく、ウソがつけなかった。ただ、いまの動物のように、民族長の集合魂に従うしかなかった。個人的な自我というのがないから、自己保身もない。ただ民族の手足でしかなかった。現在の動物の死と、人間の自我の死が異なるのと同じである。さて、今年は年頭から大地震が起きて、これまでも何度かの震災に見舞われている。東日本大震災が天罰だといって顰蹙を買い、亡くなっていった政治家もいたが、巷の政治家の、公的な場での嘘つき答弁をみていると、現代人の思い上がった賢さが鼻について仕方がない。ウソをつくのは、天に向かって唾を吐くようなもの、と昔の人は言ったとか言わなかったとか、しかし、偽証するなと、十戒にあるように、嘘つきは泥棒の始まり、ともいわれ、良心を無くす行為に違いないので、ウソを平気でつける、という、その思い上がった知性が何に由来するのかを考えるべきである。十戒というのは、人間が神の子である証で、神となるために必要な徳目であるからだ。例えば、古代人が、「ウソをつくと天変地異が起きるよ」とアドバイスしたら、現代人は、そんなバカな事があるか、と馬鹿にするだろう。しかし、聖書に書かれた出来事を信じるなら、例えば、ソドムとゴモラの出来事は有名である。ソドムとゴモラ - Wikipediaシュタイナーによれば、人間が偽証でき、ウソをつける知性というのは、堕天使ルシファーの悪知恵の教えからきていて、神の子人間の、神への進化を阻む、つまり進化から逸脱させるトラップの罠であるという。だから、ウソをついて自己保身できたと思うのは、そっくりそのまま、ルシファーの悪知恵に取り込まれ、魂を売っているにすぎないのである。自己保身できたかのような錯覚に陥っているだけで、自由と横暴をはき違えている。このような嘘つきの、人間に物質界を与える切欠をつくり、自由の知恵を授けたのはルシファーらである。月は物質界を映す鏡であり、人間は、そのルシファーの月の知恵の中で自由に踊らされている。ルシファーらが、宇宙の正当な進化から逸脱したのは、人間を楽園から追放し、地での自由を与えるためでもあったため、人間はウソをつく自由もあるが、その自由な分、ルシファーに従う事にもなる。だから、人間の自由は、ルシファーに負っている。だから、ルシファーに憑依されたヒトは、自意識過剰な分、ウソをつける自由を獲得したとはき違える。ウソをつくことが、人類の知性の発展を阻み、真実を探求しようとする姿勢を放棄させ、低次な獣へと退化させる、将来への目論見であるのを考慮していない。ウソをつくのは、競走馬にブリンカーをかけさせ、ウソの奴隷にするようなものなのである。人間は自由を得たかのように錯覚するが、実は不自由な知性を与えられているにすぎない。物質界だけしかみえなくされているだけなんである。道徳の感性、宇宙全体の発展をみる視野を奪われているだけなんである。ブリンカー - Wikipedia人間が自由にウソをついて、自己保身という認識を得られるのは、ルシファーたち悪魔のお蔭なんである。しかし、死後にその代償を負う事になり、地獄に行き、来世での人生の選択を負債として背負わされる。だから、悪魔側からすれば、そのような人間を介して、人類や地球の進化に影響を行使できることになる。悪の組織の構成員に雇えるわけなんである。だから、嘘つきは泥棒の始まりで、悪魔の手下の始まりとなる。ルシファーたちは、何度も紹介してきたが、いわば落第生の悪ノリの先輩であり、今話題の老害たちといえるかもしれない。人間がウソをつくとき、そのヒトの心に、ウイルスのような、ルシファーが巣食っている。シュタイナーによると、ルシファーは、古代レムリア時代に、人類に、唯物論的な思考と知性を与え、それを育成する、物質的な感覚器の、目と耳と鼻と口の肉体からなる五感を与えたという。だから、その五感を使って、他隣人を欺き、偽証すればするほど、良心を失い、宇宙の進化から逸脱し、悪霊たちの仲間に加わっていく。物質界からは五感の覚醒意識が明瞭しすぎて、背後の霊界がみえなくなっているだけなんである。聖書では、ルシファーらの蛇が、人類に知恵の実の、善悪を判断する知性を与えたと書かれているが、そのため、人間は楽園が見えなくなり、物質界に埋没して、自由にウソをつける身分となって、他を差別する自意識を手に入れたが、古代人は、この感覚を、3つのグナの、サットヴァ、ラジャス、タマスで区別していたという。このグナの感覚は、現代人の知性とは程遠いものなので、現代人の感覚からは理解不能である。現代人の感覚からは、五感で見える範囲があまりにも物質的に見えすぎて、そこに波長やチャンネルを合わせすぎているので、現代風にいえば、アナログをあまりにデジタル化し過ぎて、見逃し、みえなくなっている。目的が明確になるのはよいが、全体から逸脱していては、方向性が間違っていたら、堂々巡りで、無意味である。だから、五感でわかるもの、在るモノをそのままみるのではなく、五感では無のモノをみないといけない。五感でみえないものこそ、無ではなく、有なのである。五感で捉えられない、無の領域こそ、超感覚の自然を超えた大自然の、愛の働きである。このみえない振動が、ホワイトノイズやピンクノイズといわれる、心の感覚器から、つまり、心眼、心耳から感知できる霊能力である。ホワイトノイズ - Wikipediaピンクノイズ - Wikipediaこの愛の創造の働きと正反対にあるのが、破壊活動である。大自然を超えるポジティヴなエネルギーの愛の働きと、その正反対のネガティヴなエネルギーの憎しみや嫉妬などの破壊活動との間に、大自然の4大元素霊の、火、風、水、地の働きがあるという。これら4態から、火や熱、気体、液体、固体の物質の相転移が生み出される。これら相転移を操り、物質界での破壊活動を司っている悪魔が、ソロアスター教での悪神アンラマンユで、アーリマンである。だから、核兵器を人類に与えたのは、オッペンハイマーではなく、本当はアーリマンなんである。オッペンハイマーや核濃縮を行ったローレンスや、投下に関わったトルーマンらは、人類支配構想の、アーリマンの手下に加わっただけなんである。アーネスト・ローレンス - Wikipediaハリー・S・トルーマン - Wikipediaシュタイナーによると、ゲーテが書いたファウストに出てくる悪魔メフェストフェレスが、ルシファーら月悪魔に対して、更にその上位に君臨する太陽悪魔のアーリマンであるという。ファウスト (ゲーテ) - Wikipediaメフィストフェレス - Wikipediaメフェストフェレスの、メフェスは、妨害や破壊の意味で、トフェレスは、嘘つき、虚偽の意味であるという。だから、嘘つきの破壊者の意味になり、太陽悪魔アーリマンの一派なので、人類を欺いて、破壊行為に誘導する悪魔で、物質界の迷路へと、人間の破壊行為を導く天変地異の本体ともいえる。ルシファーが物質化する感覚器を与え、アーリマンがその感覚器から生まれる物質への欲望に叶う物質界を与える悪魔なんである。だから、ルシファーは嘘つきに憑りついて、アーリマンは、憑りついた人間を介して、破壊活動を行使するわけなんである。古代人が、ウソをつくと天変地異が起こる、と言ったのは、この両者の悪魔の、目にはみえない働きを意味しているわけなんである。いま、真実が求められている公的な場で嘘をつくのは、人類に対しての裏切り行為に当たるのに自覚がないというのは、現代人の感覚が、神や悪魔をも恐れずに、天狗になってしまった証ともいえるかもしれない。記憶がないのは、人間としてもはや良心をもたない、主たる神を信じない、偶像崇拝という悪魔に魂を奪われているから、人間失格の証として、悪魔の手下として、偽証しているのである。だから人間としての記憶がなく、悪魔の手下になり下がってしまったので、地獄に堕ちて苦しむだろう。人間の死すら知らない現代人が、死後どうなるかも知らない現代人が、平気でウソをつけるというのは、無知が何たるかを知らないほど無知なんである。このような人の形をしていても、心はもはやモノであり、他人を慮る心を無くし、ヒトの意見に耳を貸さずに、目はみえるものしかみないのは、悪魔に魂を奪われているからである。悪魔教を信仰しているものに、何を言っても無駄なのは、悪の僕となってしまったからである。耳や目や鼻や口、肉体はあっても、悪魔に魂を奪われているので、もはや使いものにならないのである。悪魔教を信仰してはおしまいなので、心の超感覚を、愛を感じる心を再び取り戻すために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、太陽紀のイメージを霊視する。この古「太陽」の拡がり、すなわち、その塊は、まるで宇宙球のようで、その向こう側の背景は何もみえない。そのため、想像できるのは大天使による拡がりしかない空間である。その中心では、受け入れられた供儀と拒絶された供儀との遭遇から、輪ができるのがみえる。 受け入れられた供儀と拒絶された供儀から、古「太陽」の内部で、「太陽」全体の進化、いわゆる多様性とも呼べる分化が生じる。この古い「太陽」を、いまの外的イメージでたとえるなら、現在の土星、つまり、環に囲まれた天体に似ている。受け取られた犠牲は集積し、塊となって中心へと引き寄せられ、拒絶された犠牲は、外側へと取り残され、環を形作る。このように、「太陽」は、拒絶された犠牲の潜在力を通じて、内と外の2つに分割される。 では、ケルビムの、犠牲を拒む行為から何が生じるのか? これは究めて困難な問題へのアプローチを意味する。長期の瞑想を経た後はじめて、この問題を考察できる概念に到達できる。この概念は、十分に長い間、思考した後はじめて、その奥に横たわる現実に気づくようなものである。 霊能者が語る「諦め」とは、時間の創造に関わり、それが古「土星」上で生じたのを霊視したが、その出来事と結びついている。時間霊のアルカイとともに古「土星」上ではじめて時間が生じたが、それ以前に時間はなく、時間を語るのは無意味だった。 さて、太陽紀にも、土星紀の出来事の繰り返しが起こるが、それは時間が発生した時点から続いているわけで、継続、存続という概念は「時間」が生まれたなかに含まれる。「時間は誕生と共に継続、存続する」ので、アカシャ年代記(虚空記録体)の中に、「太陽」や「土星」の事象を霊視する際、「土星」紀に時間が生まれ、「太陽」上にも続いて存在する、のが読み取れる。 さて、「土星」と「太陽」について、これまでの講義のなかで特徴づけた形で続いていたら、「時間」は進化の中で生じ、進化の指標を示す要素の1つとなっていただろう。進化上生じた出来事から時間という要素を除外できないだろう。 時間霊が古「土星」上で生まれ、時間が、全事象の中に埋め込まれた、のが霊視できる。だから、古土星以後の進化のイメージ、想像全ては、時間という文脈の中で捉えられなければならない。 このようなイメージから、進化上生じた全事象(犠牲を捧げる行為や与える徳の行為)は、時間を前提とする必要がある。時間無しには、何も存在できなかった。存在全て、消滅全てが、時間に左右される。 ケルビムが、犠牲を拒絶し、同時に犠牲の煙を拒絶したのは、この拒絶により、この犠牲の煙に含まれる性質に、拘束されるのを脱するためだった。というのも、犠牲の煙に含まれる性質には、時間と同時に、生じたり、消え去ったりする経過がある、からである。 だから、犠牲の拒絶の奥に横たわるのは、時間を超えて、時間に拘束されずに進化するケルビムの永遠の能力である。ケルビムは時間を超えて進化する。時間を拒絶したケルビムは時間に左右されない。 このように、古「太陽」進化に、犠牲や与える徳を受容し、「土星」から直接時間として継続し、時間に左右され、時間にとどまる存在と、犠牲を拒絶したケルビムの指導下で、自らを時間から引き離し、生まれたり、消えたりする過程に拘束されない、永遠、永久の存在とに、わかれるようになった。 これは特筆すべき出来事である。つまり、古「太陽」進化のなかの、時間が、永遠から分かれた地点へと至った。古「太陽」進化紀に、ケルビムの断念によって、ある出来事の結果として、永遠が生じた、のである。 自我の根底を覗き見て、人間が、自主的に、拒絶し、諦めるとき、魂の中に、ある愛の働きが生じるのと同じように、ある神的、精神的な存在たちが、犠牲と与える徳の遺産を拒絶したことで、永遠と不死が、古「太陽」上に生じる、のが霊視できる。「土星」上での時間の誕生を霊視したように、「太陽」進化の局面から、時間が、永遠から分離する、のが霊視できる。
2024年03月19日
コメント(0)
巷の騒ぎ過ぎの感ありの大谷選手の結婚報道だが、この国の低レベルの政治の元凶が、このようなマスコミの加熱報道にあるのが、国政よりも、一野球選手の結婚が速報と流されることで、なんとなくわかるような気がした。ゴシップ記事により、重要な問題が先送りされてきたようにみえるからである。現に50年も前から、この国が少子高齢化の傾向になるのが予測されてきたのに、全くその対策すらしてこずに、なかば放置され、今年になって、交通や物流などの人手不足から、大騒ぎしはじめた挙句に、野球選手の結婚報道なのだから、馬鹿につける薬はない、という他ないだろう。Q2 どうして日本では少子化が深刻化しているのですか|選択する未来 - 内閣府 (cao.go.jp)1 少子高齢化の進展 (mlit.go.jp)統計局ホームページ/平成31年/統計トピックスNo.119 統計が語る平成のあゆみ/1.人口 人口減少社会、少子高齢化 (stat.go.jp)少子化と家族 (gpc-gifu.or.jp)少子高齢化とは?現状と原因・問題点・対策から若者ができること、日本の今後 - SDGsメディア『Spaceship Earth(スペースシップ・アース)』小さなうちに問題を処理しておくに越したことはなく、未然に防ぐともいうが、東洋医学には、未病という言葉もある。未病のうちに、政治資金問題を透明化しておけば、今になって大騒ぎし、国家の命運にかかわる人口問題、生物学者もお手上げの、少子高齢化についてはもはや手遅れの感が大きい、といえるかもしれない。ちなみに、以下のサイトなどをググると、スウェーデンなどの北欧では、子育て環境を重視した家族形成の基本に戻る、新しい雇用形態への見直しに進んでいる。漢方専門医認定機関、日本東洋医学会 | 漢方の診察、2-1・治療の特徴・未病を治す (jsom.or.jp)5月 はじめよう 未病対策 | 健康サポート | 全国健康保険協会 (kyoukaikenpo.or.jp) 北欧の政治環境ならわかるが、この日本では、今から子どもを増やす方法など生物学的にほぼ不可能なのだから、来るべき少子高齢化社会に対しての政策を準備して、社会全体のスリム化を考えておく必要がある。つまり、いまこの国は、人口的に未病にある、といえるわけなんである。それはつまり、シュタイナーが預言したと一部でいわれる、この国の滅亡が近い、というわけなんである。シュタイナーは、動物の生殖には、太陽光が必要で、渡り鳥が、太陽光に富む、澄んだ空気の大気、気候を求めて、移動するのも、サケが繁殖のために、太陽光に富む、淡水の川に回遊するのも、太陽光の霊的な受精力を求めるため、と述べている。人間の場合は、動物とは異なり、大自然から解放され、自由に生殖の場や季節を選べるが、産まれてくる子は、宇宙の星座や天体の配置に影響されるので、霊的に優位な女性の直感にある程度依存するが、女性の霊感が失われるにつれ、愛も失われ、現代社会の物質的な都市社会の発展により、この現状を、サケに譬えるなら、海水で暮らす生活に馴れ、塩分を摂りすぎて、脂肪よりも筋肉優位体質になり、産まれた故郷の川に戻れなくなってしまったといえるかもしれない。しかし、いまでも、お産が近づくと親族を呼び寄せたり、故郷に戻るのは、女性の直感に生殖が依存するせいともいえるだろう。だからといって、物質社会を、昔の農耕社会へと、逆向きに戻るには、エントロピー増大の法則からも不可能で、農業ですらも、物質的になってしまった略奪環境では、経済的にも不可能で、第一、金持ちや資産家が、現在の金銭に飽かした特権的地位を手放すはずもなく、死後、地獄に堕ちてから閻魔様に怒鳴りつけられて、気づかされる目に遭わないと、わからないほど、人類は悪魔寄りに傾いてしまったわけなんである。権力者から権力を、お金持ちからおカネを、愛のために犠牲になれと、取り上げようとするのは、子どもから玩具を取り上げるのと同じである。前回も述べたように、現代人は古代人よりも遥かに愚かなんで、力づくで取り上げないと不可能な位に幼稚だからである。現代人のほとんどが自己愛しかもたないためである。それは巷の裏金議員などの悪あがきをみれば明らかなんである。国民が納税に苦しみ怒ろうが被災者が生活困難から叫ぼうが、目や耳を閉ざし、知らんぷりで、自己弁護に明け暮れる始末である。国の将来よりも、現在の自分の立場しかみえずに、ただしがみつくしか能がない愚かな置物の銅像と化してしまっている。だから、少子高齢化については、現代医学で再定義された「未病」というよりも、もはや手遅れの感が強く、少子高齢化を人体に当てはめれば、老化した細胞が増え、新しい細胞がほとんど生まれてこないのだから、特に、介護と医療で人手不足を生じているので、末期癌の、延命治療という段階にある、といったほうが的確であろう。このような人体の場合は、QOLをできるだけ向上させるしか手立てがない。このような段階を、現代医学では、緩和ケア、もしくは緩和医療と呼んでいる。日本史から、過去に、そのような時代を探ると、江戸の幕末期に似ているかもしれない。ガンが転移せずに、人体もまだ活力や蘇生の余地があるなら、ガンだった幕府を倒幕で除き、明治維新により、新政府樹立で、国政の交代も可能で、現実に起こったが、いまは、ガンが広く転移した状態で、国会そのものが脳腫瘍のように機能不全を起こしていることからも、政権交代しても、共倒れの可能性が高い。緩和医療 - Wikipediaちなみに、東洋医学での「未病」とは、現代医学とは少し異なり、広義の意味で、未来予測のための概念で、病気になる一歩手前というよりも、どのように予め治療へと誘導したらよいか、という、現代の物質的なハードランディングよりも、ソフトランディングを目指す観点なんである。だから、現代医学は、診断が主目的となり、東洋医学は、治療が主目的となる点で大きく異なる。だから現代医学では、難病と診断され、もはや手遅れの感が大きいから、このまま滅亡してしまうのだろう。というのも、日本全体を通じて、破廉恥議員をみてもわかるが、若者の犯罪や特に詐欺事件が多いのがもはや気がかりを通りこして、諦めの心境にあるからだ。勿論、若者のなかにも優秀な人はいるが、そのような人は、大谷選手のように、海外に出ていく時代だからである。余りに悲観的な見方かもしれないが、例えば、巷で最近話題の、成田悠輔氏の高齢者集団自決発言は、現代社会学からみれば、妥当な意見にみえる。というのは、江戸幕末の幕府瓦解の後の、武士階級の処分に、特に幕府側の武士の処分をどうするか、勝海舟が悩んでいたのが、この発言からも伺えるからである。国体継承のために、いっそのこと武士階級が集団自決してくれればいいと思って、勝と西郷の無血開城が為された背景があるからだ。「高齢者は集団自決」発言どう捉えるべきか 識者3人の見解 | 毎日新聞 (mainichi.jp)成田悠輔氏「高齢者は集団自決」発言 マスメディアは許容でチェック機能喪失の危機(石川慶子) - エキスパート - Yahoo!ニュース勝は、倒幕後の、幕府の武士たちを食わせるのに苦労したと、海舟座談で述べている。福沢諭吉などは、幕臣でもないので、学問のススメを書いて、あっさりと学者に転職して、慶応義塾を興したわけだが、当時の武士道の倫理観からすれば邪道で、死に際に花を咲かせる正道に沿って、血気盛んな連中は、特に御家人株などの武士株を買った俄か武士は、新選組などに加わって、武士になって死んで、名を残し、子孫を食わすため、鳥羽伏見などで、集団自決していったわけでもある。しかし、薩長の王政復古により、徳川幕府が賊軍になってしまったので、幕臣が賊軍として不名誉の戦死となっては、武士でも、切腹にはならずに斬首にされてしまうので、子孫の面目が立たずに、乞食同然の生活が待っているので、慶喜は、大政奉還をして、幕臣を食わすために、勝海舟などは奔走するわけだが、薩長官軍の鳥羽伏見の戦いが起こされて、外国勢力を頼って、慶喜は江戸に逃げ帰るわけなんである。そのうちに、血の気の多い幕臣は戦場で、集団自決していくわけで、戦国時代以来の激動の時代といえるだろう。従来の武士の仕来りからすれば、名誉の戦死から、子孫が残れば、先祖の手柄から食い扶持が貰えるわけで、代々の武士階級は、室町の戦国時代からの、この国の伝統技で、文化でもある。だから、日本史などの伝記もほとんどが創作なんである。子孫が食べていくために仕方なく創作したわけなんである。話を盛って笑かす、お笑い芸人と同じといえるかもしれない。切腹というのも、腹切りだけが強調されるが、実際は、武士と死んで子孫を食わすためである。斬首の場合は、武士の情けもないので、食い扶持もない。だからして、行動の美学の倫理観から、武士道が生まれるわけなんである。このように、この国では先代が滅亡という憂き目にあっても、その志を受け継ぎ、武士道=家を再興する機運や精神が、再生の文化として残っている。その再生の文化が、古代の輪廻転生観と一体となり、お家再興から、先祖を偲ぶ、詫び寂びの文化となっていった。この国では、物質の、モノの発明よりも、精神の再生の方に重きを置いていたのである。しかし、明治維新の、四民平等の理念が、西欧化の植民地主義により、武士道の精神と共に滅んでしまったのが、晩年の勝海舟の愚痴などに表出されている。つまり、この明治政府が、桂や大久保ら欧州岩倉使節団による帝国主義の植民地政策に傾倒し、勝と西郷らの共和制が退けられて、勝は引責し、西郷は、それなら、自分が朝鮮派遣大使になるといったが、許されずに、大久保を見限って、薩摩に戻って、武士階級を食わせるのに腐心した。結局、西郷は、大久保の罠にハマり、西南戦争の勃発で、武士階級と共に死に際をみつける。だから、西郷が最後の武士といわれる由縁で、西郷が、明治の元勲たちを、西洋カブレといい、見下していたエピソードは多い。勝は、西郷のような大人物がいたから、明治維新ができた、と述べているのは有名である。西郷にいわせると、明治政府は西洋カブレの物欲至上主義の植民地政策なんで、そのまま進めば、西洋と喧嘩し、衝突するのがわかっていたようである。だから、予めアジアで合従連衡して、東洋の精神連合で、西洋の物質主義の植民地政策に対抗しようと、島津斉彬の思想を引き継いだようである。だから、西郷は、全権大使として朝鮮に行かせろと、最後の望みの綱の、東アジア共和制を模索した感がある。しかし、結果的には、英国の植民地政策の工作にハマってしまい、明治政府は、武士道を捨てて、銀行屋に魂を売ったといえるだろう。合従連衡 - Wikipedia勝や西郷の予想は的中し、その後の経緯は、戦争史からわかるが、アジアの領土を巡って、西欧との植民地の取り合いになり、銀行業が発達していた資本家などの西洋の物質物量の、物質科学に大敗し、原爆まで投下されたわけなんである。詫び寂びの文化を忘れ、武士道を捨てたツケともいえるかもしれない。ヒトをモノとして扱う、タマス的態度は、いずれにしろ、行き詰まり滅亡するしかない。しかし、詫び寂びの精神は、ある記憶の断片からも再び取り戻せる。物質は亡ぶが、精神は決して滅ばないからである。例えば、大谷選手の活躍の背景には、日本では有名で、その精神的な努力が、挙げられている。ゴミ拾いなどは、詫び寂びの精神の顕れである。また、恥の文化も、死んで祖先にあわせる顔がない、という意味から、詫び寂びの文化であるのがわかる。恥の文化(はじのぶんか)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)第120回「恥の文化と罪の文化」(2017.5.9掲載) – 情報労連 (joho.or.jp)本来、恥の文化は詫び寂びの文化が前提で、西洋の神との契約の罪の文化と同じになる。ただし、最近の西洋人も神への信仰心がないものが多いので、キリストが金持ちは地獄に堕ちるよとアドバイスしているのに、聞かない銀行屋のような神殿を穢す者が沢山いるわけである。天国からすれば、金銭はゴミでしかない。金銭よりも社会的な、人間的な信用が大切だからである。大谷選手の結婚の騒動話に戻すが、日本の過剰な報道からは意外にみえるかもしれないが、大谷選手の知名度を調べてみると、米国ではマイナーなのである。日本人のメジャーリーガーなのに、知名度は米国ではマイナーリーグなんである。というのは、米国では、ベースボール人気が下火だからである。日本のスポーツに譬えると、相撲か、バレーボール辺りといえるかもしれない。しかも、米国に行ってみればわかるが、日本の話題はほとんどなく、日本人は中国人に間違われ、同じアジア人を見分けられない。それは、日本人が、アフリカ人やヨーロッパ人を見分けられないのと同じである。同じアジアでも、イランとイラク、インドとパキスタン、スリランカを見分けらず、中東のドバイの場所もわからない日本人が多いのと同じである。ましてや最近は、日本人ハーフが身近で、日本人が日本人を即座に見分けるのも困難になっている。だから、日本人だけという感覚で盛り上がるのは、例えば、田舎のある村から、都会に出てきて、盛り上がる感覚に近く、例えば、あえて政治家でいうなら、現総理が広島出身だから、広島というだけで盛り上がるのと同じで、他県民からすれば、マイナーな盛り上がりにすぎなく、ある意味、迷惑な盛り上がりといえるかもしれない。少なくともコスモポリタンではない。さて、話を元に戻すと、米国ではベースボールの人気がないのは、メジャーリーグの広報も下手な理由もあるが、大半の米国人の関心が他のスポーツの、アメフトやバスケ、最近はサッカーにいっているからで、米国人の現代感覚からは、ゲーム展開が、退屈という理由が挙げられている。総じていえば、ベースボールは、米国では古いスポーツ文化で、最も知名度が高いメジャーリーガーは今でもベーブルースなんである。だから、大谷ってフー?と言われれば、ベーブルースを成績で越えた選手といえば、へぇーとなるはず。いまは、スポーツ史上最高契約額の選手のほうがいいかも。米国人にはほとんど見限られたベースボールだが、日本ではサッカーと二分するほどの人気である。また、今回の、ゴジラや、ジブリ作品のアカデミー賞受賞をみると、日本人には、まだ、捨てられた文化を再生させる能力があるのに、気づかされる。日本では、一時期、「勿体ない」運動というか、リサイクルの推奨が、社会的課題となってきた背景がある。ベースボールが野球として日本文化になったのは、日本列島という、ガラパゴスな文化形態をつくるのによい、閉鎖的な、地政学的な環境に起因するように思える。そう、つまり、大谷選手は、ベースボール文化の申し子ではなく、ガラパゴスな野球文化の申し子といけるかもしれない。古き良き文化を再生し、甦らせる、ベーブルースの生まれ変わりなのかもしれない。ベーブルースの輪廻転生の生まれ変わりというか、リサイクルの人物なのかもしれない。第5回 ガラパゴス | 続 10分でわかるカタカナ語(もり・ひろし & 三省堂編修所) | 三省堂 ことばのコラム (sanseido-publ.co.jp)日本という国は、古き良き文化を保存するガラパゴスでありながら、新しく生まれ変わる、再生のリサイクルの文化を生み出す土壌なのかもしれない。それは、大谷選手のドジャースのオープン戦の動画を見ていた後で、日本には、インドでは使われなくなったサンスクリッド語が残っている、という動画を見たことで、気づいた理念でもある。日本のこれからの使命は、古い文化の再生なのではないか?と思った。だから、日本は一度、シュタイナーの預言のように、死なないといけないのかもしれない。特に、巷の政治家の恥晒しを見るたびに、そのような想いが濃厚に積み重なってくる。その動画によると、日本語は、漢字とインドのサンスクリット語をミックスして新しく作り直した言葉だという。中国とインドはいまでも仲がいいとはいえないが、それは古代文明の意味でも、中国には中華思想が残っていて、古代インドにはヴェーダンダ―、サーンキヤ、ヨガなどのヒンズーから、現世を幻想と捉える思想が残っている。つまり中国は現世を統治する意識が強く、インドは現世を幻想とみる意識が強いので、中国は唯物に走りやすく、インドは唯心に走りやすく、水と油なんである。【海外の反応】「インドが失ってしまった文化が、なぜ日本に残っているんだ…」世界で日本にだけ残る文化にインド人が大号泣…【日本のあれこれ】 (youtube.com)だから、中国とインドが極端に走れば、対立を生むのは必然といえるかもしれない。しかし、日本には、古い中国の文化も、古いインドの文化も、その残滓として日本語に残っていることからも、その断片から、融合の精神を新しく作り直せる余地があり、しかも、両国の橋渡しとなる、仏教の思想と信仰心を篤くもつ文化なのである。バチカンがキリスト文化を通じて、西洋諸国の文化を調停できるのに似て、日本も仏教文化から、精神的に調停できる可能性を秘めているかもしれない。しかも、日本の文化には、古代イスラエルの、中東文化の残滓も残っていて、赤い鳥居は、モーセの契約の書を意味している。虎の巻とは、トーラーの書である。だから、日本はガラパゴスの古い文化から、リサイクルの新しい文化を生み出す基点となる可能性が挙げられ、それは、大谷選手や、今回のジブリのアニメ作品や、ゴジラの特殊技術などに現れているように思えるわけなんである。だからまず、日本という国をリサイクルし、再生させないといけない。オッペンハイマーの物質的な原子核分裂の核兵器ではなく、精神的な原子核融合の物質的な水素ではなく、霊的な精神融合の愛のリサイクル文化装置をつくり出す必要がある。アニメにはその可能性が秘められているように思える。ジブリの作品に感動しない地球人がいないように。ゴジラは邪な物質支配欲を木っ端みじんに破壊してくれる、霊的な愛のリサイクル融合キャラになるべきである。面白いことに、八切史観からわかるが、古代から、日本列島は、他国の亡命者が辿りつく地だったようである。船の遭難でも、辿り着く島でもある。だから、様々な古い文化や習慣が、この島国に辿り着き、受け入れられ、独自の進化を遂げたわけで、異種文化のガラパゴスとなったわけなんである。いま和食がアニメとともに、インバウンドのブームになっているが、ほとんどの和食は、日本発祥のものではなく、例えば、もともとカレーライスはイギリスからの輸入で、日本でリサイクルされて、鶏肉のカツカレーとして現地で逆輸入されてブームになってるのも不思議である。スパゲティのナポリタンも、イタリアにはなく、アメリカ人に求められて、ケチャップでつくったのが最初だったというし、ミートソースも、同じで、日本でつくられたもので、肉じゃがは、イギリスのビーフシチューのレシピから想像して生まれ、天ぷらも、スペイン料理の物真似で、先日TVでみたが、フランスでブームになっている餃子やラーメンは、中華料理からきたのを日本人風にした、リサイクル料理だというわけなんである。本場の中国では、餃子は水餃子か蒸し餃子で、焼き餃子は、前日に残った餃子を食べるために焼いたもので、客には出さない家庭での残飯処理の料理だったという。だからいわば、食品ロスを減らすための料理だったといえる。日本で町中華となっている料理は、日本でリサイクルし、新しい文化となった、その名の通りの、融合という意味の、和食といえるわけなんである。日本人が太古からの和人、大和人となるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 人間の自由は、ルシファー的な、月紀の存在たちに負っている。しかし、ルシファーたちは人間を正しい進化から逸脱させる為だけに存在している、というような一面的な見方では不十分で、むしろ、人間は、ルシファーたちの背後にある進化から遅れた能力を、善導して、その悪しき能力無しには、人間という価値、つまり愛という真の言葉の意味において、自由を獲得できない事実を見逃してはいけない。 とはいえ、ルシファーたち、そしてアーリマンたちの背後にある、進化から遅れた能力と呼べる自由の根幹には、より深い何かが横たわっている。既に古「土星」上で遭遇したが、その根幹を感じ取るのは極めて困難で、それを特徴づける、いかなる言葉をみつけるのも困難である。 とはいえ、太陽紀で示したような、諦め、もしくは断念の概念をイメージでき、古「太陽」の現実へと遡れるなら、その根幹を明瞭に特徴づけられる。というのも、ルシファーたちが進化から遅れた事と、その影響による、その根幹は、高次の天使たち側での、諦め、もしくは、古太陽という、天国からの拒絶のなかに横たわっているからである。 人智学徒は、この根幹を、古「太陽」上での、次のような出来事からイメージできる。人智学徒は、トローネ(意志霊)がケルビムに供儀を捧げた、のを知っている。地球の進化を遡り、見てきたように、トローネは、供儀を「土星」紀だけではなく、「太陽」紀にも捧げ続ける。 トローネ、つまり、意志霊は、「太陽」紀でも、ケルビムに供儀を捧げる。火、もしくは熱となって、地上の物質界にもある、全ての愛の、実際の本質は、この供儀にある、のを見てきた。さて、 もし、アカシャ年代記(=虚空記録体)を遡って見るなら、「太陽」紀に何か別の出来事が生じたのにも気づく。 トローネたちは犠牲を捧げ、犠牲行為を続ける。人智学徒は、犠牲を捧げるトローネを見る。また、多くのケルビムたちに向かって、トローネ自らの犠牲が捧げられ、その犠牲から、熱や、火が、ケルビムに流れ込み、受け取るのを見る。けれども、同時に、多くのケルビムたちが、その火の犠牲を拒絶し、受け取らず、この火に与らない。この火の拒絶を感じ取れれば、この講義の土星紀で述べた、曖昧なイメージを明瞭にできる。 このイメージのなかには犠牲を捧げるトローネ、そして、犠牲を受け取るケルビムが見られるが、自分に向かって突き進んでくる犠牲を受け取らずに、反射するケルビムも見られる。この出来事を、アカシャ年代記のなかに辿っていく、のは途方もない困難を要する。 つまり、人智学徒は、「太陽」紀に、大天使によって「太陽」の最外殻から光の形で反射される供儀の煙が上昇するのを見るが、それは、叡智霊が、犠牲の熱のなかへ、与えるという徳を流し込む行為による。しかし、また何か別の行為も見る。 古「太陽」の広がりの内部で何か全く別の、つまり、大天使が光として反射せずに、ケルビムも受け取らないために、供儀の煙が逆流する、のがみえるが、そのため、「太陽」の広がりのなかには、上昇する犠牲と下降する犠牲の供儀の煙、すなわち、受け取られる犠牲と、拒絶され、戻される犠牲が存在する。 この太陽紀の、実際の精神的な雲の霊的なイメージによる、「太陽」の拡がりを通じての、人間の自我のなかの、ホンモノの自我(=霊我)との遭遇は、この宇宙と、地球の進化のなかで、人智学徒が、しばしば、外と、内と呼び、区別した、外の、内のなかにみつかる。それはまた「太陽」上の2つの次元のなかの別々の層としてもみつかる。 このように、太陽の、中央には犠牲を捧げるトローネと、高次の愛から、供儀を受け取るケルビムを、また、供儀を受け取らず、方向転換させて、元に戻す、ケルビムたちがみつかる。この方向転換させ、戻すのを通じて、環状の雲が生じ、そして、その周囲には反射された光の塊が見つかる。
2024年03月14日
コメント(0)
先日、BSNHK番組で、現代科学での、宇宙人探索をみたが、相変わらずで、科学的思考も吟味せずに、全てを物質で捉えようとする愚かさに呆れてしまった。現代人の知性が、生命に対して未完成なのに気づかず、生命をそのまま理解できず、物質の構造変化でしか理解できず、しかも覚醒意識においては、破壊に基づく、部分的な分類でしかないのを、その根底から理解しない限りは、宇宙人などみつかるわけがなく、無用の長物と化すだろう。見つかると言う根拠が曖昧で、曖昧さ故の確率論で、みつかるはずなのに、みつからないのは、探索方法が無駄なのが少なくとも明白である。そもそも、みつけようとする人類の目的が明確でない限り、高度な知性の宇宙人が、地球人などの探索にかかるはずがないだろう。我々人類同士だって、ヒトと会うには、なんらかの目的を共有しないとはじまらない。あてづっぽうにやられても、迷惑千万なだけである。詐欺の偽メールと同じである。高度な宇宙人が、低次の地球人の詐欺に引っかかるほうがおかしい。宇宙人にとっては、害獣や害虫のように、巷の、大谷選手の結婚相手を探索するパパラッチやストーカーのようなマスコミのような煩わしい存在にすぎない。もしみつかるとしたら、地球人よりも低次な知性の持ち主で、それらは、地球人に敵対する可能性が高いだろう。寝た子を起こすようなものだろう。巷で話題となった、都会に出て食物を探すクマ騒動と同じだろう。宇宙人と遭遇して、殺されるのがオチである。人類のような低次な獣に襲われては低次な宇宙人ですら迷惑千万である。馬鹿な地球人は、侵略している気持ちすらないから、地球圏外を出れば、宇宙への侵犯になるわけで、アホである。ロシアのプーチンと同じ思考でしかない。結局、現代人の探索方法が、人間の未完成な知性の、土台に基づいているのだから、砂上の楼閣なんである。はっきりいえば、現代人の知性とは、真逆の方向に進まない限りは無理なんである。いってみれば、我々人類も、高度な宇宙人の手足だからである。高度な知性の基に、低度の知性が築かれるから、つまり、創造力の基に、破壊力が生まれるのだから、破壊からは何も生まれず、絶えず、破壊という低い知性から、それ以下の低い知性しか生まれない。現代人は古代人よりも遥かにアホ馬鹿で、だからプーチンのような究極の馬鹿が生まれてしまい、ヨハネの黙示録では、賢い善人と、アホ馬鹿な獣のような悪人に分かれると預言されているわけなんである。どんなに生きる気でいようが、高齢には勝てずに、結局野垂れ死にし、死後に、自らが殺めた霊魂たちに寄ってたかって八つ裂きにされ、復讐されるのがオチである。無間地獄が待つだけだ!宇宙人探索よりも、死を解明する方が先であろう。死後の世界も知らないで、宇宙人探索などできるわけがない。高度な文明を、他の天体に求めるのも無意味である。なぜ現代が最も進んでいる、と思うのか?その思い上がりと、プーチンの侵攻とどこがどう違うのか? 地球の自然破壊すら食い止められないのに、なぜ現代人が高度の文明を築いたといえるのか?いずれにしろ、現代人は生命以下の物質現象しか理解できない、のである。例えば、古代文明を、その遺跡から理解できないのは、古代人よりも、低度の知性しかもたないからである。古代人よりも、馬鹿だから、科学が発展すればするほど、競争が激しくなり、物質破壊により、いまだに、戦争しているわけである。古代アトランティス時代の大破局により、宇宙についてのそれまでの高度な知性は失われてしまったわけで、大破局というのは、いわば、それまでの、タマゴの卵白のような世界から、物質界というタマゴの硬い殻のような世界ができたわけだが、そのために、古代の叡智の、卵白を感じる感覚や知性を失ってしまったわけなんである。聖書の記述では、マヌと呼ばれたノアだけが高度の知性をもち、次の人類に教え説いたという。だから、再度、創造性の柔らかい知性と、その感覚を取り戻さない限りは、高度な知性に向かって進むのは不可能なんである。固い物質よりも、より柔軟な不可視の知性を再獲得しないと、その柔らかい知性からみれば、現代人の知性はあまりに硬直し過ぎて、硬く、未開人のような、破壊的知性なんである。第一、宇宙人を探索しようとする動機が不純である。知的好奇心というと、聞こえがいいが、知的欲求といえば、ある意味、乱暴に聞こえるだろう。物質の構造を知るために、物質を破壊するのは、知的欲求で、動物実験もその類である。知らなくてもいいことを、知ろうとするのは、例えば、赤ちゃんにピストルをもたせる、のと同じではなかろうか?現にプーチンが核兵器をもっているから、ウクライナに侵攻できたわけで、独裁者や権力者に高度な知性を与えたら、何をするかわからないほど危険である。オッペンハイマーが原爆をつくらなかったら、広島、長崎に原爆が落とされ、大量殺人も行われなかっただろう。大量殺人をしたものは、何百万人もの被害者の怨念や死の苦痛を、死後に、地獄でそのまま苦しみを味わい、のたうちまわるだろう。天国から出禁を食らい、永遠に彷徨えるユダヤ人となるだろう。古代人が、死者の書として既に、最後の審判などから伝承しているのを読み解けばわかる道理である。知的好奇心や知的欲求が招いた悲劇が、現代人の核兵器といえるだろう。現代人は、古代アトランティス時代の叡智を再び獲得しないといけない。現代人は、古代アトランティス人からみれば、未開人で野蛮人だからである。生命の尊さを理解できていないからで、それは覚醒意識ではなく、眠ったときの潜在意識から、第六感、超感覚により獲得できる感性で、それらは前世を観れる能力から現れるらしい。だから、覚醒意識で、何をしようが、覚醒意識自体が、高度な知性ではないので、無駄なんである。少なくとも、睡眠中の潜在意識を、覚醒意識に近づける必要がある。つまり、夢を、覚醒意識で解き明かせないとダメである。夢のなかで、高度な知性の天使たちとともに、覚醒時の人生の計画を練り、前世から、人生をやり直すだけの、創造力を獲得するからである。灯台下暗し、というが、灯台の光が、高度な知性であり、我々人類は、その高度な知性の光を使って、灯台のように、遠くを照らしているわけで、元々の光をそのままみることができないから、その光よりは、どうしても、暗くなるわけで、自分の眼を自分で見れないのと同じで、高度な知性の宇宙人を、照らし出すのは不可能なんである。照らし出したとしても、その一部であり、欠片や断片にすぎない。人間もそのまま自分の姿全てがみれない。鏡に写しだしても、表面だけで、しかも表だけの、左右逆になる。体内や内臓もエックス線でしかみれないし、しかも、それは固い物質部分でしかない。現代人の知性は部分的で、包括的ではないからである。また、それら光や電磁波で、より遠くを映しだそうとすればするほど、高度な知性が低レベルになっていくわけで、つまり氷山の一角をより小さくみるようになる。だから、現代人は統計や確率論を持ち出すようになるが、それは所詮、全体の一部でしかないので、確率論では、1をどれだけ少数や分数に分布させるか、分割するかになってしまい、結局は、物質的な経験論からの予知論の問題に行きついてしまう。予知すればするほど、全体の1ではなくなるので、無意味になるわけで、地震予知が不可能なのは、この理由による。確率論でいかに低いといっても、起こらないわけではなく、ましてや量子論的には、トンネル効果もあって、確率がゼロに近くてもゼロではない。だから、地震の少ない確率の土地に地震が起こるわけで、それが神戸や能登だったわけなんである。地震を司っているのは地球にある月の波動なんで、エーテルを検知できないと無意味なんであり、科学ではエーテルを否定しているから土台無理なんである。だから、高度な知性に向き合わない限りは、覚醒意識では、真逆の方向に進むだけなんである。要するに、宇宙人がいない方向に進んでいるだけなんである。地震予知と同じで、地震確率の少ないのを狙って地震を起こせるからで、何事も性善説で起こるわけではなく、現代人は現状しか判断根拠を得られずに、あえていうなら、より宇宙人がいない方向に進んでいる、といえるだろう。だから、宇宙人探索は、我々地球人が最も賢いという鼻を高くするための、天狗になるために行われているにすぎない。たとえ、宇宙人の断片をみつけても、宇宙人という確証は得られない。地球人が、地球という星で生活する限りは不可能なんである。少なくとも、地上の重力を感じる感性を捨て去らないといけない。地球環境で生きられる生命体が、地球生命体なんである。それは高度な知性を、地球化しているからにすぎない。だから、地球化された知性で、他の天体を探索しようが、地球ではない時点で、無意味なんである。地球との違いが現れるだけで、地球から見える姿でしかないからである。探索船を打ち上げようが、電波で情報を伝える時点で、地球化されているからである。このような地球人の知性、つまり、人類が知的生命体であるという、偶像崇拝を捨て去らない限りは、高度な宇宙人をみつけることはないだろう。そのような知的信仰こそが、宇宙人の発見を阻む最たるものだからである。さて、また先日、BSNHKで、原子爆弾を開発したオッペンハイマーの伝記をやっていたので、そのことについて書こうと思ったのだが、漫画家の鳥山明氏が亡くなった、ので、急遽、哀悼の意を込めて、鳥山明氏の漫画についての想い出を書きたくなった。鳥山漫画は、ドラゴンボールで有名だが、個人的には、Drスランプが、ギャグ漫画として、漫画界のブレークスルーに思える。それまでの漫画といえば、スポ魂か、子ども向けの、仮面ライダーのような戦隊モノがほとんどで、ギャグに徹する漫画は少なかったからである。そもそも漫画とは、滑稽さや風刺などの、コミカルな表現からはじまったようにみえるが、手塚治虫という、漫画の神様が出てきて、漫画を小説の文学や哲学に変えたようにみえる。手塚氏の漫画は、従来の漫画を超えた作品といえるだろう。手塚氏のブッダや火の鳥などは、一種の哲学を描いているようにみえる。その後の、藤子不二雄氏や、松本零士氏のSF漫画が活動分野の裾野を拡げ、更にリアル性を求める多様な劇画調のスポ魂モノなどが流行っていき、昭和の漫画の主流派を形成するようになってきた。日本の漫画の歴史 - Wikipediaだから、60年代から70年代には、従来の、滑稽さや風刺などの、コミカルな表現の漫画、俗にいうギャグ漫画は、本来は正統派なのに、有名なのはほとんどなく、新聞に載る4コマ漫画などの、子どもにとっては、亜流というか、異端派に格下げされた感があった。というのも、手塚氏がギャグ漫画を描かなかったせいといえるかもしれない。ギャグ漫画で有名なのは、ほぼ赤塚不二夫氏しかいなかった。しかし、鳥山氏が出てきた当時の80年代は、ギャグ漫画ルネッサンスともいえるかのようなギャグ漫画ブームが到来して、それ以前のギャグ漫画といえば、赤塚不二夫氏の天才バカボンや、おそ松くんなどの、赤塚ギャグ漫画の独断場だった感がある。赤塚漫画といえば、いまでも密かに知られている、イヤミのシェー!や、馬鹿なのか天才なのかわからない、CMでも、お馴染みな、バカボンのパパや、逮捕だ!といって、ピストル打ち鳴らすお巡りさんや、ウナギイヌ、「お出かけですか、レレレのレ」の掃除のおじさん、など一発ギャグ満載の、まるで一発芸人を漫画にした世界にもみえる。シェー - Wikipedia赤塚漫画の一発屋キャラは、人物を綺麗に描くよりも、デフォルメしたギャグセンスに重きを置き、ヘタウマな絵で、現実へのカリカチュアに徹した、独特の虚像、虚構表現満載の赤塚ワールドの住民だったが、対照的に、鳥山漫画は、確かにカリカチュアもあるが、まるで芸術作品のように、人物を綺麗に描き、そのままフィギュアにすれば、斬新的な彫刻やモデルになるくらいの、現実を超えた、未来の、どこかリアルな鳥山ワールドの独創性を感じさせた。カリカチュア - Wikipediaというのも、鳥山漫画にはイラストレーターのような、どこかモダンアート性、アンディウォーホールのポップアートをギャグ漫画にしたような洗練さを感じさせたからである。鳥山漫画に出てくる、どのキャラも、ポップアートのような芸術作品にもみえる。アンディ・ウォーホル - Wikipedia特に好きなのが、ニコチャン大魔王である。ニコチャン大魔王の地球(ちたま)征服には笑わせてもらったし、梅干し食べてスッパマンのセコいキャラでも笑わせてもらった。ドクターマシリトの憎たらしさも面白かったが、なにより、それまで、汚いものとされていたウンチを、芸術作品にして、ウンチ君という生き物にしたのは、ギャグ漫画革命といえるかもしれない。このような鳥山ギャグ漫画の他にも、江口寿史氏のすすめパイレーツや、鴨川つばめ氏のマカロニほうれん荘、高橋留美子氏の、有名な、うる星やつら、ゆでたまご氏のキン肉マンなど、当時の80年代は、ギャグ漫画のルネッサンスといえるぐらい、ギャグ漫画が盛り沢山だった。つまり、鳥山漫画は、漫画キャラのポップアート化に、その神髄があるようにみえる。世界共通の漫画キャラで、現在のアイコンの先駆けといえるかもしれない。個人的には、Drスランプは、当時の米国人の漫画キャラのポップアート化にみえる。というのも、ペンギン村は、日本(作者の出身地らしい)となっているが、どこか、米国の田舎の村っぽさも出ているからである。そして、ドラゴンボールは、鳥山氏が、西遊記をネタにした漫画と言っているように、古代の中国を、現代未来風にポップアート化したような世界で、発刊当初はギャグ漫画路線だったのが、当時大人気の北斗の拳の影響を受けて、格闘路線に変更したようである。当時の週刊ジャンプは、北斗の拳が凄い人気で、他にもキャッツアイやシティハンター、キン肉マンなど、もはやいまでも伝説となっている。アイコン - Wikipedia北斗の拳 - Wikipediaシティーハンター - Wikipedia80年代の漫画の教科書が週刊少年ジャンプだったといえるかもしれない。ジャンプ漫画のキャラを知らない人は少なく、Drスランプのアラレちゃんやドラゴンボールの孫悟空、北斗の拳のケンシロウや、シティハンターの冴羽遼などはお馴染みだった。これら主人公の漫画内での展開が、天気予報と同じで、日常の話題だった。巷の、鳥山氏の追悼ニュースをみると、鳥山氏は主要キャラ以外は度々忘れてしまい、記憶の断片から、その都度新キャラをつくりあげ、古キャラを忘れないと、新キャラがつくれないと、言っていたという。サイヤ人の髪の色が、漫画の紙面では、白なのは、黒のベタ塗りが面倒くさかった、という、有名な都市伝説もあるが、黒に塗るのを忘れていたのかもしれない。超サイヤ人の金髪は「黒の塗りが面倒だから」じゃない。|鈴木 優一 (note.com)その都度、キャラを更新していく描き方は、ある意味、疑問や問題をその都度解決していく、数学者にもよく似ている。古代ギリシア人からすれば、現代の漫画家は、現代の代数学の数学者よりも、数学者のようにみえるかもしれない。というのも、現代の数学者は、大自然を、言葉の代わりに、数で表現する、代数学者と、幾何学で表現する、幾何学者がいるが、古代ギリシアでは、ほとんどが幾何学者だったからである。つまり、鳥山氏のような現代の漫画家は、大自然を、幾何学から発展した、アイコンの、擬人化によるキャラクターで表現しているからである。だから、大自然をアイコンのキャラで表現する、鳥山氏は、古代ギリシア人からすれば、数学者のようにみえるかもしれない。鳥山氏の数学者的な長所が、恐らくドラクエなどのヴァーチャルなゲームの創作活動に巧くマッチしたようにみえる。確かに、日本のアニメには、古くからのアミニズムからの擬人化が、上手く取り入れられていて、その最たる例がロボットで、手塚氏の鉄腕アトムといえるが、手塚氏の自画像は、本人似だが、鳥山氏の自画像は、なぜか、本人とは似てもしないロボットなのが面白い。鳥山氏の画力からすれば、本人の自画像ぐらいは容易なはずだが、ロボットなのはいかにも不思議である。アニミズム - Wikipedia擬人化 - Wikipediaほとんどの漫画家は自画像を描いているが、鳥山氏には本人似の自画像が無いのも不思議である。その代わりに、周囲の人物が、漫画に登場させられている。ドクターマシリトは、当時の編集者で、読者にも、締め切りを迫る憎っくき相手と紹介されている。センベエ博士は、高校の先生がモデルらしい。ペンギン村のモデルは、出身地の清州市という噂もある。鳥山氏が、他の漫画家と違うのは、キャラに合わせて、有名な創作言葉を生み出しているところである。アラレちゃんの、「んちゃ」「ほよよ」「おはこんばんちわ」「バイちゃ」などや、孫悟空の、かめはめ波、元気玉、界王拳など、技に名前をつけるのは、北斗の拳と似ているが、北斗の拳の技名はほとんど知られずに、アタタタタと鍵盤を打つかの如くの連打と、「お前はもう死んでいる」というセリフで、ヒデブ―と言って死ぬ言葉だけが印象的だったが、対照的に、かめはめ波の知名度は抜群で、戦隊モノやウルトラマンの技に近い。則巻アラレ - Wikipedia孫悟空 (ドラゴンボール) - Wikipediaそこで、かめはめ波を調べてみると、カメハメハ大王に由来しているらしいが、その技の仕草は、合気道にも近いような遠いような、独創的な拳法にみえる。ある意味、赤塚不二夫氏の、イヤミのシェーにも似る印象を与える。そして、技のネーミングは、ドラえもんの、4次元ポケットから出る未来の道具にも似ている。かめはめ波 - Wikipediaかめはめ波は、いまでも世界的なアニメファンにより、知名度抜群で、ドラゴンボールファンのコミュニケーションツールとして、独創的な拳法の型として知られているが、鳥山氏の独創性が面白いのは、アラレちゃんに、「めちゃんこ」を言わせることで、当時、「めちゃんこ」が大流行したことがある。漫画から、流行が生まれるのは革新的といえるかもしれない。独創的で革新的な、フォンノイマンや、アランチューリングなどの数学者が、数学から、コンピューターをつくったように、鳥山氏は、ドラクエのようなロールプレイングゲームをつくった。コンピュータはいわば演劇の舞台設定で、ロールプレイングゲームは、疑似演劇といえるわけで、人生の役割分担を疑似ゲーム化したものともいえるだろう。ジョン・フォン・ノイマン - Wikipediaアラン・チューリング - Wikipedia役割演技 - Wikipedia鳥山氏の独創性の凄さは、現実世界の嫌われもののウンチを、キャラ化したアイコンにし、ペンギン村のなかで、擬人化され、アラレちゃんのペットのような遊び相手にしたところにある。この一見して醜悪なもののなかにも、愛嬌を探している洞察力に驚かされる。それは、キリストが、道に転がっていた犬の死体をみて、歯が綺麗だと言ったように、醜悪のなかに、美を見つける態度と似ている。シュタイナーは、動物の糞には、植物の肥料となるような、霊性を育てる養分が潜んでる、と述べている。古代エジプトでは、生命の排泄液を、ミイラと呼び、糞や尿や汗などから、排泄した生命の霊性を探ったという。つまり、古代人は、ウンチから、ウンチを出した生命体を、霊的に推測できた。だから、鳥山氏のウンチ君が、生きているように、ウンチも霊的には生きている、といえるだろう。このような、なにものにも、霊性を探求する姿勢について、前回紹介した、3つのグナをあてはめると、サットヴァに相当する。古代インド人が、鳥山漫画の作品をみれば、ヨーガやサーンキヤの理念から、サットヴァの態度と評価するだろう。古くはアニミズムといわれ、古代ギリシアでは神格化、キリスト降臨後の、中世では擬人化となった、この万物に霊性を求める態度を、サットヴァという。ちなみに、サットは、万物という意味で、ヴァは、見通すという叡智の意味らしい。ドラゴンボールの7つの球は、人体のチャクラを暗示していて面白いが、鳥山ワールドは、どこか宗教観を感じさせるのも不思議である。この万物を見通すサットヴァの目が、霊眼で、それは万物と合一する愛の犠牲の態度らしく、どんなものにも愛情を注ぐ、どんなものにも美しさを感じる態度といわれているらしい。つまり、万物を創造性に導き、善導するのが、サットヴァ的な態度のようである。これとは逆の、万物を奴隷化し、モノ化し、とくに生命を唯物化するのが、タマス的な、闇の態度らしい。大自然を、自分の召使いかのように、奴隷化し、扱う態度を、タマスと呼ぶ。例えば、巷の懇親会に、破廉恥ダンサーを呼ぶような議員たちは、ヒトをモノ化しているので、古代インド人のサットヴァを体現した菩薩の賢者がみれば、タマスと判別されるだろう。ちなみに、万物に親しみ、善導する、サットヴァと、その逆の自分しか考えられない、タマスとの中間の、自分に利益が見込めるときだけ、関係を求める態度、利益のない場合は、我関せずの不干渉の、打算的で、表面的な、利害関係の付き合いを、ラジャス的態度と呼ぶらしい。だから、万物に、愛を追求する態度がサットヴァで、場合に応じて、利害関係で愛を追求するのが、ラジャスで、自己愛のみを追求するのが、タマスといえるかもしれない。だから、形だけの対応、例えば、一時期、巷でいわれたマニュアル通りのマックスマイルは、ラジャスといえるかもしれない。つい最近、巷の芸人の発言で話題になった、医薬分業体制の、薬剤師の問診なども、保健点数稼ぎの形だけの対応なら、ラジャスといえるかもしれない。②資料1 (mhlw.go.jp)wp027.pdf (med.or.jp)これからの病院経営を考える 第6回 変革を求められる薬局業界―今何が起きており、今後どこに向かうのか― | PwC Japanグループだから、心のない素っ気ない対応、自分の欲望を満たすだけの態度、自己目的でしかないエゴを、闇のタマスと呼ぶようである。というのも、それは本当の自分ではなく、自分から派生した物欲のエゴの、虚栄心の、幻想の自己をみているにすぎないからである。偽物のエゴを、自己と捉えるのは、自己の詐欺師である。現代には、タマスが横行している。そのようなタマス的な、唯物的な態度を続けていると、人間はヒトという生命から、神性を失い、獣のモノと化していくだろう。自分の欲望のために、宇宙人をみつけるのは、ラジャスか、タマスといえるだろう。少なくとも、宇宙人を尊敬しているのなら、宇宙人の側に、我々人類が行って近づくしかない。自分の欲望を解消するために、宇宙人探索をする、現代人の邪な態度を、高度な知性の宇宙人は、まるっきりはっきりとお見通しで、サットヴァしているので、そのような科学者に、正体を明かすことはないのである。宇宙人探求法は、物質的観測法では無意味なのであり、古代から伝承されているように、愛に対して祈ることにある。漫画家が、作品に身を削り、愛を込めるのは、漫画の世界への、愛の祈りなんである。そして、愛が、キャラとして、脳裏に降臨し、イメージとして現れ、愛が一つとなり、ペンを動かす。愛されるキャラが生まれるのは、作者が愛をどれだけ込めたかにある。アラレちゃんも、悟空も、高次の宇宙人との愛の絆で、愛の結晶なんである。人間はエッチだけで子が生まれる、と物質的に思い込んでいる。エッチは通過儀礼でしかない。愛への祈りから、宇宙人はいつでも愛として現れる。人類が宇宙人側の愛に寄り添い、サットヴァになれるかどうかの問題である。自らが愛に近づけば、愛は自ずと現れるのを、サットヴァするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 創造的な諦め、創造的な断念の概念を理解しなければならない。諦め、もしくは創造的な断念(これは魂の中で実際に経験できる)を、日常の生活から、遙かにかけ離れた思考として認識するのが極めて重要である。そのとき初めて、人類の進歩において、一歩先に進める。 というのも、「太陽」から「月」に移行する進化において、実際に、このようなことが起きたからである。そのとき、何か諦めに似た事柄が、高次の存在たちの領域で生じたが、それらの存在は、「地球」の進化に結びついた。 この理解のために、再度、古「太陽」での進化を考えてみる必要がある。しかし、その前に、人智学徒には、お馴染みの、現代に至る過程で生まれた、ある意味謎めいて見えた存在に注意を向けてみる。 繰り返し指摘してきたのは、進化の過程で、後に取り残された存在にまで遡れる、人類の発達に先行する存在たちである。実際、人智学徒は、ルシファー的な存在たちが、地上の人間に介入している、のを知っている。 そして、再度、指摘したように、これらルシファー的存在たちは、古い「月」紀に達成できたはずの発達段階に到達できなかったために、地球紀では、我々人間のアストラル体に侵入できるようになった。 宇宙進化史の文脈の中で、頻繁に、簡便な比喩を用いたが、人間が落第するだけでなく、天使も、発達段階を全うできず、後から生まれた他の存在たちの発達段階に介入することだった。そのように、ルシファー的存在たちは「月」紀において、後に取り残され、「地球」上で人間たちに介入している。 ルシファー的存在たちには、何らかの知的な欠陥があったから、宇宙進化から遅れた知的障害者に違いない、でなければ、なぜ達成できたはずだ、と安易に考えがちである。そのような考えを持ちがちである。しかし、また別な考えもできる。 『月』上にて、ルシファー的存在たちが取り残されなかったら、人間は決して自由を獲得できなかった。自らで決定する為の独立した能力を発達させるのは不可能だった。 自由を獲得する一方で、我々人間はアストラル体の中に欲望、衝動、熱情をもっていて、常に、ある高みから、駆り立て、低次な自我へと引きずり下ろそうとするのは、ルシファー的存在たちに依る。しかし、このアストラル体の中の、ルシファー的存在たちの力を通して、善から彷徨い出て、悪になる能力を持たなかったなら、自由に行動することも、自由意志、もしくは、選択の自由と呼べるものも、人間は自己のなかにもてなかった。
2024年03月12日
コメント(4)
