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昨日の続きです。青山学院大学陸上競技部のサポート部隊の役割としてどんなものがあるのか。実際のレースでは出場選手への声掛け、応援、給水、手荷物の保管、走り終わった選手へのケアなどがあります。移動や選手の回収などの役割などもあります。沿道においては幟を立てて選手を鼓舞することも行います。それ以外に部活動としては、重要な役割分担があります。陸上競技部というチームの中には、キャプテン、マネージャー、寮長、学年長という役割を持つ人を置いています。これらは基本的に選手に選ばせています。キャプテンはチーム状態が悪い時に、チーム全体を明るく前向きな方向に導く人です。リーダーシップが求められます。部員からの信頼感がある人です。また部員に自分のメッセージを発信できる人です。会社でいえば経営者です。その時の状況を読んで、方針を立案し、みんなを鼓舞して、チームとしてまとめ上げる能力を持っている人が適任です。マネージャーは、選手のサポート役です。裏方になります。選手として箱根駅伝に出場する希望がかなわなかった人の中から選びます。選手たちのコンディションの把握に努め、日々改善していくのが仕事です。アンテナを、幅広く張って、状況により敏感な人が向いています。細かいことに敏感な神経質タイプに向いています。また、監督と選手のパイプ役という側面もあります。時には監督に変わって、厳しい言葉を伝える必要があります。先輩後輩に関係なく物申せる人物でないと務まりません。反面口の軽い人は向きません。伝えていいことと、軽口をたたいてはいけないことが、よく分かり、実行できる人でないと務まりません。マネージャーになるためには一つの条件があります。それは、選手生活をやり切ったという人でないとダメです。とことんまで自分の限界に挑戦してきたが、設定タイムを期限までにクリアできなかったという人の中から選びます。そういう人がマネージャーになったときに力を発揮するのです。マネージャーが務まる人は、卒業後会社に入っても立派な仕事がこなせます。つぎに寮長ですが、部員の生活管理、衛生管理、整理整頓、食生活の管理を通じて寮の運営を担当します。寮母との相性がよいことが条件です。細かいことによく気が付き、凡事徹底に徹することができる人が適任です。率先垂範の人が適任です。これも神経質性格者がぴったりと合います。学年長は学年全体を束ねる人です。明るく前向きな人で、将来のキャプテン候補です。たとえ、箱根駅伝に出場して選手としてスポットライトを浴びなくても、その人の持ち味を見つけて、部活の中で、居場所を与えて、伸ばしていくことがとても大切だということです。それぞれが自分の課題や目標を見つけて、それに向かって努力精進していくことが、なによりも重要だということです。これはすべての人に当てはまることだと思います。(フツーの会社員だった僕が青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉 原晋 アスコム 185ページより参照)なおこの本は、森田理論学習に取り組んでいる人に、役に立つことが沢山ありますので、推薦いたします。
2021.03.28
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青山学院大学の陸上競技部には約50人の選手がいます。1学年にすると10名程度です。全員が箱根駅伝に出場出るわけではありません。基本的にはタイムの上の選手を起用していくことになります。上級生が年の功で優先的に出場権を獲得できるようにはなっていない。問題は出場できない選手が投げやりになって意欲をなくして、チームの結束を乱してしまうことです。チームがまとまらないと、箱根駅伝で優勝、あるいは上位に入ることはできない。最悪シード権を逃して、次の年の予選会にも敗退すれば、エントリーすらできなくなる。出場できない選手はどう取り扱うかは、監督としては大きな問題です。原監督はそういう選手をどうやって、人間的にも一回り大きく成長させていくかに力を注いでおられます。一つは箱根駅伝とは別の大会への出場を目指して練習させる。10キロの持ちタイムが28分40秒以内が箱根駅伝にエントリーできるかの分岐点です。しかしどんなに頑張っても記録が伸び悩む選手が出てくるのが現実です。能力の限界を超えて、成績を伸ばせと叱咤激励すると、ある程度までは頑張りますが、緊張の糸が切れたときは悲惨なことになります。そんな風に選手を追い込んでも意味がありません。ましてや、そんな選手を見放すことはあってはならないことです。人間無視されて見放されることほど悲しいことはありません。そんな選手には、個人目標を与えてそれを達成できるように支援していく。目標を達成したら最大限に評価してあげる。そして新たな次の目標を与えて、その努力のプロセスを暖かく見守り続けることが大事です。学生スポーツというのは、4年間それぞれの選手の能力に応じて、選手が自ら設定した目標に向かって、努力精進するということが一番重要になります。努力精進によって掲げた目標を達成して、能力の獲得と自信をつけることが大切なのです。それは個人としてもチームとしても大切になります。部活動を通じて、身体能力を鍛える、選手としての能力を伸ばす、日常生活の心構え、人間関係のあり方、折衝能力、交渉力、組織の活性化などを身に着けていくわけです。青山学院大学の選手は、就職面接の際、陸上競技に取り組んだ4年間の成果について、面接官に大いにアピールしているそうです。そういう貴重な経験は、めったに持つことはできない。そのことに寝食を忘れるほど取り組むことで、今後の長い人生に大いにプラスになります。この経験をしたおかげで、普通は学力面で優秀な学生しか入れないような有名企業に数多く採用されている。もう一つは、陸上競技部として成果を上げるためには、何も選手だけが個々の成績を伸ばすだけでは不十分です。それを支えるサポート部隊のすそ野を広げていくことも同時に取り組む必要があります。サポート部隊の重要性を理解させて、選手として出場がかなわない人に、その活動に生きがいを感じてもらうことで、一回り大きな人間になってもらいたい。適材適所の役割を与えることで、選手以上に大きな人間として成長することができます。この点については、明日の投稿で紹介します。(フツーの会社員だった僕が青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉 原晋 アスコム参照)
2021.03.27
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この言葉は不即不離、精神拮抗作用の説明です。さらに、この言葉を深耕してみましょう。私がインテリア卸の会社に勤めていたころ、とても気むずかしい部長がいました。ワンマンというか、独裁的というか、不快な感情をすぐに態度にだす人でした。私はそのすぐ下で働いていました。いつも緊張していました。出先の所長職の人は、直接この部長に電話をすることは控えているようでした。部長の精神状態を確認しないで、部長の機嫌を損なうような話をしようものなら、フロアーにひび渡るような罵声を浴びることになります。しかも長話になるのです。そこで、所長職の人は、まず私宛に電話をしてくるのです。今事務所にいるのか。外出しているのか。忙しそうか。そうでもないか。今日はどんな機嫌か。今電話をしてもよい状態か。トラブルの対処やノルマの進捗状況の報告については、特に気を使っていました。「今は問題のある案件を抱えて、荒れている」というと、「分かった」といって、「落着いたら頃合いを教えてくれ」といって電話を切るのです。この作業を行わないと、本来の仕事に支障が起きることが多かったのです。この問題について、森田先生は次のような話をされています。ここに入院している人は、森田を尊敬し、あるいは信頼しているからこそ入院したわけで、森田がこわいのは当然のことであります。この森田がこわいという心そのままであると同時に、一方では森田の話を聞き、指導を受けたいという心があるはずです。このこわくて逃げたい気持ちと、近づいて幸福を得たい気持ちとがはっきり対立している時に、私どもの行動は微妙になり、臨機応変になり、最も適切になり、いわゆる不即不離の態度となるのであります。間違った態度の人は、こわいとか恥ずかしいとかという心を否定し圧迫しようとし、一方には近づきたいという心をやたらに鞭うち、勇気をつけようとして無理な努力をし、その結果は精神の働きがかえって萎縮し、かたよったものになってしまうのであります。こわくないように思おうとするから、ムリに虚勢を張ってかたくなになり、しいて近づこうとするから、相手の迷惑などには少しも気がつかず、ずうずうしくなってしまうのであります。これらの話から分かることは、相手にお構いなしの自己中心的な行動は問題だということです。自分の気持ちや感情を優先して行動するとうまくいかないことが多い。その時の相手の状況を観察して、接触のタイミングを見極めることが大切になるということです。そして時期尚早と判断すれば、いったん引き下がる。チャンスを待つことです。その際、全く目をそらせてしまうことはダメである。絶妙のタイミングがやってくるまで、遠巻きに観察を続ける。ここがチャンスと判断したときには、不安であっても思い切って行動する。この手順を間違えて行動してはならないと教えてくれているのである。言い換えれば、刻々と変化する目の前の状況をよく観察して、その変化にこちらから合わせていくという態度のことである。(新版 自覚と悟りへの道 白揚社 73~76ページ)
2021.03.26
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会社で営業をしていると、ノルマが毎月未達でチームの足を引っ張る社員がいます。女子マラソンの指導者の小出義雄さんは、そんな社員を叱りつけてはいけないという。他の社員と比較して、なじってもいけない。そんなことを言うと、できの悪い人間はますます小さくなり、落胆してしまう。希望を失って意欲は減退するばかりになる。小出さんはそういう社員がいたなら居酒屋などに誘う。酒を飲みながらの話はすぐに打ち解ける。そして、その社員のよいところを評価するようにするそうだ。どんな人間にも、必ず一つや二つ、取柄はあるものだ。不成績にばかり目がいき、長所を見逃している場合は多々ある。いいところをほめられて悪い気のする人はいない。普通はそこで終わってしまう。小出さんはもっとやる。実はここが一番言いたいところだ。それは、「へり下りと謝り」である。へりくだって相手のことを敬うことは、言葉でいえば謙譲語と言われている。「キミの成績が思うように上がらないのは、みんな上司であるオレのせいだ。オレの頑張りが足りないから、キミに苦労をかけてすまない。オレがしっかりしてさえいれば、キミの能力をもっと発揮させられるのに・・・。これから、キミに苦労をかけないように努力するから、キミも頑張ってくれ」(小出監督の女性を活かす「人育て術」 二見書房 72ページ)なんとも心憎い演出です。実際は居酒屋に誘っても、褒めるよりも説教する人が多い。上から下目線で相手を批判する。否定する。「かくあるべし」を一方的に押し付けるのだ。叱咤激励すれば相手は改心してくれると信じている。少し考えれば、事態はますます悪くなることが見え見えなのだが、そんなことには少しも気がつかない。はっきり言えば、上司、リーダー、監督、先生の器ではないということです。イソップ物語に北風とマントの話がある。北風が男のマントを脱がせようと、強風を吹かせる。力づくで男のマントをはぎ取ろうとするのです。しかし男ははぎ取られないように必死になって防衛する。北風は目的を果たせず退散する。つぎに、太陽が顔を出す。暖かい空気を送り込むと、男は自分からマントを脱いだ。成績の悪い部下は、会社でも居場所がない。孤独である。みんなから役に立たないお荷物として軽蔑されている。営業の基本が分からない。やり方が分からない。でも手を差し伸べてくれる人がいない。四面楚歌の状態で絶望しているのです。そんな時に、相手を否定することは北風のやり方と同じです。ここでとる態度は上から下目線で叱咤激励することではありません。相手の悩み、葛藤、言い分をよく聞いてあげることです。相手に寄り添う姿勢が上司に求められるのではないでしょうか。これは親子や夫婦の人間関係でも同じことです。一方的にこちらの意見を述べるのではなく、まず相手の話をよく聞く。弁明の機会を与えるのである。軽率に是非善悪の価値判断を行い、「かくあるべし」を押し付けない。事実をありのままに承認してもらうことが先に来ないと、相手からそっぽを向かれてしまうのではないでしょうか。溝はどんどん開いていく。集談会で家族の人間関係が悪くてストレスが溜まっているという話を聞きます。こういう場合は小出義雄さんの話を参考にしてみてはいかがでしょうか。
2021.03.22
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森田先生のお話です。人が自分ばかり、注意していると思うのは、高ぶった心です。誰もことさらに、自分のみ注意を払わないだろうと考えるならばへりくだりの心であります。この謙遜の心は、ことさら人に対抗する気持ちがないから、おのずから非常に安楽なものです。(森田全集 第5巻 594ページ)対人緊張の強い人は、他人は自分の一挙手一投足に強い関心を持って観察しているに違いないと思っています。特に自分の欠点や弱点、ミスや失敗などがないかどうかを鵜の目鷹の目で様子をうかがっているはずだと信じています。もしそれらが相手に見つかれば、相手に攻撃のきっかけを与えてしまうと考えています。これは大きな認識の誤りだと思います。野鳥は一日のうち60%から70%は、エサをとることに費やしているといわれます。これを怠ると生きながらえることはできません。生きとし生けるものは、自分の生命を維持することに最大の興味と関心を持っているということです。これは基本的には人間の場合も同じだと思います。自分や家族の生活を維持していくこと。命の再生産を図っているということです。さらに自分たちの生活を豊かにしていくことにエネルギーを投入しているのです。そんな状況の中で、他人の動向に強い興味や関心を寄せることはよほど暇な人だと思います。本来、他人は自分に影響を与えることや、目を引くような出来事があった時ぐらいしか関心を示さないのではないでしょうか。そのように考えると他人がことさら自分の動向に強い関心を寄せて、危害を加えてやろうなどと考えているという思い込みは、妄想に近いのではないでしょうか。このような思い込みに取りつかれると、命の延命を図るという本来の目的を見失ってしまいます。本来の生きる目的を忘れて、敵の攻撃から我が身を守り抜かなければならないと考えるようになります。欠点や弱点、ミスや失敗は存在してもよいが、他人に見つけられてしまうことは何としても避ける必要がある。他人に馬鹿にされるようなことをしてはならない。無視、軽蔑、拒否、脅迫、仲間外れにされるようになると、社会的な死を招いてします。何としても、それだけは回避したい。そのためには、専守防衛に徹するしかない。将棋や囲碁でいえば、相手に勝つという目的を忘れて、守り一辺倒に偏っている状況です。守り一辺倒では、勝負をかけてゲームを大いに楽しむ気持ちはなくなってしまいます。注意や意識が自己内省ばかりになると、自分で自分を否定し、責めることが多くなります。味方が身内を否定してしまうことほど悲しいことはありません。そうなりますと、目の前の生活を維持して、生命体としての自分を延命させることなどはどうでもよいということになるのです。手段の自己目的化が起こり、本来の人間の生き方から逸脱しているのです。それだけではありません。そういう人は、自分自身にも対立して、自己嫌悪、自己否定で苦しむようになります。さらに、問題が広がります。他人へのやさしさ、思いやりが持てなくなります。というよりも、他人の一挙手一投足に強い関心を持って観察するようになります。他人の弱点や欠点、ミスや失敗をことさら大きくして、相手を攻撃するようになるのです。自分や他人と対立して、葛藤や苦悩を抱えてしまうのです。このような落とし穴に落ちないようにする事が肝心です。そのためには日常茶飯事に丁寧に取り組む習慣がかかせません。習慣に従って、特段考えなくても、淡々と習慣化された生活を繰り返すということです。暇を持て余して考える時間が存分にあるという生活は問題です。「小人閑居して不善をなす」ようになるからです。夜中に目が覚めて考えることは、過去の失敗、恥ずかしい事、他人に迷惑をかけたことなどばかりが思い出されます。行動がお留守になり、観念の世界にどっぷりと漬かると、健康な精神状態は保つことができなくなります。昼間はできるだけ身体を動かすようにしたいものです。規則正しい生活を心掛ける。凡事徹底でものそのものになり切る。こうした森田の教えを実践することで、他人に振り回される状況から脱出していきましょう。
2021.02.25
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人前で自分の意見を理路整然と話すことが苦手という人が多い。営業やセールスの仕事をしている人は、巧みな会話や説得術を身に着けて、相手の断り文句をかわして、すべて成約に持ち込めたらどんなにうれしいだろうと夢見ている人が多と思う。そのためにセミナーに参加し、ハウツー本を読んでその極意を身に着けようとする。確かにある程度の自己主張やセールステクニックは必須です。しかし、しゃべり過ぎというのは相手から敬遠されるという面があります。反対に相手の話を聞くことが苦手で困っているという人はほとんどいません。聞くことはエネルギーを消費することもなく、受け身になる事だから簡単であると思っている人が多いのが現実です。それは認識の誤りである可能性が高い。今日は相手の話に耳を傾けるということについて考えてみたいと思います。これからあげる質問に対して、そういう傾向があるというものがありませんか。1、相手の話を早合点して分かったつもりになって聞き間違えることがある。2、講演や会議などで眠くなることがある。3、嫌いな人が話している時、心を閉ざして拒絶している。4、相手の話し方がくどいと、聞くことが嫌になり真剣には聞かない。5、相手が話していても、自分が話すことに意識や注意が向いている。6、自分が話すことを第一に考えて、途中で相手の話を遮ることがある。7、相手の話に興味や関心が持てないので、聞き流している。8、自分の考えと違うといかに反論して論破してしまおうかと考える。9、人の話を聞く時、時々腕組みをしている。無表情、無反応で聞いている。10、話の内容が理解できなくても、確認や質問をしないで放置する。ここにあげたことがほとんどありませんという人は、相手の話をよく聞いている人です。注意や意識が相手に向いているので、相手に敬遠されることはないでしょう。営業やセールスでは相手の話を聞いて、興味や関心、抱えている問題点などをつかもうとしているので仕事もうまくいくでしょう。問題は、ここにあげた傾向があるという人です。そういう人が、セミナーや話し方教室に参加し、ハウツー本を読んでさらに巧みな話し方を身に着けようとするのは方向性に問題があると思います。普通の会話は話しするのが40%、話を聞くのが60割ぐらいの気持ちの方が人間関係が円滑になるといわれています。その割合が逆の場合は、バランスが崩れているのです。話しすることに偏り過ぎていることが問題です。この場合は、話しすることに意識や注意を向ける比率を下げることが大切です。放っておいても話すことに注意が向いていますので、この際話すことは放置しておく。そして、相手の話を真剣に聞くという方向に、大半のエネルギーを投入していく。こうすることでやっとバランスがとれてくるのではないでしょうか。それを意識して聞くことに専念すると、いくらでもそのやり方は工夫できます。たとえば、身体を相手に向けて聞く。明るい表情で聞く。あいづちをうちながら聞く。相手の言葉を復唱しなから聞く。メモをとりながら聞く。質問や感想を入れながら聞く。相手の興味や関心、悩みや困りごとを引き出すような質問をする。こういう努力は、相手に「かくあるべし」を押し付けることから遠ざかり、事実本位に近づいてきます。よかったら、ぜひ実行してみてください。
2021.02.02
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結婚するにあたっては、誰しも相手の性格、容姿、仕事などあらゆる側面から検討していると思います。どういう点を基準にすればよいのか、森田理論をもとにして考えてみたいと思います。まず結婚するにあたっては、意見の対立が発生した場合はどう解決していくかを取り決めておくことが肝心です。これをあいまいなままにして結婚すると、自己主張の強い者同士の場合、必ず喧嘩が絶えなくなります。最悪の場合は離婚に至ります。そこまでいかなくても家庭内別居状態になります。心身ともに悪影響を及ぼします。さらに悪い事は子供の成長に暗い影を落としてしまうのです。世間では夫婦仲に問題を抱えているという話はよく耳にします。それは結婚する前に、そういう話し合いをしていないからです。合意していても、解決策を着実に実行していない。一つ屋根の下で生活している夫婦が、毎日顔を合わせないようにして暮らす生活は、苦しみ以外の何物でもありません。次に性格や趣味の合う人の方が楽しい家庭を築いていけるという考え方があります。やることなすことが対立することがない。夫婦円満になるという考え方です。これは頭で考えることと実際は違うということになるように思われます。性格や気性や趣味が異なると絶えず対立して波風が立つという風に考えがちです。でも夫婦の人間関係は、もともと小さい波風が立つのが普通の状態です。小さな波風が立った時、それを抑え込んだり、我慢すると問題はどんどん増悪してしまいます。しかし神経症の場合よく感じることですが、落ち込んだ場合、波長が同じなので同時に落ち込むことがあります。それが増幅されてしまうのです。特に二人とも対人恐怖症という場合は、特に注意が必要となります。強迫神経症と不安神経症の組み合わせはまだましだと思っています。基本的には、我々のような神経質性格者の場合は、発揚性気質など他の性格者の人の場合がよいのではないでしょうか。森田先生もそういわれていたように思います。その方が磁石でいえば、プラスとマイナスを近づけるようなものですぐにくっついてくれる。ところがプラスとプラス、マイナスとマイナスをくっつけようとすると、反発するばかりでなかなかうまくいかない。お互いに足りないものを相互に補うような人間関係の方がうまくいくように思います。結婚相手で「かくあるべし」を前面に押し出す人がいます。よく言えば信念が強い。強いこだわりがある。完全欲、完璧主義、コントロール欲求が強い人です。相手が自分の期待を裏切る事をすると絶対に見逃さない、許さないという人です。そういう人は、相手を思いやるやさしさが少ない。自己中心的で妥協や柔軟性はほとんど皆無です。そういう態度で結婚相手とかかわっていくのです。これに対して、あらゆることを我慢し、耐えて相手の言いなりになる人もいます。バランスの崩れた夫婦関係も心身の不調や子供の養育に悪影響を及ぼします。理想的な夫婦は、お互いに言いたいことを言い合える夫婦だと思います。そして絶えず小さな対立を抱えている緊張感がある夫婦です。これが普通の状態です。その時自分の気持ちや考え方を「私メッセージ」を使い相手に伝えている。我慢して引き下がるよりも、どう調整していくのかを常に考えている。一時的に対立しても、少し時間が経てば、いつの間にか水に流している。譲ったり譲られたりすることが臨機応変になされている。四六時中一緒に行動していても、全く苦にならない。人間関係のコツを会得しているかのように思えるような夫婦である。いろんな対立を抱えていても、心の中では相手を信頼して助け合っている。ミスや失敗があっても、基本的には寛容な気持ちで許すことができる。こういう対等な関係を維持している夫婦は見ていてほほえましい。1プラス1が2ではなく、3にも4にもなる夫婦だと思う。
