全12件 (12件中 1-12件目)
1
玄関先の南東側の一鉢に、アマリリスが大きくて真紅の花を咲かせました。 赤いアマリリスの花言葉は「輝くほどの美しさ」だとか。色により花言葉が異なるとか。(資料1) アマリリスの手前の鉢に咲いている小さな花は、調べてみますと、サルビア・コネクシア・コーラルピンクのようです。(資料2)一方、サルビア・コッキネアにも似ている感じがするのです。(資料3)どうなのかなぁ・・・・・。サルビアの仲間はいろいろあるんですね。サルビアって言うだけにしておきましょうか。 また、玄関先南西側に置かれた一鉢のサボテンの花が咲きました。 家の南壁面傍に置かれたもう一鉢のサボテンにも、花が咲いています。画像検索をしてみますと、白檀と説明を加え販売しているサイトと画像が沢山ヒットします。ポピュラーなサボテンの種類のようです。サボテンも調べてみますと、花言葉があります。「枯れない愛」「情熱」「燃える心」だそうです。(資料4)5/8にご紹介した地植えのトケイソウも次々に花咲いています。ラベンダーもしかり。一鉢のデンドロビュームも咲いています。そして、 地植えのバラの木が、また、三輪の花を咲かせました。 ふと見ると、小ぶりな葉にこんな花が目に止まりました。画像検索してみますと、ノイバラの花のようです。(資料5)次々と花開く、いい時季です。園芸は家人の趣味で、私は写真を撮るだけ・・・・。そうそう、大きく枝を広げたキンモクセイと蔓が伸び放題になったジャスミンの剪定は手が届かないからと、恒例の役割が回ってきますね。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. アマリリスの花言葉は?色ごとにも花言葉がある? :「FLOWER」2. サルビア・コネクシア・コーラルピンク :「みんなの趣味の園芸」3. サルビア・コッキネア 草花図鑑 :「ふなばしアンデルセン公園」4. サボテンの風水|花言葉や置き場所について :「AND PLANTS」5. ノイバラ 植物雑学事典 :「岡山理科大学 生物地球学部 生物地球学科」補遺アマリリス :「みんなの趣味の園芸」サルビア(宿根性) :「みんなの趣味の園芸」ノイバラ(野茨・野薔薇):「松江の花図鑑」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.05.17
コメント(0)
「元林院町絵屋橋跡」から、一直線に西へ抜ける道はなく、ジグザグを繰り返しながらJR奈良駅方向をめざしました。途中で、市道六条奈良坂線という南北の幹線道路に出ました。道路の西側に見えたのが冒頭の「率川(イサガワ)神社」の門柱と社号石標、朱塗りの両部鳥居です。今まで奈良国立博物館への往還は、ほぼ三条通を経由するだけでした。改めて地図で確認しますと、三条通の「上三条」交差点から、徒歩数分の距離です。普段と違う道を歩いて、初めて神社に出会い、その存在を知ることになった次第です。この市道は、上三条交差点から北方向は「やすらぎの道」という愛称が付いています。地図にもその名称が記されています。(資料1)0053境内に入ると、すぐ右側、道路に面した石柵の内側の歌碑が目に止まりました。私には判読できませんでしたので、ネット検索してみて、 葉根蘰(はねかづら) 今為(す)る妹を うら若み いざ率川(いざかわ)の 音の清(さや)けさという歌とわかりました。(資料2) 朱塗りの鳥居と瑞垣が見え、南面する形で境内社が並んでいます。 まず境内社を拝見。 中央は、摂社「率川阿波神社」。祭神は事代主神(コトシロヌシノカミ)です。事代主神は大物主大神の御子神です。奈良市最古のえびすさんだそうです。「社伝によると宝亀2年(771)藤原是公が夢のお告げにより阿波國より勧請したと伝えられています」とのこと。(駒札より) 向かって右側は、末社「春日社」。祭神は武甕槌命(タケミカツチノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、比売神(ヒメカミ)で、春日大社の神四柱です。 左側には、末社「住吉社」。祭神は上筒之男命(ウワツツノオノミコト)、中筒之男命(ナカツツノオノミコト)、底筒之男命(ソコツツノオノミコト)、気長帯比売命(オキタラナガシヒメノミコト、神功皇后)の四柱です。社名の通り、大阪・墨江(住吉)に鎮る神と同神が祀られています。 この横長の建物が拝殿のようです。 拝殿の両側面から、何とか本殿が部分的に見えます。後に掲げる駒札の説明からわかることを箇条書にまとめてみます。*率川神社は正式には「率川坐大神御子神(イサガワニイマスオオミワミコ) 神社」と称すること。*桜井市にある大神(オオミワ)神社の摂社であること。*推古天皇元年(593)大三輪君白堤(オオミワノキミシラツツミ)が勅命によって創祀した奈良市最古 の神社であること。 ⇒平城京遷都(710年)より遙か昔の創祀を意味します*本殿は、一間社春日造・檜皮葺で同規模の建物三棟を横並びに配置してあること。*祭神は、向かって 右殿 玉櫛姫命(タマクシヒメノミコト) 御母神 中殿 媛蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト) 御子神 左殿 狭井大神(サイノオオカミ) 御父神*この三柱の鎮座の形から、「子守明神」と称されていること。 安産・育児・息災延命の神として篤い信仰を集めているそうです。 当神社の所在地は「本子守町」。「子守明神」と称される由来からか・・・・?*現在の本殿は、江戸時代初めの建立と考えられること。*当社の例祭は「三枝祭(サイクサノマツリ)」と称され、6月17日。境内社三社も同日の例祭。 笹百合(古名 さいくさ)の花で白酒(シロキ)、黒酒(クロキ)の酒樽を飾ってのお祭り(ゆりまつり) 日本史の年表をみますと、645年が大化の改新です。それ以前の飛鳥時代、桜井市の三輪で大物主大神を祀る人々の集団が、この率川神社あたりまでを勢力圏にしていた時期があるのかと想像すると古代へのロマンが広がります。実際はどのような勢力分布だったのでしょう・・・・・。 本殿の西に、東面する社務所があります。 境内の南西側にある手水舎 水の注ぎ口が花のようです。笹百合の花を象っているのでしょうか。 拝殿の南に、本社大神神社遙拝所が設けてあります。桜井市三輪に位置する大神神社の方向になるのでしょう。 遙拝所の西側に、この「蛙石」が置かれています。この石の形状から「カエル石」と称されています。言われてみれば・・・ナルホド! そばに立つ駒札。*蛙は繁殖力・命の再生・豊富・裕福のシンボルに。*カエルのゴロの良さ!「お金がかえる」「幸せがかえる」「若かえる」「無事かえる」*「撫で蛙」とも呼ばれるようになっているそうです。 (駒札より) 西側の門柱境内の西側は、門柱に注連縄が渡されたシンプルな門です。この後、この西門を出て、JR奈良駅をめざしました。結果的には、三条通から一筋南で東西を通貫する道路を西に進むことになりました。三条通のJR奈良駅前交差点からは一つ南の交差点に帰着することになりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. やすらぎの道 :ウィキペディア2. 率川 川の万葉集 :「奈良県」補遺率川神社 ホームページ率川(いさがわ)の名残り :「M. Yagi's Site」ササユリ :ウィキペディア三輪明神 大神神社 ホームページ 狭井神社 境内マップ ⇒三輪の神様の荒魂(アラミタマ)をまつる神社 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -1 三条通から興福寺へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -2 奈良国立博物館「空海」展 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -3 奈良国立博物館 庭の景色となら仏像館 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -4 拍子神社、吉城園(1)離れ茶室 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -5 吉城園(2)苔の庭・茶花の庭 & 復路 へ
