全10989件 (10989件中 1-50件目)
5月23日(木)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年7月)憲吉の五十年忌(3)墓参を終え、河村君に伴われてやや離れた丘にある歌碑を訪れた。「満月は暮るる空より須臾に出てむかひの山を照りてあかるし」の歌が彫られている。わたしたちを見たのかひとりの老人がどこからか近付いて来て話しかける。広島からやはり憲吉研究の高校の先生かなにかが歌碑を訪れて来て、「須臾」とはどの山の名かと聞いたという。村人が碑を立てようとしたとき、未亡人はこの歌とするのをあまり賛成されなかったとも老人は告げた。五月の空の澄む新緑の山々に、おそい山桜がなお咲き残っていた。会では十分ほど、憲吉の思い出を語ったが、あとで、言い残したものがあるのが気になった。すなわち、憲吉にはもっと別な読み方があるのではないかということである。わたしの遠い文学の出発の日の師であり、わたし自身の文学のこととしてもさらに考えてみたい。(84年7月) (つづく)
2024.05.23
コメント(0)
5月23日(木)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(88)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)ああ竹下通り(1)原宿の竹下通りの若きらをかきわけてゆくわが同窓会欲しき品食べたきものの一つなきウラシマタローがふらふらとゆく孫・曾孫さ迷ひ居らむ原宿の竹下通りに異邦人めくお互に関心は無し原宿駅ゆ東郷会館に向ふ近道若者の流れの中に只ひとり泳ぐでもなく息あへぎつつ (つづく)
2024.05.23
コメント(0)
5月23日(木)近藤芳美「土屋文明」より(76)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(8)木ずゑ吹く朝の野分に目をあきてすぎし人すぎしこと残るいまの我(昭和二十一年)木ずえを吹いている朝の野分のかぜが見えている。目をあきて、とあるから、作者は目ざめた床の中から風にふきしなう冬枯れた木群の枝を見ているのかもしれない。野分は秋の末から冬のはじめにかけて吹く疾風のことである。死に去った人々のこと、過ぎてしまった遠い日々のこと。作者はおもうともなく思い出している。そうして、一人だけ今生き残っている自分の事をも…。「浅間温泉懐旧」と題する作品。浅間温泉は長野県松本市の北郊にある温泉場のことを指しているのだろうか。彼はかって松本で教師をしていた事もある。「衢にも面知る人の少なくなり安けくさびしく一日ゆけり」「相共にさらばふまでに老いぬれど語らひつぐはうれしくもあるか」などの歌がある。作者は五十七歳。敗戦の日の後まで生きて来たことの哀愁感が静かにただよう作品である。初々(うひうひ)しく立ち居(ゐ)するハル子さんに会ひましたよ佐保の山べの未亡人寄宿舎 (昭和二十一年)「再報樋口作太郎君」と題された作品の中の一首。ハル子さん、というのはその「再報」する相手の人の不幸な肉親の女性か、あるいは肉親である人の未亡人なのであろう。無論、この場合そのいずれであるかという事の詮索は作品の鑑賞とは関わりはない。「ハル子さん」と作者の呼ぶ女性は戦争未亡人であろう。作者は奈良の佐保山のふもとの寄宿舎にその女性を訪れる。「未亡人寄宿」である。不幸な今も、悲しみにけなげに耐えて、むかしと少しも変わらずういういしく立ち居する「ハル子さん」に会ってきましたよ、と土屋文明は告げようとする。呼びかける肉声のままの、感情にあふれた短歌である。「世の中の苦楽を超えて君ありとも君の涙がいくらか分る」「折あらば奈良にゆきハル子さんを見たまへな藷うゑ静かな寄宿舎なり」の二首がそのあとにつづいている。口から語り出される口語がそのまま自然に定型の中に生かされた、やさしい作品である。 (つづく)
2024.05.23
コメント(0)
5月23日(木)短歌集(277)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(4)夕浪ゆふなみに来つる千鳥の居るが見ゆ時雨ながらふる浜のたひらに網走あばしりの海こえて山の雪見ゆる汽車にねむりて眼めをさましたり国のはて根室港ねむろみなとに来きたりけり海吹くかぜの秋づくらむか知床しれとこの岬みさきの山にかjたまりてのこれる雪は海の上に見ゆ白々しらじらと硫黄に曝されし石のあひだほとばしる湯をしばし見てゐつ (つづく)
2024.05.23
コメント(0)
5月23日(木) 昭和萬葉集(巻十三)(150)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(47) 生活の周辺(6)夕べの街(1)尾崎左永子花舗くわほ出でしとき急速に夕映えて夕街ゆふまちは炎もゆ樹々も硝子も高層の街に月明しことごとく窓は眼窩となりて犇めく昏れ早きビルの内部に入りしとき無人の階を声下りくる北沢郁子閉店の楽鳴らし絹を売る館螺旋の階より燈は消されゆく (つづく)
2024.05.23
コメント(0)
後藤瑞義入選歌・入選句(よみうり文芸) ユーラシア大陸のごと広がれる雲に山里光失う 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月二十二日 秀逸 花山多佳子 選)(評)雲のかたちはいろいろに喩えられるが「ユーラシア大陸」は新鮮。雲の広がりの大きさがわかる。山里は雲におおわれて「光失う」。空と地上の関係が大きくとらえられた。 地に落ちて地に咲くごとき椿かな 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月二十二日 入選 橋本榮治 選)
2024.05.22
コメント(0)
5月22日(水)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年7月)憲吉の五十年忌(2)五月六日、会の翌日、河村盛明君の案内で、憲吉先生の墓参のためその生地である上布野を訪れた。河村君のかっての「フェニキス」の同志であった清水君も同行された。広島市中心にあるバスセンターから赤名峠を越えて松江に向かうバスに乗る。晴れわたった初夏を思わせる日射しとなった。道々、迫って来る中国山地の山の重なりの若葉が明るく、山藤のはながその間に淡く咲きさかっていた。憲吉の葬儀の日、わたしはひとりの高校浪人の少年として欝屈の感情を持てあましながら上布野の生家まで出掛けた記憶を持つ。そうして、その日に、同じように葬儀に参列した壮年の斎藤茂吉、土屋文明らに出会っている。わたしの自伝小説『青春の碑』にそのことは書いておいた。ひとりの生涯を決していくものは何なのか。ためらいためらい重ねていくそうした日常の小さな出来ごとの生起の間のものなのか。憲吉の生家も、生家につづく峡村の街道も、『しがらみ』の数々の作品を生んだ生家の裏の渓流も、そのころとあまり変わっていない。ただし、上布野には数年前、三次に講演に来たときに一度訪れている。(つづく)
