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コマはグルグル回転している時が一番安定しています。地球は太陽の周りを高速回転している時が一番安定しています。その太陽も銀河系の中心にあるブラックホールの周りを高速回転しています。天体は引力と遠心力が絶妙なバランスをもたらしています。自転車やバイクは前に進んでいる時が一番安定しています。前進エネルギーが自転車やバイクの安定をもたらしています。飛行機もプロペラやジェットエンジの推進力がなくなると墜落してしまいます。小腸の粘膜細胞は1日でどんどん生まれ変わっているそうです。小腸の粘膜細胞の寿命は1日です。あまりに早い新陳代謝を繰り返しているために、がん細胞すらついていけません。小腸は人体の中でももっともがんができにくい臓器として知られています。絶え間ない動きと変化によって、自立と安定をもたらしています。この変化・流動は、宇宙の根本的な法則ではないでしょうか。精神活動も変化・流動を繰り返していると安定すると思われます。頭で考えると、今ある不安、恐怖、違和感、不快感を解消しないうちに、次の不安、恐怖、違和感、不快感に飛び移るというのは不安定そのもののように思えます。観念で考えるとそういう事になりますが、事実は違うということです。神経症の悪循環は、感情の変化・流動という法則を無視して、固定しようとしているのではないでしょうか。不安、恐怖、違和感、不快感は、谷あいを流れる水のようにどんどん流していけば、葛藤や苦悩は起きないのではないでしょうか。そのためには、毎日規則正しい生活を維持することが肝心だと思います。決まった時間に決まったことをこなして、それでも時間があれば不安について考える。凡事徹底に真面目に取り組むと多分そんな時間はないと思います。時間がなければ、不安は抱えたままにしてルーティンワークの方を優先していく。そうすれば、結果として流動・変化の流れに飛び乗ることができるのではないでしょうか。
2023.02.27
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森田先生の「人生は調和である」というお話です。宇宙の現象は、すべてただ、発動力と制止力とが、常に平衡状態にあるときにのみ、調和が保たれている。天体にも物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、亢奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。われわれの精神現象も、けっしてこの法則から離れることはできない。私はとくにこれを精神の拮抗作用と名づけている。欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐怖・警戒という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制力の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制力ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。この衝動と抑制とが、よく調和を保つときに、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、したがってその抑制の剛健な人が、ますます大なる人格者である。(現代に生きる森田正馬のことば2 白揚社 261ページ)森田先生によると精神拮抗作用は宇宙の原則として働いている。自然の一部である我々人間もその原則から逃れることはできない。ところが実際には神経症的な不安に振り回される。あるいは本能的な欲望の暴走が止まらない。どちらかに偏っていて、調和、バランスがとれているとは思えない。これは調和、バランスをとり、それを維持するためには、人間の意志の力が必要になるということではなかろうか。意志を持ち、努力しなければ調和やバランスのとれた考え方や生活は絵に描いた餅になってしまうということだろう。分かりやすい例ではサーカスの綱渡りの芸を見るとよく分かります。絶えず微調整を繰り返している。調整に失敗するとすぐに落下してしまう。調和、バランスをとる考え方は森田理論を学習することが有効です。不安と欲望、神経質性格の特徴などを学習すればよく分かります。精神拮抗作用が正常に作動していれば、神経症に陥らないように思います。神経症的な不安が湧き上がってきたとき、これは欲望の裏返しとして湧き上がってきたものだという認識があれば、過度に不安に振り回されることはなくなるはずです。森田理論でそのからくりを理解していないと、益々不安と格闘することになります。そのからくりが分かっていると、不安を抱えたまま、生の欲望の発揮の方向に転換することが可能になります。またアルコール依存症、ギャンブル依存症、ネットゲーム依存症、買い物依存症などの欲望の暴走が起きないように抑止力が働きます。これは初期のうちに作動しないと、効き目がありません。仕事や人間関係のストレスを減少させることも必要です。同時に、森田理論の精神拮抗作用を学び、生活に応用することが大切になります。脳が快感を覚えてしまうと、神経がマヒして抑止力は働かなくなります。初期の段階で抑止力を効かせることが肝心です。一旦依存症に陥ってしまった人は、自助組織に所属し、医療の力を借りないと立ち直れません。立ち直っても、信頼できる人から強制力を持って制御してもらわないと、欲望の暴走は止まらなくなります。
2023.02.04
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村上和雄先生のお話です。社会を見る場合でも、生物を見る場合でも、自分だけ、あるいは自分の所属する共同体や国だけを見ていては、相対的な目を養うことはできません。一旦自分から離れて、相対的な視点から自分を見ていかないと、自分や自分の所属している共同体や自分の国というものはよく分からないわけです。そのために一番いい方法は、場所を変えてみることです。自分についてわかりたいと思ったら、自分を他者の中に置いて、いわば外からの視点で客観的に眺める必要があります。例えばこんな話があります。日本で不登校になった日本の子どもの話です。ケニアに住んでいる村上さんの弟さんがその子をアフリカに連れて行きました。現地の様子を見て、その子どもは大変ショックを受けました。現地では、ある学校の校長先生が生徒たちの点呼をとり、授業料を払っていない生徒は帰ってくれと教室から追い出します。すると、追い出された子どもたちは学校へ行きたい、勉強したいと、校門にしがみついて泣くのだそうです。その光景に、日本で不登校のその子どもはびっくりしました。自分は、学校に行ってくれと親が泣いて頼んでいるのに、学校なんか行くものかと行きませんでした。ケニアの子どもと逆です。同じ学校にいかない子どもがいるといっても、その理由はまったく異なります。その子どもは、猛烈にスワヒリ語の勉強を始めました。それと同時に、教科書を無償で配布するトラックに乗り込み、スタッフと一緒にケニアの奥地にある学校に向かいました。すると、行く先々で全校をあげて歓迎してくれます。それまで自分のやった行為で人を喜ばせることなど一度もなかった彼は、そのことに感激します。その体験によって、彼は変身します。これは環境が変わったことが大きく作用しています。日本にいれば、ご飯を食べるのも、学校へ行くのも当たり前です。それがいかに恵まれていることなのか分かりません。しかし、アフリカには、ご飯もまともに食べられないし、学校に行きたくてもいけな子どもたちがたくさんいます。それは、話として人づてに聞いたり、テレビで見ているだけでは実感できないことです。それを現地で体験すると、やはり人間が変わるのです。現地に足を運び、直接現実に接することは大きな影響力を発揮します。(望みはかなう きっとよくなる 村上和雄 海竜社 101ページ参照)この話は現地に足を運び、直接事実に接することは、人の考え方を変える力を持っているということだと思います。私たちはいちいち事実を確かめなくても、頭で判断すれば、すべてのことが分かり、何も問題は起きないと思いがちです。本当にそうでしょうか。たとえば、昔日航機が群馬県の山中に墜落したことがありました。この飛行機はそれ以前に伊丹空港で尻もち事故を起こしています。ボーイング社で後部の圧力隔壁を修理していました。その修理が不十分だったため、後部トイレの開閉に問題が出ていました。その原因を十分に確かめないで、あいまいにしたままで運航していました。過去の尻もち事故を見直して、再度点検修理に出していたらこの惨事は防ぐことができたかもしれません。この場合は事実の取り扱いを軽視・無視したことが事故の原因となりました。問題や事件の原因を見誤った場合は、対策を立てて行動しても、どんどん横道にずれてしまいます。努力はほとんど無駄になってしまいます。最後には万策尽きて投げやりになってしまうことになりかねません。そうならないためには、面倒でも、時間がかかっても、現地に自ら足を運び、事実に真摯に向き合うことが大切になります。手間を惜しんで、安易に先入観、決めつけ、思い込みなどで、事実を捏造して行動することは間違のもとになります。取り返しがつかなくなります。神経質性格者の場合、それがマイナス思考、ネガティブ思考と結びついていますので、特に注意が必要になります。
2023.01.31
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巨大な星は超新星爆発によりその残骸を宇宙空間にまき散らします。オリオン座にあるペテルギウスはその候補と言われている。爆発した残骸の中から、新たに星の赤ちゃんが生まれます。宇宙空間では、巨星が死を迎えることで、新しい命が生まれているのです。その際、超高温の核融合反応によって、新しい元素が次々と作り出されます。それが新しく生まれる星たちに豊富に供給されているのです。炭素や酸素や鉄などの元素は、超新星爆発がなければ生み出されないということになります。地球も様々な元素に満ち溢れていますが、超新星爆発の恩恵を受けているのです。これは超新星爆発という巨星の死が、利他的な側面を持っていることを意味しています。一見パラドックスな現象ですがこれは宇宙の真実です。この宇宙の法則は人間にも当てはまるのではないでしょうか。考えてみれば、私たちの体の細胞も死と誕生を繰り返しています。ケガをしたときにその部分の細胞が死んでかさぶたができます。それが取れると元に戻ります。目の角膜は毎日、約3000億個の細胞が死に、それと同数の細胞が誕生しています。また成人の赤血球は毎日、数千億個が入れ替わっているといわれています。こうした細胞の死と誕生は遺伝子に書き込まれているそうです。手足の指は、元々分離していません。それが胎児として成長していく過程で、指と指の間の細胞が自死することで分離されていきます。その部分の細胞が死んで、他を活かすための材料となるという仕組みは、利他的遺伝子として人間の細胞に組み込まれているそうです。永遠に増殖して増え続けるがん細胞は、死の遺伝子を持っていません。ガン細胞には利他的遺伝子がないので、貪欲に増殖します。ところが生存可能な領域を求めて拡大し続けると、宿主を死に至らしめます。その結果最後には自分自身も絶滅してしまいます。誕生と死は繰り返されているという考え方は希望が湧いてきます。次につながるのであれば、今現在の生き方を見つめ直すことができます。今が良ければそれでよしという考え方はできなくなります。次につながる生き方ができるようになります。遺伝子研究の村上和雄氏によると、人間には自己中心的な遺伝子も、利他的遺伝子も両方とも組み込まれていると言われています。自己中心的な遺伝子のスイッチがオンになると、紛争や戦争を起こすようになります。この方向は、ガン細胞と同じように人類の破滅につながります。利他的遺伝子のスイッチがオンになると、人類の共存共栄が可能になります。人類は助け合い、平和な繁栄を謳歌できるようになります。世界の悲惨な紛争や戦争の歴史を見ると、利他的遺伝子をオフにしたままで、自己中心的な遺伝子のスイッチをオンにしていた場合が多かったのではないでしょうか。森田理論の中に「物の性を尽くす」というのがあります。この考え方は、その物に居場所や活躍の場を与えて、その物が持っている存在価値や能力を最後まで存分に発揮してもらうという考え方です。この考えを実生活に活かしていくことは、人間に組み込まれている利他的遺伝子のスイッチをオンにする生き方のことではないでしょうか。(望みはかなう きっとよくなる 村上和雄 海竜社 参照)
2023.01.28
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五木寛之氏の「無用の用」というお話です。最近、この世には無用なものなど何もないのではないか、と思うようになりました。生きているだけですでに意味がある。そう考えながら世界を眺めると、意味のないものなど一つもないと感じるのです。すべてが合理的で効率的な動きをする人ではなく、変なやつ、なぜいるのかよくわからないやつ、そうした連中も仲間に加わっている方がより人間的な集団になります。思いもよらぬ状況が発生した時、「変なやつ」が最も冷静にダイナミックに対処できるかもしれない。それどころか思わぬミスをしたことによって、思いもかけない成功につながることもあるのではないでしょうか。無用な人などいない。また、無用な出来事など何一つないのです。人生の中にはそうした分からない部分があった方がいいのです。(ただ生きていく、それだけで素晴らしい 五木寛之 PHP)五木寛之氏は、この世に存在しているものや人は、生きているだけで価値を持っていると言われています。千に一つの無駄もないということです。どうすれば、「無用の用」という考え方に変わるのでしょうか。そのヒントを森田理論から考えてみたいと思います。「無用なものを排除する」とは、壊れたもの、機能を果たさなくなったもの、耐用年数を超えたもの、歳をとった人、病気になった人、能力的に見劣りがするものなどを、ジャンク品、廃用品、役立たず、用済みなどと判断して排除しようとする態度のことだと思います。この考え方は、森田でいうと「かくあるべし」という観念優先の態度を前面に押し出している態度だと思います。効率重視、成果第一主義、理想主義、完全主義、完璧主義の考え方をしている。対象物を自分の意のままにコントロールしようとしている。理想の立場に身を置いて、上から下目線でものや自分や他人を見下ろしている。すると対象物の問題点や欠点ばかりが目に付くようになります。それらを目の敵にして、非難、否定して対立するようになります。つねに緊張状態を強いられて気が休まる時がありません。神経質性格の人は神経症を引き起こすようになります。五木寛之氏の「無用の用」という考え方の人は、事実を否定しないできちんと向き合い、受け入れることができる人だと思います。事実を受け入れて、きちんと向き合うことができるようになると、争うことがなくなるので、エネルギーの温存が図れます。次にそのエネルギーの有効活用を考えることができるようになります。森田でいう「生の欲望」の発揮に向かうことができるようになります。事実にきちんと向き合い、受け入れると、そこを出発点として課題や目標に向かって、逆転人生の足がかりができるということです。五木寛之氏の指摘されている「無用の用」の考え方は、すべてのものや人に居場所や活躍の場を与えて、生きがいを持って生活してもらうという考え方だと思います。この考え方は森田理論でいえば「物の性を尽くす」ということになります。
2023.01.19
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村上和雄氏のお話です。大乗仏教の経典である「般若心経」に中に「色即是空」という言葉があります。「色」とは、宇宙にあるすべての形ある物質や現象のことで、「空」とは、実体がなく空虚であるということ。つまり「色即是空」とは、この世にあるあらゆる物質や現象は決して永遠不滅のものではなくて、常に変化していくものであるということをいっているのです。逆に見ると、この宇宙にあるすべての物質や現象は目に見えないエネルギーを持っていて、このエネルギーが時々刻々と形を変えて様々な物質や現象となって生み出されているとも考えられます。(君のやる気スイッチをONにする遺伝子の話 村上和雄 致知出版 69ページ)この世に存在しているものは常に変化している。片意地をはり、自我を押し通そうとしていると、変化の波に飲み込まれてしまう。それは川の流れに抵抗して川上に向かって泳いでいるようなものだ。川の流れにベクトルを合わせて、川下に泳いでいけば、体力の消耗を防ぐことができる。自分の意志をしっかり持つことも大切であるが、行動は周囲の変化に合わせて生きていくことが好ましい。不快な感情も時間の経過とともに変化していくのだから、いちいち不快な感情を取り除いてから、次のことをするというやり方ではなく、不快な感情を抱えて、後ろ髪を引かれるままに、次の課題に向かっていくというやり方をとりましょうということです。そうすれば不快な感情はしだいに薄まり、最後には無くなってしまう。森田先生は臨済録を引用して、次のように説明されている。心は万境に随って転ず、転ずる処、実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜無憂なり。とらわれのない心のままであるならば、万境にしがって、心は刻々に流転してとどまるところがない。その流転していくありさまは、まことに不思議なくらいである。その流転していくままの姿が心の本来性であることを認得するならば、喜びも悲しみも超越することができる。これを感情の法則にまとめておられます。・感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。・感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできるものではありません。私たちは変化する感情と一体になって、その時々の感情と素直に向き合っていくしか他に方法がないということではないでしょうか。時々の変化に素早く対応できるようになった人は、大きな能力を身につけたということになります。
2023.01.17
