1
「百花繚乱」、「今を盛り」に咲き乱れて。「かれん Karen」。花形 半八重咲き花径 中輪香り 微香開花 四季咲き と。「かれん Karen」日:平林 浩 1995年作出。「ロアルト ダール Roald Dahl」。1輪か3~5輪の房状で咲き、形の良いカップ咲きの花は開花と共に白く退色する。中香だが質の良いフルーツ香、ティー香がありややうつむいて咲く。半横張り性で自然樹形となり、枝のトゲは少ない。返り咲き性が強く秋までポツポツと花を付ける。誘引すれば小型のつるバラとしても利用できる。品種名はイギリスの小説家にちなむ と。「ロアルト ダール Roald Dahl」英:オースチン 2016年作出。ここにも少女像。「タモラ Tamora」。初期のイングリッシュローズ。四季咲、花径8〜10cm、アプリコット、八重カップ咲、樹高1mぐらい。ミルラ香。「タモラ Tamora」英:オースチン 1983年作出。「スノーグース Snow Goose」。甘いムスク系の香り。「モーヴァン・ヒル」のように、大きくなり、繰り返し咲きます。大きなスプレーになり、輝くような白い花がつきます。外側の花弁は少し長めで、しべが中心に覗くと可愛らしい印象のデージーのような外見になります。枝はとげが少なめで、まっすぐですので、アーチや壁面、フェンス、トレリスなどに簡単に誘引することができます と。「スノーグース Snow Goose」英:オースチン 1997年作出。そして「皇族の名を冠したバラ、プリンセスローズ」👈️リンク のコーナーへ。「プリンセス アイコ Princess Aiko」現天皇皇后両陛下の御長女・敬宮愛子内親王殿下のご誕生を祝して名付けられたバラです。蕾から巻いた花弁が開いていく様子が優雅でとても美しく、愛らしい内親王様そのもののイメージの花です。花つきがすばらしく多く、長く咲き続けます。2001年JRC銅賞受賞 と。「プリンセス アイコ Princess Aiko」日:京成バラ園芸 2002年作出。「プリンセス ミチコ Princess Michiko」。「プリンセス ミチコ」は、バラの品種。フロリバンダ系の品種で、花の色は濃いオレンジ色。 1966年にイギリスのディクソン社から当時日本の皇太子妃だった現上皇后美智子に献呈された。柔らかな香り、オレンジ色で丸みを帯びた花弁が特徴。上皇后美智子の名を関したバラにはこのほかにエンプレスミチコがある。「プリンセス ミチコ Princess Michiko」英:ディクソン 1966作出。「エンプレス ミチコ Empress Michiko」。プリンセスミチコと同様、美智子皇后陛下が、立后された後、新たにイギリスの同育種家により贈られたバラです。花は淡いアプリコットをしのばせたピンクで、穏やかで上品な美しいバ ラです。花付き良く、数輪の房咲きになる。コンパクトに育ちますので、鉢植えにも向きます。「エンプレス ミチコ Empress Michiko」英:ディクソン 1992年作出。「マサコ Eglantyne」。今上陛下が皇太子としてご成婚の際、皇太子妃雅子殿下(当時)にちなんで名付けられたバラです。別名は「エグランタイン」とも呼ばれています。「マサコ Eglantyne」英:オースチン 1994年作出。「ジュビレ デュ プリンス ドゥ モナコ Jubile du Prince de Monaco」。複色花でこれほどまでに白赤の発色が鮮明な品種は他にはありません。濃緑色の照り葉とのくっきりしたコントラストも力強く美しいです。樹勢は強く、生育旺盛で花付きも良く、バランスのよい樹形になります。暑さにも強い特長があります。日当たり次第では色は薄めになります。前モナコ公国元首レーニエ3世の在位50周年(ゴールデン ジュビリー)を記念して捧げられたバラ。赤と白はモナコ公国の国旗の色です。レーニエ3世の妻グレース公妃に捧げられたグレース ドゥ モナコ、プリンセス ドゥ モナコと同じメイアン作。別名チェリーパフェ(Cherry Parfait)。「ジュビレ デュ プリンス ドゥ モナコ Jubile du Prince de Monaco」仏:メイアン 2000年作出。「イエロー クイーン エリザベス Yellow Queen Elizabeth」。名花クィーンエリザベスの枝変わり種。花色は淡いクリームイエローで、外弁にほんのりピンクがのっています。ゆるくカーブした丸弁の花びらが印象的で、優しい雰囲気のバラです。「イエロー クイーン エリザベス Yellow Queen Elizabeth」ベルギー:フラーミンク 1964年作出。そして再び「センターフィールド」横まで戻る。「三日月山」の手前には「富士山ベンチ」が。その手前に「EXPO 2027 YOKOHAMA JAPAN」と。花菜ガーデンにある「富士山ベンチ」を「富士山」を背景に。これはネットからの写真。「富士見百景」に選定されている場所であると。そして最後に訪ねたのが土産物売り場「ディア チャペック (Dear CAPEK)」。一番左に「ヒマワリはちみつ」👈️リンク と。「ヒマワリはちみつ」があることを初めて知ったのである。ミツバチがヒマワリに訪花するのは、花粉が目的と考えていた趣味の素人養蜂家の私なのだ。駐車場に戻る際にも、これでもかとバラをカメラで追う。「和音 Waon」花の中心に明かりを灯したような黄色が印象的な花をたくさん咲かせます。楚々とした雰囲気で、さまざまな花や演出したい場所に調和し、「和音」を奏でるかのようです。ぎふ国際ローズコンテスト銀賞及び世界バラ会連合特別賞受賞。「和音 Waon」日:京成バラ園芸 2004年作出。「スパークル Sparkle」。アプリコットかかったオレンジ色が綺麗な薔薇です。スパークル(Sparkle)には、閃光、きらめき、活気などの意味があります。 ワインなどの泡立ちもスパークル(スパークリング ワイン)といいます と。「スパークル Sparkle」英:フライヤー 2009年作出。「ファイヤーワックス ラッフル Fireworks Ruffles」。切れ込む花弁が特徴的な「ラッフル ローズ」シリーズ。春は菊のように細く黄色い花弁の先が赤味がかり、花火のようです。夏の高温期には、黄色一色になります と。「ファイヤーワックス ラッフル Fireworks Ruffles」蘭:インタープランツ 2014年作出。「ノース フレグランス North Fragrance」日:吉池貞蔵 2009年作出。系統 フロリバンダ(Floribunda)花色 クリーム花形 ロゼット咲き花径 大輪香り 強香(ティ&フルーツ)開花 四季咲きそして駐車場に向かい、平塚駅近くにある打ち合わせ場所のファミレスに向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.06.07
閲覧総数 36
2
ーーが(その13)の散策ルート。『山手十番館 / 仏レストラン&カフェ』。横浜 外人墓地を臨む山手の丘にある異国情緒あふれる小さな洋館。昭和42年(1967年)明治100年を記念して建てられた「山手十番館」。向かいには日本で初めてビールを醸造したウィリアム・コープランドが眠る外国人墓地があり。結婚式も出来るようであった。横の庭には緑豊かな西洋庭園に客席を設け、ガーデンBBQと共に歴史を感じながらビールを味わえるビアガーデンが。そしてその隣にあったのが『山手資料館』。山手資料館の前庭はバラ園として設えられていたが、バラはほぼ終わっていた。山手資料館は、明治42年に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」木造西洋館。館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明 開化当時をしのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示。横浜市の歴史的建造物に指定されている。牧場主として財を成した中澤兼吉の和洋併設住宅のうち、洋館部分だけを1977年(昭和52年)に移設したとのこと。この移設には人気レストラン「山手十番館」のオーナー、故・本多正道が携わっており、この山手資料館は山手十番館の敷地内にある。『山手資料館』建物は明治期に建てられたもので、明治期の木造西洋建築物としては横浜に遺された唯一のものとして知られる。内部には横浜開港期を偲ぶ様々な資料が展示されている。建物の脇には『クリーンベンチとガス燈』が。明治初年、米国よりグリーンベンチが横浜共立学園に送られ「伝道のイス」と呼んで親しまれました。ガス灯は明治5年、横浜・馬車道に初めて点灯されました。庭園内の2基のガス灯は当時のガス灯を復元したものです。ガス灯には灯が灯っていた。山手本通り側から見る。『横浜山手聖公会』。横浜山手聖公会は、文久3年(1863年)に横浜に居住する英米人のために設立された、開国3番目のキリスト教会。創建当時の教会堂は現在の中華街近くにあったが、明治34年(1901年)に現在地に赤レンガ造りの聖堂が建てられた。『横浜山手聖公会』と書かれたプレート。この聖堂は関東大震災で失われ、現在の建物は、昭和6年(1931年)にアメリカ人建築家のモーガン氏の設計で、大谷石造りの聖堂として再建されたものが母体となっていると。2005年1月に放火により大きな損傷を受けたが、同年11月に設計当時の形で美しく蘇った。横浜市認定歴史的建造物に指定。塔の各面に3つづつ並ぶ窓枠は大谷石を蝋燭形にしてある。『自働電話』。エリスマン邸から山手十番館に行く途中にある、灯台のようなレトロな電話ボックス。電話100年を記念して、1990年に設置された公衆電話。公衆電話が初めて設置された当時は、『自働電話』と呼ばれていたと。『山手234番館』。1923年9月1日に発生した関東大震災では横浜の多くの家屋が失われ、山手も瓦礫の山と化した。駐留していた外国人は神戸市や上海など他の都市に移り住む者が相次ぎ、震災前に7650人いた外国人は、震災の翌年には2156人まで減少した。横浜市では外国人に市外から戻ってきてもらうべく、復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設した。山手234番館も、市営ではなく民間の事業であるものの、こうした外国人向けの集合住宅の一つである。竣工は1927年で、第二次世界大戦後の占領軍による接収を経て、1980年ごろまで外国人向けアパートメントとして使用された。1989年に、景観の保全を目的として横浜市が建物を取得。1997年より保全改修工事が行われ、1999年より一般公開されている。1999年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。『えの木てい 本店』。山手外国人墓地を過ぎたところにある「えの木てい」。昭和2年(1927)日本人建築家 朝香吉蔵氏が設計した英国式洋館で、アメリカ人検事が暮らしていた。昭和45年(1970)現オーナーのご両親が自宅用として購入。西洋館のリビングを、そのまま喫茶店として利用しています。木製の上げ下げ窓や暖炉をそのまま残したリビングは、当時の面影を残しています。看板商品はチェリーサンド、店舗自慢のテラス席からは目の前に広がるローズガーデンに咲き並ぶ様々な薔薇を眺めながら優雅なティータイムを楽しめると。『エリスマン邸』。スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの邸宅として、1925年から1926年にかけて、山手127番地(現在地より南東に400mほどの位置)に建設された。設計はチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。エリスマンの没後は数度所有者が変更となり、第二次世界大戦の被害を免れたものの1982年にマンション建設のため解体された。歴史的価値を見出した横浜市は部材を買い取り、1990年に元町公園内に移築・復元した。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。地上2階・地下1階建の木造建築で、施工は清水組。1階は応接間や台所、居間兼食堂、2階は主に寝室や浴室として使われていた。移築前は和館が併設されていたが、部材が残っておらず復元されなかった。屋根の勾配を緩くし、1階と2階の間に庇を設け、水平性を強調する意匠とした。外壁は、1階は垂直方向の堅羽目板張り、2階は水平方向の下見板張りとして変化を付けている。2階の2か所に壁面を後退させてバルコニーを設け、寄棟造の屋根を雁行させて単調な直方体とすることを避けた。窓など開口部は大きくとられ、青緑色の鎧戸が設えられている。全館にスチーム暖房が採用されていたが、施主のリクエストにより応接間に暖炉が設けられた。エリスマンの妻が日本人であったことから、浴室とトイレはそれぞれ独立した造りになっている。建物の横の塀には、『エリスマン邸』の案内板が。『横浜雙葉中学高等学校』校門。この建物は重厚感溢れるものだが、山手の雰囲気とはちょっと違う?エンタシスの柱が至るところに。『ベーリック・ホール』への入口門。『ベーリック・ホール』。イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベーリックの邸宅として、1930年に建設された。設計はアメリカ出身の建築家・H・モーガンで、山手111番館と並び彼の住宅建築の代表作の一つ。ベーリックの没後はカトリック・マリア会に寄贈され、同会の運営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された。「ベーリック・ホール」の名称は、マリア会の命名によるものである。2000年に同校が閉校となったのちは横浜市が敷地を取得し、建物も市に寄贈された。元町公園の一部として整備が行われ、2002年より一般公開されている。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。地上2階・地下1階建で、地下は鉄筋コンクリート構造、地上部分は木造である。山手地区に現存する、戦前からある住宅としては最大規模。スパニッシュ様式で、クリーム色の壁やオレンジ色のスパニッシュ瓦、アーチ型の玄関ポーチ、クワットレフォイル(英語版)と呼ばれる窓の様式などに特徴が現れている。1階は応接間や食堂、居間とこれに続くパームルームなど、2階は主に寝室として使われていた。食堂と居間には暖炉、横浜港を見渡せるよう北側に作られたパームルームには獅子頭の壁泉が設えられている。2階は主人・婦人・子息と来客用の寝室、それぞれに附属する浴室が設けられている。3連アーチや煙突が印象的な外観と、和洋様々な手法を取り混ぜたインテリアは、建築学的にもたいへん大きな意味を持っているのだと。『横浜ユニオン教会』。1859年10月以来、ジェームス・カーティス・ヘボンが神奈川の成仏寺で合同礼拝を行っていた。横浜で1866年以来合同礼拝が行われ、1871年9月から1872年8月の間に教会として組織された。最初、山手町のアメリカン・ミッション・ホームで行い、次にゲイティ座で行われた。1875年から日曜日の午後に日本の教会を借りて行った。1888年に最初の専任牧師の聖公会の祭司ジョージ・ミーチャムが就任する。1889年から、1907年までユージーン・ブースが奉仕をする。1910年山手町で礼拝堂を建設するが、1923年に関東大震災で倒壊する。現在と同じ場所の、山手町66に再建する。太平洋戦争中は米軍の空襲により完全に破壊される。戦後、進駐軍のチャペル・センターにより礼拝出席者が減少した。1960年代にフェリス女学院礼拝堂で行われた合同礼拝により横浜ユニオン・チャーチは再建された。以前は大きな駐車場で会った場所は更地に。なにが建つのであろうか?『代官坂上』「YAMATE LINER」こと神奈中11系統は、横浜市営バスから引き継いだ路線である。茶色とクリーム色のカラーリングを纏い「YAMATE LINER」のロゴが付いたいつもの神奈中バスとは異なる専用塗装車。『末日聖徒イエス・キリスト教会 山手ワード』大正10年(1921年)に建設され、横浜市指定文化財でもある旧露亜銀行横浜支店の建物(イギリスの建築家バーナード・M・ワードの設計)をリニューアルし、平成23年(2011年)9月に、生演奏の音楽やオルゴールセレモニーなどの音楽の演出ができる結婚式場「la banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)」としてオープンしている。1830年アメリカ合衆国にてジョセフ・ スミス・ジュニアによって立ち上げられたキリスト教系の新宗教であり、通称モルモン教といわれる。山下町・音の教会と詠っている。末日聖徒イエス・キリスト教会の塔。記念レリーフの銘文。『日本郵船山手クラブ』。日本郵船株式会社は、1885年9月29日に創立された船会社である。三菱財閥の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業である。1893年12月15日に株式会社となった。日本の3大海運会社の一つであり、戦後の株式特定銘柄12社の一つでもある名門企業。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.27
閲覧総数 2015
3
【海外旅行 ブログリスト】👈リンク今年も旅友と今日から4月25日までモロッコに旅行することとなりました。過激派組織「イスラム国(IS)」の動向も気になりますが、成立しているツアーを選び参加することとしました。地球の歩き方『モロッコ』と『モロッコを知るための65章』を通販で購入し予習を行いました。「モロッコ」は「日の没する地の王国」で「日の出ずる国、日本」の対極にある北アフリカ北西部に位置する立憲君主国。この地域のアフリカ諸国・リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコをマグリブ(日の没する所)の国と呼ぶのです。今回は『クラブツーリズム』 の24名参加のツアーとの事。一昨日夕方、今回の添乗員からも最終確認の電話をいただきました。旅の行程表です。 今回の発着は羽田空港ですので助かります。カタール航空でドーハ経由でカサブランカに向かいます。今回のモロッコ観光の訪問地、ルートを描いてみました。カサブランカは人口365万人のモロッコ最大の都市、そして大西洋に面した美しい街。1993年に完成した世界の4大モスクでモロッコ最大のモスク・ハッサン2世モスクが有名。そしてマラケシュへ。マラケシュは「赤い街」「通り過ぎる」という意味であり、人口66万の第3の都市、あらゆる土地から、あらゆる物が集まってくるフェズに次いで2番目に古い街で、長い間、政治・交易・文化の中心。北アフリカ最大の規模を誇るマラケシュのメデイナは今も人々をひきつけずにはおかないと。フナ広場では蛇使いや猿回しなどがパフォーマンスを繰り広げ屋台が立ち並ぶ。このカオス(混沌)のようなパワーが生み出すエネルギーを体で感じたいと思っている場所。エッサウイラはマラケシュの西の大西洋岸の港湾都市。2001年に世界遺産に旧市街メディナが登録されたのだ。現在は世界遺産であるとともに、リゾート地としての側面と芸術の町という評価もあわせ持つ街。サハラ砂漠の入り口、ワレザザートとは「静かな街」という意味で居住者の8割以上はベルベル人とのこと。世界遺産「アイト・ベン・ハッドウ」に行く。ここは、日干しレンガ造りの「クサル(要塞化された村)。トドラ渓谷は、両岸に300mもの切り立った崖があり、ロッククライマーがその壁を登ることで有名。岸壁の間を散策するとのこと、アトラス山脈の雪解け水のトドラ川の水の冷たさを素足で味わいたいと思っているのです。サハラ砂漠の玄関口エルフードへ。そしていよいよ旅の最大の魅力の一つ、サハラ砂漠・メルズ―カ大砂丘観光に。サハラ砂漠はアフリカ北部にあり、アフリカ大陸のほぼ3分の1の広さを持っているが、約70%は礫砂漠で、残りが砂砂漠や岩石砂漠であるとのこと。メルズ―カ大砂丘は典型的な砂砂漠で、赤い細かい砂からできているのだと。モロッコのスイスと呼ばれる標高1650mの高原の避暑地「イフレン」の街へも。フランスの植民地だったころ保養地として建設され、独立後は国王や政府要人の別荘地となったものでヨーロッパ風の静かなたたずまいの美しい街フェズは、モロッコでの最初のイスラム王朝イドリス朝(788~926年)の首都として、イドリス2世によってつくられ、イスラム文化の中心地として栄えた街。当時に出来たこの旧市街(メデイナ)フェズ・エル・バリは世界遺産に登録されており、千年以上の歴史を刻む狭く暗い路地は、まるで迷路のように入り組み、とても現地ガイドなしには歩けるものではないと。途中、タンネリ(なめし皮染色職人街)に寄る予定。円い染色桶が並ぶ作業場では中世そのままの皮を染める手作業の姿を楽しみたいのです。モロッコに現存する最大のローマ遺跡(1997年に世界遺産に登録)のヴォルビリスの古代遺跡も訪ねるのです。 シャウエンはモロッコの北西にある都市。旧市街(メディナ)は青色の建物で有名。幻想的で美しい街並み『青の迷宮』を堪能したいのです。最後の訪問地は首都ラバト。現国王ムハンマド6世の王宮もある落ち着いたたたずまいの人口120万の近代都市。今回も早朝散歩で、早朝のアザーン(モスクから流れる礼拝時間を知らせる呼びかけ)の音を楽しみたいと思っているが、治安の関係もあり慎重に行動したいと思っています。6つの世界遺産を10日間で廻る忙しいツアーであるが大いに楽しんできたいとおもっています。妻がモロッコの位置を確認する為に?可愛い地球儀を買ってきました。そして日本、ドーハ、モロッコにタグを貼り付けていました。スペインとは最も狭い場所で14キロメートルしかないジブラルタル海峡で結ばれている国。そして、西は大西洋に、北は地中海に面している国 モロッコであることを再認識。18:30に旅友が愛車で我が家に迎えに来てくれます。そして羽田空港へ。行って来ま~~す。ご安全に!!
2015.04.16
閲覧総数 513
4
前方に「特例都道 406 皇居前鍛冶橋線」との交差点が。「千代田区皇居外苑」を起点とし「千代田区丸の内三丁目」を終点とする、延長 760 mの短い道路。「特例都道」とは、道路法第89条により、特別区の区域内だけに認められた都道で、道路法第7条の認定基準によらず、関係区長と協議し、都議会の議決を経て認定した道路。国土交通大臣との協議は、必要ないのだ と。横断歩道の先右手にあったのが「丸の内パークビルディング」と「丸の内ブリックスクエア」。「丸の内パークビルディング」の低層部に商業ゾーンとして2009年に開業した「丸の内ブリックスクエア」。「丸の内コンフォート」をコンセプトに、高感度でこだわりのあるファッション・雑貨、日本初進出のレストランなどが出店、黒を基調とした重厚で落ち着いたデザインとレトロな雰囲気が魅力の商業施設。 その向かいにあったのが「ティファニー 丸の内店」。時計を抱えているのはギリシャ神話に登場するアトラス。肉体派である。この「東京国際フォーラム西」交差点を渡り、右折すると左側にあったのが「三菱一号館美術館」の建物。1894年にジョサイア・コンドルが設計した「三菱一号館」を忠実に再現した赤レンガづくりの「三菱一号館美術館」。明治期の銀行営業室を使用した趣あるカフェ「Cafe 1894」はおすすめ と。右側には「新東京ビル」。「東京国際フォーラム西」交差点を左折し赤レンガの「三菱一号館美術館」を見る。「三菱一号館美術館はただいまメンテナンス中」と。設備入替および建物メンテナンスのため2024年秋頃まで長期休館中 と。「Digital Gallery デジタルで見る三菱ゆかりの逸品」案内板。下記写真2枚はネットから。曜変天目(稲葉天目) 国宝 建窯 南宋(12-13世紀)。立体物は360°全方向からの高精細デジタル画像を保存。拡大部分。また三菱一号館と丸の内ブリックスクエアに囲まれた中庭の「一号館広場」にはバラやさまざまな草木や噴水、オープンカフェが並んでいた。左側にあったのが白の大理石の作品。⑲アギュスタン・カルデナス キューバ-フランス 拡散する水 1977 カラーラ産白大理石「アギュスタン・カルデナス (キューバ-フランス)Agustin Cárdenas (Cuban/French)拡散する水 1977Water Unfolding公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」【1927年キューバに生まれ、1955年にパリに移住しました。シュルレアリスムの最後のグループの一員であり、数多くの展覧会を開催しています。自身のルーツであるアフリカの原始美術を思わせる造形志向と、官能的な叙情性のある作品は、人間とも植物とも連想できるような、融合した造形を特徴にしています。この作品は広がる水を有機的に表現していますが、生き物のような生命力も感じさせます。】廻り込んで。⑱ヘンリー・ムーア イギリス 羊の形(原型)1971 ブロンズ【ヘンリー・ムーアは世界の近代美術シーンを代表するイギリスの彫刻家です。ムーアの作品は、自然の形態からアイディアを得ています。その制作の過程として、最初に小さなマケット(雛型)を作り、風景の中に彫刻を置くことを想定しながら中間サイズの「原型」へと拡大させます。この原型から高さ5m70cmに拡大された野外作品は、イギリスのヘンリー・ムーア財団が所蔵しています。展示している一号館広場はイングリッシュ・ガーデンがイメージされています。】「ヘンリー・ムーア (イギリス)Henry Moore (British)羊の形(原型) 1971Working Model for Sheep Piece公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」⑰バーナード・メドウズ イギリス 恋人たち 1981 ブロンズ【1950年、ドイツに生まれ、シュトゥットガルト州立美術アカデミーで版画と彫刻を学びました。この作品は、ブロンズの表面が風景を映しこみます。凹面は風景(丸の内テラス)を光学的に縮小した反転画像として反映し、凸面は風景(車道)を吸収するように見え、その曲率の最高点で最も深い錯覚を示します。太陽光を受けて光り輝き、作品の中に空間が取り込まれ、一体になることを意識して制作されました。】「バーナード・メドウズ (イギリス)Burnard Meadows (British)恋人たち 1981 The Lovers公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」場所を移動して。表面が鏡面のため周りの世界が映り込むので、外側から鑑賞しているのではなく、逆に作品の内側から私たちが覗かれているような感覚を覚えるのであった。反対側から。そして三菱「一号館広場」の庭園・中庭を振り返る。それぞれの彫刻作品の曲線に癒やされる空間なのであった。ヘンリー・ムーア:ピースフルな彫刻「羊の形」。次に訪ねたのが「丸の内仲通り」側にあった⑧澄川喜一 日本 白のマスク 1969 ポリエステル樹脂 塗料【日本の近代彫刻を代表する彫刻家で、東京スカイツリーのデザイン監修など環境造形も手がけています。「白のマスク」は「MASK」シリーズの一つで、アフリカの仮面や日本の甲冑への関心と、古代人の顔の復元に携わったことが発端となっています。作品上部には凹みとノミ跡があり、有機的なかたちとシャープなフォルムが組み合わされています。彫刻の内部の構造を表面に出したいという作家の意図がこめられています。】ズームして。廻り込んで。「澄川喜一 (日本)SUMIKAWA Kiichi (Japanese)白のマスク 1969Mask of White公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」反対側から。「丸の内仲通り」の歩いて来た方向を振り返る。左手に「新東京ビル」、右手に「丸の内二重橋ビル」。「丸の内2丁目ビル」前にあったのが③H&P.シャギャーン 日本 Matching Thoughts 2022 ブロンズ 塗料「H&P.シャギャーン (日本)H&P.Chaguin (Japanese)Matching Thoughts 2022作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」【本作品はアンリ・シャギャーンとピエール・シャギャーンが2004年にウィーンで制作した2枚の絵をもとに造られた立体作品である。当時の作品をベースに、単にビジュアルが目立つだけでないものを目指した。現代アートとしてはマテリアルも古く、革新的な造形ではないが、ディテールやそのなかに潜むエスプリに、2人が持っている近代彫刻へのリスペクトをどれくらい込められるかが課題であり、この2体の彫刻に反映させている。それらを表現するための作品素材として、扱いづらいモルタルを用い、その素材の変化する様も楽しみセッションを重ねた作品制作の中には、互いへの信頼や共鳴がうかがえる。また、モチーフとなった二者の関係性やコミュニケーションは、見るものに委ねられるが、どんな鑑賞をも享受するような作家の思いを感じる作品である。「永遠の新人」として存在する2人のアーティストは、常に制作の原点を模索しながらアートの可能性を追求している。】そしてその先にあったのが、ラグビーボールを持つ選手の像。この像は、「丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)」の展示品ではないようであった。「丸の内15丁目PROJECTRUGBY BENCH ARTリーチマイケルMICHAEL LEITCH所属/東芝ブレイブルーパス 生年月日/ 1988年10月7日身長/189cm 体重/113kg 血液型/ A型日本ラグビー界を代表する闘将。彼の力強さとラグビーのもつ躍動感をベンチアートで表現。Team /Toshiba Brave Lupus Date o fbirth/October 7,1988Height/189cm Weight /113kg Blood type /AThis piece of bench art depicting a renewned Japanese rugby leaguechampjon communicates his power and the excitement of the sport of rugby.」丸の内1 5丁目PROJECT.は、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーを務める三菱地所が、ラグビーの様々な魅力に注目し、今までにない新たなラグビーの魅力を発信するプロジェクトです。2019年、ラグビー日本代表のパレードが行われた街・丸の内。ラグビーが日本の文化として根付き、更なる発展を遂げる為に、この街を舞台に、にわかファンもコアファンも、丸の内15丁目住民として一緒にラグビーを盛り上げていきましよう。」精悍な顔立ち。後ろ姿を。丸の内二丁目ビル前を進む。その先「丸の内仲通りビル」前にあったのが①舟越桂 日本 私は街を飛ぶ 2022 ブロンズ 塗料【舟越桂は、日本を代表する彫刻家のひとりである。人物の頭部には、教会、本、並木道が配され、記憶や思い、自然、個人の心の中にもある距離や空間的広がりを表している。パブリック作品としての希少さもさることながら、着彩されたブロンズ作品としては自身の初作品となる。作品が設置される場所の日の動きまでも考慮し着彩された人物像は、静謐さの中にも華やかさと上品さを感じ、時間や季節の移り変わりと共に、街の喧騒と静けさに寄り添いながら、通る人々に「記憶」や「想い」を語りかけるであろう。Profile 1951年、岩手県生まれ。父は彫刻家・舟越保武。父の影響で彫刻家を志す。75年、東京造形大学造形学部美術学科彫刻専攻卒業。77年、東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。性別を感じさせない半身の人物像を特徴としており、2005年からは人間と動物との混交像「スフィンクス・シリーズ」を手がけている。】「船越 桂 (日本)FUNAKOSHI Katsura (Japanese)私は街を飛ぶ 2022I fly abobe the city作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」語りかけるように佇む人物の頭部には、教会、本、並木道が配され、それらは、記憶や思い、自然、人が信じる道を表しているのだ と。そして日射しの陰が青く表現されていた。天候、時間によって変化する陽射しによって、様々な表情に変わっていくのだと。頭部の、教会、本、並木道をズームして。顔に近づいて。後ろ側から。さらに進むと「Marunouchi 2nd st.」、右手奥には「東京駅丸の内南口」が見えた。次に訪ねたのが④名和晃平 日本Trans-Double Yana(Mirror) 2012 アルミニウム【3Dスキャンしたポリゴンの表面にエフェクトをかけ、そのデータを再び実体化する「Trans」は、2012年から続く彫刻作品シリーズ。人体モデルから読み取った情報が、質量をもつ物質に還元される過程において、流動性のある三次局面が生成され、情報データという表皮をまとった立像が形作られます。影と実体、現実とヴァーチャルの境をさまよう「Trans」は、虚ろなエネルギー体となって、現代における存在のリアリティーを問いかけます。Profile 彫刻家/Sandwich Inc.代表/京都芸術大学教授 2003年京都市立芸術大学大学院美術研究科博士課程彫刻専攻修了。感覚に接続するインターフェイスとして彫刻の「表皮」に着目し、セル(細胞・粒)という概念を機軸に、彫刻の定義を柔軟に解釈し、鑑賞者に素材の物性がひらかれてくるような知覚体験を生み出してきた。】「名和晃平 (日本)NAWA Kohei (Japanese)Trans-Double Yana(Mirror) 2012作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」」廻り込んで。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.15
閲覧総数 117
5
我が家の近くの畑にクリムゾンクローバーが一面に栽培されている場所があります。クリムゾンクローバーは他にストロベリーキャンドル、ストロベリークローバー、ベニバナツメクサなど色々な名前で呼ばれているようです。イチゴを思わせる赤い花穂が面白い。このクリムゾンクローバーは上質の蜂蜜がとれ、花はサラダ、お茶にでき、葉っぱはよく茹でれば栄養価の高い野菜として食用にできるとのことです。またマメ科の植物の特徴で「窒素固定」作用で根に根粒ができ、緑肥(休閑期に栽培し、腐熟させずに生のまま土にすき込んだ肥料)にできるとのこと。それにシロツメクサのように雑草化はしないという記事も見たことがあります。近所の農家はこの緑肥が目的で栽培されているのでしょう。採密植物として非常に有効であるとのことなので、以前も書いたが、どうか花が終わるまで緑肥として鋤込むのを待って欲しいものだ。今秋は我が養蜂場の農園にもこの花を蒔きたいと考えている。下の写真は数年前の同じ畑のクリムゾンクローバーが見事に開花したときのものである。
2009.03.16
閲覧総数 1737
6
