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一昔前の密室談合同然の手法で、野党第一党が代表を選出し、たまたま見つかっただけの神戸が悪者にされ(熱心な医師が偶然詳細検査に出しただけなのに、神戸だけが特別ですか?「科学的」なら簡易検査でA判定を受けたかなりの数を詳細検査に回すようにし、どの程度蔓延しているか調べたらどうです?そして蔓延していたら、みんな自宅待機するのですか?まだ日本人の感染者に重篤患者すら出ていないのに)、定額給付金の支給はまだ受けていない本日ただ今、アート・ルキサンさんに注文した絵画が届いたのでした。 今回は、50cmx40cmくらいの大きさの絵とより小さい文鳥の絵を探しておりました。 50cmx40cmくらいの大きさの絵、まさに以前絶賛したARSANAさんの作品はそれだったのですが、わりに日当たりの良い場所に飾る予定だったため、絵画や歴史資料の保管についての教育を受けてしまった者には手を出しかねました。日のあたる場所には取り替えの利くものを「展示」すべきなのだ、と言う概念がしみついているわけです。 ARSANAさん文鳥の絵は、私の感覚では取り替えが利かない名作なので、より大事にされるはずの他の人に譲ることにし、文鳥以外の絵である程度形式化されていて取替えが利きそうなTISNAさんの作品を選びました。牧歌的で明るい絵で、自転車というのが良いところです。なぜなら私のお店は自転車操業だからですね。実に似合いです。 それは買いとして、文鳥の小さな絵の方で悩みました。これについてはGAMAさんのオッポナ文鳥取り合わせに心惹かれたのですが、自室の源頼朝の肖像画(昔、国立博物館で購入した美術印刷物)のはす向かいに飾る予定のため、バリ的な額縁の画は似つかわしくないように思えました。また、その飾る予定の場所が頭上で少し離れているので、近づいて楽しむべき作品は適当ではないような気もしたのです。 そこで、これも以前からチェックしていた、ワイルドに稲穂を食い散らす文鳥の姿とシンプルな額装と価格が魅力的なOKAさんの作品にしました。 結果、我が家のキュレーターとしては見事なチョイスでした。TISNAさんの作品の実物は、アクリル絵の具ながら塗りが厚く油絵のような立体感があり、近くで見ても見ごたえがあります。階段を下りる際は正面にあって近づいて見ることになるのですが、力強くそれでいて明るい画面が素晴らしいです。OKAさんの作品の実物は近くで見ると文鳥の表現が少々荒いですが、少し離れて見ると、文鳥が浮き出してきて印象が変わりました。青い空に緑の稲穂に文鳥と緻密で重層的な深みのある絵になるではありませんか! そういったわけで、今回も満足でありました。
2009年05月16日
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政治に裏表があって当然ですが、裏のことは表に現さないのが本当の政治家だと思います。これが政治屋となると、二枚舌、三枚舌を使えば自分の幅が広がっていると勘違いし、ペラペラしゃべくって朝令暮改、まともな国民をうんざりさせてくれます。 まだご存命ですが、自民党幹事長代理であった野中広務氏は、1996年の総選挙(10月20日第41回衆議院議員総選挙)で自民党が過半数割れに終わった結果を受け、「責任を取って職を辞す」とテレビカメラの前で「男らしく」明言されていたにもかかわらず、職を辞さないばかりか、「失われた十年」を演出する与党最大の実力者であり続けました。 ご本人は国事のために奔走した結果なのでしょうが、テレビ画面を見ていた一般国民からすれば「武士に二言なし」にもとる行為に他ならず、責任の所在も明確にせず、自分の権勢欲のためにひたすら動いているように見えたものでした。 民主党の鳩山由紀夫氏は、あくの強さでは野中氏の足元にも及ばない印象ですが、自分の言葉を棚上げし、責任の所在を明らかにすることなく政治活動を続ける点では共通しているようです。そもそも鳩山氏は、亡くなられた某議員が、あまりにも稚拙な偽メールを元に政府を糾弾して、かえって党の信頼を失墜させ、代表の前原誠司氏が辞任した2006年の騒動の際、党員を束ね代表を支える幹事長であり、「責任を取って職を辞す」とテレビカメラの前で「男らしく」明言されていました。ところが実際には、次の小沢一郎代表の下で幹事長として留任し今日に至っています。 メール事件があそこまで紛糾したのは、テレビ画面で見る限り、きらびやかな経歴のわりにはお調子者と言うか、何でもかんでも政府を悪としたり陰謀と考えたりしたがる幼児性がありのうな某議員に対し、早期にそれをたしなめられなかったどころか、一緒になって政府批判をしようとした代表以下民主党幹部の軽率な態度にあったように思います。早期のうちに、筋が悪いとして止められる「おとな」の幹部がいれば、某議員もあそこまで追い詰められることはなかったように思えます。そして、当時最も「おとな」であるべきだったのは、年長の鳩山氏であり、その監督責任は重大だったのではないでしょうか。代表が辞めるから自分も辞めるのではなく、自分自身の不明に責任を感じるのが当然だったように思います。従って、テレビ画面を見ていた一般国民からすれば「武士に二言なし」にもとる行為以前に、責任の所在も自覚しない破廉恥な行為として、その留任は見えてしまったものです。 当時小沢氏を支えて挙党一致をはかるには、役職に留任しなければならなかったなどといった言い訳は無意味です。責任を果たしてから復帰すれば良いだけで、人のうわさも七十五日くらいは、蟄居謹慎するなり四国にお遍路さんに出れば良く、それがけじめであり、政治的に言えば禊を果たすことであり、それすらしないのは、理由付けによる責任回避以外の何者でもないでしょう。 そして今回は、一蓮托生としていた小沢一郎氏が代表を辞任され、当然幹事長も辞めるべきですが、何と、辞めてさらに上の役職である党代表になると言うのですから驚かされます。さすが、戦前の保守政治家以来のお家柄、音羽の豪壮な雨漏り御殿に居住して、ハート型プリントのシャツなど着る御仁は、一般民衆とは違った感覚をお持ちのようです。いやあ、国事のために自分の責任を棚上げし、テレビ画面を見るしかない下賎の者に破廉恥と思われながらも、政治活動を続けるとは、道義や道理を心得るものならさぞつらいことでしょう。野中氏と比肩すべき大政治屋には、一国民として頭の下がる思いがします。是非、代表となられて、世間の風をまともに受けられることを願うところです。 なお、鳩山氏は「~させていただく」との言葉をよく用いられますが、大多数の国民があなた様に特に何かしていただこうと思ってはいないので、気味の悪い言い回しです。 大政治家は、大所高所に立って自分が国事のため良かれと信じることを行い、その審判を国民に仰ぐのが民主主義のはずですから、他人にやらされているかの如き言い回しは、立場上、丁寧と言うよりも主体性や責任感の欠如を表していると誤解されてしまう面が大きいのです。もっとも、すでに責任感の欠如を行動で印象付けていらっしゃる氏にとって、あまりにピッタリな言葉遣いとなっているから不思議ではあります。
2009年05月15日
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もともと風流からほど遠い私は、「花なんてよく見るとかわいくない」とか「盆栽なんて不自由そのものだ」とか「絵なんて飾る場所を作るのが面倒だ」とか思っていたわけです。もちろん基本的にその考えは改まらないのですが、文鳥を機縁にして花を植えたり盆栽の枝を切ったり絵を楽しむようになっています。 機縁、文鳥のプランター墓地に盆栽と草花を植えるため、文鳥が描いてある絵があったため、です。何と単純なのでしょう! それで、まず盆栽の話です。 「文鳥墓苑」には、白南天(シロナンテン)と天乃梅(テンノウメ、別名天皇梅)が植えられています。当初は皐月(サツキ)だったのですが、無知な私が肥料代わりにボレー粉を撒いたことで土中のアルカリ性が高くなり枯らしてしまったため、アルカリ性土壌に強いらしいテンノウメに植え替えたのですた。 ナンテンとテンノウメを選んだのは、冬も葉が残り枯れ木状態にならないからですが、その後枯れ木状態も自然で良いかと考えが改まり、昨年の初春に富士桜(フジザクラ、別名御殿場桜)と姫沙羅(ヒメシャラ、別名小夏椿)を試しに購入してみました。花は咲かなかったものの葉が生い茂って順調だったのですが、昨年10月に春には咲かなかったサクラが開花し、11月には一度落葉したヒメシャラから新芽が出てきました。どうやら気温が例年より暖かな日が多く、なおかつ使わないエアコンの白い室外機の上は、金属製のため日光で熱せられやすく、日光の照り返しも起こってしまい、木の季節感を狂わせてしまったようです。この異常から立ち直れなかったらしく、現在サクラもヒメシャラも枯れ木状態で芽吹く様子がありません。 同じ環境でも、一昨年からある木瓜(ボケ、品種は高嶺錦)はめげずに今年も花を咲かせましたが、それだけではさびしいので、3月に白梅をホームセンターで買い、さらに2週間ほど前に銀露梅(ギンロバイ、別名白露梅、白花キンロバイ)と百日紅(サルスベリ)のミニ盆栽をインターネットで取寄せました。 そのギンロバイが、今日、最初の白い花を咲かせてくれたのですが、葉の形といい花の姿といいなかなか好みに合うので、数年後まで無事に成長してくれたら、墓苑のナンテンと交代させるかもしれません。 続いて草花の話です。 現在「文鳥墓苑」には矮性撫子(ナデシコ)が植えられています。このナデシコは余り背が高くならず、ピュアレホワイトなどという品種名で基本的には真っ白な花が咲きます。実際は、重イオンビームで元々赤く発色する部分を人為的に消しているためか、たまに赤い色が混ざる花も見受けられますが、お墓には白い小花、と言った趣味にいちおう合致していて満足です。 いろいろな草花を植え変えている間(アレナリアモンタナ、キンギョソウ、オキザリスのパーシーカラー、白いジュリアンなど)、他の鉢植えで弱々しいながら枯れずにいたので、初春に植え替える気になったのですが、弱々しかったのであまり期待はしていませんでした。ところがやたらと土があったらしく、現在恐ろしい勢いで繁茂しています。夏にどうなるかわかりませんが、枯れきることが無ければ、定番となってもらうつもりです。 最後に絵です。 絵については、日本の学芸員資格が『キュレーター』を意味しないことを示す典型例であるため、まるで審美眼などないわけですが、昨年末から文鳥を描いた作品が多いバリ島の花鳥画(プンゴセカン)のにわか愛好者になり、たびたびこのブログでも紹介しているところです。もちろん今現在も、バリアートの専門店アートルキサンさんの更新を楽しみにしていて、一目見てのどから手が出たARSANAさんのあの『文鳥とプルメリア・オレンジの空』が売れているのにも早々に気づき、さすが見る目のある人は多いものと感心していたのでした。 早い者勝ちなので、悠長に構えていると売れてしまうわけですが、すでに2作品を手中にしている私には精神的余裕があるため、他人が文鳥絵画を飾って精神的に豊かになったり、お店などに飾って文鳥の素晴らしさ多数に知らしめてくれるものと期待する気分になっています。当然ながら、これは個人的に探している条件に合い何が何でも、という作品があれば誰にも情報を漏らさずさっさと購入します。これは探している時に望みの文鳥に会えば、ペア売りだろうが何だろうが店主を黙らせて強引に買ってしまうのと同じことです、そして、条件なり観点は人それぞれですから、個人的には「何が何でも!」と言うほどでもない場合は、他人に情報として提供するのが世の習いのような気がします。 そこで、アートルキサンさんには他にも心惹かれる絵が多々あるので、あわてず他日を期していろいろ見て回った結果を書いておきます。つまり、気になった作品です。まずプンゴセカンとしては、チョークディーナというお店のコチラの作品が心惹かれました。特に目が文鳥らしく思われ、花も南国調で綺麗です。次に日本画としては、前も紹介したかもしれませんが、掛軸.comさんが扱う島田恒鳳さんのコチラの作品。丹念に描かれた文鳥と夏椿、・・・盆栽のヒメシャラが枯れてしまったのが悔やまれます。このお店には、手ごろな印刷物の色紙の文鳥もあり、微妙に図案化しつつも表情が豊かそうで手にとってよく見たい気持ちにさせられました。そしていちおう洋画の範疇としては、ART-Meterさんの扱うコチラの作品が目に止まりました。売れ残ってしまっているようですが、月を見上げる文鳥の物静かな瞳が印象的ではないでしょうか。 以上、特に意味もなく文化的な取り留めの無い話を書きなぐって、ゴールデンウィークも終わるのでした。
2009年05月06日
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国の新型インフルエンザに対する行動を見ていると、いつもの事ながら、一般国民の視点に欠け、また非効率に思えてしまう点がある。 今回のインフルエンザは、普通の季節性インフルエンザ化するだけのものと考えられそうなので(何をしようと時期が来れば流行すると思っている)、個人的には何もせずに放置していて良いと思うのだが、高病原性のインフルエンザなり感染症に対するモデルケースとして格好の機会となるはずなので、細かい点を改善して欲しいと思う。 まず感染拡大を防止する(インフルエンザのような感染力の大きなものでは、遅らせるのが精一杯)のに必要な対策は、いわゆる「水際対策」で、具体的には空港等の検疫強化で感染者を国内に入れないことだろう。もちろん、今現在検疫間を増員して『発症者』がいないか目を光らせてくれている。 しかし、誠に遺憾なことだが、インフルエンザなどの感染症には潜伏期があるため、感染していても発熱などの症状がまだ現れないケースが多々存在する。従って、本来なら一定の期間隔離して発症しないか確認する必要があるのだが、日本に入国する一日数万の人間を、一週間程度隔離検疫することなど物理的に不可能だ。そこで、次善の策として、少なくとも日本に居住する人たちの帰国後の追跡調査が必要になってくる(短期滞在の外国人には出来そうもないので、水漏れの激しい対策でしかない事に留意)。具体的には、その帰国者に一週間以内に異常が起きたかどうかを把握することで、そのため↓のガイドラインに沿って、現在は帰国者に空港機内で調査票を提出させ、それを地域の保健所に通知しているらしい。追跡調査の実際の業務は、帰国者の居住地を管轄とする保健所などの出先機関が受け持つことになるからだ。【新型インフルエンザに関する検疫ガイドライン】http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/pdf/09-02.pdf ところが仄聞するところでは、人手不足のため、空港で集めた調査票を出先機関に送付する(ファックス通知か?)作業が遅れているらしい。これは何ともお粗末だ。日に数万の処理が必要なことなどわかりきっているのに、準備していなかったとはどういうことだろうか? そして、あわてて検疫官なり係官を増員しているわけだが、そもそも調査票の送付など、記入者に封筒も配ってしまえば済むように思える。出先機関の住所をプリントして渡し、記入者に自分の居住地の出先機関を記入してもらえば良いだろう。検疫官は記入内容をざっと見てその場で封をして、速達に回してしまえば、二度手間にならず、貴重な人員を割かずに済むし、余計な事務費が必要でなくなる。 当然の帰結としてインフルエンザが蔓延した場合、さらなる拡大を防止するためには、感染者一人一人が留意して、他の人になるべくうつさないようにしなければならない。具体的には、発症した人が気安くひょいひょいと普通の病院に行き、待合でひしめく一般患者にうつすのを阻止する必要がある。 もちろんお国(厚生労働省)は、↓のように「感染した可能性がある方で発熱や咳の症状があるかたは、直接医療機関を受診せず、下記のリンク先を参照し、各保健所等に設置された発熱相談センターにご相談ください」と広報している。つまり、感染を自覚して、他人に迷惑を掛けないように、まずは窓口に連絡して、受け入れ態勢の整った場所で診察を受けてもらわねばならないし、そのようにしなければならないと、国民一人一人が自覚しなければならないのだ。【都道府県による新型インフルエンザ相談窓口】http://www.mhlw.go.jp/kinkyu/kenkou/influenza/090430-02.html しかし、待ち行く人、今現在「新型インフルエンザ怖い」と何となく思っている人たちが、この窓口の存在を知っているだろうか?正直言って、私は自分が相談すべき福祉保健センターの電話番号など知らなかった。もちろん、発症者が街中に出現している状態で、万一にも自分が感染したと思えたら、調べて電話しようとは思っていたが、調べるまでは知らないのである。 インターネットなどで自分で調べられる人は良いが、特にお年寄りでインターネットを使いこなす人がどれほどの比率で存在するだろうか?はっきり言ってしまえば、人間は年をとれば適当にボケておめでたくなるのが現実だろう。それは、あれほど「振込み詐欺に注意を!」と執拗に、うんざりしきるほど繰り返されているにも関わらず、被害者が後を絶たないのを見れば明白であり、同様の事例は枚挙に暇が無いだろう。例えば、酒乱(30代になって自分の酒量をわきまえないものは皆酒乱と心得ねばならないと思う)で裸踊りをしたとかいう芸能人が、いくら2011年にデジタル化してアナログ放送が終波となると繰り返したところで、その時になってテレビの前で途方にくれる年寄りが五万と出るのは明らかな未来なのである。 世界的に見れば、愚かどころか十分に賢く規律正しい人の多い日本であっても、周知徹底というのは困難なものなのだ。インターネットで公表してるぞ、地方行政府の広報に載せたぞ、くらいではやらないよりマシな程度と肝に銘じて、より徹底した広報が必要だろう。と言っても実行は簡単だ。問題となるのはロートルな情報弱者だから、あくまでも単純に、「発熱したら、下の連絡先に電話を!」というフレーズと、それぞれの地域の連絡先だけをデカデカと印刷して(電話番号など全国共通にして、それぞれの地域ごとに自動的に転送するようにしておくくらい造作も無いはずなのに、そういった配慮すら今のところ出来ていない)、町内会の地域の各班長さんにでも配ってもらい、不自由な年寄りの一人住まいの場合は、ヘルパーさんに電話機の近くに貼り付けるように指導すれば良いのだ。日本はお年寄りほど、日本の伝統的な羞恥心を保っているはずなので、「他人の迷惑にならないように『ここ』に電話するんだよ」、と言っておけば、実にいじらしいくらいの生真面目さで守ってくれる人が多いはずなのだ(このような国は他にないと思う)。問題は、『ここ』と具体的に教えておくことで、その際細かな説明は無用だ。 そもそも普通のインフルエンザなら、幼年と老年の感染が一番危険なのだから、発熱した老齢者はすべて相談の上に受診といった体制を、常時維持しておいても良いだろう。子供も同様で、親よりしっかりしていて順法意識も高いことが多いので(単純だから)、学校で、「他人の迷惑にならないように、『ここ』に電話するんだよ」と先生が教えれば、家庭内で両親に対してさえ目を光らせてくれるのではなかろうか。 せっかくの機会なので、実効性のある対策がしっかり出来るように頑張って欲しいと思う。間違っても、夜中に会見などして、危機感だけをあおるような真似は避けて欲しいところだ。
2009年05月05日
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数年前から鳥インフルエンザで狂騒していたが、何のことは無い、普通に豚インフルエンザの変異から新型インフルエンザが発生した。 断っておくが、マスコミが本日の午前中まで「豚インフルエンザ」と連呼するものだから(どうせ連呼するなら「トンフルエンザ」くらいに縮めてみろ!)、頭の中が空洞でよく響くタイプの人たちが、「豚肉を食べても大丈夫?」などと、まったく馬鹿げた心配をしていたようだが、人から人に伝染するようになった時点で「豚」など無関係なのである。 そもそも、「豚」にしろ「鳥」にしろ、インフルエンザの前にそういった言葉がついている時点では、我々一般ピープルにはたいした問題にならない。なぜなら、豚だとか野鳥に頬ずりする機会がないからだ。感染したくても出来るわけがないではないか。つまり、なぜかメキシコでだけ結構死者がでているらしいこの新型インフルエンザが、豚由来であろうが何由来であろうが、そのようなことは人から人に大規模に感染するようになれば、まるで意味がない。 メキシコで生じたこの新型インフルエンザに対し、どう考えても頭が悪い一部の学者が、パンデミックになったらどうこうと、まったく馬鹿の一つ覚えで不安をあおっていた。しかし、幸いにもただのインフルエンザのようなので、まともな脳みそを持っていれば、気にする必要のない程度のものと見なすしかないだろう。その点、冒頭で「普通に」と書いたように、普通にパンデミックつまり世界的に流行し、普通に被害者を出し、普通に定着するとしか思えないのである。なぜなら、新型で恐れられたのは、いまだかつて無い強毒性になることであったが、発症した旅行者が誰も死んでいないところを見ると、これは「普通」のレベルのインフルエンザ以外の何物でもないからだ。 もちろん、やたら情報を垂れ流すマスコミの諸氏は、それは立派な学歴をお持ちだろうから、むしろ「普通」より毒性が弱かったかもしれない1960年代末の香港風邪、いまやインフルエンザA香港型などと称される当時の新型インフルエンザでも、それが発生した時は50万人程度の死者を出したとされ、アメリカでも約500万人が罹患し約3000人の死者を出したくらいのことは承知していなければなるまい。で、それくらい百も承知のくせに流行したら経済活動を麻痺させ家に閉じこもれなどとSFまがいの主張をする感染学者先生に尋ねたい。1969年に社会は麻痺したのかね?少しは知っておくべきマスコミ諸氏にも尋ねたい。このインフルエンザの何が珍しいのかね? バランスのとれた人なら専門学者でも一般人でも予想していたように、今回にそれは普通に豚インフルエンザが変異して、普通に毒性を持った新型インフルエンザの発生したに過ぎない。つまり、免疫力の優れた健常な人には、屁でもない病気、万一罹患しても、まともな体力があれば「寝てりゃ治る」類の物と言えよう。実際、航空機に乗って他国をうろつくほど元気のある者は、誰も死んでいないのだから、そのように判断する以外にあるまい(メキシコの数値はお国柄なのか不分明な点が多い)。つまり、今のところ、流行したところでどーでも良い程度のものだ。 これも当たり前の話だが、「水際作戦」などと唱え、検疫で国内に侵入するのを防げるなどと思うのも大間違いだ。それが可能なら、旧型のインフルエンザも流行しないようにして欲しいものではないか。インフルエンザなどと言うものは、新型が発生すればまず間違いなくパンデミックするもので、パンデミックしないならインフルエンザではないと言っても良いくらいだ。つまり、弱毒性で感染力の強い病気の流行など防げないし、防ごうとすること自体がほとんど無意味なので、抵抗力の無い人への注意喚起と、治療方針の徹底をするのが実際的で常識的な対応のはずである。 政府が国民の安全のため万全の対応をするのは当然で、学者が机上で最悪の事態を想定するのも当然だ。しかし、通常の生活をしている人間を、むやみに煽るようなことは避けるように、マスコミの類の者たちは、条件反射ではなく何が問題か自分の頭で理解した上で報じて欲しいものだ(絶対無理だな、あの者どもには)。 インフルエンザにせよ、論理的整合性も考えずに騒がれるほど腹立たしいことはないが、このほど本格的に実施される普通車の高速料金「千円ポッキリ」という政策も、一体どういった頭の構造でそれが成り立つのか、まったく理解出来ない代物である。 理由は例の「エコ」だ。個人的には地球温暖化の有無や、それが有ったとしてその原因を温室効果ガスと断定できるのか、いささか疑問が無いでもない。しかし、とにかく地球は温暖化しており、その温暖化を防ぐためには二酸化炭素の排出を少なくしなければならず、政府は挙げてそれに取り組んでいるのは事実だ。何でも、車も電化製品も「エコ」な物には補助金が出るようにもなるくらいである。でありながら、なぜに普通車が高速を排ガスを撒き散らしぶっ飛ばすことを促進する政策を実行するのであろうか? 一体、特に緊急性も必要性も無い人たちが、限りあるらしい化石燃料を消費して温室効果ガスを増大させる行為に、自動車を所有せずに日々満員電車で通勤しているような人たちも等しく支払っている税金をあてがい、そのはっきり言えば身勝手な行動を助長しなければならないのか?どのように考えても、マイカー利用をを抑制し、公共交通の利用を促進するのが「エコ」であり、経済活性化のために人の動きを促進したければ、新幹線の料金を半額にしたほうがよほど「エコ」で、公平なのではなかろうか。 高速料金が安いから自動車で遠出したその同じ人間が、「エコ」を気にする苦々しさ、その矛盾を促す政策の馬鹿馬鹿しさ、まったく腹立たしい限りだ。「エコ」ではなく「エゴ」だと言うことくらい認識しなければなるまい。※ ETCを普及させるため、天下りが多いらしい普及促進団体による画策とする説がある。それが事実なら、まさに視野狭窄の小役人的発想による亡国と言えよう。
2009年04月28日
