全9件 (9件中 1-9件目)
1
(幸地グスク)西原町の幸地集落東南の標高約100メートルの丘陵上に「幸地グスク」があります。この幸地グスクが建てられた丘陵は南北に長い分水嶺で、南方は首里方面、北方は中城方面につながっています。グスクは瘤のような高地を中心として、その東西の低地に向かって伸びる尾根を利用して造られています。(ビージル)グスク内の最高地点にはビージルの祠が建てられていますが、周辺を観察するための櫓台と考えられています。ビージルの北東下は30メ一トル×30メートルほどの広さを持った曲輪となっており、この曲輪の北寄りには井戸があります。また、西方から北西にかけても幅が10メートルほどの削平地が数段造られ、居住地化されたと考えられます。(幸地グスクガー)幸地グスクの中央部の広場には「幸地グスクガー」という井戸が2基設置されていました。このグスクの注目すべき点は、峰の上を通過する「峰道」がグスク内を通過することにあります。幸地グスクは15世紀前半に造られ、その後数十年間はグスクや関所として、また戦乱期の後には領内支配の拠点的な機能も複合的に期待された形で存在した可能性があります。(幸地按司ガー)幸地グスクの按司は「熱田子(あったし)」と呼ばれ、悪知恵が働き異常に女性にだらしない好色按司として知られていました。幸地グスクの北部にある棚原グスク按司の妻は絶世の美人だったそうで、棚原按司の妻の美しさに目を付けたのが幸地グスクの幸地按司(熱田子)でした。熱田子は棚原按司を殺して棚原按司の妻を奪おうと企んだのです。夫を殺された棚原按司の妻はグスクを逃げ出すが熱田子に執拗に追いかけられ、遂に捕まってしまいます。棚原按司の妻はこのまま手籠めにされてなるものかと舌を噛み切って自害したと伝わります。(グスク上門ガー)熱田子はこの悲劇を反省するどころか、間もなく幸地グスクの南側に隣接する津喜武多(チチンタ)グスクの按司の妻に色目を使いだします。津喜武多按司と親交を結んで仲がよい間柄になりましたが、熱田子の真の目的は津喜武多按司の妻の美貌に惚れ込み横恋慕していたためだと言われています。(熱田橋)ある日のこと、熱田子が魚釣りの帰りに津喜武多按司の妻が亭良佐川(ティラサガー)で艶やかな黒髪を洗っているのを発見すると泥土を投げていたずらしました。妻は非常に立腹しそのことを夫の按司に報告したところ、それを聞いた按司は怒り心頭したものの、何しろ熱田子はあなどり難い力を持っています。その場は取りあえずは兵を動かすことなく機会を待つことにしました。(幸地按司墓の入口)その一方で、熱田子は腕が立つ腹心の部下数人を密かに呼び「今こそ此の機会を利用して、早目に手を打ち災いを取り除いてしまおう」と策略を練ったのです。熱田子は部下達と共に津喜武多按司を訪問し、今回のことは行き違いによるものだと上手く説明して謝りました。按司は相手の丁重な謝罪を受け入れ、直ぐさま仲直りのための酒宴を催し歓待することになりました。(幸地按司墓の森)宴もたけなわになった頃、熱田子が津喜武多按司に向かって「按司殿は世に優れた宝剣をお持ちとお聞きしております。以前から、是非とも一目拝見させて頂きたいと思っておりました。」と申し出たところ願いが許されたのです。按司が宝剣を熱田子に手渡すと、その宝剣を手にするやいなやその瞬間に熱田子は按司を一刀両断に斬り捨てました。続いて一族はじめ、その場にいた者達を片っ端から皆殺しにしたのです。(幸地按司墓)これは幸地グスクの北東にある山の中腹に佇む「幸地按司(熱田子)墓」です。さて、津喜武多按司を殺害した熱田子は思いを寄せてきた美しい妻を色々と説き伏せようとあれこれ試みましたが、貞節な妻は夫殺しの熱田子を憎みながら井戸に身を投げ自害したのです。妻と遠縁の上に按司と仲が良かった今帰仁按司は、このことを伝え聞くなり大変に激怒し、自ら討伐するため大軍を率いて直ぐさま出陣したのでした。(幸地按司墓)熱田子は敵の軍勢が到着するなり自ら今帰仁按司を出迎え、平身低頭して自分の罪を認めて謝り、今帰仁の大軍を自分の城に入城させたのでした。そして熱田子は大々的に酒の席を設け、遙々やってきた遠征をねぎらいました。全く戦わずして勝った今帰仁の軍は勝ち戦だと有頂天になり、夜が更けるのも忘れ思う存分に酒を飲み御馳走をたらふく食べました。熱田子は事前に自分の軍兵を城の近くの北山に待機させていました。合図によって熱田子の軍が城に攻め寄せた時、今帰仁勢は殆ど応戦することも出来ずに、難なく攻め滅ぼされてしまったのでした。そして、今帰仁按司も討ち死にしました。(チチンタグスクの入口)熱田子の策略により自害した今帰仁按司には四人の息子達がいて、その四人は堅く仇討ちを誓いました。熱田子を倒すべく兵馬の訓練を積み、後に不意をついて熱田子を急襲したのでした。流石に戦国の世にずる賢く名をはせた熱田子も遂に討ち亡ぼされ、四人の息子達は熱田子を倒して見事に津喜多按司とその妻、棚原按司とその妻、そして父親と今帰仁兵士達の仇を討ったのでした。(チチンタグスク)奇しくも熱田子の墓は直ぐ南側に位置する津喜武多グスクに向いています。天罰が下って殺害された熱田子は、死んでからも自分の墓から愛しの津喜武多按司の妻が暮らしたグスクを静かに見つめているのです。熱田子の墓と津喜武多グスクの間に流れる小波津川に「安津田橋」が掛かっており、津喜武多グスクに隣接する安津田集落の名は「熱田」の名が由来していると思われます。そう考えると非常に気味が悪くなり、執拗に好みの女性を追いかける熱田子の荒んだ執念に強い恐怖を感じます。(幸地按司墓)「幸地按司(熱田子)墓」は墓石の周辺だけ藪蚊の大群が飛び回り、私の腕や顔に異常なほどに噛みつき吸血し始めました。更に、この日は無風の快晴の天気にも関わらず、墓上の木々はバリバリと爆音をたてながら枯葉が大量に吹き荒れていたのです。まさに、未だ成仏しきれない熱田子の悪霊が墓の周辺を蠢いて、私の訪墓を沸々と拒絶しているように感じました。
2021.01.26
コメント(0)