2024.05.16
コメント(0)
吉城園(ヨシキエン)の「離れ茶屋」から西方向へ、 この庭園マップに記されたほぼ長方形に広がる「苔の庭」の南寄りの散策路を歩きました。庭園南辺の樹木の根元には、宝篋印塔の残闕を組み合わせた石塔がひっそりと置かれています。 このかなり広い庭の中央部はまさに苔が中心の庭です。 巨大な石や石灯籠が数点配置されているばかり。 この石灯籠が瑞々しい苔の緑の中で、庭景色の要になっているようです。時季と時刻の移ろいにつれ、苔の緑が変化する広い空間の静穏を味わう風情というところでしょうか。 庭の西端に程近く、「茶花の庭」に向かう階段道があります。こちらの庭は一段高い位置に、庭が広がっています。 振り返って この庭にも「あずまや」があります。 あずまやは樹木で囲われています。茶花の庭で、ほとんど花を見かけませんでした。緑が目に入るばかり。見落としていたのかも知れませんが・・・・。 苔の庭に戻る際には、別の散策路、一番西端の道を降りました。 異なる位置から眺めた石灯籠 この一輪だけが目にとまりました。調べてみますと、シャガの花です。(資料1) 吉城園の敷地の北辺には吉城川が谷川状に流れ下り、境界となっています。石敷道に沿いほぼ同じ高さの土塀が続くという、ちょっとおもしろい通路を歩むと受付所の傍に戻ります。散策路の順路を様々に組み合わせて歩み、庭の景色を楽しむことができます。吉城園を出て、西に真っ直ぐ進みますと、国道369号に出ます。奈良県庁の東側の道路です。 国道に出る手前、北側には築地塀沿いに池があります。 南側は野原。この野原の南東端に、一番最初にご紹介した拍子神社があります。築地塀の内側は、堂宇の内部がリフォームされ、モダンなホテルに変容しているようです。古都の佇まいは維持されています。 この近くに設置されている観光案内地図の部分図です。マゼンタ色の丸を付記したところが「吉城園」。赤地白抜きの現在位置がこの地図の設置場所です。この後は、JR奈良駅に向かう復路での点描と探訪です。国道を横断し、県庁前を経由して、大宮通を渡り、興福寺の北参道を南進します。三条通に至って右折して 猿沢池の西端に回り込み池を眺めました。浮御堂が東端に見えます。背景のビル群がなければ、奈良時代そのままの景色なのでしょうね。三条通をいつも通りに戻るのはおもしろみに欠けるので、今回一筋南の道路を進んでみることにしました。知らない径路で新たな出会いがあるかもしれないことを期待して・・・・。小人も歩けば棒にあたるかもしれません。 一筋南の小径を東に進み、この石碑のところで振り返った景色です。何ということもない景色ですが、 初めて見る石碑。銘板が嵌め込まれています。 「元林院町絵屋橋跡 元林院町の町名は、興福寺の別院『元林院』があったことに由来するという。 江戸時代には、もと春日大社や興福寺の絵所(南都絵所)に属した絵師たちが住んでいたと伝えられ、『絵屋町』とも呼ばれた。 春日山を源とし、佐保川に注ぐ率川(いさがわ)は菩提川とも呼ばれ、平成四年暗渠となるまでここに絵屋の名前をとどめる『絵屋橋』があった」(碑文転記)つまり、この小径は暗渠化された川の流路なのです。奈良の遺跡の一つに早速出会うという付録がつきました。早速、棒にアタリマシタ!インターネットでマピオンの地図を確認しますと、猿沢池の西側に「元林院町」の町名があります。また、調べて見ますと、南都絵所とは、「鎌倉時代以降,南都 (奈良) 興福寺大乗院,一乗院に属した吐田座 (はんだざ) ,松南院座,芝座の3座の絵仏師組織。治承4 (1180) 年の焼打ちによる南都復興を大きな契機とし,吐田座有尊,松南院座尊智など,京都から下った絵師や在地の絵師が定着して座を形成し,世襲的に継承した。院家より給分を与えられ,被官分となって仏画制作,仏像彩色や堂内装飾に従事した」(資料2)室町時代16世紀に制作された「東大寺縁起」の絹本着色の掛幅(三幅一舗)は、南都絵所の筆とみなされているそうです。(資料3)この後小径を西へと進みますが、ジグザグと右折左折を繰り返しながら歩むことになりました。つづく参照資料*入手した「吉城園」のリーフレット1. シャガ :「みんなの趣味の園芸」2. 南都絵所 :「コトバンク」3. 東大寺縁起 :「奈良国立博物館」補遺シャガ :ウィキペディアキラキラと白く輝くシャガの群生 :「IBARAKI FLOWER PARK」法安寺発想涅槃図 :「寝屋川市」興福寺国宝展 鎌倉復興期のみほとけ :「大阪市立博物館」 2005年の特別展 「興福寺をめぐる-南都絵師の展開」という一項あり ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -1 三条通から興福寺へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -2 奈良国立博物館「空海」展 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -3 奈良国立博物館 庭の景色となら仏像館 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -4 拍子神社、吉城園(1)離れ茶室 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -6 復路、率川神社に出会う へ
2024.05.15
コメント(0)
なら仏像館を出た後、登大路を西に向かいます。この登大路は近鉄奈良駅を越えると、西方向は大宮通となります。(資料1)冒頭の神社は、春日大社末社「拍子神社」です。祭神は拍子神(ヒョウシノカミ)。南都楽所(ガクソ)の祖で鎌倉時代の雅楽の達人狛近真を祀るそうです。(駒札より)この拍子神社は、県庁東交差点の北東側にあります。登大路の南側の歩道を西に進みましたので、県庁東交差点で地下道になる歩道で、北東側に通り抜けると、この辺りに出ます。 ここから少し東に戻り、築地塀の間の道を北へ進みます。この辺り、しばらく工事中だったのですが、今では築地塀の内側はホテルに変容していました。門を通り過ぎる時、さりげなく表示されたホテルの名称だけが見えました。この辺りの景観に配慮されているようです。この道を抜けて、右折します。 「吉城園(ヨシキエン)」の案内掲示板が、道路が左にカーブしていく手前の右端に設置されていて、カーブする道の角に吉城園の入口があります。ここは入園料無料です。 入口の受付所でいただいたリーフレットに掲載の庭園マップ 門を入ると、ずぐ前に受付所があり、その右側の数段の石段を上がると左(東)に「あずまや」への石段道が見え、右への通路は「池の庭」に向かいます。 「あずまや」に上る途中で眺めた「旧正法院家住宅」と「池の庭」です。池を周遊できる散策路が巡っています。この「吉城園」は「興福寺古絵図」によると、興福寺子院の摩尼珠院(マニシュイン)があったところだそうです。明治期に民間の所有となり、大正8年(1919)に現在の建物と庭園が造られたそうです。企業の迎賓施設を経て、昭和の終わりに奈良県が所有するに至りました。(案内掲示板より)あずまやから、反対(南)側の石段道を降り、池の東側の散策路を上ります。その道は「離れ茶室」に通じる石段道です。今回訪れると、離れ茶室の修復工事が完了していました。この茶室の建物内部は立入禁止で上がれませんが、入口付近と周辺からの拝見はできます。そこで、この茶室の建物の外回りをして、拝見できる範囲で細見してみることにしました。 石段道を上がると、まず中門が目に入ります。 建物の玄関は左方向にあります。玄関側を見ると、左側に長椅子が備えてあります。 長椅子側から眺めた玄関口の景色 玄関を一歩入り、板の間に置かれた立入禁止掲示の手前から、東方向に「苔の庭」を眺めた景色 吊り灯籠 目を左方向に転じて 左方向に転じた目を手前の建物内部に移した眺め L字形に置かれた柵の手前に「羅浮山(ラフサン)」の案内が置かれています。 