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神谷美恵子氏のお話です。長島愛生園の患者の大きな悩みの1つは退屈という事であった。それを少し調べてみると、それはむしろ軽症で身動きの強いような人の中に多かった。失明してしまった人々のほうがかえって精神的にはつらつと生きている場合が少なくないという結果が出た。例えば肢体不自由である上に、視力まで完全に失ってベッドに釘づけでいながら、なお窓外の風物のたたずまいや周囲の人々の動きに耳をすまし、自己の内面に向かって心の目をこらし、そこからくみとるものを歌や俳句の形で表現し、そこに生き生きとした生きがいを感じている人はかなりいる。ベッドの上に端座し、光を失った目をつぶり、顔をやや斜め上むきにして、じっと考えながら、ポツリポツリと僚友に詩を口授する人の姿。そこからは、精神の不屈な発展の力が清冽な泉のようにほとばしり出ているではないか。肉体的機能が制限された人は、かえってエネルギーと注意が許された狭い「生存の窓口」に集中して、密度の高い精神的な産物を作り出しうるのであろう。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 60ページより引用)神谷美恵子氏は、まだ十分身体の自由がきくような人は、自由であるということが、逆に退屈を助長させていると言われる。光を失った人は、自由に本や景色を見る事はできない。そんな自分を他人と比較して、卑下していてはますます辛くなるばかりである。ところが、ハンセン氏病のために物が見えない、自由な身動きができないという事実をありのままに認めるとどうなるのか。自分の身体状況を良い悪いという価値判断をしないで、あるがままに認めることができるようになる。そこを出発点にして、残された身体の機能を見直してみる。そうすると、指の機能が麻痺して点字は読めないが、鍛えれば舌先で読むことができるということに気がつく。目が見えないが、その分聴力、触る、匂うがそれを補おうとして、敏感になる。その方面の五感を鍛えていけば、健常者が見逃すような敏感な感覚をビンビンと感じることができる。そのような機能を生かしていけば、詩や短歌、あるいは随筆のようなものが書けるようになるのだ。心の中の領域で、大きな世界が広がっていく可能性があるのだ。そういう人は、健常者が退屈でつまらないと言っているときに、豊かなやりがいを見つけているのである。これは身体の機能が失われて、それをあるがままに受け入れられるようになったからこそ到達できた心境ではあるまいか。持っていないものを見つけて貪欲に追い求めるよりも、逆に自分が持っている機能や能力を一から見直して持っているものを活かすという心境に至ると生きがいが生まれる。これは森田では「己の性を活かし尽くす」ということになります。経済的に恵まれていて、欲しいものが何でも手に入り何不自由ない生活をしている人や飽食三昧の人が毎日何もすることがなく暇を持て余している人もいます。そういう人は神谷氏の話を参考にしてみたいものです。
2024.04.19
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岩井寛先生のお話です。入院中のある高校生が、作業時間中に自室に閉じこもったきり外へ出てこないで、看護婦が促しても一向に言うことを聞かないと言うので、岩井先生がその高校生と面接をすることにした。彼は次のように言った。「先生、僕は先生の言われたあるがままに忠実に従っているだけですよ。僕は対人恐怖症だから、他の人と一緒に卓球をやったり、 中庭で雑草を抜いたりすることが嫌なんです。だから1人のときにはきちんと仕事をやっています。看護婦さんに非難される事はありません。僕は自分の気持ちに忠実に行動しているんです。人と会って緊張するのが嫌だから、おしゃべりをしながら一緒に作業はしたくない、という気持ちは僕の本心であり、その本心をそのままに認めるのがあるがままじゃないんですか。だから僕は自分の心をあるがままに認めて、それに沿った行動をしているだけです」(森田療法 岩井寛 講談社現代新書 159ページより引用)この高校生は、「あるがまま」という森田のキーワードについて、自然に沸き起こってきた感情のままに行動することだと理解されています。一見して正しい考え方のように見えます。不安や不快感などが沸き起こってくれば、逃避欲求のままに行動しても構わないと言われています。今まで不快な感情が沸き起こったとき、多少うしろめたさを感じながら逃げていたのかもしれません。それが森田理論学習によって、不快な感情が沸き起こったとき、逃げてもよいのだとお墨付きをもらったと言われています。でも何か違うようにも思えます。どこが違うのでしょうか。この高校生の考え方は、面倒なこと、嫌なこと、苦痛なこと、時間がかかること、ハードルが高いと思うようなこと、能力の限界を超えていると思うようなこと、目的が達成できないかもしれないと思うようなこと、やる気が湧き上がらないことはすべて回避してもよいということになります。実践や行動は、楽しいこと、面白いこと、成功することがあらかじめ分かっていること、最初からやる気が持てるもの、本能的な欲望が中心になります。エネルギーを必要とすること、努力を要することは回避する。効率第一、楽をして果実を手にすることばかりを考えるようになります。自分では努力をしないで、他人から与えられる刺激や快楽を追い求めていくことになります。これは森田先生の言う「気分本位」な態度のことではないでしょうか。「気分本位」の行動はそのうちむなしくなってきます。本来「あるがまま」というのは、不安や恐怖などがわき起こったとき、それらをやり繰りしたり逃げたりする事ではありません。取り除いたり、逃げたりしないでそのまま受け入れるということです。不安や不快感に対して価値批判をしないできちんと向き合うということです。次に不安の裏には欲望があるわけですから、生の欲望に沿って目の前のなすべきことに注意や意識を向けて行動・実践していくことです。さて、「あるがまま」になろうとすると、「あるがまま」にはなれないと言われます。これは不安をそのまま受け入れるというところが難しいのだと思います。今まで不安と格闘してきたわけですから、理解しただけで実行はおぼつかない。「あるがまま」を身に着けるとき、ここから入るのは難しいと思います。私の経験では、「あるがまま」を身に着けるには、生の欲望に沿って目の前のなすべきことに注意や意識を向けて行動・実践していくとうまくいきます。その中でも、規則正しい生活習慣を身に着けるというのが一番効果がありました。ルーティンワークの確立のことです。特に起床時間を毎日一定にすることです。形を整えることができると、「あるがまま」の態度は比較的早く身についてきます。それは頭で考える前に、すっと体が動くようになるからだと理解しております。
2024.04.17
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感情は自然現象であり、人間の意志の自由はないと言われます。自然現象の特徴を理解して、感情の取り扱い方にも応用していくことが大切になると思われます。まず自然現象は絶えず変化・流動しています。流れと動きがあります。森田先生はこのことを宇宙の営みから説明されています。万物はじっと一定のところに留まっていることはできないということです。一定のところに留まろうとすれば、存在することすらできないということになります。変化流動している状態が一番安定しているということです。コマは回転しているときが一番安定している。自転車やバイクは前進しているときが一番安定しています。鴨長明の方丈記には次のように書いてあります。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水あらず、淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。谷あいを流れる小川の水はきれいですが、淀んでいるお城の水は雑菌が繁殖しています。感情もどんどん流していくことが大事です。次に自然現象には波があります。森田先生次のように言われています。そもそも我々の注意作用には、緊張と弛緩のリズムがあって、一つのことに対して、いつまでも同じ強さの緊張で、注意を集中し続けることはできない。視覚でも聴覚でも、ある一定の物あるいは音に対して無理に注意を集中していると、初めはそれに注意が向いているけれども、いつとはなしに注意は散漫かつ、漠然となり、無意識の状態になってしまうのである。つまり一つのことだけを続けていると、次第に弛緩状態に変化していく。岩田真理さんのお話です。サーフィンでは、サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。人生の波に乗るとは、一瞬一瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察して、その時その時で適切な判断がとれるように努め、自分の生を前に進めていくことです。感情の波はあがったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗っていくことが、自然に服従するということです。その生き方が一番安楽な生き方となります。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 64ページ)自然現象は調和・バランスを求めて動いています。天体は、遠心力と引力でバランスを維持している。太陽と地球、太陽系と銀河系の関係を観察すればすぐに理解できます。緊張と弛緩、交感神経と副交感神経、欲望と不安、精神拮抗作用、ドーパミンとノルアドレナリンの関係などもバランスを維持することが欠かせません。神経質者はどちらかに偏る傾向があります。片寄ると問題がでてきて心身の病気を招いてしまいます。調和・バランスを意識するためには、ヤジロベイを目のつきやすいところに置いておくことです。またサーカスの綱渡りをイメージできるようになるとよいと思います。
2024.04.06
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帚木蓬生氏は、「自分の気持ちが、ある固定観念にとらわれたら「即」をつけて考えなおしましょう。ぐっと気持ちが楽になります。心が広々、晴れ晴れしてきて、新たな地平線が見えてきます」といわれています。(生きる力 森田正馬の15の提言 帚木蓬生 109ページ)「即」のつく言葉を探してみました。努力即幸福、煩悩即解脱、煩悩即菩提、不安定即安定、不安心即安心、苦即楽、善即悪、雑念即夢想、矛盾即統一、耳鳴即無声、病気即無病、健康即不健康、富即貧、貧即富森田先生は次のように説明されている。強迫観念の療法は、その精神の葛藤・煩悶を否定したり回避するのではない。そのまま苦悩煩悶を忍受しなければならぬ。これを忍受しきったときに、その煩悶・苦悩が消滅する。すなわち煩悩即菩提であり、雑念即夢想・不安心即安心であるのである。禅やその他の仏教で「煩悩無尽誓願断」とか煩悩を断つとかいうけれども、私の療法では、決して断つのではない。煩悩のままであるのであります。(森田全集 第5巻 388ページ)森田先生は煩悩を断つのではない。煩悩を受け入れるのだと言われています。「即」というのは、不安、恐怖、違和感、不快感が沸き起こったときに、はからいをやめてそれらと一体になる態度のことではないでしょうか。ここでのキーワードは「なりきる」ということです。「○○になりきれば○○になる」という言葉に置き換えれば分かりやすい。「なりきる」というのは、たとえば同じスピードで走っている電車に乗っていると、両方の電車は静止しているように感じられます。向こうの電車に乗っている人の動作が手にとるように分かります。実際には高速で動いているのですが、そのスピードが体感できなくなります。感情でもこれと同じことが起きます。不安、恐怖に「なりきる」ことができると、不安や恐怖に追い回されるという感覚がなくなるのです。この考え方を基にして、「努力即幸福」という言葉を考えてみました。努力している段階は目的が達成されている状態ではありません。一生懸命に努力しても、その努力が報われるとも限りません。失敗する確率が高いものはいくらでもあります。不安です。イライラしています。心はハラハラドキドキしています。普通そんな状態にあるときは幸福であるとは言えません。それなのにどうして幸福といえるのでしょうか。それは目標達成に向かって一心不乱に努力しているときは、意識や注意が外向き・前向きになっています。意識や注意が内向き・後ろ向きになっていないために、不安や恐怖などが入り込む余地もありません。不安、恐怖、違和感、不快感に振り回されていない状態は幸福な状態ではないでしょうか。目的を達成して次の目標を探しあぐねている人よりも、むしろ幸福な状態にあるといえます。
2024.03.26
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森田理論は、一定の所に留まってそのまま静止するのではなく、刻々と変化する状況を捕まえて、素早く変化に対応していくという考え方です。神経症的な不安、恐怖、違和感、不快感などもその方向で対応することが大事です。いつまでも関わり続けると、精神交互作用でアリ地獄に落ちてしまいます。変化対応力を鍛える面では参考になる話があります。セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏は、「顧客は移ろいやすく、飽きやすい集団と化している。加えて、好況、不況、産業構造、人口動向などのマクロ的変化、天候、気温、地域性などのミクロ的変化によって、顧客のニーズは日々刻々と変化している。こうしたいかなる変化にも素早く対応することが大切である」と指摘されています。セブン・イレブンの店舗の仕入れ商品はすべて買取である。売れ残った商品はメーカーに対して返品はできない。自分の店の負担となる。売れ残りは発注精度に問題があると判断する。自分の失敗を棚に上げて、安易に値引き販売するという方法は、お客様のニーズに真摯に向き合う気持ちが希薄であるととらえる。また売れ残るよりも、在庫切れを起こすことはさらに問題だという。これはお客様に最も迷惑をかけているというふうにとらえている。これを販売の機会ロスというそうだ。同じ店であっても、平日と土日、祝日では並べる商品がちがう。給料日の前と後ろでも品ぞろえを変えている。雨が降りそうならビニール傘、寒い夏ならおでんというふうに即座に対応している。セブン・イレブンは一店として同じ品ぞろえをしていない。立地、商圏、客層特性、他店との競合状態によって当然違うものにならざるを得ない。セブン・イレブンは1988年8月に夏季の交通渋滞地域である三浦半島および南房地区の米飯配達にヘリコプターを使ったという。2004年中越地震の際にも、ヘリコプターで大量のおにぎりを運んだ。これはいかに輸送コストがかかろうとも、状況の変化の中でお客の需要がある限り、お客様のニーズにこたえる責任と義務があると認識しているからである。セブンイレブンの発注システムは変化対応の歴史そのものであった。レジを通った商品データーは即座に販売データとして記録されている。これも商品発注の精度を高めるために活用されている。時代の変化が生み出す様々な環境与件の変化の前には、過去の強者、覇者といえども明日は保証されない。変化対応力こそが生き残るすべてである。世の中は変化こそが常態である。であるならば、自己革新は我々人間の生き方として第一に重視しなければならない。(「創造的破壊」経営 緒方知行 小学館文庫)
2024.03.24
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高良武久先生のお話です。われわれは富士山を見て非常にいい景色だという。富士山が日本のシンボルみたいに立派な山で、霊峰なんていう名前を付けたりするけれども、なるほど富士山を眺めていい景色だと、立派なものだというふうに思うのは富士山の利の方面だけで、富士山の裏側の人は、富士山があるために日のあたりが悪くて閉口しているんだね。それだけその影が多いんだな。だから富士山にしても非常にいい面と人に迷惑を与える面があるということですね。神経質な人は、自分が気が小さい、いろんなことに心配する、ということでずいぶん自己嫌悪に陥るということが多い。しかし、そういうようなことは、一応非常な欠点のように思われるけれども、やはり必要なこともあるわけですね。ものごとをやる場合に、細心でやらなければ、いい仕事はできないんですよ。大雑把にやったってできないですよ。みんな細かく気をつかってやるんですね。細かく気をつかってやらなければいい仕事はできないんだから、気が小さいということはそういうふうに、外界のものごとを処理することにそれを使っていけば、それは長所となる。しかし、自分自身のことばかりに気をつかって、自分を守ることに一生懸命気をつかうと、それにとらわれて非常に萎縮しますね。ものごとに用心深くなりすぎて、そして絶対に安全でなければやらないということになれば、手も足も出なくなってしまう。つまり、これは適度の感覚がないということですね。一方に極端にはずれてしまって小心になって、自分のことばかり一生懸命に心配している。これはやはり一つの極端ですね。しかし心配、苦労が全然なくてなにごとも楽観的に見るということになれば、これも極端であって、ものごとを希望的観測ばかりやって楽観していれば、失敗が多いんだから、それも極端でやはり順応できないということですね。(生活の発見誌 1992年3月号より)この話は両面観の説明です。鉛筆を見るときは全体を見ないと正しく見たことになりません。鉛筆削り器で削った真の先ばかり見ていると、先のとがった黒い三角形の物体だったということになります。その反対ばかり見ている人は、6角形で真ん中に黒いものがある物体だったということになります。真ん中ばかり見ている人は細長い物体だったといいます。部分的には合っていますが、全体的には真実は見えてこないことになります。これは森田理論を理解するときも応用できます。森田理論は、基礎的な学習が終わった後は、森の中に入って一本一本の木を丹念に調べていくよりも、先ず森全体を眺めて森田理論全体像を頭の中に入れると理解度が格段に上がります。巨大迷路ではその中に入ってしまうと、なかなか出口は見えてきません。ところが丘の上から巨大迷路を見て、出口から入り口を探していくと比較的早くルートが見つかります。森田理論全体像は4つの柱があります。それらが相互に関係しています。念のため図解は2023年6月10日の投稿をご覧ください。関連記事は2013年3月29日~31日にあります。
2024.03.14