(登川邑発祥之地の石碑)沖縄市の「登川集落」は国道329号線沿いの沖縄市北部と、うるま市西部の市境に位置します。北美小学校正門近くに「當之御嶽」があり、石碑には「登川邑発祥之地」と書かれています。登川(のぼりかわ)という名称は沖縄の言葉で「ニィブンジャー」と言い、主に60代以上の地元高齢者からは登川(ニィブンジャー)と普通に呼ばれています。(ムートゥーガー)「當之御嶽」の西側に「ムートゥガー」と呼ばれる井戸があり「登川集落」の一番古い井戸とされています。琉球王国時代に村人は正月の元旦にムートゥガーを家族で訪れ、東に向かい「トゥシヤカサディ、イルヤワカク(年を重ねて、心は若く)」と唱えながら洗顔を行なったそうです。また、子どもが生まれるとこの井戸から産水を汲んだり、稲や豆の豊作を願って拝んだりしました。(登川創立記念碑)登川公民館の西側に「登川創立記念碑」があります。登川碑や分村碑とも呼ばれており沖縄市の市指定文化財に登録されています。「登川集落」は当初、池原から元島(現在の北美小学校周辺)に人が移り住んだと言われており、その後更に池原から数世帯を加えて「登川集落」が創立されました。この碑はそれを記念して1739年に建てられました。当時の琉球で盛んに行われていた集落移動を記した貴重な資料となっているのです。(火ヌ神/ヒヌカン)登川公民館の裏手に「火ヌ神(ヒヌカン)」があります。沖縄の人々は古来より陽の昇る遥か彼方に理想郷(ニライカナイ)があると信じ、太陽を神聖なものとして捉えていました。ニライカナイからもたらされた火は太陽の化身として崇められるようになったのです。村人は集落の守り神である「火ヌ神」に無病息災と繁栄を祈願しました。岩造りの祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。(西の四方神)「登川集落」には四方神があり「ヨスミノカド」とも呼ばれています。これは「西の四方神」で霊石とウコールが設置されています。登川(にぃぶんじゃー)集落の始まりには秘話が伝わります。昔、知花と池原の間の人里離れた処にフェーレー(追いはぎ)が出て、首里の王府へ貢物を運ぶ人や、国頭からの旅人が襲われて品物を奪われることがたびたび起こっていました。時の琉球王府は池原集落に対して、フェーレーを取り締まるように命令を下したのです。(南の四方神)登川公民館の近くにある「南の四方神」にも霊石とウコールが設置されていました。さて、池原集落から選ばれた7名の若者は昼夜を徹してフェーレー退治につとめ、遂にフェーレーを捕まえて首里王府に連行しました。王府ではフェーレーを退治することはできたが、また違う追い剥ぎの被害が出ないか心配して7名の若者に対して「集落を作り監視するように」と命令したそうです。(東の四方神)「東の四方神」にも同様に霊石とウコールが設置されていて「登川集落」を守っています。更に、王府の命令で集落を作ったのは良いが、そこが山岳地帯で土地が狭く発展性に乏しいという事に気付き、住み易い広い場所を求めて元文4年(1739年)8月15日に現在の登川地区に移動しました。しかし、今度は7軒では少な過ぎるという事になり、もう7軒を池原集落より合併させて村を作ったそうです。(北の四方神)「北の四方神」には神石とウコールの横にクムイ(溜池)が設置されています。登川の四方神(ヨスミノカド)に囲まれた区画内には多数のクムイがあり「登川集落」が水源を確保する為に知恵を絞っていた事が伺えます。新しい登川集落を作る時に区画整理や用水路の整備等についての指導をなされた方は赤嶺親方という風水見で、その人の名は登川公民館近くの「登川創立記念碑」に記されています。(神アサギ)(カミヤーの内部)「登川集落」の中心地にある「神アサギ」と呼ばれる祭祀場は登川公民館の北側に位置します。「神アサギ」では旧暦の5、6月のウマチー(豊穣祈願の収穫祭)や6月のカシチー(米の収穫を報告し感謝する行事)の日に集落の有志達が集まり神を祀ります。その裏側にはウガンジュ(拝所)があり「カミヤー」と呼ばれており、内部には4つのウコール(香炉)とミジトゥ(水)が供えられていました。それぞれ東西南北の四方神(ヨスミノカド)への感謝は、新しい登川を作った赤嶺親方の風水の影響を受けていると考えられます。因みに、親方(ウェーカタ)は琉球王国の称号の一つで、王族の下に位置し琉球士族が賜ることのできる最高の称号でした。(北見小学校北側の森)沖縄市の「登川集落」には琉球赤瓦の古民家や昔の馬小屋が現在でも多数残り、住民は団結力が強く生まれ育った登川に誇りを持って暮らしています。「登川集落」を発展させた赤嶺親方に感謝しながら、親方の詠んだ有名な詩で締め括りたいと思います。『枕並(まくらなら)びたる 夢(ゆみ)ぬちりなさよ 月(ちち)や西下(いりさ)がてぃ 恋(くい)し夜半(やふぁん)』(愛しい人と枕を並べている夢を見ていたのに、風の音かに驚いてハッと目覚めた。時はと言えば、就寝のおりは中天にあった月が西に傾いている冬の夜半。なんとつれない夢を見たことか。冬の夜のひとり寝は、ことさら侘しい。)
2021.01.25
コメント(1)
(兼箇段グスク)沖縄本島うるま市の南部にある「兼箇段(かねかだん)集落」に「兼箇段グスク」があります。国道329号線から県道36号線を東に進むと小高い腰当森が目を引きます。「兼箇段グスク」は琉球グスク時代の古城で標高約85mの丘に立地し、丘頂上と中段に2つの広場があります。出土品はグスク頂上と斜面に散らばっていて、それらの中にはグスク土器、中国製の青磁、獣や魚の骨、貝殻などが発掘されています。(ヒヌカン)(ヒヌカン内部)「兼箇段グスク」の入り口は「アシビナー(遊び庭)」の広場があります。広場の西側に「ヒヌカン(火の神)」が東に向かって建てられており、グスクの拝所として"お通し"の役割があります。琉球瓦屋根の建物内部には「天地海」を示す3つの霊石が祀られていて、中央の霊石はウコール(香炉)として利用されておりヒラウコー(琉球線香)が供えられていました。「ヒヌカン」の建物は非常に古く、木造の屋根はグスクの長い歴史を知る上で重要な文化財となっています。(ビジュル)「ヒヌカン」がある「アシビナー」の広場からグスクの森の入り口に進むと「ビジュル」があり石の神が祀られていました。「ビジュル」とは沖縄本島でみられる霊石信仰の事で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされています。「ビジュル」には琉球石灰岩の洞穴に石状珊瑚や石灰岩が祀られているのが確認できました。グスク入り口にある「ビジュル」は「兼箇段グスク」の守護神として外部からの悪霊を追い払う役割があります。(兼箇段グスクの階段)「ビジュル」を左手に進むとグスクを登る階段が現れました。「兼箇段グスク」の築城には諸説あります。安慶名グスクを築城した安慶名大川按司が当初は兼箇段集落の小高い丘にグスクを築こうとしましたが、後に安慶名グスクがある丘陵の立地がグスクに適するとして築城が変更されたのです。「兼箇段グスク」の麓には近くに井泉がなく、水源を確保するのに手間がかかった事も移転の要因だと考えられます。