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次の方の相談です。この方は主婦で対人緊張、雑談恐怖があります。不器用で料理や片づけなどの家事がうまくできません。もっとも大きな問題は幼稚園に通う子供のママ友との付き合いがうまくこなせないということです。最低限のお付き合いはできていますが、幼稚園の後、子ども同士を遊ばせるためにママ友と仲よくするのは苦手なのでしていません。そのことで自己嫌悪に陥っておられるようです。この方は最低限のお付き合いはできているようです。それは評価できることです。苦しいけれども最低限の行動はできているわけですから。幼稚園後すぐに帰っても、他のママ友はあの方はこの後何か用事でもあるのだろうと思っているのではないでしょうか。あなたが気にされているように、変に思われているとはないと思います。他人の思惑が気になる。これはあなたの個性、特徴です。誰でもあるのですが、あなたの場合はそれが少し強いということです。今はこの性格に振り回されて、一人で相撲をとって、自分一人で苦しんでおられるようです。しかしこの性格を逆に活かしていけば、とてもよい生き方ができるようになります。本来そういう性格の人は、人の気持ちを機敏に察することができる。相手のことを思いやることができる能力を元々兼ね備えている人なのです。人の悪口は言わない。噂話をしない。人の嫌がることはしない。他人に優しくできる。他人の役に立つことを見つけて行動できる素質を持っている人なのです。今のままのあなたにいいも悪いもありません。今のままの状態で生きていく覚悟を持っていただきたいと思います。それしかできないのだと思います。ここで提案です。今不安で悩んでいるエネルギーを料理や片づけに向けていくのはどうでしょうか。あなたは不器用で料理や片づけなどの家事がうまくできないと言われています。でも料理を全く作らないということではないと思います。曲がりなりにも買い出しをして、料理は作られているのだと思います。ただ料理の味がレストランで食べる料理のように完璧ではない。料理のレパートリーが少なすぎる。和食、洋食、中華料理のどれもが作れない。これという得意な料理が無いのかもしれません。つまり自分の頭で考えているような立派な料理ができていないということではないでしょうか。理想が高くてそこから自分の作った料理を見るととても貧相に見えるということではないでしょうか。それでしたら一カ月に2つぐらいの新しい料理を作れるように頑張ってみたらどうでしょうか。自然にレパートリーが増えてくるのではないでしょうか。そのうちカレンダーに大まかに献立表を書きこまれるようになれば自信がついてくるのではないでしょうか。また片付けも一挙に完璧にやろうとすると苦しくなり、結局何も片づけないということになるのではないでしょうか。完璧に整理整頓、掃除をするのではなく、今日はお風呂とトイレ、次の日は居間、その次の日は台所・・・というように小分けにして片づけをこなしていくというのはどうでしょうか。これだとあまり時間がかかりません。不快な気分に圧倒されることが少なく、1週間経てばほぼ片付いていくのではないでしょうか。日常生活がうまく流れるようになると、素敵な絵画、ポスター、花などを飾るということに気が回るようになるかもしれません。それから雑談恐怖ですが、これは私も悩んでいた時期がありました。これについてはオンライン学習で参考になる話を聞きました。それによると、雑談というのはしっかりとした目的があると言われるのです。私はみなさんと仲よくしたい。決して敵対している存在ではありませんということを伝える目的があるというのです。人間関係をよくする潤滑油のような役割を果たしているのだそうです。雑談をして何か将来の役に立つというようなものではない。私はそれまで役に立たない意味のない雑談を時間の無駄だとバカにしていたのです。また雑談の場にいるといつ何時、自分の存在、欠点や弱点、失敗やミスが雑談の話題に取り上げられて笑いものにされるかもしれない。ということにいつも神経がピリピリしていたのです。だから雑談の場にいることが苦痛だったのです。また雑談の場では、みんなに受ける面白い話ができなければならない。できれば自分が雑談の場を取り仕切るような存在でありたいと思っていたのです。現実はそんなことはほとんど不可能ですから、雑談の場を避けるというのが楽だったのです。雑談の目的が分かれば、ただ雑談の場にして、みんなの話を聞いているということはとても大きな意味があるということです。それをいつも避けているということは、私はあなた方と友好な人間関係を築きたいとは思いませんと宣言しているようなものです。一方で他人と親しく交流したいと思いながら、実際には雑談の場を避けているのですから容易に雑談恐怖に陥るのではないかと思います。
2016.12.04
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上田比呂志さんのお話です。日本には無数の旅館がありますが、特に評価の高い高級旅館というのはお客様に対して、つかず離れずの距離感を持って接待するという。森田理論でいう不即不離を接待に応用しているのである。チェックインを済ませ、宿帳などを記入しつつ、世間話なんかをしながら部屋まで案内してくれますが、そのあとはそっと放っておいてくれます。サイズ別、色別に浴衣や足袋が用意してあり、備えも万全なのでこちらからあえて呼ぶ必要もありません。つかず離れず、絶妙な距離感でお客様をリラックスさせてくれるのです。来てほしい時以外には来ない、手を出してほしい時以外には手を出さない。この絶妙なバランス感覚です。放っておくというのは、気をつかわない、無関心とは違います。気づかっているからこそ、放っておく。ただし、気をつかっているということが表には出ないのです。だから、相手も余計な気づかいをしなくて済む。上田さんが、三越の特選売場という高級ブランド品の販売を担当していた時のこと。そこにいらっしゃるお客様というのは、あらゆるおもてなしを受けていて、たいてい何でもご存じです。商品に関する知識でも、世情や社交界に関することでも、私よりもよほど詳しいのです。VIPのお客様だからと変に気合を入れて商品の説明をしたり、必要ないのにかまったりというのはこちらの都合であり、お客様は求めていません。お客様が大切にされているのは、商品を買うまでの時間や空間、雰囲気であり、その商品を買う価値があるかどうかはお客様自身が決定されることなのです。だから、笑顔で立っていて、余計なことはしないように、そっと控えておいて、「あっ、口を開きそうだな」「なにか聞きたそうだな」と思ったら近づくようにしました。そこで初めて、「いかがでございますか」と尋ねるのです。この話は子育てにも、集談会の体験交流でも同じことが言えます。幼児の場合は、基本的には幼児の好奇心に沿って自由にさせる。でも親は子供から目を離してはいけません。親が子供の目のつく範囲に居てじっと見てあげることが必要です。親が手を出し、口を出すのは危険な行動、他人様に迷惑をかける時です。それ以外は大目に見ている事です。少々ケガをするようなことは、口出し無用です。物を散らかしたり、壊したりすることも大目にみることが大切です。そうすると幼児は親の後ろ盾を得て安心して冒険することができます。自由で、好奇心旺盛で何事にも積極果敢な子供に成長していくのです。集談会の場合、初心者に中間層やベテランの人が、最初から親切に森田理論を懇切丁寧に説明してあげることは差し控えなくてなりません。なぜなら初心者の人が自ら気づく、発見する喜びを奪ってしまっているからです。傾聴、共感、受容の態度で初心者に寄り添ってあげることだけで十分です。相手がどうしていいのかわからなくなって助けを求めてきたときは、丁寧に説明してあげるのです。その時までは、共感、受容の基本姿勢を崩さずに傾聴に徹することです。森田で神経症を乗り越えた人は、どうしてもすぐにアドバイスするようになります。それは過干渉、過保護に通じます。そういう対応を受けた人は、せっかく縁あって森田に出会ったにもかかわらず、森田から離れていってしまうというケースが多いように感じます。(日本人にしかできない「気づかいの」の習慣 上田比呂志66-67ページ引用)
2016.11.11
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私は人生の醍醐味は2つあると思う。心の底から湧きあがってくる喜びはどんな時に感じることができるのか。刹那的快楽ではなくしばらくは継続する喜びはどんな時に感じることができるのか。一つは今までできなかったことができるようになった時。さらに課題や目標を持って挑戦して達成できた時。鉄棒で逆上がりができなかった時、腕の筋肉を鍛えて体を持ち上げられるようになり、はじめてできるようになった時はうれしかった。これでみんなと同じになったと思った。自信が出てきたことを思い出す。またはじめてトライアスロンに挑戦して完走できた時もうれしかった。出場までの2年間の練習が苦しかっただけにその喜びは格別であった。こういう経験は多くの人が持っておられるのではなかろうか。もう一つは、他人に感動や喜びを与えた時。相手が感動の涙を流してくれた時に、自分もその人以上に感動することができる。生きていてよかった。人生捨てたものではない。望外のうれしいこともあるのだと思うのはこんな時だ。先日対人恐怖症でずっと悩まれておられた方から手紙をいただいた。その手紙には、私のような何もしゃべれない人間でも、集談会で受け入れてもらえた。「今のままのあなたでいいんですよ」と受け入れてもらえたことが今現在大変心の支えになっていると書いてあった。私はその人は現在別の集談会に参加されていたので、うっかりお名前と顔を忘れてしまっていた。でもその方にとっては、その時の私の対応が心の中に生きていて、私の言葉に支えられて前向きに生きているということを聞いて私の方が感激してしまった。私の田舎の住職さんがこんな話をしてくださった。昔は姥捨て山があって、飢饉などの時口減らしのために老人を山奥に捨てに行ったそうだ。ある息子さんがお母さんを籠に入れて姥捨て山に行きました。道中背負われた母親が小枝をポキン、ポキンと折っては地面に落していたそうです。息子さんは思いました。「木の枝をたどってまた家に戻ってこようとしているのではないか。気丈な母親でも最後は自分のことしか考えていないのだな」そのうち、山奥の姥捨て山に着いたそうです。母親が言うには、「いよいよお別れじゃ。身体に気をつけるんだよ。帰る時は小枝を落して目印にしておいたからそれを頼りに、無事に家に帰っておくれ」それを聞いて若者は泣き崩れました。「自分は母親を捨てようとしているのに、母親は自分のことをこんなにも案じてくれている」自分の命を引き換えにしても自分のことを気にかけてくれている。このようなケースはめったにあることではありません。でも自分の生活の範囲内で感動を味わうことは人間にとって必要なことではないのか。人の役に立つことを見つけて実行に移し、お互いに小さな感動を味わってみる。このことが、人生の醍醐味を味わうことにつながるのではないかと思います。
2016.11.04
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おしどり夫婦と言われる人がいる。相思相愛でどこに行くのも、何をするのも常に一緒という夫婦である。たとえば、定年退職して買い物に行く奥さんを車に乗せて、ドライブがてら遠くの大型スーパーまで付いていく。旅行に行くのも、趣味も、映画を見に行くのもいつも一緒。けんか別れするような対立はない。いつも相手の気持ちを第一優先にしている。相手のことを思いやり、基本的には相手に合わせる。自己主張を繰り返すと、わがままなような気がするので、自分のやりたいことでも抑えている。はたから見ていると、一心同体で二人で一つといった状態である。自由が効かないが、相手に寄り添っていればとりあえず生きてゆくことができる。ではそのお手本にされている「おしどり」という鳥を見て見よう。本当に相思相愛なのか。おしどりという鳥は、番いになっている時は、いつも一緒に泳いでいて仲がいいように見える。オスがメスに優しく寄り添い、「末永く一緒に暮らそう!」と、いわんばかりの光景をみかける。だけど、これに惑わされてはいけない。実はこれは他の雄にちょっかいをだされないようにするために、雄が雌から離れずにガードしているというのだ。つまり相手の自由を奪い、常に監視して相手を束縛しているのだ。さらに意外な実態が明らかになっている。オシドリのカップルがラブラブなことだけは確かだが、それは卵が産まれるまでの間だけのことだ。育雛も夫婦で協力することはない。オシドリは一夫一妻制であるが、夫婦である期間は非常に短い。冬ごとに毎年必ずパートナーを変える。メスの子育て中にオスは他のメスを追いかけることもある。ヒナが育って、守る期間が過ぎると、さっさとどこかに行ってしまう次の繁殖期には、別の相手とつがい(結婚)となります。つまり、1年ごとにパートナーを取っ替え、引っ替えしているのである。つまり人間の間で言われているような、本当の意味での相思相愛の関係を築いているの訳ではない。オスは自分の子孫をできるだけ多く残したいという強い本能がある。その目的に促されてメスとひっついたり、離れたりしていたのである。私の知り合いにもそんな感じの人がいる。もう結婚離婚、同棲分かれを4回も繰り返している。子供も母親が違う子供が3人もいる。最初はあんなにもててうらやましいなと思っていた。ところが最近はとうとう一人になり、生活保護を受けて細々と生活している。五木ひろしに「おしどり」という歌がある。夢でかくした 心の寒さ春の日差しを 待ってるお前右手の細さは 苦労癖これからは これからはおしどりのようにお前一人の幸せに生きていく3番に至ってはこれからは これからはおしどりのようにお前一人を抱きしめて生きていくこうなると、生きる目的というものが、配偶者に尽くすということ一点に絞られてしまう。生きがいは相手の気に入られるように、自分を抑えて生活することになる。その先に待っているのは共依存の世界である。共依存は相思相愛のように見える。しかし実態は相手の自立心を奪い取り、相手を自分の思い通りに支配しようとする態度につながる。この方向はしだいに二人を追い詰めていく。本来はそれぞれにやりたいことを見つけてその道に邁進する。それぞれの気持ち、夢や希望の追求が先にこないとダメなのだと思う。それがなくて、ただ相手に尽くすことが唯一最大の目的となってはまずいい。お互いに相手独自の生き方を認め合うことが肝心である。片や子育て、生活面では助けたり、助けられたりして協力し合う。今や経済的にも2人で支え合わないと家計が回ってゆかない時代である。1人では生きてゆけないが、2人で協力していけばなんとか生きて行ける。そんな中で、楽しみを見つけて、人生を満喫することのできる時代である。そういう視点で、「おしどり夫婦」という人達を観察してみようではありませんか。
2016.10.26
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先日テレビを見ていた。アフリカの草原でカバの群れを映し出していた。そこにはボスがいた。ある日そのボスの座を奪い取ろうとNO.2のカバが戦いを挑んでいた。ところが力及ばず負けて逃げ出してしまった。それでもなんとか群れの中に戻り平穏な日々を取り戻していったかに見えた。実際はそうではない。次の日無残にも水辺に腹を上にして死んでいた。ボスがその後自分で殺したか、仲間に殺させたのだろう。その肉をワニが群がって食いちぎっていた。対人恐怖の私にとっては人ごととは思えなかった。カバはボスに逆らうとすぐに殺されてしまう。対人恐怖の私も他人の思惑に気を配り、自分を殺して生きていかないと、カバと同じような目に会うはずだと思っているのである。私が仕事でマンション内を循環していた時のこと。向こうの川土手を小学生の子どもたちが先生に引率されてぞろぞろ歩いていた。みんな黄色い帽子をかぶっている。先生はみんなエンジのトレーナーを着ていた。総勢300人以上はいるように見えた。その時私の小学生のころの嫌な思い出が横切った。私にとって同級生は和気あいあいと楽しく遊ぶ仲間とは思っていなかった。自分に暴力をふるったり、暴言を吐いて苦しめる恐ろしい存在だったのだ。私は友だちに怯えまくっていたのだ。みんなで遠足をするというのは、集団行動を求められ、道中たわいもない話をしなければならない。それは針のむしろに長時間座らされているのと同じことなのだ。あらゆる場面で対人折衝を避けていたので、ネクラと思われていた。それは学校だけに限らず、家庭の中、会社員になってからも同じ状況だった。いつも人と接触することを避け続けてきた。それでも学校時代は人を避けてなんとか切り抜けることができた。でも社会人となり、会社に勤めるようになってからはそうはゆかない。必ず対人的な付き合いは発生する。対人的な社会体験が不足しているので、会社の中でうまく立ち回れない。イヤな場面に直接遭遇するのでなすすべがなかった。仕事ができない。毎日毎日他人の思惑に振り回されて、この世の地獄を見ているようなものだった。本当は周囲の人と和気あいあいと言いたいことを言い合い、一緒に楽しく過ごしたいのだ。でも人が怖いというのが障害なり、それに振り回されてどうにもならないのだ。どこでボタンの掛け違いがあったのだろう。一番は親との関わり合いに問題があったように思う。愛着障害を抱えてしまっているのがその後の人生に尾を引いているように思えてならない。だから私のような対人恐怖者やアダルトチルドレンを出さないためには、幼児、小学生までの親との関係がまともであるということがとても大切だと思う。だから親になったら親業の学習は必須であると思う。でも今の私にはすでに時遅しである。私は外向的な人のように、他人にどんなにひどいことを言われても「蛙の面にしょんべん」とい気持ちにはどうしてもなれない。一生人の思惑が気なるという資質は変えることができない。変えなくてもなんとか生き延びていけばよいのではないかと思うようになった。そんな中で森田理論学習を続けてきた。人間関係についても多くのことを学んだ。まずは100人の人すべてに好かれることはできないということだった。どうしてもうまが合わない人はいる。そういう人は最低限の付き合いだけでよい。そんな人にまで好かれる必要はない。必要なければ離れていればよいと思うようになった。また、人間関係は必要に応じて付き合ったり離れたりしている。時と場合に応じてひっついたり離れたりしている。つまり私たちが望んでいるべったりした人間関係を作りたいというのは幻想なのだ。実際にはごく薄い人間関係が多い。その人間関係も時が経てば、つぎつぎに移り変わっていく。死ぬまで続くべったりの人間関係というのはあまりない。少々イヤな人間関係であってもいずれは関わりがなくなっていくことがほとんどなのだ。そのことを忘れてはならない。次に愛着障害を変えている私にとっては心の安全基地作りは必要なことだった。私は集談会の中にそういう人を持てた。自分ことを温かいまなざしで見守ってくださる人である。何かあったときにはあの人に相談すればなんとか切り抜けられるという後ろ盾を持っていることは心強い。なかなかそういう人はいないが、そういう気持ちで探すことは必要であると思う。今では集談会のなかでも何人もそういう人を見つけた。普段は付き合いがなくても、何かあった時は安心して相談できると思える人である。集談会以外でもそういう人を持っていると十分生きていける。そう言えば、集談会以外でもそういう人がいる。何でも思ったことを言い合い、たまには言い合いになるが、雨降って地が固まるような関係である。今度はそういう安全基地の役割を私が果たしてあげなければと思っている。あとは、神経質性格は細かいことによく気がつくという特徴を活かして、小さな人の役に立つことを実践することだ。塵と積もれば自然に人間関係はよくなってくると思う。もう一つ、高良武久先生からは、人間関係をよくしようと思ったら、その道のエキスパートになりなさいというのも参考になった。10年も同じことに真摯に取り組んでいると、自信がついてきて、人の思惑を気にする度合いはきわめて小さくなる。
2016.10.25
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人間の感情にはいろんなものがある。少し整理してみよう。まずはネガティブな感情。不安、心配、恐れ、怯え、イライラ、怒り、罪悪感、嫉妬心、悲しい、憂うつ、不快など。次にポジティブな感情。楽しい、嬉しい、愉快、気持ちがよい、欲しい、食べたい、夢や希望、体を動かしたい、創作活動をしたい、人と分かり合いたい。その他いろんな欲望等など。石原加受子さんの自分中心の生き方というのは、ポジティブな感情が湧き起った時、その気持ちを素直に受け入れて、自分の感情中心に行動することの大切さを言われている。ところが普通はその気持ちを思考や言葉で押さえつけている。たとえば有給休暇を取って旅行に行って、温泉に入り美味しいものを食べたいという欲望が起きたとします。でも会社ではノルマが果たせないで、毎月未達になっている。ましてや同僚の中に葬儀以外で有給休暇を取る人はいない。自分の娯楽で休暇申請するのはわがままではないのか。罪悪感を感じて有給休暇の申請を取りやめてしまう。これは他人の思惑を気にして、他者中心の生き方になっている。そこでは自分の気持ちや感情を抑圧しているので、何かもやもやとして、心に葛藤が起きてくる。そして苦しくなる。思うようにならずに、投げやりになって、すべてを放りだしてしまったりする。対人関係で苦しい人は、そのように自分を押さえつけてしまうことに問題があるといわれている。これは森田理論でいうと、自分を「かくあるべし」で縛り上げていることだと思う。「かくあるべし」というのは、今まで受けてきた教育、規範、観念、常識、ルール等という物差しで現実、現状、事実を否定していく。事実を観念の世界に引き上げようと、悪あがきを仕掛けているのである。でもなかなか、現実を理想の状態に引き上げられない。そのジレンマに四苦八苦して、精神的にも肉体的にも苦しんでいるのである。石原さんの自分中心の生き方と森田理論の「事実本位・物事本位」の考え方は同じことだと思う。森田理論には、それ以外に不安、恐怖、不快感、違和感に対しての取り扱い方法を説明している。石原さんの自分中心の生き方には、そういう説明に重点は置かれていない。自分の気持ちや欲望に対して、素直な生き方に絞って説明されているように感じる。つまり他人中心の生き方を止めて、自分中心に生きていくことを提唱されているのである。しかしながら、神経症に陥っている人は、不安、恐怖、不快感、違和感と常に格闘している。それらを取り除こうと自分のエネルギーの大半をそこに集中さている。その時自分の気持ちや欲望は蚊帳の外に放置されている。だから森田理論では、自分中心の生き方を目指していく前になすべきことが他にある。不安、恐怖、不快感、違和感に対しての考え方や行動には問題がないのかどうか。さらに不安の特徴や役割。精神交互作用と症状の固定の関係。欲望と不安の関係。生の欲望と不安のバランスのとれた生活とは何か。それらをまず森田理論学習で深めていく。それらがよくわかった時点で、石原さんの言われる、自分中心の生き方への学習へと駒を進めるのが順序ではないのかと考える。つまり森田理論学習でいうと、思想の矛盾(理想と現実の解離による精神的な葛藤)の打破に取り組んでいくのである。そうでないと精神交互作用は解消できないのではないかと考える。