『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線沿いに歩き、しばらく進み、「市場町」の交差点で左の道・県道327号線に入る。市場町の信号を越えた先に、市場村の解説と藤川宿の案内板が立っていた。『東棒鼻(ひがしぼうばな)』藤川宿の東の入口へ到着。棒鼻とは宿場の出入口を指す。『東棒鼻』「「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川・「棒鼻ノ図」に描いたからである。絵の中には、八朔(はっさく=八月一日)の御馬進献の行列がちょうど藤川の棒鼻にさしかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭、道の両側に石垣を積んで土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。最近、明治二十年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。とにかく、現在、藤川宿といえば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。」榜示杭『従是西 藤川宿』。『東棒鼻跡』「宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである。」安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖』 広重は毎年幕府から朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いています。絵の中央に立つ杭は、宿場の境を示す傍示杭で 、この棒杭が宿場の端(はな)にあったことから、ここを棒鼻と呼ぶようになった。傍示杭の左は関札、手前は高札。札を付けて西へ向かう馬は、八朔(はっさく)の お馬献上行列と思われる。お馬献上とは幕府から朝廷へ馬を差し出すことで、 八朔とは、旧8月1日のことである。こちらが本物?の安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖』地方役人たちが土下座している。御弊をたてた駒と一緒に御馬献進の一行がゆく。幕府は毎年8月1日に朝廷に馬を献上することになっており、広重は天保3年にこの行列に参加した。図は藤川宿に差しかかるこの行列を迎える様子が描かれている。愛らしい黒赤二頭の馬。夕雲がたなびく。一行を迎えて犬まで座っているところが面白い。街道の脇に立つ棒鼻が宿場の外れを表わしている。道標『藤川』「京へ46里27丁、岡崎へ1里半、赤坂へ2里9丁、江戸へ78里29丁。」『是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町』案内板。『是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町 ~藤川の歴史と文化を訪ねて~』秋葉山常夜灯 宿場の出入口付近に、寛政7年(1795)に建立の秋葉山常夜灯が」現存しています。商家「銭屋」 問屋場跡から家数にして5軒ほど先の南側に今も残る商家。連子格子が昔のにぎわいや 旅人の姿を思い出させる味わいの深い建物です。脇本陣跡(藤川宿資料館) 脇本陣橘屋大西家は中町の東海道北側にあり、明治天皇御小休所の座敷もありました。 昭和30年に藤川村が岡崎市と合併するまでは、役場が置かれていました。脇本陣で 現存するのは門のみですが跡地全体は岡崎市の史跡に指定されています。 現在は宿場町の模型等を展示した藤川宿資料館として利用されています。十王堂(芭蕉句碑) 元禄期に建立されたと伝えられる藤川の十王堂。 その境内には「ここも三河 紫麦のかきつばた」と詠んだ芭蕉の句碑が建てられています。 これは寛政5年(1793)に西三河の俳人が再建したと記されています。棒鼻跡 平成4年に、棒鼻モニュメントが復元されました。東は国道一号との分岐点、西は藤川小学校の 前に整備されています。道標(吉良道) 東海道から左へ分岐する脇道を吉良方面へ通じる道「吉良道」と呼んでいます。 この道は塩の道として利用度の高い道でした。現在でも吉良道の道標が残っています。藤川の松並木 天保14年(1843)には、34間(「町」の間違い。約3.5㎞)の長さが続いていたと伝えられる 藤川の松並木。昭和38年に市指定の天然記念物になった際には、幹周り2㍍のクロマツ90本が 町の西はずれに約1キロに渡って東海道の左右に立ち並んでいたと言います。 『むらさき麦栽培地』「今から三百年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」の句を残しました。これは、むかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、幻の麦となってしまいました。平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から下旬にかけて、その美しい色を鑑賞することができます。」国道1号線の下の県道327号線脇の『秋葉山常夜灯』。静かで落ち着いた道筋。棒鼻の冠木門をくぐり、細い道を抜けて右へ鍵の手に曲がり車道にもどる。『藤川宿の「曲手(かんねんて)』「地元の人たちは、この辺りを「曲手」(かねんて)と呼んでいる。曲手とは、直線状に来た道を直角に右に曲がり、また左へとクランク状に曲がる道をそう呼んだ。別名「桝形」とも言われている。藤川宿の曲手は、慶安元年(1648)に、三河代官が藤川宿東端に、約500mほどの街道を造り、地割りをして市場村の人々を移転させ、加宿市場村を設けたときに、その東はずれを意識的に道を曲げて付けたことによるものと思う。その効用は外敵から宿場町を守るためとか、道を曲げることによって、街道の長さをふやし、そこに住む人をふやしたとも言われている。この付近は、当時、道中記にも書かれて繁盛した茶屋「かどや佐七」跡が曲がり角にあり、常夜灯(秋葉山灯篭)、そして東棒鼻などがあり、江戸期の面影を止めている。」『市場町格子造りの屋並』『市場町格子造りの屋並』「藤川宿でも往時を偲ぶ町屋造りは市場町が一番です。格子造りの静かな佇まい、そして町民が町を愛する気持ちが伝わる町、総代始め町民が一体となり日本の歴史の足跡を残す町として現在も、何軒か残っております。」先に進むと右の津島神社標示の両脇に堂々とした常夜燈がどっしり構えていた。神社は奥の名鉄名古屋本線を越えたところにある。『市場町公民館(旧市場公会堂)』が写真左手に。分断する線路の先に『津島神社』の石鳥居。『市場町公民館(旧市場公会堂)』「建設竣工は大正6年7月、当時額田岡﨑地区では、現市の文化財である朝日町の公会堂が大正4年建設され、それにつぐ公会堂として百戸弱の町内で造ったことで評判となり絵葉書として残っています。当時としては小屋組みが合掌工法と云う近代工法を駆使した建物で町内に住する堂宮大工山田許一氏が主となり完成、百年後の現在も長い風雨に耐え、正確無比を誇る完全木造で津島神社の境内にあり社務所も兼ね町民の和と長い歴史を育んできた公民館です。」『市場町公民館(旧市場公会堂)』を正面から。連子格子の民家。江戸時代の商家銭屋の建物(写真)が残っていた。格子戸で大屋根が前に出て雨水が下の溝へ落ちるようになっている。類焼を防ぐために庇の両側に「軒卯建」がある。『藤川宿駐車場』祝日の翌日で休みなのか車の姿はなし。駐車場『定』。駐車場も「藤川宿」らしい趣。いろいろと工夫の跡が。『歴史に息づく住みよいまち』案内板。東海道の宿駅設定にあたり、人口が少ないため幕府は近隣の集落を移住させ細長い宿場町を造った。宿の町並みの長さは9町20間(約1km)に人口1,200人ほどの宿場だった。宿場に特徴がなく、宿泊客は両隣の赤坂、岡崎宿に取られていた。『東海道中膝栗毛』では宿の東西の棒鼻付近の茶屋の様子を「棒鼻の茶屋軒ごとに生き肴をつるし、大平皿、鉢を店先に並べたて旅人の足をとどむ」と紹介している。弥次さんはゆで蛸を食べたと。道路脇にはところどころに連子格子の民家が。『徳性寺』この寺も名鉄名古屋本線、国道1号線の北側に位置する寺院である。左手奥には『明星院(俗称 ほうえんさん)』が。現在は真言宗醍醐派。入り口の緑の門から本堂も垣間見えた。この緑の門は、イヌマキの生垣だと。参道そして境内には『片目不動尊』の幟が並んでいた。『片目の不動尊』『明星院』の本尊は不動明王立像で、「片目の不動尊」と呼ばれ、永禄5年扇子山の戦いで敗走する家康をかばい、矢を受け片目となったと伝えられている。本尊の片目不動尊にはこんな逸話がある。永禄5年(1562)、戦況が劣勢になった家康の背後から白衣の武者が現れて次々敵を倒してゆくので、誰かと考えていると敵の矢が白衣の武者の片目に刺さり、武者は消えた。戦さに勝利し、帰りに明星院に参拝したら、本尊の不動尊の目に矢が刺さっていた。家康は先の白衣の武者が不動尊とわかって、以来崇拝したという。『本堂』。明星院は、真言宗醍醐派の寺院で、三河新四国三十三番・三十四番札所になっていると。一か所なのに何故二つの番号が有るのかと不思議だったが、本堂が三十三番札所で、向かって左側にある「神変大菩薩」の堂が三十四番札所と。『明星院(俗称 ほうえんさん) 現在は真言宗醍醐派』。「元々明星院は愛称ほうえんさんで親しまれ、元来、方位学・易学等を主とする密教系寺院で創建は不明であり、市場と共に加宿市場に来たと伝えられている。ただ、幕末から明治初頭にかけて寺小屋を営み、日本の近代化に先がけ藤川学区の教育の芯をなした学問処であり、今も筆子塚等の足跡が見られ、それにまつわる文書等も現存している。醍醐派に転宗は歴史的に新しく、明治以来建学の精神が受け継がれている。」『岡崎市指定文化財』 ・絵画 那智参詣曼荼羅 一幅 ・工芸 蔵王権現懸仏『明星院』案内板。『大聖殿行者堂』。中央に「神変大菩薩」像。神変大菩薩は役行者、役小角とも呼ばれ、弘法大師空海が、真言密教を開く前から密教の修行をされた偉大な行者さんで、真言宗の中でも特に醍醐派では大切にされている行者。醍醐派を開かれた聖宝理源大師は、修験道を大切にされた方で、恵印灌頂、伝法灌頂と二つの法流を大切に守ってきているのだと。『筆子の塔』『筆子の塔』「明星院の寺子屋で学んだ子どもたちが大人になりお師匠様を偲んで建立した。二代目のお師匠様の塔には百八十名の子どもたちの名前が刻まれている。」『法篋印塔復元』石柱。『三佛堂』『扁額』。中央に『観世音菩薩像』。右に『地蔵菩薩』、左に『文殊菩薩』。『招福堂』『開運招福の大黒さま』「渓流釣りに行った村人が中洲に埋もれていた大黒さまを見つけ、大切にお守りしたところ、村人はいつも思いが叶い幸せに暮らすことができた。「幸せをひとり占めにしてはいけない」と思い、明星院に納め開運招福の大黒さまとして祀られている。」中央に『大黒様』。『寺子屋跡』の立て札が民家の前に。『寺子屋跡』「寺子屋は平屋造りで八畳一間と一間幅の廊下があった。・午前は七・八歳から十歳まで・午後は十歳から十二・三歳まで の四百人ほどが学んでいた。」『藤川宿高札場跡』の立て札の新旧が。『藤川宿高札場跡』「この高札場跡は藤川宿と市場町との境にあり明治21年新政府地積作成に当たり、本来三間四方あり、大きな高札場であった。加宿後、棒鼻は移動したと思われるが高札場はそのまま幕末を迎えたと思われる。ことに特異なことは地積公園を作るに当たり、藤川と市場との字界(境界線)設定につき、地元両町にて高札場を二つに割り、また東海道も道路中央で鍵状に割った特異形状となっている。長年経過のうち代替地等で民間地となり現在も残っている。」『藤川宿の高札場跡』「「高札」とは、立て札ともいい、法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げられた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものであった。藤川宿の高札場はここの場所にあり、記録によると「一、高札場 高(たかさ) 壱丈(いちじょう) 長さ 弐間半(にけんはん) 横 壱間 」とあり、規模の大きい、広い場所であった。ちなみに、当時掲示されていた高札は、八枚あったようで、大きいものは横23センチ、縦53センチもあり、もし当時あったものを八枚並べるとすれば、正面に横二面ずつ、四段に掲げて常時掲揚していたのであろうか。現在保存されている高札は六枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され、内、三枚は資料館に掲示してある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.01
閲覧総数 402
7
『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に「大坂」を上り終えた先が現東海道の国道1号線の合流点。『大坂松並木』「大坂」では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となった。昭和七(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂に。現在の「大坂」になるまでは数回の改修がおこなわれたと。江戸時代の3代将軍徳川家光のとき、日照りが続いたので歩行者のために街道筋に松を植えさせたと。その当時の名残が道路の中央部に今も残っているのだと。「旧東海道 大坂松並木」の標柱にあった案内の浮世絵。江戸時代のこの辺りは松の間に富士山が見える松並木だったと。坂の下には戸塚宿と思われる家並みが見える。大坂の上から江戸に向かいながら戸塚宿を見下ろしている様子を描いたものと。よって、この浮世絵に富士山の姿はなし。『東海道 六 五十三次 戸塚』本図は、戸塚の宿を過ぎて汲沢村の辺りの山道を描くが、宿外れの坊示杭が右手に見え、手前に松の大木がある。遠景の富士山に連なる丹沢山塊が、画面に奥行きを見せる。広重の代表的な東海道シリーズの一つ。揃物名が隷書体で書かれているので、俗に「隷書東海道」という。「保永堂版」東海道に次いでよく知られた揃物。そしてこの絵の左側には急な『大坂松並木』を上る旅人の姿、そして右側には丹沢山塊とその奥に白き富士山の雄姿が。『汲沢(ぐみざわ)町第二歩道橋』の文字が。昔は松並木であったが現在は広葉樹の並木が続いていた。この辺りは戸塚山と呼ばれた丘の上。下に戸塚の街並みが見えた。この辺が前述の浮世絵に描かれた場所か。道路脇に区画された石碑が。『東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の有名な場面「戸塚山中道行の場」はここ・・・。勘平のモデルは浅野内匠頭の刃傷事件を赤穂に伝えた使者の一人菅野三平。しかし、お軽と勘平は実在の人物ではないのだと。『お軽勘平の碑建設実行委員会』と刻まれた石碑横には「落人を見るかや野辺に若草の‥」の碑があり、この「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」を解説したもののようだ。「落人」はWikipediaには「合戦に敗れて僻地に隠遁したもの、およびその末裔を指す言葉」しか記載がない。しかし、goo国語辞書には「歌舞伎舞踊「道行旅路の花聟(はなむこ)」(↼リンク)の通称」との記載もある。「落人」解説碑からはこの「お軽勘平(↼リンク)戸塚山中道行の場の碑」を知ることは直ぐに諦めたが、帰ってからWebで調べると、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で有名な「戸塚山中道行の場」の場面の舞台なのだという。『日本橋から46Km』と。湘南江の島を描いた大型トラックが我々横を通過。『原宿一里塚跡』。原宿一里塚は11番目の一里塚であるが、国道1号線では日本橋から46Km余りの地点になる。手前の10番目の一里塚跡は戸塚宿元町にあり、次の12番目の一里塚跡は遊行寺坂にある。『浅間神社入口』の標柱。浅間神社は永禄年間(1558年〜1570年)に創建されたといわれている。その頃、富士信仰が盛んであり、それで村内の安全を祈願して勧請されたとされる。東海道に沿って小道と参道が続いているが、参道の両側には常緑高木でブナ科のスダジイの大木が連なる。驚くほど太い木もあり、樹齢600年を越えていると言われているのが納得できる。原宿一里塚はちょうど浅間神社の横の東海道にある。旅人は一里塚ではなく、ここの神社に立ち寄って庚申塔を拝み、休んだのかも知れない。『庚申塔』。境内には巨木が。『スダジイ』であると。普通、シイ(椎)という場合にはこの『スダジイ』であると。公園樹、街路樹、庭木などとして植栽される。果実はアク抜き不要で食用となるのだと。木材は木炭やシイタケ栽培のホダ木になる。また、タンニンに富む樹皮を黄八丈の黒色部の染料に用いられていると。拝殿。朱色の鳥居と石祠。階段横には老木が続く。『大運寺』相模風土記によれば、1596年の創建。 山号は唐澤山、芝増上寺の末寺で浄土宗の寺。六地蔵。将棋を指す僧侶の姿か?宗祖の法然像。『月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ』と法然上人の歌。「月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月(月の影)は、はっきりと存在してくるのです。」と。月の光は阿弥陀仏の救いのことで、それが届かない里はない。すべての里に届く。したがって、阿弥陀様の救いは万人を対象としている。ただし、目で見て認識しない限り月はないも同然である。見ることによってこそ月は存在するのである。見れば必ず見る人の心にまで届くものです。見さえすればよいのです。すなわち、念仏さえすればよいのです」と。『手水舎』。『本堂』。ご本尊は木造阿弥陀如来立像で、両脇侍には、木造勢至菩薩立像と木造観音菩薩坐像。阿弥陀如来立像は、作風、構造から南北朝時代の作とされ、宋元風の影響が認められる。像高は146.0センチ、光背高が196.0センチ、台座高が63.0センチ。寄木造、玉眼、肉身部は漆箔、着衣部の彩色は剥落している。上品下生の来迎印を結ぶと。『法然上人御幼名 せいし丸さま』『二宮金次郎之像』。更に原宿方面に歩を進める。日本橋まで(から)48Km。藤沢市との境界にある影取町を通過。『道祖神』。台座には「仲町」と刻まれていた。日本橋まで(から)49Km。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.17
閲覧総数 742
8
「乗誓寺」を後にして、次の目的地の「八雲神社」に向かう。東浦賀1丁目17の路地を北に向かって進むと、「八雲神社」への石段が現れた、石段の途中、左手にあった「手水舎」。石段の途中から浦賀湾沿いに建つ「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」を振り返る。築年月(築年数) 1994年6月 (築30年)建物構造 SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)建物階数 地上22階総戸数 314戸右手にあったのが「東浦賀1丁目町内会館」。さらに石段を上る。石段の上に「八雲神社」の拝殿が姿を見せた。祭神は須佐男命。この社は江戸時代の建物で、当時は、大谷山満宝院八雲堂という修験の寺であったと。明治以降、神社に変わりましたが、建物はそのままで、屋根に宝珠が乗る、寺院型式の御堂建築なのであった。拝殿の向拝には、漆喰で造られている「漆喰鏝絵(しっくいこてえ)」という、見事な龍が取り付けられていた。ズームして。「向背の龍」と呼ばれるこの作品は、木彫り彫刻?と見紛う、見事な出来栄えで、全国的にも珍しい存在であると。龍頭を中心に据え、全身を丸彫に造形、ガラス玉の玉眼を嵌入する。くねる龍身はしなやかで、均整がとれているが、彩色はかなり剥落し頭部の破損部分も目立つ。「伊豆の長八」とともに、漆喰鏝絵の名人として全国的に知られる石川善吉48歳時、明治35年(1902)の作品。背面左端に銘文があり、「明治三十五年/左善作/四十八才」とあった。作者の「左善」とは、左官の善吉の略で、浦賀の左官職人石川善吉のことである。明治35年(1902年)48歳の時の作品であることが分かるのであった。尚、漆喰鏝絵は八雲神社の他,西叶神社・法憧寺・川間町内会館などにも残されていたのであった。「八雲神社祭神は須佐男命(すさのおのみこと)です。この社の建物は江戸時代のもので,もとは大谷山満宝院八雲堂(おおがやさんまんぽういんやくもどう)という修験の寺でした。明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが建物はそのままで,寺の型式であるお堂建築になっており、鳥居もありません。現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。お堂の内部には修験の護摩壇があります。向拝(ひさし)には漆喰で造られた龍が取り付けられ、長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられています。東浦賀一丁目の鎮守様として毎年六月に祭礼が行われ、須佐男命が乗った山車と猩々坊が(しょうじょうぼう・厄除け人形)が出ます。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「猩々坊」👈️リンク。行列の中で異色の存在は「猩々坊」。猩々といえば、まず思い浮かぶのが能楽の「猩々」。赤く長い髪が特徴的で、衣装も赤地または赤模様。中国において猩々は、想像上の動物で猿に似ているとされ、人の顔と足を持ち、人の言葉を理解し,酒を好むという。日本では赤面赤毛とされ、酒飲みの異名ともなっている。一方,八雲神社の猩々坊は、大きな頭と顔、黒々とした髪・髭・眉に白い顔。どこか一種異様な雰囲気が漂っているが、猩々とは共通点があまり感じられない。江戸末期に疱瘡(天然痘)が流行した時,人々は「疱瘡神」と言う疫病神が疱瘡を流行らせると考えた。猩々には能の印象から転じて赤色のものを指すこともあり、疱瘡神は赤色を苦手とし、「赤が病魔を払う」という俗信から、東浦賀の人々は「猩々」に「坊」をつけて擬人化、赤い衣装を着せて「疱瘡神除け」として祀ったようだ。全国には「赤い御幣」「赤一色の鍾馗絵」「赤い玩具の鯛車」「猩々人形」等々、赤を基調としたお守りや風習が存在するが、八雲神社の猩々坊は他に類を見ないユニークで貴重な存在と思われる。八雲神社は東浦賀町大ヶ谷の畠中という谷戸にあり、猩々坊は江戸末期の文久2年(1862)に造られた。ところが何故か、明治33年(1900)以降の祭礼においては、町内引き回しが行われなくなってしまった。それから95年が経過。これを惜しんだ町内の人達が、神社に保存されていた猩々坊の色を塗り直したり、髭をつけたりして修復、平成7年(1995)見事復活を果たし、現在に至っているようで大変喜ばしいことだ とネットから。「御宝珠」。寺から神社に変わった当時、屋根に乗っていた御宝珠。現在のものは、その後作り替えられた金属製であると。近づいて。「当町守護八雲神社御祭神 須佐男命此の社は江戸時代の建物です。当時は大谷山満宝院八雲堂と申して真言宗修験のお寺でした。明治初期に神社になりまして其の当時屋根に乗りし御宝珠です。東浦賀 一丁目町内会」つぎに訪ねたのが「津守稲荷神社」。横須賀市東浦賀1丁目14。「津守稲荷」と。石鳥居の先に拝殿。手水舎。拝殿。ご祭神は、社名からの推定になりますが、食物や穀物の神様で、五穀豊穣の神様である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。宇迦之御魂命とも表記され、稲荷神と同一です。創建は江戸時代中期の文政9年と。詳しい創建の経緯などは不明ですが、津守の「津」は港を意味するもので、港を守るお稲荷様として創建されたと考えられます。誰の手によりどのように創建されたかなどは、残念ながらわからない。拝殿の彫刻が目を惹いた。右側には龍、左側には神様でしょうか。木鼻(右)、下の方の両端には亀もいた。木鼻(左)、下の方の両端には亀もいた。拝殿の内陣。ズームして。拝殿に向かって右手には、「青面金剛塔」と書かれた小さな庚申塔があった。ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)の花。咲き始めは紫色だった花は少しずつ白っぽくなり,1本の木に紫と白の2色の花が咲いているように見えます。一つの花の花期は短いのですが,次々に咲き続けるので長く2色の花を楽しむことができるのだ。観音崎通りを京急浦賀駅方向に向かって歩く。横須賀市東浦賀1丁目12−17附近。右手奥に神社の石鳥居が見えた。石鳥居の先の石段の上に朱の社殿が。正面から。「船守稲荷神社」。横須賀市東浦賀1丁目11。お狐様(右)。お狐様(左)。「船守稲荷神社」の社殿。東浦賀1に鎮座する船守稲荷神社の縁起は不明とのことだが、境内に天明5年(1785年)銘の手水鉢が奉納されて残っている。船守稲荷神社の創建は、奉行所が下田から浦賀へ移された享保5年(1720年)以降で、稲荷信仰が江戸で大流行する江戸時代後期であろう。船守は文字どおり船を守る稲荷社で、港を守る津守稲荷神社とともに港町浦賀にふさわしい名前の稲荷社。手水鉢が船守稲荷神社氏子中による奉納ならば、船守稲荷神社は天明5年(1785年)以前の創建となろう。しかし、船の前に津があるのが普通である。津守稲荷神社は文政9年(1826年)に創建されているので、船守稲荷神社の創建が津守稲荷神社の創建よりもはるかに古いことはあるまい。一方、浦賀のもう一つの稲荷社である福寿稲荷の創建も弘化4年(1847年)にまで下がるから、船守稲荷神社の創建も19世紀にまで下がる可能性もある。しかし、西叶神社の摂社である船守稲荷神社の創建が元文4年(1737年)であることから、これ以前の創建である可能性が大であろう 鳥居は朱塗りではないが社殿は朱塗りである。内部に本殿が安置されているから、おそらくは覆い屋であろう とネットから。。内部に本殿が安置されていた。そしてさらに観音崎通りを進むと、右手奥、住宅と駐車場の間の奥の山裾に赤煉瓦作りの小さなトンネル風の建造物が。「水のトンネル明治三十三年(一九〇〇)に操業を開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、現在の二葉二丁目にあった溜め池から掘った全長約千メートルの導水坑の出口です。この導水坑は、浦賀ドックが独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要としそのために造られたものです。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」横須賀市のサイトに詳しい説明があった。『明治33年(1900年)に操業開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、 現在の二葉2丁目にあった溜め池から掘られた、全長約1,000mの導水坑の出口です。 現在は使用されていません。 旧浦賀ドックは工業用水の確保のためにこの導水坑と荒巻用水路を整備しました。 明治33年に作成された工場の設計図には荒巻用水路しか記載がなく、その完成は明治35年(1902年)12月ですが、導水坑の記録は、 昭和に入って作成された図面に残されています。 この導水坑は、旧浦賀ドックが、独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要とし、 このために整備されたものと考えられます。 この工場で初めて開発された、浦賀式3連成レシプロ汽機と排気タービンによる連動主機は、 昭和6年(1931年)に建造された貨客船「新京丸」に初めて搭載されているので、 タービンの開発と導水坑の整備は更に溯ることとなるのでしょう。 当時は、使用後の熱くなった冷却水が、職員のための風呂の湯として利用されたそうです』と。「浦賀式3連成レシプロ並びに排気タービン連動汽機」そして「観音崎通り」を「浦賀駅前」交差点まで戻り、「浦賀通り」・県道208号線を南に進む。目的地は「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」。「浦賀国際文化村推進協議会の案内絵👈️リンク黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会」の絵を4月16日(火)以来久しぶりに見る。ズームして。「浦賀丘入口」交差点より、「ポップサーカス横須賀公演」が行われている浦賀ドック内の特設大テントを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.07
閲覧総数 40
9
バスの車窓から三角のムハンマド5世廟と長方形のハッサンの塔が見えて来た。モロッコの首都ラバトは1912年保護領になり、フランス総督リョーティ将軍によりフェスからラバトへ遷都された。日本の大正2年。ムハンマド5世は1957年から1961年までの国王でフランスからモロッコの独立を勝ち取った国民的英雄であり2代前の国王。このムハンマド5世霊廟には、ムハンマド5世の2人の息子であるハッサン2世とその弟アブドゥラー王子の棺も収められていた。ハサン2世は1999年に埋葬されたとのこと。ムハンマド5世廟正面。ムハンマド5世の霊廟は、王宮とは別のラバトのもう一つの魅力であり、ラバトを訪れた者は是非とも訪れたい場所であると。 それは、アラウィー王朝の建築様式をほぼ完璧に今に伝えるものというだけでなく、王家の特筆すべき三人が最後に安らかに過ごした場所でもあるから。ここでは、観光客も地元住民も王室に対してだけでなく、緻密に、かつ非常に美しくデザインされた廟への尊敬の念を表すことができるのだと。ここムハンマド5世霊廟は、墓として、またモスクとして、一般に公開されているモロッコ国内に存在する、ごくわずかな場所の一つであると。 外観も豪華。門の上には黄金輝く金属装飾品が。 騎馬に乗った2人の衛兵が守る入口から中に入る。 遠足のモロッコの子供達も。 警察官にカメラを向けてはいけないが、衛兵には大丈夫と。 何とか廟に15時前に到着できた為に入場が出来たのであったが、高速のN1号線で追い抜いたバスに乗っていた別の日本ツアー仲間の姿は廟内で見なかったのであった。我々の旅程も入廟せず外からの見学になっていたが、15時前に到着できたので幸い中に入れたのであった。ドライバーと添乗員に感謝。廟では入口から入ったところが2階の回廊と繋がっており、入廟者は眼下に棺などを見たり、写真を撮影することができるのであった。確かに、ここまで公開し、誰でもが入館でき、写真を自由に撮れる霊廟は、今回のツアー全体を通じてここだけ。しかも、今回のモロッコ観光では、あらゆる王宮、霊廟、モスク、ミナレット、神学校などが異教徒の我々も見学可、しかも拝観料ゼロのようであった。これも大きな驚き。廟の中にはムハンマド5世の棺が置かれているが遺体は地下に葬られていると。両角の石棺は左が弟のアブドゥラー王子、右が前国王ハッサン2世の棺とのこと。周囲の壁や天井には精巧な装飾が施されていた。天井の装飾。モロッコの伝統的な建築技術と彫刻が美しく調和。棺の部屋の壁4面にはモロッコ国旗が掲げられていた。 中央のムハンマド5世の棺。シャンデリアに照らされ白い大理石が映えて美しかった。 壁上部の装飾 壁のモザイク そして15時になり我々も廟の外に出され入口の扉は閉じられたのであった。約10分の煌びやかで厳かな霊廟内部の見学であったが大満足。 広場からのムハンマド5世廟。 同じ敷地内にある未完のミナレット(尖塔)『ハッサンの塔』1195年にヤークブ・マンスールがモスク建設に着手したが、その4年後死亡により工事は中断、高さ88mになるはずあったが、未完でも44mと。 この地に4万人収容可能の礼拝堂が存在したが、1755年のリスボン大地震(ポルトガル)で崩落。現在は名残の柱が残っているのであった。イスラム建築のムハンマド5世廟の建物の壁。 建物への入り口も見事な彫刻が施されていた。ハッサンの塔は改修工事中で塔の周囲には工事用足場が。 西側の壊れた塁壁と残された柱がデコボコと。 工事中で無ければ、下の絵の如き外観が見ることが出来るのであった。このミナレットは、カサブランカにあるハッサン2世のモスクの塔、マラケシュで見たクトゥビアの塔(67m)、そして以前訪ねたスペインのセビリアのヒラルダの塔(93m)とともに、世界で最大級の高さ44mを誇っているのであった。ハッサンの塔側からムハンマド5世廟を見る。大理石の柱の本数は360本程と。ムハンマド5世廟と対称の位置にある白き建物。 こちらは霊廟の建物ではないので、緑の角錐の屋根はない。壊れた塁壁の場所が西側の門。 敷地の周りにある塁壁。城壁に穿かれた足場用の穴はハトの巣にもなっていた。 先ほどの白き建物を斜めから。 見学を追えバスに乗り込みカサブランカに向かう。大西洋に面してメディナ(旧市街)の城壁が見えた。ウダイヤのカスバ。アル・ムワッヒド朝に築かれた城壁を利用して、17世紀に建造された城塞だと。 この向こうは大西洋なので港を守る城だったのであろうか。この城壁の中にあるウダイヤ庭園は、スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿に似た造りで、アンダルシア庭園の傑作の一つと言われていると。
2015.05.22
閲覧総数 475
10
ポルトガル旅行や河津桜の旅行記(備忘録)を優先したため、「旧東海道を歩く」のブログアップが後回しになりましたが、今日から再開です。既にこの「旧東海道を歩く」のきっかけとなった箱根旧街道(石畳)コース(⬅リンク)のアップは終了していますので、ここからは箱根関所以降のブログアップになります。---------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次正月の三が日も明け、1月4日に昨年やり残した箱根関所跡から三島までの箱根越えを歩いて来ました。いつもの旅友は既に年末に完歩済みでしたので単独での山下りとなりました。自宅を5:35に出発し、小田急線、JR東海道線を乗り継いで小田原駅へ。小田原駅から6:50発の箱根町行きのバスに乗り箱根関所前を目指す。途中、国道1号線沿いにある『ういろう』店がバスの車窓右に。『箱根湯本駅』。1月2日に行われた箱根駅伝の往路5区と全く同じ道をバスは進む。箱根登山鉄道の大平台駅を過ぎてカーブを曲がっていくと右手に林泉寺が。ここは、大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん)に連座して処刑された内山愚童が住職をつとめていた寺。宮ノ下温泉の煙がモクモクと。小涌谷(こあくだに)駅前の踏切を渡る。箱根小涌園ユネッサン前を大きく左にカーブ。ユネッサンは「湯+ルネッサンス(エーゲ海・古代ローマなどをイメージした内装)」からと。そして芦ノ湖遊覧船乗り場前に。海賊船『バーサ』が停泊中。箱根神社 第一鳥居を潜る。元箱根の入口に建つ第一鳥居は、皇太子殿下の御成婚を奉祝して、平成5年(1993年)12月に建替えられた。国道1号線をまたぐ鳥居では、日本一の大きさを誇ると。そして『箱根関所跡』バス停で下車し、この日の『旧東海道を歩く』のスタート。三島方面からの箱根関所への入り口。時間は7:46。『箱根関所』。元和5年(1619)に設けられた箱根関所は、明治になり廃されたが、平成19年(2007)に江戸時代の大工・石工技術、資材を踏襲して完全復元され、往時の詳細な姿を見ることが出来るのだ。京口御門をズームで。箱根関所 案内図。箱根関所(⬅リンク)は既に何回か訪ねてブログアップしていますのでリンクを参照願います。そしてこの日のルートは下記の赤い太線の約14.8kmの旧東海道の下り。箱根駅伝の往路の最後の直線を歩く。24時間前のこの場所は人の波であったが、人の姿は殆どなし。道路脇の植込みの木々は霜で真っ白に変身。『箱根駅伝ミュージアム』前。『箱根関所南』交差点の角には『駅伝広場石碑』が。『箱根駅伝』テレビ中継で、国道1号の箱根神社鳥居を抜けて最後のコーナーを回ると、ゴールテープの張られた芦ノ湖の湖畔(駅伝碑)。その最後のコーナー部分に設けられた広場が駅伝広場。駅伝広場の中央には、平成15年5月に設置された「襷-TASUKI-」のモニュメントも。5区の往路でゴールするランナーをイメージした石碑の裏側には、駅伝の由来や箱根区間のコースが記されていた。石碑を囲む板塀には箱根山中を走る選手の写真が。『復路のスタート風景』。『往路ゴール風景』。『箱根山中を走る選手』。『塔ノ沢出山の鉄橋付近を走る選手』『湯本旭橋を走る選手』。そして交差点を右折すると、往路のゴール地点が見えた。そして未だ、『東京箱根間往復大学駅伝競争大会』と書かれた紅白幕の柱が残されていた。その横には『東京箱根間往復大学駅伝競争往路ゴール』と刻まれた石柱が。その裏には『東京箱根間往復大学駅伝競争復路スタート』と刻まれていた。箱根駅伝 往路のゴール・復路のスタートである芦ノ湖畔には 箱根駅伝に関連した3つの記念碑があった。一つ は昭和 36(1961)年に建てられた「東京箱根間大学 駅伝競走記念碑」、二つ目は昭和 59(1984)年の第 60 回大会を記念して建てられた「駅伝を讃えて」の 詩碑、三つ目は平成 6(1994)年の第 70 回大会を記 念して建てられた下の写真の「箱根駅伝栄光の碑・若き力を讃 えて」の碑(ブロンズ像)。「駅伝を讃えて」の 詩碑。「若い豹は春の象徴 君たちが走ると 東海に春がよみがえる 富士はおおらかに微笑み 相模の海は夢多い調べをおくる 君たちは意志と力の群像 君たちは青春の花々 赤や海老茶や紫が入り乱れて 春のさきがけの テープを織りなす 君たちは光のようにはつらつと走り 町々を 並木を 野を 山を 呼びさます はるのつばさ 東京箱根間大学駅伝 二日間のレースは 二つないスポーツの交響楽 自然の美と スポーツの美の 明るく展ける新春のフイルム よろこびと涙を わかち合う220キロ 若い日の楽しい感激よ」と。そして暫くすると雲の合間に富士山が姿を現す。そして完全に白き頂を見せてくれた。東海道五十三次之内 箱根 湖水図 / 歌川 広重。左手には美しい芦ノ湖があり、山並の向こうにさらに富士山が見えるのです。箱根海賊船には「歓迎 箱根駅伝」の横断幕が。左が海賊船『ビクトリー』、右が海賊船『ロワイヤルⅡ』。そして『東京箱根間往復大学駅伝競争往復路ゴール&スタート』地点を後にし旧東海道を箱根駒形神社方面に歩を進める。 ・・・つづく・・・
2019.03.27
閲覧総数 517
11
