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明治古都館の夕方の全景です。2017.1.12の午後、特別陳列を鑑賞に行った時に撮りました。今回はこの建物の外観の細部をご紹介します。ちょっとマニアックに・・・・・。 (2016.7.1) (2016.7.1)博物館の構内東部にあり、西面しています。四隅の円屋根のドームの形、平屋建・煉瓦造り洋風建築です。設計者は片山東熊博士。フレンチ・ルネサンスの様式と言われます。フランス17世紀のバロック様式だとも。(残念ながら、このあたりの様式の異同については、勉強不足で十分に理解できてはいません)この建物は3年の年月を費やして、明治28年(1895)に竣工し、同30年(1897)5月に開館して最近まで使われていました。片山博士は、明治時代にいわゆるお雇い外国人の一人として来日したイギリス人建築家コンドルの教え子で、奈良博物館、赤坂離宮、現在の東京国立博物館の表慶館なども設計されています。(資料1,2)明治中期の洋風建築として昭和44年(1969)に正門等と併せて、重要文化財に指定されています。この建物、何となく眺めて通り過ぎるのはもったいないと思います。明治中期の今ではレトロな雰囲気ですが、純然たる洋風の中に、オリエンタルな雰囲気も漂わせています。外観の細部をご紹介します。正面の屋根の頂点にある飾り孔雀の広げた羽をまず連想し、その次にボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に描かれたヴィーナスの足許の大きな貝を連想してしまいす。 その下部の三角形の破風には、インド神話の男女二神がレリーフされています。 毘首羯磨(びしゅかつま)梵語のヴィシュヴァ・カルマンの音写で、工巧天・巧妙天・自在天王などと漢訳されるようです。帝釈天の侍臣。建築を司る神であり、世界創造神ともみなされる神。(資料3,4)右手には槌を持っています。 技芸天女右手に筆、左手に巻紙を持っています。これらの彫刻の木彫原型が残されていて、竹内久一の製作で、岡倉天心が校長となった東京美術学校(明治22年開校)の彫刻科教授になった芸術家だそうです。(資料2)二神像の下には、横書きで「京都国立博物館」の表示があります。篆書体の文字のようですが、どうでしょうか・・・・。間違っているかもしれません。 パルテノン神殿の柱を思わせるデザインが加えられ、階段を上がった入口はアーチになっています。レリーフをさらに拡大すると 柱頭部のデザイン アーチの上部 アーチの頂点部分の装飾レリーフ 北側の側面全景 北西隅のドームの屋根の丸窓と装飾彫刻 窓下の壁面装飾(左)と壁面下部の通風口の装飾(右) 壁面の装飾デザイン 雨水樋の装飾と止め金具 ドーム上の避雷針南側面の外観です。2016年7月に撮った写真で補足します。 窓の上部、アーチ頂点の装飾 ここは南側面の非常口でしょうか。上部の装飾が面白い。一見、鳥のようにも見えるデザインがアーチの下部に見えます。 (2016.10.26)明治古都館の外観細見のご紹介をこれで終わります。最後に平成知新館側の写真にも触れておきたいと思います。 明治古都館北側面と平成知新館の南面の間にある芝生スペース。建物沿いに植樹されています。建物壁面に夕日の影が軟らかく映じています。平成知新館の管理棟側のガラスウォールから南方向の眺め明治古都館の入口部分から西の景色。光っているのは方形デザインの池面です。平成知新館の東側面。長方形の池の東辺から撮ってみました。 平成知新館を入って左手、東西の通路スペース。天井が高く、南側はガラスウォールで開放感があります。 ガラスウォール越しにみた噴水のあるエリアスペース建物の南面に東西に長い長方形の池があり、一段下がってこのエリアの地面になります。平成知新館の通路から、正門のはるか先に京都タワーが見えます。 池の向こうに異空間への扉のように銀色に光る長方形。これは、大仏殿方広寺跡の発掘調査の結果を説明する案内板です。平成知新館の入口付近には発掘調査で分かった建物跡の柱の位置が表示されています。この説明板を読まれない方は、単にアプローチ付近のデザインと感じられるかもしれません。ここに記された説明と図をご覧いただくと、かつての大仏殿方広寺の境内の巨大さがイメージできることでしょう。京の洛外地 → 大仏殿方広寺境内の一部 → 七条御料地 → 京都国立博物館 という風に、時代の歴史が重層化されているところです。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p109-1132) 京都国立博物館 特別展示館<旧帝国京都博物館 本館> 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」3) 毘首羯磨 :「WikiArc」4) 毘首羯磨 :「コトバンク」補遺片山東熊 :ウィキペディア片山東熊 :「コトバンク」ヴィーナスの誕生 :「ヴァーチャル絵画館」ヴィーナスの誕生 :ウィキペディア京博会館110年記念展 美のかけはしから :「京都新聞」篆書体 :ウィキペディア隷書体 :ウィキペディア迎賓館(赤坂離宮)の設計者は元奇兵隊【片山東熊の建築】 :「NAVERまとめ」バロック建築 :ウィキペディアバロックの建築様式 :「ホームメイト」ルネサンス建築 :ウィキペディア30秒の心象風景9140・フレンチルネッサンス様式~鳥取・仁風閣~ :YouTube体感っ。。。フレンチルネッサンス (旧福岡県公会堂貴賓館貴賓館) :「じゃらん」片山東熊 :「レトロな建物を訪ねて」 コリント式 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 へスポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へスポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵 へスポット探訪 京都・東山 養源院 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -1 トラりんと雪景色&庭散策 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -1 本堂(龍華殿)・霊明殿の石灯籠 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -2 境内庭園・蓮華の間・悟りの窓・走り大黒天 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院 へスポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場 へ
2017.02.05
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1月15日に、三十三間堂の本堂を拝見し、「通し矢」を見物したことは少し前にまとめました。この日、もう一つの目的は、京都国立博物館の特別陳列を鑑賞することでした。それと併せて、鑑賞後に庭の雪景色をちょっと楽しみたかったのです。雪景色を撮っているとき、たまたま京博の公式キャラクター「トラりん」の実物に初めて遭遇! それも平成知新館の入口でした。冒頭写真は、その時の写真。明治古都館をバックに、ポーズを撮ってもらいました。 若い女の子やそこそこの年齢のご婦人も、トラりんの周囲に集まってスマホ写真に熱中していました。トラりんとの別れ際に、ハグしちゃうことに!余談ですが、京博のサイトにアクセスすると、「TORARIN OFFICIAL SITE」トラりんの公式サイトが開設されているのを発見!「虎BLOG」ができています。こちらからアクセスしてみてください。 トラりんは各所に出没しているようです。それでは、雪景色の探訪&観照に参ります。 明治古都館 なぜ、こんな形が生まれたのか・・・・???これは2016年12月に、若冲と泉涌寺の特別陳列を鑑賞に来たときの写真です。一種のアブストラクト、コンポジションとみることもできます。 背景は平成知新館ですが、噴水のある庭の傍です。ロダンの「考える人」がどこに居るかわかりますか? 東の庭に行ってみました。 茶室 堪庵 2008年2月に京博の展覧会を見に出かけたときの雪景色をいくつかここに掲載します。 この時は、かなり雪が吹雪いている時間帯がありました。 最後に、再度トラりんの登場です。 ご覧いただきありがとうございます。 京都国立博物館 ホームページ (クリックしてご覧ください)こちらもご一読いただければ、うれしいです。観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 へスポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へスポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵 へスポット探訪 京都・東山 養源院 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -1 本堂(龍華殿)・霊明殿の石灯籠 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -2 境内庭園・蓮華の間・悟りの窓・走り大黒天 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院 へスポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場 へ
2017.02.04
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この写真は、御影堂側から御影堂門を眺めた景色、つまり東の方向の景色です。右手の築地塀の向こうに、龍谷ミュージアムの3階部分が見えています。西本願寺細見の最後に、2013年5月と2014年8月の探訪からのまとめをしたいと思います。未整理だった記録写真からのまとめでもあります。2014年8月には、事前予約で飛雲閣見学の申込みをして、拝見する機会を得ました。調べていて手続き方法を知り、事前申込みをすると連絡を受けて指定された日時に拝見できました。但し、見学拝見コースは撮影禁止でした。その折に、併せて西本願寺の境内を再探訪しました。そのため、このまとめでは小雨もよいの空の5月と晴れた空の8月の写真が混在します。まずは、境内の探訪でご紹介していないスポットを点描的にご紹介します。 御影堂門を入ると、その前には源氏塀が衝立の如くに設置されています。その背後に既に部分写真で掲載した大きな蓮型の水盤があるのです。右の写真で、御影堂側からみた「天の邪鬼」が支える「天水受けの水槽」、灯籠、水盤、源氏塀及び御影堂門の位置関係がお解りいただけるでしょう。御影堂門を入り、源氏塀のところを右に行くと、「総合案内所」があり、そこに境内案内図が掲示されています。これは境内南域の切り出し図です。最初にこれを載せておくと、位置関係がわかりやすいでしょう。阿弥陀堂を南東側から眺めた景色。手前は御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下です。本尊阿弥陀如来立像がここに安置されていますので、本堂という位置づけになります。「本尊の阿弥陀如来は、慶長16年(1611)に本願寺前にあった東坊から寄進されたものという伝承があるそうです。」(資料1)親鸞聖人五百回忌(1761年)を迎えるにあたって、それまでの仮の阿弥陀堂を現在の形に再建されることになり、宝暦10年(1760)に完成した建物ですが、御影堂よりひとまわり小さい規模です。石畳の参道の先に一部見えるのが「安穏殿」です。 入母屋造の屋根の棟は、両端が鬼瓦ではなくて、獅子口です。隅棟の先端も獅子口で、三つ巴文が使われています。 阿弥陀堂と御影堂を繋ぐ渡り廊下 渡り廊下の傍の屋根に置かれた獅子の飾り瓦と廊下の西側に見えるお堂 御影堂の広縁から長押の上部を見ると、所々にこんな彫刻像が見えます。デジカメのズームアップでおぼろげに撮れた写真です。薄暗いし距離があるので、裸眼では見づらいです。双眼鏡があるとたぶん観察できるでしょう。一種の魔除け、厄除け的な意味合いをふくむのでしょうか。理由は不詳。御影堂の全景は、No.6でご紹介しました。この写真は御影堂の南側面です。御影堂の南側は「龍虎殿」と渡り廊下で繋がっています。 飛雲閣の拝見の折は、「龍虎殿」で受付の手続きをして、見学コースは、右の写真の「書院」の建物内に龍虎殿から廊下伝いに行き、まず拝見してから、少し離れた飛雲閣に向かう形でした。上掲の左写真の左側に写っている建物が「旧仏飯所」と称される建物で、その傍にこの駒札が立っています。書院と旧仏飯所の間を進むと、「唐門」のところに行くことができます。旧仏飯所を一隅にして、南東方向が白壁の築地塀で区切られています。 御影堂の東側境内から南を眺めると、白壁の築地塀の先の樹間に「飛雲閣」の一部が見えます。右の写真は見学後に、本願寺のブックセンターに立ち寄り入手した本の表紙です。ここで参照している本でもあります。この表紙の建物が飛雲閣です。見学ではこの飛雲閣の周囲を歩み、池越しに建物をさまざまな角度から拝見できるに留まりますが、やはり一度は実物の建物を近くで見ると印象が深まります。飛雲閣は本願寺境内の全体から見ると、南東隅近くにあります。「滴翠園」と称される庭の南東側に位置します。飛雲閣は、豊臣秀吉が天正14年(1586)に創建した聚楽第から移した遺構だという伝承が江戸時代中期から有ることが確認できます。しかし、洛中洛外図屏風に飛雲閣が描かれて始めた時期を考えると、その可能性は低いとか。建築史の立場からも、江戸時代に創建されたと考えるのが有力とされているそうです。(資料1)江戸時代に出版された当時の観光ガイドブックでもある『京都名所図会』には、「本願寺」の項で、「高楼は飛雲閣と号す。久代秀吉公の時、聚楽第にありしをここに移す」と説明しています。(資料2)そして、北辺の築地塀の東端部にあるのがこの鐘楼です。庭園と境内の境にありますので、境内側から鐘楼を遠望することができます。鐘楼の装飾彫刻は鮮やかに彩色されています。その一端をズームアップで撮ってみました。6420 阿弥陀堂側から眺めた阿弥陀堂門。灯籠の竿の部分が六本脚の造形になっています。あまり見かけないタイプです。御影堂門から外に出るとき、振り返り門扉の上部を見上げました。 金網がかけてなければ、この彫刻がもっとよく見えるのですが・・・・残念です。それでも、なかなかダイナミックな造形のように思えます。 御影堂門を出て堀川通を東に横断し、「総門」から正面通に入ります。左の写真は正面通に少し入ってから振り返った西方向の景色。総門の先に御影堂門が見えます。堀川通から一筋東が油小路通で、この南東角に「本願寺伝道院」があります。右の写真は、それを通り過ぎた先から、正面通を西方向に眺めた景色です。 これが「本願寺伝道院」です。このレトロな建物の雰囲気が私は好きです。 現在は京都市指定の有形文化財となっています。この建物は、「建築進化論」を提唱し明治時代の建築界に大きな影響を与えた東京帝国大学教授伊東忠太がその考えを具体化した建物だそうです。明治45年(1912)に伊東忠太の設計により、竹中工務店が建築したもの。創建当初は、真宗信徒生命保険㈱の社屋で、その後何度かの変遷を経て、今は僧侶の研修施設として使われているようです。2012年の第22回BELCA賞ロングライフ部門表彰建物だそうです。(資料3) それともう一つ、私が惹かれるのはこの建物の周囲に配置された「石造怪獣」です。個別に撮ってみました。大凡のところを撮りました。 どうです? こういうのを周囲にあしらうのはヨーロッパの雰囲気の導入でしょうか? おもしろい発想です。これもまた、京の妖怪・異類たちです。正面通の電柱には、古くからの住所表示案内が残っています。古い仁丹のトレードマークが描かれたなつかしい標識です。「正面通若宮東入」と大きく記され、その下に小さな字で「四本松町」と出ています。この写真をご覧いただくと、通りの先がが突き当たりになっています。突き当たりにある南北の通りが「新町通」です。ここで正面通が分断され、行き止まりです。新町通に面して民家が立ち並んでいます。この東側にあるのは何か?新町通の東にあるのは「東本願寺」です。正面通は、本来、東山にあった大仏殿方広寺の仁王門の正面に至る道路だったのです。現在は、豊国神社の西面する大きな鳥居が正面通の起点として立っています。鳥居の前の道を少し西に行くと、南側に史跡「耳塚」があります。江戸時代に出版された『都名所図会』には、大仏殿の絵が挿絵として載せられ、「耳塚は二王門の前にあり」と明記しています。(資料3)西本願寺のホームページ 「本願寺境内図」このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。この辺で、西本願寺細見を終えたいと思います。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『西本願寺への誘い』 岡村喜史著 本願寺出版社 p25, p1572) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p177, p2343) 西本願寺伝道院 :「ロングライフビル推進協会(BELCA)」補遺飛雲閣 :「コトバンク」京都の国宝三名閣のひとつ西本願寺飛雲閣をご存知ですか?金閣銀閣:「NAVERまとめ」飛雲閣DVD_予告篇 :YouTubeART・アート・西本願寺・伝道院 :「京都国際映画祭」明治時代の近代建築 :「京の近代建築」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 粟嶋堂-人形供養-宗徳寺 細見 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 京都水族館 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -1 御影堂門、総門、灯籠と大水盤 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -2 御影堂、天水受け、阿弥陀堂、埋め木、装飾彫刻・飾り金具等 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -3 阿弥陀堂門、太鼓楼、新開道路碑、境内境界の景色 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -4 唐門~北小路通からの眺め~ へスポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -5 唐門 ~境内からの眺め~、中雀門 へスポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -6 天の邪鬼と埋め木(追補)へ
2017.02.03
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2013年5月中旬、堀川通を挟んで西本願寺の東側に位置する龍谷ミュージアムで「平山郁夫 悠久のシルクロード」展を鑑賞しててから、西本願寺の境内を再訪し、一つは唐門を境内から眺めに行きました。それについては前回、記録写真を整理してご紹介しました。冒頭の右の写真は、ミュージアム3階のスクリーンシアターの窓から撮った御影堂全景です。 この4枚は天水受けのご紹介をした際の写真。その答えの補足が、 この説明板です。そして、もう一つの積み残し課題が この説明板にある「埋め木」の現地探訪です。縁側や廊下に使用されている木材の亀裂や穴部分を、補強・修復・再利用のために木片で繕われた結果が「埋め木」ですが、そこにさまざまな大工さんの遊び心が働いているというのです。この日は、少し時間を掛けて写真による「埋め木」コレクションをしてみました。ちょっとマニアックな探訪です。以下、ご覧ください。 この広縁と落ち縁のさまざまなところに、埋め木がみつかります。御影堂、渡り廊下、阿弥陀堂、それぞれの各所に・・・さまざまな遊び心と工夫のあとが。 階段にも、各所に埋め木が見つかります。 さて、これらの「埋め木」がどこにあるか? 探してみてください。ほかにも、まだまだ、おもしろい「埋め木」があうかも・・・・・。ここには、「生かしきる」という精神、「勿体ない」「大切に」という精神が息づいているようです。つづく補遺龍谷ミュージアム ホームページ 龍谷ミュージアムとは 全景写真が載っています。 写真の右上の窓部分がミュージアムシアター。そこから西本願寺境内が眺められます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 粟嶋堂-人形供養-宗徳寺 細見 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 京都水族館 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -1 御影堂門、総門、灯籠と大水盤 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -2 御影堂、天水受け、阿弥陀堂、埋め木、装飾彫刻・飾り金具等 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -3 阿弥陀堂門、太鼓楼、新開道路碑、境内境界の景色 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -4 唐門~北小路通からの眺め~ へスポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -5 唐門 ~境内からの眺め~、中雀門 へスポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -7 境内点描と本願寺伝道院 へ
2017.02.02
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ブログ記事を載せて、その時点で課題に残していたテーマについて探訪するために西本願寺に出かけました。この部分は記事にまとめていませんでしたので、再録の続編・補足としてご紹介します。2013年5月中旬、ツツジがきれいに咲いていて少し雨もよいの日でした。御影堂門を入り、御影堂の左側から龍虎殿の前を通り、境内南の築地塀沿いに西へ、唐門に向かいます。 唐門の全景 こちらも、門の前には柵が設けてあります。 千鳥破風の東側面と鶴の彫刻 唐門全景 北西側から眺めた柵より上部分です。 唐破風の屋根の直下に眺める透かし彫り その下の装飾彫刻は、北小路側から見る図柄と照応しています。ユニコーンと麒麟が左右に彫られています。上下の飾り金具も含め詳細に眺めると、少しバリエーションが加えられた図柄です。対比してみてください。 扉の頭貫の上部分の透かし彫りと中央の蟇股 扉の透かし彫り門に向かって右の扉受けの側面に目を転じると、北小路通で眺めた中国の故事とはまた別の故事を題材にとって板彫刻の両面彫りがあります。 許由洗耳こちらの構図は「許由(きょゆう)と巣父(そうほ)」の故事と言われます。 板彫刻透かし彫りの背面。北西側から眺めたところ。「中国において理想の帝王の一人とされる堯(ぎょう)は、有能で人徳に優れた許由に天子の位を譲ろうと申し出た。ところが清廉潔白な許由は、この申し出を断り、『世俗の汚れた話を聞いた』として、人里離れた清らかな頴川(えいせん)の滝で耳をあらって」いる場面だそうです。(資料1)門に向かって、左側面(東)に目を転じると、 巣父 こちらは同様に、透かし彫りの背面です。左側面を北東側から眺めたところ。許由が滝の水で耳を洗っているところに、巣父が牛を引いてやってきて、許由の挙措を眺めて理由を尋ねたのです。巣父もまた世に清廉と知られた人。「巣父は、『そのような汚れた水を牛に飲ませるわけにはいかない』と言って、引き返していったという」(資料1)これらの中国の故事に由来する彫刻は、元和4年にこの門がここに移築されたときに、追加されたものであることがわかっているそうです。(資料1)着目しておくべきことは、唐門の外側に彫られた故事は、艱難辛苦があっても目的を達成していく出世譚。世間で目指されているテーマです。一方こちらは天子の位を譲られるということを世俗の汚れた話として、出世を嫌って山に逃げるという人物の話で正反対の題材です。寺の塀の外の俗に対し、寺の内側を聖な話で飾るというコントラストをここに現出しているのです。 木鼻は牡丹と獅子中国の故事に由来する場面を彫刻した側面の上部には、 東側に竹林の虎 西側に豹が彫刻されています。 扉の透かし彫りの下部は、扉に格狭間が設けられ、その中に1頭ずつ、さまざまな姿態の唐獅子がレリーフされています。 東側の扉 西側の扉扉に付けられた飾り金具を眺めてみます。 その装飾文様の中に、菊紋と五七桐紋が交互にデザインされています。 本柱の上部外側 本柱の上部内側 貫の飾り金具各所に飾り金具が使われ、唐門に豪華さを加えています。国宝・唐門を境内側から眺めてきました。さらに、細部を観察していると、まさに日暮らしになるほど、見応えはある門です。唐門の西側にある大玄関門の方向に歩むと、右側にこの平唐門「中雀門」があります。門に向かって右手には、「明治天皇行幸所本願寺」と刻された石標が立っています。 扉の頭貫上部の透かし彫り 門柱の飾り金具。蓮華文のようです。西本願寺のホームページ 「本願寺境内図」 (クリックしてご覧ください)再訪の続きを次回もまた・・・・。参照資料1) 『西本願寺への誘い』 岡村喜史著 本願寺出版社 p140-151補遺唐門 :「コトバンク」許由巣父 :「Open GadaiWiki」許由巣父図 :「e國寶」許由巣父図 :「文化遺産オンライン」許由 :「雄峯閣 -書と装飾彫刻のみかた-」巣父 :「雄峯閣 -書と装飾彫刻のみかた-」可意 良寛 漢詩紹介 :「関西吟詩文化協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 粟嶋堂-人形供養-宗徳寺 細見 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 京都水族館 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -1 御影堂門、総門、灯籠と大水盤 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -2 御影堂、天水受け、阿弥陀堂、埋め木、装飾彫刻・飾り金具等 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -3 阿弥陀堂門、太鼓楼、新開道路碑、境内境界の景色 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -4 唐門~北小路通からの眺め~ へスポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -6 天の邪鬼と埋め木(追補)へスポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -7 境内点描と本願寺伝道院 へ
2017.02.02
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養源院を初めて訪ねてみました。2013年4月に法住寺を訪れた時に併せて探訪しました。数え切れないくらい、この前の道をを歩きながら、立ち寄ったことがなかったのです。歴史探訪で近江・湖北の小谷城に何度も登り、小谷城下の史跡も巡る機会を幾度も重ねたことが一つの訪れる動機になりました。訪問後も門前を通り過ぎていますので、少し再編集、加筆修正してご紹介します。記録写真のベースは2013年に撮ったものです。なぜか? それはこの寺名が浅井長政の法号に因むということに改めて気づいたからです。いつもは「血天井」というコトバの方をまず意識し、それ以上に考えなかったのです。 この2枚は、今年(2017)1月に門前で撮ったもの。このときは鬼瓦に関心がありました。その傍の菊花の飾り瓦にも目がとまりました。このお寺は、淀殿が父・長政の二十一回忌の追善供養のために、秀吉に願い建立したのが草創のようです。叡山の僧・成伯法印(長政の従弟)が開山で、長政の院号を以て寺号とされました。文禄3年5月(1594)のことです。しかし、程なく火災で焼失。江戸時代、二代将軍秀忠夫人、あのお江さんが秀忠に願い、元和7年(1621)再建されたのが今の本堂だそうです。伏見城の遺構を用いた再建なのです。(駒札&参照1)江戸時代の図会、今風に言えば、観光ガイドブックには、「養源院は宗旨天台なり。本尊阿弥陀仏、恵心の作。当院は浅井備前長政の草創にして、開山は盛伯法印なり」(参照2)と一行記されています。当時は長政が草創したという伝えがあったのでしょうか。それとも意識的にそう記したのでしょうか。豊臣から徳川にバトンタッチされ、徳川家の菩提所となったお寺ですから、江戸時代は特別なお寺だったのでしょう。一般庶民がたぶん拝観できないお寺故、図会の記載も素っ気ないのかもしれません。ネット情報では、伏見城は元和5年(1619)に破却されました。城内の建物群のリサイクルの一環に組み込まれたのでしょうね。お江が賢明でリクエストのタイミングが良かったのか、秀忠がお江の思いを配慮したのか・・・・。伏見城の「中の御殿」が移築されたといいます。(参照3,4)一書では、「京都の寺院」の宗派別説明において、養源院が浄土真宗の宗派の下で記載されています(参照5)。駒札・略由緒には宗派のことは記載がありません。ネット情報で改宗が第二次大戦後だとわかりました。浄土真宗遣迎院派とするサイトもあります。山門を入るとすぐ右手に、白衣弁財天が祀られています。 覆いのお堂の中には、左側に摂社があります。 建物の東側には方形の池 参道を奥に進むと、左に元三大師と刻んだ石碑があります。その傍にはこちらも、覆いのお堂の中に毘沙門天を祀る小祠があります。 参道の右手には、「大聖歓喜天」の石碑です。なぜ、歓喜天がここに? それは秀吉が歓喜天を信仰していたためにこの養源院に安置されているのです。ここが秀吉の修養の場にもなっていたのだそうです。(拝観説明、参照4) 石畳みを歩むと、山門から正面に本堂が見えます。途中に白い筑地塀があり、仕切られています。左手(北側)にはかなり広い空き地があります。建立当初はいくつかの建物が建っていたのでしょう。現在の山門の北側に大きな門が閉ざされた状態になっています。こちらは後で触れたいと思います。 筑地塀を入ると、手水舎があり その北の大木の傍に宝篋印塔があります。注連縄の巻かれたご神木がその先にあります。西に向かって建つと、「白鷹龍神・白玉明神・赤桃明神」という額が掛かった石の鳥居があり小祠があります。この木がご神体なのでしょうね。この木の傍に、「ヤマモモ(京都市指定保存樹)」の説明板があります。「このヤマモモは、豊臣秀吉が伏見桃山城内に手植えしたものを、後年にこの地に移植したと伝えられています。双幹で、枝葉を四方に伸ばした雄大な姿は圧巻で、半球形に整った樹形が長い歴史を物語っています。」(説明板より)本堂への入口には、三葉葵の紋を染めた幕が掛けられています。本堂の奥に見えるのは地蔵尊のお堂です。地蔵尊のお堂の右隣には、大日如来の扁額を掛けた小祠、竿の正面に元三大師と刻んだ石灯籠、写真には写っていませんが右に鐘楼があります。養源院はまさに神仏習合のあり様を今に伝える境内の佇まいだと感じました。明治政府の神仏分離策がここにはどの程度及んだのでしょうか。お寺主体の境内に神社が祀られていたこと、あるいは、徳川家の菩提所であるということが、現状を残したのでしょうか。しかし、あるサイトで「1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、本堂以外の建物、庭も破却されている」という説明を見つけました(参照6)。神社の近くの仏教色を破壊するのだとすると、白鷹龍神と本堂は近すぎるような気もします。そこまでは徹底できなかったということでしょうか。思いとどまった?このあたり、興味深いところです。一書によると、「小堀遠州作といわれる池庭は明治期に損壊され、往時の俤はない」と記しています。(参照7)本堂の拝観では撮影禁止のため、写真でご紹介できないのが残念です。宗教色を除くと、拝観のハイライトはやはり俵屋宗達の障壁画と血天井でしょう。伏見城は関ヶ原の前の段階で、家康が鳥居元忠にその守備を任せます。いざというときは死守せよという含みだったのでしょう。戦いが起こると、勿論徳川方の守る伏見城は前哨戦としてのターゲットになります。この伏見城の戦いは慶長5年(1600)7月18日~8月1日だったようです(和暦での日付)。西軍の伏見城攻め総大将は宇喜多秀家以下総勢4万人、守備軍は総大将鳥居元忠以下1800人だったとか。死力を尽くした後、8月1日に、鳥居元忠ほか380余名が、「中の御殿」にて切腹して果てたそうです。(参照5,8)この「中の御殿」の移築は、たぶん自刃した家臣たちの供養でもあったのでしょう。幾つもの意味合いが重ねられたお寺の再建ということになりますね。拝観の時、最初はテープ録音の解説を聴いていたのですが、途中からご住職(たぶん、そうでしょう)が説明してくださいました。元忠以下自刃したときの建物の廊下の板の間が本堂廊下の三方(正面と左右)の天井にそのまま使われたのです。元忠の自刃の最後がどのような形だったのか、変色した血痕の跡を指し示しながらの説明でした。その形が思い浮かびます。養源院で使いきれなかった板の間は、数ヵ所で使われているとのことでした。ネットで見つけた「同様の血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもある」という記述に結びつくのでしょう(参照3)。俵屋宗達の描いた杉戸絵は8面あり、襖は12面あるそうです。「唐獅子図」 玄関を入った拝観受付の近くでみられる杉戸絵。 躍動感溢れる図柄です。拝観時に左側の杉戸絵の絵葉書を1枚拝受しました。「白象図」 少し奇抜なデザイン感覚のダイナミックな象です。杉戸2面に各1頭です。「波と麒麟図」 この絵が唐獅子図の裏側の面に描かれていたものと思います。 おもしろい組み合わせの発想です。この図柄もダイナミックです。 (当日の曖昧な記憶です。位置について間違いがあるかも知れません。) 杉戸絵に気をとられ、宗達の襖絵については、記憶が漠然としています。(廊下からの拝観だけなので、本堂の部屋の中は余計に見づらいという点もあります。)尚、玄関から左の方に、狩野山楽の牡丹を描いた襖絵があります(参照1)。部屋の中にはその襖の前に仏像が三体安置されていて、廊下からの拝観だけなので、十分に襖絵を鑑賞できませんでした。この点は、残念です。歴代将軍の位牌が安置されているそうです。お江と秀忠の位牌には「菊」「葵」「桐」の3つの紋が付けられているという興味深い説明を聴きました。「菊」は皇室、「葵」は徳川家、「桐」は豊臣家を象徴する紋です。3つの紋が並ぶ位牌はここに安置されているものだけだそうです。徳川の時代になったとはいえ、政治的に幕府創成期であり、人間関係にも錯綜した背景がありました。徳川秀忠が家光に将軍職を譲位したのが1623年。その少し前1615年に大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しました。徳川政権による制覇が確立したとはいえ、盤石な体制までには未だという時期です。豊臣秀頼の母、淀殿はお江の姉でした。秀忠とお江の間にできた長女の千姫は、一旦は豊臣秀頼の室となっています。五女の和子は、1620年に後水尾天皇の中宮として入内しました。入内までには紆余曲折があります。また、1627年には紫衣事件が朝廷・幕府間で起こっており、後水尾天皇が激怒し譲位を実行するに至り、天皇家と徳川家の関係が微妙にもなっています。お江の死没は1626年、秀忠が死没するのは1632年です。(資料9,10,11)しかし、位牌を安置してあるところが薄暗く、自然採光主体では十分にその3つの紋を確認できませんでした。(同じ感想を漏らされた人も居られました。)仕方の無い面も・・・・という気はしますが、説明を聴くと残念です。本堂の廊下は左甚五郎の造ったうぐいす張りだといことなのですが、多くの観光客が一斉に歩いていたためなのか、鳴き声を聞けませんでした。私の耳が鈍感になったのかも・・・・。あるいは靜かな中で、一人歩むと、鳴き声が聞こえてくるのかもしれません。小堀遠州作の池庭の他、事後のネット検索でお江の石塔墓のあることも知ったのですが、拝観範囲には入っていませんでした。(これは山門前の駒札の説明にも記載されていません。)これまた残念なことです。このあたりの残念さは、個人差が大きいでしょうね。本堂の玄関を出て、山門へ向かう前に、境内の探訪をしました。上記で少し触れてますが、探訪箇所の写真をここに補足します。 地蔵堂には「延命地蔵尊」の額が架かっています。そのお堂の右斜め後に、さまざまな石仏像が壇状に集約されています。 地蔵堂の傍の石燈籠、その右斜め方向に、大日如来を祀る小祠もあります。 鐘楼人がないこの参道がいいですね。秋の紅葉が奇麗ではないでしょうか。緑の濃淡一色の景もいいものです。山門の少し手前まで参道を戻り、右折して北に進むと広い空間が今は空地になっています。西側に山門の北にある門の内側が見えます。この北門は「勅使門」です。東方向に目を転じると、空地の先にもう一つの門「中門」が見えます。多分今は開けられることがないのではないか・・・・という雰囲気です。 中門の前から、勅使門のある西方向の景色。中門前から勅使門への途中まで戻り、左折すると山門の傍でみた石鳥居のところに戻ります。山門を出て、右折し北に向かいます。 養源院の山門の北側にある「勅使門」 勅使門の屋根をよく見ると、両端の鬼瓦の間に、棟を構成する瓦の側面に菊文が使われているのです。興味深いのは、上掲の山門に使われているのも菊文なのですが、勅使門の方が花弁の数が多く、密なのです。観察するとおもしろいことに気づきます。 別記事でご紹介した法住寺の山門の屋根は両端が獅子口で、棟を構成する瓦の側面は左の写真で見る三つ巴文です。一方、法住寺の龍宮門の方は棟の両端が鯱であり、こちらの棟を構成する瓦には、養源院の山門と同じ形の菊文が使われいます。比較していくと面白さが加わります。門の両側の建物の屋根には、桃の飾り瓦が置かれています。これもまた厄除け的な意味合いが込められているようです。桃は比較的一般的に見かけます。これで養源院の探訪を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1)「養源院略由緒」 拝観の時にいただいたもの。2)『都名所図会 上』(竹村俊則校注 角川文庫)p2303) 養源院 :ウィキペディア4) 養源院(ようげんいん):「HIGASHIYAMA」 [京都 東山区南部地域活性委員会が発信する観光情報案内サイト]5)『京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』(淡交社・2004年初版)6) 養源院(東山区) :「京都風光」7)『京都史跡事典コンパクト版』(石田孝喜著・新人物往来社)p2528) 伏見城の戦い :ウィキペディア9) 徳川秀忠 :ウィキペディア10) 崇源院 :ウィキペディア11) 『新選 日本史図表』 坂本賞三・福田豊彦監修 第一学習社補遺養源院 京のスポット ;「KYOTOdesign キョウトデザイン」遣迎院 :ウィキペディア元三大師 :ウィキペディア元三大師 良源 :「飛不動 龍光山正寶院」歓喜天 :ウィキペディア毘沙門天 :ウィキペディア弁財天 :「京都百科事典」当日、屋内は撮影禁止でした。ネット検索すると、図像が結構掲載されています。養源院の屋内(自然採光主体なので薄暗い・・・)で見るのとかなり印象は異なりますが、どんな図像か、参考にするには十分に有益です。あとは現地現物でご鑑賞ください。大琳派展 :「アトリエ・リュス」 俵屋宗達の白象図・唐獅子図杉戸の図が掲載されています。養源院 金地着色松図 :「京都観光Navi」養源院 :「わかさ生活」(→ ほっこり京都生活) 血天井の一部、「波と麒麟図」、お江の石塔墓など写真掲載枚数が多いです。京都「養源院」で俵屋宗達の絵を見る :「みずえ」 中の御殿の移築、血天井について、伝承にとどまり、史実だと確証できるものがないという説もあるようです。その点に触れられています。じわじわくる京都「養源院」~数奇な運命をたどった数々の魂がそこに・・・~ :「Travel.jp」File7 瓦屋根 バックナンバー:「NHK 美の壺」5.瓦屋根の細部の名称-鬼瓦とか(屋根の雑学知識) :「知れば知るほど楽しくなる日本めぐり(建物・日本建築・歴史) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 へスポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へスポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -1 トラりんと雪景色&庭散策 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見 へスポット探訪 [再録] 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2017.01.29
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2013年4月26日(金)に、「狩野山楽・山雪」展の鑑賞に行く前にこの御陵と養源院に立ち寄り、探訪しました。再録にあたり、記録写真を何葉か追加し、再編集・加筆修正して、その後に学んだことも加えご紹介します。冒頭の右の写真は「法住寺」のご紹介の折に載せた山門です。この写真の左端に石標の端が写っています。その傍に、左の「後白河天皇陵 参道」を示す石標があります。法住寺の北隣に後白河天皇陵への参道があり、法住寺の背後、東側が御陵なのです。参道の左側の築地塀は、養源院の境内との境になります。 参道入口の扉に「土日祝日は閉めております 宮内庁」という駒札が掲げられています。南北の通りを挟み、西側が蓮華王院(三十三間堂)の回廊塀です。参道を進み、振り返ると、既にご紹介している蓮華王院の「東大門」(正門)の南側の部分が西方向に見えます。これで位置関係が明瞭にご理解いただけるでしょう。 参道の正面の説明板「後白河天皇法住寺陵」という名称の御陵です。併せて7人の親王墓もあるようです。ここで右折してさらに参道を歩みます。 上掲写真にも写っていますが、井戸なのか水槽なのか不詳です。正面に「法住寺」と太い文字で記されています。後白河天皇は鳥羽天皇から継承し、久寿2年(1155)に即位されますが、在位3年で二条天皇に譲位します。そして後白河上皇として、右大臣藤原為家の法住寺の旧地に御所を造営し、この地に移住して院政を始めた人です。その住まいが「法住寺殿」と称され、仙洞御所となったのです。そのため、法住寺御所、法住寺離宮などとも呼ばれたとか。「蓮華王院」を「法住寺殿」の仏堂として造立することを発願された結果、三十三間堂の建立となり、伽藍が充実して行くのです。そして、嘉応元年(1169)に、近江園城寺(別名、三井寺)の前大僧正覺忠を戒師として出家されます。それ以後は後白河法皇と呼称することになります。自らの崩御の後は蓮華王院の法華堂に葬るようにと遺命されたと言います。しかし、洛中の火災及び後の兵火などにより蓮華王院の伽藍は、再興された三十三間堂と一部を残すだけでほぼ消滅します。元和7年(1621)に、後白河天皇の葬られている御陵(法華堂)を守護するために、妙法院により建立されたのが「法住寺」です。少なくともこの石造物はその関連で作られ、明治時代の神仏分離令で、御陵と法住寺が切り離された段階で、そのままここに遺物となったものといえるのでしょう。御陵が明治以降に宮内庁の管理となった段階で、わざわざ「法住寺」と記すものを設置することは多分ないでしょうから。 右の築地塀が「法住寺」との境になります。 参道を進んだ突き当たりにあるもの。説明は何もありません。ぐるりと眺めてみて、こちらは井戸の井筒部分ではないかと推測します。(間違いかも・・・)陵墓を正面からながめるとこういう雰囲気です。 「後白河天皇法住寺陵」の石標が右側にあります。この扉の向こうが陵域で、「陵は兆域周囲90間(約106m)、陵域中央に天皇法体の像を安置した法華堂があり、床下地中に石槨(せっかく)が埋められていると伝える」(資料1)そうです。向かって右手の方に垣根で仕切られていて、入口があり墓域に続くようです。親王墓はここにあるそうです。 垣根越しに、2つの無縫塔の上部が見えます。その一つがこの写真です。7親王はいずれも江戸時代の妙法院門主だった人々だそうです。「妙法院宮墓」とも称するようです。(資料1)寿永2年(1183)に11月19日に、後白河法皇と対立するようになった木曽義仲が法住寺殿を襲撃します。その焼討ちを受けたあとに、法皇は六条西洞院の御所に移られたそうです。幽閉の身となられたという説明も見られます。そして、建久3年(1192)3月13日、六条西洞院に於いて66歳で崩御されます。「二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。また、今様(いまよう)を好み『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を撰した」(資料3)という異彩を放つ天皇です。最後に、思い出したことを付記しておきましょう。かなり以前に、下京区にある「長講堂」というお寺を特別拝観の期間に訪れたことがあります。門前には、「元六條御所 長講堂」という大きい寺号標石が立っています。このお寺で、江戸時代に「後白河法皇御真影」を模刻したという木造の「後白河法皇御尊像」をお堂で拝見しました。また、後白河法皇直筆といわれる『過去現在牒』も一室に展示されていて、そこには妓王、妓女の名も記されていました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則 駸々堂 p107-1082) 『国宝 三十三間堂』 発行 三十三間堂本坊 妙法院門跡 p7-113) 『大辞林』 松村明 編 三省堂補遺後白河天皇法住寺陵 天皇陵 :「宮内庁」後白河天皇 :ウィキペディア後白河天皇 :「知識の泉」梁塵秘抄 :ウィキペディア梁塵秘抄 :「コトバンク」梁塵秘抄 西郷信綱 :「松岡正剛の千夜千冊」梁塵秘抄 :「つれづれの文車-趣味の文書室-」今様ラプソディ Index. :「紅玉薔薇屋敷」 梁塵秘抄口伝集の目次ページ 長講堂(京都市下京区) :「京都風光」長講堂 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 へスポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へスポット探訪 京都・東山 養源院 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -1 トラりんと雪景色&庭散策 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -1 本堂(龍華殿)・霊明殿の石灯籠 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -2 境内庭園・蓮華の間・悟りの窓・走り大黒天 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院 へスポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場 へ
2017.01.27
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法住寺の山門 [探訪時期:2017年1月 & 2013年10月] 京都国立博物館に行く時に、三十三間堂の東側にある法住寺の境内に立ち寄りました。2013年10月には法住寺を拝観しています。ベースはこの時の探訪写真とご紹介文です。再録にあたり適宜加筆修正しました。 (2017.1.12)法住寺は天台宗のお寺です。通りに面して2つの門があります。こちらが表門となる山門です。もう一つは龍宮門の様式です。山門の南側、蓮華王院の南大門に近い方に龍宮門があります。今年の1月15日、雪景色を目にして撮ったのがこの写真です。 普段は2013年に撮ったこの写真の雰囲気です。門に向かって右側に歌碑が建てられています。『梁塵秘抄』に所載の一節が刻まれています。 あそびをせんとやうまれけん 『梁塵秘抄』に所載の歌は、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の聲きけば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」というものです。(資料1)歌碑の左側に立つ石灯籠の六角柱の竿には、「法住寺法華堂陵前」と刻されています。 門の少し前方に、この石標が建てられています。三十三間堂のご紹介で記していますが、後白河法皇は建久3年(1192)3月に亡くなられ、蓮華王院の東の法華堂に葬られたと言われています。この法住寺の北側の築地塀沿いに、法住寺の背後になる後白河天皇法住寺陵への参道があります。養源院の南隣で、法住寺の東側が陵墓なのです。この法住寺は元和7年(1621)後白河天皇の御陵(法華堂)を守護するために妙法院によって建立されたお寺なのです。後白河上皇の法住寺殿址に因んで寺名が付けられたのです。(資料2)冒頭の写真、門前に建つ寺標の一番上に「後白河院御聖蹟」と刻されているのはそのことを意味します。蓮華王院(三十三間堂)はもともと後白河上皇が長寛2年(1164)に法住寺殿に一宇の仏堂を建立し、1001体の千手千眼観音像を安置し、蓮華王院と称されたのが起こりです。この三十三間堂を造営したのが平清盛だったのです。この辺り一帯の広大な敷地に、法住寺御所並びに堂塔伽藍が築かれてたわけですが、寿永2年(1183)の木曽義仲軍による法住寺殿焼き打ちに遭います。破壊された後に修理された三十三間堂は建長3元年(1249)、洛中の大火の延焼に遭い焼失しました。現在の三十三間堂はその後、後嵯峨上皇の熱意によって伽藍が再建されます。その三十三間堂が現在私たちが目にしているお堂です。他の堂宇はその後の兵乱などで再び焼失してしまうのです。(資料2,3,4) 山門を入ると左側にお堂があります。 堂内中央に、厳島弁財天と豊川荼吉尼天が分祀されています。 その小社の両側には、様々な仏像が安置されています。 向かって左手には「白峰弁財天、竹男大龍神」、右手には「毘沙門天王、護法魔王尊」と刻された扁額が懸けられています。 山門を入り正面にある建物(多分、庫裏と言ってよいのでしょう。) 境内の右手、南側に石畳を行くと本堂に至ります。 石畳の途中に、百度石の石標が建てられています。右写真は南側から北方向、山門を見た景色です。(2017.1.12)本堂の近くにあるのが上掲の龍宮門です。(2017.1.12)2006年に改修された新本堂です。2つの建物が隣り合って建っており、西側がこの本堂。東側に摂取堂があります。本堂には、本尊不動明王が安置されていて、この不動明王が身代わり不動とも言われていて、この名称で親しまれているのは門前の寺標にもこの言葉が刻されているのでお分かりでしょう。堂内は残念ながら撮影禁止でした。身代不動明王には、方除け厄除けの信仰があるようです。「法住寺殿が木曾義仲の焼き討ちに合った際、院の御所に攻め入った義仲の矢は当時の天台座主に当たった。天台座主のおかげで法皇が難を逃れたことから『身代わり不動尊像』と呼ばれることになったという。」のだとか。なぜだろう? と思って調べていたら、こんな説明があったのです。(資料5)本堂の前には護摩木が焚かれる護摩法要のための、方形で白砂を敷き詰めた区画があります。上掲の区画を間近に眺めました。築地塀の傍には、六地蔵はじめ地蔵尊が沢山安置されています。 龍宮門のすぐ近くには、銅像の地蔵菩薩立像も建立されています。この地蔵尊は左手に幼子を抱かれ、足下には地蔵尊を慕い見上げる幼子がいます。この様式の地蔵菩薩立像を私はこのとき初めて拝見しました。 その傍に、福寿観音立像の祀られた小祠もあります。山門から入り、石畳を歩んでくると、左手・東側には摂取堂の前の庭に向かう中門が見えます。 中門を正面からみたところ右手には摂取堂、中門の向こうに見える屋根は山門正面の建物とを結ぶ渡り廊下です。丁度この中門のずっと奥が後白河天皇の御本陵になるのです。門前の駒札には、陵墓のことと併せて、親鸞上人自作と伝える阿弥陀如来像と親鸞「そば」食い像の名称も記されています。堂内を拝見して新たに知ったことは、赤穂浪士の義挙、つまり忠臣蔵で有名になった大石良雄が義挙の成就をこの寺の不動明王に祈ったという言い伝えがあるそうです。そこから、本堂内の左手脇には、赤穂浪士四十七士の木像を安置されているのです。忠臣蔵ゆかりのお寺でもあります。 摂取堂の前(北側)の庭 摂取堂からの渡り廊下の東側の庭摂取堂内には、親鸞ゆかりの木像が安置されています。一つは、親鸞が自作したと伝えられている阿弥陀如来像です。もう一つが親鸞「そば」食い木像と称される像です。この「そば」食い像には、不思議な言い伝えがあるのです。手許の本(資料2)から、その話を引用させていただきます。「叡山西塔で修行中の親鸞は六角堂に百日間参籠すべく、秘かに下山した。同宿の僧が怪しみ、師匠に告げたので、師匠はにわかに弟子達を集め、「そば」をふるまい、それとなく親鸞の所在を確かめたところ、木像が親鸞の身代わりとなって、『そば』をたべたという。」(p108)この像は東山渋谷にあった仏光寺に移され、明治初年に法住寺に移管されたといいます。明治に入って、神仏分離令が発令されました。御陵は宮内庁の管理となり、お寺は御陵から分離されたのです。それで寺名が大興徳院と改称されていたのですが、昭和30年(1955)に法住寺という旧号に復したという経緯があるようです。大石良雄ゆかりのこの法住寺と同様に、大石がしばらく隠棲した山科の地に、岩屋寺があります。山科に自転車で出かけたとき、大石良雄隠棲の地と岩屋寺及び大石神社を探訪しました。岩屋寺は知らずに現地に行ったのですが、説明板を読んで拝観し、この岩屋寺に赤穂浪士四十七士の木像が安置されていることを知ったのです。事前情報なしの探訪から、赤穂浪士の木像が少なくとも京都に2箇所で大切に祀られているということを発見した次第です。法住寺でお寺の方とお話していて、泉涌寺の子院にも大石良雄ゆかりのところがあるということを聴きました。ネット検索してみて、来迎院というお寺がそれに該当しているようです。いずれ探訪してみたいと思っています。最後に、山門に戻ります。この1月に、南大門の鬼瓦からこの近辺寺院の鬼の造形を「京都・東山七条あたりの鬼たち」として、ご紹介しました。その時、この法住寺にはほとんどふれていません。なぜか? そのご紹介です。何度もこの山門前を通り過ぎながら、意識していなかったのです。私にとっては新発見! 山門の屋根棟の両端が鬼瓦ではなく獅子口です。そして、隅棟の上部、獅子口に接するくらいの位置にこんな人面(?)の造形され飾り瓦が置かれているのです。山門を認識していても、細部をほとんど見ていなかった! 屋根の4箇所にあります。大瓶束を中心とした笈形 全体の装飾彫刻が見事です。蟇股は草花の透かし彫りが施され簡素な中に気品があります。門扉には菊花が浮彫にされ、花の中央には三つ巴の紋が全体の動きを創り出しているようです。 ご一読ありがとうございます。参照資料1)『新訂 梁塵秘抄』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫 巻第二 359番2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則 駸々堂3) 創建と歴史 :「蓮華王院 三十三間堂」ホームページ 4) 『国宝 三十三間堂』 発行 三十三間堂本坊 妙法院門跡 p11-135) 法住寺 後白河法皇の身代わりになった不動と四十七士の寺:「HIGASHIYAMA」 補遺法住寺 :ウィキペディア 後白河天皇 :ウィキペディア 妙法院 :ウィキペディア来迎院 :「御寺 泉涌寺」公式サイト京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告書 :「京都市埋蔵文化財研究所」 法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡 2010年10月 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 へスポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へスポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵 へスポット探訪 京都・東山 養源院 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -1 トラりんと雪景色&庭散策 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -1 本堂(龍華殿)・霊明殿の石灯籠 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -2 境内庭園・蓮華の間・悟りの窓・走り大黒天 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院 へスポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場 へ
2017.01.26
