全706件 (706件中 701-706件目)
富永屋での雛人形展示をゆっくり見ていましたので、もう時間的にも厳しくなっていました。富永屋に来るまでに展示の片付けにかかっておられたところもありました。そこで地図の西国街道沿いに巡るのも、お店のドアを開けてまで訪ねてみることはやめ、表からオープンに見えるところをちょっと眺める形で歩きました。冒頭の部分図に赤い丸印を付けたところが、前回ご紹介した「富永屋」の位置です。結果的に、外から見える雛人形展示は残りの行程の間に数軒ありました。展示人形の片付け中のお店やショーウンドウ越しに雛人形展示を見られるところなどもありました。ちょっと立ち寄って、お店の人とおしゃべりしながら拝見したのはこの雛人形飾りです。おもしろいなと思ったのは、お菓子が雛段に供えて(?)あったことです。お店の通路部分に飾られていたので、部分写真になりましたが、楽しく拝見できた次第です。西国街道を北に歩むと、冒頭の部分図に青い丸印を付けたところに到ります。3方向への分岐点になっているところです。 この角に位置するのが「須田家住宅」です。右の写真に、道標が角に立っています。そこには江戸期古道名が刻されています。左の道(西方向)を行けば「たんばみち」(丹波道)、中の道(北方向)を行けば「あたごみち」(愛宕道)、右の道(北東方向)を行けば「西国街道」です。愛宕道は、府道67号線であり、現在は「物集女(もずめ)街道」と呼ばれています。このあたりの地図(マピオン)を改めて見ていて気づいたことがあります。地図はこちらをご覧ください。須田家住宅のところで、中の道が愛宕道なのですが、現在の地図(マピオン)には、「福祉会館前」交差点を経由して、阪急京都線「東向日」駅、JR「向日町」駅に向かう道にも西国街道の表記があることです。歴史街道という視点では、須田家住宅の分岐地点から右の道「西国街道」なので、ここから先は現在の名称だと物集女街道でもよいのかな・・・って気がしたのです。いつ頃から、福祉会館前交差点経由の道が「西国街道」と称するようになったのでしょうか? 江戸時代からここの一部区間だけ分岐・合流する形で2つの道が使われていたのでしょうか?今のところ、少し調べてみた範囲では解けていない小さな関心事です。さて、この須田家住宅を正面から眺めるとこんな景色です。一見した印象は新しく復元された町家なのかなというものでした。帰宅後に入手資料の一つに、この「須田家住宅」(資料1)があり、「現代によみがえる町屋」だったと知った次第です。江戸時代に段階的に増築されてきた建物でしたが、老朽化が進み、1972年(昭和47)から空き家となっていたそうです。1987年(昭和62)に京都府の有形文化財に指定されたことから、1991年(平成3)からおよそ6年間をかけて修復されたのです。それで新装感があったのです。街道に面する東面が建物の正面になっていて、京都市内の町家と違い間口が広いのがまず印象に残ります。南棟と屋根が一段低い北棟がつながっています。ここは「松葉屋」という屋号を持ち、主に醤油の製造/販売をしていた商家だったそうです。松葉屋利兵衛さんが江戸時代初期・元和2年(1616)、向日町上之町で醤油づくりをされていたとか。代が移り、記録からは1679-1719年間に、上之町中丸ノ段に須田家住宅主屋南棟が建てられたのです。享保4年(1719)には久兵衛さんの名前が登場します。そして、1744年ころまでには、松葉屋が現在地(西ノ段)に移っていたそうです。天保13年(1842)に主屋北棟を建て添えたとか。明治18年(1885)頃に、松葉屋では北棟の座敷の北側にさらに、奥座敷を増築されたのです。 南棟の「大戸」入手したリーフレットに記載の主屋平面図を参照しますと、大戸を入ると「通り土間」となっていて、真っ直ぐ先の奧(西面)に竃(くど)と台所があります。入って右折すると玄関があり、そこに「帳場」が設えられていたようです。京都の町家でも見かけますが、大戸の南側の格子窓の前に、折りたためる床几が設置してあるのも、商家らしい感じです。ちょっと入口でひと休みできるスペースです。あるいは、この床几が見本商品陳列の台になったのでしょうか・・・・。江戸時代の町屋(町家)の使われ方を調べてみる必要もありそうです。大戸の北側の格子窓は玄関前と帳場の傍になります。明かりとりになっています。元和2年には、向日町の屋敷地と職業の調査が実施されていて、このあたりの町なみ、屋号と扱う商品も記録された冊子が残っているそうです。リーフレットには「向日町上之町復元図」の一部として、この松葉屋を中心に3方向の道に並ぶ商家の復元図が載っています。町場として向日町が栄えていた当時の一端が想像できておもしろいです。尚、元和2年時点の松葉屋は、愛宕道と西国街道の合流地点側にあったようです。つまり正面の写真を撮った側になります。元和2年時点、現在の須田家住宅の場所には、「槌屋」という屋号の商家が綿を商っていたことがわかります。西国街道の東側は、南の富永屋(宿・植木)から北東の端として坂田屋(壁方)まで20軒の商家があったことが復元図でわかります。もう一つ地図との対比で気づいたのは、「上之町」という町名が「寺戸町」と代わっていることです。「中丸ノ段」という地名はネットで見られる地図上にはありませんが、「中ノ段」という地名は記載されています。この探訪の時は、須田家住宅の前の道、府道67号線沿いに歩きました。「ひな人形展示案内」図にはこちらの方にいくつか展示場所が記載されていましたので。そして、福祉会館前交差点からJR「向日町」駅へ右折します。道路は府道206号線で、西国街道と地図に記されています。 この道路に沿った歩道を進みますと、阪急京都線の「東向日」駅の手前で、かつての西国街道と合流します。その合流地点に、「寺戸町 梅の木」という道標が立っています。(一番左の茶色い道標) 「昔、この一帯が梅林であったためこの地名が付いた。 地元に伝わる御詠歌にも『ありがたや だいにち(大日如来)さまのおすがたが うめのこかげにおわします』とある」道標には、こんな説明が記されています。その傍には、「右 ぼだい院」という文字が判読できる道標と、「淳和天皇、桓武天皇皇后」の名称が併記された道標も立っています。そして「大原野神社」への道標も立っています。歴史探検マップを見ますと、府道206号線沿いに歩いてきた道は、「梅の木」の道標より少し南西の位置で、東西の道に合流していたのです。その東西の道が、「大原野道」であり、府道207号線です。この合流地点からは府道207号線になっていたのです。この辺りの地図(マピオン)はこちらをご覧ください。大原野道を西にむかうと、「宝菩提院跡」があります。更に先に進むと大原野道より少し北に「桓武天皇皇后陵」があります。第6向陽小学校が西隣りです。大原野道を辿っていくと、もちろん大原野南春日町に所在の「大原野神社」に到ります。神社の西方向に「勝持寺」があります。ここまで地図の上で行きついて、勝持寺の隣に、「宝菩提院願徳寺」という名称を見出しました。少し調べてみると、「宝菩提院跡」と関係があるようです。衰退・荒廃後に、勝持寺に本尊が移され、昭和に「宝菩提院願徳寺」が再興されたようです。