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最後にこのブログを書いたのが、2016年10月3日だ。約6年前ということになる。6年ということは、小学生が入学して卒業するという年月だ。長い月日である。あまりに久しぶりで、自分のことも大きく変わり、何をどう書いて良いのかわからない。 でもとりあえず、2016年から今までのことを簡単に書いてみよう。このブログのタイトルにあるように、「社会人大学生になる」というのがそのころのテーマであった。そのメインのテーマであった社会人大学院生は、2011年4月に博士課程に入学し、2016年3月に博士号をいただいた。指導教官の先生のおかげである。先生には本当に感謝に耐えない。 それで、博士号取得後からの自分の変化を簡単に時系列に書いてみよう。 2016年3月 博士号取得。それ以降、JREC-INを見て大学への願書を出す。2018年10月 中国地方のある大学から教員の内定をいただく。2019年3月 大学卒業以来、36年間勤務した会社を退社(59歳3ヶ月)2019年4月 その大学に奉職し、現在に至る。 つまり、いまは、その大学の教員になったわけだが、もともとは企業に勤務するサラリーマンなわけで、60歳定年の直前に転職したわけになる。この年齢なので、転職というのが正解なのか、再就職というのが正解なのか、よくわからない。 でもまあ、自分の記録にもなるので、しかも最近、自分で物忘れか、認知症か良くわからないが、過去の記憶も薄れていっているのが自覚できるし、また、奥さんにも良く怒られるので、少しずつ、このブログにまずはこの6年間の経緯を書いてみようかと思ったのである。 でも、いまの勤務先の大学名や、過去の勤務していた企業の社名などは記さない。何故なら、自分の個人情報は当然保護されなければならないし、また、どこでどんな形で、色んな方にご迷惑をかけるかわからないので、実名は一切書かない。でも、「事実」だけは間違いなく書く。だいたい思い込みが激しいので、記述は不確かになるかもしれないが、「事実」だけは淡々と書いていくことにしよう。
2022年04月30日
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昨日は、30キロ長距離走に参加。ペースメーカーがキロ7分でスタートし、少しづつスピードを上げていくというもの。キロ7分ぐらいどうってことはないと思っていた。しかし、何と15キロ付近でストップ。後5キロは這ってしまったという状態。ものすごい自信喪失。そして痛い足を押さえながら帰宅。疲労困憊。翌日、というか今朝。足の指に大きなマメが一杯できていることを発見。これじゃあ、走れないはずだ。まずはその対策を考えよう。
2016年10月03日
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7月に受けた健康診断の結果が8月に来て、今日、その結果をいつもの主治医に持っていった。カルテに、「著しい改善!」と記入。この医師にかかることになったのは、悪玉コレステロール。それらの数値は以下の通り。去年の数字は( )内。HDLコレステロール 58(49)LDLコレステロール 117(186)中性脂肪 59(98)おまけに腹囲を書くと、76.5cm(81.3cm)いま、大阪マラソンに向けて月100キロは走っているが、その効果と言えよう。
2016年09月23日
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うちの奥さんと娘がベトナムに4日間遊びに行った。なぜ、ベトナムかと言えば、アジアに住んでいたときに、ベトナムには行かなかったことが大きな理由かもしれない。そのような時、うちのワンコのお世話がある。うちのワンコにとっては、ママの存在がダントツの1位である。これに勝るものはない。その4日間、ワンコは明らかに、「私はどうなるのだ?」という困惑の目をしている。顔に「不安」「寂しい」と書いてある。それがまあ可愛いのであるが、私にべったり。恋人なら、「ラブラブ」という表現になるだろう。少し郵便物を取りに行くだけでそうなる。帰ってくると、大歓迎をしてくれる。うちのワンコの最大の歓迎の表現は、うれションというもので、あまりの嬉しさにおしっこを漏らしてしまうというもの。うちの奥さんが、帰宅した昨夜、そのうれション。本当にうれしかったんだろうな、と思う。ということで、私の地位は、またもや2位になってしまった。
2016年09月18日
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最近は、大阪マラソンの出場権が当選したこともあるが、ひたすら走っている。良く言われるのが、マラソンでそこそこの成績を出そうとすれば、月間200キロは走らないと、ということである。ということで言うと、5月は104キロ、6月は120キロ、7月は116キロ。正直言って、サラリーマンには200キロは大変難しいように思う。しかしながら、走ることは「苦しいけど楽しい」と思えるようになってきた。4月からランニングクラブに入会させていただいたが、確かにいつもメンバーの方に遅れて最終的には脱落するのであるが、「脱落率」がかなり上昇してきたように思う。具体的には、メンバー全員が5周走るところで、3周で脱落したものが、4周まで行ったり、時間がかかっても最後まで走りぬいたり。まあ、10月30日の本番に向けて頑張りましょう。
2016年08月17日
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昨日のランニングは過酷。となりの市でのリレーマラソンで、そこにチームで参加するというもの。私たちはクラブのメンバー10人で参加した。ルールは簡単。1100メートルのコースを一人で走って、それをチームで何回走れるかで順位を決める。まあ、勝負は関係なくいかに楽しめるかであるが、とにかく暑い。実施時間は10時から16時まで。とにかく、一人ひとりが一生懸命走る。私は7回。タイムは、4'55", 4'55", 5'02", 5'29", 5'12", 5'15, 5'10"というもの。4回目の記録が大きく落ちたのは、とにかく暑く、ちょうどお腹が減ってきたころなので、それが影響したか。私のチームには4分を切る人が数人いるだが、上記のタイムは私が、必死になっての全速力。これ以上は無理。走り終わった後は、水分補給が必須。まあ、良い練習というかランニング。とにかく暑かった。それでこのリレーマラソンには、50チームが参加。チームへの参加人数はまったくの自由。もし平均7人とすれば、7X50=350人の参加となります。この炎天下でみなさん良くやったというか。。。マラソンの練習も、だんだん、何が足りないかが分かってきたような気がする。しかし、そんなにうまく物事は運ばない。
2016年07月17日
