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怪獣映画「ゴジラ」の一つ。 シリーズ37作目で、日本で制作された実写版としては30作目となる。 シリーズ37作目といっても、これまでの作品との繋がりは無く、何十回目かのリブート。 神木隆之介、浜辺美波、山田裕貴、青木崇高、吉岡秀隆、安藤サクラ、佐々木蔵之介が出演する。 監督・脚本は昭和時代を丹念に描いた「ALWAYS 三丁目の夕日」が出世作となった山崎貴。 英題はGODZILLA MINUS ONE。 アメリカでも公開され、実写の邦画に於ける興行収入を34年振りに塗り替えた(それまでの1位は畑正憲が手掛けた子猫物語(1986年公開だった))。粗筋 第二次世界大戦末期の1945年。 敷島浩一(神木隆之介)は特攻へ向かう途中で搭乗する零戦が故障したと報告した上で離脱し、小笠原諸島の大戸島の守備隊基地に着陸する。 整備兵の橘宗作(青木崇高)は、敷島の搭乗機が故障していない事を直ちに見抜く。敷島が玉砕の命令に反して離脱したのだと悟るが、敗戦が濃厚な中でそういう行動を取るのも仕方ないと考え、特に追求しなかった。 敷島は、整備兵らの冷たい視線を受けながら海を眺めていると、見慣れない深海魚の死骸がいくつも浮かび上がっているのに気付く。不吉な予感がしたが、それが何なのか分からなかった。 その日の夜。 基地を全長15メートル程の恐竜の様な生物が現れる。島の伝説で語り継がれる怪物「呉爾羅(ゴジラ)」だった。深海魚の死骸が浮かび上がるのは、島民からするとゴジラ出現の前兆だったのだ。 敷島は橘から、零戦に搭載されている20ミリ砲でゴジラを撃つようにと頼まれる。整備兵らがゴジラの餌食になる中、敷島は零戦の操縦席に辿り着くが、目の前に迫っていたゴジラに恐怖を覚え、撃つ事が出来ない。 敷島と橘以外の整備兵らは全員ゴジラに襲われて死亡する。 ゴジラが去った翌日、橘は仲間らの遺体を前にして、何故撃たなかった、と敷島を罵倒する。 大戸島の守備隊基地の出来事は極秘扱いされ、単に米軍に襲撃されて全滅した、と報告された。 終戦を迎えた敷島は、やっとの事で東京へと帰って来た。 特攻から離脱したのは、「無事に帰って来てほしい」という母からの手紙を読んでいたからだった。 が、実家は瓦礫の山で、両親の姿は無い。 隣家の太田澄子(安藤サクラ)から、両親は空襲により亡くなったと伝えられる。 敷島は愕然とする。両親と再会する為に生き延び、帰って来たのに、その両親が亡くなっていたとなっては、何の為に戦友らを犠牲にしてまで生き延びたのか分からない。自分だけ生き残ってしまった、という罪悪感に苛まされる事になった。 敷島は闇市で、彼同様に空襲で親を失った大石典子(浜辺美波)と、彼女が空襲の最中見知らぬ他人から託されたという赤ん坊の明子に出会い、成り行きで3人は共同生活を始める。 敷島は米軍が戦争中に残した機雷の撤去作業の仕事に就く。特設掃海艇・新生丸艇長の秋津淸治(佐々木蔵之介)、乗組員の水島四郎(山田裕貴)、元技術士官の野田健治(吉岡秀隆)と出会った。危険な仕事ながらも安定した収入が得られる様になった事で生活にも余裕が出来、家を建て直す事が出来た。 敷島は典子との正式な結婚を勧められるが、自分自身の中では戦争は終わっていない、とトラウマを抱える彼は関係の進展に踏み出せなかった。 赤ん坊だった明子は歩ける程に成長し、典子は自立する為に銀座で働き始めていた。 1946年夏。 ビキニ環礁で、米軍は核実験「クロスロード作戦」を実施。 その近海に偶然いたゴジラは被曝し、身体を焼き尽くされたが、強力な回復力と放射能による異常で全長50メートルにまで巨大化する。 巨大化したゴジラは活動範囲を広げ、米国の艦船や潜水艦に襲い掛かり、大打撃を与える。 発生場所の時期や位置から巨大生物が日本本土に向かっていると推測し、米国は日本政府に警告を出した。 日本政府はアメリカの援助を求めるが、アメリカが日本本土で軍事行動を起こせばソ連を刺激しかねないという理由で、日本が単独で対処するしかない、と通達。 単独で対処しろ、といわれても、終戦直後で武装解除されているので対処のしようが無いと日本政府が訴えると、シンガポールでスクラップ処分される筈だった旧帝国海軍の巡洋艦高雄が返還される事になった。 敷島らは、高雄が戻って来るまでの時間稼ぎを命じられる。回収した機雷や船の機銃でゴジラに応戦した。 しかし、ゴジラの回復力は凄まじく、機雷や機銃による怪我程度はあっという間に治癒してしまう。 ゴジラの餌食になる寸前、高雄がその場に現れ、砲撃を開始。 敷島らがこれで助かったと安堵したのも束の間、ゴジラは高雄に襲い掛かり、大破させる。更に吐いた熱線によって全長200メートルの軍艦は瞬時に消滅してしまった。 敷島らは何とか戻れたが、ゴジラが日本本土に上陸するのは時間の問題だと悟っていた。 翌日、ゴジラは東京湾の防衛ラインを越えて上陸。 敷島は、典子の勤務地である銀座へと向かう。典子を見付け、一緒に逃げる。 日本政府は国会議事堂前に配備した戦車隊で応戦。しかし、ゴジラは熱線を吐き、国会議事堂諸とも蒸発させる。 熱線による爆風で、典子は吹き飛ばされて行方不明になってしまう。敷島は、典子が建物の陰に押し込んでくれた為助かったが、典子が吹き飛ばされた先が瓦礫の山と化していて、立ち竦むしかない。 ゴジラは、自らの熱線により傷ついており、それを癒すべく海に戻る。 ゴジラにより国会議事堂を中心に半径6キロメートルが灰塵と化し、死者行方不明者数は3万に達した。 しかし、ゴジラがまた戻って来るのは時間の問題だった。 それでもアメリカはソ連を刺激する恐れがあるとして軍事行動はしないと宣言。 その為、占領下で独自の軍隊を持たない日本は民間人のみでゴジラに立ち向かうしかなかった。 典子の死を嘆き苦しむ敷島を、野田はゴジラ打倒の作戦に誘う。「巨大生物對策説明会」には、敷島らの他、旧帝国海軍の者が多数集まった。 野田は、ゴジラが完治して日本に再上陸するのに約10日経かると推測する。 10日間でゴジラに致命傷を与える作戦を実行に移せるよう、準備しなければならない。 軍艦の砲撃すらものとしない怪物にどうやって致命傷を与えるのだという疑問に対し、野田は作戦を説明。 ゴジラを相模トラフまでおびき寄せてフロンガスの泡で包み込んで浮力を奪い、深海まで一気に沈めて急激な水圧の変化を与える、と。 それだけで致命傷になるのかという疑問に対し、野田は予備の作戦も説明。 深海で大きな浮袋を膨らませてゴジラを海底から海上まで一気に引き揚げる、と。 生物である以上、ここまで急激な加圧と減圧には堪えられない筈、と野田は締め括った。 それでゴジラを倒せるのか、と疑問に思う者が大半だったが、他に打つ手は無い。集まった者は作戦実行の為に動き始める。 敷島は、万が一に備えて戦闘機による誘導役を買って出る。 問題は、終戦により日本には戦闘機が正式には一機も残っていない事だった。 が、本来本土決戦に配備される予定だったが終戦の混乱で忘れ去られて解体処分から免れていた戦闘機「震電」の存在を知る。 ただ、震電には高度な技能を要する整備が不可欠だった為、敷島は橘を探し出す。 橘は、大戸島の出来事を未だに根に持っていて、敷島に協力する事を拒否。しかし、敷島は震電に爆弾を搭載し、自分が特攻して刺し違えてでもゴジラを倒さければならないと説明。それには橘の腕が必要だ、と。 敷島の覚悟を汲んだ橘は、震電の整備を引き受ける。 自分の命はもう無いと悟った敷島は、財産を全て託すからそれで明子の面倒を見てほしいという澄子宛ての手紙を残し、自宅を後にした。 各自でゴジラ上陸に備えて準備をしていたが、予想より早くゴジラは現れた。防衛ラインを越えて相模湾から上陸してしまう。 作戦は頓挫したかに思われたが、整備が完了した震電に乗った敷島がゴジラを誘導。 ゴジラは震電を追って海に戻った。 野田らは船に乗り、ゴジラにフロンガスのタンクを巻き付ける事に成功。フロンガスの泡を発生させ、ゴジラは一気に1500メートルの深海にまで沈められる。 ゴジラは加圧に苦しみながらも暴れ出すが、致命傷を受けた様子は無い。 野田は予備の作戦を実施。 浮袋で今度は一気に浮き上がらせ、減圧させる。 ゴジラは1500メートルから海抜0メートルまで一気に浮き上がり、ダメージを受けるが、致命傷ではなかった。熱線を吐く準備をする。 作戦は失敗に終わった、自分らの命もここまでと諦めていた野田らが乗る船の上を、敷島が操縦する震電が突っ切る。 震電はそのままゴジラの口を目掛けて激突し、大爆発する。 頭部を完全に失ったゴジラは熱線を発する事無く崩れていき、海の底へと沈む。 震電と運命を共にしたと思われた敷島だったが、直前に脱出装置で脱出していた。 橘が、特攻するからといって命を引き換えにする時代ではないとして、脱出装置を設けていたのだった。 一人も犠牲者を出す事無くゴジラを倒した作戦の実行部隊は、港に帰還。 出迎える者の中に、明子を抱きかかえた澄子がいた。澄子は、敷島が手紙を託して自宅を後にした直後に届いた電報を手渡す。 電報の内容を読んだ敷島は、そこに書かれた病院に向かうと、行方不明で死んだと思っていた典子と再会出来た。 貴方の戦争は終わりましたかの彼女からの問いに、やっと終わったと敷島は答えられた。感想 ゴジラは1954年の第1作(当時はシリーズ作になる事は想定していなかったと思われる)から70年経っており、実写版、アニメ版等が何十作も制作されているので、既にやり尽くしている、と思われがち。 本作は、第1作の舞台である1950年代より更に前の1940年代後半の日本を舞台にする、という変化球で新鮮味を持たせた。 終戦直後の日本なので、GHQの管理下にあり、日本政府が打てる手が限られていて、その限られた中で巨大怪獣に対処に無ければならない、という事で緊張感(というか絶望感)をもたらしている。 この手映画は、最近はエヴァンゲリオンの影響からか、危機対策専門の機関の者が主人公となっていて、任務に沿って粛々と対処する、という模様が描かれているのが当たり前になっていた。 が、本作はそうした機関は無く、急ごしらえの集団が、効果が不明な作戦を講じる人間模様が描かれている。 よって、主人公の敷島は元特攻隊ではあるものの、怪獣相手の戦い経験は全く無く、ぶっつけ本番でゴジラに立ち向かう。 他の登場人物も同じ。 いわば素人集団。 演出の仕方によっては意図せず滑稽なものになってしまう可能性があったが、終戦直後という時代設定にしたお陰で、そう感じない。 そこまで計算して時代設定を決めたのかどうかは不明だが。 終戦直後なので、ゴジラを駆除する作戦も実在しない強力な兵器を開発して倒す、という派手なものではなく、加圧と減圧を使って弱らせる、という物理学を使った地味なもの。 これも素人集団が強大な敵を倒す、という面で説得力を持たしている。 ここまで地味な作戦で巨大怪獣を倒そうなんて、登場人物らは勿論、鑑賞者も疑問に思ってしまうが。 問題といえば、登場人物そのものより、俳優のキャスティングか。 主人公の敷島は、元特攻隊。出撃を命じられるくらいだから、新米という程若くは無い筈だが、演じている神木隆之介が幼顔なので、学生がいきなり特攻隊に駆り出されたように映る。 作中では、山田裕貴演じる機雷除去船の新米乗組員が戦争で戦った経験が全く無い為小僧扱いされていたが、神木隆之介の横と並ぶと彼の方が年上に見え、どこがどう小僧なのか、何故招集されていなかったのかが分からない。 実際、山田裕貴の方が神木隆之介より年上らしい。 何故こんなキャスティングになったのか。 ヒロインの典子役として、浜辺美波が登場。 シン・仮面ライダーでもヒロイン役を演じているので、監督らがヒロインに起用したくなる女優らしい。 典子はシン・仮面ライダーで演じていたキャラとは全く異なり、その上衣装や髪形も異なるので、パッと見には同じ女優が演じているとは思えなかった。 そう思わせられるからこそ起用したくなるのか。 ただ、典子は作中の中盤で退場。 その展開が物語を進展させる効果があるので、必要不可欠なのだが、どう終わろうと胸糞悪い結末になるな、と思っていたらラストで再登場してくれた。 ハッピーエンドで終わってくれたのは何より。 銀座でゴジラから逃げる典子を、群衆の中から敷島がどうやって見付けたのか、という疑問が残るが。 敷島を憎みながらも最終的には手助けする整備兵として、青木崇高演じる橘という人物が登場。 敷島を恨むのは、彼がゴジラを零戦に搭載された20ミリ砲で撃たなかった為部下が全員死んでしまったから。 ただ、本人も整備兵の中でただ一人助かっている。意図していなかったにせよ部下を犠牲にして自分だけ助かる行動を取ったとも考えられ、敷島を恨む立場にはないと思ってしまう。 敷島が20ミリ砲を撃ち捲っていれば整備兵は少しは助かっていたかも知れないが、敷島が死んでいた可能性が高い。 そうなっていたら、橘は敷島の死をどう捉えていただろうか。 銀座がゴジラによって破壊されるシーンは、殆どがCGとライブアクションの合成らしい。 昔の邦画の特撮は劇場公開レベルの作品でもハリウッドの特撮と比較すると質の低さが顕著だった。が、最近はハリウッドの特撮が視覚的には限界に達してしまったらしく、目新しさが無くなってしまった一方で、邦画でも採用出来る程度のコストダウンが可能になったからか、邦画のCGも観ていて違和感は無い。 後は脚本力を高めてくれれば、と切に願う。 作中で登場する巡洋艦高雄は、怪獣退治の期待の星とされながらも、登場直後にゴジラに破壊されてしまい、これといった活躍が出来ないままで終わる。 ただ、史実では、巡洋艦高雄はシンガポールで航行不能な状態で終戦を迎え、そのままスクラップ処分されているので、ゴジラを砲撃する場面だけでも大活躍だったのかも知れない。 監督・脚本を担当したのは山崎貴。 昭和時代を描いた「ALWAYS 三丁目の夕日」が出世作で、その後数々の作品を手掛けているが、現代劇や未来を描いたものより昭和時代を描いた作品の方が高く評価され、興行収入も良いので、本作も昭和時代の設定にしたのは正解だったと言える。 演出上の問題点といえば、最終シーンでゴジラの死骸が再生する様子を映し、実は全てが終わっていない事を臭わせている事か。 必要に応じて続編が制作されるかも、と告げている。 怪獣映画やホラー映画ではお馴染みというか、使い古された手なので、寧ろ「ゴジラは完全に死にました。復活はありません。続編はリブート以外ありません。完」で終わっていた方が新鮮に感じたかも。オリジナル・サウンドトラック ゴジラー1.0 [ 佐藤直紀 ]価格:2,750円(税込、送料無料) (2024/1/3時点) 楽天で購入
2024.01.03
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2023年に公開された日本の映画。 1971年に放送されたテレビシリーズ『仮面ライダー』のリブート作品。 庵野秀明による実写版リブート作品としては、ゴジラ、ウルトラマンに続く3作目。 現代を舞台に、石ノ森章太郎の原作漫画『仮面ライダー』を参照しながら新たに描かれている。 主演は池松壮亮。ヒロイン役として浜辺美波が出演。 他に柄本佑、西野七瀬、斎藤工、竹野内豊、森山未來が出演する。粗筋 オートバイで逃走する本郷猛(池松壮亮)と緑川ルリ子(浜辺美波)。 追ってきたクモオーグと配下の戦闘員らにより、ルリ子は捕まってしまう。 だが、本郷はバッタオーグに変身して戦闘員らを瞬く間に倒し、ルリ子を救出すると、ルリ子が用意したセーフハウスに身を隠す。 そこにルリ子の父・緑川弘が現れる。弘は、本郷を生体エネルギー(プラーナ)の力によって変身する昆虫合成型オーグメンテーションプロジェクトの最終版として、圧倒的な殺傷能力を持つ新たな体にした、と説明する。 本郷は、何故弘が自分をこんな体に作り替える事にしたのか全く分からず、戸惑うしかない。 弘は、力を人の為に使ってほしいと語った後、突如現れたクモオーグによって殺されてしまう。 クモオーグはルリ子を再び連れ去った。 本郷はバッタオーグにまた変身すると、クモオーグを追う。そして「仮面ライダー」と名乗った上でクモオーグを倒す。 別のセーフハウスに身を隠す本郷とルリ子の前に政府の男(竹野内豊)と情報機関の男(斎藤工)が現れる。警護と情報提供の代わりに、本郷同様にオーグメントとなった者らとその所属組織SHOCKERの排除に協力してほしいと持ち掛ける。 本郷とルリ子は突然現れた二人を疑うものの、他に選択肢は無いと判断し、条件を受け入れる。 SHOCKERの一員であったルリ子は、その狙いを説明する。 SHOCKERは、元は絶望を抱えた人々を救済する為に結成された組織だった。が、設立者はそれには人間が導くよりも自身が開発した人工知能に導かせた方が良いという考えに傾倒し、組織の運営を人工知能に任せた上で自決。人工知能は設立者から与えられた使命を達成する為に、SHOCKERを非合法活動を繰り広げる組織へと変えていったのである。 本郷は、自分の持つ力に恐怖を抱き、戦いを覚悟出来ない。 ルリ子は、そんな本郷を残し、SHOCKERの生化学主幹研究者コウモリオーグの元へ単身向かい、絶体絶命の危機に陥る。 そこに、漸く覚悟を決めた本郷が現れ、コウモリオーグと対峙し、これを倒した。 一方、ルリ子の兄でSHOCKERの一員である緑川イチロー(森山未來)は、妹が本郷を伴って自分の下に戻って来ると確信し、その日の為の準備を進める。 政府の男と情報機関の男は、猛毒性化学兵器を使うサソリオーグ(長澤まさみ)を本郷とルリ子の力を借りずに排除する事に成功した。 次の排除対象に定められたのはハチオーグ(西野七瀬)だった。 が、サソリオーグの排除で多数の犠牲を払ったので、政府の男と情報機関の男は排除を本郷とルリ子に依頼する。 ハチオーグは、ルリ子にとって親友に近い存在であった。 ハチオーグは本郷とルリ子に組織に戻るよう促すが、それを断られると街の人々を洗脳して操り、2人を襲う。 本郷はハチオーグの洗脳システムを破壊する為、ルリ子をアジトへと単身向かわせてハチオーグの気をそらし、上空から降下してシステムを破壊する。 ハチオーグを圧倒し投降を勧める本郷とルリ子であったが、ハチオーグはこれを拒否。 敵対する事になってしまったものの親友を倒す事を躊躇うルリ子と、ルリ子の親友を倒したくない本郷の間を割って、情報機関の男がサソリオーグのデータを応用した兵器を用い、ハチオーグを殺してしまう。 ハチオーグの死を嘆くルリ子を、本郷は慰めるしか出来なかった。 SHOCKER排除に動く政府機関は複数あり、その内一つがイチローのアジトを強襲するが、全滅した。 政府の男と情報機関の男は、全滅した特殊部隊の遺体を安置した場所に本郷とルリ子を連れて行く。 遺体はどれも損傷が無く、笑みを浮かべたまま死んでいた。 遺体の状況について、ルリ子は説明する。特殊部隊員らは死んだというより、イチローにより魂を抜かれた、と。抜かれた魂はいわゆるハビタット世界に送り込まれてしまっていて、それらの魂を取り返して身体に戻す事は不可能なので、残された身体は死体として処分するしかない、と。 イチローは、全人類の魂をハビタット世界に送り込む計画を立てていた。 その計画を阻止する為、ルリ子は本郷と共にイチローのアジトへと向かう。 兄と再会を果たしたルリ子は、イチローの圧倒的な精神力を受けて意識を失ってしまう。 本郷を軽くあしらったイチローは、第2バッタオーグである一文字(柄本佑)に後を任せる。 本郷は、変身するには風をベルトで受ける必要があるが、強化型の一文字は風を受けずに変身出来た。戦闘力でも本郷を上回る一文字は、本郷を圧倒。 一文字はルリ子と対峙するが、ルリ子はデータ転送能力を活かして、SHOCKERが一文字に掛けていた洗脳を解いてしまう。洗脳が解かれた一文字は、SHOCKERに捕らわれる前の記憶が一気に蘇り、戦意を喪失する。 とりあえず難を逃れたと思っていた本郷とルリ子だったが、突然現れたカマキリ・カメレオンオーグにより、ルリ子は致命傷を負ってしまう。 カマキリ・カメレオンオーグは本郷に襲い掛かるが、正気を取り戻した一文字により倒される。 ルリ子は本郷の目前で命を落とした。 本郷は、自分のマスクに残されたルリ子の遺言を聞き、彼女の遺志を継ぐ決意をし、イチローの元へ再び向かう事に。 一文字に、一緒に来てほしいと本郷は頼むが、一文字は一匹狼の自分にそんな事は出来ない、と固辞。 本郷は単独でイチローのアジトへ向かうが、11体の大量発生型相変異バッタオーグの攻撃によってピンチに陥る。 だが、仮面ライダー第2号を名乗り味方に転じた一文字により、窮地を救われる。 バッタオーグらを倒した第1号と第2号はイチローのアジトへと辿り着くが、イチローは完全体仮面ライダー第0号となり、圧倒的なプラーナの量による力で反撃する。追い詰められた本郷らは、イチローのプラーナの供給源である玉座にサイクロン号をぶつけて破壊する。 持久戦に入るとイチローは次第に弱り、一文字にマスクを破壊され、本郷にルリ子のプログラムが入ったマスクを被せられる。マスクの中でイチローはルリ子の魂と和解し、計画を諦めて死を受け入れる。 同時に本郷も死闘の影響でプラーナを消耗し、一文字の目の前でイチローと共に消滅する。 後日、政府の男と情報機関の男は、一文字に対し、本郷が彼に自分の遺志を継いで戦い続けてほしいと願っていた事を伝える。 一文字はマスクの中で生き続ける本郷の魂と共に、新たな敵との闘いに向かう。感想 庵野秀明氏が手掛ける昭和の特撮ヒーローをリブートする「シン・〇〇」シリーズ。第3弾。 第1弾はゴジラ、第2弾はウルトラマンだったので、第3弾は仮面ライダーという事になったらしい。 ゴジラもウルトラマンもそうだったが、この手のリブートは困難が伴う。 昭和時代に制作・公開され、その後一切制作されず、何十年振りの復活、という事なら単に全てを現代風にアップデートすればいいが、これらの特撮シリーズは昭和時代に留まらず平成・令和時代にも制作されており、既に時代ごとにアップデートされている。 単に現代風にアップデートしてしまうと、「既にある平成・令和版の劇場公開版と何が違うの?」となってしまい、リブートの意味が薄れる。 一方で、昭和時代のものを何もアップデートせずに制作してしまうと、昭和と現在の価値観のギャップから「ただただ古臭いだけの作品」になってしまう。昔を知っている者らが懐かしがるだけで、最近のしか知らない者からすれば「知っているものと全然違う」になってしまうのだ。 制作者は、昭和時代のエッセンスを充分に盛り込みながら、アップデートすべき箇所はアップデートするという、絶妙なバランスを保たなければならない。 また、漫画のヒーローの実写版はアメリカのマーベルやDCにより多数制作されている。マーベル/DCレベルの完成度の実写版を制作するには、それらに匹敵する予算が必要になってくるが、残念ながら邦画ではそこまでの資金を投入出来ないので、下手にマーベル/DCを意識し過ぎるとハリウッド映画の劣化版にしかならない。妥協点をどこに置き、それを観客が観て違和感を抱く事無く納得してもらえるかも重要となってくる。 本作は、1970年代に連載された漫画原作とその直後に放送された特撮番組のエッセンスを引き出し、その時代を連想させるものにする一方で、そのまま制作していたら陳腐になっていたであろう箇所を現代風にアレンジしていて、1970年代の仮面ライダーを期待する者の期待、現在の映画として観たい者の期待双方に応えている印象。 平成版・令和版の仮面ライダーシリーズは、オートバイ市場の縮小に合わせてか「ライダー」と名乗りながらオートバイに全く乗らないものが制作されている。 映像もCGの多様が当たり前で、CGが導入される以前の特撮では有り得なかった視覚効果も可能に。一方で何でもCGで表現出来るので、俳優らに何も演技させる必要が無く、アクションシーンの質は低下。 玩具メーカーとタイアップしている事情もあり、最近の仮面ライダーは変身した後も更に変身する。そうする事で玩具メーカーはフィギュアを無弁に出せる仕組みになっていて、視聴者である子供の親にそれら全てを買い与えさせる事を強いている。 演じている俳優らも、子供と一緒に観るであろう母親の心を掴む為にいわゆるイケメンを起用している。演技力より顔で起用されたのでは、というのが多い。 これらは、時代に合わせて進化させている、という見方も出来るが、昔を知っている者からすれば全くの別物になってしまっている。 本作の仮面ライダーは、オートバイに実際に乗っている。オートバイを使った派手なアクションは無いが、少なくとも「ライダー」を名乗っても違和感は無い。 CGを使っている部分も多いが、要所要所ではCGを使わず昔ながらの特撮を使っていて、俳優らが実際に動いて演じているのが分かる。 登場人物は次々変身していくが、変身した後更に変身する、という事は無いので、それぞれの登場人物の変身後の姿が固定化し、どれがどれだか分からない、という事にはならない。 演じている俳優らも、現在風のイケメンではなく、しっかりと演技出来る者を起用しているので、嫌味無く観ていられる。 昭和時代に制作された番組を観返して本作を観ると「コレジャナイ感」を抱くのかも知れないが、昭和時代のものを観ていない、もしくは昭和時代のものに執着していない者であれば納得出来るとものになっている。 敵組織のSHOCKERは、漫画原作では単に世界征服を企む邪悪な組織だった。 本作では、SHOCKERは元々邪悪な組織ではなく、人類を幸福に導く宗教的な組織が先鋭化していき目的の為には手段を択ばないものに変わっていった、という設定になっている。 こちらの方が一応説得力はあるかな、と思う。 規模や資本的な背景は明らかにされておらず、本作では最後の敵だったイチローも単なる一員に過ぎず、敵はまだまだいる、で終わっている。 1970年代の漫画原作を意識しているので、全体的にB級感が漂ってしまっているのも事実。 本郷らはSHOCKER工作員のアジトに出向いては敵を倒していくが、本来だったら敵のアジトは見付け難く、侵入も困難でなければならない筈なのに、どのアジトも皆に知られ、誰でも出入り出来る公共施設の様で、敵オーグらは本郷らを当たり前の様に迎え入れて会話した後、死闘を開始し、本郷らに倒されて消えていく。 本作の最終的な敵であるイチローのアジトも同様。 SHOCKERの存在が「公然の秘密」なら、政府は本郷ら素人を使わなくても、圧倒的な兵力で殲滅していけばいいのに、と思ってしまう。 テレビシリーズなら数十話に分けて敵を1人ずつ倒し、最終的に組織そのものを潰す、という構成になるのだろうが、本作は2時間の上映時間で数話分の敵を次から次へと倒していく、という構成になっている。 あまりにも次から次へと倒していくので、どの敵も深く掘り下げられていないのが残念。キャラ的にはどれも個性的で、インパクトはあるが、登場から僅か数分で倒されて退場している。 最終的な敵であるイチローも、最終決戦の開始時点ではライダー2人で挑んでも全く歯が立たないくらいの強さなのに、王座を破壊されると一気にスタミナ切れして本郷に呆気無く倒されてしまう。 もう少し凄い戦闘が観たかったな、と思わないでもない。 主人公の本郷猛を演じるのは池松壮亮。 昭和版の主人公を演じた藤岡弘と比較すると迫力に欠け、弱々しく見えてしまうが、エヴァンゲリオンの庵野秀明氏が手掛けた以上、主人公が弱々しく改変されてしまうのは仕方ない。 藤岡弘の様な俳優を起用したくても、今の若手にそうしたキャラを説得力ある形で演じられるのがいない、という問題もある様である。 その一方で、池松壮亮の本郷は、仮面ライダーはただただ好戦的なキャラではない、という現代風の解釈には合っていた。 ヒロイン役のルリ子を演じるのは浜辺美波。 そういう演技指導を受けたからどうか不明だが、ひたすら硬い演技。 お陰で、ルリ子というキャラも可愛げがないものになってしまい、途中で殺されてもその悲惨さがあまり伝わってこなかったのは残念。 寧ろハチオーグやサソリオーグの方が可愛げがあり、死んだ時は何と無く悲しく感じた。 一文字を演じるのは柄本佑。 いわゆるイケメンの俳優ではないが、本作では何故か格好良く映るから不思議。 主人公の本郷がいかんせん頼り無い部分があるので、一匹狼的な一文字が一層頼もしく見えた。 一文字を主人公とした続編が公開されたら、出来にもよるが、観たい気がする。「シン・ウルトラマン」で主役を演じた斎藤工が情報機関の男、脇役で登場した竹野内豊が政府の男として出演。 二人とも演じているキャラが似通っているので(特に斎藤工はセリフが意図的に棒読み)、もしかしたら同じ人物で、斎藤工演じるキャラはラスト辺りでウルトラマンに変身するというサプライズがあるかも、と思ってしまった(流石に無かったが)。 また、「シン・ウルトラマン」で主要キャラを演じた長澤まさみも、サソリオーグとして出演。数カットだけで、勿体無い使い方。何故サソリオーグと仮面ライダーを戦わせなかったのか、分からない。 仮面ライダーは子供向けのテレビ番組として制作されているが、本作はPG-12で、子供一人では劇場で観る事が出来ない事になっている。 血飛沫が散るシーンがあるので、子供が一人で観るには刺激が強過ぎる、という理由らしい。 が、血飛沫が散る場面では、血飛沫が散るだけで血を出しているキャラ(と思われる)そのものは映り込まない。 登場人物が次々死ぬが、SHOCKERの構成員は死んだ瞬間に泡となって消えていく、という設定になっているので、血塗れの死体が映り込むシーンも無い。 PG-12に指定しなければならなかったのかね、と見識を疑う。 寧ろテレビ版の方が残酷なシーンは無いものの人がガンガン死ぬストーリーが多いので、そちらの方が子供には刺激が強過ぎるのでは、と思ってしまうが。 問題点や不満が無い訳ではないが、1970年代の仮面ライダーを50年後の令和の時代に持って来て復活させたい、という制作者側の意気込みは充分伝わったし、ハリウッドの真似ではないアクションヒーローにしたい、という思考も理解出来た。 何だかんだで、シン・ウルトラマン同様、邦画にしては楽しめた。 ただ、リブート出来る昭和時代のヒーローはこれでとりあえず出し尽くしたので、「シン・〇〇」はこれで打ち止めにした方がいいのでは、と思う。 昭和の特撮ヒーローは他にもまだあるが、あまりマイナーなのを引っ張り出してきて「リブートしました。観に来て下さい」と呼び掛けられても観る気が起こらない。仮面ライダー 資料写真集 1971~1973価格:8,800円(税込、送料別) 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2023.04.14
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日本のSF特撮映画。 1966年に放送された特撮テレビドラマ『ウルトラマン』を現在の時代に置き換えた「リブート」映画となっている。 円谷プロダクション、東宝、カラーが共同で製作し、企画・脚本の庵野秀明、監督の樋口真嗣など『シン・ゴジラ』の製作陣が参加している。粗筋 巨大な生物「禍威獣(カイジュウ)」の出現が常態化する様になった日本。 禍威獣は何故か今のところ日本でしか出現していなかったので、世界各国は最新兵器を提供する代わりに禍威獣退治の責任を日本に押し付ける。 日本国政府は6人のエキスパートを選抜して「禍威獣特設対策室(禍特対)」を設立し、禍威獣災害対策に当たらせた。 ある日、禍特対は出現した新たな禍威獣の対応に当たっていたが、これまでの手法が通じない絶体絶命の危機に陥ってしまう。 そんな中、大気圏外から飛来した人間の姿を持った銀色の巨人が現れ、禍威獣を難無く粉砕。 禍威獣の脅威から救われた形となったが、禍特対はこの銀色の巨人は何者なのか、その意図は何なのかを解明する責務を負わされた。 巨人の調査の為に新たに禍特対に配属された浅見弘子(長澤まさみ)は、この巨人に「巨大人型生物 ウルトラマン」という仮名を与える。 一方、ウルトラマンが地球に降り立った際、子供の保護に当たっていた禍特対のメンバー・神永新二(斎藤工)は、その衝撃波で死亡していた。ウルトラマンは、他者の為に自ら命を絶った神永を理解する為に彼と一体化し、必要に応じて別次元から本体を召喚するベーターシステムで巨人に戻って禍威獣と戦う事となった。当初、神永=ウルトラマンの事実は誰にも明らかにされていなかったが、現場の映像解析で早々とウルトラマンは神永が変身した姿だと解明されてしまう。神永はその日をもって姿を消した。 ウルトラマンという外星人の存在を認識せざるを得なくなった時点で、別の外星人ザラブが禍特対と接触する。 ザラブは、内閣総理大臣と対面し、友好条約を締結する。 が、ザラブは、友好的に見える態度の裏で、地球の原住知的生物である人類を殲滅させるという計画を進めていた。 神永はその陰謀を早々と察するが、ザラブによって拘束されてしまう。 ザラブは、ウルトラマンは地球にとって危険な存在なので始末すべきだと政府を騙そうとするが、弘子によって救出された神永が変身したウルトラマンによって倒される。 それから間も無く、別の外星人メフィラス(山本耕史)が姿を現す。 メフィラスは、強力なエネルギー源に成り得るベーターシステムの提供を日本政府に提案。ベーターシステムは、使い方によっては兵器に転用出来るので、日本政府は他国の手に渡る前に自分らが手に入れて独占したいと考え、条約を結ぼうとする。 が、メフィラスの目的は他の外星人を締め出して人類を独占的に管理する事だった。 ウルトラマンは、ベーターボックス受領式典会場に現れ、ベーターボックスを奪う。 メフィラスは、本来の姿に戻り、ベーターボックスを取り返すべくウルトラマンと対峙する。 が、メフィラスは、ウルトラマンと同じく光の星からやって来たゾーフィの姿を確認。その時点で戦意を喪失し、ウルトラマンに対し、ベーターボックスを人類に提供する計画は諦めて地球を去るので、ベーターボックスを返してほしい、と頼む。 ウルトラマンからベーターボックスを受け取ったメフィラスは、約束通り撤退する。 ウルトラマンは、ゾーフィと対面 ゾーフィは、人類と融合したウルトラマンの行為が光の星で禁じられているのは知っていた筈だ、ウルトラマンを言及。全宇宙の知的生命体に、人類が生物兵器への転用が可能な事を知らしめてしまったではないか、と。 このままでは地球と人類を巡って全宇宙の知的生命体が争奪戦を繰り広げるのは予想出来たので、光の星は先手を打って人類を地球ごと滅亡させる事を一方的に決定した。 メフィラスがあっさりと撤退したのも、この展開を予想していたからだった。 ゾーフィは、地球の軌道上に最終兵器ゼットンを配備。 ゼットンは、1兆度の熱球を放って地球どころか太陽系をも破壊する兵器だった。 ウルトラマンはゼットンを阻止する為宇宙に飛ぶが、ゼットンの防御システムに一方的に敗れ、神永の姿に戻って昏睡に陥る。 人類にとって無敵の救世主の筈だったウルトラマンが敗退した事で、政府関係者はゼットンによる人類滅亡の日がやって来るのを黙って受け入れるしか手が無かった。 禍特対の滝明久と船縁由美は、神永が残したUSBメモリーからベーターシステムの基礎原理を紐解き、ゼットンを倒す方法を割り出す。ただ、その方法は実行するウルトラマン自身も異次元に飛ばしてしまうものだった。 目を覚ました神永は、ウルトラマンに変身し、割り出された方法通りゼットンを倒す。が、矢張り異次元に飛ばされてしまった。 異次元を漂うウルトラマンの前に、ゾーフィが現れ、人類の殲滅計画が中止になった事を告げる。 ゾーフィはウルトラマンを光の星に連れ帰ろうとするが、人類の今後の行く末を案じたウルトラマンはこれを拒絶。代わりに、神永に自分の命を与えてほしいと頼む。 その意を汲んだゾーフィは、ウルトラマンと神永を分離する。 次の瞬間、神永は禍特対の仲間らに迎えられて目を覚ました。感想 ウルトラマンのリメークというか、リブート。 1966年にテレビ放送が開始したウルトラマンは39話に及んだが、本作はその39話分を2時間程度にまとめている。 そんな事もあり、駆け足で始まり、駆け足で展開し、駆け足で結末に至る。 禍威獣が出現する様になった事実や、禍特対が設立された経緯も数カットの映像と説明だけで済まされ、外星人もウルトラマン、ザラブ、メフィラス、ゾーフィだけに留まっている。 禍威獣(オリジナルでは怪獣)と実際に戦う人間側の組織も、禍特対(オリジナルでは科特隊)そのものではなく、禍特対による解析結果を受けて動く自衛隊、という設定に変わっていた。 大抵の場合、オリジナルから改変するとその良さが損なわれる場合が多いが、本作に於いては寧ろ「子供向け作品」から「大人の鑑賞にも耐え得る作品」に昇格させる効果があった。 人類を滅亡させる最終兵器ゼットンが、ウルトラマンと同じ光の星からの使者であるゾーフィによってもたらされた、というのが最大の改変。 メフィラスはかなり前から地球に潜伏し、人類を独占する為の計画を練っていた筈なのに、ゾーフィの姿を見た途端に全て放棄してあっさりと地球から撤退している。ゾーフィがこれまでいくつもの知的生命を問答無用で滅亡させているので、抗議の余地も無い、とメフィラスが判断した、とも読める。 要するに、光の星(オリジナルでは光の国)は人類の味方でも何でも無く、ウルトラマン自身も偶々人類の一員と融合した為人類の側に立って戦う事になっただけで、もし状況が少しでも異なっていたらウルトラマンも人類を滅亡させる側に回っていたかも知れない。 子供の頃だったら「ウルトラマンは人類のヒーローで無かった可能性があった」と知ったらショックを受けていただろうが、大人になった今だと「そういう展開も有り得るな」と捉えられるから不思議。 現在ならフルCGも可能だと思われるが、オリジナルの特撮の良さも活かしたい、と考えたからか、模型を使っての撮影場面も多い。 模型を使った事によって独特の味のあるシーンになっていて、「自然な不自然さ」を演出していた。 本作のウルトラマンの造形は、オリジナルシリーズの製作段階で提案されたデザイン案をベースにしている。 よって、オリジナルシリーズのウルトラマンではお馴染みのカラータイマーや、背中のヒレ(実際はスーツのジッパーを隠す為のもの)や、目の部分の穴(スーツアクターの視界を確保する為に開けられた覗き穴)は無い。 オリジナルシリーズのウルトラマンを見慣れていると残念な感もあるが、本作の造形の方が宇宙人っぽさがあるのも事実で、甲乙付け難い。 禍特対のメンバーを演じていたのは、斎藤工や長澤まさみ等、テレビドラマではお馴染みの顔触れ。 全員可もなく不可も無く、といった演技だった。 その一方で目立っていたのは、敵役のメフィラスを演じた山本耕史か。 人類を支配する為の計画を着々と進める知的で冷静な外星人という役柄をしっかり演じ切っていた。 本作は、元のウルトラマンを断片的にも知っている者からすれば、懐かしくもあり新しくもある作品と映るだろうが、ウルトラマンを全く知らず、ウルトラマンに何の思い入れも無い者(海外の者等)からすると、設定・展開・演出・特撮に至るまで不自然で幼稚な作品、酷評されそう。 エヴァンゲリオンを手掛けた庵野秀明が関わっているとあって、雰囲気はエヴァンゲリオンっぽい部分も多い。 ゼットンの造形は、ほぼエヴァンゲリオンだったし、それとの最後の戦いの場面もエヴァンゲリオン並みの手抜きとも受け取れる映像だった。 ただ、ウルトラマンという元となる下書きがあるので、「大風呂敷を広げてみたものの畳み方までは考えておらず、適当に畳んで終わらせざるを得ませんでした」という展開になっていなかったのが何より。 エヴァンゲリオンも最初から2時間程度のアニメ映画に留めていれば、あそこまで破綻せずにまとめられたのでは、と思ってしまう。ウルトラアクションフィギュア 【ウルトラマン(シン・ウルトラマン)】(BP)価格:1980円(税込、送料別) (2022/6/25時点)楽天で購入
