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北京での最後のランチはガイドの李さんの超お勧めだという麺のお店・面酷へ。入ってすぐにキッチンカウンターがあり、いろいろな種類の麺をその場で打っているのが見られます。中華麺と言えば、スープのなかに沈んでいるものを思い浮かべるんだけど、ここでは肉味噌だれと、唐辛子だれをつけて食べる形式になっていて、運ばれてくる麺がちょうどイタリアンのパスタのようにショートパスタになってました。皆で取り分けるのにはその方が取り易いし、量の加減もできるので楽でした。その他のお皿も癖のない良い味で(前日のランチの鼎泰豊もそうだけど)こういう味が今の北京の人々には受けているのかもしれません。鶏の丸揚げも出てきて・・・これはビールがなければ食べられないでしょう。ん~~おかわりください!写真ではよく見えないかもしれないけど、頭までこんがり揚がっていました。鶏肉はNGなAさんには、遠ざけておきたいお皿だったでしょうね(笑)ランチの後はもう空港へ向かうだけです。高速道路は整然として混んでいました。とにかく人も車も多すぎ!空気も歩道も汚れているし・・・と思ったけど、活気のあったころの日本もこんな感じだったから、これは国としての成長過程のひとつなのでしょう。少しまえに世界中の九つの国の印象からくる年齢っていうものを日本国内でアンケート調査した結果を何かで見ました。日本はアメリカ・スウェーデン・イタリア・韓国・ブラジル・インド・シンガポール・中国を押さえて最年長の52歳でした。中国は最年少の31歳。歴史は4000年でも、現代国家としての体裁を整えてからは日が浅く見られているのかな。52歳って大人として成熟しそろそろたそがれてくる、無理の効かなくなりはじめる頃かしら。31歳って・・・わき目もふらず人生を切り開こうとしていた時期かな。そういう勢いの違いが街の様子にも表れているのかもしれません。空港近く、高速道路の分岐点で、高速道路を支えている橋脚に「日本友終」っていう落書を発見。中国語としての意味は?正確にはわからないけど、短絡的に〈お隣とは絶交〉なんて、小学生のような対応じゃないかなぁ。なんだか悲しくなります。少なくとも52歳の私達は(本当はもう少し上だけど・笑)大人の対応をしていきたいものです。空港ではお土産のお菓子を買いました。いつものA先生との中国旅行では、地元のスーパーマーケットでお買い物っていうアドベンチャーがあるのだけど、今年は諸般の事情から割愛されました。だからお菓子も空港売店で・・・。15時45分、飛行機は定刻に羽田へと飛びたちました。乗客率は30%以下かもしれない。特にビジネスクラスとプレミアムエコノミークラスはがらがらでした。空港でチェックインの際、優秀なツアコンのSさんが私達のツアー全員をエコノミーからプレミアムにランクアップしてくれるよう交渉してくれました。なので帰りは座席がゆったりで楽々。食事などのサービスはエコノミーのままなのだから、このランクアップは航空会社としてもそれほど損はないはずです。飛行機のなかでは映画『メリダとおそろしの森』を見ました。小さい画面だから実写よりもアニメのほうが見易いです。羽田には夜8時過ぎに到着し、バスで帰宅しました。ちなみに私が買ったお土産の数々・・・色合いもやはり中国テイストです(笑)赤いTシャツは生後6ヶ月の姪の娘に・・・あまりにも可愛いんで最小サイズが2歳だったけど買っちゃった。若草色のTシャツはカンフー劇場で買ったもので、その上に乗っかってるものは万里の長城のスノードームです。あの場所の土産物店で見つけて、店員に「いくら?」って顔で聞いたら、彼女は電卓を持ってきて260と表示・・・260元?高い!と思ったけど、ここでしか買えないと思ったから購入・・・。時間が有ったら値切れたわ。本当は白く雪の積もったのが欲しかったんだけど、手渡された箱のなかには、黒い長城が入っていました。ちょっと悔いの残る買い物です。A4サイズのフォトアルバムも実は購入。これはずっと旅に同行していたカメラマン兼ガイド助手の王さんが撮りためた写真を出発前夜に徹夜で全員分の個人フォルダーを作ってきてくれたもの。なかの写真1枚が80元とかなり高かったけど、彼女の熱意ときれいな写真に負けて買いました。でも、写真の枚数によって値段が変わるので、購入写真は厳選させてもらいました(笑)ガイドといえば李さん・・・。とても可愛い顔をした30代の小柄な女性なんだけど、結構車通りの多い道でも平気で皆を渡らせました。その時の掛け声が「はい、勇気を出して」少し行けば信号のある横断歩道があるのに・・・と思ったけど、どうやら北京の交通事情は日本とは違うらしく、渡れるときに渡る。車も走れるときには走る。信号は便宜上のもの。という感じでした。ガイドさんたちからも同行した皆さんからも楽しい刺激をいただいて無事帰国です。長々と旅行記にお付き合いくださって、ありがとうございました。
2012年10月22日