2024.05.22
コメント(0)
5月22日(水)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(87)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)虚空の中(3)三回も別荘住ひと友のいふ入院もまた楽しともいふ今生こんじやうにここだ詫びたき魂のあり線香花火のパチパチはぜるわが傍かたへ二人の少年が交互して会話するごといびきたてゐるすぐ上の兄九十歳となりてよりわれにハードルを置きて逝きたり (つづく)
2024.05.22
コメント(0)
5月22日(水)近藤芳美「土屋文明」より(75)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(7)遠き島に日本の水を恋ひにきと来りて直(すぐ)に頬ぬらし飲む (昭和二十一年)闇市の立つ焼けあとの街に赤旗がはためき、国民たちは憑かれたような眼で民主主義を口々に叫ぶ。「米よこせ」と書いたむしろ旗を立てて宮城へデモの列が押し入ろうとする。全国の失業者百六十万。米の遅配欠配がつづく。そのような日本に前線各地から武装解除された兵たちは引きあげてくる。遠い南方の島々からも俘虜なままの姿で送り返されて来る。その一人が疎開地の土屋文明の家を訪れる。やっとたどりついたような汚れた軍服に戦闘帽の姿である。彼は来るなり頬を濡らすようにして泉の水をのむ。日本の清い水だけを恋い思いながら、はるばると帰って来たのだとその青年は告げる。「亡ぶとも湧く水清き国を信じ帰り来にしと静かに言へり」「夜もすがらひびく水の音近々にかなしき日本に吾は目覚むる」と文明は歌っている。敗戦翌年の、「かなしき日本」の歌である。相抱(いだ)ける二人海に向き石をなぐ吾より四十米かなたの世界(昭和二十一年)「熱海にて静臥数日」という題の中の作品である。熱海に旅行したとき体を悪くし、数日病院に入院した。作者にとって、思いがけない、静かな病床の幾日かであったのだろう。病室の窓から海が見えており、互いに抱き合った若い男女が、沖にむかって石を投げながら遊んでいる。恋人同志なのであろう。二人は病床から見ている作者には気づかない。遠い世界の物語りの中のような彼らの姿である。それだけの事を歌った作品であるが、それを歌う作者の一種清らかな感動が、読むものを抒情の世界に誘いこむ。作者の感動は、昭和二十一年という、敗戦のあとの荒涼とした一時代を背景として浮び上がってくるものなのであろう。「宵々におくるる月を待ちこふる海の上にをどるはつか紅(くれなゐ)」「立ちかはり来りて触るる少女等の手の下に老いしからだ横はる」などの作品も同時に作られている。 (つづく)
2024.05.22
コメント(0)
5月22日(水)短歌集(282)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(3)疾風はやちかぜとよもす篠原しのはらの中をゆく妻が眼鏡めがねのひかるさみしさ裏山の枯色したし春雨はるさめはゆふべほどろに雪になりつつ様々さまざまに泣けるみどり児ご小さきにわがあはれなるものも交まじれり冴さえざえと山の日させる背戸畑に乳児抱いだき来ればくさめせりかぎりなく立つ白波に寒々と時雨しぐれながらふる浜に来にけり (つづく)
2024.05.22
コメント(0)
5月22日(水)昭和萬葉集(巻十三)(149)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(46)生活の周辺(5)街(5)山本武雄市なかに戸を閉さしこもるさかぐらの日翳かげるおもて酒匂ひたつひややかに黄ばむ格子の艶も見つ酒造る家の構かまへ古りたり大和虎雄ガード下の不法建築何時の間にか新しき畳を敷き並べたり織原常行電柱が家並の上に並列す或る日墓標の如しと思う菅原 峻電光のニュースの光高層の壁を垂直にのぼりつつゐる (つづく)
2024.05.22
コメント(0)
5月21日(火)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年7月)憲吉の五十年忌(1)わたしの最初の短歌の師である中村憲吉先生は昭和九年五月五日に死去された。その日から五十年になり、五十年忌の歌会が広島で開かれることとなった。その会に、生存しているかっての憲吉門下のみなに参加してもらうようにという御遺児の安田良子夫人の意向があり、会の世話役をしている河村盛明君から出席依頼の来信があった。昭和五十九年の五月五日であり、わたしはその日に満七十一歳となる。やや感傷的な気持ちもあり、誘われるままに旅立った。五月の連休の人込みの中を旅行するのは久々である。「アララギ」を中心にした会であったがかって短歌を作り始めた日に知った憲吉選歌欄のわたしの先輩にあたる人々ともお逢いする事が出来た。その間に、半世紀という歳月が過ぎ、わたし自身を含めて人生変転と老いの相貌をひとりひとりが重ねていた。(つづく)
2024.05.21
コメント(0)
5月21日(火)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(86)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)虚空の中(2)いつまでも生存競争するのかと死者の友よりテレパシーくる老残と言へども階段上るとき負けじ魂がわが身を運ぶ若者を追ひかけ上る階段に電車は発進!こら待てこら待て原発の汚染拡がるシャーシャー蝉指ほどの木に生命たぎらす(つづく)
2024.05.21
コメント(0)
5月21日(火)近藤芳美「土屋文明」より(74)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(6)にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華(あづまいちげ)の花も閉ざしぬ(昭和二十一年)山に来て拓いた畑は彼は野菜の種をまいている。にんじんの種だけが今日はまきおくれた。さあ、にんじんは明日蒔くことにして帰ろう。日も昏れ、峡の流れの上には夕霧もただよい始めた。草のまに可憐に咲いていたあづまいちげも、いつか一日の花を閉ざしてしまった。東一華はうらべにいちげともいい、キンポウゲ科の山地の植物。淡白色の花を夏咲かせる。ひとり呟いているような自然な発想の中に、作者の孤独な生活と感情とがおのずから語り出されている作品である。「甘草も未だ飽かぬに挙(こぞ)り立つ浅葱(あさつき)の萌えいづれを食はむ」「浅葱の群がる萌に手を触れて春ぞ来にける春ぞかへれる」「折りて来て一夜おきたる房桜うづたかきまで花粉こぼしぬ」「刈りてゆく鎌に触れつつかをる木も茨も惜しも今芽ぶきの時」などの作品が相つづく。