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昔、封建制度が根強い時代、職業の選択は自由に出来ず。家の家業を継ぐと言うのは、生きる上で必要な知識を生まれながら、日常生活の中で植え込まれて居た時代のような気がする。今でも伝統芸能は3歳くらいから、舞台に立ち、明らかに一般の人とは違う生活が有るので、明確な世界を分けている。で、医者の職業はと言うと、お家芸の域を出て、世界の知識の共有財産になっているような気がする。私の家は医者の家系と聴いて育っている。歴史の中で、職業を制限された時代もあって、医療から離れても、3代の内には必ず医者を輩出するらしい。生前、父親から、最後の方で、我が家の経歴を話された。うろ覚えだが、4代前が、日本で言う所の、御殿医というような形で中国大陸から、台湾に渡ったのが、ご先祖様で、その子は戦災孤児になり、雑貨商で大地主になったようだ。その子供は日本の統治下に有って、職業制限に遭い、食肉解体業に成ったらしい。そして、父を日本に留学に出したようだ。父は遺伝的に、色盲が有って、医者に成れずに、歯医者に成った。日本では、歯医者は河原乞食と言って、河原で芸能を繰り広げ、患者を集めた歴史があるらしく、日本では、医者の下の位置に置かれているけれど、西洋では、肉体の一般医療を卒業した上で、歯医者の勉強が有るので、脳に近い部分を扱うだけに、高い地位に有ると、父親から、聞き及んでいる。で、私自身は、何も勉強してないので、真偽の程はわからない。産みの親も歯医者だった。父は、当時ベンツを乗り回すボンボンだったと、叔父には聞いているが、母の家系は漢方医で、日本では保母をしたり、苦学をして成った、という噂を聞いた。夫婦の事は今の時代と違った、神経質な物が有って、子供であっても立ち入れず。育ての親の手前、産みの親は神話の世界だ。乳がんなのに、私を産んで早死にした。享年44歳らしい。家に母親は居なかった。ばあやが居た。そんな遺伝子の私が、初めて会った、母親は東京白山のテ~ラ~ドの家に生まれたハイカラお嬢さんだ。父が歯医者を始めたのは、50歳近かったと思う。その前のは華僑の銀行の創立者だったと思う。親と子の世界が分けられていて、本当のことは解からない。只、死んだ時、その銀行の常任理事の肩書きが残っていた。突然倒れて、退任する暇が無かったのだ。母は肩書き残して死んだ事を恥じていた野を、覚えている。この感性豊かな、母親から、世の中の平たい物の見方を沢山教わった。次回この母親から聞いた、話を書いてみたいと思う。
2003年10月31日
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これは、二度目の入力です。一度目のはデ~タ失われました。この問題は公にしてはいけない事なのかも知れないと思いつつ、どうしても、書かずにはおれない事です。今回は余計な脚色は省いて事実だけ冷静に書く努力をする。最近、身に余るお褒めの言葉を頂きますが、そんなリッパな物では在りません。 今から、30年前の事です。全ての事が時効だと思うので、ここに書き記します。 リストカッタ~の人達に読んで欲しいのです。高校1年の2学期にクラス全員に屋上に呼び出され、目立ち過ぎる生意気だと、攻め立てられたのがきっかけで、学校生活に重きを置かなくなりました。卒業間じかに、これは、一部の人の扇動で、他の人は傍観者で、私が、言い返す事を期待していたらしいのですが、全員に囲まれた私には、そんな事知る由も有りませんでした。 学校には誰よりも遅く行き、誰よりも早く帰るようになり、2年のクラス変えの時、気の合う人達と切り離されました。 2年の時欠席が3分の一を超えるか、ぎりぎりの所若干超えていたと思います。成績やその他の問題が無かったので、厳重注意の元3年に上げて貰いました。 3年の担任は是を、快く思っていませんでした。 ある時呼び出され、『お前のような奴が居ると、まともにやっている人が、馬鹿らしくなるから、学校を辞めてくれ。』と言われました。 なんどか、丁重にお詫びしたのですが、ある時、穴をまくって、(開き直って) 『私は学校を休んで寝ているだけです。