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既にご紹介した桃山時代建立の「南大門」から七条通まで、現在は南北の通りがあります。その西側が蓮華王院の回廊塀と門なのですが、現在この西の境界面には4つの門があります。その3つは普段は閉じられています。南大門に一番近いのが鉄製の門で適宜使用される通用門の感じです。今回の探訪はそこが開いていたので、まず久勢稲荷社からご紹介しました。その北側に前回「大的大会」参加者が集まっている状況の写真を載せた「東大門」(正門)です。その北側にこの門があります。ここも普段は閉まっています。さらに、境内の北東角付近に普段、観光客が参拝時に使用する門があり、そこを入ると左前方に拝観受付所があり、境内の北側が駐車場になっているのです。この門の屋根の隅棟は鬼板で、鬼の造形はありません。後で写真を見ていて気づきました。 この門の北側にあるのがこのお堂です。当日観光客が多すぎる位なのに、このお堂まで足を運ぶ人はちらほらでした。 お堂の正面に行くと、中央奧に、石造大日如来坐像(江戸)が安置され、その両側に数多くの石仏が並んでいます。この石造大日如来坐像は、もとは本堂の正面東の井戸のそばにあったそうです。それがこちらに移されたのです。手許の本の説明によるとこの像が「夜泣地蔵」と称されているようです。井戸のそばにこの石像があったとき、井戸が夜々震動して鳴くのです。あるときそばに地蔵尊を安置したところ、鳴き声が止んだというので夜泣地蔵とよばれたのだとか。(資料1)境内を東大門の方に歩いて行くと、高い基壇の上に宝篋印塔が建立されています。基壇の右前に「写経奉納塔」と刻した石標が立っています。写経奉納塔の南側にこの「南無阿弥陀仏」と刻した名号石があります。「法然塔」と称されているそうです。 後白河法皇が崩御したとき、その遺命は蓮華王院東法華堂に葬ることだったそうです。そこが現在の法皇御陵です。後白河法皇の菩提をとむらう七日ごとの誦経使は蓮華王院の他にその他の諸大寺から選ばれ、御斎会はここ蓮華王院で修法されたと言います。元久元年(1204)、13回忌のとき、土御門上皇の発願によって、法然上人が蓮華王院で「浄土三部経」を手写して、音曲に秀でた能声の僧を伴って「六時礼賛」の法要を勤行したのです。この名号石がそのことを示す遺蹟だそうです。そこで、この場所が「法然上人霊場」に数えられているといいます。(資料2,駒札)「六時礼賛」とは、「浄土信仰の者が日課として昼夜六時(朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)に礼讃嘆の仏行をすること及びその偈。唐の善導が浄土往生の行儀として編したもので往生礼讃ともいい、これに曲調を付して法要に用い」るというものです。(資料3)東大門までに井戸があり「夜泣泉」と井筒の側面に刻されています。 こちら側が手水になっています。傍に、駒札が立っています。「セン」という漢字は酉と泉を組み合わせた文字です。”お堂創建の翌年(1165)6月の7日、ひとりの堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で『古今著聞集』には「いつも冷たくて飲んでもお腹を痛めることのない'極楽井’でどんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ。」と記されています。 夜のしじまに水の湧き出す音が人の’すすり泣き’に似ることから’夜泣き’センと言われるようになり、いつの頃からか傍らに地蔵尊が奉られて、特に幼児の「夜泣き封じ」に功徳があるとして地蔵さまの「前掛け」を持ちかえり子供の枕に敷けば’夜泣き’が治るとされ、今もそのご利益を求める参拝が続いています。”(駒札転記) 手水舎の屋根 鬼瓦は普通の鬼の造形です。 左の東大門から本堂正面への参道東大門から本堂正面に向かうと正面の参道に対して、左右に池が設けられています。つまり、回廊を歩きながら、北側と南側にそれぞれ池を眺めつつ歩くという庭園域になっています。こちらが北側の池泉です。池の向こう左に見えるのが写経奉納塔の基壇です。 北側の池泉を南西側から眺めた景色南側の池泉を北西側から眺めた景色南側の池泉から東大門と回廊を眺めた景色 南の池の南に「鐘楼」があります。 撞木のあたる撞座の上に、縦に梵字が陽刻されています。いわゆる真言なのでしょう。浄土宗系なら南無阿弥陀仏、日蓮宗系なら南無妙法蓮華経の文字が記されているのがよくあるスタイルです。梵字の意味は何なのでしょうか・・・・? この梵鐘はよく見かけるものと少し様式が異なっています。一般的な梵鐘に施されている撞座の周囲を結ぶ中帯や縦帯の装飾がなく、鐘の上部の「乳ノ間」と称される方形の区切りもなくて、乳(にゅう)が幾何学的な三角形の意匠配置になっています。通常、池ノ間、草ノ間と称される鐘の胴部に、天女像が描かれています。姿が見えやすいように画像処理で明瞭にしてみました。今回の探訪でご紹介できるのはこのあたりまでです。一度、大きな行事の行われていない天気の良い日に、建物の外観などもゆっくり拝見しに訪れたいと思っています。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p103-1052) 『国宝 三十三間堂』 発行・三十三間堂本坊 妙法院門跡 p113) 『新・仏教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p548-549補遺蓮華王院三十三間堂 ホームページ夜泣き封じのお地蔵さん(三十三間堂):「子供!子供!子供守護」Sanjusangendo 三十三間堂 / 蓮華王院 :YouTube京都 蓮華王院(三十三間堂)と仏像 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へスポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵 へスポット探訪 京都・東山 養源院 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -1 トラりんと雪景色&庭散策 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -1 本堂(龍華殿)・霊明殿の石灯籠 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -2 境内庭園・蓮華の間・悟りの窓・走り大黒天 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院 へスポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場 へ
2017.01.24
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この写真は、「蓮華王院」境内南側の築地塀と南大門の屋根の眺めです。この南大門は、かつてあった方広寺大仏殿の真南にあたる位置にあります。平安時代末期、保元の乱(1156年7月)が起こり、後白河天皇側が崇徳上皇側を破り勝者となります。1158年に第一皇子守仁親王(二条天皇)に譲位していた後白河は上皇としてこの地の「法住寺殿」に移住し、ここを根拠地に院政を始めます。保元の乱の三年後に平治の乱が起こり、平清盛が源義朝を滅ぼすと、後白河上皇の皇位が安泰の時期を迎えるのです。それは同時に、平氏全盛の時代になっていきます。後白河上皇が法住寺殿に移住した時には、「蓮華王院」と称される観音堂があったようです。その後後白河上皇は、鳥羽上皇が清盛の父、平忠盛に命じて造営させた得長寿院をモデルとして、平清盛の力を借りて蓮華王院三十三間堂を長寬2年(1164)に完成させます。「三十三間」というのは、お堂の柱と柱の間が三十三あるということに由来します。詳しくは後ほど・・・・。ところが、この時のお堂は、寿永2年(1183)木曽義仲による焼き討ちで破壊され、建長元年(1249)に姉小路室町での出火が洛中に拡大する大火となり、蓮華王院の塔にも飛び火し、蓮華王院の伽藍は炎上し灰燼に帰したのです。その後、後白河法皇の政治を敬慕する後嵯峨上皇が、氏長者(うじのちょうじゃ)である九条道家の力を得て、文永3年(1266)4月に、三十三間堂を復興させました。この時に、湛慶を筆頭とする仏師集団が活躍したのです。(資料1,2)この復興後のお堂が現在の「蓮華王院三十三間堂」です。そして、後の時代に、蓮華王院(法住寺殿)の寺地を豊臣秀吉が利用して、三十三間堂も取り込んで方広寺・大仏殿を築くということになります。その南大門が冒頭の写真です。南大門から現在の蓮華王院の境内西端まで92mの築地塀(練土塀)が残っていて、「太閤塀(たいこうべい)」と通称されているのです。(資料1)さて、2017年1月15日に、この三十三間堂を訪れました。この日に「通し矢」が境内で行われるからです。雪が吹雪くときがしばしあり一方で青空も時折見られるという寒い一日でした。公式には「大的大会(おおまとたいかい)」と称され、江戸時代の「通し矢」にちなむ大会が恒例行事として行われ、全国から大勢の参加者が集まります。それを見物しようと集まる人も大勢です。私もその見物人の一人。当日三十三間堂に行ったのは、久しぶりに「通し矢」を少し眺めたいということもありましたが、この日は本堂が無料公開される日でもあったからです。南大門に近い所に普段は閉じられている門扉が開いていましたので、そこから蓮華王院の境内に入りました。 三十三間堂を南東側から眺めたところ。三十三間堂(以下、本堂と略称)は南北方向に縦長に建っていますので、建物の南東隅と東側面になります。五色の垂れ幕が設えてあります。 棟や稚児棟の鬼瓦の鬼は、前回ご紹介したタイプと異なり、スタンダードなタイプです少し違うのは、角の間の額には梵字が陽刻されていることです。本堂の南西側、境内の南端に近いところに、「久勢稲荷社」が祀られています。 神社の斜め前に立つ駒札「『通し矢』射場」この駒札に貼付の絵図をみますと、かつての「通し矢」は本堂の外縁の南端から北端に向かって矢を射る形だったことがわかります。”江戸期、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦は民衆の評判となりました。縁側の柱や軒に残る鉄板は、雨あられと飛びくる矢からお堂を守るために徳川第三代将軍家光が付加したものです。 西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、矢を射つづけるという「大矢数(おおやかず)」は身命を賭けた壮絶な競技で、江戸時代を通じて、約800人がこれに挑み、時々のおもいをのせて放たれた矢数も延べ100万本に達すると伝えられます。毎年正月(15日に近い日曜日・無料公開)には、この古儀に因む弓道大会が行われ、全国から約2000人が参加し終日、賑わいをみます。”(駒札転記)この駒札から少し北側からは立ち入り禁止でした。というのは、現在は本堂の北側から、南側に設置された大的に向かって、矢を射放つ方式に代わっているのです。的の背後に幕が張られています。立ち入り禁止のロープの近くで、本堂と張られた幕の間に少し広い空隙がありました。そこから、デジカメのズームアップで撮れたのがこの写真。この直後に、係員の人がさらに幕方向に近づこうとした人が居て、矢が飛んでくる可能性もあり危険なので、立ち退いてくださいと注意されていました。それを潮時に、本堂方向に向かいました。 本堂と回廊の間にある東庭の池池の向こう側に居る集団は、大会に出る人とその関係者が大半に思えました。連子窓付回廊塀のある朱塗りの回廊。北側から南西方向の景色本堂の東側境内に集まる大会参加者、関係者の一群雪が吹雪く中で多くの人々が集まっていました。回廊から境内を横切り、まずは本堂を拝見に入口に廻ります。本堂内は撮影禁止です。これは本堂内を拝見した後、本堂出口の近くで購入した冊子です。A4サイズの写真集。本堂の諸仏の写真と解説文で構成され、日本語・英語の併記版です。A5サイズで、国宝三十三間堂の歴史と本尊、建築美とその意匠などについての案内書です。この記事をまとめる上でも参照しています。南北に長い本堂内部は、東側に通路部分(内陣廊下)があり、諸仏は東面する形で並んでいます。上掲案内書によると、本堂の縁の端から端まで南北に125m強、東西に22m弱という大きさです。ズラリと並ぶ円柱は片側に36本立ち、桁行三十五間(118.2m)です。建物の東西の幅が梁間五間(16.4m)です。本堂の内陣が正面三十三間、側面三間となり、その周辺を一間分の外陣(げじん)がめぐっています。(資料1)東側が内陣廊下として、内陣三十三間の中央部に鎮座する中尊・千手観音菩薩坐像を中心にその左右に1000体の千手観音菩薩立像が整然と安置されているのです。上掲引用の表紙で中尊と1000体の千手観音菩薩立像の一部をおわかり願えると思います。諸仏の写真は、「蓮華王院三十三間堂」の「仏像」のページをこちらからご覧ください。内陣廊下から正面を見ると、諸仏たちと廊下の間に仕切りの柵が設けられており、その柵に諸仏の名称と解説文の説明板が要所要所に掲示されています。内陣廊下は北の端から南に向かうのですが、柵の内側で廊下に一番近い所に、一列に、国宝雷神像、二十八部衆、国宝風神像という形に像が並び、その奥側に千手観音菩薩立像が10列の雛壇上に整然と並んでいます。立像の顔部分が全て見られる高さだけ、雛壇が高くなっています。何度か拝観していますが、その都度やはり圧倒される景色です。本堂の天井は二重虹梁蟇股式の構架で、化粧屋根裏という構造です。本堂を巡る外陣は、諸仏を安置した背後が壁面で仕切られていて、その西側も一直線に南から北に抜ける通路部分になっています。その内陣壁面に沿って、通し矢の歴史的な説明や三十三間堂の建築についての説明パネルが掲示され、ここにも諸仏が祀られています。ここもパネル説明や写真などを丁寧に読んでいると、3,40分くらいはあっという間に経ちそうです。三十三間堂について一歩踏み込んで学べる学習コリドーです。通し矢の記録史が西側の廊下に掲示されていますが、おもしろいものです。通説では、今熊野観音寺の別当梅坊(一説は梛坊なぎのぼう)が射芸をたしなむ人だったそうで、あるときこの三十三間堂に立ち寄り休憩中にこころみに矢を放ったのが起こりと伝わるとか。慶長11年(1606)正月18日、浅岡平兵衛が51本の通し矢を行ったという記録が残っているそうです。このとき額を奉納しているようです。「大矢数」は、日の長い初夏の頃、暮六つ(午後6時頃)より24時間ぶっつづけで行う方式だとか。最高記録は、1686年、紀州藩家臣和佐大八郎によるものと言います。総矢数13,053本、通し矢8,133本を射たそうです。この時、大八郎は18~19歳で前髪立の若衆姿の若者だったそうです。そして、通し矢の最後は、明治28年(1895)若林素行による4,457本であり、以後は中絶したのです。(資料1,3)では、いよいよ、いわゆる現代風「通し矢」である「大的大会」を少し垣間見ることにしましょう。2003年1月と2011年1月にも、この「通し矢」を一部見学して写真に撮っています。その時の記録写真も回想風に交えてのご紹介です。本堂を出る手前に記念品などの売店が設けられていました。その南側から、かつては本堂の西側の外廊に立ち、通し矢を見られるギャラリースペースが設けられていたのですが、今年(2017)はそれがなくなり、射手側の写真撮影も禁止になっていました。通し矢行事の見学者が増えたせいでしょうか? これらは、2011年1月の「大的大会」の時、撮ることができた頃の写真です、 (2011.1)本堂の北側から参加者が一列に並び、同時に南端に置かれた大的に矢を射放ちます。本堂の西側に一般観覧スペースが設けられ、数張りのテントも設置されています。この観覧者用スペースは、今年も同様でした。雪が降ると、テントがあるのはありがたいものです。しかし、限られたスペースですので、テント内の見物者が退席しないと、なかなかテント内に入るのも難しい・・・・のが実情。この2011年1月の折は、京阪電車の七条駅下車で三十三間堂に向かったのですが、その時も一時的に雪もよいでした。前を袴姿の参加予定者が大会場に向かっているところでした。本堂を出て、大会参加者のテントの傍を通り、一般観覧席側に廻って行きました。テントの最後尾に余地があり、なんとか何枚か射手側の写真を撮りました。今年の写真 雪が吹雪く瞬間に、順番が巡ってきた参加者たちのシーンです。雪の降る中、片肌脱ぎで矢を射放つ参加者もいらっしゃいます。参加者が多いために、大会は途切れることなく続いて行きます。その少し後に、一時的に雪が止みました。参加した射手の立ち並ぶテントと三十三間堂はこんな感じの景色になります。2017年、外縁にギャラリーは居ません。降る雪が止んだところです。雪が舞う最中と、止んだあと、的の狙いと的中率は・・・・? こちらは2003年1月に見物した時の写真。一般観覧者席側から撮ったものです。 大的の設置された南端側には、本堂外廊に「的場審判」の係の人が着座していて、大的が3つ並んでいます。(2003.1)これは、今年の的場審判の景色。大的の近くです。外縁側を注視していませんので、上掲のような係の人が居たのかどうかはわかりませんが、少なくとも2017年、西側に的場審判のスペースが設置されていて、係の人々が忙しそうにされていました。雪が降ったり、止んだり、吹雪いたり・・・裏方さんも大変な一日です。この後、少し本堂東側の境内を散策探訪しました。本堂中央部の東側正面に、現在の「正門」(東大門)があります。東大門の内側や回廊に、大会参加者たちがグループ毎に集まったりしています。この基壇上にたつ「東大門」は、単層切り妻造り二重虹梁蟇股式で本瓦葺きです。桁行18m、棟高11.6mだそうです。五間三戸門の左右は基壇の延長線上に回廊、回廊塀が延びています。回廊塀は128mあり、回廊塀も朱塗り、白壁で、緑色の連子窓つきです。門も塀もともに典型的な鎌倉様式の建築だとか。「現在の境内は、延長524mに及ぶ築地塀に囲まれて、内に25,073平方メートル(7,598坪)ある」(資料1)とのことです。興味深いエッセイ文の一節を引用し、ご紹介します。後白河法皇は『梁塵秘抄』という当時の民衆の歌謡の代表である「今様」の歌詞集を編集しています。撰集全巻が残っているわけではないのですが、巻二に次の法文歌が載っています。 万の仏の願よりも、千手の誓ひぞ頼もしき、枯れたる草木も忽ちに、 花咲き実生ると説いたまふ後白河法皇自らが書いたとされる『梁塵秘抄口伝集』に、後白河法皇が熊野三山に参詣し、新宮で千手経千巻を徹夜で転読して、暁方(あけがた)にこの歌を謡ったところ、熊野権現もそのことを喜ばれたと・・・云々。このことについて、梅原猛氏は「即ち千手観音は、生命復活即ち再生の仏なのである。すると、後白河法皇の信仰なるものも生命の復活・再生の信仰ということになる。」(資料2)と。後白河法皇は院政をしながら、隠謀を巡らし平清盛、木曽義仲、源義経などを次々に滅亡に導く策謀に長けた政治力を発揮した人物です。後白河法皇の政治の側面と信仰の側面を絡めて、次のようなおもしろい見方も記しています。「この後白河法皇の政治力を支える呪的本尊が、三十三間堂即ち蓮華王院の千一体の千手観音なのである。中尊を挟んで左右に、一列に五十体、等身の千手観音が、十列-千体並んでいる姿を見ると、私はそこに仏の軍隊とでも言うべきものを感じる。それは、武士の力で政権の座に就いた後白河法皇が持った、幻の軍隊であった。彼は、清盛にこの軍隊を造らしめた。この幻の軍隊が、後には清盛の持つ実際の軍隊を都から追放した。さらには、義経や義仲の軍隊を迎え入れ、またこれを追い出した。この仏の軍隊は一切の武士の軍隊を追放してしまったのである。このことによって、後白河とその後継者たちは、思う存分遊興と信仰に明け暮れることが出来たのである。」(資料2)仏をも道具に使うという視点は、おもしろい発想だな・・・と思います。そういえば、仏教が伝来された後、仏教を「鎮護国家」のために使ったのも、ある意味で政治が仏教信仰を道具化した始まりと考えられますね。最後に、江戸時代に出版された『都名所図会』に「蓮華王院三十三間堂」の絵が掲載されています。引用させていただきます。(資料4)この絵で江戸時代の三十三間堂の景色がわかります。それと併せて、通し矢の場面が描き込まれているのです。本堂を切り出してみました。 外縁の南端部を更に拡大。弓に矢を構えた人物が描き込まれ、それを竹垣越しに見物する人々が描き込まれています。通し矢が名物になっていたことがうかがえます。つづく参照資料1) 『国宝 三十三間堂』 発行・三十三間堂本坊 妙法院門跡 2) 『京都発見 二 路地遊行』 梅原 猛 著 新潮社 p282-2953) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p103-1054) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第3冊 13コマ目 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)補遺通し矢 :ウィキペディア このページに、写真として載せた駒札に貼付の浮世絵・歌川豊春筆「通し矢」 が掲載されています。三十三間堂通し矢図(無題) :「文化遺産オンライン」三十三間堂通し矢図(無題) :「文化遺産オンライン」 これが蓮華王院だとすると、矢を射る方向が奇妙です。上記の絵の反転?三十三間堂の通し矢 :「京都観光Navi」江戸 深川の三十三間堂 『江戸名所図会』:「東京都立図書館」歌川広重「名所江戸百景 深川三十三間堂」 :「太田記念美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へスポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵 へスポット探訪 京都・東山 養源院 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -1 トラりんと雪景色&庭散策 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -1 本堂(龍華殿)・霊明殿の石灯籠 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -2 境内庭園・蓮華の間・悟りの窓・走り大黒天 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院 へスポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場 へ
2017.01.23
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蛇塚古墳から次の古墳に向かうときに、京福嵐山本線(嵐電)「帷子(かたびら)ノ辻」駅を経由します。そこに向かう途中で「大映通り」を通りました。「帷子ノ辻」駅の西、「太秦広隆寺」駅の北で、広隆寺の寺域の北側に「東映太秦映画村」が位置します。東映撮影所があります。 大魔神像 大魔神像の台座の正面に、説明板が掲示されています。かつて大ヒットした映画の像が通りに出現していました。1966年に大映の京都撮影所で制作されたのが『大魔神』でした。映画の中で悪者を退治する時の顔貌を表しているぞうだとか。「この地域をはじめ京都の住民とくに子どもたちの守護神として、皆様に親しまれ、可愛いがられれば幸いです」と記されています。この大映通り商店街のシンボルとしてここに復活したのです。(説明板より)1945年に大映株式会社と社名変更した「大映」は劇場映画全盛時代を経て、2003年まで存続しましたが、その後、映画事業は徳間書店を経て角川映画会社に継承され、現在はKADOKAWAに吸収されているようです。(資料1)冒頭から脇道に逸れました。嵐電・帷子ノ辻駅に進みましょう。「帷子ノ辻」という名の由来は、檀林皇后にまつわる遺跡伝説の一つだとか。「ここは檀林皇后を嵯峨深谷山に葬送のとき、棺に覆った帷子が風にふかれて飛びちったところといわれる」(資料3)ことに由来するそうです。駅前に掲示のある地図の部分図です。方位を赤字で加えました。蛇塚古墳との位置関係がおわかりいただけます。帷子ノ辻駅は京福電鉄の北野線と嵐山本線が合流する駅でもあります。北野線だと、帷子ノ辻の東方向の次の駅が「撮影所前」駅です。この駅の東が、太秦西蜂岡町です。蜂岡の地名が残っています。前回ご紹介した、天塚古墳と広隆寺・東映太秦映画村の位置関係はこの部分図の方でご確認ください。蚕の社(木嶋神社)と地下鉄・太秦天神川駅との位置関係もわかります。帷子ノ駅の地下通路を北に抜けていくと、垂箕(たるみ)山町があります。この町内に「垂箕古墳」が位置します。現在は宮内庁が管理し、「仲野親王高畑墓」と比定されています。 陵墓の傍は住宅街です。坂道の傍に陵墓参道が設けられています。陵墓の門扉と柵がありますので、傍の道路を上る事になります。このあたりは、広隆寺から西へ延びる丘陵の西端(垂箕山)にあたる場所だそうです。(資料3) 仲野親王は桓武天皇の第12皇子で、平城天皇、嵯峨天皇、淳和(じゅんな)天皇の異母弟であり、867年に亡くなっている皇子です。そのためこの古墳の築造年代とは直接一致しないそうです。この古墳は、大地がから南に緩やかに傾斜している崖面の縁辺に長軸を合わせて築かれている前方後円墳です。眺めているのは、古墳前方部の東面になります。この古墳には馬蹄形の空堀と堤が巡らされているそうです。全長75mで、後円部に比べ前方部が発達した墳形だとか。研究者の指摘では、岡ミサンザイ古墳に類似していて、同古墳の約4分の1に縮尺した図面を使用していたと推定されるそうです。5世紀末~6世紀初頭に築造された古墳という説が有力のようです。(資料1)この後、古墳の周辺を時計回りに回り込むため、住宅地内の道路を通り抜けていくことになります。 途中に「垂箕山大明神」の扁額を掛けた朱塗りの鳥居と小社があります。後円部の一部を離れた位置から眺めつつ、JR嵯峨野線上の陸橋を渡って広沢池の方向に向かいます。まずは北上し、新丸太町通の太秦北路町のバス停傍にでました。ここから新丸太町通沿いに西に歩み、北上するために「広沢南野町」の道路標識のある交差点で右折します。この辺りの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。新丸太町通を横断し、北方向に道なりに進みます。 「広沢山遍照寺」の寺号標石が門前に立つ「遍照寺」です。真言宗御室派の準別格本山。現在は広沢池の南、嵯峨広沢西野町に所在します。永祚(えいそ)元年(989)に花山天皇の勅願により、寬朝(かんちょう)僧正が広沢池の北西にある遍照山の麓にあった山荘を改めて寺院にされ、遍照寺を開創されたそうです。寬朝は宇多法皇の皇子敦実(あつざね)親王の第二子で、真言宗では最初の大僧正となり、長徳4年(998)83歳で寂したといいます。日本では三番目の大僧正になるとか。寬朝大僧正の門流を広沢流と呼び、聖宝系の小野流とで、真言宗の二大流派をなしたそうです。応仁の乱で罹災し、衰微します。その後にこちらに移転したといいます。(資料2,3)お寺の由来によると、江戸時代の文政13年(1830)舜乗律師により復興されたそうです。(資料4)現在のお寺には、寬朝の念持仏と伝えられ罹災を免れた赤不動明王と広沢池の観音島に祀られていた十一面観音が安置されているそうです。本尊が十一面観音菩薩立像です。地元では、「広沢の赤不動さん」として親しまれているようです。余談ですが、寬朝大僧正は関東で平将門が反乱を起こした際に、弘法大師空海作の不動明王像を捧持して関東に下向し、成田の地にて祈祷したといいます。その時の不動明王を本尊としたのが成田山新勝寺で、平安時代の940年に開山されたのです。「新たに勝つ」という寺号です。歌舞伎役者の市川団十郎の家は「成田屋」という屋号を名乗っています。これは市川団十郎が成田山の不動明王に深く帰依したことによるというのは有名な話です。(資料2,5)ついつい、脇道に迷い込みます。戻りましょう。 遍照寺の北側に、広沢古墳群のなかの一つ、「稲荷古墳」があります。「冨岡大明神」の額が掛けられた鳥居があり、墳丘上に稲荷社が祀られています。そこで稲荷古墳と称されているのでしょう。ここは堀川高校グラウンドの南西になります。直径25mの円墳で、横穴式石室と推定されています。広沢古墳群には4基の円墳が点在していたそうですが、現在はこの稲荷古墳と北東方向の広沢公園の東にある住宅地に位置する「遍照寺古墳」(直径30mの円墳、横穴式石室)の2基を残すのみだそうです。広沢古墳群のうち、一本木古墳は消滅。2号墳は堀川高校グラウンドの北東隅に横穴式石室を移築。堀川高校グラアウンド内に存在した1号墳は発掘調査後、2号墳の横の祠に発掘品の一部を安置。3号墳は広沢公園内に小さな高まりの墳丘として残っているようです。(資料2)ここから道沿いに北に進むと交差点に出ます。広沢池の南西畔になります。 広沢池 南西畔からの眺めをパノラマ合成次の駒札の末尾に説明されていますが、「池ざらえ」の時季に入っていたようです。現在はこの池で鯉などの養殖が行われていて池の水を抜いて成長した鯉を収穫するという季節だとか。京の風物詩の一つだそうです。広沢池の北西側に見えるのが嵯峨富士とも称された遍照寺山です。広沢池の西辺を通る道路から橋が架けられた観音島が山裾の前に眺められます。現地は遠望しただけですが、手許の本とネット情報によると、この観音島に十一面千手観音石仏が建立されているそうです。機会をみつけて拝見に再訪したいと思っています。(資料3.6)広沢池の西南、交差点の北西角に「兒(ちご)神社」があります。 由来説明板創立年代は不詳です。寬朝大僧正に仕えていた侍童を祀っている神社だそうです。「寬朝に仕えていた侍童が、寬朝の死後、悲しみのあまり、池に身を投じたのでその霊を祀ったとつたえる」(資料3)とか。 手水舎 拝所の先に本殿があります。シンプルな建物です。 側面から見た本殿 (これは覆屋なのかもしれません。内部は確認できず) 境内の樹木境内の一隅にある石柵の囲いに「第二の御神体」という説明札が立てられています。「本殿が移転するまでこの場所からお祈りしていたとのことです。(祈祷場所)」と記されています。昭和8年建立とあります。「兒(ちご)の石椅子」というのも目にとまりました。 上掲の石鳥居の近く、交差点に近いところにある石碑上部に「廣澤池之碑」と刻されています。下部に漢文で碑文が刻まれています。冒頭に陸軍大将というフレーズから始まりますので、明治以降の建立でしょう。本文は「真言宗」という語句から始まりますが文面の判読ができません。この後、広沢池の南辺を東西に伸びる府道29号線に沿って西に歩き、大覚寺4号墳(狐塚古墳)に向かいます。兒神社境内の少し先で、道路沿いにこの石標を見かけました。記録しただけの通過点でしたが、後で写真を拡大して眺めると、右側面に「千代」という文字が鮮明に読み取れ、左側面に和歌らしきものが刻されているのです。調べてみると、「千代の古道(ふるみち)」という項を見つけました。旧市内より北嵯峨に至る道を「千代の古道」と称したそうです。在原行平が 嵯峨の山御幸(みゆき)絶えにし芹川の千代の古道跡はありけりと詠んだことに由来し、歌枕にも採り上げられて有名になったそうです。元来は歌の上での天皇の行幸に対することほぎの言葉として使われたようですが、後世の好事家がどの道かと想定してきているのです。(資料3)いくつかの説があります。今回の探訪から大きくズレますので深入りは辞めておきます。北嵯峨野の山並みと田園風景が眺められます。パノラマ合成してみました。この川の上流に大沢池があります。南に下るとやがて梅津に至り、桂川に合流します。そして、地図で見ると大沢池の南方向で、府道29号線の南側、京都工芸繊維大農場の西側にある竹林が繁茂したエリアに入って行くと、その中に「大覚寺4号墳(狐塚古墳)」がありました。嵯峨大覚寺門前堂ノ前町の北東端部に近辺になります。大覚寺古墳群には、円山古墳、南天塚古墳、入道塚古墳、狐塚古墳が含まれているそうです。円山古墳と入道塚古墳は、現在北嵯峨高校の校内に位置する上に、陵墓参考地扱いになっているとか。今回の探訪地である大覚寺4号墳(狐塚古墳)は最近、龍谷大学文学部により発掘調査が実施されたのです。 径28mの円墳で、南東方向に開口した横穴式石室があります。墳丘はご覧のように竹が繁茂しています。周囲を巡ってみると、竹を彫りだしたのか墳丘面に穴が開いている箇所もありました。右の写真の奥側に石室の天井石の側面が一部見えます。石室の規模は現在長8m、玄室長3.8m、同幅2~2.4m、羨道現在長3m、同幅1.5mです。羨道部は腰を低く屈めてなんとか入っていける位で、玄室内は立つことができる高さでした。奧壁は各段1石で3段に積むという形だそうです。勿論、石室には懐中電灯がなければ暗黒です。小さなライト数本だけでしたので、部分的に石室内を眺めるにとどまりました。 ライトで照らされた方向をデジカメのフラッシュでなんとか撮れたのがこの2枚だけです。玄室の奧壁に向かった右隅あたりの天井石、奧壁上部、側壁上部の箇所と右隅部の箇所の写真です。基底石までの発掘はされていない状態で、流入した土砂がかなり石室内に堆積しているようです。これもまた貴重な体験でした。竹林域を出ると、竹林と工繊大農場との間の道路を一路南進して、丸太町通横断~JR嵯峨嵐山駅構内横断~嵐電踏切横断と言う形で、三条通まで南下します。角倉町のバス停に近いところに出ます。右折し三条通を進みます。 「花のいえ」の表札が掛けられた表門(唐門)の西側に、石標が立てられています。この場所が、江戸時代初期の豪商「角倉了以」の屋敷址であり、幕府の許可を得て保津川を開削した後はここに船番所を置いたそうです。石標には、上部に横書きで「此附近」と刻されていて、その下に右に「桓武天皇直営角倉址 了以翁邸址」とあり、左に「平安初期鋳銭司旧址」と刻しています。角倉とは倉庫のことです。(資料7,8)臨川寺の門前を通過し、最後の探訪地は「大井神社」です。 大井神社渡月橋の交差点の東北側の土産物店が建ち並ぶ区域で、渡月橋から北上する道路より一筋東側の細い道が大井神社への参道です。土産物店の間にある通路です。 現在は小さな祠に覆屋がついているだけの神社です。大きな通りは観光客が溢れ大混雑していても、この細い通路の奧にある小さい境内は喧騒から隔絶した感じです。わすれられた存在感が漂うところ。しかし、延喜式内社と推定されている古い由緒をもつ神社です。大堰神社、大橋神社ともいわれるとか。現在は松尾大社の境外末社となっています。つまり、大堰川の守り神です。祭神は宇賀霊神(うがみたまかみ)だそうです。「秦氏が大堰を造ってこの地を開拓した際に、治水の神として祀ったものであろう」と考えられ、「『三代実録』貞観18年(876)によると山代大堰神が従五位下を授かっている。『延喜式』「神名帳」の葛野郡に大井神社の名前はないが、乙訓郡に大井神社があり、記載を間違えた可能性も考えられている。」(資料2)ようです。この神社の付近に古代の葛野鋳銭所の址があるそうです.(資料3)駒札によると、現在の社殿は野宮神社の旧社殿を移築したものだとか。渡月橋から川沿いに西に50mほど上流側に行けば、「葛野大堰」の場所と推定されるところがあります。今回はこの大井神社を最終探訪地として終了しました。今回の探訪の全体地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。なかなかいいウォーキングの距離にもなりました。私にとっては初めて歩いたルートでした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 大映 :ウィキペディア2) 「嵯峨野の古墳と神社」 REC講座のレジュメ (龍谷大学REC講座「嵯峨(太秦)の古墳と社寺」 講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑晋明氏)3) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p217-2454) 遍照寺 ホームページ5) 成田山のはじまり(開山縁起) :「大本山成田山」6) 広沢池十一面千手観音石仏 写真・河合哲雄氏 :「石仏と石塔」7) 『京都府の歴史散歩(下)』 山本四郎著 山川出版社 p378) 花のいえの唐門前に建つ石碑 :「花のいえ」補遺京都嵯峨野の遺跡 1997 京都市埋蔵文化財研究所 pdfファイル京都府京都市右京区嵯峨の古墳 :「大和國古墳墓取調室」広沢池 :ウィキペディア千代の古道 :「京都観光Navi」千代の古道 :「京都通百科事典」千代の古道(ちよのふるみち)のルートを知りたい。:「レファレンス協同データベース」花のいえ ホームページ角倉了以 :「歴史倶楽部」葛野大堰 pdfファイル葛野大堰 :「京都の古代風景に想いを馳せる」檀林皇后 ← 橘嘉智子 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -1 木嶋神社(蚕の社)へ探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -2 太秦広隆寺 へ探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -3 車僧影堂・千石荘公園・天塚古墳・蛇塚古墳 へ
2017.01.08
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広隆寺の楼門前が三条通です。この通りを南に渡り、太秦小学校の東の通りを南下していくときに、路傍で目に止まったのがこの「車僧影堂」への方向を示す道標です。写真を撮っただけにとどまりました。後で調べてみると、太秦海正寺町(かいしょうじちょう)に小堂だとか。海正寺の住持深山禅師の像と位牌が安置されているそうです。海正寺そのものは江戸時代の元禄年間の廃亡したようです。『都名所図会』には、この深山禅師は常に破れ車に乗り四つ辻を往来していたので、車僧と呼ばれるようになったといいます。また「七百歳の年の事を語る故に、名を七百歳とも称すなん」と、記しています(資料1)。 太秦朱雀の郵便局の先の交差点を左折して、西高瀬川沿いの道路を東に進むと、千石荘公園(太秦野元町)があります。 公園の一隅に、皇太子関連の記念碑があり、その近くで別の記念碑に関し写真の付いたこの銘板が見えました。ちょっと記録写真を撮ったのですが、帰宅後によく見て、ヘ~~ッ!と、驚いた次第です。「太秦千石船」という題での説明文と写真です。この公園に、大正末期から昭和にかけて千石船が展示されていたというのです。米を千石(約150トン)積載できる大きさの船です。昭和25年の台風で壊れたために撤去され、今は公園名に名を残すのだとか。長栄丸という船で、福井県沿岸~日本海~北海道を定期的に航海していたそうです。(説明文要旨)当時、どのようにしてここまで運んできたのでしょう?この太秦野元町の西隣が太秦松本町です。 ここに白清稲荷社があります。なんとこの神社は古墳の墳丘全体が境内になり、そこに祀られているのです。古墳の周囲は今や住宅地です。古墳は「天塚(あまづか)古墳」と称されています。秦氏一族の墓と推定されていますので、首長級の人が葬られていたのでしょうね。 墳丘上に神社があります。後円部西側にある社務所の傍からみると、こんな景色になります。 墳丘部の部分写真 前方部と後円部の間天塚古墳は「ほぼ南南東に向けた全長71mの前方後円墳である。墳丘は2段に築成され、前方部の幅は後円部径よりも広い。墳丘には円筒埴輪が巡っていた。墳丘の高さも、前方部の方が後円部より若干高く、後期古墳の様相を呈している。地形測量図をみると濠状の痕跡が認められる」といいます。6世紀前半に築造されたと推定され、嵯峨野で現存する前方後円墳の中では最古のものだそうです。明治20年に石室の発掘調査が行われています。(資料2)後円部には二基の横穴式石室が開口していて、西側の横穴式石室には、社務所の中を通り入ることになります。この石室は羨道部と玄室部の区別がない無袖式の形式で、全長8.1m、幅は玄室内で2.3mという大きさです。石室の天井石は4枚でほぼ段差なく架構されています。(資料2)この玄室部の最奥に白清大神の祭壇が設けられていました。石室内を拝見しましたが、神域のため、内部は撮影禁止です。 古墳のくびれ部にもう一つ横穴式石室があります。こちらも石室内部を見学しました。全長7.7m、玄室長4.7m、幅1.8m、石室は左片袖式の形式です。こちらも玄室の奧に祭壇が設けられています。(資料2)右の写真は、上の三段が後円部、下の二段がくびれ部、それぞれの横穴式石室の調査図です。掲示されていました。これがこの古墳の墳丘図です。当日のレジュメより引用させていただきます。(資料2)境内の一隅に石仏像が並んでいます。天塚古墳見学とは関係がありませんが、社務所でこの写真の額が目に止まりました。初見の漢字が読めないのですが、内容から察して、オミクジの吉凶について歌で詠んだものです。こういうのは、初めて見ました。序でにご紹介しておきましょう。 一 大吉 何事も心に叶う嬉しさはただ信心の徳とこそ知れ 二 吉 真心の願いの道もすぐなれば神を誓いて添うて守らん 三 半吉 古のいかなる神のむすびにぞおもうまくなる末ぞ楽しき 四 凶 横しまの願いをかくる神はなしただ何事も正直にせよ 五 吉 親と子と知らぬ心の願いせば神を頼みて叶う嬉しさ 六 吉 ほど遠き願いの道は幾万里誠で願う道ぞ近けれ 七 半吉 さまざまの花の姿に惑わずと思い定めて一と道にせよ 八 吉 常ならぬ思いの雲は晴れ渡り頼む甲斐あり神の御利生 九 凶 眼に見えぬ邪見の角がある故に心の鬼が責める我が身ぞ 十 半吉 いそがずと時の至るを待つぞかし末ぞ花咲く春も来るなり十一 吉 思い事たつるのぞみのごとくなり叶う時節を得たる嬉しさ十二 大吉 正直の心に神はのりうつり家長久に富貴繁昌これも一種、道歌の類いに連なるものなのでしょうね。信心と正直がキーワードになるようです。社務所の傍、古墳の一隅にこんな石碑が建てられています。当日の講座参加者の一人が気づかれたもの。写真に撮っておきました。この写真はネガ・ポジ反転で、部分拡大した写真ですが、残念ながらそれでも読みづらい・・・・。漢字での表記です。大正15年9月30日に、スェーデン(瑞典國)の皇太子・皇太子妃がここに来られたということが記されています。その続きに、同年11月にタイ国(暹羅國シャム)の王様が来訪されている記述があります。京都市内に現存する古墳に関心を示されたということなのでしょうか。さて、この後、上掲の公園で小休止し、西高瀬川沿いに西に向かい、「蛇塚古墳」の探訪です。前回参照資料に記した本で写真と説明を読んだとき、一度訪れてみたいと思っていたのです。巨岩で構築された横穴式石室が今は住宅に囲まれた中央にポッカリと現前します。所在地は太秦面影町(おもかげちょう)です。これを眺めてまず連想するのは、奈良の飛鳥歴史公園内にある「石舞台古墳」です。 三方向から眺めた景色です。「蛇塚」というのは、発見された時、石室内に蛇がうじゃうじゃいたので、蛇塚と名付けられたとか。「『太秦村誌』(1924)では安養塚(塚穴)とされていた。蛇塚古墳の名称の初見は937年(昭和12)の『日本古墳巨大石室聚成』である」(資料2)この講座では、事前に手続きが取られていましたので、この古墳の内部を見学体験できました。現在は保存のために羨道部が鉄骨の枠組みで補強されています。それでは、内部見学致しましょう。 横穴式石室の羨道部の入口 腰をかがめて入る必要があります。 羨道の奧部分と玄室部の景色この羨道の側壁端部は、玄門部でもあるわけですが縦長の一石で高さが3.3mある巨岩です。(資料2) 左の写真は羨道部の玄室側先端の天井石、右の写真はその天井石が壁面の巨岩の上部に接している部分です。 重複部分が多いですが、上掲写真を巨岩の側壁面を中心に眺めたところです。いよいよ玄室の全貌です。 この写真は2枚の写真で玄室全景に合成しました。玄室の奧壁の上部の巨岩は現在無くなっています。この奧壁下段の石は3.2mx3.6m。玄室の奧壁は二段積で、側壁は3段積であり、上の2石は持ち送りをしているそうです。つまり、垂壁でなくて、少しずつ玄室の内側に入り出していて、そこに天井石が載せられるという形です。そして玄室の天井石はすべてなくなっています。どこに持ち去られたのでしょう・・・・。この玄室には、今回の講座受講生が全員(40名ほど)入っても充分その場で解説を伺うことができる広さでした。ここも後円部が南南東に開口する横穴式石室です。京都市内で最大規模の石室。その規模は、全長約17.8m、玄室長約6.8m、幅約3.8m、高さ約5.2mです。(資料2)石室の比較をしてみます。(資料2)奈良・飛鳥 石舞台古墳の石室 全長約18.7m、玄室長7.7m、羨道長約11m奈良・橿原市 見瀬丸山古墳の石室 全長28.4m、羨道長20.1m、玄室長8.3m 過去の発掘調査結果において、この見瀬丸山古墳は全国第1位規模です。羨道を出る方向に撮ってみました。 囲いの傍に設置された説明板現在は、説明板に載る航空写真のように、前方後円墳の痕跡を残すかのように、周囲を住宅が囲っています。墳丘の長さは推定75m、後円部径は推定約45m、前方部の幅は推定約30mの前方後円墳です。前方部の先端は西高瀬川のあたりまで伸びていたと推定されています。6世紀末から7世紀初頭に築造されたものだそうです。ここも秦氏の一族の開発した地域であり、秦氏の首長クラスの墓と考えられています。(説明板、資料2)余談ですが、「『おしげ』という女賊がここを根城とし、三条街道にて追剥(おいはぎ)をしたという伝説があるとか。また、冒頭の写真、車僧影堂との関連では、謡曲に「車僧」という作品があるそうです。(資料3)蛇塚古墳を後にして、帷子の辻駅の方向に向かいます。続く参照資料1) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p4482) 「嵯峨野の古墳と神社」 REC講座のレジュメ (龍谷大学REC講座「嵯峨(太秦)の古墳と社寺」 講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑晋明氏)3) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p218補遺車僧影堂(車僧堂)・海正寺(京都市右京区) :「京都風光」謡蹟めぐり 車僧(くるまぞう) :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」京都25 車僧(くるまぞう) 〜太秦に影堂〜 :「週刊長野記事アーカイブ」千石荘公園 :「京都市情報館」石舞台古墳 :「飛鳥歴史公園」石舞台古墳 :ウィキペディア石舞台古墳~巨大古墳築造の謎~解説書 pdfファイル 奈良県明日香村 関西大学文学部考古学研究室 平成24年(2012)年1月見瀬丸山古墳 :ウィキペディア見瀬丸山古墳は誰を埋葬した墓か? :「橿原日記」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -1 木嶋神社(蚕の社)へ探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -2 太秦広隆寺 へ探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -4 垂箕山古墳・遍照寺・広沢古墳群・広沢池・兒神社・狐塚古墳・大井神社 へ
2017.01.06
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常楽寺の少し手前辺りから三条通は北西から西の方向を転じ、道沿いに進むと程なく、広隆寺の南大門(楼門)側面が見えて来ます。南大門の右前に「太秦広隆寺」と太く陰刻した寺号標石が建てられています。写真には撮れなかったのですが、この大きな石柱の台座は塔礎石が利用されているそうです。(資料1)三条通はこの南大門前辺りから少し北よりになり、帷子の辻からまた西方向の道になります。その先は嵐山の渡月橋に至ります。 南大門(楼門)の仁王像 南大門の境内側からの眺め三間一戸、入母屋造り、桟瓦葺で朱塗りの仁王門です。上層の軒は二重繁垂木で、腰の周囲には回廊が巡らされていて、柱間に桟唐戸が付けられています。江戸中期、元禄15年(1702)に再建された門です。(資料3) 頭貫上の蟇股。上が門の内側、下が正面側です。 これは国宝第一号に指定された「弥勒菩薩半跏思惟像」が安置されている「新霊宝館」の参拝の折にいただいたリーフレットに掲載の境内案内図を借用しました。広隆寺の伽藍配置がお解りいただきやすいでしょう。(資料2)広隆寺は、蜂岡山と号し、真言宗御室派に属していた後に、現在、真言宗系の単立寺院となっています。 南大門をくぐると北に向かって石畳の参道が上宮王院太子殿に延び、右手前方には「講堂」が見えます。境内の右側には林地が広がっています。 参道は途中で分岐し、講堂に正面から近づく参道が設けられています。講堂は南面し、五間四面の単層で、屋根は寄棟造り、本瓦葺です。朱塗りの建築で、俗に「赤堂」と呼ばれていたそうですが、いまは朱の面影を残していないように見うけました。永万元年(1165)に再建された建物で、これが現存では広隆寺の最古の建物だといいます。また、現在では京洛最古の建物になるとか。(資料2,3)この建物ですが、「もとは奈良唐招提寺金堂のように正面の柱一列が吹き放しになっていたが、永禄8年(1565)の補修の際、両端に壁を塗り、禅宗建築の特徴である花頭窓をつけ、扉は柱から一間入ったところにある」(資料3)という変形バージョンになっているそうです。この探訪では拝見していませんが、講堂には「中央に西方極楽浄土で説法をされている印を結ぶ阿弥陀如来坐像(国宝)、地蔵菩薩坐像(重文)、虚空蔵菩薩坐像(重文)を祀る」(資料2)そうです。講堂の屋根の鬼瓦 額に宝珠を付けています。まずは神霊宝殿に向かいます。広隆寺の境内は、案内図に記載の参拝受付所の位置より南の区域は自由に参拝・拝見できる形です。つまり、上宮王院太子殿(以下、本堂と称します)の北にある新霊宝殿と庭園部分の拝観が有料だということです。 参拝受付所を通り過ぎ、参道を進むと、小橋が架かっています。その手前左側に、「桂宮院(けいぐういん)」の石標が立っています。これは、境内の北西奥に位置する「桂宮院本堂」を意味し、別名が「八角円堂」です。鎌倉時代の書には、広隆寺とこの八角円堂が並記されているといいます。ここは聖徳太子が楓野(かえでの)別宮を起こされたところと伝わるそうです。現在の建物は建長3年(1251)に中観上人澄禅により再建されたもの。現在は、広隆寺の奧の院と称されているそうです。この八角円堂は法隆寺東院の夢殿に相当するもののようです。(資料2,3)桂宮院本堂は国宝に指定されています。 橋を渡り直進すると、旧霊宝殿です。私たちは手前で右折します。右折して、途中で振り返った景色が右の写真。参道脇に設置された掲示板には、「十善戒(じゅうぜんかい)」(十の善き戒いましめ)が掲示されています。ご紹介します。 不殺生(ふせっしょう) 生きものを殺しません。 不偸盗(ふちゅうとう) ものを盗みません。 不邪淫(ふじゃいん) みだらな男女の関係をしません。 不妄語(ふもうご) うそいつわりを言いません。 不綺語(ふきご) たわごとを言いません。 不悪口(ふあっく) 人の悪口を言いません。 不両舌(ふりょうぜつ) 二枚舌をつかいません。 不慳貪(ふけんどん) ものを慳(おし)み貪(むさぼ)りません。 不瞋恚(づしんに) いかり憎むことをしません。 不邪見(ふじゃけん) 間違った考え方をしません。これは仏教に於ける戒律の一番基本になるものです。かつては、受戒した僧侶にはもっと数多くの戒が定められていたと言います。一般庶民、凡人にはこの十戒だけでも・・・・大変です。実際に全てを守っている人が居るのでしょうか???そこで、ふと連想したのが、モーゼの十戒です。エジプトから脱出後、3ヶ月経たとき、モーゼがシナイ山の山頂で神から授かったという十戒です。調べてみました。『出エジプト記』第20章に「十誡」として出てきます。(資料4) 1. わたしのほかに君は他の神々をもってはならない。 2. いかなる像をも作ってはならない。 3. 君の神、ヤハウェのみ名をみだりに唱えてはならない。 4. 6日の間働いて、君のすべての業を終えるがよい。7日目は君の神、 ヤハウェのための安息であるから、なんの業もしてはならない。 5. 君の父と母とを敬え。 6. 殺してはならない 7. 姦淫してはならない 8. 盗んではならない 9. 君の隣人に対して偽りの証しを立ててはならない。 10. 君の隣人のすべての物を欲しがってはならない。一神教の世界と仏教の世界では、同じ戒律でも切り口が少し異なりますね。だけど、人間行動の根底部分は洋のの東西を問わず、人間社会としての共通の戒となるようです。 新霊宝殿この建物に、広隆寺が所蔵される仏像の大半が収蔵されていて、ここ一箇所で国宝・重要文化財の指定を受けた諸仏像の大半を参拝し、拝見できます。リーフレットの記載から仏像だけカウントしますと、国宝7件、重要文化財31件になります。弥勒菩薩半跏思惟像が建物の奥側中央に安置され、四方の壁面前に、大小様々な諸仏が安置されています。写真撮影禁止で残念ですが、しかたありません。今回は通覧するだけで十分な時間がとれませんでした。この新霊宝殿内の諸仏を一つ一つじっくり鑑賞するなら、数時間はかかりそうです。半跏思惟像は、「一切衆生をいかにして救おうかと考えている」姿を表すとされています。弥勒菩薩は、仏教思想では、56億7000万年後に、人の世に来たり、竜樹下で悟りを開き、釈迦に代わってこの世を救うとされている菩薩です。現在は、兜率天(とそつてん:須弥山しゅみせんの弥勒浄土)の内院におられ、菩薩の行につとめておられると信じられています。(資料2.5) 本堂の背後、新霊宝殿の前に広がる庭です。この庭の風情がなかなかすばらしいもの。本堂の背面白壁をバックに紅葉のコントラストが映えます。 この写真は庭園の西方向の景色 小橋の方に戻る途中、苔蒸した庭地に移る樹影を撮ってみました。 参拝受付所の場所から出て、本堂の西側で北方向に眺めた景色 池の中に、飛石が設けられ「弁天社」が祀られています。受付所の西に書院の入口になる表門があります。 上宮王院太子殿(本堂)享保15年(1730)に再建された入母屋造りで寝殿造り風の大きなお堂です。本尊は聖徳太子33歳の等身像が安置されているそうです。普段は秘仏扱いであり、毎年11月22日に「聖徳太子御火焚祭」が実施され、この日に特別開扉されるとか。『上宮聖徳太子伝補闕記』という書があります。上宮王家は聖徳太子の家を意味しますので、上宮王院という言葉の由来は多分そこにあるのでしょう。また、歴代天皇が即位大礼に着用された黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)の束帯を、即位後に贈進された後、この聖徳太師像がその天皇の一代を通じて身に着ける慣例になっていると言います。(資料2,3) 屋根の棟瓦が幾何学的に美しい。木鼻はわりと大らかな彫りの象頭です。 本堂の東側に「太秦殿」があります。お堂の階段のところに、説明板が置かれています。「往古より秦氏を祭祀せる神社なり。本尊は秦河勝公、後に漢織女、呉織女を合祀す。 天保12年12月再建す。 百済国の弓月君120県の民を率い帰化し其の子孫河勝に至りて地を山城北部に葛野に住居し土地を開拓し養蚕機織の業に従い之を奨励した。御人其の徳を讃へ神と崇め太秦明神と称した。」(説明文転記)本堂の手前に、「廣隆寺」の由緒を記したとおもわれる石板碑が建てられています。ここは写真を撮るだけになりました。 南大門から、本堂への参道を歩むと、まずはこの「井戸舍」があり、二基の石灯籠の先に本堂全景が見えるのです。今回は順次遡ってきたことになります。 参道を挟み、講堂の西側に位置するのが「地蔵堂」です。正面の格子戸の左側に説明板が掲示されています。かなり読みづらくなっています。地蔵菩薩が安置されています。「腹帯地蔵」とも呼ばれるそうです。「この腹帯地蔵尊は、我国繁栄の為、京都の繁栄のために、弘法大師が諸人安産、子孫繁栄の御誓願にもとづいてお作りになった御尊像である。 古来よりこの腹帯地蔵に信仰をこめ参拝して御利益を得た人は数多く、子供に恵まれない人は信心して授かり、又、妊娠した人は、『腹帯』を受けて安産の御利益を受けられ、子孫は繁栄し、家運は隆昌、幸福を得た人は数多くあったと伝えられている。この像が腹帯地蔵尊とよばれる様になったのは腹帯をゆるやかにお締めになり多くの妊婦のお産の苦しみを自らお引き受けになり、安産を授けられると云う有難い御誓願のお姿として、『腹帯地蔵尊』と称し奉ったのである」(説明文転記) 地蔵堂の南側に位置する「能楽堂」南大門を入ると、すぐ左側の奧にみえるのがこの「薬師堂」です。 お堂に近づくと、格子戸の左上隅に、このお堂に安置される薬師如来像が広隆寺に移ってこられた由来が記された説明板が掲げられています。 頭貫上の蟇股にはシンプルに法輪が透かし彫りにされ、木鼻は斗を支える機能的で単純な形状です。現在は阿弥陀三尊立像、不動明王、弘法大師、理源大師、道昌僧都も祀られているそうです。(資料2) 薬師堂の屋根の鬼瓦と飾り瓦今回の探訪の一つの狙いは、考古学的な観点でした。そのため、広隆寺の創建や伽藍の位置などに重点がありました。その点について少し触れて起きます。学んだことの整理を兼ねた覚書です。『日本書紀』の推古天皇の11年11月1日の条に、こんな記載があります。「皇太子(=聖徳太子)は諸大夫に、『私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏をお祀りする者はないか』といわれた。そのとき秦造河勝が進んで申し出て、『臣がお祀りしましょう』といった。仏像を頂いて蜂岡寺(今の広隆寺)を造った」(資料6)さらに、推古天皇の31年秋7月の条に、「新羅が大師奈末智洗爾(なまちせんに)を遣わし、任那は達率奈末智(たつそつなまち)を遣わし、共に来朝した。仏像一体および金塔と舎利をたてまつった。・・・この仏像を葛野の蜂岡寺に安置し・・・」(資料6)と記されています。ここで、現代語訳では、11年と31年がともに蜂岡寺と訳されていますが、原文では11年は「便受佛像、因以造蜂岡寺」であり、31年は「卽佛像居於葛野秦寺」と記録されているそうなのです。このことを事後に確認してみて、再認識しました。(資料7) 蜂岡寺=葛野秦寺なのか、別寺院なのか、研究上では未だ統一見解はでていないそうです。また、平安時代の縁起には広隆寺の創建の時期について、推古天皇11年説と31年説が残っていると言います。さらに、「斑鳩寺の火災後、百済の入師が蜂岡寺を造ったという説がある。奈良時代以来、広隆寺は聖徳太子建立七大寺、あるいは八大寺の一つとされた」(資料1)のです。さらに、『日本紀略』の弘仁9年(818)の条に、広隆寺の堂・塔・歩廊が焼け、大門や築地は残ったという記録があること。承和5年(838)の『広隆寺縁起』には、広隆寺が移建時期は不詳ですが、もと葛野郡九条河原里、同荒見社里にあったが、土地が狭いため、五条荒蒔里八・九・十・十五・十六・十七に移したと記されているそうです。蜂岡寺が広隆寺であるとしても、その創建についてはまだまだ学問的には論議があるようです。拝観の折にいただいたリーフレットには、広隆寺の沿革について、「広隆寺は推古天皇11年(603)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七大寺の一つである。この寺の名称は、古くは蜂岡寺、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などと言われたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている」と、冒頭で説明されています。(資料2)聖徳太子が秦河勝に与えた仏像が弥勒菩薩半跏思惟像であることは『廣隆寺資材交替実録帳』を見ると明らかにわかるそうです。(資料2)いままでの広隆寺での発掘調査結果などから寺域の復元を試みると、「広隆寺は移建とは関係なく、少なくとも7世紀後半から8世紀初期に伽藍が整備された古代寺院であると、指摘されている」(資料1)のです。薬師堂に道昌僧都の像が祀られているということに触れています。弘仁9年(818)に広隆寺がほぼ全焼したとき、9世紀中頃までに讃岐の秦氏出身の道昌が広隆寺を再興したそうです。しかし、久安6年(1150)に再び炎上し、永万元年(1165)に復興しているのです。(資料1,2,3)興味深いことに、別に「北野廃寺」というのがあり、ここと広隆寺との関係も学問上は論議がなされているということを知りました。広隆寺については未だ決着がついていない論点があるようで、古代史の世界は探求のロマンに満ちているようです。江戸時代に出版された観光ガイドブックといえる『都名所図会』には、広隆寺の絵図が載っています。引用させていただきます。また、この書では、推古天皇12年8月に、聖徳太子が斑鳩宮で霊夢を見たと近臣の秦河勝に告げます。その夢に見た場所に河勝と出かけます。その場所が葛野であり、楓林の中に異香を放つ大きい桂樹があり、その樹に聖徳太子は奇瑞の宝閣を目にしたというのです。随身には蜂とみえるだけだったとか。その場所(蜂岡)に仮宮を造り、河勝に命じて百済より奉る仏像を安置し、蜂岡寺と称したとしています。さらに、広隆は河勝の名であり、後に広隆寺と改称したとしています。これを伝記の大意だとして説明しているのです。手許の『都名所図会』にはその伝記に関する脚注はありません。江戸時代にはそんな伝記のソースがあったのかもしれません。(資料8)尚、秦河勝の名として広隆を明記している説明は、ネット検索した範囲では目にしていません。広隆寺の名称の由来は何なのでしょう・・・・。いただいたリーフレットにも触れられていません。最後に、歌人・俳人の感性が詠んだ歌や句を手許の本からご紹介します。(資料1,9,10) 青海の太秦寺に来て見れば身も投げつべき花の陰かな 香川景樹 (桂園一枝拾遺) 常磐木のみどりたゆたに海神の太秦寺の昼の静けさ 折口信夫 (海やまのあひだ) 松陰に落葉をふめば蟋蟀のここら飛び飛ぶ太秦の寺 川田 順 (技芸天) 太秦の広隆寺の宝庫にて あさひ さす しろき みかげ の きだはしを さきて うづむる けいとう の はな 会津八一 (南京余唱) みほとけに夏青銅の扉を展く 伊丹三樹彦 花冷えやときにきらりと弥勒の眼 梶山千鶴子 思惟仏の半跏は解かず花の昼 徳永亞希 百合白く弥勒の胸に指の影 桂 樟蹊子 秋の声聞く面ざしに弥勒仏 大槻 位 色鳥や弥勒のつくる指狐 山崎 きぬ 雪もよひ弥勒の思惟を支ふ指 辰巳あした 初明り思惟の菩薩の指のかげ 阿波野青畝 冬ざくら人声消えし広隆寺 本宮哲郎広隆寺を出て、古墳巡りの探訪に・・・・。つづく参照資料1) 「嵯峨野の古墳と神社」 REC講座のレジュメ (龍谷大学REC講座「嵯峨(太秦)の古墳と社寺」 講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑晋明氏)2) 拝観時にいただだいたリーフレット「廣隆寺」3) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂4) 『旧約聖書 出エジプト記』 関根正雄訳 岩波文庫 p59-605) 『図解 仏像巡礼事典 新訂版』 久野 健[編] 山川出版社 p226) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫 p91、p111-1127) 日本書紀巻第廿二 :「日本書紀について」8)都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第4冊の30コマめに図に掲載 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p441-4429) 『俳枕 西日本』 平井照敏編 河出文庫 p5310) 『名所で詠む 京都歳時記』 京都名句鑑賞会編 講談社ことばの新書 p160-163補遺広隆寺 :ウィキペディア飛鳥時代の仏像4:広隆寺の半跏思惟像 :「続壺齋閑話」秦河勝 :ウィキペディア秦河勝 :「コトバンク」秦河勝と広隆寺に関する諸問題 井上滿郎氏 論文聖徳太子建立七大寺 :ウィキペディア聖徳太子御火焚祭 :「京都観光研究所」十善戒 :ウィキペディアモーゼ十戒 :「聖書のお話(学生向)」(高林キリスト集会)秦河勝の墓 寺前治一「寝屋川史話100題」N0.009 :「OTTO&COMPANY PRESENTS」(18)大避(おおさけ)神社と秦河勝(はたのかわかつ)と養蚕 :「相生市」応神天皇と秦氏 :「秦野エイト会」秦氏と藤原氏 :「秦野エイト会」秦氏と猿田彦 :「秦野エイト会」秦氏と太秦の謎 :「日本とユダヤのハーモニー」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -1 木嶋神社(蚕の社)へ探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -3 車僧影堂・千石荘公園・天塚古墳・蛇塚古墳 へ探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -4 垂箕山古墳・遍照寺・広沢古墳群・広沢池・兒神社・狐塚古墳・大井神社 へ