2016.10.14
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私は対人恐怖症です。DSM(アメリカ精神医学会)の回避性人格障害がぴったりと当てはまります。症状の発生と克服については、私の場合、愛着障害の分析が一つの鍵を握っていることが分かりました。愛着障害診断テストを行ったところ、強い不安型愛着障害、恐れ・回避型愛着障害に該当していることが分かりました。人間関係の持ち方に、強烈な恐れや怯えがつきまとうのは、強い愛着障害があるということがわかったのです。これは森田理論学習を進めるうえで一つの転機をもたらしました。愛着の形成は、簡単に言うと、生後6カ月からから1歳6カ月までの間に、特に母親との接触によって形作られる。この間に愛着形成が行われないと、その人はその後の人生において、極度の人間不信等に陥り、他人の思惑ばかりを気にして生活するようになる。私が小学生の時から人の思惑が気になり、神経が休まることがなかったのは、まさに愛着形成の不完全が原因だったと思うのです。小さいころから対人恐怖が強いために、人を避けることが多かったと思います。一人で過ごすことが多かった。友だちの遊びの輪の中に入り、もまれながら育ったという経験が極端に少ない。経験不足、社会体験不足で成長していったのです。対人関係で失敗することは少なかったのですが、大人になって対人関係の距離感が全く取れない。人の思惑を気にして、右往左往していました。とくに社会人になってからは、頭の中は対人関係のことばかりで、まともに仕事ができない。嫌な場面はぎりぎりまで我慢しているが、いったん我慢の限界を超えると破れかぶれな行動をとってしまう。対人不安で押しつぶされそうになりながら、苦しくて憂うつな毎日を送っていたのです。不安に翻弄されて、森田でいう「生の欲望の発揮」に活路を見出す等ということは、当時は全く考えられなかったのです。行動上の悪循環が精神の緊張を強めて、精神交互作用で神経症まっしぐらだったと思います。そして観念上の悪循環がそれに輪をかけて不安を増悪させていたと思います。「かくあるべし」の肥大化、完全主義、過度なコントロール欲求、認識の誤りなどが追い打ちをかけて自分を苦しめていたのです。こうなると糸がぐちゃぐちゃに絡まったような状態になって、もはや自分一人ではどうすることもできなかったのです。このような状態で精神科にかかりながら、藁をもすがる思いで集談会に参加し始めました。最初の頃は1ヶ月に1回の集談会では、とてもまともに生活してゆけませんでした。入院森田が適切だったのかもしれませんが、家族の生活がかかっており、入院森田は考えもしませんでした。その当時ある会員の方が土曜日に読書会をされていました。森田の勉強をしたり、個人相談にのったりされていました。最初の1年ぐらいは毎週顔を出していました。森田理論学習はしていましたがよく覚えていません。そのかわり、自分の症状や愚痴をよく聞いてもらいました。これが大変有効だったのです。たまには大型スピーカーからクラッシック音楽を聞かせてもらいました。アドバイスはあまりありませんでしたが、しゃべることで心の苦しみが軽くなったのを覚えています。自分の苦しみを批判もしないでじっと聞いてくれる人がいる。感謝してもしきれません。この方は私の心の安全基地の役割を果たしてくださっていたのだと思います。今考えると、私の苦しみの原因である愛着障害は、このような形でしか癒すことはできなかったのではないかと思います。心の安全基地作りが森田理論学習に優先して必要なことだった。私にとって人とタイミングに恵まれていたのです。その後、少しずつ森田理論学習を進めていくという段階を踏んでいたことがよかったと思うのです。玉ねぎの薄皮を剥ぐように徐々によくなっていった。振り返って今思うことは、愛着障害の人は最初のうちは森田理論学習なんてどうでもよいことなのではないか。人間が恐ろしくて、怯えまくっているのですから、そちらの手当てをすることの方がまずは必要なのではないか。集談会のなかに心の安全基地を作ってあげることが何よりも優先されなくてはならないと思う。今の集談会には、はたしてそういう認識があるのだろうか。少なくとも愛着障害がネックになって、対人恐怖症を発症しておられる人もいるという共通認識は必要だと思う。そうしないと最初から間違った対応になる可能性があるのである。最初から森田、森田と言っていると、自己満足に終わり、会員は増えないのではないか。集談会の中に心の安全基地を作るという目標があってもいいのではないか。私も力不足ながらそういう役割を担っていこうと思っている。苦しい人は、1週間に1回ぐらい話を聞いてもらいたいという人もおられるだろう。こうなると現状集談会では対応できないかもしれない。これはカウンセラーの役割になるかもしれない。ただ週1回1名ぐらい、15分から30分以内の電話対応ぐらいだったらできるかもしれないと個人的には思っている。無理のない範囲でないと長続きしない。その他、今はメールで日記指導はできる。数名ぐらいなら、1週間ぐらいの日記をメールで送ってもらい、コメントをつけて返してあげることは可能だ。ここでは森田理論学習そのものよりも、傾聴、共感、受容が重要になる。いずれにしろ、愛着障害を抱えた人に対して集談会として、どう対応するのかという議論は必要不可欠ではないだろうか。対応方法、仕組み作りを早急に整備したいものだ。森田理論学習は心の安全基地を作りあげたうえで、焦らずにゆっくりと始めればよいことなのだと思う。
2016.10.08
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イチロー選手はオリックス時代振り子打法だった。バットを長く持った姿勢で悠然と構え、ボール球であろうと、打てるエリアは打ちにいこうとするスタイルです。イチローは打てるゾーンが格段に広い。アウトローに落ちるボール球でもきっちりとレフトに打てるし、極端にいえば、ワンバウンド投球でもミートできる。だから彼はそういうリズムを崩したくなかった。ところが当時の土井正三監督や山内一弘コーチには受け入れなれなかった。土井監督は巨人のV9時代のレギュラー選手でした。山内コーチは打撃の職人といわれていた。それだけに、自分の成功したイメージを強く持っており、そのスタイルを選手に教え込めば選手の能力は大きく花開くと自信を持っておられました。そこでイチロー選手にはバットを短く持って、ボールをよく見て、コンパクトに当てることを要求しました。しかしイチロー選手はそれを拒みました。そのために二軍暮らしを余儀なくされました。たまに1軍に呼ばれても、何か少しでもミスをすると、決して悪い成績ではないにもかかわらず、下に落とされていた。そのイチロー選手は仰木監督に変わってすぐに大きく花開きました。仰木監督はイチローの振り子打法を否定せず、イチローの野球センスそのものを評価して1軍で使い続けた。「黒い猫も白い猫もネズミを獲る猫がよい猫だ」という考え方です。結果は210本ものヒットを打ったのである。(コーチ論 織田淳太郎 光文社新書参照)イチローはしっかりした自分のスタイルを持っており、意思が強かったので自分を押し通すことができたのだと思う。普通監督は現役時代の華々しい経歴を引っ提げて「自分の言うようにするとプロで飯が食えるようになる。自分の指導に従えば試合で使ってあげる」等と指導する。そう言われれば誰でもホイホイと付いていく。その結果戦力外選手になると分かっていても反対はできないだろう。これは集談会でも同じことが言える。集談会で症状を克服した人ほど、苦しんでいる人を見るとなんとか神経症の苦しみを取り除いてあげたいと思う。最初は善意から出発しているのである。ところがそのうち弾みがついてしまう。私はこのようにして神経症を克服したのだから、私と同じようにするとあなたもきっと神経症を克服できるはずだ。いい訳をしないで素直に先輩の言うことを聞いて実行しなさい。実際森田先生も入院生にそういうふうに指導されて神経症の治療をされていたのだ。だから間違いない方法なのだ。勢い自分の成功体験をもとにしてアドバイスをおこなうようになる。この関係は対等の立場ではない。先生と生徒の関係になっている。先生は生徒のことをよく知らないし、知ろうともしていない。自分の森田理論の理解がしっかりしていれば、鬼に金棒だと思っているのである。相手のことがわからなくても神経症を克服させることができると思っているのである。でも実際には反発を招いて、森田から離れていくばかりなのに反省することはなく、いつまでも自分の成功体験を押しつけようとする。成功体験を吹聴して、自己満足感を得たいのである。この関係は、関係を持てば持つほど双方ともに不幸に邁進しているようなものである。ではどうすればよいのか。イチローの例を持ち出すまでもなく、その選手の考え方ややり方、現状をこれでもかと知ろうとする態度を持ち続けることである。悩める人のよき理解者となることを目指すのである。この場合アドバイスは必ずしも必要ではない。相手が聞いてきたときは教えてあげてもよいが、それ以外はしてはならない。相手が気づいたり発見したりする楽しみを奪ってはならないのだ。ではどうするのか。カウンセリングの対話話法を学習して受容と共感の気持ちで傾聴してあげればよいのです。特に再陳述(繰り返し話法)がポイントです。これには事実の繰り返しと感情の繰り返しがあります。たとえば、「あなたは○○さんに挨拶をしようと思ったが、気後れして声をかけなかった」「その時あなたは気まずい気持ちになったんですね」などなど。これらを心がけて相手に接するだけで、少なくとも何を話してよいのか頭が真っ白になることはなくなります。相手の話したことを自分なりに言い変えるだけですので、気が楽になります。相手にとっては、この人は批判しないで自分の話をよく聞いてくれる。親身になって相談にのってくれる人だと思います。さらに相手の発言を「私はこう理解しましたよ」と繰り返してあげる。こういう態度が第一に集談会で求められている。これを無視して自分の成功体験を押し付けるということは百害あって一利なしだと思う。
2016.10.03
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岡田尊司氏はよい安全基地となるためには5つの条件があるといわれている。1、 安全感を保証するということである。これがもっとも重要なのは言うまでもない。愛着問題を抱える人にとって、一緒にいても傷つけられることがないというのが、最優先されるべき安全基地の条件なのだ。2、 感受性である。共感性と言ってもいいだろう。愛着の問題を抱える人が何を感じ、何を求めているかを察し、そこに共感することである。感受性が乏しいと、相手の気持ちがわからないばかりか、無神経なことを口にして逆に相手を傷つけたり、頓珍漢な対応ばかりしてしまい、ありがた迷惑な状況を招いてしまうかもしれない。3、 応答性である。相手が求めているときに、応じてあげることである。それはいざというときに「相談できる」「守ってもらえる」という安心感につながる。相手が求めていないことや、求めていないときに余計なことをするのも応答性から外れている。相手がすべきことを肩代わりすることは極力避けなければならない。もちろん、本人が心の中で求めていることを言いだせないというときに、それを察して、さりげなく手を差し伸べるということは必要である。4、 安定性である。相手の求めに応じたり応じなかったりと、その場の気分や都合で対応が変わるのではなく、できるだけ一貫した対応をとることである。5、 何でも話せることである。相手が隠し事をしたり、遠慮したりせずに、心の中に抱えていることをさらけだすことができることである。この条件はそれまでの4つの条件がクリアされて初めて達成できるかもしれない。私たちは集談会で愛着障害を抱えている人に接することになる。そういう人に対しては、まず愛着障害があるのかどうかを、「愛着スタイル診断テスト」(愛着障害 岡田尊司 光文社新書 312ページ)で検査することが必要だと思います。愛着障害のある人は、性急に森田理論学習のポイントを持ち出すのは控えたほうがよさそうだ。それよりも信頼関係作りに力を入れる。その上で傾聴、受容、共感の態度で相手の苦しみや悩みを聞いていく。その際基本的にはアドバイスは不必要だと思います。安全基地の役割を果たすことだけに注力することです。振り返ってみれば、私にもそういう人が集談会の場におられた。私はその人の前では何でも隠すことなく話すことができた。私の話を何度でもよく聞いて下さった。特にこれと言って役立つアドバイスはなかった。また批判めいたことは一切口にされなかった。よい点は評価して励ましてくださった。私にとってはまさに安全基地であった。何か人間関係で困ったときはあの方に相談すればなんとかなるという大きな後ろ盾を感じたものだ。では今の私がその役割を果たしているかといえば、やっと始まったばかりである。私は今までアドバイス人間であった。相手の話を十分に聴かないで自分の意見を一方的に押し付けてきた。集談会での人間関係になんか一抹の違和感を持っていたのはそういうところからきていたのだとはっきりと認識できるようになった。
2016.09.25
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岡田尊司氏は愛着障害を抱えた人は親との関係を改善していくことが、もっとも望ましいといわれる。しかしこのやり方は親が問題に気づき、子どもとの触れ合いを変えていくことが必要である。親が愛着障害を子ども自身の問題であるとみなしている限りうまくいかない。結局のところ、愛着障害を克服していく場合、第3者の関わりが不可欠といってよいだろう。その第3者は恋人やパートナー、配偶者がもっともふさわしい。人によっては集談会の先輩や仲間、カウンセラー、教師、精神科医、尊敬できる友人などもその役割を担ってくれることもある。その第3者が、親が果たしてくれなかった役割を、一時的に、場合によると数年という長いスパンで、肩代わりすることが必要なのである。そうすることで、子どもは愛着を築き直す体験をし、不安定型愛着を安定型愛着に変えていくのである。その場合に、その第3者が安全基地として機能しているということである。つまり、親の代わりをするということは、すべての面倒をみるということではなく、安全基地となることなのである。安全基地とは、いざというとき頼ることができ、守ってもらえる居場所であり、それを安全の拠り所、心の支えとすることのできる存在である。そして、外の世界を探索するためのベースキャンプでもある。トラブルや危険が生じたときには、逃げ帰ってきて、助けを求めることができるが、いつもそこに縛られる必要はない。良い安全基地であるためには本人自身の主体性が尊重され、彼らの必要や求めに応えるというスタンスが基本なのである。気持ちがまだ不安定で、心細さを感じるうちは、安全基地に頻繁に頼り、その助けを必要とするが、気持ちが安定し、安心と自信を回復するにつれて、その回数も減り、次第に自力で行動することが増えていく。さらにもっと時間が経てば、心の中で安全基地のことを、思い描くだけで十分になり、実際にそこに頼ることもなくなっていくかもしれない。それこそが究極な安全基地なのだ。これを集談会に当てはめてみると、傾聴、受容、共感できる能力を持った先輩や仲間が必要ということである。集談会ですぐにアドバイスする人は第3者にはなりえない。また非難、説教、指示、禁止、叱責をするような人も第3者には不適である。またすぐに同情して慰めてくれる人も第3者とは言い難い。私はあなたの苦しみや悩みを対症療法的に取り除いてあげることはできませんし、そんなことは一切しません。私ができることは、今現在あなたの抱えている問題や課題に寄り添って、それをじっくりと聞いて受け止めてあげることです。プライバシィに十分配慮いたしますので、どうぞ安心してお話しください。信頼感を形成して、無条件の肯定、共感的理解のできる人こそが第3者に求められているのである。カウンセリングでいう再陳述(繰り返し)、反射、明確化などの対話技法で、相手の主訴、課題や問題点をくっきりと浮かび上がらせる人が第3者適任であると考える。集談会は本来そういう人たちの集まりであるということが求められているのである。(愛着障害 岡田尊司 光文社新書より引用)
2016.09.24
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岡田尊司氏は愛着障害を抱えていない人は、4つの愛着スタイルのうち安定型であるといわれる。ちなみに4つとは、安定型、回避型、不安型、恐れ・回避型である。安定型の人はどんな人か。安定型愛着スタイルの第一の特徴は、対人関係における絆の安定性である。安定型の人は、自分が愛着し信頼している人が、自分をいつまでも愛し続けてくれることを、当然のように確信している。愛情を失ってしまうとか、嫌われてしまうなどと、思い悩むことはない。自分が困ったときや助けを求めているときには、それに必ず応えてくれると信じている。だから、気軽に相談したり、助けを求めたりすることができる。また安定型のもう一つの特徴は、その素直さと前向きな姿勢である。人の反応を肯定的に捉え、自分を否定しているとか、蔑んでいるなどと誤解することがない。そもそも人がどういう反応をするかということに、あまり左右されることがない。自分が相手の要求を拒否したり、主張を否定したりすると、相手が傷つき、自分のことを嫌うのではないかと心配したりはしない。自分の気持ちを偽ってまでも相手に合わせるよりも、自分の気持ちをオープンにさらけ出した方が、相手に対して誠実であり、お互いの理解につながると考える。自分の意見や気持ちを口にすることイコール、相手を否定することではないからだ。相手を信頼し、尊重しているからこそ、本音で話すのだと考える。互いに意見を述べて、論じ合うときも、がむしゃらに議論に勝とうとしたり、感情的に対立したりするのではなく、相手への敬意や配慮を忘れない。相手の主張によって自分が脅かされているとは受け取らないので、客観的なスタンスを保ちやすいのである。仕事と対人関係のバランスが良いことも、大きな特徴であり、ともに楽しみながら取り組むということが自然にできる。そのため、ストレスを溜めこみにくい。対人恐怖症の人はうらやましい限りである。対人恐怖症の人は「不安型」「恐れ・回避型」が多いようである。人を恐れて、他人の顔色ばかりをうかがっている。愛着障害を抱えたまま一生を過ごすことは本当につらい。明日以降、その改善方法についてみてゆきたい。(愛着障害 岡田尊司 光文社新書 210ページより引用)
2016.09.23
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対人恐怖症で悩んでおられる方は多いと思う。かくいう私もそうである。小さいころから人が恐ろしくて怯えながら生きてきたのである。恐ろしいのは仕方がないといても、どうしても人と関わりを持たないと生きていくことができない。そんな時に森田を知り、その後30年にわたり森田理論学習を続けてきた。森田理論学習では、人が恐ろしいのは仕方がない。それを否定しないで、ビクビクハラハラしながらでも最低限の仕事上、親戚や友人等とのつきあいをすればよい。また現実を無視して「かくあるべし」で自分や他人をコントロールしようとすると葛藤が深まり苦しくなっていく。いつもしっかりと事実、現実、現状に軸足をおいて、事実本位に生活していくことを学んだ。それをもとにして実践、実行に取り組んできた。おかげで有意義な人生を送っているとしみじみと思えるようになった。さらに森田以外にもとても役に立ったと思えるものがあることに気がついた。それは「愛着障害」「愛着スタイル」の学習であった。愛着障害はこのブログでも過去に何回も投稿してきた。愛着の形成は、簡単に言うと、0歳から3歳までの特に母親との触れ合いによって獲得される。特に生後6ケ月から1年6カ月の間の母親との触れ合いがとても大事である。3歳を過ぎると思ったほどの効果は上がらないといわれている。母親が近くにいて子どもとのスキンシップを十分にとる。そして子どもが求めたときは、すぐに応答できる人間関係が大切である。そのうち子どもは少しずつ母親から離れていくが、ストレスや不安を感じたときは、母親という「安全基地」にいつでも戻ってこられて、抱っこしてもらって安全を確保して安心を得ることが大切である。しかし何らかの事情によって、愛着の形成がうまく乗り越えられない場合がある。たとえば、この間母親の仕事の関係で、早くから保育園等に預けられた。死別、離婚等で母親がいなかった。また母親が家にいても虐待、過干渉、過保護などで育てられると、愛着の形成は不完全となる。愛着障害はその後生育するにつれて、見捨てられ不安、過度に人の思惑を気にする等で生きづらさを露呈させる。つまり我々が苦しんでいる対人恐怖症の温床となるのである。日本の「愛着障害」研究の第一人者は岡田尊司氏である。「愛着障害」(光文社新書)という本に「愛着スタイル診断テスト」がある。45項目の質問項目がある。これをやってみたところ、私の場合、きわめて大きな「愛着障害」を抱えていることが分かった。岡田氏は「愛着障害」を抱えている人は、いきなり認知行動療法等の心理療法などをおこなっても効果がないばかりか、かえって悪化することもあるといわれる。森田療法も同様であるかもしれない。「愛着障害」の改善に向けての治療法がまず先にこないと、闇夜に鉄砲を放つようなものだといわれる。子ども時代をやり直すことは不可能であるので、「愛着障害」の克服は不可能ではないのかという疑問がある。しかし岡田氏は、それは違うといわれている。子どもの時の「愛着障害」は大人になっても修復可能であるとしてその方法をいろいろと提案されている。あす以降さらにみてゆきたい。詳しく知りたい方は、同氏の「愛着障害 子どもの時代を引きずる人々」に詳しいので参考にしていただきたい。ちなみにこの本は大反響を呼び、大増刷を重ねている本である。
2016.09.22