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森田先生の言葉に、煩悩即菩提、煩悩即涅槃、煩悩即解脱、雑念即無想、矛盾即統一、諸行無常即安心立命、強迫観念即安楽、耳鳴即無声、病気即未症などがあります。一般的に「即」という言葉は、すぐにただちにという意味があります。それから拡大解釈されて、「とりもなおさず、つまり、すなわち、言い換えると」という意味を持つようになりました。しかし普通煩悩で苦しんでいる状態がすなわち解脱といわれてもよく分かりません。全く正反対のことなのにどうして同じことだと言えるのかと反発してしまいます。ここで「即」という言葉のかわりに、「反抗しないでものそのものになりきることができれば」という言葉に置き換えてみませんか。煩悩そのものになりきれば菩提となる。煩悩になりきれば涅槃となる。煩悩になりきれば解脱できる。雑念になりきれば無想となる。矛盾になりきれば統一である。諸行無常になりきれば安心立命となる。強迫観念になりきれば安楽となる。耳鳴になりきれば無声である。病気になりきれば未症となります。これだとなるほどそういうことだったのかと思えませんでしょうか。神経症で苦しんでいる人は、不安、苦しみ、雑念、矛盾、不安定、耳鳴り、病気などをあってはならないものと思っています。そしてそれらは取り除くことが可能であると思っています。そのままにしておくと苦しいので取り除くために様々にはからいを始めます。森田理論学習によって、不安や不快な感情は自然現象であり自由にコントロールできるものではない。また神経症的な不安は欲望があるから湧き上がってくるものであると学びました。「ものそのものになりきる」というのは、例えば自分の乗っている電車と並行して走っている電車が同じスピードの場合、高速で走行しているにもかかわらず、さも動いていないように感じることがあります。この現象とよく似ています。「病気即未病」とは、実際にはガンや難病で苦しんでいても、できるだけ健康な人と同じように日常茶飯事をこなしていけば、病気ではあっても、精神的には健康的であると言えます。「耳鳴即無声」とは、不快な耳鳴りを我慢しながら、日常生活を進めていけば、いつの間にか耳鳴りのことが気にならなくなります。雑念にしても、強迫観念にしても、それを目の敵にして戦いを挑んでいると、症状としてはどんどん悪化してきます。強迫観念と一体化して、苦しいときにそのまま苦しむことができるようになると、強迫観念とは手が切れます。そして、目の前の仕事や日常茶飯事に手を出していけば、煩悩、雑念、耳鳴りなどは実際にあっても生活するうえで支障はなくなります。
2024.03.03
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藤田紘一郎氏のお話です。横浜国立大学におられた青木淳一教授はヒトに嫌われているダニ類の研究を40年間も続けておられる。ある時、青木教授はこんなことを私に語ってくれた。「藤田先生、地球に生きている生き物はすべて意味があるんですよ」と。「ダニの話をすると、すぐ寄生虫としてのダニ、衛生害虫としてのダニの話が先行してしまう。しかし、実は無害のダニはたくさんいるのです。ヒトにしか寄生しないダニは、ヒゼンダニとニキビダニの2種類にすぎません。残りの大部分は、大自然の中でのんびりと暮らしている。たとえば、ササラダニ類は腐りかけた落ち葉や枯れ枝をコツコツ嚙み砕いて食べ、糞として排出している。この糞をバクテリアがさらに分解する。つまり、自然界のゴミ掃除人なのです。このダニがいなければ自然界のゴミは片付けられないのです。少しばかり嫌な奴を含んでいますが、ダニ族は私たち人類の大切な共存者なのです」(清潔はビョーキだ 藤田紘一郎 213ページ)青木先生のお話は、森田理論の「他人の性を尽くす」という話に通じるものがあります。「他人の性を尽くす」とは、その人が持っている存在価値、資質、能力を正しく評価して、居場所や活躍の場を確保して、命ある限りとことん活かしてもらうということです。その人もやりがいができ、生まれてきたかいがあったということになります。お互いがお互いをリスペクトする関係性が生まれると争いなどは起きないのではないでしょうか。共存共栄を目指すことが人類の繁栄につながります。人間は強い自己保存欲求を持っていますで、自己中心的になります。その結果、自分の価値観に合わないものを排除するようになります。紛争、侵略、戦争などは他者の存在価値、資質、能力を無視して、他者を自由自在にコントロールしようとするところから起きています。藤田先生は、人間の皮膚には皮膚ブドウ球菌や黄色ブドウ球菌をはじめとするたくさんの皮膚常在菌が存在して、皮膚を守っているといわれています。それらを抗菌グッズで常に攻撃していると皮膚常在菌は弱ってくる。すると体の中の白血球がそれらを攻撃して多量の活性酸素を生じ、皮膚が障害される。国立医薬品食品衛生研究所の鹿庭正昭氏は次のように語っている。皮膚の上に棲みついている常在菌も、中性脂肪を分解して酸をつくることで、他の細菌がとりつくのを防いでいると考えられている。抗菌防臭加工した衣類ばかりを着ていたらこうした常在菌がどうなるか、きちんと調べていくべきだ。子どもの皮膚の形成は、生後2年ごろまでに完了する。逆にいえばそれまでは、皮膚そのものの抵抗力は十分ではないということだ。病原菌にむやみに犯されないようにするためにも、少なくとも幼児や、同様に抵抗力が落ちた高齢者には、常在菌の助けが必要だろう。「父を追う 娘の手には ファブリーズ」という笑えない川柳がある。そういえば抗菌グッズは毎日CMで見かけます。特に神経質者のなかに細菌を極端に恐れている人がいる。エスカレーターのベルト、電車の取っ手に触れない。公衆トイレで用が足せない。長風呂をして体を石鹸でごしごし洗う。アルコールなどの抗菌グッズを持ち歩く。抗菌マスクを持っていないと他人がいるところに出かけられない。これらはすべてウィルスや細菌を目の敵にしている。不愉快、不快な気分をすぐに払拭しないと次の行動に移れない。そういう人は腸のなかに常在菌が約100種類、計100兆個住んでいるのをどう考えておられるのでしょうか。微生物の専門家は「腸内細菌は臓器の一つ」と言っています。食べ物の消化吸収、外から入ってきた病原菌を撃退している。腸内細菌は悪いものもあるが、基本的には味方である。共存共栄を目指す必要がある。抗生物質などで腸内細菌を殺してしまうことは、自分の命を危うくしているのである。
2024.03.02
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森田理論で人間には精神拮抗作用が備わっているということを学びました。これは人間にはある欲望が湧き上がった時、それを抑制する考えや感情が同時に湧き上がってくるというものです。もともとすべての人間に備わっている機能です。例えば、飲み放題の懇親会などで、浴びるほどいろんな酒を飲みたいと思っても、二日酔いで苦しんだ時のことを思い出して今日は少しセーブして飲もうと自分に言い聞かせる。一気飲みを我慢して、食べることを優先する。酒を飲むたびに同量のお冷を飲むようにする。精神拮抗作用がきちんと機能すると、二日酔いで苦しむことはありません。しかし悲しいかな時としてこの機能が正常に働かなくなることがあります。不安に取りつかれたり、欲望の暴走などがあります。不安と欲望のバランスがとれないと目も当てられないことが起きます。神経症に陥っている人は、不安にとりつかれて生の欲望の発揮が蚊帳の外になります。抑制力ばかりが働いている状態です。自動車でいえば、動き出してもいなのに、ブレーキを思い切り踏み込んでいるようなものです。ブレーキから足を離して、アクセルを踏み込まないと目的地に向かって車が動き出すことはありません。あたりまえのことですが、自分の心の中のことになるとそういう気持ちになれないのです。不安と欲望のバランスをとるためには、不安のことは一時棚上げにして、100%欲望の方に目を向けることが大切です。簡単なようですが、神経症で苦しんでいるときはこれが難しい。ではどうすればいいのか。そういう人にお勧めしたいのは、日常茶飯事に丁寧に取り組むことです。これなら誰でも取り組みやすいのではないでしょうか。食事の準備、掃除、洗濯、整理整頓、身支度などです、ものそのものになって一心不乱に取り組んでみることです。すると興味や関心が湧いてきます。気づきや発見が生まれてきます。それをきっかけにして毎日の生活のルーティンを確立するのは如何でしょうか。規則正しい生活の習慣を作り上げることです。3か月くらいで形になります。まず朝決まった時間に起床することが肝心です。ウイークディの昼間は毎日同じ時間に同じことをする習慣を作るのです。規則正しい生活が習慣化してくると、頭でこの次に何をしようかと考える前に、体がすっと動くようになります。人間は考えることと行動は同時にできないといいます。すっと体が動くようになると神経症的な不安に振り回されることが少なくなります。
2024.02.16
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岩田真理氏のお話です。森田にとって「自然は自然」であり、世界の主体は人間ではなく、自然なのです。人間は自然をコントロールできない。だから柔順に調和して生きるというのが、彼の視点です。地球上の自然は、ただその必要があって、それなりの調和を保つために動くので、その中に暮らしている人間のことを考慮してくれているわけではありません。自然は敵でも味方でもありません。中立なのです。この地球の「主人公」になってしまった人間は、自然界のあらゆることをコントロールできるように錯覚しているところがあるのかもしれません。そしてこのコントロール幻想は、外的な自然のみでなく、人間自らの内的な自然性に対しても発揮されてきたのだろうと思います。森田療法は、自然をコントロールするというより、人間の内なる自然性を重んじます。重んじるというより、むしろそれにまかせる、信頼を置くと言っていいかもしれません。森田正馬は、自身の編み出した治療法を「自然療法」と呼んでいました。(流れと動きの森田療法 白揚社 28ページから30ページ要旨引用)森田先生が言われている「自然に服従」というのは、どんな意味があるのでしょうか。まず自然という言葉は広範囲にわたっているように思います。自然現象、他人の気持ちや考え、湧き上がってくる感情、持って生まれた素質や才能、神経質性格、容姿、体型、老化、病気、遺伝情報なども自然現象に含めておられるように思います。これらは人間が意のままにコントロールしてはならないといわれています。しようとしても実際にはコントロールすることはできません。我々にできることは何か。自然は絶えず流動変化しています。人間は変化の動きを察知して、その流動変化の波に合わせることだと思います。変化の波の中で活用できるものを最大限に活かして生きていくしかありません。不安、恐怖、違和感、不快感が湧き上がった時、解決できるものは積極的に手を出して処理する。解決できないものはそのまま抱えていくしかないのです。時が解決してくれるものも多少はあります。でも解決できないでそのままの状態が続くものが多い。神経症は解決できない不安に手を出しているということになります。森田先生は解決できないことはあるがままに受け入れて、自分の出来ること、課題や目標に向かって努力していきましょうと言われています。生の欲望の発揮のことです。「自然に服従」という言葉は、観念中心になって何でもかんでも自分の思うままにコントロールしようとする考えは間違っているということを言いたいのだと思います。
2024.02.05
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帚木蓬生氏のお話です。「無所住心」の境地を日々実行しているのが、熟練の看護師や介護士です。たとえば、高齢者50人が坐る食堂で、朝食が始まったとします。50人のなかには、自由に手が動かせず、食事介助が必要な入所者が数人います。介護士は、そのうちの二人を受け持って、ペースト状にされた食事を食べさせるのです。ひとりの高齢者の口にスプーンで食事を入れると、また別のスプーンでもうひとりに食事を入れて上げます。その際に、最初のひとりが、喉に食事を詰まらせないか注意する必要があります。とはいえ、注意はそれだけにとどまりません。他の入所者がどうなのか、全体に眼を配らなければなりません。ひとりで食事している高齢者が食事を喉に詰まらせるかもしれないし、別の高齢者が立ってトイレに行こうとする場合もあります。かと思えば、椅子からずり落ちる入所者もいるでしょう。まさに、「無所住心」そのものであって、注意はホール全体に行き渡らせなければ、仕事はできません。(生きる力 森田正馬の15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版 90ページ)不安にとらわれる人は、一つの不安に意識や注意を集中する傾向があります。森田の精神交互作用では、一つの不安に注意を向けていると感覚が鋭敏になるといいます。感覚が鋭敏になると、気になって、益々そこに注意を向けていく。その悪循環のスパイラルはどんどん増幅されていきます。そして最後にはアリ地獄の底に落ちて、神経症として固着してしまうのです。天気の良い日に虫眼鏡で太陽の光を一点に集めると、新聞紙はすぐに燃え上がってしまいます。これと同じ現象が精神世界に起きているのです。その悪循環に陥らないようにするためには、四方八方に注意や意識を向けることです。森田先生は講義をしているとき、いろんなことが気になるといわれています。途中で入室した人、受講生のしぐさ、外から聞こえてくる騒音、机の上に置いてある水の入ったコップ、時計や講義メモ、講義内容など。これがまさに「無所住心」の状態です。どうすれば「無所住心」の態度になれるのでしょうか。精神状態を弛緩状態ではなく緊張状態に置くことです。今ここの瞬間を真剣に生きていく態度が肝心です。この態度は脳の廃用性萎縮現象を防止できますので、認知症になることはありません。車の運転をする人は、交通事故を起こさないように、あるいは警察に反則切符を切られないために緊張しながら運転をしています。例えば交差点で右折するとき、信号、市内電車の動向、対向車の動向、交差点内での歩行者の動向などに細心の注意を払っています。時々交差点内で事故を起こす人がいます。そういう人は注意力散漫です。心ここにあらずで、頭の中では別のことを考えていたという人もいます。昆虫のように四方八方にアンテナを張って気が張っている人は、軽率な事故を起こすことはありません。「無所住心」を身に着けている人は、神経症の蟻地獄に陥ることはありません。
2024.01.30
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生活の発見誌2023年12月の巻頭言からの引用です。元陸上競技選手の為末大さんは次のように言っています。強さは獲得し維持するものですが、弱さは認め受け容れるものです。強さは完全な円を目指しますが、弱さはでこぼこのままです。私達は時に何者かになろうとしますが、自分が自分でいることが最も力が出せる状態であることに気がつきます。弱さを受け容れたとき、深いところにあった自分の本当の力がやってくるのだと思います。弱さや欠点を努力することで、強みや長所に変えていくことは尊いことだと思います。弱さや欠点は裏を返せば、たちまち強みや長所に変わるという話もよく聞きます。為末さんは、弱さや欠点を受け容れて、自分の元々持っているものを自覚して、さらに鍛えて伸ばしていく方がはるかに大事なことだと言われています。対人恐怖症の私の例で振り返ってみました。弱さや欠点・・・マネージメント力、指導力、経営力、説得力、交渉力、行動力、人望、容姿強みや長所・・・好奇心、感受性、分析力、思考力、文章作成能力、読書力、持続力私の場合は他人と関わることで結果を求められることは苦手です。マネージメントのような仕事は、苦手というよりも無理だと思います。反対に自分の裁量でものごとを突き詰めていくような仕事は性に合っています。たとえば次のような仕事です。事故原因を究明する、刑事事件を解決する。裁判官や検事のような仕事。新薬を開発する。試験場で分析や実験をする。問題行動を解明する。新聞や雑誌の記者などは魅力を感じます。専門職や職人さんのような仕事も向いていると思います。現在若い人に反面教師として参考にしてもらいたいことは、森田理論の神経質の性格特徴を学習して、自分の強みや長所を早く自覚してほしいことです。そして12000種類もあるといわれる職業の中でこれはと思うものを早く見つけてほしい。できれば20代前半、遅くても30歳までには見つけてほしい。それが一生の仕事になれば、その人の人生は成功したようなものです。その他、人間関係ではやった方がよいことと、やらない方がよいものがあるように思います。これが逆になっている人が多い。私もその一人でした。その結果として人間関係で問題を引き起こして退職に追い込まれた人を数多く見てきました。この問題については、2022年9月13日の投稿で取り上げています。「敢えて敵を作らない人間関係作り」です。人間関係は気心の合う人2割、馬が合わない人2割、どちらでもない人6割という話があります。ここで気をつけたいことは、どちらでもない人を敵に回してしまうことです。そのために取り組むべき課題があるように思います。
2024.01.26
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生活の発見誌12月号では、長谷川洋三先生の「あるがまま」の記事(7ページ)が参考になりました。日頃の生活をふりかえってみると、ほとんどが、症状はありながらも、会社員は会社に出勤し、学生は登校し、主婦は家事・育児をこなしている。集談会に参加し、森田理論学習を続けている。すなわち高良先生が言われている「あるがまま」の生活になっている。にもかかわらず「あるがまま」になれないとこぼす。なぜだろう。症状の苦しみをひきずりながら生活していることが、「あるがまま」だということに気づいていないからである。あるいはそれが「あるがまま」だと理解しながらも、苦しまないで「あるがまま」の生活をしたいと思っているからではなかろうか。不安、恐怖、違和感、不快感がなくならないと、そこにどうしても注意や意識が向いてしまうので、とても行動することは無理だと考えてしまいます。これは頭で「あるがまま」になろうとすると、いつまでたっても「あるがまま」にはなれないということだと思います。「あるがまま」は頭で考えるのではなく、行動した結果、後で振り返ってみると「あるがまま」を実践していたというものだと思います。私は「あるがまま」を実践する方法は、規則正しい生活を身につけることだと思っています。同じ時間に同じ行動をするようにルーティンワークを確立することです。「何をしようかな」と前頭前野で考えることなく、自動的にすっと体が動いていくように持っていくのです。なすべきことがどんどん片づいていくようになります。気分本位な行動が抑制できます。不安、恐怖、違和感、不快感を抱えたまま行動できるようになります。規則正しい生活を習慣化することは大変大きな意味があると感じています。そのために真っ先に取り組みたいことは、起床時間を一定にすることです。そして就寝時間を一定にすることも大切になります。起きているときは淡々と同じ時間に同じルーティン作業を続けています。その時、意識して問題、課題、改善点、改良点、楽しみ、喜びを見つけるようにしています。日常生活や仕事の中で宝探しをしているようなものです。「あるがまま」の生活を心がけていると、日記を書くのが楽しみになります。
2024.01.23
