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新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。さていきなり昨年の話で間抜けですが(^^;)、昨年のコンサートのまとめを書いてなかったので、書こうと思います。 まずはマーラーのコンサート。 -----------------------------------------------------------------------2番 エッティンガー/東フィル 4月4日 オーチャード 金/神奈川フィル 5月29日 神奈川県民ホール インバル/都響 6月19日 サントリー3番 インバル/都響 3月30日サントリー 同上 3月31日 サントリー 金/神奈川フィル 4月23日 横浜みなとみらい 斉藤/水星響 5月1日 東京文化会館 シュピーラー/PE0 8月7日 サントリー 尾高/札響 9月17日 キタラ 同上 9月18日キタラ ヤンソンス/コンセルトヘボウ 11月21日 ミューザ川崎 同上 11月22日サントリー (メータ/イスラエル 11月4日東京文化会館 バレーの伴奏:第4,5,6楽章) (カンプルラン/読響 11月29日サントリー ブリテン編曲による第2楽章のみ)5番 ビシュコフ/N響 2月13日 NHKホール 上岡/ヴッパータール 10月18日 サントリー6番 アシュケナージ/N響 6月17日 サントリー メッツマッハー/新日フィル 11月 6日 すみだトリフォニー7番 セーゲルスタム/読響 2月19日 サントリー 高関/新響 7月18日 東京芸術劇場8番 レナルト/東フィル 3月 4日 新宿文化センター大地 カンプルラン/読響 7月 8日 サントリー9番 大友/東響 2月14日 東京芸術劇場 ブロムシュテット/N響 4月10日 NHKホール ゲルギエフ/ロンドン響 12月 1日 サントリー10番 飯森/東響 1月30日 ミューザ川崎歌曲 藤村実穂子(メゾ)/リーガー(ピアノ) 11月11日 紀尾井ホール--------------------------------------------------------------------------------- 2010 年は3番を沢山聴けた年でした。ヤンソンス&コンセルトへボウのサントリー公演を筆頭として、インバルの3月31日公演や、札響の演奏会など、印象に残る 数々の3番を聴けました。しかもメータ&イスラエルによるベジャールのバレーの伴奏としての3番や、ブリテン編曲の第2楽章という、滅多に聴けない稀少な ものまで聴けて、うれしい限りでした。稀少といえば、10番全曲を飯森&東響で聴きました。演奏は、良くも悪くも優しいマーラーで、物足りなさはありましたが、やってくれるだけでもありがたいことです。(そういえば昨年秋にバルシャイ氏がなくなられましたね、御冥福をお祈りいたします。) 3 番以外ですばらしかったマーラーは、エッティンガー&東フィルの2番、ビシュコフ&N響の5番、セーゲルスタム&読響の7番、カンプルラン&読響の大地の 歌などです。エッティンガー以外は記事に書きそびれてしまいましたが、特にカンプルランの大地の歌は、読響の精妙な音と、エカテリーナ・グバノヴァさんと いうロシアのアルト歌手がすばらしい歌で、非常に聴き応えがあり大満足しました。それからこれも書きそびれてしまいましたが、2009年に 続いて紀尾井ホールでリサイタルを行った藤村実穂子さん。2009年はシューベルト、マーラー、ワーグナーで、2010年はシューマン、マーラー、ブラー ムスでした。2年ともマーラーが入っているのがうれしいところです。しかも今回のピアノは前回と違ってウォルフラム・リーガーさんでした。2003年に トーマス・ハンプソンによるオール・マーラー・リサイタルをサントリーで聴いたときに、このリーガーさんがピアノを弾いていて、本当にすばらしいピアノで 感激したことが強く印象に残っています。今回もこのリーガーさん、深い詩情をたたえたピアノで、藤村さんとともに、絶品の歌を聴かせてくれました。 2009年も素敵なリサイタルでしたが、今回はそれを上回る、すばらしいリーダーアーベントでした。2010年は大植、コバケンの両巨頭が マーラーをやらない、と思っていたら、コバケンは4月に自らの誕生日コンサートで復活を演奏したのでした。しかし僕がこの演奏会の存在を知ったのは比較的 遅くて、もはや都合をつけられず、聴けなかったのが残念でした。それ以外には僕の知る限りコバケンがマーラーを振ったのは、唯一おおみそかのジルベスター コンサートでカウントダウン演奏で復活の終楽章をやったくらいです。来年はもう少しマーラーをやってくれるとうれしいのですが。。。さて 2011年は、どんなマーラーが聴けるのでしょうか。大地の歌の演奏ラッシュが目立つなかで、なんといっても大植さんの大地の歌がはずせません。あと名古 屋のアマオケによるマーラー音楽祭というのが始まりますね。このすごいイベント、少しでも聴きに行きたいと思っています。
2011.01.02
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ヤンソンス&コンセルトヘボウのマーラー3番レポート、最終回の今回は、ヤンソンスを中心に書いてまとめてみようと思います。ヤンソンスのマーラーを聴くのは、僕は今回が初めてでした。結論からいうと、マーラーに特別な濃い思い入れは感じられませんでしたが、最初から最後まで、実に丁寧な音楽作りで、高い次元でバランスのとれた、名演奏のマーラーを聴けました。ヤンソンスの第一楽章は、テンポの取り方に特徴がありました。基本テンポは普通でしたが、じっくり表現したいフレーズにさしかかると、その中でだんだんとテンポを落としていく傾向が目立ちました。その結果、シャープでスマートなスタイルではなく、どちらかというと後ろに後ろにと腰が残っていく重いスタイルでした。僕としては基本的にはこういうスタイルは好きですが、ところによっては、もっと流れるような流麗さが欲しいと、ややもどかしく感ずることもありました。もっとも3番の場合、第一楽章の表現はかなり難いと思います。第一楽章は、すこぶる多種の「美味しい」内容が、ごっそりと含まれている音楽ですから、1回の演奏ですべてを表現し味わい尽くすのは不可能だろうと思っています。その中からどういう内容が強調されて出てくるかという、主に指揮者の解釈面での方向性が重要です。それと別に、オケの音響的な乗りの良さ(出だしなので、エンジンの回転がうまく上がって良い音が出ているかどうか)という問題も大切です。この両方とも高次元で充実している演奏には、そうなかなか遭遇できないです。大雑把に言ってしまうと第一楽章には、重く厳しい面と、明るく喜ばしい面とがあると思います。凡庸な演奏では、どちらの面も出てきません。重く厳しい面は、優れた演奏によりしっかりと表現されることを、ときどき体験してきました。その筆頭が2001年のベルティーニ&都響です。ベルティーニの第一楽章は、終楽章までの一貫した設計が完全にできている中でぴしっと位置づけられていて、非常に厳しい、峻厳そのものの息詰まる音楽、背筋がぴんと伸びるような音楽でした。(これはこれで本当にすごかったですが、楽しくのびやかな表現がもう少し前面に出るときがあってもいいなと思いました。)一方、明るく喜ばしい面を充分に表現している演奏は、そう滅多に出会えません。だいぶ以前で細部の記憶はありませんが、1994年のコバケン&東響はその貴重な例のひとつです。近年では、何といっても2005年の大植&大フィルが抜群に素晴らしかったです。夏の行進が、これほどいきいきと楽しく喜ばしく演奏されるのを聴いたことがなく、うきうきと心がはずんでくる第一楽章でした。反面、重く厳しい面に関しては、重さは出ていましたが、やや鈍重な感じで、厳しさの表現までには至っていませんでした。また、当時の大フィルのホルンとトランペットの非力さは、結構悲しいものがありました(今ではかなり進化をとげています)。でも、これまでに僕の体験した第一楽章のマイベストは、この演奏です。それから、忘れがたい名演のひとつ、2002年のシャイー&コンセルトヘボウに関して言うと、特に東京公演の第一楽章は、オケのエンジンがかからず、しかもホルンとトロンボーンの鳴りが不調で、これがコンセルトヘボウの音かと疑うような貧弱なものでした。シャイーの棒も、何を表現したいのかまとまらず、不完全燃焼の第一楽章でした。このように本当に違いが大きく出る第一楽章です。今回のヤンソンスは、ベルティーニのように徹底して厳しい音楽ではなく、大植さんのように喜び・楽しさに溢れた音楽でもありませんでしたが、その両者の面がどちらも程良く表現された、バランスの良い好演でした。サントリーでは第一楽章からオケが本来の実力を発揮していましたので、オケサウンドでの充実という面でも、横綱級の貴重な第一楽章でした。第二楽章、これもある意味むずかしい楽章です。安易に演奏されてつまらない音楽になってしまうことが少なくないです。この楽章をきちんと演奏してくれるかどうかに、3番全体に対する指揮者の姿勢が如実に現れると思います。ヤンソンスは、しっかり丁寧に演奏してくれて、良かったです。第三楽章は、ポストホルン篇に書いたように、ポストホルンの左右への振り分けがユニークな試みだったのと、ポストホルンの音色のゴージャスさが圧巻で、稀有な魅力の第三楽章となっていました。第四楽章で、オーボエ・ソロで「自然音のように、引き上げて」という指示のある、スラーのついた三度音程の上昇音型が出てきますね。この音型が3回繰り返して出てくるところが、楽章の初め頃、中頃、終わり頃の3箇所あります。ヤンソンスはその3箇所すべてで、2回目の音量を1・3回目よりも一段下げてppで演奏していました。これはなかなか印象的で、このあたりの音楽の陰影を深めていました。とても良かったのであとでスコアを見たら、そういう指定は特に書いてなかったので、ヤンソンス独自の考えと思われます。(このオーボエの音量変化は川崎、サントリーとも同じに実行していました。)結局第三、第四楽章は、ロイビンさん(ポストホルン)、ラーソンさん(アルト)という豪華助っ人(^^)が存在感たっぷりの演奏をくりひろげ、かつヤンソンスの細心な工夫もみられて、新鮮な魅力ある、とても聴き応えある音楽になっていました。またサントリーではPブロックの不手際事件というアクシデントがありましたが、終わってみれば声楽陣の配置、入場、起立・着席などに、ヤンソンスは特別な奇策はとらず、川崎、サントリーともにほぼ通常の方法を手堅く実行して、引き締まった良い結果をもたらしていました。終楽章。これもバランス良く、オーソドックスに丁寧に歌い込まれた演奏で、オケの力とあいまって、すばらしい名演でした。(今回のヤンソンスの終楽章は、僕にとっては、比類なき高みに達していたベルティーニやシャイーの終楽章と肩を並べるまでには至りませんでしたが、ここまで充実した終楽章なら、大々満足です。)レポートの最後に、3番の終結の音、終楽章の最後に長~く伸ばす主和音(第328小節。この最後の和音はとても長いですが、スコアではたった1小節で、全音符にフェルマータがついて書かれています。)について、書いておきます。この長い和音、普通は開始時の音量のまま、最後までクレッシェンドせずに演奏されますね。スコアで見ても、この少し前からの最後の3小節は、木管と弦がff、金管とティンパニがfというシンプルな音量指定のままで、最後まで音量変化の指示はまったくありません。さてこの最後の主和音ですが、ヤンソンスは川崎では、音の後半をクレッシェンドというか、約3段階で音量をあげていってフィニッシュしました。ここをこのように音量増大して締め括る演奏は珍しく、CDで僕が認識しているのは二つだけです。ひとつはパーヴォ・ヤルヴイ&フランス国立管のCD-R(2002年演奏)。もう一つはスヴェトラーノフ&ロシア国立響のCD(1994年録音)です。特にスベトラーノフは非常に個性的で、最後の3小節を、1小節ずつ段階的にクレッシェンドしていくという感じの豪快な方法で締め括ります。しかしこういうクレッシェンドは、僕としては違和感があります。3番の音楽は、そのように音量をあげて力をこめて終わるのはそぐわない音楽のように感じています。力は抜けていて、自然体で、いわば大自然と繋がっている喜びを感じているような音楽に思えます。(バーンスタイン&ウイーンフィルやアバド&ルツェルンのDVDに見るここの指揮ぶりは、まさにそういう感じがします。バーンスタインの指揮ぶりには茶目っ気さえ感じるし、アバドの表情は、内からのよろこびがにじみ出ている何ともすばらしい表情ですね。)なので、川崎でヤンソンスのこのクレッシェンド方式を目の当たりにしたとき、ちょっと違和感を感じていました。ところが、ところがです。ヤンソンスはサントリーでは、やり方を変え、あまりクレッシェンドしなかったのです。(僅かにしたようにも思いましたが、川崎のような目立つやり方ではなく、ほんの僅かでした。)それで僕としてはとても自然に、違和感なく聴けました。衛星放送された2月のアムステルダムでの彼らの3番演奏を後日見て確認したところ、やはりクレッシェンドしない、通常方式でした。ですのでヤンソンスは、川崎でクレッシェンド方式を試してみた結果、やはりクレッシェンドしない方が良いと判断して、元のやり方に戻したのだろうか、と想像しています。この想像を押し進めると、ヤンソンスは、おそらく他のもっと微妙な目立たない箇所でも数々の新しい方法を試みて、より良い演奏をたえず目指しているのではないか、と思ったりします。そのような意欲と努力の結果が、今回のような充実したマーラー演奏に結実しているのだろうなぁ、と想像して感心している次第です。いろいろ波乱がありましたが、終わってみれば全編にわたって素晴らしい名演。またひとつ、かけがえのない3番体験ができました。ヤンソンス、ロイビンさん、ラーソンさん、コンセルトヘボウの皆さん、ありがとうございました。
2010.12.01
