全124件 (124件中 1-50件目)
NHK大河ドラマ「どうする家康」で徳川家康(役:松本順)を支える家来衆の1人として、酒井忠次公(役:大森南朋、以下敬称略)が活躍している。これまで、数多く徳川家康のドラマはあったが酒井忠次がこれほど多く出てくるドラマはあまり記憶にない。 酒井忠次は、徳川幕府の成立に大きな功績があった人で、16歳家康より年上で家康の苦難の時代を支えた人として徳川四天王の1人といわれる。しかし、豊臣秀吉(1598年)が亡くなる2年前、関ケ原の戦いより3年前の1596年、亡くなった。家康が天下をとったことを知らずになくなったのに四天王に数えられるのだから、徳川家によほど功績があった人ということになるのだろう。 これまであまり取り上げられることが少なかったのは関ケ原の合戦のときには存命しておらす、参加していなかった事が関係しているのかもしれない。最近はYou tubeなどのおかげで酒井忠次を解説する動画が増え、今まで知らなかった忠次のことを知ることが出来とてもありがたい。そして、そうしてわかったことにはこの酒井忠次は親族として家康を支え徳川家臣団の中心にいたためにとてもユニークな性格をもっていたということだ。それは庄内地域の文化や思想に小さくない影響を与えているようで、おそらく清河八郎にも影響を与えていたように思える。清河八郎の思想や行動を酒井忠次の影響から考察してみたい。清河八郎に対して不思議に思う行動があったと考えることがあるならその誤解を解くヒントになるかもしれない。 家康の家来の中の年長者として、また先祖を同じくして伯母の嫁ぎ先の血縁関係としても徳川(松平)家を盛り立てた忠次。家臣にも関わらず諫言を呈する一方、ユーモアもあった。家臣にも関わらず、長篠の戦いで信長にも認められ陣羽織をもらい、後に天下をとる2人の直接の対決となった小牧長久手の戦いでは秀吉にも認められたという。徳川家の参謀という感じだけではなく一武将のようでもある。家康が残した名言の1つに次のような言葉がある 「およそ(多くの場合)主君を諌(いさ)める者の志、戦いで先駆けするよりも大いに勝る」家康の多くの意見を聞こうとする姿勢だけでなく天下人としての器の大きさを示す言葉だ。家康は家臣団をまとめるにあたり、このような家臣たちの屈託のない意見を大事にしたようだ。これは家康が天下を取れた理由の1つにもなるだろう。この「主君を諌める者」の中には当然、酒井忠次も入っていたのだろう、徳川家臣団の中にあり、酒井忠次も自分の家来に対しても自分を諫(いさ)める人を大事にしたと想像できる。戦況が日々変わる下克上の戦国時代、単純に上からの指示(待ち)だけで天下を取ることなどは不可能なことでそれぞれの考え、意見や行動を尊重した結果なのだろう。 また、この金言ともいえる言葉は三河武士の特徴、三河武士団の主君や家臣たちの主従関係を表していたようだ。少しアレクサンダー大王にも似たこの主従関係は三河武士の勇敢で結束を強くさせた理由の1つといえる。江戸幕府が厳しい統治をした時期にも三河武士、関係諸藩では大切にされていたと思うのだが、各々が三河地方から関東や三河地域以外に移り時代が移り、太平の時代を経てその精神は少しづつ忘れさられたのかもしれない。お互いの関係、雰囲気も少しづつ変化していっただろうことは想像に難くない。(鶴岡市 旧西田川郡役所/致道博物館) ある番組で酒井忠次の子孫の方(現在の当主)が酒井藩(出羽庄内藩)について次のような内容のことを語っていた。それは家康の名言に関連していて興味深い。「言いたいことが言える藩だった。どんなに強い相手でも自分の意見をきっちり言わなければならない。自分の言いたいことは言わないと武士道に背く者として誹り(そしり)を受けた。」 個人的な解釈を含めて補足すれば「言わなければならないことをためらうな、それが相手や全体のためになるのだから」という意味あいも込めてた言葉としていろいろな機会に教えられたように思う。中には少し勘違いして言わなくてよいことを遠慮なく言ってしまう弊害も出てくることがないわけではないが それ以上の利があると考えてのことなのだろう。自由で闊達な意見や多くの情報をより大事するという意味合いの言葉だ。それはある意味文化となっているので、不文律の家訓ともいえる。これからは家康たちが作った組織論にも似たようなものが感じられ庄内藩の武士道として扱われていたと言っていいだろう。 「本間様にはおよびもせぬが、せめてなりたや殿さまに」とという俗謡がある。それほど商家としての本間様はすごいという意味だ。しかし、少しうがってみれば逆に殿様を軽んじている歌にもとれなくもない。身分制度が厳しく貧富の差も大きかった時代、不敬罪のような形で取り締まることもできただろう。地元の人々は屈託なく冗談として捉えているが、他の地域の殿様たちから見れば、庄内藩はよくこのような俗謡を野放しにしたのかとも思われるのかもしれない。酒井家は先ほどの家訓を守るべく家来、民衆が委縮ぜず、言いたいことを言える雰囲気、その延長線上の商業、経済活動を大事にしたともいえるだろう。(また、本間家は小作人に対して丁重な姿勢だったと言われることもこのようなことの延長線上にあるようにも思える。) 日本の文化には目立つことや出しゃばることを嫌い、自分の意見を言わないで我慢する美徳文化がある。言いたいことを言わないこと、言い控えることで相手の気持ちに配慮する協調性を重んじる良い文化になった。しかし、逆に捉えると言いたいことを言わずに従うことが多くなったり、横並びの出る杭を打つような文化にもなることもある。良い面もあったと思うが幕府の5人組制度などの身分制度で言われるお互いを監視したりする意識や村の長が中心の村社会的で閉鎖的な側面はその象徴で、変化に順応できない文化の温床にもなる。長い安定した江戸時代を通して身分制度の強い束縛は徐々に文化や人々の考え方にも影響を与えたことだろう。 「国際会議を成功させる秘訣はインド人を黙らせて日本人をしゃべらせること。」というジョークがある。それほど日本人は人前で自分の意見や考えをいうことが苦手だ。慣れていないからなのだと思うが、教育、訓練の場で自分の意見をいう場を与えられることが少ないことや違う意見を聞いて意見の違いから互いに尊重して話し合うことも多くない。少なくとも世界の中では自分の意見をいうことが不得意な国民と思われている。ステレオタイプ的に考えれば、日本人でもおばさんは自分の意見をはっきり言うイメージが強いが世界的にはそのように考えれているようなのだ。確かに人前で発言するときには、それが何か人により違いはあるが目に見えない、何かためらいを生じさせる文化(私の意見など取るに足らないものです・・・のような)ものを感じる人は少なくないのではないだろうか。 自分の経験で恐縮だが、ある会合で外国の人が説明をしに意見を聞きに遠くから来日して、最後に質問を求めたときに何も質問が出ないことに説明者がびっくりする光景を見た経験がある。そして、日本ではいつもこういう感じなんだ、と説明されて説明者が納得したということがあった。特に大勢の中で質問をしたり自分の意見をいうことは日本では極端に少ないようなのだ。 ところでこの地方で自分たちのことを「庄内健児」と呼ぶ。これがどのような人を指すのかはっきりした定義はないが、それには地元の自然などの環境で育ったという要素だけではなくこの「どんなに強い相手でも自分の意見をきっちり言わなければならない」という文化的要素とそれを受け入れる要素が入っているのかもしれない。出所の証拠はないがそれは冒頭の酒井忠次公が作った教え、文化なのかもしれない。自分が言ったことに責任を持たなけれならないのでしっかりとした考えをもつこと(沈潜の風というのもあるそう)になるが出しゃばっているという印象で損をすることも少なくない。損得で考えれば日本社会では一般的に損をすることの方が多い。八郎だけではなく、西郷隆盛の対島津久光への対応など歴史的に有名な人のエピソードにはこのような損をする例がみられ、命がけの行動もある。 (← 庄内平野で) 八郎は、同志を見つけ虎尾の会を作り、全国を遊説して回り自分の意見を多くの人々に説明して回った。そして、帝国主義に立ち向かうため硬直した社会を改めて新しい制度を作ろうとその魁となった。今までにない新しいものを作るときには、多くの人と交わりその中からよりよく現実的なものを取捨選択しながら多くの人の賛同を受けなければならない。その八郎の行動の原動力には、徳川家康や酒井忠次が大事にしてきた家訓、武士道としての「主君を諌(いさ)める者の志」の考えがあったように思う。八郎の「虎尾の会」の通称もそのものが幕府に対する「主君を諌(いさ)める者の志」の呼称のように思える。 地元出身の作家で「回天の門」を書き尊敬する藤沢周平は八郎の行動を下のように「ど不敵」という土地の言葉で紹介したことがあった。「自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢(ごうまん)と受けとられがちな欠点を持つ」「権力を相手どって放胆な奇策をうちたてることを快として性格は、八郎に固有のものというよりも、田舎者の劣等感と自負心がよりあわされた奇策癖だとも・・・」と、八郎の行動を地域文化を含めて表したようだ。(【回天の門】庄内ならではの人物/ 山形新聞・藤沢文学の魅力(2007年5月10日 山形新聞掲載)) 長らくこの文が頭の中にありどうとらえていいのか整理がつかなかった。もしかしたらこの勇気は健児の「主君を諌める者」の文化とつなげて考えられるのではないか、八郎の行動で理解できないような(傲慢と受け止められるように)感じるものがあったならこれにより誤解が解け、理解が進むかもしれない。 敢えてこの文を「主君を諌(いさ)める者の志」の気持ちで見ていきたい。 確かに勇敢に自分の意見を言う形のこの「ど不敵」の勇気は庄内では好まれ、奇策も好まれる傾向はあるように思う。だからといって庄内健児は向こう見ずな「ど不敵」かというとそうでもないように思うし、「ど不適」の内容は水戸学に通じるようにも思われ、他からの影響を受けたうちの一部を誇張されているようにも思える。由来や本質が結びつくようにも思えないのだ。(水戸学についてはこちら➪「幕末の志士、渋沢栄一(4)攘夷(尊王)の思想と水戸学」) 奇策癖といういうのも少し言い過ぎなように感じる。八郎への幕府の「隠密無礼撃ち事件」や岩倉や西郷の「薩摩御用盗」、戊辰戦争での官軍の「錦の御旗」などなど、考えたら歴史では奇策が多く駆使されてきたし、八郎自身もその被害者だ。歴史には純粋な正道だけではないことも少なからずあるようにも思える。一般の人が見て奇策と思えることを偉人たちでも行っているとすれば妙計(妙策)と奇策の区別は結果によるだけことだけなのかも知れない。 劣等感については、八郎は家庭環境や経歴を見ても当時の人々が憧れる秀才で逆に少なかったように思える事柄が多い。虎尾の会や薩摩藩士など八郎は多くの人に尊敬されていて孤立などはしていなく、少数派としての劣等感も少なかったようにも思える。幕末の腐敗した幕府をなくして徳川家も含めた天皇中心の政治にして日本を救うために強い信念、責任感をもった。日本の将来を憂いて自分を犠牲にして行動したことは幕末の志士たちの心を大きく動かし賛同者を増やしている。よく長所としてあげられる雪の不便さや冬の寒さを耐えるような忍耐強さや信念の強さは逆に頑固さなどとらえられれば短所となるので、いいところと良くないところは表裏一体でもあるように思う。もしかしたら、藤沢は八郎が感じた優越感、達成感をわざと劣等感の裏返しのように表現したかったのかもしれない。 家康や酒井忠次の精神や家訓が清河八郎に影響を与えていたのではないかと考えてきた。「主君を諌(いさ)める者の志」、現代では地位の高い人、政治家、目上の人や会社なら上司などへの諫言する心のことになるが、実際多くの場合、自分の意見を言うことで逆に蔑(ないがし)ろにされ嫌な思いをしたり、失敗など損をすることの方が多いのではないだろうか。現実と照らし合わせてそうであればあるほど、家康や酒井忠次の精神、家訓が尊いものに感じる。 昨年が酒井氏が庄内に入部して「400年の節目」だったのだそうだ。忠次は山形庄内には来たことはなかっただろうが、その思想はこの地方の文化の1つとなっているようだ。大河ドラマ「どうする家康」で大活躍する酒井忠次だが、ドラマの中で同じく三河武士として活躍する大久保忠世(役:小手信也)の個性あるセリフ、働きも気になって見ている。
2023年04月25日
赤胴鈴之助と清河八郎の共通点は?赤胴鈴之助は昭和の時代、漫画雑誌から始まりラジオや映画、アニメなどにもなった作品だ。原作は少年雑誌で1954年にまで遡るそうだ。(詳しくはこちら参照ください ➪ 二木紘三のうた物語) アニメは1972年の放送で、第1話だけだが現在You Tubeで見ることができた。懐かしいだけではなくこのような映像だったかと絵のすみずみが新鮮に映る。また、建物などの造りなど古い型式を残して今では忘れさられたものもあるように思う。江戸の建物や風習の記憶の残像が残る人たちが制作に携わっていたからなのだろう。そういう意味ではとても貴重な文化遺産かもしれない。【公式】赤胴鈴之助 第1話「夢は大きな少年剣士」”A LITTLE SAMURAI” EP01(1972) 秩父(現埼玉県)の山奥から江戸に出てきた赤胴鈴之助こと、金野鈴之助少年が剣の修行をしながら、悪の組織などとの闘いを通して成長していく様子を描く物語だ。鈴之助の天真爛漫な性格と剣修行に対するひたむきさが魅力の名作だ。 この鈴之助が江戸に来て入門するのが千葉周作の道場「玄武館」。アニメではわかりやすく道場の看板に「北辰一刀流 千葉道場」と書かれていた。「赤胴鈴之助」はあくまでもフィクションだが、゛赤胴鈴之助と清河八郎の共通点“、その答えは北辰一刀流(同門)ということになる。アニメの第1話で町人2人が「江戸で一番強い千葉周作先生の道場」と言う場面がある。江戸時代を代表する道場だったため、設定として取り入れられたのかもしれない。 北辰一刀流というと居合術や抜刀術のイメージが強い。赤胴鈴之助の必殺技が「真空斬り」や「十文字斬り」という素手の技で剣から少し離れた内容もあったのだろう、今まであまり八郎と関係があるとは思っていなかったが、アニメで千葉周作が出ていたことを思い出し話がつながった。 八郎の方が後輩となり、時代的には千葉周作の子で「千葉の小天狗」と名を馳せた栄次郎と同じ世代だ。江戸に地方から出てくるという設定など八郎と重ねて見れる場面もある。・北辰一刀流についてのブログ↓清河八郎と坂本龍馬のなぞ (坂本龍馬展2017/江戸東京博物館)清河八郎(斎藤正明)の全国での勉学、修行の軌跡(3)1851-1854 赤胴鈴之助のシールを家の中で見つけた。キャラメルについていたシールだったようだ。薪を割ろうとしている絵だが、薪を割る手の位置がとても危なっかしい。この当時(1972年頃?)はまだまだ、薪のお風呂などを使っていた家が少なからずあったのだと思う。最近では暖炉、ストーブ用として薪を使っている人が増え、憧れの薪でもある。
2023年02月13日
正月に虎尾の会のメンバーの伊牟田尚平(1832年生)と益満休之助(1841年生)が取り上げられた時代劇があった。この2人がドラマなどで取り上げられるのはめずらしい。ドラマは戊辰戦争を引き起こすために岩倉具視や西郷隆盛が主導したとされる「薩摩御用盗」事件をモチーフにしている。原作は永井義男の小説「幕末一撃必殺隊」、松本次郎により「いちげき」として漫画化もされていた。↓ 小説新装電子版 幕末一撃必殺隊初版: 2002/9/1【電子書籍】[ 永井義男 ] コミック → 初版: 2016/11 「薩摩御用盗」は幕末に西郷隆盛により作られたテロ組織で放火、略奪、強盗を起こし江戸市中を震撼させた。市中の人々を守るため、御用盗に対抗すべく幕府(勝海舟/尾美としのり)の命令で秘密裏に「一撃必殺隊」が組織されることになった。その隊に加わった7人とその他の若者の物語。 ドラマでは敵方の御用盗グループで、折り合いがよくないがリーダーの相楽総三(じろう)の仲間として、この事件を指示した伊牟田尚平(杉本哲太)と益満休之助(奥野瑛太)が登場する。悪役ではあるが虎尾の会の2人がユーモアも交え生き生きと描かれていてとても新鮮でエンターテインメントとして楽しく見た。 個人的には番組末の橋の上の戦闘のシーンで満益が伊牟田に向かって発砲する場面があり、それは虎尾の会のメンバー同士が反目する設定にあなるため不自然に感じられ、この部分のみ少し違和感を覚えたが、全体としては伊牟田尚平が重要な中心的役割を担いドラマを盛り立て憎めないユニークな存在感として描かれてとてもおもしろかった。(虎尾(こび)の会は世のため人のため虎(幕府)の尾を踏むことを恐れないという命知らずのグループの意味) 最近は、以前と比べて時代劇が少なくなった。時々、「大岡越前」などの再放送を見たりするが、昔は飽きて面白くなかったと思っていた時代劇が、今見返すとまた別の観点から発見するものがあり再放送がとても楽しくみれる。昭和当時の戦争体験者の経験などが入ったような内容がくみ取れたり、昭和当時の価値観や時代背景なども読み取れて奥深く感じたりするのが不思議だ。時代考証など時代劇の要素を残しながらも、その時代、その時代の価値観をとりいれて作られた時代劇も面白い。◎ 歴史の中の2人の活躍はこちらで ⇩虎尾の会、伊牟田尚平と益満休之助 「出羽庄内 幕末のジレンマ.12 (清河八郎 編)」👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle
2023年01月03日
2022年の大河ドラマの「鎌倉殿の13人」では源平合戦の時代が今までとは違う視点で、これまであまり取り上げられなかったエピソードが交えられてドラマ化されている。ドラマとは言え、人の本質をついているものがありなかなか面白い。秀衡(田中泯)と義経(菅田将暉)の登場は8回目、奥州藤原氏滅亡は21回放送だった。 頼朝の平泉へ向かった奥州合戦は古代の蝦夷地侵攻と特に38年戦争から続いた源平合戦までの一連の蝦夷戦争の終わりを意味する。この頃の時代を象徴する記述がある。慈円の書いた「愚管抄」にある鳥羽院が亡くなった日、保元元(1156)年7月2日の有名な次の記述。「鳥羽院失(う)せさせ給ひて後、日本国の乱逆と伝ふことはおこりて後、武者(むさ)の世になりにけるなり。」 つまり、“昔から伝わる国の乱逆(天慶平将門の乱、源頼義が(安倍の)貞任を攻めた12年の戦いである前九年合戦など)などが起こったがそれらは都の外の出来事だった。鳥羽院が亡くなった後に、都も巻き込む武者(武士)の世になった”、という。 この言葉を象徴するように源平争乱が貴族政治家から武士政治へと変わる大転換期となった。蝦夷地での38年戦争後、関東、東北の乱世により武士が生まれ、いよいよ保元の乱で貴族を巻き込み奥州合戦でそれまでの大きな乱世が終息して、武士の時代が始まる、という大きな流れだ。それまでに多くの武士たちが公家(貴族)によって翻弄させられた。 合戦、戦争の時代とは言え、その刑罰などは残酷なものが少なくない。例えば鳥羽院がなくなった時に起こった保元の乱は源氏の源為義(頼朝義経の祖父)と源義朝(頼朝、義経の父)が親子で敵味方に分かれて戦ったが、その戦さで負けた為義は子の義朝の助命嘆願にも関わらず、子に斬首させられるという残忍な刑罰を受けた。公家貴族の強烈な”いびり”のような情け容赦ない仕打ちである。 一方、武士は武士たちで残忍だった。例を挙げると源義家(頼朝の先祖)が後三年合戦で敵である清原家衡の家来の平千任(たいらのちとう)や藤原経清(初代藤原清衡の父)に行ったことがある。ただ相手がを捕まえて首を刎ねるのではなく屈辱や苦しみをを与えながら殺すのだからそのやり方は後世の“武士の情け、武士道”などというものは微塵も感じられない。 今のような明文化された人を守る法律などのようなものはなく、騙す方より騙された方が悪いというような現代から考えると人の道、心理に反する、人の本性、感性から離れた理不尽と思うことを強いられることが多い時代だった。平安末期から鎌倉時代初めに鎌倉仏教の宗派が多く起こったのはこのような乱世の時代、乱れた人の心の時代だったことも無関係ではないように思える。 さて、大河ドラマだが源義経は少し空気を読めない人物として描かれている。悲劇のヒーローとしての義経像が一般的だが、最近では愚将としての見方もあるようだ。確かに常識破りで奇策のイメージもあるが。 菅田将暉の演じる義経は、少しイケイケ風に演じられていた。盛りだくさんにならざるをえない一の谷(鵯越えの逆落とし)、壇ノ浦などの合戦の場面は駆け足だったりはするが要所を抑えてストーリーの流れに不自然さがなかった。また、梶原景時(中村獅童)との確執なども描かれていてこれまでにないような面白さがある。義経の逃亡や平泉での内容も長くとられていて北の方(郷御前)と静御前とのやりとりなど美化して見ていた人物の普通のやりとりが新鮮だった。英雄視される義経も合戦以外は普通の人だったのだろうと思う。義経が平泉に逃げる場面ではもう少し掘り下げてもらえたら”清川“が出てきてもよいような場面もあった。 今回、藤原秀衡(奥州藤原氏三代目)は関東進出を目論む人物として描かれている。実際に秀衡は奥州を盤石にした後にどのようにしようと考えていたのだろうか。ドラマの始めの方から奥州の金の話も出てくるが経済的な影響は関東にも影響を与えていたことだろう。現在の東北地方を始めて統一したと考えられる奥州藤原氏だが平家と源氏が力を弱めあえば秀衡が勢力をさらに勢力を広げるチャンスはあったのかもしれない。秀衡にとって平家が源氏に簡単に負けるというのは誤算だったにちがいないし、源氏が奥州に攻め込んでくるというのはもっとも避けなければならなかったことだろう。平泉への引受けを拒んでいた義経を迎え入れたのには何か戦略的な策があったに違いない。一説には66歳でなくなったと考えられている秀衡だがもう少し長生きしていれば情勢も変わっていたのかもしれない。歴史的には、藤原氏、秀衡が望んでいた極楽浄土のような平和な時代とまでいかなくとも乱世が落ち着くにはもう少し時を待たなければならなかった。 今回の大河ドラマでは源氏と平家の源平合戦の単純な構図、強大な平家勢力に立ち向かう源氏勢力の構図を描いているだけではなく、源氏勢力の中の勢力争い、東北の平泉、藤原氏の内部の勢力争いまで描かれていて時代の流れがわかりやすく感じた。 秀衡が亡くなった後、子の泰衡は策なく頼朝に付け入られ言われるままに義経を殺して、自分が滅びることになる。源氏復活、平家打倒の足掛かりの大功労者である上総広常が謀反を疑われて失脚したことが象徴となるように、源平合戦で大活躍した鎌倉武士たちも平家を打倒、奥州藤原氏を滅亡させた後、様々な難癖をつけられ粛清させられるものが多く出た。妬みや嫉み、疑心暗鬼、農民(鎌倉時代、武士も農民だった。昔は利己主義的な主張をすると百姓根性だ、などと言ったり言われたりしていた思い出がある)の村社会的発想はこのころからある昔から変わらないもののようで日本文化の負の要素が出ているように思う。 ドラマでは三谷幸喜脚本の明るさで冗談のやり取りが場をなごませてくれるが、覚悟を以って多くの駆け引きを武力も使いよほどうまく立ち回らないと生き残るのがむずかしい時代だったようだ。 頼朝自身は落馬で命を落とすが、源氏の棟梁が落馬するなどありえないとして暗殺を疑う説もある。結果的に地方の一在地豪族にすぎなかった北条氏が執権として鎌倉幕府を掌握する立場となった。源氏の棟梁、将軍としての頼朝は北条家に利用されたような感じだ。 ←武士の成り立ちは東北蝦夷戦争にさかのぼり、その戦さの方法は蝦夷に学ぶところが多かった。(右は電子書籍) 日本の武士の歴史の始りは蝦夷への侵攻戦争に遡る。前述の慈円は愚管抄で平将門を反逆の例として挙げる。平将門は蝦夷を攻めた桓武天皇とつながり、歴史的には奥州藤原氏の滅亡が武士団の政治的統一となった。 今回は、畠山など多くの鎌倉武士がでてきてその人間模様も面白い。大きな歴史のくくりでは頼朝の率いる関東武者たちが全国を制して、平安貴族の時代を終わられ武士の時代が始まる、と考えられている。政治の中心は関東に移った。 関東の地名をもつ鎌倉武士は多い。同じ河内源氏であった足利氏が後に室町幕府を建てるなど鎌倉武士には室町、戦国時代へ続く有力な武士が数多くいた。毛利や頼朝の子孫とも言われる島津など壇ノ浦より西の九州へ領地を持つに到った鎌倉武士もいた。鎌倉武士団も知らないことも多く奥が深そうだ。
2022年05月29日
東京都千代田区の幕末、清河八郎に関係ある史跡、特に清河塾の跡地を中心に探索した。 出発は東京駅、不慣れな都会の街歩きのため無難に東京駅から出発して東北の玄関口といわれた上野方面に向かう。実は東京駅から進む道のそれぞれのビルにはおしゃれなカフェなどがある地下街が数多くあるようなのだが今回は目もくれずに江戸時代の距離感を大切にして地上だけを歩くことにした。1. 東京駅(千代田区丸の内1丁目9、丸の内駅前広場) 東京駅の丸の内側、日本のオフィス街として有名な丸の内だが、休日だからなのだろうか、地上だからなのだろうか、あまりビジネスパーソンという感じの人が少なく観光の人々か多いような気がした。天気がよかったこともあり東京駅の復元工事が終わってきれいになった駅舎をバックにカメラマンから写真をとってもらっているウエディング姿のカップルを見かけた。現在は東京駅前も観光スポットになっている。 <写真:東京駅丸の内口(クリック拡大)>↓(徒歩)2. 江戸城(皇居)大手門(千代田1丁目1) 大手町は丸の内と同様、内堀の中の街で昔は武家屋敷(大名屋敷)が立ち並んでいた。明治以後、金融関係の会社のビルが立ち並ぶ。大手町と丸の内の違い(境界)は内堀の中、今は埋め立てられているが家康の命によりつくられかつてあった‟道三堀"という堀を境にして北側を大手町、南側を丸の内というのだそうだ。大手町というと地下鉄の駅が集中するイメージでその各駅は少し離れてはいるものの実際5つもの路線(丸の内、東西、千代田、半蔵門、三田)がある。 <写真:大手門、写真の右側が北側(クリック拡大)> <写真:大手町の交差点(クリック拡大)>↓(徒歩)3. 江戸庄内藩上屋敷跡(大手町1丁目9、現大手町フィナンシャルシティ) 酒井家神田橋上屋敷と言われた庄内藩の上屋敷は大手町にある。江戸城からは大手門を出てすぐに左(2つ目の信号)に曲がると北へ向かう御成道(現在の日比谷通りと本郷通り)となるが、その道の外堀にかかる神田橋の右手前に庄内藩上江戸屋敷はあった。後述するように、江戸城内のためかあまり広くはなかったが重要な場所にあった。現在は超高層ビルが建ち並ぶ金融関係の会社が集まるビルの一角になっている。平成の再開発前、2003年頃の古い地図には公庫ビルや経団連会館、日経新聞などがあった。 <写真:庄内藩神田橋上屋敷跡の標識(クリック拡大)> <写真:神田橋付近の庄内藩藩邸側の石垣(クリック拡大)> 庄内藩の標識は「大手町フィナンシャルシティ」 という複数ある大きなビルの内ノースタワーというビルの敷地の一角、設備の一画のような目立たない場所にあった。少しひかえめな感じの表示だが東京の超一等地なのであるだけありがたいような気がした。すぐ前の首都高高架下の神田橋の降り口も藩邸跡に近く、神田橋門の当時のままの石垣が覗ける。↓(徒歩)4. 神田橋(神田橋門跡) 庄内藩邸と隣接して御成道(現在の日比谷通りと本郷通り)の外堀(旧平川/日本橋川)にかかる橋。御成(おなり)道とは将軍が菩提寺の一つである上野の寛永寺へ参詣する道で江戸城を守る内郭門の一つだった。神田橋というので神田川の上にかかっているのかと思うが日本橋川に架かる橋だ。神田というこの地区の代表する地名がついた橋なので重要な橋だったことが想像できる。 神田橋には神田橋門があり、「鉄砲10挺、弓5張、長柄槍10筋、持筒2挺、持弓1組が常備され、外様大名で7万石以上の者、または国持大名の分家筋で3万石以上の者のみが警護を担当した。」(東京の散歩道)という警備の厳重な場所だった。この門に隣接して庄内藩江戸屋敷はあった。今も首都高から東京の中心部に入る要所だ。感じからして神田橋ICの出口あたりも庄内藩藩邸の一部だっただろう。 内堀と外堀はつながっていないが、一番近い場がある。北の丸の内堀の東端にある御春屋(おつきや/雉子橋あたり)でそれと一橋家屋敷が外堀の起点になっていて、外堀はロール(渦巻)状に郊外に延びる。 一橋家屋敷は細い敷地で神田橋門に隣接する。庄内藩は一橋家とは御成道(現在の日比谷通りと本郷通り)の道の向かいのお隣さんだった。激動の幕末、徳川慶喜がいた場所がすぐ近くだったとはとても驚きだ。 <写真:神田橋周辺(内神田1丁目の説明版(クリック拡大))> 左下に明治30年頃の写真がある、石垣の高さが印象的だ。↓(徒歩)5. 清川塾1(1855年)(三河町2丁目新道/現内神田1丁目) 三河町2丁目は庄内藩邸の堀の北側、神田橋から直線で2~300mの距離にある。古い神田橋の写真と三河町2丁目の位置が"内神田1丁目の説明板"にあった。三河町2丁目は静かな日には庄内藩の敷地の声が聞こえてきそうな近い場所にあった。 <写真:三河町2丁目新道付近の小路(クリック拡大)> 前項の内神田1丁目の説明板も参照。(※詳細は「清河塾①の変遷 清河八郎(斎藤正明)1855-1856」リンク参照)↓(徒歩)6. 清河塾3(1857年)(淡路坂/神田駿河台4丁目あたり)JR お茶の水駅の前で、日大、明大などの大学にも近い。現在も学生は多い。 <写真:淡路坂(クリック拡大)>(※詳細はリンク「清河塾の変遷②③④ 清河八郎(斎藤正明)1856-1861」参照)↓(徒歩)(7. 安積艮斎塾跡(八郎の学んだ場所/神田小川町3丁目から駿河台1丁目あたり)(※詳細は「清河八郎(斎藤正明)の全国での勉学、修行の軌跡(3)」参照)↓(徒歩)(8. 湯島聖堂(八郎の学んだ場所/文京区湯島1丁目4-25)) <写真:湯島聖堂の前の相生坂(クリック拡大)> 元は相生坂といわれたが後に東側の昌平坂とともに昌平坂とも言われる。↓(徒歩)9. 清河塾4(1858年)(お玉が池/千代田区岩本町2丁目あたり) お玉が池は八郎が学んだ遥池塾(東条一堂塾)と玄武館(北辰一刀流の千葉道場)があった場所だ。この近くに3度目の清河塾を開くのには何か理由があったはずだ。清河塾の場所の詳細は不明。 <写真:お玉が池通り看板(クリック拡大)> 現千代田区岩本町2丁目あたり(※詳細はリンク「清河塾の変遷②③④ 清河八郎(斎藤正明)1856-1861」参照)(※今回に記載はないが大川周明の「清河八郎」によると2度目に薬研掘(中央区東日本橋)に開塾していた。) 東京にある地名は徳川家康が江戸に来た後の城下町のため自然の地形を由来するものだけでなく、人が移住してきてできた人々の出身地や職業などに由来するものが多く活気ある町の香りがする。 小学校で県史、町史を習ってから歴史に興味がわき、東京の地名の知り始めは成沢先生の「清河八郎」の本に出てくる地名だったように思える。自分にはまったく馴染みのない物語のような世界だったが、大きくなるにつれテレビやラジオを通して無意識に耳に入る東京の地名が増えていった。 子供の昔には東京は戦後の闇市のような人が集まるカオスのような場所、なぜか人売りなどの恐ろしいイメージが残る大都会だったが、今では世界一安全な都市とも言われたりする都市のイメージにもなる。戦後は村社会を大きくしたような都市、の例えをされたりスパイ天国と言われたりしてきたが、映画の男はつらいよで有名な下町人情のような葛飾のような場所もある。バブル期の土地買収やその後の都市の再開発都会があっても、古い江戸っ子と言われるイメージのもある場所だ。 町や学校の中では偉人として有名な清河八郎先生。山形からはるか遠い江戸(東京)で活躍したのだが、なんとなく成沢先生の本に出てくる江戸の地名を改めて辿ってみたくなった。そして、清河はどんなところに住み活動していたのか、東京観光を兼ねて清河八郎の伝記に出てくる地名や清河塾の地名などを頼りに順番に辿った。 清河塾の位置をみると開かれた順番に庄内藩邸から少しづつ離れていく。それは八郎の庄内藩からの独立心の現れ、庄内藩との心の距離でもあるようでいて面白い。清河塾があった詳細な場所は不明だが新資料の発見や研究が進んで具体的な場所がわかる日がいつか来るかもしれない。今回巡った場所の距離は直線で1km内に位置する。歩くだけなら1、2時間で到着できる生活圏の距離と範囲だ。小学生のときには遥か遠い異国のような場所の東京だったが、大人になると大都会の都市の中の歴史など興味をそそられる。活気あり華やかに見える大都会、ひっそりとたたずむ歴史の遺産が数多くあった。↓藤沢周平の「回天の門」、この小説の舞台としても出てくる。
2022年05月04日
学校で習うは歴史は、特に高学年になればなるほどストーリー性がなくなり事実や事柄が並べらるだけにあり味気なくよそよそしい。日本史や世界史の教科書で習うその内容はすべてが当時の主流のものだったわけではなく、後世の人々がその価値観で重要度などで評価付けなどをしたものが少なくない。教科書の歴史は有力だった国などの流れから見る視点のひとつであるが、そこに住む人々にはその時々の事情があり、限られたある地域の出来事とその出来事に対する評価とが人や場所によって違うこともよくある。この本は現在の大都市とは言え東京都ローカルの歴史(県史)が主体で、幕末に関しては江戸幕府や江戸庶民の視点での内容が多く書かれている。別の角度や視点から見た幕末の歴史、清河八郎と庄内藩を知ることができる。以下、「 」で内容を抜粋したい。東京都の歴史竹内誠/古泉弘/池上裕子【1000円以上送料無料】「また、攘夷を実行しようとする浪士たちによる「異人斬り」といわれる、外国人の殺傷事件も頻発した。万延元年12月にアメリカ公使館員ヒュースケンが薩摩藩士に殺害され、文久2年8月には、生麦村で薩摩藩士がイギリス人に重傷を負わせる生麦事件が起き、同年12月には長州藩士高杉晋作らが竣工間近の品川御殿山のイギリス公使館を襲撃して焼き払うなどの事件が起きた。一方で、外国人の中には、日本の風俗・習慣を理解せず、市中・近郊で猟銃を発砲するなどの横暴な行為をするものもあり、町民のあいだにも悪感情が強まり、外国人への悪口や投石がしばしばみられた。」 ヒュースケンを殺害した薩摩藩士とは、虎尾(こび)の会(尊王攘夷党)、伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助のことだ。資料はないがこの事件が八郎によって指示されたと考える人もいるようだ。虎尾の会は秘密結社だったためか、浪士組として記載されているものもある。 ヒュースケンはアメリカに帰化したオランダ人で日本びいきだったとも言われる。西欧列強の植民地獲得競争で多くの戦争があり、西洋と東洋の文化が衝突して価値観が入り乱れた幕末、誤解により生じた事件も少なくなかったのではないかと思う。 高杉晋作は剣術は柳生新陰流、勉学にも秀でた人で吉田松陰門下の松下村塾のイメージが強いが江戸で八郎も学んだ見山楼(安積艮斎の塾)や昌平坂学問所でも学んだ。また、江戸では江戸3大道場の新道無念流の練兵館で学んだ。長州藩は水戸藩とのつながりも強くこのように桂小五郎など江戸に留学して学んだ人も少なからずいたようだ。「文久年間になっても物価は上昇し続けた。このため日本橋を始め市中各所に、浪士によって張札(幕府役人や商人たちに天誅を加えるというもの)が張り出された。・・・文久3年には、前年の生麦事件の処理が紛糾したため臨戦態勢がとられ、江戸では老幼女子や病人を近郊に疎開させるため混乱し、物価はさらに上昇した。・・・ 浪人たちは張札と並行して、攘夷を理由に貿易商を始めとする商人から金銀を強奪同様に借用し、殺傷、放火などをたびたび行なった。富商から金銭を強奪したものの中には、浪士をかたる浪人・下級幕臣などもいた。不景気の慢性化により押し込み強盗なども増加し続けていた。また、文久2年に旗本。御家人の知行所から農民を徴発して歩兵組が組織され、翌3年に西の丸下・田安門外・大手前・小川町の4か所の屯所に5000人ずつ配置された。この歩兵が集団で市中を横行し、盛り場などで乱暴をはたらき、治安をさらに悪化させていた。武装した浪士らの集団行動に対して、町奉行所の警察力は無力であった。そのため、商家のなかには、鳶を定雇にして昼夜店の張り番をさせるものもいた。 このような市中の極端な治安の悪化に対して、幕府は文久元年正月に外国人警備のため外国御用出役(しゅつやく/のち別手組)を設け、翌2年12月には浪士を組織して浪士組を結成し治安にあたらせた。文久3年4月には浪士組を再結成して新徴組とし、庄内藩主酒井忠篤(ただあつ)に付属させ市中警備にあたらせるなどした。」 八郎の名前こそ出てこないが浪士組の結成のいわれが出てくる。"生麦事件の処理が紛糾したため臨戦態勢がとられた時期"というのは、八郎たち浪士組が京都から江戸に戻ってきて、攘夷の期待のために江戸市民に熱狂で迎えられた時期のことだ。国際的にもイギリスと日本(幕府)との戦争の緊張が最高潮に達していたと考えられている時期だった。(リンク参照「横浜での攘夷計画と八郎の最期 「出羽庄内 幕末のジレンマ.23 (清河八郎 編)」」八郎たち浪士組は攘夷、イギリスとの戦争に備えて江戸に戻ってきたのだった。浪士組は京都に行った234人だけでなくその後も江戸で募集は続けられていたようだ。 文久3年4月に浪士組が再編成されたというのは、八郎が暗殺されたことによる。もともと幕府の浪士組結成への期待というのは建前上の攘夷や将軍の警護というものだけでなく、江戸の治安という意味もあった。この時、庄内藩は江戸市中取締役を命じられ、浪士組は新徴組と名前を変え庄内藩に付属された。庄内藩新徴組は治安を守るため市中の警備で活躍をして、「おまわりさん」という親しみやすい警察官の語源にもなった。「大勢での大店や芝居小屋での無銭飲食などの狼藉」や「泣く子も黙る」「かたばみ(酒井家家紋)はうわばみ(大酒飲み)より怖い」という(江戸っ子らしいジョークも含まれている)少しいただけないマイナスのこともあったが、治安を守るという権力的な仕事の固い言葉と正反対のニックネームを得られたというのは江戸市中の人々の強い信頼を得たことを意味していて新徴組の悲しい歴史もあった中で庄内藩の歴史の中でも総じて良い出来事の1つだったのではないかと思う。 「大政奉還が江戸に伝えられると、江戸は騒然となった。江戸の混乱は11月ごろからしだいいにひどくなり、辻斬りや強盗などが多くなり12月にはいるといっそうきびしくなった。そして、盛り場でも人通りがたえるほどで・・・当時江戸では、強盗は薩摩藩邸の浪士のしわざと考えられていた。すべてではないにしても、慶喜の大政奉還により、戦争の口実を失った薩摩藩が、江戸や関東で騒乱をおこさせるため、浪士に活動させていた。12月には市中取り締まりにあたる庄内藩兵の赤羽屯所へ多数の銃弾がうちこまれた。犯人は薩摩藩邸に逃げ込んだと報告された。その翌日にも三田の屯所に銃弾が撃ち込まれ、宿の主人と召仕が即死した。そこで、庄内・出羽松山・上ノ山・岩槻・鯖江・前橋・西尾の諸藩と陸軍方の2000人余の軍勢で、三田の薩摩藩・佐土原藩両藩邸を包囲し、庄内藩屯所発砲犯人の引渡しを要求したが、交渉がはかどらないまま、庄内藩兵の発砲から、包囲軍はいっせいに砲撃を加えた。薩摩藩側の死者は49人にのぼり、江戸ではじめての戦火となった。両藩邸は焼失し、死者はいづれも強盗をしたものたちで、多額の金を所持していた。戦火の翌日から窮民たちがここに集まり、焼残りの土蔵などを打ちこわして、米銭を始めすべての物を運びさった。役人たちが制しても聞きいれず、7、8日のうちに焼釘まですっかり拾っていった。」 いわゆる薩摩藩邸焼討ち事件のことだ、薩摩藩邸を囲んだのは1000人という資料もあるが、庄内藩以外も含めた総勢なのだろう2000人という内容からもより大規模な市街戦争だった。書かれているこの逸話は当時の様子がリアルに伝わる。戦争は両者の犠牲者の悲しい歴史でもある。(過去のブログ参照)↓ 1. 戊辰戦争の発端、江戸での市中騒擾作戦と薩摩藩邸焼打事件 「出羽庄内 幕末のジレンマ.27 (戊辰戦争 編)」2. 薩摩藩邸焼討ち事件 「青天を衝け(22話)」NHK大河ドラマ 「徳川慶喜が上野の寛永寺に謹慎したときに、一橋家の家臣らは渋沢成一郎(喜作)・天野八郎を中心に尊王恭順有志会を結成し、慶喜の警護にあたった。これへの参加者が増加し、初め浅草本願寺、のちに上野を本拠とする彰義隊へと発展し、旧幕府精鋭隊とともに上野の警護にあたった。」 この後、江戸では彰義隊2、3000人と官軍1万5000余人との上野戦争があり、寛永寺の諸堂も大半が焼失した。江戸市中では、進駐してきた官軍兵に対して反感をもつものが多く、心情的には彰義隊を応援していたため、江戸市民のなかには、彰義隊士の逃亡を手助けするものも少なくなかった。江戸も大政奉還後の無用な戦争が繰り広げられた場所の一つだった。 一橋家と江戸の庄内藩邸の場所はともに神田橋のすぐ近く、上野寛永寺への御成街道を挟んで向かい隣にあった。庶民風に言えばお隣さん(一橋家からは裏側)で、大河ドラマで慶喜が「何があっても耐えろと申したのに」というセリフがあったが、それはまんざらドラマ(フィクション)のセリフでもないように思えた。清河八郎、庄内藩、案外狭い範囲でいろいろなことが起こった歴史の一場面だった。