作者は今は山中の一農夫である。彼の岸に旗なびくメーデーの行進も釣橋よりは渡ることなく(昭和二十一年)疎開地の村々にもメーデーが行われる。敗戦の翌年である。赤旗をなびかせながら対岸を歩むその一団も、はるかに見えている釣橋を渡って、自分のいる山の方にはやって来ない。貧しい峡の村の、貧しい村民たちのメーデーなのであろう。はじめて許された自由に、彼らはとまどいながら赤旗を立てて集っているのだろうか。そうした時代ともかけ離れた自分の生活である、と、土屋文明は歌おうとしている。「この者もかく言ふ術を知れりしか」とか、あるいは「怒りわく夜には来り腰おろす草こそしたし土こそしたし」などといった、そのころの作品にひそかに共通する憤りと孤独感が、この作品にも流れている事がいえよう。「青き谷」と題した作品。「青き谷の上にいつしか月はあり光をもちて黄昏ながし」「鳥が哭(ね)のつひの一声しづまるにこぞる下谷の蛙等のこゑ」などの歌が、一人の世界を守るように歌われつづけている。 (つづく)
2024.05.21
コメント(0)
5月21日(火)短歌集(273)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(2)水際みづぎはに寄りにし水泡こほりたる山なかの湖暮れて見にけりあわただしく過ぎゐる吾にかぎろひの夕べの逢ひはたまゆらなりし別れ来し路地に音たててふるみぞれ吾わが穿はく古き靴くつに洩もりつつ 塀のかげくらき坂をば上り来てわが家のさくら夕日に映ゆる 潮しほみつる築つき岸ぎしをならびあゆみゆく吾われもわが妻も包つつみ持ちたり (つづく)
2024.05.21
コメント(0)
5月21日(火)昭和萬葉集(巻十三)(149)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(45)生活の周辺(4)街(4)清原令子曇り低く昼も燈ともす窓ありて見えざる鞭の下ゆくごとし田谷 鋭ウインドウの中ゆく我は現実よりやや暗く風に服皺みたり阿久津善治なにゆえのこの飢餓感か音なくて遠き屋上に観覧車めぐる半沢 裕店頭に積める亜炭あたんの塊が土に馴れゆくかたちに乾く國枝龍一桶の水透きとほりつつ涼しげなり蜆しじみあぎとふ昼下りの店(つづく)
2024.05.21
コメント(0)
5月20日(月)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年6月)「怒り」の切実(2)現実をうたえ、生活をうたえといわれて来た。そうして、それらはなおうたいつづけられているに拘わらず、しだいに、かっての一時期の生彩を失って来ている。いつのころからなのか。日本が繁栄と平和の幻影の上に保守化への歩みをたどり出した、そのこととパラレルなのか。それでは、わたしたちの「未来」はどうなのか。わたしはそうした種類の歌の衰退の理由の一つに、そこから、しだいに「怒り」の感情がうしなわれていったことを考えている。詩の衝迫の一契機であるべき、人間ひとりの心の内面の「怒り」の切実である。それが生活詠を無気力な単なる生活日常の報告の歌、ないしは愚痴だけの世界とし、社会思想詠と呼べるものを形骸化させて来た。「怒り」だけが抒情の契機ではないとしても、今のような日に、その喪失の事実はやはり知って見ていなければならない。短歌は本来何々詠と呼んで分類すべきものではない。だがその上で、わたしたちの「未来」に、現実をうたう、生活をうたうということは一文学集団の理念を負うためにも持ちつづけられていなければならず、社会詠思想詠とされるものも同様である。ただ、それらをうたうことの根底に見失ってはならないものがある。人間ひとりの「個」であり心の内面である。「怒り」の意味もそのことの外ではない。 (つづく)
2024.05.20
コメント(0)
5月20日(月)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(85)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)虚空の中(1)父の死は卒寿、また兄の死も卒寿と言へば家系の掟(おきて)老年の思ひの果ては寒々し思ひ残せしあれもこれもが年とれば寂しき人生それよりも虚空の中に居る思ひかなあきらめはこのときばかりと思へども一日のなかにくりかへしゐる (つづく)
2024.05.20
コメント(0)
5月20日(月)近藤芳美「土屋文明」より(73)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(5)風なぎて谷にゆうべの霞あり月をむかふる泉々(いづみいづみ)のこゑ (昭和二十一年)夕ぐれの谷に、静かに白い霞が立ちこめている。東の方の空が赤いのは、やがて月が上ろうとしているのであろう。その月が上ろうとしているのであろう。その月の出をむかえ待つかのように、山の泉々はさやかなせせらぎの音を立てている。そういう情景の作品なのであろう。美しい、夢幻の世界を思わせるかのような一首である。「月をむかふる泉々のこゑ」という擬人的表現は西洋語法のようであるが、本当は漢詩の表現法から来ているものなのであろう。その前にも「道に小さなる媼行かしむ」などと云う語法が用いられている。漢詩的発想を使いこなした技法は、『韮菁集』前後から土屋文明の作品にしばしば見出される。「谷をふく風に舞ひ来る雪幾片とけて柳の花のうるほふ」「春の日に白髭光る流氓一人柳の花を前にしやがんでゐる」「耕さむ山は広くもつらなるにかへりみてはや手に力なし」などの作も同時の歌。「柳の花」という題の一連である。戦死せる人の馴らしし斑鳩(いかるが)の声鳴く村に吾は住みつく (昭和二十一年)斑鳩は鳥の名。いかるという。すすめ科の鳥で、鳴声が月日星(つきひほし)というふうに聞こえることから三光鳥とも呼ばれる。その、いかるの声が毎日のように狭の村に聞え来る。それは、出征し戦死した一人の青年が生前に飼いならしていた小鳥なのである。「鳥籠に寄り立つ人の父を見る万の戦死者の親かくありや」…いかるの鳥籠の前に立っている青年の父親を見ることもある。放心した老人の顔は、戦争に吾が子を失った幾万、幾十万の父の顔である。或る日老人は籠の小鳥を空に放す。しかし鳥は再び帰ってくる。「君が為放ちし飼ひ鳥帰りぬといふをし聞けば吾も嘆かむ」「今日もかも春日に歩む父を見る南遠く子を戦死せしめたり」「百どりの競へる中にひびきとほる斑鳩の声に村は静まる」…敗戦の悲劇を正面から歌った、土屋文明にはやや珍しい小説風の作品である。「斑鳩」と題する五首からなる連作である。 (つづく)
2024.05.20
コメント(0)