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清水克衛氏のお話です。同じことを継続すると、何が変わってくるか。それは、脳の直感力が鍛えられるという事ことなんです。「直観」と「ひらめき」って違うんですよ。脳科学者に言わせると、ひらめきはなぜ起きるのか説明できるらしいんですけど、直観や第六感というのは説明できないそうなんです。なぜ「これだ!」と思ったのかが説明できない。でもそれをやると成功する。実は、直観というのは、「脳が活性化すると出てくる」ものなんです。そして、直観が出てくる場所と、人が自転車を乗っている時に使う脳は同じらしいんです。自転車って、最初からいきなり乗れるわけではないですよね。何度も練習をしているうちにバッとれるようになる。直観もそれと同じなんです。日々の積み重ねの中で、磨かれてくる。だから、「はきものをそろえる」や「落ちているゴミを見逃さない」といった、そういう小さなことの積み重ねによって、まっすぐな情報が入ってくる人間になれるんです。他人を変えることはできないけれど、自分を変えることはできる。その積み重ねが大事なんです。(はきものをそろえる 清水克衛 総合法令出版 105ページ)直感力というのは、森田理論の中の「純な心」の学習の中で出てきます。森田では素直な感情、第一に湧き上がってくる感情、初一念の感情と説明されています。直感力を磨きあげるとはどういうことか考えてみました。私が社会保険労務士試験を受けたときのことです。5択のうちから最も正しいもの、あるいは間違っているものを1つ選びなさいという問題がありました。なんとか2つくらいには絞れるのですが、その先がどうも一つに絞り切れない。迷いながらも最後は直感力を信じて答えを出しました。ですから試験が終わった時、合格しているのか、不合格なのか全く分からない。でもそのときの直感力は比較的よく当たっていました。不思議なことですが、それが事実だったのです。社会保険労務士試験は1000時間の勉強が必要だと言われています。それをクリヤした人は、何か神様のような目には見えない力が加勢してくれたとしか言いようがない。あなたは十分勉強したので合格させてあげようというような。直感がよく当たるというのは、そういう努力の積み重ねの後に待っているものではないでしょうか。努力の裏付けのない直感はことごとく外れるように思います。例えば、競馬や株のデイトレードの場合は、いくら神頼みをしてもなかなか当たりません。闇夜に鉄砲を撃つようなことになります。清水克衛氏は、「はきものをそろえる」や「落ちているゴミを見逃さない」といった小さなことを継続していると、直感力は磨かれると言われています。普段やったらよいけれども、見逃しているようなことを習慣化して、毎日真摯に取り組んでいると「これだ!」という直感力が鍛えられる。私は皿回しの大道芸ができます。これは最初から難なくできたのではありません。大道芸のパフォーマンスを見てこれは面白そうだ。私もできるようになりたいと思いました。すぐに皿と棒を取りそろえて、日々練習を繰り返しました。やっては落とし、やっては落としの連続でした。でも私は執着性と負けず嫌いの強い性格ですから、あきらめませんでした。すると、偶然ですが、ある日突然できるようになりました。私はついに皿回しのコツを掴んだのです。1回できるようになると、つぎからは10回のうち7回くらいは成功するようになりました。これは身体感覚を通して掴んだものです。ですからやってみたいという人にいろいろと口でコツの説明をしますが、これがなかなか難しいのです。たまにできるようになる人は、あきらめないで、何回も練習を積み重ねて、そのコツを自分自身で体得しているのです。決して人から口で教えてもらってできるようになったわけではないのです。こうしてみると「純な心」の体得は、何回も失敗をくり返しながらも、あきらめないで取り組んでいると、ある日突然そのノウハウというか、コツがわかってくるというものではないでしょうか。一度掴んでしまえば、忘れることのない一生の宝物になるように思います。
2023.01.12
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森田理論の「物の性を尽くす」を具体的に応用する方法を考えてみました。それは衣類、本、書類、資料、CD、道具、文房具、電化製品、小物などを定期的に棚卸することです。棚卸すると言っても、そんなに大げさなことではなく、普段あまり見向きをしなくなったものを改めて取りだしてみるようにすることです。衣類は季節の変わり目には誰でもおこなっていますね。季節の変わり目だけではなく、ときどきやってみるのです。今まで気がつかなかったが、今度は着てみようと思う服が見つかります。あるいは、もう二度と着ることのない衣類が山のようにあることに気づくのではないでしょうか。何とか陽の目をみさせてやりたいと思うようになります。欲しい人にあげる。バザーに出す。メルカリなどに出す。など。棚卸すると、持っているものを改めて見直す機会が持てます。今まで眠っていたものを有効活用できるかもしれません。自分に必要ないものは、他人に譲って有効活用してもらう。本の好きな人は、書棚にたくさんの本が並んでいるでしょう。1回読んだ本は再び読む機会はほとんどありません。それでは宝の持ち腐れになるように思います。あらためて読み返すと、新たな発見があるかもしれません。本は図書館で借りることがより「物の性を尽くす」ことになります。読みたい人の間を次々に回りますので、活用度が格段に上がります。本にとってはうれしいことです。1月号の生活の発見誌によると、国立国会図書館には、個人向けデジタル化資料送信サービスがあるという。「森田正馬」で検索をかけると、198件がヒットしたそうです。その中には「形外先生言行録」など貴重な本が含まれている。気に入った本は付箋をつけ、マーカーで印をつけ、書き込みを入れたりしますが、最初はブックオフなどに持ち込むことを想定して書き込みなどは控えた方がよい。書き込みを入れた本は、基本的に引き取ってくれません。そうなると、その本を有効活用することができなくなります。今日は取り上げませんが、自分のノート、日記、集めた資料、CD、MD、カセットテープ、レコード、書類、道具、文房具、電化製品、小物なども「性を尽くす」ために棚卸をすることが有効です。棚卸をすると、自分はこんなものを持っていたのか気づくことになります。以前のようにまた使ってみたいと思うようになるかもしれません。あるいはこれは自分にはもう必要ないものだと判断するかもしれません。棚卸をしないとその価値に気づくことなく、永遠にストックされたままです。眠らせたままでは自他ともに不幸なことです。「物の性を尽くす」とは、そのものの存在価値を引き出して、居場所や活躍の場を与えてあげることです。自分のもとで居場所や活躍の場を与えてあげられない場合は、思い切って自分の手元から離して、新たな活躍の道を与えてあげたいものです。すると家の中が片づき、手放された物も新たな自分の居場所が見つかります。「物の性を尽くす」ことができるようになると、「自分の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「時間の性を尽くす」「お金の性を尽くす」に波及してきます。みんながそうなると、争いがなくなり、和気あいあいで、仲良くなれるように思います。
2023.01.07
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小笹芳央氏は、「仕事においても、変化を恐れ、拒むと淘汰される」と指摘されている。(変化を生み出すモチベーション・マネージメント PHPビジネス新書)古くは飛脚。自らの足を使って日本中を縦横無尽に駆け回っていた彼らだったが、自転車や自動車の登場によって出番が無くなった。その自動車も将来乗用ドローンによって淘汰される可能性があります。かっては踏切の近くに小屋があって、遮断機を人力で上げ下げする踏切番が常駐していたという。これはセンサー技術の発達とともになくなった。サイレント映画時代の俳優は、トーキ映画の発達とともに仕事を失っていった。JRの切符切りは自動改札機にとってかわった。印刷会社の写植オペレーターは作家やライターが書いた原稿を一文字ずつ組んでいた。しかしこの仕事もDTP技術の発達のおかげで姿を消した。街の現像屋さん。デジタルカメラとパソコン、プリンタの普及によって、わざわざDPEショップで現像する人はめっきり減った。今やスマホのカメラがスタンダードになっている。一時期カセットやMDやレコードなどが流行ったが今は見る影もない。テレビ番組の録画方法もまるっきり変わった。私が老人ホームで行っているチンドンミュージックのパフォーマンスも商売としてはほぼ淘汰されている。時代遅れになったものは早く見切りをつけて、新しい変化の流れに対応することが大切になります。しかし、変化に乗り遅れて、従前のものに固執してしまうのが人間です。人間には「現状維持バイアス」が強く働いているのです。これは、合理的に考えれば変化に対応した方が得な場合であっても、現状に固執し維持しようとする人間の強い心理のことである。将来淘汰されることが分かっていても、現状にある程度満足している場合や愛着を感じている場合は、それにしがみついてしまう。それらを破棄するよりも、できるだけ長く守り抜くことに力を入れる。ダーウィンは変化の対応に乗り遅れたものは、進化の過程ですべて淘汰されてきたという。ある経営学者よると、会社の命はおおよそ30年であるという。一時期は毎年どんどん成長しても、一山超えると衰退の道を下っていく。会社の成長を維持し、さらに発展させるためには、定期的に3分の1の事業を見直して、新しい事業と入れ替えるような意気込みが必要になるという。つまり順風満帆で何の問題もないときにこそ、将来の変化を読み、変化に対応する目標や課題を設定して、行動を開始しなければならないということです。神経症の場合、ある特定の不安に執着することは、変化に対応するという人間本来の生き方を軽視・無視していることになるのではないでしょうか。将棋でいえば専守防衛にエネルギーを投入していることになります。攻めることを忘れていると勝ち目はなくなります。そうなりますとエネルギーの投入先が行き場を失い自己内省一辺倒になります。過去のことを悔い、将来のことを取り越し苦労し、身動きできなくなります。そして不平不満で一杯になり、自己嫌悪、自己否定するようになります。そうならないために目付を外向きにする必要があります。そしてイヤイヤ仕方なしの行動に打って出ることです。行動の中から問題点や課題を見つけるように心がけていくことです。興味や関心、気づきや発見、工夫やアイデアが見つかれば、変化の波に飛び乗って疾走することが可能となります。森田理論の変化の波に乗るという考え方は、ぜひとも生活の中に取り入れたいことの一つです。
2023.01.04
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日曜日にNHKで「超進化論」という優れた番組がありました。録画していなかったがNHK+で視聴できた。第1回目は植物の進化を取り上げていた。今まで植物は物言わぬ弱い生き物であると思っていたが、それは大きな間違いであることがよく分かった。植物は音、温度、湿度、雨、風、水分、虫、病気などに敏感に反応していた。柳の木にヤナギルリハムシが近づいて葉をかじっていた。柳の葉は、有毒物質を作り出して精一杯抵抗している。食べられている葉だけではなく、周りの葉にも有毒物質が作られる。またその情報は他の柳の葉にも伝えられて、隣の柳も毒物を作り出していた。人間と同じように情報の共有化が図られていたのである。またヤナギルリハムシを食べるカメノコテントウムシを呼び寄せるための物質を出していた。カメノコテントウムシは目がよく見えないにもかかわらず、その物質に引き寄せられて害虫を食べに来ていた。柳の木は昆虫の力を借りて自分が生き延びる仕組みを作り上げていたのだ。また植物は他の植物と競い合って、光や栄養を奪い合っているものと思っていたが、それは間違いということが分かった。植物同士助け合いの仕組みが備わっていたのだ。植物は自分の根からチッソ、リン酸、カリウムなどの栄養物を吸い上げていると思っていたが、それだけでは限界があるそうだ。実は植物の根には菌糸がびっしりとまとわりついている。この菌糸が栄養分を吸い上げて、植物全体に栄養源を補給していたのだ。さらに菌糸は土中に縦横無尽に伸びていて、他の植物と複雑に絡み合い相互扶助のネットワークを構築していた。例えば森で巨木があると近くの幼木は日が当たらず成長しないといわれる。実際には、巨木の根にまとわりついている菌糸が、幼木の菌糸に伸びていて、栄養分を補給して成長を助けていた。夏に葉が茂り盛んに光合成をする落葉樹は、菌糸を介して、盛んに針葉樹に栄養分を分け与えている。冬になって落葉樹の葉が落ちてしまうと、今度は針葉樹が落葉樹の栄養分の補給をする。植物同士は戦うばかりではなく、補い助け合うことで、お互いが健康で長く生き延びるための仕組みを作り上げているのである。植物は動物のように自由に動くことはできないが、与えられた環境の中で精一杯生き延びようとしている。自分一人だけではなく、協力し合ってみんなで長生きしようとしている。人間は植物の共生関係から、人間関係の在り方を学ぶ必要があると思う。さらに人間と自然の共生関係も見直す必要がある。現在その自然の営みに対して人間はどう対応しているのか。現在地球上では週に9万ヘクタールの森林が消えているという。森林伐採や焼き畑です。特にアマゾン流域の森林破壊がすさまじい。将来的には豊かな森林が失われてしまう可能性が高い。今のレバノンは砂漠地帯だが、元は立派なレバノン杉の森だったそうです。人間の手によって、すべての木が伐採されて不毛の土地になったという。一度破壊された生態系を回復させることは至難の業である。今や人間の欲望が暴走して自然破壊に歯止めがかからない。しかも世界の人口はどんどん増え続けて食料不足が深刻化すると言われている。温暖化による気候変動、オゾン層の破壊、酸性雨、砂漠化の問題もある。このままの状態が続くと人類が滅亡してしまうことにならないだろうか。森田理論に「物の性を尽くす」という考えがある。現在あるもの、自分が持っているもの、相手が持っているものの価値を再評価して、居場所や活躍の場を与えて、生き尽くしてもらうという考え方である。人間関係の在り方や自然との共生の問題を考える際、基本となる大切な考え方だと思う。
2023.01.03
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矢作直樹氏のお話です。大リーグに渡った大谷選手は短期間でバッティングフォームを変えました。右足を上げずに打つスタイルへと変えましたが、次々とホームランを打っています。大リーグの投手には有効だったわけです。これは置かれた環境への優れた適応力であり、とても柔軟な姿勢です。記者会見でも、大谷選手はネガティブなことは口にしません。打撃が振るわなくても「改善点が見えました」とコメントしています。(動じないで生きる 矢作直樹 幻冬舎 137ページ)「すべては流動的」という事実を知ることは大切です。生々流転という言葉がありますが、まさにこれ。鴨長明の「方丈記」は「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」で始まります。また、かの「平家物語」は「諸行無常の響きあり」と謳います。これらは「この世のすべては定まらず、常に移り変わる」と諭します。社会だって、短期間のうちにどんどん変わります。人の性格も思考も、気がつくと変わっています。身内や友人の考え方が変わって驚いたことはありませんか。すべてが流動的だからこそ、何かに執着し、いい人を装うとか、好感度を上げるようなことなどは、まったく必要ありません。そこに執着すればするほど、期待が裏切られたときのショックも大きくなります。肩の力を抜いて自然体でいることが大切です。(同書 92ページ)森田先生は、我々の日常生活は、どちらか一方に決めようと思っても、世の中は、決して思うようにできるものではない。周囲の事情で、どう変化してくるか分からない。何も絶体絶命とかいうような頑張りの心はいらない。この心の葛藤が起これば、仮に、どちらか、一方に決めてみる。すると、都合のよいときは、じきに解決案が浮かび出てくるし、都合の悪いときには、心はいつの間にか、他のことに流転して、前の執着から離れるようになる。(森田全集第5巻 423ページ要旨引用)森田理論では変化対応力を身につけることが一つの目標となります。神経症的な不安にいつまでも固執するのは変化対応不足ということになります。不安は欲望の反面として湧き出ているわけですから、その不安はそっとしておいて、生の欲望にのって行動の方に力を入れていくのです。そうすれば不安と欲望のバランスがとれて、万事うまく収まります。この態度は、目の前の変化をとらえて、絶えず変化の波を意識して生活するということになります。変化対応力を心がけていると、過度な自己内省性が弱まります。注意が前向き、外向きになり、建設的、生産的、創造的な生活に変わってきます。変化対応力を磨くことに力を入れてみるというのは如何でしょうか。
2022.12.24
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沢庵和尚は、「不動智神妙録」の中で、「もし1か所に心を止めて置くならば、そのことにとらわれて動きが用を成さなくなるし、考えれば考えにとらわれてしまう。だから、考えも判断もきれいに捨て去って、心を心の中の、1ヶ所に止めずに全身に行き渡らせることが必要だ。そうすることで一瞬一瞬の状況に応じた自在な動きがかなう」と言っています。武道の達人は相手が攻撃をしようと考えたとたんにわかってしまうといいます。どこを攻撃しようとしているかも瞬時にわかるので、達人はちょっと体をかわすだけです。それで凡人はあらぬ方向に飛ばされてしまいます。達人は、凡人と見方がちがうのです。どのように違うのでしょうか。凡人は視線を一点に向けます。対象の全体ではなく部分に注意を向けているのです。そのため相手の体のどの部分から動きが始まっているのかが分かりません。やっと大きく動いたところに気がついて「アッ、こう来るぞ」「よし、こう動こう」などと考えます。その間に軽々1本とられてしまうのです。達人は、見るでもなく見ないでもない見方で見ます。このような見方は、実は平常心で見る見方です。平常心とは、読んで字のごとく、平常であたりまえのことをあたりまえに、ありのままに見る心です。凡人は、相手のちょっとした動きに対して「こう来るぞ」などと注意を払う。これを武道では「居付き」というのだそうです。心がその場に居付くと、自由自在な動きができず、相手の動きに翻弄されてしまいます。私たちの日常生活でも、絶え間なく新しい出来事に遭遇します。そのつど「居付いて」いては人生ままなりません。世の中がままならないのではなくて、自分の心がままならないのです。これは特別のことではありません。誰でも毎日の生活の中であたりまえやっていることなのです。例えば、主婦が食事を作るとき、メニューが決まって台所に入れば、野菜を切りながら、考えもせずに味噌汁の火加減を調整しているでしょうし、野菜に衣をつけながら油に入れ、次々とてんぷらを揚げていく、その間にテーブルに食器を運ぶ。めまぐるしく、忙しく立ち回っているときは、流れるように心と体は協調して動いています。(セロトニン呼吸法 有田秀穂 高橋玄朴 地湧社参照)これは森田理論の「無所住心」の世界のことではないでしょうか。私たちがいったん何かに注意を向けてとらわれるのは日常生活の中では当たりまえのことです。行動に際しては、一旦真剣に注意を向けることは大切なことです。うわの空で他の事を考えながら注意を向けているとうっかりミスを起こします。ところが一点に注意や意識を固定し、いつまでもとらわれていると心と体の流れが止まります。これが問題なのです。自然はめまぐるしく流動変化しています。注意や意識を昆虫の触角のように四方八方に向けて、流動変化の兆しを掴み、変化に同調した動きをとるように心がける。気になる問題点をそのまま抱えて、変化の流れに乗り遅れないようにする。その流れの中で解決可能な問題を処理し、解決不可能な不安はそのまま持ち越していく。これが森田が目指している生き方となります。
2022.12.06
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次のような逸話があります。一匹のトカゲがいました。そのトカゲは、常々、カメをうらやましく思っていました。カメは頑丈な甲羅を背中に背負っています。そのトカゲは、「自分も、あんな甲羅が欲しい。甲羅があれば強そうに見えるし、敵に襲われても安心だ」と、カメをうらやましく思っていたのです。そして、「自分にも、あんな甲羅を背中につけてください」と、神様に祈りました。すると、神様は、空の上から、「おまえの願いを叶えてやろう」と言いました。そして、その神様は、トカゲの背中に甲羅をつけてやったのです。その瞬間、トカゲの願望は叶いました。しかし、そのトカゲは、ちっともうれしくありませんでした。そのトカゲは、「甲羅が重くて、早く走れない。動き回るのに邪魔になってしょうがない。こんなことになるんだったら、神様に、甲羅をつけてくれるようにお願いするんじゃなかったと後悔したのです。(後悔しないコツ 植西聰 自由国民社 96ページ)人間は自分と他人を比較して、他人の中に自分にないものを見つけるとつい欲しくなってしまいます。つい無いものねだりをしてしまいます。そのとき、自分が持っているものは、あるのが当たり前で、感謝することを忘れています。自分の持ち物、備わっている能力、健康な体、考える力などを軽視、無視して、粗末に扱うようになります。樹木希林さんは自分の体は神様からの預かりものだといわれていました。貸していただいているものを、それがよいとか悪いとか価値批判するのはお門違いです。貸していただいたものは、いずれ神様にお返ししなければなりません。返却するときに、使い物にならないくらいに手荒に扱っていていいのですか。そういう人には、またどこかの惑星に生まれ変わるとき、ちょっとあの人には、人間のような知的生命体として生まれ変わらせてあげるのは考えものだよね。みんなから嫌われる蛇くらいでいいんじゃない。あるいは蛇に食べられてしまうカエルくらいが適当よ、と思われるのではないでしょうか。形外先生言行録の中に、片岡武雄さんの古下駄の話というのがあります。縁側の下をもぐって掃除していたら、汚い古下駄が1個出てきたので、井戸のような深い穴(塵を捨てる穴)へ持って行って、ポイと投げ入れた。その途端書斎におられた(森田)先生に、ちらりと見られてしまった。今何を捨てたのか。はい下駄を捨てました。燃えないか。はい燃えます。早々に梯子を持ってきて、穴にはいり、拾いだしてきた。森田理論に「物の性を尽くす」というのがあります。これはそのものが持っている存在価値に光を当てて、居場所や働き場所を与える。その能力を命ある限り大きく花開かせていくというものです。物だけではなく、自分、他人、時間、お金もそうです。今現在、自分の所有物であっても、活用していないのであれば、活用できる人のところに移転して、その命を全うさせてあげることが大事なのですよと教えてくれている。我々は、「かくあるべし」を押し付けることが多いのですが、「物の性を尽くす」という考え方を身につけると、そのものの居場所や活躍の場を血眼になって探すことになるので、対立することがありません。むしろ相手から感謝し感激されるようになります。