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ヤンソンス&コンセルトヘボウのマーラー3番、続いてはポストホルン篇です。ポストホルンパートの吹かせ方に、今回ヤンソンスは斬新なアイデアを盛り込んでいました。ポストホルンの登場場面は大きく前半、後半のふたつにわけられますね。川崎、サントリーの両公演ともに、前半は向かって右方から、後半は向かって左方からと、違った場所(方向)からポストホルンを響かせていたんです。なかなか興味深い試みです。もしかしたら、郵便馬車がポストホルンを吹きながら遠くを右から左にゆっくりと通過していく、というふうなノスタルジックなイメージからの発想なのかもしれません。これに相当するような、日本人が郷愁を呼び起こされるサウンドスケープを挙げるとしたら、チャルメラのラッパの音が遠くの方でゆっくりと移動していくという情景でしょうか。もっともこれだと冬の寒い夜になってしまいますが(爆)。さて、まず川崎公演でヤンソンスが実際にどうやったかと言うと、前半は舞台上手の、舞台裏に通じるドアを開けて、そのすぐ裏で吹かせ、後半は舞台下手のドアを開けて、そのすぐ裏で吹かせていました。しかしこれは、どうにも距離が近すぎました。舞台のすぐ裏から吹いているのがもろに聞こえてきてしまい、マーラーの指定の「遠くから」という距離感が、まるでありません。これではあたかも、右隣の家で吹いていたポストホルンが、次に左隣の家に移ってそこで吹いているのを聴いている、という感じです。(僕は比較的舞台に近い席で聴いたので、「近さ」を強く感じやすかったということはありますが、それにしても近かった。)この点(近すぎたということ)を除けば、他は素晴らしかったです。音色はこれぞポストホルンという美しいものだったし、音程も、歌い回しも、申し分ありません。ただただ、惜しむらくは、この距離感の欠如でした。近すぎると、どんなに名人が吹いても、音のアタック時に微妙な雑音成分が、ときにかすかに聞こえて来ることが避けられません。そのために、何と言ったらいいでしょうか、自分の居場所と、奏者の居場所が、同じ空気で直接つながっている空間だということがあらわになり、すなわち「現実世界からの音」になってしまいます。ある程度の距離感は、そういう現実のつながりをなくすために必要なのだと、僕は思います。マーラーにおける「遠くからの音」は、ポストホルンに限らず、6,7番のカウベルにせよ、復活でのバンダにせよ、そのための最低限の距離感が必要だと思うんです。ただドアの裏でやればいいというものでは決してない。そういう意味で、川崎公演のポストホルンは、技術、音色は実に素晴らしかったですが、至近距離すぎるために、現実世界の音として響いてしまい、郷愁のような感興が喚起されてこず、僕としては非常に残念でした。。。(念のため書いておきますと、距離感については、聴く座席の位置によって相当印象が異なってくることはもちろん承知しています。比較的舞台に近い席で聴いた一聴衆の感想ということで、ご理解ください。)翌日のサントリー公演。僕の座席は川崎よりも舞台にさらに少し近い席でしたが、川崎よりも明らかに、遠くからの音として聞こえてきました。そしてホールの空間にたっぷりと響いていました。そのため、前半は右から、後半は左から、という違いが川崎ほど明確には区別しがたく、前半はちょっと右寄りかな、後半はちょっと左寄りかな、という聞こえ方でした。これはなかなかいい感じです。サントリー公演のポストホルンは、これまで僕が聴いたなかでは、近距離の部類にはいるものでした。けれど、川崎公演よりは遠くから聞こえてきて、「現実世界とのつながりのない音」として響いていました。僕にとってはこれはすごく大事な点です。ポストホルンはこうでないと。これでこそ、今回の奏者の技術の高さ、音色の美しさが、充分に生きてきます。ポストホルン独特の魅力にあふれた美しい音が、遠くからやってきて、ホールに豊かに柔らかく響き渡り、素晴らしかったです。(今年3月のインバル&都響のときに惑わされてしまった僕(注1)が言う資格はありませんが、ポストホルンにしか出せない音色の美しさに、久しぶりにどっぷりと浸らせていただきました。)距離感という点でいえば、今年9月の尾高&札響での福田さんの演奏(「尾高/札響のマーラー3番(2日目)を聴く」の記事をごらんください)が、充分に遠距離からの響きで、最高(最遠)でした。それに対して今回のポストホルンは、音色の豊麗さが圧倒的でした。響きのゴージャスな美しさという点では、最高のポストホルンでした。これほどゴージャスでなくても良いから、こういう感じの音色で、もうちょっと遠くからの響きだったら、それが僕の理想のポストホルンかもしれないです。ところで一つわからなかったことがあります。僕の席からは、サントリー公演でどこのドアを開けて吹いたのか、確認できませんでした。2階客席部分のドアは、わかる範囲では開いていませんでした。舞台上の、舞台裏へのドアのうち手前(客席に近い方)側のドアも、開いていませんでした。サントリーには、舞台裏に通じるドアが舞台の奥の方の左右にもあるので、もしかしたらそこのドアを開けたのかもしれません。どなたかご存じの方がいらしたら、教えていただけると大変ありがたいです。そして、奏者のことを書かなくては。この美しいポストホルンを吹いた奏者は、僕は当然、先日のNHKの衛星放送で放送されたアムステルダムにおけるヤンソンス&コンセルトヘボウの3番演奏時に映っていた、めがねをかけた奏者だと思っていました。ところが川崎で演奏終了後、カーテンコールで呼び出されたポストホルン氏を見て驚きました。それと違う、あの人でした!今回、演奏終了後にバルブ付きのポストホルンを持って登場したのは、DVDで良く見覚えがある人でした。2007年のアバド&ルツェルン祝祭管との3番のDVDで、ポストホルンを持って登場している方です!この方は、1998年のアバド&ベルリンフィルの来日公演の3番でもポストホルンを吹いていました。(この公演はその後テレビ放送され、それを録画して見ていたので、良~く見覚えがありました。)この方、バイエルン放送交響楽団の首席トランペット奏者ハーネス・ロイビン氏だそうです。アバドの信頼あつく、そして今回もヤンソンスが、3番のためにわざわざ満を持して連れてきたのですね。まさに最強のポストホルン請負人!アバド&ルツェルン祝祭管の3番のDVDには、最後に画面に各パートの首席奏者の名前がずら~っと出てくるのに、驚くべき事に、ポストホルンのハーネス・ロイビン氏のお名前は出てきません。DVDのブックレットにもお名前が載ってません。また今回のコンセルトヘボウのツアープログラムにも、ロイビン氏のお名前がまったく載っていません。これほど大活躍するポストホルン氏なら、お名前を出してしかるべきなのに、なんで出さないのでしょうか、謎です。。。ロイビンさんが遠慮深くて、名前を載せるのを固辞しているのでしょうか?そこで、この素晴らしきポストホルン奏者に敬意を表して、バイエルン放送交響楽団のサイトのメンバー紹介のページにリンクを張っておきました。ここにロイビンさんが写真入りで紹介されています。これでポストホルン篇を終わります。次はヤンソンスですね。ちょっと疲れてきましたが(^^;)、頑張って書きます。-------------------------------------------------------注1:インバル&都響のときに、ポストホルンパートの使用楽器についてまんまと惑わされてしまった僕のくやしくも悲しい体験については、「ところでポストホルン?(インバル/都響のマーラー3番追記)」の記事をごらんください。
2010.11.26
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ヤンソンス&コンセルトヘボウのマーラー3番、まだまだ書きます。これからは川崎・サントリーの両公演を一緒に、声楽のこと、ポストホルンのこと、ヤンソンスのことなど書いてみたいと思います。まずアルト独唱のアンナ・ラーソンさん。声の質が深く、言葉の発音がデリカシーに満ちていて、引き込まれずにはいられない名唱でした。アルト用に書かれているこの曲は、メゾソプラノでももちろんいい歌唱はありますが、やはり本来のアルトで歌われてこそ真に深い味わいがでるということを、まざまざと実感させてくれる、すばらしい歌でした。このラーソンさん、1998年のアバド/ベルリンフィルの来日公演の3番でも歌っていらっしゃいました。また、2007年のアバド&ルツェルン祝祭管の3番のDVDでも歌っている人ですね。アバドの信頼があついのも、充分納得できました。3番の第四楽章の歌で僕がこれまででもっとも感銘を受けたのは、2005年に大植&大阪フィルと歌ったアルトの坂本朱さんの歌唱でした。そのときのことが思い出される、ラーソンさんの深い歌でした。独唱者の配置も、良かったです。オケの中で、ヴァイオリンと木管(ピッコロおよびファゴット)の間あたりに位置していました。このようにオケの中に独唱を配置する方法は、たまに見かけます。マーラーの指定は、合唱、ベル、独唱をともに「高いところ」ですので、それとは異なるわけですが、独唱者がオケに囲まれてオケと自然に一体化したような感じがして、これはこれでとても好きな方法です。独唱者の登場の仕方も、この配置の特徴を生かした、自然でさりげない登場でした。第一楽章と第二楽章の間合いで、なんとなくまだ雰囲気がざわざわしているときに、すっと出てきて、オケの中の席にすっと座りました。もちろんヤンソンスもこういう登場をさせようと思っていたわけでしょう、ことさらに独唱者を迎え入れるという態度をとることなく、ヤンソンスがふつうに楽章間の小休止をとっているときに、独唱者がさりげなく入ってくると言う、両者の息があった、「心得た」入場でした。川崎ではここで僅かに拍手が起こってしまいましたが、サントリーではここで拍手が起こりませんでした。ここで拍手が起こらないと、緊張感が保たれていいものです。あと細かなことですが、いつものように起立と着席のタイミングについても書いておきます。独唱者の起立は、第三楽章と第四楽章の合間に、ヤンソンスの合図で立つという、ごくオーソドックスな方法でした。一方、着席のタイミングは普通より早めで、第五楽章の自分の出番が終わって少ししたときに、第五楽章の途中で座りました。この曲の第五楽章は、独唱者の出番が終わるのが意外に早く、楽章の真ん中をちょっと過ぎたところなんです。以前3番の別の演奏会で、独唱者が自分の出番を歌い終わってすぐにさっと座ったことがあり、音楽の流れをまったく顧みない感じで、ちょっと違和感がありましたが、今回は歌い終わったあと少し間合いをとって、音楽の流れを配慮したところで座りましたので、まったく違和感がありませんでした。座り方ひとつでも、差が出るものですね。本当にラーソンさん、すべてにおいて素晴らしかったです。あとこれは冗談ですが、ラーソンさんはかなり背が高いので、オケの中で立って歌っても、「高いところで」というマーラーの指示に、多少は近かったかもしれません(^^)。次に合唱についても、細かなことですが、いつものように書いておこうと思います。(ここから先はかなり細かい話なので、ご興味ない方は読み飛ばして下さい。)合唱団の入場と、起立・着席のタイミングは、川崎、サントリーとも全く同じです。演奏開始前に入場し着席して待機。そして第五楽章の開始時に、まず少年合唱団がばっと勢いよく起立すると同時に「ビムバム」と歌い始め、2小節ほど遅れて女声合唱が起立して、その後歌い始めました。第五楽章開始時に合唱が起立すること自体はわりあい一般的な方法ですが、その場合普通は、児童合唱と女声合唱は同時に立ち、そして立ち上がってさらに歌う体勢を整えるまでの時間として1~1.5秒位の時間をとり、その後に第五楽章が開始されます。しかしヤンソンスは、この時間をとることを嫌って、立ち上がってすぐに歌うというリスキーな要求を児童合唱にしたわけです。そのため、出番が少し遅れて始まる女声合唱は、無理にそのときに同時に立たせず、ちょっと時間差をおいて立たせたのでしょう。ばっと起立して間髪をいれず歌い始めるというのは子ども達は大変だったろうと思いますが、良く頑張ってきっちりとこの開始をこなしていました。ヤンソンスのこだわりには敬意を表しますが、この方式よりは、僕としてはやはり、第四楽章の開始時にあらかじめ立たせておく方法(2002年のシャイー&コンセルトヘボウがやっていた方法)が、安全で、かつ第四・第五楽章間の移行の静謐と緊張感が最大限に保たれて、ずっと良いと思います。合唱団の着席のタイミングは、ごく普通で、終楽章が始まって少しして、音量がやや盛り上がったところで普通に座りました。あと合唱団の配置です。川崎では、舞台上に全員が乗って、女声合唱が舞台の奥の正面で、児童合唱が舞台の下手奥に並びました。チューブラーベルは児童合唱のそばでした。川崎では、雛壇があまり高くなかったので、児童合唱も女声合唱も、比較的低い位置で歌っていました。そのせいもあってか、児童合唱は音量的にちょっと小さめで、聞こえにくかったです。サントリーでは客席(Pブロック)を使いましたので、高い位置からとなり、児童合唱も比較的良く聞こえてきました。(ただしチューブラーベルは川崎と同じに、普通に舞台上で、下手奥でした。)女声合唱(新国立劇場合唱団)は、いつもどおり、力ある安定したいい合唱を聴かせてくれました。今回、児童合唱が30人ちょっと、女声合唱が40数人でした。音量バランス的には、さらに児童合唱を増やすか、それが難しければ女声合唱を少し減らした方が良かったかもしれない、と思いました。ところで、マーラーの指定は「少年合唱」ですが、日本の演奏では、多くは少年少女合唱団で歌われますね。今回のTOKYO FM少年合唱団は、日本では貴重な少年合唱団のひとつで、マーラー3番にもメータ/バイエルン、ゲルギエフ/キーロフ、アルミンク/新日フィルその他、数々の出演歴がある合唱団です。おそらく日本の少年合唱団で一番多く3番演奏に参加していると思います。これからも頑張ってください。声楽陣はこれで終わります。次はいよいよポストホルン!次の記事に書きます。
2010.11.24