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恐怖突入をどうとらえたらよいのでしょうか。症状に振り回わされている人に、どんなに苦しくてもその時その場で必要なことに手を出していくことだと言われています。不安神経症やパニック障害の人は、このやり方で乗り越える場合があります。認知行動療法では、乗り物恐怖や卒倒恐怖の人に対して、その不安をいくつもの階層に分けて恐怖突入させます。これを暴露療法と言います。例えば、不安発作が怖くて特急電車に乗れないという人に、普通電車に乗ることから慣れさせていきます。最初は付き添いの人がいる。慣れると自分一人で行う。最初は家から出る。駅に行く。各駅停車の電車に乗る。急行電車に乗る。小さな恐怖突入を繰り返して自信をつけさせていくというやり方です。何度も繰り返していると、不安が和らいでいく。恐れていたことは何も起きなかったという経験を積み重ねていく。最終的に普通の生活に戻っていく。強迫神経症の人は、そもそも不安や恐怖が得体のしれない化け物のように大きくなり、体に張り付いている。逃げれば逃げるほど不安や恐怖に追い掛け回されている。そんな状態の人に、症状には手を付けないで、恐怖突入しなさいというのはハードルが高すぎると思います。実際にはできません。ですから別の方法をとった方がよいと考えます。その方法は外相を整えるという方法です。考えてみると、症状で苦しんでいるときは、日常茶飯事を親や配偶者に依存している場合が多い。最悪依存できない場合は、その状態のままで放置されていることが多い。後片付けが放置されて部屋が散らかりゴミ屋敷状態になっている。食器の後片付けもしていない。毎日風呂にも入らない。洗濯もしない。食事を作らない。食事はもっぱら外食、ファーストフード中心という人もいます。そして思いつきの行動が多くなり、規則正しい生活とは程遠い。これを改善することに注力していくというのは如何でしょうか。規則正しい生活に戻していく。日常茶飯事から逃げないようにする。丁寧に取り組む。神経症が治るということは、最初は症状のことで頭の中がいっぱいですが、日常生活を立て直すことで少しずつその比重が落ちてきます。その緩和された部分が神経症が治ったことだととらえるようにする。強迫神経症の人は、規則正しい生活、凡事徹底に取り組むことで、症状以外のことを考えられるようになると、タマネギの薄皮を剥がすように少しずつ良くなっていくはずです。これは強迫神経症と正面からガチで取り組むのではなく、外相を整えることに専念するということです。そんなことに取り組んでも強迫神経症はよくならないという人もいます。規則正しい生活、凡事徹底に取り組むことは、回り道のようですが、考える以上に大きな効果があります。ぜひ実践で確かめてみて下さい。
2024.01.03
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2023年11月号の生活の発見誌より高良武久先生のお話です。不安や恐怖というものがあってはならないというのは、思想の矛盾であります。あるのがあたりまえであって、ないというのはそれを否定することであり矛盾でありまして、そういう矛盾は生活にプラスに作用しないで、葛藤を起こすことになるわけでございます。この不安や恐怖を受け入れて、そうしてそれに刺激されて前に進んでいく。これを私は「あるがままで進む」というふうに言っております。ただ、「あるがまま」といいますと、誤解する人がよくありまして、自分は不潔恐怖で手を洗いたいからあるがままに洗うんだ。あるいは対人恐怖で人に会うのがいやだから、なるたけ会わないように逃げていくのがあるがままである。または、病気恐怖がこわいから、病気にかかっているかいつも調べたくなって、何度でも医者通いをする。これが「あるがまま」であるというふうに誤解する人があります。振り返ってみると私はなかなか「あるがまま」にはなれなかった。理論としては、不安や恐怖に振り回されないで、目の前の必要なことやなすべきことに手を出していくことは耳にタコができるほど分かっていたつもりでした。現実は不安、恐怖、違和感、不快感を目の敵にしていた。取り除こうとしている。どうすることもできないときは逃げまくっていた。目の前の必要なこと、なすべきことは放棄して、刺激的な楽しみを追い掛け回していました。これは取り組み方が分からなかったからだと思っています。最近「あるがまま」の体得はきちんとしたステップを踏めばそんなに難しくはないと感じています。「あるがまま」というのは「あるがまま」になろうと思っているだけでは、「あるがまま」にはなれません。「あるがまま」というのは、後で振り返ってみたら、意識しないうちに自然に「あるがまま」になっていたということだと思います。「あるがまま」には2つの側面があります。一つ目は不安をそのまま受け入れるという側面です。これから取り組むのはかなり難しい。二つ目はなすべきをなすという側面です。行動には意志の自由が効きますのでやろうと思えばできます。神経質者の場合自己内省的に考えることは得意ですが、フットワークよく行動することは苦手です。なんとかしてその壁を打ち破ることが肝心です。そのために有効な手段は、月並みですが規則正しい生活を続けることだと思います。毎日のルーティーンワークを確立することです。毎日同じ時間に同じ行動を心がけることです。3ヶ月も続けていると習慣化します。習慣化すると、そのパターンが崩れると居心地が悪くなります。次に規則正しい生活の中から、問題点、課題、改善点、改良点、小さな楽しみ、小さな感動を発掘するようにする。見つかったらそれを宝物として扱う。そうすれば気づき、発見、工夫、アイデアが次々に浮かんでくるようになります。感情が動き出して、行動意欲が高まり、行動に弾みがついてきます。これらが軌道に乗ってくると、不安に振り回されている状態から脱皮できます。客観的に見ると、不安を受け入れて、「あるがまま」の生活が身についてきたということになります。毎日の生活に張りが出てきます。関心のある方はぜひ取り組んでみて下さい。広島県呉市は戦艦大和の故郷です。現在は巨大タンカーのメンテナンスをしています。
2023.12.22
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集談会がマンネリで面白くないという話を聞くことがあります。参加することが苦痛になっている状態です。参加することを取りやめたいのだが、世話係をしているので取りやめることができない。また取りやめても神経症の苦しみが続くと思うので二の足を踏んでいる。なんとかマンネリ状態を打破できないものでしょうか。今日はこの問題を取り上げてみました。マンネリに陥っている状態は、イヤイヤ仕方なしではありますが、行動できている状態です。気分本位になって逃げていない。この点は大いに評価できます。この状態は低空飛行をしている状態です。墜落しているわけではありません。何とか前に向かって飛び続けているという点がよいところです。一旦墜落してしまうと、体勢を立て直すのは容易ではありません。ここでの問題は、慣れてきて緊張感がなくなっているということです。差し迫った問題がないために、精神が弛緩状態に陥ってしまっているのです。森田では精神的には、緊張状態と弛緩状態のバランスを意識することが大切であるといわれています。この場合は、精神を緊張状態に切り替えることが必要になります。そのために森田理論を応用することをお勧めいたします。森田の行動の原則に「見つめ、感じる」というのがあります。「見つめる」というのは、不安や心配でいっぱいのときでも、まず自分の周囲の状況に視線を向けてみることです。「感じ」が湧いてくるまで目を向けてみましょう。何をどう見つめ、感じるようにすればよいのか。今は集談会にイヤイヤ仕方なく出席しているわけですが、その中にきっと不具合、問題点、課題、改善点、改良点があるはずだという意識を持って見るようにするのです。なにか一つそういうものを見つけようという意識があれば、事実を今まで以上によく見るようになります。見つかったら手帳などにすぐに書き留めておくことです。これは宝の山ですからみすみすとり逃してはもったいないところです。するとしだいに精神が緊張してくるはずです。弾みがついてきて、その他こまごましたことに気づくようになります。これがマンネリから脱出するコツになります。次にそれを整理してみましょう。・すぐに出来ること・時間がかかるもの・時期をずらす必要があるもの・他人の協力が必要なもの・他人に任せた方がよいもの・資金が必要なもの・能力や技術の習得が必要なものとりあえず取り組みやすいものを一つに絞って即実践していく。それが呼び水となって行動に弾みがついてくると思います。このようにして精神が緊張状態に転換してくれば、マンネリ化は打破されて、集談会に参加して学習することが楽しいと思えるようになります。
2023.12.16
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最近糖尿病にかかっている人の話をよく聞きます。糖尿病は慢性的に高血糖状態の人がかかります。現代病と言われています。糖尿病にかかると血管が傷つけられます。眼、腎臓、神経に十分な血液が流れなくなります。その結果、失明、人工透析、心筋梗塞、脳卒中、感染症の危険性があります。さて、血糖値を上げるホルモンは少なくとも6つあります。成長ホルモン、甲状腺ホルモン、コルチゾール、アドレナリン(エビネフリン)、ノルアドレナリン(ノルエビネフリン)、グルカゴンです。これに対して、血糖値を下げるのは、すい臓から出るインスリンの一つです。人間の体はとてもうまくできているのに、このアンバランスはどうしたことでしょうか。これは人類の歴史と関係があります。人類の歴史は600万年前にさかのぼると言われています。そのほとんどの期間、人類は飢餓との闘いでした。つまり血糖値を上げるホルモンがとても重要であった。血糖値を下げるホルモンはほとんど役に立たなかったのです。つまり血糖値を上げるホルモンが多くて、下げるホルモンが少ないというのは人間が生き延びていくため必要不可欠な身体の仕組みであったということになります。状況に対応してバランスがとれていたということになります。ところがここ100年くらいの期間で、飢餓と決別する人たちが忽然と出現してきた。日本、欧米、発展途上国の富裕層と言われる人々である。世界中から食料を買い集めて好きなものを好きな時に飽食三昧する人たちが出てきたのです。その結果血糖値が乱高下して制御不能に陥っている人たちが増えてきたのです。人間の身体のほうが、急激な変化に対応できないで右往左往しているのです。この変化に対応するためには、どうすればよいのでしょうか。人間の身体の仕組みを変更することはほぼ不可能です。人間の身体の仕組みに合わせた食事内容に変更していくことは可能です。ですから意識して食の暴走を制御していくほかはありません。必要な時に、必要最低限の食べ物を口にする。暴飲暴食はきっぱりとやめる。腹八分目を心がけることです。つまり食の欲望を制御していくことです。その土地で獲れるものを基本にした食生活に変更する。地産地消の考え方です。料理の工夫、豊かな加工食品作りを目指す。食をほどほどのところに抑えて、人間の身体の仕組みと合致させるという考え方は、人間の生き方の問題になります。人生観があやふやなままだと、納得できる人生を送ることは不可能となります。森田先生は神経症が治るのは人生観が確立されたからだと言われています。森田でいう「あるがまま」の生き方が目指すべき方向になると思われます。
2023.12.11
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本を読む人はポストイットを使っている人が多いと思います。とても便利で大いに役に立っています。ポストイットはアメリカの3Ⅿという会社で作られました。接着剤という点では完全な失敗作だった。あるときスペンサー・シルバーという商品開発者が、強力な接着剤を作ろうとして、極めて弱い接着剤ができてしまった。それを同僚のアート・フライに「これは何かに使えないか」と言ったが、その時はよい考えが浮かばなかった。ある日アート・フライが教会で賛美歌を歌っていた時、歌詞の間に挟んでいた「しおり」がひらりと床に落ちた。それを拾い上げようとして、瞬間的にひらめいたのである。あの弱い接着剤を使ってすぐに落ちない「しおり」が作れないだろうか。このひらめきがきっかけで、今や世界中で利用されているポストイットが生まれました。このエピソードは失敗や欠点は、裏を返すと宝の山に変わる可能性があるということではなかろうか。それも犬も食わないような失敗や欠点のほうが大きな宝ものになる可能性がある。普通は失敗や欠点を毛嫌いしてしまいます。恥ずかしいものと考えます。そのために人目につかないように隠す、ごまかそうとします。人目につくと言い訳をする。責任転嫁する。ポストイットの接着剤の場合でいうと、忌まわしい失敗作として封印されてしまいます。二度と陽の目を見ることはなくなります。このエピソードの場合は、接着力が弱いということを逆手にとって活用方法を探したというところがポイントです。これは一つの事象には清濁両面が含まれているということを意味します。こういう考え方は、森田理論学習で両面観の考え方を身に着けた人でないとむずかしいと思います。両面観のものの見方を身に着けるために次のように提案いたします。神経症で苦しんでいるときは、心配性の神経質性格をマイナス評価しているのではないかと思います。森田理論で神経質性格の特徴を学習すると、どんな性格でもマイナス面とプラス面の両方を持っていることが分かります。神経質性格も類まれな優れた性格特徴を持っています。理解できたら自分場合はどこに焦点を当てて伸ばしていけばよいのかを考えてみましょう。心配性というのは細かいことによく気が付く高性能レーダーを標準装備しているようなものです。リスク管理力に優れている。感性が鋭い。分析力に優れている。リーダーシップのある人とタッグを組めば組織運営がうまくいく。責任感が強い、生産的、創造性に優れている。粘り強い。などいろいろと優れた面があります。それを仕事や生活に実際に活かしていくことが大切です。神経質性格を両面観で考えて応用することができるようになると、性格以外のことも両面観で見ることができるようになります。考え方に柔軟性が出てくるのです。
2023.12.09
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スポーツ×ヒューマンという番組で、大リーグのボストン・レッドソックスで活躍している吉田正尚選手を取り上げていた。吉田選手はプロ野球選手の中では小柄な方である。どうしてヒットだけではなく、ホームランも打てるのか気になるところである。森田理論を学習している私達にも参考になるところがありましたので取り上げてみました。1、吉田選手は先のWBCで13打点をあげた。これは新記録だそうです。ふつう初めて対戦する投手に対してアジャストすることは難しい。吉田選手は初めて対戦する場合でもよい成績をたたき出す。その秘訣は他の一流バッターよりも1mくらい長くポール見ることができるからだそうだ。長い間ボールを追いかけると、クオリティの高い情報が手に入ると言われています。時間にすればごくわずかですが、この差が打撃成績に大きく影響している。私達は森田理論学習で事実をよく観察するということを学んでいます。吉田選手に学び今よりももう少しだけ事実観察を徹底することを心がけたいと思います。その能力が身についてくると、事実本位の生活に近づいていきます。2、吉田選手はレッドソックスに移籍して、最初はヒットを量産していたが、そのうち相手チームから徹底的にマークされるようになった。内角球と低めゾーンが弱いと分析されて、途端に打率が1割台まで落ち込んだ。特に内角球のさばき方に問題があった。自分ではどこをどう修正すればよいのか分からなくなった。その時コーチから、今よりももう少し顔を投手のほうに向けることを提案された。そのために、正対しないと投手が見えない眼鏡を使用することになった。その結果、懐が深くなり、内角球が難なくさばけるようになった。自分一人では解決策が見つからないときは、素直に他人の助言に耳を傾けることが必要になる。森田は自助組織に入って助けたり、助けられたりの人間関係を築くことが大切になります。3、吉田選手はメンタル面ではハンマー投げの金メダリスト室伏広治氏の指導を受けている。室伏氏は、現状に満足すると次はないという。現役生活がすぐに終わってしまう。新たな課題や目標を設定して、挑戦し続けることが大切だという。吉田選手は今までファーストストライクは見逃すことが多かった。これを繰り返していると、簡単にワンストライクを相手に与えてします。最終的に難しい球で打ち取られてしまうことが多かった。この傾向を自覚してから、カウントを取りに来るファーストストライクを積極的に打ちにいくようになった。打撃成績がすぐによくなった。吉田選手は向上心と反骨心がなくなると、野球をやめる時だと言われている。これは私たちでいえば、生の欲望の発揮ということだと思います。特に規則正しい生活、凡事徹底の中で取り組むことが肝心です。
2023.12.08
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生活の発見誌2023年12月号にとても良い記事がありました。『「神経質の本態と療法」を読み返して』(70ページ)という記事です。神学者のラインホルド・ニーバーは、コントロールできるものとできないものについて次のような心構えが大切だと述べています。1、変えることの出来ないものについてはそれを受け入れるだけの冷静さを、2、変えることの出来るものについてはそれを変えるだけの勇気を、3、そして変えることの出来るものと変えられないものとを識別する智恵を持ちなさい。この記事を書かれた方は、人間が意のままにコントロールできないものは次のようなものがあると紹介されていました。a、大自然の自然現象・・・台風、土砂災害、地震、津波、雷、雨、雪、竜巻b、他人の思惑c、自分自身の才能d、種々の感情・・・喜び、悲しみ、憎しみ、妬み、恨み、不安などe、神経症の症状f、恋愛感情g、身体的な容姿、体型、老い、病気おっしゃる通りだと思います。この中でも「種々の感情」ですが、森田では感情は自然現象であって、人間の意志によってコントロールできるものではないと言われています。しかし行動は意志によってコントロールすることができると言われています。これを実践すれば神経症になることは防止できると思われます。神経症で苦しんでいる人は、この区別ができていないのだと思われます。コントロールできないにもかかわらず自在にコントロールしようとしている。不可能なことに挑戦して、自ら葛藤や苦悩を生み出している。ひとり相撲を取って勝った負けたと騒いでいるようなものです。行動することによって今の問題ある状態を改善・改良できるならば手を付けた方がよいと思います。将来明るい展望が期待できるものは、逃げてはいけない。積極的に行動するべきです。また人様が喜んでくれるもの、人の役に立つことは極力手を出した方がよいと思います。例えば地震に備えて耐震化工事をする。避難訓練をする。土砂災害に備えて堤防を作っておく。不慮の災害や事故や病気に備えて保険に入っておく。病気に備えて生活習慣病検診を受けておく。困った人がいれば、力になってあげる。自分の能力の範囲内で、最大限に努力をする。生老病死はあるがままに受け入れて、自然体で生きていく。神経症で苦しんでいる人の為に自分の体験を伝えていく。森田では神経症的な不安や恐怖は、その裏に欲望があるから生まれると言われています。不安や恐怖は変えることができないものですから、取り除こうと考えてはいけません。逃げることもダメですね。生の欲望の発揮のほうに全力投球すべきです。神経質者としては「凡事徹底」に取り組むことをお勧めいたします。