2022.11.30
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「断捨離」の提唱者、やましたひでこ氏のお話です。死は肉体の究極の断捨離です。いずれ誰でも死んでいく。つまり誰でも最後はすべてのものを断捨離せざるをえない。所有物、資産、地位、名誉など、いつまでも手放したくないものもすべて強制的に断捨離させられる。配偶者、子供、親しい人との別れもそうです。その時多くの物を必要以上にため込んでいると、強制的な断捨離を迫られることは大きな苦痛になります。その苦悩から逃れるためには、日々の生活の中で、小さな別れを受けいれ、捨てる時の痛みや怖さ、後ろめたさを引き受けていくトレーニングをしておくことが大切です。つまり手にしたものをいつまでも抱きかかえて、絶対に手放さないという態度には問題があるということになります。死が近づいてきて、これからいよいよ向こうの世界に飛び込んでいくときに、全く準備なしで迎える場合と、手放す痛みや捨てるつらさを知っている場合とでは、精神状態が全く違ってくると思う。トレーニングを積んでいない人が、いきなり大きな問題をどんと抱えてしまうのはあまりにもしんどい。それこそ「手放し難きを手放せば、得るものを得る」と知っていたら、最後の大断捨離のときに恐れることなく、思い切り飛び込んでいける気がします。森田先生は「死は恐れざるを得ず」と言われました。死には肉体的な死、社会的な死があります。いずれの死も生命がなくなってしまうのです。命がなくなると、すべてのものを、一瞬のうちに失ってしまうのですから、耐えられないことです。人生の晩年を迎えた人は積極的に断捨離に取り組むことが必要だと思います。自分はまだまだだと思っていても光陰矢の如し。貯金、財産、借金、土地、建物、保険、登録団体など自分だけが知っていて、家族が知らないということでは、遺族が苦労します。特にいくつもの口座を持っている場合は、財産の確定ができない。せめて遺言書は書いておくべきです。それと自分の代で終わりという人は、墓じまいの問題もあります。墓掃除をする人がいなくて、墓が荒れ放題というのは先祖様に申し訳が立たない。また、家の中に、使わないものがたくさん眠っていることはありませんか。本は引き取ってくれるところがあります。衣類や靴やカバン、家具などはリサイクルに出して、必要な人に使ってもらいましょう。使わなくなった携帯やスマホ、パソコンなどが放置されていませんか。使わなくなった大型テレビ、冷蔵庫、クーラーはありませんか。これらは処分料金がかかりますが、その都度処分することが大切です。活用してくれる人に引き渡して、それらに居場所や活躍の場を与えてあげましょう。森田理論でいう「物の性を尽くす」の実践にもなります。身辺整理をして愛着のあるもの、必要なものに囲まれて暮らす生活は、心豊かな生活を楽しむことができるようになります。
2022.11.25
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生活の発見会の集談会に参加していると、「人のために尽くす」という言葉がよく出てきます。神経症で苦しんでいる人は、考えることや実行することが自己中心に偏っています。この態度が神経症を悪化させていますので、それを緩和するためには、「人のために尽くす」ことが有効ということだと思われます。「人のために尽くす」行動は、立派で尊いことですが、継続的な実践は難しいのが実情です。実はこの言葉を森田先生は使われていません。森田先生が言われているのは、人の役に立つ人間になりなさいということです。日常生活の中で、自分のできる範囲で、無理なく人の役に立つことを実践する。・ゴミが落ちていたら片づける。・雨が降ってきたとき、傘を貸してあげる。・集談会で会場作りを手伝う。・簡単な世話活動を引き受ける。・使わなくなったものを貸してあげる。・役に立つ最新情報を提供する。・バスに乗る前に小銭を用意しておく。これなら実践可能だと思います。神経症で苦しんでいる人が、いきなり「人のために尽くす」ことを目標に掲げるのは少し無理があるように思います。それは自己犠牲が伴うからです。この点について、次のような発想の転換を図ることを提案します。人のためではなく自分のための目標に付け替えるということです。そうすると大いにやる気が出てきます。例えば、「他人の喜ぶ笑顔を見たい」「他人が感動の涙を出すほどの影響を与えたい」という実践目標に変えるというのはどうでしょうか。この実践目標に取り組むことになると、自分自身にやりがいが生まれます。それはこの目標が他人の為ではなく、自分自身のためにやっていることになるからです。しかもそれが結果として「人のために尽くす」ことにもなっているのです。この考えに立つと、行動に絶えず工夫や改善が生まれます。他人から言われたことを何とかやりこなすことも、それはそれで立派なことですが、相手からしてみると、それはやって当たり前でしょうということになります。例えば、レストランに行って値段に見合った料理が出てきた場合、支払った金額と同程度の料理だという気持ちになると思います。別に感謝、感動することはありません。ところが、思った以上においしい、接客態度がよい、盛り付けが見事である、またぜひ行ってみたいという気持ちになることもあります。これは料理人が、お客様のために手間暇をかけて食材を探し、仕込みに時間をかけて、腕によりをかけて調理している。お客様に喜んでもらいたい、感動を与えたいという気持ちがないとできないことです。それ以上に、想像をはるかに超える料理人の場合、予約を取るのが1年先というような場合もあります。あるいはそのお店に行列ができていて、食べるまで何時間も待つ場合もあります。また感動してそのお店に行くときにお土産を持参する人がいる場合もあります。そしてそのお店を周囲の人に大いに宣伝してくれる場合もあります。これは「人のために尽くす」というような言葉を乗り越えていると思います。こういう料理人は、「他人の喜ぶ笑顔を見たい」「他人が感動の涙を出すほどの影響を与えたい」という大きな目標を持っていないとできることではありません。「人のために尽くす」というのは、結果としてそうなっていたということだと思います。この言葉を掛け声だけで終わらせないためには目標の付け替えが必要になるのではないでしょうか。
2022.10.28
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論語の先進第11から22にある話です。弟子の子路が「聞いたことはすぐに実行してもよいものでしょうか」と訊くから、「両親もいることだし、相談しなければダメだよ、聞いたらソク実行なんて、とんでもない」と答えたのさ。その後で、弟子のぜん有が全く同じ質問をしたから、「聞いたらすぐに行うことだよ」と答えたんだ。そうしたら、たまたま両方の場に居合わせていた弟子の公西華が、「同じ問に先生が正反対の返答をしたのを聞いて、私は混乱しています。お教えください」って真顔でいうからね、「何の不思議があるもんか。ぜん有は消極的だから即断即行ぎみぐらいが適当だし、子路は人を押しのけてでも進む方だから、押さえ気味がちょうどよい案配なので、それぞれに相応しい回答をしたまでだよ」と手の内を明かしてやったよ。(高校生が感動した「論語」 佐久協 祥伝社 159ページより引用)これは目の前の状況や変化をよく見て、最も適切な対応を心がけることが大切だという話だと思います。臨機応変にその時の状況に対応することが肝心というわけです。状況に応じて対応していると、このエピソードのように、まるっきり反対の対応になることもあり得るということです。世の中の社会現象や自然現象は、刻々と流動変化しています。にもかかわらず、現状に満足してしまうとその状態を維持して守ろうとします。また自分の考え方に固執すると、その考えを他人に押しつけようとします。その結果、自分だけが変化の波から取り残されてしまうことになります。ここで大事なことは絶えず流動変化する波を観察し、その変化の波に素早く飛び乗っていくことです。できれば、仮説を立てて変化を先読みし、変化の前に飛び出るくらいの気概が必要になります。その仮説が間違っていれば、その時点ですぐに修正すればよいのです。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか、そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは変化に対応できる生き物だ」述べています。変化に対する考えを無視した生き物は、進化の過程で淘汰されてきたのです。森田先生も変化に対応して行動することをさまざまな角度から説明されています。例えば体操の時の休めの姿勢。片足で全身の体重を支え、他の方の足を浮かして、つま先を軽く地に触れている態度をとると周囲の変化に対して、迅速に適切に反応することができる。電車の中でも、休めの姿勢で立っていると吊革などをつかむ必要はなく、読書ができる。電車の動揺にも、決してじたばたすることはない。そのうえ、降りる駅や乗り換え場所を間違うこともない。スリに遭うこともない。手荷物を忘れたりすることもない。自分でも人力車に乗られたときは、ケガをしないような態勢を取られていたという。間違って放り出されたときは、柔道の受け身の姿勢を取りケガをしなかったという逸話も残っています。変化に対応する生き方は、外部に向かって精神が緊張状態にあり、自己内省力が悪循環することが避けられます。神経症的な不安が入り込む隙間がなくなるということになります。つまり神経症を回避できることになります。
2022.10.27
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ある日の日曜日の起床から11時15分までの時間の有効活用の検証をしてみました。6時20分 起床、6時30分ごろ太陽が昇る。ベランダに出て朝日を体いっぱいに浴びる。8時まで 投稿原稿の点検と新しい原稿作成。その間はyou tubeプレミアムの音楽を流す。8時30分まで 洗面、着替え、歯磨きなど 簡単な朝食、ドジョウ掬いなどの一人一芸、傘踊り、ストレッチ、メダカへの餌やり、花への水やりなどを行う。9時まで 当日は集談会の開催日なので事前準備を行う。当日の自己紹介を考える。1ヶ月の出来事を日記を見て整理する。体験交流で話す内容を発見誌やここ1か月の投稿記事の中から2つほど選定して、話の組み立てを考える。9時から9時40まで アルトサックスの練習を行う。10時30分まで 近くの図書館に行く。借りていた本の返却と予約していた本の受け取りをする。11時まで カラオケの練習を行う。11時15分まで昼食。その後集談会に出席のため駅に向かう。振り返ってみると半日の間にいろんなことができていることが分かります。せわしないようですが、時間の効率的な使い方ができてうれしさ倍増です。集談会では30分おきに仕事の内容を変更していくと、緊張感が維持できて多くのことがはかどると教えてもらいました。岩田真理さんの「流れと動きの森田療法」の156ページにも、自分の横にタイマーを置き30分毎に仕事の種類を変えるという話が載っています。頭を使ったあとは体を動かすことをする。体を動かした後は頭を使うように意識して切り替えるということです。時には疲れないように昼寝もする。ここでのポイントは30分という時間を区切りとして次々に仕事を変えていくことです。森田先生は、「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」と言われています。こうすれば有限の時間が有意義に活用できるようになります。この考え方を自分の生活に応用していくことが大切になると思います。
2022.10.20
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森田理論は自分が持っていないものを欲しがる前に、自分が持っているものに光を当ててそれに磨きをかけていきましょうという考え方です。私の場合は、歯が丈夫で虫歯が1本もないというのがそれにあたります。歯が丈夫というのは、ある程度先天的なものがあります。親に感謝です。問題は、それが当たり前になると、手入れすることを怠るようになります。そして自分が持っているものに関心がなくなり粗末に扱うようになります。次に、他人にあって自分にないものを探し出して、それを欲しがるようになります。余裕があればかまわないと思いますが、その前に、自分の持っているものに焦点をあてて、それを活用することを考えることが先に来ないとまずいと思います。私は歯については森田理論を応用することを考えました。私はハゲなのですが、それは歯の手入れを尽くした後にしようと考えました。現在問題がなくても、定期的に歯医者に行ってメンテナンスをすることにしました。費用も保険適応で1回あたり1000円と手ごろだったからです。自分の強みに焦点をあてて、磨きをかけていこうと考えたのです。具体的は3ヶ月毎に歯医者に行って歯垢を取り除いてもらうことにしたのです。歯医者さん曰く。最低でも3か月ごとに歯垢を除去しないと、虫歯になりやすい歯になります。歯だけではなく、歯茎も弱ってきます。歯槽膿漏になりやすい。歯が悪い人は食べやすい柔らかいものを好んで食べるようになります。歯は鍛えないと、廃用性萎縮でますます弱ってきます。歯槽膿漏で歯を抜くしかない状態で来院されても、対症療法しかありません。歯科医院で定期的にメンテナンスをして、生涯自分の歯で食べることは、皆さんが考えている以上に大事なことです。歯医者さんは歯を丁寧に磨くことを指導してくれます。歯は上下、裏表、前歯奥歯があります。それらを意識してていねいに磨くことが大切です。ていねいに磨くと最低でも5分くらいはかかります。回数は朝、昼、夕食後の3回が理想です。そして歯は歯ブラシで磨いたら終わりではありません。次に歯間ブラシで歯と歯の間をそうじすることが大切です。歯間ブラシは大きさにより7種類あります。私の場合、上下前歯は4Sサイズ、上下奥歯は3Sサイズになるようです、そして最後にうがいをしてすっきりとしましょう。さらにキシリトールガムを噛むと歯が丈夫になります。顎関節を鍛えるので嚥下防止にもつながります。たかが歯磨き、されど歯磨きだと思いました。奥が深いのです。私は自分の持っているものに焦点をあてて、歯磨きを極めていこうと思いました。そこに焦点を当てていると、自分にないものにはあまり関心を払わなくなりました。そして自分の最大の持ち物である神経質性格をもっともっと活用していきたくなりました。今は活用しているといってもたかだか3%くらいだと聞いたことがあります。それを仮に10%くらいまでに上げとすごいことになると聞きました。神経質性格者として、これは大いに挑戦し甲斐があります。
2022.10.14
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これは孔子の言葉です。森田先生も形外会で説明されています。成瀬さんのような方は、同じ不眠でも、まもなくこれから脱し、しかもこれを利用して、かえって仕事の能率を上げるというふうに、上達なさるのであるが、神経質のいたずらに不眠に執着するものは、ますます不眠の感にとらわれてしまって、仕事も何も、まったくできなって、下達してしまうのである。(森田全集第5巻 504ページ)ここで小人というのは、神経症に陥った自分を自己否定している状態といってもよいかと思う。こんな自分では社会に適応できない。不安にとらわれやすい神経質性格の改造に取り組む必要がある。何とか症状を克服して、悩んでいなかった元の自分に戻りたい。これは症状に陥った自分を上から下目線で眺めて自己嫌悪しているのです。自分という一人の人間の中に、対立する二人の自分が存在して反目し合っている状態です。観念優先の態度で「かくあるべし」を自分に押し付けているのです。完全主義が強く、事実や現実を否定して目の敵にしている状態です。こういう態度ではいつまで経っても神経症は治りませんね。それどころか神経症は益々悪化すると思います。これに対して君子は、二人の自分が一人の自分に統一されています。「かくあるべし」という観念の世界が、事実の世界にいつもかいがいしく寄り添っているという状態です。不安にとらわれやすい自分の性格を正しく分析して、素直に受け入れているのです。神経質性格に対して是非善悪の価値評価を下していません。確かに神経質性格は繊細で不安にとらわれやすいという面があります。それをマイナスの側面とすれば、プラスの側面もあると理解している人です。神経質性格は感受性が強く、分析力に優れ、リスク管理ができる類まれな優れた面があるととらえているのです。ですから神経質性格を社交性のある発揚性気質の性格に変えようなどとは思っていません。神経質性格をプラスに活かして生きていく方が肝心だと考えているのです。そのように考えられるようになると、自己嫌悪や自己否定がなくなります。エネルギーの無駄使いがなくなり、有効利用が可能になるのです。事実をあるがままに受け入れられるようになると、目標に向かうスタート地点に立つことが可能になります。目標に向かって貴重なエネルギーを全力投入できるようになります。それが自然の流れとなります。これが生きがいにつながるのです。実践・行動すれば、人間に生まれてよかったと思えるようになります。
2022.10.10
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私はマンションの管理人を始めて13年になるが、新しい管理会社の新規管理棟に移った。今まで以上に居住者に寄り添い信頼感を獲得して貢献したいと思っている。そういう目標を持っているとやる気がでて仕事が楽しくなる。今度は勤務時間が13時から18時までの5時間になった。バイク通勤が往復1時間かかるので6時間が仕事に関わる時間である。仕事内容としては、管理室内での受け付け業務、報告書作成、来客者の対応、営業などとの連絡調整の仕事が飛び飛びに1時間半くらいある。次の2時間は清掃、点検、立ち合いで体を動かす仕事である。1日1万歩以上は歩いたり、階段の上り下りがある。これがよい。管理棟内外の巡回拾い掃き、各階解放廊下の拾い掃き、蜘蛛の駆除、鳥の糞掃除、玄関・エントランス・メールボックス、管理室のモップ掛け、拭き掃除などがある。その後随時各階解放廊下と側溝の水モップ掛けである。最後にゴミ置き場の整理・水洗い、植栽への水やりの仕事へと続く。残りの1時間30分は2つに分けている。最初の45分は、曜日ごとに仕事内容を変えている。照明点検と交換、階段の清掃、各戸面台の清掃、事務室や掃除道具置き場の整理整頓、雑草処理などである。休憩をはさんで、最後の45分は2回目の巡回と日報の作成である。毎日同じ時間に同じ作業をくり返すように意識している。これらの作業のなかで問題点や気づきをできるだけ多く得るように取り組んでいる。これで5時間が有効活用できているように思う。暇を持て余すことがない。昼からの仕事なので朝起きてから出勤する12時20分までが自由時間となった。6時20分には起きて太陽の光をいっぱい浴びる。その後ブログの原稿作成を8時まで行う。8時から8時30分までには、着替えや洗面、簡単な朝食、ストレッチ、ドジョウ掬いや傘踊りなどの練習、メダカの餌やりや観葉植物の手入れ。おおむね8時30分から12時までは本読みにあてている。本はすべて図書館でネットで予約したものばかりです。その間you tubeプレミアムの広告なしの音楽をかけている。最近のお気に入りは、サックスインストルメンタル ラブソングソフトバックグランドミュージックです。時々眠くなると20分アラームをかけて仮眠をとることもある。18時30分に帰宅するとすぐに妻が作ってくれた夕食をとる。もちろん晩酌をする。1時間くらいすると急に眠くなる。そこで9時まで仮眠をとることにした。それから2時間30分の自由時間が確保できる。懸案の用事を済ませたり、藤沢周平の小説を読んだりしている。11時30分から入浴して12時には就寝している。時間の使い方が以前とはまるっきり変わってしまった。でも心がけていることは30分から1時間で仕事を変えることである。本を読むにしても、時間を区切って何冊の本を並行して読むようにしている。これは森田の「時間の性を尽くす」「休憩は仕事の中止ではなく仕事の転換にあり」という教えの実践になっている。一日が終わった時には日記に書ききれないほど様々なことがでてくる。心地よい満足感があり、明日も頑張ろうという気持ちになる。