5月20日(月)短歌集(281)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(1)大き艦ふねけむり吐くみゆ朝明あさあけのしぐれにぬれし通りのはてに町屋根の上にしぐるる山みればもみづる樹々きぎにはだれふりたり岬山さきやまの黄葉もみぢおとろふる頃ころとなりて入海いりうみくらくけふも荒れたり出でゆくと飯いそぎ食ふ弟を見れば立ち入りてもの言はざりき外輪山の陰おちし谷を下りつつ日すがらありし霜柱ふむ (つづく)
2024.05.20
コメント(0)
5月20日(月) 昭和萬葉集(巻十三)(147)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(64) 生活の周辺(3)街(3)富小路禎子裾広き服着し吾が地下道へ階下りゆく一瞬身軽し炎天の人倚よらぬベンチ道化師に会ひし如くに心動ける肉塊を置くガラス器の中燈ともり花売る店のごとく華やぐ山下初江ゆたかなる町に円型花壇あり咬み合ふやうに花が咲きゐる (つづく)
2024.05.20
コメント(0)
5月19日(日)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年6月)「怒り」の切実(1)飯田に講演に出掛けたとき、「未来」会員のひとから、たとえば「短歌研究」新人賞などでわたしの推す作品が、なぜ「朝日歌壇」の場合と異質なのかを質問された。「朝日歌壇」でわたしが採る歌が多く生活の歌、ないしはときとして「社会詠」などと呼ばれる者であるのに対して、そうした新人賞の場合、それらとは違い心の内面だけをうたおうとする、いわゆる心象作品であることが多い。なぜなら、そのような作品ばかりが集ってくるからだよ、と答えておいたが、彼はなお不審そうな顔をしていた。事実、生活歌などという種類のものはほとんどなく、あっても一様に平凡な生活報告の域をでない歌ばかりである。ついでに記せば質問者は農民であり、「未来」でも今は少数となった農村生活詠、労働詠の作者であった。同じ現象は、何らかの程度に今日の短歌の世界一般にもひろがっているのではなかろうか。すなわち、生活の歌、生活者の歌の衰退ということである。たとえばわたしなど、ときとしていくつかの労働組合の機関紙か何かの選歌を依頼される場合もあるが、そこでうたわれなければならないはずの生活詠ないし社会詠の無気力が著しい。少なくともかっての…敗戦の後の時代のような文学エネルギーはそこには今見られないと言える。(つづく)
2024.05.19
コメント(0)
5月19日(日)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(84)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)夢路の果て(4)小さき蟻延々と組む隊列を追ひつめゆけば隣家の敷地ああそうか、富士の湧水飲みながら山は生きてるわれも生きてる大噴火起こる起こると五十年いまだ沈黙の富士を仰げり友の死のしらせ舞ひ込む春のきて自らの死は考へに無く(つづく)
2024.05.19
コメント(0)
5月19日(日)近藤芳美「土屋文明」より(72)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(4)北支那より帰りし君を伴へど雪の下には採(つ)むべきもなく (昭和二十一年)北支から帰還して来た一人の青年が突然に雪に閉ざされた疎開地をたずねて来る。敗戦とともに幾百万の前線の兵らは、あるいは追われ、あるいは捕えられ、屈辱と困苦の日を重ねながらかろうじて祖国に帰りついていたのだった。その祖国さえすでに廃墟であり、人々は飢餓の中にさまよい生きていた。渓谷の奥の疎開地まで会いに来ることさえ容易ではない時代だったのである。たずねて来た青年をともなって彼は山に登る。青年は汚れた軍服を着、長い戦場の苦労に頬もこけている。生死さえ本当はわからなかったのだ。山はまだ雪が深い。雪のため採もうとする山菜もない。戦死した青年らの消息もしだいに伝えられて来る。「君をも還らぬ数にかぞへむか二三日こらへ遂にかなしぶ」「亡き数にかぞへむとする面影の逞しくして吾に堪へずも」などという歌も、同じころに作られている。蟹ひとつ形のままに死にたるも沈みて春の泉は増しつ (昭和二十一年)疎開地の峡村にもおそい春が訪れて来る。「石の間にめぐる泉に朝ごとに目にたつ緑来りつつ踏む」…草の緑の色がしだいに深くなるころ、緑にかこまれた山の泉の水もしだいに増して行く。その清澄な水の底に、蟹が一匹、生きた時のままの形で死んでいるのも透いて見えている。春のめぐって来たよろこびをしみじみと知る季節である。するどい把握の眼と、それにともなう細緻な言語の斡旋を感じさせる、清潔な作品である。文明の歌が前歌集『韮菁集』以後、再び技法の巧みさを加えて来ている。「掬ひ飲む泉からだに染(し)みとほる健やかなればそれのみたのし」「目の下に釣橋ひとつ見え居りてただ世の中につながりをもつ」「一ところ白くかがやく枯草を韮野生地と気づくよろこび」「青き時青きよろこび黄なる時黄にしたしみてこの畦を行く」などの作品が「泉頭?」という題で並んでいる。 (つづく)
2024.05.19
コメント(0)
5月19日(日)短歌集(280)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版大熊長次郎(10)をとつひ我庭木木に木花さきいのちある内に美しきものを見ぬこときめて心平たひらかにあり関根木村の棋戦きせんを日々に興ずるわが手力おとろへにけり筆もちて五六字書けばつかれはてつるけふ見舞に来る何もしらずかたはらにゐる兄は見るに堪へぬかも何もかもゆるしたまへといのりつつわれの眼まなこになみだたまれり静にぞねむらせたまへ人間の命いのち死にゆく時のをはりに(以上『大熊長次郎全歌集』より) この項終り (つづく)
2024.05.19
コメント(0)
5月19日(日) 昭和萬葉集(巻十三)(145)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(43) 生活の周辺(2)街(2)田中子之吉舗道よりただちに降(くだ)る階ありて現実を断つごとき楽(がく)の音(ね)高橋加寿男寒き風吹きあげてくる地下の階体あらがふごとく降りゆく古賀泰子今心満つるものなく身を飾り街ゆけば街のあたたかさあり森岡貞香蒼白き鳥を見し者をりしならん堀をうづめし街ゆきながる (つづく)
2024.05.19
コメント(0)
