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お父さんは会社で人事の仕事もしている。入社希望者の履歴書チェックや面接、合否の判断などに係わっている。そうした中で、「もったいない」と思う人が結構いる。それが「基本的な作法や一般常識」を知らないが能力試験では点をとっている人だ。 まず履歴書で何を見られているのか。会社によっても違うとは思うが、お父さんが同じような立場の人と話すとだいたいは共通している。就職対策や面接対策に書いてあることなど重要視している人は少ない。よく番見ているのは、「記入欄がきちんと埋められているか」、「字がきれいか、誤字脱字はないか」、「わかりやすく書いているか」などである。 学歴が高くても、字が汚い上に空欄が合ったりすると「本気で会社に合格したい」と思っていないと感じてしまう。 内容が高尚である必要はほとんどのない。能力は能力試験で、人となりはある程度面接でもわかる。履歴書は「本気かどうか」と「常識があるかどうか」が結構はっきりと表れる。最近は印刷されて履歴書が多いが、手書きの時代は履歴書だけで「この人は要らない」となる履歴書がたくさんあった。 実は入社していればものすごい活躍ができた人もいたかもしれない。しかし殴り書きのような汚い字で履歴書を提出して、「私は本気でこの会社に入りたいと思っています」と言われても信じることはできない。 面接する側は過去に何人もの人を見てきている。だから服装、態度、言葉遣いなど隠そうとしていても大抵は見抜かれる。試験中に「鉛筆の持ち方」を見られていることもあれば、わざと昼食を出して箸や茶わんの持ち方、食べ方などを観察するときもある。 箸がちゃんと持てない人で仕事ができる人は少ない。これはお父さんの経験則だ。逆に驚くほど変な箸の持ち方をしている人は例外なく仕事ができない。 たからお父さんは、お前たちに「橋の持ち方」や「茶碗の持ち方」など小さい時からうるさく言ってきた。それでも息子は一切直そうとしないでいまだに箸や茶わんをきちんと持つことができない。このままなおらなければ、息子は自分が知らないところでひたすら損をし続けるだろう。 それが確信できるからうるさく言っているのだが、残念ながらわかってはもらえないようだ。よく考えてみてほしい「箸がちゃんともてない」というだけで、びっくりするほど損をするということがどれだけバカバカしいことかを。
2020.03.02
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今日は久しぶりに人生において重要なことと、お父さんが考えていることを書いていこうと思う。それは「ウソ」というものについてだ。 人間は生まれてから死ぬまでにどれぐらいウソをつくのだろうか。お父さんがこれまでついてきてウソは星の数ほどある。とてもお前たちにウソをつくなと言えるほどの人間ではない。ただしウソをついたおかげでかえって苦労したり、後からひどい目にあうなど後悔したことも多い。 また、ウソをついてその場を逃れたつもりでも実はとっくにばれていて信頼を失っているというものも多々あると思う。 こんなことを書こうと思ったのも、最近息子のウソが目につきすぎることと、最近仕事でお父さんがつかれたウソによってとても面倒なことになったからだ。 ちなみに親になってみてわかるのだが、子供がつくウソは親にはほとんどばれていると思ったほうがいい。お父さんとお母さんで言えば、お母さんは若干ウソを見抜けないときがあるが、お前たちがうまくだましたと思っていても、お母さんが見逃しているだけだと行くことを覚えておいたほうが良いと思う。 ばれていないと思ってつくウソほど、見抜いている人からみて滑稽なものはない。本人は必死になり、またうまくウソがつけたとほくそ笑んでいるが、実はあきれられているか、見捨てられているかどちらかのことが多いのだ。 そしてそのウソによって、本人の知らないところで大きな損をしている。 例えば息子が図書館に勉強しに行くというウソをついてよく友達とゲームで遊んでいるが、このウソによって息子はかなりの損をしている。