騎馬武者を描いた杉戸絵の上に掲げられた扁額に「羅浮山」と書かれています。「羅浮山」とは、中国・広東省増城県北東の大洞窟のある仙術修験の山だそうです。後水尾天皇の皇子・真敬親王が、姉の文智女王に長く仕えた上臈尼が所蔵していた手水の立石を御覧になり「羅浮山」と命名されたそうです。その立石がこの茶室の玄関の左手にしつらえられたことにより、この扁額が由来するのでしょう。(上石を意識していませんでした。次回訪問の探訪課題が残りました。) ズームアップして離れ茶屋の外周を巡ってみるために、最初に見た中門に戻ります。 中門の扉越しに眺めた中潜戸と飛石の通路 左方向を眺めると、この建物の奥行きのある庇と外縁が見えます。ここは、中門を入り、茶室に向かう前の「待合」を兼ねる時があるのかも・・・・・と想像しました。(茶道は門外漢ですので、間違っているかもしれません)少し引き返し、離れ茶室の周囲の石道を反時計回りに巡ってみました。 中門の外から眺めていた中潜戸に近い側から眺めた建物の庭(外露地か) 待合 茶室 茶室の建物は萱葺屋根で、杮葺の庇が続いているようです。 秋の紅葉の季節もまたいいでしょうね。 茶室の躙口が見えます。躙口は茶室の南面に位置しています。 建物の南東側から眺めた景色 石敷の散策路には、大きな礎石も使われています。ちょっとした作庭上のアクセントになっています。 少し離れて、東から離れ茶室を眺めた全景です。 建物に近づき、北西側から眺めた景色 この建物の東面全体を、北側から眺めた景色です。 ほぼ離れ茶室の外周を巡ってきました。各所に趣向を凝らした茶室の印象を受けました。建物内部に立ち入り拝見できないのが残念なところです。この後、「苔の庭」と「茶花の庭」を巡りました。つづく参照資料*受付でいただいたリーフレット「吉城園」1. 大宮通・登大路 :「奈良県立図書情報館」補遺吉城園 奈良公園事務所 :「奈良県」吉城園 ブログ吉城園 :「おにわさん」大宮通り :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -1 三条通から興福寺へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -2 奈良国立博物館「空海」展 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -3 奈良国立博物館 庭の景色となら仏像館 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -5 吉城園(2)苔の庭・茶花の庭 & 復路 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -6 復路、率川神社に出会う へ
2024.05.14
コメント(2)
奈良国立博物館の西新館1階に下り、休憩エリアのベンチで少し休憩した後、南側のテラスに出て、庭の景色を眺めました。今回は庭園に入ることはできませんでした。木々の緑に溢れる庭と茶室「八窓庵」の入母屋造り萱葺屋根の外観を池越しに眺めるだけに留まりました。この後、地下回廊を進んで、なら仏像館に向かいます。「空海」展の入場券に、なら仏像館の入館券が付いていますので、ルーティンの鑑賞ルートです。今回も、館内の展示品の一部は撮影OKとなっていました。ということで、撮影可能の展示品について、鑑賞記録の覚書を兼ねて、ご紹介します。画像に付記したものは、展示品に付された案内説明からの転記あるいは要約内容です。拝見順路に沿って、列挙していきます。☆は奈良国立博物館蔵を意味します。 侍者坐像 ☆塑造 彩色 奈良時代 和銅4年(711)男子供養者の小像。法隆寺五重塔内には、塔本四面具と呼ばれる塑像群が安置されています。その塑像群を構成する一軀(以降、軀には躯の漢字を代用します)です。 ☆十一面観音菩薩立像 重文 木造 漆箔 平安時代(11世紀)新薬師寺伝来品。木の板で造り、彩色された板光背が付いています。板光背は南都の平安仏には多く見られるそうです。 「目を伏せた優しい表情、なで肩で華奢な体型、浅く穏やかな彫りの衣文などに、平安後期の彫刻の典型的な特徴が認められる」とのこと。 ☆観音菩薩立像 木造 彩色 平安時代(10世紀)京都府亀岡市の大宮神社に伝わった平安仏の一躯。一木造で内刳なし。 「官能的な表情は平安時代初期の密教彫刻の系譜を引く。細身の体躯や整理された衣文に次代へと繋がる要素が見て取れる」 ☆ 如意輪観音菩薩坐像 木造 素地・截金 鎌倉時代(建治元年/1275年)もと大阪・四天王寺内の蓮華蔵院の本尊。「装飾的な髪型や着衣の表現に、中国・宋代美術の影響がうかがえる」 ☆誕生釈迦仏立像 銅造 飛鳥時代(7世紀)胴長、短足、裾広がりの短い裙(クン)というアンバランスさ、明るい表情。ユーモラスな小像。「朝鮮半島の三国時代・新羅彫刻の流れを汲むか」 ☆方形阿弥陀三尊塼仏(センブツ) 土製 中国・唐(7世紀) 阿弥陀如来像の左右に脇侍立像を配した三尊像。唐の貞観元年(627)銘を持つ同型品が知られているそうで、同時期に位置づけられるとか。「日本で七世紀後半に流行した三尊形式の塼仏の系譜を考える上で重要」 ☆小型独尊塼仏 土製 飛鳥時代(7世紀) 三重県夏見廃寺出土名張川を見下ろす丘陵地の古代寺院金堂周辺から大小様々な塼仏が大量に出土。化仏形の如来像を表した小型品。「小さな空間の荘厳のために、貼り並べて用いたと推測される」 ☆ 如来立像 銅造 鍍金 朝鮮半島 統一新羅(8世紀)「卵形で張りのある頭部、切れ長の目と小さい口の面貌をもつ。腹と太ももに円弧を反復する簡略で力強い衣文表現、台座の反花(カエリバナ)の先を反転させる表現は、8世紀の統一新羅様式の特徴である」 ☆如来坐像 銅造 鍍金 中国・五胡十六国(4~5世紀)中国で造立された初期の金堂仏。「西域を経て伝えられたガンダーラの仏像様式を源流としつつも、左右対称の衣文構成や、拱手するような印相など、中国の神仙の姿を思わせるような趣がある」 ☆力士像 重文 脱活乾漆造 彩色 奈良時代または中国・唐(8世紀)漆に混ぜ物をした木屎(コクゾ)で形造られていて、細部は銅線を心に使っているそうです。 「姿勢や顔つきはどこかユーモラスであるが、手足の筋肉の描写は的確で、装身具・台座の表現にも造形力の高さが見られる」 中央のホールでは、何と言ってもこの金剛力士像。やはり迫力がすごい!奈良吉野町に位置する金峯山寺仁王門の金剛力士像(重文)が特別公開中。仁王門の修理完了(令和10年度予定)までの期間です。遮るものなく間近で見られるのが魅力。(資料1)撮影OKもうれしい。毎回撮っています。 ☆ 如来三尊像 重文 石造 中国・唐 長安3~4年(703~704)陝西省西安市宝慶寺伝来の石仏群のひとつ。 「中尊の肩幅が広く胸を張った腰の細い体型や、脇侍の三屈法(トリバンガ)の姿勢は、インド風を消化した初唐期の様式を示すものである」 ☆ 吉祥天椅像 木造 彩色・截金 鎌倉時代(14世紀)左手に宝珠を載せ須弥座に腰掛けた豊麗な貴婦人の姿で表現されています。五穀豊穣など、一切の福徳を司る女神。古代インドのラクシュミーが起源だそうです。ラクシュミーはヒンドゥー教の神で、富と幸運、美の女神。ビシュヌ神の妻だそうです。(資料2)展示室を順路表示に従って見て回った後、氷室神社前の通りを西に向かいます。つづく参照資料1. 名品展 特別公開 金峯山寺仁王門 金剛力士立像 :「奈良国立博物館」2. ラクシュミー :「コトバンク」補遺茶室 八窓庵 :「奈良国立博物館」なら仏像館 :「奈良国立博物館」美と豊かさの女神ラクシュミー :「yoggy magazine] ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -1 三条通から興福寺へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -2 奈良国立博物館「空海」展 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -4 拍子神社、吉城園(1)離れ茶室 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -5 吉城園(2)苔の庭・茶花の庭 & 復路 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -6 復路、率川神社に出会う へ
