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斎藤茂太氏のお話です。スランプとは一種のうつ状態である。そう考えたほうがなかなかこの状態から抜け出せない人にはいいかもしれない。スランプの脱出法を一言でいってしまえば「堪える」ことと「気分転換」を図ることである。季節と同じで変わり目を待つしかない。スランプはいくら焦っても駄目で、じっと堪えるうちに退散を願うという一見「消極的」な方法が、かえって一番近道だったりすることが多いのである。スランプに陥ると今の現状を何とかしなければという気持ちがとかく先に立って焦るものだ。かってのスランプの前のレベルに少しでも近づこうとあがく。しかし、少しも前に進まない。進まないどころか、前よりもわるくなっているような気がする。また焦るという繰り返しである。スランプに陥ると、周囲の雑音がどうしても気になるものだ。堂々巡りのうちに、本来の「プラス」が「ゼロ」になっただけなのに、自分がどんどん「マイナス」に陥って行くような気分に襲われる。スランプに耐えるということは、この気分に落ち込むことを防ぐことに他ならない。100%元の状態に復活しようとするよりも、10%でもいい、少しでも元の状態に戻ればよしとする気持ちが、結局はスランプを脱出する糸口になる。(逆境がプラスに変わる考え方 斎藤茂太 PHP文庫 103ページ)スランプというのはプロ野球の選手を見ているとよく分かる。調子の波に乗ってバット振ればヒットになるというときがある。やることなすことが想定通りに推移する。順風満帆の時は有頂天になってこのまま好調な状態がいつまでも続くと思ってしまう。しかしある時を境にしてバッタリとヒットが出なくなる。早く元に戻さなければと焦る。フォームを調整し、神頼みをする。慌てて死に物狂いで手あたり次第手を出すが、すべてが裏目に出る。そのうち出番がなくなり、二軍での調整を命じられる。これはバッティングには波があるということだと思う。好調と不調の波が循環していることだと思う。その変化の波に乗って日々淡々と練習を重ねていくことが大切になる。波の底にいるときに、浮上するために死にものぐるいでやりくりしていると、そこよりさらに落ちこむ場合がある。一番底の下に二番底、三番底が口を開けて待っていたということになる。そして最後に力尽きて、反転浮上するきっかけを掴めないことがあります。これは精神交互作用で神経症に落ちるようなものです。斎藤茂太氏の指摘されているように「堪える」「気分転換」を図ることが大事になる。好調時に有頂天になって舞い上がるのではなく、新たな課題に取り組むなどで気を引き締めることが必要になる。これで好不調の波を小さくすることができます。森田理論も、流れと動き、変化とリズムをとても重要視しています。石原加受子氏によると人生の波は6年周期でやってくると指摘されている。「意識の法則と6年周期リズム」という本で、詳しく説明されているので関心のある方は参考にしてください。
2024.04.07
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形外先生言行録から御津磯夫さんのお話です。鐘が鳴るかや 撞木(しゅもく)が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る。51年前の慈恵医大で私の精神科講義の森田教授の第一声がこれであった。あざやかに今日も私はその日の光景が目の前に彷彿としてくる。私は一瞬面喰って一瞬茫然としたが、この最初の一言が私の一生を支配したようで、なんとも忘れられず、意味もよくわからないまま、私の内的生活を育んできたごとくである。(形外先生言行録 御津磯夫 62ページより引用)この部分はどう理解すればよいのか難しいところです。ただ鐘と撞木がそれぞれに激しく動いただけでは鐘は鳴らない。鐘と撞木の両方がぶつかり合うときに鳴るということです。つまり相互作用によってはじめて鐘が鳴るのです。これに関して森田先生は次のように説明されている。 宇宙の現象は、すべて唯、発動力と制止力とが、常に平行状態にある時にのみ、調和が保たれている。天体にも、物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、興奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。吾人の精神現象も、決してこの法則から離れることはできない。余は特にこれを精神拮抗作用と名づけてある。欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐戒・悪怖という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。この衝動と抑制とが、よく調和を保つときに、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、その抑制の剛健な人が、益々大なる人格者である。(森田全集第7巻437ページ)神経症的な不安に対してはその裏に欲望があります。ですから神経症的な不安に対して、ことさら不安だけを取り上げて対処しても仕方がない。不安の裏にある生の欲望の発揮のほうに焦点を当てることが大事になります。不安は欲望が暴走しないように制御する役割を果しています。これは自動車の運転を考えるとよく分かります。自動車にはアクセルとブレーキがあります。目的地に行くためにはアクセルを吹かして車を前進させなければなりません。またカーブや坂道、赤信号ではブレーキを活用してスビートを制御しなければいけません。運転する人は誰でもアクセルとブレーキを適宜上手に操作しています。ところが感情の取り扱いになると、ブレーキばかり踏み込んでアクセルを踏み込むことを忘れている。これではいつまで経っても目的地に到達することはできません。森田理論の「欲望と不安」の単元を学習するとそのことがよく分かるようになります。生の欲望の発揮はまず日常茶飯事に丁寧に取り組むことから始めたいものです。
2024.03.30
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悪役俳優だった蟹江敬三氏のお話です。悪役というのは、見るからに恐ろしいというような演技はしない方がよい。「俺は怖いんだぞ」というような人は、周りの人が最初から警戒する。あらかじめ近づかないようにするとか逃げるから危害を加えられることが少ない。はっきり言えばそんな人はたいして恐ろしくはないのです。一番恐い人というのは、ちょっと見ただけでは危害を加える人かどうかが分からない人です。そういう人でも、どこか目がイッているという特徴があるのですが、そこに気づかないこともあります。普通の人に見える人に対しては、みんなある程度警戒心が薄らぎますでしょう。油断をしている時に、突然暴れまくるとみんなびっくりしてパニックに陥る。なすすべもなく殺傷事件に巻き込まれてしまう。事実がわからないで疑心暗鬼になったときが一番怖いということだと思います。たとえば、ひとりでさびしい山道を行くときに、不意に草むらの中に怪しい音が起こって驚き恐れたとする。もし精神を緊張して、立ち止まり、その方に注目するときは、まもなく心が静まり、「幽霊だと思ったら、正体は枯れ尾花だったのか」ということにもなるが、もし驚きのままに、突然かけ出せば、無我夢中で、自分の足音に追っかけられて、平素の自分を失って、心も転倒してしまう。(神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 32ページ)森田では事実を正しく認識することが大切であるといわれます。私は事実に注目することで、仕事が面白くなるという体験を持っている。仕事はマンションの管理人である。基本ひとりでやる仕事である。棟内の清掃や巡回の仕事をするときに、問題点や課題、改善点や改良点、楽しみや喜びを見つけ出そうと意識して取り組んでいるのです。すると、いくらでも気になる点が見つけられるようになりました。鳥の糞が落ちている。クモの巣が張っている。落ち葉が散乱している。不法駐車している車がある。来客用駐車場に駐車している車に使用届がない。ドレンにゴミがたまっている。黄砂で手すりが汚れている。面格子が汚れている。トイレが汚れている。電球が切れている。玄関のガラスが汚れている。掃除道具置き場が散らかっている。子どもが泥だらけの靴で歩いたあとがある。不要になった掲示物ある。ゴミ置き場が散乱している。気づいたことはすぐにメモ用紙に書いておく。ルーティン作業が終わった後にこれらに取り組むようにしている。自分で見つけた仕事は意欲的になれます。小さな達成感が味わえます。
2024.03.12
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私流「森田の読み方」(生涯学習に活かす森田の言葉)の75ページからの引用です。私たちの心のどこかには「理想形」としての「汚れの不安から解放された安らかな状態」「すごい集中力で知識を吸収している自分」「すべての人から称賛され、仲良くしている自分」というイメージがあるはずです。こういうイメージは、もちろん追っても追っても、逃げていく蜃気楼のようなものです。「不安のない自分」には永遠に到達しない。なんだか、まだ汚いような気がする、他人から悪く思われているような気がする。そういう漠然とした嫌な気分は、毎日、毎日、私たちの心に湧きあがってきます。そんな嫌な気分もあり、快感もある。いろいろな気分・状態が雑多に入り混じっていて、なんだかすっきりしないのが、「生きているということの現実」であり、私たちはそこから逃げることはできないのです。人生とはこの「揺れながら走る電車」なのです。私達の人生は不安定であるだけでなく、不安定なまま「前に進んで」いるのです。だから、時間の流れの中で次々に起きてくる事柄に対応していかなければなりません。不安定ですっきりしない心のままでも、この現実の流れに乗らなければならない。不安定な自分のまま、おぼつかない、能力のまま、何とか現実への対処をしていく。全くその通りだと思います。不安のない人生はあり得ません。次々に不安が湧き上がってきます。不安をなくそうとする努力は無駄になります。現実的な不安に対しては解消に向けて積極的に行動する。どうすることもできない神経症的な不安に対しては、不安を抱えながら、それにとらわれることなく、目の前の課題に真摯に向き合って生き抜くことが大切です。脳科学者の茂木健一郎氏は、自然界には生物でもないものが絶えず揺れ動いているという不思議な現象があるという。この現象のことをブラウン運動というそうです。茂木氏は、人間の脳にもこのブラウン運動に似た働きがあると説明されている。たとえば野球でキャッチャーがピッチャーに球種のサインを出します。その際どんな球で打ち取ろうかいろいろと考えます。試合の局面、バッターの仕草、過去の対戦、バッターの特徴などを考えていくとすぐには結論が出ません。ああでもない、こうでもないと考えがまとまらずに揺れ動くのです。実はこの揺れ動くという心理状態が重要な意味を持っている。我々神経質者はこの考え方がまとまらないで揺れ動いている不安定な状態を嫌うのです。0か100、白か黒、良いか悪いか、どちらかに決めつけて心の安定を求めようとするのです。さらにその考えを自分にも相手に押し付けてしまうのです。当然いろんな要因が絡んでいるので自分が思い通りにコントロールすることはできません。森田先生は子どもの夜泣きで安眠できないとき、軽率な行動をとってはいけないといわれています。イライラしながら子どもを眺めていると、そのうち子どもは自然に泣きやんでくる。不快な感情を取り除こうとする対応は、ますます問題をこじらせてしまう。森田理論に精神拮抗作用というのがあります。ある欲望が湧き上がってくると、それを抑制する感情も同時に湧き上がってくる。強弱はあっても人間には誰にもその機能が備わっている。その時どちらかに態度を決めてしまうと問題が出てくる。欲望が暴走するか、不安に振り回されてせっかくのチャンスをみすみす逃してしまう。欲望と不安の調和を図りながら、注意深く行動することが大切になる。私はこの法則を居酒屋での懇親会に応用し、二日酔いで次の日に苦しむことはなくなりました。今では欲望と不安を意識するために部屋のなかにヤジロベイを飾っています。
2024.01.27
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一病息災は、人間は持病が一つぐらいあった方が、健康に気を付けるようになるので長生きができるという意味です。ケガや病気の経験がないことは、喜ばしいことのように思いますがケガに無警戒になります。また健康体であることが当たり前になり、健康のありがたみが分からなくなります。中国のことわざに「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。飼っていた馬がいなくなり残念に思っていたところ、ある日突然駿馬を連れて戻ってきた。乗馬をしていたところ、落馬して足の骨を折ってしまった。仕事ができなくなったが、そのおかげで兵役を免れた。不幸と幸運はコインの裏表の関係にあるというたとえです。一病息災も同じような意味だと思います。私は今までケガや病気でいろいろと辛い思いをしてきました。小さいころ2回ほど手頸の骨折をしました。おたふくかぜになり高熱が続きしばらく学校を休みました。仕事での人間関係が悪化して胃潰瘍になりました。朝方尿道結石で救急車で運ばれたこともあります。この時は死の恐怖を味わいました。痛風発作を起こしてしばらく歩けなくなりました。腹と背中に帯状疱疹が現れました。尿道結石と痛風発作と帯状疱疹は針の先で刺されたような痛みが続き七転八倒しました。五十肩になり1年ほど針治療に通いました。痔になり手術をして1ヶ月ほど入院しました。つらい経験でした。対人恐怖症、社交不安症にかかり、うつ状態になりました。これは中学生のころからずっと苦しみました。でもケガや病気になったことはよい経験だったと思っています。いろんな病気になったからこそ、毎年一回は生活習慣病検診をしています。血液検査、尿酸値、糖尿病、腎臓、大腸の検査などをしています。苦手の胃カメラを飲み、ガンの腫瘍マーカーの検査もしています。時々脳のMRIや大腸のカメラ検査もしています。人によると健康診断などは必要ないという人もいます。そういう人が急にガンになる。血管障害で取り返しのつかない病気になる。高齢になると自動車と同じで定期的なメンテナンスが必要だと思います。今まで病気一つしたことがないという人はどうしても警戒心がなくなる。集談会に参加していると、神経症で苦しんでいる人、人間関係に問題を抱えている人がいます。神経症の苦しみは神経症で苦しんだ経験のある人でないと分からないと思います。また肩や首の痛み、がん、胃潰瘍、尿道結石、痛風、帯状疱疹、痔持ちの人がいます。自分がケガや病気で辛い経験をしているので、その人の痛みが自分のことにように感じることができます。自分の体験からある程度のアドバイスができます。私たちは神経症になったお陰で森田に出会うことができました。森田は神経症を治すだけではなく、神経質性格者の生き方を教えてくれました。こんな幸運はめったに出会うことはできないと思います。この幸運に感謝して日々を大切に生きています。
2024.01.20
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対人恐怖症の人は、この言葉が示している通り、基本的には他人と接触することが怖いという意識が強く働いています。他人は自分に対して危害を加えるという感じを持っている。油断しないで絶えず警戒する必要があると思っています。無条件に人を信頼するという感覚は持ちにくいのです。人の行動を好意的に受け取ることも難しい。距離を置いて、敢えて近づかないように心がけている。対人恐怖症の人は親しくなればなるほど気が重くなります。息苦しさを感じてしまう。早く一人になってゆっくりしたいという気持ちが強く働いています。そういう人は他人と関わる仕事はとても困難です。例えば営業職、マネージメント、監督業、教師、接客業などの仕事は困難を極めます。できるだけ人と関わらないような仕事を選ばざるを得なくなります。パイロット、運転手、重機の操作、研究職、職人、料理人、士業、農業などです。この感覚は親との関係の中で形作られたものですが、容易に取り去ることはできません。小さいときに犬に吠え立てられて追い回された人が、大人になってもそのトラウマに悩まされているようなものです。周りの人から犬はかわいいものだと言われてもその気になれません。ではそういう人は、孤立してさみしい人生を送ることになるのか。私の経験ではそうは思いません。基本的に人間の幸せは、仕事、日常生活、子育て、趣味などで、目標や課題を見つけて積極的に行動していく中にあると思っています。人間関係が良好というのに越したことはありませんが、別に人が怖いという人であっても、それだけで孤独で寂しい人生が待っているわけではないと思います。私は親が自分に与えてくれた神経質性格のプラス面を活かして生きていくことを考えました。その中に好奇心が強いという特徴があることが分かりました。小さなことに興味や関を持つことができる。感性が鋭く小さなことに心を動かされることが多い。これは生の欲望がきわめて強いということだと思います。自分の好きなことや挑戦してみたいことに手を出していけば楽しい人生になるかもしれないと考えたのです。今興味や関心があることを思いつくままにあげてみると、カラオケ、音楽好き、クラッシックのコンサート鑑賞、第九の合唱、マーチングバンドの鑑賞、パソコンの操作、ナビを使いこなす、ZOOMのホスト役、川柳、ユーモア小話作り、アルトサックス、どじょう掬い、浪曲奇術、獅子舞、腹話術、そのほかの一人一芸、男の料理教室、健康マージャン、磯釣り、草花や盆栽の世話、メダカの世話、自家用野菜作り、果樹や庭木の手入れ、加工食品作り、小旅行、写真の編集、工場見学、そば打ち、リサイクルショップ巡り、プロ野球観戦、老人ホームの慰問、居酒屋での飲み会、森田理論学習、ブログの更新、読書、テレビの録画と編集、孫との交流など。他人に気を遣うことなく心ゆくまで楽しんで過ごしていきたいと考えています。これらに取り組むと、他人の存在が怖いという気持ちがあっても、ある程度悔いのない人生を送ることができます。
2023.11.28
