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森田理論でいう不安の特徴を取り上げてみました。不安には現実的な不安と神経症的な不安があります。この2つをきちんと区別していくことが肝心です。区別できるようになると、不安への正しい対応が可能になります。現実的な不安は先延ばししていると、問題が大きくなって、破滅的な事態を招きます。たとえば、地震が来ることはある程度分かっているのに、なにも対応策を講じていないと、大きなリスクにさらされます。その他、不慮の事故に備えて生命保険に入る。自動車保険、火災保険、医療保険などに加入しておくとリスクを回避できます。現実的な不安への対応は、万が一の不幸な出来事から命や財産を守ります。それに対して、神経症な不安は欲望があるために、その反動として発生しているものです。欲望を暴走させないために、人間に元々備わっている機能が発動しているのです。森田理論では、その仕組みを精神拮抗作用として説明されています。もしこの機能が働かないと、双極性障害のようなことになります。現実感がなく、妄想や空想が膨らみ、欲望がどんどん暴走します。不安をなくするための行動は葛藤や苦悩を招きます。不安を取り除こうとしたり、逃げ回っていると、精神交互作用により、どんどん蟻地獄の底に落ちてしまいます。心掛けることは、やるべきことややりたいことを絶えず意識することです。基本は日常茶飯事に丁寧に取り組むことです。凡事徹底です。いきなり大きな目標に向かうことは、ザルで水を掬うようなことになります。労多くして、なかなか成果は上がらないでしょう。次に行動に際して、不安を活用して、慎重に行動するということです。サーカスの綱渡りのように、欲望と不安のバランスを取ることが肝心です。バランスを取りながら、絶えず前進していく態度が大切になります。森田理論はバランス、調和を意識しないと、存在すら危うくなってしまうという理論です。生きとし生けるもの、宇宙の仕組みは運動と調和によって成り立っています。
2022.09.22
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この言葉を森田理論学習の中で聞かれた人もいらっしゃると思います。含蓄のある言葉のようですが、今一つその内容が分からない。これは行動の原則の「はじめての行動には不安はつきもの」というところに出てくる言葉です。不安があるから初めての行動には極めて慎重になる。不安が湧き上がらないと、猪突猛進、軽率な行動となり失敗の可能性が高まる。不安を活用して、慎重に行動すれば成功確率が高まるということです。不安はそういう重要な役割を果しているというわけです。ただし神経症に陥ると不安をなくすることばかりを考えて蟻地獄に陥るのです。私は不安というのは現実的な不安と神経症的な不安をきちんと分けることが大切だと思います。現実的な不安に対しては、その都度その解消に向けて行動する必要がある。たとえば地震、体の異常、経済的なリスクなどです。神経症的な不安は欲望の裏返しとして湧き上がってくるので、不安の解消ばかりに専念してはならない。不安よりも、その裏側にある欲望に焦点をあてて生活する方がよいと言われています。つまり欲望と不安のバランスを意識した生活を心掛けることが肝心です。我々は、現実的な不安には手を付けないでそのまま放置してしまう傾向がある。反対に神経症的な不安に対して、生の欲望の発揮が蚊帳の外になり、不安の解消に向けて莫大なエネルギーと時間とお金を惜しみなく投入している。やることなすことがまるっきり反対になっているということが問題です。まずここを押えることが大事になると思います。神経症の場合は、バランスが大きく崩れているので、生の欲望の発揮に全精力をつぎ込むという態度が求められているのだと思います。そういう態度で生活していると、不安と欲望のバランスが取れてきます。その手始めとして、日常茶飯事に丁寧に取り組むということが肝心です。雑仕事や雑事に精魂込めて生活する。凡事徹底です。但し、生の欲望に向かって舵を切ることはよいことですが、そこにも注意しなければならないことがあります。欲望に火が付くと、そのうち弾みがついて暴走してしまうということです。欲望、本能を野放しに放置しておくことは、争いや禍をもたらします。車にはアクセルとブレーキがついています。アクセルを欲望とするとブレーキは不安の役割を果しています。アクセルを踏み込まないと車は動きません。しかし一旦動き出したら、今度はブレーキを踏み込んで、スピードを制御しないと事故になります。欲望を前面に押し出しながら、不安を活用して、欲望が暴走しないように気を付けることが肝心です。欲望と不安は天秤と同じです。同じ重さのものをのせてバランスを維持しないと、バランスが崩れて、存在することさえ許されないということになります。この理論が理解できたらいよいよ自分の生活の中で実践・活用することが肝心です。その結果を集談会で発表して、他の人から感想やアドバイスをもらうようにすれば、その人はどんどん伸びていきます。理解することに留まっていたとすれば、物事の完成度から言えば半分以下だと思います。どんなに小さなことでも、理論を実際に検証していけば、その人はどんどん成長し、神経質者の人生観の獲得にまで到達してしまうのです。私はそういう人を何人も知っていますが、そういう人は素晴らしいオーラを発しています。それが森田理論学習と集談会活動で自分のものになるのですからこえられません。
2022.08.30
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藤井英雄先生のお話です。ネガティブな言葉を1回言えば、自己肯定感が1%弱くなり、ポジティブな言葉を1回言えば、自己肯定感が1%強くなると仮定します。90回のネガティブな言葉を口にすることで、100の自己肯定感は40(0.99×90乗=0.4)に減少します。365回後には、(0.99×365乗=0.03)100から3になります。90回のポジティブ言葉を口にすると、自己肯定感は100から245(1.01×90乗=2.45)に増加します。365回後には、(1.01×365乗=37.5)100から3780へと膨れ上がります。(「平常心」と「不動心」の鍛え方 藤井英雄 同文館出版参照)この話を聞いての感想は、ネガティブの言葉を発する人とポジティブの言葉を発する人は、時間の経過とともにその差はどんどん開いていくばかりかということでした。これは見逃すことができない問題だと思いました。どうすればポジティブな言葉をより多く発することが出来るのでしょうか。この問題を解くカギは、森田理論の「精神拮抗作用」にあると考えました。この考えは、人間には欲望が湧き上がったとき、同時にその欲望を抑制する考えも同時に湧き上がってくるということです。たとえば、会社の宴会などに参加したとき、「今日は思う存分アルコールを飲み尽くしたい」という欲望が湧き上がってきたとき、「でも明日は仕事だからな。二日酔いになるとしんどいからな」「この前は前後不覚になってカバンを紛失した。自制しなければ・・・」などと言う自制的な考え方も同時に湧き上がってきます。森田先生はこの相反する感情をうまく調整することが大切であると言われています。具体的に言うと、アルコールを心ゆくまで飲む場合は、最初のうちはセーブして飲み始める。最初は食べるほうを重視して、飲み過ぎに気を付ける。あるいはアルコールを飲むたびに、同量のミネラルウォーターも飲むようにする。これはわりと効果があります。ネガティブな考えは人間である限り、必ず発生するものです。これが湧き起こらないと、欲望が暴走して、破滅を招きます。森田理論では車のアクセルとブレーキの関係で説明されます。アクセルを踏み込まないと、目的地に向かうことはできません。しかしアクセルを踏み込んで車が動き始めたら、今度は適宜プレーキを踏み込んで、スピードを調整する。そうすれば事故にも合わず、目的地に到着する。問題はどちらか一方に偏ってしまうということです。アクセルをめいっぱい踏み込めば、スピードが出過ぎて極めて危険です。反対に危ないからといって、ブレーキを踏み込んでばかりでは前進できません。両方を力任せに踏み込めば車が壊れてしまいます。どちらも大切な役割を果していると認識することが大切です。そして、その時その時の状況に応じて、アクセルとブレーキを上手に使い分けてバランスをとることを心掛けることです。その際第一優先順位はアクセルになります。ブレーキは動き始めて初めて役に立つものとして認識してください。ですからブレーキは第二優先順位となります。普段の生活の中でポジティブな言葉は意識して積極的に使うことを心掛ける必要があります。先ほどの例では、「今日は心ゆくまで楽しい酒を飲むぞ」「みんなと楽しい時間を過ごしたい」「ストレスを解消したいと」などという気持ちです。ネガティブな感情に振り回されて、「飲みたい気持ちでいっぱいだが二日酔いが怖いから飲み会には参加しない」「参加はするが一切アルコールを口にしない」では、仲間から変な奴とレッテルを貼られます。人間関係が悪くなり、自分の本音を抑えつけているのでストレスがたまるばかりになります。ポジティブな言葉については2021年7月21日、22日の投稿をお読みください。
2022.06.16
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不安には現実的な不安と神経症的な不安があると思います。これを区別することが大切です。現実的な不安に対しては、積極的に不安解消に向けて行動することが大事です。たとえば、地震の対応があります。家具や家電製品の転倒防止、戸棚の食器の飛び出し防止、ガラスの飛散防止、非常食や飲料水の備蓄、簡易トイレ、ヘルメット、ライト、ラジオの準備、地域の防災マップの確認、避難場所の確保などがあります。東南海、南海地震はいずれ発生して、津波が発生する確率が高いわけですから、準備を怠らないようにしたいものです。その他不慮の事故や病気に備えて、生命保険、医療保険、傷害保険、自動車保険などに加入しておくことも欠かせません。現実的な不安は、行動することによって、将来のリスクを未然に防ぐことができます。現実的な不安を放置して、災害や事故に巻き込まれると、後悔することになります。これに対して神経症的な不安は、不安を取り除こうとすると、どんどん不安が大きくなるものです。不安に対しては、取り除くための行動は方向性が違います。神経症的な不安は、その裏に欲望や欲求があるために、自然発生していると考えてよろしいと思います。不安を手掛かりにして、自分の欲望や欲求をしっかりと認識することが肝心です。例えば対人恐怖症の人は、人と仲良くしたい、人から良く思われたいという欲望が強いということが考えられます。その欲望を満足させるためには、人の為になることをするが必要になります。人を気持ちよくさせること、他人から感謝されるようになることを見つけることが必要になります。カーネギーの「人を動かす」という本では次のようなことを実行するとよいと言われています。1、誠実な関心をよせる2、笑顔を忘れない3、名前を覚える4、聞き手にまわる5、関心のありかを見抜く6、心からほめるどれもやろうと思えばできることばかりです。対人不安を取り除こうとするエネルギーを、欲求や欲望を達成するために投入することが肝心です。神経症の人は不安にばかりに片寄り、生の欲望の発揮がお留守になっているというのが問題です。それは一人で相撲を取って勝った負けたと一喜一憂しているようなものです。
2022.05.27
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権藤博さんのお話です。WBSCプレミアの時の韓国戦です。8回則本選手が韓国打線を3者凡退に切って取りました。この時点で日本が3点リードしていました。9回は抑えピッチャーに変わるかと思っていると、則本が続投しました。結果は4点取られて逆転されました。権藤さんは結果論ではなく継投の失敗だと言われている。イニングをまたいで投げるということは、一度ベンチに下がって味方の攻撃が終わるのを待つわけです。これがいかんのです。ベンチで休んでいる間にもう戦いの気持がなくなってしまう。急に気持ちが守りに入るのですよ。プレミア12のケースだと、8回に3者凡退と、なまじいい仕事、最後の仕事をやったもんですから、また次も完璧にやらなければいけないと考えてしまうのです。しかし3点差もある。こんなところでやられたらと・・・と余計なことが頭をめぐるのです。味方の攻撃の間、ベンチにじっと座っている時間。あれがいけないのです。あそこでピッチャーはいろんなことを考えるのです。(継投論 権藤博 二宮清純 廣済堂新書)これに関連して、森田先生は形外会で次のように話しされている。自動車酔いをした場合、吐けば楽になるとか考えて、決して気を許してはなりません。断然耐えなければいけない。このとき、ちょっと思い違いやすい事は、自分の苦痛を見つめていると、ますます苦しくなるような気がして、ツイツイ気を紛らせて、他の事を考えたりしようとする事である。早く行き着いて寝ようとか、ここまで来たから、もう十分だとか、都合の良い・楽な事を考えようとするからいけない。こんな時、もう2、3分というところで、安心し気がゆるんで、急に吐き出すような事もある。(森田全集 第5巻 455ページ)この話は緊張した状態から、急に弛緩状態に切り替わった場合は、元に戻すことは至難の業であると言われている。気を緩めたときに相手の反撃にあい、これではいけない。緊張感を取り戻そうと思った時にはすでに時遅しということになる。これは自律神経でいうと交感神経優位だったものが、急に副交感神経優位のリラックスモードに切り替わったということです。これを短時間で切り替えられるように人間の体はできていないのです。こうなると勝敗に大きな影響を及ぼすことがあります。それだけではない。風邪もひきやすくなる。思わぬケガもしやすくなる。最後まで緊張状態を保つことが大事になります。勝ちを確信して気を緩めてしまうのは最も危ない。さらに、レースが終わったあとも、ソフトランディングを心掛けて、緊張状態を徐々に緩めていくことが大事です。そしてアフターケアを忘れないことです。
2022.05.13
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神経症に陥ると不安にとらわれて、不安は大きく膨みます。イライラして苦しくなります。生活の悪循環が始まります。不安は憎むべき相手となります。でも人類の進化の過程で、不安という感情が淘汰されなかったのは、人間が安全に生き延びていくために必要不可欠なものだったのではないでしょうか。今日は不安が果たしている役割について考えてみたいと思います。不安が湧き上がると、その原因を特定して除去しようとします。除去できないときは、安全なところに逃避することを選択します。でも不安は心身の安全を確保するために必要なものです。誰でも敏感に反応するようになっています。特に神経質者はその機能がより繊細です。不安の特徴は、注意や意識を一点に集中させるということだと思います。不安が湧き起こらなければ注意や意識を集中させることはないと思います。これが大きな意味を持っているとみています。例えば自動車を運転している時を思い出してみましょう。交差点に入って右折する時、ウィンカーを出します。横断歩道に歩行者はいないか。対向車はいないか。時には市電が近づいていないか。さらに信号は青色か、黄色か、赤色か。赤色でも青の矢印が点灯していないか。青色で右折を敢行する時は、さらにその先の交差点に人はいないか。遠くから近づいている自動車のスピードなどにも注意を払っています。自動車を運転する人は誰でも道路交通法の知識があります。そして過去の沢山の経験が活かされています。これはワーキングメモリーと言います。これらをすべて統合しながらスムーズに右折することができるのです。このとき精神は適切に右折をするために緊張しています。注意や意識は事故を起こさないように集中しています。不安があるために、神経を集中せざるを得ない状況になっているのです。不安があるときはノルアドレナリンの防衛系神経回路が作動している時です。防衛系神経回路は、心身を守るために注意の一点集中が起きているのです。これは仕事を間違いなくこなしていくために必要なことです。ですから、防衛系神経回路は「仕事脳」と呼ばれています。「仕事脳」は精神の緊張、集中力を生み出します。その結果、よりよい仕事ができているのです。ここで不安がない状態のときはどうなるでしょう。例えば、飲酒運転の場合です。意識は朦朧としています。当然緊張感もなく、不安も湧き上がってきません。これはとても危ない状況です。こんな状態で運転をしてはいけませんね。注意や意識を集中させて行動しなければいけないときに、脳がその役割を果してくれないからです。このように見てくると、不安が発生すると、注意や意識が一点に集中されて、うっかりミスを防いでくれているということが分かります。ですから不安を忌み嫌うことは、ピントがずれているということになります。森田療法は不安の存在を大いに評価して、無二の親友として取り扱っています。不安は生活の中で刻々と変化しながら次々と発生しているものです。不安の役割と、不安と欲望の関係をしっかりと理解して、生活の中に活かしていくことが大切になると思っています。
2022.05.11
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アラビア半島に「ガリラヤ湖」と「死海」があります。この二つの湖はヨルダン川の水を蓄えています。最初は「ガリラヤ湖」に流れ込みます。そこからでた水が「死海」に流れ込んでいます。「死海」からは一滴の水も流れ出ることはありません。周囲の光景は対照的です。「死海」は魚が1匹も住んでいません。「ガリラヤ湖」の周りは緑も豊かで、たくさんの魚が泳いでいる。鳥たちも飛び回っています。この対照的な湖の違いは、流れ込んできた水が出て行くかどうかにあります。新しいものを取り入れたら、それに見合うものを外に吐き出して初めて命あふれる湖として機能するということではないでしょうか。テレビで時々ゴミ屋敷に住んでいる人が出てきます。近所から廃品を持ってきて家の周りに積み上げています。ネズミや虫が住み着いている。異臭がして、道路にもはみ出して、景観が悪い。近隣住民と絶えずいざこざを起こしています。先日マンションの引っ越しがありました。その方は、空き缶やペットボトル、食品の包装紙など可燃ごみとして出さずに、全部家の中にため込んでいる人でした。自分では処分できず、業者に頼みましたが、全部片付くのに二日かかりました。業者によると足の踏み場もないほどゴミであふれていたそうです。その人はうつ状態でほとんど家から出ることがない人でした。新しいものを買ったら古いものは処分する。捨てるだけではありません。欲しい人に差し上げて活用してもらう。本、家具、電化製品、衣類でもリサイクル業者がいます。買取価格はつきませんが処分するとすっきりします。誰でも引越ししたときは、スペースが十分ありますが、そのうちものであふれてくる。そして使わないもの、決して再び着ることのない服、使うことのない靴、鞄、小物、読むことのない本などで一杯になります。人間でいえば、血管の中にコレステロールなどの不要物が詰まり、血液の流れを悪くしているようなものです。脳血管障害、心臓病の原因になります。私たちが問題にしている不安や恐怖などの感情の取り扱いもそうだと思います。一つの不安にとらわれて、取り除こうとするやり方はまずいいと思います。行動することで事態の改善につながる不安は、すぐに手を付けて処理する。神経症的な不安はそのままにする。何しろ欲望の反面で湧き上がってきているものですから手を付けない方がよい。時間の経過にまかせて、次の不安に飛び乗っていく。谷を流れる水のように、勢いよく流していく。この方法が正解であると森田理論学習の中で理解しました。お城の堀の水のようにため込んでいると、藻が湧き、水が濁り、細菌が増殖します。このコツを会得するのが森田理論学習だと思います。
2022.04.19
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森田理論には「生の欲望」というのがあります。欲望というのは暴走しやすいので、「欲求」という人もいます。今日のテーマは、欲望や欲求が脳の中でどのようにして生まれるのか。そして欲望や欲求とどのように付き合うべきなのかです。欲望には生理的・現実的な欲望と観念的な欲望があります。まず生理的・現実的な欲望とは何か。おなかがすいたので何か食べたい。喉が渇いたので水を飲みたい。眠りたい。住む家が欲しい。自家用車が欲しい。便利な家電が欲しい。暑いので体温を下げたい。寒いので温まりたいなど。この中から「食べたい」という欲求はどのようにして生まれるのか。人間には不足すれば元に戻そうという仕組みが備わっています。このことを恒常性維持(ホメオスタシス)と言います。栄養不足になれば食べ物を摂取して解消しようとしているのです。多すぎる場合は、抑制して元に戻そうとしているのです。恒常性維持機能はバランスの維持ということになります。バランスの維持は森田理論の大きなテーマとなっています。人間の活動源は糖分です。脳のエネルギー源も糖分です。糖の原料となる炭水化物の摂取はとても重要です。血液中のグルコース(糖分)の濃度が一定に保たれているかどうかは生死にかかわります。ですから人間には血糖値を24時間休みなく監視するシステムが備わっています。生存脳と言われる「視床下部」で監視してコントロールされているのです。この視床下部の中に隣接して満腹中枢と空腹中枢があります。ここにはグルコース感受性ニューロンとグルコース受容ニューロンがあります。血糖値が下がれば、血糖値を上げるために食欲を出すように指令を出しています。逆に血糖値が上がれば、血糖値を制御するために、食事を制限しようとします。サーカスの綱渡りのように微妙なバランスをとりながら生活しているのです。人間の食欲という欲求は、視床下部で生み出されていると言っても過言ではありません。欲望というのは脳のシステムとして生み出されていると理解した方がよいようです。これは他の生理的欲求についても同様です。次に「観念的な欲望」を見ていきましょう。これは三重野悌次郎氏が分かりやすく説明されています。観念的な欲望は人間が言葉を操るようになって出てきた欲望です。ですから人間に固有なもので、動物にはありません。生理的・現実的な欲望は目標を達成すればすぐに消えます。だが観念的な欲望はそうはいきません。自分は腹いっぱいでも、人がうまそうな果物を食べていればそれを欲しいと思います。観念的な欲望は真に充足することがありません。仏教で餓鬼(がき)というのは、食っても食っても満腹することがなく、常に飢渇に苦しむそうですが、観念のとりこになった人間を象徴しているようです。動物はグルコースの濃度が元に戻れば、それ以上に食べようとはしません。ところが人間の場合は違います。「観念的な欲望」があるからです。観念的な欲望は、意識しないと、恒常性維持という心身の仕組みを無視して、利己的、攻撃的、暴走しやすいという特徴があります。欲望が暴走するととても厄介なことになります。食べ物でいうと、これは絶品だと思うと、生理的には十分に間に合っているのに、いつまでも食べてしまう。飽食三昧ということになります。食べ過ぎは体重が増加することになります。血糖値が高いと血管を詰まらせ、内臓を痛めます。特に飽食三昧で急激に血糖値を上昇させることの弊害は大きい。血糖値が上昇し過ぎるとインスリンの力で抑えにかかります。それが急激に行われると、今度は一時的に低血糖を招くことになります。高血糖と低血糖が大きな大波となって身体を襲います。最後に調整がきかなくなって糖尿病にかかります。深刻化すると内臓の障害を招いて人工透析するようにもなります。観念的欲望は、私たちの生活を豊かにし便利にしてきました。人間の文明や文化はこの観念的な欲望によって発達したとも言えます。しかしその反面で観念的な欲望が暴走して、争いや競争の絶えない人間関係や不平等で生きづらい社会を作り出してきました。しかし観念的欲望持つようになった人間は、その進化に逆行して言葉のない世界に戻ることはできません。現代人がバランスを維持するためには、暴走する欲望を意識して止めるしかありません。欲望は生理的・現実的な欲望を第一優先順位とする。観念的な欲望は第二優先順位として、それが暴走しないように絶えず意識して自制する。むしろ抑制的で謙虚な姿勢が人類に求められているのだと思います。森田を勉強した今では「少欲知足」「吾唯足知」「地産地消」「自給自足」「ないものねだりをしないで現在持っているものやあるものを活かす」という考え方になってきました。この方針で今後も生きていきたいと思っております。2つの欲望については、「森田理論という人間学」(三重野悌次郎 白揚社 128~137ページ)に詳しく書いてあります。その他欲望を抑える生き方として、良寛、老子、加島祥造、中野孝次、井形慶子さんの図書が参考になりますので推薦いたします。
