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6月18日(火)現代俳句(抜粋:後藤)(79)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日富田木歩(1)我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮大正6年作。境涯の俳人。二歳にして躄(あしなえ)となる。小学校教育もろくに受けることが出来なかった。陰気な四畳半に、肺結核の高熱に苦しみ寝ている作者の暗い句。蜘蛛のふるまいに何か不気味なものの影を見ている。自己の運命をみつめ、死を予期した者の静かな忍従がある。自分の姿を客観視したこの句の態度が、いっそうこの句の背後に隠された作者の思いを浮かび出させる。己(おの)が影を踏みもどる児よ夕(ゆふ)蜻蛉(とんぼ)大正6年作。作者は、貧しい者、弱い者、不具なる者への愛情があふれる。幼い者への愛情も同様。夕日を背にして、自分の影を、影をと踏みながら、夢中になって歩いて来る児の姿。「夕蜻蛉」の配合によって、遊び戻りの児の動作に、何か童謡めいた情趣がただよってくる。 (つづく)
2024.06.18
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短歌鑑賞 しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼(まなこ)はまたたきにけり斉藤茂吉 この歌の中心はなんといいましても、「馬の眼はまたたきにけり」でしょう。ここに発見があり作者の思いが籠もっています。情景はしんしんと雪が降っています。厳しい寒さを連想します。そうした寒い雪の中に一頭の馬がたたずんでいます。そうして単に馬がまたたいたというのではなくて、「馬の眼は」と眼に焦点を絞った捉え方、これによって歌がぐっと生きてきたと思います。作者の観察の鋭さ、あるいは馬にたいする愛情そんなものも感じられます。 それから個人的な好みを言えば、「うマのマなこはマたたきにけり」というマの音の繰り返しがこころよく、あるいはやさしく感じます。参考:斎藤茂吉歌集
2010.02.14
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短歌鑑賞(佐佐木幸綱) のぼり坂のペダルを踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ 佐佐木幸綱 自転車に乗っている子は未だ幼いのかもしれません。自転車で坂道を登りながら、少し不安になったのか「まっすぐ?」と父親に問います。かなり限界に近づいているのが「叫ぶ」に出ているように思います。それに対して父親は「そうだ、どんどんのぼれ」と答えます。このどんどんのぼれのフレーズに「」がついていないのに注目します。あるいは頷いただけかもしれません。言葉自体は自分自身へ言い聞かせるような感じだったかもしれません。そうだ、男はまっすぐどんどん登っていくんだ…。 男としてこれだけは託したい生き方、そんな理想のような、希望のようなものが言外に滲んでいるように感じるのです。 参考:佐佐木幸綱歌集
2010.02.05
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9月8日(金) 昭和萬葉集(巻十二)(415)(昭和三十二年~三十四年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅴ(68) 天地自然(34) 鳥(2)老松一吉父の訃にひた走りつつ田の畦にひとつ雉きぎすの光るを見たり川辺古一林の中鳴きつつ歩み小綬鶏の緊しまれる体が近づきて来ぬ谷 鼎雨あがる青山狭間はざま霧わきて小綬鶏のこゑふたかたにたつ海音寺潮五郎石鉢の水深ければ縁ふちにゐてかはりこに羽ふる子雀あはれ(つづく)
2023.09.08
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茨木のり子詩集『対話』(1)昭和三〇年不知火社より(注:茨木のり子の第一詩集)「魂」あなたはエジプトの王妃のようにたくましく洞窟の奥に座っているあなたへの奉仕のために私の足は休むことをしらないあなたへの媚(こび)のためにくさぐさの虚飾に満ちた供物を盗んだけれど私は一度も見ない暗く蒼いあなたの瞳が湖のように ほほえむのを睡蓮のように花ひらくのを獅子の頭のきざんである巨大な椅子に座をしめて黒檀色に匂う肌よときおり私は燭(しょく)をあげあなたの膝下(しつか)にひざまずく胸飾りシリウスの光を放ち シリウスの光を放ちあなたはいつも瞳をあげぬくるいたつような空しい問答とメタフィジックな放浪がふたたびはじまるまれに...私は手鏡を取りあなたのみじめな奴隷をとらえるいまなお<私>を生きるこのとないこの国の若者のひとつの顔がそこに火をはらんだまま凍っている茨木のり子【予約】 茨木のり子集 言の葉(1)価格:861円(税込、送料別)
2010.07.31
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11月2日(水)岡井隆の選歌作品(NHK:全国短歌大会入選作品集より)平成26年秀作(3)逢いたいとおもう人には会えぬなりおもわぬ人にも会わなくなりぬ 東京 通岩道弘補聴器をはずし夕餉のねぎ刻む解かれてしずかなるわれの身は 新潟 丸山隆子盂蘭盆の過ぎて卵を抱く鮎を滋養となしてわれは存(ながら)ふ 愛知 鈴木隆子わが影を愛犬エルに被せつつ半時歩む真夏日の路 愛知 大成金吾(つづく)
2022.11.02
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5月3日(月) 岡井隆「現代短歌講座」(65) (2010年10月「NHK短歌春秋」より) 河野裕子さんを悼む(6) 突風の檣(ほばしら)のごときわが日日を共に揺れゐる二人子あはれ 暗がりに柱時計の音を聴く月出るまへの七つのしづく もういいかい、五、六度言ふ間(ま)に陽を負ひて最晩年が鵙(もず)のやうに来る と言った例を挙げることは容易であります。 河野さんの最晩年の、乳癌にかかって以後の歌にも、むろん秀れ た歌がたくさんあります。しかし、その前に、闘病の境涯に入る前 にも河野さんは、積極的に、短歌の技術的な領域を広げるべく、い ろいろな試みをされたことを忘れてはなりません。 わたしは一緒に歌会の場に臨んだこともしばしばでありました から河野さんの批評の鋭さ、歌に寄せる情熱の烈しさを直接に体験 することがありました。 これからも河野裕子さんについて語ることは、世にひろく行なわ れるだろうと思います。その時に、いたずらに感情に溺れることな く、河野さんの歌人としての多方面にわたる業績について、考えて 行くことが、なによりも河野さんに対する追悼、追慕になるだろう ことを思うのであります。 (この項終り)
2021.05.03
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解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。独立教会の建設監督より建てられた協会があります。宣教師によって立てられた教会があります。しかしわたしたちは神の聖書を直に学んで神によって教会を建てようと思っているのです。聖書はドイツにルーテル教会を生みました、英国においてはメソヂスト教会を生みました。そういう同じ力が日本においても、純粋な日本独自の教会を生まないわけはありません。わたしたちは、外国の人たちの助けをうけず日本人だけで強固なキリストの教会を建てることが出来ると信じるのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.19
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4月4日(木) 北原白秋歌集(9) 中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より 昭和49年十一月初版 「桐の花」(9) 初夏晩春(3) よき椅子(いす)に黒き猫さへ来てなげく初夏晩春の濃きココアかな 昼饗(ひるげ)どきはてしさびしさ春の日も紅茶のいろに沈みそめつつ いつしかに春の名残(なごり)となりにけり昆布干場(こんぶほしば)のたんぽぽの花 寝てよめば黄なる粉(こな)つく小さき字のロチイなつかしたんぽぽの花 洋妾(らしやめん)の長き湯浴(ゆあみ)をかいま見る黄なる戸外(とのも)の燕(つばくろ)のむれ 「春」はまたとんぼがへりをする児らの悲しき頬のみ見つつかへるや (つづく)
2019.04.04
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12月28日(月) 短歌研究新人賞受賞作品第三十回(昭和62年) 黒木三千代「貴妃の脂」(5)(注)今年度は2作品受賞 逆光に灰色の羽すきとほり過ぎにしミカエルの裔の鳩らよ キャベツ畑にキャベツは闌けて歩むことなく過ぎたりし母の晩年 イエスよおもふ即ち姦淫とせばおもはざる婚とはなにぞ 唐突に声よみがへりモーツァルトK(ケツヘル)四百六十六を思へり かわく渇く 桔梗しほれてゆく幾日(いくひ)見てゐたるのみわれは執念く (つづく)
2020.12.28
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6月19日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(356)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(8)(前日)この場合まず第一に言いうることは、どのような人生行路にもすべて段階があるということです。そして、およそ価値ある生涯ならば、たとえば牧場をさらさらと流れる澄んだ小川のようにまるで変化のないものではなく、あるいは、人工の運河のように始めから終りまで一直線に走ってゆくものでもないということです。(よりつづく)どんな人生行路も他の人のそれとまったく同じ過程をたどるものではなく、また、一見いかにも自然にみえる段階でも、しばしば逆の順序をとっていることがあります。たとえば、青年時代に老成した人が、年取って初めて精神的青春を持つような例もあるのです。 (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水) 昭和萬葉集(巻十三)(177)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅲ(15) 過疎化する農村(15)野の機械化(2)北口年夫五ヘクタールの田を耕しし耕耘機と夕映の畔を吾が帰り来る飯島治正機械購かふだけに追はれて貧乏する農の生活も思案に暮れる竹中美樹岐路に立つとふ意識もちつつ動力の農機具求むあせり心に岡村田一路耕耘機購もとめんために牛を売る家内相談まとまりがたし (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(80)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日富田木歩(2)かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花大正七年作。死に近い妹の咽喉の微かな喘ぎを、看護しながら聴き取っている。その仄かなはかない感じが、鳳仙花に通い合う。女の子は鳳仙花の花弁をもみつぶして爪を染めて遊んだ。妹の幼い時を思い浮かべているのだろう。情愛の滲む句。作者は、苦労した薄命の妹に愛情を注いでいた。宵よひひそと一夜いちや飾かざりの幣ぬさ裁たちぬ大正七年作。大晦日に鏡餅や締め飾りを飾ることは、一夜飾りと言って嫌います。なりわいに追われて暇がなかったのか、経済的な理由からか、大晦日の宵、ひそひそと飾りつけをしている。幣はお飾りに垂らす白紙である。生活に追い立てられている市井の貧家の年の暮れである。 (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)短歌集(311)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(12)幾人(いくたり)か吾れにやさしき征(い)でゆきていつしか国にいのち捧げぬすがすがしき夜半の空気よ天翔(あまがけ)る君のみ魂(たま)に相会ふごとしおとろふる炎(ほのほ)の街の明けゆきて嗚呼(ああ)潮(うしほ)なし群れゆく人(ひと)等(ら)垂れさがる電線を越えてペタル踏む吾が足の力ただ頼(たの)むかな天地(あめつち)に今日の悲しき勅(みことのり)たえだえとして声さへになし (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十四)より土屋文明という、明治、大正、昭和の三代にわたって短歌と関わった歌人を概観するために、その文学を、生きた生涯と共に時の経過の上にたどってみた。推移するものと、推移の間に重ねられていくものと、さらにそれらを通して一人の文学に本質として流れつらぬかれたものを知るために、それが一番ふさわしい方法と思ったからである。その過程において文学と呼び思想となすものに出来るだけ接近して見ることがこの概説的作家論の目的であった。明治の終りが大正へと替わる日に文明は知的憂愁をたたえた一少年リリシズム歌人として出発した。発足したばかりの「アララギ」一同人でもあった。それにはこの国の短歌史の歩みの上に「近代」と呼ぶ西欧文芸思想の世界が初めて淡い影をおとしていた、といえよう。だがその大正が昭和に移るとき、文明はリリシズムの少年詩人でなく、冷厳の眼を現実にむけるリアリズムの作者に推移する。すでに生活者である文明は、生活を通し、生きる現実即物的な表現の中に歌う。昭和になり日本は経済恐慌とそれに重なるマルキシズム思想の嵐の時期を通過し、そのあとに戦争とファシズムの時代が迫り寄る。そうした日に文明は一人の生き方であるべきものを文学として問い求め、その思いを重く、あらあらしく、苦渋の作品として歌い重ねる。それは戦争の時代にもぎりぎり守り抜かれる。求められては戦争賛歌を作ったという事実を逃れられないが、文明の戦争詠の多くはその時に生き、その戦争をたたかう日本の無名の市民の「個」の運命の関心の上にだけ抒情として作りつがれた。そうして、戦後の時代に彼は同じように戦後の荒廃に生きる思いを歌う。敗戦を歴史の中に凝視し、一人の疎開者である位置から日本に推移するものを歌った。その視野の中につねに民衆があり、民衆の呼び交う歌があった。「生活即短歌」という言葉が自らの文学主張を明らかにするものとし、歌論としてこの日に語られる。(つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(1)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(1)何祈るらむ(1)霜よけて植ゑかへしたるはまゆふの莟みつけて夫のよぶこゑ土の上に散りこぼれたるさざんくわの花白じろと瞑れども見ゆわたの実のおのづとはじけまざまざとさらす白さよ凍土の上きれぎれのオルゴールの曲聴きゐつつつひに告げざること思ひをり風響りのとほくよりきて戸を鳴らし吹きゆくはてを闇に思ひぬ (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(17)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(17)だいたいが、この国の商人というのは、このクスリヤのオバサンに限らず、お客であるわたしに対して、ツベコベ、ツベコベと、お説教を試みようとする習癖がある。夕方に、ヤオヤで卵を四個書おうとしましたら、 「オマエハ、コノ卵ヲ四個トモ今夜カ明朝ニ食ベテシマウノカ?」と聞くのです。 「今夜ニ一ツ、明朝ニ一ツ…」と答えると、 「ソレナラバ、二個ニシテオクガイイ、無駄ナコトダ。アスニナレバ新シイ、卵ガクル、ソシテコノ卵ハ、半ペンス値ガサガル」と言う。 「では、ソウスルヨ」と答えると、さも満足そうにニッコリ笑って、「ベェリ、グウド」と誉めてくれました。店に入ると、たいていの場合、“May I help you?”と言いながら歩み寄ってくるから、売りたくないのでもないようですが、専門家としての自負心をもっているというのか、国民性のしからしめるところなのか、妙にカウンセラー気どりのところがあります。 (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (27) 作歌机辺私記(94年12月)「水脈の名残」歌舞伎というものなど、ほとんど見ることもなくなってしまったが、その歌舞伎のことで、一つの文章に出合った遠い記憶がある。名優と呼ばれる、ひとりの女形の役者がいた。或る舞台で、その女形が出演した。それは舞台の上手から出て、下手に入る、ただそれだけの役であった。そうでありながら、科白一つなく、仕草一つあるわけでなく彼が歩み過ぎた後に、舞台にはしばらく水脈のようなものが漂い残り、観客は息を呑んだ。それだけのことであった。何の舞台であったか。何という女形だったのか。ないしは書いた劇評の文章はだれのものであったかもすべて忘れてしまった。そうして、わたしたちの短歌において、「詩」というものも、そのような水脈の名残のようなものではなかろうかと言う感想を、同じ遠い日に、わたしもまた書いたことがあったと思う。それは一首読んだ後に残る、何かかたちないかげのような何ものかであり、かすかなそのゆらぎともいえるものなのであろう。わたしは陰翳ともいうことばでそれを語ろうとしたこともある。すなわち短歌一首の「詩」ともいうべきものは、そこにうたわれている事柄にあるのでなく、ことばことばにあるのでなく、ましてその意匠などの範囲にあるのではなく、一首そのものにある。たとえばひとりの名優の女形が幕のかげに消えた後に舞台に漂い残る水脈の名残のようなものであり、かすかな陰翳のようなものであり、その感動であり心ゆらぎであるべきものなのであろう。短歌一首作るとは、それらをどのように一首の後にうたい残していくかということなのでもあろう。そのためには、作品がどのように寡黙であるかが大事なのであろう。むしろ、つつましく、さりげないままであるべきなのであろう。いたずらに「詩」らしい事柄を連ね、「詩」らしいことばで飾り立てるのとは別のことなのであろう。舞台を過ぎていく女形はその間何の科白も語らず、何の仕草も残さなかったといった。やたらに飾り立て、やたらに饒舌なのは田舎廻りの役者のすることともいえる。更に、同じく短歌において、その作者がプロかアマかを分けるのもそのことにあるのであろう。すなわち、たとえば茂吉などの場合において、何とつまらないことをうたっているのだろうと思って読んでいって、あとにいいようなく胸にからんでいくかすかな感情を知っていくことがある。心のゆらぎ、とわたしはいっており、それを「詩」と呼ぶものと思っている。繰り返せば短歌を作ることとはその「詩」を一首の中にうたい秘めていくことであり、プロとは、そのことを知って歌を作るもののことであろう。或いは、そのことの技法であり秘密であるものをひそかに秘めて、といえるかもしれぬ。(1994・12)
2024.06.19
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後藤瑞義 入選歌・入選句自己主張することのなき父なりきことわざなども常に用いて 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十九日 入選 花山多佳子 選)高くたかく揚げ復興鯉幟 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十九日 入選 橋本榮治 選)
2024.06.19
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