2022.10.07
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私たちはポジティブなことよりも、ネガティブなことを考えがちです。不安だ、怖い、めんどうだ、つまらない、面白くない、イヤだ、失敗したらどうしよう、やる気が出ない、できるとは思えない、失敗するに決まっている、緊張している、大変なことになった、ついてない、ツキに見放された。目の前にやるべきことがあっても、こんな気持ちや感情が湧き上がってくると手も足も出なくなります。これは脳の仕組みでいうと、ノルアドレナリン主導の防衛系神経回路が活性化して専守防衛に偏ってくるからです。防衛系神経回路は、扁桃体から青斑核を通して脳全体に広がります。最終的には前頭前野に行きつきますが、積極的、生産的、建設的、創造的にはなりません。その神経回路がドパミン主導の報酬系神経回路に切り替わらないと、行動は益々消極的、逃避的、回避的になってきます。それを改善するために「イエス・バット法」というのがあります。これはまずネガティブな感情をそのまま「イエス」といって受け入れます。次にそうはいっても(バット)という言葉で打ち消すようにするのです。たとえばスポーツ観戦で贔屓のチームが逆転負けを喫しました。それまでよい気分だったのに急に奈落の底に落とされた状態になります。こんなとき、「やっぱりだめだ。救いようがない。このチームでは応援する気にもならない。監督がの采配が悪い。どうしてあの選手を使うのか。選手も選手だ。少しは頭を使ったプレーをしたらどうか。今後しばらく観戦は見合わせておこう」このようにネガティブな感情はどんどん膨らんでしまいます。早速ネガティブ感情を「バット」で打ち消してみましょう。「確かにこのチームには弱いが、かもにしているチームもある。チームの順位だって今は真ん中あたりだ。客観的にみると箸にも棒にもかからないというほどではない。連敗するときもあれば、連勝する時もある。先日はこの監督のおかげで、思いもよらない逆転サヨナラ劇を見せてもらった。今回結果が出ていない選手も、勝ち星は上位にランキングされている。このままいけば何らかのタイトルを取る可能性がある。この次の奮起が期待できる。さらに応援していきたい」私たちは仕事で小さなミスをしたとき、すぐに取り返しのつかない大失態を犯してしまったと思いがちです。このままでは同僚や上司に顔向けできない。辞めてお詫びするしかない。場合によっては死んでお詫びしようか。客観的に見れば、致命的なミスではないのに、本人は自分の一生を左右するかのように膨らませてしまうのです。損な性格です。こんなことで退職していてはいくつ体が合っても足りない。そして次のミスや失敗を恐れて、積極的な攻めの仕事ができなくなってしまうのです。これでは無能な社員に甘んじてしまうことになります。ここでも「イエス・バット法」を活用したいものです。「ミス自体はほめられたものではないが、仕事をしている以上ミスはつきものだ。営業の仕事はほとんど失敗に終わっている。ミスをいかに素早くカバーするかが腕の見せ所だ。これによって得意先の信頼感が強固になることもある。完璧な人よりも欠点を持ち合わせている人の方が親しみが持てる。なんどもミスをしないように、対策を立てて今後に活かすことができれば、自分の成長にもつながる」「イエス・バット法」は、積極的、建設的、生産的な行動へと強力にアシストくれる手法となります。
2022.10.01
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事実を正しく見るためには、森田理論の両面観が役に立ちます。両面観という考え方を使って事実を正しく見るとはどういうことでしょうか。人間は言葉を使い、観念的な思考をする生き物です。観念至上主義に陥って、事実とのギャップで苦しんでいるのですが、自分ではそのことに気が付いていません。それが葛藤や苦悩を生み出しているのです。両面観を学習する前に、森田理論学習によって、「かくあるべし」という観念の押し付けによる弊害について学習することが肝心です。その弊害が理解できれば、「事実本位」に向かう足がかりができます。NHKのテレビ番組に逆転人生というのがありますが、最初に青い矢印がどんどん下降していきますが、それがあるときを境にして赤色に変わりぐんぐん上昇していきます。イメージとしてはこんな感じです。それをしっかりとイメージして取り組むことが大切になります。両面観を身につけると、事実の誤認が少なくなります。早合点、先入観、決めつけがなくなります。客観的な立場、第3者的な立場に立ち、バランスのとれた見方、考え方ができるようになります。それでは早速取り組むべき課題について説明します。・物事は具体的に見ていく。抽象的な見方、考え方は事実から離れていきます。・人の話を鵜呑みにしない。自分で現地に行って確かめる。実験をして確かめる。・ある考えが湧き起こった時、それとは違う考え方もあるはずだという考え方をする。ネガティブな感情が湧き起こった時、ポジティブな考え方、見方もあるはずです。それがセットになって初めて正しい認識ができるということを意識する。認知療法、論理療法というのは、この手法をとっています。・事実はさまざまな角度から見るようにする。円錐柱を正しく認識するには、上から見る、横から見る、下から見る、斜めから見ることで、正しく見ることができます。両面観は二方向で見ることですが、できれば多面観で見ていくようにする。・時間をおいて、改めて見直す。冷静になってから、見直すということです。こうすることで、両面観で見ることができるようになります。・環境や場所を変えて、改めて見直す。立ち位置が変わると考え方が変わることがあります。・他人の意見を参考にする。自分一人の考え方は、独りよがりになりやすい。信頼できる人の話を聞いて総合的に判断する。・相手の立場に立って考えてみる。意識して自分から離れて、相手の気持ちになって考えてみるということです。
2022.09.26
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以前、スピードスケートで活躍した清水宏保氏のお話です。筋肉は結構賢いのです。それにずるいところがある。何度も負荷を与えていると、筋線維に組み込まれた知覚神経が学習してしまって、それほど変化しなくなってしまう。だから毎年、トレーニング内容は変えています。常に新しいことに挑戦していくと、それが自信にもなる。トレーニングで一番大事なのは、やったことによる自信を得ることなのです。清水氏は、同じことを繰り返しているとマンネリになるといわれています。マンネリ化すると、興味がなくなる。やる気が湧き上がってこなくなります。私たちは集談会の森田学習で「学習の要点」を読み合わせて、意見交換をしています。しかし36年もこれをくり返していると、「さあ学習するぞ」というよりも、「またか」という気持ちになることがあります。それを打破するために、必ず自分の体験談を思い出して学習する。何処をどのように生活に活用・応用していくかという視点を持って学習するようにしています。表面的な学習は何の効果もないばかりか、嫌悪感が生まれてきます。森田先生は、マンネリ化は飽きがくると同時に、体の一部分を酷使するので疲労してくる。そういう時は、別の仕事に取り組むのがよいといわれています。頭を使う仕事から、体を動かす仕事に変える。「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」ということです。集談会では30分おきに仕事を変化させることを実践している人がいました。本を読んでいたとすると、次に洗濯や料理に手をつける。取り組む仕事の種類を変えていくということです。するとさまざまなことを手掛けることになり能率が上がります。私たち神経質者は、動き出すまでは時間がかかり、一旦動き出すと、ついのめり込んでしまうという特徴があります。このやり方は気分に左右された行動であり、生活のリズム感がとれません。次に、清水氏はトレーニングで一番大事なのは、やったことによる自信を得ることだといわれています。私たちは過去のミスや失敗、気まずかったこと、恥ずかしい思い出などをたくさん記憶しています。今度新たな行動をとるとき、これらのマイナスの記憶が邪魔をしてきます。それが生き長らえるために必要だった名残が今でも続いています。しかしこれでは、新たな挑戦、前向きな行動が抑制されてしまいます。ここでものを言うのは、過去の成功体験です。どんな小さなことでも構いません。それらが積み重なっているかどうかが肝心です。その成功体験が自信となって、マイナス記憶と対峙してくれているのです。私は集談会で世話活動を30年以上続けてきました。仕事のようにイヤで逃げ出したいことはあまりありませんでした。会社では失敗は許されませんが、集談会活動では大目に見てもらえました。ここでの成功体験は大いに仕事や人間関係の面で役立ちました。特に集談会単独で、心の健康セミナーを開催して、成功した体験は大いに自信になりました。その他、集談会の一泊学習会、泊を伴う支部研修会の開催の成功は、自分の血となり肉となってその後の生活に活きているように思います。老人ホームの慰問活動も小さな成功体験の積み重ねのたまものだと思っています。何よりお年寄りが喜んでくれるのがうれしい。慰問仲間は好奇心の強い人ばかりです。その人たちとの交流も楽しみです。自家用野菜作りも最初は失敗の連続でしたが、小さな成功体験を積み重ねていくうちに、自信をつけて上手に作れるようになりました。野菜作りは自分のことよりも、野菜たちが元気で成長するように一生懸命に世話をすることになりますので、そのときは神経症的な不安は全く出てきません。今では余った野菜のおすそ分けを楽しみにしてくれている人もできました。
2022.09.12
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私たち神経質者は細かいことによく気が付きます。この特徴を活かして生活するようにしたいものです。例えば、問題点や不具合箇所を発見したとき、古いものを捨てて、すぐに新しいものに飛びつくのではなく、それを修理して使うというような活かし方です。住居のメンテナンス、車のメンテナンス、家計費のメンテナンス、身体のメンテナンス、心のメンテナンス、農機具のメンテナンス、その他所有物のメンテナンスなどです。これには定期的なメンテナンスと不具合や故障に気づいてのメンテナンスがあります。大事なのは定期的なメンテナンスだと思います。私はマンションの管理人をしていますが、月1回定めらたマニュアルに従って、屋上から地下の駐車場まで不具合箇所がないかどうか点検しています。屋上のドレンの詰まり、避雷針のぐらつき、エキスパンションのがたつき、エレベーター地下ピットの水たまり、トイの水漏れ、外壁塗装の剥がれ、植栽の病気などです。その他管球類の棚卸、鍵の有無、重要書類の有無、駐輪ステッカーの在庫、棟周辺の雑草の生え具合、クモの発生状況、鳥の糞の被害なども点検しています。それらを管理会社に報告しています。きちんと報告していれば、自己責任が問われることはありません。車は1年に1回の定期点検は欠かしません。この時にオイル交換、ブレーキシュウの減り具合の確認、タイヤのローテーションの変更、ウォッシャー液の補充、ワイパーの交換、その他不具合箇所の点検などを行っています。タイヤの空気圧はガソリンスタンドで定期的に行っています。洗車は田舎に帰った時に行っています。家計費は毎日の収支は妻が家計簿をつけています。私は毎日自分のこづかい帳をつけています。地方税、健康保険料、介護保険料、医療費、車や医療保険の負担が大きくなっています。交際費、冠婚葬祭費、車検、家電買い替え、家の修理費、子どもや孫の援助、趣味に使うお金などは不定期ですが、かかるときは多額な出費になることがあります。これは中期、長期の計画が必要になります。身体のメンテナンスは毎年1回健康診断を受けています。私は尿酸値が高い、悪玉コレステロールの値が高い、クレアチンの値が少し高い、胃癌になりやすい、ピロリ菌の駆除が必要などが分かっています。早速ピロリ菌の駆除に取り組むことにしました。身体のメンテナンスを心がけて、神様から預かったこの体を大事にしたいと思っています。健康診断は受けていない人もいらっしゃるようですが、手遅れになっては大変です。年1回の健康診断は長生きするためには必要だと思います。身体のメンテナンスとともに心のメンテナンスも大切だと思います。現代人は人間関係や過度な労働によるストレスや不安にさらされています。これに関しては、森田理論学習を生涯学習として行っているのが役立っています。それから毎日たくさんの本を読んでいます。本を書く人は、そのなりの見識を持っている人たちだと思っています。出かけなくても、家でいろんな人から講義を受けているようなものです。市営図書館と町営図書館で合計20冊まで借りることができます。また100冊まで予約できますので便利です。ありがたいことです。全部が全部参考にはなりませんが、時々良本に出合います。次に、私はこのブログを書くようになってから、頭の回転がよくなってきたように思います。心のメンテナンスを怠ると脳細胞の廃用性萎縮現象が起きてきます。認知症は日頃から心と脳神経を鍛えていくことが有効なのではないでしょうか。定期的なメンテナンスを怠ると、「物の性を尽くす」という森田理論は、絵描いた餅になってしまうことを肝に銘じて生活していきたいと考えています。
2022.08.28
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目的本位という言葉は以前盛んに使われていました。改訂版の「森田理論学習の要点」が出たときに、一旦は消えていました。その説明はありましたが、今思い出してもよく思い出せません。今考えると、目的本位という言葉が誤解を生みやすい言葉だったからだと思います。使い方によってはとても意義のある言葉なのですが紛らわしいところです。現在の要点の中で、『目的本位とは、物事に即して、目的達成のために行動していく態度で「あるがまま」のカギとなります』と説明されています。現在自分の置かれている状況の中で、本当にしなくてはならないことをみていく努力をすることが大切だと指摘されています。これのどこが問題なのでしょうか。私は問題ないと思います。これがまさしく本来の目的本位の意味だと思います。ちなみに目的という言葉によく似た言葉に、目標という言葉もあります。目標というのは小さな目標という使い方をされることがあります。小さな目標を達成して行きついた先に、最終的に目指すべき目的があります。最終的な目標=目的と理解しておくと分かりやすいと思います。それでは早速、目的本位の問題点について見てゆきましょう。現代は物が売れない社会です。デフレ時代といわれて久しい。限られた市場を巡って同業他社同士で生存競争が繰り返されています。ナンバーワン企業になれない場合は淘汰されるという過酷な競争社会です。高度経済成長期に営業をしていた人からは、隔世の感があります。営業職の人にとっては、達成不可能に見える厳しいノルマを与えられて、GPSで仕事ぶりを監視されている時代です。ノルマが達成されないと、営業会議で情け容赦のない非難にさらされます。個人の能力ややる気の問題として取り扱われてしまうのです。成績の上がらない営業マンは、能力や人間性を疑われて、移動、左遷、転籍、退職に追い込まれます。こんな状況では、なんとかノルマを達成して、会社に貢献しなければ、明日の自分はないと自分で自分を追い込むようになります。結婚して温かい家族を持つのは、夢のまた夢なのではないでしょうか。自己擁護できない人は、上司や同僚と一緒になって、自分で自分をいじめます。これは森田でいうと、自分に「かくあるべし」を押し付けている態度です。そういう上から下目線で自分を否定するような、目的を追い求めることにどんな意味があるのでしょうか。理想の立場に自分の身を置いて、現実の自分を上から下目線で見下ろすと、恐ろしくなって意欲も何も根こそぎ奪い取られてしまうことになるのです。私は大学生のとき神奈川県の丹沢で沢登りに夢中になったことがありました。20mから30mくらいの崖を登っていくスポーツです。その時しつこく言われたのは、登っているときは、目の前か目先の手をかけるポイントだけを見るようにいわれました。足2点と手1点、いわゆる3点確保に全神経を集中するだけです。ちょっとでも下を見ると体が死の恐怖で金縛りになってしまうのです。10メートくらいでも恐怖を感じます。身体の防御態勢は頭で考えている以上のことが起きます。頭で叱咤激励しても、体がついてこないのです。固まってしまうとそこでゲームアウトになります。結ばれたロープで地上に降ろしてもらうしかありません。アイガー北壁に挑戦する人では、最終目標に向かって、目の前のくさびを打ち込む場所を見極めているだけだと聞いたことがあります。不用意に下の方を見るとそれが命取りになります。目的本位の意味するところはこれと同じだと思います。下から上を見ている分には何も問題はありません。むしろ、目的に向かって努力精進することは人間本来の生き方につながります。しかし逆に上から下を見ると大変なことが起きるのです。理想から程遠い情けない自分が歯がゆくて仕方ない存在にみえてくるのです。すると自己否定、自己嫌悪の苦悩でのたうち回るようになるのです。これが何を意味するかというと、目的本位という言葉は2面性があるということなのです。別の言葉で言えば、プラス面とマイナス面が含まれているのです。上から下目線で目的本位という言葉を使うと、葛藤や苦悩で大変な人生になります。ですから、観念中心の「かくあるべし」を自分や他人や自然に押し付けることは抑制していく必要があります。逆に事実、現実を出発点として、小さな目標をクリアーしながら、最終的な目標(目的)を目指していくという人生は素晴らしい生き方となります。同じ言葉に対して、私たちがどう取り組むかが問われているのだと思います。ちなみに、この部分は森田理論の核心部分にあたります。その点を森田理論学習でぜひ自分のものにしていただきたいと思います。
2022.08.18