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9月24日。いよいよLast day。前夜は調子にのって紹興酒も頂いてしまったので、さすがに疲れが残ってしまいました。すっきりしていないけど、がんばって5時半起床。日壇公園につくと、李先生達は既にご到着。宴会の翌日なのに全然お疲れが見えません。お弟子さんも一段と眼力が強くなっているようで、ポーズを決めたときの迫力は、凄いです。これって呉式ベースだからでしょうか。李先生も、初めてお目にかかったときの好々爺然としている雰囲気などもうなく、日々精気が増しているようです。もしかして私達、吸い取られてる??いつもは身だしなみに隙の無いマダムNの太極拳パンツの色合いが少し昨日と違っている・・・よくよく見ると縫い目のあたりがもそもそ・・・ん?前後ろではなく裏表間違い?やっぱりみんな疲れ始めています(笑)最後に李先生からA先生に著書をプレゼントなさいました。フルカラーの北京体育大学出版社発行の立派な本!それに達筆でなにやら奥付が書かれている様子・・・太極拳と書道はとてもつながりの深いものだそうです。中国の書の文化。漢字を使う国のものとして、尊んでいきたいものです。私達もこの太極拳教本、買えるものなら買いたいとお願いしたら、ご自宅からお孫さんが持ってきてくれました。李先生は中国の伝統的な家屋・四合院にお住まいだそうです。中庭を囲んで東西南北に建物がある・・・あれです。お孫さんとか、家族に囲まれてながら中庭で太極拳をなさっているのでしょうか。目に浮かぶような中国の景色ですが、北京市内ではどんどん取り壊されているそうで・・・。先生のお宅はどうなっていくのでしょう。李先生たちにお別れして、ホテルに戻ります。ホテルの中庭ではこの日も結婚式の準備が始まっていました。新郎と思われる人が白地に金のモールのついた制服を着ています。なんかカッコイイ! と見ていたら新郎の母と思しき人がニコニコしています。「素敵ですね、おめでとうございます」と、身振り手振りで話しかけてみたらお母さんも「うちの息子、パイロットなの、結婚するのよ、もううれしくって・・・」とそちらも身振り手振りで応えて下さいました。中国語が話せなくても、こういうことは万国共通。人の幸せな様子は、こちらまでホンワカさせてくれる力があります。ホテルの近くにはこんなマックカフェがあって・・・入ってみたかった。朝食の後チェックアウトして荷物はバスのなかに運び込み、きょうの観光へ出かけます。向かった先は天壇公園。まず通ったのがこの長~い七十二長廊です。ここは市民の活動の場になっていて、長い廊下の手すりには隙間無く誰かが腰掛、思い思いの趣味に興じていました。ガイドは「年金生活者はここに来て編み物をしたり碁をしたり、歌ったりして過ごしている」と、やたら年金生活のことを言ってたけど、共産主義だから老後はゆっくり暮せるということを強調しているのでしょうか。でも、まだまだ元気そうなオジサン・オバサンがいっぱいいて、この廊下の使用権をめぐって勢力争いがおきてもおかしくないほど(笑)冬でもやってくるのか?と聞いたら、さすがにそうでもないらしく、では長い冬の間、皆さんはお家に篭っているのでしょう。季節の良いときに外気のなかで過ごす・・・公園活用は中国ではとても盛んで、とてもよい風習だと思いました。~~~~天壇公園について某サイトから説明を丸写し・汗~~~天壇とは天神と地神を祭ったり豊作を祈ったりした場所です。昔から皇帝の一番の仕事は食料の確保です。飢饉になれば国は滅びます。天の神に祈り、農業暦を地方役所を通して農民に伝えました。当時は天候と農業の関係についての知識が少なく、役所から通達された農業歴によって種まきや刈取りをしていました。農民を確保するには農業歴が重要でした。祈年殿の建物は明の永楽帝の十八年(1420)に建てられて、直径32.72m、高さ38mの円形の建物です。天は丸い物とされていたのでこの形になりました。~~~~おっしゃるとおりの丸い巨大な塔を中心に、紫禁城よりもさらに広い美しい公園が広がっていました。ここは北京でも随一のパワースポットだと、今になって知ったのですが、あの日本人を冷たい目で見る状況では、パワーストーンにまで近づくことはできなかったですね。しかし、いくら無言の観光をしていても、物売りが私達を見ると「せんえん、せんえん。おねえさん、せんえんだよ」と言って来るのですから・・・バレているのです。中国猛者のNさんが堪能な中国語でいくらカモフラージュしようとしても、滲み出てくるのんびりムードは隠せないようです(笑)
2012年10月19日
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紫禁城を後にして行ったのは、ガイドさんお勧めの布団屋。いったい何なんだ?!と私も思いました。中国に来てお布団を買っても、どうやって持ち帰るのよ。第一そんな予定じゃないし。まぁ、ガイドさんもこうして客を連れまわすことによっていくばくかのマージンを貰っているのだろうし、それも含めての観光なんだろうから仕方ない・・・と思っていました。バスから降りて案内された先には、まだ建設仕上げの段階のビルの半地下に広くて明るい会場があって、そこにたくさんのベッドが並んでいました。大勢の売り子が待ち構えているのが見えます。まず、売り物の布団の説明を20分くらい聞きます。(疲れて居眠りをしている人も多い・笑)そして実際に布団の上に寝てみたり枕を試してみたり・・・。これが非常に気持ちがいい。係の人がペッたり張り付いてあれこれ日本語で勧めてくるのが煩わしいほど気持ちいい。いわゆるラテックスなのです。北京オリンピックの際選手村で使っていたものだそうで、天然ゴム採取から加工・販売まで一貫して手がけているという。100%天然ゴムなので虫・ダニの心配がなく、日光消毒どころか日に当ててはいけないという代物。高反発で沈み込んだりしません。実は買ってしまったのです、私。