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おばあちゃんの家がもうそろそろ立ち退くことになる。これはもう2、3年前からJRの拡張工事があるのでわかっていたこと。おばあちゃんは、軽度の認知症という診断であったため、今大学3年生になった息子を住まわせた。実は大学はそこから自転車で行ける距離なのだ。年を重ねてきたおばあちゃんに、何かもしものことがあった時、いかに頼りない息子でも役立つであろうということからである。このブログでも書いたが、2015年12月に、おばあちゃんに預けたワンコが亡くなった。今、振り返ってもこのワンコだけには、「申し訳ない」という気持ちしかない。一緒にシンガポールに連れていけなかったのであるから。でも、おばあちゃんはこのワンコをとっても可愛がってくれた。家を立ち退くということは次に住む家を探さなければならない。すぐ近所に、シニアのためのグループホームで空きが出たという。約1ヶ月前、そこにおばあちゃんは引っ越した。うちの奥さんと、なぜあのタイミングでおばあちゃんはグループホームに移ったのか。40年ぐらい住んでいた家だから当然愛着がある。しかし、あのワンコが死んだことによって、何か大きな区切りがついたのではないかとうちの奥さんは言う。逆に言えば、あのワンコが生きていたら、おばあちゃんはできる限り、それこそ立ち退きのぎりぎりまでそこにいたであろう。すると、息子はどうなるかと言えば、その家を立ち退くことになるので、息子は我が家に帰るしかない。我が家からでも大学には1時間少しで行けるのだ。息子の落胆度がすごいようである。今まで、おばあちゃんに甘えてきたのが、親はきっちり怒る。まあ、「自由が無くなる」という心境だろうか。。。あと2ヶ月ぐらいで息子は我が家に帰ってくる。
2016年07月15日
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地元、大阪では大阪マラソンが開催される。マラソンについては、自分ではプランを考えていて、今年は10キロのレースを2回出場したので、今年はハーフマラソンをこなそうと。そして、ハーフを何回かこなしてから、来年には、フルマラソンを目指そう。今まで、「どうせ当選しないだろう」とたかをくくって申し込んでいた。正確には覚えていないが、3年か4年か連続で落選していた。今年もきっと落選だろうと思っていた。しかし、なんと、当選してしまった。予想外の展開だ。正直、とっても戸惑っている。どうも倍率は4、5倍らしい。ネットのランニング(ジョギング)の仲間のサイトでは、多くの人が「落選」と書いている。その人たちは本当に悔しそうで、自分が当選してしまったことに少し何だか罪悪感すら感じる。ジョギング仲間に相談すれば、きっと「挑戦!」と言われそうな気がする。10月30日が開催日だ。もう少し悩もう。
2016年06月10日
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このブログは、博士号について書くことを主眼としてきたが、、、もう止めた。というか、書いている時間がもったいない。博士号というのは、スタート地点なのである。指導教官からは、「博士号を取得したということは、研究者とみなされる。よって私からは指導はしない。対等の立場で議論はするが」と言われた。これは、先生の「叱咤激励」の一つの表現だと解釈している。大事なものは、次にどのような研究成果が出せるのかということなのである。実は次の研究構想を考えていた。それを考えていて、先生方に相談しようとしていたら、「博士論文の書籍化が先だろう」と言われ、それはそれで重要なことなのであるが、今まで、本を作ったことがない。とっても不得手な分野。まあ、これも一つのチャレンジ。言い訳をすれば、この4月から新しい仕事になった。ということもあって、自分が研究するには、常に前を向いている必要がある。よって、過去を振り返ることはやめる。
2016年06月05日
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学位を取って良く言われる言葉が次の言葉・質問である。「会社生活とどうやってバランスをとったんですか? 仕事は大変だったでしょう?」博士課程の5年間の最初の半分はインドの仕事が圧倒的に多かった。入学願書は、インド出張中に書いたことも記した。しかし、私は、自分が大学院に行っていることは、自分が所属する会社とは全く無関係で、何のつながりもないと考えているために、その部分で負担に思ったことはなかったのである。土日とアフター5は自分の時間なのである。よって、会社には大学院に行っていることは一切言っていない。そもそも、会社から見れば、博士号というのは、特に社会科学の博士号というのは全く不要であり無用のものなのである。誤解を恐れずに言えば、日本の場合、MBAですらそうであると思う。どのMBAでも、「良きマネージャを養成するために、私たちは社会に向けて、うちの大学でMBAコースを作った」と言っているが、MBA修了生が本当に会社の経営に役に立っているかと言えば、大きな疑問がある。30数年前のまだ新入社員のころ。ある問題が起きて、隣の課の上司と先輩がその問題解決のために徹夜をした。先輩は、「昨日、徹夜をした。疲れた。今度の土日も出勤だ」と回りに聞こえるように言った。それを聞いた上司は、「自分が頑張ったということは、自分の日記に書いておけ。俺たちがやらなければならないのは、この問題を解決することだ」とその先輩に言った。その上司は、自分が徹夜しているとも、頑張っているとも、一切言わなかった。私はとってもカッコいいと思った。つまり、目的と手段が違うのだと思う。できる人は、頑張ることが目的ではなくて、目の前の課題を解決したり、成し遂げることが目的なんだと思う。MBAに関していえば、その実力や中身ではなく、MBAの称号を得ることを目的にしている人が多いように思える。だから、私はMBAに行っていることも会社には言わなかった。まして、博士課程に行っていることは、おくびにも出さなかった。会社関係者は誰も知らない。一部、OBなどでインタビューした人などはいるが、極めて例外である。私の場合、学位や称号よりも、やはり中身を求めたい。そして、仕事がきちんとできなかったときに、「あいつは大学院に行ってるから仕事ができんのだ」と言われることを恐れたからでもあろう。そう考えれば、結構、小心者なのかもしれない。ブログとは、私は、日記の延長のようなものと思っていて、「また、インド人に騙された。そんな時、指導教官から、厳しい指摘を受けた」ということは書いたにしても、それは日記の範囲のものであると思っている。そもそもの話なのであるが、自分が企業に勤務していることは誰よりも自分が知っているべきであり、その条件の上で、自ら望んで博士課程に行った訳である。そして、本職(?)の博士課程の院生と競争して、研究成果を出していくしかないのである。そのスケジュールをコントロールして、一つひとつの成果を出していくものであり、指導教官に、「今回は仕事が忙しかったので、○○ができませんでした」というようなことは、私は一切言わないことにした。それを言うときは、大学院を辞める時だと思っていた。
2016年05月08日