エベレストのような山に登らなくても、誰しも、山登りほど、辛いものはない、と思ったことがあるだろう。そんな辛い登山をなぜするのだろうか? 人はなぜ山を登るのか? 頂上の景色が美しいからか、しかし、今は飛行機やヘリコプター、ドローンもあるが、それでは達成感がないといわれるかもしれない。空撮の映像からは感じられない体験がある。また山や崖から飛び降りるパラグライダーや、鳥のような翼で飛ぶ命知らずの人もいる。登山家ジョージ・マロリーの有名な登山への応え「人はなぜ山を登るのか、そこに山があるからだ」からすれば、登山を人生に置き換えて、「ヒトはなぜ生きるのか、そこに人生があるからだ」という答えになるが、やはり、苦労を乗り越えた達成感、悦び、苦痛から解放された解放感、過去の自分とは決別し、成長した自分、なんらかの自分の壁や殻を破った感覚を、新しい感性を獲得したいため、といえるのかもしれない。ジョージ・マロリー - Wikipediaヒトは、日常の物質界のなかで生きながら、心底では、物質界を超えたい、と願っている。この冒険心が、ヒトをして、山登りをさせるのかもしれない。いうまでもなく、日常の生活は、物質界を破壊することで、覚醒意識を獲得し、ヒトは生きている。そのために、地球の環境は破壊され、地上は都市化され、人間は大自然の営みから解放され、自由に活動し、現代人は自我を確立し、自立して、経済生活を送っている。そして、現代人は、地球の大自然を超えて、月や火星に行こう、としている。月や火星にも、地球と同じ環境を求めて活動し得ると確信し、思い込んでいる。月や火星にも物質界があると信じ込んでいる。月や火星に無人探査を送り込んで、探査船から映像を送ってくるが、果たしてそれは本物の月や火星なのか、コンピューターにより映像化し物質化しているだけではないのか? 宇宙船は飛行機やドローンのようなもので、本当に、山登りをしているのか?という疑問が生まれる。地球とは別の天体を電磁波の光や電波で解析して、物質化しているが、その科学的考察、その物質的な過程は果たして正しいといえるのだろうか? 物質界が全て、と、どうして信じられるのだろうか?我々地球人、自らを知的生命体と呼ぶ人間は、地球以外には、太陽系には存在しないと、物質科学では、覚醒意識から断定するが、それは現代人が唯物論に洗脳されているからにすぎない、単なる妄想だと、古代叡智や、シュタイナーは解き明かしている。我々、地球人は、地球という叡智の山を登っている、にすぎないのである。地球を中心にした、物質界、人智学でいえば、鉱物界を全てだと認識しているにすぎないのである。むしろ、叡智を鉱物に譬えるのなら、地球という山を登っているのではなく、谷を真っ逆さまに堕ちている、といえるかもしれない。前回紹介した人類の進化数からすれば、人類、つまり地球人は、他の天体に住む、宇宙人の意識、つまり叡智と比較すれば、谷を転げ堕ちている段階にある、といえるかもしれない。巷のこの国の裏金政治家をみれば明らかである。【シュタイナー】地球紀の進化過程について~現在はポスト・アトランティス時代~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)上に紹介したサイトは人智学の教科書にもなるので必見である。そこで、地球人の現状、つまり叡智の獲得、あるいは意識段階を、山登りに譬えると、第5文化期(アーリア文化期とも呼ぶ)の下りに相当し、山を登っているのではなく、谷を下っている最中で、これから山登りが始める段階にある、といえるわけなんである。これから物質界の破壊の世界を乗り越えて、創造力を再び取り戻す、第6文化期の登山がはじまるわけなんである。第5文化期の特徴といえば、物質文明による自己確立の時代といえるかもしれない。このまま破壊が進めば、核兵器での戦争のように人類滅亡も充分に考えられるのは、ロシアのプーチンやイスラエルのネタニヤフをみればわかる。シュタイナーは、第6文化期辺りから、霊能力の再獲得が始めるのを預言し、前世の記憶をもつ子どもがうまれてくると語っている。つまり叡智の、霊意識の、山登りがはじまるわけなんである。ちなみに、第6文化期はスラブ文化期と呼ばれ、第7文化期はアメリカ文化期と呼ばれてもいる。それらは物質的意味ではなく、あくまで霊的な意味なので、スラブと呼ばれる意味は、東洋と西洋の狭間という霊的な意味で、アメリカと呼ばれる意味は、物質的な滅亡や死の意味で、アメリカ先住民が持っていた死からの再生の、霊的な不死鳥フェニックスの意味である。つまり、人類はアメリカ文化期に至って、輪廻転生を知るということである。シンボルマーク・カチーナについて | doubleroxer (route66.tokyo)星 ネイティブアメリカンには独自の星座があります(1) | INTO THE DEEP EARTH アメリカ 深く大地の中へ (ameblo.jp)サンダーバード (伝説の生物) - Wikipediaサンダーバードといえば、子どものときの、♪トットるるぅという音楽ではじまる、イギリスの人形劇を思い出し、また、アメ車の名前にもあるが、このサンダーバードという国際救助隊の活躍を描く人形劇が印象に強く残っている。その番組の当初の設定は、2065年に国際救助隊ができて、活躍する未来を描いているわけだが、第7文化期のアメリカ文化期に、サンダーバードという霊視力再獲得の救助隊が生まれれば面白いかもしれない。いまからあと41年なんで、自分は恐らく次の転生に向かっているだろうな。サンダーバード (テレビ番組) - Wikipedia再び、上に紹介したサイトの、意識進化(発展)の教科書みたいな図を参照すると、この図から、他の天体にも、地球人を超える知的生命体がいるのがわかるはずである。ただし、現在の地球人のような唯物論に染まった覚醒意識で確認できる存在でないのがわかるはずである。我々地球人からは、物質的には捉えられない、いわば空や無のエネルギー体であるのが、つまりカオスの海の中に漂流する存在なのがわかる。だから、地球人以外の知的生命体と交信するには、少なくとも、第六感を獲得しないとダメなんである。前回、進化数と一緒に他にも、カオスの海の、空や無を、カオス領域と考えれば、輪廻転生の生命循環論が解き明かせるのを紹介した。つまり、空や無が、物質がないという意味で無といえるが、何もない無ではなく、物質では捉えられない、いわば混沌のカオスと考えられる、のを紹介したわけなんである。そこで改めて考えてみる。現代物理学では、物質で捉えられない、いわば、この混沌のカオスの領域を、例えば、真空のエネルギーとして、調和振動子のゼロ点振動で、数学的に記述し、相対論的量子力学を発展させたゲージ場で、時空の場を、ゲージ理論の対称性を用いて、量子化した場の理論で表現し、電子の生成消滅については、ディラックの海と表現し、考えている。ゲージ理論 - Wikipediaディラックの海 - Wikipedia零点振動 - Wikipediaダークエネルギー - Wikipediaこのゲージ場という考えを、学生のときには、数学が難しくてほとんど理解できなかったのだが、つい最近の、放送大学で勉強しなおして、量子力学ができる経緯の、量子力学史を知って、なんとなくわかるようになった。ゲージ場を簡単にいえば、鏡のような、エネルギーを映し、物質に変換する、ドラえもんの4次元ポケットのようなものである。数学では、この鏡のような物質変換装置を、対称性の変換で数式化し、群論で表現するのだが、鏡は2次元だが、それを立体化し、時空の4次元化した、ドラえもんの4次元ポケットという感じかもしれない。群論 - Wikipedia四次元ポケット - Wikipediaつまり、簡単にいえば、我々の物質界は、無のゼロ点で、他の世界と対称性を通じてつながっているわけなんである。だから、カオスの海のなかを、対称性を土台にし、それをいわば羅針盤にして、地球を宇宙船のようにして、まるで物質界を島のようにして、その島にとりついて、人間は昼に入っては、夜に出ていき、漂っているわけなんである。だから、人体にとりつく細菌と同じかもしれない。ちなみに、人体の細胞の数よりも、細菌の数が多いと、現代医学ではわかっている。というわけで、上図からわかるが、現在は、宇宙全体の潜在意識の、カオス波のなかを、対称性を見つけ、それが物質化されるような覚醒意識で、カオス波群の谷に下っていっているわけなんである。だから、霊魂的には、物質界へとダイビングしているような感じといえるかもしれない。だから、対称性からなるモラルをなくすと、宇宙全体の潜在意識のカオスのなかに埋没してしまい、いわば迷路のなかを堂々巡りする羽目になり、それを地獄巡りの輪廻転生と呼ぶわけなんだろう。だから、人生の中から浮上するには、対称性をみつけるため、つまりモラルを守らないと、カオスのなかに埋没してしまい、自己を失って、獣のように地獄の輪廻を生きるようになってしまうわけで、それを霊魂のゲヘナと呼んでいるのだろう。古代人は、この対称性を、人生の羅針盤を、道徳のモラルとして伝えてきたわけで、それが第六感の再獲得であり、シュタイナーは、バガヴァッドギーターから、アルジャナの時代のクリシュナ神の働きから、サンキヤ―哲学の3つのグナの、サットヴァ、ラジャス、タマスから、古代人の霊能力を解き明かしている。ゲヘナ - Wikipediaバガヴァッド・ギーター - Wikipediaサーンキヤ学派 - Wikipedia世界を作り出す3つのグナ:サットバ・ラジャス・タマスを知ろう | ヨガジェネレーション yogageneration (yoga-gene.com)3つのグナとは、霊能力である創造力を、対称性で表現する言葉のようである。勿論、物質的な言葉ではなく、また現代の覚醒意識からは捉えられない、いわばカオスのような存在なので、表現は不可能である。第六感の感覚みたいなものである。勿論、鉱物の物質界の物質的思考を無くさないと、捉えられない感覚である。つまり、物欲に囚われている現代人には捉えられない感覚である。端的にいえば五感を超える感覚で、超感覚と一般的にはいわれてもいるが、だからカオスのようなもので、最近ではカオス工学で、アトラクターのような記述で表現してもいるが、所詮それは生命現象を物質化して捉えているだけで、シュタイナーによれば、サットヴァに近いがサットヴァではない。現代の五感や感覚では、捉えられない存在なんで、この3つのグナの、サットヴァ、ラジャス、タマスの感覚は、霊能力を獲得しないと、ほとんど理解困難なんである。しかる吾輩も霊能力を獲得していないので、この3つのグナについては、シュタイナーの言葉を理解していくだけしかできない。またシュタイナーの言葉がドイツ語で、その翻訳から現代的発想から連想しているので、その連想を、睡眠中に模索するしかないわけで、この3つのグナについては、いまでも研究中という他はない。シュタイナーに言わせると、現代人の夢の意識に近いものなので、近いだけで、夢そのものではないから、夢分析から、霊能力を連想していくほかはないだろう。しかし、鉱物界を理論により探索する知的作業から生まれる感覚は、鉱物界をつくりかえているわけで、霊的創造力の一つなので、そのような自我の感性は、いわばサットヴァに近い感覚なんであるという。古代ギリシア人が、幾何学を感性に用いたのは、この幾何学の対称性による、物質の構造を理論的に探求する、いわば現代の科学的思考の発端となる、サットヴァに近い感覚といえるかもしれない。シュタイナーは、ポストアトランティス時代以降の人類には、植物界を生命的に捉える感覚が失われてしまっているので、植物を物質のように鉱物化して捉える感性は、ラジャスと呼んでいる。例えば、植物摂取を栄養の物質で捉える感覚は、生命的感性が抜けているので、ラジャスと呼ぶみたいである。3つのグナを現代用語に置き換えるのはカオスで、不可能だが、それは五感の破壊力ではなく、睡眠中の創造力を捉える霊能力を表現する感性だからである。古代インド人が、サットヴァのような人と呼んだ、いまでは、菩薩の語源のボーディサットヴァとは、霊能力者であり、当時の人類の進化段階で最善の叡智、つまり、真善美の意識を体現した生命存在を意味したようである。そして、大まかに言えば、サットヴァが、闇のカオスから対称性を見つける、いわばカオスの縁のような状態を意味し、ラジャスは、ただ物質界の移り変わる現象のままを、そのまま眺めるだけで、いわば自然現象がそのまま崩壊や破壊に向かうのに沿って眺めるだけの態度や状態で、タマスはカオスのなかの闇に横たわる状態を意味するようである。この3つのグナの感性についてはまだまだ研究の余地がある。3つのグナは、いわば、登山の三種の神器みたいなもので、サットヴァが、登山靴で、ラジャスが、ザック(リュック)で、タマスが、雨具といえるかもしれない。三種の神器とは、鏡、剣、勾玉だが、人智学でいえば、霊我=マナス、ブッデイ、アートマといわれている。3つのグナから、再び霊能力獲得の登山に向かう為に、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 土星存在による犠牲に、与えるという徳が、太陽存在により加わったとき、古「土星」紀から「太陽」紀へと上昇した。地球が、土星から、第2の進化紀の、太陽へと体現した中にみつかる存在は、進化の真相へと、我々を、一歩近づける。そこで、再度、物質界という幻想を取り去り、霊的な真実の領域に属する概念を導入する必要がある。それは、人類進化の現状を取り上げる前には、必須の概念だからである。 この必須の概念に、次のようにアプローチする。人間が、外界(物質界)での生活の中で、行い、何かを達成するとき、一般にその成果は、当人の意思からもたらされる。人間が何をするにしても、例えば、手の動作や、偉大な行為であれ、その活動の背後には意思がある。ヒトに何かをさせたり、何かを達成するように導くのは、そのヒトの意思にある。 だから、強く働く行為、例えば、治癒や恵みをもたらすような行為は、強い意思から来て、さほど働かない行為は、弱い意思から来る、と思うかもしれない。一般に、行為の程度は、意思の強さにかかっている、と考えがちである。 そして、意思を強化しさえすれば、どんな行為も達成できる、と考えられるが、その考えは、物質界では、ある程度通用するが、ある限界を越えると、意思を強化しても、達成できなくなる。驚くだろうが、人間の、特に、精神界に関わる行為については、意思の強化に依存しない。 勿論、物質界では、行いの程度は確かに意思の強化に依存する。つまり、より多くを成そうとするなら、より多くの努力が必要となる。しかし、精神界では、むしろ、その逆となる。精神界で、偉大な行いを為して、偉大な成果をもたらすには、意思の強化というよりも、むしろ、意思を空にし、身を引き、諦める、のが肝要なのである。 人間のなかの心の機微、繊細で、純粋な精神の、奥ゆかしさについても、この諦念に則って、促進できる。切なる望みをもったり、没頭するのではなく、意思を抑制し、望みを抑制し、満足を諦めれば、精神的な成果を達成できる。 内的な、精神の精進を通じて、偉大な成果を成し遂げるには、まず、自分の意思や望みを抑制するのを学ばなければならない。物質界では、よく食べ、栄養を満遍なく、人体に行きわたらせ、エネルギッシュになれば、より多く、強くなるのに対して、精神界で、偉大な成果、意義を達成するには、逆に、断食を行い、意思や望みを抑制し、諦めない、といけないのである。 偉大な、精神的な努力に向けた準備には、必ず、欲望や意思の、つまりエゴを捨て去るのが含まれている。エゴの我、意思がより少ないほど、人生が投げかけるのに身を委ね、それに抵抗するような、様々な意思から欲望を導くのではなく、むしろカルマが、我々の前に、投げかけるままに、物事を受け取るほど、精神的成果を獲得できるようになる。つまり、カルマと、それがもたらす現実を受け入れるほど、言い換えれば、人生において、受け入れなければ、達成したいと思った、あらゆる欲望を諦め、冷静に振る舞い、静かに見守るほど、益々精神的に強くなる。この事が正しいのは、例えば、思考活動に現れる。 例えば、美食を好み、好きな食べ物、飲み物を好きなだけ飲食している、教師や教育者が、生徒に向けて語る言葉には、説得力がなく、生徒に対して精神的成果を与えられない。そのような教育者の言葉は、生徒の耳を、左から右へと通過し出ていく、のが明らかになる。 そのような教師は、言うことを聞かないのを、生徒の責任に感じるかもしれないが、そうとは限らない。より高次の、奥深い、人生の意味を理解し、慎みをもって生き、生命を維持するのに不可欠なだけ食べ、特に、運命が与える事柄を、意識的に受け入れるような、教育者は、自分の言葉が大きな力をもつのに、徐々に気づくようになるだろう。そのような教師を一目見るだけでも、精神的な成果をもたらす。 実際、そのような教師は、生徒を見る必要さえない。そのような教師は、生徒の近くに居るだけでよく、生徒を勇気づけるような考えを持てばよい。その考えが言葉で表現される必要もない。言葉にしなくても、生徒には伝わる。運命を受け入れずに、自らが強く望む、欲求に沿って行動するのを、諦め、断念する程度に、欲望を放棄するのに、全てがかかっている。 諦めの道は、精神的活動における正しい方法で、高次の霊界の中で精神的成果へと導く。この点について、多くの幻想に遭遇する。表面的な、物質的な諦めは、諦めに似ているように見えても、幻想であり、正しい精神的な成果を導くことはない。日常の生活において、自らに苦しみを課す、禁欲主義を知っているだろう。 多くの場合、そのような自ら課す苦悩は、自己陶酔、もしくは自己満足のため、より大きな欲望、また別の違った欲望を成就するために、恣意的に選択している可能性がある。そのような場合の、自己否定は何の成果もなく、それは、精神に根ざした諦めでなく、見せかけの自己否定に過ぎない。
2024年03月07日
コメント(0)
前回は、この国のGDPの低迷から、睡眠不足の要因を挙げ、その必要性と、脳の構築が睡眠中になされるのを紹介し、異文化交流と第六感の必要性を説いたが、人類は睡眠のなかから進化してきたのを改めて強調したい。つまり、睡眠中こそが、人間として生きるためのエネルギーを取り込む充電期間で、起きているときは、獣のように、まるで肉食獣のように、他を利用し、破壊する活動に従事しているのが、真相なんである。人間は、寝ている時に人間として生き、起きている時に動物として生きているのである。だから、人間は人間らしい知性を知れないのである。ソクラテスの無知の知の真意とはこのことである。だから、寝ているときの人間を知るために第六感を獲得すれば、人間は動物を超えて進化できるわけだが、そのことを、古代人は霊魂の純化と呼んだのである。寝る子は育つ、というが、寝ている間に脳が再生構築されるのが、最近の物質科学の研究からもわかりつつあるが、第六感を獲得できない限りは、脳の再生のしくみを解き明かせずに、その創造力を見通せない。物質科学では、古代叡智は謎のまま秘密のまま何も語らないのを見守るしかない。まさにサウンドオブサイレンスといえるかもしれない。それは物質次元を超え、時空を超え、物質科学の定義には当てはまらない、カオスの領域のものだからである。子育てアドバイス―「寝る子は育つ」ってほんと?―/岡谷市 (okaya.lg.jp)サウンド・オブ・サイレンス - Wikipediaしかし、人類が進化するには、このカオスの領域に参入して、カオスから自己の意識を紡ぎ出す必要があり、それには、睡眠中に古代叡智を獲得する第六感を開発しないといけないのだが、相変わらず、現状は起きていても眠ったままで、巷では偽証が至る所に蔓延している。例えば、古代叡智から巷の政治家をみていると、唯物論に染まり、嘘つきや詐欺師になっている現代人が増殖中なのがわかる。自己利益や自己保身のためにはモラルハザードもお構いなしである。つまり、中身が空っぽで、ヨハネの黙示録で預言されている獣のような悪人である。人類は善人と悪人に分かれる、とも預言されている。ヨハネの黙示録 - Wikipedia 古代叡智は、神秘とも呼ばれるが、譬えるなら、人類を進化に導く叡智で、映画「2001年宇宙の旅」のモノリスのようなものである。「2001年」と違うのは、人工知能ではなく、生命そのものの、循環を司っている本体で、人類からは謎として解き明かされない、いわば、「無」としかいいようのない、「神秘」であり、秘密である。2001年宇宙の旅 - Wikipediaモノリス (2001年宇宙の旅) - Wikipedia人類が地上で人生を生きるのは、宇宙の生命体に尽くすための自我を獲得するためで、より多くの生命体のために尽くすためだが、そのためには、自我を獲得するなかで、エゴの私利私欲を取り去らない、といけないわけで、自我のバランスの確保が課題となるわけなんである。自我は人体のホメオスタシスと関わっている。どんな薬も、許容量を超えれば毒になる、と説いたパラケルススが、人間の製造法のホムンクルスで説いたのは、錬金術による、自我のホメオスタシスのことである。人体の恒常性、つまり健康には、自我のホメオスタシスが裏で働いていると説いたのである。それを物質的に表現したのが錬金術で、硫黄=燐と炭酸=塩とその間の調和を保つ水銀で解き明かしたのだが、それはあくまで睡眠中での霊的な知識の話なんである。恒常性 - Wikipediaホムンクルス - Wikipedia錬金術の水銀というのも、物質の水銀の意味だけではなく、むしろ、水銀の常温でも液体でいられる性質を意味している。そして、それは気体と固体を仲介する流体の意味で、液体の柔軟性を表わし、天体の水星の意味も併せ持つ。つまり、液体のバランスを保つ働きで、柔軟性の、柔よく剛を制す、の意味で、ホメオスタシスを説いているのである。だから、生命体でいえば、睡眠中の再生と、覚醒中の破壊との間の、寝起きのバランスを、ホメオスタシスで説いているわけなんである。自我の再生と破壊のバランスを、ホメオスタシスで説いているわけなんである。そのホメオスタシスを保つ働きが、十戒であり、これを創造的行為につなげるのが、キリスト霊の自我の働きで、愛の行為なんである。自我のバランスの確保のホメオスタシスには、十戒を守る必要があり、例えば、ウソをついて、人を騙すのは、自我のバランスを失わせ、エゴを生じさせる要因となるのが容易に想像できる。十戒を守らないと、エゴが増殖し、例えば、人体が炎症化して腫瘍化するのが、そのうち物質科学でも明らかになるだろう。モーセの十戒 - Wikipediaヨハネの黙示録では、この十戒からの逸脱を、獣の666のシンボルで表現している。666とは、人類の進化数でいう悪が絶頂となる時期を指し、777が、人類が進化して天使となる、とされる進化数である。進化数と宇宙と地球との進化の関係については以下のホームページが詳しく解説しているので参照してくだされ。【シュタイナー】宇宙と人間創造⑧地球紀―アトランティス時代/自己意識の誕生/人類の指導者ノアの選出 | Noos Eggs (cosmolifeology.com)ヨハネは、人類が十戒に背くようなヒトを666の獣の悪人と表現しているわけで、そのような悪人が増殖するのを警告しているのが、黙示録である。巷の政治家をみればその悪い見本で、皆が偽証しているのがわかるわけなんである。だから、連中は皆666の獣となって死後に地獄に堕ちて、その罪に苛まれ、獣の存在と化していくだろう。既にその顔つきをみれば、獣のような醜い顔をしているのがわかる。動物に顔が似てくるのがその証拠である。どの顔も憎たらしいような動物顔をしているのがわかる。というのも、起きているときに、脳が破壊され、覚醒意識の本体となるが、偽証することで、エゴが分裂し、その部分は、睡眠中には再生再構築されないので、攻撃性をもつ、動物の獣のままに止まるからである。昔風の言い方でいえば、「魂が穢れる」わけなんである。というのも、人間の霊魂は、古くは4つの集合魂の、鷲、獅子、牡牛、原人に分かれていたからである。それら4つが純化し統合したものが、人間の、穢れを知らない、いまだに生まれていない霊魂で、輪廻転生をしない聖霊で、アバターと呼ばれている。アヴァターラ - Wikipediaだから、輪廻転生し、ウソをつけば、霊的にレベルが下がるので、天知る地知る我知る子知る、と言われる所以なんである。起きているときにウソをついた分、つまり偽証した分だけ、修正されず、破壊されたままで、睡眠中には再生されなくなるので、脳が破壊されていき、エゴにより、元々の宇宙に尽くす自己をなくしていくわけなんである。自分が他者に述べたことや行ったことは他人を通して全て巡り巡って自分に回ってくるので、最近でもブーメランと呼ばれるが、ウソや偽証は、ブーメランとして、自分を傷つけることになるのを、古代叡智により理解しないと、獣の動物の悪人になっていくのを覚悟すべきである。さて、数学史を学んでいると、古代ギリシアの哲学者が、無のゼロと無限大を回避していた理由がわかってくる。仏教では、空即是色と、無ではなく、空で表現しているが、これは物質の中身が空っぽという意味でもある。つまり、空は、物質界では表せない、ゼロの意味で、物質は結局、有限で外見でしかなく、中身が空でしかないのを意味している。色や形はあっても、本質は、空なんである。それは所詮、破壊でしかないからである。この世の物質界を空と悟ったときに、第六感を獲得できる、というのが、仏教の教えである。空 (仏教) - Wikipedia仏教では、物質界を空として、無に言及せず、無が無でなく、カオスであるのにも言及せずに、輪廻転生説を持ち出したのは、物質界を穢れた場とした古代インド人の伝統にあるのかもしれない。お釈迦さんも古代インドのヒンズーの教えを改めたとはいえ、いまでも物質界で教えるのに、空さえ理解困難なのに、無を理解させるのは更に困難で、ましてや混沌の意味を教えるのは、更に困難を究めるからである。だから、ヨーガのような座位で、只管に空の意味を考え、前世の記憶を辿るしかなかったのだろう。つまり、現世を空にしていけば、逆に前世がみえてくるという、輪廻転生の思想で、無や無限大の繰り返しを表現するしかなかったわけなんである。無のゼロの代わりに、現世の誕生を、無限大の代わりに、輪廻転生の繰り返しを、説いて、空の意識の第六感の獲得を教えるしかなかったのだろう。だから、東洋では、カオスの代わりに、輪廻転生の生命の繰り返しが説かれ、日本では、詫び寂びの文化として残っているわけである。詫び寂びの文化は、亡くなった先祖の霊と交信し、第六感を獲得することだが、それを更に発展させると、輪廻転生しない、アバターのカオスの本体と交信する古代叡智の、虚空アカシャ年代記の交信の発展へとつながる。対照的に西洋はどうかといえば、古代ギリシア人が、無のゼロと無限大を表現しなかったのは、まだ霊的な第六感をもっていたので、代数の独立した概念をもたなかったからである。代数の概念は、物質界の破壊の概念、つまり物質変化から生まれるからである。古代ギリシアの幾何学は、霊的な第六感から生まれ、代数は、その点や線を表わす添え字の、付け足しでしかなかった。無のゼロや無限大は、幾何学に属さなかったからである。しかし、無のゼロや無限大を表現しなかっただけで、代わりにカオス=混沌の概念をもっていたようである。だから、無のゼロや無限大の代わりに、カオスを表現した。カオス - Wikipediaキリストはアルファでありオメガである、と聖書で説かれているが、古代ギリシア人にすれば、キリストは、カオスの原初の神ということになるだろう。カオスの混沌は、神秘そのものを表わしている。古代叡智では、宇宙はカオスによるカオスの意志による息により生じたとされている。面白いのは、以下の、老荘の混沌の話である。 ☆ ☆ ☆荘子 「渾沌」 現代語訳 | 漢文塾 (kanbunjuku.com)<現代語訳>渾沌南海の帝が儵であり、北海の帝が忽であり、中央の帝が渾沌である。儵と忽とが、ある時渾沌の地で出会った。渾沌の儵と忽へのもてなしは大変良かった。(そこで)儵と忽は渾沌の恩義に報いようと相談してこう言った。「人は皆七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしています。(ところが)渾沌にだけは(七つの穴が)ありません。ためしに穴をあけてあげましょう。」毎日、穴をひとつずつあけていったら、七日目に渾沌は死んでしまった。荘子の『混沌』とは、どういう意味なのでしょうか? - Quora ☆ ☆ ☆この老荘の混沌は、自我のバランスを説いているようにみえる。人間が、カオスの海に生きているのを連想させる。シュタイナーは、カオスの海で、自我のバランスを保ち、人間が生きる様子を、ホメオパシーで説いている。現代物理学では、カオスの海をディラックの海やダークマターで解釈しつつある。ディラックの海 - Wikipedia暗黒物質 - Wikipediaカオスの海を物質で解釈しようとするのが間違いなんである。無は空だが、無限大のマイナスの、負の意味にも解釈できる。というのは、覚醒意識が破壊を根底にしているからで、質量とは、破壊の結果生じる、エネルギー量の負担で、要するに、時空のエネルギーに対する借金で、負債だからである。例えるなら、土地の値段のようなもんで、固定資産税である。自然から土地を破壊し、奪い、所有し、不動産を売買しないと発生しない仮想粒子のようなものである。プラスとマイナスというのは、物質界での陰陽の対立の換算から発生するもので、分離、破壊活動で生じるもので、破壊を行うほど、人間は獣になるだけで、獣へと退化する算出により生まれる見かけの物欲でしかない。だから結局は、カネ勘定の経済的に考えれば、金持ちは退化ばかりして、天国には行けないわけなんである。巷の嘘つき政治家や自己利益に邁進する詐欺師たちは獣となって地獄に堕ちていくがいい。内部留保に胡坐をかいて従業者の賃金に還元しない経営者は地獄に堕ちるだろう。だから、心の貧しいもの、何も物欲のない者は幸いである。欲望のないものほど、空を悟り、無限のカオスの天国へと、無一文で昇天できるからである、とキリストは説いているのである。真のカオスの海、心のダークマターを求めるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー 真相から見た宇宙の進化 Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen (GA132) 第3講 太陽期における地球の内的側面と月期への移行 ベルリン 1911年11月14日 佐々木義之訳を改訳 -------------------------------------------------------------------------------- これまでの講義のなかで強調してきたのは、宇宙の、あらゆる物質的現象の背後には、不可視の、霊的な存在が隠れていることだった。熱や、流れる空気という現象の背後に、霊的な現実を特徴づけようとした。そのような霊性の特徴を伝えるため、地球の進化を、遙かな過去にまで遡った。 また、物質的宇宙の根幹をなす霊的な歴史を記述するため、自我となる霊魂の循環を霊視した。いずれにしても、霊性を特徴づけ、それに用いるイメージを、物質界から取ってくる必要がある。物質的な言葉だけでは不十分で、なんらかの鮮明なイメージが必要である。 今考えるべき、霊的な宇宙史は、人類が現進化段階での経験から、つまり、今日の人間の知識から、遙かに隔たった過去に横たわっている、のを霊視してきた。だから、このような宇宙史、地球史を理解するには、現在では、滅多にない状況、現代人一般の、精神からは理解できない霊性、精神性を目覚めさせる必要がある。 外的、物質的な、火や熱の現実的な感覚からは、ほど遠い、熱や火の、霊的な、精神的な性質を探求しなければならなかった。精神性、霊性の意味での、ある土星存在による犠牲、すなわち、古「土星」紀に、ケルビムに捧げたトローネによる犠牲を、いまの宇宙の、火と熱全ての本質と同一視すれば、現代人には、まるで、おとぎ話のように感じるだろう。 しかし、宇宙進化の、かつての古土星紀で生じ、現代人の前に現れる、幻視的な、外見的な、熱や火は、トローネの犠牲から生まれている、のが、霊的な真実であるのは人智学徒には明らかとなっている。同様に、流れる空気、もしくは気体の背後には、与えられる徳、霊的な存在たちが、自身の存在を、愛として献身的に注ぎ出す行為が隠れている、のを前回強調し、述べた。 そよ風や、流れる空気の中に存在するのは、この献身的な愛の行為である。外的、物質的な知覚は、その表面に過ぎなく、実際には、幻想、マーヤに過ぎない。幻想から中身の、精神面の現実へと進んだときにだけ、正しい考え、霊性が獲得できる。 火や熱や空気などは、鏡に映った人間のなかに、本人(=精神)がいないのと同様、中身が空っぽで、現実には存在しない。それは単なる映像にすぎない、つまり、鏡に映った像が、精神性の本質では、幻影なのと同様、火や熱や空気も、いわば鏡のような幻影で、鏡の中の像を映す人間と同じように、その背後にいる精神的な真実が現実である。火や空気の現象のなかに、真実という現実を探し求めれば、そのなかに隠れた、犠牲や徳がある。
2024年03月05日
コメント(1000)
現代人が脳科学により科学的思考に洗脳されているのは、ヒトの脳を、他人を欺くウソの道具にしている実態からもわかるが、脳科学を究めても、脳の破壊しかもたらさないのは、脳の再生について、覚醒意識で、脳自身が感知できないからである。色々なホルモン云々で物質で分解的に分析できても、それは結局、機械的な分解で、破壊でしかないから、再生の議論にはならないわけで、朝まで生テレビと同じ茶番でしかない。だから、結局は、誰も責任をとらず、良心の呵責もなく、脳の持ち主が、脳に責任を押し付ける羽目になるわけなんである。そして、脳は自らを破壊の道具として、ゾンビのように崩壊し自己保身という名の自己破壊へと向かうだけなんである。夜は下らない議論をする時間ではなく、脳を休め、再生させるための、睡眠時間なんである。睡眠を怠るから脳がどんどん破壊され、無責任になっていくわけなんである。脳科学は、脳破壊論でしかない。脳を動かしているのは、脳ではなく、宇宙の摂理なんである。つまり宇宙の愛の創造力である。なにより、宇宙が、人間の脳をつくっているからである。脳のなかに、宇宙がある。神はモーセに、私は貴方の私であり、宇宙の私であるから、私のなかに全てがあり、貴方のなかの全ては、私のもので、だから、貴方の脳も私のものなのだと、命令している。人間の働きは、脳で宇宙とつながっている。脳科学は、宇宙の働きから、脳を分離し、ヒトに、ウソをつかせている。人間の脳が、昼の運動により破壊され、夜の睡眠により再生されるのは、巷の大谷選手が睡眠を大切にしているのをみてもわかるように、物質界での五感による運動能力を最大に発揮するには、睡眠による脳の再生、再構築がなにより重要なのがわかるはずである。前回、日本のGDPが低迷しているのは、日本の経営者の愛の枯渇にあり、再び、詫び寂びの文化を取り戻す必要性を紹介したが、大谷選手の活躍からもわかるように、なによりも日本人の睡眠不足が根底にあるのがわかる。そこで、経済的にGDPを考える前に、日本人の睡眠不足を挙げてみたい。日本人は「睡眠不足」 女性の4割が睡眠6時間未満 先進国で最下位:朝日新聞デジタル (asahi.com)日本が「睡眠不足大国」に転落した3つの事情 急速に減少していく日本人の「睡眠時間」 | 健康 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)睡眠課題|睡眠バランス研究PROJECT - ウェルネス総合研究所 (wellnesslab-report.jp)そこで、睡眠時間とGDPの関係を調べてみたい。平均1日睡眠時間1位、2位は南アフリカと中国で、9時間ほど。次いで米国、カナダのほぼ9時間。スペイン、イタリア、フランス、イギリスがほぼ8時間半。ドイツが少し少なく、ほぼ8時間。デンマーク、スウェーデンが、8時間ほどで、7時間となると、韓国と日本しかなく、日本は最低の7時間22分となっている。日本の場合、国会での居眠り議員の睡眠時間のデータも欲しいような気がするが、良心のない貧弱な脳に睡眠が必要なのかどうかは定かではないが、サルに退化している脳と思われるから、官僚の作文すら漢字が読めずに、ルビを振られて、母国語も満足に話せずに、嘘ばかりついて、国会の質疑が健忘症気味になるのだろう。先進国でのGDPランキングをみてみる。米国とカナダが、2.20, 2.17の倍率でトップ1,2。ドイツが続き、フランス、イタリア、イギリス、そして、先進国最下位が、日本の0.90となっていて、ほぼ睡眠時間のランキングと同じになっている。ドイツは睡眠時間が少ないのに、GDPが高いのが、覚醒時間の効率的な生産の数値に現れている。日本の場合、睡眠時間が短い理由に、労働時間の長さが挙げられているが、GDPの数値に反映されていないので、非効率な労働時間の長さとなっているわけで、経営者の職場環境への責任が求められる。かつての量産体制は、現代の労働の質の向上に結び付いていないわけで、それがパワハラなどのコンプラ問題となっているのがわかる。たった23年でトップから最下位…G7で“日本だけ”が経済成長できない「2つの理由」 連載:野口悠紀雄のデジタルイノベーションの本質|FinTech Journal (sbbit.jp)このようなデータからも、日本人の睡眠時間の乏しさにより、脳の破壊が進み、脳が退化しているのがわかる。特に経営者が、職場の環境改善への危機意識が乏しいのがわかる。無駄な労働時間が多いのがGDPからもわかる。国会の居眠り議員などをみれば、数値などをみなくてもわかるが。国会で寝るくらいなら、議員をやめて家に帰って寝るべきだろう。そのほうが人命重視になる。また、高齢者の脳が、議会の責任を果たせるのか、という問題も、脳科学から言及されないのも不思議ではある。高齢者の運転免許が社会問題化しているが、社会的責任の意味では議会運営のほうが致命的である。故意だとしても、一時的に記憶喪失になるような議員の脳を国民の代表とするのは知的生命体としての脳としては恥晒しである。いかに選挙で選ばれたとしても、議会運営に支障をきたしている現実をみるなら、辞職させるべきである。このままだと、日本の政治が低迷したままで、政治が経済の足を引っ張っていくのが目に見えているので、日本の将来の国力を考えるために、経済成長率ランキングをみてみる。世界の経済成長率ランキング - 世界経済のネタ帳 (ecodb.net)経済成長率1位のガイアナは、南米最貧国だったが、原油開発が要因で、一気にトップに浮上したようだ。南米の最貧国ガイアナが2020年に大化けする 巨大原油開発でIMFが前年比86%の成長予測 | 中南米 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)2位のフィジーは、金の採掘で、浮上したようである。世界の鉱業の趨勢2021 フィジー (jogmec.go.jp)3位のカーボヴェルテは、はじめて知った国だが、調べて見ると、大西洋の交通要路となる地理にあり、運輸業が発達しているらしい。カーボベルデの経済 - Wikipedia4位のセントルシアも、はじめて知った国だが、調べてみても、経済成長につながる産業がイマイチわからなかったが、カリブ海にあるので、タックスヘイブンと関係があるのかもしれない。次のバハマをみれば、この線が濃厚か?セントルシア - Wikipedia5位のバハマは、バハマ文書で有名である。バハマ - Wikipediaバハマ文書 - Wikipediaヨーロッパのなかで、8位で最上位のアルメニアはダイヤモンドの加工産業で有名で、11位のジョージアはロシアのウクライナ侵攻で経済成長し続ける国で目立っている。PowerPoint Presentation (pref.aichi.jp)202301_seriesmacro.pdf (jbic.go.jp)13位のアイルランドは、外資に対する法人税が12.5%と欧州で最安と外資進出の環境設備が挙げられている。労働生産性の高い【5カ国】その理由を徹底解剖!|経営をアップグレードしよう!中小・小規模事業者の生産性を10倍上げるWEBマガジン (all-in.xyz)このように経済成長の上位国をみていると、地理的環境を利用して、良い労働環境へと、経営者が努力し、時代に見合った資本投入を導き、呼び込んでいるようにみえる。端的にいえば、経済成長は、設備投資にあるといわれるので、新規雇用や新規参入の労働環境をつくり出す努力にあるといえるかもしれない。日本の場合、この点において、著しく遅れ、いまだに、昭和時代の労働環境が残っていて、それが睡眠時間にも如実に現れているわけなんである。いまだにフォード式の大量生産を行う愚に陥っていて、石油の時代に、石炭に拘り、航空機の時代に、大型艦船ばかりに拘っていた過去の愚を髣髴とさせ、先見性のない経営を思い出させる。松下幸之助の時代はとっくの昔の話なんである。石川啄木の、働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手をみる、である。「働けど働けど」の歌の意味・石川啄木の心理状態や生活について-言葉の意味を知るならMayonez石川啄木自体は放蕩三昧で、いまの政治家のようなご身分だったらしいが、その歌は、巷のこの国の現代人の労働者の気持ちを語っているのは明らかだろう。働く時間が必要なのではなく、休み、眠る時間が必要なんである。無駄に働いているから、脳が破壊され、暮らしも破壊され、放蕩してしまうわけなんである。飲み会などで、無能な経営者や上司の提灯もちなどするから、老害が蔓延り、全体的に、GDPが低迷して、時代から取り残され、遅れて、パワハラコンプラ問題化してしまうわけなんである。飲みにケーションなどは、昭和の時代の話で、令和には時代遅れの代物なんである。とにかく時代に応じて、アップデートすべきである。大体アルコール摂取や喫煙が既に時代遅れであるのに気づくべきである。大谷選手を絶賛しながら、大谷選手とは180度違う飲酒や喫煙をしている時点で、時代にアップデートできていない身の程知らずで、脳が破壊されている証である。飲酒や喫煙する時間を睡眠に充てるべきで、脳を再生させるべきである。飲酒も喫煙も個人的な自由だが、部下や周囲を巻き込んではいけないのが、令和のコンプラといえるだろう。個人的な経験からいわせてもらえば、職場の飲み会ほどつまらなく、無駄なものはなかったように思われる。大体が上司の自慢話を聞かされるだけで、説教ばかりだった。説教する人ほど時代に遅れていて、無能を象徴している。本人は楽しいのかもしれないが、聞かされる身になってみるべきである。自慢話ほどくだらないものはないよ。承認欲の顕れでしかない。アップデートといえば、「私のバカせまい史」という番組は面白く、先日、努力は報われる、報われないか、の逆転が、時代に応じて、何転したかを、研究発表していたが、そもそも見返りを求めるのを努力とはいわないのではないか?とも思った。私のバカせまい史 - Wikipedia見返りを求める努力は努力ではなく、見返りを求めない努力こそ、尊いもので、愛なんだと思う。だから、努力ではなく、愛を与えるべきで、愛があれば、努力云々ではなくなるだろう。そして、愛は与えるほど促進される。だから、生物が子を求めるのは、愛を促進するためである。自分のなかから、愛を汲み出すのが、努力なんである。だから、万物は、自分のなかで、流転する。万物は愛により流転する。しかし、現代人の信仰の対象となっている、定義を重んじる科学的思考が、人間に自己を与え、大自然から、人間を解放するにつれ、逆に物質界へと執着させ、人間の脳に五感を植え付け、五感により、人間を地の物質界に拘束する脳をつくりあげるにつれ、現代人は、五感を通じて、自分の脳に支配されるようになっている。五感において確立された自己のみが正しいという錯覚に陥っているのである。そして、巷の、良心を失った政治家が、「私は知らない、私が悪いのではなく、私の脳が悪い」と言葉巧みに嘘をつくようになった。政治家の言葉を信用する現代人はもはや皆無で、政治家の脳が嘘をつくのを、動物園のサルをみるかのように、軽蔑し、見下して、時には怒り、呆れ、サルに退化した現代人の成れの果てを、ただ傍観するしかなくなっている。現代人は互いを五感により評価し監視しあっている。つまり、科学的思考が、ヒトをして、ヒトの脳に五感を与え、五感により五感の奴隷となった。そして、ついには、五感を偽り、信じられなくなっている。それは見えるものだけを信じる立場から、見えるものの虜になり、みえるものに騙されるようになった、といえるかもしれない。絶え間なく流される情報のなかで、五感から何が真実なのか、自己すらもわからなくなってきた。情報リテラシーが叫ばれるのも、現代人が良心を失った警告ともいえるかもしれない。ダーウィンの進化論を逆行するかのように、現代人は良心を失い、急速にサルに退化している。永田町界隈と、動物園のサルを比べれば、動物園のサルのほうがまだ愛嬌があるだけマシといえるかもしれない。しかし、ロシアのサルの方が核兵器を抱えているだけ遥かに危険なので、まだマシといえるかもしれない。いずれにしろ、現代人は、脳を、ヒトを欺く道具に使っている。脳科学では、政治家のこのような偽証行為を何と捉えるのだろうか? 一時的に健忘症に罹る、死んだ振りをする動物と同じと解釈するのだろうか?擬死 - Wikipedia擬態 - Wikipedia死んだ振りとは、擬態の究極の表現にみえる。ヒトは恥ずかしいと感じると、顔が赤くなるが、シュタイナーによれば、それは血液である自我が、なるべく外へと分散しようと、末梢へと至ろうとするために、体表面に、広く薄く拡がろうとするためだという。自我を希薄に、周囲へと分散し、相手から、正体を隠すためで、いわば、忍法の分身の術なんである。恥ずかしいときに顔が赤くなるのは、土星紀の人間が、熱の存在だった名残りで、いわば血液を分散することで、熱の分布を、薄く広く分散させ、固体から気体へと相転移する現象といえるかもしれない。この恥ずかしい、のとは逆の、恐怖を感じた時に、顔が青くなるのは、血液を内へと集め、結束させ、自我を強化するためであるという。敵に遭遇した小魚が、群れを集めて巨大化した組織をつくるのと同じである。だから、自我による、熱集中の、気体から固体への相転移現象といえるかもしれない。例えば、感染症に罹ったときの、人体の、この自我強化による、熱集中が、人体の発熱を促すのである。この発熱現象は、蜜蜂が集団で、外敵のスズメバチから、巣を防衛するのと同じものである。ニホンミツバチの対オオスズメバチ蒸し殺し戦法は「諸刃の剣」だった<br>-天敵熱殺の代償に蜂球参加ミツバチの余命が短縮!それに対応する驚きの戦略も!!-|ニュース&イベント|玉川大学 大学院 (tamagawa.jp)シュタイナーによれば、蜜蜂の巣の温度は、ほぼ人間の体温と同じで、34℃前後であるという。人体の深部温度は37℃とわかっている。人体の温度が3℃ほど高いのは、恐らく、人間が自我をもつせいだろう。みつばち社会〜働き蜂⑨扇風と温度調節①〜 | 草地家 (kusachike.com)人間がつくウソ、つまり、ヒトの脳の一時的な健忘症は、脳が五感に依存しているせいで、物質的側面では、動物の擬態や擬死の死んだ振りと似ているが、動物の場合は、それ自体が真実となっているが、人間はウソをついている点で大きく異なり、例えば、目が目そのものをみれないように、脳が脳そのものを感知できない。それはただ演じているだけにすぎない。つまり、人間だけが自由にウソをつけるわけだが、それはウソをつける、ウソを演じれる、舞台を与えられているからである。人間が五感をもてるのは、五感を感じ取れる能力を、大自然から与えられているからである。つまり、大自然から五感を感じ取れる能力を、大自然と人間に与えている存在がいるから、人間は大自然を五感で感じ取れるわけなんである。例えば、写真でいうなら、ネガとポジで、だから、五感のネガとポジ、大自然の陰と陽といえるかもしれない。大自然のなかにも、人間と同じ、霊的な陰と陽の存在がいて、それが、アリストテレスが唱えた、4大元素霊なんである。四大精霊 - Wikipedia828.pdf (beret.co.jp)万物は流転すると、ヘラクレイトスは説いたが、これは生命の循環法則のことで、大自然のなかの四大元素霊の働きで、それを五感で物質的に感知できるのも、人間が、それらと、ネガとポジで交信し、いわば数理的感覚で捉えられるから、覚醒意識が生まれているわけである。例えば、火は熱やエネルギーで数理的に換算し、風は、光の満ちた大気や空気の気体として、気体の運動論に数理的に換算し、水は液体に、土は、固体の、結晶化構造や、機械化構造に仮定し、数理的に換算し、触覚などで、実験的に測定し、統計処理を得て検出しているわけである。量子力学のシュレディンガーの猫などは、四大元素霊をネコの生死として示した端的な例である。科学的な思考実験とは、私ではなく、私の脳がしたこと、というのと、同じで、私ではなく、ネコがしたこととして、責任を回避し、五感で検出することを重視し、そこから定義づけをはじめるのと同じである。シュレーディンガーの猫 - Wikipediaつまり、電子の振る舞いは直接みれないが、その結果生じたことを基点にして、五感で捉えられる範囲で、物質界を構築しようというもので、実は、脳を物質界に合わせて破壊し、再構築しているにすぎない。その作業が端的に現れているのが、この国の巷の、ウソをついてはいけない審議会で、ウソをつく現代人の典型のサル化した政治家に現れている。みえなければ、物証がなければ、何をしてもよいという、良心の欠如である。このような十戒の、騙すな、偽証するな、に反した行為がなされるのは、現代人が、創造力の源である、愛の良心を、破壊にしか用いれないほど、劣化した証といえるだろう。つまり、人間は、破壊行為によって、覚醒意識を獲得し、四大元素霊の足跡しか辿れないほど、科学的思考に洗脳されているわけなんである。実際に、核兵器を使って大量殺人をして、いまだ恫喝の道具として利用し、領土紛争に固執し、五感に囚われ、開き直っている始末である。最近は、五感を超える、超感覚の第六感について、巷では、科学的思考を問うが、霊感や第六感をオカルト視して、問わなくなり、不問に付しているが、自分のなかから、愛を汲み出す働きこそが、第六感といえるだろう。五感では捉えられない、五感を超える存在に出逢う感覚なので、それはもはや覚醒意識の破壊作業から自己を解放しないといけない。創造力をポジとネガに分け、破壊作業に費やすのではなく、創造力をそのまま創造性や再生としてみるのである。それは統合で、愛の働きといえるかもしれない。巷に残る、この国の詫び寂びの文化の再生である。日本という文化的にガラパゴスな、多様な異文化が入り乱れている国の利点を生かして、輪廻転生的な思考を、詫び寂びの文化として再生させるべきである。日本の秋葉原はその拠点になりえるかもしれない。日本全体のオタク文化の発祥の地にすべきかもしれない。アニメーションには詫び寂びの霊的な文化が残ってるような気もする。日本を、霊的な異文化交流の地にすべきである。どんな異文化も受け入れ、融合和合していく、それは多様な多角形を、球面上の点に変換していく群論の対称性の問題へと帰着していく作業ともいえるかもしれない。科学的思考の定義を超えて、性格付け、特徴づけで、リズムや波動の違いとして、循環論に帰着させていくべきである。シュタイナーによると、鮭が産卵のために産まれた川に戻るのは、淡水のなかの、澄んだ光が産卵に必要だからであるという。渡り鳥も、生殖のために、澄んだ空気のなかの光を必要とするという。太陽光がなければ、生物は愛を育めないし、生殖ができない。例えば、コウノトリが赤ちゃんを運んでくるという逸話は、太陽光が、夏至に、地球に授精する超感覚的認識をイメージしたもののようである。キリスト教では、夏至に、聖ヨハネ祭りを催す。ヨハネは鳥のシンボルで、鷲の象徴でもある。洗礼者ヨハネにより、太陽霊キリストが、地球に受肉した。「コウノトリが赤ちゃんを運んでくる」というイメージはどこから来たのか? - GIGAZINE聖ヨハネの日 - Wikipedia福音書記者ヨハネの象徴は鷲。 | 名画を読み解く (amebaownd.com)この国の詫び寂びの東洋に保存された輪廻転生の思想を、西洋のキリスト教に、受胎させるのが、この国の、東洋と西洋の融合で、生命再生のカギとなるように思われる。八咫烏とは、フェニックスの不死鳥で、キリスト教に、仏教の輪廻転生の再生思考を与え融合し、霊的思考を、三位一体の、心技体の再生論として復活させる象徴のようにみえる。古代エジプトのトートが、輪廻転生の思考をもたらし、八咫烏として自己復活し、再生するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 古「太陽」紀の出来事が、キリスト「存在」の魂の中に集められ、濃縮され、そして、後になって再び、人類の目の前の出来事として、前面に持ち出された、のを想像してみる。この「存在」は地上に現れ、原初の犠牲行為と、その犠牲の煙が創り出した、与える愛(光を生む時間と、与える無償の徳)から、賦活する慈悲の精髄を受け継ぎ、魂の熱と、輝く光が、宇宙から、太陽のなかに反射するような働きを行った。 この愛の全てが、たった1つの「魂」の中に濃縮され、それが、自我として、「地球」の人類に受け渡される、のを想像してみる。 次に、濃縮した愛を受け取り、返すと同時に、後に残る「地球」の人類のために、愛を保存した存在たちが、キリストの「魂」の周りに集まる。 太陽の中心には、犠牲を通して、与える「存在」がいて、この「存在」の周りには、愛を受け取る意志を持つ存在たちがいる。この古い太陽のイメージと結びつくのは、地上の存在へと受け継がれた愛の犠牲であり、その犠牲に喜んで従うか、それとは逆に、この犠牲を拒否するか、である。 というのも、慈悲を生じさせるには、人間に与えられる可能性は、喜んで受けるか、拒否するか、のどちらかだからである。これらがインテンション=霊的な合一として体験される、のを想像してみる。 その再現は、まるで、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の経験のようである。つまり、この絵画には、過去に生じた愛を、未来に伝えるために選ばれた「者」たちが与え、受け取り、返される「愛の太陽」が描かれ、それらの愛は、犠牲を捧げる「存在」たち、与える徳の「存在」たち、魂を温める喜びと光に満ちた荘厳さの「存在」たちと共にある。これら愛の全ては、特に「地球」のために、同時に、愛を、拒絶する離反者と共に、据えられた。 「太陽存在」が、「地球」上に再び現れ、「地球の存在」のなかに経験できる。外的、知性的でなく、芸術的に感じるなら、「地球」存在の精髄を反映する、この偉大な芸術作品の中に、人類を進化させる推進力を経験できる。 この絵画を見るとき、「キリスト」が「太陽」の環境から育ってきたのを知ると同時に、人智学徒がしばしば語ってきた意味がよく理解できる。 もし、ある精神の持ち主が、「火星」から「地球」にやってきて、地球上に見る全てを理解できなくても、レオナルドの「最後の晩餐」の絵画をみれば、「地球」の人類の使命が理解できるだろう。火星の住人は、「太陽」存在が、「地球」存在のなかに隠れている、のがわかる。そして、人智学徒が語る、重要な意味が、火星の住人にも明らかになるだろう。 その火星の住人は「地球」の意味を理解し、「地球」の重要性を知るだろう。そして、次のように言うかもしれない。 「この出来事は、地上でのみ起こり得たが、宇宙の片隅の『地球』存在にのみ意味を持つ。この中央の人物の行いを、その周囲を取り巻く人たちとの関係の色合いから、こちらに向かい流れてくる行いとして本当に表現できたなら、『叡智の霊』たちの『太陽』上での経験が、『私の記念として、このように行いなさい』という言葉の中にこだまするのが感じとれる!」。 この晩餐には、後に行われる、前の出来事の保存がある。このキリストの言葉を理解するには、人智学徒が学んできたように、宇宙史の文脈から、その内容が把握できたときだけである。この晩餐で指摘したかったのは、至上の愛の、芸術的な創作行為が、宇宙の発達(進化)に関係する、という事実である。 次回の講義では、「月」の精神的「存在」についての観点へと進むために、「太陽」の精神的「存在」の観点から「キリスト存在」を理解したい。
2024年02月29日
コメント(0)
人間が生きるには、太陽光と空気と水が不可欠で、それらは大自然の恩恵、つまり人間に対する自然の愛にあるのがわかる。人間は大自然の愛がなければ生きられないが、当たり前のように、我が物顔のように生きている。この大自然の身近な愛に普段は気づいていない。マイナスイオンが昨今非科学的という理由で、死語になったが、森林浴をして、空気がウマいと感じるのは、自然のなかに愛を感じるためであろう。愛とは生命を循環させるエネルギーのようなもので、現代の機械論でいうなら、機械を動かす油のようなものである。愛がなければ、いかなる生命体も生きられない。世界から戦争が亡くならない現状をみれば、人類がいま何のために生きているのか、という広い視野が現代人に求められるが、あらゆる宗教が、その答えを導き出しているように、ヒトを愛するため、であるのは、明白である。しかし、ヒトを愛する、のが困難なのは、現代人のなかでも愚かで救いようのないロシアのプーチンをみればわかる。自分と異なる意見を愛せないのは現代人の思いあがったエゴなのに気づいていない。そのエゴがどこにあるのか?現代人はそれがわからないほど馬鹿になってしまっている。自分の意見と相対する意見こそ、自己の確立に不可欠なのである。というのも物質界では陰と陽、プラスとマイナスがあってはじめて存立するからである。闘うためでなく、互いにライバルとして切磋琢磨し、認め合うためにある。愛は与えるためにあり、求めるためにあるのではない。前回、現代人は科学的思考に洗脳されている、のを紹介したが、それが特に行き過ぎて始末に困るようになった成れの果てが、自己の誤りを認めようとしない、このような悪あがきの、エゴの奴隷となった権力者たちである。真の民主主義とは、国民のためにならない馬鹿でエゴの奴隷となった、過ちを認められない指導者を即座に変えられる体制の確立といえるだろう。大自然の動物たちの生態をみれば、集団を存立し得ないボスは信頼を失い、信頼ある次のボスに取って代わられるのが明らかである。集団の長として、全員の面倒を見れないボスは、ボスたる資格がない。BSNHKのグレートネイチャーやワイルドライフをみれば、動物の集団が信頼を共有し、民主的に生きている、のがよくわかる。動物の場合、ボスの判断が集団全体の生死に関わるのだから、優秀なボスの集団種だけが残るので、大自然の摂理では当たり前といえる。大自然の摂理を持ち出すまでもないが、表向きの科学的思考でも、優秀なボスの集団種だけが残る、という結論に至るだろうが、「優秀さ」だけを特別視すると、間違ったダーウィンの進化論のように、本当は、そのように大自然が配慮している裏の働きを見落とすことになる。食物連鎖からわかるように、科学的思考では、優秀さを強者とみなし、それを弱肉強食というが、それではなぜ弱者が多産多死なのか、説明できないからである。論理的には、強者が多いと弱者を巡って、強者同士で争うことになる。つまり、強者は、弱者の多産多死の上に生存できる。それは、強者よりも、弱者のほうが愛を与える働きが大きいから、多産多死といえる。実るほど頭が下がる稲穂かな、である。愛情が深まるほど、多産多死の弱者になるわけである。表向きには、強者は愛情を奪っているから、物質的には強くみえるが、実は愛に飢えているにすぎない。だから、科学的思考は、愛を定義したがるのかもしれない。科学的思考が、動物がもつ本能ともいえる集団的生存主義ならぬ民主主義を奪い、現代人のような誤りを誤りと認めないような悪あがきや強がりを生んだのは、何のためか?それには、科学的思考の特性を考えてみないとはじまらない。科学的思考は唯物論から定義をはじめるが、科学的思考自体の定義が抜けているからである。だから定義ではなく、特性や性格付けが重要なんである。科学的思考の特性を考えるには、古代叡智が不可欠で、輪廻転生の思想を考えないと、その根底となる覚醒意識について理解できないからでもある。前回紹介したように、科学的思考というのは、古代ギリシアのある哲学学会での、唯物論的な、貧弱な人間の定義からもわかるように、定義からはじまる思考である。数学史を学べば、数学が古代エジプトのユークリッドの原論からはじまるのがわかるように、科学的思考が、定義づけからはじまるのがわかる。ユークリッド原論 - Wikipedia上の紹介リンクにあるように、本来の「数学」の意味は、「学ばれるべきこと」で、どうして数学が学ばれるべきことなのか?については、ユークリッドは、言及していない。これこそが、数学の定義で、ただ必要性を説いているだけなのである。しかし、その後の数学が人類にもたらした計算能力をみれば、空間認識と、時間認識に沿った、物質的感覚の必要性だったのが、中世以降の人類の進化からわかるはずである。そして、数学により、現代人が古代人とは異なる感覚をもつのは、いまでも、大自然の動物の集団主義と比較すれば明らかである。人間の特に権力者の悪しき自己をみれば、動物が集団の動物種を超えるエゴをもたない点で、現代人との自己意識の違いが明らかであろう。動物には自己満足という自我すらもちあわせていない。愛を求め、愛を奪いとる、という意識もない。大自然のなかの動物の生態と比較すれば、人間は、特に現代人は、物欲に染まり過ぎた自我の存在であるのがわかる。大自然で生きるには、人間のエゴは不必要な邪魔な存在となるからである。さて、巷の生活では、相変わらず毎日詐欺メールが来て煩わしい電子社会だが、詐欺をするような奴が来世にどうなるかを少しは考えてみるべきである。物質的知性でヒトを騙すような輩は、来世では物質的知性を奪われた存在となるので、生まれついて知的障害を背負う羽目になるものと考えられる。だからヒトを騙すほど、その騙した知性が奪われる宿命を背負い、罪はその霊魂に憑りついてまわり、生き霊が騙された被害者の怨念と共に来世に現れる、と考えられる。罪をカルマとして、衣服のように背負う。魂は、愛の光の核からなるので、騙せば騙すほど暗く曇っていく。だから、騙した罪を解消しようとして、物欲に走れば、悪魔からまた別の悪魔へと魂を奴隷のように売り渡す羽目になる。だから、そのような罪深い罪人には、馬鹿は死ななきゃ治らないとして、死が救いとなる。ヒトを騙す知性など知性とは言えない代物で、ヒトを騙すくらいなら、騙せない馬鹿な方が遥かにマシである。このような巷の惨状から、シュタイナーの予言が頭にこびりつき、日本の行く末が気になる昨今で、還暦に近づいているせいか、BS11をみていて、昭和の風景を昭和の音楽で振り返るノスタルジーが心地よいのを感じた。個人的に、昭和を一言で表現すると、「激動」の時代といえるかもしれない。昭和を、令和の今になって、振り返ると絶えず闘いが要求された、余裕のない時代だったような気がする。人混みや満員電車などが、その闘いの象徴といえるかもしれない。昭和を感じると、なんとなく、中島みゆきのファイトという昭和の名曲が思い浮かんだ。自分は中学でニューミュージック世代にぶち当たり、アリスを聴いてから、男子高に進み、70年代のブリティシュロックの洋楽世代に染まり、それ以降は、恋愛ばかり語る邦楽にはあまり興味がなかったが、今思えば、森高千里にもファイトという曲名があるように、恋愛にも、闘いを持ち込む曲が多かったような気もする。恋愛もある意味戦争ともいえるが、昭和にはどこか、闘っていないと生きられないような生き苦しさがあり、大学受験のための受験戦争などはその象徴といえるかもしれない。昭和の息苦しさが、平成のゆとりへの希求を生んだのかもしれない。中島みゆき ファイト! 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)昭和の音楽を流して昭和を映像化すると、昭和の空気感に浴し、ノスタルジーに浸れる。昭和が良かったとは全く想わないが、あの時代はああだったよな、というような、いまからすれば、喉元過ぎれば熱さを忘れる、地獄も傍からみれば地獄でなくなる、というような、苦しかった時代を第三者的にみる余裕が生まれる。昭和のなかでも、戦時中を戦後から振り返るような、本心では振り返りたくもないが、音楽が流れることで、カタルシスを生むというか、新しく昭和が令和に再生されるような気がする。昭和をそのまま実感したくはないが、平成のゆとりを経て、令和にアレンジされて、原曲を当時のそのままに聴くよりも、令和にまた違った歌手にテイスティングされながら聴くのが、新鮮で、懐かしくて、なぜか自然と涙が出てくるから不思議である。クラッシック音楽も当時のまま演奏されるよりも、現代的にアレンジされて演奏されたほうが、個人的には好きで、中世の西欧に生きていたかどうか、前世がわからないので、原曲に忠実とか、中世の感覚など霊能者でなくてはわかるはずもないのに、現代から考える中世という意味ならわかるが、現代人のいかにも理屈っぽい脳の構造が、音楽のなかに、そのままの違いで現れるとしか思えない。そもそもなぜ中世の音楽が生まれたのか、といえば、人智学によれば、音楽のなかに、自己を確立したいがためで、音楽の個性化にあるらしい。音楽が生まれる前は、声音しかなく、その前は自然の音しかなく、音はそのまま集団に対する命令のような機能をもっていたという。いまでも動物が鳴き声で交信するのと同じである。自然の変化音に共鳴して、動物の集団全体が鳴き声で呼びかけ、自然に対応していくのである。例えば、鳥が「春が来るよ、春だよ」と、同じ鳥の種に呼びかけて、「わかったよ、春の態勢をとるよ」というわけである。人間の場合は、大自然のそのリズムを、数理的に捉え、その調和を見つけ、数学や、自然の法則として音楽が生まれたようである。だから、動物のような集団的自我から、自らを解放するために、個人的な自己を確立するために、音楽が生まれたわけなんである。シュタイナーによると、14、15世紀から20世紀までは、個人的な自我、つまり自己を確立するために、天使長ガブリエルによる数学や音楽などの知的感性、俗にいうリベラルアーツが人類に与えられたという。リベラル・アーツ - Wikipedia というのも、人類が自由であるには、自由の礎となる、個人的な自我を確立できなくてはならず、それには、物質界に、ある程度染まらないといけないからでもある。物質的に自己を形成することではじめて、動物のような集団的な自我から解放されるからである。つまり、音楽が生まれる前には、動物と同じように、人間の言葉には、「わたし」という主語がなかったのである。個人的に自由な音楽がなかったのである。現代では、個人的な音楽がいくらでも自由につくれるわけである。個人的な自己の確立により、自然のルールから独立し、春に、秋の歌や、地球の変化とは無関係に、人間独特の音楽が自由な曲で奏でられるようになったわけである。ルールがどうとか、そんなのは中世の時代背景を知らない時代遅れの足枷でしかなく、現代から考えた中世でしかない。つまり、人間により、音楽は自然の音響から独立し、クラッシック音楽も貴族のものから、大衆のものになったわけで、貴族しかもたなかった、音楽による個人的な自己の確立が、大衆のものとなり、そっくりそのままの音響により、脳の構造に影響し、「朕」から「わたし」になったわけで、中世が云々というのは時代への逆行で、ルシファー的な、エゴの働きといえるかもしれない。だから、伝統は古いままでは意味がなく、新しく作り変えられなくては意味がない。昭和こそ、いまの令和につくりかえられるべきである。小野リサが昭和の邦楽を歌うと、昭和が令和の今に蘇り、生きかえるような気がする。音楽が新しい息吹を得て、生命になったような気がする。そのような昭和リバイバルの音楽番組があってもいいかもしれない。とにかく、昭和の総括が音楽でなされると面白いかもしれない。もっと音楽は自由になるべきだろう。愛を与え、奏でるのになぜ拘るのだろうか? そもそも、私の歌とか、私の曲と思えるために、音楽は個性を尊重するために生まれてきたのだから。自分が好きなように愛を与えるためにアレンジし、自由に表現すべきである。邦楽洋楽のジャンルや時代を超えて自由にアレンジすべきである。小野リサ - Wikipedia先日、指揮者の小澤征爾氏が亡くなったが、小澤といえば、有名なN響とのトラブルである。音楽業界には、特にクラッシック界にはなにやら、昔の階級社会がいまもなお残っているが、シュタイナーによると、階級社会とは、人類が、個人的自我に目覚めるために、切磋琢磨して、次の転生でできるだけ自己を確立するために、上位の階級に生まれるために、自己の確立への憧れのためにあった、というのである。小澤征爾が世界へ飛び立つ理由となった「N響事件」の真相 | カドブン (kadobun.jp)中世以前の古代では、自己を自由に確立できた者が、輪廻転生を通じて、最高位の階級につけたのである。自己を確立できるとともに、自然から独立して、覚醒意識で運動ができるわけで、そのようにして、自己が、朕から私へと受け継がれていったのである。それは、コンピューターの世界が、メインフレームから、パーソナルコンピューターのパソコンに進化したのと同じである。自己を確立するためには、物質界で、肉体を持ち、作り変えて、自己を体験しないと確立できないからである。物質界で、体験により、自己を映す鏡をつくらないといけないからである。その鏡が肉体である。自己を確立できるというのは、潜在意識から、覚醒意識を獲得することで、それには、物質界を感知できるように、脳をつくりかえないといけないから、神経組織を破壊し、脳を再構築しないといけない。だから、古代人には、脳の頭がなかったと、シュタイナーは述べている。物質界を昼の意識で感知し、従来の脊髄の神経組織を破壊するにつれて、睡眠中に、神経組織を脳へと再生し、再構築することで、昼に神経組織を破壊しては、夜の睡眠で、再生して、物質界で運動できる脳が生まれ、個人的な自我が確立できたという。古代エジプト人は睡眠中しか活動できずに、昼はほとんど動けなかった。覚醒意識をあまりもたずに、ほとんどが潜在意識だった。だから、いまでも、睡眠中に、脳は再生、再構築されるために、無意識になる。神経をスパークで破壊する度に人間は覚醒意識を獲得する。だから寝ないと神経組織は再構築されないという。覚醒の破壊と、睡眠の再生の生命循環により、人間は生きている、というわけで、破壊と再生は、輪廻転生へと永続する。睡眠不足は、脳の構造を崩壊に向かわせる。睡眠不足から、人間は個人的自我を失っていく。寝る子は(脳が)育つ、というわけである。かつての階級社会は、自己の確立のためにあり、脳を個人的に再生させるためだったが、現代人は逆に階級社会により、個人を失わせているわけで、行き過ぎたルシファーの権威主義にハマっているわけなんである。過ぎたるは猶及ばざるが如しで、特に日本はいまだ古い集合自我をもち、個人的自我に目覚めていないので、雇用改革が望まれているが、いまだにブラック企業が多い。階級社会が形骸化し硬直化した上下関係となってしまっている。本来は、階級社会が自己の確立のためにあり、また、この国の独特な文化とされる、詫び寂びの文化とは、実は、祖先崇拝からきていて、祖先の霊魂に対して、詫びる寂びる、の意味をもっている。中世の何人かの霊能者は、脳を個人的な自我につくりかえるだけでなく、あまりに物質的に染まってしまわない程度に、エゴにならないために、脳を自己陶酔に使い切らない状態に止め、物質界への個人的な運動能力を失う代わりに、霊能力を同時に獲得できたという。つまり、わびさびの文化とは、霊能力の再獲得が本意なんである。恐らく仏教の修行から生まれた文化なのかもしれない。だから、○○道や、免許皆伝、つまり霊能力再獲得の免状というわけなんだろう。物質界から自己を失わずに、霊界のあの世の先祖霊にコンタクトできるのが、わびさびの本意なんだろう。そのような霊能者は、亡き祖先の霊魂がマナス=霊我と交信でき、いまでも霊媒体質をもつ人もいるが、そのような霊能者が、祖先崇拝により、霊界と物質界との橋渡しの、いわば通訳として、個人的自我を物質界に染まりすぎないように、エゴを回避するように指導したのが、日本の墓参りなどの習慣に残っているわけで、常に、祖先の霊魂を偲んで、詫びる寂びるの、詫び寂びの文化が生まれた、といえるわけなんである。要するに、物質界の欲望に染まりすぎて、輪廻転生の生命循環の働きを忘れるな、という警告なんだろう。一方で個人的自我を確立しながら、他方で、霊我の精神を高めて、個人的自我を覚醒意識で獲得しながらも、同時に、その個人的自我を、愛を与えるために高める、霊我へと進化させ、古の霊能力を獲得するのが、現代人の今に生きる意味である。個人的自我をつくりながら、それを愛の奉仕へとつくりかえるのが、地球人の使命といえるかもしれない。この国に、詫び寂びの文化が残ってるのは、輪廻転生の思考が残っている証拠でもある。放送大学にハマり、現代の学問を勉強し直している手前、経済論にも言及してみたいので、この自己の確立を経済学的に変換するのなら、個人当たりのGDPに換算できるかもしれない。また巷では、日本のGDPが、ドイツに抜かれ、世界4位に脱落したとのことで、また新ニーサで株価が最高とか、物欲塗れの連中が声高に叫ぶニュースをみると、改めて経済成長について考えてみる気が生まれた。というのも、BS朝日の長嶋一茂氏のミライアカデミアという番組が非常に面白く、個人当たりのGDPについて言及していたからでもある。老害番組代表の朝生なんかよりも遥かに良い未来志向の番組である。馬鹿息子で有名なのか、司会者のキャラが自称馬鹿で謙虚なのが遥かに良い。長嶋一茂のミライアカデミア~これからを生き抜くための特別授業~ | BS朝日 (bs-asahi.co.jp)結論からいえば、番組では特に言及していなかったが、日本のGDPがよくないのは、企業経営者のエゴによる内部留保にあり、資本設備に投資していなかったせいなのが明白である。納税逃れや国の支援に頼ろうとする経営者のエゴによる甘え故の弱体化である。長期的視点でいえば、愛の枯渇である。番組で言及していたのは、少子高齢化による社会生活に必須の介護職など人手不足の社会福祉業界は無税にすべき、というのは、良い案に思える。要するに、エゴが際立つ法人には課税し、その被害を受けている法人は無税にし、バランスをとり、エゴを無くさせるのが肝要である。勝海舟の、天下の経済をして、国民を富ませないはずがない、というわけである。経済の要諦は、質素倹約で、徳川家の家訓も質実剛健だった。徳川家は、大奥の贅沢のせいで滅んだのは、大久保一翁が語っている。現代の自民党は、江戸時代の大奥といえるだろう。一茂の番組が語るように、人手が足りすぎている政治家よりも、人手の足りないライフラインの介護職員こそ無税にすべきであろう。それと、日本の労働組合の横のつながりに乏しいという、番組中の、パックン氏の指摘は的を得ていて、この労働組合の閉鎖性こそが雇用の流動化を阻み、経営者を甘やかし、経営を脆弱にしている元凶といえるだろう。米国のように職業別の労働組合に統合すべきである。米国では、職種別に共通の労働組合があるので、より最適な待遇を求めて転職も容易にでき、しかも、好待遇を求めてスキルアップできるために、経営者も常に従業員と対等な契約関係に、人と人の関係になる。日本では労働組合が弱いので、経営者が労働者をモノ的に扱いやすくなり、ブラック企業を生みやすい環境にある。経営者を物欲に走らせる要因とさせ、愛を枯渇させるのである。日本の経営者に愛が乏しいから、ブラック企業化する。日本に愛を取り戻すために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 現代へと伝えられてきた古い表現の、空気や大気について実際に経験できる人たちは、その古い文化を知らなくても、自分が、人間の精神のなかにいる時間=時代霊の影響下にある、のを感じとれる。これら古太陽紀の出来事に対する確かな感情が、人類の進化全体と結びついている、という素晴らしい感情から生じる。 大天使たちは叡智霊による原初の思い出を保持している。過去の地球上に存在した事象は必ず、後の時代にも繰り返されるが、後で現れる場合、何か別の新しさがつけ加えられる。だから、ある意味、現代人は、現代の「地球」上で遭遇する存在の中に、古「太陽」の存在を見つけることになる。 現代人にも、この古太陽のイメージ全体を、獲得できる。この感情全体が与えるのは、犠牲を捧げるトローネのイメージ、その供儀を受け取るケルビムのイメージ、その供儀から放射される煌めきの叡智霊のイメージ、空気のように拡散する供儀の煙の時間霊のイメージ、そして、原初に生じたものを後の時代のために保存する大天使から反射する光のイメージである。この感情を目覚めさせるには、これら太陽紀の創造に関係した出来事全てに関する理解が不可欠なのである。 魂の経験として、いまここに描写した過去の地球、つまり太陽紀の環境は、過去に太陽という外的な表現を通して達成された歴史的経緯であり、現在の地球紀では、内的な精神的な観点から提供される。そして、今や、キリストとして「地球」上に現れた存在が、この古太陽の環境から生まれた、のが理解できる。 キリスト存在が、「地球」にもたらしたものを理解するには、宇宙の光として、「太陽」内の中心に向けて反射され、太陽の光として変わるような、愛を与え続ける、という無限の慈悲を生じさせる徳についての概念を、自分のものとして体験する必要がある。 もし、今述べたような、このようなイメージを、イマジネーション(霊視)へと発達させ、キリスト存在が地球へともたらし、体現したのが、この無限の、無償の愛であると考えるなら、キリスト衝動という精神的存在を深く経験できるだろう。人間の魂の中にある、薄っすらとした仄かな暗示が、このような愛の表現によって記述でき、「地球」上に再現できる、のを、現代人が感じ取れれば、その暗示の真の意味が理解できるようになるだろう。