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人間には「生老病死」の悩みがあるという。今日はその中の「老化」について取り上げてみたい。成長期は右肩上がりだが、それを過ぎると今度は右肩下がりに変化してくる。人間の場合は20代から30代がその分基点にあたるのではなかろうか。老化は、年齢を重ねる度に次々と失われていくものがあるということです。若さ、肌の張り、体型、筋肉、視力、聴力、髪、歯、骨、脚力、記憶力、認知能力などが人によって差はありますが、ほぼ確実に老化してくる。若い時のような訳には行きません。しかし刺激を与えて老化を多少遅らせることはできます。メンテナンスを怠っていると、急速に老化が進みます。特に足腰を鍛えることと頭を使うことです。最悪の場合、深刻な身体疾患や寝たきりや認知症になります。老化の対応方法には二通りあるように思われます。1、老化を認めようとしない人。老いをあってはならないものと考える人。できる限り元の状態に戻そうとする人。2、潔く老化を認めて、失われたものはそのままにして残っているものを活かして生きていこうとしている人。1は神経症と格闘しているようなものです。自然現象である老化の進行を是が非でも阻止しようとしています。時間とお金を投入すれば、ある程度は効き目がありますがやりすぎは禁物です。基本的には、歳をとると徐々に失うものがあるという覚悟を持つことが欠かせないと思う。最低限のケアをした後は、老化を受け入れていくしかありません。老化と敵対することは、自分自身を否定することになります。自分を上から下目線で非難・否定することほど惨めなことはありません。そこに注意や意識を集中させていると、生の欲望の発揮が蚊帳の外になってしまいます。2の対応は、失われて使用不能になったものとまだ使用に耐えられるものを区別できている。失われたものを素直に受け入れて、まだ残されているものを大事にして前向きに生き抜こうとしている。樹木希林さん、篠田桃紅さん、宇野千代さんはそんな生き方をされていました。そのほか宇野重吉さん、日野原重明さん、成田きんさん、蟹江ぎんさんたちもなどもそうです。「102歳、一人暮らし」の石井哲代さんもその一人でした。この人たちは歳をとってからの生き方が光り輝いていました。それまでの人生経験がプラスに作用しているからだと思います。また、それぞれ自分の人生を振り返って、若い人たちに自分なりのメッセージを残されています。うまくいった点だけでなく、反省、後悔していることも含めてすべてを包み隠すことなく開示されています。それが大いに参考になります。このような生き方は秋の色あざやかな紅葉と重なるところがあります。紅葉するということは、緑の葉が寿命や寒さなどで光合成ができなくなった状態です。紅葉した葉は自己否定していません。今まで生かされたことに感謝している。消え去る前に色とりどりの姿に身をまとい人々を楽しませてくれています。枯れ果てて落ちてしまうのは、自分がこの世から消えてなくなることですから悲しいことです。良寛さんは「裏を見て 表を見せて 散るもみじ」と詠まれています。せめて自分の人生を振り返って、その教訓を次世代に引き継ぐことが大切なのではないでしょうか。これが森田理論でいう「物の性を尽くす」ということだと思います。
2023.11.21
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雑談が苦手という人がいます。これは本音としては雑談の輪に入りたい。ところが実際には雑談の輪に入れないという悩みだと思います。雑談はかしこまった話、結論を出す話、議論をするような話ではありません。また相手に指示命令したり、相手を説得するような会話でもありません。ある程度気心が知れた人と、自由自在に気楽な気持ちでとりとめのない話をする。会話自体を楽しむものです。かしこまった話よりもリラックスできそうな気がします。本来たのしいはずの雑談が苦痛になるというのはどういう事でしょうか。雑談が苦手という人は、あまりにも自分の話す内容にとらわれているのかもしれません。「どんな話をしてよいのか分からない」「特に話したい話題がない」「私が話をするとみんなが引いてしまう」などと考えている人は、気軽に雑談の場に加わることができなくなります。面白い話、役に立つ話、意味のある話、相手を感心させる話をしないと意味がないと考えていると会話することは苦痛になります。こういう人は、雑談の意味が分かっていないのかもしれません。雑談は人間関係を円滑にするための潤滑油のようなものです。雑談に出てくる内容はほとんど意味のないものです。内容よりも相手と会話ができてよかった。楽しかったという気持ちを持てたかどうかが肝心です。雑談は人間的な交流が出来たことに意味があります。雑談恐怖の人は、他人から評価されたい、一目置かれるような存在感を示したいという気持ちを持ち合わせているのかもしれません。基本的に相手の話を聞くことよりも、自分の話す内容の方に注意や意識が向いている。会話が双方向ではなく、一方通行になりやすいのです。次に、自分の弱点や欠点、過去のミスや失敗などの話になって傷つくことを恐れている。雑談というのはとりとめのない、無責任な世間話です。雑談はあらぬ方向へ飛び火することは頻繁に起こります。火の粉が自分の身の上に飛び火することはよくあります。それを面白おかしく、無責任に話題にされるのではないかという危惧があります。からかわれたり、バカにされたり、ユーモアの種にされると居心地が悪くなります。そういう予期不安がある場合は、雑談の場に加わらない方が賢明だという気持ちなのでしょう。明日は雑談恐怖に対しての心構えについて投稿します。
2023.11.09
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フランスの経済学者のジャック・アタリ氏は、2007年に未来の政治と経済を予測した著書「21世紀の歴史 未来の人類から見た世界」の中で、21世紀中に人類の歴史に終止符が打たれる可能性が高いと指摘しています。イスラエルとハマスの戦闘、ロシアとウクライナの戦争、中国の政治や経済の混迷、ディープステートによる世界経済の支配などはそれを予感させるものがあります。ジャック・アタリ氏は、これまでソ連崩壊、金融バブル、インターネットの普及などを予想しましたが、その通りになっています。この状態のままでは人類の支配は国境を越え、拡大し続ける市場によって2050年頃には「超帝国」が生まれるという。地球規模で統一された市場では、自然環境は破壊され、軍隊や警察、裁判所も含め、すべてが民営化される。公共サービスも民主主義も、政府や国家さえも破壊されるなかで、貧富の格差はいよいよ拡大し、生活貧困層が増大していく。やがて、世界各地で未曽有の「超紛争」が勃発し、いかなる国際機関も調停に乗り出せない。ついに世界は巨大な戦場と化して、一般市民はあらゆる種類の大量破壊兵器の餌食になり、人類は滅亡に向かう。(コロナの暗号 人間はどこまで生存可能か 村上和雄 幻冬舎)私は残念ながらこの予測は当たる可能性が高いと考えています。いまの世界は欧米のディープステート(国際金融資本、多国籍企業)による人類の支配が国境を越えて拡大し続けているのが現実です。これはロックフェラーやロスチャイルドにつながるユダヤ系金融資本家です。最近はそこに中国が覇権争いに加わっているのです。いずれにせよ、ごく一部の人が、その他大勢の人を支配しコントロールしようとしている構図は変わりません。いずれにしても、将来は国境の枠は形ばかりとなり、世界規模で統一された市場が出現して、支配力が強まるでしょう。政治、経済、金融、司法、教育、軍事、社会インフラ、娯楽、農業、報道などは、どんどん民営化されて、ディープステートの利益拡大の手段として利用されるようになります。ごく一部の人たちが、世界の富のすべてを自分たちの所有物にしようとしています。戦争を演出して高価な兵器を売りつけて暴利をむさぼることもいとわなくなります。ガン細胞が人間の体の中で、どんどん増殖しているような状態です。そして追いつめられた人たちが、核兵器の使用に踏み切ることは十分に考えられます。核兵器の使用によって人類は絶滅してしまうというのが、ジャック・アタリ氏の予測です。第三次世界大戦の開始は、人類の絶滅につながるものです。人間の欲望の暴走は恐ろしいものです。神様は人間に制御力も与えましたが、欲望が暴走し始めるとひとたまりもありません。一旦甘い蜜を吸ってしまうと、報酬系神経回路が過度に活性化されてしまうのです。本来は欲望の暴発は防衛系神経回路などによって制御されるようになっていますが、一旦はずみがついてしまうと制御能力を失い暴走してしまうのです。それは、依存症に陥った人が、依存症を克服することが困難であることとよく似ています。森田理論は、欲望の暴走は同時に湧き上がってくる不安によって抑制していかなければならないと説明されています。そして意識して欲望と不安のバランスをとっていくことが目指すべき方向です。ディープステートといわれる人たちが、森田の考え方を学んでくれるようなことはないのでしょうか。私たちはディープステートの横暴を指をくわえてみているしかないのでしょうか。少なくとも森田理論を学んだ私たちは、森田の考え方を世界に向かって発信する時代に来ているような気がします。
2023.11.03
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瀬戸内寂聴氏のお話です。心配することが何もないという人はボケますよ。私の義兄、姉のお婿さんがボケたんです。70代でしたけどね、面と向かって私のことを、「あなた、どなたさんですか」なんていうぐらいボケたんですよ。それで姉が心配しましてね、老人ボケだっていうんで、そばを離れないでついていたんです。ところがその看病していた姉のほうがガンで死んじゃったんですよ。そうしたら姉が死んだ途端に、そのボケ老人がシャーンとしてしまいました。それでいま、とてもしっかりしているんですよ。100歳まで生きるかもしれない。だからあれは甘えていたんですね。心配することがないので安心してボケけてたんです。姉が死んで、ボケてたら誰も面倒を見てくれないと思ったとたんに、シャンとしてきた。(わたしの宇野千代 瀬戸内寂聴 中央公論社 182ページ要旨引用)定年退職して、年金が満額もらえるようになり、家でのんびり過ごしたいと考えている人はボケる可能性が高まります。また食事、掃除、洗濯、ゴミ出し、隣近所との付き合いなどを配偶者にまかせている人は危ない。外出するのは配偶者が買い物に行くときについていくだけというのも危ない。年金が少ない人で定年後も仕事を続けざるを得ない人は、物忘れは多いが、ボケることはあまりない。仕事を引退しても家事全般、孫の世話、農作業、動植物の世話、趣味、習い事、学習、親しい人との交流などを心がけている人はボケない。つまり自分でできることややらなければいけないことを、面倒だ、わずらわしいと考えて他人に依存するようになると危ない。三重野悌次郎氏が言われていましたが、雑事を軽視すると人生は活性化しない。雑事を丁寧にこなして、小さな成功体験を積み重ね、ささやかな喜びや感動を味わうことができるようになると、ボケが入り込む隙間がなくなってくると思う。
2023.10.31
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柿原美恵さんが森田先生と自動車に乗っていた時のお話です。森田先生が次のようにおっしゃった。「僕が自動車に乗っている時は、片足に体重を乗せて、他の片足の力を抜いておく。こうすれば、自動車が大きく揺れたときでも転ばない」以前森田先生は、人力車に乗っていて、何かに衝突して放りだされたけれども、柔術の心得があったから、怪我をされなかったとのことである。また、「僕は冬の寒いときでも、決して右手の手袋は使わない。右手に手袋をはめていては、とっさの場合に右手を十分に活用できないからだ。だからこの通り、右手は洋服のかくしに突っ込んでおく。ほれ、右手の手袋は一度も使っていないだろう」と言って見せて下さってから、「柿原さんにやろう」と言って、記念に私に下さった。このエピソードは、森田先生は、日頃から次の変化を予想し、その変化に素早く対応することを生活信条とされていたことがよく分かります。このメリットは注意や意識が常に外向きになることです。また目の前に起きていることをよく見る癖が身に付きます。これから起こりそうなことを、分析・察知して前もって対策が打てるようになります。事実が見えてくると、気づきや発見があります。そして感情が動き出します。工夫やアイデアが生まれて、意欲的になります。積極的、建設的、生産的、創造的な行動的につながります。森田先生の場合は、普段の生活は心身ともにほぼ外向きになっています。外向きが8割くらいで、自己内省力を利用するのは2割くらいでしょうか。内向きになることは極端に少ないと言えるのではないでしょうか。自己内省性が強い神経質性格者は、行動力が減退すると内向きになります。目の前のことやこれから起きることに対しての関心はほとんどなくなります。関心を示すことは自分のことばかりになります。もう一つ問題なのは、内向きの場合は感情が停滞気味になります。マイナス感情が悪循環することが多くなります。行動は消極的、依存的、観念的、回避的になります。変化対応力一点に絞って生活改善に取り組むと、森田的な生活に変化してきます。自己信頼感、自己肯定感が養成されてきます。
2023.10.25
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昨日の投稿で藤井先生が自分を客観視することが大切だと言われていました。自分自身を第三者的な立場から眺めてみるということです。これができるようになると、今まで無意識で行っていた問題行動が見えてくることがあります。問題行動が意識できれば、それを修正、改善したいという意欲が生まれます。私はある講演会での自分の姿の映像を後で見て驚いたことがあります。関心のない話を聞いているときに爪を噛んでいたのです。無意識的にストレス発散行動をとっていたのです。これには唖然としました。それ以降は気を付けるようになりました。自分が話している映像を見ると方言丸出しといった感じでした。これでは聞いている人が不愉快な気持ちになることが分かりました。なかなか直せないのですが、注意することはできます。また最初にお断りすることもできます。カラオケには自信がなくて音痴だとばかり思っていました。とにかく自分の声は普通の人と違う。変な声をしている。救いようがない。そこでビデオを持って一人カラオケに行きました。自分の歌唱を何曲もビデオに収めました。その時採点機能を使いました。音程が映像で表示されました。音程が合っているか外れているかは映像で確認できました。それで分かったことは、声は個性的だがそんなにみっともないということはない。それよりも音程が不安定なのが気になりました。ビブラートがかかりすぎている。私は男性としては高音部分がよく出る。第九の合唱団に加わっていた時に次のように指摘された。一口にテノールといっても幅があって、私の場合は低音が出にくい。高音が出やすいという特徴がある。今島津亜矢の「相生」を練習しているが、低音部分がとても苦しい。あらかじめキーを2度あげてやると途端に無理なく歌えるようになります。普段のカラオケの練習はIC録音機が欠かせない。自分の歌唱を吹き込んで後で聞いてみる。違和感がないかどうかすぐに分かります。お手本となる歌手の歌声をリピート機能を利用して、小節ごとに区切って練習すれば何とかものになることが分かってきた。私は一人一芸をやっております。アルトサックス、どじょう掬い、傘踊り、腹話術、獅子舞、しば天踊り、浪曲奇術、手品などです。それらは定期的にスマートフォンで動画撮影をしています。1ヶ月に1回は点検のつもりで撮影しています。撮影は簡単です。自分の所作を動画で確認することはとても重要だと思っています。特に人前で何かをする場合は、他人に見てもらうか、自己点検が必要です。自分が審査員になって自分の所作を観察すると、改善点がいくつも見つかるのです。それを積み重ねると違和感が少なくなり、自信を持って本番に臨むことができます。下の写真のように譜面台を横にして100均で買った三脚を立てています。高さ調整が自由自在にできます。またリモートで撮影開始が可能です。それは一旦Googleフォトに保存されますが、パソコンと同期すればパソコンのGoogleフォトで見ることができます。その他、重要なものはGoogleドライブを利用してファイル管理をしておけば動画保存は楽になります。ICレコーダーやスマホの動画撮影機能は自分を客観視するためには強力なツールだと思っています。最初は自分の実際の姿を音声や動画で見ることに抵抗がありましたが、そのうち抵抗感がなくなりました。慣れてきたのでしょう。これらは自分を客観的に観察するために、必要不可欠なことだと思っています。
2023.10.08
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藤井英雄氏のお話です。心は、いつも「今、ここ」から離れて思考しがちです。それが心の役割なのです。具体的には、過去の失敗を思い出しては後悔し、未来の取り越し苦労をしては不安になり、他人がこうしてくれたらいいのにと不満に思い、こんな自分ではダメだと自己嫌悪に陥っては憂欝になるのが人間です。(平常心と不動心の鍛え方 藤井英雄 同文館出版 49ページ)藤井氏は、未来への不安、過去の後悔、現在の他人や環境への不満、そして自己嫌悪などのネガティブ感情に振り回されている状態は、心が「うわの空」になっていると言われています。心が「うわの空」になってしまうと、心を「今、ここ」に引きとどめておくことができません。葛藤や苦悩はそうした状態の時に忍び寄ってくるといわれています。ではどうすればよいというのでしょうか。簡単です。「今、ここ」を感じればよいのです。感じることと考えることは同時にはできないという特徴があります。「今、ここ」の感情にフォーカスして生き生きと感じることができるようになると、心の中に心配事が入る隙間はなくなります。藤井氏によると、これはマインドブルネスの中心的な考え方だそうです。マインドフルネスとは、「今、ここ」の現実に、リアルタイムかつ客観的に気付くことです。この考え方は少し難しいようです。森田理論と合わせて考えると理解しやすいと思います。森田先生は注意の集中ということについて次のように説明されている。私が講話をするとき、精神が集中するとはどういうことかというと、普通の精神の集中とはちょっと意味がちがう。1、自分の挙手動作に注意する。つまずいたり、コップをひっくり返したりしないように注意するのである。2、みなさんの状況、周囲の変化、すなわちある人が聞きたそうな顔をしているとか、後ろから出入りする人、戸外の自動車の響きなどにも、よくこれを感じ分けるようになり3、自分の講話の筋道を工夫するという風にこの四方八方に心が散った有様が、禅のいわゆる無所住心であって、周囲の全てのことに気がついて、しかも何事にも心が固着しないで、水の流れるがごとくに心が自由自在に流転適応していく有様である。あたかも明鏡に物が映るがごとく、来るものは明らかに映り、去れば直ちに影をとどめないという風である。(森田全集第5巻 580ページ要旨引用)ここで私がポイントだと思うのは、注意はいろいろな方面に分散しているのですが、一旦気になる一点に注意を向けたとき真剣に向き合うということです。他のことを考えながら「うわの空」で向き合うと、後で不安になります。例えば戸締りが気になる人が、仕事のことや会社での人間関係のことを考えながら施錠してしまうと、後からカギを締めたのか締めなかったのか確信が持てなくなってしまいます。このときカギを締めることにきちんと向き合っていると、隙間からカギがかかっていることをしっかりと確認できますのであとで疑心暗鬼になることはありません。きちんと向き合うと目の前の不安からはすぐに解放されます。次に不安から解放されたら、次の不安に飛び乗ることが大切になります。こういう意識で生活することが、「今、ここ」の現実に集中するということになります。分かりにくいという方は、2023年7月27日、8月25日、9月7日投稿をご参照ください。特に7月27日の投稿記事で理解していただけるのではないかと思っています。明日は藤井英雄氏が指摘されている「客観化」の方法を考えてみたいと思います。