2017.01.05
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この写真は京都市営地下鉄「太秦天神川駅」です。改札を出て、地上に出るエリアです。私はこの駅を利用するのは初めてで、この駅が木嶋神社や広隆寺に近い便利なところに位置するのを今回知った次第です。昨年「嵯峨(太秦)の古墳と社寺」というテーマの講座(資料1)を受講し、座学(2016年11月)の後に現地見学(同年12月)として探訪しました。その時の復習を兼ねて、レジュメやその他諸資料を参照しまとめてみたい所存です。嵯峨野に点在する神社・寺・古墳をご紹介します。今回は、以前から訪ねてみたいと思いながらなかなか行けなかった場所が含まれていたので念願が叶って満足している次第です。現地見学の当日の集合場所がこの「太秦天神川駅」でした。 地上に出てから北方向に歩き始めて、眺めた東方向に延びる御池通です。そして講座参加者が先頭の講師に従って進む道は三条通なのです。この辺りは不案内だったので、少し奇妙な感覚にとらわれました。京の中心地では東西の道路として三条通の北に御池通があることに慣れているからです。後で地図を確認して、なるほど!です。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。三条通は天神川を西に越えると、北西方向に延びていき、御池通と交差するところが「三条御池」の交差点になっているのです。御池通はここから東にあるということになります。三条通の一部区間上に、京福電気鉄道嵐山本線の軌道が通っているのです。最初に探訪したのは、「木嶋神社」と通称される神社です。しかし、「蚕の社」という方が知れ渡っていると思います。京都に生まれ、京都で育った私自身、「蚕の社」という名前でその存在をまず記憶しています。この神社の最寄り駅が京福電鉄の「蚕ノ社」駅なのです。三条通を北西に進むと右手にこの大きな石造鳥居が見えます。「蚕養(こかい)神社」の額が掛けられています。三条通から折れてこの参道に入り北に進みます。 正面に石灯籠、石標が見えてきます。石灯籠の竿には「木島太神」と刻されています。石標は背の高い方に「木嶋坐天照御魂(このしまにいますあまてるみたま)神社」と社号が刻され、背の低い方に「蚕神社」と刻されています。蚕の文字は旧字体で刻されています。神社の鳥居は「黒木鳥居」という形式です。黒木鳥居の典型は同じ嵯峨野にある野宮(ののみや)神社です。 鳥居の左方向、道に面して由緒案内板が設置されています。 鳥居をくぐり、参道を進むと正面に拝殿があり、その先に右の写真の社殿があります。さらに本殿の方に近づきます。 正面からは見づらいのですが、右側に少し移動すると、本殿が大凡見えます。神明造の神殿です。本殿の左側に、末社の連なる長い建物が見えます。この神社は延喜式内社です。祭神は、天御中主(あめのみなかぬしのみこと)、大国魂(おおくにたま)神、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うかやふきあえずのみこと)だそうです。本殿の右隣(東側)に鎮座するのが「蚕養(こかい)神社」つまり「蚕の社」です。木嶋神社の摂社という位置づけになります。 由緒書ちょっとおもしろいことにお気づきでしょうか?木嶋神社の境内の中に摂社「蚕ノ社」があるのです。しかし、最初に見た大きな鳥居にはこの「蚕の社」の方の額が掛けられていたのです。ある時点から「蚕ノ社」の方が人々の関心(信仰)を集めたということなのでしょう。「由緒」に触れられていますが、第42代文武天皇の時代、大宝元年(701)4月3日の条に、「次のように勅(みことのり)した。山背(山城)国葛野(かどの)郡の月読神(つくよみのかみ)・樺井(かばい)神・木嶋神・波都賀志(はつかし)神などの神稲(神田から取れる稲)については、今後は中臣(なかとみ)氏に給付せよ」(資料2)という記載があるのです。この辺りは木嶋という地名があり、そこに産土神が祭祀されていて、それが上記祭神に変遷して行ったということなのでしょう。一方、「蚕養神社」は、「養蚕、織物、染織」の祖神を勧請したとされています。この太秦の地は、秦氏の勢力が盛大となった地域です。史料的観点からは、秦氏とこの神社の関係はつかめないそうです。しかし、秦氏が織物などに優れた技術を持っていたので関係があるのでしょう。社殿への石段の東側に、「縮縮緬仲間」と刻まれた石標が建てられています。縮緬(ちりめん)という織物の座(組合)が神社に奉納している証でしょう。蚕の社が織物業者から信仰されていた一例だと思います。この辺りで勢力を持っていた秦造酒(はたのみやっこさけ)が「禹豆麻佐」の姓を雄略天皇から賜ったことから、後に「太秦」という漢字で地名を示すようになったわけです。このことが、『日本書紀』の雄略天皇の15年の条に次のように記載されているのです。「・・・・天皇は(追記:秦造酒)を寵愛され、詔して秦の民を集めて、秦酒公に賜った。公はそれで各種多種の村主(すぐり)を率いるようになり、租税としてつくられた絹・縑(かとり:上質の絹)を献って、朝廷に沢山積み上げた。よって姓を賜ってうつまさ(うずたかく積んだ様子)といった。」(資料3)境内にある末社として、「三井家の祖といわれる三井越後守高安命を祀る顕名(あきな)神社、承久の乱に当社境内にて戦死をした後鳥羽上皇方の三浦胤義(たねよし)父子を祀った魂鎮神社やこの付近にあった椿丘神社」も合祀されているそうです。(資料4) 境内にはもう一つ、この案内板もあります。説明板の内容はここで参照するとして、境内図の方に右写真の通りカラーの丸印を付記しました。 黒木鳥居形式の正面の鳥居(茶色)、拝殿(黄緑色)、本殿(赤色) 本殿の西側の末社(黄色)、蚕の社(マゼンダ色)はここまでに触れました。 拝殿の左斜め奥(西奧)にこの神明鳥居が見えます。神社の西側です。格子状の竹垣は「元糺の池」という神池のあるところになります。 鳥居をくぐり、神池の傍に行きますと、現在は枯れ池になってしまっています。石段をさがったところが池底です。正面の竹垣が鳥居の先に見えていたもの。地下鉄東西線が建設された影響で清水が湧き出していた地下の水脈に影響が及んだようです。 池の北西側から池を南東方向に眺めた景色 そのため、池底から竹垣越に池の北側を見ると、上段神池の中に石造の「三柱鳥居」(青色の丸)が建てられています。「三つ鳥居」「三面鳥居」「三角鳥居」とも呼ばれるようです。 鳥居の中央の大きな石のまわりに石が積み上げられています。上段の写真は鳥居の上部 本殿側の境内地端からの眺め三柱鳥居のところから緑色の丸をつけた方向が「元糺の森」と呼ばれています。三つの鳥居がつながったものは日本ではここだけだと「由緒」には記されています。ま上から見ると、鳥居の笠木の部分が正三角形を形作ります。柱は八角形です。不思議な形式の鳥居で、京都三珍鳥居の一つとも言われています。一度はこの鳥居を現地で見たかったので、良い機会でした。余談ですが、京都三珍鳥居とは、この三柱鳥居と、京都御苑内所在の嚴島神社の唐破風鳥居、北野天満宮境内に所在の伴氏社の鳥居だそうです。(資料5)上掲の「由緒」に記されていますが、下鴨神社に「糺の森」がありますがその「糺」はこの地より移したので、こちらを「元糺」と言うようになったとか。「糺」は「正シクナス」「誤リヲナオス」という意味であり、この神池は禊(みそぎ)の場、つまり身に罪や穢のある時に心身を清める行場だったようです。地元の人には夏の最初の「土用の丑」の日にこの池に手足を浸すと諸病にかからないとする民間信仰があったそうです。(由緒書、資料1)「鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組石は本殿ご祭神の神座であり宇宙の中心を表し四方より拝することが出来るよう建立されている。創立年月は不詳であるが現在の鳥居は享保年間(約300年前)に修復されたものである。 一説には景教(キリスト教の一派ネフストル教約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと云われている」(由緒書より)この三柱鳥居は呉服商・三井家が修復寄贈したものといい、三井家はこの木嶋社の鳥居をルーツとして、自宅の庭にも三柱鳥居を建てて信仰していたとか。その鳥居が現在は東京の三囲神社に移されているのです。修復前は木柱だったことが、江戸時代に出版された『都名所図会』にも記されています。(資料6,7,8)地元の住民は磐座として信仰してきたとも言われています。また、由緒にある「一説には」という下りは、明治41年(1908)に当時の景教研究の世界的権威だった佐伯好郎教授が『太秦を論ず』を出版し、この三柱鳥居を景教の遺跡だと主張されたそうです。「うすまさ(太秦)」を「うつまさ」と読み、「うつ」=「イエス」、「まさ」=「メシア」と解釈したのだとか。教授による景教の日本伝来時期の主張は、学会から無視されたともいいます。(資料6)さらに、古代史研究家の大和岩雄氏は『秦氏の研究』を著され、その中でこの三柱鳥居と山の方位とに相関した仕掛けがあることを論じておられるそうです。三柱鳥居を平面の正三角形でみたときのその位置関係です。正三角形の頂点から内角を二等分する線を引きそれを伸ばすとどうなるか?一つの頂点からの垂線は北東ー南西方向になり、これは 松尾山(松尾大社)-元糺の森(当地)ー糺の森-四明岳 が一直線となり、北西-南東方向が、愛宕山-稲荷山、北方向の線は双ヶ丘に向いていると論じられているそうです。これらの山は秦氏と何らかの関わりのある聖地でもあるようです。大和氏は、この鳥居は木嶋神社の神殿を遙拝するためではなく、冬至と夏至の朝日と夕日を遙拝するためにある鳥居と解釈されているとか。そして、大和氏は元糺、糺の「タダス」という語は、天孫ニニギが日向の高千穂の峰に降臨したときに、「朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ほで)る国・・・・」と言ったとされる、「朝日たださす」から転じたと指摘されているようです。(資料1,6)できれば『秦氏の研究』を読んでみるという課題が残りました。江戸時代に出版された当時のベストセラー・ガイドブックともいえる『都名所図会』では「木嶋社」として絵図が掲載され、本文での説明も加えられています。この絵が当時の神社境内を示すようです。三柱鳥居が強調されて描かれています。(資料9)木嶋神社で撮った写真をご紹介しておきます。 社務所(空色の丸印)の手前でみた建物。屋根の獅子口の造形に目が惹きつけられました。 社務所(空色の丸印)木嶋神社の正面の鳥居から入ったあと、少しして左側に境内社へのこの参道が見えます。小橋の手前に狐像があります。「白清稲荷」が祀られているそうです。また、その傍に上記した「椿丘明神」が祀られているようです。 木嶋神社を出て、広隆寺に向かう途中で、三条通に面した浄土宗西山派の「常楽寺」の前を通りました。春になると、境内の1本の枝垂れ桜がきれいだとか。後日のネット検索情報です。つづく参照資料1) 「嵯峨野の古墳と神社」 REC講座のレジュメ (龍谷大学REC講座「嵯峨(太秦)の古墳と社寺」 講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑晋明氏)2) 『続日本紀(上) 全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p383) 『日本書紀(上) 全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p3084) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p210-2155) 京都三珍鳥居 :「京都歴史探訪」 京都三珍鳥居とは? :「神社と古事記」6) 『京都魔界巡礼』 丘 眞名美著 PHP文庫 p28-387) 『都名所図会 上』 竹村俊則校注 角川文庫 p4458) 三囲神社 :ウィキペディア 三囲神社と蚕の社の三柱鳥居 :「M君」9) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第4冊の33コマめに図に掲載 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)補遺~地元の人御用達の枝垂れ桜かも~@京都市右京区 常楽寺 :「タンブーランの戯言」京都フリーウォーク 知られざる太秦発見コース ネット検索していて、こんな情報に出会いました! pdfファイルです。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -2 太秦広隆寺 へ探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -3 車僧影堂・千石荘公園・天塚古墳・蛇塚古墳 へ探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -4 垂箕山古墳・遍照寺・広沢古墳群・広沢池・兒神社・狐塚古墳・大井神社 へ
2017.01.02
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こちらの水口岡山城縄張図の方が名称をそのまま印字されていますので引用します。(資料1) 伝本丸櫓跡から階段を下り、道沿いに時計回りに進むと、 「石垣見学コース」と表記したゲートが作られています。道の途中で見上げると、伝本丸櫓跡の北端に立つ紀念碑が見えます。曲輪の裾を回る幅の細い道を進めば、石垣が見えます。ここから先は現在通行止めになっていました。この箇所に残る石垣の全体はこんな景色です。 左端側からの眺め上掲の部分図に追記しました。赤丸を付けた石垣のところです。道を引き返し、伝本丸櫓跡側から「竪堀(たてぼり)」を挟み北側の一段下方にある「伝西の丸」に行きました。階段の先に見えるのが「伝西の丸」です。 追記した部分図のオレンジ色の丸を付けたあたりに、この塀が再現されています。 塀から少し離れた場所に、物見櫓も新たに作られています。 櫓の全景 「天翔の櫓」と名付けられています。上掲の再現された塀の外側はこんな様相です。ベンチが設置してあるのは休憩を兼ねてここからの展望を楽しんでもらうためでしょう。観光者へのサービスとしてのご愛嬌です。 塀の裏側に、次の2枚の説明板が設置されています。2012年11月にここを訪れた時にはなかったので、最近できたのでしょう。前回ご説明した内容が記されています。関ヶ原の合戦の後、この水口岡山城が破城となりました。説明板によると、江戸時代にはこの山が水口藩の御用林となり、一般の人々の入山が禁じられたそうです。再び本丸方向に戻ります。「竪堀跡」の標識があります。その傍に「城内に残る最大の石垣」と矢印で説明する案内が設置されています。道を登っていくと、「大石垣」が見えました。この大石垣は、本丸を支えるために造られた本丸の背後(北側)の切岸だそうです。人工的に作られた曲輪の斜面を支えるための石積みなのです。(資料2)「帯曲輪面から石垣がそびえ立っていたとすると、石垣の高さは約16mになります。おそらく『本丸』は総石垣であったと推定される」そうです。(資料1) 伝本丸櫓跡、伝本丸跡を通り抜け、南東方向に向かうと、「伝天守跡」です。空色の丸印を付けた場所です。この場所は天守推定地1であり、櫓台であった可能性もあるようです。「本丸から麓への監視と、本丸自身を守るために東の端と西の端に櫓台がつけられています。絵図等では、東の端の櫓台が天守と考えられています」(資料2)とのこと。発掘調査が進めば、詳細が見えて来るのかもしれません。ここから空堀側に下って、本丸を反時計回りに回り込みますと、「食い違い虎口」(緑色の丸印の場所)があります。 この虎口の中に、3箇所めの石垣が残っています。(茶色の丸印の場所)食い違い虎口を通り抜けて北西方向に進みます。途中で通行禁止になっています。 その端から先ほど間近に見てきた大石垣が見られるのです。これは引き返す折に、逆側から食い違い虎口と石垣を眺めた景色です。空堀の南側を回り、「二の丸跡」に向かいます。「伝二の丸跡」この曲輪は長方形で、礎石が一部残っているそうで、御殿のような建物が建っていたと推定されているとか。南側に帯曲輪があり、そこから階段を上り門をくぐる平入りで二の丸に入る形だったようです。門の位置の両側に櫓台が付けられていることから、この門が櫓門だった可能性も考えられるそうです。(資料2) 二の丸から三の丸への道。当日は、ここまでの探訪で下山の集合時刻間近になりました。 「伝三の丸跡」 これは2012年11月の探訪の時に撮った写真です。 伝三の丸の西端から伝二ノ丸の方の眺め [2012.11撮影]こちらの柵と向こうの柵の間は深く堀り込まれた空堀です。この堀切は伝二ノ丸と伝本丸の間にも作られています。 [2012.11撮影]出丸(仮称)。これは伝三の丸から一段下がった位置に築かれた半円形の曲輪です。以下は下山集合場所の伝本丸跡に行く途中で撮った写真です。 それでは山頂からの下山に入ります。上掲の部分図に青色矢印線で下山ルートを示しています。伝西の丸の通過して、曲輪を回り込むようにして下ります。 下った先も曲輪です。この曲輪には外観を大樹の幹に造形したトイレが設けられています。 忠魂碑の傍に出ます。紅葉が見事!! そして再び観音菩薩石像を散見しました。前回触れましたが、「石仏による四国三十三観音霊場の巡拝ができるように」と創建された石仏です。どういう風に巡るとすべてをうまく巡拝できるのでしょうか・・・・・。大岡寺に近い裏山部分でうまく巡れるように設定されえいると思うのですが。これで水口岡山城跡の探訪は終わり、みなくちのまちなか一部探訪となります。つづく参照資料1) 入手資料「水口岡山城跡」 甲賀市教育委員会事務局 歴史文化財課 編集・発行2) 『水口岡山城跡 -秀吉政権要の城-』 甲賀市教育委員会 平成24年8月発行補遺水口岡山城 -近世甲賀の起点- :甲賀市公式サイト水口岡山城 :ウィキペディア古城山(水口岡山城跡) :「甲賀市観光ガイド たいむとりっぷ甲賀」よみがえれ水口岡山城2016 バルーンの城出現、イベントも盛りだくさん! :「甲賀市観光ガイド たいむとりっぷ甲賀」水口岡山城の会 ホームページ龍王山大岡寺 ホームページ水口藩加藤家文書 :甲賀市公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -1 みなくちのまち(1) へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -2 大岡寺前・古城山の山頂へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -3 大手道・伝本丸跡・阿迦之宮・伝本丸櫓跡 へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -5 みなくちのまち(2) へ
2016.12.27
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前回最後にご紹介した枡形虎口を入った後の大手道の標識と山頂への道を登る講座参加者です。道はジグザグと曲折して山頂に至ります。大手道の道幅はそれほど広くはありません。大人が両腕を肩の高さで左右に伸ばした幅より少し広い程度です。 左の写真は右折した大手道の坂道で、右の写真は下方の枡形虎口方向の景色です。 左の写真は左折して登る大手道でこの先が山頂です。右の写真は右折した道と枡形虎口の方向を眺めた景色です。 こんな立て札が山頂直前で出迎えてくれます。山頂の標高は282.9mと記されています。右の写真は大手道を振り返った景色です。 これは今回頂いた資料の一つです。(資料1)(この小冊子は2012年11月に初めてこの城跡を水口駅側から登った探訪の時に頂いていますので、私には2冊目になります。)この小冊子に載っている「水口岡山城跡概要図」です。もう一つ、この城跡と水口岡山城下・水口宿を含めた図が小冊子に載っています。これがその図です。三筋の町つまり、旧東海道を含む3つの道路がよくおわかりになるでしょう。 古城山と水口岡山城下の航空写真(資料2)上掲の図の部分図を航空写真と対比して位置関係をご理解いただくために方向を合わせてみました。航空写真で三筋の町の様子を重ねて判読してみてください。イメージが湧きやすいかもしれません。(2012.11撮影)伝本丸跡の中央あたりを撮った写真です。この写真の一番手前には城跡の概要図説明板が立ち、その先に文章での説明板があります。この写真の一番奥に立つ鳥居のところが阿迦宮です。これらは北側を背景にして南向きに立っています。つまり城下・水口宿側に向かって建てられているのです。(資料2)この引用部分図で「本丸」の文字が記された辺りから撮ったのがすぐ上の写真になります。これが上掲小冊子の水口岡山城の縄張り図に対応するものです。伝本丸跡にあるこの概要図説明板の前で水口岡山城と城跡発掘経緯の概略説明を拝聴後は次の集合時間まで、参加者の個人探訪タイムとなりました。 伝本丸跡の標識の傍に「水口岡山城跡と阿迦之宮」の説明板です。これが阿迦之宮です。まずこの水口岡山城は天正13年(1585)に羽柴秀吉の家臣である中村一氏(なかむらかずうじ)によりこの大岡山に築かれた城です。眼下に東海道が東西に通っていて、鈴鹿越えの道を押さえる戦略的な要衝の地であり、秀吉が甲賀を支配する拠点にした城だったのです。現在、山自体は古城山(しろやま)と呼ばれているようです。「築城に際して大溝城(高島市)の部材を再利用したと言われ」(資料2)ています。同じ型で作った軒丸瓦が出土しているとのことです。一氏の後、この城は1590年に増田長盛、1595年に長束正家に継承されます。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で長束正家は豊臣側に属します。「毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣しましたが、本戦には参加できないままに敗走しました。そして水口岡山城に逃げ包囲された後、日野佐久良谷で自刃したと伝わります」(資料1)とのこと。この城に籠城したときには池田長吉らに攻められて降伏開城したそうです。脇道にそれますが、長束正家は、和田竜の小説『のぼうの城』に出てきます。そのキャラクターの描き方と役回りをおもしろいと思った印象があります。水口は徳川家康の直轄支配地となり、戦後処理として水口岡山城は廃城となってしまいます。廃城となった後、慶長6年(1601)に「水口宿」が成立することになります。(資料2,3)このように水口岡山城は、豊臣政権の近江における中枢を担った城の一つであり、築城・廃城年代や城主が明らかであることから、織豊期に築かれた城郭の基準資料となる重要な城という位置づけになるのです。余談ですが、水口城(碧水城)の築城が決定されたのは寛永10年(1633)徳川家光の時代であり、寛永11年(1634)に水口城が完成しています。(資料3)前回ご紹介した大岡寺が古城山麓の現在地に移ったのは、正徳5年(1715)僧寂堂が当時の水口城主の好意を得て、翌享保元年(1716)に中興開山したことによるそうです。この中興開山の僧寂堂が、古城山の山頂に奧の院として「阿迦之宮」を創建したといいます。(資料4、説明板)序でに、前回の補足にもなりますが、この山頂に来るまでに数多くの観音菩薩石像を見かけたのは、大正8年に大岡寺の僧恵良が、石仏による四国三十三観音霊場の巡拝ができるように創建したことによるそうです。(資料4) 阿迦之宮のある辺りから北西方向を眺めると、こんな景色です。 「伝本丸跡」の標識の立つあたりの北側から、北~北東の方向を遠望したのがこれらの写真です。 近郊に目を向けて展望するとこんな景色の広がりです。伝本丸跡から北西方向の端に進むと、「伝本丸櫓跡(天守とする説あり」があります。この跡地の北側の端に「紀念碑」と記された碑が立っています。何の紀念碑かは不詳です。城跡と景色に気を取られていて質問もしませんでした。こちらにはこの「古城山展望図」が掲示されています。この辺りで撮った写真を上掲同様にパノラマ合成したのがこの写真です。「伝本丸櫓跡」から下っていける階段です。これを下ると石垣の見えるところに通じています。この後は、この城跡に現存する石垣や伝本丸跡から東側に連なる曲輪跡などの探訪に移ります。つづく参照資料1) 『水口岡山城跡 -秀吉政権要の城-』 甲賀市教育委員会 平成24年8月発行2) 入手資料「水口岡山城跡」 甲賀市教育委員会事務局 歴史文化財課 編集・発行3) 連続講座「近江の城郭」第1回水口岡山城跡 配付資料 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・甲賀市教育委員会 4) 大岡寺について :「龍王山大岡寺」補遺水口岡山城跡 埋蔵文化財活用ブックレット10(近江の城郭5) pdfファイル中村一氏 :ウィキペディア増田長盛 :ウィキペディア長束正家 :ウィキペディア池田長吉 :ウィキペディア松尾芭蕉と近江(三) ~ 水口宿・大岡寺 ~ :「すきずき~やきもの好きの雑感あれこれ~」滋賀県甲賀市 大岡寺 :「JAPAN-GEOGRAPHIC TV」水口岡山城の会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -1 みなくちのまち(1) へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -2 大岡寺前・古城山の山頂へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -4 石垣・伝西の丸・伝天守跡・伝二の丸・伝三の丸 へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -5 みなくちのまち(2) へ
2016.12.26
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水口東部コミュニティセンターからいよいよ「水口岡山城跡」現地見学に向かいます。冒頭の写真は、旧東海道と南北の道が交差する「御池町」にある2つめの「からくり時計」です。この地点に再度戻ってきますので、往路は通過点です。前回ご紹介したガイドマップの部分図をご覧いただくと、左下に青色の丸を追記したところが「水口東部コミュニティセンター」です。ここから東に向かい左折して旧東海道(東西の太い赤線の道)との交差地点、つまりからくり時計の位置に至ります。(資料1) 北側の筋(通り)の北東角あたりにこの石標が立っています。 この石標一つが様々な情報を提供しています。私がまず目に止まったのは、「鴨長明発心所」と記されている面です。随筆『方丈記』を残したあの鴨長明です。ここでその名を見るとは思いもよらなかったこと。鴨長明は下鴨神社の神官の家に生まれた人ですが、父の早世によりその職を継げず、後鳥羽院が再興した和歌所の寄人となります。しかし、50歳の頃に出家遁世し、その後に「方丈の庵」を結ぶのです。つまり、遁世とここの大岡寺(だいこうじ)に接点があるということなのでしょう。(資料2)もう一つの面に「岡観音甲賀三郎兼定墓所」と判読できそうです。午前中の講義テーマだった「甲賀郡中惣」つまり、甲賀衆の中核になる家の系譜に繋がる一人の名前なのかもしれません。一つの課題が残りました。そして、別面の記載との関係から「岡観音」は大岡寺の俗称であり、本尊が観世音菩薩であり、観音信仰では「江州三十三所二十六番、甲賀三十三所二十二番」の札所として、信仰されていて、甲賀地域だけでも多くの観音菩薩像が存在することもわかります。 石標に近いところに、稲荷社を目にしました。かつての大手道にあたる道路をさらに北に進むと、大岡寺町の石標が立ち、大岡寺の所在を告げる大きな石標があります。 大手道の突き当たりが、大岡寺になります。石段の先に山門があり、門柱には「龍王山大岡寺」の表札が掛けられています。今回はこの前で左折し、古城山にアプローチします。少し調べてみますと、「行基が白鳳14年(684)大岡山に一宇を建て千手観音の木像を安置したのが始まり」(資料1)だそうです。盛時には6~16坊を数える規模にもなったとか。天正13年(1585)に中村一氏が水口に入封(6万石)して、水口岡山城を築城する折に、山上の大岡寺は山下に移したといいます。ここは交通の要衝でもあり、寺院は兵火に遭遇します。現在の建物は正徳5年(1715)の再建によるものだそうです。近江鉄道「水口石橋駅」から東へ徒歩10分くらいの距離に位置します。(資料1,3)古城山にアプローチする途中の坂道になっている道路。この左側(南)の下方が前回ご紹介した水口小学校のグラウンドになります。 古城山に登る入口近くには、「古城山県民花の森」という銘板を嵌め込んだ石碑があります。 「岡山城跡」と記された石標 「水口岡山城跡」の説明板が傍に設置されています。 山道を登って行くと、「城山中学方面」と「頂上へ」の分岐点に至ります。 頂上への山道には、各所に観音菩薩石像が建立されています。 階段を登っていくと、削平された広場に出ます。端の紅葉した木の下に「曲輪跡」の木標が立っています。その傍から頂上への階段道が続きます。「水口岡山城跡 概要図」が設置されています。赤丸の場所のところです。別の一隅から、少し小高いところに「忠魂碑」が建立されています。 また曲輪跡の別の一隅には、観音菩薩像がひっそりと紅葉を眺めておられるかのようでした。 竪堀がわかりづらい程に草木が繁茂しているのや、建立されている観音菩薩石像を眺めながら、山道をさらに進みます。 「穂徳稲荷神社」の社は覆屋の中にあり、朱塗りの鳥居が建てられています。 その右隣に、「白玉稲荷神社」と記された額の掛かる石造鳥居が立っていますが、その向こう側には、様々な大神名を刻した石碑が建立されています。このあたりどういう関係なのか不可思議です。伏見稲荷大社の奧にあるお塚を連想してしまいます。この削平地も曲輪跡です。曲輪跡の一隅に紅葉した落葉の中にわずかですが石仏群もあります。ここから、いよいよ本丸跡のある頂上へさらに登って行きます。 しばらく登ると、頂上へあと約15分という標識がありました。 城下の見通しが良くなってきます。階段を登っていくと、 「虎口」の標識が見えます。 枡形虎口があった場所だそうです。本丸に向かう大手道を登って行きます。本丸跡まで、あと少しです。この引用部分図(資料4)に、ここでご紹介した経路を矢印で付記しました。黒色下線を引いた場所が大岡寺の境内地です。現在の境内地あたりは「江州水口絵図」では西側が「古御殿屋敷」、東側が「新御殿屋敷」と記されていたようです。赤色丸が坂道の紅葉景色の写真の場所、マゼンダ色が国道307号を横断して、古城山に登る入口付近です。水口岡山城跡の案内板のあるところ。緑色の丸が分岐点の標識がある場所。そして、最初の曲輪跡に入り、次いで稲荷神社のある曲輪を経由して紫色の丸を付した枡形虎口跡に至ります。つづく参照資料1) 「甲賀市みなくちガイドマップ」 水口町2) 『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p1333) 連続講座「近江の城郭」第1回水口岡山城跡 配付資料 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・甲賀市教育委員会 4) 入手資料「水口岡山城跡」 甲賀市教育委員会事務局 歴史文化財課 編集・発行探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -1 みなくちのまち(1) へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -3 大手道・伝本丸跡・阿迦之宮・伝本丸櫓跡 へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -4 石垣・伝西の丸・伝天守跡・伝二の丸・伝三の丸 へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -5 みなくちのまち(2) へ
2016.12.25
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この写真は、当日入手した「甲賀市みなくちガイドマップ」です。このマップを部分引用させていただく予定です。2016.11.20に、滋賀県教育委員会事務局文化財保護課が企画されている連続講座「近江の城郭」の第1回目に参加しました。第1回は「水口岡山城跡」で、現地見学会が組み込まれていました。この第1回は、甲賀市教育委員会が協力され、現地見学での説明を行ってくださったのです。午前中は50分ほど「甲賀郡中惣の終わり」というテーマでの講義を受講し、昼食・休憩後、午後に古城山に登り、水口岡山城跡を探訪しました。結果的に「みなくち」の町並の一部も探訪できたという次第です。今回は「みなくちのまち」と水口岡山城跡をご紹介します。私は、水口岡山城跡を2012.11.11に滋賀県教育委員会と甲賀市教育委員会等が共同企画された「まるごと水口岡山城2012」に参加して探訪をしています。今回は久しぶりに再訪する機会となった次第です。そこで、この時の記録写真も一部織り交ぜたいと思っています。当日は所定時間に、近江鉄道の「水口石橋」駅前で集合場所まで案内いただくことになりました。集合場所は「ひと・まち街道交流館、中部コミュニティセンター」前の広場です。駅前からまずはここへの移動です。途中でまず目にとまったのは、「曳山のあるまち」というPRプレートです。冒頭写真のイラストがその曳山のイラスト図になります。ここが「中部コミュニティセンター」のあるところ。左の門の柱に「甲賀市ひとまち街道交流館」の表札が掛けられています。右側の高い建物の門側の側面が、曳山の山蔵の入口です。大きな扉の傍の格子窓に「河内町」とありますので、多分この「河内町」の曳山が展示されているのでしょう。当日は拝見はしていません。この建物前の広場が集合場所だったのです。 門をくぐると、舗装された広場があって、正面には左の写真の建物「甲賀市ひと・まち街道交流館」があり、右斜め方向には、右の写真の建物群があります。手前の建物には「甲賀市水口地域市民センター」と「みなくち自治振興会」の表札が柱に掛けてあります。 交流館に入ってみると、水口に関連した民俗用具や祭関係の道具・衣裳などが陳列されているコーナーや「みなくち」についての情報コーナーなどがあります。 こんな感じに設定された大きな広場空間があります。ちょっとした催しができる野外ステージも設置されています。もう一つ「水口中部コミュニティセンター」と門に掲示されたエリアもあります。参加者の集合が確認されると、ここからまずは「水口東部コミュニティセンター」に移動です。そこが午前中の講義場所でした。そのため、「みなくちのまち」を歩き見聞することに。 すぐ近くにあったのが、「天王町」の曳山蔵です。曳山蔵のそばに、この「曳山の由来」の説明板があります。改めて、水口石橋駅傍で踏切を横断して西に進みます。ほんの少し進むと水口石橋があります。水口石橋の先にこの場所が見えます。ここが「水口岡山城」の城下町を特徴づける「三筋の町」の起点なのです。 この起点の先端に「からくり時計」があります。このからくり時計の台座の正面に「東海道水口宿」と銘板が付けられています。からくり時計の右と左、その左と3つの通りがここから枝別れして広がった後は南東方向に平行して道路が通っています。この3つの通りの中央が「旧東海道」なのです。そして、水口宿の東端で再び3本の通りが一つに合流していきます。この部分図で三筋の町のイメージが湧くでしょう。今回は、旧東海道の南側の通りを歩き、「水口東部コミュニティセンター」に向かいます。 途中に中嶋町の石標と小祠があります。 永原町の石標も。水口宿には町名の石標が整備されていて、水口宿の時代と現代をうまくリンクさせるとともに、道標を兼ねているようです。城下町かつ宿場町であった時代との関連がつかめます。 旧東海道の南側の通りは現在はこんな感じです。 b 水口東部コミュニティセンターここの建物の2階の部屋で講義を聴き、食事休憩の場となりました。この地図が建物の傍に設置されています。現在地が赤丸のところです。午後の集合・出発時間までの休憩時間に、この近辺を少し探索してみました。コミュニティセンターの前には、通りと直交し北に向かう通りがあります。三筋の町の区域は通りが直交することで、碁盤の目状になっています。この道もまたその内の一つです。先に見えるのが古城山であり、午後に登って「水口岡山城跡」探訪をする場所になります。 時間の許す範囲でこの道を進んで見ました。 旧東海道 旧東海道の北側の通り 北に進んできた交点から西側で目に止まったのがこの曳山蔵です。近づいてみると、そこには「呉服町」の石標が立っています。 「呉服町」の曳山案内板この北側の通りとの交差から先はごく細い道が北に延びていますので行ってみると、そこは水口小学校のグラウンドあるいはそこに繋がっている広場です。このグラウンドから眺めた古城山です。 さて、午後は久しぶりに待望の水口岡山城跡に向かいます。 コミュニティセンター前のこの道を少し、東方向にまず進み、左折して行くことになりました。後で分かったことは上掲のグラウンドの北側にある道路の坂道を歩くことになります。つづく参照資料「甲賀市みなくちガイドブック」 水口町 補遺甲賀市ひと・まち街道交流館 :「甲賀市」ひと・まち街道交流館で「水口宿の茶店」を開いています!! 2013.12.9 :「甲賀市観光協会スタッフブログ」 本文の最初にご紹介しました曳山蔵の扉が開かれて曳山が展示されている写真が このブログ記事に載っています。ご覧ください。水口曳山祭 :「甲賀市」水口(みなくち)曳山まつり ホームページ水口曳山祭 :ウィキペディア2016年 水口曳山祭り(全編) :YouTube水口曳山祭り :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -2 大岡寺前・古城山の山頂へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -3 大手道・伝本丸跡・阿迦之宮・伝本丸櫓跡 へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -4 石垣・伝西の丸・伝天守跡・伝二の丸・伝三の丸 へ探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -5 みなくちのまち(2) へ
2016.12.24
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これは前回ご紹介した「細殿・神楽殿」の南側面です。石段の傍に手水舎があり、その傍に絵馬掛所があります。手水舎を細殿・神楽殿のある境内地から見た眺め 「細殿・神楽殿」の南側に「夫婦大國社(めおとだいこくしゃ)」があります。春日大社のホームページに「若宮15社めぐり」のページがあります(資料1)。また周辺の境内社には駒札が立てられています。以下これらを参照してご紹介します。尚、「若宮15社めぐりMAP」はこちらからpdfファイルをご覧ください。勿論ダウンロードできます。祭神は、大国主命(オオクニヌシノミコト)と須勢理姫命(スセリヒメノミコト)です。その神徳は、夫婦円満・良縁・福運守護だそうです。 本社の方から参道を辿ってきた場合、参道は二手に分かれます。直接に若宮神社の本殿のある境内地に繋がる道と、「細殿・神楽殿」の建物の西側下の参道を辿って、上掲の石段に至る経路です。こちらの経路から石段を上がったところが、この空間です。あちらこちらに、絵馬がたくさん掛けられています。ここに「若宮十五社めぐり」の説明板が設置されています。第1番が「若宮」そのもので、第15番が上掲の「夫婦大國社」なのです。「人が一生の間に出会う様々な難所をお守りくださる神々がご鎮座されております」と説明されています。第1番の「若宮」はご紹介済みです。拝舍の前に瑞垣で囲われた本殿があります。拝舍の向こう側に石灯籠と境内社が見えます。 それがこの二社です。左が第3番「兵主(ひょうず)神社」、右が第4番「南宮(なんぐう)神社」です。兵主神社の祭神は大己貫命(オオナムチノミコト)。その神徳は延命長寿です。南宮神社の祭神は金山彦神(カナヤマヒコノカミ)。その神徳は名が示すとおり、金運です。兵主神社はどこから勧請されたのでしょうか? 私がまず連想したのは滋賀県野洲市にある「兵主大社」と通称されている神社です。正式には「兵主神社」でかつての式内明神大社です。ところが、調べてみると、奈良県桜井市にも、式内明神大社だった「穴師兵主神社」がありました。式内社としては近畿圏内に他に4社あるようです。(資料2)南宮神社は、美濃国一の宮である「南宮大社」からの勧請と推測します。この南宮大社の主祭神が同じですし、「全国の鉱山、金属業の総本宮」(資料3)という位置づけであり、かつての国幣大社だといいますので。北側には第2番「三輪神社」があります。祭神は少彦名命(スクナヒコナノミコト)。その神徳は子孫繁栄、子供の無事な成長の守護だそうです。三輪神社はたぶん三輪山をご神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の勧請なのでしょう。大神神社では、三輪明神と総称されていますが、祭神は大物主大神(オオモノヌシオオカミ)で配祀が大己貴神(オオナムチノカミ)と少彦名神(スクナヒコナノカミ)です。三輪山について「神社の古い縁起書には頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座には大己貴神、麓の磐座には少彦名神が鎮まると記されています」とのことです。(資料4) 若宮神社の瑞垣の南側面。その近くに絵馬をたくさん収納した収納所があります。ここの絵馬はハートマーク形です。縁結び、夫婦円満のパワースポットということでしょうか。それでは、若宮神社の南側に移ります。 まずは、第5番「広瀬神社」と第6番「葛城(かつらぎ)神社」です。広瀬神社の祭神は倉稲魂神(クライナタマノカミ)。その神徳は衣食住の守護で、お稲荷さんと同じです。葛城神社の祭神は一言主神(ヒトコトヌシノカミ)。その神徳は、一言(一つの祈願)を願うと叶うという心願成就です。奈良県葛城郡河合町に「広瀬神社」があります。ここは史跡探訪の講座で一度訪れたことがあります。「廣瀬大社」とも称される神社で、かつては官幣大社(明神大社)です。主神は若宇加売命(ワカウカノメノミコト)です。この神は宇加之御魂神(ウカノミタマノカミ:伏見稲荷大社の祭神)と同神とされているそうですので、この若宮神社の倉稲魂神というのも同神となりますから、この廣瀬大社からの勧請かなと思います。(資料5)一方、奈良県御所市には「葛城一言主神社」が鎮座し、「全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社」(資料6)と説明されていますので、ここからの勧請なのでしょう。地元では、一言だけ願いを聞いてもらえる「いちごんさん」と呼ばれて親しまれているそうです。この二社の間に、「赤乳白乳両神社遙拝所」の石標があります。駒札だけの写真を撮らなかったので、少し調べて見ますと、春日大社の境外末社として、白毫寺町に赤乳神社(祭神:稚日女尊 ワカヒルメノミコト 日の女神)、高畑町の柳生街道への手前に白乳神社(祭神:志那斗弁神 シナトベノミコト 風の女神)が鎮座するのです。この遙拝所から東南に約3キロメートル離れた場所になります。これら両社は婦人病に関連し、赤乳神社は腰から下の病を、白乳神社は腰から上の病に対して御利益があるとか。その関係でしょうが、絵馬に乳房の絵が描かれたものと、着物の形を描いた絵馬が祈願奉納されています。(資料7)その南にあるのが第7番「三十八所(さんじゅうはっしょ)神社です。祭神は、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冊尊(イザナミノミコト)、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)です。その神徳は正しい勇気と力の授与とされています。駒札には「開発開拓の神様」と記されています。この興味深い名称のルーツはどこか?調べてみますと、一つのヒントを発見!御所市に「三十八神社」が鎮座します。これは一例のようで、関西・四国地方にはには「三十八」を冠する神社が十数社あるとか。『三十八』と名のつく神社の起源は吉野の金峯山に求めることができ、鎌倉時代に書かれた『金峯山秘密伝』の巻上『三十八所本地垂迹ノ事』という記載があるそうです。明治の神仏分離からこの「三十八」の解釈にバリエーションができ、神社名もバリエーションが生まれる原因になったようです。若宮神社境内地内のここでは、「三」に着目し、三柱を主祭神にする系統となった部類と理解しました。(資料8)三十八所神社の南に隣接するのは第8番「佐良気(さらけ)神社」です。祭神は蛭子神(ヒルコノカミ)、つまり恵比寿神です。その神徳は商売繁盛、交渉成立の守り神です。あるブログ記事で、文禄2年(1593)の記録に「左投明神・又佐良気明神トモ号・尾張国ヨリ勧請」というのがあるようで、このあたりを考証されているのをみつけましたが、その先は辿れません(資料9)。関心がまた広がります。さらに境内地を南に行くと「金龍神社」の赤地に白抜き文字の幟が立てられています。木の間から瑞垣の朱色が見えます。この再訪ではここから先は巡りませんでした。「金龍神社」は第14番です。後醍醐天皇ゆかりの宮とのこと。その神徳はやはり名前から推測できますが、開運財運だそうです。この金龍神社を含め未訪の社については、機会をみつけて巡った時に、一歩踏み込んで調べてみたいと思います。金龍神社も間近に拝見して・・・・。 金龍神社の傍で見た建物結果的に、今回の再訪では第9番から第13番までの5社の探訪を課題として残しました。一応それら5社について、データだけ列挙しておきたいと思います。納札所番号 神社名等 祭神 神徳 第 9番 春日明神遙拝所 春日皇大神(カスガスメラオオカミ)ひらめき 第10番 宗像(むなかた)神社 市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト) 諸芸発達 第11番 紀伊(きい)神社 五十猛命(イタケルノミコト) 万物の生気、命の根源 大屋津姫命(オオヤツヒメノミコト)、抓津姫命(ツマツヒメノミコト) 第12番 伊勢神宮遙拝所 天照坐皇大御神(アマテラシマススメオオカミ)天地の恵みへの感謝 豊受大御神(ヨウケノオオカミ) 第13番 元春日 枚岡(ひらおか)神社遙拝所 天児屋根命(アメノコヤネノミコト) 比売神(ヒメカミ) 延命長寿枚岡神社は東大阪市にあるかつての「河内国一之宮」です。この神社の主祭神が天児屋根命です。”「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)はその后神です。”(資料10)中臣氏は藤原氏の祖ですから、遙拝所のある理由が理解できます。また、上記15社めぐりには、3ヵ所の遙拝所が含まれています。そのためでしょう、これら遙拝所を除いた12社を「春日大社 福の神12社めぐり」として紹介されてもいます。ちょっと番号の振り方に違いが見られますが・・・。こちらからご覧ください。(「春日野 奈良観光」) 六角形の石柵で囲われた石灯籠由緒がありそうですが、説明板はありません。春日大社には石灯籠が無数にありますが、柵で囲う形式のものはあまりないと思います。また、参道から少し奧に、句碑も建立されています。駒札によれば、昭和33年(1958)11月に建立された関圭草氏の句碑。俳誌「桐の葉」の代表だった俳人で、高浜虚子の高弟で、ホトトギス同人だった人だそうです。 春日巫女けふの神楽に藤を挿頭しでは、若宮神社を後にして、参道を戻ります。復路は、細殿・神楽殿の西側の一段低い参道を使いました。上記している箇所です。連綿と石灯籠が続きます。再び、石灯籠を楽しみながらの帰り道です。 三輪神社が見えます。 本社の南門辺りの建物が参道の遙か先に帰路はこの道を北方向に進み、南門の手前で左折し西に転じて、二之鳥居をくぐり、表参道の方に出ます。その途中で見た石灯籠をご堪能ください。 この2基の石灯籠は同じ人が奉納されたもの。少し特異な石灯籠です。右の写真は春日大社再録でご紹介しています。今回も取り上げたのは、右の写真の石灯籠の火袋のレリーフをご紹介したいためです。左の写真の火袋も同様にレリーフが施されていますが、撮った写真では判りづらいので省略します。 火袋にレリーフされているのは人物像なのか? 神像なのか? かつての神仏習合から考えて仏像? 仏像のように思うのですが・・・果たして何でしょう? 現地にいかれたら、探してみてお考えください。石灯籠の竿の部分に相当するところを獅子が中台を支える形になっているのは、京都・相国寺の承天閣美術館の前庭にある石灯籠を連想させます。 こちらの石灯籠は火袋に鹿がレリーフされています。一方で、反対側の面は、連子窓のある塀の意匠がレリーフされています。「萬葉植物園」入口前まで戻ってきました。 その近くの休憩処の前が素敵な雰囲気でした。 鹿を眺めて終わりとします。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 若宮15社めぐり :「春日大社」2) 兵主神社 :ウィキペディア3) 南宮大社 ホームページ4) 三輪明神 大神神社 ホームページ5) 廣瀬大社 ホームページ6) 葛城一言主神社 :「巡る奈良」7) 赤乳神社・白乳神社 :「奈良の寺社」8) 三十八社神社 :「奈良県御所市観光HP」9) 春日野町「佐良気神社」春日大社・末社 :「お粥の弛々調査報告記」10) 枚岡神社 ホームページ補遺福の神十二社めぐりについて :「春日大社」春日若宮御祭の研究 折口信夫 :「青空文庫」「春日若宮ご創建」(永島福太郎氏)兵主大社 :「滋賀・びわ湖」穴師坐兵主神社 :「神奈備」春日大社 赤乳神社白乳神社遥拝所 :「いこまいけ髙岡」赤乳神社は春日大社の末社 :「大正楼」三十八神社の一覧 :「神代の残像=神社編=」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 奈良・氷室神社 へスポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -1 大仏殿交差点から境内へ(憶良の歌碑、石灯籠さまざま、萬葉植物園、壺神神社、車舎) へスポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -2 回廊と社殿(中院を中心に)へスポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -3 外院(桂昌殿、酒殿、竃殿、着到殿など)へスポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -4 表参道から鷺原道へ、そして一の鳥居まで へスポット探訪 春日大社を巡る[再訪] -1 春日東西両塔跡・参道・春日若宮神社 へ
2016.12.12
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春日大社のスポット探訪を再録した時、春日若宮神社の方を探訪する時間がありませんでした。そこで2014年11月に正倉院展を鑑賞に行った折、続きに春日若宮神社をスポット探訪しました。それの整理とご紹介をしていませんでした。そこで、春日大社の探訪を再録しておりますので、改めて私自身への課題部分を整理してみました。序でに関連事項も落ち穂拾いしています。まずはその落ち穂拾いからのご紹介です。今回のご紹介箇所は、こちらの地図(Mapion)でその位置関係をお考えいただくと、スポット探訪されるときのイメージが湧きやすいと思います。こちらからご覧ください。冒頭写真の礎石は、春日東西両塔跡の礎石です。三条通と国道169号線の交差点が「一の鳥居前」です。東側に春日大社の大きな一ノ鳥居が立っています。三条通の延長線上に春日大社表参道が始まります。この参道の左側、つまり北に東西両塔跡があります。現在この跡地は奈良国立博物館の構内にあります。表参道を歩く限りは多分全く意識外になることでしょう。興福寺の境内を抜けて、既に写真でご紹介している道を辿るときに、これらの塔跡を見ながら博物館にいくことになります。東塔跡の近くに、上掲の説明板があります。「神仏習合にもとづいて神社にも仏教の塔を建立した代表的遺構であり、両塔のありし日の偉容は多くの春日宮曼荼羅(まんだら)に描かれている。西塔(現在地より西へ約90m)は永久4年(1116)に関白藤原忠実により造営され、東塔(現在地)は鳥羽上皇の本願により保延6年(1140)に建立された。そのため西塔は『殿下の御塔』、東塔は『院の御塔』と称されていた。ところが治承4年(1180)に平重衡(たいらのしげひら)の南都焼打にあって焼失し、相次いで再建されたものの、応永18年(1411)の雷火にあって再び焼失した。その後は再建されることなく今日におよんでいる。 両塔は、1965年(昭和40)の発掘調査によって規模や構造が明確になった。その規模は興福寺五重塔とほぼ同じであり、高さ約50m、初層の一辺長約8.6mで、東塔の初層には裳階がつけられていた。また塔の南正面には複廊を築いて楼門を設け、東、西、北の三方には一辺約100mの築地をめぐらしていた。」(説明板転記)序でにこの末社にも触れておきます。春日大社末社「拍子神社」です。「一の鳥居前」交差点の一つ北側に「県庁東」交差点があります。その交差点の北東側に鎮座します。ここは東大寺への通過点なので、目立つ場所なのですがたぶんこの小祠を意識する人は少ないでしょう。私自身、この小祠に目が止まったのは、2014年11月にこの前を通ったときに左の大きな案内表示塔が仮設されていたからです。祭神は拍子之神(狛近真こまのちかざね)で、狛近真は鎌倉時代の雅楽の達人で南都楽所の祖だとか。そこで諸芸上達の神様として仰がれているそうです。(駒札より)境外末社としてここに鎮座するというのは、単なる想像ですが、この当りまで春日大社の神領だったのかもしれません。表参道に戻ります。再録でご紹介済みのところはスキップします。参道を東進すれば勿論春日大社に至ります。一方、幅の広い参道沿いに進むと、右折してまず南東方向に進むことになります。この石標が立っています。参道沿いには石灯籠が数多く奉納されています。この辺りからの石灯籠は奉納された時代差を反映するのか、様々なスタイルのものが混在し、灯籠愛好家には楽しめる参道だと思います。 飛火野が広がっています。この~木、何の木・・・・、というテレビでよく見るのを連想しそうです。近づいてみると駒札が立っています。「クスノキ」です。「遠くから見ると、1本の巨樹に見えるが、実際は3本のクスノキであり、樹齢は約100年とされる。 明治41年(1908)に奈良県で行われた陸軍の大演習に際して、飛火野で催された饗宴に明治天皇が臨席され、その玉座跡に記念植樹されたのがこの木である。」(駒札転記)駒札には、樹高23.5m、幹周4.83mなどと大きさが明記されています。飛火野は表参道から東南に広がる芝生の原です。古くは「とぶひの」とも呼ばれたとか。「鹿島大明神が春日の地にお着きになられたとき、八代尊様が光明のため口から火を吐かれ、その炎がいつまでも消えず飛んでいる様に見えたことからこの名がついたとも、飛火が古代の通信施設「烽火(のろし)」の意味でるからだともいわれています。」(資料1) 石灯籠をご堪能ください。 摂社本宮神社遙拝所祭神は、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、経津主命(ヘツノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)。「御蓋山(みかさ)山は太古より霊山と崇められる神南備(神の鎮まり給う所)で、神護景雲2年(768)御本社第一殿の御祭神である武甕槌命が白鹿の背にお乗りになり頂上の浮雲峰に天降られた神跡である。毎月一日にはこの所へ神饌を供し頂上の本宮神社を遙拝する」(駒札転記) 元禄七年五月と刻されています。 若宮大楠(わかみやのおおくす)「県下で一、二を争う巨樹であるこのクスノキは、もとは三本の苗木が成長に伴って合着したものといわれており、神功皇后お手植えと伝えられる。記録によれば享保4年(1719)の大雪で幹上部が折損し、そのため低い樹形になったとされる。」(駒札転記)樹高は24.0m、幹周は11.46mと記されています。 若宮神社本殿と拝舍本殿は保延元年(1135)創建。拝舍は治承2年(1178)創建。これらの建物はともに文久3年(1883)に改築されたそうです。 祭神は天押雲根命(アメノオシクモネノミコト)です。平安時代、関白藤原忠通が飢饉と悪病に苦しんだ保延元年(1135)に天押す雲根命をまつり、豊作を祈ったのに始まるそうです。(資料2)現在では「正しい知恵をお授けくださる神様」という御神徳の側面が強調されています。この天押雲根命は、大宮(本社)の第三殿天児屋根命と第四殿比売神の御子神にあたるそうです。(資料3,4)飢饉、悪病に苦しんだときに豊作を祈ったことにはじまる祭が現在も継承されている「春日若宮おん祭り」です。「もとは興福寺が主催、その被官(家来)の大和の衆徒が随兵した。これがため、大和の”国祭り”といわれた」とか。この「おん祭り」は今月、12月15日~18日に行われる祭りです。詳しくはこちらをご覧ください。(「おん祭行事」春日大社)上掲写真の瑞垣の傍に立つ駒札は、「本殿北側のナギの幹に大蛇のように巻き付いているフジ」についての説明です。「八房藤(やつふさふじ)」または「八ツ藤」と呼ばれているそうです。「この名は太いツルが八つに分かれているためとも、花が八重であるので八重藤から転じたとも伝えられている。他のフジよりも一週間ほど遅い」と記されています。残る記録から樹齢500年以上と考えられるとか。 南西側から 南東側から若宮拝舍は桁行2間・梁間1間の檜皮葺き屋根ですが、写真でおわかりのように、後端が西側に拝舍とT字形になる「細殿・神楽殿」(桁行10間・梁間4間)の屋根と接合されています。こちらは、保延元年(1135)に創建された建物。南北に建つこの建物は、北から三間が「細殿(ほそどの)」、一間が「御廊(おろう)」、六間が「神楽殿」という構成で一棟の建物となっています。(資料5) 細殿・神楽殿の北面それでは、若宮神社の周辺の探訪に移りましょう。つづく参照資料1) 飛火野 :「春日大社」2) 若宮15社めぐり :「春日大社」3) 『奈良県の歴史散歩 (上)』 奈良県歴史学会 著 山川出版社 p24.254) 若宮神社とおん祭 :「春日大社」5) 春日大社 細殿・神楽殿 :「いこまいけ髙岡」補遺春日大社 ホームページ春日烽と飛火野伝説 橋川紀夫氏 :「奈良歴史漫歩」春日大社/春日大社摂社若宮神社拝舍おん祭特集 平成28年「春日若宮おん祭」行事内容 :「奈良市観光協会」春日若宮おん祭 :YouTube春日若宮おん祭 お渡り式 :「みちしる」(新日本風土記アーカイブス)春日権現記絵 :「宮内庁」春日権現霊験記絵巻 :「奈良女子大学」(学術情報センター) 絵巻の内容がすべて閲覧できます。特別陳列 おん祭と春日信仰の美術 :「奈良国立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 奈良・氷室神社 へスポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -1 大仏殿交差点から境内へ(憶良の歌碑、石灯籠さまざま、萬葉植物園、壺神神社、車舎) へスポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -2 回廊と社殿(中院を中心に)へスポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -3 外院(桂昌殿、酒殿、竃殿、着到殿など)へスポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -4 表参道から鷺原道へ、そして一の鳥居まで へ
