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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら「蕨の石仏再訪シリーズ」の最終回は、中世以前の創建と伝えられる真言宗の古刹 三学院です。三学院 蕨市北町3-2-4[地図]中山道から少し東に入った小径に三学院の山門があった。山門の右手前に大きな寺導が立っている。さらにその右手前、ブロック塀の前に二基の石塔が並んでいた。右 鋪石供養塔 文久3(1863)大きな角柱型の石塔の正面、梵字「キャ」の下に「鋪石供養塔」敷石供養塔である。塔の右側面に大きく蕨宿中と刻まれている。左側面には塚越村、大谷場邑、文蔵村から小谷場村まで、近隣12の村、宿の名前が刻まれ、最後に蕨上下郷中、下部に大きく「檀中」と刻まれていた。左 馬頭観音塔 寛政12(1800)大きな唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、梵字で六文字「南無馬頭観音」と刻まれてるという。下の台の正面には一頭の馬が生き生きと線刻されている。塔の右側面に造立年月日。その隣に當所馬持、さらに大きく講中と刻まれていた。左側面 足立 坂東 第二拾番 三學院。裏面に世話人二名の名前が刻まれていた。山門を入ってすぐ、参道右側に大きな堂が立ち、中には丸彫りの六地蔵、舟形光背型の古仏、通称「目疾地蔵」さらに大型の丸彫りの「子育地蔵」が祀られている。(2015年5月8日の記事参照)地蔵堂の入口両側に一対の石灯籠が立っていた。石灯籠 元禄14(1701)左右とも同じ構造で竿は円筒形だが、笠、火袋、中台、基礎はいずれも四角形。火袋だけ色が違っていて、たぶん後から補修されたものだろう。竿部正面に銘が刻まれているが、経年のため薄くなっていて、特に上の部分は全く読み取れない。こちらが右の石灯篭。銘の内容は全く同じなので、両方を見比べてやっと一部だけ読み取ることができた。中央「□□□□貳銭之諸衆二世安樂之所」両脇に造立年月日。下部に願主 欽白。さらに修造 西蓮と刻まれている。これまでいろいろなところで見かけたことだが、この竿部裏側にも多くのくぼみ穴が穿たれていた。地蔵堂前からさらに進むと正面に仁王門がある。その右手の涅槃門の先、塀の前に四基の石塔と三基の石碑が並んでいた。左端 庚申塔 貞享元年(1684)江戸時代初期にのみ見られる板碑型の「三猿庚申塔」中央を独特な形に彫りくぼめた中、日天と月天の間、梵字「カーン」の下に「庚申供養支堤」この「支堤」というのは他ではあまり見かけないが、すぐ近くの個人宅地内の延宝2年の庚申塔にも刻まれていた。「支堤」を調べてみると「石塔」「石仏」を表すらしく、「庚申供養塔」という意味になるだろう。縁の部分、右に造立年月日。左に武刕蕨上宿衆敬白。三猿は正面向き、頭が大きくややアンバランス。三猿の下、右上に小さく本願とあり、十三名の名前が刻まれていた。その隣の板碑型の石塔。下部には蓮台に立つ阿弥陀如来と聖観音菩薩を浮き彫り。上部に禅定尼、禅定門二つの戒名が刻まれている。命日は同じ寛文二年の四月と五月、あいついで亡くなったご夫婦の墓石だろうか?続いて第六天塔 元治元年(1864)角柱型の石塔の正面に「第六天」塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。その奥に庚申塔 明和6(1769)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。頭上に蛇がとぐろを巻く。顔はつぶれているが、たぶん人為的なものだろう。青面金剛の足元に邪鬼が丸くうずくまる。三猿は下の台の正面に彫られていた。塔の右側面に造立年月日。左側面に願主二名の名前が刻まれている。正面に三猿が彫られた台の両側面にも銘があった。台の右側面にはひらがなで24名、漢字で1名、左側面はひらがなで25名の名前が刻まれ、最後に講中 五拾人とある。中に一人だけ男性が含まれるのは面白いが、女人講中と言っていいだろう。続く三基の石碑は「地域教育の形成と教師と学童との人としてのつながりを知ることができる大変貴重な資料」ということで、いずれも蕨市の市指定文化財になっている。解説板に従って見てゆこう。左 墓碑建設寄付連名碑 明治24(1891)石川直中墓碑建設のための寄付者82名の名前が刻まれている。中央 石川直中墓碑 明治24(1891)明治初年、蕨郷学校の初代校長を務めるなど、蕨地域の近代学校教育の普及に大きく貢献した石川直中の墓碑。右 中山保治頌徳碑 明治36(1903)明治初年、塚越学校の初代校長を務めた中山保治の頌徳碑。背面に門人たちの名前が刻まれている。仁王門をくぐると正面に雄大なスケールの本堂、左に壮麗な三重塔、右に新しい阿弥陀堂が立っている。阿弥陀堂の裏の墓地に多数の宝篋印塔が並び、その中に「木食観正塔」というユニークな石塔もあるのですが、今回はこれくらいにしたいと思います。興味のある方は2015年5月10日の記事をご覧ください。
2021.02.17
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は中央6丁目にある正蔵院の石仏を見てみましょう。正蔵院 蕨市中央6-2[地図]中央小学校の東、住宅街の中に正蔵院がある。その入り口は狭い路地に面していてわかりにくい。本堂に向かう参道は広く、左側に石塔が並んでいた。小型の馬頭観音塔、三基の駒型の庚申塔、大きな唐破風笠付角柱型の庚申塔。四基の庚申塔が集められているのは蕨市内ではここだけである。左から馬頭観音塔 享保17(1732)舟形光背に馬口印を結ぶ二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。慈悲相の観音様の頭上には馬頭がくっきり。右脇、梵字「カン」の下に「馬頭観音爲現世菩提也」左脇に造立年月日。その下に下蕨施主とあり、個人名が刻まれていた。2番目 庚申塔 元禄15(1702)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。