2022.03.26
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加島祥造さんは大学で英米文学を教えておられたが、1995年より一人で信州の伊那谷に転居された。そして毎日詩作や墨彩画を行っているという。どうして冬しんしんと冷え込む寒いところに移り住まれたのだろうか。加島さんによると、欲望を求め続けると、欲望が暴走してしまうといわれる。ここでいう欲望とは、お金儲け、物欲、地位、名誉のことだ。現代人はそれらがパンパンに張った状態を目指している。それでも飽き足らず、さらに加速して追い求めるようになっている。欲望が暴走すると歯止めが効かなくなる。自重したくても、自分の意思でコントロールできない。鍋に飛び込んだカエルが温泉気分で温まっているうちに、いつの間にか茹で上がって命を失ってしまうようなものだ。暴走をくり返す人生は、人様に迷惑をかけて、最後に後悔するようになる。森田理論では人間には「精神拮抗作用」が備わっているという。欲求や欲望が生まれてくると、それを制御する感情も同時に湧き上がってくる。それが不安、恐怖、違和感、不快感といったものです。それらを活用して欲求や欲望の暴走を制御することが肝心であるという。車のアクセルとブレーキの関係と同じだ。サーカスの綱渡りのようにバランスを意識することが大切になる。宇宙の森羅万象をつぶさに観察すると、すべてはバランスの上に成り立っている。人間の心身もバランスをとることで存在が許されている。欲望が暴走すると、猪突猛進で双極性障害の躁状態に追い込まれる。なんでも人間の思い通りにコントロールできるかのような錯覚に陥る。実際はそんなことはない。もしそう思っているとすれば、人間の思い上がりである。欲望と不安のバランスを無視すると、欲望が加速度をつけて暴走する。飛行機が離陸するとき、ある一定の速度に達すると、途中でやり直すことは不可能になるという。そのままの状態で飛び立たないと滑走路を飛び出して大惨事が起きる。人間の欲望の暴走もそれと同じことが起きるということだ。その結果、人類そのものが延命できなくなる。加島さんの生き方は、欲望の暴走の危険性を指摘されているのだと思う。欲望は常に不安を活用して抑止する必要がある。バランスや調和を意識する必要がある。それを自ら実践されていると思う。加島祥造氏の「求めない」「老子と生きる谷の暮らし」「タオ 老子」などの本を読むとそのことがよく分かる。私たちもせっかく森田理論で精神拮抗作用のからくりを学習したのですから、これを実生活の場で活用しないといけないと思います。その方向が人類が延命できる道につながります。森田理論の考え方は普遍的な考え方です。世界中の人が学んで実行しなければなりません。
2022.02.28
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1月号の生活の発見誌にこんな記事がありました。この間、テレビインタビューで、剣劇女優で有名な浅香光代が出ていました。話を聞いていて、たいへん感心したことがあります。あの人は、4、5歳のころから舞台に出ているそうで、もう半世紀を舞台で生きてきたんですね。つい最近、左足の膝をケガして、まだ完全に治っていないのに、どうしても舞台に立たなくてはならなくなった。延ばし延ばししてきたスケジュールが、これ以上は延ばせなくなった、というのです。やむをえず、車椅子で大阪に行き、その舞台に上がった。体当たりですね。そうしたら、踊ることができた。曲がらない膝も曲がったので、自分でもびっくりしたとのことです。絶体絶命の境地に自分をおくと、計り知れぬ力が出る、ということを教えてくれる体験ですね。無理だと思っていたのに、思い切って行動してみたら、意外にもうまくいったという経験は多くの人がお持ちなのではないでしょうか。生活の発見会では、慢性疼痛や慢性アトピーで悩んでおられる方がいます。たとえば五十肩ですが、肩が痛いと憂うつになります。そうなるとそこに神経を集中させて、この痛みを取り除かないと、日常茶飯事に支障が出る。そのうち食事の準備もできなくなってしまう。心配の種はどんどん深刻になります。こうなりますと、元々の痛みは5ぐらいだったものが、6にも、7にも増悪してしまうよう感じるようになります。悪循環の始まりとなります。自分が新たな痛みを作り出しているようなものですね。慢性アトピーに森田療法を取り入れておられる女医さんの話を聞いたことがあります。最近は優れた薬があるそうですが、それをもってしてもなかなか治らない。そういう人に、森田療法を取り入れて、慢性アトピーを持ったまま、生活面の充実を図ることで、アトピーの方も快方に向かうことがあるとのこと。慢性アトピーの人も、知らず知らずのうちに病気を悪化させていたのかもしれませんね。アトピーは、基本的には自律神経でいうと副交感神経が優位になっているそうです。交感神経とのバランスが崩れているといわれています。交感神経は緊張感を持って生活に取り組んでいくと、活性化してきますので、生活面の充実を図ることで、病気も沈静化してくるということかも知れません。手術するほどの痛みでなければ、浅香光代さんのように、痛みを持ちこたえたまま、注意や意識を目の前の日常生活や趣味や楽しみのほうに向けて行った方がよほど意味があるということになります。病気も軽快し、生活も活性化してきますので、一挙両得ですね。
2022.02.20
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森田先生のお話です。「何ごとにもとらわれる心」は、同時に「何ごとにもとらわれない心」でありまして、「心は万境に随って転ずる」ことになるのであります。なおここでいうとらわれとは、広くいえば「注意の集中」であり、せまくいえば「注意の固着」であります。心配症の人は、「とらわれる」という言葉は、あまりよい印象がありません。「とらわれる」ことによって、不安、恐怖、イライラ、不快感が襲ってくるからです。でも「とらわれる」ことをなくすることはできません。仮になくすることができたとすれば、無鉄砲な行動で自分の命や社会的な地位、人間関係がすぐに破綻に追いやられます。「とらわれる」ことは、人間の進化の過程で淘汰されずに残されてきたことに思いを馳せる必要があります。「とらわれる」ことは、人類が生き延びるために必要なものだったということです。でも高性能レーダーようなものを兼ね備えて、小さなことにもことごとく「とらわれてしまう」ことはなんとか改善したいと思っています。森田先生は「とらわれたとき」に注意を集中させてはいけない。注意を固着させてはいけないといわれています。そんなことをすれば、天気のよい日に拡大鏡を持ち出して、テッシュや新聞紙の上に太陽の光を一点に集めるようなものです。すぐに炎上してしまいます。そのままにして他のものに燃え移ると大火事になります。以上をまとめると、「とらわれる」ことはどうすることもできない。あるがままに受け入れていくしかない。つぎに「とらわれ」は、ここに問題がありますよ。ここに解決すべき課題がありますよと教えてくれています。あるいは、好奇心や興味が存在する場所を教えてくれています。それをありがたく受け取りすぐに行動に結びつけていく。これが一つの方向です。対応可能で事態が改善に向かうものではこの方向で努力する。それ以外の「とらわれ」(神経症的な不安や不快感)は、あまり深くかかわらないようにする。谷間を勢いよく流れる小川のように速やかに流していくように心がける。そして次々と目の前に現れてくる「とらわれ」に飛び乗っていく。これは「とらわれ」は間断なく現れては消えているということです。2つを比べたとき、こちらの方が本流だと森田先生は言いたいのでしょう。森田のキーワードに「無所住心」という言葉があります。心はどんどん移り変わっているので、集中や固定はできない。またそうしようとしてはいけないということだと思います。そういう意味では鴨長明の方丈記が参考になります。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
2022.01.29
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昨年行われた第38回森田療法学会に参加した。今回はコロナ禍のため、web開催だった。このやり方が私としては参加しやすいと感じた。この中でご紹介したい論点がいくつも見つかった。今回中村敬先生の講話に刺激を受けたことを取り上げてみたい。不問についての考え方である。もちろん症状不問のことである。高良武久先生、鈴木知準先生、宇佐玄雄・晋一先生の考え方を比較しておられた。3人の中で不問を一番強調し、徹底されているのは宇佐先生である。症状を口にすることはご法度である。言葉で理屈を述べるものは治らない。今現在、瞬間に打ち込みことで頓悟に至るといわれる。臨済禅の影響が大きいといわれていた。その次は鈴木知準先生で、同様に症状不問を重視されている。作業療法を行うことで、不安の濃度を希釈していく。作業療法で全治に至るのは、平均27.6ケ月かかるといわれる。最終的には飛躍があるといわれる。漸吾から頓悟に至る。高良武久先生は、症状不問はほとんど強調されていない。時間をかけてタマネギの薄皮をはがすようにいつの間にか治る。神経症の治り方は漸吾となる。理論と実践の相互作用で治る。高良先生は普通の生活が戻り、適応障害が緩和すれば神経症の克服と判定される。不安や恐怖を完全に取り除くという考え方ではないようだ。森田に精通された先達であり、素人が軽率に口をはさむことではないかもしれない。ただ「症状不問」については、生活の発見会でも様々に議論されていることもあり、ここで私見を述べてみたい。森田先生は、「あるがまま」になろうとしては、すでに「あるがままではない」といわれる。つまりことさら「あるがまま」を強調するような態度は症状克服から離れてしまう。「あるがまま」という言葉を口にすることで、心の奥底に症状を治したいという気持ちがどうしても入り込んでしまう。それが抵抗となって症状克服を拒んでしまう。それはケガをしたときにかさぶたができますが、そのままにしておくとかさぶたが取れてケガが治ります。しかし、本当に治っているとどうか確かめようとして、かさぶたをはがして治り具合を確かめようとしていると、いつまで経ってもケガが治らない。むしろ雑菌が入り悪化してくる場合もあります。「症状不問」という言葉にもそういう面が多分に含まれているのではないか。一心不乱に実践・行動していたら、症状のことは一時的に忘れていた。そういう場面を多く積み重ねていけば、頭の中の大半を占めていた神経症のことは比重を下げていく。そこに「あるがまま」「症状不問」という言葉が入り込む隙間がなくなっている。あえて理論的にすっきりと整理したいというのでしたら、次のように理解するとよいのではないか。症状で苦しいという状態は、それに対応した欲望が大きいということになります。森田理論学習では、不安と欲望はコインの裏表の関係にあるといいます。「症状不問」を問題にしている場合は、不安、恐怖、違和感、不快感のほうに意識や注意が向いています。それに伴い生の欲望の発揮の方への取り組みが不十分になりやすい。私は「あるがまま」「症状不問」をことさら強調されている人の、日常生活を注目してみるようにしています。規則正しい生活、凡事徹底、物そのものになる、生活を楽しんでいる、手足がよく動いている、自分でなすべきことを人任せにしていない、人間関係の幅が格段に広がっている、生きがいを持った生活を送っている。そういう人が、時たま自分の生活を振り返って、結果として「あるがまま」「症状不問」の生活になっていると発言されるときは、素直で謙虚な気持ちで受け入れることができるのです。そういう裏付けを持ったうえで、使用すれば何ら問題はありません。不安と欲望の調和は森田理論が目指しているところです。
2022.01.12
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昨日の続きです。今日は3と4の悪循環の打破を考えてみましょう。3、人間関係における本音と建前の悪循環をどうやって断ち切るか。自分の素直な感情、気持ち、意思、欲求を優先的に扱うことです。これが優先順位の1位にこなければなりません。他人に対する思いやりの気持ちはその次に考えることです。人間関係の悪循環を断ち切るためには、この優先順位を間違えないことです。これは他人を踏み台にした自己中心的な生き方になるのではないかという人もいます。でも考えてみてください。自分を大事にしない人が他人を大事に扱うことができるでしょうか。私は自分を大事にできる人が他者も大事できると思います。森田理論に「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」という言葉があります。これはそれぞれが元々持っている特徴、存在価値、能力、技術を再評価して、とことんまで活かしきるということです。それは、最初に自分が自分を最大限に評価できることが前提になります。自分がかけがいのない存在なのだと認めることができたとき、おのずから他人もかけがいのない存在だと認めることができるのではないでしょうか。石原加受子さんはこのことを「自分中心の生き方」と言われています。それに対して、自分を粗末に扱って、真っ先に他人の思惑に媚びる生き方は、「他人中心の生き方」だといわれています。これが葛藤や苦悩を生み出すのです。自分を粗末に扱って、人の思惑に振り回される生活は、自分の望むところではありません。そんなことをすると、一生涯つらくて苦しい人生になります。それは自分のアイデンティティが失われてくるからです。そんな生活に甘んじていいものでしょうか。早く足を洗わなくてはなりません。その他に人間関係の悪循環を断ち切る方法として、森田理論でいう「不即不離」を応用していくというのがあります。広くて浅い人間関係を幅広く築くことです。必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係作りを目指すことです。これを心掛けると、人間関係で一喜一憂することはなくなります。親密で狭くて濃い人間関係作りにあこがれる人が多いようですが、これは大変リスクが高い選択になります。これはできれば避けた方が賢明です。4、つぎに行動上の悪循環について考えてみましょう。人間は目の前の問題や課題、或いは目標や夢や希望に向かって、積極的に行動することを宿命づけられた生き物だと思います。その時は誰でも活き活きしています。行動することを控えて、考え事ばかりしている人は、人間の本来性から逸脱していると言えます。熟慮することはよいことですが、行動することを前提にしていないとまずいいと思います。考えるばかりだと、目標を見失ってさ迷うようになる。ハツカネズミが飽きもせずに糸車を回し続けるようなことになる。あるいは、壊れたGPSを使って航空機を操縦しているようなものです。また手足が動かないで、考えてばかりだと、プラス思考にはなりにくい。ネガティブで悲観的な先入観や決めつけ、レッテル張りをするようになる。自己嫌悪、自己否定的なことばかり考えるようになる。納得してから重い腰を上げるという人もいます。でも考えている間に状況はどんどん変化していきます。やっと納得したので、重い腰を上げようとしても、すでに状況が変わってしまっていることになりかねません。チャンスは前髪はあるが後ろ髪はないといわれます。チャンスを見逃して歯ぎしりしても後の祭りになります。行動しながら随時修正を加えるほうが理にかなっていると思います。他人の思惑にとらわれて、自己防衛に忙殺されて、やらなければならない事ややりたいことに手が回らないという人もいます。これは将棋でいえば専守防衛ばかり考えているようなものです。最後には必ず自滅します。攻撃と防衛のバランスをとることが大切になります。3で述べたように、自分の素直な感情、気持ち、意思、欲求を最優先にしないと、この悪循環にはまってしまうということになります。おっくう、めんどくさい、煩わしい、難しそうという感情は、人間である限り誰でも湧き上がってきます。ここで注意したいことは、気分本位に流されて、本来なすべき行動を回避してしまうことです。それは幼児並の対応になります。マイナスの気分に振り回されていると、ホッとするのは一瞬で、その後味気ない気持ちでみじめになるだけだと思います。そういう人は、嫌な気分を振り切って行動してうまくいった過去を思い出すことです。しぶしぶ行動したにもかかわらず、行動してよかったという経験は誰でも持っています。これをプルバックカー手法というそうです。過去の成功体験を思い出して、気分本位の態度を乗り越えることです。実践や行動によって、気づきや問題点の発見、或いは興味や関心が刺激されます。それらは、新たな目標を生み出します。モチベーションが高まりやる気に火が付くと、葛藤や悩みは吹き飛んでいきます。森田理論は、生の欲望の賦活が最終目標になると思います。集談会で不安を活用しなから生の欲望に邁進している人を見ると刺激を受けます。今度は自分もあの人のようになりたいという意欲が湧いてきます。
2021.12.01
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神経質性格者が陥りやすい悪循環は主に4つあります。悪循環とは、相対立する2つのものが相互に刺激し合って、今の心身の状態をさらに悪化させることを言います。そのループにはまり込んでしまうことを言います。蟻地獄の底に落ちてしまうと、自分の力では這い出すことが難しくなります。今日はこの4つの悪循環の中身についてみていきたいと思います。1、神経症が悪化して固着するときは、注意と感覚の悪循環があります。たとえば、踏切の近くに住んでいる人が、信号機の音が気になるとそこに注意を向けます。すると感覚が敏感になります。感覚が敏感になるとますますそこに注意を向けるようになります。嫌な感じを無くするために耳栓をする。二重窓にする。遮音カーテンを取り付ける。終いには引っ越すことを考えるようになる。これは神経症で蟻地獄に落ちていくときの典型的なパターンです。2、神経質者は、観念を優先する傾向が強いのですが、現実はその通りにならないことが多いのが実情です。むしろ考えたこととは反対の方向に向かうことが多い。制御不能な現実を目の当たりにすると、観念と現実のはざまでイライラするようになります。葛藤や苦悩でのたうち回るようになります。本来は観念の方が事実に寄り添っていく態度になれば問題は起きません。ところが神経症に陥ってしまう人は、事実が間違っていると断定して、事実を観念でコントロールしようとするのです。大きな認識間違いを起こしているのです。森田理論では、このことを「思想の矛盾」に陥るといいます。観念と現実の悪循環は神経症に陥る大きな原因になります。3、神経質者は、他人と対立することを嫌い、必要以上に他人の思惑を忖度します。そして、自分の素直な感情、気持ち、意思、欲求を二の次にしてしまうのです。本来これは両方とも大切なものですが、この2つの関係には優先順位があります。自分の態度を明確に意識して、それをもとにして相手と接触を図る必要があります。この意識が希薄になると、容易に相手にコントロールされるようになります。そこに葛藤や苦悩が生み出されていくのです。人間関係は自分の気持ちと相手の気持ちのぶつかり合いです。真剣勝負です。交渉事ですから、勝ったり負けたりします。それでも妥協点を求めて話し合うという態度が必要になります。これが逆になっていることが問題なのです。つまり自分をないがしろにして相手の思惑を最優先している人が多いのです。仲間として認めてもらうためには、自分勝手な行動をしてはいけないと思っている。そのために自分の素直な感情を常に抑え込んで生きている。本音を抑圧して、建前を前面に押し出して生きているような感じになります。本音を抑圧すると、自分の人生を生きているという感じが持てなくなります。いつも他人の意向に振り回されて、右往左往するようになります。本音と建前の乖離が拡大してくると、人と付き合うことが苦痛になってきます。自分の殻に閉じこもって、好きなことをしている方がよほど気が休まる。でも人間は社会的動物ですから、全く他人との関係を断つことはできません。人間関係における自分の本音と建前の悪循環は苦しみをもたらします。4、神経質者は、弱点や欠点、ミスや失敗を恐れているために、どうしても積極的な行動ができなくなります。また、気分本位になり、しんどいこと、面倒なこと、難しい事を避ける傾向があります。逃避すると一時的には楽になりますが、課題や目標に向かうという人間本来の生き方を放棄しているので、生きることがむなしくなってきます。そうなりますと、物事や外に向かうべき注意や意識が、行き場所を失って内へ向かってくるのです。自分を攻撃するようになります。森田ではこれを自己内省化と言います。自己内省化は元々大切なものですが、これは意識や注意が外向きになっている時に威力を発揮します。自己内省ばかりというのは、むしろ弊害が多くなります。そこで頭に浮かぶことは、自己嫌悪や自己否定的なことが多くなります。救いようのないダメ人間と決めつけてしまうと、益々行動上の悪循環に拍車がかかるようになります。動くことをやめると、すぐに心身の廃用性委縮が進行します。そしてこれはまずいと気づいても後の祭りです。これらの4つの悪循環に陥らないように、常に警戒しながら生活を送ることが人間の務めです。そのときに森田理論の考え方は強力な味方になってくれるものと考えます。この4つの悪循環に陥らないために、具体的どんなことを心掛けるとよいのかについては、明日の投稿で考えてみたいと思います。