2016.12.10
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写真の右側が法華堂(三月堂)の西側面で正堂と呼ばれる北側です。そして、左斜め奥に二月堂が見えます。法華堂の屋根をご覧いただくと。正堂の屋根は和様寄せ棟造り、礼堂は入母屋造りの屋根でそれらがうまく接合されています。こちらが法華堂の北面です。前回ご紹介した長押が柱に打ち付けられていることがおわかりいただけるでしょう。 左の写真は前回触れた高い基壇の上に置かれた二月堂の石灯籠です。右の写真は石灯籠の右側に祀られている「大黒天」のお堂です。 石灯籠自体の基壇に描かれたレリーフが目に止まります。そしてその近くでもう一つ目に止まったのはこの石標「龍王之瀧」です。石標の傍には松尾芭蕉の句碑が建てられています。 水取りや 籠りの僧の 沓の音 脇道に逸れますが、手許にある『芭蕉俳句集』には、 二月堂に籠りて 水とりや氷の僧の沓の音 (甲子吟行) として掲載されています。そして、脚注には『小文庫』には「二月堂取水」の前書。『芭蕉句選』は「二月堂に籠りて」とあります。また『絵詞伝』は中七を「こもりの僧」とすると記しています。この句碑は『絵詞伝』記載の句をとっているようです。芭蕉、貞亨2年(1685)の作句です。(資料1)この句は、貞享元年、「むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の声そぞろ寒気也。」と記した後、「野ざらしを心に風のしむ身哉」と最初の句を記す『野ざらし紀行』に収録されています。8月に旅に出て、年末を故郷の伊賀で過ごし、貞享2年2月に伊賀より奈良に出て、芭蕉は二月堂でのお水取りを拝したのです。奈良に出る道で「春なれや名もなき山の薄霞」という句を詠んだ次に、「水とりや氷の僧の沓の音」という句を前書を付して載せています。この後、芭蕉は京都の鳴瀧に向かいます。(資料2)元に戻ります。「沓」は練行衆が行法中に二月堂の内陣で履く差懸(さしかけ)と呼ばれる履物のことだそうです。爪先を厚紙で覆った松材の下駄のことだと言います。(資料3) 高く積まれた石垣のすぐ側を見上げると瀧口があり、一条の水が流れ落ちています。滝口の下近くに石造不動明王立像が祀られています。 冒頭の写真に戻ります。写真の左端、一人の人物が立つ石灯籠と石標群の隣に見えるのが、こちらの写真です。二月堂の手水所です。 この背後に、二月堂に登る石段が続いています。二月堂は緩やかな斜面の上部に、回廊を張り出して懸崖造りを取り入れたお堂です。学生時代に二月堂の堂内を拝見し、回廊に佇み奈良の景色を眺めたことがあります。その時には写真を撮りませんでした。これをまとめ始め、改めて二月堂の回廊に佇んでみたくなりました。季節を選んで再訪したいと思っています。「天平創始の華厳の教え 江戸再建を経て 今に伝わる二月堂」と詞が記され、江戸期再建大仏開眼供養の絵が描かれています。今も同じでしょうか? 現地で確かめてみてください。 龍像の口から注がれる手水のための水は、「飲める」水と表示されています。上掲の石灯籠前に立つ人の左方向に進むと、少し下ったところは広場になっています。そこに見えるのが、「閼伽井屋」です。駒札の右下に「若狭井」と刻された石碑が立っています。 駒札この建物の中に、「若狭井」とも呼ばれる井戸があります。この井戸は、毎年3月に行われる「お水取り」という行事、その儀式に不可欠な井戸です。この行事では特に、3月12日の行法の一つとして、二月堂の欄干で「お松明(たいまつ)」を打ち据えてあたりに火の粉を振りまき回廊を走る勇壮な行法が壮観です。その映像がたぶん全国ニュースで流れますので、その情景を思い浮かべる人が多いでしょう。この日の松明は特に大きなものが使われます。私はこの映像を見ると、春がそこまで来たことの前触れという感覚をいつも抱くのです。正式には、「東大寺修二会(しゅにえ)」と称されます。「十一面悔過(けか)法要」と呼ばれる行法が現在は3月1日から14日まで行われるのです。天平勝宝4年(752)に実忠和尚によりはじめられ、現在まで連綿と欠かすことなく毎年行われてきているといいます。当初は旧暦の2月に行われたので「修二会」と呼ばれたのでしょう。二月堂の本尊は十一面観音です。「十一面観音に日常のあやまちを悔いあらため、滅罪生善(めつざいしょうぜん)の生活をいとなむことをいのる行法」が行われるのですが、「11人の練行衆(れんぎょうしゅう)が毎日毎夜の荒行によってこれをつとめる」とのことなのです。「夜の行法に参堂する練行衆が各僧、大松明によっておくられることから俗に”お松明”とも呼ばれています。(資料4)練行衆の一人ずつが火の付けられた大松明を持し、二月堂への石段を駆け上がり、北西隅の欄干に松明を打ち据え、回転させると火の粉が一面に舞い上がります。そのお松明を担って回廊を走り抜ける様は巨大な火の玉が二月堂の回廊を北から南に躍動し、火の帯を描き出すのです。そして南東隅の欄干で再びお松明がさらに激しく回転させられ、振りかざされると、火の粉はさらに舞い上がりあたり一面に降り注がれます。この火の粉の蠢く様を過去数回見物しました。やはり感想的な瞬間です。修二会の行法の一環として、3月12日(13日午前1時過ぎ)にこの閼伽井屋内の若狭井から本尊十一面観世音菩薩にお供えする御香水(閼伽水)を汲む儀式が行われます。これが「お水取り」なのです。東大寺のホームページに掲載の「修二会」のページをこちらからご覧ください。詳しく説明されています。(駒札より)また、「十一面悔過」についての詳しい説明ページもあります。こちらをご覧ください。駒札には、若狭井が「若狭国の遠敷(おにゅう)明神が献じたものである」と記されています。この若狭井は若狭国(わかさのくに)から通じている、つまり福井県の小浜と奈良の若狭井が水脈でつながっているという伝承があります。一度以前に興味を抱いて調べてみたことがあります。若狭・小浜にある天台宗の神宮寺と遠敷川(おにゅうがわ)・鵜ノ瀬(うのせ)で「お水送り」という伝統行事が行われているそうです。お香水を遠敷川に注ぐという神事です。その注がれたお香水が10日かかって二月堂の「若狭井」に届くとされています。(資料5)ここには興味深い伝承があります。以下に引用します。”若狭神宮寺に渡ってきたインド僧「実忠」は、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼の二ヶ月前から(旧暦二月)天下世界の安穏を願い、14日間の祈りの行法を始められました。修二会(しゅにえ)と呼ばれるこの行の初日に、実忠和尚は「神名帳」(じんめいちょう)を読み上げられ、日本国中の神々を招かれ行の加護と成就を請えられたのですが、若狭の遠敷明神(おにゅう)だけが漁に夢中になって遅れ、3月12日、修二会(しゅにえ)もあと2日で終わるという日の夜中に現れました遠敷明神はお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする閼伽水(あかすい)清浄聖水を献じられる約束をされ神通力を発揮されると地面をうがちわり、白と黒の二羽の鵜が飛び出て穴から清水が湧き出しました。 若狭の根来(ねごり)白石の川淵より地下を潜って水を導かせたと伝えられています。”(資料6) 閼伽井屋の屋根に置かれた鵜の飾り瓦 北側は屋根付きの回廊となっている石段です。草地の斜面を挟み、南側は幅のひろい石段が設けられています。草地の緩やかな斜面中央には良弁杉(ろうべんすぎ)が1本聳え、その傍に小祠が建てられています。 「興成神社」 鵜が祀られているといいます。この説明板に上記の伝承の結果部分が簡潔に記されています。二月堂の南側の石段を上がって行った先に、「飯道神社」が祀られていて、一方、二月堂の北側には「遠敷神社」が祀られています。この「興成神社」を合わせて、開かれた3方向の南・北・西に神社が配置されていることになります。東側は山側です。 北側の屋根付き回廊を下ってくると、建物の中間にトンネル状に通路が造られた建物があります。この建物は「二月堂参籠所」です。その建物の一部に「鬼子母神」が祀られています。 二月堂参籠所の屋根の鬼瓦棟の鬼は角の間に宝珠を付け、降棟の鬼は角の間に毛髪で三鈷杵を巻き付けています。 二月堂参籠所とは少し広い空間を挟んで、西側に「二月堂湯屋」の建物があります。この湯屋の前の道を北方向に進めば、大仏殿の裏側を経由して、既にご紹介の中門跡への道に繋がって行きます。湯屋の前の道を少し南へ、つまり法華堂の方向に戻ります。 開山堂の境内参道の開かれた門の傍に、使用された松明が置かれています。一種の魔除け的な意味合いがあるのでしょうか。法華堂とは通路を挟み、西側に位置するのが「三昧堂」(四月堂)です。多くの観光客がこのお堂の前で、ひと休みしていました。全体像が撮れません・・・・。 説明板 三昧堂の北側面 三昧堂の屋根の鬼瓦と亀と思える飾り瓦左側は開山堂ある神禅院の築地塀で、その南に通路を挟み、三昧堂があります。 法華堂への参道三昧堂(四月堂)の南側に位置する参道です。石段参道を上りきった正面には法華堂の西側面が一部見えています。右側手前の建物は地図で確認すると、東大寺絵馬堂茶屋です。この参道を下って行くと、途中で北方向に進めば、既にご紹介した念仏堂・行基堂・俊乗堂・鐘楼のあるエリアに至ります。真っ直ぐに南西方向に進めば、手向山八幡宮に向かう参道に合流し、右折してそこから西に進むと鏡池の北辺、つまり大仏殿の東回廊前に至ります。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。芭蕉の句からの連想で、手許の2冊の歳時記を開いてみました。(資料7,8)「お水送り」「御水取」が季語に収録されています。「お水送り」は1句だけ。「御水取」はかなりの句が例示されています。いくつかをご紹介します。 若狭なるお水送りの神事恋ふ 京極昭子 水とりや杉の梢の天狗星 正岡子規 水取や格子の外の女人講 大橋桜坡子 飛ぶ如き走りの行もお水取 粟津松彩子 お水取果てし廊下に応(オウ)と遭ふ 稲増雁来 火が痩せて痩せて修二会の駈け廻る 山口誓子 修二会いま走りの行や床鳴らし 村沢夏風 修二会の火し目を星にしばたたき 橋本 博 つまづきて修二会の闇を手につかむ 橋本多佳子余談ですが、「御松明」という季語も載っています。しかし、この季語は「3月15日の夜、京都、嵯峨の清涼寺(釈迦堂)で行われる涅槃会の行事で、大松明を燃やして釈尊の荼毘のさまを再現するといわれる」(資料7)というところに由来するそうです。「嵯峨の柱松明」(嵯峨御松明・柱松明)という季語で同種の説明もされています。(資料8)これでかなり未探訪先を残しながらも、大凡東大寺の要所は巡ってみたことになります。今度は、この探訪記録の事後整理とご紹介から気づいた箇所や一歩踏み込んだ探訪課題が発見出来ましたので、機会を見つけて再訪を続けてみたいと思います。ご紹介したことを踏み台に、現地で新たな発見を上乗せしていただければ幸いです。また、その結果、このご紹介で私の誤解箇所などを発見していただけたら、ご指摘いただけるとうれしいです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫 p772) 『芭蕉紀行文集』 中村俊定校注 岩波文庫 p11,p213) 水取りや 籠もりの僧の 沓の音 :「神仏霊場 巡礼の旅」4) 『奈良県の歴史散歩 (上)』 奈良県歴史学会著 山川出版社 p21 5) お水送り :「福井県教育研究所」6) お水送り :「森林の水PR館」7) 『改訂版 ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂8) 『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所補遺龍王の滝を東大寺二月堂に見る :「大正楼」小浜と奈良で行われる地下水脈で結ばれた神事 :「橿原日記」福井県の若狭から奈良へ神秘の光で守られ1200年以上絶えず運ばれる「お水送り」 :「JTB」古都に春呼ぶたいまつ 東大寺で「お水取り」 :YouTube1080p 東大寺二月堂修二会(お水取り・お松明) Torchlight at Shuni-e of Todai-ji :YouTube2016.3.3(木)・二月堂修二会(お水取り)(奈良市) :YouTubeBuddhist chant of Shuni-e Ceremony, Todaiji [東大寺お水取りの声明] :YouTube東大寺・法華堂(三月堂) 東大寺最古の伽藍 :「Japantemple.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へスポット探訪 [再録] 奈良・正倉院 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂)へ
2016.12.09
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先月(2016/11)、奈良・東大寺境内の散策探訪と以前の再録をここに行い、ご紹介しました。その時には散策していなかった境内区域があります。その後に奈良国立博物館に行った折りに、巡っていますがブログ記事にはまとめていないまま、日が経ってしまいました。そこで、再録したこの機会に整理してまとめてみることにしました。探訪時期は2014年9月中旬でした。東大寺の創建以来の年月の経過と対比すれば、数年前の記録でも大差はないでしょう。不十分ながらまずは追補としてのご紹介です。大仏殿の中門から東廻廊の前を東に進むと、再録でご紹介した冒頭の「相輪」のモニュメントが見えます。観光客が多くて写真を撮らなかったのですが、この側に手向山(たむけやま)八幡宮の明神鳥居があります。参道の坂道を東に上って行きます。かつては総門があったようですが、今は礎石が残るだけです。参道脇には祓戸社が鎮座します。ここは祓いを行う場所。祓いを司る神である祓戸大神(総称)が祀られています。 正面に「手向山八幡宮」の楼門が見えます。手向山の山麓にある東大寺の守護神です。楼門は西面し、南北に楼殿が連なっています。『続日本紀』の巻第十七・聖武天皇の天平勝宝元年(749)の11月19日の条に、「八幡大神は託宣して京に向かった」と記されています。八幡大神とは宇佐八幡宮の神を意味します。九州豊前国(現在の大分県)の宇佐八幡宮です。ここでいう京は平城京をさします。12月18日には、五位の官人10人を筆頭に、散位、六衛府の舎人たちなど140人が八幡神を平群郡で迎えます。そして「この日、八幡神は京に入った。そこで宮の前の梨原宮において、新殿を造って神宮とし、僧四十人を請じて、悔過(けか)の行を七日間行なった」と記されています。(資料1)梨原宮は『東大寺要録四』諸院章の記述を参考にすると、左京二条二坊付近にあたるそうです。(資料2) 楼門屋根の鬼瓦 楼門を入ると、屋根付き参道が拝殿につながり、拝殿の右側に説明板が設置されています。この説明板によると、上記梨原宮の神殿から「大仏殿の近く鏡池の東側に鎮座し、・・・・鎌倉時代の1250(建長2)年に北条時頼によって現在地に遷座した」と言います。 拝殿の左側に回り込みます。 本殿の瑞垣前に何種類かの形式の異なる石灯籠がズラリと並んでいます。奉納者と奉納された時代が異なりながら、その数が増えていった結果なのでしょう、また、本殿の北側に接する形で一間社流造りの摂社・武内社が鎮座します。 本殿と拝殿が接近しているために、狛犬が本殿の前方ですが、拝殿の横に位置していることになります。 本殿 祭神は、応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后です。(説明板より)そして、若宮殿の方に仁徳天皇が祭神として祀られています。本殿の屋根の棟には、菊の紋章が輝いています。 拝殿の北側から、楼門を眺めた景色 境内地を北方向に歩き、北西方向から本殿・拝殿を眺めた景色 手水舎 手水舎の水槽への水の注ぎ口は狛犬像の口になっています。こういう形式を見るのは、私は初めてです。手水舎の北東側に井戸があります。井戸の東方向、竹垣の側に見えるのが、蓮弁文様の側面に東大寺と刻された水鉢が置かれています。この水鉢の東奥、上掲の手水舎の写真でいえばその左手背後に見える建物は社務所です。手水舎からみて、北側の建物は「大黒殿」の扁額が掛けられています。この探訪の折にも、手向山八幡宮の全体を探訪せず、境内の北側周辺の拝見にとどまりました。事後に、入手資料を確認したり写真を整理していて気づいたことでもあります。境内には若宮殿、境内社・住吉神社本殿、菅原道真の腰掛石、校倉造りの神宝庫、神楽殿、東照宮やその他の境内社もあります。再訪の機会があれば、未探訪箇所を重点的に拝見しようと思っています(資料3,4)。拝見できるものが数多いと言えましょう。 大黒殿の前を通り、境内を北に進むと、この石鳥居があります。この写真を撮っている位置から振り返り、北方向を眺めると、 そこに「法華堂」があります。 駒札東大寺の建造物では最古の建物。「寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)年の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である」(資料5)ということです。尚、創建時期には諸説があるそうです。有力な説は740~749(天平12~天平勝宝元)年の10年間に収まっているといいます。(資料6)このお堂で、旧暦の3月に「法華会(ほっけえ)」という儀式が行われるようになったことから、法華堂と呼ばれるようになり、3月堂とも呼ばれるのです。この建物は、もとは違う屋根の形状の2つの建物、正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が当初から軒を接して建つ配置だったのです。それは奈良時代に「双堂(ならびどう)」と呼ばれた形式だとか。「平安時代の状態を示す記録からも、正堂には間口五間の檜皮葺の礼堂を伴っていたこと」(資料6)がわかったそうです。鎌倉時代に礼堂の屋根を入母屋造り改築することで2つの建物をつないだといいます。正堂は天平初期、礼堂は鎌倉初期の再建と建築時期が異なります。それが現在は一体として調和して一つの美を作り出しているのです。上掲写真の南面する建物正面側が礼堂で、北側に正堂がつながっています。 南西角からの眺め 正面(南面)に近づいて眺めると 南西側から法華堂の西側面と南面を眺めた景色。建物の扉を観察していただくと、礼堂は桟唐戸で、正堂が板戸です。 建物の北西地点から、建物の直面と西側面を逆に眺めた景色 建物の北面この写真が比較的わかりやすいのですが、扉口や窓の上部に長押(なげし)と呼ばれる真っ直ぐの水平材があります。この正堂の特徴は、この長押が柱に打ち付けられているという構造だそうです。後で資料を読み知ったこと(残念!)なので、再訪の折にはじっくり観察していみたいと思っているところです。「この長押は一直線に取り付いているのですが、柱からの長押の出は柱位置ごとに違っています。実は測柱(一番外側の柱)が一直線には並んでいないのです。各面の中央寄りの柱ほど内側に寄せて立てられており、糸巻き型の平面と呼ばれています。現在は軒回りは改変されていますが、本来は柱筋に沿って軒桁も糸巻型になります。屋根の垂木をかけると自然に軒の曲線が出来上がる古代人の知恵です」(資料6)法華堂には、現在本尊の不空羂索観音菩薩と梵天、帝釈天など合計10躰の仏像が安置され、日光・月光菩薩ほか6躰は東大寺ミュージアムに安置される形で分散しています。華厳宗では、12月16日に僧侶の学識試第を目的として竪義論義を勤修する行事「方広会(ほごえ)」が行われます。この行事の名称は宗派により名称が異なるようです(資料7)。「方広会の『方広』は『大方広華厳経』から採られたものである。当日の論議によって、華厳宗の塔中住職の資格が審議される。論議は先ず論者が謡曲の音声に似た節回しで朗々と華厳の大義を説き、これを難詰する役柄の精義と問者がいて、さらに審判者である探題が座している。いわば探題の立会いで口頭試問が行なわれるわけである。これにパスした僧が塔中住職たる資格を得る。」という行事です。この12月16日は良弁僧正の忌日にあたるのです。(資料8)現在、この日に法華堂の本尊と背中合わせになる形で須弥壇の背後の北向きの厨子に安置されている秘仏「執金剛神立像」(奈良時代・国宝)の特別開扉が行われます。突き当たりに見える基壇上に立つ石灯籠は二月堂のものです。この法華堂の北東に二月堂があります。正堂北側面の廻縁下に鹿の群れが居ました。それでは、2月堂に参りましょう。つづく参照資料1) 『続日本紀(中) 全現代語訳』 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫 p912) 平城京左京三条二坊宮跡庭園 橋川紀夫氏 :「奈良歴史漫歩」 3) 奈良大和路 NEWブルーガイドブックス 実業之日本社 p48-494) 手向山八幡宮 :「大和の神社」5) 境内案内図 :「東大寺」6) 『奈良の寺-世界遺産を歩く-』 奈良文化財研究所編 岩波新書 p152-1567) 方広会 :「コトバンク」8) 東大寺法華堂(三月堂)-奈良市- :「近畿風雲抄」補遺手向山八幡宮 :ウィキペディア奈良県「手向山八幡宮」 デジタルアーキビスト学習資料 :「岐阜女子大学」東大寺法華堂 :ウィキペディア東大寺 法華堂(三月堂) の仏像 :「奈良まほろばソムリエ検定」奈良 東大寺 不空羂索観音立像 :YouTube日光菩薩と月光菩薩 :「仏教の勉強室」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へスポット探訪 [再録] 奈良・正倉院 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -2 二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂ほか へ
2016.12.08
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銀杏の落葉が積み重なる石段を降りるところから始めます。上るときは専ら龍宮門の紅葉に目を奪われていました。戻りは、本堂の側面の屋根に紅葉した枝がかかるのを愛でながら石段を降りました。軒丸瓦には「石峯禅寺」の文字が陽刻されています。屋根を眺めていて気づいたのは、隅棟から稚児棟に置かれた瓦です。一般的には鬼瓦が置かれている箇所が、そうではないのです。上段の写真、隅棟側は「鯉」の姿が装飾されています。下段の稚児棟の先端は判然としません。別の角度から写真を撮らなかったのが残念です。次回訪れたら、詳細に観察したいと思っています。これが本堂の屋根の南側面です。入母屋造り瓦葺きの屋根です。屋根の棟には、ここも鬼瓦ではなくて、鬼板になっています。鳥衾(とりぶすま)には、禅寺を象徴するように、「禅」の文字が陽刻されています。その下の鬼板の図柄は中国古代貨幣である「布幣」の部類に入る「方足布」と称されるものを模して製作されたもののように思えます(資料1,2)。「方足布」は中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)に盛んに使われていた貨幣だそうです。(資料2)陽刻されている文字は「布泉」と読めそうです。11/30に京都市中京区にある「花洛庵」の坪庭で偶然目にした手水鉢の文様について尋ねて「布泉形手水鉢」と教示を得ました。中国の古銭に関係するようですとも。そのヒントをもとに調べた情報からの素人の推測です。間違っているかもしれません。鬼板でこの図柄を見るのは初めてです。脇道に逸れますが、調べてみますと「布泉形手水鉢」の本歌は京都・大徳寺の孤篷庵の名席「山雲床」露地の蹲踞に据えられている「布泉の手水鉢」と呼ばれる銭形の手水鉢だそうです。(資料3,4)南側面の屋根の妻降(棟)の先端を眺めると、 鬼板には鷹と思える鳥の彫刻が施されています。これもまた珍しい気がします。本堂の正面に戻ります。上段が前回ご紹介した写真。本堂のほぼ全景です。下段が、石段近くまで近づいて撮った写真。正面には、「石峯寺」という文字の扁額が掛けられています。本堂の内部の床も広縁も同じように、塼(せん)と呼ばれる方形の黒い敷瓦が四半敷に敷き詰められています。現在の本堂は、火災で焼失後、昭和60年(1985)に再建されたものです。かつての石峰寺の本尊は薬師如来だったようですが焼失したため、現在は釈迦如来像が本尊として祀られています。石峰寺の由緒について、江戸時代に出版された『都名所図会』には大凡次のことが記されています。平安時代中期の武将源満仲が摂津多田郷(現伊丹市多田)に造営した石峰寺が起こりで、惠心僧都作といわれる薬師仏を安置したといいます。文永の頃に兵火を避けるため、一旦この薬師仏が石函に納められ山中に埋められたとか。慶長の頃に、この土中の石函に納められた薬師仏が発見され、一宇の堂が建てられて安置されたとか。庵主に本尊薬師仏の夢告があり、京都因幡堂に一時的に安奉し、次いで五条橋東の若宮八幡宮の辺りに堂を建てて、石峰寺と号したそうです。宝永の頃に、中国・明から渡来され、黄檗山の祖席に司職されていた黄檗僧・千呆(せんがい)和尚がこの薬師仏を尊信されたといいます。そして、千呆和尚が正徳3年(1713)に現在の深草の地に百丈山を開き、薬師仏を移して石峰寺とされたのです。(資料5,6)江戸時代には諸堂を完備する大寺だったようです。『都名所図会』には上記のような説明に、次の絵が載せられています。引用させてもらいます。(資料7) この絵の右上には、「近年当百丈山には石像の五百羅漢を造立し、霊鷲山の爰(ここ)にうつす」と記されています。また、門前の石段下の南の方向に「茶碗子ノ水」と銘が付けられた清泉の井戸があり、茶の湯の水として賞されていたそうです。これは未確認です。機会を見つけて、探訪してみたいと思っています。 本堂の正面から屋根を見上げると、棟の両端近くに鍵形の装飾瓦が置かれています。これは龍宮門の屋根のものに通ずる形です。鴟尾(しび)と同じ部類でしょうか。降棟の先端には、天女の彫刻が施された鬼板が見えます。これもまた珍しい部類です。本堂の外観を眺めてみます。 本堂正面の広縁の端には高欄が設けられています。またこの広縁がかなりゆったりと幅が広く、床几が置かれていて拝観客がしばしくつろげる場所にもなっています。 高欄には卍文が意匠に使われています。上段は黄檗山萬福寺の開山堂です。ここの高欄の意匠が卍文です。下段は黄檗山萬福寺の法堂です。こちらは異なる意匠です。一方、法堂前の参道の形式は、この石峰寺の本堂までの参道の形式に取り入れられています。再建にあたり、この開山堂の意匠が取り入れられたのでしょうか。『都名所図会』が江戸期の石峰寺の建物を忠実に描いているとするなら、当時は仏殿に高欄は無かったようです。絵には描かれていません。 もう一つ、この高欄で目に止まったのがこの柱の頂部です。これは、本山である萬福寺の開山堂、法堂の形状ともことなり、ここ独自の形のようです。これを眺めていて、私が連想したのは仏典に描き出される「須弥山」のイメージの簡略形式ではないかというもの。多分そうだろうと思います。後でネット検索してみて、そのイメージについて、再確認してみました。「須弥山の図」の一例をこちらをご覧ください。(資料8) 本堂の扉の両側に聯が掛けられています。向かって、右側の柱の句は「一路を開き放ちて凡聖を通ず」と読めそうです。「聖」の上の文字は「凡」の異字体だそうです。間違っているかも知れませんが、ワタクシ流には、「悟りへの一路を切り開けば、凡人であろうと聖人であろうと、歩み行けるのだ」という意味に解しました。『禅苑清規』には「僧は凡聖なく、十方に通会す」ということが『典座教訓』(てんざきょうくん)に記されているようです。この言葉に通じるように思います。(資料9)左側の柱の句は、「重関に住むを把し古今を越えよ」と読むのでしょうか。「一路を放開し」に対し「重関を把住し」という読み方なのかも・・・・。「把」の第一羲は、「つかむ、にぎる」という意味のようですから、ワタクシ流には、「束縛されたがんじがらめの中に己を住まわせているということを捉えて(/気づいて)、過去と現在の柵(しがらみ)を越えよ」という意味合いかな・・・。様々な観念や柵にとらわれて生きてきた己の存在にはたと気づけ、ということかなあ・・・と解した次第。調べていると、『臨済録』に「直透萬重關」という句があるということを知りました。この句、茶席の禅語としても使われているそうです。(資料10)さて、この解釈どこまで的を射ているか? どなたか正解をご教示いただけるとうれしいです。 本堂の正面に立って周辺を眺めていて、ふと目に止まったのが正面の右側斜め前あたりにあったこの墓石(?)です。たくさんの花が供えられていました。石の上部に十字が深く刻されています。十字架と感じました。その下部には像がレリーフされています。その像の形が何を表すのかは定かではありません。キリスト教絡みの石柱のように想像しました。ネット検索で調べていて、「1985年、地蔵尊の下の土中より発見されたマリア像という」という説明を見つけました。(資料11)製作年代が定かではありませんが、もし江戸時代あるいはそれ以前だとすると、隠れキリシタンに関連するのでしょうか。それとも、墓石ではなくて、日本にキリスト教が伝来され、京都に南蛮寺が公認されていた時代にマリア像を形象するものとして作られたものなのでしょうか。それをキリスト教が禁止となったときに、密かに土中に埋められた・・・・のかも。想像の翼が羽ばたき始めます。 この写真は、京都国立博物館の庭の一隅に保存されているものですが、京都市内の寺院境内で発見された「キリシタン墓碑」なのです。その一つに、「慶長年間(1596~1615)に作られたキリシタン信徒の墓碑。ほとんどが江戸時代に破壊され、今では少ししか残っていない。碑の正面には十字架・IHS(「イエスは人類救済者」という意味のラテン語)・西暦年号・洗礼名などが刻まれている」との説明板が付けてあります。(2015年4月撮影)石峰寺を出る時に表門のすぐ近くに歌碑が建立されているのに気づきました。表門をくぐって受付のところまで歩むときには目に触れず素通りしていたのです。 春風に五百羅漢のとはれ皃(かほ) 鈴鹿野風呂前回ご紹介した句の一つです。鈴鹿野風呂は、高浜虚子に師事した俳人で「京鹿子」という結社を主宰した人だとか。京都市左京区吉田に「鈴鹿野風呂記念館」があるということを、調べていて知りました。(資料12)表門を出るとき、この空が蒼空であれば一段と映える景色だっただろうな・・・・と思いました。春に訪れると、桜の咲く景色の中にこの龍宮門を眺められるようです。また、釈迦、菩薩、五百羅漢と対話しにきたいと思います。次は青空のもとで。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 布幣 :「中国古銭」2) 方足布 :「コインの散歩道」3) 大徳寺 孤篷庵 布泉の手水鉢 :「管鮑之交」(吉田浩志BLOG)4) 布泉形手水鉢・参考写真 :「京の庭園資材」(京都府造園協同組合)5) 百丈山石峯寺(石峰寺)『都名所図会』:「国際日本文化センター」6) 『昭和京都名所圖会 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p68-717) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第5冊の28コマ目 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)8) 須弥山 :「Flying Deity Tobifudo」9) 「凡聖なし」 :「長栄山全超寺」10) 直透萬重關 :「茶席の禅語選」11) 石峰寺 :「京都風光」12) 京鹿子(きょうかのこ) :「関西現代俳句協会」補遺石峰寺 ホームページ「江戸時代」に学ぶ ?ふるさと村の教科書? 中田薫氏 :「いちもん」 組みあわせの妙 小堀遠州の茶室 桐浴邦夫氏 「京の茶室」須弥山儀とは :「富山市科学博物館」鈴鹿野風呂 :「コトバンク」あふちの季節/野風呂記念館① :「けふえふえふとふてふ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 若冲徒然 -1 「若冲の京都 KYOTOの若冲」展と過去の若冲展 へ観照 若冲徒然 -2 「生誕300年記念 伊藤若冲展」と相国寺承天閣美術館 へ観照 若冲徒然 -3 [番外編] 相国寺承天閣美術館へのアプローチ・前庭 へ探訪&観照 若冲徒然 -4 石峰寺 晩年の若冲と五百羅漢石像ほか その1 へ観照 若冲徒然 -6 特別陳列(京都国立博物館)生誕300年伊藤若冲と泉涌寺、とりづくし へ観照 若冲徒然 -7 「はじまりは、伊藤若冲」(細見美術館)へ探訪&観照 若冲徒然 -8 伊藤若冲生家跡(錦小路通・錦市場)・若冲の墓・宝蔵寺 へ探訪&観照 若冲徒然 -9 錦市場の若冲絵づくし・錦天満宮ほか へ
2016.12.01
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11月19日(土)に深草に来る要件があったので、若冲に惹かれて午後の後半に石峰寺を訪ねました。京阪電車の深草駅で降り、改札口を左折して東方向の階段を下りると、疏水に架かる橋があります。その橋を渡れば、すぐ直違橋通り、つまり旧伏見街道です。道路を渡ってそのまま東方向に進んでいくと分岐点があります。左側(北側)の道路をとってそのまま東進すると、石峰寺の山門前石段下に至ります。石段の左側に駒札とともに立っているのが冒頭写真の石標です。「百丈山石峰禅寺」と「若冲巧□ 石像五百らかん」(一文字判読できません)と刻されています。 駒札駒札を読んで知ったのですが、我が地元の宇治に本山がある黄檗宗の寺院でした。このお寺が晩年の伊藤若冲に大きく関わっているのです。駒札にも記載されていますが、本堂の背後の山腹に伊藤若冲が下絵を描いて、石工に作らせたという石仏群があります。「若冲の五百羅漢」として有名ですが、実は石造釈迦如来像を中心に、十大弟子、五百羅漢(十八羅漢を含む)、禽獣魚鳥などが含まれているのです。この点も今回再認識しました。詳しくは後ほど・・・ということで、まずは山門前の石段を上りましょう。 石段は途中で一箇所踊り場があり、さらに真っ直ぐの石段を上ります。上がりきると、そこにある山門(表門)は紅殻色に塗られた龍宮門の形式です。門の屋根の棟には鍵形の飾り瓦が置かれています。鴟尾(しび)と同じ意味合いなのでしょうか・・・。門には「高着眼」と墨書を薄彫りした扁額が掛けられています。江戸時代に出版された『都名所図会』には、「表門の額は即非(そくひ)の筆にして、高着眼と書す」と紹介しています。(資料1) 門を入ると、参道が真っ直ぐに本堂まで続いています。通路の中央に方形平石が菱形に置かれています。相国寺承天閣美術館のアプローチの通路をちょっと連想しました。 参道の両側は、晩秋~初冬の花、花、花・・・です。 本堂 左の写真は本堂前から表門を振り返った景色。右の写真は表門を入り少し参道を進んで、左側に見える庫裡です。拝観受付はこの玄関口で済ませます。拝観受付時点で、境内の景色などの写真は自由ですが、五百羅漢は撮影禁止ですと説明を受けました。ちょと残念ですが、仕方ありません。何時から禁止措置を執られたのかは知りませんが、ネット検索すると結構掲載しているサイトがありますね。それはさておき、石像の撮影は禁止ですのでその点訪ねられる際にはご注意ください。 本堂の手前に本堂の背後の山にに右方向から回っていき上る通路があります。地蔵尊のお堂の前から左折して通路沿いに上って行きます。上り始めた途中で右手に広がった空間への通路が別れていますので、何気なく立ち寄って見ることに。境内墓地域への手前に「伊藤若冲の墓」と記された駒札が見えました。この時は、知らずに立ち寄った次第です。 左側が墓石の表面に「斗米庵若冲居士墓」と記された伊藤若冲の墓です。後で調べてみると、右にあるのが貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文による筆塚が建立されています。(資料2)若冲墓の側の紅葉がきれいでした。若冲の墓の前に立ち、西を眺めると曇天の下に、伏見の町並が眼下に広がっています。団地の手前には疏水と京阪電車の路線があるのですが、傾斜地に櫛比する民家の陰に隠れています。団地の先に見える茶色の建物群は龍谷大学の深草学舎です。江戸時代は旧伏見街道沿いに民家が建ち並び、ところどころに農村の集落があるほかは水田や畑が広がり、緑に満ちた風景が広がっていたのかもしれません。手許にある図録『若冲』に併載の「略年譜」を参照しますと、若冲は安永5年(1776)ころより「五百羅漢石像」の製作に着手したようです。そのことは『拾遺都名所図会』に、「石像五百羅漢」の見出しがあり、「近年安永の半より天明のはじめに至って約莫(おおおそ)成就す。花洛画工寂中(ママ)老石面に図して指麾(しき)す」と記されています。(資料3,4)若冲は早くから「居士」と名のり、在家の禅の帰依者であることを標榜していたそうです。安永2年の夏、58歳のときに若冲は黄檗山萬福寺二十世の中国僧・伯珣照浩に初対面しているのです。伯珣は若冲の「猿猴摘桃図」に賛を書いている和尚です。この伯珣和尚が安永5年に没したのです。その事から、「石峰寺石像群の建立は伯珣の菩提を若冲が私的にとむらうためのモニュメントだった蓋然性は、はなはだ高いというべきだろう」(資料3)といいます。その後、天明8年(1788)1月晦日から2月1日、京都で大火災が発生し、若冲の居宅はもちろん、相国寺も焼亡してしまいます。そのため若冲はそれまでの悠々自適の生活ができず窮乏していたようです。寛政2年(1790)には若冲が大病を煩っていることの記述が相国寺の日記に記されているとか。その翌1791年10月8日に、大火類焼後の窮乏につき、相国寺との永代供養の契約を若冲が解除した記録が残されているのです。そして、その頃から若冲は石峰寺に隠棲しはじめたと考えられています。ただし、貧窮のどん底ではないことが『蕉斎筆記』の記述から読み取れるようです。そこには若冲が「石峰寺門前の住居のほか、寺の左にある『若冲の古庵』、あるいは羅漢像の並ぶ裏山の入り口に新しく建てた『亭』が記されている」といいます。そして、若冲は絵を一斗の米(の価)に換えては一体ずつ羅漢を建立してゆくという活動を始めたようです。米一斗分は銀6匁相当だといいます。それが「斗米庵」あるいは「米斗翁」という若冲の号と重なって行くのです。研究者は、「若冲が、大店の主人でありながら、ただの画工の態をとって『斗米庵』と称したのは、売茶翁の生き方にならおうとするところから発したもののように思われる」と分析されています。(資料3)若冲は寛政12年(1800)9月8日あるいは10日に没します。そして、ここ石峰寺に土葬されたそうです。 裏山への石段には銀杏の黄色い落葉が折り重なり、見上げると紅葉の様々な色調を楽しめました。本堂の側面の屋根にも覆い被さるように緑葉から紅葉まで交響が見られます。石段を上って行くと、五百羅漢石像群に至る手前に、もう一つの赤い龍宮門がありました。 この龍宮門を通り抜けて、振り返ると、 この景色です。更に少し上ると、こんなおもしろい石塔が右手の方に建てられています。さらに少し上がると、龍宮門がこんな景色の中に見えます。さて、ここから裏山の山腹に周回する形で作られた通路を巡り五百羅漢を眺めて行くことになります。ここからは撮影禁止。デジカメをしまい、ゆっくりと様々な方向に林立する石像群をゆっくりと眺めつつ巡りました。石峰寺のホームページのトップページは、五百羅漢のいくつかの映像がスライド式で見られるようにされています。こちらからご覧ください。ここで、「五百羅漢」という固定観念にとらわれないことがまず必要になります。私自身が予備知識を持たずに五百羅漢のイメージだけで巡り初めていましたので、まず感じた認識ギャップです。さらりと読んだ駒札の文面を咀嚼していなかったのが原因です。つまり、この石峰寺の裏山の山腹には、「釈迦の生涯」がテーマとしてあり、一つのストーリーで巡る形になっています。ここに造立された様々な石像の下絵を若冲が描いたようです。羅漢像の下絵だけではないということになります。巡り始める山道の初めには「誕生仏」の木札が建てられていたと記憶します。まず釈迦の誕生という場面の石仏群から始まります。そして、二十五菩薩の石仏群「来迎菩薩」の場面、「出山の釈迦」、「十八羅漢」群像シーン、釈迦の「説法場」で文殊・普賢が居て、羅漢たちがいます。羅漢さんの「托鉢修行」や「諸羅漢座禅窟」の場面が設定され、「涅槃場」のシーンがあります。釈迦が横たわり、様々な菩薩、羅漢、人々他が周囲に集まっている場面です。そして、最後に地蔵石仏などが群集する「賽の河原」のシーンもあります。五百羅漢像は、異なる造形の羅漢像が様々な場面、場所に群集し、または散在、点在しているのです。『拾遺都名所図会』には、「石像五百羅漢」という見出しで、次のような説明が記されています。(資料4)「深草石峰寺後山にあり。中央釈迦牟尼仏。長六尺許の坐像にして、周に十六羅漢、五百の大弟子圍繞(いにょう)し、釈尊霊鷲山(りょうじゅせん)に於いて法を説給ふ体相なり。羅漢の像おのおの長三尺許、いづれも雨露覆いなし」と。その後に、上掲の引用文がつづいています。安永5年から天明の初め頃に一旦若冲が五百羅漢を作製していたら、天明の京都大火の後にこの石峰寺門前に隠棲して、絵を描いた代金で五百羅漢を奉納したのですから、その数は相当なものになっていったことでしょう。一説には、当初一千体以上の石像があったとされているようです。時代の変遷で寺域の縮小もあり集約されたようです。「昭和初期の絵はがきには竹林の姿はなく、木も小さい」ということですので、かなり現在とは景観が異なったことでしょう。江戸時代から変化していく景観の中での若冲の下絵による羅漢像を初めとする石像群をそれぞれの時代の人々が味わってきたことになります。竹林があり、大きくなった樹木のあちこちに群集する石像群もまた、しっとりと落ち着いた雰囲気が形成されていて味わい深いものです。「確認された523体は高さ数十センチから1.6メートルほど。230年に及ぶ鎮座で大地と一体化している」(資料5) のです。訪れた日は雨が降った後の曇天で、午後3時を過ぎていました。日差しのない、少し薄暗さを感じる経路をめぐりつつ、しとりとした雰囲気の中に地に根が生えたかの如くにうずくまる羅漢像や、周囲の弟子、羅漢たちの中におられる釈迦牟尼の姿などをしばし眺めていました。光の差し具合や天候と季節が異なると、また違った印象をこの石仏たちに感じることでしょう。違った季節、時間帯に再訪してみたいと思っています。京都・祇園をこよなく愛した歌人・吉井勇は、今も祇園・白川沿いに建つ歌碑のところで行われる「かにかくに祭」で知られています。吉井勇がここの五百羅漢を訪れたときに歌を詠んでいます。孫引きですがご紹介します。(資料2) 或る日、洛南石峰寺に行きて、若冲の下絵によりて刻めりという五百 羅漢の石像を見る 痩(やせ)羅漢落葉のなかに埋もれてゆうべ寒しとかこつごとしも (天彦 歌集) われもまた落葉の上に寝ころびて羅漢の群に入りぬべきかな 同上 昭和16年1月、再び洛南石峰寺に遊び、五百羅漢の石像を見る この寒き夕(ゆうべ)を羅漢何おもふおのれの腹の臍(ほぞ)を見つめて (遠矢 歌集) 俳人の句には、こんな句も。 春風に五百羅漢のとはれ皃(かほ) 野風呂 阿羅漢が肱(ひじ)に拳(こぶし)に落葉かな 虚明 若冲の筆塚古りて萩芒(はぎすすき) 四明寄り道をもう少し続けます。若冲は没して、この石峰寺に土葬され墓石が上掲のとおりこのお寺にあります。その若冲の遺髪が相国寺と宝蔵寺に埋納されているそうです。(資料6)相国寺の墓は藤原定家、足利義政の墓に並んでいるとか。宝蔵寺は伊藤家の菩提寺です。石峰寺の門が龍宮門ですが、それで思い出したのが・・・・わが地元の黄檗山萬福寺の境内にこんな門があります。(2013年6月撮影) 左の写真は三門を入ると正面にある天王殿の左方向に位置する禅堂書院「潜修禅」の門。右の写真は逆に、右斜め方向にある「売茶堂」(売茶翁を祀るお堂)への門です。 宝物・資料の収蔵保管と展示を目的とする「文華殿」に向かうときの門。また、天龍寺を探訪したときに、塔頭の「慈済院」でみた門です。ここは「水摺福寿弁財尊天」のお堂への入口になる門です。(2015年9月撮影)他にも思い浮かぶのがありますが、記録写真が見つからない!次に、五百羅漢、羅漢像ということで連想する場所がいくつかあります。京都市内では、北嵯峨の奧にある「愛宕念仏寺」です。ここには手作り羅漢像が奉納されています。大昔にカメラを持っていない時に一度立ち寄ったことがあります。今や1200体くらいの羅漢像があるそうです。今度はデジカメ持参で訪れてみるつもり。訪れたことがあり、手許にデジカメでの記録写真があるのは、富山県の富山市内にあるお寺の石像群です。 曹洞宗長慶寺の五百羅漢です。(2006年10月撮影)ここは整然と石像が並んでいます。また、お隣の滋賀県では彦根市内小高い丘の上にある天寧寺の五百羅漢です。 こちらは木造の羅漢像で、お堂内に安置されていますが、壮観です。(2008年4月撮影)早世した友人に誘われて桜の咲く頃に訪れました。懐かしい思い出です。最後にもう一つ。京都国立博物館では、2016.12.13~2017.1.15の会期で、「特集陳列 生誕300年 伊藤若冲」がはじまります。その展示作品の一つに、同館所蔵の若冲筆「石峰寺図」も展示される予定になっています。こちらから企画展案内をご覧ください。 勿論、鑑賞に出かけます!!つづく参照資料1) 百丈山石峯禅寺 『都名所図会』 :「国際日本文化センター」2) 『昭和京都名所圖会 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p68-713) 図録『特別展覧会 没後200年 若冲』 京都国立博物館 2000年 p36-43,p378-3824) 石像五百羅漢 拾遺都名所図会 :「国際日本文化研究センター」5) 苔むす百面相 無常説く 石峰寺の五百羅漢像(時の回廊) 若冲が下絵 京都市 2014.6.6 :「日本経済新聞」 6) 石峰寺 ホームページ補遺相国寺にある3人の文化人のお墓 :「京都観光のあれこれ」宝蔵寺と伊藤若冲・・・・ :「宝蔵寺」 京都市伏見区にある石峰寺(せきほうじ)の五百羅漢について知りたい。 :「レファレンス協同データベース」若冲に光琳…『周年』を迎えた天才アーチストたちが神レベル :「NAVERまとめ」 石峰寺図絵はがき <石峰寺図> 伊藤若冲筆 :「オンラインショップ 京都 便利堂」若冲関連で見つけた記事です:〝若冲ロス〟もたちまち解消! ここに行けば若冲に会える!! 2016.6.03 :「INTOJAPAN」[京都 美の鑑賞歩き]第7回~信行寺本堂の天井に描かれた伊藤若冲の傑作が初公開! 2015.11.3 :「サライ.jp」天寧寺(五百羅漢) :「滋賀・びわ湖観光情報」長慶寺の五百羅漢 :「石仏・道祖神に会いに・・」ほんわかほのぼの、1200の手作り羅漢「愛宕念仏寺」[京都]:「日本珍スポット百景」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 若冲徒然 -1 「若冲の京都 KYOTOの若冲」展と過去の若冲展 へ観照 若冲徒然 -2 「生誕300年記念 伊藤若冲展」と相国寺承天閣美術館 へ観照 若冲徒然 -3 [番外編] 相国寺承天閣美術館へのアプローチ・前庭 へ探訪&観照 若冲徒然 -5 [番外編] 石峰寺 本堂ほか その2 へ観照 若冲徒然 -6 特別陳列(京都国立博物館)生誕300年伊藤若冲と泉涌寺、とりづくし へ観照 若冲徒然 -7 「はじまりは、伊藤若冲」(細見美術館)へ探訪&観照 若冲徒然 -8 伊藤若冲生家跡(錦小路通・錦市場)・若冲の墓・宝蔵寺 へ探訪&観照 若冲徒然 -9 錦市場の若冲絵づくし・錦天満宮ほか へ
2016.11.29
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大仏池を回りこみ、少し東方向に上ったところで右折して、大仏殿の方向を目指します。そこで左方向前方に見えたお堂に立ち寄ってみました。冒頭の写真がその建物です。石段の傍には、「圓光大師二十五霊場」と刻された石標が建てられ、その後に手水舎があります。石標の文字を読みながら、迂闊にも頭の中でうまく結びつかなかったのですが、円光大師というのは法然上人のことでした。 石段を上がり、お堂に近づくと、向拝の向かって右の柱に「東大寺指図堂」の木札が掛けてあります。指図(さしず)というのは設計図を意味しています。東大寺の大伽藍は、治承4年(1180)に平重衡の軍により炎上します。それを復興したのが俊乗房重源上人です。しかし、戦国時代の永禄10年(1567)、三好・松永の乱で、東大寺は再度罹災します。そして再び大仏殿の再建がめざされました。この時に大仏殿再建の指図を収めたお堂がこの場所に建てられたのです。正面五間、側面四間、広縁と向拝の付いた建物です。一方、重源上人は浄土信仰にも篤かった人だったそうで、重源上人は再建途上の大仏殿に法然上人を招き、この南都で法然上人に浄土三部経を講じてもらう機会を作られたのです。それは、建久元年(1190)大仏殿上棟後、大仏殿南廂において、三日間行われたと言います。戦国時代の罹災の後で大仏殿が復興された後、その時のお堂は寛政3年(1791)に大風で倒壊したそうです。法然上人が東大寺で浄土三部経を講じられたということが機縁となったのでしょう。浄土宗徒の願い・助力により、お堂の建て替えが行われ、嘉永5年(1852)頃にお堂が完成。指図堂の名前を残し、法然上人二十五霊場の第11番として、現在に至るそうです。(資料1,2)このお堂の拝見は基本的に土日に限定され、予約制によるとか。堂内には「草鞋ばきの法然上人御画像」が奉祀してあるといいます。 向拝の木鼻。よく見ると左右の像の表情が異なります。おもしろい。頭貫の上には、蟇股の部分がダイナミックな龍の透かし彫りとなっています。お堂の正面に扁額が掛けられ、蟇股には中央に円盤状の形が刳りぬかれています。日輪なのでしょうか。宝珠にはみえない気がします。 第11番霊場としての御詠歌 さへられぬ光もあるを おしなべて 隔(へだ)て顔なる朝霞かな 指図堂の屋根の獅子口 お堂の正面広縁の左端に僧形坐像が置かれています。ふつうに考えると、賓頭盧(びんずる)像だと思います。賓頭盧は釈迦の弟子で十六羅漢の筆頭と考えられている人です。「バラモン族の出身。涅槃の境地に入らず、この世で衆生を助ける存在とされる。日本ではこの像をなでて病気平癒を祈る信仰で知られる」(『日本語大辞典』講談社)という存在です。指図堂から通路をはさみ西側には、紅殻色に門が塗られた門のある「東大寺勧進所(かんじんしょ)」があります。ここも普段は非公開です。江戸時代の三代将軍家光の時代の初めの頃まで、大仏殿は焼失後の再建もなく大仏が露座の状態でした。公慶上人が大仏の修理と大仏殿再建を発願されて、ここに東大寺勧進所を建て、復興活動を始められたと言います。大仏殿復興の寺務所となったのです。公慶上人が全国行脚を行い、勧進に命をかけられた拠点がここだそうです。(資料3) 門前から境内を拝見すると、門から真っ直ぐに参道が延び、そのさきにまた門が見えます。門の右側斜め前に大きな手水鉢があります。井戸水を汲み上げ石樋を使い手水鉢に水を注ぎ込む形になっています。正面の建物の中に阿弥陀堂があり、その他に、公慶上人像を祀る公慶堂、八幡殿、勧進所経庫という建物もあることが、東大寺の境内案内図からわかります。(資料4)勧進所前から南に丘陵上の凹地を少し下り、左折して大仏殿の南西角への緩やかな坂道を今度は上ることになります。 草を食む鹿を見て、その後、 この石群が目に止まり近づいてみました。 ここに集められていたのは表面に五輪塔や宝篋印塔をレリーフした石塔碑です。様々な形状の石塔図柄が混在しています。特徴的なものを個別にいくつか撮ってみました。 大仏殿の南西角から戒壇院に向かい、東大寺境内の散策後に再び南西角に戻ってきました。これで正倉院展鑑賞の後の主目的とそれに伴う散策が終了です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 東大寺指図堂 :「法然上人二十五霊場」2) 華厳宗総本山東大寺指図堂 :「浄土宗」3) 勧進所 境内のご案内 :「東大寺」4) 境内案内図 :「東大寺」補遺東大寺指図堂 :「奈良観光おすすめガイド」法然上人二十五霊場 ホームページ平重衡 :「コトバンク」東大寺大仏殿炎上 :「嶋ノ左近」東大寺大仏殿の戦い :ウィキペディア公慶上人と大仏殿再興 平岡昇修氏 :「サンスクリットへの誘い」奈良の大仏 奇蹟の復活劇 ~それは少年の涙から始まった~ 歴史秘話ヒストリア :「NHKオンライン」この春の大和路3 ─ 東大寺公慶堂特別開扉 ─ :「タクヤNote」東大寺の大仏4657億円 - 現在価格で費用を試算 2010.8.5 :「奈良新聞」奈良平城京略年表 :「平城宮跡 Quick Guide」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へスポット探訪 [再録] 奈良・正倉院 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂)へ探訪 東大寺境内再訪 -2 二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂ほか へ
2016.11.24
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この写真は後でご紹介する中御門跡からの坂道を上って来たときに見える道標と戒壇院への石段です。 前回の続きで言いますと、千手堂のところで右折して北に進むと、「華厳寮」と称する建物が見えます。その先に戒壇院の区域の北の門があります。この左の写真で、すこし高台になった境内地にあることがイメージしていただけるでしょう。簡素な門です。境内への通用門という感じです。少し脇道に逸れますが、『続日本紀』の記録年次を少し遡ると、孝謙天皇の天平勝宝4年(752)の記述は、「春正月1日、太宰府から白亀を献上した」という記録から始まります。そして、夏4月9日、東大寺の盧舎那大仏の像が完成して、開眼供養した」と記録されていて、その時の状況が記述されています。(資料1)国史扱いの同書には、東大寺そのものの事項は国事として記録しても、東大寺の一組織となる戒壇院の建立、落慶は記録対象外という識別なのかもしれません。門を通り、石段を下ってから振り返って撮った写真です。北側の坂道を上ってくると、この石段が正面に見えることになります。東大寺では築地塀に挟まれた通路としてのこの景色が好きな場所の一つです。南大門の観光客で混雑した空間と無縁の静けさを感じる場所の一つでもあります。手許の古い奈良の観光ガイドブックを開けてみて、2001.10.27という日付を戒壇院の項の上にメモ書きしているのを再発見しました。なんと、15年ぶりに東大寺境内のこちらの方に訪れたことになります。舗装された坂道を下って行くと、こんな基壇のようなものが残されています。傍に「御拝壇」と太い文字を刻した石標が立てられています。事後に調べてみてわかったことをご紹介します。(資料2)*この壇の南の小高い丘で(現在は竹藪)大仏を御拝されたということが東大寺要録に記載されていると言います。*都が平安京に移った後は、白河天皇、鳥羽天皇が上皇になり東大寺を参拝された時、この場所でまず御拝されたと伝わるとか。*この故事にならって、ここにある拝壇が江戸時代に整備されたのだそうです。地形的に考えるならやはり道路傍のここよりも、大仏殿の建物が見えやすいもう少し高い場所まで上がりそこから拝礼されたという説明が納得できるところです。そうだとすると、聖武天皇や白河・鳥羽両上皇は、東大寺を参拝するときは、南大門の方向から東大寺に入るのではなくて、境内の西側にあった門のいずれかから境内に入り、この辺りまで来てから一旦大仏殿の方向に向かって拝礼されたということになります。かつての東大寺境内の西側境界は、現在の国道369号線になるようです。大宮通に面する奈良県庁の東にある県庁東交差点から真っ直ぐ北に向かっている道路です。この西側境界には、南から西大門、中御門、転害門と3つの門があったそうです。位置関係はこちらの地図(Mapion)を覧ください。 ここが「中御門跡」で、礎石が道路傍に保存されています。道路の南側に門の一部が左写真のように残っています。この道路は国道369号線と交差して、真っ直ぐ西方向に延びています。交差点は「焼門前」と称されています。交差点で右折して、国道を北に向かいます。次の交差点が「転害門前」です。道路に面して、この石標が立っています。その案内板があります。説明の後半には、「境内もきわめて広大で平地部から山間部にわたり現境内よりはるかに広かった。西端は平城京の東京極路で現在の手具通りに面しこれに沿って転害門(奈良時代国宝)中門跡、西大門跡等があり、他の三面もまたその旧規をとどめている」と説明されています。転害門前交差点の北側が手具町、南側が今小路町という町名です。現国道がかつてこのあたりでは手具通りと称されていたのでしょう。こちらは転害門を囲む木柵の南側面に掲示されている説明板です。 正面から眺めた転害門三間一戸の八脚門。切妻造り本瓦葺きで、門の高さは基壇部を除き、10.635mだとか。上記説明文によると、この西面する転害門から真っ直ぐ西に延びる道路がもと平城京の左京一条大路であり「佐保路門」とも呼ばれていたそうです。地図をみますと、転害門交差点から西に延びる道路は、県道104号線で、一条通りの表記もあります。そして、この道を西に行く佐保川を渡り、そのはるか先には「法華寺」が位置します。法華寺は藤原不比等の屋敷跡であり、その娘でありかつ聖武天皇の妃であった光明皇后が、皇后宮とした後に、日本総国分尼寺・法華滅罪となったお寺です。木造十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたと伝えられる有名な仏像です。上記案内板と説明板の内容を重ねてみると、この辺りでの南北の道路の名称はこんな変遷になります。 平城京東京極路 → 京街道 → 手貝通り → 国道369号線「京街道に面していたために、平安時代末期から民家が建並び、中世以降には東大寺郷のひとつである転害郷(手貝郷)が生まれ、江戸時代には旅宿として発展した」(説明板一部転記)といいます。もし転害に音が通じる手貝という漢字も使っていたのなら、手貝町という町名が残るのも納得です。この転害門という名称の解釈にも謎があるようです。東大寺は幾度も火災や兵火に遭遇してきています。歴史を繙くと、平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2度の戦火に被災していることがわかります。東大寺伽藍の苦難の変遷の中で、この転害門が天平時代の唯一の遺構なのです。(資料3) 正面からみて、門の左側に数多くの石仏が集められて祀られています。そして、門には大きな注連縄が掛けられています。後日に調べてみると、全長15mの大注連縄で、周辺住民の人々がもち米のわらで作製され、近年は4年に1回、秋分の日に掛け替えが実施されているようです。2013年9月23日に実施された報道記事があります。来年(2017)の秋分の日には、掛け替えが見られることでしょう。(資料4)上記説明板には、周辺住民というのは川上町の有志と少し具体的に記されています。地図で確認すると、東大寺の北方を南西方向に流れる佐保川流域と若草山の北側山間部にまで大きく広がる町域です。手貝町の北西隣も川上町です。 柱には部分修理の跡が見られます。門の側面、屋根の下部を眺めると、緩やかなカーブを描く梁(虹梁こうりょう)の上に蟇股が置かれその上に更に虹梁・蟇股を組み合わせるという形で、屋根の桁、棟木を支える構造になっています。「二重虹梁蟇股」と称されるそうです。(資料5) 上掲の写真と併せ、この天平時代の転害門に、「鎌倉時代の大仏様の木鼻」が付いていることから、東大寺が鎌倉時代に再興された折に、転害門も部分的に修理が加えられたことが、このことからわかるそうです。(資料5)この転害門は東大寺の鎮守社である「八幡宮(手向山八幡宮)の祭礼が行われて遷座の場所となり重要視されてきた」といいます。そこで、「基壇中央には、神輿安置の小礎4個が据えられ、天井も格天井に改められ」たのだとか。(説明板部分転記)天平時代の建築物が部分修理されていても、こんな形で現存していることに柱をみていて感動します。まさに歳月が刻み込まれていることに・・・・。転害門をいろいろな角度から眺めてみました。八脚門と称されるのは、扉がある列に親柱が4本あります。それぞれの親柱の前後に控え柱がありますので、合計8本の柱がプラスされている構造です。そこから八脚門の名が生まれたそうです。この写真がわかりやすいと思います。転害門の柱の直径は70cmほどあるそうです。勿論、東大寺南大門の柱の太さには及ばないものの、法隆寺金堂の柱(約60cm)を上回り、現存古建築群の中でも上位になる太さだとか。(資料5)東大寺の転害門がその歴史を厳然と見せているのです。是非、大仏殿とともに、戒壇堂や転害門の方も散策してみてください。夕方が迫ってくると、多くの鹿をみかけました。転害門から東に参道を進むと、T字路になっていて、正面に数本の木々があります。その背後は鉄柵の垣根になっていますが、この東側は正倉院の敷地です。こんもりとした森が校倉造りの建物との間にあるのです。ここを右折して大仏殿を経由して東大寺境内を抜けながらJR奈良駅に戻ることにしました。国道を南下するより、やはり時間をかけても静けさの中を散策しながら、雑踏の衢に戻る方を選択したのです。「大仏池」(二ツ池)の傍を通ります。池の東側に、大仏殿の側面が見えます。 池には鳥が遊泳し、池畔には秋の種々が繁茂しています。この辺りまで夕刻近くに足を運ぶ観光客は少ないようです。 池を回りこみ、左折すると、その緩やかな坂道は中御門跡に繋がる道路でした。大仏池から東の丘陵上の草地のあちらこちらで、鹿が草を食んだり、屯したりしているのを眺めながら戒壇院から下った坂道を、今度は上って行くことになります。[追記]ブログ記事を載せた後、さらに調べていて「転害門」の名の由来について、一説の記述をみつけました。「その名のおこりについては諸説がある。そのなかで、749(天平勝宝元)年、八幡大神が東大寺造営の守護神としてむかえられたときここからはいられたので、勅命によって、殺生を禁じたことから害を転ずという意味で転害門とよんだという説から転害門の字があてられる。この故事によって、東大寺八幡宮の祭礼である手掻会(てがいえ)は、この門をお旅所として執行される」 (『奈良県の歴史散歩(上)』 奈良県歴史学会著 山川出版社 1981年 p13-14)つづく参照資料1) 『続日本紀(中) 全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p1052) 喫茶 工場跡事務室と東大寺 御拝壇 :「奈良・桜井の歴史と社会」3) 転害門 境内のご案内 :「東大寺」4) 東大寺の転害門、4年ぶり大しめ縄掛け替え 全長15メートル、周辺住民ら作製 2013.9.24 :「産経WEST」5) 『奈良の寺 -世界遺産を歩く-』 奈良文化財研究所編 岩波新書 p169-171補遺旧京街道と押上町、今小路辺り :「奈良きたまち」東大寺転害門の謎 :「鳴き沙」奈良市きたまち転害門観光案内所 :「奈良市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へ