顔は削れている。右脇「奉供養庚申講中」左脇に造立年月日。青面金剛の足の両脇に二鶏が線刻。足元は今一つはっきりしないが邪鬼はいないようだ。その下にひな壇のようなくぼみを作りその中に正面向きの三猿。さらにその下の部分に10名の名前が刻まれていた。3番目 庚申塔 宝暦3(1753)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像全体が白カビにまみれている。頭上には蛇だろうか?足の両脇に二鶏。足元にひしゃげた邪鬼。その下に三猿だが、中央の猿は風化の為ほとんど原型をとどめない。塔の左側面は荒彫りだが右側面を平らに削られていて、その上部に造立年月日。その下に武州足立郡下蕨村 講中二十六人と刻まれていた。4番目 庚申塔 正徳4(1714)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。比較的白カビが少なく彫りもしっかり残っている。とぐろを巻く蛇を頭に乗せ、目を吊り上げた青面金剛。右脇に「奉供養庚申」左脇に造立年月日。足の両脇に立派な二鶏。足元の邪鬼は手足ともに折り曲げて屈服している。その下の三猿は両脇が内を向く形。三猿の下の部分には施主とあり、10名の名前が刻まれていた。右端 庚申塔 宝永8(1711)唐破風笠付角柱型の大型の庚申塔。合掌手以外の二組の腕が同じ格好で同じようについているのは珍しい形。足の両脇にしっかりとした二鶏。足元の邪鬼は頭が右で磐座に這いつくばる。三猿は台の正面に彫られていた。邪鬼の磐座の下の部分、細かく文字が刻まれているようだがかなり薄くなっていてうまく読み取れない。資料によると50名ほどの名前が刻まれているらしい。塔の両側面には蓮が彫られている。その隙間、右側面に宝暦八辛卯年、左側面に正月吉日。その下に講中と刻まれていた。本堂の左側一帯が墓地になる。堂の近くに三基の石仏が並んでいた。左 馬頭観音塔 宝永5(1708)舟形光背に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上の馬頭はしっかり、観音様の顔はつぶれていてその様子はわからない。右脇「皈(帰の俗字)依三宝尊 祈亡畜菩提也」左脇に造立年月日。足元の部分に銘が見えるが今一つはっきりしない。右は同行拾五人だろうか?中央 大日如来坐像 元禄12(1699)四角い台の上に反花のついた台を重ね、さらに敷茄子・蓮台の上に大日如来坐像、大きな舟形光背が印象的。梵字「バン」の下、宝冠を被った大日如来。腹前で印を結ぶが一部破損ため印相は断定できない。光背上部両脇に造立年月日。その下、右脇に願主、左脇に法性海と刻まれていた。蓮台、敷茄子ともに重厚。反花付きの台の正面に三十数名の名前が刻まれている。右 地蔵菩薩立像 宝暦11(1761)長方形の光背に錫杖と宝珠を手に持つ大きな地蔵菩薩像を浮き彫り。頭の後ろに輪光背。風化も少なく堂々としている。像の右脇に「南無地蔵大菩薩」左脇に造立年月日。蓮台の下は台が二段になっていて、上の台の正面には武刕足立郡 戸田領下蕨 講中廿二人と刻まれていた。
2021.02.11
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら蕨ではあと三か所ほど見ておきたいところがあります。今日は中央3丁目にある三蔵院の石仏を見てみましょう。三蔵院 蕨市中央2-30[地図]JR蕨駅の800mほど南、住宅街の中の細い路地から見た三蔵院の本堂。左手の山門は閉まっていて、こちらの駐車場入り口?から境内に入る。山門左手の風景。二つの小堂が立ち、六地蔵と丸彫りの石地蔵が祀られていた。その裏には墓地がひろがっている。山門のすぐ左脇には水場があり、その向こうに石塔が立っていた。馬頭観音塔。造立年不明。風化が著しく、剥落部分も多い。角柱型の石塔の正面、下のほうに「馬頭觀世音」その上には馬頭観音像が彫られていたのではないだろうか。左脇に六月とあり、右脇に造立年が刻まれていたと思われるのだが、そのあたりはごっそり削れている。左側面も剥落が見られるが、わずかに下蕨とだけ銘が残っていた。小堂の中 六地蔵菩薩立像 嘉永2(1849)丸彫りの六体のお地蔵さまは欠損なく揃っている。左端の台の右側面に造立年月日。右端の台の左側面に世話人とあり二名の名前、右から2番目の台の左側面に下蕨 講中と刻まれていた。もう一つの小堂の中 地蔵菩薩立像 享保9(1724)角柱型の石塔の上、丸彫りのお地蔵さまが蓮台に乗っている。塔の正面に偈文。右側面に四つの戒名。左側面に施主 蕨里とあり個人名。その奥に造立年月日が刻まれていた。墓地に入ってすぐ右手が歴代住職の墓地になっている。僧侶の墓石でよくみられる卵塔はなく、文字塔、像塔、宝篋印塔などが並んでいた。舟形光背型の墓石が全部で五基。手前から観音菩薩立像 寛文12(1672)頭上の梵字は「キリーク」か?文字塔を挟んでその奥 合掌型の地蔵菩薩立像 宝永7(1710)正面に二基。右 地蔵菩薩立像 延宝7(1679)きれいな舟形光背に錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩像を厚く浮き彫り。頭上に梵字「カ」正面左 地蔵菩薩立像 正徳2(1712)こちらは白カビが多い。頭上は「カ」左の列に地蔵菩薩立像 寛文4(1664)やや細長い舟形光背。頭上に梵字「カ」いずれも江戸時代初期の石仏である。墓地の中央付近に無縁仏が集められ、さらにその奥に4基の石塔が並んでいた。手前 二十三夜供養塔 文政13(1830)角柱型の石塔の正面 線刻された日月雲の下「廿三夜供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。(写真右のほうに、右隣りに立つ石塔の剥落した石片が写っている。資料によると文久2(1862)の普門品供養塔らしいのだが、こちらは正面が完全に剥落、今は正体不明というしかない状態だった。) 塔の左側面に造立年月日。右側面に南 川口 ぜんかうじミちと刻まれている。その奥に百万遍供養塔 天保4(1833)大きな角柱型の石塔の正面、上部に光明真言を梵字で表した曼荼羅。その下に「百万遍供養塔」塔の右側面に長い願文。左側面には先祖代々一切聖靈、有無兩縁一切聖靈。さらに造立年月日。その左下に塚越村と見える。亥子角堂墓地の庚申塔にも塚越村とあったが、「塚越」は今の南町と中央まで含む広い村だったようだ。最後は宝篋印塔 天明8(1788)屋根型の笠を持つ江戸時代中期以降のオーソドックスな宝篋印塔。塔身部四面に四仏を梵字で表す。4基礎には「宝筐院陀羅尼経曰・・・・」と長い願文が刻まれ、最後の面に造立年月日。続いて武州足立郡戸田領下蕨郷 三蔵院現住 慶傳。同所講中。三蔵院のご住職の呼びかけに応えて下蕨郷の講中が造立した宝篋印塔ということだろう。最後には石工名が刻まれていた。