息子のお願いやおねだりは8割ぐらい却下されている。本人はその原因が自分のウソにあるとは思っていないだろうが、親からすれば「ウソをついて遊んでいる息子」のおねだりなど聞いてあげる気持ちにならない。 学校や生活で必ず必要なものならともかく、そうでないものなら息子のお願いはほとんど通らない。長女が愚直に生きているため余計に対比されてしまう。長女に関しては、基本的にウソをついたりだまそうとしてこないので、おねだりなどしなくても親の方からいろいろなことをしてもらっている。 親として子供は平等に扱うつもりだし、差別をするつもりも全くないが、普段からウソばかりついている子供とそうでない子供を平等に扱うのは無理だ。親だって人間なのだ。感情もある。 仕事でもウソばかりついている人間はそれほど珍しいものではない。それなりの集団になれば「あいつはウソツキだ」と言われている人間がかなりの確実で存在する。 そして自分に露骨に被害が及ばない限り、ウソツキのウソはわざわざ暴露されることはない。だから本人は自分が周りから「ウソツキ」として扱われていることを知らない。そしていつものようにウソをついていく。 周りの人たちは誰もその人の言うことを本気で聞いていない。実は本当のことを言っている場合であっても「またウソをついている」という目でしか見ない。 こうなってしまうと、出世はできない(人事評価にウソが多いと書かれてしまう)、恋愛もできない、仲の良い友達もできない。 本人がうまくやっていると思って行動しているのが滑稽を通りこして哀れに思えてくる人もいる。 お父さんやお母さんは、お前達自分の子供に関して言えば「ウソをつくな」とか「ばれている」となるべく訂正しているが、他人の子供にそんなことはしない。 人生において「人をだませない」ということより、「人から信じてもらえない」ということのほうが何倍もつらいものであるということを覚えておいてほしい。 一度失った信頼は、取り戻すのに長い時間を要するか、内容によっては2度と取り戻すことができない。 これを読んで当たり前のことしか書いてないと思うかもしれないが、お父さんはこれまでの人生や会社でも立場的なものもあって、ウソをついたことによって猛烈に損をしている人を山ほど見てきた。お父さんの会社にも「うそつき」という評価がついてしまったために、会社での評価がどうにもならない人が現在進行形でいる。 息子は特にそうだが、お前達が将来そんなことにならないためにも正直に生きることは大切である。大事なことなのでもう一度言うが、ウソはそのうちばれる。そして自分の評価を、可能性を台無しにしてしまう。正直に生きて行け。
2020.03.01
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「時間を守る」ことは、とても重要である。特に日本人として生まれたからには必ず時間を守らなければいけないとお父さんは考えている。残念なことに長女以外はいまだに時間を守る大切さもわからずルーズな生活を送っているが。 正直に言えば、お父さんも小学生ぐらいまでは時間にルーズなほうだった。友達と待ち合わせて小学校に登校していたが、時間通りに家を出ることもあったが、遅れて家を出ることも多かった。「遅い」と注意されても、相手を常に待たせているわけではなくお父さんが待つこともあったのでお互い様だと思って気にしていなかった。 時間をきっちり守るようになったのは高校生のころからだ。この時一緒に学校に行っていた友人が、とにかく時間をきっちり守る人だった。なので時間通りにお父さんが家を出れば、時間通りに学校についた。約3年間これを続けているうちに、時間を守ることのメリットを享受し続けた。 時間を守って行動すると、とにかく予定が立てやすい。例えば学校に始業何分前につけるかがはっきりしている。よって例えば始業30分前に毎日到着するようにしていれば、その30分を常に「自由に使える時間」として活用できる。これが1時間前に着いたり5分前に着いたりとバラバラになっていると、1時間前に到着したところで「さて何して過ごそう」となって、結局あまり有意義な時間の使い方はできない。 