2022年04月21日
「青天を衝け」の後半、三野村利左衛門という人が出てくる。25話「篤太夫、帰国する」から33話「論語と算盤(そろばん)」まで、イッセー尾形が演じている。幕末から明治にかけての戦争、多くの西洋化受け入れや近代化(グローバル化)などにより、社会制度、経済、社会の価値観、宗教観などが大きく変わった。その中の経済の混乱を沈め渋沢らとともに民間の立場で近代化を成功させた人として三野村利左衛門の活躍があった。八郎との接点を探った。また、武田真治演じる小栗忠順も三野村、清河八郎との関係があるので同時に探った。 三野村利左衛門は1821(文政4)年に庄内藩士関口松三郎の三男、利八として生まれた。父の松三郎は関口正右衛門為久の三男で関口家は代々、近習(主君のそば近くに仕える役)から使番席(伝令・巡視の役目)、奏者(殿中の礼式をつかさどる役目)をつとめる家柄だった。父の松三郎は家中の木村利右衛門なるものの養子となったが、朋友の憎しみを買い出奔して浪人した。利八は母親がどうなったかも知らず物心つくころには父に連れられて西国を放浪していた。父は九州、宮崎でなくなった、という。 19歳で江戸に来て神田三河町に紀伊国屋という商家の娘"なか"と結婚して婿養子に入った。紀伊国屋での油売り、金平糖売りから、両替商で成功して財産を築き、その後、三井家の改革を期待され前例のない大番頭(三井御用所の責任者)として迎えられた。交渉が上手な人のようでいろいろな人と会い旧幕府の小栗上野介、新政府の西郷隆盛、大隈重信、井上薫、渋沢栄一など、多くの歴史上の人物と交流した。 昔のローカルの狭い範囲、庄内地位内で言われた、政治の鶴岡、商業の酒田というステレオタイプになるがこの人はその例外のようだ。生い立ちの事件で教育の機会を奪われたのだろう、文字が読めなかったというからそのハンデと苦労はそうとうなものだったろうと思う。しかし、それをものともしなかった。文字で表現できないから、○(まる)を多用して表現した。渋沢栄一によれば、「三野村のまるまる」と言われ有名だったそうだから、この○○には多くの言葉、文字が入ったのだろう。ボディランゲージ(BODY LANGUAGE)という言葉があるが、もしかしたら人間のコミニュケーションは伝えようとする意志や情熱の方が大事なのかもしれない。 渋沢などとともに日本初の銀行、第一国立銀行を設立発起人として立ち上げ(資金は三井と小野組との共同出資)、その後三井銀行を日本最初の民間(私立)銀行として立ち上げた。赤字だった三井を復興させて銀行や商事(三井物産)などを創設した。幕末期の普請金などの多額の支出による三井家の破綻を回避させ三井呉服店を銀行や商社と切り離したり、三井家(同苗/一族)と三井組(店、グループ会社/員)の関係の改革など多くの改革も行い三井財閥の中興の祖と言われた。 江戸で婿入りしてから利八(利左エ門)は神田三河町に住んでいた。神田三河町は庄内藩江戸屋敷と外堀(神田橋)を挟んで対岸にある。八郎が清川塾(1回目)を開いた場所は同じ三河町の2丁目新道だったので近い。2人とも庄内藩の人脈を頼っていたのかもしれない。 利八はある時期、駿河台にある旗本の小栗(又一)家に中間(武士の家での雑事を行う)として雇われていた。この小栗家の子息に小栗忠順(ただまさ)がいた。小栗忠順とは小栗上野之介のことで90年代TBSテレビの徳川埋蔵金を掘り当てる企画の番組で埋蔵金を埋めた人物と想定されていた。事実、幕末期に幕府の財政を握っており、幕府の勘定奉行として強い影響力をもっていた。利八はその忠順が若い頃から親密な間柄だった。 この小栗家の屋敷の一角には安積艮齋という儒学者が見山楼という私塾を開いていた。安積艮齋は幕府の昌平黌(昌平坂学問所)の教授に請われるほどの人で外国事情にも詳しかった。忠順自身もそこで学んでいたし、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎など後の倒幕の志士も含めて多くの有名な人々が学んでいた。八郎も昌平黌に入学する前に学んでいる。 利八と八郎の年の差は9歳、利八と八郎(正明)、2人の江戸での生活範囲はとても近かったが、どのくらい会話をしていたかはわからない。しかし、おそらく2人は会っていただろうし、八郎は実家が酒屋で商人でもあったので経済に興味もあったことだろう。八郎の母は鶴岡三井家の出で鶴岡三井家と三井越後家は先祖での関係(因む)があるようなので二人とも三井家との縁という共通点があるようにも思える。 忠順は八郎の3歳年上になる。八郎は忠順とも安積塾や昌平黌などで会っていた可能性は高い。特に忠順の渡米しての情報は日本にとってもとても貴重だった。ヒュースケン殺害事件の時には忠順は外国奉行で真っ先に現場に駆け付け検死を行いハリスに犯人逮捕を確約した、ともいう。 佐幕派と尊皇派で活動する2人が違う立場で歴史に関わっていた。また、この2人の性格はともに勝気だったようなのでの相性はあまりあわなかったかもしれない。 八郎の暗殺を指示したのが忠順だったという説がある(他には板倉勝静の説がある)。八郎が江戸で亡くなる直前の浪士組事件で浪士組が江戸に駐在したとき、忠順は神戸六郎、岡田周造など浪士組を装った"偽浪士"を使い市中攪乱作戦を行った。市中で攘夷への期待を受ける浪士組のイメージを悪くさせ妨害をするために、偽浪士たちは浪士組の名を語り豪商から略奪したり乱暴行為を行った。これは忠順がのちの官軍(反幕府側)から恨みを買う要因の1つにもなったとも言われる。。八郎が捕まえられた偽浪士を取調べると小栗の命令で行ったことを白状したという。(もしかしたら、西郷の薩摩御用盗(江戸騒擾作戦)はこの時の忠順をまねたのかもしれない。) この本には短いが八郎のことが載っている。「未遂に終わり、忠順は知らなかったが、清河八郎の仲間たちが、小栗邸に斬りこむ計画を練ったこともあった。」というのはこの時のことではないだろうか。八郎が暗殺された前年に忠順が豊後守から上野介に名を改めたのも何か不思議なものを感じる。 また、この本では利左衛門が管理していた御用所には幕府の公金25万両が残っていて利左衛門は忠順へそれでアメリカに亡命するように勧めたとされるが、「逃げる理由がない」ということで忠順はその勧めに応じなかった。忠順もこの時に逃げて生きていれば後に幕府の要人として担ぎ出され歴史は変わっていたのかもしれない。 利八(利左衛門)は、幕臣で佐幕の立場の忠順と革命家の八郎、同じ塾の先輩と後輩ともなる2人の秀才の間にあり何を思ったことだろう。利八(利左衛門)が新政府側についたのも八郎からの情報が影響したことも考えられる。庄内藩江戸屋敷の近くの三河町に住んでいたり(八郎も最初の清河塾は三河町に建てている)、亡くなる直前に病状の診察を佐藤泰然の子の松本順にみてもらっていたりと、庄内縁者の人たちがちらほら見える。この時代に生きた人々の意外に近い人間関係、生活範囲が知れて興味深い。【年表(三野村利左エ門、八郎、小栗)】1821(文政4)年: 利左エ門(利八)、鶴岡に生まれる。1827(文政10)年: 鶴岡を離れる(7歳)。その後、西国を放浪。1834(天保5)年: 利左エ門(利八)、京都にでる(14歳)。1834(天保5)年: (忠順、安積艮齋の塾に入門(8歳))1838(天保10)年: 江戸に出る(19歳)。深川の干しいわし問屋丸屋へ住み込みで奉公。その後、小栗家に中間として雇われる。1845(弘化2)年: 神田三河町の紀伊国屋、利八の娘なかの婿養子になる。1847(弘化4)年: (八郎(正明)、家出して江戸へ)1852(嘉永5)年: 両替商開業(両替商の株を買う)1853(嘉永5)年2月: (八郎(正明)、安積艮齋塾入門(見山楼/小栗家屋敷内)で学ぶ、北辰一刀流目録取得)1854(安政元)年3月: (八郎(正明)、昌平黌入学)1855(安政2)年: (八郎(正明)、清川塾(三河町2丁目新道)を開く)1856(安政3)年: (八郎(正明)、清川塾再建(駿河台淡路坂/ 2度目))1858(安政5)年: (八郎(正明)、清川塾再再建(神田お玉ケ池/ 3度目))1859(安政6)年6月: (横浜(開港)、函館、長崎で自由貿易開始、その後物価高騰)1860(安政7)年2月: (八郎(正明)、虎尾の会(尊王攘夷党)の結成)1860(安政7)年: 外国と日本の金の相場の違いを予測、保字金(天保小判/一分金)に投資して利益を得る。1860(安政7)年1月18日: (小栗、遣米使節団(77人、小栗忠順は目付 条約批准書交換使節ポーハタン号、品川を出発) 3月24日: (小栗、ワシントン到着) 3月28日: (小栗、James Buchanan, Jr 大統領(15代)に謁見する。) 5月12日: (小栗、ニューヨーク出発) 9月27日: (小栗、品川到着、11月から外国奉行)1860(安政7)年: (幕府、金の量を約3分の1にした「万延小判」を鋳造)1861(万延元)年12月4日: (ヒュースケン(アメリカ公使通訳)殺害事件(幕府は虎尾の会の犯行と考えていた)。)1862(文久2)年 6月: (小栗、勘定奉行(勝手方/財政担当)に任ぜられる。この時上野介を襲名する。その後も、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行など多くの重要ポストを歴任。)1863(文久3)年 4月: (浪士組事件、八郎暗殺される。)1863(文久3)年10月: 三井呉服店の台所(駿河町)による火事。利左エ門(利八)、幕府の三井家への御用金の負担問題(横浜店)で小栗を通じて働き三井の窮地を救う。1865(慶応2)年: 三井に雇われ、紀伊国屋利八から三野村利左衛門と改名(44歳)。1866(慶応2)年: (小栗忠順、徳川慶喜に東海道を進撃する政府軍を箱根で遮断する作戦を願い出るが却下される、勘定奉行罷免)1867(慶応4)年閏4月6日: (小栗忠順斬首(群馬県権田村))1873(明治6)年: 第一国立銀行創立。1876(明治9)年: 三井銀行創立。1877(明治10)年: 利左衛門死去(57歳)。 ※<参考:郷土の先人・先覚(庄内日報社)、三野村利左衛門伝/高橋義夫)> 参考:「日本大変/三野村利左エ門伝」小栗上野介と三野村利左衛門【電子書籍】[ 高橋義夫 ] この本には、幕末、明治初期のすさんだ人心、行動の様子がいくつか出てくる。窮地にある人を見た時、その人の行動にはその弱い本性のようなものが出ることがある。ひどい不遇の幼少期を過ごした人がそれを恨み、受けたものを晴らすような気持ちで行動をするのは人の心理のような気がする。しかし、三野村はそうではなかった。自分を受けた恩を忘れず新政府に睨まれた小栗忠順の遺族を助け、小栗家の再興に尽力した。簡単なことのようだが誰でもできることではない。逆に心が弱くなり自暴自棄、あるいは利己主義などで恩を仇で返すようなことも人にはある。気持ちが折れずに行動できたのは日本にある古くからの助け合う精神、道徳、慣習の良いところが三野村の心底、体に染みついていたからではないだろうか。また、ひねくれずにそういう精神を保てたからこそ大成できたのだろう。「少年のころ、雪の降りしきる越後の高田で天保銭2枚(現在の価値で4000円程/1枚80文、1文25円として換算)を後生大事に握りしめて、一夜の宿を求めてさまよい歩いていた」という思い出のような描写が出てくる。現代の筆者には想像の範囲を超える、厳しい環境の中で育ち逆境にめげず、武士のプライドも別の形に変えた屈強な精神をもった人のように思える。
2021年10月31日
大河ドラマ「青天を衝け(29話)」も幕末が終わりこれからは経済の話でどう進むのかと思いながら見ていたところ佐藤政養(まさよし)の名前を目にした。渋沢が立ち上げた民部省内の改正掛(かいせいがかり)会議で円になって議論をしている人たちの中、旧幕臣とはなってはいるが佐藤政養が庄内藩出身の人で今回はセリフもついていてうれしい。「この国に急ぎ入り用なものとは?」(渋沢)・・・「諸藩の測量は民部省でできるのだろうか。」(杉浦)「藩に測らせればできるはずです。」(赤松)「藩によって呉服尺も金尺も秤もバラバラじゃ。升の大きさも違う気き。」(長岡)「そうじゃ、度量衡を調べねば。」(佐藤政養) 幕臣の中に入り垢抜けて見えるが庄内のことばなまりに近く表現されているかもしれない。 ドラマの円陣で座っていた15人の人々はそれぞれが近代の礎を築いた人々で、幕臣として出ていた渋沢以外の4人は、前島密(郵便の父/長岡藩)、杉浦譲(駅逓権正/静岡藩)、赤松則良(造船の父/静岡藩)、佐藤政養(鉄道の父/庄内藩)。官軍側の10名は、大熊重信(総理/佐賀藩)、伊藤博文(総理/長州藩)、長岡謙吉(三河県知事/土佐藩)、岡本健三郎(大蔵大丞/土佐藩)、玉乃世履(明治の大岡/岩国藩)など後に様々な分野で功績を残した人々が集まっていた。 政養は、日本初として有名な鉄道「新橋横浜間」敷設の鉄道助(てつどうのすけ/最高責任者)を任され「日本鉄道開祖」としての鉄道の父と呼ばれる。また、勝海舟の海軍塾の塾頭にもなり、その頃、勝に神奈川より横浜が港として最適であると献言したことで「横浜開港の父」とも言われる。関西の砲台建設、鉄道敷設にも関わり近代日本の産業の礎を作った。<左写真:遊佐町のパンフレットから> <政養(与之助)の経歴と人物関係>を見ていく。 1821(文政4)年、現在の山形県遊佐町升川の農家佐藤与兵衛の子に生まれた。 名は与之助。農家といっても村の代表にもなっているので大きな農家だったのだろう。庄内の佐藤さんは義経の家来だった佐藤兄弟(旧陸奥国信夫郡/現福島市飯坂)を先祖としているところが多い。升川の佐藤家もそのようだ。奥州藤原氏との関係とも言えるかもしれない。ちなみに八郎の祖母は宮曽根村(庄内町余目)の佐藤家で佐藤継信を先祖としているのでかなり遠いが親戚関係といえるかもしれない。 1840(天保11)年、庄内藩天保義民事件(天保国替騒動)(←リンクを参照)で、庄内領民(村代表)として江戸で直訴を行った。 この事件は大塩平八郎の乱などとともに徳川幕府の終焉の始まりと言われる事件の1つで、同郷升川村出身で江戸で公事師をしていた"佐藤藤佐(とうすけ)”という人物が活躍する。ちなみに藤佐の子は゛佐藤泰然"といい、佐倉順天堂(現在の順天堂医院)の創始者となった人になる。泰然が江戸から少し離れ蘭学、医学に力を入れていた佐倉藩(現千葉県佐倉市)に請われて佐倉に病院を建てたのもこの天保義民事件が影響している、とも考えらる。 藤沢周平の「義民が駆ける」↓はこの事件を描いた小説で与之助の父の与兵衛が登場するので紹介したい。←講談社文庫←中公文庫、ともに「義民が駆ける」/藤沢周平 与兵衛は八日町村の四郎吉といっしょに藤佐の江戸屋敷を訪ね駕籠訴(直訴)の相手に適した人物の相談に行き、会って内容を聞いた藤佐に"逆さはっつけだぞ(逆さはり付けになるぞ)"と叱られ諭されたように描かれている。藤佐に断られた与兵衛(与平)は与太郎、与助と3人で別の人から助言を得て中山備前の守に庄内農民の中で一番、最初の駕籠訴をした。 「義民が駆ける」の元資料になったと思われる絵巻物の「夢の浮橋」にも藤佐、与兵衛、四郎吉の3人の会談の様子と駕籠訴の様子などが描かれている。3人の百姓は藤佐に駕籠訴の相談を断られたとされているが、別の資料では藤佐が駕籠訴を渡す相手先の指示をした、とされるので藤沢周平の小説は夢の浮橋をベースにされているように考えられる。そう考えると「夢の浮橋」は幕府に事実が漏れるのを警戒して藤佐の行動が伏せられて作られたとも読み取れる。実際には藤佐は危険をおかして一揆に協力し、中心的な役割となって活躍した。遊佐升川の人たちが駕籠訴一番になったのも藤佐が信頼できる同じ村の人を選んだから、と考えられるのかもしれない。江戸の屋敷では親しく村の近況や懐かしい話で会話がはずんだことだろう。(↑藤佐の江戸屋敷の様子、絵の中心人物が与之助の父の与兵衛(与平と記載)、右が藤佐、クリック拡大) 話を与之助(政養)に戻そう、この時与之助(政養)は20歳だった。江戸に行ったとすれば江戸に父に付き添いで行き駕籠訴を見届ける役だったのかもしれないし、実際に駕籠訴をした可能性もある。絵には数か所で駕籠訴をする場面があるが与之助(政養)が描かれているかは不明。(←駕籠訴の様子、クリック拡大) ◇ 佐藤政養(与之助)の経歴 ◇ 1821(文政4)年、山形県遊佐町升川の農家佐藤与兵衛の子に生まれた。 1840(天保11)年、庄内藩の天保国替騒動(三方領地替え)が起きる。 1841(天保12)年、駕籠訴(直訴)のために江戸に行く(20歳)。 1853(嘉永6)年8月、学んでいた酒田の医師で儒学者の伊藤鳳山の勧めで江戸に出る。荻野流砲術家の広木貫介に学ぶ。(32歳)。 1854(嘉永6)年、真島雄之助(遊佐町)とともに本間郡兵衛を訪ねた後、3人で清河八郎の家を訪ねる。 1855(嘉永7)年、ペリー来航(2回目)、横浜上陸。日米和親条約締結。 1855(安政2)年、勝海舟の蘭学塾氷解堂に入る(後に塾頭となる)。 1855(安政2)年、庄内藩砲術方を命じらる。品川5番台警備(庄内藩士として)をする。 1857(安政4)年9月、長崎海軍伝習生として勝海舟に従い長崎に行く。アメリカ人フルベッキにも測量、軍艦操縦を学んだ。(この時、本間郡兵衛と長崎で会う機会があったことだろう。) 1859(安政6)年、(1月)江戸に戻り、庄内藩御組外徒士格(軍艦操練所蘭書翻訳方/幕府)。(6月)横浜開港。 1863(文久3)年、大阪海軍操練所教授。 1866(慶応2)年、大坂台場詰鉄砲奉行。 1868(明治元)年、(11月)民部省出仕。 1869(明治2)年、(3月)東京より神奈川までの線路測量の令達。民部省鉄道掛。 (8月)工部省新設。(12月)工部省出仕。 1870(明治3)年8月 鉄道寮(旧鉄道掛/鉄道専任部署)設置。(初代)鉄道助(実質の最高責任者)。「新橋横浜間」の鉄道敷設に尽力。新橋-横浜間一部試運転。 (※井上勝は71年7月から鉱山頭(かみ)兼鉄道頭) 1872(明治5)年6月 「品川-横浜間」仮開業。 1872(明治5)年10月「新橋-横浜間」日本初の鉄道開通。 開業式で天皇車に同乗、軍扇を賜る。(荘内日報社)その後、西京在勤鉄道助(大阪に移動、敦賀西京間鉄道敷設に従事)。 1877(明治10)年、8月、57歳病死(結核)勝海舟邸で亡くなり青山墓地に埋葬。(参考:荘内日報社他) 農民として生まれ百姓一揆にも参加、封建時代の中では決して恵まれた環境でなかったが、庄内藩でも認められ経験を積み、その後 幕末の出来事に翻弄されながらも誠実に自分を磨いた。その時々のチャンスを得て実力を発揮、技術者のトップになった政養は経歴から見て地道に歩む技術屋の鏡のような人だ。自分の得意分野を持っていたということと、幕臣として活躍したことでは渋沢栄一に似ている面がある。砲術などに長けていたのに同じように戦争に巻き込まれなかったのも幸いしたのではないだろうか。 政養は八郎より9歳も先輩だが1854年(安政元)江戸で本間郡兵衛を通じて直接八郎と会った記録があるようだ。一揆に参加し経験の豊富な先輩には学ぶことは多かっただろう。現代風に言えば八郎が文系なのに対して、政養は理系。惜しみなくいろいろな人たちを訪ね歩いた八郎は郡兵衛や政養からも外国の情勢などの情報を得ていたのかもしれない。明治の初め、戊辰戦争などで多くの人がなくなり、政養の豊富な知識と経験は新政府にとって国の発展のためになくてはならないとても貴重なものだったにちがいない。戊辰戦争後の派閥抗争によりその功績の評価が遅れた人のようでもある。
2021年10月10日
徳川慶喜への次のような報告で少しだけ庄内藩の話が出てくる。家臣:「ご注進、ご注進!」慶喜:「どうした」家臣:「三田の庄内屯所が銃撃を受けたとのこと。江戸では奸族薩摩を討つべし、との御老中の命を受け庄内を先鋒とする諸兵が薩摩屋敷を砲撃。直ちに戦と相成りましてございます」渋沢(喜作):「薩摩屋敷を焼き払っただと?」家臣:「ハッ」慶喜:「戦端を切ったのか。何があっても耐えろと申したのに・・・耐えて待ちさえすれば時がくると・・・。」 戊辰戦争のきっかけになったといわれる庄内藩の薩摩藩邸焼討ち事件だが、西郷隆盛らが関係し江戸を恐怖で震撼させたと言われる薩摩御用盗(江戸城二の丸放火含む(薩摩藩が天璋院を奪おうとして火を放ったという風説が流れた))が絡むからなのか、ドラマなどで取り上げられることが少ない。しかし、2018年の「西郷どん」での錦絵での紹介に続き、少しだけだが取りあげられた。戊辰戦争の歴史的な事柄の流れとして省いてはいけない事件だと思う。 この事件は事件というには規模的には大きく市街戦での戦争と呼べるものだった。多くの人がなくなり、焼失した広大な三田の薩摩藩屋敷は後に周辺の人々に「薩摩原(さつまっぱら)」といわれるほどの広さだった。田町、高輪、品川辺りまで焼けたというから、その規模が想像できると思う。 きっかけは江戸市中の警護にあたっていた三田同朋町の荘内藩屯所に数十人が銃を仕掛けたことだった。庄内藩兵は応戦して撃退したが暴徒たちはみな三田の薩摩藩邸と佐土原藩邸に逃げ込んだ。庄内藩主酒井忠篤は薩摩藩邸の討伐を願い出たが、老中稲葉正邦は断を下すことができない。そこで天璋院(篤姫)にうかがいたて許しを得た。翌日の夜半、庄内藩兵を先鋒に幕府騎兵隊、歩兵隊、上山、前橋などの諸藩兵が加勢して、薩摩藩邸を包囲した。 そして、夜が明けた早朝、幕府の使者と庄内藩士10名ばかりが、薩摩藩邸に入り前日同朋町の屯所を襲った暴徒を引き渡すように要求したが、「薩摩藩士はそのようなものはいない」、という。再三の要求のやり取りの後、暴徒を引き渡す意思が薩摩藩側にみられないので、「それでは兵力を以て暴徒を受けるべし」という結論となり、使番と庄内藩士が表門から出て号令するのをきっかけにして、表門、通用門から一斉に庄内藩兵と幕府歩兵が乱入し、大砲を抱えて砲撃を開始した。同時に隣接する徳島藩邸に布陣した上山藩士が土塀を砲撃で崩し、突入した。 庄内藩は事前に(映画)ラストサムライのモデルのブリュネ砲兵大尉(フランス軍)によりヨーロッパ式の近代兵器での戦い方のレクチャーを受けていた。4斤山砲(4kg弾/前装ライフル式の青銅製山砲)などを使い薩摩藩邸を砲撃した。ヨーロッパに渡航した渋沢のような人たちだけでなく国内の人たちも少なからずヨーロッパの学問や技術に接していた。ちなみに上野戦争や会津戦争有名な薩長軍のイギリス製アームストロング砲は鉄製で6ポンド(2.72kg)弾と推測されていてその威力は当時の最先端レベルだったが、実際には4斤山砲の方が実践向きだったという説もある。この事件は、八郎の関係した虎尾の会や新徴組、西郷を含めてその他のいろいろな人間関係が絡む事件だった。 この薩摩藩邸焼討ち事件については、以前に書いたので参照↓。戊辰戦争の発端、江戸での市中騒擾作戦と薩摩藩邸焼打事件 少し、慶喜がかっこよすぎの感じがあったり、成一郎(喜作)が奥右筆の要職にあるとは言え慶喜に少し近すぎたりはするが歴史の事柄の時系列が整理され因果関係も含めてより自然な流れになっている、ドラマとしても面白い。今後、さらに内容を掘り下げてもらえると嬉しい、と思ったりした。青天を衝け 総集編 [ 吉沢亮 ]
2021年07月24日
秦の始皇帝(BC259ーBC210)の作った秦の都、咸陽(離宮の林光宮)から起点に北にまっすぐに作られた軍用道路。この道は全国にめぐらされた街道とは別に「匈奴」への対策として作らた。秦長城と呼ばれる万里の長城まで、幅30mで長さ700kmにも達するもので「直道」と呼ばれたという。 番組ではこの直道をいろいろな角度から紹介する。 そして最後の方で、始皇帝が匈奴を恐れた理由にはその強さだけではなく、ある日、始皇帝が「秦を滅ぼすものがいるとすればいったい何者だろう」と方術師に尋ねたところ、「秦を滅ぼすのは「胡」なり」と答えた予言にもあるのだという。 始皇帝の死の後、皇帝を継いだ子の胡亥が家臣に操られ各地の反乱を抑えられずに秦を滅亡させたことから、後の人々は、予言にいわれた「胡」とは北方の遊牧民の胡ではなくこの胡亥のことを意味していたのだ、と噂しあった物語の落ちにも似たような逸話を紹介する。 予言の胡が遊牧民のことではないと分かっていたならこの軍用道路はできなかったのだろうかとか、方術師は実はもっと詳しい予言をしていたのではなかっただろうかとか、巨大な権力者相手に方術師も命がけで具体的には言えなかっただろうかとか、いろいろ考えてしまう余韻の残る内容だった。 今回、番組の内容で個人的に注目したのは「胡」のことだ。 以前から「胡」には注目してきたが今回不思議に思ったことは、始皇帝の時代に「胡」は「匈奴」とされていることだ。匈奴は歴史の教科書に出てくる紀元前4C、5C頃から活躍した北方の強大な騎馬民族のことである。中央アジアを東西に広げて支配して、西ではローマを弱体化させたゲルマン人の大移動を引き起こしたフン族でもあるという説もある。シルクロードを通してユーラシアの東西を融合させた古代の国家の1つと言って間違いはないのだろう。 「胡」の由来の文字は多く日本でも身近で、胡瓜(きゅうり)、胡椒(こしょう)、胡桃(くるみ)、胡弓などがあったり、その人たちは日本にも来ていて関東の利根川沿いに多胡などの地名がいくつか残っていたりする。日本にも人的にも物的にも歴史的にも影響を与えた国であることも間違いない。匈奴が最盛期に活躍した場所の南側は現在の中国新疆ウィグル自治区に重なるようだ。中国は広く周辺を囲む少数民族も多い。 「胡」は匈奴(BC5C~2C頃)を指すのか、イラン系ともトルコ系とも言われるソグド人(不明 BC2C~8C)を意味するのか、北方系遊牧民を意味するのか、アレキサンダー大王(BC356ーBC323)に代表される西域からのコーカソイドの部族を意味するのか、時代的によって意味合い(民族)が変わるのかなど、不明なことがまだまだ多いようだ。 秦の始皇帝の血筋は北方、西域の民族出身だったという説がある。父の名は「異人」。子の胡亥の名前に胡がついているのも匈奴、異民族との関係が疑われる。古代中国、戦国時代の秦の領域は西隣を羌(きょう/現在の新疆ウィグル自治区あたり、チャン族)に接し、北は匈奴と接した。時代的にもギリシャ人(マケドニアなど)の影響があっても不思議ではない。中国を統一するほどの優秀な自分と同じ民族が隣り合っているととらえれるならば、それを意識すればするほど、また認めているからこそその表裏となり、その民族への恐怖が強くなるという気持ちが生まれるのも当然かもしれない。 逸話などを取り混ぜてとても工夫された面白いテレビ番組だった。【ふるさと納税】【JA】尾花沢すいか4Lサイズ(約9〜10kg)×2【令和3年産】(7月下旬〜8月下旬頃発送)(N42)【スイカ・西瓜・送料無料】※着日指定不可価格:16000円(税込、送料無料) (2021/7/12時点)↑西瓜もシルクロードから伝わった野菜と言われる。
2021年07月05日
図書館などで本を手に取って見ていると思いがけない資料を見つけることがある。この本もそんな本のひとつだ。戊辰戦争から干支が一巡した61年後の"戊辰"の年を1つの区切りとして、東京日日新聞社会部(現毎日新聞)が戊辰戦争の様子を伝えるために企画した内容。"記述にはあまりこだわらない気持ち"で、"直接見聞きした古老を訪ねて史実巷説漫談の気安い回顧談を求めた"という趣旨で逸話が集められている。新聞には1927(昭和2)年に12月27日から翌2月4日まで連載された。 これらはいわゆる幕末史の秘話的な回顧録であり、昔話や言い伝えを聞いているかのようにして読める。 この本の中で特に目を引いたのは、若き日の山岡の似顔絵(左)。幕臣の頃のものと思われる。晩年の髭を延ばした写真のイメージが強いのでとても新鮮に見える。右に並べた本の表紙を飾る山岡の今までの写真のイメージとも違い、若々しく少し柔らかい印象だ。似顔絵の下のコメント欄には「若いころは晩年のようにこわい顔をしていなかった。腕は達者、肝っ玉は(の)大きい武士らしい武士であった。」とある。自分が感じたことも代弁してくれ、また多少失敬気味?だが豪快で実直な性格も伝えてくれる。(写真はクリックで拡大) 似顔絵 ←|→ 写真 以前に紹介した"某人傑と問答始末"の話などを清河八郎との肖像画で想像すると幕末当時の雰囲気がよりリアルに感じられるのではないだろうか。(以下、リンク参照) 「某人傑と問答始末1」、「某人傑と問答始末2」 「戊辰物語」には写真とは別に"維新前後"の"新撰組"という題で山岡鉄太郎、浪士組の頃の清河八郎、新撰組の逸話が掲載されている。この記事の出処のすべてが明かされているわけではいないが、文脈からすると多くが山岡の長女、松子さん( 刀自(とじ・中年以上の婦人を尊敬して呼ぶ語))から聞いた言い伝えのようだ。八郎の関係で興味をひかれた内容を次に上げたい。 ・八郎が暗殺される当時に寝泊まりしていた山岡の家は、伝通院裏にあったこと。 ・山岡の家のすぐ隣が、高橋泥舟の住居であったこと。 ・京都に行ってほとんどトンボ帰りのように江戸に戻ってきた浪士組は三笠町旗本小笠原加賀守の空屋敷に駐屯したこと。 ・浪士組は新たな募集者が130人加わり350人ほどになっていたこと。 ・江戸に来た時に、浪士組が新徴組と名付けられたこと。(新徴組の名は、八郎が亡くなり庄内藩に所属したことからつけられたと考えられているので従来の考え方を訂正する必要があるかもしれない。) ・石坂は色の白いでっぷりとした一見のものやさしい武士で分別もあり腕も達者だったこと。 ・八郎の暗殺はかなり用意周到に行われていて、次のような段取り、やり取りだったということ。 <見回り組頭だった剣客(講武館師範役)の佐々木只郎と速見又四郎が前から通りかかり「これは清河先生」といって、自分の被っていた陣笠をとり、幾度も幾度も腰を曲げ丁寧に挨拶をした。そのため、二人を確認した八郎が何気なく挨拶を返して、陣笠をとるしぐさをした。その動作の間隙をねらって、突然後ろから武士が4人、一斉に刀を抜いてばたばたと迫りきて八郎の頭を斬った、という。後ろから斬ったのは、窪田千太郎、中山周助、高久安次郎、外一名。この4名は板倉周防の守により、浪士組が京都から江戸へ帰る道中に八郎を暗殺するつもりで、新徳寺を出るときに新たに浪士組に加わるように命じられた者たちだった。> ・暗殺当日、八郎の行動の情報は誰からか漏らされていて、風邪で体調もすぐれず深く酔っていたところをつけ狙いまちぶせされていたこと。 ・暗殺された場所はちょうど一の橋を赤羽橋の方へ渡ったすぐのところ、柳沢邸の前。 断片的ではあるが他の資料にはない詳細な内容が含まれている。浪士組が募集され集合したところは伝通院(文京区、最寄り駅は東京ドームと同じJR飯田橋駅)なので山岡の自宅が近くあったから集合場所に選ばれただろうか。山岡他幕府関係者のサポートが見え隠れするようにも思う。攘夷実行と攘夷阻止について、八郎と幕府との緊迫したやり取り、駆け引きが直に伝わって感じとることができる資料だった。
2021年05月08日
横浜の外国人居留地焼討ちを計画して、暗殺されてしまった八郎と生き残った渋沢。共通点も多く攘夷に対する情熱が高かった2人だがその後の人生は大きく違うことになった。 八郎の幕末の活動は回天(革命)の門を開いたと例えられ、全国の組織だった(尊皇)攘夷倒幕運動の魁けとなった。八郎の暗殺は文久3年4月13日、横浜の焼討ち攘夷実行の予定日4月15日の2日前だった。 渋沢が攘夷を実行計画したのが八郎たちの浪士組事件の7か月後、11月23日。八郎たちの失敗にもかかわらず、同じ横浜の外国人居留地を焼討ちする計画を立てた。八郎より10歳若い渋沢は計画も比較的未熟で準備も不十分だった。そして攘夷実行が無謀なことを悟り断念した。 生き残った理由を自身、次のように語っている。「実にこの人(長七郎)が涙を揮つて(ふるって攘夷挙兵を)止めなければ、自分は文久三年に於(おい)て既に一片の白骨と化し去つたのである。(竜門雑誌)」。長七郎の英断、引き留めが栄一たちの命を救った。 後に薩摩藩や長州藩も攘夷戦争をして犠牲を払った後に、攘夷は無謀と気づくことになった。国全体での攘夷の魁競争により、多くの人々の命が失われた。八郎は倒幕も目指していたが、ある意味、攘夷運動の最中で命を落としたことになる。数多く失われたこれらの命にはそれぞれもっと別の人生があったはずだ。この2人を含め時代を強烈に突き動かした攘夷思想とはどのような性格のものだったのか。 「攘夷」の思想を注意してよくよく掘り下げて見ていくと攘夷の意味には2つの性格があるように思う。(尊王の内容は切り分けて考えたい。) 元清河八郎記念館長の成沢先生は「清河八郎」の中で攘夷を次のように説明する。"「攘夷」といえば、いかにも狭量で世界の大勢を知らない頑迷固陋(がんめいころう/あたまがかたくかたくななさま)の排外思想というかもしれないが、それは当時の世界情勢や国情をよく理解しない皮相(物事の表面)の見解である。攘夷とは独立を意味するものである。すなわち列強の威圧的要求を拒否する強硬外交である。その時日本が欧米の威圧におそれ易々諾々として彼らに従っていたら、日本もインドや中国のような運命となって・・・ペルリをもって開国の恩人と思っている人も居るが、彼が幕府の役人に言ったことは、若し要求に従わなければ武力にうったえる、すなわち戦争することである。そうなれば日本の敗けることは当然であるから、その時はこの白い旗を立てろ。その時砲撃を止めるといって降参のために使う白旗2枚を与えている。" 攘夷には独立の意思と排外思想の2つの意味、つまり「独立性」と「排他性」という側面があるようだ。この2つの考えはともに国を守るという意味では共通する。独立という意味の側面では第2次大戦で敗戦するまで植民地化せずに独立を保つことができた。そして、他者を排除するという意味の側面では、結局は現在でも断念せざるを得ないまま現在に至っていると言える。 日本での尊王攘夷の思想は水戸学と関係が深い。水戸学と幕末の志士たちに対するその影響の様子をいろいろな作者の書物から探ってみた。「幕末における倒幕運動が尊王攘夷という形を取ったことについては、諸説が入り乱れて、いまだに結論を見ないが、確実に言えるのは、水戸が尊王攘夷思想の発祥地のひとつだったということである。我らが渋沢栄一が倒幕運動に走ったのも、この水戸学の系譜に連なる従兄の尾高惇忠とその弟長七郎の導きによるものだった。」(「渋沢栄一」/鹿島茂)「水戸学といっても、体系的な学説ということでもないが、これを要約すると水戸藩第2代の藩主徳川光圀に端を発して、代々受け継がれてきた絶対尊皇を中核として発達した学風である。・・・水戸学も時に消長はあった、・・・・第9代斉昭の背後に、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖の俊才がいた。斉昭はこうした人物を背景にして「弘道館」を創建して勤王思想の高揚につとめた。会沢正志斎(1783-1863)は藤田幽谷門下第一の秀才で、その著「新論」は日本国体の尊厳を説いて国民的自覚を高め、この尊厳なる日本を異国の侵略から守るために国防を説いた名著で、当時の勤王の志士たちに聖典のように愛読された。・・・吉田松陰は親しく水戸に会沢正志斎を訪ねて教えを受けているし、九州久留米の勤王家真木保臣も亦はるばる水戸に来て正志斎の門をたたいている。水戸は勤王思想の総本山であった。水戸学と共に、明治維新の精神的原動力になったものに国学がある。・・・」(清河八郎/成沢米三)「では肝腎の水戸学とはなんであるかというと、じつは、これが、学と呼べるような体系性も論理的整合性もそなえていない、ある種の過激な気質の純粋結晶のようなものにすぎないのだ。すなわち、その根源にあるのは、「武士は食わねど高楊枝」というあの武士の痩せ我慢の思想をひたすら鈍化して、本来マイナスの価値しかない「貧乏」に倫理的なプラスの価値を与え、劣等感を優越感に変えて、自分よりも少しでも恵まれた他者を攻撃するという一種の奇矯な「清貧の思想」である。しかもそれは、強いられた貧乏、藩主の見栄っ張りから生まれた貧困を原因としているから悲惨である。」(「覚書 幕末の水戸藩」/山川菊栄)(※山川菊栄は水戸藩にゆかりがある人物)「水戸学が一見「過激」に見えるのは、学派とからみ合った派閥の新左翼ばり内ゲバ闘争の過激さとそれに連関した過激な発言から来るのであって、思想そのものがラディカルだとういうわけではない」(「近代の創造」/山本七平)「水戸学の本質は、倫理的な痩せ我慢競争を自他に強いて、自分より少しでも禁欲度の劣る人間がいた場合、これに非難を集中することで、逆に自らの意志の強さを確認することにあった。「尊王攘夷」とりわけ「尊王」は、この倫理的痩せ我慢競争の口実にすぎなかった。」「しかしながら、本来的には反体制的なものではなかった水戸学の尊王攘夷も、幕府が開国の方針へと傾くと、敵(外国人)を排除しない人間(幕府)は敵だと自動的に判断するジャコバン的厳格主義により、討幕攘夷へと変質していく。」(「渋沢栄一」/鹿島茂) 何か滑稽な感じもしてくるがまじめにこれは現実で、水戸学的なものは現代の日本社会にも染み付いている。特にスポーツの精神論、先輩後輩の人間関係、日本的風土に根づく村社会的思考、江戸時代の5人組制度にも似た文化的な側面として現代にも残っているから笑えないところがある。尊王攘夷の思想は意外にも天皇のお膝元の関西中心ではなく、北関東の水戸が中心であった。 尊王攘夷運動で鹿島茂氏のいう「過激さ競争の罠」にはまって生き残った渋沢は若いころのことを自虐的に次のように回想している。「余は17歳の時武士になりたいとの志を立てた、・・・しかしてその目的も武士になってみたいという位の単純なものではなかった。武士となると同時に、当時の政体をどうにか動かすことはできないものであろうか、今日の言葉を借りて云えば、政治家として国政に参与してみたいという大望を抱いたのであったが、そもそもこれが郷里を離れて四方を流浪するという間違いをしでかした原因であった。かくして後年大蔵省に出仕するまでの十数年間というものは、余が今日の位置からみれば、ほとんど無意味に空費したようなものであったから、今この事を追憶するだになお痛恨に堪えぬ次第である。自白すれば、・・・最後に実業界に身を立てようと志したのがようやく明治45年の頃(72歳)のことで、今日より追想すればこの時が余にとって真の立志であったと思う。・・・惜しいかな、青年時代の客気(かっき/物事にはやる一時的な勇気)に誤まられて、肝心の修行期を 全く方角違いの仕事に徒費してしまった、これにつけてもまさに志を立てんとする青年は、よろしく前車(自分)の覆轍をもって後車の戒めとするがよい。」 断念したものの自分の命をかけ並々ならぬ情熱を傾けた攘夷の計画、この尊王の志士の時代の情熱を「客気に誤まられた」と後悔を含めて例えた。命がなかったかもしれないことで普通に冷静に考えれば当然のことなのだ。さらに、渋沢は横浜異人館焼討ちをしようとしていた当時の精神状態を次のように語っている。「もとより暴挙などというものは、過激な事柄であるが、つまりことが成就せずに失敗したところで死ぬまでのことである。そのころは死ぬを1つの楽しみとして、芝居でも見るのと似たもののように考えていた・・・」 とても恐ろしく感じる内容で、時代、国の危機的な状況を感じ取った、集団心理、ヒステリー、感覚の麻痺した一種の錯乱状態のようだ。教育や国のリーダーシップは本当に重要だ。それは戦前、あるいは太平洋戦争時の神風特攻隊などの精神にも通じるところがある。これらは国学の尊皇の思想と相まって水戸学の1つの負の着地点となってしまったようだ。 攘夷に話を戻したい。攘夷を"押し売り"ならぬ"押し買い"の状況に例えられないだろうか。もし、平和に自給自足をしていた村に、ある日、拳銃を持った物買いが来て突付けながら水や食料を売ってくれ、お金は払うから、というものが来たら。なぜ、拳銃を持っているのかと聞けば東洋人は野蛮だから、と相手側の気持ちを酌まない一方的な自分の価値観を押し付ける厄介なことを言う。このような人に対してどのように対処するだろうか。 さらにこれが土地を借りるなど要素を持っていれば段々と互いの過激な応酬へと変化するは必至だ。平和な時代であれば、当然、断るという権利を主張できるだろう。しかし、戦争になればそんなルールは通用しなくなる。このような強硬な姿勢で相手に行動を促す行為、押し買いの排除が攘夷運動のようにも思う。 グローバリズム(国際主義)とナショナリズム(国内重視/民主主義/国民主権)という相反するもの、正の側面と負の側面に対するバランス、実は幕末ほど極端ではないにしても、移民問題など現代にも似たような問題はある。それはバランス、強弱の問題のようでもある。攘夷は必要だったとしてどのくらいの程度が妥当だったのか。70、80年代に未開のアマゾンであった少数民族の悲劇の話にもつながる経済のグローバル化問題は大小はあっても戦争の要素を含み永遠のテーマのようだ。日本が苦手とする話合い、交渉の策略が重要だった。独立性と排他性の各々の妥協点はどこにあったのだろう。 八郎や渋沢たちは水戸学に感化されて時代を突き進んだ、その一方ではこのテーマと戦っていたようにも思える。(くり返しになるがこのような場合に追い詰められたら「36計逃げるに如かず」だったろう。) ********深谷ねぎ入り・たっぷり新鮮野菜セット 8〜10品目【送料無料 常温発送/クール便(気温によって配送方法変更)】4