5月18日(土)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年4月)「菊池十ニ朗さん」(2)菊池十二朗さんという古い「未来」の歌人がいる。死亡されたという通知を年が明けて間もなく受け取った。「未来」の、初期のころからの会員の方々なら、その人を記憶しておられるであろう。長く病んだまま、今年も年賀状がとどいており、それを出した後の死であっただろう。豊島園にわたしたちが移って来てしばらくしてからでなっかたろうか。突然リヤカーを引いた屑屋さんが庭に廻って来た。家の表札を見て、「朝日歌壇」の選者の歌人ではないかと思ったが、あまり貧弱な表札なので迷ったらしかった。「朝日歌壇」に、リヤカーに花一杯積みて売り歩く日を幻に屑買いつづくなどという歌を投稿していた。今ではリヤカーを引いて歩く屑屋さんなどあまりいない。そうして、それからもよく仕事の途中に訪れて来て長く話し込み、やがて、わたしの家で行われる「未来」の会にも顔を出されるようになったか。歌は半田良平さんの門人であったが、過去には屈折した人生を経て来た人らしかった。年齢はわたしと同じであったが、老人とひとは思ったであろう。或るとき、やはり「朝日歌壇」にリヤカーを引いて歩く歌が出て、菊池さんはわざわざその今一人の屑屋さんを東京中から探し出し、わたしの家に連れて来た。須藤政雄さんといい、菊池さんが誘ってやがて、「未来」の会員にもなられたが、いつからかやめ、病死された。一時期わたしの家には二人の屑屋さんが出入りし、妻は古新聞などの処理に困惑したのであろう。菊池さん自身もまた病み、帰郷し、それから長く病床の生活をつづけられた。宮城県のどこかの療養所と思う。病んで、一時休んでいた作歌に立ち帰ったが、老いと、気力の衰えが作品にうかがわれた。孤独な晩年の人生であることもそれらを通しうかがわれた。晩年の菊池さんの消息を知っていたのは「未来」の菅野はつさん、内山久子さんであったのだろう。死なれたことを知らせて下さったのは菊池さんの実子の嫁にあたる人であった。実子と云う人は生れたまま同じ東北の、どこかの村の、寺に養子とされ、父を知らず育った。その嫁という女性も、菊池さんの死までそうした事情を知らなかったらしい。だれにも言わなかった人生が彼にもあったのだろう。「未来」というつながりで、さまざまな人らの人生に触れ、あるいはその死をも見て来た。菊池十二朗さんの場合もそのひとりなのであろう。その人を記憶していて、わたしと同じような寂しさを抱かれる古い会員の方々がいるだろうと思って書きとめておく。(つづく)
2024.05.18
コメント(0)
5月18日(土)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(83)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)夢路の果て(3)友はみな万朶(ばんだ)の桜と散りゆきぬ生きながらへてわが世を見むか食欲も生き欲となり一日のバランスの中 熱気球あがる災害の多き地球に生き残るは人間でなく細菌ならむ何となくすり寄りてくる蚊のありてデング熱うつすうつすと鳴けり合はす掌(て)をするりとかはし一匹の蚊は立ち上がる公園の空 (つづく)
2024.05.18
コメント(0)
5月18日(土)近藤芳美「土屋文明」より(72)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(3)この者もかく言ふ術(すべ)を知れりしか憤るにあらず蔑(さげすむ)むにあらず (昭和二十一年)この男も、このような物言いをする事を知っていたのか。それを今の自分は憤るのでもなく、またさげすもうとするのでもない。敗戦の虚脱の中からデモクラシーの声が湧き起こって行く。赤旗にかこまれて、徳田球一らの共産主義者らが釈放され刑務所の鉄門を出る。新しい時代が始まろうとする。だが、その時代の中に、昨日までファシズムをたたえ、民衆を叱咤しつづけていたものが、いちはやく口をぬぐったような物言いを始め出す。恬然として彼らは自由を説き、亡国の苦渋にうなだれるものを眼下に見下す。この国の学者たち、指導者たちである。それをつめたい目で歌い、片隅の一人の憤怒に堪えている。二十一年のはじめの歌。その前に文明は戦争中の首相近衛文麿の自殺の事を歌っている。激しい変転をつづけて行く歴史の中で、彼は老リベラリストとしての自分の姿勢を守りつづけている。走井に小石を並べ流れ道を移すことなども一日(いちにち)のうち (昭和二十一年)走井は山の泉の流れなのだろう。その清らかな水に小石を並べ、流れ道を変えようと作者はひとりうずくまって働いている。はかない、孤独な一日の労働である。そういう気持の歌われた作品なのであろう。語り合うものとていない、流離の老歌人の感慨が独語のように呟かれている。「霜いくらか少なき朝目に見えて増さるる泉よ春待ち得たり」「尾長一群去りたる後に起きいでて昨日より温かしと思ふ楽しも」「こひねがひ向へば今朝は緑ある土に靄のごとく降る雨」「枯草の中の一こゑを蛙かと思ふ午すぎ出でつつ採めり」などの歌がある。山深い疎開地にもおそい春の来ようとする季節である事が知られる。「春待ち得たり」ということばにも、敗戦の年の苦しい冬をようやくに生き得た思いが深くこめられているのであろう。その実感の背後にある作品である。 (つづく)
2024.05.18
コメント(0)
5月18日(土)短歌集(272)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版大熊長次郎(8)帰り来て妻に言こと問とひぬ幼をさな児ごの腹あたたむと塩を炒いるにぞあらゆる人類じんるゐ有徳ゆうとくの至し極きょくは戦争を絶滅するに非あらずして何ぞあやまりて薬の粒をおとしたる路面のあやめすでにして昏くらしききなれし夜半よはの時計も一つ打つ一時をきくは夜毎よごとさびしきこころさだめてとみにしずけし鉢花にあたる日光ひかげをわれは見てをり (つづく)
2024.05.18
コメント(0)
5月18日(土) 昭和萬葉集(巻十三)(145)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(42) 生活の歌(32)生活の周辺(1)街(1)本所ほんじょ茅場かやば町ちやう名はほろびたり炎天の広場はいくつかのパス発着す茅かやの舎やの牛洗ふ水流れゆく葦原にはなほ蓮の残りたりしをものこほしく四つ目の橋を往き反る石にかはりし橋も古びぬ小暮政次たのしき日の光かな隅田川の見ゆる歩道にのぼり来りぬ向島須崎町の路地めぐりゆく春日に重き外套を着て引窓より差す日光に感傷す幼くて狭く我が住みしかば (つづく)
2024.05.18
コメント(0)