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森田理論に「物の性を尽くす」という考え方があります。存在価値、使用価値がなくなったとき、捨てるのはもったいないから、保存しておきましょうという考え方のことではありません。その物の持っている存在価値、潜在価値を徹底的に引き出して、命が尽きるまで、活用していきましょうという考えです。物だけではなく、自分、他人、時間、お金にもいえることです。そのものの居場所を確保し、存在価値を高めて、生きた証を残していくことである。お互いがこんな気持ちになれば平和になれるはずだが現実はそうなっていない。「物の性を尽くす」ためには、定期的な点検とメンテナンスが欠かせないと思う。そうしないと、取り返しのつかない問題が発生して命が尽きてしまうことがある。自分の持ち物、自動車、農作業用機械、家やマンション、自分の身体、家計費、仕事などである。これらはまず自己点検を行う。この段階で問題点が見つかることもある。しかし灯台もと暗しとはよくいったものである。自分のこと、自分の所有物なのに、真実はなかなか正確には分からない。だからほとんどは専門家に検査を依頼することになります。例えば、身体の健康問題一つとっても、自分のことなのに、ほとんど何も分からない。毎年1回の健康診断を受けることによって、やっと不具合箇所が分かります。自営業や定年退職した人で、健康診断を受けたことがないという人がいらっしゃいますが、手遅れにならないかと心配です。その健康診断も簡単なものではなく、細かく検査することが必要だと思う。特に、血液、脂質、血圧、肝機能、消化器、循環器、糖質、呼吸器、ガンの腫瘍マーカー、認知症の検査などは必須である。せめて年一回の検査は恒例行事にしたいものだ。高齢者の場合、検査の段階で何も問題がないという人はほぼいないと思う。検査によって問題点が見つかると、さらに精密検査を受けた方がよい場合がある。私は今回健康診断所を変更した。今までのところでは分からないことが判明した。胃の中にピロリ菌がいたのである。紹介状を持って近くの内科医にかかった。まず胃カメラを飲んだ。バリューム検査よりも正確な検査のようだ。但し胃カメラは飲み込みにくい。でも我慢するしかない。モニターに映し出された画像を見ると、胃癌の心配はないようだった。続いて呼気を2回採取して、ピロリ菌がいるかどうか検査した。1週間して結果を聞きに行くと、ピロリ菌がいるとのことだった。放置すると胃癌になる可能性が高くなるので、すぐに除菌することにした。抗生物質による薬物療法だった。1週間朝夕指定された薬を5錠ずつ飲んだ。駆除できたかどうかは3ヶ月か6か月後に診断することになっている。90%は駆除できているでしょうと言われた。現在は人生90年時代を迎えている。ピンピンコロリで往生することを目指している人は、定期的に健康診断をして、問題点を早めにつかむ。問題点が分かれば、問題が小さなうちに、すぐに不具合箇所を修復していく。検査とメンテナンスで、問題が小さいうちに手当てすることが肝心です。これが森田理論の「己の性を尽くす」ことにつながるのではなかろうか。自家用車を20年以上にわたり、ていねいに検査やメンテナンスを欠かさないで大事に使用している方がいらっしゃいます。愛車を家族の一員のように大切にしている。そういう人には拍手をしたくなります。その人は森田理論を学習した人でないにもかかわらず、森田実践をされていらっしゃるのです。素晴らしいことです。私はそういう人を尊敬します。なぜなら、物の性を尽くすことは、己、他人、時間、お金などの性を尽くす人生に波及していくからです。
2022.08.14
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キシリトールガムはフィンランド生まれの虫歯になりにくいガムです。私も嚥下防止を兼ねて毎日噛んでいます。不思議に思うことは、歯医者さんにキシリトールガムがおいてあることです。歯医者さんは虫歯を治療するところ、歯が欠けた部分にインプラントなどを埋め込むのが仕事という先入観をもっていると、虫歯予防のキシリトールガムは商売のじゃまになるのではないかと思われます。実際、最初にキシリトールガムを日本で普及させようとした人も、歯医者さんの抵抗にあって軌道に乗りませんでした。歯医者さん自身も最初は受け入れられなかったのです。虫歯になる人が多ければ多いほど、自分たちの収入が増えるのですからあたりまえのことです。歯医者さんは、虫歯の治療をする人という先入観を持っていた人は、日本でキシリトールガムを普及させることはできなかったでしょう。ではどういう発想の転換をしたのでしょうか。今考えるとあたりまえのことですが、その当時は誰も思いつかなかったのです。虫歯になった人は、痛いのでできれば歯医者には行きたくないと思っています。一方で普段から虫歯になりにくい歯を維持したい気持ちは持っています。つまり虫歯にならないために、少々面倒でも、歯医者に行って、定期的に歯のメンテナンスはしてもよいと思っているわけです。歯医者さんの仕事は、歯の治療以外にも「予防歯科」という仕事もあるということです。従来の考え方に固執している人は、このような考え方はできなかったのです。この考え方を強く押し出していたのは、実は歯科専門の商社マンだったそうです。商社マンは、「予防歯科」という今まであまり見向きもされなかった広大な市場が眠っていることに気付いたのです。現在虫歯になって歯医者に行く人は1割と言われています。あと9割の人は、歯垢を取り除き、健康な歯を取り戻すことを目的として行っているのです。私も半年に1回は歯医者さんに行っています。おかげで高齢にもかかわらず、虫歯もなく、全部の歯がそろっています。「予防歯科」の考え方をとると、治療以外の存在意義が浮かび上がってきます。この「予防歯科」という分野に着目した歯医者さんにとっては、キシリトールガムは虫歯になりにくいツールですから、積極的に歯のメンテナンスを受けに来た人にお勧めするようになっているのです。キシリトールガムはそういう歯医者さんに支えられて、日本で必需品になり普及していったのです。これは森田でいうと両面観の考え方になります。先入観、決めつけ、事実の早合点では発想の転換はできません。発想の転換ができないと、ムリ、ダメ、ムダ、あきらめというネガティブ感情に振り回されるようになります。そのうち、手も足も出なくなります。そういう習慣を打ち破るのは、柔軟的で臨機応変な考え方を身につけることです。円錐形を確認するには、上から、横から、斜めから多面的に見ないと見誤ることがあります。そこから行き詰っていた問題が一挙に解決に向かうことがあることを頭に入れておきたいものです。両面観の考え方は、森田理論学習でぜひものにしてください。
2022.07.27
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森田先生は、「心機一転とは今までの間違いに急に気付くことである」と言われている。たとえば、私どもが町を歩いているとき、方角を間違えることがあります。ところが一定の場所に行くとハッと正しい方向が分かるようなものです。心機一転は、卵が孵化するようなもので、時節が到来しなければなりません。「大疑ありて大悟あり」というように、いろいろと迷い悩み、苦しんだ人でなければ一転はおこりません。生死の問題や人生問題をつきつめて考えたことのない人に、心機一転のおこるはずはありません。(生活の発見誌 6月号 26ページより要旨引用)そういう意味では神経症というアリ地獄に落ち込んだことは無駄ではなかったということだと思います。苦しみの中で森田理論に望みをかけてなんとか打開策を探っているうちに、心機一転できたのです。これを森田では自覚を深めると言います。自己洞察が深まることです。対人恐怖症の私がどのようにして心機一転できたのかを振り返ってみました。以前・・・日常茶飯事の雑事などに忙殺されるよりも、自分だけにしかできないもっと意味のある課題に取り組むことが大事である。日常生活から手を抜くことばかり考えていた。楽をして人生を精一杯楽しみたい。日常茶飯事や仕事には身が入らなかった。自己中心的で人間関係もよくなかった。心機一転のきっかけ・・・オランダで人間に飼いならされた渡り鳥の話を聞いた。ブクブクと太りもはや飛び立つことができなくなった。人間の見世物として人間に依存して生きていくことを余儀なくされた。子育てをしなくなり、渡り鳥としての生きる目的を失い、健康を害してしまう鳥が多くなったという。つぎに減反政策が人間を骨抜きにしていることに気づいた。耕作放棄地にしておくと補助金がもらえる。それに年金や遺産を加えて、無理に仕事をしなくても生活できる人が出てきたのだ。そのうち米価が安いのと、後継者不足のため、すっかり意欲をなくして、農作業から撤退する人が増えてきた。近くに大きなスーパーができて、毎日新鮮な刺身を食べることができるようになった。それまでは正月や祭りの時くらいしか刺身は食べられなかった。自家用野菜も自分で作るよりも、買った方が安くて手っ取り早い。さらに惣菜も豊富にそろっていて、料理の手間がかからなくなった。家で作るわずらわしさから解放された。今まで薪で焚いていたカマドもプロパンガスに変わった。風呂も太陽熱風呂とガスを焚いて好きな時にいつでも入れるようになった。洗濯もスイッチ一つ押すだけですべてが終わる。日常生活は手を抜こうとすれば、いくらでも手を抜けることが可能になった。さあこれからは、空いた時間で精一杯娯楽三昧の生活をしよう。トラクターの代わりに自動車を買った。クーラーを買う。大型液晶テレビを買い、近所の人とダべリング。文化サークルへの参加。旅行と温泉とグルメを兼ねたバスツアーなどが目白押しとなった。夢のような生活がやっと実現したかのように思えたが、実際には生きがいを失い、うつ状態で心の障害を訴える人が増えてきた。隣近所の人との交流が希薄になり、一日誰とも話をしなかったという人も出てきた。草ぼうぼうの田畑が増え、夜は蛇、イノシシ、鹿、クマの天国となっていった。危なくて夜は外に出られない。厳重に戸締りしないと命が危ない。これが夢にまで見ていた豊かな生活だったのか。むしろ生きがいをなくして、ただ生き長らえている植物人間と同じではないのか。わずらわしいと思いながら日常茶飯事に取り組んでいたころの頃が懐かしい。決して日常茶飯事から手を抜いて、刹那的な快楽を追い求めていたのでは、いつまで経っても生きがいは生まれてこないことがやっとわかってきたのである。今では自分のできることを安易に人任せにしてはいけないことがよく分かった。心機一転できた。これは森田理論学習のおかげである。今では凡事徹底を掲げて、真剣に目の前の日常生活に取り組んでいる。小さな楽しみはそこら中に転がっていることがよく分かるようになった。
2022.07.21
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山鳥重氏のお話です。生命体の時間はリズムを持っています。呼吸や血液循環や排泄など、からだの諸活動はすべてそれぞれのリズムに乗って活動しています。たとえば脳波です。閉眼安静時にアルファ波があります。この波は毎秒8から13ヘルツのリズムを持っています。熟睡しているときはシーターが現れます。4から8ヘルツのリズムを刻んでいます。睡眠時は浅い眠りと深い眠りをくり返しています。レム睡眠とノンレム睡眠です。夢をみる浅いレム睡眠は一晩に4から5回やってきます。覚醒時の意識の揺れは、注意が意識をしっかり制御できている高い水準の意識状態と、なんとなく注意力が落ちて意識が散漫になりがちな低い水準の意識状態が交代しています。我々は注意を奮い立たせて意識水準を維持するわけですが、そうそう長続きさせることはできず、意識は緊張と弛緩をくり返しています。なぜ揺れるのでしょうか。それはいのちが「過程」だからです。神経過程も、それに共存する心理過程も、あくまで「過程」です。過程とは進行中ということです。進行中ということは不安定だということです。つまり「揺れる」ということです。こころは不安定な揺れ、という過酷な状況の中で、その揺れに合わせて、「今・ここ」という現場(意識)に、感情や心像や思いを立ち上がらせては退場させ、立ち上がらせては退場させ、という営みをくり返しています。「今・ここ」に、コア感情ー感情ー心像ー思い、という過程を立ち上げ続けているのです。このほかに心の生きざまはありません。(「気づく」とはどういうことか 山鳥重 ちくま新書 217ページ)少し難しい説明ですが、森田理論に関係のある話だと思います。人間が生きるということは、先が見通せない中を試行錯誤しながら絶えず前進しているということだと思います。前進していると言いましても、一直線に前進しているわけではありません。紆余曲折しながら前進しているのです。順風満帆の時もあれば、怒涛坂巻く嵐の時もあります。波の上に出たり、どん底に突き落とされたりの連続です。そういう状況の中でどのような心構えで生きていけばよいのでしょう。緊張と弛緩の波が大きくうねっているのでしたら、その波に上手に乗って生活していくというのはどうでしょうか。一時も一つのところに留まることなく、変化から目を離さないで、変化についていく生き方です。この点について、岩田真理さんがサーフィンの話で分かりやすく説明されています。人生はサーフィンのようなものです。サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはなりません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスを取り、波に乗れれば、素晴らしいスピード感が体験できます。自分だけの力ではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 64ページ)
2022.07.05
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最近よく耳にする「断捨離」について考えてみました。断・・・むやみに次々と新しいものを買わない。集めない。捨・・・使わなくなったものをどんどん処分して身軽になる。離・・・過剰な所有欲から離れて必要最低限ものだけで生活する。これを森田理論に当てはめて考えてみました。断・・・すぐに新しいものに飛びつくことはやめる。今ある物や持っているものの価値を再評価してとことん活かす。愛情をかける。修理やメンテナンス、改善・改良を行いながら最後まで利用する。捨・・・要らなくなったものや使わなくなったものを必要な人に貸してあげる。思い切って差し上げる。バザーやリサイクルショップで処分する。自分の家でそのままため込むことは避ける。次の活躍の場、居場所を与えてあげる。不安、恐怖、違和感、不快感などもため込まないで早く流すことを考える。離・・・過度な欲望を無制限に追い求めない。欲望は弾みがつくと制御不能になるので、不安を活用して抑制していく。欲望は不安を活用してバランスをとることを心掛ける。断捨離は、森田理論の「物の性を尽くす」という考え方に近いと思います。それぞれについて簡単にみていきたいと思います。物の性を尽くす・・・今自分の手元にあるものを宝物のように大事に使う。安易に新しいものに手を出さないで、修理・メンテナンスをしながら、命尽きるまで大切に取り扱う。貸してもらえるものやレンタルで済むものは、できるだけそれを利用する。必要な時だけ利用させてもらい、その後速やかに返却する。書籍などはできるだけ図書館を利用する。己の性を尽くす・・・自分の神経質性格のプラス面に磨きをかける。細かいことによく気が付く。鋭い感性を大事にする。好奇心旺盛な特徴を活かす。課題や目標、夢や希望の実現に向けて努力する。分析力、物事をより深く考えるという特徴を活かす。責任感が強く、粘り強い特徴を活かす。毎年健康診断を受けて、具合の悪いところを早期発見してメンテナンスをする。毎日の運動や頭を刺激して廃用性萎縮現象を防止する。他人の性を尽くす・・・相手の強みや長所を探して評価する。適材適所でその人の能力や強み、希望を満たすところに居場所を与える。意識して相手を非難、否定、叱責、脅迫しないようにする。相手に対しては傾聴、共感、受容、許容、感謝を態度で表す。お金の性を尽くす・・・1000円のお金を10000円に活かして使うように心がける。ギャンブルなどには使わない。必要な時、必要に応じて、必要なだけ使うようにする。将来のリスク回避のために貯蓄をしておく。大いに役に立ててくれる人に進んで寄付をする。時間の性を尽くす・・・細切れ時間を有効活用する。有限な時間を最大限に活用するように心がける。規則正しい生活を心掛ける。リズムを意識した時間の使い方を心掛ける。キーワードは「休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にある」です。
2022.06.28
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「あるがまま」とは、不安や恐怖(症状)を、そのまま、あるがままに受け入れて、本来の欲望にのってなすべきことをなすことですと説明されています。今日は最初の側面を考えてみたいと思います。不安、恐怖、違和感、不快感を取り除こうとしないで、そのまま受け入れるというということです。でもそれができないから神経症に陥ったのではないかと思います。それは、人間が言葉を使い、頭でっかちになっているからだと思います。つまり観念・思考優先で、現実や事実を軽視する傾向が無意識のうちに身に付いているということだと思います。「こうしなければいけない」「こうあるべきだ」という「かくあるべし」を自分にも、他人にも押し付ける態度をしっかりと身に付けているのです。観念・思考優先で、事実を非難・否定していることが葛藤や苦悩を生み出しているのです。分かりやすい例で説明してみます。イソップ物語の狐と葡萄の話です。ある日狐が葡萄の木を見つけました。おいしそうな葡萄が実っています。ところが高い位置にあっていくら飛び上がっても手が届きません。すると狐は、「あの葡萄はきっとすっぱくておいしくない葡萄だろう」と思うことにしました。「もともと自分は葡萄なんか欲しくなかったのだ」と自分の気持をごまかそうとしました。次に葡萄を獲れない自分を情けないと思いました。こんな自分に育てた親に責任があると考えました。最初に葡萄を見つけたときは、「葡萄を獲って食べたい」という気持ちでした。次に今の自分の能力では、「葡萄を獲ることはできない」という事実を否定してしまいました。最初の感情や気持ち、自分の能力を素直に認めないで欺こうとしたのです。最初の欲望や自分の能力をあるがままに認めたらどうなるでしょうか。自分の感情をごまかす。否定する。劣等感に陥る。親に責任転嫁することがなくなると思います。そのエネルギーを別の方面に使うことができるようになります。現状を出発点にして、なんとか葡萄を獲る方法を考え始めるのではないでしょうか。そうだ、はしごや脚立のようなものを探してみよう。台のようなものをおいて、そこから飛びあがるというのはどうだろう。棒のようなもので葡萄を叩き落すというのはどうだろう。親や友達の智恵を借りよう。力を借りて共同作業として取り組もう。感情の事実をあるがままに受け入れると、課題や目標が明確になり、感情と行動が好循環を始めるということになります。つまり逆転人生が幕を切って落とされるということになります。観念優先の態度を抑制して、事実優先の態度に転換する生き方は、葛藤や苦悩から逃れる道へとつながっていくのです。この考え方をさまざまな方向から説明してくれているのが、森田理論ということになります。この理論をものにすると、人間として生まれてきたことを感謝できるようになります。
2022.06.26
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沢庵和尚のお話です。心を何処にも置かなければ、全身にゆきわたり、意識が隅ずみにまでのび広がっているから、手の必要な時には手の用をはたし、必要なところに即応して、自在の働きができ、すべての対応が可能となるのだ。前後左右、あらゆるところに動きながら、瞬時も一ヵ所にとどまらない自在の心、これを不動(心)と言う。心を十方に置く、東西南北、四隅と天と地。(沢庵和尚心にしみる88話 牛込覚心編著 図書刊行会)これは森田理論の「無所住心」ことを言われています。森田先生は次のように説明されています。私が講話をするとき精神が集中するとはどういうことかというと、普通の精神集中とはちょつと意味が違う。①自分の挙手動作に注意する。つまずいたり、コップをひっくり返したりしないように注意するのである。②皆さんの状況、周囲の変化、すなわちある人が聞きたそうな顔をしているとか、後ろから出入りする人、戸外の自動車の響きなどにも、よくこれを感じ分けるようになる。③自分の話の筋道を工夫する。この四方八方に心が散った有様が、禅のいわゆる「無所住心」であって周囲の全てのことに気がついて、しかも何事にも心が固着しないで、水の流れるがごとく心が自由自在に流転適応してゆく有様である。あたかも明鏡に物の映るがごとく、来るものは明らかに映り、去れば直ち影をとどめないという風である。(森田全集第5巻 580ページ)「無所住心」の態度は、注意や意識を外向きに持っていくことです。自己内省性は大切ですが、それ一辺倒は片手落ちになります。生活態度としては、目の前の変化や日常茶飯事、なすべきことから目を離さない。課題、問題点、目的、目標をしっかりと捉えている。好奇心、興味や関心を刺激しながらの生活を心掛けるということになります。そういう態度なると、観念優先で自分を非難、否定することが少なくなります。地に足がついた、人間本来の生き方ができるようになります。神経症に陥る人は、注意や意識が絶えず自己内省的に働いています。この態度を改めれば、神経症とは縁が切れると考えています。