2021.11.29
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生活の発見誌10月号から森田先生のお話の引用です。私はいま茶碗や時計やいろいろのものを置いた枕台の前に立って、皆さんにお話ししています。そして私はいま、「この台はあぶない」ということにとらわれながら、話の仕方の工夫にもとらわれています。もし私が、自分のうしろにある枕台のことを忘れたならば、かならず何かの拍子にそれを蹴とばし、茶碗や時計をこわしてしまうことでしょう。つまり、現在の私は、この枕台と話の工夫との両方にとらわれています。くわしくいえば、注意のリズムにしたがって、両方に交代にとらわれているのです。それは私どもの心の自然の動きでありまして、とらわれようと努力してもとらわれることはできないし、とらわれまいとはからってもそれはできないのであります。この話は、心配ごとや不安は次々に湧き上がってくるようになっています。千変万化、変化流動しているのです。その流れに乗って生きていくしかないのです。決して数多い心配ごとや不安を一つに絞るということはできません。いくつもの気になることが同時並行的に頭の中を駆け巡っているというのが真実です。神経質性格者は、発揚性気質などの人から見ると、より多くの心配ごとや不安が湧き上がってきます。心配ごとや不安は問題や課題を突き付けてことごとく解決を迫っているように見えます。それをいちいち処理しないと次のステージに進むことはできないと考えていると、心配ごとや不安は実に厄介な代物のように思えてきます。自分を脅迫してきますので、ストレスが溜まります。生きづらさを感じるようになります。森田理論は心配ごとや不安を一つに絞ってはいけない。いくつも抱えている状態が自然であり、生活がスムーズに回転していくようになる。森田理論に「無所住心」というキーワードがあります。これは昆虫が絶えず触角を四方八方に動かしながら、周囲の変化に臨機応変に対応しようとしています。私たちもあまりにも猪突猛進ではなく、周囲への目配りが必要ということです。神経症に落ち込む人は、例外なく心配ごとや不安を一つに絞り、それを精神交互作用によってどんどん増悪させています。この弊害は身をもって感じています。このことを上手に表現した川柳があります。「神経症 とらわれ以外は 大雑把」「神経症 とらわれ以外は 蚊帳の外」「神経症 とらわれ以外は 無神経」自分の神経症のことで頭のなかが一杯の人は、心配ごとや不安の数を増やして、その比率をどんどん下げて行けば、簡単に症状から解放されます。
2021.11.19
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元中日ドラゴンズの山本昌さんのお話です。投手の場合、投げるほうの腕は直して構わないが、反対側は絶対にいじってはならない。僕のようにサウスポーであれば、右の腕や体側をいう。反対側を「壁」と僕は呼ぶのだが、壁は放るときのタイミングに影響してくるからだ。投げるほうの手の位置や角度は何度でも変えてかまわないが、壁を変えてしまうとフォームがガタガタになってしまう。放るほうの腕を「家」とするなら、壁は家を支える「土台」と思っていただければいいだろう。壁がしっかりしていると、狙ったラインに乗れる。オーバースローだろうが、サイドスローだろうが、投げる腕は関係ない。ところがフォームの改造でコーチに「壁」をいじられたり、「壁」に影響が及ぶような指導をされると、身体がラインに入らなくなってしまう。サラリーマンも人それぞれ、仕事において土台があるはずだ。その土台は経験であったり、スキルであったり、人や職種によって違うだろう。大切なことは、仕事のやり方において「変えていいもの」と「変えてはいけないもの」とを峻別し、そこにこだわり続けることだ、と僕は考えている。(継続する心 山本昌 青志社 118ページ)投手として大成した人は卓越した人生観を獲得されているように思う。これは森田理論でいうと、不安に対して、その解消に向けて積極的に行動した方がよいものと、不安に対して決してどんなに苦しくても完全服従しなければならないものがあるということだと思います。まず、その2つをきちんと峻別することが肝心です。不安に対して積極的に行動しなければならないものは何か。放置しておくと、将来深刻な問題を引き起こすことが予想されるものです。これは身近なものですから比較的すぐに気づきます。個人の問題としては、健康の問題や経済的な自立の問題があります。子供のしつけや教育の問題も抱えています。社会の問題としては、まず自然災害があります。毎年繰り返されている集中豪雨、地震や津波があります。雷やスズメバチの被害もあります。コロナウィルスもあります。世界的な人口増に伴う、食料不足が予想されています。オレオレ詐欺やワンクリック詐欺のようなものもあります。あおり運転による交通事故もあります。外国からの侵略も現実味があります。武力以外にも、外交・金融・経済面の侵略があります。温暖化や環境問題もあります。政治や外交、デフレ経済の脱却の問題もあります。人類については、資本主義の欲望の暴走の問題もあります。その結果、貧富の差が拡大しています。これらは見て見ぬふりをしていると、最後には自分たち自身や子孫が苦境に立たされることになります。そうならないためには、その事実を十分に把握し、みんなで協力して、立ち向かっていくことが不可欠です。完全服従しなければならない不安とはどんなものか。それは神経症的な不安です。欲求や欲望を持つと、必ず不安や恐怖が湧き出てきます。自然現象です。森田理論では欲望と不安はコインの裏腹の関係にあって一体であるといいます。その片方の不安だけをことさら大きく拡大してしまうことは問題です。不安は生の欲望の発揮にあたって、注意信号を点灯させてくれています。それを活用して欲望が勝手に暴走しないように気を付けて行動してくださいねと知らせてくれているのです。ここでの不安は戦うべき相手ではありません。むしろ強力なパートナーとして存在しているのです。車でいえばアクセルに対してブレーキの役割を果たしてくれているのです。私たちは生の欲望に向かって突き進むことが大切ですが、その際行き過ぎないようにブレーキという機能を活用させていきましょうということなのです。ですから、ここでの不安を敵対相手とみなしてはいけません。そんなことをすると不安の逆襲が待っています。強迫観念という逆襲です。ここでの不安は感謝する相手となります。手を携えてともに協力し合うべき相手です。神経症に陥ると不安を憎い相手とみなして無き者にしようとしています。こういうことを繰り返していると、神経症は治ることは不可能です。さらに問題なのは、生涯にわたり生きづらさを抱えてのたうち回るようになることです。このからくりを森田理論学習で理解して、不安との関係を改善してほしいものです。
2021.11.16
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シンクロの優れた指導者である井村雅代さんのお話です。ビジネスのグローバル化が言われて久しいですが、世界で闘ってきた経験から言うと、今のままでは日本人は勝てません。必ず負けます。私は中国とイギリスで代表監督として指導してきましたが、彼女たちは自分の考えをはっきり言います。「先生はこう言ったけれど、私はこう思う。だからこうしてみた。見て!」それに対して、やっぱり私の言ったやり方のほうがいいと言えば、「残念、私のは駄目か」と言って引き下がります。納得できなければ、納得できるまで聞いてきます。自分の言ったことが否定されても、それは自信喪失につながりません。否定されたのは、「言ったこと」であって、自分の人間性が否定されたわけではないことがよく分かっているからです。一方、日本の若い人は、自分の考えを言うこと自体が少ないですし、言ったことが否定されたら、自分の人生まで否定されたかのように自信を失います。なぜこうも違うのかと考えると、やはり日本が豊かで平和であるからでしょう。特に自分が何かを主張しなくても生活に何ら支障はありません。何も言わなくても損をしないし、言わなかったことを後悔することもない。中国では、自分が主張しなければ、存在意義がなくなり、居場所がなくなります。自分を認めてもらうためには常に主張し続けなければならないというような環境で育ちます。(結果を出す力 井村雅代 PHP 118ページより引用)中国の選手は、自分の考え、気持ち、意思、感覚、感情をしっかり持っている。その方向で自分の立場、立ち位置をはっきりさせようとしている。それがなければ何も始まらないという気持ちがある。つぎにそれをコーチに向かって説明しようとする。実際に試してみて、結果が出なければ、その時点でコーチの指導を受け入れる。日本の選手は、コーチの指導に対しては絶対服従という考え方が強く、自己主張を前面に押し出すことが少ない。自分の考え、意思、感覚、感情があっても、それを抑圧しているように見える。心の中で、「こうしたい」「こうした方が良い結果につながるのでは・・・」と思っても、コーチに伝えることがない。自分の感情や気持ちを抑圧して、相手に合わせるということが美徳と考える風潮がある。こうなると本音と建前が食い違うということになります。本音を軽視・無視すると脳の中では大変なことが起こります。やる気の脳といわれる側坐核や前頭前野の働きがお休みするようになるのです。笛吹けど踊らずという状況になるのです。ここが活性化しないと、やる気に火が付きません。実際にはドパミンの分泌が抑えられてしまいます。そうなりますと、いくら建前で自分を叱咤激励しても、積極的な行動にはならないのです。行動するときは、まずは自分自身の本音を聞いてみることです。本音から出発するとやる気に火がついて、モチベーションが高まります。その本音を前面に押し出して、相手が押し出してきた建前と交渉を開始していくのです。本音の部分がない、抑圧しているということは、悲劇的な展開につながることを考えておく必要があります。
2021.11.09
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不安に対しては次の2つのことをよく理解して、行動することが大切です。1、欲求、欲望、挑戦、行動、目標達成に伴って発生してくる不安に対しては、ありがたく受け止めるくらいにして、かかわりを持ちすぎないようにすることです。引っ付きすぎず、離れすぎずの「不即不離」の関係を維持する。注意や意識はつねに対象物に向けて、いかにして成果を上げるか、結果を残せるかに注力する。欲求、欲望、挑戦、行動、目標達成を第一優先順位として、取り越し苦労し過ぎないようにする。一番悪いパターンは、本来の目的をすっかり忘れてしまい、いつまでも不安と格闘を始めることです。ここで出てくる不安は、人間は誰でも「精神拮抗作用」が標準装備されているのだと理解しておけばよいのです。「精神拮抗作用」とは、欲求や欲望などを意識すると、かならずその反動として、それに向かう気持ちを抑制する感情も同時に湧き起こるようになっているということです。もしこの機能が壊れていると、行動は双極性障害の「躁」状態のようになります。調和が崩れて、問題発言や問題行動だらけになります。困ったことになります。バランスのとれた人間ではなくなります。この関係は自動車のアクセルとブレーキの関係として理解しておくと分かりやすいと思います。アクセルを踏み込んで車が動き始めないと、決して目的地に到着することはできません。その時、坂道やカーブや交差点に差し掛かったら、ブレーキを臨機応変に活用してスピードを加減しなければ事故になってしまいます。アクセルを踏み込むことが第一優先順位です。ブレーキはスピードを、臨機応変に調整するために活用していくようにすればよいということです。2、不安に対して次のような理解も重要です。不安に対応していないと、近い将来不都合なことが起きる。自然災害や経済破綻が起きる。生活難に陥り、生き延びることができなくなる。あるいは現在表面化している問題が、ますます拡大してくる。自然や他者や他国からの侵略に対して、手をこまねいていては、自分や家族、国民の生活や国土が奪われてしまうかもしれないという不安です。ここで説明している不安は、欲求や欲望に伴って発生する不安とは種類が違います。すぐに手を打たなければ、大惨事に巻き込まれてしまう可能性がある不安です。不安はアラームを鳴らして、すぐに逃げるか戦うか決断しなさいと催促しています。この手の不安は、力を振りしほって、即座に対応していくことが大切です。自分一人では無理ならば、仲間と力を合わせてでも対応しなければなりません。以上をまとめてみると、神経症的な不安に対しては、不安との関係は「不即不離」を心掛ける。そうすれば、一方的に不安と格闘して、精神交互作用で、症状として固着することはないと思います。不安は私の友達である。行き過ぎないようにいつも私を見守ってくれてありがとうという気持ちになります。現実的に問題を起こしている不安に対しては、力の限り解決に向かって努力することが肝心です。ここで恐れおののいて、静観することは、事態は悪化の一途をたどります。気が付いたら取り返しのつかないことになっていたでは遅いのです。場合によっては、自分の生命を賭けてでも対応しなければなりません。その努力を怠れば、一時的には楽ができますが、いずれ後悔で苦しむことになります。暇を持て余し、生きる意義も見失ってしまいます。生きづらさを抱えたまま一生を送ることほどつらいことはないと思います。森田理論学習では、不安を抱えたまま、「なすべきをなす」ということを学びます。それは不安に対する一面的な見方のように思えます。不安を大局的に捉えると、このように2つの視点でとらえることができます。さらに、このことが理解できたら。実際の生活の中で、臨機応変に活用していくことが肝心です。
2021.10.03
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山本昌さんのお話です。悩みや心配事が仕事の足を引っ張るというのは、大いなる誤解か、言い訳である。「一病息災」という言葉があるように、努力を怠らなければ、悩みや心配事は1つや2つあった方が仕事はうまくいくのだ。僕の場合、故障をかかえ、「ヤバイかな」と心配しながら登板した時は、意外にいい結果が出ている。神経が「心配」のほうに集中しているため、緊張することを忘れてしまっているからだ。したがってリキむこともなければ、緊張に気持ちがうわずることもない。しかも不安を押して登板しているのだから、腹のくくりもある。好投する条件がそろうというわけである。(継続する心 山本昌 青志社 184ページ)神経症になるような人は、このようには考えないのです。不安を一つに絞って対応している。その不安を徹底的に退治しないと、我慢できない。つまり不安に対して「分散」の態度が必要なのに、それとは真逆の「集中」の道をひた走っているということになります。これは空に一点の雲もない日本晴れをイメージしているようなものです。でも現実にはそんなにすっきりした状況にはなれない。こういう人は、人間はいくつもの不安を抱えて、未練を残したまま、目の前の目的や目標に向かって前進していかざるを得ないのが宿命だと観念することです。その方が不安が皆無の時よりも、事がスムーズに進展していくということです。それはまったく無視することのできない課題がいくつもあるために、「注意の集中」が起きないためです。適度な「意識や注意の分散」がよい効果をもたらしているのです。でもどうしても一つの不安に振り回されてしまうという人は、森田理論学習をしてほしい。症状の固着に「精神交互作用」が大きく影響しているという部分です。それが理解できたら、さらに「不安と欲望」の単元もよく学習して欲しい。これによると不安は欲望の裏返しであるという。欲望が小さいときは不安も小さい。欲望が大きくなれば不安も大きくなるという。この関係は、本体と影の関係と同じである。天気のよい日に外を歩いていると影ができる。本体が移動すれば、影はどこまでもついてくる。その影を箒で履いて無くしてしまおうと考えるのは間違いということになります。影の場合はそんな馬鹿なことはしませんが、不安の場合はついそんな馬鹿げたことをしてしまうのです。不安は信号でいえば、欲望を追いかけている時に、黄色や赤信号を点滅させて注意喚起をしてくれているのです。後先考えずに欲望を追い求めていると、思わぬ不覚を取ることがありますよと親切に教えてくれているのです。不安に留意して慎重に行動すればよいのです。不安に一つ一つこだわって、対応していると、元々目指していた目的や目標を見失ってしまう。これは極めて恐ろしいことです。この点が問題になるのです。進むべき方向性を失うと、GPS機能が壊れた飛行機のような状態になります。目的地が分からなくなり、むやみに飛び回っているだけでは、不安はどんどん増幅します。人間は生きている限り、目的や目標から目を離してはいけないということだと思います。目的や目標を放置して、一つの不安に意識や注意を向けていると、精神交互作用によって、神経症という蟻地獄の底に落ちてしまいます。一旦神経症として固着してしまうと、地上に這い出すことはとても難しくなるのです。
2021.09.29
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森田先生はチャンスという神様には、前髪はあるが後ろ髪はないといわれています。たとえば、独身の人に素敵な彼氏や彼女が現れたとき、すぐに何らかのアクションを起こさないと、付き合うチャンスを逃してしまうということです。私もこの手の苦い経験をたくさん持っています。時すでに遅し。今更後悔してもどうしようもないでしょうということです。躊躇する原因は、人間にもともと備わっている「精神拮抗作用」のせいです。これは森田理論学習の中でも大切なキーワードとなります。ある考え方が湧き上がってくると、それに待ったをかける感情も同時に湧き上がってくるというものです。その二つの調和がとれていればよいのですが、神経症に陥るように人は、待ったをかけるマイナス感情のほうに振り回されているのです。この2つがバランスを欠いて、不安との格闘にエネルギーを投入する人は、神経症の蟻地獄へとまっしぐらということになります。2つのバランスを意識することは、天秤に同じ重りをのせて調和させるようなものです。森田理論学習はこの態度を身につける事を目指しているのです。バランスの維持を心掛けないと、人生はうまく回転しなくなっているのです。私は、森田理論学習によって、バランスの維持を理解し、実生活に応用しようとしている人や応用できている人を、「生き方マイスター」という称号を与えてもよいと考えています。こういう人は不安を邪魔もの扱いしてはいない。不安はありがたいものだ。自分が気がつかない、落とし穴や危険個所を教えてくれている。信号でいえば、黄色や赤信号の点滅に当たります。それに従って、仮に行動を起こす時は、なお一層、ゆっくり、慎重、集中を心掛けているのです。不安がなければ、ミスや失敗の頻度が格段に増えてきます。大きなけがをしたり命を落とす危険性もあります。あとで取り返しのつかないことをした人のことを、軽率な人と言いますが、そんな人は不安が頭に浮かんでこなかったか、いいかげんに取り扱った人です。不安の役割を理解している人は、不安の存在に感謝しています。不安は、欲望が暴走した時も、大きな抑止力を発揮してくれます。こうしてみると不安は無二の親友として、もともと仲良くすべき相手だったのです。共に手を携えて生涯助け合う存在なのです。不安を毛嫌いしていると、反対に不安の方からあなたを見放してしまいます。不安にも見放されるような人は如何なものでしょうか。他人から見放されることも辛いことですが、不安から見放されることも困りものです。不安を敵とみなしているわけですから、今度は不安の方が反撃を開始してくるわけです。不安は欲望がある限り尽きることはありません。コインの裏表の関係にあります。つまり不安と戦っても勝ち目がないということなのです。また、不安から逃げ回れば、不安のほうがどんどん勢いづいて追い回されるようになるのです。アフリカのサバンナで肉食獣に追い回される小動物のようなものです。哀れとしか言いようがありません。これを強迫観念と言います。森田理論学習では「不安と欲望」の単元はとても大事なところです。ここを正しく理解して、生活面に応用するという方向性を見失わないようにしたいものです。
2021.09.28