真空パック状態にすると枕ならスーツケースに収まるサイズだし、お布団なら送料・関税ともに向こうもちで送ってくれるというし(値段の中に既に組み込まれているということでしょうが)実家の母に送りました。母はとても暖かくて気持ちがいいとご満悦です。高かったけど、面白い買い物でした。笑っちゃうのが、ここで着替えをしたこと。夏の暑さが残る紫禁城を観光して汗まみれの私達は、この後ホテルに戻ることなく夕食に向かうことになっていたので、少しフォーマルに着替えるために、ガイドが、販売所の一室を借りることを交渉してくれました。お布団やら枕やら、たくさん買ったんだからわがまま言わせてもらいましょう(笑)次に行ったのは瑠璃廠という古い北京の雰囲気が漂う街角。夕暮れも迫り写真ではよくわからないのですが、商店街です。~~~ちょっと斜めから見た説明文をコピペします。~~~筆、硯、墨、紙の文房四宝と印章、書画骨董など、おそらく日本人を含み「外国人」の想像する「中国」がここにある。もちろんこの街の造りが清朝の大街を模して作られていることもあって、とても映画チックな雰囲気もまた魅力のひとつ。当然毎日多くの観光客を集めてにぎわっているのだ。 ただし、街が今のような姿になったのはつい最近のことだとか。つまり終戦、そして文革を経て、ようやく経済開放が認められてからのこと。当時付近に散在していた露天の骨董品(当然偽物も多い)商たちをかき集め、そして新しく作った建物に押し込んだというのが、現在見られる瑠璃廠の街並みなのだ。~~~~~いまの日本人はこんなところをうろうろしていては危ないので、どこにも寄らずただチラッと通りを眺めただけで帰ってきました。本当はフートン(胡同)を人力車で観光するという企画もあったのですが、取りやめになりました。どの観光地も噂ほど混みあってはいなかったのは、日本人観光客がほとんどいなかったせいかもしれません。中国庶民にとっても、いまの状況は好ましくないのじゃないかしら。そして今回の旅の最後の晩餐です。広東料理の店・肖江南お店のまえの柱がこんな風に飾られているのですが、お料理は正統派中華料理でした。太極拳の李先生とお弟子さんを交えてのお食事会です。上座には先生方と旅の重鎮のお歴々、ガイドの李さんも通訳として加わりました。そしてもうひとつの卓にはお弟子さんと通訳の方、それから私達・下々のもの(笑)そのお弟子さんへの質問が多くて、というか会話が弾んでお弟子さんはちっとも食べる隙がありませんでした。申し訳ない(汗)体格のよいお弟子さん・・・名前は忘れました、すみません。はじめは50歳くらいかな?と思っていましたが、59歳だそうです。だれも質問していないのに、というか、触れてはいけない部分かと思っていたのに、彼は自分から話し出しました。「今はこんな頭ですが、数年前まではふさふさしていました。北京オリンピックの開会式での太極拳の集団演技の指導のため、こんなになってしまいました。晴れがましい舞台なのでだれもが参加したがり、その選考から始まり演技の指導まで、たいへん苦労しました。でも、自分にとっては人生最大の喜びでした」そうか~。頭髪に代えてもよいくらいの値打ちがあったのよね。それはわかります。でも意地悪な私は聞きました「ご自身の結婚と比べてどっちが最高ですか?」彼は慌てて「結婚です」と、答えてくれました。その答えに私達中高年の女性テーブルからは拍手喝采でした。彼のお嬢さん(もちろん一人娘)は大学生で李さんのような外国人相手のガイドを目指しているそうです。日本語を習得するために日本に来ることはあるのか聞いてみると、韓国語のほうに惹かれていると・・・今の情勢を考えると日本語には未来が無いと判断されても仕方ないですね。そんなプライベートなことにまで踏み込んで、楽しい会話が続きました。通訳でついてくださった方の名前は春月さん。きれいな名前だと褒めると、彼女は名前の由来を聞かせてくれました。〈彼女のおかあさんは文盲(こういう単語を使っていました!)で、娘に名前を付けることも覚束なかった。そこで2月の夜に生まれたから春と月とした。〉春月さんはいい加減に名づけられたようで好きではないといっていましたが、私達からはロマンチックで素敵だと思うと話しました。お料理の写真は取り忘れました。例によって廻るテーブルがご馳走でいっぱいでした。そしてホテルに戻って、11時になる前にもう眠くて眠くて仕方がなく、横になるとあっという間に気を失っていました。
2012年10月17日
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9月23日 この日はちゃんと中国時間で5時半に起床(笑)6時半には日壇公園へと向かいました。1時間強の朝練習を終え、一旦ホテルに戻って朝食をとり、ふたたび10時には公園へ。この日は旅のハイライトでもある、李先生のご指導を受けての2時間練習です。基本的にはA先生がいつも教えてくださることと変わりませんが、中国風スパイスが効いています。場所の雰囲気も、李先生のパワーも、皆の集中の仕方も作用しているのかもしれません。こうして太極拳的突出した時間があるという幸せを、私はしっかりと覚えておかなくてはなりません。密度の濃い2時間を過ごして、ふたたびホテルに戻りあわただしく着替えをして昼食に向かいました。この日のランチは鼎泰豊で飲茶・・・って台湾のお店じゃなかったかしら?しかもわたしの生活圏にも支店があるし。しかし、ここは大きな店舗でした。メニューの種類も豊富です。上海蟹も扱っているようです。かに味噌入りシュウマイ・チャーハン・酢辛湯スープ・くらげの前菜と、みんな薄味で厭味のないよいお味。