『旧東海道を歩く』ブログ 目次正定寺の西隣に『八百久』店舗兼主屋があった。『八百久』は寛保年間(1741-43)から日用品(鋤・鍬・天秤・火鉢など)を扱う商家だった。現在の建物は、昭和3年(1928)に建てられたもので、厨子二階建であり、二階は格子窓と虫籠窓の伝統的な意匠が用いられ、平成19年(2007)に国の登録有形文化財となっている。更に草津3丁目の旧東海道を進む。家と家の間にある狭い路地の先にあるらしい『遍照寺』の案内板が。中に入っていくと正面に『地蔵堂』が。そして『本堂』。『真言宗 泉涌寺派(せんにゅうじは)遍照寺』。旧東海道に戻り進むと、交差点の先、右手に朱の鳥居が見えた。『立木神社』。県道141号線前に建つ鳥居。朱の欄干の立木大橋を渡り立木神社境内に入った。扁額『立木神社』。『立木神社』社標と奥に『御神鹿 狛鹿(こまじか)(牡鹿)』。『御神鹿 狛鹿(雌鹿)』。御神木の『ウラジロガシ』は県指定自然記念物で推定樹齢400年の巨木であると。「滋賀県指定自然記念物」滋賀県自然環境保全条例第21条第1項により指定名 称 立木神社のウラジロガシ所在地 草津市草津四丁目1番3号幹 周 6.3m 樹高10m 樹齢(推定)300年以上指定理由 当神社は草津市中心部の市街地に所在し、緑豊かな鎮守の森を形成しており、 周辺住民の憩いの場となっている、その中でもこの樹木はひときわ大きく、また 当神社の御神木として崇められており、地域住民に親しまれている。」『神門』。『神門』を潜る。『拝殿』。『拝殿』で参拝。入母屋造の妻入拝殿は、境内の中心に凛として建っていた。武甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られていた。武甕槌命といえば、鹿島神宮の御祭神。鹿島や同じく武甕槌命を祀る春日大社の神獣は鹿である。『ゑびす(恵比寿)神社』。『天照皇大神宮』。歌碑『御製 ともしびの 静かにもゆる 神嘉殿 琴はじきうたふ 声ひくく響く』昭和32年歌会始お題「ともしび」の昭和天皇の御歌。『宮城遥拝所・皇大神宮遥拝所』『英霊殿』。扁額『英霊殿』。『境内社』七社 -『 竹生島神社・愛宕神社・日吉神社・稲荷神社・廣田神社・八坂神社・大将軍神社』そして右手に『松尾神社・天満宮社』。『神門(中門)』。神門前にも神鹿の像が狛犬たちと仲良く左右に居並ぶ。767年に鹿島神宮から1本の柿の木を植えたことに社名は由来するらしい。『幣殿・本殿』。『境内社』。五社 - 『多賀大社・熊野神社・龍田神社・下鴨神社・上鴨神社』。「立木神社 由緒』碑。祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)創立と由来 称徳天皇神護景雲元年(七六七年)六月二十一日命、常陸国鹿島を立ち給い(旅立つことを鹿島立ちというはこの縁による)この地に着き給う。 よって里人新殿を創建して命を斎祀し奉ったのが、当神社の起源であると伝えられる。 この時命、手に持つ柿の杖を社殿近くの地にさし給い「この木が生えつくならば、吾永く大和国三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」と宣り給いしが、不思議にも生えつき枝葉繁茂す。 人々その御神徳を畏み、この木を崇め社名を立木神社と称し奉る。崇敬と神徳 光仁天皇宝亀八年(七七七年)大旱魃にて琵琶湖の水涸渇す。 ために天皇中臣諸魚を以て勅使とし、当社に遣わし雨乞いの祈願をせしめられしところ、忽にして霊験ありて大雨沛然と降り万物蘇生す。 天皇殊の外嘉し給い殿の造営を命ぜられ、立木大明神の勅額を下し給う。 桓武天皇延暦五年(七八六年)正一位の神階を授け給う。 征夷大将軍坂上田村麿(田村神社祭神)東北鎮圧するにあたり当社へ大般若経一部を寄進して道中安全を祈る。 室町時代には将軍足利義尚は武運長久を立願して四脚門を奉建し、江戸時代には膳所城主尊崇あつく、代々社領を寄進し、また社殿の造営にも力を尽せり。 かくの如く当社は古来より朝野の尊敬厚く、又五穀豊穣、家内安全、安産、商売繁昌、交通安全、厄除開運、火災鎮護並びに勧学の大神として神徳高く広く庶民の信仰を蒐め来る。」「厄除開運・文通安全の守護神 立木神社の御由緒について立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百五十数年前の称徳天皇(第四十八代)神護景雲元年(七六七年)のこと、御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(ひたちのくに)(茨城県)の鹿島紳宮を白鹿に乗り旅に出られ「古来初めて旅立つ事を鹿鳥立ちと云うのはこの縁による」、諸国をへてこの地に到着されました。そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。『この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山〔今の春日大社〕に鎮まらん』すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を称え、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。ご祭神の武甕槌命は天孫がこの国土にご降臨前に、その道中安全を守護されたご神徳の高い神様で、昔から国家鎮護の神として朝野の信仰が篤く、田村神社のご祭神である坂上田村麿将軍は、東北地方鎮圧に山発前、当神社へ大般若経の一部を寄進して道中安全と厄除開運を祈願せられました。また当社の境内には旧東海道と中山道との分岐点を示す県内最古の道標があり、徳川時代参勤交代の制により、諸大名が草津宿を通過の際には、必ず当神社に道中安全を祈願され、不思議にも事故災難がなかったと伝えられています。付記 例大祭 五月三日 節分厄除大祭 二月三日祈願 交通安全・厄除開運・安産・初宮参り・七五三・結婚式 正月新年祈願・受験・入居祓い・地鎮祭等諸祈願」『儀式殿』。巨大な『絵馬』。こちらには明治天皇御製(ぎょせい)と刻まれた石碑。「いにしへの すがたのまゝに あらためぬ 神のやしろぞ たふとかりける」『参集殿』。『神馬』。境内から『拝殿』を見る。旧東海道に出る参道を進む。ここにも親子の鹿像『鹿神獣』が。『追分道標』。「みぎハたうかいどういせミち ひだりハ中せんだうをた加みち」「市指定文化財 石造道標 一基 24.0cm × 17.5cm × 213.0cm 江戸時代 (延宝 八年 = 一六八〇年) 指定年月日 昭和五十七年十二月六日 「刻銘」 (南面) 伊勢大神宮 延宝八庚申年 (カーン) 七ヶ年中履行月参詣願成就所 みぎハたうかいとういせミち 山城愛宕山 十一月吉日 (西面) 京みぶ村 ひだりは中せんたうをた加みち万宝院 あしたの行者 刻文よりこの道標は、東海道 と中山道 との分岐点である草津宿 の 中央部に位置する追分 の地に建てられていたことがうかがわれ、現 在の草津追分 に建てられている文化十三年銘石道標 (一八一六年) の前身のものと推定されます。 道標の建立年代は、「延宝八庚申年」(延宝八年 = 一六八〇)と 刻銘にあり、滋賀県下で最も古いものです。 建立の背景については、京都壬生村のあしだの行者万宝院 という 人物が、伊勢太神宮と山城愛宕山 (愛宕神 )への七年間毎月の参 詣成就を記念・感謝して建てられたものと推定されます。 近江名所図会に見られる草津追分 東海道名所図会に見られる草津追分」近江名所図会に見られる草津追分・東海道名所図会に見られる草津追分。『日本新聞学研究の祖 小野秀雄翁生誕之地』碑。「日本の新聞学研究の開拓者 小野秀雄 先生小野秀雄先生は、立木神社の中臣家38代宮司の小野秀国の長男として、1885(明治18)年8月14日に、草津のこのちに生まれる。東京帝国大学大学院に入学し直し、新聞の学問的研究及び新聞記者教育の開拓と発展に主導的な役割を果たした学者で、東京帝国大学文学部新聞研究室主任、東京大学教授、銅新聞研究所初代所長、上智大学教授、同文学部新聞学科長、日本新聞学界初代会長、同名誉会長などを歴任。主著に「日本新聞発達史」、「新聞原稿」、かわら版物語」のどがある、1955(阿養和30)年に、その功績にたいして日本新聞協会から新聞文化賞が授与された。没年、1977(昭和52)年7月18日(91才11ヵ月)」旧東海道側の『鳥居』と『立木神社』の扁額。その奥に石灯籠が並ぶ参道。旧東海道に戻り進むと、直ぐに前方に見えた橋は『矢倉橋』。草津川に突き当たる手前左手に『黒門跡』があった。ここは草津宿の京口で、文化14年(1817)に『黒門』が設けられた。よってここまでが京に上る東海道の草津宿の出口。「黒門の由来草津宿は、東海道と中山道が交わる宿場町であるため、宿場の入口は東海道の江戸方よりの入口と京方よりの入口および中山道よりの入口の三つの入口がありました。宿場町の入口には、一般に見付と呼ばれる施設が設けられていました。見付には石垣や土塁が築かれ、さらに柵などを設ける場合もあったようです。草津宿では、東海道の入口に 「坂口見付」 と中山道の入口に 「札の辻見付(追分見付)」 と呼ばれた見付がありました。一方、東海道の京方の入口である宮町と矢倉村との境には、文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を限る施設として存在していたようです。しかし、この黒門は幕末期に草津宿役人を勤めた駒井興左衛門の記録に基づけば、もともとは六町目と宮町の境を流れる宮川に架けられた宮橋の南詰めにあった見付の石垣の上に建てられていたものですが、その後石垣が壊れたため、上記のとおり矢倉村境に移築されるにいたったようです。ただ、この黒門の規模や形状については、詳細な記述がなく不明と言わざるを得ませんが、見付と同様な、宿場町の保安的機能を有していた門であったと考えられます。また、付近に黒門川(俗称)が流れていましたが、旧草津川の抜本的な放水路計画により分断され、上流・下流で一部その姿を留めることとなりました。」『東海道五十三次之内 草津 名物立場』「東山道と東海道の分岐点で交通の要でにぎわい、草津宿は本陣2、脇本陣2、旅籠72軒を数えていた。」『 歌川 広重 東海道五十三次之内 草津 名物立場 』草津宿を過ぎた矢倉の立場の様子。名物、姥が餅を食べさせる「うばがもちや」があった。画中奥の茶屋では多くの旅人が休憩してこの餅を食している。画中手前には、姥が餅など食する余裕もないのか、早駕籠と荷物担ぎが行き交う。『新しい草津川ができる以前』「新しい草津川は、多くの方々の土地提供によってできた川です。中でも当地区は、多くの方々が移転されました。この事業にご協力いただいた方々に深く感謝します。」-----内が現在の草津川が流れている場所。この場所には多くの住宅が建っていた事が解る航空写真なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.19
閲覧総数 436
12
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に訪ねたのが深谷通り沿いの高台にあった「日枝神社」。綾瀬市大上1丁目4-45。何故か鳥居と社殿が微妙にズレていたのであった。街の郊外にあった小さな「社殿」。「深谷通り」を南下し、そして右折し「市役所南通り」を西に進むと左手にあったのが「長龍寺」。綾瀬市深谷中4丁目3-1。曹洞宗深谷山長龍寺の「山門」。寺号標「曹洞宗 長龍寺」。「山門」の彫刻を見る。そして「山門」を潜り境内へ。左手にあった3体の地蔵尊。「六地蔵」。「大般若経」と刻まれた大きな石碑。江戸時代に深谷村を治めていた旗本の「大橋氏一族の墓碑群」。「大橋氏一族の墓碑群深谷山長龍寺は、室町時代に蛭川越後によって建立された曹洞宗の寺院で、大橋氏一族の菩提寺です。大橋氏は、寛永十年(一六三三)、深谷村などに知行を与えられ、寛永十六年(一六三九)には千石の加増があり、ニ一ニ〇石の所領を知行した旗本です。大橋五左衛門親善は、徳川秀忠に仕え、大阪の陣に従軍し、寛永十六年(一六三九)には千代姫(徳川秀忠の養女)の用人となりました。大橋氏は、宝暦ハ年(一七五ハ)まで旗本の細井氏(本家・分家)とともに深谷村を支配しましたが、当時勘定奉行であった大橋近江守親義が郡上藩(岐阜県郡上市)の宝暦騒動に関連して所領を失い、以後深谷村の大橋氏所領は幕府領になりました。大橋氏一族の墓石詳は昭和五十七年より市の指定文化財です。」隣りにあった「合祀慰霊塔」。「合祀精霊碑」。その横にも小さな社が並ぶ。境内の大きな銀杏の樹。「水子地蔵尊」。そして「本堂」。扁額「長龍寺」。「本堂」の「陣内」。ご本尊の「木造釈迦如来像」をズームで。「本堂」の雨樋の装飾も見事。「本堂」の向背を横から見る。もともとは、宗教建築に向拝は無かったのだと。中世頃の仏教の教えが庶民の心を引きつけ、仏教が生活の中に浸透していった事により、寺院に人の出入りが多くなって行く。そして、雨の日に参拝する方の為に雨除けの向拝を設けることが多くなっていったのだと。「鐘楼」。「梵鐘」。「本堂」前から境内を見る。「本堂」を斜めに見る。「寺務所」。そして境内の庭の前で「蕗の薹」を発見。「長龍寺」を後にし、「比留川」に沿って南下し「中原街道」沿いにあった「大法寺」を訪ねた。寺号標「大法寺」。日蓮宗の寺で、本尊は日蓮上人図顕大曼荼羅 。日蓮上人が佐渡流罪の時、この地に立ち寄ったという縁により、日叡上人が応永2年(1395年)に開山した寺と。「掲示板」には「新春の慶賀 自他 幸甚 幸甚」と。日蓮聖人の佐渡配流が赦免となり、身延山にお入りになられた翌年の正月、信者に出された手紙の書き出しには「新春之御慶賀 自他幸甚々々」と述べられていたのだと。山門横には「宗祖六百五十年 遠忌報恩 南無妙法蓮華経」と刻まれた大きな石碑が立っていた。「山門」を潜る。手水場の水鉢にが「洗心」の文字が。「開山六百年 本堂、客殿、庫裡 建立記念碑」。「鐘楼」。廻り込んで。「梵鐘」。「開山六百年記念 本堂、客殿、庫裡 建築篤志者連名」「本堂」を見る。反対側から。そして青面から。扁額「法鏡山」。向背の見事な彫刻を追いかける。木鼻(右)木鼻(左)。「日蓮聖人像」。見上げて。お顔をズームで。「真観清浄観 (しんかんしょうじょうかん)と台座に刻まれた石仏。お顔をズームで。「真観清浄観」。「淡島明神堂」。「日蓮上人が江ノ島で処刑される際、首を切ろうとした侍の刀に雷が落ち一命を取り留め、日蓮上人が佐渡に流される途中で休まれた『淡島明神堂』が、大法寺の由来」と。「南無日蓮大菩薩碑」。「十三重塔」。「客殿・庫裡」であろうか。そして「瀬谷通り」と「中原街道」の交差点角にあった巨大ピラミッドが大小2基。日蓮宗大法寺(菊池重忠住職)が建立した永代供養塔で、内部に納骨室と礼拝空間があるのだと。明るい色の白河石を百段(5メートル)積み上げ、地下には逆三角すいの穴(非公開)を設けるなど実際のピラミッドに見られる特徴も取り入れているのだと。傍らにある小型のピラミッドはペット用の納骨塔と。駐車場から墓地越しにピラミッドを観る。半世紀ぶりのエジプト訪問?であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.10
閲覧総数 651
13
そしてこの日の次の目的地の「続日本100名城・忍城(おしじょう)」の「郷土博物館」の駐車場に到着。駐車場が本丸跡になっているのであった。1949年(昭和24年)10月にはここ本丸跡に行田市本丸球場が造られたが後に移転し、1988年(昭和63年)2月17日にはその跡に行田市郷土博物館が開館、御三階櫓は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている。ただし位置や規模は史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室として利用されている。また、周囲には土塁の一部が残存している。2017年(平成29年)、続日本100名城(118番)に選定された。 埼玉県行田市本丸17−23。正面に「高麗門」。駐車場隅にあった「忍城御本丸跡」碑。「忍城」周辺の「行田市内 観光案内図」。ここ「忍城」は、以前にも2度ほど来ており、その時に頂いた「行田市郷土博物館」のパンフレットの写真。「忍城は室町時代にあたる15世紀後半に成田氏により築城された城郭です。戦国時代の終わりに豊臣秀吉の関東平定に際し石田三成らによる水攻めをうける中、小田原城の降伏後に開城しました。その後、松平家忠による城郭の修復が済んだのち、徳川家康の四男松平忠吉が城主となります。三代将軍家光の治世には、松平信絅、阿部忠秋が城主となり、以後185年間は阿部家の居城となります。文政6年( 1823 )には伊勢国桑名から国替えとなった(奥平)松平家が城主となり、明治維新、廃藩を迎えます。明治6年( 1873 )に忍城は解体されましたが、現在博物館の周辺にある本丸上塁の一部や櫓の石垣に使われた間知石から当時を偲ぶことがぞきます。」と。「行田市郷土博物館」入口門。「行田の足袋製造用具及び関係資料」が「国重要有形民俗文化財」に2020年3月16日に指定されたと。「有形民俗文化財」とは日本の衣食住、生業、信仰、風俗慣習、民俗芸能、民俗技術といった無形の民俗文化財に用いられる衣服、器具、家屋など形のある資料のことであると。右手がこの後に訪ねた「行田市郷土博物館」入口。さらに奥に進む。「忍城址案内図」。「足袋蔵歴史のまち 蔵めぐりモデルコース」案内板。「蔵めぐりモデルコース」。足袋蔵のまち行田へようこそ足袋蔵と行田市の近代化遺産行田市は江戸時代中頃なら足袋づくりが大変盛んで、最盛期の昭和13年には年問約8500万足、全国シェアの約8割の足袋を生産する"日本一の足袋のまち"として繁栄していました。市中心部には、足袋蔵と呼ばれる足袋の商品倉庫を中心に、その栄華を伝える洋風足袋工場、北側~西側だけを蔵造りにした行田独特の店蔵や住宅など、足袋産業関連の近代化遺産な数多く残されています。近年行田市では、こうした近代化遺産の保存が進められてあり、武蔵野銀行行田支店店舗、十万石ふくさや行田本店店舗、大澤家旧文庫蔵などが国登録有形文化財に登録されています。また、忠次郎蔵、彩々亭、足袋蔵まちづくりミュージアム、足袋とくらしの博物館などさまざまな形での再活用もおこなわれています。」左手前方に「忍城の鐘」。忍城の数少ない遺構として、時鐘(じしょう)があった。この鐘は、1717年(享保2年)に伊勢桑名藩主・松平忠雅によって鋳造され、1823年(文政6年)に松平氏が桑名藩から忍藩へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものであると。忍城の二ノ丸にあり、時の鐘として時刻を知らせていたと。「史跡 忍城の鐘」碑。末広がりの袴のようなクラッシックな造りの鐘楼であった。平安時代頃からはじまり、鎌倉時代に多く建てられたとされる「袴腰付き鐘楼」と呼ばれる様式であると。さいたま景観賞を平成8年に受賞し、これを記念した「都市景観大賞」の「受賞記念碑」。同年平成8年(1996年)、行田市長名で設置したようだ。『都市景観大賞』は、国土交通省が主催して平成3年(1991年)に始まり、景観に関する優れた地区・活動に対し表彰が行われているのだ と。「湧き水」が絶え間なく。更に進むと正面に「東門」が。「忍城の由来忍城(おしじょう)は文明十年(一四七八)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐えこの城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという寛永十六年(一六三九)時の老中 阿部忠秋が入城し忍城大改築に着手 孫の正武(まさたけ)の代にいたり忍城御三階櫓の建設 城門 土塀の修築などが完成し面目を一新したという文政六年(一八二三)伊勢の桑名から松平忠堯(ただたか)が移封し忠誠(ただざね)のとき明治維新を迎えた市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった。」この付近は諏訪曲輪。東門は忍城のどこかの門であって、移築されたとのことだが元の場所は不明だと。様々な色彩の風車が竹製の和風格子状衝立に貼り付けられていた。近づいて。東門を潜ると堀には太鼓橋が現れた。「忍城址」碑。堀に架かる太鼓橋・あずま橋を渡る。太鼓橋から「模擬御三階櫓(もぎおさんがいやぐら)」を見る。堀には大きな鯉が。太鼓橋の擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)越しに東門を振り返る。御三階櫓とは、日本の城における天守建築の呼称のひとつである。天守とは城を象徴する建物であり、3階建て、5階建てなどの域内でも最も高層の建築となることが多く、通常は城の主が指揮をとる場所である。しかし、江戸時代には天守建築の形状であっても、天守閣とは呼ばずに御三階櫓と称された物もあった。これは、江戸城の天守が明暦の大火によって焼失し、そののちは再建をしなかったことから、徳川家へ遠慮をして使われた呼称である。特に関東では、小田原城と沼田城を除き、3階建ての天守建築は御三階櫓とされた。石川県の金沢城のように、5階建ての構造でありながら御三階櫓と称された物もある。現存する御三階櫓では、ここ忍城や青森県の弘前城の物などが知られる。「模擬御三階櫓」と同じ時期の昭和63年(1988年)に復興された「東門」。かつての御三階櫓は、現在の水城公園付近にあたる位置に建っていたが、明治時代の忍城解体にともない破却された。現在の御三階櫓は、郷土博物館の開館に合わせて昭和63年(1988年)に場所を移して再建され、内部は展示室として見学することができたのであった。「『陸王』ロケ地めぐり 忍城址」案内ボード。TBS日曜劇場『陸王』( 2017年10月~12月放送)宮沢紘一(役所広司)が試作ランニング足袋を履いて走るシーンや、宮沢大地(山﨑賢人)と友人が語りあうシーン、茂木裕人(竹内涼真)らダイワ食品選手が走るシーンなどが撮影されました。宮沢社長をはじめ、こはぜ屋のメンバーが何か考え事をする時によくここを訪れていました。」白塀の奥の「東小路」には様々な色の傘のアート展示が。展望ベンチに座り、「御三階櫓」を見上げる。この御三階櫓は実物より大きく外観も異なっており、分類としては模擬櫓になるとのこと。ベンチで暫し休憩して、来た道を引き返す。行田市のマンホール蓋は忍藩10万石の城下町を今に伝える忍城址のシンボル「御三階櫓」と、市の花「キク」を中央に配置し、周囲に市の木である「イチョウ」の葉を 並べたデザインとなっていた。「東門」入口から「御三階櫓」を再び見る。「模擬城門」の扉の光景。柱や扉などに、補強の金属が施され、「鉄門(くろがねもん)」のような光景。立派な石垣の上に建つ「御三階櫓」。「御三階櫓」を支える石垣。「忍城櫓の石垣」が下に並んでいた。「忍城櫓の石垣城内にあった櫓に使用された石垣。元禄十五年(一七〇ニ)に三階櫓一棟、ニ階櫓ニ棟が建てられたが明治六年(一八七三)の廃城により解体された。」この後歩いた「行田市郷土博物館」から「模擬御三階櫓」への連絡通路。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.03
閲覧総数 84
14
そして都道312号線沿いにある「等々力不動尊」の山門前に到着。 掲示板には「慌てず騒がず一歩ずつ」と。山門には「七五三」参りの案内が。「運鈍根 うんどんこん」運を大事にし 情報過多の今は 見すぎず気にせず根気強く「弘法大師 空海 ご誕生 1250年」と。空海は774年(宝亀5年)生まれであるので西暦2023年が1250年になるのだ。「東京都指定名勝等々力渓谷(とどろきけいこく)所在地 世田谷区等々力一丁目外指定 平成十一年三月三日等々力渓谷は国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する開析谷で、都区内唯一の渓谷である。台地と谷との標高差は一〇メートルあって、騒音も渓谷の中までは届かず、都区内とは思えないほどの鬱蒼(うっそう)とした樹木と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよくしている。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から一三年にかけて谷沢川(やさわがわ)の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることもなく、雉(きじ)などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。等々力不動尊左手の石段下には、国分寺崖線の湧水(ゆうすい)である不動の滝があり、かつてはこの滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷保存会によって行われている蛍(ほたる)祭りは、清掃活動とともに地域に根ざした保存活動として成果をあげており、清流復活運動の先駆けとなった地域である。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿(ますがた)の池湧水群(いけゆうすいぐん)」(国分寺市西元町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。 平成十一年九月 東京都教育委員会」「等々力渓谷等々力渓谷は矢沢川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(ふどうのたき)(竜頭滝 りゅうずのたき)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫(されき)、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動尊本尊は、新義真言宗の宗祖興教(こうぎょう)大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。 昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会」現在の山門は、昔の満願寺山門を昭和43年8月に移築したものと。山門下から「等々力不動尊」の境内を見る。見事なイチョウの黄葉の下に紅白の吹き流しが。「草木供養碑」が左手に。小さな木祠の中には石仏が。そして一対の生花が供えられていた。庚申塔。六手青面金剛・邪鬼・三猿・二鶏。 塔の外周は欠けており、像も風化し細部がはっきりしない。 邪鬼と三猿。二鶏は台座に大きく浮き彫りされていた。雌雄に加え右下にはヒヨコもいるようだ。右手にあったのは神楽殿か?イチョウの黄葉が青空に映えて。境内の左側の紅葉。喜寿白雲 句碑『恋ほたる 風のふし目に 光りけり 喜寿 白雲』と。喜寿を迎えての奉納品か。手水場にはイチョウの落葉が。近づいて。境内の小さな祠・「厄除大師堂(明王院大師堂)」。近づいて。「常香炉」越しに本堂を見る。近づいて。中央にあるのが寺紋なのであろうか。本堂・等々力不動明王院 が正面に。真言宗智山派寺院の等々力不動尊明王院は、滝轟山と号し、等々力満願寺の別院。等々力不動尊明王院は、根来寺の興教大師が当地に不動堂を建立したと伝えられます。玉川八十八ヶ所霊場33番、関東三十六不動霊場17番。本尊は不動明王像。本堂の横には休憩用売店があった。菊の懸崖作りが両脇に。懸崖造りは、1本の小菊を大きな株に仕立て、野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を表現する技法。ピンクの花はピークを過ぎて。左は黄色の懸崖菊。氏子の奉納品であろうか。手間暇をかけ、作りあげたものであろう。「瀧轟山」と書かれた扁額。満願寺の山号は「致航山」、院号は「感應院」、寺号は「満願寺」。本尊は金剛界大日如来、宗派は真言宗智山派で、開創は平安時代末です。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築されました。常法談林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式の寺で、学問所・教育機関・本山としての機能を有していました。山門方向の境内を見る。紅白の吹き流しが。寺伝によれば、平安時代後期、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖である覚鑁(かくばん=興教大師)が本尊の不動明王像を安置して創建したとのこと。本堂は江戸時代末期の建築で、拝殿は昭和27年、山門は昭和43年に満願寺から移築。不動の滝への途中には修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ=役の行者)が祀られ、古くからの修験の地である と。「不動尊」と書かれた巨大な真っ赤な提灯。「社務所」。「本堂」前から木製の「舞台(展望台)」をズームして。見事な紅葉が拡がっていた。手水舎の龍。再び木製燈籠越しに紅葉を楽しむ。見上げて。境内の紅葉は今が盛りか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.26
閲覧総数 59
15
この日は2024年2月26日 (月)、 横浜発 浦賀ドック【世界に4か所しか現存しない造船所跡】見学と軍港めぐりYOKOSUKAクルージングツアーに元同僚2人と参加しました。横浜駅中央南改札口に9:30に集合し、ツアーの出発場所に向かう。 途中、道に迷ったがが定刻の9:50に集合場所に到着し、大型バスで出発。参加人数は合計10人と極めて少人数。横浜横須賀道路に向かって進む。左手に「横浜ランドマークタワー」。首都高速神奈川1号横羽線を進む。前方に「富士山」の姿が現れた。「首都高速神奈川3号狩場線」を進む。横横道路方面に。「六ツ川料金所六ッ川料金所(むつかわりょうきんじょ)」を通過。「六ツ川料金所」から横浜横須賀道路に入り横須賀方面へ。「佐原」ICで「横浜横須賀道路」を降り、国道134号をJR久里浜駅方向に進む。「尻こすり坂通り」と書かれた道路標識。1853年、開国を求めにアメリカからやってきたペリーが初めて日本の地を踏んだのが、現在の横須賀市久里浜。ペリー上陸の地から車で5分ほど、国道134号線沿いに「尻こすり坂通り」という標識が掲げられていた。急坂のため荷車を押して坂を通ると、荷車の後部が擦れてしまうことから名付けられたという。「尻こすり坂通り」の全長は約3.3km。そしてこの日の最初の見学場所「浦賀ドック」に到着。バスを降りると、前方に造船所跡の巨大な構造物とクレーン(一部解体)が目の前に。ここは、一世紀以上にわたって約1,000隻にのぼる艦船等を造り続けてきた住友重機械工業株式会社旧浦賀工場の跡地。平成15年(2003)に閉鎖されるまで、日本丸や海王丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦などの船がこの造船所で建造され、街で働く人たちでにぎわったのだ。『レンガ造り』のドライドック(明治32年(1899)建造)を見られるのは国内で唯一ここだけとのこと。令和3年(2021)にドックを含む周辺部について住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄贈されたのであった。ドックサイドに現在も残る唯一のクレーンを見る。クレーンには「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれた銘板が掲げられていた。終戦2ヶ月前の昭和20年6月に設置されたクレーンなのであった。浦賀船渠(うらがせんきょ)👈️リンク は、神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック。日本海軍の駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年(平成15年)に閉鎖された。2021年(令和3年)3月に、施設及び周辺部が住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付されたと。現在の社名「住友重機械工業株式会社」は、昭和四十四年(1969)に浦賀船渠(株)にはじまる浦賀重工業(株)と合併してからのもの。正面にクレーン用のレールが残されていた。造船マンたちにも、このレールを敷く作業はなかなか難しかったとみえ、レールの敷設工事にはJRマン(旧国鉄の技術者)の技術を借りることがあったと聞いた。クレーンが数十トンの鋼材をつり下げて高所へ運び上げる際に、下のレールの数ミリの誤差によって大きな事故が起きることのないようにと、細心の注意を払って敷設作業を行っていたのだと。レールの先には「浦賀ドック」の建造物が拡がっていた。控室入口には「URAGA DOCK HOUSE」と。そして、説明員の方の案内で「浦賀ドック」の見学開始。浦賀ドック(浦賀レンガドック、住友重機械工業浦賀工場)は、1899年(明治32年)から1世紀以上に亘って約1 , 000隻以上の船舶の製造や修理を行ってきた、世界に4か所しか現存しない(諸説あり)とされるレンガ積み「ドライドック」の一つ。「ドライドック(乾ドック)」とは、船体の検査や修理などのために水を抜くことができるドック。船渠(せんきょ)、乾船渠(かんせんきょ)とも呼ばれるのだ。レンガ積みドライドックは、国内では同じ浦賀工リアにある川間ドックと浦賀ドックだけしかなく、明治期の産業革命の技術や歴史を知るうえで、貴重な近代化遺産。なお、川間ドックはマリーナとして利用されているため、海とドックを隔てる門が撤去され、常時海水が満たされた状態である。そのため、保存状態は浦賀ドックのほうが良好とのこと。浦賀ドックの寸法は長さは約180m、幅は約28.2m、深さは約10m。創建時の規模は長さ約148m、幅約18(下部)~21(上部)m、深さ約10mであったと。船舶の修理・メンテナンス用のドライドック。フランス人技師による設計で、レンガの長手の小口を交互に積み重ねる「フランス積み」という技法で造られている。海とドックを隔てる門・ドッグゲート(扉船式)の方向を見る。ズームして。中央に「船台(せんだい)」が並ぶ。船体を水から上げることは「上架(じょうか)」と呼ばれ、その際に船体を載せる台は「船台(せんだい)」と呼ばれるのである。以下 ネットから「浦賀船渠株式会社 第1号船渠設計図」。明治31年3月設計 担任技師 杉浦栄次郎「ドックの構造1.レンガ 船渠側壁・底部用:約130万個 (上等焼過レンガ等を愛知県安城市の岡田煉瓦製造所創業者 岡田氏から購人) 船渠裏込用:約85万個 (久比里・久我氏から購人)2.セメント 外国産(イギリス・ドイツ) 総量1430.6 t ( 8,300樽) ※1樽380ポンド入3.石 相州産堅石と割栗石 総量 約1377m34.ドックゲート(扉船式) 当初国内製を採用予定だったが、物価高騰によりイギリスから購入ドックの大きさ1.長さ: 148m (488.140尺)2.渠ロの幅:上部21m (70.290尺) 下部18m (59.070尺)3.深さ(渠口) : 10m (33.660尺)」「明治三十一年四月起工 明治三十ニ年十一月竣工 担任技師 杉浦学次郎」私が生まれた1950年代の浦賀ドック全景。◯部分が今回見学した「第1号ドック」。浦賀ドックの歴史案内。①ドック底を収めた写真②参画した咸臨丸フェスティバルでは、機関工場横にステージを設置し、地元中学校の 吹奏楽コンサートなどが多数開かれた。③ドックゲート部を掘削中の写真。⑤練習帆船 日本丸の進水式で、支綱切断を美智子妃殿下(当時)が行われた。④レンガドック建造中の写真。 現在ドックがある場所にはもともと山があり、建造にあたり山を人の手で切り崩し現在の形が 出来上がった。⑥レンガドックの改造工事図面。明治32年の竣工時点で 全長148m、最大幅28.2m、深さ82mであったが、昭和58年に28mの延長が工事行われた。⑦明治33年に軍艦 「吾妻」がドックへ入った(入渠)ときの写真。左奥に見える煙突を持った建物はポンプ所で、 ポンプが格納されている地下部分は現在も当時のまま残っている。「浦賀ドック120年あゆみ」。船首方向を見る。船の大型化が進み、船首部分は昭和58年に28m延長されたと。ズームして。桜の蕾はまだ固かった。「浦賀ドック(住重旧浦賀工場1号ドック)浦賀駅の目の前に広がる工場跡地は、かって住友重機械工業株式会社浦賀工場でした。1 8 9 6 (明治29 )年に浦賀船渠株式会社が創設され、浦賀ドックが建造されました。2003 (平成1 5 )年に閉鎖されるまで、一世紀以上にわたって帆船日本丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦など多くの艦船を建造・修理してきました。ドックの底まで見学できる総煉瓦造りのドライドックは国内で唯一ここだけです。」船首方向からドックゲート方向を見る。全長180mあると。船渠側の壁にはフランス積みのレンガ壁が。右手には、この後にドック底部まで降りた白く塗られた鉄骨製階段が見えた。「横須賀 浦賀レンガドック PHOTO SPOT~浦賀レンガドックと写真を撮ろう~」「浦賀船渠(うらがせんきょ)昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを振り返って。近代化遺産の宿命とも言えるのが、施設の老朽化。使用されなくなった建造物や機械は、ほとんどメンテナンスされなくなることから、老朽化が加速していく。ここ浦賀ドックも例外ではなく、放置することで危険をともなう施設は、解体や撤去されていっているのだ。浦賀ドックを象徴する施設の一つてあった大型のタワークレーンも、近年までアーム部分が取り外された状態で残されていたが、現在は撤去されて、クレーンが移動していたレールとわずかな部品を残すのみとなっているのであった。説明員の方から「ドライドックの仕組み」についての説明が。船舶・艦船をドックに入渠(にゅうきょ)させる前に、まず盤木と呼ばれる支えを構築しなければならない と。その後に扉を閉じて海水をドックに入れる。そして外部海面と同じになったら扉を開け船が入渠(船がドックに入ること)する。そしてポンプにて海水を抜く。盤木を設置することで、ドックが排水された後でも艦船を直立させておくことが可能となる。船体の形状に合ったものを設置する。いわば、船の模型を置くための台のようなものをつくるのである。盤木の材質はコンクリート、鉄、木などである。盤木の一例を紹介したページがネットに有ったので紹介します。下記の写真に示す盤木は、鉄筋コンクリートと、樫と松の木から成り立っています。盤木とタッチする船体形状に合わせて、硬い樫と柔らかい松を組み合わせて使います。船体が盤木全体とタッチする場合は、松を船体にあてその下に樫を敷きます。船体が盤木の一部分にだけタッチする場合、船体には樫をあて、その下に松を敷くことによりクッション性を保ちます。当社で使用している盤木の重量はおよそ 2~3.5ton ほどで、フォークリフトの爪やワイヤーを鉄筋コンクリート部分にあいている 2 つの穴に通して移動させます (写真 1 参照)。一船の盤木をセットするのにかかる時間は、船底がフラットな船であれば 1~2 日ですが、曲がり部が多くかつ精度が要求される船の場合は 4~5 日かかることもあります。当社には修繕で様々な船が入渠しますので,各々の船型にあわせた盤木配置とする必要があります。大型のタンカーやバルカーの場合,船底のフラットな部分にだけ盤木を配置しますが、曲がり部が多い船はほとんどの盤木が曲がり部に配置されます。下記写真2に盤木配置の一例を紹介します。きれいな船型になっていて、まるで船体に優しいベッドのようです。このような曲がり部が多い盤木配置の場合、盤木の高さ調整等の苦労があるようです。スタビライザー、シーチェスト、ボトムプラグ、ソナードームなど、盤木が当たってはいけないものには注意が必要です。かなり以前の話ですが、改造で船底に追加設置されたソナーが船渠係に手渡された図面に反映されていなかったために、船体と盤木との間でソナーがサンドイッチになったことがあるそうです。ベッドは体に合ったものでないといけないように、体の状況 (船体の状況) はしく伝えないと怪我につながります と。写真2スタビライザー、ソナードームの位置の紹介パネル。スタビライザー: 船底近くの両舷に魚のひれ(Fin)のような金属板が突き出しており、船の 揺れに対応して航行時の水流に対する角度が自動的に調整され、この時生じる 揚力によって揺れを最小限に抑えるよう働く。船体に沿って流れる水流を 利用しているため、船速が早ければ効果は強く、遅ければ弱く現れ、船が停止 すれば全く効果を失うソナードーム: 軍艦ではバルバス・バウの内部にソナードームを備えた艦艇が多数存在する。 主に敵潜水艦の位置や動きを把握するために使用される軍用ソナーを配置する 場所として、船首部水中にあって大きな球状のバルバス・バウはうってつけで あるためである。すぐ近くを通る県道に鉄粉や塗料が飛ばないようネットを張るための柱であったと。現在は半分ほどの長さに切断されていると。切断面には草たちが元気に生えていた。手前の2台の装置は、船舶が真っ直ぐにドックに入渠するように制御する装置であると。こちらも入渠時に船舶をワイヤーで牽引する際の巻き上げ装置・ウィンチであろうか。ドックに海水が満たされている時の写真。牽引装置・ウィンチ。再びクレーンを見る。今回の説明員の方。浦賀奉行所の与力、中嶌三郎助。1853(嘉永6)年の黒船来航時、浦賀奉行所与力の中島三郎助はペリー側の「最高位の役人以外とは面会しない」との強固な姿勢に対し、同行した役人を「副奉行である」と嘘をつき黒船に最初に乗船した日本人です。中島は、大砲などの装備を探るため、ちょこまかと動きまわるのでペリー側の記録には「大胆で出しゃばりしつこく詮索好き」と残されています。しかし、その行動は、西洋型軍艦鳳凰丸の建造に大いに役立ちました。その後、勝海舟・榎本武揚らとともに長崎の海軍伝習所へ派遣され、江戸に戻ってからは海軍操練所教授方として後輩の指導にあたり、海国日本の造船・操船の第一人者となりました。戊辰戦争で函館五稜郭にて新政府軍を迎え撃ちますが武運尽き、ふたりの子供ともども壮絶な死を遂げました。再びドックゲート部方向を、その先には浦賀湾が。再び右側の船渠側の壁にもフランス積みのレンガ壁が。反対側をズームして。レンガ積みの説明。浦賀ドックは「フランス積み」で施工されていると。フランス積みは、長手と小口を交互に並べていく方式。正面から見ると、長さが違うレンガが順番に並んでいます。積み上げていくと、長手の中央部分に小口がくる規則性もフランス積みの見た目の特徴。フランス積みには、小口のみ長時間加熱する「鼻黒(はなぐろ)」という技法があると。加熱することで独特な色合いが出て、長手との濃淡の差から「外観を最も美しく見せる積み方」として、明治初期頃、洋風の建造物に多く使用されて来たとのこと。また、フランス積みで知られる方式ですが、発祥の地がフランドル地方とされているため、正式名称は「フランドル積み」、または「フレミッシュ積み」と言うのだと。フランス積みの耐久度建造物に多く用いられてきたフランス積みですが、その後日本に登場したイギリス積みの方が耐久度に優れているとされ、徐々に衰退していったとされています。しかし、明治後期以降もフランス積みを用いた建物は残っています。イギリス積みは、レンガの長手(長い面)だけの段、小口(短い面)だけの段を交互に積み上げる方式。イギリス積みは、土木構造物や鉄道の橋梁などでよく見られる。日本では時代的にフランス積みよりも後に採用された積み方であるとのこと。ネットからの写真。 ・・・つづく・・・