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私はなぜ、博士課程に入学したのか?それは、入学時も今も同じである。自分の名前の入った論文を世に出したいのである。前回書いたように、博士課程の大学院生用の論集には掲載してもらった。しかし、これは紀要と同じかそれ以下の扱いであろう。論文と言えば、やはり、学会論文である。私は2つの学会に入っていたので、そこに投稿することにした。まずA学会。2012年12月の締め切りで一つ出した。学会論文というのは、査読論文と言っても、研究論文と研究ノートの2種類がある。結論から言えば、私が最初に出した論文は、査読委員の先生から指導があって、研究ノートということになった。もちろん、投稿前には指導教官からは一杯ご指導を受けた。結果は、うれしかったが、悔しかった。何故なら、やはり欲しいのは研究論文であるからである。それは2013年7月に印刷・出版された。2014年の1月ごろ、あるところで他の院生と話しをしていると、そのA学会の締め切りは本来ならば2013年の年末であるが、2014年2月末になるということが分かった。そこまででしたためていたマテリアルがあったので、提出することを決めた。しかし、指導教官からは、「あまりに拙速。もう少し練らなければいけない。今のままでは、強烈に厳しいコメントがかえってくるだろう。そうなれば、あなた自身が精神的に傷つく可能性が大きい」と言われた。しかし、私は、「今度は私の原稿で提出させて下さい。どのようなコメントが査読者からくるのか、じっくり勉強したいのです」と言って、指導教官からはほとんど指導なく、原稿を提出した。それは上記と同様に研究ノートとして採択された。それは2014年7月に印刷・出版された。世間的に言えば、査読論文2本ということになる。実は、もう一つのB学会にも3回提出したが、一度も採択されなかった。これは大変悔しい思いをしたし、ある時は私以上に指導教官の先生は悔しがってくれた。しかし、指導教官は、「あなたの研究は1本の論文で勝負するものではない。1冊の本、つまり書籍にして勝負するもの」と言い続けてくれた。よって、A学会の研究ノートは研究論文ではないが、気にすることはないということなのである。このところ、このブログには、「なぜ私は博士号を目指したのか?」としたタイトルで過去のことを書いているのであるが、私はとにかく学会論文を書きたいのである。実際に、博士論文の中心となるパートであるが、それは6つの章からなっている。その基本となるものは、A学会に出したもの2本、B学会でリジェクトされたもの1本、大学院生用紀要で2本と、何等かの形で世の中に出したものを基軸に据えている。1冊の本にするかどうかは、準備も必要なので、今は少し横においている。それよりも大事なのが、やはり論文なのである。次の論文である。締め切りが9月末。ゴールデン・ウィークで久しぶりにカミさんと京都、嵐山に行ったり、一生懸命に皿洗いもしているが、次の論文のことを考えている。(続く)
2016年05月04日
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さて、2011年4月から博士課程の生活がスタートした。修了目標は6年間。社会人には、本来の修了年数の倍の年数が認められているので、その一杯の年数を使おうというものである。大学に行くのは月1回。この回数はほぼ最後まで変わらなかった。主査の先生と副査の先生の都合、そして、私の都合でスケジュールが決まっていく。テーマが決まってから、最初に与えられた論文。英文で30ページぐらいあった。正直言って、傲慢に聞こえるかもしれないが、私はそんなに英語では苦労していない。表現の稚拙さは当然あるだろうが、ビジネス・コミュニケーションでは問題ない。もちろん、中身は別。実のところ、そうでなければ、海外の仕事はできない。しかし、その論文について、読み始めた時、正直、泣きそうになった。何が書いてあるのかさっぱり分からないのである。たぶん、論文英語とビジネス英語というものは基本的に違うものだと思う。特に、その時は、最初のころだったので、論文の書き方も分からないし、書かれた論文の読むツボも分からない。海外子会社が私の研究対象であるが、その論文には全く歯が立たないのである。仕方がないので、一段落ごとに日本語のサマリーをつけていく。私はその作業が延々と続くのではないかと正直思い、逃げ出そうとも思ったのである。そのぐらい「論文英語」は私にとっては困難な存在であり、実は今もそうである。サマリーをした論文が相当たまり、そのような生活が約8ヶ月過ぎようとした時、副査の先生から、「先行研究のサーベイということで論文にしましょうか」という発言。2ヶ月ぐらいでまとめ、指導教官から強烈な赤が入り、2012年1月に、一冊の論文集が完成し、大学院生が出す論集の一つの論文となった。もちろん、私の名前が著者名となっている。これは相当嬉しかった。これができた時、「自分の名前で世の中に何かを残せた」と思った。大学院生が出す論集なので、指導教官のハンコが必要である。そのハンコをもらった時、それが実際に印刷物になった時、嬉しさの大きさは、初めてゴルフのバーディを取った時のようなものであった。(続く)
2016年05月03日
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カミさんがスライサーで指を切って約1週間。医師から言われていることもあって、私が朝と夜、皿洗いをしている。それについて、必ず、ダメ出しがくる。「このお皿はここにおく。ふきんはこうやって絞って干す。野菜くずはきちんと捨てる」どうも同じことを複数回言っているのが気に入らないらしい。正直言うが、私は、一生懸命やっているのである。おそらく、もし私が中学生ぐらいの年齢であれば、非行に走っているだろう。本当に一生懸命やっているんだ! とここに書く。
2016年05月02日
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日曜日、ジョギングから帰ってきたら、奥さんが大変なことになっていた。奥さんが、野菜をスライサーで切ろうとしたら、自分の指を切った。結構ひどい。結果、翌日の月曜日に病院に行ったのであるが、数日は水につけてはいけないとのこと。よって、私が、朝も夜も洗い物をしている。実は、これが完璧にできれば、「またやって」と言われると思い、わざと手抜きをしようとしたのであるが、その心配は不要のようである。「洗ったふきんはここに。このお皿をしまうのはここ」と言うように、同じことを指導する。どうも、出来の悪い新入社員のようである。
2016年04月28日
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さて、入学願書をインドから日本に帰国する飛行機の中で完成し、その他の書類を揃え、大学に提出。2月に学力テストと面接。確か2月であったように記憶しているが確かではない。そのテストには、7人の人が受験していた。合格は6名。受験されている方々は結構年配の方が多く、気軽に私に話しかけてこられる方もいた。面接官は3人。うち2人は、学会ですでに知己の先生。何を目標にしているのかと聞かれ、「国際経営の分野で良い論文を書きたい」と答えた。その目標は今も変わっていない。そして合格。4月に入学式。それが終わって、ゼミの先生というか、師匠になる先生と打ち合わせ。テーマを決めようという話。実は、ここで大きな誤算。MBAの時は、一体、私が仕事上で何をしてきて何を目標にするのかを院生同士でも結構話したが、今回は全くなし。MBAの時は、仲間がいっぱいいた。彼らとは、「自分はこんな仕事を○○会社でしてきた。そこにはこんな課題がある。それを解決するためにMBAコースに来た」というような話がいっぱいあった。しかし、そのような話は全くなし。そもそも、仲間がいないのだ。後で十分に知ることになるのであるが、博士課程の目的は研究者養成のためのものである。MBAは良きマネージャーを育成するものである。両者の目的は違うのである。MBAの延長線上に博士課程はないのである。私のいた大学では、社会人の場合、あらかじめ修業年数を決めることができる。本物(?)の大学院生の場合は、博士課程は3年だが、社会人の場合その倍の6年が認められる。私はあまり何も考えないで倍の6年コースを選択したが、その判断は正しかったと思ったのである。(続く)