2021.02.05
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今日は南町から亥子角堂墓地の石仏を見てみましょう。前回は駆け足だったたの墓地の中の石仏を取材していませんでした。亥子角堂墓地 蕨市南町3-27[地図]蕨駅西口から西川口駅までJR京浜東北線沿いの道を進む。蕨一中の南、緑川を越えたT字路の角に亥子角堂の墓地があった。ブロック塀のところに東向きに庚申塔が立っている。庚申塔 元禄14(1701)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。一部に白カビが見られる。像の右脇に造立年月日。左脇に武刕足立郡戸田領塚越村講衆。現在は塚越は線路の東の地域の町名になっているが、以前はこのあたりまで塚越村だったようだ。足の両脇に二鶏を半浮彫。足元に薄っぺらな邪鬼。その下に正面向きの三猿。三猿の下には12名の名前が刻まれていた。墓地に入ってすぐ右、ブロック塀の裏に石塔が並んでいた。入口近くに弘法大師立像、二基の弘法大師遠忌塔。これらは昭和になってからたてられたものだった。遠忌塔の奥に秩父観音霊場供養塔 文化3(1806)?唐破風笠付角柱型の石塔の正面 上部に「秩父」その下は剥落しているが「三十四所供養塔」だろう。右側面も多くの部分に剥落、ひび割れが見られるが、紀年銘の一部は残っていて三丙寅と刻まれていた。該当するのは寛永3(1626)貞享3(1686)延享3(1746)文化3(1806)、石質から文化3(1806)が有力と思われる。その近く、南向きに普門品供養塔 元治元年(1864)大きな自然石に「普門品供養」右脇に造立年月日。下部に発願主をはじめ十数名の名前が刻まれていた。普門品供養塔の裏に隠れるように馬頭観音塔が立っている。舟形光背に馬頭観音の坐像を浮き彫り。風化も進み像は漠然としている。残念ながら銘が確認できず詳細は不明。塔の下の台が本来の物ではないのかもしれない。自然石の普門品供養塔の左脇、小型の普門品供養塔 寛政4(1792)その石質の為だろう、銘は薄く読みにくい。角柱型の石塔 中央に「奉納 坂東 西國 秩父 普門品一万巻供養」右脇に造立年月日。左脇に圓通院心海潮音信士と刻まれていた。
2021.01.30
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら前回蕨市を回った時には簡単な資料しか手元になかったのですが、それでも宿場町の歴史があるためか、蕨市自体が歴史史跡や文化財保存に熱心で、教育委員会が設置した石仏の解説板は丁寧でわかりやすく助かりました。駆け足で回ったのでかなり雑なアプローチでしたが、何か所かは今でも忘れることができません。錦町では堂山寺の薬師如来を主尊とする庚申塔がもっとも心に残っています。堂山寺 蕨市錦町6-5-12[地図]埼京線北戸田駅の東500mほど、住宅街の中に堂山寺の墓地がある。すぐ東に「わらびりんご公園」があって、これを目当てにすると探しやすいだろう。入口から覗くと、二基の石塔が並び、その向こうに小堂、さらにその奥には立派な堂宇が立っていた。入口近く 庚申塔 寛保4(1744)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、日月雲の下を舟形に彫りくぼめた中に 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。笠の正面に卍が彫られている。彫りは細かく本格的。頭頂部が平らな髪型は「川口型」に通ずるものがあるが、他はオーソドックス。頭部にまとわりつくのは蛇だろうか?足元にずんぐりとした邪鬼。その下に両脇が内を向くタイプの三猿。二鶏は見当たらない。塔の右側面「奉造立庚申尊像二世安樂所」左側面中央に造立年月日。右下に武刕上蕨村、左下に講中敬白と刻まれていた。反花付きの台の正面と両側面に合わせて100名以上の名前が刻まれている。そのほとんどがひらがなで、女性中心の講中なのだろう。左側面の奥のほうは一部が土に隠れてしまい読み取れなかった。その隣 敷石供養塔 弘化3(1846)角柱型の石塔の正面に大きく「敷石供養塔」塔の右側面に造立年月日。左側面には世話人 上蕨若者中とあり、さらに願主 本圓と刻まれている。小堂の中には六地蔵が祀られているが、扉が閉まっていて近づけなかった。資料によると大正13年に再建されたものらしい。小堂の右手前 庚申塔 寛文10(1670)大きな舟形光背、天蓋の下に薬師如来立像を浮き彫り。左脇に教育委員会の解説板が立っている。天蓋の中に梵字「ベイ」胸前に薬壺を手にした薬師如来。静かにたたずむ姿は限りなく気高く美しい。光背右脇「奉起立庚申爲逆修菩提」左脇に造立年月日。光背下部両脇に信心 施主と刻まれていた。石塔の下部、線香立ての陰になり全体を見ることはできないが、右上に東光寺とあり、続いて15名の名前が刻まれている。墓地の南西の一角、こちらには忘れ去られたように小型の石塔が立っていた。庚申塔 正徳6(1716)駒型の石塔の正面、上部に梵字「ウン」瑞雲に乗った日天・月天。中央「奉建立庚申」両脇に造立年月日。最下部に三猿だが、こちらは半ば土に埋もれ頭だけがのぞいている。
2021.01.27