2024.05.13
コメント(0)
奈良公園の入口に、この掲示板があります。興福寺境内から再び三条通に戻り、迂回する形でここに至りました。 A4サイズで二つ折りのPRチラシです。空海の生誕1250年記念特別展として開催されています。展示品の中のハイライトは、修理後初公開の国宝・両界曼荼羅(高雄曼荼羅)です。これは、空海自身が制作に関わった現存唯一の両界曼荼羅で、日本最古だそうです。それ故に、一見の価値ありといえるでしょう。訪れたのは平日(5/9)の午後でしたが、思っていたよりも来館者数が多い印象を受けました。「空海」のネームバリューがそれだけ大きいということでしょうか。 公園内の歩道を東に進み、この展覧会案内を見つつ、新館に向かいます。 入場券半券 購入した図録の表紙ご覧のように、一貫して国宝・両界曼荼羅(高雄曼荼羅)の一部が特別展の案内等に使われています。この図像は、高雄曼荼羅のうち、金剛界曼荼羅の一印会に描かれた大日如来像が切り出されています。私が訪れた日は特別展前期の終わり近くでしたので、「胎蔵界曼荼羅」の展示でした。「金剛界曼荼羅」は後期(5/14~6/9)展示です。残念ながらこの大日如来の図像そのものは見ることができませんでした。勿論、胎蔵界曼荼羅にも大日如来像は描かれています。この高雄曼荼羅は、「4.神護寺と東寺 -密教の流布と護国」のセクションに展示されています。紫綾金銀泥による曼荼羅図。平安時代(9世紀)に制作されました。大同4年(809)7月、唐から帰国した空海は約3年を経て、都に入ることを許され、高雄山寺を拠点として活動を始めました。高雄山寺は後に定額寺になる時点で「神護寺」に改称されます。空海は弘仁14年(823)までこの高雄山寺を拠点にしましたが、朝廷より「東寺」の運営を任されたことで、東寺に拠点を移したそうです。(図録より)「淳和天皇の御願により、天長年間(824~834)に赤紫色の綾地に金銀泥を用いた巨幅の両界曼荼羅、通称高雄曼荼羅が描かれている。この曼荼羅は、空海が制作に関わった現存唯一の曼荼羅で、恵果より授けられた図録をもとにしていると考えられている」(図録より一部転記)会場では、「胎蔵界曼荼羅」を見ました。縦437.2cm、横388.7cm という巨大な掛幅です。博物館の壁面一杯に掛けられていて、まず圧倒感があります。現状維持としての修理が原則のようなので、金銀泥による図像は褪色等により見づらくなっている箇所もあります。しかし、よく保存され現存するということにまず驚嘆しました。今回の特別展は、次の章構成で展示されています。 1.密教とは -空海の伝えたマンダラの世界 2. 密教の源流 -陸と海のシルクロード 3. 空海入唐 -恵果との出会いと胎蔵界・金剛界の融合 4. 神護寺と東寺 -密教流布と護国 ①高雄山 ②東寺と護国密教 ③多才なる人-執筆活動 5. 金剛峯寺と弘法大師信仰 西新館1階の西端に、記念撮影場所が設置されています。 第1章の始まりは、この「五智如来坐像」(国宝、平安時代9世紀、京都・安祥寺蔵)が第一会場の中央に配置されています。この五智如来坐像を、私は京都国立博物館の平常展示で見慣れていました。しかし、今回、大日如来坐像を中心にして、東西南北の四方向に、阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の各如来が外向きに配置されているのは、新鮮な感じでした。私は今まで、京博で大日如来を中央に左右に二如来ずつ配されて横一列に並んだ五智如来坐像を繰り返し見てきただけでしたので。鑑賞者が周囲を巡りながら五智如来坐像を眺めることができるように企画されたのでしょう。もう一点、立体的配置と言っても、記念撮影場所にみるように、立体的に配置された五智如来坐像を一方向から眺められるという形ではないということです。この展示のしかたがまず印象に残りました。 チラシより会場入口の近くには、まずこの「弘法大師坐像」が展示されています。PRチラシからの引用です。会場で、大師像は左手に真新しい数珠をにぎっていらっしゃる。それがまず目に止まりました。肖像彫刻と数珠の新旧のコントラストがおもしろい。高野山で空海が入定する際に描かれた図像をもとに彫像された坐像だそうですが、この肖像彫刻は空海の若々しさ、エネルギーを感じさせます。前期として、西大寺蔵の絹本着色「十二天像」(国宝、平安時代9世紀)全幅を鑑賞できました。ただ、かなり褪色が進み、顔貌や装束などが不鮮明になってきていて図像が分かりづらくなっているのは、しかたがないとはいえ残念。しかし、じっと眺めていますと、おぼろげに顔貌が見えるように思えるのもありました。今回の展示でまず印象に残るのは、やはり密教におけるマンダラ(曼荼羅)世界が全体の基調になっていて、章にまたがって様々な時代に描かれたマンダラ図が展示されていたことと、マンダラの見方について、わかりやすい説明パネルが会場に掲示してあったことです。今回、特に金剛界マンダラを眺めて行く順番の説明が私には役立ちました。それと、やはり密教法具が数多く展示されている点が印象深い。第1章では、奈良・室生寺蔵の「両部大檀具」(重文、鎌倉時代14世紀)が一式、整然と配置され展示されています。 チラシより第3章には、この「金銅密教法具」を始め、三鈷杵、五鈷鈴なども展示してあります。これらの法具を眺めていて、ふと、これらが古代の武器を源流にしているなら、かつては弧状に象られている鈷(刃)の部分が一定の角度で真っ直ぐに伸びていたんだろうなと思いました。弧状にして殺傷力のない形状にすることで、仏教の世界に法具として位置づけた。そんな連想が湧きました。 第1章の最後あたりに展示されているのがこの「不動明王坐像」(重文、木造彩色、平安時代9世紀、和歌山・正智院蔵)です。これは空海の構想に基づく東寺の講堂像がルーツだそうで、「弘法大師様」不動明王坐像の一例だそうです。東寺の講堂は、空海の構想による立体曼荼羅の世界として有名です。不動明王坐像は第5章にも展示されています。会場入口で、「展示品一覧」のリーフレットとともに、「NHKジュニアガイド」と表紙右上に記された「鑑賞ワークシート」を入手しました。縦長の三つ折りにしたシートです。表紙では、「空海さんってどんなひと?」と投げかけ、開くと、「空海と密教の旅マップ」の図があります。ワークシートとして、会場の展示品を巡りながらマップに漢字一文字を書き入れていこうというミッションが課題にしてあります。この図解を見ますと、インドから大日経が陸のシルクロード経由で中国・西安にもたらされ、一方、金剛頂経はインドネシアのジャワ島に渡り、海のシルクロードを経由して、陸に上がり西安にもたらされたようです。遣唐使の一行に加わった空海が、この二つのルートを経てきたものを、密教の成果物として携えて、西安から日本に帰国したのです。第2章では、インドネシアのジャワ島で出土した密教関連小像群と密教法具が展示されています。海のシルクロードが取り上げられています。 チラシよりジャワ島東部のガンジュク出土の銅製「金剛界曼荼羅彫像群」(10世紀、インドネシア国立中央博物館蔵)46軀の展示が印象に残ります。今まで密教をインドネシアと結びつけて考えることがなかったので、一つの刺激になりました。ジャワ島出土の展示品、銅五鈷鈴の一つに、鈷(刃)が弧状ではなく、開いているのが展示されています。第3章には、「高野大師行状図画 巻第二」(重文、鎌倉時代14世紀、和歌山・地蔵院蔵)が展示されていました。渡海入唐の場面、大波の海上に浮かぶ遣唐使船が描かれています。