2016年04月24日
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昨日の学会発表、結構メタメタだったが、この話を続ける。さて、MBA(修士号)を取得した大学院への博士課程へは、次の年度に進めないことが分かった。何とも言えないインドの空気がよどむ。前述したが、2010年ごろからある学会に入会していた。そこには1回か2回ぐらいしか顔を出さなかった。正直、学会というのは一介のサラリーマンが顔を出せるほど敷居は低くない。しかし、そこで知り合った大学の先生が多くいた。一方で、ネットで検索した。「社会人」「大学院生」「博士課程」などのキーワードで検索した。すると、その学会に入会する際に手続きをした時に、その窓口となった先生の大学が、社会人の博士課程の大学院生を受け入れてくれることが分かった。その先生とは、一度お会いしただけだが、とりあえずメールを出すことにした。多くの場合、大学院博士課程は、指導教官となる先生とは事前に連絡しておく必要があるからである。その先生に、自分の思い、主旨を述べたメールを送った。正直、その先生とは一度会っただけ、また、学会の入会の手続きで何度かメールを交わしただけである。よって、私は「門前払い」になることも予想できた。すると、「受け入れます。博士論文でも実務経験の要素は必要でしょう。ただし、入学試験は合格してください」と言われた。指導教官とは師匠であり、ゼミ生は弟子である。もし、ここで良い人間関係ができなければその時点でアウトである。それを後に知ることになる。実は昨日の学会の打ち上げである先生から言われた。「博士号取得おめでとうございます。あなたの指導教官は大変厳しくて、何人もの院生が逃げ出したのを知っていましたか?」私は一人は知っていた。どうもそれ以外でもいたようである。そして、入学願書を書くことになるのであるが、それはインドからの出張帰りの飛行機の中であった。(続く)
2016年04月17日
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さて、論文を書くには、きちんとした指導を受ける必要がある。その近道は大学院に進むことが一番だと言われるが、どの大学院に進むか。普通は、というか、多くの場合は、修士課程の大学院の博士課程である。私もそれは当然考えた。しかし、そこには、大きな問題点があった。確かに私は2003年に修士号を取得したが、それはMBAである。MBAとは、必ずしも、博士課程の前段階ではないのである。普通の大学院生(?)というものは、学部が終わり、修士課程に入る。そして、博士課程では、多くの場合同じ指導教官や兄弟子の元で、それが博士論文に結び付く研究活動を行う。そして、最終的に学位を取得する。彼らが目指すものは、研究者なのである。しかし、MBAは違う。良き企業人というか、良きマネージャーを育てるところである。少なくともその方向性を持っている。私はそうはならなかったが(笑)。一方、博士課程とは、前述したように研究者養成のための機関である。すなわち、MBAと研究者養成のための博士課程とは、同じ目的を共有していないのである。それに気づいたのは、実は博士課程に入ってからのことである。今から見れば、とても無謀なことであった。とは言え、やはり最初に考えるのは、出身した大学院の博士課程である。MBAで修士論文も書いたが、指導教官は私が目指す専攻の先生ではなかった。まあ、そこでは、「修士課程だから」甘えが双方にあるのであろう。少なくともその時は私は必死であったが。出身のMBAの大学で、師匠となる先生を探したが、その先生は定年退官されていた。強引にでもその出身の修士課程の大学の博士課程を受験することもできたのであるが、それに気付いた2010年の年末には、出願願書の締め切りが過ぎていた。それに気付いたのは、デリーのホテルか、ムンバイの空港だったか。その頃、インドの仕事が多く、正直インド人との仕事に非常に疲れていた。そんな時に、出身大学院への受験すらできないことに、インドでとても疲労感を覚えてしまったのであった。
2016年04月10日
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さすがに年度初めは忙しいのであるが、少しずつ博士課程の総括をしていこう。なぜ、私が博士号を目指したのか?正確に言えば、博士号を目指したのではない。論文を書くことを目指したのだろうと思う。2008年にシンガポールから帰国。2010年ぐらいだっただろうか、もとの上司から学会への入会を勧められた。その時に知り合った先生に弟子入りすることになるのだが、その時はそんなことは夢にも思っていない。その頃、大学時代の友人がある資格を取った。彼は、「(大げさかもしれんが)この資格を取ったことで、生きた証ができた」と言った。私はその彼のことを本当に羨ましいと思った。では私には何ができるのか?何もないのである。さて、私はサラリーマン。仕事上で、山ほどレポートを書いている。しかし、それは私の名前が記されていない。当然である。そこで考えたのが著作物である。何気に論文が浮かんできた。私は修士論文を書いている。そこには私の名前が明記されている。論文を書くにはどうしたら良いか。そこでたどり着いたのが、博士課程なのである。自分の名前が記された論文を書きたい。それが第一ステップだったのである。(続く)
2016年04月09日
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昨日は学位授与式であった。博士号の学位をいただく日であった。当然のように会社は休み。まず大学全体の学位授与式。まずもって気をつけなればならないのが、保護者席への誘導である。当然、見た目は保護者であるが、今回は修了生なのである。係の人からの「保護者席はこちら」という声を振り払い、「修了生なのです」と言い切り、自分の席を探す。しかし、自分の席がない。別の係の人に、「自分の席がない」と訴え、一緒に探してもらったがない。係の人が、「もう、とりあえずこの席に座ってください」という。結構、投げやりな態度。その場所は、後でわかったのが、特別な保護者席なのである。開始数分前になると、係の人が、「どうぞ」とこの場所に保護者を誘導する。すると、一気に保護者が入り込み、自分もそこに同化してしまう。学生の中にいるよりよっぽど居心地良い。まあ、学位授与式なので、ひたすら学位の授与。月に1回ぐらいしか行っていないので、こんなに学部があったのかと思う。ひたすら、眠気と戦い、時に眠りに陥りながら、やりすごす。祝辞が続く。「社会にでたら自覚をもって頑張ってほしい」しかしなあ、もう社会に出て30年以上なんだ。次いで、学部単位の学位授与式。近所のホテル。2部屋に分かれる。修士のグループ(MBA+修士)が一つのグループ。もう一つが、学部生と博士後期課程修了者のグループ。私は後者のグループ。そもそも博士後期課程修了者は3人しかいないのだから、修士グループに入れてくれても良いと思うのだが、学部生と同じ部屋。つまり、自分の子供と同年代の若者と一緒。ここで思ったのが、この大学の学生。正直、まったく派手さがない。学位記を授与された後、しばらくしたら、修士グループの部屋にいた指導教官がようやっと来てくれる。そこで、学位記を中心に記念撮影。指導教官の先生、そして副査の2名の先生に、深く、深く、御礼申し上げる。どう考えても、この学位は、これらの先生方のご指導がなければ絶対に成し遂げられなかったもの。これらの先生方は、私以上に、私の学位を喜んでいただいているようである。博士号に関しては、学生側の捏造などがあれば、指導教官にも停職措置がとられたりする。よって、私は、少なくとも、先生方にご迷惑がかからないことに細心の注意を払った。5年間、本当にありがとうございました。帰宅して、すぐに、奥さんに学位記を見せました。