2021.01.22
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対人恐怖を治そうとしないという決意を固めて、目の前の課題に取り組むことができるようになった人に参考になる話をします。1、人間関係は森田理論の「不即不離」を応用することです。1990年11月号の生活の発見誌に、人は親しくなることを目的として付き合うわけではありません。活動の場を通じて引っ付いたり、離れたりしています。対人恐怖症の人は、コップ一杯に満たされた親密な人間関係を築こうとしている人が多いようです。コップに1割程度しか飲み物が入っていないささやかな人間関係が普通なのではありませんか。神経質者は人間関係にのめりこむことがあります。これは極めて危険ですよ。薄くて幅広い人間関係作りを目指すことで、ストレスは大きく軽減されます。必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係を築いていきましょう。そのためには生活の幅を広げて、自分の方から積極的に声をかけていくことが大切です。こういう人間関係が身についてくると、無理がなくなり肩の力が抜けてきます。2、人に役に立つ人間をめざす。他人を喜ばす芸を身につける。森田先生は人の役に立つことを見つけて実行しなさいと言われています。私は集談会で世話役を長らく引き受けてきました。今も続けています。このブログはなんとか神経症で苦しんでいる人のお役に立ちたいと思って始めました。自分の症状のことはさておいて、他人の役に立つことを探して実行することが大切です。自分の症状のことは、その後で考えようと思っているうちに、神経症の苦しみは楽になっていくものです。つぎに、森田先生は鶯の綱渡り、民謡などいろんな宴会芸を持っておられました。私は、これに学びアルトサックス、どじょう掬い、獅子舞、腹話術、浪曲奇術などを身に着けて、老人ホームの慰問活動をしています。もっとも下手なものばかりですが・・・。するとそこでいろんな芸を持った人と知り合いになりました。ボランティアで一芸を身に着けている人は、一言でいうと面白い人の塊です。こういう人間関係に囲まれて暮らしている私は幸せ者です。3、高良武久先生は、対人恐怖の人はエキスパートを目指しなさいと言われています。世の中で役立つ知識や技術や能力を身につけなさいと言われているのです。10年ぐらい一つのことに真剣に取り組めば、その道の専門家になれます。そうなれば、自然に人が集まり、人間関係がうまくいくようになるといわれています。1992年6月号の生活の発見誌に曽野綾子さんが次のように書かれている。ある板前さんで、妻から「お父さんは、経済のことは何も知らない。カラオケに行けば音程がでたらめ、麻雀ではみんなにカモにされる。ゴルフも下手くそ。何をやらせてもダメ。そばにいる私が恥ずかしくなる」と皮肉を言われている。その話を聞きながら、当の板前さんは、悠々と笑いものになって平然としている。それは料理にかけては誰にも負けないという聖域を持っているからなのです。聖域を持つということは生きる自信を生み出しているのです。これは実に胸に響く言葉ですね。仕事でなくてもよいのです。特技や趣味、家庭菜園、ペットのしつけでもよいのです。10年ぐらいかけてそういう聖域を一つだけ作ってみませんか。4、対人恐怖で苦しんだことは無駄ではなかった。対人恐怖で苦しんだおかげで、森田理論に出会い、人生をより深く考えることができました。自助組織の生活の発見会にも参加し、素晴らしい経験を積み重ねることができました。即それは仕事、社会活動の面で大いに活用し応用できました。そして、とりわけ素晴らしい全国の仲間と知り合い交流することができました。発見会にやってくる人は、頭の回転がよい。優秀な人間集団です。好奇心が旺盛でいろんな趣味を持っている。親切で思いやりがある。いざというときなんでも相談に乗ってくれる。人生についてより深く考えている。素晴らしい経験をたくさん持っている。こんな人と交流できることは、普通に暮らしていてはあり得ないと思います。素晴らしい人の出会いは、人生のオアシスを見つけたようなものです。これはいくらお金を積んでも買い求めることはできません。望外の喜びでした。確かに神経症の苦しみの渦中は苦しいことの連続でした。いっそのこと死にたいと思ったこともあります。今考えると、その時は苦しかったけれども、それ以上に得たものが限りなく大きかった。計り知れない多くのものを受けとることができました。「神様は乗り越えられない試練は与えない」と聞いたことがあります。多分有意義な人生を築き上げるための試練として、神経症という課題を与えられたのではないかと思います。それをどう料理していくのか、どう味付けをしていくのか、あなたの腕の見せ所です。「人生に無駄なことは一つもない」と言いますが、まさにこのことを指しているのではないでしょうか。どうぞ災い転じて福となしてください。以上で、4日間にわたり対人恐怖症で苦しんでいる人の為にいろいろと話してきました。これに刺激を受けて元気を取り戻してくださる人が一人でもいてくれたらと願っております。これで対人恐怖症の乗り越え方の説明は一旦終了とさせていただきます。
2021.01.11
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対人恐怖症克服に向けての3日目の投稿です。対人恐怖症の人は、他人から自分の存在を軽々しく扱われることを極端に嫌がります。他人から非難、叱責、否定されることには耐えられないといいます。これをよくよく考えてみると、そのような出来事が起きた結果、不快感、不安感、恐怖感が湧き上がってくることに耐えられないということだと思います。もう少し細かく見てみましょう。不安、怖れ、おびえ、腹立たしい、むかつく、イライラする、侮辱される、非難される、けなされる、悲観する、見捨てられる、孤独になる、悲しい、憂うつになる、疲れ果てる、力が抜ける、傷つく、絶望する、無気力になることに耐えられなくなる。イライラしてすぐに取り除いてしまいたくなるのです。実際に起きた出来事ではなく、そこから発生した感情を問題にしているのです。ここは勘違いしやすいところですから、しっかりと理解してください。注射針を打たれたような痛みを感じる。注射針の場合は、覚悟を決めて、少し我慢すれば、すぐに楽になります。ところが、不快感、不安感、恐怖感は耐えることができない。我慢することができない。自分自身が精神的に混乱し、取り乱すことを見逃すわけにはいかないと考えるのです。また一方では、そういうものは適切な手を打てば取り除くことができるものだと考えているからだと思います。逃避するというのは、一時的ではありますが、簡単に不快感から逃れることができます。カンフル剤のようなものになるのです。実際には、そのような手っ取り早い手段を使って、解決しようとすることが、症状をどんどん増悪させていくのです。そのことが頭で分かるのではなく、心の底から体感できるかどうかが、その後の展開を大きく左右します。そのためには何度も失敗を繰り返して、いったんは絶体絶命のところまで落ち込むという体験が有効になるのです。中途半端はあまり効果がありません。これは不安神経症の場合は、生きるか死ぬかという切実な問題が突き付けられるのでそういう体験がすぐにできます。強迫神経症は生死に直結しないのでそういう心境に追い込まれないのです。なんとかなる、救いの道があるはずだと考えている段階では、いつまで経っても、その覚悟を固めることができないのです。私がスタート地点にたどり着くまでに15年かかった原因はここにあります。覚悟を固められるかどうかが、対人恐怖症が治るかどうかの分岐点になるのです。そういうマイナスの感情を放置することができるとどうなるのか。オリンピックのマラソン選手が選考レースを勝ち抜いて、スタートラインに立つことができたようなものだと思います。日本人の出場枠は3人程度です。並みいる強敵に打ち勝ち出場権を得るまでは大変な努力と実績が必要になります。でもここでスタートラインに立てたという意味は大きいと思います。その先にはまた大きな試練が待っているのですが、まず出場権を得ないことには、メダルを獲得することは、絵に描いた餅になってしまいます。森田も同じです。神経症を治そうとしないという覚悟を決めることがとても重要になるのです。神経症が治るかどうかのポイントはここにあるといっても過言ではありません。対人恐怖症の人が、不快感、不安感、恐怖感を取り除くことを断念すると、今まで無駄に使っていたそのエネルギーを別な方面に振り分けることができるようになります。家でいえば、コンクリートの基礎(土台)がしっかりと完成したので、その上に自分の思い描いた家を建てることができるようになるのです。森田ではその方向に向かうことを「生の欲望の発揮」といいます。出発点から、目線を一歩上に向けて、問題点、課題、目標の達成に向けて歩みだすことができるようになるのです。生産的。建設的、創造的な行動がとれるようになるのです。治そうという態度ではそんなところに注意が向かないと思います。とくかく神経症の苦しみを取り除くことが最優先になるからです。対人恐怖症の人が、不快感、不安感、恐怖感に襲われたとき、難しいことですが、深入りしないでさっと流し、目の前のなすべきことに取り組めるようになったときが対人恐怖症を克服した時です。症状が治ったかどうかを詮索するよりも、不快感、不安感、恐怖感などを、我慢して受け入れられるようになったかどうかを問題にすることがより重要になります。そしてスタート地点に立ち、目の前のやすべきこと、課題などにエネルギーを投入できるようになった人は、ほぼ対人恐怖症を克服した人です。そういう視点で、対人恐怖症を克服した人を集談会の中で探してみましょう。そして、どうすれば不安などに耐えられるのか、我慢して受け入れられるのか聞いてみてください。さて明日は対人恐怖の私が、生活の発見会活動の中で、学んだこと、役に立ったこと、実践していることを紹介します。
2021.01.10
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今日は対人恐怖症は治そうと努力すればするほど悪くなるというテーマです。こればどういうことだ。意味不明と思われる人が多いと思います。私は小学生のころから対人緊張が激しかったのです。中学生のころから、他人の思惑が気になってしかたがありませんでした。高校、大学、社会人になってからも苦しんできました。森田療法に出会ったのは、会社勤めをしていた37歳の時です。長谷川洋三先生の「森田式精神健康法」で生活の発見会を知りました。その時は会社内で人間関係が悪化して孤立していました。この本を読んで、私の対人恐怖症が治せるかもしれないと直感しました。あれから34年。ほぼ毎回集談会に参加してきました。入会してから「症状はそのままにして、なすべきことをなす」をキャッチフレーズとして、実践目標を掲げて頑張ってきました。世話役も引き受けて、様々な経験を積み重ねてきました。1年ぐらいですぐに効果が現れました。きめ細かな仕事ぶりで、上司からも信頼されるようになりました。ボーナスの査定もよくなり、昇進もできました。プロジェクトのリーダーにも推挙されたこともあります。行動面は申し分なかったのですが、対人恐怖症の葛藤や苦悩は全く改善できませんでした。昨日投稿したような葛藤や苦しみはどんどん強くなりました。その後15年くらいは、依然として対人恐怖症でのたうち回っていたのです。そんなある日のこと。森田先生の次の言葉にくぎ付けになりました。「神経質の症状はこれをなくしようとする間は、10年でも20年でも決して治らない。治すのをやめたら治る」これってなんかおかしくない。森田療法で対人恐怖症を治そうとしている人は、みんな涙ぐましい努力をしているではありませんか。そのために森田理論学習を続けているのですよ。森田療法は神経症を治すためにあるのではないのですか。治そうという努力をしなければいつまでも神経症で苦しむことになるじゃありませんか。何もしないほうがいいというのが、どうしても腑に落ちなかったのです。これが私の言い分でした。憤懣やるかたない気持ちになりました。つまりこの言葉は自分とは縁がないものだと思っていたのです。今考えると、これが最大の誤算だったと思います。反発心を持ったまま、症状から解放されることもなく、失意のうちに15年の年月が流れました。そのうち、森田理論にはたいした期待もしなくなりました。生活の発見誌も読まなくなりました。でも世話役をしていたので、仕方なく生活の発見会には残りました。懇親会での宴会が楽しみという有様でした。ある日の集談会の体験交流の時、ある方が「森田はまな板の鯉になったような気持で取り組むとよい」という話をされました。症状を治すという気持ちを捨てて、焼くなり、切るなり好きなようにしてくれという開き直りの気持ちになれば症状は治るといわれるのです。私はそれを聞いて、なるほど、これが森田先生の治そうとする間はいつまでも治らないという意味ではないかと理解しました。15年も対人恐怖症で苦しみ、絶体絶命、自暴自棄になっていましたので、この言葉は比較的すんなりと心の中に入ってきたのだと思います。ここでイチかバチかで、いったん治すことをやめてみようと決意したのです。このように決意すのまで15年の長い年月が経過していたのです。では果たしてどんなことができるか考えました。私の場合は対人恐怖の症状が出ると、一目散に逃げるという習性があります。逃げたのでは症状は取り去ることはできませんが、逃げた瞬間一時的に精神的に楽になります。逃げまくることで不快感、不安、恐怖から逃れようとしていました。でもその反動は実に恐ろしいものがありました。そのあとの味気なさは言葉では言い表すことができません。アフリカの草原でライオンに追われる小動物は一目散になって逃げています。逃げれば逃げるほどライオンは勢いよく追い掛け回して最後は仕留めてしまいます。私も症状から逃げれば逃げるほど、症状に追い掛け回されてしまうのです。そして症状はどんどんと雪だるまのように大きくなるのです。増悪してくるのです。そこで何とか踏ん張って、逃げないで一旦不快感、不安、恐怖を受けいれてみようと考えました。それも最初は10回に1回か2回受け入れられればよいという気軽な気持ちでした。受けいれたら自分で自分を誉めて、ご褒美を与えることを考えました。つぎにミスや失敗については、ごまかさない。隠蔽工作をしない。事後報告をすぐに行うようにする。弱点や欠点については取り繕ってなかったように見せることは止めよう。ありのままの自分をさらけ出してみよう。批判、叱責、否定されたときは、言い訳は止めよう。反発したり、喧嘩を売るのは止めよう。自分が悪かったら素直に謝ろう。相手の言い分を聞いてみよう。すぐにはなかなか実行できませんでした。いつも反省して、今度こそはという気持ちは常に持っていました。これらは、対人恐怖に伴う不快感、やりきれない不安感、恐怖を是非善悪の価値判断をしないでそのまま素直に受け入れることにつながります。これがその後の展開を大きく変えていくことに気づかされることになりました。この続きは明日投稿いたします。
2021.01.09
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今日から4日間にわたり、対人恐怖症や人間関係に問題を抱えている人の為に解決のためのヒントを投稿していきます。今回は対人恐怖症の人の特徴と問題点です。対人恐怖症の人は、他人の評価を気にしています。他人から自分の存在を無視される、軽くあしらわれることが我慢できません。また自分が完全に否定されて仲間として扱われなくなることを恐れています。欠点や弱点は他人につけ入るすきを与えているので、できるだけ隠蔽工作をします。ミスや失敗は、叱責、非難、否定の原因になるので、報告を遅らせ、ごまかし、責任転嫁をしようとします。注意や意識の大半が他人の動向に向けられています。他人が自分ことをどう取り扱ったか。またどう取り扱おうとしているのかを予測して、ビクビクしているのです。注意や意識が外向きにならず、内向きで、防衛一辺倒になっています。相手とけんか腰、対立関係に陥り、友好な人間関係を持つことができません。力の弱い人とは喧嘩をし、力の強い人には近づかないようにしています。あるいはしっぽを巻いてすぐに逃げる。最終的には、他人との信頼関係は持つことができなくなる。対人恐怖症の人は、他人から一目置かれる人間にならなければいけないという「かくあるべし」が普通の人と比べるとはるかに強いのが特徴です。自分のことを尊重してほしい。大切に扱ってほしい。評価してほしい。誉めてほしい。などという気持ちがとても強いのです。ところが、現実は自分の考えていることとは真反対のことばかり起きるので、そのギャップのはざまで葛藤や苦悩と闘っているのです。どうにもならないので精神的にも疲れ果て、肉体的な病気にもかかります。ネガティブで悲観的なことばかり考えてうつ状態になります。生きて行くことが苦しい。希望が持てない。そして予期不安に振り回されて、益々他人との接触を避けるようになります。他人との接触を避けていると、人間関係の社会体験が不足してきます。その結果、他人との距離感がつかめない。どう付き合ってよいのか分からない。特に異性と何を話してよいのか、どう付き合ってよいのか全く見当がつかない。他人は恐ろしいものという先入観や思い込みがどんどん大きくなっていきます。針の筵に座らされているようで、生きることは苦痛以外の何物でもないと考えるようになる。投げやりになり、ストレス解消のために、刹那的、刺激的な快楽を求めてさまようことになります。その日暮らしに甘んじた生活に陥ってしまいます。万策尽き果てて、集談会にやってくる人が多いように思います。私も対人恐怖症と格闘してきましたので、なんとか打開してほしいのです。明日は対人恐怖症は治そうと意気込んではますます悪くなると題して投稿します。
2021.01.08
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岡田尊司氏が「カサンドラ症候群」という本を書かれている。内容は夫婦の人間関係の問題点を指摘されている。夫婦の気質の違いが、家庭内別居や離婚に至るケースが後を絶たない。同じ家に住んでいても、会話が全くない、食事も別々、洗濯も別々という夫婦である。結婚当初はこの人なら一生添い遂げられると思っていたのに、いつの間にか決定的なボタンの掛け違いが起きてしまったのである。こうなると精神的に苦しくなり、身体面にも悪影響を与える。離婚してしまうと、精神的には楽にはなるが、経済的には苦しくなる。また子供への悪影響が懸念される。岡田氏は気質の違いについて次のようなパターンが多いと分析されている。夫婦のどちらか一方が、外見的には、理知的、勤勉、理想的、口数が少ない。将来のことも計画的に考えている。人間としてしっかりしている。それらが結婚する前には、安定感、信頼感、責任感がある人に見えてしまう。その一方で、家庭を持っても単独行動を好む傾向が強い。親戚付き合いや近所の人との交流は避ける傾向がある。多くの人との交流を楽しむというのではなく、自分の趣味を見つけて自分の世界に浸る。他人との交流の中で楽しみや心の安定を見つけたいという気持ちが希薄なのです。家事や育児を手伝うということも希薄である。妻が病気になっても、親身になって心配することがない。「すぐに病院に行きなさい」と指示しても、「今日の夕ご飯は外で済ましてくるから心配しなくてもよい」などと言う。病気の妻の看護や食事については無頓着なのである。また育児や子育てに関しては妻に丸投げとなる。授業参観日にも学校へ行くようなことはない。また単身赴任になっても動じることがない。水を得た魚のような感じで、赴任先での生活を謳歌している。月に一回の帰省も煩わしいとさえ考える人もいる。単身赴任先の気ままな生活が自分にはぴったりだと思っている。こういう人の特徴は、共感的な思いやりや情緒的な反応が元々乏しいのです。岡田氏は愛着障害や大人のアスペルガーを抱えている人もいると指摘されている。オキシトシンという愛情ホルモンの出が悪い人なのです。私が見るところ対人不安を抱えている人はこの傾向が強いように思う。反対に不安タイプの人は、家族や仲間の和を大切にされるケースが多い。そういう視点で人間観察をしてみると、はっきりと認識できると思います。共感性や情緒的なつながりを大切にする女性が、こういう傾向の人と結婚するとどうなるでしょうか。自分は自己中心的で思いやりのかけらもない鉄仮面のような様な相手を選んでしまった。人生最大の汚点であったと考えてしまうのではないでしょうか。一刻も早く離婚したい。経済的な理由で離婚不可能なら、没交渉でやっていくしかない。家庭内別居で会話もない。食事も洗濯も別々というふうになります。そういう夫婦が同じ家に住んでいると、精神的、身体的な悪影響がでてまいります。この問題はどちらが良いとか悪いとかの問題ではない。お互いに自分の気質とは、相いれない人と結婚したのだという認識を持つことが必要になると思う。認識できれば、その大きな溝をどうすれば埋めていくことができるかという出発点に立つことができる。認識できなければ、今の状態が継続されて、夫婦の人間関係は完全に破綻してしまう。自己中心的な人は、共感性や情緒的な人間的なつながりを求める配偶者に対して、歩み寄る必要があります。例えば、仕事先から「今から帰ります」というメールをする。急な飲み会に誘われたときは、事情説明をして了解を得る。土日はできる限り子供や家族で過ごす時間を作る。月に1回は、配偶者や子供のために花やお菓子などのお土産を買って帰る。単身赴任の場合は、必ず月に1回か2回は帰省する。あるいは家族を単身赴任先に呼び寄せる。子供の授業参観日には極力行くように心がける。家事の分担を決めて毎日手伝うようにする。年に1回は家族旅行を企画して、団体行動をする。これらは単独行動を好む人は面倒に感じることばかりです。ですから、あえてそういう意識を持って行動する習慣を作り上げる必要があります。これらはその気になればすぐに実行可能なものばかりです。この積み重ねが大事なのです。そういう気持ちをしっかりと持っていないと、絵に描いた餅になってしまいます。その認識を持つことが大切です。共感性を大切にする人は、単独行動を好む人に対して、あまり多く口を挟まない。相手の行動に対して、大きな支障がない限りは、大目にみてあげる。許してあげる。包容力を持って、見守るというイメージです。問題がある場合は、私メッセージで伝える。溝を埋めるために、イエローカードを利用する。家族会議を行う。難しいときは、カウンセラーなどに立ち会ってもらう。つまり森田理論でいう不即不離の夫婦関係を目指すということです。せっかく縁あって一緒になったわけですから、お互いにいがみ合って心身共に疲弊してしまう事だけはなんとしても避けたいものです。再婚して新しい生活を求める人もいますが、精神的・経済的には大変な思いをされている人が多いように思われます。