かといって常にギリギリでは、不測の事態に対応できないどころか「遅刻」というペナルティを負う可能性が出てきてしまう。 常に同じ時間に家を出るためには、常に同じ時間に起床し、洗面、着替え、食事と時間通りに動く必要がある。だが習慣化してしまえば朝のあわただしい時間をスムーズに過ごすことができる。お前たちを見ていると、起床時間もバラバラだし朝の支度の順番や時間もバラバラだ。 お父さんは、起床⇒洗面⇒着替え⇒神棚の水替え⇒犬の世話⇒食事⇒出発と平日は常にこのコースだ。お母さんの食事準備や弁当の準備時間が日によって異なるので、出発時間は若干バラバラになるが基本的に慌てることはない。 ちなみに起床時間を一定にして朝の支度の順番を決めてあると、時計を見なくても一通りが終わる時間も基本的に一定になる。気が付いたら時間が過ぎていたとか、今日は早く準備ができたということはない。 お前たちが早く起きた日に、ぐずぐずして余計に家を出る時間が遅くなったりするのはこの順番を決めていないからだ。 ちなみに時間を守る人と一緒にいると、とても気持ちが楽だ。予定がくるったり、イライラすることがほとんどないからだ。 時間にルーズな人と待ち合わせをすると、自分が早く待ち合わせ場所についても結局待たされることになるし、相手より遅く着けば相手をイライラさせるかもしれない。 さらに言うとお前たちが常に「遅刻する人」であれば、待ち合わせ相手はそれを見越して時間を遅らせて待ち合わせ場所に来るようになる。気が付けば約束の時間から30分後に待ち合わせ場所に行くことがお互いに常態化してしまう。そしてその30分遅れから更に遅れていくことになる。 電車には間に合わないし、映画は始まってしまうし、店を予約しても無駄になる。それでもお互いにルーズに過ごして、問題になっても気にしない者同士ならそれでもいいかもしれない。お父さんの経験から言えば、時間にルーズな人は時間を守る人から相手にされなくなる。同じ駅から同じ電車に乗る場合でも「現地集合」で「遅れたら置いていくことを約束させらる」ようになったら、もう全く相手にされていないと思ったほうが良い。次は誘われないだろう。 「時間を守る」ことは、相手から信用されるための最も簡単な方法の一つだ。逆に言うと「時間を守らない」でいると、自分の信用を簡単に落としてしまう。お前が「時間を守らない人」と誰かに認定されると、その評価はお前を知っている人にどんどん伝わっていく。 ちなみに特定の人や状況の時のみ時間を守る人はたちが悪い。やろうと思えばできるのに普段やらないのだから、相手はお前から「軽んじられている」と判断するからだ。 世の中には時間を守らないで平気な人が多くいる。お父さんも会社の同僚や取引先の人の中に時間を守らない人と認定している人が何人かいる。「軽んじられている」とも感じるが、それと同時にお父さんもその人をあまり大切に扱うことはなくなる。 その人が会社に来る時間に、別の要件があればそちらを優先する。どうせ時間通りに来ないのだから待っていても意味がないと考えるからだ。だから時間指定があって、時間通りにその人が珍しく表れたとしても待たしてしまうこともある。お父さんだって忙しいのである。相手から信用されなくなるかもしれないが、その場合は気にしない。 こうしてお互いの信頼関係は壊れたままとなる。まあ仕事の場合は時間だけですべての信用が決まるわけではないが。 たかが時間、されど時間である。「5分や10分遅れるだけで人生を大損している」とお父さんは時間を守れない人を見ている。お前たちが早くそのことに気づいてきちんとできるようになることを願っている。
2020.02.04
