「きらりの旅日記」

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

2011.03.02
XML
カテゴリ: クロアチア
ディオクレティアヌス宮殿は、クロアチアのスプリトにあるのですが「ディオクレティアヌス」は・・・ローマ皇帝だったそうであります。ローマ皇帝の宮殿が何故クロアチアに建設されたのでしょうか?まずディオクレティアヌスって誰?

『クロアチア旅日記』・・・ディオクレティアヌス

CIMG2986.jpg
                ディオクレティアヌス宮殿内にて

以下・・・ウィキペディア(Wikipedia)さまを引用しています。

ディオクレティアヌス   Diocletianus

ローマ皇帝(東方正帝)

在位 284年11月20日~305年5月1日

286年4月1日~305年5月1日まで

西方正帝マクシミアヌスと共治

全名 ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス

出生 244年12月22日

イリリクム

死去 311年12月3日

サロナ →・・・・ここ「ディオクレティアヌス宮殿」

継承者 ガレリウス

ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス

ラテン語:Gaius Aurelius Valerius Diocletianus

244年12月22日~311年12月3日

ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である

軍人皇帝時代を収拾し

ドミナートゥス(専制君主制)を創始し

テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。




ディオクレティアヌスの生涯

属州イリリクムの生まれ。

「ディオクレティアヌス」というのは 皇帝になる際につけた名で

本来は 

ディオクレス(Diocles)という。

一兵卒から

親衛隊長官にまで出世し

先帝ヌメリアヌスの死後

軍に推戴されて

小アジア西北のニコメディアで即位し皇帝となった。

当時

広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。

そこで、

軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として西方を担当させ

自身は

ニコメディアを拠点に東方を治めた。

彼らは

国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に宮廷を置いたため

既に荒廃していたローマの重要性はますます低下し

ローマ帝国の重心は東方におかれるようになった。

292年

それぞれの皇帝が「正帝」(アウグストゥス)として

「副帝」(カエサル)を任命し

彼らに

ライン川とドナウ川の防衛線の維持に当たらせた。

この制度は

テトラルキア(四分割統治、四分治制)と呼ばれ

帝国は

事実上4人の皇帝によって統治されるようになった。

だがこの制度は

ディオクレティアヌスの巧みな政治手腕に依るところが大きかったため

彼が引退するとその均衡は崩れ、帝国は再び混乱した。

298年

ペルシアと講和

メソポタミア地方、ティグリス河彼岸一帯をペルシアから

ローマの統治下へ繰り入れ

イベリア地方を影響下に置く。

ディオクレティアヌスは

皇帝権と帝国防衛を強化するため

自らの軍事力を増強し

課税強化を図って官僚制を整備した。

合わせて

属州をおよそ100程度に再分割し属州総督の権力を削減した。

これ以降の帝政を

こうした専制的な皇帝が官僚制を通じて人民を支配した構造から

ドミナートゥス(専制君主制)と呼ぶ。

官僚制の整備によって軍政と民政が分離したことで

属州の自立はおさえられた。

この軍政と民政が分離する構造は

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にも受け継がれ

7世紀のイスラーム勢力侵入に合わせて軍管区制が導入されるまで続いた。

ディオクレティアヌス以降のローマ帝国における市民に課される税は

ユリアヌス帝の時代を除けば厳しくなる一方であった。

土地・人口の調査が行われ

人頭税(ユガティオ)と土地税(カピタティオ)が導入された。

この二つは後に結びついて

カピタティオ・ユガティオ制へと至った。

その他

最高公定価格の設定、手工業者に対する統制、公設の奴隷市場開設など

様々な経済政策が打ち出された。

ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加

治世を通じて融和的政策を採っていた皇帝も

その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱き

303年キリスト教徒に対する令を発した。

強制的な改宗を迫る等々キリスト教徒への抑圧が行われ

概ね寛容な処置に留まったものの

国家に対し公然と反抗した一部急進派が処刑された。

その数はローマ全土で数千人を数えたという。

また

2度キリスト教徒による宮殿放火が企てられている。

キリスト教史を編纂する側は「大迫害」と呼ぶ。


ディオクレティアヌス宮殿305年

彼は健康を崩したこともあって退位し

アドリア海に臨むサロナ(スプリト近郊)に

ディオクレティアヌス宮殿を作って隠棲し

数年後にそこで亡くなった。

古代の歴代ローマ皇帝の中で

引退した例は彼のほかにはほとんど存在しない

ただし、ローマ帝国がキリスト教化されて以降は、修道院へ引退という例が多くなる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上ウィキペディアさま引用


なるほどざっくり理解できた所でポチっとよろしこ→ にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ









お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011.03.02 23:46:04
コメント(4) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: