「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2021.11.16
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カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​アンリ・ド・トゥールズ=ロートレックは、37歳という若さで亡くなります。その短い最晩年を詳しく知りましょう。

​晩年の ロートレックを知る  ​​

Henri de Toulouse-Lautrec
French,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-Bois

Woman before a Mirror,1897

Oil on cardboad(厚紙に油彩)

『鏡のまえの裸婦』 1897年​

ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。


アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
​Henri de Toulouse-Lautrec​

1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)
フランスの画家。
ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。
(ポスター)広告芸術の革新!
​​「近代」ポスターの真の創始者。
劇場を主題にしたリトグラフ。
版画、メニュー、挿絵など。


1897年 (33歳 )​ ロートレックは、

フロショー通り15番地に新しいアトリエを構え、

この引越しを祝うために友人たちを招待した。


彼らに送った小さなリトグラフには、

雌牛の乳を搾ろうとしている牛飼いの姿で自分を表している。

つまり招待状に書かれた

「一杯のミルク」の味見をすることにひっかけているのだが。


フロショー通りは、

ロートレックがいつも疲れを癒しにいく

母親の家にやや近づくことになった。


彼の表現によれば、

彼女は 「母であるとともに聖女」 であり、


ポール・ルクレールの言に従えば

「毎日ミサに通うきれいな手をした老婦人」 であったが、

つねに息子の健康や交際相手に対する不安で心を悩ませていた。


しかもフロショー通りは、

元のトゥールラック街よりも、

「ラ・スーリ」やもう一つの女性用(レズビアン)バー

「アントン」に近くなったのだ・・・。


このアトリエでロートレックは友人ルクレールの肖像画を描き、

『彼女たち』 と題された11枚のリトグラフからなる

シリーズの構想を実現させた
(訳注:制作されたのは、フロショー街のアトリエに移る前の1896年である)。

そのうち6点は前年に油彩でも制作されている。


扉となる版画は拡大されて

「ラ・プリュム」誌のギャラリーで開催された

リトグラフ集刊行記念の展覧会ポスターとしても使われた。


『彼女たち』 は、

シャ=ユ=カオ1点を除いては、

私生活のさりげなさのなかで捉えられた

娼婦たちを描いたものである。

「客」が描かれている図も唯一あるが

(『束の間の征服』という最初の題名から

『コルセットを付ける女』 と改題され、

 特別な場合ではないことを表している)、


すべての場面が、

一貫して偏りのない視線のもとで

ふだんは気づかない親密さを取り戻している。


彼女たちの自然な仕草や姿勢は

覗き見の意図からかけ離れており、

道徳的な判定を是とする信念に

こり固まった作品などではなく、

あるがままに存在する瞬間を

穏やかに分かち合う共犯めいた気分に導く。


ロートレックは、

さらにもう一度判定するのを拒絶している。

すなわち『彼女たち』という題名は、

普通の女か「商売女」かの区別に無関心なことを意味する。


彼は決して社会の周縁に生きる女たちを

珍しい獣のように表すことに同意しはしなかったのである。


​この 版画集 ・・・とは? ​​

出版者ペレの注文を受けて制作されたものだが、

ロートレックは多色刷りの5点と

残りの白または地色のついた紙に単色刷りの版画において、

それ以前に得意であった

激しい色彩の面による構成とは対照的な

微妙な陰影と中間色に対する趣味を披瀝している。


デッサンに関してはより軽やかになり、

神経が細やかになることで失われた大胆さは、

新たな暗示力によって埋め合わせている。


この版画集『彼女たち』は、

その希有の価値にもかかわらず、

商業的には失敗し、

最終的にペレは画集を解体して

一枚ずつバラ売りすることを決意する羽目になった


それはおそらく版画の内容が、

愛の場面や艶笑画を愛好する蒐集家を

深く失望させたからであろう。

彼らにはお気の毒さま


1898年 (34歳)秋ころから 、​

ロートレックは精神の不均衡の兆候を示し、

周囲の者に次第に深刻な不安を抱かせるようになった。


酒場での毎夜に疲れ切り、

完全に酔い潰れた彼を

家まで連れ戻さねばならないことが度重なってが、