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11月22日、サントリーホールでヤンソンス&コンセルトヘボウ、マーラー3番を聴きました。彼らの本領発揮、実に見事な3番で、大々感動でした!指揮:マリス・ヤンソンスアルト独唱:アンナ・ラーソン女声合唱:新国立劇場合唱団児童合唱:TOKYO FM少年合唱団管弦楽:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団サントリーホールところで昨日のミューザ川崎では、広い舞台を利用して、声楽陣を含む全演奏者が、ステージ上に乗って演奏しました。P席(パイプオルガンと舞台の間の席)は、普通に客席として使用されていました。合唱団は、オケの入場と一緒に、あらかじめ舞台上に上がって、着席して待機していました。本日、舞台がそれほど広くないサントリーで、どう配置するのだろうか、そう思いながらホールにはいってみると(今回は開演より大分時間のゆとりをもってホールに入場しました)、昨日同様にPブロックにお客さんがぱらぱらと座っています。それでは合唱はやはり舞台上か?しかし舞台を見ると、舞台一杯に打楽器やら椅子が並んでいて、とても合唱団がはいるスペースはありません。あれ、それでは客席の他のブロックだろうか、そう思ってホール内の客席をぐるっと見渡しましたが、どこにもお客さんが普通にはいっていて、合唱のスペースを特別に確保している様子はありません。うーんそれでは合唱団は途中から入場して立って歌うのだろうか、しかしそれでは昨日とあまりにやり方が違うなぁ??等と疑問に思っていると、どうもPブロックの様子が変です。Pブロックの前から3列までの席にお客さんが着席すると、係員が近づいて来て声をかけ、しばらく話しあって、お客さんをどこか他の席に誘導していきます。これ、チケットをうっかり売ってしまったものの、あとからPブロックの前方3列を合唱に使うことに気が付き(あるいはその席を合唱に使うことに方針変更され)、そのために当日に、急遽お客さんに席の移動をお願いしているようです。異例の不手際です。昨夜のオケの乱調といい、この座席不手際事件といい、今夜も波乱含みの演奏会になるのか、と心配しました。そういえば、記憶があいまいなのですが、2002年のシャイーとコンセルトヘボウによるサントリーホールでのマーラー3番のとき、確か合唱団を含む全演奏陣が舞台上にぎっしりと乗って演奏していて、珍しい方法だな、と思った記憶があります。シャイーがそれを望んだとは考えにくいので、主催者がPブロックのチケットを売ってしまったのでシャイーはやむなく全演奏者を舞台上に乗せて演奏したのかもしれないです。今回は、ヤンソンスが譲らなかったのかもしれないです。(まったく想像で、真相はわかりません。)いずれにせよ誘導する係員の緊張はさぞやだったと思います。なんとか開演時刻のころには無事にPブロック前方3列のお客さんの移動が全員おわって、空きスペースが確保できました。Pブロックの4列目から後方は、普通にお客さんが座っています。オケの入場とともに、合唱団がPブロックに入場してきました。そして前方3列の、向かって左側に少年合唱、向かって右側に女声合唱が着席しました。入りきれなくて通路に座った合唱団員もいました。ともかくなんとかそこのスペースにおさまり、4列目から後ろは普通にお客さんが座っているという、異例の光景になりました。そのようにして始まった今夜の演奏会でしたが、演奏はすこぶる充実していました。音の鳴りっぷりが、昨日と全く違います。これが彼らの本気の演奏ですね。大感動です!ただし彼ら自身としては、おそらくこれでもまだ決して満足な出来ではなかったと思います。冒頭のホルンのユニゾンに約1名(?)、僅かな音のはずしがありましたし、第一楽章のピッコロには危うさを感じる時が少なからずありました(曲の後半ではなんとか復調しました)。アンサンブルも、僅かな乱れがないことはない(木管の音の出がわずかに遅れたり、ハープのタイミングが今一つ決まらなかったり)。・・・こんなことばかり指摘していると、あら探ししながら聴いているイヤな聴衆だ、と思われたらとても心外なので、一応弁明しておくと、何しろ昨日のことがありますから、ついついいつもより、ミスが出ないか気になってしまうという聴き方にはなっていたと思います。しかし今日のは、ほとんど気にならないミスなんです。ミスそのものの程度が、昨日より格段に小さいですし、何よりも、昨日とは気合いが違うんです。本気でひいている彼らに、もはや何の不満があるはずがありません。最後近くの静かな金管コラールのトランペットのハイトーン(練習番号26、第257小節)の超難所、ここは、皮肉にも昨日の川崎ではきっちり決まっていたのに、今夜ははずしてしまいました。でも、こういうミスはいいんです。これは仕方ない事故。昨日、今日と連続で聴いた人間としては、昨日との気合いの差があまりにも大きすぎて、何故に昨日もっと真剣にやってくれなかったのか、ということがちょっとだけ腹立たしかったですが、それはそれ、きょうの素晴らしい音楽をじっくりと堪能させていただきました。大感動のひとときでした。今年の3番の演奏会ラッシュの最後を締め括るにふさわしい、大横綱級の名演でした!まだまだ書きたいこといっぱいあります。アルトのこと、ポストホルンのこと、ヤンソンスのこと。きょうはこのくらいにして、また次の記事で書きます。
2010.11.23
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昨日(11月21日)、ミューザ川崎で、ヤンソンス&コンセルトヘボウのマーラー3番を聴きました。きょう(11月22日)夜に、サントリーで同演目の演奏があります。その前日の演奏会でした。指揮:マリス・ヤンソンスアルト独唱:アンナ・ラーソン女声合唱:新国立劇場合唱団児童合唱:TOKYO FM少年合唱団管弦楽:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団ミューザ川崎シンフォニーホール何よりも、オケが、信じられないほどの乱調でした。。。ワタクシ、オケのミスには寛大なほうの聴衆だと思っています。ちょっとやそっとのミスがあっても、それでがっかりしたり、感動が損なわれたり、ということはほとんどありません。もちろん技術的に完璧な演奏というのはすばらしいことだし、その価値はとても高いし、できれば高い技術の演奏を聴きたいです。でも音楽の感動の本質は、そことは異なるところにあると思います。だからこそアマオケの演奏からもこの上ない感動を受けることがあるのだし、そういう、技術以外のところを大切に受け止めたいと思っている聴衆の一人です。特にこの曲は、ポストホルンを筆頭として難しいところが多々あるし、そういうところで音がひっくり返ったり、あるいは音が出なかったりすることは、ある程度致し方ないことだし、その手のミスは演奏の価値とはほとんど関係がない、と常日頃思っています。しかし、今回はミスが多すぎました。しかも、難所での、ある意味仕方のないミスではなく、ごく普通のところの凡ミスの連続です。第一楽章序盤のトランペットの音欠落、ピッコロの音欠落、第三楽章のトランペットのミス、などなどが続きました。それでもまだ、こういう種類の管楽器の発音のミスは、1歩譲って、しかたない部類のミスにいれても良いかもしれません。しかしそれだけではないのです。アンサンブルの乱れ(縦の線の乱れ)が発生して音楽がほころびかけることが、少なからず繰り返されます。そしてさらに、第二楽章の途中、ヴァイオリンの一部が入りのタイミングを間違えて早く入りかけるし、第四楽章のホルンの一部も、やはり間違えて早く入りかけるという始末。これ、世界のトップオケとして、天下のコンセルトヘボウとして、ちょっとひどすぎると思います。こういうミスが繰り返されるというのは、単なる好不調の波というのを超えて、オケの気合いが抜けているのでは、と疑ってしまいます。ようやく第五楽章以降は目立つミスはなくなり、曲が良いだけに美しい瞬間が訪れてくるようになりましたが、なんとなくぴしっとしきれないうちに曲が終わってしまいました。サントリーの前日の公演。まさかまさか、手抜きということは、、、、、今夜、サントリーでまた3番を聴いてきます。今年1年の3番コンサートラッシュの最後を締め括るにふさわしい演奏を、コンセルトヘボウの名に恥じない演奏を、期待して行ってまいります。とりあえずオケの乱調のことだけ書いておきたくて、急いで書きました。ヤンソンスのこと、ポストホルンのこと、声楽のこと、その他のことは、後日あらためて書こうと思います。
2010.11.22
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11月4日、モーリス・ベジャール・バレー団他によるバレーを観ました。演目は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」と「春の祭典」、そしてマーラーの「愛が私に語るもの」でした。マーラーのは、交響曲第3番の第4、5、6楽章をバレーに振り付けしたものです。このマーラーのバレーのDVDは持っていて、いつか生舞台を見てみたいと思っていたのが、ついにその機会が到来しました。しかも今回、音楽演奏陣が豪華メンバー!なので、楽しみにしていました。僕が観たのは、二日連続公演の二日目でした。11月4日 東京文化会館大ホールモーリス・ベジャール・バレー団、東京バレー団振付:モーリス・ベジャール指揮:メータ管弦楽:イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団(以下マーラーで)メゾ・ソプラノ独唱:藤村実穂子児童合唱:東京少年少女合唱隊女声合唱:栗友会合唱団プログラムは、ペトルーシュカ(40分)、休憩(20分)、マーラー(50分)、休憩(20分)、春の祭典(35分)というヘヴィーなものでした。最初は東京バレー団によるストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」。ペトルーシュカの分身(3つの影)が出てきたり、鏡が効果的に使われた舞台装置で、普通にストーリーを追うのではなくて、ペトルーシュカの内面にスポットをあてたという踊りでした。東京文化会館大ホールは、かなり響きがデッドでなところで、しかもオケがピットに入っているので、音響的にはあまり期待していなかったのですが、オケは思ったよりも良く音が鳴っていて、十分に楽しめました。これなら次のマーラーも相当期待できそうです。そしていよいよ、モーリス・ベジャール・バレー団による、マーラー「愛が私に語るもの」。今回はバレーの舞台なので演奏陣の配置は気にしなくてもいいのですが、一応書いておくと、舞台上の左右両端の、幕よりも前の部分(オケピットの左右両端のあたりで、ピットよりもすぐ後ろ、左右に開いた幕のすぐ前の部分)に並びました。上手に児童合唱団、下手に女声合唱団が並びました。鐘はさすがにピットの中でした(^^)。そして独唱の藤村さんは、女声合唱のすぐ前に、目立たない感じで立ちました。「愛が私に語るもの」は、バレーの意味は良くわからないけれど、バレーと音楽とに引き込まれ、不思議な感動に包まれたひとときでした。メータの3番の通常のコンサート形式の演奏は、2005年にバイエルン国立管弦楽団とのものをサントリーホールで聴きましたが、そのときは終楽章のテンポの動かし方が不自然に大きくて、ちょっと違和感を感じました。今回は、そのときよりもずっと感動してしまいました。今回もテンポそのものはメータは比較的動かすのですが、バレーの威力でしょうか、違和感なく、素晴らしい音楽が伝わってきました。弦、特にチェロは美音でしたし、金管も、半分だけの演奏なのでスタミナ充分で、最後のコラールもばっちり美しく吹いてくれました。なお第四楽章での藤村さんの歌唱は、かなりドラマティックな歌い方でした。コンサートで聴いたらどう感じたかはわかりませんが、今回のバレーの舞台にはあっていて、良かったと思います。それにしてもベジャールはすごいものを作ってくれちゃいました。今日はもうこれで、おなかいっぱい、3番のあとに音楽は聴かない方が良いんだけど・・・などと思いましたが、帰ってしまうのは勿体なさすぎる(^^;)ので、休憩後の「春の祭典」ももちろん見ました。これはモーリス・ベジャール・バレー団と東京バレー団の合同出演でした。パワーと迫力あるバレーと音楽で、これも堪能しました。終演後、盛んなカーテンコールが続き、何度も緞帳があがったりさがったりします。そしてこれで最後かなと思ったとき、幕がもう一度あがると、ステージ上にはイスラエルフィルの人たちも上がっていて、全員集合です!上からは沢山の紙ふぶきが舞い降りてきて、金色にきらきら光って、みなを祝福するようで、とても素敵な光景となり、ホールは一段と高い拍手となって、幕を閉じました。もう本当に大満足の、バレーと音楽体験でした。・・・ところで、「愛が私に語るもの」のDVDを観た人はご存じでしょうけど、このバレーは、舞台装置の類はまったくなにもなくて、唯一最後の方に舞台の背景に赤い大きな丸い太陽が出ます。DVDだと、画面が変わったときに突然もう出ているので、どのように出てくるのか(下から出てくるのか上から降りてくるのか)わからないのですが、今回舞台をみて、わかりました。太陽は、上方からゆっくりと降りてきて、そして最初は黄色で、そのあと赤になりました。そして赤いまま一点に静止して、それで幕を閉じました。なるほど、これは日の出ではなくて、日の入りです。マーラーが3番を書いたのは、30歳代半ば、野心と若いエネルギーに満ちていた時代、後年のさまざまな苦悩が生ずる前の時代です。3番の音楽は、青年の音楽で、マーラーの音楽としてはもっとも生命肯定的な、前向きの音楽と思います。(8番がちょっと無理して生命肯定、愛肯定を主張しているのに対して、3番はもっと自然に生命肯定している音楽、と思います。)この3番の終結部について、村井翔氏は、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の末尾の夜明けのシーンとの関連を示唆しています。とても興味深いので、そこの部分を引用しておくと、”ティンパニが四度音程の連打を続けるコーダは、曲頭に有名なティンパニの四度連打があるシュトラウスの『ツァラトゥストラがこう語った』との不思議な照応を感じさせるが、シュトラウスが描くのが『ツァラトゥストラ』冒頭の夜明けの場面だとすると、この交響曲のコーダが描くのは『ツァラトゥストラ』末尾の夜明けのシーンだろうか。 「これは私の朝。私の昼が始まるのだ。昇ってこい、さあ昇ってこい、おまえ、大いなる真昼よ!」 ー ツァラトゥストラはこう語って、彼の洞窟を後にした。暗い山から昇る朝日のように、燃えさかり、力強かった。”(村井翔著、作曲家◎人と作品シリーズ「マーラー」 音楽之友社、209ページ。)僕はニーチェ哲学のことはさっぱりわからないし、『ツァラトゥストラ』も読んだことないですけど、確かに3番の終結部のイメージを、もし日の出か日の入りかと二者択一を迫られるとしたら、僕は迷わず「日の出」をとりますし、おそらく多くの人もそうだろうと思います。しかしベジャールは、あえて日の入りとした。DVDの解説に「愛が私に語るもの」についてのベジャールの言葉が載っていて、そのあたりのベジャールのイメージがわかります。そこを引用すると” ひとりの男が、今やその一生を終えようとする時、生涯の過程をふり返る ー 出会い、闘い、愛。暗闇から現れた男は、あたかも影のような女に従われて、太陽と光のなかへはいっていきます。この交響曲の最終楽章は、当初、「子供が私に語るもの」と題されるはずでした。ここに、マーラーの意図をはっきり読みとることができます。葛藤、悲しみ、そして成功に彩られた苦悩の半生を経て、彼は、長く苦しい人生のカオスを超越するこの楽観的な発想を、童心の中に見たのです。”(DVDビデオ、「モーリス・ベジャールと二十世紀バレエ団の芸術」の解説、7ページ。)ベジャール(1927-2007)がこのバレーを作ったのは1974年ということですから、47歳。マーラーが3番を作曲した30代半ばよりは年長ですが、まだそれほど歳をとったというほどではないです。けれど、ベジャールは、青年の音楽というよりも、人生の最後というイメージでこのバレーを作ったわけで、それが最後の「日の入り」に象徴されているんですね。DVDビデオ、「モーリス・ベジャールと二十世紀バレエ団の芸術」には、ボレロと、アダージェット(マーラー5番のアダージェット)、そして「愛が私に語るもの」が収録されています。