2023.10.07
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池ポチャの法則は、ゴルフで絶対に球をフェアウエイに乗せたいと意識する時に起きます。細心の注意を払っていると、そんな愚かなミスをするはずがないと考えがちです。そう考えながら球を打つと、池に引き寄せられるように、心配していたことが現実となってしまうという現象です。「池に打ち込んではいけない」ということはよく分かっているのに、どうしてそのようなミスを犯してしまうのでしょうか。今日はこの問題を取り上げてみました。これはゴルフだけに限りません。楽器の演奏でもそうです。過去に間違えたところは、今度は絶対にミスをしてはならないと考えていると、今度もまた同じところでミスをしてしまう。ミスしたところにさしかかると「間違いなくできるだろうか」という不安が生まれます。小さなパニックに陥ります。その不安はすぐに前頭前野に伝えられます。前頭前野は早速ミスをしないための方法を考え始めます。つまり意識をいつまでもその部分に固定してしまうのです。演奏は側頭葉や運動野に蓄えられた長期記憶を基にして行われています。意識的行動ではなく、無意識的な行動です。練習ではほぼ正確に演奏できても、本番で前頭前野が介入してくるととても厄介なことになります。ケガをして出血しているときは急いで止血しなければなりません。前頭前野の介入は、止血が必要な時に、ケガの原因究明をしているようなものです。大量出血をすると命にかかわるようなこともあります。前頭前野は事前に問題が予想されるとき試行錯誤する時は役立ちます。ただし十分な練習をして、あとは本番で成果を出し切ればよいという時には何の役にも立ちません。むしろ弊害が大きくなります。手先が金縛りにあったようになります。この場合は前頭前野に不安の情報を送らないことが大切になります。しかし人間は考えないということはできません。せめて意識を一点に集中しないように心がけることは必要になります。イチロー選手や羽生結弦選手はルーティンワークを心がけていました。これに意識を持ってくることで、分散化が図られているのだと思われます。私はサックスの演奏をしていますが、最初にソロで演奏する時に不安が高まります。その時は1時間前に不安を多少和らげるデパスという抗不安薬を飲んでおきます。精神科医によると私の症状はよくあるそうです。これを名づけて、「パフォーマンス限定社交不安障害」と呼ぶそうです。次に本番ではまずゆっくりと運指を音を出さずに確認します。そして時間を置かずにすぐ演奏に移るようにしています。あとは同じサックスの人が高齢で、「私がしっかりリードしないでどうするんだ」という意識を持つようにしています。この3つ以外にもいろいろと工夫してきましたが、それらはすべて症状の強化につながりました。シンプルイズベストという結論に達しました。
2023.10.03
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「こだわり」と「とらわれ」という言葉は、どちらもある特定のところに注意を向けて、感情や意志をとどめている点は同じです。ところがその中身は180度違うように思います。こだわる人は、気に入ったものを見つけるとそれ以外のものは受け付けない。他人の意見に安易に流されない頑固さを持っています。自分の意志の強さを感じます。主体性があります。例えば気に入った道具などを見つけると、それ以外のものは受け付けられなくなる。出張先で宿泊するホテルもいつも同じところに決めている。ビールや日本酒にしても銘柄を指定してくる。ルーティンワークにこだわっている人もいます。サプリメントにこだわっている人もいます。無農薬野菜や有機野菜にこだわっている人もいます。森田理論学習にこだわっている人もいます。こだわることに快感を感じるのでしょう。居心地がよいのです。どうしてそこにこだわっているのかきちんと説明できる。人にもその良さを伝えたくなるようです。特にこだわりの強い人は、うんちくを話し出したら止まらなくなる。こだわっている人を見ると、頑固だな、融通がきなない人だなと思いますが、いやな気はしません。むしろ自分の気持を尊重して、自分のスタイルを押し通そうとしているところに共感を覚えることもあります。これに対して、とらわれる人は容易に他人に振り回されてしまう。主体性が乏しい。自分の気持、感情、意志、欲求、欲望が明確になっていないので、まともに周りの影響を受けてしまう。不安、恐怖、違和感、不快感にとらわれる人は、事実をよく見ていない。先入観、思い込み、決めつけ、人のうわさ話などで対策を立てようとする。そして問題を深刻化させて後悔することになります。神経症に陥る人は、一番気になる不安に集中してとらわれています。精神交互作用でどんどん蟻地獄に落ちていく。とらわれる人は、こだわる人を参考にして、自分の気持、感情、意志、欲求、欲望を見つめ直すことが大切になると思います。そして日々の生活に丁寧に取り組んでいく。そうして、やりたいこと、課題や目標が見つかると、とらわれる人からこだわる人に変身できるのではないでしょうか。我マンションの遊具です。
2023.10.01
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プロ野球でデットボールをよくみかけます。その中でも頭部や顔面にあたるデットボールは見ている人も恐怖感を抱きます。当てられたほうも痛いが、実は当てた方も痛いのです。まずは危険球で一発退場となります。それ以上に、精神面で大きなショックを受けます。相手を再起不能に陥れるかもしれないのですからもっともなことです。その後、「ぶっつけてはいけない。今後は頭や顔に当てるのは何としても避けなければいけない」という気持ちになるのです。つまりまっさらな気持ちで真剣勝負ができなくなります。相手打者をいかに抑え込むかという本来の目的が希薄になるのです。注意や意識をそこに集中させていると、吸い寄せられるようにまた同じ失敗をくり返してしまうのです。注意や意識の集中が強まれば強まるほどマイナスの悪循環か止まらなくなります。何も対策を立てないで、そのままにしておいても収まることはありません。むしろ自己内省力が強く働いて、自己否定するようになります。後遺症で苦しまないために、監督によっては、すぐに次の登板をさせることが多いようです。でも最初のうちはどうしても思い切った投球はできません。外角一辺倒で逃げ腰になります。大野豊さんは、2ストライク後に相手打者の頭に当てたことがあった。その後、「2ストライクになるたびに、ああ、またぶっつけちゃいけないと思うようになった」そうだ。そういうときは、キャッチャーに次のようにお願いした。「ノーボール、2ストライクになったら、内角のサインは出さないでくれ。ワンボールになったら、内角にも投げるから」ボールを一球投げて、自分の気持を整理したというのです。一旦ケリをつけて新たな気持ちで投球するようにした。これで過去の呪縛から解き放されたということでした。私は数字でいえば、1、11、111が嫌いです。ある日家族の命日が、1、11が絡んだ日だと気が付いたからです。それ以来、1、11という日は呪いの数字だと思うようになりました。読書のときも111ページに差し掛かると、急にページ数が気になるのです。そのときは早めに111ページを通過するようにします。バイクや車を運転しているときは、車のナンバーが気になります。そういう意識で前方の走行車を見ているせいか、1、11、111、1111をつけている車がとても気になります。そのまま放置していると自分に禍が降りかかってくるような気がして仕方がない。その人たちにとっては栄光のナンバープレートなのでしょうが、私にとっては不幸をもたらすナンバーなのです。この場合は自分なりのおまじないをすることにしています。ここに書くことが気が引けるようなおまじないですが、これをすると、先ほど見た忌まわしいナンバーの悪い予感を払しょくできたという気持ちになれるのです。一旦キリをつければ、禊が済んだ気分になり、いつまでも気にすることはなくなります。後には引かないと心の底から思えるのですから不思議なことです。脳はマイナス感情で覆われても、それをご和算にするようなプラスの情報をインプットしてやれば、簡単にひっくり返ってしまうということではないかと思っています。この話は西田文郎さんから学びました。脳は100回否定しても、101回目で肯定してやれば、その情報のほうを信じてしまう。たとえそれが嘘であっても、それを本当だと信じてしまう。形から入れば、脳は簡単に洗脳されてしまうという特徴があるのです。不思議なことですがそれが脳の真実だといわれているのです。岩国城へ向かうロープウェイ
2023.09.25
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私は大学を卒業後、書籍の訪問販売の仕事をしていました。今考えると対人恐怖の私がよくぞこんな職業を選んだものだと思います。この仕事は相手に断られることが多い仕事です。すると自分の自尊心が傷つけられるように感じました。不愉快な気持ちを回避するために、有力な見込み客だけに営業をかけるようになりました。そういう人から断られると、次の仕事に向かう気力がなくなります。私は目の前の仕事ではなく、不快な気持ちになることを避けることばかり考えていたのです。これでは仕事がうまくいくわけがありません。仕事をさぼり、自己嫌悪でいたたたまれなくなるのです。仕事をさぼっていると、営業能力が向上することはありません。同期の人とは差が開くばかりになりました。この仕事で成功した人は、ダメでもともとで多くに人に営業をかけている人でした。10人の人に営業をかけて1人から成約が取れれば十分という考え方でした。9人の人から断られても、それは無駄ではない。断られるという経験は営業ノウハウを高めるために大いに役立っている。自分に与えられたノルマは何が何でも達成するという意欲を持っている。仕事に対する責任感・使命感が強いのです。またライバルの中で一番の成績をあげて評価されたいという気持ちも持っている。この仕事が持っている社会的な意義についてもよく理解している。だから少々の不快な気持ちを悠々と乗り越えていけるのだと思います。次にインテリアの卸会社で営業事務の仕事をしました。得意先から電話やFAXでいただいた注文をパソコンで加工して、工場に送るという仕事でした。これはミスがないのが当たり前という仕事でした。でも悲しいかな人間のやることにミスはつきものです。数多くの仕事をこなしていると必ずミスが発生します。ミスをすると、得意先、エンドユーザー、営業マン、上司、同僚などから非難されます。一つミスをするとそれがトラウマになります。次の仕事でまたミスをしてしまうのではないのかという予期不安で苦しみます。小さなミスはごまかす。隠す。言い訳をする。自分で買い取ってなかったことにする。絶えずミスをして、叱責や非難されることに注意や意識が向いて、生きた心地がしなくなります。積極的に仕事に取り組めなくなります。仕事から逃げるようになります。私は目の前の仕事に全力投球するのではなく、他人に後ろ指を指されないようにすることに神経をすり減らしていたのです。その結果仕事は生活のためにイヤイヤするものだという考え方になりました。人生の三分の一を占めている仕事がこんな調子では生きた心地はしません。また仕事に消極的で成果が出せない人に、対人関係が追い打ちをかけます。今生まれ変わって仕事を始めるとすると、先ず自分でこれをやりたいという仕事を時間をかけて探す。興味や関心のもてる仕事、情熱の持てる仕事は必ず見つかるはずです。高校、大学生活は自分の適職を見つける期間と心得る。一生関われる仕事を見つけた人は、人生の半分は成功したようなものです。アルバイトなどでいろんな仕事を経験してみることも有効です。次に仕事にはミスや失敗や無駄や損失はつきものです。いくら努力しても成果が上がらないこともある。ですから完全主義ではますます自分を窮地に追い込みます。完全主義、完璧主義、かくあるべしの弊害は森田理論学習で理解する必要があります。ミスや失敗をしたらすぐに、俎板の鯉のような気持で、すぐに公開する。隠す、捻じ曲げる、ごまかす、報告を遅らせる、責任転嫁をするのは最悪と心得る。そうすればいつまでも苦しむことはなくなります。事後処理が終われば、リセットできます。また新たな気持ちで仕事に向き合うことができます。それから仕事は人間関係作りの為にだけするものではありません。生活費を稼ぐ。社会の中で自分の居場所を確保する。仕事の中で工夫や改善を重ねて楽しみを見つける。自己実現を図る。頭を使う仕事は脳が活性化します。身体を使う仕事は体力強化にもなります。仲間と切磋琢磨して、一人では無理な大きな目標を実現できます。人の為に役に立つことをする。会社に利益をもたらす。などの目的があります。人間関係を唯一の目的としてしまうと、そこで躓くとすべてがダメになってしまう。以上が仕事選びで失敗した私が反省している点です。
2023.09.22
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依存症には、アルコール、ギャンブル、ネットゲーム、買い物、過食、性衝動、薬物などがあります。依存症は脳が快楽に乗っ取られたような状態だと思います。正常な脳の機能が破壊されたような状況です。欲望が暴走を始めると、自分では制御不能となります。冷静な時にはいけないことだと頭ではよく分かっているのですがつい手が出てしまう。やらずにはおれない精神状態に追い込まれます。依存症はあなたが悪いのではない。脳の障害だと言っても、その弊害は深刻です。ひどくなると、自分の健康破壊、自己破産、家庭崩壊、人間関係の悪化、懲戒解雇、社会からの永久追放をもらたしています。そこまで至らなくても、依存症予備軍の人は多いように思います。普段から欲望が暴走しないように注意して過ごすことが大切です。森田理論では人間には精神拮抗作用が備わっているといいます。これは欲望の暴走には不安が役立っているということです。車でいえば欲望はアクセル、不安はブレーキのようなものです。アクセルを踏み込めば、車は目的地に向かって動き出します。一旦動き出した後は、ブレーキを活用してスピードを制御しなければなりません。ブレーキが故障すると、双極性障害の躁状態になります。普段から生の欲望の活性化に力を入れつつ、適宜不安を活用してバランスをとる必要があります。例えば、今日の懇親会で好きな酒を心ゆくまで飲みたいと思っても、二日酔いで次の日に頭が痛くて寝込んだことを思い出して自制心が働くようになっています。この問題に対して、私は次のように心掛けています。私はビールを注文する時に、お冷も頼みます。これは酒豪の女性に教えてもらいました。今ではビールを飲むたびに、お冷を飲むことにしております。次に一杯のビールを飲み干すのは、なるべく一番最後になるように心がけております。駆けつけ一杯で誰よりも先に飲み干すというのは、元気があってよさそうに見えますが、二日酔い一直線です。最初は前菜や野菜サラダなど腹が膨れるものを食べるようにしています。腹を落ち着かせると酔いが回るのを抑制できます。つぎに酒の好きな人は、ビールだけでは収まらず、焼酎、ワイン、日本酒、カクテル、ウィスキーなど手あたり次第手を出す人がいます。飲む量も増えます。これが悪酔いする原因だと思っています。欲望を制御する方法が分かったら、即実行することが肝心です。
2023.09.14
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森田先生は集中するということについて次のように説明されています。人間の自然な心は、常に目的物に向かってのみ注意が集中するのが普通である。薪を割ろうとすれば、薪の中心に向かって注意が集中してくるのである。ところが神経症の患者は、打とうとする斧に添えた手の動かし方や、自分の姿勢のことばかりに注意が向いて、さらにそんな姿を人はどう思うだろうかというふうに発展して、益々注意の向けどころが間違ってくるのである。これはたとえば戸締りが気になる人、ガスの元栓が気になるという人は、確認行為をしている時はそのことに注意を集中しなければならないということだと思う。色々と雑念のようなものが湧き上がってくるが、「今、ここに」注意や意識を集中しなければならない。他のことを考えながら上の空で確認行為をしてしまうと、時間が経つときちんと確認をしたのかがとても不安になります。念のために家に引き返して再確認ということにもなりかねません。確認行為に意識を集中して、2度か3度繰り返せば、意識的行動になりますので、確認行為は「大丈夫だ」という安心行動につながります。これは現実的な不安を感じたときは、一旦は好むと好まざるにかかわらず、価値判断しないでその不安にきちんと向き合うことが肝心だということです。不安を感じたときに、きちんと向き合うことを軽視していると、その不安は膨れ上がってしまいます。つまり神経症の原因になるのです。森田先生はそれとは別に、集中することは「無所住心」ことだと言われています。井上常七氏に、「僕は今君の診察をしているんだけれど、(庭で作業をしている患者が見えるんですね)あの作業は間違っていないか、どうしているかなと見たり、それも気になる。外来の患者が気になったり、いろいろ気にしながら、君のことを見ているんだ。少なくとも3つ4つのことに心が流れているんだ」昆虫の触角のように四方八方にアンテナを張って、その時々の気になることに一旦注意を向けている状態が集中していることだと言われているのです。何事も一旦は気になりながらも、確認が終わればすぐに次の気になることに関心が移っていく。神経を一つのことだけに集中させている状態は、集中している姿ではない。これでは周囲の変化に迅速に対応することができなくなってしまう。流れゆく目の前の変化に、次々に注意や関心が流転している状態が集中しているということである。この2つはまるで反対の考え方のように見えますが、不安の取り扱い方としては、2つとも大切なポイントだと思います。まず不安が立ち上がってきたら、その不安にきちんと向き合うことが肝心です。神経質者の場合は不安からすぐに逃げてしまうことが多い。不安を悪者と決めつけてすぐに取り除いてしまおうとする人もいます。次に不安に注意を向けて、たいした問題でなかったら、その不安からすぐに離れることが必要になります。人間は誰でも、生活の中で大小さまざまな心配事や不安が湧き上がります。きちんと生活している人は、いつまでも一つの不安と関わる余裕はないはずです。ここで肝心なことは、次の心配事や不安に注意や意識を振り向けていくことです。そして処理できることはすぐに処理をする。処理できないことは性急に処理しないで、後日の懸案事項として残す。とりあえず目の前に現れた心配事や不安の方に集中して対応していく。不安に集中する考え方は、2023年8月25日と7月27日にも分かりやすく説明しておりますので、興味のある方はご参照ください。京都 醍醐寺五重塔