2022.06.25
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シュバイツァー博士はアフリカの密林の中に病院を建てて現地人の医療を始めた。1913年のことだ。医療にかかる費用はすべて博士が負担した。その後の40年にわたる努力に対してノーベル平和賞が贈られた。この献身的、人道的な医療活動は高く評価されている一方で、晩年に博士は厳しい批判を浴びるようになった。それはこの地方に今までなかった病気が急速に拡大してきたからである。日本人の桜沢如一医師が招きに応じてこの病院に移った。行ってみると博士の病院では入院患者で超満員だった。手足を切断されたハンセン病患者がたくさんいた。ハンセン病大国だった。夜になると、喘息患者のせきの大合唱だった。その他、白内障、結核、リューマチ、心臓病、腎臓病、尿道炎などがあった。いわゆる文明国で蔓延している疾患ですが、それまでこのような病気はなかったという。桜沢如一医師も風土病と言われる「熱帯性かいよう」にかかったという。現地の人のみならず、博士のアシスタント医師や看護師もほとんど健康を害し、落後するものも多かったという。桜沢医師はその原因はシュバイツァー博士の食事指導にあるのではないかと推測した。博士は現地の人たちに肉などの動物性食品、砂糖、ミルク、コーヒー、バター、チーズなどの食事を勧めた。それらの95%はヨーロッパから運び込まれていた。今までの郷土食、地産地消、身土不二という食に対する考え方は時代遅れで、健康増進のために駆逐すべき対象として取り扱われたのである。博士は現地の人たちに豊かな食生活を楽しんでもらいたいという親切心でしたことが、実際には文明病を蔓延させるという皮肉な結果をもたらした。森田理論では珍しいもの、おいしそうなもの、甘いもの、安いものに安易に飛びつくという考え方は戒めています。特に食料の大半を経済力に合わせて輸入に頼っている国は自立できない。今度のウクライナとロシアの戦争で、小麦が不足して高騰している。それでなくても世界の人口は100億人に迫る勢いで増え続けている。食料不足になるとさらに高騰し、そのうち売ってくれる国がなくなる。日本の食の安全保障は極めて深刻なのである。昔から現地で作られているもの、食べられているものを大事にして食生活を豊かにしていく。新しいものに飛びつくよりも、今あるものに光を当てて、その存在意義を引き出していく。そして十分に活用することで居場所を与えていく。便利なものが出てきても、今あるもので間に合うのならば、少々使い勝手が悪くても、命尽きるまで使い切るというのが森田の考え方です。これは「物の性を尽くす」という考え方です。食べ物でいうと、自分の土地でできるものは何か、どういう輪作体系で作ると無理がないのかを考えて作る。できた食材の料理方法を様々に工夫する。つまり「身土不二」という食に対する哲学を身に付けていないと、食で健康な体を維持することはできないということになります。
2022.06.03
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藤井英雄先生のお話です。子どもが親の言うことを聞かずに騒いでいるため、とてもイライラするという状況を考えてみましょう。ここで出てくる感情は「怒り」「イライラ」ですが、それは二次感情です。子どもが言うことを聞かない→自分が馬鹿にされている(悲しみ)→自分は親失格なのではないか(悲しみ)→今後も馬鹿にされ続けるかもしれない(恐れ)→そんな自分は姑、夫、近所の人からも馬鹿にされ、非難されるかもしれない(恐れ)二次感情は横道にそれてどんどん膨れ上がっていきます。怒りは、感情の中でも少し特殊なもので、怒りが単独で発生することはあまりありません。つまり、怒りの前に何か別のネガティブな感情が立ち上がっていることが多いのです。それは、たいていは「悲しみ」か「恐れ」ですが、この場合は子どもがいうことを聞かないことによって、自己肯定感が深く傷ついて、悲しみや恐れの感情が発生し、その結果怒りに転化していると考えられます。このとき、「悲しみ」か「恐れ」という一次感情に気付くことができれば、その後の展開は全く違ったものになります。「そうか。自分は、子供に尊重されていないことがショックだったんだなあ・・・」さらに、「そもそもそれは、自分が子供の頃から親に尊重されずに育てられてきたからだ・・・」といった気づきがあるかもしれません。この一次感情に気付くと、怒りという二次感情は急速にしぼんでしまいます。「子どもに尊重されていないと考えるとショックだが、子どもには子どもの事情があって今は遊びたいだけで、私のことが嫌いだとか馬鹿にしているということではないのかもなあ。姑や夫の目を気にして平常心を失っていたけれど、そんなに気にすることもないのかもしれない。もし非難されたとしても、受け止めることができそうだ」(「平常心」と「不動心」の鍛え方 藤井英雄 同文館出版 参照)これは森田理論でいうと、まさに「純な心」の説明です。「純な心」は難しい言葉ですが、最初に湧き起こった感情、素直な感情、初一念という言葉に置き換えておきましょう。森田理論学習を続けている方は、「純な心」の体得は森田理論の核心部分だということはよく理解されていると思います。問題は、生活の場面で、「かくあるべし」を含む観念の世界に振り回されてしまことです。つまりなかなか「純な心」になり切れないということだと思います。藤井英雄先生は、その疑問に見事に答えて下さっています。マインドフルネスを活用することです。マインドフルネスという言葉に嫌悪感を持っている方もおられますが、マインドフルネスは、ネガティブな感情や事実を軽視した観念的な思考に対して待ったをかけるものです。極めて森田理論に親和性があるものです。マインドフルネスは、間を置き、一歩引いて、第三者的立場から、客観的に見つめるというのが一番の要点です。ネガティブな感情や事実を軽視した観念的な思考に対して、両面観、多面観を活用して、偏った考えを自分自身で再考することになります。大いに気づいて、カタルシスを得ることが最終目標となります。その結果、二次感情が暴走することを阻止することができるようになるのです。マインドフルネスの手法は、森田理論を学習して、観念中心の「かくあるべし」から「事実本位」の生活態度を身に着けたいと思っている人にはとても魅力的です。マインドフルネス認知行動療法というものがありますが、マインドフルネス森田療法というものがあってもいいのではないでしょうか。私は、今まで観念中心から事実本位の態度を身につける方法を試行錯誤してきましたが、その中でもマインドフルネス森田療法はその最右翼と考えています。
2022.05.26
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森田先生のお話です。登山の時にも、やたらに休んではいけない。ゆっくりゆっくり登る事が大切です。休む時も立ったまま休む方がよい。穴掘りでも、詳しくいうと長くなるからやめるけれども、休まないで、仕事の緩急を調整しなければならない。(森田正馬全集 第5巻 687ページ)この話は、気分本位の行動は控えるということと、行動にはリズムがあるので強弱を意識して生活しなさいということだと思います。神経質者は、最初はなかなか着手しないが、いったんやり始めると今度は逆に時間を忘れるほどのめりこんでしまうという面があります。例えば、日常茶飯事などに対して、気分本位になって、なすべきことを回避する。ネットゲームなどをやり始めると、のめりこんで深夜まで没頭してしまう。こういう方向は、躁状態とうつ状態をくり返す双極性障害に近くなる。車の運転をしていると、急に睡魔が襲ってきて眠くなる時があります。この状態は高速道路では大変危険です。ガムをかむ。助手席の人と会話をして、緊張感を維持しないと事故につながります。そして最寄りのサービスステーションに立ち寄って、20分程度の仮眠をとることが大切です。気分転換すると、睡魔がなくなり通常運転ができるようになります。年配方は昼食後30分から1時間程度の仮眠をとっている人も多いでしょう。短時間で仮眠を切り上げて、次の仕事や日常茶飯事に戻ればよいのです。気分本位で1時間以上も昼寝をするのはやりすぎということです。基本的に昼間は交感神経が優位で精神が緊張状態にあります。夜は副交感神経が優位で、精神は弛緩状態にあります。ただし、昼間神経が緊張状態にあるといいましても、実態は緊張状態と弛緩状態が交互に繰り返されているのです。問題は昼間に弛緩状態に入ったときに、早く切り上げて、元の緊張状態に戻すことが肝心なのだろうと思います。「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という言葉があります。昼間は精神が緊張して活発に活動している方がよい。でも同じ作業を長く続けているとその部分に疲労がたまります。またマンネリになって刺激がなくなり飽きてくることがあります。その解消方法の一つとして、仕事を変えて新たな緊張状態を作り出すとよいということだと思います。大学の授業は90分になっています。これぐらいが集中の限界だということです。人によっては30分ごとに家事を転換する人もいます。そういう気持ちで目の前の課題や目標に取り組んでいくと、より多くのことが片付くように思います。森田先生は晩年にはリズムの研究をされていました。強弱を意識して、次々に仕事を変えて、より多くのことを手掛けることが森田の目指している方向だと思います。これは不安などの感情も同じことが言えます。神経症的な不安はそれを抱えたまま、行動しながら、次々と新たな不安に飛び乗っていくことが肝心です。
2022.05.07
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プロ野球の権藤博さんは、今のメジャーリーグは「フライボール革命」が起きているといわれる。この影響が日本にも及んでいる。西武ライオンズの野球などはその予兆だといわれる。フライボール革命というのは、2015年から選手とボールの動きを数値化する動作解析システム「スタットキャスト」がメジャーリーグに導入されたことに始まる。それはゴロの打球よりフライを打ち上げた方が、ヒットやホームランになる確率が高いという理論です。具体的には、速度98マイル(約158キロ)以上の打球が、26~30度の角度で飛び出したときがヒットになる確率が最も高くなる。しかし日本では高校野球の段階から、「フライを上げるな、ゴロを打て、とにかく転がせ」という考えを叩きこまれている。そういう考えが日本のプロ野球ではいまだに強い。昔はそれでよかったかもしれない。グランドは土のグランドでイレギュラーが多かった。しかし今や人工芝の球場も多い。さらに道具がよくなっている。筋力トレーニングで選手の筋力が格段にアップしている。昔とは状況に雲泥の差があるのです。さらに「フライボール革命」の影響で、打撃フォームが外角の低めのストレートをすくい上げるようなバッティングに変化している。実際結果を出している選手は、ほとんどローボールヒッターです。こんな状況で、ピッチャーが、外角低めに渾身のストレートを投げることを意識しているとどうなりますか。一流バッターにとっては「待ってました」ということになるのです。外角ストレートで長打を打たれると速球派の投手は自信をなくしますよ。この状況の変化を理解して、対応することを考えないといけません。権藤氏は、WBCでピッチングコーチを務めたときに、巨人の菅野投手に次のようにアドバイスしたという。ストレートは低めではなく、高め、それもインコースの高めを意識して投げてみなさい。彼は、指示通りの球でメジャーの選手を抑えて、ペナントレースでは凄みが出てきました。ここで権藤氏が言われているのは、今や状況は急速に変化している。その変化を早く見極めて、その変化に対応していくことが、プロ野球の選手としての寿命を延ばすはずだと言われている。森田理論も常に変化を敏感に観察して、変化対応力を身に着けていくという理論になっています。変化対応は森田理論の大きなテーマとなっています。「流れと動きの森田療法」(岩田真理 白揚社 65ページ)では次のように説明されています。周りが動かず、時間も流れなければ、わたしたちはいつまでも居心地のいい場所にじっとしていることもできるでしょう。けれど時間は波のように変化し、動いています。わたしたちは、それに乗らないことには生きていけないのです。人生の波に乗るとは、毎瞬毎瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察し、そのときそのときで適切な判断がとれるように努め、自分の生を前に進めていくことです。流れに乗る、ということです。
2022.05.05
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予期していない出来事、想定していたこととは違う出来事、不都合な出来事が目の前に現れたとき、対象相手に腹を立てて激怒してしまうことがあります。勢いにまかせて、非難、否定、叱責、説教してしまうこともあります。暴言を吐き、暴力行為をとるとその後が大変です。森田理論では、腹を立て、激怒してしまう感情は初二念、二次感情だと言われています。事実のごまかし、捏造、言い訳、弁解などもそうです。森田では、最初の感情、直観、素直な感情、初一念、一次感情を大切にすることをお勧めしています。いわゆる「純な心」と言われる部分です。相手から馬鹿にされた、批判された、否定されたという場合の一次感情は何でしょうか。思いつくままにあげてみましょう。イライラした、気が動転した、おびえている、ビクビクしている、悲観的な気持ちになった、憂うつになった、みじめな気持ち、当惑している、傷ついた、つらい気持ち、見捨てられたような気持になった。この中でも、「おびえている」「傷ついている」という気持ちが強いのではないでしょうか。私は怒りの感情が湧き上がってきたとき、一次感情を意識するようにしています。一次感情は事前にまとめて一覧表にしています。それを鞄の中に入れて持ち歩いています。怒りの一次感情の内容は次のようなものです。イライラしている、気が動転している、苦々しく思っている、心配している、おびえている、ビクビクしている、ぞっとしている、当惑している、面食らっている、恥ずかしい、きまりが悪い、悲観している、嫉妬している、見捨てられたと思っている、愛されていないと思っている、悲しんでいる、憂うつになっている、傷ついている、みじめな気持ちになっている。怒りの感情が出てきたとき、「ちょっと待った」「一次感情を味わう過程が飛んでいるぞ」と自分に話しかけているのです。一覧表を見て、ぴったりの言葉を探します。先ほどの例では「おびえている」「傷ついている」がぴったりでした。ぴったりの感情が見つかったら、それを独り言で口にします。意識して味わうようにしているのです。一次感情に浸っていると、性急に怒りの感情をあらわにすることがなくなります。そして時間が経つと、怒りの感情が薄まっていきます。興味のある方は、ぜひご自分で確かめてみてください。これが難なくできるようになると、森田の「純な心」の世界に近づいていくことになります。
2022.04.23
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私たちが不安に振り回されている状態は強迫神経症と言われています。みなさんは、強迫観念とは何かと尋ねられた時、どのように答えておられますか。森田先生は次のように説明されています。強迫観念の定義は、自分の欲望、目的に対して当然起こる取越苦労を、取越苦労しないように、思わないようにとかいうふうに、自分の心を押さえつけようとするために、当然心に起きる葛藤の苦悩について名づけたものであります。すなわち自分の心配ごとに対して、これを心配しないようにとすることが強迫観念です。すなわちあなたはどんな細かな複雑な取越苦労でもそのまま先へ先へと心配していくならば、どんなことがあってもけっして身体に、さわることはありませんが、この苦しみから逃れる工夫をすればするほど、幾年でも果てしなく強迫観念に苦しまなくてはなりません。(現代に生きる森田正馬のことば1 生活の発見会編 白揚社 78~79ページ)ここで取越苦労と言われているのは、不安、恐怖、違和感、不快感のことです。ここでいう不安は、神経症的な不安のことです。不安というのは現実的な不安もあります。これらは神経症的な不安とは取り扱い方が全く違います。混同しないことが大切です。それらに対しては、迅速かつ積極的な対応が欠かせません。たとえば地震の時の津波です。警報が発令されたら、すぐに高台に避難しなければ命が危なくなります。これが意外と難しいのです。軽視することがあるのです。神経症の人は、現実的な不安を放置して、神経症的な不安を問題視している。何ともちぐはぐなことをしている場合があるのです。ここでは神経症的な不安について考えてみましょう。これらに対して、取り除こうとするか逃げるかのどちらかだと思います。闘うか逃避です。どちらも対応方法が間違っています。なぜなら、そんなことをすると不安、恐怖、違和感、不快感はどんどん増悪して、追いかけてきます。イメージとしては、アフリカのサバンナでライオンやチーターに追い掛け回される小動物です。逃げれば逃げるほど、ライオンやチーターは勢いづいて追いかけてきます。そして最後には力尽きて捕らえられてしまいます。神経症的な不安は取り除こうとしない。逃避しないことが一番です。不安の相手をしなければ、最初の勢力はどんどん失われて小さくなっていくのです。不安の方は、相手が敵対してこないので、やる気をなくしていくのです。ナメクジに塩をかけたときのように小さくしぼんでいきます。もし余力があれば、不安のしたいようにさせてみるのはどうでしょうか。たとえば、不眠症で悩んでいる人は、寝ることを断念して、その時間を利用して読書などをするようにするのです。これは仕方なく不安を受けいれているのです。そして自分のやりたかったことに取り組むようにすると、不安があなたを襲ってくることはありません。むしろ、読書をしているといつの間にか睡魔が襲ってきて、朝までぐっすり寝てしまったという現象が起きます。神経症的な不安は解決のめどが立たないようなものに、あえて挑戦して不安を無くそうとしているのです。一人で相撲をとって、勝った、負けたと一喜一憂しているようなものです。周りから見ると実に滑稽なことに取り組んでいるということになります。強迫観念の苦しみは、最初は小さな不安の対処を誤り、ことさら増悪させて、独りで派手な相撲を取って、最後に自滅して嘆き悲しんでいるようなものです。森田理論学習によって正しい対処の方法を学び、実践することが大切です。
2022.03.05