2010.11.15
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昨夜から一夜あけ、きょうは札響マーラー3番二日目。この日は15時開演でした。開演までの時間、近くを少し観光しようと、北大のポプラ並木を見に散策に出掛けました。北大キャンパス内にはいったところです。広い敷地で緑が多く、空気が爽やかで、とても気持ち良いです。のんびり歩くこと10分くらいで、ポプラ並木に着きました。由緒あるこのポプラ並木、老朽化がすすみ、台風被害で倒れてしまったものも多いということですが、まだまだ沢山のポプラが立ち並んでいます。長い年月の風雪に耐えた背の高いポプラの梢が風に揺らぎ、葉がざわめくさまを近くで見上げていると、あたかも年老いた賢人がちょっと不機嫌にぶつぶつ言っているような、独特の重い存在感があります。青い空で良い天気ですが、天気雨がたまにほんのわずかぽつぽつと、水しずくが垂れるように、落ちてきます。これは北大博物館、中では恐竜の展覧会をやっているようでしたが、今回は素通りです。キャンパス内は芝生も多く、小さな子供を連れて芝生で軽食を食べている家族などもちらほら見かけ、市民の憩いの場になっているようでした。気持ち良い散策を終え、ホテルに戻ってちょっと仮眠をとって休んだあと、いよいよホールに出掛けました。キタラは、中島公園という広い公園のなかにあります。池のほとりの小路を歩いていくと、キタラに到着です。正面エントリー。ホワイエ。きょうの僕の座席は、昨日と反対サイド、2階左のLAブロックのかなり後方寄り、サントリーで言えばLBブロックとLCブロックの境目くらいです。席に座ってみると、きのう見えなかったパイプオルガン右横のドアは、ここからもやはり見えませんでした。演奏は、尾高さんもオケも、初日よりも慣れた感じで、テンポは、はっきりとはわかりませんが、第一、第三、第六楽章は、初日よりもわずかに速めかなと思いました。昨日と同じ、丁寧な音楽づくりでしたし、オケの音は昨日よりこなれたという感じで、特に管楽器は総じて初日よりもスムーズな音が出ていたように思います。ただ僕としては、初日の慎重さからくる緊張感、テンポの遅さ(特に終楽章)などから、初日の方が大きい感動を受けました。福田さんのポストホルンパートは今日も美しく、完璧です。特に距離感に関しては、僕の席の位置関係から、初日よりもさらに遠くから、とてもとても遠くからのように響いてきました。僕がこれまで生で聴いた中でおそらく最長不倒距離(^^)です。というのは今回ポストホルンは、通常通り、ステージ下手側のドアを少しあけてその外で吹いていましたので、僕の昨日の右サイドの席からは、開いたドアが見えて、そこからの直接音成分が聞こえてきました。それに対して今日の席は左サイドで、ステージ下手のドアは見えず、間接音成分だけで聞こえてきたからです。曲が終わったとき、きょうも残念なことに、最後の主和音の残響がまだまだ大きく響いているうちに、盛大なブラボーと拍手が始まってしまいました。そしてカーテンコールもきのうと同じ、卒業されるクラリネット奏者への、尾高さんからのスピーチと花束贈呈と、それに対するクラリネット奏者のスピーチがありました。きょうはいよいよ二日目で本当に最後のステージということもあって、奏者のスピーチも感興が一段とこもった熱いもので、聴衆もあつい拍手を送りました。そしてそのあとには、きのうと同じく、尾高さんによる欧州演奏旅行の案内のスピーチがありました。尾高さんは、キタラは本当に素晴らしいホールであり、札響はここを拠点とするからこそこのような発展を遂げてきている、しかし札幌の皆さんはキタラの良さを良くわかっていないかもしれない、今度の欧州旅行ではヨーロッパの各ホールで演奏するので、是非演奏旅行に一緒にきていただきたい、そうしてヨーロッパのいろいろなホールの音をきいたら、ヨーロッパのホールもいいけれど、キタラはもっといいな、と感じてもらえるかもしれない、ということをお話されていました。これを聞いて僕は、もし曲が終わって残響が完全に消え去るまで拍手が起こらなかったら、キタラの良さがさらに鮮やかに生きてくるだろうな、そのようになってほしいなと、ちょっと思いました。それと、きのうも感じたことですが、尾高さんは照れ屋なのでしょうか、カーテンコールが短すぎるのが残念でした。僕たち聴衆が折角すばらしい音楽に感動して拍手を送っているのに、尾高さんはそれを相当早めに切り上げてしまい、卒業される奏者への感謝のスピーチと花束贈呈にはいってしまうんです。こちらとしてはもっと拍手して、今しがた終わった演奏そのものを称えたい、これを演奏した皆さんを称えたいと思うのに、それが充分にできずに終わってしまう、という感じがしました。もちろん定期演奏会ですから、長年演奏された奏者の方が卒業されるというのは相当な重みがあることですし、それについて花束贈呈し、多くの定期会員を含んだその場の聴衆全員が惜しみない拍手と感謝の念をおくるのは素晴らしいことだと思いますし、たっぷりとやってほしいことです。でも、今回の演奏そのものに対する拍手喝采を受け止めてもらう時間があまりにも短すぎます。もっと充分にその時間をとってから、そのあとで花束贈呈の段階にはいって欲しいと思いました。さて演奏会が終わり、一緒に聴きにきていた長年の友人とともに、福田さんのサインをもらうために、きのう確かめておいた楽屋出口にむかいました。古くからのマーラー・ブルックナーファンで、今回も一蓮托生で札幌遠征に来た友人です。(話がそれますが、彼が二日目の終演後に素早くオルガン後方の通路の様子を見に行ったところ、すでに鐘は撤収されていて、指揮者を見るためのモニターだけがまだ置いてあったそうです。)福田さんが都響在籍時代に、福田さんの素晴らしさを僕に教えてくれたのもこの友人です。それでふたりとも今回の札幌遠征の目的の一つが福田さんを聴くことでしたし、さらにできればサインをもらおうと考えていたわけです。出口で待つことしばらくして、福田さんが現れ、我々に快く、淡々とサインしてくれました。また折角の大好機ですので、使用楽器についてお尋ねしてみました。今回のポストホルンパート使用楽器は、C管のコルネットということでした。さらにベルティーニとの3番演奏時のポストホルンパートについてもお尋ねしたところ、ベルティーニとは2回やっていて、最初はヤマハのポストホルンを使ったが音程があまり良くなかったので、次のときはフリューゲルホルンを使った、と教えていただきました。最初のが1998年、次のが2001年で、僕は両方とも聴いてますが、この後者のとき(2001年横浜)、実演でこれほど完璧なポストホルンが聴けるんだ!と完全にノックアウトされたことを今でも鮮烈に覚えています。福田さんが演奏のたびにいろいろな楽器を試されているということがわかり、超貴重な収穫でした。福田さんの今後のますますのご活躍を応援しています。そしてそして、まことに勝手で贅沢なお願いですが、願わくば、いつかマーラー3番を、ポストホルンで再び演奏していただける日が来ますよう、願っています。ところで札響は来年に創設50年を迎えるということです。定期演奏会のパンフレットには、「2011 札響50年」へ、という楽団の歩みをたどる連載が載っていました。今回は7回目で、丁度、元トランペット首席奏者の杉木さんという方を迎えて、前首席で現副首席の松田さんと、現首席の福田さんとが3人で語るという、僕にとって実にタイムリーな記事でした。70年代~80年代の札響の金管を率いた杉木さんは、名手モーリス・アンドレの弟子だったそうです。そして福田さんはアンドレの弟子が札響にはいるというニュースに感動して、函館から札幌に通って杉木さんのレッスンを受けたということなど、いろいろと興味深いことが語られていました。この9月から芸術監督になられた尾高さんとともに、札響がさらなる発展・充実を遂げることを願いつつ、実り多かった札幌遠征のレポートを終えることにします。
2010.09.28
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(これはすぐ前の記事の続きです。)拍手は残念ながら、残響が終わらないうちに、始まってしまいました。拍手喝采の途中で尾高さんがマイクを持って登場し、この定期演奏会で卒業(定年退団)となるクラリネット奏者に花束を贈呈するというひとこまもありました。その後尾高さんは、ふたたびマイクとともに登場し、今度札響が欧州への演奏旅行に行くことなどをお話され、それでお開きとなりました。聴衆がホールを出始めたとき、僕は少しホール内で場所を移動して、ステージをのぞきこんだりして、鐘を探しましたが、鐘はどこにもありません。ステージ上にも、Pブロックにも、その周辺にも、どこにも見あたりません。はて一体鐘はどこにあったのだろう、と疑問に思いながら、ゆっくりとホールを出て、もうお客さんもほとんど帰って人もまばらになっているホワイエを歩いていると、たまたますぐそばで、合唱指揮者の方がどなたかと会話されていました。これは絶好の機会と思い、会話が終わるのを待ち、思い切って合唱指揮者の方に、鐘の位置をお尋ねしました。すると、パイプオルガンの向かって右手の、ホール後部のドアを開けて、その外の通路で鳴らしたということでした!まさかホールの外に鐘を置いたとは思いませんでした。教えていただけてラッキーでした。(さきほどのキタラの座席表をみていただくとわかるのですが、このホールの後部のドアは、一方がオルガン、もう一方が客席(Pブロックの後方部分)に挟まれた狭い通路の奥の方にあり、ホールの大半の座席からは見えない作りになっています。僕の席からも見えず、それで第五楽章のときにドアが開けられたことがわかりませんでした。)それにしても尾高さん。さまざまな点の周到なこだわりと、きわめて丁寧な音楽づくり、終楽章のゆったりしたテンポなど、とても素敵でした。はるばる札幌まで聴きに来た甲斐がありました。そしてキタラの響き。キタラの響きはあくまでクリアで明晰です。サントリーホールの響きが、熟成された香りとコクのある豊穣な音、極上のウィスキーのような音だとすれば、それとまったくちがい、「水のような」極上の日本酒にたとえられるかもしれません。どちらも、ゆったりと酔える音です。僕は海外の名ホールはまったく聴いたことないのでわかりませんが、国内でオーケストラの響きが好きなホールをあげよ、と言われたら、迷わずサントリーとキタラをあげます。また明日、ここでもう一度この3番が聴けるといううれしさをいだきつつ、キタラをあとにしました。
2010.09.23
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またまたマーラー3番を聴きに遠征してしまいました。今回は札幌です!9月17&18日第531回札幌交響楽団定期演奏会指揮:尾高忠明メゾソプラノ:手嶋眞佐子女声合唱:札響合唱団児童合唱:HBC少年少女合唱団合唱指揮:長内勲管弦楽:札幌交響楽団札幌コンサートホール キタラ キタラを訪れるのは、今回が2回目です。数年前、ルイジがPMFを振ったマーラー6番を聴いたのが、はじめてでした。そのときこのホールの響きの良さが強く印象づけられたので、そのキタラで3番が聴けるのが楽しみでした。もうひとつの大きな楽しみは、札響の首席トランペット奏者の福田善亮氏でした。北海道ご出身の福田さんは、以前都響在籍時代に、ベルティーニとのマーラー3番でポストホルンの名奏を聴かせてくれた方です。今回ふたたび福田さんの演奏でこの曲を聴けるということがとても楽しみでした。まずは初日、17日のレポートです。この日は19時から開演でした。余裕を持って昼過ぎには札幌入りしました。良い天気で陽射しは強いですが、空気がかわいていて、さらっとした風が肌にとても心地よいです。タイミング良くこの日から、市中央の大通り公園で秋の味覚フェスタが始まっていたので、そこで北海道の名物料理を、(演奏会前ですので)ちょびっとおなかに入れ、(演奏会前ですので)ノンアルコールビールで喉を潤し、ホテルで一休みして、良い体調で会場に足を運ぶことができました。この日の僕の座席は2階右のRAブロックの中程、やや後方寄りです。サントリーで言えばRAブロックのRB寄りあたり、ほぼ指揮者の真横くらいでした。いつもは座る前にステージ上の打楽器などを視認するのですが、この日は慣れないホールで緊張していたためか、特にステージを眺めずに座ってしまいました。座ってから気が付いたのは、このホールはサイドの席だと比較的死角が大きいということです。僕の席からだと、ステージの上手側(向かって右側)の1/3位は見えませんでした。3番の場合、鐘の位置が気になりますが、僕の席から見えるステージの範囲には、鐘が置いてありません。また合唱団がはいると思われるPブロック(ステージとオルガンの間の客席)やその周辺にも、見える範囲には鐘が置いてありません。ですので、鐘はおそらく大きな死角になっているステージの上手側に置いてあるのだろうと推測しました。尾高さんの簡単なプレトークがあり、そのあと少ししてから、オケの入場に先立って、Pブロックに女声合唱と児童合唱が入場してきました。曲の最初から児童合唱も含めた全合唱団を入場させるという気合の入った方法は、比較的少なく、2002年のシャイー/コンセルトヘボウの来日公演、2005年のチョンミョンフン/東フィル(オーチャードホール)、同じく2005年の大植/大フィル、そして今年のインバル/都響の3月30日公演があげられます。(シャイー以前は、そこまで細かくチェックしていなかったので、わかりません。)しかも今回嬉しいことに、児童合唱の配置にひと工夫があったんです。この曲では、女声合唱と児童合唱の位置関係は、児童合唱が前方になり、その後ろに女性合唱となることが普通です。しかし今回は、前方に女声合唱、その後方に児童合唱という配置でした。