(グスク中腹の拝所)グスク中腹には神々が祀られているウガンジュ(拝所)があります。神が宿ると言われるガジュマルの古木が琉球石灰岩に絡まり神秘的な雰囲気に包まれています。石灰岩の洞穴は石垣で塞がれ、神々に祈る拝所として数個の石が祀られていました。グスクの山を更に登ると両脇に「北の高見台」と「南の高見台」があり、その先には「ナカヒラチ」と呼ばれる広場がありました。(グスクの中庭)(グスクの森)「兼箇段グスク」に関する言い伝えによると、西原町にある「棚原グスク」の棚原按司の妻は絶世の美人だったそうです。棚原按司の妻を我が物にしようと企む「幸地グスク」の幸地按司は棚原按司を殺してしまいます。棚原按司の妻は西原から命からがら逃げ出して兼箇段に身を隠しました。しかし、執拗に追いかける幸地按司に捕まってしまい西原に連れ戻されそうになりました。棚原按司の妻はこのまま手籠めにされてなるものかと舌をかみ切って自害したそうです。それを気の毒に感じた兼箇段大主は棚原按司の妻を丁寧に葬ったと伝わります。(頂上の岩門)(グスク頂上からの景色)「兼箇段グスク」の頂上入り口には天然の岩門が佇んでいました。グスク頂上は広場になっておりガジュマルの木を中心にして360度ほぼ見渡せる絶景が広がっていました。こちらの方面からは、うるま市の市街地から金武湾、平安座島から宮城島まで眺望できます。東側には中城湾から勝連半島も見渡せます。西側には沖縄市の市街地も綺麗に見渡す事が出来るのです。(リュウグウの神)頂上から城を降り入り口に戻る途中に「リュウグウの神」と呼ばれるウガンジュがありました。兼箇段グスクは海から比較的離れているのですが、竜宮の神が祀られているという謎があります。伝説によると隣接する「兼箇段グスク」「スクブ御嶽」「知花グスク」の3箇所を一直線に結ぶ上空に竜が飛んでいたと伝わります。兼箇段グスクの「リュウグウの神」はこの伝説を裏付けていると考えられます。(ふつこうばし/復興橋)(ジョーミーチャー墓の標識)「兼箇段グスク」の西側にある県道36号線は「兼箇段ウテー」と呼ばれ、薄暗い奇妙な雰囲気がある細道として昔から人々に恐れられてきました。川崎川に架かる「ふつこうばし」と呼ばれる橋の周辺には「兼箇段古墓群」が広がり、非常に不気味な空気が漂っています。「ふつこうばし」を「兼箇段グスク」方面に進むと左側に「兼箇段ジョーミーチャー墓」があります。"ジョー"は沖縄の言葉で"門"、"ミーチャー"は"3つ"を意味します。つまり「3つの門がある墓」を表しているのです。(ジョーミーチャー墓)手入れがされていないために「ジョーミーチャー墓」は亜熱帯植物で覆われていますが、よく見ると3つの門があります。この墓がある「兼箇段ウテー」には様々な民話があり「兼箇段クミルン小」「兼箇段ウテーのマジムン(妖怪)」「ジョーミーチャー墓の幽霊」などが有名です。3つの門の奥には大小3つの墓があり、真ん中の1番大きな墓にはウコール(香炉)が設置されていました。(墓中央の門)「兼箇段ジョーミーチャー墓」の構造は山の中腹から下にかけて削り落として横穴式にくり抜いたもので、架橋の下に大小3つの小さな前門があります。いつ頃築造されたか明らかではありませんが、この墓には「兼箇段大主」「テビーシ」「根人」「ヰガン」「根神」「祝女」「アジガユー」「門ミーチャーカシラユー」「ナカヌユー」などの遺骨が崇められているとのことです。兼箇段集落ではこれらの霊を慰めるため、1963(昭和38)年の旧暦5月に墓の蓋石を新調して、ここに祀る個人の名を刻記し、後世に伝 えるとともに外観を整備して現状の維持につとめています。(兼箇段橋)(メーヌカー)「兼箇段グスク」の南側に「兼箇段橋」が掛かっており、橋下を流れる川崎川沿いに「メーヌカー」と呼ばれる井泉があります。かつては「兼箇段集落」の住民の飲料水や生活用水に利用され、旧正月には若水を汲んで一年の無病息災を祈っていました。現在も豊かに水が湧き出る「メーヌカー」は横幅が約3m、縦に約1mの長方形の石造りとなっています。井戸を囲むように3段構造の石段が積み上げられています。(兼箇段の神屋)「兼箇段グスク」の南側に広がる「兼箇段集落」の中心部に「神屋」があります。「兼箇段集落」のノロが祭祀行事を司っていた集落の聖域で、建物の内部には3つのビジュル霊石とヒヌカン(火の神)が祀られています。旧暦8月15日には「兼箇段集落」の獅子舞が「神屋」で披露され、その後に獅子は神道を通り「兼箇段グスク」のアシビナーにある「ヒヌカン」に奉納されます。(川崎川の森)「兼箇段グスク」の城下古墓群沿いにある「兼箇段ウテー」や川崎川周辺は至る所に古い墓が多数点在する心霊スポットとして有名です。"恐怖の場"として知られていた所でもあり「浦添ようどれ」「勝連城跡北側の南風原から西原を結ぶ坂道のウガンタナカ」と相並ぶほどに人々から恐れられています。そのような状況下「兼箇段グスク」とその周辺を昔の様な綺麗な里山にしたいという活動が起きています。集った有志は兼箇段グスク周辺が地域のクサティー(腰当)として存在するウガンが皆の力でより健全な形で保全と管理される意識が醸成され、裾野が広がる事を強く祈念しているのです。
2021.01.19
コメント(0)
(江洲グスク)沖縄県うるま市の南西部に位置する「江洲集落」に「江洲グスク(イーシグスク)」があります。標高約100mの琉球石灰岩丘陵に築かれたグスクで、 通称「えすのつちぐすく」とも呼ばれています。名称の通りグスクの石積み遺構は見られず土のグスクで、麓にはグスクを取り囲むように8つの井泉があります。「江洲グスク」からはグスク土器、須恵器、中国製の磁器などが発掘されていますが、未だに詳しい調査がなされていない謎に包まれた聖域となっています。(陵墓の石碑)(仲宗根按司之先祖の墓)「江洲グスク」の入り口を進むと大きな石碑が現れます。生い茂る木々に佇む石碑には「大宗江洲按司宗祖武源明 妹 つきおやのろ 之陵墓 昭和六三年周辺整備」と刻印されています。石碑の左側には山の頂上に向かう石段があり亜熱帯植物に深く覆われていました。頂上に向かう山の中腹右側には「仲宗根按司之先祖の墓」があり、その先には他にも江洲グスクを司ったノロの墓などが三基並んでおり、それぞれにウコールが設置されていました。手前の一番大きな石墓には「江洲王時代 仲宗根按司之先祖 昭和四十八年七月三十日竣工」と掘られています。(江洲按司の墓/江洲按司の妹の墓)(墓前の石柱)石段を上り詰めると頂上に初代江洲按司から三代目迄の「江洲按司の墓」と江洲按司の妹である「ノロの墓」が並んでいます。