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お父さん。私は、お父さんの娘でいることを、とてもよかったと思っています。でも、私は、本当はお父さんの骨の一部になりたかったのだと思います。お父さんは、お父さんの研究に一生分の価値を見出し、寝食を忘れて、没頭しています。お父さんから同じ気質を受け継いだ私も、他の何を犠牲にしても、何かに打ち込まなければならないのです。そうしなければ、頭の中ですべての情報がばらばらになり、砂になってしまうのです。お父さん、思考が砂になる苦しさを、お父さんはどうやって乗り越えてこられたのですか。お仕事を辞めても、お父さんは他に没頭することを見つけていくような気がします。お父さんは、とても忍耐強く、前向きで、美しい人だと思います。お父さん。30を過ぎて、私はまだ、専念したいことを見つけられていません。20代のときは、まだ成功していました。私は今の仕事が好きだと、自分に信じ込ませることで、思考が砂になることを食い止めてきました。でも今、私はコントロールを失いました。思考は拡散し、砂になってしまいました。朝会社に行き、パソコンを立ち上げ、その後、手を動かしてはみるものの、何一つとして物事をやり遂げることができないのです。ほかのことも探してみようとしたのです。自分を休めてみようともしたのです。でも、自分を誤魔化してみても、仕方がないのです。これ以上、砂の恐怖に、耐えることができません。要は、根性がないのです。思春期に太宰治なんか読み漁ったせいでしょうか。解りません。お父さん。私は、お父さんのように、価値ある仕事をしてみたかった。いっそ、お父さんの骨の一部になりたかった。
2007年05月29日
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「いつ私を好きになったの」とハルはよく僕に聞くが、僕は覚えていない。覚えているのは、大阪出張の行き帰りの新幹線の中で、ハルがずっと喋っていたこと。そして僕にとってその時間がいつのまにかとてもいとおしいものになっていたことだ。僕はハルの舌を巻くほどの明晰さと、その対極の幼い行動のアンバランスに惹かれていた。「つまり運動神経が悪いってことだと思う」とハルは自己分析した。「運動神経?」「そうよ。私、自分の体がどう動いているかってイメージがまったくできないの。自分のイメージしたとおりに動くこともできないし。間宮さんも・・・」言ってしまってから、ハルはばつの悪そうな顔で少し口をつぐんで・・・、それでもみなまで言ってしまうのだった。「・・・私が右と思っても左に行ってしまうって言ってたわ」僕は間宮の名前に反応しない振りをする。ハルの思う壺にはまってしまうのが嫌だったから。「だから」ハルは車窓の向こうに流れていく光を見つめながら、上の空な口調でつぶやいた。「私がもし私を裏切る行動をしても、私を疑わないで」あなたを、とはハルは言わなかった。僕はほかの乗客から見えない角度で、そっとハルの手を握った。
2007年01月04日
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晒し者の列にいることを息苦しく感じながら、由香利は間宮の痩せた背中を見た。歳月にも関わらず、間宮は変わっていなかった。少なくとも、彼女はそう思った。こんなときでなければ、間宮の瞳を真正面から見て微笑むこともできたが、決まりの悪さからそうしなかった。フラッシュバックしたのは、日常に戻ってからのことだった。二の腕に、抱きしめたときの間宮の肩の感触が蘇って、由香利はギョッと身をすくめた。ひと月後、夢を見た。間宮は、相変わらず真剣とも玩弄しているとも取れる態度で、由香利の仕事ぶりをたしなめ、他の女子社員の転職の相談に乗っていた。醒めてなお、由香利は夢を貪った。夢は切れ切れに続いた。切なく、物狂おしく、耐え難い時間を、由香利は陶然として耐えた。夢ということは判っていたが、間宮の存在に触れていたかった。絶望的な寂寥。あの人はきっと私を忘れたわ。たとえ思い出したって、厭な顔をするに決まっている。由香利は顔を覆った。
2007年01月03日
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映画は、ハルの希望で、『めぐりあう時間たち』。退屈なので時々、ハルの横顔を見ていた。ハルは、目を見開いて食い入るように画面を見つめていた。体が少し前のめりになっている。それから、彼女が緊張しているときの癖で、左手の人差し指で眉間を、中指の脇で小鼻を押さえていた。「ふふ、わからなかったでしょう」「うん。ぜんぜんわからなかった」僕は正直に答えた。「でしょう?男の人には、わからないわ」ハルは断定的に言った。「監督が男の人だなんて、信じられないわ」彼女はもう一度語気を強めた。それっきり、僕らは話題を別のことに変えてしまった。あの日のデートを、僕らはその後もよく話題にした。ハルが、僕の好きなワンピースに、その日地下街で衝動買いしたミラ・ショーンの水色のジャケットを着て、僕らは腕を組んで本当の恋人らしく歩いた。僕が友人に会う時間が来て、駅の前で分かれるときまで、「どきどきしながら電車に乗っていたの」と、ハルは何度も言い、「完璧だわ」と興奮していた。ハル。僕は君の事を、一番理解しているつもりでいたよ。僕は、ジョン・C・ライリーの演じたような、間抜けな亭主役でしかなかったのかい?