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昔は、結婚式だの披露宴など無意味だと思っていたが、現在は、入籍するしないにかかわらず(結果として子供が出来ないのは仕方がないが、結婚して入籍するというのは子供を作るために存在する制度のはずなので、子供を産み育てる気が初めからないなら、入籍する実質的な意味はない)、赤の他人と一緒に生活を続ける予定なら、結婚式は是非行うべきだと思っている。 もちろん、その際に十二単と衣冠束帯など、庶民階級上がりのペーペーがやればお笑い種になるだけだが、是非そうしたければ好きにすれば良いし、普通に貸衣装でも、必死に溜め込んで買ったウェディングドレスでも白無垢でも、とにかくその人たち自身がそれなりに気の済む格好をして、神前で三々九度でも、十字架の前で誓いのキスでも、仏前で・・・何するのか知らないがとにかく、永遠に結婚状態を続けるように「見守ってね。神様仏様!」と念じた方が、だらだら同棲するよりよほどメリハリが利いており、本人たちにもそれなりに緊張感が持てて良いはずだ。何しろ生まれも育ちも異なる赤の他人と暮らすなど、冷静に考えれば背筋の凍る行為をするのだから、何かに酔っ払って正常な判断力を喪失しているか、もしくはそれなりに緊張感がなければ、慣れるまでやりきれるはずがない(日常はすべて慣れであり惰性なので、意識しないと緊張感は保てない)。 さて、最近旧友からの結婚式の案内に「人前婚」とあって、何とも『古式ゆかしい』と感慨にふけったのであった。古式ゆかしい?普段信じてもいない神様仏様に誓うより、両親縁類友人知人に見守られ、その親しい人たちの前で結婚を誓うと言うのは、むしろ現代的で流行とさえ言えるのではなかろうか。しかし、それは違う。それこそが最も原初的な結婚儀礼の形態と見なした方が真実に近い。 そもそも、披露宴などと称して友人知人や有象無象を集めること自体が、人前婚に他ならない。あれはいろいろな人に「両家」が結婚関係に入ったことを披露目、その証人にするためのものなのである。そしてそれは、結婚した(普通なら)若い2人を、年長の第三者である参列者が導き、また安易に離婚しないように監視することを、義務付ける場でもあって、それこそ原始的習俗を残す人々にも共通すると言える儀礼なのだ。つまり、「人前婚」とは、通常の披露宴の名を変えた形態に他ならず、ことさら奇異でも現代風でもないのだ。 ・・・もちろんその友人には直接言えるはずもないが、披露宴の方こそが無用の長物だと私は信じて疑わない。何しろ現代は、それがあれば貧しい国々の子供にどれほど教育と給食を与えられるか知れない数億円という大金をかけて披露宴などしたところで、3年も持たない不届き者までいて、そういった体たらくの夫婦が安易に結婚や離婚をするのを掣肘しなければならない利害を有するほど、密接な関係にある参列者も普通はいないのである(芸能人の場合はむしろゴシップネタになるので喜ばれる)。 昔は、結婚は家同士の結合に他ならず、親類縁者に何かあれば累が広範囲に及ぶので、二人の自由恋愛など許されなかった。一方、結婚しようと離婚しようと親兄弟でも大した影響が無いのが現代社会だ。監視する者される者の緊張感など初めから欠片もないのだから、結婚式での参会者などただ漫然と会食するだけの存在で、そんな者いくら居ようと居まいとそれこそ形式的な儀礼の器物に過ぎない。 つまり、現代を個人主義の時代であると見なす限り、個人個人が勝手に神様なり仏様の前で永久の愛でも何でも、有りそうに無いことと思っても有りえると信じたいことなどを誓いあっていれば良いので(ジーパンにTシャツ姿でもまったく構わないと思う)、原初社会の遺習だけまねて何の意味もない他人を集めて余計なことなどしないのが、論理的な帰結ではあるまいか。 人前婚で希薄な関係に過ぎない第三者の前で宣誓するのも、神仏の前で宣誓するのも、ともに当人たち自身だけの問題なのである。何しろ、将来的に離婚することになってしまっても、神様仏様は何も言わないだろうし、2人の門出を見守った参列者もその点同様なのだ。当人たちの意志だけで自由に解消可能な、まさしくあくまでも個人的な現代の婚姻儀礼に、仕事もあれば思想の違いもある他人を巻き込むより、とりあえず目の前には実在しない神仏の前で誓うのが、広範な他人に迷惑にならず、親類縁者程度に対してけじめもつけられる、現状では唯一の方法だと信じる。 勝手に結婚し勝手に離婚するかもしれない当人たちが、「みんなに祝って欲しい」などと言うとしたら、わがまま気まま気の向くままの妄想発言だと私には思える。特に祝いたくなくても、儀式そのものが嫌いであっても、社会でしか生息できない人間の宿命上、また他人の思想信条は可能な限り尊重する文化的な礼儀上、招待状が舞い込めば、これは最大限参加するようにしなけばならず、その場で「アーメン」と言われれば「アーメン」と言い、「南無南無」と言われれば「南無南無」と言い、立会いの署名を求められれば署名しなければならい。もちろん、ニッカボッカで参列するわけにもいかないのだ。 人前婚でも披露宴でも、当人たちの身勝手で他人様を呼び集め、好き放題の式次第に参加させるのなら、そのはた迷惑さ加減を少しは認識し、プレッシャーにも感じて、せいぜい緊張感を保って安易に婚姻関係を解消するようなことにはならないでもらいたいものである。 もちろん、ご祝儀を出すのが嫌なので理屈を構えているわけではないと、念のため付け加えねばなるまい。
2009年03月30日
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初詣に行き、拝殿に向かって行列が出来ているとうんざりするが、その参拝客が一々に二拝二拍手一拝をするのを見ると腹が立つ。親子連れで来て、父親が子どもに「こうするのが本当だよ」などと教えているのを見ると、後ろの人を見せて、他に教えるべきことがあるだろうと強く思う。 神社本庁が悪いのか、テレビでマナーなどと称して紹介するしたり顔の輩が軽率なのか、そんなものを鵜呑みにして実践する者が軽薄なのか・・・、とにかく正月三が日で混雑している社殿で、二拝二拍手一拝をするなど、良識のある大人なら即刻直ちにやめてもらいたい。これは、混雑した場での重大なマナー違反であり、人倫にもとり、当然神の照覧するはずのない行為だと思うのだ。 考えれば当たり前だろう。後ろで人が列を作っているのに、年に一回しか来ないはなはだ後ろめたい立場の人間に、正式な儀式上の作法など無用の長物でしかない。本当に正式にしっかりお願いしたいことがあるなら、ごく普通の日にやってきて、人っ子一人いない静寂そのものの境内で、ごくごくゆっくり正式の手順を踏んで神様に向き合えば良いのだ。神様もお暇だろうから、とっくり話しに乗ってくれるに相違あるまい。なぜそれをしないのか、そういった連中でも、話に行った先の人が多忙なようなら、「お忙しいようですから、日を改めてお伺いします」と言うくらいの常識があるだろう。人には出来て、神様にはしないというのは不都合以上に不遜ではなかろうか。 もちろん私もその一人だが、何となくのやっつけで初詣に来ただけなら、賽銭箱に10円玉でも放り込み、バイトの巫女さんから縁起物を買ってさっさと帰れば良。もちろん、年に一度何となく挨拶に行くだけの、すでにして十分に無作法な我々が存在しなければ、神社も困る。奉仕者である神職が食えなくなれば神様も困るのだ。従って、正月の喧騒の中ドサクサに紛れてやって来て、お賽銭箱に小銭を放り込むくらいの無礼は大目に見てくれるどころか、あたたかな目でご照覧になっていることと信じたい。しかし、後ろに寒風の中待っている人がいるにもかかわらず、そこだけマニュアルどおりの儀礼にこだわるような、身勝手・手前勝手・自由勝手の気ままなお調子者の狼藉を、笑って見過ごすかどうかは知れたものではない、とかえって心配してしまう。 少なくとも、人がひしめく都会では、人は他人に気遣って行動しなければならず、気遣った行動こそが粋とされてきたのだ(「江戸しぐさ」とかいう奴ですな)。後ろに人が待っていれば、儀式ばった事などにこだわらず、簡略に切り上げてこそ粋であろう。野暮天にはなるまい。謙譲心であり思いやりであり人として無くてはならぬものを、たかが一年に一回の神詣での些細の儀式手順で捨て去るなど、愚かしいことと言わねばならない。 私は基本的に無頼漢であるが、礼儀は大切であり、儀式での作法は尊重されるべきものだと思っている。しかし、初詣は一般人の年中行事であって有識人の儀式ではない。例えれば、火事場でも守るべきは礼節であって儀礼ではないのだ。居住まい正しくなどせずさっさと逃げても許されるが、その際に女子どもを足蹴にして我が身だけが助かろうとするのは人として許されまい。人が多ければ、普段の礼儀より他の利となるべく行動するのが礼節であり、それが本当の気遣い、マナーであろう。 つまらぬ形ばかりのノウハウなど二の次にして、より本質を見直すべきではなかろうか。
2009年01月02日
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私は電話が嫌いです。忙しい時に電話をされれば腹が立ちますし、そういった不愉快な思いを相手にさせまいとすると、一体いつ電話して良いのかわからなくなります。・・・今は食事中かも、・・・入浴中かも、お休み中かも。 もちろん携帯電話など論外で、いかに犬でも持ち歩く時代であっても使いません。そもそも、物を考えたり考えなかったりしながらするぶらぶら散歩時に、わが身に帯びた通信機器の奴が鳴り出そうものなら、おそらくその場で叩き壊すでしょう。そのようなもったいないことは出来ません。 あのようなものは、山で遭難時に役に立っても、通常の都市生活においては、首かせであり、そこから伸びたリードと同じです。ご覧なさい。あのようなものが無かった時は、外回りの営業マンはかなり気ままに時間を使っていたものですが、今は少しでもサボれば、携帯電話でぐいと引っ張られるではありませんか。あれでは、確かに営業のお父さんは犬も同然です。 さて、その電話を使った詐欺、オレオレ詐欺がいまだに盛行しているようです。今はいろいろな手口が開発されているようですが、典型的なのは、息子や娘に成りすましてお金に困っていると老人をだまし、お金を振り込ませるといったものだそうです。 こんなものでお金を振り込めるのを見れば、日本の年寄りに金持ちの「親馬鹿ちゃんりん」が結構多いのは明らかでしょう。それが日教組による戦後教育の結果なのかは知りませんが(あの元大臣は、主要閣僚に引き上げてくれた恩人である現首相に対して、完全に礼を失しているので、道徳的とはとても思えません。振り込め詐欺の被害者にせよ、あのあたりの世代から問題かもしれないですね)、仮にもお金を借りようという立場の者が、電話一本で済ますなど非礼であり、まして孝を尽くさなければならない存在と道徳的にはされている親に対して、子として無礼千万ではありませんか! 「馬鹿者!頼み事をするなら目の前で頭を下げろ!」と一喝するのが、親として当然のあるべき姿で、むしろ社会的責務とさえ言えるかも知れません。「マサオちゃん、泣かないで」などとうろたえて、せかせかとATMに向かうなど、一体子を指導し教育したことなどあったのか疑いたくなります。 ところで、私には勧誘電話やイタズラ電話の応対にこっていた時期があります。 ようするに暇だったからですが、例えば、何とか英会話学校の外人女性講師から勧誘の電話があった際は(最初はっきり名乗らない)、小一時間ほど世間話などを続けて挙句に、「興味ありません!」とあっさり却下して電話を切ってしまいました(わざわざ外人女性に会うなど面倒だ)。また、某宗教団体に属する中学校時代の同級生の女性が、宗教の名称も名乗らず集会に誘うのを聞き流しつつも、「そんなことを言っていると地獄に落ちるよ」と言われた時には、即座に「君らと一緒なら、そこが俺にとっての地獄になるんだ」とはっきりと言ってやりました(中学校の同級生に興味などあると思うほうが奇怪だ)。 ペラペラ話す輩には、しゃべりたいだけしゃべらせていたわけですが、無言電話にはそうもいきません。NTTに通話料を払うのは向こうなので、受話器を取ったまま放っておくのはもちろんながら、それだけつまらないので、ある時「・・・ふふふふふ、ケッケケケ、カッカカ・カカ~」と大笑いしてやりました。もちろん、すぐに電話は切られました。 つまり、たいした用でもないのに電話などしてくる者を、おちょくってやろうと常日頃から準備していて実行していたわけで、そうであれば、今この時に自分が老人でないのが口惜しいと思わないでもないのです。 「オレオレ・・・」ときたら、ござんなれと内心大喜びしつつ、「マサオ、マサオだな!待ってたんだよ、今月分、早く送っておくれ~!」と、涙ながらの絶叫で仕送りを催促して、それでも切らない場合は、年金が減っただの、医療費がかさんで病院に行けないだの、さんざん愚痴を言いつつ「マサオ、仕送り~!」と振り込みを要求し続けてやりたいのです。 私ならこの程度ですが(最近はそういった演技をする精神的ゆとりが無いのが残念でならない。最近は「うるせえ、おととい来やがれ!」しか言えない)、被害に合うかもしれないご老人方は、長い人生経験を生かした薀蓄ある対応を日ごろから想定し、余裕を持って受話器を持ってもらいたいものだと思います。
2008年11月10日
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突如咲いた富士桜(豆桜) 3月に980円で購入したミニ盆栽は、富士桜(豆桜)は春咲かず、姫夏椿(ヒメシャラ)は夏咲かず、木が若いのか環境が悪いのかと思っていましたが、なぜか今日になって桜が咲きました。 晩夏から葉が枯れ、9月末からまた葉が芽吹き、どうする気なのかと考えているところでの出来事でした。 現在、ヒメシャラも同様の経過をたどり若葉が芽吹いているのですが、まさか冬に咲くことは無いでしょうね・・・。
2008年10月09日
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地位は人を作ると言うが、人はその地位で測れない実例こそ事欠かないようだ。相撲取りには身技体が必要で、そのトップである横綱は神格化されるものらしい(そこまで立派に思える横綱がいた個人的記憶はない)。その元横綱が人格者でないことなどあり得ないはずで、さらに年輪を刻んで相撲界を導く協会のトップ(理事長)ともなれば、日本でも数少ない有徳人として、人倫の鑑として敬愛される人物でなかろうはずがない。 ところが、現横綱朝青龍氏は仮病で帰国した挙句にサッカーをし、厳重に処分されればふてくされる始末。そうした力士の素行を、注意指導すべき元大横綱にして協会トップの北の湖氏は、死人が出ようと、怪我人が出ようと、横綱が素行不良であろうと、大麻を吸った未成年ロシア人力士が出ようと、「師匠の責任」として師匠である親方や力士本人を処罰しながら、監督する責任者である自分は居直る体たらく。この度、まさにおっとり刀で(ドーピング検査などしたことがないのだ!)、大麻所持で逮捕されたロシア人力士と同郷の友人であった兄弟力士から、抜き打ち検査という実に正しい手段で大麻吸引の反応が出るや、その弟が己の弟子であったがためか、本人が否定していると言った愚にもつかない理由で処分保留をはかって総スカン状態になり、ついに辞任となった。 この大麻騒動では、兄弟の兄、露鵬という四股名だった(昨日解雇された)私に言わせれば暴力沙汰でとっくの昔に解雇されていなければならなかった人物が(この際大甘な処分に止めたのも北の湖氏の意向であろう)、「大麻など見たこともない」と大勢のメディアの前で言い張り、その様子を見た者が「嘘をついているようには見えない」とコメントしていたのは実に笑止であった。昔、一応マスコミの人間のはずの田原総一朗氏が、サリンを製造し無差別殺戮を引き起こしたカルト教団の幹部と対談し、「嘘をついているようには見えない」といった印象をもったそうだが、そういった人は、嘘をついているかいないか判断する洞察眼が自分には欠如していることすら理解できていないだけだろう。己の不明を自覚して、さかしらに見た目で他人を判断しないように自戒するべきだが、こういった仁はいくら見誤ってもを、悟らないから始末に悪い(もっとも真贋の洞察眼など無いほうが幸せ)。人の言の虚実に対する自分の印象など、口にしないほうが利口に見えるだろうと思う。 しかし、この露鵬だった人物は、大麻所持で逮捕された未成年元力士君の兄貴分で、ごく親しい間柄だったことは周知の事実であり、弟分が所持で逮捕されていながら、大麻をまったく知らないと言い切るだけでも怪しいと思わないほうがおかしいのだ。そもそも未成年元力士君は、健気にも他の力士の関与を否定、大麻などを買うような界隈への出入りは必ず一人で行っていたような供述をしていたらしいが、「一人で」を繰り返すのは、複数で行っていたことを隠すためだろう、くらいに考えるのが忌まわしい大人の知恵のはずだ。つまり、こうした客観的事実を知っているなら、あのような当事者の記者会見など白々しい以上にふてぶてしく見えて不快なだけのはずなのだ。 この間、露鵬だった人物の師匠である大嶽親方の態度も、まったく愚かしいものでしかなかった。この人物は、現役時代も張り手が多い痛い力士であったが、引退後はさらに痛々しくなったと言わねばならない。いわく、「弟子は子供と一緒。子供がやってないと言うから信じるしかない」。何と素晴らしい師弟愛、親子愛であろうか!しかし、それは公に発してはいけない言葉で、発すれば『親馬鹿ちゃんりん』と嘲笑されるものであることにすら気づかないのだから、世間知らずの相撲馬鹿と言わざる得ない。 親は子供の言うことを、すべからく真実だと願うべきだ。盲目に信じるのではない。願望として抱くのだ。そして、普段から親に対して嘘をつかない親密な関係が親子に存在するなら、それはほとんど真実であり続けるだろう。親に信頼されれば、もしくは親に嘘が通じないと理解していれば、ほとんどの子供はそれを裏切らないようにするはずだ。何しろ子供は、まだ世知辛くない。しかし、親子関係がちぐはぐなら、親をだますのは子供にとって日常茶飯事になるのは世の常だ。ろくに洞察力もなく、闇雲にかばい立てしてくれるなら、そんな存在は利用しなければ損だ。本来そのようなものを超越してあるべき親子間が、損得関係となってしまい、子供は親をだまして得することばかり覚えるようになってしまう。他人に対して己の弟子なり子供の潔白を主張する前に、まず、己と弟子の普段のあり方を振り返るべきだろう。もちろん真実と願うのは親心だが、そのような私的な願望を公に表明出来るか、少しくらい考えてみるべきだ。 昔、ビートたけし(北野武)氏が、出歯亀(のぞき趣味のこと)週間写真誌の編集部に手下を連れて暴力的威圧に乗り込み逮捕されたことがあったが、その際彼の母親が取材に対して「死刑にしてください」と涙ながらに小さな頭を下げていた姿は、実に奥ゆかしかった。彼女は、この出来の悪い末っ子(と言うより兄たちが一般的な基準で見る限り優秀すぎた)を眼に入れても痛くないと思っていただろうし、何をしでかそうとどこまでも面倒をみたに相違なく、何があってもどこまでも信じる覚悟は当たり前に身に付けていたはずだが、世間様に対しては突き放して言い、迷惑をかけて申し訳ないとひたすら頭を下げるのである。これが、本来あるべき親心だろう。母親としての私的な立場では徹頭徹尾子供を信じて迷わなくても(裏切られてもやはり信じる。つまり個々の行動など超越して、その子供の存在全体を信じている)、公の立場ではそれを表に出さないものなのだ。 さて、結果、受動的な吸引ではあり得ない数値の大麻反応が出て、兄弟力士は解雇されて元力士となり、弟の師匠の北の湖氏は理事長を辞任、兄の師匠の大嶽氏は役職を解かれた。当然であろう。ドーピングで引っかかれば即処罰されるのがスポーツ界では常識であり、その前提もなしに検査を実施したのなら、頭が悪いどころか非常識であり、検査する人たちに対して非礼になってしまう。処罰する気がないなら、はじめから検査などやらなければ良いのだ。また、監督出来ず何も言える立場ではないにも関わらず、『親馬鹿ちゃんりん』全開で、奇怪な弁護士を表に出して、あり得るはずがない謀略説など振り回せば(検査に立ち会っている親方衆や医師たちに対する明らかな名誉毀損になる『被害者』の主張を、まったく一方的にメディアの前で話しまくる軽率さには驚かされた。この奇怪な弁護士によれば、尿を採取する紙コップは自分で選べるはずなのに、某親方から渡されたそうだ。では、その親方がまず間違いなく持ち出しなど出来ないその検査用の紙コップに、その会場内で大麻反応が出るアンプルを塗りつけたと言いたいのだろうか。巨体を揺らせてさぞ大変だったことだろう!)、検査を実施した協会に対する誹謗行為と見なされて処分対象となるのは当然であろう。自分も協会の一員であると言う、公としての己の立場を全く自覚せずにべらべらしゃべった(しゃべらせた)報いである。 自民党に所属する参議院議員山本一太なる人物も、その地位にあってもその地位・職分を心得ないことを露呈してしまった。 この参議院議員氏は、安倍晋三氏が内閣総理大臣になる時は宣伝にこれ努め、安倍氏が辞めるや、父以来の主筋であり、己の選挙区の衆議院議員でもある福田康夫氏の支援者となり、その内閣では外務副大臣になっていた。この行動には節操がないような印象を持つ人も多いかもしれないが、それくらい融通が利かなければ政治家として生きていくのは難しいだろう。褒められないとしても、否定は出来ない。もちろんテレビで小さな三白眼をさらすのも別に問題とはしない。しかし、今回参議院議員でありながら総理大臣となる前提を持つ自民党総裁選に出馬しようとしたのには呆れ果てた。これは暴挙であり、日本の民主主義、議院内閣制を理解している人間なら、慎んでやってはならない行為だ。 もちろん参議院議員が総理大臣になれないとする規定はない。しかしながら、衆議院の解散権を持つ総理大臣は、参議院議員が担える職責であろうはずがないのだ。国政の最高機関である(はずの)衆議院が自らの意図に反したため、総理大臣が解散して民意を問う、その際総理大臣自身も衆議院議員(代議士)として選挙により国民の審判を受けるのが、日本の民主主義政治の根幹であろう。これが参議院議員が総理大臣ならどうだろう。己の都合で解散させながら、己は六年間身分を保障された地位にあって高みの見物を決め込むわけだ。これこそ、独裁者の所業以外の何物でもあるまい。 当然ながら推薦人は集まらず総裁候補にすらなれなかったが、山本参議院議員が日本の議院内閣制を理解出来ず、そこに潜む危険性の認識が欠落し、図らずもそれを露呈させてしまった。今回本来の代議士(いつ何時でも選挙により民意を代表する議員)である衆議院議員でありながら、山本参議院議員を推した者も、また同類と見なさねばならず、以後そうした不見識の持ち主として見られるものと思われる。実に軽率千万な振る舞いと言えるだろう。 なぜこのような日本の民主主義を危険にさらすような行為が平然と行われようとし、看過する者も多いのだろうか?おそらく長らく参議院は衆議院のカーボンコピーと呼ばれ、衆議院で決まったことを追認するだけの状態が続いたので、日本人には有権者も政治家すらも二院の違いをわきまえていない者が増えているのだろう。何しろ、先の参議院選挙で野党第一党を歴史的大勝させ、6年間の長期にわたる可能性のある「ねじれ現象」を招いたのは、我々国民なのである。 与野党の逆転をさせたければ、衆議院選挙で意思表示すべきだとは以前も書いた。しかし、事態は政治家にまで及んでいる。総理大臣になりたければ、衆議院議員になってからでなければならないと言う、イロハのイの字の暗黙の了解すら踏みにじられかねないのだ。もはや暗黙の了解が機能しない以上、6年間も非改選で独裁者たり得る議員によって国政が停滞するような制度は、早急に改めるべきだろう。端的には、参議院を早急に廃止して一院制に改めることを真剣に検討すべきものと思う。
2008年09月09日
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岐阜の女子短大生が、イタリアのフィレンツェにある世界遺産地区のカトリック教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の見晴台の壁に落書きをし、問題視されましたが、最近では他の日本語落書きを検証する動きになり、落書きをしたことが特定された(何しろ所属と実名を書いている・・・)大学生は停学処分、高校の野球部顧問は解任と言った騒ぎになっています。 当初、あまり頭が良くない女の子たちが、貴重な文化財を汚したといった報道に接して、私も馬鹿なマネをするものだとあきれていました。しかし、短大側から謝罪を受けた当の教会側のコメントを聞いて、おやっ?と思ったのです(文字化されたニュースソースが見当たらない)。それは修復の必要はなく、むしろ落書きについてこれまで謝罪されたことはなかったことから、今回真摯な謝罪をする日本人の文化財保存の考えに感銘している、といったものでした。東洋の異教徒が馬鹿なマネをして、さぞお怒りかと思いのほか、かえってお褒めになっているのですから不思議ではありませんか? その理由はテレビで問題の落書きが映された際に、その横にアルファベットらしき落書きが見えた時に、私にはわかった気がしました。ようするに、そこは世界各国の文字で山ほど落書きがされている場所で、教会側も野放しにしていたところ、突如日本人がやたらと低姿勢で謝罪してきたので、驚いたのが真相なのではないでしょうか。何しろ、問題視されるきっかけは、日本語の落書きに腹を立てたらしい他の日本人観光客が、記されていた短大名から学校に指摘したのが始まりのようですから、イタリア側では寝耳に水の話なのです。 実際のところ、記事によれば、その見晴台の壁の落書きで日本語が占める割合は1割(10パーセント)程度とのことです。 この割合をどのように考えるかはそれぞれですが、突出して多いとは言えない比率だと私は思います(世界人口の2.5パーセントは日本人)。日本人が見れば、1割だけでも日本語の落書きは目立ちますが、おそらく欧米人が見れば、字というより絵感覚になって、特異に浮き出てはこないのだろうと思います。つまり、数ある落書きの中の一部に過ぎないわけです。 そして、落書きした日本人も、周囲にみっしり落書きがあるので、それが罪だとも思わず、むしろ旅の記念の記帳のような気分で(記事によれば、「大聖堂入り口で現地の人に勧められてペンを購入し、軽い気持ちで書いてしまった」と野球部監督は証言しているらしい。先ほど学校の記者会見をテレビで見聞したところ、そこに2人の名前を書くと幸福になるといった口上で、数人がマジックペンを売っていたそうだ)、貴重な建造物を汚してしまったものと思われます。これは、罪は罪ですが、情状酌量の余地はあり、少なくとも、駐禁の場所でも1台止まっていれば前に習ってしまいかねないような人たちが、自分のことを棚にあげて非難するのも如何なものかと思います。当然、ことの理非曲直、軽重の判断もせずに、大学が停学させたり、ましてや職を奪うような態度は、臭くなくともフタをするものと見なされる恐れがあり、少なくとも教育機関ならば、一時的な世論に惑わされずに、慎重に行うべきものだと思います(2年前の私事の旅行先で落書きをして、それにより罪になっているわけでもないのに、勤め先なり所属団体が何の罰を与えられるのか?与えるとしたらその根拠は何か?)。 もちろん落書きが良いわけはありません。それがトイレの壁であれ、商店のシャッターであれ、世界遺産の建造物であれ、許されるものではありませんし、実際問題として器物破損罪です。例えすでにたくさんの落書きがあっても、そのような愚行を真似することなく、恥ずかしいものと認識しなければならないと思います。 しかし、何も無いところに落書きをするのと、書いても良さそうなところ(むしろ書くように薦められたところ)に実名で何か書き付けるのは、同じ「落書き」とは言え、私は違うと思います(個人情報を書き残す危険の方を考えないのは軽率だが、それだけ見ても犯罪の意識はゼロなのは明らか)。「世界遺産に落書き!」という見出しに騙されず、冷静に見れば、「落書きの名所の1割が日本語」という話に過ぎず、落書きされる側も野放しで、むしろ慣行化していたのが事実である以上、その事情も踏まえずに見出し文句でレッテルを貼り、個人の微罪を社会的に糾弾するのは不当ではないでしょうか。少なくとも、「赤信号みんなで渡れば怖くない」に近い行為を過去に行ったか考えてみれば、そういった自分の日常的行為を棚に上げ、正義面して他人を糾弾することは出来ません。 従って、マスコミの生贄さがしには辟易しますし、街行く日本人や「文化人」などと称する輩の『一億総懺悔』的態度にも腹立たしさを覚えます。恥を感じるなら、むしろ事態の詳細も考えようともせず、その場の雰囲気で個人を糾弾しようとする態度だと思います。 さて、身元が特定されてしまった人たち自身に、落書きを消させなければならないと言うのは、正しくはあっても、現実論としては疑問です。 世界遺産を傷つけずに可能でしょうか?自分の分だけ消すのでしょうか?全体の1割の日本人の落書きだけを消すのでしょうか?せっかくだから全部日本人が綺麗に修復すべきでしょうか? 第一、教会は迷惑するかもしれません。もし積もり積もった落書きを、特に建物を傷つけずに綺麗に出来ても、それを維持するには、今後監視員を置かねばならないでしょうから。また、現地で油性ペンを売っている人は、売り上げが減るでしょう・・・。特に何にもしなければ、一年後にはまた同じ状態で、一体何を空騒ぎしたのか、と言うことになりかねません(どうせ忘れられているので良いのでしょうが)。 むしろ、一所懸命消した後、現地では次のような言葉が、油性ペンを売る際に添えられるかもしれません。「ROMAJIDEKAITE!」・・・。気が利いているNOVA講師出身者でもいれば、「郷に入らば郷に従え!ローマではローマ人のようにローマ字で!おぅ!こっこはフィレンツェね!」くらいの口上を期待したいところです。