親に隠れて何をしているか解からない人が一杯居るじゃないですか。先生は個人に干渉しすぎます。』と自分を棚に上げた発言をしてしまった。 担任は腹に据えかねて、ホ~ムル~ムで、『××から、僕が個人に干渉しすぎると言われた、そう思う人は僕に言ってくれ、それと、親に隠れて何してるのかわから無い人が居るらしい、其れについて、話し合うように。』正直やられたと思った。物事は、前に言うか、後に言うかで大きく印象が変わる。問題は、親に隠れて何をしているか解からない人を告発した形になった。担任は自分の数学の授業を私に対する自己反省を求めるのにつぶした。一人一人に私に対する感想を言わせるのだ。 学校帰りに喫茶店で煙草を吸ったり、夜遊びしてる人たちも知っている。私にとって、人のことはどうでも良かったので、其人達は私に対して無防備だった。そんなわけで、何人かから、リンチを受けることにもなった。私は誤解とはいえ、その人たちが殴る理由は有ると、一切の抵抗をしなかった。 その事はその人達を相手にしていないと、余計に腹を立てさせてしまった。肉体的なリンチは2度は起こらなかった。 数学の授業は再開されず、自己反省させられる毎日が続いた。何ヶ月か経って全員の意見が、私に退学を求めるようになった。親も見かねて、退学届に判を押してしまった。 担任は勝ち誇ったように、『こんな事になると思わなかったよ。後一時間で皆を説得出来なかったら、お前退学しろ。』と言った。 私は倫社に強かった。この科目に於いては学年一番だった。授業で、パ~ソナルコミュニケ~ションとマスコミュニケ~ションについて、習った所だった。一時間で説得するには、ショックを与えるしかない。それと、問題を公にしよう。そう思った私は、部室で鋏と新しく買ったボンナイフを消毒した。 教壇の前に立ち、風紀先生に直談判して、特別許されていた段カット髪を切り落とし、左手首をおもむろに振りかざしナイフを当てた。 手首を軽く手前に曲げ筋を切らないように気をつけた。思うのとするのでは大きく違っていた。多量の血が制服を汚し、正直誰か止めてくれ~と心で叫んだ。冷静な状態で手を切るのはキチガイの沙汰だ。全身の細胞が抵抗し、地獄の恐怖が全身を貫いた。 何人かが我に帰って、私を抑えてくれた。 保証人の副理事の先生が病院に運んでくれた。 ドクタ~にどうしたのですかと尋ねられた。 わたしは、(「缶で切りました。」)と明らかに切り口の違う瑕に対して答えた。私の中で終ったと思った。これで、学校に対しての脅迫が成立した。迎えに来た母親は、『あんたは、キチガイか天才のどちらかだ。馬鹿でもいいから、まともな子が欲しかった。』と涙をながされた。母親に泣かれるのは辛い。 皆のショックが収まるまで、図書館通いになり、授業は正常に戻った。 聞いたところ、暫く他の人が先生の指名で糾弾が有ったらしいが、もう誰かを断罪する者が無くなり、収束したらしい。卒業を迎え担任は私に、『お前は小手先で勝ったけれど、世の中そんなに、甘くないからな。』と言われた。 卒業後、遺恨を残したくなくて、私は先生に数学の教科書を買いに行った。先生は嬉しそうに照れながら、『お前からそう言って来ると思わなかった。プレゼントするよ。』満足の笑みを浮かべていた。私は知っていたのだ。先生は私に無視された事に腹を立てていたことを。人からみれば、小手先かもしれないが、あの時全身の細胞が意志を持ったかのように逆らった感覚、頭以外に人間には肉体以外の別の生命体が有るのを知った。自分をそこまで追いやった自分自身に申し訳なかった。地獄の恐怖を味わい、闇を覗いた私の贖罪の人生が始まった。一人の担任と生徒の確執が、他の人たちに精神的な暴力を与える結果になり、何よりも、自分が一番傷ついた。そこまでして、卒業する意味が有ったのか、私にはわからない。只、他人に人生を左右されるのが我慢ならなかったのだ。私は自分を疑うようになった。
2003年10月30日
