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当たり前の事ではありますが、本日改めて介護にはマニュアルもなく、三者三様でなければならないと実感致しました。それだけではなく、悲鳴をあげつつありました私自身・・・今朝は休暇の為に入院しようかと考えていました。夕方、母とその話になり、母も賛成してくれ(母はその間、ショートスティ)ました直後、何があるか解りませんね~、母と様々な事で笑いあっていましたら、身体が軽くなりました。笑いは一番の薬でした。その後、Twitter上である映画が現在無料配信されていると情報が流れまして、思い切って二時間費やして観る事にしましたが、今観終って映画ってやはりいいな~と思ったところです。ずうっと時間がなく観ていませんでしたが、考える時間を与えてくれます。そして、今、やはり介護というのは面白いものだと感じております。支離滅裂になりましたが、本日の思いを残させて頂きました。
January 25, 2015
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【鬼の姑の目に涙させた良妻の鏡】私の好きなサイトよりまたしても記事を紹介させて頂きます。http://amijuku.com/index.php?saisyo明治天皇・皇后両陛下のお世話係(掌侍)として仕えた、税所敦子(さいしょあつこ)という人のお話です。この人は、明治天皇の信任がことのほか厚く、人々は、彼女を明治の紫式部と讃えました。また伊藤博文も、彼女とたびたび打ち合わせする機会がありましたが、「あれほどえらい婦人に会ったのは初めてだ」と周りの人に話していたそうです。この税所敦子さん、いったいどんな人だったのでしょう。彼女は、28歳で夫と死別したあと、夫の母の世話をするべく、鹿児島に下りました。鹿児島には、姑のほか、亡夫と前妻との間にできた子供が二人、さらには五人の子供を連れた弟夫婦が同居する大家族でした。ことに姑は近所の人から「鬼婆」と、陰口されるほどの気性の荒い人で、敦子に対してはことごとに意地悪く当たるのです。しかし彼女はそれをじっと辛抱するばかりか、「まだ自分のお世話が行き届かないからだ」「自分に足りないところがあるからだ」と、自らに言い聞かせ、姑に仕えました。酒好きな姑の食事は彼女自ら調理をし、また毎夜手洗いに行く姑のため、一夜も欠かさずローソクを持って案内するなど、心を尽くして姑に仕えました。当時の鹿児島は「よそ者」を嫌う気風が強いところでしたが、孝養を尽くす彼女の姿に人々は皆、これを賞賛して止みませんでした。そんなある日のことです。外出先でどうへそを曲げたのか、憮然とした面持ちで家に帰った姑は、彼女を呼び寄せ次のように言うのです。「あんたは歌を作るのが上手だそうだな。 今、この婆の前で一つ歌を作って見せてくれぬか」「はい、いかような歌を作りますので」と、彼女は素直に応じました。「それはな、この婆は、世間で鬼婆と言いますじゃ。 それで、その鬼婆の意地の悪いところを正直に歌に詠んでくだされ」しばらく熟考した後、敦子が短冊にしたためた歌。その歌を見せられて、鬼婆の心が瞬時に溶けてしまいます>>>いつの世も、こんな人を放っておけないのですね敦子が姑のことを詠んだ歌です。仏にもまさる心を知らずして鬼婆なりと人は言ふらん短冊を手に取り、しばらく無言で見ていた姑は、ついに大粒の涙を流し、「今日まで意地悪のし通しじゃった。それほどまでにねじれきったこのわしに、《仏にもまさる》とは……本当にすまなかった。許しておくれ」と手をついて、心から謝ったそうです。歌人である彼女は次のような歌を作り、いつも自らを厳しく律していました。朝夕のつらきつとめはみ仏の人になれよの恵みなりけりいかなる苦労があろうとも、それは「本当の人間になってくれよ」と、働きかけてくださるみ仏の「お恵み」なのだという歌です。いかなる苦難をも恵みと受け止めていくところに、長年仏法に親しんでこられた彼女の素晴らしい智慧が光っています。閉鎖的な時代といえども、世間はこのような人を、埋もれさせることはなかったのです。その後、彼女の貞節ぶりが、薩摩藩主父君、島津久光候の耳に入り、登用されてその息女に10年間仕え、さらにずっと年を経て明治8年、宮中に入り、明治天皇・皇后両陛下のお世話係としてお仕えすることになったのです。
January 21, 2015