(資料3)また、「淳和天皇火葬塚」は大原野道から物集女街道に入り、北に向かう方向になります。物集女街道沿いにある郵便局「向日物集女局」の背後、西側になります。阪急京都線の踏切を横断し、西国街道をJR「向日町」駅まで歩きます。駅の少し手前にあるのが、寺戸川と深田橋です。この付近では深田川とも呼ばれるそうです。橋の傍に、「向日町駅と西国街道」の説明板が設置されています。読みづらいかも知れませんが、説明文を切り出してみました。要点は次のとおりです。*西国街道は、京都の東寺口から摂津西宮を経て、西に行く江戸期の幹線道路となる。*JR向日町駅前道沿いから、平安時代の道路や側溝跡が発見されている。*豊臣秀吉が朝鮮への出兵にともない、西国街道を拡幅、整備した。*江戸時代、乙訓地域では西国街道を「唐海道(からかいどう)」と呼んでいた。*江戸時代、深田橋は当初は「公儀橋」であり、幕府が管理していた。*1714年と1715年に勧進相撲を実施し、木戸銭で石橋に架け替え、寺戸村の管理下に。*京都で排出されるこやしを田畑の肥料として乙訓に運搬する交通路となった。*明治9年(1876)7月に大阪-向日町間の鉄道が開通し京都府下で最初の鉄道駅となる。近くに、「浄土門根元地粟生光明寺道」の道標が立っています。高さがあって目立ちます。西国街道を進み、須田家住宅の地点を経由し、五辻に至ると、ここで西国街道から分岐して南西方向に進みます。しばらくは、善峰寺と光明寺は同じ道を歩みます。滝ノ町に善峰道と光明寺道の分岐点があります。ここから光明寺道をひたすら歩めば、丹波街道と交差し、その少し先に山門が見えてくるのです。JR向日町駅に到着し、今回の探訪が終わりました。長岡宮跡・朝堂院公園にある案内所でいただいたリーフレット版の資料について、ちょっとご紹介しておきましょう。 この3枚の写真のリーフレットの内容は参照及び引用させていただきました。「富永屋」以外のものが、向日市教育委員会が発行されています。今回、資料だけ入手したものとして、こんな個別資料類も発行されています。向日市の文化遺産探訪に具体的なイメージができてきました。機会を見つけてチャレンジしようと考え始めています。南・北真経寺の資料を参照していて、掲載図の引用ソースを調べてみました。江戸時代に出版された『拾遺都名所図会』に境内図が載っています。公開されているデータベースからその図を引用させていただきます。(資料5)こちらが、南真経寺にあたる図です。「西岡向日 真経寺 興隆寺」と2つのお寺が描かれています。上部の方が興隆寺で、下部が南真経寺です。南真経寺より北に位置した興隆寺が、既にご紹介したとおり、南真経寺より南に位置する石塔寺に現在は合併されているのです。この図会が出版された当時は、石塔寺よりも興隆寺が隆盛だったのかもしれません。こちらが、北真経寺にあたる図です。「西岡 鶏冠井村 檀林」と記入されていて、「鶏冠井村」に対して「けいてゐむら」とルビが振られているのです。「かいで」という読み方を知らなかったということでしょうか? 興味深いところです。今回の探訪を事後にまとめていて、「歴史街道」に関連して、歴史街道推進協議会が西国街道についての街道ウォーキングマップをダウンロードできる形で公開されていることを遅ればせながら知りました。区間毎に1ページのシートとして保存することができます。今回の探訪で言えば、「長岡京市神足~京都市南区」の街道ウォーキングマップです。ご関心を抱かれたら、こちらからダウンロードしてみてください。勿論、画面上での閲覧もできます。脇道にだいぶ逸れたところもありますが、事後にまとめる作業をすると、発見があったり疑問が湧いたりします。新たな探訪目標も出て来ておもしろいものです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「須田家住宅」(向日市の文化遺産11) 発行 向日市教育委員会2) 「むこうし歴史探検マップ」(向日市の文化遺産1) 発行 向日市教育委員会 3) 願徳寺 :ウィキペディア4) 願徳寺(宝菩提院) おでかけスポット :「阪急電鉄」5) 拾遺都名所図会. 巻之1-4 / 秋里湘夕 [撰] ; 竹原春朝斎 画 第4冊 58,59コマ目 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)補遺歴史街道 ホームページ 西国街道 街道ウォーキングマップ西国街道地図 Googleマップ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -1 一文橋・中小路家住宅 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -2 中小路家住宅の雛人形点描 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -3 長岡宮跡(朝堂院跡)ほか へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -4 大極殿跡・南真経寺・石塔寺・富永屋(雛人形展示)へ
2016.04.25
コメント(0)
長岡宮朝堂院跡(朝堂院公園)から少し北進すると、「史跡長岡宮跡 大極殿公園」が見えます。この石標は、右の写真に青色の丸を追記した「E.宝幢地区」に立っています。この大極殿公園は、お花見スポットとしても市民に親しまれているそうです。 左の写真が「宝幢」を建てた場所です。発掘調査で柱の掘形が発見され、中央の大柱、両側の添柱の痕跡があった位置だそうです。近くに「長岡宮宝幢跡」(右)の説明板があります。奈良時代には元旦に「朝賀の儀式」が大極殿・朝堂院で行われたのです。この時、大極殿の前に7本の宝幢が建てられたのだとか。「宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ約9mの大柱の上に、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神の絵がはためき、鳥・日・月の飾り物が華やかに揺れました」(説明板より)。発掘調査で発見されたのは、大極殿の中軸線上を中心にして、東側の3本に相当するそうです。宝幢は大極殿の建物から30mほど南の位置に東西方向に7本が並んでいたといいます。「史跡長岡宮跡 大極殿・後殿(小安殿)地区」の説明板が、大極殿の南北の中軸線上に立っているようです。この写真は宝幢地区の南西側から見た「A.大極殿・小安殿地区」側の景色です。説明板のあたりに大極殿が建っていたのでしょう。説明板の右下には、朝堂院跡にある説明板と同種のものが置かれています。大極殿の所在地は、向日市鶏冠井町(かいでちょう)です。 「大極殿」について説明した部分がこの2枚です。「大極殿」の名称は、中国の宮殿の正殿「太極殿」に由来します。「太極」は天空の中心である北極星を意味しています。大極殿は天皇が政治を司る場所であり、建物の中心に天皇が着座する「高御座(たかみくらざ)」(玉座)が南向きに据えられたていたそうです。長岡京前の都では大極殿が内裏の南に連結する形で設けられていたようです。