2022.06.25
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「ルパン三世 THE FIRST」は、モンキー・パンチ原作のコミックの劇場版第10作。 全国上映作としては、「ルパン三世 DEAD OR ALIVE」以来23年振りとなる。 シリーズ初の3DCGアニメ長編。 監督・脚本は山崎貴。粗筋 第二次世界大戦の最中。 考古学者ブレッソンは、強力なエネルギー源と成り得る「エクリプス」の在処を突き止め、日記に書き記す。 世界征服を企むナチスは、「エクリプス」を我の物にしたがっていた。日記を寄こすよう、ブレッソンを脅迫するが、日記は娘夫婦に託していて、手元には無かった。ナチスは、ブレッソンを殺害し、娘夫婦を追跡。 カーチェイスの結果、娘夫婦は事故死。夫婦の幼い子供だけが生き残る。 ブレッソン・ダイアリーと称されるようになった日記の行方は不明となった。 十数年後。 ブレッソン・ダイアリーが発見され、オークションに掛けられる。 そこへルパン三世が登場。「エクリプス」は、元々ルパン三世の祖父に当たるルパン一世が狙っていたお宝なので、孫である自分が手に入れるべきだ、と主張し、盗もうとする。 が、女性警備員により阻止されてしまう。女性警備員は、日記を金庫へ持って行くと言いながら、付き添っていた別の警備員を倒し、日記を持ち逃げしようとする。 舞い戻って来たルパンは、女性警備員から日記を奪い取るが、直後に峰不二子に奪われてしまう。 女性警備員は、実はレティシアという、秘密組織に属する女性で、組織の命令で日記を盗もうとしていたのを知ったルパンは、彼女と組み、日記を取り返そうと考える。 峰不二子は、盗んだ日記を雇い主である秘密組織へ引き渡す。 秘密組織は、レティシアのバックアップとして、峰不二子を雇っていたのだった。 秘密組織のリーダーであるゲラルトは、組織に属する研究員ランベールに、日記を解読するよう命じる。 が、日記は頑丈なケースに収められていて、無理に取り出そうとすると日記が破壊される仕組みになっていた。仕組みを解除出来るのはルパンくらいしかいないので、ゲラルトは、レティシアに対し、ルパンを連れて来い、と密に命じる。 ルパンは、レティシアと共に秘密組織のアジトである飛行機に到着。日記を隠し場所から盗み出すと、日記を収めたケースの複雑な鍵を解除する。 その時点で、レティシアは祖父であるランベールに通報。 ルパンは一旦は捕まるが、拘束されていた峰不二子と一緒に飛行機からレティシアを連れて脱出。 日記は飛行機に残したままだったと思われていたが、実はルパンがすり替えていて、ルパンの手元にあった。 ルパンは、レティシア、峰不二子、そして仲間の次元大介と石川五右衛門と共に、日記が記すエクリプスの在処へと向かう事に。 レティシアは、ランベールを実の祖父だと信じて疑っていなかったが、実は事故死したブレッソンの娘夫婦の子供だった。日記を収めたケースを開ける為のキーワードが「レティシア」だったのも、それが理由だった。 ルパンはその事実をレティシアに伝え、ゲラルトとランベールを阻止する為に更なる協力を求める。 エクリプスの在処に辿り着いたルパン一行は、レティシアが日記を解読出来た為、様々な罠を突破し、エクリプスを目の前にする事が出来た。 が、その時点でゲラルトとランベールが現れる。罠を自分らで突破出来ないと読んだ彼らは、ルパンに突破させ、エクリプスを奪えばよい、と考えていたのだ。 ゲラルトとランベールは、レティシアを人質にして、エクリプスを奪う。 エクリプスとは、ミニブラックホールを作り出す装置だった。 ランベールは、エクリプスを操作し、ミニブラックホールを発生させ、残したルパン一行を始末し、エクリプスを自分のものにしようとしたが、ゲラルトに阻止され、殺される。 ゲラルトとレティシアは、秘密組織の拠点へ移動する。 2人を出迎えたのは、第二次世界大戦末期に死んだ筈のヒトラーだった。 秘密組織は、第三帝国の復活を企むナチスの残党だったのだ。 ゲラルトは、どこかで生きていると信じて疑っていなかったヒトラーを前に、大いに感動。これまでの努力が報われた、と。 ゲラルトは、ヒトラーをエクリプスに案内し、操作法を教える。 ヒトラーは、エクリプスを勝手に操作し、ミニブラックホールを作り出してしまう。 その時点で、ゲラルトは気付く。 目の前に立っているのはヒトラーではなく、変装したルパンだ、と。ルパン一行は、間一髪でミニブラックホールから逃れ、秘密組織の拠点に先回りして制圧し、ゲラルトを迎え入れたのだった。 ヒトラー総統をどこにやった、とゲラルトは激高。 ルパンは当たり前の様に答える。ヒトラーは、史実通り、とっくに死んでいる、と。ゲラルトがヒトラー生存の根拠としていた数々の証拠は、インターポールがナチスの残党を炙り出す為に流した偽情報だったのだ。 ゲハルトは、ルパンを殺そうとするが、ミニブラックホールに吸い込まれ、死ぬ。 ミニブラックホールは、エクリプスも破壊し、エクリプスが人類に悪用される可能性は無くなった。 ルパンはそれを見届けると、レティシアに最後の挨拶をした後、仲間と共にその場から逃げる。感想 物凄いお宝を巡って、ルパン一行と悪の組織が戦いを繰り広げ、最終的には大き過ぎるお宝を葬り、その場を去る。 これまでのルパンの長編と大差は無い。 違うのは、フル3DCGアニメになっている、という事。 一昔前のフル3DCGアニメは、キャラクターの動きがぎこちない等問題点が多く、映画として観るには苦しい面もあったが、最近のは技術の進歩もあり、そうした問題も克服され、セルアニメに取って代われるものになっている(ディズニーは完全に3DCGアニメに移行している)。 本作も、観ていて違和感は無く、映画として普通に楽しめた。 ただ、キャラクターデザインは、型が決まっているルパンシリーズのレギュラーキャラクターを覗くと、ディズニーアニメのキャラクターか、と思ってしまう程オリジナル感に乏しい。 完全なオリジナルデザインは不可能だったのかも知れないが、もう少し原作(モンキーパンチの漫画)に寄せたデザインに出来なかったのか。 映像は、ディズニーアニメを制作する専用ソフトに、ルパンシリーズのキャラを取り込んでみた、といった感が否めなかった。 ストーリーそのものも、3DCGでなければ実現出来なかった、という内容にはなっていない。 ストーリーがある程度固まった時点で、従来のセルアニメではなく、3DCGアニメにしよう、と決まったらしい。 悪の組織として、ナチスの残党が登場。 今更何故ナチスやヒトラーにしたのか、よく分からない。 格好の悪役ではあるが。 欧米では、ヒトラー/ナチスを悪役やパロディとしてでも登場させると議論を招きかねないが、日本ではそこまで神経質でないらしい。 今回の「お宝」はミニブラックホールを発生させる装置だった。 装置を最初に発見し、その威力を知った怪盗ルパン一世が、考古学者ブレッソンと組んで在処を記す日記を作成し、自身が考案した複雑な仕掛けのケースに収めて保管する事にした、という経緯が明らかにされる。 ブラックホールは、現在はそれなりに知られているが、ルパン一世が活躍していた時代はまだ一般知識ではなかったと思われる。「ブラックホールを生み出せる装置です」といったところで、その価値や重大性を理解出来たとは想像し難い。 ルパン一世がどうやってその重大性を理解し、ブレッソンと共に日記を作成し、子孫に託そうと考えたのか、説明はなされていないし、子孫に託して何を期待していたのかも説明されない。 声優として、俳優の広瀬すず(レティシア役)、吉田鋼太郎(ランベール役)、藤原竜也(ゲラルト役)が起用されている。 プロの声優を何が何でも使え、という訳でもないが、話題の俳優を起用さえすれば興行収入も期待出来る、という発想は改めた方がよろしいのではないかと思う。 これまでのルパンシリーズは、制作された時代を反映していたが、本作の舞台は第二次世界大戦終結から10数年後、となっていて、1960年前後、という事になる。 ルパンシリーズはそれぞれが単独で完結しており、他のシリーズ作と繋がりが全く無いからこそ成せる業。 これを整理しようとしたら、時系列的には合理性に欠けてしまうだろう。 タイトルの「ルパン三世 THE FIRST」は、英訳すると「LUPIN THE THIRD THE FIRST」になってしまい、3作目なのか、1作目なのか、もしくは3世が登場するのか、1世が登場するのか、分かり辛い。 制作の時点で、「『THE FIRST』のサブタイトルを付けてしまうと、『ルパン三世、一世』になってしまいますよ」と指摘する者はいなかったのか。 それとも、分かり辛くなるのを承知でこのタイトルにしたのか。 フル3DCGアニメ化し、コストが掛かった為か、地上波で初公開するのではなく、劇場公開してコストをなるべく回収し、その後地上波で公開し、コストを完全に回収出来る体制を取ったらしい。 本作では、その目論見通りに進んだ様だが、この手がずっと使えるとは思えない。 日テレは本シリーズをどこに持って行くつもりなのか。映画「ルパン三世 THE FIRST」オリジナル・サウンドトラック 『LUPIN THE THIRD 〜THE FIRST〜』 [ You & Explosion Band ]価格:3300円(税込、送料無料) (2019/12/18時点)楽天で購入
2019.12.18
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2009年に公開された細田守監督によるアニメ映画。粗筋 近未来。 世界中の人々は、インターネット上の仮想世界OZを活用していた。ユーザーはパソコン等から自分のアバターを操って、ショッピングやゲームだけでなく、納税等の行政サービスも利用出来る様になっていて、最早OZ抜きでは生活が成り立たない程になっていた。 ある日、OZの保守点検のアルバイトをしていた高校生の健二は、先輩の夏希から、一緒に彼女の実家に行こうと誘われる。夏希の曽祖母である栄の90歳の誕生日を祝う為に、実家の陣内邸に親族が一堂に集まる事になっていた。夏希は曽祖母に婚約者を紹介する必要に迫られていたが、実際にはいなかったので、婚約者の振りをする者として健二に白羽の矢が立てられたのだった。 健二の携帯電話に、数字の羅列が書かれた謎のメールが送られてくる。数学が得意な健二は、それを何かのクイズだと勘違いして解読し、回答してしまう。しかし、それはOZの管理権限を奪う為の暗号だった。 翌日、OZは謎の人工知能ラブマシーンに乗っ取られてしまう。影響はOZと連携していた現実世界のインフラにまで及び、社会全体が大混乱に陥る。 栄が自身の人脈を駆使して事態の打開を図った事により、混乱は収束に向かうかに見えた。が、栄は翌朝、心臓発作で急死。 健二らはラブマシーンを倒す作戦を実行。一時はラブマシーンの封じ込めに成功するが、想定外のアクシデントで逃げ出されてしまう。 ラブマシーンは、奪った4億を超えるアカウントの権限を利用し、小惑星探査機の再突入体をどこかの核施設に落とそうとする。 勝負事には目が無い、というラブマシーンの性格を逆手に取り、夏希はラブマシーンを誘い出し、花札勝負で戦いを挑む。 花札勝負で勝った夏希は、ラブマシーンに奪われたアカウントのほぼ全てを解放する事に成功した。 窮地に陥ったラブマシーンは、苦し紛れに再突入体の落下地点を陣内邸に変更する。 健二らの行動により、再突入体の落下地点を陣内邸からずらす。陣内家の家屋は半壊するも、陣内家は一人も命を落とさずに済んだ。感想 近未来を舞台にしているストーリーだが、「近未来」に設定された時系列が過ぎてしまっているので、作中で描かれた未来像と、実際の世界に差が出ており、違和感を抱く。 本作では誰もがアバターを持っていて、そのアバターで仮想世界を利用する、という設定になっているが、現実社会ではアバターは廃れていて、積極的に使っているのは子供やゲーマーくらいで、成人が活用する事は無い。 アバターを通じて仮想世界を行き来するより、直に必要なサイトにアクセスして、利用する方が効率的という事もあり、仮想世界も、本作で描かれている様な形態にはなっていない。個別のサイトがそれぞれネット上で繋がっているだけに留まっている。 仮想世界が現実世界での生活でも必要不可欠、という設定なのに、仮想世界が簡単に乗っ取られてしまう程セキュリティが脆弱なのもどうかね、と思う。 本作では、仮想世界が高度に発達していて人間同士が実際に交流しなくても成り立つ一方で、現実世界では前時代的に親戚が一堂に集まって交流を図るという、二つの異なる世界を描いている。 現実世界も仮想世界も、アニメで描かれているが、そのタッチは全く異なっている。 この二つの世界のギャップを描く事が、制作者側の狙いだったのだろうが、観ている側からすると仮想世界も現実世界も、実際の社会とは掛け離れてしまっていて、リアリティに乏しい。 ストーリ展開も意味不明な部分が。 前半では栄という老女が物凄く存在感があるので、「仮想世界で発生した危機が現実世界にも及び、その危機から世界を救えるのはネット社会とはおおよそ無縁の老女のみ!」という意外性のある展開になると思いきや、彼女は序盤であっさりと死去。 結局世界を救うのはネット社会に縁のある若者達。 意外性も何も無い。 もしかして栄が死んだと見せ掛けておきながら、最後の最後で実は生きていて、重大な役割を果たす、という展開になるのかなと思っていたが、それも無かった。 何故早々と退場する栄という老女に存在感を持たせたのか、さっぱり分からない。 お蔭で、残った登場人物が全て雑魚になってしまい、どれも印象に残らなかった。 主人公の健二も、ラストで「やっぱり主人公はこいつだったのか」と気付くくらい存在感に乏しい。 ラブマシーンという「敵」はいるものの、あくまでも暴走した人工知能で、「悪」という存在になっていないのも、本作の特徴。 したがって、本作は勧善懲悪の展開になっておらず、登場人物らが勝手に騒いでいるだけで、観ている側からすると盛り上がりに欠ける。 日本のアニメ映画らしく、まともに通用するのは日本だけで、世界発信は全く想定していない。 その日本でも、僅か数年後に観直してみると古臭さばかり目立って観賞に耐えられず、「不朽の名作」には到底なっていない。サマーウォーズ 期間限定スペシャルプライス版 [ 神木隆之介 ]価格:1979円(税込、送料無料) (2018/11/8時点)楽天で購入
2018.11.09
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スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画。 人魚姫をベースにしている。 監督は宮崎駿。粗筋 魚の女の子ポニョは、海の女神である母親グランマンマーレと、魔法使いの父親フジモトに育てられていた。 ある日、ポニョは家出して海岸へやって来るが、空き瓶に頭が挟まってしまう。そこを、保育園児の宗介に助けられる。 宗介は魚のポニョが好きになり、ポニョも宗介が好きになる。 しかし、ポニョは娘を探しにやって来たフジモトに捕まり、海底に連れ戻される。 宗介の事が忘れられないポニョは、再度家から逃げ出す。その際、「命の水」を触れ、女の子の姿へと変わり、宗介の前に現れる。宗介は、女の子の正体が魚のポニョであると気付いて、彼女が戻って来た事を歓迎する。 一方、フジモトは、「ポニョが『命の水』に触れて世界に大穴を開けてしまった。このままでは世界が破滅する」と慌てる。グランマンマーレは、ポニョを人間にしてしまえば良い、と夫に提案。しかし、それは宗介の気持ちが揺らがない事が条件だった。もし宗介の気持ちが揺らいでしまうと、ポニョは人間になれず、魚にも戻れず、泡となって消えてしまうのだ。 宗介の母は、嵐の中、勤め先の老人ホームへと出掛けていく。 翌朝、ポニョと宗介が母の後を追う。すると、ポニョは途中で眠り出し、魚の姿に戻ってしまう。その時点でフジモトが現れ、二人を海底に沈んでいる老人ホームにまで連れて行く。そこでは宗介の母とグランマンマーレが待っていた。 グランマンマーレは、宗介が心からポニョを好きな事と、ポニョが魔法を捨てても人間になりたい事を確かめて、ポニョを人間にする魔法を掛ける。ポニョと宗介が陸に戻り、キスをすると、ポニョは5歳の女の子に変わった。感想 宮崎駿の作品らしく、主人公と敵対者との間で対立はあるものの、敵味方が善人・悪人に分かれている訳でもなく、最終的にはナアナアで終わる。 如何にも日本らしい展開。「起承転結」という展開を監督があえて避けている事もあり、海外の者からすれば、合理性に乏しい、消化不良になるストーリーになっている。 現実の世界に、魔法の世界が関わってくる……、という設定かと思いきや、宗介を始め登場人物のほぼ全てがポニョは勿論、グランマンマーレやフジモトの存在を何の疑いも無く受け入れてしまうのを見ると、本作で描かれている世界は全て「魔法の世界」らしい。 舞台設定の説明が全くなされないので、観ている側はそれを早い段階で理解し、受け入れないと、置いてきぼりを食らう。 登場するキャラも可愛げが無かったり、設定と言動に無理があったり、説明不足だったりと、問題点が多い。 主人公のポニョは、気ままで、自分勝手。 あまり共感出来ないキャラとして描かれている。 何故ここまで可愛げの無いキャラにしてしまったのか。 宗介は保育園児という設定だが、その割にはやけに聡明で、行動力がある。 リアリティに乏しい。 もう少し歳を上にした方が良かったのではないか。上にしてしまうと、魚の子に惚れる、という事は無くなってしまうかも知れないが。 フジモトは、元は人間だったが、ふとした事から海の女神であるグランマンマーレと恋に陥り、魔法使いになったというが、その過程は端的に述べられるだけで、まともな説明は無い。 彼が何をどうしたかったのかが、観終わった後も分からない。 ポニョは、宗介が心から彼女が好きだという事で、人間になり、めでたしめでたしで終わる。 ただ、宗助は保育園児。 永遠の愛を誓うにしては幼過ぎる。 仮に宗助の心がポニョから離れてしまったら、彼女はどうなるのか。 一旦人間になってしまえば、問題は無い、という事か。 あと、人間になったポニョを、誰が引き取るのか、という問題も発生する。 そこまで悩むストーリーではない、て事か。 ストーリーに合理性は無く、キャラに魅力は無く、あくまでも二次元アニメの映像美を楽しむ為だけの映画。 日本では、「腐っても宮崎駿」という事で、これで大丈夫なのだろうが、「宮崎駿ブランド」だけでは通用しない海外では、公開するにはあまりにも「日本的」過ぎる。崖の上のポニョ [ 山口智子 ]
2018.07.07
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映画「猫の恩返し」この作品情報を楽天エンタメナビで見る スタジオジブリによるアニメーション映画。粗筋 何となく日常を過ごす、ごく普通の女子高生・吉岡ハル。 ある日の放課後、ラクロス部に属する親友のひろみと帰っていた。道中、何かをくわえた猫がトラックに轢かれそうになるのを目撃。咄嗟にひろみのラクロスのスティックを使って助ける。その際、スティックを壊してしまう。助けられた後、その猫は信じられない事に、ハルに対し日本語で礼を述べ、二足歩行で去る。ハルは、猫が日本語を喋り、二足歩行で去った事をひろみに告げるが、その場面を目撃していなかったひろみは当然ながら信じてくれなかった。 その夜、ハルは母親から、彼女が幼かった時の猫とのエピソードを聞かされる。彼女が子猫を見付け、持っていた菓子を全てその子猫に与えてしまった、と。ハルは、そんな事をした記憶は全く無かった。 真夜中に、猫の行列がハルを訪れる。猫の国の王である猫王が、一行を引き連れ、ハルに直接礼を述べに来たのだ。何故なら、ハルが救った猫は、猫の国の王子・ルーンだったのだ。ハルは、お礼として目録を貰う。 翌日、ハルは目を覚ます。猫王がどうのこうのという、変な夢を観た、と思いながら。 が、目録が実際に手元にあったので、夢ではなかったのを、ハルは悟る。 同時に、猫の国からのお礼が届く。ひろみには大量のラクロスのスティックが届けられる一方で、ハルの家には大量の猫じゃらし、マタタビ、ネズミといった、猫しか喜びそうのない代物ばかりが届けられる。とんだ「お礼」だ、とハルは困惑する。 ハルは放課後、ひろみの掃除当番を代わりごみ捨てに行くと、片思いだった同学年の男子町田が彼女と思われる人物と歩いているのを目撃し、落ち込む。 丁度その頃、猫王の第二秘書であるナトルがハルの前に現れる。「私は猫じゃないから猫じゃらしもマタタビも嬉しくない」と文句を言うハルに、それならば猫の国へご招待致しますとナトルは答えた。また、猫王がハルをルーンの妃にしようとしている事も伝えた。 ハルは、慌ててナトルを引き止めるが、ナトルは「今夜お迎えにあがります」と言い残し去ってしまう。「猫のお嫁さんにされちゃう」とパニックになるハルに、どこからともなく声が聞こえた。その声によると「猫の事務所を探して。十字街に居る白い大きな猫が教えてくれるから。」との事。 学校の帰り道、ハルは十字街で白い大きな猫、ムタと出会う。ムタに「付いて来な」と日本語で言われたハルは、言われるまま付いて行く事に。着いたのは不思議な街で、そこにある小さな家の「猫の事務所」で猫の男爵バロンと、心を持つガーゴイルのトトと出会う。 ムタ曰く、猫の国は自分の時間が生きられない奴が行く場所だ、と。それを聞いたバロンは、ハルに自分を見失わない様にと諭す。猫の事務所にいる時、突然現れたナトリ率いる猫の集団に、ハルは連れ去られてしまう。そしてハルとムタは、バロンやトトと離れてしまい猫の国に連れ去られる。そこで、ハルはルーン王子と結婚する事を決められてしまい、猫耳と尻尾が生え、ついには、猫のヒゲが生えて、猫にされてしまう。 猫の国の城で開催されたパーティーで、ハルは仮面の貴公子に扮したバロンに助けられ、ムタと共に城を脱出。 人間の世界に通じる塔を登ろうと途中で、猫王の策略に嵌り、追い詰められる。 その時点で、ルーン、そしてハルを猫の事務所に導いたユキにより助けられる。ユキは、幼いハルにお菓子を貰った事で命を助けられた猫だった。 ルーンは、父親の猫王に対し、ハルとは結婚出来ない、と告げる。何故なら、ユキと結婚する事を決めていたからだ。 猫王は、息子がハルと結婚しないなら、自分がハルと結婚する、と訳の分からない事を言い出し始める。 ハル達は、トト率いるカラス達に助けられながら人間界に帰還。 これを見た猫王は退位を決意。 学校の屋上で、バロンはまた困った事件があったら猫の事務所の扉は開かれると言い残し、ハルの前から去る。 ハルは感謝の気持ちを抱きながら、普通の生活に戻った。感想 ストーリ展開が無茶苦茶で、一貫性に乏しい。 ファンタジーだから多少整合性が取れていなくてもいいじゃないか、という考えも出来なくもないが、もう少し筋が通ってほしい。 最大の問題点はタイトルが「猫の恩返し」となっているのに、主人公のハルからすれば恩返しでも何でもない点。皮肉を込めてそういうタイトルにしたのかも知れないが、その割には皮肉が活きていない。 この手のファンタジーは勧善懲悪にすればシンプルに纏まるのだが、本作では絶対的な「悪」が登場しない。 猫王が本作の「悪」に相当するのかも知れないが、観る限りでは単なる我侭キャラで(主人公を息子と結婚させたかった、それが駄目なら自分の妃にしたかっただけ)、「悪人」と呼べる程の存在ではない。 猫王の取り巻きにも、絶対的な悪はおらず、勘違いや思い違いでハルを困らせる迷惑な存在に留まっている。 主人公のハルも態度や立ち位置をはっきりさせない。猫の国に行ってみてもいいかなと発言したと思ったら、直後に撤回する等、観ている側からしても感情移入がし難い。 女子学生として、私生活で悩みが多いのは事実かも知れないが、観る限りでは極端に落ち込む程の悩みではないのである。 ラストで、ハルは母親がびっくりする程前向きな姿勢を取る様になっているが、この姿勢はいつまで続くのか、と疑ってしまう。 キャラデザインもイマイチで、可愛いとは思えない。 美少女ではない、ごく普通の少女の物語にしたかったとしても、もう少し魅力的に出来なかったのか。 本作でヒーロー役を務めるのが、バロンとの事らしいが、このキャラも微妙。 格好いい様に描かれているが、無能過ぎる。 まず、助けを求めにやって来たハルを自分の事務所からあっさりと奪われてしまう。 次に、ハルを救出する為猫王の城に潜入し、ハルを城から連れ出すまでは良かったものの、城の外にある迷路で猫王の思惑通り迷ってしまい、困惑する。 最終的にはハルを人間の世界に返す事に成功するが、バロンの活躍というより、バロンの仲間の活躍が目立った。 一対一での格闘戦には長けているのは分かったが。 結局何を伝えたかったのかよく分からない一編。 ファンタジーだからといって、何でもありで、ストーリーに整合性が無くてもOK、という訳ではなかろうに。猫の恩返し/ギブリーズepisode2 [ 池脇千鶴 ]価格:4162円(税込、送料無料) (2016/11/25時点)
2016.11.25
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映画「るろうに剣心」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 少年ジャンプで人気を博した和月伸宏による漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』を原作とした実写版3部作の第1作目。 主演は佐藤健。 他に武井咲、吉川晃司、香川照之、江口洋介が出演する。 監督は大友啓史。粗筋 幕末の日本では、幕府側と新政府側の対立で、様々な剣客が暗躍した。新政府側の「人斬り抜刀斎」もその一人。 しかし維新後、西洋文化が取り入れられて近代化が推し進められるようになると、剣客らは「過去の遺物」と見なされるようになり、忘れ去られ、「人斬り抜刀斎」も実在していたのかどうかも分からない、ただの伝説の人物となってしまう。 明治に移行してから10年。「人斬り抜刀斎」こと緋村剣心(佐藤健)は、殺傷を良しとしない「不殺の誓い」を掲げて放浪していて、東京に流れ着く。 丁度その頃、「神谷活心流 人斬り抜刀斎」を騙る辻斬り事件が発生していた。 辻斬りの流派と噂されたが故に門下生が1人だけとなってしまった神谷活心流の師範代神谷薫(武井咲)は、剣心を辻斬りの犯人と勘違いして挑み掛かる。が、その直後に薫は実際の犯人である刃衛(吉川晃司)と遭遇。斬られそうになるが、剣心に救われる。 阿片の製造・販売を手掛けて巨万の富を築いていた武田観柳(香川照之)は、事業の更なる拡大を企む。海外へ阿片を輸出出来る港湾の整備計画を立てた。その計画に当たって邪魔になっていたのが、薫の道場だった。観柳は、道場を潰す為、刃衛に「神谷活心流 人斬り抜刀斎」を名乗らせて辻斬りをさせていたのだった。 観柳は、破綻全然の道場に手下を送り込み、道場の土地を譲るよう、迫る。 薫は拒否。 薫を痛め付けようとする手下らを、剣心が倒す。駆け付けてきた警官隊に、剣心は騒動の原因は自分にあって道場は無関係だと告げた為、連行される。 連行された警察署に、剣心が抜刀斎である事を知る大物政治家山県有朋と、特命捜査官斎藤一(江口洋介)が姿を現し、剣心に阿片の捜査協力を願う。しかし、剣心はこれを断る。 釈放された剣心は、出迎えた薫の説得もあり、道場で居候する事になる。 観柳の下では、女医の高荷恵(蒼井優)が阿片を開発させられていたが、隙を見て逃げ出す。神谷活心流唯一の門下生となっていた明神弥彦と出会い、同じく道場に居つく事になる。 薫の道場が一層邪魔になった観柳は、一帯の住民ごと抹殺する計画を実行する。井戸に毒を盛ったのだ。医師の知識を発揮した恵により、住民は助かる。 恵は、これ以上住人にこれ以上迷惑が掛らぬようにと、観柳の屋敷に戻る。 恵の書き置きを読んだ剣心は、喧嘩屋・相楽左之助と共に観柳の屋敷に向かう。観柳を倒し、恵を助け出す事に成功する。 恵から、刃衛が薫を拉致し、剣心との戦いを望んでいる事を聞かされる。剣心は、今度は薫を救う為に刃衛の下へと向かい、決着を付ける。感想 人気漫画の上辺を抽出して実写化した結果、原作以上に漫画っぽい展開になっているという、不思議な映画。 ハリウッドでもコミックスの実写版がガンガン製作されているが、それらは原作の本質をきちんと捉えた上で製作されている。子供が観て楽しめるのは当然だが、子供の頃に読んでいた、という大人の鑑賞にも堪え得るものになっていて、「大人向けにもなれるお子様ランチ」に仕上がっている。 日本の場合、製作者は原作漫画の本質を捉えていないのが殆ど。大人の鑑賞に堪え得るものにはなっておらず、正真正銘の「お子様向けだけのお子様ランチ」にしかなっていない。 本作は、実写版3部作の第1作目。 本シリーズを初めて観る者、もしくは原作を知らない鑑賞者の為に、登場人物や舞台設定をきちんと説明する役割を担う筈。ストーリー自体はシンプルにまとめても良かった。実質的な本編は次回作から、という事で。 残念ながら、原作では巻数をかなり割いて徐々に登場させていた主な登場人物、そして原作では同じく巻数をかなり割いて描いていたストーリーを2時間あまりの映画に欲張って詰め込んでいる。 その結果、十数話分のテレビドラマの総まとめ編を観た気分になってしまう。 本シリーズに馴染みが無い者からすれば説明不足で訳が分からないし、馴染みがある者からすれば深みが無くて物足りないものになっている。 登場人物の描写は中途半端。 原作を読んでいれば、その姿から、「ああ、あのキャラか」と分かる。 が、そうでない者からすると、訳の分からないキャラ(相楽左之助、明神弥彦等)が突然現れては何の根拠も無く味方側に付いたり、敵側に付いたりして、それぞれ行動を起こしている印象を受ける。 これだったら、いっそ登場人物を整理して、減らせば良かったのに、と思う(実際省略されているキャラもいるが、そういうのに限って「何故省略した?」と首を捻ってしまう)。 ストーリーも、原作では別々だったエピソードが強引に一つにまとめられてしまい、無理がある。 原作では、東京で辻斬りを犯していた「人斬り抜刀斎」は偽者で、一見頼り無さそうな緋村剣心こそ本物の「人斬り抜刀斎」だ、というのが徐々に明らかにされる展開になっている。が、本作では冒頭で緋村剣心=人斬り抜刀斎であるのが明かされ、辻斬り犯は偽者、というのも直ぐ判明してしまっており、面白みに欠ける。 十数年前は殺しに殺し捲くっていた主人公剣心が何故現在はひたすら「不殺」を貫くのか、という重大なテーマも軽く触れられているだけ。剣心の過去を知る斎藤一や刃衛から「お前の『不殺』の考えは甘ちょろい。目を覚ませ」と幾度も悟られるが、観ている方からしても甘ちょろく映った。 出演者も、演技をしているというより、やりたくもないコスプレをさせられている、といった感じで、深みがまるで無い。 特に、剣心を演じる佐藤健はジャニタレとあって、本人や製作者の意向より事務所の意向が強く反映されている様に映る。「事務所として所属タレントがこれをするのはNG」が乱発されたらしく、演技の幅が極端に狭い。 普段は頼りがいが無さそうな優男だが、いざとなると超人的な力を発揮する元人斬りというキャラの筈なのに、「剣捌きが多少上手いだけの若造」にしか見えない。敵側の方が強く見える。その強く見える敵も結局剣心に倒されるのだから、所詮見掛け倒れ、という事になってしまう。 キャラはイマイチ、ストーリーもイマイチ。 ただ、アクションシーンだけは日本映画の極み……、と言いたい所だが、これもイマイチ。 というか、陳腐。 荒唐無稽になりがちな漫画のアクションシーンを説得力を持って実写化するには、相当な予算と綿密な計画が必要。 しかし、製作者は「所詮漫画の実写に、そんな予算も時間も掛けられない」と割り切ってしまったらしい。 何の説得力も無いアクションシーンの連続。 下手にハリウッドを意識しているので、無意味に血生臭く、お子様には見せられない。それ以外の部分は上述した様に「お子様向けのお子様ランチ」なので、バランスが悪い。結局どの様な観客をターゲットにしているのか、と疑ってしまう。 血生臭さが迫力や緊迫感をもたらしているならまだ救えるが、それも無い。 再放送で観られる水戸黄門の殺陣の方が、まだ迫力がある。 予算が限られたといっても、テレビドラマよりは余裕があっただろう。にも拘らずこの程度しか製作出来ないとは、驚く。 本作は、欧米映画だけを観て時代劇をろくに観ていない連中が、「日本ならではのアクション映画を作ろう! 外国人にも受けるよう、サムライを登場させよう! ただし時代劇なんて爺臭いものは完全に無視する! 『時代物』の新たなスタンダードを、我々で作るのだ!」という壮大な目標を掲げて製作した代物といえる。 が、完成品を観る限りでは、逆に昔の時代劇の技術力の高さと、伝統の奥深さを再認識させられる。 本作なんかより、過去の時代劇を海外に発信した方が、「ジャパニーズ・アクション」として世界から評価されそうな気がする。 特に水戸黄門なんかは、殺陣こそあるものの血生臭くないし、ストーリーは勧善懲悪で、日本文化に詳しくない者が観ても分かり易いし。 日本は、手元にある資産の活かし方をとにかく知っていない。人気blogランキングへ【楽天ブックスならいつでも送料無料】るろうに剣心 スペシャルプライス版 [ 佐藤健 ]価格:1,548円(税込、送料込)
