JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.05.04
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カテゴリ: JINさんの農園

「東福寺」を後にして、県道210号線・「浦賀通り」の北側の住宅街の道を西に進む。
この後訪ねた「常福寺」への参道案内板。
「この橋は浦賀奉行の交代の際渡ったと云われる石橋です。」と。



この「 石橋 」であろうか?
西浦賀2丁目10  と。



右手に「 田中町町内会 老人生きがいの家 」と。



田中(地名の由来)
西浦賀2丁目のこの辺り(田中町内会館)を田中と言います。この地域の「田中」は、
「干鰯田(ほしかだ)の中」を意味します。その昔、人家は常福寺の参道から高坂側にしかなく、
常福寺の参道から海側は干潟になっていました。その後、東浦賀の干鰯問屋の力で埋め立てられ、
鰯の干し場になったと言います。ここにも干鰯問屋の隆盛を見ることができます。
この付近には東福寺、常福寺があります。」
田中町内会館の現在の住所は横須賀市西浦賀2丁目3番16号と。



その先左に 石祠 が現れた。



道路側から見る。
横須賀市西浦賀2丁目9−7。



反対側から。



前方正面に「 田中町内会 防災倉庫 」。



その先に「 日月院 」と書かれた案内板が見えた。



浦賀不動 日月院 宝海龍王堂 」と。



その先にあったのが「正一位稲荷大明神」と書かれた朱の幟旗とその先に鳥居。



花水稲荷 」の朱の鳥居とその先に石の社。



扁額「​ 花水稲荷 ​」👈️リンク。



正面に「石の社」。
このお稲荷さんの所在地は西浦賀2丁目4番地付近の裏手の里山の土手にあり、こんもりとした
竹藪の中にひっそりと居をかまえていました。すぐそばには横須賀市立高坂小学校があり、
この学校の駐車場 入口の門の前を10mほど坂を上った山道の右脇に細い獣道のような道に
入るところが この稲荷神社への入口です。
今から40数年ほど前に移転してきて、元の場所からは 10mほど下がったところにあります、
移転の理由は宅地造成によるもので余儀なく移転を迫られまして、 移転と同時にお社も新しく
再建されました と。



近づいて。
021年11月・花水稲荷神社は一部改装工事が行われ、
社殿前に屋根と本坪鈴が飾られ、幟旗も 宝海龍王堂前に移転したのだ と。
御神体は桐の箱に納められているとのこと。



「宝海龍王堂 」の前にあった「 浦賀不動 日月院 」。
大正十三年五月坂口法道師が諸願成就殊には眼疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て
開祖となりました。
護摩修行水行托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四才の
若さで亡くなってしまいました。
その後何代が人が変り昭和四十三年大黒天の不思議な導きにより法浄院が引き継ぎました。
昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称「日月院」と改めました。
月日院の正式名は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。



浦賀不動 日月院 」。



日月院(旧不動院)のこと
大正十三年五月、坂口法道師が諸願成就、殊には目疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院
を建て開祖となりました。護摩修行、水行修行、托鉢と日夜修行に専念して居りましたが
昭和十一年四月に惜しくも三十四歳の若さで亡くなってしまいました。その後何代か人が変わり
昭和四十三年大黒天の不思議なお導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなった
お堂を新築した折に不動院を通称名を「日月院」と改めました。
日月院の正式名称は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。
大祭 正月 五月 九月 二十八日
   大護摩修行 午後二時
毎月二十八日 護摩修行 午後二時
御安置佛
本尊 日月不動明王 大黒天 阿彌陀如来 地蔵菩薩
   弘法大師 宝海龍王 伏見稲荷 観世音菩薩
                法浄院二世住職 田中誠道
本山 法浄院 東京都大田区大森南
別院 日徳庵 静岡県伊東市一碧湖畔
別院 御嶽観音堂 長野県木曽御嶽山 三合目」



この石仏は?



この石仏は?「不動明王」?



本堂



扁額「 日月不動明王 」。



境内にあった金属製の社に入った石仏。



「船玉大明神」 と。



「船玉大明神」碑
船玉(船霊)は船の守護神で、 多くの 場合、和船の帆柱の受材である筒(つつ) の下部に
小穴をあけ、納物として雛・賽(サ イコロ)・五穀・銭などが封入されます。
この封入の儀礼は、 萩藩の御座船(藩 主が乗り込む船)建造の記録等では
「筒 居(つつすえ)」 と記されており、 造船儀 礼中で最も重要な行事とされていました と。



そして来た道を引き返し、石祠の角を右折して浦賀通りに向かう。



浦賀通りに出て左折して横断歩道を渡った場所にあったのが「 常福寺 」。
横須賀市西浦賀2丁目16−1。



浄土宗 常福寺 」。



参道を石段に向かって進む。



寺号標石「 浄土宗 放光山 延壽院 常福寺 」。



「常福寺
文明年間(一四六九~八六)に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは、本陣(御用寺院)の
役割をし、奉行交代の儀式をおこないました。
庫裏の築山泉水庭は、唯一現存する浦賀三庭園のひとつ です。
当寺には虫歯によく効くという 「珊誉女(さんよめ)」の位牌 狩野常信が描いた「地獄極楽之図」
があります。
墓地には、奉行与力・合原家、佐々倉家の墓碑や遊女屋をやめて遊女を解放し、後に僧深本
(しんぽん)となる 江戸屋半五郎の墓 があります。
     浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」