2016.11.24
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大仏殿前を西側に回り道標を目印にして、東大寺戒壇院に向かいます。なだらかな坂道を下り、また少し上って高みにある道沿いに進みます。 勧進所の築地塀沿いに進むと、突き当たりに戒壇堂の東側面が見え始めます。 勧進所の瓦を間に挿入した築地塀の角に、「大界外相(だいかいげそう)」と刻した石標が立っています。築地塀が曲がり、北に連なり、少し奥まって設けられた出入口が見えます。そこに至る手前は少し広い空間ですが、そこに左の写真の宝篋印塔が高い石垣積み土台の上に建立されています。「大界外相」というのは、戒壇院の「戒壇石」の一つだそうです。戒壇院という清浄な場所への境界を示す「結界石」の一つ。戒壇堂は僧侶の授戒式が行われる聖域です。そのために東大寺の戒壇院は厳重に区切られていたのです。(資料1)東大寺境内の中といえども、戒壇院のある空間は特に清浄な異空間という認識のもとにあったという訳です。この石標が要所に建てられていたのです。それぞれを想像上の線で結ぶと、結界が張られることになります。左折すると右側に、築地塀の壁面に5本の定規筋(じょうぎすじ)をひいた黄土色の築地塀が続きます。戒壇院の東側面の塀です。築地塀の角付近から眺めるとこんな景色です。パノラマ合成してみました。戒壇堂の築地塀の東側と表門のある南側を眺められる位置です。 戒壇堂の表門 左の写真は、門の左側に立つ石標を部分拡大してみました。「大界内相(だいかいないそう)」と刻されています。これもまた上記「戒壇石」の一つです。この門までが大界の内相であり、ここが結界になるということなのでしょう。(資料1) 門の頭貫は雲形の文様が刻まれ、木鼻はごくシンプルな造形です。門にみる蟇股には、ごくシンプルな雲形文様が刻まれたものと五三の桐を彫刻したものがあります。門を入ったところで、拝観受付をすませます。 拝観チケット門を入った正面に戒壇堂があります。手許の『続日本紀』の現代語訳を見ますと、孝謙天皇の時代、天平勝宝6年(754)正月16日に、「この日、遣唐副使・従四位上の大伴宿禰古麻呂(こまろ)が帰国した。唐僧の鑑真と法進ら八人が古麻呂に随って来朝した」と記されています。苦難の末についに当時戒律第一と言われていた鑑真和上が来朝されたのです。(資料2)拝観時にいただいたリーフレットには、僧鑑真が来朝した後、「大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、440余人に戒を授け、翌年の9月に戒壇院が建立された。創立当時は金堂、講堂、軒廊、廻廊、僧坊、北築地、鳥居、脇戸等があったという(東大寺要録)」と説明されています。(資料3)『続日本紀』には、754年秋7月13日に天皇が「この頃、太皇太后(宮子)の健康がすぐれず・・・・」という書き出しで、「天下に大赦を行なおう」という詔をしたと記された続きに、「この日、僧百人、尼七人を得度した」とあります。これが鑑真和上による授戒が行われたことなのでしょうか。尚この書には翌年に戒壇院が建立されたということは記されていません。(資料2) <2016.11.24 追記> その後も少しネット検索で調べて見ていました。 『続日本紀』の754年7月13日の得度の記録は別のものでした。 『世界大百科事典』内の「鑑真」関連項目として「受戒」という項に、 「754年4月に東大寺大仏殿前に仮設の戒壇が設けられ,聖武上皇,光明皇太后など が菩薩戒を受け,沙弥など400余人が一行より受戒,翌755年10月に常設の戒壇院が 大仏殿の西方に創建された。」と説明があります。 つまり、鑑真が入京して3ヶ月余を経た天平勝宝6年4月に授戒式が行われました。 『続日本紀』は鑑真による授戒式、戒壇院の建立の事は記録しなかったのです。 このことからわかるのは、一時的な戒壇が大仏殿前に設営されて、まず最初の鑑真による授戒の儀式が行われたということ。その後に授戒をするための恒久的な戒壇を設けた一連の伽藍が建立され、その全域を「戒壇院」と称したということです。資料によりますと、戒壇院は三度火災に遭い、伽藍は全て灰燼に帰したそうです。現在のこの戒壇堂は享保17年(1732)に建立されたものなのです。(資料3,4)戒壇堂の西側に戒壇院の千手堂があります。ここは1998年5月に火災で焼失し、4年を経て2002年5月に修復が終わり現在に至るそうです。(資料5) 戒壇堂の軒丸瓦「享保壬子造」と陽刻されています。調べてみるとこの明記は享保17年(1732)にあたります。 お堂の向拝の木鼻は門と同様にシンプルです。左の写真のように蟇股には法輪が彫刻されています。堂内は撮影禁止でした。戒壇堂に祀られた塑像の四天王像は余りにも有名ですが、当日の入手資料の写真を拝借して、資料を参照しやはりご紹介させていただきます。(資料3) 二つ折リーフレットの表紙 「広目天像」開けると四天王像の写真が掲載されています。戒壇堂は南面していて、堂内には三段になった「戒壇」が設けられています。戒壇最上段の中央には多宝塔(木造)が置かれ、その両脇、向かって右側に木造釈迦如来像(像高25cm)、左側に木造多宝如来像(24.2cm)が配置されています。多宝塔は現在の建物が建立された時に造顕されたものだとか。両脇侍の二仏像は鑑真和上の来朝時に将来されたいわれるものを模した像だそうです。将来品は別置されていると資料にありますので現存するようです。いただいた資料で遅まきながら初めて知ったのですが、四天王はもとは銅造製のものが安置されていたそうです。それは今はないとか。この写真にある天平時代の傑作といわれる四天王塑像は、東大寺内の中門堂から移されたものといわれているそうです。南面するお堂の戒壇上、南西隅に写真の左端の「増長天」が置かれていて、そこから時計回りの各隅に残りの三天王像が配置されています。置かれている位置、像高、それぞれの像が仏法の守護神として護る方位をまとめてみます。 南西隅 増長天 162.2cm 南 南瞻部州(なんせんぶしゅう) 北西隅 広目天 169.9cm 西 西牛貨州(せいごかしゅう) 北東隅 多聞天 164.5cm 北 北倶廬州(ほっくるしゅう) 南東隅 持国天 160.2cm 東 東勝身州(とうしょしんしゅう)インドの護世神が仏教に取り入れられて、仏法とそれに帰依する人を守護する護法神に位置づけられたのです。「仏教的世界観では、世界の中心にある須弥山(しゅみせん)に住む帝釈天(たいしゃくてん)の輩下で、須弥山中腹の四方の門を守る神となった。」(資料6)そして、須弥山をめぐる四大州のそれぞれを四天王の一人が守護する役割を担っているのです。四大州の名称が上記各行の右端に記した州名です。四天王の配置の記憶法としては、持国(南東)、増長(南西)、広目(北西)、多聞(北東)の順にして、「じぞうこうた」、「地蔵買うた」とするのがオススメと手許の本に載っています(資料6)。ナルホド!まず、境内を眺めてみます。向拝の石段の右側に、「戒壇外相」と刻した石標があります。これも上記の「戒壇石」の一つです。「戒壇」の聖域とその外を明確に区切る結界の表示ということなのでしょう。ここまでが「戒壇」外域の扱いです。ただし、戒壇堂の置かれた区域だということになります。東大寺の境内案内図を参照すると、築地塀越しに、勧進所の「八幡殿」と「勧進所経庫」の建物が見えます。(資料7) 表門から戒壇堂への真っ直ぐの参道を除き、砂利の敷かれた庭には南北方向に幅広の筋目が引かれています。この筋があることで、雰囲気が引き締まっている感じを受けます。戒壇堂の外周を眺めてみましょう。 白壁の中の花頭窓が美しい。廻縁に佇み、庭を眺める人が居ます。お堂の蟇股はスッキリとした意匠です。 斗栱は三ツ斗が使われています。 飾り瓦は龍が意匠化されています。戒壇堂の屋根でも、鬼瓦が楽しめました。 阿吽形の別、髭や額の造形の差異など・・・・ 鬼瓦の側面に、制作年や瓦師の名前を陰刻したものもあります。訪れられたら、どこの鬼瓦か探してみてください。戒壇堂を出たあと、「転害門」を久しぶりに見に行くことにしました。そこで、境内を北方向に通り抜けます。ここからの経路は一度歩いたことがあります。 戒壇院の築地塀のところに、鹿が来ていました。戒壇堂前を西に回り込むと門があります。 門をくぐり、右に戒壇堂の西側築地塀を見ながら、左折すると、前方に「千手堂」の建物が見えます。千手堂側からふりかえり東方向を眺めた景色この後、右折して北の門を抜けて転害門へ。つづく参照資料1) 結界を示す三つの石 -戒壇院の「戒壇石」 :「うましうるわし奈良」2) 『続日本紀(中) 全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p116-1283) 拝観の折にいただいたリーフレット「東大寺戒壇堂」4) 戒壇堂 境内のご案内 :「東大寺」5) 東大寺の千手堂を公開/火災から4年ぶり修復 2002/05/28 :「四国新聞」6) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p294-2957) 境内案内図 :「東大寺」補遺享保 :ウィキペディア戒壇 :ウィキペディア鑑真 :ウィキペディア鑑真 :「コトバンク」あの人の人生を知ろう ~ 鑑真和上 :「文芸ジャンキー・パラダイス」四天王像 :「うましうるわし奈良」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へスポット探訪 [再録] 奈良・正倉院 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂)へ探訪 東大寺境内再訪 -2 二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂ほか へ
2016.11.23
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11月初旬、2016年の第68回正倉院展の会期が残り少なくなったところで出かけてみました。冒頭の写真は今回の案内チラシです。JR奈良駅から三条通、興福寺の境内を通って奈良国立博物館に向かいます。三条通を東に進むと猿沢池が見えて来ます。左側歩道に興福寺境内への少し急な石段があります。ここを上ると、左に三重塔、前方には南円堂が見えます。南円堂を見ながら右折し、復元された南大門の基壇の傍を通りつつ、五重塔を眺めます。南大門の北側には、中門跡の基壇も復元されています。そして、現在は中金堂の復元工事が進行しています。五重塔の北隣には「東金堂」(国宝)があり、本尊は薬師如来像で、四天王像(国宝)・十二神将像(国宝)などが安置されています。なんと6回も被災しているそうです。この東金堂は室町時代に再建された建物です。 五重塔。出かけた日はこの五重塔・三重塔の特別公開期間中でしたが通過点になってしまいました。三重塔は以前の特別公開時に拝見しています。現在の建物は応永33年(1426)頃の再建だそうです。高さ50.1m、初層は方三間で8.7m、本瓦葺。初層の四方、東に薬師三尊像、西に阿弥陀三尊像、、南に釈迦三尊像、北に弥勒三尊像が安置されていて、創建当初の伝統が継承されているのです。この初層の公開だったのですが・・・。またの機会に。(資料1)東金堂と五重塔の間の道を博物館の方に向かいます。興福寺境内の位置関係は、こちらの「おすすめ拝観ルート」をご覧ください。(興福寺ホームページ) 五重塔の東側で、本坊の建物の南側になりますが、地面から上にも根を張るの大きな樹木の近くに、「会津八一歌碑」が建立されています。書家・東洋美術史家でもあった歌人の会津八一(1881~1956)が、興福寺をおもい詠んだ歌です。『南京新唱』収録。 はるきぬといまかもろひとゆきかへり ほとけのにはにはなさくらしも境内から道路を渡って奈良公園に入ると、この案内板があります。奈良博への通路の途中、北側に「春日西塔跡」の礎石が見えます。紅葉した木も・・・。これが今年の正倉院展の図録です。図録の表紙は、今回のハイライトですが、正倉院北倉に収蔵されている「漆胡瓶(しつこへい)」です。会場の中央部のガラスケースに置かれていて、周囲から拝見できるようになっていました。ペルシャ風の水差しです。胴部が球形、注ぎ口は鳥頭形で、弓なりの把手が付いています。ササン朝ペルシャ、今のイランあたりで流行した形だとか。「本品は内外面とも黒漆を塗り、外面の全面に銀平脱技法による文様を表している」のです。平脱というのは、「漆工芸の加飾法。金・銀・錫などの金属製の栽文(文様形に切り抜いた板状のもの)を漆面に象嵌する方法」だそうです。山岳・鹿・様々な鳥たち・種々の草花などが散らすように象嵌されています。聖武天皇の遺愛品で、『国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)』に、「漆胡瓶一口 銀平脱花鳥形銀鏁連繋鳥頭蓋受三升半」と記されるものにあたるとか。(図録参照)今年の出展では、相対的に古文書・経典類の陳列が少なくて、装飾具や器物が多く展示されている印象を受けました。これは2種類のPRチラシ裏面からの引用写真です。会場で現物を見ないと大きさを実感できませんが、上段の写真・右端の「大幡残欠」(番号7)(南倉)はこの部分だけで長さ458cm、身幅90cmというものです。この大型の染織幡の完全品に大幡脚と脚端飾と称されるパーツが付くと、その総長は東大寺大仏に匹敵する13~15mに及んだと推測できるものなのだそうです。残欠だけでも見応えのある大きさでした。大幡脚と脚端飾も展示されていました。その左に雅楽で使用される「笙(しょう)」(南倉)という管楽器です。これは総長57.7cmという大きさですが、併せて似た形状ですが、平安時代初期まで用いられていたという「竿(う)」(南倉)という管楽器も展示されていました。それは総長94.8cmというサイズ。どんな音色が出るものなのか・・・・・それが知りたかった思いです。上段の番号5の展示品は象嵌装飾された墨壺です。大工さんが直線を引くのに用いた道具です。「墨斗(ぼくと)」と称するそうです。長29.6cm、高11.7cm、船の幅9.4cmの大きさですが、実用というよりも儀式用ではと推測される品。その装飾をみると、そうだろうなと思えるものです。下段の写真・左端にあるのは「蓮華形鈴」(中倉)で、かざり金具です。今回はいろいろなかざり金具が出展されていました。写真のような単品のものと鈴を数珠つなぎにしたものなどです。唐草文鈴、子持鈴、梔子形(くちなしがた)鈴、瑠璃玉飾梔子形鈴、杏仁形(きょうにんがた)鈴、瓜形鈴など多彩でした。和銅元年(708)に初鋳された「和同開珎(わどうかいちん)」(南倉)やわずか1枚が正倉院に伝わる天平神護元年(765)初鋳の「神功開宝(じんぐうかいほう)」(南倉)という銅銭も出展されていました。わずか1枚が残されているなんて、歴史的にも貴重ですね。小さなものですが、アンチモンのインゴットが出展されていました。『続日本紀』には同種のものが献上された記録があるというのですからびっくりです。古代の金属精錬技術はかなりのレベルを築いていたのでしょうね。(図録参照)今年の正倉院展で付録として見られたのが、入手したこのパンフレットにある「平瓦」の実物展示です。説明付で特別展示されていました。資料に掲載の2種類の平瓦の写真を引用させていただきまます。 一枚作り平瓦「平瓦一枚分の粘土板を凸形の湾曲した台に乗せ、整形して仕上げる方法です。」 桶巻作り平瓦「粘土を桶状の円筒に巻き付けた後、4分割して平瓦を作り出す技法です。」(パンフレットの説明より)平成23年からあ26年までの4年間にわたり、正倉院宝庫の屋根の葺き替えや部分的な修理を中心とする整備工事が行われたそうです。整備工事に伴う調査で、屋根には奈良時代の丸瓦・平瓦が残されていて、中でも平瓦は約800枚が残されていたといいます。奈良博の展覧会会場を出た後、東大寺南大門、大仏殿などを眺めながら戒壇院を訪れるために、観光客で混雑する大仏殿への参道を通りました。9月にこの梓澤要著『荒仏師運慶』(新潮社)という小説を読んでいたので、何度も見ている南大門の仁王像を改めて眺めたいのも目的でした。この小説の読後印象をもうひとつの拙ブログ「遊心逍遙記」で書いています。ご関心をお持ちいただけたら、こちらをご覧ください。普通仁王像は門の入口で正面を向いています。門前に来たる人々を睨んでいます。ところが、ここ東大寺南大門の仁王像はそうではなくて、門を通り抜ける人々を見据え、吟味するかの如くに、門の中央を両側から眺める形で対置されているのです。この小説を読んでいて改めてそのことを再認識した次第でした。仁王像と通称で呼んでいますが、「金剛力士」が正式の名称です。 阿形 像高 836cm 吽形 像高 842cm最初に南大門を通る時は、太陽光線の角度・強さと前面の金網のため、顔部分くらいしか写真になりませんでした。戒壇院を訪れ、境内の一部を巡って、夕方に再びここに戻って来たときに、全身像を撮ることができました。勿論、肉眼で見るのも見やすくなっていました。私たちが見慣れているのは、運慶ほかの作になるこの仁王像が典型となる、筋肉隆々の上半身裸の像です。その肉体の造形の誇張されたリアリティに圧倒されます。ついついこの仁王像を基準にして、他のお寺の仁王像を眺めていることがあります。ところが「日本の古い時代には甲冑をつけた神将形が主流で、祀られるのも堂内でした。」(資料2)金剛杵(こんごうしょ)を持ち、甲冑の神将形で独尊のものは「執金剛神(しゅうこんごうしん)」と称されます。その典型例は、一度だけ公開の折に拝見したことがあるのですが、東大寺法華堂の執金剛神立像(塑像)です。 南大門の内側に置かれた石獅子像。これは大仏殿の方向を向いています。こちらは宋人の石工が製作したそうです。(資料3)これは帰路に気づいたのですが、ここで取り上げておきます。大仏殿の右斜め前に「鏡池」があります。この池に船が浮かべられていたのです。池畔にこの案内板が置かれていました。たぶん、もうこの池には存在しないかもしれません。中国を代表する現代美術家の蔡國強氏が「船をつくる」プロジェクトを主宰されて、かつて東シナ海を航海した木造帆船を10人の中国人船大工が参道脇で公開製作したそうです。その完成船が鏡池を海に見立てて展示されていたのです。11月2日に正倉院展を見にでかけたのですが、10月23日までの「東アジア文化都市2016奈良市コア期間」を過ぎていましたが、展示されていたのです。一種、不思議な感じでした。こういう船がかつては東シナ海を航行していたのですね。 東大寺大仏殿のところに「中門」があります。その両脇侍としてこれらの立像が配置されています。西側に持国天、東側に兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)です。「大仏殿江戸再興期、享保元年(1716)9月に至って、大仏殿中門と南面の東西廻廊が完成し、京仏師山本順慶が一門を率いて中門安置の持国・多聞の二天の一丈三尺の像を造立し同4年(1719)正月6日に開眼法要が行われた。」(説明板より)この兜跋毘沙門天は、「西域の兜跋国(トルファン)に化現したと言われる特殊な異形像で、金鎖甲(きんさこう)なる鎧を着し、三面立の冠を被り、地天及び二邪鬼の上に立つ。対面の持国天は当方を守護する武神であるが、かつて鎌倉期に復興された大仏殿中門には、現在南大門に安置されている石獅子が奉安されていたことが、鎌倉時代の『東大寺造立供養記』に記されている。」(説明板より) 中門からの大仏殿少しズームアップした全景 唐破風をズームアップ。序でに獅子口をよくみると、菊紋が使われています。まさに、歴史としての鎮護国家を祈る仏教の時代を想い浮かべます。唐破風の下に位置する扉この扉が開けられると、大仏様のお顔がこの空間を通して拝めるはずなのです。 大仏殿大屋根の鴟尾ズームアップしてよく見ると、避雷針が設置されいるようです。中門から大仏殿を眺めたあとは、今回の目的である戒壇院に向かいます。大仏殿の西側から戒壇院への道を歩みはじめます。白い築地塀と緑の中に、1木の紅葉が美しい。つづく参照資料1) 興福寺ホームページ2) 『仏像の見方ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店3) 古の大伽藍を偲ぶ「大仏殿前」:「歩く・なら」補遺東大寺の仏像 :ウィキペディア東大寺大仏殿中門の兜跋毘沙門天&持国天 :「続・蒼月窯だより」仁王像特集 :「大阪ガスすずらん会」執金剛神 :ウィキペディア東大寺法華堂(奈良県奈良市)—紛う事なき塑像の最高傑作・執金剛神像 :「祇是未在」天平の姿をCGで再現 東大寺の執金剛神立像 :「日本経済新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へスポット探訪[再録] 奈良・正倉院 へ探訪[再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪[再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂)へ探訪 東大寺境内再訪 -2 二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂ほか へ
2016.11.21
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「相国寺とその周辺を歩く」の探訪再録を行う序でに、この相国寺を離れる前に、「伊藤若冲展」を2016.11.13に鑑賞した後、相国寺境内をしばし散策し、撮った写真で少し補足のご紹介をします。冒頭の写真は、「洪音楼」と称される鐘楼を南東側から撮ってみた景色です。相国寺は天明の火災でも焼失しています。寛政元年(1789)4月に古鐘を買い、一旦仮楼にかけて使われていたのです。「袴腰付鐘楼」といわれるこの層楼が天保14年(1843)に建てられたそうです。(資料1)この鐘楼の東側の通路を北に歩んだところに、「宗旦稲荷社」が祀られています。 ここが宗旦稲荷社です。宗旦狐の故事については探訪[再録]のシリーズ4で少しご紹介しました。近づいてみましょう。 社の前には、狐像が左右に配されています。覆屋のある小さな社です。社殿の前にも陶製の狐像が対で複数置かれています。傍に「宗旦稲荷の由来」という駒札が立てられています。少し読みづらくなっているのが残念ですが・・・・。これは相国寺の境内に棲んでいた白狐にまつわる伝承です。平安神宮の北側に祀られている「御辰(おたつ)稲荷」とともに、この「宗旦稲荷」が風流を心得た狐(稲荷神)として有名なのです。その伝承は、ある意味で千利休の孫であり千家を再興した千宗旦(1578-1658)の人となりを伝えるのに寄与したのかもしれません。ああ、あの有名な宗旦さんに化けたのですか・・・なんてぐあいに。小松和彦氏はそのエピソードをこう記しています。(資料1)「相国寺の境内に、一匹の白狐が棲んでいた。つねに雲水に化けて僧堂で修行を積み、また門前の商家に出入りして神通力でもって商機を予言した。また、囲碁を好み、近所の人のところへ人間に化けて打ちに行ったり、しばしば寺での茶会で宗旦に化けて客の前で見事なお点前をやってのけた。見事な立ち居さばきでお茶をたてた宗旦が途中でふっとひっこむと、もう一人の宗旦が路地を歩いてくるということがしばしばあった」と。駒札には、こんな説明の一文が記されています。「宗旦狐は相国寺塔頭慈照院の茶室でなりすまして、手前を披露していた。驚いたことにその手前は実に見事なもので、遅れてきた宗旦は、その事に感じ行ったという。これも、宗旦の人となりを伝えた逸話である」と。その後に、「その伝承のある茶室『い神室』は現在でも慈照院に伝えられている。茶室の窓は、宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室の窓より大きくなってしまったという」とあります。この茶室は、「宗旦好みの席」といわれ、千宗旦が智忠(ともひと)親王のために創設した四畳半台目の席だそうです。(資料2)駒札の末尾に、この白狐の最後について触れています。駒札に記されていない一説に、「死期を悟った狐が別れの茶会を催した翌日、鉄砲で撃たれた死骸が転がっていた。これを哀れんだ人たちの手で祀られたのが、宗旦稲荷だという」(資料1)のがあります。宗旦稲荷への通路には、途中から北東方向に曲線を描く方形平石敷きの細い道が通じています。紅葉がきれいでした。ちょっと、脇道に・・・・・。 澤田ふじ子著『宗旦狐』(徳間書店)という短編集があります。副題が「茶湯にかかわる十二の短編」という小説集です。2003年に出版されています。以前に相国寺を訪れ、宗旦狐の伝承を知り興味を抱いていた頃、偶然タイトルが目に止まりました。「宗旦狐」と題する短編は8番目に載っています。これが本のタイトルにも使われているわけです。「宗旦狐」は15ページの短編です。宗旦狐を欺くつもりの筆師「十四屋」の主太左衞門がだまされてしまうというお話です。その中で、千宗旦について、こんなふうに記されています。一つは小説中の会話として、「宗旦さまいうたら利休居士さまの三世、大変なお人どっせ。利休さまの没後、跡継ぎの少庵さまは、会津の蒲生氏郷さまに預けられてはりました。けど徳川家康さまのとりなしで京にもどらはってから、宗旦さまとともに本法寺前にお住居やったときいてます。少庵さまはもう死なはったけど、宗旦さまは利休さまの茶湯を頑なに守るため、人も驚くほど質素な暮らしをしてはるそうどすわ。」そして、地の文に「千宗旦が祖父利休の侘び茶を徹底して伝えるため、清貧に甘んじ、亡貴謙富に生きた姿勢は、数々の逸話となって残されている」と記されています。乞食(托鉢の僧)宗旦と陰口を利かれるほどだったといいます。戻ります。 鐘楼の西面に設けられた石碑 篆書体のような感じですが、正式な書体名称は不詳。私には判読できません。明神名が刻されているようです。こういうのが祀られているのもおもしろいところです。 こんな小祠も明神名碑左側の近くにあります。鐘楼の西側は探訪再録でご紹介した弁天社ですが、石鳥居をくぐると拝殿があります。 拝殿には、「弁財天縁義」の駒札と、白蛇を描いた額が掛けられています。弁財天は穀物神の宇賀神(うがじん)と結びつき、宇賀神は人頭蛇身の老人で表象されますので、白蛇の絵に繋がって行くのでしょう。 拝殿の先にある社殿の正面 南東側からの弁天社。上掲明神石碑の前からの眺めです。私は寺院屋根の鬼瓦を眺めるのが好きなのですが、相国寺にも様々な意匠の鬼瓦を見ることができます。見比べつつ歩くのが楽しみの一つです。 法堂 左は大屋根の鬼瓦、右は裳階の屋根の鬼瓦 庫裡の鬼瓦 経堂の鬼瓦 総門の鬼瓦 勅使門の鬼瓦向拝の木鼻や蟇股、そして石灯籠を眺めるのも楽しみです。 この石灯籠は庫裡の左側前にあるものです。下の写真は右側側面を撮ったものです。笠部分に対して、その下部が後補されたのでしょう。スタイルとしては朝鮮形の石灯籠になると思います。このタイプの石灯籠は他の寺院で私は見かけたことがありません。今のところ承天閣美術館のアプローチ・前庭にあるものと合わせた2基だけが目にしたものです。 経堂を南西方向から撮影 三 門 跡 天界橋と池面に映ずる木々ご一読ありがとうございます。この後、探訪[再録]を続けます。参照資料1) 参拝のご案内 :「相国寺」2)『京都魔界案内 でかけよう、「発見の旅」へ』 小松和彦著 智恵の森文庫 p64-663) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p65補遺高麗型朝鮮燈籠 :「吉田浩志BLOG」石灯籠をたずねて 韓国 :「千葉水石」千宗旦「元伯宗旦文書」より その1 :「茶の湯 こころと美」千宗旦 :「コトバンク」宗旦とその息子たち :「茶の湯の歴史」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -2 相国寺(功徳池と天界橋、法堂、鐘楼、弁天社、方丈)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -3 相国寺の浴室 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -4 相国寺(天響楼、鎮守八幡社、経蔵、開山塔、宗旦稲荷、庫裏)、後水尾天皇歯髪塚 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -5 上御霊神社(社殿、舞殿、境内社)、出雲寺跡 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -6 上御霊神社(清明心の像、歌碑・句碑、手水舎、楼門)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -7 猿田彦神社、室町殿跡、同志社大キャンパス周辺の遺構など へ
2016.11.19
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京都の西大路通七条近くにボルダリングジム・ADSUMMUM(アドスムム)西大路店ができています。JR西大路駅からここに幾度か行く時、西大路通と八条通との交差点の北東角がこんもりとした杜になっているので、気になっていました。それで一度訪れてみることにしたのです。すると、なんと平清盛の別邸「西八条殿跡」という石標が立てられています。『平家物語』で「西八条殿」という語句が登場するのは巻一「三 妓王の事」の箇所です。太政入道(=清盛)が妓王を寵愛して、その妹の妓女とともに西八条殿に住まわせていたのです。妓王は京中に知れ渡っていた白拍子の上手です。京中の白拍子たちは妓王の幸運を羨んだり、嫉んだりしていたのです。3年ほどすると、また加賀の国の者で白拍子の上手が頭角を現してきます。それが16歳の佛と称する女性です。つまり後に佛御前と称されるのです。『平家物語』はこう記しています。「ある時佛御前申しけるは、『われ天下にもてあそばるゝと云へども、当時めでたう栄えさせ給ふ平家太政の入道殿へ、召されぬことこそ本意なけれ。遊者の習ひ、何か来るしかるべき。推参して見ん』とて、在時西八条殿へぞ参じたる。」清盛から召された訳でもないのに、大胆にも自ら出かけて行ったというのです。この箇所が『平家物語』の中での「西八条殿」という語句の初出です。(資料1)ここに所在するのが「若一神社(にゃくいちじんじゃ)」です。 正面の石鳥居には「若一王子」の扁額が掛けられています。この鳥居は西大路通側に面しています。つまり、境内地の西面です。このあたりの位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 鳥居のすぐ傍にある手水舎本殿は南面して建てられています。建物は近年修復された感じです。この神社は、仁安元年(1166)に平清盛が紀州熊野に詣でたおりに信託を授かり、熊野の若一王子の御霊を祭ったのが始まりだといいます。(駒札、資料2)「当地に社殿を造営し鎮守した。平清盛公が御神体に開運出世を祈ったところ、翌年仁安2年(1167)2月10日太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神様として尊崇されている。」(駒札より一部転記) 駒札 屋根の獅子口(左)と桃の飾り瓦(右) 浮線蝶紋が使われています。蝶の紋にも各種ありますが、蝶は平清盛流の代表紋になっています。ここでは未確認なのですが、多分神紋として使われているのでしょう。 石鳥居の前の通路を挟み西大路通に面するところが一段高い盛り土になっていて、そこに平清盛手植えと伝えられる大楠があります。若一神社のシンボルです。 その傍の小ぶりな岩に注連縄が張られています。磐座の一種でしょう。 鳥居傍の石灯籠の前に、こんな表示が立てかけられています。 一日のはじまりは 「にゃくいっつぁん」(=にゃくいちさん)の朝まいりから はじまります 月のはじまりはお一日(ついたち)まいりこじんまりした小さな境内地です。しかしご紹介するものは様々ありです。まずは、境内の南端、御神水舎の西側です。 左の写真は、「平清盛公ゆかりの御神水」の井戸の傍に小社が設けられ、覆屋が奉納されています。右の写真は、平家物語史跡ということで、祇王の歌碑が建立されています。 萌いずるも枯るるも同じ野辺の草何(いず)れか秋にあはではつべき佛御前が西八条殿に勝手に推参したことに対し、清盛は、遊び者なんぞは召されてこそ参る類いのものだといって大変立腹します。追いかえせというのを妓王が取りなすのです。それがきっかけとなり、佛御前は清盛に寵愛されるようになっていきます。妓王が西八条殿を去る際に、忘れ形見にと思い、なきつつ一首の歌を書き付けるのでした。それがこの歌という次第です。(資料1) 歌碑の西隣に手水鉢があります。そして、西側に境内社が並んでいます。 南端には「弁財天社」、その北隣りには「寿命社」がそれぞれ祀られています。弁財天は琵琶を持った容姿端麗な女神であり、七福神で唯一の女神。水を神格化した神様。「福徳円満、財運、技芸上達の神」と説明文が掲示されています。寿命社の方には、次の説明文が掲示されています。「謡曲『高砂』で『おまえ百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の生えるまで』と謡われています。 尉の持つ熊手(九十九まで)は寿福の象徴である相生の松葉を掻き集める道具として縁語物に無くてはならないものです。また、姥の手にする箒(掃「ハク」=百)は清淨にする意味と厄を祓いのける意味があります。”尉と姥”は慈愛と健康長寿の象徴として結納品にも使われ、厄を祓い福を招きよせ、夫婦和合長寿の象徴とされています」なかなか興味深い説明です。本殿の西隣にも朱塗り鳥居があり、2つの社が覆屋の中に祀られています。左が「祖霊社」で、右が「福徳稲荷社」です。境内の中央に長方形の池が造られています。小規模な境内ですが、やはり水辺が設けてあるとなごみのある風情が出て来ます。境内の東側にある社務所の前にも、大きな神木が立っています。 この神木が印象的です。境内をでるときに気づいたのですが、鳥居の傍にこの平清盛像が建立されています。全盛期の清盛像をイメージしているからでしょうか、六波羅密寺に所蔵される晩年の平清盛像とは雰囲気が異なります。ADSUMMUM西大路店に幾度か行く途中、西大路通の西側歩道傍で、町名表示板「七条御所ノ内本町」というのを見ていて、なぜ御所という言葉がこの辺りで出てくるのだろうと不思議に思っていたのです。この若一神社を訪れたことで、西八条殿が西八条御所とも呼ばれていたことに由来するのだろうと理解しました。(駒札、資料3)現在の「七条御所ノ内」には本町、中町、北町、西町という町名があります。そこで、改めて「西八条殿」の規模を捕らえ直してみることにしました。思い出したのが、梅小路公園を探訪した際(2013年2月)の記憶です。梅小路公園内にこの案内板「西八条第跡」が設置されていたのです。案内板に載っている地図を切り出しました。この説明では、平清盛の別邸・西八条第は六町を有する広大な邸宅だったそうです。その跡地は現在の下京区歓喜寺町・八条坊町、南区八条坊町・八条町にあたるといいます。地図と平安京の街路名称と現在の地図での道路の名称対比してみます。西八条第は、 北辺 八条坊門小路 現、木津屋橋通と梅小路通の中間あたり 南辺 八条大路 現、八条通 東辺 大宮大路 現、大宮通 西辺 坊城小路 現、坊城通ということになります。この説明によれば、若一神社の現在位置は、西八条第跡から少し外れてしまう位置になります。「西八条殿」という認識は七条御所ノ内という地名が残る辺りまでの広がりで認識されていたということなのでしょうか。あるいは、西八条第に近いけれども、独立した場所に敷地を設け鎮守社を創設したということでしょうか。複数の伝承があるのかもしれません。改めて迷宮に迷い込んだ感じです。課題が残りました。いずれにしても、現地を訪れてみていただき平清盛の生きた時代に思いを馳せてみてください。最後に、別の観点で一つ補足しておきたいと思います。地図を見ていて気づいたことです。若一神社の境内地の東側の南北の通り名が「西土居通」なのです。つまり、この通りは豊臣秀吉が京に築いた「お土居」の境域だったことになります。史跡探訪は当初の目的外の副産物も発見できておもしろいものです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p27-312) 若一神社 :「京都観光Navi」3) 若一神社 :「京都神社庁」補遺蝶紋 :「家紋の由来」平氏 :ウィキペディア平清盛像 鎌倉時代 重要文化財一覧 :「六波羅密寺」六波羅密寺 :ウィキペディア熊野本宮大社について :「熊野本宮大社」 第四殿は若宮(若一王子)で祭神は天照大神という。若一王子神社 :「和歌山県神社庁」史跡 御土居 :「京都市情報館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2016.11.15
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京都国立博物館での特別展覧会「没後150年 坂本龍馬」については、既にこのブログでご紹介しました。この日、その後北隣にある豊国神社と方広寺に立ち寄ってみました。ここは何度も境内を訪れています。しかし、大仏殿跡に足を運んだ事がなかったのでその場所を確認してみたかったのです。冒頭の写真は、現在京都国立博物館の敷地の北に隣接する「豊国神社」の正面の大鳥居です。この平面図は、京都国立博物館の「平成知新館」入口の右側(東側)に立つ案内板からの部分図引用です。赤字の現在地という矢印の位置にこの案内板があります。豊臣秀吉が建立した大仏殿の建つ方広寺は、現在の平成知新館の入口あたりに、「南之門」が所在しその北側に廻廊で囲まれた巨大なお寺だったのです。発掘調査結果を踏まえた当時の方広寺復元図が青色で示されています。その下に、南之門跡を示す円環(二重円)と廻廊跡を占めす円環がオレンジ色で部分表示されています。平成知新館の建物の大きさと対比してみるとその大きさが偲ばれます。 豊国神社境内の手水舎 唐門(国宝・桃山時代)下段の写真は方広寺大仏殿跡を見てから戻ってみると門が閉じていましたので撮ってみました。入母屋造り、檜皮葺、前後に唐破風にある四脚唐門です。後陽成天皇の宸筆による「豊国大明神」の神額が掛けられています。この門は南禅寺金地院より移建された伏見城の遺構と伝わる門だそうです。(資料1)頭貫の上中央の蟇股は桐唐草文様が彫られ、欄間や扉ほかにも豪華な彫刻で飾られています。正面に出ている木鼻はシンプルな意匠ですが金色の彩色が施されて煌びやかさを出しています。唐門から眺めると、拝殿・本殿が東方向に建てられています。豊国神社は元々は阿弥陀ヶ峰の中腹に創祀された豊臣秀吉を祭神とする神社でした。この場所には方広寺大仏殿が存在したのです。豊臣氏が大坂夏の陣で滅亡し、徳川氏の時代になるや、政策的に社殿は取り払われて神社の祭祀は絶たれます。「明治維新後、政府は秀吉の偉勲を追賞し、明治11年(1878)方広寺大仏殿址の地を卜して社殿を再興し、豊国神社と命名された」(資料1)ことにより、この神社がいまここにあるのです。これもまた、反徳川幕府である明治政府が政策的に復活させた意味合いがあるのかもしれません。京都の町衆にとっては、方広寺大仏殿や豊臣秀吉は、より身近に感じる存在だったことでしょう。 神社境内を北に抜けると、この鐘楼がすぐに目にとまります。日本史上、あまりにも有名な問題の銅鐘です。「方広寺鐘銘事件」です。大きさでは知恩院の大鐘より少し小さいそうですが、重量は82.7トンあり、世界一の重さだとか。知恩院の鐘の重量は70トンだそうです。鐘の高さ4.2m、口径2.8m、厚さ0.27mだとか。この大鐘は慶長19年(1614)に鋳造されたものです。(資料1,2)銅鐘の側面、池ノ間に記された東福寺の僧・文英清韓(ぶんえいせいかん)の撰文した銘文が記されています。その中にある「国家安康」「君臣豊楽」という語句の部分を徳川方が曲解して解釈して、戦の因を導き出して、豊臣家滅亡に追い込んで行ったのです。その字句は現在も歴然と読み取れます。いまはその部分を見やすいように白く塗られています。なぜこの鐘が残されたのか? 徳川方が大坂への出陣理由を正当化する証拠物件としたためにそのまま残さざるを得なかったのでしょう。豊臣家滅亡後にこの銅鐘を撤去し鋳つぶせば、まさに豊臣方に言いがかりを付けるのに悪用しただけであることを自ら認めることになるからでしょう。主張の証拠を残すことで正当化を維持したと思えます。「国家安康」は「家康」の名前を故意に分断している。家康への呪詛と解釈し、一方「君臣豊楽」は「豊臣」の繁栄を願っていると解釈できるという訳です。このイチャモンを慶長19年の8月に豊臣方に投げかけたのです。私は確認していませんが、「鐘の内部には『淀君幽霊姿』と称する斑点があって、大仏七不思議の一つに数えられている」(資料1)といいます。方広寺を訪ねられたら、鐘楼の格子天井を忘れずにご覧ください。 極楽に居るという迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、その他の絵が今も判別できる鮮やかさで描かれているのです。描かれた当時なら、その極彩色の絵像と景色の全体を見上げた人々は陶然とした気持ちになったのかもしれません。 そして、鐘楼内部の地面も忘れずにご覧ください。そこには「方広寺大仏殿遺物九点」(京都市指定有形文化財)が保存されています。「大仏殿関連が銅製風鐸、銅製舌各一点、鉄製金輪四点、大仏関連が銅製蓮肉片、銅製蓮弁、鉄製光背金具各一点からなる。」(説明文転記)「風鐸と舌には銘文が刻まれており、・・・・梵鐘を製作した三条釜座の鋳物師名越(・名護屋)三昌らによって慶長17年(1612)に製作されたことが判明する。他の七点についても、風鐸や舌と前後する時期の製作と考えられる」(説明文転記) 実は、京都国立博物館の西側の庭園にも「方広寺大仏殿所用鉄輪」が保存展示されています。併せて「方広寺大仏殿敷石」も展示されています。京都国立博物館の庭園部分も、見所の一つです。他の貴重な遺物が幾つも展示されているのです。 方広寺本堂 1878年(1880年とも)の再建。その東隣には右の写真、「大黒尊天」を祀る大黒天堂があります。大黒尊天は伝教大師作と伝えられ、鎧を身に着けた姿で、秀吉の護持仏となっていたと伝わるものです。(資料3,4)鐘楼の東には駐車場がありますがその南壁面の傍に、東に抜ける細い通路があります。 左の写真は、その通路を通り抜けて振り返り、西方向をみた景色です。 写真に写る柵の左側が「方広寺大仏殿跡」です。右の写真の案内板がそこに設置されています。 現在、ここは「大仏殿跡緑地」として整備保存されています。緑地内に案内板が設置されています。案内板に併載の「大仏殿平面復元図」を上掲写真に近い形に回転させました。空色の部分が「大仏殿跡緑地」であり、現在地が上掲写真に見える案内板です。棒杭とロープで囲まれた位置に大仏が安置されていたのです。上掲写真に部分的な発掘調査場所が明示されています。2000年遺構の状態確認発掘調査が行われました。その調査結果として、大仏殿の正確な位置が判明し、南北約90m、東西約55mの規模だったと判明したそうです。「発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小鋪石や板石などで位置を地表に明示しています」(案内板より)緑地の南側には、「ケヤキの根株を再生しています」という立て札があります。「方広寺大仏殿跡」の説明文とその他の資料を併せて、大仏殿と大仏についてまとめてみたいと思います。豊臣秀吉は天正13年(1585)関白に就任した翌年に、大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍で工事を始めたのだそうです。しかしそれを中止して、現在のここに大仏の造立を再開したと言います。大仏の造立には、様々な要因から変遷しています。第1回の造立 文禄4年(1595) 高さ18mの木製金漆塗の大仏坐像安置 翌慶長元年に大地震が発生して大仏大破 このとき秀吉は怒って、「国家安穏を祈って造った大仏が、地震の予知もできな いとはなんたることだ。こんなものは信じるに足らぬ」と言い、弓を以て矢を撃 ち込んだというエピソードが伝わっているとか。 慶長3年(1598) 秀吉没す第2回の造立の頓挫 豊臣秀頼が金銅で大仏の再建を続ける。 慶長7年(1602)12月4日 鋳造中の大仏から出火、大仏殿とともに焼亡。第2回の造立 徳川家康の勧めもあり、大仏の再建に着手 慶長17年(1612)3月 高さ約19.1mの金銅製大仏竣工 このおり、鐘銘事件が起こり、豊臣家滅亡の因となる。 寛文2年(1662) 震災で大仏が破壊。第3回の造立 徳川幕府が木造の大仏を造立 徳川幕府が破壊した旧像を溶解して寛永通宝(大仏銭)に改鋳する 寛政10年(1798)7月 雷火により、大仏、堂宇がともに焼失第4回の造立 天保14年(1843) 尾張国の有志が旧大仏の10分の1の木像を寄進 寄進された木像大仏を仮本殿に安置 昭和48年(1973)3月28日の夜、失火により焼失第5回の造立 現在の本堂の本尊 木像金箔で10分の1の大きさという。経緯でみると、大仏そのものは5回被災して消滅していることになります。大仏殿緑地から、再び豊国神社の境内に戻った時には、参道の燈籠に灯火が入っていました。境内側から石鳥居の先に西方向の景色が見えます。鳥居の先にはかつては方広寺への幅の広い道「正面通」が東西に通っていました。現在の正面通は本町通までは幅の広い道ですが、本町通を超えると狭い通りに変化しています。また、この正面通は西本願寺前まではつながっていたと聞いた記憶があります。それが徳川家康の政略で分断されてしまったのです。尚、現在の地図を見ますと、西本願寺の西側の延長線上で正面通は千本通まで続いています。西本願寺については、「天正19年(1591)秀吉の京都市街経営計画に基づいて本願寺は京都に帰ることとなり、顕如上人は六条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことを決められた」と記されています。(資料5)一方、東本願寺については、「顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如上人が継職した。しかし、その後も教如上人は活動を続け、慶長3年(1598)秀吉没、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。」(資料6)と記されています。家康は宗教の一大勢力である東西本願寺の京都におけるバランスをうまくとる一方で、京都の秀吉色を削るという政略を図ったのでしょう。方広寺のある東山のこの辺りは、豊臣政権から徳川政権への変遷との関わりから歴史をふりかえっても、興味深いところです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p114-1182) 『京都地名の由来を歩く』 谷川彰英著 ベスト新書 p196-1993) 方広寺 :ウィキペディア4) 方広寺 :「京都通百科事典」5) 本願寺の歴史 :「浄土真宗本願寺派 本願寺(西本願寺)」6) 真宗大谷派(東本願寺)沿革 :「真宗大谷派 東本願寺」補遺大仏七不思議とは? :「京都トリビア」大仏殿(方広寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」大仏方広寺 京都名所撮影 明治13年 :「国際日本文化研究センター」洛東名物大仏殿餅 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」京都にあった「大佛餅」とはどんなものだったのか知りたい。 :「レファレンス協同データベース」洛中洛外図 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」 この六曲一双屏風の右隻 部分図のうち 2/3と3/3 に方広寺が描かれています。方広寺 網 伸也氏 第219回京都市考古資料館文化財講座豊国祭礼図屏風 :「文化遺産オンライン」豊国祭礼図屏風 京都宝物館探訪記 :「京都で遊ぼう」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2016.11.12
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伏見稲荷大社の裏参道沿いをご紹介したときに、最初に「産場稲荷社」に触れました。産場稲荷社の前の鳥居を通過すると、産場稲荷社の敷地と産場お茶屋との間に、幅の狭い通路が北方向に通じています。そちらに目を向けたとき、「田中社ごんだゆうノ滝」という立て看板が目に止まりました。ここは知りませんでしたので、2016.10.15に裏参道を探訪した際に立ち寄りました。 この道を北に進むと、途中に左、右の写真の道標がありますので、迷うことはありません。右折して、坂道を上って行きます。上り始めると直ぐに、「弓矢八幡宮」の石標が右手方向(南側)に見えますが、後で触れます。 坂道の北側に、一段低くなった場所が境内です。丘陵地の斜面地がたぶん開削されたのでしょう。「権太夫大神」の扁額を掛けた朱塗り鳥居があります。この境内地にも数多くのお塚が祀られています。拝所の建物の北側に「田中社」と刻した石碑が立っています。この右側に「子守大神」のお塚があり、この右側にさらに石段で下に降りて行くと「ごんだゆうノ滝」が設けられています。稲荷山にお塚が無数にあり、同じ神名の石碑もたくさん見かけます。しかし、ここの堂守をされている方のお話では、「子守大神」というのは、ここにだけ祀られているお塚だそうです。 「ごんだゆうノ滝」のあるこの場所は、田中社の行場だそうです。現在は稲荷大社の祭神の一座として田中社が祀られ、稲荷山の荒神峰に田中社の神蹟があり、権太夫大神の扁額を掛けた鳥居があるのはご紹介済みです。これらが相互に関係していることになります。滝口の左には地蔵尊が、右側には役行者坐像、不動明王像、権太夫大神の神名碑が並んでいます。境内のお塚を詳細に拝見してはいませんが、目に止まったいくつかをご紹介します。 中央に「猿田彦大神」、両側に二神ずつ神名を記したお塚、「三皇大神」のお塚 「白龍美財天女」「白玉大明神」「粟嶋大神」などの神名のお塚があります。 特に関心を抱いたのは、この境内地の西端に一段高く作られて少し大きな石造鳥居が前に立つ「光秀大神」というお塚です。その左右には、御剱大神、権太夫大神の神名碑が併記されています。この「光秀」は何をあるいは誰を意味しているのでしょうか?私は即座に明智光秀を連想してしまいました。たぶんそうではないかと推測します。少し調べてみると、福知山市内には「御霊神社」があるそうです。「神社の起り」として、「御霊神社の祭神は宇賀御霊大神であって元来稲を主宰し給う神を祀ったことから五穀豊穣商売繁昌の神として崇められてきました。しかしこの本社を御霊神社と云うのは明智光秀公を祀ったことに由来しています。」(資料1)とあります。 裏参道に引き返す際に、「弓矢八幡宮」に立ち寄ってみました。南側の坂道を上ると、その先に朱塗り鳥居が立っています。八幡宮も朱塗り鳥居は普通でしょう。ただ、八幡鳥居ではなく、ここには台輪のある稲荷鳥居の様式の鳥居となっています。 鳥居の傍に、手水舎と弓矢八幡宮の道場の建物があります。 境内の右側に回りこみます。拝殿とその前の鳥居。その傍に手水が設けられています。石造鳥居があります。ここには「弓矢八幡大神」と記された扁額が掛けられた八幡鳥居が立っています。その先に「弓矢八幡大神」と記された碑が見えます。当日、神事が終わったところのようで、後片付けをされていましたので、写真を撮るのを控えました。知らない宗教法人でしたので、少し調べてみると、和歌山県の日置川町に本部が所在する八幡宮系統の新興宗教法人のようです。(資料2)このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。少し地図をシフトさせて、伏見稲荷大社の裏参道寄りを表示していただくと、後半の位置関係がわかりやすいと思います。 産場稲荷社の北側辺りになりますが、「名勝 大橋家庭園(苔涼庭)」があるのを見つけました。水琴窟の音が聞ける庭があるというのは以前に聞いたこtがあるのですが、所在地を知らなかったのです。機会をつくって一度訪れて見たいものです。産場稲荷社から裏参道を上るプロセスでのご紹介を既にしています。その際、稲荷大社の境内地に入る区域と推測した辺りに焦点をあてました。ここでは裏参道を上り始める最初の段階のある区域だけで目にする不可思議な宗教雰囲気をご紹介します。これらは、稲荷山の持つ宗教的様相の外延として、様々に引き寄せられた宗教世界なのかもしれません。「人種の坩堝」ではなくて「人種のサラダボール」なのだという表現をかつて見聞したことがあります。それをもじると、稲荷大社の裏参道の一部周辺は「宗教のサラダボール」的景観を呈しています。これもまた、それなりに物思う契機となる見聞の場があるとも言えます。まず釈迦堂の扁額を掛けたお堂があります。堂内はこんな雰囲気です。中央に釈迦如来坐像が鎮座します。 釈迦如来坐像の表面が斑なのは、釈迦如来金箔祈願が受けつけられ続けているためのようです。天蓋の両側に吊された幢幡(とうばん)の上部には龍の飾りが付けられています。釈迦堂の右手前の建物に金箔奉納の説明駒札置かれています。参道傍にあるのがこの水盤です。「銭洗弁財天 ザブザブ洗うと財力絶大」という駒札が傍に立てられています。鎌倉には「銭洗弁財天宇賀福神社」という有名な神社があります。(資料3)釈迦堂の傍に銭洗弁財天の水盤だけ置かれているというのがなんとも不可思議。まとめていて思い出したことがあります。以前にここでのブログ記事でご紹介しているのですが、深草の瑞光寺(元政庵)の境内に、「白龍大弁財天」の社が祀られています。そこが、龍神様のご神体より流れ出る水と「白龍銭洗弁財天」としての説明されているのです。銭洗弁財天としては京都で身近にあるスポットということになります。 釈迦堂の傍の建物にて 裏参道を上ると、左側の一角に露天で大きな観音像が建立されています。「子供の健康と知恵の神 聖母観音」の木札が置かれています。その傍に立てられているのがこの駒札です。観音像の指から長い綱が垂れ下がっていますので、この観音像が駒札に記載の観音のことなのでしょう。私には全く読めない文字が観音名の冒頭に記されています。木札と整合していないと思えるのも不可思議なところです。これは裏参道沿いのお塚群の中にあったお塚ですが、ここでご紹介しておきます。赤と青の二つの勾玉巴が目に止まったので撮ったもの。お塚群の中ではちょっと特異な印象を受けました。「太極」と称される「陰陽勾玉巴(寿の字巴)」の図柄に似ているのですが、太極で描かれている巴の配置角度とは異なるのです。(資料4)また、大韓民国の国旗は中央に赤と青に2色からなる「陰陽」で「太極」を表されていますが、この太極とは赤青の色の上下は同じですが、左右の向きが丁度反転しています。青色の色調も異なります。巴の中に点があるので、この点も相違点です。(資料5)目に止まった時に、少し違和感を抱き、記録写真を撮ったのは、以前に見たことがある「太極」図との違いを無意識に感じたからかもしれません。ここの図柄の由来は何でしょうか?裏参道をさらに少し上ると、この「大日本大道教」という石標と幟の立つ建物があります。日本の神仏習合感覚に比較的馴染んでいる私でも、ここはやはり異質感を感じる空間です。 中国で盛んであった道教の系譜を引くようです。両脇の像名が元始天尊、道徳天尊というのが記録写真から判別できます。併せてこの近くには様々な像や碑が建立されています。 水子観音像が祀られています。 鞍馬山という文字の横に毘沙門天の浮彫 裏参道を上るご紹介の折に、参道脇にある「白鷹大神」の社をご紹介しています。この区域は「白鷹大神」の位置から直近の下側辺りになります。上段の左の写真の樹木の直下、石造鳥居の右斜上が「白鷹大神」の社です。裏参道のご紹介の折には触れていませんが、この白鷹大神のすぐ左隣に「光秀大神」と記された小ぶりのお塚が並んでいました。上掲との絡みで補足しておきます。ここは「末廣大神」の扁額が掛けられた鳥居です。しかしその鳥居の色は、稲荷大社の鳥居の朱色とは異質の色合いです。稲荷山の環境では逆にちょっと目立ちます。そして、狛犬像でも狐像でもなく、親子蛙の像が配されています。私の見聞範囲で鳥居の前に蛙像があるのは、少なくとも稲荷山ではたぶんここだけでしょう。これまた異空間への入口という雰囲気を醸しています。鳥居の写真にも写っていますが、なんと「阿佐田哲也大神」という神名碑がここに建立されています。マージャン好きの人は、知る人ぞ知るというスポットのようです。稲荷大社の周辺は、南側には墓域が隣接し、近くにぬりこべ地蔵のある静寂さと祈願の空間です。北側の裏参道の一部区域はなぜか様々な宗教感覚が混在・共存する不可思議な異空間が現出しています。神仏習合をさらに超えた宗教のサラダボール感がみられる興味深くかつおもしろい空間です。そこは逆に、宗教とは何かを考える貴重な空間なのかもしれません。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 御霊神社 :「京都府神社庁」2) 『違いを超えて共に手を取り合って』 林 丈嗣氏3) 銭洗弁財天 :「鎌倉ぶらぶら」4) 太極 :ウィキペディア5) 大韓民国の国旗 :ウィキペディア補遺大橋家庭園 :「京都市都市緑化協会」道教 :ウィキペディア道教とは :「コトバンク」巴 :ウィキペディア元政庵瑞光寺 :「日蓮宗ポータルサイト」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)
2016.10.21