2020年12月28日
渋沢の一橋家の家臣として役職は詰所の番人(奥口番)から始まった。平岡の家来として薩摩藩の折田要蔵の行動を調べるために折田の内弟子となり近寄り、スパイ活動(視察/慶喜の御内命)もした。その時、鹿児島弁も習得して三島通傭や川村純義など薩摩藩の多くの著名な人々と知り合った。それは将来につながるの尊王攘夷派の人脈へつながり、後の時代に活きる人のネットワークが見え隠れする。 また、平岡が暗殺されてからは一橋家の所領(大阪、兵庫、岡山の一部)のあった備中で農兵の募集をして兵力を増強する兵制をつくったり、灘の酒造業者に米を直販(1万両を超える利益を得)したり、硝石の産業育成、綿の藩札発行による資金の運用改革、などの会計の仕事など多くの実績を積み出世もした。 しかし関八州(取締り)の追手から身を守るためとは言え、討幕(倒幕)の志士である渋沢にとって幕府の家来としての自分の境遇が面白くなく思うのは当然で浪人になろうとしていた矢先、慶応3年(1867年)11月フランス・パリの世界大博覧会に招待された将軍の名代(民部公子/徳川照武)の随行としてヨーロッパへ派遣される。渋沢のフランス行きを推薦したのは慶喜だった、という。 フランスから帰国したのが、1868年(明治元年)11月3日 横浜に到着したときには蝦夷地を残しすでに東北までの戊辰戦争は終わっていた。ちなみに京都に同行した喜作は蝦夷にわたり函館戦争に参加している。幕府の多くの人々が移住した静岡へ行き、静岡の商法会所頭取になったり、日本で最初の合本(株式)組織を設立することを皮切りに大蔵省出仕、実業界への転身、社会福祉、教育活動など多くの社会活動、社会貢献をしていく。明治時代、日本を近代化するために経済的に支えた立役者の1人となった。 フランスへ行ったことは日本にいては味わうことのできない、渋沢を他の人より優るおおきなアドバンテージ(利点)を与えたことだっただろう。また日本にとっても本当に幸運なことだった。もし、フランス行きをせずに日本に残っていたなら、幕末の動乱や戊辰戦争に巻き込まれていて命すら危うかった可能性が高かったのだから。 幕末の志士であった頃のことを渋沢は次のように後悔をする。「・・・今日の言葉を借りて云えば、政治家として国政に参与して見たいという大望を抱いたのであったが、そもそもこれが郷里を離れて四方を流浪するという間違いをしでかした原因であった、かくて後年大蔵省に出仕するまでの十数年間というものは、余が今日の位置から見れば、ほとんど無意味に空費したようなものであったから、今この事を追憶するだになお痛恨に堪えぬ次第である。・・・実業界に身を立てようとしたのがようやく明治45年の頃(72歳)のことで・・・この時が余にとって真の立志であったと思う・・・(一生涯に歩むべき道「論語と算盤」/「渋沢栄一」鹿島茂著」)」 無意味に空費とは少し言い過ぎのように思えるがこの後悔の内容は狭義の幕末の志士の思想を持っての行動と考えれば納得できる。この若き渋沢たちを突き動かした尊王攘夷の思想については別の機会に考えたい。<小山川> 生家のある集落はどこか東北に点在する農村の部落(集落)に感じられる雰囲気。東京に近いこともあるからか、過疎にはなっていない感じで昔と現代がいっしょになったようなつかしい昔の雰囲気も残した静かな感じのするよい町でした。 渋沢と八郎、2人の学んだ儒教思想、学問(陽明学)、剣術など同じものが多く、そういう共通点もあってか2人の行動はとても似ている。2人の年の差は10才。少なくとも渋沢は八郎のことを知っていたし、決して少なくない影響を受けていただろう。次に渋沢と八郎の接点や共通点を見てみたい。 渋沢と八郎が直接会ったことがあるかについて。渋沢は文久元(1861)年3月から5月までの2か月ほど江戸遊学をしているので2人はともに江戸にいてに玄武館で会っていた可能性はある。文久3(1863)年春、渋沢は2度目の江戸の遊学をする。4か月間実家とを何度か行ったり来たりしている(雨夜譚 余聞)ので、この時期、江戸で浪士組事件の騒動をみた可能性がある。しかし、八郎と会ったという話は見つからなかった。▷ 渋沢と八郎の接点間接的だが渋沢の資料に清河八郎に関係する記録として次のようなものがあった。(1)尾高長七郎が八郎と会ったという記録 ・渋沢栄一伝稿本に「渋沢栄一と尾高惇忠は岡部藩の民で文武を身に着け、慷慨(こうがい/正義にはずれた事などを、激しくいきどおり嘆くこと)が強く既にかの清川氏を招いた」、とある。また、「それは長七郎が本庄で会見したこと、の誤り」と訂正もしている。 <渋沢栄一伝稿本 第三章・第七五―七七頁〔大正八―一二年〕但文/ 渋沢栄一伝記資料刊行会> 「武州本庄在血洗島農渋沢栄一郎、同親族近村に尾高新五郎と申者とも岡部侯御料民文武を心懸、慷慨甚敷既に彼清川氏留置、公辺御調に相成、深く迷惑之咄抔御座候密に申 上巳・正朔○望の誤か 両度之変事とも、乍陰たつさはり候歟と被察候。・・・。(但文中に清川八郎を留置きたりとあるは、文久元年七月八郎が安積五郎と共に、本庄附近に於て、尾高長七郎と会見せるを誤り伝へしものなるべし。)」 ・八郎の日記(潜中紀略)には、(でっちあげ)隠密無礼討ち事件(虎尾の会事件/文久元年7月中旬頃)での逃亡中に「高崎から武州本庄の至り、左折して手斗村(てばかむら)に行った」という記録があり、次のような内容で渋沢の資料と一致する。「かねて笠井伊蔵(虎尾の会)が取り立てて、八郎の家にも時々来た事のある尾高長七郎がいるはずで、彼に江戸の様子を問おう」と思った。そして、長七郎は4里ばかり離れた寄居村に行っていて留守だったため会うために寄居村に向かう途中、別の場所で剣術試合をしていた長七郎に会い、その近くの八幡町で会う約束をして八幡町に泊った。 次の日に新町で会った長七郎から「すべて関東では兄(八郎のこと)の評判がやかましく、浪人の頭取だと言って、幕府においても殊のほか捜索が厳しく、今から出府(江戸へ入る)するのは水火に飛び入るようなものです。あと2、3年は近づいてはなりません。命あっての物種です。早々に西走なさりなさい。」という助言を得て酒を酌み交わし別れた。しかし、その後に安積五郎(虎尾の会)との相談で「同志の者に申し訳ない」という理由で虎尾の会メンバーの安否を確認するため危険を顧みずに7月18日早朝、利根川を下って江戸へ向かった。(清河八郎伝(徳田武著))(2)渋沢が八郎に触れて書き残さしたもの<渋沢栄一伝稿本 第三章・第四五―五一頁〔大正八―一二年〕/ 渋沢栄一伝記資料刊行会>渋沢伝記資料 遊学P221。"世論の指導者の最も雄なる者"の1人として八郎を挙げている。「・・・今や外国関係の発生より、国民の多数は覚醒して、遂に一大変動を生ぜんとす、是れ実に彼等の乗ずべき好機会なりき、此に於て百姓・町人より起りて国事に奔走せる者其人に乏しからず(百姓や町人出身で国事に奔走する者、そういう人は少なくなかった)、薩州の森山棠園、長州の白石正一郎、土州の吉村寅太郎、宇都宮の菊地教中、出羽の清川八郎、武蔵の近藤勇の如きは、其最も雄なる者なりき、而して我が青淵(渋沢)先生も亦此気運に導かれて蹶起(けっき)せる一人なりしなり。」▷ 清河八郎との共通点次に2人の人生での共通点を挙げてみたい。・所属する藩がともに徳川譜代(岡部藩と庄内藩)であったこと。・ともに実家は武士ではなく商売を生業にして裕福だったこと(2人とも経済の知識や経験を持っていたと言える)。・実家の商売はともに妹の家族が継いでいること。(これは幕末の政治活動がいかに活動家の親族に犠牲を強いるものかを物語る。)・儒学を学び、その思想に傾倒していたこと。特に陽明学の影響が強かったのだろう2人とも実践を重んじている。・北辰一刀流を習い、お玉が池の玄武館に通っていたこと。これにより多くの同志を得ていること。 渋沢は江戸への2か月の遊学をした(1回目)。"儒学者になろうとか、剣術家になろうという意図はなく「読書・撃剣などを修業する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を撰んでついに己の友達にして、ソウシテ何か事ある時に、その用に充るために今日から用意して置かんければならぬという考えであった。」"という。・攘夷(横浜異人館の焼討ち)を計画したこと。・倒幕を計画(渋沢は高崎城、清河は甲府城の乗っ取り)したこと。・関東八州(取締り)に狙われて逃亡したこと。同志、仲間が小伝馬町の牢獄につながれ、亡くなったりしていること。・渋沢が慶喜に提出した意見書と、八郎の急務三策と天皇に提出した建白書の内容と文章の使い方。・身分に差別のない兵の編制したこと(農兵の募集、浪士組の結成)。・・・など。 この時代の志士たちには多くの試練や犠牲を強いられるものがあった。渋沢、八郎など偉人たちは逆境の時に逃亡しながらも乗り切り再起をして事を成しているとも言える。 地域内のとてもりっぱな記念館で渋沢栄一のアンドロイドにも会える。記念館前で渋沢が大事にしていた言葉は孔子の"忠恕"という言葉だということを教えてもらいました。これは「まごころと思いやり」、言い換えれば「自分の良心に忠実であること(忠)と、他人に対して思いやって(恕)行動すること」という意味なのだそう。その言葉は、八郎が残している「~のため」と合致していて同じような思想を持っていたということに感心した。*****〇 電子書籍での購読はこちらで ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2020年11月28日
1863年(文久3年)横浜異人館焼討計画を延期した渋沢たちはある種の熱狂から覚めた。我に返り、自分たちが危険な立場にあることに気づいた。渋沢たち、血洗島グループ(慷慨組)は離散して逃げた、そして郷里を出奔した。渋沢が24歳の時で、従兄(いとこ)の渋沢喜作が同行した。 「そのころ、幕府に"八州取締り"という今でいう探偵吏というようなものがあって、それが少しでも変な風評を聞くとすぐに探索をしてたちまち召し捕ることになっていた。大橋訥庵(とつあん/坂下門外の変)の計画者)を縛したときにも、かかわりのある者(長七郎など)を田舎まで手配して探偵をした。(今回の件で)自分たちも、すでに捕縛されようとした危険の場合もあった・・・自分と喜作とはこれから京都へ行くことに定めて近隣や親類へは伊勢神宮かたがた京都見物に行くと吹聴して、故郷を出立した。(雨夜譚 余聞)」 "八州取締り"は八郎の虎尾の会事件や逃亡の話にも出てくる。この前後のいきさつは八郎の時と数多く様子が似ているところがあり興味深い。この郷里出奔から一橋家の家来になるまでの渋沢の行動には水戸藩との不自然な経緯がいくつかみられ、何か敢えて述べられていないようにも思える。 渋沢栄一と従兄の喜作が郷里を離れたのは11月8日、江戸に向かうのに水戸を経由した。京都に向けて江戸を立ったのが11月14日。渋沢はこれを「関東八州(取締り)の尾行をまくためだった」とするのだが、鹿島茂氏(著書「渋沢栄一」)はこの水戸に立ち寄った理由を「尾高惇忠の代理として水戸の尊王攘夷派と連絡を取る必要になったからに違いない」と考える。 水戸での行動は不明だがとにかく江戸で一橋家の関係者と接触した。慶喜は水戸藩徳川斉昭の子なのでこの頃には水戸藩の関係者とのつながりがあったことは間違いない。一橋家との関係のきっかけについては"先生が江戸滞在の間に、偶然にも一橋家との関係を生ずるに至れり。(渋沢栄一伝稿本)"と、偶然なこととしているがそれ以前から何らかの関係があったことを述べている。一橋家の川村恵十郎と出会ったのは江戸に遊学していた時だったのだろうか、川村と身の上の相談できるほどの緊密な関係ができていたようだ。さらに川村から平岡円四郎(一橋家用人/最も権力のあった人)を紹介され懇意にもなっていた。この辺の水戸藩だけでなく他藩の尊王派とのネットワークの詳細は伏せられているようだ。 江戸で平岡を訪ねると本人は京都にいて不在だったが、その奥さんが一橋家家来になることを承諾する平岡の伝言を受けていたので、一橋家の家来として京都に向かう。後になってみればこのことが渋沢の命をつなぎ、将来への道を開かせた。1864年(元治元年)京都に着いたのは11月25日だった。そして、京都では慷慨(こうがい/正義にはずれた事などを、激しくいきどおり嘆くこと)家と会ったり、周辺を旅行するなどをして過ごした。 なんとなく穏やかではない感じのする血洗島の地名の由来はいくつかあるそうだが、"地粗い島"と呼ばれた説がしっくりくるように思う。この地域は利根川の砂が土に混じりレンガの材料にもなるような粗い土壌で、その地名は意味的にぴったりとあてはまる。島は川と川に囲まれた土地をいうので、または利根川と小山川に挟まれた土地の意味にあてはまる。上州などにも近く国境で養蚕や藍玉で裕福な地域を他から荒らされないようよそ者が好まない漢字を地名にあてたのではと思われる。 年明け(1864年)の2月の初旬、長七郎から突然の手紙が届いた。それは"長七郎が何かことの間違いから捕縛されてついに入牢した(雨夜譚 余聞)"、というものだった。捕まえられた時には渋沢が以前送った手紙を所持していてそれが見つかってしまったこと、見つかった手紙には「攘夷鎖港の談判のために幕府はつぶれるにちがいない」という幕府批判の内容が含まれていたので渋沢にもいづれ幕府の嫌疑がおよぶだろう、という警告の内容が書かれていた。長七郎と同じく同志の中村三平と福田滋助も投獄された。手紙は江戸小伝馬町の牢獄から送られたものだった。 長七郎は文武の両道(海保塾、新堂無念流など)に精通した英才で渋沢に大きな影響を与えた人だ。「尾高長七郎という吾々の大先輩が剣術家になるつもりで早くから江戸に出て居り、その交友も広く、吾々と異なって天下の大勢を比較的弁(わきま)へて居った為めに、長七郎が江戸から帰村する毎に、当時の模様を委(くわ)しく説き聞かされて、私の血潮はいやが上にも沸き立つのであった。」(青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著)とされるほどの人だ。 後に渋沢はこの事件について"長七郎は一時の精神病で中山道の戸田原(戸田の渡し)で人を殺し(往来の者を斬り殺し)、幕府の捕吏に捕縛された(竜門雑誌)"と書いているがにわかには信じがたいものがある。横浜異人焼討ち計画の中止を提案する見識をもち、わざわざ渋沢のために牢獄から危険を知らせる手紙を送る人が精神病だったとは考えにくくないだろうか。 幕府が渋沢たち、血洗島での大人数での挙兵の計画を見逃すことはなかっただろう。清河塾の土蔵の地下に穴を掘ってまでして偵察していた八州取締りである。渋沢たちは狙われていた、と考えるのが経緯も含めて自然だ。特に長七郎は坂下門外の変でも嫌疑をかけられていたので重きを置いて偵察されていただろう。 不思議なことなのだが、長七郎が"誤(っ)て行人(通行人)を傷けた/(雨夜譚)"とも言われるものは八郎が"隠密を一撃した(斬った)"のと酷似している。これは偶然なのだろうか。隠密は本人が自覚しない正当防衛のような形で相手に斬らせるやり方、または斬ったように見せる高等な技をもっていて、これは幕府の捕吏、八州取締りの当り屋的手法でパターン化した手法だったのではないだろうか。八郎と同じように"でっちあげ"で長七郎たち血洗島グループを捕まえようとしたのではないだろうか。それを裏づけるようにいっしょにいた事件に関係のないはずの中村や福田も捕らえられている。(中村は捕縛されて5年後に亡くなった。福田の動向は不明。)その後の牢獄から手紙のやり取りなども加えてその様子は驚くほど虎尾の会事件のときと似ている。幕府は渋沢たち血洗島グループを一網打尽にしようとしていたのだろう。 この長七郎投獄の話は幕府を通して平岡にも話が入ったため、渋沢たちは呼び出され事実関係を問いただされたりした。その時の話し合いの中から幕府の追手から逃れるために平岡の薦めで一橋家へ士官することになる。渋沢は素直に家来となるだけでは事足りず召し抱えられるときの願い事として、慶喜に「見込書(意見書)」を提出することと拝謁することを願い出た。そして驚くことに許された。 この見込書には「・・・申せば非常の時勢がこの非常の御任命を生み出した次第なので、この御大任(京都の守衛総督になったこと)を全うされるにはまた非常の英断なくしては相ならざること、こうしてその英断を希望する第一着は人材登用の道を開いて天下の人物を幕下に網羅し、おのおのその才に任ずることを急務とする。/(雨夜譚 余聞)」などがあり、八郎の「急務三策」と向かって言う人の対象が違うだけで内容はほとんど同じ、文章もとても似ているものがある。他に天皇に提出した建白書の一部の内容、文の言い回しの内容にも似ているものがあり八郎の影響を受けていたか、八郎が影響を受けた同じ人に影響を受けたことが推測される。 すごいと思うのは慶喜の前で話した次の内容。渋沢の血気盛んな様子が現れている。「・・・今日は幕府の命脈もすでに滅絶したと申し上げてもよいありさまであります。・・・畢竟(結局)幕府を潰すことは徳川家を中興する基であります。能々(よくよく)熟考してみればこの事は全く道理に当たるということが理解し得らるるようになります。/(雨夜譚 余聞)」 慶喜に激怒され牢獄に入れられてもおかしくない内容に思えるが、「一橋公(慶喜)はただふんふんと聞いておられるだけで一言の御意もなかった」という。八州取締りに追われて士官した一橋家によく言えたものだと思うし、慶喜の方もよくそのような人を取り立てたと思う。ここだけを切り取った感じで幕府に命を狙われている人間が幕府の次期将軍に言っていると思えば、冗談かとびっくりするような喜劇のような内容だ。渋沢の尊王攘夷の思想の怖いものなさ、志士としての勢いがすさまじい。 この中で1つ注目したいのは渋沢が幕府は滅絶したといいながら徳川家を中興できると考えている点だ。江戸徳川の時代が終わっても次の時代では徳川家はいくつかの担い手の一つという構想をもっていた、ということなのだろう。討幕、倒幕とはあくまで徳川家を政治の担い手の中心から降ろすという意味だったのだろう。過激尊王攘夷派の渋沢がそう思っていたのだから、尊王攘夷派の多くの共通認識で、戊辰戦争は必要がなく多くの人々が望んではいなかったのではないだろうか。現に渋沢喜作や尾高惇忠らは戊辰戦争で徳川方(幕府側)として戦っている。徳川家の存続を守る立場が佐幕派として混同されているのかもしれない。(← 利根川南岸に広がる深谷市の河川沖積地、有名な深谷ネギがたくさん育てられていた。)*****〇 電子書籍での購読はこちらで ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版深谷ねぎ入り・食べ切り野菜セット 5〜7品目【送料無料 常温発送/クール便(気温によって配送方法変更)】
2020年11月28日
幕末、儒学を学び北辰一刀流を習い、文久3年に横浜異人館焼討ちを計画した人、と言えば誰を思いうかべるだろうか。私なら迷うことなく”清河八郎”と答えるのだが、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公で2024年度から新一万円札の顔となる渋沢栄一もその1人だった。 渋沢は現在にもつながる大企業を含めた多くの企業の礎にたずさわった明治の実業家、経済人としてとても有名で明治になってからの彼の功績が強調されるが、若いころは過激な志士でもあった。攘夷を唱え、実際に横浜異人館焼討ちの計画し倒幕を考えていた。(←幕末の志士の頃の渋沢栄一の銅像/旧渋沢邸「中の家(なかんち)」) 幕府末期、徳川譜代の藩の中から倒幕を目指す人が出てくるほど、幕府の求心力はなくなっていた。幕末の情勢は多くの若者を憂えさせ、尊王攘夷、倒幕へと立ち上がらせた。春に一斉に芽吹く草花のように多くの草莽の志士たちが出現したのは偶然ではなかった。渋沢も"ペリー来航(1853年6月)により重大な憂慮すべき時代の雰囲気を受け熾烈な希望で国に尽くそう"(雨夜譚)と考えた。時代の状況が多くの人々をそういう考えにさせたとも言える。 清河八郎は傑出して時代を先駆けているため、特別な思想で独自の行動を起こしたかのように思いがちになるが、冷静に考えればその基本にあるものは当時あったものの延長、つながるものになるのだろう。全国で起った攘夷、倒幕運動を考えるとき、同時代の活動が参考になる。また、特に東北や関東での志士の動きは西国に比べてあまり知られていないことが多く、幕末の動乱を生き残って見届けた人という意味でも渋沢の資料は貴重だ。 八郎たち虎尾の会がリードした尊王攘夷、回天倒幕運動について渋沢と八郎の行動を辿ってみると共通点が多いことに気づく。そういう意味で年齢こそ違うが渋沢栄一の人生は当時の八郎の行動や思想を考える上でとても参考になる。渋沢栄一の攘夷計画も八郎が亡くなった後に起こった虎尾の会関係者も関わり全国で起った一連の倒幕運動の1つとしてとらえて考えることもできる。 渋沢栄一の幕末の行動を知りたくて深谷市を訪ねた。渋沢の幕末の志士としての行動を見ていきたい。内容は主に雨夜譚とこの本を参考にした。 渋沢栄一は1840年(天保11年)に武蔵国榛沢郡血洗島村(岡部藩/現埼玉県深谷市)の藍玉の生産と養蚕をする大きな農家の家に生まれた。8歳ごろから10歳年上で従兄弟(いとこ)の尾高惇忠という漢籍(儒学など)を学んだ。師の尾高は"知行合一の水戸学に精通"(深谷市パンフレット)していたとされ、徳川斉昭を崇拝していたともされる。渋沢は尾高淳忠と尾高の弟の長七郎を通じて陽明学と水戸学による尊王攘夷思想に大きな影響を受けた。ちなみに尾高は1830年(天保元年)生まれで八郎と同い年になる。 渋沢栄一の家は豪農と呼ばれる農家で2町歩ほどの土地持ちだったというが米農家ではなかった。血洗島(深谷市)の周辺は利根川が運んだ砂を含む荒い土壌で水はけがよく水田稲作には不向きの土地だったからだ。深谷市一帯は冬の季節風が強く寒暖差が大きい少し寒い地域で、虫などを寄せ付けない気候のため一般的な作物ではない桑と藍に向いた土地だった。江戸時代、1700年代の後半ごろから裕福な人が増えたことや関東地方での綿産業の発展もあり、この地区の人々の養蚕や藍玉による収入が増えていき莫大な富を得るようになった(渋沢家の藍玉の売上は1万両を超えたという)という。渋沢家は地区の名家で昔よくあった地区の名家どおしの濃い血縁関係で結ばれていて、これから登場する人物たちもも親戚筋にあたる人が多い。 栄一は卓越した商売のセンスを持っていた。藍の原料の藍玉の商売、生産の才能を発揮させた。17歳で父の代わりに幕府の御用金要請のために陣屋に赴いた際、岡部藩(安倍(あんべ)氏)の代官とのやり取りの理不尽さ、侮辱を感じた出来事(渋沢は代官事件と呼ぶ)から倒幕へと駆り立てられていく。そして、攘夷運動に傾倒していく。(←旧渋沢邸/渋沢栄一生地「中の家(なかんち)」) 1861年(文久元年)、22歳で父をかき口説いて2か月ほど江戸に文武両道の遊学をする。儒学では海保章之助の塾で儒学を、剣術では八郎と同じ神田お玉が池の千葉周作の道場(玄武館/栄次郎)で北辰一刀流を学んだ。その主な目的は「読書・撃剣(剣術)などを修業する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を撰んでついに己の友達にして、ソウシテ何か事ある時に、その用に充(あて)るために今日から用意しておかなければならぬという考えであった」(雨夜譚(ばなし)余聞)というような同志や仲間をつくることだった。 1863年(文久3年)、再度江戸に出て4か月ほどして、渋沢は仲間内の議論に煽られ(影響を受けて)倒幕計画を立てた。高崎城を乗っ取り兵備を整えてから鎌倉街道をつかって横浜の外国人居留地を襲って焼討ちにするという内容だった。栄一は機密が漏れないようにするため、江戸の仲間ではなく郷里に帰って尾高淳忠と同じ従兄の渋沢喜作に相談した。そして、69名の同志(真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、中村三平、親戚郎党など)を集めた(便宜上、渋沢のこの一党を血洗島グループと呼ぶことにする)。決行日は冬至の日の旧暦11月23日となった。 ちなみに攘夷計画をした時の父親との夜通しでの話合ったという話がとてもおもしろい。渋沢のお父さんは渋沢が述懐するように非凡の人だったことが感じられるやり取りが繰り広げられている。 いよいよ最終謀議をした10月29日の晩になって、前年に蜂起のための情報を得るために京都に行き3、4日前に戻ってきた尾高長七郎が隆起の中止を言い出したという。栄一に尊王攘夷を焚きつけてきた長七郎でもあるが、大和五条で蜂起した天誅組の失敗を見てきて考えが変わっていた。長七郎の意見は次のような内容だった。「つくづく天下の形勢を見るに、今日わずか67十人の農兵を以て事を挙げても一敗地にまみれることは火を賭るよりも明らかである。面(おもて)もそれが幕府を倒壊する端緒となるならば尊い犠牲として瞑すべきであるが、結局は百姓一揆と同様に見なされて、児戯に類した軽挙だと世人の笑いものとなり、吾々に続いて起こる志士も無く、言はば犬死に終る(の)は必然である。もし仮りに高崎の城を抜く事が出来たと仮定しても、横浜まで乗り込んで外人の居留地を襲撃しようとするには十分に訓練した兵でなければ不可能である。諸君の考えている通り、幕府の兵は弱いには違いないが、とにかく人数が多いから横浜に至る前に失敗に帰するは云うまでもあるまい。・・・ 猶また、幸ひにして居留地焼討ちが成功したとしても、野心満々、虎視眈々たる外国人に対して、徒(いたづ)らに口実を与ふるのみであって、これが為めに幕府が倒れるとするも、それと同時に皇土を外人のために汚される結果となるかも知れぬ。外国との戦争の結果は兎に角として、国内の政治に対し外国をして干渉せしめるような端を開いては、国家の大恥辱であるからこの見地からしても断然この度の計画は思い止どまれたい。但し、諸君にして拙者を裏切者と思うなら甘んじて諸君の刃に死するであろう」(青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著) それに対して、渋沢は「一旦死を決して旗挙げをしようと盟(ちか)ひ合った以上は、成敗は天に委ねて唯決行の一字あるのみである」と言い譲らず、長七郎が栄一を刺し殺しても計画を中止させるといえば、栄一も長七郎を刺しても決行すると言い返し、あやうく刃物沙汰になるところだったが尾高惇忠が間に入って止めた。そして日を改めて議論の続きをおこなうことにした。 その夜、渋沢は一睡もせずに長七郎の議論を反芻して熟考を重ねたがどれ1つ取っても長七郎の言い分の方が正しいように思え、翌朝、皆を集めその席で自らの非を認め、長七郎の説に従って隆起を一旦中止し、翌日、天下の形勢をうかがって初志貫徹することを提案した。すでに尾高惇忠も渋沢喜作も中止に傾いていたので異論はなかった。69人の同志たちには手当てを与え解散を伝えた。そして、渋沢は幕府の探索の手から逃れるために郷里を出奔して水戸を経て江戸に向かった。近隣、親戚には伊勢参りと京都見物ということにしていた。 八郎の死が文久3年4月13日で、渋沢が攘夷計画を計画したのが同じ年の11月23日。八郎の計画の後、7か月後に同じ横浜の外国人居留地を襲って焼討ちをするという計画を企てている。渋沢たちの兵器は"旧式のまるで昔の野武士の扮装(いでたち)だったろう(雨夜譚余聞)"という。家のお金200両を使い込んで、150~60両で刀や(竹)槍、着込み(剣術の稽古着のようなもの)、提灯などを用意した。鉄砲、最新のライフル銃のようなものはなかった。当時の志士レベルの攘夷、倒幕運動では装備が十分ではなく脆弱なものがあったことを教えてくれる。攘夷や倒幕は成り行きなどではなく倒幕後の構想も含めよほどしっかりしている人たちが連係していなければむずかしいことだっただろう。 「今にして思えば実に無謀至極の暴挙であったが、もし当時長七郎の諌止がなかったならば恐らく私はその際に犬死をして無謀の誹りを後世に残したろう思う。」(青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著)「じつに長七郎が自分ら大勢の命を救ってくれたといってよい」(雨夜譚余聞)と後述している。 ちなみにこの後の言動からすると渋沢の気持ちの上での倒幕はあくまで"一旦中止"であって断念したわけではなかった。おそらく頭を切り替えて、当時、多くの志士たちが集まっていた京都へ活動の場を求めたのだろう。まもなくして京都に行くことになる。こうして、本人も述懐するようにこの時攘夷は中止となり渋沢は命拾いをした。(←最終謀議は尾高惇忠の家の2階で行われた。)、"可堂(桃井)先生事蹟"(渋沢栄一伝記資料刊行会)(桃井可堂は八郎と那珂通高とともに一堂門の三傑と言われ、ともに親友とされる) 横浜異人館焼討ちについてまとめて並べられた記述があるので参考として掲載したい。 ちなみに桃井可堂自身(天朝組)も渋沢栄一たち(慷慨組)と呼応しながら同年12月に挙兵と攘夷を企てたが裏切りのために失敗して亡くなっている。 「元来横浜焼討なるものは、是より先志士の計画したること一再に止まらず。(①)万延元(1860)年の冬水戸浪人之を計画して成らず、(②)文久元(1861)年八月二十一日には、浮浪の徒海上より横浜を襲ふの説あり、幕府令して警備を厳にしたることあり。(③)文久二(1862)年八月二十八日には、長門の来原良蔵外国人を斬らむとして横浜に往き、同藩吏の捕ふる所となり、(④)十一月十二日には、長門土佐の藩士神奈川に集りて、横浜を焼かむとし、亦果さず。(⑤)殊に先生の親友たる清河八郎の如きも、文久二(1862)年六月京都より江戸に帰るや、実に横浜焼討を策し、幕府を紛擾せしめて事を挙げむと欲し、終に文久三年四月十三日、先生の帰還後二旬ならざるに暗殺せらる。 然り而して謂ふ所の横浜焼討が然かく屡(しば/たびたび)計画せられて、竟に(きょう/結局)成らざりしもの、実に先生等の大に鑑みる所也。」 清河八郎はここにある⑤の"浪士組事件"とそれより以前に"虎尾の会事件(1861年)"と2度計画をしている。渋沢たちを含め多くの人々が横浜異人館焼討ちを計画していた。解りやすいようにこの文の中の攘夷の回数を( )で補足した。 深谷市のもう1つの名物、ほうとう。この地区の人々は元は武田氏の家臣たちで武田氏滅亡後、現在の山梨県から移住したので、山梨と似た郷土料理が伝わっていると考えられているそうだ。
2020年11月28日
「出羽の国」の地名について、以前から考察してきたがその再考をしたい、今回で3回目(全5回)となる。 前回は同じ国名に"出"のつく、出雲の国との比較をして「元々の地名の語源の多くはわからなくなっていて、文字(漢字)については後世の創作で意味がない、その創作の当て字に捉われてはいけない」という説に則って考察した。しかし、漢字の持つ字の意味を棚上げにして、イデハ(イテハ)という音のみを元にして、地形や土地の特性、人や生活の中の名詞から地名にされたのではないかと考える一方で、出雲(イヅモ)と出羽(イヅハ)は同じ"出"という漢字を使っていることから、表記される漢字(表意)としてもつ絵のような象形デザイン的な意味がある、という考えも捨てきれないように思えてきた。 漢字はアルファベットとは違い表語文字であると同時にその形状自体に意味をもつ表意文字でもあり、このことをもっと重視しなければならないのではないか、もともとあった音に多くの漢字の中から2文字を当てたということはそれなりの理由があったのではないか・・・。 出雲は万葉仮名の伊豆毛に「雲」をイメージした漢字がつけられた。同様に漢字が日本に入る前の古い時代の意味の音の呼称、万葉仮名の「イデハ」があってその後に「出羽」という漢字があてがわれたとすれば、共通点をピックアップして考察してるうちに当てがわれた文字(当て字)にまったく意味がないと考えるのは何かを見過ごしているように思えた。 ところで漢字の日本への伝来は5世紀ごろと言われているが、漢字の持つ1つ1つの意味は漢字が広く日本だけでなく東アジアで普及した理由の1つで便利さの1つである。 この文字1つ1つがその成立ちによる意味を持ち、その意味を含む漢字は話す言葉(発音)がわからなくても文字の意味で会話を可能にした。例えば日本人が中国の人と文字での会話、筆談ができることはよく知られている。古代中国で漢字が普及した背景には黄河や揚子江流域の離れた地域の言葉の違った人たちが筆談できたことにあったとも言われる。言葉や発音が違っても絵のように目で見てコミニュケーションができるツールだった漢字は漢字文化圏として発達して共通の文化圏として歴史を作った。日本もその例外ではなく話す言語、語順など違いを乗り越え、文字として一つ一つの漢字の持つ意味から文章を作りだし古代から中国の王朝とも交渉を含め、交流できた。さらに、明治期には熟語などをつくり中国へ逆輸入させその漢字の表現を発展させることもできた。そう考えれば漢字の表記にはなにかしら意味があったと考えるのが自然だろう。 これまで見てきたように「出羽」の国の由来には出羽国風土記(明治)を代表にして大きく分けて主に2つの説があった。それぞれ整理しながら再考したい。 1."越の国から突出した出端(いではし)、陸奥の中にあって端のようにある(位置)の意味。"の説について。 もし、出羽を出端の意味とするなら「出端国」とそのまま表記してもよかったはずだ。"1"の説にはなぜ「端」ではなく「羽」という文字を当てたのか、説明はない。「葉」でも「波」でも「八」でも"ハ"と読める漢字であれば何を当てはめてもよかったはずだ。逆に「端」を使わなかった理由も語られていない。(ちなみに薩摩は狭端が語源とする説もあるようだがこれも再考が必要な感じがする。) この説は陸奥国が"道の奥"の由来とされているところからの類推と考えられる。 「陸奥」の地名は天武天皇の時代(673~)に国を中国にならって"5畿7道"という行政区の集合体に分類したことに関係する。これはこの行政区の東山道や東海道の中で、奈良や京の都から見て遠く行政区の延長線上の奥の辺境を"道の奥(ミチノク)"と言ったことから始まった。陸奥は現在の東北地方全域に比定されている。676年ごろには道奥国が"陸奥国"に変更された。陸奥という地名は5畿7道より都から遠い地域を漠然と示すものなので逆に言えば陸奥と比定される陸奥村や陸奥郡というような小さな地区名があった訳ではなかった。つまり、陸奥は7道の内、東山道の奥で、畿内から遠い方面をさす関東以北の広い地域の総称だったと言える。 一方、出羽国の成立ちは逆だった。庄内平野の最上川周辺から羽黒山周辺の狭い流域の呼称だったある地域名がその後拡大して、隣接の区域の代表名のような形で現在の秋田県と山形県の広い地域を含む地域の総称となった。陸奥と出羽の国名では成立ちが大きく異なる。出羽の地域の始まりは狭い地域の郡の名でおそらくは小さな里の名だったのだろう。 「出羽」の地名を陸奥の国名の由来と同じ方法で類推することは間違いになるように思われる理由だ。【ちなみにその地区の区域については以前に考察した。https://plaza.rakuten.co.jp/gassan/diary/200611260000/】 2.文字の意味から允恭朝(推定5世紀前半)に鳥(鷲鷹)の羽を土地の産物として(産出)献上したことからの意味(出羽郡の設置は708年)について。 結論を先にいえば、この"羽の産出された地域"として”出羽”という文字があてがわれたと考えるられるのではないかと考えた。以下にその理由を綴りたい。2.a. 武蔵国(現東京都)の多摩川周辺に「調布」という古い地名がいくつか見られる。その地名の云われを参考に考えたい。次の万葉集の調布の歌は国語の教科書にも出てくる有名な歌だ。「たまがわ(多摩川)に さらすたづくり(調布/布のこと)さらさらに なに(何)そこのこ(児)の ここだかなしき(愛おしい)」(多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎) 調布は律令制下の租税である租庸調のうち、「調」としてその土地の特産物であった麻の布を納めていた地域という地名だ。この歌は布を古代の言葉だが"たづくり(田作?)"という発音で表し、調布がこの地域であったことを証明する歌となっている。多摩は多麻(麻が多い)と書かれこれも地区名や名産品の当て字となっている。7世紀前半に歌われたという万葉集にまで遡れる資料だ。 このように布を納めたように、出羽郡では"調羽"のような形で羽を納めたことがあった、と考えられないだろうか。2.b. 次に庄内地方で羽が取れたと仮定するならば、どのような種類の鳥の羽が考えられたもだろう、そしてその鳥の羽は何に使うために献上されたか考えたい。 出羽国風土記(明治時代)では郡名になるより少し古い時代「允恭天皇(推定5世紀前半)鷲の羽を土地の産物として献上した」(神學類聚鈔 第4巻 風土記(931年))ことを引用して、これを郡名の云われの1つとしている。以前にも紹介したように、允恭朝以外の時代にも出羽郡から鷲や鷹の羽が献上されその羽は鷲や鷹の羽と考えられているが、その資料的な根拠はないとも言われる。これが当時土地の産物として郡名にするほどに珍しい、多くとれる、貴重なもの、などの要素を照らし合わせて考えてみてどうも腑に落ちる理由が少ない。出羽国風土記には"平鹿鷹千島杯"というように秋田県横手市(出羽国)の平賀地区は鷹が多く住む地域であったことが紹介されているが、庄内平野の出羽郡の地区が同じように鷲や鷹が多かったと言えるかというと少し疑問が残る。 現在でもあるもので量(数)や捕獲しやすさから推測すれば大白鳥(オオハクチョウ)であれば納得しやすいのではないだろうか。白鳥は初冬にシベリアから越冬のために数多く飛来して庄内平野では田んぼや河川で餌をついばむ様子が冬の風物詩ともいえるほどだ。古代に庄内平野が現在のようなほとんど目につく限りに田んぼが広がる平野ではなかったとしても白鳥の餌やその量は現在とあまり変わらなかったとすれば、白鳥の羽であれば比較的容易にまとまった量を取ることができただろう。また、庄内地方はオオハクチョウの南限とされる地域ともいわれ大和(奈良)からみれば貴重さも加わる。オオハクチョウの羽であれば他の地域と比べても量的も差別化もされるように思える。2.c. 白鳥の羽は何に使われたのか。国名と使われるほどの価値や意味はあるのか。 現在でも白鳥の羽は矢羽根に使われることがあるので、当時の一般的な用途としては弓矢の矢の矢羽根に使われたと考えてもいいだろう。宮中では奈良、平安の古代から「射礼(じゃらい)」という弓競技が行われていた。白鳥の白くそのきれいな羽は武器としての矢羽根はもちろんのこと、神聖な宮中行事にもうってつけのように思える。初詣などで神社にある破魔矢など白い矢羽根を思い浮かべれば縁起物として珍重されただろうことが推測できる。関東などでもコハクチョウや鴨などは多く飛来するのでコハクチョウの羽であれば多く献上できただろうがオオハクチョウだと数が少なくなる。オオハクチョウとコハクチョウとの矢羽根に使った場合の違いは不明だがオオハクチョウの方が体長が大きいので見栄えの良さと矢として遠くに飛ばせるなどメリットが多くあったのかもしれない。 3.ここからは、話のおもむきを少し変えて「白鳥の羽」について、関雄二氏の本の学術的ではないが何か示唆を与えてくれるようなユニークな話を取り上げ、その理由を補足してみたい。 この本で関氏は「カゴメ歌」と京都府宮津市の籠神社の豊受大神の伝承などを通して”天の羽衣が白鳥の羽、そのものだった”という説を唱えている。これから白鳥の羽が天の羽衣に使われたのではないかと類推したい。 👆※関氏のユニークな説が満載の「謎解き古代史 独学のすすめ/関裕二著」。3.a. 「天の羽衣」とは何か。 良く知られるものでは「竹取物語」の中に出てくる。かぐや姫が月に帰るときに羽織ったり、「丹後国風土記」、能の「羽衣」、日本海沿岸地方などにある「天女伝説・羽衣伝説」で天女が羽織っている軽い帯のような(羽)衣のことだ。日本の昔ものがたりに出てくる、ある意味、ドラえもんのタケコプターのような機能をもつ空を飛ぶための道具なのだが、辞書では ①「天人が着て空を飛ぶという薄くて軽く美しい衣。鳥の羽で作るという。」②「天皇が大嘗祭・新嘗祭などで沐浴する時に身に着ける湯かたびらの称」などとされる。 この鳥の羽で作るというところを留意していただきたい。絵本やアニメなどでは透き通る軽い帯のように描かれているものが多いが、正確には鳥の羽でできているもののようなのだ。空を飛ぶという科学を超越していてハリーポッターやオカルトのような内容でもある。 ②の天皇が宮中行事の大嘗祭や新嘗祭などの祭事で沐浴するときに使われる白い衣の"湯かたびら(湯帷子/古代、入浴の際着たもの)"も天の羽衣と呼ばれる。