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森田先生の言葉です。ここでの療法で、その症状だけは、たんに苦痛もしくは恐怖そのものになりきることによって、治ることができるけれども、これが根治するのに、さらに欲望と恐怖との調和を体得することが必要であります。(森田全集 第5巻 112~113ページ)今日はこの言葉の意味を考えてみたいと思います。神経症を治すためには2段階の乗り越える壁があるといわれている。一つは、神経症的な不安や恐怖とは決して戦ってはいけないということである。対人恐怖の人でいえば、どんなに人の思惑が気になっても、その不安を無くしてしまおうとしないということです。あるいは予期不安ですぐに逃げたりしないということです。ものそのものになりきるというのはそういうことです。どんなに受け入れがたい感情が湧き起こっても、その不安を受忍していくことです。しかしこれは神経症の渦中にある人は、なかなか受け入れがたいことだと思います。私もそうでした。最初は実践課題を作ってそちらのほうに目をそらすことに取り組みました。それが軌道に乗ってきたので、今度は気が付いたことをすぐにメモして、一つ一つ片づけていくことに取り組みました。今考えてみると、「凡事徹底」に取り組んだのです。これは効果がありました。症状一辺倒だった生活に変化が現れました。日常生活や仕事が好循環し始めたのです。そして会社でも仕事ぶりを評価されるようになりました。ボーナス査定や昇進に結びつきました。私の場合は、これが第一段階の神経症の克服と言っていいと思います。普通はここで、安心して森田から離れる人が多いように感じています。本人が満足しておられるならば、それはそれで結構なことだと思います。私の場合は、それでは収まりませんでした。生活は好循環してきましたが、肝心の人の思惑が気になるという不快感は取れませんでした。生活や仕事が軌道に乗ってきても、行動が広がるにしたがって、対人不安がどんどん強まるように感じました。どうにかしないと、自分がダメになると思っていました。私がとった作戦は、「まな板の鯉になったつもり」「清水の舞台から飛び降りたつもり」をキャッチフレーズにして、人の思惑が気になるという問題を放置して、自分がやってみたいことに積極的に取り組んでみる事でした。トライアスロン、資格試験への挑戦、一人一芸の取り組みと老人ホームの慰問活動などでした。その結果はどうなったのか。対人不安はなくなりませんでした。しかし、大きな副産物がありました。対人不安に生活がかき乱されるということはなくなりました。大いに気にはなっているのですが、次の瞬間は、自分が現在取り組んでいることに意識や注意が向かっているという状況が訪れました。つまり頭の中を対人不安で100%占めていたのですが、比重が下がって、30%ぐらいになっていたのです。対人不安で辛いときもあるけれども、それ以上に人生を楽しんでいると思えるようになってきたのです。確かに対人不安にとらわれているのだけれども、それに振り回されて、生活が破壊されているという感じがなくなってきたのです。今考えるとこれが森田先生の言われている、欲望と恐怖の調和のことではないかと思います。私は対人不安にとらわれやすいという性格は治しようがないと思っています。人生を大いに楽しむことに精力をつぎ込んでいるうちに、少しくらい対人不安にとらわれても別に大きな問題ではないと思えるようになってきたのです。精神的にかなり楽になってきました。一旦そのような気持ちになると、これは一生ものだと思います。この感覚で人生という荒波を乗り越えて行けるという確かな自信を身に着けたのだと思っております。欲望と恐怖の調和というのは、難しい言葉ですが、私はこの言葉をサーカスの綱渡りの話として理解しています。サーカスの綱渡りでは必ず長い物干し竿のようなものを持って常にバランスをとっています。そして向こう岸に到達するために少しずつ前進しています。これは人間でいえば、欲望と不安のバランスを取りながら、生の欲望に向かって前進している姿とダブっているように見えます。不安だけに過度にとらわれてしまいますと、サーカスの綱渡りでいうとバランスを崩して大けがをすることになります。決してバランスをとることを忘れてはならないのだと思います。一言付け加えれば、森田の場合は、生の欲望の発揮を第一優先順位とする。不安を生の欲望が暴走しないように、制御機能として補助的に活用する。そして現実の問題や課題に対して、真摯に取り組む姿勢を堅持することが肝心です。
2021.09.20
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生活の発見誌の6月号に行動と症状の関係について分かりやすく説明してありました。車には前輪と後輪がありますが、後輪の方はコントロールできないんですね。前輪の方はハンドルを右に回せば右へ行く、左に回せば左に行く。だから、前輪はコントロールできる行動と心構え、後輪は症状とか感情とかコントロールできないもの。前輪をコントロールすれば、後輪は前輪についていくんですね。だから、間接的にですけれども、いずれ後輪は前輪についていくということです。そういうふうにして、前輪は「行動と心構え」、後輪は「症状とか感情」、こういう風にすれば分かりやすくなるかなと思います。感情は台風のような自然現象の一つですから、意のままにコントロールすることはできません。人間は天候などの自然現象は、素直に受け入れています。ところが、どういうわけか不安や恐怖などは取り除いてしまおうとします。不安や恐怖は、人間の意志の力でコントロールできると考えるのです。これは不安や恐怖の中身を、十把一からげに取り扱っているからではないでしょうか。これに対して、ラインハート・ニーバンは、不安や恐怖には変えることができるものとできないものがあると言っています。1、変えることができないものについては、それを「受け入れる冷静さ」を持ちなさい。2、変えるべきものについては、それを「変える勇気」を持ちなさい。3、そして、変えることのできないものと変えることができるものを「区別する智恵」を持ちなさい。生活の発見会が出している「森田理論学習の要点」の中に、感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできるものではありませんと書いてあります。たしかに、人前での緊張感、憂うつな感じ、不安感など、湧いてくる感情は人間性の自然であって、変えようと思っても変えられるものではありません。それをあえて変えようとして、悪戦苦闘した結果が神経症で苦しむことになるのです。この手の不安や恐怖には手を出さない。つつきまわさない。これが前提です。神経症は不安や恐怖との格闘を中断した途端、その日から治ると聞きましたがまさにその通りだと思います。さて、森田理論によると、不安や恐怖の裏には欲望が隠れていると言います。不安や恐怖を無くするためのエネルギーを生の欲望に振り向けることが肝心ですよというのが森田理論です。そうすれば不安や恐怖に振り回されることは無くなります。そして、欲望が暴走しないように、不安や恐怖を活用して、欲望を制御すれば万事うまく収まりますよと教えてくれています。理にかなった理論だと思います。ただし、すべての不安や恐怖をそのまま放置していればよいと理解してしまうことは早計です。不安や恐怖を察知したら、改善策や打開策を考えて、早めに行動に移すことが必要な場合があります。例えば、日本は災害が多い。地震、台風、土砂災害、火山の噴火などです。これらは不安を感じたら、ただちに身の安全を確保する対策を講じる必要があります。自動車保険、生命保険、火災保険、医療保険、地震保険などに入るのは、不安や恐怖があるからこそ手が打てるのです。万が一の災難を想定した対策です。将来のリスクヘッジになるもの、人の役に立つことなどは、不安を感じたらただちに行動に移すことです。こういう知恵を持つことが大切になります。
2021.09.12
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不安や心配事を放っておくからこそ、葛藤や悩みに発展するのだという人がいます。だから、不安や悩みは、できる限り早めに取り除いた方がよいという考えです。もっともらしい考え方です。この考え方に対して、森田理論を学習した人は、その考え方は見当違いも甚だしいと思われるのではないでしょうか。たしかに、森田では不安を取り除こうとすれば、精神交互作用によってますますとらわれが強くなっていくと学びました。この考え方は、神経症の経験をお持ちの方は、自分の体験として納得できます。この2つは、まるきり反対の考え方ですが、どちらの見解が正しいのでしょうか。私は、基本的には、どちらの言い分も正しいと思います。ここで大切なことは、不安の中身を検討しないと不毛な議論で終わってしまうということです。一例をあげてみましょう。誰でも入院や事故が起きたときのために保険に入っています。自動車保険、車両保険、医療保険、生命保険、損害保険、火災保険、地震保険などがあります。これらは万が一の不測の事故を想定して、リスクに備えた対策をとっているわけです。私はマンションの漏水事故が発生した時、多額の修理費用が必要になりましたが火災保険のおかげで助かりました。この場合は、不安やリスクを察知した場合、早めに積極的な行動をとることが必要となります。それが有事の際に、自分の命や家族の生活をしっかりとサポートしてくれます。最近は土石流の災害等が、日本全国あらゆるところで発生しています。海水温の上昇とともに線状降水帯がいつどこで発生しても不思議ではないのです。ハザードマップで土石流の発生する可能性のある場所はあらかじめ分かっています。危険個所に住んでいる人は、7月、8月の豪雨時期になると、直前の天気予報で確認して、あらかじめ避難しておくことが重要になります。これぐらいは大丈夫だろうという安易な判断が取り返しのつかない大惨事になるのです。今年の熱海の土石流の災害は、盛土が被害を拡大させた原因とされています。今後盛土をして宅地を造成する場合、最悪の事態を想定して、立地条件や排水路を確保したうえで慎重に行う必要があります。神経質性格の人は、心配症で取り越し苦労が絶えないと言われますが、こういう不安にすぐに気づくことは大変ありがたいものです。不安が湧き上がってこないことは、即、生存の危機につながります。ただし、気が付いただけではダメです。対策を立てて実行に移すことが不可欠です。実際に行動しないと、鈍感な人と何ら変わりがありません。むしろ、不安がいつも付きまとい、イライラして精神的につらくなります。不安に気が付き、それに対して対策を立てて、実行することで、安全と安心を手にすることができます。つぎに神経症的な不安についてみてみましょう。森田理論では欲望が強い人は不安も強くなると学びました。生の欲望の強い人は、必ず不安が発生するようになっているのです。この二つは必ずセットになっているという理解を深める必要があります。車でいえばアクセルを踏み込まないと永遠に目的地を目指すことはできません。アクセルを踏み込むことを忘れて、ブレーキの効き具合ばかりを気にしているようでは、永遠に目的地にたどり着くことはできません。車の場合は、そんなことを考える人はいません。ところが、不安と欲望の関係では、欲望を目指すことを忘れて、不安を取り去ることや逃避することに全エネルギーを投入する人が後を絶たないのです。神経症でのたうち回っている人は、まさにそういう悪循環にはまっています。そして精神交互作用でどんどん増悪して、アリ地獄の底に落ちていくのです。神経症的な不安は生の欲望が暴走しないように、注意信号を点灯させてくれていると理解しておけば大丈夫です。不安を活用しながら、注意して前進すればこんなに役に立つことはありません。一番問題になるのは、生の欲望の発揮を無視して、本来は私たちの味方であるはずの不安に敵対することです。ミイラ取りがミイラになるというピエロを演じてしまうことです。不安の役割を森田理論学習によって正しく理解すれば、不安は私たちが生きていく上でのパートナーだということが分かります。かけがえのない仲間であることが分かります。これを無視すると、極端なことを言えば、双極性障害の躁状態の様相に近くなります。妄想的、空想的な発言や行動が多くなります。金遣いが荒くなる。運転が荒くなり交通事故を起こす。しっかりした計画もないのに、自由人を目指して、思い切って仕事を辞めて起業する。離婚に踏み切る、仲間を巻き込む、借金をする。不動産の売却や購入をする。高級車を買う。一攫千金を狙ったギャンブルに手を出す。病気が治って、その時のことはなかったことにしてくれ、と言っても後の祭りです。不安の存在は、それらの抑止力として、健全で健康的な生活を送るためになくてはならないものなのです。不安というのは、惨禍を回避して将来に明るい展望が開けるものや、他人の役に立つことは積極的に不安の解消に向けて行動することが肝心です。その方が望ましい。しかし、森田理論でいう、欲望の暴走の抑止力として発生している不安については、その不安を活用して欲望が暴走しないように配慮することが肝心です。つまり欲望と不安のバランスを常に意識しながら、しかも生の欲望に向かって絶えず前進していくという状態を維持することが大切になるのだと言えます。
2021.08.26
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両面観のものの見方を身に着けるためのクイズがあります。よかったら集談会などで取り上げてみてください。ここに見た目にはまったく同じの硬貨が8枚あります。その中に1枚だけ偽物が混じっていて、本物より少しだけ軽くなっています。その偽物を判別するために天秤がありますが、さて、最低何回、天秤を用いれば判別できるでしょうか。制限時間は10分です。ヒント・・・両方の天秤に1枚ずつ合計4回天秤にかける方法はすぐに分かりますね。どこかで釣り合わなくなります。上に傾いた方が偽物のコインということになります。これでは芸がありません。もっと少ない方法で判別できる方法を考えてみましょう。一人で分からないときは、他の人と協力して、考えてみましょう。実際には、3回、2回、1回で判別できる方法があります。どうすればそれが可能になるのか。ああでもない、こうでもないと思考を巡らせることは、両面観のものの見方の訓練になります。これから答えを書きますが、実際にはこれから先は、すぐに見ないようにしてください。あくまでもいろんな見方を試行錯誤することが目的となりますので。3回という答・・・最初に硬貨を「4枚・4枚」のせる。上に傾いたほうの4枚を、次は「2枚・2枚」のせる。そして、上に傾いた方の2枚を「1枚・1枚」のせたとき、上に傾いたコインが偽物ということになります。この方法は少し考えてみると、だいたい思いつきます。みんなで考えると、ほぼ誰かが答えを見つけ出します。2回という答・・・まず適当に「3枚・3枚」を皿にのせる。ここから2通りに分かれる。①もし、この時皿が釣り合ったならば、乗せなかった2枚を「1枚・1枚」のせれば、偽物が判別できます。②もし、皿が釣り合わなかったら、上に傾いたほうの3枚から、適当に2枚を選び、「1枚・1枚」をのせる。傾けば、上に傾いた皿が偽物。釣り合えば、のせなかった残り1枚の硬貨が偽物となります。1回という答・・・硬貨を「4枚・4枚」のせる。すると、天秤はどちらかに傾く。この傾いた状態から、そっと両方の皿から硬貨を「1枚・1枚」同時に抜き去ることを繰り返す。抜き去ったと同時に皿が釣り合う状態に戻れば、そのとき手にしてた硬貨で上に傾いた皿にあった方が偽物となります。(そんなのありと思う人もいますが、確かにこれは天秤を1回しか使用していない)このゲームを私が参加している集談会でやってみました。ゲーム感覚でやるとみんな身を乗り出して乗ってきました。これしかないと思い込んでしまうと、他の方法はすべて無視してしまいます。これは森田理論でいうと、事実を確認しようという姿勢が希薄になるということではないでしょうか。そして先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りで他人を評価することにつながります。これは森田先生が厳しく指摘されていることです。両面観というのは、物事には必ずプラス面とマイナス面が同居している。その両方を過不足なく見ないと、物を正確に把握できなくなる。そこから葛藤や苦悩が生み出されるという考え方です。これ以外にも、皆さんの方でも両面観を身につける方法をぜひ開発してください。これらを集めて、共有財産にしようではありませんか。(ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80 村山昇 クロスメディア・パブリッシング参照)
2021.08.02
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森田理論は神経症を克服するためだけではありません。神経質性格者が人生観を確立するためにあります。どこに目をつけて取り組んでいけばよいのかを説明してみたいと思います。内容としては2点あります。まず、不安の裏には欲望があるというということをしっかりと理解することです。私が神経症で苦しんでいた時は、そんなことを考えてみたことはありませんでした。その結果、生の欲望の発揮は蚊帳の外になりました。ひたすら不安と格闘していたのです。取り除こうとあらゆる手法に取り組んでいました。また予期不安を察知すると逃げ回ることを繰り返していました。もがけばもがくほど、ずるずるとアリ地獄の底に落ちて行ったのです。森田理論学習によってそのやり方は間違っていたことが分かりました。進むべき道は、生の欲望の発揮を視野に入れて、不安と欲望のバランスを回復させて、それを維持していくことだと理解しました。そういう意味で森田理論はバランス療法と呼んでもいいのではないか。神経症の真っただ中という場合は、不安には手を付けてはいけません。生の欲望に100%エネルギーを投下していくべきです。日常茶飯事、興味や関心のある事などに力を入れていくことです。イメージとしてはサーカスの綱渡りです。サーカスの綱渡りは、長い物干しざおのようなものを持っています。この竿を右に傾けたり、左に傾けてバランスをとっています。バランスを維持しながらも、少しずつ前進していきます。こういう態度で生活できるようになると神経症は治るのです。生活の発見会では、不安は横において、目の前のなすべき課題に取り組むことが肝心であると教えられてきました。それはその通りなのですが、私の体験では、欲望と不安のバランス療法に取り組むのだという考え方がしっくりときたのです。意欲的になれたのです。これは比較的即効性があります。半年から1年くらいで軌道に乗ってくると思います。日常生活、仕事などが好循環に入るのです。これで万々歳か。ちょっと待ってください。生活面では劇的な変化をしてきますが、肝心の症状は依然として残ります。それは不安の方には手を付けていないわけですから、土砂降りの暴風雨が吹き荒れている中で生きていることは、何ら変わらないわけです。指針が持てず、苦しいです。むなしいです。もはや解決方法がないのか。悶々としたまま、森田から離れていく人が後を絶ちません。こういう人は、「惜しい。もったいない」と声を大にして忠告したいです。森田はそういう場合にもきちんと解決方法を提示しているのです。ところが、「不安には手を付けないで、目の前のなすべきことに手をつけること」があまりにも肥大化して、これが森田理論のすべてだと誤解したところから、悲劇が始まったのです。もう少し掘り進めば、豊かな金鉱脈に到達したのに、早々とここには求めている金鉱脈はないと判断して撤退した結果が、果実を手にできなかった最大の理由です。35年も生活の発見会にいると、その宝物を発見して、人生の指針を見つけて味わい深い人生を送られている人に遭遇します。そういう人からはオーラを感じます。もったいぶらずそれを早く教えてくれという声が聞こえてきそうです。それは、観念優先の思考パターン、行動パターンを、事実、現状、現実優先の思考パターン、行動パターンに変えていくことです。人間は、大脳の前頭前野が高度に発達してしまった結果、事実よりも観念を優先する生物になってしまったのです。事実軽視する、事実を隠す、事実を捻じ曲げる、事実を捏造する。言い訳をしてしまう。事実を他人に責任転嫁することを平気でしてしまう生き物に変わってしまったのです。事実を否定して、その事実を観念の世界に引き上げよう、修正してしまおうと考えるようになったのです。ここが悲劇の始まりのような気がします。頭で考えた理想や完全の世界が、事実よりも上にくるという、思いあがった生き物になったのです。でも事実はおいそれと捻じ曲げることはできません。その努力を続けると葛藤や苦悩で苦しみ続けるという悪循環にはまってしまうのです。森田では、このことを分かりやすく「かくあるべし」を振り回すと言います。思想の矛盾に苦しんでいる状態と判断します。目の付け所の2点目は、事実を最優先にして、観念の世界は、事実の下に置くことです。森田では感じから出発して、理智で調整すると物事はうまくいくと言います。事実主導で観念を従にする方法を見つけ出して、習慣化する努力を意識的に行うことが不可欠です。私は「かくあるべし」をできるだけ減少させて、事実本位の態度を養成する方法を9つにまとめてみました。その方法は明日以降、順次投稿してまいります。
2021.07.11
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自分や他人を非難、否定することが習慣になっている人は、いくら自分では正しいことをしていると思っていても、側から見ているととても見苦しい。短期的には相手との争いに勝利しても、将来に明るい展望が開けるものではありません。森田では相手に対してどんなに言いたいことがあっても、自分の是非善悪の価値判断を押し付けてはいけないといいます。それは、相手の気持ち、考え方、行動を否定し、自分の「かくあるべし」を押し付けることになるからです。ではどうすればよいのか。相手の気持ち、考え方、行動に至った事実を観察して、できるだけ正確につかむように心がけるようにするのです。森田理論で身につけた事実唯真の立場に立った行動をとることです。こういう立場に立つと、相手と対立しません。これには2つの利点があります。まず無駄なエネルギーの使い方を防止できます。また、事実唯真の立場は、次の目標や課題、夢や希望への出発点に立つことになります。目標や課題が見つかり、それが生きがいになります。相手に「かくあるべし」を押し付けることを防止するために、今日は3つの提案をします。1、相手の長所、強みを20個ほど紙に書いてみる。2、配偶者、子供、両親の長所、強みを考えてみる。過去お世話になったことを20個探してみる。集談会では配偶者の誕生日に妻への感謝、妻の長所を100個書いて、額に入れてプレゼントした人がいました。3、欠点や弱点だと思っていることを手あたり次第書き出してみる。性格でも行動でも、欠点や弱点の裏には長所や強みが隠れています。欠点や弱点の裏に隠れている、長所や強みを探し出してみる。無理にでも絞り出してみることです。これは森田理論の両面観という考え方です。片寄った考え方は、バランスを欠いて、不自然になります。最後には自らまいた種で、生きづらさをおびき寄せてしまいます。神経症は欲望と不安のバランスが崩れた状態です。不安に過度に偏り、生の欲望が蚊帳の外になった時、アリ地獄の底へと落ちていくのです。バランスを欠いたときはその存在さえ許されなくなるというのが森田の考え方です。バランスを取り戻すためには、両面観を活用して、今までとは違う考え方を大きく膨らませていくことにあります。
2021.07.01