1453年の「志魯・布里(シロ・フサト)の乱」後に第6代国王尚泰久の5男が「江洲グスク」に入り、その後3代に渡り居住したと言われています。2基の墓のちょうど間にはニービ石造りの細長い石碑が建てられています。石碑には「兄 えすあんじ之が左 妹 つきおやのろ之が右」と刻印されていました。因みに「江洲グスク」は第1尚氏王統が消滅した1470年頃には廃城になったと伝わります。(グスク頂上からの景色)「江洲グスク」頂上の江洲按司と妹ノロの墓からは東南植物楽園や倉敷ダム、さらにはうるま市石川山城方面の山々を眺める絶景になっています。一説によると「江洲グスク」は中城城の護佐丸や勝連城の阿摩和利のどちらにも属さない中立的なグスクで、高台からグスク周辺を見張り首里の王に情報を伝える役割を果たしていたと言われています。(江洲ヌン殿内)(火ヌ神)「江洲グスク」の麓には「江洲ヌン殿内」があります。琉球王国時代には集落の祭事を司るノロには一定の土地が与えられ、その住まいはノロ殿内(ドゥンチ)と呼ばれました。神アシャギと呼ばれる神棚と火の神(ヒヌカン)を祀った離れ座敷を持つのが特徴で、この聖域で集落の祭祀の神事が行われていました。「江洲ヌル殿内」の敷地には「火ヌ神」があり、祠内にはウコール(香炉)と3つの霊石が2対祀られています。(津嘉山ガー/チカザンガー)(津嘉山ガーの井泉)江洲公民館の南西側に「津嘉山ガー(チカザンガー)」があります。この井泉は「シードーガー」とも呼ばれ1872年(明治5年)に「江洲集落」の先人達が堀削したと言われます。集落で子供が生まれたときの産湯、命名水、飲料水、正月の若水として全戸がこの井泉を使用しました。新年を寿ぎ家族の健康と繁栄を祈願しました。「江洲集落」の住民の誕生から生存まで無くてはならない唯一の「産井(ウブガー)」として重宝されてきました。現在も水の神に感謝する祈りが捧げられています。「江洲集落」の中心部にある江洲公民館には「獅子」が大切に納められています。うるま市(旧具志川市)には獅子が住んでいたという伝説の「獅子山(シーシヤマー)」があり、7つの集落で伝統的な獅子舞が継承されているように「江洲集落」も獅子に縁が深い土地となっています。「魔よけ」の意味合いが強く、百獣の王である獅子が集落の守護神となり病気の元凶や悪魔を退治するとされています。(江洲七神神殿)(江洲七神神殿の内部)江洲公民館の敷地内に「江洲七神神殿」があります。七神の由来は地球上のあらゆる生物を生み育ててくれた宇宙と大自然のわずらみで、七神への感謝が神体化されました。神殿には生命の根源である七要素が七神と称され古代から崇拝されて祀られているのです。神殿内には7つのウコール(香炉)が祀られています。「江洲集落」の七神は生命誕生の神として子孫繁栄、無病息災、部落発展の神として信仰されています。また、集落を作った当時の7つの家の火の神様(ヒヌカン)を祀り現在もその信仰が継承されています。更には、7つのウコールはそれぞれ1週間の月曜日から日曜日を表しているという説も存在します。(守護神/島カンカン)「江洲集落」には沖縄でも非常に独特な信仰が伝わり、旧暦3月3日に疫病や災厄を払う御願「島カンカン」が実施されています。守護神である「島カンカン」の霊石に御三味をお供えし、三枚肉を神頭(石碑の上)に捧げて1年間の集落内における安全祈願を行っています。因みに「カンカン」とは"見張る"という意味で、神が集落を見守るという役目があると伝えられているのです。(大屋殿内/ニーヤ)「島カンカン」の北西側に「大屋殿内(ウフヤドゥンチ」があります。「根屋ニーヤ」とも呼ばれるこの敷地には「江洲集落」発祥に関わる住民が代々住んでいました。「江洲七神神殿」を訪れた時に神殿内で拝む一人の男性がいました。その方はうるま市江洲自治会長の安里義輝氏でした。安里氏によると昔から「江洲集落」の東西南北に豚肉を結んだ縄を張る事でフーチ神(悪霊)が集落に入らないようにしたと言われており、コロナ禍の現在も「江洲集落」の出入り口4箇所に豚肉を吊るし、コロナウィルスが集落に入らないようにしているそうです。江洲自治会長の安里氏は祈る大切さを私に優しく教えてくれました。祈る事により魂が浄化され心豊かに暮らせるのです。伝統と信仰が強く生活に根付く「江洲集落」の自治会長は信仰心の強い方で、この地区は確かに七神と守護神に守られている御加護を感じます。安里氏は最近では沖縄の人でも神に祈る人が減った中で、県外出身の人が沖縄の信仰伝統に興味を持つ事を非常に喜んでいました。自治会長の言葉に甘えて、今後も喜んで「江洲集落」に祈りを捧げに足を運ぼうと思います。
2021.01.18
コメント(0)
(天之岩戸向洞穴)日本全国に伝わる「天岩戸伝説」は太陽の神であるアマテラス大御神が岩戸に隠れたために世間が真っ暗になったという有名な日本神話です。南国の沖縄県にも「天岩戸伝説」が伝わり伊平屋島の「クマヤ洞窟」が日本最南端の「天岩戸伝説」として知られています。しかし、それよりも更に南に位置する沖縄本島沖縄市にも「天岩戸伝説」が存在し多くの謎に包まれています。(八重島地区の墓地群)(天の岩戸の石碑)沖縄市八重島地区の墓地群を進むと、その奥地に一本琉球松がそびえる森があります。隆起した琉球石灰岩で覆われた小高い丘には、真の「天岩戸伝説」が伝わる「天之岩戸向洞穴遺跡」が密かに佇んでいます。墓地群を抜けると石碑があり「天の岩戸 艮金神(ウシトラコガネ) 龍神 地上天國 昭和二十七年 十一月十五日誕生」と記されています。(琉球石灰岩の洞穴)(天之岩戸向洞穴)その右手には琉球石灰岩の小さな隙間に暗闇が奥深く続いているが見えます。どれ程の深さがあるのかも予想不可能な暗黒に、思わず吸い込まれそうになる雰囲気を奇妙に醸し出しています。先程の石碑の左側に石段があり昇って行くと開けた空間が現れました。ゴツゴツした琉球石灰岩は緑の苔に覆われ、ガジュマルと亜熱帯植物が生い茂る中に別の石碑と石造りの祠が確認できました。(天之岩戸向洞穴の石碑)(天之岩戸向洞穴の入口)この石碑には「天之岩屋 天之御柱 艮黄金萬神 風水大神 昭和二十七年 十一月十五日誕生」と掘られています。その右奥には大きな穴が開いていて琉球石灰岩の岩間に漆黒の闇が奥深く続いています。石碑の右側には鉄格子が付いた石造りの祠があり、その奥には神秘的な洞穴が続いています。正に、ここが真の日本最南端の「天岩戸伝説」が伝わる「天之岩戸向洞穴遺跡」の闇穴そのものです。私は鉄格子の前で一礼し洞穴内部を覗き込みました。(天之岩戸向洞穴の内部)鉄格子越しに洞穴内部から物凄い勢いで湿った熱波が発生していて、私が掛けていたメガネが一気に曇りました。