2024年02月27日
コメント(0)
現代は科学万能の時代といわれるが、古代叡智からすれば、科学洗脳の時代といったほうがいいかもしれない。言葉だけの科学が蔓延していて、では科学的思考とは何なのか?と問われれば、現代人のほとんどがその答えに行き詰まるだろう。しかし、放送大学をみていると、古代ギリシアの哲学的思考から、科学的思考へとつながって、現代の洗脳時代へと進む、科学史の流れが漠然と明らかになってくる。そこで、現代人がいかに「科学」という言葉に洗脳されているかを物語る発言を取り上げてみる。それは、巷のあるお笑い芸人が言い放った、現代人らしい頓珍漢で無責任な言い訳で、「俺が悪いのではなく、俺の脳が悪いので、脳に文句言ってくれ」である。勉強できない子どもが、勉強しないのを、頭が悪いせいにするのと同じである。努力不足なのに、努力したくない言い訳に使う。この言い訳を、脳科学では、どうとらえるのだろうか? 脳に自己がある、と、現代人は考えているはずなので、では、脳に責任を求めている存在は一体なんなのか?という疑問が思い浮かぶ。脳科学で考えれば、俺という意識が、脳にあるのだから、脳が俺をつくっているわけで、俺の脳という言葉がおかしいわけで、俺の脳というのは、俺のなかの俺という矛盾を生んでしまう。俺のなかの俺という発言は、サッカーの本田選手の、リトル本田発言を思い出させる。「リトル本田(リトルほんだ)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書そこで、俺のなかの俺でない俺はあるのだろうか?という疑問も思い浮かぶ。脳科学で厳密に考えれば、自分を自分で制御できていない発言なので、精神分裂症、いまでいえば、軽い統合失調症といえるかもしれない。現代人が責任を回避するときに、よく、このような発言をする。統合失調症 - Wikipediaこのような無責任発言は、巷の政治家の答弁によく頻繁にみられ、「記憶にない」やら、「秘書が勝手にやった」やら、知るべき立場にいながら、知らない振りをするのは、脳が脳を否定してるわけで、科学的思考が嘘つきであるのも同時に示している、といえるだろう。つまり、脳が自己をつくっているのではない、と考えるしかない。もし、脳が自己をつくっているのなら、このような発言は自己を否定しているわけで、自己を無くそうと自己がしていることになり、自己に罪意識がない事も表わすからである。罪の意識がないというのは、良心の欠如を意味する。自分は悪いことをするはずがなく、悪いことをしたのは自分ではなく、何か他のものである、と考える思考法にあるからである。だから、自分ではなく、自分の脳であると、頓珍漢な発言が生まれるわけなんである。回りくどい話になってしまったが、要するに、現代人は素直に誤りを認められなくなっている、といえるわけなんである。特に巷の政治家にこの罪意識が欠如している。反省という言葉は使うが、反省できていない。自分には思いもよらない、何か良からぬ事が起こると、家で飼っているペットの猫の仕業だろうと、なんでもネコのせいにしてしまいがちなのと同じである。自分は悪くない、悪いのは他にあると偽善者になるわけなんである。しかし、これでは自分という存在は精神的に成長しなくなってしまう。良心は、神様への成長の種子で、神の証だからである。勝海舟は、その書で、明治の時世を嘆き、昔(幕府時代)は他人の責任でも自分の責任として、責任感が重かったと愚痴っている。だんだんと人間は軽薄になってきたと、既に明治時代に嘆いていたという。現代の国会の緊張感のなさといったら、居眠り議員など国民がみているのに恥ずかしくないのだろうか? 「お前の父ちゃん、国会で居眠りしてたよな」と子どもたちに馬鹿にされないのか、不思議である。子どもは国会中継をみていないだろうが、嘘つき答弁ぐらいはみているだろう。居眠り議員が子どものときに、国会で居眠り議員をみて、育ったのだろう。歴代の居眠り議員のせいで、情けないことに、現代の居眠り議員ができあがってるわけなんである。代々居眠り議員が継承され、いまの嘘つき答弁ができあがっている。巷のこの国の議会に、科学的思考があるのか? 古代ギリシア人がみたら、なんというだろうか?さて、シュタイナーによると、古代ギリシアのある哲学学会で、定義の本質を明確にするために、人間とは何か?を定義することになり、そして、その学会では、「人間とは、2つの足をもち、翼をもたぬ生き物である」と決まった。次の日、誰かが、翼をもぎ取られた雄鶏をもってきて、「あなたたちの定義によれば、これが人間ですよね」と言ったという。このような定義づけの、ギリシアの哲学的思考が、数学的思考につながり、現代の科学的思考による洗脳の時代となっているのが、現代人の、脳による脳への無責任発言による責任の不在、誤魔化しに現れている。人類が古から現代へと進化するのに際し、現代人に求められているのは、その脳への機械的な構造ではなく、精神的な中身にある良心なのである。人間という生命体に常に求められるのは、機械的構造をつくる遺伝子をもつ、細胞の核ではなく、精神的発展につながる自己の核となっている良心、愛なんである。キリストは人類全体の失楽に対する原罪を背負って、代わりに肉体で身をもって死んでくれたが、各個人の罪意識は残ったままで、各自の良心から、それを克服しなければならない。肉体の死が死ではなく、ただ人類の死であり、各個人の死ではないのである。つまり、各民族の、全体の集合的な死であるが、各個人の再生でもある。つまり、キリストは、各民族の死から、各個人の死へと、死を個人的なものにし、解放したのである。人智学的にいえば、キリストは、ルシファー的な民族の死から、偽の死から、個人の本当の死へと解放したのである。ルシファーは、民族のために、個人の死を厭わないが、キリストは、人類に、個人的な自我を与えに来たわけで、民族に囚われない生き方を、新しい自己を、モラルを与えに来て、実際に、個人的な自我を、人類にもたらした。しかし、いまだに、古き集団的な自我に生きるルシファー的洗脳のままに生きる現代人が数多くいる。自分は神なので、悪いことをするはずがないと考える自惚れ屋の自我である。そのような時代遅れの、彷徨えるユダヤ人といわれる自我の持ち主が、ルシファー的な、目覚めない、死んだままの自我なんである。人間を高度な知性体と考える脳の持ち主こそルシファーに洗脳された科学的思考の産物なんである。そのような脳が、軽い精神分裂、現代の統合失調症になり得るのは、自然の成り行きともいえるだろう。このように、ルシファーは、人間の脳を称賛するが、それは、地球がかつて月だったときの、人類の教師で、人類を指導していたからでもある。その教えの名残りが、古代アトランティス時代の残滓として、中国や、この国にも残っている。中華思想や、ツァーリズムである。ツァーリズムの語源は、かつて中東のイランの北東にあったツランという国からきているという。簡単にいえば、自己こそ全てという考え方である。中華思想 - Wikipediaツァーリズム - Wikipediaツラン人種 - Wikipediaツラニズム - Wikipediaこのブログでも何度も紹介している、ルシファー的存在は、地球がかつて月と一体で、月紀といわれたときの、人類で、そのとき、いまの人間は、まだいまの動物のような存在で、個人的意識をもたなかった。だからいまの地球紀でいえば、サルのような存在だったといえるかもしれない。月紀の人類、つまり、人間はルシファーで、今の地球人を指導していたわけで、地球人をよく知っているし、いまも人類を月から人間の心の感情や情緒を通じて支配しようとしている。だから、人間が、「自分がするはずがない、他のせいだ」と無責任に嘘をつくとき、それはルシファーの影響下にあるといえるだろう。だから、「文句があるなら、俺の脳に言ってくれ」と告発しているのは、ルシファーに憑依された人間の霊魂なんである。悪魔に罪の借金を肩代わりしてもらっているようなもので、死後に、その借金の返済を、霊魂として求められるわけなんである。キリストが、魂のゲヘナと呼んだものである。ゲヘナ - Wikipedia月紀に人類から天使に進化できなかった堕天使ルシファーたちが、月の領域に住み、いまも、地球の人類に悪へと誘導している。嘘つきなどは、このルシファーの影響下にある。ルシファーだけでなく、月紀の前の、太陽紀にも、次に進めずに堕天使になった存在が、アーリマンである。太陽紀には、いまの人間はまだ植物のような存在だったという。アーリマンは、ゾロアスター教のアヴェスタ語で、アンラマンユと呼ばれた悪の存在である。善の太陽神の、巨大なオーラという意味の、アフラマズダに敵対する存在である。ゾロアスター教は、その名の通り、ゾロアスターが説いた教えである。ちなみに、ゾロアスターは輝ける星という意味をもつのは、何度も紹介している。このアーリマンが、現代人の科学的思考をつくった存在なんである。このブログでも紹介したが、666年に、ゴンディシャブールに叡智の学院をつくり、アラビア科学を興した存在とシュタイナーは述べている。その目的は、人類から、輪廻転生の思考を奪う事である。この世だけ、物質界だけが全てだと思わせる、洗脳させるのが、この悪魔らの目的で、その末節が、人類奴隷化計画なんである。アーリマンは、人類に魅力的な3つの叡智を与えると、シュタイナーにより預言されている。そして、将来、アーリマンの一派の太陽悪魔ソラトが、人類に受肉するとも預言している。そのようなソラトが受肉した人間の自我は、自我を機械化し、アスラとなっていくといわれている。アスラとなっていく自我には、3つの叡智を科学的思考により獲得していくらしい。1つ目は、機械的な律動-リズム学を用いた計算機などによる遠隔操作などインターネットのIOT化、また現代のAIなどの人工生命知能による機械化支配。2つ目は遺伝的な医学で、DNAなどによる遺伝子医療などや、最近のiPS細胞など人工細胞による再生医療。3つ目は、ウイルスワクチンなどの予防医学や、遺伝子編集ベビーなど出産などの人工公衆衛生である。このように、ルシファーは自惚れた自己に、人類を導き、アーリマンは、更に、夢のある物質科学で、人間の自我を誘惑し、人類を地上に拘束し、科学的思考の恩恵のなかで、その奴隷とする。悪魔たちにより、眠ったままに生きるのかどうかは、本人の自己意識次第なんである。地上に長く生きる事が全てではないのを、悟るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 古太陽は、現在、外にある太陽とは違い、むしろ内的な空間の天体としてイメージしなければならない。その中心では、「土星」の出来事が繰り返され、つまり、ケルビムに自らを捧げるトローネの犠牲の愛を思いやる叡智霊が加わる。 現代風にイメージするなら、トローネの犠牲の火から煌めきが生じ、叡智霊がその犠牲を変えることで、その犠牲の物質的な表現は、犠牲が捧げられる間、空気の煙となって生じる。要約すると、次のようになる。 ・ ケルビムの前に跪き、犠牲を捧げるトローネ(土星の領域)。・ 「太陽」の中心で、トローネの犠牲を思いやり、祈りを捧げる叡智霊(キュリオテテス)の合唱。・ 叡智霊(キュリオテテス)の献身は、犠牲の煙のイメージとなり、周囲のあらゆる方向に広がり、外へと流れ出し、雲へと濃縮する。・ 大天使(アルヒアンゲロイ)が煙の雲から生じる。・ 「太陽」の円周からは、犠牲の煙が光の形で反射され、中心へと返される。・ 「太陽」の内部を照らし出す光。・ 叡智霊(キュリオテテス)の光が円周と、中心とでキャッチボールされることで、「太陽」の領域が創造される。 このように太陽の領域は、燃える熱と犠牲の煙という、外に向かって注ぎ出される愛の光から成り立っている。外の円周には光の創造者でもある大天使がいて、「太陽」上で、前に生じた光を後に反射している。時間を経由して、最終的に、犠牲の煙が光として差し戻される。 では一体、大天使は何をしたのか? 大天使たちは、時間のお蔭で、前に生じたものを受け取ったが、それは叡智霊(キュリオテテス)の光である。その光を受け取り、後に、中心へと反射して、戻したが、前には時間だった光を、後には空間にして返した。つまり、時間だった光を、空間として反射し、戻すことにより、大天使たちは、アルヒャイ(時間霊)から受け取った光を、時間から空間として返した。 このように、大天使たちは原初の天使たちとなる。というのも、前に存在した時間を、後の時代の空間へともたらしたからである。 だから、「大天使は、原初(アルヒャイ、時間霊)の御使いたちなのである!」 秘儀の知識から、このような「言葉」が再現され、そして、この「言葉」が、太古の伝統の中に生き、パウロの弟子であるディオニシウス・アレオパギータの学院を通して、現代まで伝えられた、のを考えてみるのは素晴らしいことである。 この言葉を、心に深く刻みつけると、イメージとは別に、この言葉が、原初として再現され、最初に生じた意味が、新しく再生される、のは素晴らしいことである。この言葉は、人智学徒を大いなる尊敬の念で満たす。人智学徒は、秘儀の叡智に参入するための、古い聖なる秘密の学院に、この言葉が結びついているように感じる。 この言葉から、太古の伝統が、人智学徒の中に流れ込んでいるが、それは、自身の責任により、その古い伝統とは別に、このような知識を獲得し、その理解により把握しているからである。
2024年02月22日
コメント(0)
放送大学にハマり、ブログ更新が週2回になるのをお許しくだされ。放送大学の講義をみていて思うのは、外国語、特に英語からの翻訳語が多いのか、そのまま横文字にしたものや、日本語の覚え難しさにある。特にホルモン名や薬名、専門技術用語などの読み方など、記憶力に乏しい脳をもつ拙者には、なかなか頭に入れるのが困難なんである。考えてみれば、漢字は中国の漢のもので、カタカナ横文字は西洋のもので、純粋に日本の古来のものといえる日本語は、ひらがなぐらいしかないのに気づかされる。コンピューターの語源のコンプトスがギリシア語の計算の意味からきていて、アルゴリズムが、算法という意味で、古代アラビアの数学者フワーリズミーからきているのを知って驚かされる。アルは冠詞で、アル-フワーリズミーの発音から、アルゴリズムとなるそうである。数学史を学ぶと非常に面白く、このような未知の面白さがあるから、放送大学にハマってしまうのだが。フワーリズミー - Wikipedia昔に勉強した経験のある学問ならば、懐かしさもあって、それほど苦痛ではないが、初めて知る専門用語などは、日常生活ではほとんど使わないものなので、似た言葉から連想して覚えるしかないが、結局、似た言葉で覚えてしまうので、似た言葉で記憶力が定着して、逆に障害になり、思い出せずに難儀となる。シュタイナーによれば、潜在意識においては全てが体験として記録されているが、そのうちのどれだけが覚醒意識で脳裏に印象として焼き付けられるかの、いわば写真の現像と同じで、その処理能力が、記憶力の優劣になる、というような話をしていたように思うのだが、この記憶も吾輩のものなので、定かではないのであしからず。いずれにしろ、潜在意識中では、日常の全人生が経験として、記録されているので、それを人智学ではエーテル体と呼んでいるのだが、それは死後に肉体から離れるときに、走馬灯のように人生を遡って追体験するわけで、記憶上、つまり覚醒意識で失われていても、経験としては失われていないので、覚醒意識では、何も覚えていなくても、人生経験をする意味は充分にある、といえる。現代では記憶力が良い人が頭が良いとされるが、それはつまり、写真の現像処理が素早く、常に覚醒意識でもって、写真として取り出せることで、その能力は、覚醒意識の優劣に帰される、といえるだろう。人智学的にいえば、肉体の感覚と、エーテル体との連携がスムーズで一致しているといえる。この覚醒意識の能力には、数学や音楽の才能も関わっているようで、知り合いに聞いた話だが、東大生のなかには、見ただけで瞬時に記憶してしまう優れ者がいて、大学入試や非公開試験の問題作成に重宝されるらしいが、将棋の藤井聡太八冠もそのような存在なのかもしれない。脳科学では、右脳の空間把握力を使っているという説もあるが、前回紹介したように、人体の右側は、エーテル体が優位の側面なんで、物質的な言語分類感覚よりも、非物質的なイメージの感覚を、イメージの霊感を活用したほうが良いわけなんである。古代アトランティス人は、現代人のような物質体の肉体をもたずに、エーテル体が最下位で、いわば肉体だったので、そのまま記憶力が生かされ、現代人とは比較にならないぐらいの記憶力に優れていたが、覚醒意識ではなく、潜在意識だったので、太陽光の昼は眠っていて、夜に月光から活動したのを以前紹介した。そのときの物質体は、現代の寝袋だったわけである。だから、古代エジプト人は、霊魂を肉体に戻すために、寝袋としての、ミイラをつくったのである。だから、記憶力を優れたものにするには、エーテル体と物質体を密接にし、連動をよくすることなのだが、どんな物質的な元素でもいずれ崩壊し、放射線を発するのでわかるように、物質体は崩壊に向かう自然の法則に従っているわけで、崩壊を再構築する生命力のエーテル体が、地上の生活とともに、物欲の高まりに、処理しきれなくなり、その再生力を失い、物質界から離れていくわけで、つまり、物質界に固執すればするほど、物質的に安定を求めるほど、不安定になり、崩壊していくわけで、例えるならば、美味しいものを食べた分だけ、その美味しい食べ物を失うわけで、欲望を求めるほど、現実は安定どころか、一方通行になり、崩壊に向かっていくわけなんである。人間は物質を破壊させながら生きている。世のなかの、物質界には、押してみてだめなら、引いてみな、という諺があるが、生命力と物質の関係をよく表している。これは陰陽の関係の経験則ともいえ、男女間も、相手に求めるだけではいずれ別れてしまうので、ある程度求めたら、今度は逆に(考える時間などを)与える事の重要性を説いている。求めすぎるとかえって崩壊に向かう。男女間の関係崩壊も、陰陽の違いを考慮せずに、自然の物質的関係を求めすぎるからといえるだろう。男女は陰と陽だからこそ引き合うわけで、同じ陽と同じ陰なら、プラスとプラス、マイナスとマイナスで、物質的には、かえって反発するのが自然の法則なんである。「押してダメなら引いてみろ」で男心を掴むには? 成功パターンを解説! | Oggi.jp陰と陽の、マイナスとプラスが引き付け合うのは、現代科学でも周知の事実で、男女間も同じで、例えば、自分にないものを相手に求めて、結婚がはじまるわけだが、長続きしないのは、日々同じ生活空間を共にすると、相手を自分と同じようにしようとする欲望が生じてしまうからである。自分に無いものを求めて結びついたのが、物質的生活を共用するうちに、自分と同じにしようとする矛盾に気づいていないわけである。だから、昔は、男と女で物質的生活の役割分担を明確にし、価値観の違いによる、縄張り争いを避けたのだが、物質的価値観に染まるうちに、男女の違いも不明確になってきて、どちらがやるのか云々となり、喧嘩となってくるわけである。そして、離婚の原因が、価値観の不一致となるわけである。自分にない価値観に惹かれてくっついたのに、価値観を一致させようとすれば、分かれるのは必然の自然の法則といえるだろう。宇宙全体は多様性の方向に進んでいるわけで、だからこそ、自分に無い価値観に惹かれ、くっつくわけなんで、それを永久に固定しようとし、物質的にも、異なる価値観を一致させようとすれば、互いが標榜する価値観の土台となっている、自己を相手に奪われる恐れが生じ、論争、闘争、戦争になるしかない。特に精神的には女性が優位なので、この価値観の一致を相手に強いる傾向にある。男性は、物質界において安定を求める傾向にあり、物質的に自己を満足しようとするので、精神的に安定を求める女性とは、真逆で水と油の違いともいえる。つまり、重要なのは、互いの価値観を認め合うことで、価値観の一致ではなく、それは宇宙が多様に進んでいるので、困難なんである。相手の異なる価値観をどこまで認めあえるかの許容範囲、つまり、相手への理解力といえるだろう。更に、結婚は、異なる価値観の上に、子育てという、また新たに、この世にはない未知の子どもの誕生から、男女相互の現実的な価値観の違いを浮きだたせ、未来についての新しい価値観を共有する必然性をもった存在が加わる出来事が生じるわけで、だから、結婚は、逆説的にいえば、異なる価値観をどれだけ認め合えるか、愛の試練が日々努力によって試される愛の道場といえるだろう。記憶力から、結婚の話となってしまったが、結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如と誰が言ったかわからねど、有名な文言で、価値観が異なる相手と惹かれ合い結びつくのは、確かに判断力の欠如といえ、相手に自分の価値観を押し付けるのは、忍耐力の欠如といえ、価値観の不一致で別れたのにまた結びつくのは、記憶力の欠如といえるかもしれない。異なる価値観を認めない独善的な人は結婚には不向きかもしれないが、そのような人が結婚してしまうのは、記憶力と判断力の欠如にあり、それは、人智学的にいえば、エーテル体と物質体との関係もアンバランスで、それを統合し、バランスさせるアストラル体、つまり情緒が不安定といえるわけで、心の病気といえば、病気なのだろう。しかし、結婚して子どもが産まれなければ、民族が絶えてしまうのは、自然の摂理なので、より多様な他民族国家に向かうように、移民を認めるような寛容性をもてればいいが、いまだに巷には老害が盛り沢山の令和で、老害の女性への蔑視の子を産む道具発言などが度々かまされる、のをみれば、結婚欲という物欲の奴隷がゾンビのように繁殖するだけなのかもしれない。いずれにしろ、老害が蔓延る社会で、異なる価値観を認めあえない家庭に育った子どもは孤立を深めるしかない。だから、偽物の愛である欲望には、注意しないといけない。愛は求めるものではなく、与えるものであると、キリストも語っている。なにより、巷の政治家をみれば、国民への愛が皆無で、金銭欲や名誉欲、物欲に旺盛で、それらは死んだら皆無になるのに、国家を滅ぼす、馬鹿で愚かな輩が増殖中なのが明らかなんである。さて、恋多き大人といえば、先日、映画「男はつらいよ」の寅さんに憧れた外国人をTVで紹介していた。その外国人が挙げていた、寅さんの名言といえば、妹の子どもに、失恋で意気消沈した際に、「おじさん、人間はなんのために生きてるのかな」と聞かれ、「なんだ難しいこと聞くなぁ、なんていうかなぁ、あぁ、生まれてきてよかったなぁ、と思うときが何遍かあるじゃない。そのために、人間は生きてるんじゃないのか」と応えるセリフが人生の機微を表わしていて象徴的である。男はつらいよ - Wikipedia男はつらいよが、本当は、恋はつらいよ、ならぬ、人生はつらいよ、人間はつらいよ、を意味していて、つらいなかにも、ほっとする安堵の瞬間や、ひとときの幸福感、躍動する恍惚感というか、何度も死にたい思いをしながら、あぁ、生きていて良かったなぁ、と言える瞬間を求めて、人間は生きていると、寅さんは語っているようでもある。自分の想いは届かないのに、現実にはあり得ないのに、寅さんは、辛い茨の道とわかっているのに、恋する主人公なんである。非現実な恋愛病である。考えてみれば、人間誰しも恋愛病に罹っている。叶わぬ夢をもとめて、名誉欲や承認欲、物欲などは、恋愛病の亜種とも考えられる。飲酒や喫煙が体に悪いとわかっていても、やめられない人も沢山いる。一度身についた習慣は、失恋という現実を知らされるまでは、なかなかかえられない。病気やガンに罹ってから、飲酒や煙草の害をリアルに知る。寅さんの場合は、たとえ成就したとしても、渡り鳥のような渡世の生活では、世間的な常識に叶うリアルの価値観を埋めるのは非常に困難である。渡り鳥をやめるわけにはいかない。寅さんという人物は映画の世界だから存在するわけで、現実の世界では、マドンナは現れず、現れても、価値観があまりに違いすぎて、惹かれ合う領域にも到達しないだろう。非現実な演劇の世界である。しかし、そのような全く異なる水と油の価値観でも、一瞬のひとときなら、認め合えるリアルがある。どんなに地獄の世界に暮らしていても、ある瞬間のひとときには、天国が垣間見れる。地獄のなかに咲く花がある。それが叡智なんである。あらゆる多様性を認め合える叡智がある。あぁ、生まれてきて良かったなぁ、生きていて良かったなぁ、というセリフから、自分の価値観が、他の異なる価値観とつながり、根底では一致し、同じだったんだと、叡智により教えられるときがある。いまは自分として生まれているが、遥かに昔は、他の自分だったんだと、前世では、全く逆の価値観で生きていたんだ、と潜在意識の感覚で悟ったときである。この経験を得るために、自分は生まれてきたのか?と叡智から知らされ、わかったとき、人間は現世を超え、昇天する。まさに天国にいる心地になる。いまの他人は、実は昔の自分だったんだと。エリ、エリ、ラエマ、サバクタニキリストは、人間の死を知るために、生まれてきた。あぁ、生まれてきて良かったなぁ。人間になってみてわかったよ。人間を宇宙からみていたらわからなかったよ。人間から宇宙をみて全てがつながったと。潜在意識に眠っていた記憶が蘇り、キリストのように復活し、昇天する。この経験をするために、自分は生まれてきたのか、とわかり昇天する。そのひとときの天国を求めて、地獄の世の中に、人生はつらいよで、寅さんは生きる、のである。なにやら、寅さんが、昭和のキリストのようにみえてきた。♪今日も涙の日がおちる。日がぁ~落ちぃる。渥美清 男はつらいよ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)フーテンの寅さんのなかに、キリストを読み解くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ いまの地球を、現在の物質的な存在だけでなく、過去の時代に生じた事象が再び、現在のなかへと流れ込み、繰り返されるもの、と想像してみる。人智学徒は実際、このような歴史の繰り返しが起こるのを熟知している。現代人が生きているのは、ポストアトランティス時代の第5期のアーリア文化期だが、第3期の、古エジプト-カルディア時代に起きた出来事が、現代にまで流れ込み、また違った形で、再現される。 第3期の時代に生じた事象が再現し、繰り返される。これは古「太陽」紀に生じた、愛を与えることと、愛を受け取ることの再現でもある。このように想像すれば、叡智霊を、古「太陽」紀における、愛の授与者、そして、大天使を、愛の受容者と見なせ、宇宙進化の歴史を読み解ける。この解釈から特筆すべきイメージが生じるが、それを正確に思い描くには、与えられる愛が、中心から放射してくるような、内的に閉じた円の天体を想像できる。 その球は、中心点から周辺へと愛を放射し、そして、円の側面に達すると逆に、反射され、中心点へと戻っていく天体である。大天使たちは、自分たちが受け取った愛を、その天体の球面の内側から再び反射し、中心に返している。その円の面の外側には、何もない。 中心から外に向かって動くのを想像すればよく、それは、叡智霊からやってくる。それはあらゆる方向へと放射され、それを反射し、返す大天使たちによって受け取られる。では、空間中へと反射し、返される愛とは何なのか? 大天使により、再び、叡智霊へと返される、この愛への返礼品とは何なのか? 再び、中心の源泉へと向けられ、叡智霊へと返され、放射される愛への応えとは何なのか? それは「光」である。大天使たちは光の創造者でもある。光とは外(界)的な幻想の中に現れるものではない。光が生じる処では、叡智霊による愛が、人間に向けて大天使により変換されている。光がある場に、いるのは、大天使たちである。 だから、溢れる光線の内部には大天使たちが隠れている、と言える。人間の元に来る、溢れる光線の背後には大天使たちが隠れている。光を流出する大天使たちの能力は、叡智霊たちが、大天使に向けて放射する、「与える愛」という徳から生じる。 このように読み解けば、古「太陽」のイメージに到達できる。その中心では、叡智霊たちが、古「土星」から受け継がれてきた遺産(トローネによるケルビムへの犠牲行為)を思い浮かべ、その叡智を秘めているのが想像できる。この犠牲行為を思いやることで、叡智霊たちは、自身の本性(与えるという徳の、愛の形を取った流れる叡智)を放射するように、解き放たれ、促される。 この徳は、時間のなかに保存されているために、送り出された後、再び反射されるが、そのため、イメージすれば、中心の源泉へと反射し、返される徳の、愛の光によって、内部が照らし出された天体である。というのも、古「太陽」は、現在の太陽のように、外からではなく、内に向かって輝く天体だからである。そして、この内への光の照射により、何か新しいことが生じるが、それを次のように読み解ける。 叡智霊が「太陽」の中心で、犠牲を捧げるトローネを思いやり、犠牲の愛に満ちる自分という存在を、その遥かな周囲へと放射する。そして、叡智霊が放射した愛は、その天体の表面から、大天使たちに、光の形に変えられて戻ってきて、再び、叡智霊により受け取られる。その愛と光の繰り返しにより、あらゆる存在が益々愛の光で照らし出されるようになるが、光として反射され、返される愛から、受け取れる、その光の、愛の、内実とは何なのか? 大宇宙への贈り物として捧げられた愛とは、自我自身の存在、愛で一つとなる、その根底にある無償の愛へと犠牲になる存在である。いま、その無償の愛が、光により反射され戻ってくる。無償の愛の存在が、外から、その本性をなす叡智霊へと戻ってくる。叡智霊たちは、大宇宙全体にばら撒かれた自我の内的存在である無償の、犠牲の愛の行為が、光として、つまり、自我の存在の反映として、反射され、戻ってくるのを見る。 いま、太陽という天体で、内と外とが2つの極として、人間の前に解き明かされ、立ち現れる。前と後とで、自らを無償の愛により還元し、変容し、内と外とになり、そして、愛のキャッチボールをする、空間が生まれる! 叡智霊により与えられた、犠牲の愛への思いやり、というまた別の愛の徳への返礼の光から、古「太陽」上では、空間が生じた。それ以前には、空間とは、なんら存在し得ない、無のシンボルのようなものだった。しかし、古「太陽」上には、実際に、光により空間が生じたとはいえ、それは現代の数学でいえば、2次元的な円のような形に過ぎず、上下も、左右もなく、ただ内と外があるだけだった。実際、これら2つの極は、古「土星」紀の終わりには既に現れていたが、古「太陽」上での空間の創造のために、その土星での出来事が、太陽紀に、叡智霊たちにより繰り返された。 そして、もし、これらの出来事全てを、現代風に、想像し直すなら(土星紀に、犠牲を捧げるトローネが時間霊を生じさせたように)、現在の、光からなる太陽のような、球の天体を思い描いてはならない。というのも、当時の光はまだ外に向かって放射するようなものではなく、内に向かって放たれる反射のみ可能な、2次元の円として存在していたからである。
2024年02月20日
コメント(0)
前回、四季と祭典の関係を、太陽と地球との呼吸から紹介したが、記憶違いで、聖ミカエル祭を夏至の祭りと紹介していたが、聖ヨハネ祭が夏至で、聖ミカエル祭は秋分祭であったので、改めて紹介する。だから、改めてまとめると、冬至のクリスマス祭、春分の復活祭、夏至の聖ヨハネ祭、秋分の聖ミカエル祭となり、改めて、太陽と地球の呼吸に譬えると、冬至は、太陽による地球への受精であり、太陽霊キリストが地球に降霊し、3年間にわたって、宇宙のカルマなどの教えを説いて、12人の弟子たちと最後の晩餐から、十字架刑で、人類の罪を背負ったキリストの受難の生涯を象徴するのがクリスマス祭で、人間の呼吸でいえば、空気を吸い込む吸気にあたる。聖ヨハネの日 - Wikipedia夜長の季節を迎える頃に行われる豊穣の祝祭・ミカエル祭(ミカエルマス)とは?(季節・暮らしの話題 2016年09月14日) - 日本気象協会 tenki.jpキリストは、十字架刑にかかった際に、エリ、エリ、ラエマ、サバクタニ(太陽霊よ、地球霊よ、この死を知るために、私は地球に降臨した)と言ったとされ、人間の肉体の死を知って、肉体から解放され、復活し、地球霊となって、弟子たちを拠り所として、あの世のエーテル界から人類を指導する活動を象徴するのが、春分の復活祭で、太陽と地球の呼吸に譬えると、太陽霊を身籠った地球が、太陽と一体だった昔の生命体であった地球が、再び太陽霊となって再生し、復活し、活力を取り戻す祭典を意味し、人間の呼吸でいえば、息を吐き始める息吹にあたる。太陽霊キリストの息吹により、人類の自由、平等、博愛の精神が、地球という生命体を蘇らせ、再生復活させ、太陽へと向かっていくにつれ、多様化した最大の分岐点へと到達すると、生い茂った樹木の反対に影が深まるように、地球に闇が生まれてきて、次第に行き詰まり、生命力を失っていくので、再び、太陽からの受精が必要となり、その準備の、地球を洗礼する、聖ヨハネを必要とするので、精神的な知識から、夏至に聖ヨハネ祭が執り行われるようになった。聖ヨハネ祭は、人間の呼吸でいえば、呼気にあたる。地球が聖ヨハネにより浄化された後、太陽を再び地球へと導くために、天使長の聖ミカエルが、キリストを支援し、地球の闇や穢れ、悪を裁くためにやってくるのが、聖ミカエルの龍退治で、収穫祭でもある、聖ミカエル祭である。人間の呼吸でいえば、吸い始めにあたる。収穫祭といえば、聖書のカインとアベルを思い出す。カインとアベルの話は、このブログでも何度も紹介しているが、一般的に、神に、カインは農作物を捧げ、アベルは羊の初子を捧げたと解釈されているが、カインは土を耕す者で、アベルは羊を飼う者と聖書には記述されている。カインという名がヘブライ語の鍛冶屋を意味するように、土とは、現代の意味の土だけを意味しない。だから、カインは農夫ではなく、収穫物も農作物ではなく、現代風にいえば、唯物論者のことである。カインとアベル - Wikipedia現代の聖書も唯物論で解釈されているから、誤解を生んでしまうのである。この記述が意味するのは、聖書は唯物論で解釈すれば誤解を生んで、兄弟で喧嘩し、論争、闘争、戦争して、カインのように、アベルを殺して、その死さえもわからないくらいバカになるよ、と警告しているのである。アベルは、ヘブライ語では、霊や生命、息を意味するので、唯物論者のカインが、霊や生命、息であるアベルを殺すのは、必然の出来事となるのである。カインは、神に物質的な収穫物を捧げるが、神は、十戒で、偶像崇拝を禁じているので、物質的なものは受け取れないし、それらは生命からみれば、死や崩壊の象徴である。神は人間でないので、人間の死がわからない。だから、アベルはどこにいったのか?とカインに聞く。アベルは、生命を意味し、羊を飼う者とあるように、生命体を育てる者なので、現代風に言うなら、精神論者で、殉教者と解せる。だから収穫物の、肥えた子羊とは、モラルに富んだ精神的な知識で、つまり神の教えを忠実に守った、という意味に解せる。アベルは神と一体になっているので、神にも、アベルとの違いがわからなかったわけである。つまり、アベルは、殉教して、神の息となったのである。アベルを殺したカインの子孫が天国に行く事なく、物質界を永遠と輪廻転生し、地獄の修行を続けるのを、象徴化したのが、キリストを無視した彷徨えるユダヤ人である。だから、カインとアベルの出来事から、聖ミカエル祭の秋分の収穫祭の意味がわかるだろう。秋に精神的な実りをもたらすのか、物質的な実りをもたらすのかは、人間の自由だが、天使長ミカエルが、神に成り代わって、そのヒトがもたらした収穫物をみて、天国に行けるのか、地獄に堕ちるのか、を裁判するのが、秋分の祭典で、聖ミカエル祭といえるだろう。美しい紅葉の季節と言われる所以である。聖ミカエル祭とはどのようなお祭りか? | Shaddyのギフトマナー辞典聖ミカエル祭は、人間の呼吸でいえば、吸い始めなんで、どんな大気を吸うか、新鮮な空気を吸うか、澱んで濁った空気を吸うかで、生命の生死が問われる。つまり、当人の価値観や生き方、生活環境が問われる。シュタイナーは、ミカエルが天使長の座は、2400年(予定で、前後するらしい)までで、その座を退くと、次は、オリフィエルになると預言している。オリフィエルは怒りの大天使と呼ばれ、人類を強引に浄化させる時代(時間)霊であるという。だから、いまはまだ聖ミカエル祭だが、いずれ聖オリフィエル祭となり、人類を善人と悪人へと強引に分けていくだろうし、ヨハネの黙示録でも預言されている。このように、人智学の精神的な知識から、人間の呼吸と、太陽と地球の呼吸を解き明かすと、四季と祭典の意味が、人生を通して、感じ、理解できてくるだろう。我々人間は、祭日を通じて、天使たちにより生かされているともいえる。霊的な知識なくしては、生きられないわけで、モラルは生命の柱なんである。人間の自我には、生命のモラルの柱が秘されている。だから、モラルなくしては自由に生きられない。モラルは、宇宙を1つにまとめ、1に向かわせる神の生き写しである。モラルを呼吸することで、人間は生きられる。モラルを失うと、人間はゲヘナとなる。巷の裏金議員などは、ゲヘナの輩と呼ぶべきだろう。永遠のユダヤ人ならぬ、永遠の上級国民日本人である。滅びゆく国に生まれ、寄生して一緒に滅んでいく寄生ウイルスといえるかもしれない。永遠のウイルスというべきだろう。ゲヘナ - Wikipedia巷の、この国のほとんどの人間が愚かにも、物質科学で解明されず、バレなければ、何をしてもよく、モラルハザードがないと思い込んでいる。しかし、罪は犯したときに既に加害者に皮膚のようにつきまとい、死んでも拭えないものなんである。人間には天国から授かった良心があり、良心が、それを糾弾しているからで、それを恥じているからである。良心を閉ざし、失うほど、天国から遠ざかり、ゲヘナの地獄へと堕ちていく。良心を生かすも殺すも、本人次第なんである。呼吸と人間の感覚については、以下のような面白い研究もあるので、紹介する。 ☆ ☆ ☆呼吸位相が外界事象の知覚・認知に及ぼす効果_pdf (jst.go.jp) ☆ ☆ ☆さて、いかに物質科学が発展しようとも、人間の良心を解き明かすことが不可能なのは、良心は不可視で、宇宙を1つにまとめている働きの全体だからである。部分から全体を見渡すことはできない。全体から部分を見積もるのが、算出で、古代ギリシアのアリストテレスの運動論から、古代アラビアの算法により、古代数学として発展してきたが、それは宇宙から1つにまとめる能力を、自我として人間に与えられてきたからである。人間は睡眠中に、この1なる力を、全体に帰する働きを、天使長などから与えられているわけなんである。キリストは、この1なる力のリズムの象徴である。地球は太陽との呼吸から1なる四季を生み出し、人間は呼吸から、この1なる四季を感じ、それに合わせて、太陽から授かった1なる自我と、外の地球の1なる四季を、人体により、1なる力で統合する。大学を英語ではユニバーシティと呼ぶが、このユニバーシティは、ラテン語で、1つに向かって、という意味をもっている。つまり、1なる力を解き明かすのが大学で、この1なる力の源泉が、愛なんである。だから1は多であり、無限で、無限は1なんである。物質では、1は無にはならずに、多でもない。物質は、精神の1部でしかないからである。さて、愛もそうだが、物質からは解き明かせない、精神の働きを示す、わかりやすい例がある。それは左と右の違いである。物質から、なぜ左右があるのか、が解き明かせない。先日、NHKのヒューマニエンスという興味深い番組で、左右をテーマにやっていたが、物質科学では解き明かせないのが明らかだった。ヒューマニエンス - Wikipediaそこでヒントというか、人智学的波動学では明らかになっている左右の違いを紹介する。それは、左は地球の力を受けるためで、右は太陽や宇宙の力を受けるためにあるという。脳の言語処理が、左脳に多いのは、地球の力の、つまり物質界の力を受けるためにある。だから、右脳で言語処理をやろうとすれば、物質界の力が受けにくくなるわけである。面白いのは、NHKのその番組では、スポーツ選手が、左利きになりやすくなっているという話である。シュタイナーは、スポーツは、地球環境の、つまり重力を受けるのに、適した人体をつくりやすくするので、逆に精神的活動には妨害となると言っている。勿論、精神をリラックスさせるための余暇的な遊びのスポーツを問題とはしていない。しかし、精神的な修行には不要と述べている。ヨガについては、ヨガは視覚を内に向けるための、潜在意識の覚醒化という精神的鍛練で、あくまで人体の運動は付随的なものらしい。運動は物質体、つまり肉体を鍛えるためで、筋肉を鍛えるためなんで、人智学のエーテル体とは無関係と述べている。そして、エーテル体は、円の回転運動をする傾向をもつと、シュタイナーは述べている。だから、人間の回転運動は、エーテル体の指向によるという。エーテル体は常に回転運動をしたがるが、地球の重力を受けるには、肉体を安定させなければいけないので、人体の左側が回転運動を抑制し、安定させるために、肉体の左側がその運動に負荷をかけるために、特にスポーツ選手は、左側が強くなる傾向を帯びるので、左利き有利になりやすいわけなんである。だから、逆に、人間の右側が、エーテル体の力に従いやすいので、つまり地球から離れやすく軽くなるので、運動は右足から始めやすいわけなんである。人体の右側は大地から離れやすく、負荷が軽いので、右足から踏み出すほうが運動しやすいわけなんである。行動をしやすいのは、右足で、行動を続け、安定させるには左足という役割分担が、天と地の真逆の力から、自然になされるわけなんである。古代人は、この左右の役割分担を知っていたのか、行動をはじめるには、右からという慣習が残っていて、右利きが多いというわけなんだろう。左右の非対称については、物質科学でも、カイラル(キラル)鏡像対称性として、一部の素粒子など、例えば、ニュートリノが左巻きしか観測されていないので、研究テーマとなっているが、物質界が地球に属していることから、物質性を示すフェルミオンが、左利き優先なのが、このことからもわかるわけなんである。ニュートリノ - Wikipediaニュートリノなどの特性から、DNAの右巻き螺旋構造を通じて、生物の左右非対称性を説明しようとする研究論文も、以下のような話から、でてくるかもしれないが、いずれにしろ、人智学的知識が不可欠では、困難なものに思われる。【KEKエッセイ #26】タンパク質の対称性の破れは宇宙起源? | ニュースルーム | KEKまた、左右については、左翼、右翼というような、政治的に、革新派、もしくは保守派を表わすのに用いられる言葉も、シュタイナーによれば、実は神学の、天使論に由来しているのさえ、知らずに、この国の巷の似非政治評論家らが論争するのをみて、サル山のサルと変わらないのに呆れ果ててしまうわけなんである。天使の右翼と左翼は、神による反逆の命令に沿った、運動霊の力天使の区別から生まれたわけで、それによれば、宇宙や太陽系から、地球を独立させようとする、つまり神から離れるのが左翼で、神に帰属し、独立を阻むのが右翼となるわけで、巷の政治といえば、物質界のなかの左翼のなかの左翼で争っているわけで、あくまで天に帰属する右翼からすれば、同じ穴の貉なわけなんである。反逆命令をうけた力天使も神に従ったわけで、左翼の振りをしているだけで、本質は右翼なわけで、隠れ右翼なので、左翼も右翼も、外見だけの、物質に囚われた見方にすぎないので、この左右分割の捉え方そのものが無意味なんである。無駄な議論を聞かされる気持ちを少しでも思いやれば、左も右もなく、生命の役割分担にすぎないのがわかるはずなんである。人体には左右の両方があってはじめて意味がある。それは、全て善導するためで、多を救い、一となすことにすぎない。多は一で、一は多であるのを、左右の統一を目指すには、精神的な知識が不可欠なので、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 超感覚的な視覚をもてば、空気のなかに、古「太陽」上の顕著な出来事が現れてくる。太陽紀を理解するには、与え施す、という徳についての正確な考えを、日常生活の経験のなかで想像できなければならない。また、その前の、土星紀に記述したような、供儀を知覚し、そのイメージを浸透させた際に現れる感情を、再度、思い浮かべる必要がある。 霊的な思考を浸透させると、特別な感情が引き起こされる。この感情は科学的思考には生じないが、非常によく似た経験を挙げるなら、芸術分野で見つけられる。というのも、芸術分野では、精神的に単独な存在を表出するのに、色や形などを駆使する技法の習得を必要とするからである。 与え施す能力をもつ精神的な存在を特徴づけるなら、それはまさに、愛の創造的活動、といえるだろう。というのも、与える行為そのものが、愛の創造的活動だからである。この愛の創造性が、物質界に癒しをもたらすのを感じ、そして、それを芸術作品の形で提示するなら、与え施す徳がもたらす果実を正しく理解できる。 この芸術家の心の中にある創造的思考について、その思考が物質の中にどのように顕現するか、を想像してみれば、この思考こそが、空気のなかの真の精神的存在だとわかる。空気がある処には、創造的な活動がある。そして、この生きた創造行為がかつて「太陽」上にあったから、いまも、空気と創造的活動とが関係している事実を見て取れる。 また、時間霊が、古「土星」上ではじめて誕生したのがわかれば、「太陽」上にも時間があり、時間により「土星」から「太陽」へと進んだのがわかる。「太陽」上にも時間があり、「与える」行為が原型のままで行使されたことで、古「土星」上にはなかったものが、古「太陽」上で起こった。 もし、時間がなければ、「与える」行為はどうなっていただろうか? 「与える」行為は、受け手がいてはじめて成立するので、あり得なかったことになる。受け手がいないと、与えることもできない。 「与える」のは、受け取ってはじめてなりたつ。でなければ、「与える」目的もなくなってしまう。「太陽」上では、「与える」は、受け取り、に対して、特別な関係にあった。「太陽」上には既に時間があったので、古「太陽」の周囲へと送り出された愛は時間のなかに保存された。 叡智霊たちが、愛を注ぎ出し、愛は時間の中に保存された。だから、それを受け取る存在が必要となる。叡智霊たちの与える活動との関係が、時間の流れのなかで、後の地点において、受け取る行為につながる。叡智霊たちが、与えるのは、時間においては、前の瞬間であり、その「与える」に対して「受け取る」のが後の瞬間で、必然的に、前後の時間のなかで結びつく。 この正確な像を得るには、再度、自分の魂のなかで経験しなければならない。精神的な存在を理解するには、それらの創造的な思考に与るには、大変な努力を払うのが想像できる。 多様なイメージの創造を考える。次の日、前の日に、思考の中で創造したあらゆるものを、再び心の中に呼び起こすために、心の中を空にする。このように、昨日、想像した多様なイメージを、今日受け取る。古「太陽」上も同じである。つまり、前の瞬間に、与えられた愛は保存され、後の瞬間になって受け取られる。しかし、「受け取る」とは、どのような意味があるのか? 土星紀での供犠がそのまま、太陽紀の「与える」ものとなり、「受け取る」のもまた古「太陽」上での行いで、出来事だった。「受け取る」のと「与える」の違いは、時間的な意味だけである。受け取りが生じるのは後になってからである。「与える」のは叡智霊だが、では、どの存在が受け取るのか? 受け取るには、そのような存在がいなければならない。「土星」上でのトローネによるケルビムへの犠牲から、時間霊が生まれたのと同様に、「太陽」上での叡智霊による愛の授与により、大天使、もしくはアルヒアンゲロイと呼ばれる霊たちが生じた。 大天使とは古「太陽」上で、受け取る存在たちである。けれども、特別な方法で受け取る。というのも、大天使たちは、叡智霊から受け取る愛を、自分たちのために保持せずに、鏡が、受け取った像を反射するように、受け取った愛を投げ返す。 このように、「太陽」上の大天使たちは、前に与えられた愛を、受け取る、使命をもち、そのため、大天使によって、保持された愛は、時間の後に再び投げ返される。だから、「太陽」上には、与える、という前の行為と、受け取る、という後の行為が時間を経て存在するが、その受け取りは、前に与えられた愛を、後で投げ返す行為なのである。
2024年02月15日
コメント(9)
現代人が古代人と比べて、どんどん馬鹿になっているのは、物質的な知識は豊富だが、人間の中身の、感情や気持ちを汲み取れない人間が増え、論争から闘争、そして紛争や戦争へと陥ってしまうことでわかる。巷をみれば詐欺師がウロチョロ徘徊し、物欲を互いに深めあっている。自分が他の人より優れている、という自惚れ屋さんがゾンビのように徘徊し、その思い込みや承認欲求が、物質的な知識を身に纏い、論争から闘争、そして紛争や戦争へと陥ってしまうのが、現代人の過ちの特徴といえるかもしれない。冷静に考えてみれば、自分が優れているかどうかは他の人により評価されることで成り立つのだから、お互いの意思疎通が図れ、互いの内面がわかりあえて初めて可能になるので、外見的な物質的知識よりも、内面的な精神的知識が重要なのがわかるはずなんである。外見よりも中身が重要なのに、現代人は外見ばかりに拘って生きている。巷の裏金議員は、外面ばかりを取り繕い、死後に、地獄に堕ちるのに思いも至らない。精神的な知識とは、端的にいえば、生命的な多様性であり、不可視のリズムである。あえて外見的に表現するのなら、律動や波動現象のことを指す。動物は四季に応じて、体毛を変えるなどである。この国では季節感、俳句では、季語で表現し、一般的に、空気を読む、などで表現し、心の大切さを強調する文化を継承しているが、昨今は、心よりも体裁に拘るので、西洋化された日本の、西洋風にいえば、TPOを考えるなどといえるかもしれないが、要するに、気持ちの問題で、多様な心を経験するのに意味がある。多様な社会には多様な立場や役割があり、それらに伴う責任と気持ちを、精神的に読み取るのが生きる目的でもある。多様な心を身をもって経験しないと、精神的な知識は獲得できないわけで、それには多様な人生を経験しないといけないために、輪廻転生があるといえるだろう。近代から、ルシファー化されたキリスト教などの、唯物論の教育により、相手の気持ちを読み取る教育が無視されてきたから、人間関係のトラブルが生まれてきたといえるかもしれない。そもそも霊感とは、相手の気持ちを読み取る感覚のことで、相手の生命的な使命=運命を見抜く事である。しかし、唯物論に洗脳されている現代人は、外見の物質的な知識からヒトの中身まで判断しがちで、そのために、身近なペット動物よりも、ヒトの内面の精神性を度外視しがちで、巷の老害政治家のような、時代遅れの、ルッキズムでの、おばさん発言が出てしまうわけで、言葉を発する本人は褒めようとしているのかもしれないが、精神的な知識がお粗末なので、かえって貶めてしまうわけなんである。現代人は愚かなので、自分が信じるものに欺かれるのに気づいていない。外見に囚われると外見に欺かれるのである。物質に囚われると、物質は流転しいずれ消滅し、自分も一緒に消えてしまい、死を無と捉えてしまう。肉体を失っても、精神は失われないので、キリストは神の精神を信じなさいと言ったわけで、神の精神は、永遠であり、与え救済する精神なんである。精神とは、神へと精進するものと漢字で書けるのは面白い。【やめたい】ルッキズムとは?意味やなぜ社会問題なのかを解説 (gooddo.jp)動物は、ヒトの感情となっているアストラル体をみていると、シュタイナーは述べている。養蜂されている、蜜蜂は、養蜂家の感情をみて生きるペットとなり、養蜂家の世話に環境的に依存してしまうので、養蜂家が死んでしまうと、野生に還れずに、ペットとして全滅してしまうという。現代人も集団で生きる場合は、動物のペットのように、サル山のサルのように生きることもできるが、それだけではサルに退化してしまい、進歩がない。現代人は、動物よりも、ヒトの心を読み取れずに、自分本位で生きれるようになった反面、動物が野生を忘れて、病気になるのと同じで、自己本位なリズムにより、宇宙サイクルのリズムから離れ、自由になった反面、自己を成している一定のリズムから逸脱し、自己がなんだかわからなくなり、自己分裂を起こして、あらゆる自己免疫疾患に罹りやすくなった、ともいえるかもしれない。自己とは一として、一にまとめているリズムで、唯一性の道徳なんである。この唯一なるリズムが乱れると、感情に乱れが起こって、人体が病気になるわけなんであり、現代科学でも明らかになっているが、人体の細胞の数よりも、細菌の数の方が多いわけで、それらを纏めている唯一なるリズムが、モラルが崩壊し、一部の細菌が増殖し出したりして、無秩序になり、病気になるわけなんである。だから、人体内の細菌は、モラルハザードの結果として現れる指標でしかなく、増殖した細菌を除いただけではダメで、増殖に至ったリズムをも元に回帰させないと、また違う病気が発生するだけなんである。巷の裏金議員の問題も同じで、除くだけでなく、法律も厳しく改正しないとまた同じような悪玉細菌を増殖させるだけなんである。そして、多大な借金を拵えて国民経済破壊から国家滅亡へと進んでいくわけなんである。死後に地獄でのた打ち回るよりは、生きているうちに改心したほうがいいのは、あらゆる宗教が説く教義でもある。自らで悔い改めるのが、天の摂理というものだからである。この点でも、現代人は、古代人よりも遥かに愚かといえるだろう。再度、輪廻転生して、今より酷い更に地獄のような苦しみを味わうよりも、今の地獄を克服するに越したことはないからである。さて、前回紹介した、人体内の分泌物ホルモンの根本には、人智学的波動学でいうところの、アストラル体のリズムがある。アストラル体のリズムで有名なのが、呼吸で、酸素を体内に取り込む回数といえる。このブログでも何度も紹介しているが、人間の1日の呼吸数は、1プラトン年の、25920回で、この回数は、地球の歳差運動による、太陽の春分点の黄道との一周の移動に一致し、1度の移動に72年要するので、360度×72=25920となる。このことから、人間の1分の呼吸数は平均18回となるのが宇宙のリズムになるわけで、18×60分(=1時間)×24時間=25920となり、現代人の平均寿命が、72.5歳となっているが、この72歳は、古代人の族長の寿命が71歳だったので、ほぼ同じで、春分点の1度の移動とほぼ同じである。基礎から学ぶホロスコープ(特別講座2)プラトン年の理解 (aqast.net)【2023年最新】WHO世界の平均寿命ランキング 日本の順位と世界の状況とは | ELEMINIST(エレミニスト)この族長の寿命は、人間の覚醒意識での呼吸から、潜在意識との呼吸、つまり地球の昼と夜の太陽との呼吸に拡げて考えて、つまり、酸素摂取の呼吸から、覚醒時と睡眠時の意識変換を呼吸と考えると、昼夜で1回となるので、1日に1回で、一年で365回となり、族長の寿命の71年生きれば、365×71=25915回となり、1プラトン年には、5回足りないが、閏年分を考えれば、ほぼ同じと考えられるだろう。族長の寿命からわかるのは、族長とは、古代人が、この世に転生できる時間でもあり、俗にいえば、ウルトラマンのカラータイマーみたいなもので、71歳を越えると、物欲に傾きがちになり、だから、人体が物質のように固体化し、硬化していく傾向を帯びるようになると考えられ、人智学でいえば、肉体から、生命力を再構築しているエーテル体が離れやすくなるわけで、より崩壊性を帯びやすくなるわけで、日本人では、人体に腫瘍からガンが生じやすくなり、世界的には、人体に血栓が生じやすくなり、心不全などの虚血性心疾患や、血管硬化などから梗塞を誘発し、脳卒中などが生じやすくなってくるわけなんである。カラータイマー - Wikipedia世界の死因トップ10「日本の1位はがん」だが、世界では… | ゴールドオンライン (gentosha-go.com)【世界の死因(2019年)】1位 虚血性心疾患2位 脳卒中3位 慢性閉塞性肺疾患(COPD)4位 下気道感染症5位 新生児固有の状態6位 気管・気管支・肺癌7位 アルツハイマー病を含む認知症8位 下痢性疾患9位 糖尿病10位 腎臓病【日本人の死因(2019年)】1位 悪性新生物(腫瘍) 27.3%2位 心疾患(高血圧性を除く) 15.0%3位 老衰 8.8%4位 脳血管疾患 7.7%5位 肺炎 6.9%6位 誤嚥性肺炎 2.9%7位 不慮の事故 2.9%8位 腎不全 1.9%9位 血管性及び詳細不明の認知症 1.5%10位 アルツハイマー病 1.5%これらの死因が上位になるのは、飲酒と喫煙が背景にあるのはいうまでもないが、日本の場合は、俗にいう、ガンが1位なのは、食べ馴れてなかった、飲食の欧米化が大きいのが一因と考えられる。それでも、平均寿命が伸びているわけで、族長年齢の71歳よりも遥かに長寿の、80歳を越えるので、物欲のリスクによるものと考えられる。シュタイナーによれば、物質界に長く居たいと思う物欲が旺盛な霊魂は、死後もそれだけ執着が大きいが、地獄から現世に早く戻りたいという意識も強いので、つまり、あまり、あの世にいたくないと思うので、地獄にいるのも長いから、中途半端にまた修行に出たいと思うらしく、あの世にいるときの方が時間の進みが速いので、数十年を経て、転生してくるという。そのような霊魂の存在を象徴化したのが、永遠のユダヤ人なんである。さて、このように、生命体には必須なのは、宇宙のリズムであり、それは道徳やモラルとして、現代人にも精神的な知識として知られ、表現されているのが、地球と太陽との呼吸を表現した、四季の、古代からの祭りで、キリスト教などでは、冬至のクリスマス、春分後の復活祭、夏至の聖ミカエル祭などが知られ、カトリックでは秋分の祭りがあまり有名でないが、プロテスタントには収穫感謝祭が有名となっている。四季と祭典の意味が不明瞭になっているのは、西洋が唯物論に染まり、キリスト教がルシファー化し、古代叡智の輪廻転生の思想を失ったせいかもしれない。古代叡智では、四季とは、太陽と地球の呼吸状態を意味しているのである。太陽からキリスト霊が、いわば酸素として、地球に取り込まれ、地球に多様な生命を宿らせ、地球からまた生命体とともに吐き出され、太陽へと昇天し、聖霊ミカエルなどが、太陽と地球との間をとりもって、太陽から送り込まれた大気として、再び蘇ったキリスト霊を、地球へと支援するのである。この太陽と地球の一連の呼吸状態を、四季による祭典として読み解いたのである。感謝祭 - Wikipedia四季は、太陽光と地球の呼吸の、つまり、人智学でいう太陽光である自我=霊我の基点とした、アストラル体とエーテル体のやり取りで、祭典は、それを古代人が、精神的知識で表現したものなんである。古代人は、古くは、キリストが降臨する前の、神殿などで、月に反射した太陽光の、月光から精神的な、宇宙の知識を空間的に読み解いていたが、それが後に、太陰暦として定着し、キリストが降臨した後に、太陽光を、直接に、昼の覚醒意識から、時間的経緯で読み解くようになり、太陰暦から、太陽暦となったという。太陰暦 - Wikipedia太陽暦 - Wikipediaだから古代人は、地球と太陽との呼吸を、月光から空間的に四季を読み解いて、祭日を決め、祭典を行っていたが、キリスト降臨後は、月光ではなく、太陽光から直接に時間的に四季を読み解いて、祭日を決め、祭典を行うようになったわけである。日本では、陰陽師といわれる霊能者が、月光に従って四季から、祭日を決め、暦や行事を取り仕切っていたわけなんである。現代人は陰陽師を物質科学的に解釈しているが、物質では解明できないから、陰陽師の知識を解き明かせない。当時の地球環境も、人間の人体も、現代人とは異なっているのを考慮していないから、アニメのキャラクターのように非現実的な存在になってしまうのは否めなく、現代人からすれば、サルから人間をみるのと同じで、宇宙人にみえるかもしれない。古代人の人物像に遠近法がないのは、物質的に見ていなかった名残りでもある。現代人がサルを物質的知識が欠けた存在とみるのと同じで、古代人が現代人を精神的知識が欠けた当時のモラルハザードの存在とみるのと同じである。例えば、昭和の世代が、スマホや電子メールでやりとりする現代の若者をみて、直接会わずに、精神的な中身を問わないのを不思議と思うのと同じである。AIと機械的なやり取りはできるが、精神的なやりとりは不可能である。機械とやりとりしても、物質的なやり取りだけで、精神的な知識は獲得できない。現代人は自らの欲望のなかに生きているだけで、それでは宇宙からみれば無呼吸のやり取りの死んだ存在といえるだろう。宇宙とつながり、生命体として、呼吸するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 太陽の天使たちの主な特徴の、恵みを注ぎ出し、降り注ぎ、与える能力を把握するには、このトローネのケルビムに対する犠牲のイメージを、自分のものにしないといけない! トローネによるケルビムへの供儀の意味を理解できると、ある天使存在がやって来るのが想像できる。その存在は、トローネの犠牲が理解できる能力、つまり、その犠牲を、周囲に恵みとして、与える能力、自らの贈り物として注ぎ出す能力へと変換できる存在である。 例えば、現代人が、薔薇を見て喜びに満たされ、その「美しい」ものを眺めることで、その対象から祝福される、という感情を経験する場面を想像すると、続いて、また別の存在が想像できる。それは、ケルビムに対するトローネの犠牲の意義を理解し、その理解能力を、周囲へと捧げる存在であり、与える精神と共に、与えられる犠牲全てを、世界へと注ぎ出す存在である。 そのような存在を想像するなら、それは、「神秘学概論」でも記述したように、土星紀の存在たちに、太陽紀になって、加わった、叡智の霊たちなのである。 このように、土星紀に既に存在していた霊たちに、太陽紀に現れた存在が加わった、これらの叡智霊たちの特徴はどのようなものかと問うなら、次のように答えられる。 「これらの霊たちの、はっきりとした特徴とは、与える、授ける、恩恵を行使する、という、徳をもっている。」 これらの天使存在たちを定義するなら、叡智の霊、大いなる譲与者、宇宙の偉大な授与者(プレゼンター)たちとなるだろう! トローネを偉大なる犠牲者と呼んだように、叡智霊は、偉大な授与者で、宇宙は、これらの犠牲と譲与から織りなされ、全生命は生かされている。叡智霊は、生命へと、その贈り物を授ける者たちである。というのも、自身を宇宙に注ぎだし、最初に秩序を創り出した存在だからである。 「太陽」上での叡智霊の影響とは上述した通りで、つまり、太陽霊たちは、自身=自我の存在を、周囲に向けて与える。もし、現代人が、現代の外的な物質的な観察から現れる背後を、高次元の知覚で感知したいなら、「太陽」上では何が生じたのか?という疑問に向かい合う必要が生じるだろう。 「太陽」を感覚的に捉えるなら、現代人が観察できるのは「神秘学概論」で記述された外的な物質的なイメージである。確かに、「太陽」は、外的な熱に加えて空気や光からも構成されている。「太陽」は熱に加え、空気と光からも物質的に構成されている、と外的なイメージでのみ捉えるなら、例えば、地球の、グレーに染まった雲の青空を、遠くから眺める、のと同じようなものといえる。 現代の画家なら、グレーの雲として、地球の青空を、遠近法などの外見的イメージで描くだろう。しかし、その雲に接近すれば、雲が、水滴の集合で、それらが生きていれば、むしろ虫の大群のようにみえるだろう。グレーの雲のように見えた存在は、実際は、無数の生命存在たちなのである。 遠く離れた現代から、古「太陽」について捉えるときも、これと同じような状況にある。遠くから見ると、古「太陽」は空気と光からなる天体のように見える。しかし、接近すれば、空気と光からなる天体ではなく、叡智の霊による、授与という大いなる生命の徳が現れてくる。 空気を、外的な物質的性質に従って解釈する人は、空気の真実を見通せない。これらの外的な性質は、物質界に現れた幻想(マーヤ)で、外見的な顕現に過ぎない。宇宙では、空気の存在には必ず、その背後に、愛を与える叡智霊の行為がある。 太陽上で、絶え間なく巡り、働き続ける空気は、大宇宙霊の、叡智を与える、という徳を顕している。空気の本質を見通せれば、空気の物質的な要素だけでなく、その中で実際、叡智霊たちが、周囲に愛を与え、その周辺へと、愛が流れ溢れ出すのを感じとれる。 このように、古「太陽」は、空気からなっている、と霊的に言うなら、古代人が本当は、叡智霊について語っていたのがわかる。だから、外見的に、空気として現れるものは、実際、叡智霊たちが、愛の要素となる、自我=自身を、その周囲へと放ち、与えている活動なのを知り得る。