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人間の脳は快情動を求めて行動するようにできている。ドパミンが腹側被蓋野を刺激して喜び、幸福感、恍惚感、陶酔状態をもたらす。これを追い求めることは、人生を豊かにし楽しくしている。人生の隠し味、スパイス、アクセントのような役割を果たしていると思います。でも快情動を追い求めることばかりにエネルギーを費やしているとその弊害が出てきます。一度でもそのようなことを経験すると、脳には強い快刺激の記憶として定着し、何度でも繰り返すようになります。ギャンブル、アルコール、ネットゲーム、グルメ、薬物、性衝動を思い出すと、そのことがよく分かります。本能的欲望は、時として暴走を繰り返し、自分の肉体を蝕み、経済的な破綻に追い込み、人様に多大な迷惑をかけることがあります。欲望の暴走の結果、最悪の人生だったと後悔する人が後を絶ちません。しかし快情動を追い求めて生きているのが人間の普通の姿です。幸福感、恍惚感、陶酔状態の快楽神経を活性化する方法は、実は本能的な欲望の追求だけではありません。目標や課題、夢や希望を持って、努力精進している時にも、ドパミンやアドレナリンやセロトニンが分泌されています。オリンピックの日本代表に選ばれることを夢見て努力している人は、実に幸福そうに見えます。誰でもそういう経験はされていると思います。このことを森田では「努力即幸福」と言います。ここでは、本能的な欲望の追及と努力即幸福の追求の2つの側面のバランスがとれているかどうかが大切になると思います。ついうっかりしていると、動物脳といわれる本能的な欲望が暴走してしまうことになりがちになります。これは何もしなくてもでてくる欲望ですから、むしろその暴走を抑制することが大切になります。スパイスが効いていると、刺激的、刹那的、快楽的、享楽的な人生になりますが、これが多すぎるとむしろ弊害が大きくなることを忘れてはいけません。森田でいう規則正しい生活、凡事徹底の中で、小さな問題点や課題を見つけて取り組むという生活習慣を作り上げていく。それに弾みがついて、しだいに目標や課題、夢や希望が大きくなっていく。この方面での快楽神経の活性化の道を忘れてはなりません。つまり、本能的な欲望をすべて悪の根源として排斥するのではなく、それも受け入れ、また一方では、人間本来の「努力即幸福」の方向性も見失わないような生活を維持していくことが肝心になると思います。目指すべき方向性は、いかにその2つのバランスを維持していくかです。目の付け所を見誤っては、後悔の多いとんでもない人生になる可能性が高くなります。
2021.06.27
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望月泰彦さんのお話です。望月さんはお寺の僧侶をされています。私たちは僧侶を呼ぶ時に、一般に「上人」(しょうにん)と呼ぶのですが、実は私はこの「上人」という言葉が大嫌いでした。なぜ嫌いだったかというと、「上人」とは、上の立場の人の略ですよね。だから好きになれなかったのです。お坊さんは、どうしても、檀信徒の方々から、仰ぎみられることが多く、あげくの果てに、のぼせ上り、自分は偉いものだと思い込んでしまいがちです。困ったものです。そんなある日、私が尊敬している先輩の僧侶と、その話が出ました。先輩はこう言いました。「私も最初は嫌いだったけど、今では素晴らしい言葉だと思っているよ。なぜなら、上人=上を目指す人なのだから」私は、あっと、思いました。上人=上の立場の人ではなく、上人=上を目指す人と捉えれば、良かったのだということが分かったのです。何ごとも、自分自身の受け止め方ひとつで、その印象が大きく変わることに気づかされました。この話は両面観の話に近いと思います。一つの考えが浮かんできたとき、その考えだけで突き進んではいけない。あえて別の反対意見をぶっつけて、調和を目指す必要があるというものです。別の言葉でいうと、人間には精神拮抗作用という機能が備わっているので、それを活用して、不安と欲望のバランスをとる必要があるということです。やくざ映画などで極道非悪な役ばかりをする役者さんがいます。見るからに恐ろしそうです。二枚目ではありません。どちらかというと三枚目です。その人のことをブサイクな俳優と表現したら、私生活でも人様に迷惑ばかりかけている人のような印象を与えます。ところが、その俳優さんを、個性派俳優と呼んでみたらどうでしょうか。人生のあらゆる苦しみを経験し、乗り越えてきた素敵な人のように思えませんか。別の例でいうと、・変わり者→個性的な人・はぐれ者→一匹狼、自立心旺盛な人・口うるさい人→自分を鍛えてくれる人・根暗な人→控えめな人、思慮深い人・目立ちたがり屋→人を楽しませてくれる人・八方美人→社交上手な人・融通の利かない人→一徹な人、意思の強い人先入観や決めつけを優先するのではなく、別の見方も加味して、物事を両面観で見ることができる人は、人間としての器が大きくなっているのでしょう。森田理論は、両面観という能力を身につける事を目指しているのです。両面観を身につけた人は、安易に人を非難、否定することがありません。むしろ相手の強みや長所に焦点を当てて、高評価、賛辞を惜しまない人です。そういうおおらかで包容力のある人のもとに人が集まってきます。(「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ 望月泰彦 太陽出版参照)
2021.06.14
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西郷隆盛の言葉です。正道を以て之を行へば、目の前には迂遠なる様なれ共、先に行けば成功は早きもの也この意味は、急がば回れということでしょう。3割も5割も回り道になっても、その方が楽に目的地に到達することはよく目にする。あるいは近道のルートを選んだ人よりも早く目的地に到達する場合がある。安易に短絡的な対症療法に飛びつくことは、厳に慎みなさいということです。正しいやり方でことに当たるのは遠回りに思えるが、そのまま進んでいけば、かえって早く成功できるものだ。これを神経症の克服という面から考えてみましょう。まず神経症を克服するためには、治すための方法がいろいろありますが、その中から正道を見つけることが肝心です。その前に、神経症は小さな不安を精神交互作用によって増悪させて、日常生活や仕事、人間関係に支障をもたらしているものだという認識を持つことが大切です。森田理論学習で神経症の成り立ちを学習すれば分かります。そういう生き方をしているために、生きづらさが半端な状態ではないということです。器質的な病気やケガをしたわけではない。自分の頭の中で、仮想の敵を作り上げて、勝ち目のない戦いを延々と繰り広げるに至ったものである。これを森田理論学習によって十分に理解することが大切になります。森田理論の学習によって、まず敵の正体をよく理解することです。神経症の治療には、まず薬物療法があります。これは松葉杖のようなものだと考えることが必要です。対症療法で不安が軽減されても、再発は免れない。まして薬物療法が生きづらさを解消してくれることはない。これに頼りっぱなしではいけない。つぎに認知行動療法などの精神療法があります。これらは基本的には、不安を根こそぎ絶やしてしまおうという考え方です。雑草退治に草刈り機で刈り取るのではなく、薬剤で雑草の根を枯らすという無謀な対応をしているのです。草刈り機で刈り取れば、集めて牛などの餌にすることができます。あるいは積み上げて発酵させれば緑肥にできます。雑草の根は強いですから畔が崩れるのを防いでくれています。ラウンドアップのような除草剤で植物の根を枯らすということは自然に対抗しているということです。土壌に住んでいる微生物を一網打尽するということは、人間の思い上がりだと思います。そんなことをすれば、いずれ自然から大きなしっぺ返しが待っているでしょう。森田理論は、不安とのかかわり方を考え直しましょうという理論です。不安を邪魔者扱いしてはいけない。不安は大きな役割を果たしている。不安と欲望のバランスを図ってくことが大切である。欲望が暴走しないように、不安は大いに活用する必要がある。つまり不安との共存共栄を目指しているのです。これは、森田理論の中核をなす考え方になります。これが西郷隆盛が言う神経症に対する正道となります。正道にたどつくまでが大変難しい。これは森田理論学習によって、認識の間違いを正していくことが肝心です。認識の間違いは自分一人では難しいと思います。仮に可能であっても、時間がかかります。そういう時は集談会の先輩と一緒になって取り組んでいくことが有効です。森田理論学習によって神経症の成り立ちを知る。神経症の特徴を知る。神経質性格の特徴を知る。認識の誤りを知る。そして正しい対応方法を知る。実践によって検証していく。この方向で努力していくことが正道を歩むことになります。その気持ちを精いっぱい応援してくれる人が生活の発見会の会員の中にいるわけですから、活用しない手はないと思うのですがいかかでしょうか。悔いのない人生と感謝の気持ちで晩年を迎えたいものです。
2021.06.05
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2013年6月4日、サッカー日本代表はワールドカップ・ブラジル大会への出場を決めました。この試合は、オーストラリアを相手に、勝つか引き分ければ出場が決まるが、負ければ予選敗退という大事な試合でした。白熱試合になり、後半36分過ぎにオーストラリアに先制されました。誰もが負けを覚悟した中で、後半のロスタイム、日本はフリーキックを得ました。この時、本田圭佑選手は、PKの笛が鳴るや否や、「俺が蹴る」とボールを持ち、実際に同点ゴールをど真ん中に決めました。ここでもし外すと、できもしないくせに出しゃばるなとパッシングされたかもしれません。それなのにプレッシャーを乗り越えて、あえて挑戦の道を選んだ、本田選手の決断と勇気に日本中が感動しました。本田選手は試合後、「真ん中に蹴って捕られたらしゃあないと」思っていたと語っています。普通に考えると、真ん中はゴールキーパーがいるわけですから、右か左に打ち込まないといけません。これは雑念を取り除いた選択と決断しかありません。本田選手は、「こういう場面になったら、こう考え、こうプレーする」というシュミレーションを普段からしっかり持っていたのだと思います。日本中の人がかたずをもって見ているわけですから、相当大きなプレッシャーはあって当然です。それをはねのけるだけの精神力が、普段の練習や生活の中で自信や確信にまで高められていたのだと思われます。それが普通の人はしり込みするような場面で発揮されたのではないでしょうか。本田選手の行動から学べることがありそうです。私たちは、神経症的な不安、恐怖、違和感、不快感から逃げてしまう事が多いのが現状です。気分に振り回されて、逃げることで自分を守ることを優先してしまうのです。それを繰り返しているうちに、精神交互作用で蟻地獄に陥っていった。寝ても覚めても神経症の苦しみから逃れられない。むしろその苦しみは増悪していく。勉強や仕事に身が入らない。他人からも見放されてしまう。もはや自分ではどうしてよいのか皆目見当がつかない。自分は苦しむために生まれてきたのか。いっそのこと死んでしまいたい。強迫観念というのは、不安から逃げようとすればするほど、しつこく付きまとってくる代物なのです。アフリカのサバンナで小動物が肉食獣に追いかけられるようなものです。逃げれば逃げるほど勢いをつけて追い掛け回されます。そして最後には力尽きて捕らえられてしまいます。エネルギーのある人は、不安などは取り除いてしまえば楽になるはずだと考えて行動します。この方法も、結果は逃避の道を選んだ人と何ら変わりません。不可能なことにチャレンジしているのですから、元々勝ち目はないのです。水車に飛び込んでいったというドン・キホーテのようなものです。神経症的な不安に対しては、気分本位になって逃げ回る、あるいは取り除こうとするやり方は間違いだということです。森田理論が教えてくれているのは、逃げ回らないで、不安を直視するということです。イヤイヤ仕方なく受け入れることが道を選択するのです。不安を取り除くことにエネルギーを使うのではなく、不安を認めて受けいれる。そのためには不安の持っている役割を森田理論学習で理解することです。不安の方の立場に立ってみると、双方の関係性がよく見えてきます。不安の方は逃げ回る人を見つけると嬉しくなる。不敵な笑みが思わず出てしまう。さらに追い回していじめてみたくなる。不安を取り除こうと努力している人を見ると、圧倒的な戦力を動員して、身体的、精神的に立ち直れないほど叩き潰してしまおう考えているのです。息の根を止めることが快感なのです。さらにますます戦力の増強や補強を考えるようになる。太平洋戦争を戦った日本とアメリカのようなものです。そういう方向に向かっている人が、格好のターゲットになっているのです。不安を突き付けて相手が乗ってくるのを、手ぐすね引いて待っているのです。その誘いに乗ってしまうことは、針に掛かったマグロのようなものです。釣りあげられて一巻の終わりです。一方、不安の挑発に全く乗ってこない。不安から距離をとってじっと観察している。手はださないので、時間ばかりが過ぎていく。こういう人は、不安の立場からすると、何とももどかしい。イライラしてしまう。また、森田理論で不安の特徴や役割を理解している人は厄介です。不安を自分の仲間として取り入れようとしている人は手出しできなくなる。不安の方が立ちすくんでしまうのです。相手が反撃してこないので、戦うきっかけがつかめないので困ってしまう。不安の方としては、闘う口実がなくなるので、防衛力を強化することは、無駄なエネルギーを使うことになります。不安にとっては、自分の存在価値を否定されて、居場所が確保できなくなるのです。そのうち戦力の撤退を考えざるを得なくなるのです。不安の特徴や役割を身に着けて、実行している人は、いつの間にか大事な仲間として居場所を見つけることになります。不安を大いに活用することになるのです。昨日の敵は今日の味方になるのです。信じられないかもしれませんが、森田理論で神経症を克服した人はそうなれるのです。取り入れた相手と共存共栄の関係に入ってしまうのです。当初の目論見とは全く違う関係が出来上がってしまうのです。不安の方としても、自分の存在価値を認めてもらって働き場所を提供してもらっているので異存はありません。こういう関係が出来上がれば、双方とも友好的で、安全、安心、平和な幸せの時を享受できるようになるのです。こういう方向性をみんなでめざしていこうとしているのが、森田理論学習なのです。素晴らしい世界が広がるように思えませんか。
2021.05.26
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97歳まで開業医として、診療に当たられていた貴島テル子さんの話です。会うと嫌なことを言われたりする、とにかく困った人がどこにもいるでしょう。社会に出ると、嫌なことを避け続けたり、一生会わないようにするということはできないもの。けれど、時には対人ストレスが原因で病気になってしまうことだってあるんです。これをどう乗り越えたらいいのでしょう。避けられないのなら、相手の長所は何か、客観的に見ていくことを心がけましょう。短所だけの人もいなければ、長所だけの人もいないもの。長所も短所も見方によっては逆になったりするから不思議です。口うるさい人は、几帳面ではありませんか。何か頼みごとをするときっちりこなしてくれるかもしれません。他人に厳しい事ばかりを言う人もいるでしょう。でもそれはあなたのためになる人ではありませんか。イザというときは頼もしい存在なのかもしれません。子供の自慢ばかりする人は、愛情深く生真面目な母親ではありませんか。そして、意地悪なことばかり言う人は、幸せではないのです。大きな問題を抱えて辛い状況にいるのかもしれませんよ。愛されることばかり願うより、自分から進んで愛するように努めてみては。そうすれば他人の長所がもっと見えやすくなるかもしれません。(人は好奇心の数だけ生きられる 貴島テル子 講談社 152ページ)この話は、森田理論の「両面観」の考え方にあたります。人間には誰しもだらしない、醜悪な面を持ち合わせています。そこまでいかないような人でも、弱みや欠点を持っています。元々生まれつき頭の回転の悪い人もいます。能力面で劣り、人並みの仕事ができない人もいます。また、ミスや失敗をしたことのない人は、この世に存在しません。そんな人間はどうしようもない存在なのか。そんな事はありませんね。それはあまりに一面的な見方です。でも、そういう人を見つけたとき、嫌悪感が湧き上がり、その人を避けるようになる人は多い。エネルギーのある人は、あからさまにその人を批判、否定するようになります。その上、悪い風評をそこら中にまき散らすようになります。会社などでは利害関係が複雑に絡み合い、他人の不祥事を大いに喜ぶような人もいます。森田では、そういう一面を見つけたとき、それらは横において、その人の強みや長所を見つける努力をしなさいと言います。両面観、多面観の考え方です。そうしないと決めつけや先入観に流されてしまいます。上から下から、右から左からよく観察して、事実を掴む努力を惜しんではならないというのが森田理論の立場です。そういう努力が欠かせないとみているのです。マイナス面の数と同じくらい、プラスの面も持ち合わせているという前提に立つことが必要です。その数や量のバランスが整った時、初めてその人を理解できたということになるのです。どちらかに片寄っていると問題が発生します。一般的には非難、否定、叱責する方に片寄っている場合が多い。「かくあるべし」の押し付けになります。すると人間関係はすぐに壊れてしまいます。こうしたネガティブなものの見方をする人は、他人だけに向けられているわけではありません。自分自身にも向けられています。これを見落としてはなりません。自分自身を嫌悪し、否定しているために、生きづらさを抱えることになるのです。他人を血眼になって批判、否定している人はほとんどそうなっていますので、観察して確かめてみてください。自分に折り合いをつけるためには、両面観を身につけることです。森田理論の両面観の生き方は、バランスや調和を目指している理論です。バランスを破壊する行為は、人間関係を悪化させます。それだけにとどまりません。自分自身の存在価値さえも、一瞬で吹き飛ばしてしまうという恐ろしいものなのです。神経症も欲望と不安のバランスが崩れていく中で生み出されます。欲望、課題、目的、目標を明確にさせて、不安を適宜活用して、欲望と不安のバランスをとりながら注意深く前進していくという態度が身についてくると、神経症の苦しみは霧散霧消していくはずです。「不安を抱えたままなすべきをなす」という考え方は、バランスを回復させる理論として理解するとすっきりと整理できます。
2021.04.29
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森田先生が入院患者の日記を紹介されている。「彫刻をしたいと思ったが許されなかった。それで靴下の修繕をした。自分はやはり何かに専念したい」これに対して森田先生曰く。「専念したい」という文句が、どうも面白くない。自分は絶えず何かをしていたい。そうでないと、迷いが出てきて困ると言っている。絶えず何かをしていたいなら、白鼠が車を回すような、あんな仕掛けでもするとよい。精神病者で、絶えず室内をグルグル回っていることがあるが、そんな真似でもしたらよいかも知れない。迷いを払いのけるために、何かをするとは、ちょっと面白い工夫のようではあるが、それはかえって精神錯乱法に過ぎない。ここでは迷いは迷い、疑いは疑い、苦痛は苦痛しなくてはいけないと言って教えるのである。(森田全集第5巻 659ページ)神経症で日常生活が後退していた人が森田理論を学ぶと、「不安を抱えたままなすべきことをなす」ことを実行することが大切なのだなと理解します。そして馬車馬のように変身してがむしゃらに行動するような人が出てきます。すると注意や意識が内向きから外向きに変わってきます。神経症の苦しみがすっとなくなってくるように感じるのです。これ自体は間違いありません。むしろその実行力に対して、最大限の拍手を送りたいと思います。普通は理解できても、ほんとにそうなのかなと頭の中で思考錯誤するばかりで、実行には至らない人も多いのです。神経症が治るということからすると、この段階は10段階の5ぐらいにあたると考えています。今まで0だったものがいきなり5に上がるのですから、たいしたものだと思います。しかしこのやり方は、自分を無理やり奮い立たせて行動に駆り立てていますので、自然に体が反応して、習慣化しているとはいいがたい。最初は規則正しい生活、日常茶飯事を丁寧に行うために、自分を行動に駆り立てていくことは必要になると思います。習慣化するまでは自分を叱咤激励することが肝心です。問題はある程度生活力が回復し、精神的に安定した時です。その時に行動の意味について考える必要があります。森田で理論では、不安を軽減するために実践や行動力をつけましょうと言っているのではありません。それは人間として生きていくためには、当然なことではありませんか。必要なことであり、人間であれば誰でもが取り組むべき課題です。それを今まで神経症を隠れ蓑にして、してこなかっただけのことです。必要なことに必要なだけ取り組むことが本来の旨趣なのです。白鼠が車を回すような行動で、不安を軽減させようとする過剰な行動は長続きしません。エネルギーを使い果たして、しんどいと思うようになると、元の木阿弥になる可能性もあります。つぎに、不安の役割や特徴、不安と欲望の関係、不安への対処の仕方を学習する必要があります。森田理論では、神経症のもとになる不安は、取り除いてはいけない。自然現象なので、取り除くこともできない。またイヤな感情から気分に振り回されて逃げ回るようなことは避けなければならないと言っています。不安との共存共栄を目指しているのです。このことが分かるようになると、不安を目の敵にしなくなります。今まで戦う相手として認識していたものが、実は自分の味方だったということが分かるということです。不安は信号機でいえば、黄色や赤色を点滅させて、注意喚起を促してくれているのです。それをありがたくいただいて、慎重に行動するようにすればよいのです。不安と欲望の関係では、欲望の暴走に歯止めをかけるという重要な役割を持っています。これらのことを森田理論学習で深耕して、不安への対処方法を誤らないようにする必要があるのです。
2021.04.25