2008年06月30日
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おしゃべりが好きでも、議論に向かない人の特徴は2つあるように思います。 一つは、相手から反論されれば、再反論する材料がなくとも言わずにはいられない点です。つまり、話の内容よりも、黙っていると言い負かされたことになると認識し、その敗北感に耐えられないのでしょう。 もう一つは、自分の意見に対する相手の指摘には一切答えず、自分の感情的な主張を繰り返す点です。他人の話を聞く気がなければ、本来他人に議論を挑むべきではありません。そもそも、他人にもその人なりの意見があるはずですから、それを聞く気もないのに自分の意見なり要望だけを投げかけられると考えるべきではありません(日本人には議論が下手な人が多いです。例えば政治家の討論会などでも、一方的な演説が多いですが、まさにアレです)。 「ご返信のご心配は無用にお願いいたします」と書いたはずですが(この場合私は受け手)、やはり返信が来ました。そして、当然のように何ら私の指摘には答えていませんでした。まさに不毛です。 短いので全文載せても良いのですが、感情表現のため余白を設けたかったのか、改行が多いので要点のみ抜き出してみます(ほぼ全文です)。 「当方からのお願いは、里親でなくても子育ての経験があるかたがたからは、ご理解頂いておりますが・・・・・」 「里親・里子からすれば、言葉は時代と共に移り変わるものだとか、言葉狩り、という表現で簡単に済まされるものではありません。」 「(私の返信内容は)目的が正しければ、そこへ至る手段や過程は何でもかまわない(里親・里子の心の傷口を逆なでするような言葉を遣っても)という論法に聞こえ、抵抗を感じます。」 「(「文系」なら)言葉の重みと、それによって人びとに与える印象・影響ということについて、お考え頂きたいと思います。」 意味が無いので返信はしませんが、いちおう感想としては、おそらく面倒くさいのでまともに返信する人は少なかったに相違なく、言葉狩りが簡単な問題なら言語学者は無用の長物で、論法より論理による立証能力の重要性と、自分たちのこの行動による結果(自分たちが「養育士」などと呼ばれるようになる可能性)は考えないのだろう、といったところです。 実際に傷つく子どもがいるのは、実に重要な論点で、親の虐待などで傷ついた子どもは、はるかに過敏にはなるはずで、それを心配する気持ちは十分に理解できます。しかし、あえて言えば、私はこれこれの過去を背負っていますと看板を掲げて生きていけません。インターネットを含めて世の中は、いろいろな考えを持つ人がいる厳しいところなのです。そこでは、甘言を弄する人が味方とは限りませんから、その場の耳障りの良い話にのせられない大人になってくれることを期待しています。おそらく、つらい体験をしただけ、人間に対する洞察力も鋭いはずで、それが里親さんたちの努力を糧に、良い方向に生かされることを心より願っております(厳しい社会で普通に生きていけるようになってもらうために、普通の家庭で養育する意味があるものと信じている)。 とりあえず、広報氏たちの考え方に賛同される皆様には、他の里親さんたちの足を引っ張らない程度のご奮闘をお祈りしたいです。
2008年06月24日
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最近、人間の里親団体の一つの広報担当をされている方(以後広報氏)から、文鳥の飼い主探しなどをする掲示板の名称に、「里親」という単語を使わないで欲しいとの要望を頂きました。 それについて、残念ながらご要望に沿いかねる旨を返信し、その返信内容をこの場にそのまま転載しました。人間の里親制度をご存じない方もいるでしょうから、少し考える機会になれば、わざわざ零細な掲示板に要請された努力に報いることにもなると思ったのです。 しかし、メール内容をそのまま掲げただけでは、少し無責任のような気もしてきたので、この間考えたことををまとめておきます。 ペットの新しい飼い主を探す際に、「里親」の用語が使われることを排除しようと試みる人が、里親制度に基づき保護児童を養育されている里親さんたちに多いのか、私にはかなり疑問があります。おそらく、実際養育に当たられている方は、少なくとも日常生活では意味のないことを気にしている暇などないと思うのです。擬制的な関係であろうと、実の親子として生活しているのですから、その日常において「里親だ・里親だ・里親だ!」といった意識を持ってはいられないでしょうし、他人行儀で務まる役割ではないだろうと思うのです。 人間の里親制度については、現在NHK連続テレビ小説『瞳』の重要なテーマとなっているので、かなり一般的にも認知されてきているかもしれません。それが「たくさん繁殖したから里親さん探すわ!」などといった、ペットの里親探しと同列に論じるものではないのはもちろんのことです。児童虐待・育児放棄などが頻発し、養育の義務が果たせない親権者が増大する今日、如何に里親制度を充実化させ里親さんたちを社会的に支えていけるか、喫緊の課題の一つであると認識すべきだと思っています。 人間の里親のみなさんが抱える問題を、体験的ではなくとも想像できる人間であろうとするなら、深く考えもせずに「気にしている人がいるなら止める」といった、一見やさしく物分りが良いようで、実は問題に目をつぶるだけの無責任に終わりがちな対応は出来ません。また、人間の里親さんたちの総意ではなく、その数ある中の一団体の主張されている話に過ぎなくとも、それに耳を傾け、論理的に納得出来ればそれに従い、零細なブログでもホームページでも、大いに喧伝し社会的な動きにつながるわずかばかりの手助けくらいは、個人として行っても良いものと考えています。 しかし、私個人には、仄聞していた「里親」という言葉の限定的使用論に、全く納得していなかったので、文鳥の飼い主募集のための掲示板を設ける際に「里親・里子募集板」とした経緯がありました。そして、その考えを覆すほどの新しい論拠は、今回直接頂いたメールの中にも見出せず、むしろその粗ばかりが目に付いてしまい、かえってこういった活動が、里親制度について認知度が高まっている昨今の動きに、冷や水を掛けかねない危惧すら抱くに至っています。 その団体広報氏は、「里親」をパソコンで検索したところ、ペットの里親募集ばかりがヒットし、「自分もこのように扱われたのだろうか」と「非常に不快なショックを受けた」子どもがいた(※里親制度は本人【「里子」】に実子ではないことを告知する必要がある。縁組による養子ではないので、里親とは別姓のまま生活する)との体験事例を挙げられ、可能であれば「文鳥の里親でなく、文鳥の新しい家族というような別の呼称・表現にしてほしい」と要望されました。 そういった人がごくわずかでもいれば確かに問題で、善良な人たちが、この意味において名称の変更を要請するのも的外れとは言えません。しかし、早急に社会全体が「里親」を使用しないようにさせるのは、全体主義の国では不可能なので、「飼い主にとって、ペットは「コンパニオン」とされ、実の子どものように扱われるもので、もし「里親里子募集」とあれば、それは、人間の里親になるくらいのつもりでしっかり育ててくれることを期待している」ことを説明して、その個人の誤解を取り除くことをお薦めしました。私は、誤解しそうなことを無くすより、子どもの誤解は一々に周囲の大人が解くことこそが、教育というものだと信じています。 広報氏は、上記のような事例を挙げられた後、さらに「里親」の不使用を要請する「理由を申し上げます」として、「里親」という言葉が、里親制度に基づく人間の里親のみに使われるべきことの理由を説明されました。それは「里親」を三省堂の『広辞林』で調べると、1 里子を預かり親代わりになって育てる者2 児童福祉法に基づき都道府県知事の委託を受け、保護者のない児童などを引き取って育てる者。 とあると例示し、「本来人間に対して用いられる言葉です」と断定され、ペットその他で使用するのは間違いであり、本来の里親関係者傷つけ不快にさせる行為になるといったものでした。 しかし、これはあまりにも突飛な主張です。何しろ、辞書の語義1こそが本来の里親の意味のはずで、これは人間限定にするような明確な規定であるはずもなく、2は法律が元々あった「里親」という一般的な単語を使用したに過ぎないのです。2で使用しているから、1の広範な用例は否定されるべきだとするのは、これは本末転倒というものです。まして、同じ三省堂の辞書でも『広辞林』(1983年)より新しい『大辞林』(2006年)では、1 他人の子を預かり親に代わって養育する人。そだて親。しとね親。2 児童福祉法に基づき、保護者のない児童や保護者に監護させることが不適当な児童の養育を、都道府県知事に委託された者。3 飼い主がいないペットや、元の飼い主が飼育を続けられなくなったペットなどを引き受けて飼育する人。 と「里親」に三番目の語義が追加されています。そもそも単語の語義など変幻無碍で、人間社会での使用され方によって変わるのは当たり前であり、それに合わせて辞書の記載も変化します。「里親」では、現に3番目の解釈が一般化しているわけです。 つまり、辞書を持ち出して云々するのは蛇足です。しかし、広報氏は第2メールにおいても、「「里親」「里子」を本来の使用対象以外にしよ(※原文ママ)するのは、「里親・里子」の尊厳を傷つけ損なうもの」と、繰り返されました。 そこで、私は何を言っても理解されないのを承知の上で、とりあえず「言語学的にも法律学的にも認めがたい、『使用対象以外』と強調され、辞書の条文を例示されるのは、お控えになった方がより説得力を増す」と注意喚起だけは試みておくことにしました。 本人は気づかず、それが明らかな善意もしくは一種の正義感に基づくもの、もしくは第三者から正当と認められるべき一面があったとしても、論理性のない無理な主張を繰り返せば、面倒がらずに論理性の是非で判断する者には、奇異な印象しか残しません。感情だけで法律は出来ませんし、大多数の冷静な第三者の理解を得ることは出来ず、かえって、非論理的な奇異な集団というレッテルがはられてしまう結果もありえます。 従って、里親制度への関心を呼び起こすために、ペットでの「里親」表現回避を軽く要請するにしても、その主張の論理性の破綻した蛇足部分(辞書には云々)は、必ず排除すべきだと、強くお薦めしたいところです(「辞書にある」で納得出来るのは子どもだけです)。 なお、第2メールには、広報氏が「保健所へ収容され処分寸前のラブを救護し、フィラリアの治療をした後に新しい飼い主に届けるなどの「レスキュー活動」を個人的になさっているとを示されて、「遺棄された犬・猫等ペットの実態ですとか、命の重さは十分認識し」ているとされ、「里親・里子という言葉を使用しなくても、不幸なペットをレスキューしている団体、個人が多数ある事を、お知らせしたい」と書かれておりました。 わざわざご教示頂いてありがたい限りですが、個人なり同じ志を持つ人々の団体が、能動的に不幸なペット動物の新しい飼い主を探すのと、どのような知識をどの程度持っているのかまったく不明な不特定多数の人間が、基本的にはそれぞれ個人の考えに基づいて新しい飼い主なり、そのペット動物そのものなりを探す場に過ぎない掲示板という場を提供するのとは、比較することも出来ない異質なものです。もちろん、「里親」という単語の存在すら知らない人が応募するかもしれませんし、新しい飼い主探しの際は「里親募集」と書かねばならないと信じて疑わない募集者もいるでしょう。これが、インターネットにおけるペットの「里親・里子」募集掲示板の内実で、とりあえず「里親」「里子」をペット募集の際に使用する用語と考える人が多く存在する限りは(何しろ辞書に載ってます!!)、本来の意味などより、現在通用している意味を尊重するしかありません。間違っても、募集をされる方が「里親募集」と書くのに、いちいち論拠薄弱な文句など言えないので、とりあえず普通に使用されるであろう「里親」「里子」が何かも分からない人のために、「文鳥を譲りたい人(里親募集)・文鳥が欲しい人(里子募集)の掲示板」などと表示するのが、管理人として出来る限界だと思います。 もちろん、「里親・里子募集板」よりも、短くより内容をうまく表現出来る言葉があれば、それを問題視する人たちが一握りでも存在するのを知っている以上、避けたほうが良いと考えたいところです。しかし、例えば「飼主・文鳥募集板」では私個人が募集していると勘違いされそうですし、「譲渡希望掲示板」では何を譲渡するのかされるのか分からない上に、扱うものが品物のような印象も受けてしまいます。また、「飼い主探し掲示板」では迷子の飼い主探しと間違われてしまいます。つまり、なかなか代替すべき言葉が見つからないのです。 今回の件で、辞書的には2番目の語義である法律上の「里親」の方を、いっそ呼び名を変えてしまってはどうかと、無責任にいろいろ考えてみました。「養育親・養育子」が一番のお薦めなのですが(東京都では里親制度を「養育家庭制度」と呼ぶ)、やはりこれも「里親・里子」の方がすっきりしている気がしますし、わざわざ定着しているものを変えるのも、好ましいこととは思えません。 あまり過大な問題にせずに、大多数がそのようにしているように、とりあえず共存共有が一番ではないかと、現状では結論するしかないと思います。【補足】 散見の限りでは、人間の里親団体のホームページで「里親」の一般的使用自体を止めさせるべきとの主張を掲げるのは、広報氏の所属される団体のみのようです。 他の里親団体では、「里親の名称独占を!」として、犬猫などの新しい飼い主探しをする団体が、NPO法人名に「里親」を使用するのを止めさせようとの主張を目にしました。こちらは児童福祉法を元に、これを広義に解釈すれば「里親」の名称を独占出来るはずで、さらに児童福祉法の改正で『保育士』のように他がその名称を使用するのを止めさせようとの内容となっています。 しかし、この主張もかなり無理がありそうです。児童福祉法での「里親」の定義は、児童福祉法内だけの話であって(条文「この法律で、里親とは~」で、法律内での用語の内容を示しているだけ。契約書に「甲は~」「乙は~」と言うのと同じ)、「保育士でない者は、保育士又はこれに紛らわしい名称を使用してはならない」といった法の規定がない現状で、他団体に名称変更を強請すれば、営業妨害に問われかねません。それでは「里親」が『保育士』のように、特定の職分のみを示す単語に出来るでしょうか?やはり一片の法律で昔から使われる単語の意味を限定するのは至難でしょう。むしろ、「里親士」とか「養育士」など、他と重ならない造語に落ち着く可能性が大きいように思われます。 ・・・それで良いのでしょうか?望んだのとは違う案外な結果を招かないためには、どういったことが起こりえるか十分に考えても良いかもしれません。
2008年06月23日
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冒頭本題からはずれますが、朝から後妻候補「アイ」を迎えた文鳥のハルは、新入りを怖がって逃げ惑っていますが、おかげでケンカにはならず、時間をかければうまくいくかもしれない状況です(「アイ」が攻撃し始める危険がある)。 さて、一段落して、「アイ」のカゴを片付け、「文鳥墓苑」の様子を見ようとベランダを見ると、奇妙な光景が目に入りました。ミシシッピアカミミガメ、通称ミドリガメが金属格子から首を出しているのです。 とりあえず写真に撮っておこうとデジカメを取ってきて撮影、不思議なことに動きません。おかしいな、と思い近くでよく見て、ついでに頭を小突いたのですが、生きてはいるものの、いつものように憎たらしく噛み付いてこようとしません。 そもそもこのカメ、5年以上前に父が孫(私の姪)のために買ってきて、母親(父の娘・私の姉)に「いらない」と一蹴され、行き場なくバケツの中でプカプカ浮いてたのを、あまりに不憫なので私が水槽に移して飼育した生き物です。みるみる巨大化し、恩人である私に噛み付きもしたので、ベランダのストックケースで飼育されるようになっています。 この生き物を愛してやまない人には申し訳ないのですが、はっきり言って私はこの生き物は嫌いです。すぐに水が汚れますし、凶悪で大食で、なおかつ長生きです。間違っても自分では買わないので、実際いい迷惑なのですが、世話はそれなりにするので、カメ自身は元気で卵まで産んでいます。 その文鳥とは比較にならないほど可愛げのないカメ(あくまでも主観です)、首がはさまって動けなくなっているのでした。ひねったり引っ張ったり試そうにも、食い込んでしまって少しも動かず、半ば宙吊り状態でおのれの重みに苦しんでおり、笑っていられる状態ではありませんでした。このまま死なせるわけにもいかないので、舌打ちしながら金属格子を切断し(それ用の工具を持っている・・・)救助しました。 文鳥のほうがはるかに知的で手間がかからず素晴らしいな(繰り返しますが私の主観です)、とこのカメの世話をするたびに思い知らされるのでした。
2008年06月22日
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某団体の方から、「里親」「里子」という言葉を、文鳥の新しい飼い主探しなどで使用しないように要請がありましたので、次のように即日返信いたしました。備忘のため掲載いたします。以下メール本文。=======================某 様 文鳥専門「里親・里子掲示板」の管理人です。 わざわざ丁重なお申し出を頂き、お手数をおかけして恐縮しております。 しかしながら、説明は長くなりますので結論を先に致しますと、誠に遺憾ではございますが、しばらくは名称を変更の予定はありませんので、ご看過頂くしかないと考えております。 実を申しますと、当掲示版を設置する際、ペット動物の譲渡に「里親」という言葉を用いることの是非についての意見があると仄聞しており、代替の言葉を、かなりいろいろと考え、結局見つからなかったので(「新しい家族募集・新しい家族に立候補」ではわけがわからないと思います)、あえて選択いたしました。 言葉というものは、時代により用いられ方が変化し、ペット動物の飼い主が、飼い主というより親の立場となっている現在、子どもであるペットを譲り渡す先を表現するのに、「里親」が最も適当となってしまっている現状がある以上、名称としてのわかりやすさを考えれば、それを選択するのが有効とするしかなかったのです。 この点貴会におかれましては、『広辞林』にて「里親」についての解釈をなさっていらっしゃいますが、『広辞林』の後継となります『大辞林』には、第三項として、「飼い主がいないペットや、元の飼い主が飼育を続けられなくなったペットなどを引き受けて飼育する人」と明示されております。そのように言葉の意味は、時代により変質付加されるものです。 本来「里親」という語は、第一項「里子を預かり親代わりになって育てる者」を意味したものと思われます。この場合里子が人間に限定されていたのは当然ですが、その認識は時代とともに変わり、上記のような第三項が付加される状態となっております。一般的に定着してしまっては、これを変えるのは難しいものがあります。 一方、第二項も「児童福祉法に基づき都道府県知事の委託を受け、保護者のない児童などを引き取って育てる者」は第一項の意味を踏まえて、条文での表現に用いた結果に過ぎません。実はこちらの解釈は、法律の条文における呼称を別のものに変えてしまえば、あっさりと変更は可能かもしれません。 誠に残念なことながら、悪貨は良貨を駆逐するの例えのように、言葉の流れを変えるのは至難のことと思われます。 貴会のような有意な団体は、言葉の「誤使用」の指摘以上に、児童福祉法に基づく里親をなさっているような誠実な方々や、問題をかかえながらも努力を惜しまない里子の皆様が、些末な言葉など気にされないようにご啓蒙活動をなさっているはずで、そのご努力にただ敬服するのみです。 そして出来ましたら、犬猫鳥、ペットの飼い主にとって、ペットは「コンパニオン」とされ、実の子どものように扱われるもので、もし「里親里子募集」とあれば、それは、人間の里親になるくらいのつもりでしっかり育ててくれることを期待しているだけ、つまり、児童福祉法の里親さんたちの真摯な気持ちにあやかりたいだけとご理解頂き、子どもらしい誤解から「非常に不快なショック」を受けられ方などに、ご説明頂ければ幸甚です。 以上、長々と失礼致しました。 貴会の今後益々のご活躍を、心よりお祈りいたします。======================== 22日返信を頂き、 「里親制度についてどのような誤解をお持ちなのでしょうか?」という疑問形があったので、しつこいと思われるに相違なく、理解もされないはずで嫌だったのですが、さらに長々と返信しました(面倒なのでわざと名乗らず、おそらく不毛なので返信をお断りしました)。某 様>ジャクボー様は、里親制度についてどのような誤解をお持ちなのでしょうか? 特に誤解もしていないと思います。 少なくとも人間の里親制度が、ペットの募集掲示板で譲渡されるような安易なものであるはずもなく、名詞が共通するからと言って、内容を混同するはずがないものだといった程度の、ごく常識的な認識は持っております。 当事者ではないので、一般的な知識しかありませんが、おそらく皆様方が、実社会において直接的に、一部の無恥な人間から受けていらっしゃるはずの偏見や差別について想像はつきますし、それが不当なものとする憤りは、大多数の一般市民と同じくらいに持っていると思います。また、先に申し上げたように、掲示板の名称を考える時に少し調べて考えたので、おそらく普通の人より細かなことも知っていると思います。 私が個人的に心配するのは、まるで何の知識もなく、むしろ何らかの誤解に基づく偏見を持っている人間が、貴会の活動のごく一部である「里親」という言葉の限定化についての啓蒙活動をどのように考えるかと言った点です。 一時一部の人権団体が推進した差別用語の撤廃運動は、現在過度の言葉狩りとして、かえって奇異な目で見られる事態にもなっているのは周知の事実です。事情を理解できない人間が、単純にそれと同一視してしまうことを危惧している次第です。 ご承知のように、個人や団体が行うレスキュー活動と、掲示板の管理人は立場が異なります。掲示板は場の提供に過ぎず、その場に集まる人は特殊事情などわかるはずもない一般の人が多いため、一般的に使用される用語を看板なり説明で使用しなければ、場に人を集めることが出来なくなります。 私は個人は、掲示板に人が集まっても集まらなくても、何も困らないのですが、集まれば集まるだけ新たな出会いがあるのが事実ですので、一般的に一番理解されやすい用語を用いる必要が出てきてしまいます。>「里親」「里子」を本来の使用対象以外にしよするのは、「里親・里子」の>尊厳を傷つけ損なうものと考えられます。 繰り返しても、理解して頂けないと思いますが、いちおう文系のものとして一言申し上げます。 言葉・単語そのものに、本来とか本来でないとか、そういった区分はあり得ません。本来の目的でないと一部は認識し、それがいかに正当な主張であっても、大多数が本来的には誤った目的で使用していれば、それが既成事実として変わってしまうのが、言葉・単語というものです。 「「里親・里子」の尊厳を傷つけ損なう」ので、使用はなるべく避けるように軽くご要請になるのは、私は何の問題もないと思いますが、言語学的にも法律学的にも認めがたい、『使用対象以外』と強調され、辞書の条文を例示されるのは、お控えになった方がより説得力を増すことが出来るように、老婆心ながら愚考いたします。 さらに長々と失礼致しました。 なお、お手数をかけて申し訳ありませんので、ご返信のご心配は無用にお願いいたします。
2008年06月21日