2023.09.07
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あの人はいつも仕事をサボっているから許せない。そんな人は生きる価値がないと決めつけてしまう。やる気がなく怠惰な生活を続けている人をみるとつい見下してしまう。そういう人と付き合っていると自分の生気を吸い取られてしまう。絶対に近寄ってはいけないと思ってしまう。姿かたちは人間ですが、中身は動物と一緒とみなしているわけです。さらに自分がそれに当てはまると、自分で自分を責めてしまう。無気力、消極的、回避的、気分本位の自分に愛想をつかしてしまう。他人からだけではなく、自分自身で現実の自分を否定しているのですから、生きることの意義を見失い、人生は苦行のようなものになります。多くの人が無気力、消極的、回避的、気分本位の人間はクズだと思い込んでいます。そういう「かくあるべし」という思い込み、先入観が骨の髄まで染み込んでいます。この考え方ははたして間違いないことなのでしょうか。私はこれは認識の間違いだと思います。そういう人を見て、非難・否定している人は、結局最後は、自分で自分の首を締めているように思えるのです。自滅の坂道を真っ逆さまに下っているように見えます。考えてみれば、梃子でも動かないという人でも、火事になればすぐに逃げだします。地震で津波が発生すれば高台に避難します。足が悪くても何とか逃げる方法を考えます。誰でも生命の危険を察知すると、すぐに意欲的に行動します。さらに課題や目標が明確になると、途端に誰でもやる気に火が付きます。好きなことや興味や関心があることには、自然に手足が動くようになります。過去に楽しかったこと、喜びの経験を持っている人は、再び同じような喜びや感動を味わいたくなります。催促しなくても自然に意欲的になります。過去の成功体験がよみがえると、危険で困難に見えても、敢えて再び立ち上がり、挑戦の道を歩むことになります。ドーパミンやβエンドルフィンがでてきて、恍惚感、快感を味わった経験は、また何度も同じ行動を呼び寄せます。止めようとしても止まらなくなるほど意欲的になります。子どもが生まれると、オキシトシンがでてきて、献身的に子育てに専念するようになります。他人から感謝されるような経験を持っている人は、またそれ以上の感動を味わってもらうように努力精進するようになります。これはセロトニンという精神伝達物質が絡んでいるようです。これらの精神伝達物質は人間の意欲を無条件に搔き立てています。精神伝達物質の活性化は、意欲的な人間を作り上げるために大きな影響力を持っています。ここで言いたいことは、人間はその時の自分の置かれた状況によって、時に意欲的、積極的、挑戦的になったり、時に無気力、消極的、回避的になったりするということです。ですから一生を通じて、無気力、消極的、回避的な人間は一人もいないということです。そういう人でも、条件が整えば、俄然やる気が高まり、積極的に行動するようになる。人間の一生を見ると好不調の波があります。高い波と低い波が交互に繰り返されている。それが循環しているのが真実です。別の言葉でいえば、強弱のリズム運動を繰り返しているのです。そうように考えると、今現在、無気力、消極的、回避的な人がいとおしく見えてきませんか。そういうときは全面否定するのではなく、いたわりの心を持って見守ることが肝心です。その人は今大波の底にいて苦しんでいるのです。そういう人を見て石を投げつけるようなことをするのは愚かなことです。上から下目線でその人を非難・否定していると、人間関係は悪化するばかりです。その人の人間性のすべてを否定しても、双方の利益になることは何もありません。そんなことを繰り返していると、自分が不調のどん底に落ちたとき誰も味方にはなってくれません。無理をして粋がっていた人が、落ちぶれたときは目も当てられないことになります。人間誰でも好不調の波があります。積極的で行動的な時と消極的で無気力な時が交互に訪れてくるのです。そういう事実をきちんと押さえるだけで、自信がよみがえってくるように思われますが如何でしょうか。
2023.09.03
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一般的にストレスを引き起こすストレッサーには次のようなものがあります。1、物理的ストレッサー・・・暑さ、寒さ、気候の変化、ゲリラ豪雨、雷、地震など2、環境的ストレッサー・・・大気汚染、黄砂、スギ花粉、タバコの煙、騒音など3、肉体的ストレッサー・・・無理な運動、過酷な仕事、病気やケガ、ウィルスや細菌感染など4、人間関係ストレッサー・・他人や仕事での人間関係、家族や友人とのトラブル5、精神的ストレッサー・・・家族の病気や死、失恋、失敗、挫折、仕事に対する負担、健康・将来への不安など6、社会的ストレッサー・・・リストラ、借金などの経済不安、介護、オレオレ詐欺、あおり運転などストレスが発生すると、その一点に注意や意識が集中してきます。取り除くことができるものであれば、できるだけ早く取り除いた方がよいと思います。自分一人で解決困難な場合は、専門家に依頼する。でも容易に取り除くことができないストレスが多いのが現実です。同じストレスが長期間続くと心身にダメージを与えます。小さなストレスを甘く見ていると、大きなストレスを抱えてしまうことになります。ストレスは可能な限り小さいうちに、対応することが大切になります。ストレスに過度にかかわりあうのも問題です。慢性疼痛を抱えている人は、痛いところに、注意や意識を集中させることによって、実際の症状や痛み以上に強く感じてしまう面があります。日常生活に丁寧に取り組む人は、その痛みは実態以上に強くはなりません。また小さなストレスを根こそぎなくしてしまおうと考えるのは問題です。例えば赤ちゃんや寝たきり老人のおむつなどは、吸収性のよいものが販売されています。とても便利なものですが、反面イヤなものをイヤと感じる感性は鈍感になっていくそうです。赤ちゃんの豊かな感性の発達を妨げ、お母さんとのふれあいが希薄になってしまうのは問題ではないでしょうか。老人の介護ベッドはリクライニング式でとても便利になっています。余りにも便利になると歩くことを忘れてしまうのではないでしょうか。歩かなくなると足の筋肉は急速に失われます。そのまま放置しているとすぐに歩けなくなります。寝たきりになるのです。寝たきりになると、認知症になる可能性が高くなります。街中でお年寄りが電動の車椅子を巧みに運転している光景を見かけます。全く歩けない人は仕方ありませんが、歩ける人は杖をついてでも歩いたほうがよい。何しろ足は第二の脳と言われているのですから。食事を作るのがストレスだといって、全く作らない人もいます。食材配達、出前、宅配弁当、ファーストフード、外食に頼っている人もいます。ストレスを回避できたと喜んでいると、茹でガエル現象に陥るかもしれません。カエルがぬるま湯の鍋に飛び込んで、温泉気分を味わっているうちに、次第にお湯が温まり、最後には命を落としてしまうという話です。ある程度のストレスと上手に付き合いながら生活することが大事になります。生きていればある程度のストレスがあるのは当然と考えて、仕事や日常生活に精を出していくことが大切です。このことを、森田先生は「不安常住」と言われています。諸行無常は、人生の事実である。この無常・不安定を常住とするとき、はじめてそこに安心立命の境地がある。適度なストレスは、私の無二の親友であるといった心境でしょうか。大阪箕面の滝
2023.09.01
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過度のストレスや不安は人間を死に追いやることがあります。しかし適度のストレスや不安は人間に生命力を目覚めさせて、生きる力を与えてくれます。今日はストレスや不安を歓迎する生き方について考えてみたいと思います。世界一の長寿村と言われているコーカサス地方は山あり谷ありの過酷な自然環境です。寒さや暑さの寒暖の差も身体に襲いかかります。しかし、ここでは80代は若手と言われています。多くの人が集まる酒盛りの席では末席に坐ります。100歳を超えた人がたくさんいます。115歳くらいで畑でポックリというのが多いという。どうしてそんなに長生きができるのか。ほとんどの人は農業に従事しています。イモやトウモロコシ、果物や野菜、香草、乳製品を作っている。我々から見ると、過酷な環境のなかで、厳しい労働をしているように見えます。彼らにとっては、生きるために毎日必死に農作業に取り組んでいる。我々にはストレスと思えるようなことをそれほど深刻に捉えていない。生きていくために当然のこと、あたりまえのこと、必要なことだと考えている。つまりストレスと上手に付き合っているということになります。さて、重力に立ち向かって二足歩行している人間は、筋肉や骨格が鍛えられます。宇宙空間では重力によるストレスから解放されますが、筋肉や骨は急激に衰えていきます。老人で寝たきりになった人も足の筋肉がやせ衰えて、しばらくするとトイレにも行けなくなります。さらに動かなくなると、頭の働きが悪くなりボケが始まります。足腰の筋肉の衰えは脳の働きに連動しています。これは廃用性萎縮現象と言われるものです。ストレスや不安がなくなると人間の心身に大きな悪影響が出てきます。動物行動学のケーニッヒという人が、青サギをたくさん飼っていました。食べ物を十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えていくそうです。ところが、あるところまで増えていくと、そのうちだんだんと減ってきて、そして最後には絶滅したという。同じような実験はネズミでも行われていて、環境を整えていくと、最初は一時的に増加するのですが、やがては減ってしまう。卵を産んでも返さないとか、子どもができても餌をやらないなどのことが起きてくる。環境が整いストレスがなくなると、子育ての意欲が骨抜きにされるということです。子孫繁栄はどうでもよいことだと考えるようになるのです。それよりは今の自分たちの生活をより豊かにすることに専念するようになるのです。日本は少子化と言われています。これは先進国に共通しています。原因としては、子どもを産んでも養育費や教育費がかかりすぎる。自分の生活もギリギリなのに、結婚や子育ては無理だ。また、子育ての自信が持てないのに子供を作ることは無謀なことだ。子ども育てる楽しみよりも、今の何不足ない自分たちの生活を維持発展させたい。自分の代で終わっても、それは仕方ないことだと考えている。ストレスや不安を回避して、刺激や快楽を追い求めるようになると、一見楽なようですが、生きる意味を見失ってしまう。しだいに活力を失い、生きていても心の底から楽しむことができなくなる。あくなき刺激や快楽の追及によって、巨大なローマ帝国は崩壊したと言われています。今こそ人類は過去の悲惨な歴史に学ぶ必要があります。適度なストレスや不安を抱えた生活は、人間がより人間らしく生きるために、必要不可欠なものではないでしょうか。
2023.08.31
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不安への対応方法①不安という感情は問題が起きるかもしれないので注意してくださいという黄色信号を発してくれています。こういう不安が湧き起こることは大変ありがたいことです。森田では、「不安は安心のための用心である」と言われます。例えば戸締りやガスの元栓の締め忘れが気になる人は、盗難やガス爆発を未然に予防するために大いに役に立っています。自動車の運転をする人は、交差点で右折する場合は不安でとても緊張します。そのおかげで慎重に対向車や交差点の中の人の動きを確認します。この確認を十分に行うことが事故防止につながります。不安を無視して自分勝手な運転は重大事故につながります。不安に対しては、価値判断をするのではなく、きちんと向き合うことが大事になります。不安への対応方法②不安が発生すると、まずそこに注意や意識を真剣に集中させなければなりません。しかし誰でも時と場合により、注意力不足や注意力散漫に陥る場合があります。別の大きな不安を抱えている場合は、心ここにあらず状態で不安に注意を向けていても集中力が欠けています。その他、別のことを考えながら、適当に確認している場合は、強迫性障害を持たない人でも、再確認のために引き返すことがあります。これはせっかく不安が黄色信号を点灯してくれているのに、軽率に取り扱っていることになります。不安が発生すると、一旦は不安に注意や意識を集中しなければなりません。森田を学習すると不安と関わってはいけないと理解している人がいます。ここは勘違いしやすいところだと思います。集談会で声をあげて呼称確認をするという話を聞いたことがありますが、これは注意や意識を「今、ここ」に集中するために役立っています。不安への対応方法③不安に注意や意識を集中させて安全確認を終えたならば、その不安はお役御免になります。その不安からはすぐに離れる必要があります。次の不安が待ち構えているからです。時間の経過とともに私たちを取り巻く環境や状況は刻々と変化しています。もたもたしていると次の不安への対応が遅れてしまいます。神経症というのは、自分が一番気になる不安や恐怖、不快感といつまでも関わっています。森田では神経症的な不安は欲望の反面として湧き起こってくるものと言われています。神経症的な不安自体は取り除くことはできないものです。にもかかわらずいつまでも不安を相手に格闘しているということは、ミイラ取りがミイラになるようなものです。不安には現実的な不安もあります。現実的な不安は積極的に取り除くと、問題がこじれる前に未然に予防することができます。現実的な不安はその都度取り除いていく。片づいたら直ちに次の不安に向かう。神経症的な不安はそのまま持ち抱えて、欲求や欲望の方に目を向けていく。ここでのポイントは、一つの不安に一旦集中することは必要ですが、いつまでも関わり続けてはいけないということです。確認済や片がついたら直ちに次の不安に対応していくことが肝心です。
2023.08.25
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手にばい菌がついているような気がして何度も手を洗う人がいます。どうしても汚れが取れないと言って長時間風呂に入る人もいます。電車の吊革やエスカレーターの取っ手を掴むことができない人もいます。トイレに行ってトイレットペーパーをワンロール近く使う人もいます。強迫性障害と言われるものです。目に見えない細菌によって身体が痛手を受けることを恐れています。衛生観念はある程度は必要ですが、やりすぎることは問題です。本人もそのことは分かっているのですが、泣きなから続けざるを得ない状態です。その結果行動が停滞します。生活に支障が出てきます。周りの人に迷惑を掛けます。日常生活に支障が出ると苦しくなるばかりです。石原加受子氏は、無意識の視点から見ると、思考に支配されるか、感覚を味わえるのかの違いが、人生を生きづらいと感じるのか、すばらしいと感じるのかの違いだと言われています。(最近、心が休まらないと思ったとき読む本 石原加受子 中経出版 138ページ)手を何回も洗う人は、「手には、ばい菌がウヨウヨいる」という思考にとらわれています。そのために、洗っている行為から受ける感覚のほうには焦点は当たりません。手や水やお湯に浸す感触。擦り合わせる手と手の感触。手を眺めると、確かにスッキリとして輝いて見えるし、手のひらを見ると血行の流れがよい桜色の皮膚に気づいたり、手のひらの温かさを感じるでしょう。ところが、思考の中に閉じ込められていると、そんな感じはいっさい起こりません。無意識に、洗ったぐらいではばい菌がいなくなるわけがないと強く信じているのでなおさらです。その結果、いくら洗っても洗った実感が得られず、何度も洗わずにはいられないことになります。感覚を研ぎ澄ませて、その時その場の感じをよく味わうことが大事になります。強迫性障害の人は、思考にとらわれて、感情や感覚に注意を当てることがおろそかになっているのではないでしょうか。強迫観念で苦しんでいる人は、細菌から身体を守り抜こうとしています。これは鋭い感性の持ち主であり、両面観で見ると大変優れた能力を持っているということになります。問題は気になる1点にいつまでも注意や意識を集中させて、しかもそれを固定化してしまっていることです。固定化してしまうと、日常生活の中で手掛けなければならないことが山のようにありますが、それらをすべて放置して思考に専念することになります。強迫行為で悩む人は、後ろ髪を引かれる思いを抱えながらも、最低限の生活を維持するために規則正しい生活と日常茶飯事を手掛けていくという姿勢が大事になります。生活の発見会では、「超低空飛行」を続けることが大切になると教えていただきました。これはどんなに症状で苦しくても、最低限の生活を維持していくということです。一旦墜落してしまうと再度飛び立つためには、莫大なエネルギーが必要になるからです。先輩会員はぜひそういう人を応援してあげたいものです。なお強迫性障害の方には「強迫神経症の世界を生きて」(明念倫子 白揚社)という本を推薦いたします。
2023.08.16