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現在マンションの管理人をしているが、集合住宅ではいろんな人間模様が展開されている。一人完全に孤立してしまった主婦の人がいる。その人の姿を見ると回れ右をして方向転換をして関わりを拒否している居住者が多い。私は管理人なので居住者全員に平等に接しないとならない。その人は話し相手がいなくてうつ状態になっているので寂しいのだろう。ときどき管理人室にやってきて世間話をしていく。それも30分は普通。時には昼休みの時間をはさんで1時間以上にも及ぶ。話の内容はいつも同じような話だ。スーパーのレジの対応の悪さ、ガソリンスタンドの店員の緩慢な対応、マンション内の他の居住者の悪口、出入り業者のマナーの悪さなどである。先日こんなことがあった。マンションでは消防点検が実施される。その時は家の中に入り込んで消防機器を点検する。その方は家に業者が入られるのがイヤだという。その理由は家の中に雑菌を持ちこんだり、家の壁や床を傷つけられるからだという。そのためにこれまでに何度もトラブルを起こしてきた。その方が管理人室にやってきて「今回は消防点検は見送りたいがそれでいいか」と言われた。私は「それでよいと思います。私が消防点検を受けるか受けないかは強制することはできないんですよ。居住者の都合によって今回はパスしたいという方もいらっしゃいます」と言った。すると4日ほどして管理会社から電話が入った。その人が会社にクレームの電話をしたのだ。「管理人が消防点検は受けなくていいといった。消防点検を受けないとマンション全体の安全性に問題が生じるはずだ。そんな権限が管理人にあるのか。そんなことをいう管理人は替えてくれ」管理会社はその人の肩を持って一方的に私を詰問してきた。「どうしてそんなことを言ったのか。消防点検は消防署に提出書類であり全居住者に受けてもらわないと困ることだ。そのような対応をして居住者に不信感を与えるような発言は見逃せない。そんな些細なことから次年度の契約更新がダメになる。居住者の言うことが本当なら始末書を書いてもらうことになる。最悪解雇事案にあたる可能性がある」私はそれを聞いて腹が立ってきた。どうして管理会社はもっと事実関係を確認しようとしないのだろう。居住者からの電話は間違いないと決めつけて、一方的に管理人を悪者に仕上げているのではないか。理不尽極まる言いがかりである。管理人の対応は本当のところはどうだったのか。事実を確かめる必要があるのではないか。その上でどう対応するかを決めてもらいたかった。私はまだしばらくはこの会社で働きたいという気持ちがあったので、その時の対応を思い出してていねいに詳細を説明した。「消防点検を受けるか受けないかは居住者に任されています。私が絶対に受けなければならないと強制はできません」それ以上のことも、それ以下のことも言っていませんと説明した。これを聞いて会社がどう処分するか、まな板の鯉のような心境だった。そして電話を切った。しばらくすると、「今支店長等と対応を協議した。あなたの言い分はよく分かりました。あの方はよくトラブルを起こす方なので、今後事実だけを聞いて自分の意見は決して言わないように。今回の処分は見送ることにした」「また今後世間話には付き合わないように。それでも管理人室に来るようなら、次の仕事をする必要があるので10分ぐらいでよろしいでしょうかと最初に時間制限の了解を得てからするようにという指示を受けた」なんとも後味の悪い結末であった。
2016.09.17
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東京の荒川区で、欠席過多による原級すえおきを繰返している登校拒否児がいた。この少年は、学校に行かないときは、窓のカーテンも開けず、薄くらい部屋に一人でひきこもっていたことが多かったという。自殺未遂をおこしたこともあるという。その彼が、クラスの仲間たちの粘り強い働きかけが功を奏して、2学期の半ばになってやっと登校するようになった。ちょうど、間近に迫っていた文化祭の準備期間だったこともあり、クラスの一員として活躍する場が次々と与えられた。クラスで上演することになっていた劇の舞台装置を準備する役になる。クラスの代表で出したポンターが学校中の1位になり、文化祭のプログラムの表紙として採用された。彼のクラスでは、クラスの仲間がそれぞれ得意な分野で、「小先生」になりお互いに教え合う制度があった。そこで、技術科が得意であることが分かった彼は、ここで先生役として仲間で教えることもした。こうして、仲間とやり取りをする中で、活き活きと活動し、一日も休まず登校するようになる。その年度の終わりには、新年度の前項の生徒会長にも選ばれるほどになった。そして、「学校が生きがいだ」とさえ、口にするまでに変わった。(無気力の心理学 稲垣加世子他 中公新書 74ページより引用)大変好感のもてる話だと思います。このエピソードのポイントは第一にクラスの仲間の温かい励ましが挙げられます。2番目に、彼自身がつらい精神状態を横に置いて、目の前のなすべき課題にすっと入っていけたということが挙げられます。活動の中で成功体験を味わい、自分は人の役に立つことができるという感触をつかんでいる。それをクラスの仲間が評価してくれて、自分の生きがいに転嫁することができた。仲間から必要とされているという確かな手ごたえ、これが、ただ単に無気力から回復させるのに寄与したというだけではない。生きる意欲ともいうべきものの形成にもつながっていることがよく分かる。こうしてみると、自分と同じ仲間に属する人々からの是認、関心、感謝が自分の存在意義を自覚させて、活き活きとした活動への源になることが分かる。こういう温かい人間関係作りを、自分の生活範囲の中で、最低一つは築きたいものだ。森田理論学習に「人のために尽くす」というのがある。これは温かい人間関係を築く上で大いに役に立つと思う。森田先生は一言も「人のために尽くせ」とは言われていないと思う。でも、これに近いことは言われている。「人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことはどうでもよいというふうに、大胆になれば、はじめて人からも愛され、善人ともなるのである」(森田正馬全集第5巻205ページ)神経症で苦しんでいる人は、意識や注意は常に内向している。それをある程度外向きに変化することができるようになることが重要になる。そのためにはつらい症状を抱えたまま目の前に取り組んでみることが有効である。そこに「人のために尽くす」ということを取り入れてみるとさらによいと思う。考えてみれば、神経症で苦しんでいる男性の人は、家事や育児にはほとんど手をつけない。まずは家庭内で実践してみるのはどうだろうか。掃除、洗濯、整理整頓、食事の準備や後片付け、ペットや草花の世話、車の洗車、隣近所との付き合いなどで自分の役割を決めて果たすことを始めたらどうだろうか。そこから少しステップアップして常に他人の役に立つことを探して、実行に移すというのはどうだろうか。すばるクリニックの伊丹先生は次のようなことを提案されている。1、 人に言葉をかける。あいさつ程度から始める。2、 ちょっとしたものをプレゼントする。読み終わった新聞や本など。3、 自分が持っていてもいなくてもよいようなものを貸してあげる。4、 ゴミを拾うとか、肩を叩いてあげるとか、あるいは靴を揃えるとか労力を提供する。5、 自分の持っている智恵や情報を提供してあげる。6、 人が困っていることがあれば、その人の話をよく聞いてあげる。7、 温かい言葉をかけてあげる。例えばお年寄りや病気の人に会ったら、「お元気そうですね」と一言かけてあげる。(生きがい療法でガンに勝つ 伊丹仁朗 講談社 251ページより引用)一つ一つは小さいことですが、そういう実践ができるということは、自分の症状や不安に向かっていた意識や注意が、外向きに変わっているということだと思います。森田は注意や意識を内向きから外向きに転換することをお勧めしているのである。
2016.09.09
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あなたの上司にこんなことを言う人はいませんか。「あなたは何年この会社にいるんですか。本当に大学を出ているの。この仕事に対する能力が無いんじゃないの。同僚に比べて情けないとは思わないの」「いい歳をして、常識も分からないんだから、困った人だ。みんな軽蔑しているよ」「またミスをして。何度注意をすれば分かるんですか。もう外からの電話はとらなくてもいいですよ」「ロクに仕事ができないくせに、こっちの足を引っ張るのはやめてくれ」「私の仕事は君の尻ぬぐいではないんだぞ」「毎月ノルマが達成できないのなら会社のお荷物だし退職しかないな」「何だ、その顔は。言いたいことがあるのなら言ったらいいじゃないか」どこの職場にもいるような上司です。こんなことを言われた時、あなたはどう対応していますか。すぐさま猛反撃を開始して、「あんまりじゃないですか。人をバカにするのもいい加減にしてください」と破れかぶれになることはありませんか。私の職場でもあまりにも腹が立って暴力に訴えた人がいました。すべて退職に追い込まれてしまいました。こうしたケースを森田理論で考えてみましょう。こうした上司は自分の不快な感情を部下にぶっつけて、自分の気持ちをスッキリさせようとしているのです。また、森田でいうと「かくあるべし」の強い上司です。上司の立場を利用して、自分の主義、主張を部下に押し付けているのです。こういうのをパワーハラスメントと言います。部下を自分の思い通りにコントロールしようとしているのですが、部下との確執を深めるばかりです。そのことに気が付いていない上司が多い。このような部下に対する感情攻撃は、不快な感情を取り除こうとして、精神交互作用を繰り返し神経症への泥沼へと陥っていく過程とそっくりだと思われませんか。森田では不快な感情は自然現象なのでどうすることもできない。そのまま持ちこたえていれば、薄まったり、流れていくと言っている。そんなことをやりくりするよりは、目の前の仕事に取り組んだ方がよほど有意義である。そうすれば不快な感情をやり過ごしてよかったということになる。このような上司は森田理論の「感情の法則」を知らないので、不快な感情は意志の力で取り除くことができると思っているのです。そういう意味では、森田理論を知らなくて、対処法が分からないかわいそうな人なのです。それにまともに反発する部下の場合はどうでしょうか。実はそういう人も、上司にバカにされた不快感をなんとかして取り去りたいと思っている人なのです。自分の不安、恐怖、不快感はどうすることもできない自然現象である。自然現象は素直に受け入れる。服従するのだということが、森田理論学習で、頭では理解できていても、実際の行動としては対応できていない人だと思います。残念なことです。では感情攻撃をしてくる上司にどう対応すればよいのでしょうか。基本はまともに取り合わないことです。相撲でいえばがっぷりよつに組まないことです。ぶつかり合うと見せていなす方法が有効だと思います。これで相手が勢い余って土俵を割ってくれればという気持ちでいることです。売り言葉に買い言葉といわれるような対応は、火に油を注いでつらい思いをするばかりです。では具体的にはどうするか。英会話を勉強している人の例。罵詈雑言を頭の中で翻訳するそうだ。「翻訳が難しいと、すみませんそこのところもう一度繰り返してもらえませんか」という。バカと言われれば、「その通りです」。能なしやろうといわれれば、「そうかもしれません」ミスをしつこく攻められれば、「申し訳ありません」。それに対して上司が「申し訳ないで済めば警察はいらない」といえば、反発しないでまた、「まことに申し訳ありません」を繰返す。感情攻撃が長びけば、「すみません。急におなかが痛くなりました。我慢できません。さきにトイレに行かせてもらってもいいですか」と言って中座する。一呼吸置くのだ。そして缶コーヒーを飲んだり、深呼吸をしてみる。誹謗中傷が始まれば、頭の中で好きな人のこと、好きな食べ物、夢中になっている趣味やスポーツのことを考えてみる。上司の感情攻撃がいかにも応えたという演技をする。うなだれて再起不能というような迫真の演技をする。女性の場合はシクシクと泣く演技をする。上司の方に「これはちょっとやりすぎたか」という気が起こるような演技をする。それを他の部下も見ているのだ。だいたい自分の不快感を部下にぶつけることによって、スッキリとしたい上司は会社内をうろついている蝮やハブだと思った方がよい。近寄らない方が無難である。避けられないときでも、絶対に棒などで威嚇してはならない。突きまわしているとトグロを巻いて突然飛びかかってくるのが関の山である。噛みついて毒針から猛毒で攻められたら命の保証はないと心得るべきだ。ここでは対決姿勢を引っ込めて、かわしていくという心構えを大切にしたい。その方法はこれ以外でもいろいろと自分で事前にいくつか用意しておくことだ。そしてその不満は同僚や親しい人に愚痴として吐き出していくことがベターであると思う。そうしないとストレスが蓄積されて最悪、うつ病、胃潰瘍、十二指腸潰瘍になる。
2016.08.29
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「青い鳥症候群」ということが言われる。若者で、現状に見切りをつけて、理想の恋人、学校、仕事などを求めて行動する人のことをいう。こう言う人の特徴を精神科医の比嘉千賀さんは次のように指摘されている。(1999,9,15の講話より引用)1、 一流大学を卒業して、エリートサラリーマンとして就職したにもかかわらず、すぐに挫折して退職してしまう。2、 謙虚さに乏しく、尊大に見える幼児的万能感を持つ。3、 仕事上の仲間との協調性に欠け、対人関係を円滑に維持することが苦手。4、 忍耐力に乏しく、一定期間の訓練的単純労働にも耐えられない。5、 高い知能や学力とは裏腹に、世間的常識や人情の機微に鈍感で、状況音痴的言動で人目を引くことが多い。6、 何かにつけて批判能力にたけてはいるが、おおむね自己中心的で、現実認識と現実対処能力にかなり歪みがある。7、 自我の発達が未熟で、過去の学力のみ自信を持ち、目標達成のための努力や積み重ねをせずに、労せずに一挙にその成果を得ようとする。8、 比較的能力は高いが、自己不全感の強い他責傾向の強い神経症者。9、 「良い大学、良い会社、良い生活」という画一的な社会価値観の中で、過干渉・脅威気ままに育てられた。これらを見てみると、「青い鳥症候群」の人は、親から、愛着障害、過保護、過干渉、放任などで育ててきたために社会にすんなりと適応できなくなっている。また、あまりにも偏差値重視の学力偏重で生きてきた。雑多な人間関係で揉まれる機会を持てず、対人関係の距離の取り方が分からない。光を当てずに短時間で「もやし」を育てたようなものです。これで自立して生きてゆきなさいと言われても、生きていく基礎力が無いのでどだい無理な話である。でも遅まきながら、人間の再教育をして、社会に適応してゆかないと将来が完全に閉ざされてしまう。さらに、森田神経症に陥るような人は、自分自身に注意や意識が向きやすいという特徴も持っているので一層生きにくくなっている。これらを踏まえて2点ほど提言しておきたい。まず目を外に向けて、目標や課題に挑戦する態度を養成すること。二番目には、対人関係のあり方を見直していくこと。そのためには、学生さんの場合は勉強ばかりではなく、課外活動にも取り組んでほしい。スポーツだけではなく文化系の課外活動もある。どちらでも自分の興味のあるものを見つけてほしい。課外活動に取り組んでいると、勉強以外の目標や課題にも取り組めることになる。大学受験という目標だけではなく、課外活動という目標は将来の人生にとって必ず役に立つと思う。現在は友だち付き合いをしなくても、家でネットゲーム等をして楽しむことはできる。それ以外にも自分ひとりで楽しむ方法はいくらでもある。でもそれはお勧めできない。それだけでは、人と協力して目標に向かって努力するという経験は持てない。また人間関係で揉まれるという経験が持てなくなってしまう。そういう状態で社会に出て、シビアな人間関係で躓くのは目に見えているのだ。社会人の場合は、職場の人間関係だけで大きく振り回されているという人もいるだろう。会社での人間関係はどうしてもとげとげしくなると思います。それはまずいと思います。会社以外の利害関係のない、趣味の会、集談会、町内会などの人間関係作りをお勧めします。次に会社は基本的には、生活費を稼ぐところだと思います。私の経験では、定年まで働いて自分と家族の生活を維持できれば十分だと思います。集談会では「月給鳥」という鳥になって、餌を捕ってきましょうと聞きました。会社では管理職を目指して熾烈な出世街道を突っ走っている人もいました。でもそういう人は一旦管理職失格の烙印を押されると、窓際族として生きていくか、退職するしかないんですよ。そうならないためには、私は会社勤めもクビにならない程度に、ホドホドの取り組みをお勧めしたいと思います。集談会でも生活信条として、「ホドホド道」を勧める人もいます。
2016.08.27
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先日、NHKで「不寛容の社会」という番組をやっていた。「不寛容」というのは、他人のあやまちや欠点を許さない社会のことだそうだ。森田理論にも関係する大変興味深い番組で、心理学者や一般の人が20人ぐらいで議論をしていた。その中で一番目を引いたのは東京大学の鳥海不二夫先生のツイッターの分析の話だった。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という患者さん(ホーキング博士もその病気だそうだ)支援のために、「アイス・バケツ・チャレンジ」というのがあった。頭からバケツの氷水を浴びるというものだった。ソフトバンクの孫さん、楽天の三木谷さんたちのチャレンジで有名になった。これに対して賛否両論、ツイッターで67万件もの書き込みがあった。鳥海氏はそのうち31万件を分析された。これによると賛成派と反対派に明確に分かれていた。賛成派の理由は、「活動に賛同した」「みんなで寄付をしよう」「寄付をしたよ」「素晴らしい」「秀逸なプロジェクトだ」「病気を知ることは大切だ」「患者を支援しよう」などだった。反対派の理由は、「売名行為だ」「うさんくさい」「水の無駄だ」「偽善だ」「氷水をかぶって楽しんでいる」「自分が患者だったら喜ばない」「ALS患者は喜ばない」「病気に関心を持つ人はいない」などだった。ツイッターでは誰かがつぶやくと、その意見に対してリツイートがある。自分が賛成の立場だと、賛成の意見にたいしてリツイートする傾向が強い。反対の立場だと反対意見に対してリツイートする傾向が強い。自分と反対意見へのリツイートは1割に満たなかったという。つまり反対意見は無視してしまうのだ。たとえばALS患者が、「アイス・バケツ・チャレンジ」活動や寄付に対して「心から感謝しています」というつぶやきを投稿した。これに対して賛成派の人は100名以上の人がリツイートとしている。ところが反対派の人のリツイートは全くなかったという。これは何を物語っているか。自分に合わない人とは没交渉である。最初から毛嫌いしているのだ。人の意見は聞かなくて、一方的に自分のいいたいことを独り言としてつぶやく。それに対してリツイートされればうれしい。なければそれでもよしという感覚。お互いの反対意見の人の言い分をよく聞いて、よりよい意見の集約を図ろうという気持ちは最初からないのである。相手の考えと自分の考え方の違いを吟味してみようという気持ちはさらさらない。一方的に自分の立場でいいたい放題のことをいう。そして自分のスタンスに合わない人は、敵とみなす。敵はみんなして批判、排除、攻撃してしまうということである。これをネットでおこなっていると次第にエスカレートしてくるという。するとこんなことが起きる。最初反対派だったのに、賛成派の気持ちも分かるというようなリツイートをするような人がたまに出てくる。するとその人は、反対派内で裏切り者として袋叩きされるという。同質性を裏切る行為は背信行為とみなされるのである。森田では二者択一で片方に偏ることを危うい傾向と警戒している。100か0、白か黒、正しいか間違いか、良いか悪いかと価値判断することである。ここで言う賛成派、反対派はその両極端に離れてしまいそれぞれに固まってしまう。そしてそれらが対立しているのである。森田では、真実はつねにその両極端のまん中あたりにあるという。自分の意見が相手と違う場合は、すぐに否定や排除をしないで、相手の言い分をよく聞いて、調和を模索するという姿勢がどうしても必要だ。そうでないと相手といがみ合うようになり、結局は自分自身が自分の首を絞めているということに気づく必要がある。もはや現代人は調和、バランス感覚を失い、議論、話し合いによる事態収拾という道は放棄してしまっているのであろうか。傾聴、受容、共感という温かい人間関係は死語になってしまったのであろうか。今やネットを使って誰でも自由に自分の意見を述べることができる。先日保育園に落ちた働く主婦の「保育園に落ちた、日本死ね」という書き込みは、日本全国で反響があり、国会をも政府をも巻き込む議論に発展した。このようにネットは良い方にも悪い方にも独り歩きして加速度を増して過激になってしまうのである。悪いほうに情報操作されれば数日でネット炎上現象が起きてしまう。その数、2015年は年間1000件に上っているという。書き込みをしているうちに最初は穏やかだった人が、精神交互作用でどんどん憎しみを増大させて生きるか殺すかという精神状態になるのだ。これは意見の合わない人を暴力で攻撃するという危うい社会だ。元々は好感が持てる人だったのにネットの書き込みのせいで、醜い人間に変化してきたのだ。これが始まったのは1995年といわれている。まだ20年しか経っていない。今後ネットの普及で、自分の信念、思想、生活スタイルに合わない人を、有無を言わせずに切り捨てたり、排除する風潮は益々加速されるだろうと思う。その社会は人間同士が戦い、人類の破滅の方向に向かっているように思えてならない。ここにも森田的視点から社会に対して警鐘を鳴らす必要があると思う。
2016.08.23
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夫婦の人間関係に2通りあるようだ。一つは、今度生まれ変わったとして、また同じ人と結婚したいと思っている人。二つ目のパターンは、とんでもない。今の配偶者とは絶対に結婚したくない。相手のやることなすことすべてが癪に障る。顔を見ることすら嫌悪感を覚えるという人。一つ目のパターンは、理想的な夫婦のように思える。でもいいことばかりではないようだ。どちらかが亡くなると、残された方は生きる意欲がなくなる。特に男性の場合は数年で自分も亡くなるケースが多い。二つ目のパターンは、表面上夫婦でありながら別の人生を歩んでいるので、あまりダメージは受けないようだ。女性でも男性でも、再婚して新しい人生をスタートさせる人すらいる。でも二つ目のパターンの場合は、普段は夫婦ともに人間的な触れ合いはなく、精神的につらいばかりではなく、いがみ合ってばかりでは身体面にも悪影響が出てくる。なかには、仕事が終わってもすぐに家に帰らず、奥さんが寝静まった頃を見計らって帰宅している人もいるそうだ。こうしてみると基本的には、一のパターンの夫婦がいいようだ。私の知り合いに一番目のパターンの夫婦がいる。二人とも好奇心旺盛でさまざまなことに手を出している。その中で、この夫婦はよく口げんかをする。奥さんはかっとなることはめったにないが、旦那さんはすぐに頭に血が昇る。その場では線香花火のように口げんかをするのだが、見ているとすぐに収まる。それは旦那のほうが引き下がるからである。私が見ていて思うのは、いつも奥さんの方に分がある。それは奥さんが事実を具体的に正しく指摘するからだ。それが第三者から見ていても客観的で正しい。旦那さんが自分のやったことを間違いない。正しいと思っていることを奥さんが「それは違う。あんたは間違っている」と指摘する。すると旦那は絶対に間違ってはいないと反発する。または自分のやり方を通そうとする。一応は反発してみるものの、奥さんが何回も「あんたが間違っている」といわれると、そのうち引き下がっているというパターンがいつも繰り返されている。あんなにいつも奥さんにやりこめられてばかりでストレスはたまらないのだろうか。ところがその旦那さんが言うことには、「うちの奥さんほど協力的な人はいない。だからできるだけ家内のやりたいことはやらせるようにしている」という。小さい衝突はいつも発生しているが、無意識の部分でお互いを信頼しているのだと思う。土台の部分で固い絆で結ばれているのだと思う。海でいえば表面上大波が立って大荒れでも、海の底では波が立っていないようなものだ。これなら口喧嘩でいいたい放題なのも刺激が合って面白い。私の場合は、お恥ずかしい話だが、これが反対になっている。つまり、表面上は波が全く立っていないのだが、海の底は潮の動きが激しいのだ。イヤ、海の底の動きが激しすぎるので、表面上の動きを意識的に抑えているというのが現状だ。森田理論学習では、自分の感情、気持ち、意思、希望などは口に出して吐き出す方がいいと学んだ。それを我慢したり耐えたりしていると、それはストレスとして蓄積されていく。それが限界に達したとき、ひずみの解放が一挙におこなわれる。地震のひずみの解放とよく似ている。素敵な夫婦、素敵な人間関係というのは、相手は自分の思い通りにコントロールできるものではない。だから相手の言い分をよく聞いて、相手を分かろうとする気持ちを十分に持ち合せているのだと思う。この時点では、配偶者と自分の感情、気持ち、意思、希望と違っていてもよいのだと思う。その先は、お互いに勇気を持って話合い、許し合い、妥協点を探す努力を続けることが肝心であると思う。最悪は相手を拒否したり、無視したり、抑圧したり、脅迫したりすることである。