現在ではこの天の羽衣は天皇の行事で使う白練平絹(黄色味を消して白くした絹を平織したもの)と変化して古代から今に引き継がれているようだ。仁和3年(1168)の大嘗祭の記録では、「三河の和妙の天羽衣(絹製)」と「阿波の荒妙の天羽衣(麻製)」の2種類があったという(1枚を着けて湯に入り、湯の中でこれを脱いで上がり、他の1枚で身体をふく(兵範記))。この仁和の頃には名前は羽衣と呼びながらも材料は絹や麻が使われ白鳥の羽は使われなくなっている。(和妙は「繪服(にぎたえ)」と読む、阿波の荒妙は「麁服(あらたえ)」で阿波忌部(徳島県)の当主の三木家が忌部の畑でつくって納めるもので祖神、天照大御神が憑依されるものという説がある。) 関氏のいうように古代に宮廷の儀式での天の羽衣にオオハクチョウの羽が使われたとすれば出羽の国の白鳥の羽が献上されたとすれば重要な特産物としてのつながりがでてくる。そして、その鳥の羽を献上した地域が「出羽」と名つけられた(当て字された)、とすれば地名の由来としてもおかしくない。3.b. おとぎ話の鳥の羽で作られた天の羽衣がどのように重要なものだったのか。 高校古文の「竹取物語」の一般的な現代語訳によれば天の羽衣は"着ることによって空を飛べ、心が変わってしまう"もの、”地上で感じていた物思いや人情がなくなってしまうもの"のように説明されている。 関雄二氏によれば、"古代において権力の象徴として使用されたのではないかと思われる節がある"という。"豊受大神は来ていた天の羽衣を奪われて神通力を失っている”、"これ(天の羽衣)が、いかに重要視されていたかは、大嘗祭のクライマックスで、天皇が天の羽衣を着ることで人間から神のような存在になると信じられていた"、"かぐや姫は天の羽衣を着ると人間の心がわからなくなると『証言』している"として、”天の羽衣”とは、"神通力をもつ最高の呪具であるとみられていた”としている。 その説明を後押しするように、梅沢美恵子(著書「悲の巫女 額田王」)は万葉集の持統天皇(在位686~697年)の歌で教科書にも出てくる有名な次の歌について従来の解釈とは違う持統天皇の"天の羽衣盗みの歌"と解釈したことについて、達見と称している。 「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたえ)の衣乾したり天の香久山」 "白い衣が天香久山に干してあったのは、「洗濯物」などではない。これは、天女が沐浴しているという意味である。・・・今この白い衣(天の羽衣)を盗めば、天女(前javascript:void(0)政権/天武天皇)は身動きがとれなくなる。春が過ぎて夏が来るように、動乱が起こり、天下は自分のものになる。チャンスがやってきたのだ・・・" 天の羽衣を盗むことにより持統天皇が天下を取ることができるというような天の羽衣がまるでヨーロッパ王族の王冠のような権力の象徴として使用されたもののように捉えなおされている。 補足になるがこの歌の時代的背景には"持統天皇を背後から操っていたのは、いうまでもなく藤原不比等であり、持統天皇が潰しにかかったのは、ヤマト朝廷誕生以来頑なに合議制を守り抜こうとした蘇我氏や物部氏を中心とする豪族主体の政権にほかならなかった。そして、持統天皇は藤原不比等とともに、新たな王家を築くことに成功しているのである。"と関氏は説明する。 竹取物語(かぐや姫)は藤原氏批判の内容とも言われているが関氏のこの本はそれを深堀りして解説する。おおまかに誤解をおそれず言えばこの時に藤原氏の歴史の書き換えのようなことがあったのではないかというような内容にもなる。 現在の天皇はいうまでもなく憲法にうたわれているように日本国と日本国民統合の象徴なので直接権力を行使することはなくなり、天皇の儀式も憲法に書かれた国事行為の1つとなっている。歴史的にかつて持統天皇の時代の白妙の衣が白鳥の羽だったのか、絹織物だったのかは別として古代において白鳥の羽でできた"天の羽衣"の権威的なものとされていたかもしれないことがキーとなる。 古代から天皇の権威の象徴としては三種の神器が特に有名だが、その他に同じような扱いとされるものに”天の羽衣”もあったのかもしれない。それらの役割の違いの詳細は不明だが、中国の玉璽、ヨーロッパ王族の王冠のようなものと同様に扱われていたと考えれば、古代、宮中行事において天皇の即位における権力の象徴としての天の羽衣はとても重要なものになる。白鳥の羽を調のように献上することはとても名誉なことなので、羽は地名となるにふさわしい品物であり、出羽は献上品、商品を産出する地名となった、と考えることができるかもしれない。弓矢のように大量に使う道具でもないので前述の「調羽」とは違い「出羽」となることも納得がしやすい。 古代日本(ヤマト)の人々は本名を直接呼ばないようにするなど現代では信じられないような文化の違い、迷信や風習があったりする。白鳥の羽の天の羽衣で空を飛べたり、神通力を持つなどは現代ではフィクションの世界、科学の常識から外れたばかげた迷信と一蹴されるような内容でもあるのだが、当時の人々の常識としてとても重要なものだったと想像をたくましくすれば、神通力をもつ羽衣、これを産出する地区、となる出羽という地名はその後、国の名前に当てられるほどに残ったのも大切にされた結果なのかもしれない。古代の天皇、大王の時代には別名として地名とセットで鳥の名前も付けられていたことも、羽衣に通じる内容で興味深い。3.c. さらに天の羽衣の材料になったかもしれない白鳥について考えてみた。 日本の神話には稲作の発祥として"大鳥(鷲)が稲穂を持って飛来した"とする瑞穂の国の伝説がある。この大鳥はいつの頃からか鷲と混同されているようだ。古い文献の多くでは白鳥だったといわれ、多くの大鳥神社では白鳥を祀る。たしかに白鳥が稲の籾を咥えたり体に付着したりすることはありそうだが鷲が籾をつかんだり咥えることはイメージとしては難しい。その大鳥神社でも祀られるヤマトタケルは白鳥になったという古事記の物語で有名だ。継体天皇の墓に推定されている今城塚古墳には白鳥の埴輪が多く埋葬してあった。白鳥が古代の人々にどのように考えられていたものか謎が解ければ出羽の国の名前の謎もわかるのかもしれない、遠い国を海や山、国境も関係なく簡単に行き来できる白鳥には何かロマンを感じさせるものがある。(東京駅レリーフの写真(稲穂をもつ大鳥(鷲)) 2024年撮影)たんばや製菓 ふっくらしっとりどら焼 5個入り
2020年07月26日
八郎が訪れたことがある狭山市の広福寺を訪れた。 「清河八郎・明治維新に火をつけた男」(成沢米三著)にはこの広福寺の写真が載っている。成沢先生は清川地区の郷土史家でもあり、この本は小学生の時に郷土史の本として手にいれたと思う。挿絵はそれほど多いわけではなくて風景の写真に限っては数枚しかない。当時、高速道路も少なく関東近郊は東京以上に遠い場所だったので、数多くある八郎が訪れた場所の中でなぜこの場所の写真を選ばれたのかはわからないが、距離をいとわずわざわざ足を運んで撮ったというところがとても貴重に感じる。この広福寺を訪れて見ようと思った。 地図でみると広福寺は国道16号線を東南に入間川を西にしてその挟まれた場所にある。16号線の新狭山2丁目の交差点(ここに古い生越道道標もあるから昔の街道だったのだろう)から西へ入間川の方に向かうと下り坂になりそれを過ぎると一段低い平地のようになる、見渡す限り青空が広がり遮る山などないようなそのような場所にお寺はあった。寺の裏手側向こうにあるだろう入間川は少し距離もあり低いからなのだろう境内からは見えない。この地域一帯は比較的温暖な地域で市の名の通り狭山茶でも有名な場所でところどころに茶畑が広がる(狭山とはもともとは狭山丘陵(西側)と秩父山地の東側(外秩父山地)の挟まれた地域(現在の埼玉県入間市や東京都瑞穂町辺り)を指したが近代になり地域が広がった)。そのためなのか、狭山茶の生産量は狭山市よりとなりの入間市の方がは多いそうだ)。広福寺は狭山市立奥富小学校にほぼ隣接するようにしてあり地方のどの地域にでもありそうなお寺だった。奥富小学校の歴史によると明治の初めに”奥富学校”が広福寺を校舎にしてあったというから江戸時代の寺子屋さながらに地域の教育の中心であったことが想像できる。(上写真: 成沢米三著「清河八郎」、1976年初版なので70年代の広福寺と思われる。田園風景になじむ本堂、昔の典型的な裕福な農家の屋敷をさらに大きくしたような感じだ。白黒写真では本堂が江戸の農村の雰囲気をもっている。山門(竜宮門)の漆喰とのコントラストが美しい。)(上写真:2020年2月頃撮影、門の左側からほぼ同じ方角から撮影した。70年代に山門の横の田んぼだったところはお墓になっていたり周りの木々も大きく育っていて道路からだと本堂が見えにくくなっていた。広福寺はお寺なのだが神仏習合のなごりをところどころ感じさせる。江戸時代のころは神道の雰囲気がもっと強かったのではないかと思う。地域に大事にされているお寺の感じがした。) 八郎がなぜここを訪れたのかといえば、文久元(1861)年5月20日の(隠密)無礼打ち事件(虎尾の会事件)で幕府の捕手から追われたので逃亡して潜伏をするためだった。この場所を選んだのは住職の密意(41歳/水戸藩出身)が虎尾の会の発起人メンバーの西川練造(武州入間郡仙波村、45歳)と北有馬太郎(久留米藩浪人、奥富在住、35歳)と懇意でそれを頼ってのことだった。(※虎尾(こび)の会事件とは虎尾の会が横浜の夷人館の焼討ちと討幕の挙兵の計画をしていたことを幕府のスパイが清河塾の軒下で情報を盗み聞き監視していたが、いよいよ八郎をつけ狙い町で捕まえようとした際、その幕府の捕手を八郎が斬捨てたために起こった事件。) 5月22日、八郎は伊牟田、安積、村上の4名で白子宿(和光市)から広福寺に着いた。住職は寺に出入りする人たちに気づかれない”庫裏の陰の部屋”に隠まってくれた。日を追って西川、北有馬も訪ねてきて一同は意気軒昂、酒を酌んで時勢をを断じたという。しかし、時々間者のような怪しいものが現れては八郎たちの挙動をうかがっているようだった。 2日後、寺に来た川越のある浪人から入間川の宿(2kmほどしか離れていない町)の綿貫という村長のところに八州取締り3人と捕手100人あまりが集まっていることを聞き、事件が発覚していて幕府の追手が一党を捕えようとしていることを悟った。寺に迷惑をかけるということもあり、24日の夕方(午後4時ごろ)雨がしとしとと降り出す中、4人で所沢へ向かい(その後新宿へと)逃げた。鉢巻をして捕手と出会ったなら切り殺そうと身構え、傘や雨具に身を隠して寺を後にした。 この寺で合流していた北有馬は当初一緒に逃げようとしたが、真相がわからない(虎尾の会が清河塾で幕府に監視されていたことを気づいていなかった)ということでそのまま残ることにしたが結果的に西川とともに捉えられてしまった(伝馬町の牢獄)。住職の密意も牢獄に入れられた。また、神田お玉が池の清河塾にいた池田、笠井、熊三郎(弟)、お連(妻)や神崎(千葉県香取郡神崎町)にいた石坂など関係した家族、召仕含めて牢に入れられた。八郎との関係の詳細が不明の人も含めて10人以上が牢に入れられたことになる(亡くなった人もいた)。幕府は当初から捕縛の対象を八郎のみならず虎尾の会のメンバー全員として一網打尽にしようとしていたことがこの様子から窺い知れる。 この頃、八郎は虎尾の会を含め多くのメンバーが捉えられたことに心を痛め動揺し絶望の中にいた。進退ここに極まった、捕吏にかかって死にたくない、自首や自害して連座させられた者の釈放を乞う・・・などといろいろ悩み自害することを決める。しかし、安積五郎が機転をきかせて嵩春斎に会うようにしたり、桶渡、神田橋ら皆んなに犬死すべきではないなど必死の説得で諭されたり励まされたりして自首自害をせずに逃亡することになった。髪を商人風に変装し永代橋(隅田川)のたもとに刀の大小と町奉行へ向け書いた連座した人たちの釈放の訴状を置き、入水したように見せかけ逃亡生活へ入っていく(31歳)。 この頃に残した漢詩がある。「妻や弟までももはや捕らえられたと聞いて、身の処しようもなくみずからを責めただそうとする。 男子たる者、汚れた役人などに取り調べられたくはない。自害して・・・ だが仲間が報国の誓いを重ねて求める。犬死にするよりは、暫し自らを愛す(大事にす)べきだ。 古来、大望を抱いている英雄豪傑は、元来、波瀾に従い変転にも処する。 私はこの言葉を聞いて愁(うれ)いの中から立ち上がり、恥を包み隠し恥に耐え忍ぶことを目指す。 余力を逃亡に尽くして専念することにし、正義を守っていよいよ国に従う理(ことわり)を堅固にしよう。 願わくは夷狄(外国列強)を懲らしめて以前の罪を償い、再び以前のような名をあげて家子(妻や弟)に報いよう。 しばらく苦労するのは悲しいことではない、かくてこの身をばあちこちに潜ませる事にしよう。」 生きのびるという言葉ではなく”恥に耐え忍ぶ”という言葉、”名をあげる”など家の名誉などの内容がこの時代の責任感、空気感を示していることが印象的だ。武士的、中世の日本的な価値観もあるように思える。 ところでこの時の八郎の行動には死んだふりという言葉が当てはまるように思う、もう一度やり直す、再生、再起という言葉も合うかもしれない。当人はそんなことは意識していないと思うが出羽三山の山伏が修行として一度死んで生まれ変わるために山を登ったりすることに似ている。ひどい挫折を味わった時にはこういう頭の切り替え方が必要なのかもしれない。 また、この地域にもいた幕末の”草莽の志士”たちが強い信念を持って行動していた様子がすごい。自分に降りかかる災難や自分の命をも顧みないで当てのない八郎を支援した。普通であれば幕府の世の中で自分に火の粉が降りかからないようしたい、少しでも関わりなくない、ということになるのだろう。どのような強い思いを持っていたいたのだろうか。八郎を生かすことがこの国のためになる、世の中を変えられるなどのように信じた。八郎に何を托そうとしていたのだろうか、そこにはエゴのような自分だけの利益の追求など微塵も感じられない。そのような人々に助けられ、この言葉にあるようにあきらめずに命を大切にしたことがこの挫折を乗り越えることにつながった。その後、九州遊説、浪士組での2度目の攘夷計画に向けて、さらに多くの人々とのつながりを深め日本の幕末維新を促進させた活動を発展していく。いろいろな人々に支えらて八郎にとってはまさにここは生越(おごせ)道だったのかもしれない。 左が竜宮門、右の本殿の名称は瑠璃殿、瑠璃は南国の海をイメージさせる”青”なので、ともにトロピカルな感じがする。左の白い建物が竜宮門、中央の大きな白い石と木の奥が本堂(瑠璃殿)、東側からの全風景。 小学生当時、この本の内容については、ストーリーで読むというよりは興味のある部分だけ読み全体的にはキチンと理解できていなかったと思う。小学生ではむずかしく詳しいところは大人になってまた読もうと本棚に置いてあるという感じだった。高校のころにやっと読み返すことになるが、パラパラとページをめくって出てきた写真の方が記憶に残っている。特にインパクトがあるこの写真の山門は、あまり見たことのないもので関東にはこういう門が多いのかと思っていたが大人になって珍しい門であることに気づいた。 狭山市のウェブサイトをみればなるほど”竜宮造り(竜宮門)”といわれる建築様式だという。確かに浦島太郎の竜宮城を連想するような日本昔ばなしに出てくるような門だ。これがお寺の門(山門)だと言われれば見れば見るほど不思議な気持ちになる。 そう思いながらよく見返えせば、屋根など上半部は日本の武家風建築様式にも見えるし、下半部の緩やかな曲線と漆喰の白さはサンゴを連想させる。なぜ、関東平野の真ん中にこのような建物があるのだろう、そのコンセプトは?歴史は?・・・などと想像してみたくなった。そして、この関東の冬の澄んだ青空と乾いて冷たい空っ風のコントラストの違いはあるものの”青い(瑠璃色)”という色合い、何か南国と共通の雰囲気があるかも?と勝手に納得した。 幕末の歴史の舞台の1つと言える場所で八郎、北有馬、西川、伊牟田、安積、村上ら虎尾の会、おそらく彼らだけでないこの近くの関東の幕末の志士たちも集いくぐっただろうこの山門や本堂が現存し漆喰もきれいに維持され拝見できることはとてもありがたい。 余談なのだが、前述の八郎の記述に出てくる村長とある”綿貫”氏は、狭山市のウェブサイトを見ると”入間川を本拠地とした商家で入間宿から江戸まで一歩も他人の土地を踏まずに行けた”、”江戸の綿貫、北の本間(現酒田市(庄内))、大阪の鴻池と唄に謡われた”といわれる大地主だった。川越藩(入間郡)は庄内藩にとって天保の三方領地換えに出てくる不要な多額の費用を費やしたイメージもある藩なのだがいろいろと行き来もあったのかもしれない。幕末の慶応三年の融資の記録などがあったり庄内藩とも何か関係がある藩のように思えた。 この寺は八郎が絶望の中にあった時に逃亡しながら生き延び希望を見出して次の行動へと好転することを模索した場所の1つだったのかもしれない。
2020年02月22日
清河八郎が暗殺された後、リーダーを失った「浪士組」のゆくえは?本書はその疑問や興味を補完する資料の1つだろう。 これまで見てきたように、虎尾の会の画策や八郎の新徳寺の演説により「浪士組」の進む方向は幕府主導の攘夷から天皇主導の攘夷へと変えられた。しかし、リーダー八郎の暗殺により「浪士組」は「新徴組」へと名前を変え、幕府直属から江戸で市中一手取締り役(警察職)をしていた庄内藩の下へ組み入れられた。新徴組は委任された庄内藩の元で庄内藩士として江戸の町(市中)の治安維持・警護でおまわりさんの元語となる活躍をし、戊辰戦争では兵士として活躍して激動の時代を歩んだ。外国との戦い(攘夷)から国内の治安維持活動、(戊辰)戦争へと、本人たちの思想は置き去りにされ剣客たちが傭兵として歩んだ歴史とも言える。 浪士組が庄内藩に組み入れられた理由は決して八郎の故郷の藩だから、ということもあったのかもかもしれないが、何か偶然と片付けられない不思議な縁を感じる。 この本は、慶応2(1866)年3月、千葉弥一郎という名の19歳で新徴組に入隊した組士の証言録である。千葉は江戸の出身だが、川越の出身の父の新六郎が浪士組に息子の雄太郎と参加した、という。弥一郎の兄である雄太郎は浪士組解散後も引続き新徴組に入隊(組)していたが、江戸での乱心幕臣斬り・組士切腹事件で切腹して亡なってしまったため、弟の弥一郎が新規に庄内藩士として召し抱えられたという。その後、激動の幕末、戊辰戦争、明治、大正を生き延び、昭和の初め88歳まで生き東京で亡くなった。 この証言録は、出来事として「浪士組」の編成から、清河八郎が暗殺される場面、薩摩藩邸焼討ち事件、戊辰戦争、「ワッパ事件」まで、人物録としては、幕末の重要人物、300人以上の浪士組隊士の名前や年齢、出身地、判る範囲の経歴、人物評などがおさめられている。 ただ、注意が必要な点は内容が時代の背景を添えて詳しく書かれていたり屈託のない表現で描かれていて当時の雰囲気が伝わる一方、本人が直接体験したものは「新徴組」に参加してからの慶応2(1866)年以降のもので、それ以前の内容については父や組士など他の人からの「伝聞」による内容と考えられる点だ。特に「浪士組」の記述に対しては実体験ではない記述になる。その都度、取上げられた発言者の主観や時世の勢いなどが入るためなのであろう、その主張は散発的で一貫性がないように感じられるものも見受けらる。 そのため、この資料を慎重に扱いたいという考えもある。編者の西脇氏は、地元庄内で地域史に詳しく、清河八郎や新徴組の著書を出している小山松勝一郎氏を介して「(小山松氏の)著書の中では、千葉弥一郎の著書を2.3参考文献には挙げているものの、本書後半で紹介した証言録をほとんど引用・参照していない。それはなぜであろうか。同氏がこの証言録の存在を知悉(ちしつ/よく知っていること)していたとするならば、証言録に対してあまり信を置いていなかったと判断される。だからと言って証言録すべてを排除するのもいかがなものかと思われる。・・・」としている。また「(小山松氏が他にもあった)証言録を全部知らなかったのではないか」などわざわざその信憑性について触れて解説している。 とはいうもの、作者が言うように他の資料との整合性や当時の組士たちの考えの一端を知ることができとても興味深く貴重な資料だと感じた。 この本には前半で「清河八郎」についての多くのことが割かれている(第1章 清河八郎と新徴組)。また、時代の多くの出来事が背景を添えて詳しく書かれていて興味深い。その中で特に印象深い内容を以下にいくつかピックアップしたい。 全体的として八郎について「国家有為(才能があること)の士」などと高く評価している部分が多く占める。その中で、浪士募集の内容の中で1つだけ八郎と浪士組の幹部たちに対して厳しい表現を使っているところがあった。「幕府では・・・幕末にあって一定の政策なく、朝令暮改なりしは周知の事実なれども、浪士の募集は拙の拙なるものであった。・・・山岡鉄舟、高橋泥舟の如きも一定見なく、極言すれば清川八郎の傀儡たるに過ぎず。八郎は非凡の豪傑であったが、短所として徳望なく傍若無人・傲慢不遜と誹(そし)られ、長所たる果断は志業の障碍(しょうげ/障害)を招いた結果である」 もしかしたら、この資料のこの部分が八郎の印象を短所として誤解を与えてきたのかもしれない。この部分は新徳寺の演説の頃を言っていると考えられる。以前にこのブログでイギリス艦隊が横浜に現れ、八郎が攘夷に焦っていたからこのような強硬な態度をとったのではないかと考えていた内容だ。浪士組が大きな組織になりながらも生麦事件が起こったために攘夷を急を要して推し進めなければならなくなったこと、あまりの短期間では浪士組内での意思疎通をとるのはむずかしく、説明をする時間の余裕がなく八郎の役割や理解も浸透させることがむずかしかったことなどを考えた。 当時、浪士組は寄せ集めの集団で組織がさまざまな人々で構成されていたので、いろんな考え方が混在して当然だった。この見解は八郎や虎尾の会とはあまり関係が深くなかった人々から浪士組幹部たちへ向けられた手厳しい見方の1つだったのではないか、と推測する。 話を浪士組の募集のところに少し遡ってみるとその状況がわかりやすい。「また、剣客近藤勇の如きも・・・その他の門弟20余名を連れてきた。家の子・郎党を伴って来た。なかには武州兜山の根岸友山(のちに倒幕へと転じる)、上州の金子龍之進等もあった。募集の名義が報国尽忠の有志というのであるが、実際は貴賤・貧富・老若の差別はもちろん、いわゆる玉石混淆で博学の者もあれば、姓名を記すあたわざるあり。天下の名人と称せられる剣客もあれば、竹刀(しない)の持ちようも知らぬ者あり。温厚篤実にして人格高きものもあれば、田夫野人(でんぷやじん/教養がなく、礼儀を知らない粗野な人)にして卑下(ひげ)すべき族(やから)も少なからず。しかれども、八郎はそれらのことは厭(いと)わなかった。・・・」 後の藩内の組織としての新徴組とは違う、掻き集めの感のある浪士組の中の人間関係の様子が垣間見られる。山岡鉄太郎が後に"八郎を語ることは自らを語ることになる"と言ったことを考えれば、この山岡や高橋、虎尾の会や尊王派の志士たちは連係プレーで組織だった行動をしていたのだろう。先ほどの手厳しい言葉はその時のリーダー、幹部と一部の組士たちとのギャップにより生じた言葉だったように取れる。強い信念、自信ある堂々とした態度、強いリーダーシップと傍若無人や傲慢と言う言葉は紙一重でもある。そのような誤解は歴史的に八郎や虎尾の会の人々が行った勇気ある行動とそれからの意図を汲み取り、理解すれば容易に溶けるように思える。 このように八郎への良いコメントだけでなくあまり良くないと思われることも取り上げられている。これは300人以上いる新徴組には様々な意見があったことを意味していて逆にこれらの証言が組士の屈託のない意見を吸い上げていることを示しているだろう。(作者の千葉本人も浪士組には参加をしていないはずなのに自由に述べている。) 次に、浪士組が攘夷を強く推し進めたことについて、次のような記述があった。「ちなみにいう。井伊大老が安政の大獄を惹起して以来、尊王攘夷の4字は流行になり、報国尽忠の4字もまた流行となった。・・・いわんや尊王ばかりを唱うることは徳川氏に対しはばかるところがある。それで尊王攘夷と関連せしめて流行せしめているのである。 そもそも関西の志士は王政復古と討幕が目的であるけれども、討幕の名義は朝敵にあらざれば下されない。無名をもって唱うることはできぬ。それゆえ開国の時運に向かい、攘夷の不可能なるを知りつつ、朝紳(公家、公卿)を動かし、攘夷の令を下さしめ、幕府を苦しめ違勅の種を造って討幕の名を得んと画策したのである。 八郎の如きはしからず(そうではなかった)、真面目に尊王攘夷を実行せんとしたので、討幕の意思はなかった。彼が3月5日(に提出/3度目)の建白書中「第四、京都の守護は一切会津侯に御委任、他の掣肘(せいちゅう/そばから、あれこれと干渉して自由に行動させないこと)なからしむること(はあってはならない)」「第七、将軍(が)勅を奏ずる上は、速やかに帰府(東京に帰ること)して天下に号令し、征夷の大業(攘夷実行)を逐ぐること」とあるを見ても、彼は何の欲望もなく至誠もって尊王攘夷の決行にありしを知るべし(しるべきだ)。 八郎が初め報国尽忠を名とし、浪士募集の進言をなしたるは、尊王攘夷の名をもって進言するも、幕府は採用せぬと考案せしならん(尊王攘夷の名目で提案しても幕府は採用しないと考えたのだろう)。とにかく人数を集むることを主眼とせしにほかならず(主の目的とした)。応募者中主義の何たるを了解せず、単に報国尽忠を名の下に集まり来たるもの十中の八、九。・・・」 少し、長い引用になったがここで八郎が「真面目に尊王攘夷を実行しようとしていて、討幕の意思はなかった」としていることが興味深い。八郎は「回天唱始」、「革命」を最初に言い始めた人なのだが、「討幕の意思はなかった」という言葉からすれば徳川氏や佐幕派の排斥を考えていなかったことになる。推測にはなるがこの言葉を信じれば、もし仮りに八郎が生きて明治を迎えていたならば、後の大義のない東北戊辰戦争には反対の考えだったと言っていいだろう。 「長屋玄蔵」という千葉の友人で山岡鉄太郎を師事し清河八郎を崇拝していた人物の話がでてくる。長屋は千葉とは姻戚関係であり入間郡川越村出身の浪人だった。29歳で浪士組に入り、荘内(湯田川寄宿舎)にも移住して戊辰役に出兵し矢島城陥落(秋田県由利本荘市)にも参加した。 長屋はいつも八郎が詠んで書いた次の書の掛軸を床上に掛け、八郎の死後、朝夕香花を手向けていたという。 「さくら木を削りしたたむまこころは すめらいくさ(皇戦)の魁の花」 この歌からは桜木を削った時の何となくほのかないい香り、清々しい香りが伝わってくるように感じる。そして、それは八郎の当時の心境にもなぞらえられる。八郎の行動と実直な人柄が偲ばれる歌でもある。 掛軸は直接八郎からもらって大切にされていたのかもしれないし、長屋玄蔵が山岡鉄舟を師事していたということだから山岡鉄太郎から譲り受けたのかもしれない。とにかく八郎を厚く慕っていたことが伝わってくるエピソードだ。 詠まれた時期の詳細については不明だがその時期は京都、あるいは江戸に戻ってきてからのものだろうか。それとも暗殺される直前の頃の歌だったのだたろうか。 歌の内容を理解するには、この歌が歌われた時期が問題になるが、”すめらいくさ”が当時から考えれば横浜異人館焼討ちだろうとすれば、やはり外国との戦争(攘夷)を具体的に考えていたのだろうと思われる。 淡いピンク色の桜木で削られていたものは何だったのだろう。桜木を削るとは削った後に何か形が完成するというプラスの意味にも感じられるし、身を削るというマイナスの意味にもとれる。 浪士組の組士たちへの励ましの歌の可能性が高いようにも思えるが、横浜の焼討ちを直前に思いとどまり戦争を回避しようとしていたと言われることと関係があるようにも思えたりもする。 この当時のこの清々しい歌とその後の八郎の暗殺とのギャップ、とても不思議な歌に思えた。 この本には300人以上の人の名前が出てきてその人の経歴や人となりが書かれている。その交友関係を丹念につないでいくといろいろな人間関係がみえておもしろい。 その中で発見したものの1つ、先ほどの長屋玄蔵を恩人とし意気投合の間柄だったという備後出身の山口三郎という浪人の話を紹介したい。この人は蘭学や砲術を学び、井伊直弼を日本の救世主と仰いでいたという。「八郎とは大いに意見を異にする攘夷論者だったが、開国論者だった」という。また、虎尾の会の池田徳太郎とは"お互い信頼した仲"だとして池田徳太郎の話もでてくる。この辺りの内容はハ郎が画一的な鎖国論者だったかなど、少し一方的で内容的に浅い部分があるのでもう少し精査が必要のように思えた。ただ、攘夷と言って一つの集団にいても主義主張は微妙に違っている、今でも組織内でよく見られることでリアルな内容に思えた。 この本全体を通じて作者の千葉が清河八郎をとても高く評価していたことが伝わってくる。新徴組の人々は関東の出身者が多かったため厳しい冬の庄内の寒さに慣れることなく、関東に戻り帰った人が多かったと、昔新聞の記事などで読んだことがある。リーダーの清河八郎が亡くなったことにより、歴史にほんろうされたのではないかという少し申し訳なく思う気持ち、戊辰戦争での活躍、庄内を守ってくれたことへの強い感謝の気持ちなど、複雑な想いが交錯する「新徴組」のその構成員の人々の1人1人の歴史が知れる本だった。【送料無料】横手やきそば6食(専用茹で麺&ストレートソース)横手焼きそばを本場横手から工場直送!モンドセレクション金賞&iTQi2つ星受賞おうち時間〇 電子書籍での購読はこちらで ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2019年06月29日
現代風に言えば清河ハ郎の職業は学者だった。そんなように昔、聞いたことがある。確かに江戸唯一の文武両道の塾を開いたのだから、"塾の先生=学者"で間違いなさそうだ。だが、回天唱始(革命を言い始めること)の幕末志士のイメージからすれば政治家、革命家となるし、家業を手伝っていたのだから商人、実業家と言ってもいいのかもしれない。 現代では学術書や専門分野の資料を見て研究するというイメージのある学者だが八郎はそういう学者ではなかった。旅をよくして色々なところを訪れた。そして、そこで見たり聞いたりして感じたことからも学びとった。 ペリーの来航により日本の歴史は泰平の眠りを覚ませられるように激動期に入り、ペリーは日本の近代の幕開けをしたとも言われる。幕末偉人のご多分に漏れず八郎はペリーの黒船艦隊を見に行っている。こういう経験を経たことも学者から革命家となる動機の1つだったのかもしれない。ペリーが日本に来た頃のハ郎の行動を追ってみたい。 当時、八郎は学者を目指し学問(安積艮斎塾)と剣術(北辰一刀流)に励む真面目な学生だった。嘉永6年(1853年)の3月にハ郎は実家から重大な相談があるということで郷里の清川に帰っている。その後、実家での相談の結果がどうなったかは不明だが、4月には蝦夷地に視察に行っている。(アメリカのペリーが来る以前、日本が対外交で悩まされていたのが欧米列強の内のロシアだった。)その1、2ヶ月後の6月3日、ペリーが浦賀沖に来航、6月9日に上陸、12日に香港へ向かった。八郎がもし江戸にいたら黒船を見に行っていたにちがいないが実家の清川に戻り蝦夷地に行っていたこと(約3か月の単身蝦夷地の視察:5月12日:酒田港を出立、、青森から陸路秋田を経て清川に帰る)やペリーの1回目の滞在が短かったこともありこの時は黒船を見られていない。 ▼ ペリーが来航した時、最初に上陸した久里浜(ペリー公園/横須賀市)▼ 久里浜海岸(ペリー公園/記念館前)・左に連なる山沿いの小さな岬の裏側、左奥が浦賀港、この久里浜の方が広く見通しのよい場所のようだ。※初回のペリーの来航時、八郎は清川から酒田港を出て蝦夷地(北海道)に行っていた。ロシア船などを見るためだっただろう。 嘉永7年2月(1854年)、1度目の来航から約7ヶ月後、ペリーは2度目の来航をする。そして、2月11日(3月8日)に今度は横浜に上陸した。八郎は清川を出て江戸へ向かった。江戸に着いた2月24日当日に神奈川へ向かっている。ペリーについては郷里で噂を耳にしていたようなので、江戸に向かったというのはペリーの黒船を見に行く目的があったからなのだろう。▼ ペリーが2度目に来航した時に上陸した横浜の象の鼻(旧埠頭) 大川周明の「清河八郎」には、時事に言及するようになってまもなく、初めて憤慨した内容のものとして嘉永7年4月29日(23歳)の手紙が紹介されている。「・・・異国船(ペリー艦隊)は、国元(庄内藩)で噂があったとおり、2月11日頃神奈川沖へ次々に乗り込んで来たというので、24日に着替えもせずに神奈川(宿)にやってきました。すると軍艦船4隻、蒸気船3隻、合わせて7隻が1里(4km)ほど沖で(碇に)繋がっていました。一旦、浦賀で応対したが異人(アメリカ人)が神奈川沖の横浜で対応してほしいと強く主張するので、仕方がなく横浜で対応して(広さ)千畳敷の屋敷を建築して浦賀奉行が出張して対応いたしました・・・」「私も翌日(25日)横浜にやってきたところ黒船の様子もとても良く見えて、おおよそ30間(54メートル)ほどの大きさでした。右の応対場に異人が毎日上陸して、いろいろなカラクリものなどを組立てていました。火の車と言って3人ぐらいが車の上に乗り、水火の仕掛けで平地を馬が駆けるように走る車などを毎日試していました。・・・異国人で1人、亡くなった人がいて日本の地に葬らさせてほしいという願い出があったので真田公が本陣の下に埋めさせることに決めましたが、異人たちが墓参りと言ってその近辺に徘徊し、傍若無人の振る舞いをしました。彼らは正当に亡くなった人を埋葬したことにかこつけ日々、上陸の理由としたように思え・・・」「私が横浜から帰る日などは、異人3、40人が上陸して墓参りをしてひそかに見物をしていました。異人はもともと夷狄と言われながら、前述のとおり傍若無人の振舞い決められた場所も守らないで、勝手気ままに往来して、田畑に出ては野菜を取り、沿道や近辺の百姓は大憤激して畑作業の邪魔になっていましたので追い払われる度に、もしできるならば、私たち(百姓たち)が寄せ集まって逮捕すべきだなどと申し出る村もあるぐらいに遠近で迷惑にしていました。幕府はとにかく平穏に取り計らい、どんなことでもするが関わらず放っておくように言われ、頼るところもなく見捨ておかれることになりました。誠にもって苦々しいことでした。」「先日幕府より料理がふるまわれた際、8艘の頭(アメリカ人の艦長)全員が千畳敷に招待されもてなしを受けました。ことごとくつまみ食いをして、食べにくいものはそのまま吐き出し左右の屏風などに振捨て、言語道断犬に物を食わすあんばいで見かねた様子のことだったそうです。」「いづれ彼らの考えは、思うさま乱暴をして日本を呆れさせ戦さを仕掛ける様子を見せ、それ故防ぎ取り接戦いたす申すべき(そういう理由で防戦して交戦しようとする)様子故、相成る(交渉する)だけ不肖いたし(おろかで)、こちらから手を出し始めるよう仕掛けているように見えるが、とても終りは戦いの事(最終的には争いとなること)なので、その様な恥辱を受ける前にこちらから打ち払いべくことに・・・追々黒船渡来、乱暴なことではあったが頃合いよく将軍家の下知に関わらず(将軍の命令があったにも関わらず)、国司方の大名衆より天下の為に乱暴を打払うの義兵を越し可申(大名から国のために義兵を募集すること)も計られず、然る時は乱却って国内より起り申すべし(こういう時は国が乱れて内乱が起こる可能性がある)・・・」▼ 象の鼻(旧埠頭)から見た横浜の港と現在の街並(ペリーの2度目の来航、上陸の地)・左端の四角錐のとんがり帽子のような塔が神奈川県庁、中央は横浜税関。・神奈川県庁、開港資料館、開港広場公園があるこの辺りにペリーたちのために建てられたという応接所が設けられたという。▼ 象の鼻方向から見た開港広場公園と開港資料館方面・かつてこの辺りは砂浜で開港資料館の中庭にはペリー上陸当時の"たまくす"の木が残っている。有名なハイネの"ペリー提督横浜上陸の図"の絵と照らし合わせれば当時の位置関係が想像できる。おそらく、この辺は開港資料館から続く砂浜を盛り土をして埋め立てられた岸壁なのではないだろうか。▼ 開港広場公園と隣接する開港資料館・海岸通りの先の右奥にはランドマークタワーが見える。この辺りは砂浜だった。ハイネの絵のたまくすの木は中央の開港資料館の中庭にある。ペリー艦隊乗員が上陸して整列した場所とも言えるだろう。安政6年3月3日、ここで「日米和親条約」が締結された。 水火の仕掛けとはSLのことなのだろう。おそらく他にも多くの群衆がいてその中で見物したにちがいない。現在の神奈川県庁や開港広場公園辺りと考えられる。 長旅で疲れているし上陸して異国を見てみたいという衝動はどこの国の人でも同じだろう。生活や風習の違いなど外国人にとって食事も慣れないもので同情するところが多い。しかし、野菜を取ったり食事のマナーの様子は当時のアジアの国、日本の弱い立ち場、国際情勢を現しているようだ。ただ、この当時アメリカは威圧的な態度での交渉をしながらも本音ではまったく戦争をする気はなかった、ペリーは本国から戦争をしてはいけないと命令を受けていたとされる。南北戦争を控えていて外国での戦争どころではなかった、こういうことは外交が情報戦でもあり戦略的な目で見なければならないといういい例なのだろう。当時は後進国で決して大国ではなかったアメリカだが交渉が上手なのは伝統なのかもしれない。 大川周明の言葉を借りれば、その後八郎は "さりながら、尚未だ起って国事に奔走しようとしなかった。"とされるが、この時には思想的なものが固まっていたのかもしれない、ここでの内容が後の攘夷運動へつながる内容となっているのでとても興味深い。 そして八郎は江戸で学問を続けた。3月上旬に安積艮斎の推薦を受けて昌平黌に入学する。諸国から来学する50人もの人たちの中に入った。緒方士が集まっていて面白いことは面白いとしながらも、「繁雑にて甚しく騒がしき、学問のためには毛頭益には相成らず、それ故従古(湯島)聖堂より大豪傑の出でたる事さらに之無し、唯だ大名より命ぜられ、やむをえず2、3年づつ学問に参上するところの為、一向に励むものも之無く、その上多人数ゆえ、酒色などにはかり相走り・・・誠につまらぬ事に御座候。」と昌平黌に失望している。 実践行動主義で多くを学び、自ら全国を回って見識が広く深くなっていった八郎。世界と日本の現状を知り純粋に学問をより高い水準で探究しようとしていたから違和感を感じたのだろう。当時の心境の様子からみれば少なくとも御用学者のような学者を目指してはいなかったことがはっきりする。そして、自分が求め必要とされる道を探して進んで行った。 23歳の八郎は開港直後の横浜の様子を見ていた。その時、住民がわずか90戸ほどと言われる横浜の半農半漁の小さな村からの発展はその後著しかった。八郎はその後、横浜異人館焼討ちを2度計画するのだが、村から街への変貌は想像以上であり八郎の計算を狂わせたのではないか。この時横浜に訪れてからおよそ10年後、再び横浜の町を見たときの大発展ぶり、国際的な港町の重要性が高まっていたことに戸惑いを感じたのではないかと思った。 1859(安政6)年3月31日:日米和親条約締結、 1859(安政6)年7月 1日:横浜港開港、町づくり完成横浜 お土産 ありあけ 横濱ハーバーアソートダブルマロン&ガトーショコラ8個入
2019年03月28日