2024.03.25
閲覧総数 103
16
再び椰子の樹と赤のブーゲンビリア。 カラフルな色使いの素晴らしさに感動。サハラ砂漠以降に訪れたなら、更にこの色彩の美に感動が増したことは間違いなし。 床の赤もBEST MACHI。 水路の水面に映る竹の姿は涼しげであった。 朝が早いためか、庭園を我々ツアー仲間で独り占め。真っ青な空に向かって伸びるサボテンと降り注ぐ陽光が、サボテンの幾何学的な形状を地面に映し出し、一つのアートを作りだしていた。鮮やかなピンクと白の混じった花。 美術館前の池の水面には蓮いや睡蓮が浮かんでいた。 濃いピンクの睡蓮の花。 赤のブーゲンビリアも朝の陽光を反射。 イヴ・サンローランが、毎年、友人に送っていたというポストカードのコレクションが飾られていました。一枚一枚個性的で見ごたえあり。 怪しい姿のポスターも。 モロッコの伝統的なしっくい細工の青と白のバランスが美しかった。 マジョレルブルーの壁に映る影も美しかった。 青を背景の赤と白のブーゲンビリア。 マジョレルブルーの壁に映りこむ影を楽しむ。 椰子とサボテンが青空に突き刺さっていた。 こちらはマラケシュの赤に移りこむ影。 世界各地からの植物、そして異国情緒あふれる空間を大いに楽しみマジョレル庭園を後にしたのでした。 バスに乗る前にこれでもかと更に一枚。
2015.04.27
閲覧総数 144
17
バスはR207の坂道を下りエッサウィラ(Essaouira)の海岸に出る。海岸にはモロッコの赤い旗が棚引いていた。エッサウィラは、モロッコ中部の大西洋岸のマラケシュ=テンシフト=エル・ハオウズ地方にある人口 約7万人(2004年現在)のマラケシュから西へ167kmの場所に位置にある港湾都市。 「エッサウイラ」はかつて「モガドール」と呼ばれており、この町は紀元前 800年頃にフェニキア人により港町として造られて栄えていた。15世紀に入ると ポルトガルがやって来て町作りを。旧市街(メディナ)はポルトガル時代に造られた街壁で 囲まれている。現在の町は、1765年にフランス人テオドール・クールニュの設計で造られた。エッサウィラは文化や芸術の町として知られており、ヨーロッパ人には人気の有る町で、モロッコの 人たちにも「一度は訪れてみたい港町」と言われており、リゾート地としても人気。白い町並みのエッサウィラ旧市街(メディナ)は2001年にユネスコの世界文化遺産に登録。 海岸沿いにあったモニュメントはこの街の象徴の印か?バスの正面にメディナ(旧市街)へのスバア門と遠くに時計台が見えた。 見事に真っ直ぐに伸びた椰子の木。この様な真っ直ぐに伸びる姿に我が人生を省みて反省仕切りであったのだが後に人工物であることを知ったのであった。 エッサウィラのメディナ(旧市街)のマップ。数日前の雨により濁水が川から流れ込み、水面は茶色に変化していると添乗員から。 スカラとは海に突き出た城塞のことで、大砲を備えた見張り台のこと。エッサウィラのスカラは海の門の外側漁港の近くの他、合計5箇所にあると。あの、オーソン・ウェルズが「オセロ」のロケをここで行ったと現地添乗員から。 木造船の造船所には船大工の姿が。 青い小舟がたくさん並んでいた。空、海、船と『青』のカオス。昼食は港に近いところにあったこのレストラン シェ サム(Restaurant Chez Sam )。青色に塗られた外観が港町らしい雰囲気。モロッコでの初めてのビール。 昼食にサラダ・鰯・鱈・??・・・のフリッターそして甘~~いデザート。 白身魚のフリッターは美味。レストランの出てメディナに向かう。魚網を修理する老父。 海の門。 海の門越しに見たメディナ。 門を潜るともっともエッサウィラらしい景色の一つが。期待していた大西洋からの海風は、心地よいを通り越して、ちょっときつすぎ。それからカモメが多い、いや多すぎ。海の門の天井は木製。 大西洋沿いに広がるエッサウィラのメディナ。建物は白で統一。地球の歩き方『モロッコ』に載っていた写真と同じ光景。異なるものはカモメの姿のみ。道路わきには魚屋兼レストランが並んでいた。それにしても豊富な魚種が。蟹、海老、鯛、鰯・・・・・と生でも大丈夫そうであったが・・・・。 街の中心 ムーレイ・エル・ハッサン広場。 カフェに集う人々の姿も。添乗員に先導され細い路地を進む。両脇には絨毯売り場が。 白い壁、青い窓枠のさわやかな感じを楽しむ。夏の訪問でなくてよかったと自己満足。色彩豊かな土産物用のお皿の数々。 城壁沿いのスカラ通り。あまり陽の当たらないところだが、丁度陽光が差し込み、感じがよく、多くの観光客が。土産物屋からホテル、レストランなどいろいろと。 色彩があふれたスカラ通りを楽しむ。 各種マスクも。 手作り?の温かみのあるモロッコ・ニット帽の露店の展示もカラフルで見事。
2015.04.23
閲覧総数 137
18
【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク84番札所:屋島寺一宮寺から11号線を利用して屋島寺に向かう。途中、栗林公園が左側に。屋島の名称は屋根のような形状に由来し、高松市のシンボル。また、いにしえから瀬戸内海の海路のランドマークであり、海外交流交易海路に面した要衝。屋島は南北5キロメートル・東西3キロメートルの島。南嶺の標高は292.0m・北嶺の標高は282m、山頂は平坦で、端部は急崖で囲まれた台地の地形(メサ)である。両者は細い尾根で接続されている。山上に多島海が眺められる展望景観を有し、1934年(昭和9年)3月16日、国立公園として初の瀬戸内海国立公園に指定された。 一宮寺から17.5km、40分で屋島ドライブウェイを使って、屋島山上の駐車場に到着。 ここは源平屋島合戦場の舞台になった地。源平屋島合戦図屏風(弓流し図屏風)。本図は,『平家物語』第11巻に記された源平の屋島合戦中,もっとも有名なエピソードのひとつである「弓流」に題材をとっている。その内容は以下のとおり。勝ちにのっていた源氏勢は,船に逃げた平氏の軍兵たちを追って,馬の太腹が水につかるほどに海中に乗り入れて攻め戦っていた。そんな中で,義経はどうしたことか,自分の弓を平氏勢の熊手にかけられて落としてしまう。周りの臣下たちが「弓よりも,お命の方が大切です。お捨てなさい。」と口々に言うが,義経は何とかむちで弓をかき寄せて,拾うのに成功した。このことで,あとで家臣たちになじられられた義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。もし私の弓が二,三人でなければ張れないほどの強弓であったなら,わざとでも落とすのだが,私のひ弱な弓を敵が取って,『これが源氏の大将九郎義経の弓だ』といって,ばかにするのが残念だから,命がけで取ったのだ」と語り,すべての人がその心意気に感心した。本図は「弓流」を八曲一隻という大画面を生かして比較的大きい人物を配して描いており,非常に珍しい構図となっている。いささか金の方が強いような印象を受けるが,金地金雲の金と海の濃紺とが見事にお互いを引き立て合って,画面をひきしめている。また,それ以外の色彩の豊かさも目につく作品で,武将たちの衣装や甲,乗っている馬など,色鮮やかに描き分けられている。第八扇が殆んど一面金箔であるという構図の不自然さから,もとは八曲一双の屏風であった可能性が高い。 源平屋島合戦 主な登場人物が絵と共に説明されていた。 源平屋島合戦パネル。 屋島寺 境内配置案内図。車遍路は東大門から入って行くことになり、千体堂、三体堂、大師堂の順になる。歩き遍路は山門を通り、四天門を通って正面に本堂、本堂の手前を右に進むと右手に納経所、正面に大師堂がある。朱に塗られた東大門。 石仏がお出迎え。 十一面観音像。 五重塔。 見事な彫刻の大きな石鉢。天女の姿が。境内中央を眺めると、千躰堂と三躰堂の向かいに鐘楼堂があり、鐘楼堂の奥に宝物館が建っている。宝物館の右に見えるのが屋島寺本堂。 天平勝宝6年(754)唐からはるばる来日した鑑真和上がここを通ると屋島の山上に瑞光が見えたので船をとめて屋島の北嶺に登り、仏像や経典を納めて開基した。のち弟子の恵雲師がこの地に堂宇を建て初代の住職となった。弘仁6年(815)この地を訪れた弘法大師は、瑳峨天皇の勅願により、北嶺にあった伽藍を南嶺に移し、十一面観音菩薩像を刻んで本尊とした。その後戦乱によって衰退したが、歴代の藩主によって修榎され現在に至っている。千躰堂(せんたいどう)。本堂に向かって右のところにある、千手観音(せんじゅかんのん)を安置する堂。三躰堂(さんたいどう)。 釈迦如来、阿弥陀如来、そして鑑真和上を祀る。一丸不動尊。不動尊の誓願は、人間の悩みの原因である無明(むみょう)を断ち切って、本当の幸せを授けることにあると。我々の真心が通じるならば、どのような願いでも必ず一願は成就すると。 不動明王像が中心に。 大師堂。弘法大師(こうぼうだいし)―空海(くうかい)を祀る。 大師像に会うことが出来ました。 熊野権現社。 蓑山大明神。「本堂」の右側に、複数の鳥居とともに巨大な「狸」の石像が安置されていた。 四国狸の総大将「太三郎狸」と呼ばれる土地の氏神。子宝、縁結びや家庭円満などの神さま。 本堂。南面山 千光院 屋島寺(なんめんざん せんこういん やしまじ)宗派 真言宗御室派本尊 千手観音創建 天平勝宝6年(754年)開祖 鑑真所在 香川県高松市屋島東町字屋島峯1808番地本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 屋島寺本堂内部。壁際のひじ形の模様や天井の格子状の模様など細部にまで、こだわったつくりが美しいです。「廣大智慧觀」と大きく飾られた額は、「こうだいちえかん」と読みます。「あらゆるものを平等に観ずる心」という意味と。高松藩主「松平頼恭」(まつだいら よりたか)によって書かれた。松平頼恭は、人々の声を聞くために投書箱を設置した話が残っており、世の中を平等に見ようとする意志をもって、政治を行っていたのだと。 山門(仁王門)。 阿形像。 吽形像。 不喰之梨(くわずのなし)の石碑。 月光殿の門。 本坊。 源平屋島合戦800年祭記念の供養塔と合戦の模様を描いたレリーフ。 四天門。阿波蜂須賀家の寄進である。 阿吽形像。 宝物館。本堂に隣接する、貴重な寺宝や源平合戦に関する宝物などを収めた資料館。那須与一の子孫が寄進した「源氏の白旗」や「源氏の勝臼」。土佐光起筆「屋島合戦屏風」、「源平盛衰記絵巻」、狩野深信筆「源平合戦絵図・那須与一の扇の的」などの絵画が収蔵され、屋島寺と屋島の歴史に触れることができると。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------85番札所:八栗寺 「源平屋島古戦場」屋島のドライブウェイを下る途中に、こんな看板が設置されていた。屋島の合戦となった場所を見渡せるポイントで、車を停められるスペースが設けられていた。 屋島山頂の談古嶺展望台から檀ノ浦古戦場を眺める。入り江の両側に源平合戦にまつわる遺跡が点在している。向こう側は五剣山であるが雲に隠れていた。 談古嶺から瀬戸内海を望む。やや右に見える山の向こう側に見えるのが「船隠し」。 八栗ケーブル(やくりケーブル)駅に到着八栗ケーブルは、香川県高松市牟礼町牟礼の八栗登山口駅から八栗山上駅に至る四国ケーブルのケーブルカー路線。四国八十八箇所第八十五番札所の五剣山八栗寺への参詣者で賑わう。毎月1日の縁日には早朝4時15分から運行されると。 路線距離(営業キロ):0.7km 軌間:1067mm高低差:167m 最急勾配:288‰大人上り 560円 下り460円 往復 930円と料金が微妙。ケーブルカー駅前の源氏池にはホテイアオイが満開中。白い花びらに入る紫色の模様が幻想的なホテイアオイ。見た目は繊細ですが、繁殖録がとても強く、今では世界中で増えすぎて世界十大害草の1つに数えられているのです。 ケーブルカーを利用しなくても八栗寺に行けるとチケット売り場の女性から聞き、急遽車に戻り出発し15分ほどで八栗寺駐車場に到着。八栗寺本坊入口門。 八栗寺 境内配置案内図。歩き遍路は山門から入って正面に本堂、その手前左に納経所、右にずーと進んでいくと大師堂があり、その向こうに多宝塔がある。ケーブルカー利用は、ケーブル山上駅を出て進み左に曲がり道なりに行くと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと正面に聖天堂があり、その左が納経所で、右上に本堂がある。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し八栗寺を開基したと。なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できたときにはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国が見える、八国寺が八栗寺になったという説がある。 多宝塔。昭和59年10月建立された総桧づくりの建物で本尊は金剛界大日如来。内部は四方の壁面に八祖大師と十二天像、来迎壁の裏面に尊勝曼陀羅、四方の扉には八大菩薩が極彩色を以って描かれていると。 多宝塔の下の各種の石仏が迎えてくれた。 大師堂。八栗寺本坊から本堂に向かう途中にある堂。当山の開祖である弘法大師像を安置。 十二支守本尊。五剣山を模したミニ五剣山の前側には八角柱の台座と写経を納めた石室があり、上にはブロンズの十二支尊像が祀られていた。平成四年(1992年)寄進されたと。十二支尊像は子年が弥勒菩薩、丑年が勢至菩薩、寅年が阿弥陀如来,卯年が聖観世音菩薩、辰年が如意輪観音、巳年が虚空蔵菩薩、午年が地蔵菩薩,未年が文殊菩薩、申年が大威徳明王、酉年が普賢菩薩、戌年が大日如来、亥年が釈迦如来と。 地蔵菩薩像。授けにご利益のあるお地蔵さま。地蔵堂。地蔵菩薩の御真言は「オンカカカビサンマエイソハカ」。 木食以空上人像。天尊行者として名高かった木食以空上人が八栗寺に歓喜天を勧請し、寺の繁栄の礎を築かれたことをたたえて、昭和四十年(1965年)に建立された像で、姿は上人の自画像をもとに。ちなみに、肉類や五穀を食べず、木の実や草などを食して修行することを「木食」と言うと。 境内入口から、正面は聖天堂。 大師堂。 聖天堂。 八栗の「お聖天さん」として親しまれ、商売繁盛や学業成就、縁結びにご利益がある。御真言は「オンキリクウギャクウンソワカ」と唱えます。お聖天さまが勧請されて以来、八栗寺では毎朝御祈祷が行われ、大縁日・大般若法会は1月・5月・旧暦9月16日に行われると。また、毎月1日・16日の縁日にも多くの人が商売繁盛・縁結び・学業成就を願いに参拝されると。「歓喜天」の左には「軍茶利明王」、右に「十一面観音菩薩」が祀られている。手水舎。 護摩堂。歓喜童子(お聖天さまの子)が祀られていると。毎月15日・月末午後7時から聖天尊護摩供養がここでおこなわれている。納経所の隣にあり、護摩祈祷所や鐘の拓本、天狗の面などがあると。納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 お迎え大師。その目は、本堂の方角にむけて注がれていると。素朴な石仏。 石灯籠とモミジ葉。 鳥居の先に二天門。 二天門には、天部の仏神で四天王の一尊「持国天」と「多聞天」が祀られていた。持国天と多聞天。二天門から境内を見る。 本堂。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し開基したという。なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できたときにはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国が見える、八国寺が八栗寺になったという説があるのだと。本堂内部。五剣山 観自在院 八栗寺(ごげんざん かんじざいいん やくりじ)宗派 真言宗大覚寺派本尊 聖観音創建 天長6年(829年)開祖 空海(弘法大師)所在 香川県高松市牟礼町牟礼字八栗3416番地本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 十一面観音像。十一面観音菩薩は、聖天様の本地仏であり、衆生の迷いを救い、願いを叶えると。昭和五十一年(1976年)に寄進された。背面の地層は、1000万年以上も前のものと。 鐘楼堂。 本尊身代わり仏。 本堂から二天門方向の境内を見る。 修行大師像と多くの石仏。 本坊西門。紅葉時には美しい景観を楽しめる事間違いなし。
2017.11.13
閲覧総数 720
19
『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道は清水区銀座を右折。『江尻宿』道標。江尻は巴川の尻、すなわち海にそそぐ所の意味。巴川を旧東海道がわたる稚児橋を中心に宿場町が つづいていた。こんにち、江尻町となっている中町、下町、魚町に本陣、脇本陣があつた。しかし、 当時の宿場町を偲ぶものは、全く残ってなく、賑やかな?商店街となっている。 石畳に旧東海道を進む。モニュメント『蒼空へ 松永 勉作』『橋本本陣跡』。鯨の石像モニュメントが目印。『江尻宿寺尾本陣跡』。『明治天皇御東行御遺跡』。そして旧東海道正面右に石鳥居が姿を表した。『魚町稲荷神社』。武田家家臣で江尻城代の穴山信君(梅雪)が社殿を造営したと伝わると。朱の鳥居の先に社殿、右側には『明治天皇御東行御遺跡』碑。「魚町稲荷神社永禄十一年(1568)十二月駿河に攻め入った武田信玄は翌年現在の江尻小学校の敷地に、江尻城を築き、その後天正六年(1578)当時の城将穴山信君(梅雪)は、城を大改築し本格的な城とした。梅雪は一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、どうして一城に鎮護の神がなかろうかと言って、この地に社殿を造営したといわれている。(江尻町誌による)近くには江尻宿の問屋場・高札場本陣等があって東海道を往来する旅人でこの地魚町(上町)は賑わった。祭神:宇賀之御魂命(うがのみたまのみこと) 御祭:8月3日」『魚町稲荷神社』には、サッカーボールをかたどった御影石のモニュメント『日本少年サッカー発祥の碑』が建てられていた。「日本少年サッカー発祥の碑 昭和三十年代、日本のサッカーは、いわゆる御三家と呼ばれた広島 藤枝・浦和を中心に展開していました。その頃清水は、どこにでも見 られるごく平凡な地域のひとつにすぎませんでした。 昭和三十一年、ここ魚町稲荷神社に隣接する江尻小学校にサッカー 好きの新任教師(堀田剛)が赴任しました。その日から先生は子供 達と毎日運動場でボールをけりました。ところが、当時江尻小学校には「ボールを、足で蹴ってはいけない」という校則がありました。 しかしサッカーの魅力にとりつかれた子供達の様子を見て、校長先生 も許可をしたのです。 「これが、『日本で初めての少年サッカーチーム』を生むきっかけに なりました。 文部省小学校学習指導要領第三次改訂(一九六八年)体育科のボー ル運動に「サッカー」が登場する十二年も前のことです。 江尻小を皮切りにその後、清水市内に小学生チームが次々と誕生し、昭和四十二年には、『国内初の小学生リーグ』がスタート、指導者育 成のためコーチングスクールも開校されました。 この年、東海四県サッカー大会が開催され、日本一のチームをつく る一貫として、清水市内の江尻小・入江小・庵原小の子供を集め選抜 チームを結成し、優勝をかざりました。これが清水FCの前身です。 清水からは数多くのJリーガー・日本代表選手が生まれ活躍してい ます。それは当時の指導者達が長期的な視野にたち、世界に通用する 日本一の少年団チームを育成強化したからです。その後もサッカーに 関わる多くの方の献身的な活動・努力によりサッカーのまち清水ができあがりました。 現在では「ゆりかごから息続くまで」を合い言葉に、三歳のチャイ ルドサッカーから、年配の方のOBリーグまで、あらゆる年代の人達 がいつでも、どこでも、誰とでも、清水市のどこかでサッカーを楽 しんでいます。 この碑は当地が清水のサッカーを発展させた原点の一つであり、日 本の少年サッカーチーム発祥の地であるゆを記念して創られました。 」『魚町稲荷神社』の脇を進むと左手に江尻小学校があり、『江尻城跡』の案内板が建っていた。永禄12年(1569)武田信玄の命により築城された。武田信光、山県昌影のあと、穴山梅雪が城主となった。天正10年徳川家康に降伏した。本能寺の変が起きたとき、梅雪は家康の供で堺に滞在していたが、帰国の途中地侍たちに殺されてしまった。その子勝千代は幼くして死に、穴山家は絶えた。家康が江戸に移ると中村一氏の家臣が城主となるが、関ケ原の戦い後廃城になる。『江尻城跡』⬅リンク案内板。『OFFICIAL MATCH BALL OF THE FIFA WORLD CUP 1998』と刻まれたサッカーボールのモニュメントが道路脇に。そして旧東海道に戻る為に巴川岸に出る。「河口拠り2.66km」の表示が。巴川に架かる稚児橋。東海道五十三次が整備された江戸時代初期には、街道筋の巴川に橋が架けられ江尻橋と名付けられたと。『稚児橋』と河童の像。『稚児橋の由来』「慶長12年(西暦1807年)徳川家康 の命により、東海道五十三次 沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日となった。さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるや、するすると橋脚を昇り忽然と入江方面へ消えさった。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けたといわれている。なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童 がいるのは、この伝説による。」『稚児橋』から巴川の下流方面。上流方面。橋の欄干にも河童の親子の姿が。西側、進行方向右側の男の子の河童。進行方向左側の女の子の河童入江2丁目交差点を右斜めの旧東海道に進む。左手に『浄土宗 法岸寺』入口。『本堂』をズームで。市内でも数少ない浄土宗の寺で、創立は延徳2年(1490)静岡市上土に創建された。駿遠の国主、今川氏の帰依厚く、母君追善供養の為に建立されたと。本堂左手奥に朝顔の墓と伝えられいる古い墓石があると。浄瑠璃「朝顔日記」盲目のヒロイン深雪の墓(寛永18年(1642年)没)であると言われていると。残念ながら、時間がなく訪ねる事は出来なかった。旧東海道の入江2丁目を歩く。『くりた瓦せんべい老舗』。『煎餅」』の大きな木製看板が。西木戸跡北側にある『樹林山 慈雲禅寺』。『山門』。『樹林山 慈雲禅寺の由来』と『史跡』碑。碑には長泉智牛和尚之墓所、入江小学校発祥之地、八ッ石の文字が。八ッ石とは何であろうか、ネットで調べると「江戸時代初期、江戸幕府は大名たちに駿府城の建設を命じた。そのとき、石垣に使う石は各地で切り出されて運ばれたのだが、江尻を流れる巴川の上流でも石が切り出され、筏に乗せられて運ばれていった。ところが、中には筏が途中でバラけてしまい、巴川に沈んでしまった石もある。それらの石は、徳川将軍家のものだということで、江戸時代は勝手に引き上げることはできず、そのまま放置されていた。ところが明治時代になると、これらの石を引き上げることが自由になり、地元の有力者たちの中には、川から石を引き上げた人たちがいた。慈雲寺の檀家の中にも巴川から石を引き上げた人がおり、引き上げられた8つの石を慈雲寺に寄贈したのだという。ところが寺の方では、そのころは食うや食わずの状態で、引き上げられた石に構っている余裕はなく、しばらく境内に放置された後、庭の整備をしたときに庭石として使ってしまった。それが現在慈雲寺の中庭にある八ツ石である。」と。八ッ石の1つは門前にある寺の名「慈雲寺」と白く書かれた石であるらしい。『樹林山 慈雲禅寺の由来』「慈雲禅寺は今からおよそ四百数十年前(十六世紀末) 一安禅師によって、聖観世音菩薩を本尊として開創 された臨済宗妙心寺派の禅寺である。 臨済宗は、お釈迦さまの正法を受けつぎ、初祖達磨大師、宗祖臨済禅師、白隠禅師に及ぶ禅宗で自心佛で あることを信じて坐禅に励み、本当の自分にめざめ 脚下照顧めて生きることを信条にしている。 慈雲禅寺の開創後百年の記録は、宝永四年(一七〇七)の 震災でことごとく焼失して定ではないが宝暦年間 (十八世紀中頃)に至り、長泉智牛和尚によって再興された。 長泉智牛和尚は、豊後国(大分県)に生まれ、白隠禅師に 師事した高僧で、常に農業の振興につとめ、当時やせ地に悩む三保の農民を救う為、遠く九州からサツマイモの 苗を取り寄せ、農民にすすめた。サツマイモは砂地でも 良く育ち、たちまち三保全土に広がった。そして、慈雲寺の 芋和尚と親しまれ、長い間初穂七俵を贈る船が出さ れたという。 しかし安政元年(一八五四)の大地震により、諸堂は 全壊、続いて明治維新で寺領の概略没収された。 明治五年(一八七三)学制発布に基づき、翌 六年 本堂 に入江小学校の前身である入江学舎が創立されたが、その運営は困難をきわめた。その中で、時の住職 瑞道和尚は、読み書きを学ばせ、体操のかわりに縄を なわせ、女子には子守をさせながら、畑の業をつませて 養蚕をおこない、機織り返し、その利益で筆や紙を 買い学校を続けたという。 昭和に入り、第二次世界大戦の空襲によって、諸堂全て焼失、戦後焼け野原から、正道和尚光堂和尚により庫裡、本堂、山門等再建し現在に至る。 尚小芝城か、駿府城築城の折巴川に沈んだ八つ石が山内に残っている。 」扁額『樹林山』。『不失童心』と書かれた扁額のある御堂。中には地蔵尊と六地蔵が。『本堂』。『納骨堂』。『倶会一處(くえいっしょ)』「この納骨堂は宗派の別なく観音様にご縁のあるすべての人を受け入れます。遠慮なくご相談下さい。」倶会一処とは、浄土教の往生の利益の一つ。 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味であると。 『摩尼車(まにぐるま)』「一回一誦」と言ってこの車を一回回す事によって、般若心経を唱えることになり、仏様の徳に近づく事ができ、悪を払い濁った水を清め、災難を避け幸福な生活を送ることが出来るのだと。「摩尼車(マニグルマ)摩尼(マニ)とは、インドの古い言葉で、無垢(むく)・離苦(りく)・如意(にょい)を意味し、宝珠(ほうじゅ)の総称です。宝珠には、不幸・災難を除き、濁水を清水にする不思議な力があるとされています。心静かに、念じながら。回して下さい。」私も一回回しましたが、果たして「心静かに」?。堂前の仁王像(阿形像)本堂前の仁王像(吽形像)。墓石群。右には先程遺跡碑にあった『長泉智牛禅師(ちょうせんちぎょうぜんじ)の墓』が。長泉智牛和尚は痩せ地に悩む三保の農民にサツマイモの栽培を奨励、砂地でもよく育ったことから三保全土に広がり、農民たちから慈雲寺の「芋和尚」と呼ばれ親しまれたと。本堂を斜めから。『江尻宿木戸跡』碑。江尻宿京方出入口だった西木戸跡。『祝 静岡市民栄誉賞 さくらももこさん』さくらももこさんは代表作「ちびまる子ちゃん」で、市の観光地や地元グルメを取り上げるなど同市の魅力を発信し、PRに貢献。主人公の「まる子」を描いたマンホールのふたを市に寄贈したり、22種類のオリジナルイラストを提供したりした。”ちびまる子ちゃん”の家はここ入江町にある設定であると。『平成』が終わって行く。一抹の寂しさを感じますが、一つの時代の変わり目に出会わせていただくというのも、ありがたいことのように思っているのです。昨日は『昭和の日』、平成が終わるとそれと連動して「昭和の日」が無くなるのでしょうか?しかし明治天皇の誕生日が実は「文化の日」として現存するように、他の名称に代わる事もあるかもしれません。平成の天皇陛下の誕生日はご存じのとおり12月23日。「もう年末で今年も終わりかぁ…」と感じさせる祝日でもありました。そして現皇太子様の誕生日は2月23日で既に過ぎているので、2019年の祝日とはならず、今年の12月23日は私の部屋のカレンダーでは「平成の天皇誕生日」と記載された平日となっています。新元号が決まった途端に平成がもう過去のような印象を持ってしまっている方も多いのでは。時の流れを本当に早く感じているのです。昭和25年生まれの私には、『平成』の終わりは、今日まで残り香を醸し続け、そしてそれを懐かしんで来た『昭和』が、本当の意味で過去の歴史となるような感じがしているのです。いわば今日は、「平成との離別』ではなく「昭和との離別」になる日ではないかとも。 その5 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.30
閲覧総数 485
20
バスに乗り、スターリン公園(斯大林公園)の見学に向かう。しかし、スターリン公園(斯大林公園)は既に早朝散歩で制覇済みなのであったが。途中バスの正面にハルビン駅(哈爾浜駅)の南口が左側に見えた。そして東口周辺は大規模な再開発工事が行われていた。霄虹橋を再び通過。 ハルビン駅北口前で右折して、地段街を通過し松花江方面にバスは進む。前日訪ねた『聖ソフィア大教堂』の前を再び通過。『金太陽精品商城』ビル。『石头(頭)道街』を進む。『ハルビン(哈爾浜)市兆麟小学校』。『原希尔科夫公爵私邸(兆麟小学)』旧日本人学校『桃山小学校』。松花江と太陽島を結ぶロープウェイを再び。多くの中国人の『シルバーダンス』。女性グループが仲良く。松花江右岸のロープウェイ駅に入るゴンドラ。そして暫しの自由時間になり、4人の方はロープウェイで太陽島を往復すると。我々は、街並み散策に。そして広場脇の『ゲテモノ』の串焼き売り場を発見。正面にはなんと「サソリ(蝎子虫)の串焼き」が。別の角度から。上のものは蚕の蛹であろうか?「セミの幼虫」か?この幼虫は?俗に「中国人は足の四本あるものは机以外全て食べる」と言われているように、中華料理では様々なものを食材にしてしまうほどの研鑽を積み重ねています。そして、六本の足がある昆虫もまた、食材の例外ではないのです。「ムカデ(蜈蚣)」「友誼西路」を西に進む。前方には高層マンション群が見えたが、7~8割は空き家で投資の対象になっているのだと。左手には「上江街」と高層アパートが。「MY・PARTY电音工厂(電音工場)」。「友誼西路」脇のモニュメント。様々なマンションが。左手は「兴(興)江路」途中、ロシア&東北民芸品店に立ち寄る。ここも今回のツアーの予定に入っているのであった。「椴树雪蜜 LINDEN SHOW HONEY」はユーカリ蜜であろう。中国で販売されている蜂蜜は水飴に香料で香りを付けただけ、転化糖などの合成物を添加して、人為的に模造はちみつを作ったものも多く、中国国内で流通しているハチミツの多くは、何等かの手を加えられている、と言われています。中国は世界第一位のハチミツ生産国ですが、輸入大国でもあり、各地から上級品を買い付け輸入しています。中国の消費者は、中国産のハチミツを信用せず、大抵中に何か入っているか、水飴に色を付けたものというように考えているようで、輸入品を購入する機会が増えていると言います。500gで約1100日本円と確かに安いが、中身は????「中国産 乾燥黒木耳(きくらげ)」。『音乐公园』の赤いモニュメント。音楽の都と言われるハルビン市。モニュメントには楽譜が。この写真のオリジナルを我が妻に見せると、この楽譜の曲は『中国国家 義勇軍行進曲👈リンク 前奏と途中の歌の中の一部』であるとのこと。松花江岸にある公園内の遊歩道の正面玄関と建築物。灯台であろうか。友誼西路を更に進む。そして昼食はもちろん中華料理をターンテーブルで。時間は13:07。そして次の訪問地『長春』には新幹線で移動する為、ハルビン駅(哈爾浜駅)北口へ。ハルビン駅(哈爾浜駅)北口正面。駅前の『伊維尔教堂(聖イヴェール教会)』。1907年建立の軍用のロシア正教会なのだと。ハルビン駅(哈爾浜駅)北口の大時計。十二弁の菊花紋の如く見えたが考えすぎか?セキュリティー検査入口ではチケッとパスポートを提示する必要があった。トランクのセキュリテイ検査が実施され、私がトランクに入れていた、100均で購入して持参したチーズカッターナイフと鋏は没収されたのであった。セキュリティー検査は空港よりも簡単とのことであったが、成田空港では通過したものがひっかかったのであった。出発時間まで待合室にて待機。ここはチケットの持っている人のみ入れる場所なのであった。時間は14:21。出発便電光案内ボード。利用便はD-136、15:35発。牡丹江駅発吉林駅行き。LED電光掲示板見た目では常時点灯しているように見えますが、実は超高速で点滅を繰り返しています。(この高速で点滅する現象をフリッカーと呼びます)。よってシャッタースピードを速くしなかった為に映像が途切れてしまいました。黒竜江省のハルビンから吉林省の長春まではおよそ270km。私のチケット。もちろん二等座。金額は81元≒1350円。東海道新幹線の東京-浜松間に相当する距離がこの値段で移動できるのであった。ちなみに列車番号の先頭に「D」がつくのは在来線の線路を走るタイプの新幹線(秋田新幹線などのイメージ)で、所要時間が若干長く、D136の場合は所要時間が約1時間30分となっていた。チケットには英文でフルネーム、パスポート番号の一部(下2桁のみ**)、改札口NOも印刷されているのであった。中国の鉄道は基本的に列車改札で、時間になるまで改札口が開かなかった。それで、列車出発の20分前、改札開始まで改札口近くで待機していたのであった。D列車はホームを在来線と共有しているので、改札も自動ではなく有人。改札を通過し2番線ホームへエスカレーターにて下りる。エスカレーターが下る途中、1番線ホームに安重根が伊藤博文を暗殺した場所が解るとのことであったが、場所を特定できなかったので1番ホームに向けてとりあえずシャッターを押す。エスカレーターを降りた後方との事であったが、ネット情報によると実は斜め前方なのであった。 『https://www.youtube.com/watch?v=2GamxJgDknY』よりこちらの四角のプレートが埋め込まれた場所が伊藤博文が倒れた場所であると。 『https://www.youtube.com/watch?v=2GamxJgDknY』よりこの写真はイタリアから導入した新幹線車両CRH5であろうか?2号車の乗車位置に向かって進む。日本と違い、中国ではホームには安全ゲートは付いていなかった。そして定刻にD-136、15:35発に乗り込む。大きい荷物を持って乗車する場合、荷物の置き場を確保しなければならなかった。今回の新幹線では荷物置き場(上下二段、2~4個収納できる)は列車の連結部近くにあった。この荷物置き場は予約できず早い者勝ち。思いの外静かで車両の揺れも殆どなかった。時速243km/hを表示。両側に田園風景がひたすら続く。『新洋丰(豊)肥业(業)』の大型サイロであろうか?長春の街並みが見えて来た。『德惠西站(駅)』は長春駅の2つ手前の駅。そして定刻に長春駅に到着。全員が降りる前に乗ってくる乗客が数名いたのであった。『长春站(長春駅)』案内板。駅構内案内表示。そして長春駅の前で待っていてくれた大型観光バスに乗り、夕飯会場へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.07
閲覧総数 312
21