2016.08.16
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ひろさちやさんのお話です。知人のインド人が、病気の父親を看護するため、6ヶ月間会社を休んだそうです。それを聞いたわたしは、「6カ月も会社を休んで、よく首にならずにすんだね」と言いました。すると彼は、「え!日本では、父親の病気で6カ月会社を休めば首になるのですか」と驚いています。「6カ月どころか、6日も休めば首になるよ」と応ずると、インド人は呆気にとられた顔をしました。ところで、その父親は回復せずに6カ月後に亡くなったそうです。そこで病名を訪ねると、「病名はよく分かりません」との答え。実はその6カ月のあいだに医師がやってきたのはたったの2度。病名もはっきりしないまま亡くなったのだとインド人は言います。これらは日本と反対です。(諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店 162ページより引用)日本でインド人のようなことをすると、公務員以外はたいてい職を失います。医療を受けさせないのは医療ネグレクトといって本人は厳しく糾弾されます。テレビなどのマスコミに取り上げられ、極悪非道な人間として扱われます。経済発展をして高度な医療を享けられる日本人。医師や看護師は毎日患者を診てくれます。しかし、息子が見舞に行くのは6カ月のあいだにたったの2度。これは少々極端かもしれません。でもあたらずといえども遠からずではないでしょうか。これが親にやさしい日本の子どもの姿です。寝たきりになり認知症があり、特別養護老人ホームに入所した高齢の親を見舞うことは本当に少なくなっているのです。第一都会から通っていると、そのたびごとに交通費がかさみます。何時間もかけて見舞う時間的余裕もありません。たとえ見舞に行っても、親は植物人間になっているのですから、会話はありません。ただ生命を維持しているだけにすぎないのです。これが自分を生んで育ててくれた親に対する態度かと憤ってみたところで、実態がそうなっているのです。おむつを子どもが取り替えるということは全く考えられません。全部専門職の人の仕事となっています。風呂に入れたりシーツを取り換えたり、食事の世話をするのもそうです。狭い部屋に2人、3人と見も知らずの人と毎日生活をさせるのはしのびないと言っても、背に腹は代えられません。悲しいかな、これは近い将来のあなたの姿でもあるのです。すべてを施設にお任せして、お金で済まそうとしているのです。親をものとして扱っているのです。自分はその施設利用代の支払いのためにさらにあくせくと働かざるを得ないのが実態です。自分も人間としてではなく、物として生きていかざるを得なくなっているのです。つまり便利、快適、楽ができる代わりに、働き蜂や、働きアリのように一生涯、金儲けだけのために働かざるを得なくなってしまっているのです。親子の絆、周りの人たちの人間的つながりはどんどん失われているのです。こんな生き方でいいのだろうか。森田理論学習をしていてしみじみと考えさせられます。
2016.08.06
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高良武久先生は、神経質なひとの自己中心というのは、普通言われている自己中心な人とは違うと言われています。一般的には、自己中心的な人は、人に何を言われても平気、身勝手、わがまま、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人のことをいいます。こう言う人は周囲の人から嫌われます。自己愛性人格障害の人はまさにこのような人です。神経質な人はひとから嫌われてはいけないという気持ちを持ち合せているために、そういう自己中心的な行為はとらない。ひたすら注意や意識が自分に向かう。自己内省的になる。わずかな他人の言動を大きく拡大して、傷ついてしまう。挙句の果てには、自己否定に陥り、行動は逃避的になる。長谷川洋三氏がこんな話をされていた。海外へ単身赴任をする夫を空港まで見送りに来た奥さん。空港には会社関係の人が何人か見送りに来られていた。それを見た奥さんは、突然何も言わずにその場を離れて車に戻った。というのはこの奥さんは赤面恐怖があった。赤くなった顔を会社の人が見たら変に思うのではないか。きっとそう思うはずだ。さらにそんな醜態は夫にも迷惑がかかるのではないか。夫に迷惑をかけてはならないと考えたのだった。そこでとっさに身を隠そうと思い立ったのだった。神経症の人の自己中心の典型的な例である。これを見て会社の人はどう思うか。なかには体の調子でも悪くなったのかなと思う人もいるかもしれない。でもたいていは、思いやりのない冷たい奥さんだなと思われるのではなかろうか。自分の思いと周囲の人の見方が反対になってしまっているのである。一方で生活の発見会の会員の中には、こんな人がいた。神経症に陥ってつらい日々を過ごしていた人が、森田療法のおかげで、よくなってきた。会社でも仕事本位になり、着実に成果を出して昇進も果たし、周囲の人に評価されてきた。ところが、その人が集談会に来ると自信満々でアドバイスをするようになったのだ。自分の体験をもとにして、叱咤激励するものだから多くの人に煙たがられているのである。岩田真理さんによると、ごく一部の方ですが、神経症を克服した人で、頑固で、自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちや場の雰囲気などおかまいなく自分のいいたいことを言う人がいます。ときどき「あの人は神経症があった時の方が付き合いやすかった」と評されているのです。この人は、神経質症の症状のために劣等感で苦しんでいたのが、裏返って優越感になっているのかもしれない。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 10ページより引用)こう言う人は根が自己中心的な人であろうか。多少はあたっているかもしれない。私が思うには、この人は「半治り」の人だと思います。「半治り」の人はこういう状態を現す人もいるのである。表面的には、まさに自己中心的な人そのものである。こう言う傾向のある人は、是非とも完治を目指していってほしい。どうして「半治り」状態に甘んじておられるのか。それは森田の完治を、「症状はあるがままに受け入れて、なすべきをなす」ことだけにこだわっておられるからである。森田理論では、治り方は大きく分けて2つあると紹介している。もう一つの治り方は、「かくあるべし」的思考方法を少なくしていくことである。そのことを森田では「思想の矛盾」を解消していくと言っている。「半治り」の人は、半分は治っているのである。いいところまでは到達しているのである。ところがその先、前進することを止めてしまったために、自己中心の弊害が出てきたのである。また、現状の自分を認めることができないために、心の底からスッキリとした展望を描ききれていないのである。「かくあるべし」を修正して、事実や現実を大切にするようになった人は、他人を叱咤激励するようなことはしない。他人の話をよく聞き、受容と共感で相手に寄り添うことができる人である。つまり、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人ではなくなる。それはいつも現実、現状、事実から出発できる能力を獲得しているからである。そういう視点で、集談会に参加している人を見ていると興味は尽きないのである。
2016.08.05
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51歳の男性の方で、職場で疎外されて悩んでいる人の相談です。ある製造業の会社員です。25年勤務しているのですが、職場の雰囲気になじめず、皆から信用もなく蚊帳の外のような状態で悩んでおります。具体的には、仕事のミスが多かったり、それに対して上司がぼろくそに言ったりして、また皆の前で罵倒するため、下のもの、女子等もみんな自分をバカにしているみたいです。誰も自分に必要以外は話しかけてこない。自分は腰痛があって重いものを持つことができないが、誰も手伝ってくれない。症状としては、ビクビクして仕事が手につかない。自信がない。腰痛があり、自分の体が思うように動かない。自分の体が自分でないように感じる。頭がふらっとする。倒れるのではないか。こんな状態で社会生活を営めるのだろうか。廃人になるのではとかの恐怖、判断力の低下などがあります。あなたの悩みは対人恐怖症でつらい人生を送ってきた私と同じです。私の場合は不眠やうつがありましたので精神科にかかり抗不安薬や睡眠薬をもらいながら会社勤めをしておりました。今考えるとあまりにもつらい時は、自分ひとりで悩まずに精神科にかかったり、カウンセラーの力を借りることも有効ではないかと思います。私の場合は集談会の仲間たちとの温かい交流や助言が一番効きました。自助グループは同じ悩みを抱えている人たちの集まりですので安心できます。ピア・カウンセリングの傾聴、受容と共感の体験は役に立つと思います。是非気に入った集談会を見つけて、継続して参加されることをお勧めします。そして1年ぐらい参加していると世話活動に参加されるとよいと思います。私は図書係、副代表幹事、代表幹事、支部委員などの役割を任されました。それに一生懸命に取り組んでいました。特に一泊学習会の企画や実施は大変役に立ちました。みんなと役割分担しながら、問題点を一つ一つつぶして準備をしてゆきました。そしてなんとか無難に終えた後は充実感でいっぱいでした。そういう経験を集談会の中で何度も経験させていただきました。その経験がそのまま会社の中で活かすことができるようになりました。懇親会の幹事役。会社の移転などの責任者にも指名していただき、1年がかりで遂行しました。それから人をまとめて仕事を遂行するような仕事を任せられるようにもなりました。集談会は小さな社会のようなものです。少々失敗してもみんな大目に見てくれます。ここでできる範囲で訓練を積んでゆけば、仕事の段取り、対人関係の持ち方を習得できます。活用しない手はないと思います。それから腰痛ですが、お医者さんや整体にはいかれていますか。器質的な痛みでしたら治す必要があると思います。あなたの今の置かれている状態は、森田理論でいうと精神交互作用で観念上の悪循環が起きていると思われます。意識や注意が自己内省的で、ネガティブで悲観的な方面に向かっています。さらに行動面の悪循環が起きています。いわば蟻地獄に落ちているような状態です。そうなると「生の欲望の発揮」という面が蚊帳の外に置かれているのです。ここが問題です。バランスが崩れて自分が神経症で苦しむ原因を作りだしているのです。一刻も早く蟻地獄から這い出ることが当面の目標となります。あなたのよいところは、休職したり、休暇をとったりしないで会社に出続けておられることです。今はそれを継続されることをお勧めします。「月給鳥という鳥になって餌を捕ってくる」のだという目的はしっかり持っていてください。そのあとは、このブログで取り上げているように、実践課題への取り組み、メモを利用したきめ細かい行動・実践へとステップアップしてゆかれるとよいと思います。あなたは今の会社での人間関係をアドバイスで一挙に解決したいと思っておられると思います。それはちょっと難しいと思います。「急がば回れ」という言葉があります。神経症の悩みの解決も不安に正面切って挑むよりも、外堀を埋めていくという方法が一番確実で間違いのない方法だということを認識していただきたいと思います。
2016.07.29
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結婚相手に「やさしい人」を求めることが多い。大平健氏によると、旧来の語法では、「やさしい人」とは、相手が自分の気持ちを察してくれて、それをわが事のように受け容れてくれるときに感じるものでした。自分が「やさしい」気持ちになれるのも、自分が相手と同じ心持になった時のことでした。いずれの場合も「やさしさ」が双方にとって心地よいのは、自分と他人の気持ちのずれがなくなり、一体感が得られるからでした。そういう状態になるためには、お互いに相手の考え方や行動をよくわかった上で、相手に寄り添った言動が必要になります。集談会でいえば、自分の悩みをよく聞いてくれて、共感して受容してくれる。そして適切なアドバイスをしてくれるような人のことだろうか。ところが、大平氏によると、最近の「やさしさ」はそういう人間関係の在り方とは違ってきたといわれる。一歩踏み込んだ生々しい人間関係を避けるようになってきた。そういうかゆい所に手を差し伸べてかゆみをとってくれるような「やさしい人」は敬遠されるようになってきたという。そういう人を「うっとうしい人」、「わずらわしい人」として避けるようになってきた。つかず離れず適度の距離を置いて、相手の心の痛みは見て見ぬふりをするのが相手を思いやることなのだと思っている。相手の嫌がるようなことから目をそらして、静観してあげるのが「やさしい人」だというのである。手出し無用だというのだ。土足でズカズカと自分の心の領域に踏み込んでおせっかいを焼かれるのもイヤだし、おせっかいを焼くのもイヤだというのである。たとえば、欲しくもないものを売りつけたり、売りつけられたりすることは敬遠する。売りつけて断られると自分が傷つくし、押し売りを断ると相手が傷つく。人に頼みごとをするのも、他人から頼みごとをされるのもしり込みしてしまうのも同様の理由からである。こうなると、人間関係は必然的にあたらずさわらず表面的なものになってしまう。森田理論学習では、時と場合に応じて、つきず離れず適当なバランスを取りながら人間関係を築いていくのを「不即不離」という。森田では人間関係ではベタベタと付きまとってはいけない。かといって全く離れてしまうのもいけないという。時と場合に応じて、ひっついたりあるいは離れたり臨機応変な対応が大切であるという。この考え方は大平氏のいう考え方と同じなのであろうか。私が思うには、大平氏のいう「やさしい人」というのは、お互いに心がとても傷つきやすい人である。ちょっとした傷つきで心がかき乱されて、日常生活に大きな影響が出てくる。それなら、親密な人間関係を築くことを避けてしまおうという考え方である。旧来の人間関係は同じ町内ではみんなが子どもの教育を担っていた。年頃になれば結婚相手を紹介したりしていた。相互の人間的交流は今と比べ物にならない。普段から私生活のすべてにわたって助け合っていい面も多かった。ところがそうした親密な人間関係の半面で、個人の自由に干渉してわずらわしい面もあった。現代では他人に束縛されて、自由がないというのは息が詰まる。その気持ちが一番強い。他人と情愛のこもった人間関係を築きたいというのは頭の中に理想としてはある。しかし実際問題としては、深入りして、熱い人間関係を構築することは、自分の自由が束縛されて息が詰まってくるので、当たり障りのない表面的な人間関係を基本姿勢としているのである。では、こういう人間関係の考え方、基本姿勢で臨むことは問題はないのだろうか。私は問題が大ありだと思う。こういう考え方をする人は、モラトリアム人間に近い。自分の目の前に現れた問題や課題に対して蓋をして先送りしてしまうのである。一時的には楽になるが問題が解決したわけではない。むしろ問題を引きずり、どんどん増悪して自分を苦しめてしまう。今現在を真剣に生きるということから見ると、夢の中で生活しているような状態である。こういう人の特徴は、さまざまな問題に対して決断できない。迷ってばかりで解決の糸口が見いだせない。いつまでもウジウジと葛藤を繰り返す。「いちおう」「とりあえず」という言葉が口癖になっている人が多い。これは自分の言動は急場しのぎのものであり、仮の見解である。自分が本当に求めているものは別にあると思っている。今現在生きているという自覚に欠けているために、ぼんやりとして離人感に苦しめられることもある。次に今現在熱中できるものが何もないと思っている。今していることがはたして自分が本当に望んでいることなのか。自分は本当に人生を謳歌して楽しんでいるのか。全く自信が持てない。人生は幸せの青い鳥探しだと思っている。だから30歳になっても、40歳になっても自分探しの旅を続けている。でもこれといったものが見つからない。またそういう人は、他人に深入りをしないから憶測で相手の気持ちを判断するようになる。事実を確かめないで、先入観で、ネガティブな決めつけをおこなっている。勝手に自分ひとりで納得しているので、人間関係は希薄なうえに、疑心暗鬼でいっぱいになるのである。こうしてみると現在の表面的な「やさしい人」というのは、精神的に葛藤を抱えて苦しみやすい人だと言えるような気がする。これらを改善していくには、今現在のことに真剣に向き合う癖をつけていくことが大切である。それは森田理論学習とその実践で得られることであると考える。(やさしさの精神病理 大平健 岩波書店参照)
2016.07.28
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次に高良武久先生が人間関係で楽になる道は、その道のエキスパートになることだと言われている。一つのことを10年も続けていると、その道ではある程度専門家になれる。この道では誰にも負けないという自負があると、少々人から間抜けだ、馬鹿だと言われても立ちあがれないほどの心の痛手は受けないものである。ぜひそういうものを持ちたいものである。コツコツと努力していくのが得意な神経質者は取り組みやすいのではないかと思う。次に自己中心的な人は、内観療法をお勧めしたい。7日間の集中内観を受けると自然と身の周りの人に感謝できるようになる。しかしこれはそのままにしておくと元の木阿弥になってしまう。家に帰ってからも日常内観を継続しておくことが大切である。次に私たちは自己主張が下手なのだから、少しは自己主張の方法を学んでいくことだ。いつも相手のいいなりになったり、我慢して耐えたりしていてはストレスがたまる。小分けにして自分の気持ちを表現していく方法を学んでいくことだ。これはテクニックの問題だ。その方法としてはアサーショントレーニングがある。自分の気持ちを正直に伝え、かつ相手にも配慮した主張的な言い方を会得していくのだ。そのポイントをあげておく。何かの本で見つけたのだが、忘れたので資料名を示せないのでご了解いただきたい。1、自分の気持ちを考える我慢したり押し殺したり、感情任せになるのではなく、自分の正直な気持ちはどういうものなのかをしっかりと考える。2、つぎに相手の気持ちを考える。自分の気持ちを一方的に伝えるのではなく、それを言われた相手がどのように感じるのかということを考える。3、自分を主語にして発信する。「私は・・・」という表現を用いることで,自分の気持ちを伝えやすくなる。攻撃的表現になりがちな人は「あなたは・・・」と相手を主語にしていることが多い。相手を主語にすると,どうしても否定的になりやすいし,相手を責めた口調になるので気をつける。これは「あなたメッセージ」から「私メッセージ」への発信の転換である。4、前向き,肯定的な言葉を用いる「できない」などの否定表現や自分の立場だけを考えた言葉は使用しない。「~したらできる」など,肯定的でポジティブな言葉を使用したほうが相手も受け取りやすい。5、気持ちを伝える自分の感情・気持ちを表す言葉を用いることで正直な気持ちを伝えやすくなる。「~していただけると嬉しい」,「~だと助かります」,「~で困っています」など。6、お願いの表現を用いる「こうすべきだ」,「こうしなさい」などと支配的,一方的に言うのではなく、「~してほしい」という表現のほうが受け取りやすいし、お互いに意見が違っていても協力的に進めやすい。たとえば・・・Aさんは顧客のトラブル対応のため、明日までに宿題を仕上げなくてはなりません。残業は確定です。下手をすると徹夜になるかもと覚悟したその時、上司のBさんがやってきてこう言います。「さっきMailしておいた報告書の件だけど、明日までに仕上げてね。よろしく。」この場合、Aさんは上司Bさんにどのように返答すればより良い結果が生まれるでしょうか?一例を挙げると・・・「実はお客様から宿題を頂きました。明日までに仕上げなくてはならないので、申し訳ないですが報告書の作成は今は出来ません。」と、ていねいに、しかし、はっきりと伝えます。その上でスケジュールを確認し、「明日のXX時以降でしたら報告書作成に取り掛かれそうなのですが、いかがでしょうか?」と前向きな対案・提案を行うことができればとても良いでしょう。自分の意見も相手の意見も大切にしており、意見の食い違いがあっても歩み寄ろうとする姿勢が見られます。たとえ自分の意見が通らなくても、相手に自分の気持ちを率直に伝え、対等にコミュニケーションができたことで、お互いにストレスを感じることもなく、さわやかな印象が残るだろうと思います。最後に、ユーモアあふれる生活を送る。これについては、6月1日にその一端をご紹介しているのでご覧ください。我々は楽しむために生れてきたのだから、大いに人生を楽しみましょう。そしてそのおすそ分けを周りの人にしましょう。これらを実践して、生活という車輪が少しずつ前に向かって進み出すとしめたものだ。そのうち弾みがついて、新しい気づきや発見が増えてくることだろう。その時は対人的な悩みは、あることはあるが気にならない程度にしぼまっていることだろう。初めから目一杯のところを目指さないで、1年経って少しは違う自分がいるというぐらいがちょうどよい。
2016.06.06