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世界のホームラン王の王貞治氏のお話です。ホームランは打とうと思って打てるほど簡単なものではない。ホームランを打とうと意識するとボールが見えなくなる。これは森田に通じる話だと思います。王さんがバッターボックスに入ると、ホームランを期待される。その期待に応えようと意識すると、ホームランボールが来ても打てなくなる。投手の投げたボールは0.4秒前後でやってきます。しかもそのボールが沈んだり、食いこんできたり、逃げていったりします。打者は投手の癖を観察して配球を読み、来た球に無心で対応しなければなりません。そのとき少しでも凡退したときのことが脳裏をよぎるとアウトです。観客のがっかりした姿が目に浮かぶ。期待に応えられなかった惨めな自分が目に浮かぶようでは戦う前から勝負はつきます。意識が目的から離れることは闇夜で鉄砲を撃つようなものです。さらにその意識が自分に向かうようになればその弊害は計り知れません。これと同じことを森田先生も言われています。球投げをする時に、球のほうばかりに注意を集中しておりさえすれば、適切に球を受ける事ができるけれども、意識がひとたび、自分の手つきや・腰の曲げ方のほうに向かうようになれば、すぐに球を受ける事ができなくなる。薪割の時に、打とうとする一点のみを見つめていれば百発百中である。ところがその時、注意や意識が自分の手の動きや動作に向かうと途端に的を外す。(森田全集第5巻 644ページ参照)幼い子に「あれを見よ」と指させば、その指先ばかりを見ていることがあります。これは目標や目的を忘れて、自己内省の世界に漬かっているのと同じことです。指の先に目をやるということは、目的や目標に向かって気持ちが外向きになっているということです。神経症の場合も自分の不安や不快な感情よりも、自分の欲求や欲望の方に意識を向けていくようにするとすぐに改善できます。
2023.08.10
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プロ野球のコーチが次のようにアドバイスすることがあります。「高めのストレートだけは絶対手を出すな」「外へのスライダーには絶対手を出すな」「このバッターはタイミングが合っている。安易にストライクを投げるな」「コントロールに気をつけて投げろ」「この場面は絶対に抑えろ。ヒットを打たれるのはダメだからな」「絶対にエラーだけはするな」「盗塁の失敗は許されない場面だ」これらの指示が指示通りの結果になることは少ない。エアーポケットに吸い寄せられるように、指摘されたミスや失敗を招き寄せてしまいます。コーチからは「あれほど○○してはいけない」と注意していたのに、どうしてミスや失敗を犯すのかと叱責されます。これは本人がその指示を意識すればするほど、その呪縛に取りつかれてしまうのです。この場合、注意や意識を外してあげるようなアドバイスが有効です。「ベルトから下に目付をしよう」「ストレート待ちで行こう」「思い切って腕を振って投げよう」「彼は歩かせて、次のバッターで勝負しよう」「ダブルプレーを焦らずに確実に1つのアウトをとろう」「このピッチャーは牽制球を投げる時にこんな癖がある」特定の不安に過剰に注意や意識を向けると、肝心なことがおろそかになってしまう。いわば心が「うわの空」になってさ迷ってしまうのです。「失敗したらどうしよう」などと前頭前野で考えると、普段は問題なくできるような事でも、心が混乱状態になり、本来のパフォーマンスが発揮できなくなるのです。ここでは注意や意識を外すようなアドバイスが必要になります。私は以前、電話を取るときにどもるようになりました。いきなり会社名を名乗ると、どもるようになり、電話に出ることが怖くなったのです。これは自分にとってはとても苦しかったです。その状況を、集談会で相談したところ、先輩からとても良いアドバイスをもらいました。いきなり会社名を名乗るのではなく、会社名の前に「お電話ありがとうございます」という前振りをつけてみなさいと言われるのです。その方が言われるのは、カラオケでどもる人はいない。それはリズムがあるからだといわれるのです。森田先生はリズム運動を大事にされていたと言われました。これはとても良いアドバイスでした。早速この方法を取り入れてどもることはなくなりました。不思議なことですが、自信を持って電話に出られるようになりました。これは過度に注意や意識が向いていたものを、一時的に外す効果があったのです。
2023.08.08
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西田文郎氏のお話です。スポーツ選手でいつも対戦すると負けてしまう相手Aがいるとします。普通の思考であれば、対戦相手が「A」と聞いただけで、また負けるかも、とか、今回も無理だろう、と思ってしまいます。しかし、負けず嫌いな選手、つまり「その気」の思考を持っている選手は、自然に「今度こそ絶対に勝つチャンスだ!」と思い、自分の勝つところをイメージしたり、絶好調のときの自分のシーンを思い出したりして、「今度こそは勝てる!」「みんなに勝てるところを見せたい」などとワクワクできるのです。すると、脳も対戦相手が次も「A」だと聞いても苦手だとは思わずに「やった、雪辱のチャンスだ」と思います。肯定的な脳を作るためには、プラスのデータを入力すれば脳は錯覚します。脳は本当にあったことと、イメージなのかを区別することができないのです。ですからウソでもいいので、「自分はツイている」「この失敗があって本当に助かった、次回に活かせる」「今度はもっと上手くできる」など、口に出して言ってみます。内心、信じられなくてもいいのです。口からでた言葉が耳を通して脳に入力され、それを繰り返し行うことで脳はだまされ、「次にもっと上手くするにはどうしたらいいのか」など考え始めます。つまり何度も繰り返しプラスのイメージを入力することで、扁桃核の判断を肯定的に変えられるのです。(その気の法則 西田文郎 ダイヤモンド社 103ページ)動物脳にある扁桃核は、快、不快、好き、嫌いの判断をしています。扁桃核が不快、嫌いと判断するか、快、好きと判断するかはその後の展開を大きく左右します。過去に挑戦したのに失敗したこと、自分の気持を素直に話したのに否定されたことなどはしっかり脳に記憶されています。今度新しいことに挑戦しようとしたときなどに、ダメだ、無理だ、うまくいくわけがない、恥をかくだけだ、しんどいだけだ、面倒なことはしたくない、お金と時間の無駄になるといった理由で強い抑制力が働くのです。マイナスイメージを脳に送り込むので、挑戦する意欲は根こそぎ摘み取られてしまいます。この問題について西田文郎氏は次のように説明されています。脳は違う感情を同時に記憶できません。例えば笑顔を作りながら本気で怒れる人はいません。感情は、いちばん後に思ったほうを記憶します。ですからマイナス感情になっても、プラス感情に思い直せばOKなのです。自分に湧きあがってきたマイナス感情を一旦受け入れます。「でも」と続けて最後はプラス感情で終わるように心がけるのです。これを私は「イエス・バット法」と呼んでいます。失敗したらどうしよう(YES)でも(BUT)、このときのために頑張ってきたんだ。でも(BUT)、あの人も応援してくれている。でも(BUT)、これを乗り越えれば必ず成功する。慣れないうちは、ちょっと難しいかもしれません。でも意識して続けているうちに、プラス思考脳に変化してきます。(同書 133ページ)広島のフラワーフェスティバル
2023.08.04
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自動車を運転する際の注意や意識の集中について考えてみました。車の運転で左カーブしている道路では、道路の左端の車線に視線を合わせています。右にカーブしている道では、中央車線に視線を合わせています。つまりどの方向にカーブしているかによって、視線を合わせる場所が変わります。右へ左へとカーブが続く場合は、注意の集中場所は次々に切り替わります。この注意の切り替えは無意識ですが実に的確に行われています。ここで重要なことは、カーブしている道路では、誰でも意識を特定の場所に合わせて運転をしているということです。集中するポイントを無視している人はいませんが、もしそんなことをしている人がいるとすれば、よそ見をしているのと同じことです。危険運転となります。真っすぐな道を走行しているときは、ほぼ道路の真ん中を見ています。この場合、よそ見をしないことだけを注意すれば、特別視線を集中させる必要はありません。ただし、高速道路でトンネルに入るときは、ある程度減速してしっかりと道路の中央を見ていないとちょっとしたパニックになることがあります。それは明るい場所から急に暗い場所に進入して面食らうからです。交差点に入って右折する時は、青信号の交差点に人がいないかどうかに集中しています。同時に対向車線からの直進車がいないかどうかにも集中しています。この2つに問題がないときに初めて右折可能となります。ときどき注意が散漫になり、うっかりして重大事故を起こす人がいます。高速道路で前の車を追い越す時は、右のウィンカーで追い越し車線に走行車がいないかどうかを確認しています。注意や意識は、後続車の有無にあります。いないことを確認して車線変更して追い越しをかけます。追い越しが終わると、今度は左のウィンカーで後続車との車間距離が十分にあることを確認して走行車線に戻ります。車を運転する人は、肝心なポイントに的確に注意や意識を集中させています。また、そのポイントはその時の状況によりどんどん変化しています。車の運転の時は誰でも注意や意識の取り扱い方が適切に行われています。無事故・無違反の人は、注意や意識の取り扱い方が上手です。それは無意識に行われているのですが、見事というほかありません。神経症に陥った時は、自分が不安を感じる所に注意や意識を集中させています。これは車の運転と同様です。ただし、その先が違います。神経症に陥る人は気になる一点にいつまでも注意や意識を集中させています。車の運転のように、その時の状況や変化に合わせて、注意や意識を臨機応変に切り替えられるようになれば神経症とは無縁になります。
2023.07.27
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神経質者は日本晴れのような心境を夢見ているのかもしれません。不安や悩みや心配事のない安定した精神状態を追い求めているのです。そのように思っていると、小さなとるに足らないような不安なども問題視するようになります。また、不安や悩みや心配事を敵として判断して排除しようとします。不快だからすぐに摘み取ってしまいたい。そこに注意や意識を集中させます。どうすることもできないと判断すると、一転して逃げ回るようになります。普通の人は、不安は次々と湧き起こってくるのだから、その都度処理して、すっきりした気持ちで次の案件に取り組むなどということは無理だと考えています。あれも気になる、これも気になると、気になることをいくつも抱えながら生活しています。我々のように不安、恐怖、違和感、不快感などを、実体以上に拡大して問題視することはありません。不安を増幅しないので持ちこたえることができるのです。私達は、一番気になる不安に焦点を当てて、それを大きく拡大し、実体以上に大きくしているのです。他人から見るととるに足りない小さな不安を、自分の一生を左右するような大問題にしてしまうのです。不安が実態以上に大きくなると誰でもパニックになります。そのうち一人では対応することができなくなります。これは、ひとり相撲を取って勝った負けたと騒いでいるようなものです。他人から見ると滑稽に見えますが、本人はそのことに気づいていません。私達は性格的にどんなに小さな不安や問題点でも今すぐに解決したい。すぐにすっきりしたいという気持ちが強すぎるのかもしれません。また、同時にいくつもの不安を抱え込むと、パニックで頭の中が大混乱に陥ることを怖れているのかもしれません。森田先生は、不安をすぐに解消しようとするよりも、不安を持ちこたえる態度を身につけることが大切だと言われています。我々は何かにつけて、疑問と不安は絶えず出没して、一つ一つこれを解決して、しかる後初めて安心する事のできるものではない。ただ我々は疑問は疑問として、これが解決の時節を待つよりほかにしかたがなく、日常の生活は周囲の刺激から、次から次へと目まぐるしく引きまわされて、不安も不安のままに、いつまでも執着していられるものでもなし、「流れに浮かぶウタカタのかつ消えかつ結びて」変化極まりないものである。(森田正馬全集第5巻 764ページ)森田先生は目の前の生活に丁寧に取り組む生活を続けていると、次から次へと不安が湧き上がってくるといわれています。多くの不安があると、ひとつの不安だけに拘るわけにはいかなくなる。もし一つの不安だけに関わることができるとすれば、目の前のことに真剣に向き合っていないことが考えられます。凡事徹底が絵に描いた餅になっている。お使い根性で、仕方なくイヤイヤ取り組んでいる。あるいは最初から雑仕事や雑事を馬鹿にしているのかもしれません。こういう態度で生活していると、一つの不安にとりつかれてしまうようになるのです。不安にとってみればチャンス到来です。一つの不安にとことん付き合ってくれるわけですから、勢いづいてくるわけです。そして普通の人から見るととるに足らないような不安なのに、本人にとってはその不安が化け物のように大きく膨れ上がってしまうということになるのです。こうならないためには、最初は指示されてイヤイヤ取り組んでいても構いませんが、一旦やり始めたらどこかの時点で物そのものになることがポイントとなります。
2023.07.16
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アメリカの神学者、倫理学者ラインホールド・ニーバーの「祈りの言葉」よりの引用です。神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものには、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する智恵を与えたまえ。この言葉は森田理論学習に取り組んでいる人にはとても参考になります。不安には対応方法が異なる2つの側面がある。それをきちんと見極めることが大事になると言われています。不安にはまず現実的な不安があります。森田に「不安は安心のための用心である」という考え方がありますが、現実的な不安があれば、積極的に問題解消のために行動することが大切です。例えば地震に備えて耐震化工事をする。家具の固定をする。避難訓練をする。家族のある人は生命保険に入っておく。自動車に乗る人は任意保険に加入する。病気になった時のことを考えて健康保険、医療保険に入っておく。一方森田理論学習で取り上げる不安は欲望があるために発生しています。不安即欲望ということです。不安と欲望はあざなえる縄のようなものです。不安と欲望は、コインの裏表と同様な関係にあります。不安も欲望もどちらも大切なものです。ここでは不安をことさら問題視するのではなく、欲望のほうに注意や意識を向けていくことが欠かせません。注意点としては、欲望は弾みがついて暴走しやすいという特徴があります。そのときに不安を活用して暴走を抑制することが肝心です。不安は重要な役割を持っていることを忘れてはなりません。決して排除したり、逃げ回っていてはいけません。そんなことをしていると強迫観念で苦悩することになります。
2023.07.02
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神経症に陥ると不安を一つに絞る傾向があります。この不安さえなくなれば、万事うまくいくのにと思ってしまいます。実際には精神交互作用によって不安は増悪します。そして日常生活に支障が出るようになり、神経症として固着してしまいます。この悪循環を防止する方法があります。それは不安を一つに限定しない方法です。同時並行的に不安や心配事をいくつも意識するということです。例えば人前で楽器(アルトサックス)を演奏する時は予期不安が出てきます。「正確に演奏できるだろうか」という不安です。こうした予期不安にとりつかれてしまうと一瞬でパニックになります。不安を打ち消すために運指を確かめるようなことをすると逆効果になります。金縛りがあったようになり、手先の動きがぎこちなくなります。練習では問題なくできることが本番ではできなくなってしまうのです。このとき次のような課題を持っていると、プレッシャや予期不安ばかりに関わっているわけにはいかなくなります。・リードは正しく取り付けられているか。保護キャップはつけてあるか。・リッププロテクトは装着しているか。・消音モップは取りはずしてあるか。・他の楽器の人との音合わせは済んだか。・今日の曲目の順番と進行の段取りは分かっているか。・仲間との立ち位置の関係は分かっているか。・楽譜は演奏予定順に並べ替えているか。・譜面台から楽譜が落ちないためのクリップは用意してあるか。・私物の保管は問題ないか。特に貴重品管理。・靴、帽子、衣装などに問題はないか。・時計は持っているか。・トイレは済ませているか。・携帯はマナーモードになっているか。・メガネやハンカチやテッシュや靴ベラは用意してあるか。・名刺は用意しているか。本番前にはチェックリストを見て一つ一つ丁寧に確認していくのです。これにはプレッシャや予期不安に振り回されない効果があります。これは森田理論の「無所住心」の応用にあたります。森田先生は注意を一つのことに集中してはいけないと言われています。同時並行的にいろんなことが気になるように仕向けていく方がよいのです。我々の心が最もよく働く時は「無所住心」といって、心が四方に働いて、昆虫の触角が、ピリピリしているときのように、ハラハラしているときである。(森田全集第5巻 328ページ)
2023.06.20
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五木寛之氏に無力(むりき)という本があります。厳しい現実を知って無力感に陥るのではなく、つらいことであれ、曖昧なことであれ、はっきりとそれを受け止める。曖昧なら、曖昧だということを受け止める。一人一人が、そうして無力(むりき)の第一歩をふみだすことです。(無力 五木寛之 新潮社 75ページ)無力に対して自力、他力という言葉もあります。自力というのは、困難な出来事に対して、自分の力で勇敢に立ち向かっていく態度のことです。尊いことですが、現実的ではない場合が多々あります。たとえば政治が悪いと言っても、自分一人で変革できるわけではありません。自力で行きづまると自暴自棄になる可能性があります。他力というのは、自分一人の力ではどうすることもできないものを、あるがままに受け入れていくという態度のことです。自分一人では対応不可能なので、神様のご加護を期待して祈ることになります。この態度は依存的、厭世的、回避的、消極的な生き方に陥ることもあります。五木寛之氏は、「自他一如」の考え方、生き方を提唱されています。自力と他力の狭間にいるという考え方です。その状態を無力(むりき)と言われています。これは円ではなく楕円を思い浮かべると分かりやすいです。楕円は円が2つ重なったようなもので、中心点が一つではなく二つになります。その中心点を行ったり来たりしている状態を想定されているのです。白でもなければ黒でもない。極端にどちらかに振り切れるのではなく、グレーの部分を認めるという考え方です。すっきりと割り切れないかもしれませんが、曖昧さを受け入れるということです。不安や問題点を抱えたまま、とにかく生き続けることが肝心です。優柔不断のようですが、時が経てばすべては夢幻のごとく過ぎ去ります。自力であれ他力であれ、そのあいだを揺れ動く状態を否定的にとらえるのではなく、人間はその二つのあいだを絶えず揺れ動いていくものであると理解する。肩の力を抜いて、不安定な自分のふらつきを肯定するのです。それが無力(むりき)という考え方の根本です。この考え方は森田理論の両面観という考え方に近いと思います。時に葛藤や苦悩を抱えて揺れ動きながら、それでも何とか生活を維持していく。時に不安や恐怖に振り回されながら、何とか命をつないでゆく。そんな状態で60年以上生き延びた人は、たとえ後悔することばかりだとしても、バーンアウトしなかったという点では、人生の成功者とみなしてもよいのではないでしょうか。葛藤や苦悩は時が経つにつれて夢幻のように過ぎ去っていくのですから。信楽焼