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お父さんは仕事上のコミュニケーションにおいて、直接会って話す場合、電話で話をする場合、メールを使って話をする場合の3種類を主に使っている。お父さんが考えるコミュニケーションの順位は、上に書いた順番である。 なので重要な話や言いにくい話などは、基本的に直接会って話をすることにしている。2番目の電話は緊急性が高く説明が必要だが通常業務範囲の話に、3番目のメールは業務報告や単純確認など最悪読まれることが無くても大きな問題にならないものに使う。 しかしながら、最近この順位を逆に使う人を見かけることがある。どうでもいいことほど直接会って話をし、大事なものほどメールを使う人が増えているのだ。メールのメリットは「証拠が残る」ことである。しかしながらデメリットとして「本意が伝わらない可能性が多々ある」というものがる。 これ以外に間違ったメールのメリットを使っている人が多い。それが「言いにくいことをメールで一方的に相手に伝える」というものだ。メールにはその場での反論はないし、立場が上なら上位通達という形で有無を言わさず命令することができる。これをメリットと考えて使う人が多いのだ。お父さんにとってこういうやり方こそがメールのデメリットだと思っている。 メールで背景から補足まで長々と書いていると、読むほうも面倒だし主旨がぼやけることがある。ましてや読み手が納得できないような内容ならいくら説明があろうと納得できない。また場合によっては、誤解を生んでしまい余計に話がこじれてしまう。 だからこそ直接話をして、相手に誤解の無いように相互コミュニケーションで真意を伝えていかなければならない。本人と直接話して真意を伝えた上でもめるのなら致し方ないが、メールの内容で誤解されて真の目的と異なるところでもめるのはあまりにもバカバカしい。 重要なこと、言いにくいことをメールで伝えるということは、お父さんから見れば「逃げている」ようにしか見えない。1通のメールに重大な変更や指示が書いてある。それを見て素直に「そうか」と思う人などいないのだ。「理由や真意」が判明するまで行動できなくなる。更に、こんな大事なことをメールで済まそうとする人に嫌悪感を覚える。そしてその人を信用しなくなる。 お父さんはこういうメールが来た時にはすぐに相手に電話して直接会う予定を入れる。同じ会社内ならすぐにその人に話に行くし、社外の人なら日時を決める。そしてしっかりと話あう。 若い人から「前時代的」と言われても、たぶん死ぬまでこの方針を変えることはないと思う。 メールにしろ、SNSにしろ相互にやり取りをするのでコミュニケーションとして成立しているように見えるが、実際は一方通行である。話がかみ合っていなくてもお互い言いたいことが言えるものを相互コミュニケーションとは考えることができない。 「メールで」というのは、注意していないと結局自分だけでなく組織の信頼まで奪ってしまう。お前達にはとにかく注意してもらいたいと思っている。 先輩として後輩を叱責するときは、必ず直接会って話をしなければならない。お父さんの会社で叱責する文章を長々とメールで書いてくる上司がいるが、誰からも信頼されなくなっている。そしてそのメールによりその上司は誰からも相談されることなく、報告も最小限にされ、人間的にも嫌われてしまっている。長い叱責メールが「また来た」などと社員の間でネタにされている。 本人は気分よく、また上手にやっているつもりだろう。実際は誰からも相手にされなくなっているのにもかかわらず。仕事の能力があるのにも関わらずだ。とてももったいないと思う。 お前たちもこれから携帯電話を持つようになり、いろいろな人たちとコミュニケーションをとることになると思う。でも大事なことは直接話すということを覚えておいてほしい。メールやSNSより勇気がいる行為であるが、安易に逃げてはいけない。逃げた分だけ損をするのは自分自身である。
2020.02.03