5月17日(金)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(83年3月)「作歌とは」(2)同じ意味で、もっとていねいに、大事に考えて歌を作ってほしい。作りっぱなしの作品、書きなぐりの作品と思われるものが多い。自分のことをいうので具合悪いが、わたしはたとえば「未来」の毎月十首の作品を作る場合、作り替え、書き替え、2百字詰の原稿用紙のほとんど一帳を使いきってしまうのを例としている。一つの文字、一つの言葉への配慮の過程である。そうして、制作とはそういうことではないか。乱暴な歌稿の例として、作者の名前のないのがある。あとから歌が出ていないなどと文句を言って来られる。わたしも困るのである。作品の高低、深浅は、最終的にはその作品の作者の持っている世界の高低、深浅に関わろう。その作者の内面の世界、精神世界と言えよう。作品の高さ、深さを求めるには究極には作者が自身の内部においてそれを高め、深める生涯の営為を重ねていく以外にはない。取敢えず出来ることは何か。少なくとも、みなさんはもっと本を読まなければならない。あまりにも心が貧しく、世界が狭くはないか、と選歌をしながらふと思うことがある。この「机辺私記」を書き始めて、いろいろと言いたいことがあるに気付くようになった。わたしが老年になったためかもしれない。筆の走り過ぎはお許し願いたい。 (つづく)
2024.05.17
コメント(0)
5月17日(金)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(82)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)夢路の果て(2)祖母曾祖母父母みな八十路を全まつとうすしんがりのわれは傘寿にすがる政情不安の世を生きながらヘて木枯らしの道ピラピラ歩く天空にのぼりて見れば雨雲に蓋されをらむわれの住処は定年の頃の職場の悪友を寝苦しき夜はしきり夢見る戦事下の食うべきものの無き日々を米寿のわれは今も抱き込む (つづく)
2024.05.17
コメント(0)
5月17日(金)近藤芳美「土屋文明」より(71)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(2)夕のかげ早く及べる谷の田よいなごも乏し青きにすがりて (昭和二十年)せまり合った谷に、山の夕影は早く這い寄って来る。峡の田の、稔りのおそい青い稲にすがっているいなごの数も乏しい。この疎開のむらにはもはや冷えびえとした秋が来ているのであろう。前の歌と同じく、「川戸雑詠」と題する作品群のなかの一首。敗戦後間もない時期の作品である。乏しいいなごが「青きにすがりて」いる、という把握がするどい。その一点に集点のしぼられて行くような表現技巧が効果的であるといえる。それと共に、この歌からも亡国の日本に生きる民の一人の悲しみのようなものを感じる。読後、静かな悲哀感が、作品の背後にしだいにひろがって行くようである。「いそしみて蒔きたる蕎麦の大方はこほろぎ食ひきそれも憤らず」「片よりに野分は吹けり庭草の茎を透きたる日の光もよし」などの歌が並んでいる。日本人みな虚脱した顔をして、食を求めて焼あとの街をさまよっていた時代である。この谷や幾代の飢えに瘠せ瘠せて道に小さなる媼(おうな)行かしむ (昭和二十年)土屋文明が疎開した川戸という部落の様子は、戦後しばらく「アララギ」に連載された「日本紀行」という文章に語られている。榛名山の背後の、吾妻川渓谷の奥の貧しい農村である。村民たちは渓谷に棚田を作り稲をうえた。しかし山水に頼るだけの棚田は冷害を受けやすく、敗戦の年も、ほとんど一粒も稲の稔らない田さえあったと彼は記している。そのようなわずかな土地にすがり、農夫らは幾代も幾代も飢餓に耐えながらこの渓谷に生きてきたのであろう。作者は田の畦をたどたどと歩む一人の老婆の姿を見送っている。その老婆の姿に農民たちの苦渋の人生を感じている。「苦しみて柄鍬に弾かれし記憶さへ農の君等に語るはたのし」「麦ふに代へてローラー引き給へ少しは君の安からまくに」などの作がある。彼自身が農民であった。そのことの共感が疎開地の生活からしだいに歌われて行く。 (つづく)
2024.05.17
コメント(0)
5月17日(金)短歌集(277)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版大熊長次郎(8)何事か起れる昨夜よべの夢のうち不在証明アリバイにうろたへゐたりける永ながき劇はげしき航海を了をへて泊はてにける船の静けくわが病めるかも雨の降る日ぐれの庭をわが見れば昏くらがりの中に蜆しじみ蝶てふとべりさ庭べにもつとも晩おそく芽ぶきたる柘榴ざくろいち早く散りそめにけり牀とこの上に食後しづかにありし時吸入器こそひびきそめたれ (つづく)
2024.05.17
コメント(0)
5月17日(金)昭和萬葉集(巻十三)(144)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(41)生活の歌(24)街に住みて(2)徳田清子交りはひそかに門を掃き合ひてこの路地にわが過ぎしいく年石井三展風下(かざしも)となればた易く風に乗り企業の煙わが部屋を這ふ昼も夜も煤ふる街に住みつきて祭りのくれば人々の酔ふ川井洋延組立住宅を車に積みてゆきにけり 地価簾きところをところを求め松浦双鳥電車賃無くして二駅歩みし日東京は苦し悲しと思ひき (つづく)
2024.05.17
コメント(0)
5月16日(木)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(83年3月)「作歌とは」(1)わたしはかって、わたしたちの「未来」を、短歌作者としてのプロの集団と思っていると言ったことがある。少なくとも、短歌を作ることにおいてプロであろうとするものの集団と考えたいと思ったはずである。現実にその言葉はやや修正しなければならないかもしれないが、「未来」という一小雑誌をつづける根底の気持ちにおいては変わらない。言い替えるなら、そのような気持ちをどこかで持っているはずの人たちが拠って来る場所と思っているし、わたしもまた「未来」会員のひとりひとりをそうした人たちであるものと考えている。そうではない、ただのたのしみ、ただの勉強のための雑誌なら他に無数にある。わたしにはそうした人らに割く人生の余裕などはない。そうであれば、会員のみなさんにもっと懸命な制作への打ち込み方を要望しなければならない。全身全霊をかけての作歌をもとめなければならない。歌が出来ないとか、歌を作る時間がないなどという言訳はプロの世界のものではない。或いは、プロであろうとするものの言葉ではない。それは上手とか下手、ないし初心とか練達ということとは別である。 (つづく)
2024.05.16
コメント(0)
5月16日(木)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(81)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)夢路の果て(1)乾きたる心が呼びぬ紅葉する箱根の山を車走らすなら・くぬぎ黄にもみじする森の中夢路の果ての現実となるひたすらに土蔵の壁にすがりゐるカマキリひとつ自然死待つか松林の中に真紅にはぜる櫨(はぜ)旅路の果てのやうな幻北めざし続く広野に天仰ぐ群れて南下の鰯雲あり (つづく)