なぜ洞穴内部から暑い湿気が出てくるのか?今まで何度も様々な洞穴を訪れてきましたが、洞穴入り口から湿った熱を激しく排出する体験は初めてです。暗闇の洞穴奥はウガンジュ(拝所)になっていて「天岩戸の神」が祀られている聖域になっていました。(天之岩戸向洞穴の丘)通常ならば外気よりも涼しい冷気が洞穴内部から吹き出してくるので、この説明し難い現象は「天岩戸の神」が何かしらのパワーを発している証なのでしょう。やはり日本最南端の「天岩戸伝説」は沖縄市八重島の「天之岩戸向洞穴遺跡」に存在している事は間違いなさそうです。洞穴の右手に琉球石灰岩の丘の頂上に向かう通路を発見しました。石段や階段は無く苔が覆う非常に滑りやすい斜面が続いており、足元に気を付けながらゆっくりと登り進み無事に頂上に到達しました。(天之岩戸向洞穴の拝所)すると目の前に広大な絶景か広がり、そこは石造りのウコール(香炉)が3基設置されたウガンジュ(拝所)になっていたのです。沖縄市からうるま市、江洲グスクや喜屋武グスク、更に世界遺産の勝連グスクや宮城島まで見渡せる雄大な眺望に目を奪われました。天地海の3神と考えられる3つのウコールは太陽が昇る東を向いていて、私は「太陽の神」であるアマテラス大御神に祈りを捧げました。(天之岩戸向洞穴のハブ)(天之岩戸向洞穴の石碑)帰宅の途に着こうと来た道を戻ると、ひっくり返り動かない状態の「ハブ」が足元に突然現れました。ハブは非常に驚いた時このように死んだ振りをするそうです。夜行性で猛毒の蛇として恐れられるハブですが、意外にも臆病な生き物で大きな音に怯えて逃げ出すと言われています。「天之岩戸向洞穴遺跡」の洞窟とその真上に位置する絶景の御嶽はまだまだ謎が多い聖地で、遺跡がある沖縄市でさえも詳しい調査が未だになされていません。しかしながら、謎に包まれている事で「天岩戸伝説」がこの地に生き続ける訳であり、科学的に証明されない神秘のロマンがあるからこそ、今後も人々に語り継がれる聖域として存在し続けるのでしょう。
2021.01.12
コメント(0)
(屋良城之嶽)「屋良グスク」は沖縄県嘉手納町に流れる比謝川の中流に位置し、標高38mを最高所とする小高い琉球石灰岩陵上に築かれたグスクで「屋良大川グスク」とも呼ばれます。グスク北側を流れる比謝川を天然の堀として利用し、南西面に半円状に外郭を巡らせた輪郭式城郭で、築城は13〜15世紀と考えられています。御嶽の石碑には「屋良城之嶽 神名 笑司之御イベ」と記され、ウコールが祀られています。(屋良大川按司の墓)「屋良大川按司の墓(御先大川)」は屋良グスクの東側に位置し、以前は崖の中腹に位置していましたが崖崩れにより墓が崩壊したため、散乱した遺骨を逗子甕に分納し、真下の横穴を利用して1991年に移築しています。墓の石碑には「字屋良御先 大川按司之墓」と彫られウコールと霊石が設置されています。(字屋良ウブガー)屋良大川按司の墓の北東側に「字屋良ウブガー」があります。このウブガー(産川)は字屋良集落で古くから利用されてきた湧水で、正月にはこのガーから若水を汲んでいました。集落で子供が産まれるとウブガーから「ウブミジ(産水)」を茶碗に汲み、中指を浸して赤子の額を3回撫で回す「ウビナディ(お水撫で)」の儀式や「産湯」に使用しました。産湯に使用する場合はタライに湯を先に入れ、ウブガーから汲んだ水で薄めて使用するのが常で、その順序を逆にすると「さか湯」と呼ばれ、死者の体を清める際に使用する「アミチュージ(湯かん)」となることから忌み嫌われたのです。(屋良城址公園の無縁墓)(ガジュマルが絡まる無縁墓)1979年に整備された屋良城址公園内は、戦後に建てられたとみられる墓が多数点在し、骨や骨つぼがある30基を含む107基は所有者など手掛かりがないと言われています。受け継ぐ人がいなくなり放置された「無縁墓」が沖縄県嘉手納町の比謝川周辺に点在し、まちづくりや安全対策に影響が出ています。リニューアル工事を控える町立屋良城址公園には墓が116基あり9割以上が所有者不明。落石や崩落の対策工事が急がれる県営住宅下の崖にも誰のものか分からない墓があり、手がつけられない状態なのです。(所有者不明の無縁墓)比謝川一帯の墓の多くは戦後混乱期に土地の所有者に無断で建てられた可能性が高く、米軍基地に土地を接収されて住む場所もなく、この一帯に墓が集まったとみられています。大半は墓を守る子孫が絶えたか、移動して空き墓になったかとの見方が示されています。しかし琉球カミンチュ(神人)に言わせると、墓を移動しても地縛霊が墓に残るため、死亡した人の霊魂はこの場に居続けるそうです。(屋良城址公園を流れる比謝川)沖縄戦当時の屋良グスク周辺は日本兵を収監した捕虜収容所がありました。捕らえられた日本兵が収容所から脱走して比謝川を泳いで逃げないように、米軍は日本兵の両足を切断して逃亡を阻止したと言われます。更に米軍は日本兵の体をバラバラに切断して比謝川流域の木々に吊るし、捕虜である日本兵に逃亡を諦めさせようと試みたのです。そのため屋良グスク周辺の比謝川流域には日本兵の上半身だけがうごめく幽霊や、下半身だけが歩き回る幽霊が多数目撃されています。(ヌールガー)屋良城址公園には「ヌールガー」と呼ばれる井泉が祀られています。「ヌール(ノロ)」は琉球神道における女性の祭司の事で「ガー」とは湧き水が出る井戸の事を示します。琉球ノロがこの聖域で屋良集落の豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝う祭祀を行なっていたのです。「ヌールガー」の井泉には水神を祀る祠が建てられており、ウコールが設置されている拝所として現在も祈られています。(比謝橋)屋良グスク沿いを流れる比謝川には「比謝橋」がかけられています。この橋のたもとには「吉屋チルーの歌碑」があります。吉屋チルーは貧しい農民の娘として生まれ、わずか8歳にして那覇の仲島遊郭へ遊女として売られました。吉屋チルーは遊郭の客だった「仲里の按司」と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられなかったのです。悲嘆にくれた吉屋チルーは食を絶ち、18歳で亡くなったと伝わります。(吉屋チルーの歌碑)歌碑には「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら (恨めしい比謝橋は お情けのない人が私を渡そうと思って 架けておいたのでしょうか) 」と記されています。これは身売りされて那覇に向かう途中、絶望的な吉野チルーが比謝橋で詠んだ悲しい歌です。