そういう時の彼は苛々して

理不尽な怒りを爆発させずにはおかなかった。


そうした日々にもかかわらず、

彼はジュール・ルナールの「博物誌」の挿絵の仕事に取りかかり、

その下絵を描くためにブローニュの森の動物園で

何日も日が暮れるまで過ごした。


この本は翌年刊行されたが、

またしても売れ行きはさっぱりだった


1899年 (35歳)1月から 、​ 彼の母はパリに住むのをやめて

マルロメに常住することになり、

ロートレックはこれをまったく裏切りだと感じたのだが、

母は自分の代わりに息子の身の回りの世話をさせるため、

女中のベルト・サラザンを雇った。


サラザンから雇い主の母に宛てた手紙から、

この時期のロートレックの健康の衰えをたどることができる。


彼は必要もない買い物に金を費消し、

置物、お菓子の焼き型、人形、

「あらゆる種類の古くてくだらないもの」を、

すべて友人たちに分け与えなければならないと

彼が決意する時まで(!)部屋に積み上げていった。


アトリエでは、

さまざまな動物や、

ごっそりいる ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​黴​菌に襲われるという妄想を抱き、

ますます眠れなくなっていったので、

自作の油絵を際限なくグリセリンで洗うことに没頭した。


隣人の貸し馬業者カルメーズと連れ立って出かける日々を重ねた末、

彼は死ぬほど酔っぱらうようになった。


記憶を失ったり、

攻撃性とへつらいが交互に現れ、

迫害妄想に襲われて、

「彼は2分間に20回考えを変え」、

そして「まったく仕事をしません」。

さらに彼の娼婦たちへの嗜好も

その渇望がつのりこそすれ減退はしなかった。


「もう一人の紳士と二人のみだらな女たち」

と一緒にホテルで夜を明かした後で、

勘定を払うときになってもう1スーも持ってはおらず、

精一杯大声で「私はトゥールーズ伯爵だ」と呼ぶ以外にすべはなく、

ぎりぎりのところで交番行きを逃れたのだ。


不幸にもベルト・サラザンは、

もはや彼がどこで障害にぶつかったのか、

どうやったら彼に休息を取らせることができるのかわからなかった。


ロートレックは予告せずに招待客を連れてきたり、

夕食に戻るのを忘れたりするようになり、

自分が騙されていると思い、

自分の後ろで何かを企んでいるのではないかと皆を疑い、

あらゆる忠告を拒否し、

母親のいないドゥーエ街のアパルトマンには

一歩も足を踏み入れまいと決心したかと思うと、

高価な置物や銀器を取りに戻るというありさまだった。


2月の初めに 母は、看護人を雇ったが、

この男はうまくロートレックの世話をすることができず、

とりわけロートレックに酒を飲ませずにおくことが

できないのがすぐに明らかになった。


3月 にロートレックは、

ムーラン街で発作を起こし、

ヌイイーの精神病院に収容された。


今度は、ロートレックは「狂人の家」にいた。

意識がはっきりするやいなや、

彼はこの収容所が不当であることを証明して

そこから出ることだけを考えた。


そしてジョワイヤンに頼んで、

何か絵を描く道具を手に入れてもらった。


自分が正常であることを示し、

その創造力が元のままであることを見せるには、

自分の才能をはっきり示すしかないと思ったのだ。


実際、パリの無責任なジャーナリストは、

ロートレックの入院はもっともであり、

人間の品位を落とすような主題にばかり没頭して

調子の狂った作品ばかり描いたことから

予測できた結果だと書き立てていた。


ロートレックの努力の末、

サーカスを主題とした39点の素描が生み出された。

これらはもっぱら彼の記憶のみに基づき、

運動とダイナミズムと生命の秘密を再びみいだそうという

熱烈な欲求にしたがって描かれたものである。


これらが1931年の

トゥールーズ=ロートレック回顧展に展示されたとき、

それまでこの作品に「きわめて低い価値」しか

認めていなかったアンドレ・ロートは、

手放しの称賛へとその評価を改めた。


ロートによれば、

ロートレックは名人芸を駆使して

「かつて中身が空っぽであった形態に、

 かすめ取られていた重大な要素を復元することに熱中している。

 肉体はふくらんで丸みを帯び、

 光に照らし出されて輪郭は固くくっきりとしている。

 人物と人物の間にしか空間はない」


とされ、このシリーズを躊躇わずに

デューラー、ドーミエ 、ゴヤにも比較している。


1899年 (35歳 )5月末​ に、ロートレックはこの病院を出た。

彼はそこで油彩や素描を描き、

さらに入院患者や看護人の肖像、

犬や馬なども描いた。


過酷な現在と青年期の主題の往復は、

サーカスの観客席が、

どの素描でもまったくの無人であるところに現れている。


学者犬、女曲芸師の前で膝をかがめる道化師フーティ、

女調教師や女綱渡り芸人らは、

自分自身のためだけに妙技を披露し、

どんなわずかな喝采も期待してはいない。



いつも無感動な顔をしたシャ=ユ=カオも

ロバに乗って宙返りをしているが、

彼女も自分だけの楽しみに注意を集中しているように見える。


