雀坊の納戸~文鳥動向の備忘録~

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2023年08月11日
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カテゴリ: 文鳥動向の備忘録

​​​無理に水浴びしようとするコジと見習おうか考え中のモモ​ ​​

 お盆は忙しい。小鳥の宿泊客が多いからである。
 そのような中、ヒノに三日と開けずにトウモロコシを与えるのが強迫観念となっていて、今日死ぬか明日死ぬかと気にかけながら一週間が過ぎた。まだ存命である。

 ところで、お盆で地方の実家に帰り、先祖の霊とともに過ごして、送り火でお帰り頂くのが、日本の伝統であった。もちろんそのような意識は薄れ、お盆休みは先祖の例と一緒か置き去りにしているのか知らないが、旅先で過ごす人が増えている。
 そのような中で、なぜ事故現場で慰霊しようとする家族がいるのか、毎年不思議に思えてしまう。なぜなら、事故現場に何かいるとすれば、それは供養されずうらやましがっている、いわゆる地縛霊で、そうはさせないためにお墓に埋葬し位牌に御霊を移して供養することになっているはずだ。つまり、供養する遺族としては、事故現場には何も残してはいけないのである。
 もちろん、事故現場を住居とする赤の他人は、そこで死んだ人の念が残って地縛霊になられては困る(ような気がしている)ので、事故現場に供養塔などを建て、適度に供養もするだろうが、すでに亡くなった人の遺したものを持ち帰った遺族の知ったことではないはずである。そのように、遺族がいて供養しているなら、現場は無関係なのが、伝統的な日本仏教の理屈なのである。
 いつから事故や災害の現場に意味を見出すようになったのであろうか。不慮に亡くなった人はそこで死にたかったわけでもなく、そのような場所に行ったことも存在も知らなかったはずで、そのようなはっきり言って無意味な場所に遺族が位牌を留守宅に残して出かけねばならないと強迫観念を持ってしまうのはなぜだろう。その宗教的な理屈がわからない。奇々怪々、情緒的行動としてもその情緒がどこから形成されるものなのか考えたいものである。
 土地の供養は地元の人にまかせ、慰霊は静かにご自宅でなされるのが伝統的価値観なので、その点を間違えない方が良いかと思う。





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Last updated  2023年08月11日 10時32分26秒
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