2023.06.15
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リッツ・カールトンというホテルの接客は評判が良いそうだ。普通ホテルに予約の電話をいれて満室の場合、「あいにくその日は予約で全室埋まっております。申し訳ございません」と断られることになります。リッツ・カールトンでは、「私どものホテルではいっぱいでございますが、もしお困りでしたら、近くの同ランクのホテルの空き状況と料金をお調べしてご連絡できますが、如何いたしましょうか。よろしければ、私どもの方でご予約の手配もとらせていただきます。同業ですので割引できないかも伺ってみます」と返答する。こんな接客をされるとうれしくなります。リッツ・カールトンのファンになります。これは神経質性格にとってはとても参考になる話です。神経質性格者は細かいことによく気が付く人です。それが神経症に陥る原因にもなっているのですが、逆に心配性を逆手にとってきめ細かい気配りとして活かしていく方法もあります。森田に「不安は安心のための用心である」というのがあります。問題や心配事は小さいうちに対策を立てて解消しておくということになります。思いつくままにあげてみましょう。・バスに乗るときや集談会に参加する時は、あらかじめ小銭や会費を用意しておく。・健康診断・がん検診は毎年定期的に受けるようにする。・必要ならがん保険、医療保険、損害保険、生命保険、自動車保険に加入しておく。・地震に備えて家具などを固定しておく。できれば耐震化工事を行う。・詐欺まがいのメールがたくさん送られてくるので、迷惑メールに振り分けるようにする。・不審な電話に出ないように留守番電話に要件を録音するようにする。・黄色信号では無理をしないですぐに停止するようにする。・車線変更する時は後続車の確認を徹底する。決して無理な追い越しはしない。・本能的、依存症の傾向のある人は、それに近づかないように心がける。あるいは抑止力のある人と行動するようにする。・気分本位の行動は後で後悔することになるので厳に戒める。・家の補修、家電製品、パソコン、自動車などの買い替えに備えて資金計画を立てておく。これ以外にも人それぞれいろいろあると思います。小さな問題点や課題に気づくのは神経質性格のよいところです。気づいたときにメモして忘れないようにする。そして自分なりに整理して対策を立てて実行に移すことです。境港方面から見た大山
2023.06.12
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緩和ケア医の大津秀一氏のお話です。大津氏は「受容」という言葉は私はあまり好きではないと言われています。「私はがんを受容しています」「私は失恋を受容しました」「僕は親父の死を受容しました」「私は離婚を受容しました」精神的に大きな痛手を受けた人がそう簡単に受容できるものでしょうか。受容したいけれども、何か心残りがある。わだかまりがある。建前と本音がちがうといった感じでしょうか。ですから安易に割り切って「受容」しますというのは違うような気がするのです。でもそれらを「受け止める」ことはできるでしょう。ネガティブな感情のすべて受け入れるのではなく、そういう事実があるのだと「受け止める」という気持ちを持つことはできます。私はそれを「同化」だと思っています。生物学的な「同化」は、ある物質から身体にとって必要な別の物質を体内で合成することを言います。不都合な事実をそのまま「受容」しているのではなく、「同化」してより身体にとって必要なものに変えていっているのです。(傾聴力 大津秀一 大和出版 参照)大津氏は本音で「受容」できないものを、無理して受け入れない方がよいと言われています。私たちは森田理論学習の中で、不安、恐怖、違和感、不快感などは欲望の裏返しとして発生しているものであるので、「受容」することが大事であると学習しました。「受容」というのは暗黙の了解事項なのでそれを疑う人はいません。大津氏によると、「受容」とは別のやり方があると言われています。何が何でも「受容」するというのではなく、自分を第三者的な立場に置いて、不安を感じている自分を客観視するということです。「そういうマイナス感情に浸っているのだね」と意識するということです。不安、恐怖、違和感、不快感などにとらわれている自分を客観的に見つめて、そのような感情に振り回されている自分を自覚するだけでよいのです。良いとか悪いとかの価値判断は必要ありません。不安や不快感などを客観視できると、問題行動を回避できるようになります。マイナス感情と行動をきちんと切り分けることは森田の核心部分になります。「受容」しなければいけないと思っていると、ある一定のところまでは耐えることができますが、限界を超えると大爆発してしまう危険性があります。なおこの考え方は、2016年10月13日投稿の「脱同一化」と関係があります。関心のある方はご参照ください。
2023.06.07
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遺伝子学者の村上和雄氏のお話です。2003年にヒト・ゲノムの暗号解読がすべて終わりました。遺伝子の本体はDNA(デオキシリボ核酸)と呼ばれる化学物質で、これが親から子へと受け継がれています。遺伝子はA、T、C、Gという4つの化学の文字で書かれています。Aはアデニン、Tはチミン、Cはシトシン、Gはグアニンという化学物質の頭文字で、AとT、CとGが絶対のペアを組んでいます。私たちは父親と母親から32億の遺伝情報をもらいます。遺伝子にはスイッチがあり、オン・オフの機能がついています。遺伝子のスイッチの切り替えは、遺伝子と環境の相互作用によって行われています。たとえば病気の遺伝子を考えますと、病気になる遺伝子は誰でも持っています。生活環境や食習慣の影響を受けて、遺伝子の働きがオンにならなければ病気にはなりません。村上先生は、そこにストレス、不安などへの対応方法が絡んでくると言われています。それらの対応次第では、悪影響を及ぼす遺伝子のスイッチがオンになり、様々な病気や精神疾患が発現してくるのです。(君のやる気スイッチをONにする遺伝子の話 村上和雄 致知出版 参照)村上先生は、心の持ち方が大きく影響していると指摘されています。その対応方法を誤らないようにしなければなりません。私はその対応方法を森田理論から学びました。心がけていることは次のようなことです。1、規則正しい生活、凡事徹底の実践です。2、日々目標や課題を持って生活すること。3、腹が立つこと、不平不満などの感情は自由に泳がしていくこと。4、感情と行動は切り離すこと。その時、その場で適切な行動を選択すること。5、気分本位になって、なすべき行動から逃げないようにすること。6、観念主導で「かくあるべし」を押し付ける態度を改めること。7、事実を優先する態度を身につけること。これ等を心がけ、好ましい遺伝子のスイッチをオンにしたいと思っています。
2023.05.25
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私が以前勤めていた会社に毎月ノルマが未達の営業マンがいました。その営業マンはうだつの上がらないお荷物社員とみなされていました。何とか退職させようと上司から露骨な嫌がらせがありました。営業会議では叱責のやり玉に挙げられていました。普通ならいたたまれなくなって退職するのではないかと思いますが、よく耐えられたものだと思います。そのうち彼は岡山、松山、東京、大阪、名古屋と転勤させられました。家族を引き連れての度重なる転勤は大変だったと思います。時には「あなたはうちの会社は向いていないから転職されたらどうか」と打診されることあったようです。これに対して彼は「家族がいるので辞めません」と断っていたそうです。彼にはどんな状況に陥っても家族の生活を守るという確固たる意思があったのです。彼の行動は成績のよくない営業マンにとっては励みになりました。彼はそういう人たちからみると希望の星になっていたのです。彼の頑張る姿を見て自分も何とか辞めずに頑張ろうという気持ちになれたのです。やり手の同僚たちの多くが過酷なノルマや管理職の職責を全うできずに、中途退職を余儀なくさせられる中で、肩書のない彼は最後まで生き残ることができました。玉野井幹雄さんは、どんな人にも「ゆきづまったままに生きる」道は残されていると言われています。玉野井さんは対人恐怖症の克服に30年ほどかかったそうです。実際には、浮かぶこともできなければ、沈むこともできないという神経症特有の重苦しい日々の連続でしたが、「どんなに苦しくても仕事だけは休んではいけない」という教えだけは愚直に守り続けました。私にとってはそれはとても辛いことでしたが、私が実践してきたことといえば、ただその「ひとこと」だったと言っても過言ではありません。それ以外のことはかなりいい加減で、いつも失敗や後悔ばかりしておりました。どんなに会社内で孤立していても、神経症の苦しみを抱えながらも、なんとか生活を維持・継続することが大切です。私が神経症で苦しいときに先輩から「月給鳥」で十分ですよとアドバイスしてもらいました。タイムカードを押しに会社に行くだけでOKですよということでした。それだけでずいぶん気が楽になりました。また生活の発見誌からは、「超低空飛行」を心がけましょうとありました。一旦飛行を中断すると、次に飛び立つのに莫大なエネルギーが必要になります。超低空飛行を続けていれば、そのうち上昇気流を掴んで、大きく羽ばたくことが可能になります。ゆきづまったときに、投げやりになって何もしないというのは問題だと思います。
2023.04.20
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緩和ケア医の大津秀一氏のお話です。人間の苦痛には4つの側面があります。1、身体的な痛み・・・ケガや病気をした時にでる痛みです。事故や災害に巻き込まれて体のダメージを受ける。そのほか慢性疼痛などもあります。2、精神的な痛み・・・不安や不快感、恐怖や怒り、悲しみや孤独感など。3、社会的な痛み・・・仕事の悩み、経済的に自立する悩み、子育てや家庭の人間関係の悩み、職場、隣人、友人、親族の人間関係、紛争や戦争、経済変動。4、スピリチュアルペイン・・・人間として存在していることに伴う悩みです。死生観に伴う悩みです。どう生きていけばよいのか、過去の過ちは許されるのか、自分が死ぬということはどういうことなのか。(傾聴力 大津秀一 大和書房 29ページ)これを基にして森田理論で膨らませてみました。1について・・・ケガや病気は防げるものと防ぐことができないものがあると思います。スポーツをしている時、機械や器具を使用している時、自動車を運転する時は集中することが大切です。森田ではものそのものになるといいます。うわの空で取り組んでいると思わぬ事故に巻き込まれます。病気の有無は、自分ではよく分からないわけですから、検査機関で調べてもらうことが大切になります。自分のことは自分が一番よく分かっているというのは認識の誤りになります。慢性疼痛の専門医に聞くと、痛みに絶えず注意を向けていると、精神交互作用のようなことが起きるそうです。そうなると痛みは実際よりも何倍も強く感じられる。痛みをとることもある程度は必要だが、過度にかかわると生活の悪循環を招くということでした。悩みや痛みを抱えながらも日常生活を維持していくことが肝心ということになります。2について・・・これは森田理論を学ぶことをお勧めしたい。まず不安の特徴、不安の役割、不安と欲望の関係を学ぶことです。次に生の欲望を前面に押し出しながら、やりすぎにならないように適宜不安を活用していく。そして感情は自然現象であるので、どんな辛い感情も反発しないできちんと向き合い、素直に受け入れるという態度を養成していく。これらを身に着ければ神経症にはなりませんし、なによりも人生を楽しむことができるようになります。3について・・・これも森田理論を学習すれば大いに役立ちます。特に「物の性を尽くす」「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「時間の性を尽くす」「お金の性を尽くす」という考え方はぜひ自分のものにしたいところです。仕事を面白くする方法、子育て、子どもの教育、人間関係の在り方なども森田理論を学習するとそのコツが自然に分かるようになります。その考え方を深耕していくと、自然との付き合い方、経済変動や紛争や戦争に対して自分の考え方が持てるようになります。4について・・・生老病死という言葉があります。この悩みはこの世に生を受けた人には絶えず付きまとう悩みとなります。その状態は好むと好まざるにかかわらず、受け入れていくしかないのが人間の宿命だと思います。生老病死に素直に向き合い受け入れることができる人は、それだけで幸せな人生を送ることができます。我々の先輩の玉野井幹雄さんは、うつ病や神経症でのたうち回っていても、最後に行き詰ったまま生きていく道が残されているといわれていました。こういう心境に至ったのは、森田を生涯学習として取り組まれた結果です。徳川家康は人生は重い荷物を背負って坂道を登っていくようなものだといったそうですが、同じことを言われているのだと思います。葛藤や苦悩を抱えながらも、前向きに生きている人は、同様の問題を抱えて苦しんでいる人に勇気を与えます。それだけでも立派な社会貢献をされていることになります。このように考えると、森田理論を深耕すると、大津氏が問題提起されている4つの苦悩に対して、問題解決のヒントを与えてくれているように思われます。森田は学校教育や社会教育のなかで、一度は学んでおくべき内容を含んでいます。
2023.04.18
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カウンセラーの根本裕幸氏によると、人間には顕在意識のほかに潜在意識がある。これは、氷山でいうと海面に出た意識が顕在意識、海面下の意識を潜在意識と理解すると分かりやすい。顕在意識は意識全体からいうと小さいものです。それに対して潜在意識はとてつもなく大きい。その潜在意識はさらに浅い潜在意識と深い潜在意識に分かれるという。顕在意識は今現在頭で考えている意識のことです。潜在意識は心の中にある無意識の感情のようなものです。意識はしていなくても人間の行動に大きな影響力を持っている。その無意識の感情は、それが認識しやすい浅い領域の感情と認識しにくい深い領域の感情に分かれている。浅い領域の潜在意識は、不安、恐怖、違和感、不快感などの感情です。深い領域の潜在意識は、分かりやすくいうと、好きか嫌いか、やりたいかやりたくないかという本音の部分の感情です。深い領域の潜在意識を軽視・無視して行動すると、いずれ問題が出てくる。深い領域の潜在意識が頭で考えた顕在意識に抵抗するようになります。(7日間で自分で決められる人になる 根本裕幸 サンマーク出版 参照)この話に関連して、森田先生は次のような話をされている。ここで最も大事なことは、感じから出発することである。例えば、酒が好きか嫌いかから出発する。酒が嫌いな人は、酒をすすめるとき「どうしてこんなものが飲めるのだろう」という気持ちでつぐと、無理がゆかないで、酒好きもうまく飲まれるが、「あの人は酒が好きだから」と自分の嫌いということを離れて考えると、加減なしにやたら追いかけ追いかけ酒をつぐので、いくら酒好きでもたまらなくなる。自分の好き嫌いという感じから出発すると、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて、思いやりということができる。相手と気持ちが通じる。同情心が出てくる。(森田全集第5巻 696ページ)私もこの点に関して苦い経験がある。大学を卒業して農家の意識変革を目指して、ある大手の文化運動をやっているところに就職した。配属されたのは、訪問営業の仕事だった。対人恐怖症の私には過酷な仕事だった。自尊心を傷つけられるようなみじめな気持ちを数多く味わった。よく考えて見れば、就職する時に、営業や訪問販売の仕事は性格的に向かないだろうという気持ちを持っていた。それを無視して正義感や使命感で乗り越えようとしていた。好きか嫌いか、やりたいかやりたくないかでいうと、訪問販売の仕事はもっとも嫌いでやりたくない仕事だったのだ。深い領域の潜在意識を、軽視・無視して就職した結果はみじめなものだった。顕在意識に対して、圧倒的な力で抵抗してきたのだ。9年間は何とか持ったが、もっと早く転職した方がよかったと後悔することになった。好き嫌いという本音の部分の感情を無視すると、取り返しのつかない後悔をすることになるということを身をもって体験した。
2023.04.13