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ホンダの創業者の本田宗一郎氏とソニーの創業者の井深大氏は共通点が多い。まず子供の時から好奇心が旺盛であった。本田氏はいたずら小僧であったという。両親は厳しくしかりつつも基本的には暖かく見守っていた。その中でも、おおいに興味を示したのがアメリカから来たアート・スミスの曲芸飛行だったという。その感激は一生続き、後に自ら操縦桿を握るほどになった。それと自動車との出会いである。村に自動車がやってきたとき、圧倒的な存在感、エンジンの爆音、ガソリンとオイルの匂い。したたり落ちたオイルの匂いを嗅ごうと、地面に鼻をくっつけ、それでも足りずに手にこってりとオイルをまぶして、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだという。15歳で東京にあった自動車修理工場に入社している。そして22歳のときには故郷の浜松で会社を立ち上げている。いつかは自動車を作ってみたいという夢は1962年(昭和37年)に実現している。井深大氏もとてもやんちゃであったという。親戚の家では、彼が来るたびに時計や機械仕掛けの玩具などがバラバラにされたという。金屏風に大きな落書きをするという豪傑ぶりも発揮している。やがて彼がやってくると聞くと、動くものはすべて隠されるようになったという。母親は、休みのたびに上野の国立博物館にたびたび連れて行っている。そのかいあって、さまざまな装置を自前で作るほどになっていたという。その後早稲田大学理工学部に入学している。大学では学生発明家として有名であったという。二人とも物つくり、技術開発に対する、並々ならぬ情熱を持っていた。それ夢を実現するために、生涯にわたって、失敗を繰り返しながらも挑戦し続けた。しかしその情熱だけでは、これだけの世界的な企業を作り出すことは不可能だったのではないかと思われる。二人とも販売戦略、経営基盤の確立、財務、資金繰り、会社経営、設備投資、組織改革、新たな事業展開という面の関心や能力は薄かったからである。天は二物を与えずということです。それらを目指すためにとった対策が共通している。自分の片腕となる参謀を迎え入れたのである。この参謀たちが経営の土台を確立していった。ホンダの参謀は藤澤武夫という人である。ソニーの参謀は盛田昭夫という人だ。物つくりに情熱を燃やす人とそれをバックアップして裏から支える人が、あざなえる縄のごとく一心同体となって、成長していったことが功を奏したのは紛れもない事実です。この組み合わせ無くして、現在のホンダやソニーが存在していたかどうか疑問です。この話を聞いて森田理論の不安と欲望の事を考えた。好奇心を膨らませて、自分のやりたい目標や夢に向かって取り組むことは素晴らしい。しかしその欲望が独り歩きすると、ザルで水を掬うようなもので、失敗する可能性が高くなる。目標や夢を達成するためには、水を漏らさないバケツのようなものが必要になります。しかし目標や夢に注意や意識が向いている人にとっては、これが意外と難しい。守りがお留守になるということです。そういう時は、第三者の協力を仰いだ方がよいということです。自分にないものを持っている人の協力が欠かせないということです。夫婦でも、同じ神経質性格の人よりも、例えば発揚性気質の人の組み合わせがよいということです。同じ性格の人は気心も知れて、幸せな人生になりそうですが、長い目で見ると決してそのようにはならない。自分の足りないところを配偶者に補ってもらう。相手の足りないところは、自分の方から補ってあげる。絶えず小さな言い合いや小競り合いはしているが、大事には至らない。そしてぎりぎりのところで、夫婦関係をなんとか維持している。そういう人間関係を子供たちはよく見ています。そんな親の関係を見て、子供たちも人間関係の持ち方を学び成長していくのです。そういう状態が普通の夫婦関係であり、自然なのではないかと思うわけです。つまりバランス、調和を目指さないと、存在自体が破壊されてしまうということになります。
2021.02.14
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吉田兼好の徒然草の第110段に次のように書いてある。双六の上手といひし人に、そのてだてを問い侍りしかば、「勝たんと打つべからず、負けじと打つべきなり。いづれの手かとく負けぬべきと案じて、一目なりともおそく負くべき手につくべし」という。道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、又しかりなり。(現代語訳)双六の対戦をするときに、勝気にはやりすぎると、守りがおろそかになり思わぬ不覚を取る事がある。守りを固めることを優先すると、不覚を取る事が少なくなる。勝負事は守りを固めることを最優先に考えることである。そうすればもともと実力を持っている人ならば順当に勝つことができる。これは勝負事だけではなく、家計にしても、会社の経営にしても、国のかじ取りにしても同様のことがいえるというのである。これに対して森田先生曰く。どちらもいけない。負けないようにと思えば、自分の方ばかりにこだわって、相手の欠点などは少しも見えない。また勝とうとあせれば、人の欠点ばかりをねらって、自分の王がつまっていることにも気がつかない。(森田全集 第5巻 615ページより引用)これはあまりにも勝気にはやりすぎると守りを忘れて、負け戦になりすべてを失ってしまう。反対に、専守防衛に徹すると、いろいろと守りの不備が気になり始め、その対策に振り回されるようになると、勝負に勝つという気持ちが蚊帳の外に追いやられてしまう。もたもたしているうちに最後には攻め落とされてしまう。どちらかに片寄るとその弊害が出てくるといわれているのである。プロ野球でいえば、ピッチャーを含めた守備力に力を入れて、点を取られないチームを目指しているようなものだ。あまり点は取られないチームになるかもしれないが、攻撃面を無視しているで、なかなか試合には勝てない。勝っても僅差での勝負になるので、精神的にきつい。守りを優先するのはよいが、攻撃面の練習を怠ってはいけないということだ。逆に打撃優先のチームを作ると、勝つときは大量得点をとるが、ザルで水を掬うようなもので、取りこぼしが多くなる。打ってたくさんの点を取っても、いつ逆転されるかもしれないという恐怖感が付きまとう。これでは努力することがむなしくなってしまう。私の元の会社の同僚に金遣いの荒い人がいた。新車を3年ごとに買い替えるような人だった。加えてパチンコや競馬などのギャンブルが好きだった。奥さんもそれに輪をかけて贅沢三昧の生活を送っていた。ブランド物を身に着けることに喜びを感じているような人だった。そのうち金回りが悪くなりサラ金の取り立て屋が会社の周りをうろつくようになった。この夫婦は最後には自己破産に追い込まれた。会社も辞めさせられた。仮に配偶者のどちらかが、抑止力を働かせていれば自己破産しなくなったのではないかと思う。バランスの悪い夫婦としか言いようがない。森田理論は、生の欲望の発揮と抑止力の行使はセットで考えましょうという理論です。どちらかに偏り過ぎて、暴走することを戒めている理論なのです。特に抑止力に偏り過ぎると、神経症の発症に結びつきやすくなります。車でいえばアクセルを踏み込まないと、前には進みません。いつまで経っても目的地に到着することはできません。しかしいったん車が走行し始めたら、今度は暴走運転に注意を払う必要が出てくる。カーブや下り坂では、ブレーキを活用して、速度を調整しないと事故を起こす可能性が高くなる。車の場合は誰でもそのバランスが取れています。しかし自分自身の行動については、車を取り扱うように簡単ではないのです。またどちらに片寄っていても自分では全く気がつかないのです。森田理論には、精神拮抗作用や無所住心というキーワードがあります。これらを理解すれば、バランスを心掛けた生活がいかに大切であるか分かるようになります。そういう生活ができるようになることで、神経症は自然に消え去る運命にあるのです。
2021.02.01
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森田先生のお話です。剣道に限らず、なんでも勝負事は、相手の強い事を知って、これに負けないようにしようとすると、自分を防ぐ方の事ばかりを考えて、いたずらに委縮するばかりで、わかりきった相手の虚があっても、その方には少しも気がつかないで、負けるよりほかに道はなくなる。これに反して、相手が弱いという事を知った時は、軽蔑心が起こって、相手の虚ばかりねらって、隙間のないところまで、無理押しをしようとして、しかも自分の虚には、見えすいた事までも気がつかないで、全く馬鹿げた不覚を取る事が多い。(森田全集 第5巻 607ページより引用)勝負事において、相手が自分よりも強いと判断すると、しっぽを巻いてすぐに逃げ出してしまうという傾向があるといわれている。勝負をするという気持ちが萎えてしまって、ぶざまな負け方はなんとか避けたい。逃げ回ってなんとか引き分け程度に打ち込めば十分だという考え方である。そういう気持ちだと、本来の目的を忘れて防戦一方になる。専守防衛に片寄る。防戦の方法は思いつくが、対手にどうすれば勝つことができるかについての考えは全く蚊帳の外となる。自己防衛というのは、神経症でいうと、普段の生活を維持することを放り投げて、意識と注意を神経症にフォーカスさせている状態です。精神交互作用によって神経症の固着に向かって突き進んでいるような状態です。観念と行動の悪循環をおびき寄せています。このような悪循環に陥らないためには、いくら精神的に苦しくても、日常生活、仕事、勉強、子育て、必要最低限の人間関係を維持していくことが大切になります。自己防衛、専守防衛に、あまりにも偏り過ぎているということが一番の問題です。剣道でいえば、対戦相手から逃げ回っているだけの姿を見せつけられた観客はがっかりします。それは目の前の困難に対して、果敢に挑戦していく態度を放棄しているのを許せないからです。そういう人はそのほかの人生の問題に対しても、逃げることばかり考えているのではないか。そんな生き方は、人間本来の生き方とは違うでしょうと、その人の人間性を問題視しているのだと思います。一方相手が自分よりも弱いと判断すれば、勝負に勝つという工夫を怠るようになる。精神が弛緩状態に陥り、とにかくイケイケどんどんの状態で勝負を急ぐ。ところが相手が切羽詰まったときに、奇襲作戦を仕掛けてくると、思わず不覚を取る事が起きる。この場合は、事前の勝負に対する作戦というものが希薄であるというのが問題になります。精神の緊張感が薄く、自己内省力が全くないという状態です。将棋でいえば、守りがお留守になって、相手を早く倒すことばかりに意識や注意が向いている。気が付いたら負けていた。こんなことは認められない。でも、もうすでに勝負が終わっていて、後の祭りということになります。これらの事例から学ぶことは、自己防衛に偏り過ぎても、攻撃一辺倒に偏り過ぎても結果はよくないということです。森田理論は、バランスや調和の維持を目指しているといわれます。サーカスの綱渡りでいえば、長い物干し竿のようなもので、絶えずバランスを維持しようとしている。そのバランスのとり方が絶妙なために落下して大けがをすることがない。しかも、目的地に向かって少しずつ前進している。このように意識して生活しましょう。生の欲望の発揮、事実唯真という考え方とともに、このバランスの維持という考え方を身につけましょうというのが森田の思想なのです。具体的には精神拮抗作用、心身一元論、欲望と不安の単元などで深耕してしていきましょうということになります。
2021.01.28
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私たちは実践や行動するときに、確実に成果が上がると見込まれるものにだけに取り組もうとする傾向があります。成功するかどうかわからないものには手をださない。自信がないものは取り組む気になれない。仮に手を出しても、及び腰で取り組むので、失敗することの方が多い。失敗するとやはり自分考えていた通りのことが現実になった。やはり手をださない事のほうが正解だったと納得してしまう。こうしてますます行動に抑制がかかります。他人からはやる気のない、ただ生きているだけの人とみなされるようになります。そういう人の心理はどうなっているのか。失敗するとエネルギーの無駄遣いになると考えている。行動するだけで体力を消耗する。自分のエネルギーはできるだけ効率よく使う必要がある。そのためには、成功するか失敗するかをあらかじめ見極めなければならない。そして、100%成果が上がる事だけに、エネルギーを投入しよう。頭の中が効率優先、成果優先の考え方で凝り固まっているのである。一見効率的で合理的な考え方のように見えます。ミスや失敗が高い確率で予想されること、損失が予想されること、危険な目に合うことは最初から回避するという態度が強いのです。この生き方のプラスの面は、ミスや失敗を招くことが少なくなるということです。その結果、精神的にイライラすることがありません。身体を危険な目に合わせることもありません。解決の困難な問題を抱えることがありませんので、無難な人生を送る事ができるかもしれません。しかし効率優先、危険回避の考え方は、マイナス面が大きすぎます。それはミスや失敗の体験が不足してくるという問題です。幼児のまま大人になるようなものです。社会に適応できなくなります。ミスや失敗は誰でも嫌なものですが、人間が生きていく上において大きな役割を果たしています。エジソンも言っていますが、失敗は成功するための糧になるという側面があります。失敗に学ぶ態度を持っていると、失敗するたびに成功するためのコツを積み重ねていることになります。単なる失敗ではなく、将来成功するための基礎固めを積み重ねているということです。失敗して試行錯誤を繰り返して、絶対に手抜きをしてはならない事、面倒でも丁寧に取り組まないとダメなことが分かってきます。また、絶対に手を出してはならない事も分かってきます。この数多いほど、またそれらを乗り越えた人ほど、大きな成功と自信を獲得しているのです。その地点を出発点にして、さらに大きく飛躍できる基礎固めが完了したということです。この路線に乗るということが、人生を味わい深くするのだと思います。森田理論の中に、「努力即幸福」という言葉があります。課題や目標を持って努力精進している生活の中に生きる意義は存在しているという考え方です。成果や成功を期待して行動しているわけですが、幸福というのはその目標を達成するかどうかにあるわけではない。ミスや失敗を繰り返しながら試行錯誤している過程。プロセスにあるという考え方です。こういう考え方になりますと、成功するためにはどんな手段を使ってもよいということにはなりません。不正を働き、他人を不幸に陥れるようなやり方は、プロセスという面から見ると問題だらけということになります。不正を働かないで、他人に役に立つようなプロセスを重視した行動が、大きな幸福をもたらすということだと思います。
2020.12.22
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「いい加減」という言葉は否定的に使われることが多い。しかし森田理論では、バランスや調和という観点から「いい加減」を目指しているとも言える。今日はそのことを考えてみたい。「いい加減なことを言うな」という発言は、事実に基づかないで、先入観や思い込みで発言することは慎みましょうということです。事実誤認による間違いがやたらと多くなると困ります。事実の確認をきちんととった上で発言してくださいということになります。「いい加減な人」とは、思慮が浅く、信念がない。一貫性がない人のことをいいます。あるいは時間やお金にルーズで、約束を守らない人のことである。何事に対しても、中途半端で、すぐに他人の意見に流される人のことだ。これらは、「いい加減」という言葉がすべて否定的な意味合いで使われています。では次のようなケースはどうでしょうか。「いい加減」という言葉が、全く違う使い方をされる場合があるのです。お母さんが兄弟げんかをしている子供に対して、「あんたたち、いい加減にしなさいよ」と叱ることがあります。兄弟げんかが激しさを増して、罵りあい、手足をだすようになった時に、「言い過ぎ、やりすぎ」になっていますよと警告しているのです。程よいところでやめておきなさいよと注意喚起を促す言葉になっています。また、「お風呂のお湯加減はどうですか」という場合は、熱くもなく、冷たくもなく、ちょうどよいお湯加減になっていますかと尋ねています。適当なお湯加減でないと差しさわりがあるからです。あまりにも熱すぎる場合は、お湯につかり体を温めることができません。ぬる過ぎる場合は、風邪をひいてしまうかもしれません。これらの使い方は、やりすぎはいけません。二人とも少し頭を冷やしなさいと促しています。お風呂のお湯は熱すぎれば水で温度を下げてください。ぬる過ぎればお湯を足してちょうど快適な温度に調整してくださいということになります。この場合は、「いい加減」という言葉が、決して否定的な意味合いで使われているわけではありませんね。この二つの背反する言葉の使い方はどのように理解すればよいのでしょうか。「いい加減な言動をとる」や「いい加減な人」という場合は、次のような特徴があります。まず事実を自分の目できちんと確かめたうえでの発言ではないということです。先入観や「かくあるべし」を振りかざした発言になっています。別の言葉でいうと、気分に振り回された発言になっています。つぎに、この手の人は、深い洞察力のあるものの見方・考え方をしていない。これらは単なる思いつきや他人から影響を受けて、「いいかげんな発言」になっています。この手の「いい加減さ」というのは、とても厄介です。問題が発生して、扱いにくい代物と言わざるを得ません。森田理論を学習している人は、こうした「いい加減な発言」は控えておられるのではないでしょうか。また、ドタキャンするような「いい加減な人」はあまりお目にかかりません。神経質の人は、まじめで責任感が強いのが特徴ですから、そういう「いい加減さ」はあまり問題にはならないのではないでしょうか。神経質で「いい加減さ」が問題なるのは別の意味合いがあります。神経質でエネルギーが外に向かってほとばしり出ている人は、その言動を「よい加減に調整する」ということが大切になります。こちらの方に注目した方がよいと思います。エネルギーが強い人というのは、森田理論でいう生の欲望の強い人のことです。こういう人はバランスや調和を意識した方がよいと思います。神経症の場合でいえば、不安に偏ってしまうと、簡単に神経症という蟻地獄に落ちてしまう。欲望と不安はコインの裏と表の関係にあります。欲望と不安は表裏一体です。森田では生の欲望を前面に押し出しながらも、不安を活用して調整する必要があるといいます。バランスや調和を意識する必要があるのです。神経症に陥った場合は、不安はとりあえず横において、欲望の方に焦点を当ててバランスを回復させる必要があるのです。このことを別の言葉でいうと、偏りを修正して、「ほどよい加減に調整する」ということになります。神経症に苦しんでいる時は、欲望過多あるいは不安過多に偏っています。これを「いい加減に戻す」をキーワードとして、バランス・調和を図ることがとても大事になるのです。
2020.12.19
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高良武久先生のお話です。「あるがまま」の第一の要点は、症状あるいはそれにともなう苦悩、不安を素直に認め、それに抵抗したり、否定したり、あるいはごまかしたり、回避したりしないで、そのまま受け入れることである。第二の要点は、症状をそのまま受け入れながら、しかも患者が本来持っている生の欲望にのって建設的に行動することで、ここが単なるあきらめとは異なるところである。症状に対してもあるがままであるとともに「向上発展の欲望」にたいしても、あるがままなのである。(森田療法のすすめ 講談社 124ページより引用)青木薫久先生は、第一の要点を「受動的側面」、第二の要点を「能動的側面」といわれています。そして「能動的側面」のほうがより大事であるといわれています。「あるがまま」という言葉には2つの要点がある事は間違いない思います。まず不安、恐怖、違和感、不快感をそのまま受け入れるという側面があります。それを取り除こうとし、逃げまくるというような態度で対決しないということです。不安共存の態度です。そういう状態を堅持したうえで、第2の要点は、日常茶飯事、家事、仕事、勉強、子育て、介護、趣味などに真剣に取り組みましょうということです。ここで私が違和感をもつのは、この2つの要点を対立的に捉えられているということです。第1の要点を身につけた上で、第2の要点に取り組みましょうという点です。また第一の要点よりも、第2の要点の方が重要ですといわれているように感じるのです。この指摘を見誤らないようにしてくださいと言われている点です。好意的に考えると、分かりやすく説明するために、便宜的に分けて考えられているのかなと思います。しかし別々のものとして取り扱うと、実生活には役に立たなくなる。私の考えは、不安と欲望はあざなえる縄のようなものであると思っています。ですから対立的に捉えるよりも、この2つは密接な相関関係があるという考えです。その2つの調和させて、いかにバランスを維持していくのかにエネルギーを投入していくべきであると考えているのです。不安は生命の安全を確保するうえでなくてはならないものです。不安を感じることで、ミスや失敗を未然に防ぐことができます。また不安を感じることで、欲望の暴走を制御しているという側面もあります。つまり、不安は私たちの生活の中で大いに活用していくべきものだということです。これは不安をただ単に受け入れるというよりは、むしろ不安が元々持っている役割を積極的に評価して、生活の中で活かしていくべきだということです。この不安の役割と生の欲望の発揮との関係性はどうなっているのか。これは自動車のアクセルとブレーキの関係で考えると分かりやすいです。目的地に行くためには、アクセルを踏み込んで車を走行させることが前提になります。そうしないと、そこにとどまったままになります。つまり生の欲望の発揮がなければ、何も始まらないということです。ストレスが溜まり、無為の人生で終止符を打つということになります。では何も考えないでアクセルを踏み続けるだけでよいのでしょうか。信号無視をする。坂道や急カーブでアクセルを踏み続けてもよいのでしょうか。そんなことをすれば、自分の生命の安全は確保できません。他人を巻き込んで大惨事を引き起こします。つまり状況に応じて、ブレーキを適宜踏み込んで、事故を未然防ぐ必要があるのです。私はこのブログでサーカスの綱渡り、ヤジロベイの話を何回も取り上げてきました。不安と欲望は、それぞれを単独で取り上げて問題視するという態度ではダメなのです。相対性原理を視野に入れて、2つをいかに調和、バランスさせていくか。そこにきちんと焦点が当たっていないと、混迷の度を深めるばかりであると考えているのです。森田理論全体像の中では、不安と欲望のバランスの維持というテーマは、東の横綱にあたると考えています。それほど森田理論の核になる考え方です。ちなみに、西の横綱は、どんな状況に陥ろうとも、事実を大切にして、事実から出発するという態度を身につけることです。ここで声を大にして言いたいことは、不安と欲望を別々のテーマとして取り上げるのではなく、一つのテーマとして取り上げましょうということなのです。