2023.12.02
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これは生活の発見誌10月号の高良武久先生の言葉です。一毫(いちごう)というのは髪の毛が一本というような意味で、わずかなちがいという意味です。我々のまわりには、身体的にも精神的にも優れた人が至るところにおります。体格面においても、あるいは筋肉の点においても、または容姿、運動神経なんかの点においても、自分より優れた人がいくらでもおります。精神的にも、いろんな能力、才能、あるいは技術など、我々より優れた者が、至るところにいるのでございまして、そういう者と比較をしますと、どうしてもわれわれは、ある程度の劣等感を持たないわけにはいかないのでございます。しかし、この劣等感に対する態度というものが、他人によって異なることでありまして、同じ劣等感から出発しましても、AとBの間には大きな差異が生ずる。この劣等感に刺激されて建設的に努力する態度の人と、劣等だから駄目だとして、もうやらない、あるいは劣等感は嫌いだから観念的にこれをなくそうとばかりする。そういう態度と、出発点は同じでも、一生の間には大変な違いになるものでございます。これをもとにして話を進めてみましょう。劣等感は多かれ少なかれ誰でも持っています。しかし、その受け取り方は人によって二通りに分かれる。それがその後の人生を大きく左右する。1、ある人は自信をなくして、自己嫌悪、自己否定に陥る。2、別の人は劣等感に刺激を受けて大いに努力するようになる。2は、たとえばイギリスの大作家サマセット・モームという人は、吃音という劣等感に刺激されて、大いに努力して自分の才能を発揮した。吃音という劣等感がなかったとしたら、代表作の「人間の絆」という小説は生まれなかったと思われる。禍転じて福となしたのである。高良先生は中学生のころから数学の成績が悪かった。旧制中学から旧制の高校を受験するとき、ちょうど4か月ぐらいの間がございまして、私はその4ヶ月の間に一番自信のなかった数学に重点を置きました。数学というのは定理や公理なんかをよく覚えてやりますと、そう難しいものではなかった。入学のときには、この一番苦手であった数学が満点のような状態になった。これは劣等感が刺激になって、大いに発奮して、建設的に努力した結果です。私達は神経質性格を持って生まれ、外向的な人と比較して劣等感に苦しみました。これを逆手に捉えて、「災い転じて福となす」ことはできないものでしょうか。それは森田理論学習によって十分可能だと思われます。そのために森田の基礎的学習をすることをお勧めします。特に神経質性格のプラス面の学習が役に立ちます。私はこの学習によって神経質性格はとてもはぐくみあいのある素晴らしい性格だということが分かりました。それまでは神経質性格に生んだ親を憎んでいましたが、学習で認識が変わり親に感謝するようになりました。その他間違った考え方、偏った考え方によって、誤った行動をとっていることが多いと思います。そこで認識の誤りを正していく学習が大事になります。森田理論学習によって、神経症に陥る要因、感情の法則、不安の役割、不安と欲望の関係、観念よりも事実を優先する考え方、行動の原則、治るとはどういうことかなどが理解できればそれが可能になります。理論は難しくありません。長谷川洋三先生によると中学生でも理解できる内容だと言われています。大阪や九州方面に向かう場合、誤って東北や北陸方面の新幹線に飛び乗ることは避ける必要があります。これは森田理論学習によって十分可能となります。
2023.11.25
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宇野千代さんの言葉です。自分が不幸であると思えば不幸であるし、幸福であると思えば幸福なのである。相田みつを氏の言葉です。しあわせは いつも じぶんの こころがきめる。森田先生の言葉です。一心に努力している状態が、幸福な状態である。我々は人生の欲望に対して、常に念掛けあこがれながら、その目的を失わす、しかも何かとその現在現在の事柄に対して、力の及ぶ限りのベストを尽くしているのが、「物そのものになりきる」という自然の状態であります。そこにはじめて「努力即幸福」という心境があるのです。(森田全集第5巻 616ページ)喉から手が出るほど欲しかったものが手に入った。おいしいものを腹いっぱい食べた。おいしいお酒を飲むことができた。映画、スポーツ観戦、演劇や演芸、コンサートを見て楽しむことができた。国内の温泉旅行でゆっくりできた。海外旅行に行って非日常を味わうことができた。これらは与えられた楽しみ、外部からの刺激によって一時的に高揚感を味わうことができたということになります。これも人生の醍醐味です。これらは強烈なインパクトがありますが、瞬間的で持続性は期待できません。これに対して自分で見つけた課題や目標に向かって努力することによって得られる幸福というものがあります。努力しているときは、目標が達成できるかどうか分かりませんので不安で一杯です。つねにハラハラドキドキしています。しかも精一杯努力しなければ成功を手にすることはできません。努力して目標を達成すれば、成功体験となります。成功体験が積み重なると自信が生まれます。自己肯定感が生まれてきます。また弾みがついて、自分が一回り大きな人間に成長できます。成功へのプロセスは、精神的には不安定ですが、注意や意識は外向きになっています。しっかりと課題や目標が明確に意識されています。精神状態が絶えず揺れ動いていますが、不安定即安心の状態です。生きている限り、絶えず不安、恐怖、違和感、不快感が付きまとっています。不安定であることが精神的に安定しているというのは不思議なことですがそれが真実です。ここでのチェックポイントは3点です。・注意や意識が内向きではなく外向きになっているかどうか。・課題や目標をしっかりと捉えているかどうか。・途中であきらめることなく努力精進しているか。凡事徹底の生活の中で、問題点や課題、興味や関心を持てるものを見つけること。そしてそれに向かって努力する習慣を持っている人は、幸福な人生を送っている人だと思います。確かにカンフル剤的な快感を味わうことも人生の醍醐味ですが、それだけで幸福な人生を送ることはできません。森田先生の言われている「努力即幸福」という方向を基本路線にすることができれば、後悔しない人生を送ることができます。
2023.11.16
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「あるがまま」とは、神経症の原因となるような不安、恐怖、違和感、不快感をそのまま受け入れて、必要なことやなすべきことに取り組む態度のことであると言われています。これは森田を学習した人は誰でもわかっていることだと思います。しかし理解していることと実行できていることは別です。「あるがまま」は、言うは易く実行は難しいというのが現実です。皆さんも「あるがまま」を身に着けようと必死に努力されていることと思います。今日は「あるがまま」を身に着ける方法について投稿します。「あるがまま」になろうと意識すればするほど「あるがまま」から離れてしまう。それは「あるがまま」が「かくあるべし」となって自分に迫ってくるからだと思います。「あるがまま」を身につけなければならないと思えば思うほど不安、恐怖、違和感、不快感に振り回されてしまう。ではどうすれば「あるがまま」の態度を身につけることができるのか。とらわれやすいという神経質性格を持っていながら、森田理論を必要としていない普通の人に注目することです。あるいは生活の発見会の中で「あるがまま」を体得して、森田的な生活を送っている人を見つけ出すことです。百聞は一見に如かず。森田理論で「あるがまま」をなんども繰り返して学習するよりも、「あるがまま」を身に着けて、森田的な生活を送っている人を探し出すことに力を入れる。こういう人を参考にして自分の生活に取り入れていくほうが効果が高い。ただし、そういう人はことさら「あるがまま」というフレーズを声高に唱えることはありません。他人から指摘されて自分の生活を振り返ってみると、自然に「あるがまま」を体現していたという感じです。「あるがまま」をことさら意識しなくても、生活自体が「あるがまま」になっていた。「あるがまま」と一体化した生活をしているので、ことさら取り上げるほどのことない。我々から見ると森田道の高みに到達していると思われるのに、「取り立ててみんなに話すような立派なことは何一つありません」などと言われる。「そうか、あの人は森田の核心部分はまだ何も理解していないのか」と思ったらそれは大間違いです。そういう人は一山超えて次のステージに立っている方なのです。そういう人の特徴は、無理をしないで、悠然と「規則正しい生活」を心がけておられます。毎日同じ時間に起床し、黙々とルーティンワークをこなし、就寝時間がくると寝る。毎日刺激のない、代わり映えのしない生活を繰り返して、なんの楽しみがあるのか聞いても、反発をするでもない。こんな生活しかできないと言われる。試行錯誤の末に見つけた「あるがまま」は周りから見るととてもシンプルだったということです。そういう方は、私たちが見逃してしまうような小さなとるに足りない楽しみや感動を日々数多く味わっておられる。これはそういう生き方が人生の醍醐味なのだということが分かっている人でないとつい見過ごしてしまうかもしれません。例えば、ビールのおいしい飲み方、魚のあら炊きのやり方、雑草とりの楽しみ、盆栽の剪定の方法、カラオケの楽しみ方、映像ライブラリーの利用方法、相撲の楽しみ方、家庭菜園の楽しみ、ゴミを肥料にする方法、夫婦の人間関係、母親の介護、水泳の楽しみ、散歩の楽しみ、毎日の運動等々。それらのすべて宝の山に代わっている。規則正しい生活はメリハリが効いてリズムがよい。さらに頭を酷使しません。思考よりも手足が自然に動いている。身に付いたルーティン作業を黙々とこなしていくことになります。行動しているときは、神経症的な不安などは考えなくなります。そういう人が心掛けていることは、森田理論の「ものそのものになる」ということです。小さな気づき、発見、工夫、アイデア、興味や関心が泉のようにコンコンと湧き出ていることに気づきます。これが「あるがまま」の生活を送っている人の姿だと思っております。だから声高に「あるがまま」を力説する必要はないのです。私はそういう生き方をされている人を「現代に生きる良寛さん」と呼んでいます。
2023.11.12
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森田理論に両面観という考え方があります。物事にはすべて二面性がある。プラス面があれば、必ずマイナス面がある。神経質性格でも表から見てマイナス面に見えても、裏から見ればプラス面に見える。円錐柱を見る場合、一方向から見ていると、円に見えたり、三角に見えたりすることがあります。角度を変えてみると、すぐに正しく見ることができるようになります。両面観という考え方は、早合点、先入観、決めつけ、思い込みを避けて、事実をできるだけ正しく掴むようにしましょうということです。事実が正しく把握できると、その後の対策が的確に立てられるようになります。どんなに確信のもてる考えであっても、一方法からのみ見て結論を出すことは問題です。田原総一郎氏の「朝までテレビ」という討論番組では、正反対の考え方をしている論客を同時に呼んで喧々諤々の議論をしています。その討論を見ている視聴者は、それまでのかたよった考え方が是正されます。今日は両面観を自分の生活の中で活用するための一つの方法を取り上げてみました。私達は普段ネガティブな気持ちになることが多いように思います。そしてその気持ちを口にすることもあります。イヤだ、ダメだ、ムリだ、嫌いだ、やる気が出ない、失敗するかも、負けそうだ、しんどい、面倒だ、辛い、お先真っ黒だ、うまくいくわけがない・・・この情報が扁桃体に入ると「不快」と判定され、その情報は青斑核から防衛系神経回路を駆け巡ります。いくら生産的、建設的、創造的な生き方をしようとしても、脳が抑制的、逃避的になっているので難しくなるのです。一旦ネガティブな気持ちになっても、それをポジティブな言葉で取り消してやるという方法があります。脳はネガティブな気持ちになっても、最後にポジティブな言葉に置き換えられると、そちらの影響を強く受けてしまうという特徴があります。面白そう、ワクワクする、愉快だ、いいぞその調子、大丈夫、楽しそう、好きだ、俺にはツキがある、これだけ練習したのだから神様が味方してくれるはずだ、あの人に喜びと感動を届けるぞ・・・最初はネガティブな気持ちであっても構いません。森田に心はどんなに荒れていても、形を整えていくように心がけると、心はしだいに穏やかになっていくという話があります。ポジティブな言葉を使うことを心がけていると、脳がだまされてしまうのです。脳は簡単に洗脳されてしまうという特徴を利用すればよいのです。ポジティブな言葉を自分なりにアレンジして忘備録として持ち歩き、ネガティブな気持ちになっているなと思ったときに機械的に読み上げるようにすることを提案いたします。
2023.10.24
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人間には欲望が起こると、それを抑制するような感情も同時に湧き上がってくるという機能がある。森田先生はこの機能を「精神拮抗作用」と言われている。例えば90分飲み放題の居酒屋で思う存分酒を飲みたいと思ったとき、飲み過ぎると二日酔いになって明日の仕事に差し支えるという気持ちになる。結婚相手にふさわしい人が見つかり告白しようと思ったとき、もし振られたらどうしようという不安も同時に立ち上がる。私の場合は老人ホームなどでアルトサックスで老人たちを楽しませてあげたいと思うと、もし失敗したらどうしようという予期不安が同時に立ち上がる。欲望と不安による抑制力がうまい具合にバランスが取れれば適切な行動がとれます。しかし現実では、精神拮抗作用という機能は備わっているのに、バランスを上手にとることができない場合が多い。欲望一辺倒になると自分の健康を損なう、財産を失う。人間関係が悪くなる。人様に迷惑をかける。不安に振り回されるようになると、神経症になります。行動は逃避的、回避的になります。暇を持て余し自己嫌悪で苦しむようになります。どうすれば精神拮抗作用という機能を使いこなすことができるのでしょうか。まず子どもの時の親のしつけが大いに絡んでいると思います。子どもに欲望が起きた時、親が近くにいて少し我慢する。少しだけ耐えるという訓練が必要になります。過保護に育てられると、欲望が野放し状態になり、抑制力を持った人間にはなれません。不幸にして過保護に育てられた人はどうすればいいのでしょうか。森田先生は次のように話しされています。富士山で強力のような仕事をしている人は、仕事を始めたときは1週間くらい足が痛くて便所でかがむこともできないくらいの痛みが出てくる。そこであきらめてしまっては仕事にならない。その痛みに耐えて仕事を続けていると、痛みがなくなりシーズンを通して仕事ができるようになる。この話は耐えがたい痛みがあっても、そのまま我慢して仕事をしていると、痛みがいつの間にか消えていく。それは過去の成功体験によって分かっている。そうした経験を持ち合わせていると、辛い痛みをがまんすることができる。経験を持ち合わせていないと「この仕事は自分には無理だ」ということになります。不安を持ったまま仕事を続けると、時間が経てば状況は一変する場合があるという体験は大きな意味を持ちます。しんどい、辛い、やる気にならないということは仕事や生活の中でいくらでもあります。それらを回避する、逃げるという対応をとっていると、いつまでたっても不安に耐える、我慢するという体験はできません。イヤで面倒なことであっても、必要な時に必要なことから逃げないということは、精神拮抗作用を正常に機能させるためにはとても大切なことなのです。次に欲望は弾みがついてくるという特徴があります。欲望にはいろいろありますが物欲、所有欲、飲食欲が厄介です。これらを追い求めていると果てしがありません。欲望が暴走しやすいのです。この問題は普段生活の中で抑制することができます。便利で機能のよい商品は次々に発売されています。その結果まだ修理すれば使えるものがどんどん廃棄されてしまう。自分が持っているものでメンテナンスをすれば十分に機能を果たすことができるものは、安易な買い替えは抑制するという態度を堅持することが大事になります。飲食欲も外食すればおいしいものはいくらでもあります。三度の食事は自分で作るという基本姿勢を崩さないことが肝心だと思います。普段から物欲などの欲望を抑制することは「精神拮抗作用」を正常に機能させるために大切なことです。
2023.10.12
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森田では、「見つめる」ことを重視しています。見つめていると、問題点や課題が見えてきます。すると感情が動き出してくる。気づきや発見がある。興味や関心が湧き起こってくる。それが積極的な行動につながるといいます。交通事故は前後左右をよく確認していないときに発生しています。事実を確認しないで、「こんなところにまさか対向車は来ないだろう」「まさか動物や人が飛び出すことはないだろう」という「まかさ運転」は事故につながります。追い越しをかける時は、見通しのよいところで行えば、正面衝突することはありません。一時停止の標識のあるところでは、車が来ていないので一時停止しなくても大丈夫というのは軽率です。そういうところには警察官が違反の取り締まりをしているかもしれないので、車がいるかいないかに関わらず白線の前できちんと停止することです。そうすれば違反切符を切られることはありません。また心がうわの空になって他のことを考えている時も危ないです。ナビや運転以外の操作方法に気をとられて、目を離して運転することも危険です。居眠り運転はもってのほかです。広いところやサービスステーションでしばらく寝ると眠気はふっ飛びます。私は沢登りに凝ったことがあります。20mくらいな崖をよじ登るスポーツです。この時は3点確保が大事になります。そして目先の確保点を探すことになります。ここで大丈夫という確保点を見つけながら手足を徐々に移動していきます。このとき一番大事なのは目線です。目線は常に目の前か目の上の次の確保点に置いておくことを指導されました。仮に目線を下に落とすと、恐怖心で身体が硬直してしまいます。命綱はつけているのですが、怖くてそれ以上登れなくなってしまうのです。よく見るということでは、子供ができたら子供の動向から目を離さないようにすることが大切です。そのためには、子供の近くにいることが欠かせません。特に1年6か月までの愛着の形成期間は、基本的に子供から離れてはいけません。心の安全基地の形成ができなくなり、安心安全な後ろ盾を持てなくなってしまいます。親の愛情を受けて育つと、時期がくればしだいに親から離れて自立してゆきます。愛着の形成期を無事に通過したら、つぎに子供の成長期に合わせて、能力を伸ばすことが必要になります。子どもの能力はモンテッソーリ教育によると10項目ぐらいあるそうです。それぞれの項目を習得する時期はほとんどわずかの期間に限定されています。その期間を逃すと後でいくら身に着けようとしても手遅れになるそうです。ここではモンテッソーリ教育などの親業を学習して、子供の成長段階を見極めることが必要になります。子供の成長段階を注意して見極め、刺激を与えることができれば、子供はすくすくと成長していきます。神経症に陥り子供のことは無関心という状態になると、子供への悪影響は計り知れません。森田理論の学習は、通り一遍の学習を繰り返しているだけでは、自分の生活を変化させる起爆剤としての役割は期待できません。目の前の事実をよく見るという点に関しては、このような視点から学習を深めていくように心がけたいものです。