2024年02月13日
コメント(0)
なかなかゴミはだしたくないものだが、現代の物質生活の便利性に馴れきってしまうと、どうしてもゴミはでてしまう。出されたゴミをみれば、そのヒトの生活がある程度推測できる。人体からも、汗、尿、糞などが、物質界で生きるためには、排出されているが、現代人の唯物的感覚では、それを完全に不要物、つまりゴミとみなしている。数十年前の一時期に、飲尿健康法などという馬鹿げたモノが流行ったが、腎臓が不要と判断して人体から出しているわけで、腎臓の機能に無知な現代人の典型といえるかもしれない。現代科学の物質的知識では、ゴミにどんな化学物質や成分が含まれているかで、そのヒトの生活や、環境への影響などを調べるが、古代叡智では、物質面だけでなく、そのヒトの精神的な、生活態度などを、例えば、頻繁に掃除をして、ゴミを分別して出しているか、とか、また、どんな仕事をしているのか、ゴミの出し具合から、精神的な知識を探求する。古代叡智では、ゴミの出し方からも、そのヒトの頭の良し悪しなどがわかる。最近は、地球への環境破壊から、リサイクル論も盛んになっているが、古代人は、人間の出す汗、尿、糞などを、ミイラと呼んで病気の治療薬に用いていたと、シュタイナーは人智学的リズム(波動)学で述べている。勿論、古代人の考える人体のリサイクル論は、飲尿健康法では全くないので、それでは唯物論的方法で、都市伝説になってしまうわけなんである。古代人は、物質的な感覚というよりも、精神的感覚を重視したので、もはや物質となってしまった尿についてリサイクルする意味がないからである。昭和の体育会系では、根性や気合いなどの、精神論が横行したが、結局、それは肉体や筋肉をどれだけ強化するかという唯物論になっているわけで、精神を物質に置き換えて、俗に筋肉馬鹿になっているだけで、精神を強化しているわけではなく、飲尿健康法と同じ穴の貉なんである。精神を強化するには、愛を高めないと意味がないのを、愚かな現代人よりも、古代人はよく知っていたのである。現代には、愛の鞭などという唯物的な表現が残っているが、少なくとも、愛は癒しであり、痛さを与えるものではなく、それではマゾを育成してしまうだろう。精神を強化するには、愛が必要で、それはそのヒトの気持ちを理解し、一体となることである。つまり、共感力や、思いやりである。だから、物質では、愛を表現できない。しかし、現代人は唯物論に洗脳されて馬鹿だから、愛を物質で表現してしまうわけなんである。だから、前回紹介したように、現代人は、輪廻転生を理解できないわけで、少しでも長く、物質界にいられるように、長生きしたいと思っているわけで、特に西洋では、ルシファーとなった偽キリスト教が、古代叡智の輪廻転生の書物を焚書してしまい、権威を保つために、唯物論を普及しているから、キリストが神ではなく、一人間になって、キリストの復活さえもわからなくしてしまっているわけなんである。キリストの復活とは、キリストがいまも生きていて、キリストのように生き、死ねば、死後にキリストに出逢えるということなんである。つまり、キリストとは、古代エジプトのトートでもあり、救世主の霊魂の呼び名のことである。イエスキリストとは、イエスという人物に、キリスト霊が降臨し、イエスという人物とともに、人間の死を知ったというのが、ゴルゴダの十字架刑の意味であり、イエスの肉体を捨てて、キリストととしていまも生きているわけなんである。この出来事については、シュタイナーの二人のイエスを参考にしてほしい。シュタイナーの「二人のイエス」説から何がわかるか: ヒロさん日記 (seesaa.net)2人のイエス (imagecreate.sakura.ne.jp)愛は物質では贖えないわけで、その叡智を理解するために、人間は物質界で生きている。人間の死は、それを教えるためにあり、物欲に塗れた人は、だからこそ死ぬのが怖いのである。カネで何でも買えるといった現代人のおバカな典型の人物もいたが、だったら、自分の死をおカネで買ってみたらいいだろう。脳を記憶回路として半導体上に転写するとでも考えるのだろうが、それこそが現代人の無知さ故の、飲尿健康法と同じである。電気がなければ、半導体は機能しないし、電気は電子で突き詰めれば、光である。光は太陽光からくるから、太陽光がなければ何もできない。つまり、その概念こそ、唯物論上の幻でしかなく、前回紹介した、敦盛の人間50年である。宇宙の流れのなかで生きるには、宇宙のルールに従わないといけない。その一部の物質界でさえも、宇宙の秩序に従わないと崩壊してしまうわけで、宇宙のリサイクルに従うしかない。宇宙は生命に愛を送っているわけで、だから、愛のリサイクルでないと、永遠ではなく、物質では死によって崩壊してしまい、意味がないのである。だから、排出物は物質的ではなく、精神的なものでなくてはダメなんである。古代叡智によれば、そもそも、輪廻転生とは、人生のやり直しで、前世の排泄物の罪のリサイクルだからである。罪をまた罪にしてしまえば、本当にゴミの存在になり、魂の墓場行きで、地獄行きである。ということは、地球は、宇宙のゴミ集積地なのかもしれない。さて、シュタイナーによると、古代人は、人体からの排泄物の汗、尿、糞をミイラと呼んでいたのは既に紹介したが、古代エジプトのミイラとは若干異なるが、古代叡智の霊視を獲得すると、それらミイラから、当人の霊魂が読み解けるという。汗から、当人のエーテル体、尿からアストラル体、そして糞から自我を読み解けるという。古代の医師は、ミイラから、当人の健康を読み解いたという。現代科学でも、例えば、ポカリスエットは、人間の汗を人工的に真似たものという都市伝説があり、最近は生理食塩水に近い飲料水なども出ているが、それらは人工的につくられたものなので、古代人がミイラと呼んだ治療薬とは似ても似つかないものである。というのも、物質的には同じでも、精神的には、霊魂的には全く異なるからである。あえて物質科学的にいうなら、波動が異なるからである。古代人が説くミイラには、人体内の分泌物の、つまり現代人が名付けているホルモンの意味ももつ。しかし、分泌される物質成分は同じでも、分泌に至る経路やプロセス、つまり精神的な経験が、古代人の説くミイラとは異なる。だから、ミイラとホルモンの違いは、現代科学のジェネリック医薬品みたいなもので、物質的な成分は同じでも、化学的製法が異なるのに似ているといえるかもしれない。後発医薬品 - Wikipediaだから、現代人の知識は、古代人からみると、粗雑で粗く、記憶力においては曖昧で、痴呆症や認知症に近いようにみえるだろう。もし、タイムマシンがあり、現代人が古代に行ったら、現代人は、痴呆症か認知症に罹った人にみられ、意味不明で、相手にされないかもしれない。古代人は、結果も大事だが、そこに至る精神的なプロセスを詳細に理解していないと、意味がない、と考えていたからである。現代人がいう精神論や根性論ではなく、精神そのものの経験論、思考そのものが、古代人の正真正銘の精神論なんである。ホルモンはギリシア語で、刺激するもの、という意味をもつようで、勿論、焼肉の内臓肉のホルモンとは別物で、人体の分泌物で、最近の物質科学では、情報伝達物質とも呼ばれ、分子生物学などから、ホルモンに類似した人工情報伝達物質が、現代医薬学から、様々な薬剤がつくられている。脳科学とはいっても、脳を精神論から解き明かすのではなく、どの脳の部位がどのようなホルモンを分泌するかという神経伝達論や、情報伝達論の、唯物論に終始していて、結局、物質的な分泌論の還元論に至っている顛末といえるだろう。現代科学での物質還元論は、どの家庭が、どのようなゴミを出しているか、と同じようにみえる。勿論、そのような議論も必要だが、それだけでは、古代人からみれば、枝葉末節論にしかみえない。例えば、巷の、裏金議員が、自分たちがつくった法律を破って、誤魔化すのと同じで、自作自演の一人芝居と同じで、罪を犯すために法律をつくることになり、法律をつくればつくるほど、どんどん馬鹿になり病気になっていくだけなんである。破れるような法律をつくるのが悪いわけで、神がつくった法は破れず、破れば、自分が破滅するわけなんである。だから、ゴミを出さない生活が、愛のリサイクルが必要なんである。法を破った人には罰が必要なんである。ただし、精神上での罰で、それが愛のリサイクルで、贖いである。さて、現代科学では、人体の情報伝達物質ホルモンに真似て人工の薬剤をつくるが、有名なのが、ドーピングなどの、ステロイド型薬剤である。副腎が放出するホルモンの人工ステロイドは強力すぎて、炎症部位のターゲットを絞り難いので、それだけ副作用も強くなるので、現在はNSAIDsと呼ばれる非ステロイド系の抗炎症剤が主流で、炎症の情報伝達物質のプロスタグランジンの放出を抑制するCOX阻害剤で知られている。ステロイドホルモン - WikipediaCOX阻害剤|【ライフサイエンス】製品情報|試薬-富士フイルム和光純薬 (fujifilm.com)ステロイド外用剤の上手な使い方|くすりと健康の情報局 (daiichisankyo-hc.co.jp)ちなみに、コロナワクチン注射後の熱発への解熱剤に用いられたカロナールとの比較は以下である。放送大学の講義にハマっているせいか、物質科学の進展が伺い知れるようになってきて、古代叡智の必要性に再度気づかされ、唯物論から脱しないと、人類同士で戦争するような羽目になって滅亡へと向かうのを確信させられる。物質科学から、人体の物質体をつくる材料や道具は沢山あるが、それを使いこなせるだけの能力や精神的な熟練が欠けているので、巷には単なる金儲けのための詐欺が横行し、核兵器での戦争で互いを恫喝するような人類の愚かさ馬鹿らしさに陥っている。例えば、現代科学では、人体の細胞は37兆個、細菌は100兆個いるといわれている。だから、人体の細胞よりも、その周囲で暮らす細菌のほうが多いという。物質的にも、常在菌により、健康が保たれているわけなんである。いわば常在菌の共存共生の平和により、人体の健康が保たれているわけで、だから、現代科学でもようやく腸内細菌の研究や、口腔内細菌の研究がはじまっている。最近は、腸内細菌の研究から、腸の研究で、糞移植なども考えられているが、飲尿健康法のように、まさか食糞健康法などは生まれないとは思うが、唯物論が行き詰まると何をやらかすかわからないので、事実、核兵器で武装している愚かな現代人では、何をやらかすかわかったものではない。巷の裏金議員をみれば不信感だけが増大してしまうわけなんである。人智学によれば、糞は、古い自我の残りで、脳でもあり、腸からつくられるので、腸と脳は糞を通じて兄弟姉妹の関係にあるという。刎頸の交わりならぬ、糞兄弟の交わりともいえるかもしれない。古代人は、糞をみて、そのヒトの自我を霊視でき、どのような人物かを認識したという。犬が匂いから、人物を当てるのと似ている。ヒトの糞から、脳や自我を認識するのは、数万回の輪廻転生を必要とするかもしれないが、シュタイナーによれば、現代人のほとんどが1万回は輪廻転生をしているというから、唯物論を捨て、前世からの記憶力を取り戻せば、認識できるようになるかもしれない。ヒトの糞からヒトの自我を認識するのは、現代人にはほとんど不可能でも、例えば、ウマの糞とウシの糞の違い位はわかるだろう。ウマの糞は丸っこく、ウシの糞は水っぽく広がるのは、ウマが忙しなく動きまわり、ウシがゆったりと動く違いが現れていると、人智学的波動学で解き明かしている。現代科学でも、糞から腸内細菌を分析しているが、腸内細菌が、ヒトの腸と共生共存する理由を解き明かせないのは、唯物論から脱せられないからである。人智学的栄養学では、人間は7年毎に人体をつくりかえていて、糞などの排出物は、いわば、古くなった人体なので、そのなかには古くなった経験が情報と共に残っている。だから、古くなった情報を新しい知識で、甦らせ、そのゴミを精神的にリサイクルすれば、人間の死が、前世の罪に対する贖いで、来世で蘇るように、汗、尿、糞から、人間の精神は健全になり、人体も健康になるわけなんである。シュタイナーによれば、ゲーテは、人間の眼は、太陽光により、不要だった器官からつくられたと述べているという。つまり、人間の眼は、太陽光により、人体のゴミから生まれたという。また、人間が産まれた直後の胎盤の残りは、いわば霊魂の糞で、古代人が、胎盤をみれば、その赤ちゃんの運命が読み解けるという。人体のゴミから、キリストの再来を予感するために、シュタイナーの人智学的波動学を紹介する。 ★ ★ ★ 現代の科学や日常的な思考が働くのは、人間の覚醒意識、すなわち、物質界で、現代人が受け継ぎ、もしくは育成してきた経験、感情、思考から、自我の意識が創り出してきた、あらゆる感覚的な認識を通して、なのを明確にしておく必要がある。 このような感覚的認識は、間違った方向に導かれる可能性があり、実際に、錯覚が非常に多い。例えば、次のような反論があるかもしれない。「人智学が提示する、霊的な知識を受け入れるべき、と言われても、これまでの思考体系に一致しないものを受け入れるつもりはなく、証明できないものを受け入れるつもりは毛頭ない。」 確かに、証明が無いものを受け入れるべきではない。しかし、これまで示されたもの、既に知っているものだけ受け入れるだけでは、一歩も前に進めなくなる! 超感覚力を持ちたいと願うなら、頑なに証明できたものだけを受け入れるだけでは足りない。超感覚力を持ちたいなら、通常の、自己の認識からも自由でなければならず、宇宙から、自分へとやってくる全てを、それはただ「恩恵」という言葉で記述できるが、予見できないといけない。 超感覚力の持ち主は、宇宙から照らし出された恩恵が、あらゆるものが、自分へとやってくるのを見通している。では、どのようにすれば、超感覚的認識が獲得できるのか? それは覚醒意識での既知の知識を脇におくことで、唯一可能となる。現代人は、自分で認識できたものを知識と考えている。けれども、この知識は、先達が既に考え、その願望が実現し、またその他などを新しくした焼き増しに過ぎない。 自分で認識できたかどうかが問題なのではない。自己の認識を主張する人は、自己の偏見の奴隷になっているのに気づいていない。高次の認識を獲得したいなら、自己の認識からも、脱却していなければならない。 霊魂を空虚にし、空間もなく、時間もなく、対象もなく、事象もない、隠された、土星の秘密の世界から受け取れるものを、静かに待てなければならない。現代人の霊魂が、顕現、もしくは悟りに到達するための能力を育成するのを待たずに、高次の認識が獲得できる、と信じるべきではない。 こちらへと近づいてくる全て、他でもない恩恵として「来るもの」、何かを与えるものを、辛抱強く待っていられるのは、上記のように、霊魂を空虚にするときだけである。 では、高次の認識はどのように現れるのか? 我々人類へと来るものは、人類が十分に準備できたとき、どのように現れるのか? 我々人類に来るものは、精神界から、我々と出会うために来る、その贈り物により、我々の将来の成長を祝福する、というような愛の感情を通じて、自らを現わす。もし、人生において、そのような、人類への贈り物、つまり愛の恵みに満ち、その愛の認識に満たされるもの、を記述すれば、その表現は、次のようなものかもしれない。 「我々人類への、愛の贈り物であり、愛の恵みであり、愛を与えるものとして、我々人類の処へとやって来る救世主を、人類は出会い経験する。」
2024年02月08日
コメント(0)
放送大学の講義をみるのにハマってしまい、ブログの更新がイマイチなのであしからず。巷は相変わらずコンプライアンスで話題だが、逆説的にいえば、それだけ、地上波TVの情報についての信頼度が高まっている証拠ともいえるかもしれない。半世紀前の子どものときの、TVについては、当たらない天気予報と同じで、「TVの言う事なんて噓八百で当てにならない」というような暗黙の了解があったような気がする。当時は、TVの言う事など話半分に聞き流していたもので、どこか浮世の話で、自分とは無関係とタカをくくっていたのもあるかもしれない。八切史観でもわかるが、芸能界は河原者の活動域で、TVもそのような集合体とみられ、どこか差別され、ニュース以外は視聴禁止の厳しい家庭もあったし、TVをみるのは不真面目で、モラルハザードの元凶という説もあったぐらいで、有名な謀略論の、GHQの3S政策の洗脳マシンと考える評論家もいたほどである。先日、水曜日のダウンタウンという番組で、ビートルズの初来日に対して、当時のマスコミの一部が、「きちがい音楽と罵る評論家を報道していたのを、みたが、過激な言論と共に、TV自体が、日常生活とはかけ離れた虚像の道化師のような役割を果たしていたようにも思われる。その番組のテーマは、ビートルズ初来日で失神者を探す企画だったのだが、意外にも、失神者は皆無で、今日のイメージとは大きく異なり、当時のビートルズの音楽を理解する人も少なく、ルックスだけで若者にウケていたようで、逆に大人たちから不道徳と敵対視されていたのがわかった。私はどちらかといえば、ストーンズ派なんで、個人的にはビートルズがなぜ人気なのか?理解できない。恐らく当時の邦楽界の状況を、現代で譬えるなら、ヒップホップのランDMC(古いかも?)か、エミネムの来日みたいなものかもしれない。ヒップホップを理解する高齢者は少ないだろうが、多様性が進んだ令和の日本の音楽界ではそれほど大騒ぎにもならないが、逆にいえば、昭和の音楽が画一的で保守的だったのがわかる。河原者 - Wikipedia水曜日のダウンタウン - Wikipedia【不適切発言】水ダウ:4文字の放送禁止用語は何て言った? | 道楽日記 (mybouzu.info)ビートルズ - Wikipedia3S政策 - WikipediaRun-D.M.C. - Wikipediaエミネム - Wikipedia当時の大人が大人げない態度で、パンク音楽の前触れかと思われるぐらいのNGワードで罵るぐらいの、ビートルズの来日騒動から、その前のGHQのマッカーサー来日騒動、更には幕末の黒船騒動が連想されるぐらいの混乱ぶりで、令和の今から考えれば、コンプライアンスどころか、カオスそのものだったわけで、芸能界や、それを映すTVの世界はいわば無秩序な幻想の非現実な世界なんで、特に子どもには視聴制限を設ける家庭が多く、中学受験や勉強を勧める家庭ではTV視聴は厳禁だったので、いまのスマホやゲームの扱いと似ていたかもしれない。TV自体も、「TVばっかりみていると、いまに尻尾が生えてくる」というようなCMを流したりして、自己防衛を図っていたようにもみえるぐらい、昭和の当時のTVの言うことはインチキ臭く、話題にはなるが、現在の都市伝説のように、マトモに信じるのは、どこか頭がおかしい人というような印象を与えていたものである。昭和のTVは猥雑で、猥雑な世界から、自分のお気に入りのコレクションをしていたような感じで、子どもには、パンドラの箱ともいえたかもしれない。だから、現実逃避には持って来いの、非現実の世界で、現実には使えないガラクタの道具箱ともいえたかもしれない。実際にTVは暇人の道具ともいわれていたし、今日のように、TVが語る事をマトモに受け取る人はほとんどいなかったので、コンプライアンスなどが問題になることもほとんどなかったわけなんである。つまり、日本史でいうならば、TVは河原者のように暗黙糧に差別されていた、といえるかもしれない。いま巷を賑わせているお笑い芸人の文春報道について、以下のように、日本文化史研究家が面白い記事を載せたのをみつけた。昭和までの芸能界は、江戸時代の河原者という差別がTVを通じて、暗黙糧に残っていたのである。松本人志さんの“罪”を考察したブログに反響広がる「ぐうの音も出ない」「完璧すぎる論破」(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース明治維新で法制上は四民平等になったが、現代でも、上級国民と下級国民という言葉に変わって残っているように、江戸時代の河原者の流れを受け継ぐ芸能界には、江戸の庶民の風習が文化として残っているのが、このような一件からわかる。TVで流されるものをマトモに取り合うことは昭和にはなく、だからヤラセもある程度ゆるされていたともいえるかもしれない。TVのやることを大目にみていたともいえる。つまり、芸能人と、一般人の境界や縄張りがはっきりしていたともいえるかもしれない。翻って、現代をみれば、巷に、インターネットが浸透してきて、TVの代わりにユーチューブなどのネット動画が、昔のTVのような如何わしさを担っていくようになり、TVの地上波が、ネットがフェイクの嘘塗れだと糾弾するようになってから、地上波こそ多数な情報で、正統派を主張するようになったので、コンプライアンスが求められるようになったともいえるかもしれない。昔のTVもネット以上にヤラセやガセネタが横行していたのを知っている視聴者にとっては、TVも、如何わしさにおいては、ネットとどっこいどっこいで、TVの過去のアナログ映像をみれば一目瞭然で、改めて映像を流すには、差別的表現がみられる云々の注意書きが必要なので明らかである。昭和の天気予報は競馬予想と同じ位当たらなかったが、スパコンを導入してから、少しづつ統計データから、恐らく、天気予報が当たるようになってきて、スポーツの実況中継と共に、ネットよりも、情報を得るための正統性の主張が認められるようになってきたのかもしれない。しかし、TVやネットにしろ、正当性を主張しようとも、その情報は、発信者により恣意的に切り取られ、加工されたもので、大自然の物質的領域のなかでの、特定の一部でしかなく、その情報を鵜呑みにするのは、非常にリスクを負う羽目に陥りやすい。だから情報リテラシーが叫ばれ、詐欺の横行に注意を払う世の中の、人間社会になってきたわけである。情報リテラシー - WikipediaTVやネットで流される情報のどれがフェイクなのかはなかなか見分けがつかないばかりか、現代人の知識は、唯物論に洗脳されているので、情報を覆いつくす物質的なベールを剥がすのがほとんど不可能になっているからである。むしろ、昔のように、全てをフェイクだと思った方がリスクを冒さずに済むかもしれない。さて、人智学的栄養学の紹介が一段落し、今度は、シュタイナーの人智学的リズム学を紹介していくつもりなのだが、それによると、人類は段々と愚かになってきている、というわけなんである。というのは、現代人が、知識は与えてもらうものと錯覚しているからで、実際、人間の脳を、知識を汲み上げるバケツにすぎなくさせているからでもある。人間は、脳を唯物論から唯物的につくりあげるパズルにしているだけなんである。だから、人間は、死を理解できなくさせているわけで、唯脳論が罷り通るようにさせてしまっているわけで、もはや脳をTVと同じような文明の利器とでも思って、洗脳されているわけなんである。確かに、知識とは、感覚から学んで、つくりあげるものなのだが、唯物論で作り上げるのなら、それはいずれ物質界のように、砂上の楼閣で、死によって無になるしかないわけなんである。だから、知識を永遠の、不死のものにするのには、死を乗り越えた宇宙のもの、つまり、宇宙の精神に則り、つくりあげないといけないわけで、だから、知識には、宇宙の法則のモラルが不可欠なんである。物質界というのは、死ねば去らなければいけない領域で、時空間なんで、そのような場にいかに頑丈な建物を建てようと、地球上にピラミッドのような完成度が高い図書館をつくりあげようと、地球にある限りは、いずれ環境破壊と共に滅亡してしまうわけなんである。地球は宇宙のなかの一部であり、だから、宇宙のなかで生きる限りは、宇宙の法則のモラルに則らないと、宇宙の循環に従わないと、永遠とはいえないわけなんである。ソクラテスの無知の知ではないが、この無知の知さえも、現代人は唯物的に解釈して誤っているが、人間の死を超える本当の知識を、古代人は、知っていたわけで、その古代叡智が、創造の知識といわれる生きた知識なんである。この生きた知識とは、物質欲に目覚めた西洋にはないもので、現在のキリストの顕教にはない、というのも現代のキリスト教はルシファー教なので、だから、人類を宗教論争などから、戦争などに追い込んでいるのがその証拠でもある。これは霊能者の多くが述べているキリスト教の現実でもある。その証拠に、現在のキリスト教は人間の輪廻転生を認めていないが、キリストこそ、神そのものでその使者というのなら、輪廻転生をつくった神そのものであるから、輪廻転生を否定するのは、神を否定することになってしまうわけなんである。輪廻転生を否定するのは、あの世を否定することなんである。天国も地獄もないという、唯物論と同じで、それなら、なぜ人間の死があるのか、解き明かせなくなる。死んで終わりなら、死の否定とともに、生の否定でもあり、生きること自体が、物質界自体が無意味であるのを示すことになるし、キリストが死んだのなら、甦れるはずがないわけなんである。つまり、キリスト教は物質界でも論理的矛盾を犯しているわけなんである。人間の死がなぜあるのか?この質問に応えられない限りは、宗教は絵に描いた餅にすぎない。古代叡智によれば、古代人は人間の死の意味をよく知っていて、古代エジプト人などは、最後の審判を壁画に書いているくらいでもある。シュタイナーは、現代人が愚かで馬鹿なのは、前世を忘れているのがその証拠であると述べている。現代人が死んだらお終いという唯物論に染まってしまったので、前世が思い出せなくなっているだけにすぎないのである。現代人が、再び古代人のように自らの精神の働きから、生きた知識をつくりだして、賢くなり、霊能力を獲得できたら、死を乗り越え、前世がみれるようになる、とシュタイナーは述べている。死者の書 (古代エジプト) - Wikipedia現代人は、唯物論で、悪い事をしても、死ねば、その罪は全て消えると思い込んでいるが、むしろ、罪は死んでも消えないどころか、永遠と付きまとう、いわば借金のような負債となるのである。だから、現代人の多くは自分に付きまとう過去の罪を思い出したくないので、死んだら全てなくなると思い込んでいるだけなんである。キリスト教徒などは、キリストに、自分の罪などの全ての罪を背負いさせて、キリストの死で解消したと思い込んでいるだけなんである。キリストが人類全ての罪を背負って死んだお蔭で、人類は過去の罪を背負った前世を記憶から消すことで、いま唯物的に物欲で生きられるが、キリストが、罪を背負ったのは、人類が進化するための猶予期間を与えただけで、いずれは、最後の審判が下るまでには、自分で物質界で生きるうちに、その罪を解消しないといけないわけで、いわば執行猶予にすぎないわけなんである。キリストは、人類の罪を、執行猶予付きで許しただけなんである。だから、生まれ変わるうちに、自分で罪を償い、カルマを解消していかなければならず、加害者は、次回に被害者の人生を送らないといけないわけなんである。だから、無知に甘んじることなく、ソクラテスの説くように、無知の知を実行しないといけないわけで、輪廻転生の意味を知らないと、永遠の知を知らないといけないわけなんである。東洋には、古代アジアを通じて、輪廻転生が伝承されてきたので、この世よりも大切な、あの世の生が説かれ、この世の儚さを、詩にした、敦盛などの、「人間50年下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるなきか、これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。」というわけなんである。この詩の解釈が物質界からのものばかりなんで、あの世から解釈すれば、次のようになるだろう。この世に50年生きるとはいっても、あの世に比べれば儚き幻のようなもので、生まれては死んでいく世界であるから、その生の行いを、死後に、後悔しないようにしないと、永遠と罪を背負うようなことになっては、いけないぞ、という戒めでもある。キリストを差別し、見放した、永遠に彷徨えるユダヤ人になってはダメだぞ!という詩なんである。敦盛 (幸若舞) - Wikipediaつまり、この世の生とは、前世の失敗を成功に転換するためにあるわけで、前世の罪の執行猶予期間でもある。だから、夢の、仮の姿にすぎないというわけなんである。特に「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。」の訳が重要で、仏様になるように、せっかくやり直しの人生が与えられたのだから、無駄な人生を送っては後悔しては後の祭りだよ、というわけなんである。この古代叡智の前世からの知識、つまり輪廻転生の思想は、仏教にはまだいくらか残っているが、キリスト教が唯物論でルシファー化され、現代仏教も、糞坊主ばかりになって金儲け主義に走ったせいで、ほとんどみなが死後地獄に堕ちて後悔先に立たずで、執行猶予のやり直しの人生を送る羽目になり、だんだんと愚かで馬鹿で、頭空っぽな論争、闘争、戦争をするような肉食獣の動物になってしまっているので、人生の落第者だらけの地球は滅亡に向かっていくのだろうね。戦争の大罪を知らない偽善者たちや、金儲けの虚しさや、同じ穴の貉同士の中身が空っぽのTVとネットのやりあいや、この国の裏金政治家たちをみれば、死んで全てがチャラになるとでも思っているのか、世も末だよなぁ。死後に、自分の人生を後悔しても手遅れなのを知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、もし、古「土星」存在から古「太陽」存在へと突き進むのなら、現在の太陽ではなく、古い「太陽」のイメージをつくるための、その基礎づけが必要となる。これについても、「神秘学概論」で提示したのは、その外(物質)的な表現に過ぎなかった。 古「太陽」は、空気と光が、熱に加わり、熱を高めたが、「意志の霊」からもたらされた犠牲の輝きを、知覚するのに、熱を超える存在を探求したように、古「太陽」上で、熱に加わった空気と光を理解するなら、空気と光にもまた、その道徳的な存在を探さないといけない。 古「太陽」上での空気と光についての思考や表現、更には感情に至るには、霊的な方法で、自我の内面を経験し、探求するしかない。 このような感情は、霊魂の経験として次のように記述できる。本当の犠牲行為を霊的な観察で想像する。つまり、前回の講義で述べたように、トローネが、ケルビムに、供儀を捧げるイメージが、深い感動を生み、無上の喜びによって、霊魂を輝かせるのが想像できる。 この犠牲を捧げる存在、つまり、霊魂を目覚めさせ、活性化させるイメージを想像すれば、人間の魂は、何を感じるのか? 生命に満ちる感情を持つ魂なら、犠牲行為のなかに感じる喜びを前に、無関心ではいられず、この犠牲行為を目の当たりにすれば、深い目覚めを経験するだろう。この犠牲から生じる無上の喜びを見守れば、それが至上の美しい行為で、至上の美しい経験であるのを、魂は感じるはずである! しかしそれとはまた別の経験も生じ得る。それは完全に自己に身を委ね、無関心でいる態度である。実際、もし、この献身からなる犠牲行為を見守る、という憧れを、魂に生じさせなければ、その自己犠牲の美徳をもたらさなければ、人間は魂をもたない、一片の木のような固い物質になってしまうだろう。 自己犠牲、つまり未熟な自己を諦める、無我の境地について考えてみる。自己を諦める行為は、自己犠牲が変化した行為ともいえる。そして、能動的で、意識的な自己犠牲を深く考えれば、自分を諦め、自己を無くし、自己を忘れるなどについての、親密なイメージを沸き立たせる。 このような親密感、少なくとも自己犠牲についての示唆、もしくは残響が感知できなければ、自己犠牲についての霊的な理解には至れない。 実際、「自己を諦める」への親密感を、魂のなかに感知できれば、高次の認識が、現代人に与える霊的なイメージへと到達できる。自己犠牲の精神を創造できない人は、高次の認識にも到達できない。この自己犠牲という態度と正反対となるのは何か? それは自己保身である。自分の思考の中に、自己を無くすこと、そして、その反対側にある、自己を権威化し、保身すること、つまり、これらが魂のなかの2つの対極で、これが魂のなかの大いなる対極である。 もし、精神的な、真の認識を獲得し、自我を叡智で満たしたいのなら、自己犠牲の対極にある、この自己保身は致命的なものとなる。日常生活において、自己保身は、頑固、頑迷、偏屈な我儘として知られている。そして、この偏屈な我儘は、高次の洞察を絶えず破壊する。 実際、自己犠牲への能力として表現できる行為を、思考の中で叡智にまで促進する必要があるが、それは、自己犠牲の促進された無我の感覚のみによって、人間は高次の世界に向けて、進化できるからである。 高次の世界では、自分を捨てる能力、少なくとも、その魂的な無我の境地を経験できなければならない。もし、物質科学的知識や日常的な唯物的思考だけでやっていくなら、高次の認識の獲得は不可能となるのを強調しておきたい。
2024年02月06日
コメント(0)
BS4Kで、綺麗な映像のワールドライフという番組をよく見るが、地球の神秘を感じさせる。壮大な地球の大自然のなかにはまだ、現代人が解き明かしていない神秘が盛り沢山なのに、地上については、もう充分とばかりに、他の惑星に、知的生命体がいるかどうかの探索船を打ち上げてもいるが、野生の動物の生態をみれば、現代人の知らない叡智がまだまだ隠されているのに驚かされる。先日、その番組で、アフリカ象の双子の子育てをやっていたが、象の世界も、人間の社会も似たようなものだと気づかされた。というのも、象の子育ての邪魔になるのは、子どもを狙う、他の肉食の動物だけでなく、オスの象の権勢欲だからでもある。象の世界では、オスとメスは、集団に別れて暮らし、子育ては、メスの集団が行う。オスの集団は、発情すると、メスの集団に襲いかかるので、子育てには邪魔で厄介な存在となる。オスは、メスの奪い合いで喧嘩したり、メスの集団が、餌が豊富な草場に来て、自分の食い分が減り、気分を害されると、メスの子育てを考慮せずに、大暴れなどするのをみると、人間社会と同じで、巷の裏金議員などが思い浮かび、いまだに派閥解消すらできないでいるのは、まるで、オス象のように我儘で、厄介で邪魔な存在なんである。三人寄れば派閥ができるなんて言っているのは、オス象の脳レベルなんである。平成の後期から、イクメンと言われ出し、男も子育てに協力するが、老害と言われる昭和世代の男たちは、子育てについては、女まかせで知らんぷりの輩が多かったわけで、野生の象の世界と同じで、いまでも男尊女卑を地で行く老害政治家が、派閥などをつくり、闘争、論争し、オス象みたいな権勢欲の強い毒災者の獣が、自己顕示欲で、戦争を起こしたりしているわけで、現代社会の人類も、野生の象の世界のように、実態は変わらずというか、古代エジプトに比べれば、まるでサル化し、獣化し、退化しているのがわかるわけなんである。このように、象の世界だけをみても、野生の動物においては、オスは生殖だけの存在で、カマキリなどは、生殖が終われば、オスは食べられてしまうわけで、子育てについては、不要な存在と暗に仄めかしているようにもみえる。人間も元々は両性具有で、霊魂に性差はないが、神霊が受肉した姿は、聖書の記述にあるように、娘の姿で、女性だったので、男性の姿は後発といっていいかもしれない。ややこしいのは、霊魂が受肉するために、陽性の男性の形だと、肉体は、女性の姿になり、その逆の、霊魂が受肉のために、陰の形をとる女性だと、肉体は男性の姿になることである。つまり、精神と肉体は陰陽逆の形をとることにある。つまり霊魂の受肉の形で、男女差が生まれることになる。人智学では、エーテル体の差異で表現している。エーテル体が肉体に深く浸透していると、肉体は男性になり、あまり浸透しないと、肉体は女性になるわけで、だから、男性はネガティヴに親しみ、物欲が旺盛になりやすく、女性はあまり物欲がなく、精神的な充実を好み、直感的になりやすいわけなんである。だから、女性の肉体をもつ人は、精神が陽の男性なので、気が強いのである。だから、女性を怒らせると怖いわけで、逆に男性は、肉体は強いが、精神が陰の女性なので、気が弱く、優柔不断なんである。だから、忍耐強さを要求される子育てには、女性のほうが優れているので、母性本能と呼ばれるわけなんである。勿論、霊魂においては中性の両性具有なので、肉体の束縛から離れ、霊魂の姿に近づけば、性差はなくなっていくわけで、知性が高度になるほど、性差別もなくなっていく。人間の世界は野生とは異なるので、男性が不要とはされないが、人類同士で、戦争をするような、混乱を招くような権勢欲はどこの世界でも不必要となるのは明らかだろう。特に、この国の巷の男尊女卑を地で行く政治家の権勢欲はもはや無用の長物と化している。少なくとも、自然の野生からの叡智を読み解けば、そのような古い価値観は認められず、淘汰され、通用しなくなるだろう。人類は、宇宙の営みから、地球上で、自分たちの世界を切り離して、物質界に独自の世界を築きあげたが、地球環境を破壊し、物質科学などの権勢の振興により、金持ちを中心にして階層奴隷社会をつくったが、支配欲は益々肥大し、悪党の群れとなってしまい、地球環境から疎外され、ガン化しはじめ、迷える子羊なっているのが、現代人の現代社会である。さて、このブログでは、現代人よりも、古代ギリシア人の知性が遥かに優れ、更にまた古代エジプト人の知性がより優れていたのを、古代叡智から読み解いて、紹介しているのだが、それを示す証拠が、古代遺跡で、エジプトのピラミッドであるのを、紹介してきた。ピラミッドには、宇宙進化の歴史が記述されているが、ピラミッドという言葉は、まさに光で、叡智という意味をもつ。だから、ピラミッドをみることは、光の叡智をみることなのである。そして、ピラミッドは、人類に、宇宙をみなさい。宇宙の進化を感じなさいと、問いかけているのである。宇宙には、無駄なものは全くなく、全てが不可欠で、有用なのである。だから、人類の進化への答えをみつけたいのなら、宇宙をみなさいと、人類に問いかける。例えば、一休さんのどちて坊やのような人こそ、宇宙をみるべきである。いままた、巷では、新型コロナ感染が増大しつつあるという。今年は元旦の年頭から能登地震という悲劇に見舞われ、この国が生まれ変われるかの正念場の年といえるかもしれない。東日本大震災の復興を希望に、悲劇の克服に邁進していくしかないだろう。悲劇の克服から、ヒーローやヒロインが生まれてくるからで、それらの存在こそが、悲劇に対する癒しだからである。ではなぜ、この物質界には悲劇が起こるのだろうか?唯物論に洗脳された現代人は、悲劇後などに発症する、うつ病に対してほとんど理解できていないが、シュタイナーによると、古代ギリシア人は、悲劇が、人間の精神を捕え、束縛するのを知っていて、アリストテレスなどは、悲劇を克服する英雄劇をつくり、観客に経験させ、劇場から出ると、悲劇から自らを解放する英雄となったような、癒しの効能をもたらした。古代ギリシアの哲学者は、悲劇が、人間の知性を拘束するのを知っていて、自らを解放する、自由で新たな知性を、英雄という形で与えたのである。悲劇や苦悩は、人間の頭の中の脳に居座るので、それを退散させるために、英雄という、現代的にいえば、一種の自己暗示、新しい価値観を与えたのである。だから、古代ギリシアの神話劇は、精神を癒すための薬といえるかもしれない。現代では、物質的な肉体の病気を、物質薬で癒すのと同じで、物質化する前の、現代でいう精神病を、神話などの、精神薬で癒したわけなんである。英雄や、神々は、人間の自我を、日々の物質界から来る闘争や論争などの悲劇による、束縛から解放し、自由を目覚めさせる、新しい価値観なんである。だから、自我の救世主と呼ばれた。日々の日常生活で生じる、悲劇や苦悩に囚われてはいけない。それは、金持ちの金儲けや、健康マニアの○○が体によいという独自の価値観と同じで、自らの自由な進化を阻み、物質により、拘束するものなんである。新興宗教と同じで、悲劇教団や苦悩教団の一派にすぎない。人間には信教の自由があり、他人の価値観に拘束される必要はないのである。自分の価値観で、自由に生きる自由がある。ただしそれは思想の、精神の上での話なのに注意すべきで、誰かに、自分の価値観を押し付けてはいけない。だから、他者に価値観を押し付ける宗教教団は偽物である。例えば、偽教団は、○○がよいとか利己的な価値観を押し付けてくるが、それが他者によいかどうかは、その個人の自由により、個人の判断による。だから、本来は、個人個人に宗教がある。物質界では、互いの違いを認識し認め合わないといけない。そこに優劣はなく、平等で、いわば陰と陽のようなもので、両者において互いに不可欠なんである。ただ、カルマの解消のために、人生においての一方の役割を果たしているにすぎない。前回紹介した、一休さんのどちて坊やのような、子どもはまだ自我が未完成で、人生観や価値観がなく、外から押し寄せる攻撃的な価値観に疑問をもつしかできないが、自我が完成し、それ相応の人生観や価値観ができて、善悪の判断がつけば、日々の生活の移り変わりに応じて、「自分」という価値観を変えていく必要がある。人間は人体を7年毎につくりかえているわけだが、日々の感覚と同時に、人生観や価値観もかえていくわけである。唯物論に洗脳された現代人は、肉体や外見のことしか考えていないが、人智学によれば、肉体の他の、自我、アストラル体、エーテル体も、カルマの解消のために、日々、天使たちと睡眠中に相談し合って、進化させていくわけで、有り体にいえば、悲劇は、その自分を変える切欠というべきものなんである。だから、逆説的にいえば、悲劇が襲い掛かったときには、自分がヒーローか、ヒロインに変わるべきとき、蛇や海老が脱皮するとき、なんである。数十年前に、JIN仁(じん)というドラマの主人公の医師の、神様は乗り越えられる試練を与える、というようなセリフが、思い出されるが、まさに、このようなドラマは、古代ギリシアのアリストテレスが書いた神話と同じといえるかもしれない。JIN-仁- (テレビドラマ) - Wikipedia古代ギリシア神話には、人類を癒す叡智が眠っている。新しい価値観、新しい叡智が必要なときに、人類には悲劇が訪れる。英雄には乗り越える試練が必要なんである。誰もが人生のヒーローやヒロインになるために、悲劇を救済の恵みとするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 超感覚力をもつ人でも、古「土星」時代の中に身を置き、経験するのは、無空間での、温かさの満ち引き、という印象だけだが、この印象は「土星」状態の外見の覆いに過ぎない。というのも、神秘主義でいう、この土星の火の温かさは、その精神の基盤において、実体を現わすが、既に述べたように、古「土星」上で、実際に生起するのは精神上の振る舞いのみだからである。 この古「土星」上で起こる、精神上の振る舞いについての、温かいイメージは、「意志の霊」、トローネの犠牲行為だった。「土星」上に生じた出来事を振り返れば、ケルビムとトローネから流れ出す供儀を感じるのがわかる。 トローネからケルビムへと供儀が流れ出すが、その精神を、外から見ると、この犠牲行為は、熱として現れる。だから、熱の状態とは、精神的な供儀の、外的な、物質的な表現である。実際、宇宙の中で、熱を知覚するときには、その背後にある、天使たちの供犠の、外(物質)的な表現なのである。 熱は、いわば幻想で、熱の背後には、精神的な存在たちによる犠牲行為という現実がある。だから、熱を正確に特徴づけるなら、「宇宙の熱とは、宇宙的な供儀、宇宙的な犠牲行為の表現である」というべきである。 また、トローネたちが、その犠牲行為をケルビムに捧げると、現代人が呼ぶ、時間が同時に生まれる、のを述べてきた。既に触れたように、「時間」という現代の言葉は、これから述べる出来事に、それほど適合しない。ここでいう「時間」は、今日感じるような「前に」や「後で」というような抽象性=順序性をまだもたない。 時間は、「人格の霊」、もしくは「時間霊」とも呼ばれる精神の存在たちの、外(物質)的な姿として始まった。「時間霊」は、太古における時間の表現で、トローネとケルビームの所産である。とはいえ、時間のような側面を持つ存在たちが、古「土星」上で生まれたのは、土星の天使たちの、犠牲行為があったからである。 熱の背後に立つ存在を、本当に理解するには、外的、物質的概念だけを適用すべきではなく、熱という言葉を使うとき、熱は物理的概念であるのを思い出せば、その熱ではなく、精神的な、「魂の」生活の、つまり、魂の道徳的な生活、叡智に満ちた生活から導かれる、熱の概念を適用すべきである。 自分の所有物、自分の持つもの、自分自身さえも、喜んで捧げる行為の意味が、想像できないと、精神的な熱は理解できない。必要なのは、霊魂の観点から、自分自身の存在を捧げる行為、自分自身を意識的に諦める行為の意味についての理解に至ることである。 言い換えれば、最良の自分を、世界の治癒のために与えること、最良の自分を、自分のために取っておくのではなく、宇宙という祭壇の前に捧げる行為について想像できなければならない。もし、この精神的な行為を、生きた概念として、人間のなかの感情として把握するなら、熱が生じる背後に立つ存在への理解に少しずつ導いていくだろう。 現代生活においては犠牲の概念が何と結びつくのか、を想像してみる。つまり、自分の意に反して、意識的に犠牲を捧げるとは考え難い。もし、自らの意志に反して、犠牲を捧げるなら、それは圧力を感じているに違いなく、強制に違いない。 しかし、この土星の供儀は全く強制ではなく、この供犠は、自主的に捧げられた行為である。もし、外的な強制や、行為に対する見返りの、期待無しに、内的に促されるのを感じて、無私の犠牲を捧げれば、内的な熱と至福を経験するだろう。 内的な熱と至福で輝くのを感じ、それを表現するなら、「犠牲を捧げた後で、熱の浸透を感じ、至福で輝く」などで記述できる。外(物質)的な熱という幻想のなかに、犠牲の輝きが、近づくのを経験できる。熱がある処では何処でも、その基盤に、霊魂の現実がある、のを把握できる人だけが、熱を真に理解できる。 熱とは、犠牲の喜びを通じて存在し、活動するものである。熱を、このように経験できる人なら、物理的な熱という現象、つまり幻想の背後に存在し、隠されている霊的な現実へと到達できる。
2024年02月01日
コメント(1000)
大掃除と、放送大学の講義にハマってしまって、なかなかブログを書いている時間がとれなくなっているが、なんとか久しぶりに書く。巷は裏金議員が開き直り、政治の大掃除半ばで、中断を余儀なくされているが、問題を先送りすればするほど、この国の混迷が深まっていくだけにすぎない!番組表 | 放送大学 (ouj.ac.jp)このままでいくと、シュタイナーの予言などで話題の、この国の滅亡もカウントダウンに入ってきているような、来年辺りに、現実的になってきているような気が、元旦からの能登震災などや一連の飛行機事故などで、なんとなく明らかになりつつあるほどの、モラルハザードのこの国への侵食ぶりでもある。巷の低レベルな政治、カネのかかる政治家たちにつきあっているほど余裕はないので、とにかく、大掃除が必要な事に変わりはなく、政治家たちのやる気次第で、国民ができることは、裏金議員らの選挙にカネがかかるという名目の買収集票マシンによる組織票の選挙に負けないように、モラルを問いかけ、世論を活気するしかないので、神秘学の学びを続ける。このブログでも何度も紹介したが、子どものとき、アニメ一休さんが大人気で、野球漫画でも、一球さんができたぐらいで、差し詰め、いまの大谷選手のような存在だったかもしれない。その一休さんに、どちて坊やという、なんでも質問してくる面倒くさいキャラが登場していたのが印象的だった。一休さん - Wikipedia一球さん - Wikipediaどちて坊や 知ってます? | 【みきさん家に遊びに来ない?】大阪高槻⭐︎インナーチャイルドカード・アロマ・サンキャッチャー (ameblo.jp)どちて坊やは、将棋の千日手のような存在で、例えば、哲学的な話をしていると、たまに、どちて坊やみたいな、あれこれと疑問をぶつけてくる人物に出くわすが、そのような人は、疑問をもつことに疑問をもつべきで、なんでも他人に解決や答えを求める、その無責任な姿勢に疑問をもたないので、このような人に出くわすのは、事故に遭うようなものといえる。この、どちて坊やのような、自分の疑問を、自分で解決しようとしない人は、なぜ、人は、疑問をもつのか?を考える必要がある。思考力が足りないのはいうまでもないが。確かに、学問は、言葉の通り、問いの、疑問からはじまり、その疑問を解決する叡智を獲得する、学びであり、俗にいう、叡智の物真似といえるかもしれない。叡智とは、宇宙や自然の振る舞いや運行であり、プロセスである。逆説的にいえば、叡智が不足しているから、疑問が生じるわけでもある。だから、自分よりも叡智溢れる存在や出来事に出くわすと、驚きとともに、どうしたらそのような存在や出来事と調和できるのか? 自分とは、自分が見慣れた環境とは、どこかどう違うのか? と疑問が生まれるのである。頓智溢れる一休さんに、どちて坊やが出てくるように。つまり、未知な存在に遭遇し、驚きが生じるのは、叡智が不足しているからである。さて、前回は、現代人よりも古代ギリシアの哲学者が遥かに賢く、更には古代エジプト人のほうがより遥かに賢いのを紹介してきたが、それは健全な精神には健全な肉体が宿る、という格言からも明らかで、というのは、人間の肉体は、人間の精神からつくられ、人間の自我は、いわば肉体の画家だからである。人間は生まれたときには、親からの遺伝子を通じて、その肉体を見本として引き継ぐ、いわば画家のデッサンのモデルのようなものである。モデルに囚われたままだと、蛙の子は蛙と、親によく似る大人になるが、モデルを発展させて、自分なりのアレンジが加わると、親には似ない、鳶が鷹を産むというような、親とは異なる大人になる。つまり、現代物質科学からいえば、遺伝から自由になれる。つまり、それは人間の自我の自由性により、自我がどのくらい叡智を獲得したかによる。人智学では、自我が、前世からのカルマによる物欲を克服し、物質的な遺伝の束縛を解放し、叡智を獲得した状態を、霊我=マナスと呼び、そして、更にアストラル体にも、霊我を浸透させて、叡智を獲得した状態を、ブッディと呼び、そして、エーテル体にも、霊我を浸透させ、叡智を獲得した状態を、アートマと呼んでいる。現代人が、古代エジプト人よりも遥かに愚かなのは、健康が与えられるもの、と思っていることである。外見でさえも、異なっているのに、他の人の健康が、自分の健康とほとんど同じと思い込んでいる。叡智の獲得状況や、知性も人それぞれなのに、健康だけは皆同じに与えられる、というのは、不公平にみえないだろうか? 唯物論に洗脳された物質科学では、肉体だけをもって健康を漠然と定義しているが、健康という言葉だけ独り歩きして、肝心の人生の目的はどうなのか?シュタイナーは、健康とは、何らかの人生の目的のために相応しい道具にすぎなく、健康のために健康になるのは、カネと同じで、金儲けのためにカネを稼ぐのと同じで、道具のために人生の目的を台無しにしては元も子もない、と説いている。カネも健康も、人生を豊かにする道具にすぎない。カネも健康も、人生の目的を叶える手段や道具にすぎない。だから、金儲けや健康そのものを追求するのは、人生を無駄に過ごし、カネや健康の奴隷に成り下がるだけなんである。古代エジプト人や古代ギリシアの哲学者よりも遥かに劣る現代人は、日々移り変わる物質界の雪崩のように押し寄せる物質的な情報操作により、この大事な原則の、健全な精神には健全な肉体が宿る、つまり自由な精神性を追求するのを忘れてしまっている。この原則を信じる者は、持てる者であり、健全な自由な精神を持てる者は益々富み、この精神を持たざる者は更に失っていくわけなんである。健康は与えられるものではなく、自分でつくっていくものなのである。人智学的にいうならば、外界からくる論争、闘争、戦争のような悲劇や苦悩を、自分の内面で調和させ、克服することで、叡智を獲得し、癒すことである。だから、叡智の獲得状態により、健康は異なる。自我の数だけ、健康の数はあるので、健康は皆同じではなく、内なる自我と、周囲の外界の環境との相互作用の平衡点、均衡点の違いほど存在する。だから、ある人には薬になるものが、他の人には毒になることがある。だから、例えば、エスキモーには肉食が健康の薬になるが、修行僧には肉食は毒になる。逆に、修行僧には草食が健康につながるが、エスキモーには毒で、下手すると死んでしまうわけなんである。要するに、体質の違いがあり、肉体は、自我の作品なので、絵具を変えてしまうと、作風も下手すると死んでしまうわけなんである。また例えば、一般の健康への観点からすれば、修行僧の草食や禁酒などは、苦行にみえるが、逆に、修行僧の健康への観点からすれば、肉食し、お酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするほうが、苦行にみえるわけなんである。健康への観点は多種多様なので、人生の目的が肝要なんである。どのように生きるかで、健康も生活も変わっていくわけで、叡智を獲得したければ、それに相応しい健康や生活をつくっていく肉体の芸術家になる必要がある。叡智を獲得するための器となる、自我の最良の作品である健康となるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ルドルフ・シュタイナー 真相から見た宇宙の進化 Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen (GA132) 第2講 太陽期における地球の内的側面 ベルリン 1911年11月7日 佐々木義之 訳 要約-------------------------------------------------------------------------------- 前回の講義から、「地球」の創造に先立つ3つの進化紀、つまり「土星」、「太陽」、「月」を記述するのが極めて困難なのがわかるだろう。このような記述には、宇宙の進化の中でも、現在から、遥かに遠く離れた未知の状態にまで至るのに、必要な概念と思考法をつくる必要があった。 既に述べたように、古「土星」紀や、それに続く「地球」紀についての記述も、例えば、「神秘学概論」での記述などで、網羅できるものではない。その本を書くに当たり、手近で身近なものから導出された図案などの衣装をかりて、その主題に着させることで、どうにか満足しなければならなかったが、それは、その本が大衆になるべく理解が可能で、かつ、ショッキングにならないように意図したからである。 「神秘学概論」の記述が、不正確というわけではなく、図案的にいえば、幻想、もしくはマーヤの中に浸されている。真実に貫き至るには、幻想の中を、努力しながら進む必要がある。例えば、古い「土星」は、現在の地、水、空気として知っている、4つの基本要素からではなく、熱(火)のみから成り立っている、と記述できる。 この記述が正しいのは、ある限度の範囲内である。同様に、空間に言及するには、常に図案的な漠然とした記述にならざるを得ないが、それは、前回の講義でも見てきたように、古「土星」上には、時間さえも存在しなかったからである。古「土星」上には、少なくとも、現代人の言葉の意味での空間もなかった。 しかし、一方では、その当時、初めて時間が存在するようになった。だから、自分を、古「土星」の文脈の中に置くには、空間のない状態の中にいることになる。だから、もし、この状況を思い描くなら、単なる、像に過ぎない、のを明確にしておく必要がある。 このように、もし、古「土星」に入れても、そこには、現在のような、気体として記述できるほど濃厚な実質は見つからない。そこにあるのは、温かさと、冷たさだけだっただろう。実際、空間のように、その一部から出たり、別の部分に入ったりなどはできなかった。そこにあるのは、より温かい状態とより冷たい状態の間を動く、感情だけである。
2024年01月30日
コメント(0)