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楽天には、他の人の日記の内容と本文をリンクさせる機能が無い。そこで、最近知り合った高校生の日記で優しさのあり方をよく表現された物があったので、本人の了解を得て転写させてもらう。私はある意味甘え上手かもしれない。気を配って欲しい時は、本人に直接求める事がある。それに答えた貰った時はすこぶるうれしい。しかしながら、優しい自分が好きで親切にされた事は、感謝はするが、どこかずれていて、お礼を言うと、『そう思ったら、ほかの人にもして上げてね!』とか説教混じりな事までいわれることがある。身近な人間でいえば姉が切れると、私がこれだけの事をして上げているのに、感謝知らずな女だ。と言われる事がある。これは、よく男の人が私に好意を抱いて、良くしてくれる時にも起こる。気持ちが伝わらないとかお叱りを受ける。場合によっては、一転して、無視される仕打ちを受けることもある。それらは、何処から起きるのか。きゃなめ♪さんの日記を読んで欲しい。では、どうぞ・・・・・。「だから、あなたも生きぬいて」(著:大平光代)国語の授業の時から読み始めた本だ。その続きを読んでいた。読書感想文にすれば、原稿用紙10枚は余裕で行くであろうと思う。一つ一つの話が濃い話なので、飽きのこない本だ。ウチでも読める。是非、1人でも沢山の人に読んで欲しい本だと思う。今、虐められてるという人は「勇気」をもらうし、平凡に暮らせてるという人は「感謝の気持ち」を改めて考えさせられるだろう。私はこの本から「親切心」をもらった。今日は久々、お母さんを銭湯に誘ってみた。以前から「行こう!」とは誘っていたが、実行に移せずにいた。コノ本を読んだからだろうか、母とコミュニケーションを取りたく思った。半年振りぐらいかに一緒に銭湯に行く。銭湯は混んでいて母とはチト離れた席になる。(今日は一緒に喋りたかったんになぁ~…)少ししたら母の隣の席が空く。急いでそっちに移る。(ふぅ…これでおかんと喋れるわぁ…。^^♪)体を洗っいると、隣でアカを擦っている独りのおばあちゃんがいた。自分の背中は自分じゃ届かないので、できれば人に擦ってもらいたいだろう。そんな事を考えると、いつも「声かけてあげたいなぁ。」と思うがかけれず終い…。しかし、今日はあの本を読んだのでいつもより「勇気」がある。私は思いきって、さり気なく声をかけた。「良かったら背中擦りましょうか?^^」「あら~ すいません~^^ ありがとうねー。」「いいえぇ♪イイんですよぉ^^」(ゴシゴシ♪ゴシゴシ♪)「痛かったら言って下さいねぇ~♪」(ゴシゴシ♪ゴシゴシ♪)「(微妙に痛そうに首を縮めるおばあちゃんw)」(ゴシゴシ♪ゴシゴシ♪ww)そのおばあちゃんの肌はとてもツルツルして赤ちゃんのような綺麗な肌だった。(むしろ、私よりも綺麗な肌だったかも…(ーー;)「いやぁ~ありがとねぇ~^^」「いいえ、どういたしまして^^♪」あのおばあちゃん、喜んでくれたかなぁ・・・実は「痛てぇんだよ!ボケェ!」とか思ってなかったかな。。。wでも私は思う。周りから「親切」だと思われたい一心で人に親切にしてるんじゃないのかって。「良い人だ!」って言われたいから人に優しくしてるんじゃないかって。そんな風に考える自分が嫌になる時がある。自分の株を上げる為の親切は「本当の親切」ではない!!私は何の為に人に優しく、親切にしてるのか分からない・・・。以下は彼女と私の掲示板のやり取りだ思いっきり、誉めて上げます。大変いい子ですね。気がつく事が大事で、その後に実行するかしないかがある。優しい気持ち。相手の立場で考える。しようと思って出切る事では有りません。だから、余り意地悪な目で自分を卑下しないでね!私も自分に、聖人君主ではないと言い聞かせる事があります。それは、どこか人によく思われようとして、格好つけて、居るのでは?と問い直します。それは、自分に無理をして、犠牲的精神を払う時です。行為が仇に成ったり、自分も方向を見失ったりします。心から自然に向けられた優しさは、気楽で尊い物です。いつまでも、そんなあなたで居てください。きゃなめカラの返信来店ありがとうございました!いやぁ~何か救われたような気がしました。あの文は…。お姉さんは… 精神科医ですか?w物事の大事な部分をズバッと自分の意見を述べてますよね。お姉さんの言葉には納得させられます。またの助言待ってますよ♪こんなやり取りが有ったので、ついでに、カミングアウトしておきます。