病院から解放されると、

ロートレックは「案内人」のポール・ヴィオーをあてがわれた。

彼は暇でお金のない遠い親戚で、

それ以後彼の行くところにはどこでも付き添って

監視する役目を負わされていた。


しかし画家は当初、この新しい習慣に馴染んだように見えた。

彼はもうまったく、

あるいはほとんど飲まなかったのである。


7月 にアルカションの海岸に出発し、

途中のル・アーヴルで、

船員の集まるバー「スター」の給仕女に魅了されてしまった。


彼女を描くためにジョワイヤンが急いで絵の道具を送ることになった。

秋に パリに戻ってからも、

彼は再び仕事に取りかかり、

もっと得意だった主題をもう一度手がけた。


リトグラフも次々と制作された。

競馬の場面、

『騎手』1899年

51.8cmx36.2cm パリ「国立図書館」蔵

カルメーズの店で観察した馬、犬、

そしてまた道化師たち、

しかし彼の健康はあまり芳しくはなかった。


アルコールの誘惑が新たに彼を捕らえた。

毎朝半リットルを注入することのできる 中空の仕込み杖 のお陰で、

こっそりと彼は 飲酒の習慣に戻ったのである。


1900年 (36歳 )​ パリは万国博覧会に沸き立っていた。

ロートレックは作品委託に参加することはなく、

版画を展示するよう依頼してきたフランツ・トゥーサに対して、

「審査委員がいるなら、きっぱりとお断りします」

と答えている。

それでも会場を車椅子で見て回り、

日本の展示部門には興奮させられたが、疲れ切って帰った。


5月、 ジョワイヤンが彼をソム湾に連れて行く

​『ソム湾のモーリス・ジョワイヤン氏』1900年

116.0cmx81.0cm アルビ「ロートレック美術館」蔵

彼は続いてマルロメの母の家に滞在し、

またボルドーにアトリエを借りた。


そこで4幕5場の感傷的悲劇

「メッサリーヌ」の場面を描くのに熱中した。

彼はこの芝居に6点の油彩を描き、

彼を魅了した豪奢と頽廃の入り混じった

雰囲気を再現しようと努めた。


かなり緩んだデッサンと

今までにない絵具の厚塗りにより荘重さを志向しているのだが、

奇妙に停滞し、

ほとんど仰々しく見える作品になっている。

色彩も赤と緑の結びついた大胆さが見られるものの、

まったく納得させられるものではない。


明らかにこれらの絵画には

権勢の終わりという雰囲気が濃厚に漂っているが、

ロートレック自身が何を考えようと、

おそらくそれはローマ帝国の週末以上に、

彼の芸術の週末 を表すものであっただろう。


『メッサリーヌ』

(チューリッヒ・ビュールレ・コレクション)には、

表現主義の序曲のようなものが認めされるにしてもである。


ロートレックは、ボルドーで を過ごし、

それからトッサに出発した。

しかしそこで病に倒れ、

母がマルロメに連れ戻した。

彼は痩せ細り、

寝たきりとなり、

痛みのために転々と体を動かす日々を過ごした。


彼がヴィオーとともにパリに戻ったのは、やっと

1901年 (37歳 )5月​ になってからだった。

そこで友人たちと再会し、

アトリエを整理し、

油彩や素描にモノグラムの印を押した。

かなり衰弱してはいたが、

自分の作品の相場が上がっているのを知って喜んだ


しかし何が彼に残されているだろうか?

もはや彼の描きたいという気持ちをかき立てるモティーフはなかった。


7月、 アルカションで描き始めた

『パリの医学部卒業試験』1901年 は、

完成させることができずに置かれ、

1ヶ月後にマルロメに戻ることを望み、

そこで彼の「案内人」ヴィオーをパロディ化し、

海軍大将の制服と髪粉をふったかつらを付けさせた

大げさな肖像画に着手した。

しかしこれも同様に未完成のまま残された。


アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、

1901年 9月9日 、​マルロメの城館で死去した。


葬送には、アルフォンス伯爵が

みずから息子の霊柩車の馭者台に座り、

馬に鞭をくれて走らせたので、

葬列も後を追いかけて疾走する羽目になった・・・

まるでルネ・クレールの「幕間」の有名な

シークエンスを先取りするかのように。


ファルス  テック・ニック
「笑劇の技法」。


そして、同じ1901年、 ピカソが、

裸の女がバスタブのなかで体を洗っている

『青い部屋』 を描く、

その絵画の壁にはロートレックの

メイ・ミルトンのポスター が描きこまれていた。

この若いスペイン人:ピカソは、

パリに出てすぐにこのポスターを手に入れたのだ。

「絵画の技法」。


​​​​​​​
(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)
(写真撮影:ほしのきらり)




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最終更新日  2021.11.16 00:10:08
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