次に訪ねたのが、北江間地区に鎮座する「珍場神社(ちんばじんじゃ)」。「珍場神社」は、元久元年(1204年)に北条義時の嫡子・安千代丸が大蛇に呑み込まれ亡くなった事から、安千代丸の霊を若宮八幡神として祀るため建立したと伝わっている。また珍場神社は、明治時代初期頃までは今と違って『第六天社』と呼ばれていた と。静岡県伊豆の国市北江間1171。「珍場鎮座 若宮八幡 子神第六 大鵡大神 三社神社」碑。若宮八幡(安千代丸)、子の神(この地に住んだ最初の居住者を十二支の最初と表現)、大鵡大明神(正体不明の主神)の三社を祀っているのだと。「珍場神社鎮座地 伊豆長岡町北江間一一七一番地御祭神 伊耶那美命(いざなみのみこと) 若宮八幡 子の神第六天・大鵡大明神例祭日 十月十日由緒当神社、元は第六天神社と称したが明治十二年珍場神社と改称した私達の御先祖が此の地に住み初めた時、子は十二支の始め村人も亦住居の始めであると子の神第六天神を氏神としてまつりの各家の安全と子孫の繁栄を祈願された。又元久元年当地の領主北條義時は長男泰千代丸の不遇の死を悲しみ、神社を建立し若宮八幡に擬してその霊を祀ったという。大鵡大明神の記録はないが画像が現存している」「珍場神社珍場神社は伊邪那美命(いざなみのみこと)・若宮八幡(わかみやはちまん)・子ノ神大六天(ねのかみだいろくてん)・大鵡(おおむ)大明神の四柱を祭神とする神社です。神社の由緒書によれば、珍場神社は、元久元年( 1204 )に北条義時が大蛇に襲われて亡くなった長男安千代の死を嘆き、若宮八幡神として祀ったのがはじまりと伝えられています。安千代に似た木像を彫刻して若宮八幡神とした、という言い伝えもあります。」石段の上に「社殿」。内陣。「社殿」前から。「二代執権 北条義時 生誕の地」幟。そして南下して訪ねたのが「古奈 湯谷神社(こな ゆたにじんじゃ)」。静岡県伊豆の国市古奈1。手前にあったのが「頼朝の湯 本陣」。「頼朝公本陣入浴の図」をネットから。多くの名だたる武将などの名士たちが訪れたことから、やがて「本陣」を名乗るようになり文治期(1187年頃)には源頼朝公がこの地に長逗留し、当館を宿舎としてこの温泉に入浴したと伝えられています。「古奈 湯谷神社」の手前の左手には大きな石切り場跡らしきものがあった。近づいてみると四角い穴が。中の凹んだ場所には石灯籠が鎮座。円盤状のものには仏の姿が。そして「古奈 湯谷神社」の石灯籠前まで戻る。右手にあったのが「古奈の元湯」と刻まれた石碑。「古奈の元湯この旧ポンプは伊豆長岡温泉発祥の温泉趾として記念すべき処です。昭和初期に源泉を掘削して揚湯したものです。昭和三十年の初め頃まで薬湯が出ていました。火傷によく効き子宝の湯としても知られていました。」手前に「揚湯ポンプ」。場所を変えて「揚湯ポンプ」と「温泉湧き出し口」を。奥には「伊豆長岡温泉発祥の温泉跡」。「あと」の漢字の多さにいまさらながら。址 , 阯 , 後 , 迹 . 痕 , 趾 , 跡 , 墟 . 踪 , 蹟 , 蹤 ・・・と。どの様に使い分けているのであろうか。「古奈の元湯この源泉は古来亜州古奈湯と呼ばれ伊豆の国では、伊豆山の走り湯、修善寺の独鈷の湯と共に三名湯のひとつとして特にその薬効をうたわております。蛭ヶ島流刑の身となった源頼朝公も入浴されたことが、鎌倉時代の文書吾妻鏡に記されております。この案内書の付近は昔の共同風呂の跡地で、この下の岩盤の割れ目から温泉が湧出していた。浴槽の底に格子状に工夫されたものを洗浄の時に取り外すことが出来る様に、埋め込み底からも温泉が絶えず出ておりました。この湧出は大正時代の末頃まで続いていたわけですが、各所に新源泉が堀削されたため止まってしまいました。」「伊豆石のツル目跡石表面の斜め模様はツルハシにより人力で掘り出され削られた跡です。」この案内板の後ろには、ツルハシにより人力で掘り出され削られた斜め模様の跡が。ツルハシ(鶴嘴)は堅い土面を掘り起こしたり、岩石を掘削する工具。弦状に湾曲した鉄の両端を尖らせたものと、片方だけをとがらせたものがあり、そのとがった様子が鶴の嘴に似ることから、この名がある。いずれも、中央部に木製の柄が付いている。前者は「鶴」、後者は「鳶」または「ばち」という名でも呼ばれている。そして「古奈 湯谷神社」の散策開始。「村社 湯谷神社」碑。「湯谷神社祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)・少名比古那命(すくなひこなのみこと)相殿 住吉神社例祭日 十月十日 奉祭地 古奈一番地大己貴命は大國主命の別の御神名ですが神仏習合の時代となってから卋に大黒様として親しまれている神様です。また命は温泉と医薬用に用いることを始めて人々に教えられた神として崇められ全国の古い温泉地ではおゝむね祭神として祀られております」石鳥居。石灯籠。石段の上にさらに石段が続いていた。夕方になり、ライトも点灯。「湯谷神社の由来旧称二社権現といった湯谷神社の歴史はきわめて古くいまだ創建は詳かではないが村社加列は明治6年のことで、現在、大己貴命、少名比古那命が祭られており神無月十日は毎年祭礼が行われる。」右手に「手水舎」。その先に「恵比寿神」。「恵比寿神清廉を表わし商売繁昌をもたらす神 日本古来の神とされ本来は漁村の神でしたが後には大黒天と並んで商売繁昌の神となりました。左手に抱えている鯛は”めでたい”ですべてのめでたいことを授ける心を表しています。」「恵比寿神」に近寄って。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。正面に「拝殿」。「御神木」は・・・・・切断された上部は金属製の蓋が被されて。「湯谷神社ご神木についてこのご神木(杉)は威風堂々と天に聳え、三百年余の歳月地元氏子の信仰の対象として生き抜いてきた。しかし平成ニ十九年(十月例祭を前に)九月下旬蜂の駆除の際、ご神木に火が移り大火となる。懸命なる消火活動のお蔭で無事に鎮火した。焼けた根株を保存し今後の教訓とすべく地元の総意に基づき整備するものである。(伊豆長岡町史より)胸高周囲 四八四センチメートル根廻り 七四〇センチメートル樹高 三、六〇〇センチメートル (平成四年計測)」扁額「湯谷神社」。内陣。絵馬掛所(えまかけどころ)。そして、石段を降りて、「古奈 湯谷神社」の隣・東側にあった「頼朝の湯石切場跡」を訪ねた。石切り場としての歴史も古く、江戸城築城の際には産出された伊豆石を献上したのだと。巨大な穴が地下に向かって掘られていた。ツルハシの跡が鮮明に見えるが、この規模を人力でやるとは!!この場で、コンサート等も行われていたのであろう。穴の奥には入らず、カメラのズームで。石切場への入口から「湯谷神社」の石鳥居、そして上方に「社殿」を見る。「社殿」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.18
閲覧総数 493
22
「北条中学校」手前で、北条地区を案内していただける地元役員の方と合流しバスはUターンする。一面の田園が拡がる。事前に北条地区の案内書をOBの方から見せていただく。「歴史と文化の香るまち北条 越後北条城山圖」。「歴史のまち北条 ~越後毛利氏と北条城~毛利氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の重臣大江広元(おおえひろもと)の子・季光(すえみつ)が相模国毛利荘(神奈川県)を譲り受け、毛利氏を名のったことから始まります宝治合戦(ほうじのかっせん)でその一族は北条氏に滅ぼされました。この時、本拠地の相模国毛利荘などは没収されましたが、佐橋荘と安芸国(あきのくに)吉田荘は領地として認められ、季光の子経光(つねみつ)が南条に移り住んでいたことから、北条(きたじょう)が越後毛利発祥の地になりました。また、西国最大の戦国大名となった毛利元就は、遠隔地の領地を維持するために安芸国吉田荘に土着した一族の末裔(まつえい)です。経光の長男基親(もとちか)は北条毛利(きたじょうもうり)となり、その子時元を初代城主に迎えた北城は戦国の時代まで続きました。城主の中でも、上杉謙信の重臣として上野国厩橋(うまやばし・現前橋市)に派遣さた北条高広(きたじょうたかひろ)と、御館の乱(おたてのらん)に関わったその子北条景広は、鬼丹後としてともに有名です。北条城は、この御館の乱で景広を最後に約300年間の歴史に幕を閉じました。「石仏のまち北条北条のまちを歩いてみませんか、きっとあなたはたくさんの石仏に出会います。ほほえみかける石仏、歴史を刻む石仏、そのお顔やお姿、そしてそこに彫られた文字は遠い先人たちの暮らしの証です。北条は道祖神の宝庫です(13基)。男女神が肩を抱き合い、お酒を酌み交わす姿はいとおしいばかりでなく、素朴な祈りの心がにじんでいます。盲人米山検校(けんぎょう)の話をご存じですか。検校は宝暦の飢饉(1755 )のとき、私たちの祖先を救ってくれました。出身地杉平には墓があり、十二の木と大角間(おおがくま)にはお礼の塔が建っています。廃村した鷹之巣には「祖霊之碑」があります。この碑は先祖の眠る山河が私たちの心のふるさとであることを教えてくれます。」「北条マップ」。ズームして。「北条の宝物」。「北条小唄👈リンク春はうれしや城山ざくら 唄に流れる 唄に流れる 斧の音(北条城跡)思い出します縦貫道路 可愛いあの娘の 可愛いあの娘の 片えくぼ(縦貫道路)丘のほとけをおぼろに染めて さくら参道は さくら参道は 七曲がり(入定上人遺蹟)夏の涼みは長鳥川よ 闇に浮かんだ 闇に浮かんだ 豆木橋(専称寺の豆木門)とけた情けも大師のふしぎ 千とせ塩ふく 千とせ塩ふく 法の水(弘法の塩水井戸)検校米山困窮塚の むかし語りも むかし語りも 草の底(米山検校)秋は十五夜祇園の拍子 火防係の 火防係の 意気姿(北条の十五夜祭り)想いこがれてトンネル抜けて 逢いに来たぞや 逢いに来たぞや 月あかり(畔屋~山澗トンネル)」手に手結んで大杉さんに なんの願いを なんの願いを かけたやら(中村の大杉)肩を並べて金倉スキー 日本海まで 日本海まで ひと息に(金倉滑降)恋のかよい路吹雪にくれて 広田恋しや 広田恋しや 湯のけむり(広田鉱泉)雪にうもれた愛宕の山に 恋のスロープ 恋のスロープ 花が咲く(愛宕山)「北条の伝承料理丹後のやきもち さしみコンニヤク 手打ちそば北条には、古くから伝わる数々の伝承料理があります。それは、自然の素材を慈(いつく)しみ調理された心温まるおふくろの味です。」。そして最初に案内していただいたのが「佐橋神社(さはしじんじゃ)」。バスを下りると、こんな物がありました。右に曲がって、もう少し上れと言うことのようです。「毛利氏の城館址(じょうかんし)と佐橋神社鎌倉時代、この丘に佐橋庄の地頭毛利氏の居館があった。子孫は各地に分散。ここに残った一族は南条氏といい、上杉氏に仕える。慶長3年(1598)廃城。天和3年(1683)、城跡保護のために神社が建てられ、慶應元年(1865)佐橋神社と改称。」参道を進む。モミジの黄葉。ズームして。石灯籠。土塁跡のような土盛りを、神社の周りで見かけた。「毛利元就ルーツの地」碑。佐橋神社は、佐橋庄の荘園居館のあった場所で、ここを拠点に7が村に及ぶ広大な領地を経営し現在の「鯖石」の語源になりました。鎌倉時代、源頼朝の重臣、大江広元の孫にあたる毛利経光がこの丘に移り住み、その後の越後毛利、西国毛利の発祥の地になったことでも知られています。「三本の矢」の故事をのこした毛利元就ルーツの地であり、学問を好む風土は江戸時代の教育者藍澤南城(あいざわなんじょう)にも引き継がれました。「毛利氏略系図(戦国時代まで)」をネットから「鎌倉殿の13人」で「政所別当 大江広元」役は栗原英雄さん。大江広元は北条親子に次ぐNo.3の座につき、「承久の乱」では大江広元の嫡男だった大江親広は後鳥羽上皇に呼び出され官軍側となり、大江広元と大江親広は親子で戦うことになったのだ。生涯を通じて鎌倉幕府に尽くして幕府の発展を支えた大江広元だが、1225年(元仁2年/嘉禄元年)に激しい下痢を伴う病気を患い、亡くなったと。墓所は源頼朝の墓の近くにありますが、現在の神奈川県鎌倉市にある明王院(みょうおういん)の裏山にある、「五重塔が大江広元の墓所」👈リンク と考えられているのだ。「佐橋神社」の拝殿。近づいて。扁額「佐橋神社」。木鼻の彫刻。神楽殿。毎年恒例の春季大祭時にこの神楽殿で行われている「子供神楽」の写真をネットから。境内の石祠。『毛利氏供養塔』。建立された関修さんは、仕事の関係で福島県いわき市に移住されたとのこと。供養塔の後ろに見える建物は、「ごぼう庵」。「毛利氏供養塔建立の趣意この地は大正十二年まで関修家の居住地であった。往昔、東隣高台に毛利氏の城館があったことから、屋号を「城」といい先祖以来毛利氏の霊牌を奉祀してきた。毛利氏は大江広元の四男季光が毛利庄(神奈川県厚木市)に住む毛利家を称したことにより誕生した。宝治元年鎌倉で三浦氏の乱が起こり、毛利の一族が族滅した。偶然にも季光の四男の経光が生き残った。経光は毛利庄から佐橋庄へ下向し、東隣高台に居館を構い、佐橋庄(柏崎市)と吉田庄(広島県安芸高田市)を支配した。経光の子孫は当地南条から北条、安田、石曽根、善根へ分流し、越後毛利氏を形成した。また毛利元就、同輝元らが出た西国毛利氏の先祖は、経光の四男時親である。兼ねてから関修は毛利氏とゆかりの南条の歴史的価値が永く伝え継がれることを願うとともに、毛利一族の供養を宿願してきた。このたび、知友関喜四郎氏の協力を得て旧宅地を整備し、毛利氏供養塔の建立を志した次第である。 合掌 平成二十四年十一月二十六日 建立者 関 修 施工者 関 喜四郎 撰文 関 久」「墓誌」。毛利経光の戒名は「盛生院法榮佑徳信士」と。竹林前にも案内板が。「妙姫庵跡(みょうきあんあと)弘化元年(1844)、藍澤南城の妹佐和47才が出家して玄妙と名のり、妙姫庵を開いた。玄妙・妙真・貞順・厚順・良仙・仙宗が在庵し、通称観音堂とよばれた。昭和46年(1971)以後に仙宗が小出に去り、廃庵となる。」墓地には無縫塔が並ぶ。関氏の墓地。「先祖 関儀右庄門」と刻まれた碑。多くの石仏が刻まれた石塔。ここにも歴史を感じさせる石碑、石仏。「大乗妙典供養塔」と。衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した仏教経典である「大乗妙典」を一千回以上、独誦したときの記念に建てた石碑であると。「城址殉難者碑」。「城址殉難者碑明治31年(1898)、妙姫庵3代山岸貞順が建てた。同18年(1885)佐橋神社境内から出土した頭骨を埋葬したものである。大正12年(1913)、地元の旧家関周三郎は山口県毛利公爵家にこの頭骨は毛利経光のものではないかと照会している。」大きな墓石、塔婆には「大姉 廿七回 追善供養」の文字が。「祖先累代法塔」「童女」の供養塔・石仏が並ぶ。廃寺の本堂を移築して「ごぼう庵」と名づけてお茶を飲ませてくれる店と。ネットには休業中ともあったが。店の前には、多くの盆栽が置かれていた。「ごぼう庵」店主の趣味なのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.31
閲覧総数 448
23
庫裡の前にあった「宥座の器(ゆうざのき)」傾いた器が吊り下がっています。器の下にある水を柄杓ですくい、器に注ぐと、やがて、傾いていた器が水平になります。さらに器へ水を注ぎ続けると、再び器が傾き、注がれた器の水が、全部下にこぼれてしまいました。「宥座之器」、「欹器図」案内板。「宥座之器針生清司作 銅製高さ ニ一〇・〇cm奥行 一ニ五・〇cm幅 八ニ・〇cm平成ニ四年(ニ〇一ニ)史跡足利学校所蔵の『欹器図』を参考にして群馬県館林市在住の針生清司氏(現代の名工)が制作し足利市に寄贈されたものです。「体験してみませんか」①この器に、水を少しずつ、ゆっくりと入れてみて下さい。②傾いている器がだんだん水平になってきます。③さらに、入れつづけると、器は傾いて、水はこぼれてしまいます。この「宥座の器」は、孔子の説いた”中庸”ということを教えるものです。よく言う言葉に”腹八分目”というのがあります。人は食べ過ぎれば、お腹をこわします。といって、食べ足りなければ、体力がつきません。食べ過ぎもせず、食べ足りなくもない、腹八分目の状態が理想なのです。それを中庸といいます。入れ足りなくてもだめ、入れ過ぎてもだめ。ちょうど、よい分量のとき、器は水平を保ちます。これを中庸というのです。「欹器図史跡足利学校蔵紙本墨刷 縦56.2cm 横77.4cm 江戸時代寛政3年(1791)孔子が魯の国の桓公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という。孔子は「宥座の器は、水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れたときはひっくり返ってしまうと聞いている。」と述べると、果たしてその通りだった。孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めた。画面左下の銘文によると、この画題を好んだ北越の人内藤北涯が模刻し、幕臣で文学者として活躍した太田南畝(1749から1823)がそのことを記した作品である。」「方丈、庫裡、書院等主屋は、左の方丈と右の庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物です。方丈は、六部屋からなり儀式や行事に使われました。庫裡は、竈のある土間、板敷の台所、畳敷の四部屋からなり日常の生活空間でした。書院には床、棚、付書院が設けられ、庠主の接客の場所などに用いられました。屋根は方丈と庫裡が茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺です。(宝暦年間の姿に復原)」「庫裡」の中に入ると「参観順路」案内が。入口直後には様々な紹介パネルが。「近世日本の教育遺産群とは」👈リンク。「扁額「杏壇」。「扁額「杏壇」天保14年(1843)徳川治宝 筆扁額「杏壇」の二文字は紀伊従一位前大納言徳川治宝(和歌山藩10代藩主)の筆によるもので、天保14年5月24日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進されました。この扁額は明治25年、足利町に起きた大火の折黒焦げとなってしまいました。現在の門にある扁額はこれを元に複製されたものです。「杏檀」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所をさすようになり、さらには広く学問・研究をするところを意味するようになりました。」「扁額「學校」」。「扁額「學校」寛文8年(1668) 蒋竜渓 筆 上左兵衛尉狛高康 縮模 土井能登守利房 寄進扁額「学校」は寛文8年以来のもので孔子廟とともに現存する最も古いものの一つです。当時足利学校には蒋竜渓(一説には明の公使)による「学校」の書があったのですが、新しい門に掛けるには大きすぎたため書家として知られていた上左兵衛尉狛高康に縮小模写を依頼し、この扁額が完成しました。現在の門に掛っている扁額はこれを元に複製されたものです。以来、扁額の掛けられている中門は学校門と呼ばれ人々に親しまれています。」その横に展示されていたのが「上杉憲実像」。足利学校中興の偉人。ズームして。「上杉憲実の中興室町時代中期、関東管領となった上杉憲実は、永享11年(1439)に書籍及び領地を寄進し、学則を定め、鎌倉の円覚寺から快元を招いて第一世庠主(校長)にするなど、衰えていた学校を大いに整備し、後の発展の基礎を築きました。寄進の書籍には、『宋版尚書正義』『宋版礼記正義』『宋刊本附釈音毛詩註疏』『宋刊本附釈音春秋左傳註疏』などの儒学の経典、他に『宋版唐書』があります。これらは、中国宋代のもので、当時から大変貴重な書籍でしたが、現在も国宝などに指定され大切に保管されています。また学則では、『野州足利学校置五経疏本条目』に学校で学ぶ心構えと書籍の管理規則を定め、『学規三条』に学問の範囲と学務についての規定を掲げています。憲実は永享4年(1432)関東管領となりましたが、永享十年に鎌倉公方足利持氏が将軍家に謀反を起こしたので、持氏軍と戦うこととなり、翌11年これを破って持氏を自害させました。これを永享の乱と言います。足利学校の中興には周到な準備が必要だったと思われますが、憲実の置かれた状況を考え合わせると驚くべき情熱と言えるでしょう。」「上杉氏系図」。「NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりの雲洞庵と足利学校上杉憲実像の実物は、新潟県南魚沼市にある『雲洞庵』に安置されています。この『雲洞庵』は、足利学校中興の祖である憲実公が復興(応永二十七年(一四二〇) )に尽力した曹洞宗の名刹です。「天地人の主人公、直江兼続と上杉景勝は、少年期にこの『雲洞庵』で学びました。その直江兼続は、足利学校で学んだ「涸轍祖博(こてつそはく)」と「九山」の二人を抱えていました。「涸轍祖博」は、直江兼続に招かれ涸轍書院と号して、書籍の刊行にあたりました。また、「九山」は、下野国那須雲巖寺の僧でしたが、兼続が足利学校に学ばせ、帰国後、米沢に禅林寺を開かせたということです。 参考資料 「雲洞庵」公式ホームページ 「史跡足利学校研究紀要「学校」第二号」」「雲洞庵の縁起によると、養老年間(七一七~七ニ四)藤原房前(ふささき)の亡母のために比丘尼(びくに)寺を建立したのがはじまりとされる。雲洞庵のある南魚沼郡一帯は上田荘で、その一部が山内上杉氏の所領であった関係から、永享元年(一四ニ九)、兼実が禅僧の顕窓(けんそう)をまねき、雲洞庵を再興した。後年出家した憲実はここに隠遁し、「雲洞庵主」と号したという。同庵には、憲実愛用の品といわれる天目茶台や茶釜なども伝えられている。」左手にある廊下を進むと先に見た脇玄関になる。ここには賢者の像が5体鎮座されていた。左から、孟子、曾子、孔子、顔子、子思子で、孔子廟で知った孔子+四配のオールスターキャストその隣が玄関ですが、特に何があるという玄関ではありませんが、良く考えれば畳敷きの玄関というのも珍しい。その先が広い「方丈」。主に儀式や行事に使用されていたと言うことから、現在の講堂的(一般的な大学では)な存在かもしれません。現在でも行われている儀式、行事があるようです。儀式としては「釋奠」という孔子を祀る儀式で明治40年ころからは記録に残っているそうです。また、行事としては「曝書」という、貴重な書籍を虫干しする行事で、江戸時代のころから行われていたとのこと。そしてその隣の間には足利学校のジオラマが置かれていた。「自由に挑戦してください。足利学校漢字試験」と。「足利学校漢字試験 初級」。「仏殿」を屋外から写した写真。手前に見える椅子は「曲碌」といそうで、禅僧の導師が説法や法要で使う椅子であると。仏殿の左隣が「尊碑室」で、歴代の徳川家将軍の位牌が納められていた。「徳川幕府歴代将軍の位牌第9世庠主閑室元吉和尚(別号は三要)は、家康の信任が厚く、有名な関が原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立て、戦いに役立てました。幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されたほか多くの御用を仰せ付けられ亡くなるまで家康の側近くに仕え、重用されていました。足利学校は、このように閑室元吉と家康との結び付きが強かったことから、幕府より100石の朱印地を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。その後も徳川幕府により建物の修復費用を下賜されるなど、足利学校は特別な保護を受け続けました。これらのことなどから、徳川幕府歴代将軍の位牌を安置し、礼拝することになりました。※徳川家康(東照大権現)の位牌は隣の仏殿の間、脇仏壇に安置されています。「徳川幕府歴代将軍の位牌大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)」有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)右から大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)右から有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)桂昌院殿仁誉興国光公大姉(5代徳川綱吉生母・桂昌院)こちらが東照大権現・家康の位牌。やはり扱いが違うのは当然。「鋳造葵紋燈籠」。「鋳造葵紋燈籠中台に「享和三年癸亥三月吉青享和三年癸亥三月吉青郊代工師佐野天明三木忠右衛門藤原敦造」、火袋部分に「御祈祷殿葵御紋銅燈籠一雙」「下野国足利学校」の刻銘がある。「方丈」の「縁側」から「南庭園」を見る。「牧野富太郎(牧野万太郎)が学んだ植物の本」『本草綱目』は、薬になる植物等を集成し、その作り方や効能、処方の仕方等について解説した本で、中国時代の李時珍(1518~93)が書き、万暦23年(1596)に南京で出版されました。日本へは、慶長9年(1604)頃までに伝来し、駿府(静岡) で晩年をすごした徳川家康(1543~1616)もこの本を読んで薬を作りました。すぐれた内容であったことから、何回も版を重ね、明治時代初明まで読み継がれました。朝ドラ「らんまん」でも牧野富太郎(万太郎)(1862~1957)が本書を読む場面がありました。『草木図説』は、飯沼慾齋(1782~1865)が安政3年(1856)に出版した植物図鑑です。それぞれの草花に、名称や特徴を記した解説文と写実的で一部彩色を施した植物画が付けられています。富太郎が学んだ幕末期では新しく詳細な図鑑でした。『新訂草木図説』は、『草本図説』の一を改訂し、明治8年(1875)に出版されました。『草図説』の版にローマ字で学名と科名を付けて再版したものです。編集は、博物館の父と言われる川中芳男(里中芳生)(1838~1916)と植物学者の小野職愨(野田基善) (1838 ~90)です。この2名は、朝ドラ「らんまん」で、はじめて上京した富太郎(万太郎)が意気投合し、わが朋(とも)と呼んで抱き合った植物学者です。『植物学』は、イギリス人のジョン・リンドレー(1799~1865)が書いた植物の解説書です。もとは英語ですが、清国(中国)の李善欄(1810~82)らが漢文とし、清国の咸豊8年(1858)に発刊されました。日本では幕未の慶応3年(1867)に『翻刻植物学』として発刊されています。全8巻で、植物の構造について図入りで詳しく述べられています。さらに植物や分類方法も書かれています。現代の植物研究で使われることばの多くが、本書を参考にしており、牧野富太郎も、日本値物学の糸口になったものとほめたたえたそうです。足利学校には、足利藩校の求道館から伝わった『翻知植物学』の版木が全55枚遺され、足利市の重要文化財に指定されています。幕末から昭和時代を生きた牧野富太郎は、植物に関するさまざまな本を学び、どん欲に知職を吸収して実践に活かしました。未知のものに対する強い関心とそれを解明しようとする努力は、現代に生きる私たちのよき手本であると思います。※( )内は、朝ドラ上の名前です。」『草木図説』安政3年(1856)刊(筆彩)飯沼長順(慾斎)著」易学を標榜する「天文図」とその前に「孔子像」。「天文図拓本 中国南宋時代 淳祐7年(1247) (財)アンタレス山国際交流基金寄贈これは中国の「黄裳」が作成した天文図を、今から760年ほど前に「王致遠」が石碑に刻んだものの拓本です。上部には北極星を中心に1440個の星の位置が記され、下部には古代中国の世界観などが、天文現象などとあわせて書かれています。現在この石碑は蘇州市碑刻博物館に所蔵されています。」「釋奠」の儀式で使用する祭器。奥にある部屋・書院を見たが、立入禁止となっているのでここまで。「北庭園」を見る。「Ⅶ.足利学校の釋奠(せきてん)釋奠とは、孔子とその門弟を祀る儀式のことをいい、その歴史」は、古代中国にまでさかのぼります。足礼学校では、『足利学校記録』などの史料によると、毎月1日と1 5日に釋奠の略式である釋菜を孔子廟でおこなっていました。廃校なった後も、途中とぎれはしたものの、釋奠は行なわれました。現在では、毎年1 1月23日に孔子廟で執り行われています。儀式て使用する祭器は、古いもので江戸時代のものもあります。」主屋の裏手に小さな建造物があった。その一つが「木小屋」。「木小屋木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の「木」などを格納する建物と言われています。桁行5間、梁間2間、屋根は寄棟造の茅葺、外壁は上が土嚢の中塗仕上、下が板壁です。床は三和土の土間です。薪のほかには、日常使う用具や食料などもしまっておいたと思われます。例えば、サエンバ(菜園場)と呼んでいた畑を耕す鍬や鋤、鎌などの農具、収穫した雑穀、漬物や味噌などの樽、修繕用の板材や大工道具などが考えられます。(宝暦年間の姿に復原)」そして「土蔵」。「土蔵土蔵は、大切なものを格納する堅牢な大火建築として建てられました。桁行3間、梁間2間の土蔵造です。外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げています。栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せています。内部は、壁が漆喰仕上、床が板敷となっています。(宝暦年間の姿に復原)」先ほど書院から見た北庭園を通り過ぎると、多くの墓石が安置されている一画が。中央が「第18代 青郊(せいこう)武蔵八王子 18年」 の墓石。「庠主(学長)の墓所足利学校は15世紀の中頃、関東管領上杉安房守藤原憲実によって中興されたものであるが、上杉憲実は書籍や学領を寄進し、学規を制定すると供に、鎌倉円覚寺の僧快元を招き、足利学校中興初代の庠主とした。庠主は、明治2年に足利学校が藩校になるまでの約430年間にわたり、23代まで続いた。歴代庠主は、学校の維持管理に苦心しながらも、日本文化史上、学校の名声を高からしめた功績は大きい。庠主の墓は総計17基あり、いずれも無縫塔で、そのうち8基には文字が刻まれているが、残りの9基は不明である。判明している基は次のとおりです。 世代 ・ 名 ・ 出身地 ・ 在籍期間 ・ 墓石の位置(右から)--------------------------------------------------------------------------------第14代 久室(きゅうしつ) 下野足利 36年 (10番目)第15代 天叔(てんしゅく) 京 15年 (6番目)第16代 月江(げっこう) 武蔵八王子 31年 (12番目)第17代 千渓(せんけい) 下野足利 33年 (14番目)第18代 青郊(せいこう) 武蔵八王子 18年 (2番目)第19代 実巌(じつがん) 周防 19年 (3番目)第21代 太嶺(たいれい) 越後 21年 (9番目)第22代 松齢(しょうれい) 美濃 15年 (4番目)「庠主(しょうしゅ)のお墓ここにある庠主のお墓を無縫塔といいます.毎年3月には足利市内小中学校の新任または退任される校長先生がお参りにいらっしゃいます。史跡内は火気厳禁のため、お線香を上げることは出来ません。※庠主:現在の校長先生のこと。」「庠主の墓所」の前には同じように「元足利学校代官 茂木家累代の墓」があった。「元足利学校代官 茂木家累代の墓」。この茂木家とは、宝永6年(1709)生まれの江戸時代中期の儒者「茂木好文」がいた茂木家のようです。下野(栃木県)生まれで、足利学校の代官として16代庠主の月江、17代庠主の千渓を補佐し、50年に渡って経史を講義したのだそうです。子の久隆も代官の職を継ぎ、さらに孫の久周にその職は継がれました。好文の孫である茂木久周は、寛政2年(1790)生まれで、江戸時代の後期の儒者です。足利学校代官であった時の天保2年学校が類焼すると、江戸増上寺の富くじ興行で資金を集めて再建した人だったようです。明治8年に死去されていますので、足利学校最後の代官だったのかも知れません。足利学校にとっては恩人ともいえる家柄ですから、校内に大切に祀られているのであろう。紅葉シーズンにも訪ねたいのであった。「学校門」に向かって戻る。そして竹林の中には大きな「井戸」があった。そして「史跡足利学校」を後にして、徒歩にて「太平記館」駐車場まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.26
閲覧総数 282
24
メディナの入口となっている、フェズで一番大きな門が、1913年に建てられた、ブー・ジュルート門。外面は幾何学文様の見事な彫刻が。ブルーのタイルが彩やかな外面は、とても美しく、素晴らしいもの。 門を通してモスクのミナレットを2本見ることができ、イスラム情緒満点の写真の撮影スポット。シディ・ルッザース・モスクと、ブー・イナニア・マドラサの、二つのミナレット。 メディナの外側から見ると鮮やかなブルーのタイルで彩られた門ですが、門をくぐって内側から見てみるとタイルの色が緑に変化。一つの門で2パターン楽しめたのです。1913年に建造されたと。 ゆっくりとこの場所から、人の行きかう姿を眺めていたかったのであったが・・・・・。迷路のようなメディナで迷子にならぬようにと、我々グループの先頭は現地ガイドのアミンさん、そしてマスルールさん、最後尾は添乗員さんで前後を挟み、がっちりガードされてメディナ散策をスタート。 果物売り場で巨大イチゴを発見。赤が妙にキツイ、赤と言うより紅。肉屋。別の場所では、ラクダの肉も売っていたのであった。流暢な日本語を操るフェズ専門の観光ガイド、アミンさんに連れられ、迷路のような街を歩きまわった。 フェズ刺繍製品店へ寄り道。フェズ刺繍といえば、モロッコの伝統的な刺繍技法。表から見ても裏から見ても同じデザイン。モロッコのフェズに伝わる伝統的アラベスク文様のフェズ刺繍。表裏を同じに刺していくのでとても美しい作品が出来上がると。女性達が一針一針づづ丁寧に刺していった素晴らしい作品に。 ホテルまで今日中に届けてくれるとの事で、荷物にならないので妻と娘たちに土産として衝動買い。 この後もスークで刺繍のされたクロスを売る多くの店を見かけたのです。 狭い路地を馬や、驢馬も行きかう街。 「ブー・イナニア・マドラサ」(神学校)を見学。ブー・イナニア・マドラサは、マリーン朝で一番大きな神学校で、ブー・イナニア王が、14世紀に建造したもの。 到底人間業とは思えない、緻密で繊細な幾何学文様やタイルのモザイク彫刻が掘られた壁が素晴らしヵった。大理石が敷き詰められた中庭が、大きな木の扉の中に入ったところに。授業や祈り「サラート」の前に、学生が身を清めたと言われる水盤が、中庭の中心に置かれていた。 巨大な木の扉そして入り口の一つ一つが正に緻密&繊細な芸術品。ブー・イナニア・マドラサ神学校内部からカラウインモスクのミナレットを。ステンドグラスも美しかった。 見事な木彫。一つ一つのピースを填め込んでいったのであろう。 アラビア文字が芸術的に表現されているのであろうか。そしてこの意味は? 白の彫刻にも感動。 狭い迷路を更に進む。途中、門の如き構造物の下を通過。 ハミドさんという方のメディナの高級民家を訪問して、ミントティーをご馳走になった。 ハミドさんは流暢な日本語でユーモアたっぷりのおじさん。 今やはげてしまった自分の頭を自虐的に語るかのように、帽子を取って「サハラ砂漠!」とジョークを言って旅友にうけまくっていた。 (サハラ砂漠のように木がいや毛が生えていないことなのでろう?) 高くヤカンを持ち上げ湯をティーポットに注ぐ。 そして、ミントティーをいれながら何度も「ハイ、写真OKです」と言って写真撮影を催促。そして若い?奥様もハミドさんに促されて登場。 ミントティーを楽しんだ後は、近くのブロンズ製品の店へ。ハミドさんがこの店のオーナーではないのかなあと感じたのであったが真相は? タガネやヤスリなどを用いて彫り、表面に模様や文字を入れる見事な彫金技法を実演。カラーランプや壁掛けの美しさにカメラを向ける。 そして迷路のいたる所に精密繊細な芸術品が。 更に迷路を進む。
2015.05.12
閲覧総数 329
25
『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩いていくと、駒形神社、毘沙門天の案内看板が見えて来た。旧東海道は右側の道。150m程進むと日だろに駒形神社、毘沙門天の入口が。駒形神社の朱の鳥居。階段を上り進んで行く。正面に駒形神社の拝殿が見えて来た。『蓑笠明神社(みのかさみょうじんしゃ)』。「商売繁盛の福徳をもたらす神、芦ノ湖の豊漁を司る神として信仰される蓑笠明神は、毎月十三日 箱根権現にお参りされた。その時 蓑笠をつけられたところからこう呼ばれている。この蓑笠明神社は、箱根権現社外の末社で箱根宿の東、明神川の流れ込む芦ノ湖のほとりに鎮斎された。創建は江戸時代の初めで、三島から移住した里人の勧請によるものである。明治以降、神衹制度の変革により昭和三年駒形神社に合祀奉遷されたが、平成の大御代を寿ぎ奉る、御大典記念奉賛事業として神社殿を造営、平成四年夏鎮斎された。」『犬塚明神』。入口右には『犬塚明神』と書かれた銘板が。「元和4年(1618)箱根宿が創設された時、付近には狼がたくさんいて、建設中の宿の人々を悩ませました。そこで、唐犬2匹を手に入れて、狼を退治させ、やっと宿場が完成しました。しかし、2匹の唐犬も傷付いて死んでしまいました。人々は宿場を完成させてくれた2匹の唐犬をここに埋め、「犬塚明神」と崇め祀りました。」駒形神社『拝殿』。駒ヶ岳を仰ぎ見る芦ノ湖南岸に鎮座する駒形神社は、駒ヶ岳の地主神 駒形大神を祀る古社。古くは「駒形権現(こまがたごんげん)」「荒湯駒形権現(あらゆこまがたごんげん)」と呼ばれ、その淵源は遙か悠久の昔、駒ヶ岳の山岳信仰に遡ると云われ、関東総鎮守として武門の崇敬を集めた箱根神社の社外の末社として尊崇されてきた町内の鎮守様。地元の住民には、古くから「駒形さん」と親しまれています。境内には駒形神社のほか、「箱根七福神 毘沙門天社」「蓑笠明神社」「犬塚明神社」が鎮座。御祭神の駒形大神とは 天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ) 素戔鳴尊(すさのおのみこと) 、大山衹神(おおやまづみのかみ) の三柱を総して駒形大神と称されると。『箱根七福神 毘沙門天』。七福神(しちふくじん)は、あらゆるものに福をもたらすとして日本で信仰されてきた。恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天(弁財天)、福禄寿、寿老人、布袋の七柱の神。七福神は、室町時代ごろから幸運、福運、とくに金運をさずけてくださる七神として信仰されるようになった。毘沙門天は、四天王の一仏で、別名「多聞天」といい、七福神の中で、唯一の武将の姿をしていて、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけている。七福神では、融通招福の神として信仰されている。『庚申供養塔』。そして駒形神社を後にし、旧東海道に戻ると直ぐに分岐地点に出た。真っすぐが旧東海道であると道標から。『芦ノ湖西岸歩道』の案内板。芦ノ湖西岸歩道は、芦ノ湖の西岸を半周するルートで、延長約11キロの平坦で非常に静かな歩きやすいハイキングコース。山道へと進む舗装道路を進んで行くと左右に多くの石仏が並んでいた。もとは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを移したと。ここには、箱根で最も古い万治元年(一六五八)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがあった。石仏・石搭の大半は巡礼塔で、箱根宿の宿民が巡礼成就の記念や供養として建立したものもあるとのこと。『国指定史跡「箱根旧街道」向坂地区杉並木・石畳』旧箱根宿 の西側にあたる芦川の町並みを過ぎると、旧東海道 は、箱根峠 までの約四百メートルにわたって、急坂が続きます。この坂は順に「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」と呼ばれています。江戸時代前期、街道整備の一環として、この急坂の両側には杉が植えられ、道路には石畳 が敷設されました。これらは今日まで残されており、当時の街道の面影を今に伝えていることから、昭和三十五年に国史跡に指定されました。『芦川の石仏群 』「この箱根旧街道向坂地区の入口付近には、「芦川の石仏群」と呼ばれる、数多くの石仏・石塔があります。 もとは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを移したといわれています。ここには、箱根で最も古い万治元年(一六五八)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがあります。これらの石仏・石塔には、当時造立にかかわった地元の方々の名前が見られ、地域の信仰の様子を知る上でも貴重なものとなっています。」石仏群の先に再び山にさしかかる向坂(むこうさか)の石畳があり、左手に向坂碑が建っていた。「芦ノ湖湖畔の箱根宿を過ぎますと再び山にさしかかります。この坂が向坂です。坂の入り口に石仏群があり、往時の杉並木も石畳も残っていて味わい深い坂です。」この先は大きな玉石が一面に敷かれていた。現国道1号線の下を潜り更に進む。『赤石坂(あかいしざか)』国道1号線をくぐるとその先に赤石坂があり、両側は熊笹に覆われ、自然の杉並木が続いていた。「国道一号を挟んで両側に石畳と杉並木が残っています。道を下れば旧箱根宿の一つであった芦川の集落に, 道を上れば相模の国と伊豆の国を分ける箱根峠に達します。」左手には多くの杉並木が。更に石畳を進むと『釜石坂(かまいしさか)』。続いて釜石坂で、「この坂道に残る杉並木は芦ノ湖畔のドンキン地区、吾妻獄地区、箱根関所付近の新谷町地区と並んで、箱根旧街道に現存する江戸時代の杉並木です。四つの地区合わせて、約四二〇本の老杉が残っています。」再び杉並木を。さらに坂道は続く。『風越坂(かざこしさか)』。釜石坂の先は風越台への風越坂である。この石畳の坂を登り、その先の急な階段を登ると、東海道名所図絵にもある風越台となる。「江戸時代の延宝八(1680)年」、箱根旧街道に石畳が敷かれました。当時」、石畳が敷かれた場所は坂道だけで、集落の中や平坦な所には、石畳は敷かれませんでした。」そして次に現われたのが木製の階段。『挾石坂(はさみいしさか)』。「箱根峠にかかる坂です。峠は、当時の浮世絵をみますと伊豆の国を分ける標柱と、ゴロゴロした石、一面のカヤしか描かれていません。まことに荒涼とした峠でした。三島宿までは、ここからさらに四里(十六キロ)近く、こわめし坂、自転坂などの難所がつづきます。」『国指定史跡 箱根旧街道』。箱根へ向かう人用の表示板も。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.03.28