歴史群像10月号で「庄内秋田戦争」が取り上げられた。文と俯瞰図は、藤井尚夫氏、全9ページで記載されている。ページの位置こそ105ページ目から113ページ目と後ろの方(全184ページ)だが、すべてカラーページになっているのがありがたい、内容がより良く伝わる。 戊辰戦争の中でも「庄内秋田戦争」が雑誌などで取り上げられることは少ないので、とてもよい企画と思い飛びついて読んだ。内容もよく調べられていて良いが、それ以上に地形的な内容が充実していることやイラストでの説明が視的感覚にうったえていてわかりやすいのがいい。新政府軍よりの内容も少しあるが現地を訪れてとった写真などもあり作者の情熱も感じられる。戦争の全体の流れを示しているくだりも工夫されていた。最後は紙面の関係なのだろう、ハショった部分もあるが全体的にはわかりやすくまとめられている。私も秋田(口)戦争は知らないことが多いのでとても参考になった。 中でも「椿台の戦い」が大きく紙面を割いて取り上げられている。地図絵の描写(イラスト)がわかりやすくてすばらしい。椿台は庄内藩が一連の戦争でもっとも深く進行した場所の1つで秋田藩久保田城まであと12kmの場所だ(雑誌では14kmと紹介)。現在の秋田空港とその周辺が当時の戦場にあたる。庄内藩にとって”椿台の丘を越えると、西北方の久保田城までは平地である・・・9月10日の段階で新政府軍は椿台に2000名を超える兵力を集中させ、庄内軍の合計を上回ったようだ。・・・”(以下” ”は雑誌記事より)と、秋田藩は戦争には間に合わなかったがここに新しい城を築城中だった。それほど重要視していた場所で新政府軍も背水の陣に近い状況だった様子がわかる。この戦いは庄内藩側に多くの犠牲者が出てそれまでの勢いをそがれる戦いでもあった。 庄内藩は奥羽鎮撫総督のいる久保田城へ向けて、山道口(羽州街道/第1、2大隊)と海道口(海岸沿い/第3、第4、亀ヶ崎大隊)から進撃を続けた。庄内藩の第2、第4番大隊と亀ヶ崎大隊が向野辺りで落合うように同日の9月8日にいよいよ雄物川を渡った。 久保田城へ進む途中の椿台へ進んだ時に新政府軍が待ち構えて起こった「椿台の戦い」(9月11日)では庄内藩(4番大隊と亀ヶ崎大隊)は椿台の南方の丘陵と椿台を見渡せる隣接する糠塚山へ進み出て戦った。新政府軍の挟み撃ちなどで押され糠塚山などを取られ劣勢にたたされた。しかし、なんとか立て直しを図り椿台の南方の丘陵に”踏みとどまった”。新政府軍のこの糠塚山の確保がそれまで快進撃を続けた庄内藩の勢いを制したという。 一方、第2大隊(隊長:酒井玄蕃)は同じく雄物川を渡った後、別働で東方面へ向かった。そして”新政府軍の前線司令部の神宮寺を占領”したり”久保田城と角館”間を分断させるなど羽州街道方面で勝ち進んで行った。おそらく、4番大隊と亀ヶ崎大隊の背後をとられないため、または挟み撃ちのための進撃だったと考えられる。 その後、椿台ではこの第2大隊の動向を警戒するようにして”にらみ合い”(膠着状態)が続けられた。※参考として、日本海沿岸を北上した隊については別資料から引用する。”日本海側の3番大隊は、亀田を出て、8月18日には羽根川に至った。久保田(秋田)城までわずか5kmである。3番大隊はこの地点に9月半ばまで釘付けとなった。”(戊辰戦争/保谷徹)雄物川の下流の河口近くのため、川幅が広く進むのが難しかったと思われる。) そして、”・・・鶴岡の庄内藩首脳は・・・状況を見て、9月18日に前線の大隊に撤退命令を通知した”。奥羽越列藩同盟軍の戦況が悪化していたからだった。 椿台の名前は知っていたが文字だけではイメージがうまくわかないことも多い。本の内容は地形がより具体的で解りやすくてよい。 特に状況を上手く表現していると感じられたのは、経緯としては話はさかのぼるが奥羽越列藩同盟の成立に関する内容だ。”「奥羽越列藩同盟」と称する軍事機構が本州の北半分に出現したのである。これほどの巨大な敵の出現は、想定外である。薩長の自らは出費せず奥羽の兵と財力を消耗させようとする虫のよい幼稚で独善的なプランは崩壊した。彼らは自らも出血せざるを得ない戦いに火を着けたのである。この原因は、奢った薩長の甘い読みにあった”。このような意見は官軍側の九州の諸藩の中から書かれている内容でもあり、東北戊辰戦争が本当に必要な戦争だったのか、問いを投げかける内容になる。 戦争には双方の見方がある。このような特集が雑誌などで紹介されることが多くなれば、いろいろな角度で戊辰戦争の分析も進むと思った。***************(追記)庄内藩側の軍事力について「戊辰戦争」(保谷徹著)に詳しいので参考として引用したい。 「1867(慶応3)年3月には、庄内藩では給人、中間に至るまで「惣鉄砲」と決し、銃隊に編成して調停を行った。68年(慶応4)正月には、幕府歩兵500を銃隊として抱えいれ、新徴組、大砲(新整)組とともに庄内へ連れ帰っている。この歩兵は英国式の調練をうけた部隊と思われるが、実際に庄内に入ったのは百余名であったという。このほか、庄内藩では領内から徴発した農兵を組織し、鶴岡・酒田では徴兵が徴募された。戊辰戦争には農兵1645名、鶴岡の町兵184名、酒田の町兵386名が出兵したというから半端な兵力ではない。さらにこれに数倍する郷夫(軍夫)負担が100石2人の割で領内に賦課されていた。・・・戊辰戦争がおこると庄内藩は警衛場所を割り当てられていた蝦夷地から藩兵730余を引き揚げた・・・本間家は、68年2月に「7発銃御求代」として1万2500両を献納し、その後も「新式7連発ミニケール銃」の購入のために6万両を融通した。・・・7連発とはスペンサー銃のことだが、仮に1挺30両としても優に2000挺を超す資金になる。・・・ガストネルやスネルから銃器類を購入し7月にはシャープス銃(後込馬上銃/アメリカ製)700挺、ミニエ銃(ミニエ-弾使用の前装ライフル銃)300挺を得て、横浜から酒田にひそかに輸送した・・・庄内藩はさまざまな条件を得て新式鉄砲に対応した軍事態勢を整えていたのである。」 近代戦争は総力戦の様相がある、全藩あげて対応していた庄内藩の様子が想像できる。平穏で平和な時代の今では想像も難しい信じられない内容でもある。*****天寿酒造 純米大吟醸 鳥海山 720ml ワイングラスでおいしい日本酒アワード 2016 大吟醸部門 金賞受賞楯の川酒造 楯野川 清流 純米大吟醸 720ml ワイングラスでおいしい日本酒アワード 2018 メイン部門 金賞受賞 稲庭うどん 寛文五年堂 いなにわ手綯うどん130g×4袋 比内地鶏つゆ200ml×2箱 【ふるさと納税】稲庭手延うどん 300g×5袋 A0901〇 電子書籍での購読はこちらで ※"出羽庄内 幕末のジレンマ"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2018年09月08日
没後150年という企画、江戸東京博物館で開催の「坂本龍馬展2017」に行ってきた。幕末の志士人気No.1と言われるとおり、人がとても多かった。入口には坂本龍馬の銅像(実際は樹脂原型)があり、大きくてすごくりっぱだ。 そんな中、自分のお目当てはというと清河八郎と関連したもので、そういった人は少ないのかもしれない。 入って間もなく入口近く「第1章、龍馬の生まれ育った時代」のコーナーに、お目当ての1つ北辰一刀流の目録が展示してあった。 目録の表紙には破軍星(北斗七星)がデザインされていて、青色の星の表紙の坂本龍馬の長刀(なぎなた)兵法目録、赤色の星の表紙の齋藤元司(清河八郎)の兵法箇条(刀部門)目録が、表紙と最後のほうに記載の当人たちの名前が見えるよう並べて展示してあった。この2つは比較して見るととても似ている。 坂本龍馬の目録は最近になって本物と判明したようだ。2年前(2015年)の新聞記事によると、長年坂本が目録を取得していたかどうかの疑惑があり、また北海道でその目録が見つかったのだが一部の研究者達の間では本物かどうかを疑問視する向きもあって八郎の目録と対比して鑑定を行い本物と判明したのだという。2つ並べてあること自体とても貴重だ。当たり前かもしれないが、手書きは書き手の息遣いが感じられてよい。 一緒に「玄武館出席大概」も展示されていた。これは八郎が当時(安政4、5年の頃)の千葉道場に籍を置いた人を書き残した名簿。それには坂本龍馬の名前もあり、展示ではそのページが開いて置いてあった。八郎がこのようなものを残せたということは、八郎は塾の中でもかなり信頼される存在だったことを物語っている。よくこのような形のものを残せたなぁ、さすがは文武両道の志士、と感心させられた。 余談だが You tubeで検索すれば玄武館の北辰一刀流の形(北辰一刀流兵法、抜刀術など)を見ることができる。剣道は習ったことがないので中学や高校で友達が部活で行っていた剣道部の練習ぐらいしかイメージはなかった。北辰一刀流がどんなものなのか知らなかったが、最近You tubeで見ることができてとても感動している。北辰一刀流は1つ1つの動きがより短くお互いの接触も少ないようだ。わずかとして動きのムダがないようでいてより実践を重視しているのだろう。刀の取扱いなどの作法も丁寧でより実践的だった。八郎や坂本、山岡鉄太郎は体が大きかったそうなので、映像にでてくる背の高い方の人のようだったのだろうか、などと、八郎たちと重ねて想像をたくましくして見た。八郎たちが行っていたもの、八郎たちが青春をかけて取組んだ幕末の時代と同じものを現在見られるのはとても幸せだ。 柴田錬三郎の小説「清河八郎」の表紙には刀の刃を自分の方向に向けた八郎の絵が飾られてある。刃の向きを反対に構えているのをずっと不思議に思っていたのだが、北辰一刀流の形の中で刀を確認する場面があるのでそれを描いたものかもしれない。柴田は実際に北辰一刀流を見て、表紙をこのような絵にしたのだと思った。柴田 錬三郎 著『清河八郎』の表紙↓ 清河八郎 / 柴田錬三郎 話を龍馬展に戻す、次は「第2章、土佐脱藩と海軍修行」で、勝海舟の門人になったり海援隊を組織したことに象徴する船の備品が多く展示されていた。さすがは太平洋に面している土佐の国ということもあって、遠洋航海で使うと思われる貴重な品々が並ぶ。坂本は筆まめだったと言われるように残された直筆の資料も多く資料が充実していた。その他、京都寺田屋に飾られてあったという掛け軸には血が飛び散った痕があり、坂本の命がけの幕末の行動をみるようだった(ちなみに掛け軸は復元されたもので寺田屋は鳥羽伏見の戦い後の復元)。よく雑誌などでみるナポレオンの真似をしたと思われる写真も展示してあってよかった。 清河八郎と坂本龍馬のもう1つの接点は「尊皇攘夷党」だ。尊皇攘夷党は山岡鉄太郎が中心となり清河八郎をリーダーにして15人の発起人で作った秘密結社で、通称、「虎尾(こび)の会」と呼ばれる。坂本は発起人15名には入っていないがこの会の名簿に記載があって会のメンバー(幹事)だったとも言われる。 ※「山岡鉄舟 幕末維新の仕事人」佐藤寛(著)で虎尾の会のメンバーとして「坂本龍馬が最後に署名を残している」とある。山岡鉄舟関係の資料にこのようなものが残っているのかもしれません。 実は、龍馬展で一番興味があったのは海援隊以前のもの、坂本が江戸で修行し八郎と交流した時代のものだったが、江戸修行から脱藩の頃までの2人に関する資料は前述の資料以外見当たらなかった。八郎と坂本は道場こそ違ったとは言え、同じ流派の道場なのでおそらくはそこで2人の関係は生まれたのだろう。坂本の尊王攘夷党との関係はどのようなものだったのだろうか。 坂本の歴史についての知識があまりあるわけではないが、坂本と虎尾の会、尊王攘夷活動との繋がりはあまり解明されていないように思う。坂本の「虎尾の会」の活動について歴史の本やドラマなどを見る限り取り上げらることはほとんどない。虎尾の会は幕末で重要な役割りをしたはずだ。 そして、1つ気になることを見つけた。文久2年の頃、坂本は中国、四国、九州、大阪と行動範囲が広い。同じ時期、八郎も九州遊説で推し進めた「京都挙兵」のため関西方面にいて忙しく動いている。坂本と八郎の行動を調べ、この頃の2人の接点を探ってみた。 以下、坂本の脱藩頃の坂本と八郎の行動。- 文久元年(1861年)・8月 : 武市半平太、江戸で土佐勤王党を立ち上げる。坂本は土佐で加盟。・11月 9日: 八郎、九州遊説の開始。・11月27日: 八郎、伊牟田とともに白石正一郎邸(下関)に泊まる。- 文久2年(1862年)・1月 7日: 八郎、乙津港(大分市)を出発する。・1月10日: 八郎、(九州遊説後)大阪へ戻る。・1月15日: 坂本、長州で久坂玄瑞(萩)に会う。(武市の書状配送の使者として)・1月23日: 坂本、萩を出立する。・2月29日: 坂本、土佐へ帰国。・3月22-23日: 西郷隆盛、白石正一郎邸(下関)へ入る(朝)。そして長州藩の久坂玄瑞、土屋矢之助、山田亦介、土佐藩脱藩浪士の吉村虎太郎、沢田尉右衛門(沢村惣之丞の変名)、久留米藩の原道太らと会合する。夕方、豊後岡藩小河一敏、福岡藩平野国臣と面会する。(討幕京都挙兵について情報交換)(「敬天愛人」テーマ随筆)・3月24日: 西郷隆盛、大阪へ出立、27日到着。・同日(24日): 坂本、土佐藩を脱藩、すでに脱藩していた沢村惣之丞らの手引きを受け、下関に向かう。同日伊予に入る。・同日(24日):八郎、大阪・薩摩藩邸へ入る。・3月27日: 坂本、(伊予)長浜に宿泊。・3月28日: 島津久光、下関へ入る。・3月29日: 坂本、長州三田尻(現防府市)に到着する。・4月 1日: 島津久光、下関を出発する。・4月 1日: 坂本、白石正一郎邸(下関)へ入る。・・・・4月 8日: 「吉田東洋暗殺」・4月11日: 西郷、村田新八と森山新蔵とともに大阪から山川港(指宿)へ海路送られる。・4月13日: 八郎、大阪・薩摩藩邸を去る。 同日 :島津久光、伏見に到着。・4月14日: 八郎、京都へ入る(山崎から向町の旅館へ、その後京都三条河原町の飯居簡平の家に落ち着く)。・4月23日:「寺田屋事件」 薩摩藩・島津久光が、(公武合体での)幕政改革を志して兵を率いて上京、薩摩の(討幕)尊王派有馬新七らが寺田屋に集結し挙兵に備えていたが、これを止めようとした薩摩藩の大久保一蔵らと同士討ち(共に誠忠組)になった。・・・・6月 1日: 八郎、京都から江戸に立つ。・6月 6日: 八郎、石部駅(琵琶湖近く)に泊まる。(その後、関、伊勢、京都、大阪、高野山、松坂などを往来する)・・・・6月11日: 坂本、大阪に現れる、大坂に潜伏。・・・・7月10日: 八郎、伊勢を起って吉田(駿河)に至る。その後、富士登山、甲府、伊豆、熱海へ行く。・8月21日: 「生麦事件」・8月22日:八郎、平塚宿で島津久光の行列に出会う。・8月24日: 八郎、江戸に到着する。・・・・8月某日 : 坂本、江戸に到着して小千葉道場に寄宿。・・・・12月 3日: 松平春嶽、松平主税之助を講武所剣術教授方兼任のまま、浪士取扱に任命する。・12月 5日: 坂本、松平春嶽に拝謁(間崎哲馬、近藤長次郎とともに)。 (※土佐の間崎哲馬は安積艮斎塾で八郎と意気投合した人物)・12月 9日: 坂本、松平春嶽を訪れ幕府軍艦奉行の勝海舟への紹介状を与えられ、同日海舟宅を訪問して門人となった。※最近、松平春嶽に坂本を紹介したのは八郎だったという説があるそうだ。言われてみればその内容は急務三策(英才の教育)にあう、虎尾の会とのつながりでの活動として解釈することもできるかもしれない。・12月10日:松平主税助、宮和田光胤に浪士組責任者の依頼をする、宮和田は13日にそれを断る。※八郎への浪士組責任者へのきっかけ。・12月20日:松平主税助から杉浦梅譚へ(要人として取立てるべき)浪士の名簿(2回目)が渡される。(八郎、坂本の名の記載)・12月29日:幕府の浪士(組)募集の命令(板倉閣老から松平主税助へ)坂本龍馬歴史大事典 (歴史読本ライブラリー) [ 歴史読本編集部 ]←坂本龍馬についての参照はこちらから。 八郎の行動範囲は広く追い切れないところがあるが、虎尾の会の活動があったと考えれば八郎と坂本が関西で接触したとしても不思議ではない。 当初、坂本が脱藩したのは八郎たちの推し進めた京都挙兵に合流するためではないのかと考えていたが、脱藩後伊予の国を出るのに健脚であった昔の人にしては十分過ぎるほどの時間をかけていた。脱藩の追手を気にしていたかどうかはわからないが、時間を稼いでいるように思える。さらに長州三田尻に渡って島津久光が到着するのを待っているかのように見えたが合流するどころかすれ違うようにして京都と逆方向の下関に向かった。下関では白石正一郎邸を訪れている。※ 白石正一郎は幕末に多くの志士を支援、援助した人として有名で、白石邸は後の奇兵隊の結成地であり資金源でもあった。文久元年に薩摩藩の御用達ともなった商人でもあり薩摩藩とのコネクションが強い。 白石本人の尊王攘夷の志は強く自らも積極的に尊攘運動を展開し、長州藩外国船砲撃事件(文久3年、1863年)に参加したほか、奇兵隊が結成されると、弟の廉作(のち生野の変で自刃)とともに入隊した。(図解幕末・維新/成美堂出版) このような人がいたこと自体驚きだが、おそらくは援助するばかりだけでなくみかえりとして情報を得ることも重要だったのだろう。坂本もここを訪れたのは援助に加えて尊王攘夷派の情報を交換する目的があったはずだ。 下関を後にして九州の方面へ向かいその後の行動は不明のまま坂本が次に姿を現したのは大阪で6月になっていた。土佐を出るときから何か他の目的があったと考えるのが自然ではないだろうか。 久光とすれ違い幕末の志士のアジトのような白石邸を訪れていながら、京都と逆の方向へ向かい2ヶ月に及ぶ九州方面での不明の期間、何をしていたのか?脱藩はなぜこの時期だったのか?吉田東洋暗殺との関係は?土佐勤王党や虎尾の会としての活動は?など、多くの疑問が残った。八郎も久光の動向を気にしていたのだろう、生麦事件後の薩摩藩の大名行列を見逃すことなく見に行っている。わずかな情報でも得ようとしている意図的な行動が読み取れる。 掛け軸が残っているように坂本は「寺田屋」で襲撃される(4/23ではない襲撃事件の方)、坂本が寺田屋にいたということ自体薩摩藩とのつながりが強く尊王攘夷の先鋒だったことを物語っているだろう。坂本もまだまだ解明がされていない謎が多い人のようだ。虎尾の会はその謎を解くキーワードの1つなのかもしれない。(敬称略)土佐の果物 香るジャム箱入り6個入(4840)(やまもも・黒ぶどう・ゆず・文旦・すもも・小夏)
2017年06月04日
「出羽の国、幕末のジレンマ」の続きは次のサイトで。 👉【出羽の国・古代史発見ブログ】 「出羽庄内 幕末のジレンマ. 24 (清河八郎 編)」 - 浪士組の解散と残された3つの暗号(句) 「出羽庄内 幕末のジレンマ. 25 (清河八郎 編)」 - 八郎のプロフィール 「出羽庄内 幕末のジレンマ. 26 (清河八郎 編)」 - 清川について ********〇 電子書籍での購読はこちらで ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版酒田米菓 オランダメール便セット 【1000円ぽっきり 送料無料 オランダ煎餅 せんべい メール便 詰合せ 人気】
2017年01月03日
1863/5/15(文3/3/28)、浪士組が攘夷実行のために約50日ぶりに江戸に戻ってきた時、江戸は大騒ぎになっていた。 「1863/4/22 (文3/3/5) に、イギリス国軍艦数隻が来航し、幕府は応接の様子によっては開戦する可能性があるという内容で、大名・旗本へ触れが出された。・・・12日になるとさらに、女・子供・老人や病人は勝手次第に避難するように命じられた」(幕末御触書集成/幕末日本と対外戦争の危機/ 保谷徹) 「文久3年には、前年の生麦事件の処理が紛糾したため臨戦態勢がとられ、江戸では老幼女子や病人を近郊に疎開させるために混乱し、物価はさらに上昇した。」(東京の歴史/山川出版社) イギリス軍艦3隻(ユーライアス号、ラットラー号、レースホース号)が横浜港へ来航したのは、2か月前の1863/3/22(文3/2/4)。幕府と薩摩藩の双方に対して、生麦事件での犯人の処罰、賠償などの要求とそのための圧力をかけることが目的だった。ホープ提案によるラッセル(外相)訓令が文3/1/25に到着していて、イギリスは江戸湾と瀬戸内海を海上封鎖する作戦を練り、いつでも発動できるものにしていた。「この頃、外国の新聞では、対日戦争必至の記事がとびかうようになる・・・、タイムズ紙も“だれもが戦争になるにちがいないと思っていた・・・”」(国際ニュース事典 外国新聞に見る日本/内川芳美・宮地正人監修)。 八郎が亡くなる直前に書いた実家への手紙にも、“遠からず戦争になるでしょう”とあり、この時期の緊迫した様子が読みとれる。 八郎の 文3/3/9の池田修理宛ての手紙では、「幕府から(全国へ)攘夷の号令をさせる」というのだから、具体的なイギリスとの戦争を想定していたようだ。その後に起こるかもしれないイギリス国との戦争をどのようにしようとしていたかの詳細は不明だが、父への手紙に書いている「戦争」はイギリス兵とその軍艦との戦争だ。現在で考えれば無謀な計画にも思えるが、なにか考えのあってのことなのだろう。幕府は結果的にはこの行動を阻止することになるが、八郎たちの計画は下関戦争や薩英戦争に魁ける計画だった。 浪士組が京都に向かい江戸を出発したのは 1863/3/26 (文3/ 2/ 8)なので、イギリス艦隊の横浜来航のわずか4日後。このような緊急の情報は早く伝わるものなので時期から考えて八郎が江戸を発つ前、すでにこのイギリス艦隊の横浜来航を知っていたとしても何ら不思議ではない。江戸が緊迫している中、浪士組は京都へ向かった。 以前、『父への手紙に「4月はじめにまたまた江戸に帰り申すべく候」とあることについて、京都に来たばかりの浪士組を八郎は1か月あまりで江戸に引き返させるつもり(自分たちの意志で江戸へ戻ることを計画)でいた・・・』と、書き、江戸へのトンボ帰りを不思議に思ったのだが、イギリス艦隊を狙うのがその理由・・・と考えれば、謎が解ける。八郎が”新徳寺の演説”で、焦りがあったのではないかと考えたことについても、「イギリス艦隊の来航により、早く江戸に戻り攘夷をしなければと思う焦り」とすればより理解が深まるようだ。 とにかく江戸は戦争に備え、緊迫していた。一部の外国人の傲慢なふるまいに対する怒りもあり、闘志が満ち国を護ろうという気風が張り始めた時期だったという。そこへ浪士組が攘夷の勅命を受けて戻ってきたのだから、江戸の人々は浪士組をたのもしく思っただろう。 八郎の父母への手紙によれば、浪士組は“評判”になり本人自身も当惑するほどだった。“(八郎たちの)名声がとても高まり立場も重きをおくように”になった、と書き残している。江戸の町の人々はみんな攘夷を待ち望んでいたにちがいない。 八郎は当初、幕府との(幕府と共同の)攘夷を画策したとされる。しかし、幕府が破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)に踏み切らないことに失望し、横浜でのイギリス艦隊(後に薩英戦争に参加する3隻)と夷人館焼打ちの攘夷を計画した。 なぜ、横浜(軍艦と外国人居留地)焼打ちなのかといえば、生麦事件があったことと、当時 孝明天皇が横浜鎖港を希望し、徳川慶喜が朝廷(実際は京都公家たち)に横浜鎖港(港の閉鎖)を確約していたこと(文2/5月)が関係するのだろう。 浪士組での横浜焼打ちは、軍艦が標的に加わり 1861/6月(文元/5月中頃)以来2年ぶり2度目の計画だった。 江戸では、浪士組が京都にいる間 、浪士の追加募集がなされ160名が参集していた。浪士組は総勢500人規模に拡大する予定で、攘夷のための軍資金も自分たちで準備した。実行は、1863/6/1 (文3/4/15)を予定日とし、5日前(文3/4/10)に横浜へ下見にも行っている。攘夷は時間の問題だった。 八郎は京都にいる時から命を狙われていたが、運も見方し難を逃れられていた。幕府組織下の浪士組が、イギリスを攻撃するということは幕府にとっては一大事だ。攘夷計画の情報がどのようにして幕府に漏れたのかはわからないが、幕府は八郎の暗殺(だまし討ち)の指令を 文3/4/7 と4/12の2回に渡り出した。 攘夷実行予定の2日前の、4月13日の夕方の4時ごろ、八郎は、用事をすませ 麻布上山藩(松平家)邸を出た。麻布十番通りの(古川へかかる)“一の橋”を(西から東へ)渡り終わった辺りで、浪士組の佐々木只三郎ほか6人に 前後挟み打ちで切り付けられて生涯を閉じた。34歳だった。 暗殺犯の6人とは、佐々木只三郎、早見又四郎、窪田千太郎、中山周助、高久安次郎、家永某。八郎1人に対して6人もの刺客が立ちはだかった。かなり大がかりに感じられそこからは八郎の剣術を相当警戒していた様子が見てとれる。いつもは連れ添っていたとされる護衛5人はこの時はいなかった。 暗殺された場所は古川と赤羽川合流点の近くで現在の地下鉄南北線麻布十番駅に近い。一帯は首都高の橋桁に囲まれ車の往来の多い場所にも近い。また、麻布十番の商店街も近くにぎやかで都会の騒々しさもする場所でビルに囲まれて時間によっては少し日が差しにくい場所でもある。八郎の死により浪士組はリーダーを失い攘夷実行の道筋を失うことになり浪士組幹部関係者は謹慎などの処分をされた。そして横浜にいたイギリス艦隊は薩摩錦江湾へ移動し後に薩英戦争を行うこととなる。 八郎の大きなの謎の1つについて触れたい。京都ではまっしぐらに攘夷運動を進めたと思われる八郎だったが江戸に戻ってからは攘夷に消極的になったと考えられている。これはこれまでのスピード感ある行動との違いから多くの人の理解をむずかしくさせ悩せてきた。早すぎる行動のためにコンセンサス(一致した意見)が不十分になり反動も生まれたのだろう。私はこれを八郎が時代を先駆けながら現実的に行動していたために起こった情報の交錯による自然の成り行きだったと考える。 八郎の死後、結果的に歴史は八郎が予想していた形に近い内容で進む。八郎が直面し抱えた悩みと八郎の死後の日本の悩みは同質のもので幕末当時の誰もが(国も含めて)乗り越えなければならない試練のようなものだったと思えてならない。これはこのテーマのジレンマの要因でもある。 八郎は江戸に返ってから悩ませたもの、八郎の行動を自制させたもの、攘夷を躊躇させた誤算や修正が必要になった理由を考えてみたい。・勅諚(攘夷の命令の原本)が鵜殿に渡って八郎の元に帰ってこなかったこと。・横浜の港と町の急速な発展(攘夷計画1回目と2回目の2年間で変わった町の将来性)。・幕府の方針転換(攘夷に対する動向の変化) (文3/3/19: 幕府は”攘夷の勅”を奉戴することを全国に布告) (文3/4/ 1: 朝廷から幕府に、外国応接の事を水戸の徳川慶篤に委任させた) (文3/4/10: 攘夷の期限を文3/5/10 とすべき旨(攘夷実行の約束日)を諸藩に布告させた)・・・など。・想定外のイギリス軍他 各国の兵力規模。・長州藩との攘夷の連係の画策。・・・・・など。 そのほか、亡くなる直前に残した句が辞世の句に近い内容だったことなど、八郎の暗殺はまだまだ解明されていない謎が多い。 これまで見てきたように八郎の行動は、幼少から成長する段階での厳しい体験や経験がその土台にあった。天保の清川の悲劇や、庄内藩天保国替騒動(三方領地替)の一揆、藤本鉄石の諸国行脚などその手法も含め多くを学んだ。江戸に行き千葉道場(北辰一刀流)で鍛錬し、東条塾でも学び人脈もつくった。自分で江戸で唯一の文武両道の塾も開いた。八郎の並々ならぬ努力と人生を通じて出会った人達の輪が八郎を幕末維新の魁けに・・・と思う。 元清河八郎記念館館長の成沢米三さんは、八郎について書いた著書に「明治維新に火をつけた男」という復題をつけた。藤沢周平の「回天の門」では、八郎は「回天の門を開いた人」、という意味に取れる。革命家という意味もある。これらの言葉が八郎の業績と時代の役割を端的に現わしている。(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年11月07日
2つ目の誤算は、近藤勇らのグループが将軍家警護を理由に浪士組から離脱したことだ。後に新撰組となる13名で浪士組としては24名が京都に離脱残留した。人数的には浪士組全体の1割に満たない少人数なのだが、後々幕末の志士たちを苦しめる大きな存在になる。 このグループが浪士組に参加しようとしたきっかけは、近藤の道場にいた、「攘夷論者の永倉が主唱して「攘夷党」に加わろうということに一決した」ことだった。そして、近藤、土方、永倉など7、8名は直接、松平主税介を訪ねて浪士組募集話の真相を聞きに行ったという。そこで「尊王攘夷の本旨のことから、公儀で募る浪士の一隊は 来春上洛すべき将軍家茂の警護として京都へすすめられるべきもの」であることを説き聞かせられ参加した(以上、「 」は徳田氏)。 このグループは、京都に来る道中でもゴタゴタが表面化していた。大川周明は、「(近藤一党は)固(もと)より八郎等と、志を異にしている。ただ八郎は聊(いささ)かも玉石混淆(こんこう)を厭(いや)(で)はなかった」と説明する。 このエピソードからも浪士組の結成が攘夷が主目的としてあったことがわかる。松平主税介は松平春嶽により浪士組の浪士取扱に任命されたいわゆる浪士組の総責任者だ。江戸にあふれるやっかいな浪士たちを集めて将軍の警護として京都に連れて行く目的だったとの説もある。八郎の浪士組結成のコンセプトはあくまで尊王攘夷で、名目上は「急務三策」の中の「攘夷と天下の英材を教育す」に当てはまるだろう。組織的には虎尾の会の仲間が多く入り虎尾の会の拡大版になっていた。八郎には近藤たちを説得できる自信もあったが、その時間が足りなくてもの別れになったのかもしれない。 もともと浪士組は幕府が作った幕府下の組織なので主税介の意見も無視できないと事情もあっただろう(主税介は浪士取扱、八郎は取締役)。すべてを八郎が人選したり決定できたとは考えにくい。(おそらく、近藤グループは、別の浪士募集の機会などで幕府側に組することができただろう。ただ、この時の浪士組へ参加していなければ京都に来ることはなかったのかもしれない。) 近藤グループが、浪士組を離脱したのは東下の披露会 (「攘夷の先鋒となる旨(むね)」の発表)を行った日、つまり浪士組が京都を経つ前日だった。(八郎の新徳寺の演説では池田を除き、全員が上書への署名を行っている。) 「彼らは、自分どもは幕府の召に応じて集まったものであるから、将軍家の命令がなければ一歩も退かぬというのである。蓋し(思うに)・・・これにより立身出世をする心組であった・・・」と、大川周明の説明はやや厳しめだ。離脱した13名はのちに新撰組となり勢力を拡大し、八郎を含め尊王攘夷派志士の命を狙うことになる。 また、京都ではどうしてだったのだろうヒステリックな集団の一面ももってしまった。後の結果からみると浪士組は大きく新徴組と新撰組(約9割と1割)に別れたことになる。そして、その後の新選組の活躍はテレビや本など見るとおりである。 ところで、近藤勇や土方歳三、沖田総司は、関東の多摩地区の出身として有名だ。近藤一党は、同郷として仲間意識も高く一緒に浪士組に参加した。 多摩地区は、現多摩川の流域(扇状地の一角)で関東平野の西側(埼玉県、東京都、神奈川県にまたがる)を占める広大な地域だ。一説には、多摩川の扇状地は、東は川越(埼玉県)から、西は川崎(神奈川県)に及ぶ。関東平野の西側の半域を占め、現在でも多摩川にまつわる地名が多く残る。今はその大部分が都心近郊としての工業団地と東京都心へのベッドタウンのようだ。 ちなみに土方の出身地 日野市について 東京都教育委員会WEBページには、「甲州道中日野宿は江戸日本橋から約10里(39.3km)の距離にあります。宿場の周囲には稲作地帯が広がり、経済的に豊かでした。この一帯は幕府領や旗本領であるため親幕的な気風があり、八王子千人同心の影響もあって剣術が盛んでした。」・・・とある。幕府の善政、幕府の求心力が残っていた地域だったのかもしれない。 幕末の志士など幕末で活躍した人達は、意外に裕福な家に生まれた人達が多い。この時代も生活にゆとりがなければ政治活動はむずかしいかったのだろう。近藤グループも裕福な家の出の人が多かった。もう少し別の情報が入っていれば、違う道に進んでいたのかもしれない。いつの時代も適格な情報をつかむということはとても重要だと思う。 新撰組は会津藩同様、幕府を守ろうと尽力するが極端な幕府への忠誠がわざわいし、逆に幕府に裏切られるような結末を迎える・・・(庄内藩にも耳が痛い話でもある)。浪士組への参加の動機の1つが立身出世だったことは決して悪いことではない。努力の先がよい道にさえへつながれば・・・時代の犠牲者の一面もあると思う。幕末は主流と反主流が目まぐるしく変わり、「勝てば官軍のことわざ」どおり、身の振り方がむずかしい時代だった。 (敬称略) ******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年10月15日
東での横浜夷人館焼打ち計画と隠密無礼打ち事件、西での京都挙兵の画策と寺田屋事件・・・挫折を繰り返しながらも東(江戸)へ戻ってくる。イギリス艦隊と夷人館焼打ちの攘夷へ突き進む八郎だが、その中で生じたいくつかの誤算を見てみたい。1. 虎尾の会、池田徳太郎の離脱 池田徳太郎は、虎尾の会の発起人の1人。天保2(1830)年10月、安芸国豊田郡忠海町(現在の広島県竹原市)に医師の子として生まれた。15歳の時に九州に渡り著名な儒学者の広瀬淡窓の塾に入り刻苦精励した。さらに安政元(1854)年25歳の時に江戸に出て勉学して万延元年30歳の時麹町に塾を開いた。頭脳明晰、豪胆の士だったという。江戸で清河八郎と出会い、虎尾の会のメンバーとなった。 「無礼打ち事件」の時に連座して幕府に捕えられ伝馬町の牢獄に入れられたが、自身で獄吏を懐柔したりして「急務三策」により大赦をかち取り出獄した。まさに九死に一生を得た。牢獄では、お蓮や熊三郎(弟)の面倒まで見ている。 出獄後、関八州と甲州を遊説し浪士集めに奔走した。浪士組の結成における功績は多大だ。石坂とともに八郎を支え、浪士組結成の最大の功労者とも言える。 新徳寺での演説の直後、その池田が一人 学習院(御所)へ提出する上書への署名を断り、浪士組から脱退する。"(八郎に)首筋が細くなったなあ・・・、と言って去っていった"(八郎グラフィティ)とも、浪士組結成当初から“広島へ帰る為の道中が一緒なので、ついて行くだけで、浪士組には加わらない”つもりでいたとも言われる。 この浪士組脱退の理由を、柴田錬三郎は、「(池田は)今の今まで八郎がかような上書を草していようとは気づかなかったのである。なぜ、生死を共に誓った自分や石坂に打ち明けようとしなかったのか。その憤りがある。」と書き、徳田 武は、「かように重大な事(天皇の上書のこと)を今まで秘密にされてきた、という憤懣があったのかもしれない」としている。 一方、大川周明は、「ただ池田徳太郎のみは病母の看病を名として連名を拒み、遂に脱退し去った」として、病母の看病を理由とした。 残念ながら池田が抜けた本当の理由はわからない。(もしかしたら、「維新志士池田徳太郎」という本があるのでそれには書いてあるかもしれない・・・) 意外なようだが、池田と八郎とのつながりを現わすようなものを見つけた。池田徳太郎の残したある歌の冒頭、 「いとわしな 捨る命は 君が為め 世の為め 人の為め と思へば・・・」(山本呉服店のHP)と、「某人傑と問答始末」に出てくる、八郎が山岡に言った言葉、 「吾人済世の要とは、君の為め、国の為め、或いは人の為め に盡(つく)すことで、・・・」。である。多くのエピソードの一部ではあるのだがこの二つが、とても似ているように思える。 同時代の志士の共通の考えの1つだったのかもしれないが、八郎と、池田徳太郎の座右の銘が一致していることが偶然とは思えなかった。八郎と池田との気持ちは同志という意味では切れていなかったのではないか、そう思った。(・・・と、同時にこのような幕末の志士の善意の気持ちが悪用され、後に多くの無駄な犠牲者を生んだ悲しい歴史も連想させられた。同じことを繰り返えさないように歴史に学ぶものは多い。) 虎尾の会は、少数精鋭、時間をかけてお互いに心通うまで議論ができた。しかし、浪士組は200人を超え、目的や思想も違う人間が交じり、粗暴な連中も加わった。そのような中で意思疎通を図るのは容易ではない。新徳寺の演説は、今までの八郎のやり方とは少し違ったのだろう。浪士組を結成し攘夷実行するための時間がない・・・抜け駆け的なやり方は、八郎の焦りも影響したのではないかと思えた。******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年10月09日
浪士組に勅諚と朝旨が下る背景には234名の浪士たちの武力の存在がある。浪士組採用の際に、50人の予定を無理やり234人の組織にした理由はここにもある。 それでは、学習院に建白書を提出し、直接朝廷から命令をもらう、“天皇直属の攘夷実行隊”にするという発想はどこから来たのか・・・考えたい。 一見、一介の浪人たちが建白書を朝廷に提出し勅諚をもらうなどということは無謀にも思える。(「佐倉義民伝」にもあるように、江戸時代、将軍への直訴は死罪であった。) しかし、これには当時幕末特有の事情があった。薩摩藩が幕府内への介入(文久の改革)をしていた頃、長州藩は朝廷内への介入を行っていた。文久2(63)年12月、朝廷内では、京都に集まった諸大名や志士ら政治勢力からの建白が急増したことに対応するため、衆議機関として「国事御用掛」が設置された。 (関白以下左右大臣らが御用掛を兼任) 八郎(浪士組)が京都に着いた2月には「国事参政」、「国事寄人」が設置され、公武合体派にかわり尊皇攘夷派の公家(長州藩と結託)が台頭する。京都の政局は公武合体派に変わり尊攘派が牛耳るようになった。 陳情、建白書に対応する機関として、朝廷の教育機関であった「学習院」が役割を担い、これまでの受付の対象も「諸藩(薩摩・長州・土佐)への開放(文2/10/17)」から「草莽への開放」に拡大された。それは八郎たちが京都に到着する3日前というから、絶妙なタイミングと言える。 ちなみに、これより後の3月のことになるが、朝廷には真木和泉(久留米藩、九州遊説で意気投合)や平野国臣(福岡藩、九州遊説で意気投合)が出仕していた(時期は不明)。こうした尊攘派の同士たちから八郎にも多くの情報が入ったとしても不思議はない。八郎のタイミングは絶妙でこの時代の学習院(草莽の志士からの建白書を受入て処理する)のシステムを利用したと言える。 寺田屋事件、文久の改革などと同じように、八郎はその時代の情報をいち早く捕え、それをうまく利用することで時代を魁(先駆け)ていた。 "八郎グラフィティ”には、勅諚を得た直後の話として、“さっそく長州藩士・伊藤俊輔(博文)や土佐藩士・吉村寅太郎らが八郎に会いに来た”と書かれている。それまでの八郎は薩摩藩士との関わりは出てくるが長州藩士との関わりがあまり出てこない。長州の情報は、この京都で得ることが多かったのかもしれない。そして、将軍の上洛のタイミングで、幕臣の山岡を使い、山岡の名で幕府御目付・池田修理 宛てに「攘夷の号令をすみやかに天下に布告すべし」と勧告するなど、同時期に攘夷を大規模にしようとする工面が見られる。 浪士組結成から京都滞在までの経緯をまとめると、次のようになる。(「>」は 世の中の出来事)>1863/12/ 8(文2/10/17): 「国事御用掛」の設置、「薩摩・長州・土佐」諸藩への開放>1863/ 3/22(文3/ 2/ 4): イギリス軍艦3隻(ユーライアス、ラットラー、レースホース)の横浜港来航・1863/ 3/22,3(文2/2/4-5): 浪士組の採用試験・1863/ 3/26 (文3/ 2/ 8): 浪士組、江戸を出発>1863/ 3/31 (文3/ 2/13): 将軍家茂が、老中と約3000人の供を従えて江戸を出発>1863/ 4/ 6 (文3/ 2/19): 将軍家茂が、二条城に入る>1863/ 4/ 7 (文3/ 2/20): 「国事参政」、「国事寄人」が設置と、「学習院」の「草莽への開放」・1863/ 4/10 (文3/ 2/23): 浪士組、京都壬生村に到着、八郎の「新徳寺演説」と上書連名・ 同日 : 八郎、父への手紙「4月初めにまたまた、関東に帰り申すべく候」の内容含む・1863/ 4/11 (文3/2/24) :「学習院」への建白書(浪士一同連判)の提出(1回目)・1863/ 4/16 (文3/2/29) : 浪士組、(八郎作成の攘夷の)勅諚と、朝旨(関白からの達文)を賜る。・1863/ 4/17 (文3/2/30) : 上書「関東での攘夷の先鋒を勤め度(た)き旨(むね)」の提出(2回目)>1863/ 4/19 (文3/3/ 2): 松平春嶽(公武合体派)が政事総裁職の辞任(慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすることへの反対の理由で)・1863/ 4/20 (文3/3/ 3) : 関白・鷹司輔熙(すけひろ)から東下の命(浪士組を江戸に戻す/勅諚)が浪士役人に下りる>1863/ 4/21 (文3/3/ 4) : 将軍・家茂将軍家茂と一橋慶喜が 攘夷実行の不可能を説くために229年ぶりに上洛・1863/ 4/22 (文3/3/ 5): 八郎「将軍に攘夷の勅を奉じ雄断に出でしむる事等10策」の建白提出(3回目、「書を国事掛けに上がり、江戸に戻って、攘夷の準備を乞う」という内容含む)・1863/ 4/22 (文3/3/ 5) : 高橋精一郎(泥舟)を浪人取締役にする(取締役2人体制)・1863/ 4/26 (文3/3/ 9) : 八郎、山岡の名で、幕府御目付・池田修理 宛てに「攘夷の号令をすみやかに天下に布告すべし」と勧告・1863/ 4/29 (文3/3/12) : 新徳寺において浪士組全員へ東下の披露会 (八郎から一同に向かって、関白の命によって「攘夷の先鋒となる旨(むね)」を言い渡す)近藤勇・土方歳三・芹沢鴨の一党の脱退(十三名)・1863/ 4/30 (文3/3/13) : 浪士組、京都(新徳寺)を出発し京都を離れる(一同は木曽路を通って江戸に向かう)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年09月22日