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不安、恐怖、違和感、不快感への対応策は人ぞれぞれです。大別すると次の3つに分かれるように思います。また、時と場合によって、対応方法が分かれる場合もあります。1、すぐに取り除こうとする人。このような対応がとれる人はエネルギーが旺盛で行動的です。現実的な不安への対処法としては申し分はありません。ところが神経症的な不安に対してこのやり方をとると問題が起きます。森田では感情は自然現象であり手出し無用と説明されています。言葉では理解できても、潜在意識では現実的な不安と同様に自由にコントロールできるはずだと思っている節があります。自然に立ち向かっても、ほとんど無駄な努力になります。労多くして、結果ははかばかしくない。一番問題なのは、そちらに力を入れていうちに、目の前のやるべきことがおろそかになることです。こういう人は森田理論の不安の特徴や役割、不安と欲望の関係を学習して、生活の指針にすれば生き方が変わる可能性があります。2、不安や不快な感情を認めようとしない。無視・抑圧しようとする人。快の感情と不快な感情に分けて、是非善悪の判定を下している。快感情は貪欲に追い求めて、不快感情は悪者扱いしているのです。天気でいえば、晴れの日はあってもよいが、雨の日はダメだと言っているようなものです。自然現象である感情に対して、選り好みをしているのです。潜在意識の中では、ネガティブな感情を否定しようとしているのです。価値判定を止めて、ネガティブな感情に素直に向き合う、味わうことが抜け落ちているのです。感情の事実を素直に認めることができないで、不快な感情を忌避していると、思想の矛盾に陥ります。頭で思い描いていることと現実が食い違い、そのために葛藤や苦悩をおびき寄せることになります。観念主導で感情の事実を軽視・無視していると、エネルギーの無駄遣いが起きます。こういう人は、森田理論の「かくあるべし」の弊害と葛藤や苦悩の始まりを学習する。そして事実をそのまま認める態度を身につけるように心がける。そこを出発点にして生の欲望の発揮に進むことを考えた方がよいと思われます。3、不快な状況から目をそむけてすぐに逃げだす人。不快な気分に振り回される人です。少々のことは我慢する、耐えながら取り組むことが苦手な人です。重大な危険が予想される場合は、もちろん一目散に逃げなければなりません。ところが当然やるべきことでも、その時、その場の気分に左右されて、イヤだと思えばすぐに回れ右をしてしまうような人です。不安を感じるとすぐに回避策をとり、逃げ回ることが習慣化している人です。その時はほっとしても、社会体験不足になります。小さな失敗体験、成功体験を積み重ねることで、人間としての器が大きくなりますが、こういう人は子どものまま大人になってしまうことになります。身体が大きくなっても、心がついていけてないのです。たとえば対人関係では気に入らない人には一切近づかない。約束した事でも、気分に振り回されて、簡単に破棄してしまう。困難な問題や仕事などは、いつも逃げ腰になってしまう。思い切って手を付けたことでも、障害物に出会うとすぐに撤退してしまう。その心の隙間を埋めるために、享楽的、快楽的、刺激的、本能的、瞬間的な快楽を追い求めるようになります。気分本位が習慣化している人は、残念な人生で幕引きということになります。気分に振り回される人は、自分の力を過信しないことです。気分本位の態度をとりやすい人間であることが自覚できれば、信頼できる人に協力を仰ぐことが有効です。たとえば配偶者、友人、心の師、集談会の仲間などです。仕事では単独営業をするとどうしてもさぼるようになります。こういう場合同行営業に切り替えれば防止できます。浪費癖、アルコール依存、ギャンブル依存、性依存の人は、それを抑制してくれる人と一緒に行動することで防止できます。自分の心身の安全と家族の生活を守るために、気分本位は乗り越えるべき課題となります。
2023.04.12
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平澤興氏のお話です。今の時代は欲しいものは何でもすぐに手に入る。これは一面ありがたいことだが、しかし反面では、知らぬ間にいろいろの弊害、たとえば物への感謝を忘れたり、がまん心を弱くしたりするマイナスの面もある。子どものおもちゃにしても、物の少なかった昔のこどものようながまん心はなく、欲しいものは何でもすぐ買ってもらい、それにもすぐ飽きて、また新しいものを求める。それを拒めば買ってもらうまでうるさくつきまとい、ついに親が根負けして、また新しいものを買うことになる。こども自身はそれで満足しているかというと、どうも必ずしもそうではない。たえず新しいものへの欲望が強く、満足感よりもむしろ欠乏感のほうが強いようだ。がまんということは、わがままな動物的欲望を捨てて自己を抑えることだが、これは、人が動物的自己を捨てて高い精神的自己を伸ばすには絶対に必要なことである。がまんには大別して消極的がまんと積極的がまんがある。消極的がまんというのは、たとえばほしいものがあっても、それなしに我慢することである。積極的がまんとは、あまり勉強に気の向かない子が、勉強の時間が来たので予定に従って勉強するような事である。(夢と人生 平澤興 PHP 112ページ)今日は消極的な我慢についてみていきたい。新製品、高付加価値の商品などが出た場合、どんどん買い替えることが多くなっています。パソコンやスマートフォンなどは、個人データーが含まれており、消去して処分しようとすると費用が掛かります。そのまま自宅で保管しているという人も多いのではないでしょうか。大型テレビ、冷蔵庫、クーラーなどはリサイクル料がかかります。家の中にそのまま放置したり、山奥に投棄する人があとを絶ちません。欲望にまかせてすぐに手に入れることのデメリット・お金がかかります。あくせく働かないと、支払いに支障が出ます。・以前使っていたものが粗大ごみに変わります。・存在価値がなくなります。活躍の場がなくなります。・使わなくなったものが、家の中にあふれて、保管場所に困るようになります。・まだ使えるものを平気で捨てるようになります。・あるもの、持っているもので我慢する力が衰えます。・どんな悪い手段を使ってでも欲しいものをすぐに手に入れようとします。・親や祖父母の援助を期待するようになります。依存的になります。・欲しいものを手に入れるために他人と対立するようになります。・欲望が欲望を生み出して、際限がなくなります。・一時的な喜びや感動はありますが、すぐに飽きてしまいます。・あることが当たり前になり、無いと精神的にイライラするようらなります。・持っていることの有難さ、感謝の気持ちが希薄になります。・生きている喜びは刺激的、刹那的、快楽的になります。欲しいものを我慢することのメリット・今持っているものを大切に取り扱うようになります。・すぐに飛びつかないので、お金の無駄使いがなくなります。・寄付ができる余裕が出てきます。・森田のものの性を尽くす実践になります。それは己の性を尽くす、他人の性を尽くす、時間の性を尽くす、お金の性を尽くす方面に波及してきます。・自他ともに存在価値を高め、さらに活躍の場を提供できるようになります。・自然破壊がなくなり、自然と共生できるようになります。・大切なもの、必要なものに囲まれて愛にあふれた生活が送れるようになります。・無駄なものが少ないので、家の中がすっきりと整理整頓できるようになります。・自分の持っている能力を高めることができるようになります。・親や祖父母に依存しなくても生活できるようになります。・人と対立することが少なくなり、友好的な関係に入れるようになります。・現状に満足できて、精神的に安心感、安定感が生まれます。・小さなことに喜べるようになり、生きる楽しみが増えてきます。欲しいものが出てきたとき、すぐに飛びつくのは如何なものでしょうか。一旦立ち止まって、それに代わるものを持っていないか。どうしても手に入れないと生活に大きな支障があるものなのか。少しだけ不便を我慢することはできないものか。今持っているものを改良して使いやすくできないか。欲望が暴走すると、それを制御することはできなくなります。欲望に振り回されると、生きがいを失い、後で後悔することになります。それよりも、縁あって自分に関わりあるものを、最後まで大切に取り扱って、感謝されるような生き方のほうが森田的な生き方に近いように感じる。
2023.03.15
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「意志力の科学」という本は、健康や生活の破綻をもたらす欲望の暴走、ネガティブな感情の暴走、他人に迷惑をかける本能の暴走を防止するための方法を様々な視点から説明されている。その一つとして、よい習慣を身につけている人は抑止力が有効に機能しているという。にわかには信じがたいことですが、この本を読んで納得できました。今日はこれをご紹介します。多くの仲間たちが命を落とすという過酷な熱帯雨林での飢餓キャンプで生き残った人の話が紹介されている。名前をスタンリーという。「彼はよく、どんな探検旅行でも必ず念入りにひげを剃るのだと話してくれました。うっそうとした密林、飢餓キャンプ、戦闘の朝、どんなときでもこの習慣をやめる事はありませんでした。たとえどんな困難な状況でも、冷たい水だけで、なまくらなかみそりで剃ったこともあると言っていました」過酷な状況に置かれている時に、なぜひげ剃りにそこまで固執するのだろうか。「スタンリーは常に外見に気をつけていた。服装を含めて、読みやすい字を書くこと、日記や本の並べ方、箱の整理などを重く考えていた」ひげ剃りにかけるエネルギーを、食べ物を探すのに使えばいいのにと思われるかもしれない。そのような自己コントロールを実践すると、消耗が大きくなって重要なことに意志力を発揮できなくなるのではないか。しかし実はスタンリーのような規律を重んじる習慣は、自己コントロール能力を高め、脳の自動操縦装置にスイッチが入るようになってエネルギーをあまり必要としなくなる。きちんとした外見は内なる自制心と結びついているというスタンリーの信念は、最近素晴らしい実験により確かめられた。一つのグループの被験者にはきちんと片づいた実験室で、もう一つのグループには、親が思わず「部屋を片付けなさい」と怒鳴りつけたくなりそうな場所で質問に答えてもらう。散らかった部屋でテストを受けた被験者は、多くの尺度で自己コントロールについての得点が低かった。たとえば1週間待てば多額の報酬がもらえるのに、すぐにもらえる少額の報酬に飛びついてしまう。きれいな実験室にいた人はりんごと牛乳を選ぶことが多く、汚い部屋にいる人はキャンディとコーラを選んだ。よい習慣を作り上げるときは意識的に大きな意志力が必要だが、一旦習慣となると無意識的な行動となる。つまりエネルギーの温存ができるということです。欲望の暴走が引き起こされそうなとき、そのエネルギーを使って欲望の暴走を抑制することができる。悪い習慣が身についている人は、その悪い習慣を制御しようとエネルギーを浪費している。そのためにエネルギーが消耗状態に陥り、肝心かなめのときに欲望の制御が効かなくなり、欲望の暴走に火がついてしまうのである。(意志力の科学 ロイ・バウマイスター ジョン・ティアニー インターシフト 198~201ページ要旨引用)本能的な欲望の暴走は、良い生活習慣が身についていなことが原因の一つと考えられるという指摘は案外当たっているかもしれない。本能的な欲望が暴走してしまう人は、ぜひこの考え方を参考にして、よい習慣を作り上げることに取り組んでほしいものです。規則正しい生活を心がける。着替えを済ませて、身支度を丁寧に行う。バランスのとれた食事を心がける。ウォーキングなど、適度な運動を毎日続ける。観葉植物、ペットの世話をする。毎日読書する習慣をつくる。日記や文章を書く習慣をつくる。こまめに清掃、整理整頓を行う。料理や加工食品作り、後片付けをする。凡事徹底の中で、小さな楽しみを見つける。他人の役に立つことを見つけて実行する。あるものを大事にして、それを活かすことを心がける。不即不離の人間関係を心がける。自己主張する前に相手の気持ちや考え方をよく聞く。信頼関係のないときに相手を非難・否定しない。相手のよいとこ探しをする。おかげさまという感謝の気持ちを持つ。
2023.03.04
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欲望が暴走する人は、制御、抑制しなければという気持ちは持っています。でも意志力が不足しているのか、その時の流れにすぐに流されてしまいます。欲望は一旦火がついて燃え始めると、自己抑制力は働かなくなります。例えば、大勢で飲酒をすると、深酒になり前後不覚になる人がいます。そして大切なものをなくしてしまう。駅のベンチで寝てしまう。終点まで乗り越してしまう。次の日二日酔いで仕事に差し支えがでる。頭痛で休む人もいます。あるいは気が大きくなって酒気帯び運転をしてしまう。検問に引っ掛かることはないだろうと安易に考えてしまう。そして事故を起こして、逃げてしまうという人までいます。あるいはグチが止まらなくなる人がいます。上司や同僚の悪口を言い始める人がいます。遂には暴言を吐いて喧嘩する人もいます。あるいは暴力事件を起こしてしまう人もいます。その結果会社で自分の居場所がなくなります。性的な興奮が高まる人もいます。その状態で電車やバスに乗ることは考えものです。普段は冷静な人が、新聞沙汰の事件を起こしてしまう。会社や家族や親戚に顔向けができなくなってしまう。そして会社を追われて、一生を棒に振る人もいます。自分はどんな欲望が暴走しやすいかはだいたい分かっています。アルコール、ギャンブル、ネットゲーム、性的な欲望、買い物、食べ物など様々です。営業職の場合、仕事を放棄してさぼることが習慣化している人もいます。欲望の暴走をがまんできる人は、問題になりそうな状況を避けるのが上手です。問題になりそうな状況に身を置かないように意識している。最初から近づかないようにしている。自己管理がきちんとできる人です。例えば宴会で酒を飲むときは、人より飲むペースを落としている。食べるほうを優先して、飲むことは抑えている。海鮮サラダなどをよく食べている。この場合最初が肝心です。最初の30分、1時間が勝負だと認識している。さらに酒を飲むたびに、同量の水を飲んでいる。これは意外と効果があります。二次会に誘われても、体の調子が万全ではないと断るのがうまい。誘惑を断ち切り、いつのまにかいなくなるのが上手である。そして電車やバスを使わないで、タクシーですぐに帰宅する。欲望がしばしば暴走する人は、親しい人と一緒に行動している。単独行動はすぐに欲望が暴走して、自分には制御力が効かなくなると自覚している。同行者に暴走の抑止力として忠告してもらうようにしている。営業の場合は、さぼらないように同行営業で退路を塞いでいる。あるいはスマホの位置情報を活用している。ちょっとした心がけで、その結果は天国と地獄の差となってしまうのです。
2023.02.24
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昨日の続きです。グルコース(ブドウ糖)が自己コントロールに大きな影響を与えています。ブドウ糖は動いたり、脳で考えたりする時のエネルギー源となります。脳が機能不全になると自己コントロールが効かなくなります。低血糖症患者の研究によると、普通の人よりも集中するのが苦手で、腹を立てたときにマイナス感情を制御するのが難しくなります。低血糖症の患者は、全体的に見ても普通の人より不安が強くて幸せを感じにくかった。犯罪者や暴力的な人の間では低血糖症患者の率が普通よりも高いことが分かっている。弁護士の中には低血糖症の研究結果を弁護に持ち出すという、独創的な手法をとる者もいる。(意志力の科学 ロイ・バウマイスター ジョン・ティアニー インターシフト 63ページ)病気で痛む体をひきずって仕事に行こうとするときは、次のことについてよく考えた方がよい。ひどい風邪をひいて運転するのは、ほろ酔いで運転するよりも危険だということが分かっているのだ。風邪と戦うために体の免疫システムが大量のグルコースを使ってしまうため、脳が使用できるグルコースは不足してしまう。運転という簡単な作業さえできないほどグルコースが不足しているのなら、(無事に職場にたどり着いたとしても)仕事に使えるグルコースはどれだけ残されているだろうか。グルコースが不足した脳に重要な仕事を任せてはいけない。(同書 83ページ)食べ物はほぼすべて体内でグルコースに変化するが、その速さは種類によって異なる。短時間でグルコースに変化するのは、グリセミック指数(GI値)が高い食べ物と呼ばれる。白いパンやジャガイモや白米といった炭水化物、スーパーの棚に並んでいるスナック菓子、ファストフード店の食べ物がこれにあたる。GI値が高い食べ物を食べると血中のグルコース濃度が急激に上下動し、結局はグルコースが不足して自己コントロール能力が低い状態になる。そのため、でんぷんや砂糖でグルコースを急激にとりたいという体の欲求に逆らうことができずに、ドーナツやキャンディを食べる、ということを繰り返してしまう。自己コントロール能力を一定に保つためには、GI値の低い食べ物を食べた方がいい。ほとんどの種類の野菜、ナッツ類(ピーナッツやカシューナッツなど)、生の果物(リンゴやブルーベリーや梨など)、チーズ、魚、肉、オリーブオイルやその他の「体によい」油脂などがこれにあたる。(同書 82ページ)ロイ・バウマイスター ジョン・ティアニーは、欲望やマイナス感情の暴走を防ぐためには食生活から見直すことが大切であると指摘している。脳の栄養であるブドウ糖を補給し続けることが欲望の暴走を防止している。しかし短絡的に甘いものを摂取するというやり方は見直した方がよい。血糖値が激しく変動して、低血糖に陥ることがあるからである。GI値の低いものを基本にして、補助的にGI値の高いものを摂取する方向を心がけたい。欲望の暴走やマイナス感情に振り回されないために、外食、ファーストフード、甘いお菓子を多量に摂取している人は、食生活から見直す必要がありそうです。
2023.02.22
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臨床心理士の杉山崇さんのお話です。人は「想定外」に弱い生き物です。私たちの心は、周りが「想定通り」かどうかをモニタリングするために進化したと考えられています。だから「想定外」に対しては、まずは拒絶反応を起こすのです。(許す練習 杉山崇 あさ出版)「想定外」というのは、このような最悪の事態が起きるとは考えていなかった。森田でいう予期不安が全く湧いてこなかったということになります。まさかこんなことがおきるなんて心外だ。ありえないという気持ちです。「想定外」のことが起きると、無意識のうちに拒絶反応が起きています。あるいは茫然自失状態に陥ります。昨年のハロウィンナイトでは、韓国で多くの人が亡くなりました。警察ではまさかそんな事態になるとは想定できなかったと言われていました。危機意識がなかったので、警備対策の立てようがなかったのです。神経質な人は想定外のことに比較的よく気が付きます。神経質者は高性能のレーダーを標準装備しているようなものだといわれます。つまり小さな不安、恐怖、違和感、不快感などを普通の人よりもより多く、より強くキャッチします。神経質性格者は、多かれ少なかれ「想定外」の事態を予測できる特徴を持っていると思います。これは優れた能力だと思います。神経質以外の人で欲しい人がいても簡単に手に入るものではありません。我々は生まれながらその能力を持っているのです。そのおかげで、命に係わる難病、生命の危険、生活破綻に追い込まれることが少なくなっているのではないでしょうか。神経質の人が問題なのは、「想定外」のことに気づいても、逃げることを優先して、活用することをおろそかにしてしまうことです。予期不安を宝の持ち腐れにしないためにはどんなことに取り組めばよいのか。まず不安の中身を2つに分けることが大切になると思います。不安には現実的な不安と神経症的な不安の2つがあります。現実的な不安は不安の解消に向けて対策を立てて実行に移すことです。たとえば、地震や土砂災害の危険性を感じたらすぐに手を打つ。妻子がいる人が生命の不安を感じたら生命保険、損害保険に加入する。現実的な不安に対応すると、リスクの軽減につながります。一方神経症的な不安への対応方法は180度違います。森田理論で学習したように、神経症的な不安は欲望の反面として湧き上がっているものです。たとえば人から高く評価されたいと思っている人は、もし失敗したらどうしようという不安が同時に発生します。この場合は、不安を取り除いてから、本来の目的に向かおうと考えてはなりません。不安を携えたまま課題や目標に取り組むことが大切になります。そうすれば不安が行き過ぎを抑制してくれますのでバランスが取れてきます。神経質性格の人は、予期不安に絶えず振り回されているわけですが、不安を2つに区分して、それぞれ対応を変えることが大事になります。