2020.12.28
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今日は森田理論を応用して上司が部下を成長させる方法について考えてみたいと思います。仕事をしているとミスや失敗は避けて通ることができません。ライバル会社との受注争いに敗れてしまうことは、日常茶飯事です。こんな時、怒りを抑えきれない上司からきびしく叱責されます。「どうしてこんなミスをしでかしたのだ。仕事に身が入っていないからこんなことになるのだ。馬鹿者が・・・」「君はこの仕事に向いていないようだ。会社のお荷物だからさっさと辞表を出せ」「この損失を取り戻すことがどんなに大変なことか分かっているのか」そして事態の収束に向かって矢継ぎ早に指示や命令を出します。部下はそれに従うだけです。それで仮に何とか収まっても部下は後味の悪さが残ります。後悔で苦しみ自信喪失します。積極的に仕事に取り組むことができなくなってしまいます。仕事を通じて自分を成長させることもできなくなります。仕事をすることが苦痛になります。こういう悪循環から抜け出しませんかと森田理論は訴えかけています。森田理論ではやる気や意欲を高めるためには、先ず目の前の出来事をよく「見つめなさい」と言います。現状を正しく把握するということです。すると感情が動き出してきます。気づき、発見、疑問、改善点、改良点、興味や関心、課題や目標が見えてきます。対策を考えているうちに工夫やアイデアが生まれます。そして行動して何とか問題を解決しようという気持ちになります。このようにして、初めてやる気や意欲が高まってくるのです。問題が解決し、目標が達成できると嬉しいものです。自信がつき、自分が成長できて、さらに大きな課題や目標、夢や希望に向かって歩みだしていけます。本来の人間の生き方はこの路線に乗っかっているかどうかということになります。これをそっくりそのまま部下との人間関係作りに応用できると好循環が生まれると思います。1、ミスや失敗などは隠蔽し、捻じ曲げられるようなことがあってはりません。そのような事案が発生したら、すぐに事実をありのままに報告させることです。感情的にならず、事実を正確に把握するということが肝心です。そうすることが事態を悪化させないために大切だという認識を持っているということが重要です。そういう会社の風土を作っておくことが大切です。2、次にミスや失敗に対して、部下に弁明の機会を与えることです。短絡的に叱責して責任追及をするのではなく、相手に話させて、考えさせるのです。どういう問題があったのか。発生原因について自分ではどう考えているのか。この事態を収束するために、自分としてはどんな対策をとればよいと考えているのか。上司に対してどのような援助を期待しているのか。3、上司はまず部下の意見を尊重する。不十分なところや問題点があれば、上司としての意見を述べる。捕捉やアドバイスを行う。「最終責任は私がとるので、思い切ってやってみろ」と後押しする。部下の動向を見守りなから、必要に応じて軌道修正を促す。この方向ですと、部下がミスや失敗に向き合うことができるようになります。まず正しく現状把握ができます。次に感情が動き出します。問題の解決に向かって、いろんな気づきや発見が生まれます。課題や対応方法を考えることができようになります。積極的な行動ができるようになります。ミスや失敗によってさらに自分が成長できることになるのです。上司は自分だけがやる気や意欲を高めても、そんなに大きな成果は出ません。課員や部員の一人一人がやる気や意欲を高める仕組みづくりかできていれば、自ずと会社の業績は上がってきます。これがポイントとなります。森田理論を学習している人は、いずれ集談会では先輩会員になります。家庭では親として子供を育てる立場になります。会社ではいずれ上司として部下を指導する立場にたつことになります。そのほか自治会の役員になることもあるでしょう。そんな時に、いかにして森田理論を応用して、相手のやる気や意欲を引き出していけるかがあなたの腕の見せ所になるのです。慣れてくればそんなに難しい事ではありません。それで人間関係が改善されて、信頼されるようになればこんなにうれしい事はありません。
2020.12.23
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生活の発見会の中で、森田理論の「不即不離」をどう活用していくとよいのか考えてみたいと思います。不即不離というのは聞きなれない言葉ですが、親しくて中身の濃い人間関係作りを目指すことではありません。頭の中で考えると、その方が効率的で素晴らしい人間関係を築くことができそうです。実際にその方向を目指している人が多いと思います。傍から見ていると、金魚の糞みたいにいつまでもどこまでも一心同体の信頼関係を求めているように思われます。この方法は実践してみると必ずしもうまくいきません。一時的にはうまくいくかもしれませんが、ちょっとした対立をもとにして解消せざるを得なくなることの方が多くなる。そうなると、自分としては孤立の道を進むことになります。あれ程相思相愛だったのに、今や顔も見たくない犬猿の仲にまで発展することもあるのです。森田でお勧めしているのは、浅くても薄くてもよいので、幅広い人間関係作りを目指しましょうという考え方です。これを集談会の中でどう実現していくのか。まずは地元の集談会に参加するようになると思います。そしてずっとそこから出ることもなく参加し続けるケースが多いと思います。特に地方の場合はそうなると思います。参加者がどんどん増えて、交流の場が広がっていく場合は、変化があり幅広い人間関係を作り上げることができます。ところが新しい参加者がいない。それよりも参加者が固定されていてマンネリに陥っている場合は注意が必要です。この状態に甘んじていると、井の中の蛙状態の人間関係にどっぷりと漬かってしまいます。好むと好まざるとにかかわらず、不即不離の人間関係作りから外れてしまいます。この方向は弊害が多くなるとみております。それをどう打ち破って不即不離の人間関係作りを目指していくのか。近くの集談会だけではなく、たまには近隣の集談会にも参加してみることです。あるいは旅行や出張のときに、参加者が多いと言われている集談会に飛び入りで参加してみる。どこでも大歓迎してくれると思います。これは間違いないです。これを多くの人が実践するようになるとよいのです。自分だけではなく、他の人や他の集談会の活性化につながります。自分が参加している集談会だけを取り上げていかに活性化しようかと思案するよりも、これを実行するだけでどんなに大きな効果があるか、計り知れないものがあります。目標の立て方を誤らないようにする事が大切です。面白そうな活動を模索していると、参加者は増えていくと思います。相互交流を取り入れることで、簡単に不即不離の人間関係に作りに入る事ができるようになります。生活の発見会の場合は、一度顔を合わせた経験は、その後の交流につながります。ラインでつながったり、体験発表や派遣講師の交流につながることもあります。個人としては、森田が目指している薄くて幅広い人間関係作りを体験することができるのです。人間関係の極意を身に着けることになるのです。それから私たちの瀬戸内支部では、1年に1回支部単位の宿泊を伴った研修会があります。瀬戸内支部の所属集談会は15くらいあります。こうした研修会に参加することで、不即不離の人間関係を簡単に作ることができます。私たちの支部研修会はすっかり定着しまして、はじめてから25年くらいになります。今では他の支部からの参加者も受け入れています。参加者は40名から50名くらいです。くつろいでお酒を酌み交わしながらの交流は誰でもすぐにうち解けます。ここでの人間関係作りが、どんなに自分たちを支えてくれているのか、計り知れないものがあるのです。不即不離の人間関係とは、こういうことを言うのだなということが実感できるようになります。狭い集談会の中で対立関係に陥っても、立ち寄世ることができる安全基地を別に作っているような状態になります。私たちの瀬戸内支部では、これを九州支部や関西支部と合同にすれば、さらに不即不離の人間関係の輪が広がるのではないかと模索しているところです。そういう方面に注意や関心を向けている人は、私生活の面でも趣味の会、同窓会、OB会、地域の活動、仕事関係、子供関係などの人間関係作りも熱心になると思います。必要に応じてくっつき、必要がなくなれば離れるという不即不離の人間関係が自然に身に付くのです。この人間関係は本当に楽になりますよ。そういう多彩な人間関係に囲まれていると、対立した場合は、一時的に付き合いを中止して時間の経過を待つこともできるようになるのです。実際に体験することによって認識の間違いを正していくことを、森田理論では修養と呼んでいます。対人恐怖症で苦しんでいる人はぜひとも取り入れてみてください。
2020.12.06
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孔子の言葉だそうだ。偉い人は人の意見を尊重して、いたずらにこれを排斥せず、しかも自分の意見は持っている。下等の人は、人が何か言えばただちにそうかと思いながらも一度は争ってみる。偉い人は衆議に服従するけれども、自分の見識は動かない。下等の人は自分の見識はなくて、いたずらに屁理屈をいって、自己の存在を目立たせようとする。(森田全集第5巻 白揚社 412ページから413ページ)耳の痛い言葉である。自分にもそういう傾向があるからだ。誰かが何か言うと、すぐに上げ足をとって、非難的で反対意見を述べる。その人たちは「そうはおっしゃいますが・・・」というのが口癖である。普段から憎々しく思っている人に対しては、相手の話を聞こうという気持ちが最初からないのである。そういう人の反対する理由を聞いてみると、ただ反対のための意見を述べているのに過ぎないので話の中身が薄い。話を聞いてみるとすぐに正体が分かる。森田理論を深めている人は、とにかく相手の意見や考え方に耳を傾ける。最初から反対のための反対意見を述べることは皆無である。目には目を、歯には歯をというような対立関係にはなりにくい。そして評価できる点はないか、貴重なアドバイスが含まれていないかという気持ちで対応する。片寄った先入観や悪いと決めつけるようなことがない。そして、特徴的なことは、元々自分の意見や考え方は、しっかりと持っている。普段から疑問に思ったことは徹底的に分析して、それなりの考え方を確立しているのだ。その立場と相手の考え方の違いはどこにあるのか、しっかり把握しようとする。立場の違いがはっきりすれば、その溝を埋めるべく話し合いをしていく。自分の考え方よりは、相手の主張が理にかなっていると思えば、自分の考え方はあっさりと取り下げる。自分の考え方のほうが、理にかなっていると思えば、相手が納得してくれるまでとことん説明する。違いを乗り越えて妥協する。調和を目指す気持ちが強いのだ。そう気持ちがあれば、たとえ相手から反対意見を述べられても、感謝こそすれ、腹立たしくはならないと思う。周りの人とともに、より良い方向性を目指していくという立場に立っている。こういう立場は、相手の存在、人間性を最大限に尊重しているので、友好的な人間関係に発展していく。自分の周りに自然発生的に人の輪ができるのである。楽しく生活できる。反対に、相手の存在を軽々しく扱い、人間を人間とも思わないような態度をとる人は、孤独な人生を歩んでいくことになる。他人と対立関係の態度をとり続けている人は、そういうオーラをプンプンと周りにまき散らしているのですぐに分かる。笑顔がない。険しい顔つきをしている。いつも難しい事を考えているようではあるが、中身は貧弱だ。自己防衛に躍起になっている。その態度がオドオドして自信のなさを醸し出している。言葉遣いが、ぞんざいである。けんか腰である。懸命に孤軍奮闘しているが、第三者から見ると、その姿は痛々しく見える。それは反対することでかろうじて自己存在理由を探し出そうとしているからである。そういう人には近づかないほうがよい。危害を加えられないように遠巻きに構えて見守る事が鉄則である。これは森田理論の不即不離の考え方の応用である。君子という人は、「かくあるべし」を他人押し付けることの弊害についてよく分かっている人だと思う。相手の意見や考え方、存在、性格、能力、職業、境遇などをあるがままに認めて、受け入れることができる人であると思う。そして大きな包容力で、相手を許すこともできる。森田理論を哲学にまで高めて、日常生活の中で縦横無尽に活用している人だと思う。自分は小人だと思う人は、森田理論を深耕することで、多少なりとも君子への道が開けてくるはずだ。
2020.11.26
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10月号の生活の発見誌に人間同士の付き合いについて次のように提案されていました。家族懇談会、親戚づきあい・兄弟姉妹でのカラオケ・同窓会・PTA・町内会・趣味のサークル・防犯防災の会、他のNPO法人といった発見会以外の身近で普通の社会活動をバランスよくやってみることもお勧めします。ごく少数の特定の人と親密な関係になるのではなく、その時その場の必要に応じて、引っ付いたり離れたりの人間関係を目指す方がよいといわれているのだろうと思います。森田でいうと、変化に対して臨機応変に対応できる不即不離の人間関係を目指すということになります。これは年賀状をどういう人たちに何枚出しているかでだいたい分かります。集談会の仲間、仕事関係、以前の職場の仲間、親戚関係、様々な趣味の仲間、子どもの関係で知り合った人、資格試験の仲間、スポーツや釣りの仲間、麻雀仲間、飲み友達、カラオケ仲間、株式研究会の仲間、同級生、町内会、田舎で近所付き合いをしている人たちなど。年賀状を出す時期になると、それぞれに思い出がよみがえります。遠くに住んでいて義理で出しているような人でも、近くに旅行するようなときに、連絡を取り合って会うことができると至福の時間を過ごすことができます。私はこの考え方でやっています。以前はコップ一杯の人間関係を5つぐらい作ろうと思ってやっていました。この方法はうまくいきませんでした。自分は親友だと思って深入りしても、相手にとっては煩わしく思っている場合もありました。またいくら親しくしていても、何かをきっかけにして、溝ができてそれが大きく広がっていくこともありました。この方法では、最後は孤立してしまう事になるのです。特定の人と一心同体になるような親密な人間関係作りは要注意だと思います。コップに少ししか飲み物が入っていない薄い人間関係は精神的に楽です。そういう人間関係を広く浅く作ることが森田の目指しているところです。友達の友達はまた友達という事になります。そういう関係にあると、自分が困っている時に、助けになる適切な人が頭に浮かんでくるようになります。人間関係は憎みあったり、対立関係になるケースは必ずでてきます。そういう時は、今は縁のないときだと判断して、基本的には距離を置き、離れてしまえばよいのです。その方が、ストレスが溜まりません。
2020.11.21
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今日は会社の中での人間関係で苦しんでいる問題について考えてみましょう。会社では上司や同僚などから、批判、否定、強制、対立、無視、リストラの危険にさらされています。ミスや失敗、会社に損害を与える、ノルマの未達、仕事の遅延、指示や命令に従わない、無気力でやる気が見られない、自分勝手で協調性がないと判断されると、容赦なく叱責、非難されます。また馬が合わなくなり、特定の人と犬猿の仲に陥る事があります。同じ事務所の中にいるのに、口をきかなくなります。挨拶もしないという人です。組織の中で周りの人から嫌われるということは、異物として組織から排除されてしまうのではないかという不安が付きまといます。そうなると社会的には死んだも同然ということになります。排除されてしまうと、収入源がなくなるわけですから、再就職先を探さなければならなくなります。こういう状況に陥る事は何としても避けたいということになります。そのために、自分の考えや言い分は抑圧して、相手の考えや言い分に同調するようにふるまうようになります。相手から「かくあるべし」を押し付けられても、言い返すことをしない。心の中では猛反発しながらも、表面的には波風を立てないで、平静を装っているのです。それが少なくとも一日の時間の三分の一以上を占めて、ストレスをため込んでいるのです。精神的疾患を発症するのは時間の問題だと思われます。この問題に対して、森田理論では人間関係は「不即不離」でいきなさいと教えてくれています。人間関係は、引っ付きすぎず、離れすぎずの距離感を維持することが大切であるという考え方です。会社では仕事の必要に応じて、必要なだけの人間関係を維持するだけで十分だということになります。親密な人間関係の構築を目指して、維持しようという考え方は間違っていますよと教えてくれているのです。薄くて幅広い人間関係を目指しているのが森田理論なのです。会社の中では極力必要以上の親密な人間関係を作ろうとしない気持ちが大切なのです。ところが神経質者は、問題のある人間関係が発生すると、それにのめりこむという習性があるのです。井の中の蛙というか、自ら対人関係での問題を作り出して、さらに増悪させているのです。それが、ちょっとした注意や叱責、非難や否定に対して、過剰反応する原因になっているのです。普通の人は嫌なことがあると、その時は落ちこみますが、すぐに水に流すことができているのです。会社勤めは生活費を得ることが第一の目標です。それが達成できていれば、人間関係に問題があっても、会社に残る事は可能です。ところが、会社での人間関係で悩んでいる人は、その目標を忘れて、人間関係を良好に保つことだけにフォーカスしているのです。本末転倒なのです。これではたとえ転職してもまた同じ問題で悩むということになります。森田理論で「不即不離」の人間関係を学び、実生活に活用している人がいます。そういう人は、会社の人間関係だけではなく、幅広い人間関係を構築しています。まずは集談会の人間関係を大切にしている。ここに参加していると、かかりつけのカウンセラーを持っているようなものです。神経症に限らず、人間関係、生活上の問題点、人生観の確立に至るまで幅広く相談することができます。その他、同級生、隣近所、地域活動、親戚、家族、趣味の会、勉強会。スポーツ仲間、学習仲間、OB会などの付き合いも大切にしています。そういう多彩な人間関係の中で生活しているのです。会社の人間関係だけにどっぷりと漬かっている人は大変危険です。その割合が現在100%に近いのでしたら、その比率をどんどん下げていくことが当面の目標になります。薄く幅広い人間関係を目指すことで。結果的に会社での人間関係も改善できるというからくりになっているのです。
2020.11.20