この長岡京の大極殿は、内裏とは完全に独立し朝堂院の正殿としての性格が強まり、「主に朝堂院に出仕する官人(役人)のための天皇の謁見の場として使われるようになりました。」(説明より)発掘調査で大極殿の基壇が発見されましたが、廃都後の耕作などにより柱の規模の確定はできなかったそうです。大極殿は東西(桁行)9間、南北(梁間)4間の瓦葺四面庇建物だったようです。この写真は、宝幢跡地区の南東よりから撮ったものですが、発見された大極殿の基壇の位置がコンクリートの枠で示されています。 説明板には、かつての各時代の都の位置関係を示す地図や長岡京の条坊制の大路とさらに詳細な通り名とを併せて表記した図などとともに、これらの写真も掲示されています。左の写真は「史跡に指定された長岡京跡の位置」です。右の写真は毎年11月11日に大極殿祭が行われていることを示す写真と発掘調査風景の写真です。この史跡地区の一画には、「史跡長岡宮跡」碑、「行幸啓記念碑」(平成22年)、「長岡宮城大極殿遺址」記念碑(明治28年、後に北大極殿公園から移設)が建立され、また「長岡宮大極殿跡」の制札が立っています。A地区の史跡地を分断する形で道路が通っています。 道路の北側、南西隅よりに、右の写真の造形物があり「大極殿公園」の銘板が下部につけられています。(冒頭の右の写真に黄色の丸印を加えたところ) 右の写真は発掘調査でわかった「後殿跡」(小安殿跡)です。その建物の柱の位置が示されています。上掲の道路から説明板の裏を見上げると、長岡宮の置かれた北側から長岡京を南方向に眺めた全体図が描かれています。大極殿公園を出て、再度大極殿通を南に大極殿交差点まで少し戻り、東西の番田通に右折し西に向かいます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 番田通の南側には勝山中学校があり、北側には「南真経寺(みなみしんきょうじ)」があります。山号は鶏冠山(かいでざん)で日蓮宗のお寺です。地図を見ますと、阪急京都線を挟み、東側に「北真経寺」があります。もともとは一つの寺だったのです。日蓮聖人の孫弟子にあたる日像(にちぞう)上人が京都での日蓮宗布教の遺命を受けて、京都を中心に布教活動を行います。この鶏冠井には、真言宗の真言寺があったのですが、徳治2年(1307)に当時の住職実賢(じっけん)に教義を説き、改宗させたのだそうです。そして、真言寺が「真経寺」と改名されたのです。「真言宗の真と、日像上人の幼名経一丸の経をとられた」(説明板)と伝わります。鶏冠井村は村人全員が法華経の信仰に改宗したのです。その結果、日像によって改宗された西日本最古の「皆法華(かいほっけ)の集落となったそうです。江戸時代の承応3年(1654)に、僧侶の学問所「鶏冠井檀林(だんりん)」を開くにあたり、真経寺を南北に分け、北真経寺を檀林、南真経寺を宗教活動の場としたといいます。その後、江戸時代初期に、南真経寺が現在地に移転したのです。(説明板、資料1)「鶏冠井題目踊(かいでだいもくおどり)」というのが、京都府の無形文化財に指定されています。「村人が改宗の喜びを野良着と菅笠のまま、太鼓をたたき、『南無妙法蓮華経』の題目を唱えながら踊ったのがはじまりとされています。」(資料1)なお、北真経寺では鶏冠井檀林が開かれ整備されていき、9棟の寮で数十人~百人が学び多くの指導者が育てられたようです。明治8年(1875)に檀林の廃止を機に、北真経寺もまた一般の宗教活動の寺となりました。(資料1)番田通は「五辻」の交差点に出ます。ここで西国街道が府道67号線と合流し、西国街道がしばらくの区間府道67号線と重なります。この五辻で西国街道を少し南下しますと、前回ご紹介した「鈴吉大明神」の北に位置するこの「石塔寺(せきとうじ)」があります。日蓮宗のお寺で山号は法性山です。本尊は十界大曼荼羅。この寺も鶏冠井町にあります。毎年5月3日の花まつりには、上記「鶏冠井題目踊」がこの石塔寺で催されるそうです。(資料1)古文書の記録によると、鎌倉時代末の延慶3年(1310)3月に現在の場所に題目石塔を建立されたのだとか。その石塔の傍に、文明年間(1469-87)に本堂が建立され寺院ができたと伝えられているそうです。その後、不受不施派、妙顕寺派、独立本山という経緯を経て、明治9年(1876)に鶏冠井村にあった興隆寺を合併吸収し、翌年に寺の伽藍整備が行われたようです。現在は、本化日蓮宗本山の単立寺院となっています。(説明板より)地図を見ると、「御塔道」という地名があります。これは石塔寺にちなんだ名称が残ったものだとか。(説明板より)脇道に逸れますが、ここで思い出したのが、京都にある京都初の日蓮宗道場として日像上人が創建された大本山の一つ「妙顕寺」です。「京都冬の旅 非公開文化財特別公開」として定期観光バスで訪れています。その探訪記を拙ブログ「遊心六中記」で2014年に「スポット探訪 妙顕寺」としてまとめています。こちらもご覧いただけるとうれしいです。序でに、「鶏冠井」を「かいで」と読むのは超難解な気がします。こんな説明があります。「どうもこれは、楓畑の名の残るところに老楓があって楓村と称していたが、この楓葉を賞して『とさか(鶏冠)』に似ているところからの表記だと聞く」(資料2)と。五辻に戻り、再び西国街道を北に歩みます。五辻の傍で拝見した七段飾りの有職雛です。「京雛司 平安光義作 有職雛」の木札が置かれています。京都の田中人形監修と併記されています。その先西側に「向日神社」への参道が見えます。今回は探訪する時間がなくて通過。この参道を見ながら、東側の歩道をすこし北に進みます。「向日町でいちばんの宿屋」だったという「富永屋」があります。現在は「向日町富永屋を核とした西国街道町並み活性化プロジェクト」をボランティア活動を軸に推進し、維持管理されているようです。江戸時代・元和2年(1616)にこの場所で富永屋権三郎が宿屋をしていた記録が残るとか。江戸時代から戦後しばらくまでは、代々宿屋・料理屋を営んでいたそうです。明治時代には乙訓郡内の主な会合が向日町で開催された折りには、この富永屋がひんぱんに利用されたのだとか。江戸時代に「日本全図」を作った伊能忠敬が測量の旅の途中で富永屋に宿泊しているとか、向日神社境内での大相撲興行の折りに、初代若乃花が富永屋の風呂に入ったという話も伝わるそうです。現存する棟札から、江戸時代中期に建てられた貴重な町家の遺構とわかています。(資料3)ここの座敷にも雛人形の展示が行われていました。ここで展示されている雛人形も実に見応えがありました。門をくぐり庭を通って、建物に入ると、土間の正面に小さな木目込み人形が横一列に飾ってあります。芳山作という木札が置かれています。可愛らしい作品です。入った右側に座敷があります。ここに上がって雛人形を堪能しました。座敷入口の右手にまず、七段飾り雛が展示されています。土間から上がった座敷の一番奧側に、2組の雛人形セットが並べて展示されています。この写真の右が縁と庭側で、左端に床の間が見えます。この2組の雛人形は、寺戸町の山口家所蔵品だそうです。こちらは「古今雛 段飾り」(昭和5年/1930)です。和歌山の造り酒屋の長女として生まれた女の子が、初節句の時に、母親の京都の実家の祖父母から贈られた古今雛だと説明が付されています。