「珊誉女(さんよめ)」の位牌
まだ歯科医などいなかった頃、虫歯で苦しんで亡くなった女性(さんよめ)の碑で、
「珊誉女(さんよめ)」の遺言で自分が死んだあとお参りしてくれたら、虫歯の苦しみから救って
あげると言い残し亡くなったので、その後虫歯に苦しむ人の信仰を集めたと。
「良樹院殿珊誉昌栄大褌定尼尊霊位 寛永十一年八月八日」と記されている珊女は、
備後福山城主の息女。生前、常に歯痛に悩まされていて、死に直面した折に「この病に罹るもの
我に祈らば効験を得ん」と遺言を残したのだと。



築山泉水庭 」。



石段手前左側にあった 庚申塔群



「西国・坂東・秩父 三浦 百番観音 四国八十八」の文字は確認できたが。



三猿庚申塔
見ざる、聞かざる、言わざるの三猿。庚申(こうしん=かのえさる)の申(さる)にちなんで
庚申塔に彫刻されることが多く、この庚申塔でも向って右から見ざる、聞かざる、言わざるの順に
三猿が彫刻されていた。



右は 文字庚申塔 であろうか?
中央は、名工飯嶋吉六の作品 であると。
隅丸角柱に剣人、槍、法檢、弓矢を持つ青面金剛、筋肉隆々で卑屈さが少しもない鬼、
三猿はちょっと珍しい体育座り。向かって右側面に「 天保九戊戌(1839)八月吉日 」、
左側面に「石工鶴見橋飯嶋吉六」の銘があるとのこと。



トキワマンサクの花 が咲く石段を上って行った。



シャガの花 も。


多くの石仏に囲まれた石塔。



奉納萬靈塔 」と。



二段式 六地蔵



そして正面に「 本堂 」。



明応2年(1493年)に草創された寺で、浄土宗に属し、放光山延寿院常福寺と号されています。
文化7年1月浦賀奉行、御預所、支配所、御役知村村、寺社格式書上、附寺社奉行問合書のなかに
「寺席之儀は永聖席ニ而、於群中類門無之、諸山別寺格ニ御座候」伝々と記されており、
寺格も寺席も高く、開創以来法灯連綿として五百有余年の歴史を重ねて現在に至っている
由緒ある寺。
御本尊  阿弥陀如来
三浦薬師霊場8番札所
三浦不動霊場7番札所
三浦三十八地蔵尊霊場34番札所


本堂の扁額「 放光山 」。



「常福寺」の「 本堂内陣 」を見る。
ご本尊の阿弥陀如来 が見えたのであった。



常福寺 本堂内 脇厨子 」。



横須賀市指定重要有形文化財(建造物)
常福寺本堂内脇厨子 二基
所有者 常福寺
平成十九年三月十二日指定
本堂背面庇の両脇間に一基ずつ、計二基安置されており、正面に向かって右側を右脇厨子、左側を
左脇厨子と呼称する。本尊の安置が目的でないため脇厨子である。
この両脇厨子は各々須弥壇上にのる正面一間・側面一間幅のまぼ同形式で、禅宗様式を踏襲した
ものだが、造立年は左右の脇厨子で若干の年代差が考えられる。右脇厨子が室町時代末期の様式で
古く、市内最古の厨子であり、左脇厨子は少し下って近世初期の造立と考えられる。
脇厨子を納める 常福寺の現本堂は元々藤沢の龍ロ寺本堂として中世末に建築され、その後鎌倉の
本覚寺に移築、そして大正十一年(一九二二年)、旧本堂が火災で消失していた常福寺へと移築
繰り返されたものである。
脇厨子二基は、本堂の内陣として建築当初から安置されていた可能性も高く、市内最古の本堂内
建造物として貴重なものである。
横須賀市教育委員会 平成十九年十月設置」



三浦三十八地蔵尊霊場 三十四番 放光山 常福寺
文明年間(1469~1486)に、鎌倉光明寺の圓蓮社教譽上人により開創。
爾来、浦賀のお念仏道場として、親しまれている。
地蔵尊札所としては、これまで第32番子育地蔵尊、第34番延命地蔵尊二カ所の札所であったが、
第34番として、子育地蔵尊、延命地蔵尊の二尊を祀る札所となったのだ と。


寺務所、庫裡
を見る。



次に、本堂の左にあった 墓地 を歩く。



入一法句 」と書かれた卒塔婆が並ぶ。



表に「南無阿弥陀仏」、うらに「入一法句」と記されていることが多いと。
すべての功徳はこの中におさめられているということで、仏への便りである卒塔婆を真心を
こめて捧げるという、ちょうど手紙の「敬具」にあたるようなものである とネットから。



一段高い竹林の前にも墓石が並ぶ。



屋根付きの墓石が並び歴史を感じさせるのであった。



さらに墓地内を巡る。



前方右側にあったのが「 大乗妙典六十六部供養」碑
「妙典六十六部」とは、法華経を66部写経し、日本全国(66ヶ国)を巡る修行のことであると。



正面から。
願主、江戸屋半五良と刻まれていた
江戸屋半五良は、洗濯屋(遊廓)の主人であったが、あるとき、江戸で、一人の僧に説教され、
自分の商売の罪深さを知り、すべての財産を投げ売り、これを抱えていた遊女たちに分け与え、
仏門に入り、修行僧として全国を行脚したのだと ネットから。



江戸屋半五良の墓

「大誉果向深本法子」の法名が刻まれていた。半五良は、修行僧として全国を行脚の折、
紀州の山中で徳本上人に出会い、子弟の関係を結び、「深本」の名を授かった と。



大きな宝篋印塔墓




そして、石段横の「 トキワマンサク(常磐万作) 」の花を楽しみながら、「常福寺」を
後にしたのであった。




                                     ・・・もどる・・・


                ・・・つづく・・・>








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Last updated  2024.05.04 07:17:21
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