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凶悪な事件や災害で亡くなられた人たちや残された遺族の方たちに哀悼の意を告げる際、「ご冥福を祈ります」という言葉が頻繁に使われますが、これについては異論があるようです。 実は私も、「我が家の文鳥が亡くなりました」と言われた時、さて何と言えば良いのか、いろいろ考えた末に、結局面倒なので「ご冥福をお祈りします」と返信することにしています。いったい何を悩んだのかと言えば、特定の宗教を信心されている方の気分を害する可能性に気がついたのです。 何しろ「ご冥福を祈る」とは、死後に霊魂がさ迷う世界とされる冥土(冥途・冥府・冥界)での道行き良かれとお祈りする意味ですから、この冥土を仏教の専門用語としてのそれ、つまり地獄の通じる領域と認識すれば、あたかも地獄へ行けと催促しているといった解釈が成り立ってしまうのです。その点、まずは専門家の意見を参照いただきたいところです。 大谷大学のお坊さんのご見解 http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/173.html しかし、この解釈は仏教でも浄土真宗、それも原理的な考え方に基づくもので、おそらく過半数の日本人の感覚というか宗教感とは異質なもののように思えます。 そもそも、この際断言しますが、当の日本仏教界自体が良くも悪くも非原理的で世俗的です。これは、例えば普通に僧侶が妻帯している事実からもあまりにも明白です。普通何らかの教義に基づいた宗教において、国家が妻帯を刑罰の対象からはずしたからと言って、宗教原理に反するような妻帯をなし崩しに許してしまうはずがありません。何しろ宗教とは政治とは別個に存在するはずのものですから、それが当然なのです。ところが、日本の仏教界は、明治5年に「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」と政府が太政官布告を出すと、なぜか破戒行為が普通のことのようになってしまいました(カトリックの神父は、別に国の法律に違反するわけではありませんが、妻帯すれば当然その地位を教会から剥奪されます)。もちろん私個人は、僧侶の妻帯に反対する気はまったくありませんが、妻帯僧侶は、聖俗で言えば思い切り俗な存在としか言いようがありません。 その点、浄土真宗は元から僧侶が妻帯する珍しい宗派なので、批判には当たらないと言えるでしょうか?何も宗祖である偉人に及びもつかない凡百が、その点だけ真似をするのはどうかと思いますが、それはさておき、死=阿弥陀様による救済と考え、七七、四十九日の冥土の旅を否定するなら、やはり当然のことながら四十九日法要をするのは控えているのが、この宗派の原理原則のはずです。ところが、実際にはこの宗派にあっても大いに励行されています。何しろ日本の習慣上広く行われているので、原理原則上は否定されるべき(少なくても必要性の正統的根拠を見出せない)この法要を行わざるを得ないに相違ありませんが、それは便宜主義・ご都合主義であり、ようするに原理的ではないのは明らかです。 そうなると、世俗に合わせてに宗教上の原理原則を変えているサイドの人たちが、一般人が慣用句として用いている言葉の重箱の隅、言葉尻を捉えて、専門家面で原理原則に反するなどと批判するのは、正直片腹痛いだけではないでしょうか? 従って、私は浄土真宗的な原理は考慮しないことにしました。 そもそも、「冥土」の聞いて、それが地獄のとば口だと認識すること自体、普通の発想ではありません。例えば、「正月は冥土の旅の一里塚」といった慣用句を年寄りが口にしたとして、自分が悪逆で地獄に行くこと必定だと宣言していると聞き取る人はいないはずです。これは冥土=漠然たる死後の世界くらいに認識し、そこへ一歩一歩近づいているのだから、よく生きなければいけないといった自戒を込めた言葉だなぁ、と何となく考えるのが普通でしょう(昔は誕生日に関わりなく、正月を迎えるごとに年齢を重ねた【数え年】)。また、「冥土の土産にする」もよく耳にする言葉でしたが、この冥土を地獄と規定して、鬼への語り草とするつもりだと考える人はまずいないでしょう。きっと死後に極楽なり天国なり何なりで先に亡くなっている親しい人に会って、自分の経験したことを話すのだろうと、漠然と受け取るはずです。 つまり、冥とはご臨終瞑目した後の漠然たる死後の世界の意味以外に意識していないのが、昔から日本の一般人としてごく普通な感覚なのです。そして、その福を祈るとは、祈る者にとっては未知な死後の世界で、亡き人が(それを感じ取ることが出来るなら)幸福であって欲しいと、ごく素朴に祈る以外の何物でもあり得ません。そういった普通の言葉の解釈に、賢しらに仏教原理など持ち込むなど、浮世離れしているだけでしょう。 それでも、当然ながら他の言い回しも考えました。浄土真宗やキリスト教徒の内部で薦められているらしい「哀悼の意を表します」ではかた苦しすぎるので、「お悔やみを申し上げます」なら使いやすいと思ったのものです。しかし、浄土真宗にせよキリスト教にせよ、よく生きて神仏の元に導かれた善男善女の死を悔やんで良いのでしょうか?そこが不信心者には悩ましいところです。 もちろん、その宗派の今現在の研究者なり権威がそれを可とし、それを信じて使っている信者に他人が意見する必要は皆無だと思います。まして、私などは、そういった言葉は、どういった文句であれ誠意の問題で、他人から「お悔やみを申し上げます」と言われても、さらに祈ってくれる人の信じる神に向けた言葉であれ(言われたこちらはまるで実在を信じていない)、まるで気にならず、言葉の細かな解釈などより、何にせよ気にかけてくださるお気持ちに感謝するだけです。 しかし、自分でいろいろ意識してしまえば、「お悔やみを申し上げます」は「ご冥福を祈ります」よりも引っかかるものがある言葉なので使用しなくなりました。と言うのも、例えば闘病の限りをつくして亡くなった場合、悔やむべきことなど、亡くなった者にも看護した者にもないような気がしてならなかったからです。悔やむとは、何か心残りに思うことを示す意味の言葉に相違なく(辞書には「失敗したことや、十分にできなかったことなどを、あとから残念に思う。後悔する」とある)、細かく考えてしまえば、よほど失礼な気がしないでもないのです。 亡くなった者にも、それを見届けた者にも、私はねぎらいたい気分が強いです。まして、私の場合は亡くなった対象が文鳥ですから、飼い主が先立たれて残念な気持ちは十分に理解できても、飼い主が看取ってもらわないと困ります。従って、飼い主に対しては、残念というよりしっかり義務を果たしてえらいと褒めたい気持ちを強く持つことになります。となれば、「ご苦労様でした」か「寂しくなりますね」くらいしか、本来言える言葉がありません。ところが、それらは特別に「弔意」を表す挨拶ではないですし、まして不慮の事故に際して「ご苦労様でした」では嫌味になりかねません。また、寂しいに決まっているのに、それをわざわざ口にするのは、個人的にわざとらしく思えてしまうことも多いです。 そのようにあれこれ考えた挙句、よほど学問的に細かに考える人でない限りは、宗教上多少気になっても、慣用句として聞き流すか、意を汲んでくれるものと考え、すべて「ご冥福をお祈りします」と表現することにしました。 それがどういったもので、あるのかないのか知るはずもありませんが、その死後の世界なるもの、もしくは神仏のお側なりに旅立っていった者が、それぞれが望んだ望ましい方向に向かうことを、他人ながらに勝手に祈念する意味と考えるなら、むしろ「ご冥福をお祈りします」は、宗教を問わず何にでも適用出来るはずの言葉だと信じます。 亡くなった人やその遺族、人間とその他の生き物を同列にしては怒られそうですが、亡くなった文鳥とその飼い主、それぞれの望む方向にあって欲しいと、ご冥福を祈ります。
2008年06月15日
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本日、東北地方で大きな地震がありました。現在も余震が続き、被害の全容も明らかとは言えず、行方不明者の安否が気遣われる状態にあります。 で、ありながら、先ほど(17時30分頃)1チャンネル、NHKを視聴したところ、プロ野球中継(埼玉ライオンズ対広島カープ)をしていました。・・・唖然としました。これはどういった了見なのでしょうか?地震発生以来関連のニュースを続けて飽きたわけではないでしょうが、なぜ野球中継なのでしょう?私にはまったく理解できません。 日本の一地方に激甚災害が起き、日常生活を送れず、もちろんテレビも見れない人があふれ、生死が危ぶまれる人もいる状況で、たかが一部の趣味人の娯楽に過ぎないプロスポーツの中継など、どういった頭の構造を有していれば放映出来るのか、思わず苦情の電話を入れようと思ったほどです(おそらく私よりアクティブな人から、山ほど苦情があったはず)。 確かに、民放を含めて各局が同じような緊急ニュースを放映されても、横並びでうんざりするかもしれませんが(いやな人は黙ってTSUTAYAへ行け!)、そのために、関東地方には12チャンネル(テレビ東京)という輝かしい存在があります。おそらく、たんに全国ニュースをカバーするほどの取材力もネットワークがないだけでしょうが、この局は、何があっても緊急特別番組など組みませんから、それがアニメであれ、演歌番組であれ、必ず番組表どおり粛々と放映してくれるはずです。天災に遭った昔風に言えば同胞である国民に背を向け、娯楽番組を放映したい「どちら様のNHK?」でありたいなら、国営放送などやはり無用の長物だと思えました。 さて、関東地方、特に私の住む南部は、60年に一度は大きな地震が起きると言われています。前回の関東大震災は1923年でしたから、すでに80年以上過ぎており、明日起きても不思議はないというのが、もっぱらの評価です。 何十年のずれなど珍しくないとは言え、いつ起きてもおかしくないのは本当でしょう。しかし、関東大震災にせよ、東海地震にせよ、海洋プレート型の大地震の脅威ばかりを強調しすぎているように、私には思えて仕方がありません。何しろ、今回も、昨年の能登半島地震も2004年の新潟中越地震も、1995年の兵庫南部地震も、すべてプレート内部の活断層による地震です。つまり、日本には近くに活断層がない地域などまずないので、本来どこに住んでいても、いつ自身に遭遇するかわからないのが現実です。 しかし、何となく安全だと思わされてしまっている地域が多いようです。気づかないだけとも言えますが、例えば地震保険料の地域偏差を見ると、「思わされている」ような気がして仕方がありません。 財務省「地震保険制度の概要」 http://www.mof.go.jp/jouhou/seisaku/jisin.htm#04 東京都・神奈川県は非木造でも年16,900円ですが、兵庫県も新潟県も6,500円で、昨年の石川県や今回の盛岡県などは5,000円です。活断層についての研究などまるで不十分な状態で、何を根拠に保険料を決めているのか知りませんが、とりあえずこれを見たら、保険料の低い地域の人はまだ安心だと(少なくとも危険性は三分の一以下?)、かえって誤解してしまうような気がします。 そこが日本である限り、どこの地域でも明日はわが身と思って考えたいものだと思います。
2008年06月14日
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先日、夕刊のない点が素晴らしい産経新聞のコラム(5月21日産経抄)に、サザンオールスターズの活動無期限休止の報道に対し、「『オレの青春は終わった』と涙目になった白髪交じりの同僚もいる」とあって、とっくの昔に青春など終わっていたのに気づかないだけのくせに厚かましい、と笑ってしまいました。 若者迎合でカラオケで歌いたいだけのおっちゃんではなく(中途半端で迎合していない。若い奴など気にせず好きな歌を歌えばいいのに。私なら場を壊すために昔から「お富さん」だ)、本当にファンだったのなら、アルバム『KAMAKURA』後の80年代半ば、桑田さんがソロ活動に専念し事実上解散状態だったことくらいは知っているはずです。90年代半ばにも「関口メンバー」の離脱状態で休止していますし、デビューシングルの『勝手にシンドバッド』が世に出たのが1978年ですから、ほぼ10年周期にそういったことが起きていました(他にもいろいろと・・・、一年中全国めぐりしているようなバンドではないのです)。ようするに、今回の活動休止は特に珍しいことではなく、それ自体を青天の霹靂のように感じるのはおかしな話で、コラムニストは何も知らないだけのような気がします。 ただ、今回の活動休止は、より実質的解散含みのような印象は受けています。 もちろん私は音楽にとても疎いわけですが、桑田佳祐さんは高校の大先輩でもあるし、原由子さんは出生地の近くのてんぷら屋さんの娘さんなので、シンパシーを抱いていました。何しろ歌われている曲は、よく知っている地域や情景なので、1998年の『さくら』までは、しっかりアルバムを買って聞いていました。 その後、2000年にどこが良いのか個人的にはほとんど理解不可の『TSUNAMI』が大ヒットするは、CMやらドラマの主題歌向きの単発で脈絡がなくなったのかアルバムは発売されず、2005年に最終アルバムの『キラーストリート』が出された頃には、すでにげんなりとしていて買う気力が失せていたのでした。 何しろ『さくら』で個人的に感じたのは、桑田さんより原さんのボーカルとしての才能だったのですが、その後、見もしないくだらないドラマの主題歌やらCMで桑田さんのサビを連発されたら、ひねくれ者はつむじを曲げてしまうわけです。※ 中古で『キラーストリート』を注文し、昨日届いたので今聞いているところです。せっかくなので、今更ながらの勝手な感想を。 まとまり過ぎている気がするので、2枚にしないで無理やり1枚に詰め込んだほうが面白かったのかもしれないと思いました。同じ2枚組みとしては、『KAMAKURA』のみんなで一緒に手仕事風味が、洗練され大人しくなった感じでしょうか。『KAMAKURA』にしても大人しく感じたものですが、荒削りを無理やり大人しげにまとめたのと、洗練されたものを職人的にきっちりまとめきった違いがあるような気がしました。面白いのは、荒削りの方でしょう、なお、「セルフライナーノーツ」として桑田さんによるそれぞれの曲についてのコメントがありました。これは桑田さん的サービス精神だと感心しながらも、聴いた限りがすべての素人には楽屋裏の細かな話は理解不能なため、残念ながら読み飛ばしました。 神奈川県南部、「湘南」に対して他地域の人々が持つイメージはかっこいい、つまり二枚目なもののようです。その湘南をイメージさせるバンドでありながら、どこまでも三枚目であり続けるのが、サザンオールスターズなるバンド、桑田佳祐なるボーカリストの恐ろしくも偉大なところだと思っています。 あの芋洗い海岸に押し寄せる人々に、アイスクリームだの焼きもろこしなど売りつつナンパするローカルな地元民目線、実際は材木座(ザイモクザ)であり稲村ケ崎(イナムラガサキ)であり片瀬西浜(カタセニシハマ)であり砂混じりの茅ヶ崎(チガサキ)であり、いずれの語感もうら寂しい晩夏の海の家のそれでしかなかったはずの海浜の町々。藤沢、茅ヶ崎、あのオレンジと緑の湘南電車(東海道線のローカル名)が西日の中を走る姿がお似合いの地域。しかし、最近は、藤沢辺りの湘南何たらいう名前の外観ばかり小洒落たマンションを買って、「私も湘南の人間だわ」などと思い込んで、あの海風の塩辛さも知らないような手合いが増えているようです。 あの砂混じりの塩辛さ、何とはない地元のもの悲しさと言うのも、昭和などとっくに消えた平成も20年の現在にあっては、すでに記憶の中の感触でしかないのかもしれません。そうであるなら、天命を知る齢五十を超えた不世出のボーカリストが行き詰まりを感じ、それが時とともに巨大なものとなっていくのも当然でしょう(2003年に北鎌倉の建長寺で限定ライブをしたと聞いて、私は過ぎ行くだけの時を感じました)。行き詰まりを打破出来ると思えなければ、オールド湘南バンドをこのまま解散したところで、何ら不思議はないような気がします。クリエーターとして枯れていない限り、素人臭さが味わいのバンドで実感のない過去を歌うだけでは済まないのでしょう。 件の産経抄氏は、桑田さんを「政治家に向いている」として「桑田サウンドを流しながら選挙カーが走るのも湘南らしくていい」などと書いていましたが、「本業の夢に破れ」なければ、議員に立候補するような馬鹿な真似はしないものと信じています。 過去「ドラマの主役にゃ燃えている」歌手を揶揄して、自分はとりあえずそういった真似はしなかった、それより以上に、自分の過去のただの歌詞が政治家転進といった挙など許すはずがないでしょう。本業の夢をさらに追っていただきたいものです。
2008年05月26日
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上野動物園のパンダのリンリン君が亡くなり、偶然にも中国の指導者が来日したこともあって、新たにパンダが2頭上野にやってくるそうです。 私個人は、いかなる珍獣であっても、ガラス張りの飼育小屋の前の通路を、立ち止まることさえ許されずに「拝観」するなど願い下げですが(幼稚園の頃に連れられて行ったが、人間が多かっただけでパンダの姿を見た記憶がない)、それでも喜ぶ人はいるでしょうから、それ自体は別に文句を言うべきではないと思っています。ただ、日中両首脳の思惑がはずれたのか、このパンダの来園に否定的な意見が日本人に多いらしく、特にレンタル料だけで年に1億円以上必要だという点が問題視されているようです。 しかし、仮にパンダ舎の前に賽銭箱でも置いておけば、好きな人が寄付してくれるはずで(しないなら入園料とは別に強制的に徴収する)、100000000円÷300日=約3400000円、老若男女問わず一人100円なら一日3400人が支払えば済む計算になります。「人寄せパンダ」と呼ばれるくらいの人気者ですから、それ以上も可能ではないでしょうか。ただ、巨額な飼育費用が別途必要なので、黒字になるかはわかりませんが・・・。【参考】ナショナルジオグラフィックの特集記事 http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0607/index.shtml 個人的には、金銭面よりも、野生動物の保護の観点で、上野のあの人工的飼育小屋にパンダを放り込んで見世物にすることに、大きな違和感を抱いています。 何しろ日本パンダ保護協会(http://www.pandachina.jp/)によれば、野生パンダの生息数は約1596頭のみで、動物園などでの飼育数200頭弱を合わせても2000頭に満たず、当然ワシントン条約で絶滅危惧種とされているのが現状なのです。これでは見世物にする余裕などないのではないかと心配になります。 早急に生息域の自然環境を保護し、中国の四川省に存在する施設などで繁殖したら、それを野生に戻すようにしなければ、大多数が愛らしく感じるはずの白黒模様の大きな熊状生物は、絶滅してしまう可能性が大きいです。その危機感、つまりは本当にパンダという生き物を愛して、その存続を願うのなら、上野のお山になど置いてしまって良いのかと、疑問に思うのが当然ではないでしょうか? しかし、パンダの愛くるしい姿が目の前にあればこそ、その保護を真剣に考える、もしくは真剣に考えなくともお金を出す人間が増えるのが、現実というものでしょう。 そもそも、中国政府はパンダを保護する活動の資金とする名目で、パンダを貸し出しています。この点特に政治家には誤解があるようですが、レンタルパンダとは、中国との政治的友好関係の証などではなく、その種を保護するための資金集めを目的に、世界各地で顔見世興行を行っているのが真実の姿です。つまり、あのパンダたちは、その自らの種を保全するために、故郷を遠く離れた異国の地で働いていると見なした方が良いのです。年収1億円の稼ぎ頭、まさにパンダ一家の大黒柱と言えるでしょう。 何しろ、政治的思惑はもちろんのこと、国際親善のためだとか、その国の子どもたちのためだとか、そのようなパンダという生物種にとって無意味なお題目で、繁殖がより難しい地域や施設に、輸送の危険まで冒して絶滅危惧種の生き物が送り出されて良いわけがありません。あれはあくまでも、希少な野生動物であるパンダを保護するための資金をカンパしてもらうために、やむを得ず出張させているのです。 当然ながら、もし中国政府が100%パンダの保護費を賄えるのなら、ただでさえ個体数が少ない絶滅危惧種を、国外に送り出す必要はないはずで、逆に政治的思惑だけなら、保護目的でレンタル料を請求するのはおかしな話となってしまいます。 もちろん中国政府も真剣に保護に取り組み、人工飼育での個体数は増えていますが、野生の生息域の環境保全には、より多大な費用が必要になるのが現実です。今後人工飼育かで増やしたパンダを、現在以上に世界各地にレンタルすることで(現在はアメリカ10、日本8、その他11頭に過ぎない)、その費用の一助にする必要があるものと思われます。 個体数が増え、世界中の動物園でパンダたちがあふれる、これは良いことですが、当然その時には、野生のパンダの個体数も大幅に改善していることを願うばかりです。
2008年05月11日
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長らく愛用していたカワイ社のつぼ巣は、現在流通がほとんど止まっている状況にありますが、この件について、メーカーホームページに事情説明が掲載されていました。 http://www.jupiter-inn.com/xoops/index.php ようするに、中国での人件費と原材料費の上昇を価格に反映しないために、よりそれらを抑制できるはずの内陸部(「内陸など他の場所」とあるので、中国本土のより内陸の地域と解釈した)に生産拠点(工場)を移そうとしたところ、もともとの生産拠点の労働者が反発して生産がストップしたといったところのようです。 なるほど、メーカーが価格を抑える努力をするのは、企業努力として立派なことです。しかし、新しい生産拠点が順調に行けば、もともとの労働者(工場の職人)は自分の職を奪われることになるでしょうから、その反感も当然のことのような気がします。そもそも、一つ一つ手作りするしかないワラ細工のため、生産に近代的な機器を備えた工場を必要とはしないので、生産拠点自体は簡単に移動出来るでしょうが、それを作る技術を現地の労働者に伝えるのに時間がかかり、「旧工場」の「工人」も時間をかけて技術を身につけた職人だったはずです。せっかく身につけた技術を、ふいにされては心穏やかではいられないでしょう。 文化的ギャップもある外国で、この間の日本のメーカー担当者の苦労を思えば、無関係なこちらまで胃が痛くなりますが、一方の中国の労働者の怒りにも同情すべき要素が多いと言えるでしょう。それでは、日本の消費者の立場としてはどうかと言えば、供給ストップという最悪の事態となっている現状が、ただひたすら迷惑なだけだと思います。 そして、あくまでも結果的にではありますが、長年愛用していた顧客(飼い主と小鳥たち)に迷惑をかけているメーカーに対しては、苛立ちを覚えるのも止むを得ないところでしょう。結果がすべてなのです。 結果が出てしまっている以上、心配されるのは今後でしょう。とりあえず新しい生産拠点で製造が軌道に乗れば安心だというのが、メーカーのお考えでしょうが、その考え方は楽観的に過ぎるような気がします。むしろ、沿海部が駄目なら内陸で・・・といった対応は、数年のうちに破綻する可能性を多分に含んでいます。 何しろ、現在の中国の沿海部と内陸部の経済格差は、これが同じ国かと疑わせるような状況で(同じ国でありながら、生産拠点の移動で事態が変わること現状そのものが、この国の不自然な状況を現している)、今年の北京オリンピックで、それはあまりにも露骨になるかもしれません(愛国心で盛り上がる裕福な都市部とテレビも見られない貧困にあえぐ地方)。 そもそも、世界の工場と呼ばれる中国沿海部の繁栄は、内陸部から流入した労働者が低賃金で働くことにより成り立っていた面があります。内陸部があまりにも低所得であるため、都市部に移動してくる人が多かったわけですが、もし、この国内の経済的不均衡が平和的に解消されるなら、内陸部の人件費も上昇しなければなりません。それは、もちろん非常に良いことですが、そうなった場合、日本のメーカーが内陸に生産拠点を移した意味が失われます。そして、・・・さて今度はどこに生産拠点を移したら良いのでしょうか?また、その移動の際には、日本でつぼ巣の供給停止が起きるのでしょうか? 一方、もし内陸部で不平等な低賃金労働が改善しなければ、同じ国内で同じ労働をしながら賃金格差が甚だしいという矛盾が続くことになります。その本来あり得ざる不安定な状況のただ中に、つぼ巣の生産拠点などという手内職的なものに違いない日本のメーカーのそれが、ぽつねんと取り残され、内陸部の人たちが都市部並みの賃上げという正当すぎる要求をするのに、戦々恐々として過ごすことになるのは明らかでしょう。それが明日か、来年か、5年後か、10年後になるのかわかりませんが、より暴力的な事態に発展する可能性すら含んだ、大きな矛盾であることには十分に用心が必要です。 あくまでも、会社組織の部外者で、パーソナルに被害を受けているだけの消費者の一人としては、むしろ、何もかもが高くなるのが昨今の現実である以上(配合エサがこの1、2年でどれだけ値上がりしているか・・・)、当面はせっかく育てた元々の工場の中国人職人たちを大切にして、メーカーからの売り渡し価格を少しずつ上げて消費者に経費上昇分の負担をしてもらいながら、他の手段を模索するような対応が望ましかったと思います。何しろつぼ巣は、小鳥の生活において必需品の面もあるものですから、値段の安定より供給の安定をこそ優先してもらわないと困るのです。 そして、中国での生産コストがかさむようになったのなら、昔捨て去ったであろう国内生産拠点の再構築、と言うより、国内のワラ細工従事者の育成をはかっても良いものと思います。もし、中国の経済がこのまま発展すれば、人件費は日本のそれに接近してくるはずで、今以上に日本との内外価格差が縮まります。そうなれば、製造経費の圧縮のためそこに生産拠点を置くメリットは失われるのは明らかです。つまり、もはや中国のばら色の近未来を想定するのなら、日本のメーカーは中国からの撤収を現実的な選択肢として準備すべき時代となっていることを認識すべきでしょう。 また、今現在の状況においても低価格路線は重要ですが、逆に高額なブランド路線があって良いでしょうし、ニーズもあると思われます。まだ中国で比較的に安価に大量生産が出来るうちに、半ば美術工芸品のような国産つぼ巣も作ってはどうでしょうか。いろいろと起こりうる海外生産でのリスクを考えれば、国産のラインも少しは残しておいて損は無いですし、むしろそうしない企業は経済優先で政治に疎くおめでたいだけかも知れません。いわゆる、国産ラインの確保は、リスクマネジメントになるわけです。 当該メーカーにおいては、以前(今年2月)、「国産につきましては、申し訳ございませんが現在考えておりません」というお話でしたが、市場規模の小さな分野ながら、トップシェアのメーカーには相違ないはずなので、これだけ長期間にわたり供給を滞らせながら、またいつ同じ状況になるか不透明な国でのみ生産する体制を継続するとアナンウンスされても、すでに迷惑をこうむった消費者の不安を払拭するのは難しいと思います。中国に拠点を移して何年になるのかは承知していませんが、元々は国産だったはずなので、ゼロからスタートするわけでもないでしょう。早めに考えたほうが賢明のように思います。 メーカーにとっては胃が痛む面倒な話でしょうが、消費者としては期待して頼りきっているので、頑張って欲しいところです。
2008年05月07日