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明日はいよいよ息子Yの中学入試の試験結果発表日だ。自己採点ではだいぶ厳しいと予想されているが、親としては何とか合格してもらいたいと願っている。 さてYよ。お前は少なくとも一年間この受験に備えて勉強してきた。今回の結果が合格となれば、努力が実ったということになるし、不合格であれば努力が足りなかったことになるのだろう。 よく「努力は必ずしも報われるとは限らない」という言葉を聞くが、お父さんはもう少しこの言葉を変えたいと思う。「努力は必ずしも理想の結果になるとは限らないが、必ずその人を成長させる」だ。 今回の入試のように、人生に1回しかない挑戦の場合は、努力が報われる(合格する)とならない場合もある。入りたかった学校をあきらめて別の学校に入るしかない。 しかしながら、この一年間お前がやってきた勉強はすでにお前の血となり肉となりこれからのお前の武器となって一生ついてくる。勉強だけでなく感じてきたプレッシャーや不安なども今後の人生においてマイナスに作用することはまずないだろう。ましてや不合格となった場合に味わう「絶望」や「くやしさ・かなしさ」は必ずお前の心を成長させる。 「若いうちは失敗してもやり直しがきく」と言われるが、お父さんから言わせれば「人間はどんな年齢になったってやり直しはきく」のである。以前に「行動」の大切さを書いたことがあるが、「行動」した後に「結果」がでる。その結果が望ましいものでないことなど人生には当たり前にあることだ。むしろ好ましい結果になることのほうが少ない。 その時に次の行動にきちんと移れるかどうかが人生を切り開いていくカギだ。「やり直しがきく」といっても、別の道で同じ目標に到達することもあれば、同じ目標には到達できないが異なる目標を設定してそれに向かっていくこともある。お父さんの言う「やり直し」とは「目標の見直し・変更」を含む。 変更することは悪いことではない。以前の目標が至高だったなどということはほとんどないので、更なる高みを目指せばよい。世の中や人生を測るモノサシは一つではないのだから。逃げるための言い訳でない限り、生きていれば次々と挑戦すべき目標は現れてくる。ただし行動している人でないといけないが。 お父さんも数多くの挫折や失敗を味わってきた。その結果の上に今のお父さんの考えや生活がある。子供達から見てどのように見えるかわからないが、お父さん自身はまだまだ挑戦の途中である。このまま変わらないということはない。これからも失敗し続けるだろうが、それでもお父さんは進んでいこうと思う。自分の為にも家族の為にも。まだまだ目標はたくさんあるのだから。 お前たちも失敗を恐れずに進んでほしいと思う。最良の結果が出なくても、行動している限り停滞することはない。 今回のお前の受験勉強はとても自信をもって「努力した」とは言えないと思う。それは自他ともに認めているのではないだろうか。試験結果が出た後、お前はどういう行動に出るのか。お父さんはそれを楽しみにしている。
2020.01.23
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今日は、人からの厚意(好意)を受けいれることの大事さを教えておきたいと思う。 小さいころというか子供のころは、人間は人から何かしてもらうことに対して無抵抗に受け入れることができる。お菓子をもらえば喜んで食べるとかそういう単純なことが多いが。 子供のころは、厚意に対してその裏を考えたり、自分が置かれている立場などを基本的に考慮しないからこそこれができるのだと思う。要は余計なプライドやひねくれた心がないのだ。 成長してきて中学生から高校生ぐらいになると、余計なプライドが出てくる。誕生日に家族にケーキやプレゼントで祝ってもらうことを恥ずかしく思ったり、あらかじめ拒否の意思を伝えたりすることもある。これは大人と子供の間で揺れる反抗期の子供の典型的な心理なのであまり問題はないと思っている。 家族や友達は、お前たちの誕生日を祝うことでお前たちを大事に思っていることを伝えたかったり、とにかく喜ばせたいと考えてお祝いをしてくれる。もう少し成長して祝ってもらえること、厚意を受けることがいかに幸せなことかを理解できればいいのだ。 しかしながら、大人になっても人からの厚意を受けることができない人が世の中には少なからずいる。お父さんはこのような人を見るたびに「もったいない」と感じる。 確かに世の中には、社会的地位や権力を持つ人がそのおこぼれにあずかろうとへつらうような形で好意を寄せてくることがある。