新徳寺で上書連名を行った日に、八郎は父へ手紙を書いている。そこには、「4月はじめにまたまた江戸に帰り申すべく候」とある。八郎は、京都に来たばかりの浪士組を1か月あまりで江戸に引き返させるつもりでいた。思いつきなどではない、狙いはなにだったのか。 徳田氏は、これを「この大集団に朝廷のお墨付きを戴いた上ですぐさま江戸に戻り攘夷行動を執らせよう、という構想が用意されていることをいみじくも示唆する」と言う。攘夷行動とは生麦事件の賠償交渉のために横浜に来たイギリス艦隊を攻撃することを意味する。私は加えて急務三策から浪士組の結成を含めて横浜焼打ち計画(2回目)までの一連を江戸を発つ前からの計画だったと考えている。ただし、イギリス艦隊が横浜港に来たタイミングは偶然ではないだろうか。動きがせわしなくなったのは、イギリス艦隊が横浜に来たことが関係したということが考えられる。当時のタイムズ紙も戦争が起こると考えていたというほど、当時は緊迫した状況にあった。横浜では戦争が勃発する直前の状況だったと想像することができる。 これまで勝手な行動をする浪士組は松平春嶽が命令して幕府に京都から江戸に呼び戻されたと考える見方が主流だった。八郎の予定が4月なのでそれより2、3週間時期が早まっているのは呼び戻された理由が関係するのかもしれないが、八郎たちが早いうちから横浜の外国人居留地やイギリス艦隊をターゲットにしていたのは間違いないだろう。呼び戻されたという表現があてはまるのかわからないほど、八郎からすればほぼ予定通りの行動とも思える。結果としては、幕府はこれを阻止することになるが、薩英戦争と下関戦争を先んじる攘夷戦争の計画だった。 これまでは、幕府(春嶽が命令した?)に 勝手な行動をする浪士組を京都から江戸に呼び戻されたと考える見方が主流だった。((2.3週間)予定が早まっているのは、呼び戻された理由が関係しているかもしれないが、早いうちから横浜のイギリス艦隊を狙っていたのは間違いないだろう。) 八郎の意図は何かを再確認したい。あくまで八郎のそれまでの行動と思想は一貫しているのでその延長線上で考えたい。 幕府(将軍)が天皇との攘夷の約束を果たすために募集し結成した浪士組だが、実は攘夷を実行するはずもないみせかけの集団だった。その浪士組を、(将軍の護衛という名目を外して天皇直属の軍隊にして) 天皇の許しを直接得ることで、幕府が約束したとおりに、攘夷を実行する。・・・そんな考えだったろう。(幕府に攘夷を促すという範囲を超えて、実際に自分たちの手で攘夷をやろうとしていた。) このことは、新徳寺で浪士組全員の前で述べた(説明した)前置きと演説と上書からも伺える。 引用が長くなってしまうが、上書の内容を「清河八郎伝/徳田氏」よりピックアップする。「・・・夷狄の来航以降、累年国事に身命を抛(なげう)って来た者共の考えは、全く征夷大将軍の御掌握(軍隊)を御発揮なされて、尊攘の道を実行されるべきだ、という赤心(せきしん/相手を心から信用して、全く疑うこともない純粋な気持ち)でございますから、右の如く言路を開き、人材を御任用遊ばされれば、尽忠報国の志も今後は徹底されるであろうと存じ奉り、そこでその御召しに応じて罷(まか)り出ました(やって参りました)。 然(しか)る上は大将軍家に於いても、断然攘夷の大命を尊戴なさり(いただき)、朝廷を補佐し奉るはもちろんのことで・・・固(もと)より尽忠報国、身命を抛(なげう)ち勤王行動を致しますので、なにとぞ朝廷に於いてはご同情下さり、どちらへなりとも尊攘の赤心を遂げられますように御差し向け下されますれば、有り難き仕合せ(幸せ)に存じ奉ります。右に付き、幕府のお召しに応じは致しましたが、禄位等は一向に承け申さず、ひたすら尊攘の大義の実現のみ期しております・・・という一同の決心でございますので・・・」 将軍が上洛する際に攘夷の大義を英断して尽忠報国の志のものを募集し、自分たちは浪士組に参加した・・・というこれまでの浪士組結成の経緯を述べた後に、将軍が約束した攘夷を実行すると私たちは信じてはいるが、その将軍(幕府)が動かなくても自分たちは攘夷を実行するつもりだという意気込みを誓う。最後は、お差向け(指示)を仰ぎたい、として締めくくる。幕府の下部組織の浪士組に横浜焼打ち(この時は場所は特定していない)を促す内容になっている。 翌日、1回目の上書を奉呈する。6名の代表が選ばれ、幕府を通さずに直接学習院へ持っていった、受け取られなければ、6人は自尽の覚悟だったというから命がけだった。学習院では6人の熱意が通じ、幸運にも上書は受け取られ自尽は回避された。代表が戻り帰って報告がなされたとき、“一同皆、歓呼した”という。その夜には、新徳寺で一同を会して盛大な祝宴がひらかれた。 提出から5日後、浪士組は1回目の勅宣(勅諚)を賜り、関白からの達文(朝旨)も受け取る。直接、幕府を通さず、“一介の浪士に向かって、天下の政事に関し意見を建白するのを許されたのは破格の御待遇(柴田錬三郎)”という。「日本には、西洋列強諸国が押し寄せ、国を保つことが非常に難しく危機を迎えています。・・・天皇(自分)の意向である西欧列強を跳ね返し、忠義と勇気を奮起し、すみやかに効果のある攘夷を行い、醜慮(外国人)を追払う、上は宸襟を安んじ(天子を安心させ)、下は万民を救うまで、覬覦(きゆ/身分不相応なことをうかがい望むこと)の気持ちは、国が荒らされることのないようにということです。」この勅錠は、“幕府の覇束(拘束)を受けず、独立独行して攘夷が出来る”内容だった。八郎の計画が大成功したと言ってよい。 この後、上書は、2回(合計3回)奉呈された。 京都に来て10日後の、2回目の上書の後に関白・鷹司輔熙(すけひろ)から浪士役人(鵜殿・山岡)に東下の命(浪士組を江戸に戻す/朝旨))が下った。1回で終わらせたい上書を3回も行わなければならなかったのは、次の2回目の関白の命を見ればうかがい知ることができる。より具体的な内容になっているので、そのお召だし(直接命令/朝旨)が必要だったからと考えられる。 「横浜へ来たイギリス軍艦に関係し起こった生麦事件に関係して、3カ条(事件関係者などを斬首・幕府の50万ポンドの賠償金・島津家の遺族への賠償支払い3万ドル)を申し立ててきたのだが、どれも聞き入れるのが難しく、兵站(へいたん・軍の活動)を開くのも行われない。そのため、その方(鵜殿・山岡(幕府役人))が召し連れている浪士兵を速やかに東下し、粉骨砕身、忠誠を励むように。」と、いうものだった。 この2回目の関白からの命令(朝旨)は、幕府のクレームにより浪士組宛てから浪士役人(幕府役人)宛てに変更された。八郎の誤算だったかもしれない。 しかし、朝旨により浪士組の帰府(江戸へ行くこと)が許可され、浪士組の行動は横浜(外国人居留地と軍艦)焼打ちという具体的な攘夷実行へと進んでいく。(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年09月10日
浪士組は、京都に着く(文3/2/23)と壬生村に分宿した。夕刻、浪士組の全員が新徳寺の本堂に集められた。この時、(黒幕に徹していた?)八郎が前面へと出る。(以下は、俣野時中(鶴岡市)氏の伝える内容だが、大川周明「清河八郎」と徳田武「清河八郎伝」の2人の作家が訳した2つの著書から引用した。) 八郎は自ら正座について、「この集まりは浪士だけのもので、取扱・取締役という幕府の役人には関係のないことだ。」と前置きして次のように滔々(とうとう)と語った。「“今回、我々一同は幕府のお召しに応じて上洛したが、幕府からは録も位も受けていないのだから、決して将軍家を護衛するのが主旨ではない。 一意(1つ、ひたすら)、尊皇攘夷の先鋒たらんが為である、依って一同の素志を天聴に達するため(平素から抱いている志を天皇に届けるため)、学習院(御所)に上書致したいが、無論異存のあるはずはなかろう”」 (八郎伝/ 徳田武)。 そして、「堂々と予(かね)て起草して置いた左の上書を読み上げた・・・」(「清河八郎」/大川周明) その様子は、「八郎の威勢というのは鬼人の如く、実に非常なるのもの(普通ではない差し迫った状態)で、誰も恐怖して物を云うことが出来なかった」、「出しぬけに“主立(おもだ)つものを呼んで、御所に建言するが、異論はない筈であるが・・・”、と満座を睨(にら)み廻したる権幕おどろくばかり・・・」だったという。 上書の読上げ後、浪士組全員へ上書への同意者の署名を求めた。・・・「ところが異論がない」。 「上書」の内容は、「幕府が攘夷の皇命を遵守すべきこと」、「浪士組を何処へでも派遣すべきこと」の2点に要約されるという。(清河八郎伝/ 徳田武) 突然の出来事とその緊迫した雰囲気にのまれ浪士組の多くが同意書の是非にすぐに判断がつかなかったからなのか、攘夷という目的がもとから浪士組の結成にあったものなので特に反対する理由がなかったからなのかは判らない、この時点では特に異論はでなかった。(その後、江戸に帰るという直前になって、将軍の護衛と幕府に対する姿勢(態度)についての問題で約1割の離脱者(後の新撰組)がでることになる。) 出しぬけで強要した感じのある同意書だが、形式はあくまで個人の自主的な(同意の)署名としているところが興味深い。この「天皇への上書」についてあらかじめ聞かされていたのはごく一部の人だけだったと言われている。 その結果、1人を除き浪士組の全員の署名を集めることができた。(署名をしなかった1人(池田徳太郎)については、後に解説したい。) 話は変わるが、高校生の時、京都への修学旅行で新徳寺へいった。80年代の古い話になる。グループに新撰組の土方が好きな軽いノリの子がいて自由行動で選んだ。当時、八郎たちが集まった寺を壬生寺と考えていて(確か当時の本にはそう書いてあった)、タクシーに相乗りし壬生寺まで行くことにした。タクシーの運転手さんに「壬生寺まで・・・」と告げると、運転手さんが珍しい場所に行くものだと不思議に思われたのか、「新撰組?それなら新徳寺だよ。」と教えてくれた。おかげで、無事 新徳寺を訪れる事ができた。「間違って行く人が多いんだよ。」とも言われていた。今思えば、直接壬生寺に行き、あやうく勘違いしたまま浪士組がいた場所に行ったつもりになるところだった。当時の運転手さんに「教えてくれてありがとう!」とお礼を申し上げたい。 高校生だった当時の新徳寺の印象は、有名な京都の神社、仏閣や、田舎の境内が広い寺とも違い、多くの浪士が集まった歴史的な場所にしては境内は決して広い感じのものではなかったこと(決して狭いわけではないが)、お茶の会合など開いてそうな雰囲気で京の町の住宅街にひっそりとたたずんでいる印象のお寺だったことだ。当時、お堂の扉は開いていなく中は見られなかったと思う。特に清河八郎とか浪士組とか新撰組とかの観光のアピールもないのは、檀家さんが京都の一般の人たちのお寺なのかもしれない(残念ながら現在は非公開となっているようだ)。八郎が来ていたと思えば特別な場所だった。(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年09月04日
幕府の浪士取扱には、松平主税之助が就任した。その約20日後、鵜殿鳩翁も就任する。その後、浪士組の採用の時に多く採用し過ぎたことへの責任をとる形で主税之助が辞任する。鵜殿浪士取扱-山岡浪士取締 体制となる。鵜殿は攘夷論者であった。主税乃助と鵜殿の関係が気になる。事実はわからないが、これも幕府内で何か画策があったのではないかと思ってしまう内容だった。 浪士組は、犯罪者(政治犯)であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時としては画期的な組織であった、という。この形態は、後の長州の奇兵隊や、薩摩藩、戊辰戦争での庄内藩の隊にも採られる採用形式で、近代徴兵の先駆けと言えるかもしれない。 浪士組の規模は、もとの予算からして50名の予定であったが、その4倍以上の総数235名(八郎を含め)になった。約束の天皇への大挙と攘夷には、人は多ければ多いほどいい。一人でも多くの人を確保したかったからなのだろう。八郎は幕府の方針にこだわらずそのほとんどを採用してしまう。 しかし、これが後の 誤算の1つとなった。 浪士組には、虎尾の会の多くの志士と、関東や東北で遊説して出会った志士(西恭助/相馬・草野剛三)が参加した。池田や石坂が関東八州と甲州を遊説し集めた人たち(土橋鉞四郎筆頭に)も多く参加した。しかし、中には「尽忠報国」でない、「荒れくれもの」もいたという。目的の違うそういう連中を束ねて集団をつくるというのはむずかしい。ここで人を選抜しなかったことが、統率を難しくし、後に八郎を苦しめることになった。 浪士組が京都へ向かう途中、八郎は列の前に行ったり後へ行ったりしたという。もしかしたら、浪士組隊員と話を持つ時間をとったのかもしれない。議論で人を圧倒する八郎の強烈なマイナス面の性格の1つが強調させることが多いのだが、八郎はこれまで多くの人と会って膝を交えて議論をして来た。浪士組ではそのように議論ができなかったことも誤算につながったことなのだろう。 浪士組の名簿に八郎の名は記載されていない。黒幕に徹するためと考えるひとが多い。私には八郎が作った浪士組とは言え、幕府の組織に身を置くということにを八郎自身警戒したからではないかと思えた。幕府の組織内の浪士組の位置づけはよくわからないが、幕府との距離を考えてのこと、おそらく 後に問題が起こらないように思ってのことだろう。 八郎は幕府が内部崩壊していると考えていたし、尊王攘夷の志士は、藩士ですら脱藩するものもいた。それが時代の流れでもあった。藩がなくなる数年先の天皇中心の時代を見据えていたにちがいない。幕府では、八郎の考える尊皇攘夷の世を作れないとも思っていた。 この時、八郎は自身への幕臣への取立ての誘いを受けて断った、といわれる。普通に考えれば、幕府に認められてうれしい!とか、役職を利用して・・・とか考えがちなのだが、これは受けてはいけないことであった。幕臣として幕府の組織の中にいては、後々、幕府の組織の人間として扱われ、武家階級システムの1人として幕府の命令に従わなければならないなどの問題が生じるからだ。 八郎の幕府に対する徹底ぶりが感じとれる。細かく見ていくと、ちらほらと浪士組を幕府から天皇直属の隊へ鞍替えする八郎の布石が垣間見える。 それでも幕府と行動をともにすることは危険な行為だった。実際に、それまで尊王を掲げていた八郎が幕府側に下ったと勘違いをした浪士に京都から江戸への帰りに命を狙われるという事件も起きていた。******** ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ (1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内幕末のジレンマ2(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年08月19日
「天皇を奉じた幕府が、諸藩を糾合して攘夷を実行する。」これが文久始めの全国一般の考えだった。 この時、八郎たちの目標は攘夷に変わっていた。八郎たちなら時間さえあれば藩などの組織に所属していなくても自分たちで人を集めることができただろう。しかし、攘夷実行のためには時間がない。虎尾の会の仲間が幕府の画策により亡くなるものも出た、寺田屋事件でも挫折したがめげることはなかった。八郎の「急務三策」などが、文久の改革の幕府上層部に取り入れられた結果、八郎たち虎尾の会のメンバーは大赦を得て、堂々と活動ができるようになっていく。 幕府は文久の改革に先立ち、天皇に和宮降嫁の条件の1つとして攘夷実行の誓約をさせられていた。八郎は「この幕府が攘夷を行うことを約束していること」に期待していた。幕府内の詳しい情報は、山岡、松岡から入ってくるし、幕府との接触も可能である、そうして危険な幕府に近づいていった。これが浪士組の画策とか策略と呼ばれるものとなる。(その詳細はまだまだ不明なことが多い。) 世の多くの人々が外国人の目にあまる行為(生麦事件など)に辟易し、幕府が攘夷をするのを待ち望んでいた。しかし、攘夷がなかなか実行されない。それどころか幕府は攘夷を実行する気すらなかった、できなかったと言う方が正しいかもしれない。 「天皇や人々の求める攘夷を実行したい。そして、幕府を自分たちで動かすことを考えた・・・」というように見える。幕府と接触することは、まさに虎の尾を踏む覚悟だったにちがいない。 大川周明は、これを“天下危急の際に、隅々幕府が勅諚を奉じて攘夷を断行すると云ふ以上、短臂徒手(素手のこと/たんぴとしゅ)では何事も出来ないから、逆に幕府の力を利用して尊攘の素志を遂げようとしたものである。”と解説する。 同時に幕府では、浪士の取締りに手を焼いていた。浪士の中には一芸一能の逸材も多く、これをよく活用すれば有用の力となる。たまたま、清河八郎より幕府へ浪士組結成の建白があったという。ちなみに八郎が提出した「急務三策」の内容は「攘夷」「大赦」「英才の教育」の3つで「浪士組結成」という具体的な内容は盛り込まれていない。 また、「江戸市中を徘徊する浪人の取締りに手を焼いた幕府・松平主税助がその浪士たちをもって一隊を編成し、将軍上洛の警衛として京都に派遣すれば、江戸市中の浪士は減り京都も静かになるという浪士組編制案を出した。その案は松平春嶽(慶永)の決定で実行に移された。」ともいわれる。 他方で、獄中の石坂周造と池田徳太郎が「志士の大赦」と「浪士募集」の必要とを力説した書を獄吏ルートで提出したものが認められて、近衛関白から「浪士募集の命令」が下された。幕府はこれを無視できなかったはずだ。 松平春嶽は、幕府内に反対があったがそれを抑えて「浪士組」をつくることにして松平主税介に浪士取扱を命じた。当初、松平主税介は宮和田光胤に浪士組責任者を依頼したが断られたという。そして、松平春嶽の内意によって浪士募集に清河八郎の協力を求めた。そのため、八郎は表面にこそ立たなかったが、この求めに応じ、同志の石坂周造、池田徳太郎、弟の熊三郎らを関八州に遣わして募集させるなどした。浪士募集の一切の計画は清河八郎の意中から出ていたと言われる所以だ。これまで諸藩の志士たちと広く交際してきたことも実をむすんだ。 「・・・その結果、八郎の処罰は取消しとなった。八郎は浪士組取締役に山岡鉄太郎と松岡万を加え組織を固めた。」 ちなみに浪士組と浪士募集について、 柴田錬三郎は、「表面は松平、鵜殿(うどの)の名であったが、一切の画策 一切の謀議は黒幕の統帥清河八郎の胸中よりでた。・・・」と説明し、 大川周明は、「一切の策略 ことごとく八郎より出で、八郎の旨(むね)を受けて 石坂周造、池田徳太郎の両人が、関東八州にかけて必死に遊説を試みた。」と説明する。 幕府内の交渉は山岡と松岡が、公家への交渉は池田と石坂が・・・と、幕府と公家双方の2重の交渉ルートができ、公家ルートでの工作(関白の命で採用)が、名目上の浪士組の結成の根拠となり、幕府の組織として浪士組の募集がなされた、という構図となる。 ところで幕府の浪士組の募集は、将軍家茂が上洛するための警護のためとか、京都警戒ための人材募集が目的であったともいわれる。この将軍の上洛は、攘夷実行が不可能(無理)であることを朝廷に説得するための上格だったのだが、結果として、逆に攘夷を実行することを約束させられてしまうという逸話だ。 浪士募集には攘夷という建前の目的があったことはあまり知られていない。幕府には、浪士組で兵を集めたことは「朝廷や世間に対して攘夷の姿勢を見せ」られるというメリットになる。また、「江戸市中にさまよう憂国の志士、浪士たちを集めて京都にやっかいばらいできれば」という思惑もあったとされる。 これまでのところを、より仮説を含めて踏みこんだ考えでまとめると、八郎たちは文久の改革をチャンスととらえ、(初の)攘夷実行のため危険な幕府に近づいていった。なんとか攘夷実行へとつなげたいが幕府はなかなか動かない。そんな時、急務三策などで提案してきたことの流れからか浪士組の責任者の話が持ち上がった。そして幕府が約束した攘夷実行とこの浪士組とが結びつく。浪士組(攘夷、将軍警護などの目的)を募集し結成した後には、幕府からの命令ではなく直接天皇から許し(勅諚)を得て幕府の約束していたとおり幕府の代わりに攘夷を実行する・・・そのようなストーリーだったように見える。 偶然もあったのかもしれないが、おそらくほとんどが思いつきではなくある程度ははじめから山岡や虎尾の会の一部とは示しあわせた内容だったろう。虎尾の会の拡大版、浪士組を組織して強烈に攘夷へと進んだ。八郎が虎尾の会とともに起こし隠密無礼討ちで挫折した虎尾の会事件の攘夷実行への再チャレンジとも捉えられる。 ◎ 経緯は次のようになる。 ・1862/ 1/ 3 (文2/11/14): 松平主税乃助(ちからのすけ)、講武所で浪士組の募集を始める・1863/ 1/22(文2/12/ 3): 松平春嶽、松平主税之助を講武所剣術教授方兼任のまま、“浪士組取扱”に任命される・1863/ 1/27 (文2/12/ 8): 幕府の浪士組募集の決議・1863/ 1/28(文2/12/ 9): 主税助、「浪士取扱」に任命される・1863/ 1/29(文2/12/10): 主税助、宮和田光胤に浪士組責任者の依頼をする・1863/ 2/ 1(文2/12/13): 宮和田光胤、主税助の屋敷へ行き、浪士組の依頼を断る・1863/ 2/ 3(文2/12/15): 徳川慶喜、京畿警備のため、江戸を出発。・1963/ 2/ 7 (文2/12/19): 浪士徴募の命令 (文久2年12月ごろ、松平春嶽(慶永)と山内豊信は浪人牽制策として浪士組を作り、八郎と山岡鉄太郎などの協力を求めた)・1863/ 2/12(文2/12/24): 鵜殿(うどの)鳩翁、浪士組取扱就任・1863/ 2/14(文2/12/26): 池田、石坂、熊三郎の赦免・1863/ 2/17(文2/12/29): 幕府の浪士募集の命令(板倉閣老から松平主税之助へ)・1863/ 3/ 7(文3/ 1/18): 八郎の赦免・1863/ 3/22(文3/ 2/ 4): 主税介、浪士取扱を辞任・1863/ 3/23(文3/ 2/ 4): 英国軍艦、横浜港来航・1863/ 3/22(文3/ 2/ 4)~ ・1863/ 3/23(文3/ 2/ 5): 浪士組採用試験(浪士組募集50人に対し、予想外の250人が集まる)・1863/ 3/24(文3/ 2/ 6): 浪士組編成終了(結成)(234名八郎除く)・1863/ 3/26(文3/ 2/ 8): 浪士組、京都へ出発・1863/ 3/31(文3/ 2/13): 将軍・家茂が老中その他約3000人の供を従えて江戸を出発・1863/ 4/10(文3/ 2/23): 浪士組、京都壬生寺に到着・1863/ 4/21(文3/ 3/ 4): 将軍・家茂が 攘夷実行の不可能を説くために229年ぶりに上洛 八郎は浪士組の責任者となった。幕府上層部と、八郎・虎尾の会との思惑は違う。違う思惑が複雑に絡み合い、浪士組の編成が進んで行く。幕府のこれまでの口約束だけの攘夷実行を、八郎たちが本気で行おうとしていたとは誰も想像だにしてなかっただろう。そして、攘夷の実行と阻止について幕府との攻防、策の駆け引きが繰り広げられていく。 ******** ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ (1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内幕末のジレンマ2(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年08月13日
”「天皇を奉じた幕府が、諸藩を糾合して攘夷を実行する。」これが文久始めの全国一般の考えだった。出羽国の郷士清河八郎が、草莽の志士たちを味方につけるようにと幕府に迫ったのは、幕府のもとに有志の浪士を集め、攘夷実行に踏み切らせるという思惑だった。 幕府は清河の建議を受け入れ、有志の募集を行う。”(江戸時代年表/山本博文) 江戸に戻った八郎たち虎尾の会はタイミングよく攘夷実行へ向けて根回ししてゆく、八郎は関東と東北で遊説を行いながら「急務三策」を提出する。そうして結成されるのが浪士組なのだが、その結成までには謎が多い。いろいろな思惑が絡みあり理解するのをむずかしくしている。そのなぞを解く1つの手掛かりがある。あまり注目されていないが、時期を同じくしている文久の改革だ。相互の経緯を見ていきたい。 まずは、幕府の文久の改革について。 文久の改革は、寺田屋事件で京都の公家や天皇に評価を受けた島津久光が建白書の提出し、孝明天皇がその建白書を受入れることで始まった。内容は久光の意見が大幅に取り入れられたもので、薩摩藩が幕府に介入し、幕府崩壊の方向性が決定的となった幕政改革といわれる。(幕府にとっては改悪?)。 薩摩藩 島津久光は、尊皇派で幕府維持での改革、公武合体を推進していた。急進派の尊皇攘夷/倒幕派である八郎とは、同じ尊皇でも考え方が微妙に違う。 同時に幕府は天皇から、決して行いたくない攘夷実行を迫られていく。その文久の改革の主な内容は次のようなものだった。A. 安政の大獄の処分者の赦免と復権B. 旧一橋派が中心の人事 (一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽(慶永)の政事総裁職(大老格)、会津藩主松平容保の京都守護職)C. (攘夷実行の約束のために)将軍上洛を決定(229年ぶり) →→→ 後の文久3年3月に攘夷を実行することを約束(実行日期限5月10日)D. 参勤交代制の緩和(三年一勤・在府100日・妻子の帰国許可)E. 軍事改革 - 幕府陸軍の設置、西洋式軍制の導入 (三兵戦術/艦船を米蘭に発注、蘭に留学生派遣)、兵賦令(旗本から石高に応じて農兵もしくは金を徴収する)の発布などが行われた。F. 洋学研究 - 蕃書調所を洋書調所とし拡充改組、洋学教育の導入。 (榎本武揚・西周らのオランダへ留学)次に、「文久の改革」と「急務三策」の内容を比較してみる。 八郎が唐突に提出したような印象の「急務三策」は、文久の改革のすぐ後に出され、内容も文久の改革のA、C、Eに対応するようだ。(内容の解説を⇒の後に添える。)その急務三策は、(攘夷・大赦・教育)の3つが主題であった。(それぞれは、長いので省略。)おそらく山岡などの幕臣から幕府の情報を得ての対応と考えられる。a). その一に曰く、攘夷。 (文久の改革Cに近似) ⇒ 重要な内容だったのだろう、第一に掲げている。これは、文久の改革と直接関係がないように見えるが、八郎が主導する後の浪士組の画策に関係している。浪士組の結成の目的は攘夷だったが、そのほかに将軍家茂の京都上洛の警護のための人材という名目もあった。その将軍家茂が上洛した理由は、攘夷を誓わせる意図で天皇から呼び出されたことが理由だった。b). その二に曰く、天下に大赦す。(文久の改革Aに同じ) ⇒ 数か月前にも松平春嶽へ「幕府の元老に上り大赦を論ずるの書」の上書を送っている。八郎の心情としては、これが第一だった。池田徳太郎、石坂周造、熊三郎(弟)、お蓮(妻)らが獄中で苦しんでいることを助けるため、また、自分自身のためにも大赦を得なければならなかった。c). その三に曰く、天下の英材を教育す。(文久の改革Eに近似) ⇒ 「夫れ非常の変に処する者は必ず非常の士を用ふ、故に能く非常の大功を成す。・・・」(「清河八郎」大川周明著)。浪士を集めることに通じる。 経緯は、次のようになる。(*は、世の中の出来事)*1862/6/6(文2/5/9): 島津久光(佐幕攘夷)が、大原重徳(公家)を勅使として江戸へ派遣することを決定する。*1862/7/3(文2/6/7): 大原重徳が、島津久光と薩摩兵1000人に随行して江戸へ入り、勅命をたてに幕政改革(文久の改革)を要求する(幕府との交渉の開始)*1862/7/6(文2/6/10): 島津久光と大原重徳は、徳川家茂(将軍)に対して、一橋慶喜・松平慶永(春嶽)登用の勅旨を伝える*1862/8/4(文久2/7/9):一橋慶喜が、将軍後見職に就任する。(松平春嶽を新設の政事総裁職に任命)*1862/9/14(文2/8/21): 薩摩藩(島津久光ら)、江戸からの帰りに、生麦事件を起こす・1862/10/ 2(文2/閏8/9): 八郎、水戸での活動と(同志の)大赦のための上書を書き始める・1862/10/17(文2/閏8/24): 八郎、松平春嶽へ「幕府の元老に上り大赦を論ずるの書」の上書送付(田尻浜の空窪寺(現茨城県日立市)で)、その後 東北遊説へ(10/7まで)*1862/12/17(文2/10/26): (勅使)三条実美らが攘夷督促のために京都から江戸に来る・1863/1/1(文2/11/12): 八郎、松平春嶽に「急務三策」(幕府大執権春嶽公に上る書)を差出す(水戸)・急務三策の上書を伝え聞いた伝馬町の牢獄にいた池田徳太郎と石坂周造が、「志士の大赦」と「浪士募集」の必要とを力説した書を獄吏より高家中条中務大輔(経由した後に近衛関白へ)に送る お尋ね者(指名手配者中)で、郷士の身分の八郎が幕府に上書を送りそれが採用される・・・というのは、尋常ではない。幕府の上層部の人間と交渉すること自体むずかしいだろう。これを可能にしたのが、幕臣の山岡や松岡(虎尾の会)だ。この2人が仲介役となった。 同じく、牢獄から公家などのパイプ役となった虎尾の会メンバー(池田徳太郎、石坂周造)の裏工作は効果が大きかった。獄中の囚われの身でありながら 池田と石坂は飯番を懐柔して山岡や石坂と連絡を取りあっていた。このことは尋常ではない。 幕府に近づくことは、(この時期は監視が和らいだようだが)失敗すれば、逆に捕らえられたり罪が重くなる危険もある。 お尋ね者になっても、牢獄にあっても、自分や仲間が捕らえられても、(虎尾の会の) 行動がぶれない信念、結束力の強さ、実行力に驚かされる。 ← (清河八郎(初代)像、立川町パンフレット(’94年)) この「急務三策」は、八郎の知見や知識の豊かさを裏付けする内容で、文久の改革時の幕府上層部に認めらる。******** ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ (1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内幕末のジレンマ2(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年08月07日
九州遊説は、幕末維新での八郎の功績の1つと言われる。八郎の九州遊説と田中河内介などの奔走により西国を中心として義挙の有志が京都に集まり始め、大阪薩摩藩邸に200人余りを預けてもらうほどになる。八郎はこの頃の手紙で自分らが「回天唱始」(唱え始める)したことを自負している。 徳田武氏は、著書「清河八郎伝」で、「鎮西の同士を集合させ、薩摩藩を立たしめそうにまでしている、自分の策動を「唱始」(唱え始める)として誇っている。確かに維新史において、これだけ大きな規模で人数をを集め、攘夷と王政復古のために実際の行動を促そうとした策動は、これまでになく「回天唱始」(唱え始める)と位置づけることも可能なのである。」と、いう。清河八郎伝 [ 徳田武 ] そして、薩摩藩(島津久光)の決起を大阪で待つのだが、結果は寺田屋事件(1862)が起こり挙兵が挫折に終わってしまう。当時の薩摩藩(久光)の考えは、公武合体であった。寺田屋事件は、尊皇派に公武合体と尊皇攘夷(回天)派との意見の相違があり、急進的な尊皇攘夷派が粛清されたことを意味した。 それらの経緯は次のようになる。(八郎と西郷隆盛(尊皇攘夷派)には共通点が多く、後の参考として西郷の動向も入れる。)・1861/ 6/月(文1/5月中頃):異人館焼き払い計画の決定(8・9月頃実施予定)・1861/ 6/27 (文1/5/20):(でっちあげ?)無礼討ち事件・1861/ 8/ 6 (文1/7/1):山岡と松岡の幕府への上書- - - 逃亡生活/ 江戸、北関東、奥州、越後、東海道等を転々とする - - - ・1861/12/10(文1/11/9) :八郎、京都から九州へ向かい、京都挙兵を説き始める(九州遊説の開始)・1862/12月(文1/11月) :三条実美らが江戸へ下向し”攘夷実行”を促進・1862/12月(文2/1/10) :八郎、大阪へ戻る・1862/ 1月(文2/2月) :幕府、攘夷実行を条件に和宮降嫁を実現・1862/ 4/22(文2/3/24) :八郎、大阪薩摩藩邸に入る・1862/ 5/ 9(文2/4/11) :島津久光(公武合体)は、主命に違反したとして、西郷隆盛(尊皇攘夷)を沖永良部島に遠島(死刑に次ぐ、重罪)にする。・1862/ 5/11(文2/4/13) :八郎、大阪薩摩藩邸を去る(酒を飲み、騒ぎを起こした理由で)・1862/ 5/21(文2/4/23) : 寺田屋事件 (薩摩藩、公武合体・尊皇 VS 回天攘夷・尊皇)・1862/ 5/23(文2/4/25):八郎、「回天封事」(密書)建白書を(孝明)天皇へ送付この寺田屋事件の挫折後、八郎は今度は自分たちで挙兵することを画策する。 柴田錬三郎は、そのことを著書「清河八郎」で次のように説明する。「八郎は、大阪に参集した時は、関西の人気を応用して王朝恢復(かいふく/回復)を主にして攘夷は復とした。しかし、寺田屋の一蕨(いっけつ)以来は、大勢が去り、もはやみだりに手を下すことが出来ないと見抜いて、江戸へ帰ってきたのである。関東の志士は外夷の横暴に憤怒して攘夷の熱情に燃えてはいたが、3百年間の幕府の治に慣れ、これに叛(そむ)く意識はうすかった。で八郎は、こんどは攘夷を主とし尊皇を副としたのである。」【中古】 清河八郎 / 柴田 錬三郎 / 勁文社 [文庫] この時、八郎の第一の目標は、攘夷であった。孝明天皇は外国人嫌いで知られるが、親幕府であり幕府による攘夷実行を強く望んでいた。天皇は幕府に攘夷を約束させるのだが、約束だけで実行はされない。この攘夷の要請に応えたかったのだろう。 八郎は、寺田屋事件直後、京都で「回天封事」(密書)建白書を(孝明)天皇へ送付する。その末尾に大挙の宣言があり、“われわれは天下の義人を集めて、数か月以内に必ず大挙します。”と誓っている。 この誓いの言葉を文字通りに実行するには、挙兵のための多くの人々を集めなければならない。そうして、関東(江戸)へ戻り、行ったことが奥州、北関東遊説と急務三策の上書、浪士組結成(1863年)だった。さらに幕府との浪士組結成の(幕府を利用したとも言われる)画策は、攘夷を実行するために、攘夷を実行しない幕府を、自ら動かそうとした行動・・・ともとれる。 有名な八郎の浪士組の結成が語られるとき、八郎関係の多くの本やドラマでは、逃亡していた八郎が「急務三策」を松平春嶽に提出し、それが受け入れられて「浪士組」募集となる・・・というように唐突な始まりが多い。そして、八郎の画策した急務三策が八郎一人で行われたかのような印象を受ける。不明なことが多いからだ。 確かに、「浪士募集は表面は松平、鵜殿の名であったが、一切の画策一切の謀議は黒幕の統帥清河八郎の胸中よりでた。・・・」(『清河八郎』柴田錬三郎著)と言われるように、八郎がいなければ出来ないことだった。しかし、現実的に見れば、時代と多くの人がその行動を後押しするもの、必要とするものがあり、八郎の行動を理解し支える人々がいなければ行動を起こすことはできない。いくら八郎が行動の人で、カリスマ性があっても何か道理にかなうものがあったはずだ。虎尾の会のメンバーの動きも重要になる。*****(敬称略) ※ "清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ (1)(清河八郎 編) Kindle版 ※ "清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年07月15日
この無礼打ち事件に連座して多くの同士たち(池田徳太郎(広島藩)、石坂周造(信濃国)、北有馬太郎、笠井伊蔵(庄内)、西川錬造熊三郎(弟)、お蓮(妻)他多数) が捕まり 、犠牲者も出てしまう。八郎は動揺するのだが、嵩(かさみ)春嶽(江戸住)、桶渡八兵衛、神田橋直助(薩摩藩)などに諭され、自害を止まり潜行逃亡することになる。("虎尾の会と (隠密)無礼打ち事件「出羽庄内 幕末のジレンマ. 8 (清河八郎 編)」"の続き。) 八郎の不注意も影響したのかもしれない、後に嵩春嶽は八郎をかくまった罪で獄死する。八郎は嵩春嶽という恩人により、ここで生きながらえたことで後の大きな功績へとつながる。 一方、虎尾の会、幕臣の山岡鉄太郎と松岡万は、清河塾に出入りしていたので、幕府から訊問(取り調べ)を受けた。「ただ、兵事を語りあっていただけで、危険な内容などはなく、そういうことは武士の修行と考えている」の理屈で押し通したという。その後に提出したと思われる幕府当局者へあてた尋問についての回答とする内容の2人連名の上書が残っている。それからは山岡と松岡も処罰される可能性があったとみられ、必死の抵抗の様子が読み取れる。 苦し紛れにもとれる内容で次のようなものだった。この中で、山岡や松岡が自分たちは八郎たちの行動を探索する役目のスパイ活動をしていた、と報告していることが興味深い。「自分たちは八郎たちの消息が知れなくなることを恐れた幕吏に命ぜられて、八郎たちと交わる間者(スパイ)となって、探索(スパイ活動)をしていた。この焼打ち計画を、偽策をもって止めさせたり、計画の成り行きを探っていたりしていたところだった。その途中で、八郎一党が捕まった・・・(焼打ち)計画はまだ決定していたものではなく、その後のことは知らない。事実がわからない(状態な)のに幕府の士が栄利のため虚言を述べ、自分たちが嫌疑(対決・対審)をかけられて刑罰を受けるのは(武)士道に対し面目が立たない・・・」などとしている。 そして、「八郎については人を殺し逃げ去ったのだから、召捕えるのは当然なのだが、八郎の一党(関係者)については、事実不分明(あくまで容疑であって、罪が実証せれていない)人達なので召捕えて重罪刑などにするのは歎げかわしい(残念)ことだ・・・世(間)上の信頼のこともあるので命は助けてほしい・・・」として、八郎の一党を重罪にしないことを嘆願している。虎尾の会のメンバー、八郎の関係者を擁護し釈放させようとする意図が見て取れる。(参考:清河八郎伝: 徳田武著、このブログは虎尾の会中心に解釈しているので、本の内容ととは多少解釈が異なる。) 八郎が、安積と伊牟田で九州遊説を始める(京都で挙兵をすることを九州地方を説いて回る) のは、この事件から半年ほどのことだった。(詳細は幕末のジレンマ12. 参照)。(敬称略)*************** ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ (1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争"編はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年07月09日