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子どもにとっていじめられてクラスで孤立することは、薄氷の上を歩いているようなものだ。生きた心地はしないと思う。大人でも会社で上司、同僚、女子社員等から無視されて孤立無援になると大変なストレスになる。私が苦しかった時はそんな状態だった。私はそんな人に言いたい。決してあきらめることはない。改善する方法がある。森田理論学習に希望がある。こういう方は森田理論学習をして、森田を生活指針として生きていく術を身につけてもらいたい。そうすれば私みたいになんとか生きていける。孤立している時は、蟻地獄の底に落ちてもがけばもがくほど底にずり落ちてしまう状況です。そういう人は対人関係の持ち方や在り方が分からないし、自分が信じられないのだと思う。まずどうしてそうなったかという現状をしっかりと把握していくことが大切だ。これは親の育て方に問題があったのである。自分に責任があったのではない。だから自己嫌悪したり自己否定する必要は全くない。また罪悪感で苦しまなくてもよいのだ。まずは愛着障害。そして過保護、過干渉、放任等の育て方をされてきたのだ。自分の意思が尊重されず、抑圧されて親にいいなりになってきた。だから、もっとやる気を出せとか、言いたいことがあったら言えばいいじゃないかと言われても、いまさらおいおいと出せる状況にはないのだ。また自己中心的で、他人を思いやる気持ちも育たなかった。でも赤ちゃんからもう一度やり直すことはできない。また親を恨んだところで自分がみじめになるだけだ。親も自分の親からそのように育てられたので、自分の子どもをどう教育していいのか分からないままに育ててきたのだ。そういう意味では親もまた被害者なのである。子育てを学ぶ機会がなく、自己流の方法をとってきたというのが問題だったのである。さて森田理論で状況が好転すると言っても、ケガが跡形もなく完治するようなわけにはいかない。そこは誤解しないでほしい。今の対人的な苦しみが10%か20%でも少なくなればよしという人にとっては福音となりうる。まず愛着障害の改善です。愛着の修復は、何かにつけて自分に寄り添ってくれる人を作るということです。そういう人が一人もいないと生きていくことは茨の道となる。いつもは自分のすることを温かく見守っていて、励ましたり、ほめてくれたりする人です。いざ窮地になった時は助けに入ってくれる人です。そういう人を見つけましよう。本来は親がその役割を果たすべきです。ところがいじめにあっている人は、親にそれを期待することはできません。しかし、親に変わってそういう人を見つけておくことは必要です。私は集談会にそういう人がいました。30年以上集談会に参加してきました。その人は1回も私のことを非難したり説教された事はありません。いつも温かく見守って、いつも気にかけてくださっていました。そういう後ろ盾を得て、集談会の中では自由に役割を果たすことができるようになったのだと思います。そして、その後ろ盾を頼りにして会社勤めがなんとかできたのである。私の場合は運が良かったのかもしれません。そういう人はなかなかいないかもしれません。私はせめて集談会の場は、傾聴、受容、共感の場になるようにお互いに配慮したいものだと思います。他人を非難したり、強引なアドバイスをしたりすると傷つきやすいガラスコップのような私たちの心はすぐに割れてしまいます。集談会の場では、気にくわないことがあっても、なるべく口にしないようにしましょう。それと、いじめにあっている人というのは人間関係の幅がとても狭い。これはまずいいことだと思います。コップいっぱいの人間関係を2、3個しか持っていないというのはとても危ない。その人たちが自分に危害を加えるようなことをしたらいっぺんに人間関係が壊れて、孤立してしまう。コップに少しだけ水が入っているような人間関係をたくさん作っていくのが森田流です。だから人間関係の幅を広げていく努力をする必要がある。配偶者、家族、親戚、同級生、集談会、勉強会、趣味の会、飲み友達、ボランティア関係、仕事関係、隣人、親子会など身の回りの人間関係は幅広いのである。深入りは必要ない。時と場合に応じて必要な人間関係を、必要なだけ薄く幅広く作ることを心がけていくべきだと思う。そうすると学校や仕事での人間関係が壊れても、別の人間関係が救いになる。そういう時こそ助けてもらえることがある。さらに幅広い人間関係の中に自分と相性が合う人は自然に見つかるものであると思う。それと学校や職場でいったん孤立してしまうとこの状態が永遠に続いてしまうような錯覚に陥る。しかし現実は違う。学校は卒業してしまえばいったんは解散になる。職場でも、上司は常に変わるし、同僚も入退社を繰り返している。特に女子社員などは頻繁に入れ替わっている会社が多い。どこの会社に行ってもうまの合わない人間は必ずいる。でもその人たちと一生にわたって付き合うわけではないということもしっかりと認識しておきたい。愛着障害を抱えた人は、後ろ盾がないので、人間関係作りはとても困難ではあるのは確かだ。無理のない範囲で愛着の回復を遅まきながら進めていくことが大切だと思う。次に無気力、無関心、依存的、刹那的快楽主義の自分をどうしていくのかですが、明日投稿します。
2016.06.04
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子育てする人には是非とも学習しておいてもらいたいことがある。それは愛着障害のことである。愛着障害を持っている人はとても生きることがつらい。生き地獄の生活を味わうことになるからである。この内容については何度も投稿しているので、関心のある方はキーワード検索で見てほしい。愛着障害は生後6カ月から1歳6カ月の愛着形成期を無難に過ごすことができたかどうかが一番の問題となる。さらにその後3歳までの親との関わり方が決定的となる。問題育児の一例をあげてみると、子育てに無関心な親で身の回りの世話をしてもらえない。育児放棄や虐待を受けていた。この時期に母親が働きに出ていてそばにいなかった。次に生まれた子どもに手がかかり、ほったらかしにされていた。養子に出される。児童養護施設で育てられる。実母がこの時期に亡くなった。両親がしょっちゅういさかいを起こしていた。挙句のはてに離婚した。一方的な過干渉、過保護などの育て方をされた。愛着障害が問題なのは、この期間を過ぎた後では十分な成果を上げることはないことだ。この間、特に母親の間に十分なスキンシップがあったかどうか。母親が子どもの欲求を感じとり、それに対して速やかに応答してきたかどうかが問題となる。これは他人に肩代わりしてもらう事は出来ない。自分を生んだ母親や父親など特別の存在との交流が重要である。それはイスラエルのキブツでの実験で明らかになっている。生まれたての子どもに対して、母親と切り離して、多くの大人が子どもに関わりをもち、かわいがり、十分なスキンシップをしたが、安定した愛着が育っていくことはなかったそうだ。こうした実験はサルでも行われていたが、あまりにも問題が大きく、倫理的な観点から母子隔離・単独飼育は現在行われていないそうです。この時期を無難に過ごし、いったん愛着の絆が形成されると、それは容易に消されることはない。心の中に「安全基地」「ベースキャンプ」を持っていて、そこを足がかりにして冒険をすることができるようになる。そして危険なとき、苦しい時は、安心してそこに退避できる。さらにエネルギーを補給して再び飛び出すことができるようになる。エベレスト登山のような場合、「安全基地」「ベースキャンプ」がないとどうなるか。シェルパや支援部隊がいないと、急な悪天候で容易に挫折してしまう。愛着の絆の形成はそういうものなのだ。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書参照)それでは、愛着障害を抱えた人はそういう運命のもとに生れて来たのだとあきらめるしかないのか。これは必ずしもそうではない。「子育て支援に活かす心理学」という本がある。かすかな希望を持って、この中で紹介されている対策を紹介してみたい。1、「修復的愛着療法」があるそうです。この療法は、まず愛着に問題がある子どもの理解を深める。次に愛することや愛されることへの恐れを解決する。そして、親が子どもをサポートできるように親を支援する。さらに、親自身の愛着関係の見直し、両親の夫婦面接による夫婦の絆の再構築と続きます。2、フライバーグが提唱した「乳幼児―親心理療法」もあります。子ども、親、治療者の3者が治療場面に存在する治療法です。3、親子関係の修復がむずかしいケースでは、親ではない別の人物が愛着の対象になるという方法もあります。その有力候補は、保育士、幼稚園、小学校の教諭などです。(「子育て支援に活かす心理学」 繁多進編 新曜社参照)
2016.05.21
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対人恐怖症の原因は親の養育よるところが大きい。ハリー・ハーローはアカゲザルを使って実験をしている。針金で親をイメージした人形を2体作る。片方には哺乳瓶を持たせる。片方にはその人形を毛布でくるむ。どちらの人形にアカゲザルの赤ちゃんが懐いてくるのかを観察したのである。すると人形を毛布でくるんだ人形に懐くことが分かった。このことから愛着の形成は食べ物を与えるよりも親の接触、温かみ、ぬくもりが重要な役割を果たしていることが分かった。またアダルトチルドレンの原因は、親の過保護、過干渉。親のアルコール依存症。親の長時間の不在等が原因とされている。その結果子どもに「見捨てられ不安」が強くなり、大人になって対人関係の悪化や精神障害を引き起こすと言われている。普通の子育てでは、自分の周りに親がいて世話をやいてくれる。自分が生まれてきたことを親が喜んでくれている。すると自分の心のよりどころを得てくるのだと思う。心の安全基地を持つことができるのだ。その後ろ盾をよりどころとしながら、少しずつ外部との接触を始めることができるようになる。最終的には親から自立して、親から離れていく。ところがそういう育ち方の経験がないとつらい人生が待ち構えている。まず自分は生まれてきてはいけなかったのではないかという疑念が生まれる。そしてひょっとして、自分は親とっては迷惑な存在なのではないか。親にとっては好ましくない人間なのではないか。きっとそうだ。間違いないと思いはじめる。そしてついにそれが確信に変わる。自分が受け入れられない存在だと思うと、周りの人がすべて敵に見えるようになる。自分を攻撃する人間に見えてしまうのだ。それに対して防御態勢を敷かないと踏みつぶされてしまうような被害妄想に悩まされる。自分は孤立している寂しい人間に見えてくる。こんな敵が多い状態では社会に溶け込んで、まともな社会生活を送ることは無理ではないかと思うようになる。社会の荒波の中で仕事をしてゆく自信がなえてくる。適応不安が芽生え、それが確たるものとなる。アパシー状態になるのである。この状態では無条件に相手に甘えるということはできなくなる。また相手の甘えも自分としては受け入れることができなくなる。本来は自分のやりたいことを優先して相手に甘えたり甘えられたりするのだが、それができなくなる。相手の機嫌がことのほか気になるのである。そのうち、相手に何らかの利益をもたらさないと自分を受け入れてもらえないのではないか。自分が相手に甘えるということは取引をするようなものになる。自分の存在自体が相手に無条件に受け入れられる場合もあるということは思ってもみないということになる。次第に自分の思うように人生を生きていくことができなくなる。さらに、自分の欠点や弱み、ミスや失敗は相手を不快にさせるので、絶対にあってはならないと思うようになる。そんなことをすれば益々相手に嫌われて甘えは受け入れられなくなる。だからそういうことは隠す、逃げる、取り繕う、ごまかして相手の眼に触れさせないようにするようになる。さらに表面的な自分を見栄えの良いものに塗り固めることに注意を払うようになる。ありのままの自分を出すことはなくなる。いつも相手の顔色ばかりを気にしているととても生きることがつらい。何のために生きているのだろうと思うようになる。いつも何かに怯えたようになりビクビクして神経が休まることはない。意識は常に対人関係に向けられ、そんな自分を自己否定するようになる。もともと自分は親の養育の犠牲者なのだから、親を反面教師として観察して、自分の生き方を変えてゆけばよいのである。ところが愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は、親を憎んではいるが、自ら進んで親から離れようとはしない。それは親を否定しながらも、心の中ではなんとか親に受け入れてもらいたいという未練があるからだ。この傾向は親だけではなく、社会に出てからもそうである。こちらの方が問題としては大きい。自分を非難したり、無視したり、拒否したり、否定する人は自分の周りにたくさんいる。その人たちとの人間関係はある程度距離を置いて、自分の気の合う人を探せばよいのだがそうは考えない。自分を馬鹿にする人との人間関係をなんとか修復しようとする傾向がある。相手の仕打ちに対して耐えたり、我慢したりして仕事をしているのである。その人と距離を置いているが頭の中ではそのことでとらわれ続けている。精神衛生上極めて問題のある対応である。そして自分を引き立ててくれるような人たちは眼中にないかのような付き合い方をする。それはその人との人間関係を修復しない限り、自分の人間関係は永遠によくならず、孤立して寂しい人生に陥ってしまう。そうなれば社会から永遠に抹殺されてしまうという恐怖感からきているのではないかと思われる。集談会でも愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は大変多い。かくいう私もそうである。もはや昔に戻って人生をやり直すわけにもいかない。今出来ることは、そのからくりをよく学習して自分の置かれた現状を自覚することである。事実関係をよく見つめてみることである。事実がよく分かるようになれば自然に対応策が見えるようになるものである。その上で親の養育は問題があったのだから、恨んでもよいと思う。精神的には親とは一線を置くしかないと思う。これは別の考え方をしている人がいるかもしれない。私の場合はそう思うというだけのことである。それから対人関係は、会社の人間関係だけで固まることは危険である。集談会、趣味の会、地域社会、PTA、同窓生、親戚関係、ボランティアなどいろんな人間関係があると思う。広く浅く多くの人と時と場合に応じて付き合うことをお勧めしたい。それから愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は職業の選び方は注意して選んでほしいと思う。私のようにいきなり訪問営業のような仕事は難しい。私も9年で挫折した。人間関係がそんなにシビアでないような仕事。一人で技を究めていくような仕事。動物や植物を相手にするような仕事。他人から「ありがとうございます」と感謝されるような仕事。等など。私たちに向いている仕事はいくらでも見つかるはずだ。職業の紹介の本など見て間違いのない職業選びをしてもらいたいと思う。
2016.05.14
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私はアダルトチルドレンです。父親はアルコール依存症で肝臓を悪くして、52歳の時に心不全で亡くなりました。私はその父親のもとで物心ついたころから、過干渉で、叱責されながら育ってきました。それが大人になって、いつもビクビクオドオドして対人関係で問題を抱え、生きにくくなった原因ではないかと考えています。アダルトチルドレンの特徴は次のようなものがあるいわれています。1、 常に親や他人の顔色をうかがい、自己主張が全くできない人になります。どうしてそうなるのか、というと、常に相手の機嫌をとっていないと、相手は自分から去っていく、見捨てられてしまう、と思っているからです。他人中心の生き方をしていますので生きることが苦しくなっています。2、 自分で自分を否定しています。自己嫌悪に陥り、自己評価が低くなります。自分の中に二人の人間がいて、絶えずけんかをしているようなものです。一人の自分の中でたえず葛藤があります。また他人からの叱責や罵声に極度に敏感になり心が休まりません。3、 自己評価が低いために尊大で誇大的な傾向の人もいます。過剰に自分を目立たせようとするのです。不必要な努力をしているために疲れ果てています。4、 見捨てられるのが恐ろしく、他人の誘いや要請を断ることができません。それが重荷になり、最終的には人間関係が逃避的になります。そして孤独感、寂しさに苦しみます。5、 自分より弱い人、自分の世話を待っている人に出会うと、その人を支配し、離れられないようにします。つまり共依存関係にしがみつきます。人を一方的に支配し、さらに嫉妬深くなります。6、 他人の言葉や振る舞いを好意的に解釈することができず、悪意の目で見てしまいます。怒りや恨みを鬱積させて、ときにこれが暴発することもあります。はけ口を求めて暴力的になるだけではなく、反対に抑うつ、無力感、喘息、潰瘍性大腸炎、摂食障害、薬物依存、ギャンブル依存などに陥る人もいます。7、 離人感が出てくる人もいます。例えば、「自分が自分でないような感じ」「自分がなぜここにいるのか分からなくなった感じ」「自分と外界とが薄い膜に隔てられているような感じ」「自分の行為が自分から発しているように感じられず、それを漫然と見ているような感じ」(アダルト・チルドレンと家族 斎藤学 学陽書房参照)私の場合5番目を除いてすべて当てはまっています。特に大学卒業後に訪問営業の仕事についた時、対人恐怖がもろに出てきました。お客さんからの断りの言葉を聞くと、自分を否定されたような気持ちになりました。そのうち仕事に行くことができなくなり、仕事をさぼるようになりました。すると上司や同僚から軽蔑されるようになりました。また自分で自分を否定するようになり、生きていくことがとても苦痛になりました。最終的にはその仕事は9年で退職しました。今考えるとアダルトチルドレンの場合は職業の選択はある程度限られるのではないかと思います。対人関係作りが難しいわけですから、対人関係の少ない仕事を選ぶべきではなかったかと考えます。出来れば普段は自分一人でも出来るような仕事がよかったのではないかと思います。それを極めていくマイスターのような仕事が向いているのではないかと思っています。次にアダルトチルドレンにとって、森田理論は役に立つのかどうかということですが、私は大いに役に立つと思います。人に見捨てられては生きていけないというのは、これは体に染みついたようなものですからなかなかぬけることはないような気がします。でも、自己嫌悪、自己否定していた自分を森田理論学習で折り合いをつけていくことは十分可能であると思います。つまりあるがままの自己を肯定できて、自分を活かして生きていくことはできると思います。私の場合は、「かくあるべし」のからくりを学び、事実を認めていくという経験を積み重ねて、事実本位の態度を身につけることによって、ありのままの自分をそのまま認めることができるようになってきたと思います。また規則正しい生活に丁寧に取り組み、雑事を大切にするようになりました。また一人一芸を磨きあげることで生きることが楽しくなってきたような気がします。アダルトチルドレンの本質的なところは何ら改善は出来ていないのかもしれません。でも神経質性格でよかった、これからは自分の与えられた命の限り精一杯生き抜いてゆきたいと思えるようになりましたのでこれで十分だと思っています。集談会でもアダルトチルドレンの話は時々出てきます。なかなか改善は難しいようです。でもある程度改善できれば、社会に適応することが可能となり、仕事を持って生活できます。また生きることを心の底から楽しめるようになれると考えています。アダルトチルドレンの人には是非とも森田理論学習をお勧めしたいと思います。
2016.04.17
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山崎房一さんが嫁・姑の問題でこんな話を紹介されています。その方のご主人は3人兄弟で、みんな東京や千葉に住んでいる。3人の嫁に嫌われている口うるさい75歳の姑さんは山梨で一人暮らしをしている。この嫌な姑が5月に、それぞれ1週間の滞在予定で兄と弟の家へ泊まり、最後にこの方のところへやってくることになっている。ところが、兄や弟の家では、冷たい態度で、みんなから邪魔者扱いされた。そこで1週間を3日に切り上げて、この方のところにやってくるという連絡が入った。この方は兄弟の嫁さん以上にこの姑さんを憎んでいた。許せないと思っておられた。過去に子どもが交通事故で亡くなった時、ひどい仕打ちをされた事があったからだ。でも、その気持ちはそのままにして、実際の対応は演技をしてみようと考えられた。駅に迎えに行った時、「おばあちゃん、ようこそ。待っていたのよ」と姑の小さな手荷物を持ち、手をとって案内をした。家に着くと、「これはね、おばあちゃんが来られるので一番上等なのを買ったのよ」といってとっておきの羊かんを出した。おばあちゃんはうれしそうだった。この方はおばあちゃんに優しい言葉をいっぱいかけた。お風呂の湯加減を見てあげたり、肩をもんであげたりした。居心地が良かったのか、1週間の予定を延期して12日も滞在して山梨に帰って行った。その夜9時ごろ、家におばあちゃんから電話がかかってきた。夫が出た。おばあちゃんは「とても楽しかった。ありがとう」と言っていたそうだ。夫が喜んで感謝してくれたので、その方もうれしかったそうです。それから数日して、おばあちゃんの夢を見た。どんな夢だったかは忘れたが、私の枕は涙でぬれていた。山崎房一さんに対応を相談したとき、「悪い姑はどんなに憎んでもかまいません。でもその気持ちを言葉や態度には出してはいけません。演技をしなさい」というアドバイスが役に立ったそうです。するといつの間にか姑に対する今までの憎しみ、恨みはすっと消えていたそうです。森田理論では憎しみや恨みの感情は自然現象だから、どうすることもできないといいます。それらを抱えたまま、行動は感情とは切り離して考える。適切な行動が、自分と相手の人間関係をしだいに改善していくのだと思います。(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所参照)
2016.04.12