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森田先生の言葉です。神経質は机上論の屁理屈をおしすすめているうちに、病の悩みや死の恐怖という一面のみにとらわれ、動きが取れなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の発揮ということに気が付いたのを「心機一転」といい、今度は生きるために、火花を散らして働くようになったのを「悟り」というのである。(森田全集第5巻 705ページ)「心機一転」するには、森田理論学習によって可能となります。単元でいうと「欲望と不安」「神経症の成り立ち」あたりを学習すれば自然に分かるようになります。「神経症の成り立ち」では、最初は誰でも持っているような不安が、不安にとらわれることにより、注意と感覚の交互作用が作動し始め、単なる不安がどんどん肥大化し、ついにアリ地獄へと落ちて行ったことが分かりました。ここでは精神交互作用が問題になります。「欲望と不安の関係」では、この2つは本体と影のような関係にあることが分かりました。神経症と格闘している人は、自分の影がゴミのように見えてくる。イライラして大いに気になり、すぐに箒で履いてゴミ箱に収納しようとしている。傍から見ている人は、あの人は頭がおかしくなってしまっているように見えるが、本人はそのことに全く気がつかない。ますます戦力を増強して、不安を一掃しようとしている。不安の方からすると、大人に小さな子供が相撲で勝負を挑んでいるように見えてくる。体力がつくまで待てば勝負になるかもしれないが、今現在の状況では勝敗の行方は最初から分かっている。無駄なことにエネルギーを投入しているとしか思えない。森田理論を学習すると、その考え方は間違っていたことが分かりました。不安と欲望はコインの裏表の関係にある。2つの関係をどう調和させるかという方向でエネルギーを使うことが理にかなっている。それぞれを単独で取り上げて議論してもあまり意味がない。目指すべき方向は、生の欲望の発揮を前面に押し出すことを優先する。それだけでは、うっかりミスや重大事故が発生する可能性が高まるので、そうならないために不安を大いに活用して、生の欲望の暴走を抑止する。これは自動車のアクセルとブレーキの役割とよく似ている。目的地を目指すためには、どうしてもアクセルを踏み込んで車を前進させる必要がある。ところが二車線、障害物、赤信号、交差点、カーブ、下り坂ではブレーキを作動させて、安全運転を心掛けないと事故を起こす。目的地に到達できないばかりか、その後始末のために大変な苦労を強いられます。アクセルは必要不可欠ですが、安全運転のためにはブレーキを活用ないと、目的地に到着することはできない。森田先生は理屈が理解できただけでは心もとないといわれています。今度は生きるために、火花を散らして働くようになることが大切であるといわれています。不安を仲間に引き入れ、生の欲望の発揮に向かって実践・行動する必要がある。車のタイヤでいうと左右のタイヤが同じ大きさであるということが肝心です。理論のタイヤはトラック並みの大きさで、実践や行動のタイヤは軽自動車のタイヤを取り付けていると、まっすぐに前進しません。軽自動車のタイヤの周りを、トラックのタイヤがグルグル回るようなことになります。こうなりますと、観念中心の悪循環が始まります。元の木阿弥になります。理論が小さいタイヤの時は、実践や行動のタイヤも小さいままの方がよいのです。理論のタイヤが大きくなるたびに、実践や行動のタイヤもそれに合わせて、付け替える必要があるということです。つまりステップアップを意識して、バランスをとることが大切になります。こういう方向で努力すれば、神経症でのたうち回ることはなくなります。
2022.01.25
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今日は「啐啄同時」(そったくどうじ)という言葉を取り上げてみたいと思います。卵の中の雛が殻をコツコツとつつくことを「啐」と言います。親鳥が外から卵の殻をコツコツつつくことを「啄」と言います。雛と親が同時に殻をつつくことで、無事に雛が生まれてくるのです。雛がコツコツつついているのに親鳥が気づいていないのでは困ります。雛がつついていないのに、親が早まって殻を割っても困ります。森田先生は、神経症の回復にあたっては、神経症者と援助者が「啐啄同時」の関係にならないといけないといわれています。どうすればそんな関係になれるのか。神経症で苦しんでいる人は、症状を治したいという気持ちを持っているかどうかが肝心です。親が、子供が不憫なので何とかしたいという気持ちが先行して、集談会にやってきましたというのは問題なのです。一歩譲っても、最終的には本人がやって来ることが必要です。つぎに集談会にやってくる人は、様子見でやってくる人が多い。神経症に対しては、薬物療法、カウンセリング、認知行動療法を始めとしてさまざまな精神療法があります。その中の選択肢の一つとして、森田療法があるのです。神経症は、気になる不安を取り去ろうとしているうちに、精神交互作用によってどんどん悪化したものです。日常生活に支障をきたしています。いわばアリ地獄に落ちたようなものです。できるだけ早くアリ地獄から地上に這い出すことが必要です。そのためには、別に森田療法でなくても構わないと思っています。自分に合ったものを見つけて、生活が何とか回りだすということが肝心です。この段階をクリアすると、最悪期から見るとだいぶ状況がよくなっています。これで十分だと思われている人は、森田理論学習の必要はありません。ところが多くの場合、不安にとらわれやすいという面は依然として残っています。今度は生きづらさの解消という課題に取り組む必要があります。集談会における森田理論学習は、主にそういう人を対象としているのです。森田理論学習によって、生きづらさを解消して、神経質性格者として、確固たる人生観を確立したい人がコツコツと殻を打ち破ろうとしているならばその人が適応対象者です。これに対して親鳥にあたる先輩会員はどのように対応すればよいのでしょうか。先輩会員は、森田理論を深耕・活用して、神経症を克服してきた人です。また森田理論に沿って人生観を確立した人もいらっしゃると思います。生活の中に森田理論を応用している人です。いわば成功体験を持っている人です。そういう人にありがちなことは、自分のレベルに相手を早く引き上げてあげようとしてしまうことです。アドバイスも上から下目線でのアドバイスとなります。「小さな親切、大きなお世話」という言葉がありますが、そんなイメージです。相手が見えていないということです。相手を見るためには、自分の成功体験はしまっておいて、まず相手に寄り添ってあげることが大切です。自分が話すのは極力少なくして、相手の話をよく聴く。傾聴と共感と受容の気持ちを忘れないこと。そして相手が少し頑張れば実行可能な課題をいくつか提案してあげる。そしていつも気にかけてあげて、側にいて暖かい声をかけてあげる。相手がその気になっていないときに、自己満足的なアドバイスをしても、ほとんど相手には届いていないと思います。この点に留意すれば、いずれ相手から感謝されるようになります。
2022.01.04
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今月の一押し投稿は、12月13日 「やる気と脳の仕組みの話」です。依存症に陥っている人は、やめたくてもやめられない。他人が制止しても、どうしても手が出てしまう。それは、ドパミン、アドレナリン、βエンドルフィンが出て、めくるめく快感が忘れられないからです。依存症に陥ると快楽が暴走して、他人に迷惑をかけ、自分と家族の生活を破壊します。しかし、私たちがやる気を出して建設的、積極的な行動をするためには、適度に報酬系神経回路を活性化していくことが欠かせません。どうすれば、依存症に陥ることなく、意欲を高めることができるのか。最近の脳科学は、その仕組みを明確に説明しています。生の欲望の発揮を目指している私たちには、とても参考になります。どうぞご参照ください。
2021.12.31
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高良武久先生が取り上げられている特殊用語も見ておきましょう。劣等感的差別観・・・他人と比較して、自分は社会への適応能力に欠けている。性格的に弱い面がある。容姿に問題を抱えている。能力面で見劣りがしている。やる気が湧いてこない。外界からの刺激に対して、特別に抵抗力がない。他人と比べてことさら自分の方が多くの問題を抱えている。そして劣等感的、批判的、否定的な思い込みをどんどん募らせて、自暴自棄になっている。ダメ人間で救いようがないと思っている。マイナス面があれば、プラス面もあって、バランスが取れているという思考ができない人のこと。部分的弱点の絶対視・・・完全な人間はいない。人間はそれぞれ身体的、精神的な欠点や弱点を抱えている。それらが気になるが、とらわれてしまって、絶対に取り除くというところまではいかない。不安や欠点や弱点を抱えたまま、日々の生活をこなしている。神経症に陥る人は、どんな小さな不安や心配事に対しても、それがあたかも自分の一生を左右するような一大事としてしまう。致命的な欠陥とみなして取り除こうとする。逃げ回ることになる。気になることを解決しないと、なすべきことに手をつけることができないと考えている人です。そちらでエネルギーを使い果たして、日常生活、仕事、人間関係がスムーズに回転しなくなる。劣等感的投射・・・自分の欠点や弱みにとらわれて、そこに注意を集中させて葛藤・苦悩していると、その自分を見ている周囲の人も重大な関心を持っていると思い込んでしまう。自分に対して軽蔑、反感、嫌悪感を持っているに違いないと思い込んでしまう。他人は自分の抱えている問題や目の前のことに関心を寄せており、ことさら他人のことを注目しているわけではない。そのことが分からない状態であり、防衛反応にエネルギーを使う。異物化のからくり・・・不安は欲望がある限り、自然発生するものですが、欲望はあってもよいが、不安はあってはならないものとして、異物とみなして排斥しようとする態度のこと。不安は生きていく上で必要なものという認識に欠けている。不安の役割や特徴、不安と欲望の関係、欲望の暴走の弊害の学習が不足している人です。防衛単純化・・・普通の生活をしていると、不安をかきたてる要因は次々に湧き起こってきます。すぐに解決できる不安は積極的に手を出し、どうすることもできない不安はそのままにして次の課題に進むようにするのがセオリーです。神経症に陥る人は、気になる一つの不安・欠点・弱点をことさら問題視して、これを解消すれば、万事解決して人生がうまく回転するように錯覚するようになるということ。脳では防衛系神経回路が作動しており、行動は消極的、回避的になります。
2021.12.30
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物の性を尽くす・・・どんなものにも存在価値があります。その価値を見直して、とことん活用していきましょうということです。ないものねだりをする前に、その物の持っている価値を見出して、相手に居場所や活躍の場を提供するという考え方です。物の性を尽くす以外にも、己の性を尽くす。他人の性を尽くす。時間の性を尽くす。お金の性を尽くす。自然の性を尽くす。などがあります。不安常住・・・人間はさまざまな欲望を持っています。欲望のない人間は、生きがいを持つことができません。延命をはかることもできません。その欲望の発生に伴って、不安が湧き上がってくるようになっています。欲望と不安はコインの裏表の関係にあります。ですから不安だけをなくして、欲望だけを追い求めることはできません。欲望と不安は、車でいえばアクセルとブレーキの関係にあります。アクセルを踏み込まないと前に進むことはできません。しかし一旦動き出した後は、ブレーキをかけて、スピード調整をしないと事故になります。諸行無常・・・すべての物は絶えず変化し流動しているということです。変化を察知して、その変化に合わせて、行動することが理にかなっています。神経症の人は、一つの不安にとりつかれて、不安を固定しようとしますが、このやり方はまずいのです。その不安は一山登り切れば、後は下り坂に向かうようになっています。つまり不安を取り除こうとしないで、自然の動きに任せると、鎮静化するようになっています。治さずに治す・・・神経症は治そうとしているうちはいつまで経っても治らないが、治すのを断念すると、その日から治り始める。不安から逃げていると、不安は勢いづいて、どんどん追いかけてくる。そのまま逃げていると、最後には神経症として固着してきます。不安が気になるままに、なすべきをなすという生活を堅持することで、神経症に陥ることは避けることができます。運命を切り開く・・・最悪の状況に追い込まれると、誰でも惨めな気持ちになります。その環境や境遇を上から下目線で眺めて、非難や否定をしないようにしましょうということです。そこが自分の逆転人生の出発点だと認識する。そして課題や目標を設定して、事態を改善するための行動を開始するということです。事実をあるがままに認めて受け入れないと、そういう心境にはなれません。昔から名を成した人は、逆境に押しつぶされることなく、自ら運命を切り開いていった人です。唯我独尊・・・自分がこの世に生きているということは、偶然とはいえ、とても意味のあることである。自分がこの世に活かされていることを感謝して、よりよく生きてゆきましょう。一人一人の人間は、世界中に一人しかいないかけがいのない存在であります。自分に備わっているものや能力を有効活用して、限りある人生を悔いのないように生きていきましょうということです。無所住心・・・注意や意識を一つの不安に向けるのではなく、気になる様々な不安に次々にとらわれていきましょうということです。次々にとらわれていくということは、一つのことにいつまでもとらわれるということはなくなります。その時々に応じて、様々なものにとらわれるということは、不快な感情を次々と流していくことになり、一つの不安にこだわることがなくなります。不即不離・・・これは字のごとく、引っ付きすぎないように、離れすぎないようにするということです。人間関係は、必要に応じて、必要な時に、必要なだけ付き合えばよいということです。広く浅くが基本になります。子育てでは、放任もいけませんが、過干渉や過保護も問題が生じます。神経質性格者は、行動する前は考え過ぎてなかなか行動しませんが、一旦行動を始めると今度は打って変わってのめりこんでしまうことがあります。これも不即不離を心得ての行動が大切になります。背水の陣・絶体絶命・・・不安神経症の人は忽然として神経症が治ることがあります。それは生きるか死ぬかという背水の陣を敷くことができるからです。絶体絶命になると、森田理論学習に集中して真剣に向き合うことができるようになるのです。強迫神経症の人は、不安や恐怖で相当苦しい思いをしていますが、直接命にかかわるような局面にはならないのです。苦しいときは逃避するという逃げ道が用意されているのです。これは救いという一面があるのですが、それ故に、どうしても真剣さが欠けてしまう。強迫神経症の人は、頓悟という治り方はしないといわれます。どちらかというと、タマネギの薄皮をはぐような漸次の治り方をする。あなたメッセージ・私メッセージ・・・これは森田先生の言葉ではありません。ただし、森田理論学習の中でよく出てくる言葉です。自分の思い、気持、感情、考えを相手に伝える時に、主語をあなたではなく、私にして話しかけるということです。あなたを主語にすると、指示、命令、脅迫、押し付けになることが多い。私を主語にすると、自分はこう思っているが、あなたはどう思っているのですかという展開になりやすい。どう行動するかはあなたに決定権がありますよということになり、人間関係が対立することを回避できます。
2021.12.29
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感じから出発する・・・好きか嫌いか、やりたいことかどうかなどという自分の本音を認めて行動を開始する。自分の感情、気持ち、欲求を優先的に考えていく態度のこと。相手の気持ちを忖度して、自分の気持ちを抑圧する態度は問題になる。観念を優先して、自分の感じを抑圧していると、葛藤や苦悩でのた打ち回るようになる。ただし、欲望が暴走しては困るので、感じから出発して、次に理知で調整していく態度の養成が大切になる。感じを高める・・・我々は、見るものや聞くものに、ちょっと心を止めていれば、必ず何かの感じが起こる。かりそめにも、これにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が湧き起こって、興味が湧いてくる。これを押し進めていけば、そこにいくらでも、進歩がある。「かくあるべし」を優先すると、気づきや発見、興味や関心を無視・軽視してしまう。すると、積極的、創造的、建設的な行動が抑制されて、生産的な生き方ができなくなってしまう。純な心・初一念・・・最初に湧き上がってくる素直な感情のこと。直観ともいう。この感情はしっかり掴まえないと、すぐにかき消されてしまう。そして「かくあるべし」を含んだ、第二破の感情でおおわれてしまう。その結果、隠蔽、言い訳、弁解、ごまかしなどの言動が多くなる。素直な感情をしっかりとチャッチして、そこからの言動を心掛けることが大切になる。あるがまま・・・どんなにイヤで理不尽な感情が湧き上がって来ても、それを排除しようとしない態度のこと。不安、恐怖、不快、悲しみ、怒り、嫉妬、孤独感、無力感などの感情が湧き上がってきたとき、その感情を排除・回避するのではなく、そのまま味わうという態度が大切になる。感情の事実に素直に対応すると、葛藤や苦悩で苦しむことはなくなる。物そのものになりきる・現在になりきる・・・最初のうちは神経症を治すために、強いて実践行動しても構わない。ところがいつまでもそのような気持ちでは心もとない。実践しているうちに、つい熱中して、神経症のことは一時的に忘れていたという体験を積み重ねていくことが大切になる。その積み重ねによって、タマネギの薄皮をはぐように神経症は軽快していく。修養・・・神経症を克服するためには、理論学習を積み重ねるだけでは不十分です。それだけでは神経症はむしろ悪化してくる。神経症を克服するためには、理論を学習するとともに、実行・体験により身体レベルで検証することが欠かせない。理論学習と実践・行動は車の両輪という考え方です。そのバランスを意識して、成長発展していくという態度を持ち続けることが大切になります。努力即幸福・・・目標達成したから満足であるということではありません。途中で挫折する、失敗したからすべてが無駄というわけではありません。目標達成第一主義はそのプロセスには重きを置いていません。この態度は問題です。その課題や目標に向かって努力している過程は、ハラハラドキドキ、精神が緊張して一心不乱な状態です。課題や目標、希望や夢に向かって努力している時が一番幸福感を味わっている時です。問題を解決し、目標を達成してしてしまうと、また新たな課題に取り組むことが肝心です。
2021.12.28