虎尾の会のメンバー(盟友)である伊牟田尚平(1832年生)と益満休之助(1841年生)の2人の薩摩藩士を取り上げたい。 幕末の歴史で、伊牟田は薩摩藩を脱藩し、ヒュースケンを暗殺したことで知られる。八郎の九州遊説にも同行し、逃亡の間 八郎と多くの時間を共にしている。地元が九州、薩摩出身である伊牟田なしでは九州遊説は思うようにいかなかったことだろう。八郎にとって信頼のおける人だったに違いない。 特に薩摩藩は藩内の警戒が厳しく、“薩摩飛脚”と言われた危険な地域であり入ることすらおぼつかなかった。八郎は自身は薩摩領内に入らないで水田(天満宮)や阿蘇(宮)などに居て、伊牟田と平野(国臣)にそれぞれ書簡と上書を島津久光に渡すことを託した。伊牟田も脱藩していたため入ることは危険で途中捕らえられたが熱誠で書簡を渡すことに成功させた、そして平野と大久保(一蔵)と面会し話をする機会をえることにつながった。結果、2人は無事に戻ってくることもできた。 益満は、大久保と同郷で薩摩藩で幕末維新に活躍した人を多く出した三方限(さんぽうぎり)出身だ。三方限とは、3つの郷の意味なのだそうだ。益満からは生麦事件のことなど薩摩藩の情報も得られていたようだ。益満の活躍は後に紹介したい。ちなみに平野は西郷隆盛と月照が心中事件を起こした時には同じ船に乗っていて西郷を救ったりした尊王攘夷派の福岡藩士で、八郎と幕末の活動で意気投合した。後の歴史から見て尊王派の行動はお互いにネットワークのようにつながっていたことがわかる。 この伊牟田と益満は、庄内藩との関わりもある。 八郎の死後のことと話は前後するが、1867年(慶応3/10月~)、2人は西郷隆盛の密命を帯びて江戸薩摩藩邸を本拠として約500名の浪人を集め指導し江戸市中撹乱(強盗・放火等の破壊混乱工作)を行った(浪人を集めるやり方は八郎の浪士組に似ている?)。この時、庄内藩は江戸取締役(江戸市中の警備/ PKO見たいなもの)を務めていた。推測になるが後の益満の行動からわかるように伊牟田と益満はこの作戦には気が乗らなかったのではないかと思われるところがある。 1868/1/17(慶応3/12/23)には、挑発、催促するかのように薩摩佐土原藩(現宮崎県)が、庄内藩(駐屯所)への銃撃事件を起こす。 これは薩摩藩・西郷の罠だったのだが、1868/1/19(慶応3/12/25) 業を煮やした庄内藩は薩摩藩の起した江戸市中撹乱を収めることと 薩摩藩に対する報復を目的に、幕府軍(庄内藩が主力)として三田の江戸薩摩藩邸を襲撃し焼打ちを行った。いわゆる薩摩藩邸焼打ち事件で戊辰戦争のきっかけとなる事件になってしまった。戊辰戦争で、庄内藩は 主に薩摩藩と対戦することになった。その戦いは清川口での戦争以前すでに江戸で始まっていたと考えてよい。 “虎尾の会”にいた伊牟田と益満にとって、庄内藩は八郎と虎尾の会を苦しめた藩でもあった。八郎から庄内藩について聞かされ、藩についてのある程度の知識を持っていたとしても不思議ではない。西郷にとってこの2人は、対庄内藩、江戸市中撹乱作戦を任せられるうってつけの人物だったのかもしれない。 ところでこの話には、続きがある。益満と山岡の話(山岡(鉄太郎)により口述で残された話)へと移る。 江戸薩摩藩邸焼打ち事件により、益満は首謀者として捕えられた。しかし、逮捕され処刑される直前に勝安房(海舟)によって身請けされ、不思議なことに勝(安房/麟太郎/後の海舟)の自宅にかくまわれたという・・・そして、3ヶ月後のことだ。 薩長軍(5万人)が関東に迫り、江戸攻めを行おうとする直前、山岡(鉄太郎)は上野で謹慎中の徳川慶喜の伝令として、駿府にいた官軍の西郷隆盛へ会いに行くことを引受けた。それは、慶喜の恭順の意を伝え、江戸を戦火から防ぐための会見・交渉をすることが目的だった。 山岡は、すぐに勝(安房/麟太郎)に 「西郷へ会いに行く許可」を願い出る。その時、勝が満益を同行させることを依頼し、勝の家で山岡と益満は再会することになるのだった。(八郎の死後約4年半、虎尾の会メンバーがどんな活動をしていたかは不明だが、メンバー同士の何かしらの交流が続いていたとしても不思議ではない。) 山岡と益満は2人で生死をかけ薩長の兵5万人が東進し 西郷隆盛が駐留していた駿府(静岡市)へと向かった。 西郷に会うには、途中、薩摩藩兵士や長州藩兵が多くいる中を進んでいかなければならない。幕臣の山岡一人ではとても危険だった。そこで薩摩藩士である益満が、「対薩摩長州兵調整役」として活躍する。官軍先方隊のいた六郷河(現東京都と川崎市県境)から神奈川駅(現横浜市)までは 山岡が先頭に、長州藩士が多くいた神奈川駅からは 益満が先頭となり 「薩摩藩!」と名乗りながら、2人で5万人の敵陣深く 急ぎ進んで行った(後に、薩摩藩の先方隊が 突破された2人を追いかけ切殺ろそうとしていたことが判明するが無事だった)。 なんとか無事に西郷と会うことができ、江戸城無欠開城の事前交渉(1868/4/1(慶応4/3/9))を成功させることができた。(これにより、江戸薩摩藩邸での勝安房と西郷隆盛との会談(1868/4/5.6(慶応4/3/13.14))へと進むことになる。内容は山鉄舟研究会のブログを参考。) しかし、生きて帰らなければ交渉自体が成功したことにはならない。その帰路には、品用駅番兵に質問され(近距離から山岡の胸を狙い)発砲されるという事件が起きている。幸い弾は 奇跡的に雷管のみ発して不発に終わったが、益満も驚いてその兵の持っている銃を打落し、発砲した番兵に向って西郷に会って話をしたことを伝えるが納得せず、伍長のような人(山本某)が出てきて諭したことで 発砲した番兵は不服ながらようやく退いた、というほど非常に緊迫した状況だった。 この話は、江戸城無血開城の実質的な立役者が山岡であったといわれる所以のエピソードだ。← 「武士道」/ 山岡 鉄舟 口述 左の本の「山岡先生と西郷氏応接筆記」(明治15/3月)から引用。 敵陣までの往復の道のりを無事に生きて帰って来ることのむずかしさが伝わる。益満の協力がなければ西郷に会うこと自体むずかしがったのかもしれない。江戸での戦争は紙一重のところで回避された。虎尾の会の人脈が生きた出来事だったとも言える。これは慶喜を助けるため、というだけではなく無駄な戦争をなくしたことに大きな意味があった。山岡の勇気ある行動と薩摩藩出身の益満が立場を超えた旧幕府勢力のために命をかけた行動が賞賛される。ここには“人のため”という虎尾の会の人たちの精神が現れているように思う。 図にすれば、“徳川慶喜(山岡鉄太郎) ⇔ 西郷隆盛(益満休之助)(三方限出身)” 。山岡と益満の命がけの行動がなければ江戸城無血開城はなかっただろう。(後の歴史としてみれば江戸での大規模な戦闘が回避された背景には、イギリス公使パークスの圧力があったとされる。江戸の混乱に貿易の停滞を危惧したパークスは、江戸総攻撃を企図する新政府に対し強い憤りを示していたので、西郷が勝との会談に臨んだ時には西郷は非戦の方針を決めていた、とされる。しかし、戦争中止のタイミングは極めてむずかしい。西郷にとって山岡の話は渡りに舟だったのだろう。) 薩摩藩の 伊牟田と益満の活躍を “虎尾の会”中心にして見直すともう1つの見方や、意味合いが出てくると思う。***** ***** **(敬称略) ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ (1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内幕末のジレンマ2(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版かごしまスイートポテトン(10個入) 西郷どん 鹿児島スイーツ しっとり甘いサツマイモケーキ
2016年06月01日
‹「某人傑と問答始末」のつづき› 私(鉄太郎)は、言った。 「次のようなことであります。怒るのを止められてご一考なされるのがよろしいかと存じます。 先生のお宅には召使いのようなお手伝いさんがいますでしょう。もし、お手伝いさんたちが朝夕あなたにお仕えすること(食事の準備や掃除など)の他に、さらに(君)国にのために奉公するところ(回天などの活動)があったならば、先生はそれらを比べてその優劣をどのように思われますか(つけられますか)? 抑抑(そもそも/どだい)、人間の一生において行うことのその大きい少ないを言うのはその人に対して気の毒なことを言うことであって、これは別に言葉(問題)にすることではありせん。そのことは別の問題であり、先ずその人にはこの世において務めるべき職責(この世において行わなければならない仕事)があるのだから、それを君のため、国のため、人のためなどと、飛んでもない所に勿体(もったい/外見や態度の重々しさ・重要さ)をつけるのは、単に口実(言いがかり)という他はありません。 篤(あつ/一つの事がらにうちこむさま)と算盤(そろばん)とをとって差引勘定を試みるならば、おそらく『真実正味(余分なものを取り除いた、表面に現れない隠された本当のところ)』が残るところはないでしょう。一歩進めて、虚心坦懐(心にわだかまりがなく、平静に事に望むこと。)にその理の意味を理解すれば、君のため、国のため、人のためなどと洒落ごとは言わないはずです。」と。 遠慮無く自分の意見を述べると、先生(八郎)は、唯々(いい/さからわないで他人の言うままになるさま)として、その後(あと)の言葉はなかった。さすがは名士として聞こえた人なので何かを感じ悟るところがあったのだろう。それ以来、とても親切になった。惜(お)しいことなのだが、その人は不幸なことに、抱負が遠大に過ぎたこと(倒幕のことであろう)と勝気な精神のため、世俗(幕府)の疑うところとなり終(つい)に刺客によって殺されてしまったのである。ああ、哀(かな)しいことだ。******************************************************************* 山岡が29歳の時に書いたものとされる。これは、「鉄舟言行録」/安部正人 編(近代デジタルライブラリー)に収められている。著者の安部正人氏の著作については鉄太郎の言行録として一部に疑問視されるものがあるそうなのだが、このようなとてもすばらしい臨場感のあるやりとりのものが否定されてしまうのもおかしなことなので、八郎と山岡の関係を残す数少ない資料の1つとして取り上げたい。 2人の息を飲むやり取りが目に浮かぶ。昔テレビでみた、アニメの「一休さん」の問答対決を思い出す。八郎の気迫、年齢に捕らわれないでまじめに応対しようとする態度と、鉄太郎の実直さ、見識の深さ、堂々とした態度もすばらしい。 鉄太郎が笑ってしまったことと 八郎が怒ってしまったところは除くとしても、序盤の問答の形式は、当時の一流の問答の形式だったのだろう。八郎はそれを習得しているのでその形式や手法を使ったと思われる。八郎がすぐに怒るところは短気だと言われるている性格そのものだ。昔は、こんな短気なおじさんを時々見かけた。 ところで、昔の人は、このようなむずかしい文字(漢字)やことばを自由に使いこなしていたのだから、本当に頭がいいと思う。訳すのに時間がかかっただけでなく、パソコン(電子辞書)がなかったら訳すことすらままならなかった。 解説を加えれば、「この世において務めるべき職責」とは、「この世において行わなければならない仕事(生活の糧になる収入や給料)」や「生活そのもの(洗濯や食事を作るなどの家事、食事をすることやお風呂に入ることなど生活一般を含む)」のことだろう。 八郎の実家は裕福だったので、生活のお金は実家からも工面できたが、一般的に志士たちは幕府や藩に所属して何かしらの禄(給料)をもらわなれば生活も苦しい。また、八郎の江戸の家にお手伝いさんがいたことにはびっくりだが、電気や洗濯機などが無い時代、生活するのは今とは違った大変さがあったはずだ。特に昔はそういうものにとられる時間が多かった。 このことは、幕末、憂国の志士とは言え 一方で生きるための生活があり、そちらも大事で、それがなければ回天(革命)の活動もできないことを意味する。維新(政治)活動をするにはある意味での生活に余裕が必要になり、その多さ少なさを比べることの無意味さを言っているのだと思う。 「抱負遠大(ほうふえんだい)」とは、”幕府を倒そうとした”ことだろう、当時倒幕を考えて(表に出して)行動した人は吉田松陰など非常に少ない。「世俗」とは”幕府”のことで文字として公には書けなかった言葉だと考えられる。「勝気な精神」とは、負けずぎらいの性格ともとれるが、”強気の性格”の方が解釈としてはわかりやすいと思う。具体的にはおそらく”逃げなかったこと”を言っているのだろう。八郎は、暗殺される前に高橋泥舟に身を隠すことを勧められていたし、鉄太郎にも暗殺されたその日は家から出るなと忠告を受けていた。それらを聞き入れずに暗殺されてしまった、山岡には残念でならなかったことだったのだろう。(私も残念な気持ちだ。この時に逃げていれば、歴史も変わっていたと思う。) 内容からみて「抱負遠大に過ぎ」と「世俗の疑うところとなり」、「勝気な精神」と「殺された」が対応している。鉄太郎の八郎との想い出と、亡くなったことの残念さ、無念さが伝わってくる内容だ。 以上のように、八郎との水魚の交わりで八郎が暗殺された後には 八郎について“口を閉ざした鉄太郎”。「八郎を語ることは自らを語ることになる」・・・とは、“八郎の行動≒鉄太郎の行動”という意味になるだろう。この言葉は、2人が一心同体とでも言わんばかりだ。それは、多くを語らなかったこそ八郎との関係が強く強調されているように思えてならない。 例えば、八郎が横浜焼打ち事件を行おうとしていて幕府に狙われている時期、幕臣の家で生活していた・・・。この状況をどう考えたらいいだろう。初の(対西洋諸国)攘夷実行の大事な場面で八郎と行動をともにしようとした鉄太郎。八郎の考えと鉄太郎の考えは同じだった、だからこそ協力して行動をともにした、と考えられないだろうか。そうして考えていけば鉄太郎の行動から、八郎の行動が見えてくる。 八郎は浪士組が京都から江戸へ戻ってきた時 (暗殺の前日) に書いた父への手紙で次のように述べている。 “・・・浪士組に関してはよいことも悪いこともすべて私と山岡(鉄太郎)の責任です。・・・”。鉄太郎の行動を追えば、(今まで隠れていた)八郎が行おうとしていたことが読みとめる・・・と思えた。八郎との共同活動後の謹慎を経て鉄太郎の幕末維新での活躍(八郎との活動は除く)は、江戸城無欠開城のための交渉で江戸の町を戦火から救ったこと、明治新政府では静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令の歴任、明治天皇の侍従職などその功績は多大だ。(敬称略)******** ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内 幕末のジレンマ (1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。出羽庄内幕末のジレンマ2(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年05月20日
虎尾の会のメンバーに幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟/1836年生)がいることは前にも書いた。歳は八郎より6歳下で、江戸生まれ、飛騨高山出身の旗本で、八郎の盟友として知られる。八郎も背が高かったと言われているが、鉄太郎も身長188cmの大男だったようだ。八郎は浪士組を作った時から暗殺で亡くなるまで、ほとんどの行動を鉄太郎と共にしている。そして、京都から帰った八郎は、鉄太郎の家を拠点として行動し、暗殺された日の朝にも鉄太郎の家に居た。お互い尊敬しあう、八郎の無二の親友ともいえるだろう。そして、八郎の謎を解くキーパーソンだ。 鉄太郎が八郎について残したものをご紹介したい。“「ああ、天、この奇傑を亡ぼす。」” 鉄太郎が“八郎が暗殺で倒れた時に言ったとされる”コメント。 1886年、清川村から八郎の死をいたみ、功をたたえるための石碑に刻む文を依頼されて、書いたものがある。“「奕奕(えきえき)たる神采(しんさい)昔(は)吾が友たり。慷慨国を憂え、身人手に死す。天その節を嘉し、雨露既に厚し。千秋万古 斯の人朽ちず」”。 (すぐれた風貌、いきいきと生気にあふれた顔の表情、昔は我が友だったその姿、顔が思い浮かばれる。世の中の不義・不正を見聞きして、絶対許せないと怒り国の現状を憂えたが、暗殺されてしまった。世の中は八郎の行ったことを喜んだが、八郎やその同志の多くの試練を経た結果だった。多くの時間が過ぎても清河八郎たちの功績は朽ちることはない。) このように八郎を尊敬し、とても親密だった鉄太郎なのだが、八郎の死後“「八郎を語ることは自らを語ることになる」と言って、口を閉ざした”という。そのため、八郎のなぞは深まり、八郎の行動を知ろうとすると壁にぶち当たってしまう。おそらく、明治の革命後も、話せないことが多かったのだろう。私は昔からこのことをとても残念に思っていた。 しかし、八郎との関係(思い出)について、残しておきたかったのだろう、「某人傑と問答始末」という短編を書いていた。書かれた時期は、1865年(12月頃)(元治元/12月)、八郎が暗殺されてからあまり日が経っていない(約1年半後)。「某人傑」とは意味ありげなのだが、八郎であることはわかっていて 書いた時期が幕府の時世だったため名前を伏せていたと考えられる。内容は八郎と鉄太郎が“水魚の交わり” (盟友)となったエピソードのようだ。 私は、今回八郎を調べていてこのことを知った(掘り出しもののように思った)。長くなるが、ぜひとも紹介したい。(内容は、できる限り判りやすくすることに努めたが間違いもあると思うので、意訳していただきたい。“人物言行ログ”と、“山岡鉄舟研究会のブログ”とを参考にした)。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 「某人傑と問答始末」 このごろ、人傑として名声の高まっていて、日本、中国、西洋(の学問)を学び、武士道にも心得があると言われる人物(八郎のこと)人がいた。 その人が私(鉄太郎)に問いを持ちかけた(問答を仕掛けた)。「あなたは、もとより潔白性(心や行いがきれいなこと)で、加えて昼夜となく日々心の修行を行っているので、極(きわみ)に達していると存じてはいるが、失礼を承知でお尋ねしたい。わたしは、本当にあたなの心持ちが、君(天皇)のため、国のため、人のために身命を賭(と)する覚悟になっているかどうかとても疑わざるを得ない。だから、私はまずあなたの今まで修業してきた志操(自分の主義や主張などを固く守って変えない心)を確かめたい」と言って、ひとことひとこと迫ってきた。 私は、(馬鹿のように)頭が働かない状態ですぐに答えることができなかった。そうするとさらに同じことを繰り返し 滔々 (とうとう/よどみなく話すさま)と私を責めようとするのだった。 この時、私は大きな口を開けて「ハハハハ」と笑った。立場的には、その人は私より年長で加えて身分もなかなか簡単ではない人だった。これが原因だろうか、その人は顔いっぱいに怒りを表わし、その後すぐに大声で一喝、「あなたは、木や石同様で、人倫(人の道)がどういうものか知らない不届野郎だ!」と言って、大いに私を叱り飛ばした。これにより、私は(冷静になって)静かに答えて言った。「私は、浅学無識で加えて身分が低く貧しいので、そのような難しいことは、初めて尋ねられることでもあり、答えることは簡単ではありません。しかし、強(し)いてとのご質問でありますなら、遠慮なくお答え申し上げます。」「扨(さ)て、あなたのおっしゃることによれば、吾人済世(自分自身で、社会の弊害を取り除き、人民の苦難を救うこと)の要(かなめ・重要なこと)とは、君の為め、国の為め、或いは人の為めに盡(つく)すことで、これによってこの上ない極の道と(なると)お考えになられているようです。その言葉は、本当にそのようでありましょうか?」氏(八郎)が、「固より(もとより/言うまでもなく)そのようなこと(あなたの言うとおり)なので、私は及ばずながら(十分にはいかないが)日夜苦慮し、聊か(いささか/わずか)でも貢献しようと片時も忘れないだけでなく、現在(いま)も実行しているのです。」と言った。私(鉄太郎)は「世間には往々にしてそのような人が多いようですが、私はそのようには(存ぜぬ)思ってはいません。今、あなたのおっしゃるようなことは、すべてこれは自負心であって自惚れ(うねぼれ)と云う以外にはありません。仮に、その自負自慢(じふじまん)の自惚れの気持ちを取り去って、正味(表面に現れない、隠された本当のところ)の所を拝聴いたしたい。」と言った。すると、先生(八郎)は大いに怒り、「あなたがいう、その自負、自慢、自惚れとは何だ(どういうことだ)!!」と言う。(つづく)(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年05月20日
ところで、虎尾の会には浪人や薩摩藩士のみならず幕臣も参加していた。山岡鉄太郎と松岡万、笠井伊蔵だ。回天(革命)をめざすグループに幕臣がいる、というのは違和感を感じないだろうか。幕末のなぞを深めているものの1つだと思う。一般的には幕府側にも水戸藩(水戸学)などの尊皇派がいた・・・などと説明させる。尊皇というある種の宗教とは言え、幕臣が倒幕勢力と行動を共にするということはある意味、奇妙な話だ。どう考えるか、利害が絡むナーバスな問題でもある。 幕府内には、大きく小栗上野介を代表とする佐幕派(主戦論派)と、勝海舟を代表する尊皇派(恭順派)があった・・・という。八郎が桜田門外の変の時に語っているように 幕府は内部崩壊していた。そんな中で勝海舟を代表とする尊王派の人達は幕府を見限った人達と考えられるのではないか。詳しいことはわからないが、幕府内では将軍が毒殺される(推定)などどう見ても尋常でないことが起きているようにみえる。幕臣が幕府の存続を望めない理由があったのではないか・・・そして、水面下で新たな政治体系を模索していたのではないか・・・。この幕府内における対立は幕末を理解するのをとても難しくしている。 幕末の謎はこの幕臣の行動を解くことが大きな手がかりでもある。八郎はそのような尊皇(攘夷)派(恭順派)の幕臣たちと積極的につながっていた。 虎尾の会には、5人の薩摩藩士がいた。結果からみれば、八郎は幕臣と薩摩藩との橋渡しの役割もしていたことになる。それは、公には動けない一部の幕臣と薩摩藩士の接点となり、また行動も代弁したかのようにも見える。 幕臣と薩摩藩士がつながる奇妙な関係、その関係を双方のメリットの観点で歴史上の大きな出来事から探していけば、大政奉還・王政復古(回天/1867)と、その後の廃藩置県(1871)に行き着く。ともに今までの政治体系を大きく変える出来事だ。 これは王政復古(1867年)が幕府(徳川将軍)を廃した出来事だったことに対し、廃藩置県は藩の(藩主)を廃するために行われた出来事だった。共にクーデターとして知られる。2つを1セットと考えれば、(幕府)将軍に対するクーデターと藩主に対するクーデターの2段階のクーデターと考えられ、クーデターをしてでも、急を要して行わなければならないほどの大事だったとも言い換えられる。 幕府のみでなく藩(薩摩藩以外も)がなくなるとなれば、薩摩や長州藩のみならず、幕臣たちにもメリットは広がる。この2回のクーデターはほぼ初めの段階からセットで考えられていたのではないだろうか。そう考えれば、薩摩(厳密には薩摩藩士)と手を結ぶ幕臣の行動も違和感なく理解できるようだ。 日本を守るためには、幕府も庄内も薩摩もない・・・八郎にはこのような考え方があったにちがいない。藩にとらわれない行動で回天・尊王攘夷を実行する同士を増やしていったのだろう。 幕末で活躍した志士たちは崇高な理念を持った人たちが多い。虎尾の会の幕臣たちは、人々のためになる政治を人任せにしないで自分たちで担って作っていく・・・そのため、国のためには薩摩藩士達とも手を組む・・・と考えたのではないか。そう考えないとあまりにも幕臣たちのメリットが少なく、逆にあまりに自虐的で無責任な行動をとったことになってしまう。それぞれにメリットがないものは無理が生じ多くの人々の賛同が得られることにはなかなかならないだろう。 王政復古と廃藩置県での回天。時期こそ異なるが、この2つを行うことがお互いの共通認識か約束としてあった・・・そう考えるのが自然だと思えた。(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年05月14日
虎尾の会はメンバー伊牟田らによるヒュースケン暗殺により幕府に目をつけられ始める。伊牟田らが清河塾に出入りしていたのが幕府側に知られてたからだ。虎尾の会は「横浜異人館焼打ち(焚立て)計画」を企てていた。幹部15人でまざまな話合いが行われ8月か9月に実行しようとしていた。いつの頃からかこの情報が漏れていて幕府の隠密に付け狙われていた。ある日、八郎が幕府の捕り方(幕府の役人)に町で絡まれ、その首を切ってしまう事件を起こして幕府に追われることになる。 “無礼打ち事件”と言われるものだが、実は最近の千代田区の資料で これが事実どおりではない“でっち上げ”の可能性が出てきた。というのは、北町奉行所同心・原胤昭の「清河八郎探索記録」の内容により、「無礼討ち」があったとされる 文久元/5/20(1861/6/27)の前日(文元/5/19)にすでに八郎への逮捕状が出ているということが判明したからだ。 八郎や虎尾の会のメンバーに目を付けていた幕府は、どうにか八郎を逮捕しようと計画した。そして、逮捕状の準備をする。逮捕状(捕縛命令)の日付は 5/19。翌日5/20に八郎の後を追いかけ、何かしら事件が起こったように見せかけ、捕まえる・・・という段取りだったと考えられる。逮捕状が実際の(無礼打ち)事件の日より前に発効されたということが、事件自体の信憑性、事実かどうかが疑わしい。幕府は政治犯としてではなく(より確実な)殺人犯として逮捕したかったのかもしれない。 後に八郎は赦免されるのだが、簡単に赦免される背景には こういった事情があったと思われる。この事件についての八郎が書いたものがあり、それには 「・・5月中に諸方に散乱いたし、その事件(焼打ち計画のこと)をはかるべしとて(行おうとして)、諸子に談合相済みける頃、或日 一会座にいたる帰り路、無礼なるものありて血気に忍びかね、遂に一撃しけるこそ短気なれ。それよりして大事の露見と相成り、・・・」(「清河八郎」、大川周明著)とある。“一撃””とあるので、北辰一刀流の「抜刀術」のイメージだったのかもしれない。八郎は、自叙禄で無礼討ち事件を“仕合”とも書いているので、もしかしたら打合いに近いものだったとも考えられる。とにかく咄嗟、反射的な防衛だったことが読みとれる。 さらにこの事件にいたる経緯には幕府の偵察行動があった。 「幕府の探偵吏により、隣に住む力士の家から清河塾の土蔵の下に、小さなトンネルが掘られ、床下で虎尾の会の密談は聞き取られていた、そして、幕府はそれぞれの諸国の勇士にも探偵をつけて一時に網を張って召し捕ろうと策略していた」(石坂周造回想録)) この事件の流れと詳細をまとめると次のようになる。 ・・・アメリカ総領事館ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺した薩摩藩、伊牟田尚平や樋渡八兵衛は清河塾に出入りしていた。神田三河町にある清河塾の裏に土蔵があり、そこには毎日のように虎尾の会の志士が集まり謀議が行われていた。 清河塾の一軒置いて隣に信濃屋という蕎麦屋があった。その主人の名前は宇兵衛といい、幕臣の同心の手先で十手を預かる縛吏(岡引)だった。そこから幕府の使いは時々清河塾のの土蔵の床下をもぐっては“落し掛”の位置から密談を聞いて幕府へ報告をしていた。 虎尾の会では何か不審に思うことがあり、幕府の監視の目から逃れ一度地方に分散して全国に同志を募る活動をして練りあげてきた横浜の夷人館の焼討ちと討幕の挙兵を秋に実行する計画にしていた。清河八郎は5月末に安積五郎と伊牟田尚平を連れて郷里の清川に帰る予定だった。 5月20日、八郎は水戸藩の有志の切なる希望で両国柳橋の万八楼(当時有名な料理茶屋)で開催されたある書画会に出席した。その会は書画とは名目ばかりで内実は時局を憂える志士たちの懇談会だった。八郎は危険を察するところがあったのか気がすすまなかったが、山岡、池田、伊牟田、安積らを同道出席した。 夕方の5時頃、水戸藩士との会合が終わり八郎ら一行は万八楼を出てお玉が池の道場へ帰るべく向かった。その途中、日本橋の甚右エ門町(現在の芳町)に差し掛かった時に、2、3人連れの職人風の男が八郎たちの前を遮って何事かありげに暴言を吐いてきた。職人風の男たちは蕎麦屋の信濃屋宇兵衛の子分たちだった。はじめは相手にしなかった。右や左に避けて通り過ぎようとしたが職人風の男たちも右により左によって八郎たちの行く手を遮る。 そして、その1人の6尺棒を持っていた男が八郎をめがけて討とうと向かってきた。すると、八郎は「無礼者!」と一喝、と同時に素早く刀を抜く手も見せずに一刀のもとに斬りすてた。その早業にそばにいた山岡も気づかなかったという。腰に帯びていた刀剣(腰間の秋水)は長さ2尺三寸八分(90.1cm)の備州の刀工集団、三原正家の作で刀の切れ味も鋭いものだった。 首が飛んで道そばの瀬戸物屋の店先にあった展示用の陳列皿の上に落ちたという。どこに隠れていたのか待機していた捕手(とりて)が一斉に押し寄せてきた。しかし、八郎の早業を見ていたので恐れて誰も近づくことができない。八郎が前に進むと捕手が退き、八郎が退くと捕手が前に進んだ。集まったやじ馬からドッと笑いが起ったという。幸いに夕暮れ時で辺りが暗くなり、八郎たち一行はバラバラに夜の街に消えた。 そして、その1人の6尺棒を持っていた男が八郎をめがけて討とうと向かってきた。すると、八郎は「無礼者!」と一喝、と同時に素早く刀を抜く手も見せずに一刀のもとに斬りすてた。その早業にそばにいた山岡も気づかなかったという。腰に帯びていた刀剣(腰間の秋水)は長さ2尺三寸八分(90.1cm)の備州の刀工集団、三原正家の作で刀の切れ味も鋭いものだった。 首が飛んで道そばの瀬戸物屋の店先にあった展示用の陳列皿の上に落ちたという。どこに隠れていたのか待機していた捕手(とりて)が一斉に押し寄せてきた。しかし、八郎の早業を見ていたので恐れて誰も近づくことができない。八郎が前に進むと捕手が退き、八郎が退くと捕手が前に進んだ。集まったやじ馬からドッと笑いが起ったという。幸いに夕暮れ時で辺りが暗くなり、八郎たち一行はバラバラに夜の街に消えた。 刀で切られた“首が飛んだ”というのはかなりフィクションぽい。相手は首をはねられなくても相当のけがをしたかもしれない。切れ味のするどい刃物は切ったことがわからないくらいになるので切ったものが飛んだりすることはなく静かにその場に落ちるだけだろう。しかし、話の流れからはその時の雰囲気が伝わる。 八郎の周りには他にも不審なことがあって、清河塾が2度(1度は地震)も火事にあっていた。それは偶然ではなく幕府によるものもあったのではないかと地元では考えられ私もそう聞かされてきた。そのように考えれば清河塾はかなり前から幕府にマークされていたことになる。幕府から追われているという危険を察知した八郎はうまく逃げて捕まらなかったのだが、これを理由に八郎の妻や会の同士が捕まり牢獄で亡くなる者が多く出てしまう。八郎は、なんとかこの無礼討ち事件から逃れた後、難苦の逃亡(潜中)生活に入る。 無礼打ち事件は八郎の剣術のすごさを物語るエピソードでもあった(詳細は「回天の門」参照)。しかし、偶然の出来事ではなく八郎が政治犯としてつけ狙われていた結果の出来事だった。******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年05月08日
八郎の実家は、庄内藩の郷士だったので直接は藩などの組織に属していない。実家が大庄屋だったということで、意外にも庄内藩の江戸屋敷とは関係は深かったようだ。自由に動ける半面、所属する藩の人々の交流は限定的で直接政治との関わり合いは薄くなる。推測になるが、交流の主なものは庄内藩、東条一堂塾、安積艮斎塾、昌平校や千葉道場などでの、友人同士の付き合いなどが主になるだろう。職業としてはあくまで学者であり、塾(清河塾)を経営し生業としていた。 そういう環境のハンデにも関わらず、八郎は行動の人で人との議論を重視した。八郎の行動力とコミニュケーション力は身分や組織の不足を補ったろう。視察・見聞のため全国を旅して回ったし、行く先々で知ったり紹介された多くの幕末の志士に会い、自分から出向いて議論も深めた。剣術試合もしたようだ。今と違いテレビなどがなかった時代なので、言葉の壁もあったと思う。言葉のなまりの修正は現代でもなかなかむずかしい。江戸に早く出たとは言え、庄内弁混じりの言葉だったことは想像に難くない。よくコミニュケーションができたと思うし、それを乗り越えて九州にまで遊説にいくというバイタリティーがすごい。 清河塾は、そんな八郎が立てた江戸唯一の文武両道の塾(文武指南所)だった。1854年(安元)、24才で江戸神田の三河町に塾を開いたときの塾の看板は「経学・文章指南 清河八郎」、29才で「北辰一刀流兵法免許」を授けられてからの神田お玉が池での塾の看板は“「経学・文章・書・剣指南 清河八郎」”になった。清河塾には学生以外に多くの志士が集い、今でいう反政府組織のアジトのような場所になっていった。神田お玉が池の清河塾の家の裏の土蔵が会合の場所だったとされる。清河八郎の学識と威容に心をひかれて清河塾を訪ねる士は、時局の緊迫につれて次第に多くなっていった。薩摩藩の樋渡八兵衛、伊牟田尚平、幕臣の山岡鉄太郎もその1人だった。<br /> 1860年(文2)2月、虎尾の会(尊王攘夷党)が結成される。発起人は山岡鉄太郎と言われる。今で言う、秘密結社、または(命がけの)同士会である。「虎尾」とは「書経」の「心の憂苦は虎尾を踏み、春氷を渡るがごとし」より起った言葉だそうだ。“国を守るためなら「虎の尾」を踏む危険も恐れない”という意味がこめられていた。清河塾に集まった虎尾の会の人達は、志が高く幕府や薩摩など組織の枠を超えた人達の集まりだった。自分の考えを信じて、日本の事を考えていた人達とも言える。学才や剣術で名を上げた人や、幕末、明治でも活躍した人が名をつらねている。時代を牽引するような個性ある人達が多い。身分は、浪人・郷士はもとより、幕臣や薩摩藩士もいた。八郎の功績にはこのような多くの人材と交流を深めたことにもある。会の結成から、政治への関わりが深くなり活動が活発になっていく。事実、この虎尾の会メンバーの幕末維新に与えた影響は大きい。 メンバーは次のような人たちだった。(はじめの発起人の15名) 山岡鉄太郎、松岡 万、伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助、益満休之助、美玉三平、安積五郎、池田徳太郎、村上俊五郎、石坂周造、北有馬太郎、西川錬造、桜山五郎、笠井伊蔵 なぜ、1860年に虎尾の会の結成されたか?この年に起きた大事件がある。桜田門外の変(安政7/3/3)だ。桜田門外の変の時に残した八郎の日記に、“「天下の形勢、内潰(ないかい)の外(ほか)これ無く候(そうろう)」”(内部崩壊)とあり、“ほうっておいても幕府は内部からつぶれてしまうだろう。だが、幕府が自然消滅するまで待っているわけにはいかない。幕府の崩壊に日本の国民が道づれにされたのではたまったものではない“とある。この事件で受けた衝撃の強さが伝わってくる、虎尾の会の同士たちも同じような気持ちだったのだろう。虎尾の会の結成は2月とも3月末とも言われ時期ははっきりはしないが、桜田門外の変のような事件が起きても不思議ではない時代の雰囲気があったと考えていいだろう。(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年05月08日
八郎は東条塾で学んだ儒学をもとに浪士たちの先頭となり、天下国家を救う「国士としての無双」(国内に他に並ぶ者がいないほど優秀な人物のこと)となることを志にした。八郎が幕末維新の魁となった理由の1つは、鉄石から知った「情報」である。それにより、いち早く行動し「西の吉田松陰、東の清河八郎」と言われる先駆者となった。 八郎の主な目的の1つに「攘夷」があり、単純で強烈に押し進められた。同時に、幕府が攘夷を実行するのがむずかしい(日本を守れない)と考え、「回天(革命)」を押し進めた。 攘夷を急がなければならなかったのには理由がある。日本が欧米列強、帝国主義の植民地にならないようにすることだった。たとえば、清国はアヘン戦争で半植民地化され、アジアで植民地にならなかったのは、タイ王国と日本だけだと言われる。植民地を逃れたタイ王国のような大きな国でも植民地から逃れるために、現在のラオス、カンボジア、マレーシアなどにあたる多くの自国土を切売りした。そうすることでなんとか帝国主義の難を逃れられた(その結果、かつてのタイ王国は現在でも分裂したままになっていて、大きな代償をはらわされた。八郎を含む、当時の有識者たちはそのようなことを避けたかったはずだ)。 今では想像は難しいが、日本はほぼ鎖国の時代で外国人とのコミニュケーションには言葉の壁があり、文化の壁もあった。日本国内でさえ、言葉の違いがあった時代だ。アヘン戦争などの情報は聞いたものに恐怖を与える。お互いの国や民族が疑心暗鬼になり、武力を示し国を守る必要があると考えたのだろう。亡くなる数日前には、手紙で“遠からず戦争になる”と書いているので、外国との戦争も視野に入れていたのかも知れない。 八郎の攘夷実行(横浜焼打ち/予定日(1863/6/1(文3/4/15))は、八郎が幕府により暗殺されたために挫折した。その実行予定日は、孝明天皇により徳川家茂(将軍)が約束させられた攘夷実行の約束日(1863/6/25(文久3/5/10))より約1か月早い。幕府(将軍)の攘夷実行は口約束だけだったので、その約束日を過ぎ(あるいは待って) 下関事件や薩英戦争などの攘夷行動が起こるがそれよりも早い。八郎の横浜焼打ち(攘夷計画)は孝明天皇の攘夷要請に呼応して幕府(将軍)や薩長より魁けて行おうとしていたものだったと考えられる。 (最近では、幕府の外国との交渉や努力が再評価されている。しかし、幕府以外の人々には不十分に見えたか、うまく伝わらなかったことも多かったのだろう。幕府内での対立の問題や、一部の幕臣が幕府に距離を置くような行動(幕府内での争い)もみられた。(歴史的には尊王攘夷が倒幕と結びつく。攘夷は途中で挫折し開国へと進む。攘夷の挫折から学んだことがその後の近代化への成長を早めた。) ところで、八郎が目指したものとは、どのような国だったのか、そして実現するためにどのような「ストーリー」をもっていたのか。八郎は早く亡くなってしまったので、そのストーリーを探すのは簡単ではないが、八郎の行動と暗殺された後の八郎の回りの人々の行動・出来事から推測してみた。八郎の行動には、ブレが少ない。それは具体的なゴールをイメージしていたからにちがいない、そう考えて印象深い言葉やよく使われる言葉から推測した。 八郎が残した書に用いられている文字に“回天”という言葉がある。例えば、「赤心(=うそ偽りの無いこころ) 報国回天倡始」(嘘偽りのない気持ちで国に報い、回天を唱え始める)。八郎の書いた書の1つにある。回天とは「時勢を一変させること」、「衰えた勢いを盛り返す」という意味なのだそうだ。ほぼ、革命という意味と置き換えてもいいだろう。 回天(革命)で何をやろうとしたのか(回天をするものは何か)・・・歴史上の出来事から当てはめれば、「王政復古の大号令」に行きつく。 八郎の亡くなる(暗殺される)当日に書き残された歌の1つに、「魁てまたさきがけんの死出の山 迷いはせまじ皇(すめらぎ)の道」という歌がある。この「皇(すめらぎ)の道」が、幕府中心から天皇中心への政治(の国)、つまり王政復古の大号令ということになるだろう。おそらくこれが八郎のめざした国の形、ゴール(目的)ではなかったか。 八郎の気持ちを代弁するかのように八郎の父が「王政復古の大号令」(1868年)に歌った歌が残っていた。「思いつつ今日になりけり菊の花」長い努力の末の達成感が伝わってくる。八郎の歌った歌ではないのだけれど、亡くなった八郎の気持ちを代弁しているかのようだ。(受止めるそれぞれの人が感じる下の句がありそうにも思えた。) 八郎の行動からは、具体的に同士(虎尾の会、浪士組など)を集い攘夷を実行し、その後天皇中心の政治へと変える・・・という流れが見て取れる。もちろん、政治は王政復古してからがスタートなので、その後の具体的な政治体系も八郎は考えていたかもしれない、なぞはつきない。******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年05月03日