閲覧総数 578
26
『旧東海道を歩く』ブログ 目次長い丸石が敷き詰められた旧東海道の急坂を上りつめ、国道1号線に出る。右側の道を箱根峠に向かって歩く。前方の「箱根くらかけゴルフ場」への道が旧東海道。そして再び二股に分かれる場所が前方に。Iphonesで確認し、右手の道を進む。三島方面に歩を進める。県道20号線・湯河原パークウェイ方面に入ってすぐ左側・箱根峠のバス停の横にあったのが『箱根の親不知(脚気地蔵)』実の親とも知らずに殺して金品を奪ってしまった不運な親子の供養塔だと。息子を探して旅に出た父親がここで持病の脚気で倒れて、通りかかった男が介抱を装って短刀で刺し殺し財布を奪おうとしたら、見覚えがある財布で、親だとわかり泣き伏した・・・自害を企てたが死にきれずに苦しみ続け山中の宿までたどりつき相はてたと。斜面をかき分けて上っていくと直ぐに供養塔を発見。そして国道1号線に戻り進むと右の斜面に現代の一里塚ともいうべき新しいモアイ像のような石像群が並んでいた。2003年に建てられた『新箱根八里記念碑(峠の地蔵)』であると。地蔵八体にそれぞれ、おしん辛抱(橋田寿賀子)、花見る人は皆きれい(黒柳徹子)、夢に向かってもう一歩(向井千秋)、花は色なり人は心なり勇気なり(桜井よしこ)、細心大胆(橋本聖子)、あと杉本苑子・穐吉敏子・宮城まり子と8人の女性著名人が名を連ねていた。箱根旧街道を散策する人々にとって旅のひとときの憩いになればと、8人の現代一流文化人が街道に寄せる熱いメッセージを埋め込んだ石碑であると。そして箱根峠を通過し静岡県に入る。『箱根旧街道入口』方面に右折する。左手奥に『峠茶屋』が。左手に箱根旧街道西坂入口があった。入口には道標 「是より江戸二十五里 是より京都百里」 があり、踏み込むと正面に東屋、八ツ手観音、井上靖の箱根八里記念碑などがあった。当時の道しるべの石碑があり、江戸まで25里(約100km)、京都まで100里(約400km)と。『箱根旧街道 茨ヶ平(ばらがだいら)』「慶長九年(1604)江戸幕府は江戸を中心として、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都・大阪を結ぶ東海道は一番の主要街道であった。この東海道のうち最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間であり、箱根旧街道とよばれる。ローム層の土で大変滑りやすい道なので、最初は箱根竹の束を敷いたが延宝八年(1680)に、幅二間(約3.6m)の石畳に改修された。その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や、道のりを一里ごとに示す一里塚がつくられた。参勤交代や伊勢参りなど、江戸時代の旅が一般的になるとともに賑わった旧街道も、明治二十二年(1889)東海道線の開通や、大正十二年(1923)国道一号線の敷設によって衰退した。このあたりは、い茨(いばら)が生い茂っているので付近の草原を茨ヶ平(ばらがたいら)という。」兜石の道標と案内板があった。東屋があるのでひと休み。『兜石の標柱』静岡県に入ったここから設置されている『夢舞台・東海道』と題する標柱(道標)で、この先何回も県内の要所で出会う。旧東海道を歩くハイカーには大変ありがたい道標である。標柱の真中には名所銘が、左右に付いている板は矢印付の道標で前後の宿境までの里程が表示されている。ここの標柱には『箱根関所(箱根関所まで二十七町) ← 函南町 兜石 → 三島宿(宿境まで二里二十七町)』と記されていた。『兜石』案内板。奥の石碑に向かう。箱根峠に近い茨ヶ平に設置された作家井上靖氏の石碑のメッセージは『北斗闌干(ほくとらんかん)』「北斗闌干」は北極星が夜空に、さんぜんと輝くさまのことであると。『八ッ手観音像』東屋のある広場を出てすぐ背が高い『笹のトンネル』を進む。笹のトンネルを通り抜けた後も長い下り坂が続く。笹というよりは竹のように長く、両側から先端が覆いかぶさってトンネル状になっていた。ここまですれ違う人もいなければ、追い越す人もいないのであった。ややぬかるんでいる所もあったが、歩いていて楽しいところではあったが・・・。笹竹のトンネルを抜けて、右が少し広くなった場所の左側に『兜石跡』の碑が建っていた。碑には『函南町 町指定史跡兜石跡 祝明治百年 昭和四十三年十月二十三日建之』と刻まれていた。元々はここに「兜石」があったようですが、昭和初期の国道工事の際に上部を切り取って、現在の場所へ移したのだと。霜柱が顔を覗かせていた。再び国道1号線に出る。『山中城跡・三島宿 箱根旧街道迂回路』の道標。国道に出ずに旧街道があるようだが、草や木が生い茂り通行不可のようであった。1国を下って行く。『接待茶屋(せったいじゃや)』のバス停の先を右に入る。この道が旧東海道。『史跡 箱根旧東海道』の石碑。「箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文政七年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。やがて明治十二年(0879)、八石性理教会(ハチコクセイリキョウカイ)によって接待茶屋は再スタートしたが、教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ利喜三郎・とめ、力之助、万太郎・ときらの三代により接待が続けられた。鈴木家は昭和四十五年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に終止符を打つまでの約九十年間、箱根を往来する人馬の救済にあたったのである。箱根の接待茶屋については、「山中接待所」や「茶屋」などさまざまな呼称がある。「廣為道友鋳此器永充施行平憩之用」の銘がある著名な茶釜や、「せったい處」「せったい茶屋」の看板とともに、施業奉仕の跡をしのぶ遺跡として本遺跡は貴重である。」『せったい茶屋』と書かれた石碑。小さな祠の下には、『親子像(鈴木とめ・鈴木力之助)』があった。関心のある方は三島市『接待茶屋⬅リンク』を参照下さい。『接待茶屋一里塚』ここは江戸から26番目の一里塚。江戸の日本橋から約104km。実は25番目の一里塚はないのだと。はっきりとしないのですが、どうやら当時、道がつけ変えられたことから、このような24番目の一里塚の次は26番目の一里塚という事態となっているのだと。『徳川有徳公遺蹟碑』徳川有徳とは徳川吉宗(徳公とは謚名の有徳院から)のことで、紀州公から将軍になるために江戸へ向かう途中、石割坂(いしわりざか)にあった茶店で休憩をとりました。その間に、店の主人が馬の世話をよくしたところ、吉宗はその心遣いに 大層喜び、自ら永楽銭(えいらくせん)を与えたといいます。それからというもの、代々の紀州公は、参勤交代の際にはこの茶店で休み、永楽銭で支払うようになったと伝えられています。またその頃から、この茶店を 「永楽茶屋」と呼ぶようになりました。これを記念して、この地の観光開発に尽くし富士屋ホテルのコック長を務めた鈴木源内が昭和10年に建てたのがこの「徳川有徳公遺蹟碑」 であると。そして『兜石』。「この石は兜を伏せたような形をしていることからかぶと石といわれている。また別の説として傍の碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征伐のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石とよばれるようになったともいわれている。この石は兜石坂にあったものを昭和初め国道一号線の拡幅工事のときこの地に移したものである。」『兜石』と刻まれた大きな古い碑石には、カタカナの一部に不鮮明な所があり正確ではないかもしれないが、次の様に刻まれているとネット情報から。「兜石傳ヘ云フ天正ノ昔豊太閤小田原征伐ノ途次路傍ノ小石ニ腰掛ケ兜ヲ脱テ大石ノ上ニ置キ暫ク憩ヒシコトアリト後人因テ之ヲ兜石ト名ツタ此石即チ是ナリ石ハ奮ト接待茶屋ノ上方奮街道ノ側ニアリ大正十二年新道通スルニ及ヒ空シク荊刺中ニ埋レ復ク英雄ノ遺蹟ヲ省ルモノナシ是ニ於テ今茲昭和六年秋新ニ此處ノ移セリ因テ其由ヲ敘ヘ石ニ刻ス 鈴木源力読」と。そして前方で二つの道に分岐。Iphonesで調べてみると、二つの道は先で合流しているので、まずは左の道を進む。左斜め前に石碑を見つける。『明治天皇御小休址』と刻まれた石碑。明治天皇が初めて箱根路をお通りになって、江戸(東京)に下られたのが明治元年10月と。天皇が京都から江戸へ移るということは、当時の人々にとって考えられないこと。三島を計4回お通りになったことや、所々で休憩を取られたため、御巡幸記念碑は、箱根西坂の随所に見受けられるのだと。明治天皇が、明治元年(1868)に上京なさった時、休憩をおとりになった場所で、当時は「ビンカの茶屋」と呼ばれた甘酒茶屋があったと。 ビンカとは、イヌツゲのこの地方の呼び名で、茶屋の脇に植えてあったのだと。『箱根山組合創設百年記念植林地?』と刻まれた石碑。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.03.29
閲覧総数 648
27
『旧東海道を歩く』ブログ 目次水口町城内の旧東海道を進むと、右手に近くにある御茶園墓地公園(おさえんぼちこうえん)の駐車場があった。更に旧東海道を西に進むと前方右手に杉の巨木が。右手にあったのが『五十鈴神社』。入口に大きな常夜燈が。「林口の勧請縄毎年の正月三日に林口区の「山の神」の行事として作られ、地域内の三か所に掛け渡されます。一般の注連縄とは異なり、村の出入り口や神社の境内などに掛けられるもので、勧請縄と呼ばれるものです。これは「道切り」つまり村の外から疫病や災厄が侵入するのを防ぐための祈願として行われるもので、五穀豊穣や村内安全などが書かれた勧請板と、「海老」と呼ばれる藁で作った飾りものと御幣が付けられます。」これが「海老」と呼ばれる藁で作った飾りものであろう。水口町の古木・名木のヒノキ。ヒノキの古木と常夜燈。「水口町の古木・名木樹木の所在 水口町東林 五十鈴神社地内樹 種 ヒノキ(ヒノキ科)樹木の説明高さ40mに達する常緑針葉樹。樹皮は茶褐色。葉はうろこ状の葉片が茎lこ密着し、裏面にはY字状の白色の気孔溝かある。雄雌同株。開花は4月。雄花穂は多数で茶褐色。雌花穏は珠形。珠梁は褐色となり、翼のある種子を散らす。福島県より西、九州にまで分布し、岩場に自生する。広く栽培される。和名:火ノ木。木をこすり合わせて火を出した。」『拝殿』。「五十鈴神社由緒五十鈴神社は、天照大御神をお祀りしています。藤原時代の長寛2年(1164)に設けられた 「御厨」制度により御厨田の守護神として、また五穀豊穣の神として伊勢皇大神の御分霊を、「福原大神宮」 として称え奉ったのがその創始です。江戸時代の天和2年(1682)から、水口城主として加藤明友候が政を掌った間、「神明宮」と称して信仰も厚く御影石、手洗鉢の寄進をされています。その後の歴代藩主の信仰も厚く、由緒深い宮です。明治4年(1871)「五十鈴神社」 と改称されました。その他に、稲荷、八坂、愛宕、秋葉、島姫(弁財天)の各神社をお祀りしています。」左から『秋葉神社・愛宕神社・八坂神社』『正一位 稲荷大明神』扁額『正一位 稲荷大明神』。『神門』。『神門』内部。『常夜燈』。『社務所』。『弁財天覆屋』。『弁財天』。こちらは『イヌマキ』。「水口町の古木・名木樹木の所在 水口町東林口 五十鈴神社地内樹 種 イヌマキ(マキ科)樹木の説明暖地の山地に自生し、常緑の高木で、高さ20mに達する.葉は針状で樹皮は、灰褐色で、浅く縦にさけ、薄片となってはげる.五月に小花を開く。種子は.緑色で、基部に続く仮種皮が赤色。材は耐水・耐朽牲に強く、桶用材に適する。庭木・生垣に広く使用される。」『五十鈴神社』横にあった『ようこそ水口へ』『水口宿 お散歩マップ』『五十鈴神社』の一角に『林口の一里塚跡』があった。ここは江戸日本橋から数えて113里目の一里塚跡である。「一里塚跡 一里塚は街道の両側に一里(約4km)ごとに築かれたもので、東海道では慶長九年(1604)に江戸日本橋を起点として整備された。水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられている。塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。」T字路から『一里塚跡』を見る。旧東海道はこの先の交差点を右に。こちらはこの先の旧東海道。交差点を渡って進むと、直ぐ右手に案内板が。「西見附跡水口宿の西の端に設けられたもので「京口」と呼ばれています。木戸や番所が置かれ、宿場の防犯施設となっていました。東端の・田町と片町の境付近には東見附があ・り「江戸口」と呼ばれ、同じ機能を果たしていました。東海道は最初はここから東へまっすぐ延びていましたが、水口城築城と水口藩成立の二回の機会に北へ迂回させられました。またここを流れる川は「見附川」と呼ぼれています。」ここで水口宿は終り、ここから舞込橋にぶつかるまで約2.5Km、ほぼ直線道路になっているのであった。右手にあったのが日蓮宗寺院『妙沾寺(みょうてんじ)』。『髭題目碑』であろうか?通称 「淡路阿闍梨」 と言われた日賢の立てた「南無妙法蓮華経」と刻まれた塔が境内中央に。「髭題目」とは、日蓮宗で、題目の「南無妙法蓮華経」の七字のうち、「法」以外の六字の端の部分を長くひげのようにのばして書いたもの。「法」の光に照らされ、万物がことごとく真理を体得して活動することを表したものだと。比較的新しい『本堂』。妙沾寺は、昭和2年(1927)神山長兵衛の開基であると。扁額は『雙龍山(そうりゅうさん)』。『地蔵堂』。『地蔵堂』内部。更に人の姿のない旧東海道を進む。左手に『美冨久(みふく)酒造』。東海道五十三次・五十番目の宿場町『水口宿』の街道筋に蔵を構えて、平成29年で創業100周年を迎えた老舗の酒造店。店頭にあった大正9年製造の手動式消防ポンプ車。昔は、手押しポンプ(龍吐水、腕用ポンプ)やバケツで消火をおこなっていた。その後馬車の消防車ができたが、馬は火を怖がって火事場に近づけなかった。自動車が作られるようになってからは消防車になった。手押しポンプが使われていたのは明治の初期から終わり頃までだと。『美冨久酒造株式会社』入口。窓の内側には『水口 街道ひなかざり』の『親王飾り』が。『東海道 五十三次 水口宿 街道蔵』。「水口の地酒甲賀地域は滋賀県の酒蔵の約三分の一が集まっている有数の酒処で、「近江の灘」とも呼ぼれています。その甲賀の中心であるここ水口は、その名の通り水がきれいで、米作りにも適した豊かな土地です。また、数々の東海道にまつわる本や雑誌、旅行番組などでも紹介されており司馬遼太郎作[竜馬がゆく」でも竜馬が立ち寄った宿場町として描かれています。そんな恵まれた土地ならではの口マン溢れる水口の地酒をお楽しみください。」『美冨久』。3月28日(土)、29日(日)の開催予定の『春の蔵祭り』は開催延期と。蔵の上部には『杉玉』が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.27
閲覧総数 144
28
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次バス通りを北に進むと、右手に「道祖神」があった。「道祖神 昭和三十三年正月十四日 室田部落講中」と。そしてその先に「室田八王子神社」があった。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目13−35。ところで八王子神社は茅ヶ崎に4か所 ・堤八王子大神👈リンク・本村八王子神社👈リンク・菱沼八王子神社👈リンクそしてここ・室田八王子神社茅ヶ崎市内の全ての八王子神社を巡ったのであった。室田八王子神社の扁額は「八王子神社」。正面に「拝殿」。八王子神社は、スサノオの八柱の御子神を祀る神社である。八王子宮、八柱神社(やはしらじんじゃ)などとも言い、日本全国にある。「拝殿」に近づいて。創建年代や由緒は不詳。御祭神は五男三女命(ごなんさんにょのかみ)と、・大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)。五男三女神は、・天忍穂命(あめのおしほのみこと)・天穂日命(あめのほひのみこと)・天津日子根命(あまつひこねのみこと)・活津彦根命(いくつひこねのみこと)・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)・多岐理比売命(たきりひめのみこと)・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)・湍津比女命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神。例祭は5月第3日曜日。室田八王子神社神輿保存会があり、神輿渡御などが行われる。同保存会により、初詣の振る舞いなども行われている。現在は小和田熊野神社の兼務社である。唐破風下の「懸魚(げぎよ)」の彫刻。「懸魚」は、神社や寺院の建物の正面に見られる。建物の唐破風の下に取り付けた飾りをいう。破風に取り付けた火除けまじないで、魚をつるした形をしている。この装飾を取り付けると、水のゆかりにちなんで、火災にあわないまじないになるという。懸魚彫刻は、唐破風の下に合うように形にがまとめられている。鳳凰や鳥の形のものが多く見られる。龍植物・動物・飛天などもあり、優れた彫刻を見ることができるのであった。「妻飾り」そして「大虹梁」上の龍の彫刻。見事な組物。「脇障子(右)」。「脇障子(左)」。「室田自治会館」。「神輿殿」毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。「室田八王子神社」の「神輿」。 【https://blog.goo.ne.jp/shin354/e/0d001f384e511b5eee16608ea6eb7e57】より「拝殿」の右横の小高い丘。古墳の如き姿であったが。「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」。「室田八王子神社」を後にして、室田通りに向かって室田1丁目12近くを進むと空き地の隅に小さな神社があった。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目10。稲荷神社であろうか。「室田通り」に向かって白壁の旧家の前を。屋敷内にも神社が祀られていた。寺の山門の如き民家の門。そして次に訪ねたのが「妙行寺(みょうぎょうじ)」。寺号標石「妙法山妙行寺」。神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目5−5。横には「南無妙法蓮華経」と。「日蓮大聖人六百五十遠忌記念」碑。「・・昭和六年五月三日大法會修行之・・」と刻まれた石碑。そして「本堂」に向かって参道を進んでいったのであったが・・・・。しかし「本堂」の姿はなく更地になっていたのであった。その後ろには、墓地が残っているので、「本堂」の建替えが行われるのであろうか。山号は妙法山(みょうほうざん)寺号は妙行寺(みょうぎょうじ)。開基は日蓮聖人の直弟子 六老僧の1人 大国阿闍梨日朗聖人(1245年~1320年)。比企谷 妙本寺の末寺である。妙行寺は享保10年頃(1725年)室田の山本仁兵衛による草創と伝えられています。この時期に鎌倉小町より当地に移転されたと思われる と。ネットで調べてみると「妙行寺(松林3の5の5)で5月14日、本堂の建て替え工事を前に地鎮祭が行われた。数年前の大雪の影響で雨漏りが発生し、調査した結果「いつでも倒壊する恐れがある」と診断された。これを受け、建て替えの流れとなった。」と。墓地をズームして。写真の如き赤い屋根の「本堂」があったようだが・・・。 【https://www.myougyouji.net/myogyoji/】より境内の隅には比較的新しい石祠が立っていた。別の石祠をズームして。そして「室田通り」沿いにあったのが「特別養護老人ホーム」。「社会福祉法人松宝苑 特別養護老人ホーム 湘南くすの木」。鯉のぼりが上がっていた。「室田通り」を引き返すとその先「田村通り大山道」との四辻の角にあったのが「松林村役場跡」碑。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根1358。「松林村の由来この前を通る大山街道は、田村の渡し(寒川)で相模川を渡る大山参りの近道で、江戸の商人・職人をはじめ多くの文人・墨客が往来した。赤羽根・甘沼の丘陵の南面をほぼ平坦に並行する、のどかな街道であった。正面に日本一の富士を仰ぎながら夫々大山参りの楽しい旅をしたことでしょう。しかし静かな農村にも幾度か行政の改変があり、各村々が合併を重ねていった。明治二十二年(一八八九年)赤羽根村を始め、室田・菱沼・小和田・高田・甘沼・香川の七カ村が一つになって松林村となり、此の地に松林村役場が建設され、村長には水越良介氏(後に茅ヶ崎町町長・神奈川県議会議員を歴任)が就任した。明治四十一年、松林村、鶴嶺村、茅ヶ崎村が合併して茅ヶ崎町ができるまでの約二十年間、此処松林村役場は地方自治の重要な拠点であった。昭和二十二年市制が施行された当時の茅ヶ崎市の五万余の人口も、市制六十周年を迎えた今日は約二十三万と急激な増加を見るに至り湘南の中核的都市となりました。大山街道に添って湘南バイパスが建設されるなどに至り、かつてのふるさと的農村風景も次第に失われつつあります。」「江戸時代23ヶ村:黒文字明治22年市制町村制施行当時の4ヶ村茅ヶ崎村松林村鶴嶺村小出村」「松林村」には「大山街道」と「東海道」が貫いていたことが理解できたのであった。左手への路地を入ると右側には大きなひょうたんが店頭に置かれている「井上酒店」があった。更に「室田1丁目」と「赤羽根」地区の境界を通る「田村通り大山道」を西に向かって進む。前方に「室田小学校正門」交差点。左手に「室田小学校正門」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.06
閲覧総数 311
29
【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次寒川町小谷四丁目の細道を西に向かって歩く。前方に「寒川町立小谷小学校」の校庭の周囲の満開の桜が現れた。満開の桜の下を歩く。校庭内に置かれた非常用倉庫?に描かれた子供たちの絵画を楽しみながら進む。校舎の壁には山の姿が描かれていた。桜並木の先の大山の姿を見る。三叉路にあった小さな社。神奈川県高座郡寒川町小谷1丁目12−28。六臂青面金剛像、下部には三猿が刻まれていた。寒川町小谷1丁目の住宅街を進む。中原街道に出て「セブン-イレブン 寒川小谷1丁目店」で水分補給。「セブン-イレブン 寒川小谷1丁目店」の向いには旧家の立派な門が。城の如き住居がその隣に。神奈川県高座郡寒川町大蔵850−1近く。中原街道を右に入り旧家の横の細い路地を進む。はなずおう(花蘇芳)に似た真っ赤な花が。それとも花桃であろうか。右に曲がると前方に大きな墓が現れた。道路沿いに小さな社が見えた。Googleマップには「阿弥堂跡」と。神奈川県高座郡寒川町大蔵。社の中には石仏が鎮座。「四国八十八箇所之内 第六十四番 南無大師遍照金剛」と。四国八十八ヶ所霊場第64番札所は「前神寺」👈リンク であるが・・・。正面から。歴史を感じさせる石仏群。墓地を振り返る。どこの寺の墓地なのであっただろうか?この近くには寺はなかったが。そして再び「中原街道」に出て、JR寒川駅方面に向かって進む。左手にあったのが「日本一たい焼 湘南寒川店」。この辺りが「十三塚(亀の子塚)」であったが。通称「中原街道」・主要地方道丸子・中山・茅ヶ崎線に沿って点在する塚で、現在は5基ほどが残っている。中でも最大の規模をほこるのが、小谷交差点南側にある「おこり塚」とよばれるもので、塚を盗掘した者が瘧(おこり)、という病にかかったという言い伝えがある。昭和62年(1987)、発掘調査が行われたのだと。十三塚は、日本各地に分布する民間信仰による土木構造物。起源は定かではないが、13人の落武者を葬ったとか埋蔵金を埋めたとかいう伝承が多いと。一般には13基の高塚で構成されているが、必ず13というわけではないようだ。当地の十三塚も元々は15基の塚で構成されていたとの事。「小谷」交差点を通過。十三塚(おこり塚)。別の場所から。最大規模の塚で塚を盗掘した者が瘧(おこり)という病にかかったという言い伝えが名称の起源のということ。昭和62年に発掘調査が行われていて、中世から戦国時代頃に造られたらしいと。ここにも塚が。これも塚か? 神奈川県高座郡寒川町岡田7丁目近辺の「住居表示街区案内図」。そして中原街道を左折し南東に進むと前方に見えて来たのが「菅谷神社」。神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目20−39。脇門から境内を見る。「天保神輿 寒川町指定重要文化財第七号 昭和五十四年十ニ月十五日指定天保九年(一八三八)国府祭(こうのまち)の帰路、馬入で馬入の若衆と喧嘩となり川に流され、茅ヶ埼南湖(なんご)の浜で孫七にひろわれた元寒川神社の神輿を改装したものです。」「天保神輿」👈リンク をネットから。 【https://www.townnews.co.jp/0604/2021/11/05/598836.html】よりこちらが「菅谷神社」の入口の石鳥居。社号標石「菅谷神社」。手水舎。「神楽殿」とその奥に「神輿殿」。縁結びの木・梛(なぎ)が社殿前中央に。葉のカタチをみると広葉樹のような幅の広い葉を持っているが、実は針葉樹。その葉脈は独特で、主脈が無く、縦方向にのみ平行に伸びている。この葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにするようになったと。その昔、女性が鏡の裏側にナギの葉を入れ、夫婦の縁が切れないように願ったとのこと。御神木のようであった。社殿祭神・天照大神(アマテラスオオカミ)・建御名方神(タケミナカタノカミ)・大山咋命(オオヤマクイノミコト)・倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)・天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)・素盞嗚命(スサノオノミコト)石灯籠狛犬(右)石灯籠(左)狛犬(左)。「記念碑」。「當神社はもと神明宮(通称天宮)と称し岡田小谷大蔵の鎮守として往昔よりこの地に鎮座せらる明治四十ニ年七月二十三日各部落内の五社を合祀して社号を菅谷神社と改む 今年偶々合祀並に社号改称五十年記念大祭を執行するに当りこれが由緒の堙滅せんことを虞れ鎮座地等を刻み以てこれを後昆に伝う」鎮座地 社号 御祭神 例祭日 岡田 神明宮 天照大神 七月二十三日 小谷 稲荷社 倉稲魂命 十月十一日 大蔵 諏訪神社 建御名方神 八月二十七日 西岡田 八坂神社 素盞嗚命 七月十五日 東岡田 東守権現社 天忍穂耳命 九月九日 岡田 日枝神社 大山咋命 九月二十九日 大蔵 第六天神社 大蔵総鎮守大蔵山王社」内陣中央に扁額「菅谷神社」。ご神体の「鏡」。神社における鏡は一般的に太陽を指しているといわれている。理由は鏡で太陽の光を反射するのを正面からみると鏡が太陽のように光り輝いて見えるかするので、太陽を象徴する鏡をご神体として神社に祀るのだ。また、鏡に映った自分自身の姿から自分の行動を自覚するという意味もある。内陣の左側。太皷や奥に神具が。石碑・石像群。庚申塔は5基?あったが、風化、損傷が大きいものが多く残念な状態。中央に「ショケラ持ち六臂青面金剛立像庚申塔」、角柱平頭型、文化13年(1816)。左下の手に裸で合掌した女の髪の毛をつかんでぶらさげている。 これは「ショケラ」と称する。 これは仏教用語の「障碍」(しょうげ)からでたもので、障碍等(しょうげら)がなまってショケラになったものであるとのこと。「ショケラ」は人間を罹病させることを始めとし、さまざまな悪いことをするものである。そこで庚申さんが、それがあばれださないように、頭髪をつかんでおさえているのである、という説があるとのこと。文化13年(1816)8月山伏角柱月日・「庚申塔」・道標右側面「文化十三子八月吉□ 右 こくふんじ」左側面「左 なんがうミち」文化13年(1816)11月角柱日月(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)右側面「文化十三子十一月吉日」左側面「大藏村 施主栗田彦左□」享保11年(1726)5月29日笠付角柱(笠なし)月日・ウーン・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「庚申供養講中」左側面「小谷戸村 享保十一午天五月廿九日」嘉永2年(1849)9月駒型・道標日日・青面金剛像(剣人・六臂)・邪鬼右側面「嘉永二己酉歳九月吉日」左側面「右一の宮 左あつ木 みち」天明8年(1788)7月山伏角柱・道標青面金剛像(合掌・六臂)右側面「右り馬入 天明八戊申七月吉□」左側面「左り 藤沢 南郷」「菅谷神社」の「社殿」の裏には大きな樹が茂っていた。手水舎を横から見る。鳥の彫刻。社務所天の宮合祀百周年紀念碑。「菅谷神社」の境内を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.02
閲覧総数 259
30
この日最初のマジョレル庭園の見学を終え、バスに戻りクトゥピア・モスクに向かう。すぐにメディナ(旧市街)の城壁が車窓に。 12世紀前半に築かれた長さ18kmの城壁の中に広がるアラブの世界を昨日から楽しんでいるのであった。コブ門(Bab Nikob)。メディナというと、全体的に細い小路が迷路のように入り組んだ場所を想像していたが、ジャマ・エル・フナ広場近くには大きい道もあり、タクシーや馬車もあちこちで待機していた。淡いピンク色にも見えるその城壁は、小穴が無数にあって今やハトの巣になっているとこの日のガイドから。城壁沿いを右折、左折しバスは進む。 ジェディド門からバスは城壁内に入り、ここで下車。そして徒歩にてクトゥビア・モスクのミナレットに向かう。 メディナMAP。メディナ西側のジェディド門からメディナに入ると、ムーア様式の傑作とも言われるクトゥビア・モスクのミナレットが正面に。このあたりはメディナと言っても空が大きく開けていて、高さ77mあるというミナレットは、あちこちから見えるランド・マーク的存在。城壁内の通路の植栽にはバラが満開。 オリーブの花も満開。以前トルコを旅行したときに、このオリーブの花を見たが、虫があまり見えなかったので現地ガイドに聞いたところ、 オリーブの花に蜜はなく、多量の花粉を風でとばす風媒花と。しかし昆虫を媒介して受粉を行う虫媒花でもあるのだと詳しい説明が。正面にクトゥピアが聳え立っていた。 この日の現地ガイドの説明を聞く。モロッコ第2の都市マラケシュにある、高さ77m、幅12.8m、外壁の厚さは2.5mのミナレット。12世紀に建造された。マラケシュのシンボルといわれている。4面それぞれに異なる装飾をもつムーア様式建築は究極の美しさといわれ、夜のライトアップは前夜に楽しんだのであった。このミナレットは、セビリアのヒラルダの塔と並び、世界で最も美しいミナレットの一つとされていると。かつて存在したモスクの基礎部分が整然と並んでいた。本当はこの写真の基礎部分にモスクを建てる予定であったがメッカに対する角度を間違えてしまったらしく、新たに隣に建て直したと嘘のような真実をガイドから。ミナレット頂上の三角(△)がメッカの方向を示しているのだと。 そしてこの塔よりも高い建物は建設することが禁止されているのだと。ミナレットの上にくっついている3つの大きな玉は何を意味するのかとガイドに尋ねてみると『団子3兄弟』 との返事。よくぞ聞いてくれたとしたり顔。金色の銅製の玉のうち一番大きいものは直径が2mあると。実はユダヤ教、キリスト教、イスラム教を意味するのだそうだ。頂上近くには大きなスピーカーが設置されていた。モロッコではテープやCDではなく肉声をスピーカーでアザーン(お祈り)を流すのが基本と。 クトゥビア」とは「本屋」という意味で、この附近は本屋さんがたくさんある街だったと。 塔は6階建てで緩やかな階段を上ることができるとのこと。 この素晴らしい塔はモロッコに現存するスペインモロッコ芸術の最も完璧な作品。
2015.04.28
閲覧総数 92
31
稜堡(りょうほ)とは大砲を主要防御武器として設計した城のこと。多数の大砲が死角を補い合うように造られる。16~18世紀にヨーロッパで行われ,日本では幕末に五稜郭などに取り入れられたとのこと。 北稜堡の手前。メディナ北側のスカラ。 この場所には今は使われていない砲台がズラリと並んでいて、日本には無い雰囲気。 北稜堡の展望台。 メディナの角に配置されている昔の円形の見張り台。観光客が多く訪れ、壁の隙間から大西洋を眺めていた。その大西洋は波荒らし。 狭い路地には様々な土産物が。 これぞメディナの風景。メインストリートよりこちらが好き。 どちらかというと人気のない路地が好き。このランプシェードはホテルの我が部屋のものと同じ。 このエキゾチックな果物の正体は、「ウチワサボテンの実」。南イタリアやスペイン・モロッコの地中海沿岸によく生えているウチワサボテンが、夏の終わりになるとポコポコと実をつけるのだと。サボテンの実はメキシコ原産で中南米に広く栽培されており、コロンブスが持ち帰ったことにより地中海沿岸に広まったと。イタリアではFico d'india (インドイチジク)と呼ばれていると。 果肉の食感はスイカを少し硬くしたような感じで、ほんのり甘くジューシーだと。しかし今回の旅行でチャレンジする機会はなし。ムハンマド・サルククトゥーニ通りの門。 ムハンマド・サルククトゥーニ通りも賑やか。 色彩豊かな展示は見事。ムハンマド・サルククトゥーニ通り沿いの各種の門。 たこ焼きやを発見。モロッコ産の蛸でたこ焼きを楽しみたかったが時間なし。 この猫はリラックスしすぎ!! 魚市場が立ち並ぶ一帯を歩くが、危うく拉致されそうな日本語での呼び込みを至る店で。魚料理の大きなメニュー。 ムーレイ・エル・ハッサン広場ともお別れ。世界遺産エッサウィラの観光を終え、往路と同じ道をマラケシュに向かう。途中、脅威の過積載のトラックを発見。崩れ落ちる可能盛大であるが・・・・。 そして再びマラケシュに帰ってきたのであった。
2015.04.24
閲覧総数 94
32
『旧東海道を歩く』のブログアップの毎日が続いていますが、その間に我が家の庭の花々も次々に開花していますので、今日はその状況もブログアップさせていただきます。まずは『庭梅(にわうめ)』葉が出る前に2~3輪ずつ固まって枝を覆うほどたくさんの花を咲かせています。花は5枚の花びらを持っており色は淡い紅色。既にピークを過ぎ、葉も出始めて来ました。そして白のクリマスローズ。こちらは赤のクリスマスローズ。白のニラバナ。庭では春の陽気を迎えて種々な花々が咲き競っていますが我が家ではここぞとばかりに目を引いているのがこのニラバナ。太陽が出ると一斉にそちらの方に花を開き周りを圧倒する勢い。こちらはやや紫がかったニラバナ。そして様々な水仙も次々に開花中。八重咲きも。ラッパの色も各種。花弁の色も様々に。旧来の品種も頑張っています。白のヒヤシンスでしょうか。こちらは紫。プリムラ。木瓜(ボケ)。ムスカリ。モミジの新芽も赤く染まって。芍薬の蕾も日に日に大きくなって来ています。ユキヤナギ。枝垂れた枝先の長い穂に、たくさんの花を咲かせてひときわ目を引き存在感を。ハナカイドウ(花海棠)のピンクの花も。そして我が家の横の菜園の花です。これは青梗菜(チンゲンサイ)の花。こちらはブロッコリーの花。ブロッコリーには我がミツバチがブンブンと羽音をさせながら訪花しています。セイヨウミツバチはブロッコリーの花が大好物なのです。そして菜の花にも。イチゴにも可憐な花が開き、早速我がミツバチが受粉の手助けをしてくれています。そして我が家の近くの公園のソメイヨシノもかなり開花を始めています。来週早々には満開となるのではと。
2019.03.30
閲覧総数 182
33