2016年03月23日
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今日、淀川国際ハーフマラソンの10キロの部に参加。有森裕子が来ていた。写真を撮っている人もいたが、自分にはそんな余裕なし。結果であるが、自分の時計で図ったので、正式タイムではないのであるが、57分39秒。もう少しすれば、正式な結果が郵送されるという。前回、友人と一緒に出た寛平マラソンの10キロの部では1時間6分30秒。とても悔しかった。余力があったから。よって、その時に思ったのが、「時間を切りたい」、「ハーフを目指したい」、であった。それが60分を切ってしまった。寛平マラソンの時は、正直、余力があった。しかし、今回は、全く余力なし。もう一杯一杯。ペース配分に失敗。作戦的には、最初の2キロまでが1キロ6分半。8キロまでがキロ6分、残りの2キロは全速力のつもりでいた。スタートして、すぐ前に、とにかくフォームがきれいな人がいた。その人について行ったら、彼のペースは2キロまでで10分30秒。つまり、自分のペースからは早すぎる。しまったと思ったが後の祭り。また、折り返しの5キロまでは、向かい風でとにかくつらい。4キロ付近で歩こうかなと思ったぐらい。5キロの折り返しを過ぎれば、今後は追い風。すごく楽になる。また、目標となる人を見つけ、ついていくが、8キロ付近でふりぬかれた。もう少し練習しなければ、次のターゲットはクリヤーできないかもしれない。とにかく、一杯いっぱいなのだ。しかし、まあ、自己ベストを9分近く更新できたし、目標とした1時間は切れた。それはそれで「良し」としよう。
2016年03月20日
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パソコンを変えた。奥さんが新しいPCを買ってくれた。便利なのか、どこかで個人情報が盗まれているのかわからないが、ネットなどの情報がそのまま移行されている。すこぶる便利。20日の大会に向けて今日は走ろうとしたが、あまりにも寒い。これではけがをしてしまう可能性ありと勝手に判断して、今日は休憩。
2016年03月12日
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2月14日の寛平マラソンの10キロの部。時間が1時間6分30秒。そもそも私はジョギングとかランニングというものに無縁の生活を送ってきた。よって走り終わった時の充実感、爽快感は半端なかった。しかし、時間が経つにつれ、悔しさが。。。60分を切りたい。よって、3月20日の大会にエントリーした。練習を積んで60分を切りたい。それを積み重ねて次はハーフの完走へ。
2016年03月01日
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昨日、寛平マラソンの10キロの部に参加した。 一昨日の夜からの大雨。 これだけ降ったら中止かなと思ったのであるが、実施するという。 私がこのような大会に参加するのは生まれて初めて。 ちょっと緊張感を感じた。テニス大会への初参加と同じ感覚。 目標は、制限時間の1時間30分を切ること。そして、決して止まらず、歩かないこと。初めての大会だし、そのぐらいに思っていたのである。さて、結果。 1時間6分30秒。 これが良いのか悪いのか、初めての大会で、実のところ良く分からない。 10キロなので5キロで折り返す。往路は向かい風がきつい。おまけに、アスファルトでないところが多々あり、足がとられる。靴が泥だらけになる。給水所は、ものすごい人で渋滞する。正直言って、この渋滞にはびっくりした。私は水は要らないので、「早く行ってくれ」と思った。結果については、初めての大会だし「良し」としようかと、昨日は思っていた。しかし、今朝になって、1時間を切れなかったことにふつふつと悔しさがこみあげてきた。次回は、10キロ1時間を切るか、ハーフを完走するかだ。 それを目標としよう。
2016年02月15日
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清原の覚せい剤での逮捕。この衝撃は大きい。桑田・清原は大阪の大スターなのだ。あの当時、「大阪の高校の校歌は、PLの校歌」とさえ言われた。とりたててすごいファンじゃないけれどKKコンビは常に追いかけていた。清原に関して最高の最大の思い出は、西武と巨人との日本シリーズ。日本一になる直前で、清原は一塁ベースで泣いた。巨人への思いがあったのだろう。ものすごく感動した。また、清原が巨人を放出される時のこと。その時、私は、シンガポールにいた。そのタイミングで、ジャカルタに出張した時、その飛行機の中に日本から出張したと思われるビジネスマンがいた。彼は、「清原、巨人放出か?」というスポーツ新聞を持っていた。私は、理由を説明して、そのスポーツ新聞をいただけないかと頼んだ。彼は、怪訝な顔をしながらも、快くその新聞をくれた。自分の人生で「物乞い」をした最初で最後。この数年、清原は、週刊誌で薬物中毒を報じられてきた。また、入れ墨を入れているとのことです。そして今回の逮捕。薬物は、覚せい剤はやってはいけないことなんだ。プロ野球の監督になる、まして、高校野球の監督になるということはないだろう。甲子園の記念コーナーで清原のバットなどが取り払われたという。本当に、本当に残念でならない。
2016年02月07日
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私は音楽からはほど遠い人間だと思っている。 カラオケはめったにいかないし、行っても、お付き合い程度。 行きたいとも思わない。 生まれてからCDやレコードを買ったのは何枚になるだろうか? 別に音質にこだわるわけでもない。 音楽を聴くのはせいぜい車を運転している時だけ。iPodの中には、聞きなれた音楽が入っているが、電車の中で聞くこともない。しかし、28日に山下達郎のライブに行った。 元会社の後輩が山下達郎の大ファンで、「一緒に行きましょうよ」とチケットを確保してくれた。会場はフェスティバルホール。席の場所は非常によく、前から10列目のど真ん中。実は彼のライブは3回目なのであるが、この「衝撃」「感動」は何? こんな感情は3回目で初めて。 音楽という漢字は、「音を楽しむ」と書くわけだが、彼は、心の底から、音楽を楽しんでいるように思える。 しかも、年齢はもうすぐ63歳という。 人間、世の中に生きていると、当然、嫌なこともあるし、ストレスもたまる。 途中からストレスがふっとぶ。しかし、この約3時間半のライブを終えて、フェステイバルホールから梅田までの道。 いかに楽しかったことか。 ああ、本当に楽しかった。