2023.10.04
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森田先生がダンスをされていたというのはあまり知られていない。森田先生はダンスからリズムの研究されていたのです。そもそも我々の注意作用には、緊張と弛緩のリズムがあって、一つのことに対して、いつまでも同じ強さの緊張で、注意を集中することはできない。視覚でも聴覚でも、ある一定の物あるいは音に対して無理に注意を集中していると、はじめはそれに注意が向いているけれども、いつとはなしに注意は散漫かつ、漠然となり、無意識の状態になってしまうのである。そして時間の経過とともに、また新たな緊張が生まれてくるのです。私達の日々の生活、一週間の生活、四季ごとの生活、一年の生活を振り返ってみたとき、緊張と弛緩のリズム運動によって成り立っていることが分かります。絶えず緊張している人は、気が張っていてよいように思いますがこれでは身体が持ちません。最後には疲れ果ててしまいます。緊張状態の後で弛緩状態が訪れることで、疲れが癒されてエネルギーが補給されます。そのおかげでまた緊張状態に戻って活動できるのです。緊張と弛緩は常にセットで機能しているという認識が必要になります。これは海の波を思い浮かべれば分かりやすいと思います。底の波は、いつまでも底にいるわけではありません。自分が意識していないにもかかわらず、自然に上の方に持ち上げられます。上の方に持ち上げられて有頂天になっていると、いつの間にかまた底に沈みこんでしまいます。一定の周期で持ち上げられたり、沈み込んだりしているのが真実です。人間の一生も順風満帆の時もあれば、何をやってもすべてが裏目に出てしまうこともあります。石原加受子氏は人間の人生は6年周期で隆盛と衰退を繰り返していると言われています。戦国武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の一生を調査して説明されています。「意識の法則と6年周期のリズム」(長崎出版)という本です。興味のある方はこれを読んで自分の人生を分析されてみるのは如何でしょうか。日々の生活、一週間の生活、四季ごとの生活、一年の生活がリズムで成り立っているのならば、そのリズムに合わせていく生き方を目指すのが理にかなっているように思われます。人生の波が下降途中や底の場合・・・その波に合わせて膝をたたんで、重心を落として、身体をそのリズムに合わせていく。人生の波が上昇局面や天上に入る場合・・・膝を伸ばし、大きく両手を拡げてジャンプする。これとは逆の行動をとる人が多いように思います。人生の波が上昇局面や天上に入る場合・・・人生が順風満帆の時は、安心して危機意識がなくなってしまう。現状に胡坐をかいて課題や目標を見失ってしまう。人生の波が下降途中や底の場合・・・慌てふためいて、再起の道を血眼になって探し始める。これは川下に向かって泳げば天を味方につけてスイスイと泳げるのに、敢えて流れに逆らって川上に向かって泳ぐようなものです。どんな天才スイマーでもいつか力尽きます。リズムをつかんで、リズムに合わせる生き方は理にかなっています。森田でいえば、変化を掴み変化に飛び乗る生き方のことです。広島県三次市 常清の滝(日本滝100選)
2023.09.19
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森田先生は気分本位、理知本位の行動ではなく、基本的には事実本位の行動を推奨されています。気分本位というのは、その時に湧きあがった不快、嫌いという感情のままに行動することです。イヤだ、ダメだ、ムリだ、無駄だ、面倒だ、辛そうだ、やる気がしないなどという気持ちが少しでも湧き上がってくると、その感情のままに行動する態度です。気分本位は努力は必要ありませんので、誰でも陥りがちです。その結果その時その場で必要な行動を回避するようになります。仕事をさぼる。ドタキャンする。自分に与えられた責任を果たさない。挨拶しない。葬式に行かない。社会的なしきたり、慣習を無視する。ギャンブルに凝る。深酒をする。依存症に陥る。絶えず相手に不平不満、グチをこぼす。相手を非難、否定する。他人に非難され、自分では暇を持て余すようになる。理知本位というのは、目の前の問題や課題に対して、自分の過去の経験や知識を参考にして、観念的な対策を立てて問題を解決しようとする態度のことです。この態度になると、現実はほとんど見ていない。また見ようともしていない。見る必要はないと考えている。現実は時間の経過とともにどんどん状況が変化しています。事実を軽視しているので変化対応力はありません。現実にマッチしない対策を立てて無理やり実行に移しています。当然ミスや失敗が多くなります。こんなはずではなかったと思った時は後の祭りということになりやすい。他人を巻き込んだ場合は、他人を取り返しのつかない不幸に陥れます。理知本位というのは「かくあるべし」を自分、他人、自然に押し付けることです。その反動は、思想の矛盾(頭で考えたことと現実が乖離して苦悩すること)で苦しむことになります。事実本位とは目の前で実際に起きている事実にきちんと向き合う態度のことです。湧き上がってきたマイナス感情、予期しない自然災害、突然の経済変動、紛争や戦争などをあるがままに認めることです。是非善悪の価値批判をしないで、事実を事実のままに認める態度のことです。隠す、ごまかす、捻じ曲げる、言い訳、責任転嫁をしないで素直に受け入れることです。事実本位になると「かくあるべし」を押し付けないので精神的には楽になります。事実本位はエベレスト登山でいえばベースキャンプを作るようなものです。エベレストの登山に挑戦する時はベースキャンプが非常に重要な役割を果します。ベースキャンプは登山の司令塔的な役割を果しています。酸素の少ない高地に順応する体づくりの基点となります。ベースキャンプをきちんと作り上げられるかどうかで、その後の成否が決まるといっても過言ではありません。事実本位になると事実を否定することはありませんので、エネルギーの無駄使いや消耗を避けることができます。そのエネルギーを活用して課題や目標にチャレンジすることができます。これは、下から上目線で課題や目標を見上げるということです。上から下目線で批判・否定しているわけではありません。この差は時間の経過とともに雲泥の差となってきます。課題や目標が大きければ、必ずしも成功するとは限りませんが、少なくとも森田でいう努力即幸福という体験はできます。事実本位は、森田理論の核心部分の学習になります。岡山城
2023.09.12
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森田療法は別名「自覚療法である」といわれております。この自覚療法という名前は、京都の三聖病院の先代の医長であった宇佐玄雄博士の名づけられたものであります。宇佐玄雄博士は、禅宗の坊さんであると同時に、森田先生と協力して森田療法を広められた医学者でもありました。この自覚とは、自分の日常生活そのものの事実、あるいはその時その場で自分が感じる感情の動きを、ごまかすことをせず、あるいは自らそれをなくしようとすることなく、ただそのままにあることであります。たとえば、現在自分が恥ずかしいと感ずるならば恥ずかしいそのまま、めんどくさいと感ずるならばめんどうくさいそのままにあることであります。あるいはまた、自分が自己をかえりみて、欲張りであるならば欲張りであると認め、虚栄心が強いならば虚栄心がつよい、と事実の通りに認めつつ、今日のなすべき仕事は仕方なしにでもやっていくことであります。ここに、森田先生が教えられた、「自然に服従し、境遇に柔順」な生き方があります。(生活の発見誌 水谷啓二 1970年(昭和45年) 5月号 14ページ)自覚とは観念で事実を否定するのではなく、事実に素直に従うことであると指摘されています。これは森田の「純な心」「思想の矛盾の打破」の考え方に通じるところがあります。「純な心」は、感情は最初に理屈や夾雑物を含まない感情が立ち上がっているものです。しかしこれはすぐにかき消されて、「かくあるべし」を含んだ第2次感情に置き換えられてしまいます。大脳の前頭前野が大きくなり過ぎた人間の宿命です。怒りや叱責や言い訳や責任転嫁を含んだ感情です。森田理論では、第一の感情、最初に沸き起こった感情、初一念の感情に立ち戻ることが大切であると教えてくれています。「純な心」から出発すれば人間関係の大半のトラブルは回避できるようになります。「思想の矛盾の打破」は、観念の立場から現実や現状を見るようになると、ふがいない事実に我慢がならなくなります。そのふがいない事実を観念の世界に引き揚げようと考えます。しかし事実を軽視して、観念優先の立場に立つと、本音や潜在意識の激しい抵抗に遭います。事実を否定し続けると葛藤や苦悩でのたうち回るようになります。神経症に陥る大きな原因になります。森田では事実優先の態度を身につけることを目指しています。「かくあるべし」を含む観念優先の世界を事実優先の世界に切り替えることができれば、葛藤や苦悩から解放されると考えています。神経症からも解放されます。自覚を深めるためには、まず森田理論学習で「純な心」「思想の矛盾」「かくあるべし」の弊害、事実本位の生活態度を身につけるための方法を理解することです。次に学習したことを仕事、日常生活、人間関係、生き方の中で活用していくことです。森田では「あるがまま」の生活態度を身につけることだと言われています。森田先生は「事実唯真」「自然に服従し、境遇に柔順」と言われています。つまり自覚療法とは、森田理論を学び、観念優先の世界から、事実優先の世界に軸足を移すことだと思われます。このことを理解して方向転換すると、徐々に味わい深い人生に変わっていきます。
2023.08.17
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先日you tubeで、日本に来て6年目という中国生まれの女性の人が、中国と日本の違いについて説明していた。・日本のトイレにはどこにもトイレットペーパーがあるが、中国にはほとんど置いてない。・中国の自動車は左ハンドルで右側通行である。日本は逆である。・中国では結婚しても旧姓を引き継ぐ。日本のように苗字が変わることはない。・日本の大学生はアルバイトをしているが、中国では親の仕送りに頼っている。・日本には街中にゴミ箱がない。中国にはいたる所にゴミ箱がある。・日本ではカラスをよく見かける。気にならないのだろうか。・日本は地震が多い。中国ではほとんどないので怖い。私は外国旅行といえばハワイとシンガポールにいったことがある。ハワイで驚いたことは、コーラを頼むとキングサイズの容器ででてきた。次にハワイには太った人がよく目についたが、太り方が半端ではない。日本のように太っていて肩身の狭い思いをしている人はあまりいないという。自分の個性、特徴と捉えて、実に正々堂々としている。ボロボロの自動車が走っていたが、日本のように車検は厳しくないという。友達と近くのスナックのような飲み屋に入ったがぼったくりの店だった。時差は6時間ある。朝ハワイから日本に電話しても日本は深夜である。シンガポールは、飲み水はマレーシアからすべて輸入しているという。ガムを道端に吐き捨てると逮捕されるという。ホテルから出るときは枕元にチップを置くのが常識となっている。うっかりチップを忘れると連泊の場合問題が起きる。自動車は中古車でも日本の新車並に高価である。時間帯、曜日によって通行制限があり自由に車を運転することはできない。街に出ると甘い香水の匂いが漂っているが、体臭を消すためだという。ちなみに一年を通して30度くらいある。日本のような四季はない。毎日のようにスコールがあり蒸し暑い。サウナに入っているような感じだ。ガイドに観光案内を頼むと、イヤになるほど提携のお土産物屋に連れて行かれる。売れるとバックマージンがあるので、観光案内よりもそちらが主になる。洗濯物はどこの家でも竿を外に向かって突き出している。どこの家にもインドネシアなどから来たメイドが住み込んでいる。外国では、水と安全はタダではないという認識が必要になるという。また世界の常識、日本の非常識という言葉もあります。当然その逆もあります。意識して外に目を向け、変化にすばやく対応する気持ちがない人は、外国旅行で思わぬ不覚を招くことがあります。森田の「変化対応」を経験するためには外国旅行が役立つ。宮島の裏側(広島県廿日市市)で道路はありません。
2023.07.23
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禅に「鐘が鳴るかや 撞木が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る」という話がある。狐につままれたような言葉です。これについて森田先生は次のように説明されている。これは一定の性質を備えた身体があって、これに外界の刺激が加わるときに、はじめて精神活動の起こるものであるということを示したものである。しかも精神は、鐘と撞木の中間に存在するものではない。精神という固定した実体があるのではない。薪が燃えるときに、刹那もそれが一定の形を保つことができないように、内界と外界との間に、相関的に絶えず流動変化しているもの、それが精神というものである。薪でもない、酸素でもない。燃焼の現象が、そのまま精神である。外界の事象である撞木が当たって、はじめて内界である鐘の実質の震動を起こす、そこに精神現象がある。「鐘と撞木の間が鳴る」のではない。「撞木が当たれば鐘が鳴る」のである。潜在意識という特殊な活動体があって病が起こるのではない。(神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 34ページ)不安や恐怖の感情は、外界から刺激が加わることによって発生しているものである。外界の働きかけに応じて初めて精神活動が起きているということです。しかも精神活動は常に流動変化しているものであると言われています。同じ刺激であっても、それをどのように受け取るのかは人によって違います。高性能のレーダーを標準装備している神経質者の場合はより敏感に反応します。その刺激をどのように受け取るかは、感情は自然現象ですのでどうすることもできません。ここで肝心なことは、外からの刺激に対して、きちんと向き合っているかということです。たとえば夜道を一人で歩いている時、ザワザワと音が聞こえると、近くに幽霊がいるかもしれない、あるいは熊やマムシのような動物がいるのではないかと思うと怖くなります。前後不覚になって急いで駆け出すと、不安や恐怖はどんどん大きくなっていきます。慌てふためいてしまうので、思わず石にけつまずいて大けがをするようなことにもなります。こういう恐怖体験を持っていると、もう二度とその道や夜道は敬遠するようになります。この場合、怖いけれども、冷静になってザワザワの正体を突き止めてやろうという態度が大事になります。少し離れたところに逃げてもよいので、しばらく様子を見る。観察する。あるいは棒切れのような戦う道具を用意する。ネガティブな感情にきちんと向き合うことができれば、不安や恐怖に後ろから追いかけられてますます窮地に追い込まれることはなくなります。きちんと向き合うだけで、不安や恐怖の勢いは急速に衰えてくるものです。外からの不安、恐怖、違和感、不快感から逃げることばかり考えている人は、それらを取り除こうとしている人と同じです。強迫観念に追い掛け回され、神経症で苦しむことになります。
2023.05.27
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野村克也氏のお話です。野球選手としての素質として、足が速い、肩が強い、打球を遠くへ飛ばすのが基本であると同時に、持って生まれた才能であり、後でいくら訓練しても育たない。ドラフトにかかる選手は、少なからずその素質は持っているようです。ただ3拍子揃って超一流という選手はめったにいないそうです。俊足だが、弱肩、非力な選手とか、つぼにはまると大きな打球を飛ばすが、守備はお粗末であるとか様々な特徴を持った選手がいます。こうした欠点はあるが、なにか一つだけ他の選手にはない、キラリと光るものを持っている選手こそがプロ野球の選手として大成することが多い。すぐにダメになるになるのがすべての面で平均点の選手だそうです。高校、大学、社会人で鍛えられて、欠点を修正して全ての面でそつなくこなすことができる。しかし走攻守のどれも人並みであるが、差別化できるほどのものではない。目立つ欠点もない代わりに、他の選手と差別化されたセールスポイントがないのです。このような選手は監督としては使いようがないのです。それよりは欠点だらけだが、チャンスで代打に出す相手に嫌がられる選手、守備ではめったにミスをしない、送球が正確である、代走に出すと飛び抜けて足が早い、ピッチャのモーションを盗むのがうまい、常にベンチで味方を鼓舞してくれる選手はベンチに入れたくなる。欠点や弱点を持っている人は、その裏に長所や強みが隠れていると考えるのはどうでしょうか。「谷浅ければ山低し、谷深ければ山高し」と言います。半端でない欠点や弱みを持っている人は、半端でない長所や強みを持っている人です。大きな欠点や弱点を持っている人は、大いに喜ぶべきことなのです。欠点や弱点のない平均的な人は、将来大きく飛躍することは難しいと言えます。私たちは、欠点や弱点があるとそこに注意や意識を集中させて、なんとか人並みに引き上げようとします。たとえば、ハゲである、背が低い、太っている、容姿が悪い、勉強ができない、学歴がない、能力がない、過去の忌まわしい経歴、神経質性格などです。気になるのは自然現象ですから仕方ありません。でも欠点や弱点にこだわり過ぎて、もともと持っている長所や強みを鍛えて伸ばすことを忘れてしまうのは大きな問題だと思います。コンサルタントの堀紘一氏は、欠点や弱点を人並みに引き上げようとしていると、もともと自分持っている長所や強みにやすりをかけて削っていくことになると言われている。そちらにエネルギーが吸い取られて、元々持っていた長所や強みが目減りしてしまうのです。またそういう人は、欠点や弱点をごまかして隠すようになります。そういう傾向のある人は安心して付き合うことができなくなります。気にしながらも、自分の長所や強みに目を向けて、勝負を賭けていく姿勢を持つことが肝心ということになります。