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子どもは中学生くらいになると、親離れを始める。いつも親の指示に従っていた子どもが、しだいに自己主張するようになり、自立への道を歩み始めるのである。親からしてみると、今まで素直に親の言うことを受け入れていた子どもが反抗を始めるのでとても戸惑う。親はどのように子離れをしてゆけばよいのだろうか。その前提として、親は子どもを心身とも成長させて、自立支援をしていくという大きな役目を持っているのだという認識を持って子どもと接することが大切であると思う。いくらかわいくても自分とは別の人格を持った一人の人間であり、将来は親と離れて自分の力で生きてゆかなければならないのである。さて、人間は1歳6カ月までに親の愛に包まれて育てられることがとても重要であるという。これは愛着の形成ともいう。愛着の形成の経験がないと、大人になって「見捨てられ不安」でのたうち回るようになる。その後は、子どもの自由な行動を近くにいて見守っていてくれている親。そして、いざという時には自分の味方になってくれる親。これは「安心基地」としての親の存在のことをいう。親が「安心基地」としての役割を果たしてくれると、そこをベースキャンプにして、子どもはしだいに親から離れて活動できるようになる。自立が始まるのである。そう考えると、親の過保護、過干渉、育児放棄は親離れの大きな障害となる。過保護は本来子どもが自分でするべきことを親が先回りして取り上げてしまうことである。子どもは自信をつける機会を奪われ、さまざまな能力の獲得を身につけることができなくなる。するとしだいにやる気や意欲が湧いて来なくなる。自分の欲望を見失い、何もやりたいことがないというふうになる。無気力、無関心、無感動な子どもになってしまう。そのうちいつまでも親に依存して生きていく子どもになっていく。そのときになって反省しても遅い。こうなると親離れすることは非常に困難となる。過干渉は森田理論の「かくあるべし」と関係がある。子どもは小さい頃、もたもたしてやることが遅い。親が「もたもたしないで早くしなさい」「そんなことをしてはいけません」「何度言ったらわかるの」「どうして○○ちゃんのようにできないの」などという言葉を連発しているようだと要注意である。「かくあるべし」は子どもを親の所有物、ペットのように考えて、自分の思う通りにコントロールしようとしていることである。遅かれ早かれ子どもの反発を招いてしまう。そのときに反省してももう遅いのだ。さらに、子どもの言動に親が切れてしまって、子育て放棄をすることはもっと問題である。子どもにとっては自分を保護してくれる親に嫌われるということは、とてもつらいことだ。「もう勝手にしろ」「出ていけ」「もううちの子ではない」「もう面倒は見ないから」などと関心を持たれなくなって放任状態にさらされることは、生き地獄に追いやられるようなものだ。こんな状態が続けば、多くの子どもたちは、親や先生、友達の前でありのままの自分を出すことができなくなってしまう。自分の気持ち、思い、希望、欲望を抑えたり隠したりして、ご機嫌を窺うことばかりするようになる。なんの問題もないかのような「よい子」を演じるようになる。でもこれは子どもにとって、精神的にとても疲れる。欲求不満がたまるのである。人間は本来自分の欲望、意思、気持ち、希望に向かって生きている時がいちばん活き活きできる。反自然な生き方はマントルの地殻の歪のようにいつか反動で爆発する。そのイライラが溜まり、思春期の親離れの時期を迎えたときに噴出してくるのではないだろうか。ひきこもり、不登校、非行、家庭内暴力は、子どもが命をかけて大人に、子どもとの接し方について問題提起してくれているように見える。
2016.03.20
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最近日本では3組に一人が離婚しているという。理由は、性格の不一致、暴力、異性関係、経済的破綻などが原因とされている。もともと身も知らずの男女が知り合い、結婚する時点には、あばたもえくぼに見えて理想的な伴侶のような気がしている。ところが結婚生活の蜜月期間を過ぎて、子どもが生まれ、ともに助け合いながら共同生活をしているうちに相手の欠点や弱みが見えてくる。そしてそれが虫眼鏡で見るようにしだいに拡大してくる。良いところもあれば悪いところもあるのが人間だと思っていればよいが、自分の気にくわないところは絶対に許せないと思ってしまうと即離婚問題に発展する。夫婦のどちらもが相手を意のままにコントロールしようとしていると話がかみ合うことはない。即離婚に発展するか、離婚していなくても別居か、同居していても家庭内別居状態に発展する。夫婦のどちらかが主導権をとり、相手を従属させている場合は、表面上は穏やかに見えるが、従属させられている方はどんどんストレスがたまっていく。主導権を持っている方は、麻痺してしまい、言葉づかいからして暴力的になる。熟年離婚の大きな原因となる。そうならないためにはどうしたらよいのか。夫婦間の問題は、たいていは些細なことから発生する。そのときにどう対応するかがとても大切である。火種は小さいうちに消していくというお互いの共通認識が必要となる。問題が起きるとすぐに話し合うのが一番望ましい。でもなかなか時間が取れないことも多い。そういう時のために日記に書いておくのはどうだろうか。相手の理不尽と思える言動をありのままに記録に残しておくのだ。それを1週間に1回とか、1カ月に1回お互いに持ちより話し合いをするのだ。まず困っている人が自分の痛み、苦しみ、不便を話します。この時はお互いに弁解は無用であり、聞き手はまず耳を傾け、あとで話し合うという姿勢が大切です。話し手は、相手がどんなことをやり、それについて自分がどんな風に感じているのかについてのみ話します。相手はなぜそんなことをしたのかとか、相手のことを非難するのではなく、困っていることを説明し、自分の気持ちを言い、相手を責めたり非難したりしないということが最も大切なルールです。具体的な進め方と注意点は次のようになる。1、 一方が他方を牛耳らないようにする。そのためには、発言の順序を待つ。2、 現在の問題のみを取り上げ、過去のこと昔のことを蒸し返さない。3、 自分の生活をもっとよいものにするために、相手にどうしてほしいかということに焦点を合わす。4、 抽象的なことを言わず、具体的に話す。5、 相手の言動のなかから、変えてほしいことを1つだけ選び出す。6、 その取り上げた言動が、自分にとってどんな具合に苦痛を与えているかを具体的に話すとともに、どうしてほしいかを伝える。7、 この間、相手側は言葉をさしはさまず、とくかく聞く。(カウンセラー入門 武田建 誠信書房参照)
2016.03.18
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高垣忠一郎氏は、自分の感情や気持ちを言語化することの苦手な中学生や高校生が少なくないといわれる。人間は自分の感情や気持ちを言語化することによって、はっきりとそれを自覚することができる。また、自分の考えや悩みを言語化して、他者に伝えることによって、相手に理解してもらえるし、共に考えてもらうこともできる。人間が自立するということは、誰の手も借りずに生きることではない。必要なときに他者に理解してもらい、ともに考えてもらうことによって、悩みが解決することもある。そういう力を持つことは、社会的に自立していく上で非常に大切なことだ。自分の悩みが言語化できないと、他者にわかってもらえず、自分ひとりでそれを背負って生きていかなければならない。また悩みを言語化できないということは、それがどこから生じるどういう悩みであるのか、その悩みの正体を自覚できないということである。正体のわからぬ悩みは、合理的に解決することができない。ゆえに、言葉によって整理されないわけのわからぬ葛藤や緊張、不安が解決されずに、心の中にたまっていく。主観的には「ドキドキ」「イライラ」「モヤモヤ」が高じてくる。するとどうなるか。言葉によって整理されない「ドキドキ」「イライラ」「モヤモヤ」がやがて心からあふれ出る。一つには行動にあふれ出る。それがいじめや暴力、万引き、シンナー吸引などの「問題行動」につながっていく。もう一つは身体にあふれ出る。たとえば登校拒否の子どもが、朝学校に行こうとしても不安や緊張が高じて、どうしても学校に行けない。その不安や緊張があまりに高じると、身体にあふれ出る。頭痛や腹痛、発熱や吐き気という身体症状となってあらわれる。これを「身体症状」という。私たち大人は子どもの表面的な「問題行動」「身体症状」に目を奪われることなく、心の奥にある気持ちや叫びをしっかりと受け取っていく努力をする必要がある。「周囲に迷惑をかけるな」「かく行動すべき」と説教を繰返すだけでは、問題の解決にはならない。次に「ドキドキ」「イライラ」「モヤモヤ」などという周囲に理解しがたい孤独な叫びという形ではなく、他者と共有しうる言葉によって自分の問題を自覚し、表現する力を身につけさせてやりたい。現代は子どもの周囲に、指示し、命令し、子どもを操作し動かすための言葉があふれすぎている。子どもにあれこれと指示し、命令し、まるでロボットのように操作し、自分の思う通りに動かそうとしていないか。現代はお互いに分かりあおうとする言葉が失われている。相対すればいつも対立関係にになっていがみ合う。お互いに認め合うという人間関係作りができていない。そのためには、彼らの話によく耳を傾け、自分の感じていること、思っていることを言葉として表現し、言葉によって整理することを手伝ってあげたい。またそのことを通して、彼らが自分自身をみつめ、イライラやモヤモヤの正体に気づき、その解決のためにどうしたらよいかを自分で考えられるように援助してやりたい。そのために森田理論学習の「事実本位、事実への回帰」への考え方をしっかりと身につけてゆきたいものだ。(揺れつ戻りつ思春期の峠 高垣忠一郎 新日本出版 85ページより引用)
2016.03.13
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岡田尊司さんがこんな話を紹介しておられる。私の同僚だった医師にこんな男がいた。朝が弱いのでよく遅刻する。看護士が電話をして起こさなければならないことも度々だ。何事もマイペースでぼんやりしているので、うっかり薬の処方を忘れていたりする。しかし大きなトラブルになることは意外にない。担当の看護士が細心の注意を払って、チェックしているからだ。担当の看護士にすればお守りで大変なはずだが、悪く言う声を聞いたことがない。そういうキャラクターとして受け入れられ、親しまれていた。一番の理由は、彼が一度も周囲を責めたり、尊大な態度をとったりしなかったということである。また、自分から面倒なことを買って出て、損な役回りを引き受けるところもあった。つまり彼はきっちりした性格ではなかったが、決して利己的ではなかったし、ましてや人に責任を転嫁したり、攻撃したりすることは一切なかったのだ。他人の気持ちや領分を害さなかったので、仲間として受け入れられたのである。自分の格好悪い面を隠さずにさらけ出していたことも、彼に対する親しみを増し、拒絶反応を抑えていたのであろう。出世には興味のない人だったが、その後大学に戻り教授になった。(人間アレルギー 岡田尊司 新潮社 71ページより引用)普通こんなに時間にルーズで、いい加減な仕事しかできない人は職場から排除される。排除されなくても軽蔑されて肩身の狭い思いをして生きていくことになる。それなのにこの人の場合は、反対に親しみを持って人が集まってきた。それは彼が人に「かくあるべし」を押しつけなかったからであると思う。人を非難、叱責、否定することがなかった。そして人の役に立つことを積極的に引き受けていた。「人の為に尽くす」の実践を心がけていた。さらに自分にも「かくあるべし」を押しつけて、自己否定することがなかった。自分の弱点や欠点を取り繕ったり隠したりすることなくありのままに行動していた。自分のありのままの姿を承認することができている。これは森田理論でいうと、事実本位の生活態度を持っていたということである。事実本位に徹するととらわれのない素晴らしい人間関係を築くことができるという見本のような話である。
2016.03.06
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他人のやる気や意欲を引き出すことができる人はリーダーの必要条件である。子どものやる気や意欲を引き出すことは親の必要条件である。そのために必要なことはなにか。森田理論に照らし合わせてみると、問題だらけの状況を目の前に提示することだと思う。例えば家が火事になれば誰でも避難する。大きな地震が発生すれば、すぐに高台に逃げる。それはその出来事によって自分の生命が危険な状況にあると認識できたからである。だから問題だらけの事実というのは、人間が活動するための食料のようなものである。リーダーが事実を提示するためには、普段から人や物事をよく観察しておくことが欠かせない。その際重要なことは、事実を提示するだけでよいということだ。指示や命令で相手を動かそうとすると、相手のやる気や意欲はそがれてしまうことがある。どんなに指示や命令をしたくなっても、基本的には相手に任せてしまうことが肝心である。その問題だらけの事実に直面してどう感じ、どう行動するかは相手に任せてしまうことがやる気や意欲の発生には欠かせない。その他やる気や意欲を引き出すために大切なことがある。以前は報酬や昇進がやる気を高めるには有効だと言われていた。でもそれだけでは不十分である。「おもしろい」「成長している実感が持てる」「自分で自分の人生を決定しているという実感が持てる」「かけがえのない存在として他人から期待されているという感覚」等が持てるときにやる気が湧いてくる。次にリーダーが「安全基地」の役割を担っていることである。部下や子どもに自由を与えて好きなことを思い切ってやらせてみることは必要なことだ。少々危なくても手を貸してはならない。ところがここで肝心なことは、自由放任にしないということだ。ちゃんとリーダーや親が自分のことを見てくれていることが大切である。一般的に好きの反対は嫌いである。ところが心理学では、好きの反対は無関心である。無関心ではやる気に火がつくことはおぼつかない。次に、山本五十六は「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」と言われている。相手をやる気にさせるコツだと思う。自分でやって、お手本を見せ、容易にできると思わせる。言って聞かせて、納得させ、なんとかやらせてみる。ほめて、いい気分にさせ、その気にさせる。この中でも、リーダーや親が何かに夢中になって取り組んでいる姿勢は、部下や子どもに多大な影響を与える。最後にピグマリオン効果の説明でも述べたが、先入観で決めつけを行ってはならない。
2016.02.22
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Kさんは30代の女性。病院の医療事務の仕事をしている。責任感が強く、きっちりと仕事をこなし、これまでも大変な状況を何度も乗り切ってきた。そんな彼女が困っていることがある。束ね役だったベテラン主任が退職して、新人女性が入ってきた。新人社員は明るくよくしゃべる人で、最初は感じのよい人だと思っていた。しかし、一緒に仕事をするようになると、とてもルーズなところがあり、ミスが多いことがわかってきた。カルテを出している途中で他の仕事を頼まれると、出しかけのカルテを置きっぱなしにしたまま忘れてしまっていたり、重要な連絡を伝え忘れていたりといったことが続くようになったのだ。最初は慣れていないせいだと思い、ミスを防ぐ方法を指導した。本人も素直な様子で「気をつけます」というのだが、返事だけで、また同じミスをしてしまう。教えた方法も実行せず、我流で適当にやっている。そうした状況を見るにつけ、時間をかけて教えたことが空しくなり、指導する気もなくなってしまった。最近は、職場に慣れてきたこともあり、仕事ぶりがさらにいい加減になって、ミスが増えている。上の立場にある自分が患者さんや医師に頭を下げなければならない。ところが本人は悪びれるふうもなく、調子よく周囲に甘えている。事務長や医師も、「明るくていい人が来たね」と言ったりする。最近では、顔を見ただけで嫌悪感を覚え、声を聞くと虫唾が走るようになった。眠りも浅く、イライラし、気分も沈む。その女性を雇い続けるならこっちが辞めたいとまで思い詰めている。(人間アレルギー 岡田尊司 新潮社 92ページ引用)こんなケースは職場ではよくある話である。指導を真剣に受け止めなで自分勝手なことばかりする部下。いい加減な仕事ぶりで、いつも周りの人に迷惑をかける。そのくせ、ごますりが上手でうまく立ち回っている。本人はあっけらかんとしていて反省するということがない。利害関係のない人の受けは決して悪くない。だから自分としては余計にむしゃくしゃする。こんな状態なら自分が仕事を辞めてしまいたいと思ってしまう。このケースを早速森田理論で考えてみよう。森田では他人に「かくあるべし」を押し付けると相手に苦痛を強いるだけではなく、自分も苦しくなってくるという。この人の場合はどうか。この方はまじめで責任感の強い人である。こういう人は他人も当然そうあるべきだと思ってしまう。自分の「かくあるべし」という理想に合わない人が、仲間を作って適当に仕事をやっているのを見ると我慢がならなくなる。その結果自分のストレスはどんどん増悪していく。でもどこの職場でもそういう人はいる。森田ではどんなに自分の価値観に合わない人でも、その人を否定したり、批判することは慎むようにという。それよりもしなければならないことがある。事実をよく観察して、その事実の詳細を記録に残すことである。その事実だけを見つめて、理不尽と思う事実を蓄積していくという気持ちが大切なのである。「かくあるべし」を持ち出す前に、「ちょっと待て」。それって「かくあるべし」じゃないのかと制御をかける。事実を是非善悪の価値判断に持ち込まないで、出来る限り正確にあり余すことなく掴むようにする。その態度を堅持する。普通の人は自分の価値観に合わない人、「かくあるべし」という理想に反する人をいとも簡単に批判し、否定している。これが自分にとっても相手にとっても不幸の始まりである。この新人の場合は、自分の「かくあるべし」に合わせようとしてもどだい無理である。もって生まれたキャラは変えることが難しい。それを自分の「かくあるべし」に合わせようとすると自分が苦しむだけだ。ここで森田を応用して、事実を掴むことに専念していると次につながる。自然と改善策が見えてくるのである。例えば、上司に相談する。今までの問題になった事例をあげて説明する。そして自分の提案を説明する。この人の場合は、自分一人で仕事をすると問題が起きるのだから、サブパートナーをつける。そして相互にチェックする仕組み作りをする。ミスは事前に防げるのではないか。あるいはOJTの担当者や方法を考え直す。それでもうまくいかないときは自分をリーダーから降ろしてもらう。あるいは自分の職種替え、転職を考える。あるいは相手に転職を勧告する。これはほんの一例ですが、事実を掴むことに専念すれば、相手に腹を立てたり、相手とけんかになることは随分少なくなると思う。相手や自分の特徴や言い分、立場を考えることができるようになる。するとどうすれば問題が解決するかをいろいろと思案し提案できるようになるのである。ここでのポイントは森田理論の事実本位の態度の仕事への応用を考えてみることである。
2016.02.21
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日本人は親や世間から見捨てられることを大変重視している。日本人は親や世間が自分を受け入れてくれれば、自分が自分を受け入れることができる。いくら能力があっても、資格を持っていても、容姿端麗であっても、その自分を他人が認めてくれないと、自分が自分を認めることはできないのである。他者が自分をどのように見ており、どのように評価しているかとても気にしている。あるがままの自分を親や世間が認めてくれればよいが、あるがままの自分をいつも否定されていると、自己嫌悪、自己否定するようになる。そうなると生きていくことが苦痛となる。いじめ、不登校、仲間外れ等はこの自己信頼感、自己肯定感が大きく関係している。一方、欧米人の場合はどうか。基本的に他人が自分をどう評価しているかについて関心が薄い。他人が自分を評価してくれたからといって、社会の荒波の中で生き抜いていくためには、必要条件であっても十分条件ではない。それよりも、自分で心身を鍛え、能力を磨き、資格をとって社会の中で確固たる地位を確立していく。そういう自分になったときに自分が自分を受け入れることができる。つまり自主独立、自立した自己でないと自己信頼感、自己肯定感は持つことはできない。それためフロンティアスピリットが旺盛である。目を外に向けて生の欲望の発揮に邁進している人が多い。日本人の場合は、目を外に向けて運命を切り開いているというよりも、視線を自分自身に向けて常に自己内省をしている。他人に嫌われていないか、仲間として受け入れられているかどうか。視線の先は自己防衛、自己保身、自己保全中心である。それが確保されていれば、恐る恐る生の欲望の発揮に向かえるという状態である。そのような人の特徴は、ポイ捨て、リストラ、いじめ、仲間外れを忌避する。そうならないために、その場の空気を読み、面白いことを喋り、自分の気持ちを隠して、我慢したり耐えたりする。他人に認めてもらうために、資格をとり、能力を高めるために投資したりする。また、上司にお中元、お歳暮を贈るのは上司に特別の配慮を期待しているからである。また根回し、談合も人間関係の争いを未然に防ごうとしているのである。このように他人配慮型の人間関係を重視しているのが日本人の特徴である。しかしこれが行き過ぎてしまうととても生きることが苦しくなる。他人の為に自分の人生を捧げているからである。どうすればよいのか。まずは欧米人のように、自分の気持ち、欲望、希望を明確にして前面に押し出していくことが必要なのではないか。自分に素直に生きていくことである。自分を抑圧して生きていくことは霞を食べて生きていくようなものである。どこまでもその態度を貫いていくことがまずもって大切になる。その次に、他人を配慮していく。思惑が食い違えば、調和を図る。妥協策を求めて話し合う。決してその順序が逆になってはならないのだと思う。
2016.02.17
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岸見一郎氏は子どもをほめるということも警鐘を鳴らされています。母親が子どもに買い物を頼んで、子どもがそれをちゃんとできたら、「偉かったわね」とほめるでしょう。でも妻が夫に買い物を頼み、夫がそれをこなしたときに、妻は夫に「偉かったわね」とは決して言わないでしょう。これはどういうことでしょう。ほめるというのは、能力のある人が能力のない人に対して、上から下す評価の言葉なのです。「偉かったわね」とほめることが習慣になっている人は、その人が、他者との対人関係の構えが上下関係になっているということなのです。子どもでも大人でも、対人関係の下に置かれることを好む人はいません。ほめられたらうれしいという人がいれば、その人は、自分には能力がないことを他者に認定されたいということであると知らなくてはなりません。このことが分かるとほめられることでは、自分に存在価値があるとは思えなくなってきます。子どもが買い物を手伝ってくれた場合は、大人に接する時と同じように「助かった、ありがとう」と感謝の気持ちを述べるとよいのです。「ありがとう」「助かった」という言葉を聞いた子どもは、「自分は親の役に立つことができたのだ」と認識します。人の役に立つことができるという体験は、自分には存在価値があるのだという認識を持つことにもつながります。つまり自己肯定感を育てることにつながるわけです。自己否定から自己受容の世界に入っていくことができるようになるのです。するとありのままの自分を他人の前にさらけ出すことができるようになります。対人関係は悩みの原因にもなりますが、生きる喜びや幸せは人間関係の中で得ることができることも事実です。人間は一人では幸せになれないのです。「ありがとう」「助かった」というのはアドラーに言わせればヨコの人間関係です。ヨコの人間関係というのは他者を仲間として見るということです。それに対して「偉かったわね」とほめることは、タテの人間関係にあたります。森田理論でいえば「かくあるべし」的生活態度にあたります。「かくあるべし」という理想から現実や事実を見て、拒否、無視、批判、否定するのはまずいやり方です。「かくあるべし」という態度を止めて、現実、現状、事実に寄り添って生きていく態度が大切なのだと思います。ここで岸見さんの言いたいことは、森田理論でいう「事実唯真」を生活の中に取り入れて実践していくということだと思います。(人生の意味の心理学アドラー 岸見一郎 NHK出版 引用及び参照)