午前中の通算3時間を越える練習の後なのでビールがおいしい。気分もほぐれて大盛り上がりのランチでした。さて、いよいよ故宮博物館(紫禁城)へまいります。今年の太極拳旅行の行き先が北京と決まったときから、A先生をはじめとする何人かで浅田次郎著の『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』『中原の虹』の三作品を読み込んでいました。私は『蒼穹』については田中裕子主演のドラマでお茶を濁し、『珍妃』のほうは新刊で出たばかりのころに読んでいたのでその古い記憶を頼りにし、『中原』だけを一生懸命この夏に読み切っていました。だから思い入れも強い(笑)井戸も見たいし九龍の壁も見たい。幼さない皇帝が書いた扁額も。もうすぐ国慶節を迎えるので天安門は飾付けが始まっていました・・・と思うのですがいつもこんなにきれいにしているのでしょうか。近寄ると毛主席の肖像画が掲げられていて、お決まりの中国のイメージどおり。左右には常設の桟敷席が並んでいて、ここから時の権力者達が手を叩きながら軍事パレードを見物するのでしょう。とにかく大きい。門や塀を構築している部分の内部はどうなっているのでしょう。地下倉庫とか、秘密の部屋とか、兵士の宿泊施設になっているとか?ガイドの李さんに聞いてみると、ただ石が堆積しているだけの単なる土台だそうです。こんなボリュームを有効利用しないなんて・・・と思うのは狭い国で暮しているからの発想なのでしょう。土も石も人海戦術でどんどん運んできて積み上げて、南北の長さ961m、東西の幅753m、面積約725000m²の城を囲んでしまうことができる、その権力には、ただただ恐れ入るばかりです。万里の長城も紫禁城も、規模の大きさには圧倒されます。中国って凄い。使役できる人の数がこんなに多いということは、それだけ権力者の力が強大だということで、そういう仕組みを作ることができる中国人の精神構造が怖いような気もします。ばらばらにならずにまとまっていく・・・求心力。中華思想。今もしっかり生きているのでしょう。太和殿へ登る階段の中央部分は皇帝しか使えないってことは知っていましたが、ここを歩くのかしら?この龍の彫り物の上を?歩きにくいでしょう??って思っていたら、当然のこと輿に乗ってこの彫刻の数十センチ上空を渡っていたと。そうか、なんでも自分の足で移動しなければいけない庶民とは違うんだ!じつは皇帝も不自由に感じていたんじゃないかしら。太和殿からまっすぐ奥に進むのが一般的な観光コースだそうですが、私達は九龍の壁と珍妃の井戸を見たい為、右にそれて進みました。だんだん建物は、人が住んでいるのにあわせたサイズになってきます。後宮って所ですね。ここには最盛期3000人の美女と数万人の宦官が居たそうで、食べ物が追いつかず、餓死する人もでたそうです。一旦ここに入ってしまった人は、外の世界には出て行けないし、出ても暮していくすべが無かったということですね。行き場のない人たちの恐ろしい世界。そんなところに君臨するのなんて、やっぱり皇帝は気の毒な人だったのじゃないかしら。紫禁城を南の午門から入り東側の建物を突っ切って北の玄武門まで歩きました。北には景山が聳えていました。この山も確か人造だったような・・・。ここで明の最後の皇帝が自死したのだったわ。そんな『中原』からのトリビアを思い出しながら、紫禁城を後にしました。また行きたい紫禁城。次回は一日ずっといて堪能したい。そのためにも中国と仲良くしましょう!
2012年10月13日
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ランチのあとはいよいよ万里の長城見学です。バスは更に郊外へと向かいます。果樹園もなくなり、周囲は険しい渓谷になってくると、山の尾根に映像でしか見たことのなかった石組みの櫓や塀が・・・これだ~!どうやら昔の関所のようなところを挟んで左右に続いている様子・・・。バスがさらに近づいていくと、そこには大きな駐車場がありました。しかし駐車場は大混雑で、ロープウェイに乗るのには1時間待ちだという話。「では、1時間歩いて登ってもいいでしょうか?」と、ガイドの李さんが言います。もちろん、歩きましょう!太極拳をしにくるくらい元気な私達ですから(笑)駐車場の端でバスを降り、土産物屋の立ち並ぶ広い道をすこし歩くと、長城への登り口がありました。チケット売り場に併設されたイヤホンガイド貸出し口には、数カ国の言語と国旗が書かれていたのですが、日本については国旗が消されていました。日の丸を見て過剰反応する人を、必要もないのに刺激することはない、と考えての処置なのでしょう。そういう理性的な判断ができる人と、簡単に暴徒と化す人とが混在している場所なんだと肝に銘じておかなければなりません。なるべく静かに、日本語は慎んで・・・って、中国語はできないのだから無口になるしかありません。長城は険しかった!うねうねと山の尾根に忠実に乗っかっているのだから、場所によっては手を付いて歩きたくなるほどの急な道なのです、あの塀の上は。景色は素晴らしいし、この建造物のボリュームには圧倒されますが、なによりもこんな山奥の尾根にまで囲いを造らなければならないほど、騎馬民族の侵入が怖かったというその思いが凄い!義経じゃあるまいし、こんな急な山を人馬が通るなんてありえない、と思ったのですが、頂上の高さは羊が越えられないような高さにしてあるのだそうです。騎馬民族は生活の一切合財を携えて来るわけだから、重要な財産の羊が越えられなければ、移動できないということらしいです。