『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年3月21日。『旧東海道を歩く』も延べ30日目を迎え、この日から3日間かけてゴールの京都三条大橋に辿り着く予定の初日の朝。宿泊ホテルは甲賀市水口町北内貴にある「グリーンヒルサントピア」。前日チェックイン時に予約した6:30からの朝食を楽しむ。朝食を済ませ、旅友Sさんの愛車で近くの「貴生川駅」横の駐車場にMax500円/日で車を駐め「貴生川駅」へ。利用する電車は7:14発 近江鉄道水口・蒲生野線の米原行き。2両編成の電車はまだ米原行き表示に変わっていなかった。貴生川駅から水口石橋駅まで切符を購入。実は最初は180円の切符を買ってしまい、間違いに気づき慌てて交換に券売所に引き返したのであった。21日の1が薄くて3月2日の切符の如し。ワンマン電車で無人駅では運転手に切符を手渡し最前のドアから降車するシステム。そして6分で「水口石橋駅」に到着し下車。「水口石橋駅」の直ぐ横を走る「旧東海道」に出て、ここからこの日の『旧東海道を歩く』のスタート。時間は7:21。前回歩いて来た、踏切の先にある『三筋の道 』の『からくり人形時計』を振り返る。近江鉄道の踏切の先にある小さな石橋が「水口石橋駅」の名前に由来すると。前回は、雨がひどく、この先三雲駅まで歩く予定であったが、これを断念しこの「水口石橋駅」に駆け込んだのであったが。豊臣秀吉が天下の覇権を握った時代、「水口岡山城」が築かれその南側にあった集落が城下町として発展、水口宿の大きな特徴である『三筋の道』はこの時に敷設されたという。先日の「ぶらタモリ」でもこの場所を紹介していたのであった。歩きだすと旧水口町の汚水マンホールのカラー蓋が迎えてくれた。水口曳山祭(水口祭)で巡行する「曳山の車輪」をデザインした蓋。車輪の周囲には町の花「サツキ」が描かれているのであった。水口町八坂の街道を進む。『水口宿 天王町』道標。駐車場入口の木塀も旧東海道沿いらしく。右手にあったのが『天王町の曳山蔵』。天王町の曳山は全幅:3.10m 全長:4.10m 全高:5.40m 車径:1.37m水口曳山祭は水口神社の春祭りで、江戸時代中期の享保年間(1716~35)に宿場町であり城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって創り出された近江東南部を代表する都市型祭礼祭。 賑やかな曳山巡行と江戸祭り囃子の流れをくむ「水口囃子」で知られます。4月19日宵宮 4月20日例大祭・曳山巡行「水口曳山祭」滋賀県指定無形民俗文化財「曳山16基」甲賀市指定有形民俗文化財その先に木造3階建ての『甲賀市ひとまち街道交流館』が。『水口曳山まつり』が4月19~20日に予定されているが・・・・。やはり新型コロナウイルスの感染拡大に伴い中止となったとのこと。『東海道 水口宿』京都三条大橋まで約50km、江戸日本橋まで約445km。『甲賀市水口地域市民センター』は『甲賀市ひと・まち街道交流館』にもなっていた。「ひと・まち街道交流館東海道の観光案内を、目的とした施設で、ボランティアガイド一名が常駐し、ご案内しています。郷土史の冊子やピンバッジなど、お土産物も置いております。となりの施設に水口曳山祭の曳山も展示されておりますので、見学ご希望の方はお申し出ください。○開館時間は、九時から十七時まで ○休館日は、月曜日(祝日の場合は翌日)。※正面奥の建物です。」(館内➡案内の間違いであろうか?)『曳山蔵河内町』。河内町の曳山は全幅:3.04m 全長:4.60m 全高:5.40m 車径:1.38m。『甲賀市水口地域市民センター』。『東海道五十三次 水口名物干瓢<水口> 夏 女たちは、ユウガオの果実を細くけずって干瓢づくりに余念がない。水口城跡に角やぐらの復元がされ、資料館となっていますご来館下さい。』「名物かんぴょう」当時は多くの農家でかんぴょうが作られ、青空の下、白いかんぴょうが干される風景は初夏の風物詩となっていました。 水口のかんぴょうは「東海道五十三次・水口」に描かれたことから全国に知られるようになったといわれています。『甲賀警察署 水口石橋交番』はパトカーの朝の点検中。『河内町』道標。手造りの『ピタゴラスイッチ』的なシステム装置が街道沿いに。水を落とすシステムなのであろうか。なかなか良くできていて、感心。動いている姿を見たかったが。『まかない店 八蔵』。「いきなり団子」店頭にて 1つ150円で販売しているとの事だが、まだ開店前。旧東海道はこの先で右に折れる。「東海道案内図 水口城天王口跡江戸崎代この場所は水口城の東端にあたることから木戸か置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。もともと直進していた東海道も、ここで北へ直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南でふたたび当初の道に戻りました。「天王口」の名は、天王町の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家地がひろがり、ふだんは藩士以外の一般の通行は制限さていましたか、四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が曳き入れられました。」水口町城東の街道を進む。『北町』道標。『祠』と『常夜燈』。旧家が左手に。この突き当りを左手に進む。更に旧東海道を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.24
閲覧総数 357
34
この日はバスにて大西洋岸にあるエッサウィラに向かう。バスにて3時間のドライブ。 R207号線をひたすら西に向かう。車窓からは羊の一群がのんびりと早朝散歩を楽しんでいるのが見えた。 道路沿いには次々と色の異なるモスクとミナレットが現れ、これを楽しむことが出来た。 ロバがゆっくりと台車を引いていた。その脇を100km以上のスピードで追い抜く我がバス。 大きなセメント工場とのこと。 車窓からの風景が目まぐるしく変わる。オリーブ畑が続いた後は荒涼とした砂漠のごとき風景の中、バスは進む。 シシャウア(Chichaoua)付近の交差点は信号機なしの円形のラウンドアバウト方式。モロッコの郊外に出ると主要道路の交差点はほぼ本方式。 バスの前をゆっくりと横断するロバ。 途中、小さな村を通過。道路の両脇には車が隙間無く駐車していた。各民家に駐車場は見かけることがほとんど無かったモロッコ。 バスの前方の樹の上に白き物体が点々と。 アルガン樹は、ヤギが登る木としても、日本のクイズ番組で紹介されていた。 モロッコのヤギは、アルガンの実・樹皮・葉も食べるのだと。 昔はこのヤギがアルガンの実を食べ残った種を吐き出し、これが落ちたものをベルベル人が拾い、アルガンオイルを採油していたと。今では、ヤギを木に登らせ、観光客に見せているのであろうが。それにしても多くのヤギがおとなしく樹に登っていた。 皆、自分の指定席があるが如し。 アルガンの実はなっているが、あまり食べている様子は確認できなかった。既に朝食の後で満腹状態? 地面には種が何粒か所々に。 再びバスに乗り10分ほどでアルガンオイル工場へ。 中庭をはさんで工場と売店があり、その中庭で数名のお年寄りの女性が、器用にタネを割り中身を取り出していた。 中身は南京豆の如し。 その薄皮を剥いたもの。食べても良いとのことだったので、食べてみたが苦い他味はなし。 最後の女性が石臼を引いて油を絞る。 これを更に手で丸めて絞りきる。 そしてここに来た最大の理由である、売店に案内された。各種のアルガンオイルがズラッと並んでいた。アルガンオイルには、料理などに使う食用のもの、化粧品に使う非食用のものがあるとのことで、どちらも同じような非常に高価な値段。アルガンオイルは、約30キロの果肉から1リットルしか採取されない大変貴重なオイルとのこと。ビタミンEはオリーブオイルの約2~3倍といわれ、オレイン酸やリノール酸、ステロールなど栄養分が豊富。紫外線ダメージなどから肌を守り、いきいきとした肌へと導いてくれるのだと。現地先住民のベルベル族が「生命の実」として、美容剤や関節のマッサージなどにも利用してきた万能オイルとしても知られており、その有用性が注目されているのだと。各種蜂蜜も販売されていた。フランス語で蜂蜜は『Miel』。 アルガンオイル石鹸も様々な包装で。 結局、私も我が家の女性陣への土産にアルガンオイルを6本そして1本おまけを購入したのでした。 そしてしばらく走ると眼下に白いエッサウィラの街が。そしてその先には青く輝く初めての大西洋の海原が見えてきたのであった。
2015.04.22
閲覧総数 289
35
モロッコ旅行(その2)・カタール・ドーハへ【4月17日】 いよいよモロッコ旅行に出発。茅ヶ崎にお住まいの旅友Sさんが、愛車デュークで18:30に我が家に迎えに来て下さいました。妻に見送られて羽田空港に向かって出発。1時間もかからず、Sさんが予約してくれていた駐車場に到着。Sさんの愛車はここで帰国の25日まで待っていてくれるのです。 首都高速湾岸線浮島出口より1分の好アクセスな駐車場。東京国際空港(羽田空港)へも高速利用で約10分。駐車手続きを完了し送迎者で東京国際空港(羽田空港)に到着。エスカレータで旅客ターミナル3Fに向かう。 まずは、予約しておいた、モロッコで使うネット用WIFIの受け取りに。 時間は20時過ぎ。集合時間は22時とあって我々二人が一番乗りか?とりあえずクラブツーリズムのカウンター前にトランクを置く。未だ添乗員らしき姿はなし。 Sさんに荷物番を依頼し、初めての羽田空港国際線ターミナルを散策五月人形 鎧兜の展示が既にスタート。三段飾りの五月人形が迎えてくれました。江戸時代、旅の始発点は日本橋。その日本橋が装いも新たに羽田空港に設置されていました。旅の始まりは今も昔も日本橋からと、言うことで造られたとのこと。 ホンモノのひのきで作られた全長25mの「はねだ日本橋」。 橋の横の壁には江戸の町の賑わいを知る事ができる「江戸図屏風」が。 下から見ると空港内とは思えない迫力。 4階には、「和」と「江戸」をテーマにした飲食店とショップが並んでいました。メインストリートの『江戸小路』は江戸時代の街並みを再現。ショップには演芸場を模した店舗、中央にはイベントスペースもあって、日本文化の発信にも一役買いそう。 江戸時代の演芸場を模した店先。 遠くからでも赤い傘が目立つ店も。 集合時間の22時になり、今回の女性添乗員から個別に順番に説明を受ける。そして今回利用のカタール航空カウンターにてチェックイン。 荷物は最終目的地のモロッコ・カサブランカ・ムハンマド5世国際空港まで自動的に運ばれるので、乗り継ぎのドーハ空港ではトランクを動かす必要なし。0:30発DOHA行きが我々の便であることを確認。出発ホールの中央を抜け出国審査場へ。無事出国審査を終えると、正面と両側には免税店エリアが広がり、グッチやシャネルといったブランドの店舗が並んでいました。カタール航空QR813便 0:30発。 チッケトとパスポートを見せ機内に。
2015.04.17
閲覧総数 322
36
ジャマ・エル・フナ広場の近くでバスを降り、広場に歩いて向かう。道路脇には客待ちの馬車の列が。フナ広場入り口に到着。11世紀後半にマラケッシュが首都であった頃から街の中心となっていた広場。かつては公開処刑なども行われていた。現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱う屋台などがところ狭しと軒を並べ、混然とした賑わいを見せているのです。広場の文化的空間が国際的に評価され、2009年に無形文化遺産として世界遺産に正式に登録されたとのこと。ジャマ・エル・フナ広場に面した郵便局。 「マグレブ銀行」。モロッコの中央銀行。本店は首都のラバトにあり、そこには貨幣博物館が併設されている。ここは支店に過ぎずない。この日はカフェの2階に陣取り、夜のフナ広場の光景を楽しむのです。 2F屋上の好位置に陣取り、日が暮れるのを待つ。 飲食屋台・ジュース販売の屋台が隙間無く並ぶ。 民族衣装を着て、音楽とともに踊り続ける集団。そして写真を撮られると、金額をしつこい様に請求しているのが見えた。 蛇使いも。 広場の周辺の建物の屋上には数え切れないほどのパラボラアンテナが。まるでキノコが生えているが如し。モロッコでは民放局が数少なく、スペインやドイツ、イタリアなど他国の衛星放送を、無断で受信するのがあたりまえとなっているのだと。みんなこぞって高感度のアンテナを設置するので、このような状況にと、添乗員が。ボクシングをする集団も。 サルと戯れる集団も見えた。 そして漸く夕暮れが近づく。 夕日が沈む。 屋台にも灯りがつき、調理の白い煙が至る場所から。 屋台の後ろのミナレットのライトアップを待つ。 そして漸くその一つが輝き始めた。広場の床には青い蛍光物体も。 これぞ世界遺産の夜のジャマ・エル・フナ広場の真の姿。 みやげ物のランタンにも灯りがともる。 こちらは更にエキゾチックに。クトゥービヤ・モスクのミナレッもライトアップされた。夕暮れ時のフナ広場を一望することが出来る場所に陣取り、マラケシュの夕焼けを満喫しながらフナ広場の夜の賑わいを堪能し連泊のホテルに戻ったのです。
2015.04.25
閲覧総数 101
37
4日目のこの日も、朝食後に連泊のホテル周辺を旅友のSさんと早朝散歩。ブーゲンビリアがこの様に密集して咲くのかと感動。 市内の中心部には、静かな、穏やかな、グリーンスペースが設けられていた。しかも非常によく整備されている。ホテルから徒歩10分もかからない。 “Parc El Harti” 、“市内の緑のオアシス” と言う意味か。残念ながら、早朝に尽きこの門は閉鎖中で中には入ることが出来なかった。 マラケシュ駅方面に向かう歩道には植栽用の穴が大きく開いていた。その横を高速の自転車や人が足早に歩いているのであった。 そして再びシアター ロイヤルの全景。 再びマラケシュ駅を訪ねる。正面の時計は7:10を示していた。駅の電光掲示板には16℃の表示が。 8時にバスは連泊のホテルを出発し、マラケシュ新市街にあるマジョレル庭園に向かう。今回の旅友は皆様punctualであり、集合5分前には全員集合しておりこれ以後も予定時間通り出発できたのであった。 10分もかからずにマジョレル庭園に到着。世界遺産にも登録されてる旧市街メディナは深夜まで喧噪に絶えない。そんなエネルギーあふれるマラケシュに、旅人を癒しで包み込んでくれる異空間が存在する。それがここイヴ・サンローラン氏が愛した庭園として有名な「マジョレル庭園」とのこと。入場料は大人50DH、子供25DHの表示。このマジョレル庭園は、1920年代にフランス人画家のジャック・マジョレル氏が造園。植物収集家でもあった彼は世界各地から植物を取り寄せて、異国情緒あふれる空間を造り上げた。そしてマジョレル氏の死後、1980年にデザイナーのイヴ・サンローラン氏とピエール・ベルジュ氏が買い取って改修し、今に至ているとの現地添乗員の説明。 庭園に入ると目の前に広がるのは竹林。日本の孟宗竹とはやや異なり節の間隔が長い。 マジョレル公園MAP。 マジョレルブルーと呼ばれる鮮やかな青で装飾された建物。の他にも色々なものにマジョレルブルーが使われていて、庭園内のアクセントになっていた。 残念ながら竹の幹への落書きが。いずこも同じ悩みか。 イヴ・サンローラン氏の記念碑 緑とマジョレルブルーのBEST MIX。 見上げると青空に椰子の緑と赤のブーゲンビリア。ヤシの木も背が高く、青い空に突き刺さるようにそびえたっていたのです。
2015.04.26
閲覧総数 161
38
なめし革職人の街タンネリへ。店の入り口が、下の写真。入り口で、店の方が、ミントの葉っぱをくれたのです。 階段を上に上がってみると、そこはカラフルなモロッコ独特の革のスリッパ『バブーシュ』 の陳列台が目の前に。そしてその横のベランダからは、皮を染める染色の桶が沢山並び、ここからの眺めは圧巻、いや自分がいつの時代に居るのかわからなくなる、まさに異世界の光景。 事前に読んだガイドブックには、生皮を昔ながらの製法でなめしているため、すごい異臭がするとの事であったが、それほどは感じなかった。そして革のキツイ臭いを、もらったミントの葉っぱの匂いを鼻に近づけ嗅いで、臭いをごまかすために使うのだと。左下に見えた灰色のゾーンは、皮についている毛をはがすために白い石灰の中に浸けているのだと。 皮をなめして柔らかくするのに、鳩の糞を使っているからだと。すなわち鳩の糞の臭いと。それにしても、いわゆる3K(きつい、汚い、危険 )の過酷な労働。色は自然の色。赤はポピー、黄色はサフラン、青色はインディゴ、茶色はザクロの葉、黄色はターメリック、白は先ほどの異臭の根源は鳩の糞らしい。自然由来の染料を使った昔ながらの手作業が今でも行われているのだと。 流石に女性の姿はなかったが、老若男々が懸命に働いていた。 ここは公共の施設とのことであるが、彼らはこんな重労働をしても、日本人からすれば雀の涙ほどの賃金しかもらえないのではなかろうかと感じたのであったが。 なめし用の桶の中には、何色と表現したらいいのかわからないような、ものすごい色をした液体が大量に。染料が入った坪の上で重そうな生皮を液の中から掬いだしていた。中の液体は何年間も汲み替えられていないのではないかと思うほどに、時の流れを感じる不気味な色。胴長を履き、足でかき回している男も。 どのような動物の革なのであろうか、日干しの乾燥工程も見ることが出来た。 全てが日本では味わえない時間であったが・・・・・。そして背中の店では様々な革製品が販売されていた。店の真ん中には大きな籠の如き形をした革製品がいくつも展示されていた。革のジャンバーも色が溢れていたが旅友で買おうとする人はなし。 革カバン売り場では旅友の女性が物色していたが。 凄まじい光景のタンネリを後にし、フェズの郊外にある陶器の製作所に立ち寄る。工場に店を併設。フェズの陶器は有名とのこと。工場との塀には陶器製作の各種工程がそれぞれ陶器(タイル)で描かれていたが、これもまた見事。 ろくろを回し、土産用の小さなタジン鍋を作っているオジサン。 工場のガス焼成釜。 絵付けをする職人の姿。 若い女性も黙々と筆を動かしていた。 タイルを小さくし加工している職人たち。 細かい形に割って、削って、モザイク家具も作っていた。造った陶器をキレイに加工してピースを組み立てる。細かい緻密な作業!!そして出来上がった手洗い場。 フェズの城壁沿いをバスはホテルに向かう。 途中、旅友の女性群がお待ち兼ねのショッピングモールに立ち寄る。新しいショッピングモール”Borj Fez”ここがモロッコとは思えないほど、きれいで洒落た雰囲気。巨大なスーパーマーケット。前日もワインも購入するべく、ここをうろうろと酒コーナーを旅友のSさんと探し回ったのですが、どこを探しても無く、諦めたのでしたが・・・・。実は酒売り場は別棟にあることを、添乗員から教えてもらったのです。品数は日本より豊か。野菜売り場も色が溢れていた。 日本にはほとんど置いていないアンティチョークも。我が農園にも植えてあり、毎年紫のきれいな花が咲き楽しんでいますが食したことはないのです。今回の旅行で初めてTRYしてみましたが、味は???。 この時は、時間切れでアルコール購入出来ずにバスにてホテルに戻る。添乗員にここから歩いてホテルに帰らしてくれと頼んだが、ツアー内の行程であり『NO』の返事。素直に諦めてツアーバスにてホテルに戻る。しかし、我々の意思は固く、再び夕飯前に徒歩にてこのショッピングモール”Borj Fez”の奥にある酒屋に向かったのです。小ぢんまりとした入り口、「la cave」…洞窟??。営業時間は22時までと。店の中にほとんど客はいなかった。さすが飲酒禁止のイスラム国!!各種アルコールを見事に陳列してあった。モロッコのワインはほとんどがメクネス産。紅白のワインを1本ずつ購入。ワイン抜きは隣のショッピングモールで買えと店員が。
2015.05.14
閲覧総数 213
39
更に遺跡巡りは続く。デザルターの家。デザルターとは、ギリシャ語で馬から馬へ飛び移りながら2頭以上の馬を一緒に走らせる運動技術を持った男のこと。当時のサーカスで人気だった馬術。カラカラ帝の凱旋門。この凱旋門は紀元277年に建造されたと。 門の右上にはカラカラ帝のレリーフも。ガイドに連れられ遺跡の中を更に歩く。 城壁の如き壁。 巨石を積み上げ、見事に強度を保つ仕掛け。 カラカラ帝の南側の建物群の近くで、他の外人ツアー客がカメラを向けていたので私も。先ほど初めてその形に気がついたのです。何と男性の象徴が。なるほどこの場所は娼婦の館の近く。輝いていました。観光客の皆さんが触って帰ること間違いなしでした。列柱の館。表面の溝がネジれた柱の後ろにある円い窪みは、水の貯留設備のようだが庭園の池のようなものか?柱の構造はレンガを重ねて作った円柱をローマン・コンクリートで固めてあるのだと。コンクリートはこの時代から始まったと。2000年以上、このコンクリートが剥がれていないと言うことなのであろうか?それとも修復?日本の新幹線の柱と大違い、興味は尽きない。「ヘラクレス功業の家」。ヘラクレスはギリシア神話上、12の功業を果たすことに。その苦行の様子をメダイヨン(楕円の枠)でそれぞれ描写したモザイク。ヘラクレス自身の大きなポートレイト。見事に残っているモザイク。冥府の番犬ケルベロスの生け取りの場面。怪鳥ステュンパデス退治。ケリュネイアの鹿の生け捕りの場面。モザイクのある家が続く。瓦礫をどけて最近発見されたという「漁師の家」や、ギリシャ神話のバッカスを描いた「騎士の家」と残されているモザイクを見て歩く。騎士の家。お酒の神様バッカスとその恋人アリアドネを描いたモザイク。バッカスがナクソス島でアリアドネを見つけた神話の一部を描いたモザイク。北の浴場跡。浴場のサウナ跡で実演する他のツアーの現地ガイド。ディオニュソスと四季の家。丸い枠の中に四季の擬人像が描かれていた。ワインのグレープとその葉っぱを頭につけた「秋」の擬人像。ヴィーナスの家。メリティの息子とされるヒラスがニンフたちに訓練を受けている場面とのこと。月の女神ダイアナが入浴中を狩人アクテオンに見られて驚き、怒っているところ。デクマヌス・マクシムス通り。古代ローマの都市の中心部を東西に貫く基幹道路のことを指すと。カラカラ帝の凱旋門が正面に。この道の下には下水道も完備していたと。デクマヌス・マクシムス通り沿いに並ぶ柱。デクマヌス・マクシムス通りの反対側。中央はタンジェ門。振り返るとカラカラ帝の凱旋門と列柱の館。 ローマ時代が鮮やかに蘇っていたヴォルビリス遺跡の見学を終え、出口に向かって歩く。屑篭も自然派で工夫が。人工物を許さない決意が。麻紐や竹籤で固定されていればBEST。ユネスコの世界遺産、ヴォルビリス遺跡の説明がアラビア、フランス、英語で。そして階段を上る。そして再び出口=入口に戻る。ここがチケット売り場。
2015.05.16
閲覧総数 183
40
青の階段も見事な陳列棚に変身。壁の薄い青と階段の濃い青のコントラストが美しい。色の溢れる物入れ。 建物も上半分が青ではなかったりする。ビルの2Fには連絡通路も。その下を進む旅友。 狭い路地の上には向かいの建物とをワイヤーで結び洗濯物が。そして壁には織物が垂れ下がっていた。やはりここにも、洗濯物さえもアートに見えてきてしまうほどの世界が。シャウエンの様々な色の塗料が袋に入っていた。 ピンクは室内用か?青の街はこの塗料で。 新芽の出た葡萄の蔓が狭い路地の上に。そして赤のモロッコ国旗が。グリーン、そして赤との相性も抜群。ベルベル人によって開拓されたのが街の始まりでレコンキスタ(国土回復運動)が盛んだった時代に、スペインを追われたユダヤ教徒やイスラム教徒がこの地に住み着き、街を再建。その時にユダヤの装飾である青に染められたと。大半のユダヤ教徒はイスラエル建国時にイスラエルへ移住。ちなみにイスラエルの国旗のデザインは白地に青。なるほど!!リヤド(個人の邸宅を改造したプチホテル)に立ち寄る。路地の中の小さなドアを開けると奥はびっくりするくらい広い。中庭にパティオ、3階建てのリヤド。 リヤドというのは、もともとは「中庭のある家」という意味のアラビア語。壁のステンドグラスもシンプルではあるが美しい。 天井にも。 床には五芒星ではなく八芒星のモザイクタイルが。 青の星も八芒星。クリスマスツリーの飾りでも見たことがある星の姿。静かな空間の先にはイスラムの窓が。 青の街の片隅の老人。街を歩くと道ゆく男性のほとんどがフード付きの長いコートを着ている事に気づく。下の写真に写っている男性もそうだが、これはDjellaba(ジェラバ)と呼ばれるベルベル人男性向けの伝統的な民族衣装。様々なデザインのものが土産物屋さんでも売られていた。フードの尖っている部分がまるで魔法使いのような雰囲気を醸し出し、シャウエンのおとぎ話のような紺碧の世界をよりいっそう非現実的なものにさせてくれるのであった。そしてウタ・エル・ハマム広場に出る。ここにはカフェ、土産物店が軒を並べていた。 南側にはカスバが 。そしてグラン・モスクが。中心には噴水と水のみ場が。レストラン 『CASA ARADIN』。我が家にいた猫にそっくり。 カフェのテーブルも青、青、青。店の店員の青年二人と雑談。見事な日本語で会話する青年にびっくり。旅友の女性と記念撮影。 Riad Assilah(中庭のあるホテル)の入り口。 再びカスバ。 壁には青き街の絵が描かれていた。 そして青の迷宮を後にしバスに向かう。メディナから静かな空間に戻る。長い観光の1日、青の迷宮の散策も終わり、ホテルに到着。旅友は皆、「青」に染まったか「青息吐息」でバスを降りる。ホテルからのシャウエンの夜景は旅の疲れもありピンボケ。そしてアルコールを部屋で楽しみ「ツイン ベッド」でそれぞれに爆睡。
2015.05.20
閲覧総数 119
41
まずはカタール・ドーハまでの飛行機QR1398便:20:15発のチェックインを各自済ます。このツアーをずっと案内してくれたモロッコ添乗員のマッスルール(マスオ)さんにお礼の挨拶をして別れる。これぞ一期一会。そして出国審査に。出発時間まで、免税店を散策し、レストランで旅友Sさんとビールを一杯。 そしてカタール・ドーハまではA300・通路側席で定刻出発。最初の機内食後はモロッコ国内を2200km移動した疲れも重なりうとうとと。3人席を利用して横になることが出来たのであった。そして再び爆睡。気がつくと既に飛行機はエジプト上空を通過し、紅海 からサウジアラビア上空に。そして着陸前に2回目の機内軽食。 飛行機は早朝5:45にカタール・新ドーハ国際空港着。ここからは飛行機を乗り換え羽田空港へ。新ドーハ国際空港での基本的な乗り継ぎ手順は以下の4ステップ!STEP1 空港でチェックインした際に黄色(乗換えは黄色)の切符入れを渡される。 (目的地がドーハなら青色)STEP2 ドーハ空港へ到着したら「Transfer」の看板を探す。STEP3 電光掲示板で乗り継ぎ便の出発ゲートを確認する。STEP4 出発ゲートまで移動する。以上極めてシンプル。 往路と同じく、黄色の巨大な熊のぬいぐるみの前で添乗員の説明を聞く。 帰国便は7:20発QR812便。帰路も最新のBoeing 787便。 後部座席はかなり空いていたため、座席を移動し、窓際3人席を独り占め。定刻の07:20に羽田空港に向けて飛び立つ。 最初の機内食。スーパードライをお代わりし再び爆睡。帰国後の時差ぼけを防ぐため、日本時間に合わせて極力睡眠をとるのが私のやり方。時にはドリエルの服用も。 そして気がつくとバングラデシュの首都・ダッカ上空。 2回目の機内食は和食料理が。 中華人民共和国江西省の省都・南昌市近くを通過。 眼下には格子状の道路の照明が。 上海上空へ。仕事で何回か訪問した無錫、上海上空を通過し東シナ海へ。 そして1時間後には日本上空へ。長崎空港上空を通過し有明海を通過し熊本県へ。 後はいつものコースで大島上空へ。 房総半島を横断し東京湾上空へ。 そして羽田空港へ着陸。時間は22:50。 出国手続きも簡単に終了し、モロッコ・カサブランカ空港で預けたトランクも無事回収。旅友、添乗員に挨拶し税関を通過し帰路へ。旅友のSさんは駐車場に迎車依頼のTEL。私はレンタルWIFIの返却場所へ。そしてSさんの車で45分で自宅に到着し、今回のモロッコ旅行は無事終了したのでした。 モロッコ国内を下図の赤いライン2200kmを8日間でバスで突っ走るツアーであった。 モロッコの自然の大きさ、厳しさ、美しさ、人々の素朴さ、ひたむきさ、建物、子供、ほこり、匂い、溢れる色…街も田舎も砂漠も、男も女も子供も老人もそれぞれの魅力一杯の旅であった。モロッコの8箇所の世界遺産のうち1.エッサウィラ旧市街、2.マラケシュ旧市街、3.アイト・ベン・ハドゥの集落、4.フェス旧市街、5.ヴォルビリスの古代遺跡の5箇所を訪ねる旅であった。各世界遺産を訪ねその歴史に思いをはせ我々と同時代を生きるモロッコの人々と交流し、体感した旅であった。世界遺産はモロッコという国をより味わい深いものにしていたのであった。1.エッサウィラは旧市街は、15世紀にポルトガル人によって建設され、当時はモガドールと呼ばれていた。街は西アフリカ沿岸におけるポルトガルの貿易と軍事の拠点として発展したのだ。そのため、この街はポルトガル、フランス、ベルベル人の建築様式が混在していた。2.マラケシュ旧市街は11世紀後半にムラービト朝の都として建設された街。旧市街の中心に位置するジャマ・エル・フナ広場では、連日たくさんの屋台がひしめき合い、広場の各所の曲芸師達が大道芸を繰り広げ、昼夜を問わず大勢の人で賑わっていたのであった。3.アイト・ベン・ハドゥの集落は、要塞として建設され集落全体が赤褐色の土で建設されていた。大地の色と一体化した建物と点在する草木の緑が独特の景観を生み出していた。そして危機的な遺産であることも実感したのであった。4.フェス旧市街の9世紀後半に建設されたカラウィーン・モスクはイスラミック・カラーである緑色の屋根をいただき、北アフリカにおける最高学府としてイスラム世界に広くその名を轟かせたのであった。そしてタンネリのなめし皮染色職人街の作業場には染色用の桶が並び、多くの男たちが3Kの中、懸命に働いていた。5.ヴォルビリスの古代遺跡は、モロッコ最大のローマ遺跡。広大な敷地に修復された公共広場、カラカラ帝の凱旋門、ユピテル神殿跡などが点在し崩壊したままのものも多いが、床面のところどころに鮮明なモザイクが見事に残っており感動の連続であった。そしてモロッコ観光で最も人気の高いサハラ砂漠エリアを訪れ、早朝のらくだツアーにも参加し場所や時間によって千差万別の表情を見せるサハラ砂漠の光景を堪能したのであった。モロッコには子供の多いことも実感出来る旅であった。15歳以下の人口の割合はモロッコ28%、そして日本13%と若い国であることを街の光景からも実感したのであった。しかし、平日の昼間に、特に農村部に多くの子供たちの姿を見かけたのであった。就学率の低さ、国民の識字率の低さがこの国の大きな課題であることも実感できたのであった。出発前には、過激派組織「イスラム国」(IS)の事件も頻発し、安全に対する心配もあったが現地では危険を感じる時間はまったく無く、親日的なモロッコの人々に出会う事が出来たのであった。女性添乗員を含めて25人のツアーであったが、女性人15人が皆賑やかであり、男性人はそれに着いて行くのに精一杯、しかし全員がpunctualであり、集合時間に待たされることが全くない楽しい和気藹々の旅になったのであった。それにしても歌にもある『♪♪ここは地の果てアルジェリア♪♪』の先にあるモロッコへの遠い旅であったのだ。帰国後1ヶ月に渡りこの旅のブログを毎日書き続けて来た。旅行記でもあるが、ある意味では自分のこの旅に対する備忘録として、多くの写真から旅の思い出、モロッコの人そして風景を懐かしく思い浮かべながら、なるべく詳しく書き続けたいと思っていたのであった。そして次回の旅行は、『ブータン』と旅友のSさんの口から。 ---------------------------完------------------------------------
2015.05.24
閲覧総数 163
42
更に目黒不動尊(瀧泉寺)の散策を続ける。本坊・阿弥陀堂の左手(北側)にある観音堂。外の赤い幟(のぼり)には、「千手観世音菩薩」と。地蔵堂。元禄に造られたという地蔵堂には地蔵菩薩が。春洞西川先生碑。西川春洞は江戸生まれの書家。佐賀県生。唐津藩医元琳の子、寧の父。名は元譲、字は子謙、別号に稚学園・茄古山民・大夢道人等。春洞流は書道界に一大勢力を誇っていると。精霊堂。精霊堂には、六地蔵と地蔵菩薩、そして本坊地蔵堂と同じように閻魔大王と脱衣婆が祀られていた。六地蔵の頭上の壁面には「地蔵和賛」が書かれていた。わりと急な男坂階段の右側には緩い女坂の階段が。女坂の途中には、修験道の開祖 役の行者小角の銅造像があった。寛永8年(1796年)太田駿河守藤原正義作、目黒区指定文化財。足腰健全のご利益があるそうで、徒歩での散策が好きなの私はしっかりと膝を撫でて来ました。これも女坂沿いにあった神変大菩薩。 ここでも水の音が。シャチの水口。おそらく、屋根瓦の古いものの再利用であろう。男坂横から境内を。 毎月28日(この日)の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れるのだと。垢離堂。垢離堂は密教で如意輪観音の化身とされる神である青龍大権現を祀っていると。前不動堂は改修工事中。独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、当時には将軍や大名たちも参拝したが、その際は一般参詣客は大石段を登ることは許されなかった。そこで、そのような場合でも一般参詣客が一応不動詣でが出来るようにと大石段の下に前不動堂を建立したと。 甘藷先生祈念碑。目黒不動尊には、サツマイモの栽培を広めた青木昆陽のお墓と「甘藷先生碑」があった。サツマイモは、江戸時代に琉球から薩摩を経由して日本に入ってきたが、やせた土地でも栽培できたことから、飢饉の時の救荒作物として重宝されたと。毎年10月28日には遺徳をしのんで、甘藷祭りが開かれ、サツマイモや大学イモを売る店が出て、大勢の参拝客でにぎわっていると。 北一輝先生顕彰碑。北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した人物。高さ約3m程の可成り大きい碑で、上に横に「北一輝先生碑」と彫って有る が、これは、生前一輝と親しかった、国民党の外交部長であった張群氏による 書だと。碑文は大川周明に依るものであると。 勢至堂。 江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されていると。本居長世の碑。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送り出した。特に大正9年(1920)、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられた。本居長世はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜にこの瀧泉寺の境内を散歩しながら想を練ったのだと。腰立不動。 妙なる力に おこされて 二度(たび)世に立(たつ) 不動尊かめの祝の 末広く 朝日ののぼる みごとさで東都のつどい 善男女 すくいとらすぞ 妙なる力山不動と呼ばれる腰立不動は立身出世の不動尊。仁王門から左手の一番奥にある結界の三界萬霊供養塔。三界とは、欲界、色界、無色界、万霊というのは欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界を指している。それらを供養することが三界萬霊塔の役目で、ここでは地蔵菩薩がその役目を担っていると。北向六地蔵尊。東日本大震災慰霊として建立されたと。朱の三福神鳥居。 金明湧水福銭洗い。右手が豊川稲荷、左手が三福堂・山手七福神の恵比寿神が奉られていた。 「目黒不動尊 瀧泉寺」と刻まれた社号標。 天台宗泰叡山(たいえいざん)瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称 「目黒不動尊」 と呼び親しまれているのだ。仁王門の前には狛犬が護っており、階上には韋駄天が祀られているとのこと。仁王門。仁王門は三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和三十七年(1962)再建の鉄筋コンクリート造り。那羅延金剛像(阿像)。密迹金剛像(吽像) 境内と正面の男坂手前には「釈尊降誕会」 の横幕が。仁王門の裏側には石膏製の真っ白な狛犬(阿像) 吽像。 仁王門手前の「比翼塚」。比翼塚は愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚。この塚は鳥取藩士平井権八とその愛人だった吉原の遊女小紫の二人を哀れみ建てられた。 平井権八は金を奪ったために鈴ヶ森の刑場で処刑され、愛人だった遊女小紫が後を追って自害した。この平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、白井権八のモデルとなっていると。 権八・小柴の悲話を伝える比翼塚の説明板は更新が必要か。
2017.06.01
閲覧総数 219
43
【海外旅行 ブログリスト】👈リンク10月12日(金)から6日間の日程でカンボジアに観光旅行に行って来ました。参加したツアーは阪急交通社trapicsの『ANA往復直行便利用(成田⇔プノンペン)!カンボジア縦断満喫周遊6日間』NETで『地球の歩き方』と中古本の『アンコール・ワット』を購入し予習する予定でしたが、なかなか・・・・・・・。市立図書館からも。世界遺産に登録されている、アンコールの巨大遺跡群があることで有名な人気観光地、カンボジア。世界中の観光客を魅了するアンコール・ワットをはじめ、『天空の城ラピュタ』の世界を彷彿させる遺跡や湖上生活をする人々の暮らしを見たり、首都プノンペンでは王宮巡りなど、魅力的な観光スポットを巡る旅なのであった。今回もいつもの年季の入ったトランクとリュックで。出発の朝は、起床時には雨音が。前夜に天気予報で早朝の雨の予想を知り、慌ててタクシー会社にTELするも既に遅しで3社とも全て予約済みで配車出来ないとの返事。雨の中15分ほど小田急線の駅までトランクを転がして行くことを決断しトランクにビニール袋を被せ、リュックも雨カバーで覆い出発時間を待っていたが、突然に雨が止んだのであった。時間は30分近く早かったが慌てて自宅を出発し、駅まで必死に歩く。そしてなんとか雨を避け駅に到着することが出来たのであった。当初は始発の次の電車を利用する予定であったが始発の5:19発に乗車し藤沢駅へ向かったのであった。そして予約しておいた成田空港行きの高速バスに乗車。時間は6:05。茅ヶ崎始発で藤沢、戸塚駅を経由し湾岸線、東関東自動車道を利用して約2時間15分で成田空港に到着するバス。金額も3000円と大船駅からのJR成田エクスプレスよりは格安。茅ヶ崎駅からは5名が乗車、そして藤沢駅からは4名が乗車し国道1号線を利用して戸塚駅へ定刻に。そして戸塚駅からは6名が乗車し出発。湾岸線の長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)、横浜ベイブリッジが斜め前方に見えて来た。しかしこの辺からノロノロ渋滞が鶴見つばさ橋付近まで。大黒ふ頭を通過。右手に海浜幕張のビル群が。そして定刻よりやや遅れて8:40に成田国際空港第1ターミナル4F出発ロビーに到着。集合時間は8:50、南ウィングKカウンターの阪急交通社のカウンターに到着。ここでカウンター説明員からチェックインやカンボジア・プノンペン空港までの旅程の説明を受ける。今回の格安ツアーは日本からの添乗員はなしで現地添乗員のみのツアー。今回のツアーは、約10年前のスペイン旅行でご一緒し、その後も中欧や国内紅葉巡り等にも一緒に旅行している横浜にお住まいのUさん、愛知県にお住まいのKさんと3人で参加を申し込んでいたがKさんは私用で残念ながらキャンセルされたためUさんと二人での参加。予めANAオンチェックインを済ませていたため、短時間でチェックインも完了し、ドルへの両替を済ませて、出国手続きも順調に進み出発ゲート・52に到着。途中、カンボジアのホテルの部屋で楽しむウィスキーを免税店で購入。利用便はANA直行便・NH0817便 10:50発 カンボジア・プノンペン(PHNOM PENH)行き。予めネットで座席指定して窓側からの並び席を確保していたが、通路側は空席であったのでUさんは通路側に移動。約10分遅れで離陸に向けて搭乗口を離れる。そして11:27に成田空港を離陸し、カンボジア・プノンペン国際空港に向かって飛び立つ。成田(東京) - プノンペン間の距離は約2,780マイル、約4,470Km。フライト時間は6時間20分とのこと。成田市街地が眼下に。利用便はボーイング787。離陸後30分ほどでビールを。そして昼食。離陸から約1時間の11:27。B:シーフードのトマト煮込み バジル風味 を楽しむ。そしてバニラアイスクリームも。遠方に大きな島が見えた。フィリピン ルソン島か?ベトナム都市『クイニョン』上空。ベトナム中部,ビンディン省の省都。ホーチミン市の北東約 400km,南シナ海沿岸の港湾都市で,南から北に向って細長く湾入するクイニョン湾の湾口部西岸に位置する。ベトナム南中部の海岸沿いに位置するフーイエン省。世界的にも名高い美しい湾や、断崖絶壁のGành Đá Dĩa(ガン・ダ・ヂァ)などの景観を誇り、かつての「海上のホーチミン・ルート」のなごりを残すなど、観光名所も多い。そしてベトナム国土を横断しカンボジア上空へ。蛇行する川。メコン川。メコン川沿いに拡がる水田地帯。プノンペン空港に向けて着陸態勢に。トレン・サップ川に架かるブレック・ボフ橋。Koh Dach(コーダッチ)はメコン川の中州。そしてプノンペン国際空港に着陸。時間は15:20。プノンペン空港はプノンペン市街から西に約7kmに位置し、首都の空の玄関口として機能。1995年からフランス(ヴァンシ・エアポート)・マレーシアの民間共同体の手でBOT方式による空港施設の近代化が図られ、2001年の完成後は大型旅客機の就航も可能となったと。利用便 B787。そして空港ロビーで待っていてくれた現地添乗員 Mr.MOUNG BUNTHOEUN(ブントゥーン)氏に合流。トゥーンと呼んでくれと。今回のツアーは女性5名のグループと御夫妻1組そして個人参加男性5名、女性個人参加1名の合計13名と判明。空港ロビー正面。空港前にはカンボジアの伝統舞踊であるアプサラ・ダンスを踊る姿の像が。雲一つ無い青空。 ・・・つづく・・・