ここから先は、ご興味ある方はキタラ大ホールの座席表http://www.kitara-sapporo.or.jp/seat/index.htmlを見ながら読んでいただけると、よりわかりやすいと思います。まず女声合唱が、Pブロックの前寄りの2列(第3列と第4列)に着席しました。続いて児童合唱が入場しはじめ、女声合唱の後方に並んでいきました。このとき、最初児童合唱は、女声合唱のすぐ後ろの2列(第5列と第6列)に並びはじめました。確かに、このように間をあけずに並ぶのが普通の並び方です。しかしこれはこどもたちが並び方を間違えたようで、すぐに誘導の係の方が出てきて、児童合唱をその一列後方(第6列と第7列)に並び替えさせました。このホールのPブロックのセンター部分の最後列は、第7列です。(座席表をみていただくとわかりますが、Pブロックの左右よりの部分には、さらに後方の第8~第11列がありますが、そこは今回客席として使用され、お客さんがはいっていました。)すなわち尾高さんは、Pブロックのセンター部分のなかで、できるだけ児童合唱を高いところに配置しようとする意図があったわけです!(そうでなければ第5列と第6列に並ばせたはずです。)これまでの3番の記事で繰り返し書いているように、この曲のスコアには児童合唱と鐘を高い位置に置くように指定されています。しかしそれを実行しようとする指揮者は数少ないのが現状です。今回、スコアの指定に従って児童合唱を少しでも高い配置にしたという尾高さんのこだわりが嬉しくて、演奏への期待が増しました。もっとも、鐘はステージ上かと推測していたので、「鐘も高いところに置いてくれたらさらに良いのになぁ。」と思っていました。しかし実は、鐘はステージ上ではなく、驚くべきところに設置されていたということが、あとになってわかりました!!このことは後述します。続いてオケが入場し、そして尾高さんがはいってきて、演奏がはじまりました。冒頭のホルンの斉奏が、すごく力強く立派なひびきでした。そしてその後の第一楽章は、終始やや遅めのテンポで、とても丁寧に、慎重にと言っても良い感じで、進められていきます。キタラの響きはやはりすばらしいです。とてもクリアです。木管の小さな音でも、その音色やニュアンスが、他の音に埋もれずにはっきりと伝わってくるので、聴いていて新鮮な響きが多々感じられます。また弦楽の弱音も本当に美しく、きちんと響いてきます。クリアでいろいろな楽器の音がそれぞれ良くきこえてきて、しかも全体としての響きがまとまっている、そういう響きです。第一楽章が終わったところでオケはチューニング。そしてチューニングが終わって会場が静まったあと、独唱者がしずしずと登場し、指揮者のすぐ左横に着席しました。会場からは拍手が起こってしまいました。(尾高さんはここで拍手が起こることにはこだわらなかったようです。)それにしてもこのタイミングの独唱者入場というのは割合に早いタイミングです。合唱団の早い入場とあわせて、後半の楽章のアタッカの扱いに関して相当考えての判断であろう、と期待が高まります。第二、第三楽章も、同じように丁寧に丁寧に進められていきます。第三楽章の途中、ポストホルンのパートが近づいてきたあたりで、それまでステージ上で1番トランペットを吹いていた福田さんが、ポストホルンパートを吹くために、ステージ下手側に退場していきました。そしてポストホルンの部分が始まりました。さすがは福田さん、音程や歌い回しは本当に完璧です。ただその音色からは、ポストホルンではなく、トランペット系の楽器を使っていると思われます。また今回のポストホルンパートで特筆すべきは、その距離感です。充分に遠くからきこえてくるかのようで、広い空間を感じられ、とても魅力的でした。またこのとき、ステージ上のオケの出す音も素晴らしく、とくに弦楽器の弱音が、非常に繊細で美しい音で、素晴らしかったです。ポストホルンの部分が終わると、福田さんはステージ上の元の席に戻ってきて、また1番トランペットを吹き始めました。さて第三楽章が終わったあと、第四楽章が始まる前に、独唱者が立つのに合わせて合唱団が起立しました!これはすごい方法です。第四楽章が終わったあとすぐ静寂のまま第五楽章がそのまま始められるように、あらかじめ第四楽章の始まる前に立たせておくというこの周到な方法を、僕がはじめて見た(意識した)のはシャイー/コンセルトヘボウのときでした。そして大植/大フィルもそうでした。しかしそれ以外には見たことがありません。この周到な方法を、尾高さんは採用したのです。そしてその効果は充分にあり、第四楽章が静寂のなかに終わった直後、あざやかに第五楽章が始まりました。このとき驚いたことに、鐘の音が、ステージのある下の方向からではなく、かなり高いところからきこえてきたのです!鐘は一体、どこで叩いているんだろう?しかしやはり、僕の席から鐘は見えません。それでこのときは、おそらく僕の席からは死角になっているPブロックかその近くに配置したのだろう、と思いました。それにしても、児童合唱と鐘が高いところから響いてくると、本当に素敵です。そのように指定したマーラーはすごいなと思う一方で、その指定をきちんとこだわって実行する指揮者が本当に少ないのは、残念な限りです。尾高さん良くぞやってくださいました。(何度も書きますが、三河/小田原フィルはこの点で最高にすばらしかったです。)なお女声合唱45名と児童合唱48名の歌唱自体も、かなり高い水準で、素晴らしかったです。児童合唱はやはりこれくらいの人数がいると、余裕を持ってきこえてきます。今回の演奏、第一楽章から第四楽章まで、とても丁寧で、魅力的な演奏ではありましたが、この第五楽章で、一段ぐっと魅力を増したように感じました。そして合唱団の座るタイミングも、僕が理想的と考える「シャイー方式」でした。つまり第五楽章の一番終わりにビムバムを歌うその直前、練習番号10の頭の2小節ちょっとの休みの間に合唱団は素早く着席し、その後の部分は座って歌う、という方式でした。三河/小田原フィルでも採用していた方式です。このシャイー方式でうまく演奏されると、第五楽章と第六楽章がこのうえない静寂と緊張のうちにアタッカで続くので、効果が絶大です。ただし今回は、独唱者はここでは座らず、第六楽章が始まってすぐに静かにゆっくりと座りました。充分に気を使っていた座り方で、音楽の妨げにはなりませんでしたが、どうせなら、合唱団と同時に座れば、さらに良かったかと思います。そして終楽章の音楽は、素晴らしかったです。非常におそいテンポで、じくりと歌いあげられました。特にチェロは美音でした。また最後近くの金管コラールでは、福田さんが、申し分ない美音と安定感で、すばらしい歌を聴かせてくれました。大感動の終楽章でした。(プレトークで尾高さんが、演奏に1時間45分くらいかかるかもしれない、とおっしゃっていましたが、確かにこのテンポなら、そのくらいかかっていたかもしれません。)(長々とした駄文になってしまい、ひとつの記事に載せられないので、続きは次の記事にわけて書きました。そちらもごらんください。)
2010.09.23
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(これはすぐ前の記事の続きです。)休憩の終わり頃にホール内に戻ってみると、オケの入場にさきがけて、合唱団が先にはいってきていました。通常通りP席部分で、前の方に児童合唱、後方に女声合唱が座りました。そしてオケが入場し、そのあと独唱者とともに指揮者が入場してきました。当然のように盛大な拍手がわきおこりました。(というより、関係者が舞台裏から拍手を始めていました。)ま、休憩後ですからこの拍手は仕方ないといったところでしょう。そして独唱者は指揮者のすぐ左の位置に立ちました。第4楽章。ここではコンマスのソロが、深みのあるいい演奏でした。先行楽章のソロはやや不調だったのですが、休憩で気持ちが切り替えられたのか、とても良かったです。第5楽章、合唱がしっかりしていて好演でした。そして前述したチューブラーベルの位置がユニークであることに、このとき初めて気が付きました。細かなことですが、以下に書いておきます。以前の記事にも書いたように、この曲のスコアには、第5楽章の冒頭に、チューブラーベルと児童合唱を高い位置で、と明白に指定されています。しかしこの指定を守る指揮者は、コバケンや、三河/小田原フィルなどのごくごく少数派で、ほとんどの演奏では普通にステージ上に他の打楽器と同じような位置に置かれて演奏されてしまいます。今回も、演奏前に見たときには、ステージの雛壇の一番後ろの段に、他の打楽器と並んで配置されているだけのように見えたので、ごく普通の方法だな、と思っていました。しかし第5楽章が始まっていざチューブラーベルが叩かれ始めたのを見ると、チューブラーベルの位置が妙に高いことに気が付きました。当然、ベルを叩く奏者の位置も妙に高いです。僕の席は1階の真ん中あたりだったんですが、そこから見ると、他の打楽器奏者の頭の位置よりも、ベルの奏者の頭は身の丈半分ほど高いところに位置していました。(丁度、ベルの奏者の頭が、P席最前列の児童合唱の頭の高さと他の打楽器奏者の頭の高さの中程あたりに位置していました。)このあたりのことを確かめるために、演奏が終わってから舞台に近づいて見てみると、チューブラーベルは、ステージの雛壇の一番後ろの段の上に、通常よりもかなり高く設置されていました。そしてそこには、ベルを叩く奏者が登るための2段の段が置かれていました。チューブラーベルを良く見ると、1本がかなり長くて、このくらいの高さがないと、床につっかえてしまい吊せない状態であったことがわかりました。シュピーラーさんが果たしてスコアの指定に従うためにベルを高く配置したのか、それともただ単に長い1本を吊り下げるために高くしたのかはわかりませんが、結果的にはスコアの指定にやや近づく(児童合唱の高さに近づく)配置となった(^^;)わけでした。第4、第5、第6楽章はスコアの指定通りアタッカで演奏されました。ここでもうひとつ細かなことですが、いつもどおり、声楽陣の起立・着席のタイミングについても書いておきます。今回、特別な工夫は何もなく、普通に、第4楽章が終わるとすぐに合唱団を立たせ、第5楽章が終わるとすぐに声楽陣全員(合唱、独唱とも)を着席させるというシンプルな方法でした。この方法、シンプルではありますが、第4楽章の終了とともに合唱団が起立、というのは良くみかける一方で、第5楽章の終了とともにすぐ着席、というのはかなり珍しいです。普通は、第5楽章と第6楽章の間の一瞬の静寂を重要視して、そこの静寂・緊張を妨げないために、その部分では着席せず、ある程度第6楽章が進行した途中で座る、という方法が取られます。シャイー/コンセルトヘボウや三河/小田原フィルなど、熟慮してさらに洗練された方法をとる指揮者も少数ながらいます。逆に、いつどなたの指揮だったか忘れましたが、第5楽章と第6楽章のアタッカを放棄してしまい、第5楽章が終わってから指揮棒をおろし、合唱団をよっこらしょと着席させ、そのあとであらためて第6楽章を始めるという無神経きわまりない演奏に遭遇したこともあります。ここの方法はさまざま、まことに指揮者次第です。さて今回は、第5楽章が終わってすぐの着席ですから、終楽章が開始される重要な瞬間に、やはり多少なりとも視覚的あるいは聴覚的なノイズが発生しました。しかし今回は不思議にも、そのノイズがほとんど気になりませんでした。着席によって生ずるノイズが、音楽の流れを妨げる感じがせず、ノイズを含んだその場全体が、音楽の世界に自然に溶けこんでいるような感じでした。こんなことは滅多にない体験です。このシュピーラーさん、相当すごい人なんじゃないかと思います。第6楽章。ゆったりとしたテンポで、しなやかに雄大に、マーラーの音楽が歌い上げられていきます。途中からはもうすっかりシュピーラーさんの音楽に身を任せ、安心して音楽にどっぷりと浸ることができました。オケの頑張りも見事で、素晴らしい3番でした。このオーケストラ、弦の音が明るくて素敵でした。特にチェロは、アマオケとしてかなりの美音でした。一方管は、細かなところの正確さにはやや乏しかったですが、総じて雰囲気は良かったです。なかでもトロンボーン隊は、かなり力があって良かったです。またトランペット隊も最後まで本当に頑張っていて、明るい良い音色で聴かせてくれました。蛇足ながら、トランペット隊5人のカーテンコール時にシュピーラーさんは、1番ラッパを吹いた奏者(むかって一番右側)を立たせるより先に、右から5番目(向かって一番左側)の奏者をまず立たせていましたので、この方がポストホルンパートを吹かれた方だと思います。会場でブラボーをいいそびれたので、この場を借りてブラボーです!ホルン隊はややパワー不足のところを、人数を増やすことで補っていました。すなわち曲の指定は8人ですが、プログラムには12人出演!とありました。実際に舞台上に12人いたかどうかははっきり視認できませんでしたが、少なくとも10人はいたようでした。これはホルンをパワーアップするために賢明な措置だったと思います。それにしても指揮のシュピーラーさん、いい意味で職人気質かな、と思います。これだけのマーラ演奏をやってしまう人なので、おそらく、マーラーに相当こだわりを持っていると思います。しかし、憶測ですがこのシュピーラーさんは、そのこだわりを無理に押し通さず、実際面(演奏者の技術面など)と突き合わせ、現実的に一番いい音楽ができる方法をとったのではないでしょうか。曲半ばでの途中休憩しかり(理想的には休憩を入れたくないが、休憩を入れることでオケの調子を整えられるし、合唱団の入場もしやすくなるメリットあり)、声楽陣の起立・着席のタイミングしかり(シンプルにすることで合唱団が歌唱に集中しやすくなる?)、またホルンの増員しかりです。フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団は、もちろんアマオケですから、出てくる音としては気になるところはいろいろあります。でも、今日のような演奏を聴くと、そんなことはまったく小さいことだとつくづく思います。音そのものは、もちろん大事です。少しでも良い音の方がいい。しかし音楽にはそれよりももっとずっと、大事なことがある。音の背後の意味を響かせようとする思いが、指揮者とオケにあるかどうかで、音楽って決定的に違ってくるのだなぁと、あらためて感じます。そのような意味で、きょうの演奏は本当に素晴らしかった。プログラムをみると、このオケは芸術顧問が小松一彦氏ということです。これまでにマーラーを、小松氏とは3番と5番を演奏しています。そして近年のマーラーは、コバケンと2番を3回演奏していて、なんと、うち1回はウィーンで(2007年)、もう1回はコンセルトヘボウで(2009年)演奏しているというのですから、驚きです!なるほど小松氏やコバケンの薫陶があるからこそ、マーラーの音楽にこのように共感し、その意図をひたむきに表現しようと志向するオケなのかと、納得させられました。素晴らしい3番演奏を、ありがとうございました。---------------------------------------------------------------なお、これまでのマーラー3番演奏会の記事の一覧をあげておきます。2009/11/ 8 三河/小田原フィル (小田原)2009/11/28 井上道義/OEK&新日フィル (金沢)2009/11/29 井上道義/OEK&新日フィル (富山)2010/ 3/30 インバル/都響 (サントリー)2010/ 3/31 インバル/都響 (サントリー)2010/ 4/23 金/神奈川フィル (横浜)2010/ 5/ 4 齊藤/水星響 (東京文化会館)このうちチューブラーベルの配置については、主に 三河/小田原フィル(小田原)および井上道義/OEK&新日フィル(金沢)を、第三楽章の練習番号30,31の楽節については、主に 井上道義/OEK&新日フィル(金沢)およびインバル/都響(3/30)を、ご参照ください。