左側はしばし見惚れた「御殿雛 段飾り」です。まずはこの御殿の精巧で豪華な作りに魅了されました。この御殿は分解して片付けることになるそうですが、年に一度組み立てるのに苦労するそうです。そうだろうなと感じます。 こちらについても説明してありました。「翌年(1931)の節句にあわせて女児の両親が、あらためて京都の大木平蔵商店に依頼してあつらえた御殿雛」だそうです。「京都から和歌山へ、舟で運ばれたもの」と言われています。あとで、「おくどさん」を拝見する途中で、この長持ちが置かれているのを見ました。昭和6年の御殿雛が納められていた長持なのです。長持の側面に浮線蝶紋(うきせんちょうもん)が入っています。これは御殿飾りの諸道具類の一部ですが、御所車や駕籠をはじめそれぞれの道具に、浮き線蝶の家紋が入れられています。特注品の雛人形セットであることがよくわかります。う~ん、すごいなあ・・・・。昭和初期には、まだこういうことが行われていたのですね。現在でもこういう特注品製作があるのでしょうか・・・・。びっくりする位の費用がかかることでしょうね。伝統技術が継承されていくためには、そういう依頼があることも必要なのでしょうけれど。どうなのでしょう。脇道に逸れますが、この御殿飾りと同種の「古今雛・檜皮葺御殿飾り(大正11年)・京阪型」というのを、日本玩具博物館の「雛まつり~江戸の雛・京阪の雛~」という2014年人形展のページで見つけました。こちらをご覧ください。床の間には、箱壇の上に、この「初参(ういざん)人形」が飾られています。「稚児輪に結った髪に緋縮緬の振袖、黒の菊綴(きくとじ 組紐の先を乱して円く菊形にしたもの)を付けた袴という公家の男児の姿をしている。手に持つ中啓(ちゅうけい 閉じても先がやや広がる扇の一種)は失われている。参内人形、初参稚児などとも呼ばれ、御所に初めて参内した時に賜る人形であるためこの名があるという」(傍に置かれた説明掲示文の転記)床の間右側に掛け軸雛が掛けられています。中小路家住宅でも掛け軸雛を見ています。今回の展示期限が来る少し前でしたので、ボランティアで説明していただいた方から、「おくどさんもご覧になりますか?」と声をかけていただきました。そして案内していただき拝見したのがこの「おくどさん」です。この一部は現在も利用されているのです。現役のおくどさんだということに、さらにびっくりでした。この項の最後に「向日町」についてです。富永屋でいただいたリーフレットにこう記されています。「豊臣秀吉が朝鮮出兵の物資や軍勢を送るため街道を拡張・整備した時、京都を出てひと休みの場所がある向日神社の門前に、町場をつくることを認めたのが始まりです」(資料2)と。雛人形巡りの残り時間もわずかになってきました。つづく参照資料1) 「北真経寺」 向日市の文化遺産12 発行・向日市教育委員会2) 『京の古道を歩く』 増田 潔著 光村推古書院 p2743) 「向日町でいちばんの宿屋 富永屋」 発行:富永屋の会・グループとみじん補遺都の名前は長岡京 中心は長岡宮(ながおかきゅう) :「向日市」長岡京大極殿跡・小安殿跡 :「向日市」長岡宮跡大極殿公園 :「京都府観光ガイド」不受不施派 :ウィキペディア日像 :ウィキペディア日像 :「コトバンク」鶏冠井題目踊りの紹介皆法華村の民俗芸能―京都府鶏冠井・松ヶ崎の題目踊り― :「関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ」木目込み雛人形 :「雛人形.jp」日本玩具博物館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -1 一文橋・中小路家住宅 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -2 中小路家住宅の雛人形点描 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -3 長岡宮跡(朝堂院跡)ほか へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -5 須田家住宅・道標類 へ
2016.04.24
コメント(0)
中小路家住宅での雛人形を見た後、西国街道を北に進みます。冒頭の写真は街道に面した屋敷構えの町屋です。源氏塀が西国街道の風情を醸しています。街道には、灯籠の角柱の棹に「愛宕山御神前」と彫られた石灯籠が立っています。街道に面した民家座敷の縁側部分に、この家がお持ちの雛人形などを飾り付けて、ガラス戸越しに見られるようされています。この「ひな人形展示」に協賛されている家です。駐車場を兼ねられた敷地から拝見しました。 川幅の狭い小井川に架かる橋があります。橋を渡りそのまま北上すると、「石塔寺」の少し手前に、赤い鳥居が立つ「鈴吉大明神」が祀られています。地図を見ると上植野町の北西端部に位置します。この辺りは「御塔道」という地名です。街道は緩やかな坂道になっています。地元の人たちはこのあたりを「島坂」とも呼ばれるそうで、その名称はこの地に「嶋院」という庭園を配した建物があったという伝承があることによるとか。(資料1)『土佐日記』(紀貫之)の2月16日の条に、「かくて京へいくに、島坂にて人あるじしたり。かならずしもあるまじきわざなり」(こうして京へ行くと、島坂で、ある人がもてなしてくれた。必ずしもしなくてよいことなのであある 資料2)という一節が記されています。2月12日に山崎まで舟で至り、ここで13,14の両日も舟に泊り、14日には車を京に取りに行かせ、15日は舟の不快さから人の家に移りもてなされたのです。そして16日、山崎を出立し、車で京に向かう途中、この「島坂」まで来てここでもてなしを受けたという下りです。西国街道が利用されていたいうことです。(資料1,2)この「ひな人形展示案内」から切り出した部分図に、青丸印を追記した位置が「鈴吉大明神」のあるところです。西国街道を離れて、東に入る道を通り、長岡宮跡の探訪という寄り道をすることにしました。この東西方向の道をそのまま東に行けば、阪急京都線「西向日」駅に到ります。この駅が「長岡宮朝堂院跡」に一番近い駅です。 地図で見ますと、阪急京都線と併行する南北の道路沿い側に、地蔵尊の小祠あり、入口の北側に「史跡 長岡京跡 朝堂院公園」の石標が立っています。ここが「朝堂院跡」です。石標の傍の建物が案内所です。ここで、向日市の文化遺産についての各種パンフレットをいただきました。『むこうし歴史探検マップ』では、イラストや写真と地図で向日市にある寺社、古墳、長岡宮跡などの所在地が簡略に説明されています。ここには前回ご紹介した一文橋、中小路家住宅の説明も入っています。そして主な個別の文化遺産についてのパンフレットもあります。勿論『長岡京跡』というのもあります。このパンフレットを参照しますと、JR「向日町」駅の南側、阪急京都線「東向日」駅のあたりを、東西方向に「長岡京の北京極大路」が通っていたようです。そこから南へ一条大路、二条大路・・・九条大路と続きます。南北の朱雀大路を中軸に東西にそれぞれ一坊大路から四坊大路が広がります。南北5.3km、東西4.3kmの大きさの条坊制都市が築かれたのです。阪急電車京都線西向日駅がほぼ朱雀大路の位置になるようです。