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伏見稲荷大社境内の周辺という意味で一番近いのが、この楼門の右側、つまり南側に写っている建物のあるエリアです。稲荷大社のマップ(資料1)をご覧になるとこのエリアについての記述がありません。つまり、境外ということになります。2014.6.17、2014.11.4および2016.10.5に伏見稲荷大社とその周辺を探訪した時に撮った記録写真から整理して、ご紹介します。6.17と10.5は曇天で、11.4は快晴の日でした。稲荷大社の楼門を通り、外拝殿の右側に回りこむと、南方向の境内地に見える景色です。 東丸(あずままろ)神社一見、稲荷大社の大きな境内社のように見えますが、ここは独立した神社です。この境内に掲げられた「東丸神社由緒略記」の末尾に、「当社は御祭神の邸跡の一部に建っていますので伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社であることを御承知ください」と但し書きがあります。 社務所に隣接した手水舎。蟇股や木鼻などの造形はシンプルです。境内の西側には絵馬掛所があり、そこには祈願の千羽鶴もたくさん奉納されています。よく見ると、社殿に連接する形で前面に山王鳥居の形式が組み込まれた拝所になっているようです。山王鳥居の場合、額束に扁額が掛けられているのが普通ですが、ここは笠木の上の合掌造に「東丸神社」の扁額が掛けてあります。 祭神は荷田東丸命です。荷田東丸とは荷田春満(かだのあずままろ)のこと。江戸時代中期に国学を究めた人物です。その門下には賀茂真淵がいます。その後に現れるのが本居宣長、平田篤胤であり、これらの人々は「国学の四大人(しうし/よんうし)」と称されています(資料2)。「大人(うし)」は語義の一つとして「師匠・学者の尊称」として使われる古語だそうです(『日本語大辞典』講談社)。この細見ご紹介から荷田という姓でピンときた人がおられるでしょう。荷田氏は稲荷神社の社家の一つです。春満自身も江戸中期の稲荷神社の祠官だった人。明治16年(1883)荷田春満(東丸)に正四位が贈位されたことを記念して、春満の学徳を偲ぶ有志の人々が相寄って社殿をここに造営して、当社が創建されたそうです。(資料2)菅原道真、豊臣秀吉、徳川家康、乃木希典などと同様に、神格化された人格神の一人ということになります。菅原道真を神として祀るのは怨霊封じ、御霊信仰という立場から始まっている点がこの中では少し異質ですが・・・。一方、菅原道真が学問の神様として信仰の対象となっている点からいえば、荷田春満(東丸)もまた学問の神様として尊崇されており、共通点があります。「荷田東丸(春満)大人は寛文9年(1669)正月3日この地に誕生、本名は羽倉信盛(はくらのぶもり)と申し幼少より歌道並びに書道に秀れ、長じては国史、律令、古文古歌さては諸家の記伝にいたるまで独学にて博く通じ、殊に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立返らしめんとしました。元禄10年、29才の時から妙法院宮に歌道の師として進講されましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたため、書を学ぶ者皆極端に漢風にのみ走るをみて、古学廃絶の危機にあるを憂え、古学復興こそ急務であるとして われならで かけのたれをの たれかよに あかつきつくる こゑをまつらむの一首をのこして文化の中心たる江戸に下向されました。江戸在住の間、大人はあえて師を求めず、日夜独力孜々として研鑽、傍ら門人達に古学を講じましたが、その卓越せる学識は世に聞え高く、享保7年将軍吉宗は大人の名声を聞き伝え、幕府の蔵書閲覧をことごとくたのみましたので、大人はその間違いなどを訂正し不審の点は細かく説明されました。その後も吉宗将軍より建議並に百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ偽本の跡を絶たれました。享保8年錦衣帰郷された後も、日夜研究著述を旨とされる傍ら加茂真淵など門人多数に講義されておりましたが、古学普及のためその宿願たる倭学校を東山の地に創建せんとして幕府に提出すべく『請創造倭学校啓』を著されましたが志もむなしく、享保15年病を得、ついに元文元年7月2日68才をもって帰天せられました」(由緒略記から転記)元文元年は1736年です。蕪紅女の詠じたこんな句があります。(資料2) 初午や隣ひそけき荷田の宮この句の雰囲気は、稲荷大社を訪れた折りにはいつも感じるところです。稲荷大社の楼門・本殿あたりの賑わいとは隔絶したかの如く、ひっそりとした静けさの中に参拝者が時折訪れているというところです。そこに惹かれて、私は毎回訪れています。 本殿は春日造の建物の様に見えます。千木の交点には単梅の神紋が付けられています。これは荷田氏(羽倉氏)の家紋だそうです。手水舎の南隣に、2つ小社が並んでいます。左の小さい方には、「荷田社」の駒札が立ち、大きい方の社の傍に「東丸神社」の石標が立っています。大きい方の小社は「春花殿」の扁額が掛けられています。ここには「東丸大人御神像」が祀られています。 神社の西隣の建物が「史蹟 荷田東満𦾔宅」です。東丸、春満、東満と異なる表記が使われていますが、全て同じ人物を意味しています。昔は表記にはこだわらなかったのでしょう。どれも「あずままろ」と読ませるのですから。 「建物は寄棟造り、桟瓦葺、玄関に切妻造りの屋根を付した武家風であるが、内部は書院造りとし、各室の襖をとりはずすと二十畳余りの広い部屋となり、講義室となるよう工夫がこらされている。その欄間の意匠も双葉形の透しをそれぞれ変化させ、すこぶる変化に富んでいる」(資料2)そうです。東西と南北の塀の端、北西角は「神事舍」と称される建物です。現存の旧宅は春満生家の一部が残るだけだとか。荷田春満は稲荷神社(現伏見稲荷大社)祠官荷田姓御殿預・羽倉信詮(はくらのぶあき)の二男としてここにあった邸で誕生したのです。(門前に掲示の木札説明より)雄略天皇の皇子磐城王の後裔と伝えられる荷田嗣を祖とする荷田氏が、荷田信幹の子息の代で東・西の羽倉氏に分家したそうです。(資料3,4)春満は「御殿預」の東羽倉家の系統です。 東丸神社の西側に幅の狭い通路があります。その角に石標が立っています。南に向かって道沿いに進むと、再び道標があります。東丸神社の南東方向200mくらいのところです。在の山墓地があります。そこには羽倉家はじめ稲荷神社関連の社家の墓地があるようです。 道路に近い一角に、荷田春満の墓があります。大きな自然石の墓石に「荷田羽倉大人之墓」と刻されていて、背面には享年他が記されています。この墓碑の建立された一角は羽倉家代々の墓石地のようです。その一隅に、別に大きな墓碑が目に止まりました。「羽倉可亭翁墓」の碑です。冒頭に諱(いみな)が良信、字(あざな)が子文で、可亭を号とした人。三峰稲荷社の御殿預を務めた人だとか。顕彰碑を兼ねた墓石のようです。羽倉家が永年稲荷神社と深く関わってこられたことの一例として参考になります。この墓域で目にとまったのが、この自然石の墓碑です。「尾崎潔道之墓」と刻されていて、その右上部分に「稲荷社雅楽創立者」と記されています。 墓域の一隅に石仏群も。 この墓域の近くに、「ぬりこべ地蔵」のお堂があります。「地蔵の前の石に触った手で患部をさするとご利益があるという」(資料5)とのことです。なんと、「京都市伏見区 ぬりこべ地蔵様」という宛名書きだけでもこの地蔵堂に郵便物が届けられるとか。私は目視していませんが、「お堂には『左上奥歯』などと患部を記し、歯痛の平癒を祈るはがきや手紙が山積みされている」(資料5)といいます。右手に錫杖、左手に宝珠を持たれる像高1mたらずの石仏です。京のお地蔵さんとして、歯痛祈願で有名だそうです。「もと直違橋通の浄土宗摂取院の境外墓地にあって、塗込めの堂宇に安置されていたからこの名が生じたといい、塗込めをさらに病気を封じ込めるの義に解した」のではないかという解釈があります。(資料2)このお地蔵様、伝承や古文書、明治3年(1870)の深草村絵図の記載などを総合すると、現在地に落ち着くまでに転々と遷られたようです。1) 稲荷山の奧にあった浄土宗寺院のお地蔵様としての建立 明治の拝仏棄釈の難に2) 浄土宗派の摂取院の墓地(現在の京都府警察学校のあたり)に遷る 深草に旧陸軍第十六師団が明治にできたとき、その場所が兵器庫になることに。 お地蔵様に「立ち退き」の難。深草村絵図はこの辺りに「ヌリコヘ 墓」の記載。3) 現在地に遷る。京都市伏見区深草石峰寺山町 JR稻荷駅からは、前の道を右方向(南)に少し歩き、踏切の傍にある摂取院の手前横の道路を真っ直ぐ東の方向に歩き、突き当たりで再度右折し、最初の辻の少し先です。 JR稻荷駅から数分のところにある「摂取院」の半丈六の地蔵菩薩坐像も一見の価値ありです。「腹帯地蔵尊」として知られています。平安時代末期の作。「遊心六中記」の方で一度ご紹介しています。尚、この2枚の写真は2015.5.8に撮った写真。この辺りの位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。伏見稲荷大社の拝観、観光に訪れる人は多いですが、このあたりの探訪までする人は比較的少ないと思います。ある講座を受講して、その一環で稲荷大社と稲荷山の一部探訪をした折りに、私も知った次第です。上掲の地図をご覧になるとお解りいただけますが、稲荷大社の本殿から白狐社・奧宮を巡り、そこから境内地を南の方向に抜ける道を辿っても、このぬりこべ地蔵の方に行くことができます。 奧宮の近くにお山巡りを始める千本鳥居の参道があります。その傍にこの狐像がありますが、この辺りに行けば、南方向に降る道がわかると思います。この近くで、こんな石標が目に止まりました。神馬の為の墓碑だろうと思います。最後に、上掲の「東丸神社由緒略記」の最後に、「東丸大人と赤穂義士」のエピソードが記されています。江戸在住の荷田春満は、通称羽倉齋(いつき)と称されていたそうです。江戸では多くの門人に古典古学を講じていたそうです。「吉良上野介もまた教えを受けた一人でありましたが、大人は彼の日頃の汚行を見聞するに及んで教えることをやめられました。たまたま元禄十五年に以前から親交のあった大石良雄の訪問をうけ、その後堀部弥兵衛同安兵衛、大高源吾等とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、12月14日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂義士を援助したこともありました」(由緒略記を転記)。春満の若き日に、こんなエピソードがあるのをこの略記で初めて知りました。忠臣蔵には少し関心を持っていますので、購入し積ん読になっている本を少し調べてみると、次の経緯が理解できました。要約と引用で補足します。羽倉齋(=春満)は国学を志し、元禄13年(1700)4月に家光50回忌の勅使となった右大臣・大炒御門経光に随従し江戸に出て、そのまま江戸に住みつきます。吉良邸での茶会に出入し交流のある山田宗?という宗匠が居ました。この山田宗徧の弟子に中嶋五郎作という富裕な町人がいて、五郎作と友人だったのが大石三平です。この五郎作の借家に羽倉齋が住んでいたのだとか。中嶋五郎作は吉良邸の茶会に呼ばれたこともあり、羽倉齋は和歌の添削で吉良邸に出入りしたことがあったとか。大石三平は五郎作と齋の二人から吉良の様子を聞きだしていたといいます。一方、大高源吾は脇屋新兵衛と名乗り、宗匠山田宗?に弟子入りしたと言います。吉良邸の茶会の予定について、12月13日に羽倉齋は大石三平宛に急使を送っていて、文面は巧みにカモフラージュした形で、「尚々書」としてメッセージを明確に伝えているそうです。「彼方の義は十四日の様にちらと承り候」と。その書面が現存するのだとか。羽倉齋には京都の筋から吉良邸の茶会の予定を知ることができるコネがあったのでしょう。そして、12月13日には、富森助右衛門が大石無人宛てに、「彼(吉良邸)ニ、弥(いよいよ)明日客これ有り候段、承知致し候えども、心もとなく候間、齋を以て申し来たり候つもりに付き、今日昼過ぎ、垣見五郎兵衛(大石内蔵助の変名)宿え内々御出下され候」と急報した文面があるそうです。羽倉齋が情報提供の協力をしたという事実がうかがえます。大石無人・三平父子は大石一族であり、赤穂浪士の援助者だったそうです。(資料5,6)次回は稲荷大社の北側周辺に移ります。つづく参照資料1) 大社マップ :「伏見稲荷大社」2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p673) 荷田氏 日本の苗字七千傑 :「笑顔のたまご」4) 伏見稲荷神社 秦氏/羽倉氏 5) (176)ぬりこべ地蔵(京都市伏見区) :「ふるさと昔語り」(京都新聞社)6) 『「忠臣蔵事件」の真相』 佐藤孔亮著 平凡社新書 p120-1237) 『忠臣蔵 -赤穂事件・史実の肉声』 野口武彦著 ちくま新書 p142-143補遺荷田春満 :ウィキペディア荷田春満 :「コトバンク」[補論] 近世稲荷社と荷田春満 :「江戸思想研究ネットワークのブログ」近世国学の展開と荷田春満の史料的研究 :「國学院大学」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 旧伏見街道を自転車で -3 本町通から稲荷大社前を経て直違橋通に
2016.10.20
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前回、八嶋ケ池と大八嶋社で締めくくりました。この写真は大八嶋社の正面です。この前の参道を北に進むと、産場稲荷社があり、ここから右折して伏見稲荷大社の境内地北辺を巡り三ツ辻の分岐点までの参道があります。裏参道という位置づけになるようです。お山巡りのために、本殿をお参りして三ツ辻まで上ってきた参道を帰路にも辿るという代わりに、境内北辺に沿ったこの参道を降りてくる観光客が結構多いようです。10月15日の再訪の折に、私は観光客とすれ違いながらこの参道を上りました。伏見稲荷大社細見という意味で、こちらの参道をご紹介します。 「産場大神」の扁額を掛けた「産場稲荷社」。「産場大明神」の神名が見えるお塚です。産場稲荷社は、お山巡りの最後にお参りするお塚だとか。「願いをかけて”お山”してきた事が産まれる場所」としてお参りする人が多いそうです。「お産場のこんもりとしたお塚の台地に、昔、神の使者である狐夫婦が土穴を掘って住み、子を宿し、産まれた子狐をいつくしみ、育てる愛情がまこと安らかなものであったそうです。」という伝承から、“子宝・安産”の神様として信仰の対象になっているそうです。(資料1)この裏参道にも様々なお塚が群をなしています。かなり規模が大きめのお塚や受付所のあるもの、神社の規模のものまで混在するユニークさがあります。神仏習合、混淆の様が一番うかがえる参道かもしれません。境界地になっているためか、お塚ではなく別の宗教法人と思えるものまであります。区別できそうと思ったものはまずは除外します。特徴的なものをご紹介しながら、裏参道を上りましょう。 「間力大神」。参道に面した端にこの木像が置かれています。正面の朱塗り鳥居の傍に「八霊社(はちれいのやしろ)」という説明碑があります。八角堂の中心に宇迦之御魂命の神像を祀り、各方位にそれぞれの守り干支が配置されているとか。参道から見えるのは、豊受大神の石標が立つこの像です。説明にある守り干支の関連でしょうかこの像の前には、巳(蛇)、犬、亥(猪)などの石像が見られます。この先、裏参道沿いに小規模なお塚がびっしりと並んでいます。一部裏参道と平行してお塚群の中の経路を進むことができる場所があるくらいです。そこを歩いてみますと、その途中に 不動明王石像が祀られて、ちょっとした休憩所まであります。この裏参道を上って気づいたのは、この後もご紹介しますが不動明王像を祀るところが結構あることです。「金祐大神」の扁額があ鳥居に掛かるお塚では、神名碑と共に不動明王像が祀られています。 左の写真は石造鳥居の前に狛犬像が置かれた「高倉大明神」右の写真も狛犬像が置かれ狐像もあります。神名を刻んだ石碑の意匠が特徴的です。 左の写真は正一位を冠した「水越大明神」というお塚。右の写真は「五社大御神」のお塚。これは稲荷大社の五座の神を意味するのでしょうか?それならば、右に併記された田中大御神と一部重複しそう。薬力大御神や末廣大御神は峯上でも既に拝見しています。三星大御神の三星は何を意味するのでしょうか。ネット検索すると、三星神社というのがあるようです。関係性はわかりませんが。尚、三星大神をキーワードにすると、中国語でのサイトが数多くあります。結構広い区域を占める「正吉大神」のお塚。「白鷹大神」の扁額が掛けられた社 「豊川ダキニ真天」の扁額が掛けられたお塚。朱塗り鳥居には「荒木大神」の扁額が掛けられ、「荒木神社」の石標があります。 拝殿と社殿もあり、独立した境内の観がありますが、その周囲にもお塚がたくさんありますから、伏見稲荷大社境内の一部とみなしてのご紹介です。 荒木神社の境内の一角に、右の写真の「口入稲荷大神」が鎮座します。「えん結びの神」だそうで、熱心に参拝している人がいました。その参拝終了を待って撮った写真。小さな狐形の人形は、「縁を結ぶ口入れ人形」。口入れとは「仲人」さんのことで、3体一組の白狐の人形です。ここに置かれているのは、祈願後に家に持ち帰り、願いが叶った暁に。ここに返納されて飾られているのだそうです。 口入稲荷大神の隣には、左の写真「出世身守不動明王」と三十六童子の石像が祀られた覆屋があります。 この覆屋の反対側の一隅にあるのが、石灯籠。元は御所の南にある町屋の坪庭に燈籠として半ば埋められた形で飾られていたものだとか。その燈籠を掘り起こすと燈籠の棹のところに、「足利稲荷大明神」「おくの坊」と刻されていたと言います。「腰痛の神様」として信仰を集めているとか。石灯籠がここに遷された経緯は詳しく記した説明板が掲示されています。現地でご覧ください。この神社の先に、お塚群があります。「十二支守本尊 身代不動明王 おたすけ不動尊 縁結び大神」と記された駒札が立てられた一角があります。 通路の入口に龍神像があります。 そのすぐ傍になぜか幸福地蔵と観音像が。一隅には弘法大師像も。 通路の奧の左側に駒札に記載の諸像が鎮座します。 左の写真は「小松大神」ここも少し大きなお塚。右には様々な集合です。駒札などが立てられています。右の写真が駒札に記載の一つで、稲荷大神石塚としてはお山では最大だとか。他の記載は、白髭大神・最上位経王大菩薩・豊川ダキニ真天・朝日大神・導引大神・脳天大神(=首から上、頭の神様だとか)です。「豊川大神」の扁額を掛けた参拝所のある豊川稲荷もあります。 手水舎、社殿があります。その脇にあるのが、白龍大神・黒龍大神の石標が立つ龍神像です。「豊国大神」の扁額を掛けた朱塗り鳥居の先には、石造鳥居が連続するこんな箇所も裏参道にはあります。「腰神不動明王」を祀る「明竹稲荷宮(ひろけいなりのみや)」。裏参道の傍から、ちょっと石段を降るところに位置します。名前から足腰のご利益祈願と推測します。 毎日稲荷大神と広告稲荷大神の併記された扁額が掛けられた朱塗り鳥居も立つ、お塚があります。毎日新聞社の奉納鳥居も社の前に置かれていますから、毎日新聞社の関連でしょうか。脇道に逸れますが、日本の会社が本社ビルや工場の一隅に稲荷社を勧請して祀っているのは一般的な風習になっているように思います。中でも、有名なのは三井家および現在の三井グループと関係し、独立した神社のある「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」が特に有名です。また、住宅会社が大正時代に高級住宅地の造成開発とともに伏見稲荷大社から勧請されてできた「千里山神社」、平成時代の例では2003年に六本木にあるビルの屋上に勧請された「テレビ朝日稲荷」(非公開)などもあります。(資料2,3,4) 「白狐大神」、「玉姫大神」を祀るお塚。玉姫大神のお塚は稲荷山には大小をあわせ数多くあります。 裏参道には「身代わり地蔵尊」や「眼力大神」のお塚も。 そして、朱塗り鳥居のトンネル参道を通って、三ツ辻に到着します。多くの参拝客・観光客はこの辻から裏参道を降っていくのです。この日、外国人の団体グループとも裏参道ですれ違いました。これで、伏見稲荷大社境内とお山巡りの景観ご紹介は大凡終わりです。詳細に見ていくと、まだまだ見落としがあると思いますが、後は百聞は一見に如かずです。現地を巡っていただき、この神域の不可思議さをご体験ください。今、稲荷社は全国に約19,800社あり、個人の住宅に勧請された屋敷神や会社などに勧請された稲荷社などを含めると4万カ所以上祀られていると言います。(資料5)和銅4年に祀られ始めたとされる稲荷神は当初、秦氏・荷田氏を社家として、秦氏の祀る神として継承されました。それが全国に大きく広まり稲荷信仰の対象となったのはなぜでしょうか。色々な要因があるようです。調べて行くとこんな説明が為されています。1) 古来から水田に稲を作り、米を主食とすることが農耕神の信仰を生み、それが稲荷信仰に結びつく素地がすでにできていたこと。(資料6)2) 弘法大師が東寺(教王護国寺)を開創するに際して、稲荷神社が東寺の鎮守とされます。そして稲荷神が真言密教と習合していきます。弘法大師の教え・真言密教が全国に弘められていくと共に稲荷神が広まって行くことになったこと。(資料6)3) 寺院のお山は女人禁制でしたが、平安時代から京に近い稲荷山には貴族から庶民まで広く稲荷詣でとしてお山に登り信仰することができたので、身近に稲荷神が受け入れやすい神でもあったこと。(資料7)4) 中世から近世にかけ、工業や商業が隆盛してくると稲荷の神格が穀霊信仰、農耕神から殖産興業神・商業神・屋敷神という形に進展し、「衣食住の大祖、万民豊楽の神霊」として信仰され、勧請されるようになること。(資料6,8)5) 豊臣秀吉が伏見城の地に「満足稲荷」を勧請して鎮守としたために、全国の諸大名に大きな影響を及ぼしたこと。追随する大名が現れたようです。(資料8) この満足稲荷神社は、元禄6年(1693)に左京区の東大路仁王門下ル東門前町に遷座して現在に至っています(資料9)。「秀吉が出陣する度に稲荷に戦勝を祈願したところ、稲荷大神の加護を受け一国の支配者となり、『余はひじょうに満足に思うぞ』といったことに因んで、後世になって『満足稲荷』と名付けたものという」とされています。また、豊臣時代に大阪城で祭祀された守護神は玉造稲荷神社だったとか。(資料10)裏参道に豊川大神が祀られていますので、日本の稲荷信仰の系統にも触れておきます。三大稲荷神社と称されるますが、諸説あるようです。そして、笠間稲荷・伏見稲荷・祐徳稲荷神社を三社とする説と、豊川稲荷妙巌寺・伏見稲荷大社・祐徳稲荷神社とする説が有力だそうです。地方により捉え方が異なるようです。伏見稲荷大社が入るのは揺るぎないところです。豊川稲荷妙巌寺は、寺名が付くように仏教系の稲荷です。曹洞宗ですが、妙巌寺の本尊は千手観音で、境内の鎮守として祀られているダキニ天が稲荷神と同一視されて、豊川稲荷として信仰されているのです。(資料11)笠間稲荷神社、祐徳稲荷神社はともに神道系の稲荷神社。笠間稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神。祐徳神社の祭神は、倉稲魂大神(ウガノミタマオオカミ)・大宮売大神(オオミヤノメノオオカミ)・猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)です。(資料12,13)伏見稲荷大社の周辺についてもご紹介してこのシリーズ記事を終えたいと思います。つづく参照資料1) お産場稲荷 お産場茶屋 ホームページ2) 三囲神社 :「三井広報委員会」3) 千里山神社のご由緒 :「泉殿宮」4) テレビ朝日稲荷 :「神社人」5) 『知っておきたい日本の神様』 武光 誠著 角川ソフィア文庫 p216) 『神道史大辞典』 園田稔・橋本正宣編 吉川弘文館 p837) 『事典 神社の歴史と祭り』 岡田荘司・笹生衛編 吉川弘文館 p1348) 『社寺縁起伝説辞典』 志村有弘・奥山芳弘編 戒光祥出版 p499) 満足稲荷 :「京都観光Navi」10) 『稲荷信仰と宗教民俗』 大森惠子著 岩田書院 p154-16211) 豊川いなり ホームページ12) 笠間稲荷神社 ホームページ13) 祐徳稲荷神社 ホームページ補遺干支(2)方位神 :「日本の暦」(国立国会図書館)三星神社 :「八百万の神」三囲神社 :ウィキペディア日本三大稲荷・五大稲荷とは? :「神社と古事記」狐~キスネ(2) ダキニ天の狐・・・仏教系稲荷のキツネ :「神使の館」荼枳尼天 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へ
2016.10.18
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この探訪細見記としての整理をしていて、伏見稲荷大社本殿周辺とお山巡りを幾度かしていながら、紅葉谷が未探訪だったことと、荒神峰に一度登りながら記録写真がないことに気づきました。そこで昨日(2016.10.15)午後、天気が良かったのでウォーキングを兼ねて未訪地主体に再探訪してきました。冒頭の写真は既にご紹介のJR稻荷駅前で眺める正面参道の入口の朱塗り大鳥居です。上賀茂神社、下鴨神社、平安神宮など多くの寺社で朱色が使われています。朱色=丹色であり、丹は水銀を意味します。朱色が魔力に対抗する色と言われますが、機能的には木材の防腐剤として有効だそうです。腐るということが魔に侵されることと解釈するなら、正に古代の人の知恵が丹を塗ることで、魔力を封じ、防腐となる二重の意味を含むことになります。伏見稲荷大社ではこの朱色は「稲荷大神のお力の豊穣を表す色と説明されています」(資料1)右の写真は、訪れた時参道に立てられていた「火焚祭」の幟です。秋の収穫を終え、五穀豊穣を感謝するという目的で行われる伝統的行事です。この祭典の一環として、全国の稲荷信仰者から奉納された火焚串を焚き上げる儀式が執り行われるのです。(資料2)「お火焚き」という神事は、江戸時代から京都で多くおこなわているそうで、一般的には「護摩木」と呼ばれる火焚串を結界を設えた中の火床に投げ入れつつ炊き上げられます。京都のどの神社で行われているかは、一例としてこちらの「お火焚祭」をご覧ください。(「ざ京都」) 左の写真が手水舎です。全景をご紹介しなかったので改めて取り上げます。 手水舎の蟇股は火焔宝珠を中心に草花文が透かし彫りにされ極彩色で華やかです。上下二段に錯覚しそうですが、頭貫の手前と向こう側の蟇股で。朱色の濃淡で遠近が識別できるでしょう。右の写真は、木鼻を撮ったのですが、雲形の意匠になっているようです。 楼門まえの一対の狐像を再掲します。天気と時間帯のお陰で、みていただきやすい写真が取れました。 北東方向に眺めた楼門全景さて、それでは途中のルートは次回として、前回に続きやすい未訪地にまずはワープしましょう。御膳谷奉拝所の傍から始めます。御膳谷奉拝所から薬力社に真っ直ぐに行く参道が「春日峠」と称されることはご紹介ずみです。それが右の朱塗り鳥居の参道です。もう一つが、左の山を降る参道で、こちらが一旦途中まで降って紅葉谷を経由して登り薬力社の近くに出る参道です。幅の狭い参道を降っていくと分岐点の小橋があります。 まずは細い谷川沿いの左側の参道を降ります。 「清滝大神」の扁額が掛けられた石造鳥居がある「清滝社」です。参道を降り右に回りこむと、右の写真の社殿が見えます。 社の内側には、清瀧大神と白龍大神を併記した扁額が掛けられています。社に向かって右側に、谷川の水を引いた瀧の行場が設けられています。ここには参拝受付所の小さな建屋が残っていますが、今は閉鎖されているという案内掲示がでていました。最近はここまで訪れる人が少ないということでしょう。清滝社の周辺にも数多くのお塚があります。谷川を超えて反対側の山道にでます。ここは軽自動車くらいなら上がってこれるくらいの道路が山腹側に続いています。 山道を登って行くと、まず、「晴明舍」です。この建物の右側を回りこむと、谷川への参道があり、「晴明滝」が設けられています。降る参道には横木があり立ち入りは許可がいるようですので、建物沿いに回り、上から撮った滝口が右の写真です。 滝の傍から登っていくと道標にあった「天龍大神」を祀る「天龍社」があります。すぐ近くに、「三本杉大神」を祀る「三本杉社」があります。杉の木がご神体なのでしょう。 「傘杉大神」の扁額が掛けられた「傘杉社」です。 薬力社から参道を降ってくると、こちらの鳥居の方が正面です。御膳谷側からまず降り、紅葉谷を登ってきましたのでここの境内には反対側から入ったことになります。 こちらからは山腹にご神木を玉垣で囲ったところも見えます。 左の写真は薬力社の傍の分岐点から、傘杉社に向かう参道です。右の写真は、「おせき社」の傍から一ノ峰に登っていく山道の傍で、今回初めて気づた道標です。朱塗り鳥居がその参道なのですが、その脇から少し降りたところにこの道標が目にとまりました。近づいて確認すると「右 山科の里 大石良雄旧跡」と刻されています。ここから山科に抜ける山道が通じていて、その途中に忠臣蔵で有名な大石内蔵助が山科で一時期住んでいた旧跡地を経由するということになります。このルート一度探訪してみたいものです。現在も通行可能なのかどうか調べることから始めなければなりませんが・・・・。そして、ここから、また四ツ辻までワープします。これが四ツ辻からの京都市内の眺め。今回撮った写真です。 ここから前回ご紹介のお山巡りの補足になります。右の写真が前回ご紹介の荒神峰田中社への参道です。「田中社 権太夫大神」の扁額が朱塗り鳥居に掛けられています。その左に一部写っているのが、左の写真の石造鳥居です。石造鳥居のある参道が、東山トレイルのルートでもあります。この参道を北に進んでいき稲荷山を降ると東福寺の方に出ることもできます。 鳥居の先には、一見たくさんの磐座が並んでいるかのような自然石を利用したお塚が整然と並ぶ区域があります。その中央に位置するのが、石造鳥居の近くに見えた「御幸奉拝所」です。現在東山トレイルのルートの一部にも組み込まれているこの山道が実はかつての参拝経路だったのです。「この尾根は、古く平安の頃より御幸辺(みゆきべ)と呼ばれ、お山参詣の重要な経路でありました」(資料3)つまり、平安時代には、三ノ峰から一ノ峰にある社への参拝が稲荷神社に参拝するという時代だったのです。そこで、清少納言が『枕草子』の第153段「うらやましげなるもの」に書き残した有名なエピソードが登場することになります。「稲荷に思ひおこして詣でたるに、中の御社のほどの、わりなう苦しきを念じ登るに、いささか苦しげもなく、遅れて来ると見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし。・・・・」という文から書き始め、二月午の日の暁に、参詣に出立し、坂の半ばから歩き始めたのが巳のの刻で、暑くなってきて、涙を流すほどに中社の辺りでバテたということを書いています。どんどん追い越して行く人々をほめ、40歳を超した健脚の女の参詣話を聞きうらやましく思ったことを率直に書き残しているのです。清少納言が歩いたのは多分この尾根道から山の峰に向かったのでしょう。このエピソードの後半はこう訳されています。「四十を過ぎたほどの年配の女で、壺装束といったちゃんとした徒歩の外出姿ではなく、ただ腰のところで着物をたくし上げただけの恰好のが、『あたしは七度詣でをするんです。もう三度おまいりしました。あと四度くらい、なんでもありません。二時ころにはもう家に帰ります』と、途中で会った人にしゃべって、坂をおりて行ったのは、普通の所なら目にもとまらないような女だが、その時は、この人に今すぐなりかわりたいものだと思われたことだった」と。(資料4)また、訳注者は脚注に、『二十二社註式』を引用し、「祭神は、下社、大宮女命、中社、倉稲魂命、上社、猿田彦命」と記し、「昔は山上に上中下三社あり、中社を本社とする」と説明しています。(資料4)宇迦之御魂神は、『日本書紀』では倉稲魂命と表記されており、同一神です。いずれも穀霊神。大宮女大神=大宮女命です。猿田彦命は『日本書紀』の天孫降臨神話に登場しますが、伏見稲荷大社の佐田彦大神との関係は、調べた範囲では明確に言及された書を見つけていません。同一神ととらえられるのかどうか・・・・ネット記事で、佐田彦大神は猿田彦神の別名と記されているのを読んだ記憶はありますが・・・・不詳です。 この区画の傍近くに「横山大観筆塚」が建立されています。これは2007.1.3に東山トレイルを歩いたときに撮った写真です。 遙拝所の少し手前に分岐点があり、その鳥居の傍に、左の写真の「延命地蔵尊」が祀られています。右側の道を下っていくと「白滝」に向かうそうです。ここは未探訪です。右の写真は反対に南側の登りとなる参道で、石段を登った上から振り返って撮ってみました。この道は、北側から荒神峰に登る参道でもあります。荒神峰上にある田中社の背後に至ります。 荒神峰田中社の背後の峰上から京都市内の北側の展望 「田中社神蹟」の石碑が建立されていて、ここでは石造鳥居の前左右に狐像とともに狛犬像も配されています。神蹟碑の周囲には、数多くのお塚が凝集しています。 四ツ辻から参道を上がってきた時の正面石段を降ると、途中に休憩所が参道脇にあります。再び四ツ辻に戻り、ここからは三ツ辻、熊鷹社・新池を経由する参道を逆コースとして降ります。熊鷹社から南に降る途中の最初の分岐点で、八嶋ケ池方向に降りる広い参道に右折して降ります。 (2014.6.17撮影)そのまま参道を進むと「十石橋」です。観光客が多く記念撮影場所となり賑わっていました。これは以前に撮った橋の写真です。 十石橋を渡った傍から左右の景色を今回撮りました。左の写真の先が八嶋ケ池になります。 池の東側を北方向に回りこむと、左の写真の「詠句詩台」という木札の立つ座所が見えます。その先に歩めば「神田」があります。 「神田」の傍に、この説明板があります。 西から眺めた八嶋ケ池 大八嶋社(摂社) 祭神は「大八嶋大神です。「この社は、古来社殿が無く、磐境を以て神鎮まります清淨の地とし、朱の玉垣で囲い禁足地としている。旧社家秦氏の伝によれば、往古山上の荒神峰に祀られていた地主神を現在の地に鎮めたとされ、また旧社家荷田氏の伝では、祖神龍頭太に係わりのある所と伝えられている。」(駒札転記) 納札所の近くに狛犬像が建てられています。 納札所の近くで、狛犬像のすぐ傍にある狐像この稲荷像は、楼門前の稲荷像とは異なり、本町通(旧伏見街道)に面したところにある稲荷像と同様に、尻尾に火焔宝珠をつけています。なぜ、狐が稲荷大神の神使(みさきがみ)と見られるようになったのか?これについてはいくつかの説明がなされています。研究者の考究を要約すると、次のような考え方があるようです。(資料5,6,7)1) 宇迦之御魂神(倉稲魂命)は、穀霊神・稲の神であり、別称で御饌津神(みけつかみ:御食津神)と言われ、当て字で三狐神とも記されたそうです。キツネの古名がケツであることから、御饌津神(三狐神)=キツネ=稲の結びつきができたという見方があります。2) 民俗学者の柳田国男は、九州から秋田に至るまでに狐塚という地名が200カ所以上あるとし、狐塚が田の神の祭場ではなかったという考え方を提示しているそうです。目に見えない田の神を視覚的にとらえるものとして狐が登場してきたのではないかとするのです。狐は人おじせず、出会ってもいきなり隠れたりせず立ち止まってこちらをじっと見たりする習性があり、神の使いとみられやすいこと。そして、狐が春になると山から降りてきて、収穫が終わる頃には山に帰っていくという習性から、田の神として里に降りてきて、山に帰る去来神とみなされたと言います。東北地方にはこの見方が広く受け入れていたとか。稲の神である稲荷大神が田の神と繋がって行き、狐が神使と見られるようになるという考え方です。3) 弘法大師が稲荷大神を東寺の守護神とします。神仏習合の思想がふつうになっていく過程で、稲荷の本地仏が密教での荼吉尼天(ダキニテン)とみなされていきます。真言密教では、ダキニテンの別号を白晨狐菩薩とも称するそうです。もともと、インドでダキニテンは「通力をもって6カ月前に人の死を知り、その心臓を食い、その法を修するものに通力を得させることを説いて瑜珈行者に信仰され」(資料8)ていた神であり、ジャッカルに乗る姿で描写されるようになっていったと言います。ジャッカルが死肉を食うこととの結びつきがそこにあるようです。ダキニテンは大黒天に属する夜叉神です。それが中国を経て日本に伝わる過程で、ジャッカルが生息しない地で狐に置き換えられていき、ダキニテンは狐に乗る姿で描かれるように変容したといいます。稲荷大神とダキニテンが繋がり、狐がそこに神使として結びつくという関係が深まるのだそうです。稲荷神の神使をキツネとする民間信仰(眷属信仰)は中世までさかのぼることができるそうです。(資料7)伏見稲荷大社で見る狐像は、たわわに稔った稲穂、鍵、宝珠を咥えています。稲の神→稔った稲穂→五穀豊穣、稔った稲穂→米を蓄えた倉庫→倉庫の扉→鍵と、私は勝手に連想しています。ダキニ天は左手に宝珠、右手に剣を持った姿で描かれていますので、神使の狐はこの宝珠を咥えているのでしょうか。玉・宝珠は音写である摩尼の訳とされます。「珠玉の総称で、不幸災難を除き、濁水を澄ませ、水の色を変える徳があるとされる」(資料8)もの。如意宝珠という言葉も仏教用語にはあります。「意の如く宝や衣服飲食を出し病気等を除くという空想の宝珠で法や仏徳を譬えたり経典の功徳を表徴的に表す」(資料8)意味なのだとか。宝珠には多分このような意味が含まれたシンボルなのでしょう。序でに、一つ興味深いのは稲荷信仰とは直接関係がありませんが、談山神社の多武峯縁起絵巻という藤原鎌足の伝記を主体にした絵巻の中に、キツネが登場しているのです。鎌足が誕生した折に、鎌を咥えたキツネがどこからか現れて、鎌を捧げたという伝承が絵巻の中に描かれているのです。「鎌きつね」です。ここにもキツネが神の使いとみられていたという事例になるのでしょう。(資料9)もう一つ、脱線ついでに、「いなり寿司」の発祥はどこか? 「愛知県豊川市にある豊川稲荷の門前町で、天保の大飢饉の頃に考え出されたといわれている」(資料10)とのことです。つづく[2016.10.18 追記]資料を調べていて、次の説明を見つけました。補足しておきます。「摂関家の稲荷信仰は、神使の左右神狐が「玉」と「鍵」をくわえている由来にも関係がある。玉は祭神ウカノミタマの魂(たま)、鍵は米倉の鍵といわれているが、その原型は、タマは稲霊をあらわし、カギは稲を刈る鎌であったらしい。」とか。 (『日本の神々 神社と聖地5 山城・近江』 谷川健一編 白水社 p188)また、孫引きですが、『タイムトラベル もうひとつの京都』には、伏見稲荷大社には、玉鍵の信仰があり、「玉は稲荷神の霊徳の象徴で、鍵はその御霊を身につけようとする願望である」とか、「この玉と鍵は、陽と陰、天と地を示すもので、萬物は、この二つの働きによって、生成し化育する理を表している」と意味づけられている」という説明がなされているそうです。また、口に咥えている巻物は知恵をあらわすとか。 (出所 伏見稲荷大社の狐がくわえている物は4種類:「京都観光旅行あれこれ」)さらに、玉を「穀物の倉庫」とみる説もあるそうです。 (出所 伏見稲荷大社:狐がくわえている物とは? [京都府] :「人文研究見聞録」)参照資料1) よくあるご質問 :「稲荷大社」2) 火焚祭 :「伏見稲荷大社」3) 大社マップ :「伏見稲荷大社」4) 『新版 枕草子 下巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 p44-46,p284-2855) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p250-2516) 『日本の古社 伏見稻荷大社』 三好・岡野他共著 淡交社 p92-947) 『日本の神仏の辞典』 大島建彦他編 大修館書店 p1308) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p411,p496,9) 談山神社の多武峯縁起絵巻・奈良の紅葉2013 :「モーちゃんの人生を楽しむブログ」10) いなり寿司 :「語源由来辞典」補遺荼吉尼天 :ウィキペディア【本当は怖い稲荷神社】一生拝まないと祟る?たたりの噂とお稲荷様の真実 :「NAVERまとめ」伏見稲荷大社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へ
2016.10.16
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一ノ峰から三ノ峰に神々が降臨された後、それぞれに社が設けられていたのですが、それが麓に遷されます。社伝によると、山上の社殿が火害で焼失し、永享年間(1429~1441)に足利義教の奏達により山上から現在地に遷座したと言われています。ところが、現在の地には「藤尾社」が既に鎮座していたため、「藤尾社」を深草の藤森に遷座させ、稲荷神社を現在地に遷座させたという経緯があるそうです(資料1)。なお、調べてみるとこの遷座時期についても諸説があります。稲荷神社はさらに応仁の乱(1467~1477)において、山上も麓の本殿も兵火に見舞われ焼失し、再興されるという変遷を経ています。稲荷大社のホームページに掲載の「よくあるご質問」を読むと、麓に本殿が建てられ稲荷大神が遷座された後、山上の祠は廃絶され神蹟と称されるようになったのです。後に神蹟の石碑が建立されて拝所が設けられたことになります。また、「お塚」は「稲荷大神様に別名をつけて信仰する人々が、石にそのお名前を刻んで、お山に奉納したもの」と説明されています。(資料2)さて、冒頭の写真は一ノ峰から反時計回りの続きに参道を降り、下から見上げたところです。 ここに位置するのが「春繁社」です。拝所には「春繁大神」と記された扁額が掛けられています。拝所の先には小ぶりの石鳥居が立ち、その後に神名を刻した石碑がいくつも祀られています。各峰上に設けられていた無数のお塚と比べると玉垣で囲われて、境内地とする規模も大きくて目立ちます。しかしここもまた「お塚」なのでしょう。右の写真は、これから降る参道です。 参道を降ると平坦地になります。ここに「御剱社(長者社)」があります。 鳥居の傍にある手水舎。水盤に注がれる水口の部分に剱が造形されています。なぜか?「御剱社」の扁額が掛けられた石造鳥居が立ち、ここの社殿には「加茂玉依姫」が祭神として祀られているそうです。 御神体はこの社殿の奧にある「御剱石(雷石)」です。この御剱石(雷石)は長者社の神蹟とされ、神祭りの場の一つだったそうです。(説明板より) 御劔石(雷石)の傍まで上ることができます。注連縄が石の周りに巡らされています。『名所都鳥』には、「異形の僧がこの地を訪れ、霊力をもってして石に雷を縛り付けた」(説明板)ということが記されているとか。「近年ではパワーストーンとして話題を集めています」(説明板) 「焼刃の水」と称される井戸社殿左手の奥にあり、御剱石の下あたりにあります。この御剱社は「鉄工の神様、ものづくりの神様として金属加工事業者や製造業者の信仰を集めている」(説明板)そうです。作者は不詳ですが、謡曲に「小鍛治」という演目があります。これは京の粟田口に住んでいた刀工・三条小鍛治宗近が稲荷明神の加護を得て、稲荷明神を合槌に名刀を鍛えあげたという神霊譚を扱った能です。祇園祭の前祭の山鉾巡行において先頭をきる長刀鉾の長刀は小鍛治宗近が打ったものという伝説があります。一条天皇が小鍛治宗近に剣を打たせよとの夢告を得ます。橘道成が勅命を三条粟田口の宗近に伝えるのです。天皇に望まれる名刀を打つには宗近自身に劣らない合槌がいなければできないと答え、即答をしかねるのです。しかし引きうけざるを得ません。進退窮まった宗近は氏神の稲荷明神にすがります。稲荷明神は童子に化して、鍾馗の持つ剣、日本武尊の草薙の剣の故事などを語り、宗近を励まします。力を得た宗近は鍛冶壇に上がり天を仰いで祈ると、稲荷明神が槌を手に現れ、宗近の合槌として働くのです。その結果、剣を打ち上げることができ、その剣は「小狐丸」と命名されます。表には小鍛治宗近、裏には小狐と名を入れ、その剣が勅使に捧げられるというストーリーの能なのです。三条粟田口の北側の路地の奥に、「合槌稲荷」という小さな社があります。小鍛治宗近が稲荷明神の合槌を得て剣を打つことができたことに感謝し勧請して建てた小祠と伝えられる社です。また現在、仏光寺本廟内には、小鍛治宗近の旧跡の碑が移設されて保存されているそうです。(資料3)この磐座がこの深草の地に定住した秦氏集団が祖先を崇敬する拠り所としたのでしょう。それが境内末社・長者社に遷座されることで、ここが長者社の神蹟とみなされたと想像します。それに「雷石」のエピソードが加わり、一方で謡曲「小鍛治」に描かれた神霊譚が人々の間に流布するとともに、この磐座が御剱石とされるに至ったのではないかと、勝手に想像しています。三条小鍛治宗近が稲荷大神を崇敬していたことをシンボライズしていくということなのでしょう。それは、フィクションである『源氏物語』が因となって、そこに描かれた場所が「古蹟」と称される縁で繋がり、それぞれ特定されて説明板や駒札で説明されていく経緯と類似のような気がします。わが地元にある宇治十帖の古蹟などはその典型事例だと思います。人々の信仰心あるいは好奇心、探究心などが具象化された目に見える対象を生み出すことで、そこに逆に思考や精神が投影されて、また己の心を深め高めていくという好循環が生まれるのかもしれません。目に見える形のあるものはわかりやすいですから・・・・・。その一例が仏像でしょう。仏像の影響が神々の世界に及び神像が造形されるという縁を生んでいます。 御剱社の前にもお塚があります。まず興味深いのは、狛犬像があることです。稲荷山での数少ない狛犬像の一つです。さらに希少なのは「乳を飲む狛犬」という意匠の像なのです。赤ちゃん狛犬が母狛犬の乳を飲んでいる姿。子どもの健やかな成長を祈願してこの姿にして奉納されたのでしょう。狐での意匠にしなかったのはなぜでしょうか・・・・。 さらに、鳥居のトンネルを降ります。 「薬力の滝」 「薬力の滝」には、高い位置に突き出された樋から一条の滝水が流れ落ちています。ここは行場としての機能をもつところなのでしょう。水垢離という言葉を連想します。 滝の右隣には石井大神を祀る「石井社」があり、その右隣に「薬力大神」の扁額を掛けた石造鳥居がたつ「薬力社」があります。数多くの小鳥居の奉納がある一方で、草鞋の奉納もここでは行われています。「ねがいかけ草鞋」というそうです。腰痛・身体健康・病気平癒・旅行安全などを願う表れなのでしょう。 薬力社傍の神木 (2016.10.16午後)「薬力の滝」への入口から参道を挟んだ反対側に「おせき社」があります。おせき大神には歌舞伎役者を始め芸能人の参拝が多いとか。「おせき」は「せき」とのかかわりなのでしょうか・・・・不詳です。 (同上 追加2枚) 薬力社の傍にある休憩所が「薬力亭」。のど飴が名物だとか。おせき社の絡みがあるのでしょう。軒下の暖簾には俳優さんなどの名前が白抜きで並んでいます。 (2016.10.15 天気が良かったので、未探訪の箇所を訪ねるために出かけました。その一環で位置関係を再確認しました。写真の追加と説明の一部加筆修正を行いました。 10.15 20:57)この地点は、傘杉社・天龍社・晴明舍などのある紅葉谷に降る参道と、御膳谷・四ツ辻に降る参道との分岐点でもあります。この時は、御膳谷への参道を降りました。「春日峠」と称される道です。 降る途中、狛犬像が目に止まります。やはりここではちょっと珍しいから。 「御膳谷神蹟」への石造鳥居と石段御膳谷神蹟は、「稲荷山三ケ峰の北背後にあたり往古はこの地に御饗殿(みあえどの)と御竃殿(みかまどの)があり三ケ峰の神々に神供をしたところと伝えられています。現在では祈祷殿において毎日朝夕お山の神々に御日供(おにっく)をお供えしています。毎年1月5日の大山祭には故事にもとづいて斎土器(いみどき)に中汲酒(なかくみざけ)を盛り『御饌石(みけいし)』と呼ばれる神石の上に供進されます。 伏見稲荷大社社務所」(駒札転記)この鳥居の左右、少し距離を置き境内に上る石段があります。 石段を上がると、「祈祷殿」があります。 ご覧のように、この境内地にも数多くのお塚が集合しています。その中でも大きいのは、上段右の写真の力松大神を祀る「力松社」と下段写真にある奥村大神を祀る「奥村社」です。こちらが降り側にある御膳谷境内地への石段です。ここは狛犬が石段参道の手前に置かれています。 御膳谷奉拝所 御膳谷を降り始めると、「眼力大神 石宮大神」を併記した扁額が掛けられた「眼力社」があります。 そこから再び降ると「大杉社」です。拝所には「大杉大神 磐根大神」と併記された扁額が掛けられています。 手水の龍頭 神木そして、四ツ辻に戻ります。四ツ辻の分岐で北方向に「田中社 権大夫大神」の扁額を掛けた朱鳥居が見えます。「荒神峰(田中社神蹟)」に向かう参道です。田中社は権太夫大神として崇められているそうです。「この神蹟の後方にまわると景観が開けます。ここでは四辻で見えなかった京都市内中心部から以北が、手に取るように見えます」(資料4)とのことです。この時は荒神峰には登っていません。この参道の西側傍に、東山トレイルのルートがあります。その道が東福寺に通じている道です。青色の丸を追記した場所が四ツ辻。これでお山を一周してきたことになります。ここから後は降るだけとなります。つづく参照資料1) 『伏見の歴史と文化』聖母女学院短期大学伏見学研究会編 清文堂 p41-682) よくあるご質問 :「稲荷大社」3) 『能百番を歩く』 京都新聞社編 杉田博明・三浦隆夫 京都新聞社 p150-1524) 大社マップ :「伏見稲荷大社」補遺小鍛治 :「コトバンク」演目事典 小鍛治 :「the 能.com」小鍛冶:三条宗近と稲荷霊験譚(能、謡曲鑑賞) :「日本語と日本文化」合槌稲荷明神(合槌稲荷神社)(東山区) :「京都風光」名所都鳥 :「国文学研究資料館」 38コマ/全48コマ に稲荷山の記載があります。私には部分的にしか判読できかねます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へ
2016.10.15
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この写真は「四ツ辻」から市内を見下ろしたもの(2014.6.17)です。お山巡りはこの探訪の時に撮った写真をほぼ使っています。下段は東山トレイルを歩く時にこの四ツ辻で眺めた景色(2005.1.2) 四ツ辻には、「にしむら亭」という有名な休憩所があります。標高約165mで、稲荷山の中腹に位置します。元治元年(1864)に稲荷山の麓の庄屋西村家が稲荷神社の依頼を受けて、警備所兼休憩所をここに創業したそうです。昭和44年(1969)に「老舗100年表彰」を京都府知事より受けているお店です。(資料1)このお店の前がお山巡りの分岐地点になります。左の参道を行けば御膳谷経由で時計回りになり、右の参道を行けば、反時計回りで、三ノ峰(下社)→間の峰(荷田社)→二ノ峰(中社)→山頂・一の峰(上社)という風に巡り、御膳谷の方に下り、四ツ辻に戻ってきます。反時計回りの形で、巡っていきましょう。鳥居のトンネルの石段参道を登って行きます。まずは「三ノ峰」です。 鳥居の横に、手水舎があり、鳥居のすぐ前にお塚が積み上がって築かれています。手水舎の後に、この三ノ峰下社御塚の案内板が立っていますが見づらくなっています。 たくさんの小さな鳥居の奉納! 下ノ社「三ノ峰 下ノ社御神蹟 此の処は稲荷山三ノ峰と称し下ノ社の御神蹟の霊地であります 伏見稲荷大社社務所」という駒札が立っています。 この下社に、本殿の中央座に遷された宇迦之御魂神が祀られていたことになります。 現在、この三ノ峰は「白菊大神」と崇められているそうです。(資料2)ここにも「玉姫大神」のお塚があります。傍には白鶴大神のお塚。 様々な神名が・・・・。お塚の興味深さが溢れています。関係者の人々はどれくらいの頻度でお参りに来られるのでしょう・・・・。こんなにたくさんお塚があっても、即座に結縁を持つ大神の場所を見つけられるのでしょうね。三ノ峰とニノ峰との間に、「間(あい)の峰」があります。 荷田社「間の峰 荷田社御神蹟 此の処は稲荷山間の峰と称し荷田社の御神蹟の霊地であります 伏見稲荷大社社務所」(駒札転記) この荷田社の鳥居の違いに気づかれましたか?稲荷大社の大鳥居や千本鳥居とは少し異なる箇所がある鳥居です。稲荷鳥居と同様に、台輪がありますが、扁額が掛けられてる額束(がくづか)という箇所が異なります。荷田社の鳥居は、普通は長方形の額束のところが、合掌状の破風扠首(さす)束になっているのです。手許の本にはこのスタイルの鳥居が載っていないので、調べてみました。「奴禰(ぬね)鳥居」という形式の鳥居のようです。ちょっと珍しい形の鳥居です。京都市内では、新京極通にある錦天満宮境内にある末社・日之出稲荷神社に同形の鳥居が見られるようです。(資料2,3)額束は普通の鳥居と同じ長方形の形で、破風形の合掌造、つまりここでいう合掌状の破風扠首束が笠木の上に大きな形で載っているスタイルが日吉神社に見られる「山王鳥居」です。この鳥居の場合は、台輪はなく、脚脚に藁座(わらざ:根巻ねまき)がついています。(資料4)今回の最後に稲荷大社、つまり稲荷山の周辺のご紹介も少ししたいと思っていますが、「東丸神社」境内の一隅に掲げてある「荷田社」の由来説明駒札をここでご紹介しておきます。「荷田社は東丸神社祭神荷田東丸命の遠祖荷田殷、嗣、早、龍の四霊を合祀しています。和銅4年稲荷大神稲荷山三ヶ峯鎮座の際、最初に奉仕したのが第21代雄略天皇の皇子磐城王の裔である荷田殷であって爾来荷田家は代々稲荷社正官御殿預職をつとめましたが、この祖神のうち特に龍は高徳で学問をよくし弘法大師とも親交あり、龍頭太夫、龍頭太などとしょうせられました。弘仁8年12月13日その帰天のとき、雷鳴風雨はげしく、早咲の梅花悉く裏向きに降ちて黒雲を呼びあたかも龍神の昇天の如くであったと伝えられています。それを記念して荷田家の定紋は一重裏梅花を用いています」(駒札転記)これは社伝の説明だと思いますが、この説明を前提とすれば、稲荷の神が稲荷山の峰に祀られ、まずその祭祀に関わったのは荷田氏ということになります。荷田社が間の峰に祀られているのもその関係なのかなと想像します。和銅4年は711年です。『延喜式』神名帳頭註には、「人皇四十三代元明帝和銅四年辛亥二月十一日戊午。始顕座伊奈利山三ケ峯平処」と記されているそうです(資料6)。これが『都名所図会』の説明文における根拠にもなっているのでしょう。 既にご紹介した『山城国風土記』逸文に書かれている伊侶具秦公が餅で作った的に矢を射ようとしたら、的が白い鳥と化して峯に飛び翔り、山の嶺に「伊禰奈利(いねなり)生ひき」ということから、秦氏が伊奈利を社名として後に祀るようになったというエピソードも、『延喜式』神名帳頭註に引用記載があるようです。このエピソード自体は、穀霊白鳥伝説ということになるのでしょう。稲荷山のある地域を秦氏の集団が開拓し農業を振興し、勢力を拡大して稲荷山(神体山)の神を継承していくプロセスで、荷田氏と秦氏が伊奈利から稲荷へと進展する稲荷明神を共同司祭する形に転化したのだろうと想像します。そこに、東寺を開創する弘法大師空海が関わってくるというところなのでしょう。『稲荷大明神流記』に載るという「龍頭太事」は既にご紹介しましたが、この流記には、弘法大師の側に焦点をあてた伝承も書かれているそうです。「弘仁7年(816)4月のころ、紀州田辺で修行していた弘法大師が、異相の老翁に会った。身の丈8尺ばかり、骨高で筋が太く、内に大権気をふくむ翁であった。この老翁は大師に協力するという約束をして、再会を約して別れる。その後7年たった弘仁14年(823)4月13日に稲を荷ない杉の葉を持った老翁が、二人の女と二人の子を従えて東寺の南門前にやってくるのである。再会を喜んだ大師は一行を手厚くもてなし、しばらく柴守長者の家に逗留させ、東山の一角にある東寺の杣山を利生の地と定めて鎮座させた。これが稲荷明神の起源だというのである。このとき老翁が稲を荷なっていたので稲荷の称号が始まったとされている」(資料6)尚、このエピソードは、稲荷本社が弘仁7年に空海の請いにより稲荷山三ヶ峰から現在地に遷ったという伝承にも繋がっています。また弘仁14年の話は「洛東東寺近郊の農耕儀礼の代表者を空海に宛て、それを稲荷神が祝福することを密教守護誓約の形に仮託したものであろう」(資料7)という解釈もあるようです。その結果、南北朝時代の原画を踏まえ江戸期には「稲荷神影古図」の名での版画が流布したといいます。(資料7)少し脇道に入ってしまいました。 二ノ峰に向かいます。 この刻銘の鳥居を偶然に発見! これって・・・・。 奇術師には、松旭斎天一-松旭斎天洋-初代引田天功という系譜があります。調べてみると、この松旭斎天一とは別人でした。明治後期に活躍した奇術師で、「世界一之危険大奇術 正天一」という触れ込みで興行していたそうです。(資料5) 二ノ峰 手水舎の水盤への注水口のところに菊紋がレリーフされています。これも珍しい部類のように思います。「二ノ峰 中ノ社御神蹟 此の処は稲荷山二ノ峰と称し中ノ社の御神蹟の霊地でもあります。 伏見稲荷大社社務所」(駒札転記)この中社に、本殿の北座に遷された佐田彦大神が祀られていたことになります。現在、ここは「青木大神」として崇められているそうです。(資料2) 3131 3137 ニノ峰付近のお塚群 さらに一ノ峰に向かいます。 一ノ峰にある手水舎と石造鳥居鳥居の傍の石燈籠に「ここが、標高233m 稲荷山 山頂」という表示板が張り付けられています。その傍の駒札に、「一ノ峰(稲荷山山頂) 上ノ社御神蹟 この処は稲荷山一ノ峰と称し上ノ社の御神蹟の霊地であります。 伏見稲荷大社社務所」と記されています。鳥居の扁額には「上ノ社 末廣大神」と記されています。「ここを末広大神と崇める信仰がありますが、これは親塚を建てた以前からつづく信仰らしく、神蹟快修を示す親塚裏面に(明治10年6月、燈明講奉納・末広社)という刻字が見出せます」(資料2)とか。 石段上にある上ノ社の拝所には、末広大神と赤地に白抜きで記された垂れ幕が柱を囲んで掛け回してあります。 ここの狐像も咥えているのは、一方が巻物で、他方が宝珠です。 神蹟碑の後に磐座があります。この上社に、本殿の南座に遷された大宮能売大神が祀られていたことになります。これは三ノ峰から一貫して同じパターンです。つまり各峰に存在する磐座が元々の信仰対象だったということを意味するように受け止めています、 神蹟碑の周囲は奉納された小さな鳥居がうずたかく積み上げられています。その光景に圧倒されます。上ノ社の周辺もまたお塚が凝集しています。稲荷山は標高が233mの山ですが、一ノ峰(山頂)、二ノ峰、三ノ峰と荒神峰(こうじんがみね)の4つの峰から構成された山です。そして、三ノ峰とニノ峰の間が間ノ峰とも称されている訳です。これらの山頂、峰には古墳が築かれていて磐境が多く、古くから祖霊を祀る山・神体山として信仰されていたことがうかがえるところです(資料6,8)。例えば、三ノ峰からは、明治20年代半ばころに、変形神獣鏡が出土しているそうです(資料2)。この稲荷山(神体山)が、伊奈利から稲荷へと進展していく神々を主祭神として尊崇する形に転換していくのです。一書によると、「お塚」は上社、中社、下社のそれぞれの「神蹟を中心にそれぞれ円陣をえがき、いわばストーン・サークル状に配されている。」「お塚の一つ一つが渦巻状に番号を登録されている」というから、これまた興味深い話である。(資料7)稲荷明神の本殿が稲荷山の西麓に遷されて、現世御利益を希求する民衆に幅広く信仰されて行きます。稲荷明神の境内に、主な日本の神々が勧請されて末社として祀られるているのは、稲荷に詣でる信仰者の便宜を図っているという側面もあるかもしれません。ここに来れば主な神々をすべて礼拝できるということになります。その一方で、稲荷山がもともと古墳が築かれ「塚」として存在したところに、様々な神の塚が集まってきて「お塚」が群集する山になっていくというのもまた興味深いところです。結果的に、稲荷山は八百万の神々を大様に深く受容する場所ということなのでしょう。稲荷山は「神様のデパート」的なお山と言えそうです。文献学的には、上社、中社、下社にどのような神が祀られていたのかについては諸説があるようです。現在の当てはめは、神社の『明細図書』によるもののようで、既にご紹介した『都名所図会』は現状とは異なる説明を載せています。近藤喜博著『古代信仰研究』(角川書店)ではその辺りを詳述されているようです。一書には「上社・中社・下社対照表」で神々の対応を要約されています。(資料9)ここからは稲荷山を降りつつ、お山巡りの後半に入ります。つづく参照資料1) にしむら亭 :「京都伏見稲荷参道商店街」2)「大社マップ」 :「伏見稲荷大社」3) 奴禰鳥居 :「神社参拝記」4) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p1295) 世界一之危険大竒術 正天一 二代目天一 天嬢 小天一 :「日本奇術博物館」6) 『日本の古社 伏見稻荷大社』 三好・岡野他共著 淡交社 p837) 『日本の神々 神社と聖地5 山城・近江』 谷川健一編 白水社 p1838) 稲荷三ノ峰古墳 :「古墳探訪」9) 『日本人はなぜ狐を信仰するのか』 松村潔著 講談社現代新書 p56補遺伏見稲荷大社 ホームページ商店街マップ :「京都伏見稲荷参道商店街」伏見稲荷お山めぐり「四ツ辻」と「仁志むら亭」 :「絶景かな.com」松旭斎天一 :ウィキペディア没後100年を迎えた松旭斎天一 松山光伸氏 :「マジックラビリンス」古代 伏見の成り立ち :「伏見区」働く神々 三橋 健氏 :「小さな組織の未来学」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へ
2016.10.13