八郎は、15歳には学問で身を立てようと考えていた。しかし、1846年、備前岡山藩士・藤本鉄石が “諸国を旅し、清川村に来て斎藤家の客とな”ったことで、学者だけに止まらない、人生を左右するような影響を受ける。彼から学んだことは書画や文学のことから日本の情勢、世界の情勢にまで多岐に渡った。特に清国がアヘン戦争で英国に負け、他のアジアの国々が植民地化されようとしていることを知ったことは、日本も同じように、フランス、オランダ、イギリス、ロシアにより植民地化されるのではないかと考え、強い危機感を持った。鉄石との出会いは、八郎の視野を庄内、幕府・日本から欧米列強へ向けさせた。 後の盟友となる山岡鉄太郎は少年時代、飛騨高山(住居)から伊勢参りへの途中、偶然 鉄石と宿で一緒になった。そして八郎と同じように鉄石から様々な話を聞き、大きな影響を受けたのだという。鉄石は八郎の後の盟友との共通の先生となり、接点にもなった人とも言える。少年達に将来共に国を守るための下地を作った。ドラマのような話でこんなことが事実かと思うぐらい人の縁とは不思議なものだ。鉄石がいなければ後の虎尾の会もできなかったのかもしれない。当時の状況を考えるために、庄内藩と欧米諸国の動向、八郎の行動とを比較してみたい。○年表:庄内藩の動向〔八郎の行動〕1840-42年: 〔八郎10-12歳: 鶴岡城下清水塾で学ぶ(母の実家に住む)。庄内藩の天保国替騒動が起きる。〕*1844年: 庄内藩内で飛島沖(現酒田市)に異国船の目撃。〔八郎14歳: 清川で過ごす。〕*1846年:〔八郎17歳: 備前岡山藩士・藤本鉄石と出会う。〕*1848年: 庄内沖を航行する外国船が増え、飛島沖(現酒田市)で異国船による発砲が起きる。〔八郎18歳: 江戸へ家出。〕1849年: 庄内藩、外国船への対応として大砲を作る。一貫目(3.75kg)砲鋳造。〔八郎19歳: 清川へ戻り、家業をする。〕1850年: 庄内藩、3貫目(11.25kg)砲鋳造。〔八郎20歳: 遊学/ 京都、九州へ旅、長崎・出島見学。〕1851年: 〔八郎21歳: 遊学/ 江戸/千葉道場、東条一堂塾で学ぶ。〕1852年: 〔八郎22歳: 遊学/ 江戸。〕1853年: ペリーの黒船来航(浦賀)。〔八郎23歳: 清川へ戻り、酒田から蝦夷地を視察に行く。〕1854年: ペリーの黒船来航(浦賀/2回目)。庄内藩、品川第5台場警備(他4大名)。〔八郎24歳: 黒船を見に行く。江戸で清川塾(神田)を開く。〕1855年3月: 庄内藩、酒田港付近に15か所、西浜付近に3か所の砲台を築く。〔八郎25歳: 清川から伊勢参りへ行く。〕1856年:〔八郎26歳: 清川へ戻る。しばらくして仙台で過ごす(新婚生活)。〕1857年:〔八郎27歳: 江戸で清川塾(2度目/駿河台)を開く。〕1858年: 本間家(光暉)が庄内藩に大砲5門を献上。〔八郎28歳: 北辰一刀流免許皆伝取得。〕1859年: 〔八郎29歳: 江戸で清川塾(3度目/神田)を開く。〕1859年~1868年: 庄内藩、ロシアの南下への対応で蝦夷地への対応を迫られていた幕府の命令により、蝦夷地(北海道)を拝領する。 庄内藩は早くから外国の行動を監視していて、幕府の命令で江戸や蝦夷地でその対応をした。外国との戦争も視野に入れていたのだろう、軍事面での準備は他の藩に比べて進んでいたようにみえる。初期の対応(1850年)で造った大砲をみると重さの単位で推測すれば旧式の国産のようだ。後に庄内藩は戊辰戦争で近代線を行う。庄内藩が武器の近代化を進められたのは、本間家などのお金の問題だけでなく江戸市中取締などでの情報収集や、このような早いうちからの外国船への対応と経験が手伝ったに違いない。兵器などの詳しい内容は、清川(口)戦争の回でも述べたい。 酒田は、東回り航路と西回り航路の起点となる場所だ。日本海から清川へ入る(行く)には、この酒田で乗換え最上川を遡上する。清川は最上川を航行する舟の寄港地でもあり情報も集まり安い場所だった。舟で行き来する人々にとって航行の安全を脅かす外国船についての情報は切実だ。ペリーで有名なアメリカ船以外にも外国船の行動は活発になっていた。年表でみるように日本海近海でも外国(欧米列強、特にロシア)の活動が活発となっている。それは庄内に住む八郎にとって鉄石から聞いた話と直結する。八郎の攘夷への動機はこのような庄内での環境も強く影響していると思える。 ところで、八郎の尊王の思想はどこからきたのか?八郎の父は、“藤本鉄石のすばらしさを見抜いた”とあるから、もともと斎藤家は尊皇の考え持っていたのかもしれない。斎藤家のルーツは、“清和源氏の分流である越智氏が京都から下ってきて斎藤家を名乗った”ことから始まるという。 時代は、“平安末期から鎌倉時代初期にかけての”ことで、清川村は(もちろん)奥州藤原氏の領地だった。“八郎グラフィティ”には “源義経ら主従が京都から奥州平泉の藤原家にのがれる途中、清川に立寄っており、その時に斎藤家が世話し・・・南北朝時代には・・・”とあり、斎藤家は、奥州藤原氏滅亡後も鎌倉武士として存続した家のようだ。なにか続きがありそうな気もするのだが話はそこまでで、尊王と本人の思想とを直接結びつけるものは見当たらなかった。・・・・残念ながら、その詳細はわからない。 鉄石から学んだことは大きい。八郎は鉄石を真似するように生涯を通じて、蝦夷(北海道)へ、関東各地へ、京都へ、九州へと旅をする。そして、多くの志士と出会い、議論(遊説)を重ねる。こうした行動や人と対話する姿勢は鉄石から学んだものにちがいない。 八郎は成長の過程で、天保の(清川の)悲劇にもまじめに向き合ったのだろう、剣術に勉学にと自分を高めようと努力している。庄内藩の天保国替騒動(三方領地替え反対一揆)、欧米列強の日本への威嚇行為、藤本鉄石との出会いなど、八郎の回りには立て続けてスケールの大きな出来事が起こっている。八郎はそれに呼応しているように見える。 そうして考えていけば、八郎は庄内にいる時から尊王攘夷、反幕府であったのだろう。18歳で家出し江戸に向かうとき(庄内を離れるがしばらくして戻っている)にはその下地はほぼ固まっていたと思える。******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年04月15日
(2. 庄内藩と幕府との関係) 天保の飢饉は、1839年(天保10年)まで続いていた。飢饉が終ったばかりの1840年(天保11年)、今度は庄内藩に天保国替騒動(三方領地替え)という藩の庄内での存続に関わる事件が起こる。領民を主体としたので天保義民事件、三方領地替え反対一揆とも言われる。八郎が10歳の時で約2年間(1840年(天保11年-12年)続いた。 その内容は藤沢周平の小説「義民が駆ける」に詳しい。義民が駆ける [ 藤沢周平 著] また、その様子を描いた「夢の浮橋」という貴重な庄内藩の絵巻物が歴史資料として残っている。国立歴史民俗博物館がそれを2000年に「地鳴り 山鳴り-民衆のたたかい300年-」(企画展示/佐倉市)(下図表紙)というテーマで取り扱った。その資料本も参考にしている。以下『 』部は、『地鳴り 山鳴り-民衆のたたかい300年-』からの引用。 騒動の簡単な内容は、『この一揆は、川越の松平氏を庄内へ、庄内の酒井氏を長岡へ、長岡の牧野氏を川越へ移す、といういわゆる幕府の三方領地替え命令に対し 天保11年(1840年)11月から翌(1841年)7月までの間 藩主酒井忠器(ただたか)の長岡転封を阻止するために庄内藩内で行われた全藩規模(幕領も含む)での一揆である。』・・という内容で、庄内藩主が、江戸幕府により越後長岡藩への転封命令を受けたことに対する、領民一揆である。 庄内藩の領民は酒井家が何の落ち度もないのに長岡藩に転封させられるのは道理に反するとして藩内での集会などを行った。また、賄賂(当時は美徳とされた)や江戸の幕府老中への直訴(刑罰としては死罪、実際には死罪にはならなかった(詳細は不明)と考える)など反対運動を行った。そして、約10ヶ月の一揆運動の後、ようやく幕命が(停止)撤回となった。 この幕命の動機については、『なぜ、突然このような命令を出したのかについての確たる理由は不明だが、家斉の第53子を養子に迎えて将軍家と将軍家と続柄になった川越藩松平斉典の希望に応えたのものではないかと考えられている。』という。(一部の)幕府上層部への利益誘導(獲得)という短絡的な理由により多くの民衆が無駄な労力を課せられ、不利益を被るという飢饉に苦しんでいる領民には受け入れがたい内容だった。 庄内藩と領民には、騒動の影響はこの騒動が終わってたあとにも経済などへ影響はあっただろうし、天保の飢饉が続く中で、懲罰的な御手伝普請(印旛沼開拓(1842年))にも従事させられ 疲弊もした。 当然、庄内藩内の幕府政治への失望感は広がり、この騒動は、庄内藩自体が反幕へ傾くきっかけになってもいいような事件だった。実際、この騒動を理由に幕末には尊王・改革の流れがあったが、弾圧の末に主流になることなく1866年(慶応2年)に挫折している(丁卯の大獄)。 この「夢の浮橋」という巻物名は、庄内にいたり回ったりしたならすぐにイメージが湧く、最上川で隔てられた「庄内の北(飽海郡)と南(田川郡)を架ける(つなぐ)橋」という意味に取れる。当時にはなかった、夢にまで見る「庄内を結ぶ橋」として「団結の象徴」としているのだろう。源氏物語では「夢の浮橋」は「はかないものの意味」なのだそうだが、ここでは肯定的に「結ぶ橋」の意味にとらえらている。 歴史の教科書などで江戸時代の一揆の例の挿絵として使われる『中通り荒屋敷大寄之図』(左図)が表紙(左上図)に使われている。現在の鶴岡市藤島、六所神社あたりでの集会の様子。旗に長沼、押切、横山など、現存する大きな地区名(旧村名)が見てとれる。ここは鶴岡と清川との街道の途中になるので八郎も現場を目にしたにちがいない。 別のページの、『大浜』には、7万人が集まったとある。(大浜は、最上川河口の酒田港の周辺の広い土地で、明治以後、現在まで工場地区となっている。第2次大戦では、米軍による(酒田)空襲(8/10)の被害にあった場所になる。) 歴博の資料の中では、『明治維新の全体が政治家軍事化の過程だったが、・・・庄内の百姓は公儀の権能として慣行化されていた三方領地替えの藩主転封を中止させた。百姓の保守性を思わせるこの一揆は、分際を超えた行動としてみれば、民衆の大胆な政治化を表すものだった。』と評価されている。また、この一揆の成功は幕府の権威を損なわせたものとなり大塩平八郎の乱(1837年)などと同様に幕府崩壊の始りの1つと考えられる。 この騒動には、「庄内藩とその領民連合 VS 幕府」と、「庄内藩<幕府」の2つの構図がみえる。幕府は、庄内藩の多くの領民にとって普段の生活には直接関係の薄い存在だったろう。八郎にとってもこの騒動がなければ意識することはあまりなかったであろう幕府。この騒動により幕府が関わる政治への失望を強くしたと思う。また、庄内藩にとっても必ずしも庄内にいられるわけではないことを再認識させられた事件ではなかったかと思う。 庄内藩天保国替騒動(三方領地替)は、庄内藩領民の総力戦的な要素をもつ。打ちこわしや暴動ではないが 庄内では到る所で篝火が焚かれ、数万人規模の集会が何度か行われたようだ。太鼓や法螺貝も吹かれたということなので騒々しかったにちがいない。 この一揆に10~11歳(少年)の八郎が参加していたかは不明だ。しかし、八郎は10歳から12歳まで3年間、母の実家にあずけられて鶴岡城下の清水郡治の手習所(書)と伊達鴨蔵の塾(儒学)へ通った。そのため、当時、鶴岡城下で騒動をより近くで目にしていただろう。また、城下でも騒動の焚き火のはじける音が聞こえたと言われているので、鶴岡から清川の実家(直線で25kmほど)へ帰るときには、騒動に関係する光景を見ていたことは想像に難くない。 ちなみに"清川地区は古田地帯で高年貢地が多く、庄内藩の善政を感じなかったことや関所があり監視が厳しかった"ことなどから比較的騒動とは距離を置いていたと言われるが、騒動の熱気のようなものは村にも伝わっていただろうし、八郎の実家は、関所(旧清川小学校)前の街道沿いにあるので、たとえ実家にいたとしても 清川関を往来する人々の多くの情報にもふれていたと考えられる。また、1843年(14歳)から、清川関所役人(庄内藩士)、畑田安衛エ門に学んでいることから、歴史に残るこの騒動についてより詳しい状況を聞いていたとしても不思議ではない。 八郎は民衆の力の大きさを感じながら、庄内義民の一人としてこの騒動をとらえたにちがいない。現代では選挙があるので政治活動や政権交代は武力は必要としない。同じようにこの時の騒動(一揆)は武力によることなく賛同した人々のデモや民衆運動により希望する藩主と政治を勝ち取った成功例となった。人々の団結が力になった、ある種の市民改革運動のようだ。 八郎の幕末の活動のなかで、寺田屋の変の直後の1862年に「回天封事」建白書を孝明天皇に送付したというものがある。その中には“・・・その末尾に「われわれは天下の義人を集めて、数か月以内に必ず大挙します。」と誓って・・・”というものがある。私にはこの内容とこの事件(庄内藩天保国替騒動(三方領地替))とが重なって見えた。(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版マルハチ 若もぎ小茄子 100g 【浅漬け】【ナス】【茄子の漬物】【なす漬け】秘密のケンミンSHOWで紹介 JA鶴岡 <冷凍> 山形鶴岡産 殿様のだだちゃ豆 200g 5パック お取り寄せ/冷凍/おつまみ/料理/おやつ
2016年03月24日
なぜ 八郎は、攘夷、反幕、新しい政治制度(尊王)へと突き進んだのか? その思想に影響を与えたかもしれない八郎の幼児から少年時代に身の回り起きた2つの庄内での事件を取り上げてみたい。(それらの事件は、不思議と八郎の成長に沿うタイミングで起きていたことが興味深い。)1. 天保の大飢饉(天保4年/1833年)に 清川村に起きた悲劇(事件)・・・《清川村と庄内藩との関係》 ”天保の飢饉で米が少ない中、庄内藩は平年より(多くの)米の取り立てを行い村では食べるものがなくなっていた。(清川)斎藤家は酒屋(造り酒屋)であったが、自家米以外にも庄内藩の預かり米も保管していた。斎藤家は飢饉を理由に、村に15俵の米を寄進したが それから1カ月後のある夜、16人の義賊が斎藤家の土蔵に刀を持って押し入り、(藩の預かり米の)11俵の米俵を奪って逃げた。 藩の預かり米と義賊が見つからなかった場合には、斎藤家は家財没収、一家追放、当主は斬首獄門の刑という重い処分がまっていた。祖父の昌義は肩を落としていたが、3歳の八郎がその夜の義賊たちの声や体格をよく覚えていて犯人を的確に言い当てた。そうして、義賊が捕まり盗まれた米もが無事にみつかり、義賊たちは、手荒く鶴岡城下まで引き立てられた。斎藤家や村では義賊たちの命の嘆願を願い出たが かなわなく15人が斬首の刑となった。・・・”と、いうようなとても悲しい出来事だ。(この事件との関係は不明だが、別伝で同年12月に起こった斎藤(治兵衛/屋号)家への打ちこわしの話も残されている。民衆が斎藤家の戸障子を打ちこわし、米蔵から11俵を持ち出し、さらに治兵衛本人を連出し、(義賊たちが)渇命しそうなので金400両を貸す要求をし(実際は56両を渡す)、その後指導者(11名)が牢獄させられるという事件だった。) 庄内藩は、「天保の飢饉の折、備荒貯蓄制度の充実で 領内からは一人の餓死者を出すことも無かった」と言われたりもするのだが、天候による災害は人々を厳しくさせ庄内でも打ちこわしでなくなる人もいた。またこのような悲劇も起きていた。この事件は清河八郎の聡明さを表すエピソードであると、同時に僅か3歳の幼児がこの事件を背負わされてしまったという悲劇でもある。 普通 3歳の頃の記憶は、ないか(わずかに)あったとしても断片的ではないだろうか。天才の八郎とはいえ、3歳で物事を判断する能力はなかっただろうし、大人に聞かれたり言われたことに本能的に対応し行動したのだろうと察する。3歳にして重い十字架を背負わされたかのようだ。 あまりの悲劇に言葉もないが、この事件の課題を簡単に整理してみたい。・餓死者を出すほどの飢饉とは言え、16人中15人の斬首とは刑罰としては重すぎること。・窃盗を抑止するという藩法(刑罰、社会や人を守るための制度)が、結果人を殺す制度になってしまったこと。・村の代表が刑の軽減を嘆願をしたが、かなわなかったこと。(取締る方と取締られる側とに罪への重さに対する受けとめ方の違いがあった。(庄内藩と清川村(斎藤家を含む)との違い)・村の共同体に大きな溝を作ってしまったこと。・幼児(3歳(数え4歳))にその判断がゆだねられたこと。・・・などなど。 成長する過程でこの事件(悲劇)について向き合い考える機会があったのだろう。八郎は後に“「経世済民」”という学問を学んでいる。“国を治め民を救うのを目的”とする学問なのだそうだ。この事件により強く求めるようにものになったもの・・・と思えてならない。 ところで、八郎の本名は 斎藤正明(幼名・元司)。“名を天下に上げ、わが家の名を後世にかがやかせねばならない。そのためには江戸に出て学問にはげもう“と、江戸に出たと言われている。しかし、江戸へ行って塾を開く時(24歳)に名前を、斎藤正明から郷里の名をとって清河八郎と変えた。 洋の東西を問わないが生まれ育った故郷を誇りにし、故郷を離れた時にそれを成功の糧とした人は少なくない。八郎も郷里を誇りにして自分の名前にして大成をなした。それだけで「偉いのー、すごいのー」と私を含め地元の人々の誇りだ。このようなことはよくあることかと思っていたが、同じ時代他の幕末の偉人でも八郎のように郷里名を名に使う人は意外に少ない。 推測になってしまうのだが清河八郎という名前には、この事件が起きた清川村出身であるという思いと、このような悲劇が起きない世の中にしたいという思いが込められているのではないだろうか・・・そう思えてならない。(“川”から“河”に変えたのは、はじめは細いが、自分が突き進む道が大きくなる後の成功を願ってのことと言われる。八郎の意味は、八郎が易を信じていたからではないかというふうに昔、聞いたことがあるが、詳細は不明。) この名前は幕府に追われる身になって、名前を変えるように進言されても変えることはなかった、と言われる。それほど、名前(郷里(清川村))に対するへの思いは強かったのだろう。 村で起きたこの悲劇(事件)はハ郎の成長する過程で、また人生の行動の中で強く影響を与えた出来事だったと思う。(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年03月22日
初めに、清河八郎(1830-1863)について。(以下、敬称略) 多くの作家が本を書いている。そのため、詳細はこれらの本に詳しい。また、庄内町発行の「清河八郎・グラフィティ」という本があり、私はこれと郷土史資料などを参考にした。(参考資料はフリーページ(幕末 清河八郎と庄内藩の清川(口)戦争)に記載。以下“ ”は清河八郎・グラフィティからの引用)柴田 錬三郎 著『清河八郎』↓【中古】文庫 ≪日本文学≫ 清河八郎 / 柴田錬三郎【02P11Mar16】【画】【中古】af…藤沢 周平 著『回天の門』↓回天の門 上 新装版 回天の門 下 新装版高野 澄 著『清河八郎の明治維新』徳田 武 (著)『清河八郎(伝漢詩にみる幕末維新史)』 清河八郎は、スーパーマンだった。北辰一刀流の中目録免許(免許皆伝)と昌平黌(昌平坂学問所)で学ぶ(東条一堂塾では三傑)という秀才なのだ。2時間くらいしか寝ないで勉強に励んだ時期(74日間、寝床に入らず)もあるという努力家でもある。学問と剣術の文武両道、現代に例えていうと、東京大学出身の学者でプロスポーツ選手みたいな人だ。江戸に塾を開き、文字通り文武両道を教えられる江戸唯一の学者だった。“背が高く、色が白く気品があった(西川練造の長女・澄)”。似顔絵をみてほしい、とてもハンサムだ(スポーツ選手の斎藤さんに似てなくもない?)。本名は斎藤 正明。実家は裕福な家(酒造業)の跡取り息子で、申し分ないような人だった。(以下、敬称略。)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年03月19日
幕末の出羽庄内の歴史を考える時に、いつも何かすっきりしないものを感じてきた。最近 清川(庄内町)に行く機会があってふとしたことをきっかけに、これは”出羽庄内の幕末のジレンマ”ではないのか・・と考えるようになった。幕末のジレンマとは、幕末維新の魁けの英雄、功労者として教科書にも出てくる偉人“清河八郎”と、いわれなき汚名をきせられながらも戊辰戦争で庄内地方を守りきった“庄内藩”の関係で、尊皇攘夷の志士、清河八郎の活躍と 佐幕の立場で酒井玄蕃などで有名な庄内藩の活躍が相反するの立場にあるようにみえることだ。(尊王攘夷x庄内藩) そのジレンマがどこからくるものかつきとめたくて歴史を調べてみた。(悲劇がくり広げられた幕末、日本中にこのようなジレンマのようなものがあったと思う。) 調べていくうちに、一見ジレンマのように矛盾し異和感を感じるものが不思議とそうでないように思える。それは偉人たちのその時々の日本を守るため、庄内を守るため・・・という思いのベクトルが共に同じ方向に向かっていたからだった。もし、同じようにジレンマを感じている人がいたら、参考にしていただけたらうれしい。 (出羽)庄内で、そのジレンマが交錯するかのような場所が“清川”(地区)だ。 幕末の志士、清河八郎(1830-1863)が生まれ育った場所(生家跡)と、戊辰戦争(清川(口)の戦い/1868年4月23日)がくりひろげられた場所がある。その他に庄内藩が陣地を置いた場所や清川八郎神社、清川関跡など、500mほどの範囲内にある。 地元では必ず学習する幕末の地域史としての清河八郎と戊辰戦争・清川(口)の戦いの2つの歴史なのだが、知らない人でもその話をここで聞けば、多くの人が同じジレンマを感じられるのではないかと思う。 清河八郎は多くの人により映画や本などになっている。特に新撰組とともに扱われることも多い。幕末関係の本には必ずといいほど出てくるので語りつくされていたと思っていたが、まだまだ不明なことも多い。・(国のために尽くし、自己犠牲とも思えるような)清河八郎の(回天・攘夷)行動の原動力はいったい何だったのか? ・清河八郎が一郷士の身分にもかかわらず、どのようにして明治維新の魁となったのか?・・・などを考えてゆきたい。 一方、清川(口)戦争(1868年4月24日)のイメージは私にとって恐怖も伴なう。町のすぐ近くで行われ、小さい時から事あるごとに聞かされてきた戦争でもあったからだ。 薩長軍を撃退し、庄内を守った庄内藩。戊辰戦争では、(酒井玄蕃が)薩摩(大山格之助等)に“鬼玄蕃の勇名をほしいままにした・・・”と言われる。調べて行くうち庄内藩の(一部だが)強さの秘密?やこの清川口(戊辰)戦争が近代戦をよく現わしている貴重な戦争だったことなどがわかった。地形上行動範囲が限定されろため全体も把握しやすい。民家がすぐ近くにあり薩長側からの奇襲戦だったので多くの村民(民間人)が戦争に関わることになり詳しい資料(証言)が残った。(八郎の父、斎藤治兵衛(豪寿)がこの戦争のことを詳細に記述している。その内容を追っていきたい。) 清川地区は幕末の史跡で、清河八郎の生家があった広い場所には、今は移転して空き地になっている(昔は製材所があった)。戊辰戦争がくりひろげられた場所は、(国道47号線)バイパス道路ができたり変わったところもあるが大きくは変わっていない。庄内藩の陣地となった御殿林も、史跡としてほぼそのままあり、戦争当時のイメージ(距離感)がつかむことが出来る。 90年代頃からこのような戦争などの史跡をめぐるツアー(旅)をダーク・ツーリズム(Dark Tourism)と呼ぶのだそうだ。ぜひ、訪れていただきたい場所だ。(特に風の強いところなので、冬や春は寒くないよう防寒には、気を付けていただきたい。)歴史的に清川は”源義経”が立寄り”松尾芭蕉”が最上川を舟から降りたった場所として有名だ。西郷隆盛も戊辰戦争の講和のために庄内に入る際には、清川から入ったとされる。古くから関所があり交通の要所だった場所なので多くの人がここを通り旅をした。この歴史ある場所を中心としてジレンマの謎解き?にチャレンジしたい。(思いの他長くなりそうなので、数回に分けて)(敬称略)******** ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版
2016年03月18日
田夷置井出公砦麻呂(アザマロ)らが移り住んだと考えられる上毛野緑野を探しに群馬県藤岡市を訪ねた。神流川を挟んでとなりが埼玉県となる県境の市だ。まずは、当時、緑野の郡(こおり)にあったとされる“浄法寺”を訪ねた。 前出の本によれば“この地の緑野寺(浄法寺)は、平安時代前期に都にはなかったすぐれた 一切経を持っていた寺として名高いし、最澄もこの寺を訪れ関東布教の拠点にしようとした。・・・”という。← 「寺教野緑」と読める。 立派な門で雰囲気があり(徳川の家紋が瓦にあるので江戸時代のものか)、石段などに当時の隆盛が偲ばれる。お堂の中には入っていないので内部は不明。外に古い五輪の塔があったが、風化していつの時代なのかわからなかった。保存状態が少し残念な感じもした。 次に"本郷"を訪ねた。文字から推測するに、郷の中心部だったように思われたので、地図を探して見ると“本郷埴輪窯跡”という史跡があった。 子供の頃、庄内町笠山(古代出羽郡)でも須恵器の窯跡が発見されたのだが、町民陸上トラックと野球グランド造成のために埋め立てられたという残念な話を聞いたこともあり、窯跡とはどんなものか興味をもって窯跡を見に行った。 埴輪を焼いた窯跡とされ、神社のような建物で囲まれ大切に保存されていた。高さ5-6mの傾斜地になっていてその傾斜を利用した"登窯(?)"だった。レンガのような塊のものはないようだったのでよく窯跡と判別できたものだと感心させられた。裏手の小高い丘を上がったところには古墳もあった。 せっかくここまで来たので近くの畑で仕事を終えられ帰る方に声をかけ伺ったところ、この辺は昔、緑野郡(みどのこおり)という場所だったこと、また、“緑埜”という地名がまだあることということが分かった。緑埜はここから西へ4kmほど行ったところだ、緑埜へ向う。 少し脱線をするが、この本郷から東へ3kmほど行った、神流川をはさんだ西側向いに"元阿保"という地名を見つけた。ここは阿保氏の本貫地(武蔵国賀美郡安保郷)で阿保氏居城があった場所のようで、“安保(あぼ)氏(字は違うが同じ)”といえば、余目(庄内町)の乗慶寺に供養塔がある。(ちなみに阿保、安保はアホでもアンポでもなく、アホ゛。) 余目(庄内町)の阿保氏は、ここの出身といわれているので、砦麻呂(アザマロ)や他のエミシの子孫の内、阿保氏といっしょに出羽に戻ってきた人もいた可能性があるのでは・・・と想像が膨らむ。 残念ながら、古代史から外れていくのでこれ以上は断念。砦麻呂(アザマロ)や阿保氏、思いのほか、出羽の国と歴史的関係がある地域だと思った。 さて、緑埜である。 先ほどの本郷から西へ5km、浄法寺からは西北へ6~7km交差点近くで“緑野”という看板を見つけた。緑野の“野”が“埜”になっているが、間違いないだろう。“ミドリノ”かと思ったら“ミドノ”と読むのだそうだ。元々は"御殿(みどの)"だったのだろうか、大きな屋敷か城などがあり、位の高そうな人が住んでいた感じのする響きがある。上毛野緑野郡は、想像していたより広かった。 平井小学校前、東側(鮎川方面)を望む。写真に写っていない反対側の背後が民家が並ぶ区域。 通りすがりに近くの畑に目をやると、道と畑の間に、桑の木が植えてあった。世界遺産の富岡製糸場関連の遺跡(高山社跡)にも近い。さすが養蚕が盛んな地域だなあと関心させられた。古くから織物が盛んで絹により栄えた地域である。 また、下仁田ネギなのだろうか、深谷ネギなのだろうか?一般的なネギより太いネギが植えられていた。ネギで有名な産地の中間に位置しているから、味に間違いはなさそう。 古くからある日本の風景が残っている、不思議と出羽の国の風景など似た雰囲気のする場所でもあった。 古代、この毛野国に住む人たちも(おそらく)同じ“エミシ(毛人)”と呼ばれていた人たちだった。そこへ蝦夷や蝦狄、尾張、新羅などからの渡来人も入ってきた。そんな歴史が想像できる。“NHKの花燃ゆ紀行”によると上州は人心が荒いといわれた土地になのだそうだが、いろんな国の人たちが集まったという歴史的背景が影響しているのかもしれないとも思った。(ちなみにWIKIによると 関孝和(微分積分学で有名)や堀越二郎(ゼロ戦設計者で有名)が藤岡市出身) 砦麻呂(アザマロ)らはどこに住んでいたのか?不明だがこれと近い風景を見ていたのだろう・・・と想像した。
2015年11月21日
作者の万葉集への思いが"考古学者"としての視点で書かれたエッセイのような古代史の本だ。萬葉集に歴史を読む [ 森浩一 ] “考古学の姿勢をもって『萬葉集』に挑んでみようというのである。・・・ぼくは和歌に詠みこまれている土地についての知識を重視している。逆にいうとどのような土地でそれぞれの和歌が生まれたのかを探ろうとするのである。・・・”と、取り上げた歌の解説のみならず、その歌との想い出やエピソードを載せていてとても面白い。 大和(厳密には山跡・山常・八間跡・倭など和歌により表記が違うのだそうだ)以外にも、三河、北九州や関東(上野など)など 他の地域についても多くのページを割いている。 興味を惹かれたのは第7章の“地域学から見た東歌”という章で、伊香保や佐野(上毛野)で歌われた歌を解説している。ちなみに 佐野は上野の国、西毛にある地名の方で、現在佐野ラーメンで有名な栃木県の佐野とは違う群馬県内の地域のことをいう。地図では他にも点在する佐野という地名が見られる。 ざっくりだが間違いをおそれずに書くと、毛野は今のJR両毛線でつながる利根川の上中流域の群馬県南東部からに栃木県南部に広がる地域で、この地域は古くから現在に至るまで県などの行政の枠を超えて経済や文化での強い結びつきがある。古代には毛野国があったとも考えられてもいてその西側の地域が西毛地域のようだ。 毛野の地域は 上とか下とか西とか東とかがあり分かりにくいのだか、(西毛(中毛含む)+東毛)≒上毛野≒上野、(両毛ー上野)≒下毛野≒下野、とみてとれる。(時代によって国の範囲が変わったり線引きがむずかしく詳しくはわかりませんでした。ひょっとしたら、出羽郡が一部の地域から山形、秋田へまたがる広い地域名になるのと同じようなことがあるのかもしれない。現在でも群馬県では北毛、中毛、東毛、西毛で区分けされることが多いそう。) ちょうど今、大河ドラマ(花燃ゆ)の舞台となっている地域でもある。この本の挿絵を見ると安中市、高崎市、藤岡市、伊勢崎市、桐生市(太田市)がでている。 この本では、直接出羽の国は取り挙げられていないが、“上野国の蝦夷の移住”という章があり、そこで出羽の国の人が取り上げられている。(万葉集には出羽の国のものがあったかは不明。) この章の5番目に上野国の蝦夷の移住の話が出てくる。 “・・・緑野(みどの)郡に限ったことではないが、西毛には渡来人が多いし、蝦夷(毛人)集団も各地にいた。・・・『和妙抄』で上野国の西毛の各郡をみると、碓氷郡に俘(浮)囚郷がある。多胡郡にも俘囚郷はあるし緑野郡にも俘囚郷はある。俘囚とは公民化した蝦夷のことで、時にはその軍事力が尊ばれた。 弘仁3年(812)に注目すべき資料がある。「出羽国の田夷置 井出公 砦麻呂(アザマロ)ら15人に上毛野緑野直の姓を賜う」(『日本後紀』)。 この場合の上毛野と緑野は、ともに地名であって、緑野郡へ移住してきた俘囚の記事だったとみられる。出羽の蝦夷はしばしば蝦狄と書いて、陸奥の蝦夷とは区別された。北まわりの日本海交易に従事した者もいたと思われる。・・・” “注目すべき”としているものうれしい。 この時代の西毛地域には、蝦狄や蝦夷や胡人(新羅系渡来人)、尾張などの郷名が数の詳細は不明だが、複数確認されるという。 砦麻呂ら15人は緑野直姓を賜り、その姓がこの土地の名のようだ、“賜う”のだから、なにか功績があった人だったのだろう。捕らえられて移住されたのとは違う感じを受ける。とにかく具体的な移り住んだ人の名前が残っているというのはとても貴重だ。 弘仁3年(812)といえば、陸奥での38年戦争が終わった次の年である。砦麻呂たちも38年戦争を戦ったのだろうか。そのころの記録に残る出羽の国の歴史としては、804年(延暦23年)に、秋田城を停止して秋田郡にするほど蝦夷の反乱が激しくなったとされるものがある。新天地へ移りすんだ砦麻呂、どんな人だったのだろう、どんな理由で移り住んだのだろう。興味はつきない。
2015年11月19日
ある歴史番組をテレビで見ていて、”ピーン”と頭に電気が走ったような、ひらめいたような気持ちになった。(まるで一休さんのように?)歴史秘話ヒストリア「国書偽造秘められた真実~国境の島・対馬の憂鬱~」を見ていたときだ。 その番組の内容は江戸時代の朝鮮通信史の歴史の内容だったが、対馬の古代の歴史からはじまる。対馬国には“西の漕手(コイデ)”といわれる古代からの港があり、奈良時代、遣唐使がこの港から大陸へ船出したという。古代、港のことを“漕手”と言ったのだそうだ。 そういえば、出羽の国、最上川沿いに”小出新田(コイデシンデン)”という集落(現庄内町)がある。この“小出”は、“漕手”の当て字だったのではないのか?!・・・とすれば、ここが船の出発する場所、古代の川港だったのではないか・・・何か謎が解けそうな、そんなに気持ちになった。ちなみに“新田”や“興野”はこの地域には多く戦国時代に灌漑用水により作られた集落をいう。小出新田について調べてみた。 まずは、言い伝えから。現在の最上川は、集落から1kmほど北側を流れているが 以前は集落を隣接して(北側を)流れていた。戦前、内務省の工事により最上川が北に移動した、という。なるほど、WEBで調べると土木学会のHOMEPAGEに次のような資料を見つけられた。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/j_naimusyo/kawa/46138/zu.pdf(最上川改修計画大要 秋田土木出張所 大正9年10月(1920)参照) 小さくて少し見つらいが、最上川が丸く流れている川沿いの南岸(中央部の右下)、“小出新田”の地名が読み取れる。赤い線の新しい川の流れと青い線のそれまでの川の位置も見てとれる。言い伝えは正しかったようだ。 ↑ かつての最上川は、整備されて今も“(土場)沼、としてあるいは、灌漑用水路”として残っている。沼と思っていた旧最上川だが直線で人口的だった。← 桜並木と堤防が整備されているかつての最上川(1920年改修前)。北の方角を望む。(後から述べるが実はこれも人口の川だった。) この風景をみれば、ここが船着き場だったことの想像は難くないし、実際この地域は“土場(ドンバ)”とも言われ、鉄道が敷かれるまでは船着き場だった。 [この新旧の最上川の間、約1kmの土地はしばらくは河原のままであったが、戦後まもなく”田んぼ”として開拓(三合原開拓)されたのだそうだ。よく庄内の民家で見かけられる丸石の石垣として利用されている丸石は、このような場所から堀りだされたものなのだろう。(最上川沿いではこのような開拓がいくつかの場所で行われ、土は山からも運ばれたともいう)。] 次に、「出羽国風土記」で”小出新田”を探した。田川郡に小出新田の記載がなく探すのにとても苦労した。なぜかとなりの飽海郡「巻之4」にあった、驚くべき内容だった。 風土記によると、「かつての最上川は“南野村”の西にあり(上流の地域)、洪水が多いため、正保元年(1645年)、620間(1127m)の長さの堀を切って新しい川とし、さらに新しい河口から 150間(272m)差添堀られ(”つないだ”という意味であろうあろうか)、河を1090間(1982m)北に移動させた」という。 つまり、洪水を防ぐ目的で川を北に移動させるため上流から堀を堀り、下流からも堀を掘ってつなげたというのだ。江戸時代、最上川は1920年の改修の位置のさらに南側を流れ、小出新田村は最上川の北岸に位置していた・・・という、1645年のことになる。 (昔から最上川の北が飽海郡、南が田川郡とされている。改修以前は、小出新田(と隣の堤新田)は“(最上川の)川北”の位置になるので北の“飽海郡”に属していた。小出新田は今では南側の(東)田川郡に属しているが、風土記が明治発行のため、飽海郡として記載させていたのだった)。 小出新田の北西隣には“堀野”という集落もあり、堀をほってできた土地(野原)の意味にとれる。対岸の酒田市(旧松山町)にも“小出池ノ尻”の地名が見えるので北側の山の裾野まで、“小出”としての地域が続いていたと考えるのが自然だろう。また、現在、陸羽西線の南野駅のある"南野"という地名も古代、城輪の柵(古代出羽国府の有力な推定地)から見た最上川を隔てる"南の野原"という地名として解釈できそうだ。 風土記どおりにこれらの集落や境界をかつての最上川が流れていた・・・とすれば 今より大きな川の蛇行が想像できる。(最上川の)小出新田 1645改修、1920改修と呼べる2段階の川の移動があり、合わせて3km移動したことになる。地図でみてみるとおもしろい。隣の赤渕新田と堤新田に細長い入り地がある。廻館の現在の国道47号線の東側の丸くなった境界線との“U”の字形、これらが旧最上川の土手(バンク)の跡なのかもしれない(古地図の廻館の位置は間違いで線路の南側になる)。 昔から古代出羽の国では最上川を船で行き来していたと推測されているが、港の位置については不明な点が多い。特定するのが難しいようで、その位置が今と昔とでは大きく変わってしまっているからなのだろう。小出は古代出羽の国の港の有力な候補の1つ・・・と考えてもいいかもしれない。飽海郡にあったとすれば、最上川北側にあった城輪の柵の港となるのだろうか? 昔から”小出”とはどんな意味だったのか、疑問だった。小出という地名は他の地域でも時々目にする。古代の地名としての"小出(漕手)"、正しいかどうかはいつか発掘されるときがあって、遺跡が出るかにどうかになるのだが、長年の謎に大きなヒントを得たような気がした。(引き続き、小出の謎のせまりたい。)
2015年05月03日
2年前に古墳と確認され、(判明したものの中で)日本海最北の古墳という「鷺畑古墳」を訪れた。2013年に発見がされたが、それ以前から古墳だろうと言われていたようだ。発掘によりそれが証明された形だ。← 鷺畑山古墳と月山遠影 秋晴れの天気が良い日で、地元の大学の先生と学生の方々が発掘の真最中だった。古墳は鷺畑の集落のすぐ近く、庄内平野を見渡せるみはらしのよい一段高くなった丘のような場所にあった。素人目には、ちょっとした小山ぐらいにしか見えない。畑や雑木に囲まれていて、規模はそれほど大きくなく古墳とはわかりにくものだった。← 発掘中の鷺畑山古墳 鷺畑の集落から古墳にいくには川にかかる橋をわたる。この古墳の近くには京田川が流れている。京田川は月山から発し、藤島川に合流し(かつては最上川と合流していたが分けられた)日本海へとそそぐ川だ。 古墳の位置は京田川の近くを選んでつくられたのではないだろうか?そう思った。 私は出羽の国古代、人が行き来したり物を運んだりるのに舟が多く利用されていたのではないかと考えている。近くの藤島の町(藤島川)では、実際、奥州藤原時代(平安時代)の丸木舟が出土しているし、京田川でも古代からこのような舟が使われていただろう。この川を上れば羽黒山周辺に行けるし、下れば最上川、日本海へ出れる。この古墳は意図して村々を行き来する舟、行きかう人々から見上げるような場所に作られたのではないかと考えられる。 古墳を紹介するテレビ番組をみると近くには川や海があり、舟などで行きかう人の目を意識して造られていた古墳が多いようだ。規模は違うが鷺畑古墳も同じだ。古墳は舟で行き来する人を見守ったり、(一里塚のような)目印になったりするものだったのかもしれない。 ところで「出羽国風土記. 巻之2」に”鷺畑”の集落名がでてくる。調べてみると、江戸時代この集落は、”丸岡御料”に属していて、羽黒山領と西南で接しいていた。”御料地(幕府領?)”・・・とは珍しいと思ったが、意外にもその範囲は広い。出羽国風土記の中で庄内地方の記述には、大山、余目、丸岡の3つの御料地を探すことができる。これらの御料地は現在の鶴岡市街地の周辺(郡部)に分布し、庄内藩の西と東(一部南)に位置し庄内藩領を挟む形にある。(庄内藩の藩域にこれほど広範にわたる御料地があったことにも驚きだ。) 鷺畑集落の”丸岡御料”は、最上川を北の境界にして旧余目町の北西側、藤島の東南部、櫛引(丸岡)と南北に細長い範囲で飛び地になっている。形が不自然で、同じ御料である隣の余目御料とつなげるとひとつのまとまりか線のようになってもみえる(もともとあった御料地に松山領や庄内藩領が喰い込んで分断しているようにも見える?)・・・川沿いにあった集落とその後にできた集落との違い(歴史の違い)かもしれない・・・。 京田川沿い(周辺)が古代の人々の主な生活範囲(人の住み始めの領域)だったのではないか。この御料地の位置が古代出羽の国の謎を解く手掛かりになるのではないだろうか・・・と思った。 さて、鷺畑山古墳にはどんな人が眠っているのだろうか?蝦夷の刀、蕨手刀などがでてこないだろうか・・・などなど勝手な想像をしたり、興味はつきない。羽黒山が極めて近い、羽黒山とのつながりが深い人であろうか。年代は不明だが鷺畑山古墳により、古墳文化が出羽の国にも存在し、内陸から日本海へとつながる広い範囲にあったということがおもしろい。 古墳自体もは多い、昔は庄内平野にも古墳がたくさんあったかもしれない・・・分かっていないだけで、他にもまだあるのかもしれないと思わせてくれた。この貴重な古墳、将来は整備して古墳公園として永久保存してほしいと思った。※本当に書くのが久しぶりに書きました。
2014年12月01日
“日本海の道 ~幻の王国・渤海との交流~”がおもしろかった。 NHK教育テレビの開局記念で“日本と朝鮮半島2000年”というテーマの第5回目であるが今回、古代における日本海の交流について焦点をあてている。日本海といいながら東北地方も出てくるのかと期待したが、リポーターが福井放送局のアナウンサーのためか北陸地方が中心の内容だった。 4世紀(弥生時代末期)の 北陸地方と朝鮮半島と鉄製品(刀)と勾玉での交易、5世紀の 若狭の国(上の塚・西塚古墳)と大伽耶との黄金製品での繋がり、6世紀の 継体天皇を出した越王国と 百済(黄金製品)・新羅(角杯)の国との関わり・・・と、時代を区切って紹介し、最後に8世紀の渤海との交流の話になる。 渤海は現在の中国東北部とロシア、北朝鮮にまたがる、朝鮮系の高句麗遺民と高句麗の北の国にある靺鞨族とでつくられた国である。 渤海と日本との交流は記録があるだけで計37回にもわたり、遣唐使が20年に1度なのに比べて 2.3年に1度の割り合いという多さなのだという。727年に始まりわかっているだけで少なくとも34回、使節団として2500人が日本に来たとさせる(ちなみに遣渤海使は14回)。遣唐使にくらべて 渤海使はあまりにも軽視されてきたのではないのかと思えるほどだ。 渤海国は、最近でこそ韓国ドラマの“大祚栄”でも注目されたりしているが、その実はほとんどわかっていない謎の多い国のようだ。 当時は 東京/上京という渤海の首都から“日本道”という日本海につづく道もあった。その終点の日本海側にある現ロシア沿海地方のクラスキノ遺跡の発掘場所を紹介する。発掘は まだはじまったばかりなのか一部しか発掘されていない。これからの発掘調査が楽しみだ。
2009年08月30日
全124件 (124件中 1-50件目)