20年前にもここへきたことのあるA先生やM先生は、昔は観光客と言えば外人ばかりだったしこんなに人が多くなった・・・と言ってました。それだけ中国の人が生活にゆとりを持てるようになったということなのでしょう。長城のところどころにある兵隊詰め所(?)を2つ歩いたところで引き返してきました。ちょうど1時間。今と昔ともっと昔を思いながら。途中、関西弁で大声で離しているおじさん達がいました。これもまた一つのスタイルなのでしょう。日本人だからといってこそこそするのは確かに卑屈です。でも、要らない面倒は起こしたくない・・・。北京市内に戻ると官立だという隋縁芸術館へ案内されました。1階は貴石の美術館になっていて、日本語の悠長な係の人から中国の貴石についてレクチャーを受けました。寿石・青田石・鶏血石の三つが三大貴石と呼ばれるそうで、自然からでたものとは思えないほどの色合いや質感を堪能し、精緻な彫刻に目を見張りました。そしてずっと奥のほうに案内されると、そこには中国風(中国だもの、あたりまえ)飾り棚に収められた貴石アートの数々。「それが飾り棚とセットで、輸送料・税金込みでなんと今なら118万元!お好みにより貴石アートは別のものとのお取替えができます。風水的にも好評なこの一品、旅の思い出に家運の上昇に、是非この機会にお求めください」という仕組み・・・無理無理。庶民で狭い家に住む私は、地下に広がる工芸品お土産物販売所でこまこまとしたものを1万分の一の金額で買ってきました。店<美術館じゃなかったのか?>のそとにも美術品が展示されてました・・・埃をかぶって。夕食は北京ダックです。全聚第という老舗です。北京ダックならここ!と言われている名店だそうです。家鴨のぱりぱりした皮を、目の前で剥いでくれました。美味しかったけど、量が多いのでお皿が空かない。一生懸命食べました、私。このあと、中国猛者のNさんご推薦のカンフー伝奇を観にいきました。(と言っても全員じゃなく希望者だけ)場所は前日の京劇の芝居小屋とは違って、近代的で大きな劇場でした。芝居のせりふは英語で、字幕は中国語で出ていました。日本人団体が多ければ、日本語で出ていたのかもしれません。ストーリーは、母に連れられて寺にやってきた少年が純一という名(日本名みたい・笑)をもらい、修行を積み偉い老師になっていくという・・・。注目すべきなのはそのカンフーの技の数々。ジャッキーチェンでお馴染みの蟷螂拳とか酔拳をはじめとする拳法のさまざまな技と集団での演舞。見事なものです。いちばん印象に残ったのは、着地するときに体重を感じさせずにふわっと降りることです。最後の最後まで神経を使っているのに、硬くならない・・・彼我の大きな隔たりを感じます。Tシャツを買ってホテルに戻りました。
2012年10月13日
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バスは北京繁華街の高層ビル群を抜け、果樹園の続くなかをしばらく走って目的地・十三稜に到着しました。バスを降りるとすぐ近くに桃を売る露天商のパラソルが並んでいました。ここは駐車場の中でしょう?と思いながら売り手の方たちを見ると試食用に桃を剥いていました。が、皮はそのまま地面に落としている・・・何も気にせず当然のように・・・。こういうメンタリティが、理解できないのですよね。そういえばホテルのある路地にも犬の落し物や痰と思われる液体が落ちているので、ぼんやりして歩けません。パリも犬の落し物については無頓着だけど、毎朝清掃車が来ていちおうご破算にしてくれるのでしたが、北京ではどうなんでしょう。十三稜の説明をまたまたコピペします~~~北京の中心から北西へ約50km、昌平県の天寿山南麓に広がるのが「明の十三陵」です。そこは文字どおり、15世紀初頭の明朝の3代皇帝「永楽帝」から7代皇帝を除く、16代皇帝まで13人の陵墓が散在しています。しかし現在一般公開されているのは、「永楽帝」の陵墓である「長陵」、隆慶帝の陵墓「昭陵」、そしてここ14代皇帝である「万歴帝」の陵墓「定陵」の3つだけです。定陵の特徴は地下数10mに作られた地下墳墓にあります。地下墳墓はいくつかの部屋に仕切られ、それぞれに竜の飾りの付いた皇帝の玉座、鳳凰の飾りが付いた皇后の玉座、そして万暦帝とその皇后の柩などが安置されています。~~~~~ここが定陵の入口です。この先をしばらく歩いて地下墳墓へといったのですが、とにかく広い・大きい。15段の階段を10回降りました・・・つまり帰りは150段登るということです(涙)大理石の固く冷たいお墓には棺のレプリカと石の玉座しかありませんでした。本来あったマホガニーの棺や財宝の数々は文化大革命のときに持ち去られてしまったそうです。この地下墓地を建設したため、後年明の財政は逼迫したとも言われています。死後にまで無駄な華美や威厳を保持しようとするのは、民衆にとってどんなにか迷惑だったことか。こんなもので死後の世界がバラ色になるって信じていたのかしら?権力の中心にいる人は、孤独で奇妙な生活をしていたのじゃないかしら。皇帝になるって神の子どもになるってことだから、人間の感性じゃ追いつかない生活をしなくちゃならないのかもしれない。皇帝も実は気の毒な人だったのかもしれません。「この地下墓地の発掘調査は1956年から行われましたが、王墓を暴くと悪いことが起きるという言い伝えどおり、1958年には文化大革命が起きました。」・・・とガイドの李さんは話していました。でも、いまネットで文化大革命を調べてみると始まったのは1966年とあります。