2015.10.27
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(C) 2014 GNDHDDTK映画「思い出のマーニー」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 米林宏昌監督によるスタジオジブリの長編アニメ。 原作は、ジョーン・G・ロビンソンによる児童文学。 原作はイギリスが舞台で、登場人物も当然ながらイギリス人だが、本作では舞台は北海道に変更され、登場人物も日本人に改変されている(主人公アンナは漢字で「杏奈」になっている)。マーニーだけは原作と同じく金髪で青い目の白人少女として描かれている。 ジブリの両雄とされる宮崎駿・高畑勲監督は、本作に一切関わっていない。 ジブリの次世代を担うと期待された米林監督だが、本作公開後に退社している。粗筋 杏奈は、唯一の肉親だった祖母を幼少期に失い、里親に育てられていた。実の親に捨てられた、という思いからか、他人を受け入れず、内向的な性格になっていた。喘息の療養の為、札幌から、里親の親戚がいる海辺の町へ行く事になる。 町を巡っていると、古い屋敷を見付ける。それについて周囲に話すと、あれは幽霊屋敷だと言われる。これまで何度も所有者が変わっていて、現在は空き家だと。 杏奈は屋敷に近付く。空き家の筈なのに、誰かが住んでいるように見えた。そして、屋敷に住むという不思議な少女マーニーと出会い、親友となる。杏奈は、屋敷で催されたパーティーにも参加する。その時は屋敷は空き家にも廃屋にも見えなかったが、翌日訪れるとやはり空き家の廃屋にしか見えない。 パーティーの後、マーニーは姿を見せなくなり、屋敷には新たな住民が引っ越して来る。 杏奈は、マーニーを自身の空想が作り上げた存在だったと思うようになる。が、屋敷に引っ越してきた少女彩香から、彼女が見付けたというマーニーの日記を見せられる。 杏奈は、マーニーが実在するのか、実在しないのか、空想の産物なのか、屋敷は空き家なのかそうでないのかが分からなくなってくる。 杏奈は再びマーニーと出会い、互いの悩みを打ち明けあう。 マーニーが海辺の高台にあるサイロを恐れている事を知ると、それを克服する為に2人でサイロに向かう。嵐の中で、杏奈はサイロに置き去りにされてしまう。杏奈は怒り、悲しむが、マーニーから別れを告げられ許しを求められると、マーニーを許す。 杏奈は、マーニーの友人だったという老婦人と出会う。老婦人の話から、マーニーの生涯を知る。マーニーは屋敷で、親に見捨てられた形で育ち、やがて結婚して娘を生むが、夫にも娘にも先立たれてしまう。残されたのは娘の子、つまり自身の孫だった。マーニーは孫を懸命に育てるが、心労がたたって亡くなってしまう。孫は里子に出される。 その里子こそが、杏奈だった。 杏奈は、当の昔に亡くなっていた自身の祖母と交流していたのだった。感想 様々な悩みを抱えていた少女杏奈が、謎の少女マーニーと出会う事で、自身の生い立ちを知り、悩みから解放される。 ……という、まとめてしまうと単純なお話。 ただ、変にミステリー仕立てにしたり、ファンタジー仕立てにしたり、「人間を描く」等の要素を加えたりしているので、複雑なストーリーになってしまっている。 複雑にした事でストーリーにより深みが出て、面白い作品に仕上がっているのかというと、そうではないのが残念な所。 謎の少女マーニーは、実は杏奈の祖母の若い頃の姿でした、という真相は、流れで何となく分かっていく。したがって、ラストでそれが明確に告げられても、「やはりね」といった感じで、驚きに値しない。寧ろ「実は杏奈とマーニーには何の繋がりもありませんでした」というラストになっていた方が衝撃的だっただろう。 杏奈の里親の親類が、アンナの祖母が育った家の側に住まいを構えていた、という偶然も出来過ぎ。 ミステリー仕立てになってはいるものの、ミステリーの部分が弱過ぎて、鑑賞者の予想を上回るどんでん返しは無い。 杏奈が、他人には幽霊とも捉えられるマーニーと友人関係を築いていくというファンタジーも、最初は興味深いが、後半になってマーニーは何者なのかという中途半端なミステリーに軸足が傾くと、くどく感じる様になる。観ている方は真相にはうすうす気付いてしまうので、もったいぶってないでストーリーをさっさとそれに持ち込め、と思ってしまう。 最大の問題は、「人間を描き過ぎている」事。「人間を描く」事は、ストーリーに深みを持たせる為には不可欠とされる。 紙人形の如く薄っぺらなキャラでは、作品全体が印象に残らない代物になってしまうのは事実。 では、とにかく描き捲くればいいのか、というとそうでもない。 人間を描く、という事は、登場人物の欠点を詳細に描く事に繋がる(欠点が一つも無い「良い人」だと、いくら詳細に描いてもリアリティに乏しくなる)。結果的に、自己中心的な、共感に値しない登場人物を作り上げてしまう事になる。 本作の主人公杏奈は、親を亡くし、里子に出されている。里親とは血の繋がりは無い。それを悩みにしていて、心労からか病気になりがち。そんな事から他人の親切を素直に受け入れる事が出来ないどころか、拒絶する。 現実の世界では、そういう人間がいるのは分かる。というか、大抵の人間は多かれ少なかれそうである。が、スクリーンで、他人の親切を散々拒絶しておきながら「自分は誰にも愛されていない不幸な人間」みたいな顔をしているキャラを見せ付けられても、共感し難い。 杏奈は、他人をひたすら拒絶するのに、何故かマーニーという謎の少女は自ら進んで接触しようとする。 では、そのマーニーは物凄く素敵なキャラなのかというと、そうでもなく、寧ろ意地悪で、自己中心的で、杏奈を困らせる。マーニーも、杏奈と同様、不幸な生い立ちなので、性格が曲がってしまうのは止むを得ない、と観ている側は納得出来る。が、同情には値しない。 本作は、結局杏奈とマーニーという、共感に値しないキャラ同士の交流(正確には傷の舐め合い)を描く羽目になってしまっている。 共感出来ないので、2人に様々な事が起こっても何も感じない。杏奈が最終的に悩みから解放されて、人生を前向きに生きるようになる、という結末を見せられても、心が温まるどころか、「その前向きな姿勢はいつまで持続するのかね」と疑問の目で見てしまう。 杏奈は、彼女に親切に接しようとする垢抜けない少女信子は強硬に拒絶するが(「太っちょ豚」と呼んでしまう)、ちょっと意地悪な美少女マーニーは拒絶しない。 結局見た目かよ、と呆れてしまい、ますます好感度が下がる。 人間的には、信子の方が何倍もまともに映る(「太っちょ豚」と呼ばれても特に腹を立てず、その場を収めようとする)。杏奈より1歳年上というのが信じられない落ち着き振り。容貌は、製作者の意図からか、不細工だが(杏奈とマーニー以外はほぼ全員が不細工というか、垢抜けない田舎者として描かれている)。 杏奈とマーニーは、好感度が下がる程人間が詳細に描かれているのに、他の登場人物は雑魚扱い。キャラクターデザインで辛うじて区別出来る程度。 重要キャラである筈の杏奈の母親(マーニーの娘)や父親は、ラスト辺りでほんの少し登場し、軽く触れられるだけで、存在がとにかく薄い。 製作者は、何故ここまで素直でないキャラを主人公にする事にしたというか、主人公をそう描く事にこだわったのか。 ジブリらしく、絵は綺麗だが、これまでの同スタジオ作を上回るクオリティではない。 3DのCGアニメが一般的になってしまっている現在では、二世代も三世代も前の代物に見えてしまう。 一度は観てみたものの、また観たいとは思えない。 最近のジブリ作品全てに当てはまるが。人気blogランキングへ【楽天ブックスならいつでも送料無料】思い出のマーニー [2DVD] [ 高月彩良 ]価格:4,453円(税込、送料込)
2015.10.17
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映画「かぐや姫の物語」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 日本最古の物語とされる竹取物語(かぐや姫)を、原作にほぼ忠実にアニメ化。 水彩画や墨絵をアニメにした様な、独特のタッチが特徴。粗筋 平安時代。 山里に竹を取って暮らす老夫婦がいた。 ある日、老人は光り輝くタケノコを発見。中には赤子がいた。老人は、赤子を家に持ち帰り、妻と共に育てる。赤子は半年で少女へと成長。近所の子供達と、自然の中で遊びながら、天真爛漫に育った。 その後老夫婦と共に都へ移り住み、かぐや姫と名付けられ、「高貴の姫君」としての教育を受ける。 美しく育ったかぐや姫の下に、5人の求婚者が現れる。 結婚を望まないかぐや姫は、求婚者それぞれに対し珍しい宝物を持って来てほしい、と要求。宝物を持って来た者と結婚する、と。 求婚者らは数年かけてかぐや姫が欲しいと願った宝物を探して、持参するが、偽物ばかりで、誰一人宝物を持って来る事に成功しなかった。また、求婚者の一人が、宝物を得ようとする際に事故で死亡。 これを知ったかぐや姫は、自分を責める。 かぐや姫の事は帝の耳にも入る。帝は彼女に言い寄ろうとするが、彼女は彼すら拒んだ。 かぐや姫は、育ての老夫婦に、自分は月から下ろされた者で、近々迎えが月からやって来る、と伝える。 老夫婦は兵を雇って阻止を試みるが、月からやって来た天人らには全く通じず、かぐや姫は月へと連れ帰される。感想 日本人の誰でも知っている竹取物語。 原作にはあるもののあまり一般的に知られていないエピソード、そしてオリジナルのエピソードやキャラを加えて、長々と映画化。 細かい部分には新たな解釈があるものの、全体な流れや結末に関しては新たな展開はない。 かぐや姫が望みもしない男共との求婚を迫られ、死を望むが、いざ死期が近付くとやっぱり生きていたいと考えを改め、抵抗する。が、一旦死ぬ事を決めてしまった以上、覆す事は許されず、そのままあの世へと旅発つ……。 月からやって来た天人が、菩薩の姿をしていて、かぐや姫は「月へ帰った」というより「あの世へと旅発った」、つまり単純に「死んだ」というのは、これまであまり意識していなかった、新しい解釈と言える。これは、本作の功績と言えなくもない。 一方、現在の価値観を、平安時代に当てはめ、優劣を決めようとする見せ方は疑問に思う。 本作では、田舎での生活はのんびりしており、平和である一方、都会の暮らしは窮屈で、欲に塗れている、として描かれている。 現在と平安時代では、法律も技術も価値観も風習も違っていた訳だから、田舎で暮らすのが幸せで、都会での暮らしはひたすら不幸だ、と強調されても違和感が。 電気も機械もない平安時代にもなると、田舎での暮らしはのんびりとしたものとは到底思えない。大自然を人力のみで相手にせねばならず、苦労の連続でしかなかっただろう。 平安時代の都会での暮らしは、現代人の視点からすれば規律に塗れて窮屈に映るが、当時の者にとってはそれが普通の生活なのである。そうした規律がなければ、秩序を保てなかっただろう。 現代人だって、「都会暮らししているあなたは不幸だから、田舎に越して幸せになりなさい」と突然持ちかけても、拒否するのが大半と思われる。 もし田舎暮らしが本当に幸せなら、何もこんなアニメに言われなくても、大挙して都会から田舎に流れている筈。 田舎も、ただただのんびりと生活出来る訳ではなく、不便や苦労が多い、という事実を知っているからこそ、都会に留まっているのである。 かぐや姫が男に言い寄られ、相手との相性を確かめられぬまま結婚相手を決めなければならないのは可哀想だ、という描き方も、現代の視点でしかない。 ネットは勿論、写真技術ですらない当時では、直に顔を合わせる事無く結婚を決めるのは当たり前で、悲観する出来事ではなかったと思われる。寧ろ、手紙のやり取りだけで相手の本性を見抜く能力(現在の者から超能力みたいなもの)を、当時の者が備えていたとしても、不思議ではない。 当時の者からすれば、一々顔を合わせたり、画像や映像を観たりしないと相手の本性を見抜けない現代人こそどこまで鈍感で、感性や想像力に乏しいんだ、という事になるだろう。 本作は、海外の映画祭に出展されたが、賞を獲得するまでには至らなかったようである。 海外の者が、現在の日本人ですら正確に把握していない平安時代の人々の暮らしや、習慣や、思考を、理解出来るとは到底思えない。 独特のタッチの絵も、ディズニーの3Dアニメーションが世界を席巻している現状では、手抜きというか、未完成のラッシュを観ている気分だっただろう。 何度か観ている内に、その奥深さが分かる作品。 ただ、そう思えるようになるまで何度も観たいか、というと疑問に思う。人気blogランキングへ【楽天ブックスならいつでも送料無料】かぐや姫の物語価格:4,779円(税込、送料込)
2015.04.03
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(C)2015「ジョーカー・ゲーム」製作委員会映画「ジョーカー・ゲーム」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 第30回吉川英治文学新人賞等を受賞した柳広司の短編小説集を原作にしたスパイアクション。 主人公を演じるのはジャニーズ系アイドルグループKAT-TUNのメンバー・亀梨和也。 他に、伊勢谷友介、深田恭子、小澤征悦、嶋田久作が出演する。粗筋 架空の第2世界大戦前夜。 陸軍士官学校で訓練を受けていた嘉藤(亀梨和也)は、重大な規律違反で極刑に処される事に。が、刑の執行直前に結城中佐(伊勢谷友介)に救われる。 結城中佐は、D機関という諜報機関を組織した人物だった。これまでは民間人をスパイとして起用していたが、今回初めて軍出身の嘉藤をスカウトしたのだった。 嘉藤は、他の候補生と共に数々の訓練を乗り越え、スパイとなる。 初の任務で、大陸のある都市に送り込まれる。 新型爆弾の設計図が載った「ブラックノート」を取って来い、という任務だった。 ブラックノートは、元々ドイツ軍によって作成されたのだが、今はアメリカの大使の手元にあった。大使は近々アメリカに帰国するので、その際にブラックノートもアメリカに渡る、と推測された。 嘉藤は、アメリカの大使館に忍び込み、ブラックノートを奪う事に成功。 しかし、ブラックノートを欲しがっているのは、日本だけではなかった。イギリス情報部が介入し、争奪戦が始まる……。感想 スパイ映画だというので、和製007を期待していたのだが……。 ルパン三世実写版になっていた。「ブラックノート」というお宝。謎の美女。不気味な悪役。死んだ、破門されたと思っていたら結局は全員仲良く生き残って丸く収まる愉快な仲間たち。自動車で逃げる主人公を某機関の者が同じく自動車で追うラスト……。 日本でスパイ映画を製作すると、どうしてもルパンになってしまうらしい。 といっても、流石に本作並にルパン三世をパクってしまうと、そちらの原作者から訴えられそうだが。 何故原作をモンキーパンチではなく柳広司にクレジットしたのかが不明。 本作の最大の問題は、どういった映画にしたかったのかが分かり辛い事。 原作はシリアスな小説らしいのに、本作はどことなくコメディタッチ。 にも拘わらず肉体派アクションも中途半端に絡めている。 コメディにも、アクションにも、アクションコメディにもなり切っていない。 大人の鑑賞に堪え得る作品を目指しているにしては、童顔のジャニーズ系アイドルを主人公に据える等、真剣さが覗えない。 といって、第二次世界大戦前を時代設定としたスパイ映画という題材自体は、若者・女性向けではない。 登場人物の設定も、グダグタ感が漂う。 嘉藤は、軍出身ながらも諜報員としての素質を持ち備えた優秀な人材だったので、結城中佐によってスカウトされた、という事になっている。 スパイ養成学校では、嘉藤は優秀振りを存分に発揮し、他の候補生らを感心させている。 が、いざ訓練を終えて任務先に向かうと、途端にポンコツ振りばかり披露する様に。 ブラックノートを奪いにアメリカ大使館に忍び込むのだが、自信を持って隠し場所だと目星を付けた金庫には全く無関係の書類しかなく、日を改めて再び忍び込む羽目に。「下手な鉄砲撃ちゃ当たる」と言わんばかりに探し回り、漸く見付ける。 やっと奪ったのだからさっさと戻って仲間に渡せば任務は完了するのに、大使館に勤めていた薄幸な謎の美女(深田恭子)の手助けに執着。 謎の美女は、実はリンという、フリーランスのスパイだった。リンはブラックノートを嘉藤から奪い、逃走。嘉藤は、彼女を追って町中を走り回る。漸く追い付いたら、リンを雇っていたイギリス情報部と鉢合わせ。捕まってしまう。 嘉藤は、D機関の仲間の助けもあり、再びブラックノートを奪って逃げる事に成功するが、リンを助けなければという発想に捉われ、無駄なリスクを犯す。 見え見えのハニートラップに引っ掛かりまくりのスパイの、どこが優秀なのか。 学校では優秀な成績を収められるが、いざ社会に出るとまるで使い物にならないポンコツ社会人そのものである。 これだったら、「嘉藤は何の取り得もない男だったが、ふとした事でD機関に拾われ、スパイとしての訓練を受けるが、そこでも何の才能も発揮出来ない。しかし、諸事情により訓練の途中で現地に送られる羽目になった……」という設定にしていた方が、未熟さにも説得力を持たせられただろうに。 何故無意味に「優秀」なキャラにしてしまったのか。 本作で繰り返し述べられる言葉が、「死ぬな、殺すな」。 スパイは他人を殺しまくっていたら目立ってしまい、任務を遂行出来なくなる(ハリウッド映画のスパイはあまり遵守しないが)。無論、スパイ本人が死んでしまったら、任務の完遂は無理。 したがって、スパイは無闇に人を殺すべきでないし、本人も自決すべきではない、という考えは、理に適う。 ただ、「死ぬな、殺すな」は、あくまでも任務の遂行に不可欠だからこそ繰り返し述べられている筈。人道的観点に立って生まれた言葉ではない。寧ろ人道的観点とは正反対の、冷酷で非情な論理に基づいている。 にも拘わらず、本作では「死ぬな、殺すな」はまるで「義理人情を重視しましょう」という意味で使われている。嘉藤がハニートラップ女を繰り返し救出しようとするのも、「死ぬな、殺すな」を義理人情の事だと勘違いしていて、製作者側もそれを後押ししているから(ジャニーズ事務所から、所属アイドルが演じる主人公を冷酷非道にするのはNG、と通達を受けているかの様)。 製作者側が言い出した言葉なのに、その言葉の本質を捉え切っていないのは悲しい。 同時に、臨機応変に考え、動けなければならないスパイを、こうした鉄則で縛ってしまうのは、おかしいのではないか、とも思う。 俳優の演技も、イマイチ感が漂う。 亀梨和也は、公開の時点で30歳にも手が届き、俳優としての出演作も多い筈なのだが、まるで深みを感じさせない。 未だに新人の、顔だけが自慢のアイドル、といった佇まい(その自慢の顔も、ジャニーズ系アイドルに特に興味がない者からすれば十人並みでしかない)。 深田恭子にいたっては、既に三十路を超えていて、10代半ばのデビューから20年近くのキャリアを積んでいる筈なのに、台詞が全て棒読み。見せ場である筈のアクションシーンも切れがなく、重そうに映る。顔は悪くはないのかも知れないが、三十路過ぎの女を今更良い悪いとケチを付けてもしょうがない。 唯一存在感を出していたのは伊勢谷友介だが、彼も結局は漫画風の設定になってしまったキャラを見事漫画風に演じ切っただけ。 本作は、外国人俳優が多数登場する。 国際色を出したい、という思惑からなのだろうが……。 外国人俳優は、当然ながら英語の台詞を喋っていた。 が、日本語の脚本を翻訳家に渡して「直訳して下さい。意訳は避けて下さい」といったつまらぬ注文を付けてしまったらしい。文法的には破綻していないが、台詞として喋らせると不自然に感じてしまうシーンばかりになってしまった。 脚本を書き上げる段階で日本語と英語の双方を理解している者に読んでもらい、不自然な部分を確認させられなかったのか。脚本の段階では、不自然さに気付き難い、という側面もあるのかも知れないが。 それでも、撮影がある程度進んだら、ラッシュ試写がある筈。その段階で英語力がある者を招待していたら、「英語の台詞が不自然ですよ」と指摘を受け、撮り直しも出来ただろう。 その程度の手間を拒んだ結果、外国人にはとてもではないが見せられないチープな代物が出来上がってしまった。 よくバライエティ番組で、変な日本語を使う外国人や、海外で誤解されている日本文化を探し出しては笑う、というのがあるが……。日本も英語においては結局同じ様な過ちを繰り返している。 亀梨和也にも英語の台詞があるが、「イーオンの英会話学校でしっかり学習しました」という程度のレベルで、誉められたものではない。 本作が公開されていたのと同じ時期に、元007のピアース・ブロスナン出演作「NOVEMBER MAN(邦題スパイ・レジェンド)」も公開されていた。 そちらが大人向けのスパイアクションなら、こちらはお子ちゃま向けスパイアクション。 邦画は、どうあがいても洋画には勝てない。 結局、ジャニーズアイドルのプロモーションビデオを、金を払って観た鑑賞者が一番のジョーカー、という事らしい。人気blogランキングへ【楽天ブックスならいつでも送料無料】「ジョーカー・ゲーム」オリジナル・サウンドトラック [ ...価格:2,700円(税込、送料込)
2015.02.07
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(C)1977, 2010 松竹株式会社映画「幸福の黄色いハンカチ」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 寅さんシリーズで知られる山田洋次による監督作。 仁侠映画で名を馳せていた高倉健が、仁侠映画から脱却するきっかけになった作品の一つ。 また、歌手活動がメインだった武田鉄矢にとって、俳優活動への道を切り開いた作品でもある(起用された時点では「一発屋」と見なされ、殆ど忘れ去られていた存在だったという)。 倍賞千恵子や渥美清等、寅さんシリーズでお馴染みの俳優らも起用している。粗筋 恋人と失恋した花田欽也(武田鉄矢)は、自棄になって務めていた工場を辞める。退職金で車を買い、単身でフェリーに乗り北海道へ向う。網走に到着した。 そこで、職場で恋人を同僚に取られ東京から一人で傷心旅行に来ていた朱美(桃井かおり)に声をかけ、一緒に旅する事に。海岸に立ち寄ると、写真を撮る事にした。 二人は、偶々いた男性に声をかけ、カメラで写真を撮ってもらう。この男こそ島勇作(高倉健)だった。 欽也と朱美は、これも縁だと思って勇作を車に乗せ、3人旅を始める。 欽也は、朱美と肉体的関係を持ちたかったが、朱美はこれを直ちに拒否。欽也は残念がるが、それでも旅は続ける。勇作も、何だかんだで同行する羽目に。 車中での会話で、勇作はかって暮らしていた夕張に向かっている事が明らかになる。 帯広で、欽也は別のドライバーとふとした事で喧嘩になってしまう。勇作が相手の男を殴り飛ばし、その場を逃走。が、勇作が運転し続けた為、警察の検問に引っかかってしまう。 この時点で、勇作は刑務所から出所したばかりで、無免許である事が発覚。最寄の警察署に連行される。そこでは、かって勇作の事件を担当した警察官(渥美清)が偶然勤務していた。その警察官の計らいにより、事なきを得たが、刑務所帰りである事が、欽也と明美にばれてしまった。 勇作は一人で夕張へ向うと言うが、欽也と朱美はそれを許さず、3人で向かう事に。 勇作は、自信の過去について語る。妻光枝(倍賞千恵子)との出会い、結婚。暫くすると、光枝は妊娠したらしいと言う。「もし妊娠していたら、家の前の竿の先に黄色いハンカチを揚げておく」という彼女の言葉を受けて、勇作は出勤する。仕事帰りに、竿の先にはためく1枚の黄色いハンカチを見つけた彼は、大いに喜ぶ。しかし光枝は間もなく流産。病院で、今回の流産が光枝にとって初めてではないのを、勇作は知ってしまう。勇作はヤケ酒をあおった後、夜の繁華街に繰り出し、偶然肩が当たった男と喧嘩を始めてしまい、相手を死なせてしまう。勇作は逮捕され、網走刑務所に入ったのだった。 勇作は、出所直後の網走で光枝宛てに葉書を出していた事も告白する。「もし、俺を待ってくれるなら竿に黄色いハンカチをぶら下げておいてくれ。それが下がってなかったら、俺はそのまま引き返して、2度と夕張には現れない」と書いていた、と。 3人は漸く夕張に到着するが、その時点で勇作は後ろ向きになり、「やっぱり引き返そう」「どう考えたってあいつが一人でいる筈がない」と言い始める。 欽也と朱美は、そんな彼を励まし、記憶を辿るようにして光枝の住まいへと向う。 光枝の住まいでは、何十枚もの黄色いハンカチが風にたなびいていた。 欽也と朱美は、勇作の背中を力強く押し出し、見送る。 勇作と光枝は、久し振りの再会を果たし、仲良く家の中に消えて行く。 全てを見届けた欽也と朱美は、車中で自然に手を握り合い、強く抱き合い、キスをする。感想 演出、ストーリー運び、登場人物、配役、風景等、良い意味でも、悪い意味でも、昔の日本映画、といった感じ。 現在、このままそっくりリメークして公開したところで、酷評の嵐に曝されると思われる。1970年代後半に製作・初公開されたからこそ、現在も活きている映画だと言える。 30年以上前の作品なので、現在の視点だけで観てしまうと、不可解な部分が多い。 まず不可解なのが、ストーリー運び。 冒頭では、欽也が失恋し、自棄になって会社を辞め、車を購入し、北海道へ向い、そこで偶々出会った朱美と旅を始める経緯が延々と描かれている。 そんな訳で、本作の主人公は欽也と朱美で、二人の珍道中が描かれるのかと思いきや、途中で勇作が参戦し、ストーリーは彼を中心に動くようになる。 勇作が主人公だったのか、と思って観ていると、勇作は妻と再会して退場。残された欽也と朱美が、これまでいがみ合っていたのが嘘だったかのように急接近する。 やはり欽也と朱美が主人公だったのか、これから映画はどこへ進むのか、と思っていたら、その時点で完結。 結局誰が主人公だったのかが、よく分からず、まとまり感がない。 勇作をメインにした人情映画にしたいのだったら、勇作を最初に登場させ、欽也が失恋するくだり等は省くのが得策だっただろう。 欽也の朱美を主人公にしたコメディ映画にしたいのだったら、勇作を絡める必要は全くなかった。 ジャンルの全く異なる2本の脚本を、強引に1本にまとめてしまったかのような印象を受けてしまう。 登場人物の描き方にも疑問点が。 勇作は、根は真面目ながらも、不器用な為、人生が思い通りに運ばない気の毒な人物、として本来は描かれたようである。 が、刑務所に入った理由が、妻の過去を知って自暴自棄になって赤の他人と喧嘩を始め、死なせてしまうという、下手なヤクザより性質の悪い人物。こんな男に、どうすれば同情出来るのか。妻がふとした事で男に暴力を振るわれ、それを止めに入った勇作が相手を死なせてしまった、といった同情に値する服役の経緯に、何故出来なかったのか。 そもそも、勇作を何故受刑者にしてしまったのかも不明。朱美の尻を追い回す欽也に対し、勇作は説教するシーンがあるが、「お前が言うか?」という感情を抱いてしまう。 勇作と光枝は、再会を果たし、今後幸せに暮らしていきますよ、と製作者は伝えたがっているようだが……。それはどうかね、と観ている方として思う。勇作が人殺しである事実は変わらないし(遺族から賠償金を請求されないか)、出所後に欽也と絡んだ男を殴り飛ばす姿からすると、性格が丸くなったとも思えない。勇作は、少なくとも最初は真面目に生きようと懸命に努力するものの、結局また暴力に走りそうな気がする。 勇作を演じた高倉健は、長年仁侠映画に出演していて、それからの脱皮を考えていたが、思い通りに進んでいなかった。それが、本作をきっかけに仁侠映画以外の役が得られるようになった、との事だが……。 少なくとも本作は元受刑者という役柄なので、まだ完全に脱皮していなかった事になる。 配役にも時代を感じさせる。 武田鉄矢は、田舎からやって来た若者の欽也、桃井かおりは都会からやってきた女性の朱美として起用された、との事だが……。 武田鉄矢は適役と言えるが、桃井かおりはイメージに合わない。特に美人という訳でもなく、可愛さもなく、せいぜい都会にやって来て粋がっている田舎出身のイモ娘、といった感じ。そもそも桃井かおりが現在大女優扱いされているのが、自分にとっては不明、という事もあるが。 本作が公開されたのは1970年代後半。 高度成長期が一段落し、二度のオイルショックをどうにか乗り越え、バブルへと向い始めていた時代。 遠い昔、という程でもないのだが、本作で映される北海道の町並みは、終戦から間もない風景をカラーフィルムで撮影した感じ。民家が、廃材を掻き集めてどうにか家っぽくこしらえたものばかりの様に見えた。 日本という先進国でさえも、経済の発展がこの時点ではまだ全国に行き届いていなかった事を示している(現在でも行き届いている気はしない)。 演出も、日本映画特有の、「説明的」な部分が多く、観客の想像力に任せてもらえない。 ラストの場面も、無数の黄色いハンカチが風にたなびいているシーンを見せるだけで、光枝が勇作を待っている事が明白に伝わるのに、朱美にあえて「見て! 黄色いハンカチよ!」といった台詞を言わせ、「説明」してしまっている。当時は一々説明してやらないと分かってくれない、という事情もあったのかも知れないが、現在からすると過剰演出としか映らない。 何故日本の監督は「一々きちんと説明してやらないと、観客はこちらの意図をきちんと汲み取ってくれない」と恐れるのか。そもそも、映画の受け止め方や解釈は、最終的には観客本人が決める事で、監督が逐一介入するのは、芸術家として未熟だという事になってしまう。 数々の賞を受賞し、名優と称される俳優が出演している事から「不朽の名作」とされる本作だが、仮に現在は殆ど名を忘れ去られてしまった俳優が主役を演じていた場合、果たして「名作」と評価されていただろうか。人気blogランキングへ【楽天ブックスならいつでも送料無料】【邦画2000円2枚3倍】幸福の黄色いハンカチ デジタルリマ...価格:2,000円(税込、送料込)
2014.12.07
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映画「おもひでぽろぽろ」この作品情報を楽天エンタメナビで見る アニメーション映画「火垂るの墓」を手掛けた高畑勲による長編アニメーション。 スタジオジブリ制作。 原作は岡本蛍作、刀根夕子によるコミックだが、高畑勲が独自の要素を盛り込んでいる(農業に関する事等)。 海外では「ONLY YESTERDAY」として公開されている。粗筋 岡島タエ子は、東京生まれの東京育ち。 27歳になる彼女は、東京の会社で平凡なOLをしていた。生活面で特に不満がある訳ではないが、満足感のない日々を過ごしていた。 結婚した姉の縁で、姉の夫の親類の家に2度目の居候をしに、山形へ出かける。「田舎」に憧れていた彼女にとって、漸く持てた「田舎」。山形へ向かう夜汽車の中、小学生時代を思い出し、山形の風景の中で小学5年の自分が溢れ出す……。感想 作中で、タエ子は過去の記憶をエピソード的に振り返るのだが、いずれもごく普通の出来事ばかり。「それがどうしたの?」と思ってしまう。 唯一の例外が、学芸会に関するエピソード。 学校の学芸会で端役を与えられたタエ子は、それに満足せず、独自に手を加えた演技を披露。主役でなかったのにも拘わらず、高い評価を得た。評判は予想以上に広まり、タエ子を子役として使いたい、と芸能事務所の者が家に訪れて来た。タエ子は勿論、母や姉らも乗り気だったのだが、父親の「駄目だ」の一言で話はご破談に。その後も芸能事務所の者は何度も足を運ぶのだが、母親は「娘は恥ずかしがり屋で向いていません」と勝手に拒否。結局芸能事務所はクラスメートの別の女子を子役として起用。タエ子はこれを不満に思うのだが、母親は子役の話があった事を誰にも話すな、とタエ子に言い付ける。子役として起用された女子が、実は代役だったと知ったら傷付くから、と。 他ではあまり言及されていないが、このエピソードが彼女のその後を運命付けた様な。 タエ子は演技が忘れられず、高校に上がった際は演劇部に入るのだが、既に乗り遅れた船状態で、全く芽が出ず、夢を諦める。結局ただのOLに。父親としては、得体の知れない芸能界に入られるより(子役に起用されたところでその後も芸能界に居続けられる、という保証はないのだが)、普通にOLをしていてもらった方が安心出来たのだろう。その結果タエ子は親の希望通りOLになるものの、彼女は満たされ感がなく、ただ日々を過ごすだけになる。 娘自身の努力により巡って来たチャンスにも拘わらず、無知で無理解な親が蹴ってしまった結果、娘はその後何にも自信が持てず、積極的になれなくなってしまう。 父親が、タエ子が子役になる事を反対した理由は不明。ただ、作中では、靴を履かずに外に出たタエ子に対し父親が平手打ちを浴びせるというシーンもあるので(昔の日本では、裸足で外に出る事は汚らわしいとされてた)、思考が古臭かったのかも。家庭も、現在では全く描かれない「父親=家長」として描かれていたし。 タエ子は東京でのOL生活を捨て、田舎暮らしに本格的に取り組む、という場面で映画は終わっているが、これは娘に対しひたすら「安定」を求めてきた親に対する決別宣言とも捉えられる。 ただ、タエ子がこのまま田舎暮らしに満足出来るのか、というと、作中での描き方からするとそうは思えず(タエ子自身も田舎暮らしがそう簡単でない事は、心底では理解している)、数年後にはまた漂流してそう。 本作は1991年公開。 既に時代を感じさせる部分が多い。 作中では「年下の男性と付き合う事になる……」といった下りがあるので、主人公のタエ子は30歳はとうに過ぎていると思っていたが、観た後調べてみて27歳と知って驚いた(笑うと頬に線が出る、という演出や、若干ふっくらしている描き方が、老けている印象を後押し)。 1991年当時は、27歳というと晩婚扱いだったのだろうが、2013年現在では、女性の平均初婚年齢が30近くになってしまっているので、27歳だと寧ろ若い。 高畑勲監督も、晩婚化がここまで進むとは予想していなかったのだろう。人気blogランキングへ【送料無料】【ジブリポイント10倍】おもひでぽろぽろ [ 今井美樹 ]価格:4,472円(税込、送料込)