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私たちはどういう境遇の下でこの世に生を受けたかにより、その後の人生が運命づけられてしまいます。どんな国に生まれたのか、どんな時代に生まれたのか、どんな家に生まれたのか、どんな親から生まれたのか、男に生まれたのか、女として生まれたのか、どんな性格に生まれたのか、どのような潜在能力を持って生まれたのか、五体満足の身体で生まれたのか、そうではなかったのかなどです。このような境遇は自分が選択することはできません。その事実を価値批判しないで受け入れるしか方法はありません。ところが人間という生き物は、なかなかその事実をすんなりと認めようとはしません。知恵がついてくると、現実、現状、事実を上から下目線で見下ろして、価値批判するようになります。そして反抗し、否定するようになります。自分という一人の人間の中で、敵と味方に分かれて、絶えず戦いを繰り返しているようなものです。力関係から見ると、観念のほうが圧倒的であって、事実の方を痛めつけています。事実の方は誰の援助も受けられず、無援孤立状態に陥ります。雲の上にいる自分が現実の自分に寄り添ってくれるようになると精神的には楽になるのですが、そういう方向に向かいにくいのが人間の性かもしれません。例えば自分を生んで育ててくれた親の恩を忘れて、親に反発してしまう人が多いのが現状です。親がパーフェクトであったならば、今の自分はこんなに苦しむことはなかったはずだ。親のしつけ、子育て、教育はあまりにも問題が多かった。不幸な子供をこの世に作り出しただけだ。あってはならなかったことだ。だいたい親になる資格のないような人が、子どもを作ったのだから救いようがない。一方親は子供のことは目の中に入れてもいたくない。むしろかわいくて、心配で仕方がないのです。でも子供の方は「親の心、子知らず」で反発するばかりです。こうなりますと、必然的にいがみ合い親子の断絶となります。そして自分が親になった時に、実の子供から同じような目にあわされることになるのです。まさに歴史は繰り返されているのです。こういう人は、親だけを拒否し、否定しているだけでは済まないのです。生まれた国、時代、家柄、性別、性格、能力、容姿などすべての分野にわたって、批判的・否定的な立場に立っているのです。これらの多くが自分と敵対関係にあるのです。自分と対決している存在として自己認識しているのです。心穏やかに暮らせるはずがないのは当たり前のことです。この問題の解決策は森田理論の中にあります。一言でいうと事実唯真という考え方です。難しい言葉ですが、「かくあるべし」という態度を減少させて、事実本位に生きていくということです。事実を受け入れていくと、無駄なエネルギーを浪費することがなくなります。事実を見つめていると、建設的、生産的、創造的な課題が見えてくるようになります。そこにエネルギーを投入すると、生きがいが生まれてきます。目標が達成できれば自信もつきます。そしてさらに大きな目標を持てるようになります。人生の苦しみはありますが、神経症的な葛藤や苦悩はなくなります。森田理論は、自分の境遇を価値批判することはやめましょう。どんなに過酷で理不尽だと思っても、その事実を認めて受け入れる態度が何よりも大切なのだと教えてくれています。そこにしっかりと足場を固めましょう。足場を固めたら、それぞれの人が、それぞれの能力、持てる力を精いっぱい活用して、運命を切り開いていきましょうという理論なのです。その方向性を目指すことが、人間としてまっとうな生き方ではありませんかと教えてくれています。事実本位の立場に立てば、どんなに反発していた親でも、同じ時代を懸命に生きてきた仲間として、親しみが湧き上がってくるのではないでしょうか。いつの時代でも100%完全な親はいません。不完全な親でありながらも、元々は子供の成長と幸せを願ってきたのです。そんな親が子どもに対して、何とか幸せになってもらいたいと思っていたのに、思い通りにならなかった。むしろ子供との人間関係がぎくしゃくしてきた。心の中では申し訳なかった。親としては失格だったねと謝っているのです。その思いをくみ取って、心から許してあげることができないものでしょうか。親を許せるようになった時、親子の関係はよくなります。さらに自分を取り巻く境遇に対しても、寛容な気持ちで受け入れることができるようになるのです。対立関係にあった状態から、友好関係に変わるわけですから、生きやすくなるのです。そうならないと、自分が親になったときに、子どもに対して申し訳なかったと懺悔するようになるかもしれません。この問題は、不完全な親、理不尽なことをいう親であっても、その事実を認めて受け入れることができるかどうかにかかっているように思います。
2020.11.04
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2020年11月の生活の発見誌に「和談」という記事があった。これは「かくあるべし」を相手に押し付けるのを防止する効果があると思いますので紹介させてもらいます。和談というのは相手の意見を聞いた後、先ず「なるほど」ということをルールとします。自分の方に異論があっても無くても「なるほど」と返事をするのです。それから、決して相手の意見を頭から否定しないことがルールです。「なるほど」と先ず相手の話を聞いて肯定的に受け取り、そのあとで自分の意見を出すようにします。このような話し方を「和談」と呼んでいます。和談による話し方ですと、意見交換が和やかに進み、お互いの意見の違いによる「対立や不和、喧嘩、争いなど」などが起きなくなります。さらに、みんなで話し合った結果は、創造性のある建設的で優れた解決策を生み出すことにつながる話し方なのです。例えば、「なるほど、そうですか。でもこんな意見についてはどうでしょうか」「なるほど分かりますよ。私も以前はあなたと同じことを考えていました。でも、今は、こんな風に考えているんですよ」「なるほどね、そうなんですか。分かります。しかしながら、こういった意見についてはどう思われますか」・・・会議などにおいて、せっかく勇気を出して発言した意見などに対して「それは違う」と他の人に頭から否定されたり、いきなり「それは間違いです」とみんなの前で言われたりしますと、あまりいい気持ちはしないものです。中には腹を立てて話す気にもならず黙り込んでしまうという方もいたりします。目上の方には「なるほど」の代わりに「おっしゃる通りです」とか「その通りだと思います」などが宜しいかと思います。または、「なるほど、おっしゃる通りです」や「なるほど、その通りだと思います」と、付け加えるようにするといいですね。(生活の発見誌11月号 46~49ページ引用)この和談という考え方は、「かくあるべし」から事実本位に移行するための一つの手法として付け加えたいと思います。「私メッセージ」に匹敵する、素晴らしい考え方です。いきなり自分の考え方を、一方的に相手に向かって話し、対立関係になることを防止してくれます。「なるほど」という言葉は本心ではなくてもいいのです。形から入るということが肝心です。相手と話しするとき口癖にして、しまうことが大切なのです。これによく似た言葉で「そうなんだ」という言葉をよく耳にします。「分かるよ、あんたの気持ちは」というのもあります。これも「なるほど」という言葉に共通することがあります。これらは別に本心から出た言葉でなくてもよいのです。そういう態度が習慣化されているということが大事なのです。自分の立場、考え方、気持ちを最優先するのではなく、まず相手の立場、考え方、気持ちに寄り添うという気持ちが優先されています。ここが肝心なところです。こういう人間関係は歯車を動かす時に、潤滑油が十分に行き渡っている状態です。そうでない場合は、常に対人関係で対立を招き、歯車でいえばギイギイと音がしている状態です。その時、我々の場合でいえば自己防衛にシャカリキになってしまうのです。そして本来の生き方からずれて行ってしまうのです。
2020.10.29
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第47回形外会において、林さんが森田先生に次のように質問している。上役の人と議論するとき、自分の意見が正しいと思うけれども、しばらくその場ではその人の意見に賛意を表すことがある。そして時を経て後に、自然にそれに対する説明の工夫もできて、おもむろにその人に対して、あのことはこうも考えられないでしょうか、という風に持ちかければ、何かにつけて円滑にいくのではないかと思います。上役と意見が違うからといって、直ちにその場で反抗してしまえば、長上の顔をつぶすことになるから、にらまれることになる。これに対して、森田先生曰く。親や長上は何かにつけて自分より偉いはずである。したがってこれに対して畏敬の情の起こるのが人情の自然である。それで、親や長上のいう事は、あるいは自分と意見が違い、あるいは疑わしく、あるいは癪にさわることがあっても、それはそれとして、まずさしあたりその意見に従う、というのが僕のいわゆる柔順であって、実行上決して無理なことではありません。森田先生は、まず人情から出発することが大切であるといわれています。ところが、親や長上の考え方に無条件に賛同してはいけない。つまり、盲従するような態度ではいけないとも言われています。その考えを疑い、自分で事実を調べる。事実の裏をとることが大切だといわれている。林君の言うように、偉い人には何でもかんでも、常に必ず尊敬するとか、親のいうことは有難いと思わなければならぬとか、学者の説は信じなければならぬとか、そのような鋳型に自分の心をはめようとするのは間違いの元である。我々は疑うものは疑い、嫌いなものは嫌いで少しもさしつかえない。(森田全集第5巻 556ページより)この考え方は人間関係に大いに応用したいものです。まず相手の気持ち、考え、言い分を十分に聞くという態度が欠かせない。相手の立場や考え方を吐き出させるという態度を持つということである。実際には、聞く耳を持たず、相手を非難、否定、攻撃する人が後を絶たない。仮にある程度は聞いても、早合点して不十分ということが多い。こういう態度では、良好な人間関係は成立しない。そのうち話もしたくない。犬猿の仲になることは目に見えている。相手にいつまでも根に持たれることも発生する。しかし、そこで留まっていては、これまた問題である。言いたいことがあっても、抑圧していると、相手になめられてしまう。つまり親分と子分の関係が出来上がっています。相手との間で支配・被支配の関係が成り立ってしまう。それがいつまでも精神的なストレス、葛藤や苦しみをもたらす。またそういう関係が一旦成り立ってしまうと、修正することが困難になる。しかし神経質者の場合、後々の報復を恐れて、何も言い返せない人が多い。心の中では反発しているので、それがストレスとなる。そういう時は、森田理論学習の中で学んだ、「私メッセージ」をぜひとも活用したい。「私はこう思いました」「私の考えはこうです」「私はこうしたい」「私は好きではありません」「私はよく理解できません」相手に直接反論するというよりも、自分自身の気持ち、考え、言い分を相手に伝えるというものです。これは相手に対して喧嘩を吹っかけるものではないのです。相手との立場の違いを説明することになります。これができるようになると、支配・被支配の人間関係に陥ることは、ある程度防ぐことが可能となります。
2020.10.21
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元々西欧や中国は性悪説で成り立っているという。商売するときは、代金と引き換えが原則である。日本のように約束手形を発行して、3か月も6か月も支払いを猶予してもらうという発想はない。それは、元々他人や他国は信用できないものという根強い考え方があるからだ。商売するにあたっては、担保を取り、契約書を作ることから始める。言葉巧みに交渉を有利に進めることが最優先される。うまく相手をだまして、自分が得をすればよいという考え方である。騙された方が悪いという言う考え方に立っているので、相手に多大な損失を与えても罪悪感はない。相手にしてみれば、常に騙されないように自己防衛する必要がある。一瞬でも気を抜くと、相手に攻め込まれて、身ぐるみ奪い取られてしまうという危機感がある。自分や自国が豊かになるためには、戦略を立てて、武力や経済力を背景にして、他人や他国に攻め入り、奪い取ることが手っ取り早いという考え方である。そのためには早くから自立し、説得力や自己主張できる技を身につけていく必要がある。国でいえば、軍事力や経済力をつけて、相手国と同等かそれ以上の力をつけていく必要がある。これに対して、日本は性善説で成り立っている。他人や他国は、助け合いながら生きている同胞・仲間であるという考え方だ。人類みな兄弟であるという考え方である。人に役立つことや利益になることは、自分に何の見返りがなくても喜んでおこなう。根本的なところでは、無条件に相手のことを信用しているのである。元々相手のことを思いやり、信頼感が強いのである。和を重んじ、共存共栄を目指しているのだ。こんな国は日本やブータンなど少数派なのだ。世界中の人が性善説に立てば、争い、紛争、内乱、戦争はなくなると思う。しかし実際は違う。世界史は人間同士の醜い戦いの歴史だ。それは、日本のような性善説に立つ国民や国がほとんどないからだ。森田理論では、己の性を尽くし、他人の性を尽くすことを目指している。性悪説に立つ世界中の人々が、そういう考え方に切り替えることはできないものか。しかし現実は難しい。性悪説の立場に立つ国が多い中で、日本にとっては自己防衛という考え方が必要になる。そうしないと、日本人や日本は、欧米や中国人たちに、自分たちの領土や持ち物を根こそぎ奪い取られて、精神的にも洗脳されて、完全に支配されてしまうということになる。性善説があだになってしまうのだ。こうしてみると性善説の立場に立つのであれ、性悪説の立場に立つのであれ、自分の立場に固執することは将来に禍根を残すことにつながると思う。森田でいう両面観で両方にアンテナを張って分析する必要があると思う。今日本人と日本国にとって大事なことは、西欧や中国人たちのなすがままにされるのを指をくわえてみていることではない。特に欧米の国際金融資本と中国共産党の動向から目を離してはならないと考える。相手が何を考え、何をしようとしているのか、常に分析して、仮説を立てて対策を立てておくことである。そのためには、特に20世紀からの近代の世界史をよく学び、そのからくりを理解していくことだと思う。幸い日本には言論の自由がまだ保証されている。そして真実を伝え続けている人たちが、少なからず存在している。you tubeなどのチャンネルでは、批判や迫害を受けながらも、その真実に迫っている。有難いことだと思っている。そこから目を離さないで、本当の事実を掴むことを貫いていきたい。
2020.10.17
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人間関係が悪化している人を見ると次のような傾向があります。1、相手に自分の主義・主張を押し付けている。2、相手が自分の意に沿わないことをすると、すぐに相手を責めている。例えば、子供がいる家庭で、子どもに勉強やスポーツで過度の期待をかけて、叱咤激励している親がいます。夫婦で配偶者に仕事や家事でもっと頑張れと過剰な期待をかけている場合があります。会社で上司が部下に対して過度の営業目標を設定して追い込んでいる場合があります。戦時中の日本では、命を落としてでも、国民は国のために戦うべきだと洗脳していました。期待される方は束縛が強く、ストレスがたまります。期待というのは言葉の響きはよいのですが、自分の理想や完全主義を相手に押し付けていることです。この状態を、森田理論では「かくあるべし」を相手に押しつけているといいます。そういう人は、自分が相手から「かくあるべし」を押し付けられることには猛烈に反対します。自分だけが相手を都合のよいようにコントロールしようとしているのです。犬に紐をつけて自由を制限しているようなものです。自分がきちんと相手を管理しないと、とんでもない方向に行ってしまう。自分の言うとおりに従順に行動していれば、間違いないと思っているのです。思い上がりも甚だしい人のことです。これに対して森田理論の見解はどうか。森田理論の考え方は「物の性を尽くす」という考え方をとっています。拡大して考えると、「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「お金の性を尽くす」「時間の性を尽くす」ということです。対人関係では、「他人の性を尽くす」ということです。人間は誰でも、この世に存在して、生きているだけで価値があるはずだ。その人独自の優れた能力、知識、知恵、性格、意欲などを発掘して、世のため人の為に活かしていくべきだという考え方です。これは雲の上にいる自分が、相手に指示命令を下している態度ではありません。相手の現実に寄り添って、相手を尊重して、暖かく見守っている感覚です。これは「かくあるべし」を一方的に押し付けるやり方とは正反対です。「かくあるべし」を押し付ける人は、それから外れたり、反抗する人を決して許すことはしません。攻撃、批判、否定、拒否、無視、抑圧、脅迫、迫害します。洗脳教育を行い、何とか矯正して自分に従わせようとします。どうにもならないと判断すれば、見放すようになります。関係性を断つということです。これは悲しいことです。最後には人間関係の破綻を招きます。事実本位の生き方を身に着けた人は、相手の欠点、弱点、ミス、失敗などに対して寛容です。事実をあるがままに受け入れることができます。つまり包容力を持って相手を許すことができます。相手は許されることによって、再びエネルギーを補給して、飛び立つことが可能になります。人間関係をよくしたいならば、相手に自分の主義・主張を強引に押し付けない。自分の意にそわないことをしでかしても、過度に相手を責めあげない。相手の立場を理解しようとする。相手を許してあげる。可能ならば、感謝の言葉をできるだけ多く使うようにする。これだけで人間関係は大きく改善できます。
2020.10.04
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2020年8月22日の中国新聞の朝刊に、相手からの頼み事や依頼に対して、自分が後腐れなく気分よく、相手にも不快感を抱かせない断り方についての記事があった。これを森田理論の立場から説明してみたい。まず、なぜ相手の頼みごとや依頼ごとをあっさりと断れないのか。それは、相手が気分を害して人間関係が悪くなるのではないかと恐れているのです。特に職場などの上司から頼まれると、「断ると今後の仕事に響くのではないか」とか、「自分が困った時に助けてもらえないのではないか」などと考えてしまうのです。そこで自分の本音(素直な気持ちや感情)を抑圧し、否定してしまうのです。人間関係に波風が立つことを恐れているのです。そんな関係を続けていると、相手に一方的に支配されてしまうということが起こります。自分の陣地がどんどん浸食されていくようなイメージです。小さな波風を抑えようとして、さらに大きな波風を立てているようなものです。なんでも「はいはい」と賛同して、自分の言いなりになってくれる人は上司や支配者にとってはやりやすい人です。少々の無理難題を吹っかけても、断ったり反対されることはない。安全パイとして、普段は意識することが少なくなります。空気のような存在です。対等な交渉相手とは思わなくなります。子分のような存在だと思ってしまう。これが後々大きな問題になるのです。子分は子分のままに生きていけば、命は保証されるかもしれない。しかし、意思や意欲を持った人間にとっては、針の筵に座っているような状況になる。そんな生き方は、生の欲望の強い神経質性格者にとっては、我慢できないと思います。自分の言いたいことを主張して、やりやいことに積極的に取り組んでいきたいという特徴を持った人間だからです。最初安易な気持ちでとった対応によって、支配被支配の関係が出来上がってしまうと、以後改善することは大変難しくなります。上司は、あなたがいつも無理を受け入れていたために、かえって「無理をしていた」と気づかない可能性が高い。主体性のない従順な人間だと決めつけている可能性があります。たまに反発すると裏切られたような気持になるのです。一方、あなたは「無理を聞いてあげたのに」という思いがあるために理不尽さを感じるのです。一回ぐらいは、自分の気持ちを尊重してくれてもいいのではないか思ってしまうのです。無理を重ねた挙句に関係性が悪化するのですからたまりませんね。一旦そういう関係性が出来上がってしまうと、覆すことは難しいということです。もし意を決して、相手の依頼を断ってしまうと、上司や支配者は反逆者、裏切り者として認識することになります。そして態度を豹変させて、反撃を加えることになります。他の仲間と徒党を組んで仲間から排除するようになるのです。これは人間関係で波風を立てないようにと思っていた人にとっては、解決困難な問題を抱え込むことになります。では森田理論では、この問題についてどう説明しているのか。人間が二人以上いる時は、意見の対立があるのは当たり前のことだと考えています。その対立をどのように取り扱うかが、ここで問われています。方法として、まず自分の考えや気持ちを相手に押し付けることが考えられます。これは自分の「かくあるべし」を無理やり相手に押し付ける方法です。当然言い争いになります。喧嘩になります。犬猿の仲になります。この方法はお互いにエネルギーを消耗して、自滅の道をまっしぐらといった感じです。もう一つは、自分の考えや気持ちを前面に出すと同時に、相手の考えや気持ちを吐き出させるという方法です。そして、どこに見解の相違があるのか確かめるという作業を行う。その溝を埋めるために双方が努力して歩み寄るための話し合いをする。少々の不満が残っても、ある程度のところで妥協する。その結果に基づいて行動を開始する。相手から依頼されたことについては、その依頼内容をよく把握する。納期はいつまでか、自分が適任なのか、能力的に可能なのか状況判断をする。その際、肝心なことは、自分の都合や自分の気持ちを優先することです。決して自分の素直や気持ちや感情を抑圧し、無視してはいけない。その気持ちを相手に伝えることも大切です。相手の役に立ちたい気持ちは、もともとあるわけですが、自分の本音の部分を第一に大切にしたい。そういう気持ちがあれば、自分の気持ちに反した、安請け合いはしないと思います。安請け合いをして、自分の正直な気持ちにうそをつくから苦しくなるのです。今はこの仕事を急いで仕上げないといけないので、申し訳ないが手伝えない。この後、友達との予定があるので、急にキャンセルはできません。今日は残業続きで気がめいっているので、気力がわいてこない。その代わり、あと2時間ほど待っていただければなんとか時間を作ります。明日は予定がありませんので、明日でよければ引き受けます。休息をとってエネルギーが回復すれば、お引き受けします。自分の都合と相手の都合の綱引きをして、ある程度のところで妥協点を見つける態度が欠かせないと思います。これは一般的にはwin winの人間関係作りといわれています。
2020.10.01