2016.02.06
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アドラーは、「人間は目的を達成したいという意志を持って生活している」という。子どもの頃の親のしつけや教育がよくなかったから、自分がうつになり、神経症になったと考える人はたくさんいます。今現在の自分の苦悩は過去の親の育て方に原因があるという考えなのです。アドラーは過去の出来事が、今の生きづらさの原因であるとすれば、タイムマシーンで過去に遡り、過去を塗り替えなければ問題は解決できないことになると言います。だから過去の原因で、現在の悲惨な状況が訪れているという考え方に異議を唱えているのです。アドラーの考えは、現在も将来も親に甘い汁を吸わせたくないという目的があるのだと言います。例えば親が自分の蓄財した財産をあてにしている。親が何もしないで、自分に依存して、楽をして、裕福な生活をしようとしている。そのために安定した生活を確保している自分を利用としている。そんな勝手な真似をさせないという目的達成の為に、親を拒否しているのだというのです。意識的にそんなことはないと思いますが、無意識的にはそのような強固な目的を持っているのだという考えです。また、子どもが、朝おなかが痛くて学校に行けないと言うことがあります。実際に本当におなかが痛くなるのです。お母さんは学校に電話をして休ませるようにします。すると途端におなかの痛みが消えることがあるそうです。これは子どもの方に、学校でいじめられたり、勉強が面白くないから学校に行きたくないという目的があるのです。目的達成の為に、腹が痛いのを手段として使っているのだというのです。他人に腹を立てるのは、相手が自分の思い通りに行動してくれないからです。相手を自分の思い通りにコントロールしたいという目的達成が叶えられそうもない。どうしたら相手が自分の思い通りに行動してくれるか。そのためには今自分は猛烈に怒っているという態度を見せつけることである。相手に暴言を吐いたり、脅迫したり、暴行をすれば相手を自分の思う通りに動かすことができるのではないか。怒りを自分の目的達成のための手段として使っているのです。怒り狂っている相手の態度に惑わされてはいけません。相手はただ単に、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けて、相手を意のままに操ろうとしているということを理解すればよいのです。そういう人はあらゆる場面で、相手をコントロールしようとしていますので、常に人間関係のトラブルを起こしていると思われます。いつも腹を立てている人は、自分の理想と現実との間にギャップを抱えて苦しみのたうちまわっている人なのです。神経質者の場合はどうか。本来与えられた仕事に対して力の限り取り組んでいくことが重要です。でも仕事はしんどい。仕事をするより仕事をさぼる方が楽です。もし高額宝くじに当たればすぐに仕事を辞めて、悠々自適に遊んで暮らしたい。そういう目的があるとすれば、仕事が出来ない言い訳を集めるようになるのです。上司にリーダーシップがないからやる気が出ない。対人関係が悪いので仕事に身が入らない。取引先がわがままなことばかり言うから仕事が前に進まない。失敗したらどうかということが気になって仕事が手につかない。対人恐怖の営業マンは、得意先が自分の提案を拒否して、冷徹に断る。すると自尊心がズタズタにされるから営業ができない。つまり仕事をしたくないというネガティブな理由を集めて、目的達成の為にそれらを手段として利用しているのです。アドラーはこれらの目的は、利己的、否定的、刹那的、非生産的、非創造的、じり貧、破滅的、退廃的な目的だといいます。人に害を与え、将来が豊かになることがありません。本来の目的は、共存共栄、人の役に立つ、将来が豊かになる、建設的、生産的、創造的なものである必要があるといいます。特に人間関係のコツはタテの人間関係ではなく、ヨコの人間関係の構築が重要であると言っています。森田でいえば、人間関係に「かくあるべし」を持ち込まないということです。(人生の意味の心理学アドラー 岸見一郎 NHK出版参照)
2016.02.04
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大平光代さんは壮絶な人生を経験されている。中学校でいじめに遭って絶望する。死のうと思って割腹自殺をこころみる。未遂に終わっても、さらにいじめがエスカレートする。そんな娘を母親は「世間体が悪い」といって突き放した。その後不良グループに加わった。その後16歳で極道の妻になり、背中いっぱいに刺青を入れた。そして新地のホステスとなって毎日酒をあびるほど飲んでいたという。その時代に大平さんという父親の知り合いと巡り合い、のちに養女になった。大平さんが心の支えとなって立ち直っていった。その後宅建、司法書士、司法試験にたて続けに合格する。そして少年犯罪を専門とする弁護士になる。その後大阪市役所の助役に選ばれる。職員の裏金、既得権益に鋭く切り込んでいったという。助役を辞した後は、弁護士仲間と結婚して、40歳で出産された。ところがその一人娘はダウン症の子どもだった。子育ての為に、大阪から1時間30分の田舎に転居して今は子育て奮闘中である。宅建に3カ月、司法書士に2回、司法試験は一発で合格されている。相当能力も高いし、努力家でもあるのだろう。でも私はここでいいたいのは、決して恵まれた運命ではなかった人生のことである。いじめの渦中にいた頃は自殺未遂もされたほど過酷な運命であった。その後の自暴自棄の生活は普通の人にとってはとても堪えがたいものであった。でも自分の運命を呪い、破滅的な方向には向かわなかった。歯止めが効いたのである。そこには大平さんという養父が親身になってめんどうを見てくださったおかげで、心が融解していったようである。現実の自分を認めて、前を向いて生きていくことの大切さを教えてくれた。だから人の力は大きい。神経症で苦しい人も一人で悩まずに集談会に参加してほしい。集談会には数は少ないが親身に話を聞いてくれる人がいる。そういう人を見つけることだ。そしてその人のそばにくっついて森田理論学習を続けることだ。集談会には神経症を克服した後も学習を継続されている方が多い。それは自分と同じような苦しみを味わってほしくないという切なる願いがあるからである。自分の苦しんだ体験と立ち直ってきた体験が役に立つという確かな自信があるからだと思う。さらに森田理論は掘り進めば進むほど自分の人生が豊かになっていくのだ。この2つの視点を支えにして学習を続けているのである。(今を生きる 大平光代 中公新書参照)
2016.02.03
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「叱り方 うまい先生 下手な先生」(関根正明 学陽書房)という本にこんなことが書いてあった。内容を見るとユーモア小話の材料になると思った。先生は生徒が忘れ物をすると不機嫌になる。遅刻をすると精神がたるんでいると言って怒る。授業中少しでもおしゃべりをすると他の人の迷惑になるといって注意する。でも先生本人の方は、チャイムが鳴っても、のんびりと廊下を歩いて教室に行く。そして教科書を開いて「この前は、どこまでやったか」などと進度を生徒に尋ねる。つまり進捗チェックをしていないと同時に、事前の教材研究は全くおこなっていないということだ。学習内容を「ここは試験に出すぞ」などと言って、生徒が赤鉛筆で印をつけるのをおもしろがっている。チョークを職員室に忘れて、「日直はだれだ、あ、君か、それでは君、悪いけど、職員室に行ってチョークを持ってきて」などという。普段は生徒に「忘れ物をするな。忘れ物なんかするのは精神がたるんでいるからだ」などと言い、「自分のことは最後まで責任をもってやりとげろ」と言っているくせにである。しかもそのチョークを持ってきてくれた生徒が、黙ってチョークを教卓にのせるのを「何だ、その置き方は。物の渡し方も知らないのか」などと言って叱る。そんな先生は疲れたと言ってはロクに本も読まない。忙しいとか、疲労をタテにして、飲み屋で飲んで、遅く帰って、後はテレビを眺めてゴロッとしていて寝てしまう。そんな怠惰な生活を送っている先生がいる。そんな先生でも規則違反、規律違反等にはことのほか厳しい。ボタンがついていない。ホックがはずれている。名札が消えかかっている。ベルトが細すぎる。バッチがついていない。髪の毛に油がついている。靴のかかとつぶしをしている。掃除当番をすっぽかす。整理整頓ができていない。宿題をしてこない。学習意欲がない。等々あげればきりがない。まあこんな先生はごく一部だと思うが。でももしこんな先生がいたとすると、会社のパワーハラスメントと一緒である。会社の上司がその地位と権力を利用して部下の人格を否定するような言動を浴びせるのである。部下は上司に怯えて、避けるようになる。ところが上司はしつこく追いかけまわして、これでもかというぐらい痛めつける。その結果うつ病を発症したり、神経症に陥ったりするのである。こういう上司は管理職不適格者である。学校の先生の場合は体力、経験、知識の面で生徒と上下の関係に陥りやすい。立場的にもともとそういう人間関係である。教室は密室であり、そういう環境に放りこまれるということはよほど自己内省力がないとパワハラ上司のような関係になりやすい。問題行動の顛末を子どもが親に話し、PTAで問題視しだすとややこしくなる。こういう先生は森田理論学習をしたらどうだろうか。教科の教え方もさることながら、こちらの方が先だと思う。是非とも「かくあるべし」の押し付けの弊害を学ぶことだ。「かくあるべし」を押し付けると生徒は猛反発する。生徒には生徒なりの思いや考え方があるからである。その自分の思いや考えを聞いてもらえない。そして先生から一方的に指示、命令、説教、非難、禁止、叱責、怒りなどが飛んでくる。地位、体力、立場を利用して一方的にコントロールされることはだれしもストレスを感じる。こんな先生は同窓会に呼ばれることはない。そして理不尽な扱いの数々が昔の思い出話として話されるのである。先生としても卒業して何年経っても、根に持たれて恨み続けられることは気持ちのいいものではないだろう。「かくあるべし」を押し付けない先生は、生徒が不祥事や間違っていることをした場合、事実関係をよく調べる。そしてそのような行動をとった背景を探ろうとする。どんな行動にもその生徒の気持ち、家庭環境、社会環境などの反映である。その生徒の話や言い分を十分に聞こうとする。立場や状況をわかろうとする。生徒を擁護しようとする。その態度は生徒にすぐに伝わる。先生がもしそういう生徒との人間関係作りを重視しだすと、すぐに人気が出てくると思う。子どもを教育することが楽しくなるだろうし、生徒から信頼されるようになる。先生になる時は誰でも立派な先生になりたい。生徒に信頼される教育者になりたいと思っていたはずである。初心に戻ることである。そのために森田理論を活用してほしいものである。
2016.01.15
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怒りという感情は掃き出すと楽になります。行き場がなくなり溜まっていたものを解放するわけですから一旦は楽になります。でもいつも怒りを解放させていると人間関係はめちゃくちゃに壊れてしまいます。それは境界性人格障害の人を見ているとつくづくと感じます。怒りの感情は相手との人間関係を悪化させる厄介者だと考えておられる人が多いと思います。今日は怒りという感情を湧きあがらないようにすることについて、野田俊作氏が興味深いことを述べておられますので見てゆきたいと思います。怒りを発散させれば、怒りという感情はなくなるという考え方は、怒りが行動の原因だと誤解している考え方ですね。原因だからそれを無くせばいいだろうと。つまり怒りという感情だけを見て、憎むべき相手であり、取り除こうとしたり我慢したり耐えたりしている。怒りそのものを目の敵にして対症療法的に対応しようとしているのです。でもこの考え方は間違いです。ほんとうは、怒りは原因ではなく結果なんですよ。相手を自分の思うように支配したいという目的があって、その目的が達成できないから出てくる感情なのです。目的があってそれが叶えられないから怒りが発生してくる。結果として怒りが湧き起っているのです。つまり自分が上か下かというタテの人間関係に固執して、その中で自分が上に立とうとする考え方から必然的に出てくる感情なのです。だから、誤った目的に向かって生きているという根本的な原因を取り除かなかったら、次から次へと怒りはでてきます。このように考えることが重要です。怒りがどんどん湧き起こってくると、私たちの心身はどんどん不健康になっていきます。その怒りは普通内向化して、胃潰瘍になったり、心臓が悪くなったりする。以上をまとめてみると、怒りという感情は人間関係の持ち方の間違いから起きてきているものなのです。人間関係の考え方の誤りから引き起こされている。怒りが自然発生的に湧きあがってくるといいますが、他人を自分の意のままにコントロールしたいという誤った目的があるから出てくることが多いのです。ここが問題なのです。こういうのをタテの人間関係といいます。タテの人間関係では、他人を否定し、ぞんざいに扱う。相手を信用していない。過保護、過干渉に陥っている。自分の善悪良否の基準を相手に押し付ける。対立的、攻撃的になり、力の強い相手からは逃げまくる。自分から人間関係を悪くする原因を作りながら、それによって自分が苦しんでいるのです。そういう他人をコントロールしたい欲求。他人を自分の意のままに動かしたいという欲求。是非善悪の価値判断をする生き方。これらは百害あって一利なしです。別の考え方に取り換えなければなりません。アドラーはこれをヨコの人間関係作りといっております。そのカギとなるキーワードは、相手を尊敬する。相手を信頼する。競争をやめて、お互い同士協力すること。共感すること。理性的に問題解決を図っていくこと。上手に自己主張していくこと。真の意味での平等観に目覚めて、個人の個性を認めていくこと。完全主義をやめて寛容であること。私たちはまずはそういう生き方もあるのだという理解から始めないといけないと思います。これを身につけると配偶者、子供、会社、学校での人間関係ですぐに腹が立つ、怒り狂うことが随分少なくなるのではないでしょうか。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社参照)
2015.12.11
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相手と意思の疎通を図ろうとコミュニケーションをとったとしても、普通は両者には大きな隔たりがあります。それをそのまま放置しているとストレスになることがあります。これは人間関係の悪化の原因となることがあります。今日はそれを解消する道を考えてみたいと思います。その隔たりをどう埋めていくのかを、人間関係療法では教えてくれています。いくつかの改善が必要ですが、前提としては、相手との間にズレが生じていることを認めることです。ここが出発点です。ここでつまずいている人が多い。もともと日本では、会議などでも手をあげて積極的に発言すると、でしゃばりのように思われます。指名されて発言する方が奥ゆかしいというような風潮があります。いつもこんな状態では困ります。人間関係療法のコミュニケーション分析では、「沈黙は破壊的な可能性を持っている」とされています。直接言葉に出して相手に伝えなければ、自分の気持ちは相手に伝わりません。また、私のため息や態度を見れば、私がなにを言いたいか相手には分かるはずだというのも誤解を生む元になります。相手と面と向かって自分の気持ちを素直に話すことが一番です。もしそれが難しければ、次善の策として手紙、メール等があります。でもそれには注意が必要です。その際、森田理論をフル活用することです。まずは私メッセージです。例えば具体例として、夜勤明けの夫に、実父から至急実家に来てほしいと電話が入った。妻が、急ぐ用事でなかったら少し休んでいった方がいいんじゃない。(あなたメッセージ)夫は、うるさいな。俺が行くんだからほっといてくれ。妻は、そうね。でも一晩中寝てないで車を運転するのは危険だと思うの。事故でも起きたら私や子供たち、とても困るの。(私メッセージ)夫 そうだな。2時間休むからあとで起こしてくれ。「私メッセージ」は自分の感じたことや要望を相手に伝えていくということです。それを受けて、相手がどう感じて、どう行動するかは相手に任せているのです。私はこうしてほしい。私はこのように思います。私はこのようにしたい。常に主語は私です。相手を非難したり、コントロールしようとすると人間関係はますます悪化します。相手を否定したり、指示や命令をするのではなく、自分の気持ちを相手に伝えて分かってもらうということが大切です。「純な心」では、感情にはまず第一波が発生するといいます。それはほんの小さなもので軽く見逃してしまうことが多いものです。その次に第二波の感情が襲ってきます。これは、「かくあるべし」で装飾された感情です。普通は第二波の感情で相手とやり取りをしていることが多いのです。森田理論では、そんな時は第一波の感情を思い出して、そこから相手とのコミュニケーションをとりなさいと言っています。手紙やメールで交流する場合には、特に私メッセージと「純な心」は考慮する必要があります。次に「あの人は自分勝手で私の話を聴くような人ではありません。話するだけで対立が深まります。」などと、最初から決めつけていることがあります。私たちは、先入観が強く、事実を確かめることなく勝手に決めつけてしまうことがあります。相手と心が通い合うことがありませんので、対人関係が改善に向かうことはありません。相手をよく観察したり、相手の気持ちを確かめて事実を正確につかむという態度にならないといけません。次にそのズレの段階を見きわめることが大切です。3つの段階があります。ズレの解消に向かって再交渉が可能な段階。コミュニケーションに問題があって交渉自体が行き詰まっている段階。例えば沈黙しあってコミュニケーションが全くない等といった場合です。逆に一刻も早く人間関係を清算した方がよい段階。ズレの解消に向かって再交渉が可能な場合は、相手への期待を見直したり、コミュニケーションの方法を見直したりします。コミュニケーションに問題があって交渉自体が行き詰まっている段階では、コミュニケーションのやり方を改善してゆきます。一刻も早く人間関係を清算した方がよい段階では、否認、絶望、脱愛着のステップを踏んで楽になってゆく道を進んでゆきます。これらについては日を改めて詳しく見て行きましょう。(自分でできる対人関係療法 水島広子 創元社参照)
2015.12.10
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野田俊作氏の話です。結婚前の若いカップルのカウンセリングをやることが多いのですが、彼らの多くは出だしから間違ったことを考えている。つまり相手と相性が良くて、一心同体で、互いに同じことをいつも考えていたら、幸せになれるだろうと思っている。これ一見そうみたいに思えるでしょう。でも、実はこれは支配欲なんです。相手が自分の思う通りに動けばいいなぁと思っているのです。でもそんな人いませんよ。結婚してみればよく分かるけど、夫婦に与えられた課題はいったい何かというと、自分と違った物の見方をし、違った感じ方をする人とどう生きていくか、なわけです。それを、できるだけ自分と同じ種類の人を、と望むから、まず最初に失望するわけですね。この頃の若い女性はとてもバカげたことを考えているのね。働き者で、やさしい男性がいいという。そんなもの、働き者だったらやさしいわけないのよ。どちらか片方しか取れないのにどっちもある人間が理想だというこれ最初から間違い。さらに根性の悪いことにですね、結婚して幸せにしてもらおうと思っている。そんなアホな話はないと思う。ちゃんとした男にくっついて幸せにしてもらおうという考え方が間違っている。一生苦労するかもしれないけど、彼と一緒だったら、私はどんな苦労でもしようと思い、それが私の幸せだと感じる方がよい。最初から一緒に苦労しようと思って、それで結婚しているならば、これはヨコの関係なんです。あの人にくっついて幸せにしてもらおうと思っているのはタテの関係なんです。結婚の出だしからタテの関係だから、それに伴って出でくる、対人関係は、みんなタテの関係。親子関係や、嫁姑関係もね。絶えず感情が波立つわけよ。およそタテの関係があるときに、我々の感情は騒ぎだすからね。あなた方が日常生活の中で、感情的になることがあるとしたら、それはどこかにタテの関係があるからです。相手と自分は別々の考え方をする人間です。だから考え方の違いがあるのが当然です。それを、相手を自分の思うがままに支配してしまおうと意地を張るから問題が起きてくる。違うことを前提にして、その違いをいかに妥協させてソフトランディグさせていくか。そして協力して生活したり、子育てしたり、生活を楽しんだりする。一人ではとても味わえない人生のだいご味を二人で作り上げて共有化していく。そうでなかったら夫婦関係を継続することがストレスになり、精神的な苦痛を味わい、一人で暮らした方が健全であるということにもなりかねないのです。ましてや世間体、経済的な依存関係を求めて一緒にいるといることは、地獄のような苦しみを続けているということになります。これが心機一転、相手をコントロールしたい、相手を自分の思うように操りたいということは不可能なのだ。またそういう人間関係を続けていてはいけないのだということに気がついて、態度を改めることができれば、途端に夫婦の人間関係は良好になるのです。(続アドラー心理学トーキングセミナー 野田俊作 星雲社 82ページより一部引用)
2015.11.28