(嘉手納ビル)嘉手納町屋良の比謝川流域は根本的に悪い土地で、悪霊が溜まりやすい地域とされています。この「嘉手納ビル」は沖縄で有名な心霊スポットです。この建物の一階にはかつて沖縄の大手スーパーが営業していましたが、殺人事件により幽霊の目撃が多発して閉店に追いこまれたのです。しばらく立ち入り禁止が続きましたが、現在は米軍関係者が経営するインターナショナルスクールになっています。(天川の井戸)「比謝橋」の袂に「天川(アマガー)」と呼ばる直径二尺程度の円筒型に積み上げられた井戸がありました。琉球王府時代にできた古典音楽の曲名「天川節」は古典女七踊の一つとしても有名で、この歌に登場する「天川の池」はこの天川の井戸から比謝川に流れ出る水路に出来た池とされています。「天川節の歌碑」も建てられおり「天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ」と記されています。(字嘉手納のンブガー)「天川」に隣接して「ンブガー(産川)」があり「アガリガー(東川)」とも呼ばれている井戸です。水源が豊富なこの井戸は干魃が続いても枯れることがなかったと伝わります。字嘉手納集落では子供が生まれると「サン(魔除け)」を結んだ桶で東に向かって水を汲み、その水を産湯に使い健康祈願をしました。戦後に現在の位置に移動して拝所として住民に拝まれています。(トゥヌマーチーモー)(イリヌウタキ/アガリヌウタキ)「トゥヌマーチーモー」は字嘉手納集落の殿(トゥヌ)の拝所があった祭祀場です。旧暦9月8日には「ヌールガーミジナリー」が行われ、ヌールガーで水のウガン(御恩)の拝みを終えたヌール(ノロ)が「トゥヌマーチーモー」で集落の住民の健康祈願の儀式を行いました。現在、敷地には「イリヌウタキ/アガリヌウタキ」の拝所が建てられ、集落の西と東の御嶽が一緒の祠に祀られ、それぞれウコールが設置されています。(神屋)嘉手納町の「中央区自治会事務所」の敷地内に「神屋」があります。「ヌル殿内」の役割があり「神アサギ」と呼ばれるヌール(ノロ)が祭祀行事を司る聖域として住民から拝所として拝まれています。かつては集落のヌール達が集団で暮らした場所で「ノロ制度」が定められた琉球王国時代には沖縄の各集落に「神屋」が設けられ、集落の恒例行事には欠かせない神聖な場所として住民に敬われていました。(字嘉手納集落の拝所の大ガジュマル)(拝所の天降り神と火の神)拝所には推定樹齢250年、樹高18m、胸高周囲8m、枝張24m、枝張面積146平方メートルの大ガジュマルがあります。この一帯には神が住むと言い伝えられ、その対象としてこのガジュマルは土着信仰として拝まれています。拝所には「天降り神」と「火の神」が祀られウコール(香炉)が設置されています。大ガジュマルの麓には2つの巨大な岩があり、神が宿る神聖な岩としてウコールが祀られています。(比謝川のマングローブ)嘉手納町の比謝川流域は沖縄戦に翻弄された地域でありますが、戦前は神が祀られた御嶽のグスクで豊かに繁栄した長い歴史があります。古からの遺跡文化財を大切に守り、若い世代に伝統を継承して行く事は重要です。歴史と自然が豊かなこの地域は嘉手納町のみならず、沖縄の歴史を解明するためにも非常に価値のある地域として大切にされてゆく事でしょう。
2021.01.11
コメント(0)
(アガリの御嶽)うるま市浜比嘉島の浜地区に「東(アガリ)の御嶽」というパワースポットがあります。浜漁港の向かいに粛然と佇む御嶽は「シヌグ堂」とも呼ばれていて、巨大なガジュマルに覆われる神秘的かつ超現実的な空間に包まれています。(東の御嶽の標識)海中道路から浜比嘉大橋を渡り浜比嘉島の西側に浜地区があります。浜漁港の向かいに「東の御嶽(シヌグ堂)70m」の標識があり、矢印の方向に目を向けますが、何やら行き止まりのような雰囲気を醸し出していました。半信半疑の気持ちでそのまま細道を進むと…(シヌグ堂のガジュマル)突然目の前に巨大なガジュマルが現れて瞬時に幻想的な世界に引き込まれたのです。先日ヤンバルの大石林山にあるガジュマルを訪れたばかりでしたが、浜比嘉島「東の御嶽」のガジュマルはそれを遥かに上回る巨大な老樹であり正に圧巻の一言に尽きます。(東の御嶽/シヌグ堂)壮大なガジュマルの麓には「東の御嶽(シヌグ堂)」があります。シヌグとは沖縄本島とその周辺島、および鹿児島県奄美群島の一部に伝わる豊年祈願の年中行事の一つです。行事の内容は各地の集落により異なりますが、無病息災や五穀豊穣を祈願する他にも、害虫や害獣を駆除する祓いの要素が見られます。(東の御嶽のウコール)石造りの祠には「東御嶽 昭和57年5月15日」と刻印された香炉が設置されており灰にはヒラウコー(琉球線香)が立てられ、他にもお賽銭やお酒も供えられていました。この御嶽では旧暦の6月28日と8月28日の2回「シヌグ祭」が行われます。この祭りは琉球三山時代(1322年頃〜1429年)、戦に敗れた中山の武将・平良忠臣とその将兵数名が浜比嘉島に渡り東の御嶽に身を隠し難を凌いだという故事に由来する祭りです。(東の御嶽の案内板)旧暦8月28日に追討軍(南山・北山軍)が平良忠臣が隠れる浜比嘉島に渡ろうとしますが、琉球開闢の女神アマミキヨ(アマミチュー)と男神シネリキヨ(シルミチュー)へ願掛けを行った結果、嵐が起こり討伐軍の船が海に沈没し難を逃れたのです。この故事にちなんで海の時化(しけ)を祈願する非常に珍しい祭りが行われるようになりました。(東の御嶽の拝所)東の御嶽(シヌグ堂)の奥には小高い丘を登る石段があり、その先には墓の形をしたウガンジュ(拝所)がありました。シヌグの語源は豊年祭の「災厄を凌ぐ」という説、あしびなー(遊び庭)の「踊り」という説、平良忠臣が隠れた「忍ぶ」という説など諸説あります。(シヌグ堂のガジュマル)ガジュマルにはキジムナーが宿るという伝説が沖縄にあります。キジムナーとは沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物で、ガジュマルの古木に住む精霊を意味します。キジムナーは人から恐れられることは滅多になく「体中が真っ赤な子供」「赤髪の子供」「赤い顔の子供」と表現されて、長髪で全身毛だらけの姿で現れると言われます。(高樹齢のガジュマル)川でカニを獲ったり特に魚の左目または両目が好物で、グルクンの頭が好物だと言われます。キジムナーと仲良くなれば魚をいつでも貰え、金持ちになれるともされます。海に潜って漁をするのが得意で瞬く間に多くの魚を獲るそうです。