2010.08.12
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8月、アマオケによるマーラー3番を、また聴くことができました。素晴らしい3番でした!フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団 第50回演奏会8月7日 サントリーホール指揮:カルロス・シュピーラー独唱:岩森美里(メゾソプラノ)合唱:ヴェル・パン・プラージュ、ゆりがおか児童合唱団管弦楽:フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団このオケは立教大学交響楽団OBが母体ということです。1993年にマーラー3番を、小松一彦氏の指揮で演奏しています。その演奏会は聴いていませんが、ライブ録音のCDを持っています。以前CD屋で普通に売られているのを、たまたま見かけて買ったものです。このCDに聴く3番、小松氏の情熱によって導かれたオケが、マーラーへの共感に満ちた暖かな演奏を聴かせてくれて、非常に気に入っている演奏です。今回このオケが17年振りに3番を演奏するというので、指揮者は小松氏ではないものの、楽しみにしていました。なお水星交響楽団も、1993年にマーラー3番を演奏し、今年5月に17年振りに再演しました。どちらのオケも、奇しくも同じ、17年振りの再演になるわけです。また、インバルが都響を振って3番を演奏したのが1994年で、今年3月に、16年振りとなる再演をしたわけです。あたかも3番をもたらす彗星が16~17年周期で太陽系を周回していて、今年ふたたび地球のそばを通るかのようです。偶然の一致なのでしょうか、それとも何かのつながりがあるのでしょうか?会場に来てプログラムを見ると、途中で休憩がはいると書いてあります。それも第1楽章のあとでなく、第3楽章が終わったあとに休憩をとるという、珍しい方法です。これを見たときには、どんな演奏になるのか、ちょっと心配になりました。しかしそれは無用の心配でした。オケがステージにはいってきました。弦は対抗配置でなく普通の配置です。P席(オルガンとステージの間の席)はがらっと空いていますので、のちほど合唱団がはいるのでしょう。また、ヴァイオリンの第一プルトと指揮台との距離が長めに取られていましたので、のちほど独唱者がここに来るのだと思われました。あと、チューブラーベルは、残念ながら普通に、ステージ上に配置されているように見えました。(ただ、実はこの配置は一工夫されていたんです。そのことに第5楽章の演奏中に気が付きました。詳しくは後ほど書きます。)第1楽章の序盤、低弦が速い上行音型を繰り返すパッセージが、きっちり立体的に力強く表現されていて、これはいい演奏になるな、と感じました。その後のトロンボーンのソロのモノローグは、前半部はパワー全開で、後半部は一転かなり抑え気味にして内省的にと、変化の幅が大きくなかなか味のあるソロを聴かせてくれます。そしてやってきた夏の行進、これが生き生きと喜ばしく表現されていて、いい感じです。シュピーラーさんの指揮は、めりはりがあって、かつ歌謡性も充分で、つぼを抑えたマーラーです。(冒頭のホルン主題が再現されるところでは、シンバルを3人に増やして叩かせるなど、こだわれるところはきっちりこだわってくれてました。)第2楽章は、ややテンポが速めでした。第3楽章の開始は、さらにテンポが速くなってしまい、このままだとちょっと僕はついていけなくなるかと思いましたが、ポストホルンがはいってから、ゆったりとした音楽になりました。このポストホルン、良かったです。音色から判断するに、ポストホルンではなく、トランペットを使ったのだと思いますが、かなり暖かく柔らかめの音色で、トランペットでここまでの音色を出すのは相当すごいことだと思います。そして距離感も充分です。舞台のドアのすぐ後ろでなく、はるか遠くからのように。きちんと聞こえてきます。楽章後半部のポストホルンは、さらにゆったりと歌うようになり、夢のような美しさにひたれました。傷がないわけではなかったですが、感動的なポストホルンでした。(距離感に関して言うと、第1楽章のホルン主題再現の直前の舞台裏の小太鼓も弱めで、遠くからの響きを意識していました。こういったところのシュピーラーさんの的確な気配り、いいです。)そして最後近くの練習番号30~31の、のどかな雰囲気がにわかに変わり、ハープがかき鳴らされ、そしてトロンボーンとホルンの斉奏までの部分。以前の記事にも繰り返し書いているように、「神の顕現」の重要な楽節ですが、ここが本当に素晴らしかったです。久しぶり(昨年の三河/小田原フィル以来)に、ここが満足できる演奏でした。ひとえに、シュピーラーさんとオケの人たちが、ここの音楽の意味をわかっているということに尽きるのだと思います。充実の第3楽章が終わり、ここで休憩がはいりました。(文が長くなりすぎてひとつの記事として載せられないので、続きは次の記事にわけて載せました。そちらもご覧ください。)
2010.08.12
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高関健/新交響楽団のマーラー7番を聴きました。7月18日 東京芸術劇場大ホール 新交響楽団第210回演奏会ドビュッシー 「管弦楽のための映像」よりイベリアマーラー 交響曲第7番輝かしい歴史と伝統を持つアマオケ、新交響楽団。このオケは、近年ではマーラーを、高関氏の指揮で、2007年に9番、2009年に6番、そして今回の7番と演奏しています。かねてから新響を聴いてみたいと思っていたもののなかなか都合がつかず、今回初めて聴けました。楽譜にこだわりを持つ高関さんは、今回もプログラムに特別寄稿を載せていて、7番に関して、数百箇所にわたる楽譜の疑問点を国際マーラー協会とやりとりして、きたるべき新校訂版に含まれるはずの訂正個所を盛り込み、さらに補筆した楽譜で本日演奏する、ということが書かれてありました。オケは定評どおり、うまくてきれいな音で、アマオケであることをほとんど忘れて聴いていました。こういう演奏を年4回も定期演奏会でやっているというのですから、本当にすごいオケです。高関さんは6月には京響で7番を演奏したということで、そのときにぐすたふさんがブログに書かれていた「庭師」らしさを、きょうも発揮していて、丁寧なマーラーでした。特に第2楽章ののびやかな歌と、終楽章のきっぷの良さが印象に残りました。そしてカウベルが良かったです。第二楽章の舞台裏のカウベルが、舞台の下手と上手の両方の扉をあけて、「舞台裏の両翼配置」で鳴らしていて、効果をあげていました。カウベルの音自体も、輪郭がはっきりした、どちらかというと明晰な音で、普通の田舎風のガランゴロンというものとは一線を画した、いい音でした。この「カウベルの舞台裏の両翼配置」は、昨年の井上喜惟/JMOの6番でもやっていて、非常に効果的だったことが思い出されます。今後この方式が普及することを期待してやみません(^^)。カウベルは、終楽章では舞台上で、なんと途中最大5人(多分)が手に持って、盛大に鳴らしていて、実に気持ちよい鳴らしっぷりでした。そしてそして終楽章の一番最後、鐘も加わったところがすごかった。鐘は普通のチューブラーベル1人でしたが、その他に、多分吊り下げたカウベルだか何かを乱打する人が、(僕の席からははっきりと確認できませんでしたが)多分2人いました。この他にもカウベル担当者がいたのかもしれませんが、ともかくこういった人たちが、一斉にそれはそれは派手にグワンゴワンと鳴らしたのです。吊り下げている台がぐらぐら揺れて倒れそうになったくらいです。ここの豪快な鳴らしぷりは本当に気持ちよいサウンドをもたらしてくれて、見事なフィニッシュの効果をあげていました。高関さんのナイスなこだわりでした。----------------------------------------以下は2010年8月30日の追記です。音楽の友の9月号に、マーラーの交響曲を聴くという特集が載っていたのでぱらぱらと見ていたら、ちょうど7月18日のこの新響の演奏会の日に行われたという高関さんのインタビュー記事があって、何枚か写真が載っていました。(63ページです。)この中に、吊り下げられた金属製のごつい板の写真がありました。これですこれです、これが曲の最後にグワンゴワンと鳴らされた諸打楽器のうちのひとつです。当日会場ではカウベルなのか金属板の鐘なのか良くわからなかったのですが、これで見て、板であることが明瞭にわかりました。ということは、曲の最後にチューブラーベルとともに板の鐘も乱打したということです!(このほかに手で持ったカウベルも乱打されたわけです。)マーラーのいろんな曲で鐘が出てきます。通常はチューブの鐘を用いますし、曲によっては板の鐘を使って効果を挙げている演奏もあります。しかしチューブの鐘と板の鐘の両方を同時に豪快に使うという方法に出くわしたのは、僕は初めてでした。あらためて高関さんのこだわりに感服したので、追記しておきます。
2010.07.28
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引き続き、ちょっと前のコンサートの感想を書きます。4月4日オーチャードホールで、エッティンガー/東フィルによるマーラーの交響曲第2番「復活」を聴きました。エッティンガーの常任指揮者就任記念演奏会です。指揮:ダン・エッティンガーソプラノ:平井香織アルト:カティア・リッティング合唱:新国立劇場合唱団管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団3月22日の日記「楽劇ジークフリート(新国立劇場)」にちょっと書いたように、エッティンガーのマーラーは2007年に東フィルを振った4番をオペラシティで聴き、とても良かったので、今回是非聴きたくて、やってきました。オーチャードホールは舞台が狭いですので、舞台が前にせりだし、奥行きを深くしてあります。(客席の最前列は6列目。)オケは両翼配置。そして舞台の上には、普通より太めのチューブラーベルが置いてありました。そう、この太いベルです。この太いベルには、見覚えがあります。2006年4月、ハーディングが東京フィルを振った演奏(東京オペラシティ)でした。僕が東フィルによる復活を聴いたのは、このときが初めてでした。ハーディングの指揮はフレーズとフレーズの合間に緊張感が満ちていて素晴らしかったです。また北欧出身のふたりの独唱者が、合唱団と同じ高いところ(パイプオルガンのすぐ前)に位置するという素晴らしい配置で、かつ透明度が高くて気品ある歌唱を聴かせてくれました。そしてこのハーディングの復活のとき、僕がもっとも印象深かったのが、鐘の音でした。終楽章の最後のところの鐘が、教会の大きな鐘をがらんがらんと叩いているのをイメージさせるような、実に豊かないい音色で響いたのです。このとき僕の席は1階のかなり後方の席で、鐘が良く見えなかったので、演奏が終わってから舞台にちょっと近づいて見たところ、普通よりも太いチューブラーベルがぶら下がっていました。なるほど、こういう太いベルがあるんだ、これでああいう素晴らしい響きを出したのか、と感心しました。こういう太いベルを見たのは初めてだったので、オケのものなのか、それともハーディングがこだわって何処からか調達したのだろうか、などいろいろ想像を巡らしたものでした。そして今回、舞台の上にはそのときと(おそらく)同じ、太いチューブラーベルがありました。そうか、このベルは東京フィルが持っているものだったのか、そしたら今回はどういう鐘の音が聴けるのだろうか、と楽しみになりました。舞台にオケと合唱団がびっしりと入場し、演奏が始まりました。エッティンガーのマーラーは、やはり素晴らしいです。何が素晴らしいかと言えば、一つはテンポ感覚です。基本テンポの土台がしっかりしていて、そしてそこからのアッチェレランドが絶妙。マーラーのアッチェレランドは、やりすぎるとスケール感が損なわれ、足りないと鈍重になってしまうところを、必要にして十分、スケール感と迫力とを兼ね備え、マーラーのツボをおさえているという感じがしました。もう一つは、尖った性質のアタックにかなり神経を使っていて、ところによって尖った感じを非常に強調していて、なかなかの効果をあげていました。たとえば第一楽章の最後近くのヴィオラの短い下降音型(練習番号26のスフォルツァンドの指示の箇所)などです。そしてオケの頑張りは特筆すべきでした!非常に良い、立派な音を出しています。僕は東フィルをそれほど沢山聴いていませんが、これまで聴いた印象を払拭する、すばらしい演奏ぶりでした。特にホルンをはじめとする金管セクションの頑張りは相当なものです。ハーディングによる復活のときは、トロンボーン隊はみごとでしたが、ホルン隊の力不足が目立っていました。しかし今回はホルンも含めて申し分ない立派な演奏でした。プログラムの解説によると、東フィルは節目節目で復活を演奏していて、得意曲にしていると言うことです。プログラムに列挙されているそれら節目での復活の演奏は、 1978年5月 第200回記念定期演奏会(尾高忠明) 1989年8月 オーチャードホールこけら落とし公演(尾高忠明) 1992年4月 大野和士常任指揮者就任披露公演 2001年1月 合併前の旧・東京フィルの最後の定期演奏会(沼尻竜典) 2001年6月 新星日響と合併しての最初の定期演奏会(チョン・ミョンフン)なるほど大事な節目に演奏しています。今回のオケの頑張りは見事で、さすがに得意曲というだけのことはあります。こういう得意曲があるオケって、いいですね。さて、鐘です。鐘は、最終楽章の中程と、最後のところで活躍しますね。今回のエッティンガーは、鐘を力を込めて強くはっきりと叩かせてました。はっきり聞こえたのはいいんですが、硬質のきつい音色で、ともすれば鍛冶屋が金属を鍛える音みたいで、ちょっと曲調にあってない感じがしました。この鐘にはもっと高貴で崇高なものを感じ取れる響きがほしいところです。おそらくハーディングも同じベルを使っていたのだと思いますが、会場や座席の位置が違うにせよ、ハーディングのときにあれほど素晴らしい響きだったのは、やはりハーディングの非凡さのなせる技だったのだろうか、とあらためて感心した次第です。しかしながら総じてエッティンガーのマーラー解釈は、奇をてらったところがなく正攻法で、すばらしいと思いました。オケの頑張りとともに、満足できた復活でした。今後ともエッティンガーのマーラーに期待したいです。