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら蕨市までは自転車で20~30分ほど。前回(2015年5月)は駆け足で回って見落としも多かったような気がしますので、まずは蕨市の石仏を見直してみようかと思います。なにか新しい発見があるでしょうか?ジンガド馬頭観音群 蕨市錦町2-20-12[地図]大日本印刷の南東、医院と調剤薬局の間のブロック塀に囲まれて、石塔が並んでいた。2005年当時にはうまくみつからず、その後たまたま通りかかった時に気が付いたのだが、今日まで記事にする機会がなかった。正面に北向きに三基、右の壁の前に一基、いずれも馬頭観音塔で、玉砂利を敷いた中に「馬頭観音群(ジンガド)」と記された横長の碑が立っている。左 馬頭観音塔 享保6(1721)舟形光背に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭部は一部破損しているようで、馬頭もはっきりしない。光背全体を白カビが厚く覆う中、右脇に「汝是畜生發菩提心」左脇に造立年月日が刻まれていた。中央 馬頭観音塔 文化8(1811)駒型の石塔の正面に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。これもカビの為に真っ白で、像の様子も銘も判別が難しい。像の右脇に造立年月日。左下に個人名が刻まれていた。右 馬頭観音塔 天保6(1835)隅丸角柱型の石塔の正面「馬頭観音」その右脇に造立年月日。左脇にやはり個人名が刻まれている。右の壁の前 馬頭観音塔。舟形光背に六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。やはりカビが多く銘は確認できなかった。北向稲荷脇 蕨市錦町4-3-22南[地図]大日本印刷の北東のT字路の突き当り、北向稲荷神社の鳥居の隣に庚申塔が西向きに立っていた。大日本印刷を挟んで、ジンガド馬頭観音群とは対角線の位置になる。雨除けの下 庚申塔 文化13(1816)笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化のために像の表面は丸くなっていて漠然とした印象で、顔のあたりもはっきりしない。合掌した大きなショケラはミノムシのような形。足元には頭を右に異形の邪鬼、頭と肩を踏まれている。三猿は塔の下の台の正面に彫られていた。この三猿がいたって個性的。手を振り上げ、棒を肩に担ぎ、杖を突いて、並んで歩きだす。まさに空前絶後と言いたいところだが・・・こちらは戸田市早瀬2丁目の墓地で見た庚申塔 文化12(1815)角柱型と駒型の違いはあるものの、像全体の様子はよく似ていて、ショケラ、邪鬼、三猿もそっくり。造立年は1年違いで、隣町でもあることから同じ石工さんの仕事ではないだろうか。その後、この二基以外にこのタイプの三猿に巡り合ったことはない。塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。続けて世話人 講中と刻まれていた。
2021.01.23
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらいよいよ蕨市の最終回、塚越神社の石仏です。塚越神社 蕨市塚越3-2蕨駅から東へ400mほど歩く。住宅街の中に塚越神社があった。通りを隔てた北側の地域は川口市の芝地区になる。赤い鳥居をいくつもくぐると急な石階段がある。その右脇に二基の石塔が並ぶ。階段上に見えるのは塚越稲荷神社の拝殿。朝早くから多くの人が参拝していた。左 猿田彦大神塔 文政13(1830)上部に日月雲が線刻され、その下に「猿田彦太神」両脇に 天下泰平 國土安全と刻まれている。下の台の正面から左側面にかけて十数名の名前が刻まれていた。台の右側面には當所 世話人として二名、続いて大門宿の石工の名前が見られる。塔の右側面 北 しば 十三丁 なんぶ 二里半 東 はとがや 壱里?左側面 南 戸田 二十二丁 江戸 四里半。脇に 是より三丁裡行 左 川口道と刻む。裏面「奉再建」とあり年号が刻まれている。下部に 西 と見えるがサツキの木が邪魔になりその先は読めない。いずれにしても東西南北揃った立派な道標だ。右 敷石供養塔 嘉永4(1851)正面「奉獻(献の異体字)経塚山敷石」と刻まれる。調べてみると、昔廻国僧がここに経文を埋めた塚を築き、そのためこの地を元々は「経塚腰村」と言っていたのが後に省略され「塚越村」という地名になったという。現在稲荷神社が建っている後の山が「経塚山」のようだ。台の正面に世話人とあり、9名の名前が刻まれていた。塔の左側面には年号。右側面「橋際ヨリ南之方」どういう意味なのだろう?「橋の際より南に奉納した敷石を敷いた」だろうか?塚越神社の広い境内の北西、出口付近にお地蔵様の小堂が立っていた。地蔵菩薩立像 慶応元年(1865)頭が大きく首も太い個性的なお地蔵様だ。台の正面から側面にかけて多くの文字が見えるが、彫りが薄くはっきりしない。脇に立つ解説板によると、地元の蕨をはじめ戸田、浦和、川口なども含めて、約100人ほどが力を合わせて建立したものだという。地蔵堂の横に手水鉢がある。裏面に天保5(1834)の銘があった。結構古いものだ。左側面 當所世話人とあり個人名が見える。右側面には9名の名前が刻まれていた。蕨の石仏シリーズ いかがでしたでしょうか?電車で往復、一筆書きを楽しんだり、強い光線を避けて5:00出発で早回りしてみたり、最後に自転車でもう一周...いろいろなアプローチができて面白かったです。次の地区として岩槻区を考えていたのですが、資料集めだけで結構時間がかかりこのあとは平行して準備していた志木市のほうを先にする予定です。その前にしばらく放置状態だったホームページを整理したいと思っています。ブログのほうはその間は時間がとれないので少し軽めの内容になりそうです。
2015.05.21