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雑談恐怖症について考えてみたい。人が数名で雑談している。あるいは主婦が何名かで立ち話をしている。その場の中に入り込めない悩みである。これは大勢でおこなう縄跳びにうまく参加できないのとよく似ている。みんなは何の迷いもなくどんどんと流れるように飛び込んでいく。縄が足に引っ掛かって縄跳びが中断することがない。ところができない人は、どこで入り込んだらよいのか分からない。仮に飛び込んで見てもうまく飛べるという自信が持てない。挙句の果てには自分の足に縄が引っ掛かって進行を妨げてしまうのである。そして恥ずかしい思いをする。みんなが自分を責めているような気がする。また能力のない自分を軽蔑しているように感じる。それならなんとか理由をつけて参加しない方が気が楽だ。人にも迷惑がかからない。でも避けてばかりいるといつまで経っても縄跳びはできない。みんなと楽しく遊ぶことはできない。そんな自分を自己嫌悪して、どんどん孤立して人間関係作りを避けていってしまうのである。雑談恐怖という人を見ていると、不思議なことに、仕事で人と会話する時は意外にも実に堂々としていることがある。営業成績をそれなりにあげて生活しているわけだから、会話ができないというわけではない。それは会話自体に仕事のためという目的があるからである。商品説明をして売り込むという目的。相手を説得するという目的がある。その目的があるために一心不乱になれる。雑談ではないので不安は発生しない。ところが雑談というものは、とりとめのない会話である。仕事のように会話自体にはっきりとした目的はない。会話自体が空中浮遊物のようなものなのだ。またはっきりした目的のない会話は無駄であるという気持ちがある。目的のない会話というものは、森田でいうと「生の欲望の発揮」を忘れてしまっているようなものである。そういう状態の時は、自分の意識は外へは向かわずに、内へ内へと自己内省していくのである。つまり自分の身体の違和感とか気分に向いてくるのである。そうなると相手との会話は蚊帳の外になる。また雑談することが苦痛になるのである。そもそも雑談には目的がないというがその考え方自体が間違いである。雑談は相手との関係を敵対するのではなく、友好的に保つという役割がある。挨拶と一緒である。「おはようございます」「おつかれさまです」「今日はいいお天気ですね。お変わりございませんか。」「おかげさまで。あなたもお元気そうですね」「もうかってますか」「ぼちぼちですな」これらは意味のない会話である。なくても別に生活に困るというものではない。でも意味のないことだからと言って、すれ違う相手にこういう声かけを全くしないとすると、疑心暗鬼で人間関係はとてもぎくしゃくしてくる。雑談というのは会話の中身に目的があるわけではない。人間関係を円滑に保つという目的があるのだ。だから取りとめのない肩に力の入らない話でちょうどよいのだ。またしいて会話に加わらなくてもよい。聞いているだけでよい場合も多い。参加していることに意味がある。参加してみんなの話を聞いているだけで、居合わせた人と良好な人間関係作りをしているということになる。意味のない会話は時間の無駄だと思って避けていると、人間関係は疎遠なままなのである。雑談の時話の中身に注意を向けてはならない。相手との人間関係を良好に保つための潤滑油としての役割を果たしていると思えば苦にならなくなるのである。そう考えると雑談の持っている意味は大きいのである。
2015.10.18
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社交不安障害の人のコミュニケーションについて考えてみました。社交不安障害の人は基本的に、相手から発せられるメッセージを「相手は自分に対してネガティブな評価を下すものだ」というフィルターを通して受け取ります。こういう先入観を持っていると、相手からのメッセージを正確に把握していないことが多い。また、自分への自信のなさや厳しさから、自分の言いたいことを伝えていないことが多い。たとえば、自分の気持ちを言葉で伝えずに、ため息をついたりにらみつけたりする。これだけでは自分の気持ちは相手には伝わりません。次に言葉は使っていても、直接的な言い方をしないで、嫌味を言ったり、遠回しな物言いをしたりしてしまうことがあります。また、自分の社交不安障害を隠すために、あえて理屈っぽいコミュニケーションをする人もいます。さらに難しいのは、攻撃的、拒絶的な態度をとる人です。本音を知られることの恥ずかしさへの恐怖から、相手が自分の内面を決して見ることができないように防御してしまうのです。はっきりした言い方をしなくても、他人は自分の必要としていることや自分の気持ちは分かっているはずだと思い込んでいる人もいます。阿吽の呼吸で相手が自分の気持ちを察してくれることを求めているのです。誰でも基本的には自分のことで精いっぱいですので無理な相談です。相手の言いたいことは分かっているという思い込みに陥っています。相手をよく観察しないで、ちょっとした態度や言葉ですぐに悲観的な考えをとってしまうのです。きちんと相手に向き合いコミュニケーションをとらないとはっきりしたことは分かりません。また間違って判断することになります。社交不安障害の人は相手と向き合うということが、自分を非難されるという怖れから向き合うこと自体を避ける傾向があります。怒りや不快を表現しないで沈黙してしまうパターンもよくあります。どうせ相手に向き合っても言い負かされてしまう。そしていつも気まずい思いをしてしまう。それだったら、最初から我慢したり耐えたりするほうが、気が楽だという考えです。社交不安障害の人はもともとそういうコミュニケーションが体にしみこんでいます。改善するためには、他の人からサポートを受ける必要があります。集談会などの仲間に協力を得て、具体的な事例を出し合って事前準備を行うのです。たとえば自分が社交不安障害になって、母親がいろいろとアドバイスや指示をしたとします。すぐにイライラして反発するのでは芸がありません。そういう時に母親に受け入れてもらえるような言葉を先輩などに聞いてみることです。「アドバイスが必要な時は自分からお母さんに相談する。それまではそばで見守ってほしい」こんな表現ができれば、母親を傷つけることもなく、自分の気持ちを母親に伝えることができるのではないでしょうか。(対人関係療法でなおす双極性障害 水島広子 創元社参照)
2015.08.31
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水島広子氏は「対人関係療法でなおす社交不安障害」(創元社)の中で、相手との人間関係の中に「境界を設定する」ことを提案されている。これは自分の問題なのか、相手側の問題なのかという境界線をはっきりとさせていくということです。満足のいく人間関係においては、境界線がしっかりと引かれて、お互いの「敷地」を尊重し合うことができている。しかし、自分が決めるべき事なのに相手が決めてしまう。つまり相手が自分の敷地に入っていることも多い。あるいは、本来相手の問題なのに、まるで自分の責任であるかのように感じて気を使ってしまう。相手の敷地に自分が入り込んでいる。このように勝手にお互いの敷地に入り込むと摩擦を起こしストレスとなります。これは中国が海洋資源の獲得を狙って海洋進出を企てているようなものです。周辺諸国から猛反発にあっています。このままでいけば日本海も中国の領海だと言いかねないようなものです。このようにお互いの敷地に不用意に踏み込むことは後々大きな紛争に発展する可能性があります。幼い子供がお出かけするときにいつまでもテレビを見ているとします。お母さんは「いつまでもグズグスしてないで、早く服を着替えて準備をしなさい。連れて行きませんよ。あんたはいつもこうなんだから、イヤになっちゃう」と言ったとします。これはお母さんが思っているように子どもが素直に行動してくれないからイライラしているのです。自分の不快な感情を子どもにストレートに掃き出しているのです。自分の不快感をスッキリと解消しようとしているのです。母親は子どもに自分からすすんでさっさと用意してもらいたいと思っているのでが、思うように行動してくれないから相手の敷地に入り込んで無理矢理行動することを迫っているのです。一種の脅迫行為です。反発心の強い子だったら駄々をこねて喧嘩になります。こういう場合は、「お母さんは早く準備してくれるとうれしいんだけどなあ。もう出かけないと電車に間に合わないよ。それともお留守番していてくれるかな。」と言ってみればどうでしょうか。そのあとどのような行動を選ぶかは子どもが決めることです。子どもの敷地に親が子どもの了解もなしに入り込むことは差し控えないといけません。社交不安障害で悩んでいる人は、相手が敷地に断りもなく入り込んできたのに、見て見ぬふりをしてしまうことが多々あります。理不尽な要求に対して我慢したり、たいしたことではないと耐えたりすることです。相手が自由に自分の敷地に入り込むことを許してしまうとストレスがたまります。また相手は自分の敷地なのに、相手の敷地のように思ってしまい、ますます縦横無人に入り込むようになります。親分、子分のような関係になってしまいます。そんな一方的な人間関係がいつまでも続くことは考えづらいことです。いつか火山の爆発のように大噴火をおこします。森田理論学習の中ではこのような人間関係を「不即不離」と言います。これは人間関係の極意です。べたべたとくっつかない。そうかといって全く離れているわけではない。絶えず気にはかけているのだが、深入りはしない。私メッセージの手法を使って自分の感情、気持ち、希望は相手に伝えていく。それを受けて相手がどう発言するか、どう行動するかは、相手の気持ち、意思を尊重するのである。決して自分の「かくあるべし」を押し付けない。すると自分のストレスがたまらないし、相手と対立関係になるということが避けられるのである。そういう人間関係の在り方を森田理論で学んで身につけたいものです。
2015.08.30
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耐える、がまんするということを考えてみました。これには2つの側面があると思います。1、生の欲望の発揮にあたっては、さまざまな障害が待ち構えています。やる気が出ない。時間がない。資金がない。協力が得られない。等いろいろとあります。意志の弱い人は、それらに圧倒されて、とても無理だと判断して早々とあきらめてしまいます。そして暇を持て余すようになるのです。その時考えることは、「どうせ自分なんか」という自己否定のことばかりです。このやりきれない気持ちを抑えるために刹那的な快楽を追い求めるようになります。意志のしっかりした人は、そこで踏みとどまることができます。一つ一つ障害を乗り越えて目標に近づいてゆきます。その状態は苦しみやイライラに耐えていると言えます。こういう意味での耐えられる人、我慢できる人です。それを持ちこたえながら前進できる人です。2、不平、不満、不安、恐怖、怯え、怒り、憎しみ、悔しさ、悲しみ、嫉妬心、憂鬱、無力感等のネガティブな感情が湧き起った時、表情や言動に出さないで、じっと我慢して耐える。普通はこのような人が我慢強い人、社会的に望ましい人であると考えられています。言動に出さないのでトラブルにならないからです。でもストレスが蓄積されて心身症、神経症になります。これが子どもに表れるとどうなるか。意地悪されても、つらいと感じない。へらへらしているのでもっといじめられます。また、いじめにあって学校へ行くことが難しくなります。ところが家でその気持ちを親に出すと、叱られます。子どもは、その気持ちを封印して、イヤイヤしかたなく学校に通い続けます。そのような子どもは一見我慢強いようですが、本来の我慢強い子どもとは違います。このような子どもの注意は対人関係にばかり向いています。するといじめなどがあると強いトラウマとなります。トラウマになるということは、その時に封じ込められた不快な感情が、何かの刺激を引き金にしてフラッシュバックをおこすようになります。些細なことで突然きれてしまい、重大事件を引き起こしてしまうこともあります。大人の場合はどうか。会社で頼まれた仕事は何でも引き受けてしまう。自分が目一杯の仕事を抱えていても、断ることができない。あるいは、体がしんどいにもかかわらず有給休暇の申請ができない。用事があっても、みんなと同じ時間までサービス残業をしてしまう。その反面、ランチにお誘いがかからないと気が動転してしまう。ミスや失敗をするともう会社をやめてしまおうかと考えてします。一人で孤立しているとみられることは死ぬより辛い。これらは小さいころから、自分のネガティブな気持ちを封印して我慢したり耐えてきたつけが表面化してきているのです。その蟻地獄の中から抜け出ることは容易ではありません。完全には抜け出せないかもしれません。効果があるとすれば、森田理論学習を積み重ねて、実践していくことだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.31
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小学校4年生のあるクラスで「心の教育」がありました。4名から5名のグループで、廊下にはってある絵を一人ずつ順番に見てきて、画用紙に描きだすという課題でした。一人ずつが、見てきたものを書き、全員で一つの絵を協力して仕上げるのです。その時あるグループで男子数人がけんかをはじめました。リーダー役の女子がけんかをやめさせようとしますが、収まりません。気持ちが荒れている男子は、いたずら書きをたり、まじめに取り組みません。リーダー役の女子は、イライラしながら一人で取り組みました。時間がきて、全員の前で発表の時間になりました。明らかにのグループは他のグループに比べて、未完成の状態でした。しかしこのリーダー役の女子は、発表では「みんなで協力してやれてよかったです」と言いました。心の中で思っていることとは違うことを発表したのです。こうして「心の教育」という授業は終わりました。波風を立てない建前の発表にはたして問題はないのか。私は問題が大ありだと思います。この女子の気持ちは「男子はけんかばかりして、協力してくれなくて、私はとても悲しくて残念でした」ではなかったでしょうか。この子のかなしい思い、悔しい思い、腹立たしい思いはどうなったのでしょうか。「心の教育」というからには、心にはネガティブな感情も湧き起ることもあり、その気持ちを抑圧しないで出し合う。そのことの意味を考えてみるということが大切なのではないでしょうか。そういう意味では格好の授業の題材になったはずです。先生は教室にいて見ておられるわけですから、そこに焦点を絞って授業を進めるべきだったのではないでしょうか。ただ単に共同作業を経験させることが目的なのでしょうか。そんなことをするとそのグループの児童を責めることになり、授業に悪影響をもたらすとでも考えられたのでしょうか。子どもを育てるということからするとどうも違うような気がします。ここで重要な点は、このネガティブな感情をどう取り扱っていくかということにあります。この点について、親、養育者、教師のみんながネガティブな感情は悪であり、憎むべき相手であると思っています。そしてその誤った思いを子どもたちに伝承しているのです。世代を超えてその悪循環が繰り返されているのです。先生はこの例を参考にして、ネガティブな感情を受け入れていくことの大切さを分かりやすく児童に説明していかなくてはなりません。文科省の教育の指導要綱にはそんなことは触れられていないのでしょうか。でもこれは人間が生きていくための必須の学習事項です。是非とも次世代を担う子どもたちに伝えてゆきたい学習項目です。そのためには、親、養育者、教師のみんなが、ネガティブな感情は生きていく中に当然出でくるものであり、逆らうことは自分を苦しめることになるのだという理屈を知ることが先決です。そして自分でもその方向で行動できる。それを子どもたちに伝えていく。すると、子どもの心の問題の大半は解決の方向に向かうのでないか。森田理論学習を続けている私たちはそのことを社会に認知させていく使命が課せられているのだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.28
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「みかんていいな」という言葉をキャッチフレーズにして、自分の気持ちを相手に伝える方法があるそうです。みかんの「み」は、見たこと、客観的な事実・状況を話す。「かん」は、自分の感じたこと。自分の思いや気持ちを話す。「ていいな」の「てい」は提案のことです。「いな」可否を尋ねて否定された場合の対案のことです。例えば共働きの妻が何か悩みがあって、疲れ気味の夫に相談する時のことです。あなたも疲れていると思うけど(客観的事実・状況)、私の話を聞いてほしいの(自分の気持ち)。仕事のことでとても困っているから、あなたに聞いてもらえるだけで気持ちが楽になるから、お願いできないかしら(提案)。もしあなたが今疲れているようならいつがよいか教えて(対案)。これはアサーティブな自己表現の手法だそうだ。これには森田的な考え方が含まれている。まずは事実や状況を正しく把握する。ここがまずもって大切になる。見つめていると、何らかの感情が湧き起ってくる。ここで大切なことは自分の感情を我慢したり、抑えつけたりしないことだ。湧き起った感情を素直に感じとることだ。決してすぐに相手のことを考えないことだ。自分の内なる感情を感じとること。その次に自分が相手に期待する気持ちを整理する。この段階になって、その気持ちを素直に相手に伝える。「○○してくれるとうれしいんだけど」「○○してほしい」等。でも相手には相手の都合がある。だから相手が受け入れてくれるかどうかは神様のみが知るところである。まあ5分5分ぐらいに考えておいた方が無難だ。つまり相手の気持ちを察してあげるのだ。「今すぐというわけではないよ」「いつだったらいいかな」「ここではまずいいかな」「食事でもしながらというのはどうかな」「喫茶店ではどうかな」「時間的に無理だったら教えてね」相手がどうリアクションしてもそれは相手の自由な裁量に任せてしまうことが重要となる。(はじめての認知療法 大野裕 講談社現代新書 138ページより一部引用)
2015.07.22
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5歳の女の子の話です。この女の子は、スーパーでお母さんの立ち話が長くなると「怖い、怖い」というのだそうです。また、レストランで食べられないものが出てくると、同様に「怖い、怖い」というのです。怖いと言いながら、近くに恐ろしいものがあるわけではないのです。この心理を考えてみましょう。目の前に恐怖心を起こさせるものがないわけですから、怖いというのは言葉だけのことではないのかと考えられます。実際に自分の体の中で感じていることは違うのではないか。多分じっと待っているだけなので、退屈だ。つまらないという気持ちなのではないでしょうか。もし、女の子が「ママ、つまんない。早くいこうよ」と言ったとしたらどうでしょうか。お母さんは、きっと「もう少し待ちなさい」「大事なお話をしているのだから、がまんしなさい」等ではないでしょうか。退屈だからといってグズグスした態度をとられると大変だからです。女の子は、こんな時お母さんは、いつも私の気持ちを分かってくれない。いつもお母さんは自分の言いたいことを私に押し付けてくる。その気持ちに耐えられない。そんな態度をとるお母さんはイヤだ。許せないと思っていた。ところがある日、「怖い」といったところ、お母さんは飛んできて、私の気持ちに寄り添ってくれた。めんどうをよく見てくれた。そこでこの言葉は魔法の言葉だと思ったのです。怖いという言葉を使えばお母さんは、私の後ろ向きの感情も適切に受け止めてくれるのだと学習していたのだと思います。それ以外の言葉で自分の気持ちを表現するとすぐに否定されてしまう。すると私は気分が悪くなる。こんな心理が働いたのでしょう。この奥には、日頃から娘の悲観的、マイナスな感情は認めてこなかったという経緯があったのです。お母さんとしては、子供に怖いと言われると、娘に何かあったら大変だ、助けてあげなければと思って、娘のいいなりになってしまいます。ところが、「たいくつだ」「つまんない」等と言われると違います。そんな言葉に従うと、娘がわがままに育ってしまうと思ったのです。こういう時は厳しくしつけをしなければならないと考えたのです。だから娘に厳しく対応するのです。お母さんが娘の気持ちに寄り添って、一旦はどんなネガティブな感情でもきちんと受け止めてみる。そしてお母さんの言葉で娘さんの気持ちを代弁してあげる。受容する気持ちがあると、娘さんはどんどんネガティブな感情も否定したり隠さないで表現するようになる。このことが子育てでは肝心なことです。これは大人の良好な人間関係作りにも応用できる考え方です。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.21
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5歳のあやちゃんとみかちやんが公園の砂場で楽しそうに遊んでいます。たくさん、お山や川をつくって、水を運んで、全身でダイナミックに夢中になって遊んでいました。4時になってお母さんが迎えに来ました。二人ともスイミングスクールの時間なのです。「お時間だから手を洗ってらっしゃい」と二人のお母さんが声をかけました。あやちゃんは「はーい」とすぐに遊ぶのをやめて、水道で手を洗い、お母さんと一緒にスイミングスクールに行きました。ところがみかちゃんは、「いやだ。もっとお砂場する。ママ、みて、これすごいでしょ。スイミング。いい…きょうは行かない」といって、お砂場遊びからもどってきません。私たちはどちらの子どもの態度が好ましく思うでしょうか。たいてい素直に親のいうことに従う子供を好ましく思うのではないでしょうか。しかし感情の育ちから見ると、みかちゃんの方が望ましいのではないでしょうか。楽しみのエネルギーが全身を流れているときに、それを急に中断するというのは難しいことです。子どもとしては「イヤだ。もっと遊びたい」と思うのは当然な成り行きであり、もっともなことです。むしろ心配なのは、あやちゃんです。あやちゃんは、それまで自分の身体の中を流れていた楽しみのエネルギーを、お母さんの声を聞いただけで、ピタリと止めることができてしまっているのです。自分の身体からあふれてくるエネルギーの流れを、ピタリと止めて、お母さんの指示に従うことができるということは、感情の育ちを考えたとき問題です。一般的にみると親の言いつけをよく守る理想的な子供のように見えます。しかしその裏では、自分のほとばしり出る感情を抑えつけたり我慢したりしているのです。あるいは、なんの抵抗もなくできるということは、すでにそういう思考パターン、行動パターンが習慣化されているということです。自分の意思や希望を我慢したり、耐えたりするようになっているのです。普段お母さんが子どものネガティブでマイナスの感情を受け止めてあげていないので、そういう感情を表出することができなくなっているのです。自然にわき出る負の感情を抑圧、拒否、無視、否定していると、ストレスがたまり続けて成長するにつれて大きな反動として表面化してくるのです。あるいは自分自身生きづらを抱えて、生きていくことが苦しくて仕方がなくなるのです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.20
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