2010.05.23
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3月のインバル&都響、4月の金聖響&神奈川フィルに引き続き、今度は水星交響楽団(アマオケ)のマーラー3番をきいてきました。これほどの3番ラッシュは久しぶりで、実に有難いことです。5月1日土曜日、東京文化会館大ホール、同楽団の第43回定期演奏会でした。指揮:齊藤栄一アルト独唱:小川明子合唱:オルフ祝祭合唱団児童合唱:すみだ少年少女合唱団管弦楽:水星交響楽団水星交響楽団。いい名前です。宮沢賢治のセロ弾きゴーシュに出てくるオケが金星音楽団という交響楽団ですから、それにあやかったのでしょうか。金星よりさらに太陽に近い水星。略して水響(すいきょう)、これ「酔狂」に通じる、お洒落でアマオケにふさわしい素敵な略称ですね。常任指揮者の斎藤栄一さんという方が、「振っても書いてもしょせん酔狂」というご著書を書かれていると言うことです(^^)。プログラムによると、一橋大学管弦楽団出身者を中心としたオケということです。水響は17年前にも3番を演奏しているそうです。さて土曜日の午後、仕事をなんとか早めに切り上げ、上野の文化会館に着いてみると、開場時刻よりずいぶん前なのに、すでに結構な行列ができていて、それがどんどん長くなっていきます。それで10分ほどの繰り上げ開場となりました。もらったプログラムがまた良いです。団員の方が書かれた堂々5ページにわたる楽曲解説が素晴らしいです!歌詞もご自分で訳出していて、ニーチェ哲学との関連まで詳しくわかりやすく書かれていて、とてもためになります。そしてその解説の次には、「私のマーラー3番」と題して、独唱者と団員数名の方のこの曲への思いが書かれていて、今回1番トロンボーンを吹く方の熱い想いの文章などがあり、これもとても興味深いです。昨年の小田原フィルといい、今回の水響といい、こうしたこだわりと愛着が満載のアマオケのプログラムって、素敵です。歴史と伝統ある東京文化会館の大ホール。ここは旧来型のホールで、舞台の後ろや横には座席がなく、広い1階と、2、3、4、5階の左右と後部の座席からなり、座席数2303席です。僕は1階に座りましたので上の方は良くわかりませんが、開演前にはほぼ満員になったのかもしれません。すごい盛況ぶり。オケの配置は、弦は左から第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという通常配置。ベルは舞台上でした。舞台奥に合唱団用とおぼしき何段かの雛壇。そして独唱者用の椅子は、指揮者のすぐ左側に用意されています。この独唱者の位置は、以前は標準的な配置でしたが、近年は採用されることが少なくなっていて、久しぶりに見ました。オケのみが入場し、声楽陣は入場せず、この状態で演奏が始まりました。アマオケらいし、いい演奏が続いていきます。トロンボーンソロは、このソロを吹くのがうれしくてたまらないという感じでパワー全開。途中(練習番号54)の舞台裏の小太鼓は、距離感充分です。また、冒頭のホルン主題のところのシンバルが二人だったのに対して、後半でこの主題が再現されるところでのシンバルは三人と、細かなところもしっかりこだわっています。第一楽章の後半は、オケにも勢いが出てきて、かなり立派な演奏でした。第二楽章も、適度な歌心があって、良かったです。第三楽章のポストホルンパートは、明らかにトランペットの音色でしたけれど、これも距離感充分で、ちゃんと遠くから聞こえてきたのが良かったです。後半ちょっと疲れが出たポストホルンを、応援しながら聴いていました。第三楽章演奏途中の合唱団入場もなく、ごく普通に第三楽章が終わってから、合唱団が入場してきました。やはりこの入場方式が、一番無難な方法です。(これ以外の入場方法をとるのであれば、余程の目的意識、志、演奏水準を持っている必要があります。そうでないと先日の金聖響&神奈川フィルのような意味のない途中入場になってしまいます。)舞台奥の雛壇の下手側に児童合唱、上手側に女声合唱が並びました。そして合唱団の入場が完全に終わってホールが静まり返ってから、独唱者がしずしずと入場しました。これは「拍手してください」と言っているような入場の仕方で、当然のように比較的大きな拍手がわき起こりました。指揮者も独唱者も拍手が起こることを良しとしている、というか、拍手がおこることを当然のこととして想定しているようにお見受けしました。。。このごろ、演奏者も聴衆も意識が高く、ここで拍手が起こらないでしんと静まり返っている演奏会が比較的多く、その場が引き締まるような感じで、とてもいいものです。やっぱりここは指揮者がそういう意識を持って、拍手を起こりにくくする工夫を少しでもしてほしいな、と思います。たとえば合唱団の入場と合わせて一緒に独唱者を入場させるということだけでも、拍手が起こりにくくなりますし。さて第四楽章。この独唱は、深く、抑制のきいた歌唱で、素晴らしかったです。この歌に聴き入っているうちに第四楽章がすぐ終わってしまうように感じました。第四楽章の終わる少し前に、指揮者の合図とともに合唱団がすくっと起立しました。第五楽章も、悪くないです。ところで独唱者は、ご自分の歌う部分が終わるとすぐに、すっと着席されました。これ、第五楽章のほぼ半分くらいのところです。これほど早い着席タイミングも珍しいです。合理的といえば合理的ですけど、何かちょっと違うような気も。。。それから合唱団の着席タイミングも書いておきます。第五楽章は立ったままで歌いきり、終楽章が少し進んでから、指揮者の指示で座るという、これも普通の方法でした。ただ、終楽章開始後、割合に早い時期に座らせ、それがすごく自然なタイミングの指示で、しかも皆さんが静かにすっと座ったので、音楽を妨げない、とても良い着席でした。終楽章は、かなり速いテンポですすんでいきます。適度な歌があり、なかなか良い演奏ですが、もう一段の歌い込みが欲しい感じはします。オケは良く頑張っています。テンポ的にちょっとユニークだったのは、最後の盛り上がりが終わって鎮まっていくところ(練習番号30の後半あたり)、ここで一度、かなり歩みを遅めていき、そして最後のティンパニーの歩みのところでは再びテンポを速めました。(スコアには確かにそういう指示がありますが、それを極端に実行したという感じです)演奏全体を通じて、アマオケとして立派な演奏でした。もちろん技術的にはいろいろな限界がありますが、アマオケとしてこれくらいの演奏を聴かせてくれれば充分でしょう。第一楽章後半の鳴りっぷりは相当なものでしたし、第二、第三楽章の指揮者の歌心、伝わってきました。そして第四、第五楽章は独唱者の力がオケを引っ張っていき、いい音楽を奏でてくれました。終楽章のテンポ設定が自分の好みとは異なりましたが、ひたむきなマーラー3番を聴かせてくださいました。ありがとうございました。そしてカーテンコール。ポストホルンパートを吹いた奏者の方が、トランペット、すなわちご自分の吹かれた楽器を持って登場しました。そう、この心意気が大切なんです!僕は思わず、より一層の力をこめて精一杯の拍手を送りました。ありがとう。これでこそ、これでこそ拍手喝采をおくる甲斐があるというものだし、奏者の方もその喝采を、晴々しい気持ちで受け止められたことでしょう。こちらも清々しい気持ちになりました。ポストホルンパートで大切な事って実に沢山ありますね。テクニック、スタミナ、音程、歌心。音色、距離感。そして何よりも、心意気。
2010.05.04
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金聖響&神奈川フィルでマーラー交響曲第3番を聴きました。4月23日、みなとみらいホール。指揮:金聖響メゾソプラノ:波多野睦美合唱:神奈川フィル合唱団児童合唱:小田原少年少女合唱隊管弦楽:神奈川フィル金氏のマーラーは、2007年春にN響を振った巨人を聴いたとき、僕の好むマーラーとかなり離れていたのですが、果たして今回はどういう3番になるのでしょうか。独唱者に、古楽を中心に活躍する、僕の敬愛する波多野睦美さんを起用というのも珍しく、興味津々です。ホールに入って楽器配置を眺めると、オケは両翼配置、しかしチューブラーベルは残念ながら舞台上です。合唱団用とおぼしき長椅子が舞台奥に何列か並んでいます。このホールはサントリーホールと同じように、パイプオルガンと舞台の間に数列の客席があり、この曲ではそこを合唱団席として使うのが普通です。しかし今日は客席として使われ、普通にお客さんがはいっています。オケと女声合唱が入場し、女声合唱が舞台上の長椅子に座りました。これで舞台上はほぼいっぱいのようです。とすると児童合唱がいつどこに登場するのでしょうか。オルガンの前の席はお客さんがはいっていますので、もしかしたら舞台すぐ横の3階、高いところに位置する客席だろうか、などとあれこれ想像をめぐらしながら開演を迎えることになりました。ついで指揮者とともに、鮮やかな青い衣装をまとった波多野さんが登場しました。波多野さんは、女声合唱よりも少し前、オケの中(ティンパニの前あたり)に座ったようでした。(僕の席は1階の前寄りだった関係上、立ち位置をあまりはっきりとは視認できませんでした。)このように独唱者がオケの中に座るやり方は、以前アバド&ベルリンフィルの来日公演でも見かけました。第一楽章が始まりました。ピシッとした、すごく気合いがはいった良い感じです。N響との巨人のときより、ずっといいです。トロンボーンのソロも強弱の陰影濃く、立派でした。ただ、第一楽章を聴き進むうちに、音楽がちょっと勇ましすぎる感じがし始めました。夏が来る浮き浮きするような喜びある行進であって欲しいのに、ちょっと軍隊調の厳めしい勇ましい曲調になりすぎて残念です。それから、冒頭のホルンの主題が再現される直前、舞台裏の小太鼓が目立つ部分(練習番号54)がありますね。この小太鼓を、舞台の上手のドアを開けて、確かに舞台裏で叩かせてました。しかし、おそらくドアのすぐそばで叩いているのでしょう、姿こそ見えないけれど音がすぐそばから大きくはっきりときこえてきて、距離感がまるでないんです。これではオケの中で叩くのと変わらないです。この小太鼓、スコアには「遠くに設置された小太鼓」と指示されています。舞台の裏で叩けばどこでも良いと言うものではなく、ある程度の距離感を感じられることが大事だと思うんです。このような点が引っ掛かりましたけど、第一楽章はオケも頑張っていて、引き締まった、それなりに聞き応えのあるものでした。しかし第二楽章は、魅力乏しく、ちょっといただけない演奏でした。オケの練習不足なのかなぁと思いました。第三楽章、ポストホルンは、明るめの、なかなか素敵な音色で聴かせてくれました。僕はポストホルンの音色っぽいかなぁ、と思いましたが、友人はトランペットの音ではないか、と言っていました。インバルの一件(「ところでポストホルン?」を参照ください)以来、自分の耳にすっかり自信がなくなってしまいました(^^;)。まぁ何の楽器を吹いたにせよ、音色としては、かなり魅力ある音色でした。演奏自体には傷が多少あったけれど、このような音色で聴ける喜びは大きく、いい演奏でした。ただし、惜しむらくは、先程の小太鼓と同様、距離感が感じられなかったことです。今回ポストホルンの音は、ホールの右奥の高いところあたりから響いてきました。おそらく会場の右奥の、2階か3階の客席と廊下の間のドアを開けて、そのすぐそばで吹いたのかと想像します。舞台裏とはいえ、すぐそばで吹いている感じで、遠くからという感じがしませんでした。このポストホルンは、遠くから聴こえてくる感じがしてこそ、胸にせまります。(大植&大フィルのポストホルンの距離感は本当に素晴らしかったことを思い出します。)さて曲は進み、ホルンとトロンボーンの斉奏の楽節(練習番号30、31)です。ここは普通に通過しました。しかしその直後の練習番号32、楽章の最後に向けて音楽が徐々ににぎやかになり始めるところから、児童合唱が入場し始めました。ホール2階の奥の左右から続々と素早く(小走り気味に)入ってきて、パイプオルガンの前の通路に立ったまま横一列に並び始めました。そして第三楽章の終結までの短い間に、慌ただしく並んでいきました。それでも第三楽章の終結音が鳴り止むタイミングまでには間に合わず、そのほんのわずか直後に、最後の児童が整列し終わりました。児童合唱をこのように入場させるからには、そのままアタッカで第四楽章を始めるのだろう、と思いきや、指揮者は指揮棒を下ろして、小休止をとったのです!うーん、ここで児童合唱を入れるんですか。。。そしてそれは一体何のためなんでしょう!?もし、どうしても第三楽章の演奏中に児童合唱を入れなくてはならないのだとしたら、この32からというタイミングはそれほど致命的ではないと思います。昨年秋の井上道義/OEK&新日フィルの金沢公演では、この直前の30、31のホルンとトロンボーンの斉奏の真っ最中、まさに神が姿を現しつつある音楽の真っ最中に、合唱団がぞろぞろ入場し始めるという、最悪のタイミングでした。それに比べれば今回の入場開始のタイミングは、僅かにうしろにずれただけとはいえ、音楽の内容的には神が現れ終わったあとの部分なので、音楽の受ける被害は随分小さくてすみ、多少はましです。(しかしこのタイミングだと第三楽章の終わりまでの時間が短いので、児童合唱が大勢入場する時間はとれません。)しかし、そこまでしてわざわざ児童合唱を音楽の演奏中に入れる目的は、そもそも何なのでしょうか。スコアには指定がない、第三楽章と第四楽章をアタッカで演奏するため、としか考えられません。それなのに今回の金氏は、第三楽章が終わったあとに指揮棒を下ろして間合いをとったんです。ここで間合いを取るのであれば、わざわざ演奏中に合唱を入場させず、第三楽章が終わってから普通に入場させた方が、音楽を損なわずにすむので、はるかに良いのに。。。