2013.12.01
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(C)2013「009 ノ 1」製作委員会 (C)石森プロ映画「009ノ1 ゼロゼロクノイチ THE END OF THE BEGINNING」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 石ノ森章太郎によるマンガの実写版。 生誕75周年を記念して製作された。 サイボーグ009をアダルト向けにしたものといえる。 本作も、アクション・バイオレンス満載で、R15指定を受けた。 主役009ノ1ことミレーヌを演じるのは岩佐真悠子。他に長澤奈央、杉本彩、竹中直人が出演する。粗筋 世界がウェスタンブロックとイースタンブロックに二分された近未来。 ウェスタンブロックのサイボーグスパイ009ノ1ことミレーヌ(岩佐真悠子)は、両サイドの国境地帯にあたるJ国に潜入。移民売買摘発の作戦を実行した。その際、彼女は移民の青年クリス(木ノ本嶺浩)に注目する。記憶を消された筈のミレーヌだが、何故か子供時代を断片的に思い出させる歌を口ずさんでいたからだ。 その直後に、彼女に新たな任務が与えられる。ミレーヌをサイボーグ化したドクター・クライン(杉本彩)が誘拐されたので、救出しろ、という内容だった。ミレーヌはドクター・クラインの救出に一旦は成功するものの、謎の女サイボーグ(長澤奈央)が乱入し、ドクター・クラインは再びさらわれてしまった。その場で、ミレーヌはクリスと再会。自宅へ連れ込む。 ミレーヌは所属するスパイ機関へ呼び戻され、ドクター・クライン救出の失敗を責められる。長官(竹中直人)は、彼女をスパイの仕事から下ろす事を決定。ミレーヌはそれに反発し、彼女を拘束しようとする者の手を振り切り、本部から脱出。ドクター・クラインの行方を捜す。 ミレーヌがドクター・クラインの居場所を突き止め、そこへ向かうと、彼女はクリスと再会。ドクター・クラインと、謎の女サイボーグもいた。 実はドクター・クラインは誘拐されたのではなく、イースタンブロックに亡命するつもりだった。彼女こそ謎の女サイボーグを開発したのだった。 また、クリスは生き別れたミレーヌの弟ポールだった。彼は、姉に対し、共に自分らをこういう運命にさせた世界に復讐しよう、と持ちかける。 ミレーヌは拒否。ポールは、謎の女サイボーグや、ドクター・クラインが新たに開発したゾンビ戦士を差し向けて倒そうとするが、ミレーヌは全て倒す。 戦いの最中に、自ら開発したゾンビ戦士によって食い殺されたドクター・クラインの頭部を納めた保存容器(脳の情報は使える、との事)を手に、ミレーヌは本部に戻る。 長官は、一応任務を完遂したミレーヌを、再び迎え入れる。彼女が退室した後、長官は上司に連絡。彼女は計画通り完璧なサイボーグスパイになった、と。感想 ろくでなししか登場しない、というどうしようもない映画。 ヒロインが所属するスパイ機関は、長官もその秘書もろくでなし。 救出対象のドクター・クラインも、映画開始早々ろくでなしだと判明するので(ミレーヌが自決を思い留まらせた敵側の工作員を、躊躇いなく射殺)、祖国を裏切って敵側と組んでいた、という真実を知っても驚きがない。自身が開発したゾンビ戦士に食い殺されても、同情出来なかった。 謎の青年クリスは、実はミレーヌと生き別れた弟ポールだと最終的に判明するが、彼もミレーヌを説得出来ないと知ると、実の姉を、母親の姿に似せた女サイボーグを差し向けて殺させようとする。やはりろくでなし。 ヒロインのミレーヌは、何故こんな正義感のある者がこんなろくでなし機関の下で働いているのだろう、と不思議に思っていたが……。彼女も結局ろくでなしの仲間入りを果たす(それが、長官の「完璧なサイボーグスパイになった」という意味らしい)。 最近は、勧善懲悪を描くと面白くなくなる、という思考が浸透しているからか、敵は勿論、味方も問題だらけ、という描き方をする場合が多い。それはそれで結構だが、だからといって敵味方の双方をろくでなしとして描いてしまうのはどうかね、と思う。「勧善懲悪という、単純な描き方をしていない」というのは事実だが、敵も味方も共感に値しない様では、作品の魅力が半減する。宮崎駿監督作「もののけ姫」は、いずれの側も自分なりの正義を貫いていて、対立し合っていたものの、ろくでなしではなかった。何故こういう描き方が出来ないのかね(「もののけ姫」も、もやもや感が結局残るが)。 世界は2つに分裂し、互いにいがみ合っていて、スパイ活動が繰り広げられている、という設定らしい。 スパイ(工作員)が大勢活躍していると思われるのだが……。 双方とも未熟な感じ。 ドクター・クラインを誘拐した3人の女スパイは、味方の援護を待つが、味方からの返事は「作戦は中止。援護はない」だった。 これを聞いた3人の女スパイは、次はどんな手を打つのかと思いきや、「祖国は我々を裏切った! 我々は所詮道具だったんだ!」と自暴自棄になり、ミレーヌに一旦開放されたドクター・クラインによって射殺されてしまう(至近距離とはいえ、3人の人間の額のど真ん中を正確に打ち抜くとは、凄い腕前)。ミッションインポッシブルでは、工作員に対し「君たちが万一捕まったり、殺されたりしても、当局は感知しない」と作戦の初めで宣告していて、工作員もこれを受け入れている。何故今回の3人の女スパイは、援護がない、と知った時点で自暴自棄になったのか。「優秀」な工作員なら、「援護は来ないのか。では、自分らでこの危機を脱しなければ」と考える筈。 ミレーヌも、工作員として優秀なのか、というとそうでもない。「過去の記憶」に惑わされ過ぎ。彼女は、ドクター・クラインの居場所を探し当て、協力者のシェリンと一緒に潜入を試みるのだが、記憶に残っている歌を耳にした途端に、我を忘れて、シェリンを置き去りにして、そこへ一目散に向かう。罠かも、と全く思わずに。事実、クリスことポールと、ドクター・クラインが仕掛けた罠で、彼女は捕らえられてしまう。それは彼女の自業自得なのだが、問題なのはシェリンを置き去りにした結果、彼女も捕まってしまい、ドクター・クラインによってゾンビ戦士にさせられてしまい、死なざるを得なくなる事。ミレーヌが本当に優秀な工作員で、冷静な行動が出来たら、彼女自身は捕まる事はなかったし、シェリンも命を落とす事もなかっただろうに。 シェリンには弟がいて、死ぬ前にその弟をミレーヌに託すのだが、ミレーヌは所属機関に預けてしまう。所属機関は無論スパイとして養成する、とミレーヌに伝える。長官がこれに対し何か意見は、と聞かれると、ミレーヌは「自分にはもう関係のない事」と言い切る。彼女の不手際のお陰で姉を失った弟に対し、「関係ない」と言い切った時点で、彼女もろくでなしの一員になってしまった。 この映画が設定している世界では、単に戦闘能力の優劣で工作員のグレードが決まるのか。工作員は、戦闘能力も重要だが、それ以外の行動も重要だと思われるのだが。 R15指定の映画で、レイトショー限定の上映なので、中高生は観れない作品。 そんな訳で、それなりのお色気はあるが……。 濡れ場と呼べる濡れ場はない。 主役の岩佐真悠子は、全く脱がないし(演じているキャラは脱いでいる様だが撮影ではボディダブルを使っているのが見え見え)。何が何でも脱げとは言わないし、そもそも岩佐真悠子程度だと特に見せられても感動しないだろう。見せたくないならそれで結構なのだが、それだったら思わせ振りな、中途半端な演出ではなく、もっと硬派な内容にすれば良かった。もしくは、ガンガン脱ぎまくる女優を起用するとか。 演技や演出も、結局日本映画の域を出ていない。 杉本彩も竹中直人も、大袈裟な舞台演技。 舞台ではそういった演技でも問題ないのだろうが、映画やテレビだと、普通の演技が出来ない大根に観えてしまう。 これは役者本人だけでなく、演出を手掛ける監督の問題でもあるのだが。 日本の監督は、海外の映画を観ないのかね。古い洋画しか観ないのか(古い洋画は、舞台っぽい演出や演技がやはり多い)。人気blogランキングへ
2013.09.13
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(C)1999,2006 浦沢直樹 スタジオナッツ/小学館 (C)2009 映画「20世紀少年」製作委員会映画「20世紀少年<最終章> ぼくらの旗」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 浦沢直樹による人気コミックの実写版第3弾。 本作で、3部作は完結。粗筋 「ともだち歴3年」の2019年。 世界は世界大統領として君臨する“ともだち”によって支配されていた。 殺人ウイルスが蔓延する東京は、壁で分断されていた。都民の行動は完全に制限されてる。そんな中、カンナ(平愛梨)は反政府組織として武装蜂起する。 一方、“血の大みそか”以降、行方が分からなくなっていたケンヂ(唐沢寿明)が突然現われる。 更に、“ともだち”は、人類を滅亡させる計画に着手する……。感想 原作は20数巻にも及ぶが、映画は3部作で完結しなければならないとあって、最終的な展開や結末には変更が加えられたという。 日本で人気があるとされるコミックやアニメの共通点が、「様々な人物を登場させて複線を張って風呂敷をガンガン広げるまではいいが、風呂敷の畳み方まで考えないからか、尻すぼみに終わるのが殆ど」という事。 本作もその法則から漏れていない。 寧ろ、浦沢直樹法則の代表格と言える。 本作では様々なキャラを登場し、それぞれにストーリーを展開させている。「さあ、どういう結末に至るのか」と期待させるのだが、結局殆どのキャラを見捨て、複線を完全に無視し、「え? そう終わっちゃうの?」とガッカリさせられる。 顔を覆面で隠している為、「“ともだち”とは一体何者なのか?」というのが最大の謎なのだが、3部作にしてそれを引っ張っているので、自分みたいに3部作をぶっ通しで観る時間的余裕がない鑑賞者だと大半のキャラを忘れてしまっている。そんな事もあり、「実は佐々木蔵之介が演じるキャラが“ともだち”だったのだ!」と真相が明らかになっても、「あれ? 佐々木蔵之介はどのキャラを演じていたんだったけ?」と頭を掻くしかない。 比較的著名な俳優陣が演じるキャラも、「原作のキャラに面影が似ているだけのコマ」にしか見えなくなってしまい、個性が感じられない。俳優がキャラを演じているというより、俳優らが漫画原作のコスプレで登場してコントを披露しているとしか思えなくなってしまった(これも邦画の悪い傾向。芸能人失業対策か、と呆れる程様々な芸能人を登場させる。ギャグ映画ならともかく、シリアスな映画でこれをやると観る側が白けるだけ)。 原作は大ベストセラーコミックだったのかも知れないが、だからといって実写化に向いているとは限らない。 寧ろ、実写化によって漫画原作ではどうにか誤魔化せた粗が際立ってしまい、原作の評価を下げている。 少なくとも、本作を観て「原作を読んでみよう」とは思わなかった。人気blogランキングへ唐沢寿明/20世紀少年<最終章>ぼくらの旗価格:2,500円(税込、送料別)
2012.11.02
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(C)奥浩哉/集英社 (C)2011「GANTZ」FILM PARTNERS映画「GANTZ: PERFECT ANSWER」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 人気コミックGANTZの実写版。 本作は、映画GANTZの完結編。 公開された時点では原作コミックの連載はまだ続いていた為、原作とは異なるエンディングになっている。粗筋 幼馴染の玄野(二宮和也)と加藤(松山ケンイチ)は、地下鉄に轢かれて死んだ筈なのに、謎の黒い球体GANTZが置かれたマンションの一室で意識を取り戻す。そこでは、同じ様にGANTZに召還された人々が、謎の“星人”との決闘を余儀なくされていた。 やがて玄野は星人との戦いに順応していくが、激闘の中で加藤を失ってしまう。 一度は自暴自棄になったものの、「GANTZのポイントを稼いで加藤を復活させる」という目標を見付けた玄野は、再び戦闘の場で活躍し始める。 しかしGANTZの存在に勘づき、その謎を暴こうとする正体不明の男、手の平サイズの黒い球体「GANTZボール」を狙う黒服の集団、そして死んだ筈の加藤が現実世界に突如として現われる等、外の世界にも異変が生じ始める。 その影響で狂い始めたGANTZが次の標的に指定したのは、星人ではなく、玄野の事を想い続ける多恵(吉高由里子)だった。 多恵を殺して高得点を獲得し、自分らの願いを叶えようとする者、黒服の集団、そして多恵を守ろうと考える玄野らの三つ巴のバトルに発展。 最終的には、玄野自身が新たにGANTZとなり(GANTZの中には人間らしい人物がいて、それがGANTZを制御している)、その力を使って全てリセットし、自分以外は何事も無かったかの様にする。 記憶を消された加藤らは、玄野の行為に気付く事無く(何となくは気付くが)、GANTZとは無縁の人生を歩む事となる。感想 このGANTZだが……。 典型的なゲーム映画。 アメリカでは、主人公は勝手に参加を強制されたゲームの理不尽なルールに反発し、ゲームの首謀者を暴こうと動く……、という展開になる。 が、日本ではどういう訳かルールを「はい、そうですか」と受け入れ、そのゲーム内で行動し、ゲームの首謀者の思惑が全く解明される事なく終わる。 本作もその恒例で、主人公らは結局GANTZの正体や、目的が何なのか全く知る事無く終わる。 一応アクション映画なのだが、玄野らも強いのか弱いのかよく分からず、アクションにメリハリが無い。 バトルが延々と続くだけ。 最初こそ迫力あるな、と感心させられるのだが、決着が付かないままいつまでも続くので、飽きる。 この程度の強さでよく「ゲームをクリア」出来たな、と思わずにはいられない。 所詮邦画である。 一応丸く収まっている事から「PERFECT ANSWER」という副題になったと思われるが、「完璧な答え」にはなっていない。 原作コミックは公開当時連載が続いていたので、映画では全く別のエンディングとなっている。 そんな事もあり、原作ファンの間では評価は低い。 そもそも原作も大傑作ではないのだが。 ちょっと売れているという理由で原作を映画化したら、原作の粗が際立ってしまったという、典型的な例。人気blogランキングへ【送料無料】GANTZ PERFECT ANSWER価格:3,213円(税込、送料別)
2012.05.07
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(C)2010 SPACE BATTLESHIP ヤマト 製作委員会映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」この作品情報を楽天エンタメナビで見る アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』の初の実写版映画。 キャッチコピーは「必ず、生きて還る。」だった。 主演はSMAPの木村拓哉。粗筋 西暦2199年。 地球は謎の異星人ガミラスの攻撃により滅亡の危機に瀕していた。 ガミラスの遊星爆弾による攻撃で海は干上がり、地球上の生物の大半は死滅。残された僅かな人類は地下都市を建設し、ガミラスの攻撃に耐えていた。 しかし、地下にまで浸透してきた放射能によって人類の滅亡まで1年となっていた。 そんなある日、地球上にイスカンダルからのメッセージカプセルが届けられた。そこに記されていたのは、波動エンジンの設計図とイスカンダルの正確な座標であった。後日、地球防衛軍はそれらの情報に加えて、彼らには放射能除去装置を渡す意思があると発表。その情報を信じ地球の最後の希望を乗せた宇宙戦艦ヤマトはイスカンダルへと旅立つ。感想 劇場ではなく、テレビで放映されていたのを観たのだが……。 最初の5分で正視に耐えられなくなり、他チャンネルを行き来しながら観る羽目に。 演技というか、演出がとにかく酷い。学芸会のコントを見せられている気分になってしまう。学芸会によるコントも、観ている側が「これはコントだ」という意識を持っていればまだ何とか観られるのだが、そうでないので、こっぱずかしくなってしまう。 木村拓哉演じる主人公古代進は格好ばかり付けているだけで、何の魅力も感じられない(にも拘わらず何故か乗組員らから慕われていて、観ている側を白けさせる)。どう見ても「有力芸能事務所ジャニーズの有力タレント木村拓哉」を製作者・キャストが総力を挙げて盛り立てようとしているだけにしか映らず、嫌悪感すら抱かせる。 黒木メイサヒロインの森雪は、原作とは異なり、女性パイロットに。最近流行のいわゆる「戦う女性」。これだけでも違和感がある。それでも迫真の演技を見せてくれれば「こういう解釈もアリかな」と思わせるのだが(ロバート・ダウニー・Jr演じるシャーロック・ホームズの例がある)、台本を棒読みしているだけ、という演技では無理。よくこれで「女優」を名乗れるな、と思う。 他の役者の演技も、戦闘艦の乗組員というより、大学生のスポーツ部員のノリ。見ていて恥ずかしい。 いわゆる「重鎮」の俳優らも、役を演じているというより、コスプレしているだけの感じで、邪魔臭いだけ。 宇宙戦艦ヤマトのフルCG映像は素晴らしい部分もある事にはあるが、アメリカのTVシリーズ「スタートレック」や「ギャラクティカ」と比較するとまだまだとしか言いようが無い。 撮影や編集の段階で出来かけの映像を見直して、「これはちょっとまずいのではないか」と誰一人思わなかったのか、と関係者の見識を疑わざるを得ない。「ヒット作を手がけた監督を起用した作品はヒットする」「アニメの名作を原作に持つ作品はヒットする」「泣けるシーンがある作品はヒットする」「ジャニーズ出演作はヒットする」「豪華キャストを使えばヒットする」「熱血系が主役の作品はヒットする」「上記の要素を全て盛り込んだ作品はヒットする」 ……という、何の根拠も無い方程式(邦画製作関係者は何故か根拠がある、と硬く信じている)をてんこ盛りにして映画を製作したところ、とんでもない駄作が出来上がってしまった、といった感じ。 ヒット作を出している監督だからといって、畑違いのジャンルの映画を担当させたところで上手くいく訳が無い。アニメの実写版が成功した例も、実は殆どない。原作にない「泣けるシーン」を強引に取り込んだところで場違いになる。ジャニーズ系タレントは、原作アニメのファンが抱くイメージとはかけ離れているので、俳優として起用したところで反発されるだけ。豪華キャストも、邦画にありがちな「芸能人失業対策(俳優失業対策とは言わない)」となってしまい、これもまた原作のファン層から反発される。熱血ドラマも、原作を無視して挿入したところで意味は無い。 本作は、日本映画の悪いところ全てが集約されている。 邦画は敬遠した方が良い、という信念を裏付ける一作である。人気blogランキングへ【送料無料】SPACE BATTLESHIP ヤマト スタンダード・エディション価格:2,100円(税込、送料別)
2012.04.12
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獲物たちの精を吸い尽くして永遠に生き続ける女「セイレーン」を描いた、エロティック・ホラー。 シリーズ化されており、今作ではセクシー女優(A V から一般芸能に転じた女優を最近ではこう呼ぶらしい)の七海ななが主演を演じた。粗筋 山奥の鏡池で女子高生・芙美に欲情した担任の男子教師。 その日を境に二人は行方不明になった。双方とも死亡したと思われた。 数年後、同級生の巽は、高校時代と全く容姿が変わらない芙美を目撃。 芙美は、巽の周辺の者を誘惑しては、情事に興じて精力を吸い取って殺していく。感想 本作では女優が2人登場。 いずれも脱ぎまくって、一般の人気若手女優らでは有り得ない濡れ場を披露(当然ながら、主役の七海ななの方が脱ぎまくる)。 この手の映画を観て思うのは、一番楽しんでいるのは鑑賞者ではなく、製作者だろう、という事。製作者らが散々楽しんだ後のおこぼれというか、絞りカスを作品に仕上げ、制作費など諸経費を回収。 散々楽しんだ上に利益も上げられる訳だから、美味しいビジネスである。 主役を演じる七海ななは、作中では高校時代から容姿が全く変わっていない、という設定になっているが……。 かなり無理がある様に感じた。 照明の問題もあるのかも知れないが、顔はやけに憔悴し切っていた感じ(流石に身体は若々しかったが)。高校の制服も、コスプレとしか映らなかった。 何故彼女がロリータ A V 女優として名をはせたのか、本作を観た限りでは分からない。 ストーリーはあるものの(主役の巽はヤクザ者の手下となる事を強いられたが、それが嫌で生まれ故郷に戻って来たが、ヤクザ者が追って来た)、おまけ程度。 本作の最大の、そして唯一の見所は、濡れ場である。といっても、AV程ではないが。 最終的には、登場人物全てが死ぬ(セイレーンは死なない、という設定にはなっているが)。 メリハリがないストーリー運びで、ホラーにしては物足りないし、サスペンスにしてはどんでん返しがない。A V として観るには刺激がなさ過ぎ。 その意味でも、本作は製作者が楽しんだ後の搾りカスである。 役者らの演技も、脚本の問題もあってか、学芸会の域を超えていない。 こういうものに出演して「実績」を積み立てなければならない俳優らを、哀れに思う。 一番哀れなのは、こういうのを何だかんだで観てしまう自分か。人気blogランキングへ妖女伝説セイレーンXX(ダブルエックス)~魔性の欲望~価格:3,591円(税込、送料別)
2010.11.26
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映画「半落ち」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 横山秀夫の同名ベストセラー小説の映画化。「半落ち」は、警察用語。 犯人が完全に自白すれば「完落ち」、犯人が全ての情報を自白しない場合、「半落ち」となる(らしい)。粗筋 元刑事で警察学校教官の梶(寺尾聰)が、警察に出頭。「私は妻(原田美枝子)を殺しました」と自首してくる。 県警刑事部の志木(柴田恭兵)が取り調べに当たる。 自首してきたのだから真相は直ぐ明らかにされる、と当初は思われていたが、梶は妻殺害後2日間の行動については固く口を閉ざしていた。新宿の歌舞伎町を訪れていた事まではどうにか突き止められたが、そこから先が分からない。 梶の妻はアルツハイマー病を患っていた。そんな自身の状況を憂いて「死にたい」と言うようになり、居たたまれなくなった梶が妻を殺害。 単なる嘱託殺人では、と県警は判断する。2日間の空白は、梶は歌舞伎町など市内をさまよい、自首するべきか、妻の後を追うべきか悩んでいたのだろう、と。 県警はその内容の「供述」を作成し、事を済ませようとする。さもないと「元警察関係者が妻を殺害した」とマスコミがいつまでも騒ぎ立てるし、妻を殺害した後イメージが必ずしも良くない歌舞伎町を訪れていたとなっては後々問題になると考えたからだ。 しかし検察は、その供述を県警による都合のいい捏造と見なし、納得しなかった。「空白の2日間」に梶は何をやっていたのだ、と追求しようとする。 事件は、単なる嘱託殺人から、県警と検察の面子の争いへと発展していく。 マスコミもそれに準じて事を大きくしていく。 事件は裁判所へと舞台を移す……。感想 典型的な「シリアス」な邦画。 組織の内輪ごとや、関係者の面子など、様々な人間模様を延々と描いている。 複雑な人間関係を描いた小説を映画化しただけの事はある。「そういった人間ドラマが大好き」「そういった人間ドラマを描くのが映画の醍醐味だ!」と信じて疑っていない鑑賞者なら本作を楽しめるだろう。 しかし、自分の様に映画にテンポの良いストーリー、単純明快さ、娯楽性の追及を求める鑑賞者からすると、ただただ退屈。 小説をベースにするのは結構だが、小説と映画は違う媒体なのだから、それを踏まえて脚本を作り上げられないのか。 そもそも製作者が「ベストセラー小説なんだから映画化すればヒット間違いなし!」といった安易な発想しか出来ない時点でおかしいのだが。 原作のテーマは、「空白の2日間に何があったのか?」ではなく、殺人に至るまでの心理、事件を巡っての警察や検察という組織のどろどろした内面、そして事件を取り巻く関係者の人間模様を描く事だった様である。 本作も、原作通り、それらを全て描きたかった様だが……。 上述した様に、小説と映画は全く異なる媒体。 映画は、ビジュアルな媒体で、しかも上映時間が限られているが故に、小説では許されるであろう描写や展開も、馬鹿馬鹿しくなったり、現実味がなくなったり、グズグズしているだけとなったりする。 小説として成功したテーマ、描写、展開が、映像化した際にも成功するとは限らないのだ。 本作も、それを裏付けただけ。 小説ではじっくりと描く事によって読者を納得(悪く言えば騙せた)展開も、じっくりと描けない映画だと鑑賞者を納得させるというか、騙すのは不可能。「演出の為の演出」「感動の押し売り」と見なされてしまうだけである。 では、「原作と異なり、人間模様や組織の内面や犯人の心理を省き、『空白の2日間に何があったのか?』に重点を置いた展開にすれば良かったのか?」というと、そうでもない。 何故なら、原作はあくまでも事件を巡る人間模様等を描くのを最大のテーマとしているので、「空白の2日間に何があったのか?」という謎の真相は結局大したものではないから。 ……梶は過去に骨髄を提供していて、1人の人間の命を救っていた。通常、骨髄ドナーと患者は互いが誰なのかを知らされないのだが、梶は偶然にも断片的に元患者の居所を掴めた。梶は、空白の2日間の間に新宿の歌舞伎町で働いていたその人物を探し当て、遠巻きに見ていた。この事実が公になったら、元患者は「殺人者の骨髄を貰った人物」として世間を騒がせる事となる。そうなる事がないよう、梶は口を噤んだ……。 この程度の真相だから、謎だけを追求したものに仕立て上げても「原作の面白さを百分の一も汲み上げていない」と非難されるだけだっただろう。 では、どう本作を映像化していれば良かったのだ、という問題に戻ってしまうが……。 繰り返しになってしまうが、映像化すべきでなかった小説を映像化したのがそもそもの間違い。せっかくベストセラーになって評価の高かった原作が、映像化のお陰で「失敗した映画の原作本」「映像化によってボロが暴露されてしまった小説」に成り下がってしまった。 日本の映画制作者は、単に「ベストセラー小説だから」といった理由で映像化に踏み切るのは止めるべきだし(企画が通り難くなる事情もあるのだろうが)、小説家の方も映画制作者が「あなたの作品を映像化したいんですが」という話を持ちかけてきても安易に許可しないべきである。 いわゆる「豪華キャスト満載」なのも、典型的な日本映画である。 ほんの数秒しか登場しないキャラにも一目で「あ、知ってる」と分かる芸能人、もしくは俳優を使っている。 お陰で、登場人物が無限に増えてしまい、「映画、てタレントの失業対策の為に製作されるのか?」という考えを抱いてしまう。 ストーリーを追うより、豪華キャスト探しの為に本作を観た者もいるのでは? 原作で登場していたからといって、映画化の際も同様に登場させなければならない理由はない。 重複しているキャラ、登場しなくてもいいキャラを全て整理していたら、もう少しテンポのいい作品に仕上がっていただろう。 原作は直木賞候補にもなったが、「重大な欠陥がある」と指摘され、落選。 選考員の一人が作者や読者を侮辱するような発言を展開し、大論争になった。 その重大な欠陥というのが、「主人公の梶は一旦自殺を思い立つものの、結局自首する。その理由とは?」 梶は骨髄バンクに登録していて、既に一人の命を救っていた。息子が骨髄移植を受けられずに死亡した、という暗い過去を背負う梶にとって、ドナー登録は何よりも重要だった。梶は事件当時49歳。ドナー登録は、健康上の問題から、50歳で自動的に抹消される。梶は、ドナー登録が抹消される日まで、骨髄を提供できる可能性を捨てたくなかったのである。 この点が、直木賞で欠陥とされた。 何故なら、受刑者はたとえドナー登録していても骨髄を提供できないから。 元刑事の梶が、その事実を知っていない訳がない。 となると、梶が自決せずに自首する理由がなくなり、ストーリーそのものが成り立たなくなってしまう。 ……というのが指摘された点。 が、この指摘にも欠陥が。 というのは、ドナー登録している受刑者が骨髄提供を求められる、という事態がこれまでなく、法的解釈が正式になされていなかったから。 したがって、梶の様に受刑者となる者は骨髄を絶対提供出来ない、という訳ではなかったのである。 これが出版界で大論争となり、結局直木賞の権威が失墜する。 一方で、原作者は「直木賞決別宣言」してマスコミに取り上げられ、ベストセラー作家の地位を堅固にした。 欠陥も使いようである。人気blogランキングへ関連商品:
2010.04.12
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映画「ザ・マジックアワー」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 暗黒界のボスの愛人に手を出した男が、命を助けてもらう代償に伝説の殺し屋を探し出す、というコメディー・ドラマ。映画監督の振りをして無名の俳優を幻の殺し屋に仕立て上げようとする三流ギャングの苦肉の策を描く。「THE 有頂天ホテル」の三谷幸喜が脚本と監督を務める。 撮影と思い込み殺し屋に成り切る俳優に佐藤浩市、その俳優を騙す若者に妻夫木聡。粗筋 ある町の暗黒界のボス天塩幸之助(西田敏行)の愛人高千穂マリ(深津絵里)に手を出してしまった手下の備後登(妻夫木聡)。 備後は、命の代償に伝説の殺し屋デラ富樫を探し出す羽目になった。無論、そんなことができる訳がない。備後は、無名の三流役者村田大樹(佐藤浩市)を雇い、殺し屋に仕立てあげるという苦肉の策を思い付く。 備後は映画監督を装い、村田に接近。ある町でギャング映画を撮影するので、殺し屋役を引き受けてほしいと頼む。 村田は、最初は拒否するものの、自身の俳優業がこのままでは行き詰ると感じ、この話を受けることに。 備後は、天塩に対しては村田が伝説の殺し屋だと説得する一方、村田に対しては全てが映画の撮影だと説得するという、苦しい対応を迫られる。 村田は、映画界では三流でも、演技の基礎はしっかりと身に付けているので、迫真の演技に天塩はあっさりと騙される。天塩は、村田を殺し屋として雇う。無論、村田はこれも撮影の一環だと信じていた。 村田は、天塩の右腕として大活躍。天塩の信頼を得る。無論、村田はそれすらも全て撮影の一環と信じていた。 当然ながら、こんな企みがいつまでも続けられる訳がなく、事態は独り歩きしていき、備後の手に負えなくなる……。感想 鬼才とされる三谷幸喜最大のヒット作とされるが……。 典型的な日本映画。 著名人をガンガン登場させればヒット作ができると信じて疑っていない。出演者を全て無名にしろとは言わないが、カメオ出演をもう少し抑えられないのかね、と思ってしまう。ハリウッドでもカメオ出演を満載している映画はあるが、B級のノリで、ヒットを予想したものではない。A級映画でこんなことをやろうとしたら、上層部から総スカンを食らう。 また、つまらない「教訓」「感動」を捻り込んで観ている側を白けさせるのも、日本映画らしい。 コメディだから細かい部分にあれこれケチを付けてもしょうがないのかも知れないが……。 主人公である備後がとにかく共感できないキャラなのが最大の問題。小ずるいだけの、自分勝手な男としか写らない。こんな男が俳優である村田は勿論、暗黒界(といっても田舎町の、だが)のボスを騙せるとは、到底信じ難い。ある意味、最大の役者なのかも。 ヒロインのマリは、備後以上に自己中心的な、共感できないキャラ。こんな女の為になぜ備後や村田が命懸けで様々な行動を起こすのか、さっぱり分からない。 そもそも、なぜ備後や村田が天塩の元に戻ったマリを救助しなければならないのか、さっぱり分からない。マリが天塩の元に残っていれさえいれば、備後や村田のことは大目に見る筈。なのに、備後はどういう訳か「マリは自分と一緒にいたがっている」と信じ切っていて、さっさと田舎町から出れば自分らもマリも安全なのにも拘わらず、いつまでも居残る。この勘違いな行動により、特に救出されたがってはいないマリは勿論、自分らも危険にさらすのである。最終的には、マリは天塩と一緒にいることを選び、備後を捨てるのだから、備後らの計画や行動は全て意味のないものになってしまっているし、映画の後半そのものが意味のないものになってしまっている。 登場人物がこの田舎町に固執するので、舞台は殆どこの田舎町に留まる。そんな訳で、ストーリーに広がりが見られず、こじんまりとしてしまっているのも問題。銃撃戦など、派手なシーンを盛り込んでいるが、それも子供向けの特撮番組のようで、陳腐。映画でなければならない要素が見受けられない。 ストーリー運びが全体的に悪く、ラストも意味不明だし、サプライズもない。 三谷幸喜は名脚本家との声が名高いが……。 本作を観る限り、どこが名脚本家なのか、理解に苦しむ。 名前が一人歩きしている感じ。 手がけた作品が2、3本成功したからといって、無用にヨイショしても、本人の為にも、業界の為にも良いとは思えない。 マスコミはこのことにいつになったら気付くのかね。 そもそも、三谷幸喜はテレビドラマの脚本家。テレビと映画は、似ているようで異なる。三谷幸喜はテレビ業界でしか活躍できないようである。 本作も、テレビドラマにしていたら、そのシュールな雰囲気で、視聴率的な成功はともかく、カルト的な存在に成り得たと思う。 あと、三谷幸喜、て自作が公開されると、必ずあちこちの番組に出まくって、宣伝活動するのだが……。 宣伝活動を一切するな、とは言えない。映画は利益をもたらさなければならないのだから。 が、監督本人や出演者のタレント性や話題性に頼っているようでは、仮に映画が興行的に成功しても、公開後の評価は下がる一方になると思うが。 これも日本映画の悪習なのだが、最近はどの日本映画もこの手法を取るので、個人的にはますます観たくなくなる。 映画そのもので勝負できる内容の作品を制作してほしい。人気blogランキングへ関連商品:
2009.10.04