2007年01月02日
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無断欠勤4日目に、僕は総務の女の子たちと、彼女の部屋を訪れた。つけっぱなしのDVDがテーマ曲を何度も繰り返していた。メニュー画面はロダンとカミーユ・クローデルのキスシーンだった。本棚は空になっていて、彼女が唯一の財産と呼んでいたキッチンカウンターの上に、太宰治作品集がおかれていた。不自然なほど、生活感がなかった。
2007年01月01日
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「六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかつて、それは恋でも愛でもなかつたけれども、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はいままで一度も、それを見失つた事はございませんでした。夕立の晴れた空にかかる虹は、やがてはかなく消えてしまひますけど、ひとの胸にかかつた虹は、消えないようでございます。どうぞ、あの方に、きいてみて下さい、あのお方は、ほんとに、私を、どう思つていらつしゃつたのでせう。それこそ、雨後の空の虹みたいに、思つていらつしゃつたのでせうか。さうして、とつくに消えてしまつたものと?(太宰治『斜陽』)
2006年11月01日
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ハルコが目を明けると、邦明はいつも起きていた。ハルコの気配を感じて起きるのか、邦明の気配にハルコが目を覚ますのか、判らなかった。ただ邦明はそのたびにハルコを抱き寄せた。前から抱かれるのは、息苦しくて好きではない。ハルコはそのたびに寝返りを打ち、邦明から背を向けた。ただ、背を向けるだけでなく、邦明の腕がハルコの胃の辺りに来るように、位置を決めていた。まどろむだけの内に朝が来て、その間に邦明は、「一晩中愛し合いたい」といった詞のとおり、何度もハルコを組み敷いたり、体の上に乗せたりした。ハルコは邦明が想像していた以上に子供っぽい表情をすることもあったし、想像していた以上に大人びた反応をすることもあった。ハルコは、起き出して、邦明に軽くキスをし、愛してるわ、と口にした。言葉にしながら、気の重さを感じた。
2006年10月14日
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『金がほしい。 さもなくば、 眠りながらの自然死!』「なんだい、それは」「『斜陽』よ。」
2006年10月13日
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報せは、掲示板に、事務的に張られていた。「福岡支社か。間宮さん、知ってる子?」私は、澤田と最後にあった日のことを思い出そうとしていた。もう、4年も前になるのか。「いつも髪の毛がぐしゃぐしゃな子だったよ」澤田由香利は、美しい女ではなかった。
2006年10月12日
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ハルは、僕の腕の中で眠るのが好きだ。僕の腕の中で、背中を丸めて眠る。規則正しく寝息を立てる彼女の姿を見ていると、まるで、僕など関係ないと言われているような気持ちになって、僕は、彼女を起こさない程度に、彼女を抱く腕に力を込めた。昼下がりの少しやわらかくなった日差しが、彼女の顔の輪郭の産毛をぼんやりと光らせている。
2006年10月11日
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お父さん。幼いころの私は、お父さんも気づかないうちに、お父さんの胡坐の輪の中に滑り込んで、完全に体の力を抜いていたそうですね。ミーくんがお父さんの膝の中で寿命を終えたときも、きっとそうだったのでしょう。私が名付け親だったミーくんは、好奇心の強さと懲りない神経と甘えん坊さが私に似ていると、家族の間で、時に愛情の、時にブーイングの対象でした。私が独立した後、ミーくんがお父さんの膝にちょこんと座った折々に、お父さんが私を思い出してくれていたこと、とても嬉しく思っています。