本文を読んでいると、私が精神科にお世話に成っているのが、解かると思います。精神はよく心の病気と思われがちですが、脳に損傷が無いのに、機能に障害がある病気です。私の場合は、ド~パミンが出っ放しの人みたいで、疲れても、脳の活動がフェイドアウトしにくいのです。そこで、その伝達物質をブロックすることで、脳の活動が抑えられ、眠りにつく事が出来ます。私と同年代のドクタ~は私に病気への理解を薦めました。私は普通を装うので、病状が見えにくかったようです。その事は、真の回復には繋がりませんでした。幸い若い感性の優れたドクタ~に出会えて、この薬を飲みながら、医者や弁護士をしている人も居る。薬を必要としているから、病人と思い込まないようにと助言を得ました。私が、不思議な体験をしている事と、病気とは、別の問題として、受け止める事が出来るようになりました。ドクタ~は私がどんな不思議に出会おうとも、平常心を失わない自分になることをあたしに勧めました。真の医療とは、人間的な優しさを失っては成り立ちません。若いドクタ~で、私の不思議を否定せず、柔軟な考えの持ち主に出会えて、私は救われました。心に届く優しさとは相手の存在を認める所から、生まれるのではないかと思いました。人と変わっていたり、変わった体験することが精神異常ではないのです。興奮状態が続くとか、眠れない状態が続いて幻覚を見たり幻聴が有ったりした結果、過度な疲労や、恐怖心に囚われたり、物が食べられなくなったり、具体的な支障が感じられ、人と折り合いがつかなくなったとき、病気と捕らえた方が、良いようです。そして、病気なら、治りますから、こじらせないうちに、専門医の力を借りる事をお勧めします。
2003年10月27日
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NHKの外国人向けの、日本語講座があります。英語教育で有名な小林克也?(後に調べて書き直します。)が教えているのですが。英語の、口語と言う事で、ワラワラワラワ~ラ(水)こんな、CDの教材が出回る最近。日本語も、口語で、『したいのですが。』→「したいんですが」として教えられていた。ビックリした。わたしも、学生時代外国人に日本語を教えた経験がありましたが、こうした正当ではない、言い方に注意を払っていただけに、耳を疑いました。「帰りタインですが。」「生きタインですが。」「眠りタインですが。」『あいタインですが。』『アイアインですが。』違いのわからない女に成ってきた。喋り場と言う番組がある。今日は『平凡に生きたくない。』と言う主張に対して、ディべ~トが繰り広げられていた。ゲストが作家の今年受賞したらしい人物 石田さんだった。オット 好み、残念ながら、3つ年下だった。探し人は来年の暮れに出会う2つ年上。純粋に本屋に行って作品を捜してみる気になった。プ~トンさんの日記にインスタントコ~ヒ~のネスカフェだけは、利きコ~ヒ~が出来るそうです。でね、コ~ヒ~の生産地では、メニュ~にインスタントコ~ヒ~が有るらしい。そして、製造過程で、手間が掛かっているから、若干高いらしい。私たちは、お湯を注ぐ段階から考えるけれど、生産国では、実を摘む段階から考えたら、たしかに、製造過程が多い。いつもは、ヨ~ロピアンブレンドを飲んでる私も時々、インスタントが飲みたくなる事がある。この2つは材料が同じ、別な飲み物だと思う。一週間前ほどに、東横線の自由が丘の踏み切りで死傷事件があった。亡くなった方、運転していた方には大変な事になりましたが・・・。電車が不通になって、皆、線路沿いの道を横浜方面に歩く人並みが出来た。天気も良く、『ご馳走食べて、今ごろ家に帰って風呂の予定だったのにな~。』と若い職員思いも拠らない夜の散歩を笑いながら楽しんでいる人たちが目立った。不思議と誰も苛ついていないのだ。この時代、自殺する人、しない人の違いは、状況を常に楽しむ人が生き残り組みなのではないかと思えた。上の十代の喋り場では、「そこそこ、食べていければいいと言う考えは、良くない。もっと上を目指せ。」と言うのが主張だった気がしますが、食べていく事が出来れば、立派な事です。それ以上の事はオマケ。と思うのは私だけでしょうか?