1958年は大躍進政策の始まった年。この政策が見事に失敗し公表されているのは数千万人、実は数億人の餓死者が出たという、中国の歴史のなかではかなり厳しい出来事でした。ともかく、この発掘はそういう時代の流れのなかにあったということなのでしょう。そして、中国の人は文化大革命を禍々しい歴史と解釈しているということに驚きました。 何にも書かれていない大きな石碑もありました。それは、亡くなった皇帝があまりにも暗愚だったため、讃える言葉も無かったためだそうです。あまりにも露骨な・・・。科挙で這い上がってきた英才たちは、暗愚な皇帝を、心の奥では馬鹿にしていたんでしょうね、きっと。バスのなかでは、中国のお菓子の試食販売会が開催されました。お勧めの胡麻と蜂蜜のせんべいを購入。もとは6個で1パックだったけど、皆で分けて2個だけ買いました。昼食は四川料理です。お店は1階が大土産物店、2階が大食堂になっているところで観光客ばかり。日本人を含めた外人率が高かったです。どのお料理もまんべんなく赤く染まっております(笑)私は結構いけたけど、辛いのが苦手な人には辛かったかもしれない・・・。麻婆豆腐の辛さは、半端なく、美味しかったです。このときの話題は宦官の手術のこと。手術は成長するにつれ何度か施されるという話をどこからか聞いて、敬愛するTさんが「切ってもまた生えてくるのか知らん?」とのたまったことで火がつきました。たまたまこのテーブルには男性がいなかったので、おばさんたちの手術に対する疑問と憶測はとどまるところを知りません。個室なので日本語での大激論も遠慮することはありません。で、結論はつかず・・・。蒸し返したくありませんが私は帰国後ネットで調べました。<春児、よくがんばったね>
2012年10月11日
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9月22日、私はその敬愛するTさんにひどいことをしてしまいました。太極拳の朝練習があるので、6時にレセプション前に集合・・・と記憶していた私は、前夜携帯の目覚まし時計を5時半にセットしていました。で、当然鳴りました。「Tさん、起きましょう」「急いで支度しましょう」などと言っていたのですが、出掛ける段になって外を見ると暗い、暗すぎる。「モーニングコールが5時半にくるはずだったけど、まだこないねぇ」とTさん。もしやと思って現地時間に直しておいた腕時計を見るとまだ5時前・・・しまった!携帯の時間を中国時間に合わせていなかった!いままで海外に行っても自動的に現地時間に合わせられていたから、中国でもそうだと思ってたら、どうやら違ったようです(汗)昨日も遅くまで動き回っていて疲れたはずなのに1時間も早くに起こしてしまった!心は平身低頭しながらお茶を入れて時間の経つのを待ちました。で、日本時間から1時間遅れて5時半のモーニングコールがきました。も・もうしわけない。それでやっと5時50分になったところで「さあ、行きましょう」とTさんを促し外に出てゆっくり歩きながらレセプション前に行っても、誰も来ない(ふたたび汗)しばらく竹林のなかを散策したり、宴会用の建物を覗いたりしていたらやっとM先生がいらっしゃいました。「6時半集合ですよね」え~!!またしてもいい加減なことをしてTさんを惑わしてしまった。もう、私のことは信じないでください。そんな私にも怒らずいてくださるTさん。ますます敬愛の念を深めたのでした。早起きは3文の得と言っても、この場合はただの迷惑。この日このホテルではガーデン・ウェディングがあるらしく、庭にいすを並べていたり・・・小さな建物を丸ごと装飾していたり・・・こういうのを堪能できたということで・・・(汗)さて、中国時間で朝6時半。ガイドの李さんや王さん、ツアコンのSさんを含めて全員集合しバスに乗って向かったのは日壇公園。北京には紫禁城を真ん中にして、北に地壇公園、西に月壇公園、南に天壇公園、そして東に日壇公園があるのですが、それ以外にもたくさん公園があって、そのどこも市民の活動の場となっている・・・はずです。中国の人って朝早く、ジム代わりに公園に行って思い思いの運動をしているようです。太極拳はもちろん、社交ダンスや創作ダンス、盆踊りみたいなのもあったし、楽器の演奏もしていました。だから朝の公園は賑やか。大音量でCDをかけるグループもいるのでちょっと迷惑だったりして・・・私達の後ろでは黒いベリーダンス風の衣装を着たおばさんたちがタイの踊りのような太極拳のような不思議な体操を始めていたりして・・・それも含めて中国の朝の景色です。もともと私が太極拳に興味をもったのは、こうして公園で無心に動いている中国人のグループを見たことからなので、この景色には魅かれます。私達はここで中国太極拳界の重鎮・李乗慈先生とそのお弟子さんたちと待ち合わせしていました。李先生がどんなに偉いかというと、国家級社会体育指導員・栄誉国家級武術裁判員和国家武術委員、北京市呉式太極拳研究会会長、武術段位制首批八段で、勲章を貰っていて・・・。中国語なのでよくわかりませんが制定太極拳の塘路を決めた中心の一人だそうです。本もたくさん書かれていて、海外でも指導していらしたそうですが1929年生まれの82歳。公園に現れたときには身内の方に支えられながら杖を突いていらしたので、〈実際はお弟子さんが教えてくださるのね・残念だけど李先生の動く姿は拝見できないのね〉と思っていたのですが、いざ練習をはじめると、はじめは声だけ、そのうち腰掛けていたベンチから立ち上がり、手取り足取り、仕舞いには私のお尻の角度がちがうとピチャっと叩いて(笑)その熱心さには皆驚きました。