それから、フロリダのワニ園で、動物たちを見てはしゃぐ私を見て、「小さい頃のハルを見ているようだ」と何度も喜んだことも。その話をサクヤに聞くたび、とても幸せになったものです。初めて、親子でバーのカウンターでお酒を飲んだ日のこと、覚えていますか。お父さんはお塩を舐めながら、テキーラを飲んでいました。あのとき、お父さんは言いましたね。「お母さんは、若いころサクに似ていたから、サクのことはよく解ると思う。でも、ときどきハルが解らなくなる。でも、ハルはお父さん似だから、僕はハルのことがとてもよく理解できるんだよ」大好きなお母さんと齟齬があることは、とても悲しいことだったけれど、お父さんが理解してくれると言ってくれたことは、嬉しかった。でも、お父さんは、ハルのこと、どのくらい分かっていてくれたんだろう。お父さんのように頭で理解するのと、お母さんのように感じるのとでは、違うことなのだと思う。
2006年10月10日
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待ち合わせの時間は、とっくに過ぎている。どうせ天野のことだから、柚木はあまり気にしていない。わざわざ見晴らしの良い水上公園の橋の中央を指定したのも、柚木一人の待つ楽しみのためだ。日よけのあるテーブルに坐って、一緒に食べようと作ってきたサンドイッチを勝手にぱくつきだした。天野は無頓着な女だから、こういう時には楽だ。何しろもう2時半を回った頃で、空腹の絶頂だ。彼が現れるはずの「かに千家」の角を見ると気分を損ねるので、河口へと続く水面を眺める。清潔とは言えないがゆったりとしたうねりが、柚木の心を落ち着かせもし、またどことなく不安にさせるのだ。それにしても、遅い。『今日はすっぽかしか…』気にしないようになったのは、訓練の賜物だと柚木は思う。以前ならこういう時、ひどく情けない思いがしたものだが。膝の上のパン屑を払い、読みかけの単行本を開いて、柚木は一度時計を見た。喧騒の中に、サイレンの音が聞こえる。
2006年10月09日
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夜に啼く鳥がいるなどと、この街に来てから知った。駅から国道へと向かう中央分離帯の、育ちすぎた街路の欅の中に、真夏の蝉もかくやというほど、犇めき合って啼いている。ああ、なんて喧しい。知らず体が強張り、攻撃的な足は歩みを速める。不恰好な中年の女を、鳥たちの声が追う。私を嗤う、夜の鳥。角を曲がり大通りを離れると、それすらに見放され、遠く車の走る音と酔客の罵声が聞こえてくるばかりだ。わざと離れてついて歩いた夜。あの時も鳥は啼いていたかしら。ああ、そうだ。だから、思い出したのだ。背中の代わりに、月と街頭の灯かりに分裂する細い長い影を見つめ、ただ黙って歩いていた。それですら10年も前のこと。哂われたところで仕方がない。「乙女の匂ひ」なんてものはとうに失われているのだから。それでも、これを薄汚いと、誰が言うのだろう。想い出というには切り込むようで、妄執というほどの浅ましさも無く、恋というにはほの暗い。35歳の美しくない女には不似合いといって、夜の鳥にすら後ろ指をさされるほどのことなのか。上原さん。あなたを、そう呼んでいいかしら。上原二郎さん。それ以外に、思いつかないのですもの。先々月、1年ぶりにやっとお姿を拝見しました。あなたときたら、あの年老いたお猿さんを彷彿とさせるのですもの。どうしたって、「上原さん」だわ。そう思ったら嬉しくなって私は笑った。かつての妄想少女の笑顔の真意など知る由もなく、あなたは相変わらずからかうとも困っているともつかぬ笑みを浮かべていらっしゃったわね。上原さん。それが怖れなのか、余裕なのか、可笑しいからか、単なる虚勢なのか、あなたの笑顔を見るとき、私は知りたくてたまらなくなるの。そうして、10年前の私は、それが私が期待する答えなのならば、何を捨てたっていいと思っていた。今にして思えば、それがあなたの数少ない手管たったのかしら。だんだんに夜風が冷たく、空気が冴えてくると、一目あなたにお会いしたくなるのです。水面に映る月のように、静かに揺れて掴み所のない笑顔を、観たくなるのです。たとえ心無い夜の鳥に、嗤われたとしても。
2006年10月08日
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