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(C)1999,2006 浦沢直樹 スタジオナッツ/小学館 (C)2009 映画「20世紀少年」製作映画「20世紀少年<第2章> 最後の希望」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 浦沢直樹原作のコミックの実写版。 三部作の第二作。 ベストセラーコミックの豪華キャストの実写版として話題に。 三部作で総製作費が60億円だという。粗筋 世界を襲った「セカンド・インパクト」により、人類は半分が死に至った。 それから15年後。 14歳の碇シンジは、特務機関NERV(ネルフ)の最高司令官で父親でもある碇ゲンドウから、謎の巨大生物「使徒」と戦うロボット兵器エヴァンゲリオンのパイロットに任命される。 使徒との戦いが困難を極める中、地球存続の為の任務を背負う彼らは、ある国家規模の作戦を実行に移すことに……。感想 第1章も話があちこちに飛んでつまらなかったが、こちらも話があちこちに飛んでつまらない。 原作を何度も読み返している者ならいいが、事前知識がない者にとってはただただ辛い。 伏線ばかり(その意味では浦沢直樹原作の作品といえるが)。 なぜこんな支離滅裂な映画が製作されたのか、理解に苦しむ。 原作に忠実にした結果、ということかも知れないが、それだと原作が元々大したものでなかったことになる。 本作ではカンナは主人公の筈だが、何をやりたいのか、何を考えているのか、さっぱり分からない。 ともだちランドに送られた。 ……と思ったら、いつの間にか、何でもないように脱出していた。 ……と思ったら、今度は怪しいカジノへ。そこで訳の分からないギャンブルを展開。 ……と思ったら、カジノから逃げ出している。そしていつの間にか協力者を集めていた。 ……と思ったら、教会に姿を現している。ともだちの死を目撃。 ……と思ったら、ともだちの復活を目撃。 そして世界規模のウィルステロを目撃。 主人公の割にはただその場にいるだけで、何もやらない。 こんな少女がなぜ「人類最後の希望」なのか。 権力を握るともだちが、なぜ敵である筈のカンナらを野放しにして自由に行動させるのかも、分からない(カンナらがあまりにも無力で手を打つまでもない、と判断したのか)。 ケンヂとその仲間はテロリストとして悪者にされた、という設定なのに、ケンヂの仲間がその後普通に生活できているのも不思議。普通だったら逮捕されていたり、指名手配されていたりして、まともに生活できないと思うのだが。一部はともだちやその関連施設に当たり前のように顔を見せているが、気付かれている様子はないようである(そのくせカンナは一目で気付いている)。 ケンヂの仲間を野放しにするのも、ともだちの策略だった、というのも有り得るが、ともだちがなぜそんなことをするのか、少なくとも本作を観る限りでは分からない。 全世界が頭を包帯でぐるぐる巻きにして変なマークを顔にしている人物を熱狂的に支持している、という設定も意味不明。常識的に考えてみれば、気味悪がられるだろうに。こんなのを「人類滅亡計画を阻止した」と何の疑いもなく受け入れる市民は相当アホである。普通だったら「人類滅亡計画を阻止した? 本当か? 何か裏があるのでは?」と思われるだろう。 常に包帯で頭をぐるぐる巻きにしているから、素顔は見られない。「暗殺されました。その三日後に生き返りました」となっても、「顔が見えないんだから中身が違うんじゃね?」と疑う者がいて当然の筈だが、何故かみんな「死から復活した! ともだちは神になった!」と信じて疑わない。 この時代の人間はどいつもこいつも洗脳されていて、普通の思考ができないらしい(その割にはカンナのように洗脳されていない人間もごまんといるが)。 意味不明な内容ばかりだから、ストーリーや登場人物にまるで感情移入できず、最初から最後まで「ふうん。そうかい」としか思えない。 とにかく評価し辛い。 完結編の第三作を観れば理解できるというのか。 自分としては、劇場で観たいとは微塵にも思わなくなったが。 本作の主人公カンナを演じるのは新人女優平愛梨。 オーディションの中から、原作にそっくりな容貌だから選ばれたという。容貌がそっくりなんだから、演技力が多少不足しても大丈夫だろう、と製作者側は考えたようだが……。 やはり演技力不足は致命的なレベル。学芸会を思い起こさせる。 脇役としては問題ないが、主役にはふさわしくない(本作の内容からすると、完全に脇役だが)。 大々的なオーディションをしておきながらこの程度の女優しか選べなかったのか、非常に不思議。 本作は、大ヒットしたコミックを下敷きにしている。 製作者は、コミックを忠実になぞれば大ヒット映画が生まれると思っていたようだが……。 コミックと映画は、ストーリーを伝えるという共通点はあるものの、全く別の媒体。 コミックは、読んでいる側も「これは完全に作り物だ」と承知しているので、多少の粗も許されてしまう。 一方、映画やテレビは、実際の人間が演じている。内容的には作り物である、と観ている者は承知しているが、実際の人間が使われている以上、よりリアリティが求められる。コミックでは許される粗も、映画やテレビだとあからさまで、許されるものではなくなってしまう。 本作は、コミックをほぼ忠実になぞったが故に、コミックでは許されていた粗がそのまま映像化されてしまい、コミックがいかに粗だらけで荒唐無稽であることを実証してしまった感じ。 名作コミックは、コミックという媒体に留まっているからこそ名作なのであり、他の媒体に移すと必ずしも名作ではない、というのを証明している。人気blogランキングへ関連商品:
2009.08.29
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(c)カラー・GAINAX映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 社会現象にもなったテレビアニメシリーズ「ヱヴァンゲリヲン」の新劇場版第一作。 全四作制作されるという。粗筋 世界を襲った「セカンド・インパクト」により、人類は半分が死に至った。 それから15年後。 14歳の碇シンジは、特務機関NERV(ネルフ)の最高司令官で父親でもある碇ゲンドウから、謎の巨大生物「使徒」と戦うロボット兵器エヴァンゲリオンのパイロットに任命される。 使徒との戦いが困難を極める中、地球存続の為の任務を背負う彼らは、ある国家規模の作戦を実行に移すことに……。感想 アニメ全体が、本シリーズをきっかけに「ヱヴァンゲリヲン以前」「ヱヴァンゲリヲン以後」に分けられるほどの社会現象になった。 自分もテレビアニメ版を、放送からかなり経ってからビデオレンタルして観てみたが……。 最初はそれなりに面白いと感じたものの、ストーリーが展開するにつれ中ダレし、退屈になった。 といっても、一旦観始めたので断念する訳にもいかず、惰性で観るように(当時はアニメも本も途中で投げ出さす最後まで一応観たり読んだりしていた。今だったら躊躇することなく放り出していただろう)。 そうこうしている内に製作者側も広げ過ぎた風呂敷を畳めなくなった上に予算が尽きたのか、手抜き的なストーリー展開と映像が続き、訳の分からないラストに至った。「ああ、典型的な日本のフィクションだな」と呆れたのを覚えている。 本作はテレビアニメの第1話から第6話を踏襲。 劇場版に当たって、キャラや設定に小変更が加えられたらしい(自分には分からない)。 セル画も一から書き直したそうで、元のテレビアニメのものは一切使われていないとか(テレビアニメ制作当時は採用できなかったCGのシーンも導入)。 といっても、基本的な設定は変わっていない(変えようがない)ので、当時から抱いていた設定上の疑問はそのまんま。 当時抱いていた疑問も、今になって観直せば少しは理解できるのではないか、もしくは納得できるのではないか、と自分に期待していたのだが、やはり疑問は疑問のままだった。 むしろ疑問は増幅している感じ。 なぜ14歳の少年少女が戦闘ロボットのパイロットにならなければならない理由が分からないし(そのパイロットが作戦時以外はごく普通に民間人と同じ学校に通っているのもよく分からない)、なぜメインのキャラが物凄く陰気臭いのかも不明だし(ウダウダ悩んでばかりいて、観ているだけで不愉快。ハリウッド映画でありがちな底なしに陽気なキャラとまではいかなくても、あれこれ悩まないキャラにできなかったのかね)、なぜ「使途」という敵にはヱヴァンゲリヲンしか効果がないのかも分からない(ヱヴァンゲリヲンがそんなに強いとも思えない)、なぜ「使途」がネルフ本部のある都市の攻撃に固執するのかも不明(他に攻撃目標がないのか)。 こういった細かいことを気にしていたからこの手のアニメを当時も今も楽しめなかったのか。 シリーズ開始当時は斬新な映像、斬新なキャラクターデザイン、斬新なメカデザイン、斬新なキャラクター設定で、何もかもが衝撃的だったのだろう。 が、本シリーズの影響を受けたアニメやドラマや映画がガンガン制作・公開されてしまった現在では、新しい部分は何もない。 むしろ古臭ささえ漂う。 本作は、元のテレビアニメシリーズを熱狂的に受け入れていた者向け。 元のテレビアニメシリーズを知らない者、あるいは自分のようにテレビアニメシリーズの面白さを理解できなかった者からすると、懐古主義の産物でしかない。 懐古主義といっても、たった10数年前なんだが。 時代の移り変わりは厳しい。人気blogランキングへ関連商品:
2009.07.04
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モンキー・パンチ原作のコミックの長編アニメ。 劇場アニメ第一作。 元は単に「ルパン三世」というタイトルだったが、シリーズ化され、更に以前のテレビシリーズとも差別化する為、「ルパンVS複製人間」というサブタイトルが後に付けられた。 5億円をかけて制作されたという。粗筋 ルパン三世が処刑された。が、銭形警部は信じない。銭形警部は、ルパンの生存を確認。ルパンを捕まえようとするが逃げられてしまう。 処刑に関しては、ルパンも不思議に思っていた。処刑された人物は、鑑定の結果ルパンと断定されている。しかし自分は生きている。となると、処刑された「ルパン」は何者なのか……。 ルパンはエジプトでピラミッドから「賢者の石」を盗み出した。不二子の依頼だった。その不二子も、マモーという人物に依頼されていた。「賢者の石」は、人間に永遠の生命を与えるとの言い伝えがあるものだった。マモーは、ルパンを使って不老不死に関する品物を集めていたのだ。しかし、ルパンは偽物を渡していて、それをきっかけにマモーに狙われる羽目に。 そんな中、不二子がルパンの前に現れる。ルパンの相棒たちである次元大介や石川五ヱ門は、不二子を信用するなとルパンに忠告するが、ルパンは無視。そんな姿を見た次元と五ヱ門は、ルパンと袂を分かつ。ルパンは相棒らが去るのを見届けた後、不二子を自分のものにしようとするが、不二子はそれを許さない。ルパンは捕らわれの身になった。 一方、次元と五ヱ門は、米国政府からの接触を受ける。彼らによると、アメリカ政府とソ連政府は、マモーから脅迫を受けていた。遺伝子やクローンに関する情報を全て遣せ、さもないと核攻撃を加える、と。 マモーに捕らわれたルパンは、マモーについて知る。マモーは、実は1万年前から自己を複製し続けてきた複製人間――クローン――で、永遠の命を得た「神」だという。 処刑されたルパンも、実はマモーによって作り出されたクローンだった……。感想 30年も前のアニメなので、現在観ると映像が全体的に古臭い。不二子も特に美人に見えないし。5億円(当時の5億円だから、現在では倍以上の価値があるだろう)をどこにどうやってかけたのかが分からない。 そういうのも「味」として楽しめばいいではないか、という考え方もできなくはないが。 本作が制作された時点では、クローンは未知の、無限の可能性のある技術だったので、そのように描かれている。現在は、クローンもそこまで万能な技術ではないことが分かっているので、その意味でも時代遅れ。 アクションシーンは、アニメらしく、現実性を完全に無視したハチャメチャなもの(ヘリが下水道を飛び回る、等々)。スケール感なども完全に無視(トレーラーとミニクーパーとのシーン等)。 これこそルパンの代名詞。 ないと最早ルパンではない。 真剣に観ていると気が狂うが。 ルパン三世シリーズは、不二子以外にもヒロインが出るのが定番だが、本作は不二子自身がヒロインらしく、他に女性は登場しない。 第一作であるが故の設定だろう。 ルパンは本作で次元大介や石川五ヱ門と仲間割れする。不二子とくっ付くなら勝手にしろ、我々は付き合わん、と。これ以降のシリーズ作とは別物と思ってしまうほど緊張感に満ちている。その意味では、現在観ると違和感がある。 マモーは、1万年も自らをクローンし続けて生きていて、歴史上の全ての叡智を手にしていて、歴史を動かしてきた、という設定になっているが……。 その割には言動が馬鹿っぽいのはなせなのかね。 そもそも、歴史を動かすほどの力があるなら、なぜ人間の賢者と接触し、その知識を得る必要があるのか。人類はマモーの介入によって発展したのではないのか。自身が創造したものから何を学ぶというのか。なぜ「神」がその創造物(人間)の更なる創造物(クローン技術)を欲しがるのか。自身で開発できなかったのか。何の為に1万年も生きていたのかね。 自らが発展させた人類を滅亡させ、自分を含む選ばれた者だけが永遠の命を得るようにする、というのも無意味。 永遠の命を得たいなら、勝手にやればいいだけ。これまで通り。 なぜ自身が発展させた人類を滅亡に追い込む必要があるのか。 マモーが巨大で近代的な設備を遺跡内に築き、核兵器を手に入れた経緯が全く説明されていない点も問題。 大富豪を装っていた、ということにはなっているが……。 所詮アニメだから、こういったことを気にしてもしょうがないようである。 通してみると、ストーリーは全体的にまとまり感があるが……(後々思い返すとまとまりは大してない)。 突飛過ぎて、その意味ではやはりアニメ。 アニメだからこそ許せるストーリーで、実写だったら究極の馬鹿話になる。 本作では、銭形警部の下の名が「平次」で、更に「トシコ」という娘がいるのが明らかにされる。 原作の設定か、本作だけの設定なのかは分からない。 更に、本作ではルパンが夢を見ないことが明らかにされる。 それが精神的にどういう影響をもたらすのかは定かでないが。 世界の二大国がアメリカとソ連、というのも時代を感じさせる。 現在だったらアメリカとロシア、そして中国ということになるのかね。 仮にそういう風に設定を変えたとしても、30年後にはまた勢力図が変わり、時代遅れになっているだろう。人気blogランキングへ関連商品:
2009.06.20
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映画「座頭市」この作品情報を楽天エンタメナビで見る これまで何度か映画化されてきた盲目の居合いの達人・座頭市を、ビートたけしこと北野武が再度リメーク。 座頭市というと今は亡き名優勝新太郎の代表的な作品シリーズだが、元は子母澤寛の短編に登場していたキャラクター。粗筋 ある宿場町に、訳ありの三組がやってきた。 一人は金髪で朱塗りの杖を持つ盲目の居合いの達人・座頭市。 もう一組は浪人の服部源之助とその妻おしの。殿の師範代という身分を捨てた服部は、病気を患う妻の為に用心棒の職を探していた。 更にもう一組、旅芸者のおきぬとおせいの姉妹。二人の三味線には人を殺める為の仕掛けが施されていた。 三組は、町を仕切るヤクザの親分・銀蔵と大店の主人・扇屋を介して交錯。壮絶な闘いが幕を開ける……。感想 本作は、暴力に塗れた典型的な北野武作品。 見所は、幾度となく繰り返される殺陣。 一般の時代劇ではあまり描かれない血飛沫が、本作ではCGによってリアル(リアルより説得力あるかも)に描かれている。 血飛沫があらゆる方向に飛ぶ模様を描きたい為か、「ここまで人を殺すシーンを導入していいのか?」と思いたくなるほど人がバタバタ斬られていく。 最初は「凄い迫力あるシーンだな」と感心するのだが、こう何度も見せられると感動が薄れる。 何事も節度が必要らしい。 本作品をきっかけか、アクションシーンで血飛沫が遠慮なく飛び散る様子を描く映画が多くなったような。 殺陣がメインの映画なので、殺陣に至るまでの経緯は単なるフィラーというか、詰め物。 大して重要ではない。 登場人物の過去が描かれたりして入るものの、飛ばしてみたところで支障はないのである。 そんなこともあり、どの登場人物にも大して感情移入できない。 主人公を含め、登場人物は単なる「顔」で、容姿や性別で辛うじて識別できるに留まる。一部の登場人物は、それすらもままにならないが。 ストーリー的にはどんでん返しがいくつか用意されている:・町を仕切る黒幕は、実は座頭市が幾度と通っていた酒屋の頼りない使用人(無論、使用人の振りをしていただけ)で、姉妹の敵でもあった。・座頭市は実は盲目ではない。 ……ただ、こうしたどんでん返しも、間延びした感のあるストーリーのお陰で、明らかにされても「あ、そうかい」もしくは「演じている役者の顔触れから何となく読めた」くらいにしか感じない。 本作は時代劇だが、時代考証はあえて避けたらしい。 主人公の座頭市(北野武)はなぜか金髪。 最終場面にはタップダンスが出て来る。 この面でも、本作は殺陣を見せる為だけのものだと分かる。 こうした演出を、一部の人は「北野監督の非凡なセンス」として賞賛しているが……。個人的には目障りに感じた。ギャップが激し過ぎるのである。 本作の中心となる殺陣だが……。 ほぼ全ての殺陣は座頭市を相手にしたものか、服部を相手にしたもの。 この二人は圧倒的に強いので、全ての相手は雑魚。一瞬の間に倒されていく。 座頭市が危機に陥ることはないし、服部も危機に陥ることはない。 ラスト辺りで座頭市と服部はようやく直接対決する。 いずれも一人で数十の剣客を切り捨てられる腕を持つ。 壮絶な戦いになると思いきや……。 本作は、座頭市が主人公。 主人公が敗北したら意味がないので、服部は必然的に死ななければならない。 座頭市は常に圧倒的に強くなければならないキャラ。 それは、服部を相手にした場合も例外ではない。 したがって、座頭市を相手にした服部は、これまでの雑魚と同様、あっさりと倒される。これまでの強さが嘘だったかのように。服部を最終的にはあっさり倒されるキャラにしてしまうのだったら、途中まで無敵なキャラにしなければ良かったのに、と思う。 この作品は、北野武が監督・制作にも携わっている。 したがって、北野武の事務所(オフィス北野)に所属する芸人が多数登場。 所属芸人の食い扶持の問題もあるので、登場させざるを得ないのかも知れないが……。 芸人は芸人。 俳優ではない。 真面目なのかふざけているのか分からない演技(と演出)で、シリアスなのかコメディなのか、焦点がぶれてしまっている。 映画からは芸人はなるべく排除してほしい。 ただ、そうなると元は芸人の北野武本人も登場できなくなってしまうが。 北野武の作品は、自己満足というか、自慰的なものが多い。 自分をいかに格好よく演出するかに最も多くの努力を注ぐ。 本作もその例外ではなく、北野武というタレントの大ファンであるならともかく、そうでない者にとって、面白いのか面白くないのかよく分からない。 他の作品より娯楽性を高めてはいるが。人気blogランキングへ関連商品:
2009.04.06
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人気コミック・アニメシリーズのルパン三世と名探偵コナンのコラボレーション。 怪盗ルパン三世と、「見た目は子供、中身は大人!」の名探偵江戸川コナンが大活躍。粗筋 ヴェスパニア王国の女王と皇太子が狩猟中に事故死した。19歳の皇女ミラが王位継承者として即位することに。が、ミラは女王になる気は全くなかった。ただ、王位継承は本人が拒否できるものではない。 ヴェスパニア王国は女王と皇太子の死により政情が不安定になり、ミラは王族のキースにより日本へ連れられた。ミラは、そこで毛利蘭と出会う。二人は瓜そっくりだった。ミラは毛利蘭と入れ替わり、ふとしたことで知り合った謎の女性峰不二子と共に日本で一晩自由に過ごす。そのことで、毛利蘭の父親で世間から名探偵と謳われている毛利小五郎と少年江戸川コナン(実は高校生名探偵工藤新一)もミラの国内問題に絡むことに。 一方、ルパン一味はヴェスパニア王国の王冠を狙おうと企んでいた。しかし、峰不二子がミラと関わりを持ったことで、ルパンは王冠強奪から、王族殺人事件の真相解明の為に江戸川コナンと共に行動することになる……。感想 真相は、最初から一番怪しそうだった女王の親族である公爵が、事故に見せかけて女王と皇太子を殺したのだった。無論、ミラも後に始末し、自分が国を乗っ取るつもりだった。 ……名探偵が登場する割にはあまりにも捻りのない真相。 ルパン三世と名探偵コナンを絡めるという無茶な設定の為、そうなってしまったのか。双方のレギュラーキャラを登場させ、それなりの活躍をさせなければならなかったから。 自分はルパン三世を毎回観ているし、名探偵コナンも設定を知っているので、全体を理解するのに特に問題はなかったが……。 片方を観ていなかった場合、チンプンカンプンだっただろう。 少なくとも、本編を観る限りでは、名探偵コナンの設定は分からない:少年名探偵江戸川コナンは、実は高校生名探偵工藤新一で、ある組織の者に試験段階の薬(猛毒だと思われていた)を飲まされた結果、子供になってしまった。幸い、組織は工藤新一が薬で死んだと思っている。子供の姿になった工藤新一は、少年名江戸川コナンとして様々な難事件を解決。といっても、江戸川コナンが名推理を展開していては、江戸川コナン=工藤新一という事実が発覚してしまい、組織に再び狙われるので、名推理は毛利小五郎の手柄ということになっている……。 本編の設定でよく分からないのが、ヴェスパニア王国のこと。 国名や、風景から、ヨーロッパをイメージした架空の国なのは理解できるが……。 ヴェスパニア王国の王族は、なぜ日本語を当たり前のようにできるのか。友好関係を結んでいたとしても、使用人に至るまで全員が日本語をマスターしているのはおかしい。 また、ミラはヴェスパニア人。毛利蘭は日本人。西洋人(と思われる)と東洋人が瓜二つ、なんてことが有り得るのか。アニメだと東洋人と西洋人の区別は分かり難いが(だからこそ本来の設定上は日本人だけが登場する日本のアニメも、アメリカやヨーロッパなどでは登場人物を全て西洋人に設定変更した上で放送することが可能)。 こういった細かいことを気にしていたら、アニメは観られないか。 名探偵コナンは正直あまり好きでないので(一時はそれなりに観たり、原作コミックを読んだりしていたが)、それらの要素が非常に邪魔に感じた。 せっかくルパンが登場しているのに、期待していた荒唐無稽なアクションシーンが殆どなく、こじんまりと収まってしまっている。レギュラーキャラも、名探偵コナンのレギュラーキャラと絡まなければならない為、いつもの絡みが少なく、物足りない。 純粋にルパン三世にしてくれた方が楽しめたような。ルパン三世らでも充分成立したであろうストーリーだったし。 また、名探偵コナンのファンにとっても、ルパン三世の登場は不要だっただろう。お決まりのシーンを、ルパン一味を絡めて変則的なものにしなければならなかったから。 ルパンもコナンも人気シリーズで、長寿でもあるので、絶対登場させなければ成立しないレギュラーキャラが多い。今回、それが全員登場。訳が分からなくなった。「両方とも人気シリーズだから、これを合わせれば相乗効果が得られる!」と製作者は考えたのかも知れないが、逆効果だったような。 本編は、つまらなくはなかったが、第2弾を望むほどでは、なかった。人気blogランキングへ関連商品:
2009.03.31
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映画「チーム・バチスタの栄光」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 現役医師海堂尊による同名ベストセラー小説を、「アヒルと鴨のコインロッカー」の中村義洋監督が映画化した医療ミステリー。 竹内結子、阿部寛、吉川晃司、井川遥、田中直樹、佐野史郎が出演。 原作は、第4回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。粗筋 成功率60%とされる高難度の心臓手術「バチスタ手術」を26回連続成功させていた「チーム・バチスタ」。 が、その「チーム・バチスタ」が3度続けてバチスタ手術を失敗。「チーム・バチスタ」のリーダー自らの依頼で、田口(竹内結子)は内部調査を任された。なぜ失敗が続いているのか、もしかして誰かが意図的に失敗させているのか、と。 田口は専門外の調査依頼に違和感を覚えながらも、調査を開始。 すると、「チーム・バチスタ」のメンバーは、失敗を互いのせいにしたり、失敗を自分のせいにしたり、嫉妬していたり、妬んでいたり、蔑んでいたりと、一枚岩ではないようだった。しかも全員性格的に問題があり、疑いの目で見れば全員怪しい。 といって、失敗は意図的とは思えず、動機もなく、やはり事故のようだった。元々成功率が低い手術で、26回連続して成功していたことがむしろ異常だったのだ、と。 田口が適当な報告で締めくくろうとした矢先、厚生労働省から派遣された切れ者役人の白鳥(阿部寛)が現れる。 2人はコンビを組んで、「チーム・バチスタ」のメンバーを再調査することになる。 すると、「チーム・バチスタ」の衝撃の事実が判明。「チーム・バチスタ」のリーダーでもある外科医は、緑内障で視界の一部が失われていた。26回目までは騙し騙し手術を強行できたが、27回目からは手術を全くできない状態になってしまった。 それが原因で手術失敗が続くようになっていたのだ。 ……と思われていたが、犯人は別にいた……。感想 犯人は「チーム・バチスタ」の麻酔科医だった。失敗した時にパニック状態に陥る「チーム・バチスタ」の無様な姿が、見ていて面白くて堪らなくなってしまい、麻酔の専門知識を使って患者が死ぬよう仕向けていたのである。術中の死ということで病理解剖が行われなかったので、死因が掴めないでいた。 ……という、何てアホらしい真相。 失敗が続いているのに、チームリーダー本人が声を上げるまで原因究明がなされなかった、ということなのだ。 こんなので一本の映画(というか一冊の本)ができてしまうのだから、不思議である。 テレビ映画ならともかく、映画にできるようなストーリーではない。 ストーリーは、全体的に締りがない。 サスペンスを狙っているのか、ユーモアを狙っているのか、さっぱり分からないのである。 サスペンス映画としては、登場人物があまりにもふざけていて、緊張感に欠ける。 といって、題材は比較的シリアスなので、所々に設けられたユーモラスなシーンが蛇足。息抜きの為に、とのことらしいが、せっかくサスペンスで盛り上がったところにこういったふざけた場面があると、白ける。 原作にこういったふざけた場面が盛り込まれていたから、映画にもやむを得ず盛り込んだのかも知れない。が、小説と映画は別物。原作がそうだからといって、映画でもそのまま採用する必要はない。映画化の際はそういうふざけた場面は排除すべきだった。 割り切れないからこうした中途半端なものになってしまうのである。 製作者は、原作のエッセンスを崩したくなかった為、原作にあったユーモラスな場面を映画で忠実に盛り込んだようだが……。 原作を崩したくない割には、調査員の田口を女性キャラクターにしてしまうなど、変えなくてもいい個所はガンガン変更している(原作では田口は男性キャラクター)。 中年2人が活躍している映画なんて誰も観たがらない、が理由だそうだが、一度そうやって変更すると、それをずっと続けなければならない。現に、続編でも田口は女性キャラクターのまま。 原作者はこの点をどう思っているのかね。 本作は、「このミステリーがすごい!」大賞受賞作の原作を映像化したもの。 原作が大賞を受賞できたのも、何も優れていたからではなく、当時テレビで医療ものが流行っていたので、選考員が「現役医師による小説? おお、これはタイムリー! 受賞させよう! 話題になるぞ! 内容なんか特にどうでもいい!」と判断したからだと思われる。 運良く(見方によっては運悪く)、原作は流行に乗ってベストセラーに。 それをきっかけに映画化されることになった。 が、元は「タイムリーだから」という理由だけで大賞を受賞した凡作(医療ものが流行っていなかったら受賞していなかっただろう)。 映画化によって、凡作振りが露呈してしまった。 映像化、というのはそういう効果がある。 ベストセラー=良作ではない。 ベストセラーとは、偶々売れてしまっただけのもの。殆どのベストセラーは、ブームが過ぎると忘れ去られる。元々凡作だから。 映画制作者は、なぜ売れたのか、本当に傑作なのかを分析した上で映像化できないのかね。 自分が観たのは、劇場公開ではなく、続編「ジェネラル・ルージュの凱旋」公開前の一環としてテレビで放送されたもの。 第一弾をテレビで放送することで、劇場公開される第二弾を盛り上げようとのことらしいが……。 どうなのかね。 個人的には、続編を金を払ってまで観たいとは思わなくなった。 無論、原作にもこれといった興味は湧かなかった。 特に読みたくない作家がまた一人増えた訳である。人気blogランキングへ関連商品:
2009.03.04
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映画「ミッドナイト イーグル」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 高嶋哲夫の小説の実写版。 大沢たかお、竹内結子出演。粗筋北アルプスで撮影をしていた元戦場カメラマンの西崎(大沢たかお)は、墜落する赤い光を撮影する。 西崎は後日それについて新聞記者の落合(玉木宏)に問い合わせる。航空自衛隊機がエンジントラブルで墜落した光だろう、と教えられるが、西崎は納得がいかない。自分が見た光は自衛隊機ではない、と。ただ、その時はそれ以上言及しなかった。 それからまもなく落合が西崎を訪ねる。墜落した自衛隊機のニュースを追跡する、と。西崎は嫌々ながらも付いていくしかなかった。 墜落現場の山へ通じる道路は全て警察によって閉鎖されていた。 西崎と落合は徒歩で現場へ向かうことにした。そこで二人が見たのは、真っ白に武装した自衛隊の行軍だった。 異常を察した西崎は、引き返すことを提案するが、落合は言う。これはただの墜落事件ではない、と。米軍で侵入事件があり、それと今回の墜落と関連性がある、と。 西崎と落合は、山中でキャンプを張る。すると、何者かによって銃撃される。自衛隊か、と一瞬疑うが、戦場を歩んでいた西崎は直ちに悟る。自衛隊以外の勢力によって襲われた、と。 一方、雑誌記者の有沢慶子(竹内結子)は、米軍基地に侵入して逃走したと思われる人物を追っていた。その人物は、某国の工作員だった。 西崎と落合は、自衛隊と謎の戦闘部隊との銃撃戦に遭遇。自衛隊は、佐伯三等陸佐(吉田栄作)を除いて全滅。その自衛隊員は二人に下山を勧告するが、二人は拒否。逆に、任務遂行にはアルプスに慣れた自分らが同行しないと無理だ、と言う。 自衛隊員は戸惑いながらも二人と共に目的地へ向かう。 その時点で、自衛隊員は二人に事の真相を伝える。北朝鮮の工作員が米軍基地に侵入し、ステルス爆撃機ミッドナイトイーグルに爆弾を仕掛けた。ミッドナイトイーグルはその爆弾によって墜落。 最大の問題は、ミッドナイトイーグルが核兵器を搭載していたことだった。放射能汚染によって東京などで数百万の死者が出る恐れがある、と。 北朝鮮の部隊は、核兵器を手に入れる為に、アルプスに潜入。自衛隊部隊を襲撃していたのは、この部隊だったのである。 西崎、落合、佐伯は、たった三人で核兵器を奪還しなければならなくなった。 一方、首相官邸は核兵器を搭載した米軍機がアルプスに墜落し、北朝鮮の特殊部隊がそれを狙っていることを知らされる。首相は、周辺住民、米国、そして知らぬまま放射能汚染にさらされる可能性のある東京市民への配慮に苦慮することになる。 西崎、落合、佐伯はようやく墜落現場にたどり着いたが、北朝鮮の特殊部隊は爆撃機に一足先に到達していた。北朝鮮の特殊部隊は核兵器を2時間で起爆するよう設定していた。 西崎、落合、佐伯は首相官邸と交信することによって核爆弾を解除することに成功するが、北朝鮮の特殊部隊は残っていて、核兵器を再度奪取しようと試みていた。 日本政府としては自衛隊特殊部隊を送り込みたいところだが、山中なので無理。といって、民間人2人と自衛官1人で北朝鮮の特殊部隊を阻止させるのも無理。 核兵器が北朝鮮の手に落ちるのを防ぐには、一帯を空爆するしかない。 西崎らはそれを首相に勧告。自分らはもう死ぬ覚悟はできている、と。 首相は、重い決断を下す。 ミッドナイトイーグル墜落現場は、日本政府の要請を受けて発射された米海軍のトマホークによって爆破。 西崎らは北朝鮮の特殊部隊を道連れに、日本という国を守る為に壮絶な死を遂げる。感想 原作は読んでいないのでどうなのか分からないが、典型的な日本映画。 大作ぶっているのだが、チープさがどことなく漂う。 ご都合主義も多過ぎる。 西崎と落合は謎の戦闘部隊によって何度も銃撃されるのだが、全く負傷することなく切り抜ける。丸腰なのにも拘わらず。 一方、フル装備で、訓練を積んでいる筈の自衛隊特殊部隊は一人を除いて呆気なく全滅。ようするに、自衛隊特殊部隊は、「自衛隊員と民間人二人が協力してミッションを遂行する」という設定を確立する為の雑魚。 そういう設定を作らないと今回のストーリーが成立しなかった、というのは理解できるが、自衛隊をここまで無能扱いしていいのかね。 これだったら西崎と落合の民間人と一人の自衛隊員が絡むストーリーではなく、最初から北朝鮮特殊部隊VS自衛隊特殊部隊(民間人は登場しない)というストーリーにしていれば無理がなかったのに、と思う。 そうすれば、一国の首相が民間人に無線を通じてペコペコするアホみたいなシーン(?)は必要なかったし、蛇足的な家族愛のシーンも必要ないし、薄っぺらな平和を論じるシーンも必要なかっただろう。 自衛隊が主人公の戦闘物だと都合が悪いのか。 本作は、小説がベースとあって、国家機密に巻き込まれた民間人、民間人の個人的なトラブル、家族愛、政府首脳の苦悩、自衛隊など、事件を多方面から取り上げている。 小説なら、そういったものを深く掘り下げて描けるのだろうが、映画は2時間程度。 したがって、全ての要素が表面的にしか取り上げられていない。浅いし、まとまり感がない。 アクションを描きたかったのか、家族愛を描きたかったのか、平和論を描きたかったのか、核の恐ろしさを描きたかったのか、日米安保問題を描きたかったのか、さっぱり分からないのである。 これまでの日本の「大作」と同様、大風呂敷を広げてみたもののきちんと畳められなかった様子。 主人公が皆の為に自らを犠牲にするところは、アルマゲドンそっくり。 ラストの場面も、何となくアルマゲドンぽかった。 アルマゲドンは何となく泣けたが、こちらはそういった感動もない。 必然性が感じられなかったからか。 もっと他の解決方法があっただろう、と考えてしまうのである。 日本映画特有の「戦争は悪」の教訓の押し付けも正直ウンザリ。 戦闘場面がある映画を「教訓」抜きで上映したところで、鑑賞者が「戦争はカッコいい! 日本も戦争できる国になるべきだ!」なんて主張し始めるほど馬鹿だとは思えない。仮にそう主張し始めたとしても政府が一々応じる訳がない(一部の政治家は軍拡を推し進めたいと思っていたとしても)。 なぜ日本は一々「教訓」を挿入するのか。 上述したような自衛隊を主人公とした戦闘物が作れないのも、こうした製作者(そして原作者)側の「自主規制」があるからか。 だから日本のアクション物は退屈なのである。 脚本も典型的な日本映画のもの。 映画なんだから、映像で物事を描写すればいいのに、何卒台詞で説明しようとする。普通の人間はここまで喋らないのに、である。 だから台詞や演技や演出がリアルでなく、舞台演技のように見えてしまう。 日本の脚本家は、映画の脚本と舞台の脚本は別物だ、てことを理解していないのか。 舞台と映画の仕事を掛け持ちしていて、こんがらがってしまうのか。 ベストセラーだからといって小説を無闇に映像化すると、ストーリーの陳腐さや欠陥を際立たせてしまうだけで、映画製作者にとっても原作者にとっても利益にならない。 本作は、それを地で行った感じ。 小説のストーリーは、小説であるからこそ成り立つ。小説で熱烈に受け入れられたストーリーであったとしても、別の媒体に移したところで鑑賞に堪えられるとは限らないのである。 いい加減、映画製作者も気付いてほしい。 映画製作者側は、「あれ? この小説、こんなに退屈だったのか? この程度のものがなぜベストセラーに?」と後悔してそうだし、原作者も「あれ? 自分の作品はここまで穴だらけだったの? 醜態をさらしてしまった」とショックを受けてそう。人気blogランキングへ関連商品:
2009.02.16
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(C)1999浦沢直樹 スタジオナッツ/小学館(C)2008映画「20世紀少年」製作委員会映画「20世紀少年」この作品情報を楽天エンタメナビで見る 浦沢直樹原作のコミックの実写版。 三部作の第一作。 ベストセラーコミックの豪華キャストの実写版として話題に。 三部作で総製作費が60億円だという。粗筋 1969年の夏。 小学生のケンヂは、同級生の仲間たちと空き地の原っぱに秘密基地を作った。そんな彼らの秘密の遊びの一つである「よげんの書」には、悪の組織、世界征服、人類滅亡計画、それを阻止する正義の味方など空想の数々が描かれていた。無論、「よげんの書」は単なる子供の遊び。ケンヂらはその後秘密基地から卒業し、それぞれの人生を歩んでいった。 それから30年。 ケンヂは「よげんの書」のことなどとっくに忘れていた。ロック歌手になる、という子供の頃からの夢を諦め、冴えないコンビニ経営者になっていた。 そんなところ、世界各地でテロ事件が発生。 そのテロ事件の内容が、どうも「よげんの書」の筋書き通りなのである。 それと同時期に、日本では「ともだち」を教祖とする新興宗教が勢力を拡大していた。その新興宗教のシンボルマークは、ケンヂらが秘密基地の目印としていたシンボルマークとそっくりだった。 どうやら、ケンヂらの仲間の誰かが「よげんの書」を手に入れ、「ともだち」となり、「よげんの書」で描かれていた世界征服や人類滅亡計画を実行に移しているいるらしい。 ケンヂは「ともだち」を阻止しようとするが、「ともだち」の魔の手は広範囲に広がっており、ケンヂはテロリストに仕立て上げられてしまった。 ケンヂは地下への潜伏を余儀なくされる。ケンヂは、少年時代の仲間を集め、「ともだち」の世界征服計画の阻止に動くが……。感想 本作は三部作の第一章なので、登場人物の紹介、背景の紹介で終わってしまう。 核心は第二章から、ということのようである。 問題は、本作を見て第二章を観たいと思うか、である。 浦沢直樹の漫画が大好きで、原作を読んだことがあるなら観れるのだろうが、そうでもないと観れない。 自分は本作の原作を読んだことはないが、浦沢直樹の他の作品は読んだことがある(MONSTERだった)。やけに多くの人物が登場し、一人一人をやけに深く掘り下げる。最初はいいのだが、登場人物の紹介やどうでもいい描写がいつまでも続き、ストーリーの核心部分へと進まず、やっと進んだと思ったら尻切れトンボで終わってしまう、と印象しか持てなかった。 本作もまさにその通り。 多彩なキャラが登場し、背景を時間をかけて説明。 その結果、ストーリーというストーリーにならないまま第一章は終了。 テレビで放送されたものを観ていたからまだマシだったが、劇場で観ていたら腹が煮え繰り返っていただろう。 本作を観て、第二章を観たいと思う奴がいるのか。 少なくとも、自分は劇場で観たいとは思わない。 ここまで原作に忠実にする必要があったのかね。 そもそも漫画と映画は、全く異なる媒体。漫画が成功したからといって、そのまま劇場版にして成功するとは限らない。 漫画は何十巻もかけて一つのストーリーを取り上げられるが、映画は1本2時間程度の長さしかない。漫画で描かれたエピソード全てを盛り込んだら、詰め過ぎ感しかなくなる。本作はまさにそうだった。 キャストは確かに豪華で、自分が知っている芸能人が多数登場しているが、単に製作者側の影響力を誇示しているだけのように見え、適材適所とは思えない。 製作費60億円の殆どが、この豪華キャストのギャラとして消えているのではないか。人気blogランキングへ関連商品:
2009.01.31
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(c)2008「L」FILM PARTNERS (c)2008「L」PLOT PRODUCE映画「L change the WorLd」この作品情報を楽天エンタメナビで見る「DEATH NOTE 」シリーズでキラこと夜神月を追い詰めた、もう一人の主人公Lを主役にしたスピンオフ。 Lを演じるのは、これまで通り松山ケンイチ。粗筋 L(松山ケンイチ)は、名前を書かれた人間は必ず死に至るデスノートを駆使して犯罪者を粛清する人間死神のキラこと夜神月の野望を阻止することに成功。 しかしその代償として、Lは自身を犠牲にしていた。デスノートにあらかじめ自分の名前を書き込むことで、キラがデスノートを使ってもキラの思い通りに死なないようにしたのだ。これによって、Lはキラを現行犯として裁くことに成功。が、当然ながらLは自身の行為で23日後に死ぬことが定められていた。 一方、タイのある村で新種のウイルスによるバイオテロが発生。ウィルスを開発した組織は事件の証拠隠滅の為に村を爆撃して焼き払った。ウィルスは、インフルエンザ並の流行性とエボラウイルス並の致死率を掛け合わせた恐るべきものだった。 村の唯一の生き残りとなった少年BOYと、ウイルスを携えた少女真希がLを訪ねる。 L は、人類削減計画を掲げる環境保護団体『ブルーシップ』が関わる事件の解決に動き出すことを強いられる。 ただし、Lに残された時間は2週間を切っていた……。感想 漫画を実写化したDEATH NOTEシリーズは、予想以上に成功。 そんな訳で、続編をもう一編製作しよう、と決定。 といっても、キラ対Lのバトルは決着してしまったので、単なる続編は製作できない。「キラがあの世から復活して、Lと再び対決する!」なんてストーリーでは誰も納得しないから(DEATH NOTEの世界ではルール違反になる)。 幸いなことに、サブキャラの筈だったLが主役を完全に食うほど好評だった為、Lを中心とした作品を制作することが可能だった。 ただ、Lはあと数日で死ぬ予定。 どんなストーリーを捻り出せばいいのか……。 ……こんなストーリー。 ウィルスによるバイオテロを企む犯罪組織とLを戦わせる。 ストーリーそのものは悪くないのかも知れないが、「DEATH NOTE 」シリーズが好評を得た最大の理由である天才と天才の頭脳戦の要素が全くなく、正直今回の主人公はLでなくても充分勤まってしまう。 考えてみると、元の「DEATH NOTE 」シリーズも、主人公である筈のキラをサブキャラのLが完全に食ってしまう作品に仕上がっていた。 主人公より脇役が目立ってしまっていたのである。 その意味では、「DEATH NOTE 」シリーズは異端だった。 いくら好評を得ていたとはいえ、Lは元々サブキャラとして創造されたキャラ。脇役はどんなに目立とうと脇役に徹することで成立する。脇役を主役にしたところでまともな作品ができる筈がない。 本作においては、主人公を食われたキラの呪いが、降りかかってきた感じ。 本作は、大抵の邦画の例に漏れず、おかしいところを指摘していたら切りがない。・「全世界的に有名な名探偵」なんて有り得ない。特に、部屋から一歩も出ず、パソコンを通じて難事件を解決してしまう、なんて探偵は。もし難事件がパソコン操作だけで解決できるなら、世の中には迷宮事件なんてとっくになくなっている筈である。・バイオ兵器用のウィルスが一研究所でそう簡単に開発できる訳ない。それ以上に、その抗体が専門家とはいえたった一人で開発できる訳がない。もしこれが可能だったら、今頃世の中はバイオ兵器だらけで、バイオテロが頻発している筈である。・本作のテロ組織は、「人類は増え過ぎた。環境を守る為には人間の数を減らすことが必要」と極論を訴える環境保護組織を発端としたものだった。こんなアホな思想を持つ組織、有り得るか。実在していたとして、世界中の治安当局に目を付けられている筈。だが、その様子はなくノーマークで日本で行動できた。一応FBIに追われていたようだが、FBIは本作では全く無能。・ラストで、テロ組織が旅客機の乗客全員をウィリスに感染させる。乗客は血を全身から流しながら次々倒れるのだが、抗体を注射した途端に何事もなかったかのように回復。通常、ここまで急激に発症したら、抗体を注射したところで手遅れだろう。 邦画恒例の、無駄なキャラやゲスト出演や友情出演が多い。 南原清隆演じるFBI捜査官は、何の為に登場していたのかさっぱり分からないキャラ。これといった活躍はしないし。お笑いコンビのウッチャンナンチャンのナンチャンとあって、顔を見せるだけでシリアスな筈の作品がおふざけになってしまった。 本作では子役が2人登場するが(少年BOYと、ウイルスを携えた少女真希)、1人で充分だっただろう。映画製作に関わった事務所が、所属する新人タレントに箔を付けさせる為に捻り込んだ、としか言いようがない。芸能事務所はこういう捻り込みは逆効果、てことをいい加減学んで欲しい。 テロ組織の連中も何人も現れるが、工藤夕貴と高嶋政伸が演じるキャラ以外は雑魚。にも拘らず所属事務所の力関係からか、出番がやけに多い。特にこれといった活躍はしないのに。そもそもテロ組織の首謀も一人に絞るべきで、工藤夕貴と高嶋政伸演じるキャラの二人に分ける必然性が見出せなかった。 ストーリーも、Lの無能振りをひたすら描いた、といったものになっている。「DEATH NOTE」の2部作では圧倒的な存在感を示し、無敵の印象があったLが、本作では無能だし、無力。 Lとしての魅力が全く引き出されていない。「DEATH NOTE」との繋がりも、最初の15分くらい。2部作で激戦の中心となった「DEATH NOTE」いわゆる死神のノートは、冒頭でLによってあっさりと処分される。当然ながら、「DEATH NOTE」で登場していた死神も、それでお役ごめんになり、二度と登場しない。「DEATH NOTE」の関連作品でありながら、その繋がりを早々と絶っている。唯一の繋がりは主人公Lだが、本作のLと二部作のLは、格好や喋り方や癖こそそっくりだが、それ以外は全くの別人。 元々オリジナルストーリーであった脚本を、「DEATH NOTE」シリーズの成功で急遽シナリオを書き直し、オリジナルキャラの主人公をLに置き換えたかのようである。 結末もおかしい。Lは「殺人は良くない」とかいう持論を展開し、テロリストらを救ってしまうのだから。勧善懲悪は今時子供っぽいということなのかも知れないが、「世の中には本当の悪人はいないんだ。みんな仲良くやろうよ!」というのも子供っぽいだろうに。前半ではかなり残酷なシーンもあり、お世辞にもお子様用映画とは言えないから、結末の幼稚さが一層際立ってしまっている。こうした結末にするなら、最初から残酷シーンを排除し、お子様用映画に徹すべきだった。 総括すると、本作は、思いがけない成功に酔った製作者が粗造してしまった、生まれるべきでなかった外伝。 本作は、せっかく成功していた「DEATH NOTE」シリーズに泥を塗ってしまった。人気blogランキングへ関連商品:
2009.01.17
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2003年7月にテレビ朝日系で放映された人気ドラマの劇場版。 柳沢きみおの同名コミックが原作。 昼間はさえない窓際係長、夜は特命を受け悪を倒す無敵のヒーローとして活躍する男の物語。 主人公の只野仁を演じるのはテレビシリーズ同様、高橋克典。 櫻井淳子、永井大、三浦理恵子、蛯原友里、田山涼成、梅宮辰夫などのレギュラーキャストも登場する。粗筋 黒川会長(梅宮辰夫)に呼び出された只野(高橋克典)は、電王堂が手掛ける“フラワー・アース・フェスタ2008”のメインキャラクターを務めるグラビアアイドル、シルビア(秋山莉奈)の護衛と身辺調査を頼まれる。「暗黒王子」と名乗る謎の人物から脅迫を受けている彼女は、只野の活躍により、大怪我を負いそうになる危機を間一髪で回避。事なきを得た。ただ、シルビアは、世間では清純派アイドルだったが、実はアバズレで、彼女を利用する者、利用したがる者、そして彼女が利用している者が混在状態。誰に狙われていても不思議ではない状態にあった。 そんなところ、シルビアはナイフを操る謎の男に浚われそうになる。只野はこれを未然に防げたが、今度は謎の巨人が目の前に現れ、シルビアはさらわれてしまった。 シルビアのマネージャーと、シルビアが以前所属していた芸能事務所が一枚噛んでいる、と悟った只野は、その事務所に向かう。そこで、マネージャーの死体を発見した……。感想 本作は、テレビドラマの映画化。 最近はテレビドラマを同じキャストで映画化、テレビドラマを映画でオールニューのキャストでリメーク、映画でヒットしたものをテレビドラマとしてオールニューのキャストでリメーク……、などが多い。 テレビと映画が密接に繋がっている。 こうした傾向は、ヒットを生み易い、という利点はあるものの、映画が「テレビドラマの延長」となってしまい、映画の陳腐化が問題視されている。 また、「テレビドラマを観ていないので映画版を観れない」「テレビドラマでやっていたのをわざわざ映画館で観る気がしない」「テレビドラマの特別版を金を取って観させている」など、映画離れも招いている。 確かに、こちらが観てもいないテレビドラマを勝手に映画化して、その宣伝を様々なテレビ番組でガンガン流されても、観る気が全く起きない。公共電波の有効活用とは言い難い。 本作品においては、幸か不幸かテレビ番組を観ていて、それなりに楽しませてもらっていたので、観ることに。 観た感想は……。 中途半端だな、である。 テレビドラマ版は、荒唐無稽で、おふざけシーンやお馬鹿なシーンを満載していて、エンターテインメントに徹していた。 普通のテレビドラマにありがちな「教訓の押し付け」「感動の押し付け」が少なく、純粋に楽しめるものになっていた。 更に、深夜帯に放送されるとあって、最近のテレビドラマには珍しくお色気シーンも。 だからこそヒットした。 残念ながら、製作者はその良さを理解できていないようで(製作を直接担当している者は理解しているのかも知れないが、局の上層部が理解しておらず、いらぬ口出しをしている可能性がある)、ゴールデンタイムに放送される特別版では、普通のテレビドラマと同様、「教訓の押し付け」「感動の押し付け」があり、面白さが帳消し状態になっていた。 そんなこともあり、今回の劇場版も心配していたが……。 心配は見事的中。 日本映画は、テレビドラマ以上に「教訓の押し付け」「感動の押し付け」が多い。 それが日本映画低迷の最大の原因なのだが、製作者(というよりスポンサーか?)はなぜかそれを理解しない。というか、理解するのを避けようとしている。「特命係長 只野仁 最後の劇場版」も、「日本映画」の例に漏れず、「教訓の押し付け」「感動の押し付け」を盛り込むことに。 その結果、せっかくのエンターテインメント性が損なわれ、しめぼったくて後味の悪い作品に仕上がってしまっている。「教訓の押し付け」「感動の押し付け」があっても、それをメインとし、完全にシリアスな映画にしていれば、テレビ版とはまた違う「特命係長 只野仁」として売り出せたかも知れない。 残念ながら、「テレビドラマで受けに受けた荒唐無稽ぶりやおふざけを全て排除するのは流石にまずい」という意見が上がったらしく、そういったシーンも満載。「荒唐無稽でおふざけもある一方で教訓満載で感動もできるエンターテインメント作品」を目指した結果、特に楽しめる訳でもなく、感動もできない中途半端なものに。 脚本の段階で「この手の映画はもっとスカッと楽しめるものにした方が受けるんじゃない? このままだとまずい」と誰も指摘しなかったのかね。 また、日本映画の悪い慣習として、事務所や関係者のごり押しと思われる「特別出演」「友情出演」が多い(梅宮辰夫の娘梅宮アンナなど)。 こうした「特別出演」「友情出演」も、それなりの著名人や、事務所が売り出したい所属タレントが登場するので、それらに見合ったシーンを用意する必要がある。そんな訳で、「こんなシーンいらないだろ」「なぜこいつをわざわざ登場させるの?」という部分が多い。 そういう部分はストーリーの流れを止めてしまう。「特別出演」「友情出演」が終わってやっとメインのストーリーに戻っても、観ている側が付いていけない。 こういったものを全て排除してくれれば、もっとシンプルで分かり易い作品になっていただろうに。 せっかくの劇場版なのに、スケールがテレビ版と全く変わらないのも問題といえる。 結局、黒幕は電王堂の会長の椅子を狙う幹部の一人だった、というものだから。 それにしても、電王堂、て悪の巣窟状態。逮捕者が続出している。 これで大手広告代理店をやっていられるのだから、不思議としかいいようがない。大抵の企業は、こんな会社に広告を代理させないと思うが……。 会長は、只野がいなかったら、とうの昔に失脚していただろう。 主人公を演じる高橋克典だが……。 身体付きは、四〇代であることを全く感じさせない立派なもの。 ただ、背はあまり高くなく、「後輩」を演じる永井大と横に並ぶシーンでは、永井大が長身なこともあって、只野が物凄く頼りなく見えてしまう。 これは、テレビ版でも感じられたことだが、なぜか今回の映画版では特に顕著。 永井大が成長したのか、と首を捻ってしまった。永井大は三〇代なので、それは有り得ないのだが……。 シルビアのマネージャー役を演じた西川史子は、本業はタレントでも女優でもなく女医となっている。 ただ、こうしたものに出演できるということは、医者業は廃業していると見ても良さそう。 医師不足が叫ばれている現在、現役の医師が芸能界に顔出しできるとは思えない。 アイドルのシルビアを演じていたのは秋山莉奈。 仮面ライダーシリーズに登場したことがきっかけでブレークし、「美尻」のお陰で「オシリーナ」と称されるアイドルになっているが……。 顔立ちは、仮面ライダーに出演していた時はそれなりに良かったが、今となっては普通。 単なるOL役を演じている蛯原友里(いわゆるエビちゃん。三十路に近い)より見劣りする。 もっと他の女優を使えなかったのかね、と思ってしまう。 本作は、成人コミックに連載されていた作品を原作としている。 ただ、原作コミックとテレビ・映画版は設定や雰囲気がかなり異なる。 そんな訳で、原作からテレビ・映画版に入る分には違和感なく入れるかも知れないが、逆だと違和感を抱きまくることになる。 原作は、成人コミック特有のタッチで、非常に荒い。そういう画風を好む者はともかく、そうでない者には「汚い絵のコミック」としか映らず、全然楽しめない。 コミックのテレビドラマにおいて「原作をはるかに下回る」の意見がもはや定例化しているが、本作においてはテレビドラマが原作を上回っている。 本作は、初の劇場版。 にも拘らず、「最後の劇場版」となっている。 これでシリーズは打ち止め、ということか。 それとも、テレビに専念する、ということなのか。人気blogランキングへ関連商品:
2008.12.11
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ルパン三世の長編アニメ版。粗筋 ルパン三世は、願い事が何でも叶うという「魔法のランプ」を、苦労の末に手に入れた。ルパンがそのランプをアラビアンナイト風に擦ると、願いを何でも叶えるという「妖精」が現れる。美人の「妖精」にデレデレになるルパン。が、気付くとなぜか夜間の無人島から昼間の道路の真ん中に。ルパンは何が起こったのか、さっぱりわからない。次元や五エ門と合流すると、ルパンは記憶が無くなっている事に気付いた。 ルパンの前に、謎の女性ドリューが現れる。それと同時に、ガーリックという武器商人が現れ、ランプを寄越すよう要求する。ルパンとドリューは訳の分からないままガーリックから逃げることに。 ランプとは、実は「魔法のランプ」ではなく、記憶を人から抜き取って記録する装置だった。ランプから発射されるマイクロチップが対象者の中に打ち込まれると、一定の時間置きに対象者の記憶を抜き取って記録する。この装置のお陰で、ルパンは毎日夜7時から朝7時までの記憶を完全に失うこととなった。 ドリューは、ランプの開発に携わった者だったが、開発者である博士の方針に反対し、ランプを持ち出して逃げていた。すると、いつの間にかランプを使って強大な権力を手に入れようと企むガーリックに追われる身となってしまっていた。そこで、ルパンを引きずり込んで、助かろうとしていた……。感想 荒唐無稽さが売りのルパン三世シリーズ。 しかし、今回のはかなり地味。 ヒロインが地味だし、最大の敵役(と思われる)ランプ開発者の博士も地味。ガーリックという、武装ヘリを使って攻撃しまくる人物が現れるが、凄みを感じさせない。 ルパン三世シリーズの魅力は、ルパン、次元、五エ門、不二子、銭型といったレギュラーが反目し合いながらも最終的には協力して悪を倒す、という展開である筈なのに、本作ではそれが感じられず、バラバラ。 銭型警部に至っては、冒頭で記憶喪失になり、最後の場面でルパンと出会って記憶を取り戻すという展開になっている為、銭型はいつものようにルパンを追跡している内にルパンの悪者退治に協力している、といった場面が観られない。 車対ヘリのチェイスシーンなど、過去の作品の焼き直しも多い。 人の記憶を抜き取ったり、保存したりできるという「魔法のランプ」という装置の意味が結局分からなかったことも問題。 こんな装置を巡ってなぜ武器商人が町を破壊しまくるのか。 重大性がイマイチ理解できなかった。 もう少しストーリーを煮詰めてからアニメを製作してほしいものである。 毎週放送するならともかく、年に1回だけなのだから。人気blogランキングへ関連商品:
2008.07.27
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後にゼイラムで名を馳せる雨宮慶太の初監督作品。 ゼイラムで登場する井田弘樹や横山誠が登場。 元はナムコのテレビゲームだったが、雨宮慶太が映画化しないかと持ちかけ、実写化された。粗筋 機忍(サイボーグ)で諸国の侵略を続ける黒鷺軍との戦闘に敗れた諏訪部軍。 諏訪部軍は、最終兵器「機動砲」による反撃を計画。 しかし、諏訪部軍を率いるサキ姫が敵の本拠地に連れ去られてしまう。 精鋭部隊と共にサキ姫奪回に向かった諏訪部家の機忍ハンター赤城は、謎の機忍・白怒火に助けられる……。感想 レンタルビデオ屋で普通に置いてあってので、借りてみた。 ゼイラムより後の作品だと思っていたが、前だと判明。 ストーリーは非常にシンプル。 敵によってさらわれた姫を、精鋭部隊が救い出す、というもの。 ただ、舞台が未来でありながら戦国時代っぽい、というファンタジー的な世界になっている。 せっかくストーリーがシンプルになっているのに、余計なものを盛り込んでしまった為、焦点がぼやけたものになってしまっている。「未来忍者」というタイトルになっていて、DVDケースには未来忍者がでかでかと描かれているので、未来忍者が中心となっていると思いきや、主人公といえるのは、精鋭部隊を率いる野武士っぽい男(三船敏郎をイメージしたという)。この男がとにかく目立つので、本来の主人公である筈の未来忍者が殆ど目立たない。それどころか、野武士や精鋭部隊は顔を丸出しにして戦っているのに、未来忍者は完全に顔を隠して戦闘するので、何となく場違いに見えた。また、未来忍者は物凄く強いのか、というとそうでもなく、野武士の方が強そうに見えたくらい。 なぜ主人公である筈の未来忍者の他に、野武士や精鋭部隊を登場させたのか、よく分からない。未来忍者を主体にしたストーリーにした方が、タイトル通りになっていただろうに。 精鋭部隊も、とにかく弱い。5人いたが、その内4人はあっさりと倒されてしまい、雑魚扱い。残った1人も、最終的には死んでしまう。しかも呆気なく。何の為に登場していたのか。 悪役も、強いのか弱いのか、よく分からない。やけに強いと思っていた悪役が、最終的には信じられないほどあっさりと倒されてしまうのだ。 本作は、少なくともストーリーを楽しむ為の作品ではないようだ。 ストーリーを楽しむ為でないというのなら、ビジュアル的にはどうか。 これもちょっと疑問。 本作で使われている特撮は、現在でいうとテレビの戦隊物と殆ど変わらない。 最高の映画用特撮がテレビにでも使えるほど安くなったといえばいいのか、それとも日本の特撮は20年間全く進歩が見られない、というべきか。 背景ははめ込みであるのが見え見えだし、「巨大兵器」がミニチュアであるのが見え見えだし、戦闘シーンもいかにも「スタントチームを使っています」というのが見え見え(特に戦闘員が吹っ飛ぶところなど)。 チープさが全編に漂う。 その意味ではお子様映画なのである。 じゃ、「本作はお子様映画なのか? だからストーリーがいい加減で、特撮もチープなのか?」というとそれも疑問。 お子様映画にしては人がガンガン死んでいく。 主人公代理である最後の精鋭部隊の1人が、最後であっさりと、無駄に死ぬので、爽快感もない。 大人向けのアクション映画をお子様番組用の特撮技術で製作した、という最悪の結果になってしまっている。 本作で優れているのは、未来忍者のコスチュームデザイン。 未来忍者は、非常に格好いい。 後のゼイラムに通じる部分がある。 ただ、格好よく見えるだけ。 本作は、本来公開する予定ではなかった雨宮慶太監督の習作が、どういう訳か公開されてしまったもの、といった感じ。人気blogランキングへ関連商品:
2008.07.13
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大ブレーク前のほしのあきが主演したVシネ。 他に北川絵美、涼樹れん、丸純子、飯沢ももなどの大人物女優が数多く登場する。「野獣」と書いて「クーガ」と読ませている。粗筋 海のど真ん中に浮かぶ孤島。 そこへ、警官を殺害し無期懲役の刑で服役中だったミサキ(ほしのあき)が移送されてきた。 孤島は、テロリストや犯罪組織や国外からの脅威に対処する特殊工作員の秘密養成所だったのだ。 その日からミサキは「1316」という番号で呼ばれ、過酷な訓練を課せられることに。看守や同室の女たちと争いを繰り返しながら、訓練に耐えていた。 ある日、ミサキは同室の「1515」から脱走の計画を打ち明けられる……。感想 Vシネであり、北川絵美、涼樹れん、丸純子、飯沢ももなどの大人物女優が多数登場するので、当然ながらそれなりのお色気が観られる。 ただ、主演のほしのあきは、結局何も見せないまま。大ブレーク前ではあるが、それなりの「知名度」はあったらしく、後のことを考えて過剰な露出はしなかったらしい。それだったらなぜこの手の作品に出演させたのか、と疑ってしまうが……。 ストーリー的にはこれといった展開はない。 ただ女性らが一堂に集められて、しょぼい「訓練」をさせられている場面を延々と見せられるだけ。 特殊工作員の養成所から「卒業」し、特殊任務を与えられるところまでいくのかな、と思ったらそうでなく、最終的にはミサキが島から泳いで脱出を試みるところで終わってしまう。 最初から最後まで「孤島」に留まるのだ。 ストーリーは、細かく分析すると、穴だらけ。 テロ対策の特殊工作員を育成するなら、犯罪歴のある女性を訓練して無理矢理工作員に仕立て上げるより、自衛隊や警察から女性自衛官や女性警官を募った方がはるかに優秀な人材を集められるだろう。 ハニートラップとして育成したかったので、それだと自衛官や警官は無理だった、とする。その割には「訓練」がひたすら運動系で、ハニートラップにはそぐわない内容。 そもそも、戦闘員なら女性より男性の方が適している。女性を戦闘員にしたところで、男性によって構成された通常の特殊部隊には歯が立たないだろう。 養成所が今後どうなるか、というのも分からない。「卒業」できなかった者は「用済み」となって殺される、という含みになっているが、今回の女らも始末されてしまうのか。 始末された後、何事もなかったかのようにまた女らが集められ、しょぼい訓練を強制させられるのか。 演出にも疑問点が多い。 本作では女性がやたらと脱ぎまくるのだが、登場人物がどれもツッパリというかヤンキー系なので、色気を感じない。 色気を感じないので、脱ぎまくっても、男性の裸を見せられているようで、萎える。 いっそ脱がせない方がよかったかも。 DVDのケースには、ほしのあきが銃器を構える写真が使われて、ハードなアクションが繰り広げられることを示唆しているようだが……。 本作ではこれといったアクションシーンはない。 ラストでほしのあきが別の女性とナイフバトルを繰り広げるが、所詮グラビアアイドルなので、動きが鈍く、緊迫感はない。 本作は、アクション映画としてはアクションが貧弱で物足りないし、お色気映画としてはお色気が貧弱で物足りない。 結局は「現在お茶の間で活躍しているほしのあきは過去にこうしたものにも出ていた」という話題性で観るだけのもの。 自分が観たDVDは、本作品に出演していた多数の女優の中でほしのあきが偶々ブレークしたので、ほしのあきが主役になるよう再編集され、新作としてリリースされたらしい。そうでもないと、他の出演者がガンガン脱ぎまくっているのに、ほしのあきだけが何も見せずに済む、なんてのは有り得ない。人気blogランキングへ関連商品:
2008.06.30
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モンキー・パンチ原作の漫画「ルパン三世」の長編アニメ第2段。 本作の監督は、後に「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」などのヒットを飛ばすことになる宮崎駿。粗筋 ヨーロッパの小国カリオストロ公国。 偽札作りの巣窟だ、という噂が絶えないこの国へ、ルパンがやって来た。到着早々、ルパンは悪漢に追われる少女クラリスを助ける。が、彼女は再び連れ去られてしまう。クラリスは、実はカリオストロ公国・大公家の一人娘だった。彼女は、強引に結婚を迫るカリオストロ伯爵によって城に幽閉されていたのだ。 ルパンは、既に城内に潜入していた不二子の手引きで城に潜入し、クラリスを救出すると共に、カリオストロの謎を暴こうとするのだが……。感想 今となっては、巨匠宮崎駿の原点ともされる作品だが、公開当時は「女の子を助ける為に奔走するなんてルパンじゃない」と酷評されたらしい。 確かに、原作のルパンは意外にも冷酷な悪党だから、本作品のようにひたすら善人のルパンには違和感があっただろう。 ルパン三世の長編アニメシリーズは、荒唐無稽でハチャメチャな展開のストーリー、おおよそ現実的でない登場人物、というイメージがある。 が、本作を見る限りでは、少なくとも初期の段階ではそうでなかった、というのが分かる。 カリオストロの城の「秘密」というのは結局世界各国の贋金を作る工房だった、という平凡なもの。 悪玉カリオストロ伯爵の真の姿も、「贋金作り工房の最高責任者」。後のシリーズ作の悪玉と比べると小粒である。 舞台もカリオストロ公国内に留まる。 定番となっているカーチェースシーンも、部分的にはアニメっぽいところが見受けられるが、後のシリーズ作と比較するとリアルである。むしろ実写の007シリーズのカーチェースシーンの方がアニメっぽく感じてしまう。 最近のルパン三世シリーズは「アニメでないと絶対表現できない代物」となってしまっているが、本作品は何となくそのまま実写化できそうなものとなっている。 あまりにもまともなので、最近のシリーズ作を見慣れている者からすると、「地味過ぎ」「スケール感に乏しい」と感じるかも知れない。 別の視点から見れば、「これくらいまともな脚本を書ける者が今の映画界にいればいいのに」ということにもなる。 本作は、日本映画にありがちな、「とにかく感動シーンを押し込んでおけ」という展開になっていないのもありがたい。 最近はアニメ映画でもその傾向があるので、「アニメ映画だから」ということでもなさそうだ。 最後まで安心して、白けることなく観ていられる。 ルパンを追い続ける銭型警部の描かれ方が、他のシリーズ作と違うのも最大の特徴。 他のシリーズ作では、銭型警部は駄目警部として描かれているが、本作ではそれなりに優秀(原作でも銭型警部はかなり優秀な警部として描かれている)。ルパンと協力して、贋金作りの摘発に及び腰だったICPOを無理矢理摘発に乗り出すようにさせるなど、警察官らしい行動もしている。 公開は1979年だから、30年も前の作品。 しかし、アニメとあって古さを感じさせないし、ストーリーがしっかりしているので何度見ても飽きない。 宮崎駿の絶頂期の作品といえる。 この後、宮崎駿は日本のアニメの巨匠となっていくのだが、世間の評価は高くても内容的には「???」の作品を制作していく。人気blogランキングへ関連商品:
2008.05.03