2016年01月31日
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大学時代の友達から連絡があり、恩師が亡くなったことを知った。 数日前から、「どうも危篤らしい」とお聞きしていたので、大きな衝撃はなかった。 その先生は、私たちが入学した時にこう言われた。 「大学とは勉強するところだ。しかし、君たちに大事なのは、一生の友達をここで見つけることだ」 実は今住んでいる場所は、その先生の前のお宅があった近所だ。 学生時代、何度かお邪魔して、ここが良いなととっても印象が良かったので、この場所を選んだ。 私たちの結婚式には、乾杯の音頭をお願いした。 昨年までは講演会などで講演などもされていたという。お遺族にお聞きすると昨年の秋には旅行に行かれていたという。無くなられる1週間前にはお酒も飲まれていたとか。おいくつで亡くなられたのか、ちょっと想像もつかなかったのだが、91歳とのこと。 まあ、大往生だと思う。 お通夜にお邪魔して最後のお別れをさせていただいた。 お疲れ様でした。そして、本当にありがとうございました。合掌
2016年01月25日
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年末に博士論文を提出。たまりにたまった会社の仕事を年末年始にかけて何とかやりこなす。10月から始まったテレビ番組の「下町ロケット」を数日間かけて見終わる。何か、今、空虚感というか喪失感というか。。。本来なら、今は、来月に迫った最後の口頭試問に向けて、そのディフェンスをいかにするかを考え、対策をすべき時。しかしながら、何か、腑抜けというか、どうも気持ちがのらない。よって、一昨日と今日、少しジョギングを再開した。
2016年01月16日
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そうか、これが今年初めてのブログか。。。今年やりたいことが一杯ある。一歩一歩、着実に。さて、昨年話題になった下町ロケットの録画を見終わった。まあ、主役の阿部寛、これはカッコいい。同じ男としてもほれぼれする。ストーリーは成功物語で、ある意味、勧善懲悪でわかりやすい。しかし、現実のビジネスでこんなに上手く成功するのか?企業に勤務して30余年、経営学を大学院で学ぶ学徒からすれば、これは出来過ぎ。「お前には夢があるか?」と問い続ける経営者がいれば、見に行きたい。そういう夢を持つことは大事だが、なかなかそうもいかないという現実。現実と言えば、2月11日が、博士論文の公開審査日。準備を進めているが、何か、気持ちがイマイチのらない。12月末に提出して、かなり、腑抜けになってしまったようだ。寒いので外にもでないで、「今年は英語を勉強しようか」ということで参考書を大量に買い込んだ。少しづつ、やっていこうか。
2016年01月09日
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今日、姪っ子が来た。24歳。もう立派な娘。一時期、ぶくぶく太っていたが、さすがにこれではだめだと思ったのであろう。だいぶ、ダイエットしてきた。娘らしくなってきた。1991年12月23日、生まれ。私の誕生日と同じ。この子が生まれた時、私は東京にいた。初めての姪っ子。私の両親にとっても、向こうのご両親にとっても、初めての孫。まあ、スター。何をやっても可愛かった。そして今も可愛い。この子が生まれて数年後に父が亡くなった訳だが、この子がいたから父の最晩年は幸せであった。あの気の強い母がこの子の誕生で性格が変わった。大学を卒業して2年目。「来年はお年玉はやらないぞ」と言ったが、どうもあげるような気がする。どうも、いまだに、幼稚園に通っているような気がするのだ。たまには、彼氏よりも私のことをちょっとは思い出して下さい、と思う。
2015年12月26日
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とにかく疲れた。昨日と今日。2日連続、会社の休みを取ったのは何年ぶりだろう。年次休暇などというのはほとんどとったことはないし、まして、このところ、土日の休日の出勤が多い。そんな中で、論文に取り組む。ほとんど眼がうつろになってきた。家の外に出たのは、犬の散歩だけ。たぶん、こんなことで悩んでいるサラリーマンもいないだろうと思いつつ、今日はもうやめだ。集中力きれた。
2015年12月16日
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自分の記憶に留める必要があるので書く。いま、当然のように博士論文で忙しいのだが、これだけは書く。書かないと自分の気持ちが整理できないような気がする。 12月9日、おばあちゃん(家内の実家)の家に下宿している長男から電話。 「レモンが死んだ」 レモンは13歳。白いトイ・プードル。 犬にしては高齢であろう。 平均寿命らしい。 2002年から、レモンは、私たちの家族になった。 しかし私は2004年にシンガポールに転勤した。 その時に、獣医に相談した。 なぜなら、その時のシンガポールの法律で、日本から持ち込んだ犬は1ヶ月係留されることになっていたのだ。 獣医は言った。「この子は非常に飼い主に依存する犬。1ヶ月離れることは命に関わるぐらい危険だ」 その時、私たちはレモンをシンガポールに連れて行かないことを決めた。 そして、レモンをおばあちゃんに預けることにした。 その直前、おばあちゃんの家では、16年生きた犬が死んでいた。 それもあって犬好きのおばあちゃんはレモンを心より歓迎した。 2004年からレモンはおばあちゃんの子供になったわけだが、私は、それ以降「レモンを捨てた」という罪悪感に常にさいなまれることになる。 シンガポールにいる間に、おじいちゃんが亡くなった。 それ以降、おばあちゃんには、レモンは絶対に必要不可欠な存在となった。 そして、私たちは、その状況を見て、新しくシンガポールで同じく、トイ・プードルを買い、自分たちの家族にした。 私たちは2008年に帰国した。 レモンは完全におばあちゃんの子供になっていた。 でも私たちが行くと大歓迎をしてくれた。 毎回、毎回、顔をなめまわし、私の顔はレモンの唾液でべたべたになった。 昨年からガンとなった。数年前のガンが再発した。 今年の2月には、獣医から「手術は無理。抗がん剤で延命策しかない。あと2ヶ月か?」と言われた。 6日(日)、息子から「レモンの後ろ足が動かない」と連絡があった。 8日(火)、会社を休んでレモンの顔を見に行った。おそらくとても辛いのだろうが、私に甘えてきた。 だっこしてやった。 そして、その翌日の9日の朝に亡くなった。 亡くなった場所は、おばあちゃんの布団の上。 11年間、レモンはおばあちゃんの布団で寝ていたのだ。 ガンの末期は、ネット情報では、痛みで泣き叫ぶ犬がいるという。 その時には、安楽死ということも考えた。 が、レモンは、大好きなおばあちゃんのお布団で静かに命を終えた。 安楽死でなくて良かった。 もし、それを選択していたとしたら、私は、この子を捨てた上に安楽死させたことになる。 昨日の夜、ペット葬儀社に渡した。 私は自分のハンカチをレモンにかけてやった。 小さな体は、ハンカチで完全に覆われた。 そして、ペット葬儀社の車で、永遠に私たちのもとから去った。 おばあちゃん、11年間、ありがとうございました。 そして、まさか、死ぬ1日前に、レモンをだっこできるとも思わなかった。 そのめぐり合わせに感謝するしかない。