前回は、ピラミッドの神秘学から、現代人よりも、古代エジプト人のほうが遥かに賢く、また古代ギリシアの哲学者に比べれば、現代人の知性が、小学生並でしかないのを紹介したが、古代叡智を学んでいくと、ポストアトランティス時代が進むにつれて、人類はどんどん愚かになっているのがわかる。それはまさに、サルから人類へと進化したというダーウィンの進化論を逆向きに転げ落ちて、退化しているようにみえる。この国の巷の政治家のサル山のサルのような派閥云々をみていれば、人類は本当に進化しているのか?疑わしく思えてくる。三人寄れば、サルのように群れる、というわけだから。このような発言をしていた政治家は確かにサル顔で、アー、ウーとしかいわなかった記憶が残っている。進化論 - Wikipedia現代科学は、遺伝子変異により人類に進化してきたと考え、遺伝子変異を起こさせるのが、宇宙線などの放射線であるのを解き明かしているが、古代エジプト人が、宇宙線のことを、神の息と呼んでいたのを知る由もないだろう。つまり、神の息により、人類に進化してきたのである。第94話 エジプト人モーセと「出エジプト」 - 我々は何者(人類と文明)(武内司(たけのうちつかさ)) - カクヨム (kakuyomu.jp)地球に降り注ぐ宇宙線も少なくなり、地球に磁場が生じて、バンアレン帯やオゾン層ができたお蔭で、ほとんどの宇宙線が遮られ、人間も宇宙線に抵抗力をもつようになって、現代人のような人間に進化したが、いままた愚かな人類は、地球の環境破壊により、それらの防護壁を自らで取り払おうとしている。The Radiation Odyssey (jaea.go.jp)つまり、愚かにも、現代人は、自分たちを守ってくれている環境を破壊しようとしているわけなんである。古代エジプト人や古代ギリシアの哲学者が、現代人をみれば、お笑い草といえるだろう。しかも、現代人は、古代エジプトや古代ギリシアを、唯物論からみて、当時は、低レベルなテクノロジーしかなかったと、馬鹿にしているわけなんである。巷の裏金政治家も、国民を馬鹿にして、検察から逃げ切れたので、もう怖いもの無しと思っているかもしれないが、天知る地知る我知る子知る、という諺を知らないらしい。現代人の浅はかさである。なぜ人間が死ぬのかわからないらしい。生きている間は、たとえ、逃げ切れたとしても、死が必ずやってくるわけなんである。天知る地知る我知る子知る - ウィクショナリー日本語版 (wiktionary.org)このような巷の裏金政治家の愚かさからもわかるが、核兵器やロケットをつくれる現代人こそが素晴らしいと、のぼせあがっている、まるで天狗の有様である。賢いと思いあがっている人間こそ最も愚かなんである。そのような愚かな現代人の代表が詐欺師である。巷には詐欺師が跋扈し過ぎている。現代では、もはや標語ともいわれる、情報リテラシーが巷ではよく叫ばれているが、日々、大量の情報が、周囲から、個人へと送られてくる環境となっている。そのほとんどが、個人にとって無価値の煩わしいゴミと化するようなもので、それらの情報は、いわば個人の心情を破壊する情報兵器といえるかもしれない。情報リテラシー - Wikipediaこのような煩わしいDMや望んでもいない広告メールなどを処分するだけでも、それなりの労力が消耗され、唯物的にも物欲を刺激し、あわよくばと利潤追求に邁進させ、精神を薄弱にし、詐欺師の価値観のカモとして洗脳する。ちなみに、八切氏によれば、カモという言葉は、昔の京都の加茂市で、坊主が興したギャンブルのバサラ茶が流行し、いまもお茶屋として残っているが、そのギャンブルの掛け金を巻き上げる相手を呼んだことから、生まれたという。昔からの、ギャンブルのカモとして巻き上げる、そのカラクリが、現代では、情報を使って互いを唯物的に、買わないと、出資しないと損だというように、不安を煽り、金銭主義へと、洗脳しようとするのに置き換わっているわけなんである。このような情報操作は、人間を、モノや機械などとみなし、奴隷化する情報兵器といえるだろう。このような情報兵器が流され、氾濫してくると、現代人のほとんどは、自分を失い、流れるままに生き、なんらかの不安から、病気になっていくので、病気が妄想化して、増加していくわけなんである。そして、健全な精神が蝕まれ、不健全な精神が、蔓延し、不健全な肉体が増加していくわけなんである。現代人はあまりにも愚かなので、情報兵器により、不安を煽らされ、日々忙しない生活をつくりあげ、その情報地獄のなかで、自我を没落させ、精神が空洞化して、なんらかの病気に罹って亡くなっていくだろう。金持ちになりたい病や、人を騙して、利益をあげたい病に罹っているのに気づいていないのである。それらは、前回、紹介したように、物質界がつくりあげた幻想にすぎない。悪魔の罠でトラップにすぎない。古代からみれば、現代人の精神の退廃腐敗ぶりが、病気の増加になって現れて、医療費負担が増大し、社会不安から、社会を安定化させる、経済や財政が益々苦しくなってくるわけなんである。しかも、唯物的な医者は、病名はつけれるが、治療できない難病が増加していくわけで、人間の不安が増加すれば、その妄想の数だけ、病名が増えていくわけなんである。情報操作により不安を煽り、現状の問題を隠して、先送りし、更に問題を複雑化させ、より深刻化するだけなんである。例えば、ほとんど毎日といっていいぐらい迷惑な、釣りメールの、詐欺メールがくるが、人を陥れようとするような行為はブーメランになって、自分が地獄に堕ちていくのがわからないのか、まさしく唯物論に洗脳され、十戒の「欺くな」、を忘れ、無視した背徳行為なのを肝に銘じるべきである。モーセの十戒 - Wikipedia唯物論に洗脳されている現代人は、十戒などを持ち出すと、時代遅れのように感じるかもしれないが、十戒こそ、人間に健全な精神をもたらし、自我の自由な創造性を高める、神への信仰心の現れなんである。神への信仰心を失うと、詐欺師のようになり、自分が悪魔の姿になっているのに気づかなくなるだろう。自分が悪魔の姿であるのは、死んでみないとわからない。人間は悪を善導するために神の命により生きているが、悪に取り込まれてしまっては、生きる価値がないから、死んで己の姿をみさせないといけないわけなんである。それが最後の審判で、人間の死の必要性なんである。古代エジプト人はよく知っていたので、壁画に書いている。人生において良い行為と悪い行為は全て、その人の心臓に記録されている。良い行為は心を明るくし、悪い行為は心を暗くするのでわかるはずである。悪い事をし過ぎた人には、死刑が与えられるのは、物質界でも同じである。物質界で裁かれてまた死後も裁かれるわけである。物質界では裁判官が誤ることはあっても、死後は、自らの良心が自らを裁くので、厳格で確実である。簡単にいえば、人を殺せば、次は殺される人生を送ることになり、2回殺せば、2回殺される人生を背負うことになるわけで、大量殺人すれば、死後その苦しみにより地獄を這いずり回り、更に次回もまたその次回も永遠と殺される人生を送ることになるわけなんである。だから、毒災者などはすでに永遠と地獄行きが決まり、彷徨えるユダヤ人といわれているわけなんである。人間で生まれた以上は、なんらかの良心が残っている。つまり、悪い行為は、宇宙からなくなることはなく、その悪い行為は、それを為した者にいつまでもついてまわるのである。自分が自らその被害者にならないと、そのカルマはなくならないのである。死ねば、悪い行為が自分についているのがわかる。だから、馬鹿は死ななきゃわからないわけなんである。現代の詐欺師や裏金政治家は馬鹿なんで死なないとわからないらしい。さて、病は気から、といわれるが、人間は7年毎に人体をつくりかえているので、いわば人体は、人間の作品なんで、作者の気分に左右されるわけで、作者のネガティヴな気分が、作品に現れてしまい、病気になるわけなんである。だからして、ネガティヴな気分を自らで克服しない限りは、病気も治らないわけである。では、ネガティヴな気分はどこからくるのか?といえば、悪い行為などや、また例えば、釣りメールなどの情報兵器などの、周囲の唯物的な情報での洗脳行為などである。それらに対して、揺るがない自己実現、いわゆる前世からの神への信仰心や、自らの運命に対してポジティヴな自信がないと、情報兵器への防御態勢がとれずに、不安に陥る。自己実現とは、自らの自由な意志に対しての責任といえるかもしれない。この責任は、十戒を守ることで築かれる。というのも、十戒は、宇宙のモラルであって、その循環のなかで何らかの役割を果たすことだからである。だから、十戒に背くことは、宇宙から独立し、不安を抱え、ネガティヴに囚われ、拘束され、地獄に堕ちていくことなんである。神への信仰心を忘れて、自分だけしか考えられない囚われの考え、洗脳である。前回も紹介したが、だから、金持ちは、金銭主義に洗脳されているので、天国には行けずに、地獄に堕ちて、必ず全ての財産を剥奪される死を迎え、カネの力にあかした裏で生まれた被害者の気持ちを身に染みるほど感じさせるだろう。天国に行ける能力を持てる者は益々与えられ、より豊かになるが、その能力をもたない者は、物質界にもっている財産全てを取り上げられるだろう。つまり、モラルを持つ者は益々人間として富み、天使に迎えられるが、モラルをもたないものは、人間の資格さえ、奪われると、キリストは述べている。だから、金持ちは天国にはいけずに、地獄に堕ちるというわけなんである。それは、物質界に執着しているからで、本来自由な自我を自らで、カネ勘定に明け暮れるようにカネの奴隷として、拘束しているからである。貧困問題を解決できるカネがあったのに、なぜお前は、見て見ぬふりをしたのか?と閻魔様に質問されるが堕ちである。お前には、視野を広げるために、お前の生活の犠牲となった貧困の苦しみの理解が必要だから、次は貧困の地獄を味わいなさいと裁判は下されるだろう。十戒の、唯一神を信じることは、宇宙のモラルを守ることで、それは自我の自由な意志を有効に活用し、自我を唯物論などで洗脳し、束縛しようとする情報兵器などから、自我を解放することなんである。天は自ら助くる者を助くのである。現代の日々の情報兵器に惑わされないように、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ アルカイ(アルヒャイ)が生まれるイメージは、非常に力強い。このイメージは、失われ、隠れた叡智の領域へと、次第に深く到達できるようなイマジネーション(霊視)には極めて強い効力を持つ。 このようなイメージから、いわば神話などにして、イマジネーション(霊視)にまで発展させるのが、人智学徒の成し遂げるべき課題である。たとえ、その像が原始的で、擬人化されたものでも、俗によく表現される天使のイメージの、翼をもった人物であっても、その外見は重要ではない。 外見は問題ではない。人智学徒は、その内面に至るまで、ひたすら努力を尽くしさえすればいい。人智学徒がもつべきでないイマジネーション(霊視)は消え去るだろう。もし、そのような像の中に長く深く浸るなら、その努力からなる活動そのものが、実際に、天使たちの存在の元へと導くだろう。 もし、勇気に満たされ、叡智に満ち溢れた天使存在を特徴づける行為を、努力して、感知できれば、現代的な唯物的な知性によりつくられる概念とは、かけ離れた、多様な像が、認識できるようになるだろう。唯物的な知性による概念ができたのは、つい最近で、土星紀からは遥かに隔たった後世なのである。 いずれにしても、唯物的な知性から、古「土星」存在には近づけない。現代に特徴的な知識人たちとは異なる形で、全く純粋な直観力から、心のなかに描き出されたイメージが、超感覚により展開する、のが何を意味するのかを、理解すべきである。 知的な人たちの側から、そのような心が適切に理解されることはない。そのような例を示したい。アルベルト・シュヴェグラー(1819-57年)の「哲学史」(シュテュットガルト、1848年)を取り上げると、この本は、かつて、学生たちの試験勉強に好まれたが、いまでは哲学から、魂の概念が除外されたので、役に立たないものとなっている。 後の版で改訂を受けたが、初版本の重要な箇所は完全には失われていない。つまり、その書はヘーゲル哲学の観点から見た哲学史書なのである。だから、シュヴェグラーの「哲学史」は、当時の哲学像を知るよい例で、ヘーゲル哲学の優れた参考文献なのである。 そして、ヤーコブ・ベーメについての短い章を読むと、知的な哲学書を書く、この人物が、ヤーコブ・ベーメの精神に遭遇するときには、いかに無力であるか、が知れる。幸いなことに、パラケルススには言及していないが、もし、書いていたら相当酷い文章になっただろう。 ともかく、シュヴェグラーがベーメについて何を書いているか読んでみる。彼はベーメの中に1つの心を見つけたが、その心のなかにあるのは、古「土星」の像ではなく、後に再現された「土星」の像で、それは古い土星とは比較にならないほどの、素朴な形で夜明けを迎え、「地球」紀で再現された「土星」なのである。 シュヴェグラーがベーメの中で出会ったのは、知性では理解できず、なんとか、言葉を駆使して記述するしかない精神だった。「土星」紀の地球紀での再現を、知的な方法で、把握しようとすれば、失敗するしかない。つまり、この方法では、土星紀の出来事は、全く理解不可能で、現代の唯物論による通常の、無味乾燥な哲学的論理にしがみついたまま離れられずに、土星紀を認識不能にするしかない。 重要な点は、現代人がもつ通常の知性を超えて、自我を自由に上昇させることである。現代人の知識力では、シュヴェグラーの「哲学史」のような優れた作品は作れても、その並はずれた知性が、ヤーコブ・ベーメのような精神に遭遇すると、途端に理解不能に陥るのを示す、よい例となっている。 古「土星」についての考察の中で、「地球」が太古に体現した惑星状態の内的な側面に参入した。古「土星」存在を振り返り、トローネたちが自らをケルビム(調和の霊)に捧げ、時間存在を創造した出来事の印象が生じたが、この後の講義では、古「土星」紀に達成した概念に負けず劣らず印象深い概念に到達するために、「太陽」と「月」存在についても参入する。 時間とは犠牲から生じたものであり、「時間」は生きているが、「太陽」紀の間に、これら全てが変化していくのを、そして、「土星」から「太陽」そして「月」へと進むとき、宇宙において、その他の力強い出来事がどのように生じてきたかを見ていく。
2024年01月26日
コメント(0)
前回は、古代叡智から、エジプトのピラミッドについての神秘学を解き明かし紹介したが、簡単にいえば、生命体は、神になるための叡智を獲得するために、生きている。叡智を獲得するにつれて、進化し、一段上のサイクルに進み、そこでもまた、そのサイクルで叡智を獲得するために、生きるわけである。だから、古代叡智によれば、生命体に、本来の、死はなく、ただ進化するか、退化するかの、変化しかない。この変化を、唯物論では、例えば、固体から液体、液体から気体、そして気体から熱への相転移のように、変化し、不可視の存在となるので、「死」と感覚的に捉えるしかできないから、「死」があると洗脳されているだけなんである。だから、唯物論で、ピラミッドを考えると、古代エジプトのファラオたちが、魂の不死を説いていながらも、その墓場という、矛盾に陥って、黄金財宝が眠る古代遺跡として、都市伝説化してしまうわけなんである。魂の永遠性、不死性を説いていたファラオが死ぬというのは、古代エジプトの全否定になるのがわからないわけなんである。ではなんのために、古代エジプト人は、ミイラをつくったのだろうか?来世に蘇るため、といわれているわけで、魂の不死性から、輪廻転生を説いていたわけである。唯物論を捨てられない限りは、人間の死や、ピラミッドについても無知なままであるのに気づいていない。古代エジプト人は、現代人よりも遥かに賢いので、愚かな現代人が、墓場と思うように、わざわざ二重の意味で、目隠したといえるかもしれない。だから、現代人が唯物論を捨てられない限りは、地球は滅亡へと突き進んでいくだろう。現に国に分かれて、土地の奪い合いをして、核兵器などで互いに恫喝し合っているわけで、馬鹿につける薬はないとは、まさしく現代人のことである。それだけ、火星から転生してきた無知な人類が多いといえるかもしれない。現代人が、唯物論による物質科学を捨てられないのは、金持ちが、おカネを捨てられないのと同じで、どちらも、死後に地獄に堕ちていくだろう。キリストが、金持ちは天国にはいけないと断言しているのは、カネという唯物論に洗脳されているからである。そして、天国は、物質では表現できない世界だからである。現代人のほとんどが、カネを必要としているが、それはカネに依存した物質的な生活をしているからで、カネにより、本来、自分でやるべきこと、物質をつくりかえる仕事を他者にやってもらい、省略しているからである。カネを使って、自分のやるべきことを代わりにやってもらっているにすぎない。それが続くと、自分のやるべきことを段々とやらなくなっていくので、退化してしまうわけなんである。人間には自由が与えられているのに、その自由を有効に使わずに、カネを与えて、他の誰かを束縛し、代わりにやってもらっているわけで、だから金持ちになるにつれ、何もできなくなっていくわけである。ついには、おカネをあげるから、代わりに小便してくれとか、言い出すようになってしまい、脳が自分であるべき行為を自分で判断できなくなって、周りに流されるようになり、統合失調症などになっていくだろう。だから、カネに依存せずに、逆に自給自足の生活をすれば、自由に生きれるようになっていくわけなんである。カネで買えないものは、自分だけができる自由な行動である。カネに依存しない、自分がすべき自分の行動こそが、自由を有効活用した自分だけの創造行為といえるだろう。確かに、カネは物質界の血液となっているが、それはカネに対して、信用が成立しているからで、この信用がなくなると、貸したカネが返らなくなるなどの、破綻が起こるわけである。だから、カネよりも、信用が重要で、信用を突き詰めていけば、心のつながりであるのに気づくはずである。カネといっても、結局は、心のつながりに帰するわけで、安心してカネが使えるのは、心のつながりを基盤とする秩序がつくられているからである。心のつながりによる秩序とは、モラルなのである。アダムスミスが国富論で説いた、神の見えざる手とは、本当は、この心のつながりによる秩序形成のことで、モラルのことなんである。端的にいえば、信用第一ということなんである。見えざる手 - Wikipedia神を信じる者は、モラルに沿った秩序を自らでつくれるので、信用が与えられ、救われるのである。信用が増すほど、秩序がつくられていくが、逆に信用を失うほど、何をやっても無秩序になるだけである。巷のいまの政治家をみればわかるだろう。古代エジプト人は、現代人よりも遥かに賢く、宇宙の事をよく知っていたが、それに負けず劣らずに、古代ギリシア人も、現代人よりも遥かに賢かったのは、健全な精神には、健全な肉体が宿るのがわかっていたことでわかる。古代ギリシアが、病気に罹ったとしたら、それは貴方の考えがよくないからだと言うだろう。現代人は、唯物論に洗脳されているから、病人に対して、その病気は貴方の考えがよくないからだといえば、コンプラ違反といわれかねないかもしれない。唯物論的にいうなら、貴方の生活態度がよくないというべきかもしれない。人智学的栄養学からもわかるが、例えば、アルコールや煙草が、人体に有害な作用を及ぼすのが、現代科学でもある程度わかっているが、それらが一時の快楽をもたらすので、自分には大丈夫だと自分勝手に特別視し、判断しているわけで、この判断が、その人の考えから生まれているわけで、その考えの誤りに気づいていないか、無視しているわけである。では、なぜアルコールや煙草が人体に有害なのか、といえば、これまでも何遍も人智学的栄養学から紹介しているが、人体には余分なものだからである。人体に余分なものを摂取すれば、自分が本来やるべきことをやらずに、手抜きできるから、それだけ楽になるわけで、つまり、カネで代わりに誰かにやってもらうのと同じなんである。余分ができた分を、他の働きに使えばいいが、楽した分を苦しみたくないわけで、それが習慣になってしまえば、段々と働かなくなってしまうわけで、そのうち、その働きに関わる筋肉や神経が衰えていくわけなんである。この堕落腐敗の原理は、巷の堕落腐敗の政治家の裏金問題と全く似ているといえるだろう。その証拠に、昭和と比べて、令和の政治が遥かに低レベルになっているのがわかるわけなんである。同じような汚職問題を何度も起こしているわけで、正に馬鹿につける薬はないわけで、このままいけば、政治家は皆落第で地獄に堕ちていくだろう。人間にはカネなんかよりも、宇宙から、自由が与えられているのである。この自由は、モラルに沿って、無秩序から、秩序をつくりあげる神に勝るとも劣らない創造力である。心のつながりから、信用や信頼を、秩序により構築していくのが、天国に昇天する叡智なんである。モラルなくして、信用なく、信用なくして、何ものもつくりえない。モラルなく、信用なく、つくりあげる物質的な、詐欺師の振る舞いは、砂上の楼閣である。人間の死とは、砂上の楼閣にすぎない。自分が為すべきことを為すべきである。自分が為すべきことを為さないと、不安に襲われるだけである。その証拠に、おカネを貯めるほど、不安が増してくるわけで、それは信用のないカネを貯めているだけにすぎない。カネを貯めるほど、不安に襲われ、次第に病気がちになっていくだろう。健全な精神をつくるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 人智学徒が呼ぶ、「土星」での熱(火)の要素とは、トローネによる供儀で生じる煙であり、時間である。「土星」は熱(火)の状態だった、と述べ、この表現で、土星の存在を記述してきた。というのも、現在、周囲にある全要素の中で、古い「土星」にも存在していた要素の、熱(火)だけが認められるからである。 熱(火)は「意志の霊」がケルビム(調和の霊)に捧げた犠牲から生じた。この出来事から、火をどのように考えるべきかを示す。この、土星の火を見たり、熱を感じたりする場合、当然だが、現代人の日常の習慣から、火や熱を、物質的に考えるべきではない。 火を見たり、熱を感じたりする場合は常に、今日でもなお「意志の霊」によるケルビム(調和の霊)への供儀が隠れた真実なのである。熱(火)の精神的な要素を、周囲に見てとれなくても、その供犠は火のなかに存在している。あらゆる熱(火)の顕現の背後に立つのは土星の供儀である、という真実に至るには、霊的な洞察力が必要である。 著書「神秘学概論」では、読者の反感を刺激しないように、古土星の外的な状態だけを述べたが、それでも、反感をかってしまった。現代の科学的文脈の中でしか考えられない現代人には、全くのナンセンスと見なすだろう。もし、実際に、次の事が、何を意味するのか、考えてみるべきである。 ・古土星は、隠れた最奥の、根底に、「意志の霊」(トローネ)がいて、自身を、ケルビム(調和の霊)に捧げた。 ・「意志の霊」トローネのケルビム(調和の霊)への供儀により生じた煙から、時間が生まれた。 ・時間が誕生し、アルカイ(アルヒャイ)の「時間の霊」がもたらされた。 ・人間が感じる熱は「意志の霊」による供儀の外見(物質)的な表現で、その反映である。 ・したがって、外見(物質)的な熱は幻想(マーヤ)である。もし、真実を語るなら、熱が顕現する裏には、実際、ケルビム=調和の霊に捧げられるトローネの供儀がある、と言う必要がある。 イマジネーションの霊視力を獲得する修行は、薔薇十字的秘儀参入の第2段階に当たる(この事は「いかにして超感覚的な認識を獲得するか」やその他の著書でも触れている)。人智学徒は、宇宙についての秩序だったイメージから、イマジネーション(霊視)を獲得しなければならない。そのようにして、思考を霊的なイメージに染められたイマジネーション(霊視)へと変容できる。 この出来事は物語風に書き換えられる。トローネ「意志の霊」は完全な献身でケルビム(調和の霊)の前に跪くが、卑しい感情からではなく、尊敬の念から犠牲の意識が生じる。 強さと勇気に基づき、喜んで供儀を捧げようとするトローネたちはケルビム(調和の霊)の前に跪き、その捧げものを差し出す。トローネたちは、その供儀を泡立つ熱、燃え上がる熱として送り出したため、供儀の炎から立ち上る煙は、翼をもったケルビム(調和の霊)に向けて燃え上がる! 人智学徒は、このような物語で、現実を描写できる。そして、この供儀から生じるのが時間で、それはまるで、人間が、空気中に発した言葉のように、時間が「存在」し、この一連の供犠全体から、「時の霊」アルカイ(アルヒャイ)が現れる。
2024年01月25日
コメント(0)
今年になってから、巷は天災や人災に立て続けに襲われているが、個人的にも、マシントラブルが良く起こり、AVアンプのソフトウェアをアップデートしたら、プロジェクターのケーブルの接触が悪いのか、認識が不完全で、出力の映像が消えたり、そしてまた先週から、ネットがつながらなくなって、原因を調べたら、光ファイバーケーブルが劣化断線していたようで、とにかくトラブル続きに見舞われてしまっている。サポートに連絡とって、新しいケーブルを入手し、交換でなんとか、ブログも1週間ぶりの更新になるが、ネット環境が使えないと、自分は何もできないという、ネット便利依存症に罹っていたのがわかって、ある意味、怪我の功名だった。仕方ないので、放送大学の講義をみたり、久しぶりの大掃除などをして、心機一転を図った。何もできないときは、とにかく大掃除をするのがおススメである。気持ちがクリアになるし、掃除しながら、過去の思い出が蘇ったりして、心が洗われるからである。番組表 | 放送大学 (ouj.ac.jp)何度も紹介するが、やはり今年の干支が甲辰なんで、新旧交代の年だから、いつまでも過去に拘っている人の成長が止まってしまうのを、神様が見守っていて、これではいけないと、天意で改めようとする神の一撃なのかもしれない。自らで変われるに越したことはないが、いつまでも変わろうとせずに怠惰腐敗のままでいると、どちらかといえば、自分もこの手の類なんで、見守っている守護霊が嫌気を指して、神様にお願いして、大目玉というか、一撃を食らわす成り行きになっているように、何となく自然に感じられる道理というか、天の摂理のようにみえる。さて、前回は、シュタイナーの人智学的栄養学を一旦休止して、エジプトのギザの三大ピラミッドについての古代叡智の初心者レベルの内容を紹介したが、あいも変わらず、巷のこの国の政治家たちをみていると、嘘つきに塗れ、悪い方向に向かっているので、改めて、人類の置かれた立場を、古代叡智から少しづつ紹介していきたいと思う。この国の政治は中世から中身は何も変わらずに、看板を西洋風に挿げ替えただけで、勝海舟が海舟座談で語っているように、より小さく私物化され、悪い方向に進んでいる。せっかく四民平等に向かったのに、また新たに上級国民などをつくりあげて、他の国民を、その奴隷にしようとしているわけで、天意の神の方向に向かうどころか、人類の進化計画から脱落逸脱し、悪魔に仲間入りしようとしている。政治家などは、新たに上級国民をつくりあげようとする不埒で不平等な悪人と考えた方がわかりやすいのは、その倫理観の欠如で明らかであろう。いま巷のこの国の政治では、派閥云々の議論になってしまっているが、派閥どころか、政党というのも、私利私欲の塊なわけで、公的職務に対して、私利私欲を持ち込んでいるのに気づいていないぐらい、唯物論に染まり過ぎて、現代人は浅はかなんである。幕末に海舟が、党派をつくるのは私物にすぎない、と断言しているように、人類は皆神の子なのだから、党派などつくるのは、悪魔の洗脳なんである。古代叡智では、人類は一なる神から分派した一分枝なのだから、皆平等に神の子で、党でいうなら、皆、神党なんで、各々の成長具合が異なるだけなんである。また宗教も色々あるが、元は、一なる神についての理解であって、各々の、その理解度が異なるだけなんである。勿論、自由は重要だが、それは個人だけの話で、組織全体で自由などは、もはや自由とはいえない。自由民主党という自由が、派閥に拘束されて、個人の自由でないのが、全く不自由の証である。個人の自由を他の個人の自由で束縛されないという意味の自由である。だから、組織には当てはまり得ないのである。選択の自由だけである。そもそも政党を金儲けの道具に使うのは、神殿を穢す行為で、死後に地獄行きである。だから皆一なる神を通じて、人類は一体なんである。だからして、そのなかで、自分が自分がと自分を優先するのは、人体でいうなら、ガンになるわけで、党派をつくるのは、一なる神への反抗になるわけなんである。このブログでも何度も紹介しているように、悪魔というのは、神の命に従って、神に背いているだけで、神が自らを戒めている存在であるから、神の分派にすぎない。悪魔は神に従って背いているので、赦されるが、人間は、自らの自由な意志で背くのは、神に対しては背徳なんで、それなら、神と離れて暮らしなさい、というわけなんである。つまり、永遠に生命の独房で暮らすことになるわけなんである。キリストが語ったゲヘナという魂の墓場である。自民党の多くはゲヘナに堕ちてから悔いても遅いよ。先輩が堕ちているから安心なんて言っていると終わりだよ。ゲヘナ - Wikipedia さて、宇宙の仕組みについては、我々現代人には、聖書が与えられているが、約2万年前の古代アトランティス時代の石で描かれた聖書が、古代ピラミッドであったのは、前回紹介したが、アトランティス大陸が、いまでいうところの核兵器の戦争で、大破局を迎えて、生き残ったものが、新しく浮上した大陸につくったのがピラミッドで、全部で40あったという。エジプトのギザのピラミッドはそのうちの一部にすぎない。一番目立つから有名になっているが、現代科学では、そのピラミッドすらも、クフ王のファラオの墓だと解釈しているぐらいだから、古代叡智の一断片すらも、唯物的に解釈してしまい、都市伝説化してしまっているわけなんである。現代科学では、古代叡智を読み解くことはほぼ不可能なのは、量子力学の観測問題も確率統計学でしか理解できないので、わかるはずである。前回も紹介したが、唯物論を捨てないといけない。金持ちにカネを捨てろと言うのと同じで、物質科学者に、唯物論を捨てろと言っても、ほとんど不可能だろうから、古代叡智を読み解くのは不可能なんである。金銭や地位や名誉は、死後には何の意味もないのは、それらが物質的価値でしかないからである。現代科学での大きな間違いは、地球だけに生命体が住んでいるという理解である。確かに、地球のような物質界で、物質を作り変えて生きる生命体は、太陽系では、人類や他の動植物や生命体だけである。しかし、それは、唯物論的な生命体の概念で定義しているにすぎないからである。つまり、人間の認識で、生命体を定義しているにすぎないからで、人間の認識を超える生命体がいくらでもいるのを無視しているだけにすぎない。単純にいえば、みたことがないだけなんである。例えば、コアラのいない土地では、コアラが想像上の生物で、動物園ではじめてみれる動物を、直接想像するのが困難で、顕微鏡ができるまでは、細菌やウイルスが生き物とは思わなかったわけである。人間の知識の度合により、生命体の概念が変わってくるわけなんである。その最たる存在が、虚無とも万有とも呼ばれる一なる神である。生命体は、人間がどう認識するか、による。ぶっちゃけ、人間の知性次第なんである。古代叡智によれば、人間の現在の知性は、古代ギリシア時代の賢者と呼ばれた哲学者に比べれば、遥かに幼稚であるらしい。古代ギリシアよりも病気が増えているのがその証拠であるという。健全な精神は、健全な肉体をつくりあげるからである。現代人は、古代ギリシアよりも遥かに愚かで馬鹿なんであるらしい。それは人類同士で土地を巡って戦争し、核兵器などで恫喝し合っているわけだから、政治家や権力者は馬鹿の代表といえるだろう。例えば、タレスは、万物の源泉は水であると言ったが、この水とは、人智学でいう、エーテルのことで、神智学では、宇宙微粒子のコスミックダストで、現代物理学でいうなら、宇宙線のことで、その一つであるニュートリノという素粒子を意味している。現代科学は、古代ギリシアの水を、唯物論で宇宙線の素粒子に置き換えているだけなんである。つまり、小さいものをより小さく限定し、詳細に解釈していっているだけにすぎない。これを還元主義という。現代人は物質還元主義に洗脳されているわけなんである。タレス - Wikipediaニュートリノ - Wikipedia還元主義 - Wikipedia古代叡智では、水は、メムとも呼ばれるが、神の息により火と水の2つに分かれた1つで、1要素である。だから、宇宙線は、神の息でもある。現代科学でも、生命体が宇宙線などの放射線により変異するのがわかっているが、宇宙線は神の息なので、聖書の、神の息吹により、生命が生まれたという、記述は、宇宙線により多様な生命体が生まれたという風に解釈できる。神の息は、空気や風の、アレフとも呼ばれ、神の息により、水と火に分かれ、火は、シンとも呼ばれ、神秘学では、空気、水、火の、3つと、それらが固定され、安定化された、アダムとよばれる、土を加えて、4大元素霊として有名である。古代叡智によれば、宇宙は神のゆりかごで、神になるための育成施設、つまり教育機関で、様々な天体は、いわばその学校だという。例えば、太陽系の、太陽を大学院とすれば、水星が大学で、金星が高校で、地球が中学、火星が小学校で、木星は幼稚園、土星は保育園といえるらしい。上にあるものは下にもある、というのは神秘学の格言だが、地球人である人類は、地球という物質界で、物質をつくりかえて、物欲を克服することで、中学校レベルの叡智を履修し、卒業し、次の金星の高校に進学するのが、人生の目的というわけなんである。地球で、輪廻転生ばかりするのは、落第生というわけなんである。ちなみに、地球の衛星の月は、夜間特殊学校という感じで、地球がかつて月といわれたときの、月の状態だったときの、進級に失敗した落第生たちの、少年院のようなものである。神は、自分に似せて、人間をつくったと、聖書には書かれているが、地球は、神になるための、中学校というわけである。地球という中学校で、キリストのように生きて、死ねば、輪廻転生を解脱でき、卒業し、次の金星という高校で、物質体をもたない、人智学でいうエーテル体で、今度は地球人を指導する役割を担うらしい。地球に残っている古代遺跡などは、金星に進学し、地球人から金星人に進化した地球時代のいわば廃校と言えるわけで、まずは、この古代遺跡を地球でのカリキュラムで読み解くのが、古代叡智獲得の初歩になるわけでもある。だから、古代エジプトのピラミッドなども、地球カリキュラムの教育施設の一つである。いわば最古の学校なんである。現代では、最古の図書館といっても、紙で書かれ燃やせばなくなってしまう書籍の管理機関だが、ピラミッドは、石で書かれた図書館で、しかも、虚空に書かれたアカシャ年代記を読み解く能力を与える機関でもあり、地球が滅亡しない限りは残る図書館なんである。しかも、古代叡智によれば、人類が最悪の滅亡へとむかったときに、最後の審判として、人類を滅ぼしてしまう最終兵器となるという。古代アトランティス時代にも、タイタン族が、かつてのエクシアン族のように、人類を奴隷化し、征服したのを、救うために、ピラミッドが最終兵器として、神の息により使われたという。この大破局の核戦争により、当時の大気は、水と火に分かれ、アトランティス大陸は水没し、代わりに、新しい大陸が浮上し、生き残ったノアなどの人類は、新天地にアトランティス時代を継承する文明を築いた。ピラミッドという名は、光を表わし、形は火の炎を継承している。それは神の息を表し、人類の松果体に与えるスパークの光である。それは、神の分身となる意味で、悪を善導し、無秩序やネガティヴを、秩序だった、ポジティヴに変えていく働きを表す。つまり、ピラミッドは、善の象徴で、いまは失われているが頂上の冠石には、十字架が掲げられていたという。十字架は、テトラグラマトンのYHVHの神の4文字を象徴化する記号で、上下左右前後の6方向を組み合わせ、時空間を封印する神の全知全能の支配域を表している。この4文字を二回異なる発音で唱えることで、ポジティヴとネガティヴを組み合わせ、つまり、陰陽から全ての神羅万象が創造される、唯一神の御業の象徴なのである。恐らく、神社の二礼二拍手一礼などは、この4文字を2回唱える、を起源としているのだろう。一なる神が、宇宙をつくったときの継承だからである。この4文字が6方向に神の息として伝わり、我々の宇宙という生命の入れ物がつくられたという。二礼二拍一礼は参拝の基本。その歴史と考え方とは。|葬儀・家族葬なら【よりそうお葬式】 (yoriso.com)神の息、つまり、宇宙線により、多様な生命体が生まれ、宇宙線に対して、凝縮し、地球には、現代のポストアトランティス時代になって、安定を保つ物質が生まれ、次第に宇宙線も少なくなってきて、物質体をもつ生命体や、人類が生まれ、物質界により、人間は神から離れる自由を手にした。つまり、地球は、人類が与えられた自由をいかに使うかを、宇宙から見守られている中学校でもある。地球を卒業し、高校の金星にいく解脱した、聖者マスターと呼ばれる人たちの代わりに、今度は、未開の火星から、宇宙の小学校を卒業した知性の未熟な生命体が、人類として転生し、生まれてくる。いま愚かな地球人は火星に移住説を唱えているが、古代叡智からすれば、それは昔の魂への懐古主義を意味する。中学生が「小学校は遊べてよかったなぁ」と想うのと同じである。太陽に近づくほど試練が高まっていくわけで、それはそれだけ宇宙全体を知り、知性が高くないと、お互い助け合わないと、その生活環境では生きられない、というわけなんである。より過酷な環境こそ互いの能力で切磋琢磨し助け合う必要があるわけで、それが愛につながるわけなんである。自分だけが楽をしようとすれば、どんどん退化していき、地球上でも、統合失調症になっていくわけなんである。上にあるものは下にもある、わけなんである。だから、何もできないときは、せめて掃除をすべきなんである。いまもなお、宇宙はつくられているが、自由を手にした人類が、神に従うのか、離れるかは、当人の自我次第なんである。自由を生かすも殺すも、本人次第なんである。自由を生かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、ほのかに点灯しているようなイメージはあまり正確ではないので、瞬間的な煌めきというよりも、どちらかというと燃えるような輝きと表現したのも、全てが同時に起こっているからである。ある瞬間に存在し、別の瞬間に消え去る、というような感じではなく。同時に全てが起こる。 とはいえ、「意志の霊」とケルビム(調和の霊)の間には結びつきの感情、互いに関係しているという感情を持ち、互いに意識するようになる。そして、「意志の霊」のトローネが、自身の存在をケルビム(調和の霊)に捧げる、ように意識するようになる。 このような事が「土星」へと遡って辿れば、得られる最終的なイメージである。「意志の霊」が、ケルビム(調和の霊)に、この供儀を捧げる、というイメージを受け取り、それより先は、時間がないので、宇宙がまるで「板張り」され閉じているかのように感じる。 しかし、ある重要なものが、「意志の霊」によるケルビム(調和の霊)への供儀の経験の程度に応じて、意志の霊自身の存在から絞り出され、生まれて来る。この事を、言葉で表現するなら、「意志の霊」からケルビム(調和の霊)にもたらされる供儀から「時間が生まれる」と言える。 しかし、この時間は、現代人が、いつも話題にする抽象的な時間ではない。ここで解説している「時間」とは、それのみで独立した単独の存在で、この時間が生まれて、宇宙のはじめ、初期が語れるようになる。はじめの時間とは完全な時間のみの独立の存在なのである。 つまり、時間だけの存在が生まれるが、この存在は「人格の霊」、つまりヒエラルキア(天使位階)の中の「アルカイ(アルヒャイ)」として知られる存在である。「土星」紀では、「アルカイ(アルヒャイ)」とは、時間だけの存在である。この天使たちを、人智学徒は、「時間霊」(時間を司る霊)とも表現した。霊として生まれ、実際には、時間だけから成る存在なのである。 「意志の霊」によるケルビム(調和の霊)への供儀、そして、「時間霊」の誕生に与る、ということは、非常に重要である。時間が生まれた後で初めて、「土星」の状態、つまり、現在、人類の周囲を取り巻く存在と、比較でき、似たものか、のように語れるが、そこからまた別の存在が生じる。
2024年01月24日
コメント(0)
巷の、あるオカルト番組で、エジプトのピラミッドに未知の空間が発見されたのを紹介していた。ギザの大ピラミッドは、このブログでも、何度も紹介しているのだが、唯物論からは、完全に都市伝説化してしまっているようである。現代考古学では、エジプトのピラミッドをクフ王の墓と解釈しているようだが、だったら、墓に未知の空間が発見されたからなんだというのだろうか? 王の墓だから、財宝が眠っているはずという、その思い込みはどこからくるのか? まさにそれこそ、唯物論による都市伝説化そのものであろう。確かに財宝は眠ってはいるが、物質界で安楽を貪るような物質的なものではない。それでは、自らがもつ自我という自由な宝を活用することなく、流れ流されるままの、物質界を彷徨えるユダヤ人になってしまう。キリストは、金持ちが天国に行くのは、縄を針の穴に通すより困難である、とはっきり言っている。ピラミッドは、神殿を穢す建築物ではない。高次の宇宙人からすれば、そのような人類の知性は、まさに動物園のサルレベルにみえるだろう。この国の巷の裏金問題についての政治家のオツムは、まさにサル山のサル以下だし、三人寄れば文殊の知恵どころか、派閥ができるなどと、サルでもわかる理屈を信仰しているアホさぶりに嫌気がさす。この国の政治家は、神が人類に与えた知恵さえも放棄し、ダーウィンの進化論の信者になり、先祖返りして、サルに退化してしまうお粗末ぶりなのである。サル山のサルは集合自我故に、種族に拘束されるが、人間の自我は、キリスト降臨以降は、個人の自由で、古き種族から自らを自由に解放できる能力、つまり、自ら助ける能力、自分の道を切り開き、独力で天へと邁進する力を獲得しているはずなのである。一体、なんのために政治家をしているのだろうか? 政治の理想が皆無である。サル山のサルをやりたければ、人間社会から出て、動物園に行ってほしいものである。なんのためにモラルがあるのか? なんのため善悪を判断する自由が与えられているのか?全ては天国へと、人間が神へと進化する神の子の証のためである。動物園で、サル山のサルが喧嘩しているのと、地球で、国家間で人類が戦争しているのと、どう違うのか、人類は、その低レベルな知性で、読み解いてほしいものである。そのようなサルと同等かそれ以下でしかない知性だから、エジプトの大ピラミッドがクフ王の墓としか解釈し得ないのである。神智学から、何度も紹介しているが、ギザの大ピラミッドは、クフ王が建てたわけではなく、それらファラオの墓でもない。現代の物質感覚でいう金銀財宝が隠されているわけでもない。現代科学が唯物論的に考えているエジプトのイメージそのものが、サル山のサルと同じで、都市伝説なんである。三大ピラミッド - Wikipedia エジプトのピラミッドの謎を解くには、まずは唯物論を捨てないといけない。というのは、樹木の年輪や地層をみてもわかるが、古きものの上に新しきものが打ち立てられるからである。生命というのは、何層もののサイクルでつくられるわけで、ピラミッドも、そのような時代毎のサイクルでつくられているわけで、クフ王一代だけでなされたわけではないからである。以前、ピーナッツのスヌーピーの哲学的なセリフを紹介したのを思い出してほしい。「上を見続けるんだ…。それが人生の秘訣さ…」ウイキをググると、ピラミッドという言葉は古代エジプト語で、「上る」というメルという字をあてていたのがわかる。しかし、語源をググると、ギリシア語の、「火のかたち」の意味ももつのがわかる。この2つの意味から、火のように上昇しよう、という意味が、ピラミッドの三角錐形のイメージからなんとなくわかるはずである。ピラミッド - Wikipediaこのように、現代の唯物的知識からも、ピラミッドが、火のように、宇宙へと上る意識が伝わってくるだろう。つまり、ピラミッドは、人類に、火のような上昇志向、太陽への光へとむかう、進化の火や炎を象徴化しているのがわかるはずである。壮大な天を、宇宙を見渡しなさいと囁いているようでもある。火や炎のイメージといえば、オリンピックの聖火が連想されるだろう。聖火は、太陽光を宿した松明で、古代叡智では、トーチアビラと呼ばれている。つまり、火とは、太陽光を宿した松明のことで、古代叡智の象徴なんである。たいまつ - Wikipedia興味深いのは、たいまつを、日本語では、松明と、松の字を使うことにある。松は、その植物の形をみればわかるが、三角形の象徴でもある。そして、それは人体のなかにも隠されている。古代叡智では、キリストの住む部屋ともいわれ、神殿ともいわれている、松果体のことである。松果体は、このブログでも何度も紹介しているが、メーソンで有名な三角形のなかの、万物を見通す目のことで、仏教では、白毫のチャクラを意味する。古代人の古代アトランティス人は、現代人の幼児をみればわかるが頭部の大泉門が開いていたので、白毫の奥の松果体から、頭頂部のチャクラまで開いていたので、第三の目をもっていたという。仏像にも白毫から頭頂部のパンチパーマのような髪形で表現されている、この第三の目が、霊眼=心眼で、宇宙とつながっていたわけなんである。白毫 - Wikipediaピラミッドから、人体の松果体までの流れから、薄々、わかるかもしれないが、大まかにまとめると、ピラミッドとは、物質界から霊界へと昇天する、古代アトランティス時代の、いわば石に書かれた聖書なんである。三大ピラミッドは、それぞれ、人間が昇天した霊界を意味し、神智学と人智学では表現が異なるが、人智学の人体に準えていえば、エーテル界、アストラル界、自我界といえる。つまり、それぞれ、霊界への昇天方法が隠されている。人智学的にいえば、秘儀参入法である。そして、ピラミッドの近くにある、スフィンクスは、その有名なスフィンクスのなぞなぞの答えからわかるが、物質界の人間を表すのである。スフィンクスのなぞなぞ | こじつけ大魔王 (ameblo.jp)スフィンクスのなぞなぞとは、「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足の生き物とは何か?で、それは、人間という答え。」である。これは、赤ちゃんのときは、手足の四本で歩き、子どもになって足二本で歩き、老人になると、杖1本を加えて、三本で歩くと、謎が説かれているが、神秘学的には、人間の自我の進化を意味している。古代人は、いまの動物のように集合自我をもち、その種族は4つにわかれていた。古代エジプトでは有名な、鷲、獅子、牡牛、そして原始人である。この4つの種族から、多様な人種が生まれたという。キリスト秘教学では、神から生まれた時代とよばれる。そして、キリストが降臨し、個人的な自由から、個人的自我を得て、いま、現代人は、善人と、悪人の2つにわかれているわけで、善人として人生を終えるかどうかの、キリストと共に死ぬ時代と呼ばれている。悪人のままで死ぬと、残念ながら、善人として死ぬまで、輪廻転生を抜け出せずに、彷徨えるユダヤ人となる。そして、善人として死に、キリストに出逢うと、キリストの自我と共に、再び霊能力を獲得し、聖霊としてよみがえる時代と呼ばれる、次への修行場へと昇天するために、霊眼の、つまり、天使の翼である、アローンの杖を獲得し、来るべき人類の善と悪を見極める判断を指導する天使となり、善人と悪人と、その上の天使の3つの種に分かれるわけなんである。地球を卒業すると、金星に向かうといわれている。金星から、霊眼で、地球人を指導するというわけなんである。中世の徒弟制度でいえば、徒弟が地球の悪人で、職人が地球の善人で、親方が金星人というわけなんである。徒弟 - Wikipediaいずれにしろ、スフィンクスは、人間が物質界で修行すべき、善悪の判断の審判員であり、いわば、閻魔様なんである。 だから、ピラミッドは、人間と神との関係についての、古代アトランティス時代の教育機関でもある。そして、クフ王がつくったのではなく、エメラルドタブレットによれば、当時、トートと呼ばれた、ヘルメストリスメギストスがつくった。そして、ピラミッドは、古代アトランティスの叡智で、物質を分解して、いわば相転移の装置を用いて、つくられたので、現代物理学では物質しか扱えないので解明不可能なんである。ヘルメス・トリスメギストス - Wikipedia物質を非物質化する、相転移装置は、別名で、反重力装置とも呼ばれるが、その原理は、理論的に、アルキメデスの原理でわかるはずである。固体を液体化し、更に気体化すれば、大気と混じわって、質量が減じられるわけである。これは、人体の脳が1500グラムなのに、脳水の浮力のお蔭で、20グラムの負荷で済むのと同じである。つまり、簡単にいえば、石を固体のままで運ばず、現代でも、セメントのように、液体化しているように、相転移で軽くして運び、目的の場所で、再生すればいいだけの話なんである。だから、古代アトランティス時代では、地球環境を変換できる非物質的な科学技術、人智学でいえば、エーテル技術を使って、ピラミッドなどの建造をしていたわけなんである。だから、ピラミッドは、エーテル技術を使って書かれた聖書ともいえるわけで、現代でいえば、パビリオンといえるかもしれない。だから、物質科学だけで、ピラミッドの謎を解くことは不可能で、少なくとも、古代叡智の集大成といわれるカバラを読み解かないとダメなんである。カバラ - Wikipediaピラミッドと、人体の対応表を以下に紹介しておく。古代アトランティスは大破局を迎えてしまったが、子孫でもある人類に、その失敗の二の舞は避けてほしいとの神々の願いが、ピラミッド建設には秘められている。宇宙の進化史と人類の進化史、マクロコスモスとミクロコスモスの関係を、アカシャ(虚空)年代記から読み解く能力を秘している、秘教学院でもある。いわば、宇宙の図書館への入館が許されるのが、ピラミッドに隠された本当の財宝なんである。財宝を生かすも殺すも、人生のなかで、どれだけ真実をみつけ、善悪の判断力を獲得するかにある。師は真剣に学ぶ学徒の前に必ず現れる。健康が一つでないのと同じように、真実も一つではない。個人の自由ほどに、個人の真実がある。ただ、神々は、真実を一つに愛で統合している。だから、個人の真実が、統合された神々の愛の真実に近いかどうかで、それが個人の進化度合、学習能力を表している。高次の宇宙人のもつ真実性から比べると、地球人の真実は諸刃の剣で、非常に危険なんである。映画にR18指定などがあるように、ある程度の経験や知性をもたないものには、ピラミッドは明かされず、沈黙を保ち、最奥に隠れ、叡智や真実は都市伝説化するのである。現代人が、十分に知性的になり、論争や闘争や戦争を手放し、宇宙意識へと再び回帰するために、自分のなかの、物質性となる、ネガティヴで、暗黒な、欲望、感情、感性、感覚などを克服し、努力するなら、ピラミッドのなかの、秘密の扉が開き、トートが現れるだろう。古き者の上に新しき者が打ち立てられる、のを、神々は祝福するだろう。物質界なくして、霊界もないのだから、地獄なくして、天国もないのだから、物質界を克服し、地獄から天国に昇天するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 土星の天使存在を表現できる、霊的な洞察にすぐには到達できないが、何故、土星がそのような存在なのかについては、後の講義で説明するつもりである。というのも、ここでは、「土星」、「太陽」、「月」という順番で説明しているので、本当は、それとは逆の順番に(超感覚的方法で、実際知覚される順番、つまり、「地球」から「土星」へという方向に)、進む方がわかりやすいからである。しかし、今のところは、「土星」、「太陽」、「月」の順に特徴づけしていきたい。順番はそれほど重要ではない。 霊的な見方に特徴的なのは、少しずつ、慎重に、霊的な認識に到達するように注意しなければ、想像が極めて困難である。というのも、極めて微妙な存在なので、すぐに感知できなくなるが、何にもまして、通常の覚醒意識での想像力と微妙に結びつく存在なので、「空間の感覚がなくなる」からである。 例えば、「の頂上で」、「の下で」、「の前で」、「の後ろで」、「右へ」、「左へ」と、私は泳ぐ、というような、或いは、実際、空間と関係した表現がもはや、なんの意味ももたなくなる。古「土星」紀においては、空間的な認識は全く意味をなさない。 「至るところで」という表現も「同様」である。しかし、最も重要なのは、「土星」の最初期には、時間も、またなくなることである。正に、後も先も、なくなる。当然、それは今日の人間には、想像が極めて困難である。何故なら、ある考えは別の考えの前、或いは後に現れる、というように、今日では人間の考えそのものが、時間の中を流れているからである。とはいえ、時間の欠如は、感情を通して補完できる。しかし、この感情は心地よいものではない。 思考力が麻痺し、記憶力を呼び出しなど、行動の計画などが、まるで固まった棒のように麻痺した場合を想像してみると、思考が固まり、一点に固定され、もはや、触ることも不可能かのように感じる。 この状態では、「以前の」経験は、時間のある「時点」で生じた、とはいえない。その経験は、そこにはあるが、完全に固定されているので、もはや時間が仲介せずに、意味をもたなくなっている。 時間は全く存在しないので、次のような問いも無意味となる。 「『土星』以前には、何があったのか?」 この「前に」というのは時間がないので無意味である。時間との関係なしに感じなければならない。「土星」存在というのは、板張りされ閉ざされた世界の中にいる状況と似ている。思考は行き止まりになっている。超感覚的能力も同様である。 通常の覚醒意識での、思考はそのずっと前に置き去りにされ、そこから遠くまで行けない。イメージ的に表現すれば、人間の脳は凍りついてしまう。もはや時間を包含しない意識のイメージに近づくには、この麻痺した状態を詳細に知覚するしかない。 ここまで来ると、その全体像の中に生じる顕著な変化に気づく。別のヒエラルキア(天使位階)に属する存在たちが、「意志の霊」と共に存在し、勇気からなる無限の海の、時間のない世界の麻痺の中に入り込み、活動するのがわかる。無時間が明らかになる、その瞬間に、他の存在たちの活動に気づく。 勇気からなる無限の海のなかに何かが存在するのに気づくが、それは不明瞭な潜在意識による。まるで、その事を経験しなかったかのようである。この広がりの中に、何かが点灯するが、それは稲妻の素早い発光というより、明かりのようなものである。それは一つの差異による明かりなのだが、明るい光の印象ではない。 だから、別の方法で、この光の理解に努めなければならない。例えば、次のように想像してみるのもよい。自分に語りかける誰かと出会い、「この人物は何と知的なのだろう!」という感情を抱く。この人物が語り続けるにつれ、この感情が強くなり、「この人物は賢い。無限を経験している。だから、賢明な事柄を語れる」のに気づく。 更に言えば、この人物はまるで魅惑的なオーラを発散しているかのように感じる。そして、この魅惑の要素が無限に強化されると、勇気の海の中に雲が現れるが、その中に、稲妻の光というよりは、正確には煌めく光の放射を感じる。 全体を想像すると、「意志の霊」のなかで活動する存在、叡智の浸透と、その流れの存在を感じる。ここで、「ケルビム(調和の霊)」という天使存在についての、超感覚によるイメージが獲得できる。つまり、「ケルビム(調和の霊)」とは、勇気の海に流れ込む天使存在たちなのである。 さて、いま述べた存在以外には、周囲には何もない。既に強調してきたように、「周囲」に何かいる、とはいえない。唯一言えるのは、「そこに」、ケルビム(調和の霊)がいる、だけである。そのように考えなくてはならない。
2024年01月18日
コメント(0)
人智学的栄養学を紹介している手前で、シンクロニシティというか、巷のTVから、ちょうどタイムリーな話を耳にしたというか、視覚で捉えた。テレビはテレビジョンの遠隔視覚の略だが、巷では、遠隔味覚のテレテイストが開発されつつある、という情報を知った。味を遠隔地に届ける「テレテイスト」、味分析と味再生で実現狙う | 日経クロステック(xTECH) (nikkei.com)テクノロジーによって、「味の伝送」や「味覚の新体験」が可能になる未来を目指して | みらい博2022 | ひらけ、みらい。生活総研 (seikatsusoken.jp)Taste The TV(テイスト・ザ・ティーヴィー):舐めると“味”を感じる、味覚再現ディスプレイ | 知財図鑑 (chizaizukan.com)テレテイストを、現代科学の相互作用論で考えると、視覚は、光の伝播を媒体にしているので、遠隔作用にみえるが、味覚は、近接作用と考えられるので、味覚というよりも、味情報の伝達と言った方が的確かもしれない。現代科学では、味覚の基本を、塩味、酸味、甘味、苦味、うま味の5つの成分に分解し解釈しているが、その五味を数値解析でデータ化し、それらに基づいて、味覚を刺激するのに適当な物質成分を混合し、遠隔地で再現しているようである。どの様な利用法、需要があるのか、はわからないが、自分好みの味を検索したり、料理教育などの、いわば味を出力するプリンターなどができるかもしれない。つまり、色彩の三原色から、多彩な色が表現できるのと同じで、味の五原味から、多様な食物の、つまり、味覚情報のフォーマットやデータベースの構築が進むかもしれない。テレテイストは、テレビのように普及するだろうか?ちなみに、シュタイナーは、1927年のテレビの発明前に物質界を去ったので、テレビについては言及していなかったようだが、当時の新聞やラジオについて言及し、将来、光による通信で、地球の裏側の情報が瞬時に伝わる時代を予想し、それに対して、地球の裏側の出来事が、何千キロもの距離の遠隔地にいる、受け手側の。その出来後に対する心構えというか、準備無しに、瞬時に伝わるのは、人類にその対応法や解決法を十分に考えさせる機会を剥奪する、と警告し、伝え手側の正確性を問題にしていたようである。ラジオ - Wikipediaテレビ - Wikipedia日本の米国との衛星中継で初めに伝えられたのが、ケネディ大統領暗殺だったのは興味深い。その出来事を、日本側は、どの様に受け止めたのか、当時の状況は不明だが、恐らく何もわからなかったに違いない。【1963(昭和38)年11月23日】初の衛星中継、ケネディ大統領暗殺の悲報 | トウシル 楽天証券の投資情報メディア (rakuten-sec.net)このようなセンセーショナルな遠隔ビジョンによる、テレビの普及により、人類は益々物質界の虜になり、申し子になるのを、シュタイナーはいわば予言していたわけである。恐らく、テレビをアーリマンの洗脳の道具と呼んでいたかもしれない。しかし、いまやテレビは物質界の原始的な道具にすぎず、もはやその時代の終焉をむかえつつあり、インターネットや、そして、視覚だけでなく、いま味覚もアーリマンの洗脳の道具と化しつつあるといえるだろう。勿論、生活全般だけでなく、ワクチンのような生命全般にまで、アーリマンの洗脳の道具立ては揃えられ、人類の存亡の命運さえも、いまや核兵器により握られているわけで、高次の宇宙人の警告とは、真逆に人類の滅亡へのカウントダウンが進んでいる途上にある。テレビは、地球を近視眼的に狭くみせ、人類に手に取るようにみせ、生活を便利にし、物質界に、人類を洗脳し、釘付けにし、唯物論を宣伝したといえるだろう。勿論、いまでも、テレビをみない人もいるが、携帯電話を持たない人がほぼいないように、原始的な生活を志向する人はともかくも、ネットまで見ない人はいないだろう。情報が遠隔に伝わるというのは、その土地の状況を知らずに、つまりリアルさを体験せずに、遠隔地から、表面的な一面のみの情報で、口を挟む根拠を与えてしまう短所もある。勿論、岡目八目という利点もあるが、細かな点、目に見えない点を見逃して、机上の空論になってしまうような危険を孕みがちである。巷の政治討論をみていると、常にこの危険を孕んで、議論が平行線のまま、全くかみ合わずに、小田原評定となっているのを見るにつれて呆れてしまう。巷の害毒でしかない朝まで生テレビや、いまの裏金政治家問題なども、この小田原評定とかわらないし、そのものといえる。小田原評定 - Wikipedia解決できない、もしくは解決の見込みもない、無駄な議論で時間を潰すなら、議論など不必要だとなぜ自覚できないのか不思議でもある。議論が目的になってしまい、肝心の問題解決が目的にすらなっていない。当事者が議論の余地なく、善悪の判断を基に、法令に従って、実行するしかない。巷を賑わす裏金問題が、まさにTVの危険を孕む小田原評定の一例で、悪い事だから、裏金なんであって、悪い事をすれば処罰されるのが当たり前の倫理で、法的論理でもある。あまりに馬鹿バカしくて、関わるだけ、巻き込まれるだけ、地獄行きなんである。国民に知られるまで解決できないのがまさに無能な証拠でもある。何をもって正義を正す政策や政治を行えるのか疑問である。政治とは、正義を示す人間の業なのではなかろうか? 倫理を表明するのが政治の証なのではなかろうか?政治家とは一体なんぞや? 悪人の集団の悪党なのか?なぜ、総理大臣が、泣いて馬謖を斬れないのか!悪を断つために権力が与えられているわけで、悪を見逃すのは権力の濫用である。泣いて馬謖を斬る - Wikipedia何もできないのが総理大臣なんだから、この国の行く末だけが案じられる。正義を明確にできない指導者など果たして指導者といえるのだろうか? 勝海舟の海舟座談でも読むがいい。海舟座談 – 記想録 (2810w.com)例えば、海舟座談を読めば、政治を私利私欲でするから、よくないと、海舟は述べている。海舟座談をまとめると、政治には先ず経済が重要で苦心したが、天下の富をもってして、天下の経済に困るわけがないので、要諦は、倹約と運用で、身の程を知り、足るを知る、公に仕える意識が重要で、機を知るのが大事と、説いている。言い換えれば、政治を私利私欲で行っていると、天下の流れの機を感じられなくなるという。世の中には流れがあり、その流れの機先を制するのが重要だという。例えば、現在の、株価の値上がりどきも、この機といえるわけで、事前にその動向を探って準備していないと話にならない、というわけなんである。常に観察力を磨くと、先見力が身についてくる、というわけなんだろう。後手後手に回ると、自体が雪崩のように悪化してくるので、機先が重要だが、機先を逃したら、後の先もあると、海舟は述べている。世の中には、波動のような、流れがあるので、上昇志向に乗るのが重要というわけなんである。そして、今年は、甲辰で、大きな振動の年なんである。面白いことに、海舟は7年周期説を採用し、7年経つと価値観などの人心が真逆になる、と述べている。人智学では、人間は7年毎に人体を作り変える、のがわかっているが、神秘学では7の数字を基に、777と人類の進化度合を表しているように、7は基本循環数として西洋社会では、広く認識されている。海舟は蘭学から身を起こし、西洋人との付き合いから、7年周期説を採用したようである。ついでに、当時の明治政府の政治を、江戸幕府と比べて小さいと馬鹿にしている。海舟は、当時シナと呼んでいた中国やメリケンと呼んでいた米国にも行ったことがあるらしく、それら大国に比べると、日本があまりにも小さすぎて情けなくなって涙が出る、と述べている。日本のような小さな国では、自分一人で充分に政治ができる、と独特の江戸っ子訛りで、大言壮語もしている。ちなみに、その日本の小さな政治について、海舟は次のように述べている。「オレは若い頃、シナへ行ってみて、万事の大きいのに吃驚した。わが日本のことを思うと何もかも小さくて実に涙がこぼれた。その小さいなかで、又小さな小党派の争いをしているのだよ。 7、8年も引っ込んでいると、学問ができるようになるはずだが、いま(明治29年)の人は、カネを貯める事ばかり考えている。実に理想がないので、少しも前に進まない。幕府の頃は何といっても政治が大きいから、役人などの陰険な運動はなかなか酷かった。誰が少し動くようだとわかると、半年ほど前から、色々手をまわして、機先を制して、なかなか巧みなものだった。いまの明治政府の薩長藩政は、幕府に比べると小さなもんだよ。 人を集めて党をつくるのは、私物ではないのか、と早くから疑ってかかっていた。人間は皆長所があるのだから、長所を信じて行うようにすればよい。世の中は広いのだから、いろんな職業の人たちを、一つの貸家に住まわせるのがよい。それで助け合って治まっていくと思っている。機会と着手の2つを誤らないようにすれば、放っておいても構わないよ」というように、勝は派閥をもたなかったから、身動きが自由で、江戸無血開城も出来たと述べている。幕末当時には珍しい、個人主義の持ち主だったようである。いずれにしろ、問題は小さいうちに処理し解決するのが重要というわけなんである。現代のように、TVやネットで、一昼夜で、世界全体に知れ渡るような大問題に発展すると、もはや小田原評定となってしまい、事態収拾がつかなくなり、崩壊に向かうしかない。人体でいえば、至る場所で、ガンの転移が発生し、モグラたたきのように、外科手術から、化学療法、そして、放射線治療と悪化しながら、対症療法するしかないわけで、最後は亡くなっていくわけなんである。日本の政治家の悪性原発腫瘍が、現在の裏金議員に転移したというわけである。その前がリクルート事件で外科手術したが、転移悪性腫瘍が残っていて、再発し裏金となったわけで、リクルートの前が、ロッキードだったわけなんである。さて、前回紹介したように、現代医学の大きな間違いは、唯物論から、健康を一つだと勘違いしている点で、人体を物質体、つまり肉体のみの存在と考えている点にある。昔から、病は気から、といわれているように、肉体は、いわばパソコンで譬えると、ハードウェアでしかないのを、人智学は解き明かしている。パソコンがハードウェアだけでは動かないように、肉体にも、ソフトウェアである、オペレーティングシステムのOSが必要で、ウインドウズなどのOSの上に、作業目的に応じて、マイクロソフトオフィスなどのインストールが必要なわけである。パソコンも高度な情報処理が必要になるにつれ、買い替えるように、人体も7年毎に物質界で、より沢山の体験を積むようにつくりかえるわけなんである。大自然の循環のなかで、無常な物質界の変化に合わせて、健康な人体をつくりかえる、といえるだろう。それには、大自然の循環にあわせて、物質界の変化から、その変化した情報を取り入れないといけないわけで、それが、大気を呼吸し、食物を食べ、栄養を獲得する事になるわけなんである。周囲の環境に適応できるような、感覚を獲得するために、人体を新しくつくりかえるわけで、それは自己防御の、免疫獲得などに現れている。だから、健康とは、一つではなく、病は気からというように、無数の気から、少なくとも、人間の数の、現在の地球の人口数くらい存在しているわけで、その将来の理想状態まで含めると無数にある。各々の個人が、健康を追求し、例えば、好きな食べ物を食べて、悦びを得ているなどである。健康が一つではなく、無数にあるというのは、幸福という価値観も無数にあるわけで、人生のなかに、つまり、物質界のなかに、幸福をみつける手段も無数にある、といえるわけなんである。好きなものを食べられるのも、それが健康につながるから、幸福である。自我が美味しいと感じるのは、人体が欲しているからで、自分しか、自分の健康をつくれないので、例えば、菜食主義やら、肉食嗜好などのドグマなどから、不味いモノをわざわざ勧められて食べる必要はなく、そのような宗教的な洗脳では、自分の人生を、他者に手渡すだけである。つまり、何が薬で、何が毒なのかは、個人により、パラケルススが説いたように、どんなものも服用量を超えると毒になり、服用量は個人の自由に委ねられ、社会制度上の公序良俗に反しない限りは、自己責任となっているわけなんである。重要なのは、服用量というのを、現代科学では、物質量と捉えているが、人智学や、パラケルススが述べている用量というのは、物質だけには限らない、目に見えない精神の、霊的な意味も含まれる。だから、パソコンでいえば、ソフトウェアをインストールする作業領域のメモリー量も意味する。つまり、人間の人体では記憶量などに相当するわけで、味覚というのも、味の記憶なわけで、物質を超えた、目には見えないモノといえる。だから、最初に紹介したテレテイストなども、人体を構築する要素になるわけで、大自然の循環とは無関係な、独立した人間社会からの情報取得になるわけで、AIと共にそのようなアーリマンの洗脳道具が開発されていくと、人間は益々地上の物質界に固執するが、その物質界は、大自然の循環から次第に無関係に独立し、ついには大自然から孤立し、回帰できなくなってしまうだろう。結局、味覚についての小田原評定がはじまってしまうだろう。何の解決にもならない議論をするだけに終わるだろう。だから、次第に人類は味覚がわからなくなり、かつての霊能力を失ったように、無感覚のバカになり、人類はサルへと退化していくだろう。現に現代科学では、人間の記憶を、電子回路に転送し保存しようとしているわけで、それが意味するものは、人智学的栄養学でいう、人生を無目的に、肉食志向に走る事やアルコール中毒に走るドグマと同じといえるわけで、自我がどんどん分裂し、精神分裂病に罹りやすくなっていくわけなんである。他者を無目的に洗脳していると、今度はブーメランのように、無目的に自分を拘束していくのである。他者を物質で洗脳しようとすると、今度は自分が物質により拘束されてしまうわけなんである。だからして、人智学は、精神の根本に回帰すべきと説いているわけなんである。現代科学でも、電子は光子から反電子と対で生じるのがわかっているが、人智学では、電子は光が凝縮したものと解き明かしている。つまり、物質とは、精神である霊が凝縮したもので、だからして、病も気から、つまり、精神の凝縮から生じるわけなんである。だから、パラケルススが説いた、どんなものも毒にも薬にもなる、というのは、個人の自我が、人生の目的から、自らの観点に相応しい、好みの幸福を追求するために、それを認めるかどうかなので、それは前世からの人生の因縁によるわけで、何を食べるべきかどうかは、どの様に人生を生きるかどうか、になるわけなんである。つまり、全ては、自我の自由性に帰せられる。例えば、前回紹介したように、大谷選手は、メジャーリーグでナンバーワンの選手になるのが、人生の幸福の追求なわけで、その身体をつくるために、食物の栄養摂取まで考えて、健康を加味し、外食しない、アルコールを控えているのは、正に、大谷選手の、個人的自我の自由に委ねられる証でもある。物質は精神からつくられるわけで、だからかつての古代ギリシアでは、健全な精神には健全な肉体が宿るといわれたわけなんであるが、唯物論が台頭してきて、次第に霊能力を失っていくにつれ、古代ローマになって、健全な肉体には健全な精神が宿る、と逆になっていったわけなんである。健全なる精神は健全なる身体に宿る(けんぜんなるせいしんはけんぜんなるしんたいにやどる)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という名言は「体が健康なら精神も健康」という意味ではなかった!本当の意味は?解釈を歪めたのは誰? | Precious.jp(プレシャス)そして、完全に霊能力を失った現代では、健全な肉体をつくるには、何を食べるべきかと、完全に唯物論になってしまったわけなんである。そして、健康も皆同じで一つと画一的に表面的に物質的に考えるようになってしまった。古代叡智を失い、愚か者同士が、至る所で小田原評定をして、論争、闘争、戦争をはじめる。問題を何も解決できずに、先送りし、ただ解決しない議論だけが繰り返される。人類はどんどん宇宙の循環から孤立し、独立し、物質界のなかで、宇宙のガンとなって、永遠に彷徨えるユダヤ人のように輪廻転生の地獄巡りを繰り返す。しかしいずれ人類には最後の審判が下されるだろう。善人と悪人に分かれて、悪人はもはや人間にさえなれない獣と化すだろう。ヨハネの黙示録を読み解くべきである。警告に耳を傾けるべきである。悪人から善人へと改心するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 人間が恐怖を生じるような空虚に直面しなければならないときでも、福音書、或いは人智学を携えるなら、道を失ったり、無限の深淵の中に陥ることはない。 もし、著書「いかにして超感覚的な世界の認識を獲得するか」(それに続く他の著作)の中で紹介している準備の修行を経て、この恐るべき虚無に近づき、精神界(そこで生じるのは、感情を痙攣させ、思考を飲み込むが)に参入できたなら、動物、植物、もしくは鉱物界の存在たちとは全く異なる存在たちに出会うことになる。 人智学徒が「土星」と呼ぶ存在(そこには雲も、光も、音もないが)に共鳴し、同調するようになれば、土星の存在を感じるようになる。実際、我々は、「意志の霊」、もしくは「トローネ(座)」と呼ばれる天使存在たちを感じる。そのとき、リアルな経験として感じる「意志の霊」たちは、まるで波打つ勇気の海からなる、のがわかる。 人間にとって、最初は想像のみの存在が、超感覚力によって、具体的でリアルな「存在」となる。 それは例えば、いま海の中に浸され、そしてキリスト存在と1つになり、キリスト存在により支えられ、まるで、その精神の存在として、その海を泳いでいるが、それがリアルの海の水のような、流れる勇気、波打つ力が、無限の広がりをもち、完全に満つる海の中に泳いでいる、のをリアルに感じるのである! それはただの無関心で未開の海ではない。そこでは、勇気の感情として表現できる、あらゆる可能性と多様性を秘めた存在が、こちらへとやって来る。そこで感じるようになる存在は、勇気からなる存在たちだが、個別的な存在である。 土星の天使たちは完全に勇気から成っているが、勇気だけでなく、リアルな存在である。肉からなる人間と同様にリアルでありながら、肉ではなく勇気からなる存在たちに出会う、というのは確かに不可思議にみえるかもしれない。しかし、真実である。 正に、この種の存在の「意志の霊」に出会い、そして、出会うと共に、「土星」存在について人智学徒は記述している。というのも、「土星」こそ、勇気から成る「意志の霊」によって表現される存在だからである。それが「土星」なのである。 「土星」は、球形の世界ではない。六角でも四角でもない。空間を適用できない存在で、だから、「土星」存在には「終わり」をみつける可能性もない。ここでも、「泳ぐ」というイメージを用いれば、「土星」は海面を持たない海、と言える。その代わり、あらゆる場所で、あらゆる方向に、「勇気の霊」、もしくは「意志の霊」と出会う。