2018.10.18
閲覧総数 297
44
『旧東海道を歩く』ブログ 目次日蓮宗の『法船寺』に向かう。この酒匂地区には法船寺の外に法秀寺、法善寺、本典寺、妙蓮寺などの多くの日蓮宗寺院があった。『済度山 法船寺 山門』。寺であったが山門には注連縄を張ってあった。そして本堂にも。境内にあった『常守稲荷』『六地蔵』。『日蓮聖人像』。日蓮上人と地蔵堂。『日蓮聖人御開眼 御手引地蔵尊天』と書かれた札が。「文永十一年五月十二日、日蓮大聖人は、鎌倉より身延山御入山の途中、酒匂川増水の為、渡る事不得口却せられる時この境内の大きな松の木に龍燈の霊光あり不思議に思ってお入りになるとその折、一老翁出現、宗祖と御弟子一行に御一泊乞う。当時お地蔵尊お守りせしお堂にお泊めいたし、お出迎の老翁は、お地蔵尊化身である事を知り堂守飯山入道夫婦日蓮大聖人に深く教化せられ改宗して済度法船居士蓮慶妙船大姉の法名を頂く。翌朝十三日船を出し御一行無事にお渡し致し後、法孫朗慶上人一寺を創立、済度山法船寺と号す。龍燈の松の枝にて、宗祖の御尊像を刻み本堂に安置す。この地は龍燈の松の木の旧地なりこのお地蔵様は、日蓮大聖人お手引きして無事向岸へお渡しせし不思議なお地蔵様ですお手引き地蔵として参詣の人たちがたえません。毎年五月十二日(母の日)小田原寺院総出仕稚児行列にて交通安全、家内安全大祈祷会大祭が行われております。日蓮大聖人、自ら足をお運びになった霊跡なり。」『水子地蔵尊』。『鐘楼』。『法泉寺 五重塔』1994年には立教開宗750年の記念事業として五重塔のミニチュアを完工。総高6.8m、総檜本瓦葺きの本格建築で、横浜日吉天野工務店施工。総工費約7500万円、とのこと。木造で瓦も本物!全部に紋が入っていた。1300人からの浄財で建てられたと。そして旧東海道を更に進み連歌橋交差点前まで来た。更に進むと酒匂橋東側交差点が目の前に。酒匂川(さかわがわ)に架かる『酒匂橋』を渡る。酒匂川の土手には記念の石碑として広重の絵がはめ込まれていたのでズームで。『東海道五拾三次 小田原 酒匂川』小田原は9番目の宿で、日本橋より二十里半(約82キロ)・徒歩二十時間である。小田原宿は江戸を出て初めての城下町である。また東海道最大の難所、箱根峠越えを前にして、多くの旅人が江戸を出て二日目に宿泊する場所でもあり、宿泊客が多く、東海道有数の大きな宿場として栄えた。広重は、小田原の手前の酒匂川から箱根の峯々を望み、その手前に小田原城と小田原の宿を描いている。酒匂川では蓮台渡し、水切り人足に先導された十数人で担ぐ大名駕籠をのせた大高欄蓮台、槍持ちの肩車などの川越の様子を描いている。江戸時代には江戸防衛政策の一環から大井川をはじめ橋が作られなかった川の一つが酒匂川。増水すると川止めになったようです現在の国道一号線の橋の少し上流側を渡ったようですが、雨が続き増水すると江戸時代の旅人は、足止めを食っていたのでしょう。左手に西湘バイパス、そして酒匂海岸と相模湾。酒匂橋から富士山の白き頂上下が僅かに見えた。正面に箱根~湯河原方面の山々の姿が。白鷺の姿も。酒匂川、相模湾の水面が輝く。渡って来た酒匂橋を振り返る。酒匂橋を渡り終わり暫くしてから左折し『新田義貞の首塚』を探す。ようやく見つけたがここの立て札のみしか見つけることが出来なかった。「建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。そして住宅街の狭い道を戻り再び国道1号線に戻る。そして『常顕寺(じょうけんじ)』を訪ねる。『本堂』。そして次に訪ねたのが『呑海寺』。住宅街の狭い参道を進む。『本堂』。臨済宗大徳寺派の寺。寄棟造り屋根、平入り、流れ向拝。祠の中の石仏。御本尊の『南無釈迦如来』。『六地蔵』。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑の先にも寺が。太い石柱の山門の先に境内、奥に本堂。境内社。『本堂』。銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。向拝の軒樋の雨水が大きな水甕に排水されていた。本堂のガラス戸のお印は黄金色。この辺りは寺町であったのだろうか?次に訪ねたのが『昌福禅院』。風情ある白壁の参道。参道の白壁沿いの『六地蔵』。『山門』『本堂』。『無縁仏塚』白壁の前には様々な石碑が立っていた。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.10
閲覧総数 389
45
『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道・国道1号線を小田原城に向かってすすむ。小田原市東町1丁目の右奥にある『心光寺』を訪ねる。『山門』。間口の広いすっきりとした意匠の山門。本柱が棟木に達し、腕木が軒桁を支える高麗門形式。通常、無骨な内法貫が本柱を貫通しているが、ここでは装飾的な虹梁+禅宗様木鼻の組み合わせ。『浄土宗 月密山 護年院 心光寺(しんこうじ)』 『本堂』コンクリート造の本堂。寄棟造り屋根妻入り、流れ向拝。コンクリート造の特性を生かし、薄い屋根が深々と持ち出され、さらに、先端で反り上っていた。中央両脇の、大きなスチールサッシが寺院の本堂にしては珍しかった。。『鐘楼』。『水子供養像』。多くの鯉が泳ぐ池の先にあったのが『薬師堂』。『無縁仏塚』。『六地蔵』。本堂を横から。そして再び国道1号線を歩く。右手に『浄土宗 道場院』。『本堂』寛正元年(1460)転蓮社乗譽道場弘尊の建立と伝えられのみで、開基並びにその背景については記録を欠き詳らかでない。当所新宿町建立されたが、寛永10年(1634)新馬場に移され、正保元年(1644)更に山王原に転じたと。松原山宗福寺と号す。浄土宗の寺で江戸芝増上寺末。本尊は阿弥陀如来。 足柄観音十八番札所。『阿弥陀如来像』。『松原山』と書かれた扁額なのですが・・・。吉川弘二 の詩 『心』「幾歳世末の末まで忘れめや 尊き父母の 愛の広さを春夏秋冬 善樂あり 老境思えば 夢のまた夢我事を成し得て 祖先にまみえん此の身は土に 換えるとも」『観世音 お慈悲を 松に母を 見ん』か?そして山王橋交差点へ。流れる川は山王川。山王橋を渡って右側にあったのが『山王神社』。小田原城の山王曲輪(くるわ)であった場所。境内の『忠魂碑』。『旧山王原村の図』山王原村(東町1丁目)は1830~44年(天保年間)で31戸、1887年頃は50戸。『新編相模國風土記稿』では「長吏、道場院の北、見捨地七段十四歩に住す。家数三十一、長を太郎左衛門と稱す。外に非人一軒あり。白山社、長吏の持なり」と記載があると。山王原村太郎左衛門は、後北条氏の支配圏内における長吏の触頭であったが、同氏の滅亡と江戸幕府~弾左衛門体制の確立に伴う下古沢太郎右衛門の台頭により、支配域を酒匂川以西の地に限定されていった。明治中期には横浜に200軒の借家を所有していたとのこと。1910~40年頃まで存在した麻撚り工場(小西家)は元小頭一族の家。『星月夜の社 山王神社』。神社の由緒は明応4年(1495年)、北条早雲が当時の小田原城主の大森藤頼を破り、城を手中に納めた頃はこの神社は海辺にあったのだと。高波で崩壊したため、慶長18年(1613年)に、ここに移されたと。神社が海辺にあったときに星月夜ノ井戸があり「星月夜の社」と呼ばれていたと。ちなみに井戸もここに移されたと。小田原のお祭、例大祭は毎年5月3日から5日にここ山王神社でも行われるのだと。『拝殿』。御祭神は大山咋命 ( おおやまくいのみこと ) 大山祇命 ( おおやまつみのみこと ) 少彦名命 ( すくなひこなのみこと ) 。そして山王神社の隣にあったのが『宋福寺』。『本堂』。『犬渕山宗福寺』と書かれた扁額。門を入って右側に寛文7年(1667年)、正徳6年(1716年)などの庚申塔3基や石塔が並ぶ。何基かの海難漁師の供養塔も建てられていた。『山王大権現』。山王大権現は宗福寺の鎮守だったのだと。『水子地蔵尊』歴史を感じさせてくれた宝塔。そして、日本橋まで(から)83Km。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.11
閲覧総数 413
46
更にジャカランダの花を追いかける。ラッパのごとき藤色の花。その形がファンファーレを吹くトランペットを連想させることから「栄光」「名誉」という花言葉がつけられたと。その神秘的な紫色は高貴な色とされ、王室をイメージするとも。熱海から高速船で30分の初島(はつしま)の全景。初島は、ここ静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もあると。熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住していると。「梅雨の時期は熱海の閑散期にあたるので、ジャカランダが新たな魅力になれば」と期待をかけて植え付けたを始めたのだと。熱海のジャカランダの知名度がだんだん上がってきており、「全国ネットのテレビ番組で取り上げられたことも多くなった」と。三密?のジャカランダの花。「ジャカランダの花が頭に落ちると幸せが訪れる」との言い伝えがあると。移民として南米に渡った日本人が、桐の花に似ていることから「桐擬き」と呼んで愛した花だと。また,ハワイでは日系人が日本の桜に思いを馳せ,「ハワイ桜」や「紫の桜」と言われていると。なるほど筒状に咲く一つ一つの花は、我が家の前の畑に植えてある桐にソックリ。ポタポタと落花する様子も良く似ているのだ。南アフリカのツアーが最も人気が出るのがジャカランダの時期・10月。プレトリアでは街全体が紫色に染まり、まるで花のトンネルをくぐっているような気分に!。日本の桜の「青紫」版。「お宮緑地」のゲートを潜って、国道135号線沿いにUターン。「お宮緑地」の入口ゲートを振り返る。ブーゲンビリアの花がここにも。熱海の風景をテーマにしたお宮緑地の石碑を楽しみながら歩く。「長谷寺山門」、見落としたので旅ともSさんの写真をコピペ。熱海にも「長谷寺」があることを知ったのであった。「錦浦景勝」。このジャカランダは何故か葉が少なく、元気がない?奥にはユニークな形の石造りのオブジェが。ジャカランダと熱海城。国道135号線の歩道を進む。「湯~遊~バスのりば お宮の松」。熱海の観光スポットを約45分でぐるりと巡る「湯~遊~バス」の停留所。「4月22日~当面の間、運休」の張り紙が時刻表の上に。伊豆東海バスは、「湯~遊~バス」に4月1日から新型専用車両を導入したと。 【https://news.mynavi.jp/article/20200319-yuyubus/】より「サンビーチ 花火大会」。「熱海サンビーチ案内図」。ジャカランダと椰子の木。「来宮神社」。この後、「来宮神社」を訪ねたのであった。「お宮の松」前まで戻る。正面にジャカランダの大木。その下には「明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説「金色夜叉」は、明治30年(1897)1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こした。 ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継に見染められた。しかし、宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者間貫一がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知の上で富山の求婚を受け入れたことにはじまる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌 熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限りが広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになり、今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に金色夜叉が大きなきっかけになったのは言うまでもありません。 金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「一月の十七日来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜・・・・十年後の今月今夜・・・・」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくでしょう。 紅葉は、37歳の若さで死去し金色夜叉はついに未完に終わったが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成された。 熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われる。貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61年(1986)年1月17日熱海市に寄贈したものです。」再びジャカランダと椰子の木。これぞ「熱海」の光景。「梅見の滝」熱海市の全国的に知られる観光名所である「熱海梅園」内にある、四季の移ろいが感じられる滝。「姫の沢公園」。「姫の沢公園」は、市街地中心部より北西約5キロメートルに位置し、四季を通じて花と緑を楽しんでもらうように造られた自然を基調とした総合公園であり、園内には、四季折々の花木はもとより、アスレチックコースなどが整備され、家族連れで自然に触れ合いながら一日中楽しむことができると。熱海の初夏を告げるジャカランダ。ATAMIジャカランダフェスティバル2020の開催はもちろん中止。「貫一お宮」。「尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の名場面。主人公貫一とお宮の別れ場面に熱海海岸が登場し一躍有名になった。現在の像は昭和60年に建立された。」椰子の木のテッペンから熱海の海岸を眺めてみたいと。「中山晋平記念館」。「大衆音楽の普及に大きな役割を果たした作曲家中山晋平の業績を偲び、晋平が晩年を送った住居をそのままの形にて遺品とともに梅園内に保存されています。」「大湯間歇泉」「お湯が音とともに噴出し、周囲に湯気とイオウの臭いを立ちこめる大湯間隙泉。関東大震災により噴出が不規則になり現在は復旧工事にて人工間歌泉となった。」「熱海」と書いて、「あたみ」と読むこの地名の由来は、海中より温泉が凄まじく沸きあがり、海水がことごとく熱湯となったため、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「あたみ」と称されるようになったと。「澤田政廣記念館」。「熱海が生んだ芸術家澤田政廣。九十三年間の生涯における作品は、木彫、油絵、陶芸、書、リトグラフ等と極めて多彩であり、津田芸術の集大成がここに展示されています。」青空であればと我儘に。「伊豆山神社」。「伊豆に流されていた源頼朝と北条政子が、ここで忍び逢い結ばれたことから、縁結びの神様として人々に親しまれているロマンあふれる神社です。」この「伊豆山神社」👈リンク は昨年2019年2月に訪ねたのであった。「中央交番」前まで戻る。「光る海」熱海。「熱海サンビーチ」。「熱海ムーンテラス」。サンビーチから南に続く親水公園。熱海市が北イタリアのサンレモ市と姉妹都市であることや、地形と街並みが似ていることから、 地中海北部のリゾート地のイメージで整備されています。「南欧・コートダジュール」をイメージした「スカイデッキ」はレンガで、 「北イタリア・サンレモ・リヴェラ海岸」をイメージした「レインボーデッキ」は「石」を基調につくられ、渚小公園とペデストリアンデッキで結ばれたエリアは、「南イタリアのナポリ海岸」をイメージ。「釜鳴屋平七夫婦像」。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」階段を降りて「熱海ムーンテラス」を再び。熱海ムーンテラス 恋人の聖地のモニュメント。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインらしい。熱海ヨットハーバーと熱海後楽園ホテル、そして山の上には「熱海城」が。錦ヶ浦の山頂にそびえる「熱海城」は、歴史的に実在した城ではないのです。桃山時代の建築様式を模して、昭和後期に建てられた観光城なのだ。最後にアガパンサスを愛でて車に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.06.18
閲覧総数 232
47
『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク鎌倉市大町の住宅街を東に向かって進む。「花咲橋」を渡る。下を流れる川は「逆川(さかさがわ」。更に進むと左手にあったのが「花ヶ谷花咲地蔵尊」。石の祠の中に安置され、さらに屋根が懸っていた。鎌倉市大町4丁目14−8。扁額「花咲地蔵尊」。「花咲地蔵尊縁起」碑が建っていた。「嘉禄元年(1225年)足利直冬ガ祖先ノ菩提ヲ弔フタメニ此ノ谷ニ慈恩寺ヲ建立シ境内ニ四季花ノ絶エナイヨウニ植エタノデ花谷ト呼ブ此ノ地蔵尊ハソノ境内ニ祀ラレタモノト伝エラル昔ヨリ多クノ里人ガ親シク信仰セラレマシタ」。大町花ヶ谷にあった慈恩寺は、足利尊氏の子直冬の菩提寺だったといわれている。「足利直冬」👈リンク の生年はわかっておらず、没年は1387年とされている。幼名は新熊野(いまくまの)。足利尊氏の次男として生まれ、兄に竹若、弟に義詮、基氏らがいる。尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した時、鎌倉にいた竹若、直冬は命の危険にさらされる。1332年、竹若は北条の手にかかり殺害されてしまうが、東勝寺の喝食をしていたとされる直冬は生きながらえた。そのため、実質的な長子と考えられる。境内には、数百種の草花が植えられ、四季を通じて絶えることなく花が咲いていたため、慈恩寺のあった谷を「花ヶ谷」と呼ぶようになった。慈恩寺は、1323年(元亨3年)にはその存在が確認されていることから、鎌倉時代後期には創建されていたものと考えられている。開山は桂堂士聞という説もあるが定かではない。花ヶ谷の花咲地蔵尊は、慈恩寺の境内に祀られていたと伝えられている。ズームして。祠の左後方には五輪塔が並んでいた。更に進むと大町4丁目にあった橋の袂にあった案内板。真っ直ぐ進むと「釈迦堂口切通」👈リンクであったがここも以前に訪ねており、現在でも通行禁止になっているようであった。そして右に行くと「黄金やぐら」。200m先の「黄金やぐら」に向かって進む。「逆川」に沿って進んで行った。前方左に青のフエンスが現れた。事前チェックでこの場所が「黄金やぐら」のある場所と確認済み。「黄金やぐら「やぐら」とは、13 ~ 15世紀に鎌倉地方で流行した墓の一様式です。やぐらの内部の水中に光ごけが発生し、のぞくと黄金色に輝いたことから黄金やぐらと名づけられたといわれています。」鎌倉市大町7丁目。「凹地」の隅に「やぐら」らしきものが確認できた。入口には雑草が生え、「やぐら」の中は確認できなかった。そして来た道をひたすら戻ったのであった。そして正面に「山門」らしきものが見えて来た。「ここは妙法寺」と。そしてここが「妙法寺」の「山門」入口。鎌倉市大町4丁目7−4。「妙法寺(みょうほうじ)ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を批難したため草庵が焼き打ちされた「松葉ヶ谷の法難」の場所もこのあたりであるとの伝承があります。のちに護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる)(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。● 宗 派 日蓮宗● 山号寺号 楞厳山妙法寺(りょうごんざん みょうほうじ)● 建 立 延文2年 (1357)● 開 山 日蓮聖人(中興開山 日叡上人)」「妙」の漢字が入る鎌倉市内の日蓮宗関連の寺は妙法寺、妙長寺、妙典寺、妙隆寺、妙本寺、妙法寺(大町)、妙法寺(山崎)、妙伝寺、妙信教会、妙法教会の十寺。臨済宗建長寺派の寺として、妙高院、浄妙寺のニ寺 があるのだ。「境内案内図」。 【https://omairi.info/2018/08/29/myouhou-tpl-keidaisanpo/】より「文学案内板 妙法寺境内〇 汾陽(カワミナミ)昌子句碑 鵯されば笹子しづかに来てをりし 晶子 昭和63年8月 妙法寺四十四世日新建立 晶子(1922年生まれ、虚子門下。青苔句会主宰)〇 星野立子句碑 美しき苔石段に春惜しむ 立子 昭和58年6月 妙法寺四十四世日新建立 立子(1903-84、『玉藻』主宰)〇 桃林坊・日慈・牛長句碑 当山参詣の折柄御宝前の鏡に、富士山のありありとうつりまししを拝して 露しぐれはれて鏡にむかふ富士 桃林坊 小春となりの海のおだやか 当山三十三世 日慈 松か枝のさか行月にかり寝して 二世 牛長 嘉永元年8月 東都駒込高崎屋本店建立」「松葉谷御小庵霊跡 妙法寺」碑。前方右手に拝観受付。コロナ禍の影響で閉まっていた。臨時休業のお知らせ本日はご参拝いただきまして誠にありがとうございます。この度当山は、新型コロナウイルス感染拡大の防止の為、当分の間、奥の院(苔の石段等)への観光をお休みいたします。朱印・首題もお休みします。参拝の皆様 檀信徒 従業員 寺族の安全を確保するための処置です。ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。 当山山主その先の寺務所にも同様な掲示が。汾陽(かわみなみ)昌子句碑「鵯(ひよどり)されば笹子(ささこ)しづかに来てをりし 晶子」昭和63年8月 妙法寺四十四世日新建立晶子(1922年生まれ、虚子門下。青苔句会主宰)「本堂」。鎌倉に入った日蓮が結んだ庵は「法華堂」と称され、その後、本国寺として創建された。その本国寺は、鎌倉幕府滅亡後、第四祖日静の代に足利尊氏のすすめによって京都に移され、その跡地に日叡が妙法寺を建てたのだという。現在の「本堂」は、肥後細川家が江戸時代に建立したもの。格天井や板戸の画は当時のままだといわれる。鎌倉妙法寺とは、日蓮「松葉ヶ谷草庵」跡を自称している日蓮宗寺院。楞厳山妙法寺という。日蓮の「松葉ヶ谷草庵跡地」としては、鎌倉・「安国論寺」以外にも、いくつかの説があり、そのうちのひとつがここ鎌倉・「妙法寺」である。見事な「本堂」の向拝の彫刻。「本堂」の扁額「楞厳山」。寺務所。そして「惣門」。この日は閉まっていた。隙間から「仁王門」への参道、石段を見る。そしてこの日は新型コロナウイルス感染拡大の防止の為、当分の間、奥の院(苔の石段等)への観光をお休みとのこと。よって、数年前の同じ時期?に訪ねた時の写真を掲載します。「大覚殿」「大覚殿」の内陣には、中央に釈迦如来立像、向かって左に妙法稲荷福禄大明神、向かって右に木造加藤清正公坐像が安置されている と。加藤清正公坐像は、もともと熊本城天守閣に安置されていたが、加藤家の後に熊本藩主となった細川家より寄贈された と。「仁王門」。「仁王像」(右)。「仁王像」(左)。「扇塚」。仁王門の傍らに建てられた塚。「扇塚」の字は、作家里見弴の筆によるもの。4月には、使い古された舞扇を持ち寄って供養し、歌舞の上達を祈念する扇供養が行われているのであるが今年も・・・・?。「苔の石段」の斜面には、鎌倉で過ごした俳人・星野立子の句碑があった。「美しき 苔石段に 春惜しむ 立子」。そして「苔の石段」仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」、「苔の寺」とも呼ばれる。苔の保護のため通行止めとなっており、脇に新しい階段が作られているのであった。「化粧窟」。左に「苔の石段」、右手の「法華堂」への石段を上って行った。「仁王門」を裏側の石段の上から見る。「法華堂」。「法華堂」を横から。「日叡上人御手植えのソテツ」。法華堂の隣、苔石段の上部正面には、釈迦堂跡があり、釈迦堂跡前を真っ直ぐ進むと鐘楼があった。「奥の院御小庵趾」。釈迦堂跡左手、鐘楼脇の階段上にあり、日蓮が20数年に渡って住んだ松葉ヶ谷草庵跡とされる。「南の方御墓」。 南の方は日叡上人の母。「楞厳山親王日叡上人御墓」。「日蓮聖人塔」が手前に。「護良親王(大塔宮)御墓」後醍醐天皇第三王子であり中興開山・日叡の父である護良親王の墓。小庵趾より右手に登った山頂にある。なお、護良親王の墓とされるものは鎌倉市二階堂の「理智光寺跡」👈リンク にもあり、そちらが正式な墓として宮内庁管理下にある。護良親王御墓は、後醍天皇第三皇子の御墓。御年二十八と若くして亡くなってしまった。護良親王御墓から先は行き止まりなので、階段を下り御小庵趾まで戻り更に石段を下ったのであった。そして「妙本寺」を後にして、「安国論寺」へと向かう。「妙法寺道」の四辻の両脇には石碑が。右に「高祖御小庵之本土」碑。題目碑「南無妙法蓮華経」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.31
閲覧総数 467
48
「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」を渡り「昭和通り」の反対側に向かう。階段を降りると、ここにも「汐留遺跡」の礎石が展示されていた。「間知石(けんちいし)と切り石(汐留遺跡)四角錐の形をした間知石と、板状に加工された切り石は、大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていたものです。 東京都第一建設事務所」「間知石(けんちいし)」。「間知石」とは、土留めや石垣のような擁壁(ようへき)に使われる土木建築材料。花崗岩などの石材を約30cmの大きさで四角錐状に加工したもので、壁面が崩れないように横長になっています。ちなみに、間知石の名前の由来は6個並べるとちょうど1間(けん)分の180cmになるからと言われています。1間を知ることができる石ということ。「間知石」が放射線状に置かれていた。「汐留」の地名は、江戸城外堀と海を仕切る「土橋」に設けられていたため、ここからは海の水が外堀に入り込めない、つまり「汐が留まる」ことから付近の地名として使われるようになったもの。これは寛永年間(1624年~1644年)以後のことで、「汐留」の名は、近世とともに生まれたといえるのだ。反対側にあったのが「手水鉢」(汐留遺跡)。「手水鉢」(汐留遺跡)龍野藩(兵庫県)脇坂家上屋敷内、祠の参道から出土した手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・〇月吉〇」など、当時の屋敷内が偲ばれます。 東京都第一建設事務所」手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・〇月吉〇」「現在地」はここ。銀座8丁目の花椿通りと昭和通りが交差する「銀座東七丁目」交差点角の「銀座三井ビルディング」の前。 東京都中央区銀座8丁目13。「東銀座」方面に「昭和通り」に沿って進む。アジサイの街路樹が美しかった。近づいて。「銀座東五丁目」交差点を右折。「J-POWER 電源開発 本店」。先程訪ね忘れた「佐久間象山塾跡」前にあった「狩野画塾跡」に再び。「狩野画塾跡所在地 中央区銀座五丁目十三番付近江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれもいずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とし、「鍛冶橋」、「木挽町」、「中橋」と「浜町(木挽町の分家)」の四家すべての拝領屋敷が区内にありました。木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召しだされ、竹川町(現在の銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。その後、六代典信(合は栄川、栄川院ほか)の時に老中・田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸西南角にあたる当地に移って画塾を開きました。奥絵師である狩野四家の中で、もっとも繁栄した木挽町狩野家は諸大名などからの制作画の依頼も億、門人が数多く集まりました。門人のほとんどは、諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四から十五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行後は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出されていますが、明治の近代日本画壇に大きく貢献した狩野芳崖や橋本雅邦などは、ともに木挽町狩野家十代・雅信の門下生です。 令和三年七月 中央区教育委員会」「安永年中之形」『幕府内沿革図書』そして次に訪ねたのが「森田座跡」。「日本橋芝浦大森線」を進むと自転車のある場所に「案内板」。東京都中央区銀座6丁目14。「森田座跡江戸時代、この地には官許の芝居のうち、江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋がありました。この辺りは木挽町五丁目と呼ばれており、森田座のほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座がありました。これらの周りには芝居小屋が集まっており、賑わいを見せていたようです。木挽町の名は、江戸城築城時に多くの木挽職人(木材を大きな鋸で切る人)が居たことによるようです。森田座は、万治3年(1660)、森田太郎兵衛によりこの地に創設され、以後座元は代々「森田勘弥」を名乗りました。森田座は、堺町、葺屋町(現中央区日本橋人形町三丁目辺り)にあった、江戸三座の中村座、市村座とともに、天保十三年(1842)から十四年にかけて、猿若町一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)の町をつくり、そこに移されました。後に、安政5年(1858)「森田座」改め「守田座」となり、明治5年(1872)、現中央区の新富に移り、同8年に「新富座」と改称しました。以後、明治12年の興行失敗から、同30年までに「猿若座」「桐座」「深野座」「都座」などと頻繁に名称がかわったようです。明治30年新富座に復名、同42年には松竹合名会社に買収され、大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、森田座の血脈を受け継ぐ芝居小屋は途絶えてしまいました。平成13年、ここから約1km北東の京橋二丁目遺跡から、森田座の入場券である木札が出土しました。我が国を代表する文化である歌舞伎の芝居小屋が中央区で発祥し、これに直接関わる考古資料として極めて重要なものであることから、平成17年4月に中央区民文化財として登録されています。平成25年3月 中央区教育委員会」「森田座跡」(中央区立郷上天文館所蔵)木挽町「森田座」の様子(寛政年間)。そして「中京430号線」を進む。「花椿通り」沿いにあった「熊谷稲荷神社」。中央区銀座7丁目12−9。正面から。熊谷稲荷神社は、中央区銀座にある稲荷神社。熊谷稲荷神社は、源平合戦で活躍した熊谷次郎直実が熊谷へ帰郷する際、当地の里人に請われて護符を授与、里人が祀ったといいます。江戸期には当地(木挽町6丁目)の鎮守として信仰を受け、現在は崇敬会で護持しているそうです。扁額「熊谷稲荷神社」。そしてこの日の、高校時代の友人との食事会開場のあるビル・「大栄会館ビル」に到着。「スペインクラブ銀座」入口。スペイン全土を巡り、スペインワインはじめ、生ハムイベリコ豚の精肉、オリーブオイル、ナバラ産アスパラガスなど選りすぐりのスペイングルメを取り揃えていると。直径50cmの大鍋で炊く特大パエリアはお店の名物メニューとして大人気 と。5人で、久しぶりに近況、体調、同級生の近況等をワイン片手に大いに語り合ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.05
閲覧総数 264
49
Ait ToughachやZaidaの町を通り過ぎ、モワイヤンアトラスの山中に入る。ここではアトラススギ(Atlas Cedar)の林が続く。アトラススギはアトラス山中に自生するマツ科の高木で樹高30-35mぐらいまで生長するとのこと。既に訪れたモスクの天井、扉、柱などにも利用されていた優れた建築資材。 N13号線から分かれ、N8号線に入る。やがてアトラススギやカシ、プラタナスなどの林が続くようになり、これまでとは違った雰囲気の風景の道になる。 モロッコの軽井沢的リゾート地、イフランの街の玄関口に到着。標高1650mと。フランス植民地時代に造られた夏は避暑地、冬はスキー場の別荘地。 モロッコのスイスとも呼ばれていると。イフランの玄関口にあたる公園にあったライオンの石像、昔この辺りにライオンが生息していたという証のため造られたと。高さ2m以上ありそうな、大きな像。 現国王の大きな写真と国旗が掲げられていた。国王に関する施設なのであろうか。モロッコの現国王 ムハンマド6世の大きな写真が。ハサン2世の長男として生まれる。祖父のムハンマド5世にちなんで命名された。1999年、父王の崩御により即位。モロッコとは思えないヨーロッパ的街並み。。 イフランの街の住居の屋根には至る所でコウノトリの巣が。 子育ての真っ最中? この辺りは店もシャッターを下ろし閑散としていたがこの時期はシーズンオフなのであろうか。 ポプラ並木の実。英語でコットンウッドとも。どこの国であったか、以前旅したとき時、ポプラの白い綿毛が風に乗って空を舞い飛んでいた事を思い出したのです。。リンゴの花も満開中。 アーモンドの花かと思ったが添乗員からリンゴの花と。道路の斜面には国旗の星の、文字どうり緑の五芒星「スレイマン(ソロモン)の印章」が。 フェズの街に入る。多くの若者が歩いていたが現地ガイドから大学であると。そして暫く走りこの日のフェズのホテルへ到着。 HOTEL MENZEH ZALAGH FES。ホテルの前には白き騎馬像が。 ハッサン2世(ASSAN 2)の文字が。このホテルはハッサン2世通り近くにあるのであった。バルコニーからの眺め。下には鉄道の線路が見えた。この日はトリプルベッドの部屋を二人で利用。今夜は二人とも安眠出来そうなので一安心。(笑)水、湯の出ることを確認。ホテルの庭には青きプールが大小二つ。 モロッコはイスラム圏のため、 今回のホテルやレストランでは、アルコールを飲むことができない事が多かったのです。更に高級ホテルであれば可能だったのでしょうが何せ安い・・・・・。よって部屋で飲もうと早速スーパーマーケットでのアルコール探しに旅友と。しかしスーパーの中を探しましたが、確認できたのはノンアルコールビールのみ。残念と、マクドナルドの横を通りホテルに戻ってきたのであった。 この日の夕食。 部屋の廊下にはモナリザ??の絵画が。しかし顔が微妙に・・・・・・。 ホテルからのフェズの街並みの灯りが。
2015.05.10
閲覧総数 175
50
美しき街ラバトの大西洋岸にあるAxis Shouhada墓地。遠くassounaモスクのミナレットも見えた。この墓地の前にあるレストランで昼食。 レストラン Borjeddar。エントランスの装飾は見事。 スープはハリラ。メインディシュは白身魚のフライ・野菜添えとクスクス。レモンを絞っていただきました。アイスクリーム。 トイレ、赤いマークで示されていますが「homme」はフランス語で「男性」。間違えそうになったのは私だけ?。私の頭の中は青が「男性」、赤が「女性」。ラバトビーチの白き灯台。その後ろにモロッコ国旗が旗めいていた。 この日の大西洋は風で荒れていた。 ラバトの対岸のサレのメディナ。高い塔がグランモスクのミナレット。海岸にはカフェも。人出はほとんどなし。 ロッテンバーグ砲台 (Fort Rottembourg)。1860年代にドイツ人技師Rottembourgによって建てられたと。大西洋に向かって2砲が備え付けられていたとのこと。しかし使われた事はなかったようだ。波乗りには最高の波。 大西洋の白き波をバスから楽しむ。この先にはアメリカ大陸が。 N1号線のランドアバウトの交差点には噴水が涼しげ。 ラバト市街のミナレット。 道路脇のポールには5個の大小の星が。 A3号線料金所を通貨。 飛行機が低空に。飛行場が近づいて来た事を実感。 ムハンマド5世空港が更に近くなってきた。 そして空港に到着。 「AIRPORT MOHAMMED V」の文字が。バスからトランクを降ろし、このツアーでずっとお世話になった優秀なドライバー、そして毎朝一番に水のボトルを配ってくれた補助員にお礼の挨拶を。
2015.05.23
閲覧総数 99