贈り物をもらったり、パーティーに呼ばれたりして、自分が人気があると勘違いする人もいることはいる。要はおだてられていることに気づかない裸の王様というやつだ。 自分がそうなることを嫌って、社会的地位が高い人の中には一切を断る人がいることもお父さんは見てきた。一種の防衛をしているのだ。 ただし、本当に人気があるというか人から好かれたり尊敬されたりしている人は厚意を受けることがとても上手な人が多い。自分の意思やプライドよりも相手が示してくれた厚意に報いようとしてくれるのだ。お父さんは拒絶する人よりも受ける人のほうが人間の器は大きいと思っている。 自分が厚意を向ける側の人だと思って考えてみてほしい。尊敬する人にプレゼントをする機会があるとする。必死になってその人が喜んでくれそうなものを考える。大人が子供に欲しいものを聞いてプレゼントするのとは違って、相手に好意を持っていればいるほど悩み、決めた後も喜んでくれるか不安になっている。 実際に渡したときに、相手が笑顔で喜んでくれた時と、仏頂面や無表情で「ありがとう」と棒読みで言われた時と、要らないと拒絶された時とどんな反応がうれしいだろうか。 お父さんも昔は、自分が特に何とも思っていないような人や関係の薄いような人から厚意を受けても無下に断ったり、おざなりの対応をしていたこともあるからそのような態度をとる気持ちもよくわかる。逆にプレゼントやお祝いの言葉を送った時にそのように対応されたこともある。 今のお父さんは、それなりに欲しいものは自分で買えるし、子供の時のようにあれが欲しいとかこれは高くて買えないといったことは少ない。でも人から厚意を受けることは心から嬉しいと思う。もらったものがどんなものでも、受けた厚意がどんなものでもだ。その人が自分に好意を持っている、それを形で表そうと考えたことがうれしいのだ。 幸福は幸福を生む。善のスパイラル。いろんな言葉で言い表すことができるが、人から厚意を受けた時に、その相手に最大限の感謝を示すことは厚意を受けたものの義務だとも思っている。それが自分だけでない他の人にも伝播していき、厚意が厚意を生んで社会をよくすると思っている。 よくテレビや漫画に「老人に席を譲る」という行為がある。お父さんも席を譲られた人が嬉しそうに座る場面と、丁寧にお断りする場面を見たことが何度もある。「年寄扱いするな!」みたいに怒りだして譲ろうとした人を不快にさせるところまでは見たことがない。 さて、お前たちが人生で初めて席を譲る行為をしたとしよう。その時相手が、笑顔で御礼を伝えながらお前たちの厚意を受けてくれたら、きっと次の機会があればお前たちは同じ行為をすることができるだろう。でも初めて席を譲ろうとして、それが丁寧な対応であっても拒絶されたとしたら、次に同じ状況で同じことをすには倍以上の勇気が必要になるだろう。それでもお父さんは勇気をもって行動してもらいたいと思うが。 厚意を示すことは勇気がいる。しかしながら厚意を受ける側も勇気が必要な時がある。それでも相手の心情を察して快く厚意を受けるほうが立派なふるまいだとお父さんは思う。人の善意を途切れさせないためにも、厚意を示すこと以上に厚意を受け入れることが大事だと考えている。 ちなみに厚意に報いる一番の方法は「笑顔で御礼を言う」ことだ。これに勝る方法をお父さんはいまだに知らない。文章で書けば簡単なことだが、意外とできる人は少ない。お前達にはぜひできるようになってもらいたいと思う。
2020.01.22