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相手に理不尽なことを言われたとき、「相手から一方的に暴言を浴びせられた」と思うことはよくあります。これに対して、相手が格下か、同程度の人と判断すると、反撃をすることが多くなります。強い相手には、さらに強い反撃をくわえられる可能性枷あるので、服従するしかない。しかし、その腹立たしい気持ちは怨念となり、きっかけがあれば仕返しをしようと考えます。これは、相手の暴言という事実に対して、被害者意識が湧きあがり、その感情に基づいて、臨戦態勢を整えて実際に戦うことにつながります。ここで注意したいのは、相手が自分の人格を否定するような暴言はいたというのは事実でしょうかということです。それは相手が自分に対して、人格を否定、拒否、無視、抑圧、脅迫するような暴言を吐いたように自分が感じましたということではないでしょうか。つまり、事実は違うかもしれないが、主観的にそのように感じたということです。事実に対して、ネガティブで否定的な感情が湧き上がってきましたということです。ここでは、事実として相手が自分を否定するような言動を吐いた。それに対して、私は不安になった。イライラした。腹が立った。つい反撃しないでは気持ちの収まりがつかないようになった。その感情に後押しされて、それらのマイナスの感情を吹き飛ばそうとした。つまり事実に対して、色眼鏡をかけてみているために、事実をネガティブに解釈しましたということなのです。目には目を、歯には歯をで、悪循環の始まりとなるのです。同じようなことを言われても、人によっては暴言とは思わない人もいます。第三者的な公平な立場から見て、あまりにも理不尽な言動だと思うような事でも、そうは受け取らないのです。貴重な忠告やアドバイスをしていただいた。私の行き過ぎた言動に対して、暴走を抑えてくれている。むしろ相手に感謝しているのです。相手のことをありがたい存在だと認識している。実に不思議な現象ですが、おおらかというか世にも珍しい人がいます。それは普段から信頼関係が出来上がっているからかもしれません。現象としては、同じ事実にもかかわらず、その事実の受け取り方と解釈によって、その後の経過が180度変わってしまうということです。カーネギーの書に、「極悪な犯人でも5分の理を認めよ」というのがあります。どんな凶悪犯人でも、「あの時はああするしかなかった」と言い訳をするそうです。ここで言いたいことは、相手には相手の言い分があるということです。暴言を吐く人にはそれなりの理由がある。その人の特徴かもしれない。成育過程で身につけた習性かも知れない。自分の将来のことを思ってのことかもしれない。その他、そう言わざるを得ないような理由があったのかもしれない。すぐに反撃する人は、事実を無視して自己中心的な面が強く出ている人かもしれません。そして格下の人に対しては、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けてしまう人です。事実を先入観や思い込みで解釈しやすい人です。事実があいまいになり、事実とかけ離れたところで、言い争いをするようになります。腹を立てるのが悪いと言っているのではありません。その前に、相手の言動の真意を確かめるゆとりを持ちましょうと言っているのです。一旦相手の立場に立って、客観的に事実を見るようにする。つまり、事実に寄り添う時間を持ちましょうということです。これだけでその後の展開がよくなるとしたら、望外の喜びになるのではないでしょうか。
2020.09.25
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森田先生はやるかやらないか迷うときは、いったんイエスと引き受けなさいと言われています。やれる自信、能力、時間がなくても、興味や関心があれば、自分を背水の陣に追い込んだ方がよい。そうすれば、何とか課題や目標を達成しようと努力するようになる。チャンスの神様は前髪はあるが、後髪はない。じっくり考えて、より良い結論を出そうとしては遅すぎると言われているのです。ほんとにそうなのか。ある人が会社の採用試験を受けた。会社は経理に精通し決算書が作れる人を求めていた。その人は簿記の資格を持っており、やり方を教えてもらえれば、何とかなるだろうと思って、「できます」と答えた。運良く採用された。ところが決算時期を迎えて、目的が果たせなかった。結局は会計事務所に依頼することになった。その人は解雇されたという。この方は作成能力がないのに、採用されるために安請け合いをしたのである。入社後死に物狂いで、バランスシートや損益計算書の作成、税務申告書の作成方法を勉強すれば何とかなったのではないかと思う。入社できたことが最終目的地で、その後の努力を怠ったので経歴詐称を働いたと思われたのである。森田先生の言われていることは、イエスと答えたあと、何とか期待に応えるために、死に物狂いで努力精進することを前提としている。自信のない事、能力不足なこと、時間不足なことを引き受けるからには、なんとしても与えられた目標を達成するのだという覚悟がいる。もしそれがなかったとすると、軽はずみで、信頼のおけない人だと判断される。自分は赤っ恥をかき自信を無くする。それ以上に他人には迷惑がかかる。これは友達との約束についても同じことが言えます。友人と旅行にいく約束をする。コンサートに行く約束をする。スポーツ観戦の約束をする。飲み会やカラオケの約束をする。研修会や講演会に参加する約束をする。結婚式に参加するという約束をする。自分も興味や関心、意欲があって相手の提案に賛同したのである。一旦イエスといって約束したならば、約束を果たすという責任が生じる。これを忘れたり、安易に取り扱ってはならないと思う。スケジュール表やメモ用紙などに、日時を書いて忘れないようにする努力をしなければならない。当日になって、すっかり忘れていましたと言い訳するのは無責任である。忘れない工夫はいろいろとあります。配偶者に伝えて時間になったら教えてもらう。タイマーをセットしておく。玄関にメモを張り付けて意識づけを行う。電話の取次ぎでも、引き受けたからには、つい伝言を忘れてしまうことは許されない。めんどくさいと思ってもすぐメモしておく。人間は、別の事に関心が移ると、以前のことはすぐに忘れる生き物だからである。当たり前のことを怠ることで、一挙に本人も会社も同時に信用を落とす。こうなると後の祭りになってしまうのです。もっとたちが悪いのは、いったん約束したのに、自分の都合によってキャンセルする場合である。なかでも、ドタキャンは最もたちが悪いと思う。人間性を疑わざるを得ない。自己中心の権化みたいな人で、犬も食わない代物になる。そういう人とはなるべく距離をとった付き合いをお勧めしたい。一旦相手と約束したならば、基本的にはそれを第一優先順位としなければならない。それよりももっと楽しそうなことや大事なことがあっても、それはもはや第二優先順位にとどめるべきである。それを自分の都合や気分によって、キャンセルすると相手に多大な迷惑をかけてしまうことを認識すべきである。そして、ドタキャンの○○さんと噂を立てられて、信頼を失ってしまう。それなのに「カエルの面に小便」のような態度をとり続ける人がいる。そういうのが身に沁みついているので何度も繰り返すのです。そういう人は、安易にイエスといって引き受けるのではなく、最初に断るべきである。あるいは、期限ぎりぎりまで待って判断するべきであろう。この手の人は、森田先生の教えを真に受けていると、とんでもないことをしでかすのである。
2020.09.22
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森田先生は、自分の観念・主義を押したてようとすると強迫観念のもとになる。価値は常に必ず相対的なものである。これを絶対的に一定したもののように思い違いやすいから、その考え方から、種々の思想の誤謬となり、また強迫観念ともなるのである。強迫観念についても、従来の価値観を打破して、相対性原理を理解することによって、初めてこれを全治させることができるようになったのである。(森田全集 第5巻 520ページより要旨引用)森田先生の話をもとにして、人間関係に相対性理論を応用することを考えてみたいと思います。森田先生は、自分がこれまでの人生の中で身につけた思想、観念、主義などを絶対的な真理とみなすことは間違いであるといわれています。その考えを自分や他人に押し付けると、神経症を発症する。不安はあってはならないものである。他人に非難されるようなことがあってはならない。これらは、森田理論では「かくあるべし」ということなのですが、誰しもこの類の考え方をたくさん持っています。特に神経質な人には理知的でその傾向が強い。これは客観的に見ると、あまりにも一面的な見方であり、普遍的な真理とは言えません。そういう考え方を持つことは構いませんが、それが絶対的真理だとみなすことは弊害が多い。ましてやその考えを自分や他人に押し付けるようなことはよくないことです。自分独自の考え方は、世の中の普遍的な考え方からすると、間違っているかもしれない。別の考え方があるかもしれない。「井の中の蛙、大海を知らず」状態にあるのかもしれない。それは絶対的で唯一無二のものではなく、新しい普遍的な真理にとって代わる運命にあるかもしれない。そういう考え方でいるとよいのですが、自分独自の考え方を持ってしまうと、それにこだわってしまう。他人の話を、聞く耳を持たなくなり、異論に対してすぐに攻撃を開始してしまう。よりよい普遍的な真理を求めるという態度が希薄になり、相手を論破することが目的になる。相手をこき下ろし、対立をあおるので、当然人間関係は悪化します。自分の考え方にこだわり、他の意見を無視するというやり方は、とんでもない方向へと流されてしまうのです。人生そのものの歯車がかみ合わなくなります。森田理論では、自分の考え方をしっかりと持って主張することは大事であるといいます。そうしないと相手の言動に振り回されて、放置すると、最後には相手の言いなりになる。この生き方は苦しいばかりです。ただし、自分の独自の考え方を一方的に他人に押し付けてはならない。自分の「かくあるべし」を押し付けてはならないということです。他人には他人独自の考えがある。それを無視してはならない。それを吐き出させて、理解しましょうという気持ちを忘れてはならない。自分の気持ちと、相手の気持ちの間には乖離があるのが普通の状態です。その溝を埋めて、二人ともwin winの状態に持っていく。調整や妥協の労を厭わないで、粘り強くつきあっていく。これが森田先生の言われている人間関係における相対性理論なのではないでしょうか。「かくあるべし」の強い人は、自己主張が強く、自己中心的な人です。精神的なゆとり、包容力の広さは感じられません。いつも挑発的、好戦的です。2人の人間がいれば、意見の対立は必ず発生する。お互いにそれを出し合い、調整、歩み寄り、妥協を繰り返しながら生活するという態度を持ち続けることが大切になります。
2020.09.19
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他人を責める人は、自分を責める人である。他人を許せない人は、自分も許せない人である。他人に「かくあるべし」を押し付ける人は、自分にも「かくあるべし」を押し付ける人である。そんなことはないと反論する人もあるだろう。他人を非難、否定することは、自分の立場や主張を擁護して肯定していることだから、これは全く間違っているというのが言い分です。それが真実ならば、何も問題はありません。ところが冷静になって考えると、他人を責めることが多い人は、自分を責めることが多いというのが真実に近いのではないでしょうか。私自身の体験上そう思います。なぜそんなことが起きるのか。それは非難、否定することが多い人は、すべてをそのように思考するパターンが身についているからだと思います。すべてにわたって、懐疑的、否定的に考える思考回路が強固に出来上がっているのです。好意的、肯定的な考えが入り込まない体質になっているのです。回りまわって、他人を否定する人は、自分にも否定的に対応するようになるのです。人間は一方で他人を非難や否定していながら、片方でまるっきり反対の対応をとることは難しいのだと思います。称賛や肯定することは難しいのです。思考回路が非難や否定の流れになっていると、その流れを断ち切ることは難しいのです。川の流れに逆らって川上に向かって泳ぐことは無理があります。疲れます。最後には精魂尽き果ててしまいます。逆に川の流れに沿って泳ぐことは、こんなに楽なことはありません。逆に言えば、他人を評価できる人は、自分も評価できる。他人を誉めることができる人は、自分を誉めることができる。他人を受け入れることができる人は、自分も受け入れることができる。これは他人を非難、否定する方向とは全く違います。すると同時に自分を評価、肯定することにもつながるのです。この同時にということが大切です。他人を否定しておいて、自分だけを肯定するということはできないわけです。否定する方向では何もよい事はないわけです。こちらの方向を目指すことが、他人との対立を防ぎ、自分も葛藤や苦悩から解放されます。これは森田理論でいう「事実本位」の生き方のことです。事実本位というのは、基本的にどんな理不尽なことであっても、対応できないことは、あるがままに受け入れて、自然に服従していく生き方のことです。そんなみじめな生き方は受け入れられないと思う人は、森田理論学習をお勧めいたします。
2020.08.26
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森田先生のお話です。子供がダダッ子をいって泣くときに、どうすれば、これをやめさせることができるかと、判断できず、見込みが立たないで、迷いながら見つめていると、いつの間にか子供が泣きやむ。こちらで解決のできぬうちに、子供の方で自然に解決がつき、泣く時に対する最も正しき手段も、自ら分かってくるのである。教育のない親、さては教育のありすぎる母など、でたらめにほめたり、叱ったりする。子供は決して、思うとおりにならぬ。あまり自分の考え通りにしようとするから、少しも子供の心理を観察することができないのである。(森田全集第5巻 323ページ)子供を上手にあしらう事を考えていると、親の権力を利用して、子供を押さえつけようとします。その刺激に対して、子供は泣きわめき、暴力的になって必死に抵抗します。それを見た親は、さらに強い力を発揮して、子供をコントロールしようとします。こうした悪循環が繰り返されていくのです。子供が小さいうちは、圧倒的な力の差がありますので何とかなります。ところが子供が大きくなり、中学生ぐらいになると、形勢は逆転してきます。自分をいつも抑圧してきた親に対して反抗するようになるのです。親は言葉や力の攻撃を受けるようになるのです。一緒の家に住んでいることは、精神的な苦痛を強いられるだけではなく、身体の安全をおびやかされることになります。中には、子供の言いなりになって、おびえながら生活する人もいます。こういう状況が、死ぬまで続くと思うとやりきれないものがあります。ここまでくると、第3者の介入なしでは解決の道を探ることはできないだろうと思います。こういう悲惨な状況を回避するためには、幼児のころの親子関係をきちんとすることだと思います。その際、森田理論の学習が役に立ちます。森田先生は親が自分の不快感や怒りを払しょくするために、親の「かくあるべし」を安易に子供に押し付けてはいけないといわれています。不快感や怒りを持ったまま、「どうすればよいだろうか」と考えながら、子供を観察していればよい。すぐに叱責、脅し、抑圧、ご機嫌取り、ごまかしに走ってはいけない。ここで肝心なことは、安易な対症療法に走ってはいけないという事です。余計なことをしないで見守っていると、子供の方が自ら折り合いをつけて解決する。これは大人の人間関係でいうと、相手の言い分や気持ちを吐きださせる。よく聞いて、相手の真意を確認するという事だと思います。肝心なことは、客観的な立場から、あくまでも事実に基づいて行うということです。事実をうやむやにして、無条件に従うという事ではありません。それに対して、自分の言い分や意向はしっかりと持っていて、それを相手に伝えるという事を回避してはいけません。子供でいえば、電車の中で大騒ぎする。交通ルールを守らない。などがあれば、人に迷惑になる。危険な目にあうことになるわけですから、必死になって自分の考えを伝える必要があります。これは子供を自由自在にコントロールするという事ではなりません。まともな人間に成長するためのしつけです。大人になった子供から感謝されるようになります。一般的に言えば、子供いうことなすことは、包容力を持って見守る態度で接する。自分の主張は、私メッセージの手法を用いてしっかりと伝える。決して自分の「かくあるべし」を一方的に押し付けるという事にはならない。それは子供を一人の人間として尊重しているといえると思います。人間として対等に扱われて成長した子供は、大人になって他人に「かくあるべし」を押し付けるようなことはしないと思います。
2020.06.29
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対人恐怖症の人で、他人から軽蔑される。無視される。からかわれる。毛嫌いされる。馬鹿にされる。非難される。否定される。これらに耐えきれないという人がいます。そういう事があると、すぐにその人のことが嫌いになる。すぐに破れかぶれになり反発する人もいます。我慢して耐える人も心中穏やかではありません。そのことや言った人にとらわれて、気分が悪くなります。夜眠れなくなります。どんどん落ち込み、精神が不安定になります。胃がキリキリと痛むようにもなります。これは別に対人恐怖症の人だけではありません。自分のことを批判し、否定されると誰でも傷つきますし腹が立ちます。対人恐怖症の人との違いは、人間関係の考え方とその後の対応方法にあります。安倍首相の国会論争を見ていると、野党議員は事あるごとに反発しています。時には政治とは関係のない私生活のことを取り上げて攻撃されることもあります。非難、否定、中傷のオンパレードですから気分の良かろうはずはありません。しかし民主政治というのは、自分が攻撃のやり玉に挙げられるは苦しいけれども、対立関係を受け入れることでしか成立しえないという事を理解しておられるのだろうと思います。もしそれが嫌なら独裁国家を築いていけばよいのです。独裁国家というのは支配者が、縦横無尽に一般国民をコントロールするやり方です。一般国民は自由が制限されます。言論の自由、思索する自由、選択の自由、決断の自由、行動の自由はないのです。自由と平等の獲得の歴史から見ると時代錯誤も甚だしいと言えます。人間関係も同じです。2人の人間が一緒に生活していると、考え方や行動の違いがあるのが当たり前のことです。それを認めるか、認めないかでその後の展開が大きく違ってきます。他人の考え方や行動は自然現象と同じで、コントロール不可能という事を理解する必要があります。台風や豪雨が発生すれば、それが通り過ぎ、収まるのを待つしかないのです。コントロール不可能というものに戦いを挑む人はいませんね。あえて挑戦する人は最後には自滅してしまうのです。愚かなことです。人間関係は2人の人に好かれているとすると、2人の人には嫌われている。そして残り6人の人は好きでも嫌いでもないという関係にある。そういうバランスの上に人間関係が成り立っているといわれます。対人恐怖の人は好きな人は当たり前と思って、注意や意識を向けていない。無関心になっています。反対に嫌いな人に対しては、放っておけばよいのに、あまりにも肩入れしすぎている。やり方が逆になっているのです。ちなみに好きの反対は嫌いでしょうという人が多いのですが、好きと嫌いはコインの裏表の関係にあります。つまり好きは嫌いに、嫌いは好きに一瞬で裏返ってしまうものです。かわいさ余って憎さ百倍などと言います。またボーダーラインといわれる人格障害の人は、あれ程過大に褒め称えていた人でも、些細なことをきっかけにして誹謗中傷を繰り返す人に変身するのです。好き嫌いが表裏一体とすると、その反対語は無関心といわれています。この無関心というのは犬も食わない代物なのです。嫌いな人がいたら、その人とは森田理論の「不即不離」を応用して、距離をとることをお勧めします。遠巻きに眺めておくことです。反対に好きな人や好きでも嫌いでもない人と交流を図ることです。そのためには、濃厚な人間関係を少しだけ築いているという考え方は改めた方がよい。広く薄い人間関係を普段から築き上げておくことをお勧めします。親、配偶者、子供、親戚、友達、集談会の仲間、趣味の仲間、飲み友達、カラオケの仲間、会社、同級生などに広げておくことです。その時その場に応じて、付き合う仲間がどんどん変わってくるというイメージです。そして多くの人に好かれたいと思ったら、誰もができないでっかいことをやり遂げて注目を浴びることを目指すことはハードルが高い。それよりは小さなことで人の役に立つことや喜びそうなことをたくさん積み重ねて信頼感を高めていくように努力する方がよいと思います。
2020.06.22
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インナーチャイルド、アダルトチルドレン、愛着障害はほとんど同じ内容だと思われます。親が子供に過保護、過干渉、無視、放任、育児放棄することで、子供の成育過程に支障を生じている。自立できない。依存的になる。刹那的、本能的な快楽を追い求める。何かに挑戦して楽しみを見つけることができない。気分本位で逃避的になる。自分に自信が持てない。自己肯定感が持てない。自己嫌悪、自己否定が強い。他人が信頼できない。他人と対立的になる。自立できない。依存的になる。これらがその人の一生に付きまとうわけですから、やり切りません。こうならないためには、これから子供を育てる人や孫の世話をする人は、子育ての基本を学んでいく必要があります。まずは1歳6か月までに愛着の形成を確実に行うことです。親子の信頼関係の形成はとても大切です。親の温かい愛情の下で、子供は安心感と信頼感を獲得していきます。その後は常に子供のそばにいて、子供が挑戦する姿をじっと見守ることになります。様々なことに挑戦させて、多くの経験を積ませる。そしてやればできるという成功体験を数多く積み重ねていく。子育ては母親だけではなく、父親も積極的にかかわる必要があります。目標は、自分に与えられた問題や課題に対して、安易に逃げないで、積極的に取り組んでいける人間に育てる。経済的にも精神的にも自立して建設的、生産的、創造的な人生を歩んでいけるように支援することです。そのために森田理論学習を活用することを提案いたします。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、実践・行動の取り組み方、不安と欲望の関係、生の欲望の発揮、「かくあるべし」の弊害、事実本位の生き方、認識の誤りなどは子育てする親や祖父母に大変役立ちます。生活の発見会では、ファミリー集談会というのがあり、子育て中の母親が集まって子育ての悩みや原則を学んでいます。一般の人も一人よがりの子育てではなく、基本を学び、問題が発生したときには、相談できる仲間を持っておくことはとても大切です。不幸にしてインナーチャイルド、アダルトチルドレン、愛着障害を抱えてしまった人はどうすればよいのでしょうか。自分一人ではどうすることもできないと思います。遅まきながらでも、岡田尊司氏の提案されている、「心の安全基地」作りに取り組むことです。親との間で起きた問題ですから、親以外の人間関係の中で「心の安全基地」を作る必要があります。集談会の仲間、配偶者、友達、師、先輩、カウンセラーなどから見つけることです。何か心の問題を抱えたときに、信頼して相談できる人を見つけておくことです。私はアダルトチルドレンですが、集談会の中に信頼できる先輩を見つけることができました。その人も神経症で悩んでいた人だったので、傾聴、受容、共感力がありました。私は会社での人間関係などで問題が発生すると、相談に乗ってもらいました。今考えると、母港を持っていたようなものです。時々母港で心の洗濯をして、態勢を整えてまた新たに出航できたのです。集談会でも「心の安全基地」になれるような人は、数は多くはありませんが間違いなくおられます。そういう人は自分の話をよく聞いてくれます。非難や否定はしません。妙案がなくても、いつまでも寄り添って気にかけてくれています。そして秘密は決して他人に口外しません。そういう人を見つけて、後ろ盾を持っていると、安心感が生まれて、積極的な行動へとつながるのです。