2020.12.10
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高良武久先生は「適応不安」が神経症の原因になっていると指摘されています。適応不安とは、現在の自己の心身の現象、状態をもって、自己の生存上不利であると感ずる気分、換言すれば、自己が現在の心身の状態をもってしては、環境に適応し得ないという不安の心理であると説明されています。例えば、今の状態では就職しても営業の仕事ができるはずはない。現在の自分では、学校生活で友達と仲良くやっていけるとは思えない。近い将来直下型大地震が起きたとき、生き延びることはできないのではないか。自分もガンになって死んでしまうのではないか。適応不安を感じている人は、実際に目の前に起きた事ではなく、過度な取り越し苦労をしている人です。それが最悪の場合、精神交互作用で益々悪化し、神経症として固着してしまうのです。観念の世界で最悪のケースを想像して、もし考えているようなことが現実に起きてしまったらどうしようと考えているのです。行動して、失敗をして、工夫や改善しながら目標に近づく考え方はありません。観念上の試行錯誤がすべてという考え方なのです。そういう人は、気になる一点に照準を定めて、悶々と苦しんでいます。心の奥底では、どうせ挑戦しても成果が上がるはずはないと考えています。ビクビクしながら行動して、ずっこけてしまうとやはり考えていた通りのことが起きた。自分の考えは正しかったことが証明できたと思ってしまうのです。益々観念の世界に浸るようになります。そして不安に思うこと、やっても失敗すると決めつけたことには、決して手をださない人間になってしまうのです。適応不安に陥る人は、観念中心で自己内省が強い人です。自己内省に偏り過ぎているという点で自己中心的な人です。観念の世界で考えたことで、すべてのことをコントロールしていきたい。支配していきたいという気持ちで生きている人です。そういうことが可能であるという間違った考え方で、生活しているのです。「かくあるべし」を前面に押し出して、事実、現実、現状には目が向かなります。人間は本来、注意や意識を外に向かって解放させるようにできています。その自然の流れを、意思の力で無理やり自己内省に引きずり込んでいるのです。すると自然の変化には無頓着になります。変化を観察する、察知するということはできません。そんなことは考えもしない事だったということになります。季節の変わり目、人の気持ちなどは全く分からなくなります。これでは、森田理論でいう周囲の変化に臨機応変に対応した生き方はできなくなります。適応不安に振り回されると、神経症に陥ってしまいます。適応不安に翻弄されないためには、不安が襲ってきたとき、解決可能なものと解決不可能なものを区別することが大切です。解決可能なものには、積極的に不安解消のために対策を打つことです。将来に備えて事前の準備をしておく。解決不可能なものは、事実よく観察して、事実を認める。そして事実を受け入れる。事実本位の生き方に変えていくということです。その不安を持ちこたえたまま、目の前の小さなたくさんの課題の処理に取り組んでいく。事実にこだわる割合が多くなり、観念の世界での試行錯誤が少なくなることで、適応不安は遠のいていきます。
2020.11.15
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森田先生のお話です。「死の恐怖」と、「生の欲望」の関係は、相対性原理で説明すると分かりやすいと思います。ここにいう相対性とは、二つのものの釣り合いであります。自分が歩いているとき、そばを自動車が通れば、自動車は非常に早く走っているように見えますが、自分も自動車に乗って走っておれば他の自動車は動いていないように見えます。それと同じように、「生の欲望」が非常に大きければ、「死の恐怖」も消失して感じないようになるものであります。相対関係でそうなるのでありまして、「死の恐怖」がないのではありません。(新版 自覚と悟りへの道 白揚社 187ページから193ページ)この部分は症状から解放される道を説明されている部分ですが、分かりづらいところです。まずここで「死の恐怖」というのは、神経症を引き起こす神経症的な不安と置き換えてください。例えば、対人恐怖症の人は、相手と仲良く対等な関係でやっていけるだろうかという不安です。「生の欲望」とは、日常茶飯事、仕事、勉強、問題点や課題、興味や関心のある事に取り組むこと、目標や夢や希望に向かって挑戦していくことと置き換えて考えてください。森田先生はこの二つは相対関係にあるといわれています。ですから、不安を単独で取り上げて、処理しようとしてはいけない。また、神経症を克服した後は、生の欲望の発揮に目覚めていくわけですが、その方向で後先考えないで突っ走ってはいけない。不安と欲望はあざなえる縄のごとく密接に絡み合っているので、相対性原理の考え方で取り扱うことが肝心であるといわれているのです。普通の治療法は、不安ばかりを問題視して、対症療法に陥っているのです。その方向では、神経症は高い確率で再発生する。さらに見落としてならないことは、生きるための指針が確立できていないので、悶々とした生活がいつまでも続いてしまうということです。人生90年といわれる時代に、こういうことでよいのかといわれているのだと思います。神経症の治療に安易にテクニックを持ち込んではならないということだと思います。対人恐怖症の方の特徴を相対性原理で説明するとどういうことになるのか。1、対人不安が大きくなると、生の欲望の発揮は小さくなる。2、生の欲望の発揮が大きくなれば、対人不安は小さくなる。不安と欲望の相関関係はこのようになっているのです。2の方向を目指しているのが、森田理論です。ここで留意しておきたいことは、不安は欲望がある限りなくすることはできない。不安は欲望の暴走に対して、抑止力としての役割を果たしている。ですから不安を根こそぎ取り去ってはいけないということです。そういう意味では、不安は私たちに与えられた宝物として丁重に取り扱う必要があるのです。不安を目の敵にする神経症の治療は、すべて間違っているということなのです。次に、不安と欲望をどういう風に取り扱えばよいのか。一言でいえば、この二つを調和させればよい。バランスをとることに注力すればよいということになります。具体的には、サーカスの綱渡りの芸を参考にしてください。長い物干し竿のようなものでバランスをとっています。右に重心が移動すれば、左の棒を下げる。左に重心が移動すれば、右の棒を下げる。絶えず微調整を繰り返しています。片寄らないように細心の注意を払っています。いかにバランスを維持するかということに注意を払い、しかも少しずつ前進しているという事実が肝心なのです。そうしないと向こうの目的地にはたどり着けません。最悪の場合は、高所から落下してしまいます。下に網が張ってなければ、大けがをするか、最悪の場合、命を落としてしまいます。理想的な生き方があるとすれば、生の欲望を前面に出しながら、不安という抑止力を活用して、調和を希求した生活を続けていくことに尽きるだろうと思われます。
2020.10.10
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森田先生のお話です。井上君が、以前も、今も、不安はなくならないといいましたが、それは我々が、精神の進歩発達とともに、ますます増すものです。小児の時よりも、年をとるほど心配事は多くなる。医者になるにも、病の事を多く知れば知るほど、気になることは多くなり、貧乏よりも、金持ちほど苦労が多く、学者になるほど、疑いと迷いと研究問題が多くなり、ニュートンも、自然の研究発見は、ほんの浜の真砂の幾粒かに相当するものである。ただ疑問は、ますます多くなるばかりであるといってある。エジソンのような発明家になれば、発明したい事が、いくらでも増してくるのである。我々は不安があり、鳥越苦労が多いほど、多々ますます弁じて、初めて人生の生き甲斐を感じるのである。ここで初めて、強迫観念とは跡を断つのである。(森田全集 第5巻 512ページ)森田先生は神経症が治ったからといって、不安はなくならないと言っておられます。歳をとるにつれて、不安の数はますます多くなってくるといわれています。これは成長するにつれて、行動範囲が広がってきますので無理からぬことです。でも絶えず不安に追い掛け回されて、ビクビクハラハラしながら生活している人にとっては、何ともやりきれない話だと思います。それでは一生不安に振り回されながら生きていくしかないのかと思われるかもしれません。こういう人は不安を忌み嫌ったり、不安に対して恐れおののいてばかりです。不安の特徴や役割を森田理論でしっかりと学習することが必要だと思います。認識の誤りを抱えているわけですから、それを解消するために森田理論の「不安と欲望」の学習をした方がよいと思います。大脳では不安や恐怖は偏桃体で感知するようになっています。そして海馬と連動して処理しています。人類の進化の過程で、必要不可欠なものが残り、不必要なものが淘汰されてきました。不安や恐怖を感知する偏桃体は、必要不可欠なものであるために淘汰することはできなかったのだと考えています。危険や恐怖が迫った時、瞬時に不安や恐怖を感じることができないと、無抵抗、無防備ですぐに命を落としてしまうことになります。不安や恐怖を感じる力は、注射針を打たれるような痛みはありますが、人間にとってはなくてはならない大切なものです。それは痛みを感じる神経と同じ働きをしています。神経が体中に張り巡らされているおかげで、身体の不具合箇所はすぐに分かります。すぐに治療などの対応策をとることができます。すい臓がんなどは痛みを感じないので、気が付いたときはすでに手遅れということになります。これではまずいのです。不安というのは信号でいえば黄色や赤色を点滅させてくれているのです。危ないですよ。注意しなさいよ。などと老婆心を発揮してくれているのです。地雷のある場所を教えてくれている、ありがたい存在なのです。その警報に従って、無鉄砲な言動を抑制することができるのです。ありがたい役割を果たしている存在だと認めることが大切です。また不安や恐怖には欲望が暴走したときに抑止力としての役割があります。車でいえばアクセルをふかして、前の車との車間距離がなくなった時、スピードを上げすぎたとき、信号待ちになった時にブレーキの役割を果たしてくれています。ですから不安を排除することにエネルギーを使うのではなく、不安を上手に最大限に活用することにエネルギーを投入することが大切になります。つまり不安の役割を正しくとらえて、欲望とのバランスをとるために活用することが大切です。
2020.09.07
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最近集談会にやってくる人の不安の中身が漠然とした不安に変わっているという。深刻な症状でのたうち回っているという雰囲気ではない。その証拠に「生活の発見誌」を読むことが症状克服に役立つのなら、私も読んでみたいという気持ちになる人は極めて少ない。経済的にそんな余裕がないという人もいる。多くの人は、そんな海のものとも山のものともわからないものをとって読むことは時期尚早として見向きもしない。あるいは本を読むということ自体に親和性がないのかもしれない。私が集談会に参加し始めたときは、対人恐怖症で会社を辞めるかどうかという危機的状況であった。なんとかして神経症を治したいという気持ちが強かった。それだけ切羽詰まった不安を抱えていたのである。最近の人は、不安の中身が弱いと感じる。軽いのではないかと思う。決して不安がないのではない。不安があるから集談会にやってきたのだ。うつ病でいえば、大うつ病ではなくて、慢性的な軽い不安状態が続いている気分変調性障害のような感じである。切羽詰まっている不安よりも、不安のために生きづらさを抱えている。不安の中身が弱いと欲望も弱いという関係にあります。これは問題です。森田理論は生の欲望が強い人というのが適応条件になっているからです。それは本人のせいばかりとは言えない。日本という社会や家庭が、欲望そのものを骨抜きにしてしまっているように感じる。戦後の教育や社会の在り方が問題だったのです。例えば、一般的に早く親から精神的にも経済的にも自立して生活したい。家を建てて、結婚して、子供を設けて、暖かい家庭を作りたい。このような目標、夢、希望を多くの人が持っているかどうか。そういう基本的な欲望が希薄になっているのではないか。一例をあげてみよう。・家は親の家に住むから別に困らない。・必死になって働かなくても、親と一緒に暮らしていれば、食いはぐれることはない。・成人しても親から小遣いがもらえる。大金がいる時は、いつも親が援助してくれる。・親が亡くなれば相当の遺産を相続できるから将来路頭に迷うことはないだろう。・結婚して、炊事、洗濯、掃除、食事の準備に追われて何が楽しいの。・子供が生まれて、自分の時間を子育てに割かれるのはまっぴらごめんだ。・会社では、暗黙の了解で、サービス残業を強要されることには耐えられない。・それより年収は少なく、身分の保証や社会保険の適用はないが、フリーターやアルバイトのほうが気が楽だ。・とくかく責任を負わされるような仕事はしたくない。・学校や職場で自分が傷つくような付き合いは極力回避したい。・一人の時間を大切にして、ネットゲーム、ネットサーフィン、趣味に没頭したい。・他人との接触は、ツィッター、フェイスブック、ラインで十分だ。基本一人で生活する。じかに、他人と面と面を合わせて話しするのは煩わしい。・精神的におかしくなれば、薬で押さえればよい。カウンセリングを受ければよい。認知行動療法などの精神療法がある。以上みてきたように、社会全体として生の欲望が弱まっているのである。依存的で、今だけ何とかやり過ごすことができればそれで十分だ。今までそれでやってきたし、これからもそれでやっていけるめどが立っている。無気力、無関心、無感動の生活にどっぷりとつかっているために、それ以外の生活は考えられないのである。仮にそこから抜け出ようとしても、そのエネルギーが枯渇している。森田先生は欲望が希薄な人は、哀れなものだといわれている。仲間を求めて意を決して集談会にやってきた。すると年配の人ばかりだ。50代の人が若手といわれている。何しろ年金暮らしだという人がやたらに多い。健康法や生きがい、趣味や介護の話が多い。この会は余生をいかに楽しむかを話し合う人たちの集まりなのか。挙句のはてに、不安は横に置いて、規則正しい生活を送りなさい。日常茶飯事に丁寧に取り組みなさい。定職を持ちなさいなどと言われる。自分には全く役に立たないところだった。森田療法が適応される条件に当てはまる人は、生の欲望が強いという特徴がある。それを持ち合わせていない人は、残念ながら他の方法でその漠然とした不安感を取り除くことしかない。森田療法がピタッとヒットしないのである。このブログは毎日800人から1500人の人が閲覧されている。潜在読者はその3倍から4倍ぐらいだと聞いた。ということは5000人がいいところだ。それ以上にアクセス数が増加することは、生の欲望の脆弱社会の現状から見ると期待できない。このブログを読もうという人は、生の欲望が比較的強い人だと思う。逆に言うと生の欲望が強い森田適応者が極端に減少しているというのが日本の実情なのだと思う。残念だが、いくら対策を立てても、自助組織が縮小し、森田適応者が減少することはいかんともしがたい。生の欲望を賦活させる社会構造の転換が必要になると感じている。
2020.08.10
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6月の生活の発見誌に、「持病のある夫が新型ウィルスに感染しないか、重症にならないか不安です。よきアドバイスをお願いします」というのがあった。この方の夫は、約1年の透析を経て、腎臓移植をされたそうだ。現在免疫抑制剤を使っておられる。そのほか、糖尿病もあり、血圧も高いという。かなり厳しい状態にあります。新型コロナウィルスは、持病を持った人やお年寄りなどには容赦なく襲いかかります。夫のことが心配で、気がかりなのはよく分かります。不安になると、森田の言葉である「あるがまま」「不安常住」「前を謀らず、後ろを慮らず」などを、頭の中で何度も復唱されているという。しかし不安は収まりません。このような状況の中で、どうするのがよいのか考えてみました。「対応しなければならないこと」と「対応してはならないこと」を区別することが大事だと思います。まず「対応してはいけないこと」から考えてみましょう。不安な気持ちを無くしてしまおうとすることです。森田を学習している人なら、不安を取り除こうとすれば、精神交互作用で蟻地獄の底に落ちてしまうことはよくご存じだと思います。そういう場合は、精神科医に相談して、不安を少し和らげる薬を処方してもらうことだと思います。少し気持ちが楽になるだけでも、だいぶ違います。また、不眠が続くのであれば、睡眠導入剤なども必要になるかもしれません。しかし薬物療法は松葉杖のようなもので不安を完全に取り去るものではありません。このことはしっかりと認識しておくことが大切です。今は不安が極限状態にあります。つらいと思います。でも不安はあるがままに受け入れて持ちこたえるしかありません。持ちこたえているうちに、不安は変化していくという事を思い出してもらいたい。楽になるかどうかは分かりませんが、少なくとも不安は時間の経過とともに変化していく。一般的には不安は薄まり軽くなります。そのことを信じて淡々と日々の生活を積み重ねていくことです。つらくて自分の頭の中が壊れてしまうような気持ちでしょうが、森田ではその方法がベストであると教えてくれています。次に「対応しなくてはいけないこと」を考えてみましよう。病気のご主人はとてもつらい心境に置かれていると思います。精神と身体の両方面で投げやりになっておられるかと思います。そんな時に奥さんが、近くにいてあげるだけでもどんなにか助かっていると思います。病院への付き添い、家での介護、食事の準備、掃除洗濯、快適な住空間づくりなどは精魂込めて取り組むことだと思います。また日常茶飯事に取り組むことで、不安に振り回されるという悪循環は軽減させることができます。以上2点を心掛けて生活していくことだと思います。すると、2年先、5年先で振り返ってみたときに、森田を活かしてなんとか乗り切ったという充実感がこみあげてくるだろうと思います。誰にとっても人生は山あり谷ありです。今は波が沈み込んでいますが、沈み込んだ波は必ず浮上してくるのが自然の法則です。自然の流れに身をゆだねて生活していくことが一番安楽な道となります。後で振り返ってみたときに、なんと中身の濃い味わい深い人生だったことかと感謝できるようになるのではないでしょうか。
2020.07.12
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2020年5月号の生活の発見誌(52ページ)に次のような言葉がある。症状を取り除きたいという気持ちはよく分かりますが、私は、症状を完全に取り除くことは難しいのではないかと思うし、その必要もないのではないかと思っています。むしろ症状が少しぐらい残っているほうが、悩んでいる人の気持ちに一層寄り添える(共感できる)し、森田の学習を続けるモチベーションの維持にもつながるのではないでしょうか。私はこの意見に同感です。この話に関連して、山野井房一郎さんは、大勢の人の前で話すことができなかった。それが修養が進んだころ、ビクビクハラハラしながらなんとかやり遂げることができた。話しの最後に「これをもって神経症を克服したことを宣言します」といわれたそうだ。本人としては心の中ではまだまだ苦しかったのではないかと思います。でもやるべきことから逃げないで、やり遂げることができるようになった時点で神経症克服の宣言をされているのです。この心意気が大切だと思います。森田では神経症の克服ついては、心の中で折り合いがついているかどうかについて問題にしていないのです。症状を取り除こうとして格闘することを止めて、目の前の日常茶飯事や仕事に取り組んでいるかどうかを見ているわけです。神経症の克服のかぎはまさにそこにあります。そういう克服の仕方は、症状を取り除いてすっきりした気持ちになりたいと考えている人にとっては、受け入れがたい考え方だと思います。目的が不安、恐怖、違和感、不快感に動じない人間になることを目指しているので、とても受け入れることはできないと思います。では神経症の克服に当たってはどういう方向を目指していけばよいのでしょうか。それは一口に言うと「生の欲望の発揮」に邁進していくことに照準を当てることです。ではとらわれていることに対して、手をこまねいているだけなのですかという反論が聞こえてきそうです。間違いと思われるかもしれませんが、その通りです。不安などを目の敵にして、対症療法で軽減させ取り除こうとする考えではありません。不安を受け入れる、共存するという考え方です。ここが森田療法と他の精神療法の違いとなっております。不安というのは、もともと人間が生きていくうえでなくてはならないものです。自然発動してくるものである。無くすることはできないし、無くする必要もない。信号機と同じで注意信号を発してくれているのです。黄色い信号が点滅している時は誰でもスピードを落として、周囲の様子を確認しながら慎重に運転します。これを無視していると、いずれ大事故を起こすことになるでしょう。このように考えると不安の存在はありがたいものなのです。それから不安の裏には欲望があるといいます。欲望のみを追及していくと、弾みがついて暴走し取り返しのつかないことになります。欲望は車でいえばアクセルです。アクセルを踏み込まないと車は決して前には進みません。しかしいったん動き出した車はブレーキでコントロールしないと、すぐに事故になります。命を失ったり、人様に迷惑をかけることになります。ですから不安は、欲望の暴走を制御するというありがたい機能を果たしているのです。そこのところを勘違いしてしまうと神経症で苦しむことになります。生の欲望の発揮を無視して、不安そのものを取り除こうとして、格闘した結果が神経症なのです。森田理論で不安の特徴や役割、欲望と不安の関係性をしっかりと理解することが肝心です。これは生活の発見会などの集談会に参加して、集団学習として取り組みましょう。そして不安を生活の中に活かしていくようになると、神経症とは縁が切れます。不安、恐怖、違和感、不快感が発生したとき、2つの対応方法があります。一つは将来に明るい展望が見込まれるものと人様に役立つことには、問題解決に向かって積極的に行動することです。それ以外の時は、不安を受け入れて、不安と共存共栄を図ることです。欲望と不安の調和を目指すのです。そういう治り方というのは、気持ちとしてはすっきりとはしません。不安がいつも付きまとっていて、うっとうしいと思うのが常であります。それはたとえて言えば、人間誰にも無数の細菌がとりついています。腸には無数の細菌が住み着いており、そのおかげで消化吸収が滞りなく行われているのです。細菌は気持ち悪いと言って、取り除くことはできません。また仮に取り除いてしまうと、自分の命は守ることはできない。バランスを取りながら、腸内細菌と共存共栄を目指すことで、自分の身体の健康を維持して、延命できるという事を忘れてはなりません。