2023.02.05
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綾小路きみまろ氏のお話です。人間が生きている限り不安はつきものだと思います。だけどそれは決して悪いことではなく、むしろあって当たり前だと思います。なぜ心に不安が生まれてくるのかといえば、それは自分に欲望があるからなんです。欲望という言い方が気にいらない人は目標という言い方に置き換えてください。不安というと、どこか暗いイメージがありますが、その対極には必ず期待という要素があるはずです。こちらはかなり明るいイメージですよね。これがあるから、がんばろうという気にもなるし、「もっと自分を磨いてみようか」などと高尚なことも考えるようになる。不安と期待を抱えながら、欲望に向かって歩いているのが人間ではないですか。潜伏していた期間に漫才ブームやお笑いブームが何度か訪れました。なぜか私はブームに乗れなかった。「努力はしているのに、なぜ報われないのだろう」と焦っていた時期もあります。「好きで選んだ道だし、しゃべりで生きていくという当初の目標はかなえられたのだから、よしとしよう」と、ほどほどの満足を得たときには、焦りや不安は消えていましたね。この「ほどほど」で満足するってことが、不安をやっつけるには大切なのかもしれません。そのうち漫談を録音したテープを作り、高速道路のサービスエリアで大勢の人を乗せてやってくる観光バスを待ち伏せし、無料でテープを配り始めました。私の漫談の評判は口コミであっという間に広がっていきました。50歳を超えてやっとブレークできたのです。(60代からもっと人生を楽しむ人、ムダに生きる人 PHP研究所 62ページ)綾小路氏は森田理論のポイントをつかれておられると思います。・不安の裏には欲望、目標、期待がある。不安よりも欲望、目標、期待に焦点を当てる方がよい。・欲望は無制限に追い求めてはいけない。欲望を抑制して「ほどほど」を目指すと不安が消えてくる。・途中であきらめてはいけない。真摯に取り組んでいると、いつか花開く時があると信じて、投げださないようにする。かならずしも成功するとは限らないが、途中で投げ出してしまうと、決して目的を達成することはない。課題や目標が見つけられないと、生きている意味を見失ってしまう。目先の刺激的な快楽ばかりを追い求めるようになると、そのときは一瞬だけ元気になるが、トータルで見ると虚しい人生になってしまう。
2023.02.03
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医食同源、身土不二、地産地消という考え方があります。聞きなれない言葉ですが、森田理論に通じる考え方です。健康で長生きするためには、その土地で獲れたものを、工夫して料理をして感謝を込めていただくというのが基本であるという考え方です。欲しい食材を世界中から集めてきて、飽食三昧という考え方は、あまりにも短絡的であり、人間の進むべき道としてはお粗末ということではないでしょうか。世界の人口が90億人に迫るという予想がある中で、開発途上国から食料をかき集めるという考え方は如何なものか。こうした考え方や行動が、最後には自分たちに跳ね返って来て、八方ふさがりの閉塞状態に追い込んでいくのではないかと思っています。熊本県菊池市にある公立菊池養生園の竹熊宣孝医師は、「医は食に、食は農に、農は自然に学べ」と言われた。これこそ身土不二、医食同源、地産地消の考え方ではないでしょうか。健康問題は食事内容が大きく影響しているように思います。バランスのとれた食事内容になっているか。偏った食事や過剰摂取の問題はないか。旬の野菜や果物や穀物を取っているか。肉食などの動物性食事に偏ってはいないか。脂肪過多になっていないか。有害添加物を避けているか。私は家庭菜園を楽しんでいる。野菜との付き合いの中で、自然との付き合い方については考えさせられることが多い。種まきや定植の適期を誤ると作物は育たない。特にニンジンやほうれん草などは発芽しない。適期を間違えるとせっかく立派な苗を植えても枯れてしまう。霜の時期の見極めが大切になる。霜にあたるとすぐに枯れる。輪作体系を組まないと病気になる。あるいは収量が半減する。特にナス科の野菜は3年は空けないと連作障害が出る。土つくりには発酵鶏糞や発酵牛糞などの堆肥の投入が不可欠である。土は管理機やスコップで掘って団粒構造を作ることが肝心である。肥料では苦土石灰の投入が不可欠である。これを入れると酸性土壌が修正される。また、これらはマグネシュームやカルシュウムの補給につながる。窒素、リン酸、カリだけの化学肥料だけではダメなのである。カボチャやサツマイモなどはものすごく伸びる。それを考慮しないと野菜同士が込み合う。野菜には仲が良くて相性の良いもの同士の組み合わせがある。これを共生作物という。たとえばジャガイモのあとにネギを植えるとネコブ病菌が死滅する。ナス科のあとにイネ科の植物を植えると土壌改良になる。水やり、土寄せ、わき目かき、誘引、追肥、ネット張り、雑草退治をしないと育つものも育たなくなる。特に水やりは必須である。つまりペットと同じで、付きっきりで世話をしないと野菜がへそを曲げる。白菜、キャベツは寒冷紗で覆いをしないとほとんど虫に食べられてしまう。大規模単一作物の産地では大量の農薬散布で防虫している。農薬がふんだんに振り掛けられていると思ってほぼ間違いない。里山が放棄されるようになってイノシシ、猿、鹿、熊などが畑を荒らすようになってきた。囲いをしないと一晩のうちにやられてしまう。森田理論に「物の性を尽くす」という言葉がある。これはそのものが持っている能力や可能性を見つけ出して、居場所と活躍の場を与え、命ある限り精一杯生き尽くしてもらうという考え方です。私はこの考え方を自家用野菜の育て方に応用して、野菜の持っている力を存分に引き出してあげられるように心がけたいと考えている。野菜たちはものは言わないが、成育具合でそのことを伝えてくれているように思う。
2022.12.05
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私の住んでいるマンションは自転車やバイクの置き場所は決まっていません。自由にどこにおいてもよいことになっています。多くの人は自分の駐輪場所はいつも同じです。私も自転車やバイクはいつも同じ場所に置いています。暗黙の了解でみんなが自分の指定席を決めているのです。問題は、転居してきた人や新しく自転車やバイクを買った人がいきなり割り込んでくることがあります。150軒もあるので頻繁に起こります。駐輪場所が指定されていないのですら、どこにとめようが自由なのです。しかし自分の指定席だと勝手に思っている人は心中穏やかではありません。自分の指定席だと思っているところに、他の自転車やバイクが置いてあると自分の権利が侵害されたように感じるのです。他の場所は他人が指定席のように使用しているわけですから、勝手に変更するといさかいになることが予想されます。その結果今度は自分の駐輪スペースがなくなるのです。結局無理やり自分のスペースを作りだしてとめることになります。でもすっきりしません。どんな嫌がらせが待っているかと不安になるのです。それは自分が長らく使用していると既得権を得たかのような錯覚に陥っているからだと思います。その権利を侵害されることは心外だという気持ちになるのです。対抗措置を取って自己主張しなければ、自分の居場所がなくなります。自分が引き下がれば、今度はその人に既得権が移ってしまう。それは承服しがたいことだと思ってしまうのです。それは既得権でも何でもないのですが、自分が勝手にそう思い込んで、その権利を主張しようとしているのです。安定した場所を一旦確保すると、今度はそれを死守することを考えるようになります。外部から侵略されることを警戒するようになります。中には自分の場所だといわんばかりに私物を置いている人もいます。そして実際に侵略されると、あからさまに対抗手段をとるようになるのです。一旦快適な生活や居場所を手に入れると、今度はそれを失うことを恐れるようになります。その権利を他人に奪取されないように、防衛することを考えるようになります。この態度は人間関係が悪化する原因を作り出しています。何か良い方法はないのでしょうか。森田理論で考えてみました。森田理論では変化を掴み、変化に素早く対応することを目指しています。一旦安定して居場所のよい状態になっても、時間の経過とともに、状況が変わり、その安定はいずれ失われてしまうということだと思います。この場合は、自転車やバイクが増えてきて、マンション全体の駐輪スペースが不足してきた。はみ出された人が、無理やり自分の駐輪スペースを作って止めようとするので、イヤな思いをする人が出てきた。つまり明らかに以前とは状況が変化してきたのです。その変化に対応する必要がでてきたということです。この問題はマンション全体の問題として、理事会や総会で議題として取り上げる必要が出てきたということだと思います。たとえば新たに駐輪スペースを増設する。その際駅の駐輪スペースを参考にする。他のマンションの事例を収集する。他のマンションでは自転車は2段にしているところもある。また駐輪スペースを自動車と同じように指定制にすることも考えられる。それ以外にもよい提案があれば、すべて出し合って、よりよい方法を検討する。結局は駐輪方法を変更するしかないと思う。変化への対応を無視して、自分の考えを頑固に他人に押し付けていると、そのうち犬猿の仲になってマンションに居づらくなる人が出てくる可能性がある。これだけは何としても避けたい。変化した状況にどう対応していくという方法をみんなで考えていけば、現在の問題は平和的に解決できると思う。
2022.11.14
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森田理論は、最終的には生の欲望を発揮していくことが重要だと説明されています。神経症的な不安は、その裏側に欲望が隠れている。不安ばかりに関わり合うのではなく、自分の欲望を再認識して、生の欲望を活性化していく。その方向に向かって歩みだしたとき、神経症はどんどん縮小していく。それは不安と欲望のバランスがとれてきたからだと思います。これに対して、篠田桃紅氏は欲望の抑制力が大切だといわれています。人間の欲望には果てしがない。人間は何かを得れば、その先のものを得たいと、永遠に欲が止まらないようにできている。あまりに欲望を満たそうとすると、周りが非常に困るし、最後は自分自身も欲望の虜になってしまう。食は飢えぬほど、家も雨が漏らぬ程度、立派なものを建てようとするから、欲望は限りなくなる。欲望が満たされると、そこに人は生きがいがあると思ってしまう。生きている以上、そうした欲望の虜になって暮らしてもしようがない。欲望というものとどういうふうにうまく付き合っていくか。人間の歴史への問いかもしれませんね。森田理論学習の中では、自動車のアクセルとブレーキの関係で説明されるところですね。自動車がいったん動き出したら、周囲の状況に応じて、ブレーキを活用することが欠かせません。人間にはもともと精神拮抗作用が備わっています。これは欲望の暴走を抑制する仕組みが完備されているということです。しかし欲望に弾みがついてしまうと、容易に暴走してしまうのです。一旦暴走を始めたものを止めることは至難の業です。脳の仕組みでいうと、ドパミン主導の報酬系神経回路が暴走してしまうことになります。これを抑制するのは、セロトニン神経系を活性化することが欠かせません。これについては、最新の脳科学で紹介しました。興味のある方は、ご覧ください。篠田桃紅氏は、次のように説明されている。持っているものに感謝すればいいのに、持っているものは当然で、無いものを欲しがる。賢い人は、達観して無いものねだりをしないんだと思う。自分はこの程度なんだと思って。(これでおしまい 篠田桃紅 講談社 137ページ)これは生活の中で応用できます。何かを欲しくなった時、自分はそれと同等なものを持っていないか。持っているものを修理、改良して役立てることは出来ないか。森田先生のお母さんは、森田先生が何かを欲しがった時、下の人を見なさい、下の人のことを考えなさいと諭されたそうです。森田先生は安易に新しいものに飛びつくのではなく、そのものの存在価値を最後まで活かしきるという考え方でした。生の欲望に邁進することができるようになったら、今度はそこから離れて制御能力を鍛えていかなければなりません。
2022.09.24
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森田理論でいう不安の特徴を取り上げてみました。不安には現実的な不安と神経症的な不安があります。この2つをきちんと区別していくことが肝心です。区別できるようになると、不安への正しい対応が可能になります。現実的な不安は先延ばししていると、問題が大きくなって、破滅的な事態を招きます。たとえば、地震が来ることはある程度分かっているのに、なにも対応策を講じていないと、大きなリスクにさらされます。その他、不慮の事故に備えて生命保険に入る。自動車保険、火災保険、医療保険などに加入しておくとリスクを回避できます。現実的な不安への対応は、万が一の不幸な出来事から命や財産を守ります。それに対して、神経症な不安は欲望があるために、その反動として発生しているものです。欲望を暴走させないために、人間に元々備わっている機能が発動しているのです。森田理論では、その仕組みを精神拮抗作用として説明されています。もしこの機能が働かないと、双極性障害のようなことになります。現実感がなく、妄想や空想が膨らみ、欲望がどんどん暴走します。不安をなくするための行動は葛藤や苦悩を招きます。不安を取り除こうとしたり、逃げ回っていると、精神交互作用により、どんどん蟻地獄の底に落ちてしまいます。心掛けることは、やるべきことややりたいことを絶えず意識することです。基本は日常茶飯事に丁寧に取り組むことです。凡事徹底です。いきなり大きな目標に向かうことは、ザルで水を掬うようなことになります。労多くして、なかなか成果は上がらないでしょう。次に行動に際して、不安を活用して、慎重に行動するということです。サーカスの綱渡りのように、欲望と不安のバランスを取ることが肝心です。バランスを取りながら、絶えず前進していく態度が大切になります。森田理論はバランス、調和を意識しないと、存在すら危うくなってしまうという理論です。生きとし生けるもの、宇宙の仕組みは運動と調和によって成り立っています。
2022.09.22
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この言葉を森田理論学習の中で聞かれた人もいらっしゃると思います。含蓄のある言葉のようですが、今一つその内容が分からない。これは行動の原則の「はじめての行動には不安はつきもの」というところに出てくる言葉です。不安があるから初めての行動には極めて慎重になる。不安が湧き上がらないと、猪突猛進、軽率な行動となり失敗の可能性が高まる。不安を活用して、慎重に行動すれば成功確率が高まるということです。不安はそういう重要な役割を果しているというわけです。ただし神経症に陥ると不安をなくすることばかりを考えて蟻地獄に陥るのです。私は不安というのは現実的な不安と神経症的な不安をきちんと分けることが大切だと思います。現実的な不安に対しては、その都度その解消に向けて行動する必要がある。たとえば地震、体の異常、経済的なリスクなどです。神経症的な不安は欲望の裏返しとして湧き上がってくるので、不安の解消ばかりに専念してはならない。不安よりも、その裏側にある欲望に焦点をあてて生活する方がよいと言われています。つまり欲望と不安のバランスを意識した生活を心掛けることが肝心です。我々は、現実的な不安には手を付けないでそのまま放置してしまう傾向がある。反対に神経症的な不安に対して、生の欲望の発揮が蚊帳の外になり、不安の解消に向けて莫大なエネルギーと時間とお金を惜しみなく投入している。やることなすことがまるっきり反対になっているということが問題です。まずここを押えることが大事になると思います。神経症の場合は、バランスが大きく崩れているので、生の欲望の発揮に全精力をつぎ込むという態度が求められているのだと思います。そういう態度で生活していると、不安と欲望のバランスが取れてきます。その手始めとして、日常茶飯事に丁寧に取り組むということが肝心です。雑仕事や雑事に精魂込めて生活する。凡事徹底です。但し、生の欲望に向かって舵を切ることはよいことですが、そこにも注意しなければならないことがあります。欲望に火が付くと、そのうち弾みがついて暴走してしまうということです。欲望、本能を野放しに放置しておくことは、争いや禍をもたらします。車にはアクセルとブレーキがついています。アクセルを欲望とするとブレーキは不安の役割を果しています。アクセルを踏み込まないと車は動きません。しかし一旦動き出したら、今度はブレーキを踏み込んで、スピードを制御しないと事故になります。欲望を前面に押し出しながら、不安を活用して、欲望が暴走しないように気を付けることが肝心です。欲望と不安は天秤と同じです。同じ重さのものをのせてバランスを維持しないと、バランスが崩れて、存在することさえ許されないということになります。この理論が理解できたらいよいよ自分の生活の中で実践・活用することが肝心です。その結果を集談会で発表して、他の人から感想やアドバイスをもらうようにすれば、その人はどんどん伸びていきます。理解することに留まっていたとすれば、物事の完成度から言えば半分以下だと思います。どんなに小さなことでも、理論を実際に検証していけば、その人はどんどん成長し、神経質者の人生観の獲得にまで到達してしまうのです。私はそういう人を何人も知っていますが、そういう人は素晴らしいオーラを発しています。それが森田理論学習と集談会活動で自分のものになるのですからこえられません。
2022.08.30
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