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらいよいよ蕨市の最終回、塚越地区の石仏を紹介します。塚越五丁目会館北東角 蕨市塚越5-28JR京浜東北線の東側、蕨駅と西川口駅の真ん中あたりに蕨市民公園がある。そこから南に二丁ほど歩くと塚越五丁目会館のある四つ角のところに小堂が立っていた。写真の後に見えるのが会館。同じ敷地の中に丁張稲荷神社がある。小堂の中 庚申塔 寛政7(1795)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。個性的な顔立ち、三眼の青面金剛。ショケラは腰にしがみつく。足の脇、よく見てみると二鶏が薄く線刻されていた。足元の邪鬼もユニーク。ネコの敷物でも敷いているかのようだ。下の台の正面に三猿。敷地の囲いと小堂の前の横棒が石塔の近くまで迫っていて写真も撮りにくい。表面も若干の風化が見られる。塔の左側面は風化のため文字は見えない。右側面、小堂の隙間から少しずつ覗く。上の写真は左が塔の上部、右が下部の様子。中央「奉立達諸願成就為二世安樂也」両脇に天下泰平 國土安全。その下に造立年月日を刻む。さらに一番下の部分、右 芝道、左 川口道 と刻まれていた。上の二枚の写真は正面に三猿が彫られた台の右側面の様子。空間に余裕が無く、字を読み取るのは難しいが、願主、世話人など十数名の名前が見られる。こちらは左側面 手前から 芝村 横曽根村 鳩ヶ谷宿 講中などの文字が見えるがその先は隣に立つ石塔が邪魔をして確認できなかった。北の芝村、東の鳩ヶ谷南の横曽根。肝心の塚越村がない。塔の左側面に刻まれていたのだろうか。庚申塔の台の左側面にくっつくように立つのは 馬頭観音塔 天保7(1836)やはり側面が確認できないため詳細はわからなかった。一気に塚越地区をやってしまうつもりだったのですが、ボリューム的にちょっと無理でした。続きはまた明日・・・・
2015.05.20
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は蕨市南町の庚申塔を見てみましょう。飯倉家庚申塔 蕨市南町4-5下蕨公民館のすぐ東の交差点の北東角にある住宅の庭園の中、ブロック塀の裏のあたりに立派な庚申塔が立っていた。庚申塔 寛政4(1792)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく全体のバランスもよく美しい。頭上に蛇、三眼の青面金剛、足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は大型でコミカルな表情を見せ、三猿は額のしわまで表現されている。塔全体の状態もよく、よっぽど大事にお世話されてきたものなのだろう。塔の右側面に年号。左側面には 右ハぜんかうじ道と刻まれていた。台の右側面に講中二十一人 願主 個人名。台の正面 右には四行に分けて28文字の銘文が刻まれ、その左脇には 右 ぜんこうじ道。二ヶ所に刻むのはあまり見ない。脇に立つ蕨市教育委員会の解説板。銘文の意味などがわかりやすく大変親切だ。亥子角(いねずみ)堂墓地 蕨市南町3-27JR京浜東北線の線路沿い、蕨第一中学校あたりから西川口方面に歩くと、角のところに亥子角堂の墓地がある。その塀の中に庚申塔が立っていた。庚申塔 元禄14(1701)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足の両脇に二鶏を彫る。足元には邪鬼が見えるがあまりはっきりせず存在感が薄い。光背右には年号。左に武州足立郡戸田領塚越村講衆と刻まれている。「塚越」は現在ではJRの京浜東北線の東の地域の町名になっているが、現在の中央、南町などの地域は昭和の時代まで大字塚越と称していたようで、江戸時代には塚越村は相当大きな村であったらしい。下部には正面向きの三猿。その下に十数名の名前が刻まれていた。蕨市の石仏シリーズもいよいよ次回で最終回。これで戸田市・川口市・蕨市とさいたま市の南に隣接する地域をほぼ回ったことになります。次はいよいよ岩槻区にしようかと思って準備をしているのですが、やはり遠い地域なのでゆっくり時間が取れる日曜日しか使えず、まだ少し時間がかかりそうです。さてどうなるでしょうか?
2015.05.19
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は蕨市中央にあるふたつの寺院を訪ねてみましょう。宝樹院 蕨市中央2-10蕨駅西口から南に歩き、中央土橋通りに入る。中央二丁目交差点を左折し、すぐまた細い道を右折すると宝樹院の入り口がある。参道の左側に小堂が立っていた。小堂の中には 地蔵菩薩立像 安永3(1774)が祀られている台の正面 大きな字で「三界萬霊」両脇に造立年月日を刻む。小堂の左には 大乗妙典六十六部供養塔 正徳6(1716)中央を彫りくぼめ、上部に卍下部に蓮の花を浮き彫りにする。中央「奉納大乗妙典六十六部供養」その両脇に天下泰平 國土安穏。右脇に武州足立郡戸田領下蕨、左脇に願主 廻國僧木嶺宗源。江戸時代は全国的に廻国僧や修験僧の活動が盛んだったようだ。塔の右側面に年号。左側面「奉造架要害石橋萬人講供養」久々に「萬人講」石橋架設のために広くお布施を求めたということだろうか。三蔵院 蕨市中央2-30宝樹院の南東100m位のところ、細い道沿いに三蔵院の入口がある。境内に入って本堂の左側に墓地がある。その入口に二つの小堂が立っていた。六地蔵菩薩立像 嘉永2(1849)像の様子からほぼ一緒に奉納されたものと思われる。それぞれの台に、年号、世話人名などが刻まれていた。中に「下蕨講中」とある。隣には地蔵菩薩立像 享保9(1724)台に年号とともに施主 蕨里 個人名を刻む。墓地の奥のほうに無縁仏が積み上げられていた。そのさらに奥には四基の石塔が並んでいた。手前左 二十三夜供養塔 文政13(1830)正面「廿三夜供養塔」その脇に天下泰平國土安穏。下の台には白カビの中に十数名の名前が刻まれている。塔の左側面に年号。右側面には 西 川口ぜん加うじミちと刻まれていた。その右、正面が完全に剥落した石塔。右側面に文久2(1862)の銘が見える。左側面に足立坂東二十一番とあった。足立坂東三十三ヶ所霊場であることを示したもので、以前は山門の付近に立っていたのではないだろうか。奥に百万遍供養塔 天保4(1833)塔の両側面に長い願文が刻まれていた。その隣には笠型の宝篋印塔 天明8(1788)が立っている。塔身に年号。続いて武州足立郡戸田領下蕨郷 三蔵院現住慶傳 同所講中とある。最後尾に石工 伊豆屋藤助と刻まれていた。墓地のほうの見学を終えて山門のところまで戻ると、塀の前に馬頭観世音塔が立っているのに気がついた。上部は剥落していて下部に「馬頭觀世音」と刻む。上部にはそのスペースから馬頭観音坐像あたりの像が刻まれていたと思われる。塔の右側面は全面剥落、左側面には下蕨。左脇に薄く見える字は講中だろうか。