そしてこの少し北が東西の二条大路だったのです。「長岡宮」は南北は北京極大路と二条大路、東西は東一坊大路と西一坊大路、これらの大路に囲まれた区画にあったのです。JR「長岡京」駅は、南北は五条大路と六条大路の中間の道路、東西は朱雀大路と西一坊大路の中間の道路が交差する場所あたりになるようです。つまり、長岡京は向日市、長岡京市、大山崎町と京都市の一部にあたる広がりの位置になる都だったのです。(資料3,4))京都市は西京区と南区・伏見区の一部がその区域になります。現在の地図(Mapion)はこちらからご覧ください。長岡京の大きさのイメージがしやすいかもしれません。 案内所の傍に、この説明板があります。この説明を部分撮りするとこんな形になります。宮域には、内裏、大極殿、朝堂院、各役所などがありました。朝堂院は国儀大礼を行うところです。本来は、律令国家を支える役所の公卿が座り、政務を評議する場所であり、現在の国会議事堂に相当する施設で、大極殿の天皇に対して決裁を伺う朝政の場だったのです。ところが長岡京の時代には、朝堂院での政務は内裏で行われるようになっていたそうです。その結果、朝堂院は主に朝賀の儀式や饗宴の場として利用されるようになったといいます。長岡京の大極殿・朝堂院は、奈良時代の難波宮(なにわのみや大阪市)の建物を解体して移築したそうです。(公園内説明文より) 「唐の長安城がモデルと言われ、東西に4つずつ、計8つの瓦葺礎石建物がありました。ここは西側の4番目にあたります。」(資料3) 朝堂院跡は1992年に国の史跡に指定されています。朝堂院公園の南端側から「朝堂院跡」を眺めた景色です。発掘調査でわかった建物の柱跡の位置が高さの低い石の円柱で再現されています。下段の奧に見える平屋の建物が案内所です。位置関係がおわかりいただけるでしょう。写真に写る樹木の前に見える白いものが、この説明板です。「長岡宮朝堂院南門復元図」を切り出してみました。赤線で囲まれた部分がこの「朝堂院公園」の範囲になり、小さな赤丸がこの説明板のある位置です。下段は赤線範囲が現在の形に整備された公園の平面図です。朝堂院は築地塀で囲まれ、朝堂院の正面入口が南門(会昌門)で、この南門には鳥が羽を広げた形に瓦葺きの回廊がつけられています。南門の東西に6間延び、南に折れ曲がって6間延びた形だったようです。梁間2間で、その中央が窓の付いた塀になっていたようです。翼廊の先には楼閣(翔鸞楼)が建てられていたそうです。発掘調査の結果から、中国風の荘厳な建築様式を模倣したことがわかり、皇統の正当性と権威を高めることを意図したそうです。説明文の要点を箇条書きにします。*回廊の先端に付いた二階建てで東西5間、南北5間の建物。柱間は2.4m~3.0m。*建物の外周に廊下を巡らす。*楼閣を伴う門は中国では闕(けつ)と呼ばれ皇帝の権威と人民への恩徳を象徴する。*中国の長安城にあった闕を模倣したと考えられる。*この楼閣跡は平安宮の応天門の翔鸞楼に相当する施設といえる。*考古学的に確認された遺構として、日本古代都城研究にとり極めて重要である。桓武天皇は延暦3年(784)11月11日、奈良の平城京を廃し、乙訓郡長岡村の地に都を移しました。この地の地名に因んで「長岡京」と名づけられたのです。当時の詔には「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とあるそうです。そしてわずか10年「長岡京」にとどまった後、延暦13年(794)10月に「平安京」に遷都します。その結果、京都がいわゆる千年の都となります。なぜか?手許の本ではこんな説明になっています。「新しい皇統の桓武天皇の基盤ははじめ確固としておらず、遷都に反対する勢力もあって、桓武天皇の腹心で長岡京の造営を主導していた藤原種継(たねつぐ 737-785 藤原百川の甥)が暗殺される事件がおこった。この事件をめぐって皇太子の早良(さわら)親王(750-785、桓武天皇の弟)や大伴氏・佐伯氏の人々が退けられ、貴族層内の対立が表面化する一方、桓武天皇の母や皇后が相ついで死去した。この不幸が早良親王の怨霊によるものとされるなかで、なかなか完成しない長岡京からの再遷都がはかられ」た(資料5)というのです。784年11月に長岡京遷都、翌年785年9月に藤原種継が暗殺されています。造営の主導者が早くも死去し、反対派がいれば都の完成が進展しないのは頷けます。藤原種継の暗殺事件は、『日本霊異記』に記載があり、暗殺のあった場所は長岡宮の嶋町としているそうです(資料6)。嶋町というのは上記の島坂あたりなのでしょう。怨霊から御霊へ、つまり御霊信仰が記録上確認されるのは『日本三代実録』記載の貞観5年(863)5月20日に平安京(京都)の神泉苑で行われたものが嚆矢です。この最初の御霊会で6人の御霊(怨霊)が鎮魂の儀式の対象となったそうです。その中の一人が早良親王です。(資料7)西国街道からは外れていますが、この朝堂院公園の近くの民家も「ひな人形展示」に協賛されていました。門を入り、玄関口(上段)と、庭に面した茶室(下段)に、内裏びなが飾られていました。静謐さのなかでのおもてなしという雰囲気でよかったです。この後、長岡宮大極殿跡に向かいました。つづく参照資料1) 庭園付き建物の由来 「嶋院」記した木簡出土で 宮都のロマン :「京都新聞」2) 『土佐日記』(原文・現代語訳) :「学ぶ・教える.COM」3) 『むこうし歴史探検マップ』(向日市の文化遺産1) 発行 向日市教育委員会4) 『長岡京跡』(向日市の文化遺産2) 発行 向日市教育委員会5) 『詳説日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編 山川出版社 p896) 藤原朝臣種継 :「波流能由伎 大伴家持の世界」7) 御霊信仰 :ウィキペディア補遺長岡京 都市史02 :「フィールド・ミュージアム京都」長岡京 :ウィキペディア藤原種継 :「コトバンク」藤原種継 :ウィキペディア黒幕は万葉歌人・大伴家持!? 長岡京遷都めぐる陰謀の真相は…藤原種継暗殺(上) 2013.1.13 関西歴史事件簿 :「産経ニュース」第12回 出来事編 「呪われた平安京遷都の知られざる理由 『教科書に載らない古代史』関裕二 :「廣済堂 よみものWeb」平城京から長岡京への遷都と,その後の長岡京から平安京への遷都を,桓武天皇に進言したといわれている人物は誰か。 :「レファレンス協同データベース」長岡京右京二条四坊一・八・九町発掘説明会 :「仙道のニュース履歴」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -1 一文橋・中小路家住宅 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -2 中小路家住宅の雛人形点描 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -4 大極殿跡・南真経寺・石塔寺・富永屋(雛人形展示)へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -5 須田家住宅・道標類 へ