2024年01月17日
コメント(0)
先日また変な夢をみたのだが、その夢はというと、お笑い芸人養成学校で、TVでお馴染みの芸人たちとお笑いロボットのネタについて開発していると、お笑いロボットがお笑いの異常をきたして、暴走しはじめて、お笑いのコントか何かのゾンビのように襲ってきて、逃げ回り、ついにはもうダメだと思ったら、実は自分がお笑いロボットだった、というシュールな展開に気づいて目が覚めた。どこか秀逸なバカリズムの脚本が描くドラマの世界みたいで、目が覚めた後で、感動を覚えて、忘れないように思わずメモってしまったが、所詮は夢なんで、現実の物質界からは、矛盾だらけの不条理満載なんで、表現のしようも、メモのしようもないのだが、なぜか、物質界よりも遥かにリアルに感じられて、結局は、追いかけられる恐怖心が凄まじく、悪夢に違いないのに、通常は追いかけられてもうダメだというときに目が覚めるのだが、その悪夢は、自分も同じ穴の貉だったというオチがついているのに、妙に感激してしまった。バカリズムは、個人的には、現代のドラマ脚本の天才だと思う。その前は三谷幸喜氏かな。バカリズム脚本作品 | Hulu(フールー)バカリズム - Wikipedia夢には、物質界とは違うリアルさがあるように思えてくる。例えば、物質界では、物質を通じて、感覚を獲得するリアルさがあるが、夢には、直接感じるリアルさがあるようにみえる。つまり、感覚そのものを通して感じられるリアルさなのである。だから、追いかけられるリアルさは物質界よりも遥かに恐ろしく感じる。勿論、悪夢だけでなく、天国のような心地よい夢もみる。なにやら温かい不明確なものに囲まれていたり、南国の、例えばタヒチみたいな海岸で安らいでいたり、物質界では見たことがない芸術的なケーキのような食物が運ばれてきて、それを食べると、至上の美味しさを感じたりする夢を見たこともある。物質界を超えるリアルさがある。夢を語って、何が言いたいのかといえば、人間は栄養として、物質だけを食べているのではなく、物質を構成する、その中身も食べているというわけなんである。先に紹介したお笑いロボットの悪夢については、夢は、叡智の食べ物にも思えてくるので、個人的に考えてみると、お笑いロボットというのは、昨今のAIについての警告として解釈してみた。昨今、AIに頼り、自分の頭で考えない人が増えてきている。AIが提出する知能を人間が受け入れるほど、人間は自分の頭で考えないようになっていく危険さに気づいていないのである。人間の脳がAIと共生するというと、聞こえがいいかもしれないが、例えば、お笑いを考えるAIができてしまうと、なんでもオチで落とさないといけない関西人の他愛のない会話のように、失敗も間違いも悪も笑ってすませる脳になり、ついには、人間の存在も笑ってすませるようになってしまうのも可能になるわけで、何がリアルなのかわからなくなり、何をみても笑い続けて生き、人智学的にいうなら、常に大気を吸収し過ぎて、アストラル体を膨らまし続け、物質界を現実と認識できずに、死んでも笑い続けるようになってしまうだろう。昔流行った、笑い声を流し続ける、お笑いマシンと人間が化してしまうような気もがする。笑袋とは - わかりやすく解説 Weblio辞書お笑いロボットのAIができるのを阻止しないと、人間は生きていけない。でないと、人間もAIになってしまうわけなんである。AIと共生といいながら、人間の脳はAIに洗脳されて、AI化されていくだろう。常に話にオチをつけるのを強要するお笑い好きな関西人と共生するのは関東人には無理なんである。例えば、哀悼の意を表し、涙が必要なときの葬式や、間違いを犯したときの反省の意の謝罪に、オチを持ち込むのは、不謹慎なんである。確かに、束の間の現実逃避という意味で、お笑いは、人生には不可欠だが、お笑いばかり食べていると、何がリアルなのか、人間の宇宙での進化の目的から逸れていってしまうわけなんである。さて、巷では、唯物論で、よく○○が体に良いという宣伝がなされるが、何遍も紹介するように、人間は7年毎に人体をつくりかえているので、どんなものを物質的に食べようが7年毎に入れ替わり、物質的には全て廃棄、排出されてしまうわけなんである。いわば、肉体は7年毎に入れ替わってしまうのに、なぜ、「私」という同じ自己認識を持てるのかといえば、これも何遍も紹介しているが、肉体は作品であって、「私」が作者であるからで、これは自分がつくった肉体だからとわかるからである。自分がつくったのに、思う通りに動かなくなるのが、いわば病気である。だから、本来は、何を食べ、どういう体をつくるかは個人によるので、病気も個人的なものなんである。シュタイナーは、人智学的栄養学で説いているが、現代医学の最大の間違いは、唯物論に洗脳され、病気は多様で、健康は一つしかないと考えている点にある。健康診断でも、物質体が、ある一つの基準内にあるかどうかで診断しているが、物質的に非常に画一的で、近視眼的なわけで、第一、精神を全く考慮していないから、健康の多様性に、個人的な人生について何の見解ももたないでいる。それは人生の一断面を機械的に測定し、確率統計学で切り取った断片でしかない評価なんである。人生は多種多様なのに、人間の自由な個性を考慮しない、唯物的な画一論でしかない。これまで紹介してきたように、宇宙から閉じた物質界を想定した唯物論による地球の大自然環境からの略奪農業をつくり、略奪経済をつくり、そして、略奪栄養学の基に、略奪医学が生まれている現実から、略奪社会学から、略奪機械学をつくり、生命を機械化し、滅び去っていくだろう。このような人類の錯覚を改めない限りは、地球は滅亡し、人類は次の舞台へと進化できないだろう。今や人類は、大自然の大転換期のなかで、ターニングポイントを迎えているといえる。以前このブログにも、菜食主義ドグマによるコメントが寄せられたが、何を食べるかどうかは、本人の自由に委ねられ、どのように人生を生きるかにある。勿論、菜食主義者に肉食を強要するのも問題である。あまり喩えはよくないが、画家で譬えるなら、絵具で巧みに美しく描いてきた画家に対して、油絵具を強要するのと同じである。描けなくはないが、作風が全く違ったものになってしまう。以前も紹介したが、身体つくりは、画家や建築家、調理師と同じである。素材を変えると、つくり馴れないために、健康状態も変わってしまうわけなんである。つまり、どの様な絵具を使って絵を描くのかと同じく、何を食べるかどうかで、健康状態も変わってしまう。どういう身体をつくりたいのかで、何を食べるべきかを自分の頭で考えて判断しないと脳の指令が人体の各部位に行き届かないようになってしまう。だから、誰々に○○が良いといわれて鵜呑みにしては単なる洗脳であり、体質が違うから、推薦者には良いモノでも、洗脳者には悪いモノに、下手すると、毒にもなってしまうわけなんである。自分の判断で、自我が了承し、納得して食べてはじめて、身体つくりに寄与し参画できるわけなんである。そのような何を食べるかどうかは睡眠中に前世の記憶などの潜在意識から取捨選択し、判断しているわけなんである。○○が良いと他人に勧める前に、どうして自分には○○が良いのか、どういう消化力を得て、どういう感覚をもつのか、活力が得られるのか、自らで答えを見つけて、自分の体質に言及してから、人生の目的に沿って提案すべきである。聞きかじりの菜食主義では他を否定するだけの排他的な単なる差別主義でしかない。そのような余計なお世話をするのは、唯物論者や略奪主義者に多い。ドグマに陥らないように注意するのが肝要である。昨今は、CMがカネになるからといって、偽メールも多いが、科学を隠れ蓑にした本質は詐欺師が多い。さて、巷では、大谷選手が相変わらず話題だが、やはり素晴らしいのは、食物にも拘って身体つくりを心掛けているところである。恐らく自分なりの栄養学をもっているのだろう。自分の健康は自分でしか作り得ないからである。世界のトップアスリート 大谷翔平選手の食事への意識 | FMVスポーツ (fmworld.net)大谷翔平の食事メニューが気になる!栄養管理の方法が超ストイック! - ぷちJournal (saobloghkr.com)アスリートの場合は、一般人とは異なり、闘争心がある程度必要な、強靭な肉体つくりが必要なので、菜食だけとはいかずに、肉食や砂糖摂取が不可欠となるようである。勿論、シュタイナーは、菜食するに越したことはないが、物質界をある程度物質的に生きるには、消化力が足らない人には、肉食を補助にしないと、個人的な自我を保てずに、死んでしまうと述べている。エスキモーなどの、代々文化的に肉食してきた民族には、消化力も弱まってしまっているので、一代で菜食に切り替えると死んでしまうと述べている。エスキモー - Wikipediaエスキモーのような極寒の環境に暮らすには、強靭な肉体が必要なので、物質的にも仕方のない食事なわけである。つまり、エスキモーには肉食は薬であっても、他の穀物を代々食してきた農耕民族には毒になるわけである。だからまたアスリートでもない、その対極側に位置する、物質界とは縁遠い肉体、どちらかといえば、消化力が高いが、物質的には弱い肉体をつくるような宗教者や哲学者には、肉食は毒となるので、厳禁になるわけである。前回紹介したように、ピタゴラス学派は、菜食主義で、炭水化物の豆も厳禁だったわけである。人智学的栄養学では、肉食すると、動物タンパク質は既に動物の肉体の運動のためにつくられているので、いってみれば、動物の運動プログラムが埋め込まれ、動物の種族を司る集合自我の命令に従う、動物言語で書かれているので、動物種固有に、物質界を運動するのには便利だが、宇宙霊全体の統合的な流れからは逸脱するので、つまり、宇宙語では機能せずに、個別なので、この事を、シュタイナーは、アストラル体が物質化すると表現しているが、肉食すると、物質界での運動能力は向上するが、霊的には孤立し、全体を見渡す能力に欠け、低能になるので、結局、人間が肉食すると、その分我儘になると説いている。競馬を御存じならば、競走馬に競走に集中させるために、ブリンカーをつけるようなものである。つまり、人間が肉食すると、物質界の競争に集中するような、ブリンカーを課すようになって、闘争心が高まるというわけなんである。炭水化物も、脳に消化を強いる似たような働きをするので、食べ過ぎると、その人間は論争、闘争、戦争を好むようになっていくという。だから、古の宗教では、肉食を禁じたのである。余談だが、徳川綱吉の生類憐みの令も、肉食を禁じて、関西系の渡来仏教の権威を高め、関東系の古神道系仏教の信者だった卑賎民の皮剥ぎ業を弾圧するためだったという。というのも、綱吉の生母の玉桂昌院が済州島の出身で、その朝鮮経由の仏教を庇護するためだったと、八切史観で解き明かしている。生きるために肉食していた卑賎民たちの反乱を恐れた弾圧だったのである。現代の日本史研究家は、卑賎民など被差別民の日本史を全く考慮しないから、生類憐みの令のリアルさがわからないのである。政治家たちには適用されない裏金つくりの、現代のインボイス制度と同じ類といえるかもしれない。ブリンカー - Wikipedia桂昌院 - Wikipedia肉食に慣れ過ぎた身体つくりを、いきなりに菜食だけにしてしまうと、消化力を失い、死んでしまうので、当時の肉食していた卑賎民は、生類憐みの令で、大量に亡くなってしまったようにみえる。正に大道廃れて仁義ありかもしれない。老子『大道廃有仁義(大道廃れて仁義有り)』現代語訳・書き下し文と解説 / 漢文 by 走るメロス |マナペディア| (manapedia.jp)今回は日本史を再考するわけではないので、肉食については、仏教の建前上、明治以前には、なかったことになっているが、俗に有名な桜田門外の変が、牛肉の恨みと当時の町人たちに噂されていたように、肉食がなかったわけではなく、表向きは薬としてお目こぼしされていたわけで、人智学では、魚肉も、広義の肉食としているので、人智学的な栄養学からみれば、獣だけが肉食の対象ではなく、魚も、鳥も同じで、肉食である。大谷選手はメジャーリーガーとして高い成績を残すために、それが個人的な人生の目的だから、強靭な肉体を、自らの栄養学でつくりあげているわけで、大谷選手には薬となる食べ物も、他の、特にアスリートでない人に、例えば、個人的な成績ではなく、全体的な、社会的な成績を残すための、公的な、宗教家や政治家などは、特に権力を有する者には、肉食は厳禁であるのはいうまでもない。それを判断するのは、勿論個人の自由だが、肉食する坊主をみていて、その坊主が唱える教えを信仰する気が起きるだろうか? 自分だけはよくて他人はよくないという差別主義者であるのが、その肉食行為でわかるわけである。肉食したければ、私的な職業に就けばいいわけである。海外旅行をしたければ、自分のカネで行けばいいだけで、公的な職業だけが職業ではなく、現代には職業選択の自由がある。何を食べるかどうかで、人生の目的が定まり、どの様な肉体をつくるべきか、自分の使命がわかる。自分の人生を知るには、何を食べるかからはじまるわけである。大谷選手が素晴らしいのは、お酒を飲まないところである。シュタイナーは、肉食はアストラル体を物質化させ、闘争的にするが、アルコールは、自我を物質化させるので、つまり自我を分裂化させるので、肉体を分裂傾向にすると述べている。端的にいうと、アルコールは自我の統合力を失わせ、だから、肉体を一つにまとめている統御力を奪うため、各部位が自立する傾向を帯びるようになるという。シュタイナーは、血液が重く物質的になると表現している。だから、簡単にいうと、血液の流れが滞り、造血能力が失われるのである。だから、アルコールを飲み過ぎて、二日酔いになると、血液自身が物質的になり、物質化し、その流れが滞り、外界への感覚が鈍くなり、体内を感じるようになり、地球の大自然の流れから孤立するので、自転のコリオリの力を感じるようになり、千鳥足になるというわけなんである。アルコールを飲み過ぎると、肉食よりも低次の自我の分裂を生じるようになるので、いずれ、腫瘍からガンを生じるようになるわけなんである。コリオリの力 - Wikipediaだから、アスリートにも飲酒は身体を破壊するので、厳禁が望ましい。飲酒でスランプに陥り、スランプからまた飲酒で、負の連鎖に陥ると、選手生命も終わってしまうわけなんである。有名選手をみていると、派手な交際で、選手生命を縮めている人が多いのは残念といえるかもしれない。芸能人で生きるのもまた別の人生とはいえるかもしれないが。人生の旅は、自分を解き明かすことで、つまり、何を食べるかを知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 自我について特徴づけした、この2つの経験(空虚の恐怖とその克服)を、自らで発達させるのはほとんど不可能で、また、この経験について記述された文献も見つけられない。 勿論、この古土星状態を何年にもわたって超感覚力で探求してきた霊能者は、この古土星状態について知っている。しかし、記述され、出版された中には、自我の本性である、無限の深淵を前にしたときの恐怖やその克服についての経験を示唆したものはほとんどない。 私(シュタイナー)は、この霊的な洞察を得る目的で、至上の空虚を前にしたときの恐怖が表現されている最近(1910年代)の文献を調査してみた。一般に哲学者は極めて賢いので、その概念を物知り顔にしゃべっても、恐怖の印象について触れるのを完全に避けている。 だから、哲学的な文献の中に、このような記述を見つけるのは容易ではなかった。何も見つけられなかった文献を、話すつもりは毛頭ないが、ヘーゲル派の哲学者、カール・ローゼンクランツの雑誌の中に、このような経験の残響のようなものがみつけられた。 この雑誌の中で、ローゼンクランツは、彼がヘーゲルの哲学に没頭しているときに経験した、この恐怖に近い感情を記述している。私(シュタイナー)は、彼がそれとは知らずに、雑誌の中に載せた注目すべき文章に遭遇した。 ローゼンクランツに明白だったのは、ヘーゲルの哲学は、「純粋存在」の理解に基づいている、ことである。ヘーゲルの原則である「純粋存在」については、19世紀の哲学文献の中で、その表面的な知識から様々に語られてきたが、実際、極めて貧弱にしか理解されていない。 19世紀後半の哲学が、ヘーゲルの「純粋存在」について理解しているのは、牡牛が1週間ずっと、飼い餌を与えられ、食べ続けてきたときに、日曜日に至ったその消化(分析)力についての理解と同程度と言ってよいだろう! 「純粋存在」というヘーゲルの概念(時間的な経過による存在ではなく、その経過を超えた元々の存在)は、いま定義づけた恐怖が流れ込む、恐ろしい空虚ではない。同じではないが、ヘーゲルの「存在」の虚無の空間は、人間が経験していない特性、つまり、無限の色合いをもつ虚無であり、そして、カール・ローゼンクランツは、この虚無を、全くの無の宇宙的な広がり、という、恐ろしく、打ちひしがれるような絶望の淵へと至る冷酷さとして経験した。 宇宙の根底に横たわる存在を把握するには、それを概念で語ったり、その考察だけでは不十分である。古土星存在を特徴づける無限の空虚=虚無に直面したときに経験するイメージをみつける方が遥かに重要である。 そのとき、魂は恐怖の感情を、たとえ、それが恐怖そのものではなく、その面影に過ぎなくても、把握する。山のように高い場所における眩暈の感情、しっかりとした足場もなく、深淵の縁に立つときの感情、もしくは、自分ではどうにもならない力に圧倒されながら、様々に振り回されるときの感情を再現することによって、この土星の虚無状態を、超感覚的にみつめられる準備ができる。 この虚無が最初の段階、初めの感情である。次に、足下の大地だけでなく、目で見るもの、耳で聞くもの、手で触るもの、周囲の空間に存在する、ありとあらゆるものが失われる。そして、不可避的に、人間はあらゆる思考を失い、一種の黄昏、もしくは眠りの状態に沈み込むが、そこでは何も認識、把握できない。或いはまた、人間はあらゆる感情の中に浸り、そして、しばしば克服できない眩暈の状態に捉えられ、死の状態に落ち込むだけになる。 今日の人間には、絶望の深淵を前にして、恐怖に捉えられるのに打ち克つために、2つの可能性がある。1つは、福音書の理解、ゴルゴダの秘儀の理解を通して進む道である。福音書を本当に理解する者、福音書について現代の神学者が語るような形ではなく、自らの内なる精神で実際に経験し、その最奥の存在を努力により手繰り寄せる者は、その深淵の中に何かを掴み取る。 それは、まるで、一点から広がり、勇気の感情、ゴルゴダにおいて供儀を完成させた存在と一体になるのを通じて、守られている、という感情により、その空虚を完全に満たしていくようなものである。 これが1つの道である。もう1つは、福音書ではなく、宇宙の霊的な解釈に基づいた人智学によって精神界へと到達する道である。現代では、この方法も可能である。常に私(シュタイナー)が強調しているのは、ゴルゴダの秘儀についての考察は、福音書から始まるのではない、ということである。その理由は、たとえ福音書が存在しなかったとしても、ゴルゴダの秘儀が、秘教学的な天文学から明らかになるからである。 この事は、ゴルゴダの秘儀が生じる「以前」には不可能だった。しかし、それが今日可能になったのは、精神界を、その精神的な直接のイメージから、夢のなかから直接把握することを、可能にするような存在が、ゴルゴダの秘儀を通して、我々の世界にやって来たからである。この秘儀は、世界における聖霊の存在、宇宙的思考による世界の統治と呼べるものである。とはいえ、人間はそのための準備ができていなければならない。
2024年01月16日
コメント(0)
人間は7年毎に自分の人体をつくりかえている彫刻家だと、人智学的栄養学は、解き明かしている。病気になるのは、ほとんどが食べ過ぎなどで、素材を生かせずに、適材適所にならず、うまくいかなかったせいといえる。人体を物質的構造物と捉えるなら、彫刻家だが、精神へのお供え物と捉えるなら、調理師といえるかもしれない。数学の三平方の定理で有名なピタゴラスは、当時の霊的な思考であった、純粋な思考、いまでいう幾何学的~数学的な思考を保つには、消化のために、脳を使いたくなかったので、炭水化物の、豆類を嫌って食べなかったのはよく知られている。ピタゴラス学派は、幾何学的思考は神から降ろされた叡智=言語だと思っていたので、宗教のような教義を課していたようである。ピタゴラスの定理 - Wikipedia 何度も紹介するが、シュタイナーは、霊的思考を失わせ、唯物的思考を促進させるのが、ジャガイモであると説いている。ジャガイモを食べると食べ過ぎてしまい、その消化に脳を使い切ってしまうために、霊的思考を降ろす力、人智学では熱エーテルを失ってしまうというのである。だから、ピタゴラス学派風にいうならば、霊的思考を志向する数学者はできる限りは炭水化物を避けるべきで、代わりに塩分を根菜類から摂取すべきで、例えば、根菜類の煮物の、筑前煮などが良いと考えられる。ごろごろっと根菜たっぷり 筑前煮 作り方・レシピ | クラシル (kurashiru.com)しかし、塩分の摂りすぎは、前回紹介したように、片頭痛を起こしやすくするので、植物の根だけでなく、下腹部の消化力を上げるために、花や果実を、また胸部の循環代謝を上げるために、葉を食べるのが良いので、果物やサラダなど万遍なく食べ、植物性脂肪とタンパク質をとるのが良い。フルーツ サラダ レシピ - 関連レシピ 99件 | キユーピー (kewpie.co.jp) いずれにしろ、食べ過ぎ、摂りすぎはよくない。何度も紹介しているが、大体の目安で1日のタンパク質摂取量は50グラムと、現代科学でもわかっている。以下のサイトを参考にするとよい。タンパク質10g、20g、30g、100gってどのくらい?料理ごとに量を解説! (morinaga.co.jp)このサイトは1日3食タンパク質100グラムを目安にしているので、その半分で良いと思われる。菜食中心にして、肉や卵は、足りない分を補うような感じで良いと思われる。例えば、朝食は、ロールパン1個、ハムエッグ卵1個にハム1枚、野菜サラダに、リンゴ切れ端少々か、牛乳1杯で、大体タンパク質15グラムになる。昼食は、ごはん1杯、味噌汁1杯、千切りキャベツ50グラム、肉か魚の焼き物を半人前で、大体タンパク質20グラムになる。夕食も、昼食とほぼ同じで、肉か魚を半人前の量にすれば、大体タンパク質20グラムになるのがわかる。1日で合計すると、タンパク質55グラムになるので、それでも約5グラムオーバーしてしまうわけで、適度な運動を心掛けないと、それだけ、動脈硬化分になる可能性もある。つまり、このモデルケースからもわかるように、節食し、食べ過ぎないのが健康への近道なんである。だから、間食なんかすれば、忽ちに、太鼓腹になってしまうわけなんである。何を食べようが、自分の人体の責任になるので、余計なお世話かもしれないが、健康を保ちたいのなら、現代では美味しいモノの誘惑が身近に沢山あるので、なるべく食べないのが重要なんである。若いうちは新陳代謝力があるからいいが、晩年になって、なんらかの病気になっていくわけで、それは7年毎の人体をつくる能力が劣っていくわけで、彫刻家や調理師の腕が衰えるように、素材を使いこなせず、まとめられずに、食べ過ぎたせいの、老化となるわけなんである。食べ過ぎのほとんどが、糖尿病や、痛風などになってしまうわけなんである。現代医学では、自己免疫疾患により、インスリン分泌が阻害されている、糖尿病を、1型とし、いずれにしろ、糖尿病はインスリンの不足とわかっているが、炭水化物などの摂りすぎなどで、消化力が弱まり、糖を過剰生産してしまうせいである。糖尿病について | メディカルノート (medicalnote.jp)炭水化物のとりすぎに注意!どれくらいまで食べてもいいの? |たまプラーザ南口胃腸内科クリニック 消化器内視鏡横浜青葉区院 (tamapla-ichounaika.com)現代医学では、痛風は血中の尿酸の蓄積で、プリン体を含む食品の摂りすぎに原因があるとわかっているが、人智学的栄養学では、過剰な脂肪摂取に対して消化力が弱くなってしまったのが原因と考えている。痛風について | メディカルノート (medicalnote.jp)プリン塩基 - Wikipedia人智学的栄養学でいう消化力とは、物質を熱エーテルまでに消滅させることを意味している。シュタイナーは、エーテルは物質ではないので、唯物論では解き明かせないと述べている。現代物理学の、場の量子論の真空のエネルギーにまで言及する必要があるだろうが、量子力学が確率統計論で記述され、唯物論で解釈されている限りは、新しい数学が必要であり、確率統計論を複素数まで拡張しないと恐らく記述困難だろう。そもそも数学が、生命体を記述するのには不適切な表現をしているので、例えば、物質がない状態を、ゼロとしか記述できないので、しかし、場の量子論からもわかるが、真空のエネルギーは物質が無くても、エネルギーはゼロではないから、それが宇宙背景放射であり、宇宙のビッグバンの痕跡が残っているわけで、唯物論を想定した数学では表出困難になってしまうわけなんである。場の量子論 - Wikipedia宇宙マイクロ波背景放射 - Wikipediaシュタイナーは、大自然の外的な世界と、人体内とは、霊的な意味において異なる、と説いている。どちらも宇宙の一部だが、大自然は4大元素霊が司る領域であり、人体内は、人間の自我を通じて、神霊が司る領域の違いがあるという。4大元素霊は、火=熱、風=気体、水=液体、土=固体の宇宙的な振舞いというか、形態というか、力のようなものである。物理学は、この4大元素霊を、エネルギー保存則を基に、唯物的に、質点などの運動状態で、数式化して記述しているが、エネルギーの本性が、生命であるので、唯物論では記述できない。つまり、大自然のなかのエネルギーと、人体内のエネルギーは、生命的に異なるので、エネルギー保存則が質的に、成り立たないわけなんである。だから、同じ熱であっても、体外の、大自然のなかの熱は、4大元素霊に属する熱で、人体内の熱は、自我に属する熱の違いがあるという。体外の、つまり外気などの熱が、人体内の熱との均衡を破って、侵入してくると、つまり、外気の熱を、体内の熱に変換できないでいると、人体は、不調になり、風邪をひくというのである。だから、人智学的栄養学では、常に、外気の熱と、人体内の熱との平衡状態をつくり出すために、食物を摂取し、体内のエーテル体などに刺激を与える必要があるわけで、食物から物質を摂取しているのではなく、それを消化し、消滅させて、熱エネルギーに変えて、体内を活性化し、いわば感覚を刺激している、といえるわけなんである。大自然では4大元素霊に属していた植物が、人間に食べられると、体内で、自我を通じて、神霊に属することになり、植物は、人間を通じて、霊化され、神霊に供せられるのを、憧れが叶ったように感じるという。植物の根は、人体のなかでは、頭部に行き、逆に花や実は、下腹部に行く。植物は、いわば地球の奴隷となっていたのが、人間に食べられることで、奴隷から解放されたように感じるというのである。人間が地球で輪廻転生を卒業するのが人生の目的であるように、植物も地球で植物であるのを卒業するのが、つまり、4大元素霊の支配下から解放されるのが、植物の生の目的であるというわけなんである。そうやって、生命体は、新しい進化の舞台に進んでいくという。人智学的栄養学は、生命の精神的意味を解き明かすものであり、続けて、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー霊的な真相から見た宇宙の進化Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen(GA132)第1講 地球の内面にある土星紀ベルリン 1911年10月31日佐々木義之訳を要約 -------------------------------------------------------------------------------- 去年の、ある晩に、人智学支部で行った考察を更に進めれば、これまで話したのとは別の概念、考察、もしくは感じ方を、自分のものとしなければならない。というのも、宇宙全体の進化を前提としない限り、人類が残してきた福音書他の精神的な文献について、現代人が学ぶべき知識が、不十分にみえるからである。 人智学では、この宇宙全体の進化、つまり、太陽系の惑星群が、「土星」、「太陽」、そして「月」という進化状態を経過し、ついには現在の「地球」という存在状態を取るに至ったと解き明かしてきた。この基本認識に、何度も言及してきたのを知る人なら誰でも、それが人類の進化について、また、あらゆる秘教からの観察にとっても、必須なのを知っている。 著書「神秘学概論」で記述した「土星」、「太陽」、「月」、「地球」の進化段階についての説明をみれば、それが大まかなスケッチに過ぎない、のに気づくだろう。 それは、ある観点から描いたスケッチに過ぎないので、また別の観点からも説明できる。というのも、地球の状態だけで、途方もなく、詳細な内容を豊かに提供するように、「土星」、「太陽」、そして「月」の進化状態もまた、無数の詳細な内容をもつのも明らかだからである。 これらの詳細な内容やその概要を描いてみせるのは常に可能なので、今回の連続講義では、更に別の面から、これらの進化の特徴を描いてみる。 これらの説明が、一体どこから来たのか、と問うなら、人智学徒は、既に、いわゆるアカシャ(虚空)年代記への参入に由来する、のを知っている。宇宙進化の経過の中で一度生じた事象なら、アカシャ(虚空)実質と呼ばれる精妙な精神的実質に刻まれた霊的な印象(イメージ)から、霊能力があれば、ある程度読みとれる、のを人智学徒は知っている。 かつて生じた全事象が残した、この種の記録から、かつてどのように存在したのか、を霊聴力により聞き取れる。物質界では、近くにある対象は、一般的に詳細に明確で、はっきりとみえ、より遠くにある対象は、それなりに不明瞭にみえる。 超感覚の霊能力で、振り返る場合も、これと同様で、現在に近い出来事が、時間的に、より遠く離れた出来事に比べて、より正確な姿で現れてくる。例えば、「土星」や「太陽」の進化状態は「地球」や「月」の進化状態に比べて、より不明確に現れる。 しかし、一体何故、太古の出来事を読み取る必要があるのか? 何故、我々の時代から、遥か遠く離れている太古の時代の追跡が重要なのか? 誰かが次のように問うかもしれない。 「何故、人智学徒たちは、そんな大昔のことを、今さら持ち出すのか? そんな昔の事に関わる必要は全くない。現在進行中の事象だけで沢山なのだから。」 そのような問いは間違っている。何故なら、時間の流れの中で、かつて起こった出来事は、今日でも、継続しているからである。土星紀に、存在した出来事は、その時代だけに、その時代のためだけに存在したわけではない。 当時起きた事象は、現代にまで影響を及ぼし続けている。とはいえ、その出来事は、人間の周囲の物質界の中で、いわば外(表面)的な存在との関係から、ヴェールをかけられ、隠され、見えない状態となっている。 実際、遥か昔の古「土星」進化紀に起きた事象は、今日ではほとんど見られない。にも関わらず、古「土星」紀は、人類にとっては、今でも重要なのである。何故重要なのかを考えるために、次の事象を、いま魂の前に置いてみる。 人智学徒は、人間存在の最奥の核は、「私」と呼べる存在として、我々の前に立つのを知っている。我々の存在の最奥の核の、この自我は、今日の人間にとっては、実体がなく、知覚不能な存在となっている。 自我が知覚不能な存在なのは、いわゆる「公的な」心理学の中で、霊魂を精神として語っている処(箇所)を見れば、ある程度推測できる。現在の心理学では、もはや自我を構成する、霊的な存在について、考察、もしくは、事実上の示唆すらも可能でない。 私(シュタイナー)は、19世紀のドイツ心理学において、「霊魂なき霊魂論」という表現が、徐々に使われるようになった事実に、しばしば注意するように言ってきた。ヴィルヘルム・ヴントの世界的に有名な学院(ライプツィヒ大学の心理学実験室)は、ドイツ語を話す地域だけでなく、心理学を語る場所なら何処でも、大いなる尊敬を集めてきたが、その学院が「霊魂なき霊魂論」を流行らせた。 この「霊魂なき霊魂論」は、霊魂の特質を記述するにあたって、独立した霊魂の実存を前提としない。その代わり、霊魂がもつあらゆる特質が最初の一点に集まる。つまり、自我の中へと集約する。かつての霊魂論との関連の中で、これほどの愚考はなかった。今日の心理学は完全にその影響下にある。 つまり、今日でも、この概念は世界中で持て囃されている。将来、我々の時代(20世紀初頭)を研究する文化歴史学者は、一体、何故そのような理論が19世紀から20世紀に至るまで心理学分野で最大の成果とまで見なされるようになったのか、知るために、ヴントの仕事の一片を切り抜いて利用するだろう。このように述べるのは、「公的な」心理学が、自我、すなわち人間の中心点について、全くの的外れである、のを指摘したかったからである。 もし、我々が自我を、その真の性質を把握し、目の前に肉体を置くような形で、置けたなら、そして、肉体のように、外(界)的に目で見れて、感覚を通して知覚可能で、それが栄養を必要とし、また、雲や山や、その他の対象を、周囲の物質界の中にみるのと同様の意味で、自我が依存する環境を見つけようと努めるなら、言い換えるなら、肉体についての情報を知るのと同じ意味で、自我の本質的な情報を見い出そうと努めるなら、今日においても、周囲に不可視的に浸透している宇宙の像、もしくは、そのような絵巻物へといきつくが、それは古「土星」紀の宇宙像と全く同じなのである。 言い換えれば、自我を、それ自身の世界から、知ろうとするなら、古「土星」紀に似た世界を想像できなければならない。この世界は隠されている。つまり、それは人間にとって、感覚知覚を超えた世界である。 実際、我々の現在の進化段階では、その知覚を担うのは不可能である。その知覚は、境域の守護霊=ドッペルゲンガーによりヴェールがかけられ、隠されたままになっているが、それは、そのような像を見るのに耐えられるためには、ある一定段階の精神的な進化が必要とされるからである。 実際、人間が最初に慣れる必要があるのは、古土星が提示するような像を見る、ということである。何にもまして、そのような宇宙像を、現実の存在として経験できる、ようなイマジネーション(霊視)を形成する必要がある。現代の感覚から、知覚できる全ての存在を、つまりヴェールを、人間の思考から取り除かなければならない。 同様に、人間の精神的な内面は、霊魂のなかから生じる潮の満ち引きから構成されるから、その世界を捨て去らなければならない。世界に存在する対象についての思考を消し去り、思考自体も全て消滅させないといけない。感覚を通して、知覚される、あらゆる対象を、外界と共に取り除かなければならない。つまり、精神的な内面での、霊魂による思考活動を消去しなければならない。 思考の除去を行った後、人間が、イマジネーション(霊視)の真の把握に到達できる霊的状態(あらゆる外的感覚が完全に取り除かれ、人間の自我だけが残る状態を思い浮かべる)を形成したいなら、いま言えるのは、我々の周囲に口を開けている底なしの空虚、無限に続く無の恐怖に耐えれなければならない。 つまり、恐怖に完全に満たされた環境を経験できなければならないが、同時に、自分自身の存在の内面的な堅固さと確かさによって、この完全な恐怖の感情を克服できなければならない。魂における、これら2つの傾向(無限に続く空虚への恐怖と、その克服)なしには、古土星存在が、現在の我々の宇宙の基盤に横たわっているのを暗示する、いかなるものも経験することはない。
2024年01月12日
コメント(0)
巷のこの国の精神腐敗ぶりの堕落悪徳政治家の、裏金問題さえも解決できずに、自浄能力の欠如を示す現状をみていると、2025年7月日本滅亡説が現実化する懸念が益々深刻になりつつあるように思えてくる。シュタイナーがそのような予言をしているとは考えてもみなかったが、ググって調べてみると、シュタイナーの弟子から仄めかされた説もあり、どうやら、来年あたりに、日本の神霊たちが、日本人たちに「しっかりしろ!」と鉄槌を下すような気もしてくるのである。今年の元旦からの震災をみてみても、その警告のように思えてくる。以下のサイトがうまくまとめているので、参照してほしい。それは天意が、昨年の癸卯から今年の甲辰で、来年が、乙巳(きのと・み)で、乙は、新芽が外気の抵抗を受けながらも、芽を伸ばしていく様子を字にしたもので、巳は、蛇の意で、冬眠していた蛇が目を覚まして、地中から活動しはじめる様子の字なので、新体制の確立の年であるのがわかる。つまり、今年が新旧交代の年で、来年が新体制発足の年になるのが、天意で、宇宙全体の流れなんである。 ☆ ☆ ☆2025年7月の予言とは?実は日本人へのメッセージが隠されていた!? | リサとはりねずみの報告書 (investor-350z.com)「2025年7月5日が日本にとって大きな転換期になる。その後は物理的な豊かさが限界を迎え、心の時代が来る。と言っています。」「この日をさかいに、権力や地位、お金だけで生きていた人々が生きにくい世の中になり、血がつながってなくとも心で繋がり合い、みんなで生きていく世の中になる。その時、日本人はかつての本来の日本人が持っていた感性を取り戻しておかなければならない。と言っています。」 ☆ ☆ ☆天意の干支からも、わかるが、今年と来年が、物質社会から精神社会に変わるターニングポイントで、来年に日本という国家がなくなるというのは、昨今の無能な政治家たちをみていると、因循姑息を感じさせて、まんざら都市伝説でもないような気もしてくる。いま能登震災の救援救済活動が最重要になっているのに、裏金問題で辞職せずに開き直っている悪徳政治家たちを、日本の神様たちがみているわけで、いま神様が与えた試練を日本人は試されている、ともいえるかもしれない。堕天使も広義にいえば、人類に自由を与えた神様でもある。神様という言葉が古めかしければ、高次の宇宙人と呼べばいいだろう。高次の宇宙人たちは、いま日本人の善悪の判断を注視している。日本の神様たちは、日本人の行動を、善悪の判断を見守っている。日本人は、この試験を卒業できないかもしれない。高次の宇宙人は常に人類を見守っている。高次の宇宙人はわざわざUFOなどの円盤などに乗ってやってくるのではなく、人類が寝ているときの、睡眠時に天使としてコンタクトしているのである。ただその天使を身近の誰それかに、いわば翻訳して解釈しているだけで、記憶力が曖昧なので、それを夢などにしているだけなんである。良心が咎め、宇宙人との成長への約束がうまくいかなかった場合は、気兼ねして不眠症に罹るわけである。だから、宇宙人がわざわざUFOなどの宇宙船に乗って物質界にやってくる必要などなく、人類が寝ている時に、訪問すればいいだけの話なんである。ただ、人類が睡眠中に出会っても、宇宙人という認識をもてないだけで、なんらかの人間に翻訳しているだけなんで、宇宙人だと認識させるためには、キリストや仏陀のように、物質界に降臨する場合もある。とにかく、人類に、このまま争いを続けると、古代アトランティス時代の二の舞の大破局を迎えるだけだと、警告しているのは確かである。世界が破局に向かっているなかで、日本の場合、来年の干支の乙巳を日本史のなかに遡れば、古くは、有名な乙巳の変の大化の改新が挙げられる。乙巳の変 - Wikipedia乙巳の120年前は、日露戦争終結が挙げられ、420年前には、徳川秀忠が将軍になり、江戸幕府が新体制として発足する。また1185年の乙巳には、源頼朝の鎌倉幕府が発足するというように、新体制が始まる年といえるわけなんである。このように、干支は天意であり、宇宙の天体の運行であり、いわば大河の流れといえる。その流れに沿って生きれば、永遠の生命を手に入れる事ができるが、それを拒む自由もあり、人間はその自由を手に入れて、堕天使と共に地上に生きているわけでもある。人間は自由のなかで、いわば、迷える子羊だが、全てを失っているわけではなく、再び、霊能力を獲得し、干支から天意を知り、それに沿って行動する事で、善悪の判断力を獲得し、地上の生活を卒業でき、死を克服し、物質的認識を超えて、永遠に変化し、生きる存在になれる。物質界は、善悪の判断を獲得する修行の場にすぎないからで、人間は試練という試験を受けていると考えれば、生命の意味がわかるはずである。昨年は善悪の判断を明確にする年で、今年は善悪の判断に沿って行動する年で、来年は、悪を断ち切る年であるのがわかるはずである。日本にとっては、最後の審判になる年なのかもしれない。上に紹介したサイトにも載っているが、「日本が、中国の傀儡国家となるのか、もしくはアメリカの完全従属国家になってしまうということなのかもしれません。」という年になる可能性が高い、というわけなんである。日本という国がなくならないためには、日本人の和の精神に立ち返る必要がある。上に紹介したサイトの結びにも、「現状、人類は地球との共生をしている中で、少しずつ環境破壊の重大さに気づき対策を取りつつあります。僕たちが地球と共生していくために必要なことは『相互愛』です。」とあるように、相互愛が鍵になるものと思われる。高次の宇宙人が教えるのも、この相互愛の大切さである。日本という国もこれまで何度も政体が移り変わってきたように、人間も7年毎に人体をつくりかえているのが、人智学的栄養学からわかっている。震災などにより、古きものや体制は失われるが、それは人間が進化しなければいけないという宿命を背負ったものであり、新しいものや新体制への未来への希望を、相互愛によって紡いでいかなければ、永遠の生命を、下から仰ぎ見るだけの存在になってしまうという警告でもある。自由という悪を超えて善は永遠の生命を獲得していく使命がある。人間は、自由のなかから、悪を善に変えていく努力を、絶えず進化に向けて前に進んでいくべき存在なんである。人間は、宇宙からくる相互愛を取り入れて、7年毎に人体をつくりかえていかないと生きられない。つまり、人間は、自らの人体の彫刻家であり、塩類、炭水化物、脂肪、タンパク質といった4つの材料から、自我、アストラル体、エーテル体、物質体の4つの体をつくっているわけなんである。特に、塩類は、人間を思考の存在にする材料であり、塩がないと、人間は思考できなくなると、シュタイナーは説いている。塩が、人間に思考を与える材料であるのが、塩の歴史をみればわかる。塩の歴史? (hts-saltworld.sakura.ne.jp)塩が人体に必要なのは、現代科学でも生理食塩水で明らかであり、塩分の濃度が、0.9%に調整されている意味はわかっていない。しかし、人智学的栄養学では濃度の数値はともかくも、片頭痛を生じさせるのは、脳に塩分が溜まりすぎて、約1500グラムの脳の重量を、脳髄液の浮力のアルキメデスの原理により、20グラム程度の重力負担感で済ませている、通常の感覚とは、異なることで生じる、のを解き明かしている。輸液の単位 | 輸液と栄養 | 大塚製薬工場 (otsukakj.jp)つまり、通常よりも、より脳が重力を感じるために、頭痛が起こるのである。動物の場合は、直立歩行しないために、動物の脳はそれほど重力を感じなくて済む。もし、鳥の脳が重力を感じていたら、空を飛べないだろう。人体の左側の胃が痛んでいて、塩分が充分に消化されずに、排泄されずに尿酸塩として、右脳に溜まるようになると片頭痛が起こるという。シュタイナーは、栄養は血液だけで運ばれるのではなく、勿論、濃度の濃いものは、血液で運ばれるが、それは人体がそれを必要としている場合で、必要としない、足りている場合は、排泄しようとするので、血液で運ばれるよりも、排泄させるほうが優先の場合もあるし、また低濃度でも必要とされる場合は、血液だけでなく、人体全体にわたり、胃腸で消化され、非物質化の形で、人智学でいう熱エーテルで運ばれるという。だから、食べ過ぎや、摂り過ぎは、人体のバランスを失わせ、病気の素となる。人智学的栄養学では、75キロの人体には、1日のタンパク質摂取は50グラム程度で充分と考えている。それ以上摂っても、消化できずに、排泄されるか、動脈硬化の要因となるだけである。例えば、アルコールの場合、既に必要な量が人体でつくられるので、外から摂取する必要はないという。アルコールはタンパク質を保存させるのに、人体でつくられているという。食物は、口の中で、プチアリン=アミラーゼにより液状に変えられ、胃のなかで、ペプシンと膵臓のトリプシンにより処理され、腸に送られ、肝臓の胆汁により完全に消化されるという消化過程を経ている。人智学的栄養学では、肝臓はいわば栄養摂取の、つまり消化過程での感覚器官で、腎臓は思考器官だという。つまり、人体の上半身では、脳が思考器官で、目や鼻が感覚器官なのに対して、下半身では、腎臓が思考器官で、肝臓が感覚器官なのだという。更にいえば、脳や目や鼻が、外の大気や空気から、火の熱エネルギーに情報を加工処理する器官で、腎臓や肝臓が、外の物質や液体から、火の熱エネルギーに情報を加工処理する器官といえるかもしれない。人体は、外の物質界などを、火の熱エネルギーへと情報に変換し、加工処理して、生命の火の、熱エーテルにしているわけで、いわば蝋燭の火と同じといえるかもしれない。さて、必要な分は人体でつくり出せるアルコールを摂りすぎると、下半身の感覚器である肝臓の感覚が増長し、肥大しはじめ、俗に物欲が増すのと同じように、アルコール欲が増してきて、現代医学でもわかっているが、脂肪肝となるわけである。脂肪肝について | メディカルノート (medicalnote.jp)肝臓の感覚が全体のバランスを失い、もっとアルコールを摂取したいと、増長しだすわけである。本来は、自分でつくり出していたアルコールを、外から与えられたために、楽になり、楽を覚えたために、働かなくなって、怠惰になった人間のように、楽して儲けようとして、特権階級に胡坐をかく悪徳政治家のように、悪党と癒着して、人生を貪るように、肝臓が、人体を貪るようになってしまったといえるわけなんである。自給自足を忘れて、略奪詐欺を覚えた肝臓が、脂肪肝の実態なんである。脂肪肝の堕落腐敗が進行すれば、周囲の不必要なタンパク質を吸収し、肝硬変や、肝臓がんへと、悪党が地獄に堕ちるように、奈落の底に堕ちていくわけなんである。誠に、過ぎたるは猶及ばざるが如し、なんである。前回紹介したように、パラケルススの、どんなものも、摂りすぎると毒になり、適量ならば、薬になるわけなんである。だから、永遠の生命を獲得したいならば、適量適所の栄養学が必要となるわけなんである。十人十色で、人生色々なわけで、人間の自我は前世のつながりから既に多種多様の個性なわけで、どのような人生を送るかは、当人の自由の裁量に委ねられ、何を食べるかも、当人の自由なわけで、7年毎に、新しく人体をつくりかえるには、栄養学が必須であるのがわかるはずである。人智学的栄養学が説くことは、あなたが病気になったのは、あなたの栄養学に、あなたが無知なためであり、病気になってはじめて、あなたの栄養学の必要性があきらかになる、ということである。宇宙は自給自足でつながっているのが、相互愛の大切さからわかるはずで、だからこそ、シュタイナーの人智学的宇宙学を紹介する。 ★ ★ ★ ゴルゴダの秘蹟に関連して、今回の連続講義を通して、確立しようとした人智学による霊的な認識について注意を促しておく。人智学が語る現実を、その唯物的な側面だけの現実を用いて、論理的に正当化した議論で反論し、対抗し、無効にしようとしても、不可能である。自分たちの知識に沿って、人間はいくらでも、唯物的に正論を唱えるのも可能だが、それによって人智学が否定されることはない。 かっての講義「いかにして人智学の基礎を見いだすか」の中で、比喩を用いて、次のように説明したことがある。 小さな少年が家族のために朝食用のロールパンを買いに村に通っていた。その村では、ロールパン1個が2クロイツァーだったが、その少年は常に10クロイツァーもらっていた。その少年はパン屋から沢山のパンを持ち帰っていたが、彼は算術が得意でなかったので、パンの数は考えていなかった。 あるとき、その家族に養子が来た。彼はその少年の代わりに、パンを買いにいくように言われたが、その養子は算術が得意だったので、次のように考えた。 「10クロイツァー持ってロールパンを買いに行く。パンは1つ2クロイツァーで、10÷2は5だから、家に持って帰るのはパンは5個のはずだ。」 ところが、家に帰ってみると、6個のパンを持ち帰っているのがわかった。そこで彼は思った。 「これはおかしい!10クロイツァーで6個も買えるはずがない。計算は正しいから、明日は5個持って帰るだろう。」 しかし、次の日も彼は10クロイツァーで6個のパンを持って帰った。計算は正しいが、その計算は現実には対応していなかった。というのも、その村では、パンを10クロイツァー買ったら、おまけにもう1個のパンがもらえるので、5個ではなく、6個のパンを受け取る習慣になっていたからである。その少年の計算は正しいが、現実の習慣には対応していなかったのである。 この例のように、人智学への批判や反論は、論理的には「正しい」かもしれないが、全く異なる原則の上に立っている現実とは何の関係もない。この顕著な例は、数学的に正しいのと、実際の真実との違いを理論的に示している。 このように、我々の努力により、マーヤの世界はリアルな現実へと導かれ、回帰していく、のが示された。この過程が示すのは、火とは、犠牲への愛であり、空気とは、流れ、与えられる徳であり、それら流体は、「諦め」と「拒絶」の結果から生まれることだった。今日、この3つの真実に4つ目の真実を付け加えた。 それは、土、もしくは固体の本性とは、死であり、本来の、宇宙的な目的からの分離=逸脱だった。この分離が始まったとき、マーヤ、もしくは幻想の世界の中に、死が1つの現実として入ってきた。神々自身は、何らかの形で、物質界に下降し、マーヤ、もしくは幻想の世界である、その物質界の中で、死を、その真の本性から理解しない限り、決して、死について知ることはなかった。 この死のリアル性が、これまで議論してきた概念に、付け加えたいことである。また、これらの概念、それは、後の、マルコ福音書の内容を、根本的に理解するのに、とても必要な概念だが、それらへの明瞭な認識を獲得するには、人智学的な現代に適応した瞑想を通して、それらの概念を繰り返し、魂に働かせ、自我を目覚めさせることである。というのも、マルコ福音書を理解するには、宇宙的な出来事を、このような基本的な霊的な認識で、見通す必要があるからである。
2024年01月11日
コメント(0)
今年、巷は年頭から波乱続きで、正月気分も吹っ飛んでしまっているが、とにかく甲辰の新旧交代の年が色濃く出ている年頭ともいえるかもしれない。前回も紹介したが、人間には自由が与えられているが、それは善悪の判断を獲得する人生のためであり、なによりも、善悪の判断から、自らで、天国を心のなかに形作るためなのがわかるはずである。人間が生きるためには、自由が、生きる養分というか、いわゆる栄養として必要だが、そのために、自給自足に至るための農業も重要だが、農業の代わりに、自由に食する、人智学的栄養学を紹介していきたい。シュタイナーは、栄養学などでも説いているが、なんらかのドグマに陥るのを戒めている。巷の菜食主義とか、過激な主義主張を戒めている。何を食するか、摂取するかは、個人の自由な判断に委ねられる必要があり、専門家などの言いなりになれば、洗脳と同じで、偶像崇拝の似非宗教と同じで、せっかくの善行も悪行になってしまうわけなんである。だから、キリストは、善行は隠れて行い天に積みなさいと説いているし、釈迦も、独りサイの角のように歩めと、説いている。善行も集団化すると、個人の自由がなくなり、悪党のような悪行に変わってしまう恐れがある。徒党を組む政治家をみればわかる。いつの間にか個人よりも組織の論理を優先してしまう。そして挙句の果てにはブラック化やパワハラが横行するのである。現代の宗教団体の多くが地獄に堕ちるだろう。勿論、喫煙するのも、アルコールを飲むのも、自由だが、ただ肉体に損害を与えるのを覚悟すべきだろう。昨今なら、公共の場では受動喫煙の問題にも派生しているので、自由に喫煙するなら、そのような場所を自らで探し、確保しないといけないだろう。自由というのは横暴ではなく、悪いモノを良いモノに変えていく行動にある。生きるために何が必要かは、本人の自由な善悪の判断に委ねられる。現代風にいえば、自己責任なんである。だから、栄養学といっても、十人十色の人生があり、それだけの自由があるので、結局のところ、何が体にいいのかどうかは、当人の人生への心掛け次第なんである。どんな風に生きたいか、どんな人生を送りたいかで、何を食べるかどうかも変わってくるわけなんである。医食同源という格言があるが、パラケルススが説いたように、どんなものも、食べ過ぎれば毒になり、適量を摂れば薬にもなりえる、というわけなんである。神戸新聞NEXT|兵庫県内|週刊まなびー|理科の散歩道|(739)あらゆるものは毒? 栄養素も量次第で悪影響 (kobe-np.co.jp)パラケルススの名言・格言 - goo辞書さて、人智学的栄養学は、なんらかの食べ物を推奨するのではなく、食べ物と人体との関係を解き明かすものである。前回、少し紹介したが、乳と蜜の流れる地という聖書の記述から、幼児の栄養には母乳が不可欠で、子どもにはミルクが、大人になってからは、蜂蜜が、人間のアストラル体の感覚器を育成するのに重要なのを紹介した。だから、統合失調症の予防に蜂蜜が良いと思われる。はちみつ療法|はちみつ資料館|みつばち牧場 (kawai-land.com)そして、思考力を与えるには、塩が、それも、植物の根菜類の中に含まれている塩分が必須であるのも紹介した。シュタイナーは、子どもの頭を強くし、寄生虫を排除するには、根菜類を、例えば、人参を食べさせるとよいと述べている。ただし、根菜類は、消化不良を起こしやすいので、十分に熱を通して調理し、消化しやすい形で与えるべきと述べている。対して、ジャガイモは茎の植物なので、前脳には至らずに、炭水化物なので、消化されて、糖に変わり、その力だけが後脳に至るが、皮相的で、唯物的な思考を生みやすいので、よくないと述べている。ジャガイモは食べやすく、すぐに食べ過ぎてしまうので、思考の毒になりやすく、思考が前脳にまで循環せずに、後脳だけで処理してしまう傾向を帯びるようになり、十分に考慮せずに行動するような愚か者を養成しやすくするので、ジャガイモの食べ過ぎは人間を怠惰にさせ、よくないと、シュタイナーは戒めている。カウチポテト族 - Wikipedia人間は植物を食べることで生きる栄養を得ている。植物のなかには、宇宙の天体の運行があるが、だから、植物を万遍なくバランスよく食べるのが、健康となる。人智学的栄養学では、バランスとは、植物の根、茎、葉、花や実の4つの部位を万遍なく食べる事を意味している。現代の栄養学は元素の成分ごとに言及しているが、それは唯物論の、生命要素を考えていないので、人智学とは全く異なり、肉体の物質面しか考慮していない。例えば、現代の唯物的な栄養学では、植物の生食などを勧めているが、人智学では、生食は消化に悪いので基本的に勧めていないし、加熱し、なんらかの調理を推奨している。生食しすぎると、消化に負担が掛かり過ぎて、かえって人体を壊すと説いている。勿論、植物の果実や葉の、植物性脂肪は、人体にはそれほど消化を必要としないので、生食でも、果実は、腹部の腸の栄養、葉は胸部の肺や心臓の栄養となると説いている。しかし、消化力の弱い人には、果物を食べやすく加工して、与えないと、栄養にならない。また、植物性タンパク質は、消化力を必要とするので、それなりの消化力がない人に、菜食を勧めるのは、かえって人体を消耗させ、生きる活力を失わせることになるという。タンパク質は肉体、つまり物質体を形作るエネルギー源なので、アスリートなどの身体強化には必須なので、植物性タンパク質から作り出す能力が弱い場合は、動物性タンパク質で補完しないと強度を維持するのが困難なので、スポーツ選手が肉食をするのは、パワー不足を補うには必須となる、といえるわけなんである。例えば、ラグビー選手の食事量をみれば、菜食主義が無理なのがわかるはずである。ラグビー選手の食生活 何をどれくらい食べているの? - #たつログ (konnotatsuro16.com)ラグビー選手のトレーニングを支える栄養補給の秘密とは? (morinaga.co.jp)人智学的栄養学では、タンパク質が肉体=物質体に必須で、脂肪が、エーテル体に必須で、炭水化物が、アストラル体に必須で、塩類が自我に必須なのを説いている。それらは、植物の、根、茎、葉、花や実として、万遍なく植物種として分布しているが、人体の消化力を考えて、人生の目的に合った形で、バランスよく摂るのが、医食同源になるわけでもある。シュタイナーは、物質体、エーテル体、アストラル体、自我のどれかが他より優勢な体質から、4つに大別し、4つの気質として人智学で説いているが、4つの気質を考えて、気質に見合った食事をすることで、健康のバランスが保たれるわけである。例えば、肉体労働者が、塩辛いものを好みやすいのは、物質体に、自我がひきづられないように、自我を強くするために、塩類を摂取しようとするためで、バランスをとり、恒常性のためであるのがわかる。また、炭水化物は、アストラル体を刺激するので、感覚を強くするので、流行に敏感になるが、敏感になりすぎると、中身がなくなりやすい、俗に、俄か、のミーハーになる。風見鶏のような存在といえるかもしれない。だから、アストラル体には、エーテル体が必要で、脂肪を摂る必要がある。しかし、脂肪を摂りすぎて、感覚に鈍感になると、あまり動かず寝てばかりいると、太鼓腹になって、肥満率の高いデブで有名なアメリカ人になってしまうわけなんである。空港で暇なときにする、アメリカ人を見つけるゲームなどで、デブなアメリカ人はお馴染みになっているが、栄養学では、脂肪の摂りすぎを意味している。シュタイナーの4つの気質から、タンパク質、脂肪、炭水化物、塩類の4つの栄養学を考えると、バランスよく何を食べればよいのか、医食同源がある程度わかってくるだろう。子育てがラクになる4つのヒント~シュタイナーの考える4つの気質 | 子育ラボ (simplife150.com)胆汁質とは、自我が優勢な気質の人で、塩類を好む。多血質とは、アストラル体が優勢な気質の人で、炭水化物を好む。粘液質とは、エーテル体が優勢な気質の人で、脂肪を好む。そして、憂鬱質とは、物質体が優勢な気質の人で、タンパク質を好む。それらを図で示すと以下になる。自分と真逆のタイプの子を育てる「もんのすごく、悩んだ」 ~シュタイナー教育の4つの気質~ | カラフル!ライフ × カラフル!エデュケーション (ameblo.jp)このように4つの気質、4つの体のうち、どの体が優勢かで、性格が異なってくる。物質科学の栄養学では、人間は食物によりつくられていると考えられているが、それは物質体だけの話で、食物のほとんどは人体内で消化されて、つくりかえられているので、実質は、人体にエネルギーを与えているだけで、同じようにみえる物質にしても、7年毎に人体は生まれ変わっていると、シュタイナーは説いている。自らでエネルギーを生み出す能力、つまり消化力が低い人は、動物の力を借りて、動物性のタンパク質や脂肪を摂取することで、賄っているといえる。つまり、化学反応でいえば、動物性のもの、つまり肉食は、触媒といえるかもしれない。触媒 - Wikipedia生(なま)食は高い消化力を必要とするので、調理して、できるだけ体内での消化力を楽にさせるのが栄養学からは望ましく、そのために、料理がある。例えば、食パンだけでは、消化力が悪く、ほとんどが炭水化物なので、エネルギーを必要とする脂肪が必要なので、バターやジャムなどをつけて食べるわけなんである。塩類、炭水化物、脂肪、タンパク質との、4つの気質のバランスを考えて、栄養を摂るために、シュタイナーの人智学的宇宙学を紹介する。 ★ ★ ★ だから、キリストによる、自我の死からの再生こそ、ゴルゴダの秘儀の、リアルさを示す事実を、物質界だけに見つけられる。この物質界だけの、リアルな再生、となるのは何か? 物質界だけにあり、リアルなため、立ち止まって、「これが真実!」と言えるものは何か? それは人間だけにある、自我の死であり、宇宙の他の生命領域にはありえない死である。地球進化の中で生じる歴史的出来事を理解するには、精神的な原型へと上昇しなければならない。しかし、ゴルゴダの出来事について、例外である。ゴルゴダの秘儀は、直ちに、直接、現実の物質界に属し、現にリアルに存在する。 今述べたリアルとは全く別の面の、幻もまた明らかになるのが、非常に興味深い。今日では、ゴルゴダの出来事は真実ではなく、いわば幻の出来事とされ、唯物的な歴史でも、歴史的事実と認めるのが不可能である、と現代人が言うのを聞くのは非常に重要である。 歴史上の大事件の中で、ゴルゴダの秘儀ほど、唯物的に確認できる方法で証明困難なものはない。この出来事に比べれば、物質界での人間の進歩にとって重要なソクラテス、プラトンなどのギリシアの哲学者たち、つまり、歴史上の人物の議論をするほうが、いかに容易かを考えてみればわかる。 「ナザレのイエスが実際に生きていた」にもかかわらず、歴史からその痕跡を主張できないと、多くの現代人が言う。しかし、その出来事についての否定的な歴史上の証拠も存在しない。いずれにしても、他の歴史的事実を取り扱うような方法で、ゴルゴダの秘儀を取り扱えない、のは確かである。 この唯物的な歴史、物質界で生じた出来事が、他の超感覚的な領域での事実と同じ特徴、つまり、いかなる物質的な方法によっても証明され得ない、という特徴は正に特筆すべきことである。そして、超感覚的世界を否定する人たちの多くが、同時に、この出来事を(超感覚的出来事ではないが)、把握する能力を欠く現代人たちでもある。 その出来事が現実なのは、それが与える影響により確かめられるのは事実だが、現代人は、その現実の出来事が、実際に歴史上で起こらなくても、その影響は生じ得るだろう、と推測する。 現代人は、その影響を、社会学的な状況の結果として説明するが、宇宙的な創造の過程を知っている者にとっては、「キリスト教」の影響はその背後に立つ力なしでも生じ得た、と考えるのは、畑に種を植えなくてもキャベツは育つ、と考えるのと同じくらい愚かな考えにみえる。 更に、極論すれば、福音書の著作に携わった個人にとっても、ゴルゴダの秘儀を、歴史的な証拠に基づく歴史的な事実として証明する可能性もなかった(何故なら、それは物質的な観察による知覚可能な痕跡を残すことなく生じたからだが)と言える。 ヨハネ福音書の著者(直接の目撃者である)を除く福音書の著者たちが、どうやって、ゴルゴダの出来事を確信できたのか? 彼らにとっては、伝承と、秘儀に関する書物以上のものはなかったので、歴史的な出典によって理解した、わけではない。この状況については、著書「神秘的事実としてのキリスト教」の中で概説したが、彼らが「キリスト=イエス」の実在を確信したのは、天空の星位を通してだった。 というのも、彼らはまだ、大宇宙と小宇宙の関係について熟知していたので、彼らがもっていた知識(今日でも、獲得可能だが)により、星の配置を通して、世界史における重要な出来事を見通せたからである。 彼らは、「星座がこのような配置にあるとき、「キリスト」と言われる「存在」が「地上」に生きたはずである」と確信した。マタイ、マルコ、ルカ福音書の著者たちは、天文から、歴史的な出来事についての確信を得た。彼らは、福音書の内容については超感覚的能力によって獲得したが、地上で起こった出来事についての確信は、宇宙の星座の配置から引き出した。 このような古代の天文学について知識がある人は、福音書の著者たちを信じるはずである。福音書の歴史性に関する反論が不正確で、それを証明するのは無意味な作業である。人智学者は、物質界とは全く異なる基礎(人智学の霊的な洞察力を通して得られる基礎)の上に立っている、のを明確にしておく必要がある。