2015年12月10日
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この3ヶ月ほど、湿疹が発生している。正直辛い。今までの人生で湿疹に悩まされたことは一度もない。湿疹ぐらいで医者に行くのもなあと思い、市販の薬を塗っていたが一向に良くならず、結局、病院に。医者は薬くれるだけ。治らず。違う医者に行く。やはり薬くれるだけ。治らず。医師は「ストレスが原因でしょう」という。もうちょっと頑張ろう。
2015年12月05日
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博士論文が最終段階になってきている。提出まであとわずか。こんな時にきて、指導教官から強烈なダメだしを食らう。こんな時にきて、大きな仕事がある。正直、忘年会どころではない。
2015年11月29日
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ノーベル賞を受賞された山中教授の講演会に行く。ノーベル賞学者を自分の目で見るのは生まれて初めて。 彼には、いくつかの段階で挫折を味わっていると言う。 まず、医学部を卒業して、整形外科を目指した時。 あまりにも手術が下手くそで、指導教官から「山中ではなくジャマなか」と言われていたこと。 整形外科を諦めた。これが最初の挫折。そこで、臨床医ではなく、研究者を目指すことにした。 大阪市立大学で学位を取得し、アメリカに留学。 そこでの研究生活があまりに良かった。 帰国してから、研究環境の悪さもあり、非常に落ち込む。 その時の状況を、PADと称していた。 PADとは、Post America Depressionという彼の造語。 これが2度目の挫折。 その時、この状況を救ってくれたことが2つあった。 まず、ES細胞の発見とその限界。倫理的に問題があるES細胞が発表されたこと。 このES細胞に代わるものを発見したいという欲求がとても高まったこと。 もう一つが新しい職場(奈良先端大学)を得たこと。 まさか、その大学に代われるとは思ってもいなかったという。 この2つの要素が合わさって、iPS細胞ができたのだという。 ユーモアもたっぷりあった講演で、実はその時とても疲れていたのだが、元気をいただいた講演だった。 ありがとうございます。
2015年11月15日
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博士論文に向けて昨日は休みをとり、今日も休みであり、、、指導教官も「今年は博士論文を出しましょう」と言っていただいているのに、どうも先が進まない。パソコンの前に座って、論文が進まないので、ネットで遊んだり、、、要はだらけているだけなのであるが、進まない。
2015年11月03日
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博士論文に本来なら集中しなければならないのであるが、思わず、面白い本に出会ってしまったので、そのことについて書く。佐村河内守の「ウソ」については既に世の中に知られており、ゴーストライターの新垣氏は逆に音楽家としての脚光を浴びている。では、なぜ、このことが「表」に出てきたのか?それを書いたのが神山典士の「ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌」である。神山はそれを三角形で示している。まず、第一辺。全聾と称する佐村河内は、みっくんという小学生の弟子を持っていた。みっくんは、佐村河内の作曲した曲を義手でバイオリンを引く。佐村河内は、NHKスペシャルで注目されて以降、みっくんに非常に強い態度で接する。みっくんの家族はその姿勢に非常に疑問を持つ。次に第二辺。みっくんの父親は、音楽、クラッシック界のことなど知らない。そこでみっくんの悩みを、みっくんの伴奏をしてきた新垣に相談する。「これがクラッシック界のやり方なのか?」と。新垣は、みっくんの父親の訴えを聞いて、自分がゴーストライターであることを告白する。最後の第三辺。みっくんの父親は、以前にみっくんのことを著述した神山にこのことを話す。何故なら、その神山の著作には、みっくんの曲が佐村河内によって作られていることが記述されているからである。その著作が「ウソ」になってしまうかもしれない大きな懸念がみっくんの父親にあったのである。ライターである神山は、新垣にもインタビューし、週刊誌に書いて、佐村河内のウソを暴露する。この3つの辺があって、佐村河内事件が明らかになったのである。神山は書いているが、この三角形は実に身近な小さな三角形なのである。クラッシックのことなど全く分からないが、「ペテン師と天才」という対比という面白さに引かれて、2度、読んだ。2回読みたくなる本というのは価値があるものである。
2015年10月25日
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今日は重要な日であった。休みの日に大学に行く。今日が、今年に博士論文が出せるかどうかが決まる日であった。この3ヶ月、解決できない課題があり、指導教官からは様々な意見をもらっていた。予想していたとは言え、複数の指導教官は違うことを言ったりする。しかし、主査の指導教官から、「これで行きましょう」と。よって、博士論文に向けて最後の追い込みに入ることになる。正直言って、この追い込みをかけるということは、給料をもらっている仕事などやっている場合でないかもしれない。博士課程に入る時、「高校野球で甲子園に出た高校球児がメジャーリーグに挑戦するようなもの」と言っていたが、最後の山に登りつつある。とにかくやりきるのみ。12月18日の15時が提出締め切りだ。ところで、さっきの高校球児のたとえ、何だかワールドカップのジャパンの表現に似ているような気がする。気合いを入れよう。
2015年09月21日
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今日はテニスの試合。久々。天に「弱い相手と当たるように」と祈ったが、その祈りは相手に通じたようで全敗。あえなく敗退。午後、ラグビーの試合を見た。ワールドカップの南アフリカ戦。誰が、日本の勝利を予想しただろうか?ひたすら感動した。さて、明日はゼミの日。指導教官には出てきていただく。おそらくこれから年末までが壮絶なことになるだろう。今日の日本のように頑張る!
2015年09月20日
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昨日、大阪市内のある場所を所要のために歩いていると、どこかで見たタレントさんが、ジョギングしている。ジョギングと言っても相当遅い。すぐ彼がだれか分かった。その名前をダイレクトに書くのは良くないだろうから書かないが、明石屋さんまのグループの一員で、天然キャラ。今はタレントと言うよりも画家らしい。その走る姿を見て、昨日は私も30分ほどJOGしました。気温がぐっと下がって気持ち良い!