また、水面を駆け回ることができ、人を連れながらでも水上に立てるとも言われています。(ガジュマルの古木)さらに、キジムナーは人間と敵対することはほとんどありませんが、住処の古木を切ったり虐げたりすると、家畜を全滅させたり海で船を沈めて溺死させるなど、ひとたび恨みを買えば徹底的に祟られると伝えられます。赤土を赤飯に見せかけて食べさせる、木の洞など到底入り込めないような狭い場所に人間を閉じ込める、寝ている人を押さえつける、夜道で灯りを奪うなどの悪戯を働くとも言われます。キジムナーは出入りが自在でどんな小さい隙までも出入りが可能とされる妖怪です。(シヌグ堂の石柱)ガジュマルの頭上からは常に「トンットンッ」「コンッコンッ」「カンッカンッ」と何かを叩く乾いた音が鳴り響いていました。もしかしたらキジムナーが挨拶をしていたのかもしれません。そんな幻想を抱かせる崇高な「東の御嶽(シヌグ堂)」は琉球三国時代の歴史的な故事、漁業で生きる集落に伝わる海のシケを願う不思議な祭り、精霊のキジムナーが宿る神秘的なガジュマル、それら全てを継承し続ける浜比嘉島浜集落の人々に大切に守られている聖域なのです。
2021.01.05
コメント(0)
(スクブ御嶽)沖縄市登川の閑静な住宅地に「すくぶ公園」があり、敷地のど真ん中には「スクブ御嶽」の神山がどっしりと構えています。沖縄の公園で御嶽があるのは珍しく、公園敷地の大半を御嶽が占めている神秘的な空間に包まれています。(スクブ御嶽の石碑)赤い鳥居の左側には「スクブ御嶽」と記された石碑があります。石碑の奥には御嶽のガー(井戸)が祀られており石造りのウコール(香炉)が設置されています。スクブ御嶽のスクブとは稲の籾殻の事で、沖縄市には「三人の力持ち」という有名な琉球民話があります。(鳥居脇のウコール)昔、池原にウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーという三人の力持ちがいたそうです。三人はいつもスクブ御嶽に手を合わせて「催眠術を教えて下さい」とお祈りしてから武術の稽古をしていたので、たいそうな力持ちになり三人に勝つ者は誰もいなかったそうです。三人は稲を刈ってきたら、それをお椀に入れてつつき、食べた後の籾殻が山のように積まれたことから「スクブ御嶽」という名前が付いたそうです。(スクブ御嶽の階段)鳥居を潜り階段を登って行くと奥には拝所が見えてきます。ここから一直線に天空に延びる階段を一段一段上がるにつれて、御嶽周辺の登川地区と池原地区を見渡せる素晴らしい風景に変わって行きます。(お通し拝所のウコール)鍵がかけられた鉄格子の中には3つの石造りのウコールと琉球石灰岩で作られた古いウコールが1つ設置されていました。私は拝所にひざまづき手を合わせ、自己紹介とスクブ御嶽に訪れた理由を告げて沖縄の平和を祈りました。(拝所脇の出入口)拝所の右にも鉄格子があり、半開きながらも私を奥地へと誘い込む雰囲気を醸し出していました。私は拝所にこの先に進み見学する旨を告げて一礼し、暗闇に不気味に続く縦に細長い入り口に足を踏み入れたのです。後日、登川地区に住む方から話を聞いたのですが、この扉が開いている事は滅多になく、正月やお盆など特別な時のみ解放されるそうです。(スクブ御嶽の丘陵)扉を抜けるとそこは整備されていない亜熱帯ジャングルになっており、ここからは完全に神の聖域で非常に強いパワーが張り詰めた空気に一変しました。ガジュマル、シダ植物、多種にわたる亜熱帯植物をかき分けつつ、猛毒のハブに気を付けながら足場の悪い道なき道を少しずつ少しずつ進み続けます。(スクブ御嶽)辿り着いた場所は「スクブ御嶽」のウガンジュで、ウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの三基の石造りウコールが設置されていました。御嶽の右手前にはマース(琉球粗塩)が三つ盛られるのを確認できます。私はスクブ御嶽にウートートー(拝み)して沖縄の平和を祈りました。(お供えの沖縄粗塩)どうやら先程通過した拝所は「スクブ御嶽」のヒヌカンと考えられ、御嶽本体へのお通しの役割があると思われます。ハブがいつ出ても不思議でない無整備の亜熱帯ジャングルは足場が非常に悪く、御嶽を訪れる方々がもし足が悪かったり歳を取られていた場合、手前のお通しの拝所で祈る事が出来るのです。(御先御殿/殿内)再び入り口の赤い鳥居に戻り公園を時計回りに散策すると、山の麓の右手に「御先 御殿 殿内」と記された拝所を発見し、拝所に続く階段を登り鉄格子のある場所を目指します。(御先御殿/殿内の内部)そこには足元に大小多数の石と一つのウコールがあり、格子内部には四つのウコールが設置されていました。さらに左奥に白装束を着た白い髭の神様の絵画、中央奥には観音様の像、右奥に子供を膝に座らせて抱き抱える観音様の像が祀られていました。(御先御殿/殿内の石碑)拝所の右側を進むと石碑が建てられており「子(ネ)ぬは午(ウマ)ぬは卯(ウ)めは西(トイ)め 四チン中軸(ナカジク)や池原と登川 登川ぬ村ぬ湖金軸拝(クカニジクウガ)で 池原ぬ村ぬ波座軸(ナンザジク) 拝(ウガ)で世々といちまでん 幸(シアワ)せぬ御願(ウニゲ)」と記されています。(ウガミン登/金満宮の石碑)石碑の右奥には「ウガミン登 金満宮」と記されたもう一つの石碑と四つの石造りウコールが設置されていました。石碑には霊石が祀られています。かつて、この地に「ウガミン登 金満宮」があったと考えられます。(スクブ御嶽麓の拝所)さらに左奥に登る坂道を進むと鍾乳石の下に黒く丸い筒状の石物があり、その横にはヒヌカンのウコールが無造作に置かれていたのです。中央の黒い筒状の物体は御嶽公園入り口にある井戸跡と同じ素材と形状をしていました。これは鍾乳石から湧き出たカー(井泉)があった場所だと考えられます。(すくぶ公園の竣工記念碑)スクブ公園の北西には竣功記念碑が建てられていてスクブ御嶽の歴史が記されていました。第二次世界大戦後、登川地区はキャンプ ヘーグ(Camp Hague)と呼ばれる米軍海兵隊の基地がありました。1977年5月14日に沖縄に全面返還されましたが、それまでは基地内で小型核兵器の訓練などが行われていたのです。訓練中に兵士数人が事故で被ばくし、通常の80倍以上の濃度の内部被ばくが確認された事が報告されています。(すくぶ公園)沖縄市登川地区で生まれ育った知り合いの話では、米軍統治下のスクブ御嶽の山を海兵隊が崩そうとすると、必ず重機が倒れる原因不明の事故が連続し、海兵隊員が3名死亡したと言われています。更に、沖縄返還後に民間の工事業者がスクブ御嶽の区間整備をしていたところ、重機が突然ひっくり返る大事故が起きたとも言われています。また、スクブ御嶽周辺の住宅やアパートでは心霊現象がかなり多く、御嶽の神山に謎の青い発光体が出現する目撃情報も多数耳にします。(スクブ御嶽のウコール)これらの不可解な出来事は琉球民話に登場するウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの「三人の力持ち」がスクブ御嶽を守護している証なのか。それとも祀られた石の神様の祟りなのか。いずれにせよ、御嶽に訪れた私自身が奇妙な力により惨事に巻き込まれなかった事に感謝したいと思います。