2024.05.16
コメント(0)
5月16日(木)近藤芳美「土屋文明」より(70)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(1)山のうえに吾に十坪(とつぼ)の新墾(あらき)あり蕪(かぶ)まきて食はむ餓ゑ死ぬる前に (昭和二十年)昭和十九年十一月、土屋文明は大陸戦線視察の旅から東京に帰った。日本にはすでにサイパン島からの編隊空襲が始まっていた。翌年五月、青山の家も焼けた。彼は一家と共に群馬県吾妻郡原町川戸に疎開した。川戸は吾妻川の渓谷に添う山深い農村である。そこで乏しい疎開者の生活をつづけた。「朝よひに真清水に採(つ)み山に採み養ふ命は来む時のため」という歌もある。彼は疎開地の山に十坪ほどの畑をひらき、蕪などをまいて餓えに備えようとしていたのであろう。沖縄も陥落し、米軍上陸と共に関東平野が決戦場になるといううわさも、もはやうわさとしてだけ聞きすごしておれない状況に立ち至っていた。そのような時、そのような生活の中の作品である。「七月二十三日上村孫作君の来信に酬ゆ」と題した一連の中の作。「打ちつづくる海の上の砲に目ざめても月没りしかば起くることなし」という一首もある。出(い)で入りに踏みし胡桃を拾ひ拾ひ十五になりぬ今日の夕かた (昭和二十年)八月十五日、日本は降伏した。満州事変の勃発以来、十四年にわたる長い戦争の年月であった。敗戦の報を土屋文明は疎開地の川戸で聞いた。彼は今は家と家財を失った幾百万の戦災者の一人である。敗戦の日の後も文明の生活はかわらない。彼はひとり疎開地の家を出で、山に拓いた畑を耕しに山に向う。家を出るたびに、その門口に立っている胡桃の木の実を拾い集める。今日もその実が十五もたまった。それだけの事さえ小さなよろこびであり、孤独な生活の中の変化なのである。そういう気持ちの歌われた作品なのであろう。「ひねもすに響く筧(かけひ)の水清み稀なる人の飲みて帰るなり」「はしばみの青き角より出づる実を噛みつつ帰る今日の山行き」「谷せばみふたげるごとき浅間嶺(あさまね)の上なる空もこほしきものを」などの歌が同じ一連をなしている。亡国の民として歌う静かな悲歌の旋律が、これらの作品の中から聞こえて来るようだ。 (つづく)
2024.05.16
コメント(0)
5月16日(木)短歌集(268)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版大熊長次郎(7)歩きつつ卵を食へり山の上の土に塩こぼし立ち去らんとす窓のそとさやけき音のおこれるに見れば氷をあまた鋸のこぎる帰り来て吾児わがこが眠る面おもざしを立ちて見てをり蚊帳かやの上より 現身うつしみの歯がたあらはにわが食ひし西瓜すゐくわを仮寝よりさめて見ぬ (以上『真木』より) (つづく)
2024.05.16
コメント(0)
5月16日(木)昭和萬葉集(巻十三)(144)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(40)生活の歌(23)街に住みて(1)掛場すゑ指折りて数ふ終戦の翌年より住み苦しみにくるしみし東京只野幸雄アパートの鍵あくる音いくたびも意外に近き位置にて親し礒 幾造ポケットに常持つアパートの鍵一つ思ほえぬときわが指に触る大野徹三窓々に小さき歴史はつくられてアパートの燈はひとつづつ点つく(つづく)
2024.05.16
コメント(0)
後藤瑞義 入選歌 吊橋が大きく揺れるその刹那離れいる手を子はつかみたり 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月十五日 入選 花山多佳子 選)
2024.05.15
コメント(0)
5月15日(水)近藤芳美著「新しき短歌の規定」より(1947・8)岩波書店近藤芳美集第六巻「新しい短歌の規定」よりの転載です。「短歌の救い」(4)しかし僕は美学者でもなく文芸史家でもないので短歌の救いを何に求めるか、之から先を説くためには、短歌作者としての自分の態度、信念を語る他に方法がない。やはり僕は短歌の現実主義、写実主義を押し進めて行く以外にてだては無いと考えて居る。生活を正視し其の中に立つ自己を追求しつつ、ぎりぎりの処に責めた作品が、たとえ息づまるように苦しかろうと、其の果に何か微光のような発するほのぼのとした美しさがある筈だ。この果に発する微光を短歌の救いと考えたい。現実を正視し、追求して行くそのぎりぎりの所で生じる一種の明るさを何と説明すればいいのか僕は知らない。それが何か普遍的なものにつながって居て、吾々に生きる事の確信を与えてくれるのだとも説明し得るのか。ともあれ、写実主義に貫いた短歌が、其の果てに見出す救いは、所謂浪漫性などと呼ぶ月並安易な救いとは比較し得ない精神の高さの上に立ち、人間性の深さの中に発して居る事を感じる。僕はこの事を最近の斎藤茂吉の作品の上に感じる。終戦以後の茂吉作品の中に僕は写実に賭けた果ての一種の浪漫性を感じる。どの作品にも深い吐息がある。これを作者の疲れなどと見る見方は浅はかだと思う。僕らは写実短歌がこれ程迄に作者の肉体を現実し得ることに確信を持とう。短歌の魅力、短歌の救いが写実の後にある事を僕は自分の覚悟としている。ではなぜ此れ迄の短歌が愚劣であったか。写実主義を凡俗な市井主義としか理解しなかった大多数の歌人を吾々は責めなければならぬ。(1947・8)
2024.05.15
コメント(0)
5月15日(水)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(80)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)運命(6)空いつぱい星またたくに呼吸して黒き海藻が波に揺れゐる秋風にとりどりの彩いろ見せてゐるコスモス畑の上に立つ富士マッチ棒で組み建てられし団地見ゆ岡に登りて眺めてをれば天井の板の節目を追ひかけてをれば妖怪のモザイクとなる (つづく)
2024.05.15
コメント(0)