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なぜチベットの人たちや、それを支持する人たちが、政治とは無関係という建て前のオリンピックを契機として、「フリーチベット」などと場違いに訴えるのでしょうか? とりあえず、「オリンピックに政治のゴタゴタを持ち込んで欲しくない」とか、「聖火リレーは楽しくにこやかに行いたい」などと、何も知らない他人事として綺麗事を並べる前に、チベットの歴史的事実と現実を踏まえたいところです。 まず、チベットは歴史文化的に大昔から漢民族の支配領域とは違っていました。そもそも同じであれば、西遊記の玄奘三蔵はあれほど苦労するはずがないのです。漢民族にとってチベット民族の居住する西域が広大な異界という共通認識があったからこそ、あのような大衆文学が生まれたと言えるでしょう。 あまり古い話をしても仕方がないですが、とりあえずダライ=ラマを祭政の指導者として現在に続くチベット政府(ガンデンポタン)にしても、17世紀にポタラ宮が整備された頃には成立していました。それだけでも300年以上の歴史があるわけです。一方、当時漢民族の居住する中国は、満州族(女真族)による征服王朝である清帝国の支配下にありました。この清帝国は強大で、チベットもまたそれに帰属する、悪く言えば隷属する状態になります。しかし、ダライ=ラマもその政府も存続し、宗主国である清帝国は属国の宗教に介入などしないので、大幅な自治が認められる状態であったと見なすことが出来ます。 その後20世紀に清帝国が弱体化し滅亡すると、中国の内戦状態の混乱の中で長くチベットの位置づけはあいまいなものになりました。チベットは独立国家として国際的に承認されなかったものの、実質的に独立国家として存在する状態になっていたのです。ところが、欧米列強の侵略、軍閥の割拠、国民党の台頭、中国共産党の出現、満州国の建国、日本による侵略、国共(国民党・共産党)の内戦といった混迷から、1949年中国共産党による統一が実現すると(中華人民共和国)、「チベットは中国の一部」の実現に向けた動きが一気に現実化します。1950年には早速人民解放軍が軍事的に制圧し(チベット侵攻)、翌51年には中国側の圧倒的軍事力の元でチベット政府を中国の一地方政府として位置づけられたのです。 中華人民共和国の指導者であった毛沢東の掲げる共産主義は、基本的には宗教を否定するものですから、「民主改革」「社会主義改造」の名のもとで、チベット仏教を生活の中心におくチベットの伝統文化との軋轢は避けられませんでした。そして、チベット人たちの不満が募った結果として、1959年中国勢力の一掃のために東部のチベット人たちが武装蜂起し(チベット動乱)、結果、動乱はチベット政府が地方政府として自治を行う西部地域に波及、人民解放軍(中国軍)の圧力にダライ=ラマはじめチベット政府はポタラ宮を脱出し、ヒマラヤを越えてインドに亡命政府をつくって今日に至っています。 ダライ=ラマは政治権力のみではなく、生き仏と位置づけられる宗教的存在で、チベット仏教の信者にとっては最も重要な崇拝対象です。それは、彼がポタラ宮を追われてからも続き、普通の信者ならその肖像を掲げるのは当然と言えます。 ところが中国政府はこれを認めず、チベット仏教ではダライ=ラマに次ぐ存在であるパンチェン=ラマの後継者選定に介入し※、その存在を利用しつつ、ダライ=ラマを信仰する人々を、チベット仏教の中でも異端な「ダライ集団」として迫害しているのが現状です。※ チベット仏教においては、死んだ人間は再び別人として生まれ変わる転生が信じられており、ダライ=ラマやパンチェン=ラマの地位も、自身の生まれ変わりである子ども(転生霊童)に継承される。 1989年にパンチェン=ラマ10世が亡くなったので、1995年にダライ=ラマ14世のチベット亡命政府は、6歳の少年を転生霊童と認めて公表した。ところがその3日後には、転生霊童とその両親を中国当局が連れ去り(中国政府は「保護」としているが、現在までその所在も安否も明らかでない)、別の少年を転生霊童として国家的に認定した。 なお、俗物的にもこの転生による地位の継承は合理的だと、個人的には考えている。なぜなら血縁による世襲制では、先天的に問題のある人物が権力を握る恐れがあり、また、前任者の指名で決める場合は、前任者の恣意が働き客観的に問題が生じる恐れがある。転生霊童を後継とするなら、そういった問題は生じない。両親が善良で有能そうな子どもを選んで、静かな環境で正しく育てれば、暴君の出現はまずあり得ないのである(伝統的価値観がその集団の共通認識とされていなければ継続は困難)。 チベット仏教徒でなければ、ダライ=ラマを生き仏として敬う必要はありません。また、祭政一致という制度については疑義もあるところです。しかし、それがチベット民族の文化であれば、他民族はそれを尊重し、変革が必要なら彼ら自身で行わせるのが、民族自決の原則だと信じます。 しかしながら、現在までの中華人民共和国の行動は、チベット人たちの個々の信教の自由を認めず、文化を破壊し、チベット民族を政治的に分断するものと見なされてもやむを得ないところではないでしょうか。 このように個人の信仰にまで露骨に介入する国家権力の圧力に対し(今回の暴動でどのような鎮圧行動があったかは分からないが、外国メディアを完全に排除して実態を隠した、中国当局の考え方は露骨に分かった)、「フリーチベット」を叫ぶ人々に同情するのは、自由民主主義を前提とする国の人間としては当然でしょう。まして、多少とも問題の背景を知っているなら、にたにた笑って聖火リレーを見送ることも、ましてそれを掲げてハイタッチしようなどと、年を取るほどにどうかしてきているのかも知れないコメディアン以外には考えることも難しいものと思います。平和だとか、人権だとか、人々の幸福を祈るなら、まずはチベット人たちについてのそれを考えるべきで、そうした現実的な思いやりを掛けられるわずかばかりの知性があるなら、加害者側と見なされうる国家が、その国家の威信を掛けて開催するスポーツ大会に対して(中国当局は、客観的な他国のメディアを締め出した時点で、正当性を疑われる立場に自らを追い込んでしまった)、自由民主主義を基本とする社会の一員としては、人権的に疑義のある国家の行為を認めない姿勢を示すため、笑ったり手を振るなどせず、義務的に黙って聖火リレーするしかなかったと、私は思います。 オリンピックを開催することにより、中国がより良い方向に向かって欲しいと言うのが、観音菩薩の化身であられるそうなダライ=ラマ14世猊下のお考えのようで、個人的にもそうあってもらいたいと思っています。 今現在、人権意識の強い欧米にしても、昔は帝国主義に基づき、未開の人種を保護だとか教化するとして(人間未満なので動物並みに保護対象とした。彼らは人類進化において白色人種を最終型とし、有色人種を下位の存在と見なすのを科学的と思い込んでいた)、植民地獲得競争に明け暮れましたし、日本もその後塵を拝しつつ、当の中国を政治的に分断し領域的に蚕食しました。あのアメリカ合衆国にしても、強圧と欺瞞で先住民族のインディアンの居住地を奪い、その宗教的聖地を汚した過去を背負っています。その点日本も、北海道のアイヌたちに対し、やはり保護の美名のもとに、その文化の多くを葬り去りました。 悠久の歴史を持つ現在の中国の特に漢民族の人たちが、「昔欧米も~」とか「昔日本も~」などと主張したくなるのも道理ですが、「人のふり見て我がふりなおせ」と言われるように、せっかく悪しき前例を承知しているのなら、それを踏襲する必要はないと思います。 オリンピックを機会に、開かれた中国、文化思想的にも将来世界をリードし得る姿を、全世界に是非アピールして欲しいところです。
2008年04月27日
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死刑廃止論を唱える人の中に、法律で復讐(仇討ち)を認めて良いのかと真顔で主張する人が、驚くほどたくさんいます。昨今では青山学院大学で教鞭をとってるという某女史が、山口県光市の18歳だった男に対する死刑判決に対して、「国は復讐代行業になった感じ」とブログで否定的なご見解を示された(書きなぐった)ようですが、個人の復讐を代行しない国家などあり得るでしょうか? この女史のような人々は、例えば古代のハンムラビ法典のような復讐法を、野蛮なものに感じているように思われますが、それはあまりにも単純な誤解です。確かに、国家による刑罰とは、被害者もしくは被害者の関係者個人による応報(私刑・リンチ)を否定するものには相違ありません。しかし、それは「私」の代わりに仇を討つという役割を国家が担うという暗黙の大前提があって初めて成り立ちうるものです。犯罪行為を犯したものを、個人的に裁けず、国家なり集団も裁いてくれなければ、世の中は無理が通れば道理が引っ込む弱肉強食の修羅世界になってしまいます。国家なるものが、公正な法律に基づいて加害者に制裁を加えてくれる、つまりは代理に復讐なり仇討ちをしてくれるからこそ、私刑の連鎖を抑えることが出来るのです。 ハンムラビ法典の「目には目を、歯に歯を」という有名なフレーズを聞けば、現代の文化人は何と野蛮な古代の遺物といった印象を持つかもしれません。しかし、本来は、目を失明させられたからと言って、その加害者の生命を奪うような過剰な復讐を禁じたのが、この法律の主旨です。つまり、与えた被害に見合った制裁を加える、いわば罪刑の均衡を目指した条文であって、これは現代の刑法にも通じるはなはだ公正で合理的な内容なのです。現在は、復讐の実行を国家の法律に任せ、量刑という名で復讐方法を客観的に細かく裏付ける法体系をもつ罪刑法定主義が採用されていますが、これは基本的にハンムラビ法典と同一線上の存在と見なすべきで、むしろ私刑を禁じた今の方が、国家権力は強大で復讐に果たす役割は絶対的なものとなっていると見なすべきです。 青学で学問を教えている極めて優秀なはずの人物でも、義務教育もまともに受けていないような人物でも、法律にしろその背負っている歴史について無頓着な人は多いでしょう。何しろそのようなものは知らなくとも、現在の民主主義で法治国家の日本で生活するのに支障は無いからです。しかし、少し新聞を読むなりニュースを聞くだけでも、現在の裁判官が述べる判決の際に、遺族感情について言及するくだりがあることくらいは知ることが出来るはずです。その遺族感情云々は、裁判官が遺族に対してリップサービスをしているわけではなく、国家による罪科が遺族の代理行為である側面を有していることを、明確に示しているものだという事くらいは、近く裁判員制度など実施しようとしている国の一員として理解していて損はないと思います。 肉親や自分が愛した人を奪われた遺族が、その報復を求めるのは当たり前で、これは自己防衛に近い自然な感情だと私は思います。自分が愛する人なら自己と密接不可分な存在のはずで、その自分の一部に対する攻撃を自身への攻撃として認識するのは、極めて人間として当然な感情でしょう。 しかし、犯人の命を奪ったところで被害者は生き返ってくれませんから、遺族の誰もが加害者の死刑を望むとは限りません。私個人は、人を殺すような償い得ない罪を起こせば、遺族がどのように考えようと、加害者自身が人間としての尊厳を守るのであれば、とりあえず死んでわびる(わびようがないので死ぬ)しかないと考えますが、無理にでも生かして反省の日々を送らせるべきとの考え方もあるように思います。何しろ、腹を切って死なず、出家遁世して人里離れた山の中で、死ぬまで読経三昧で過ごすのも、責任の取り方として厳しいもののはずだからです。 凶悪な犯罪者であれ、生きている者の命を奪うのは気分の良いものではないですし、自殺などそれが何であれ自分の責務からの逃避と見なすことも出来るわけで、そのような行為は許されないとする宗教もあるでしょうし、その考え方も納得できるものです。つまり、もし愛する人を奪った凶悪犯人に対してすら、死刑を望まない人も多いはずです。しかし、そうした死刑を望まない人々であっても、その犯人が、数年して社会に戻り、また犯罪を起こすことは望まないでしょうし、過去の自分の行為を忘れて、生まれ変わって幸福な一生を送ろうとすることまで許せるでしょうか?おそらく大多数は、死刑にならなかった加害者に、彼が墓場に入るまで己の罪を背負って生きて欲しいと思うのではないでしょうか。具体的には、山奥で修行し続けるか、刑務所の中で生涯を過ごすことをです。 ところが、今の日本の法体系では、死刑の次に重い罪は無期懲役で、実際には10年も経てば出所してしまい、それで罪をあがなったことになってしまいます。これでは、大多数の被害者遺族は納得がいかないでしょう。 死刑に反対するのは一つの考え方ですが、それには終身刑を用意し、遺族感情が死刑ではなく終身刑を望むような社会的合意を醸成する必要があります。そうでなければ、法が裁かないのなら私刑を下すといったことが生じ、法治国家の根本が揺らいでしまうでしょう。理念的な死刑廃止など叫ぶ暇があるなら、まずは終身刑の導入を求めたいところです。それは、受刑者の増加による経費や施設(刑務所)の問題などをどのように克服できるか、より具体的な現実的議論を必要とするでしょうが、結局は死刑廃止に通じる一歩になるのです。死刑廃止論者には、言葉遊びではなく、現実を見つめて欲しいところです。
2008年04月25日
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さて、「世も末だ!」と「近頃の若い者は・・・」は、古今東西の人類によって何千年前からの繰りかえされた戯言で、世も末と言われつつ、その近頃の若い者が歴史を進めてきたのが、動かしがたい真実です。 しかし、先の茨城県の事件や、岡山県でホームの前列に並んでいた人を、「誰でも良かった」「刑務所に行きたかった」などととして、突き落として殺すような若者のニュースを聞くと、世も末だし、近頃の若い者は、と思えてしまいます。 岡山の犯人である若者は、家庭の経済事情で大学進学をあきらめ、2、3年仕事をして学費を貯めて進学しようと考え、ハローワークに行き、郵便配達の面接を受けたものの、その収入の少なさに絶望していたとの報道がなされていました。何と殊勝な心がけではないですか!もしこの報道が本当なら、近くに「新聞でも配れば?」と一言アドバイス出来る大人がいなかった不幸を嘆かずにいられません。もし、その一言さえあれば、彼は罪を起こさず、理不尽に殺される人も無く、家族の死で苦しむ人たちも出なかったように思います。 近頃の若い者は・・・、新聞奨学生も知らないとしたら、これは紹介しておかなければならないでしょう。 もちろん、新聞奨学生などやらずに済めばその方が良いでしょうし、もし女の子なら私は薦めません(朝暗いうちに一人でうろうろするのは、安全とは言えないから。ただ、出来ないことではなく、実行された方も多い)。男ならそうした苦労をしても損はないかもしれません。販売店により処遇はいろいろで(給料は規定があり一定のはずだが住環境は一定とは言えない)、中にはとんでもない所もあるかもしれませんが、そうした場合は遠慮なく事務局に訴えて、別の販売所に移れば良いでしょう。とにかくも住む所は用意され、予備校や大学の学費は払ってもらえるし、倹約すれば貯金も出来ます。今なら、夕刊の配達がないという選択肢もありますから、キャンパスライフにさほど支障も出ないはずです(私は浪人時代に一年間体験しただけ)。 ところで、今はどのくらいもらえるのでしょう?※以下首都圏の場合・広告が多く分厚くなる読売新聞(その代わり配達距離は総じて短い) 読売育英奨学会 http://www.yc1.jp/yomisho/ 月給13万5,700円 奨学金年120万円まで免除(他に賞与あり)・広告が多く分厚くなる朝日新聞(その代わり配達距離は総じて短い) 朝日奨学会 http://www.a-kumiai.or.jp/as/ 月給13万7,200円 奨学金年90万円支給(他に賞与あり)・広告の量はほどほどの毎日新聞(育英会が運営する予備校がある) 毎日育英会 http://www.mainichi-ikueikai.com/ 月給13万6,000円 奨学金年80万円まで免除(他に賞与あり) ・夕刊がなく広告が少ないので薄い産経新聞(その代わり配達距離は総じて長い) 産経新聞奨学会 http://www.sankei.co.jp/pr/ikuei/ 月給9万1,400円 奨学金年72万円支給(他に賞与あり) 以上は大まかな数字で、詳細はいろいろなオプションがあります。とりあえず昔より給料が良くなっているものの、食事は外食が基本となっており、販売店で食べる場合はその分給料から天引きされるようです(昔は朝晩の賄い付きが基本)。 実は個人的に新聞の宅配制度などやめた方が良いと考えていて、いかにナベツネ氏が反対しても、時代の趨勢としてなくなる運命にあると思っています(いろいろな資源の無駄になるから。当然ペーパーレス化は避けられず、配達でバイクを使うくせに電気化しようともしません。新聞社は部数ばかり気にするくせに、拡張員はヤクザまがいが多いです)。しかし、今のところは、やはり経済的に困難なら、「新聞配れば?」は有効と言えそうです。 例えば、「私学の雄」であらせられ、都の西北に鎮座まします早稲田大学。あの伝統的なバンカラ大学のイメージとは裏腹に、文系の学費が少々お高い学校を目指す場合はどうなるでしょう。 とりあえず、入学金とか初年度納付金などという、これまたどのように考えても理不尽な悪習により、入学の際に30万円ほどのまとまったお金が必要となります。なぜ入学するのにそれほど金を払わねばならないのか、そんなものに胡坐をかいているから、能無しでも卒業させて無理やり空きを作り、結果大卒馬鹿を増やすだけになったと、どさくさに紛れて糾弾してやりたいですが(教授に単位を出すように圧力をかける)、それ以上に、「新入生一人に必要な経費を明示してもらおうじゃねえか、え!」と、教育者のふりをした経営者どもをつるし上げねばならないでしょう。しかしながら、現実としてそれを納めなければ入学を認められません。どの道、少子化により入学数は減るので、卒業させずに在学生からの授業料で経営していくようになるしかなく、そう簡単に卒業させないという、本来あるべき姿になるのも近々の未来なのは明らかですが、これも時代の産まれあわせで止むを得ないところでしょう。未来に生まれてやり直しなど出来ないのです。 また、これは理不尽と言うより、完全な詐欺ではないかと個人的には思っているのですが、入学試験には受験料として3、4万円必要となります。予備校の模試など数千円ですから、試験そのものの実施に何万円もの必要経費が計上されるはずはないにも関わらず、この高価な受験料は昔から習慣化され、ほとんど各校横並びに状態で続いています。談合と言って悪ければ、申し合わせでもあるのでしょうか?これは、公正取引の上ではなはだ不当、法律上も疑義がある重大な詐欺行為としか思えませんが、これまた少子化の客(学生)寄せのために、近い将来の「価格破壊」は確実でしょう(無料で試験するようになるだろう。その際卒業生から、昔収奪したものを返還要求されたらどうしますか?)。しかし、はなはだ遺憾ながら、とにかく必要なのが現状です。嫌でも、払わなければ試験が受けられないのです。そして、1校しか受験しないことはあり得ませんから、とりあえず20万円くらい試験を「受けてやる」だけで必要となってしまうでしょう(受験生はお客さんなのだ)。 となれば、入学するまでに50万円程度は必要となります。これを時給千円以下で普通の生活をしながら貯めるのはつらいですが、夕刊も配って集金もしていれば13万円ほど給料がもらえ、住居費は要らないしボーナスは20万円にもなるわけですから、予備校に通ったとしても1年で貯められるはずです。 そして、めでたく都の西北の大隈講堂に行くことになれば、午後の授業をとり易くするため夕刊のないところに移っても良いかもしれません。ご不満もあるかもしれませんが、産経。大学1、2年時の奨学金は年額72万円、一方学費は85万円ほどと推測され、書籍などを含めれば90万円にはなるので、奨学金のみでは18万円ほど足りません。月1.5万円の赤字ではありますが、月給から差し引くと、それでも7万6400円残ります。これで食費(推定4万円)・水道・光熱費(推定1.5万円)を賄わねばなりませんが、・・・余裕でしょう、2万円以上残るではありませんか。さらに日本育英会の奨学金の貸与などを受けられたら(月額約6万円)、超リッチな生活も可能です。 これくらい具体的に話しが出来れば、経済的理由で簡単に進学を諦め絶望することはなかったのではないでしょうか。返す返すも残念です。
2008年04月04日
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取り返しのつかない行為や、償えない行為をしてしまったら、生きながらえる意味がないように思います。死刑については賛否両論あって当然ですが、この論議の上で誤解してはならないのは、死刑は被害者への償いのためのものではなく、償いようがないので死んでわびるに過ぎないという点かもしれません。本来なら、「死んでお詫び仕る!」と人間である自分が、人間として生き抜くために、自分自身に処さなければならないものながら、自分で首をくくるのは何かと逡巡されるので、制度上処刑して頂くだけのように思うわけです。 何しろ、もし、自分の行為に対して認識し人間らしく考えることが出来るなら、他人の命を奪いながら、自らは生きながらえようとする結論には達しにくそうですし、何とかそのように思い込んだとしても、永久に後ろめたさを感じるのではないでしょうか? 一方、犯罪時に心神を喪失し人間性を失っていたので、罪には問えないケースがありますが、私はこれはおかしいと思っています。なぜなら、死刑と言えば他人から下される処罰のようですが、前述のように基本的に自裁、「死んでお詫び仕る!」以外ではなく、それは切腹する武士に介錯するようなものだと結論付けているからです。もし犯行の瞬間に自分自身の意識が飛んでいようと、それの当事者が自分であると後で認識出来るのなら、「死んでお詫び仕る!」になるしかないのではないでしょうか? それでは、今現在も心神喪失状態が続き、自裁するのが無理な場合はどうでしょう。それを考えた時、私は人喰い虎の末路に思いを致さずにはいられません。彼らには当然人間性はありません。食べやすそうな獲物を襲って己の糧にしたに過ぎないのですが、さて、心神を喪失している罪の意識など欠片もない彼を、人間集団は許すでしょうか? 私は断固虎狩りをすべきで、その人喰い虎を生かしてはおけないとする意見に賛同します。もしそれを野放しにしては、人間が安心して生活出来ないからです。何しろ誠に遺憾なことではありますが、人間でない者に教え諭すことは出来ず、個としての人間の弱さを心得て、それを襲うような生き物は、人間集団の敵対者として排除する以外にないからです。もちろん、圧倒的な数量の人間たちに狩りだされて、嬲り殺されてしまう一匹の虎に、人間的な罪は何一つないわけですが、人間社会の一員である限り、それを処分しなければならない存在なのも確かなのです。 そこで心神を喪失した人は無罪とする人たちにお尋ねしたいのですが、心神喪失で人間性を失っている哀れな人間と、天然自然に生きて人間的な倫理規範など生まれながらにあるはずもない虎の違いとは何でしょうか?心身を喪失して他人の命を奪うような者を、治療したと称して、またその彼の心神を喪失させしめた社会に放り出せるなら、どうして罪のない人喰い虎を、また人を襲う危険性は十分以上にあったとしても、しばらく餌づけして野に放つという選択が出来ないのでしょうか? 昔、飼育場から逃げ出した虎が、別に人を襲ったわけでもなかったにもかかわらず、その可能性があるとして追い回されて射殺されました。千葉県でのことです(1974年)。昨今、外見上は人間ながら、明らかに人間性を失った生き物が、何の関係もない老人を殺害し、さらに鉄道の駅で無差別殺人を行ったのは、隣県の茨城での出来事でした。 虎は人を襲った実行犯ではなかったのですが、直ちに近隣住民に知らされ、夜間外出禁止まで布告されたようです。一方、最近の人間の外見をした生き物の方は、すでに何の罪もない人命を奪いながら、その生き物が逃亡しているのを一般人に周知されず、間抜けな私服警察官の面前で凶行が繰り返されてしまいました。 飼育場から何となく逃げ出し山にこもった虎よりも、人を殺して繁華街に紛れた外見上人間の生き物の方が、人間社会の不安要因としては大きかったのではないでしょうか。にもかかわらず、なぜ野放しにして、麻薬密売人を逮捕するように、私服警察がこっそり駅で待ち伏せねばならなかったのでしょう。加害動物の捕獲よりも、被害拡大を防止しなかったのはなぜでしょうか? 結局、裁判ともなれば、弁護士及び鑑定医師より「人間でない」と宣告され、罪にも問えなくなるのが目に見えている人非人を、その間抜けな警察官たちは、人間として見ていたのかもしれませんが、人間でないものを、人間の基準で推し量るべきではなかったように思います。 人間社会の法秩序というものは、人間の社会集団が安心して生活出来るために存在しているのだと信じています。ようするに、大多数の健全な人間の市民を守るためのものでなければ、法が存在する意味は無いと思うのです。ところが、虎は人喰いどころかその危険性のみで処分されてしまい、人非人は人を殺してさらにその敵対行為を続ける危険性があっても処分しないようです。しかし、それでは、今後社会不安は高まるばかりではないでしょうか? 処刑は本来刑に服するもので、人間である自らを裁く意味合いのものとすれば、確かに心神を喪失した人非人を処刑することは出来ません。それでは、なぜ虎のように処分しないのでしょうか。もちろん、それが生物学上人間である限り、人間性が再生できると信じるのも無理はありません。しかし、それであれば、少なくとも現在のように再犯せざるを得ないような状態、つまり、心神喪失を理由に無罪とし、適当な治療をしただけで、彼を人非人たらしめた社会に再び放り出すような制度は、早急に改めねばならないと思います。そうでなければ、罪に問えない以上、敵対動物として裁判などせずに処分せよ、と言った極端な状態に追い込まれるのも、それ程遠い将来のことではないように思えるのです(人間性を回復しながら、自己の起こした犯罪を背負って生き続けるのは、本来地獄の責め苦だと思います)。
2008年04月04日
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文鳥の飲み水に「ミネラルウォーター」を使っている方が、某動物病院のホームページの鳥の飼育に関するページに、「ミネラルウオーターは与えないでください。結石の原因になります」とあるのを見て、心配になったとの事でした。 そこで私が考えた問題点は次の2つです。(1)文鳥に結石が出来るのか。(2)ミネラルウォーターが結石の原因になるのか。 まず、結石といった場合、人間では尿路結石が多いかと思いますが(数年前家族が音波での破砕手術をした)、体の構造や排泄システムが異なる鳥類では、尿路結石はあっても極めて稀ではないかと思われます。何しろ鳥類は、基本的には液体ではなく固体の尿酸を糞に付加して排泄しますから、液体が流れる細い管を固体が塞ぐという事態が起きにくい体の構造なのです。また、内蔵の中に結石があったとの話も、寡聞にして知りません。 次にミネラルウォーターと結石の関係ですが、とりあえず人間の結石において、ミネラルウォーターを飲んでいるか否かが問題となることはないと思います。確かに単純に考えると、摂りすぎたカルシウムの余剰が固まって結石になりそうなものですが、科学的な事実としては、「カルシウムパラドックス」と呼ばれるように↓、カルシウムの不足によってかえって結石の形成が促されるので、むしろカルシウムを水道よりも含むようなミネラルウォーターは結石予防に役立つと考えるのが、科学的であり論理的なのです。 『予防医療.com』さんの参考ページ http://www.yobou.com/contents/rensai/report/r07_02.html さて最近ペット、と言うより犬猫用とされ市販される水は、カルシウムなどミネラルをほとんど含まないものが多いようです。 実は、なぜそのようにしたがるのか、私は一年ほど前から不思議に思っていたのですが、今回の話を元に方々をざっと覗き見して、どうやらカルシウムの過剰摂取により結石が生じるとする、人間の医学では否定されたはずの話に基づいていての動向と判断するに至りました。 しかし、飼い犬や飼い猫に結石が増えているとしても、それを飲み水に起因すると考える根拠が何かあるのでしょうか?むしろミネラルウォーターを与えるような細心の注意が、かえって過保護なものになり、必要以上の栄養を与え、なおかつ運動不足にさせていなかったか、つまり生活習慣を先に考え直すべきではないでしょうか。 とりあえず、水の中のミネラルの多寡で結石になったりならなかったりするなどと安易に断定し、ミネラル分の少ない軟水さえ飲んでいれば大丈夫などと広告するのには感心できません。もし、それが人間のものであれば、必ず問題になる行為であり、安易に飛びつく前に、いずれの動物の飼い主も考えないといけないでしょう。 論拠不明な非科学的な話を削れば、軟水を薦める理由は次のようなものになるはずです。 「ドックフードやキャットフードには、栄養学に基づいて必要十分なミネラルも含まれているので、それ以上のミネラルの摂取は過剰となり結石を起こしかねない。したがって、ミネラルを多く含む硬水を与える必要はなく、ミネラルを含まない軟水の方が望ましい」 繰り返しますが、ミネラルの過剰で即犬猫が結石になる証拠は何一つないはずです。むしろ、人間の医療ではカルシウム不足が結石の要因とされている以上、人間の医療の援用や転用以外の何物でもない犬や猫などのほ乳類に対する考え方としては、その科学的結論も受け入れなければおかしいのではないでしょうか(冷静に見れば、専門性のある獣医さんの「尿石症」や「膀胱結石」の説明として、カルシウム摂取を挙げるものはないのはネット検索でも分かるはず)。 確かに、毎日必須の水により、絶えず過剰、もしくは吸収可能量以上になることが確実ののミネラルを供給し続けることが(カルシウムを腸管からの吸収するには、ビタミンDなどが介在しており、これが不足していれば吸収されない。つまり、ビタミンDによって吸収量がコントロールされている)、結果として健康に影響しないとは限りません。しかし、それは現時点において、不確かな可能性の一つに過ぎないのではないでしょうか。「起こしかねない」は推量でしかないのです。そして、普通の飲み水としては珍しい超硬水が問題ありなら、人為的な超軟水の常時使用も、問題がある可能性ももゼロではありません。その点、万一、前提条件である食餌にミネラル分が十分でなければ、ミネラル不足で多くの健康問題が発生するのは明らかと言えます。それは現実に、小鳥(セキセイインコ)飼育に関して、ヨーロッパの軟水地方での甲状腺障害(ミネラルの一つヨウ素の欠乏症)という形で現れたこともあったのです↓。 http://www.cam.hi-ho.ne.jp/bun2/mondai/mondai10.htm ところで、「ミネラルウォーター」と言われたら、皆似たり寄ったりだと思ってしまいますが、実は中身はさまざまで、一般的な水道水よりもミネラルを含まないものも普通に存在します。例えば著名な商品の中でも、『コントレックス』のようなミネラル含有量が非常に多いものも(硬度1551mg【300mg以上が硬水】、100ml中カルシウム48.6mg)、『サントリー天然水(南アルプス)』のようなミネラル含有量が少ないもの(硬度30mg【100mg未満が軟水】、100ml中カルシウム0.97mg)もあるのが現実です。前者は後者の50倍もミネラルを含有しているわけです。 日本の水道水の硬度は60mg程度らしいので(地域によって異なるが硬水地域はほとんどないと思われる)、「ミネラルウォーター」と言っても、水道水よりもミネラル分が少ないものも存在あるのが現実と言えます。従って、カルシウムなどのミネラル分が多い飲み水が結石を引き起こすと思い込んだとしても、「ミネラルウォーターを与えないでください」などとするのは誤りなのは明らかでしょう。その立場であれば、軟水のミネラルウォーターなら薦めなければならないのが論理的帰結であり、正確な表現のはずです。 以上、ようするにミネラルウォーターによって結石が出来るなど、信じるに足りる話ではないと言えます。 とりあえず使用したいのであれば、商品の広告を鵜呑みにせず、「ミネラルウォーター」と一括りに考えず、軟水だとミネラルが含まれず、硬水だとミネラルを多く含むことを前提にして、例えば自分の飼っているペットの食べ物にミネラルが不足していると感じたら硬水系のものを、十分であれば軟水系のものを、どちらでもなければ、とりあえずあまり硬度が極端なものは使用しないといった心遣いというか、論理的整合性のある冷静な判断をするのが、飼い主としてもっとも賢く無難な行動ではないかと思います。
2008年02月28日
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他人、もしくは自己検証のために仮定したもう一人の自分との議論において、必要となるのは根拠となる事実と、その事実をつなげる論理性です。でたらめな情報を根拠にしては正しいはずの結論に達することは出来ず、論理性、つまり思い込みや飛躍がなく話の筋道がしっかりしていなければ、相手を納得させることは出来ません。 そこで根拠となる事実を見つけるために調べ、場合によっては他人に尋ねることにもなるでしょう。ただ、それが、例えば文鳥の飼育に関するような、天下国家の話に比べればごく私的なテーマであっても、安易に考えるべきではありません。少なくとも、自分が尋ねる相手が、どのような意見・見解を持っているかを調べもせずに、「教えてくれ」と迫るなど、無鉄砲かつ無礼なこの上ない行動であり、自分の意見・見解も持たず、他人のそれも尊重できない人の態度です。 そもそも、自分で調べて学べるものは学び、考えるべきは考え、行き詰った末に他人の意見を求めるのが、学問の本質です。学校で教科書に載っている内容を、調べもせずに教師に軽々しく「教えてください」と質問をするのは、子どものお勉強(手習い)に過ぎず、本来の学問(自分で考えなければならない)とは呼べません。 これを昔の人の言葉(『論語』)で表現すれば、「憤せずんば啓せず。ヒ(手偏に非)せずんば発せず。一隅を挙げて三隅を以って反らざれば、すなわち復せざるなり」となります。何のことか、解説されなければ私も分かりませんが、ようするに、孔子という多くの弟子を持った大昔の人生の達人は、「考えあぐねて行き詰まり今にも爆発しそうでなければ、手助けしない。分かっていながら言葉が出てこない様子でなければ、その言葉を口にしない。四隅ある机の一隅だけ教えれば、他の三つの隅を自分で見つけられるようでなければ、二度とは教えない。」といった態度で、弟子を導いたと言うのです。この話は「啓発」という言葉の語源になりますが、ようするに自分で懸命になって答えを探さない限り、教えられることなど何も無い、教えるだけ無駄だと言っているのです。 「せんせ~い!おしえてくださ~い!」などと、10秒前の授業で説明したばかりのことを質問してくるような生徒は(いるでしょう!クラスに1人は!)、孔子なら即破門です。教えてもらうというのは、軽々しく出来ることではないのです。教科書にあるような内容など自分で調べれば済むことが多いはずです。一方教科書にないようなことは...、これは答えが無いことが多く自分で見つけるしかないので、絶対的な答えを教えてもらえると考える方が間違いなのです。つまり、教えるとは、その人自身が考える際の手助けをすることに他ならず、考える気の無い者には無意味なだけなのです。 他人に教えを乞うというのは、実に大変なことです。自分で出来る限りのことをすべてやりつくし、さらに悶々と考えても打開出来ない時、きっと何がしかのヒントを与えてくれるであろうと見定めた人間に対して、ようやく出来る行為なのです。もちろん、相手はその人に教えてやる義務など何も無いはずですから、「教えてください」などと、教えてもらうのが当然のような言い回しを用いることは出来ません。「ご教示いただければ幸いです」とか、「お気づきの点があればご指摘いただければ幸いです」といった回りくどい言い回しになるしかないわけです。 高校までの学校で生徒として、教師を辞書代わりに気安く「教えてくれ」と言うのは、子どもにだけ、学校の中だけで許される甘えた行為に過ぎません。基本的に匿名で行動できるインターネットでは、未成年者も大人と見なされるのを覚悟しなければなりません。女子高生が、おじさんたちが居酒屋で飲んでいるところに乱入すれば、まあ、おじさんたちの方は喜ぶでしょうが、普通女子高生がそのような酔狂なことはしないでしょう?それが、インターネットの掲示板では簡単にやらかすわけです。しかし、冷静に考えれば、それは一種の勘違いだと分かるのではないでしょうか。やはり、実社会同様に近づくべきではないです。ボーダーレスに情報が飛び交う世界ですから、あくまでも自分を大切に、背伸びをせずに、まず自分なりに学びつくして欲しいところです。 以上のようなことを、他愛の無い書き込みをきっかけに考えてみたのですが、「教えてください!」と言われると、「覚悟はいいんだろうな!」と言いたくなるだけで、掲示板で他人に教えている意識は個人的には皆無です。近所の世話焼きおばさんの感覚なので、「これはどういうことでしょう?」と聞かれたら、知っている範囲でペラペラ答えているに過ぎません。もし、飼育方法『文鳥団地』流の家元(なんじゃそれは)として君臨し、弟子なり信者に教えるつもりなら、孔子を見習って安易には言えなくなるだろうと思います。もっとも、孔子は無関係に、たいした内容でないのを悟らせないために、「秘儀じゃ!」と謎めかすのは、常套手段ではあるのですが。 飼育と言うのは教え教えられるのは、高校までの授業のような基本的なことくらいだと思います。そこで、基本的なことは飼育ページや飼育書に書いたつもりなので、そこから自分で学んで欲しいところです。もちろん経験と以前の飼育書などを元に、自分なりに何度も何度も反芻して飼育方法を考えてきたので(他人の一方的な意見を他山の石にしたことはあっても、議論になった記憶は無い)、生半可な人と議論しても、そう簡単に変更を余儀なくされることはないだろうとは思っています。教えてもらうのではなく、開示されている情報から必要なことを学びとって、さらに考えを深め、それなりに自分流の意見・見解が固まった人から、議論を求められたら、小躍りして喜ぶだろうと思います。 しかし、「獣医さんが言った」とか「小鳥屋さんが言った」などという、何の価値も無い枕詞は禁止です。誰が何を言おうと、それを元に自分で一所懸命検証して、自分の意見・見解としない限り、対等に議論は出来ません。主観的にその個人を尊敬するのは勝手ですが、少し調べれば、獣医さんにも小鳥屋さんにも意見はいろいろであるのは分かるはずで、いろいろである以上、その意見・見解の発信源の肩書きなど無意味だからです。伝聞も参考にして良いですが(学問的にはあまり薦められませんが・・・)ではなく、自分の意見・見解としなければなりません。その際はその伝聞が事実か、論理として整合性があるか、を確認しなければなりません。 論語の中でついでに思い出したフレーズがあるので、最後に紹介しましょう。「知之者不如好之者、好之者不如樂之者」、「何か一つのことを知っている人よりも、その一つのことを好んでする人の方が優れていて、さらにその一つの事を楽しめる人は一段と優っている」といった意味です。これを文鳥の日常的な飼育に当てはめるなら、飼育方法を知識としてマニュアルで知っている人より、好きで調べている人の方が理解が深く、さらに日々文鳥と遊ぶのを楽しんでいる人の方が文鳥に通じている、となるのではないでしょうか。得体の知れぬ知識を集めて、「~さんから聞いた」などと振り回すよりも、その知識も踏まえながら、文鳥との付き合いの中から楽しんで学んでいく態度でありたいと思います。
2008年02月24日
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最近、「自分の意見だけでなく他人の意見と組み合わされてはいかがでしょうか?」という言葉を、自分の管理する掲示板で頂きました。しかし、まことに遺憾ながら、簡単に妥協できるようなことを文字化するほど無責任ではないので、ご要望には沿いかね、ただ単に、若いと言うのは大胆かつ恥ずかしいものだと言う感慨しか持ちませんでした。 事の起こりは、学生と称する人物(表現から受ける印象は成績の良い高校生)による、ヒナが孵化したがどうすべきか「教えていただきたいです」という投稿でした。管理人である私は、これに返信したわけですが、それに続いて「図書館のパソコンで」閲覧しているそうなので、やはり学生なり生徒と推定される人物(表現から受ける印象は普通の中学生)が、「(免疫力をつけるため)生まれて20日間は親」鳥が育てた方が良いとする、どこかの「信頼のある店」の店員の話を紹介しました。そこで私は、再度、孵化20日も経過したら、人間を怖がり餌付けがスムーズに出来ないという事実を指摘し、くどいくらいに説明したわけです。しかし、不幸なことに、ご両人はパソコンで掲示板に思い付きを書き込めても、その掲示板の元であるホームページから情報を引き出す環境も能力も無く、どうやら返信のくどい説明を、私が自分自身の説に固執した強情からくるものと判断したようで、件の書き込みとなったわけです。 しかし、私が16日彼が20日だから、間を取って18日で手を打ちましょう!で済むものではないことくらいは、自家繁殖したヒナを手乗りとして育てたことがあれば、小学生でも知っていることです。ヒナの器官の成長スピードはほとんど決まっていて、それはとても急激なので、1日で大きく事情が変わってくるものなのです。経験者としては、孵化20日などとする人は、その状況で親鳥から引き継いだ際にどういったことが起きるのか知っているとは信じられませんし、また、机上の学問だけで話したとしても、ほとんどすべての飼育書が生後2週間とすることすら知らない不勉強と、生半可な知識を初心者に語っていると指弾せねばなりません。 つまり、この場合、問題は知っているか知らないかの違いでしかなく、私は当然ながら十二分に知っていて、なおかつ、すべてのスレッドに必ずコメントする管理人なので、教えろと言われたら(教えてやる義務など欠片もありませんが)教えるしかなかっただけのことです。 このように書いていくと、その若すぎる両人に憤慨しているように思われるかもしれませんが、子どもどころか成人しても似たような態度の者などいくらもいるので、子どもの所業なら、腹を立てるより笑ってしまうだけです。ただ、これから常識を身につける年頃ですから、見ず知らずの人間に安易にものを尋ねることの可否、曲がりなりにも「教え」を受けながら捨て台詞を残すことの可否、また、責任ある意見と真の妥協とは如何なるものか、伝聞情報の危険性と自分で検証する重要性、そういった面を、安易に書き込みするより考えていって欲しいとは思ったのでした。 さて、先の若いらしい人の書き込みのように、自分が有する何らかの意見・見解というものが、他人の意見・見解に安易に妥協して組み合わせるべきだ、とする発想はどこから来るのでしょうか。私は、これが、ケータイなどと言うお手軽で、現状では情報端末として未熟なだけの存在(モニターが小さすぎて情報量に制約がでるので問題外、技術革新が必須)を、玩具としてあてがわれた世代を中心に、そのおもちゃを使った友だちとの内輪の会話と、不特定多数を意識した意見表明との区別が付きにくくなった結果と見なしています。 例えば、昨今、歌手の幸田某が「35歳過ぎたら羊水が腐る」などとラジオで公言し問題となりましたが、これなどは、親しい間での会話と、不特定多数の視聴者にも発信される意見との区別が付いていない稚拙さを露呈したものと言えるでしょう。 そもそも、我が国の象徴とされるご皇室において、皇太子妃殿下は35歳を過ぎて愛子内親王様という子宝に恵まれました。また、ご皇室では久々の男子でいらっしゃる悠仁親王様を、秋篠宮妃殿下がご出産になったのは40歳目前のことのはずで、そのご誕生を多くの国民が喜んでから、1年数ヶ月しか経過していません。これらご皇室の慶事について、エロカッコイイなどと言われて一部の若者のカリスマらしい歌手も耳にしていたはずで、もしそれを自分で考える習慣があれば、例え35歳以上の高齢出産は、それ以下よりも一般的にリスクが高まるといった情報を小耳に挟んでいても、現在では高齢出産も当たり前になっているくらいの結論は得られたはずです。そこから、少し考えを進めていれば、「羊水が腐る」などという意味不明の発言はしなかったと思います。つまり、エロカッコイイかは別にして、歌のお上手な幸田某は、どうしようもないくらいに世事に疎く驚くほど無知であったか、入った情報を自分の頭で整理してから話す習慣がなかったために、不特定多数に不快感を与え、満天下に恥をさらすことになってしまったと言えるでしょう。 おしゃべりも芸のうちですが、一対一のその場だけの会話と、不特定多数が目にしたり耳にする際の意見は、おのずと重みが違うことを認識しなければならなかったのです。そして、不特定多数に語りかけたければ、口数を増やす前に自分の中の知識を増やし、情報をしっかり考えて、話す中身の重量を増す努力を普段から心がけるべきでした。突然切り替えるのは難しいので、普段から心がけないといけないのですが、普段は、実体すら疑わしいようなメル友などに、くだらないだけの軽薄短小な内容を、気色の悪い顔文字を混じえ、その場のノリだけの脊髄反射で送信しあっているだけでは、身に付くはずがありません。一行メールなど会話以外の何物でもなく、前後の脈絡も考えず、その場のノリでテキトーに出来てしまうでしょう。結果、公私の区別など付かなくなり、幸田某の二の舞を演じることになりかねません。 不特定多数に対する発言をするには、普段からしっかり自分の意見を検証しなければいけないとすれば、その検証する習慣はどうすれば身に付くものでしょうか。ケータイのメール交換など全面禁止しても、たいした問題は無いと個人的には思いますが(ケータイを自由を奪う電波の鎖と見ている)、そういった後ろ向きな話は実現性が無いので、それとは別に議論する機会を多く持たせるべきだと思います。自分の意見・見解をしっかりと定め、他人の意見・見解と真剣に競いあう経験をしているなら、少なくとも、お互いの意見を単純に組み合わせて済むなどと、安易に考えられなくなるはずです。 もっとも、日本人は議論下手と言われています。これは、何となくその場を丸く治めて、狭い社会の協調性を維持することを優先させてきた影響かもしれません。何しろ、小さくて均質な共同体社会の中では、その社会の常識外の意見など芽生えにくいので、個々に持つ意見・見解に大きな違いが無く、議論をしなくとも問題はおきにくかったのでしょう。しかし、現在の日本は状況が大きく違っています。自由民主主義の社会で個人主義が深まり、情報化社会の恩恵で、多くの情報を元に個人が自由に物を考え、価値観も実に多様になっています。つまり、他の人間とはかなり違った意見・見解に到達するのも珍しくない社会に我々は存在しているのです。 その個性的な意見・見解が、議論を避ける因習の元で、表に出ないで自分の中だけに止まり続ければ、不幸と言うより危険です。自分が学び考えてきた意見・見解と、他人が学び考えてきた意見・見解とを、論理的に競い合わなければ、どうして他人の意見を真摯に聞いたり、自分の偏った面にも気づいたり出来るでしょうか。結局、自分だけのせまい知見で得た結論を抱えたまま自分の世界に引きこもり、さらには、その勝手気ままな結論で、他人に危害を加えるようになるかもしれません。 「和を以って尊しとなす」というのは、事なかれ主義でも、全体主義でもないはずです。現代社会の和は、個人としての他を尊重し、自分も尊重されることにありますが、議論をせずに、自分の意見・見解を相手に理解させ、また、相手の意見・見解を理解することなど出来ないのです。我々はテレパシーを使えませんし、多様な意見をすべて目を見て察することなど不可能なのです。 そもそも、議論とは子どもの口げんかとは違い、本来それによって仲違いすべき性質のものではありません。本来、議論をすることは、相互の理解のために必要な行為と認識すべきだと思います。この点で、高校で教わった人もいるかもしれませんが、アウフヘーベンという言葉を思い出したいところです。日本語では「止揚」と訳されますが、対立する二つの考え方(一方は旧く一方が新しい)を徹底的に議論することで、新たな考え方に到達すると言った意味としても用いられます。このアウフヘーベンはテキトーに足して二で割るとか「組み合わせる」のとはかなり違います。お互いの考え方に矛盾点が無いか、議論により洗い出すことで、おのずから新しい考え方が生まれているというものです。 この哲学用語のウフヘーベンとは、四文字熟語の「温故知新」に通じると私は理解していますが、ようするに、自分の意見・見解、筋道が立てば理論といえるものを、対立するそれと比べない限り、向上は見込めないと言うわけです。そのような議論の本質を理解していれば、論敵は自分の師として見なすしかなくなり、悪感情など抱くのは見当違いと言わねばなりません。どのように激しい議論であっても、実は自分の考え方を深くするプロセスに過ぎないのですから、議論に勝った負けたは本来あり得ないのです。もしかしたら、議論が自分の優勢のうちに終われば、凱旋将軍のように勝ち誇りたくもなってしまうかもしれませんが、それは陳腐な虚栄心によるまやかしと言えるでしょう。 つまり、自分で考え抜いた理論を持っていて、それをさらに高めたいと思うのであれば、議論を歓迎するしかないのが、論理的帰結です。一方で、いかに自分の意見・見解が論理的に破綻しても自説を曲げなかったり、反対に何の矛盾も無いにもかかわらず安易に妥協するような人は、議論をする資格が無いのも、また論理的帰結と言えるでしょう。自分自身の意見・見解を向上する気もないのに、感情的な脊髄反射で、他人に余計な手間を取らせるくらいなら、特定の知り合いと会話するか壁に向かって説法しているべきなのです。 感情を交えずに他人と議論するのは、なかなか難しいものですから、学校教育に取り入れるなり意識的に若いうちから習慣化させた方が良いと私は思っています(そういった動きがあると仄聞したことがある)。議論のため、他人からの批判に耐えるような自分の意見・見解を構築するにはどうしたら良いか考えるようになれば、自分の意見・見解を批判された場合のシミュレーションを自分自身の頭の中で行い、弱点を改良して議論の場に出なければならなくなるでしょう。そしてこのような、絶えず自問自答する習慣さえ出来れば、偏り過ぎた考え方・見解に陥りにくくなるでしょうし、軽率すぎる発言も減らすことが出来るはずです。
2008年02月24日
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さて、1月8日夜に機能を停止したパソコン、別のパソコンに増設HDとして認識させることで、記録を呼び出せる可能性があるとの指摘を受け、それを試すことにしたのでした。 無くなったところで生活に支障は無いのですが、失われたメールデータの大部分と、文鳥写真の最近の一部のデータを復活させられるなら、多少の手間隙はかけたかったのです。 何が悪いといって、メインドライブ(Cドライブ)とサブドライブ(Dドライブ)が、一つのハードドライブを仮想的に分割しているものなので、ハードディスクに問題があった時には、ともに機能不全になることくらいは知っていたくせに、バックアップをDドライブに放り込んで安心していたのは、大きなミスだったと言えます(Cドライブのことばかり考えていたので、「マイドキュメント」などのデータは外付けハードにバックアップ済み)。起動がおかしく、目の前に外付けハードディスクまであったのですから、Dドライブの内容をまるごと移しておけば良かったのでした。時間を惜しんだばかりに・・・。 繰言を言っても始まらないので、まず壊れたパソコンを分解し内蔵ハードディスクを取り出しました。そして、それをまともに起動するパソコンに接続するわけですが、あいにく省スペース型の筐体のため、ハードディスクを2つ抱える余地が無く、接続自体が面倒そうです(メモリの増設くらいしかしない人間は、あまり中をいじりたいと思わない)。 そこで、↓のような変換アダプタを使い、外付けハードディスク化させようと考えました。グリーンハウス GH-USHD-IDEIDE-USB2.0変換アダプタIDE⇔USB変換ケーブル ついでにハードディスクのマスターとスレイブを切り替えるため、ジャンパーピン↓も買ってきました。[在庫あり]ジャンパピン【でんき1001】 それで接続し、コンピューター管理ツールで記憶域を確認したのですが、ハードディスクとして認識されていませんでした。 説明書にあり、外付けにするのでマスターやスレイブは関係ないと思いつつ、一応スレイブ設定に変えて試しましたが、結果は変わらず、念のため同時に取り出したCDなどの内蔵ドライブを接続アダプターで外付けとして使用したところ、問題なく起動したので、アダプターにも問題ないようでした。 つまり、素人はお手上げとなったわけです。 まだ手はあるかもしれませんが、こだわらずに教訓にしておこうと思います。
2008年01月20日
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私の老母は、植木を枯らすことにかけては天才なのですが、毎年涼しくなるとシクラメンを買ってきます。今年も大きいのを引きずってこられては嫌なので、小さいのを先に買ってしまうことにしました。そこで、いちおう何色が良いのか聞いたところ、オレンジみたいな赤と、赤に近いピンク、といった難解な答えをします。なるほどそんな色合いのものもあはずですが、あいにくホームセンターで売っている一番安い物には、赤とピンクと白しかないに決まっています。白はいらないのかと聞くと、白は枯れやすいのだと言います。真偽のほどはわかりませんが、何色でも枯らすではないかと思い、さらに『シクラメンといったら白だろ!布施明の立場はどうなるのだ!』といった個人的な見解から、黙って3色買ってくることにしました。 もちろんそれだけのために、ガーデンコーナーに行くわけがありません。文鳥墓苑に植える何か白い花を買ってくるという目的があったのでした。春に植えたアレナリアモンタナは、北方系の草花のため夏枯れし、その後が殺風景だったのです。しかし、これももちろんの事ながら、草花に関する知識はないので、どの花がどういったものなのかは皆目わかりません。売られている小花で、私の感覚でお墓にふさわしそうな白系のものを、たんに見た目だけで物色しました。そして、キンギョソウとジュリアンを選んで買い、早速墓苑に植えてしまってから、どういった花かネット検索することになりました。 まずキンギョソウ。ゴマノハグサ科の植物で、花の形が金魚のようなのでその名前になったとのことで、金魚の生産地として有名なあの愛知県弥富市の市の花にもなっているそうです。弥富といえば白文鳥の発祥地として、その筋では知られていたところなので、文鳥墓苑の花としてもふさわしそうです。ところが、花の時期が春と秋で、秋は10月一杯が目安とありました。今日から11月、となれば、花の命は短いのは確実で、時期を失した感があります。 続いてジュリアン。正確にはプリムラ・ジュリアンというサクラソウ科の植物で、別名が「西洋桜草」と言うそうです。こちらは、耐寒性が強く冬にも花が咲き続けてくれる模様です。造花のようなわざとらしい姿をしていますが、丈夫で長持ちしそうで良いかもしれません。 かくして、墓苑は向かって左に植木の白南天、草花の金魚草、右に植木の天皇梅、草花の西洋桜草が並ぶことになりました(右側の組み合わせがお薦めです)。 文鳥たちの冥福を祈ります。
2007年11月01日
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イジメとは、強者が弱者を肉体的・精神的に苦しめることで、まことに腹立たしくはありますが、はっきり言って絶対になくなりません。「イジメをなくそう!」などと本気で言う大人がいれば、そ奴はうそつきか馬鹿かいずれかだと断言します。 イジメという行為は、古今東西どこにでも存在しますし、それがない人間社会はあり得ません。日本は生真面目な国民性と比較的平和な社会があいまって、イジメを何やら独特の社会問題のように考える人がいるようですが、現実は違います。例えば、先頃イギリス政府がネットイジメの対策をはじめているように↓、これは世界的に普遍の現象です。http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3666764.html 人間が3人いれば確実にひとりはイジメの対象になると言って良いくらいです。それが無意識であっても、悪気は欠片も無くともそうなるのです。むしろそうならなければ、集団での会話は成立しないかもしれません。さらに言えば、自分ひとりの心の中にもイジメはあります。いろいろな葛藤の中で、外の社会に自分を主張するには、内面にある他の自分を抑圧する以外に無いからです。 つまり、「イジメをなくそう!」とか「イジメの撲滅」などというお題目は、人間の本質を理解しない馬鹿者の戯言に過ぎません。しかも、この非現実なスローガンが、学校教育の場でマイナスの効果を浸透させるに至っています。これは当たり前です。なぜなら、無くなるわけがないものを無くそうとすれば、無かったと目をつぶる以外にないので、結果、イジメられ(イジメどころか恐喝や暴行といった犯罪行為であることが多い)自殺に追い込まれた生徒が出ても、学校では「イジメと認識していない」だとか「仲間内の冗談でイジメではないと判断していた」などと、教頭だの校長などが寝とぼけた発言をすることになってしまうのです。 この学校の責任者たちは、イジメがあったと認めれば、本来あってはならないものを存在させた責任を問われてしまいます。従って、無かったことにしたいわけです。これは、まことに姑息で嘆かわしい小役人根性ですが、その事なかれ主義を生み出す元凶こそ、「イジメをなくそう!」という、まったく現実離れしたスローガンです。無くなるはずの無いものを無いように取り繕うから、問題が大きくなってしまうのです。 イジメに基準などありません。イジメられているか否かは、あくまでも個人の主観的なとらえ方です。つまり、イジメられていると本人が感じていれば、それはイジメです。その内容など関係ありませんし、第三者が測るための基準など無意味です。第一、感受性など人により異なりますから、基準などあるわけがないのです。 この点で、若い頃の経験が思い出されます。それは大学4年生で、中学校で教育実習をしていた時のことなのですが、私の授業中にある生徒が、他の生徒に少しからかわれたのです。具体的な内容は忘れましたが、軽口のような一言で、それでクラス全体が嘲笑するようなものではなく、私もまったく気にも留めていませんでした。しかし、軽口を言われた生徒(ちなみに男子校)は、その件を担任の先生に訴え出たのです。すると、担任のW先生は、即座に軽口を言った本人と一緒に笑った2名ほどを職員室に呼びつけ、強く叱りつけました。 その叱り付けられている最後の方を目撃した私は、不満そうにその3名が職員室を後にするのを見送った後、教務の指導を受けている(つまりクラス担任の仕事を実習させてもらっている)W先生に、悪意の無い軽口のように思いましたが、と言ったわけです。あの程度のことを気にするようではどうだろうと、むしろ相談した生徒の考え方が気になったわけです。W先生は、こうしないと駄目なんだ、といった意味のことを仰り、私は少々不満な思いをしたのでした。 今にして思えば、100パーセントW先生が正しかったと言えます。例え些細なこと、客観的に見て気にする必要が無いことであっても、本人が不快に思い、イジメられたと認識して相談して来たなら、担任たる者は、それを全力で阻止する態度を示さなければならないのです。もしここでその頃の私のように、「そんなのたいしたこと無いから気にするな!」などと『大人の対応』をしてしまったら、より深刻な状態になった時、担任に相談するとは思えません。 イジメはある。イジメと認識した時点で存在する。そうであれば、イジメられたと感じている未成熟な人間をいかに支えるかが、教育として必要な課題なのです。彼がイジメと感じた内容が、一般常識や、誰かが決めたイジメの範疇に適合するか否かなど、とりあえず何の関係もありません。とにかくも、相談された事象について、絶対的に対処する意志を示して、今後も生徒が相談出来るようにするのが、担任の立場としては何よりも重要だったわけです。 この場合、他人の嫌がる軽口を言ったのは事実ですから、叱られた生徒たちは、不満はあっても「うるせえセンコー」で済むでしょう。それよりも、何かあれば担任に相談すべきことを示したという意味で、完全にW先生は正しかったのです。ようするに、教育実習生の私はアマチュア、W先生は教育者としてプロだったと言えるでしょう。 イジメはあるという現実を前提に、それに悩む時は、親や担任という世界で唯一味方になってくれるはずの存在に、すぐに相談出来るようするようにするのが、低年齢のイジメによる自殺などという、悲惨な結末(親にとっては不幸の始まり)を避ける唯一の方法だと思います。イジメはあるものとして、親も担任も目を光らせるのが、守るべきものを守るための唯一の方法だと、認識する必要があるでしょう。 もちろんこれは、せいぜい高校生程度までの話です。大人になったら担任教師はいませんし、親を頼ることも出来ません。イジメられたと思っても、自分の力ではじき返すか、受け流さなければいけません。 何しろ我々大人は、学校に比すべき会社のような閉鎖空間でそれが行なわれても、耐え切れなければ離脱するくらいの智恵はあるはずです。「一身上の都合で・・・」と書けば、周りも喜ぶでしょうが、そんな連中とは縁が切れます。また、ネットイジメにあっても、気にしなければそれまでですし、度を越せば法に訴えれば済むことです。また、くやしければ、自分が強者になって見返しても良いはずですし、肉体的なイジメなど、即刻警察を頼れば済むはずです。 人生経験を重ね、社会の広さや社会規範や公権力の存在を知れば、一つのことにこだわる事もなくなるでしょうし、対抗手段もいろいろ身につくはずです。その点、いくら生意気を言ったところで、子供に人生経験は無いので、決められた学校空間で生活するしかないと思い込み逃げ場が無くなっていきます。学校など転校すれば良く、死ぬくらいならやめてしまえば良いのですが、まじめな子ほどそういった考えが出来ないのです。また、真面目な子供ほど、誰にも心配をかけないように我慢し続け、耐えられなくなってしまいます。 文部科学省にせよ、学校にせよ、教師にせよ、親にせよ、イジメの無い社会などというあり得ない妄想にとらわれず、「ある」と思って悩む子供の現実を直視して、自らその逃げ場所となるか、逃げ場所を用意することが、前途ある子供の生命を救うことになるものと思います。 まずは、大人として、イジメはあるし、無くならない、と言う普遍的事実を前提として、考えて欲しいところです。
2007年09月30日
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私の家は周囲が墓地です。それも、横浜市有数の規模を誇っている歴史のある墓園で、近くの火葬場は、第二次大戦でA級戦犯として絞首刑になられた人たちがお骨になったところです。また、通りに面した小さな公園には大正の関東大震災の時の無縁墓地があり、一部のタクシー運転手によれば、心霊スポットともされているようです。もちろん、終電帰りにぶらぶら歩いて何度も通りましたが、そういったものにお目にかかったことはないので、運ちゃんの気の迷いにすぎないですが・・・。 さて、このような場所が、普段閑散としているのは当然ですが、お盆とお彼岸は賑々しくなるのも当然のことと言えましょう。今も、善男善女がお線香片手に亡き人を偲ぶために行き来しております。 この墓参りをする人々も、昨年来NHKのてこ入れで流行っている『千の風になって』を知っているものと思います。中には、CDなどを買い込んで、愛聴、涙する人もいるかもしれません。しかし、律儀にも墓参りはしているわけです。実に日本人と言うのは、融通が効いて素晴らしいではありませんか! もちろん嫌味です。その場の雰囲気で感動しているだけ、浅薄な感動で論理的整合性も哲学性の欠片もないのだと、やぶにらみしているのが本音です。なぜそのようにひねくれた見方をするのかと言えば、たいした内容でもないのに、あまりに流行っているせいです。内容を伴わないものが重用されるほど癪なことはないではありませんか! 私はあれを、NHKが紅白で歌わせる前から、国営放送様が、何やら特別番組を作って(女優が旅先の外国でその詩を朗読するといったもの)、煽っているのを知っていました(ただし番宣を見ていただけ)。それについて、別段何とも思いませんでした。死んだ人、特に大切な人を失っても、その人が周囲にいつもいてくれると感じられれば、残された人の心も落ち着きを得るでしょうから、良い「おまじない」だと思っていました。また、他人の存在とは、自分の記憶にある限り不滅ですから、その意味でこの詩の死んでも死んでいないとするのも、一面の事実として差し支えないと考えていたのです。 しかし、深く共鳴することは出来ませんでした。なぜなら、私は嫌でも日本人で、墓参りをしている人たち同様に、日本文化にとらわれている存在だからです。 この歌は、アメリカ合衆国の詩『Do not stand at my grave and weep』を邦訳し、曲を乗せたものらしいです。どういった内容か、その場の勢いのくせに勿体つけて訳せばこういった感じになります(歌詞をそのまま載せると著作権云々と言われそうなので)。「我が墓の前で泣きたもうな 我はそこに止まらず眠りつくこともなし 我は吹きわたる千の風 我は雪上に輝ける雲母(きらら) 我は豊かなる瑞穂にさんざめく陽の光 我は清らにふりそそぐ秋の雨 君が有明のしじまに目ざめる時 我は霧消の空にわき昇り 輪をなしゆるやかに飛べる鳥とともにあり 我は夜空を優しく彩る星のまたたき 我が墓の前で泣きたもうな 我はそこにあらず、死することもなし」 歌詞は、もっと簡単で曲が乗りやすくなっているわけですが、言わんとすることは同じです。「あんた墓標を前に泣きなさんな。亡くなった人はあそこにもここにもあっちにもいて、あんたと一緒にいるのですよ」と言うわけです。 さて、目の前の巨大な墓園を行きかう人々を前に、私はこの詩を聞かせるべきでしょうか?「我はそこにあらず」・・・。 先祖代々のお骨を墓に安置し、盆だ、彼岸だ、とわざわざ「会いに来る」日本の文化に、この歌詞はまったくそぐわないのです。「我はそこ(墓)にもあり」と考えるならまだしも、歌詞で言えば「そこに私はいません」と断定しているのですから、これでは身もふたもないではありませんか。 結局のところ、日本の文化で何となくでも墓参りをしている人々は、この『千の風になって』に感動するとしても、これも何となくにすぎず、その歌詞を心の深いレベルで受容しているわけではないのは明らかでしょう。論理的に考えたい私が、流行っているらしいその歌に感動する人の、その感動がその場の雰囲気だけの浅薄なものと感じるのは、そういった理由なのです。 そもそもこの歌、その元である詩は、アメリカの文化なり宗教観が根底にあって、初めて成立しうるものです。 第一に、日本人とアメリカ人では、お墓についての感覚が違います。文化人類学などという学問を学んだ記憶はありませんが、日本人はお墓を「寄りしろ」として、亡くなった人と再会を果たしうる場と意識しているものと思います。さらに、代々脈々と存続してきた家の祖先たちを祀る場でもあり、自分もお骨となったら同じ墓に入るといった感覚を持っていたものと思います。 これらは仏教よりも神道的な世界観です。森羅万象に魂が宿り、死してなお、魂魄はこの世に留まっていたり、昇華した後も子孫たちを見守ったりするわけです。日本人は葬式だの納骨式だの、仏教的に事を運びながら、内面は神道、土俗的な宗教観念を守り通していると言えるでしょう。本当に仏教に帰依しているのなら、魂は輪廻転生するわけで、確実に「そこに私はいません」のはずなのですから。 一方この詩の生まれたアメリカは、元々熱心なピューリタンの移住に始まるキリスト教国です。亡くなった人間の魂は、簡単に言えば天国か地獄に行きます。つまり、「そこに私はいません」が前提になっており、そもそもお墓は家単位ではなく個人単位であることが多く、祖先との交流の場といった側面がありません。どちらかと言えば、個人の記念碑のようなものと言えます。 この両国の文化的ギャップが如実に現れた事件が、2001年のえひめ丸事件です。ご記憶の方も多いと思いますが、日本の水産高校の実習船がハワイ沖で米軍の潜水艦に衝突され沈没、9名が亡くなってしまった悲惨な事故でした。 事故後、えひめ丸は水深600メートルの海底に沈み、9名の行方不明者の遺体は船体に残っているものと考えられました。この際、遺族のみかこのように考えた日本人は多かったと思います。 「遺体を冷たい水底に放置するのはかわいそうだ。何としても引き上げねばならない」 日本人にとっては、これは当然の発想でしょう。遺体にもお骨にも何らかの魂があるわけで、それはお墓で祀って、お参りすることで「出会う」ようにしなければならない存在なのです。しかし、アメリカ人の考え方は違いました。 「亡くなった人の魂が天国にいけるように葬儀をするのも、遺族に補償をするのも当然だが、お金や手間をかけて亡骸を引き上げるのは無駄である」 結局、加害者であるアメリカ側が日本人の感情を考慮して、船体を浅瀬に曳航し、遺体を収容することになりましたが、曳航作業に要した6,000万ドルの妥当性について、議論の的になったようです。 そこに水つく屍があれば収容すべきだと考えるのは、世界的な標準ではないのです。アメリカ人は、日本の真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナを、引き上げもせずに遺骨もそのままで記念館にすらしています。これは日本人の目には異常でしょう。また、南洋ミクロネシアのトラック環礁において、米軍に撃沈された日本船を欧米のダイバー(観光客)に案内する際に、現地のガイドが日本兵の遺骨を沈没船の甲板に並べて見せているそうで(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070915-00000931-san-int)、日本人としては居たたまれない思いがするでしょうが、欧米人にはあまり罪悪感がないものと思われます。遺骨と見るか、ただの骸骨と見るかの相違なのでしょう(多少人種差別の気配を感じますが)。 『千の風になって』も『Do not stand at my grave and weep』も、欧米の、特にアメリカ合衆国という文化的土壌があって成立するものなのです。一方日本人なら、どこにでも亡くなった人たちはいて、中でもお骨やお墓には強く存在するのだ、と考えるのが自然なのです。 つまり、「そこに私はいません」といった断定は、日本人にとって受け入れがたい話ですから、あの歌にせよ、所詮うわべだけの一時的な流行歌として、何の痕跡も残さず消えてなくなることは、ほとんど自明と言えるでしょう。そしてこれからも、お彼岸には、我が家の前が商店街の賑わいを呈し続けるに相違ないのです。
2007年09月23日
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安倍晋三首相が辞職するそうです。マスコミと野党と与党の一部にいびられいじめられ追い詰められたイメージがあり、何ともお気の毒なので、せめて駄洒落で称えたいと思います。失政なく叱声に執政を辞す 「美しい国」やら「戦後レジュームからの脱却」などというフレーズには、何ら心を打つものではありませんでしたが、かといって、この政治家としては若い宰相が何か失政をしたかと言えば、思い浮かばないのはどうしたことでしょうか。 中央と地方に格差があるのは構造的なもので、失政と言うものではないでしょうし、それを黙過助長した責任があるとしたら、むしろ長くその職にあった前任者が負うべきもののはずです。 年金問題が盛んに取りざたされていますが、あのようなものは、何十年前から放置していたものであって、今の首相一人に責任をかぶせるべき問題ではありません。そもそも優秀なるマスコミ諸氏が、愚かな民衆に注意喚起する時間は山ほどあったはずではありませんか。 教育基本法を改正し、憲法改正に着手した点については、当然反対もあるでしょうが、より多くの賛成があるのが現実であり、失政とは言えません。議席数を選挙後とに減らす政党が、減らず口をたたいても、時代に取り残されている悲哀が漂うのみです。 任命した大臣に不出来な者が多かったのは、実に情けない話ではありますが、これはセンスがないだけで失政というものではありません。そもそも、問題を起こした者どもは、すべて選挙で選ばれた議員ですから、選んだ選挙民の方が反省した方が良い類の話ではありませんか。 特に失政はなく、戦後の政治的負債をどさっと押し付けられた、政治家としては若い宰相が、ろくな側近もないままにその垂れ目でもがく様を、マスコミは面白がり、国民は選挙によって駄目出しをしました。その後は辞めろ辞めろと、その後のことも考えずに騒ぎ、結果本当に辞められて、さてどうでしょう?困ってしまったのではないでしょうか? 何とも、国民の一人として、後味の悪いものを感じます。 正直言いますと、私は、小沢氏が解散させたいがために首相いびりをし、結局自衛隊による給油活動継続と引き換えに、安倍内閣は総辞職するだろうと予想していました。そして、「パンパカパーン!」と小泉純一郎氏が再登板し、息を吹き返した抵抗勢力に実に真っ当なレッテルを貼って、また総選挙に持ち込むといったシナリオです。あの人ならやりかねないではありませんか。 それにしても、小沢氏とは大したもので、ご自身が宰相になられるかは知りませんが、二人の時の宰相を葬った人物として、永久に歴史に名を残すのは間違いありません。一度目は会って、次には会わずに葬りました、実にお見事です。今後のご活躍に注目し、期待するところ大であります。※2000年小渕首相は連立相手の自由党小沢党首と会談した日に脳梗塞で倒れました。2007年安倍首相は野党民主党小沢党首に会談を拒否されて辞任しました。
2007年09月12日
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その昔、高田馬場は戸山団地前のセブンイレブンで咲いていた空色の朝顔を求め、市販のヘブンリーブルー(『タキイの種』)では少し花が立派過ぎたので、原種系と思われる小さな花の朝顔の種を6月末に蒔いたと言う話を書きました。それが昨日より咲き始めました。 ところが、これが早起きをしないと見られない実に正しい「朝」顔で、午前9時に気がついた時には、すでに花が萎れており、そこで、今日は起きぬけに写真を撮りに行ったのでした(うまく撮れなかった・・・)。 結論から言えば、残念ながら私の求める姿ではなかったです。小さく、何より色が淡すぎたのです。なお、『アサガオ類 画像データべース』という、実に有意義なサイト様↓の「画像ライブラリィ」で確認したところ、まさに我が家で咲いた朝顔は、「花色はやや薄い青。花の萎れも早い」のが特徴の『北京天壇』のようです。http://www.genetics.or.jp/Asagao/Yoneda/menu.html してみると、私がセブンイレブンで見かけて、気にし続けている朝顔は、少なくとも『北京天壇』ではないと考えた方が良さそうです。色の濃淡や花の大きさには、同じ種類でも幅があるかも知れませんが、早くに萎れてしまう特質を持つ朝顔を、美しいと感じられなかったはずだからです。なぜなら、そのセブンイレブンに立ち寄ったのは、自転車で予備校に行く途中に昼の弁当を買う目的だったので、朝の8時30分以前ではなかったはずで、この系統の朝顔だと、私が目にする頃には萎れてきていると思われるのです。 アサガオはいろいろな品種があり、種間雑種も多いようなので、私の見たものは少し特殊なものだったのかもしれません。また、写真で見ても、実際の印象と違うこともあり、また多分に主観的なものなので、なかなか「これだ!」と言えるものを探し当てるのは難しそうです。とりあえず、ヘブンリーブルーの種を採取して、来年も蒔くことにしつつ、理想の朝顔探しものんびり続けたいと思います。
2007年08月04日
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私は支持政党を持たないのですが、結果として、これまでマスコミが言うところの「無党派層」と同じ選挙行動をとっている点に違和感を持っていました。ところが、今回の参議院選挙では、民主党の地すべり的圧勝に何ら貢献しませんでした。これで、ようやく大多数の国民的意志(民意)から離れることが出来たようです。 今回の選挙は、有権者の多くが、民間の競争を促進するタイプの自由主義のひずみを感じ、そのような中で、年金問題、政治資金問題、閣僚の資質問題が重なり、政権政党に駄目出しをしたものと思われます。自民党候補の一人区での総崩れに加え、与党公明党の選挙区での議席減が、国民の意志を明示していると言えるでしょう。また、前回の衆議院「郵政解散」選挙で、自民党を勝たせすぎたといった感覚もあったかもしれません。つまり、民主党の勝利は当然なのです。 しかしながら、比例区で前回21から14議席に減った自民党が負けすぎなら、11から20議席に増えた民主党は勝ちすぎたかもしれません。参議院で過半数を占めるに至ったこの二大政党の一翼、自民党に変わりうるはずの民主党は、これからどのように行動するのでしょう。もし、衆議院で決議されたことに対し、いちいち参議院で足止めをするようでは、政権党になり得るのか国民の疑惑を招き、かえって衆議院選挙でマイナスに働くことになるかもしれず、結局政権の座から遠のいてしまうかもしれません。 参議院議員は非改選で6年も在職する安定した立場ですから、与野党どちらかを大勝させれば、その影響が確実に6年間継続してしまいます。従って私のような、二大政党的な政権交代を衆議院選で実現するのを望む者にしてみれば、参議院はいつでも与野党を伯仲させていなければならず、出来れば参議院議員は党議に寄らず是々非々で判断するような人であるべきだと言った結論となります。もし、衆議院の「カーボンコピー」として存在し、同等の権限を主張し、「常在戦場」の衆議院の足かせになるだけならば、参議院無用論が高まるものと思います。 今回、民主党を大勝させた有権者には、参議院選挙を衆議院選挙同様に政権選択選挙と考えてしまった面があるように思います。しかし、そのような選挙行動を示した以上、勝ちすぎてしまった民主党の、特に党首の小沢氏が、この後どのように参議院を運営させるか、興味深く見守る必要があるでしょう。6年も党首であり続けられるおつもりかは知りませんが・・・。 歴史的大敗を喫した自民党ですが、安倍総裁は辞任しないそうです。これは、引き受け手がないので辞められないだけだと思います。何しろ、自分たちの党の旗である総裁を非難する『甘え』を繰り返していたような者たちにも、この大敗の責任があるからです。選挙前には総裁を押し立て、一致団結して臨んでこそ、トップに敗戦の責を自覚させられると言うものです。それをトップの足を引っ張る利敵行為を行なった自分のことを棚にあげ、自らがそれに代わりうるような人物がいないわけです。 何しろ、与党内野党のように、小言や愚痴ばかり繰り返したインテリの舛添要一氏は、前回150万票も得た個人票を、今回何と三分の一に減らしてしまいました。また、ご意見番的な立場を誇示した「トラちゃん」こと片山虎之助氏にいたっては、「お姫様」相手に落選してしまう体たらくです。彼らは自民党の参議院政審会長や幹事長の要職にある人々でした。本来なら、常に政権の側に立って発言せねばならず、間違っても選挙の旗である党首に泥をかけるようなことは出来ないはずだったのです。その点二大政党制を前提とした選挙の恐ろしさを、十分に理解していなかったのではないかと思われます。非難がましい言辞はすべて自らに降りかかることを、ご両人とも、あれだけ博識であるにも拘らず、認識していなかったわけです。また小泉前首相には恩もありながら、その政権、また現政権に常に批判的な印象のある加藤紘一氏の地元山形県でも、彼が県連会長として立てた自民党候補者が、大差で落選しました。つまり、議院内閣制における二大政党制が定まってくれば、選挙を前にした自党のトップ批判は、完全な利敵行為であり、かつ天に唾する行為に他ならず、少なくとも『表向き』には慎まなければならないのです。非難したところで、まるで自分の票につながらないのは今回の結果を見れば、いい加減に理解出来るのではないかと思います。 今回の選挙も、大きく見れば、細川連立政権以来、相互に政権党となりうる二大政党制を志向し続けている民意を如実にあらわしています。それは、自民党の大敗、民主党の大勝の陰で、その他の小さな政党が全くふるわなかったことを見れば明らかです。例えば「確かな野党」を目指した共産党は4から3議席に、「憲法9条を守れ」とした社民党も3から2議席に減らしてしまいました。大多数の国民の望むのは、現実に根ざした政権を担える政党であり、政権をとる気もない無責任な野党は、その主張なり思想の内容以前に願い下げなのでしょう。この大多数が志向するところの2大政党による政権交代に、今回の結果がマイナスに働かないように願うところです。
2007年07月30日
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どういった投票をするかなど、告知があった時にはだいたい決まっているものですが、政見放送と選挙公報くらいは見るのが礼儀と考え、それを果たした今日、期日前投票に行って来ました。 今回もマスコミの言うところがはずれるのか、今回は当たるのか興味深いところです。
2007年07月24日
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少し先ではありますが、12月10日より改正遺失物法が施行されます。 【警察庁のページ】http://www.npa.go.jp/safetylife/chiiki2/KaiseiIsitsubutsuhouTop.files/slide0001.htm この改正について、犬・猫の飼い主に危惧する方もいるようです。動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)の第35条において引き取り対象とされる「犬及びねこ」が、この改正により、明確に遺失物法の規定外となるためです。何しろ、愛護法では「犬又はねこの引取りをその拾得者その他の者から求められた場合」「都道府県知事等」が引き取ることになっているため、「保健所」や「動物愛護センター」などの公的な施設に送られ、一定の短い「飼養期間」(東京都の場合1週間ですが、短いところでは数日)の後、「殺処分」されてしまうことを意味しているからです。 しかし、これは所有物として警察の扱いにするのと、動物として保健所などの扱いとするのと、現実に存在している二重基準こそが問題であり、警察が数ヶ月も拾得物として犬・猫を飼養し続けることが不可能な以上、一本化は止むを得ないものと思います。やはり、愛犬家、愛猫家としては、遺失物法とは無関係に、鑑札の首輪などへの取り付けの徹底や、終生飼養の啓蒙と同時に、愛護法での飼養期間の明記と、犬猫の保護期間の延長を各自治体に働きかけるべきでだと思います(遺失物扱いなら3ヶ月保管が義務付けられるものを数日で処分出来るようにしてしまうのは、明らかに愛護法の精神に反するとは思う)。 さて、私の関心事は、鑑札などない文鳥などの小鳥です。飼い主の不注意で家の外に飛び出して行方不明となった場合、これは遺失物の扱いとなります。つまり、落とした物が風に吹かれて遠くに飛んでいったのと、法律上は同じことなのです。ところが現行の遺失物法では、遺失物届けを出した警察署の管轄内での拾得物と照合はしてくれても、近隣や他の警察署への照会が不十分なことがあり、遠くへ飛んで行ってしまった場合に発見が困難になるケースがありました。せっかく保護してくれた人がA警察署に拾得物届けを出していても、B警察署に遺失物届けを提出している飼い主のもと情報が伝わらないわけです。 この点改正法では、拾得物の情報は都道府県単位ですべてインターネットで公開されるため、拾得物届けさえ出ていれば、飼い主は遺失物届けを提出する前から、インターネットで探し出すことさえ可能となります。もちろん、インターネットを利用していなくても、遺失物届けの提出さえすれば、警察での検索は容易で、管轄区域に気を使う必要がなくなります。 まだ、運用面でうまく機能するかは未知数ですが、もし期待通りのシステムであれば、鳥の迷い子掲示板は必要なくなるかもしれません。もともと、飼い主や保護してくれた人がすべてインターネットを利用しているわけではないので発見は難しく、希少種の場合、転売を目的としたニセ飼い主が名乗り出るような詐欺もあり得るため、利用しづらい面も多かったのが事実でした。もし、この改正遺失物法がうまく運用されれば、個人のサイトで探す必要などなくなるでしょう。 鳥を迷わせてしまった人、鳥を保護してくれた人は、何よりもまず警察へ、と言えるようになって欲しいと思います。
2007年07月22日
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白状すると、幼い頃、東京ジャイアンツのファンでした。王貞治さんの756号あたりが、最初の記憶となり、小学生の頃はジャイアンツの帽子をかぶっていたわけです。それがどうでも良くなったのは、いつのことでしょう。確かに、少年野球ではなく少年サッカーをしていましたが、当時天皇杯くらいしかテレビ中継をしない社会人サッカーに、さほど関心はありませんでしたので(今のような何台ものカメラで中継するのではなく、枯れ芝の上をボール持って動くのを俯瞰した画面だけで、例えば与那城ジョージとラモス・ルイの区別がつかず、映像的に迫力が無かったのです)、他のスポーツに興味を奪われたわけではありませんでした。 いつの間にか冷めてしまったプロ野球熱をはっきり自覚したのは、1986年の広島カープの優勝の時でした。この年、ジャイアンツは勝ち数で上回りながら勝率で及ばず、ゲーム差ゼロで優勝を逃すことになったのですが、ファンのはずの私は、まるで悔しくなかったのです。その年のペナントレースが面白いと思えず、応援にまったく熱が入らなかったからですが、それ以来、日本のプロ野球はなぜつまらないのか考えるようになりました。 ダラダラと続く試合展開、せせこましい采配、無知蒙昧な親企業のオーナー、社会人野球と変わらない企業スポーツ体質、試合も見ずに鳴りもの応援する応援団、へたくそなアナウンサーと不勉強な解説者、数え上げればきりがなく、どれをとっても吐き気がするくらいなものです。しかし、プロ野球機構という組織が有名無実である点が、すべての根源だと思っています。個々のオーナー企業には、プロ野球全体を盛り上げる意識は欠片も無く、球団名についた親企業の名前の連呼で広告になるといまだに信じている程度の見識ですから、プロ野球全体がファンを惹きつけることなど無理なのです。 日本では、「職業選択の自由」があるから、選手が自由に球団を選ぶべきだといった主張が、一般の「ファン」を自称する人々の間にも存在しますが、これはプロ野球を自滅させる危険思想以外の何物でもありません。もちろんプロ野球選手という職種を選択するのは自由ですが、特定球団に行く個人の自由など認めたら、プロ野球全体の戦力均衡など出来るはずがありません。人気チームばかりに優秀な選手が集まり、そのチームが優勝する緊張感に欠けたペナントレースなど、見放されるのは確実なところです。 もしプロ野球のファンだと言えるなら、個々の球団の興廃より以上に大切にするべきものがあるはずです。ところが日本には、オールスターのファン投票ともなれば、自分の応援するチームの選手名を書き連ねるような輩が多いのはどういったわけでしょうか?奴らは野球ファンではなく、社会人野球を応援する同じ会社の社員と同じ感覚しか持ち得ていないものと思います。 さて、正力松太郎さんたちの努力によって誕生し、沢村栄治さんなど数々の名選手を輩出し、輝かしい歴史に彩られた日本プロ野球の寿命を、「あと10年」と私が勝手に予測したのは、2000年初めのことだったと思います。すでに野茂さんがアメリカのプロ野球MLBで活躍していましたが、その頃日本で首位打者であり続けたイチローさんの移籍が濃厚になっていたのを考慮して出した結論でした。 走攻守揃った野手、なおかつ速球も上手にさばく彼が、大リーグで活躍しない理由が見当たらず、活躍すれば登板日以外は話題になりづらい投手以上に注目されるることが予想されました。毎日注目して見れば、アメリカのメジャーと日本のプロ野球の違いはより明らかになり、志のある一流選手が彼に続くに相違なく、そうなればプロ野球はスター不在となるので、求心力をさらに失って崩壊すると考えたわけです。 頭の固いプロ野球OBが、いくらテレビで寝言を繰り返しても、現状の日本プロ野球よりも、MLBの方が数段魅力的なのは紛れも無い事実です(薬物など負の側面もありますが)。プロの野球選手なら、試合観戦の楽しみ方を知っているたくさんの観客の前で、自分の実力を発揮し、結果的に天井知らずとも言える年棒を獲得したいと望むのは当たり前です。、物心両面、金銭だけではなく、やりがいの面でも、日本のプロ野球は負けているのでうから、「日本人なら日本で野球しろ!」などと、まともな人間が他人に言えるものではないでしょう。 それでも、さすが歴史のある日本プロ野球は、あと2、3年で無くなることは無いかもしれません。しかし、5、6年、10年先はどうでしょう。少なくとも、実質的にはメジャーの下部組織の地域リーグ(マイナー)になっている可能性が高いと思います。 私が2000年に予想したように、今はイチローさんに続き、野手だけでも、ゴジラ松井さんも、リトル松井さんも、田口さんも、城島さんも、井口さんも、岩村さんも、メジャーで活躍中です。一方日本のプロ野球は、ジャイアンツが勝とうが負けようがテレビ視聴率は低迷し、その放送枠は減らされつつあります。観客数など満員の方が珍しくなりました。テレビ放映権料が入らなくなり、ニュースにもならず、オーナー企業も撤退すれば、「はい、それまでよ~!」なのです。 本日、記録にも記憶にも残る偉大なる野球選手であるイチローさん、鈴木一朗さんが、メジャーのオールスター戦でランニングホームランを放ち、MVPとなりました。これは、現在の日本プロ野球の凋落にだめ押しをしたような効果があったと思います。 あの高野連に振り回される高校球児たちのを含む日本の野球少年の多くは、その英姿に憧れを持ったはずで、有能な彼ら夢は、メジャーの舞台に立つことになるのは、至極当然なことだからです。そういった若者の健全な夢を、不正な金銭で足かせしようとしても、ほとんど無意味です。 もはや、王さんや長嶋さんに憧れ、日本でプロ野球選手になりたいといった夢が描かれることはありません。憧れの対象となるべき一流のプロ野球選手は、自分の力を試すためにも、大挙して渡米しメジャーリーガーとして活躍する時代なのです。そして、その活躍に憧れた子供たちは、当然メジャーを目指すようになります。 野球というスポーツをする若者の目標がメジャーとなってしまえば、日本プロ野球は通過点でしかなくなるのは明らかです。2年先でも10年先でも、地域に根ざしたマイナーリーグとして、再出発するしかなくなるでしょう。しかし、それは特に悪いことだとは思えません。野球をする者の夢の終着点が日本にはなくなったとしても、野球文化がなくなったわけではないのですから、日本の野球ファンは地元に密着したマイナーチームを応援し、そこから巣立ってメジャーリーガーを誇りにすれば良いはずです。むしろ、ラッパを吹きながら企業名を連呼するよりも、よほど楽しいではありませんか。
2007年07月11日
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私は、いわゆる「無党派層」に違いありません。選挙権を得て最初の衆議院選挙は、小沢さんたちが自民党を飛び出し、細川さんの日本新党が大躍進し、自民党が野党に転落したものだったと記憶しています。あの時私の選挙区では、現市長の中田さんが、日本新党から立候補していました(お早く国政にお戻りください。市長閣下!)。 その後、野党に票を投じれば自民党が負け、選挙を棄権したり選挙区と比例を分けると与野党痛みわけ、自民党に投じればそれが大勝、といった具合です。まさに無党派層の選挙動向の体現者のようですが、ようするに平均的な選挙行動をしているだけと言えそうです。 そもそも、毎度選挙結果をはずすマスコミは、「無党派層」などと特別なように呼んでくれますが、私に言わせれば支持政党を固定的に持つほうが不思議です。もちろん、特定の思想や信仰を持っていれば、小さな政党を支援するのも当然ですが、より大多数は政権政党になりうる、自民党か民主党に投票するしかないと思います。ところが、そのひとつ自民党は、この10年、古臭い木っ端切れと改革を唱える者のせめぎ合いがあり、今は良くも悪くもリーダー不在状態ですし、片や民主党は、中身が良くも悪くもいろいろすぎて、何がしたいのかさっぱりわかりません。これでは、どちらかを支持政党として持続せよと言う方が酷でしょう。 そのような中で、「タレント議員」の有無にかかわらず不必要とも思える参議院の改選が近づいてきました。最近褒められることをしていない気がする自民党も、非難ばかりで対案に乏しい民主党かの選択となれば、これは頭を抱えてしまいます。簡単に期日前投票が出来る現在、棄権する口実がないのも苦しいところです。 党首で選べばどうでしょう。一方の安倍さんは、特に嫌いではありませんが、人事のセンスも言葉のセンスも、国民に訴えかける演技力もないように思います。一方の小沢さんは、昔から小鳥飼育の愛好者として有名でもあり、文鳥愛好者としてはシンパシーを感じたいところですが、政権交代での変革などと、細川内閣そしておまけの羽田内閣で失敗した当事者の自覚に欠如しており、はっきり言えば食傷です。そもそも岡田さんが、この小沢さんの政権選択というテーゼ(既得権排除のために政権交代を必須とする考え)を前面に立てて、あの陽気とは言えないお顔で国民をテレビ画面から脅迫して、ものの見事に負けたので、今の衆議院の議員構成になっているのをお忘れでしょうか?また、そもそも、何でも反対の万年野党が嫌だったからこそ、日本社会党は消えていき、曲がりなりにも民主党が2大政党の一角を占めているのではないのでしょうか?小沢さんの脇を固めるとする、鳩山さんも菅さんも、ともにとっくの昔に見飽きました。前原さんが奇妙な自滅をしなければ面白かったのですが、残念なところです。 困ったものですね。投じたい先のない選挙というものは・・・。
2007年07月05日
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本題の前に時事ネタです。 朝起きるとテレビで久間防衛大臣が話していましたが、この人は話せば話すほど意味不明になる昔かたぎの政治家のようなので、黙っていた方が良いと思いました。 野党とマスコミは、昨日から例によって「原爆を落とされたのはしかたがない」と、原爆投下を容認した発言をしたことにしていましたが、私は、「原爆投下で被害にあわれた方々は、なぜ自分たちがこのような理不尽な悲劇に見舞われたのか納得するために、戦争を終結させるのに役立ったとして自分たちを慰める以外になかった」といった主旨だと受け取っていました。 ところが、「アメリカはソ連が参戦するのがわかっていたので、それ以前に戦争を終結するために原爆を落とした。そのことについて、いまさら是非を論じても仕方がない」といった意味だったと、今朝のご当人の説明から判断するしかなくなりました。これでは、確かにアメリカ合衆国の代弁者です。「仕方がない」とか「仕様がない」といった言い回しではなく、内容が問題なのです。戦争を早期終結させるか否かと、非戦闘員に対する無差別爆撃は別問題と言うことくらい、日本の防衛大臣であれば、肝に銘じてもらわねば困ります。※ そもそもアメリカはソ連の参戦を知っていたどころか、ヤルタ協定でそれを認めていたわけで、日本降伏の最大要因は原爆よりも中立国として仲介を期待していたソ連の参戦にあったのは、これはほとんど常識です(8月9日長崎に原爆が投下された日に、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が日本軍を攻撃し始めます)。原爆など投下しなくとも、ソ連の参戦でお手上げ状態になったはずなのです。 さて、本題です。 その昔、高田馬場のセブンイレブン前で見かけた小ぶりな空色の朝顔、秋には種を採取して、春に自宅の周りに撒いたのですが根付きませんでした。あまり真剣に栽培する気がなかったのがいけなかったのですが、まさかそれから十年以上も心の片隅に引っかかることになるとは思いませんでした。何しろ探すとなると見当たらないのです。 大学生時代は「原坊の朝顔」の里親になろうかと考えましたが、少し空色と違うようなのでやめました。この「原坊の朝顔」と言うのは、サザンオールスターズの桑田圭祐さんと原由子さんご夫妻が泥中から拾い上げて育てた朝顔で、ファンの間に流布拡大中だったのです。なぜ、そのような朝顔のことを知っていたのかと言えば、桑田さんは高校の十何年か先輩で、原さんの横浜(関内)の実家である天ぷら屋さんも知っているので、ごく一時期ファンクラブに入っていたからでした。 そのような過程もあって、試しにヘブンリーブルーを栽培したのですが・・・、それはそれで見事で美しいものの、理想の姿より大ぶりだったので、またあの小ぶりな空色の朝顔を探したくなりました。そこで、まずはネット検索すると、その後「原坊の朝顔」は着々と代を重ね、今では色合いも、私としては理想的な空色の子孫もあるようでした(モニター写真では判断しづらい。空色の朝顔は時間とともに紫がかるはずなので、撮影時間による偏差も考えられる)。この際、空色に見える「原坊の朝顔」をお譲り頂けるようにお願いしようかと思案しましたが、その前にネットオークションを確認したところ、まさに5、6cmの空色の朝顔の種が出品されていました。何でもあるものですね。即座に落札しました。 届いた朝顔の種を、数時間水に浸した後で植木鉢に撒いたのが6月28日、そして30日に芽が出てきて、今日7月1日にはしっかりした双葉になりました。どのような花が咲くのか楽しみです。
2007年07月01日
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NHK、国営放送様より通達が来ました。衛星普通契約(白黒)は10月から廃止となると言うものでした。今の世の中、白黒テレビなど存在したら奇跡ですから、私はこれを当然の処置だと思いました。ところが、総論賛成各論反対と言うわけではありませんが、私の場合は問題があります。衛星放送契約をしていながら、、これをほとんど見ていないのです。何しろ、韓流ドラマに興味がなかったので、衛星放送などいらないといっても過言ではありません。 なぜそのような状況が続いていたのかと言えば、これはNHKのせいです。10年くらい前、衛星放送を見なくなった私は、カラー契約にするように真っ当な要求をするために我が家を訪問したNHK末端職員氏に対し、その要求を認めるのは当然ながら、ついでに衛星放送契約は解除する旨を伝えました。実際見ていなかったのです。もともとアメリカンフットボールNFLを見るために衛星放送を取り付けたのですが、我がダラスカウボーイズ凋落とともに、必要がなくなっていたのでした。ところが末端職員氏は、それならこのままにしておいて欲しいと言うのです。どうやら、カラー契約(現在月額1,345円)のみに変更すると、衛星普通契約(現在1,800円)よりも受信料が少なくなるためのようでした。こちらは、BSアンテナを撤去するのが面倒でしたし、年に何番組くらいは衛星放送も見るかもしれないので、そのままにしていたのです(実際年に数回利用していました)。 ところが、そういった下々の話などご存知になるはずもない大特殊法人様は、今年10月から、白黒契約が無くなり一律2,290円になると通達してきたわけです。そこで、この機会に無くても困らない衛星契約を止め、地上放送のカラー契約(月額1,345円)のみに切り替えようと考えたのは、これは貧しい庶民としては当然だと思います。細かな話ですが、ほとんど見ない衛星放送に月額455円は払えても、945円支払う気は無かったわけです(ビデオ・DVD借りた方が安い)。 そこで契約変更のため、通達の送り主であるNHKの営業センターに電話しました。「やめるなら見られないような状態にしてくださいね~」くらいのことは言われるものと覚悟していましたが、電話の応対をしたNHKの営業男氏は何か勘違いしているようで、端的に言えば、やめるならアンテナを撤去しろと言うのです。これは私有財産に対する明確な侵害ではないでしょうか。アンテナをどうしようとNHKから指図される覚えはありません。「取り付ける時にあんたら何かしてくれたの?取りはずして粗大ゴミにする時にあんたらお金出してくれるの?」と言いたくなります(似たようなことを言いました・・・)。そもそも、例えばオブジェとしてBSアンテナを立てていても、それは個人の自由であり、どうしてNHKが苦情を言える筋がありましょうか。 現実問題として、我が家のBSアンテナには朝顔が巻きついており撤去不能なので、コードを断線することしか出来ないと言ったものの、NHK職員の男は疑惑ありげな口ぶりで四の五の言い、衛星放送を見ないと言いながら隠れて見る不正があることを暗に語り、さらに衛星放送を続けて欲しいと営業トークを始める始末です。これがフリーダイヤルなら我慢もしたいところですが、こちらが普通に電話しているのです。忌々しい不正の塊であることが露見したばかりの腐った国営放送などに、痛くも無い腹を探られる覚えはありません。自分が盗人で、世間に盗人が多いからと言って、お客様を盗人と見なして商売が出来るのか!と完全に頭に来たのでした。「見るか見ないか疑いがあるなら調べに来ればいい。それをせずに客を疑って営業が出来るのか!」です。 とにかく、10分近い無駄話の末に、契約変更の書類を送るように申し伝え、早速BSアンテナのコードをはさみでちょん切り、ついでに電波を受信する箇所をドライバーで撤去しました。そして、念のため件の営業センターにその旨を報告し(わざわざ電話するのは嫌味なのですが、鈍い役所頭では理解出来ているか怪しいです)、さらにNHKのホームページを確認したところ、受信料についてのフリーダイヤルがあったので(それをなぜ通知通知書面中に案内しないのか!)、さらにそちらにも契約変更の書面送付するように電話連絡しました。末端の対応が疑わしい時は、別の経路で確認しておいた方が良いと思ったのです。なお、こちらは普通に応対してくれるオペレーターの女性氏だったのですが、こちらは「NHKの大馬鹿!」といった一時的感情が先行し、話し方が相当にきつくなってしまいました。この点は反省したいところです。 それにしてもNHKはうらやましいです。 私など、商売で送った荷物に欠品があると言われ、同梱した記憶があり在庫数も正確でどこを探しても見当たらず、とても小さな商品だったので、念のため他の商品に紛れていないかご確認をお願いしたところ、「疑われているようで不愉快だ!」と怒られたことがあります(そのお客様は、結局なぜか代品の発送を断られ、その分のお金を盲導犬基金に募金するように要求なさいました)。それに比べるのもおかしいですが、あれだけ不祥事が続発し世間の指弾を受けながらも、なお受信料を欠かさず払ってきた一般人を電波盗人扱いしたり、その私有財産の処分を強要出来るのですから、さすが親方日の丸としか言いようがありません(自由民主主義国家なのですが・・・)。 ハイビジョンなどと言い、デジタル化の流れが決定的になってもアナログ式にこだわり、無駄な資金を消費するは、ディレクターは制作費を横領するは、アナウンサーは不倫ならまだしも強制わいせつで逮捕されるは、会長様は横審の委員やら何とか大会の主催者面して威張っていただけだは、いまだに受信料の不公平是正について抜本的改革が出来ないは、自分たちが製作した昔のドラマをパクッた外国製のドラマを買ってきて喜んでいるは・・・、おや、これは関係ないかもしれませんが、とにかく今のNHK(日本ホントに滑稽の略という説もある)、国営放送様は問題山積です。 民放様は民放様でくだらないバラエティで芸能人が幼稚な遊びに興じるか、馬鹿面下げて物食ってる番組ばかりですから、もう少し頑張ってもらいたいと思っていたのですが、末端からすでに視聴者のことなど考えない体質では、あまり期待出来ないようです。腹が立つので朝顔が枯れても撤去しないことにした「オブジェ」
2007年06月27日
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ボレー粉とは牡蠣殻をあぶり焼いて砕いたもので、江戸時代から鳥の副食として使われているものです。海の成分を凝縮したようなものですから、カルシウムなどのミネラルを多く含み、粉状にして人間の漢方薬にもなっています。 一昔前は小鳥用としての商品価値を高めるため、いろいろなものを添加したボレー粉ばかりが市販されていました。中でも人工的に着色された製品は危険視され、洗ってから使用するように薦められることが多くあり、昨今は、消費者の意識も変わり、着色や添加物のないホワイトボレーの需要が高まっています。 ところが、その無着色のホワイトボレーすら、洗って使用するように推奨する獣医師がいるようです。何でも、ボレー粉はカビがつきやすいと言っているらしいのですが、それはおかしな話だと思います。カビは高温多湿でない限り増殖しませんが、ボレー粉は乾燥させた貝殻で、むしろ吸湿性があるので、パック包装の中は乾燥しきっていると考えるのが合理的ですから、その環境でカビが増殖するというのは考えにくいところです。 もっとも、商品包装に穴が開いていたり、直射日光が当たるようなところに置いていれば、問題が起こってくるでしょうし、開封後高温多湿の場所に放置したり、何週間も交換せずに鳥カゴに入れ続ければ、カビが繁殖する可能性はあります。しかし、それは保管や使用上の不手際であって、製品一般の話として認められるものではないです。 カビが生えやすいと信じている人は、ボレー粉の臭いをカビ臭と断定したり、ボレーの周囲に付いた粉をカビと即断しがちです。しかし、牡蠣殻を焼けばとちょっとした漂白剤のような刺激臭がするもので、これにいわゆる「磯の香」が混ざると、カビ臭のような臭いになるように思います。また、ボレーの周りに付着した粉は、たんに摩擦によって生じたボレーの粉末と考えるのが普通ではないでしょうか?もし、これがカビだというのなら、とりあえず顕微鏡で確認する以外にないものと思います。 顕微鏡はカビを見つけたい方の仕事なので(この検証を省いて否定論を流布するのは非科学的で感心出来ない態度です)、実際の製品を洗ってどのようになるかのみ確認したいと思います。 写真は、厚手のビニールで包装されている市販のホワイトボレーです。特に外見上特色はなく不純物も見当たりません。 水を入れかき混ぜると写真のようににごり、カスのようなものが浮いてきます。 にごらせているのはボレーに付着していた粉末です。浮いている白いものは、ボレー粉の欠片の中で比重の軽い部分、つまりカルシウムなどの比率が高い部分と思われます。これらは粉砕し攪拌した際に生じるものと思いますが、攪拌により、ボレーのギザギザととがった部分が丸まり、口を切るなどの危険性が低下するものと考えられるので、その点でも意味のある作業なのだろうと思います。 右下の端に見える黒いものは、牡蠣殻に付着していた海藻と思われます。これは不純物ですが、天然の素材を使用する以上は(海藻が付着しない牡蠣はないです)、多少残っているのも仕方がないと思います。 にごりを落とすと写真のような姿になります。 このようにしたものを、天日に干したり、フライパンで炒ったり、電子レンジで加熱して水分を飛ばして与えた場合、ボレーの周囲にあった粉や比重の軽い部分を捨てていることになるので、ミネラル分の副食としての効果はどうしても減殺されてしまいます。口が小さくクチバシの噛む力も弱い小鳥では、ボレーをかじって飲み込むよりも、その周囲に付着した粉末をなめることで摂取している面があるので、若干気になるところです。 どうしても気になる方は、理屈は何であれ洗って与えれば良いものと思います。しかし、にごるのは当たり前で、それにはそれで良い面もあることを認識して、あまり考えすぎることもないように思います。
2007年06月26日
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ベランダの朝顔が咲きました。ヘブンリーブルーと言う品種の種を買ってきて、プランターに撒いておいたものです。 私は花には興味を示さない人間ですが、朝顔については理想のイメージを持っています。それは水色をした小さい朝顔で、空き地の端っこに咲いているような野生的なものです。具体的には、今から十数年前に、高田馬場のセブンイレブン前の街路樹にまきついていたもの、と言うことになります。 その野生的朝顔は買いたくても売っていません。売っているものと言えば、品種改良の果てに作り出した大輪の朝顔ばかりなのです。私は、あの大輪の朝顔がひどく嫌いです。何しろ大きくなりすぎて、咲いたそばから花びらが裂けてしまうのが許せません。 朝顔は早い時間に朝露にぬれながらちんまり咲く姿が清々しく、それだからこそ価値があると思います。花びらが裂けた派手なくず紙もどきを、朝から見ても何の感興も湧かないではないではありませんか。あれでは、千利休の茶室を飾ることなどないでしょう。 たまたま、ヘブンリーブルーと言う品種があるのを知り、その色は私にとって理想的なようなので栽培したのですが、咲いた姿を見ると、やはり花びらは大きめです。しかし、家庭の鑑賞種としては仕方がないのかもしれません。 それにしても、なぜ、品種改良する人たちは、その種がもつ本来的イメージを大切にしないで、自分たちの仲間内の興味に突き進むのでしょう。花びらが大きくなった、清々しさに欠けた朝顔のニーズが高いと思っているのでしょうか?玄人趣味の行き着く果ては、市場ニーズとの乖離でしかないように思います。 ※この水色の朝顔(ヘブンリーブルー)の種が、朝顔では一番人気があるらしいですよ。
2007年06月24日
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HP『文鳥団地の生活』を知らない人には何の話かわからないでしょうが、「文鳥動向の備忘録」に写真を載せたいという願望と、「ジャクボーの納戸」を復活させて好き勝手書きたいという願望から、本日ただ今、つい先ほど、おもむろにブログの登録をして、かくは始めの一文を書いている次第です。本当はこんな暇はないのですが・・・。 当然ブログ初心者で、ろくに説明文を読んでいないので、使用方法が理解出来ていません。こんなものは、学ぶのではなく慣れだと思っているので、使っているうちに理解したいところです。 無料ブログはニフティでもYahoo!などでも良かったのですが、たまたま楽天の表示が速かったのと、買い物することもあるのでこちらを利用させて頂きました。 今後、おそらく「文鳥動向の備忘録」として、我が家の文鳥たちの動向をごく簡単に書いていくものと思います。 何か語りたくなれば、まとなったものなら「ジャクボーの納戸」、思い付きの書き散らしは「しらばくれた書きとめ」として載せることになるかと思います。 文鳥たちの動向については罪が無いはずですが、思い付きの書き散らしは問題のある部分もあるかもしれません。気にさわる部分がありましたら、笑うか感想として罵声でも残して頂き、さっぱり水に流して頂ければ幸いです(ところが返信はしないという・・・)。 では、今後本文では、「です。ます」は使わず、断定的な物言いになりますので、ご了承ください。 下はサンプルとして貼り付けた横浜の高層ビルの写真。
2007年06月20日
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