2023.05.26
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森田先生は、「心身同一論」の立場をとられています。心身は単に同一物の両方面であり、ただその裏表の観方を異にするまでのことだ。心と身体はコインの裏表の関係にあると言われています。これは理解することが難しいところです。そこにはどういう意味があるのでしょうか。水谷啓二先生は次のように説明されています。この「心身同一論」が、なぜ森田療法の基礎として重要な意義をもつのか、ということについて、もう少し説明しなければならない。ほとんど無意識的に(完全なる無意識とはちがい、いわゆる無心の状態で)いとなまれている、われわれの日常生活においては、自然に、自ら巧(たく)まずして、心身同一的な生活をしているものである。そこには、心身はただ一体的に活動しているものである。大いに働いたあと、腹が減っておいしく食事をし、夜は家族と談笑しているうちにしだいに眠くなり、寝室に入って寝床に横たわっているうちに、いつとはなしに眠りに入る。そういう・きわめて自然な生活をしている時、私どもは心身一体的な生活をしているわけであって、当たり前のことながら、そこには神経質のとらわれといったものはない。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 44ページ)水谷先生は、心身一体的な生活をしていると、心身ともに健康的になれると言われています。ここで肝心なことは、欲望が暴走するような生活態度では身体の健康は維持できないということです。例えば食べ物でいえば、美味しいものを腹いっぱい食べたい気持ちは誰でも持っています。またアルコール好きな人は、お酒を心ゆくまで飲みたい気持ちも持っています。こういう観念的な欲望が暴走してしまうと、身体の健康はすぐに損なわれます。身体の健康が損なわれると、今度は心の健康が損なわれます。悪循環が始まります。欲望が暴走しないように制御しないと、心と身体の両方が不健康になります。藤田紘一郎氏は、脳が喜ぶものを食べると健康が損なわれてしまう。反対に腸が喜ぶようなものを食べると、腸内環境が改善される。善玉菌、悪玉菌、日和見菌のバランスがよくなる。精神を健康に保つセロトニンの前駆体もたくさん作られると言われています。心が身体を、身体が心をリスペクトするようになることが大切になります。こうなると精神を病むこともなくなり、重大な身体疾患になることも格段に少なくなっていくのではないでしょうか。森田先生の心身同一論は、精神と身体が対等でお互いを思いやる関係を作り上げることが大切なのだと教えてくれているように思います。
2023.05.21
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福島正伸氏のお話です。あるレストランのシェフとお会いした時次のようなお話をしてくださいました。一人で、厨房で仕事をしている間は、ずっと集中し続けなければなりません。一時も気を許すことができない作業が続きます。でも、毎日それができるのには、はっきりした理由があるんです。それは、今つくっている料理を召し上がっているお客様の笑顔が見えるからです。そして、そのお客様が家に帰って、家族に今日の料理の自慢話をしてくださっている姿も見えます。さらに、その話を聞いた家族が「私も連れて行ってほしい」と言っている姿も目に浮かびます。そして、その家族が友人に電話をして、一緒に私のレストランに来る約束をしている姿も見えます。そして、友達をたくさん連れて、お店にみなさんが笑顔でやってきてくださる姿が見えるのです。・・・すべて、ただの妄想かもしれませんけどね。でも、そう思うと、今やっていることから、手を抜くことができなくなるんですよ。ところが、無意識で仕事をしている時は、そのイメージが消えてしまっています。そんな時は、仕事に集中し続けることはできません。どのように1回塩を振るかで、お店の未来、地域の未来、自分の未来が変わる、という感覚が必要なんです。(どんな仕事も楽しくなる3つの物語 福島正伸 中経文庫 80ページ)仕事は生活費を獲得するために避けて通れないものという考え方に固執していると、仕事は大変つらいものになります。このシェフはそれ以外に仕事をする意味があると言われています。それは仕事で周りの人に感動を与えたいという目標を設定して、その目標を達成するために惜しみない努力を積み重ねるということです。値段に見合った料理だけでは、また来店してくれるかどうか心もとない。値段以下のまずい料理を提供しているとリピート客はまず来ないでしょう。店はどんどん活気がなくなってきます。おいしい、安い、早い、接客態度がよかった、交通の便がよい場合は、また来店してくれる可能性はあります。こんなおいしい料理を食べたのは初めてだという場合は、ぜひまた来店したいと思うでしょう。そのお店のことは友達に知らせたくなります。口コミで評判になります。家族も連れて行きたくなります。店は繁盛店になります。仕事をする目的を給料をもらうためだけに絞ってしまうのは問題だと思います。それに人を感動させてみたいという目標を付け加えるだけで、仕事はとても面白いものに変わっていきます。なお仕事を面白くするためには、目的を5つぐらいに広げるとかなり変わります。興味のある方は、2023年1月5日の投稿記事も併せてご参照ください。
2023.05.16
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河原宗次郎氏のお話です。私は、店の社員の全部、つまり20数人を常時見つめているわけですが、どんなに人から「あれはよくない」「こういう短所がある」といわれている者でも、よくよく見つめていると、どこかに長所があることが、わかってくるものです。「悪いところばかりで、よいところが一つもない」というのは、結局のところ、見つめ方が足りないからではないか。少しでも良いところを見出そうと思って、見つめていると、かならずそれぞれに良いところがあるのが、目についてきます。そうすると、悪いところを非難するより、その良いところを認めて、それを発揮させてゆけばよいわけだから、人に対してあまり不平がなくなってきます。その良いところだけを見つめて、それを適当に活用すればよいわけです。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)9月号 38ページ)誰でも問題点を発見し、あるいは少しでも気に入らないことがあると、他人や自分を非難、叱責、否定します。神経質性格、両親、子ども、友人、仲間、境遇、運命、忌まわしい過去の出来事などあらゆることに及んでいます。これは自己中心的観念性の肥大化によるものです。成長の過程で、目の前の出来事を良い悪いと価値判定する生き物になってしまったのです。しかも良い点は当たり前のことで、ことさら評価するには値しない。悪い点は放置しておくと大変なことになるのですぐに修正するか、無くさなければいけないという考え方に取りつかれてしまっているのです。放置すると将来の禍につながるものは何としても排除しなければならない。問題がないものは、別に注意を払わなくても生命の危険はないというDNAが引き継がれているのかもしれません。これが反対になった場合を想像してみましょう。つまり悪い点は目をつむって見逃す、寛大な包容力で許容する。良い点はどんな些細な事でも大いに評価して、大事にして伸ばしていこうとする。こういう考え方、ものの見方ができる人は、人間関係の問題が激減し、自己肯定観が強まり生きることが楽しくなります。この考え方を手に入れるためには、森田理論の両面観を学習することが大切になります。そしてバランスのとれた見方・考え方を身につけることです。そのためには、意識改革が必要になります。つまり問題点、悪い点を見つけることはとても上手になっていますので、この方面にエネルギーを投入することはいったん棚上げにする。それよりはほぼ全部のエネルギーを良いことさがしに向けることです。それでやっとプラスとマイナスのバランスがとれてくると心得ることです。最初は意識しないとできません。そのために日記に書くことが有効です。それが習慣になると、無意識的にできるようになります。その暁には他人と対立することが少なくなります。自己信頼感、自己肯定感が出てきます。生きることが楽しくなります。人間に生まれたことを感謝できるようになります。
2023.05.14
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茶道の千玄室氏のお話です。たびたび海外に行っているので、人からよく「師匠は時差ボケをされませんね」と不思議がられます。私は、そういう人には、「あなた方は、時差ボケ自体をいつも頭の中に思っているから、時差ボケをするのです」と答えています。「飛行機に乗ったら、すぐに目的地の時刻に合わせなさい」と。振り返ってみると、私は昔から時差ボケということを考えたことがありません。飛行機に搭乗したら、すぐに時計の針を目的地の国の時間に合わせて、その時間に自分を向けていくようにしています。ですから、日本を朝に出発しても目的地の時刻が夜であればすぐに寝てしまうのです。これは、なにも時差ボケに限った話ではなく、生き方として持っていなければならないことではないでしょうか。いつまでも出発地にとらわれてはいてはいけません。人生は後ずさりはできない、前に進むだけです。過去を振り返っていてはダメです。現在、そして次の瞬間を思う。だから「forward-looking posture」前を向く姿勢が大事なのです。(生涯現役の知的生活術 育鵬社 75ページ)これは変化に合わせて、自分を変えていくということだと思います。森田先生も変化対応という点では同じようなことを言われています。「わしは、電車の中で立っているときには、体操のときの休めの姿勢をとっている。つまり両足を開き、片足に全身の重みをかけ、他の方の足は浮かして、その足先で軽く床に触れるようにしている。これは不安定の姿勢であるが、この姿勢でいるときは、浮かした方の足先が鋭敏に体の動揺を感ずることができ、周囲の変化にたいして最も迅速に、しかも適切に反応することができる。それは不安定の姿勢の上に立って、しかも自然の心にしたがい、どこにも固執する人はないからだ」神経症に陥るような人は、変化することを嫌がる傾向があるのではないでしょうか。不安を抱えたまま、なすべきことに取り組むと間違いだらけになってしまう。不安を払拭したあと、すっきりした気持ちで目の前のなすべきことに取り組むべきである。こういう考え方をしていると、いつまでも不安と格闘してしまうことになります。精神交互作用によって最後には神経症として固着してしまいます。そして、目の前のことが蚊帳の外になってしまいます。森田では神経症的な不安は欲望の裏返しとして生まれてくるものだと言います。不安は横に置いておき、目の前の変化をよく観察し、変化の波に素早く乗るという態度を持ち続けることが肝心ではないでしょうか。
2023.05.10
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20歳の水谷啓二氏が森田先生のところに入院されていたころのことです。森田先生が、水谷氏に「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」と言われたそうです。女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前で頭を下げた。森田先生は苦笑いして言われた。「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。それが君の正直な気持ちだ。そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気持ちでぐるぐるまわりをしただろう」まったく図星で、返す言葉もない。「こんな場合、本当に柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。いくら柔順に実行すると言っても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない」ここで森田先生は「柔順」と「盲従」の違いについて説明されています。その違いについてもう少し詳しくみてみましょう。人間には様々な感情が湧き上がります。怒り、腹立たしさ、恥ずかしさ、嫉妬、心配、不安、恐怖、不快などです。この例では「恥ずかしい」という感情が湧き上がりました。森田理論ではどんな感情も自然現象なのでそのまま味わうしかないと説明されています。「柔順」というのは、その感情の事実に対して反抗的な態度をとらないことだと思います。「君は今恥ずかしいという感情で一杯なんだね」と寄り添うことが柔順ということになります。「盲従」というのは、好ましくない感情が湧き起こったとき、身体に近づいてきた虫を手で追い払うようなことをしているのです。森田先生は好ましくない感情を押しつぶすようなことをしてはいけないと言われています。どんなに好ましくない感情であっても、反旗を翻してはいけない。恥ずかしいという感情を忌み嫌う、取り除こうとする、逃げ出すというのは間違っているということです。台風がきたときに、柳の木は身が引きちぎれるのではないかと思うほど荒れ狂っています。巨大な松の木は少々の台風に対してはびくともしません。でも台風が通り過ぎた後、柳の木は何ごともなかったかのようにたたずんでいます。時々巨大台風が通り過ぎあと、びくともしないと思われた松の木が倒壊して無残な姿をさらしていることがあります。感情の取り扱い方としては自由が効かないわけですから服従するしかありません。松の木は歯を食いしばって抵抗していたわけですが、その限界を超えた時力尽きたのです。私たちは柳の木から感情への対応方法を学ぶ必要があるようです。これを前提として、次に感情と行動はきちんと区別することが必要になります。感情に対しては完全服従、行動はその時その場でもっとも適切な行動を選択する必要があります。お辞儀の例では、森田先生が理不尽なことを指示して、水谷氏がどんな対応をとるか見ようとしておられるわけですから、「先生、そんな恥ずかしいことは勘弁してくださいよ」と言ってかわしていけばよいのではないでしょうか。森田先生も理不尽でばかげきったことに従う必要はないと言われています。
2023.04.30
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山本周五郎氏の言葉です。毒草から薬を作り出したように、悪い人間の中からも善きものをひきだす努力をしなければならない、人間は人間なんだ。(山本周五郎のことば 清原康正 新潮社 77ページ)世間にゃあ表と裏がある、どんなきれい事にみえる物だって、裏を返せばいやらしい仕掛けのないものは稀だ、それが世間ていうものだし、その世間で生きてゆく以上、眼をつぶるものには眼をつぶるくらいの、おとなの肚がなくちゃあならねえ。(同書 79ページ)人間は弱いものだ、知らないうちに罪なこともしよう、悲しければ泣き、はらが立てば怒り、不徳と知りながら不徳なことをする、それが人間なんだ。(同書 80ページ)人間である以上、誰でも弱点や欠点を持っている。劣等感も持っていれば、優越感も持っている。成功した人も、過去にミスや失敗もたくさん経験している。他人に役に立つこともしてきたが、思い出すのは、他人に不義理なことをしてきたことばかりである。取り返すものなら取り返したいと思ってもどうにもならない。悪夢にうなされるような後悔もたくさん持っている。過酷な運命に翻弄されて、自暴自棄になったこともある。突然不幸のどん底に落ちたこともあった。命に係わるような病気もした。あわや大惨事という事故に遭遇したこともある。平成5年6月号の生活の発見誌に、前理事長の斉藤光人氏は、どんな人にでも、人格者だといわれる人も、内面には猥雑なもの、醜いもの汚いもの、好色なもの、意外と稚拙なもの、狡猾なものを持っていると言われている。人格の高潔な人はすべからく清廉潔白と考えるのは認識間違いと言えるかもしれない。もしそうならば、ことさら目くじらを立てて責める必要はない。欠点を10個持っていれば、長所も10個持っている。弱みを10個持っていれば、強みも10個持っている。醜い面を10個持っていれば、美しい面を10個持っている。つまり人間はどんな人でも清濁併せ持っているということです。それが生身の人間の実態です。見るからに善意に満ちあふれた人でも、反面見るに堪えない醜悪な面も併せ持っていると思っていたほうが間違いが少ない。そういう人間の真実を理解すれば、自分にも他人にも問題点や悪い点を許すことができるようになるのではなかろうか。目くじらを立てて喧嘩を売るよりも、笑ってお互いを許し合う方が人間関係はうまくいく。問題が表面化したときは、今は悪い面が出てきているが、時と環境が変わればきっとよい面が出てくるはずだと考えることだ。それまでしばらく待ってあげることにしよう。何しろこの自然界はバランスや調和が崩れると、必ずより戻しが起きています。そうしないとすべてのものが存在意義を失って崩壊してしまうのです。森田理論はバランス感覚、調和を身につける理論と言えるかもしれません。集談会では傾聴、共感、受容という話をよく聞きますが、それに加えて許容力も身に着けたいものです。
2023.04.24
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村上和雄氏のお話です。ネアンデルタール人と我々ホモ・サピエンスは、20万年前は共存していました。両者を比較すると、ネアンデルタール人のほうが強靭な肉体を持ち、脳もホモ・サピエンスよりも大きかったそうです。現代にネアンデルタール人が生き延びていれば、オリンピックでメダルをほぼ独占していたと思われる。また大きな脳を活用して高度な文明社会を築いていたと思われる。ところが、その後ネアンデルタール人は突如絶滅してしまいました。絶えた人たちと、生き残ったホモ・サピエンスの違いはどこにあったのか。考えられることの一つは、ホモ・サピエンスは社会を作っていたのです。150人程度の部族の集団を作り、その中で暮らしていたのです。社会のなかで、他の人たちと分業、融通、助け合う仕組みを作っていた。一方、ネアンデルタール人は20人くらいの家族単位で暮らしていました。個々の能力が高いために、他人と助け合う仕組みは必要としなかったようです。体力があり、頭脳明晰なのでなんでも家族単位で完結していたそうです。家族や親族単位であらゆる問題を解決できると考えていたと思われます。この違いはその後の脳の発達に影響を与えました。ネアンデルタール人は視野や視覚が発達しました。運動野や感覚野が発達し、さらなる個体の能力の向上につながりました。一方ホモ・サピエンスは前頭葉が発達しました。ここは社会性を司る部分です。ここに共感脳が含まれています。つまり、体力や知力で劣っていたホモ・サピエンスは、その不足分を集団の力で乗り越えようとしてきたのです。その結果、共存共栄能力が鍛えられました。この能力の獲得がその後のホモ・サピエンスの繁栄につながったのです。個々の人間の能力向上はいかに素晴らしそうに見えても限界があります。一方その不足分を仲間でカバーしあう仕組みには限界はありません。この進化の違いがその後の両者の盛衰に結びつきました。人類学者の長谷川眞理子氏も、「共生的進化論」として、最終的に生き残るものをシミュレーションすると、単に得ようとするだけではなく与える種が生き残る、つまり「足ることを知る」種が歴史的に長生きしている。人類が進化し、生き残ったのは「協力」と「知足」のおかげだったと言えます。(コロナの暗号 村上和雄 幻冬舎 181ページ参照)「協力」と「知足」というのは、他人を思いやる心と欲望の暴走を制御するということではないでしょうか。しかし現在その進化の歴史に反するようなことが表面化しています。人間は誰でも個体保存欲求を持っています。個体保存欲求がないと命を粗末に扱う可能性があります。しかし人類の繁栄にとって、それは必要条件ではあるが、十分条件にはなりえない。それだけでは、人類の将来の繁栄は大変危ういものになります。欲望の暴走には歯止めをかけて、すべての人が豊かになる共存共栄の社会を目指さないと結局はネアンデルタール人と同じ轍を踏みかねないということになります。現在多くの国が核を保有して外交の駆け引きに使っています。それが暴発する可能性が極めて高くなっています。今やホモ・サピエンスは絶滅の危機に直面しているのです。森田理論に「物の性を尽くす」というのがあります。自分の性を尽くすことと、他人の性を尽くすことがあざなえる縄のように一体となり、バランスを維持して共存共栄の社会を目指すという考え方です。この考え方を推し進めて行くと、支配する人と支配される人の二極分解はなくなるはずです。森田は現代の人間社会に警鐘を鳴らしている理論だと言えると思われます。