これは、後期には、「弘法大師行状絵詞 巻第三」(重文、南北朝時代1389年、京都・東寺蔵)に入れ替えされる予定です。 チラシよりこれは後期展示の絵詞にある渡海入唐の場面です。手元の図録を眺めていて、ほぼ同じ状況で遣唐使船が描かれているのですが、船上の屋形の描写がかなり違います。そこが興味深い部分です。絵師は何を参考にしたのでしょうか。図録で振り返るうえで、こういう対比ができるのはおもしろいことの一つです。 チラシより第3章の展示品の一つ。大理石製「文殊菩薩坐像」(一級文物、唐8世紀、中国・西安碑林博物館蔵)です。この文殊菩薩坐像だけが、展示品の中で撮影可能でした。鑑賞者が移らないように撮った写真を載せておきます。 チラシよりこの「諸尊仏龕」(国宝、和歌山・金剛峯寺蔵)は木造で、中国・唐(7~8世紀)の作。空海が帰国の折に将来した品です。空海の枕本尊と称されてきたもので、総高23.1cmと小型な仏龕だそうです。これら二つの作品から、遠くインド、ヘレニズムの香りを感じとれるところがあります。また、第3章には、京都・教王護国寺(東寺)蔵の絹本着色「両界曼荼羅(西院曼荼羅<伝真言院曼荼羅>」(国宝、平安時代9世紀)が2幅、展示されていました(前期)。胎蔵界を例にとると、縦183.6cm、横163.0cmのサイズです。こちらは色鮮やかで、図像が実に細密です。図像が明瞭で鑑賞しやすかった。両界曼荼羅の構図と内容について、知識不足を痛感しました。全体図の絵解きができるための基礎知識が必要と感じた次第です。第4章に展示の高雄曼荼羅は最初に触れています。 図録の裏表紙これは図録の裏表紙に使われている「風信帖」(国宝、京都・東寺、平安時代9世紀)の一部(前期展示)。空海が最澄に宛てた手紙。最澄に宛てた手紙なら、なぜ東寺に?空海が最澄に宛てた手紙はかつて5通あったそうですが、そのうちの3通をまとめて一巻にしているそうです。その一通目の書き出しが「風信雲書」で始まることから「風信帖」と称されるとか。「附属する文書から、かつて比叡山にあったが、文和4年(1355)に東寺へ寄進されたことがわかる」(図録より)とのことです。疑問解消。第5章では、まず快慶作「孔雀明王坐像」(重文、鎌倉時代正治2年/1200年頃、和歌山・金剛峯寺蔵)が目を惹きつけました。木造、彩色截金の彫像です。端正で緻密、かつ煌びやかなのですが、ケバケバしさは感じません。抑えた華やかさという印象です。 この章では、前期展示なのですが、絹本着色の「伝船中湧現観音像」(国宝、平安時代12世紀、和歌山・龍光院蔵)が展示されていました。空海が入唐する際、渡航中に嵐に遭遇しますが、観音菩薩が現れて荒波が鎮まり、無事渡航できたというエピソードを表しているそうです。絹本着色の「五大力菩薩像」(国宝、平安時代10~11世紀、和歌山・有志八幡講蔵)三幅のうち、前期は「金剛吼」が展示されていました。縦322.8cm、横237.6cmという巨大な図像です。迫力極まりなしというところ。当時の人々はこの像を眺めて恐れおののいたかもしれません。 この空海展の最後を締めくくるのもまた空海像です。これは「萬日大師」と通称されている坐像。少し左方向を向いて坐す像で、若き空海という印象を抱かせます。入口近くの肖像彫刻像よりさらに若い頃を感じさせる像です。正面向きの坐像を見慣れてきていますので、その相貌とともに新鮮な感じを受けました。この特別展の展示を見て、一歩踏み込んで展示品を理解するには、密教に関連した基礎知識をもっと吸収する必要があるなあと改めて痛感しました。展示会場を出た後、博物館の庭の緑を眺めてから、仏像館に向かいました。つづく参照資料*生誕1250年記念特別展「空海」展示品一覧*図録『生誕1250年記念特別展「空海」』 奈良国立博物館 2024*本特別展のPRチラシ補遺真言宗総本山 教王護国寺 東寺 ホームページ 弘法大師空海 講堂 境内のご案内 立体曼荼羅高野山真言宗 総本山金剛峯寺 高野山 ホームページ 弘法大師の誕生と歴史弘法大師霊場 遺迹本山 高尾山神護寺 ホームページ 神護寺沿革史空海 :ウィキペディアエンサイクロペディア空海 ホームページ生誕1250年記念特別展 空海 -密教のルーツとマンダラ世界:「NHKアーカイブス」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -1 三条通から興福寺へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -3 奈良国立博物館 庭の景色となら仏像館 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -4 拍子神社、吉城園(1)離れ茶室 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -5 吉城園(2)苔の庭・茶花の庭 & 復路 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -6 復路、率川神社に出会う へ
2024.05.12
コメント(0)
猿沢池(パノラマ合成)5/9(木)、奈良国立博物館へ「空海」展の鑑賞に出かけました。たまたま前夜にNHKの番組「歴史探偵」で「平城京と藤原氏」を見ました。この番組を見て、改めて平城京における外京の位置づけと地形を再認識しました。 (資料1)これはウィキペディアの「平城京」から引用した「平城京地図」(710年)です。平城京の北東側に飛び出した区画が「外京」です。 外京を切り出した部分図にドットを加筆しました。赤丸が興福寺の所在地、水色の丸が冒頭の景色、「猿沢池」です。JRの「奈良」駅辺りが、かつての平城京の東端で、南北に「東京極」が通っていたようです。その通りは「東四坊大路」と称されるようになります。外京で南北の基幹となる通りが、東五坊大路~東七条大路と称されます。この外京の区画辺りが、現在の奈良市になっています。日本史の年表を見ますと、平城京への遷都は710年3月。710年に藤原氏は氏族の菩提寺を山階寺から興福寺に改称しました。730年に興福寺に五重塔が建立され、734年に西金堂建立、十大弟子・八部衆像が造立されたのもこの年です。着々と伽藍の充実が図られていきます。(資料2)テレビ番組では、平城京の3D画像を作成に、シミュレーションしてみると、平城京の各大路から興福寺が遠望できるということを再現していました。興福寺は藤原氏の政治力、勢力を象徴するものとして、君臨していたようです。741(天平13)年に、「国分寺・国分尼寺建立の詔」が発布されます。このとき、大和国分寺(金光明寺)が設けられ、ここが東大寺の前身になります。743年に「盧舎那大仏造立の詔」が発布され、752年に「大仏開眼供養」が行われ、その後に七堂伽藍が順次建立され、東大寺となります。(資料2,3)平城京は、藤原氏の興福寺とともに始まったということになりますね。この視点を今まであまり考えてはいませんでした。JR奈良駅から、三条通を東にかつての外京の区画内を歩みます。この三条通が、かつての平城京の三条大路です。そこは緩やかな坂道になっていて、猿沢池と興福寺の伽藍のある場所とは、さらにかなり高低差があります。興福寺が丘陵地の高台にあることと、その意味を再認識した次第です。冒頭の景色は、池の北西側からパノラマ合成で撮った景色です。 池畔から東を眺めた景色。東辺に浮御堂が見えます。東屋には無料で入れるとか。 池畔から池中を眺めると、普段ここに亀が幾匹かたむろしているのを見かけてきたのですが、全く目にしませんでした。猿沢池はもとは興福寺の放生池です。三条通の北側の石段道を通って、興福寺境内に入ります。 石段道の途中で、時折立ち寄る地蔵尊群が祀られている場所。石段道から左(西)側に入ります。 石仏群の中央に安置されている延命地蔵尊 様々なタイプのお地蔵さまが並んでいます。観音菩薩石像も安置されています。 石仏群の西には、三重塔があります。 相輪の上部宝珠・竜車・水煙と九輪のうちの上二輪を撮ってみました。全体が相輪です。 塔の姿は優美 取り替えられたのか、鬼瓦は新しい感じです。彫り込まれた鬼の顔は古いスタイルが継承されています。 