「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2021.11.15
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カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、アルコール中毒になり作品数は減りますが、メニュー、ポスター、リトグラフ、挿絵などを積極的に制作します

​​ ロートレックとアルコール ​​

HENRI DE TOULOUSE-LAUTREC
French,1864-1901

A Corner of the Moulin de la Galette,1892


アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
​Henri de Toulouse-Lautrec​

1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)
フランスの画家。
ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。
(ポスター)広告芸術の革新!
​​「近代」ポスターの真の創始者。
劇場を主題にしたリトグラフ。
版画、メニュー、挿絵など。


「ルヴェ・ブランシュ」の仲間たちとの関係は、

​1894年〜1895年 (30歳〜31歳 頃の

ロートレックの置かれた状況を確認させてくれる。


全般的に言えば・・・

彼はまだ大衆に対して無名であったが

(やっと30歳になったばかりなのだから)、

芸術的な集まりのなかでは、

徐々に傑出した一員になりつつあった。


ブッソ=ヴァラドン画廊での個展(1893年)以来、

彼は何人かの批評家の支持を得るようになっていた。


第一にG.ジェフロワやロジェ=マルクス、

それから「ラ・プリュム」誌に

彼についての一文を発表したマンドロン、

「ルヴェ・ブランシュ」のL.ミュフェルド等である。


ロートレックは「ル・リール」などの雑誌にも挿絵を描いて協力した。

編集長アルセーヌ・アレクサンドルは、親しい友人だったのである。


またドイツの「バーン」にも版画を寄せている。

建築や装飾美術の新しい潮流にもきわめて良く通じており、

ヴァン・デ・ヴェルデと会ったベルギーからは

典型的な「アール・ヌーヴォー」様式の絨毯や

陶器の一式を持ち帰った。


作品を発表する機会もどんどん増えて来ており、

それも満足のゆく状況であった。


たとえば、

1895年にギャラリーを開いたサミュエル・ビングの店では、

何点かの絵画がアール・ヌーヴォーの置物や

日本版画にはさまれて展示された。


ロートレックはさらに、

晩餐会のメニューからオリジナル版画まで、

リトグラフの作品を数多く制作した。


しかしこうした旺盛な活動も芸術的なグループへの帰属も、

彼の精神的落ち着きを十分に保証するものではなかった


事実、

ロートレックのアルコールへの耽溺はどんどん進行しており、

周囲の者に不安を与えていた。


一晩中の酒宴の後、

夜明けに版画工房の前に馬車を停めるのもまれではなかった。

ロートレックはその馬車のなかでしばしば休憩をとり、

再び仕事にかかるのである。


彼の肉体の強靭さが驚くべきものであろうとも、

彼の気質は不安定なものであった。


突然怒りだしたかと思うと、

奇妙な無気力に陥ってふさぎ込み、

また、さほど理由もなく笑いを爆発させた。


「酔ったように」 と、

タデ・ナタンソンは表現する。

「彼は笑いすぎてしゃっくりをした」。


彼のアルコール中毒は出入るする場所に応じて進化し、

より「社交界的」 にはなったが、悪化していった。


ピガール広場のそばのバー「ラ・スーリ」で、

常連のレズビアンの女たちに好奇心をそそられた以外には、

ほとんどモンマルトルは見捨てられ、

その代わりに次第に足を向けるようになったのでは、

オペラ座界隈の

「イギリス風」あるいは「アメリカ風」のバーであった。


ロートレックは、そこの革や木の匂いを愛し、

「粋」と家庭的なものが入り混じった雰囲気や

酒の種類が豊富なことを評価した。


「ラ・スーリ」で

女主人のブルドックの可愛いいブブールを描いたように、

踊るショコラなどを熱心にデッサンすることもあったが、


何よりここでは何でもかまわず飲みほし、

最上の酒と最低の酒を区別なく飲み、

つねに最終の目標であるような

酔いに達するまで飲みつづけた。



母親宛の手紙には、

絵画のことは絶えて久しく言及されず、


もっぱら葡萄酒を送ってくれるよう定期的に頼むことと、

送金以来で占められるようになった。

彼はたいへんな浪費をしていたのである


彼の絵画制作にも飲酒は反映した

1896年には30点以上制作されていたものが、

続く3年間には毎年20点ほどに減少している。


しかしその肖像画や風俗画のなかには、

まだ ​明らかに真の傑作​ とみなされるような作品もある


1895年末に描かれた、

黒い長靴下をはいた二人の娼婦が休憩している

『ソファ』1895年 (メトロポリタン美術館)蔵や、

劇場を主題にした一連の絵画の頂点に達している

『シルペリックで踊るマルセル・ランデール』1896年

などである

HENRI DE TOULOUSE-LAUTREC
French,1864-1901

Marcelle Lender,1895-1896

Dancing the Bolero in "Chilperic"