2016.04.23
コメント(0)
それではもう少し様々な展示を近づいて眺めていきましょう。この3枚は前回ご紹介した段飾りが3組並んだところの内裏雛です。右から左に眺めていきました。雛人形の飾り方も二通りありますね。昔は意識しなかったのですが・・・・。私は京都生まれのせいか、京雛の飾り方を見慣れていたのです。京雛はこれらの写真にある配置です。その他の地域は、男雛を向かって左、女雛を向かって右に飾るのだそうで、逆転するのです。それが一般的になっているそうです。(資料1)それでは、雛段の上・下という風に眺めてみます。上から見ていくと、内裏雛(親王)・三人官女・五人囃子・随臣・仕丁という形で構成され、それに加えて諸道具が並べられています。ここの3組の段飾りは「七段飾り」です。昔から、七は縁起が良い数字とされてきていますので、それがここでも使われているのでしょう。右と中央は「十五人飾り」と呼ばれる飾り方。一般的な飾り方の中では最も壮麗な飾りだとか。この左のセットは諸道具の代わりに人形が数多く飾られています。おもしろい。どういう基準で、人形の役割・機能を取り上げるのか、興味深いところなのですが・・・。どこかに解説はないでしょうか? 単なる好みの問題でしょうか?それぞれ飾り人形と諸道具に違いがあっておもしろいものです。内裏雛の座っている畳の繧繝縁(うんげんべり)の文様や色の組み合わせも異なっています。繧繝錦は「赤地の縦じまの間に、あいやあさぎで、花形・ひし形の色模様を織り出した絹織物」(『日本語大辞典』講談社)です。この繧繝錦を使った畳の縁は宮中や社寺で使われていたのです。”『海人藻芥(あまのもくず)』には、「帝王、院、繧繝端なり。神仏前の半畳、繧繝端を用ふ。此の外更に用ふべからざるなりと見えて甚だ重んぜられたるものであることが知られる。”というものです。(資料2) 五人囃子は、五人が一組になった囃子方です。能楽の囃子方がかたどられているそうです。向かって右から、謡(うたい)・笛・小鼓(こつづみ)・大鼓(おおかわ)・太鼓の順に並んでいます。能舞台ならば、舞台の正面に向かい、右端の地謡座(じうたいざ)に謡の人々が座り、本舞台と大きな松の描かれた鏡板との間にある後座(あとざ)に囃子方が座ります。 これは前回ご紹介の写真で言えば、向かって左側の御殿飾り雛です。御殿の中に内裏様が座っています。座敷には、こんな御殿飾りも展示されていました。 そして、その傍にはこんな雛人形も。 広い部屋の別の場所に、五段飾りの雛人形が2セット並べて展示されています。向かって右側の段飾り前に紐のようなものがぶら下がっていますね。 それがこれです。「薬玉(くすだま)」です。辞典には「端午の節句に、不浄や邪気を避けるために柱などにかける飾り物。錦の袋に香料を入れ、ショウブなどを結びつけ五色の糸を下げる」(上掲辞典)と説明があります。 こちらは向かって左の段飾りです。五人囃子の代わりに、子犬に結ばれた紐を手に持つ官女が立っています。天井からは雛人形絡みの様々なバージョンの人形ほか、数多く展示されています。これらはほんの一例です。違い棚には、「貝合わせ」が展示されていました。こんな雛人形バージョンも展示されています。 さらには、「流し雛」も。「流雛祈祷守護」というお札があるのを初めて知りました。竹皮の上に雛が乗っている流し雛は、奈良県五條市南阿田の伝統行事で、吉野川で雛流しが行われるそうです。(資料3) お札の左側にあるのは、桟俵と称されるものに乗せた紙雛です。右の写真の紙雛は鳥取県の流し雛。男女一対の紙雛を桟俵に乗せ千代川に流し雛をするのは、鳥取県用瀬(もちがせ)町の「用瀬流しびな行事」のようです。調べてみて知った次第。(資料4)流し雛は昭和の末頃からブームになってきているといいます。「以前から行われているのは(戦後復活されたところも含めて)鳥取市用瀬町、鳥取市、広島県大竹市、岡山県笠岡市北木島、和歌山県の粉河町、奈良県五條市などがある。新しく始めたところは、昭和47年に地元の宮崎さんという方が鳥取県の用瀬でおこなっている流し雛に倣って俳句仲間と始めた福岡県柳川市を嚆矢として、鳥取県倉吉市(昭和60年開始)、東京の隅田川(昭和61年開始)、埼玉県岩槻市(昭和62年開始)のように今年で20回を超えたところもあるが、平成に入ってからも京都の下鴨神社(平成元年開始)、兵庫県龍野市(平成5年開始)、また開始年は不詳だが、山口県下関市など、さまざまな場所でおこなわれている。」(資料5) のだそうです。これも今回事後学習で調べていて知ったことです。「なぐさみ箱」「遊山箱」というものも展示されていました。愛媛県伊予市の地域には、旧暦の雛祭りの翌日(4月4日)に、「ひなあらし」「おなぐさみ」などと呼ばれる行事が行われていたそうです。桐箱に小さなお重を収め、つまりご馳走を詰めたお弁当を持ち、桜を眺めに行ったそうです。この器を「なぐさみ箱」というようです。(資料6)遊山箱の傍には、説明文が置かれています。こんな便りが記されています。「四国、徳島県阿南(あなん)市新野(あらの)ではひなまつりは旧暦の四月三日。この日は皆がお重箱にごちそうをつめて、各家々のおひな様をみせてもらいに歩く。れんげ畑の中にすわって食べたり、桜の下で食べたり、春一番楽しい一日でした。 永田文見(ふみ)」(全文転記) 玄関に向かうときには、先の人の背を見ていてゆっくりと眺めていなかったのですが、玄関に向かって、前庭の右には主屋よりに庭園が造られていて、その前のスペースは椅子に腰掛けてくつろげるスペースになっています。青竹の垣を設えた前は見ていたのですが、玄関右側の腰板のところにも、かわいい人形が・・・・。出るときに気づきました。「また来てね!」と、見送ってくれました。つづく参照資料1) 雛人形の飾り方・並べ方 :「安藤人形店」2) 『有職故実』 石村貞吉 嵐 義人校訂 講談社学術文庫 p1723) 南阿田の流し雛 :「五條市」4) 用瀬流しびな行事 :「鳥取県」5) 「淡島信仰と流し雛 上 ~流し雛は雛人形の源流か~」 石沢誠司氏6) 嗚呼絶景四国哉-19. 道後平野を眼下に見下ろす、桜スポット:「四国大陸」補遺雛祭り起源考 :「ひな祭り文化普及協會」ひな祭りの歴史 :「もちがせ 流しびなの館」 「流しびなの館」公式ホームページ雛人形の飾り方 :「雛人形.jp」ひな飾りで真っ先に省略される、謎のおっさん3人組 :「NAVERまとめ」流し雛 :「コトバンク」雛流し 源龍寺 奈良県五條市南阿田 :「祭好人ホーム」雛人形御殿の修理 :「大手人形」 雛人形の御殿にもさまざまあることの一端がこのサイトでわかります。京のおひなまつり :「e-KYOTO」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -1 一文橋・中小路家住宅 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -3 長岡宮跡(朝堂院跡)ほか へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -4 大極殿跡・南真経寺・石塔寺・富永屋(雛人形展示)へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -5 須田家住宅・道標類 へ
2016.04.21
コメント(0)
向日市の西国街道沿いで「ひな人形展示」(2/27~3/3)が行われているということを新聞報道で知り、3月3日の最終日に訪れてみました。ひな人形巡りとともに、西国街道を少し歩いてみたかったのが探訪の動機でもありました。長岡京跡が近くにあるというのは、展示会場で案内図をいただいて知ったのです。当初はその位置関係が知識として結びついていませんでした。私にはラッキーな副次的探訪もできたという次第です。長岡宮跡も一度訪ねてみたかった場所でしたので・・・・。その時の記録整理を兼ねたご紹介です。冒頭の写真は、小畑川に架かる「一文橋」です。JR長岡京駅前からバスに乗り、「一文橋」のバス停で下車。一文橋を渡って、西国街道沿いに、向日市街の方向に進んでいくことになります。橋の北詰には、いくつかの案内碑が設置されています。そして、左の写真「一文橋の由来」碑もあります。「京と摂津西宮をむすぶ西国街道にかかるこの橋は、室町時代ごろに造られた有料の橋とも伝えられる。大雨のたびに流され、その架け替え費用のため通行人から一文を取り始めたのが橋名の由来といわれる」(碑文転記)「西国街道」碑も置かれています。一文橋の交差点からの府道67号線は一文橋の南では西国街道なのですが、交差点から向日市街に向かう所は、南東から北西方向に府道67号線が西国街道と交差して、一旦弧状にカーブしてから、再び西国街道に戻るという形になっています。そこで交差点の少し西方向に歩み、「西国街道」の道標を見て、街道沿いに歩きます。道路には、右の写真のタイル絵が埋め込まれています。(2016.4.23付記 国道171号線と書き込んでしまっていました。府道67号線でした。気づきましたので修正します。向日市街の「福祉会館前」交差点で、西国街道は北東方向に分岐します。府道67号線はそのまま北上し、物集街道と呼ばれている道になります。) 板塀や源氏塀を備えた町家が街道に面してあり、風情を感じる道筋になっています。玄関の両側に犬矢来が設えられ、二階部分に「虫籠窓(むしこまど)」がある町家もみられます。 最初に訪ねたのが「中小路家住宅」です。ここは有料(お茶付)でしたが、主屋の座敷に様々なひな人形が所狭しと展示されていました。国登録有形文化財になっている大形民家です。詳しくはここのホームページに掲載の「中小路家住宅とは」のページをこちらからご覧ください。このページには、「当家のある上植野町下川原の街道沿いは、”河原町(かわらまち)”と呼ばれる町内です」と記されています。手許の『京の古道を歩く』は関心のある章を必要に応じて参照する書です。探訪後に遅ればせながら「西国街道」の項を読むと、「西国街道の中で最もよく保存された下河原町の町並は、かつての街道はかくありなんと思えるほど往時にタイムスリップする。傍らに正徳五(1715)年の愛宕燈籠が立つ」(資料1)と記されています。事後的にこの項を読み、ナルホド!と思った次第です。 探訪の折り、入手したのがこの案内図です。右は部分図を切り出しました。番号28の場所がこの最初の探訪先です。 出格子窓のある長屋門を入ると、石畳の先、敷地中央北寄りに主屋があり、その玄関に向かいます。 玄関口には、青竹で垣が組まれていて、その先端にはかぐや姫の代わりにひな人形がずらりと並んで、出迎えてくれました。竹垣の足許にもユーモラスなひな人形が並べてあります。主屋の座敷が開放されて、ひな人形展示会場になっていました。様々なひな人形が座敷の各サイドに並べて飾ってあります。有職雛(ゆうそくびな)が3セット並べてあります。中央にある雛飾りの最下段に置かれている木札には「豊泉監修 有職 京都島津」と記されています。豊泉は有職の匠衆の一人です。何代目の豊泉なのかは不詳(未確認)です。現在は七代目として、豊泉の名が継承されているようです。有職雛は、「江戸時代中後期、仏門に入る幼い皇女などに、父母、つまり天皇ご夫妻が持たせてやられたものにはじまり、今でも門跡寺院に残っている」(資料2)のです。私が拝見した記憶では、京都市にある「宝鏡寺」が人形の寺として有名です。孝明天皇遺愛の人形をはじめ、由緒ある人形を数多く保有され、新旧人形を併せて春秋に人形展が行われてもいます。(資料3)町雛は町人たちが想像で豪華に作りあげた人形であるのに対し、有職雛は「公家の日常生活を表現し、特に女雛がふだん着の小袿(こうちぎ)姿であることにあらわれている。それも当時の正式のつくり、つまり有職故実に基づいて、有職の家柄である四条高倉家の人が関与していたと考えられ(高倉雛とも称される)、裂地(きれじ)をはじめ小物に至るまで、正確に写実されている」といいます。(資料2)有職雛はのちには御三家など大名家も公家にならって作るようになったそうです。 御殿飾り雛雛段に人形や諸道具を並べる形の雛飾りは江戸時代から始まったそうです。時折、縁の所で琴と笛での演奏が行われていました。その傍に床の間があります。そこにも、掛軸の前に一組の雛人形が飾られています。 江戸では「段飾り」、関西・上方では「御殿飾り」が優勢だったといいます。御殿というのは内裏雛を飾る館のことです。御殿は御所の紫宸殿になぞらえる形で、京阪を中心にこの様式が登場するのは江戸時代末期だそうです。(資料4)こちらは俗に「新婚雛」と言われる一組のひな人形で、少年と少女の姿です。この有職雛は、京都市の人形作家・長浜武子氏が江戸時代の有職雛を復元製作されたもの。(説明表示より)もと吉川観方コレクションだったものだそうですが、傷みがひどく廃棄されようとしていたものを人形作家・長浜武子氏が貰い受け、解体復元されたことで甦った雛人形だとか。「小袿も裂地も原品通り、紋紙からおこして特製されている。室町の誉勘商店松井隆治氏の御力添えによる」といいます。(資料1)二階部分にも、一組の人形が飾られています。つづく参照資料1) 『京の古道を歩く』 増田 潔著 光村推古書院 p2752) 有職雛 会場に掲示の説明パネル 新免安喜子氏解説文3) 「宝鏡寺門跡 旧百々御所」ホームページ4) 御殿飾り雛 :「日本玩具博物館」補遺おひな様の話 :「京都国立博物館」日本玩具博物館 ホームページ中小路家住宅 ホームページ有職の匠 :「島津」宝鏡寺 :ウィキペディア有職人形 :「実用日本語表現辞典」虫籠窓(むしこまど) :「町家まめ知識」虫籠窓(むしこまど) :「富田林・寺内町の探訪」愛宕燈籠 :「shizuhara.net 静原を楽しむ会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -2 中小路家住宅の雛人形点描 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -3 長岡宮跡(朝堂院跡)ほか へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -4 大極殿跡・南真経寺・石塔寺・富永屋(雛人形展示)へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -5 須田家住宅・道標類 へ