2021.01.04
コメント(0)
(ノロ墓)沖縄県うるま市に「神の島」と呼ばれる「浜比嘉(はまひが)島」があります。約2キロ平方メートルの小さな島には琉球開闢の祖アマミチュー(アマミキヨ)とシルミチュー(シネリキヨ)の夫婦神が暮らしたと伝わる鍾乳洞窟、アマミチューの墓、小高い丘のグスク、更に30ヶ所を超える御嶽や拝所が点在します。勝連半島から海中道路を利用して「平安座島」から浜比嘉大橋を渡ると「浜比嘉島」に到着します。「浜比嘉島」の入口のT字路を右に進むと「浜集落」、左に進むと「比嘉集落」があります。「比嘉集落」に向かう海沿いの道を進み「アマミチューの墓」の小島の手前に「ノロ墓」の標柱が立っているのが確認出来ます。(ノロ墓の入り口)(ノロ墓入り口の厨子甕)(ノロ墓の鳥居)この神秘的な「浜比嘉島」の「比嘉集落」には代々の「比嘉ノロ」が葬られた古墓があります。「ノロ(祝女)」とは沖縄本島や奄美群島の公的司祭者としての神女の事で、一つの集落ないし数集落の祭祀組織を統率していました。ノロの語源は「祈る、祈る人、神の意思を述べる人」などの意味で9世紀頃から人々の生活と共に存在していました。琉球石灰岩の石段を登ると鳥居が現れ、その先に「ノロ墓」が佇んでいます。この「ノロ墓」の周辺にはガジュマル、ソテツ、亜熱帯植物が生い茂り、木漏れ日が神秘的な雰囲気を醸し出しています。「ノロ墓」の入り口には遺骨を収納する厨子甕が置かれており、琉球石灰岩の岩門を通り抜けて石段を登ると「ノロ墓」の鳥居が現れます。(ノロ墓)(ノロ墓の斜め上にある古墓)(ノロ墓の崖下にある古墓)鳥居をくぐり更に急な石段を登ると正面に「ノロ墓」が佇んでおりウコール(香炉)が祀られています。「浜比嘉島」の「比嘉集落」の祭祀を司った歴代「比嘉ノロ」の御霊が眠る古墓は、珊瑚が隆起した琉球石灰岩の急斜面の中腹に位置します。「ノロ墓」に向かって左斜め上の斜面には自然ガマを利用した古墓があり、入り口はブロックが積まれて塞がれています。かつて風葬に使われたガマであると考えらます。更に「ノロ墓」に向かって右下側の崖下にも古墓があり、ガマの入り口はブロックで塞がれてウコール(香炉)が設置されています。この古墓の前方に蓋の無い古い厨子甕が置かれています。(按司の墓のガマ)(ガマ入り口の石棺)(ガマ内部)「ノロ墓」に向かって斜め右上に進む石段があり進むと崖の中腹に大きく空いたガマ(鍾乳洞)があり、鍾乳洞の入り口から差し込む太陽光が洞窟の奥を神秘的に照らしています。ガマ入り口には幾つもの霊石が祀られた「按司(あじ)の墓」の石棺が鎮座しており蓋の破損が確認出来ます。これは南側に隣接する「比嘉グスク」按司の石棺であると考えられます。「按司」とは琉球諸島にかつて存在した階位を意味し、琉球王国が設立される以前はグスク(城)を拠点とする地方豪族の称号として使われました。王制が整った後は王族のうち「按司」は王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)が就任しました。琉球国王家の分家が「按司家」と呼ばれるようになり、更に王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも「按司」が用いられました。(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)ガマ内部を進むと右側に拝所が確認されて幾つもの霊石が祀られています。そこから奥に進むと左側に6体の石柱と霊石が祀られて粗塩が盛られています。鍾乳洞の自然石を利用した6体の石柱が何を表しているのか不明ですが、沖縄の歴史で欠かす事が出来ない「御先の世・中の世・今の世」の3つの世と、沖縄を創造する「天・地・海」の3つの要素を意味していると考えられます。更にガマの奥に進むと大人が1人通れる穴が2つ空いており、その場所には石柱とウコール(香炉)が祀られてる拝所となっています。この地点まではガマの入り口からの太陽光が届きますが、この先のガマは右奥に進む為、光が途絶えて完全に暗闇に包まれます。(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)そのまま大人が1人通れる程の穴をくぐり、太陽光が届かない暗黒のガマ奥地を進むと、右側に数個の霊石が祀られた拝所があります。この拝所の背後には鍾乳石の石柱を中心に霊石が祀られています。更にガマの奥地には幾つもの霊石が祀られている拝所となっています。この先もガマは続いていますが人が入れない狭さになり、実際にガマがどこまで続いているのかは不明です。このガマは「按司の墓」と呼ばれていますが、ガマ内部に祀られる幾つもの拝所はノロが拝する聖域とも、ユタが修行する霊域とも言われています。うるま市のカミンチュ(神人)もこのガマを拝むとも聞いた事があり、神の島「浜比嘉」のこのガマは神秘的な雰囲気を醸し出しています。(ガマ内部から見た入り口)(ガマの鍾乳石)(ガマから眺望するアマミチューの墓)ガマ、拝所、御嶽などの聖地には呼ばれる人が選ばれていると言います。このガマは順序を経て拝する必要があると私は考えます。ます「ノロ墓」の崖下に湧き出る「ハマガー」の聖水で身を清め、次に「ノロ墓」を拝します。葬られるノロに「按司のガマ」への立ち入りを許可された者のみ、本来ガマに迎えられます。ガマの奥地は非常に心地良い雰囲気に包まれており、瞑想をして魂を浄化する最高の聖地でした。ガマの出口からは神様により計算し尽くされたかの様に「アマミチューの墓」がある岩の小島が眺望できます。「ノロ墓」「按司の墓のガマ」「アマミチューの墓」の地理的バランスは、琉球の開祖である神様のみが創造できる仕業であり「浜比嘉島」が「神の島」だと呼ばれる紛れもない所以の一つなのです。
2021.01.01
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1