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高視聴率を誇ったテレビドラマの映画化。 篠原涼子が型破りの女性刑事雪平を演じる。粗筋 雪平の車が何者かによって爆発炎上。学校に向かおうとしていた娘の美央が巻き込まれ、大怪我を負ってしまう。美央は警察病院に入院することになった。 その警察病院が、テロリストらによって占拠される。 テロリストらは警察の裏金80億円を要求。警察は当然ながら拒否。テロに屈する訳にもいかなかったが、それ以上に裏金があることを認める訳にはいかなかったのだ。しかし、テロリストらは院内の細菌研究所に保管されてあった黒色壊疽菌を手に入れた。壊疽菌をばら撒けば、東京都民の8割が1週間後に死亡する。テロリストらは、これを盾に再度80億円を要求。 テロリストらを阻止できるのは、娘の救出する為院内に独自に潜入していた雪平だけとなった。 雪平は、裏金など不正の隠蔽に動いているだけの警察上層部の為に動くつもりはなかったが、壊疽菌を感染してしまった娘の命がかかっているとなっては、テロリスト阻止に動くしかなかった。 問題は、警察内部に内通者がいることで、警察の動きがテロリストらに筒抜けになっていることだった……。感想 調理の仕方によってはエキサイティングな作品に成り得たのに、色々盛り込もうとした為に焦点がぶれ、締りがなくなってしまった、典型的な日本映画。 様々なことが起こっているが、全く感情移入できないので、終わった頃にはどうでも良くなっていた。 登場人物がとにかく悪い。 主人公の雪平は、型破りでありながらも検挙率ナンバーワンの敏腕刑事、ということになっているが、その優秀さが微塵にも感じられない。娘を溺愛するあまり理性に欠けた行動ばかり取る馬鹿親にしか見えなかった。この程度で敏腕刑事になれるなら警察は本当に人材不足。こんなイカレ女に銃を持たせていいのか、とも思ってしまった。 敏腕、という割にはただ院内の階段を上がり下りするだけで、テロリスト阻止にこれといったことはしていない。壊疽菌をばら撒く爆発物の処理も、結局仲間の刑事に担当させるし。 これなら、むしろ敏腕ではない普通の刑事だがやけに事件に巻き込まれる、という設定にした方が親しみが持てただろうに。 主人公が駄目駄目でも、主人公を支える他の登場人物が良ければ救われるのだが、どの登場人物も性格的にカスなので、彼らにも感情移入できない。 本作では登場人物がバタバタと殺されていくのだが、どれもカスなので、殺されても「あ、そ」くらいしか思えなかった。唯一気の毒に思った犠牲者は、加藤ローサ演じる看護婦。といっても、その看護婦は開始早々退場させられるので、「結局何の為に登場したの?」としか思えない。むしろこの看護婦をもっと活躍させていた方がストーリーに幅を持たせただろうに。 本作品には、椎名桔平、濱田マリ、大杉漣、寺島進、江口洋介など、多数の著名な俳優が出ているが、最終的にはどの登場人物にも魅力を感じられなかった。 登場人物が駄目駄目でも、ストーリーがまともなら少しは観れたものになっていたと思うが、これも駄目。 穴だらけなのである。 警察病院に危険な壊疽菌(エソキン。作中ではなぜかカイソキンと読まれていた)を保管する理由が不明。 警察病院をテロリストがいとも簡単に占拠できてしまう理由も不明。 警察上層部が内部の様子を全く把握しないまま特殊部隊SATをガンガン投入し、全滅させる理由も不明。 要塞と化した筈の病院に、特殊訓練を受けた訳でもない女刑事が地下からいとも簡単に潜入できた理由も不明。 女刑事がハイヒールで院内をカツカツと音を立てながら移動してもテロリストらに全く察知されなかった理由も不明。 とにかく穴が多過ぎ。 こういった穴も、ストーリーの運び方によっては強行突破できたのに、運び方がまずい。「警察内部に内通者がいる。誰も信用できない」という状況を作りたいが故に、主人公以外の登場人物がどれも疑わしいように描かれてしまっている。 勧善懲悪でないのも問題 映画というのは長くても2時間で完結しなければならないのだから、善と悪を簡素化する必要があるのだが、「それだとストーリーに深みがなくなる!」と言わんばかりに無駄に複雑化している。 今回のテロリストは「悪」なのか、というと別にそうではない。なぜなら、彼らの目的は、警察上層部の不正を告発したかった、ということだったから(テロリストのリーダーは、元警察官。警察上層部の不正を暴こうとしたら無実の罪を着せられ、投獄された)。 テロリストらと対峙する警察は「善」なのか、というと別にそうでない。裏金を溜め込み、そのことがばれそうになると不正を暴こうとする捜査官を車ごと爆破する。雪平が爆破事故に巻き込まれたのもそれが原因。テロリストらの黒幕であり、内通者だった人物も、実は警察上層部の不正を暴こうと動いていたところ婚約者を警察上層部が仕掛けた自動車爆破で亡くした捜査官だった。 邦画でよくある「善と悪なんてあるようでないんだよ」という説教めいたものに仕上がってしまっている。現実社会では善と悪はあるようでないのは事実。散々知っている事実をフィクションの世界でも繰り返し述べられても、白けるだけ。 テロリストらや警察の善悪が不明でも、主人公に魅力があれば作品の路線がはっきりとするのだが、上述したように魅力に欠けるので、救いが無い。「テレビドラマが高視聴率だった。これなら映画化しても大丈夫」として製作されたやっつけ仕事であるのが見え見えなのが悲しい。 映画を観るのは、何もテレビドラマを観ていた者だけではない。 自分のように「映画を観て、面白かったらテレビドラマの方も観てみるか」と思っている者もいるのだ。 したがって、映画もきちんと作っていないと、テレビドラマに流れない。 少なくとも、個人的には本作品を観てテレビドラマを観る気は起こらなかった。人気blogランキングへ関連商品:
2008.04.13
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人気コミック(原作者大場つぐみ、画小畑健)の実写版。 前後編の後編。粗筋「このノートに名前を書かれた人間は死ぬ」と記されたノートを拾った夜神月(藤原竜也)は、興味本位でテレビで観たある凶悪犯の名前をノートに書き込んでしまう。その凶悪犯はノートの予告通り死んでしまった。 月の前に死神リュークが現れ、ノート(デスノート)はお前のものだ、お前が自由に使え、と言い切る。最初は恐怖を覚えた月だったが、凶悪犯たちの名前を次々とノートに書き始めるようになる。 世界中であまりにも大勢の凶悪犯が死んでいくので、マスコミの何らかの関連性があるのでは、と報道。警察も動き始めた。 一方、市民は凶悪犯を処罰するこの「謎の救世主」を「キラ」と呼んで、崇めるように。 しかし、名探偵「エル」の登場で、月の思惑は狂い始める。エルは驚異的な推理力で「キラ」こと月に接近。 月は幼馴染でもある恋人を犠牲にし、自身の「潔白」を証明した。 一方、別のところで、あるアイドルが別の死神のデスノートを拾った……。 ここまでが前編。 月は、潔白を証明し、エルに接近したつもりだった。 が、エルは月への疑いを捨てた訳ではなかった。 月もそれを理解し、エルとの頭脳戦を続ける。 一方、別の死神のデスノートを拾ったアイドルは、熱狂的なキラ信者で、第二のキラとして殺人を繰り広げるように。ふとしたことから、月が第一のキラであることを知ってしまう。月と強引に接触した。 アイドルが第二のキラだと悟っていたエルは、直ちにアイドルを確保。監禁する。キラの「殺人方法」が分からないので、監視下に置いたのだ。キラによる殺人が減少したので、監禁すると「殺人」が行えないことだけは分かった。 エルを始末したい月は、アイドルが持つ「死神の目」が何が何でも必要だった。月はアイドルの「無実」を勝ち取る為、動き出す……。感想 月とエルとの天才同士の対決の結末は……、という触れ込みで話題になっていた作品だが……。 やはり結末は平凡。 二人が仕掛ける頭脳戦が展開されるだけだから。 派手なアクションシーンがある訳でもない。登場人物らの会話でストーリーが進むだけ。 テレビドラマとして観るなら充分以上に見応えがあるが、映画となると、迫力不足。 迫力不足を補う為に死神を全てCGで製作するなど、ビジュアル面で工夫しているが、前編で出し切っているので、本作では既に新鮮味がない。 ストーリー展開にも納得がいかない部分が多い。 捜査班がデスノートを入手し、「死神」の存在を知ってしまうのだから。 その割には「死神」の存在が知られてしまった今後の世界はどうなるのか、それを追求する部分が全くないのはおかしい。 関係者に緘口令を敷けばいい、という問題ではなかろう。 尻尾を出さない月に対し、エルは最大の罠を仕掛ける。 月に自分を殺させるのだ。 といっても、本名を記入させた直後に死んでしまっては困るので、別のデスノートにあらかじめ自分の名前を記入。デスノートは、既に別のデスノートに記入されている名前を書き込んでも効果はない。月が自分のデスノートに名前を記入しても直ぐには死なない状況を作った上で、エルは月にデスノートを使わせ、「現行犯」として捕まえる。 ようするに、エルは自分の命と引き換えに月がキラであることを証明したのだった……。 ……「世界的名探偵」にしては、極端過ぎる行動。「天才」なら、自分を犠牲にせずに解決する方法を考え出せなかったのかね、と思ってしまう。 月は、確かに殺人者かも知れないが、その「凶器」を月に与え、殺人者に仕立て上げたのは死神。死神は当然ながら何のお咎めの受けない。というか、受けさせられない。月を「現行犯」で捕まえたところで、月の暴走を食い止めるだけで、デスノートによる「殺人」は続くのだ。 命懸けでやるようなことではないだろう。 本シリーズでは、死神とは、あくまでも人間の名をデスノートに記入する存在。 人間の寿命を延ばすことはあってはならない。 もし人間の寿命を延ばすようなことをすると、死神は「死ぬ」。 死神として失格、と見なされるからだ。 ……ということだが……。 デスノートを人間界に落とし、人間に拾われてしまう時点で、「死神としては失格」だと思うのだが。 今回も、馬鹿な死神がデスノートを落とし、月が拾ってしまった結果、多数の人間が無意味に死んでいる。 そのことで死神が何のお咎めもないのはなぜなのかね。 また、不思議に思うのは、デスノートを拾った人物がせこい犯罪者や周囲の者などしか殺そう、という発想しか生まれないこと。 世界各国の大物政治家(米露の大統領など)など、世界を揺るがせる者には全く手を付けない。 殺人者などを始末するのも「正義」だろうが、独裁者などを始末した方が余程「正義」だと思うのだが。 それだと世界が混乱し過ぎるので、死神がそのような世界観を持てる者にデスノートが渡らないよう、配慮しているのかも知れないが。 そういう風に見ると、月は所詮小物だったことになる。 それにしても、本作ではデスノートが出回り過ぎ。 人間が滅亡していないのがおかしい。 本シリーズでは、主人公の月を演じた藤原竜也より、エルを演じた松山ケンイチが注目を浴びた。 エルを主人公とするスピンオフまで作られた。 本作でも、月は何となく脇役的な存在になってしまっていた。 藤原竜也、てあらゆる意味で不運な俳優である。人気blogランキングへ関連商品:
2008.02.09
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007シリーズのパロディ映画。 草刈正雄が本人を演じる。更に、草刈正雄の実の娘麻有が本作でも草刈正雄の娘として出演。他に、お天気キャスターの森田正光が本人を演じる。 映画評論家・映画監督の水野晴郎がカメオ出演。 主演の名前がタイトルになっている、という珍しい映画でもある。粗筋 2枚目俳優草刈正雄。 実は、彼は女王陛下の元で働く諜報部員だった。コード番号は0093(ゼロゼロキュウサン)。ただし、俳優として顔が売れてしまった為、20年間も諜報活動ができないでいた。 そんなところ、草刈正雄にあるミッションが与えられる。 IT企業会社社長の三輪が、イギリスの研究所から盗まれた洗脳信号ディスクを手に入れた、というのだ。三輪は、近々テレビ局「COME ON V」を立ち上げる予定だった。どうやら、三輪はテレビ放送を通じて、国民を洗脳しようとしているらしい。 草刈正雄は、ディスクを取り返し、三輪の予防を打ち砕くよう、命じられたのだった。 三輪に接近するのは、俳優の顔を持つ草刈正雄にとって、困難なことではなかった。三輪の方から接近し、「COME ON V」を盛り上げて欲しい、と持ちかけてきたからだ。 ただ、問題があった。草刈正雄の娘麻有が、「COME ON V」のキャンペーンガールオーディションに勝手に応募してしまい、受かってしまったのだった。 草刈正雄は、ミッションを全うする為、そして愛娘を守る為、「COME ON V」に潜入する……。感想 007シリーズのパロディ映画。 草刈正雄が本人を演じる。更に、草刈正雄の実の娘麻有が本作でも草刈正雄の娘として出演。他に、お天気キャスターの森田正光が本人を演じる。 映画評論家・映画監督の水野晴郎がカメオ出演。 主演の名前がタイトルになっている、という珍しい映画でもある。 2枚目俳優草刈正雄。 実は、彼は女王陛下の元で働く諜報部員だった。コード番号は0093(ゼロゼロキュウサン)。ただし、俳優として顔が売れてしまった為、20年間も諜報活動ができないでいた。 そんなところ、草刈正雄にあるミッションが与えられる。 IT企業会社社長の三輪が、イギリスの研究所から盗まれた洗脳信号ディスクを手に入れた、というのだ。三輪は、近々テレビ局「COME ON V」を立ち上げる予定だった。どうやら、三輪はテレビ放送を通じて、国民を洗脳しようとしているらしい。 草刈正雄は、ディスクを取り返し、三輪の予防を打ち砕くよう、命じられたのだった。 三輪に接近するのは、俳優の顔を持つ草刈正雄にとって、困難なことではなかった。三輪の方から接近し、「COME ON V」を盛り上げて欲しい、と持ちかけてきたからだ。 ただ、問題があった。草刈正雄の娘麻有が、「COME ON V」のキャンペーンガールオーディションに勝手に応募してしまい、受かってしまったのだった。 草刈正雄は、ミッションを全うする為、そして愛娘を守る為、「COME ON V」に潜入する……。 見るからに低予算で、短期間の内に製作された映画だ、というのが分かる。 にも拘らず、観ていて楽しい。 エンドクレジットの最後の最後まで楽しませてくれる。 こんなに笑わされた映画は久し振り。 007シリーズファンだ、てこともあるのだろうが……。 成功した秘訣の一つは、低予算であることをあえて隠さず、むしろそれを逆手に取った演出をし、ギャグにしたこと。 鑑賞者からすれば、むしろチープさがギャグの度を高めているのである。 また、パロディ映画ではあるものの、ストーリーがそれなりにしっかりしているのも成功した理由だろう。 改めて考えてみると穴だらけなのだが、流れ的には不自然な部分や、完全に破綻している部分はない。 複線もきちんとまとまっているし。 キャストの演技も良い。 草刈正雄は諜報員でもあり俳優でもある自分を、ある場面では真剣に、ある場面では自虐的に、適度に抑えて演じている。 主人公が適度に抑えた演技をしているお陰で、ギャグもすっ飛び過ぎることはなかった。 麻有は、本作が女優デビュー。 ぎこちない部分は見られたものの、それが作品にリアリティを感じさせ、ギャグとギャグの間の息抜きとなれた。 敵役の三輪を演じた嶋田久作の演技も良かった。 007のパロディ映画では、敵役が単なるおバカキャラに成り下がってしまうことが多い。が、嶋田久作は三輪を単なるバカキャラにはせず、むしろ凄みのある人物にしたことで、ギャグが行き過ぎるのを阻止していた。 本作が作品として成功した最大の秘訣は、ギャグ映画・パロディ映画に徹したこと。 最近の「大作」邦画は、「とにかくお涙頂戴にすればいいんだろ」的な部分が見られ、「感動的なシーン」を無理にでも捻り込もうとする。例えどんなジャンルの映画であろうと(アクションに徹するべき作品にも無用な感動シーンを捻り込みたがる)。その結果、登場人物(そして製作者ら)が勝手に感動しているだけの、白けたものに仕上がってしまう。 しかし本作は、お涙頂戴にしよう、という意図が全く見られない。そんな訳で、鑑賞者は無用で白けるだけの「感動的なシーン」に付き合わせられることなく、ストーリーやギャグに集中することができる。 本当に印象に残る作品、何度も何度も観られる作品、名作となる作品(評論家らが推したがる「名作」という意味ではない)、とは「感動」を無理矢理捻り込んだものより、エンターテインメントに徹したものである。感動シーンはあるものの、スパイス的なもので、それを目的としない作品。そういうのが「真の良作」である。「大作」邦画の製作者らは、本作を見て、観客を心底から楽しませる映画とはどういうものか学んで欲しい、と言いたい。 本作は、上述したように、007シリーズのパロディ。 007へのオマージュが随所に見られる。 本家007シリーズではなくなってしまったガンバレルシークエンスもある(許可を得てパロッたのかね。本家そっくり)。 上司Mとして、お天気キャスターの森田正光が本人として登場。俳優ではないが、それなりの演技をこなしていた。 Q(九さん)も登場する。変な兵器(?)を数々披露していた。 兵器満載のボンドカーが登場しなかったのはちょっと残念(低予算だし。作中では「車検で取り外す羽目になった」と説明)。 本作は、ほぼ全てのシーンにギャグが盛り込まれていて、一度観ただけでは観切れない。 数回観るべきだろう。 少なくとも、本作はDVDを借りてまた観てみたい、と思わせた。 最大の問題点というか、悲しいところは、本作がギャグ映画・パロディ映画としてしか成り得ないこと。 シリアスなものに仕上げようとしたら、お決まりの「感動シーンを入れなければ!」といった下らぬ意見が上がり、駄作になっていただろう。 本作では、草刈正雄が実の娘で、作中でも娘役を演じた麻有に、芸能界に入るなと説教するシーンがあったが……。 これはどこまで本音なのかね。 仮に反対していたとしても、最終的にはこうして出演しているのだから、一応認めたことになる。「一作なら」てことだったのか。 007のパロディ映画には、オースチン・パワーズ・シリーズがある。 オースチン・パワーズ・シリーズはギャグを下ネタに頼っているが、本作のギャグはそういったものではないので、家族でも安心して観られる。 オースチン・パワーズ・シリーズも嫌いではないが、ギャグの質は勿論、総合的にも本作の方が勝っている感じ。 ちなみに、本作は、「年末にどんな映画がやってるのかな」と検索していたところ、偶々上映を知ったもの。 1週間限定公開。 ミニシアターでだった。 全国公開しろ、とは言わないが、もう少し大きな劇場で上映しても良かったのでは? 大劇場を占拠している駄作よりマシ。人気blogランキングへ関連商品:PERFECT BLUE
2007.12.25
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「APPLESEED アップルシード」をプロデュースした曽利文彦によるSFアニメ超大作。 声優陣には『着信アリFinal』の黒木メイサ、『フラガール』の松雪泰子、映画やテレビドラマなどで人気の谷原章介。 全編CGアニメ、というのが最大の特徴。粗筋 21世紀初頭に世界市場を独占した日本のハイテク技術は危険視され、国際規制の対象となった。これに猛反発した日本は国連を脱退し、鎖国を強行。それから10年間、ハイテクを駆使した完全なる鎖国により日本の実像は厚いベールに隠された。 2077年。 米国特殊部隊SWORDは、日本の大手ハイテク企業大和鋼業がアメリカに対し何やら企んでいる、と察した。SWORDは、独断で日本に潜入を決行した。ハイテク鎖国の装置を突破し、日本の実像を暴く為に。 米国特殊部隊SWORD所属の女性兵士ベクシルは、苦難を乗り越えながらも日本に潜入。 そこで見た「ハイテク鎖国国家日本」は……。 ハイテクとは言い難い、第二次世界大戦直後のような世界だった。闇市場が延々と広がっている町並みで、技術の欠片すら見受けられない。ただ、日本国民は貧しいながらも生き生きと暮らしているようだった。 不思議に思っていたベクシルは、重大な事実を知る。「日本国民」は既に滅んでいたのである。 ベクシルが見た「日本国民」は、実は「元日本国民」だった。大和鋼業によって「サイバーウィルス」を投入され、「アンドロイド化」されてしまったのだ。その結果、日本には生体反応がある者が一人もいない状態になってしまっていた。 また、この「アンドロイド化」は完璧でなく、時間が過ぎると「故障」し、鉄くずとなってしまう。ベクシルが目の当たりにした「生き生きした日本国民」は、近々故障して鉄くずと化すアンドロイド化された人間だったのである。 大和鋼業は、日本国民を壮大な計画のモルモットにしたのだった。 ベクシルは、反大和鋼業の「元日本国民」と共に、大和鋼業本部に潜入。 アンドロイド化計画を推進した大和鋼業社長と対峙するが……。感想 最終的には、唯一残っていた「日本国民」の大和鋼業社長も死亡。 日本民族は滅んでしまう。 何て結末。 本作は、最新のCGアニメ技術を駆使しており、ハリウッドの3D CGアニメ(シュレックなど)とは全く異なる映像美を実現。海外では「アニメーションは子供向け」という考えがあるからか、映像が子供向けの可愛いものになってしまうが、日本ではアニメーションは子供向け、と見なされないからだろう。 アクションシーンは、このところのハリウッド映画とは異なり、何が起こっているのかきちんと分かり、その面では二重丸をあげたい。 マシンやメカニカルデザインも、非常に魅力的だった。 モーションキャプチャアーを使った登場人物らの動きも、予想以上に自然だった。以前観たFINAL FANTASYは動きに違和感がありまくりで、「所詮コンピュータアニメだな」という感想だったが、本作ではあまり意識させなかった。 その意味では、技術の進歩を感じさせた。 問題は、ストーリー。「日本がハイテク鎖国して10年! 日本はどうなっているのか?!」 ……という面白くなり得る設定なのに、少しも活かし切れていない。 10年鎖国していた日本は、荒野と化していた、というのは首を傾げたくなってしまう。日本の「資源」なんて人材だけなのに、荒野と化していたら資源を活かせない。 そもそも、日本人が一人もいない中で、どうやってハイテク技術を開発できるのか。「ハイテク鎖国」という政策も、そもそもおかしいことばかり。 日本は輸出や輸入で持っているのに、鎖国なんてしたら持ちようがない。「日本は荒野と化していた!」となっていても、特に驚けなかった。まさか日本民族が滅んでいた、なんて展開は予想していなかったが。 キャラも、違和感があるのが多い。 主人公のベクシルはアメリカ人。 アメリカ人女性らしく、自意識が強く、サバサバしたキャラだと思いきや……。 やけに繊細で、感情的で、日本人っぽい。少なくとも、特殊部隊に所属できるような性格の女ではない。 むしろ、反大和鋼業勢力の女リーダーであるマリア(日本人。というか、アンドロイド化されてしまった元日本人)の方がサバサバしていて、アメリカ人ぽかった。 ま、マリアは過激派のリーダーとして、非情に描く必要があり、ベクシルまで非情だったらキャラが被ってしまう、という事情もあったのだろう。 それだったらマリアというキャラではなく、別のキャラにすればよかったのだが……。 ストーリー展開も首を捻ってしまう部分が多い。「ハイテク鎖国」により、洋上にあるゲート以外は誰も出入りできず、衛星写真すら撮れない、というのに、ベクシルらはやけに簡単に潜入できてしまう。 アンドロイド化された旧日本人が「故障」の傾向を見せると、「処分」するのが掟。その「死体」は、居住区外に放置され、「ジャグ」という機械仕掛けのモンスターの一部になってしまう。 このジャグというのがよく分からない。 ストーリーでは重大な役割を果たす(大和鋼業本部を襲わせる)のに、意味が分からない、というのは問題ではないか。 というか、特殊部隊所属の者が、こうした得体の知れないモンスターの助けを借りなければならない、というのは情けない。 あと、本作は、ベクシルの独り言で締めくくられるが……。 これが説教めいていて、非常に蛇足。 なぜ日本映画、てこうして説教臭くするのかね。「こうしないと我々が伝えたかったメッセージが馬鹿な鑑賞者共に伝わらない!」と思ってしまうのだろうか。 メッセージなんて、鑑賞者が勝手に感じ取ればいいことであり、製作者らが「本作のメッセージはこれなのでお前ら鑑賞者はそれをきちんと理解しろ」と押し付けるのは迷惑極まりない。 映画なんて所詮娯楽なんだから、仮に鑑賞者が何のメッセージも感じ取れなかったとして、別にいいのでは? メッセージの押し付け方をあれこれ模索する余裕があるなら、作品をどう面白くするかに苦心すべき。 本作も、独り言などいれずそのまま終わっていた方が印象に残っただろう。 総括すると、映像だけは非常に綺麗な作品。 そもそも、なぜSFの設定にしたのかよく分からない。「ハイテクを駆使したフルCGアニメだから、何が何でもSFにしなければならない!」という訳ではあるまい。 アニメである以上、どんな設定だって制作費に差はないだろう。 極端な話時代劇だっていいと思う。 なぜそうしないのか。人気blogランキングへ関連商品:PERFECT BLUE
2007.09.01
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今敏監督作。 大友克洋が企画に参加している。粗筋 イマイチ売れていないアイドルグループ・チャム。このままでは駄目だと感じたメンバーの未麻は、アイドルから脱して女優の道を歩むことに。 この判断には、元アイドルでもある女性マネージャーが反対する。しかし、未麻は戸惑いを感じながらも押し切る。 アイドルを脱する以上、濡れ場も要求される。未麻はそれに抵抗を感じながらも持ち込まれてくる仕事をこなしていく。 一方、チャムは、皮肉にも未麻が脱退してから人気が上向くように。未麻は、アイドル路線から抜けなかった元の仲間が成功しているのに、ちょい役でしか活動できない自身の判断が正しかったのか、と悩むようになる。 そんなところ、インターネットで自身のサイトがあることを知る。パソコンに疎かった彼女は、そんなサイトの存在すら知らなかったが……。内容を見てびっくり。まるで自分が作成したかのように、彼女の日常生活が正確に描かれていたのだ。そのサイトでは、自分はアイドルであり、女優なんかではない、と主張していた。一体誰が作成しているのか、と未麻は不思議に思う。 そんな中、未麻の周辺で殺害事件が多発する。未麻は、もしかして自分が無意識の内に殺害しているのでは、と怯える。なぜなら、被害者はどれも未麻の「脱アイドル化」に手を貸した者ばかりだったからだ。 未麻は次第に気力を失い、「自分」が本日何をしたかを問題のサイトで確認する、という精神状態に追い込まれることに……。感想 真相は、以下の通り: 未麻の女性マネージャーは、売れなかった元アイドル。彼女は、自身が実現できなかった夢を、未麻に託そうと考えていたが、未麻はアイドルから女優に転進。アイドル時代では有り得ない塗れ場シーンにも挑戦することに。「未麻はあくまでもアイドル」という思考から抜け出せない女性マネージャーは、それが許せない。未麻の脱アイドル化に関わる者を、未麻の熱狂的なファンを利用して次々殺害。 そうしている内に、女性マネージャーは自身こそ「アイドルで、本来の姿である未麻」だと思うようになり(サイトは彼女が作っていた)、「女優を目指している未麻は偽者」と見なして、未麻を始末しようとする……。 アニメ、というと子供向けの代物だと思いがちだが、本作は完全に大人向け。 当時としては珍しいヘアヌードもあるし。 アニメではなく、実写で出来るのでは、と思ってしまう一方、本作の内容通りでは主役を説得力ある形で演じられる女優はいないので、アニメにしたのは正解だった、とも思ってしまう。 本作は、芸能界で活動する人物の苦悩を描いている。 濡れ場なんてやりたくないのに、持ち込まれた仕事である以上、断れない。公の場では笑顔で応じながら、自宅ではあまりの惨めさに泣いている。 元仲間が徐々に人気が上昇しているのも、惨めさを後押し。 しかし、どんなに惨めに感じていても、どんなに嫌でも、もう後戻りはできない。 本作はその辺りの心情を上手く描いている。 実際の女優らもこうなのかね、と思ってしまう。 サスペンス作品としてもよく出来た作品である。 真相が明らかにされるまでは、未麻が手を下したとしか思えないし。 真相が明かされた時点で、様々な「証拠」が目の前にぶら下がっていたことが明らかになる。 女性マネージャーが、元アイドルで、未麻の女優転進に強く反対していたこと。女性マネージャーがパソコンに詳しかったこと。未麻の行動や日常生活をほぼ完全に把握できたこと……。 そうしたミステリー作品だとは思っていなかったので、驚きが増した。 本作は、1990年代後半に公開された作品。 けっして古い作品ではない筈なのに、時代を感じてしまう。 未麻はインターネットやホームページについて全く知らなかったが、現在では有り得ない。今は、アイドルが積極的にネットを活用している。 アイドルも、現在は突然結婚したり、妊娠していることを表明したりする。「アイドルは清純でなければならない」とは誰も考えていない。 また、女優も、「濡れ場を経験しなければ大成しない」という訳ではない。現在の若手女優は、アイドル並みの清純的なイメージを維持したまま女優として大成している。ある意味、こうした若手女優こそ昔の意味での「アイドル」のような。 未麻も、現在だったらさほど悩むことなく女優に転進できたかも。というか、アイドルグループを脱退せずに女優もやる、ということもできただろう。 本作は、1980年代のアイドル像がまだ残っている一方で、21世紀の技術革新も垣間見える1990年代後半だからこそ製作できた映画といえる。これより前だとネットは存在していないので説得力がないし、これより後だったら「アイドルの描き方が古過ぎ」と酷評されていただろう。 本作は、「絵が割りと綺麗」と感じる部分と、「なぜ絵がこんなに汚いの?」と感じる部分がある。まるで担当者が異なっていたかのように。 全体的な色調は、タイトルを意識してか、ブルー調に仕上がっている。人気blogランキングへ関連商品:PERFECT BLUE
2007.05.27
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水木しげる原作の妖怪漫画を実写化。 ハーフのウエンツ瑛士が主役の鬼太郎を演じる。粗筋 妖怪世界で父親の目玉おやじや妖怪仲間たちと共に暮らす鬼太郎(ウエンツ瑛士)。 ある日、妖怪ポストに投函された手紙が届く。ある小学生が助けを求めたのだった。その小学生が暮らしている団地では、テーマパーク建設の為の工事が始まって以来、不気味な妖怪たちが出現し、住民を恐怖と混乱に陥れているという。 鬼太郎は直ちにその団地に出向く。妖怪らをけしかけていたのは、鬼太郎とは腐れ縁のねずみ男。鬼太郎は直ちに妖怪らを撃退。ねずみ男の野望は打ち砕かれた。 が、ねずみ男はふとしたことで強力なパワーを持つ「妖怪石」を手に入れてしまう。ねずみ男がその価値を知り、売り飛ばした質屋に戻ると、妖怪石は質屋から盗まれていた。盗んだ人物は鬼太郎の助けを求めた小学生の父親。父親は「誰にも見せるな」とその小学生に約束させた。その小学生は父親との約束を律儀に守った。 が、そのことが鬼太郎に災いをもたらす。鬼太郎こそ妖怪石を盗んだ張本人だ、と妖怪界から追求される羽目に遭ってしまったのだ。 鬼太郎は、小学生から妖怪石を回収し、返せば事態は解決するのだが、小学生は条件を付ける。父親に会いたい、と。問題は、父親は石を質屋から盗んだ罪で警察に逮捕された後、発作を起こし、死亡してしまったのだ……。感想 顔は美系だが、バライエティショーではひたすらいじられ役に甘んじているウエンツ瑛士が主役鬼太郎、ということで賛否両論の作品。 ウエンツ瑛士は父親がイギリス人ということで、ハーフ。「日本人離れしている顔付きなのに、なぜ鬼太郎?」という疑問を多くの鑑賞者が抱いたらしい。 個人的には、キャスティングは悪くないと思う。少なくとも、容姿においては。演技力は……、日本の俳優に演技力などそもそも求めてはならない。 田中麗奈は元々猫っぽい顔立ちなので、猫娘には適任だったと思うし、間寛平の子泣き爺も大泉洋のねずみ男も容姿的にはイメージ通りだった。 ただ、登場人物の言動や関係は、自分が原作で読んでいたのとかなり異なる感じがした。 自分が読んでいる原作はそう多くないので誤解しているのか、もしくは映画化にあたって製作者側が手を加えたのかは不明。 少なくとも、ねずみ男が鬼太郎と敵対関係に近い状態にあるとは知らなかった。 特撮は、テレビで観られる特撮物より若干マシ、という程度に留まる。 金さえかければいいものになる、という安易な考えは持ってほしくないが、「所詮お子様用なんだから予算を多少削ってもいいじゃん」といった考えを持つべきではない。 本作の最大の問題点は、ストーリーそのものか。「所詮子供向けだから」という見下した理由の為か、あるいは「子供向けだからこそ下手な冒険をして親らの反発を買うようなものにしてはならない」という脅迫感の理由の為か、臨場感に欠ける、結局何をしたかったのか分からない作品に仕上がってしまっている。 ……妖怪石が盗まれた! 行方の分からなくなった妖怪石を探す為、鬼太郎を含め様々な妖怪が行方を大追跡する! ……という展開になっていたら少しはスリル溢れる作品になっていただろう。が、妖怪石は早々と小学生が持っていることが判明する。ただ、その小学生が父親との約束――誰にも見せるな――、を守り通したがる為、鬼太郎や他の妖怪らに渡さないだけ。 この小学生のガキがもっと素直で、妖怪石を鬼太郎に渡していたら済んでいた話なのである。このガキも問題。可愛げ気があれば少しはマシだったのに、何か小生意気な糞ガキとしか映らず、観ていてイライラした。こうした作品に子供を出さざるを得ないのは仕方ないが、もう少し素直な、共感の持てる子供に出来ないのかね。小生意気なガキがわがままを通したが故に他の登場人物が災難に巻き込まれる、なんて展開は面白くも何ともない。 作品は最終的にはハッピーエンドに落ち着く。死んだ父親が妖怪石のパワーで生き返るなど、かなり強引に。 疑問に思うのは、父親がどうやって警察から釈放されたのか、ということ。妖怪石は元通り妖怪に渡ってしまったのだから。 そういう意味でも、ストーリーには穴がたくさんあり、詰めが非常に甘くなっている。人気blogランキングへ関連商品:
2007.05.09
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テレビドラマ「トリック」で一躍有名になった阿部寛を主演にした冒険活躍映画。 原作は夢枕獏の小説だが、本作は原作とかなり違うらしい。粗筋 宇宙からの物質オリハルコンから作られた三種の神器。この三つを集めると、物凄い力を手に入れられるという。 三種の神器は元々世界に散らばっていたが、いつの間にか日本に集まっていた。 時は江戸時代。豊臣家は既に滅んでいたが、世の中はまだまだ平和とは言い難かった そんな中、神器の一つである「大帝の剣」を持っていた源源九郎は、他の二種の神器を探す旅に出ていた。 神器を捜し求めているのが彼だけでなく、徳川幕府も探していた。 それどころか、宇宙人まで三種の神器を探しに地球にやってきた。 そんな中、源九郎は豊臣家の生き残りの女性とばったりと出会う。その女性は、宇宙人に身体を乗っ取られていた……。感想 時代劇でありながらSF映画でもあるという、訳の分からない設定の作品。 そんな訳で、ストーリーも滅茶苦茶。 何を言いたいのか、どういう映画を目指していたのか、さっぱり分からない。 映画のキャッチコピーは「面白ければ何でもいい」。これは、作品そのものを指した言葉というより、源九郎が吐く台詞が元になっている。 実際には、そこまで面白いと思えないのだが……。 最大の問題点は、ストーリーが前述したように、滅茶苦茶だ、ということ。 製作者が登場人物らをどこにどう持って行きたかったのか、さっぱり分からないのである。 少なくとも宇宙人の場面は無くしても良かったと思う。人間忍者と源九郎の対決を描くだけで充分面白いものが出来たような気がする。特殊メークや無駄なCGで使われた予算を、他の場面に回せただろうに。 CGも、ハリウッドの映画のものと比べると格段に下。明らかに実写とCGの合成だろう、という場面が多過ぎた(本作の前にスパイダーマン3を観ていたので、より顕著に感じた)。 特撮も、テレビの仮面ライダーやウルトラマンとほぼ同等。なぜ映画館に行ってまでこの程度の特撮しか観れないのか、理解し難い。 アクションシーンは多く、見所が多い筈なのだが、何となく緊迫感を感じさせないものばかり。「このアクションシーンの理由は何だ?」と思う場面が大半。 アクションシーンは、ないよりあった方がいいのは当然だが、ただ入れればいい、というものでもない。 いっそアクションシーンがなかった方がよかったかも。 登場人物も、訳の分からない者、もしくは完全に不要だった者が多い。 これは日本映画の最大の特徴であり、欠点といえる。 タレントの失業対策の為なのか、芸能事務所が「出演させろ!」と捻じり込んでいるのかは不明だが、とにかく無駄なキャラを登場させるのである。 主人公の源九郎は、最後まで結局どういう人物なのか分からなかった。単にでかい剣を振り回すだけ。 長谷川京子演じるお姫様も、意味不明。演技も特段良いというものではなく、宇宙人の部分を割愛していたら全く登場する必要がないキャラ。 美青年剣士(女優黒木メイサが演じている)も、登場する意味が不明。最後辺りになって、神器を以前持っていて、原城でのキリシタンを指揮した天草四郎であることが明らかにされるのだが、それでも登場する理由が分からなかった。 宮藤官九郎演じるドジな忍者も、何の為に登場していたのか分からない。「ユーモアをプラスする為に加えた」ということなのかも知れないが、こんなキャラを見てユーモアを感じる鑑賞者はいないと思う。 総括すると、典型的な日本映画の域を抜け切れていない、消化不足の作品。 ストーリーとキャラをもう少し整理して、アクションシーンに金をかければよかったと思うのだが。人気blogランキングへ関連商品:平成の大冒険活劇「大帝の剣」観劇ガイド 阿部寛の全部教えます「大帝の剣」裏表