2020.06.24
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昨日は客観的事実と主観的事実を認めて受け入れる態度が重要であるという話をした。今日は客観的事実と主観的事実のバランスをとることについて投稿したい。人間はいろんな欲望を持っています。美味しいものを腹いっぱい食べたい、浴びるほど酒を飲みたい。できるだけ多くのお金を稼ぎたい、結婚したい。他人から評価されたいなどなどです。これらは本能的な欲望といってもよいかもしれません。これらの欲望が次から次へと頭の中で渦巻いています。ところが同時にそれらを抑制し引き留めるような考え方も同時に湧き起こってきます。森田理論で学ぶ「精神拮抗作用」と呼ばれているものです。別の言葉でいえば、人間には欲望の制御機能が働くようになっているのです。例えば、食べ過ぎるとブクブク太ってしまう。生活習慣病にかかってしまう。酒を飲みすぎると、二日酔いで苦しむことになる。肝臓が悪くなる。お金の亡者になると、不正を働いたり、詐欺のようなことに手を出して人様に迷惑をかける。このような考え方が自然に発生して、欲望が暴走しないようになっています。この制御機能が正常に機能しないという人は、双極性障害を抱えている可能性があります。あるいは欲望が暴走を始めて、制御不能な状態に陥っています。不安がないので、天真爛漫で、とんでもないことを思いつき、即実行に移そうとします。欲望に果てしがなく、他人に止められても聞く耳を持ちません。しかし、躁状態が通り過ぎると、借金で首が回らなくなって後悔するようになります。自己嫌悪、自己否定に陥ってしまいます。一方、不安に取りつかれている人は、生の欲望の発揮が蚊帳の外になっています。その不安を取り除いたり、逃げ回ることが習慣になっています。こういうのを手段の自己目的化といいます。本来の目的がすり替わっています。欲望と不安のバランスが崩れており、一人で相撲をとっているような状態です。元々人間に備わっているこの制御機能はとてもありがたいものなのです。不安、恐怖、違和感、不快感などがその役目を担っていますので、大事にする必要があります。森田理論学習で学ぶように、欲望と不安はヤジロベイのようにバランスをとる必要があるのです。天秤でいうとどちらかに重いものを乗せると、つり合いは取れません。つり合いがとれないということは、破滅を招き、どちらも存在を誇示できなくなります。このように主観的事実と客観的事実は、常にバランス、調和を意識しながら生活する態度が欠かせないのです。私がよく思い浮かべるのは、サーカスの綱渡りです。長い物干しざおのようなものを持ってバランスをとりながら、注意深く前に進んでいます。この気合を身につける必要があります。次に欲望をどん欲に追い求め過ぎると、この制御機能は正常に働かなくなるという特徴があります。飛行機が離陸するとき、ある一定の速度に達すると、何らかの不具合が発生しても、離陸を中止することはできないそうです。中止すれば、勢い余って海や山などに突っ込んでしまい、大惨事になります。欲望をどん欲に追い求める人のことを仏教では、「餓鬼」というそうです。その姿はとても醜いものだといわれています。人間本来備わっている制御機能を有効に活用することができなくなるのです。バランスのとれた生活を維持していこうとすれば、普段の生活の中で欲望を意識して制御する必要があります。美食家、グルメ三昧の人は、なるべく家で食事をすることを考えてみる。家庭料理、加工食品づくりなどに精を出すことです。酒のみの人は飲むたびに同じ量の水を飲む。飲むよりも野菜などを積極的に取るようにする。人よりも少し遅めに飲むように心がける。新しいものが欲しくなったら、自分の持ち物を棚卸してみる。壊れていたら、直して再生して使えないかと考えてみる。つまり、欲望の充足率を60%ぐらいのところに置いて生活する習慣を身に着けることが大事になります。自分一人でそのバランスをとれないという人は、第三者の助けを借りる必要があります。
2020.04.05
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生活の発見誌の1月号の「お悩み相談」に、イヤな出来事があるとすぐに逃げてしまう。どうしたら踏みとどまることができるのかという記事があった。これは私の人生そのものであったので、一言投稿させていただきたい。私は今まで嫌なことから逃げてばかりの人生でした。人から能なしヤロウのダメ人間と烙印を押されているような気がしていました。自分なんか生きていてもいいことなんかは何もない。過去の無様な姿が夢に現れて、後悔でうなされることもありました。すぐに逃げてしまう自分が嫌で嫌で仕方がなかったのです。何も成し遂げられないまま、失意の人生で終わってしまうのか。自己嫌悪、自己否定の塊だったのです。嫌なことから逃げずに立ち向かっていかなければ、ダメ人間だと信じて疑いませんでした。そういう理想を掲げれば掲げるほど、現実とのギャップで自分がみじめに思えてきます。最近歳をとってきたせいか、少し客観的に考えることができるようになりました。不安や危険を感じて、一目散に逃げたからこそ、今こうして生きている面もあるのではないか。うまく逃げ回った自分を批判しないで、評価してあげてもいいのではないか。逃げ回るとマイナス面も多いが、プラス面もあるのではないか。たとえば、猛烈な台風がやってくるとの情報が入れば、ベランダのものを家の中に入れる。窓ガラスが壊れて飛び散らないように飛散フィルムを貼る。浸水して来たらマンションの4階以上に非難する。危険を察知して、実際に手を打ち、逃げ道を確保しておくことは大切なことなのではないか。アフリカのサバンナでも危険を感じて先に逃げている動物の方が生き延びている確率が高い。力の劣る動物が、逃げることを忘れて、力の強い動物と闘えばすぐに死んでしまう。野球選手でもプロから誘われたにもかかわらず、実業団のチームを選択する人もいる。プロに入っても4~5年でクビなる人が多いのだ。自由契約になってしまえばたちまち生活難に陥る。それに引き換え、実業団の選手は定年まで勤められる可能性があるし、生涯年収で見るとどちらがよいとは簡単には言えない。会社でも先頭に立って活躍しているうちはよいが、一旦評価が下がった人はみじめだった。課長や部長でも成果が上がらなければ、リストラ、出向、退職勧奨、窓際族となっていった。そんな道を敬遠して平社員に近い人が、定年まで勤めあげて、満額の退職金をもらっていた。精神的にはつらい経験が少なく、仕事以外の活動も楽しむことができた。まじめに仕事に取り組んでいたと思えないような人が、家族の生活を守るという責任を果たしていた。つまり、消極的でやる気のなさそうな、どちらかというと逃げていた人生だからこそ、仕事に在りつき、大病にならず、精神的にも比較的安定していた面もある。逃げてしまうという悩みを持っている人は、人生は如何なるときにも逃げてはいけないという「かくあるべし」で苦しんでいるのではなかろうか。たしかに逃げてばかりだと、味気ない人生になってしまうという面もある。でも逃げたからこそ命がつながっている面もある。両面があるのに、後悔でいたたたまれないという人は、一方的にダメ人間と決めつけて、自己嫌悪している。一人相撲をとって苦しんでいるのだ。その姿はそばで見ていると滑稽だ。私は、自分は「イヤなことがあるとすぐに逃げるという特徴を持った人間だ」と認めてしまうことが大事だと思う。それが良いとか悪いとかの価値評価を下していることが問題なのではなかろうか。そんな自分に、逃げ回って社会の荒波をかいぐぐり、よくぞここまで生き残ったものだ。あんたはえらいと褒めてやってもいいのではないか。
2020.02.08
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不安へのとらわれから脱出する具体的な方法を考えてみたいと思います。これからの話は、玄侑宗久氏の「禅的生活」からの引用です。興味のある方は52ページあたりをお読みください。たとえば今、眼を閉じて焼きそばを思い浮かべていただきたい。人によってさまざまだろうが、多くの人は焼きそばの載った皿や鉄板を上から見たように思い浮かべたのではないだろうか。そして一部の人だけが、その焼きそばの置いてある部屋の様子、テーブルの大きさやテーブルクロスの柄、場合によっては部屋の内部装飾や何人かの人の顔まで想像したかもしれない。上から見たように思い浮かべた人は、じつは焼きそばのことを「考えた」のである。やがてその中に入れる具のことなど考え出すかもしれない。一方、焼きそばのある風景全体を思い浮かべた人は、イメージの世界に遊んだのであり、別の言葉でいえば「瞑想」したということになる。瞑想とは、ふだん意識から独立している無意識の脳機能を意識によってコントロールする方法であり、基本的には意識が拡散した状態を保持することから始まる。たとえば意識が右の拳1ヵ所に集中すると、我々はすぐに何かを考えはじめることもできるが、意識を両手の拳に均等に分散してみていただきたい。その状態では理性的な思考がストップしていることに気づくだろう。慣れてきたら両手両足の4ヵ所意識を分散したまま集中することも可能になる。「瞑想」してみると分かるが、その時目に見える何物をも言語化していないし、なんらかの価値判断もしていない。焼きそばの例でいえば、、思い浮かべた部屋も綺麗でもないし汚いわけでもなく、ただ「ありのまま」に浮かんで見えているに過ぎない。つまり価値判断がなされていないからこそ、全体が浮かんでくるのである。見えている人の顔にしても、好きとか嫌いとか特別な怨みがあったりすれば、焼きそばも、テーブルクロスもすぐに見えなくなってしまう。「考える」とは「今ここ」からいなくなることなのである。「瞑想」においてすべてが見れるのは、好き嫌いや価値判断を離れているからなのである。「瞑想」とは大局的に物事が見えている状態であり、そこではあらゆる「考え」や価値観から解放されているのである。言葉を使って思索しているのは、大脳の前頭前野である。新しいものを創造するときはとても重宝なものである。これは大いに活用したほうがよい。ところが神経症の原因となる、不安や恐怖などに注意を固定して、闘いを挑むことは、たちまち葛藤や苦悩を抱え込んでしまうことになる。これは考える能力を持った人間の宿命である。この場合は、大脳の前頭前野を使って考えること、価値判断を下すことがマイナスに作用してしまうのである。そこで、禅では、人間に葛藤や苦悩をもたらす思考をなくする方法として、「瞑想」という手法を使っておられるのだと思う。不安や恐怖から逃れる方法として、過度な注意の集中を避けて、大局的な立場から物事を見つめるというのはその通りなのかなと感じる。最近はマインドフルネスや気功の話をよく聞くようになった。余計なことをしないで、眼を閉じて、呼吸に注意を向けたり、今現在の感覚に注意をむけるという方法と似ているのかなと感じた。
2020.02.05
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欲望や不安はどのようにして発生するのだろうか。最初から人間の頭の中にあるものではない。目の前の出来事に接して、それぞれの人が頭の中で自分なりの解釈を付け加えることによって発生している。この解釈や認識は100人100様です。同じ出来事に接しても、パニックになるほどの強い不安や恐怖を感じる人もいる。ものの受け取り方が、否定的、悲観的傾向に片寄っている人もいる。神経質性格を持っている人は、その傾向が強いようだ。人によって異なる解釈や認識はどのように形成されるのだろうか。それは今まで生きてきた経験、環境、記憶、性格傾向などによって決定されます。自分一人で欲望や不安を作りだしているように思っているが、それは認識の誤りです。自分とかかわってきた人たちから受けた影響の範囲内で欲望や不安が生みだされている。親の子育て、周囲の人間関係、学校や社会での教育、テレビや新聞、国家による洗脳が大きな影響を与えている。たとえば戦時中は、国民は天皇陛下のためには喜んで命を捧げるという教育を受けました。そういう洗脳教育を受けた結果、多くの国民はその思想に染まってしまいました。最後までアメリカと闘うのだと思っていたのです。それに反対する人は非国民と言われました。今考えると無謀ですが、そういう洗脳教育をいつの時代も、どこの国で行っていると思っているほうが無難です。いまの金融資本主義の弊害はあちこちで問題を露呈していますが、私たちは井戸の中に入っている状態なので、洗脳教育を受けているとは夢にも思いません。そういう洗脳教育が、自分たちのものの考え方、思考の形成に大きな影響を与えているのです。もう一つ例を上げましょう。私たちは毎日テレビを見ています。民放放送ではひっきりなしにCMが流されています。その結果、知らず知らずのうちに私たちの物欲が刺激されているのです。最近は録画して、CMはスキップして後で見る人もいます。そこで「プロダクト・プレイスメント」という広告手法がとられています。たとえばドラマの中で俳優さんが着ているもの、飲んでいるもの、使っている車、家具や飾っているものを視聴者に植え付けるという手法です。CMのような露骨な宣伝ではありません。何となく自分も同じものを使ってみたいというような状況を作りだそうとしているのです。テレビは見ませんという人でも、新聞をとっていると、折り込み広告は山のように挟みこまれています。これらに接することで、知らず知らずのうちに自分の生活に取りこんでいくのです。ものの考え方、思考パターンの習得も全く同じことが言えます。ですから欲望や不安に振り回されているのは、自分ひとりで作りだしたものではない。そういう考え方、思考パターンは、今まで知らず知らずのうちに受けてきた洗脳教育の結果として存在しているということです。不安、恐怖、違和感、不快感などは、時代環境が変わり、別の洗脳を受けると、今までとは全く違う考え方、思考パターンに変わってしまうという類のものです。このように考えると神経症で苦しむことは、実体のない幻想の世界に迷い込んで、一人相撲をとっているようなものです。このことが理解できれば、不安に自分の人生を奪い取られてしまうことが軽減されるのではないでしょうか。
2020.01.19
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今日は精神拮抗作用について考えてみよう。たとえば、時間がたてば腹がへり、御馳走を見れば食べたくなります。これが欲望です。欲望は、その時々のことに真剣に取り組んでいれば、おのずと自然に発生します。基本的には日常茶飯事を手を抜かないようにすることでいくらでも欲望は生まれてきます。欲望が次々に出てくると、行動への意欲が高まってきます。いったん行動すると、弾みがついてドンドン活動的になってきます。欲望の存在は、人間が生きるということを考えてみた場合、とても重要なことです。欲望のない人は、哀れです。本来の人間の生き方とは言えません。ところが、その欲望の追及が果てしがないということになると、困ったことになります。食べることでいえば、飽食三昧、あるいはグルメと言われるような状態になります。体重が増えて体形が崩れてきます。歩くのもしんどくなります。生活習慣病検診を受けると、肝機能、胃腸の障害、血液の異常、代謝の異常などが見つかるようになります。糖尿病やガンなどの病気にかかりやすくなります。これは、好きなものを腹いっぱい食べたいという欲望が暴走した結果です。普通の人間は、欲望の暴走に対して、自然に制御機能が働くようになっています。この二つがあざなえる縄のごとくけん制し合って適正な行動につながっているのです。食べることでいえば、食べ過ぎると太るので嫌だな。この前の健康診断で、高脂血症が指摘されたので、食べ過ぎには注意しようという気持ちになるのです。アルコールについても、こころゆくまで飲みたいけれども、二日酔いになって次の日に苦しんだことが思いだされて、自重するようになる。本能的な欲望に対しても、こんなことをすると家族に迷惑がかかる。あるいは社会から追放されるかもしれないと思うと思い留まることができます。制御機能は、不安、恐怖、違和感、不快感などです。神経症の人はこれらを目の前の敵にして取り除こうとしているわけです。あるいは逃避することを考えているのです。制御機能は人間に元々備わった生きていく上でなくてはならないものです。欲望を追求するうえにおいては、なくてはならない役割を持っていると認識を新たにする必要があります。自動車はアクセルペタルを踏み込まないと前には進みません。でもそこにブレーキというものがないと、スピードをコントロールできないので事故につながります。欲望を優先しつつも、きちんと制御機能を活用していくということが欠かせません。欲望の特徴としては次のようなことが問題になります。欲望は一旦弾みがついてしまうと、その制御機能は十分にその機能を発揮してくれなくなります。車でいえばブレーキが壊れた状態です。欲望が欲望を膨らませて、歯止めがつかなくなってしまうのです。そういう人はたくさんいます。双極性障害の躁状態の症状とよく似ています。国と国との問題も、国益を求めての欲望の暴走にはよほど注意する必要があると思います。欲望が暴走してしまうと、後で制御することは不可能と心得ることです。自他ともに不幸になりますし、これが人類の滅亡にも発展してしまいます。過去栄えた4大文明も欲望の暴走の結果、すべて滅亡してしまいました。この歴史に学んで、今後に活かすことが大切なのではないでしょうか。
2020.01.07
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ここ3ヶ月くらいプロバイダーを装って、あなたのセキュリティに問題があってアカウントはまもなく閉鎖されますというメールが届くようになった。それもまとめて10通以上が届く。私は不審に思って、プロバイダーに直接問い合わせをしてみた。このようなメールはプロバイダーからは送ってはいないということだった。またこの手の問い合わせが急増しているとのことだった。それならこのメールが届かないようにしてくださいとお願いしたが、すぐにメールアドレスを変更してまた送り付けてくるのだという。いたちごっこになるということだった。次善の策としては、迷惑メールフィルタリングサービスを利用してくださいということだった。いくつかのキーワードを登録すると、自動的に迷惑メールに仕分けされて煩わしさがなくなった。でもまたメールアドレスや文面を変えてメールが送りつけられる。たしかにいたちごっこが続く。でも安易にコンタクトをとることは控えている。たしかに気持ちが悪い。しかしこれに対応してイライラ感を無くそうとすると、ワンクリック詐欺にかかってしまう確率が高いと思う。ワンクリック詐欺とは、インターネットでサイトを閲覧していると、突然「あなたの登録が完了しました」「あなたの個体識別番号は○○○○です。手続きが完了しました」などと表示されて、料金請求画面が出てきます。そして指定日までに支払わないと、法的手段に訴えるというものです。初めての人は、ひどく動揺します。怯えて固まってしまいます。相手はあなたのことはすべて分かっているように装いますが、実際には何もわかっていません。相手はあなたが不安や恐怖を取り除こうとして、メールや電話をかけてくるのをじっと待っている状態なのです。それなのに、「私は買うつもりはありません」「会員になるつもりはありません」などというメールを送ってしまうと厄介なことになります。どんどんメールが送りつけられたり、電話攻撃が始まります。いったんお金を支払うと、再度催促されるような事態に追い込まれることもあります。最後には、消費生活センターや警察に相談しないと解決しないという状態にまで追い詰められる。不安や恐怖、不快感を何とかすぐに取り除きたいという気持ちが仇となってしまうのです。ここでは急いで自分一人で解決しようなどと思うよりは、他の人に相談してみることが有効です。ワンクリック詐欺に詳しい人、友達、プロバイダー、消費生活センター、警察などです。客観的立場から適切なアドバイスが得られるでしょう。私たちは不安、恐怖、違和感、不快感に対して、今すぐに取り除いてすっきりしたいという気持ちになります。そういうときは、「ちょっと待て」をキーワードにして、少し耐えてみることが有効です。野菜などの苗を植えて、根付いたかどうか確かめるために2、3日経って引っこ抜いてしまう人はいないと思います。気になっても我慢して、じっと待たないと根付いてはくれません。またケガをして、「かさぶた」ができたとき、その「かさぶた」が気になって剥がしてしまう人はいませんか。そうすれば傷口はいつまで経っても修復はできません。細菌が入ってきたりして、傷口はますます拡がってきます。気になっても我慢することが一番です。最近私は爪の間に皮膚がとげのようにささくれだって、つつくと痛くなったことがあります。これを爪切りなどでなんとが取り除きたいが、爪が邪魔になって取り除けない。無理やりカッターなどで取り除こうとすると益々傷口が広がってきたという経験があります。後で考えると、バンドエイドで巻いて様子を見たほうが良かったのではないかと思いました。不安、恐怖、違和感、不快感は、我慢して持ちこたえることによって、結果がよくなるケースもたくさんあるということを忘れないようにしたいものです。そんな気持ちを抱えたままなすべきことに目を向けて行動していくことが肝心です。
2019.12.17
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