2020.05.12
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夫婦喧嘩が絶えないという人に森田先生は次のように話しされている。この場合は、ただ自分は、不機嫌な気むずかしい我儘者であるということを自覚し、人にもこれを認めさせて、その結果として、当然人に嫌われ、うるさがられるものであるということを覚悟し、その応報を受けさえすればよい。決して自分はこのような性質であるから、人は大目に見て、自分を許してくれるべきである、人は自分が悪人でないことや、自分の正直のところなど認めて、理解してくれなければならぬ、などと考えてはならない事である。このように思い定め、覚悟して後には、社交的にあるいは家庭的に、時と場合とに応じて、笑うも笑わないのも、自由自在で、必ず自然の人情味が現れるようになるのである。夫婦の人間関係は、お互いが「かくあるべし」を押し付けあっていては、決してうまくいくものではない。相手のことを批判、否定、拒否、無視、抑圧、脅迫していては、一緒の家に住むこと自体が苦痛となる。森田先生はそういう自分の状態を自覚して、事実本位に切り替えて、因果応報を覚悟することを提案されている。私は夫婦は元々あかの他人であり、分かり合えないという前提に立つことが肝心であると思っている。そういう人が結婚して家庭を作るということにどんな意味があるのか。人間は一人で生きていくことはできない。他の人間とのかかわりの中で、はじめて物理的にも精神的にも延命させていくことができる。その最小単位として、夫婦関係があると思う。これが太古から繰り返されてきた。結婚すると、解決すべき共通の問題や課題が次々と出てくる。家事、育児、子育て、付き合い、生活費の調達などである。考え方や意思の違いのある二人が、その違いを乗り越えて進むしか道はない。そのためにどうするか。自分の気持ちや考えを相手に伝えることが必要になる。ここで相手とは当然気持ちや考え方に違いがあるはずだという前提に立つことが大切になる。次に、その違いを白日のもとにさらけ出すことだ。どこに違いがあるのかお互いが認識しあうことが大切である。二人の間にある溝を埋めていくために話し合いを持つ必要がある。妥協点をつけて、譲ったり、譲られたりする人間関係を維持する必要がある。アメリカでは結婚する前に、お互いが対立したときはどのように対応するのか、クリナップ契約で文書にしてあるという。結婚する前にきちんと取り決めをしておくことはきわめて重要です。埋めることのできない溝が出てきたときに、それを持ち出して、原点に返って話し合いをするのだ。いざこざの多い夫婦であっても、お互いが問題を話し合いによって調整していくという気持ちを持っていれば、きっと乗り越えていける。そして乗り越えていくたびに、夫婦としての器が大きくなっていくのだろう。「あの人は何を言っても聞く耳を持たない人だ」などとお互いが口にするようになると、すでに本来の夫婦関係は破綻していると思う。そういう人は、森田理論を夫婦関係に応用することを真剣に考えてもらいたいものだ。
2020.05.01
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森田療法の専門家の中には、「人のために尽くす」ことを神経症の治療の一つとして患者に勧めている人がいる。これはNPO法人生活の発見会の中で、共通認識となっているわけではない。それに関心を持たない人は、森田先生は「人のために尽くせ」という言葉を、理論的にきちんと説明されていないという。森田先生が説明されていないことを、実践目標として掲げることは如何なものかといわれる。一方では、以前の学習の要点の中に、「人のために尽くす」ことが堂々と記載されていた。それで「人のために尽くす」ことは神経症の克服には大切なものだと考えている人もいるのである。そして既成の事実のごとく頻繁にこの言葉を使われている。この矛盾をどのように考えればよいのか考えてみましょう。いい悪いにかかわらず、人間はもともと自己中心的な生き物です。生まれたときからその本来性に従って生きています。その目的から外れた生き方は、かなりやっかいなことになります。自分の命をいい加減に扱ってしまうようになる。自分の命を粗末に扱っている。自分の命の性を尽くしていない人になります。自分の本来性を押しのけてまで「他人のために尽くす」という考え方、生き方は、元々人間には備わっていないといっても過言ではない。この前提に立つと、「人のために尽くす」ということは、付け焼刃的に自分を奮い立たせないとなかなか意欲的には取り組めないと思う。自分が心から願っていることではない。それでもあえて、この言葉を持ちだすのは、神経症の克服に役立つと考えられているからだと思う。それは、一つには神経症に陥ると、注意や意識が自分の症状ばかりに向いています。「人のために尽くす」ことは全く眼中にはありません。それは周りから見るとあまりにも自己中心的に見えます。ここでいう自己中心的というのは、注意や意識が自分や症状に向いていることを言います。この自己中心的な内向性を外向に転換させないと神経症は治りません。その手段としては、第一に、症状は横に置いて、目の前のなすべきをなすことに取り組むのがよいのは分かっています。さらに「人のために尽くす」を入れると、転換を早める効果が期待できると考えられたのではないか。このように考えて、神経症の治療の一環として「人のために尽くす」を提案されているのではないか。これは理屈で考えると「なるほど」と納得できます。しかし元々そのように考えていない人にとっては、「人のために尽くす」ということが、他人から強要された「かくあるべし」になってしまいます。そんなことを考えてもみなかった人に、それを押し付けると、症状を治すための手段として使うことになります。症状を治すための実践や行動は、症状を治すのではなく、ますます症状を悪化させるといわれます。安易に「人のために尽くす」という言葉を標榜することは、症状を治すのではなく、症状を強めてしまうと考えるのが無難です。それが「人のために尽くす」と書いて「偽」(にせもの)といわれる所以だと思います。もっと拡大して考えれば、あえて意識して「人のために尽くす」という人は、何か魂胆があるのではないかとも受け取れます。私は、「人のために尽くす」というのは目指すべきものではなく、結果としてそこに存在しているものだと考えています。森田理論でいうところの「生の欲望の発揮」に邁進していたら、いつのまにか、世のため人のためになっていた。人から役に立ったと感謝されるようになった。つまりことさら「人のために尽くす」というのではなく、日常茶飯事、課題や問題点、夢や希望に向かって行動しているうちに、気がついたら、結果として「人のために尽くしていた」と考えるのが無理のない妥当な考え方ではないのか。最初から意気込んで「人のために尽くそう」としているのではないのです。不安というブレーキを使いながら、「生の欲望」に一心不乱に取り組んでいたら、周りの人から評価され、感謝された。つまり結果として人のために尽くしていたというのが実際のところです。「人のために尽くす」というのを目標として掲げて意気込んでいると、それが「かくあるべし」になって、事実として人のためになっていないことがあります。むしろ他人に多大な迷惑をかけているというケースが出てくるのではないか。人に親切心でした行為が、「小さな親切、大きなお世話」と言って煙たがられることがあります。それは相手が望んでいないのに、自己満足的なおせっかいの押し付け行為になっているのです。ことさら意識していなくても、森田実践を積み重ねることで、結果として、人びとの役に立っていたという状態を作り上げてゆきたいものです。無理のない自然体の森田実践によって、他人に生活の刺激や生きざまで、感動のおすそ分けを与えられるような人間になりたいものです。
2020.04.16
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対人恐怖症の人に限らず、他人とは対立したくない。犬猿の仲、けんか腰の人間関係にはなりたくない。他人とは基本的には和気あいあいと楽しく付き合いたい。暖かい思いやりのある人間関係の中で、みんなと一緒に人生を楽しみたいと思っています。誰でもそういう目的を持って生活していると思います。その方が楽しいし、一人で生きて見せるといきがっても、自滅するだけです。その目的を達成するためには、他人に好かれることを心がけて生活することが有効です。カーネギーは「人を動かす」という有名な本の中で次のように述べています。・誠実な関心をよせる。・笑顔を忘れない。・名前を覚える。・聞き手にまわる。・相手の関心のありかをつかむ。・心からほめる。誰でも簡単にできそうなことばかりですが、真剣に実行している人は少ない。森田理論では、「かくあるべし」を他人に押し付けない。それを前面に押し出していると、人は離れてしまいます。ただし他人の思惑に振り回されて我慢し、耐え続ける事ではありません。自分の気持ちは純な心や私メッセージの手法で吐き出していく。この方法は相手と対立しません。自分の欠点、弱点、ミス、失敗を隠さない。ごまかさない。責任転嫁しない。ありのままの自分をさらけ出して生きていく。不安を活用しながら生の欲望の発揮に邁進する。事実本位に生きている人は、他人と対立しません。むしろ自分の周りに人の輪が広がっていきます。これらを心がけて生活すれば、人に好かれたいという目的はほぼ達成できると思います。はたして現実はその方向に向かっているでしょうか。例えば、他人から無視された。からかわれた。軽蔑された。批判された。否定された。そんな時は誰でも不快になります。すぐに怒りが込み上げてきます。その不快感を取り除いてすっきりしたい。楽になりたい。仕返しをしたい。その気持ちに後押しされて、すぐに反発する。暴言をはき、暴力に訴えることはないでしょうか。人と仲良くなりたいという気持ちとは裏腹な行動をとっていることが多いのではなりませんか。頭で考えていることと、実際の行動があべこべになっています。こんなことを繰り返していると、人と仲良くできるはずはありません。むしろ、ますます他人からイヤな人と嫌われるようになります。ここでの問題は、本来の目的をいつの間にか忘れているのです。そして目的のすり替えが起きているのです。人と仲良くしたいという目的から、途中で目の前に現れてきた怒りや不快感を払しょくするという目的にすり替わっているのです。本来目指している目的をすっかりと忘れ去って、枝葉末節の無視したらよいような目的にとりつかれてしまっているのです。しかもそこに自分の持てる全エネルギーを投入しているのです。これはピエロを演じているようなものですね。自分ではその矛盾点に気がついていないというのが始末に悪いのです。この問題を解決するためには、人と仲良くしたいという気持ち、目的、目標から目を離さないことだと思います。目的を言葉にして机の前に貼っておく。自分なりのキャッチフレーズを作りいつも眺めるようにする。例えば、「一日3つは人の役に立つことを見つける」「一日のうちに一つは人の役に立つことを実行する」などです。日記を書くときに、今日一日、目的を達成するために思いついたことや取り組んだことを書くようにする。さらに、頭に血が昇って、暴言や暴力的になりそうなときは、森田の「不即不離」を活用する。「申し訳ありません。ちょっとおなかが痛くなりましたので、トイレに行ってもよいですか。後でどんな批判でも聞きますで」と中座する。一旦距離を置くことは大切です。そのうち相手も幾分かは冷静さを取り戻している可能性があります。さらに配偶者や親しい友達に、自分はすぐに激高してしまうので、そんな時は注意してほしいと日ごろから頼んでおくことです。「そんなしようもないことをするな。お前はあほか」といわれるだけで、ハッと我に返ればしめたものだと思います。そして本来目指すべき目的を思いだしてみることです。
2020.04.11
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形外会での篠崎氏の発言です。私は治らない時は、家の人に乱暴なことをいわなかったが、治ってからは、ちょっとの事で、弟と言い争って乱暴な口を聞くようになった。これはどういうことでしょうか。(森田全集第5巻 144ページ)これに答えて森田先生曰く。「根治法」の中に、陸軍中尉は、退院してから、以前と違って、よく部下を思うままに叱り、またよくかわいがるようになったといっているのと同じである。いたずらに自分を善人ぶらずつくろわず、自分のありのままをさらけだすからである。兄弟・朋友でも、いたずらに道学者流に礼儀正しく、常に慇懃であるという事が、必ずしも親密であり、愛情があるということはできない。我々はお互いに少々無理な事をいっても許され、自分の欠点をも知ってくれるのでなければ、本当の平和は得られないのである。これに対して私の感想を投稿してみます。篠崎さんは、治る前は、家族に対して言いたいことがあっても我慢していたのだと思われます。表面的には平穏で、波風が立つことがなかったでしょう。しかし精神的にはつらい状況です。自分の素直で正直な気持ちを抑え込んでいたので、イライラしてストレスが溜まっていたことでしょう。その後、入院されて、自分の正直な気持ちを打ちだすという方法を身につけられました。これは「純な心」の体得のことです。どんな感情も、価値判断しない。反発、反抗、抑圧しないで、そのまま味わう。できればその素直な感情を直接吐き出す。これができるようになった。森田理論が実践によって体得できたということです。そうなると、相手とは意見の相違が生まれてきます。お互いの自我のぶつかり合いが生まれるのです。その時に、自分の主張を押し通して、相手をコントロールしようとすると、喧嘩になります。森田でいう「かくあるべし」の押し付けになっては、以前よりも人間関係は悪くなります。森田では2人の人間がいれば、必ず意見や主張の違いが生まれます。そんな時はお互いに自分の気持ちを出し合う。そして、お互いの見解の違いを確認し合う。そして話し合いをして、妥協点を探り合うための交渉を行う。譲られたり、譲ったりする人間関係を構築していく。この態度は夫婦、これから結婚しようとしている人にとっては、とても重要です。結婚する前に、意見の対立したとき、どうしようかとすり合わせを行うことは必須となります。夫婦というのは、最初はラブラブでもすぐにいがみ合うようになりますから。取り決めたことを文書にして約束し、厳格に厳守することが大切です。離婚寸前の喧嘩をするような時に、この文書を机の前においてやり合うのです。約束を破って離婚に至ったときは、慰謝料を通常の2倍支払うなどという文言があれば、さらに有効になるでしょう。
2020.04.01
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野村克也さんと妻の沙知代さんは40年連れ添ったおしどり夫婦といわれている。なりそめは、野村さんが1972年に離婚訴訟中だったころ、沙知代さんと出会った。当時の沙知代さんには夫がいた。それで略奪婚などとバッシングを受けた。沙知代さんはマスコミの前でも言いたいことをいい、世間をあっと言わせる行動をとる人だった。野村さんが南海の監督だったころは、球場に出入りして、監督夫人として振る舞うようになった。そのあまりの横暴さに、オーナーは野村氏に「監督をとるか、女房をとるか」と迫ったという。野村氏は「女房をとります。仕事はいくらでもあるが沙知代は一人しかいない」と言ったそうだ。そして監督を解任されている。1996年に沙知代さんは衆議院選挙に出馬している。1999年には沙知代さんのメディア出演が続き「サッチー・ミッチー」騒動を引き起こしている。2001年には沙知代さんは、脱税事件で有罪判決を受けている。2009年には「女房よ」というシングルをリリースしている。沙知代さんが作詞を担当して、野村氏が歌手として歌っている。歌詞を見ると、「誰もいない この世のどこにも お前を超える人は」とある。沙知代さんは自己愛性人格障害者ではないかと思える内容である。それだけ沙知代さんは、あらゆることに自信満々だったのだろう。これだけの世間を騒がす問題行動が重なると、普通は離婚するのではないかと思う。ところが、野村さんは、不祥事を起こすたびに妻を許し、かばい続けていた。それが何とも不思議です。一切批判や否定をしないのですから。完全に妻を信頼して、どんな不祥事を起こしても妻の肩を持っているのですから。森田でいう事実をあるがままに認める。素直に受け入れるということです。そしてどんな不祥事を起こしても、自分が妻を護りきって見せるという太っ腹な性格なのです。これが自分を信頼し、選手を信頼して、成長させた原動力になっていたのでしょう。二人でテレビに出たときも、沙知代さんが言いたい放題のことを言う。時には夫の失敗なども持ちだす。性格も問題にする。野村氏は、その横で発言を控えて、苦虫をつぶしたような苦笑いをしている。監督としては言いたい放題、やりたい放題なのに妻の前では借りてきた猫だ。これは完全にかかあ天下の家庭だなと思っていた。脱税で有罪判決を受けたときは、「妻の問題で監督を2度もクビになっているのは、世界中を探しても私ぐらいだろう」と言いつつ、「老後の蓄えを思って始めたこと」と沙知代さんの行動を咎めることはしなかった。全幅の信頼を置いていたということだろうか。野村さんは妻のことを「ド―ベルマン」と評していた。その意味するところは「外では一見凶暴に見えるが、家では主人に従順」ということだそうだ。事実沙知代さんは家庭の問題はきちんとこなして、野村さんが野球に専念できる環境を整えてくれていたそうだ。それだけに沙知代さんが亡くなられたときは、無精髭を生やして痛々しかった。その後2年間で急速に衰えが目立つようになっていった。私は夫婦といえども不即不離を念頭に置いている。基本的にはそれぞれが好き勝手なことをしている。助け合う場面があればできるだけのことはする。発見会活動で出歩くことが多いが、苦情を言われたことはない。今では私も不十分ながら妻の話はできるだけよく聞くようには心掛けている。昔は「かくあるべし」を押し付けてばかりで、申し訳なかったと思っている。後悔で穴があったら隠れたいような気持になることがある。妻は趣味や飲み会、会合に出かけることが多いが、私も快く送り出している。お互い言いたいことを言いあうので、波風はよく立つが、別れるといった話になったことはない。料理、洗濯、掃除をよくしてくれるので大いに助かっている。今考えると、これでよかったのではないかと思っている。
2020.03.21
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今日は森田理論の中で出てくる、「平等観と差別感」について考えてみました。森田では差別感については、「劣等感的差別感」などと言われます。この意味するところは、自分だけがことさら外界からの刺激に対して、特別に抵抗力が弱い。他人と異なって、自分だけが精神的、身体的に重大な欠点や弱点を持っている。このように絶えずネガティブ、悲観的に思考する傾向がある人のことを言います。他人の持っている長所や強みと、自分の短所や弱みを比較して劣等感に陥っているのです。本来なら、自分に短所や弱みがあるのなら、その反対に長所や強みもあるに違いない。自分の長所や強みを自覚して、それを活かすことを考える必要があるのです。差別感というのは、自分と相手を比較して、その違いに着目して、自分なりの価値判断をしているのです。たとえば、人間は誰でも耳や目は2つ、鼻や口は一つあります。ところがその形状は十人十色です。その違いに着目して、美人、イケメン、ブス、三枚目などと勝手に価値判断をしてランク付けをしているのです。問題なのは、その判断は自分独自のものではなく、普遍性を持っていると勘違いしていることです。それを基にして、自分にも他人にも修正を求めてくるのです。整形美容、過度なダイエット、アデランスなどをして自分をごまかし、普通の人間を装おうようになるのです。差別感を前面に押し出している人は、隠す、ごまかす、否定する名人です。これに対して平等観を身に着けている人は、人間は誰でも苦しいときは苦しい。楽しいときは楽しい。人間は誰でも耳や目は2つ、鼻や口は一つあります。基本的には、体つきや考え方は同じようなものだと思っているのです。ところが詳細に観察してみると、考え方、思想、性格、容姿、能力、生育環境などは2つとして同じものはありません。その違いが存在していることを、あたりまえのことだと思っているのです。その違いを自分の価値判断に合わせてやろうなどと大それたことは考えていません。それを認めて受け入れないと何も始まらないと思っています。人間同士はもともと考え方が違うので、まず相手の考え方をよく聞く必要がある。そして自分と相手の考え方の違いを白日のもとにさらけ出す。その後話し合いを行ってその溝を調整していくしかない。つまり他人の存在、考え方、性格、容姿などを尊重しているのです。互いに自分の意見をぶっつけて言い争いにはなりますが、その底にはなんとか和解したいという気持ちが働いています。ストレスを二人の力で解消しようとしているのです。差別感を身に着けている人は、自分の考え方を相手に押し付けようとしているのですから、最初から信頼関係などはありません。殺し合いの喧嘩になることもあります。相手を自分の思い通りに手なずけてしまおうとしているのですから、お互いが傷つけ合うようになるのです。森田理論ではお互いの違いをあるがままに認めて、そこを出発点にして生活していきましょうという考え方なのです。
2020.03.19