2015.05.18
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら昨日に続いて正蔵院の石仏を見てゆきましょう。正蔵院 蕨市中央6-2境内に入ると正面に本堂があり、その左側が墓地になる。入口付近に宝篋印塔 天明4(1784)が立っていた。塔身に年号とともに上戸田村施主と刻まれている。宝篋印塔の先を右に折れ、墓地に入ってすぐ左手に三基の石仏が並んでいた。昨日見ていただいた参道脇の5基の石塔も以前はここにあったものらしい。手前 馬頭観音立像 宝永5(1708)二臂。顔がつぶれていて様子がわからない。光背右 「皈(帰の俗字)依三宝尊 祈亡畜菩提也」光背左に年号を刻む。参道左の馬頭観音と同じくこちらもおだやかな雰囲気である。足元を見ると右側の文字は施主拾五人だろうか?他の部分はうまく読めないがいずれ確認したいと思う。真ん中 大きな光背を持った観音菩薩坐像?元禄12(1699)光背上部に刻まれているのは大日如来の梵字「バン」と思われる。続いて両脇に造立年月日、さらに願主 法性海と刻まれていた。頭上の宝冠の正面に五輪塔のようなものが見えるがなんだろうか?光背にも下の台にも願文は見当たらない。「郷土の石佛」の著者 酒井さんに見ていただいたら、この衣服の様子などから観音様ではないかということだった。大日如来の梵字を頂くが、密教の三身説に本体(法身)=大日如来 (報身)=阿弥陀如来(応身)=観音菩薩とあり、観音菩薩も大日如来の化身ということらしい。基壇の上に花ビラを彫った豪華な台、さらに蓮台の上に坐像が載っている。像の手の部分、特に左手が欠けていて、その手になにかを持っていたのか印を結んでいたのかは定かでない。印しだいによっては大日如来の可能性もあるようだ。頭上の立派な宝冠も大日如来にふさわしくも思えるのだが、本当のところはどうなのだろう?台の正面に二段に20名の名前が刻まれていた。こちらも女性中心の講のようだ。右 地蔵菩薩立像 宝暦11(1761)二段になった台の上に立っていた。頭部に円形の光背。右脇に「南無地蔵大菩薩」左脇に年号が刻まれている。台の正面には武州足立郡 戸田領下蕨 講中 二十二人と刻まれていた。
2015.05.16
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は蕨市中央の正蔵院の石仏を見てみましょう。正蔵院 蕨市中央6-2前回紹介した三基の石塔の立つ信号交差点から蕨駅方面に歩く。150mほどして細い道を左折するとまもなく正蔵院の入口に着く。この細い道をさらに進むと突き当たりは中央小学校になる。参道の左側、5基の石仏が整然と並べられていた。左から 馬頭観音立像 享保17(1732)慈悲相二臂。小さいがバランスがよく、民芸品のこけしのような味わいがある。頭上に馬頭をのせ、馬口印を結ぶ。光背右上に梵字「カン」を刻み、続いて「馬頭観音為現世菩提也」光背左年号の下に下蕨施主とあり個人名が刻まれていた。2番目 庚申塔 元禄15(1702)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが目立つ。後上の右手に羂索を持つ。顔のあたりは風化のためにあまりはっきりしない。光背右「奉供養庚申講中」左には年号が刻まれていた。足の両脇には二鶏が線刻されているが、その足元に邪鬼の姿は見当たらない。塔の下部にひな壇のような窪みを作ってその中に三猿を彫る。その下の部分には施主だろう、十名の名前が刻まれていた。3番目 庚申塔 宝暦3(1753)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭上から足元の邪鬼まで、こちらも白カビに覆われている。ふくよかなで人間のような風貌の青面金剛からは比較的穏やかな印象を受ける。足の両脇に二鶏。足元にはラフな邪鬼が彫られている。その下に猿は二匹しか見えないが、もともと三猿で真ん中の猿が風化のため無くなったのだろうか。塔の右側面が平に削られて、そこに銘が刻まれていた。上部には年号、その下右脇に武州足立郡下蕨村、左に講中二十六人と見える。4番目 庚申塔 正徳4(1714)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。比較的きれいだ。頭上に蛇がターバンのようにとぐろを巻く。光背右「奉供養庚申」左には年号。足元の様子は隣の庚申塔とよく似ている。三猿の下に施主とあり、続いて10人の名前。両端に漢字名、他の8人はおひさ、あたつなど頭に「お」が付く女性名だ。一番奥 庚申塔 宝永8(1711)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。ここでは唯一の角柱型。立派な唐破風笠付きの大型の庚申塔。塔の下の台は二段になっていて、上の台の正面に三猿が彫られている。近づいて見ると全体に風化のために彫りが丸くなってしまいはっきりしない。後ろの二組の腕の付き方がちょっと変わっている。足の両脇に二鶏。足元に邪鬼。その下の部分、ブツブツと小さく穴がいくつか見えるがこれは文字だろうか?塔の右側面 蓮の浮き彫りの間に年号が刻まれていた。蓮の茎のあたり、こちらも正面と同じように小さく文字らしいものが見える。施主名かもしれない。塔の左側面 上部に正月吉日。下部には講中と刻まれていた。長くなりますので、境内の石仏については次回にします。
2015.05.15