2015年09月03日
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日航機墜落から30年。30年前の8月12日。東京に出張した。大きな会議があったからである。その日は、東京で大学時代の友人とメシを食った。そして、青春18きっぷで大阪に帰ることにした。確か、夜の23:30分ぐらい発で岐阜の大垣に朝の6時ぐらいに到着する電車だった。その時は電車が好きで、そんな体力もあったんだろう。今で言えば、「乗り鉄」なんだろう。その時、途中まで座席に座ることができず、大変疲れていた。大垣に到着した時はへとへとだった。そして大阪へ到着。大阪が騒然としている。今のようにネットもない時代。時間を追う度に経緯が分かってきた。日航機が墜落したのだ。その出席した会議の参加者で何人か亡くなっていることが分かった。一人は大幹部。入社の時にお世話になった方だった。一人は何度か電話でお話をしたことがある先輩。婚約者とともに大阪に帰る時だったという。かなり後に知ったのだが、元々飛行機で帰阪しようとしていた方が新幹線に変更しようとし、同僚の方にその飛行機の座席を提供し、飛行機に搭乗した人は亡くなった。これは伝え聞いただけで確証はない。あれから30年。最近でこそなくなったが、いつも航空会社からマイレージのステータスをもらっている。安全こそ大事。合掌
2015年08月13日
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良く見れば、前回のブログは6月22日。一ヶ月以上何も書いていない。理由は、仕事と博士論文。暑いけど頑張ろう。
2015年08月05日
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自分のことをものすごく自慢する人がいる。正直、こういう人の精神的構造はどうなっているのかと思う。「おれはすごいんだ」自分の日記に書いているだけならいいんだけど、どうも他人に知らしめたいようだ。正直聞いているだけで疲れてしまう。こちらが「もう聞きたくないよ」という姿勢を見せると、それが分かるのか、ますます声を大きくする。そしてもう一つの特徴は、肩書に固執する。肩書と実力は別のもんだと思うんだけどなあ。よし、実力で勝負するか。
2015年06月22日
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テニス仲間を偲ぶ会昨日の夜は52歳で亡くなったテニス仲間を偲ぶ会。偲びながら食事をしようということ。私は学会があったので30分ほど遅れて参加。会の初めには、亡くなった彼女の話があったかもしれないけど、私が行った時は既に「宴会モード」。まあ、これもにぎやかなことが好きな彼女の思いに届いたのではないだろうか。そしてその偲ぶ会の直前の学会。ある研究者が発表したのだが、「何を言いたいのか」さっぱりわからない。私の師匠がコメンテーターなのだが、本当に苦労されている。司会の先生が、「学会報告は、きちんとした流れの中での発表となるが、これは違う」とコメントしたが、やっぱり、「お作法」が要るんだよね。彼は学生に何をどのように指導しているんだろうか?
2015年06月07日
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先週は、土日連続で出勤。よって、今日は休みを取った。このところ土日の出勤多し。その分、平日に休みを取れればよいのだがそうもいかない。今日やったことは、自分の部屋の掃除。明らかに不要となった本、書籍を処分する。でもまだまだある。博士論文のことで頭が一杯である。なかなか、進まん。
2015年05月28日
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私のテニス仲間が亡くなった。52歳。同じテニスサークルで、5、6年前に知り合った女性。明るくて美人で、、、初めて知り合った時は、既に大きな手術を受けた後だったんだが。ガンが見つかった時は既にステージ4であったらしく、手術後もあちこちに転移していたようだ。メールもちょくちょくやりとりをしていたのだが、昨年の秋ぐらいに彼女の具合が悪そうだったので、それ以降メールのやりとりは控えていた。彼女はもう成人した娘さんがいて、娘さんが2、3年前に大学を卒業した時は、本当に喜んでいた。「やっと肩の荷が下りた、というか、ほっとした」何だか年下の人が亡くなるというのは許せないような気がする。合掌。
2015年05月10日
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29日から始まったGW。3日連続ジョギングした。昨日、2時間テニスした。実は昨日のテニスは炎天下の下だったのでとても疲れた。今日もテニスをやる。そして、当然のことながら、論文に向かっている。ちょっと情報不足だが、GW中に一本は何とかなりそうだ。その合間に、録画したテレビ番組などを見ているが、その中の一つに「探偵ナイトスクープ」がある。「行き別れた母に会いたい」という依頼。「行き別れた」というが本当の母ではない。29歳の男性。その父親が相当女好きで、5回結婚したという。その29歳の男性が小さい時から幼稚園ぐらいまで育ててくれた女性がいる。すなわち「生みの母」ではない。でもその育ててくれた母が忘れられなくて、彼の奥さんが番組に依頼した。2度見たが、2度とも涙した。関西というか大阪にいない人にはこの「探偵ナイトスクープ」は知らない人がいないかもしれない。桂小枝の「爆笑、小ネタ集」などもあったが、こんな感動もののドキュメンタリーもある。もう一度見たい。
2015年05月03日
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論文。この1ヶ月、何をやってきたか自分で整理しよう。4月1日に指導教官と打ち合わせたものをもって18日に再度会う。指導教官から「フレームワークはこれでOK」と言われ、とりあえずホッとする。でも、いつものように細かい部分で最終で修正がかかる可能性はある。これは指導教官の性癖か。ケースを目の前で2つ抱えている。要は博士論文提出のための、検討材料不足と字数が足りないことがある。24日の午後にまずA社のことについてある人にインタビュー。帰宅して整理すると、「何が足りないか」が分かり、もう一度アプローチする。気分を害してくれなければ良いが。。。その日の夜、ある大学の研究者に会って、B社のことを教えてもらう。その大学図書館には良くいくので、場所も熟知している。B社のことについては、目の前に「大きな山」が襲ってきたという感じ。若い人だが、まあ、色んな事を教えてもらった。もちろん、会社では仕事をしているわけだが、頭の中は、研究のことで一杯である。回りの人に、「ちょっと気分転換にお茶飲んでくる」というが、研究メモを持って論文のことを考えている。これでは給料もらっている会社にいかんだろうと、自分で思っている。さて、GW。上記のA社とB社の論文には目途を付けることが目標。
2015年04月29日
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ジョギング・サークルで知り合った75歳の人。彼の目標はフルマラソンの完走。新しいカバンを買ったそうで、それが重いという。しかし彼はそれに付け加えた。「夢を入れたらもっと重くなるんです」こういう人になりたい。
2015年03月27日
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桂米朝師匠が亡くなった。89歳。天寿全うということだろうか。米朝一門が大好きで、特に、枝雀さんが大好きで、同じネタでも、米朝さんの上品なところが大好きで何度高座に行ったことだろうか。亡くなった翌日、天満天神繁昌亭の前を通った。ひょっとしたら米朝さんの追悼かなにかあるのかなと思ったから。しかし、いつもと同じ。きっとそれが米朝さんが望んでおられたことなんだろうな。ご冥福をお祈りします。合掌。
2015年03月22日
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昨日は博士課程の後輩で先輩になった中国人留学生の激励会。後輩で先輩になったというのは、こういうこと。私は2011年に博士課程に入学し、今D4であり、まだ博士論文を提出できないので、4月からの2015年度にはD5となる。彼女は2012年に入学した後輩。しかし、昨年の12月に博士論文を提出し、この3月で博士号を取得し卒業していくので先輩になるということ。彼女は3年間で博士号を取得した訳だ。つまり、私がもたもたしている間に追い抜かれてしまったわけ。それにしても彼女は頑張った。どうしても日本語能力では難しいし、英語文献はさらに困難だったであろう。何とか中国の大学に就職できそうだ。まして、まだ、27歳。結婚相手を探すとも言う。彼女に幸あれと願う。
2015年03月15日
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