oil on canvas 1.45mx1.5m

『「シルペリック」のボレロを踊るマルセール・ランデール』 1895年冬 

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。

この大作(1.45mx1.50m)は・・・

ロートレックがこの女優に長い間魅惑され続けた成果であり、

彼女が出演する劇場に毎日のように通い、

彼女自身が気詰まりに感じるほどの熱心さで、

夥しいデッサンやリトグラフを制作した末のものであった。

ある時は、

ロートレックはレストランで彼女に向かい合って座り、

黙ったままでじっと彼女に視線を捉え、

その表情を観察したりしたほどである

​「シルペリック」 ​​ は、

スペインの祖となる女王ガレスヴィントの統治した

メロヴィング朝の叙事詩をパロディ化し、

ボレロに振り付けたオペレッタに過ぎない。


しかしロートレックはこの芝居のなかに、

彼が一人の女性と演劇的表現のうちに求めている

すべてのものを見出したのである。


優雅、繊細、極限にいたる技巧、

見せ場を創るために肉体を完全に制御することなどである。


彼の絵画には、

フォーヴィスムの先駆のような生の色彩が使われ、

舞姫の肉体がつくるグロテスクな

半円形の渦巻きを中心に構成されている。


​マルセル・ランデール​ 自身はこれが気に入らず、

友人のポール・ルクレールに譲られたが、

ロートレックの劇場への愛情を示すと同時に、

彼の絵画の転機を画する重要な作品となったことは間違いない。


絵具は前より厚塗りになり、

デッサンは暗示的なところが少なくなっている。


これらすべてのことから、

ロートレックがアカデミズムの画家にたいする

暗黙の挑戦に乗り出したかのように見える。


彼らのあらゆる技法を駆使して成し遂げようとしたものは、

まさにこのような作品ではなかったが、

しかし彼らの主題や構図には近づいているが、

そのイデオロギーからは危うく逃れている。


マルセル・ランデールの美を、

彼女を貶める恐れのあるグロテスクな背景のなかから

「救う」ことができるだろうか・・・

画家の意図を尊重するなら、

明らかに二重の視線を使い分けなければならない。


女優に関しては称賛の、

彼女の周囲に対しては批判の視線である。

一つの画面に分け隔てなく描かれている人物に対しては通常、

画家は一つの視線を注ぐものだけれども。


『「シルペリック」で踊るマルセル・ランデール』 以降も、

まだ何点かの成功作が描かれている


『身づくろい』1896年
64.0cmx52.0cm パリ「オルセー美術館」蔵


『ド・ローラドゥール氏の肖像』
(ニューヨーク、個人蔵)


『ポール・ルクレールの肖像』1897年
54.0cmx64.0cm パリ「オルセー美術館」



『化粧、プープール夫人』1898年
アルビ「ロートレック美術館」蔵


『ル・アーヴルの酒場「スター」のイギリス女』1899年
41.0cmx32.8cm
アルビ「ロートレック美術館」蔵



『婦人帽子屋』1900年
61.0cmx49.3cm
アルビ「ロートレック美術館」蔵

の「奇跡」・・・などである。


しかしこの3〜4年間に描かれた他の絵画は、

しばしば以前に描かれた構図の焼直しか、

そうでなければ長い間顧みられなかった

馬や乗馬の場面などの主題に回帰するものであった。


唯一の新しい主題は・・・ ​​​​​​​自転車競技であり、

『ビュッファロー競輪場のトリスタン・ベルナール』

(1895年)が描かれた。

この主題は絵画では一度しか制作されなかったが、

それは容易に2点のポスターに発展した

(『マイケルの自転車』『シンプソン・チェーン』1896年)


絵画に限られる制作量の減少は、

版画作品の低下にはそのまま結びつかなかった。


メニュー、ポスター、リトグラフ、挿絵などは、

実際に定期的なリズムで制作され続けており、

むしろロートレックは、

グラフィック作品の方に

次第に満足を見いだしていくようであった


版画は、制作が迅速で容易であるのに、

絵筆に戻るとそれは不確かになってしまうのである。

そのうえ彼の油彩の何点かは

リトグラフのための習作として描かれていることも注目される。


これはまったく新しい方法ではなかったが、

いっそう頻繁に行われるようになっていった。


おそらく広範な伝播が期待できるリトグラフは、

絵画よりも彼の興味をかき立てたものと思われる。


1896年 以降、​ ロートレックの生活は

すっかり根を下ろした習慣によって調整されていた。


バー、娼婦たち、友人たち、わずかの絵画、

そして見せかけの健康とのどかさを取り戻すためのトッサでの夏、


彼はトッサでイスラムのムアッジンの仮装をしたり、

自分の裸体を隠すために生垣をめぐらして

ヌーディスムの生活をしては隣人たちを憤慨させた。


一年の途中に田舎で生活すること

(ナタンソンの別荘に行くことが多かった)、


何回かの外国旅行

(1896年のトレドとマドリッド、

 1897年のオランダ。そして

 1898年、78点の作品を展示したロンドンへの旅行。

 この個展は不成功に終わった)


などが、単勝になりがちの生活に変化を与えた。

いくつかの絵画売却は、

彼を安心させ、満足させた。


セルビアの先代の王:ミラン4世が、

『ムーラン・ルージュにて』


​​
『女道化師シヤ=ユ=カオ』 を購入し、


有名な絵画蒐集家:イサック・ド・カモンドが別のシャ=ユ=カオを買い

それはモネやマネ、ドガと一緒にカモンドのコレクションに加えられた。

(そしてマネと同じ化粧室の壁に架けられた。

 絵画はただの慰みにすぎないのか!)。


いっさいを振り返って見れば、

ロートレックの飽くことを知らない好奇心、

見ることへの激しい欲望が、

劇場やレズビアン・バーに倦むことなく彼の足を運ばせ、

つねにより多くを見、

多くの印象を得ようとしてそこに戻って行かせたのである。


(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)
(写真撮影:ほしのきらり)





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最終更新日  2021.11.15 00:10:09
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