5月15日(水)
近藤芳美「土屋文明」より(69)
岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明 … 鑑賞篇」よりの転載です。
第七歌集『韮菁集』より(6)
茶を売るに莫談国事(ばくだんこくじ)といましめて駱駝追(らくだおひ)も洋車引(やんちょひき)も休み処(ど)となす
(昭和十九年)
天津から大東亜文学者会議出席のため南京に下った文明は、また北京に帰り、日本に帰る日を待ちながらしばらく滞在をつづけた。いつか初冬となっていたのであろう。「黄なる葉にやや沙を吹く風立てる北京街城にかへりつきたり」の歌がある。
この歌は北京市街滞在中の一首。駱駝ひきや人力車夫などが集る貧しい茶館の壁に「莫談国事」 … 政治を語ってはならないという布令のビラが張りつけてあることに、作者は一旅行者としての感傷をいだいているのであろう。ただそれだけの作品であるが、この背後には戦争が最後の段階に至ろうとする、ただならない時代のかげが感じられる。一見平和な古都の街にも、戦争の危機感はひそかに迫り寄ろうとしていた。レイテの敗戦がひそかにささやかれ、サイパン基地から敵機の日本飛来がはじまる。そのような事に敏感に気づいているのは、「莫談国事」の布告の下に集る黙々とした中国の民衆たちだったのだ。
三寒の今日ははじめの沙の風青きももみぢも槐(ゑにし)の落葉
(昭和十九年)
前の歌と同じく北京逗留中の作品。三寒四温といって、大陸地方では冬期、三日寒い日がつづき、四日ほどあたたかい日がつづき、それが繰り返されると一般に考えられている。その四温の幾日かが過ぎ、今日からきびしい三寒の日が始まる。昨日とは打って変わって街には砂をまじえた朔風が吹き荒れ、舗道には一面に落葉が散り敷いている。その落葉に青い葉ももみじもまじる。みな槐の葉である。長い冬をむかえ
ようとする、大陸の旧都の清澄な朝の情景である。
『韮菁集』の最後の一首。「君が家もいまだ焚かねば外套著て日本と支那のこと語り合ふ」「古(いにしへ)を語らふ時にあひ通ふ心も今の時に少しくけはし」などの歌が前に並んでいる。東京に帰る日を待って、彼は北京の文学者たちとも会っているのであろう。夏の日以来長途の旅をつづけて来た感傷と、時局に対するひそかな不安の思いとが、相まじってこれらの作品を霧のように覆っている。
これで『韮菁集』は終り次は『山下水(やましたみず)』となります。
(つづく)
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