2024年01月10日
コメント(0)
今年は元旦から不幸な出来事が押し寄せてしまっているが、何度も紹介している今年の干支の甲辰の、60年前1964年をみてもわかるが、航空機事故が多発しており、6月に新潟地震も起きているように、天変地異が多いい日本列島においては、救助救済活動を確実にしていく年となるといえるかもしれない。なによりも、現在も救助救済活動に従事している方々に感謝の意を表明するのが先決であろう。なによりも、禍福は糾える縄の如しで、災い転じて福となす年とすべきだろう。1964年 - Wikipedia病気を予防するには、病気になる一歩手前の未病の徴候を掴み事前に対処できるような、事故を未然に防ぐには、小さなトラブルを見逃さない霊能力の一種が必要となるだろう。甲が、植物の種子から芽が出る様子を示しているように、不安定要素を見逃さない、もし見逃してしまうと、辰でわかるように、震動や激震や震災の震の字でわかるように、大きな事故につながってしまう年なんである。東洋では、生命エネルギーを表す、辰は龍で、良い徴候のシンボルだが、西洋では、龍は悪魔ドラゴンを表し、シュタイナーのクリスマス論でわかるように、大天使ミカエルの敵である悪魔ルシファーである。特に航空機事故は人災なので、安全な運行体制の見直しが重要になるだろう。また、地震は天災とされるが、宇宙の運行を見通せない人類の浅はかさからきているので、本当は、人災なんである。例えば、人智学的農業を学べば、略奪農業を行い過ぎると、土地が疲弊してしまい、安定な循環代謝ができなくなり、地球は窒素で呼吸しているので、窒素不足に陥り、人間が酸素呼吸できなくなるように、地球が窒素を大きく吸収しようとして、地震などが起こるわけである。地震とクマ出没地域の関連は、現代科学では見出されていないが、以下の地図をみれば、大地の疲弊から、クマの餌が森林に少なくなり、クマが森から出て人を襲うようになってしまったといえるだろう。クマ被害、北海道から西日本まで広がり過去最多 マップで見る出没状況 - 産経ニュース (sankei.com)つまり、日本海側の森林を中心とする大地の疲弊による新陳代謝がよくないので、大地が不健康で、生命体で考えれば、いわば風邪を引いて、身震いしていると考えられるわけである。日本列島自体が、龍の形をしているので有名なので、龍を鎮めるために、各地域に神社があり、大天使ミカエルを招来しているわけなんである。古代日本では神社を中心に稲作農業を興していた。農業は大自然の営みを司る職業なので、農業を通じて、天意が地に伝わり、大天使ミカエルが勝利すれば、昇竜となるが、逆に、天意に沿わないで、人類の我儘な利益追求で、龍が勝利してしまうと、降龍になって地獄に堕ちていくかもしれない。下図は昇竜になっているが。ここで私事になるが、変な初夢をみた。UFOが雲の形で、飛来してくるのだが、それを地球の戦闘機が追跡し、攻撃するが、なぜかミサイルが悉く地上に落ちてきて、爆撃を食らうという夢だったのである。この夢は何を暗示しているのか、と自分なりに考えてみると、高次の宇宙人が善意をもって、地球を救いにきているのに、人類は愚かにも、自分だけが救われようとして同士討ちをはじめてしまうので、宇宙人が呆れてしまった、という話に解釈した。例えば、羽田の航空機事故も、地震の物資輸送のために、海上保安庁の輸送機が、航路のやり取りに失敗し、民間航空機を破壊してしまったわけで、行政の調整能力や救済のための安全体制の問題に帰するわけで、なによりも政治家の裏金問題などがいまだ解決できないのも、行政の傲慢さや怠慢さが挙げられるようにみえる。とにかく去年の癸卯は、筋道を明確にする年だったので、善悪の基準を確立させるべき年だったのに、悪を今年に持ち込んでしまったのが、大問題である。だから、今年は激動の年となるのが予感されるわけなんである。面白いことに、1964年にも、UFO目撃事件が起こっていることである。UFOが宇宙人の乗り物とは私は思っていないが、というのも、高度な宇宙人が、わざわざUFOなどに乗るほうが原始的だからで、古代アトランティス時代には、実際に、人類の乗り物だったわけで、いまも軍事兵器の一部で、ドローンなどをみればわかるが、かつてナチスでもUFOを開発していたのは有名な話で、ロケット開発の父科学者フォンブラウンはナチスの技術指導者だったから、ヒトラーは悪魔の憑依体といわれてたナチスから考えれば、悪魔の指導を受けている連中がつくったと考えるのが現実的だろう。ソコロUFO事件 - Wikipediaヴェルナー・フォン・ブラウン - Wikipediaつまり、UFO問題とは、高度な宇宙人を山車にして、人類同士が支配権を獲得するための、いわば獄中で、誰が監視役になるのかの同士討ち、騙し合いにすぎないと思う。UFO問題は、あまりに低能すぎて嫌気がさすだけである。同士討ちや騙し討ちのツールなので、ウイルスと同じで、表に出せないわけである。それだけ人類が悪の道に走り、利益を貪り、物欲旺盛になってしまい、地獄に堕ちる連中が増えただけで、人類から、サルに退化するのも時間の問題といえるわけなんである。いまだに戦争を止められないのが、人類がどんどん馬鹿になっている証拠でもある。戦争するために国をつくる馬鹿がいる限り、人類が高次の進化を遂げるのは夢のまた夢であろう。とにかく、巷が無能な政治家ばかりで明らかだが、初夢から、今年は冒頭から激動の年となるのが予想されるわけなんである。人類が賢くなるには、とにかく善悪の判断を身に着ける事である。聖書には、宇宙の仕組みが書かれている。宇宙の仕組みとは、端的に言えば、自給自足である。宇宙全体は宇宙全体を自給自足するために、巡っている。つまり、天体の運行が、自給自足の原点といえる。宇宙を自足させるためには、人類は自給しないといけない。天体の運行から、自給自足が生み出される。農業がもっともその聖職に相応しいが、だから古代東洋では、百姓と呼ばれたわけで、大自然の営みから、人間社会の秩序を構築する族長の意味で使われたわけなんである。百姓 - Wikipedia天体の運行から、干支が生まれ、日本では、族長から、陰陽師などが派生し、行事を司っているわけで、いまでも、伊勢神宮などは、自給自足事業を行っているわけである。天体の運行に従った農業ができなければ、大地の安定も生み出せずに、天変地異が発動してしまうわけである。天に従い、地を鎮めるのが、神社の役割で、仕事なんである。だから神社が私利私欲や利益追従に走ると、天変地異が多発するわけなんである。農業も商業化して、略奪農業になると、大地が不安定になり、善行も悪行となり、天変地異の発信源となってしまう。これは農業だけでなく、民間企業や行政も、独占し、利益を貪るようになると、社会に不安定を与え、活力や新陳代謝を失わせ、巷の、ピッグモーターの保険詐欺やら、蛇に芸能界問題やら、政治家の裏金問題などのように、社会不安を拡大させて、不安定要素から、大事故や破綻を起こさせるわけなんである。全てはつながっているのだから、利益を貪る莫れ、強欲になる莫れである。社会の安定を図り、新陳代謝を促すのが、人類の役割なんで、そのために、宇宙から自由が認められ、そのためには善悪の判断が人生に求められるわけなんである。人類は、宇宙から、善悪の判断の試験を課されていると考えればよいだろう。そのことが、聖書に書かれている失楽の意味である。人類の祖アダムが、楽園にある生命の樹の、善悪の判断の果実を食べたとは、人間が物質界に参入できる切欠になったわけで、人間が神に従わずに、自由を得る権利が与えられたが、その物質界での自由な人生は、善悪の判断を身に着けるためである。つまり、自由を生かすも殺すも、人間の善悪の判断次第なんである。善悪の判断の人生テストに合格すれば、輪廻転生から解脱でき、天国に天使として昇格できるが、合格できなければ、何遍も落第し、地獄に何度も堕ちて、繰り返し人生をやり直して、永遠に彷徨うユダヤ人のようになってしまう。いずれ、人類を卒業できないと、悪魔の仲間入りになってしまうわけなんである。地震や事故の背後には、ドラゴンの象徴である、アーリマンという悪魔の巨大な力がある。人類の善悪の判断の拙さから、運悪く、アーリマンが起こす天変地異の犠牲となってしまい、生命を落とし、亡くなってしまう、物質界からの追放というリアルな死が、人間だけにあるが、半ばで犠牲になった生命は、もし生きていたら可能になった人生の余生を、課題克服の機会を非常に悔いるという。つまり、課題が残ったまま、次の人生に向かわざるを得ないので、後悔先に立たずで、その思いが深まるという。だから、次の人生を背水の陣で迎え、課題の克服に全力を注ぐようになるという。天災の犠牲者は、他の人よりも、その思いの分だけ、課題克服に能力を費やすので、課題が明確になる人生を送るようになる。天災での死は、次の人生の目的を明確にし、善悪の判断がつきやすくなるという。なにより、犠牲になることで、自らの人生を読み解くことで、悪の実態を知るので、悪が何者かを知り、何が善かがわかる。だから、人間の死に無駄な死はないのである。死後に生前の人生の反省を行うことで、善悪の判断が身についていくので、人生が自由なのである。自由な人生には、唯一人間にとってのリアルな死があるわけで、そのリアルな死を、神が体験するために降臨したのが、ゴルゴダの秘蹟であるのを、以前、シュタイナーのキリスト論で紹介した。人間のリアルな死は、善悪の判断を身に着け、天国に上っていくためのものだが、動物は違うのを、キリスト論で、シュタイナーは明らかにしている。動物にも、人間と同じ感情を司るアストラル体があるが、人間だけが持つ、自我がないので、個人的で自由な、リアルな死がない。動物の死は、動物種の、種族長が命じる変態でしかないという。だから、動物の生死は、黄道十二宮の獣帯に従うという。シュタイナーによると、動物の死が、リアルでなく、種全体の統御にあるのは、動物を大自然の営みから解放し、家畜化すれば、ある程度わかるという。例えば、乳牛の乳をあまりに絞り過ぎると、その乳牛の仔は弱くなり、それが三代以降続くと、乳牛は育たなくなり、全く乳を出さなくなってしまうという。これは、漁獲量の摂りすぎが、海洋の環境破壊につながるのと同じである。最近になって、物質科学でもようやく土壌のなかの微生物生育が問題視されるようになったが、人智学では、100年も前に、土壌だけでなく、生命の育成が、宇宙の天体の運行に従っている、のを明らかにしている。動物の自我が、天体の運行に従っていて、人間のように自由ではなく、だから、大自然の営みから解放し、小屋などに閉じ込めて、切り離してしまうと、脆弱になり、いわば精神病になってしまい、生命力を失い、亡くなってしまうわけなんである。人間だけが、自由に死ねるのである。動物は、大自然の営みから切り離されると、自然に死んでしまうのである。動物は大自然から独立できないので、家畜は飼い主がいなくなると、大自然にもはや戻れなくなり、死ぬしかなくなる。だから、家畜を飼うにしても、ある程度、放牧などして、動物がもつ、天体の運行に従った集団自我に曝され、つながらないと、防衛本能がなくなってしまい、病気に罹り死んでしまうわけなんである。これは、家畜化されたオオカミなどの種の、犬の散歩でわかるだろう。人間もサルのように、あまり頭を使わずに、退化し、動物と化し、善悪の判断を失い、孤立すると、精神不安定になり、死んでしまうのは、統合失調症などでわかるはずである。肉食ばかりして、闘争的で、利益を貪り、悪に走るような、裏金つくっても反省しない政治家のような悪徳動物が、派閥をつくりやすいのは、動物の集団的な回帰本能として、退化している証拠ともいえる。なぜ悪は群れるのか、がこの動物への退化現象でわかるはずである。だから、悪党という言葉はあるが、善党という言葉はないわけなんである。人間は自給自足の自我を生かせば、独りでも独立して生きていけるわけで、党派や組織など、数の論理で思考をなくすのは、動物への退化現象なんである。聖書には、乳と蜜が流れる土地が、約束の地で、楽園であると記述されているが、それは、天体の運行に従った、乳牛と、ミツバチが多く住む、植物の新陳代謝の良い森の土地であるのを意味している。シュタイナーは、幼児が成長するには、母乳が何より大切で、天然の牛乳もある程度なら、代わりにはなるが、大自然の六角形の感覚をつくる刺激に乏しいので、わずかな石英の珪酸が必要であると説いている。カナン - Wikipedia珪酸を摂取するのは、蜂蜜が良いが、六角形の形成力が強すぎるので、幼児には下痢になる。だから、幼児の成長には、母乳が欠かせなく、人工のもので、代用すると、母乳で育たなかった幼児は、晩年になってあらゆる臓器が硬化症に罹りやすくなり、統合失調症などもその類なので、老いるのが早くなるという。というのも、珪酸は、天体の運行の、土星の火を吸収しやすくするためである。ちなみに、六角形は、神秘学の六芒星の、アストラル体の感覚器を象徴化している。つまり、栄養摂取とは、物質科学でいう物質の摂取なんかではなく、天体の運行に従った太陽光をどれだけ集積したか、唯物論では語りつくせないが、無理にいうなら、光の生成を電子対生成として蓄積できたかによるわけで、光通信を、電子媒体化したかどうかといえるかもしれない。実際に、細胞のATPはミトコンドリアの電子から生まれる。アデノシン三リン酸 - Wikipediaミトコンドリアとは?電子伝達系を解説|未来ヘルスケア オンラインショップ (mirai-healthcare.jp)細胞から元気に!“エネルギー工場”ミトコンドリアを活性化して「免疫老化」を防ごう | 特集テーマ | サワイ健康推進課 (sawai.co.jp)幼児には母乳、子どもには極少量の蜂蜜と、ミルクが成長を促進するが、人生半ばの35歳を越えると、今度は、ミルクは不必要となり、蜂蜜だけが成長を促進させ、老化を阻止するという。といっても、蜂蜜の摂りすぎは毒にもなる。毒というのは、利益を貪るのと同じで、なんでも過ぎたるは猶及ばざるが如し、なんである。可能なら、大自然の営みに恵まれた乳と蜜の流れる大地を富ます自給自足の農業を行うのが望ましいが、農業ができなければ、なるべく自給自足に相応しい栄養をとるために、善悪の判断を身に着けるために、人智学的栄養学を学んでいこうと思っている。何を食するかどうかで、既に善悪の判断が身につくわけで、何を食べても自由な人生が人間にだけ与えられている。アルコールや煙草が人体に害悪なのはいうまでもなく、悪に従う自由もあるが、その責任は必ず、肉体に病気となって現れてくるのを覚悟すべきだろう。動物に悪を好む習性はないし、人間が与える食べ物は、動物にとってはほとんどが害悪なんである。だから、動物にはできるだけ大自然の作物を与えるに越したことはない。家畜化された動物の一代は、人間が与えたエサでも生命を保てるかもしれないが、その子孫の代を重ねるにしたがって、生命力が弱まっていくわけなんである。動物は、大自然の営みのなかに、自我があり、何を食べるのか、その本能に従っている。だから、本能と切り離さない大自然のなかでの飼育が重要なんである。天体の運行と、植物の生長は深く関係し、植物の種は、天体の運行に左右され、その多様性は、例えば、植物の、根や茎や葉や花などの4つの部位と関係する。根を発達させた根菜植物は、塩分に富み、人間が塩分を必要とするのは、思考するためであるのがわかるという。だから、人間が思考するには、根菜類を食べると、思考を司るエーテル体が刺激され、頭に良いという。だから、赤カブや大根などの塩分の根菜類は、頭痛に良いという。思考には塩分が必要だが、天然の植物のなかに吸収されたものでないとエーテル体を刺激できないので、ダメだという。また、シュタイナーは、ジャガイモは、茎を発達させた植物なので、頭には届かずに、喉までなので、饒舌にはなるが、思考停止に陥らせるので、愚かな、お喋りになるので、唯物論者になり、論争や闘争や戦争を好ませ、よくないとしばしば説いている。第一次大戦は、欧州人がジャガイモの食べ過ぎで馬鹿になったせいとまで述べている。ジャガイモを食べるのなら、添え物にすべきで、メインにしてはならないと述べている。トマトも、栽培しやすく、独立性が高い植物なので、自立性の高い肝臓には良いが、食べ過ぎると、ガン化を招くので、ガン患者にトマトを食べさせるのはよくないとまで述べている。動物の生命力が、大自然や天体の運行に従っているのは、例えば、養蜂でも、蜜蜂が巣という集団自我を本能としているのでわかるという。人間が蜜蜂に巣箱を与え、養蜂すると、蜜蜂は大自然から切り離され、巣箱を通じて、飼い主に従順になっていくが、それは巣箱が、蜜蜂の集合自我の代わりになるので、飼い主がいなくなったりして、その巣箱の管理が滞ると、それを自我としていた蜜蜂たちは、新しい環境に適応できなくなり、大量死してしまうという。だから、動物を家畜化するにしても、大自然に回帰できるように、飼育しないと、かえって環境破壊を進めてしまうわけなんである。大自然の営みに従うのが、善であり、従わないで、人類中心に考えるのが、悪なわけである。その人類のなかでも、私利私欲の意のままに我儘なのが、最悪の存在で、毒災独裁者なわけである。宇宙の進化から逸脱し、悪魔の仲間入りなわけである。天体の運行に従った農業の、植物の育成も必要だが、動物の育成も、重要なのはいうまでもないわけで、結局は、宇宙の天体の運行を解き明かすのが、人類の善悪の判断に必要不可欠なので、続けて、シュタイナーの人智学的宇宙学を紹介する。 ★ ★ ★ もし、今日、(エーテル体の)「キリスト」の進化が、いかに成し遂げられるか、そして、またそれと共に、人間の能力も、いかに進化するか、を理解するなら、(もし、人智学から理解するなら)、人間が、死の門を通って行くときにも、ダマスカスでの出来事が、手に取るようにわかるようになる。何故なら、今や、人間の死は、物質界から出て、最初に光輝く「キリスト」の姿が現れる瞬間となるからである。 今日、肉体をもちながら、この死後の一連のキリストの出来事に備える人たちは、死から来世への、あの世でも、死からのキリストの復活を経験できる。しかし、そのキリストの出来事に備えない人たち、今回の受肉において、それを物質界での出来事として、全く理解できない人たちは、死から来世までの、あの世においても、「キリスト」の、今の光り輝くエーテルの姿や、次の三千年を通して生じ続ける、永遠の生命の、復活について、何も理解できない。 そのようなキリストの生死を知らない人たちは、再び受肉するまで待たなければならないだろう。再び地上に戻るとき、キリストの死と再生に対する準備を、はじめからしなければならない。ゴルゴダでの死とその死から生じた復活(それは「キリスト」の永遠の生が、地上で展開するのに必要だった)を理解できるのは、肉体の中で、自由に生きる間だけである。 高次の世界での生にとって、唯一重要な事実は、肉体にある間に把握でき、認識しなければならない。一旦、肉体の中で理解できたなら、それは、高次の世界でも働き続け、益々育成されるだろう。しかし、それにはまず肉体の中で理解されなければならない。 ゴルゴダの秘儀は、高次の世界では決して起こり得ず、原型もない。それは、物質界の中だけで可能な死を包括する出来事なのである。従って、自我の死という、そのリアルさが体験できるのは物質的文脈の中だけである。地上にいる人間の使命の1つとは、いつかの受肉において、この自我の死の理解に到達することなのである。
2024年01月05日
コメント(0)
今年は年賀を暇したいので、このブログで謹賀新年致します。明けましておめでとうございます。今年の干支は去年から紹介しているように、甲辰(きのえ・たつ)で、何度も紹介しているように、新旧交代の年といわれている。昨年が癸卯で、筋道を明らかにする年だったわけだが、巷の裏金問題をみても、どうも年越しの宿題を抱えてしまったようで、勝海舟風にいうなら、新陳代謝が進まずに、至る所に老害が跋扈したままで、大掃除が必要な現状が残ったままである。勝は、老害というのはとにかく大迷惑でよくないので、身の引き際が肝心と、海舟座談で述べている。昔は敦盛で有名な人間50年で、この世の出来事などは、夢や幻のごとしで、一度、生を受けたら、滅せぬものはいない、というように、人生のやり直しはきかないよ、というわけなんである。2024年は辰年!今年はどんな年になる?辰(竜・龍)の姿の由来も紹介!|anicom you(アニコムユー) (anicom-sompo.co.jp)敦盛 (幸若舞) - Wikipedia敦盛 あつもり 歌詞の意味 織田信長 人間五十年 夢幻の如くなり (worldfolksong.com)論語でも、50歳にして天命を知るとあるように、昔は、50歳にもなれば、自分の人生の意味が理解できないといけない、という戒めの言葉ともいえるかもしれない。どうも、巷をみると、寿命が物質的に延びたからといって、老害が多く、いまだ年功序列の悪しき風習が、この国には残っているのか、それに胡坐をかいて、世代交代を怠る輩が多すぎる、のは困ったものである。その最たる例が、高齢者が起こす交通事故である。まだまだ自分は大丈夫という自分の判断こそが一番危ないわけである。肉体のどこかに不具合が生じている、のに気づかないのは、とても天命を知る、とはいえないだろう。第一、記憶力や視力が著しく退化しているのがわかるはずである。五十而知天命 (sao2000.co.jp)記憶力や視力が衰えるというのは、もはや物質界での適用能力を失っていることなんである。分相応というのを考えないといけない。若者と争ってどうするのだろう。それこそ老人の我儘である。老人には引き際が重要である。それは植物をみればわかる。落ち葉となって土の肥やしにならないと、土地に生命が宿らないのである。老人だらけの過疎の田舎に行けば、その現状が明らかである。いつまでも続くと思うな、日本列島である。この国の政治家の年齢をみれば明らかである。数十年前から、神秘学では、いわれていることだが、上下関係をなくして、フラットな友愛関係に変わっていくように、人類を指導していく時代になる予定なんである。前回、シュタイナーのキリスト論を学べば、人類の進化計画がどのようなものかわかるはずである。キリストが地上に受肉したのは、自らの自我で、自分を救うためであり、だから天は自ら助くる者を助く、といって、そのような自分の人生から、自分を救い出す自我を人間に与えたわけなんである。キリストの地上での行為に従うも従わないも、それは人間の自我性の自由なんである。この選択を誤ると地獄に堕ちるし、正しく選べば、天国へと永遠の生命を獲得し、輪廻転生を解脱できるわけなんである。人間のカルマと輪廻転生を学べば、老人の行い、というのが自然に決まってくるものである。だから昔は定年、隠居制があったわけである。後進に道を譲る、大切さを考えないといけない。いつまでも、老人がでしゃばる社会は衰退に向かうだけである。老人がカネを貯めるのは、社会が不親切で不信で、不安だからである。カネの勘定から脱せないわけで、それでは輪廻転生どころか、物質界の地獄からも脱せられない。老人が安心して隠居して暮らせる社会こそが楽園の理想である。家庭だっていつまでも姑が威張っていたら、親子喧嘩が絶えない家庭になってしまうわけで、ましていまでは核家族化が進んでいるので、世代間の引継ぎがなく、同じ失敗を繰り返して、子育ての経験をはじめからやることになり、それだけ文化教育や風習教育、作法や仕来りの躾についての、人間教育が遅れてしまうわけなんである。なんのための上下関係だったのか無意味である。教育のための、文化の引継ぎのための上下関係で、ただ上が威張り、我儘をするだけでは人間失格なんである。なんでも物質主義で、唯物論で、科学科学で、精神性を考えないから、いい年して隠居もできないような老害が増加して、新陳代謝が滞り、いつまでも若者気分で、パワハラセクハラをするアホ老人が増加してしまい、カスハラやモラハラが蔓延してしまうわけなんである。50歳すぎたら、愛を与える年齢なんで、若者の心を汲んでやらないと、自分が若者だった頃の経験が生かされないわけなんである。人智学の天使論をみれば、50歳過ぎれば、人生の付け足しみたいなもので、いわば余生であり、オマケみたいなもんなので、いつまでも若者気分でいるのは愚か者のやる事で、晩節を穢すだけである。年頭から老人に対する説教をしてしまっているが、とにかく、この国の政治家をみていると、あまりに情けなさすぎる。権力を貪り、その虜になってしまっている。権力でなんでもできるようにみえるが、それは幻想で、カネを同じで、それでは地獄に堕ちるだけである。キリストが金持ちは天国にはいけないと言っているのがわからないほどおバカなんだろう。カネが必要な世界こそ、そこが地獄の証なんである。愛はカネでは買えないからである。欲望と愛を間違えてはいけない。愛とは、自分の自我の中心にあり、宇宙とつながっている、愛の源泉のことである。前回のキリスト論からわかるが、人間が人生から学ぶことは、自由と愛である。人間だけが悪を選択する自由があり、それを選ぶ代償が、カルマとなって、輪廻転生を繰り返す。地獄を知らないと、天国もわからない。与えられた人生から学ぼうとしなければ、どんな人生であっても、無意味である。つまり、50歳になっても、天命を知れなければ、人生を無駄に過ごすだけである。それは生きていても、実は死んでいるのである。過ぎたるは猶及ばざるが如し。宇宙の神秘さにただただ感謝!この国が新しく生まれ変わるように、願って。モノが良く壊れるが、毎日がただただ幸せな元旦である。やはり、大自然は素晴らしい。分相応である。日本の富士山は大自然のピラミッドである。ピラミッドは秘儀参入の神殿で、古来から、日本人は、富士山で三日三晩修行して、霊能力を獲得したのである。50にもなれば、富士山に登り、天命を知れたのである。シュタイナーの秘儀参入学をいずれ紹介したいと思う。日本人は恐らく、芦ノ湖の洞窟で、闇の地獄を経験し、富士登山で、三日三晩寝ずに過ごして、霊能力を獲得したものと思われる。エジプトでは、天然の神殿が見当たらないので、ピラミッドを人工的につくったのだろう。東洋では、大自然のなかに、神の天命を知り、西洋では、人格を高めるなかに、神の天命を知る違いがある。だから、東洋の絵画は自然画が多く、西洋の絵画は人物画が多いというわけなんである。東洋はいまだ古代アトランティス時代の残滓の集団の自我をもつので、自我が弱く、だから、空気を読むなどの、古い文化を引きずっている。キリストの十字架刑の意味がわからずにいる。モーセがシナイ山でみたのも、ダイヤモンド富士と同じ、太陽霊キリストの自我なのである。自由と愛の光をみるために、シュタイナーの人智学的宇宙学を紹介する。 ★ ★ ★ もし、我々が、人間性を越えて、高次のヒエラルキア存在たちにまで上昇するなら、高次の存在たちは、人間のようには、死を知らない、のがわかるだろう。真の死、すなわち物質界での死を経験できるのは、物質空間上から、何かを受け取れる存在だけである。 人間は、物質的文脈の中で、自我意識を達成しなければならないが、それは死無しには見つけることができない。人間より下のランクに位置する存在たちにとっても、上に位置する存在たちにとっても、死について語るのは意味をもたない。 しかし、「キリスト存在」と呼べる存在の、地上での最重要な行為が無になることはない。実際、「キリスト存在」については、ゴルゴダの秘蹟(死に対する生の勝利)が、あらゆる出来事の中で最重要な出来事であった。 では、死に対する、この勝利は何処で遂行されたのか? その勝利は、高次の世界で行われ得るのか? そうではない! というのも、鉱物、植物、動物の領域で言及したような、低次の存在たちについて、死を語れないが、それは、これらの低次の存在たち(の自我)が、真に存在するのは、感覚界=物質界を超えた、高次の世界にあるからである。 そして、高次の存在たちを語るには、死ではなく、変態=メタモルフォーゼや再構築だけである。死と呼べる、いわゆる生への締結が生じるのは、個人的自我を獲得した人間だけである。そして、人間が、死を経験できるのは、物質的な文脈の中だけである。 もし、物質空間に入って行けなければ、人間は決して死を知らなかっただろう。というのも、物質面に入って行かない存在は、死に関して何も知れないからである。他の世界の中に、死のようなものは何もなく、他世界にあるのは、変態=メタモルフォーゼだけである。もし、「キリスト」が死を体験するなら、物質面に下る以外にはなかった! 何故なら、キリストが死を経験できるのは、物質面だけだからである。 このように、人間の進化における歴史的出来事について、高次の世界の現実が、マーヤの中で、驚くべき形で働いているのがみられる。歴史的な出来事を正しく思考するなら、確かにその出来事は物質的領域の中で起こっているが、その源泉は精神界の中にある、のに気づくはずである。この事は、あらゆる歴史的な出来事についても言える。ただし、1つの出来事を除けば! というのも、ゴルゴダの出来事は、物質界で生じたが、その出来事に対応する死が、高次の世界に存在する、とは言えないからである。確かに、「キリスト」自身は、高次の世界に属し、そして、物質界へと下って来た。 しかし、他全ての歴史的な出来事に存在する元型は、ゴルゴダで成し遂げられた出来事には存在しない。ゴルゴダの秘儀は物質界でのみ生じ得た出来事だった。 人智学はその証拠を提供することになるだろう。例えば、次の三千年にわたって、ダマスカスにおける出来事の新しい例が多数見られるようになるだろう。この事について、しばしば言及してきたが、パウロがダマスカスで見たように、人間は、アストラル界で、エーテル形姿の「キリスト」を見る能力を発達させるだろう。 高次の能力を通してキリストを知覚する、この経験は、次の三千年期を通して益々発達するが、20世紀から始まるだろう。近代(1900年前半)以降、この能力は徐々に現れ、次の三千年期を通して、多数の人々によって身につけられる。 その能力は、多くの人々が、「高次の世界を覗き見ることによって」、「キリスト」は1つの現実(真実)であり、生きているのを知るようになる、ということである。多くの人々がキリストを知るようになるが、それは「キリストが今も生きている」からである。 彼らは、いかに今キリストが生きているかを知るようになるのではなく、むしろ、正にパウロがそうであったように、キリストは死に、そして復活した、のを確信するようになる。けれども、この基礎認識を、高次の世界ではなく、物質界で見つけなければならない。
2024年01月01日
コメント(2)
クリスマスはとっくに過ぎてしまったが、人智学的キリスト学を読み解くのに時間がかかり、年末の縦込んだ忙しさに遅れてしまった。ともかくも、シュタイナーのキリスト論の後半を紹介したいが、その前に、この国の進化からの逸脱を戒めておきたい。日本語が、もはや議会制民主主義の最高機関の国会では、意味不明な言葉になってしまったのは、司馬史観によれば、明治政府以来の、官僚言葉が蔓延ってしまったせいともいえるかもしれない。司馬史観によれば、大久保利通の言葉から曖昧な政治用語が生まれたという説がある。司馬遼太郎 - Wikipedia霞が関文学って何??|NHK NEWS WEB前回紹介したように、日本史も、薩長明治政府の都合で、酷く改変されたが、日本語も、身分差別がないように改変されるべきだったが、「遺憾」などという、中途半端な、言葉を発する立場を曖昧にする日本語の無意味な表現が目立つのは、人間が嘘を平気でつけるような意識が生まれたせいにもみえる。第393回 「遺憾(いかん)」は政治用語ではない - 日本語、どうでしょう? (japanknowledge.com)上述のサイトによると、「遺憾」という言葉は、室町時代にはじまり、「残念」という意味に、後年になって、抗議に使われるようになって、「残念」という意味で、抗議する際に使われるようになっているらしい。そもそも、このような古い言葉を、意味もわからずに使い、国民に真意を伝えない、曖昧な態度が、精神的に進化していない証拠でもある。代議士は、国民の代わりに議会に参加しているわけで、国民に正しく伝わるような言葉遣いを心掛けてほしい、皇室のような伝統を重んじる組織ならまだしも、どうせわからないだろう、というように、国民を舐めた言葉遣いをするのは非常に問題である。国民にも誰が何のために、誰に述べたのかをはっきりさせるような言葉遣いをすべきである。言葉遣いも曖昧だが、明治政府の四民平等の不徹底さも、その曖昧さからわかる。以下のサイトをみれば、言葉遣いからくる、差別用語がいまだに残るのがわかるような気がする。日本ペンクラブ電子文藝館 (bungeikan.jp) ☆ ☆ ☆ 「四民平等」の実態 このような部落内外の動きを背景にして、賤民制の廃止が発令されたのだが、それは、もっぱら外国への体裁をつくろうのと、全国土全人民を政府が画一的に支配するためであった。政府はえた・ひにん廃止を令すると同時に、府県に、地租そのほか、従来かれらからは取り立てなかった公的負担を、今後は平民なみにとるよう調査のうえ大蔵省へ伺い出るべきことを通達したが、勧業資金を与えてその生活を人なみに向上させることなどは、考えてもみなかった。解放令当時のえた・ひにんおよび官庁用語で「雑種賤民」とされた人々の総数は五十万人以上、全国総人口の一・七パーセントを上まわるものと推定される。 こうして複雑な封建身分制は、超人間的身分である天皇と皇族および華族・士族・平民の三級に整理された。華族は依然として貴族身分であり、旧領主としての莫大な財産をひきつづき保証された。士族もなお社会的に高い地位をしめ、しばらくは封建家禄を与えられていた。明治六年七月施行の新刑法「改定律例」でも、華士族にたいする刑罰は平民にたいするのとは違って、軽い罪は金をだしてあがなうことをみとめ、平民なら懲役刑にあたる罪を禁錮刑にした。 この刑法ではまた、官吏を華士族と同じにあつかい、平民の官吏となったものと、その父母兄弟子孫の犯罪は、すべて士族に準じて取り扱った。官吏は新しい特権身分になったのである。 つまり「四民平等」は名のみで、華士族と官吏は新しい特権身分となり、人はすべて平等であるとの理念さえうちたてられなかった。ことにもとの賤民にいたっては、その名称が廃止されたことによって、従来は課せられなかった納税・兵役その他の義務を平民なみに課せられただけで、実生活上では依然として被差別身分としてのこされた。職業の自由や居住の自由は、部落民の大多数にとっては、農業・商工業に進出し、あるいは近代的労働者となる自由でもなく、ただその身分と結合していた特定の手工業のうち皮革業のような発展性のある分野の独占は、部落以外の資本にやぶられていく「自由」にほかならなかった。 しかし法制上の解放は、部落の人々の社会一般との交渉の道をすこしずつひろげ、それとともに差別される屈辱と苦しみの自覚をいっそう痛切ならしめ、その実質的解放をかちとるたたかいを発展させる一条件となった。 ☆ ☆ ☆日本には差別がないなどと平然という人に限って、日本史を年号と出来事の暗記だけで、真剣に学んでこなかった経験を物語るものだが、いまだに、男女間の差別だけを差別と考えているのも、コンプラの世の中にアップデートできていない老害たちなのだろう。例えば、八切氏によれば、「庶民」という言葉も本来は差別用語で、嫡子ではない、庶子に由来し、その由来がわからずに現代でも使ってしまうことがよくある。悪意がなければそれ程こだわる必要もないが、議員が、庶民などと使うのは、国民を差別していることになるので、些か問題発言とされることもあるだろう。新言語が新しくできているのに、いまだに古めかしい言葉で問題に対応しようとするのは、果たして、現代に生きているといえるのだろうか?例えば、Cプラプラの理工系コンピューターの言語システムの世界に、事務処理言語のCOBOLやアップデートされていない基礎言語のBASICを持ち込むようなものである。BASIC - WikipediaCOBOL - Wikipediaなにより恥ずかしいのは、この国の国会議員は、母国語も満足に話せないだけでなく、いまや国際舞台では当たり前の、英語すらも満足に話せない程度なのは呆れるしかない。裏金つくりのズルばかりは巧みなのに、肝心の表舞台での表現能力は小学生レベルの作文能力しかないのである。こんな能力で、心を割って話せるのか、心に響く表現ができるのか、全く期待できない、無能レベルなんである。それもこれも、官僚の作文を読むだけなんで、AIのほうがまだ遥かにマシかもしれない。要するに、この国の政治家のレベルは、中世とほぼ同じで、物質科学が進んだ恩恵に預かって、物質的略奪経済が発展してきただけで、中身の精神は、逆にどんどん退化しているだけなんである。国民を騙して、利益を上げる事しか頭にない詐欺政治なんである。政治家が、日々変わる母国語も不勉強で、言葉遣いが曖昧でいい加減で、読み仮名までふった官僚の作文に依存し、母国語を話せないままで、古いままの特権階級に胡坐をかいていると、この国の財政赤字が増加し、いずれ破綻し、滅亡するのは、火を見るよりも明らかである。特権階級に胡坐をかけるのも時間の問題である。なによりも、国会議員から、隗よりはじめよで襟を正し、差別をなくさないと、論争、闘争、戦争がこの地球からなくならないのは、自明の理なんである。それにはまず、日本語という母国語を現代に合わせた明確な心を表明する言葉にしていく必要がある。沈黙は金なりというのは、古の諺で、行動がモノを言うのは、いつの時代でも、成り立つ金言である。行動には動機が必要だが、動機こそが、言葉となる必要がある。つまり、有言実行となる言葉を、日本語という母国語に求めないと、いつまでたっても、有言不実行のような、現在の体たらくの国会のような無用の長物となる。公人はよく古から武士に譬えられるが、「武士に二言はなし」とは、武士には実行しかない、と言う意味である。つまり、同じことを二度とはしないという意味で、次に同じような動機をもったら、より進歩した行動をするので、日々向上を心掛ける武士には、同じ動機でも、進歩した新しい行動に変わっているので、同じことをしないので、同じ過ちをしないし、嘘もつかないので、常に新しい行動を心掛け、精神的に精進できるわけなんである。行動に対して常に反省し、精神精進を怠らないから、武士なのである。武は戈を止めるという漢字からなり、その意は、戈の攻撃力=物欲を放棄し、止めるにあり、士は、天に仕える意である。王が、天と地を結ぶ存在で、天の意を地に伝える存在を意味し、士は、上の横線の一が取れて、天に仕えるになったものと思われる。士とは逆の形の、干は、干支の干で、恐らく、天意に曝すという意味からくるのだろう。だから、武士とは、攻撃力を止めるために、天意に仕える存在といえるわけである。八切史観では、武士は、ブジンの不信からきていて、物書きができる唐からきた貴族には、信用できない存在なので、武人(ブジン)と呼ばれた陰口から生まれたようである。由来が、悪しき意味でも、時代が変われば、新しく、良い意味に変わるのもので、以前紹介したように、「ヤバい」が江戸時代の牢屋の意味があり、江戸時代以前の古くは、被差別民族の八の場所から、八場(ヤバ)と呼ばれたのが、時代が移りかわり、令和では、ヤバいというのは、比類のない、無双の意味で使われているわけである。古い言葉が良い意味にかわったり、現代に蘇るのは、その使い方のいわば実例集からくるわけで、有言不実行では、言葉を発するだけで、嘘をつくだけの、無意味に終わってしまうわけなんである。マジ、ビビる、ムカつくは最近の若者言葉と思いきや、じつは古くから使われてきた言葉だった!?(季節・暮らしの話題 2016年03月03日) - 日本気象協会 tenki.jp遺憾というだけで、その言葉の動機となる、感情の源の、身体を動かす肝心要の、心臓を動かそうとする、自分の自我から精神表明がなされていないから、そのような形だけの上っ面の表現だけを口から発していると、心臓が、血液の血流と融合しなくなり、血流が不安定になり、澱んで血栓などができてしまい、動脈硬化をいずれ呈するようになるだろう。感情の籠らない形だけの言葉を発していると、なんらかの病気、心筋梗塞や、腫瘍などをどこかの臓器に呈するか、関節が硬くなっていくだろう。有言不実行の恐ろしさを、体験しないと、精神が向上しないためで、それは人間として生きるための大切な徳目なんである。だから、十戒にも、人を欺くな、嘘をついてはならないと、あるわけである。裏金つくりの職業と化した政治家を続けていても地獄に堕ちるだけである。地獄に堕ちる前に、人生をやり直すに越したことはない。生命を辞職よりも大切にすべきである。政治家になれなくても、他の職業に就けばよいわけで、生命を失うわけではない。日本人は、どうも精神的に進化していないのか、生命よりも、仕事の方が大切に思うような古い価値観に囚われているようにみえる。悪行をする仕事ならしないほうがマシで、ブラック企業に投資するのは、悪行に加担し、地獄に堕ちるのと同じ罪を背負うだけなんである。武士の本当の生き方を知らなすぎて、嘘で美化された軍国化された奴隷日本史に洗脳されてしまっているようである。自分が悪行に加担しているのかどうかの判断こそが、今生きる意味の学びなんである。特権階級に胡坐をかくよりも、ホームレスで生きるほうが自給自足の正しい道に近いから、金持ちは天国に行くのは困難なんである。悪に手を染めて生きるよりも、貧しく生きるほうが天国に近いのである。永遠の生命は、現在の正しい生き方の延長上にあるのだから、そのことを示す、人智学のキリスト学の後半を長くなったが紹介する。 ★ ★ ★ 第二位階=ヒエラルキアに属する運動霊、つまり、デュナミスには、悪となる可能性は全くなかった。反逆という命令を考えればわかる。第三位階=ヒエラルキアに属する天使、つまり、人間に近い、すぐ上の天使だけが、反逆命を受けた妨害的な運動霊に、従うか、従わないか、を選べた。 反逆を選択しなかった天使たちは、天空の戦いでの勝利を描いた絵画などに表現されている。このような絵画は、人間のアストラル体への受肉、つまり動物人間に進化していた、月の進化段階に起きた出来事を表現している。反逆に組みしなかった天使たちは、地上の月進化過程から離脱し、下方の月上で起こった出来事から免れた。 このような悪の構図は多様な形で、人間の魂の前に現れる。それはまず、ミカエルと龍の戦い、として表現され、ミトラ教の牡牛の絵画にも表現されている。しかし、その牡牛の絵画は、これらの天使たちが、自らの役割を放棄した、のを表現したのではない。 その意図とは、理想の未来を描くためである。その絵画で説かれている意味は、次のようなことである。 「ほとんどの天使たちは、好んで精神界に上昇したが、人間は、『反逆の天使たち』に従った堕天使たちと共に降下した。だから今、人間が、自ら選んだ反逆心を捨て、精神界へと再び上昇するかどうかは、人間自身の努力にかかっている。上方へと向かう進化の途上で、ミカエルのように、雄牛の征服者になるように求められる。」 この天空の戦いに由来する、悪の象徴は、上記のような、二重の意味で理解されるべきである。 だから、上述からわかるように、人類が自身の力で、その目的を達成する可能性(セラフィームでさえ、自らの努力では到達できない目的だが)が与えられたのは、運動霊たちが反抗命令を受け取ったからに他ならない。この事実が最も重要である。 セラフィーム、ケルビーム、トローネたちは、神が与えた直接的な意志に従うしかない。主天使たちや、第二ヒエラルキア位階の天使たちも同様である。ただ運動霊の位階に属する一部が反抗命令を受けただけである。 反逆命を受けた運動霊たちが、進化の道筋を横切るように身を投げ出したのも、神の命令に従っただけである。「悪の源泉」とでも呼べるような堕天使が生じたときでさえ、ただ神の意志を遂行したにすぎない。自らを悪の僕とすることで、これらの運動霊たちは、悪という回り道によって、善を強化しようとした神の意志を達成した。 さて、能天使、あるいは形態霊と呼ばれる存在たちにまで下ってみる。同様に能天使も邪悪になれなかったが、人格霊(アルカイ、権天使)や火の霊(アルヒアンゲロイ、大天使)も同様である。というのも、後者が、太陽の上で人間の進化段階を通過したときには、運動霊たちはまだ反抗命令を受けず、まだ、悪になる可能性もなかったからである。 この、悪になる可能性を、最初に獲得したのは天使(アンゲロイ)だが、それは、この悪の可能性が存在するようになったのは、月の進化段階以降である。「天空の戦い」は太陽紀から月紀への移行期に起こった。 多くの天使たちが、この障害の導入に唆される可能性を拒否した。多くの天使たちは、以前の本性について真実であり続けた。このように、最下位の天使に至るまで、そして天使の一部もまたそうだが、高次のヒエラルキア存在たちには、神の意志に従う、純粋な誠実さ以外にはない。これが最重要である。 だから、二種類の存在たちがいる。第一に、反逆命を受けた運動霊たちに従い、「天空の戦い」のなかに自らを投げ入れた天使たちがいる。これらの堕天使たちは、後の行いによって、ルシファーと呼ばれた。堕天使たちは、地球進化の間に、人間のアストラル体に働きかけるようになり、人間に、悪の可能性を導入したが、また同時に、自身の自由な活動を通して、自らで進化する可能性も導入した。 だから、ヒエラルキアの位階全体を通して、自由の可能性が見つけられるのは、天使の一部と人間だけである。自由の可能性は、最下位の位階の天使から始まるが、それを善きものとして十分に進化させられるのは、ただ人類だけである。人類が地球へと降ってきたとき、最初は、ルシファーの大群による圧倒的な力の餌食にならざるを得なかった。 これらの大群が力によって、人間のアストラル体に浸透した結果、人間の自我は、その力の領域の中に絡め取られた。レムリア期とアトランティス期、そして、その後の時代においても、自我が、ルシファー的な影響によって生じた雲の中に包み込まれている、のがわかる。 このような、人間を弱体化させる力によって圧倒されることから、人間が守られたのは、天上の戦い、以前の存在たち(反逆せずにとどまった天使や大天使)が人間に影響を及ぼし、人類を指導するために、選抜された人物たちに受肉したからに他ならない。この受肉は、ある重要な出来事(キリストのゴルゴダの事件)が起こる時まで続いた。 天上での戦い以後、太陽と結びついていた、ある存在が、高次の存在たちと同じように、人間の肉体、エーテル体、そしてアストラル体だけでなく、自我に浸透できるまでに進歩した。 天上の戦い以後、一部の天使たちが下降し、人間の肉体、エーテル体、アストラル体に、魂を吹き込んでいた。 さて、進化の流れのなかで、特別重要なターニングポイントに、最も気高い存在(太陽と結びついていたが、いまや、地上の自我に、つまり、人間の自我の力の中にまで、インスピレーション=霊聴力で働きかける存在)を、自らの中に受け入れる準備ができた、地上の個人が立ち現れた。 自我は人間の血を通して、自らを表現する。血液の物質面が自我を表現するように、血液の温かさ、もしくは、その火は、古き土星の火の名残りだが、自我の表現である。 この自我存在は、天と地との、二重の形で、自らを物質的に表現しなければならなかった。火という元素霊の中で、自我は、燃える林とシナイ山上の稲妻において、自らの自我存在を、モーゼに告げ知らせた。 その自我存在は、人間の自我の中に浸透し、燃える林とシナイ山上の稲妻や雷鳴から、モーゼに語りかけた。この存在は、その暁を準備した後、血に浸透された体、つまりナザレのイエスの体の中に現れた。 この太陽存在は、地上の個人の中に入り込んだ。人間の自我は、そのときから、自我に浸透した救済力によって、次第に満ち、溢れるようになるだろう。 太陽存在により人間の自我が満たされることで、人間の自我は、自身の救済力を通じて、自我を地へと引きずり下ろす力を持った、あらゆる悪の影響を、次第に克服できるようになるだろう。 というのも、人間の自我に浸透した、この太陽の救済存在は、天上の戦い以後、地上に下降し、肉体、エーテル体、そしてアストラル体に、魂を吹き込んだ、堕天使たち(ルシファー存在)とは、その本性において真逆だからである。 いま古代の聖なる導師(リシ)たちを考えてみる。既に以前述べたように、高次の精神は、導師たちのエーテル体に宿っていたが、それは、崇高な存在が、偉大な古代アトランティスの祖先たちのエーテルに宿り、それを聖なる導師(リシ)たちが引き継いでいたからである。 高次の精神は、導師(リシ)たちに伝えられたが、導師(リシ)たちのエーテル体のインスピレーション(霊聴力)を通じて流れてくる太陽存在を、当時の、人間の自我とアストラル体では、理解できなかった。つまり、古代アトランティス時代から、ポストアトランティス時代へと続く流れとは、理解できない霊聴力の一種を引き継ぐ事だった。 人間はインスピレーション(霊聴力)を受け取ってきたが、それを受け取るときには、人間には何か力のような存在を経験した。インスピレーション(霊聴力)とは、いわば力で捉えられるものだった。そのような場合、自分で、何とかするという、努力という、通常の人間がもつ力では、及ばない、到達できないものだった。 その人間が進化し、改善するには、完全な存在からのインスピレーション(霊聴力)を受ける必要があった。宗教の創始者たちは、このような状況にあった。天上の戦いに巻き込まれずに、超越していた存在たちが、宗教的創始者たちの魂を強化していたが、そのことで、人間たちが自身の能力にのみ頼るようにはなっていなかった。 けれども、ようやく、キリストにおいて、非常に異なった本性の存在が現れた。キリスト存在は、絶対的に何の強制を行わない、つまり、人々を、キリストに従わせるために、強制力を全く行使しない存在だった。この事は最重要な原則である! もし、キリスト教の伝播を探求すれば、キリストが、キリスト教の布教については、その生涯において、強制的には何も為さなかった、という証拠を見つけるだろう。 古代の宗教創始者たちを探求すれば、偉大な人類の教師たちなのがわかるが、宗教創始者たちは、人類の進化の、高次のヒエラルキアから霊聴力を与えられた、人類進化のターニングポイントとなる、特別な時期から教えを伝え始め、そして、その教えは圧倒的な力をもって人類に働きかけている。 しかし、改めて、キリストについて考えてみると、キリストは、その教えを布教したといえるだろうか? キリストの主要な貢献が、教えにある、と考える人は、キリストを真に理解できない。少なくとも第一義的に、キリストは、教えではなく、行いを通して人類に働きかけた。そして、キリストの最も偉大な行いとは、死により終わった十字架刑にある。その行いとは、最もリアルな死だった。これが最重要な出来事である! キリストは、十字架刑を通じて、人類に働きかけた。そして、この行為についての知識が、世間に広まり始めたとき、キリストはもはや、物質界には存在していなかった。この違いが、キリストの影響と、他の偉大な宗教創始者たちの影響との根本的な違いである。この違いを理解するのは困難だが、最重要な違いである。 キリストの教え、キリスト教による教え、キリスト教布教による教えは記述でき、他の宗教体系のなかにも見つけられる。この事は否定できない。確かに、キリスト教の教えの本質は、それ以外の宗教体系の中にも含まれている、と言える。 しかし、キリスト教のこのような影響は、その教えの内容を通してなのか? キリスト教を広めるために多大な貢献をした人物は、その教えに頼ったのか? そこで、使徒パウロについて考えてみる! サウロからパウロとなったのは、聖書の中に書かれている教えが働いたのか? 十字架刑で死を遂げた人物が、雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロは、キリストが「生きている」という、個人的な神秘体験を持つまで、キリスト=イエスに従う者たちを迫害していたのである。 キリストの十字架刑による死と、その神秘体験による影響が、パウロにとっての布教活動の切欠となったのが重要である。他の宗教体系は、教義を通じて働き、その教えは、キリスト教の中にも見つけられる。しかし、キリスト教においては、教えはさほど重要ではない。問題は、キリストの「行い」にある。 キリストの行為が、ある人に働きかけるには、その人が、キリストの行為を、行おうと決めたとき、つまり、個人の自我がもつ、絶対的に自由な本性と、キリストが示した行為とを、1つに結びつけるときだけである。人間のアストラル体のなかに、キリストが宿るだけでは不十分なのである。 キリストを、真に理解するには、自我のなかに招き入れなければならない。自我は、キリストの受け入れを、自由に決断しなければならない。これが重要な点である。自我を、キリストに結びつけた結果、人間の自我は、現実を、つまり、単なる教えではなく、神聖な実行力を獲得する。 だから、キリスト教の教えは、既に至る場所で見つけられるが、その教え自体は、それほど重要でないのを、何万回でも示せる。キリスト教の本質は、高次の精神界への自主的な上昇を通じてのみ、自らの自我を通じてできる行為にある。 人間が、キリストの力を、自分に受け入れるのは、その行為を喜んで受け取るからで、その行為を自主的に受け取らない人は、永遠に与えられることはない。人間にとって、キリストの受け入れが可能になったのは、キリストが地上で人間となってから、つまり、キリストが、地上で人間になるように召還されたからである。 ルシファー的な存在となり、地上に住むようになった墜ちた天使たちの立場は違う。実際、堕天使たちは「月」の上で、人間になるべきだった。しかし、堕天使たちは、キリストを拒否し、受け取らずに、その進化の途上で取り残された。その結果、堕天使たちは、人間のアストラル体に浸透できるが、人間の自我には浸透できない。 堕天使たちは、異常な状況にあり、それらは、多少学者ぶった存在にも見えるかもしれないが、あくまでリアルな存在ではなく、ただ思考のイメージや知性として表現できるだけの存在である。レムリア進化期における人間のアストラル体を(エーテル体と肉体は無視し)、円で表現すれば、自我は、徐々にアストラル体の円のなかに入っていき、このアストラル体の円内に包み込まれる。 次に何が起こるのか? レムリア期を通じて、ルシファーの悪の力が、アストラル体の、あらゆる側から忍び込んで来て、その悪の力は、悪の活動を通して、人間に浸透してきた。ルシファーの悪の力は、人間においては、低級な熱情として表現される。人間が間違いや悪を犯す可能性は、アストラル体に浸透し、情緒として組み込まれた。つまり、ルシファーの悪の精神が、悪の可能性を、人間に導入した。 もし、ルシファーの悪の精神が、人間のアストラル体に導入されなかったなら、人間は決して間違いを犯すことも、悪を行うこともなかっただろう。代わりに、妨害的な影響を受けない自我を受け入れた天上の領域へと上昇していただろう。そのような楽園で、人類の偉大なヒエラルキアの高次の指導者たちは、人間が、あまりに(ネガティヴな物質性へと)深く下降してしまわないように守っただろう。 だからこそ、キリストの救済が起こる必要が生じた。キリストを自主的に受け入れた人を取り上げてみる(勿論、キリスト教はいまだ初期段階にあるが、理想的状況を取り上げる)。つまり、人間の自我が、完全な自由意志によって、キリストの力を、自分の中に浸透させた、と考えてみる。 自我が進歩してキリストに浸透されるまでになったとき、キリストの力はアストラル体を照らし出し、そこに注入されていたルシファーの力による行いにも浸透する。そのとき、未来においては何が起こるのか? キリストの救済によって(その自力による救済によってのみ)、我々はルシファーから進み出る、アストラル体のなかの、あの悪の性質を打ち消せるようになり、同時に、そのルシファーの力から、自らを徐々に解放できるようになる。ルシファーの力により、人間の自由のために、進化から逸脱する、低次の物質段階へと下降していかなければならなかったが、そのため、地上ではキリストの力を経験できなかった。 そのルシファーの力が、人間を通して、キリストの力を経験し、救済されるときが来る。人間は、もし、適切な形で、キリストの力を受け入れるなら、ルシファーの救済にもなる。その結果、人間は、そのルシファーの妨害の力を受け入れなかった場合と比べて、より自我の自主性により、善へと向かい、強くなっているだろう。 もし、人間がルシファーの力を受けなかったら、どうなっていただろうか? キリストの力は流れ込んでいたが、ルシファーの妨害には出くわさなかっただろう。我々は、この悪の相殺力を一度は、自主的に自分の善から克服したことで、現在、それが可能となった程度にまで、善による、真理、叡智にまで、進化できた。 人間もまた、ヒエラルキア(天使)存在の1つだが、上位の他の存在とは異なっている。つまり、セラフィーム(熾天使、愛の霊)、ケルビーム(智天使、調和の霊)、トローネ(座天使、意志の霊)、キュリオテテス(主天使、叡智の霊)、デュナミス(力天使、運動霊)、そしてエクスシアイ(能天子、形態霊)、アルヒャイ(権天使、人格霊)、アルヒアンゲロイ(大天使、火の霊)、そして、アンゲロイ(天使、薄明の霊)の一部とも異なっている。 未来を遥かに仰ぎみて、人間は次のように言う。 「私は、自らの行為への意志=責任を、内的な自我の最奥にまで追求するように求められている。例えばセラフィームのように、神の命令からではなく、自身の内的な自我存在から行う」と。 キリストは、衝動や情緒など、なかば強制的に従わせるような形で、功利的で打算的に、受動的に働く神ではない。人間がキリストに従うのは、ただ本人の理解と自由から行うだけである。キリストとは、多様な方向に進化しようとする、自由で個別的な自我を、決して妨げない神である。 キリストは言葉の最も深い意味で、次のように言う。 「汝は真実を知るだろう。そして、真実は、汝を自由にするだろう」と。 そして、ヒエラルキアに属する、悪を行う可能性のあるルシファーの堕天使存在たちは、人間の善の力によって、再び救済され、善なる自由にされるだろう。 このように、宇宙の進化は単なる繰り返しではないのがわかる。新しい要素が入ってくる。人類が経験するような人間の段階は、以前の天使、大天使、或いは権天使の間で見られたのと同じではない。 人類は、宇宙のなかで成就すべき、全く新しい使命、今記述したような使命をもっている。人類が、地球に降りて来たのは、この使命を達成するためである。キリストは人類の自由な救済者としてやって来た。上から働きかける神ではなく、多くの存在のなかに、最初に生まれた存在としてやって来た。 宇宙のヒエラルキアの構成員としての、人類の尊厳と重要性を十分に把握できるのは、霊視で、このように読み解く方法だけである。高次のヒエラルキア存在たちの、高貴な本性と栄光を見上げて、人間は、次のように言えるだろう。 「これらのヒエラルキア存在たちが、いかに力強く、賢明で、善なる存在(真の道から外れない)だとしても、宇宙に自由をもたらし、そして、自由とともに、真の言葉の意味において、愛と呼ぶものをもたらす、のが人類の偉大な使命なのである」、と。 というのも、自由なしには愛の存立は不可能だからである。ヒエラルキアの上位の命令に、どうしても従わざるをえない天使たちは従うしかないが、反逆が可能な天使にとって、それを可能にする唯一の力がある。その力が愛なのである。自由と愛は相互に属する2つの極なのである。 もし、愛が我々の世界に入ってくれば、上位の命令以外の方法が可能になるのは、自由により、つまり、ルシファーとルシファーに打ち勝つ者(その者はまた人間を救済する者でもある)、つまりキリストの愛の救済力によるものだけである。 地球が愛と自由の宇宙である、というのは、この理由によるが、重要なのは、人類を、謙遜として、神から遠ざけるのではなく、西洋の秘教においては、絶えず継承されてきたような一連のヒエラルキア存在たちの神意を理解することである。 セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネは神の眼差しの下で伝達される直接的な衝動に従う。キュリオテテス、デュナミス、エクスシアイは、高次の力に非常に密接に結ばれているため、人間の更なる障害を超えた進化を可能にする反逆命令を受け取らなければならない。 大天使や人格霊でさえ、間違いを犯し、自らの自由な決意から悪に陥ることもない。人間の直上に位置するヒエラルキア存在たちは、天使という、いわば神の伝達者、もしくは大伝達者の意味で呼ばれるが、それは、天使たちが、自分で仕事を成し遂げるのではなく、上方から受け取った命令を遂行するだけの存在を示している。 一方、人間は自身で仕事を遂行するように、徐々に成熟し、進化していくヒエラルキア存在なのである。木星紀、金星紀、そしてヴルカン星紀の進化を通じて、人類は自我の自由な愛の成就に向けて、徐々に成熟していくだろう。今日、この目標は、いまだ遙かに遠いものとはいえ、いつか人類は、その目標を達成するだろう。 では一体、ヒエラルキアとは何なのか? セラフィーム、ケルビーム、トローネから始める。神から受け取った命令の遂行によって、その権威を行使する。次の位階の、デュナミス(運動霊)は、上方から受け取った命令に従う。そして、それはエクスシアイ(形態霊)にも当てはまる。もし、それらの天使たちが、悪の存在になるなら、神界の決定の結果として、悪の存在になるに過ぎない。 そして、次に、人間のすぐ側まで降りてくる権天使(人格霊)、大いなる御使い(大天使)、そして御使い(天使)へと至る。人間は、どのようにしてヒエラルキアの位階に組み込まれるべきなのか? 大天使と天使(大いなる御使いと御使い)の後に続いて、ヒエラルキアの位階に置かれるべきなのは、「自由の霊」、もしくは「愛の霊」とでも呼べるような存在である。上から下に数えるなら、この存在は「10番目のヒエラルキア(天使)」である。 この「10番目のヒエラルキア(天使)」はいまだ発達途上だが、にも関わらず、霊的なヒエラルキアに属している。宇宙では、単なる繰り返しが行われるだけではない。1つの周期が完結する度に、新しい要素が宇宙進化の中に導入される。そして、その新しい要素を組み込むのは、常に人間の進化段階にあるヒエラルキア存在の仕事なのである。 今回の講義では、人間の意味と重要性を、宇宙の意義から考察することによって、推し量ろうとしてきた。今日、少なくとも、ある程度、人間存在の意義に関する精神的な質問を投げかけた。そして、秘儀の教えに従って、宇宙の中心点としての人間存在の重要性を確立しようと努めてきた。 この人間存在を確立するなかで、宇宙のヒエラルキア構造の大円の中心の謎、つまり人間の謎を円の周辺から解明しようとした。円周の観点から点の謎を解こうとした! 円周から中心点の謎を解く事で、我々の叡智を、現実の物質領域に配し、創造できる。これが、つまり、真の人智学の叡智が、物質界では、具体的な知識となり得る、という本質的な、人間の中心点でもある。言い換えれば、人智学的知識自体が、宇宙と精神的なヒエラルキアの像を直接創り、円とその中心点にある人類として描き出す。 我々人間は、宇宙の中心にいる。 人間の周囲にある物質界全ては、宇宙の意義を失わせるが、それは、人間の感覚による、知覚可能な外界から、人間が直面する謎を解けないからである。 それは、ただ、まるで、あらゆる物質が1つの点に濃縮されるかのようである。 しかし、全てが、中心という一点に圧縮するとき、宇宙の謎についての答えが、物質と同様に、力強く現実の存在として、そして、それは精神的存在の反映にすぎないが、そのような叡智がイメージとして、一点で物質と共に消滅し、宇宙の大円周から、新しい要素として、再び蘇ってくる。 物質は、物質自体が互いに寄せ集まり、中心点で消え去ると同時に、新しい世界の周辺において再び現れる。 これが真実である。 我々の知識が現実となるのは、それが宇宙全体の構造として、もしくはその進化過程(プロセス)として、我々の目の前で、その歩みを進めるときである。そのような知識が、もはや思いつきが形になったもの(空想的な理論の織物)ではない。 というのも、そのような知識は宇宙から生まれてくるからで、我々人類が発達させるべき感情とは、上記のような、自由と愛だからである。 叡智は、我々の理想になるべきである。それは宇宙の周辺から生まれて、大いなる力で、つまり、我々が、自身の運命を成就し、自身の宇宙的な理想を達成するのを可能にするような力で、我々を満たせる叡智である。この愛と自由による叡智の力があれば、未来に、我々を待ち受ける人類の理想を現実にするのもまた可能となるだろう。