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今日はお父さんからお前たちに行動の大切さについて話をしたいと思う。よく「行動力のある人」という言葉を聞くが、「行動力」は人生を切り開こうと思っているなら絶対に必要な資質である。 世の中には「頭の良い人」というのが結構いる。しかしながら「頭の良い人」が必ずしも「人生の成功者」であるとは限らない。「人生の成功者」は必ず行動力が伴っているからだ。 お父さんは決して「頭の良い人」には当てはまらない。まあ「頭の悪い人」でもないとは思っているが。しかしながら「行動力」はあるほうだと思う。 人間は頭の中で様々なことをいつも考えている。そして様々なアイデアが浮かぶ。しかしそのアイデアを実行に移すことができる人はほとんどいない。主な理由は「失敗するのが怖い、みっともない」や「自分のアイデアなんて大したことがない、役に立たない」など否定的な感情が邪魔をするからだと思う。 でも本当に失敗するか、大したことが無いか、役に立たないかは実際に行動してみなければわからない。行動した人だけがその答えを知ることができるのだ。ひょっとしたらお前の考えたアイデアは素晴らしいものかもしれない。 たとえ失敗したとしても、なぜ失敗したのか理由がわかるはずである。次はどうすればいいか考えてまた行動すればよい。たとえたいして役に立たなかったとしても、役に立つにはどうしたらいいか考えるきっかけになってくれる。 頭のいい人は頭のなかでシミュレーションばかりしていて、いつまでも行動に移せない人が多い。お父さんからしたら「考えすぎ」である。考えすぎることは決して悪いことではない。でもある程度考えたらとりあえず実行してみたほうが、絶対に得るものは多い。時には行動しながら考えて成功に近づくこともあるだろう。 社会人になると、PDCAサイクルという言葉を聞くようになるだろう。Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)の意味であり、PDCAを繰り返すことによって会社の問題を解決していくというものである。そして人生における問題もPDCAサイクルを回すことで解決できると言う人もいる。 ところが人生の問題は、計画ばかりで実行に移せる人が非常に少ない。「時が解決する」「とりあえず様子を見る」などという意見がでることもあり余計に行動することができない。 ちょっと難しい話になったので、行動することの難しさを例をもって話そうと思う。例えば、友達と何人かで歩いている時、お前が足元にごみが落ちていることに気付いたとしよう。この時お前はごみを拾うという「行動」ができるだろうか。教室だったらできるかもしれない、道路の上だったらまずできないだろう。なぜなら「友達の前で偽善者ぶるのがはずかしい」「私が捨てたわけではない」と頭の中で考えてしまうからだ。 もう一つ例をあげてみよう。学校などではよく今年の個人の目標を立ててそれを教室に貼り出しているのを見ることだろう。お前は自分の目標を決めるときに、友達と相談して無難な目標を設定していないか?自分が本当に目標としたいことをためらいもなく書くことができるだろうか?これができる人もとても少ない。結果として、「早寝早起きをする」「家の手伝いをする」「困っている人を見たら助ける」など誰も実行しているかを判断できず、クラスの中で浮いたりしない無難な目標を書いてしまう。 おそらくだが自分が本当にやってみたいと思ったことは、きっと頭の中に浮かんでいたはずだ。でもそれを「書くという行動」に移せないのだ。 世の中で成功する人は、上に書いた例のような中で躊躇なく、いや若干躊躇したとしても行動できる人達である。行動するのには勇気がいる。でも行動することを勇気をもってできる人は、必ず今まで見えなかった世界が見えるようになる。 お父さんも若いころは「行動」できないことが数多くあった。特に自分が苦手だと思っていることに対して努力もせずに逃げていた。だから行動できない人の気持ちはよくわかる。 お父さんが行動できるようになったきっかけは2つある。1つ目は、大学院時代に「行動できない人間を評価しない」研究室に所属してしまったこと。あらゆることを強制も含めてとにかく「行動」させられていた。最初はもちろん嫌だった。でも繰り返すうちに「行動」することの楽しさを知ることになった。 2つ目はアメリカ留学時代、助けてくれる人はいたが基本的に自分から動かないと何も変わらない社会に飛び込んだことだ。自分で動かなければ、自分で交渉しなければ誰もお父さんの状況を察して動いてくれる人はいなかった。ひたすら行動あるのみだった。