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玉野井幹雄さんのお話です。人は誰でも、自分自身に対するように人にも対するものです。ですから、自分自身を大事にするのと同じ程度に、他人を大事にすることができるということになります。逆に言うと、自分自身を大事にすることのできない人は、他人を大事にすることができないということです。同じことですが、ありのままの自分を受け入れることができない人は、他人を受け入れることができないものです。また、自分の欠点を許すことができる人は、他人の欠点を許すことができますし、自分の欠点を許すことのできない人は、他人の欠点を許すことができないものです。ですから、人間関係をよくするためには、まず自分自身の中の折り合いをつけることが先決だということができます。つまり、自分の中が「現実の自分」と「それを批判している自分」に分かれて争っている状態の和解を図ることが先決だということです。「現実の自分を受け入れる」ようになれば、無駄な抵抗をしなくなりますから悩みも少なくなり、孤立感からも解放され、人間関係もよくなるのであります。(いかにして悩みを解決するか 玉野井幹雄 自費出版 160ページより引用)自分で自分を嫌ったり、否定するということはあり得ないように思えますが実際にはあります。本来一枚岩になって、目の前に迫ってくる危険、問題点、課題に対して対応しなければいけないのに、仲間同士で骨肉の争いをしているようなものです。戦争で目の前の相手と闘わなければいけないときに、自分の後から味方となるはずの身内が、「あとずさりするな」と自分に向かって鉄砲を放って脅しているようなものです。精神状態が不安定になり、本来のやるべきことには手がつかなくなります。自分のなかで対立している二人が仲良くなるにはどうしたらよいでしょうか。森田で勧めているのは、批判している自分が現実の自分に寄り添うようになればよいといっているのです。現実の自分が批判している自分に寄り添うようになると神経症になります。精神的な葛藤と苦しみでのたうち回るようになります。これが森田理論でいう「かくあるべし」を少なくして、事実、現実、現状を素直に受け入れて、そこを出発点として生活していくということなのです。事実、現実、現状を素直に受け入れるとは、自分の容姿、神経質性格、自分の病気、体力。能力、経済状態、家族、会社、学校、社会、境遇、環境、生まれた地域や国、時期などを価値批判しないで素直に認めてしまうということです。受けいれて服従していくことです。一体になれば闘う必要がありません。エネルギーの無駄遣いもなくなります。どんなにか精神的に楽になります。そうなれば、目の前に迫ってくる危険、問題点、課題に対して心置きなく対応できるようになります。夢や希望に向かって歩みだすことができます。そのための方法は、森田理論が詳しく教えてくれています。このブログでも数多く取り上げています。興味のある方は、「事実本位・物事本位」のカテゴリーの中から、学習してみてください。きっとご自分に合った方法論が見つかると思います。
2020.03.11
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「怒らない技術2」(嶋津良智 フォレスト出版)という本の中に次のように書かれています。人間は放っておくとすぐに人のあら探しをします。他人の短所にばかり目が向きます。「あの人はこの欠点を直すべき」ということにはいくらでも気がつきますが、「ここがすばらしい」ということは、なかなか見えてこないものです。痛いところをついていると思います。私自身を振り返ってみるとその傾向が強い。これが身についてしまっているのです。それで何度人間関係で問題を起こしてきたことか。反省してもしきれません。今日はこの問題について、深耕してみたいと思います。こうなる理由は2つあると思います。まず、人間には生存欲求、自己保存欲求があります。自分を護り、できるだけ延命を図りたいという欲求です。危険は回避したい。健康で長生きしたい。十分な食料を確保したい。などです。このような欲望は誰にもあります。なければ簡単に命を落とします。しかしこの欲求は抑制力を働かせて節度を守らないと、すぐに暴走してしまいます。他人を押しのけて、この欲望を満足させようとすると、争いが起こります。今の世の中は欲と欲のぶつかり合いで、国同士は脅しや戦争にまで突き進んでいます。人間は放っておくと、自己中心的になります。利他よりも利己主義に陥ってしまいます。そうなりますと、自己保身にばかりに意識や注意が向いて、他人の存在を思いやり、長所に気づくことはなくなってしまいます。するとぎすぎすした社会になってしまいます。人間はもともと、排他的で頑固な自己中心性を身につけた生き物であることを自覚して、制御する知恵を身につける必要があると思います。2番目の理由として、人間は成長するにつれて、親や家族、学校、社会から様々なことを学びます。そしてそれぞれの人が、それぞれのものの見方、考え方を身につけていきます。人それぞれ独自の物差しを持つようになるのです。観念的な価値観、主義、主張、生活信条、信念、行動パターンと言ったものです。森田では分かりやすく「かくあるべし」と言っています。よい言葉でいえば、アイデンティティの確立などと言います。この物差しを使って価値評価をし、次の行動を選択して生活しているのです。ここで注意したいことは、人それぞれこの物差しは違うということです。10人いれば10通りの物差しが存在するということです。ところが、自分の物差しにこだわり、普遍性のあるものだと勘違いしている人が多いのです。すると自分の物差しを相手に一方的に押し付けてしまうということが起きるのです。冷静になって考えれば、そんなことはあり得ない。元々人間同士は分かり合えない存在なのです。だから話し合って分かり合う努力をする必要があります。現実は譲ることもあれば、譲られることもある。絶えず妥協点を見つけて、話し合って、折合う点を見つける態度が欠かせません。「かくあるべし」を前面に押し出すと、人間関係がぎくしゃくしてとても生きずらい社会になります。いつも自分だけのことに過度にとらわれていては、他人の存在、長所、強みには全く気付かない。反対に欠点、弱点、ミス、失敗をことさら拡張して相手を追いこんでいくのです。人間関係は悪化の一途をたどります。他人が敵のように思えて自己防衛にエネルギーを投入せざるを得ないようになります。森田理論を深耕してその弊害に陥らないようにしたいものです。
2020.03.03
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私はカラオケが好きだ。その中に「浪花恋しぐれ」という歌がある。歌詞に若干の違和感がありました。春団治という落語家は、芸のために女房を泣かす。酒もあおるし、女も泣かす。多分博打もやるのだろう。それらはすべて優れた芸人になるため必要な投資だという。つまり金を湯水のように使い、本能のままに生活しているような人だ。それを正当化してやまない。これに応えて奥さんが次のように言う。そばに私がついていなければ何もできない人やから泣きはしません、つらくとも。あんたが日本一の落語家になるためやったら、うちはどんな苦労にも耐えてみせます。このようなことは外国では考えられないことだ。なにしろ、俺についてこいと我が道を進んでいると、奥さんはすぐに回れ右をしてしまうという。男性がそんな気持ちで生きていると、奥さんはさっさと荷物をまとめて出ていってしまう。これは日本人の理想の夫婦愛を唄った曲のように思える。春団治は日本一の落語家になるという大きな夢を持っている。その夢を実現するために、奥さんはどんな苦労にも耐えて、夫を支えていくと決意を持っている。男性にとっては、どんなことをしても奥さんがしりぬぐいをしてくれるので、たまらないだろう。奥さんはさぞかし大変な思いをして生活されているのかと思いきや、旦那を支えていくことが生きがいになっているという。このような人間関係は問題はないのだろうか。見方を変えると共依存の関係である。春団治は本能のままに生活して、問題を起こしても、「それがどうした、文句があるか」と開き直っている。どんな問題を起こしても、奥さんが解決してくれる。しかし奥さんがいなくなれば、何もできない。ここが問題だ。完全に頼り切って、わがままのし放題なので、もう一人では生きていけなくなっている。過保護で育てられた子供が、自立して生きていく力を身につけることなく、親の財産を当てにして生きているようなものだ。経済的にも精神的にも親に支配されているような状態だ。奥さんがかいがいしく世話をすればするほど、春団治は依存体質から抜けられなくなる。大きな夢を持っているとはいえ、精神的に不安定になることはないのだろうか。自分で何もできないということは、自信喪失、無力感、自己嫌悪、自己否定に陥ることはないだろうか。少なくとも自己肯定感は生まれてこない。こういう人が日本一の噺家になれるとは到底思えない。春団治は有名な噺家になったそうだが、きわめて稀なケースであろう。神経質性格なら、むしろ神経症に陥る可能性が高い。人間は生まれ落ちると、親に全面的に依存している。しかしいずれ依存体質から抜け出して、自立して生きていくことを宿命づけられた生き物ではなかろうか。大人になっても依存体質が抜けられないことは大きな問題だ。奥さんは旦那の世話をやくことが、生きがいになっている。もし春団治がいなくなれば、自分の生きがいもなくなってしまう。生きがいや課題や夢や希望がないことほど寂しい人生はない。むしろ春団治が自分でしでかした不始末は、自分で解決しなさいと突き放すことが必要だったのではないか。金魚の糞みたいにいつまでもくっついていてはうっとうしい。私をたよりにしないで、自分の力で日常生活を維持してください。その時に私が役に立つときは極力協力させてもらいます。今後何から何まで世話をやきずぎることは、差し控えさせていただきます。そして私は私なりに日常生活、課題や問題点、趣味、夢や目標に向かって挑戦していきます。これからは、つきず離れずの人間関係でいきます。そのような夫婦関係に戻していくことが大切なのではなかろうか。実は樹木希林さんはこのような夫婦関係を保っておられましたね。
2020.02.27
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1月号の生活の発見誌に私がいつもお世話になっている臨床心理士さんの投稿があった。とても役に立つ記事なので要旨を紹介したい。今から800年前、山口県の壇ノ浦で、源義経は平家一門を完全に攻め滅ぼしてしまいました。平家一門を完全に討つだけではなく、幼少の安徳天皇まで殺害しました。普通でしたら、源一門はめでたしめでたしというところですが、実際には兄弟による骨肉の争いが起きました。義経は兄の頼朝との覇権争いに巻き込まれたのです。頼朝にとっては、平家一門滅亡の瞬間から、義経は必要な人材ではなくなったどころか、むしろ朝廷の権力者と繋がり、自分を脅かす邪魔な存在となってしまったのです。覇権争いに敗れた義経は、奥州の方まで逃げ延びざるを得なくなりました。どうしてそのようなことが起きたのか。平家一門を討つという共通の目的があるうちは、兄弟が一致団結して行動することができました。その目的を完全に達成してしまうと、目的を見失ったのです。そして、今度は兄弟同士で誰が権力者になるのかという目的にすり替わってしまったのです。昨日までの仲のよかった兄弟は、今日の敵となったのです。仲のよい兄弟といえども、骨肉の醜い争いをするようになるのです。戦いにおいて、勝ち過ぎは災いの元です。敵を完全完璧に叩き潰してしまうと、その瞬間から別の災いが起こってきます。敵を完璧に崩壊などせず、むしろ弱った敵に塩を送るくらいの度量、度胸、戦略性があったほうが何事もうまく収まるものです。と臨床心理士さんは指摘されています。不安、恐怖、違和感、不快感への対応も同じことが言えます。森田理論学習では、それらは欲望が存在するから発生したものです。私たちは人間は欲望をなくすることができないわけですから、不都合だからといって、それらを排除することはできません。欲望が大きければ大きいほど、それらも欲望に比例して大きくなるという特徴があります。それらは、注射針を刺されるように心に痛みを与えますが、欲望が暴走しないように制御機能を果たしています。大切な役割を果たしています。だから進化の過程で、淘汰されなかったのです。欲望は不安などを活用して、調整する必要があるのです。神経症に陥ると、ことさら不安などに意識や注意を向けて、霧散霧消しようと格闘しています。それらを完全になくしてしまおうと考えることは、水車小屋に飛び込んでいったドンキホーテのようなピエロを演じているのです。完全に方向性を見誤っているのです。森田理論学習をしていないと、全くそのからくりは見えてこないでしょう。不安への対応は2つに分かれます。将来に明るい展望が見えるものと他人に役に立つ不安は、不安解消のために立ち向かうことです。放置していると、自分や他人に災いが及びます。それ以外の不安は、不安の役割を踏まえて、それを持ちこたえたまま、本来の欲望をしっかりと見据えて、欲望の達成にエネルギーを投入することなのです。神経症的な不安というのは主にこちらの方に入ります。そのバランスがとれていれば、欲望が暴走して、自分や他人、他国に惨禍を撒き散らかすことはなくなるのです。不安を完全に取り除くという努力は、百害あって一利なしと心得ておきましょう。
2020.02.20
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樹木希林さんは、道路にごみが落ちていたらすぐに拾う。ヒッチハイクをしている人がいたらすぐに乗せる。困っている人がいたら、自分がどんなに急いでいても、「どうしたの」と聞く。何かに出くわしたときに、よく考えもしないで、とっさに自分のできることをやってしまう。娘の也哉子さんからしてみると心配で仕方がない。それがすごく嫌だった。だって怖いでしょ。ヒッチハイクでも、見ず知らずのおじさんを平気で乗せちゃうんですよ。近所で兄弟が大げんかをしていると、窓から覗いていた母はすぐに現場に行く。そして、樹木希林さんは、殴っているお兄ちゃんを後ろから抱きしめて、「そうだね。分かるよ。あんたの気持ちはよく分かるよ。つらかったんだね」などと言う。普通、けんかの仲裁は、「何やってるんですか」とか、「やめなさい」とかいうじゃないですか。でも、樹木希林さんは、殴っているほうを抱きしめた。見ず知らずのおばさんが突然現れて、「あなたの怒りは私の中にもある」と言われたら、けんかなんかできなくなってしまう。現に2人とも、きょとんとしてけんかを止めてしまいました。也哉子さんは、母が亡くなって、おせっかいな存在がいなくなってしまうと、母がしていたことは人間が生きていく中で、大切にしなければいけないことだったのかもしれないと思うようになりました。(この世を生き切り醍醐味 樹木希林 朝日新書 参照)そういうところは森田先生とそっくりだった。形外先生言行録の小熊虎之助氏のエピソードを紹介しよう。私の妻は、私の宅に先生が土産に持ってこられた桃の皮をむくに、ナイフを使っているのを認められて、早速先生のお叱りを受けた。水蜜桃は指先でむくべきものである。先生は他家へお客に来ておられても、叱るのに遠慮がなかった。先生の言行には、いつも遠慮のない子供らしさがあった。子どものような無邪気さがあった。子どものようにごまかしがなかった。だから私の妻は、先生に叱られてもかえって笑っていた。これは先生の人徳の一つであろう。樹木希林さんも森田先生も、ともすると反発を買うような言動の連続であった。しかし、事実は反対である。多くの人を引き付けてやまないのである。これは人柄という面もあるだろう。私が感じるのは、「かくあるべし」押し付けているのではなく、人情から出発されているからである。たとえば、賭博をやっていた父親を子供が警察に訴えたという話しが紹介されている。その子は、「悪事を憎む」という教えを忠実に守っている素晴らしい子供かと思いきや、森田先生はいくら父親が問題行動をしていても、子供は親をかばうのが当たり前である。その子は低能か意思薄弱児だといわれている。人情から出発しなればならないといわれているのだ。この2つは紙一重のところがあり、まかり間違えば総スカンを食らう。その人になりきり、何とかしたい、役に立ちたいという執念のようなものが必要なのだと思う。相手は圧倒的な包容力に度肝を抜かして、たちまちファンになってしまうのだろう。価値評価や自己顕示欲があるとすぐに正体がばれてしまうのである。
2020.02.14
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樹木希林さんがでていたCMに、「お正月を写そう」というのがありました。当初のセリフは、「美しい人はより美しく、美しくない人も美しく写ります」だったそうだ。樹木希林さんは、「それはおかしくないですか。どうして美しくない人が美しく写のですか」と聞いたそうです。「写真を修正でもするのですか」と。そして「そうでない人はそれなりに写ります」に変更を申し入れたそうです。「それなりに」という言葉は、相手を思いやる気持ちのはいった言葉だそうです。最初は担当者が渋ったそうですが、最終的には樹木希林さんの意見が採用されたそうです。それが思いもかけない有名なCMになったとのことです。樹木希林さんは、ドラマや映画でも、台本のセリフに違和感をもつと、セリフの修正の提案を積極的にしていたそうです。監督の演技指導についても、自分の意見を述べていたそうです。他の俳優さんは、監督の言うことに、「はい、分かりました」と素直だったそうです。娘の也哉子さんによると、友達を家に連れてくると、母は平気で友達を叱る人だったそうだ。だから、友達を連れてきたりすると、友達が叱られるのではないかとヒヤヒヤしていました。もう、それは容赦ないですから。こういうところは森田先生とそっくりですね。樹木希林さんはその弊害をよく分かっておられたのだと思います。自分の考えや主張を素直に口に出すという信条は、時として対手と摩擦を引き起こす。ところかまわず自分の言いたいことを言う変なおばさん。人間関係がぎくしゃくしてくる。だから対策を立てておく必要がある。それが森田理論でいうところの、「不即不離」だと感じるのです。一旦自分の思ったことを口にするけれども、その後は深追いをしないでさっと引く。相手がその後どういう結論を出そうが、それに対して自分は関知しない。いつまでもひっつきすぎてはまずい。だから引っ付いてはすぐに距離をおく。「私はこうしたほうがよいと思うけど、あとは自分で考えなさいよ」と突き放す。夫の内田裕也さんとは、45年間ずっと別居をしていた。一つ屋根の下で暮らしたのは3ヵ月ぐらいだったという。この夫婦は一緒にいると何かにつけて対立する。内田さんも自己主張が強い人で、しかも自由奔放に生きている人だった。そういう夫婦が一つ屋根の下で暮らしていくことは大変なことですよ。いつも言い合いをする。殴り合いの喧嘩ですよ。それも前歯が折れるような喧嘩です。普通はこういう対立的な人間関係になるとすぐに離婚してしまうでしょう。実際に内田さんが勝手に離婚届を出したことがあった。樹木希林さんもやれやれとほっとされるかと思いきや、離婚訴訟に持ち込んだ。そして離婚を破棄させてしまった。人間が二人いれば、意見の相違は必ず生じます。それが人間の人間たるゆえんだと思います。それがなくなれば支配と服従の人間関係になってしまう。その人間が何とか折り合いをつけて生きていこうとすれば、「不即不離」を身につけておけばよい。合わせる場面では、二人で協調歩調をとる。刺激を与えあう。大いに助け合う。二人で大いに楽しむ。いがみ合うときは、その人とは距離を置く。遠巻きに眺めておく。でも全く無関心では困る。自由放任でもまずい。アンテナを張って情報収集だけは怠らないようにする。これが森田理論が教えてくれている究極の人間関係なのだ。樹木希林さんは、ベタベタ、ピッタリの人間関係は、自由が束縛されて窮屈じゃありませんか。それを目指している人は何か魂胆があるのですよ。「そういうやり方ではうまくいきませんよ」と教えてくれているような気がします。
2020.02.11
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先日の集談会で対人恐怖症はどういう風に治ったのですかという質問を受けた。「治らずして治った」と答えた。その理由を説明してみたい。私は子供のころ父親が私のやることなすことを否定して育てていたので、他人は恐ろしいものだという強迫観念が出来上がってしまった。人の輪の中にいることは苦痛以外の何物でもなかった。一人で好きなことをして過ごすとほうが精神的に楽だった。しかし反面、他人から大きなことをして評価されたいという欲望は相当強いものがあった。こういう状態で社会の荒波の中に入っていった。当然適応不安が強かったのです。自己防衛中心の生活は、針の筵に座っているようで、死んでしまいたいほど苦しかったのです。社会に出て15年ぐらいしてやっと森田理論に出合いました。1年間は、森田理論の学習と集談会の先輩が教えてくれたことに真剣に取り組みました。実践課題や気もついたことをメモして丁寧に取り組んだのです。成果は1年ぐらいですぐに出てきました。会社の中での雑仕事の取り組みで、上司や同僚から評価されることが多くなってきました。賞与の支給や昇進に反映されました。仕事に対する自信が自分を支えていました。生活面においても活動的になり、森田のおかげて大きく改善できました。ただこの時点では、人が恐ろしいという対人恐怖症は手付かずでした。依然として人前ではビクビクハラハラして精神的には苦痛だったのです。それは驚くことに、少なからず定年退職まで続きました。今思えば小さいときに植え付けられた対人恐怖症は、死ぬまで治らないのではないかと思っています。では治ってはいないのではないかという質問が聞こえてくるようです。それでも私は対人恐怖症は治ったと宣言したいのです。それは人間関係に振り回されて疲れ果てるということがなくなった。また、すぐに人間関係を避けて逃げ回るということもなくなった。とても気になるが、生活面への悪影響がほとんどなくなったことを持って治ったと言っているのです。それよりも人と付き合う楽しみもたくさん経験できた。私のやり方は対人関係を絶って孤立することではありません。むしろ薄くて幅広い人間関係作りを増やしていくやり方です。森田学習で分かったことは、人間関係はすべての人と親密な人間関係を築く必要はないということがよく分かりました。特に仕事や学校以外の人間関係が希薄であるというのは大変危険です。普通の人間関係は、必要に応じて必要なだけの付き合いで構わないのだということで楽になりました。森田でいう不即不離の人間関係を心がけたのです。仕事だけの人間関係だけではなく、家族、親戚、友達、集談会関係、趣味、一人一芸を目指している仲間、園芸や家庭菜園の仲間、カラオケ仲間、飲み仲間、麻雀仲間、プロ野球の応援仲間、町内会、資格試験を目指す仲間、同級生、ボランティア仲間など頻繁ではないが幅広い付き合いを心がけました。どれも薄くて広い人間関係です。利害関係がからむのは仕事関係の付き合いだけです。その時、その場で付き合う人がどんどん変わっていくイメージです。その結果、利害関係の大きい仕事関係ではつらいことが多かったのですが、それ以外の分野では楽しい付き合いができました。時には苦しいときに相談に乗ってもらったり、助けてもらいました。適材適所の人間関係を築いてきたのです。精神的には集談会の仲間に助けてもらいました。仕事の人間関係で苦しくてとらわれても、比較的早く気持ちを切り替えることができたのです。そんな感じでなんとか定年まで苦手な対人関係で大崩れしなかったのかもしれません。会社ではあたらずさわらずの、のらりくらりの人間関係でした。対人恐怖症の人は、すっきりと治したいと思っておられるかもしれません。私の経験ではそれは無理なのではないかと思います。芯のようなものは最後まで残ると思います。そこをなんとかしたいと格闘することは、神経症が治るどころか益々増悪するばかりとなります。交際範囲を広げることを心がけて生活することで、特定の人に振り回されることなく、人生を全うする道もあるということを森田で学んでほしいと思います。気になる人はあたらずさわらず、最低限の付き合いで済ませることが大事です。これが私の治らずして治ったということの中身です。すっきりとは治らないが、この程度しか治りようがないと感じています。