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森田理論学習の中でよく出てくる特殊用語について辞書のようなものがあると役立ちます。思いつくままに、早速取り上げて調べてみました。これを「よく出てくる森田の特殊用語」として、分からなくなった時に、振り返ってみてください。今日から4日間にわたりご紹介いたします。精神交互作用・・・不安や恐怖は、注意を向けると感覚が強くなり、感覚が強くなると、ますます注意を向ける。このようにして益々不安や恐怖は強くなっていく。神経症は精神交互作用によって泥沼化してくるといわれている。たとえば、寝ている時に壁時計の音が気になりだすと、益々不快感が強くなり、最終的には時計を止めてしまうことになる。精神拮抗作用・・・欲望が発生すると、その欲望を制御するような感情も同時に湧き上がってくる。これは人間に元々備わっている心の働きとなっている。コインの裏腹の関係のようなものである。たとえば、人の称賛を得たいと思っている人は、同時にミスや失敗をして恥をかきたくないという気持ちも同時に湧き上がってくる。手段の自己目的化・・・最初は目の前の課題や目標や生の欲望を目指していたが、途中で不安や恐怖などの障害物が出てきたので、それをなくすることが目的にすり替わり、本来の目的を見失ってしまうこと。恐怖突入・・・恐ろしいと思っていることに対して、破れかぶれになって突進して行くことではありません。そんなことをすれば心身の破滅を招きかねません。人間には誰しも、不安になる、気が進まない、おっくうで面倒だなどと気分本位になって、本来しなければいけないことを放り投げてしまうことがあります。いくら気が進まなくても、本来なすべきことは、イヤイヤ、シブシブでも手を付けていきましょうということです。我慢して、行動する。凡事徹底のことです。生の欲望・・・人間は生活していると、興味や関心、夢や希望、問題点や課題が出てきます。すると、それらを何とか達成したい、或いは解消したいという気持ちが自然に生まれてきます。それに向かって努力していくのが人間本来の生き方ということになります。神経症を克服した人は、最終的には生の欲望に向かって邁進していくことになります。気分本位・・・人間は誰しも楽をしたい。しんどいことは避けたい。面倒なことはパスしたい。などという気持ちになって本来やらなければいけない事であっても、手を付けないで放置してしまうことがあります。不快な気分に振り回されて、なすべきことを回避してしまうと、後で後悔することが多くなります。理知本位・・・人間には大脳が高度に発達しています。それを活用して、文化や文明が発展してきました。そのうち、頭の中で考えたことが、実際の事実よりも優先されるという本末転倒した考え方をするようになってきました。つまり「かくあるべし」を持って、自分や他人や自然をコントロールしたいと考えるようになったのです。森田理論では、事実よりも観念を優先する考え方が、神経症に陥る原因の一つとみています。事実本位・事実唯真(じじつただしん)・事実に服従する・・・気分本位でもない。理知本位でもない。森田理論は事実にしっかりと足場を築いた考え方や行動が一番大切であるといいます。事実に立脚した生き方は、「かくあるべし」を押し付けないので、課題や目標に向かって前進していく出発点となります。葛藤や苦悩でのたうち回ることがなくなります。思想の矛盾・・・頭で考えたことと(観念や思想)、実際に目の前に展開される出来事は一致しないことが多い。その時、事実、現状、現実を否定して、観念や思想でコントロールしようとすると、葛藤や苦悩でのた打ち回ることになります。神経症は思想の矛盾を抱えている人が陥りやすい。思想の矛盾に陥らないためには、事実本位の生き方を身につけることが大切になります。かくあるべし・・・事実に基づかない観念優先の考え方や行動を、自分や相手や自然に押し付ける態度のことです。「・・・しなければならない」「・・・してはならない」といったものです。対立を深めて喧嘩の原因になります。観念ですべてをコントロールしようとすると、葛藤や苦悩が強くなってきます。森田理論では「かくあるべし」を減少させて、事実に立脚した考え方や行動を目指していくことになります。まだまだたくさんありますので、明日の投稿とさせていただきます。
2021.12.27
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「スピードはマイナスエネルギーを遠ざけるパワーがある」という人がいます。前に向かって進んでいるときは、マイナス思考が前面に出てこない。変化流転しているときは、前向きな気持ちになるということだと思います。これは森田理論の「運動観」につながる考え方だと思います。そんな理論があったのかと思われる方がおられるかもしれません。私の手元にある「森田の6原則」の中に、この「運動観」が入っています。1、健康な生活をする2、他の為に尽くす3、事実唯真の立場4、実践の立場5、運動観6、両面観神経症で悩んでいる人は、同じ場所に留まる傾向があります。誰にもある不安にとらわれて、それらをその都度取り除いてしまわないと、次のことには手が出せないと思っています。几帳面で、一見合理的な考え方のように見えます。しかし現実は、精神交互作用で神経症という蟻地獄の底に落ちていくのです。神経症として固着してしまうと、仕事や日常生活が悪循環を始め、どうすることもできなくなります。普通の人は、心に引っ掛かる不安があっても、しっかりと目標や目的に照準を合わせています。不安があっても、目の前の目標や目的の達成に向かって行動しているのです。常にスピード感を持って仕事や日常生活を処理しているのです。これは自然界の摂理です。地球は太陽の周りを猛烈なスピードで1年かけて一周しています。その太陽系は銀河系の中心の周りを2億年かけて1周しています。銀河系の隣にはアンドロメダ星雲があって、両者はお互いの引力で急接近しているそうです。この二つの銀河は、いずれ将来は合体する運命にあるそうです。2つの銀河の中心にあるブラックホールが一つになるということです。動きを中止してしまうと、宇宙そのものが成り立たないということだと思います。城の堀の水は入れ替えないと藻が生えて汚く淀んできます。雑菌が繁殖してきます。蚊などが増えてきます。川から水を引き入れて、どんどん入れ替えている場合はそのようなことは起きません。谷間の小川は常に流れていますので、雑菌が近寄ろうと企てても、どうにもなりません。自転車やバイクでも、前進することを中止した途端に、自前では立つことはできなくなります。前に向かって動くエネルギーがバランスの維持に役立っているということです。キャッチセールスでも足早にさっそうと歩いている人には、声をかけにくいそうです。ぶらぶらと退屈そうに歩いている人に狙いを定めて声をかけているのです。変なキャッチセールスにつかまりたくなかったら、スピード感を持って歩くことです。自然の摂理に従って、常に運動観を意識した行動をとっていれば、問題は発生しないようになっています。ですから、この運動観の学習が大事になってくるのです。特に神経質者の場合は、気分本位になり、面倒なことにはかかわりたくない。しんどいことはパスしたい。予期不安が発生すると、すぐに撤退を考える。エネルギーの無駄遣いは極力抑えたい。うっかりして動くことを控えるようになるのです。一見合理的な考え方のようですが、観念優勢の世界にどっぶりと漬かり、手持ち無沙汰になる。その時注意や意識は自己内省的に働く。自己嫌悪、自己否定感でやりきれない気持ちになる。こういう悪循環体質が習慣になると、生きていくこと自体がむなしくなります。自然の摂理である「運動観」を基本的な方針として、その行動が暴走しないように、理智で調整して、バランスの維持を図りながら生活していくというのが、森田理論の目指している方向となります。
2021.10.20
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三重野悌次郎氏のお話です。宇宙の現象は、常に流動変化であり、一瞬の間も停止固定することはない。これは、仏教でいうと「諸行無常」ということです。いくら自分の都合のよいようにしようと思っても、周囲の事情でどう変化するか分かりません。どう変化していくか分からない人生に、絶対的な安楽を期待して、安らかな気分を求めようとするのが神経質者です。(森田理論という人間学 三重野悌次郎 春萌社 148ページ)この世の中は猛スピードで動いている。同じところに固定しようと思っても無駄である。できることは、その変化という流れにうまく乗って疾走することだ。精神現象も、常に変化流動している。不安があっても、それを一つ一つ解決してから次に進むという考え方では、変化にはついていけない。とり残されてしまう。非安心行動(不安を抱えたまま行動に取り組む)という心構えで、日常茶飯事や仕事に取り組むことが大切である。人間は、変化流動の生活の中で、欲求や欲望が発生する。欲求や欲望が発生すると、それを制御する不安や心配事も同時に発生するようになっている。森田理論でいう「精神拮抗作用」のことである。これは人間に標準装備されている。普通の人は、不安や心配事に細心の注意を払い、欲求や欲望の達成を目指していく。神経症の人は、欲求や欲望の達成のためには、まず不安や心配事を片づけないと、次のステップには進めないと考える。森田理論では「手段の自己目的化」が起きているという。解決のめどが立たない不安や心配事に関わっているうちに、本来の欲求や欲望を完全に見失ってしまう。そして悶々とした生活に甘んじることになる。たとえば結婚したいと思うような人が現れた。なんとか声をかけてお近づきになりたい。でも、もしも相手に結婚を前提に付き合っている人がいたとしたらどうしょう。すぐに断られてしまう。それを面白おかしく周囲の人に吹聴されたりすると、自分の立場がなくなる。そのことを考えると、気軽に「付き合ってくれませんか」と声をかけることができない。そして、付き合うチャンスを逃して、いつの間にか二人は疎遠になっていく。それを思い出すたびに、後悔でやるせなくなる。精神拮抗作用に対しては、目的物から目を離さないことが大切になる。紙に書いて机の前に貼りつけて置く。つぎに、欲求や欲望が発生すると、必ず不安や心配事、乗り越えなければならない障害物が発生することを忘れてはならない。それは軽率なことだけはするなよと警告してくれているのだ。それに学んで慎重に行動していけばよいということです。それをクリアして初めて果実を手に入れることができるのです。そのためには達成可能な目標を設定する。数が多ければ多いほどよい。先の例では、まず挨拶をする。世間話をする。相手の趣味などを知る。友だち関係を知る。グループ交際をする。友だちに協力を取り付ける。お茶をする。飲み会やカラオケを企画する。メールやライン、携帯番号を聞く。プレゼントをする。等々。脈があると思えば、さらに課題や目標を増やしていく。どうも相手にその気がない。自分もどうも合いそうにないと思えば、その時点で撤退する。うまくいかなかったときでも、失敗の経験は次の成功のための力になります。成功のためのノウハウを一つ身につけたと思えばよいと思います。不安や心配事に取りつかれて、具体的な行動を起こさないというのは、精神衛生上もっとも悪いパターンとなります。
2021.09.06
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森田先生は「不即不離」の説明を次のようにされています。犬を連れて散歩する時に、犬は主人のそばばかりにくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰って来て、主人の足元へからみついて来る。これが犬の自然の心で、いわゆる「不即不離」の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが、それかといって、絶えず主人を見失いはしないかという事が気にかかるから、決して離れてしまう事はない。しかるに君らの如きは、先生の先へ追い越したら無礼か何かになるかと、理屈にとらわれて、あまりに即して少しも融通が利かない。今度はまた離れてしまえば全く寄り付かない。即けばつき、離れれば離れてしまって、少しも犬のような駆け引きができない。(森田全集第5巻 658ページより引用)不即不離は、その名の示す通り、引っ付きすぎず離れすぎずに行動するということです。べったりと引っ付きすぎてはいけない。そうかといって、相手を無視して離れすぎてもいけない。その時の状況を適切に判断して、目の前の状況に自分の方から合わせていくということです。この生き方は、言い換えると、自分の気持ちや考え、欲望を前面に押し出すのではなく、常に変化に対応していくことです。それ以外のことをしてはいけないということです。すばやく変化に対応することが肝心です。「かくあるべし」を自分や相手や自然に押し付けることとは、真逆な考え方のことです。変化に対応していくためには、目の前の出来事や他人の考え方や行動を正しく把握することが必要になります。観察によって事実、現状、実態をより正確につかもうとする態度が不可欠です。その中で、自分の行動が自然に調整されて、無理ない言動、態度や行動につながっていくのです。不即不離の態度が身についてくると、他人や自然の関係に調和が生まれて、無理のない付き合い方ができるようになります。「不即不離」と反対の態度をとると、相手や対象物のことが全く把握できなくなります。観察して、事実をつかむという態度が希薄なので当然のことです。これでは闇夜に鉄砲を放つようなものです。ピントが全くあっていません。調和が保てなくなり、相手と対立関係に陥ります。そして、元々強かった自己中心的な言動が目立つようになります。そのことを「我」を通すとも言います。「我」が強い人ということもあります。自分勝手な言動が多くなり、他人や自然との調和が崩れてくることになります。「不即不離」という考え方は、森田理論の中では重要なキーワードとなります。この考え方を日常生活の中で深耕していくことで、類まれなる「森田の達人」の域に到達することができます。この考え方に賛同できる方はぜひ取り組んでみてください。
2021.04.10
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観念哲学を唱えたヘーゲルというドイツの哲学者がいます。ヘーゲルは、止揚(アウフヘーベン)という概念を作り出しました。どんなものかというと、先ず、ここに、ある考え方が一つあるとします。ドイツ語でいうと、テーゼ(正)です。一方、反対の考えがあります。アンチテーゼ(反)です。そして両者の対立が生まれて、どちらかがどちらを打ち破る、というのがそれまでの構図でした。でも、ヘーゲルは違います。対立するのではなく、それぞれが止揚(昇華)して新しい考えを生む、と考えたのです。分かりやすく言うと「正・反・合」の三角形をつくるといってもいいでしょう。それがヘーゲルのいう「止揚(アウフヘーベン)の考え方です。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマーク出版 39ページより引用)これは森田理論でいうと精神拮抗作用のことだと思います。人間にはある欲望が起きると、それに従ってそのまま突っ走るのではなく、それを制御する考えが同時に湧き上がってくるというものです。たとえば食べ放題飲み放題の居酒屋での宴会に参加するとき、「今日は思い切りビールや日本酒を飲みたい」と思ったとします。「でも二日酔いになって、明日苦しむのは困るなあ」と欲望を制御する考え方も同時に起きてくるというものです。この制御機能が壊れると、双極性障害の人のようになります。うつ状態の時は家に閉じこもり、不安や恐怖で身動きできなくなります。反対に、躁状態の時は別人のように変身します。つぎつぎと高額商品を買う。壮大で実現不可能に思えるようなことを、自信満々で行動を起こそうとする。とにかく思いついたことを、深く考えないで発言する。発言だけならよいのですが、周りの人を巻き込んで行動に移す。そして財産を失い、人の信用を失ってしまうのです。反動で今度はうつ状態へと落ち込んでいくのです。普通の人はもともと精神拮抗作用が標準装備されています。車でいえばアクセルとブレーキが同時に標準装備されているようなものです。それがないともはや車とは言えません。問題はその機能を、状況に応じて適切に使うことができているかどうかです。たとえば、対人恐怖症の人は人を見ると自分に危害を加えるようで怖い。そのために言いたいことも言えなくなる。我慢する。耐える。そんな人を避けて話しもしなくなる。営業の人は、新規開拓の場合、断られて自尊心を傷つけられることを危惧して、手も足も出なくなり、仕事をさぼることが習慣になる。これらは不安に振り回されて、みんなと仲良く和気あいあいと仕事をしたい。営業で成果を上げて評価されたい。収入を増やして豊かな生活を送りたい。ライバルたちに勝って営業成績を上げたいという欲望という面を無視しています。不安に圧倒されて、欲望がある事さえ感知できなくなっているのです。これでは、双極性障害で苦しんでいる人と何ら変わりがありません。双極性障害は薬物療法で治すことができますが、対人恐怖症の場合は不安を軽減することは可能ですが、根本的な解決策にはなりません。どうすればよいのか。森田理論でいうバランスや調和を意識することです。この場合は、不安に手を付けないで、生の欲望を活性化させることで、少しづつバランスが回復してきます。一旦回復基調に入ったら今度はそれを維持する努力を日々積み重ねることです。私がいつも説明しているサーカスの綱渡りの話を思い出してください。意識づけとして目の前に天秤やヤジロベイを飾ってください。私たち神経質者は意識しないと、すぐにバランスを崩して、不安や恐怖に振り回されるという人種なのです。この調和やバランスの維持は、森田理論の核の一つとなる考え方です。
2021.04.04
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森田先生のお話です。座敷の掃除をするにしても、女中根性でするのと、入院患者の修養根性でするのと、あるいは自分の部屋を自分でするのとは、そのハタキをかける音を遠くから聞いても、これを聞き分けることができる。女中は給料のために働く場合は、タンタンタンタンと景気よくたたき、修養者は、なんでも物を几帳面に・忠実にしなければならぬ、と頑張っているから、埃の有無や・多少に関係なしに、単調にリズミカルにたたいて、時間に無関係に緩急の変化がない。また自分の部屋を掃除する時には、埃をとり・汚いものを綺麗にしようとするためであるから、その変化が自由であり・複雑であるとかいう事で、区別ができるのである。(森田全集 第5巻 662ページ)森田先生はこの話で何を説明しようとしているのか。お使い根性でハタキをかけてはいけないということです。特に森田先生は喘息持ちであったので、森田先生の部屋のはたき掛けする時に、女中根性や入院患者の修養根性でされると、障子のサンなどにたまった埃が部屋中に拡散される。ハタキをかける前の状態の方がまだよかったということになる。障子や棚の上にたまった埃などは、少し時間はかかるが、まず雑巾やテッシュなどで取り除くのが普通です。あるいは現在では掃除機で吸い取る。昔は掃除機がなかったので、ハタキで床や畳の上に落として、しばらく経ってから箒で履くという方法をとっていたのでしょう。これは掃除としては少し杜撰なような気がする。それはともかく、自分の部屋を綺麗にするつもりで掃除してもらいたいと言われている。どうして、指示や命令で取り組む仕事は、お使い根性の仕事になってしまうのか。それは、目にしたものから感情が動き出し、自分の意思を反映した行動になっていないからです。目にしたものー感情の発生―気づき・発見―意欲ややる気の高まりというプロセスを踏んでいないからである。いきなり他人から行動を強制されても、一心不乱に取り組むことはできない。むしろ逆である。森田理論でいう「物そのものになる」ことが難しいのである。それでは、他人から指示や強制されて行う行動は意味がないものなのか。そうともいえない。神経症で悩んでいる人は、予期不安があるとすぐに逃げだす。それでなくても人間は、しんどい事は避けたい。面倒なことには手を付けたくないという気持ちもあります。神経症で苦しんでいる人は、それに輪をかけて行動が停滞しています。その方向に流されてしまうと、生活が益々後退してしまう。そんな状態が続いている人に対しては、カンフル剤が必要である。指示や命令によって、行動を強制されることは、心機一転のきっかけとなることがある。仕事のさぼり癖がある人に、同行営業などで叱咤激励することは決して悪い事ではない。その人の為になることです。森田では最初はイヤイヤ仕方なしの行動をお勧めしています。最初はそれで充分合格点がもらえます。私は時々近くの山にハイキングに行くことがある。一周1時間30分ほどの行程である。坂道や岩場があり結構しんどい。そのため行く前は憂うつになる。行こうかやめようかと迷う。実際にはその気持ちを振り切って思い切って家を出る。すると不思議なことに、ひと汗かいてハイキングが終わる頃になると、「運動にもなったし、景色もよかった。気分転換になったし、出かけてきて本当によかった」と思うようになるのです。最初の行動に当たってはイヤイヤ仕方なしで一向にかまわない。むしろそれが普通だと心得ることが大事です。この段階では、行動する方向に舵を切っていくことが肝心です。その次のステップに移れるかどうかが成否を分けます。別に難しい事ではありません。一旦はその行動に踏みこんでみるということです。その目安は、感情が動き出しているかどうかです。興味や関心、気づきや発見が発生したかどうかです。この状態になりますと、もうお使い根性の仕事ではなくなっている。イヤイヤ仕方なしに始めた行動が呼び水となって、しだいに意欲が高まり、行動に弾みがついていくことになるのです。森田理論では、勢いをつけた馬車馬のような行動をお勧めしているわけではありません。行動することによって、新たな感情が生まれて、過去の不安や不快な感情を流し去ることを目指しているのです。
2021.03.14
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