厳しいのですが、説得力があります。呼吸一つをとっても、その時の李先生の体の様子が変化するさまを、実際にその体に触れて確かめるよう触らせてくれたり。思わず李先生のパワーを頂きたくて、たくさん触れさせていただきました。朝ごはんまえの1時間とはいえ、密度が濃い・・・。疲れてホテルへと戻る私達・・・日本人だってばれているでしょうね。 ホテルに戻ってこのあとの観光に備えて着替えました。この時期、北京は寒いはずだったのに、連日30度近くになるみたいで、日本と同じ異常な夏のようです。朝食はホテルのこじんまりしたレストランでバイキングでした。メニューは、パン・お粥・焼きそば・野菜の炒め物や果物・・・。スイカがとても美味しかったです。全体には可もなく不可もなくってところでしょうか。オムレツのブースもあったのですが一皿に卵3個を使うと聞いてやめました。9時半、ホテルを出発して十三陵へ向かいました。この日は土曜日なので行楽に出掛ける車が多く、高速道路もしばしば渋滞です。中国の人々はこうして休日にマイカーで行楽に行く余裕ができてきて、いままさにどんどん出掛けるているのだそうです。これまで世界遺産だとか観光地だとか言っても、外国人観光客が行く場所でしかなかったのに、中国の人々がこぞって観光に出掛け、自分の国の素晴しさを確認しているのです。いま自信をつけてつつある彼らの息遣いが、この車の流れから感じられるようです。
2012年10月11日
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北京でのナイトライフ、それは観劇です。京劇を鑑賞しに、とある劇場へバスは向かいました。これが京劇の常設劇場です。 (入っていくスレンダーな女性はガイド手伝い兼カメラウーマンの王さんです)中庭があったりトイレが粗末だったり・・・かなり場末の雰囲気ではありますが、中国の伝統的なものを鑑賞するには雰囲気抜群です。場内は、1階席は平たい床の上に四角いテーブルと、それを囲むように置かれた椅子が数客。テーブルにはお茶とお菓子や果物の用意があります。2、3階席は桟敷のように区切られていて、規模は小さいけど、まるでオペラ座のようです。ステージは能舞台のように囲われた空間で、大道具は置かない決まりだそうです。ここで観たのが…ん~題名はわからない(汗)演目はふたつで、はじめのものは恋する村娘と世話焼きばあさんの話。もうひとつは、夫のために門外不出の薬を持ち出した白蛇の精が制裁を受けるという話。ストーリーは単純です。特筆すべきはその発声、しぐさ、いでたち、そして殺陣。歌舞伎のように、約束事の上に成り立った演劇の面白さがふんだんにあって、とても楽しめました。深く京劇を理解していれば、素養があれば、もっともっと楽しめたのかもしれません。イヤホンガイドを渡されたので、ストーリーはそれで把握できました。でも、このイヤホンガイドが実況中継的なものではなく、解説文をただ読み上げている方式だったので、ときどき邪魔になりました。しかも同じ話をリピートしているし。これならリーフレットに書いて渡してくれれば記念にもなって良いのに。一番面白かったのは殺陣です。動作のなかに太極拳の要素や太極剣のきめポーズが入っていて、そのたびに「ほぅ~」と見惚れてしまいました。演じているのはスレンダーな女性でした。あの烈しい動きでも汗ひとつかかない・・・訓練の賜物でしょうか。でも、いま目に浮かぶのはあの世話焼きばあさんのインパクトありすぎの顔です(笑)それから村娘の持っていた布が汚れていたこと・・・舞台がとても近いだけに気になってしかたない。客は海外からの観光客(わたし達とヨーロッパ系の人達)がいるだけで、とても空いていました。経営難なのかしら・・・。この劇場へ向かうときだったかな?天安門広場のまえをバスで通り、見学したことになりました。暗くなっているし、外には出たくないのでこれで充分です。それにとにかく広い・長い。徒歩だとしたらどこをどう見学したらよいのやら。どのくらいの規模かというと、天安門広場が面している長安街という片側5車線、両側で10車線の道は直線で13.4キロつづいているという・・・ちなみに有事には滑走路として使うことを想定していて道幅100メートルのところもあります。(非常時には党幹部がここから逃げ出せるように?)その物量作戦、さすが中国共産党です。向かうところ敵無しってかんじですね。このあとやっとホテルへ。竹園賓館の紹介はホテルのホームページからコピペします。~~~北京竹園ホテルは鼓楼西の静寂な路地裏に位置し、古典式な中国庭園建築である。もともとは清の時代末期の郵便大臣-盛宣懐の私邸で、また伝説により、ここはかつて宦官-安徳海のガーデンだったようです。敷地内の楼閣がお互いに繋がり、回廊がうねっていて、竹の林が沢山植えており、築山と噴水が散在しています。園中の至る所まで名人の書画作品がかけられ、濃厚な中国文化雰囲気を実感できます。 ホテルはツーインルーム、シングルルーム、スイートルーム、VIPスイートルーム、中国庭院式スイートルームなど各グレードの客室がある。古風の客室が風雅かつ心地良いである。~~~と、ちょっとビミョーな日本語がご愛嬌でしょう。バスはホテルのある路地のなかにまでは入ってくることができないので、わたし達は表通りでおりて、数分胡同(フートン)を歩いてホテルに着きました。中庭に面していくつかの建物があって、そのなかのひとつがレセプションになっていました。説明文にもあるようにかなりディープな空間でした。わたし達の客室は回廊を少し進んで、竹林の横を通った先にある3階建ての(エレベーターなし・荷物はボーイさんが運んでくれない・涙)まぁ近代的と言えば近代的な建物のなかでした。わたしは今回も敬愛するTさんと同室にさせてもらいました。