2016.04.21
コメント(2)
前回ご紹介した「神饌所」の南側に、神苑への門があります。冒頭の写真が門を入くぐった途中で見上げた写真です。四脚門です。本柱の頭貫にある蟇股には、楼門脇築地塀の鬼板に陽刻された九条藤紋とは異なり、一条藤紋と思える紋が陽刻されています(右の写真)門を入ると、門内の左右に紅梅・白梅が咲いていて、眼前には「咲耶池」がひろがっています。池端は緩やかに大きな弧を描きます。ここは東神苑と称されています。池泉回遊式の庭園です。この池は桂川の溢水によってできたものと伝わるそうです。(資料1)咲耶池の南辺から反時計回りに神苑を散策してみることにしました。この咲耶池の周りには、かきつばた、花菖蒲、霧島つつじが植えられているようですので、これからの季節は美しい眺めとなることでしょう。(資料2、以下適宜参照) 上段の写真は、池の南端側から西側にある神苑入口の門、その北の神饌所を眺めた景色です。この池端の杜若(かきつばた)が5月下旬には紫色の濃淡で咲き競うことでしょう。下段の写真は池中の島に建つ茅葺の建物・茶席「池中亭」です。「芦のまろ屋」とも称されるとか。嘉永4年(1851)に建立されています。神苑の門を入り、池端を左折して少し歩むと、島に架かる橋の袂に右の写真の歌碑が建てられています。橋を渡ると「池中亭」です。橋を渡ったところまでは近づけます。 夕されば門田(かどた)の稲葉おとづれて蘆(あし)のまろやに秋風ぞ吹く 大納言経信「夕方になると門前の田の稲葉を、そよそよと音をたてて、この蘆葺きの田舎家に、秋風が寂しく吹きおとずれてくるくることだ」(資料3)という意味合いの歌です。源経信が歌人である源師賢(もろかた)朝臣が京都の西郊梅津に所有した山荘に出かけた折りに、「田家秋風といへることをよめる」として、詠んだ歌です。『百人一首』の71番目に収録されています。田家⇒蘆のまろや⇒池中亭、というふうに古き時代の梅津の里の景色が重なっていきます。「芦のまろ屋」のあだなはこんな連想から生まれたのでしょう。池の中にはいくつかの島があり、それぞれが橋で繋がれています。訪れた時季は、池端の所々に梅の木があり、満開の花、開き始めたもの、かたい蕾など、様々な風情が楽しめました。東寄りの南辺には池中の島に、石板の八橋が架けられています。この場所に「かきつばた」が咲けば、自ずと次の歌が連想されるかもしれません。 から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふそう『伊勢物語』第9段です。それは三河国、八橋(やつはし)のこと。「そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける」(資料4)です。勿論この場合はわびしい場所に心細げな木橋が蜘蛛の手のように分かれた河の流れの上に飛び飛びに架けられていたのかもしれませんが・・・・。(資料5)上段の写真は咲耶池の東側から見た神苑の門方向の景色。池中央に石造八橋が見えます。下段の写真は池の東辺を回り込んで行くと、池中の一つの島に架けられた橋です。この橋を渡って、巡ります。島中から石造八橋と池の眺め。南西方向の景色です。北方向にある「参集殿」の眺めです。参集殿は昭和9年(1934)の建立だとか。島中からもう一つ島への石橋を渡ります。小島からの風情です。そして、再び島伝いの石橋を進みます。鯉が泳いでいます。参集殿の傍を回り込みます。椿の花も咲いていました。椿は神苑全体に亘って植えられていて、約50種類あるといいます。池辺沿いに北側から西側に進むと、池中亭の建つ島の景色を眺めながら歩むことになります。歩むにつれて、池中亭の景色も移ろっていきます。 通路の西側は神饌所の生垣と門が神苑の西境界となっています。池中亭の傍の池でみた鳥と鯉この写真の橋の袂に、上掲の歌碑が建てられています。八橋の側面をズームアップした景色です。これで、池を回遊してきたことになります。池の西辺を北に戻り、北神苑の方に進みます。勾玉池の周りには、花菖蒲、八重桜、平戸つつじ、あじさいが植えられているようです。そこから、西神苑を巡ります。西神苑は社殿の背後・北側に広がる梅林地帯です。35種類、550本の梅の木が植えられているそうです。梅の花は梅宮大社の神花です。冬至梅、寒紅梅、丹紅、道知辺、山桜、金枝梅、想いのまま、呉服枝重、白牡丹、盤上の梅などなど・・・・極早咲きの品種から遅咲きの品種まで様々に。樹齢100年以上の老木というものもあります。また、桜は20種類130本、紫陽花は60種類500本ほどあるといいます。(資料6)神苑の通路沿いには、ラッパ水仙が植えられているそうです。江戸時代の中頃、本居宣長はこの梅宮に梅の木を献木したそうです。 梅宮に梅の木を植うとてよみて添へて奉れる よそ目にもその神垣と見ゆるまで植えばや梅を千本(ちもと)八千本(やちもと) 自撰集梅宮大社の梅に因んで、次の歌も詠まれているようです。(資料1) 名も著(しる)く先ずこそ香れ春されば咲くや梅津の神の御社(みやしろ) 加藤千蔭 うけらが花、巻一、春歌 ふりにける梅の宮居の橘の遠き匂ひをなお残すらん 宗良(むねなが)親王 宗良親王千首、雑俳句にも次の句が詠まれています。 神の池うすにごりして花菖蒲 清次 麦秋や穂波に沈む梅の宮 江亭 咲くやこの神も名におふ梅の宮 (資料7)梅林の西神苑を巡ると、社殿の西側から境内に出ることになります。そこは社務所の北側でもあります。これで梅の咲いた時季の神苑巡りご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p348-3492) 神苑ガイド :「梅宮大社」3) 『百人一首』 全訳注 有吉 保著 講談社学術文庫 p296-2994) 『伊勢物語』 大津有一校注 岩波文庫 p145) 第9段 :「伊勢物語(現代語訳)のホーム」6) 梅宮大社 :「京都通(京都観光・京都検定・京都の神社)百科事典」7) 今日の一句 :「京都府」補遺梅宮大社 トップページ梅宮大社 :ウィキペディア梅宮大社 :「京都府観光ガイド」梅宮大社へのアクセス。京都駅からの行き方。 京都旅行のオススメ:「Hatena Blog」梅宮大社前 バス時刻表 :「NAVITIME」梅宮大社前(京都市バス):「ekitan」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 京都・梅津 梅宮大社 -1 楼門・手水舎・拝殿・社殿・境内社ほか へ<< 付記 >> 「遊心六中記」を書き綴ってきたサイトでの記事保存容量の限界が来てしまいました。そこで、こちらに転居(?)して、「遊心六中記 その2」を続けさせていただくことにしました。探訪記、印象記の覚書ですが、探訪先などのご紹介になれば幸いです。2017.2.9 追記 「遊心六中記」を掲載していたeoブログが2017年3月末で閉鎖となります。そこでこの「楽天ブログ」に、「遊心六中記」で掲載した探訪記を、2016年11月から随時一部加筆修正して、再録し始めました。主なものを再録しておきたい所存です。お立ち寄りいただきありがとうございます。
2016.04.17
コメント(0)
全706件 (706件中 701-706件目)