2007.05.03
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パプリカを監督した今敏によるアニメ長編。粗筋 映像製作会社社長の立花は、かつて一世を風靡した大女優藤原千代子の半生を振り返るドキュメンタリーを制作することに。千代子の大ファンだった立花は藤原千代子の屋敷へ向かう。千代子は、30年前に人気絶頂の時期に忽然と姿を消し、公の場に現われていなかったが、立花はどうにか説き伏せて面会することに成功したのだった。千代子は自らの人生を語り始めた。女優になる前、女学生の頃に恋した名も知らぬ男性を、生涯をかけて追い求めていた、ということを……。感想 つまり、夢(本作の場合は過去)と現実が交錯し、訳が分からなくなる部分がある。 非常に幻想的な作品。 といっても、ストーリーそのものは単純明快なので、全体的な流れは掴み易い。 アニメだからこそ実現可能な映像美に溢れている。 ストーリーは、説明しようとすると簡単になってしまうが、実際は奥深い。 一度観ただけでは全てを把握できない。 千代子が生涯をかけて追っていた男性は、とうの昔に死亡していた、というオチは何となく読めたので、驚きはない。 問題の男性は、作中では顔が明らかにされないので、結局どんな男性だったのか、なぜ千代子がそこまでして追い続けたのかは、理解し難い。「あの人を追っている自分が好きだから」という千代子の最後の台詞――つまり男性自体は既にどうでも良くなっていて、ただひたすら追い続けることこそが人生そのものになっていた――が全てを語っているのか。 今時こんな一途な女性、いるのかね。 というか、過去にもこんな女性はいなかったと思う。 ここまで一途だと純粋というより狂ってる、て感じだし。 最近は「実写版にしたかったが日本ではとてもじゃないが不可能なので、仕方なくアニメにした」というアニメ作品が多いが、本作のように「アニメだからこそできる映像表現で、実写にするのは絶対無理」というのを作り続ける今敏監督は凄いとしか言いようがない。人気blogランキングへ関連商品:千年女優パプリカ
2007.04.02
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山田風太郎原作の小説と、それをベースにしたパソコンゲームを映画化したもの。 仲間由紀恵とオダギリジョーが主演。他に、出演者は黒谷友香 、椎名桔平 、沢尻エリカ 、りりィ 、寺田稔 、坂口拓 、升毅 、虎牙光揮 、木下ほうか 、伊藤俊 、三好健児 、石橋蓮司 、松重豊 、永澤俊矢 、北村和夫。 監督は弟切草の下山天。粗筋 時は江戸時代。 徳川家康による江戸幕府は日本を戦乱の世から太平の世へと導きつつあった。しかし、幕府はまだまだ不安要因を抱えていた。豊臣家と、伊賀・甲賀の忍者集団である。 忍者集団の一部は幕府に仕えていたが、その性質上、いつ寝返るか分からない。そのような勢力をのさばらせていては、太平の世は築けぬ、と判断した家康は、伊賀・甲賀を殲滅することに。しかし、伊賀・甲賀共に魔術としか称しようがない術を使う特殊集団がいた。そのような集団がいたら、忍者集落を攻めても跳ね返されるのは目に見えていた。 そこで、幕府はある策を講じる。 伊賀・甲賀は元々犬猿の仲。特殊集団を互いに殺し合いをさせる。特殊集団を失った忍者集落を、圧倒的な兵力で殲滅する……。 伊賀・甲賀の特殊集団は、幕府の命を受け、殺し合いを開始。 しかし、特殊集団のリーダーであり、伊賀・甲賀それぞれの頭領でもあった二人は、愛し合う男女で、戦いなど望んでいなかった……。感想 CGを駆使した日本の忍者アクションムービー。 海外公開も念頭に製作されたと思われる。 残念ながら、興行的にはあまり成功せず、評判もイマイチだったらしい。 山田風太郎原作の小説や、パソコンゲームのファンからすると、はしょってしまった部分があまりにも多かった為、物足りなかったようだ。 個人的な意見は、次の通り:最高の作品とは言えないが、評判ほど悪くない。これより評判が上で、自分が観てみたところイマイチだった、なんてのは腐るほどある。 前評判があまりよくなかったので、覚悟ができていた、ということもあったのかも知れないが。 本作品の、邦画としての最大の欠点は、海外公開をあまりに意識してか、邦画っぽくないことか。 邦画は、どんなジャンルだろうと(バイオレンス満載のアクション映画でも)、恋愛を盛り込もうとする。 本作品も、恋愛の要素は盛り込んであるものの(2人の主人公は愛し合う男女、という設定)、欧米並みのB級アクション並みにサラッと取り上げられるだけ。スパイスにはなっているものの、メインの素材ではない。 本作の目的は、あくまでも奇妙な術を持った者同士が戦い合う姿を、日本最高のCGを駆使して描くこと。それ以上でも、それ以下でもない。 したがって、それ以外を求めるのは、野暮。 本作の、邦画としての欠点は、「娯楽作品」としてはむしろプラス。 登場人物は、アクションシークエンスの小道具に過ぎない。演出者が望むアクションシーンを盛り込めた時点でその登場人物は「用済み」。したがって、容赦なく抹殺される。あくまでも人間の形をした小道具なので、人物像は詳細に描かれていない。バタバタ死んでいくのにあまり悲壮感が漂わないのは、それがあるから。人によっては、これを「物足りない」と見るだろうけど、「本作は単なるCGアクションをジャンジャン流す映画。それ以上でもそれ以下でもない」と割り切って観ていられるなら、これはむしろ問題ではなく、長所なのである。 邦画にありがちな意味のない「お涙頂戴」シーンに辟易している自分としては、歓迎したいくらいである。 ただ、アクション映画として観て大成功しているのか、というとそうでもない。 CGを使い過ぎている感がある。そんな訳で、「ああ、これはCGだな」「おっ、これもCGだな」と勝手に決め付けてしまい、CGではないかも知れないライブアクションも「これもCGなんだろうな」と決め付けてしまう。 VERSUSでは主演を演じた坂口拓(俳優でもありながらアクションシークエンスコーディネーターでもある)は、少なくともアクションの一部を実際にやっていたのだろうけど。彼が演じるキャラが早々と「用済み」になってしまうのが残念。 最終場面で、愛し合っている筈の二人は決闘する。 物凄いバトルに転じるのかと思いきや、意を決して攻撃に出た女の刃を、男が意を決して受け止めるだけ。 忍者というより超能力者の最終対決は、呆気なく終わってしまう。 エンディングも、やけに呆気ない。 ハッピーとも悲劇ともいえない代物で、邦画特有の取って付けたような、曖昧なエンディング。全体的に洋画っぽい中で、最後の最後で邦画らしさを出した。 これも、「アクションを見せたかっただけ。最終対決が終わった以上、エンディングなんて別にどうでもいいだろう」と割り切った結果か。 割り切り過ぎ。 もう一つの問題は、主役を演じている仲間由紀恵とオダギリジョーか。 仲間由紀恵、て世間ではかなり高く評価されているようだが、個人的には好きにも嫌いにもなれない。昔風の顔立ちで、長い黒髪が売りなので、時代劇にあっているんだろうけど。 オダギリジョーは、完全に場違い。顔立ちがとにかく今風で、現代の若者がタイムスリップしてしまったような感じ。彼も、世間的には評価は高いそうだが、個人的にはどうとも思わない。 映像美にこだわったらしく、忍者の里の風景などは、非常に幻想的に映されている。 それらも当然CGでリタッチされていたんだろうけど。 最大の問題点は、「戦国時代の諜報員・工作員(現在でいうと007)」である筈の「忍者」という日本独特の文化を題材にしながら、結局忍者を「無意味に戦い合う戦闘員」としか描いていないことか。 忍者をもっと面白く描いてくれる映画はできないのかね。人気blogランキングへ関連商品:SHINOBI
2007.01.20
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東京ゴッドファーザーズ、千年女優、PERFECT BLUEを手がけた今敏監督作。粗筋 「DCミニ」は、夢に入り込んで患者の治療を行う装置。精神医療総合研究所に勤めるサイコセラピストの千葉敦子は、「DCミニ」を試験的に使い、患者の治療に使っていた。彼女は、夢の中では「パプリカ」という女性として活動していた。 そんなところ、「DCミニ」が盗まれた。精神医療総合研究所に勤めるサイコセラピストの千葉敦子は、「DCミニ」開発者の時田とともに島所長の元へと集まる。しかし、島所長が突然、意味不明な内容の演説を。「DCミニ」を盗んだ者たちが、島所長の脳に入り、「夢」を見させ、精神を蝕んだのだった。盗んだものたちは、「DCミニ」を最悪の方法で悪用したのである。 敦子と時田は、「DCミニ」を盗んだと疑われた所員の住まいへ向かう。 しかし、その所員も「DCミニ」によって精神を蝕まれた状態で発見された。「DCミニ」を盗んだ所員の裏には黒幕がいるらしい。 その黒幕は誰なのか……。感想 今敏監督作を観るのは今回で二度目。 最初に見たのは今敏が最初に監督したPERFECT BLUE。「これは実写では無理だな」という映像が印象的だった。 そんな今敏が監督した本作品も、実写では到底無理な映像が満載。 圧倒的なビジュアルで非難を押し通してしまう作品のよう。 ストーリー自体は、夢と現実が交錯する訳の分からない部分が多く、今観ているのが「現実」の部分なのか、「夢」の部分なのか、混同することがある(登場人物も夢と現実を混同する場面があるので、当然か)。 ただ、最近のアニメや実写にありがちな説教臭い部分がなく、可能な限り娯楽作品にすることに徹している為、訳が分からなくても観ていて楽しかった。 登場するキャラのデザインも、可愛い者、不細工な者、綺麗な者など色々で、区別がきちんと付き、「このキャラは誰?」と戸惑うことはなかった。 また、日本の実写映画は、芸能プロのごり押しもあってか登場人物が無駄に増えて、それらの登場場面を与えなければならず、ストーリーが間延びしてしまうのが多い。しかし、アニメはそういったごり押しがないので、登場人物が無用に多くなく、テンポよく仕上がっている。だから90分にまとめられたのだろう。 その一方で、監督の映画論が押し付けられているような感があり、好き嫌いが分かれる作品になっている。 監督も、「理解できる人、あるいは完全に理解できなくても好きな人が観てくれればいい」と考えているようである。 最近はCG技術が向上しているので、「実写映画でできない映像は最早ない」と思ってしまいがちだが、本作を観ると、「アニメでしか表現できない映像もあるんだな」と感じる(といっても、本作もCGによるアニメの部分が多いが)。 本作を実写化するのは、日本はもちろん、ハリウッドでも無理だろう。人気blogランキングへ関連商品:「パプリカ」オリジナルサウンドトラック / 平沢進
2007.01.03
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横溝正史原作の映像化。1976年に市川崑監督が映像化したものを、同じ監督が30年振りに映像化された。 主役の名探偵金田一耕助を演じるのは、1976年版と同じ石坂浩二。他に、出演者は松嶋菜々子 、尾上菊之助 、富司純子 、松坂慶子 、萬田久子 、葛山信吾 、池内万作 、螢雪次朗 、永澤俊矢 、石倉三郎 、尾藤イサオ 、嶋田豪 、三條美紀 、松本美奈子 、林家木久蔵 、三谷幸喜 、深田恭子 、奥菜恵 、岸部一徳 、大滝秀治 、草笛光子 、中村玉緒 、加藤武 、中村敦夫 、仲代達矢。やけに豪華。粗筋 終戦から間もない昭和22年。 犬神財閥の総帥で、犬神家の当主である犬神佐兵衛(仲代達矢)は、腹違いの3人の娘(富司純子 、萬田久子、松坂慶子)とその息子ら、大恩人の孫娘野々宮珠世(松嶋菜々子)を残して死去。巨万の遺産が一族の争いの元凶となることを予期した法律事務所の若林は、金田一耕助(石坂浩二)に調査を依頼する。 しかし、依頼者の若林は早々と殺されてしまう。金田一は、若林の上司である弁護士(犬神佐兵衛の遺書を管理)に雇われることに。 ようやく公開された遺言状は、次の通り。大恩人の孫娘珠世に犬神家の財産全てを相続させる、と。ただし、彼女が相続するには、自分の娘の息子らのいずれかと結婚しなければならない、となっていた。珠世が息子らとの結婚を拒んだ場合は、財産は分割され、娘の間で分けられる、ということになっていた。 犬神佐兵衛の3人の娘らは、この遺言状の内容に激怒。なぜ財産を一族の者でない女に渡さなければならないのだ、と。 金田一は、この遺言状は危険だ、と感じる。その予感通り、殺人事件が次々起こる。 最初に殺されたのは三女の息子。斬首され、人形の首と挿げ替えられていた。その次に殺されたのは次女の息子。首を絞められていた。 容疑は長女の息子に向けられる。長女の息子は、大戦で傷を負い、顔を覆面で隠していた。もしかして長女は他人を息子の代わりとして連れてきたのではないか、と思われていたが、手形実験により本人と判明。 その長女の息子も湖で死体と発見される。 金田一はようやく真相を掴み、犯人を指摘する。 犯人は長女だ、と。 三女の息子と、次女の息子は、長女によって殺された。これらの殺人は、二人の人物によって目撃されていた。長女の息子(本物)と長女の偽息子(顔に傷を負い、覆面で顔を隠していた人物。実は犬神佐兵衛が別の女に産ませた子供)。偽息子は、息子に対し「このままではお前の母親は殺人犯として逮捕されるぞ。俺の言う通りにしろ」と脅し、死体を処理したのだった。ようするに、殺人犯と、死体遺棄犯が別人物だったのである。 湖で発見された長女の息子(偽息子)も、長女によって殺された。偽息子は自分が本物の息子でないことを認めてしまい、それに長女が激怒したのだった。 長女は、珠世に対し、「死体遺棄に手を貸した息子が出所するまで待ってくれ」と言い残し、自決する。感想 キャストはやけに豪華なのに、全体的に盛り上がらない作品。 驚きが全然ないから。 一番怪しかった長女がそのまま犯人だったのだ。 金田一が「犯人はあなたですね」と最終的に指摘した時、あまりにも捻りがなかったので、愕然とした。 一番分からないのは、犯人である長女の行動。 突発的に三女の息子を殺し、その場を後にした。息子と偽息子は、その死体を自分らの判断で処理し、長女に容疑か向かないようにした。 当然、長女は死体が何者かに処理されたと知って、驚く。 通常ならここで殺人をやめるのが妥当なのに、今度は次女の息子も殺害。そのまま放置し、また息子と偽息子に処理させる。「一体誰が、どういう理由で自分が殺害した者の死体を処理しているんだろう?」と考えなかったのか。一瞬でもそう考えていたら、殺人に次々手を染めることはなかったと思われる。 作中で、長女は「私たち姉妹は父犬神佐兵衛の呪縛から逃れられなかった」と言い切るが、作品を観ている限りでは、犬神佐兵衛の呪縛から逃れられなかったのは長女だけ。次女と三女は別に呪縛も何もなく、それぞれ息子を殺されてしまい、えらい迷惑。次女と三女からすれば、「お前が言うな!」てとこだろう。 最終的には、長女の息子と、相続人である珠世は結ばれることになるが……。 それだとまさに犯人の長女の思い通りになってしまう。莫大な財産を相続するのだから。 次女と三女からすれば、面白くないどころか、激怒ものだろう。息子を姉に殺されるは、姉の息子と相続人が遺言状通りに遺産を相続する為自分らは相続できないは……。踏んだり蹴ったりである。 犬神家相続殺人がまた起こるような気がする。 そもそも殺人劇に至った理由も、よく分からない。遺言状では「珠世が全財産を相続する」となっていたが、それはあくまでも彼女が長女・次女・三女の息子ら3人のいずれかと結婚した場合、となっていた。彼女が結婚しなかった場合、財産は分割され、長女・次女・三女に渡るようになっていたのである。長女・次女・三女は、自分らの息子と珠世をくっ付けようと画策するより、珠世が誰とも結婚せず、財産を分割させる方法に向かった方が良かったのではないか。犬神家の財産は分割しても巨額になる、ということになっていたのだから。なぜ独り占めにせねばならなかったのか、よく分からない。腹違いの姉妹に分けて堪るか、という考えもあったのだろうが……。 現在の法律では、よほどのことがない限り「赤の他人に財産を相続させ、子に財産を相続させない」といった内容の遺言状は有効と見なされないので、非常に違和感がある。 演出もイマイチ。 どの俳優も「我々は演技してますよ!」と言わんばかりに演じていて、リアリティがない。 名俳優らの演技力、て所詮この程度なのか、と思ってしまった。 邦画の悪さが出ているといえる。 30年前は「良い演出」だったのだろうけど。監督の市川崑は、最近の映画を見ていないらしい。 特撮も非常にチャチで、2時間テレビドラマレベル。 斬首された首なんて、どこかの玩具屋から買ってきたものをそのまま利用したようで、出演者がそれを見て悲鳴を上げるのを観て噴き出しそうになった。 また、手漕ぎボートに死体を処理した際の血が残っている、というシーンがあった。今時血は時間が経つと黒ずんでしまう、なんて知らない者はいないと思うが、本作では鮮やかな赤。その意味でもテレビドラマレベル。 作品にはユーモアのつもりの部分が散りばめられていたが、どれも親父ギャグレベル。 場違いな感じが否めなかった。 時代考証にも滅茶苦茶な部分が。 本作は昭和22年(1947年)を舞台とする話。 作中で登場する車はクラシックカーや、駐留軍から払い下げられたというジープ。 自動車は古臭いのに、あるシーンで登場するボートは非常に現代的で、このシーン以降、本作の時代設定がいつなのか完全に分からなくなってしまった。 キャスティングも「?」な部分が多かった。 松嶋菜々子が演じた珠世は「美人」という設定だが、松嶋菜々子は頬がやけに膨れた、顔のでかい女にしか見えず、違和感が。松嶋菜々子の劣化振りにはちょっと戸惑った。 深田恭子は、金田一が宿泊した旅館の仲居を演じていた。が、演技はちょっと前のテレビドラマ「富豪刑事」の令嬢刑事と全く同じ。富豪刑事が仲居のコスプレをしているようにしか見えなかった。日本の俳優、て作品ごとに異なる演技ができないのかね。 最大の問題は、主役を演じていた石坂浩二。30年前に演じた時は30代で、小説の設定とあっていたと思われるが(別の作品「獄門島」によると、金田一耕助は徴兵され、大戦中はアジアに出兵していた)、現在石坂浩二は60代。歳を取り過ぎている。なぜ同じ役者を使うことにしたのか、理解不能。 金田一耕助は名探偵ということだが、本作を観る限り「どこが名探偵なのかね」と思ってしまう。 正直、存在感がまるでなく、なぜいたんだろう、としまいには疑ってしまった。 あと、珠世と長女の息子は結ばれる、ということだが、珠世は実は犬神佐兵衛の大恩人の孫娘ではなく、犬神佐兵衛の孫娘であることが明らかになる。近親相姦、というほど血は濃くないものの、祖父が同じ、というのはまずくないかね。 脚本、演出、キャスティング全てにおいてイマイチ感が。 非常に不満の残る作品だった。 いい加減、金田一シリーズの映像化はテレビドラマに留め、映画化はやめたらどうか。人気blogランキングへ関連商品:
2007.01.02
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平成版ウルトラマン第一弾の完結編。粗筋・感想 この年齢になってこの手の映画をわざわざ観に行くのはどうかと自分でも思うが、観に行くべき年齢だった時には観られなかったので、仕方がない。 平成のウルトラマンシリーズには順にティガ、ダイナ、そしてガイアがあるが、初期のウルトラマンに最も近いのがティガのようだ(少なくとも、自分はそう思っている。実際は違うかもしれない)。 それから後のは、「ティガや昔のをそっくりそのまま真似してもしょうがない!」と制作者側が判断したらしく、印象の異なるシリーズとなっている。 制作者側の考え方も理解できないではないが、三シリーズの内自分にとって最高だったのがティガだろう(どれも部分的にしか観ていないが)。それ以降はシリーズを重ねるごとにつまらなくなっていき、しまいには観なくなってしまった。 本作品はティガとダイナを繋ぐものである。10歳以下の子供、そして昔からのウルトラマンファンなら十二分に満足できる代物だろう。ファンでなかったらゴジラ2000同様、「安SFX満載のお子様向け映画」として切り捨てられるだろうが。 最大の見所は、ウルトラSM女王様がティガを光の鞭でいたぶる場面。 ま、実際にはSM女王様ではなく、「カミーラ」という名があるが、キンキン喚きながら鞭を振るう姿はSM女王様以外何でもない。子供にこんなの見せていいのかと首を捻ったほどの迫力だった。人気blogランキングへ関連商品:ウルトラマンティガ
2006.11.28
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飯田譲治監督作。粗筋 脳味噌がない死体が発見された。その脳味噌は、側でコトコト音を立てて美味しそうな香りを発していたシチューの中に……。 犯人はどうやら人間ではないらしい。その結論に抵抗しながらも受け入れる若い刑事と、そんな馬鹿なことあるかと一蹴する老刑事が捜査を進める……。感想同じ名の映画とテレビドラマが同時進行していたが、互いに直接関係していないので、片方だけでも楽しめる。こんなことをした意義は理解し難いが(テレビドラマは結局日本特有の曖昧なエンディングで、ガッカリした)。 本作品は珍しくR-15指定された映画である。どこがR-15なのかよく分からない。セックスシーンがある訳じゃないし、残虐なシーンがある訳でもない。本来子供向けのテレビ番組仮面ライダーの方がもっと残酷である(罪のない一般市民が変な言葉を喋る訳の分からない連中にバタバタ殺されている)。 R-15に指定した連中は、何を基準にR-15に指定したんだろうか。 結論としては、良くまとまってはいるが、超越したところもない作品である。観て損はないが、必然というほどでもない。人気blogランキングへ関連商品:
2006.11.28
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宮部みゆき原作。 矢田亜希子出演。粗筋 パイロキネシス。火の気のないところに火を点ける超能力。その力を持つある女性が正義のために立ち上がった。それに気付いた超能力者の組織「ガーディアン」が彼女をを追う……。感想 文学賞という文学賞を総なめにしている小説家宮部みゆき原作の初映画化である。 二、三編しか読んでいないので、ファンとはほど遠いが、何しろ超大作のように派手に宣伝されているので観に行った。 最近、自分は観に行く映画を二種類に分けるようになった。期待を膨らませて観に行く映画と、期待せずに観に行く映画である。なぜ期待してもいない映画を、金を払ってまで観に行くのか? 説明しよう。 期待を膨らませて観に行く映画は、つまらないと腹が煮えくり返る。満足できない。しかし、期待していない映画は、面白くても面白くなくても満足できるのである。なぜなら、面白ければ「自分の期待を見事裏切ってくれた!」と満足するし、つまらなければ「チェッ。結局僕の見込みは正しかった」と自己の事前判断に満足できるからである(ひねくれた奴だと自分でも思う。好きでこういう性格に成長したのではない)。 本作品はどう期待して観に行ったのか? 後者である。満足できたか? 勿論。面白かったか? 採点をごらんになれば明らかであろう。 本作品の最大の問題点は、原稿枚数で1200枚にも及ぶ超大作(上下巻に分かれている)を映像化したことである。小説は出版社が許す限りどんな大作にでもできるが、映画は二時間、稀なケースで三時間が限度である。さもないと回転率が上がらず採算性に乏しいし、今時映画館で数十時間も座れる奴なんていないからだ。 では、1200枚に及ぶ大作を二時間程度の作品へと映画化する場合、どうすればいいのか。二つの方法がある。 一つはプロットの絞り込み。1200枚の大作になると一つの小説と言うより、複数の小説(プロット)が複雑に絡み合ったようなものになる。したがって映画化する際は小説全体を解きほぐし、映画化に値するプロットだけを抽出し、他のプロットは容赦なく切り捨てる。この方法の問題点は原作の読者から「原作と全く違う!」とクレームが付けられることであろう。 もう一つの方法はプロットの簡素化である。小説全体をダイジェスト化し、何もかも二時間の中にぎゅう詰めにすることである。 本作品の製作者は、後者の方法を取ったようである。 したがって、この方法の問題点が浮き出てしまっている。 まとまり感がない。 付け足したようなシーンの連続。 原作を簡略化し過ぎてストーリーがない。 原作は1200枚もあるから「ガーディアン」という超能力者の組織について深く掘り下げて説明してあるのだろうから、説得力も存在感もあるのだろう。ただ、映画は何度も言ってるが二時間程度しかない。大した説明がなく、「ガーディアン」が仮面ライダーの悪玉組織やオウム真理教のようなアホ組織に成り下がってしまっている。説得力も存在感もない。仮面ライダーの悪玉組織の方がまだ説得力があるかも知れない。 また、本作品には別のパイロキネシス超能力者が出てくるが、はっきり言って必要だったのだろうか? 芸能プロダクションが「我が社の新人タレントを売り出したいので出演させてくれ」と製作者側に頭を下げて入れてもらったとしか思えない。その子役以外にも、ストーリーに特に貢献しないキャラクターがまるで俳優失業対策の為のように盛り込まれている。 矢田亜希子演じる主役もはっきり言って馬鹿。人が大勢見ている中で車なんか燃やすから、直ぐ警察に目を付けられ、警察組織に紛れ込んだ「ガーディアン」の黒幕に利用されてしまうのである(あ、ネタバレでしたね。ごめんなさい)。最後辺りには警察署にのこのこ足を運び、自ら警察の追跡を激化してしまっている。 桃井かおりは本作品で刑事を演じているが、以前観たテレビドラマ(刑事役ではない)をまた観ているような錯覚に見舞われた。役者のキャラクターそのものをそのまま役柄にしてしまう。日本ではこういうのでも演技と呼ぶのか。 演出もかなり下手。ジョン・ウーを意識してかスローモーションのシーンを満載しているが、ジョン・ウーと違って単に映画のペースを下げているだけで、盛り上がりに全く貢献していない。 結論としては、本作品は前者の方法を取り、「パイロキネシスを使った復讐劇」というプロットだけを映画化し、「超能力者組織ガーディアンとの死闘」のプロットは割愛すべきだった。そうすれば単純で、魅力ある映画になったのに、そうしなかったから「二兎追う者一兔も得ず」の事例となってしまった。 そもそも、宮部みゆきなんて映画化に値するほど面白い小説を書いているのか。売れているのは確かだが、売れているからと言って面白いとは限らないし、仮に面白いとしても映画化に値するとは限らない(だから今まで映画化されなかったのか)。人気blogランキングへ関連商品:クロスファイア
2006.11.27
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水野美紀出演作。粗筋 日本国は「緑の猿」を名乗るテロ組織によってどん底に落とされた。この危機から日本を救えるのは女性心理カウンセラーと女性自衛官だけ……。感想映画にもなった小説「催眠」と同じ作者松岡圭祐による小説の映画化である。精神カウンセラーという肩書きを売り物にしている原作者は、本作品で脚本家として参加しただけでなく、ちょい役で出演している(心理カウンセリングを受ける患者として)。 テロ組織「緑の猿」のリーダーは黒木瞳が演じる心理カウンセラーだ。「おい、ネタをばらすな!」とお叱りをいただきそうだが、ネタというほどのことでないので大丈夫である。なぜなら、黒木瞳が演じる心理カウンセラーと彼女が運営しているという設定になっている精神病院があまりにも不気味で、上映開始から10分程度で「『緑の猿』なんかよりこいつらの方がずっと怖い」と思うようになるからである。上映開始から20分程度で「黒木瞳演じる心理カウンセラーと精神病院はカルト集団だ」と思うようになる。そして上映開始から30分後には上記の真相が判明してしまう。そんなもんだから、水野美紀演じる女性自衛官に対して「さっさと気付けよ、ボケ!」と突っ込みたくなる。 本作品はサスペンス映画とかアクション映画とかとして宣伝されているが、この映画にはいずれもない。 米軍のミサイルが原子力発電所をめがけて発射された! 水野美紀演じる女性自衛官は阻止できるのか? ……というクライマックスの場面は全て管制センターに留まり、動きが全然ない。マッハ4で目標に向かっている筈のミサイルのショットも殆どなく、外国人役者が口でそう叫んでいるだけなのだ。音響でサスペンスを盛り上げようとするが、チープで話にならないほど緊迫感に欠ける。 本作品は水野美紀の格闘シーンが話題になっていて、ニュース番組の映画情報特集でも頻繁に取り上げられているが、アクションシーンはそこの一場面だけ。むしろ、他の場面があまりにもスローペースでアクションに欠けるので、ワイヤーアクション(らしい)のシーンが場違いに感じる。才能の持ち腐れとはこういうことを指すのだろう。また、水野美紀演じる女性自衛官はF-15戦闘機パイロットという設定になっていたが、映画の中では一度も戦闘機に搭乗しない。それどころか操縦桿を握っているシーンさえない。「ほら、凄い肩書きでしょう。だから凄いキャラクターなんだよ」というチープな演出に過ぎないのである。 水野美紀は香港映画にも出演し、国際派女優を目指しているというが、英語力は松田聖子並み。単にアメリカ永住するだけなら充分以上に通用するだろうが、喋ることで生計を立てる女優にはなれない。ハリウッド進出は諦めた方がいい。これは他の俳優にも言えること。バリバリの関西弁しか喋られない役者が東京に進出してもできる役が限定されてしまって大成しないように、日本語訛りの英語しかできない俳優の需要は、ハリウッドでは限られているというか、皆無なので、成功しない。 黒木瞳の演技は不気味過ぎて前述したように真相がすぐばれてしまう。もう少し抑えた演技にした方が良かった。 柳葉敏郎ははっきり言って何の為に出演していたのか全然分からない。彼に払うギャラを特撮に回していればより迫力のある映画になっていたのに、と思う。 本作品は撮影前からトラブル続きだった。本来の監督が原作者松岡圭祐による脚本を読んで「原作と全く違う! 私が撮りたいのは原作に忠実な「千里眼」だ。こんなの撮れない!」と怒って撮影が始まる前に下りてしまった。原作に忠実過ぎると媒体の違いから「クロスファイア」みたいになってしまう可能性が高いので、この監督の言い分は必ずしも適切でない。しかし、今回の場合、映画と原作が別作品と思えるほど違うのである。違っていても改善されていればいいのだが、その逆で、改悪されている。怒って当然だ。 映画では、女性自衛官は戦闘機に近寄りもしないどころか映画全体でも戦闘機のせの字が辛うじて見える程度(オープニングで米海軍のキティ・ホーク型航空母艦のショットがあるが、そこの飛行甲板にF-14艦載戦闘機があった。一秒にも満たない)なのに、原作では女性自衛官は戦闘機でミサイルを撃墜する、という設定になっているのだ。スケールがまるで違う。というか、普通逆じゃないか? 小説なら管制センターだけに留めても文章力でサスペンスを盛り上げることができるが、映画では無理なので、戦闘機によるミサイル撃墜という派手なシーンに変更する……。 戦闘機のシーンを導入するほどの予算がなかった、ということもあったのかも知れないが、それなら最初から映画化なんて諦めるべきで、最大の盛り場をスケールダウンしたら意味がない。せっかく派手な作品に仕上がる筈のものが、アホ原作者のクソ脚本で超地味なものになってしまった……。 下りた監督も、こう思っていたのではないか。 この原作者松岡圭祐、前回の「催眠」でも撮影に介入して映画製作者側を呆れさせたそうだ。こんな奴の小説をなぜ映画化し続けるのか。催眠にかかってるのか? 本作品のパート2(精神カウンセラーは死んだと思われているが実は生きている! ……というオリジナリティに欠ける最終シーンだったので、パート2へと繋ぎたいらしい)の計画もされているというが、東映はこんな奴に振り回されていると松竹の二の舞になるぞ。 やめとけ! 日本映画が復活した、と騒がれているようだが、自分としては「どこが?」と大声で叫びたい。 最後にもう一度言う。 この作品は観るべきではない。 必ず後悔する。 本作品を観て面白いという人は、精神カウンセラーとのご対面をお勧めする。 本作品の原作者松岡圭祐以外のまともなのを。人気blogランキングへ関連商品:千里眼
2006.11.27
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藤原竜也出演作。粗筋・感想 本作品は「死者の学園祭」との二本立てになっている。同様にホリプロが全面参加。 一人の学生が仮面を付けて登校した為に学校で仮面ブームが起こり、事件が発生する……というような内容の筈だ。ただ、「学園」がタイトルになっている割には作品の大半は学校外の場面の連続(ファッションショーなど)で、学校は申し訳程度にしか登場しない。 どこが学園だ? 本作品では「リング」シリーズで有名になった偵子がゲスト出演する。いや、正確には偵子ではないが、栗山千明演じるキャラクターが初登場するシーンの時は「あれ? 偵子?」と誰もが思うだろう。もう少し工夫してくれ。 推理劇の真相も意外性はなく、だからどうした、というレベル。わざわざ劇場公開にする必要があったのか。この程度ならテレビ映画にした方が安上がりで、より多くの人に観られたのでは? あともう一つ。 主演の藤原竜也、て「美少年、美少年」と紹介されることが多いが、そうだろうか? 人並みとは言わないが、特にどうってこともない顔立ちだと自分は思うが。 映画館では大抵関連グッズを販売している。今回も例外ではなく、「死者の学園祭」と「仮面学園」のキーホルダーや、ピンバッジや、写真集や、パンフレットを売っていた。キーホルダーはいずれのも800円。高いので二つとも買えない。観た後面白かった方のを買おうと思い、試写室に入った。結局いずれも購入しなかった。今回の二本立てを観たという証拠は割引券だけ。最近はこれが多くなってきている気がする。 関連グッズを買わずにはいられないような映画を、誰か作ってくれ。人気blogランキングへ関連商品:仮面学園
2006.11.27
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