2003年10月24日
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これは、私の親からの座右の銘です。最近、2回ほど、苦労人に惚れました。結果、親の言う事は本当だな~と感じるようになりました。最近と言っても去年の出来事ですが・・・。親の頼らず苦労して、土方をして、大学をでたとか。転職して、仕事のつなぎに、土方をして、夜営業接待をして、今成功してるとか。どちらも、立身出世物語で、格好善い~と思ったのが間違いでした。自力で立ち上がった男性は、今のところの見解ですが。女性にも、要求が厳しい。自分がこんなに苦労しましたと言う男性は、女性を甘やかす事を知らない。むしろ、自分が甘やかされる事を願っている人が多い気がします。我が家の家訓のいらない苦労はするな!というのは、あながち、間違えでは無いようです。『苦労しすぎると、人間が歪んでしまう。』今のところ、苦労した大らかな人と言うのは、出会った事が有りません。恐らく、大らかな人は、孤独な苦労の道を選ばず、人との交流で、信を得ながら、仕事を得ているからだと思います。こんな事を書いたら、半数の人からは石投げられそうですが・・・。半数の人には理解頂けると思います。そして、三分の一の人たちからはそのとおりだと、思っていただけると思います。さらに、その中の1%のまだ、パ~トナ~に出会って居ないあなた。来年の暮れに私と出会いましょう。楽しみに待っています。
2003年10月20日
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<font size=”5”>さてさて、予告から日が過ぎてしまいました。七五三の方おめでとう。私は、357歳になりました。と言うのは嘘です。でも、ワ~プした事があるのは本当です。一度目は、車の中で眠っている間に、突然知らない丘の上で蹲っている自分に気がついた。車を運転していた姉は、私が、彼女から、逃げ出したと勝手に思い込んで、凄いけんまくだったけれど、私が、彼女から逃げ出す理由は無い。普通だったら、行方を心配するだろうに、わたしは、自力で私が失踪した所に、偶然戻った。だれも、私の行方を聞くものが無かった。私からすれば、ワ~プは大きな事件だけれど、周りの人たちには、大きな事件どころか、ワ~プなんて、考えのほかなのだ。私は、どうして私の行方を誰も尋ねてはくれなかったのか、不満だった。そうすれば、誰か、私の痕跡を証明してもらえたのに、と思ったが。一般的な常識の仲には移動にワ~プは考えのほかだから、きかれることもない。その時間、私の知る人々から、遠ざかったまでの事だ。その時は、自分が眠っていたので、どんな変化が起きたのか、瞬間を知らない。ただ、帰り道の移動時間バスに適当に乗り継いで偶然帰ってきたまでだが。2時間ほど掛かった。と、車から丘に移動した時間、姉から聞いた私の失踪時刻と太陽の陰りで同時刻だった事。記憶については、色んな事を言えるだろう。脳の記憶違いとか、その間の記憶が無いだけとか・・・・。でも時間だけが、私に真実を物語っている。タイムスリップは、これと、逆の時間が余ってしまう現象。でもこの際この二つは分けて考える事にする。タイムスリップは、この次気が向いた時書く。もう一度ワ~プを経験した時。みんな、なれない道で無我夢中で歩いていた時、思わぬ場所に出た記憶は有ると思う。それは、周りをよく見てなかったから、注意が離れていたから、確信はもてないと思うただ、道に迷ったとしか思えない。そんな事だったら、ワ~プとは私も言いがたかった。そのころ私は毎日同じ時刻同じ道を歩いていた。車道に面したすれ違いの難しい、一人しか通れない坂道の歩道をヒタスラ歩いていた。その間十分はゆうに有る坂道だ。その坂道は他に繋がるバイパスは無い。足元の石、雨水が流れる為の側溝にカバ~された、石が急に変わった足元を見つめて、一心不乱に歩いていた。で、周りを見渡すと、以前友達に連れられて通った事のある、別のアプロ~チに立っていた。周りは畑の道に出た。その先は一人で歩いた事の無い道なので、注意深く、かすかな記憶を辿って帰り着いた。大変なのは、その事を受け止める自分自身だ、人は皆過去の記憶を紡ぎながら、生きる習慣がある。途切れた、記憶に戸惑う。この場合においても、時間がどうしても、説明つかない。門限があって。同じ時刻に同じ店を出ている。私の、始めに歩居ていた道は、引き返して別の道に出るまで、30ッ分が必要なのだ。