2012年10月10日
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中国・北京への太極拳旅行への参加を決めたのは、まだ日中国交正常化40周年記念行事が行われる予定があった8月のことでした。それがまさかの急転直下・・・中国国内でこんなに反日感情が高まってしまうとは!テレビではあちこちでおきたデモや暴動騒ぎや日系企業の焼き討ちを何度も放送しているし、ネットでは、中国に住む日本人が外に出られない状況だというし。これで機嫌よく「いってらっしゃ~い」と送り出してくれるほど、私の家族は鷹揚ではありませんでした。ムスメに叱られオットに呆れられ・・・でも、行っちゃいました。北京♪9月21日朝6時に最寄り駅に集合し、電車を乗り継ぎ羽田空港に着いたのは1時間後。ここで他の地域からの参加者と合流し、ツアコンのSさんと合わせて総勢16人の旅の始まりです。中国猛者のNさんは一日前に北京入りして偵察開始?!9時半。北京への出張や旅行はキャンセルが相次いでいるらしくJAL機は大幅に定員割れの状態で飛びたちました。飛びたって少ししたら、隣の席のKさんが「あれ、あんなところに飛行機が飛んでる」と窓の外を指さします。しかし、いくら目を凝らしても機影は見えず・・・「どこですか?ずっと遠くで見えないわ」と応えると 「ほら、すぐ窓の外。翼があるでしょう?」って、それは私たちが乗っている飛行機の翼ですから!(爆笑です)この日のランチは機内食です。炊き込みご飯はべちゃべちゃしていて不味かったそうです。わたしは洋食にして、しばしパンとはお別れ。映画は「テルマエ・ロマニ」を鑑賞している人が多かったようです。北京国際空港は4年前のオリンピックを機に新らしくなったようで、広くコンテンポラリーな空間となっていましたが少し暗かった。省エネですね。入国審査を終えて出た場所の両側に長さ数十メートルの絵巻物が飾られてあったのは圧巻でした。中国に来た~!って気分になれます。さっそくチャーターしてあるバスに乗り込みます。バスの運転手も、現地ガイド兼通訳の李さんも、これからの四日間、わたし達と生死を(大げさね)共にしてくれるとのこと。人ごみのなかでは日本語を話さないように、目立った行動はしないようになどなど、この時期だからこそのビミョーな注意を受けました。でもバスのなかは日本租界。ちょうど二人掛けの座席をひとりずつ占領しても良いくらいのバスだったので、のんびりリラックスして頤和園(いわえん)に向かいました。~~某サイトからコピー~~頤和園は万寿山とその南に広がる昆明山の総称で、面積は約290万平方メートル、背後に聳える玉泉山や西山を庭園の風景の中に取り入れている、北京最大の皇家園林です。1750年に清の乾隆帝が母親の還暦を祝うために造営した庭園が始まりで、杭州の西湖を模した昆明湖や、中国伝統の神仙蓬莱思想が庭園の各所に表現されています。~~~~面積の4分の3を占める湖は人造湖(水深2メートル)というか、掘って水を溜めたそうで、その時に余った土を積んで万寿山などを造ったそうです。まさに人海戦術!労働力の豊富さ!後ろにそびえているのはお寺です。西太后は毎日お参りに行ったそうです。纏足していて長く歩けなかったでしょうから、輿に乗っていったのでしょうね。たいへんだわ、使われていた人たちは。ここには西太后の逆鱗に触れた光緒帝が幽閉されていた一郭があり、その狭さや殺伐とした設え(図書室は必要ないと判断され煉瓦で閉ざされていたり)に、驚きました。こんなに美しい回廊が700メートルも続いているのに、そこには7000枚を越える絵画が施されているのに、光緒帝は散策も許されなかったとは・・・。無口に観光し(日本語が聞こえると耳障りに思う現地の方もいるのではないかとの配慮)再びバスに乗って北京の中心に向かいます。視界はよくありません。スモッグと霧のせいだそうです。車道に止めたリヤカーの陰で昼寝をしている人がちらほら・・・危ないよ~。車の量は多いです。渋滞がしょっちゅうだというのには納得です。駐車場の数の2倍、車が走っているそうです。車庫証明はどうなっているのかしら。この日、一番多く見た外車はベンツです。それからワーゲン、アウディ、ヒュンダイ。人気だという日本車はまったく見当たりません。この時期、なにをぶつけられるかわからないものね。しかし、洗車をしていない車が多い。アメリカだってここまでひどくは無いと思います。日本の清潔さが異常なのかもしれないけど。ここで、ガイドの李さんからの豆知識を・・・北京市は日本の四国とほぼ同じ面積だそうです。中国では、省のなかに市があって、市のなかに県がある、という構造で、日本とは規模がちがうのはあたりまえです。現在1万円は720元。1400円が100元と換算するといいそうです。わたし達も両替はバスの中で李さんにしてもらいました。そして到着したのが火鍋料理『小肥羊』羊肉が苦手な人も多いので牛肉の割合が多かったようです。薬膳鍋ですね。美味しかったです。鍋料理のほかにつきだし的なお皿がいくつも出てきました。すべて大皿料理です。中国だ!そして北京のナイトライフへ・・・
2012年10月09日
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