石仏群の前からは、南円堂を見上げる形になります。 石段を上りきり南円堂前に。南円堂自体の前に観光客があまりいませんでしたので、久しぶりに御堂の近くに立ち寄りました。 八角堂の正面、拝所・右側の柱に木札が掛けられています。南円堂の本尊は不空羂索観音菩薩です。左に真言が記されています。 おん はんどま だら あぼきゃ じゃやでい そろ そろ そわか真言は「真理を伝える、仏の言葉」(新明解国語辞典、三省堂)です。サンスクリット語の言葉の発音をそのまま書き取ったもの。私はサンスクリット語での原文を読めませんので語義は不明です。棒読みするだけではいわば呪文のような・・・・ですね。 南円堂は813(弘仁4)年、藤原冬嗣が父の内麻呂追善のために建立されました。現在の建物は創建以来4度目のもので、1789(寛政元)年再建されたものと言います。現在、「西国三十三所」の第九番札所になっています。(資料4) 南円堂の右前(北東側)に小堂が見えます。近くまで行くことがなかったので、拝見しますと、 この小堂に安置されているのは、賓頭盧尊者でした。正面には、日本語での案内とともに、英文での案内も掲示されています。案内文を読んでいる欧米人観光客を見かけました。 小堂の木組はきっちりしています。頭貫、木鼻、蟇股等、シンプルですが文様彫刻が施されています。 ベンガラ塗りの柱に白壁の御堂を傍ちかくで眺めました。青空を背景にするとやはり気持ちはいいですね。 この石段参道を上り、南円堂を左に眺めつつ、右折していく時はほとんど意識することがないのですが、南円堂の南に鐘楼があります。復元された中金堂を北に眺めつつ、東に向かいます。 すっかり忘れていたのです。五重塔が修理工事に入っていることを!五重塔の北側の参道を通って、奈良公園へ向かう長年の習慣で、意識せずにルーティンとして興福寺境内を横切ろうとしてきたのが失敗。五重塔前の工事用仕切り塀前の参道を右折して、再び三条通に戻り、奈良公園の方向に向かいます。めざすは奈良国立博物館です。つづく参照資料1. 平城京 :ウィキペディア2.『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社3. 東大寺の歴史 :「東大寺」4. 南円堂 :「興福寺」補遺平城京 :「ジャパンナレッジ」⑥猿沢池 :「大和川清流復活ネットワーク」猿沢池と興福寺の伝説 奈良の昔話 増尾正子さん :「CITY MAGAZINE マイ奈良」法相宗大本山 興福寺 ホームページ 木造不空羂索観音坐像 南円堂不空羂索観音 :「コトバンク」賓頭盧 :ウィキペディアびんずる様とはどんな人?びんずる様の体が赤くて外にいる理由 :「花臺山金剛院」不空羂索観音の梵字・種字|真言・マントラ|ご利益 :「梵字一覧まとめ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -2 奈良国立博物館「空海」展 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -3 奈良国立博物館 庭の景色となら仏像館 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -4 拍子神社、吉城園(1)離れ茶室 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -5 吉城園(2)苔の庭・茶花の庭 & 復路 へ探訪&観照 平城京外京(奈良)を歩く -6 復路、率川神社に出会う へ
2024.05.11
コメント(2)
ジャスミンが一斉に咲き、ほぼ枯れてきました。すると、バトンを引き継いだように、ジャスミンに重なるように蔓を伸ばして、建物の壁際にトケイソウが咲き始めました。 先ほど写真を撮りました。5~6のトケイソウが開いています。 蕾がたくさんついています。 しばらくはトケイソウが順次花開くことでしょう。手元の一書によると、トケイソウの花言葉は「聖なる愛」 (資料1)ネット検索してみますと、「聖なる愛」と併せて、「信仰」「宗教的な熱情」という花言葉を載せています。(資料2)一方手元の歳時記数冊を引いてみましたが、季語には載っていません。ネット検索してみますと、夏の季語として取り上げているウエブサイトに出会いました。(資料3,4,5)こんな句が事例に掲載されています。 日々の峠泊まりや時計草 答推 「綾錦」 (資料3) どの国の時計に似たる時計草 後藤比奈夫 (資料5)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.『366日の誕生花の本』 瀧井康勝著 日本ヴォーグ社2. [トケイソウの花言葉]怖い意味はある?花の特徴や由来は?:「Green Snap STORE」3. 時計草(とけいそう/とけいさう)三夏 トケ栽培管理 トケイソウの育て方イソウ:「きごさい歳時記」4. 時計草(とけいそう) 俳句季語辞典 :「夏井いつきのおウチ de 俳句くらぶ」5. 時計草 夏(三夏)・植物 :「わたしの俳句歳時記」補遺トケイソウの仲間の基本情報 :「みんなの趣味の園芸」トケイソウ :「花と緑の図鑑」栽培管理 トケイソウの育て方 植物栽培ナビ :「住友化学園芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.05.08
コメント(0)
割拝殿の左(西)側に大神輿が2基収納されています。前回ご紹介した全景です。京都アニメーション制作の「響け!ユーフォニアム3」というアニメの4月21日放映の第3回にこの許波多神社の神輿を背景に写真を撮るシーンが登場したのだとか。架空の北宇治高校吹奏部を舞台としたアニメで、1年生部員・義井沙里の家という設定でこの許波多神社が登場するそうです。アニメファンには、大神輿が見られるなら関心が高まるかも知れません。(資料1)以前探訪した折、知らなかった大神輿が公開されて拝見できることは大いに有難いことなので、この大型連休中に訪れてみた次第です。アニメファンかどうかは判りませんが、私が訪れた時には、5~6人の参拝者に出会いました。 神輿に近づきますと、前面に「献燈」と墨書した提灯が一列に吊される中に「南」「北」と一文字だけ記された提灯が各神輿の正面に吊されています。前回ご紹介の神社の案内掲示に、北部・南部に分かれた氏子地域という説明がありますので、かつてはこの2基の神輿も、氏子地域に対応していたということでしょう。この大神輿は、「昭和30年代半ば以降は巡行することもなくなった」(資料1)とのこと。報道記事にある通り、各神輿の前には、獅子頭が置かれていました。獅子舞いに使う頭です。獅子舞いを見る機会などほとんどありません。獅子舞いを辞書で引くと、「獅子頭をつけて舞う民俗芸能。広くは鹿または竜などの頭をつけて舞うものを含んで呼ばれる。悪魔払いの舞として普及した。しし踊り」(日本語大辞典・講談社)と説明されています。余談ですが、ネット検索してみると、京都・八坂神社の節分祭で祇園獅子舞が奉納され、京都の中堂寺六斎会では、演目に「獅子舞い」を演じられています。(資料2,3)さらに、京都市伏見区にある御香宮神社の「神幸祭」には、巨大獅子舞「獅々若」の巡行が行われるようです。(資料4)それでは、正面から見える範囲で神輿を細見することにいたします。まずは、「南」の神輿から: 正面と南側面 神輿の四隅には、隅木から風鈴(風鐸)が吊されています。 神輿正面の朱塗りの鳥居。神輿の四面それぞれに鳥居が設けてあります。 鳥居には「正一位柳大明神」の扁額が掲げてあります。前回にご紹介した神社案内の掲示によりますと、「永禄12年(1569)正一位宣叙」とあります。(案内文より)明治9年に現在地に移転する以前、つまり、柳山の社殿があり、柳大明神と称された時代にこの神輿が造立されたことがわかります。額縁には、菊と葵の文様が装飾されています。 鳥居の柱の上部、島木の下には雲形文様、その下に、右の柱に昇龍、左の柱に降龍の浮き彫り金具が装飾されています。御堂には瓔珞が飾ってあります。 