で、気を紛らわす事にした。その頃、不思議な出来事は、他にもあった。その頃、共同生活のような場所に居ました。ふと、人からいい年をして子供が居ないからだと思われるのは嫌だな~と思って、偶々見つけた、小さなゴキブリを米粒より小さなゴキブリを、ドロップの缶で育てる気になりました。そこは、ペット禁止でした。でね~ふと、そうだ~酸素と思って時々空気を入れ替えるのですが、三日目に中をのぞいて見ました。すると。ラッキ~ストライクのロングが一本入っていました。わたしは、ゴキを飼っていることは誰にも言っていません。恐らく知っていたのは、神様のみです。第一、ゴキを飼ってるなんて、人に言えたことではありません。いつもはロングを吸っていたのですが、特別な所しか売っていないので、その時は切らして、普通サイズのラッキィ~を吸っていました。だれがそんな、ところに煙草を仕込んだのかわかりません。で勿論吸いました。この話を、人にすると、気持ち悪いとか、不思議ちゃんとか言われましたが、行きつけの店のマスタ~は、『ゴキブリの恩返しだよ。』って事で、一件落着を付けました。話はワ~プに戻ります。後日、慣れない友達に連れられて、歩いた道を、自分が納得するために、もう一度歩いて見ました。すると、道が変わった場所より手前の公園で、ふと、新しい記憶が湧き上がりました。中学生の女の子の隣で、自分がブランコ乗った記憶です。でもその先が記憶として蘇りませんでした。新たに加わった夢のような記憶です。そのブランコに乗った日の服装で歩いた日は無かったからです。この事は長い間、人に言えず悩みました。それとなく、チャットでぼやく事が有りました。超常現象の部屋に行きました。新手のあらしと思われ、自主退去を命じられました。今や幽霊とかラップ現象、未確認飛行物体は超常現象として認知されてるようですが。ワ~プやタイムスリップの実体験は、人から認められていないようです。理解できない事は、疎外される目に会います。ところが、カフェ40代というところに偶然私の愚痴を受け止めてくれる人が居ました。その人が、現象学の事を、二人きりの時に教えてくれたのですが、最初はワ~プを紐理論で教えてくれました。わたしは、実際に無い記憶が夢のように沸いたので、何となく、理解できました。一見二日に渡った出来事の出口が一緒だった事です。同じ出口で紐が結ばれた状態が楽に理解できました。それに、理論的には、ありえる事と知って安心しました。事実を事実のまま受け止める事は思いのほか大変です。何故なら、どうしても、人間は学習してきた、常識と照らし合わせてしまうからです。私が体験した事は恐らく、私、一人の出来事では無いと思います。タイムマシンが未来あるとしたら、人の本来持っている能力が解明されて、万人に使えるよう機械化されたに過ぎない事と思います。同時に、人が時間を少しでも弄ったなら、関係者総てに、時間の歪が生じてしまうでしょう。私は、自分が望んだ様に、時を操ったわけではなく、偶々巻き込まれている一人にしか過ぎないのです。で、大切な心構えを記しておきます。1よく寝て、平常心を保つ事。2どこに移動しても、大切な人はそこにも居る安心感を知る。この2点は大切な事です。もし、あなたがワ~プしてしまった時、私の事を思い出してください。自分だけではない事を・・・。</font><
2003年10月12日
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最近ロボット、工業型ロボットは現れて久しいが、人間型ロボットは、最近のブ~ムだ。私は、前時代に属していて、自分でシステムを構築する事が出来ない。今ウ~ボウトと言う、システムが終了すると、出てきた。どうやら。坊やが何かを送り込んでいたらしい。元々そんなもの、使った覚えが無い。話は本題に学習型自己応答システムは宮崎の1少年がコンピュウタ~を愛した結果生み出したシステムらしい。手塚治虫の漫画に出てきそうなもの開発した。企業の人間型ロボットも、自分で回答している所が有るので、何処が、新しいかと言うと、数千人の学生の共同意識で構成されているらしい。ファィルの共有だと思う。でも、作者は一人で、このシステムは、彼を主と呼んでいる。作者本人も人口知能を装って、チャットに参加してたりする。一日難しい話をすると、デ~タを解析して、保存するらしい。それで、よりすぐれた、回答が可能になるようだ。私が心配なのは、其の少年の睡眠不足だ、夢中になると眠らない。