5月15日(水)近藤芳美「土屋文明」より(69)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第七歌集『韮菁集』より(6)茶を売るに莫談国事(ばくだんこくじ)といましめて駱駝追(らくだおひ)も洋車引(やんちょひき)も休み処(ど)となす (昭和十九年)天津から大東亜文学者会議出席のため南京に下った文明は、また北京に帰り、日本に帰る日を待ちながらしばらく滞在をつづけた。いつか初冬となっていたのであろう。「黄なる葉にやや沙を吹く風立てる北京街城にかへりつきたり」の歌がある。この歌は北京市街滞在中の一首。駱駝ひきや人力車夫などが集る貧しい茶館の壁に「莫談国事」…政治を語ってはならないという布令のビラが張りつけてあることに、作者は一旅行者としての感傷をいだいているのであろう。ただそれだけの作品であるが、この背後には戦争が最後の段階に至ろうとする、ただならない時代のかげが感じられる。一見平和な古都の街にも、戦争の危機感はひそかに迫り寄ろうとしていた。レイテの敗戦がひそかにささやかれ、サイパン基地から敵機の日本飛来がはじまる。そのような事に敏感に気づいているのは、「莫談国事」の布告の下に集る黙々とした中国の民衆たちだったのだ。三寒の今日ははじめの沙の風青きももみぢも槐(ゑにし)の落葉 (昭和十九年)前の歌と同じく北京逗留中の作品。三寒四温といって、大陸地方では冬期、三日寒い日がつづき、四日ほどあたたかい日がつづき、それが繰り返されると一般に考えられている。その四温の幾日かが過ぎ、今日からきびしい三寒の日が始まる。昨日とは打って変わって街には砂をまじえた朔風が吹き荒れ、舗道には一面に落葉が散り敷いている。その落葉に青い葉ももみじもまじる。みな槐の葉である。長い冬をむかえようとする、大陸の旧都の清澄な朝の情景である。『韮菁集』の最後の一首。「君が家もいまだ焚かねば外套著て日本と支那のこと語り合ふ」「古(いにしへ)を語らふ時にあひ通ふ心も今の時に少しくけはし」などの歌が前に並んでいる。東京に帰る日を待って、彼は北京の文学者たちとも会っているのであろう。夏の日以来長途の旅をつづけて来た感傷と、時局に対するひそかな不安の思いとが、相まじってこれらの作品を霧のように覆っている。これで『韮菁集』は終り次は『山下水(やましたみず)』となります。 (つづく)
2024.05.15
コメント(0)
短歌集(276)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版大熊長次郎(6)是非のことは腹足るものの諭ずる事饑(ひもじ)きはただ啖(くら)はんを希(ねが)ふこゑいまだ耳にのこれり亡骸(なきがら)を霜ふかき土にゆだねたる小さんやうやくに職なき友もなくなりしがいまだ知る人の幾人は病めり道の雪解けてぬかるむを妻のいふ親しき人ら一日来らずわが友が酔(ゑ)うて擲(な)げたる空(あき)瓶(びん)のうなりて飛べる谷深からし (つづく)
2024.05.15
コメント(0)
5月15日(水) 昭和萬葉集(巻十三)(142)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(59) 生活の歌(22)わが日々(6)鶴田正義長く逢はぬ人思ひをり島が噴くよなさゐさゐと降る宵にして宮城謙一行進し、講義し、病臥し あわただしく過ぎん ことしのわが誕生月都筑省吾子等の生(あ)れその子等育ち我の倚(よ)る古き机も破(や)れ傾ける古机据ゑては坐る破れ畳仮りのやどりと我は思はず (つづく)
2024.05.15
コメント(0)
5月14日(火)近藤芳美著「新しき短歌の規定」より(1947・8)岩波書店近藤芳美集第六巻「新しい短歌の規定」よりの転載です。「短歌の救い」(3)戦争とそれにつづく敗戦の現実にこづきまわされて居るような世代が、現実を正視して行くことは耐え難いと言う気持も理解出来るし、短歌と言うものを、何かそれによって救われようとする如く考えて取って居ることも理解しよう。又もし、短歌、或いは広く芸術が、吾々の気持に何らかの意味で救いをもたらさないなら、吾々は苦しんでそんなものに取り付きはしないだろう。しかし、短歌に救いを求めようとする気持と、だから救いは現実正視、現実追求の別の所にあると言う考えとは別個である。吾々は救いを安易な路に求めてはならない。この事を吾々は明治以後の短歌史に見て行かなければならぬ。たれが残りたれが堕ちたかを知らなければならぬ。安易に歌のたのしさを希求する態度が、月並みに至った経路を図表の上に知らなければならなぬ。又この救いは芸術派乃至新風と称する一個の心理のデフォーメーションにもない。芸術のバロック化が歴史の何処で起るかを知れば、自ら知ってバロックに入ることが、自慰的行為にすぎない事は理解出来よう。 (つづく)
2024.05.14
コメント(0)
5月14日(火)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(79)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)運命(5)劇化して自らの人生を喋りゐる熟女四・五人輪をつくりゐてわが居間の二階に昇る階段はわが人生の蓄積とならむ階段がまるで一冊の本の如くノルマとなりてわれに根を張る寝室に行くは毎日十二段まるで十二冊の本の重かさなり (つづく)
2024.05.14
コメント(0)
5月14日(火)近藤芳美「土屋文明」より(68)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第七歌集『韮菁集』より(5)沙丘(さきう)あり幾重かの古き堤防をよこぎりて行く黄河渡るべく (昭和十九年)前の歌と連作をなしてつづく作品。列車は黄河にむかって南下して行く。近づくにつれ、砂丘があり、古い堤防が幾重にも幾重にもつづく。渡るべき黄河の流れはいまだに見えない。その大きな国土、大きな自然の姿が歌われた一首である。この歌にも孤独な一旅行者の感傷の思いがただよう。波打つような詠嘆がそのまま作品のリズムを作っている。「やうやくにギヨ柳(ぎよりう)の楚樹(しもと)目につきて黄河の沙丘に進み入りたり」「なびき合ふ柳の白き夕風に黄河を南に渡らんとする」「草生ひぬ長き堤にそひ行きてつひに何方に黄河をわたる」「堤防を切通し入る黄河跡豆のしげりははてし無く見ゆ」「小沙丘瀬波のあとを見るごとし黄河本流全く涸れて」「沙の波川上遠くつづきたり夕日は靄にひくくして」「川下もまた限りなし暮色のこめたる方に沙の波つづく」「旧黄河渡り終わりて水溜るひる藻の花も夕影ひけり」などの歌が互いに連作として並んでいる。泰山(たいざん)を朝の光に見し時もこの夕時も空はただ澄みに澄む (昭和十九年)南京、および江南各地を遍遊した土屋文明は再び華北にむかう列車に乗った。南京対岸の浦口から天津にむかう津南鉄道である。「たたなはる草野はてなく白き馬草のいろはやや秋ならむとす」「丘の間に稀々に澄める川ありて鶏(とり)の血のごとく紅葉する草」「藷の葉に霜の来りて魯の国のはてなく乾く野に麦を蒔く」などという途中の歌があり、もはや草が色づき、藷の葉などに早い霜がおりるような秋の季節が来ている事で知られる。北行する列車の窓に一日泰山の姿が見えている。朝の光の中にはるか行くてに見えていた時も、くれて行く夕日をうけて背後に遠く見えているときも、大陸の、空はあくまで澄み透っている。そういう意味の作品なのであろう。「頂(いただき)の廟のかげりの見ゆるまで澄める空気の中にいかしき泰山」の二首が前後につづく。泰山は中国の名山の一つ。山東省にある。清澄な旅情の作品である。 (つづく)
2024.05.14
コメント(0)
全10989件 (10989件中 1-50件目)