2023年12月30日
コメント(0)
クリスマスの続きを書くつもりだったが、また悪い日本史虫が蠢きだしてきて、日本史暴露もんの八切史観を紹介してみたくなった。というのも、今年になって、巷では、本来は権力の監視役のマスコミが、権力忖度し、一緒に隠蔽してきた過去がようやく明るみになってきたからでもある。日本史で重要な視点が抜けているのは、いまでも社畜という言葉が残っているように、明治時代までは、表向きにも、日本は奴隷国家だったわけである。明治政府が戦争をできたのも、奴隷を徴兵にかえたからで、福沢諭吉などは、学問をすれば、奴隷身分から解放されると、学問のススメを書いたから、奴隷身分から抜け出そうと、流行書のように売れたわけで、江戸時代が平和とされているのは、奴隷カースト制度が厳密に機能していたからで、少なくとも、現在のような表向きにも民主主義国家ではなかったわけなんである。明治政府の富国強兵は、高杉晋作の奇兵隊の焼きまわしでしかなく、看板を欧米風の欧化政策の鹿鳴館で、プロシアのビスマルクに倣って、挿げ替えただけでしかなく、日本史も、プロシアの地政学者を招いて、江戸時代に流行した講談による武士道を、欧米風の騎士道に脚色しているにすぎない。ルートヴィヒ・リース - Wikipediaes_9_Takii.pdf (u-tokyo.ac.jp)この国の現代の歴史学者は盆暗なのか、肝心要の日本史そのものの歴史を検証していないのである。日本史がどのように書き換えられてきたのか、を問わないから、明治政府が都合よく書き換えてきた現在の日本史を盲信してしまう風潮がある。お上の書く創作権威主義の日本史までありたがる奴隷根性なんである。だから、戦国史なども出鱈目で、戦国大名がいかにも美化され、現代のアニメの主人公のようなスーパースターに描かれ、偉人の如く崇められているが、北野武監督の「首」をみれば、現代の反社組織と変わりのないブラック組織を地で行った姿がリアルに感じられ、従来の明治政府の創作した日本史に洗脳されていた人たちを、奴隷意識から、解放するような予感が無きにしも非ずの今日この頃なわけである。現にいまでも、政治家の裏金問題でもわかるように、この国の政治をみても、真の民主主義国家とはいえないし、国会を最高議会とする法治国家であるなら、秘書に責任転嫁できる犯罪逃れができる立法能力に問題があり、その立法能力の限界を有利に利用している政治家たちの無能さ、立法を秘書任せにしていることになるのだから、政治家の無責任性を問題にしないといけない。民主主義以前の中世的感覚の、差別感覚がいまだに残っているわけで、民主主義国家の看板を挿げ替えただけで、いまだに精神的な中身は、中世の差別意識のままで、官僚を「お上」と言ったり、政治家を「先生」づけで呼ぶのでわかる。私が子どもの頃は、敗戦後の高度成長期の昭和だったが、なぜか、同じアジアの、東南アジア人を蔑視する風潮が残っていた。東南アジアから出稼ぎにきている外国人を差別していたわけなんである。出稼ぎ労働者を差別する風潮が昔からあったといえるだろう。八切史観の日本史を学べば、今の東南アジア人は、東南アジアに奴隷売買で仕方なく売られて行った日本人の祖先の末裔かもしれないのだから。面白いのは、本来、民主主義国家では上下関係というのはないのだが、この国では、スポーツの世界で顕著に現れるところにある。例えば、日本のスポーツ選手が、海外に行くと、その差が顕著に現れるのがわかる。米国の野球選手に上下関係はなく、日本の野球界の上下関係を、米国のヒスパニック系の選手に話すと、俺なら我慢できずに、ぶち殺すと言う位の、パワハラ行為に当たるという。勿論、上下関係が、業界のルールを守るための、ある程度の上からの抑制として、能力で優れる者の謙虚さを促すためには必要で、全くなくなると、能力に優れる者が何をしてもよい、というような、例えば、金持ちがカネの力で、自己都合のルールに書き換えたりする、傍若無人になる可能性も無きにしも非ずではある。しかし、実際のこの国の現状をみれば、上下関係の権力を利用した権力忖度を行って、金持ちがカネの力で、権力を保持し、自己都合のルールの裏金つくりに邁進していたわけだから、上下関係が悪い意味でしか機能していないわけで、性善説ではなく、性悪説で対応しないといけないのがわかる。つまり、ルールを上下関係の権力などで守らせるのは、強制的なもので、本来の自主的な意味で、性善説的に守れないと、いつまでも自主的に奴隷意識から自らを解放できないままにいるだけである。謙虚さは自主的に身につけないと、奴隷根性の裏返しの、単なるゴマすりや、いまのマスゴミのような忖度の太鼓持ちになってしまい、強者にまかれて、弱者を挫き虐げるような、弱い者いじめをする、不埒な輩になってしまう。これまでインチキの日本史により、多くの国民が戦場に駆り出され、挙句の果てには、原爆二発を落とされて、無条件降伏を食らってきたわけなんであり、いまでも、自称上級国民が、下級奴隷国民を増税で絞りあげて、裏金をつくっているわけなんである。物質的には進歩したようにみえても、実際は、看板を挿げ替えただけで、中身の人間性や、精神的には、何と進歩のない国なんだろうな。とにかく奴隷根性を一掃するために、八切史観を紹介する。 ☆ ☆ ☆ 奴隷日本人秘話 日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。 しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」とポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している。 この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。 (捕まえた僧侶などで奴隷商売ができなくなったので、殺したのかもしれない。) さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。 だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」といった受取り方で記録されているのに、今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。 ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった実地にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。 由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。 だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。 そして、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。 そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、日本人だというのもそのせいかもしれない。 (信長のアフリカ黒人の家臣の弥助は有名である。) さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。 また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長八年)の、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。 インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。 さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。 この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。 さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。 「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」 「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。 歴史家は壱岐対馬を根拠地にしてから、そこから南支那海へ出稼ぎに行ったものと、「海の男」の勇壮さだけをたたえるが、焼玉エンジンもなかった頃に、あの怒涛さかまく南支那海を、夏なら逆風なのに、どうして人力で漕いでゆけたか。 四日や五日でいけるはずもないのに、呑み水や食料はどうしたのか?その時代、香港側のマカオから、日本の堺や九州の口の津に、「定期航路」が開設されていたのは、フロイスの日本史にも明記されているが、それは、「季節風」にのって行くのだから、日本発はどうしても毎年十二月ときまっていた。 さて、百トン位の大きな帆船でさえ、冬でなくては出航できないのに、なぜ八幡船ごとき五、六人のりの小さな舟の乗組員が、その反対の夏の出発をものがたるフンドシ一つのスタイルとは如何?ということになる。 日本では歴史屋がすこしも疑問符を投げかけないから、代りに私が首を傾げれば、「夏」というのは貿易風が西から東へ吹く季節で、マカオ政庁の司書館の記録でも、「日本行きは七月または八月、ゴア行きは十二月から正月」と、これはなっている。 つまり南支那海へ夏ゆける海流の通る地帯なるものは、それより西に位置する場所しかない。 もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげていただきたい。 そこの支那郡海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は「バハン土候国」の文字がシンガポール以北にあり、バタビヤ日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。私は春にリスボンへ行って来たが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。マラッカのベンハーの丘に城砦を築いて同地を占領した「バハン公爵」の名をとったものだそうだ。 つまりバハン公爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ略奪をやらせていたのであるらしい。 五島列島の王直らのような和寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。 それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。 というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。 真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。 器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。 しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。 よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。 戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。 判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。 さて、戦後二十六年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。 われら日本人 軟弱レジスタンス 「プラハの暑い夏」というチェコのテレビのドキュメンタリー番組をみて、すっかり考えさせられた。私は米軍進駐の当時の本土は知らないが、満州で、まずソ連進駐、中共軍進駐、国府軍進駐という三段階を、銃口をつきつけられ、青竜刀で殴られ、後手に縛られながら満人の暴動の中で経験してきている。 プラハの新聞や放送局は最後まで、チェコ人民のために進駐の非をならし、それに元気づけられた市民の婆さんや少年までが、握り拳をふりあげ重戦車に素手で近づき、しきりに口々の抗議をしている場面があったが、満州ではあんなのは見られなかった。 当初チェコのマスコミは敢然と市民の側にたって、進駐権力に対してあくまでもできるだけの抗議をしていたが、私の記憶の中の在満のマスコミは全然そうではなかったようだ。 初めての敗戦なので、要領をえなかったのか、それとも権力の命令には絶対服従ということへのなれか、てんで邦人の側には、なってくれなかった。 八月十五日までは関東軍の代弁者だった彼らは、ソ連軍クラフチェンコ司令官が進駐してくると同時に、その命令通達機関に変わってしまった。 たしか八月十八日の新聞面は、「歓迎」の二文字を大きくだし、「町の清掃をきれいにしましょう」ということで、大掃除のように割りふりがでた。そして三、四日すると紙や印刷機がもってゆかれてしまい、紙面は小さなガリ版に刷りになった。 いま(昭和頃)私たちがモスクワやキエフの空港へゆくと、イン・ツーリストで現在の日本の9ポよりすこし大きい五号や、8ポより大きな旧六号で印刷された日本語の岡田嘉子著やいろんな本を、いくらでも無料でくれるが、あれは二十四年前に新聞社や新興亜印刷から、もっていった活字の字母で刷られたものである。 やがて十月。いまは粛清され又復活したとも伝わる中共故朱徳司令官が進駐してきた。 すると休刊していたガリ版刷りがまたしても発行されだし、「日僑(日本人)はその前非をくい、おおいに勤労奉仕をせねばなるまい」というのが発布されたのはよいが、さてそれから、「何月何日何処彼処には日本人誰某が何々を盗んで検挙された」「何月何日、日本人誰某が詐欺を働いた。怪しからぬことである」 ラジオも新聞も、連日、日本人の声や筆で日本人への攻撃にあけくれした。 (この日本人同士の攻撃は、昨今の人間よりもクマの生命を優先させろという無神経なクレームの熊駆除の問題にもみられる。) 十一月に入って中共軍撤退国府軍進駐の知らせが、秘密裡に洩れてきて、いわゆる、「日軍決死隊」が組織され、雪の降る朝。奉天警察総長を初め各地を襲撃した時、「憎むべき日本人暴徒を、吾々日本人の手で捕らえるか、又はもよりの警察へお知らせ下さい。そうしないと日本への帰国の望みは絶たれるかも知れません」 ガリ版新聞と日本人向けラジオ放送は、こればかりをくり返し、しまいには、「密告された方には報奨物資を、寛大なる当局のお取計らいにて差しあげます」となった。 私は当時(遼陽芸術協会)なる腕章をもらい、旧満映の吉田秀雄に脚本書きをさせられていたが、上演料は一文も渡されず、あべこべに密告される羽目になった。 しかし、のち北春日大隊をおしつけられ、二千余人の女子供をコロ島から博多へつれ戻ってきた時、引揚船の中に事情を知っている女性がいて、私が密告され逮捕された時の報奨が、粟五斤だったときかされた時には、さすがに呆然とさせられたものである。 もちろん、これらは外地での話だが、当時日本内地でも、進駐軍に対して、「あなた好みの、あなた好みの日本人になりたい」といった向きも多かったそうである。 そこでもし、改めて今どこかの国から進駐されたら、いや現実にはもうチェコなどより、ずっと早くからいるのかも知れないが‥‥。 日本の放送局や新聞は、プラハのように、民族のためにと必死になって‥‥はたして、「チェコ国民に告ぐ。われわれがついている」と声援してくれるかどうか不安でならぬ。 なにしろ国民性というものがあって、「統治しやすい国民」と、「そうでない国民」の、この二つは厳然と分かれているという。 さて日本人もかつては勇猛果敢であったそうだが、二十六年前のマッカーサー進駐以降は、「きわめて従順」という折紙がついている。口の悪いアメリカ人などは平然と、「キャトル」つまり家畜だとさえ放言する。 異邦人に占領されて以来、一度もレジスタンスしない国民というのは、世界史上まことに珍しいそうで他に例もないという。つまり宇佐美日銀総裁でさえ、「公定歩合引上げに関する談話」で、「わが国の戦後の経済成長はアメリカの余慶である」と発表し、歌舞伎俳優の阪東三津五郎丈までが、その生前には役者子供とはいうが何かあると、「おうアンポ」と、アメリカさんのお蔭ですといいだす。もちろん何をいおうと各人の自由だが、こういった従順性というのは、対外的にどういう影響を与えるものだろう? 「異人種が占領国住民を統治しようと思っても、反逆精神がオウセイで、とても手がつけられぬ」ような、そんな国土なら、何も好んで厄介な進駐をしてくる軍隊もなかろうが、「きわめて国民の資質温順なり」となると、「そうか、そんなに扱いやすいのなら‥‥」 あちらこちらから希望する向きが殺到、またも、早ばやと重戦車を陸揚げしてくる恐れもある。 この二十六年前に築いてしまった従順という信用が、やがてとんでもない事になりそうな気がする。その時には、マスコミの人が、チェコなみに頑張ってくれることを願うが、「日本人は家畜なみではないんだ」という抵抗運動も今ではオキナワにあるから、あれがもっと対外的にアッピールすると、「うるさい国らしい」と吾々は助かるかも知れぬ。そうなると苛められている彼ら沖縄県民こそ、真の愛国者という事にやがてなりかねない。 われらの造反 学術文化の浪花節「TVガイド」という小雑誌で『天と地』の演出担当ディレクターの岡崎君が私に対して、「かなり前に岐阜から聴視者の老人が長距離電話をかけてき、謙信は女だという云い伝えがあるとうるさくいってきた。どうもその爺さん頭がおかしいようだと思ったけれど、それと同じように論じちゃ失礼だが‥‥」と、いうような言い方をし、ついでに、「謙信が不犯だったのは肉食妻帯を禁じていた真言宗への深い帰依だったのを考えぬか」とまでやっている。 私はNHKのディレクターで立派な人も沢山知っているだけに、こういうのには呆れるが、NHKは一般から視聴料をとっているのだから、そこの禄をはんでいる限り、公共事業の職員として同君は私にとやかく言うのは許せるが、親切に長距離をかけてきたという年寄りを、そんなキチガイ扱いなどしてはいけない。 もちろん私の場合は『血戦川中島』の後書においても、「四年間にわたって謙信が女人と解明したのは、以前には誰もしていない前人未踏のもので私がなしとげたライフワークである。とはいえこれによってゼニを儲けている連中からは好かれんことは見えている。 こうした労多く効少ないことは利口な人のやらない事で、私みたいなバカ者が、<真実とは何か>という手掛かりをつかむため一つの試みとして根気よく追求してみた迄である」との自嘲めいた附記もはっきりつけている。 だから岡崎君なるものが、「八切はばかだ」というのなら私は何もいわない。しかし八十歳の年寄りがわざわざ局へ電話をかけてきたというのに、<頭がおかしい>と公言するのはどうだろうか。親切な老人は敬し尊ばねばいけない。 また岡崎君は真言宗もろくに知らないらしい。勉強不足である。だが上杉家が高野山へ帰依したのは江戸期の元禄事件の後からの事である。 なにしろ日本では、正しいとか正しくないとか対比決定が、常識や状況で判断されずに、「権力」によって決められるから困る。とはいえNHKは裁判所ではなく岡崎君も判官ではないはずである。 なお、ここまで書くのは気の毒だが、高野山には各塔頭ごとに訪問者の名を何百年にもわたって記録されたものが残っているから、元禄年間から初めて仏縁をえたことはそれを調べてみても判る。 また謙信が詣でているのは真言宗ではなく天台の延暦寺で、宗旨も<七福神法>なのである。 『血戦川中島』についで刊行された『利休殺しの雨がふる』、解明の先端をきってくわしく、読売新聞に連載した<謙信は男か>も入っているから、その差違をよく読んで欲しい。 さて話は違うが私の許へもよく七、八十歳位の方から電話を頂く。そして、これまでの通史とは、まったく反対のことを、「代々の口伝えだが、わしには書き残しもできぬから聞いてほしい」と、いうお頼みなので、録音にとらせて貰ったり、その異説の裏づけとなるものを、現地までとんで行き拝見したりしている。 こうしてみてゆくと、活字になっている正史とは別個に、まるで北海道のユーカラみたいな口伝の歴史というものが、根強く語り伝えられているのが判る。 これは機動隊と学生が衝突したような場合、後になると双方の事情説明が違うようなもので、権力者は自分の都合のよいように発表しこれが歴史となり、負けた方は口惜しいから、いいつたえで、「真実はこうなんだ」と残しているらしい。 だから私の場合も、講談みたいな通俗史と違うからと、居丈だかに気違い扱いされては堪らない。 さて某局の教養番組で、『大坂落城』をみたら、旭堂南陵がまず画面に現われ、大坂夏の陣の一席を伺い、そして、このよき芸人は淡々としてその後で、「東京でやる時は、秀頼は死なせます。が地元では殺さんと、秀頼薩摩落ちということにせな、お客はんが承知しまへんよって使い分けでやってま」と楽屋話を画面でしていた。 講談とはこういうものである。それをはっきり言ってのけるのはよいことで感心した。 しかし、この講談が作家の手にかかると、内容はそのままなのに、きわめて真実そうに化けるところに問題があり、それに便乗して史料さえ手作りするような、太鼓もちの歴史家まで出てくるからややこしくなる。 なにしろ今日の日本史は明治製で、頭山満が軍部のために、桃中軒雲右衛門に、三国干渉への国民の復仇心をアジるため、「花は桜木、人は武士」といった美文名調子をつくらせた時代にできたものだから、「浪花節や講談」がそのままナチュラルに、歴史の仮面をかぶって今もまかり通り、頭の固い人には既成概念となっている。そしてテレビの大河ドラマが今や正史である。 なにしろ前年十一月三日の文化の日に「学術文化振興のため」と勲何等かの勲章を浪曲師寿々木米若に授与されるようなお国柄なのである。 原住民史観の確立 「世の中かわった」とか「変革の時代」というが、変ってゆくのはどうも新しい方向へではなく、旧通りにひっくり返る事ではなかろうかとさえ近頃では危惧される。せっかく、「歴史」も、これまでの徳川史観の引きつぎでない、新しいものが真実として見つかりかけているのに、また講談的歴史に逆転の気味がある。 たとえば、「徳川実紀」とか「徳川台紀」といったものは、かつては柳営の奥深くにあるだけだったから、たとえそれに、「神君家康公は三州岡崎に生れられた」とあっても一般民衆には関係などなかったし、講談がそれに合せて作られてもエンターテイメントだったから構わなかった。しかし、それが史料に逆戻りしては困るのである。 さて今では芝居の台詞と思われているが、「生れは遠州浜松」という一言は、江戸時代には千金の重みがあったものらしい。 といって、弁天小僧菊之助が豪かったというのではない。ちょんまげ時代の世では、「浜松生れ」というのは東照権現さまの事を意味していたせいらしい。なにしろ幕末までは、「そもそもこの駿遠の地は、東照大権現の垂迹(生誕)の処なり」といった銘の入った鐘が駿府城には吊り下がっていたし、家康の祖母源応尼をまつった静岡市の華陽院にあった家康真筆の額にも、「永禄三年五月に自分は義軍を、浜松であげて運をひらくことができた」と堂々とでている程である。 だからして地方の木っ端役人などに対し、「おう、じたばたしやぁがるな。こうみえても、こちとらはな、生れは遠州浜松在‥‥」とやろうものなら、お上御威光に、うへえッと這いつくばってしまったものらしい。 なにしろ浜松には幕末まで梅屋、大米屋、いたや、なべやの四軒の旅篭兼問屋があったが、ここには、土地のいい伝えでは、「お七里役」とよぶ民間の保安官みたいなのがいて、旅篭へ泊る旅人に、「てめえらこの地をなんと思っていやぁがるんだ。恐れ多くも浜松だぁナ」と脅し、荷物調べとか嫌がらせをしては、片っ端から金品をまきあげていたそうだ。 だから三州岡崎城が家康生誕の地とされ、青線区域に接した岡崎公園よりの古井戸が、「竹千代さま産湯の井」となったのは観光ブームで、鉄筋コンクリートで岡崎城が再建された戦後のことであって、竹千代というのも家康ではなく、本当は二股で殺された岡崎三郎信康の事である。 この裏付けは寛永時代の<加藤図書資料>をみても、その真相は歴然とわかり得る。 なにしろ徳川時代は、歴史などというものは一般には必要なかったから、将軍家お抱えの御用学者か、さもなくば、「名物」と称して、まがいの茶器を扱い商人が、その名称をことさらに列記した歴史書まがいを、カタログ代りに広めただけにすぎぬ。 ところが明治になっての富国強兵策で義務教育が始まり、学校で歴史を教えたり、今やテレビで歴史まがいのドラマまでやり出すようになると、いつの間にか家康は幻想化され、「生れは遠州浜松」ではなくなって、「三州岡崎」に変えられ広まってしまう。 さて、家康一人の生れや素性などは、どうでもよいとして、困るのは明治以降、山路愛山、白柳秀湖、柳田国男らが取り組もうとして、はたせなかった日本原住民系の歴史の解明が、又しても消されかけていることである。 かつての史観では‥‥明治二十年代にできた「正史」と称する「記紀」による日本歴史なるものも、今は岩波文庫に入っている新井白石の「読史余論」十二巻や林羅山の「本朝編年史」を定本にした。 だから他の国では、政権の交替と共に史観も変わり、スターリン時代のものはフルシチョフにひっくり返され、それもまた、コスイギン政府に一変されてしまうものなのに、日本では上に頂く天皇さまが万世一系にわたらせられるからと、足利史観も徳川史観も、それそのままで戦前までは通用してきた。 しかし実際にこんなことは有りえないのである。政権はいつの世にも自分に都合よく歴史を作ってしまうものだから、こんな事のくり返しでは砂上楼閣の歴史になってしまう。 またこれまでの日本の歴史学のように、引用例証だけが第一主義で、自分では責任をとらずに、「こうした物には、かくかるある」と都合のよい個所だけ抜き取って援用し、なるべく先輩や恩師の学説にそむかぬように、憎まれないように自分の立身や保身に、「歴史を利用する」やり方では、とても本当の日本史など解明できないのではないかといいたくなるし、心配されもするのである。 たとえば「樅の木は残った」の伊達騒動にしてからが、明治時代に、芝居の「先代萩」に迎合して上下二巻の、「伊達騒動実録」をだしたのが、字引きの「大言海」の著者の大槻文彦で、彼は、「文学博士」の称号をもっていたゆえ、「原田甲斐は、芝居の仁木弾正の原型だけであって、不忠不孝の大悪臣であった」ときめつけてしまうと、それが一般に、定説というものになってしまった。 歴史畑では、明治、大正、昭和にわたってそれに異説をはっきりたてる者はなかった。 だから山本周五郎の「原田甲斐忠臣説」が現われると、びっくりしもてはやすのである。 しかし「樅の木は残った」の発端にしてもそれは、「殿様である伊達綱宗を遊里へ案内し、そのため二十二歳で隠居させられたのゆえ、不忠者として四人の手引きをしたと思われた家臣が殺される処」から始まっている。 これでは講談と同じでしかない。つまらない話である。「綱宗が吉原へ通って高尾太夫を身うけしたが、云うことをきかぬ。ために船中で、可愛さあまって憎さが百倍と吊し斬りにした。だから大名としては素行が不良すぎると、二十二歳の若さだが、隠居させられてしまった」という話と、山周さんのは、女郎の名が、「おかる」と変っているだけのことである。 しかし吉原という処は、マンツウマンならぬマンツウチンの営業地帯である。そして高尾太夫はそこの女性である。私は、「酒屋で酒を売らぬ店があるわけはなく、セックス屋でセックスを貸さぬ女がいるわけはない。どうして高尾が誰にも入れさせていた部分貸与を綱宗だけ拒み、あくまで貞操を守って殺されてしまうものか?」 「高尾はあまりにも商売柄そこを使いすぎ、オーバーホールでもしなくては綱宗といえ、そこは使わせられなかったのではあるまいか」など考えたが、しかし経験者の女性にきくと日に何十回も用いては、腰骨が痛んで背中が曲がらなくなることはあるが、「そこ自体」は、開けよさらば入れられんと、新訳のコリント書にでてくる聖なる教えの、「アビダラの門」のごとく、潜りぬけは自由だという。だから男のように過度に使いすぎたから駄目ということはないらしい。 となると高尾を斬ったり、赤線地帯へ入りこんだりしたのが、伊達綱宗が二十二歳で隠居させられた原因にはならなくなる。 勤王思想をうけつぐのは? 「週間現代」に連載した「実説樅の木は残った」で、この真相を、「これまでの説では伊達安芸と兵部の党派争いとするのが、最も新しく正しいものとされているが、安芸は伊達領内で二万二千石の大禄をはんでいた。それが谷地十町歩位の境界争いで己が江戸表へ訴え出たのでは、一つ間違えば二万二千石さえ失いかねないのだから、それは冒険にすぎはしまいか」 そして、「今でも、うちの会社は脱税していると投書したり、公にする者がないではないが、それらは会社をやめさせられた腹いせか、しっぺ返しであって、常識からしても在職中の者が会社を潰すような真似はしないものだ」という観点からして、私は、「党派争い」という見方はあまりにも、卑近すぎはしないかと考えざるをえないのである。 そこで念のために、「皇室典範」をみて、当時の天皇さまの御名をみると、「後西天皇」であらせられる。徳川秀忠の娘の和子が後水尾帝の中宮として入内し、うみ奉った女一宮が七歳のとき。 恐れ多くも徳川の権力をもって後水尾帝は退位させられ、「明正帝」とそのまだ七歳の頑是なき御方さまを即位させ次の御光明帝さまの次が、この非徳川系の後西帝であらせられる。 だから、ようやく徳川系の帝でなく即位されたのが、この天皇さまということになる。 ところがこの天皇さまも伊達綱宗が二十二歳で隠居のあと、すぐ後を追うごとく退位。 次なる霊元天皇さまに慌ただしく御位を譲ることを余儀なくされ遊ばしている。 もちろんすべては徳川家のなすところで、二十七歳のお若い天皇さまが、まだ十歳の霊元さまとご自分から代わられるわけがない。 そこで後西さまの御生母をさぐると、「櫛笥(くしげ)左中将隆致(たかむね)卿」の長女で御匣局(みくしげのつぼね)隆子とある。 ところが、その御方がのちの後西さまである良仁親王が生まれた頃は、徳川系の天皇の御代だったから、左中将一家は生活に窮していたらしい。 そこで末の姫君の貝姫が遥か東下りして、伊達政宗の倅忠宗の側室となられた。その御子が綱宗なのである。つまり綱宗と後西天皇は従兄弟の御血縁、という事実がここに浮かび上がってくる。 さて吾々は幕末になって初めて、東山三十六峯草木もねむる丑満刻の剣戟の響きにより、勤皇の志士が現われ討幕運動が起きたごとく錯覚しがちであるが、いつの世にも反体制はある。 反徳川運動、つまり討幕運動も、「島原の乱」とか「由井正雪の謀叛」といった徳川史観の表現で伝わっているから、こんがらがって判らなくなるが、これとてありていは、討幕運動に他ならない。 すると、それまでの徳川系の天皇とは違う後西さまが、伝奉の園池中納言宗朝に命じ、「奥州の伊達六十二万石の伊達綱宗が、従弟に当るとは心強いことである」 秘かに討幕を策されたとしても不思議ではない。ところがこれが京所司代に新任した牧野佐渡守親成の探るところとなって、小石川堀工事中の綱宗は突如として謹慎処分で隠居。 天皇さまも御位を追われて譲位となった。 丁度そのころ、仙台評定役から江戸勤め家老として出府してきたのが原田甲斐である。 山本周五郎説や大槻文彦説のように、女郎買いや高尾太夫を斬った咎で、隠居させられたような綱宗なら別だが、本当は、「討幕運動のお咎め」なので、甲斐は正宗の末子の伊達兵部と共に、秘かに、「勤皇運動」を企てたらしい。 そこで佐幕派の安芸がこれは一大事と訴え出たのが、「伊達騒動」の真相であろう。だから事が事ゆえ幕閣では、甲斐と安芸を始末して口封じをし、兵部は殺さず流罪にし、あれだけの大事件なのにウヤムヤに終わらせているのもこの為なのである。 これは弾左衛門家で芝居を監理していたから、「先代萩」で、原田甲斐を、「仁木弾正」という名にしている点でも、それとなく、この真相を暗示している。 というのは前々章にも書いているが、弾正とか弾左衛門といった弾正台から転化した名称は、原住系のボス称号だからである。 さて、かつて山路愛山、柳田国男らは、「原住民というのは天孫系に征服された俘囚の裔だから、反体制の民であろう」といった徳川史観に誤られて、それを解明することは反体制運動にもなろう、というので遠慮してしまい、挫折して民俗学へ迂回してしまった。 だが、実際は、新田別所の新田義貞や楠木正成といった建武の中興の連中を引例するまでもなく、原住系たるや天皇教信者に他ならず、新田別所から後に高山彦九郎、楠木の河内よりは天誅組がでている。 なのに、「天孫系の中には皇位を窺った不敬な者もいたが、原住系はこれみな天皇一辺倒だった」ことが、徳川史観では隠されていたので、これが間違えられてきているのであるらしい。 つまり大東亜戦争でアメリカに負けると、素直に潔く一度もレジスタンスをしなかったのが、今も原住系が多い日本人なるものである。 幕末まで天皇さまを押さえつけようとした徳川政権から見て、原田甲斐ら原住系は、これことごとく悪臣であり逆臣であったにすぎないのである。 また、これが起因となって伊達騒動から十六年後に、日本原住民系の弾圧が始まり、やがて浅野の刃傷事件となるのである。 (八切史観ではないが、皇室には南北朝交代説があり、徳川家康は、これを知り、水戸藩に、南朝の跡継ぎを囲らせていたという説もある。それが幕末に明るみになり、長州の囲っていた跡継ぎとの皇室を巡る孝明帝北朝の継承問題となり、外国との貿易独占を続けたい幕府の思惑と絡み、長州征伐となったようである。そこから、当初はロシアや米国の貿易開港などだが、外国勢力の貿易拡大による英仏の介入沙汰になり、仏は幕府支援、英は薩長支援となり、内乱勃発の状況となり、ドイツなどの諸外国も介入しはじめ、どこかの植民地となりえたので、徳川政権が貿易独占をやめて、外国嫌いの孝明帝も崩御し、大政奉還したというわけである。その後、明治帝は英国ガータ―騎士団員になる。勝海舟は、貴族がなくなって、完全な四民平等になってから、議会を開くのを、明治の元勲たちと決めていたが、伊藤俊輔博文が独断で、憲法と議会を開いてしまったのを、海舟座談で告白している。海舟は、日清日露戦争に猛反対している。伊藤はロシアに盗られる前に朝鮮を盗れという強盗的な判断だったようである。だから結局、伊藤は暗殺されてしまうわけである。)
2023年12月26日
コメント(0)
先日、巷の野球の救世主ともいえる大谷選手のインタビューをみたが、その発言において、常に進化するには、挑戦が必要なのを実感させられた。環境が変わることにチャレンジする楽しさを語っていたのが印象的だった。大谷選手は対応力が素晴らしいと他の超一流の野球選手も絶賛する。誰もが理想を思い描けるが、そこまでの肉体の表現力を獲得できる選手は少ないのは、それに対する努力が半端ないからで、努力を愉しめるのが、大谷選手を唯一無二としているのだろう。超一流の大谷選手の反対側には、超凡人というべき、対照的なキャラクターの、有名な漫画のピーナッツの、チャーリーブラウンを思い出した。ピーナッツは、その漫画に出てくるビーグル犬のスヌーピーの方が有名だろう。スヌーピ―は誰もが愛するキャラである。しかし、ピーナッツの主人公は、飼い主のチャーリーブラウンで、何をやってもドジでヘマをやらかす。ある意味で、ドラえもんの、のび太に共通するキャラであるが、チャーリーブラウンには、ドラえもんのような未来からの救世主ロボットはいない。ただ、飼い犬で寄り添うスヌーピ―がいるだけだ。しかし、この犬が哲学的な発言をするのが面白い。スヌーピーは、小鳥のウッドストックに、語る。「上を見続けるんだ…。それが人生の秘訣さ…」ときに、スヌーピーは現実を嘆く。「戦争は泥沼だ…。どこにも希望はない…。」スヌーピ―がはじめて二足歩行したときに言った言葉「これはボクの春の第一日ダンスさ…」満足を謳歌したセリフ「チョコチップクッキーに勝るものが人生にあるとは思えないよ…」ルーシーがやってきて、「ときどきあなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ」となじられると、「配られたトランプで勝負するしかないのさ…。それがどういう意味であれ」と開き直り達観している。チャーリーブラウンと夕日を見てたたずんでいて、「どうしてかなぁ、日が沈むのをみていると、いつも悲しくなる」とチャーリーブラウンが言うと、「クッキーの最後の一つを食べたときみたいにね」とスヌーピーが応えるのは、飼い主の心の救世主になっているようにみえる。大谷選手には、デコピンという愛犬がいるが、チャーリーブラウンにも、スヌーピーという愛犬がいる。地上では人間の方が賢いかもしれないが、また違う世界では、犬の方が賢いかもしれない。さて、今日はクリスマスである。クリスマスには、あまり良い思い出がないので、せいぜいカラオケでクリスマスソングを歌ったぐらいの個人的想い出を語る意味もないので、人智学の、神秘学の蘊蓄話を紹介する。クリスマスというと、巷では一般的にキリストの誕生日とされているが、確かに誕生という地上への生という意味では、それでも妥当だが、シュタイナーの人智学では、霊的なキリスト論を根拠にしているので、厳密にいうと、誕生ではなく、受肉であって、降臨である。だから、キリスト降臨日である。キリスト降臨日の前日がイブといわれるのも、人類の祖アダムの妻エヴァからきている。エヴァの方がアダムより先に知恵の実を食べて、地上に失楽し、肉体をもったからである。シュタイナーはキリスト論で、イエスは2人いた説をとっている。アカシャ虚空記録を読み解くと、2人いないと辻褄があわないという。当時のイエス、アラム語ではイエシュアだったか、という名は有り触れた名前で、多くのイエスがいたが、当時の独裁者のヘロデ王が、預言から、救世主が生まれては困るので、預言された当時に生まれた赤ん坊を配下の部下に命じて殺してしまったらしい。そのうち生き残ったのが、2人のイエスだったという。詳しくは、シュタイナーのキリスト論や、以下のサイトなどをググると出てくる。イエス (人名) - Wikipedia黄金時代へ イエスは二人いた?キリスト誕生秘話 by ルドルフ・シュタイナー (fc2.com)シュタイナーの「二人のイエス」説から何がわかるか: ヒロさん日記 (seesaa.net)その2人のイエスの誕生日が、私の記憶が確かなら、12月25日に生まれたのがナタン系のイエスで、1月6日に生まれたのがソロモン系のイエスで、12歳のときに、ソロモン系のイエスが幽体離脱して、肉体は死に、ナタン系のイエスと合体したというのである。ここら辺の話が、覚醒意識の唯物論ではトンデモな話なんで、都市伝説とされてしまっている点でもある。高次の神なる存在が、最低次の人間の肉体に降臨できるのも、そもそも、エネルギー論からも不可思議なので、キリストが神かどうかの議論云々になってしまうわけで、信じるも信じないもあなたの自我次第というわけなんで、人智学のクリスマス論を続けて、紹介する。ともかくも、人智学では、辻褄があっているので、12月25日は、2人のイエスが合体し、エーテル体とアストラル体が二倍化された、30歳の肉体に、ヨハネの洗礼によって、ヨルダン川で、キリスト霊が、降臨し、受肉した日とされているわけなんである。このクリスマスの日に、キリスト=イエスとして降臨したので、前日までのエヴァの神に背いて、知恵の実を食べて肉体を持つに至った失楽を、回復し、その原罪を、神自らが受肉したことで、赦す日となっているわけでもある。そして、キリストは、3年間、この世の生だけでなく、永遠の生が、あの世でも続くことを説きながら、悪魔の権威主義論や、唯物論に染まりつつある人類に、悔い改める、主にエッセネ派の宗論を促進しながら、12人の弟子を確保し、この世での布教活動の基盤をつくり、最後の晩餐に弟子たちとともに、クリスマスの永遠の生を祝い、最後は十字架刑で、肉体の死を知って、この地上の生を去るが、エーテル体で、活動を続け、いまでも永遠にキリストは生きていると、人智学では考えているのである。つまり、クリスマスは、人類の、原罪が赦される日であり、それは、肉体の死によって、人間の精神が永遠の生命へと高められる祝福の日なのである。救世主の日である。肉体の死は、物質体の死で、物質の消滅を意味するが、物質を手放すことで、高度な精神性を、愛を獲得することなのである。物質を与える事で、精神性の愛が深まるわけなんである。キリストの最後の晩餐では、キリストが弟子たちに、このパンは、私の肉であり、このワインは、、私の血であるといって、弟子たちに与えたわけだが、それは十字架刑によって、キリストの血と肉が、物質的に滅んでも、その愛の精神である、血と肉は、すでに弟子たちに与えているので、いずれ、弟子たちのキリストへの愛となって甦るのを、意味しているわけで、弟子たちのなかには、既に、キリストの血と肉が精神となって流れているのである。そして、それは永遠の生命への血や肉のキリストの永遠の教えとなっていくという預言の日なんである。人間は永遠の生命へと天使になるために、この世に生まれてきてまた死んで行く。それは、常に、新しい世界への挑戦の連続なんである。クリスマスが、キリストの預言の日となるために、今回から、シュタイナーのキリスト宇宙学を特別に紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー「キリスト存在について」佐々木義之訳を要約 デュッセルドルフ 1909年4月18日夜 *GA110『霊的ヒエラルキーの物質界における反映』第10講 -------------------------------------------------------------------------------- 今回語るテーマには、前回の講義の最後に出された質問に対してなどつけ加えるべき内容が多々あるが、宇宙についての考察を10回の講義で尽くすのは不可能なので、主たる問題を取り扱う前の、その結論に至るのに重要な点をいくつか述べる。 最初に述べるのは、現代的な覚醒意識では理解困難で、実際、ほとんど理解不可能な点で、気づいておくに越したことはないものである。それはつまり、惑星系は、一度現れたのに、どうして再び消滅するのか、という質問に対する答えである。 精神の観点から、天体の進化計画が、生じるのが明らかになる。天使という存在は、より高次の進化段階へと上昇するものだが、天体が進化するには、以前の活動の場から離れないといけない。 つまり、他の場所では獲得できなかったような、ある種の能力を発達させるために、一定の期間にわたって、それを可能にした、それまでの居住場所を離れなければならないのである。進化において、古代レムリア期と呼ばれる時代が終焉に近づいて来ていたとき、人間はその発達において、土星、太陽、月の段階を通して達成できた全てを要約して、繰り返す段階にまで達していた。 その後、人間は地球紀という進化環境の中に現れたが、それは正に、更なる発達(進化)のために用意されていたことなのである。人類は、レムリア期、アトランティス期を通過し、現在の、我々自身のポストアトランティス時代へと発達して来たが、受肉から受肉へと移行しながら、未来に向かって更に発達して行くだろう。 そして、しばらくの後、人間は再び地球を離れなければならなくなるだろう。地球には人間に与えるべきものが何もなくなっているが、それは更なる人間の発達の可能性を提供できなくなっている、ということである。 人間が去った後の地球は荒涼とした廃墟になっているのは想像できるだろう。それは住民に見捨てられた後の都市と比べられるかも知れない。そのような都市がほんのわずかな時間経過しただけで、どのようになるかを、つまり、いかにそれが徐々に土の塊になるかを知っている。 自然の力に捉えられた古代の都市を見ると、その崩壊過程についての描像を描ける。実際、今日においても、同じ状況だが、地球の未来については、このような描写は当てはまらない。 次のような観察が、将来、地球がどうなるか?という疑問に対する答えへと導けるだろう。 レオナルドダビンチやラファエロのような人物、もしくは、他分野の偉大な天才たちの地球の進化に与える意味とは何なのか? ラファエロやミケランジェロが素晴らしい芸術作品を制作したこと、そして、今日に至るまで何千という人々によって鑑賞されているわけだが、そのことは地球の進化にとって、どういう意味があるのか? 何人かは、ミラノにあるレオナルドの「最後の晩餐」を見て、ある種の悲しみを覚え、そして、この素晴らしい作品は、あとどのくらいもつのだろう、と考えたかも知れない。ゲーテは、最初のイタリア旅行において、まだ、この作品が十分に輝いている様子を眺められたが、現代では、もはや、その状態の、この作品を描かれた当時の状態では見られない、のを思い出してみるべきである。 ゲーテの時代から今日まで、外界の物質環境の中に置かれた、この芸術作品の運命とは、現代人には、悲しみの感情を呼び起こす類なのである。ゲーテの時代から我々の時代までの時間と同じくらいの時間が経った後に生きる人々にとっては、この作品はもはや存在していないかもしれない。人間が地上の物理的な物質に刻印づけ、創造した、あらゆるものにも同じことが言える。 地球や、人間の思考の産物についてさえも同じことが言える。人間が、より高次の領域へと上昇し、その領域へと精神化された、古代について想像してみる。 現在の言葉の意味での「思考」(科学的思考ではない、というのも、それらは三、四百年もすれば何の意味もなくなっているからである)、つまり、脳によって作り出され、地上において意味をなす人間の思考は、より高次の世界にとっては何の意味もない。 人間の思考は、地上にのみ意味を持つ。けれども、人間は地球を去らなければならない。では、そのとき、何百年、或いは何千年にもわたって、地上で作り上げてきたあらゆるものはどうなっているのか? 精神の観点からまず考察すべきことは、個人の進化についてである。レオナルドダビンチは、彼が達成したものによって、更なる精神の高みへと上昇した。それが彼の上昇を成している。我々自身への問いは、偉大なる創造者たちが地球の物質の中に刻み込んだ偉大な思想や偉大な衝動は、地球の未来にとって意味があるのか?ということである。 未来は地球を灰燼に帰し、男女が土から作りだした、あらゆるものは、地球という惑星がもはや存在しなくなったとき、消えてしまうのか? ケルンの大聖堂を賛嘆する。それほど遠くない将来、1つの石がまた別の石の上に残っている、ということもないだろう。この事から、人類がケルンの大聖堂というものを石の中に体現したことは地球全体にとって無意味なのか? いま我々は、人間が自分と一緒に地球から持ち去るものではなく、地球の未来について考えている。惑星というものは、実際、その進化の過程で益々小さくなっていく。惑星は縮む。それは惑星の物質的部分の宿命なのだが、それで話が終わるわけではない。その事は、いわば肉眼や道具によって観察され得る一部に過ぎない。物質には、また、そのようにして観察できるものを越えて行く、霊的な進化もある。 今、この限界点を越えていく物質の進化について考察するが、この考察によって、現代人には理解困難な、ほとんど理解不可能な先に述べた進化計画へと来た。地球は絶えず縮小している。物質は周囲のあらゆる面から中心に向かって押し潰されている。 さて、当然だが、覚醒意識に基づけば、力の保存測があるのがわかる。同じように十全な潜在意識に基づいて、あらゆる神秘家に知られている別の事実、つまり、物質は益々中心へと圧縮し、そして、何と、中心点へと消滅に向かう、という事実があるのがわかる。 一断片の物質が益々中心へと圧縮され、そこで消滅するのを想像してみる。それは反対側の側面に押し出されるのではない。中心点で、それは実際に無の中へと消滅する! 言い換えれば、地球は、その物質面が、中心点へと圧縮されているために、最終的には中心の中へと消えていく。けれども、それで話が終わるわけではない。中心において消えていく分だけ、周辺(辺縁)に現れる。それは物質界の最果てにおいて再び現れる。 物質は空間中の一点、つまり中心点で消滅し、別の場所、つまり別の空間の周辺(辺縁)に再び現れる。中心へと消え去るものは全て周囲(辺縁)において再び立ち現れる。あらゆる働きが、物質の中へと注ぎ込まれ、天体上で働いていた存在たちは、全てを物質の中へと刻印づける。 当然のことながら、物質は現在の形姿ではなく、この進化過程により、変化した形姿で存在している。だから、ケルンの大聖堂の物質的な断片が、中心点へと消え去ったとしても、別の側から再び現れて来る、のを見るだろう。惑星上で成し遂げられた事柄は何1つ、絶対に失われることはない。失われたものは、反対側から戻ってくる。 土星紀から続く進化紀の、地球進化における最初期の時代を通して、(中心点となっている)我々のところ(地球)へと来た全ては、このようにして外側へと、星座を越えた、霊的な空間の周辺(辺縁)へと移された。 太古の叡智では、この事を「結晶化した天国」と呼んだ。過去の進化に属する存在たちの行いは、結晶化した天国の周辺(辺縁)に堆積している。それらは新しい存在たちが創造的になれるための基盤を構成する。 既に述べたように、このような事実を、現代人の理解力で理解するのは困難だが、それは物質面だけの考察に慣れているからである。物質が三次元空間中の一点から消え去って、別の次元を通過した後、どこか別の空間に再び戻ってくる、のを認めるのに、現代人は慣れていない。三次元空間の文脈での考えに留まる限り、この事実は把握できない。 なぜなら、この現象は三次元空間を超越しているからである。だから、この現象は、別の側面(四次元時空)から再び三次元空間中に入ってくるまでは見られない。その間、それは別次元の中に存在している。この事実を、理解しておくべきである。というのも、宇宙における創造の様々な側面は、この上なく複雑な形で互いに関連し合っているからである。ある場所の事象は、三次元空間中の全く異なる場所に見つかる別の事象と複雑な形で結びつけられている。 太陽系の天体形成は、古い土星(現在の土星とは異なる)から始まった。本当に、太陽系は古い土星から始まった。そして、その形成は、現在の木星ができるまで継続した。古い木星で、太陽系全体の創造が始まったとき、その周辺にいる天使存在たちも参加した。 しかし、丁度、木星内部の天使存在たちが、太陽系の天体を創始し、彼ら自身の発達(進化)を継続するために働いたように、外側にいる天使存在たちもまた、周辺から内に向かって働きかけた。ある種の存在たちが、中心から外側へと(消滅し)退いたように、外なる宇宙空間の中にいた存在たちも同じことをした。周辺(辺縁)にいた、ある存在たちもまた(消滅し)退いた。 木星自体が縮小するに従って、退いた存在たちが、圧縮して、天王星を形成した。同様に、火星の進化間に、退いた存在たちが、縮小して、海王星を形成した。天王星(ウラノス)や海王星(ネプトゥヌス)といった名前は、このような出来事にちなんで、古代人たちがつけた名前を、もはや採用していないが、それでも、天王星という名前にはまだ重要な意味が隠されている。 それは、正しい名前をつける過程に際し、人間がまだ上記の事柄に気づいていた時代に名づけられた。だから、我々の太陽系を越えて存在する惑星は、集合的に「天王星(ウラノス)」という名前をもって表現された。 このように、この二つの惑星は(近代天文学では、太陽系の惑星と同列に扱うが)、実際には、全く異なる基盤の上に立ち、我々の世界(太陽系)の形成には特に関係していない。この二つの惑星は、古い土星紀の間には、まだ何らかの関係を持っていた天使存在たちが退き、宇宙の周辺を越えた処に、住む場所を確立したことで生じた世界を表現している。この事から、例えば、これらの惑星が退化してゆく月をもつ、というような多くの事実が導き出せる。 このように、太陽系が存在するに至った、天体の進化を大まかに概観してきたが、次のような疑問が生じるかもしれない。 実際、人間の祖先の、より高次のヒエラルキア(天使)存在たちと、現在の、人間は、どのような位置関係にあるのか? 最高位にある天使存在のセラフィーム(熾天使、愛の霊)、ケルビーム(智天使、調和の霊)、トローネ(座天使、意志の霊)から始める。実際、最高位の本性を特徴づければ、人間という存在についての正確な本性に到達できる。 しかし、セラフィームを越えて行くときには、忽ち聖なる三位一体の領域に入っていくことになる。この事こそが、セラフィーム、ケルビーム、トローネがもつ特別な、宇宙の他の存在たちには手の届かない本性である。つまり、これらの天使たちには「神を直接見る」と呼ばれる権限が与えられている。 これらの天使たちは人間がその発達(進化)の過程を通して、徐々に追求し獲得しなければならない能力を初めから与っている。 我々は、人間として、思考、意志、その他の高次の能力を獲得するために、今日いる場所から始めなければならない。もし、我々が、その能力を獲得するなら、神の側に近づき、神は我々と共にいるようになる。このように、我々は、まだ隠されている能力に向かって、自分を発達(進化)させなければならない、つまり、「神性」へと近づかなければならない。 一方にはセラフィーム、ケルビーム、トローネがいて、片方には人間がいるが、この間の違いとは、上記のようなものである。精神的なヒエラルキア(天使)における、高次の天使存在たちは、天体の進化計画の最初から、神である聖なる三位一体と共にあった。 正に最初から「神性」を見られる位置にいた。セラフィーム、ケルビーム、トローネは、人間が、これから向かい進むべき条件を、初めからもっていた。これらの天使存在たちは初めから、神を仰ぎ見て、その命がある限り、常に神を見ている、のに気づくのが、とても重要である。 これらの高次の天使たちが成し遂げる全ては、神を見るのを通して行われ、神は、これら天使たちを通して働く。これらの行いが、別々に為される可能性はない。天使たちにとって、それ以外の行いは不可能である。神を見る、とは強大な能力と影響を、これらの天使たちに及ぼすので、神が間違いようのない確かさと直接的な意志で命じるのを成し遂げる。 熟慮とか判断に似たものは、これらの存在たちの領域には存在しない。見たものを即実行するための直接的な意志を受け取るのに、神の命を見る、だけが存在している。神を、その本当の姿において、その通りのものとして見る。自分たちを神の意志と叡智を実現する存在と考えている。最高次のヒエラルキア(天使)が置かれている状況とは上記である。 それより下の、キュリオテテス(主天使)、デュナミス(力天使)、そしてエクスシアイ(能天子)、あるいは叡智霊、運動霊、形態霊と呼ばれる次のヒエラルキアにまで降りてくると、神を、直接には見られない。神を、直接の形態において、つまり、神そのものを見られないが、神の顕現を、つまり、いわば、神の表情を通して、神が自らを現すのを見られる。 その表情が神なのは、それらの天使たちには明らかである。セラフィーム、ケルビーム、トローネと同様、これらの天使たちもまた、神によって顕現されたものを実行するための直接的な意志を受け取る。その意志は強力ではないが、それでも直接的である。 セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにとっては、神の命令を実行しない可能性はない。命令の不実行は考えられないが、それは神の近くにいるためである。しかし、キュリオテテス、デュナミス、そしてエクスシアイにとっては、神自身が意志しないことを行うのもまた同様に、論外である。とはいえ、世界が更に進化していくためには、何か非常に特別なことが介入する必要があった。 さて、ここで、神秘学的叡智において、ある程度の進歩を達成(進化)した人たちにさえ理解が困難なテーマを紹介する。 古代の秘儀においては、次のような形で、それを理解可能なものにした。古代の秘儀への参入での、ある特定の段階で、弟子は残虐で恐ろしい形相をした敵対的な力が存在する段階へと導かれた。 そして、その力は、弟子の目の前で、考え得る最も恐ろしい所行を遂行した。これらを行ったのは、他ならぬ仮面を被った司祭、仮面を被った聖人たちだった。必要な、宇宙の試みを生じさせるために、司祭たちは恐ろしい存在として、幽鬼的な姿に仮装し、考え得る最も恐ろしい所行を遂行した。 一体、これは何のためだったのか? 秘儀参入者、司祭が悪の姿で、悪の仮面を被り、弟子の前に現れる、のは何故なのか? それは、発達(進化)が、正しい道から、いかに遠く逸れてしまうものか、を、弟子に示すためである。弟子は、悪に直面して立つ、という幻想を抱くようにさせられる。そして最後に仮面が取られ、弟子は初めて真実を見た。幻想が取り払われ、弟子は、その悪に直面する場面が、試験なのを知った。 弟子を悪に対して強化し、防御させるために、当然のことながら、過ちを犯すはずのない司祭によって、最も忌まわしい姿で示された。この試験は、宇宙進化の中で実際に生じた出来事の反映に過ぎない。 木星進化と火星進化の中間段階に当たる時代を通して、いささか軽薄な表現をすると、デュナミス、もしくは運動霊の位階に属する一団の存在たちに対して「反抗命令」が出された。進化的な影響の代わりに、障害や退化を生じさせるように配された。この出来事は「天上の戦い」として、知られるようになった。これらの、いわば「反抗命令」を受けた運動霊たちの行為は、進化の道を塞ぐように、いわば妨害として投げかけられたが、それは、ヒエラルキア存在たちを支配する宇宙が自らに、もし、進化の道があまりになだらかすぎるなら、もはや新しい存在が生じえない、とわかったからである。もっと偉大で新しい存在が生まれないといけない。 さて、例えば、荷車を前に押すことで、筋力を発達させるのを想像する。荷車に重い荷物を積めば、より強く押す必要が生じ、そのため、より大きな力を発達させないといけない。神が宇宙進化の過程を木星期に至るまで、そして、それを越えて進めようとしたのを想像する。確かに人間はよく進化したが、その進む途上に障害が置かれたら、更に強くなれる。 だから、ある種の運動霊たちが、反逆命令を受けなければならなかったのは、人間を更に善に導くためだった。当初、天使たちは悪の存在ではなかった。むしろ、進化の道筋の上に障害を置くために自らを捧げた、と言ってもいい。 だから、これらの運動霊は、広義の意味で、「妨害の神」、もしくは「抵抗の神」と呼べる。進化の道に沿って置かれた障害、もしくは抵抗の神たちだが、その障害や抵抗が置かれた瞬間から、未来に達成されるべき課題が成し遂げられる可能性も生じた。 これらの抵抗命令を受けた運動霊たちはまだ、自身が悪の存在ではなく、反対に、通常の進化に反抗することで、進化の偉大な促進者となった。とはいえ、創り出した嵐の中から次第に悪が生じた為に、悪の創始者となった。 「抵抗命令を受けた」運動霊にとって、進化は、仲間の運動霊とは、非常に異なったものになった。その活動が非常に異なったものになったので、「月」の進化過程において、これらの運動霊たちは、「天使」と呼ぶ存在たちの誘惑者となった。「月」の進化段階において、「天使」たちは人間の段階を通過していた。進化に置かれた障害の影響を目撃した「天使人間」が「月」の上にいた。 月の天使たちは自らに次のように言った。 「我々は今これらの障害に立ち向かっていける。「月」進化の流れの中に飛び込める。しかし、我々はそれを差し控えたい。その中に飛び込むのではなく、善き神々と共に上方に留まるのを選ぶ」と。 これらの天使存在たちは、下方で月の段階が進展する間、その中に障害をもたらした運動霊たちから自らを引き離した。ところが月の上には、 「我々は追従しない。何故なら、もし、追従したら、進化は元に戻り、何も新しいことは起こらなくなるから」、と自らに言う別の天使たちもいた。 確かに、月の進化段階以降、新しい進化の課題が導入されたのは、正に障害が存在していたからである。また次のように言う存在たちもいた、 「我々は下方で起こっている出来事に何も関わりたくはない。我々は劣った者たちとの交流を望まない運動霊たちと共に留まる」と。 これらの存在たちは、古い月の進化が続く間、月の塊から離れて、太陽の中で生じていた進化過程の追従者となった。障害の影響を受け、月の上で生じていた出来事に関わるのを望まなかった。 しかし、その中に飛び込んだ、他の者たちは、月の上に進化上の障害が存在していた為に、受け取ることになった全てを、肉体的な本性の中に取り込まなければならなかった。もし、取り込まなかったら、なっていた存在よりも、もっと硬化していた。 障害のなかに飛び込んだ天使たちの、肉体的な鞘は、より濃密になり、運動霊による行いの結果を、その体の中に担うことになった。とはいえ、運動霊、或いはデュナミスの行為は、神の宇宙計画の中に確実に基礎づけられたものだったのは覚えておく必要がある。 これら全ては更に次のような結果をもたらした。月の進化が地球の進化へと移行したとき、その過程全体が、ある意味で繰り返された。月進化の潮流の中に自らを投げ入れた存在たちは、関わりを持とうとしない存在たちに遅れを取った。またその潮流に従った存在たちは、更に遅れをとったが、それは、退化に魅了されたからである。 だから、これらの出来事の結果、地球進化には、二種類の天使人間が存在するようになった。進化していた天使たちと、後に取り残され、退化した天使たちである。先行する天使たちはレムリア期になると人間への働きかけを開始したが、それは人類が人間自我の種子を受け取れるまでに成熟していたからである。 天使たちは人類にいわば選択肢を提示したが、その選択肢は、月の進化段階以来、宇宙進化の障害のなかに紛れ込んだ存在とは、関わりを持たずに、精神界へと直ちに上昇した善き存在と、我々がルシファー存在と呼ぶ、後に取り残された堕天使存在たちは人間のアストラル体への働きかけられるが、自我にまでは至れないので、働きかけを開始すると共に、「天上の戦い」の結果を、アストラル体の中に注入した、悪しき存在に分かれた。 運動霊たちが反抗命令を受けて「天上の戦い」に参加し、「障害の神」となったことから、その行為の結果、人間のアストラル体の中に侵入し、別のより重要な意味を持つことになった。というのも、その結果は、過ちと悪の可能性に相当するからである。このように、人間は間違いを犯す可能性と悪の可能性を与えられたが、同時に、自分の力で間違いと悪を乗り越えて上昇する能力も受け取った。 (後半に続く)
2023年12月25日
コメント(0)
全3996件 (3996件中 1-50件目)