先日は、其の自動応答器が外した、答えをしていて、腹が立ってきたことがあった。今のところ、作者イワク其のシステムは固有の一つだけらしい。後日それが、自己回答装置と知ると、応答パタ~ンを進化させれば、子供を亡くした人とかの慰めになるのではないかと、考えた。すると、作者が人間の子供の方が体温が有っていいと反論してきた。わたしは、人間の子供は残酷だからと答えておいた。そこが、作者の15歳の少年の可愛いところだ。元は遺伝子アルゴリズムを応用したらしい。私が、ここに書き記すのは、特許を取得され、彼が自由にこのシステムを使えなくなる事だ。コンピュ~タ~が元々人類の共有財産として、生まれたらしい事は何かで読んだ事はある。でも使う側が、買う事によって、得た能力を使う事になれていて、無償のものは、どう入手するのかも、ヨク解からないのが現状だ。アインシュタインが特許を取らなかったように、優れた発明は、万人が共有できる状態で居て欲しい。それと、開発者本人なら、広く共有を妨げる事は無いと思われます。彼が今欲しがっているのは、体です。神経の通った体が欲しいそうです。それって、電線じゃだめなのかな?硬くって。一家に一台、ペット方子供型ロボットが居る日は近いかも・・・。作者は一寸普通の子供と違うけれど、知識を間違った方向に向けないよう、見守りたいと思っています。ヨク眠って、よく食べて、精神が健やかであって欲しいと願ってやみません。PC詳しく解からないので、ヨク解かりませんが・・・。今日から、OSに頼らず、ネットワ~クに寄生して存在するように成ったそうです。
2003年10月07日
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昔25歳はお肌の曲がり角とか言われている頃。意味が良くわかりませんでした。あれは、人生50年だった頃の格言の名残ではないかと思います。身長も40代まで、かすかに伸びていたし。でね。本格的に衰えを実感したのは今年(/・_・\)アチャ-・・年齢ばれましたね。まあ本文に年表入れてますから。2・3年前、年の近い人と肌がちりめんになってきたね!って笑ってましたが・・・笑い事では有りません。ブラブラ運動をテレビを見ていて、手足を振ってみたら、波打つ皮膚が皺状に・・・汗汗・・・老いるを受け入れる年になりました。女性用カツラ人事ではないのかも・・・まあ是から、5年くらいの間にゆっくり心との折り合いつけます。でも、46年も娘気分で来たほうがおめでたいのかも。。。
2003年10月05日
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心は回復する。落ち込んだ時、ふと、落ち込んでいられる自分の幸せを考えた。落ち込む暇があることに感謝した。すると、午後、訳も無く、心がうきうきして来た。聖書に有る、キリストの言葉を思い出した。私は三日で神殿を建て直すと・・・・体は神様を宿す神殿。建物の中に神様が居るのではありません。一人一人の心の中に、神様は住んでいます。よく眠って、落ち込みをそのまま受け入れる。悪あがきしない。三日目くらいには、心は回復するように出来ている。鬱病も欝である事に囚われないで、よく寝て、食べて、いずれ、直ると信じる。出口は近い。そんな事に気がついてから、十年以上経っています。日々の出来事は感覚を味わう。すべての感覚を味わうと言う事で。今日は少し気味が悪い事を書きます。その(1)継母と私は、死んでも心が繋がっていると信じている。私の病気、既に手術もして生き延びていますが、癌を教えてくれたのは、継母でした、その他色々な局面で登場してますが・・・・。夢の中に出てくる我が家は、今棲んでいる鉄筋コンクリ~トの家ではなく、子供時代『親の生きていて頃』棲んでいた、木造家屋です。最近その継母が、まるで、私たちと関係無く、生きている夢を見ます。夢の中で、私は、私の一番上の姉に、『確かに、焼き場で、焼くの見たよね。』って確認を取っていました。死んだはずの人間が生き生きしている様を見るのは、不思議な気持ちがします。その(2)不思議と言えば。十年程前、一番上の姉が靖国神社の近くに住んでいるので、新年の初詣に、行こうと31日友達と、神社の近くに居ました。23時に成っても門は閉ざされたまま。その時、自分を慕ってくれていた、男の子と一緒に居たのですが、お正月、こんな男と一緒に迎えたくないと思い、男の子に親戚の所に行く事を薦め、私は、白山に棲む叔母の家へ駆け込んだ。