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稲荷山、つまり「お山」に登る入口、つまり前回の終点の写真です。ここが「千本鳥居」の起点となります。「鳥居奉納のご案内」これは入口の鳥居、左側の狐像も前に、2014.6.17時点で掲示されていた案内です。現在もこのままなのかどうか、未確認ですのであくまでご参考に・・・・です。つまり、この千本鳥居あるいはそれに続く参道に鳥居を奉納したいときの鳥居の費用です。また、建立できる奉納場所に応じて初穂料が異なる旨の記載も付記されています。稲荷大社のホームページには、「鳥居奉納のご案内」というページがあります。(掲載のあることに気づきましたので、早速文章を削除修正しました。) ここの一対の狐像も、巻物と宝珠を口に咥えるスタイルです。参道を進めば、朱色鳥居のトンネルが続き、途中で2つの参道に分岐します。「鳥居の奉納は、願いが通る、あるいは通るようにという素朴な気持ちから生まれた」と言われているようです。(資料1)参道を進み、二手に分岐した参道の右側を登り、抜け出た地点で撮った写真です。この位置から見れば左側がお山に向かって登る参道で、右側がお山からの下りの参道です。分岐する参道では鳥居の笠木・島木の部分が一部交互に重なり合っています。登ってくる側場合は、写真に撮ると朱塗りの柱がびっしりと見える形ですが、柱の山側の半面に奉納者の会社名や氏名が柱に彫り込まれ、文字が黒字に彩色されています。千本鳥居を通り抜けると奥社奉拝所のある少し広い境内があり、通称「奧の院」です。ここは、「命婦谷(みょうぶだに)」と称されてきた場所です。(資料2) 奥社奉拝所 奉納されている白狐の絵馬左の写真は、奥社奉拝所の境内の一隅、千本鳥居の近くにある手水舎です。 奥社現在の社殿は、「寛政6年の罹災後、規模を幾分大きくして造営された」もので、上掲の奥社奉拝所を設けるにあたり、昭和50年(1975)現在位置の後方へと移したといいます。(資料2)小さな鳥居が数多く奉納されています。お山に登れば、もっとすごい奉納光景が見られますこの背後の山が「稲荷山三ケ峰」へと繋がっていきます。奥社奉拝所の右手、石垣の傍に「おもかる石」があります。「燈籠の前で願い事を祈念して石灯籠の空輪(頭)を持ち上げそのときに感じる重さが自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い重ければ叶わないとする試し岩で一般には『おもかる石』の名で親しまれている」(駒札転記)石灯籠の間に立てられた名称表示の駒札には、「おもかる石」の試し方の説明が英文・日本文の併記説明文が付けられています。ここに掲示されているのがこの境内案内図です。左上に「御山めぐり」が全行程約4km、所要時間約2時間と説明されています。東山トレイルのウォーキングは「四つ辻」が分岐点になることまで付記してあります。 再び鳥居のトンネルの中へ バードウォッチング用案内板 奥社奉拝所から少し先にある石に神名が刻され並んでいます。いわゆる「お塚」の始まりです。お塚と呼ばれるのは、祀られた小祠や石碑のことです。塚は祭場、祭壇としての性格を持ったものを称するようです。参道の傍に「根上がりの松」があります。奇妙大明神とも称するよう・・・。松の木の根が地上に上がっていることから、「値上がり松」とゴロ合わせ。その縁起から投資家に崇敬されているところだとか。松の木は枯れていますが、この姿がある限り、信仰心は枯れないでしょう。 参道の鳥居の切れ目には、別の坂道(参道)があったりします。ちょと探訪を・・・・。これは一つの参道を少し上がり、振り返って撮ったものです。坂道を上がったところに境内地があり、「伏見神宝神社」の石標が建てられています。 一対の龍像が狛犬代わりに置かれています。あるサイトでは狛龍と称されています。ちょと珍しい部類です。「神宝宮」という扁額が掛けられた参拝所が前面にあり、「六根清浄」という額が建物内に掛けられています。 進む途中で、分岐する参道を眺めて さらに参道を進みます。朱塗木製鳥居の間にある石造鳥居には「熊鷹大神」の扁額が掛けられています。この先に進むと、そろそろ「お山」が異界に見え始めます。なぜなら、「お塚」が所狭しと参道の両側に無数に立ち並び始めるのです。鳥居と社が一式セットになった比較的大きなお塚、小祠だけ、神名を刻した石碑だけなど、まさに大小様々に祀られています。 神名を判読でない・・・ 福繁大神・大岩大神・白玉大神 例えば、この辺りでも上記の神名が識別でき読み取れます。 白龍大神、その隣は??参道から枝分かれした細い石段道が山腹に築かれて、お塚が上の方にも広がっています。石段を登り切ると「新池(こだま池)」があります。 玉姫大神 薮谷大神 扁額「天地の大神」、貫には金光大神と。この周りにも勿論お塚が林立しています。そして、新池の畔にある少し大きめのお塚が「熊鷹社」です。薄暗い覆屋の中には奉納された蝋燭の炎が揺らめいています。下段の写真は、2012.1.8に東山トレイルを歩く際に立ち寄って撮った写真です 熊鷹社に掲示の新池説明なお、この新池には「行方知れずになった人の居場所を探す時、池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に手がかりがつかめると云う言い伝えがあります。」(資料2)熊鷹社から更にお山を登ります。 鳥居のトンネルの側面からの眺め 三ツ辻 分岐点 参道を左折し、山を下ると八嶋ケ池に 三ツ辻のすぐ近くに三玉亭さん(休憩所) 先の鳥居の石段を上がると、同様に右側に京屋さん。京屋からまた石段を上がると瓢亭さん、そして再び石段を上がると三徳亭さんです。三徳亭さんの前にあるのが三徳社です。 (2016.10.15 午後に再訪しましたので、改めて位置関係を確認できました、説明を補足修正しました。)いずれもお山にのぼる途中の一休み所です。私は今のところ一気に登れますが、いずれは・・・。 榎木大神 写真からは神名が読み取れません・・・ 三ツ辻から四ツ辻に向かう途中にて このあたりで大きいお塚がこの三徳大神。 この鳥居のトンネルの石段を上がると四の辻三徳は通常人の守るべき三つの徳目という意味で使われるようですが、書によって説き方が異なります。『書経』は正直・剛克・柔克を、『中庸』は智・仁・勇を、『周礼』は至徳・敏徳・孝徳を、『荘子』は上徳・中徳・下徳を三徳とするとか。神仏習合という発想で仏教の立場でとらえると、大涅槃がそなえる法身・般若・解脱の三徳になるそうです。仏果にそなわる三徳としては、知徳・断徳・恩徳を意味するそうです。このように「三徳」ひとつでも様々な解釈、説があります。(資料3,4)この三徳大神のお塚は何を願い崇敬されるのでしょう。市井庶民の身近な視点だと、衣・食・住に不自由なきことを叶えてくださる大神ということでしょうか。この「お塚」についてです。現在この稲荷山には1万基を超えるお塚があると推定されています。一書の説明では、伏見稲荷大社の記録によると、明治35年(1902)に633基、昭和7年(1932)に2254基、そして昭和27年(1952)に7762基と急増していったのです。つまり、お塚はなんとほとんどが明治時代以降に築かれてきたのです。それはなぜか? その根源はどうも明治元年発布の「神仏判然令」施行に端を発し、神仏分離の嵐が吹き荒れたことです。それと併せて「勧請の神璽(しんじ)などにそれまでは比較的自由に書くことができた神号もすべて『稲荷大明神』に統一されることになり、その他の神名は一切排除されることになった。そのため、それまでもってきた私的な信仰をつづける場を失った人々が、稲荷山の山中のできるだけ神蹟(峰・塚)に近く、人目につかないところに勝手に塚を築き、私的な拝所をつくるようになったというのである」(資料5)という自然発生的な動きが生まれたとか。「伏見稲荷大社略年表」(資料5)によりますと、明治10年(1877)10月に「稲荷山三峰神蹟標石建立(お塚建立)が認められる」に至ったそうです。法律的にみれば非合法な動きが、合法になったようです。勿論伏見稲荷大社の境内域ですから、それ以降は伏見稲荷大社の管理運営下でのお塚建立手続きが行われているのだろうと推測します。このお塚の急増が明治以降と知った時は意外感がありました。ここお塚には民衆のストレートな信仰心が累積され、異界を形成しているのかもしれません。「お塚にあらわれる神名は実に多様で、複雑にみえるが、伏見稲荷大社を信仰する民衆の心情、願望が素直に表現されているのだとみれば単純明快でもある」(資料4)のです。八百万の神々の世界、それを認めるならば、己の信ずる神名を拠り所にして神と結縁するのも生き抜く知恵かも・・・・・。己の信ずる神を主祭神に、稲荷大明神を相殿とみなせば、お稻荷さんも許してくださるでしょう。なんせ、稲荷山の神蹟にお塚が築かれているのだから。逆発想すれば、稲荷大明神に己の信ずる祭神を相殿にするとみなすことになりますね。お塚は異界ではありますが、お塚の神名を逐次読んでいくと、楽しい場所でもあります。四の辻からはいよいよ「お山めぐり」に・・・・。つづく参照資料1) 『日本の古社 伏見稻荷大社』 三好・岡野他共著 淡交社 p942) 「大社マップ」 :「伏見稲荷大社」3) 『日本語大辞典』 講談社4) 『大辞林』 三省堂5) 『日本の古社 伏見稻荷大社』 三好・岡野他共著 淡交社 p94-97, p141補遺伏見稲荷大社 ホームページ伏見神宝神社 :「御朱印ガイド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へ
2016.10.11
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権殿の北側に立つこの鳥居の石段を上っていくところから続けます。 鳥居の前に配された狐像、ここでは向かって左側が巻物を咥え、右側が宝珠を咥えています。石段を上っていくと参道の左側(北側)に境内末社が並んでいます。 西端にまず「長者社」です。一間社流見世棚造、檜皮葺きで、江戸時代前期の建立。「社殿は、『明応遷宮記録』(1499)に境内社としてすでに現れており、天正の社頭図に本殿の北方に『長者社 西向』と描かれている。社殿の化粧部材はほとんど江戸初期の材が残されており、元禄七年(1694)以前からある建物を現在の地に遷したものと考えられる」(駒札転記)。長者社の祭神は、稲荷神社の旧社家である秦氏の祖神だそうです。その東隣りは「荷田社」です。社殿の構造は長者社と同じで、元禄7年(1694)の建立。「この社殿は、安元二年(1176)、荷田氏の祖・荷大夫没後、『稲荷山の命婦社の南に社を造り霊魂を祀る』とあり、『明応遷宮記録』(1499)には『命婦ノ南ニハ荷大夫明神在之云々』と記されている。元禄7年(1694)、現在の地に再興された」(駒札転記)荷田社の祭神は、稲荷神社の旧社家である荷田氏の祖神だそうです。秦氏と荷田氏の関係は、後で触れたいと思います。 五社相殿(ごしゃあいどの)この社殿は、五間社流見世棚造、檜皮葺で、五社を相殿形式にして、元禄7年(1694)にここに奉祀されたそうです。長禄3年(1459)の記録には各社が境内地に祀られていたことが記されているとか。駒札に記された末社名と祭神名を列挙します。 八幡宮社 :応神天皇 日吉社 :大山咋神(オオヤマクイノカミ) 若王子社 :若王子大神 猛尾社 :須佐之男命(スサノオノミコト) 蛭子社 :事代主神(コトシロヌシノカミ) 両宮社(りょうぐうしゃ)東端には、二間社切妻見世棚造、檜皮葺で、元禄7年(1694)の建立。社名の通り、祭神は天照皇大神と豊受皇大神の相殿になっています。伊勢の外宮・内宮の両宮の祭神が勧請されていることになります。「この社殿は、天正17年(1589)の社頭図に『伊勢両宮南向再興』とあり、神明造の社が描かれている。その後元禄7年(1694)現在の地に社殿が再興された。」(駒札転記)3297外宮の祭神である豊受皇大神は、豊受大神、豊宇気媛神、豊宇気毘売神、豊由宇気神などとも表記されるようです。トヨは美称の接頭語、ウケはケと同じで食の意味であり、「天下万民の食して生くべき食物を主宰する産霊の大神」を意味します。稲荷大社の祭神である宇迦御魂之神、保食神(ウケモチノカミ)、大気津比売神(大宜都比売神:オオゲツヒメノカミ)と同様に、稲の精霊の神格化されたものと考えられているのです。(資料1) 玉山稲荷社石段を上ると境内の正面に、唐破風の向拝が設けられた社が見えます。 祭神:玉山稲荷大神一間社流造、檜皮葺の社殿で、明治8年(1875)にこちらに遷座されたといいます。もとは、東山天皇(1687年即位~1709年退位)が宮中で奉祀されていた稲荷社を天皇崩御後に、「天皇にお仕えしていた松尾月読神社の社家松室重興氏がお預かりした。その後高野(左京区)の私邸内に遷座」(駒札より)を経て、現在に至るようです。 扉の前には白狐が向かい合い、左は巻物を咥え、巻物の一端には総角(あげまき)結びの先に房が付いています。右は宝珠を咥えています。 頭貫の上の蟇股は、鶴に乗る仙人と雲流文が浮彫にされています。この種の意匠はあまり見かけないように思います。 側面の蟇股には、鳳凰が浮彫にされ、屋根の獅子口には菊紋が付けられています。 玉山稲荷社に向かって右隣には、「神馬舎」があります。 左隣は「供物所(くもつしょ)」です。入母屋造、銅板葺、妻入の建物で、安政6年(1859)の建立だそうです。前面に鳥居が建てられていますが、「この建物は、稲荷山に坐す神々への供物をする所として建立、正面中央格子戸の下部に開口部があり、供物を外部より差し入れる特異な形式である」(駒札転記)なお、もとは桟瓦葺だったものが、平成の修理により銅板葺に切り替えられたそうです。また、安政6年に「稲荷山のお塚参りに際しての祈祷所として新設されたもの」 供物所から少し北の方向に進むと「納札所」が ここにある狐の一匹は鍵を咥えています。米倉の鍵でしょうか? 玉山稲荷社の前を右折すると、この区域の南端にもう一つの「神馬舎」があり、左手側に幅の広い石段があって、奧宮が一段高い境内地に見えています。石段を上がると、北側にあるのが「白狐社」(重要文化財)です。その名称の通り、稲荷の神使の白狐、つまり「稲荷大神の眷属を祀る唯一の社」(駒札より)です。古くは『奧之命婦』『命婦社』とも称されていたそうで、「往古の下社の末社『阿古町』ともいわれ」るとか。(資料2)一間社春日造、檜皮葺で、寛永年間(1624~1644)の建立。「元禄7年(1694)までは現在の玉山稲荷社あたりに祀られていた」(駒札より)といいます。祭神は「命婦専女神(ミョウブトウメノカミ)」と称するそうです。この背景には、稲荷明神の神徳を示す一つの説話があるのです。『稲荷大明神流記(るき)』という書に「命婦事」として記されているとか。興味深いので、孫引きですが引用してご紹介しましょう。少し長くなりますが・・・。「昔、京都の船岡山あたりに年老いた夫婦の狐がいた。男狐は銀針を並べたような白い美しい毛並みで、尾は先が巻き上がっていて五鈷杵(ごこしょ)をはさんだようなかたちをしていた。女狐は鹿の首に狐の身体であった。夫婦には五尾の子狐がいたが、それぞれが不思議なすがたをしていた。弘仁年間(810~823)、この夫婦の狐が子狐を連れて稲荷山に来て神前に跪き、『我等畜類ノ身ヲ得リト雖トモ、天然トシテ霊智ヲ備フ、世ヲ守リ物ヲ利スル願深シ、然而(しかるに)我等カ身ニテハ、此望ヲトケカタシ、仰願ハ、今日ヨリ当社ノ御眷属トナリテ、神威ヲカリテ此願ヲハタサン』といった。これを聞いた稲荷明神は喜んで願いを聞き届け、夫は上宮に仕えてその名を小薄(ヲススキ)、妻は下宮に仕えてその名を阿古町(アコマチ)としなさいと告げた。そして十種の誓約をたて力を得た夫婦の狐は、稲荷明神を信仰する人々の夢にも現つにもそのすがたを見せ、お告げを下すようになり、告狐(つげぎつね)とよばれるようになった、というのである。先の白狐社は阿古町を祀った社であるという。」(資料4)阿古町と名付けられたことで、宮中の女官をさす命婦の名称が付いたということでしょう。 向拝の蟇股 左の写真、建物の北側土台下の亀腹と称される弧状の部分の中央付近にご注目!亀腹に開口部が設けてあります。これは床下への出入口構えが作り込んであるのです。祭である白狐に由来する装置、つまり出入口です。「天正17年(1589)に秦継長によって画かれた『社頭図』に『奧命婦』と記された社があり、その左傍に半円形の絵を画き『ホラ』と記してある」といいます。(資料3) 白狐社の左側、つまり東に位置するのが「奧宮」(重要文化財)です。三間社流造、檜皮葺で、身舎側面は二間、向拝三間で、天正年間(1573-1592)の建立。「この社殿は、本殿と同様の流造で建てられ、摂社でも末社でもなく稲荷大神を祀ることから、他の境内社とは別格の社である。『長禄3年(1459)指図』には『命婦』として記され、存在が確認できる。『明応遷宮記録』(1499)には西側に八間の廻廊があったことが記されているが、この廻廊は現存していない」(駒札転記)。元禄7年(1694)に修復され、また平成21年(2009)に解体修理が行われています。(資料4)駒札の記載にありますが、祭神は稲荷大神です。向拝の木鼻は白像に彩色されていて、目元が可愛い印象を受けます。この建物は、蟇股に彩色された樹木や草花が透かし彫りで彫刻されているのを近くですべて眺められるのが一つの魅力です。 向拝は向かって左の蟇股から松、梅、竹の順に。 数えてみると、撮り忘れがあるようです。現地でご確認いただき、装飾彫刻の彩色美をお楽しみください。 奧宮の背面。高欄の架木・平桁・地覆などの先端を覆う金具には菊紋が使われています。 奧宮の傍にある境内案内図奧宮の南側に、稲荷山への鳥居のトンネルが始まる起点があります。ここが、「京都一周トレイル」、そのうちの「東山トレイル」の起点でもあります。2005~2012年には、毎年正月東山トレイルのウォーキングを恒例に行っていたのが懐かしい思い出です。 鳥居入口の傍には、こんな狐像もあります。上掲の「荷田社」に関わる荷田氏のことに触れておきます。稲荷明神に関連し、秦氏とは別系統として、荷田氏の存在があるのです。上記の『稲荷山明神流記』(東寺観智院蔵)には、「龍頭太事」という文章が記されているそうです。龍頭太は、和銅年中以来、稲荷山の麓の庵に住み、昼は田を耕し、夜は薪を樵(きこ)ることを生業とし、その顔は龍のようで顔の上から光を発するという異形の人だったので、人々は龍頭太と呼んだとか。その人は稲を荷なっていたので、姓を荷田氏と言ったと言います。この龍頭太が山中で行をする弘法大師と出会ったとき、この山の山神であると名乗り、真言秘密の法を授けられれば仏法護持のために力を尽くす約束をしたという伝承です。弘法大師は心を打たれ、龍頭太の顔を面に彫り、ご神体とし稲荷明神の竃殿(かなえどの)にかけたといいます。(資料4)一方、『水台記』という稲荷社資料に、「稲荷の山神は頭が龍のごとく光っていて、神人(大己貴おおなむち神)の前に現れて、姓は荷田、名は竜頭太であると名乗り、汝とともに国土を護らんと誓ったとあり、また竜頭太は弘仁年中(810~823)に弘法大師と約束してこの山を護ったと記されている」(資料5)そうです。ここから、秦氏が渡来人としてこの地に定着する以前に荷田氏が稲荷山を神と崇める形でここに住んでいたと考えれます。そして伊奈利(稲荷)信仰が形成される段階で、荷田氏と秦氏が同じ神を祀るものとしての統合化が行われたのではないでしょうか。そして両方が稲荷神社の社家となっていく。それでは、次回は朱色鳥居の連続するトンネルに入っていきましょう。つづく参照資料1) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p1742) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p603) 『伏見稲荷大社御鎮座千三百年史』 p481-482, p4944) 『日本の古社 伏見稻荷大社』 三好・岡野他共著 淡交社 p92-935) 稲荷信仰の成立と展開の諸相 星宮智光氏 『伏見の歴史と文化』清文堂 p44 補遺命婦 :「コトバンク」大己貴命 :「コトバンク」狐と瀬織津比咩(其の五) :「不思議空間『遠野』-遠野物語をwebせよ!-」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へ
2016.10.09
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この境内案内図は前回ご紹介した楼門に近いところに掲示されています。外拝殿のある境内の東に石段があり、さらに一段高い境内地に本殿があります。 石段上の両側には、狐像一対が置かれています。 石段上から違う角度で撮った写真。蒼空の写真は2014.6.17の探訪で、薄墨色の空の写真は2016.10.5に立ち寄った時に撮ったものです。ちょっと立ち止まって狐像を観察してください。JR稻荷駅の前の大鳥居傍の狐、楼門前の一対の狐像、それぞれに違いがあるのを気づかれているでしょうか? 前回、ご紹介しています。それぞれ、何を、どのように、口に咥えているでしょう? ここの一匹の狐は吽形の口元であり、何も咥えていません。私自身、今回初めてこの一匹に気づいた! 何度もこの前を通っていたのに・・・・。意識せず、詳細には見ていなかったのでしょうね。石段を上がると、正面に「内拝殿」の唐破風屋根の向拝が見えます。兎毛通の上部に付けられた飾金具の中央には菊紋が浮き上がった造りになっていて、輪?も飾金具が施されています。ここも全体は朱色をベースにしながら、極彩色です。 大瓶束の両側には鳳凰と花咲く桐の木が桐の木が透かし彫りされています。 蟇股の内側には、尻尾の先端に宝珠を付けた白狐が透かし彫りされています。これは稲荷神社ならではの造形でしょう。 木鼻の意匠は極めてシンプルです。 向拝にむかって右側面の蟇股を撮ったもの。別の箇所には、火焔宝珠を彫り込んだ蟇股も見られます。この建物の周囲を反時計回りで巡ってみましょう。 左の写真は内拝殿、右の写真が本殿で、南側面です。2つの建物はこういう風に連なっています側面から内拝殿、本殿の内側を部分的に眺めることはできますが、写真撮影は禁止。 左の写真は本殿の背面(東側)、右の写真は本殿背面の北角から西方向の眺め。 北側面本殿を北側から撮ったところ。この写真が本殿を比較的理解しやすいものと思います。社記には「ウチコシナガシ作四方ニ高棚有ケタ行五間五尺ハリ行五間五尺」と記され、「稲荷造」と称されているそうです。応仁の乱の折に本殿が焼尽し、仮殿復興を経て、明応8年(1499)に諸国勧進の結果として再興された建物だそうです。(資料1)建物の説明が先になりましたが、現在の祭神についてまとめてみます。(資料2)主神は三座、相殿として二座、合わせて本殿は五柱の神が鎮座します。伏見稲荷大社のホームページに掲載の写真を拝見すると、五座の神々は、建物内に横一列に鎮座し、それぞれの神の前方には扉がある形です。素直に理解すれば、5つの神の個室が横並びで、観音開きの扉が前面にあるというイメージになりまます。実際はどうなのでしょか・・・?主神は次の三座です。 宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ) 中央の鎮座 下社と称す 佐田彦大神(サタヒコノオオカミ) 北方に鎮座 中社 大宮能売大神(オオミヤノメノオオカミ) 南方に鎮座 上者相殿は次の二座です。 田中大神(タナカノオオカミ) 最北端に鎮座 下社摂社 四大神(シノオオカミ) 最南端に鎮座 中社摂社これら五座の神々の総称が、「稲荷五社大明神」であり、通常、稲荷大明神、稲荷大神と称されるのです。この図(資料3)は、江戸時代に出版された『都名所図会』に掲載の稲荷神社です。今風にいえば観光ガイドブックにあたります。そこには「三の峰稲荷大明神の社」という項目名で説明されています。三の峰を「みつのみね」と読ませています。もともと、稲荷の神々は稲荷山の峰上に祀られていたのです。この書では、「往昔そのむかし人皇四十三代元明帝の御宇、和銅四年二月十一日午うまの日、子之山に出顕し給ふ」と説明し、「永享十年に社を三の峰より今の地に移すなり」と記しています。(資料4)永享10年とは、室町時代で、西暦1438年です。和銅4年は711年。この江戸時代の絵図と現在の建物配置との大きな違いは、内拝殿です。昭和36年(1961)に本殿修理の際に、本殿を原形にに戻し、内拝殿を増築して、その正面に向拝を取り付けられたのです。一方、この唐破風の向拝は、豊臣秀吉が本殿を修理した際に修理後に本殿に付け足したものだそうです。(資料5)本殿のある区域には、いくつかの建物があります。本殿の南側にあるのが、「神楽殿」です。これも『図会』には描かれていません。手許の資料に情報がありませんので、調べて見ると、明治15年(1882)に能楽殿として建設されたそうです。それが現在、神楽殿として使用されているのです。(資料6)神楽舞が奉納されています。 舞台の屋根 正面の造形 獅子口の中央には、神紋が見えます。懸魚のタイプは蕪懸魚です。懸魚の上の飾金具には、稲穂の束が交差する形の図が円の中にレリーフされています。 舞台の正面の柱の両上隅に龍の透かし彫りに今回、初めて気づきました。いつでも神楽舞の奉納や雅楽演奏ができるようにセットされています。 橋がかりの左側に連接する建物。能舞台の鏡の間はこの建物内になるのでしょう。 その前の樹木の傍に、石灯籠と句碑があります。石灯籠は、鎌倉時代のものに、火袋から上が昭和に復元補作されたといいます。昭和29年(1954)に加寿賀会が寄進されたとか。設計は川勝政太郎博士、施工は石工新谷素男氏。句碑は山口誓子の句が刻されています。 稲穂舞 早苗挿す舞の仕草の左手右手 誓子 石灯籠の近くに「神供水」(井戸)があり、左側の奧にある建物は「神饌所」です。本殿の南東方向、井戸の東方向に「神輿庫」があります。本殿の背後で、神輿庫の北側。本殿の境内区域と背後の稲荷山山腹との境界になっています。稲荷山を御神体とした遙拝所という位置づけでしょうか。説明はどこにもありません。絵馬に代えて小さな鳥居が数多く奉納されて掛けられています。 その前方、本殿の背後、北西側に位置する「権殿(ごんでん)」(重要文化財)です。五間社流造、檜皮葺で、寛永12年(1635)の再興建立です。これは上掲絵図に描かれています。「この社殿は、『明応遷宮記録』(1499)によると『御殿ノ北ニハ仮殿 若宮ト云也是ハ遷殿トテ本社造営ノ時、此宮ヘ御ウツリ也 為其仮殿ト申ス也』とあり、この頃には建立されていた様である。」(駒札)昭和34年(1959)東北側に移築されたと末尾に記されています。 右の写真は、権殿の屋根の獅子口です。経の巻の先端とともに、中央には菊紋が施されています。左の写真は権殿北側の鳥居と奧宮への石段参道です。神主さんが移っている左側(北)には、社務所があり、西側には講務本庁の建物があります。省略します。ここで触れて補足しておきたいのは、前回ご紹介した外拝殿のある区域の南側です。一つは、背後に神楽殿が見える場所に、駒札の立てられた木が植えられています。 モクセイ科の落葉高木で、学名は「ひとつばたご」だそうですが、「なんじゃもんじゃの木」という通称がある木です。明治時代、東京の青山練兵場(現、明治神宮外苑)の道路沿いに植えられていた木の名前が分からないので、「何の木じゃ?」と語られているうちに「なんじゃもんじゃ」の木と通称されるに至ったという説があるようです。(資料7)絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)に指定されてもいる木だそうです。(資料8) 「なんじゃもんじゃの木」より、少し南にあるのがこの「お茶屋」です。この写真を撮った2014年11月時点では、左側の門柱に「社務所第一別館」という木札が掛けてありました。寛永18年(1641)禁中非蔵人として出仕していた羽倉延次が、後水尾上皇より拝領した仙洞御所にあった建物だそうです。創建は17世紀はじめとされていて、寛永20年(1643)に移築したと伝えられるとか。書院造りの建物が数寄屋造りになっていく過程を示す貴重な遺構だといいます。入母屋造り、桟瓦葺き、腰廻りを桧皮葺とし、主室が七畳の茶席だとか。邸内には他の茶席もあるそうです。重要文化財、非公開です。(資料1,5)羽倉家は、稲荷大社の祠官として仕えた家系の一つです。伏見稲荷大社のことに一歩入ると、様々に興味深いことがわかってきます。前回、石標の写真を載せています。『延喜式』神名帳には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座(並明神大。月次・新嘗)」と記され、三座が同列で、月次祭(つきなみさい)、新嘗祭(にいなめさい)には朝廷から奉幣をうける明神大社に列する神社として扱われています。式内社は山城国に八座あるのですが、明神大社は稲荷神社だけでした。(資料9)神名帳には、「三座」と記載があるだけです。稲荷神社の創始起源については『山城国風土記』逸文に有名な話が載っています。「風土記に曰く、伊奈利と称(い)ふは、秦中家忌中(はたのなかついえのいみき)等が遠つ祖(おや)、伊侶具秦公(いろぐはたのきみ)、稲梁(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃(すなは)ち、餅を用ひて的(いくは)と為ししかば、白き鳥と化(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔ひて、社の木を抜(ねこ)じて、家に植ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を植ゑて蘇(い)きば福(さきはひ)を得、其の木を植ゑて枯れば福あらず」(日本古典文学大系2『風土記』岩波書店)つまり、餅が白い鳥となり、山の峰に飛び去りそこに稲が生えたので、伊奈利という社名が付けられたという社名起源説話です。ここで餅は稲霊(いなだま)、穀霊の象徴となっています。それが稲荷と表記するようになるのは、イナリの化身である老翁が稲を荷なって現れたという伝承があるからのようです。(資料9)そこで、『都名所図会』に再度触れておきますと、このガイドブックには、「本社第一宇賀御魂神・第二素戔嗚尊(スサノオノミコト)・第三大市姫(オホイチヒメ)(巳上)・田中社・四大神、この二神を併せて五座と称す。弘長三年に告げあって文永年中に併奉るなり。(『神祇拾遺』)また田中社の客人(マロウド)神、大歳神(オホトシノカミ)は鶴と化して稲の実を含んで来現し給ふ」とあり、「上の社は宇賀御魂・伊弉諾(イザナギ)・伊弉册尊(イザナミノミコト)を崇め奉る」と説明しているのです。(資料4)稲荷大社の主神三座の神々は、現在の神名に至る過程で諸説があり、変遷がみられるのかもしれません。宇迦之御魂大神は、天照大神の弟・須佐之男命(スサノオノミコト)の子で、またの名を豊受気毘売神、若宇迦売神、保食神、大宣津比売神などとも称する神だそうです。同様に、佐田彦大神は国津神であり大土御祖神とも称し、大宮女大神は天太玉命の子で、天之宇豆売命(アメノウズメノミコト)とも称するといいます。(資料2)大市姫命は、大山津見神(オオヤマヅミノカミ)の娘で、須佐之男命と結婚し大歳神と倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)を産んだとされる五穀神だそうです。(資料10)稲という五穀の中心となる植物を食物神として崇め、そのもとに結束して子孫反映を願ったのでしょうね。秦氏が繁栄の礎となる稲作の技術をも持っていた。そして秦氏の支族が稲荷山の麓一帯を開拓し稲作を広げていったのではないでしょうか。勿論そこには先住者との確執もあったかもしれません。つづく参照資料1)「大社マップ」 :「伏見稲荷大社」2) REC講座「稲荷信仰と伏見稲荷大社」レジュメ資料 (2014年前期:講師 宮本三郎氏作成)3) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p211-2155) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂6) 境内案内 伏見稲荷大社 :「古都めぐり」7) なんじゃもんじゃの木 :「季節の花 300」8) ヒトツバタゴ :ウィキペディア9)『日本の古社 伏見稻荷大社』 三好・岡野他共著 淡交社 p82-8610) 大市姫命 :「冲館稲荷神社」補遺伏見稲荷大社 ホームページナンジャモンジャの木ナンジャモンジャ :ウィキペディアナンジャモンジャの名前の由来 :「しろとり幼稚園」ヒトツバダゴの育て方 :「ガーデニング花図鑑」延喜式 トップページ 左の目次から「神祇九」→「山城国」→「紀伊郡」で稲荷神社に。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へ
2016.10.08
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この写真は昨日所用でJR稻荷駅で降りた序でに、九州への台風上陸の影響で天気が思わしくなく曇天でしたたが、本町通(旧伏見街道)に面した表参道前の朱塗り大鳥居を撮ったものです。伏見稲荷大社です。朱塗りの鳥居とその右方向(南)にあるこの狐像とを併せて眺め、外国人はまず興味を惹かれるのかもしれません。勿論、日本人観光客も同様でしょう。黒ずんだ胴体の後ろ脚を高く上げ、口には大きくたわわに実った稲穂を咥え、尻尾の先には火焔付宝珠が金色に光っています。これは岩に飛び降りてきた瞬間でしょうか?境内に多くの狐像があると雖も、これほどダイナミックなのは記憶にありません。こちらが通りの西側にある「JR稻荷駅」です。ここから北西方向に少し行くと、京阪電車の稲荷駅があります。また、南側のJR踏切を渡り、疏水沿いに南方向に5分位で、京阪電車の深草(龍谷大前)駅もあります。伏見稲荷大社への交通機関は整っています。目的地に行く前に、本殿辺りまでちょっと立ち寄ってみました。稻荷駅ホームで多くの外国人観光客を見かけますが、まさに境内はそのままの感じで日本人観光客よりも多そうにも見えるほどでした。今回は、繰り返し訪れてきたこの伏見稲荷大社とその周辺について、一度今までの写真から様々なシーンを抽出して、再認識のために整理してみることにしました。 表参道 鳥居の正面からの景色 参道を東に進みます。 今、参道の両側にはこの幟がズラリと立ち並んでいます。なんと、外国人に人気の観光スポット2016として日本国内3年連続第一位と記されています。下部に英文で、この日本文の趣旨が翻訳されています。しかし、この幟そのものは日本人向けのアピールなのでしょうか? それはさておき、この写真の背後は、表参道北側沿いの築地塀に区切れた開口部と石段があり、北に境内空間が開いているのです。 2014.11.4背景に聳える現代建築は「儀式殿」です。この境内にある末社等を向かって左側(西)からご紹介しますと、 熊野社 祭神:伊邪那美(イザナミ)大神元禄7年(1694)建立、一間社春日見世棚造、檜皮葺の社殿です。1959年に現在地に移築されたとか。「この社殿は、平安末期に流行した熊野御幸において、上皇らが稲荷奉幣を行った際、立ち寄り拝礼されたと伝えられる社である。」(駒札より) 藤尾社 祭神:舎人(トネリ)親王江戸初期の建立。一間社流見世棚造、檜皮葺の社殿です。「この社殿は、日本書紀を編纂した舎人親王を祀る社で、天正17年(1589)の社頭図に『藤尾天皇再興 南向』とあるのが初出である。その後、延宝8年(1680)には天皇塚の崩れた後に小社を新築したとの記録がある」(駒札より) 霊魂社慶応3年(1867)に建立された、一間社春日造、檜皮葺きの社殿です。「この社殿は、瑞穂講社並びに講務本庁の特別崇敬者等、当社に係わり深い物故者の御礼が合祀されている」(駒札より)これは、まあある時期日本でブームとなった企業墓の原型になるのかもしれません。大きな由緒ある神社を訪れると、同種の社を目にします。 見世棚造というのは、「流造や春日造の階を省略して棚を付けた」形の小型社殿様式を称するそうです。(資料1)表参道の一角にこの石標が立っています。『延喜式神名帳』では「官弊社」であり、「大社」に位置づけられていたことがわかります。2つめの大鳥居を前にした景色です。この鳥居の右方向には、交通安全祈願の「車祓所」スペースが設定されています。表参道の南側築地塀を境にして、その南側に駐車場と通路があり、車でここまで乗り付けてご祈祷してもらえるのです。このスペースの東、楼門への石段の右側には、歌碑が建立されています。前川佐美雄氏(1903-1990)の詠まれた歌の碑です。 あかあかとたたあかあかと照りゐれば伏見稲荷の神と思ひぬ調べて見ると、大正10年に竹柏会「心の花」に加入、佐佐木信綱に師事し、プロレタリア歌人同盟を経て、新芸術派に転じ、昭和9年(1934)に歌誌「日本歌人」を創刊した人だとか。「朝日新聞」歌壇の選者でもあったようです。昭和-平成時代の歌人です。(資料2)鳥居をくぐると、楼門への石段手前、左側には大きな手水舎があります。すべて朱色で統一されています。こういう華やかさと異国情緒が外国人観光客にまず魅力を感じるのかもしれません。少し見ていると、大概の観光客がこの楼門前で記念撮影をしています。楼門は天正17年(1589)に豊臣秀吉が建立したといいます。天正16年(1588)6月、母大政所の病気平癒を稲荷大社で祈願してもらったところ、霊験が効き平癒したそうで、翌年に本復御礼の奉加米をもって、この楼門を再興したとされています。入母屋造、檜皮葺です。というのは、稲荷大社には秀吉による「命乞いの願文」という文書が伝来されているそうです。母大政所の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加するという内容なのだそうです。(資料3) 石段上、楼門前の狐像 楼門の左右には、帯剣し、左手に弓、右手に矢を持ち、背には靭を負う近衛府の官人の姿をした随身像が正面を向いています。これら随身は随神とも呼ばれ神像です。そして、よく見ると楼門にむかって右側の随身はその口が阿形、左側の随身が吽形という形で、お寺の山門の二王像のごとく、阿吽形に造像されているのです。左を矢大臣、右を左大臣と通称されているようです。随身が鎮座しますので、随身門とも称されます。(資料4)江戸時代中期の元禄7年(1694)に、社頭拡張を行うために、楼門を西方に5間移築し、前方の石段の造成と、それまで築地塀であった南北廻廊部分を、切妻造、檜皮葺の廻廊で絵馬掛所として新造されたそうです。「昭和48年(1973)の楼門解体修理の際、再興当時の墨書が発見され、当社の中では本殿に次いで古い建築である」(駒札末尾より)ことが明らかになったのです。このことが、上掲「命乞いの願文」の伝来の事実確認に繋がったと言われています。 楼門を通り抜け、内側から眺めた廻廊と楼門 楼門の隅角部軒見上の斗栱の構造が三手先で美しい形をしています。また、木組みの先端は金色に輝く飾り金具で覆われていて、木材の先端を保護し、飾り金具には菊文の意匠です。屋根の側面部は三ツ花懸魚で比較的シンプルな意匠ですが菊文主体の飾り金具との均斉もとれていて落ち着きを感じさせます。楼門の先には、「外拝殿」が配置されています。間口5間奥行3間の入母屋造、檜皮葺の建物です。 南東の位置からの眺め 少し、表参道の雰囲気写真を補足しておきます。 2005.1.2 初詣の様子 2010.1.3 初詣の様子 20012.1.8 楼門近くの大鳥居から西の眺め 「稲荷祭」の間立てられる幟 2015.4.244月20日の最近の日曜日に稲荷祭(神幸祭しんこうさい)、5月3日に「稲荷祭(還幸祭かんこうさい)の行事が行われます。(資料5)4185 2016.10.5 楼門前石段から表参道を眺めて訪れた時、大半の人が外国人観光客のように思えました。私もそのうちの1人に思われていたのかもしれません。では、本殿の方に向かいましょう。つづく参照資料1) 神社建築 :ウィキペディア2) 前川佐美雄 :「コトバンク」3) 「大社マップ」 :「伏見稲荷大社」4) 随身門 :「コトバンク」5) 祭礼と行事 :「伏見稲荷大社」補遺伏見稲荷大社 ホームページ伏見稲荷大社(お稲荷さん) :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 伏見稲荷大社細見 -2 内拝殿・本殿・神楽殿・神輿庫・権殿・お茶屋 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -3 長者社・荷田社・玉山稲荷社・白狐社・奧宮ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -4 千本鳥居・奥社奉拝所・新池・お塚・三ツ辻ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -7 清滝社・晴明舍・天龍社・傘杉社・御幸奉拝所・荒神峰田中社・八嶋ケ池・大八嶋社ほか へ探訪 伏見稲荷大社細見 -8 産場稲荷社~裏参道~三ツ辻 へ探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)へ探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)へ
2016.10.06
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大念寺から阿為神社を巡り、安威古墳群の西端に向かいます。冒頭の写真は古墳群のある山並みの西方向です。西端の北側は開削されて追手門学院のキャンパスがあります。写真の左端にある高い建物が学校の一部です。阿為神社の所在する安威3丁目から南方向に町中の道路を通り抜けて行きます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。通り沿いの街角で見かけたお地蔵様。 屋敷の塀を折り込んだ形で小祠と石燈籠が設けられたりしています。 安威2丁目に安威小学校があります。この西側に、「旧跡 安威城跡」の石標と説明板が設置されています。説明板傍の建物に「安威二丁目12」という住所表示板が貼られています。上記の地図で位置関係がおわかり願えるでしょう。安威城は室町時代の在地領主安威氏の城(居館)があったところです。この地図は講座資料に引用されていた「安威城跡図」です。安威城は内郭と外郭の二重構造になっていたそうで、黒い太線が内郭で濠に囲まれていて、外郭は細い線の部分で、土塁で囲まれていたと言います。現在も東北部と南部に土塁の痕跡が残っているそうです。(資料1)花園山の頂に砦があり、ここの城とが一対のものと考えられているとか。現在の安威小学校の東側にある南北の道路と村の中央を南北に走る道路の位置がほぼ濠だったところで、その間が内郭に相当するそうです。また、安威小学校敷地の西側道路と北側道路あたりが、外郭の西側及び北西角側の土塁の位置になるようです。『大阪府全志』によると、東西100間・南北150間の規模の城(居館)とされています。(資料1,説明板)石標の立つ傍での一例ですが、この細い通路の先にある竹林の先が外郭の土塁(東側)になるあたりだとか。「外郭は、今もその多くが竹林となって旧地形を残しています」(説明板)とあります。「1586年(天正14年)に安威五左衛門了佐が茨木城の代官になった頃、安威城は廃城になったものと思われます」とのこと。(資料2)安威1丁目を通過して、追手門学校前を通り過ぎてしばらく道沿いに西方向に進むと、道路沿いの右手(北側)に「大織冠神社」の石標、石段と石造鳥居が見えます。石段はちょっと急勾配。石段のほぼ上部から鳥居を見下ろした景色。 石段を上がりきった正面に古墳の横穴式石室入口が見えます。ここが「将軍塚古墳(将軍山1号墳)」です。その傍に、右の写真の石標が立っています。この古墳が藤原鎌足の墓と伝承されているのです。説明板を読みますと、江戸時代になってこの将軍塚を藤原鎌足の墓にあてるようになったそうです。石室内に祠(ほこら)をつくって神社の形式が整えられたといいます。「毎年10月16日には、京都の九条家から使者が来て、反物二千匹を持参し、お祭りをされていた」とか。勿論それ以前から、安威の人々はここを阿威山であり藤原鎌足の墓と崇敬し伝承されてきた歴史があるようです。この古墳を考古学的にみれば、山頂を利用した横穴式石室を主体部とする円墳。「石室は、羨道が玄室の片方によったいわゆる片袖式」で花崗岩が使用されていて、玄室の規模は4.5m×1.7m、高さ2.4m。5枚の天井石がのせられているものだそうです。古墳時代後期、6世紀後半の造営と推定されています。(説明板、資料1)前回触れていますが、大織冠は鎌足が死の前日に天皇から賜った冠であり、飛鳥時代の冠位では最高位にあたります。それが「藤原鎌足の特称」(『日本語大辞典』講談社)にもなったのです。この神社は阿為神社により祀られているそうです。『摂津名所図会』には、「大織冠古廟」としてこの絵が掲載されています。(資料3)この1号墳を左側に回っていくと、かなり傷み始めていますが「将軍塚古墳」の説明板が立っています。 その傍に、石室が見えます。これは1号墳の近くに位置した古墳時代前期造営の大型前方後円墳(2号墳)の竪穴式石室を移築したものなのです。フェンスで囲われていることと、雑草がかなり繁っていて、観察しづらくなっています。「この付近に産しない結晶片岩を用いて竪穴式石室を造っていた。石室には12枚の天井石がのせられU字型の粘土棺床が造られていた」といいます。「実際の石材を用いて、もとどおり竪穴式石室に造ってあるのでこの構造を知る上に参考になるもの」(説明板)と記されています。全長6.4m、幅1m、高さ0.8mの石室だそうです。(資料1)2号墳が実際にあった場所を下りましたが、そこはすべて造成された住宅地に変貌しています。住宅地内の通路の位置とカーブから、説明を聞くと後円部の縁の状況がなんとなく理解できるところでした。2号墳は山丘の頂上を利用した全長およそ107m、後円部径70m、前方部端の幅44mという規模の前方後円墳だったそうです。講座資料から引用しますと、将軍塚古墳群はこんな位置関係になります。今では、1号墳の周辺が大織冠神社の境内として保存されるだけとなっています。その北側は開削されて学校のキャンパスとなり、南側は丘の斜面が住宅地となって広がっています。住宅街の坂道を下り、北中学校の傍まで来ると、 かなり大きな池のある「耳原(みのはら)公園」があります。そこで少し休憩です。「耳原公園は、耳原大池と、その外周部約4万5千平方メートルの敷地に日本庭園をイメージして整備を行いました。」(資料4)とのこと。公園の中央付近には桜や梅が植えられていて、カルガモやコサギなどの野鳥が見られるといいます。公園の一角に、「糠塚跡」という説明碑があります。「糠塚」の由来と利用が古記録にあるという説明が記されています。一つは『摂陽群談』に「耳原村の西にあり。天正年中明智日向守此の地を穿ち糠秣等埋めしめ、軍用とするの古墳たり。是を以て時の人糠塚というの所伝なり。」とあるそうです。もう一つは『大阪府全志』に、「天正1年(1573)8月28日和田伊賀守・茨木佐渡守等は足利義昭の命を奉じて糠塚に陣し、郡山に陣せる信長の武将荒木信濃守村重・池田筑後守輝政と白井河原で闘う。」と記されています。北中学校の西南の隣接地のここに「糠塚」があったのです。北中学校の南東方向で、この公園の東側の近くに「鼻摺古墳」と称される方形墳があります。一辺33m、高さは約5.5m、四方が濠で囲まれていたそうです。濠の幅は南側で12m、北・東・西側は約7m、深さは約1.4mと昭和35年(1960)に実施された発掘調査でわかっています。2回の発掘調査で出土した須恵器から、この方墳の築造年代が6世紀から7世紀初め頃と考えられているそうです。(資料1,説明板)この方墳からほど近いところに、「耳原古墳」と称される径23mの円墳があるのですが、私有地内にあり傍の道路を通り過ぎるだけになりました。「安養寺」という浄土宗のお寺の前を通過するときに、門前に立てられている「弥陀名号板碑」の説明を受けました。 蓮華座の上に南無阿弥陀仏の名号が刻されています。その右側に「逆修善根人数十二人」と記され、また大永5年(1525)の銘も入っています。この板碑の場合には、「逆修」という言葉は「生前に自分の死後の供養をすること」を意味していて、信仰心篤き12人の人々が一緒に供養を行ったというものだそうです。こういう形式のものが残っているのは比較的めずらしいとか。以前の探訪で墓地の一角に逆修の文字が刻されたものがありました。それは、「年長者が若い死者の供養をする」(『日本語大辞典』講談社)というものでした。 この安養寺の前の道路が、西国街道です。 西国街道を東に歩むと、「阿為神社御旅所」があります。路傍に道標が立てられていて、「歴史の道 西国街道」の表示もでています。ここから少し歩き、阪急バスの「耳原」バス停が今回の探訪の終着点となりました。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。御旅所の前から西国街道をそのまま東に行けば、徒歩15分程度で、宮内庁が比定する「継体天皇陵」(太田茶臼山古墳)があるとのことですが、現地解散時刻のこともあり、オプションとして脚を伸ばすのは止めました。当初の解散予定地で今回の探訪のご紹介も終わりです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) REC講座「関西史跡見学教室27 ~茨木・安威~」当日配布レジュメ (2016.9.8 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 安威城跡 :「発見!探検!いばらき観光」(茨木市観光協会公式ウェブサイト)3) 大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会 (コマ番号332/380参照) :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 耳原公園 :「茨木市」補遺摂津 安威砦 :「城跡巡り備忘録」安威城跡 :「大阪府」大織冠神社(藤原鎌足公古廟) :「大念寺」継体天皇陵 三嶋藍野陵 :「宮内庁」太田茶臼山古墳(継体天皇陵) :「古墳のある町並から」大織冠鎌足神社 大和郡山市にこの名称の神社があるそうです。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 茨木・安威を歩く -1 地福寺・桑原・安威古墳群・道標 へ探訪 茨木・安威を歩く -2 大念寺・阿為神社・安威古墳群 へ
2016.10.01
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冒頭の写真は、地福寺のある高台を下り、曲折する安威川に架かる2つの橋を渡って、次に訪れた「大念寺」です。石段の上に、薬医門形式の山門が見えます。境内の背後(北側)には「花園山」があり「安威古墳群」となっています。この裏山で7基の古墳の存在が確認されているそうです。(資料1,2)まずは、石段前に立ってのご紹介から始めます。石段の左側に、この石標が立っています。山門に向かって左方向には、「阿為神社」の扁額を掛けた石造鳥居があります。鳥居の先、参道の分岐あたりをズームアップしますと、右の写真にある「式内郷社 阿為神社」と刻された石標と石灯籠が見えます。 石段の少し手前、右側にはこの顕彰碑が建立されています。その傍に、右の写真の小祠が祀られています。残念ながら文字が判読できず、資料も見つからずともに不詳です。山門を入ると、こんな手水が置かれています。 左側に鐘楼があり、北西に見えるのが納骨堂。右の写真が納骨堂のある西側から眺めた本堂です。享保6年(1721)に建立された大念寺の建物群は老朽化が進んだために、昭和49年(1974)に新築、落慶されて現在に至るそうです。残念ながらかつての建物の姿はわかりません。このお寺は「阿威山善法院大念寺」と称されます。現在は浄土宗(総本山知恩院)に属するお寺です。しかし、お寺の創建由来は飛鳥時代まで遡ります。前回触れていますが、元々7世紀中頃に、鎌足の縁戚にあたる中臣藍連(なかとみのあいのむらじ)がこの地域に居住していて、「藍(あい)」と称されていたそうです。その「あい」という音に当てはめる漢字が、阿為・阿井・阿威等と書かれ、現在の「安威」という地名に転じてきているようです。大念寺に隣接する神社は「阿為神社」と称され、大念寺の山号は上記のとおり「阿威山」です。舒明(じょめい)天皇の時代(629~641)に中臣鎌足が慧穏法師(えおんほっし)をこの地に招き仏堂を建立したのがはじまりだそうです。鎌足は子息を師に与え出家させます。それが後の定慧上人です。なおこの定慧には孝徳天皇の御落胤という伝説があるそうです。鎌足は斉明天皇2年(656)、病床でこの花園山に鎮座する三宝大荒神(さんぼうだいこうじん)の夢告を得て、寺院の建立を発願したといいます。大念寺に伝わる『大織冠縁起』(略称)によると、慧穏法師は開山上人となることを辞退され、定慧上人が開祖となって「阿威山善法寺」が創建されたのです。創建当時は南都六宗の一つである三論宗のお寺だったそうです。(資料2,3)『日本書紀』には、天智天皇は即位した翌年の冬10月10日に、鎌足の家に出向き、衰弱が甚だしかった病の鎌足を見舞われたこと。15日には、大海人皇子を鎌足の家に遣わして、大織の冠と大臣(おおおみ)の位を授け、藤原氏の姓を下賜したことが記されています。その翌日16日に藤原鎌足は亡くなったのです。日本世記という書には50歳で自宅で死亡したと記されいるとか。(資料4)中世はこの地域は九条家(藤原氏)の荘園であり、この寺は藤原鎌足をまつる『大織冠廟堂(たいしょくかんびょうどう)』と呼ばれて栄えたようです。しかしその後、兵火等により荒廃衰微したとか。安土桃山時代の天正年間に、京都大山崎の大念寺にいた専誉流念上人が安威を訪れ、浄土宗の念仏道場として再興されたといいます。天正18年(1590)に大山崎の大念寺より寺号をいただき、『阿威山善法院大念寺』と称し、「阿弥陀如来をご本尊とする浄土宗の念仏道場を確立した」そうです。さらに、現在の大念寺については、江戸時代の第7世住職、往誉頓随上人(おうよとんずいしょうにん)が、「享保6年(西暦1721)に、専誉上人建立の仏堂を旧跡の地に移し、鎌足公ゆかりの場所に大念寺の伽藍を整備した。すなわち現在の地であります」(資料2)という経緯になります。本堂の中央内陣には、本尊阿弥陀如来立像と脇侍が祀られています。本尊に向かって、左側外陣に安置されている仏像の写真を撮らせていただきました。毘沙門天立像 明治の神仏分離により阿為神社より移座されたと伝わる像。寄木造。平安後期の特色をみせる一方で、初期慶派の作風もうかがえるそうです。(資料1)この像は、茨木市指定文化財の彫刻第一号なのです。(資料2)中央には、浄土宗寺院として復興再建(開山上人)された専誉流念上人坐像が安置されています。 地蔵菩薩立像(通称:雨乞い地蔵) 一木造で衣文は刻まれていず彩色されていたとか。12世紀造立と指定されているそうです。(資料1)「大昔、近くの安威川の淵に流れ着いたところを村の人が発見し、当寺におまつりされたといういわれのある霊像です。雨が降らないとき、このお像をもとの淵に運び、拝めば雨が降るという言い伝え」(資料2)があるそうです。右側外陣には、阿弥陀如来坐像や釈迦涅槃仏像その他の諸像が安置されています。詳しくは、大念寺のホームページの「仏様・歴史的文化財」というページに写真入りで公開されています。ご参照ください。今回限られた時間の中で、もう一つ境内にある石塔を拝見しました。この宝篋印塔です。塔身の一面(西)に阿弥陀如来像が半肉彫されてますが、他の三面は種子、つまり梵字で金剛界四仏の残りを刻んでいる形式です。つまり、阿閦如来(東)、不空成就如来(北)、宝生如来(南)の三仏です。 隅飾は単弧素面で、その形式から14世紀の造立と推定されているそうです。相輪の欠損部分が後補されています。(資料1,3)宝篋印塔の傍から境内墓地域を抜けて、「阿為神社」を訪れます。大念寺境内を抜けて神社参道に入り、参道を見下ろしたところがこの写真。上掲の阿為神社参道分岐点で、右の道を進むと、この参道坂道です。神社境内に入ると、手水舎がまず見えます。右の写真は境内案内図です。 境内の北側に社殿があります。唐破風屋根の向拝所と拝殿の建物が見えます。本殿部分はその背後です。 千鳥破風の上部、獅子口、丸軒瓦、懸魚、兎毛通など、様々な部分に「上り藤」の紋章が陽刻されています。藤原氏の家紋では「下り藤」の紋章が代表的に使われています。一説では藤原氏の本家と分家を区別するために「上り藤」が使われたといいます。(資料5)阿為神社は『延喜式』所載の阿為神社に比定されているそうです。石標に「式内」の文字が刻されているのはそれに由来するのでしょう。社伝によれば藤原鎌足の勧請で創建されたとつたえられていて、中臣藍氏がその祖神(天児屋根命)を祀ったとされています。(資料6)藤紋が神紋に使われるのはたぶんその関連なのだろうと想像します。 社殿前に置かれた狛犬の表情はちょっと愛嬌がありおもしろい。社殿にむかって左側には、社殿に近い方から眺めると、 金山彦神社と市杵島姫神社が覆屋の中に並んでいます。この両社の間に小さな石祠がありますが、稲那神社(祭神・倉稲魂命)だとか。右の写真はその南に位置する鹿島神社(祭神・武甕槌神たけみかづち)です。写真を撮れませんでしたが、その南側には出雲神社、秋葉神社、八幡神社が勧請されています。 社殿の右側には、山の斜面上に、大年神社(年神を祀る:左)、菅原神社(祭神・菅原道真:右)が順に並んで祀られています。この境内からは、南方向にこんな風景が広がっています。 菅原神社の右手方向には、朱色の鳥居が連なり、石段を上がって行くと、稲荷神社があります。この稲荷神社は、明治四十一年に耳原字百舌鳥野の式内社の村社「幣久良神社(みてぐらのじんじゃ)」(稲荷天明神と称した)をこの阿為神社境内に合祀したものだそうです。(資料7)この稲荷神社の左側を進むと、上の写真ですが、安威古墳群の中の円墳らしき盛り上がりが見えます。下の写真はその円墳の傍に道らしきものがあり、先に進めば、確認されている円墳のいくつかはなんとなくわかると言います。大念寺の裏山・花園山です。探訪時間の関係もあり、奥までは行きませんでした。社殿から南に真っ直ぐ下る参道石段と石造鳥居。こちらが正面参道です。この鳥居の前の通路を左に少し進めば、秋葉神社、八幡神社のそれぞれの石造鳥居が設けられていたようです。『摂津名所図会』を参照すると、阿為神社は次のとおり、簡略に説明されています。「鍬靭(くわゆぎ)。[延喜式]に出づ。安威村(あいむら)にあり。今苗森明神と称す」(資料8)余談ですが、定慧上人について、触れておきましょう。一つは伝説からみのお話。鎌足の長男定慧は、孝徳天皇が鎌足を気に入っておられて、天皇が寵愛されていた妃を鎌足に与えられたのですが、この時妃は既に懐妊されていて、生まれた子が定慧であり、次男として生まれた実子が不比等だという伝承です。この定慧という人は、慧隠に師事し学び、白雉4年(653)、遣唐使に随って渡海し、唐の長安で二十数年修行して、白鳳7年(678)9月、帰朝して大念寺に入ったそうです。(資料3)定慧の渡海した年月が事実だとすると、「阿威山善法寺」は、定慧が唐に留学・修行中に建立された寺ということになります。もう一つは、定慧が唐の五台山に居た時に、鎌足からの夢告で談峰(=多武峰)に鎌足の墓を築くと子孫が繁栄すると述べられたというものです。帰国後に定慧が不比等に父の死を尋ねるとその夢告が正夢だったと言います。そこで、阿威山の遺骸を取り出して談峰に改葬し、その上に十三重塔を建てたという話です。これは『多武峯縁起』や『元享釈書』に所載の「多武峰定慧」伝に記されていることのようです。一方、この時、多くの安威村の住人の反対に遭い遺体の頭部だけを改葬したという伝承もあるといいます。(資料3,9,10)阿為神社から、将軍塚古墳群に向かいます。つづく参照資料1) REC講座「関西史跡見学教室27 ~茨木・安威~」当日配布レジュメ (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 阿威山大念寺 ホームページ3) 56.大念寺 :「発見!探検!いばらき観光」(茨木市観光協会公式ウェブサイト)4) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p233-2345) 藤紋 :「家紋の由来」6) 阿為神社 :ウィキペディア7) 阿為神社 :「神奈備」8) 大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会 (コマ番号329/380参照) :「国立国会図書館デジタルコレクション」9) 父鎌足の廟・妙楽寺建立 :「世の中に昔語りのなかりせば」10) 歴史の真実とは 談山神社の謎 十川昌久氏 :「歩いて郷土の歴史を学ぶ会」補遺古代史探求2013: 古代史ニュースは面白い By 喜多暢之 :「Google Books」年神 :ウィキペディア大念寺 :「大山崎町」大念寺 :「山崎観光案内所 山崎私的観光案内」阿武山古墳小考:鎌足墓の比定をめぐって 高橋昭彦氏 論文 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 茨木・安威を歩く -1 地福寺・桑原・安威古墳群・道標 へ探訪 茨木・安威を歩く -3 安威城跡・大織冠神社・将軍塚古墳・ 鼻摺古墳ほか へ
2016.09.30