2023.04.17
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イェール大学心理学部のポール・ブルーム教授は、2015年、赤ちゃんを被験者としてある実験をしました。月齢6か月、10ヶ月の赤ちゃんに、赤い丸が丘を登ろうとしているアニメーション映像を見せる。続けて、①その背後から黄色い四角がやってきて、赤い丸をやさしく丘の上に押し上げて助ける場面。②前方から緑の三角がやってきて、赤い丸を下へ押し戻して邪魔をする場面。赤ちゃんたちにそれらの図形のどれに手を伸ばすのかを調べたところ、ほぼ全員が①の図形に手を伸ばした。こうした実験から、ポール・ブルーム教授は、その著書「ジャスト・ベイビー 赤ちゃんが教えてくれた善悪の起源」 (竹田円訳 NTT出版)の中で、私たちの天性の資質として次の4つの項目があると指摘されています。・道徳観・・・親切な行為と残忍な行為を識別する能力・共感と思いやり・・・周囲の人の苦しみに胸を痛め、その苦しみを消し去りたいと願う気持ち・初歩の公平感・・・資源の平等な分配を好む成功・初歩の正義感・・・よい行動が報われ、悪い行動が罰せられるのを見たいという欲望同じような実験は、大阪大学大学院の鹿子木康弘准教授も行っている。生後2、3ヶ月の乳児に、①乳幼児がお菓子をもらったとき②実験者が偶然見つけたお菓子を他者(人形)にあげる場面を観察したとき③乳児自身が偶然見つけたお菓子を他者(人形)にあげたとき④乳児が自分に与えられたお菓子を他者(人形)にあげたときという4パターンの働きかけをしたところ、④の自分のお菓子を他者にあげるという最もコストの高い行為の際に、最も嬉しそうな表情を示したそうです。(コロナの暗号 村上和雄 幻冬舎 171ページ)これ等の実験から、「利他の心」は全ての人間のDNAのなかに存在しているものと判断できます。「利他の心」が発動すれば、思いやりの心で満ち溢れた社会になるはずです。ではどうして自己中心的、利己的な人が多いのでしょうか。いろんな原因が考えられますが、その一つとして、人間には「利他の心」のほか、「自己保存欲求」というものがあります。この身体をできる限り生き延びさせることが、最大のミッションとなっています。この欲求がない人はすぐに命を落としてしまいます。現実の社会では、「自己保存欲求」が優先されやすい。それは与えられた命を大切にすることであり大事なことです。しかしそれ一辺倒では、他人と対立して衝突するようになります。その結果、元々持っていた「利他の心」は宝の持ち腐れになってしまいます。この二つの調和を意識して維持する方向を目指すことが大切になります。バランスや調和をとるという考え方は、森田理論の「精神拮抗作用」「両面観」の考え方につながるものと考えています。私はサーカスの綱渡りをイメージして、天秤、ヤジロベイをそばにおいて、バランス感覚を忘れないように心がけています。
2023.04.05
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今日は人間と自然の付き合い方について考えてみました。養鶏場では、雌鶏を狭いゲージのなかに押し込めて、卵を産む機械として取り扱っています。休みなく多くの卵を産ませるために、強制換羽ということが行われます。雌鶏は、1年間卵を産んだ後、産卵を止めるようになっています。その間に羽が生まれ変わるのです。体調を整えるようにしているのです。そのときに、人間がえさと光を与えないで閉じ込めると、ショックで産卵が早まるのです。これは雌鶏にとっては大きなストレスになり寿命を縮めます。雄鶏は光のあたらないところで、運動を抑えて食事を与えています。回転率重視のプロイラーとして飼育されています。いずれにしろ、鶏たちは自由を奪われた効率重視の状態で飼育されています。濃厚飼料、成長ホルモン、抗生物質が大量に投与されて飼育されているのです。そこには生き物というイメージはありません。鶏は物として扱われています。豚も狭いところに何頭も押し込められて飼育されています。たいへんなストレスにさらされています。そのストレスを解消するために、他の豚の尻尾をかじります。それを防止するために、最初から尻尾を切っているという光景を目にしたことがあります。なんだか切なくてかわいそうな気がしました。以前頭牛病が発生しましたが、元々草食動物である牛に、肉骨粉を餌として与えていたのが原因だと言われています。肉骨粉を餌にしたことが、牛の脳に悪影響を与えていたのだそうです。イチゴは露地で育てると5月ごろ実を付けます。イチゴが大量に出回る時期になると安くなります。その反面クリスマスの頃には需要が高まり価格が高騰します。それに目を付けた人間は、夏に人工的に冬を経験させればよいと考えました。夏に高冷地で冬の寒さを経験させる。そして冬場に温室に持ち込む。重油を焚いて春先の陽気を作れば、冬でもイチゴが育つと考えました。イチゴにしてみればだまし討ちに合ったようなものです。夏野菜であるキュウリ、トマト、ナスが冬場に出回っているのはすべてハウス栽培です。自然の仕組みを無視して、無理をして野菜を作っているのです。野菜の生理に合っていなくても、人間が儲かればよいという考え方です。これらは人間の都合に合わせて、自然を自由自在にコントロールしているということになります。人間が上で自然が下という関係が出来上がっています。こういう関係が永遠と繰り返されても問題は発生しないのでしょうか。地球温暖化、気候変動、オゾン層破壊、森林破壊、海水面の上昇、CO2問題、砂漠化、酸性雨などの問題は、人間と自然の関わり方の矛盾の現れではないでしょうか。智恵の付いた人間が、自分たちの生活をさらに豊かにするために、なりふり構わず自然破壊を繰り返しているということになります。これは人間と自然だけの関係にとどまりません。一番の問題は人間と人間の関係に波及していることです。人間関係も、支配、被支配の関係に陥っていることです。経済力のある人や頭のよい一部の人が、その他大勢の人を自由にコントロールしています。その人たちの欲望が暴走する社会になっています。もはや抑制力が効かない状態に陥っています。森田では自分の「かくあるべし」を自然や他人に押し付けてはいけないといいます。また、森田理論には、「物の性を尽くす」という考え方もあります。この考え方は、生きとし生けるものはすべて存在価値を持っているという考え方です。すべてのものに居場所や活躍の場を与えて、命のある限り、生き尽くしてもらおうという考え方です。自然や人間同士の関係に「物の性を尽くす」という考え方を取り入れないと、人類の歴史は遠からず終焉を迎えるような気がします。特に核兵器の暴発は待ったなしのところに来ています。森田理論の「欲望の暴走は不安の活用によって制御する」「物の性を尽くす」などをみんなで学習して、人間本来の生き方に立ち返ることが求められている時代に入っているように思います。
2023.04.02
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水谷啓二先生のお話です。「事実唯真」ということについて、よく誤解されることであるが、森田正馬博士は「客観的事実だけが事実であるといっておられるのではなくて、客観と主観の一致するところに事実唯真がある」といっておられるのである。もし客観的事実だけを・事実であるとするならば、われわれの主観というものを・一切無視することになり、客観偏重のひどく偏ったものの見方しか出来なくなり、退屈きわまる糞リアリズムになってしまうであろう。この主観と客観がひどく食い違ったり、どちらか一方に偏ったりしないで、調和していくところに、健全な精神の働きがあり、健康な生活があるのである。(生活の発見誌 1969年(昭和44年)1月号 水谷啓二 35ページ)この部分は森田理論学習の中でも難しい部分です。しかしここを理解しないと健全な生活が維持できなくなると思われます。この件について、森田先生は次のように説明されています。たとえば、今腹がへっているというのが主観的な事実である。でも、いま私は腹を悪くしているから、食べ過ぎてはならないと我慢しているのが客観的事実である。(森田全集 第5巻 408ページ)これはある欲望が湧き起こったとき、それを抑制する感情も同時に湧きあがるようになっていることにつながります。森田理論では、この働きのことを「精神拮抗作用」といっています。問題はどちらかに偏り、バランスが崩れた場合です。主観的事実を優先して無理して食べると、内臓に負担をかけることになります。逆に客観的事実を優先してしまうと、欲求不満が強まります。この場合は、食べ過ぎに注意しなから、慎重に食べることです。特に飲酒の場合は慎重さが求められます。飲みたいという気持ち一辺倒になると二日酔いになってしまいます。ペースを落としながら飲む。あるいは、お冷と酒を交互に飲む。飲むだけでなく、料理を食べることを忘れないようにする。そうすれば急性アルコール中毒を回避することができます。別の例でいうと、心臓麻痺恐怖の人があるとする。医者が検査をして心臓は大丈夫だという。それは客観的事実である。しかし本人はやはり怖い。これは主観的事実である。このとき患者は、大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がる者であるという主観的事実の両方を認めねばならない。(森田全集 第5巻 159ページ)この場合、主観的事実に偏るとパニックになります。会社を休んで家で静養することになれば、注意や意識が心不全のことばかりに向いて、不安神経症で苦しむことになります。医者から大丈夫だというお墨付きをもらったのであれば、不安を持ちながらも会社に出て、細々と仕事を続けることが大事になります。私たちは、意識していないと主観的事実と客観的事実のどちらかに偏ってしまいます。いずれかに偏ってしまうと、生活が破綻してしまいます。2つの事実のバランスをとる必要があります。バランスを維持することは、サーカスの綱渡りを思い浮かべると分かりやすい。右に傾けば左を下げる。左に傾けば、右を下げる。この調整が必要になりす。絶えずバランスを意識しながら、慎重に前に進むことで、健全な生活が維持されるという側面を忘れないようにしたいものです。
2023.03.29
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森田先生は、「煩悩即菩提」「雑念即夢想」「不安即安心」と言われています。煩悩と菩提は同じことだ。雑念と夢想も同じことだ。不安は安心と同じことだ。正反対なことを同じだと言われても納得できる人は少ないのではないでしょうか。今日はこの問題を取り上げてみたいと思います。森田先生は元々二つは一つであって、同じものを裏から見ているのか表から見ているかの違いに過ぎないと言われています。どういう意味なのでしょうか。私は以前尿管結石で七転八倒したことがあります。とがった石が尿管の神経を刺激して、こんなに痛い思いをするのならば、いっそのこと死んだ方がよいと救急車で搬送中に思ったことがありました。これは痛みの原因が全然分からないことでパニックになったのです。レントゲンを撮って尿管結石が原因だと分かった。この痛みで死ぬことはないと分かったとたん不安はなくなった。医師のすすめる薬を飲んでいると3日くらいして大きな石が出てきて事なきを得た。その件で尿管結石についての関心が高まった。これがきっかけとなって、原因や再発防止策をいろいろと考えた。またこの病気を経験した人とさまざまな情報交換をするようになった。その兆候がある人に対しては、役に立つ情報を提供するようになった。他人ごとではなくなったのである。見て見ぬふりはできなくなった。夏場水分を取るのを極力我慢していたという原因を突き止めたので、夏場の細かな水分補給を心がけなければ危ないというアドバイスをするようになった。これは「激痛即解脱」ということではないかと思うのである。激痛に対して投げやりにならなければ、それを切り抜けることができる場合があります。もし、切り抜けることができれば、その苦しんだ経験は、その後の人生で大きな財産となります。今後の養生に対しても有効に作用します。なによりも他人に対する思いやりの気持ちが出てきます。苦しんでいる人に親身になって寄り添うことができます。苦しんで底を打つとそこから逆転人生が始まるようなものです。これが森田先生のいわれる「煩悩即菩提」「不安即安心」につながるものではないのか。森田先生は苦悩や煩悶は断じて受忍しなければならないと言われる。これを受忍しきったときに、煩悶・苦悩は消滅すると言われている。それはただ消滅するだけではない。その煩悶・苦悩が財産に変わるのである。これは将棋で相手の駒をとると、今度はその駒が自分の持ち駒となるのと似ています。自分の味方になってその後大いに役に立つようになるのです。神経症に陥ったことは親の悪い性格を引き継いだためだ。また親の育て方に問題があって、私の人生は滅茶苦茶になったと親を恨んでいる人は多い。そういう人は「煩悩即菩提」「苦悩即安心」という言葉をかみしめてみるというのはどうでしょうか。神経症を嘆くよりも、神経症のなったおかげで、神経質者としての生き方をより深く考えることできた。災い転じて福となすことができたということです。問題ある親の育て方を受けて、腹を立てていたことがあります。でもそのおかげで親業に参加し、集談会で子育てについてみんなで話し合う機会が持てた。それは親子関係で悩んだおかげで、生きる目的を持つことができたということではないのか。その苦い経験は無駄ではなかったということです。自分の子どもとの関係にはあまり応用できなかったが、今現在子育てで悪戦苦闘している人に対して少しは相談にのってあげることができようになった。また不器用な対人関係も、悩んだおかげでいろいろと学習することができた。今では人間関係で大きく落ち込むことはなくなった。苦悩や不安を否定しないで正しく向き合うと、それがきっかけになって、自分を一回り大きな人間に育ててくれるという側面があります。これが「煩悩即菩提」「不安即安心」という意味ではなかろうか。玉野井幹雄さんは「神経質にありがとう」という本を書いておられますが、災い転じて福となした人だと思います。
2023.03.26
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水谷啓二先生のお話です。森田先生の入院療法を受けておられたころのことです。起床を許されてから、作業の時のほかは、毎日日記をつけていたこと、それから朝起きた時と夜寝る前に、5分間くらいずつ古事記を音読する習わしになっていたことを、今でも記憶しております。「意味はわからなくなくても、ただ棒読みするだけでよい」とのことでありましたが、それならば論語とか、お経とか、聖書とかいうものを読ませないで、古事記を読まされるのか、ということが私にとっては一つの疑問でありました。意味が分からないまま、仕方なく古事記を音読しておりました。その後だいぶ年月が経ってから、私には古事記を読まされたわけが、ふと分かってきました。どうわかったかといいますと、古事記にいうところの神々とは、いわゆる多神論的な神々ということではなく、純なる人間、かねて先生のいわれる「真人間」のことである、と全身心をもって納得できたのであります。先生は、その晩年の著書である「神経質療法への道」第一巻のはじめに、次のように書いておられます。「神経質が、自ら劣等感に駆られ、あるいは種々の強迫観念に苦しんで、我と我が身をかこつのは、単に劣等感のために自暴自棄となるのではない。この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたいとの憧れに対する・やるせない苦悩であるのである」この真人間、つまり純なる心に生きる人間こそ、古事記にいうところの神々でありました。(生活の発見誌 1970年(昭和45年)5月号 7ページ)ここで「真人間」「純なる心」ということばが出てきました。自分の気持や感情に素直に生きるということだと思います。自分の置かれた境遇、運命、事実、現状をあるがままに受け入れる。観念で素直や気持ちや感情を押さえつけてはいけないということです。観念優先ではなく、あくまでも事実優先の立場で生きていくということです。そして自分の持っている能力を活かして生の欲望に邁進していく。森田先生は、ある地方で開かれた座談会で、「先生は神を信じられますか?」と質問されたのに対し、「古事記の神を信じます」と答えられたことがある。古事記の神というのは、むかしそういう神がいたかどうかという・歴史的事実を問題にしているのではないのであって、古事記の神々に現れているところの、生き生きとした人間性を神とするならば、「それを信じる」ということなのである。たとえば、古事記によると、スサノオノミコトは、その母イザナミが亡くなられたとき、その泣く様は「青山を枯山なす泣き枯し、河海は悉く泣き乾しき」とある。母の死を悲しんで、長いあごひげが胸もとにかかるほど伸びるまでに、号泣に号泣したということであるが、なんと壮大にして純情な泣き方であろう。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 98ページ)森田先生も一人息子の正一郎君が亡くなって出棺というとき、非情に悲しまれ、はらわたを断つように慟哭されました。これは古事記のスサノオノミコトのすさまじい感情表出とよく似ています。森田先生は古事記のなかに「純な心」を見通されていたのだと思われます。さらに古事記を読んでいると、天孫降臨によってスサノオノミコトが出雲の地に舞い降りたところから始まっている。普通外国の歴史を見ると、もともと住んでいた原住民を武力で侵略して、その人たちが貯えた冨や財産や人を略奪して自分のものとする。そして原住民を奴隷として奉仕させるという悲惨な歴史の繰り返しです。古事記を見ると、日本の為政者は、私利私欲を追求するために日本国を作ったわけではないのです。国民を幸せにすることを第一に考えていたのです。さまざまな天災や紛争に翻弄されながらも、すべての人が平和で豊かに楽しく暮らしていける国を作ろうとしていたわけです。それは国民の象徴と言われる天皇の和歌に表われています。仁徳天皇高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎわいにけり明治天皇罪あらば 吾をとがめよ 天つ神 民はあが身の 生みし子なれば日本では大震災が起きた時、社会の秩序を乱す行為や略奪行為は基本的には見られません。それは日本人のDNAのなかに、諸外国とは違う別の遺伝子が入っているからだと思います。森田先生は、古事記のなかに本来の人間の進むべき道を洞察されていたのだと思われます。これについては、明日の投稿とします。