神輿の正面、屋根の下、虹梁の上に人物像が彫刻されています。随身像でしょうか、不詳です。 台輪中央の台輪紋には菊紋が付けられその周囲を桐文が装飾しています。台輪隅金物は鋲打ち金具で質実剛健、黒塗りです。 正面と北側面 神輿の屋根の頂点に据えられた大鳥(鳳凰) 棒先金具この金具の紋は何と称するのでしょうか?「北」の神輿に移ります。 神輿の基本スタイルは、双方同じです。 南側面 北東側から 正面の鳥居、右側の柱には、鳳凰の浮き彫り金具で装飾されています。片方だけ撮りました。 また、神輿・北面の鳥居の柱には虎の浮き彫り金具が装飾されています。神輿の屋根の四隅の蕨手(ワラアビテ)には小鳥が乗っています。 北西隅 南西隅 北東隅 南東隅対比して眺めますと、南の神輿の蕨手には小鳥がとまっていません。細見すると、いくつも違いがあることに気づきます。全く同じものは作らない、違いを盛り込むということが文化の根っ子にあるように感じます。 北東の隅木に吊された風鈴(風鐸) 棒先金具南の神輿とは文様が異なります。こちらは菊紋です。飾紐のかけ方は、南・北の神輿ともに同じスタイルです。この大神輿が作られた時期は正確にはわからないようです。神社の記録には、室町時代の末期に神輿が作られたとの記録があると言います。それに該当する神輿かもしれない・・・・という推測にとどまるとか。現時点では文化財の指定はないそうです。(資料1)想像するロマンは残されています。大神輿の公開は今後の連休にも予定されていると報じられています。6月1~5日、7月13~15日、8月10~12日、9月14~16日です。11月4日も追加されるとか。 参道を石鳥居に歩むと、こんな景色を眺めることに!木々の枝々が重なりあい、太陽の位置、光との関係から円環の中を抜け出るような様相です。「夏越しの祓え」として行われる「茅の輪」くぐりを連想してしまいました。 これで、大神輿のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 朝日新聞社報道記事(2024.5.4) 京アニ作品の「聖地」宇治・許波多神社 2. 祇園獅子舞・祇園太鼓 八坂神社 節分祭 2024-02-03T14:00 YouTube3. [獅子舞い] :「京都 中堂寺六斎会」4. 京都伏見の獅子舞について :「獅子宿燻亭8」補遺神輿 :ウィキペディア各部の名称をご紹介 :「中台製作所」神輿の部分名称 :「宮本卯之助商店」神輿の部位の名称と解説。お祭り好きなら知っておくべき神輿の部品たち。 :「おらがまち」[本殿国宝奉祝奉納行事]八坂神社22.11.20祇園獅子舞奉納記録映像4K YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市五ヶ庄 許波多神社再訪 -1 境内と大神輿 へ
2024.05.07
コメント(0)
宇治川に架かる隠元橋付近は萬福寺を開山した隠元禅師の渡岸地です。この隠元橋から萬福寺に向かう道沿い、徒歩数分のところに、許波多神社があります。所在地は宇治市五ヶ庄古川です。5月4日(土)の朝日新聞朝刊の25面「京都」(地方版)に載った記事が目に止まり、昨日(5/5)久々に再訪してきました。「京アニ作品の『聖地』宇治・許波多神社」と題したけっこう大きな記事が目に止まったのです。この五ヶ庄古川にある許波多神社は以前に地元探訪の一環で訪れていました。しかし、その探訪の折には、大神輿のあることも知りませんでしたし、見ることもなかったのです。この報道記事で、大型連休にも神輿を追加披露するという対応を神社側がとられることにされたという報道でした。ということで、拝見していなかった大神輿を拝見に行きました。併せて、対応公開された神輿を眺めてきました。報道記事の見出しは、アニメファン向けの表現です。 響け! ファンへの「神」対応 登場した大神輿 公開日追加に歓喜の声という見出しが上掲見出しに併せて記されています。私は知らなかったのですが、京都アニメーション制作の「響け! ユーフォニアム3」という現在NHK・Eテレで放映されている作品にこの許波多神社と大神輿が出ているそうです。 参道入口に設置の「許波多神社略記」を載せておきます。 屋形石灯籠参道の両側に、このスタイルの石灯籠が奉納されています。 その先に、石鳥居があり、「許波多神社」の扁額が掲げてあります。 参道の奥には、朱塗りの鳥居が見え、参道両側には奉納された幾基かの石灯籠。 朱塗りの鳥居の手前左(西)側に、手水舎が見えます。 手水鉢へは龍像の口から水が注がれています。 手水舎の覆屋の傍に駒札「橋桁復元」が設置されています。「左右の石は旧鎮座地(現・宇治市黄檗運動公園)の宮川に架かっていた橋桁」を復元したものと記されています。 朱塗りの鳥居の手前に狛犬石像が奉献されています。台座の記銘からは何時頃のものか判読できませんでした。 鳥居をくぐると、参道の前方に「割拝殿」が設けてあります。参道の右(東)側方向に社務所があり、参道脇に 木柵囲いの中に「柳大明神」と記された襷を首に掛けた「神馬(シンメ)」が設置されています。「神馬とは神様がお乗りになる馬のことです。 許波多神社が創建された飛鳥時代のような昔には、神様に祈願する際、願い事が成就するように、馬を神馬として奉納されることがありました。許波多神社においても、昔には、神馬が奉納され、祭礼が行なわれたと考えられています。 江戸時代以前、柳山(現在の宇治市黄檗公園)に鎮座していた頃は、社前から西の大池(巨椋池)に逹する東西一直線の馬場道があり、北部・南部に分かれた氏子地域によって、祭礼が執り行なわれていたという伝承が残されています。 社宝として現存する二つの鞍と鐙(アブミ)は、二頭の神馬が馬場道を荘厳に駆けていた様子を想起させます」(駒札転記) 割拝殿は唐破風の屋根になっていて、唐破風の頂点部の鬼板を眺めると、「柳」という文字が陽刻されています。柳大明神の柳なのでしょう。 割拝殿の中央部は本殿への参道になっています。参道から見上げると、唐破風屋根を支える蟇股等はシンプルな形です。 参道の左(西)側の拝殿部分に、今回のハイライト、「大神輿」が2基公開されていました。大神輿の細見は次回にまとめます。 割拝殿を通り抜けた先には、本殿手前に拝所とその左右に本殿を囲む朱塗りの瑞垣が見えます。 拝所の手前はこんな感じです。 左側に回り込んで見ましたが、側面からも本殿は殆ど見えません。主祭神は、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサヤアカツカツハヤヒアメノオシホミミノミコト)で、 天津日子彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホニニギノモコト) 神日本磐余彦尊 諡 神武天王 (カンヤマトイワレヒコノミコト) を併せて三座が祭神です。 割拝殿の右(東)側には、当社の案内として、詳しい案内文が掲示されています。詳細は神社にご参拝いただき、お読みいただくとして、次の事項を要約します。*創建 孝徳天皇大化元年(645)、山背国莵道郡許畑、柳山に神殿を造営*創建当時、許波多神社あるいは木幡神社と号した。柳山鎮座の故に、後に柳大明神と称され、それが正式社号になっていった。*明治9年現在地に移転後、元の名称に復称した。*移転の理由は、明治8年、陸軍火薬庫建設のために、社地全域が社地全域が無償上地となった。つまり政府に接収された。*現在地は御旅所だった。ここに移転させられた。 この古地図も掲示されています。大神輿の公開は今後の大型連休にも予定されていると報じられています。6月1~5日、7月13~15日、8月10~12日、9月14~16日です。11月4日も追加されるとか。次回は、大神輿の細見をいたします。つづく補遺許波多神社 :ウィキペディア許波多神社[宇治観光] :「京阪宇治線 おけいはん」割拝殿 :「大阪文化財ナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市五ヶ庄 許波多神社再訪 -2 大神輿の細見 へ
2024.05.06
コメント(0)