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安威は「あい」と読みます。茨木市の一地域ですが、かつては摂津国島下郡に属する四郷の一つです。この安威地域にある史跡を見学する講座に参加しました。その復習を兼ねて記録写真を整理し、ご紹介します。JR「茨木駅」前に集合し、まずは安威の北部までタクシーに分乗して移動します。府道46号線(旧道)の「桑原」バス停が最寄りになります。冒頭写真は高台でタクシーを下りて、北方向を眺めた景色です。それほど高くはないですが、山々が間近に見えます。後で地図を調べますと、山間を南に流れる安威川の上を府道46号線(新道)が高架となって横切っています。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。安威川は丹波亀岡の竜ヶ尾山を水源とし、南流して平野を形成しています。安威はその北部にあたり、古代には中臣藍連の拠点地であり、中世に安威氏が在地領主として活躍したそうです。(資料1)最初に訪れたのが「地福寺」です。現在は浄土宗に属し、山号は桑原山。石段を登り山門をくぐると、正面に本堂が見え、手前右側に観音堂があります。全体的にお寺の建物が新しいのです。なぜか? 元々地福寺のあった場所が安威川ダム事業により水没地となるため、西方高台の現在地が代替地となり移転されて、平成15年(2003)に新築されたのです(資料2)。翌年に本堂再建新築落慶法要が厳修されています(資料3)。『桑原山地福寺縁起』によれば、孝徳天皇の時代に中臣鎌足が創建し、鎌足の長男定恵の師である僧恵隠の開基と伝えられているそうです。中臣鎌足がこの安威の地で蘇我氏打倒を祈り、蘇我入鹿暗殺の計画を練ったといわれているとか。藤原鎌足没後、ここに廟があり、後に奈良の談山神社の地に移葬されたと伝わっているのです。(資料1,2)645年の大化改新の後に、鎌足は藤原姓を天皇から賜ります。「平安末期には九条家領の安威荘が展開した」地であり、安威の「北方の山中には桓武天皇の兄である開成皇子の伝承をもつ山岳修行系の寺院」が展開しているそうです(資料1)。九条家は藤原北家ですので、中臣鎌足以来この地域が藤原系統に踏襲されていることになりますね。手許の辞典で九条家を引くと、次のように説明されています。「藤原氏の一支族。五摂家の一つ。藤原(=九条)兼実に始まり、京都九条殿に居住。摂関に任じられたほか、鎌倉幕府との関係が深く、頼経、頼嗣はそれぞれ四代・五代将軍となった」(『日本語大辞典』講談社)。現在の地図で見ると、北方向に大門寺・千提寺・忍頂寺という地名がありますので、山岳系寺院の展開と多分関係するのでしょう。調べていませんのであくまで想像しての解釈ですが。門を入った左側に手水舎本堂には、本尊阿弥陀如来坐像が安置されています。中世には真言寺院でしたが衰微し、天正年間(1573~92)に専譽流念が浄土宗寺院として再興したとされ、現在に至ります。新築された故でしょうか、頭貫・蟇股・木鼻の文様はシンプルです。正面に「地福寺」の扁額が掛けてあります。本堂の右側には、地蔵堂があります。石造地蔵菩薩立像が祀られています。 観音堂内には、御堂風の厨子が見えます。堂内に入り拝観することができました。厨子には千手観音像を本尊とし、毘沙門天と不動明王を脇侍とした三体の仏像が安置されています。この千手観音像には康正3年(1457)の修理銘があるそうで、14世紀に造立された像と推定されいるのです。毘沙門天像の彩色も色鮮やかです。(資料1)『桑原山地福寺縁起』によれば、「春日明神作の千手観音と不動・毘沙門天の脇侍を地福寺の本尊とする」と記されいるそうです。つまり、かつてはこちらの千手観音像が地福寺の本尊だったとみられるようです。(資料3)厨子に向かって右側にある小さな厨子には、鮮やかに彩色された役行者像が祀られています。手水舎の背後、築地塀の近くに、鐘楼があり、道路からもよく見えます。 鐘楼屋根の鬼瓦山門を入って、すぐ右側の築地塀の内側に、石造品が並べて保存されています。これも、以前の境内地に建立されていたものが、本堂移転と同時に移転されて現状の形に整備安置されたのです。 石造五重塔 (大阪府指定文化財)石塔は古代インドで作られた釈迦の墳墓(ストゥーパ:仏塔)がその源であり、中国を経由して日本に伝来され、三重塔、五重塔のような形式が生み出されました。根本的には供養塔としての意義をもつものです。この石造五重塔の基礎に、徳治3年(1308)3月14日の日付とともに、「敬白奉立石塔一基」「願主比丘尼生阿」という銘が刻まれているそうです。鎌倉時代の作ということになります。初層塔身に四方仏が薄肉彫されています。相輪も当初の石材のようです。この石塔の高さは約1.8mあるそうです。(資料1,駒札) 左隣には石造「六地蔵板碑」が並んでいます。こちらは茨木市指定文化財です。花崗岩の自然石を利用し、3体ずつ2段に六地蔵が彫られたその上、頂部には阿弥陀如来像と推定される像が彫られています。右の写真ですが、板碑の外枠下辺に「天正八庚辰」と刻銘されています。天正8年は1580年です。(資料1,駒札)中世には、六道輪廻するという思想が広まります。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天道であり、六道の世界にはそれぞれ、地蔵がいると説かれます。『蓮華三昧経』という経典では地蔵に6つの名前がつけられているそうです。この考え方が広まり、六地蔵をつくるということがさかんになります。墓地の入口に六地蔵が建立されているのをよくみかけますが、この考え方の現れです。つまり、六道にそれぞれ地蔵がおられて衆生を救うというのです。(資料4)その六種類の地蔵には「宝珠ほうじゅ・宝印ほういん・持地じち・除蓋障じょがいしょう・日光にっこう・檀陀菩薩だんだぼさつ」(『日本語大辞典』講談社)という名称が付されています。ほかにも説があるようです。六地蔵というのはこの6種類の地蔵の総称ということになります。 六地蔵板碑の左には、石造「十三仏板碑」が並んでいます。同様に茨木市指定文化財。これも花崗岩の自然石が使われています。それぞれ二重円光を備えた三体の尊像が、半肉彫の坐像姿で4段に配置されていて、頂部の中央に、虚空蔵菩薩が配され、その上に天蓋が表現されています。こちらの板碑も、外枠外右に「天正9年(1581)2月□□」の刻銘があります。十三仏は、地獄の十王に、七回忌・十三回忌・三十三回忌での審理を司る裁判官、それぞれの本地とされる仏の総称だそうです。三十三回忌の裁判官が法界王で、その本地仏が虚空蔵菩薩とされているのです。閻魔王の本地仏が地黄菩薩とみなされています。(資料5)そして、一番左端には、これから板碑の彫刻を始めようとした段階に止まる石が並んでいます。地福寺を後に台地を下って行きます。お寺から少し道路沿いに下ると、「桑原」のバス停です。この桑原の地名の由来には2つの説があるそうです。1) 第21代雄略天皇の時代(在位456~479)の頃、中国から呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)がここに住み着き、桑田を開き養蚕したことから桑原になったととなえる説。2) 平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録』によると、大和の国の桑原を本籍とする高麗系の渡来人「桑原史(ふひと)」が当地周辺を居住地としていた。史とは物事を記録する役人ということで職業をさしています。この桑原の姓を地名にしたという説。この地域が中臣鎌足の居住地だったことから、後者の説の方が有力視されているそうです。(資料3)道路を下っていくと、東西方向の尾根が見えます。20基以上の古墳がある「安威古墳群」だとか。 安威川に架かる橋を渡ります。川の流れを見つつ下ると、 「長ケ橋北詰」です。橋を渡って右折していくと、道路脇にこの道標が立っています。通り過ぎて振り返えったのが、右の写真です。 この写真のマンションの背後に見える山にも、古墳があるそうです。大念寺を訪ねる手前で目に止まった道標です。「安威起点」と記されています。私が関心を抱いたのはその下に記された「キリシタン自然歩道 茨木市」という言葉でした。調べてみると、茨木市が設定されている自然歩道だそうです。「阿為神社を起点に全長12.2キロメートル、所要時間4時間のコースです。途中には、キリシタン遺跡をはじめ、おさん茂平恋道中碑、初田1・2号墳などのたくさんの史跡があります。この自然歩道は千提寺で長谷方面と泉原方面に分かれています。」(資料6)脇道に逸れますが、最初に訪れた地福寺の北東方向に「千提寺」という地名があります。この茨木の山地部にある千提寺や下音羽は、かつては高槻城城主だったキリシタン大名・高山右近の領地だったそうです。そして、千提寺は「隠れキリシタンの里」として有名なのだとか。このことは知りませんでした。この千提寺に、昭和62年(1987)に、「茨木市立キリシタン遺物資料館」が開設されているのです。(資料7)そこから、「キリシタン自然歩道」という名称が付けられたのだと分かりました。機会があれば、このルートを辿ってみたいと思います。今回は新情報の副産物を得たという余談にとどめます。大念寺に向かいます。つづく参照資料1) REC講座「関西史跡見学教室27 ~茨木・安威~」当日配布レジュメ (2016.9 .8 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 地福寺(茨木市) :ウィキペディア3) 58.地福寺 :「発見!探検!いばらき観光」(茨木市観光協会公式ウェブサイト)4) 『仏教民俗学』 山折哲雄著 講談社学術文庫 p116-1185) 十三仏 :ウィキペディア6) キリシタン自然歩道 :「茨木市」7) キリシタン遺物史料館のご利用案内 :「茨木市」補遺中臣鎌足 :「コトバンク」九条 摂家 :「公家類別譜」地蔵菩薩 :ウィキペディア 「六地蔵」の小見出しがあります。茨木市立 キリシタン遺物史料館 :ウィキペディアキリシタン資料館パンフレット pdfファイル ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 茨木・安威を歩く -2 大念寺・阿為神社・安威古墳群 へ探訪 茨木・安威を歩く -3 安威城跡・大織冠神社・将軍塚古墳・ 鼻摺古墳ほか へ
2016.09.29
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東の庭を訪れたこの日、茶室「堪庵(たんあん)」が一般公開されていました。2011年に一度拝見していたのですが、久しぶりに庭周りから茶室「堪庵」を一人、静けさの中で眺めることができました。冒頭の写真は、入口です。ロケーションとしては、西面する明治古都館の背後・東隣にある「技術資料参考館」の東側にあたります。入口は西に面しています。 表門を入ると、少し右に進んだところが玄関です。玄関は西に向いています。土間スペースの先に障子戸があるだけの開放的な玄関口です。広い屋敷の庭園の中に建てられた茶室だったということなのでしょう。ここに、「茶室『堪庵』」の案内板が立てられていました。たぶん一般公開用に置かれているのでしょう。「この茶室は昭和33年(1958)に上田堪一郎氏より当館に寄贈された、江戸時代初期京都における公家文化の伝統を継いだ数寄屋造りの建物である。 母屋には八畳の広間を中心に正面に広縁、左脇に玄関、裏に水屋があり、庭に面して自然と一体をなす空間は、軽快な屋根の取り合わせや黒木の落ち着いた色調とともに、桂離宮(1620~)から学ばれたものであろう。 母屋右側にある小間が、奧の土間から上がる三畳の茶室『堪庵』であり、金森宗和(1584-1656)好みの大徳寺真珠庵『庭玉軒』を写したとされる。間取りは本勝手台目切、下座床は框を横たえた上段の構造となっている。 昭和41年に本館(明治古都館)の南側から現在の位置に移築した際に、藁葺きと板葺きであった屋根を銅板葺きにあらため、併せて庭と水屋後方の付属屋を整え、茶会等の行事に利用している。」(説明板を転記)この建物の平面図は、参照資料1を御覧ください。後で調べてみると、上田堪一郎氏は、南禅寺にある京都ゆどうふ料理の老舗「順正」の創立者で、古美術愛好家としても知られる人だそうです。「野仏庵」を設立した人と言います。(資料2) 玄関は3畳の広さで、北側に半畳の張り出し空間が在り、そこが水屋の方に行く入口になっています。南側の引き戸は書院への縁に繋がっています。玄関の間では、土壁の色と、引き戸・壁の一面・腰張りに連なる白色とのコントラストがすっきりとした美しさをています。 そして、天井がいいですね。左の写真は三畳の玄関の化粧天井。右の写真は玄関口の化粧屋根裏天井です。玄関口で南に目を転じると、木々の緑が格子窓越しに切り取られて土壁とのコントラストが鮮やかです。 玄関の南側の引き戸が書院のこの西側の縁に繋がっています。右の写真は2011年2月に訪れた時に撮ったものです。戸が開けてありました。 この縁は竹の簀の子で設えてあります。そして、玄関の壁の際に、樹木の陰に入る形で円筒形の手水鉢が設置されています。足裏に竹の丸みを感じることで気持ちを転換する場となるのかもしれません。縁を伝って廻り込むと、書院の前の広縁です。広縁の直ぐ外は、幅広に石を敷き詰めた通路となっています。その外を同じ位の幅で白い砂利が敷かれています。書院・広縁から見れば小川が流れる風情というところです。 広縁の傍から見た書院内部広縁をさらに廻り込むと、東側の奧に茶室「堪庵」に続いています。 建物から少し離れて眺めた書院の全景 2011年2月に撮影書院のある母屋に続く茶室「堪庵」とそれに付属する建屋 この写真は、付属する建屋の内部が外から拝見できたときのもの(2011年2月) 茶室の建屋の側面に、「堪庵」の扁額が懸けてあります。茶室の内部も庭から拝見できました。 (2011年2月撮影) 西側に床があり、その北に茶道口があります。中柱の右奧に風炉先窓が見えます。北の壁に下地窓が在り、東側は障子戸3枚となっています。ここが東側の付属の建屋との境になっています。茶室内への採光を考慮した工夫でしょうか。この堪庵が真珠庵茶室庭玉軒の写しとすると、この付属の建屋は「内坪」に相当するようです。そして、この障子戸の中央が貴人口にあたるのでしょう。(資料1,3)茶室と書院は縁伝いで繋がっていますが、ここにも一工夫が施されています。 書院の東面の縁の半ばで板張りの縁から、竹簀の子に切り替わります。敷かれた竹の方向が壁面と平行になっています。ここもまた気持ちを切り替える空間となっているのでしょうか。あるいは、結界的な意味合いがある設えでしょうか。 東から書院の側面を眺めた景色 最後は、表門の扉で締めくくります。扉の内側を観察していませんが、扉を閉めると閂(かんぬき)を通すというところでしょうか。網代編みの扉が風雅さを漂わせています。京都国立博物館の建物外観と庭のご案内をこれで終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 茶室「堪庵」 :「京都国立博物館」2) 野仏庵/陶庵席 :「岩崎建築研究室」3) 茶室拝見 真珠庵 庭玉軒 :「茶道表千家 幻の短期講習会-マボタン」補遺野仏庵(左京区) :「京都風光」南禅寺 順正 ホームページ金森宗和 :「コトバンク」金森重近 :ウィキペディア茶人 金森宗和重近 :「影凌亂」茶道 宗和流 ホームページ茶道 宗和流 宗家 ホームページ茶室 :ウィキペディア茶室・建築 :「淡交社」大徳寺/真珠庵/庭玉軒 :「岩崎建築研究室」茶ピア 茶遊庵 四畳半台目の茶室 :「壮さんの部屋」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都国立博物館 建物と庭 -1 平成知新館・明治古都館・噴水のあるエリア へ探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭 へ探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)へ
2016.08.23
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明治古都館の南側を建物沿いに進むと、構内の東側は盛り上がった丘になっています。冒頭写真のように、東方向の先に石段が見えます。 石段の手前、通路の北側には「石塔・石仏群」が目に止まります。これらは方広寺の石垣の裏から出土したものといいます。(資料1) 石段を上った丘の上が「東の庭」です。この石段を上って左折し、北方向に歩めば、庭の北側に茶室「堪庵(たんあん)」があります。 石段を上りきると、その両端に「石人」が立っています。石段を上ったところが石敷で、東方向の正面にも西を向いた石人が1躯あります。写真の左端に少し見えるのが、 「李朝墳墓表飾石造遺物」と題する説明板です。次のように記されています。「朝鮮半島において、墳墓の周辺を石彫品で飾ることは新羅第33代聖徳王(702-736)の時に確立したともいわれる。これは中国唐時代の墓制にならったものだが、約100年近く行われたのち、この風習は一旦おとろえ、やがて高麗時代に復活し、李朝時代へとつづいた。 石人には文官と武官とがあって、参道の左右に向かいあって立てられ、時には童子が侍立することもあった。正面に石燈籠、その奥、墳丘に接して魂遊石と呼ばれる方石、墳丘のまわりに玉垣、その外側に虎、羊などがそれぞれ配された。また、左右に立てられた石幡は聖域の標識の意味を示している(図参照)。 この庭園の石造遺品は、李朝時代(1392-1910)の貴人たちの墳墓を飾っていたと思われるもので、広く各地から集められたもののようである。大正初年、大阪山本家の日本式庭園の要所に巧みに配置されいたが、昭和50年10月同園の廃滅に際し、石幡二対を柱に利用した亭とともに同家より一括して当館へ寄贈され、その後も数点の遺品が追加して寄贈された。 古くより石彫の本質をよく理解し、また石を深く愛した民族の心を、これらの遺物から読みとることができよう。」この東の庭に配された石造遺物は、朝鮮半島の各地にある墳墓を飾っていたものが収集されたもののようです。 一方、この説明板の左には「李朝太祖復元陵 石造遺物配置図」の一事例が例示されています。「東の庭」の庭園に石造遺物が庭園の構成要素として配置されています。説明板の西側、東の庭の西端に、この柱状の石造物が1対置かれています。これが多分「石幢(せきとう)」なのでしょう。樹木、刈り込まれた植木、緩やかに波打つ芝生と通路で構成された庭に、石造遺物が様々な方向を向き点在しています。 茶室を囲む建仁寺垣に近い庭の北側寄りに立つ石人。冠と衣裳から推測すると文官なのでしょう。続きにご紹介する石人も多くが文官のように思います。 庭の東端に近いところに、上面の中央が直方体状に穿たれた箱形の石造物が点在する形で置かれています。 石人笏(しゃく)を胸の前で捧げ持つ姿は一緒ですが、冠と衣服の文様などは異なります。 石燈籠日本の石燈籠とは様式が違います。私はこの様式の燈籠をこの庭で初めて見ました。 石羊 石人 石人には童子形(左)のものも数躯あります。 石人 文官と童子形 この「東の庭」は、博物館への来訪者が多くても比較的訪れる人が少ないように思います。この庭の東端は東大路通に面するレンガ塀になるのですが、東山七条の交差点に近いこと、また塀際に樹木が立ち並ぶことからなのか、道路の騒音がそれほど気にならず静かに散策できるところです。静謐な雰囲気すら感じられる場所、ちょっとした異空間と言えます。ぜひ一度訪れてみてください。この後、茶室「堪庵」の方を訪れてみました。この日は運良く、茶室建物の庭周りから茶室を拝見できるよう一般公開されていました。普段は茶会等の利用として予約制で一般開放されているのです。次回は、最後にこの茶室のご紹介です。つづく参照資料1) 東の庭 :「京都国立博物館」補遺朝鮮王陵 :ウィキペディア朝鮮王陵 :「HiKorea」世界文化遺産、英陵「世宗大王陵」 :「storykr TOUR」 世宗大王のお墓を訪ねてみました :「こぐまのおやつ」宣陵・靖陵 :「HiKorea」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都国立博物館 建物と庭 -1 平成知新館・明治古都館・噴水のあるエリア へ探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭 へ探訪 京都国立博物館 建物と庭 -4 東の庭(茶室「堪庵」)へ
2016.08.22
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平成知新館は南面して建てられています。平成知新館1階の西端にはレストラン「The Muses(ザ・ミューゼス)」(HOTEL HYATT REGECY 直営)があります。その西側屋外は芝生エリアになっています。その一隅に、冒頭写真の「馬町十三重石塔」が移設されています。 平成知新館に建て替えられる以前は、南門から入った北側、明治古都館の南西前に設置されていました。左の写真は、噴水のあるエリア側から南門を背景側にして十三重石塔を撮ったものです(2009年4月)。右の説明板は現在の移設場所傍に設置されています。冒頭写真の左側の石塔が、北塔、右側が南塔です。この2つの石塔はここから北東に500mほどの「馬町(うままち)」の路地裏の塚の上に建立されていたものだそうです。北塔は無銘、南塔には「永仁3年(1295)2月、願主法西」の銘があります。鎌倉時代13世紀の建立です。古来源義経の臣佐藤継信・忠信兄弟の墓と伝えられていたといいます。両塔は共に花崗岩製。高さ6m余。昭和15年(1940)に石塔の解体修理が行われたとき、両塔の初重塔身の石に設けられた孔の中から、小さな金銅仏や塔などの納入品が発見されているのです。そして、「法西が願主となり、多くの助成者とともに法界衆生・平等利益のため、鳥部野墓地に供養塔の一つとして建立されたことが分かった」(資料2)とのことです。 この石塔も見る位置と背景によって、雰囲気が少しずつ変化します。「なお、以前あった相輪部は後補であったため、移設にあたり取り外している」(説明板)とのことで、石塔の傍に置かれています。江戸時代に出版された『都名所図会』には、「継信忠信塔」という名称で紹介されています。この絵が冊子に載っています(資料3)。北塔五層、南塔三層となっていて、地震で落下したと思われる上層石は塚の土留めとして使う形で残されていたようです。(説明板)同じく江戸時代の白慧著『山州名跡誌』にはこの塔が、妙法院の北、石塔は町北方の人家の後に在りとしています。上記と同様の記載の後に、次のエピソードを収録しているのです。古老から伝承として聞いたという形で、「この辺の人家に来て宿する僧あり。件(くだん)の由縁を聞て塚に向いて和歌を詠ず。 おしまずも君の命をつぎのぶの、形見の石は苔衣きて その夜五更に至て頻(しきり)に彼家の戸を敲(たたく)あり。誰ぞと出会ふに、 甲冑を帯せし武者也。今日の返歌せんとて、 おしむともよも今まではながらへじ身を捨ててこそ名をばつぎのぶ と云(いい)すてて失(うせ)ぬ。云云」(資料4)と。 芝生エリアの南端から眺めた「正門」こちらは2014年10月に、ほぼ同じ位置から撮ったものです。この正門は明治古都館の竣工の折りに建造されています。大和大路側に立ち、正門の前から明治古都館が正面に見える景色は優雅さを感じさせるものです。赤レンガでの一貫した調和が美しい。現在この正門は、一般来訪者の退館と、団体観覧券で入館する団体の入退館専用として使われています。正門に近づいて細部を眺めてみましょう。 この正門を近くで観察するだけでも結構楽しいですよ。レトロな感じ漂い、静かな中で眺めているとタイムスリップしそうです。正門と明治古都館の間に噴水があり、噴水のあるエリアとなっています。このエリアの南側が「西の庭」です。噴水のあるエリアに近い庭のところに、鎌倉時代の作である雲岩寺伝来の石灯籠が置かれています。 ここからご紹介する「西の庭」の写真は、今までに京都国立博物館を訪れた折りに、徒然に撮っていた写真を抽出したものです。7月には「東の庭」を重点的に散策しこちらには足を向けませんでしたので・・・・。括弧内の年月は撮影した時期です。正門内側の位置から、塀沿いに西の庭の散策路を歩きますと、 (2004年4月)構内西南隅近くに、覆屋が設けられ「弥陀三尊石仏」があります。松香石製、厚肉彫りの石仏ですが表面がかなり破損しています。伏見区竹田の安樂寿院より移されたといいます。数少ない平安時代後期・12世紀の遺品として貴重な石仏だそうです。(資料2,4) (2004年4月)鉄柵と煉瓦造りの塀が背後に見える西南隅に置かれた五条大橋の橋桁と橋脚です。今では一種の現代彫刻モニュメントの感すらします。これは、天正17年(1589)5月に豊臣秀吉が鴨川に架けた大橋の橋脚です。「津国御影」の刻銘があり、摂津の御影(神戸市)から運搬されてきたことがわかるのです。(資料4)この傍に、五条大橋と三条大橋に使われた石柱の一部が置かれています。京博蔵。 (2009年4月) キリシタン墓碑京都市内のお寺の境内で発見されたもので、慶長年間(1596-1615)に作られたキリシタン信徒の墓碑だそうです。「碑の正面には、十字架・IHS(『イエスは人類救済者』という意味のラテン語)・西暦年号・洗礼名などが刻まれています。」(資料4) 礎石(2004年4月)奈良市佐紀町から出土した奈良時代の礎石です。京博蔵。 (2009年4月)鎌倉時代の石造地蔵菩薩坐像。寄贈品として京博蔵。 (2009年4月)室町時代作の石造不動明王像 (2004年4月)東大寺にある金銅八角灯籠(国宝)の複製が京博蔵として西の庭に置かれています。 灯籠の火袋部分の装飾彫刻をいくつか撮ったもの。訪れた時間帯での光のさす方向でうまく撮れたものだけです。(2012年1月)4つの面に音声菩薩(おんじょうぼさつ)が彫刻されています。縦笛を吹く、横笛を吹く、竿(う)を奏でる、銅跋子(シンバル)を奏する、という4体の音声菩薩像です。どのような曲をカルテットで演奏しているのでしょうか?複製ですが巨大な金堂八角灯籠の装飾彫刻は見応えがあります。西の庭には、他にもいくつかの遺品が展示されています。それでは「東の庭」に行きましょう。つづく参照資料1) 屋外展示 :「京都国立博物館」2) 『昭和京都名所圖会 洛東-上-』 竹村俊則著 駸々堂 p109-1133) 都名所図会 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第3冊17コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 山州名跡誌 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 84コマ目の左ページ下段に「継信・忠信塔」として記載あり。5) 西の庭 :「京都国立博物館」補遺弥陀三尊の意味 :「浄土宗」阿弥陀三尊 :ウィキペディア阿弥陀三尊来迎像 :「京都国立博物館」五条大橋 :ウィキペディア松原橋(下京区-東山区) :「京都風光」三条大橋 :ウィキペディア京師 三条大橋 :「アダチ版画」京都のキリシタン遺跡 文化史16 :「フィールド・ミュージアム京都」京のキリシタン-京都市内出土のキリシタン墓碑とキリスト教徒の動向に関する覚書 上垣幸徳氏 紀要第5号 滋賀県文化財保護協会 1992.3特集2 キリシタン史跡をめぐる―関西編 :「カトリック中央協議会」東大寺大仏殿前八角灯籠火袋音声菩薩 :「古典籍総合デ^タベース」東大寺大仏殿前の「八角燈籠」の魅力を探ってみた。(奈良市) :「DEEPだぜ!!奈良は。」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都国立博物館 建物と庭 -1 平成知新館・明治古都館・噴水のあるエリア探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)へ探訪 京都国立博物館 建物と庭 -4 東の庭(茶室「堪庵」)へ
2016.08.21
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7月1日に、京都国立博物館に出かけました。特別陳列「没後400年記念 徳川家康」と併せて平常陳列展を見るのが目的でした。知恩院蔵の徳川家康・秀忠坐像を初めて眺めることが出来ました。家康の木造坐像の顔貌はよく見る写真などでイメージしていたものとは少し異なり、興味深く思った次第です。平日のこの日、博物館の庭は人影がまばらだったので、人の入らない写真をゆっくり撮れました。京都国立博物館の建物と庭の一部をご紹介します。冒頭写真は、入口を入った近くから庭の植え込みから眺めた「平成知新館」です。まずは「平成知新館」の外観から始めます。 植栽の先は平成知新館への南北一直線の通路の東側は芝生が広がっています。東側には明治古都館があります。西側は南側に「西の庭」、平成知新館との間が「噴水のあるエリア」です。(資料1、以下適宜参照)明治古都館寄りから平成知新館の外観です。平成知新館は平成26年(2014)9月13日に開館した新しい展示館です。設計者は谷口吉生氏。「日本的な空間構成を取り入れた直線を基本とする展示空間」を創造するというコンセプトだそうです。谷口氏は「ニューヨーク近代美術館 新館、東京国立博物館 法隆寺宝物館、豊田市美術館などを手がけた世界的建築家」として有名な人です。(資料1) 「噴水のあるエリア」に入り、移動しながら「平成知新館」を眺めてみます。左の写真の中央にちょっと見えるのがロダン作「考える人」の像です。「考える人」の傍から噴水を廻りこみ、西のい「正門」方向に進み、建物を南西側から見た眺め平成知新館の入口に近づくと、建物の外に東西に長方形の水盤(池)が設けられています。 入口側から「噴水のあるエリア」そして西に「正門」とその先に「京都タワー」が見えるこの景色が私の好きなワンショットです。この水盤を平成知新館の建物の西側から眺めると東には「明治古都館」の赤レンガ造りの建物の背後に、「阿弥陀ヶ峰」が遠望できます。少し南側に移って眺めると、平成知新館のガラス壁面に明治古都館が写っています。 建物に建物の全景が映える眺めそれでは、「明治古都館」の方を眺めましょう。博物館の入口側に戻り、北東方向に「明治古都館」を見た眺めです。この建物の南側面をまず眺めてみます。 南側の入口扉の上部、アーチ型の装飾が一つの見どころです。一見、鳥が月の上に止まっているかに見える像がよく見ると、全く違う造形なのです。 窓の部分も、上部がアーチ型になっていますが、こちらは上端中央に支柱機能を持ちシンプルな装飾が施されているように見えます。 西面する建物の正面入口入口の上部に、「京都国立博物館」と左から右への横書きで陽刻されています。その上部の破風には、インド神話由来の伎芸天女と毘首羯磨(びしゅかつま)の男女二神像が彫刻されています。インドにおける工芸と彫刻の祖神とされている神々です。この建物は明治28年10月に竣工されました。平屋建・レンガ造りのフレンチ・ルネサンス様式の洋風建築です。赤坂離宮を設計した片山東熊博士による作品です。昭和44年(1969)に重要文化財に指定されています。(資料2) 平成知新館入口付近からの景色 左の写真は、平成知新館の内部、1階の通路から明治古都館の北側側面の景色です。右の写真は、博物館の庭を南西方向に眺めた景色です。噴水のあるエリアは東の端、博物館の構内平面でみれば中央あたり、明治古都館の正面を背景にして、ロダン作「考える人」の銅像が置かれています。そのオリジナルは、オーギュスト・ロダンが1880年に制作した「地獄の門」という作品の門扉の上部中央に組み込また部分像です。それが独立した像として、スケールアップして作り直された複製銅像の1つです。「地獄の門」は世界に7つ展示されていて、そのうち2つが日本に存在します。一つは東京・上野公園にある国立西洋美術館の構内、もう一つが静岡県立美術館だそうです。国立西洋美術館にある方は、昔一度見た記憶があります。「考える人」の像は、世界の26ケ所(ロダン死後の鋳造3点を含む)に存在するそうです。日本では、ここ京都国立博物館以外に、国立西洋美術館、長島美術館、西山美術館、静岡県立美術館に、と合計5ケ所にあるそうです。(資料3,4)この考える人の銅像と一緒に明治古都館を眺めるロケーションは、私のお気に入りの景色の一つです。 以前に撮った写真をいくつか追加してみます。 2014年5月 つつじの咲き乱れる季節に 2015年4月 平成知新館の内部から噴水のあるエリアの眺め 2013年8月 噴水の傍にてつづく参照資料1) 屋外展示 :「京都国立博物館」2) 『昭和京都名所圖会 洛東-上-』 竹村俊則著 駸々堂 p109-1133) 地獄の門 :ウィキペディア4) 考える人 :ウィキペディア補遺京都国立博物館 ホームページ谷口吉生 :ウィキペディア【建築】建築で文化都市づくり 谷口吉郎・谷口吉生の建築-金沢が育んだ二人の建築家 2015.1.31 :「中日新聞」【建築家】谷口吉生の作品がかっこよすぎる :「NAVERまとめ」片山東熊 :ウィキペディア国立西洋美術館 ホームページ静岡県立美術館 ホームページ A.Rodin のページ(ロダン館)長島美術館 桜島がきれいに見える美術館 ホームページ西山美術館 ホームページ 東京都町田市Rodin Museum ミュゼ・ロダン ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭 へ探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)へ探訪 京都国立博物館 建物と庭 -4 東の庭(茶室「堪庵」)へ
2016.08.19
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冬柏亭、与謝野晶子・寛の歌碑を見て参道を下ると、本殿金堂の西側、「光明心殿」の傍に出ます。冒頭の写真がその建物です。道の西側には「本坊(金剛寿命院)」があります。光明心殿の背後に見えるのが「鐘楼」です。光明心殿には護法魔王尊が奉安されています。悪魔降伏・災禍伐除などの護摩供を行う道場です。護法魔王尊像は松久朋琳作だそうです。(資料1,2、以下適宜参照) 本殿金堂光明心殿の前を通り、本殿金堂のある境内地「金剛床」と称される区域に入ります。南西寄りから本殿金堂を眺めたところです。 正面から眺めた本殿金堂鞍馬山の中腹に南面して建っています。遙か先に京都市内を望むという感じです。金堂内部は、外陣・内陣・内々陣に分かれています。外陣には土足のままで入って拝観できます。護法魔王尊(脇侍、役行者・遮那王尊)を中央に、右に毘沙門天王、左に千手観音菩薩が御本尊として安置されています。護法魔王尊・毘沙門天王・千手観音菩薩は三位一体とし「鞍馬山尊天」とも称されます。御本尊は秘仏で、60年に一度、丙寅年に開扉されることになっているそうです。そのため、普段は御前立ちの諸像も安置されています。 左の写真は、金堂の正面、三間の向拝を近くから撮ってみた写真。右の写真は、金堂を南東側から撮ってみました。訪れた日が毎年6月20日の午後にこの本殿前で行われる「竹伐り会式」の少し前でしたので、張り出し舞台が設置され、長い青竹が置かれていて、行事の準備が進められていました。これは鞍馬寺の年中行事の一つで、「一に蓮華会(れんげえ)ともいう。長さ4mの青竹4本を大蛇に見立て、山刀をもった8人の鞍馬法師が4人ずつ、東の近江方と丹波方にわかれ、合図によって三段に伐り競い、本坊にはやく駆け込んだ方を勝ちとする。これによってその年の稲作の豊凶を占うという」(資料2)ものです。太さは15cmくらいあります。破邪顕正と水に感謝するという意味を込めた千年の古儀、伝統行事なのです。 本殿金堂の前には阿形・吽形の虎の像が安置されています。これは吽形の虎です。本尊の毘沙門天王が、「寅の月、寅の日、寅の刻」に鞍馬山に出現されていることから、虎は毘沙門天のお使いの神獣となっています。「五十音が『あ』から始まり、『ん』で終わることから『阿吽』は、宇宙のすべてを包含すると言われています。(資料1)本堂金堂の建物の前が「金剛床」と称されます。これは「宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模し」(資料1)ているそうです。 金剛床の南には、擬宝珠の付いた朱色の欄干の張り出し舞台があります。大きな平板な石が置かれていて、注連縄が張られています。この石が「翔雲台」です。この石は、「もと本殿背後の崖上に営まれた経塚の蓋石とつたえる」(資料2)ものといいます。 金剛床にある大きな青銅製灯籠。八角形の火袋には四天王像がレリーフされています。 本殿金堂の東側には、「閼伽井護法善神社」があり、水の神が祀られています。金剛床のある境内地の東端に、休憩所の建物があります。 参道石段を下ると、「転法輪堂」があります。現在の建物は1965年に再建されたもの。山の斜面に建てられていますので、階下は「洗心亭」と称する無料休憩所になっています。ギャラリーが併設されているようです。堂内には、丈六の木造阿弥陀如来坐像が安置されています。見応えのある仏像です。「もと鞍馬本町の柏堂(かやどう)に安置してあったのを、明治初年に移したといわれる」(資料2)平安時代、比叡山より鞍馬寺に移り止住した重怡(じゅうい)上人が晩年の13年間、堂内に籠もり毎日12万遍の念仏を唱えつづけたそうです。そして六万遍の弥陀宝号を書いて法輪に納めたのです。この法輪が安置されています。「一転の南無阿弥陀仏、その功徳六万遍の称名に等し」ということが、この転法輪堂の名前の由来となっているそうです。 参道を挟み、転法輪堂の反対側に「寝殿」(左の写真)があります。貴船神社のご紹介の折りに名前が出て来ましたが、貞明皇后が鞍馬寺行啓の際に、休憩所として建造された寝殿造りの建物があります。(非公開)寝殿の隣に、右の写真の「巽の弁財天社」があります。弁財天は学芸・財宝を司る福神として信仰されています。ここも通過点になったのですが、後で調べていて、水琴窟が付設されていることを知りました。参道を下っていくと、中門の手前で、こんな石垣が目に止まります。鞍馬山の斜面を開削して伽藍を築くことの必然でもあります。左の写真の石垣の角近くに、「石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん 鞍馬石)」の説明板が立っています。「高さ6mのこの石垣は、鞍馬石で、花背峠近辺や百井の別れに近い山中から産出する。約1億年前に、地下の深所で丹波帯の堆積岩中にマグマが貫入してできた。」(説明板を転記)また、中門を過ぎてから本殿までの石段、つまり下ってきた石段は、「主として石英閃緑岩(鞍馬石黄褐色)と閃緑岩(青黒色)で出来ている」という説明板もあります。 中門この場所に移築されて、「中門」と称されるようになったのです。「元来、山麓の仁王門の横にあって勅使門または四脚門と呼ばれ、朝廷の使いである勅使の通る門」(資料1)だったとか。この中門を出てからの参道は、連続する石段ではなく、坂道がくねくねと曲折する「九十九折参道」です。この九十九折参道に沿っても色々な物が目に止まります。まず、中門に近い坂道の傍に、信樂香雪初代管長の歌碑が建立されています。 つづらをりまがれるごとに水をおく やまのきよさを汲みてしるべく その先で一筋の水が流れ落ち、またその少し先には「碑句」の駒札が立つ碑があり、俳人二人の句が刻されています。 筒鳥に神尊ければ磴けはし 海道 花杉に息のにごりは許されず 佳子 参道を下ります。 朱塗りの橋が見えます。このあたり一帯が「双福苑」と呼ぶそうです。天に向かって聳える杉を「玉杉大黒天」と尊崇し、神木の傍にある祠は「玉杉大黒天」と「玉杉恵比寿尊」だとか。いずれも福徳の神ですから双福と称されるのでしょうね。 双福苑から少し下がると、「いのち」と名付けられた澤村洋二作の像があります。鞍馬山尊天を具象化した像と言われています。「像の下部に広がる大海原は一切を平等に潤す慈愛の心」、3つの金属の環は「曇りなき真智の光明」を表し、「中央に屹立する山は、全てを摂取する大地の力強い活力」を象徴しているとされます。慈愛と光と力の像なのです。この像を見た時、私は仏典で説かれる須弥山を連想しました。また、右の写真はさらに下ったところに建立されている「箏曲稚児桜之碑」です。これは五條の橋での牛若丸と弁慶にまつわる故事を称えるための碑だそうです。 川上地蔵堂傍に立つ駒札は「遮那王と称した牛若丸(義経公)の守り本尊である地蔵尊がまつられており、牛若丸は日々修行のときにこの地蔵堂に参拝したといわれる」と説明しています。参道を下るとき、この川上地蔵堂に目が止まり、参道の反対側を見落としました。反対側の辺りが東光坊跡であり、かつて牛若丸が住まいした場所だったのです。東光坊跡に昭和15年建立の「義経公供養塔」があるのです。もう一つ、道すがらにあるという「火祭や鞍馬も奧の鈴の宿」という句が刻された「山本青瓢歌碑」も見落としました。少し、残念な思い・・・・。由岐神社を横目に見ながら、今回は通過となりました。下山する参道傍に建てられた「御由緒」説明板によると、現在の祭神は、大己貴命(別称大国主命)と少彦名命で、相殿が八所大明神です。この神社の起源は、御所に祀られていた「靫(ゆき)明神」(由岐大明神)がこの地に遷座されたことにあるのです。天慶3年(940)に天慶の乱が起きたとき、朱雀天皇の勅により、旧暦の9月9日に、天下泰平・万民の守護神・北方鎮護として、遷宮された鎮守社なのです。この折り、里人がかがり火を持って神霊を迎えたといいます。その様子を「鞍馬の火祭」が今に伝えているようです。鞍馬の火祭の祈願がこの由岐神社にあったのです。「鞍馬の火祭」は例祭として、10月22日の夜に行われています。 石造鳥居の先の建物は、豊臣秀頼が再建した荷拝殿(重文)だそうです。鞍馬山の斜面に沿って建てられいますので、前方は舞台造(懸造かけづくり)となっていて、中央に石の階段の通路が設けられた「割拝殿」という様式になっています。由伎神社傍の参道をさらに下ると、「鬼一法眼社」があります。「鬼一法眼は牛若丸に『六韜三略』の兵法を授けた武芸の達人といわれる。武運の上達を祈願する人も多い」(柱の木札を転記) 魔王の滝鬼一法眼社のすぐ近くに眺められます。 石像が安置された祠の下部に石の樋が設けられかなりの落差で滝が設けられています。直下でこの滝の水を浴びる修行が行われるのでしょうか。流れ落ちた水はその下方にある放生池に導かれるようです。魔王の滝の鳥居から少し先、放生池との間に「吉鞍稲荷社」があります。名前の通り稲荷社と言うことですが、正面に、「吉鞍稲荷大明神」と「荼柷尼天尊」の2つの扁額が掛けられてあるところが興味深いところです。 そして「普明殿」まで下りてきました。ここはケーブルの山門駅です。普明殿には毘沙門天立像が祀られているそうです。普門殿の前の石段を下りると、可愛らしい「童形六体地蔵尊」が安置されています。傍に立つ駒札にはこう記されています。「子供はみんなほとけの子。子供は天からの預りもの。子供は親の心をうつす鏡」と。仁王門に至る少し手前に、この石標がまず建てられています。「町石(ちょういし)」と称されるものです。ここを起点として、本殿まで一町ごとに同様の町石が建てられています。傍に掲示された説明によれば、八町七曲りの九十九折参道に八基が建てられているそうです。石標は八町から始まり、一番上が一町と表記されています。つまり、一町と刻された町石を確認できれば、本殿まではあと一町(=110m)を残すだけとわかるのです。そして、観音菩薩立像が祀られている「還浄水」が、仁王門のすぐ近くにあります。仁王門から入ると、まずこの「観音・還淨水」が目に止まるのです。 仁王門 現在の仁王門(山門)は明治44年の再建によるものですが、左側の扉は寿永年間(1182-1185)のものだそうです。仁王尊像は湛慶作と伝えられています。湛慶は運慶の嫡男です。仁王門の正面右側の柱には、「鞍馬弘教総本山鞍馬寺」の大きな木札が掛けてあります。鞍馬寺が「鞍馬弘教」と名付けられたのは昭和22年(1947)で、昭和24年に鞍馬寺が天台宗から独立し鞍馬弘教の総本山となったのです。その結果、初代管長が大正のはじめ頃に入寺した信樂香雲師ということになります。鞍馬寺の沿革を辿ると、駒札にも記されていますが、奈良時代末期に遡ります。「『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763年)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。」(資料3)というのが、鞍馬山の開創とされています。鑑禎(かんちょう)上人は律宗に属した僧です。その後、延暦15年(796)に藤原伊勢人(いせんど)が貴布禰明神のお告げにより王城鎮護の道場として伽藍を造営した折りには、毘沙門天と千手観音を一体として併せて祀ったそうです。毘沙門天信仰に観音菩薩信仰が加わります。伊勢人はかねてより観音を祀るにふさわしい霊地をさがし求めていたとされています。伊勢人の孫・峰直の帰依をうけた峯延(ぶえん)上人が鞍馬寺の別当となり、中興の祖として鞍馬寺の基礎をかためたそうです。峯延上人は真言宗の十禅師とも言われた僧だとか。つまり寛平年間(889~898)に真言宗のお寺になります。その後天永年間(1110~1113)に天台座主・忠尋(ちゅうじん)が入寺し、天台宗に改宗されます。天台宗の影響が加わるのです。一方、古来より鞍馬山は山岳宗教の要素をもつ地でもあり、古神道、修験道等の影響がある地です。つまり、鞍馬山は長い歴史の過程で様々な信仰、宗派の影響を受け、宗教伝統が培われてきた場所なのです。護法魔王尊・毘沙門天王・千手観音菩薩を三位一体とし「鞍馬山尊天」とも称される由縁なのでしょう。(資料2,3,4,駒札)鞍馬寺、鞍馬山は文学の観点でも有名です。由岐神社の傍を通り過ぎるとき、「源氏物語ゆかりの地 鞍馬寺 北山の『なにがし寺』候補地」という案内板が目に止まりました。『源氏物語』若紫の巻の冒頭は、源氏の君が周期的に起こるマラリア風の病気をわずらったという描写から始まります。加持祈祷をしても効験がなくて困っていると、「ある人、『北山になむ、なにがし寺といふ所にかしこき行ひ人はべる。去年の夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、・・・・』」と記されていきます。すぐれた修行者が、去年の夏の流行病の折りまじないも効かず困っていた人々を即座になおしたと言う例をある人が源氏に伝えるのです。その修行者を呼び寄せようと源氏の君は使者を使わすのですが、「老いかがまりて室の外にもまかでず」と返答するのです。年老い、腰も曲がり、部屋から出ることもありませんのでという返事。そこで、仕方なく、源氏の君が4,5人ばかりの供を連れるだけで北山のなにがし寺に出向くのです。この後の描写に、鞍馬寺をモデルとしていることを想定させるいくつもの事柄が出てくるという次第。(資料5)清少納言も『枕草子』の161段「近うて遠きもの」として、「宮のべの祭。思はぬはらから、親族の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。師走のつごもりの日、正月の朔日の日ほど」と述べ、九十九折参道に言及しています。また、79段では、「頭の中将の御消息とて、『昨日の夜、鞍馬に詣でたりしに、今宵、方のふたがりければ、方違になむ行く。・・・・』と、のたまへりしかど、・・・・」と記しています。当時から鞍馬参詣は有名だったのでしょう。(資料6)菅原孝標女が『更級日記』を書いています。その日記の終わり近いところに、「鞍馬・石山」に参籠したことを記しています。「春ごろ鞍馬に籠もりたり。山ぎは霞みわたりのどやかなるに、わずかに野老(ところ)など掘りもて来るもをかし。・・・」と記し、10月に再び詣でたときの景色の良さをつづきに述べています。 奥山の紅葉の錦ほかよりおいかにしぐれて深く染めけむと詠嘆しているのです。(資料7)勿論、歌にも詠まれています。手許の本には、和泉式部、清少納言、赤染衛門、藤原清正、御形宣旨、三条西実隆の歌が載っています。江戸時代の後期に『雨月物語』を書いた有名な上田秋成もこんな歌を詠んでいます。(資料2) 墨染の鞍馬の寺と聞きつるは雪にあかるき山路なりけり 後は終着点の叡山電鉄「鞍馬」駅に向かいます。駅前にはこの巨大な天狗の面が参拝客を出迎えています。 そして駅舎の内部には、天井に「鞍馬の火祭」で使われる松明の一例が飾ってあり、プラットホームの柱にはズラリと烏天狗の面が掛けられています。こちらは参拝客のお見送りです。なぜなら、ホームの柱に駅舎方向に向かって掛けてあるのです。その下に、ちゃんと「お気をつけて!」と。これで,今回のウォーキング行程を探訪記としてご紹介しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 鞍馬山案内図 :「鞍馬寺」2) 『昭和京都名所圖会 洛北』 竹村俊則著 駸々堂 p225-2373) 歴史 :「鞍馬山」4) 鞍馬寺 :「日本の遺産」5) 『源氏物語 1』 新編日本古典文学全集 小学館 p199-2016) 『新版 枕草子』 石田穣二訳注 角川文庫 上巻 p96 下巻 p577) 『更級日記(下)』 訳注 関根慶子 講談社学樹文庫 p99-102補遺藤原伊勢人 :ウィキペディア輿で鞍馬へ出かけよう :「風俗博物館」心と身体を癒やしてくれる大自然の宝庫 鞍馬寺 :「伊藤久右衞門」2013/06/08撮影 京都鞍馬寺の鐘楼 :YouTube鞍馬寺で竹伐り会式 :YouTube 鞍馬竹伐り会(たけきりえ)式。 :「お話歳時記」鞍馬の火祭 :「京都新聞」烏天狗 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 貴船神社から鞍馬寺 -1 貴船口から貴船神社・本宮に探訪 貴船神社から鞍馬寺 -2 貴船神社・結社から奥宮へ 探訪 貴船神社から鞍馬寺 -3 木の根道経由で鞍馬寺奧の院・義経堂・冬柏亭に
2016.08.16
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貴船神社奧宮の参道から貴船川沿いの道路を下り、この標識まで戻ります。貴船川に架かる橋を渡ると、鞍馬寺の西門、参拝受付所があります。拝観料を払って入山です。その入口付近に祀られた地蔵尊 「木の根道」と称される山道を登って行きます。山道沿いの大きな岩など、所々で説明板が立てられています。右の写真には、「石灰岩4」として、「この岩塊にも溶食によって溝や穴ができている。大規模な石灰岩体では、溶食が進むことで鍾乳洞が形成される。地下資源に乏しい日本でも石灰岩だけは豊富で、セメントやカーバイドの原料に使われている」と説明されています。「奧の院魔王殿」という標識が傍に立っています。垂れ幕で囲われているのは拝殿です。中に入ると、その先に魔王殿のお堂が見えます。 魔王殿までの敷地は、ごつごつとした岩がまるでお堂の周囲に群がったかのようです。ここは「魔王尊」を祀るお堂。本堂を参拝してこちらに登ってくると30分ほどの距離のようです。「この魔王尊の姿かたちは、天狗のそれである。天狗は仏法が広がるのを妨害する仏敵であって、『魔王尊』は天狗を祀り上げて封じ込めたものなのである」(資料1)といいます。魔王殿のもとになったのは「太郎坊社」で、「太郎坊は一般的には愛宕山の天狗のことであるが、『太平記』には、僧正が谷で愛宕・高雄の天狗たちが牛若丸に兵法を教えた、とあるので、これに従ったのかもしれない」(資料1)。これとは、鞍馬の天狗が僧正坊の名で知られていることをさすようです。拝殿の近くに立つ道標によれば、この魔王殿から西門、つまり拝観受付所までは573m、貴船神社までは647mと表示されています。一方、ここから鞍馬寺の本殿までは951m、仁王門までは1915mです。奧の院の傍に、「石灰岩3」の説明板が立っています。「中には、刀で傷つけられたような痕をもつ石灰岩がある。牛若丸の剣道修行の跡で、兵法石と伝えられる。実は雨水によって溶食されてできた溝で、カレン(車のわだちを意味するドイツ語)と呼ばれる。」と。月のクレーターなどの写真を科学的事実として客観的に見ますが、月にウサギの姿を重ねて見るように、兵法石と眺める方が、やはりロマンを感じますね。天狗を祀る奧の院と牛若丸・・・牛若丸が毎晩のように通い、鞍馬の大天狗・僧正坊から兵法の秘伝を学んだという伝承地が、この奧の院から義経堂あたりにかけての「僧正ガ谷(そうじょうがだに)」なのです。 牛若の木太刀のあとといふ岩もさて信ずれば面白きかな 与謝野寛 (資料2)奧の院拝殿の右斜め前に手水舎があります。木の根道沿いに進みます。途中に「極相林」の説明板があります。この僧正ガ谷辺りが、鞍馬山では極相林に達した森だそうです。つまり、裸地や山火事・伐採などで樹木を失った土地は、光を好む草→陽樹(マツやナラなど)→陰樹(シイやカシなど)という生態系の変遷を経て、最後に陰樹の森林となって永く安定するのだとか。また、極相林ができるまでには200~300年かかるそうです。久しぶりに鞍馬山に登ったのですが、科学の勉強が副産物としてできるとは思いませんでした。現在この山内に「鞍馬山自然科学博物苑」があるのです。 さらに進むと、「謡曲『鞍馬天狗』と僧正ヶ谷」の駒札が立つ、かなりの広さの平坦地に至ります。この平坦地にあるのが「不動堂」です。この場所を昼食・休憩で利用しましたので、不動堂だけを写真に撮るチャンスを逸しました。不動堂の前の地面の一部はこんな図柄が造形されています。結界の一種なのでしょうか。他所では見かけたことがありません。ある種の儀式でこの一角を使用するのでしょうね。この不動堂周辺の僧正ガ谷は、天狗の総本山として修験者たちの修行の場だったのです。不動堂からみて、左斜め前方の巨木の傍にに見えるのが「義経堂」です。 左の写真に見るように、お堂には覆屋が設けられ、その柱に「義経堂」の説明木札が掛けられています。「歴史には文治5年(1189)4月、奥州衣川の合戦にて自害と伝えるが、源義経公の霊性は今も生きてこの山におわし、遮那王尊として魔王尊のおそばにお仕えしていると信じられている。この義経堂には遮那王尊をおまつりする」(木札を転記)傍に立つ駒札も同様の説明を記しています。遮那王というのは源義経の幼名・稚児名なのです。(『大辞林』三省堂、『義経記』) 不動堂の前方、平坦地の端に、小さな手水舎と朱塗りの「眷属社」が並んでいます。その間に、小さな池があり、池の中に陶器製の親子蛙がちょこんと置かれています。 木々の影と木漏れ日が微妙な雰囲気を醸しだし、惹きつけられました。肉眼では見えないのですが、デジカメのレンズを通すと、池面の一部がブルーがかって映じているのです。不思議な気がしました。ふと、傍の木が目に止まりました。こういう木々の姿は自然の生み出す造形ですね。 不動堂から先に進むと、「義経の背比べ石」があります。駒札にはこう記されています。「遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修行をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に下るとき名残を惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。」駒札の末尾に与謝野寛が詠んだ歌が引用されています。 遮那王が背くらべ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかなこの背くらべ石は高さ1.2mだとか。そして、牛若丸が鞍馬を去ったのは16歳のとき。このとき、牛若丸は次の歌をうたい残したと伝わるそうです。(資料2) 帰り来(こ)ん帰り来んとは思へども限りなき世に限りある身は 『義経記』によりますと、牛若丸が鞍馬を出るのは、承安2年(1172)2月2日のあけぼのと記されています。が、頭注に『平治物語』牛若丸奥州下りの条には「生年十六と申す承安4年3月3日の暁鞍馬を出て」とあり、こちらの方がよいと付記されています。(資料3)『義経記』は、「漢竹の横笛を取り出して、半時ばかり吹きて、音をあとの形見とて、泣く泣く鞍馬を出で給ふ」と去るときの情景を書き込んでいます。歌のことには触れていませんが。その傍にこの宝形造りの屋根の小堂があります。この場所に、「閃緑岩(せんりょくがん)」についての説明板が立っています。「背比べ石から不動堂までの坂道一帯の地下には、閃緑岩の岩脈が埋もれており、玉葱状風化により、鶏卵大から拳大の球形を示すことから、俗に『天狗の卵』と呼ばれている」木の根道と呼ばれるに相応しいと思える場所があります。 地面を這う木の根が作り出すこの自然の芸術をご覧ください。この後、石段の坂道を下って行きます。この坂道の傍に「赤鳴 珪質頁岩」の説明板があります。「鉋(かんな)や剃刀(かみそり)の研磨の仕上砥に用いる。梅ケ畑付近から産するものが有名。中生代三畳紀前期、深海底に静かに堆積した。かつて『鳴滝岩』と呼ばれたことがある」「革堂地蔵尊」の扁額を掛けてある地蔵堂 さらに下る坂道の傍に「黄泥 泥岩」の説明板が立っています。「砂岩は水底に砂粒が堆積し、固結してできる。泥や粘土が水底で凝集脱水し、固化したものが泥岩や粘土岩。圧力をうけ剥離しやすくなったものを頁岩(けつがん)と呼ぶ。ここの泥岩は、三畳紀放散虫化石を含む黒色チャートのブロックを含んでいる」 義経の息次ぎの水「牛若丸が、毎夜奧の院僧正が谷へ剣術の修行に通ったとき、この清水を汲んで喉をうるおしたといわれる八百余年後の今も湧きつづけている」(駒札を転記) 奧の院への門石段道を下ってから、振り返った景色です。石段を下りきりると平坦地となっています。石段の傍らに、「奧の院遙拝所」が設けられています。奧の院まで登っていくことがかなわない方々のために設けられているのでしょう。その遙拝所の反対側の石段傍にこの建物「冬柏亭(とうはあくてい)」があります。平坦地の一方に鉄柵があり、そこにこの説明板が取り付けてあります。この説明によると、与謝野晶子の五十の賀のお祝い(昭和4年12月)に、お弟子さんたちが「冬柏亭」とよばれる書斎を贈ったそうです。建物は昭和5年3月に完成します。東京の荻窪に移転していた与謝野家の広い屋敷の中の2つの建物の間に建てられたそうです。この冬柏亭は、与謝野晶子の没後に、大磯にある門下生の岩野喜久代氏の住居に移された後、岩野氏のご好意から、鞍馬山のこの地に昭和51年4月に移築されたといいます。鞍馬寺の信樂香雪初代管長は与謝野寛・晶子の直弟子で、大正期から深い交流をしてきたという縁によるとのことです。(説明板より) 冬柏亭の内部 平坦地の一隅に与謝野寛・晶子の歌碑が並べて建立されています。左の自然石には与謝野寛の歌、右の少し小ぶりな石の中央を円盤状に刳りぬき、歌を刻してあるのが晶子の歌です。 遮那王が背くらべ石を山に見てわが心なほ明日を待つかな 寛 何となく君にまたるるここちしていでし花野の夕月夜かな 晶子この平坦地は鞍馬寺本堂のある境内の山側にあたります。開削されたこの平坦地には,「霊宝殿」の建物があります。1階が「自然科学博物苑展示室」として使用され、2階は主に「寺宝展観室」として使われていて、冬柏亭の建物と併せて寄贈された与謝野晶子関係資料は、「与謝野記念室」として収納展示されているそうです。3階が「仏像奉安室」(宝物収蔵庫)だとか。(資料2,4)今回はウォーキングが主目的でしたので残念ながら建物の前を通り過ぎただけです。こんな歌もご紹介しておきましょう。(資料2) めぐりつつ鞍馬の山のつづら折り転法輪を我が身もてする 与謝野 寛 うすざくら錦を着つつうれうれどなほ御仏をたのみてぞたつ 与謝野晶子「鞍馬」という地名の由来について、こんな解釈を見つけました。以下、引用させていただきます。”この「鞍馬」という地名の由来だが、多くの『地名辞典』では「暗部(くらぶ)」説、「暗山(くらま)」説をとっている。つまり、木々が鬱蒼と茂って暗い山だからというのである。もう一つの解釈は、鞍馬の集落が狭く窪んだ地形にあるところからきたとするもの。「クラ」は「蔵」とも「倉」とも書くが、いずれも山あいの窪んだ地形を指す言葉である。「マ」は「間」のことであり、山の谷あいを意味している。後者の話はこれまでだれも提起していないが、私はこの解釈のほうが地名学的に正しいのではないかと考えている。”(資料5)遠山を眺めながら、鞍馬寺の本堂域にさらに少し下って行きます。つづく参照資料1) 『京都魔界案内 出かけよう「発見」の旅へ』小松和彦著 知恵の森文庫 p96-1112) 『昭和京都名所圖会 洛北』 竹村俊則著 駸々堂3) 『義経記』 校注・訳 梶原正昭 小学館 p68-734) 霊宝殿(鞍馬山博物館) :「鞍馬寺」5) 『京都 地名の由来を歩く』 谷川彰英著 ベスト新書 p224-227補遺鞍馬山 :ウィキペディア愛宕山 (京都市) :ウィキペディア天狗 :ウィキペディア愛宕権現 :ウィキペディア愛宕神社 ホームページ東近江市の太郎坊宮 :「Travel.jp」太郎坊宮 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 貴船神社から鞍馬寺 -1 貴船口から貴船神社・本宮に探訪 貴船神社から鞍馬寺 -2 貴船神社・結社から奥宮へ 探訪 貴船神社から鞍馬寺 -4 鞍馬寺本殿・転法輪堂・九十九折参道・仁王門ほか
2016.08.14
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