2019.12.27
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幼児が服のボタンがけを一人で出来るようになったとき、「すごいね」「えらいね」などとほめることがあります。着替えが一人できちんとできるようになったときも「すごいね」「えらいね」という言葉が出てしまいます。靴を一人ではけるようになったときも、「すごいね」「えらいね」などと言うことがあります。これに対して、子供はたいして「すごいこと」だと思っていないそうです。それではどう思っているのか。今までできなかったことが、何回も挑戦して、「やっとできた」「これだけ練習したのだからできてあたりまえ」「そんなすごくはない」と思っているそうです。ほっとしているというところでしょうか。子供の気持ちとしては、親に褒められることよりも、その事実を、認めてもらいたいという気持ちが強いのだそうです。子供が「お母さん、見て、できた」といったとき、その気持ちに応えるとすれば、「できでよかったね」「そうだね。できたね」と共感してあげるだけでよいのです。逆にいつもほめまくることを習慣にしていると、ほめられることを目的として行動するような子供になってしまいます。ほめられないことには取り組まないという気持ちが強く働いてくるのです。必要に応じて、必要なだけ行動するという目的からそれてしまうのです。私たちも集談会などで森田理論を生活に活かしている人などの話を聞いて、「すごいね」「えらいね」と反射的に反応してしまうことがあります。私も以前はこの言葉を使っていました。相手に怪訝な顔をされたことも何度かありました。ある人から厳しく注意されました。その言葉は、先生が生徒に向かって使う言葉ですよ。あなたは集談会では先生なのですか。集談会には先生はいないはずですよ。あるいは、相手のことをほめてあげなければということにとらわれすぎているのではないですか。生活の発見会の活動指針の中に、「会員は相互に平等である」と唱っているではありませんか。私たちの自助組織は、たとえ大臣をされている人がきても、ここではみんな平等なはずですよ。先生が入りこんでいると、森田の相互学習は成り立ちませんよ。形骸化してしまいます。できれば、上から下目線的な発言は控えたほうがよいと思いますよ。私はそんな気持ちはなかったのに、第三者からそのように見られていたということにショックでした。言葉の端々に上から下目線の態度が露骨に出ていたのでしょう。ではどうすればいいのですかと聞いてみました。共感の気持ちをもって接するようにすればよいと思います。そして事実をそのまま口にすればどうでしょうと言われました。例えば「森田を生活の中で活用できるようになってよかったですね」「森田的な生活になっていますね。私も見習いたいです」「森田理論学習がすごく深まっていますね」などなど相手の状態を認めて、そのままの事実を言葉にすればよいのです。その際価値評価は必要ありません。相手の考え方や行動を価値判断してオーバーに褒めるということは、「かくあるべし」を相手に押し付けることにつながるのかもしれません。
2019.12.07
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あなたは普段の生活の中で、家族、仕事仲間、友人、自助グループなどで、不平、不満を感じて愚痴や悪口をいうことはありませんか。例えば、・当然やるべきことに手をつけない。・本来やるべきことに気がつかない。鈍感すぎる。・やることなすこと、全く真剣味が感じられない。・自分が取り組んでいるいることを手伝おうとしない。・進んで協力しようという態度が感じられない。などなど。これらは私がよく感じていることです。本来はみんなでやるべきことなのに、どうして手伝おうとしてくれないのか。これでは自分だけが貧乏くじを引いてしんどい思いをしているだけじゃないか。つい何気なく愚痴をつぶやいたり、相手の批判をしてしまう。今度は絶対にこのようなことは引き受けないで断ってしまおうと思ってしまう。これらは上から下目線で他人を見ているために、自分の頭で想定していることと現実の乖離が発生して自分一人がイライラしてストレスをため込んでいるのです。森田理論では、他人に自分の「かくあるべし」を押し付けないで、相手の現状を理解して受け入れなさい。そうすれば思想の矛盾で苦しむことはなくなりますよということになります。このからくりは、理屈は分かっているのですが、どうしても相手の立場を受けいれて、相手に寄り添うことができない。反発心だけが次から次へと出てくる。この対応方法が一つ見つかったので紹介したい。イライラする気持ちはどうすることもできないので、それは受け入れるしかない。でも愚痴や批判を口にすることをなるべく控えることは意識すればできる。自分の心の中で思うのは仕方がないとしても、他人の前では口にしないように心がける。次に自分が相手のために何か役に立つことはないかと考えてみる。相手を楽にしたり、楽しませることはないかと考えてみる。思いついたら、一つを選んですぐに行動に移す。例えば、配偶者が部屋の拭き掃除をほとんどしない。観葉植物の水やりをしてくれない。家庭菜園の畑に入るのに長靴に履き替えない。こんな時に相手に不満をぶちまければすぐに喧嘩になる。そこで、自分が相手に何かしてあげられることはないかと考えて実行するのだ。発想の転換ですね。こう考えることがポイントです。配偶者は食事の準備、洗濯と大忙しだ。せめて拭き掃除ぐらいは手伝ってあげよう。それで弾みがついて、掃除機をかける。整理整頓をするようにもなる。配偶者とは険悪になることなく、感謝されることもある。観葉植物の手入れは自分の趣味でやっていることだ。相手が水やりをしてくれないと不満をぶちまけるのはお門違いだ。自分で毎日水やりをして、手入れを楽しめばよい事だ。不平不満を言わなくなるだけで、イライラはすぐになくなり、険悪な人間関係は避けられる。家庭菜園に外出用の靴で入ると靴が汚れるので、ホームセンターに行って畑仕事に適した靴を買ってあげる。お互いがwin winの関係になれる。グチや批判ばかりに集中するのではなく、相手に何か役立つことはないかと考えて見つける。そして即実行することで人間関係はまるっきり変わった方向に進むと思いますが如何でしょうか。
2019.12.06
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ジョン・グレイの著書「ベスト・パートナーになるために」(三笠書房)にこんな寓話があります。男性は火星人、女性は金星人でした。ある日、男性が望遠鏡を覗いていたら美しい女性の姿が目にとまります。彼は思い切って声をかけました。思いがけずデートに応じた彼女とその後もデートを繰り返すようになります。この頃、二人はお互いの考え方、感じ方に自分とは異なるものがあるのに気づきます。それはすぐには受け入れることのできないものですが、それでも二人は相手は異邦人なのだから、そんなことがあって当然、と許し合ことができました。やがて惑星空間でのデートにも飽き、そろそろ落ち着きたいと考えた男性は女性にプロポーズし、めでたく結婚して地球に新居を構えます。子供が生まれます。実はこの頃から二人のコミュニケーションはギクシャクし始めます。生まれた子供は地球人です。そして自分たちも地球人だと思い始めるようになりました。するとそれまで相手の考え方、感じ方に違和感があっても、相手は自分と違う異邦人だからと許せていたのに、同じ地球人なのになぜ同じように考えないのだろう、感じないのだろう、許せない、ということになるのです。始めは分からなくて当然と思っていて、分からないことを前提に逆にわかろうとする努力をしていたはずなのに・・・。(アドラー心理学入門 岸見一郎 ベスト新書 170ページより引用)人間は百人百様で、生育環境、性格、ものの考え方、欲望、経験、行動様式が違います。そういう人間が自分の気持ちや考え方を述べ合えば、一致しないのは容易に想像できます。そういう前提に立って、相手と付き合っているかというとはなはだ疑問です。最初から相手の話を聞くという謙虚な気持ちになりません。暴力に訴えてでも、自分の考え方に同調させたいと考えがちになります。相手は戦う相手であり、一旦その戦いに負けてしまえば、以後すべて相手の言いなりにならなければならないという恐怖心から来るものと思います。相手に思うがままにコントロールされることは、心身共に地獄の苦しみを味わうことにことになります。自由を奪われて、服従させられることはなんとしても避けたいという気持ちがとても強いのです。こうなりますと人間関係は対立的、防衛的、逃避的になります。本当は仲間として受け入れてもらいたい、他人から評価してもらいたいと渇望しているにもかかわらず、実際にはそれと反対のことをしているのです。これを解消するためには、相手とは生育環境、性格、ものの考え方、欲望、経験、行動様式が違うのが当たり前という前提に立って付き合うことが大切になります。その立場に立つことは、森田理論学習では「事実本位」の生活態度というのです。そういう立場に立つと、まず相手の気持ちや意見、考え方をよく聞くようになります。そして自分の気持ちや考え方との違いをはっきりさせて、その間に横たわる溝を理解しようとします。ここが人間関係ではポイントとなります。その次には自分の気持ちや考え方を相手に説明することになります。その気持ちや考え方を抑圧してはなりません。そうすれば相手の言いなりになるばかりです。またそれらを相手に押し付けることでもありません。相手とのギャップを相手に分かってもらうことに力を入れることです。相手とあくまでも対等な人間関係作りを目指すことです。あとは双方による話し合いです。譲ったり譲られたいという駆け引きに持ち込むことです。貸しを作ったり、借りを作ったりする付き合いが普通の人間関係と心得ておくことです。これが、ストレスの少ない人間関係作りのコツとなります。
2019.11.27
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普段の生活でこんなケースはないでしょうか。朝、職場で親しい先輩とすれ違って挨拶をした時、相手の表情がいつもより硬かったり、冷たい態度をとられたと感じるようなことです。挨拶を返してくれない。あるいは、返してくれても、いつもと違ってそっけない態度をとった。そんな時、次のように考えてしまうことはないでしょうか。「私何か気にさわることをしただろうか。きっと何かあったんだ。そういえば、昨日先輩の意見に反論したけど、それを根に持って嫌がらせをしているに違いない」「先日仕事でミスや失敗した自分を許せないと思っているに違いない」「自分は間違いなく嫌われている。どうしよう」とすぐに不安になる。仕事には身が入らなくなり、相手の態度ばかりが頭の中を駆け巡る。相手にしてみれば、そのとき考え事をしていて気がつかなかった。他のことに気をとられていた。急いでいてそれどころではなかった。心配事があり、気分的に落ち込んでいた。こういうことだって十分にあり得ることです。普段からいがみ合っている先輩ならば、嫌がらせをされている可能性は大です。ところがそれが一過性の現象ならば、事実誤認の可能性がとても高いと思います。その割合は50%~80%ぐらいは十分にあり得ることでしょう。ところが、その事実を考慮することもなく、自分にとって不利でネガティブな事実をねつ造しているのです。そこから不安、恐怖、不快な感情が生まれて、次第に増悪しているのです。もし相手の本当の事実が分かっていたならば、イヤな感情は生まれてこなかったはずです。損な性格ですねといってしまえば、それまでのことですが、森田理論では事実にきちんと向き合っていない態度とみなします。こんな時、とっさに先輩に向かって、「今日何かありました?」「私何かとんでもないことをやらかしましたか?」と聞くことができれば、すぐに解決するような出来事です。でもそんなことをすぐいちいち先輩に聞くことなんかできませんよ。そう反発する人がいるかもしれません。そういう人は、せめて事の真相は分かりませんと白旗を上げることです。自分は事実確認をしておりません。また確かめようとも、分かろうともしていません。憶測、決めつけ、先入観の多くは間違っているので、今はこの件にはかかわりません。昼ごはんの時まで待ってから、それとなく先輩に聞いてみたいと思います。私は事実をねつ造する名人です。それで今までどんなに苦しんできたか。事実誤認で、不安に苦しむことほど情けないことはありません。だからこの件では、「まいりました」と白旗を上げて、一旦降参します。時と場所を変えたときに、改めて確認作業を行えばよいと考えるのです。今すぐにすっきりしたいと慌てふためくのは、事態をさらに悪化させます。
2019.11.19
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森田正馬と妻久亥は1924年(大正13年)協議離婚している。二人は高知でいう「いごっそう」と「はちきん」で夫婦喧嘩は絶えなかったようである。日記を見ると、「朝、久亥と論争し、後久亥が離縁せんと云い出すに至る。夕方に至り更に久亥の陳謝するありておさまる」と書いている。時には激しいこともあった。「久亥と争ひ怒に乗じて膳をひっくりかえす」という記述もある。まるでテレビドラマの寺内貫太郎一家を思わせる。二人は母親同士が姉妹のいとこであったから性格的にはよく似たところがあったのかもしれない。共に自分のいい分を表に出して、一歩も引くということはなかった。対等の立場で自己主張を繰り返した。正馬は久亥に英語を教えていたが、その教え方で、しばしば口論になった。習う時間よりも口論の時間が多かったと書いている。それでもこりずに、算術と日本外史なども教えている。その上、妻の久亥は夫に内緒で他人名義の口座を作って金を貯めて、無断で家を購入することもあった。また正馬の母亀との確執もあったようである。だから正馬夫婦が離婚に至ったのは自然の流れと見る人もいたのである。しかし実際は違っていた面も多かった。正馬はしばしば自宅に友人を呼んで酒盛りをすることがあったが、妻の久亥はいやな顔をしないで接待していたという。少ない家計費の中から、酒のつまみをつくり、酒が不足すれば1合ずつ買いに出たという。家計が火の車の妻がこのようなかいがいしい世話をするとは思えない。久亥はこの新婚当時が一番人生の中で楽しかったといっている。正馬は、久亥が音楽学校の入学試験を受けたときは、妻を気づかい、全く勉強する気にならなかったと書いている。つまりいろんな問題が起きれば起きるほど、それを糧にして益々夫婦の絆が強固になっているのである。我々のように小さな問題が起きると、益々無関心になっていくのとはえらい違いなのである。だが傍で表面だけ見ている人は、喧嘩の絶えない仲の悪い夫婦に見えたのであろう。離婚の真相としては、相続の問題が絡んでいたようである。久亥は二人姉妹の長女で、父親がなくなったとき、旧姓田村家の家督を相続することになった。そのためには正馬と離婚して田村家の戸主になる必要があったのだ。実際には離婚する気持ちはなかったのだが、経済上の理由から離婚したということだ。1924年というのは1919年に確立した神経症の特殊療法(のちの森田療法)が爛熟期を迎えて、多くの入院生を受けいれていた。その中で久亥の役割もとても大きな力となっていたのである。かくして、正馬・久亥夫婦は、1931年(昭和6年)再び入籍を果たしている。森田正馬・久亥は一つの夫婦の人間関係の在り方を教えてくれている。(森田療法の誕生 畑野文夫 三恵社参照)
2019.11.13
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森田正馬は、実に面倒見のよい人であった。群を抜いている。そのエピソードを紹介したい。1901年の暮れ、正馬と同郷の藤次という男が親に無断で正馬を頼って上京する。明治法律学校入学を目指しているというので家に同居させた。彼の生活のため書生の口を探してやるが見つからず、車夫になることに決まる。警察へ同行して車夫の鑑札を取得させる。正馬自身、中学生のとき親に無断で上京し辛苦をなめた経験がそうさせたのであろうか。まことに面倒見がよい。初日は正馬がまず客になる。日記に次のように書いている。「車夫の稽古にとて先づ余を載せて上野に遊び、帰途藤次は客を得て乗せて走り行きたり」その3日後、「夜、余はハッピを被り車夫の出で立ちにて藤次を乗せて上野に行き、後余は車を曳き藤次は後より従ひて客を求めたれども得ず。上野に藤次と共に牛飯を食ひ少しく酒を傾け更に出て客を求めたれども得ず。再び大学赤門辺より藤次を乗せ他の車夫に劣らず走りて藤次を驚かせたり」当時の超エリート、東京帝国大学の学生で車引きをした者がはたして他にいただろうか。親切心を超えた正馬の飾らない性格を見る思いがする。変人の奇行ともいえるが、正馬持ち前の瓢軽さと好奇心に藤次への思いやりが加わった振る舞いであろう。藤次は2か月足らずで下宿先をみつけて正馬の家を出ていくが、転居後も勉強の面倒を見ている。論理学、心理学などを教え、明治法律学校入学の目的を果たすよう藤次に援助を惜しまなかった。しかし、半年後には藤次が女をつくり身を持ち崩しているところを発見する。借金の返済を肩代わりして面倒を見るが立ち直る様子は見られず、やがて絶交するに至る。正馬にとって親切を尽くして裏切られる最初の体験となった。(森田療法の誕生 畑野文夫 三恵社 144ページより引用)
2019.11.12
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1964年、東京オリンピックで大松博文監督が率いる日本女子バレーチームが世界一になりました。彼の代名詞は「俺についてこい」です。ついてこれない人は、「もういい」仕方ないと見放されました。指導は監督やコーチの意向を前面に出したスパルタ教育です。いわゆる「しごき」です。我慢、忍耐、根性が求められ、言われた通りにしないと、鉄拳制裁もありました。このやり方は、日本では、野球やサッカーなどの競技の監督やコーチの指導方針として、長らく受け継がれてきた経緯があります。当時の日本は、近代国家の仲間入りを果たし、高度成長の入り口で国中が大きな期待にあふれていました。企業がより大きな成果を求め、すべての社員を叱咤激励したのと同じように、世界一を目指し、その夢の実現と力でチームを引っ張っていったに違いありません。「根性」や「忍耐」が美徳とされた時代です。こうした上位下達の教育や指導方法は、時代の要請でもあったのです。そうすれば、国民全体の生活水準が向上して、豊かな生活を享受できるという暗黙の了解がありました。実際にその通りになったのです。しかしその後時代は動きました。すべての人が中流意識を持つようになりました。生活物資が家に入りきれないぐらいにあふれ、飽食三昧の生活に変わっていきました。こうなると、現状に胡坐をかいて、誰も好き好んで苦労を背負うことはしなくなったのです。指導者が上でいくら叱咤激励してもついてこなくなったのです。指導者が先頭に立って、「おれについてこい」と言っても、しばらくして後を振り返ってみると誰もついてこないという状況が生まれたのです。なにしろ、無気力、無関心、さぼりたい、楽したいという気持ちが強いのでどうにもなりません。つまり現在大松氏のような指導は死語になっているのです。今は高橋尚子さんや有森裕子さんを育てた小出義雄さんの指導が脚光を浴びるようになりました。小出氏は選手に夢を持つことの大切さ、走ることの楽しさを教えることで、苦しい練習に耐えうる精神を養っています。小出氏は「どうしたらそんなに強くなれるのかと聞かれるけれども、別に特別なことをしているわけやないんです。少なくとも怒ったり、怒鳴ったりすることは一度もありません」と答えている。これは小出氏の心の中に次のような信念があるのだと思います。「人は誰でも潜在能力を備えた存在であり、できる存在である」「人は誰でも問題や課題を解決し、夢や希望を実現したいと思っている」人間の存在、現状、問題や課題をそのままに認めて、生の欲望を見つけ出して、刺激を与え続ける。そして意欲ややる気、情熱にあふれた人間に生まれ変わらせる。私は集談会の中でそういう役割を果たすことができたら、素晴らしいなと考えています。あの人にはオーラがある。あの人のコーチを受けたい。そういう援助ができるようになると集談会はどんどん変わっていくだろうと思います。(コーチングの技術 菅原裕子 講談社現代新書 参照 一部引用)
2019.10.31
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