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は蕨市の路傍の石仏を見てみましょう。私立病院西路傍 蕨市北町2-18三学院を出て東に歩くとT字路に突き当たり、ここを左折するとすぐ左手路傍に小堂が立っていた。道路を挟んで筋向かいには私立病院がある。庚申塔 上部が欠けている。日月雲。中央に「(奉)建庚申支提」その下に存在感のある三猿を彫る。三学院の貞享元年の庚申塔と同じく、三猿付の文字塔というより三猿を主尊とする庚申塔というほうがしっくりする。両脇に造立年月日を刻む。蕨郵便局北路傍 蕨市中央5-9-8中山道の蕨駅入口交差点の東、蕨郵便局の裏の細い道の四つ角に祠が立っていた。中に聖観音立像 元禄6(1693)光背右に大きく天下泰平 國土安全と刻まれている。中央6丁目交差点角 蕨市中央6-14-1中山道の蕨警察署入口交差点の東、中央土橋通り蕨警察署前交差点の一つ北の信号のある交差点角、住宅の壁のところに三基の石塔が祀られていた。左 馬頭観音塔 大正3(1914)正面「馬頭觀世音」左側面に施主 個人名を刻む。中 庚申塔 明治44(1911)上部に日月雲。中央に「庚申塔」と刻まれている。造立は隣の馬頭観音塔と3年しか離れていない。塔の右側面に年号。その脇に施主 個人名。左側面には是れより 東 川口町西 わらび町 南 とだばし 北 蕨てん車場 とある。立派な道標だったようだ。右 不明塔。前面も側面も剥落のために文字を確認できない。ここに一緒に並んでいるのだから、家のかたに尋ねてみれば詳細がわかるのだろうか。
2015.05.14
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら三学院の石仏、前回の続きです。三学院 蕨市北町3-2-4参道を進むと正面に仁王門。西のほうには長屋門もある。仁王門の右手、涅槃門を入って塀の外を回ると奥には大きな墓地がひろがる。その入口付近、塀の前に石塔が並んでいた。一番左に庚申塔 貞享元年(1684)古い板碑型庚申塔。上部に破損が見られる。日月の間に「庚申供養支提」右脇に年号。左脇に武州蕨上宿衆 敬白と刻む。下部に三猿を彫るが顔が大きめで猿らしくない。三猿の下には十数名の名前。四番目に庚申塔 明和6(1769)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。大きな唐破風笠を持つ。下の台の正面に三猿が彫られていた。像全体に風化が見られ彫りははっきりしない。頭の上では蛇がとぐろを巻く。膝の辺りで石の色が変わっているがなぜだろう?ちょっと不思議だ。足元には猿のような顔をした邪鬼。二鶏の姿は見当たらない。塔の右側面に年号。左側面、下部に願主 個人名を刻む。下の台の両側面に小さな字が並んでいる。端のほうには講中と刻まれているので人名だろうか。仁王門をくぐると正面に雄大なスケールの本堂。境内は手入れが行き届いている。本堂の右脇に立っている弘法大師立像も本堂に合わせて巨大だった。本堂の左には三重塔。大寺院らしい風格を感じさせる。 本堂の右手に新しい阿弥陀堂。その裏に多数の宝篋印塔が並んでいた。手前のほうに何段にも基礎を重ねた上に鏡型の塔身を持つ石塔が立っている。木食観正塔 文政4(1821)塔身には大日如来の梵字「ア」蓮台に2頭の狛犬を彫る。基礎の正面を彫りくぼめた中に「木食観正」と刻まれていた。二段になった基礎の台の両側面には多くの人たちの名前と村名が刻まれている。解説板によると蕨宿など3宿27ヶ村297人の人たちによって造立されたという。右側面の一番奥には蕨宿の石工の名前が刻まれていた。自信作なのだろう。たくさんの宝篋印塔が並ぶが、蕨市指定文化財になっているのは二基。こちらは宝篋印塔 寛政9(1797)大きな基壇の上に立つ。塔身に梵字で金剛界四仏を表し、基礎には造立銘や経文などが刻まれていた。その下の台には凝った彫りが施され、各側面に唐獅子が刻まれている。また、後ろの面の端のほうに 江戸霊岸嶋 新川の石工の名前が見られた。奥のほうに宝篋印塔 宝永2(1705)解説では全高3.9mということだが相輪が大きくそれほど高くは感じられない。早い時期のものなので外反した隅飾を持っている。塔身にやはり梵字で金剛界四仏を表し、基礎の各側面には銘文が刻まれていた。右側面の銘文の中に造塔石工 江戸浅草平右衛門町 平野吉郎兵衛と見える。
2015.05.10
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は蕨市北町の三学院の石仏を見てみましょう。三学院 蕨市北町3-2-4旧中山道の三学院入口付近に石塔が立っていた。宿場町として栄えた町らしくいろいろなところに史跡案内図、解説板などが設けられている。山門手前右手に二基の大型の石塔が並んでいる。午前中に訪れるとどうしても逆光になってしまい、なかなかクリアな写真が撮れない。右 鋪石供養塔 文久3(1863)鋪石供養塔というのは、さいたま市西区の高城寺の山門近くで見かけたのが最初だったが、鋪=舗の旧字で「敷く」という意味、敷石供養塔と同じということのようだ。塔の左側面には塚越村から小谷場村まで近隣の12の村の名前が刻まれ、その下に大きく檀中と彫られている。さらに最後に蕨上下郷中と刻む。右側面下部に大きな文字で蕨宿中と彫られていた。また、下の台の側面には多数の名前が刻まれている。左 馬頭観音塔 寛政12(1800)正面の梵寺は「南無馬頭観世音」と読むらしい。塔の左側面に足立・坂東 第二拾番 三學院。観音霊場であることを示している。右側面 右脇に薄い彫りで年号。続いて當所馬持中。左下に太い彫りで「講中」台の正面には1頭の馬の姿が生き生きと彫られていた。山門を入り参道を進む。正面に仁王門、さらに左手に三重塔、その奥に大きな本堂が見える。参道の右側に地蔵堂が立っていた。この堂の付近はいつ行っても脇のベンチでくつろいでいる人たちがいて、お地蔵様に参拝する人も多い。入口から 地蔵菩薩立像 万治元年(1658)通称「目疾地蔵」目に味噌を塗り付けてお祈りすると目の病気が治るということらしい。ここも何回か訪ねたが、素顔を拝見できることは少なかった。なかなか美しいお地蔵様。錫杖の柄の一部を欠く。光背の文字は薄く、ゆっくりと字を確認したいのだが周りの人たちが気になって思うにまかせない。入口にあった蕨市教育委員会の解説板。その隣 六地蔵菩薩立像。こちらも非常にきれいな状態を保っている。一番奥に大きな地蔵菩薩立像。堂の構造上、後ろが明るく堂の中が比較的暗いため顔の表情がきちんと写らない。腕の問題もあるのだろうが・・・堂の入り口近くに常夜灯 元禄14(1701)が立っていた。円筒形の竿部にかすかに文字が見えるがこれもうまく読み取れなかった。再チャレンジしてみたい。古刹 三学院 まだまだ見所が多く一回では終わりません。続きは次回に・・・