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年末から忙しい日々が続きまして、母の言動にイライラしてばかりでした。早く、状況を変えなければと思いながら、なかなか出来ないでおりました時に、ある記事に読みました。下記です。おじいちゃんが寝ついてから、ちょうど1年経ちました。ニ度目の夏が巡ってまいりました。私もくたくたに疲れました。体が不自由ですので、余計疲れるようです。主人も見かねて、どこか預かってくれる病院はないかと、特養にもかけ合ってくれましたが、義父の場合、付添婦をつけねばなりません。経済的にままならないのです。親戚にもすがってみましたが、皆それぞれ生活が手一杯で、こんな世話のかかる病人を預かってくれるところはありませんでした。ただ一人、主人の妹が遠方に嫁いでいましたのが、最後の親孝行になるかもしれないから、しばらく預かってみようと言ってくれました。娘だったらと安心して、その厚意に甘えることになり、明日、車で迎えに来てくれるという日のことです。荷物の準備をしていますと、修行僧が見えられ、門口に立たれました。報謝に出ると、そのお坊さんのひと言が大きく私を驚かせました>>>私の情けない心を見透かされて画像の説明「奥さんは大きな悩みを抱えておられますね。右か左か、大変迷っておられますね」と言われましたので、私はびっくりしました。私の悩みが分かるとは、大変な修行をされた方だと思い、簡単に事情を話しました。すると即座にお坊さまが仰いました。「おじいちゃんを家から出してはいけません。 今までの奥さんの苦労が水の泡になります。一生、後悔が残ります。 もうしばらく辛抱なさい。 お父さんは、もう人間の心を失っておられます。 人間ではありません。仏さまです。 仏さまに仕える心で、毎日手を合わせてお世話しなさい。 必ず、変わったことが見られます。 お父さんは必ず満足して、成仏されるでしょう。 もう一息、頑張りなさい」私は恥ずかしくなりました。おじいちゃんを憎らしく思った日もありました。嫌だと逃げたい日もありました。今、ここで、修行された方に、心の底を見透かされた思いで、本当に恥ずかしく、申し訳ない心になりました。私も及ばずながらも信仰させていただいている人間です。「ありがとうございました。必ずそうさせていただきます」と、心からお誓いさせていただきました。それから早速、明日迎えに来てくれる方に断っていただきました。そして、おじいちゃんに心からお詫びをいたしました。「おじいちゃん、堪忍してね。 おじいちゃんを他所へ預かってもらおうなんて思って。 でも、もう決して、おじいちゃんを他所へはやりません。 私が最後までお世話をさせてもらいます。堪忍してください」と叫びました。涙があふれてきました。私は行き届かぬ嫁でした。自分が精一杯やっていると思いあがって、私の真心なんて、ちっともこもってはいなかったのだと、心から懺悔しました。涙がとめどなく頬を伝いました。おじいちゃんは、相変わらず何も言いませんでしたが、私には仏さまに見えました。手を合わせて拝みました。それから心を取り直し、いろいろ集めて作った荷物を片づけ、夕食になりました。例によって、半身を起して夕食を食べてもらいました。食事が終わると驚きました。「ごちそうさん」おじいちゃんの口から言葉が出たのです。今まで一度も言われなかったことを、おじいちゃんが、たったひと言、それだけ言ったのです。それだけではありません。おしっこをとってあげると、「ご苦労さん」と、はっきり聞こえました。私は空おそろしくなりました。思わず手を合わせました。おじいちゃんのことを、不満に思ったり、腹を立てたりしたこと、そんなことが申し訳なく、ただただ悔やまれました。仏さまだったのだと、真実、そう思いました。おじいちゃんの顔が一変して、円満なにこやかな顔になりました。それからは本当に手を合わせてお世話をさせていただきました。あんなに疲れて苦しかった私は、うそのように元気になり、「ごちそうさん」「ご苦労さん」の声が毎日聞けるようになり、私も心からお世話が出来て、楽しい日が流れました。もう汚される心配もほとんどなくなりました。熱いお湯で体を拭いても、「おおきに、ご苦労さん」と言われてびっくりしました。その後、約半年後に、おじいちゃんは、食べ物が喉に詰まり、あっけない最期を迎えます。それほど苦しむこともなく、90歳の天寿を全うした大往生でした。この方の自宅介護は、おじいちゃんが床に就かれて1年半ほどでした。一生の悔いを残すところだった。覚悟を決めて、本当によかった。長いようで過ぎれば短い日々でした・・・と語っておられます。認知症の家族を自宅介護するには、ほんとうに厳しい現実があります。そして、人それぞれの生活態様がありますので、一概にこの話の主婦のように、一心に世話すべきだとは主張しません。世話をする方々の心が折れないよう、相談の窓口を利用したり、自分の心をリフレッシュさせる手段を探したり、生活上の、多様な選択肢を設けていただきたいと思います。この記事の掲載サイト
January 19, 2015
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