一輪のバラが枯れ、代わりにバラ二輪が今、咲いています。 今朝(5/5)と撮りました。 玄関口のもう一つの雨樋に巻き付いているジャスミンの房に、大きな蜂が飛び回っていました。 そのジャスミンの下に置かれた一鉢に、一輪のマチルダが咲いています。 玄関口の左側の一鉢には、淡い紫色のブルームーンがこれも一輪咲いています。このブルームーン、念願かなって今年やっと咲いたと家人が喜んでいる花です。 好き勝手な方向に伸びているラベンダーも花開いています。 ラベンダーの南西傍、庭中央部の駐車場のコンクリート地の水まきで湿り気が残るところに、蝶が一匹舞い来たり、止まっています。 道路から玄関へのアプローチの途中に、デンドロビュームが咲いています。 ネットで画像検索しますと、ヒメヒオウギのようです。 道路への手前には、シランとともに、この花が咲いています。これもネット検索によりますと、ブルビネ・フルテスケンス(ハナアロエ)のようです。庭の西端の幅の狭い花壇には、 マルバシャリンバイ(シャリンバイ)のようです。これもネット検索にて。 こちらはトキワツユクサのようです。これもネット検索してみました。 こちらも検索してみますと、アリウムという花の一種のようです。様々な花が咲き、春爛漫・・・・・。家に居れば、静かな連休です。花の名を知らずとも、無心に咲く花々を眺めるひとときはいいものです。花の名前、間違いがあるかも知れません。花の名前には疎いので・・・・・。晴れが続くとやはり気分が良い!天気予報では月・火は雨になるそうですが・・・・。ご覧いただきありがとうございます。補遺マチルダ :「IBARAKI FLOWER PARK」バラ苗[新苗]マチルダ国産苗 :「バラの家 公式本店 ロサオリエンティス」ブルームーンの育て方 :「篠宮バラ園」デンドロビューム :「みんなの趣味の園芸」ヒメヒオウギの仲間 :「みんなの趣味の園芸」ヒメヒオウギ(姫檜扇)とは?育て方・栽培方法|植物図鑑 :「LOVEGREEN」ブルビネ・フルテスケンス(ハナアロエ) :「たけじいの気まぐれブログ」ハナアロエ :「花の家」マルバシャリンバイの花が咲きました :「東北造園株式会社」マルバシャリンバイ :「四季の山野草」トキワツユクサ :「四季の山野草」アリウムの写真 :「みんなの趣味の園芸」アリウム・ロセウム :「みんなの趣味の園芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.05.05
コメント(0)
京都国立博物館で特別展「雪舟伝説」を鑑賞した後、普段ならJR奈良線の東福寺駅に戻るのですが、大型書店に立ち寄るために、JR京都駅に向かうことにしました。七条通を西に歩むのは久しぶりです。そこで、「七条大橋」を西に渡った後、「松明殿稲荷神社」に立ち寄ってみました。この2箇所はかなり以前にブログ記事を載せています。詳細はそちらに触れていますので、ここでは簡略なご紹介にとどめ、覚書を兼ねたいと思います。冒頭の左の写真は、鴨川の下流方向です。南には塩小路橋、その先にJR琵琶湖線と東海道新幹線の鉄橋を遠望できます。鴨川左岸沿いの川端通は塩小路橋の地点を南端とし、鴨川の左岸堤防上は塩小路橋の地点を北端に「師団街道」が始まります。 七条大橋東詰に駒札が立てられています。 左の写真は鴨川の上流方向の景色。南側の歩道から摂りました。七条大橋から上流には、正面橋、五条大橋、松原橋、団栗橋、四条大橋が順次架かっています。正面橋を東に進めば、突き当たりは豊国神社。かつては突き当たりが「方広寺・大仏殿」であり、この橋は正面の通りに架かる橋ということになります。豊臣秀吉が平安の都に都市大改造計画を実施したとき、五条通を新たに設けて、五条橋を架けました。かつての五条通を松原通に変更しました。そのため、牛若丸と弁慶が五条橋の上で闘うという場面に登場する橋は、松原橋と呼ばれるようになりました。現在、牛若丸と弁慶のモニュメントは現在の五条大橋の傍に設置されてはいますが・・・・。五条大橋の名前に引き寄せられた結果でしょう。右の写真は、橋上の南側歩道で振り返り、東方向を眺めた景色です。 七条大橋の西詰、鴨川の右岸に「松明殿稲荷神社」があります。 七条通の南側歩道沿いに、石鳥居と石柵が設けてありますがここでは省略します。どちらの鳥居にも、「松明殿稲荷神社」と記す扁額が掲げてあります。江戸時代に出版されたいわば観光ガイドブックである『都名所図会』は「炬火殿(タイマツデン)」という見出し項目でこの神社を説明しています。(資料1) 石鳥居をくぐると、すぐ右側に地蔵堂と手水舎が見えます。右端に石柵が少し写っています。 お地蔵さまは楽しそうなお顔に描かれています。 神社境内に地蔵堂が融和しています。 「手洗水」と刻された手洗、その右には石井戸が見えます。手洗の傍に水道の蛇口がありますが、かつては右側の円筒形の石井戸から水を汲み上げて手洗水にしたのでしょう。手洗の斜め左前方に駒札が設置してあり、宝暦2年(1752)夏、石井戸と手洗が木食正禅養阿上人により寄贈された旨が記されています。石井戸の正面には太字で「養阿水」と陰刻されています。養阿は江戸時代中期の木食僧で、高野山で木食行を志した後、下山し、七条の梅香庵を住まいとして念仏聖の活動に専念したそうです。京都周辺を勧進しつつ、阿弥陀如来像の造立、多くの土木工事、五条坂の地に安祥院を復興するなど、様々な活動を実践しました。寛保1(1741)年に法橋上人位を授与されたと言います。(資料2) 手水舎の南側には、覆屋が設けられた「天満宮」が祀ってあります。角柱の石灯籠の正面に「天満宮」と刻されています。小社の屋根の形はあまり見かけないスタイルです。流造の変形でしょうか。 松明殿稲荷神社は、伏見稲荷大社の境外末社で田中社とも言われます。天暦2年(948)に創始され、天暦10年(956)、勅により燎祭(リョウサイ)が行われ、その時に「炬火殿}の号を賜ったそうです。(資料3)燎祭とは、「柴をやいて天地山川を祭る」(『普及版字通』)ことを意味します。『都名所図会』には「稲荷の祭礼の日、神輿臨幸の時、七条河原に於いて松明を照し神輿を迎ふるなり」とあります。(資料1)炬火殿がいずれかの時点で松明殿と称されることになったのでしょう。当初は黒門通塩小路下るにあったそうですが、その後幾度かの移転を経て、宝永8年(1711)に現在地に移ったとされています。 祭神は、倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)をはじめ、大己貴命(オオナムチノミコト)、伊弉諾命(イザナギノミコト)、伊弉冊命(イザナミノミコト)、猿田彦命(サルタヒコノミコト)が祀られいるそうです。このほか現在、天智天皇像(木像)、大友皇子像(木像)を安置するとか。(資料3) 東側面に回ってみました。本殿は切妻造の瓦葺き。本殿を瑞垣が囲んでいます。拝殿の側面に連子窓が設けてあります。 向拝の柱の木鼻が目に止まりました。全体が朱塗りの中で、木鼻の獅子像だけがブロンズのような色合いです。これがワンポイントの押さえになっているように感じました。ここの地名は「稲荷町」です。余談ですが、ふと思って確認してみると、伏見稲荷大社の所在地は「深草藪之内町」です。地名の付け方って興味深い。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫2. 養阿 :「コトバンク」3. 松明殿稲荷神社 :「京都観光Navi」補遺七条大橋 :ウィキペディア松明殿稲荷神社 :「コトバンク」燎祭 :「コトバンク」木食養阿 :ウィキペディア安祥院 :「コトバンク」安祥院(京都) :ウィキペディア木食正禅上人と阿弥陀如来露仏 - 境内霊譚奇談集Ⅸ :「苦沙彌のINTERNET 僧坊」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 -10 京都 七条大橋 2020.09.03 掲載スポット探訪 京都・下京 松明殿稲荷神社 2019.11.22 掲載
2024.05.02
コメント(2)
全12件 (12件中 1-12件目)
1