卒業するため、生活を安全に送るために必死で行動した。失敗も山ほどした。そして強くなっていった。行動することを恐れなくなった。日本に戻ってきてお父さんの行動力は時々周りの日本人を困惑させたが、気にすることなく行動した。おかげで敵もいっぱい作ったが、信頼できる味方もいっぱいできた。 ちなみにお父さんが子供のころ、と言っても物心ついてから小学校低学年ぐらいまでだろうか。お父さんはよく親に怒られた。思いついたらすぐ行動していたからだ。お父さんの両親にとってはひどいいたずら小僧だったと思う。 時計がどうして動くのか知りたくて祖父の大事な置時計をバラバラに分解して壊したり、電球がなぜ光るのか見たくてガラスを割ってフィラメントがむき出しになった電球をつくったり、コンセントの両側の穴にクリップを突っ込んでブレーカーを落としたり、高い木に登って降りれなくなったり、小さいおもちゃを鼻の穴に入れてとれなくなったり、野良猫の通り道に落とし穴を作ったり、数え上げたらきりがないほどのいたずら(お父さんにとっては実験)をしていた。「一人でいるとろくなことをしない子」という評価だったそうだ。 お前たちも小さい頃は行動力があった。お父さんは本当に苦労した。だから「自分には行動力がない」とうのは嘘だ。成長するにしたがって行動することが怖くなってきただけだ。ぜひもう一度、子供のころの行動力を取り戻してほしい。知恵のついた今のお前たちの行動は、必ずお前たちを幸せに導いてくれる。 最後にもう一度言っておく。「行動しなければ真実はわからない」、「行動しなければ何も変わらない」。
2020.01.06
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この年末年始、長女が私のいるベトナムへ遊びに来た。昨日帰国してしまったわけだがお父さんは表現しがたいほど楽しかった。 今日、昨日まで撮影した今回の写真を整理していて思った。お前の笑顔の写真がほとんどない。いや、整理する前に撮影している時から笑顔が無いことはわかっていた。改めて見直して再確認しただけだ。 お父さんが昔から話している「幸せになるための3か条」を記憶しているだろうか?これはお父さんが40年以上生きてきて得た経験則である。 「笑顔・清潔・感謝」 この3つを保っていれば、自然と人は幸せになれる。今回はこの中の笑顔についてのお話の一つである。 高校生のお前は、人の前で必要以上に緊張して笑顔になれないという気持ちになるのもお父さんはよくわかる。面白くもないのに笑顔になんてなれないという気持ちもわかるし、うまく笑顔を作れないというのもわかる。お父さんも若いころはそうだったから。ある意味お父さんの遺伝子を確実に引き継いでいるとも思う。 お父さんが笑顔を意識するようになったのは、アメリカに留学した20代のころからである。それまではお父さんも笑顔がうまくできず、写真の時に「笑って」と言われても困ったものである。そもそもそうやって撮った自分の笑顔がまるで好きになれなかった。きっと今のお前もそうだと思う。周りの人が自然に笑顔を作って楽しそうなのに、自分だけが上手に笑顔が作れないと。 でもお父さんは知っている、というより見ている。お前が心から嬉しそうに笑った顔がとてつもなく愛らしいことを。意識していないときに出る笑顔はお父さんにとっては天使のほほえみである。だから今は難しくても、きっと素敵な笑顔で笑える女性になるとお父さんは確信している。 笑顔に関する効果・効能はまたの機会に書こうと思うが、笑顔を作るコツを教えておきたい。最初は偽りの気持ちであっても、「今楽しい。今うれしい。」と心の中で思うことである。人と会ったときは「この人に会えてうれしい。最高だ。」と思うことである。 そんなことできないと思うかもしれない。でも無理に笑顔を作るよりは心の中で思うだけなので簡単である。すぐにそれで笑顔ができるわけではないかもしれない。でも騙されたと思って「心で思う」をやってみてほしいと思う。
2020.01.04
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