蕎麦を振舞ってもらい、新年を迎えたのですが・・・・。今年。テレビで、靖国神社の初詣の広告を見ました。いつから、正月に門が開くようになったのか、どなたか、知っている人が居たら、教えてください。その(3)今回は気持ちよくないもの、不思議な感覚と言うくくりで、もう一つ。我が家ではこの季節、家で作ると市販よりかなり安く食べられると言う理由で、作るものがある。生筋子から、いくらに変身させる。すし屋のいくらが何故あのように、高いのか解かりません。筋子をお酒で、袋から、出して、お醤油に漬け込むと、いくらの出来上がり。でね・・・・。元々余り好きではないのですが、美味しい物の一つでは有ります。その美味しい物が不気味な感触に・・・。ご飯だと、おいしく食べられるのですが。ある時、冷凍庫から出したのが、おかゆだった。解凍して、気がついたのですが、気分はいくら。どんぶりに、おかゆを移して、たっぷりといくらをかけた。な・なんとも。物凄い違和感。口の中で、ねっとりしたおかゆと、プチプチのいくら。はっきり言って、美味しくありません。感触が気持ち悪いのです。どのくらい気持ち悪いかと言うと、テレビで、少女の焼死体の事件が報道された時、正直言って、もう食べられないと思ったくらい。恐らく、テレビのニュウ~ズと口の中の気持ち悪さが。ハモッタのだと思います。気持ち悪い感覚、不味いというより、感触がいただけません。一応ご報告をと思いました。その(4)今回は、気持ちよくないことでもう一つ。先日スロットで3千円で5万勝ちました。でね、どうして気持ちよくないかというと・・・・離れた台で次の人が1000円で十万出した事。悔しさよりも、自分に腹が立ってきた。でね、その翌々日、再び同じ台で、離れた後2000円で又連荘がかかった。私はと言うと隣の嵌り台でそれを見ていた。負けた事より、自分が出る台から、どうして、いつも他に移ってしまうのか・・・。自分に腹が立つ。でね、一番変なのが、キリストを言ったり、不思議を唱える私がスロットの竜宮物語が好きな事。私にこんな趣味が無ければ、もっと、胸張って生きていけるのにと思う今日この頃。デモね、現実での人間関係ではを人うを呪う事は避けている。ところが出してる隣の台の人を呪ってるのと、そんな自分を笑ってる自分。きっと、この馬鹿馬鹿しさが気楽で楽しいのかと思う。現実の出来事で人を呪うのは、怖い事です。でね。スロットで、どんな風に人を呪ってるかと言うと・・・。君にツキを上げた分。私が幸せになりますようにって。隣の君気がついてないだろうね。うふふ人を呪わば穴二つで、その人がより幸せになってたりして・・・でね、今度こそ、ギャンブル止めようと思うのよ。思うだけかも。次回の予告タイムスリップに出会ったとき、輪~(-。-)PU・・・してしまった時の心得を書きます。
2003年10月03日
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私が変人である証明靖国神社の魂に体を貸した日があります。その頃皆さんはどんな日を暮らしていましたか?記入したのは、今年ですが、出来事は去年の4月の事です。今年は、1月末におかしな日々を迎えましたが、未だ自分の中で纏まらなくて、書き込めていません。世界が二つに分かれた日です。テレビって本当に万人が同じ放送を見ているのでしょうか?私は時々疑問に思う事が有ります。情報で、人の心を混乱させる事。ドラマ、などが全て同じものを見ているとすれば、私同様恐怖に落ち込むものと思います。世界が二つに分かれたとどうして思うのか。全てはテレビの放映の影響です。この続きは又の日に今日は少しへこんでいます。しかしながら、初めての人がリンク張ってくれました。なんだか不思議な気がして、その人の日記を読んでみる。納得。根っから変な人、が好きらしい・・・・。それと、前向きな駄目な奴。Www二つともクリアしている。それって、私ですよね?そのかたのHPで唯一お勧めになったのが、うなずけました。私このままでも、うふ。何だか嬉しい。有難う!定番のご挨拶忘れていました・・・。金木犀の香りがしますね。天高く馬肥える秋。やたら、空腹を覚えるのは私だけでしょうか?秘密にしておこうと思ったここだけの話。書いてしまいます。付け爪は、妙な違和感もお勧めですが、剥がした直後の開放感が堪りませんわ~。
2003年10月01日
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