2015.05.08
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は錦町の路傍の石仏を見てみましょう。大日本印刷北T字路 蕨市錦町4-3-13付近堂山寺から南の方向に歩くと大きな印刷工場がある。その北東の付近、T字路の突き当たりに稲荷神社の鳥居が見えるが、その脇に庚申塔が立っていた。雨よけの下 庚申塔 文化13(1816)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。像全体が風化のため丸みを帯びている。ショケラは小さな手で合掌しているが一見ミノムシのような形で面白い。足元の邪鬼も独特な表情を見せている。台の正面に彫られた三猿が秀逸。腕を振り上げ、棒を担ぎ、また杖を突きつつ三匹の猿は楽しげに行進中のように見えた。ここの邪鬼と三猿は早瀬二丁目の墓地で見かけた庚申塔とよく似ている。上の写真は戸田市早瀬の墓地の庚申塔 文化12(1815)。(2014.11.25の記事)細かく見ると若干の違いはあるが、造立年も一年違いでもあることだし、何らかの関連があることは間違いなさそうだ。塔の右側面に年号。脇に世話人 講中と刻まれている。市立図書館分館南路傍 蕨市錦町3-10蕨市立第二中学校の東に市立図書館分館がある。そのすぐ南、四つ角にある住宅のブロック塀の前に庚申塔が立っていた。庚申塔 造立年不明 正面「庚申神」右脇に年と見えるがその上の部分が削れていて読めない。塔の左側面には はやせ 大山道と刻まれている。右側面 美女木 □きまた道。道満河岸から引又へ向かう道筋だったのだろうか。若干はなしがそれるが、この石塔の上部には大きく二つの穴が穿たれている。時々こういった石塔を目にするがいったいこれはなんだろう?塔の正面だったり台のほうだったり、ときには塔全体にわたっていたりする。上の写真はさいたま市見沼区膝子の稲荷社の前の庚申塔。穴は塔の裏にまで及んでいた。こうなるともはやいたずらなどというレベルではなさそうだ。錦町二丁目交差点西三角地 蕨市錦町3-1-7中山道の錦町二丁目交差点から西に歩いてすぐ、右手の三角地、道路沿いに派手な青色の雨よけが立っていて、その下に石塔が並んでいた。ここからさらに西に歩くと上の庚申塔のある場所に出る。右 板碑型の庚申塔 延宝8(1680)塔の前に草が生い茂り、写真が撮りにくい。上部に日月。中央の文字は薄い。中央に「奉彫建庚申支提」両脇に年号。その下には二鶏と三猿。二鶏が主尊のような扱いというのはあまり見ない。中央 この石塔には文字が見当たらなかった。正体不明塔が中央とは・・・なにか意味のある石塔なのかもしれないがよくわからない。その左 小ぶりで真四角、直方体の庚申塔。中央「庚申塔」一部は土に埋まる。右側面 嘉永甲虎秋。嘉永7(1854)のものらしい。その前にさらに小さな石塔。正面「庚申」右脇に汝と見え、左脇に漸々。こちらは半分近くが土の下に埋まっているようだ。
2015.05.06
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日から蕨市の石仏を見てゆきましょう。堂山寺 蕨市錦町6-5-12JR埼京線の北戸田駅の東500mほどの住宅街の中に通称「堂山寺」がある。明治4年に廃寺となった東光寺の不動明王をお堂に安置し、地名より堂山寺とよばれるようになったものらしい。入口から正面をのぞくと墓地が広がっている。入口の左側に石塔が並んでいた。左には唐破風笠付角柱型の庚申塔 寛保4(1744)笠の正面には卍が刻まれている。塔の正面上部に日月雲、中央を舟型に彫りくぼめて、その中に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。台は花を浮き彫りにした凝った作りになっている。青面金剛はかなり丁寧に彫られていて、全体のバランスもよく美しい。髪型が川口型に通ずるものがあるが、腕のつき方はノーマル。頭部の脇は蛇だろうか。足元に邪鬼と三猿を彫る。二鶏は見当たらない。塔の右側面に「奉造立庚申尊像二世安樂所」左側面には年号。その下部に武州上蕨村 講中敬白と刻まれていた。下の台の三面に渡ってそれぞれ二段に、カナで名前が刻まれている。正面が40名。左側面は途中から一部が土に隠れてしまい確認できない。資料によると計113名。カナの名前は女性だと思われるが、下蕨村に何人くらいの女性がいたのだろう?右 敷石供養塔 弘化3(1846)正面中央に「敷石供養塔」と彫る。右側面に年号。左側面 世話人 上蕨若者中 願主 木圓と刻まれていた。その後に六地蔵の堂が立っている。脇に石仏が並ぶ。堂の中の六地蔵菩薩立像。扉はしっかり閉まっていて近づけない。隙間から覗いてみたが銘は確認できなかった。堂の前に 庚申塔 寛文10(1670)舟型の光背の上部に豪華な天蓋を描き、その下に薬師如来立像を彫る。なんと美しいのだろう。江戸時代初期の作品とは信じ難い。光背右「奉起立庚申為逆修菩提」光背左に年号。下部両脇に信心 施主と刻む。下の台の正面に18名の名前が刻まれていた。実際は線香立てのため全体像は確認できない。蕨市指定文化財ということで説明板が立っていた。隣に大きな地蔵菩薩立像が立っているが、こちらは像、台いずれにも銘は見当たらなかった。墓地の南側の一角に庚申塔 正徳6(1716)が立っていた。上部に日月雲。梵字。中央に「奉建立庚申」両脇に年号を刻む。地面ぎりぎりに三猿の頭部だけが見える。結構多くの部分が埋まっているようだ。
2015.05.04
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