2023.03.20
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田原綾さんのお話です。田原綾さんは、森田先生のご親戚にあたり、娘時代に20年以上も森田先生のそばに居られ、先生が亡くなられるまで身の回りの世話をなさったのです。先生が立ってお話をしていらっしゃる時に、気をきかせたつもりで椅子を出すと、「お前さん、わしが坐ると思ったのか。わしゃこの通り坐らん」と言われ、そうかといって、椅子を出さないと、「お前さんわしが疲れているのに、なんで椅子を出さないのか。わしゃ坐りたい」と催促されました。私は少々横着者でしたし、先生のあまのじゃくが嫌になって、「今度から知らぬ顔をしてやりましょう」と思い、気付かないふりをしておりますと、「椅子!椅子!」と大きな声で言われました。このような先生のあまのじゃくも、いろいろと考えられた上でのことだったでしょうに、あまり身近であるがゆえの甘えから・横着にしてしまったことを、今ではたいへん申し訳なく思っております。水谷千賀氏注=先生が立って話をされているとき、一がいに決めるわけにはいかない。ちょっとした立ち話なら出さない方がよいし、立ったままの話が長びくときには、疲労されるから出した方がよい。それは先生のご様子を見ながらお話を聞いていると、自然にわかることである。椅子を出すか出さないかを観念的に決めるのではなく、先生のご様子を見ているうちに・自然に出てくる行動が本ものであり、事実唯真である。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 68ページ)この話は行動する時は、観念的にあらかじめ決めてしまうのではなく、その時の状況をよく見極めて、その場にぴったりと適合するような方法を選択する必要があるということだろうと思います。森田先生は、「変化に臨機応変に対応する」という森田の理論の重要なポイントをこのような身近な例を取り上げながら具体的に説明されていたのです。気ままで自分勝手な行動のように見えますが、その奥に感動の涙が出てくるような思いが詰まった行動だったということです。森田先生は人の上げ足をとることが多かったと聞いておりますが、それにもかかわらず、たくさんの人が集まってきた。不思議なことです。また入院料は自由診療とはいえ法外に高額だった。裕福な人でない限り、入院森田療法を受けることはできなかった。にもかかわらず、「形外先生言行録」を読んでみると、先生のご恩に対して感謝感激して慕っている人たちばかりです。それは神経症克服の確かな理論を持っておられたこともあるでしょう。でも一番は人間愛がとてつもなく深かったことにあるように思います。たとえ自分が悪者とみなされても、一人でも多くの神経症者を真人間に変えたいという強い信念をお持ちだったようです。そういう理論を学ばせていただいている私たちは幸せ者です。
2023.03.18
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横田南嶺氏のお話です。沢庵宗彭の「不動智神妙録」という本に「急水上に毬子を打す。念念不停留」とある。これは、流れる水の上に毬を投げれば、決してとどまることはありません。つかまえようとすればするほど逃げてしまいます。人の心もこれと同じで、常に固定しないで動き続けている、という意味です。状況は変わるものです。昨日はこれでいいと思っても、今日はそれが通じるわけではありません。不動の心は動かないのではなく、つねに動きながら対応できるものだと思います。これと似た意味の言葉に「悟りとは永遠の運動である」があります。悟りというのは、「あっ、これで終わった」という到達点ではありません。流れる水の上でとどまらない毬のように、ずっと動き続けていくものです。ですから私たちは、安定して止まってはいけません。安閑としていたら、どんどん流されてしまうだけです。「これでいいのだ」と止まったとたん、流れる急水に押し出され、翻弄されてしまうでしょう。つねに状況を読み、成長していくことが激流を乗り越える智恵ではないでしょうか。(二度とない人生を生きるために 横田南嶺 PHP 130ページ)「変化に対応する」という説明は、岩田真理氏の「流れと動きの森田療法」という本の中で分かりやすく説明されています。これによると人生はサーフィンのようなものだと言われています。サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはなりません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば、素晴らしいスピード感が体験できます。自分だけの力ではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。(64ページから65ページに詳しく書いてありますのでご参照ください)神経症は、不安、恐怖、違和感、不快感をなくしようと悪戦苦闘しているうちに、精神交互作用で蟻地獄の底に落ちていくのです。神経症的な不安は、欲望の反面として発生しているものですから、不安を抱えたまま、生の欲望の発揮にエネルギーを投入した方が万事うまく収まります。後ろ髪を引かれるような気持を抱えることになりますが、あえて目の前の変化読み、その変化に飛び乗っていくという態度になると神経症で苦しむことはなくなります。宇宙で起きている出来事は常に流動変化しています。私たちの精神活動も、宇宙の法則に合わせることが大事になります。
2023.03.13
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コマはグルグル回転している時が一番安定しています。地球は太陽の周りを高速回転している時が一番安定しています。その太陽も銀河系の中心にあるブラックホールの周りを高速回転しています。天体は引力と遠心力が絶妙なバランスをもたらしています。自転車やバイクは前に進んでいる時が一番安定しています。前進エネルギーが自転車やバイクの安定をもたらしています。飛行機もプロペラやジェットエンジの推進力がなくなると墜落してしまいます。小腸の粘膜細胞は1日でどんどん生まれ変わっているそうです。小腸の粘膜細胞の寿命は1日です。あまりに早い新陳代謝を繰り返しているために、がん細胞すらついていけません。小腸は人体の中でももっともがんができにくい臓器として知られています。絶え間ない動きと変化によって、自立と安定をもたらしています。この変化・流動は、宇宙の根本的な法則ではないでしょうか。精神活動も変化・流動を繰り返していると安定すると思われます。頭で考えると、今ある不安、恐怖、違和感、不快感を解消しないうちに、次の不安、恐怖、違和感、不快感に飛び移るというのは不安定そのもののように思えます。観念で考えるとそういう事になりますが、事実は違うということです。神経症の悪循環は、感情の変化・流動という法則を無視して、固定しようとしているのではないでしょうか。不安、恐怖、違和感、不快感は、谷あいを流れる水のようにどんどん流していけば、葛藤や苦悩は起きないのではないでしょうか。そのためには、毎日規則正しい生活を維持することが肝心だと思います。決まった時間に決まったことをこなして、それでも時間があれば不安について考える。凡事徹底に真面目に取り組むと多分そんな時間はないと思います。時間がなければ、不安は抱えたままにしてルーティンワークの方を優先していく。そうすれば、結果として流動・変化の流れに飛び乗ることができるのではないでしょうか。
2023.02.27
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森田先生の「人生は調和である」というお話です。宇宙の現象は、すべてただ、発動力と制止力とが、常に平衡状態にあるときにのみ、調和が保たれている。天体にも物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、亢奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。われわれの精神現象も、けっしてこの法則から離れることはできない。私はとくにこれを精神の拮抗作用と名づけている。欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐怖・警戒という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制力の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制力ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。この衝動と抑制とが、よく調和を保つときに、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、したがってその抑制の剛健な人が、ますます大なる人格者である。(現代に生きる森田正馬のことば2 白揚社 261ページ)森田先生によると精神拮抗作用は宇宙の原則として働いている。自然の一部である我々人間もその原則から逃れることはできない。ところが実際には神経症的な不安に振り回される。あるいは本能的な欲望の暴走が止まらない。どちらかに偏っていて、調和、バランスがとれているとは思えない。これは調和、バランスをとり、それを維持するためには、人間の意志の力が必要になるということではなかろうか。意志を持ち、努力しなければ調和やバランスのとれた考え方や生活は絵に描いた餅になってしまうということだろう。分かりやすい例ではサーカスの綱渡りの芸を見るとよく分かります。絶えず微調整を繰り返している。調整に失敗するとすぐに落下してしまう。調和、バランスをとる考え方は森田理論を学習することが有効です。不安と欲望、神経質性格の特徴などを学習すればよく分かります。精神拮抗作用が正常に作動していれば、神経症に陥らないように思います。神経症的な不安が湧き上がってきたとき、これは欲望の裏返しとして湧き上がってきたものだという認識があれば、過度に不安に振り回されることはなくなるはずです。森田理論でそのからくりを理解していないと、益々不安と格闘することになります。そのからくりが分かっていると、不安を抱えたまま、生の欲望の発揮の方向に転換することが可能になります。またアルコール依存症、ギャンブル依存症、ネットゲーム依存症、買い物依存症などの欲望の暴走が起きないように抑止力が働きます。これは初期のうちに作動しないと、効き目がありません。仕事や人間関係のストレスを減少させることも必要です。同時に、森田理論の精神拮抗作用を学び、生活に応用することが大切になります。脳が快感を覚えてしまうと、神経がマヒして抑止力は働かなくなります。初期の段階で抑止力を効かせることが肝心です。一旦依存症に陥ってしまった人は、自助組織に所属し、医療の力を借りないと立ち直れません。立ち直っても、信頼できる人から強制力を持って制御してもらわないと、欲望の暴走は止まらなくなります。
2023.02.04
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村上和雄先生のお話です。社会を見る場合でも、生物を見る場合でも、自分だけ、あるいは自分の所属する共同体や国だけを見ていては、相対的な目を養うことはできません。一旦自分から離れて、相対的な視点から自分を見ていかないと、自分や自分の所属している共同体や自分の国というものはよく分からないわけです。そのために一番いい方法は、場所を変えてみることです。自分についてわかりたいと思ったら、自分を他者の中に置いて、いわば外からの視点で客観的に眺める必要があります。例えばこんな話があります。日本で不登校になった日本の子どもの話です。ケニアに住んでいる村上さんの弟さんがその子をアフリカに連れて行きました。現地の様子を見て、その子どもは大変ショックを受けました。現地では、ある学校の校長先生が生徒たちの点呼をとり、授業料を払っていない生徒は帰ってくれと教室から追い出します。すると、追い出された子どもたちは学校へ行きたい、勉強したいと、校門にしがみついて泣くのだそうです。その光景に、日本で不登校のその子どもはびっくりしました。自分は、学校に行ってくれと親が泣いて頼んでいるのに、学校なんか行くものかと行きませんでした。ケニアの子どもと逆です。同じ学校にいかない子どもがいるといっても、その理由はまったく異なります。その子どもは、猛烈にスワヒリ語の勉強を始めました。それと同時に、教科書を無償で配布するトラックに乗り込み、スタッフと一緒にケニアの奥地にある学校に向かいました。すると、行く先々で全校をあげて歓迎してくれます。それまで自分のやった行為で人を喜ばせることなど一度もなかった彼は、そのことに感激します。その体験によって、彼は変身します。これは環境が変わったことが大きく作用しています。日本にいれば、ご飯を食べるのも、学校へ行くのも当たり前です。それがいかに恵まれていることなのか分かりません。しかし、アフリカには、ご飯もまともに食べられないし、学校に行きたくてもいけな子どもたちがたくさんいます。それは、話として人づてに聞いたり、テレビで見ているだけでは実感できないことです。それを現地で体験すると、やはり人間が変わるのです。現地に足を運び、直接現実に接することは大きな影響力を発揮します。(望みはかなう きっとよくなる 村上和雄 海竜社 101ページ参照)この話は現地に足を運び、直接事実に接することは、人の考え方を変える力を持っているということだと思います。私たちはいちいち事実を確かめなくても、頭で判断すれば、すべてのことが分かり、何も問題は起きないと思いがちです。本当にそうでしょうか。たとえば、昔日航機が群馬県の山中に墜落したことがありました。この飛行機はそれ以前に伊丹空港で尻もち事故を起こしています。ボーイング社で後部の圧力隔壁を修理していました。その修理が不十分だったため、後部トイレの開閉に問題が出ていました。その原因を十分に確かめないで、あいまいにしたままで運航していました。過去の尻もち事故を見直して、再度点検修理に出していたらこの惨事は防ぐことができたかもしれません。この場合は事実の取り扱いを軽視・無視したことが事故の原因となりました。問題や事件の原因を見誤った場合は、対策を立てて行動しても、どんどん横道にずれてしまいます。努力はほとんど無駄になってしまいます。最後には万策尽きて投げやりになってしまうことになりかねません。そうならないためには、面倒でも、時間がかかっても、現地に自ら足を運び、事実に真摯に向き合うことが大切になります。手間を惜しんで、安易に先入観、決めつけ、思い込みなどで、事実を捏造して行動することは間違のもとになります。取り返しがつかなくなります。神経質性格者の場合、それがマイナス思考、ネガティブ思考と結びついていますので、特に注意が必要になります。
2023.01.31
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巨大な星は超新星爆発によりその残骸を宇宙空間にまき散らします。オリオン座にあるペテルギウスはその候補と言われている。爆発した残骸の中から、新たに星の赤ちゃんが生まれます。宇宙空間では、巨星が死を迎えることで、新しい命が生まれているのです。その際、超高温の核融合反応によって、新しい元素が次々と作り出されます。それが新しく生まれる星たちに豊富に供給されているのです。炭素や酸素や鉄などの元素は、超新星爆発がなければ生み出されないということになります。地球も様々な元素に満ち溢れていますが、超新星爆発の恩恵を受けているのです。これは超新星爆発という巨星の死が、利他的な側面を持っていることを意味しています。一見パラドックスな現象ですがこれは宇宙の真実です。この宇宙の法則は人間にも当てはまるのではないでしょうか。考えてみれば、私たちの体の細胞も死と誕生を繰り返しています。ケガをしたときにその部分の細胞が死んでかさぶたができます。それが取れると元に戻ります。目の角膜は毎日、約3000億個の細胞が死に、それと同数の細胞が誕生しています。また成人の赤血球は毎日、数千億個が入れ替わっているといわれています。こうした細胞の死と誕生は遺伝子に書き込まれているそうです。手足の指は、元々分離していません。それが胎児として成長していく過程で、指と指の間の細胞が自死することで分離されていきます。その部分の細胞が死んで、他を活かすための材料となるという仕組みは、利他的遺伝子として人間の細胞に組み込まれているそうです。永遠に増殖して増え続けるがん細胞は、死の遺伝子を持っていません。ガン細胞には利他的遺伝子がないので、貪欲に増殖します。ところが生存可能な領域を求めて拡大し続けると、宿主を死に至らしめます。その結果最後には自分自身も絶滅してしまいます。誕生と死は繰り返されているという考え方は希望が湧いてきます。次につながるのであれば、今現在の生き方を見つめ直すことができます。今が良ければそれでよしという考え方はできなくなります。次につながる生き方ができるようになります。遺伝子研究の村上和雄氏によると、人間には自己中心的な遺伝子も、利他的遺伝子も両方とも組み込まれていると言われています。自己中心的な遺伝子のスイッチがオンになると、紛争や戦争を起こすようになります。この方向は、ガン細胞と同じように人類の破滅につながります。利他的遺伝子のスイッチがオンになると、人類の共存共栄が可能になります。人類は助け合い、平和な繁栄を謳歌できるようになります。世界の悲惨な紛争や戦争の歴史を見ると、利他的遺伝子をオフにしたままで、自己中心的な遺伝子のスイッチをオンにしていた場合が多かったのではないでしょうか。森田理論の中に「物の性を尽くす」というのがあります。この考え方は、その物に居場所や活躍の場を与えて、その物が持っている存在価値や能力を最後まで存分に発揮してもらうという考え方です。この考えを実生活に活かしていくことは、人間に組み込まれている利他的遺伝子のスイッチをオンにする生き方のことではないでしょうか。(望みはかなう きっとよくなる 村上和雄 海竜社 参照)
2023.01.28
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