意味不明の演奏中の児童合唱入場でした。いよいよ波多野さんが起立し、第四楽章です。波多野さんは、楽章前半はノンビブラート唱法でひそやかに歌い、途中のソロヴァイオリンとの掛け合いのところからぱっと歌の表情を変え、内なる情感のほとばしりを表現していて、その切り替えが見事でした。ただ全体的には、マーラーに波多野さんという組み合わせは双方に勿体ないかな、と思いました。曲は第四楽章からアタッカで第五楽章へ。パイプオルガンの前に横一列にずらっと立ったまま並んでいた児童合唱が、ぱっと照明に照らし出されるのと同時に歌い始めました。そしてそれに少し遅れて第四小節あたりで、女声合唱がすくっと立ち上がり、歌い始めました。この女声合唱の起立のタイミングは、昨秋の三河氏&小田原フィルもやっていた方式であり、かなり良いタイミングと思います。この第五楽章は、児童合唱の人数が少ないせいか(20人前後でした)弱めで、声があまり聴こえてこなかったのが残念でした。小田原少年少女合唱隊は、プログラムをみるともっと大勢いる合唱団のようですから、もっと大勢で歌った方が良かったと思います。第五楽章が終わって、児童合唱の照明が落とされ、そのまま終楽章がはじまりました。なお、声楽陣の着席のタイミングについても触れておきます。児童合唱はそもそも椅子がない通路に立っているので、そのまま終演まで立ちっぱなしでした。女声合唱は、終楽章の途中で音楽がある程度盛り上がったときに座る普通の方法でした。そして波多野さんはおそらくそのときに一緒に座るタイミングを逸してしまったのか、しばらく一人で立っていましたが、そのあと少ししたところで静かに着席されました。さて、細かな事をつらつらと書きましたが、肝心の聴こえてくる音楽について書きます。第一楽章は勇ましすぎでした。第二楽章以降はどうも今ひとつ歌心を欠くというか、隔靴掻痒の感が持続しました。終楽章が始まってもそれは変わらず、うーんやっぱり金氏のマーラーは僕の求めるマーラーとかなり異なるのかなぁと思いながら終楽章を聴いていました。ところが、女声合唱が着席したあたりから、俄に音楽の彫りが深まり、輝き出してきました。ここに来てついに金氏の本領発揮なのでしょうか、それまでとうって変わった充実ぶりです。最後近くの静かな金管コラールは、傷は少なからずありましたが、妥協のないゆっくりとしたテンポが良かったですし、最後のティンパニーの大いなる歩みも、かなりゆっくりと悠然とした音楽を聴かせてくれました。終楽章後半の音楽は、相当素晴らしかったです。中間楽章からこのレベルの演奏になっていたら、かなりいい線の演奏になったと思いますが、ちょっと遅きに失しました。。。この曲、終わり良しなら帳尻があうという曲ではなく、やはりそこまでの長い道のりが充実していないと、深い感動がわき上がってこないです。コンマスの方のソロは、個性的で濃い味が良かったです。なおカーテンコールでは、真面目そうな奏者の方が、バルブなしのポストホルンを持って出てこられました。この楽器で吹いたのではないと思います。都響の方みたいに冗談という感じは微塵もなく、誠実な感じの方でしたが、これはやっぱり残念です。ご自分の吹かれた楽器を持って出てきて欲しいと、切に思います。金氏はマーラーに思い入れがあるようで、これからの1年で神奈川フィルと、今日を含めて順に3、2、4、5、6番を一挙に演奏されるそうです。その思い入れは歓迎したいですが、きょうの演奏を聴くと、そんな短期間で大丈夫ですか、と心配になります。かのベルティーニも、最後の都響とのマーラーチクルスに3年くらいかけてました。。。
2010.05.02
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ところでインバル/都響の3番で気になることがあり、追記します。第三楽章のポストホルンについてです。今回のインバル/都響の演奏会で、初日(30日)にポストホルンのパートの演奏が始まったとき、いつものポストホルンの音色と違うように感じました。普通耳にするものと比べて、線が細いというか、硬めというか、やや暖かみに乏しいというか、そういう音色でした。それで、あれ?今回の楽器は、ポストホルンでないのだろうか、と思いました。このパート、現在のスコアによるマーラーの指定はB♭管のポストホルンですが、ポストホルン以外の楽器(フリューゲルホルンやトランペットなど)で演奏される場合もあるようです。熊本音楽院オーケストラのトランペット奏者香川茂三氏のレポート(記事の最後にリンクを張っておきました)には、このあたりについての詳細な解説と美しい写真がいろいろと載っていて、とても参考になります。それによると、マーラーの指定は最初はフリューゲルホルンで、版の改訂の際にポストホルンに変更された、それはおそらくマーラーの音色に対するこだわりからであろう、と記されています。僕はこれまでに1回だけ、ポストホルンでなくてフリューゲルホルンを用いたことがはっきり確認できた演奏会を聴いたことがあります。2006年コバケン/日フィルの演奏会です。コバケンは僕の知る限り、いつもこのパートを舞台裏でなく会場内で吹かせます。このときは、チェコフィルのトランペット奏者ケイマル氏が、ホール内、パイプオルガンの向かって左手の隅でフリューゲルホルンを吹きました。柔らかい音ですがどうも音色的にしっくりきこえず、僕としては、やはりこのパートはポストホルンの音色で聴くのがいいなぁ、としみじみ思ったものでした。(このときケイマル氏は、演奏後のカーテンコールでももちろん、その楽器を持って舞台に登場されていました。)僕がこれまで少なからず聴いてきた3番の中で、ポストホルン以外の楽器で演奏されたのをはっきり確認しえたのは、このときだけです。もっとも、コバケンのように会場内の見えるところで吹かせるのは例外的で、通常は舞台裏で吹かれ、演奏中の姿は見えません。したがってどんな楽器で吹いていたかの最終判断は、もっぱら演奏が終わってカーテンコールのときに出てくる奏者が持っている楽器を見て判断するしか方法がありません。そこで今回も聴いていて、多分ポストホルンではないだろう、終演後にどういう楽器を持って出てくるのか注目しよう、と思いながら聴いていました。演奏そのものは、先日の日記にも書いたように、すばらしいです。音程はまったく正確だし、節回しの歌いぶりも、歌心が充分で、見事です。ただ、音色が、いつも聴くものと何か違う。あの暖かく、懐かしいような、郷愁をそそるような音色と違うんです。それで通常ならわき起こってくるはずの感動が、生じてきませんでした。演奏が終わって奏者が登場するのを注目していたら、何やら丸い楽器を持って出てこられました。遠くなので、丸いということ位しか見えないんですけど、それがポストホルンだ、ということはわかりました。それで、「へ~、ポストホルンだったんだ、自分の耳もあてにならないなぁ。ポストホルンを使ってテクニック的にあそこまで吹いたのなら、音色は今ひとつだったけれど、大健闘の演奏だな」と思って、惜しみない拍手を送りました。二日目(31日)も同様で、テクニックと歌謡性はすばらしく、本当に感心しましたが、音色の違和感は同じで、やっぱりそれほどの感動はありませんでした。この日ももちろん終演後に丸い楽器をもって登場されたので、ポストホルンだと信じきっていました。ところがつい先日、30日の演奏会を聴いていた友人と話していたら、その友人から、「あの日のポストホルン、音色がポストホルンと違っていたね、しかも終演後に持ってきたポストホルンはバルブがなかったよ、変だと思わない?」と言われたので、とても驚きました。音色の違和感を感じていたのが僕だけでなかったことと、しかもバルブがないポストホルンを持ってきていたとは!ポストホルンというと、郵便配達に使われていた本来のものはバルブなしで、倍音しかでないものです。この曲のこのメロディーを、バルブなしの楽器で唇のコントロールだけで吹くことは、まず不可能でしょう。(往年のモーリス・アンドレほどの神様的名人だったら可能かな?)そこで実際にコンサートで使われるのはバルブ付き、すなわち指で押して音程を変えられるものです。これまで僕がカーテンコールで見てきたものはおそらくこのバルブ付きのポストホルンだったはず、です。(もっとも、演奏会で遠くの客席から見ている場合だと、カーテンコール時に楽器の細かな様子までわかりませんので、バルブの有無まで必ずしも確認できませんけど。)さて、それなら今回のインバル/都響は一体どういうことだったのだろうかと、他の方々のブログを検索してみると、吹けるはずのないバルブなしのポストホルンを持ってきたのは奏者のジョークで、それを見た他のトランペット奏者達は大笑いしていた、と書かれているのを見つけました!え~っ、そういうことだったんですか~!・・・なんだかがっかりです。なんだか腹立たしいです。紛らわしいことはやめてほしい。ここは仲間うちの宴会ではなく、公式の演奏会の場です。僕のような一般の聴衆が、どんな楽器で吹いたか、注目して見ているんです。ご自分の吹いた楽器を持って出てくるか、あるいはせめて何も持たないで出てくるかに、してほしいです。結局、今回何の楽器を使ったのかはわかりません。あの音色から考えると、まずポストホルンは使わなかったのだろう、と推測します。やや硬めの音色だったので、フリューゲルホルンというよりはトランペットの可能性が高いと思いますが、ともかくポストホルンではないだろう、と思います。まぁ実際に使ったのがどっちにしても、結局大事なのは、結果的にどういう音色で聞こえてくるかということです。もしもポストホルンを使っていてあの音色だったのなら、その奏者の力量がそこまでだったということです。もしポストホルンを使わなかったのであれば、あの音色はある意味当然の結果ですけれど、それにしてももうちょっと、音色に対する配慮・工夫の余地があったのでは。。。今回ここの部分の音楽を聴いていて思ったのは、テクニックや歌心ももちろん大切だけれど、音色が心に響いてくるかどうかということが、感動にはとても大きいことなんだなぁ、だからこそマーラーはポストホルンを指定したのだろうなぁ、と思いました。ポストホルンによる演奏は、フリューゲルホルンやトランペットよりもずっと難しいのだろうと想像しますが、それでも多くの奏者がその楽器を使うのは、やはりあの音色を出したくて、ということなのでしょう。実際これまでいろいろな演奏会を聴いてきて、ポストホルンを用いて、音色も含めて完璧と思える演奏に接したことが何回かあり、本当に得難い感動を得ることができました。また、(おそらく)ポストホルンを用いて、必ずしも完璧でない演奏にも沢山接してきましたが、それでも感動を得られる体験を何回もしています。楽器の選択は、奏者、あるいは指揮者が、技術面、あるいは感性・考え方から総合的に判断して決めるものでしょうから、それについては、いいんです。別にポストホルンでなくても、それに文句を言うつもりはまったくありません。今回、もしもポストホルンの使用を避けたのだとすれば、音色はある程度犠牲にしても、正確に演奏することを優先したという選択なのでしょう。それはそれでいいんです。ポストホルンを使わなくとも、いろいろな方法で音色をある程度工夫することは可能なはずです。結果として、あの音色で良しとしたその奏者、あるいは指揮者インバルの感性が、そういうものであった、ということです。そうだとしたら、僕が大事にする3番の部分と、インバルのそれとは、やっぱりちょっとずれているんだなぁ、ということになりますが、それはそれとして別に僕が文句を言う筋合いではありません。じゃあ何故僕はがっかりしたのだろう、腹立たしいのだろう。目で見てポストホルンだと信じこんでしまった、自分は所詮その程度の耳でしかないという腹立たしさもあります。でもそれだけではないです。僕が腹立たしく思うのは、ご自分の吹いた楽器でないものを持ってきて聴衆の喝采にこたえるという姿勢です。これジョークにならないです。真面目に、傷はあっても懸命にポストホルンで演奏している他の奏者に、そして真剣にマーラーの音楽を聴きたいと思っている聴衆に、失礼ではないでしょうか。ともかく、ポストホルンでも、フリューゲルホルンでも、トランペットでも、ご自分がそれと決めて吹いた楽器を、カーテンコール時に堂々と聴衆に示して欲しい。それが奏者としての矜持ではないでしょうか。こんな風に思う僕は偏屈すぎるでしょうか。。。------------------------------------------------------------------以下、追記の追記です。熊本音楽院オーケストラのトランペット奏者香川茂三氏のご許可をいただきましたので、香川氏のポストホルンの解説にリンクを張っておきます。トランペット奏者のための技術工房「Toshi TP Atelier」のコンテンツの中の「マーラーレポート」に、香川氏の参加された、熊本音楽院オーケストラによるマーラー全交響曲チクルスのお話があり、その中にポストホルンのとても興味深い解説がありますので、ご覧ください。(2010.04.14 追記)
2010.04.11
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3月31日サントリーホール、昨日に続きマーラー3番を聴きました。昨夜が定期演奏会で、今夜は都響スペシャルとしての演奏会です。昨夜の演奏会の記事に書き忘れたのですが、沢山のマイクが立っていました。CDを出す予定なのでしょう。僕は「昨日はちょっとCDにできる演奏ではないだろう、もし今日も同様だったら、CDはおそらく出ないだろうな」と思いながら、会場にやってきました。楽器配置は昨日と同じで、コンマスの四方恭子さんへの変更、トップサイドが矢部さんというのも同じです。昨日と違うのは、演奏開始前に合唱団の入場がなく、P席が空の状態で始まったことです。おそらくインバルは昨日の経験から、全曲通しての演奏は最初から断念し、第三楽章が終わったら間合いをとろう、と決めたのでしょう。そしてその間合いで合唱団を入場させることにしたのだと思います。第一楽章は速めのテンポでしたが、こちらも昨日の体験から覚悟して臨んだせいなのか、昨日よりはついていけました。(あるいはテンポ自体、昨日より若干遅かったような気もしますが、良くわかりません。)そして何よりも今日は、普段のインバル/都響のコンビらしく、アンサンブルがぴしっと決まっています。きのうと雲泥の差です!これが本来の都響でしょう。第三楽章のポストホルンは、昨日も良かったけれど(おそらく)それ以上に、たっぷりと歌ったすばらしい吹奏ぶりでした。そして今日の聴衆は、昨日と違って無神経なノイズをたてる人がいないのも幸いでした。昨夜は定期演奏会、それに対して今夜はスペシャルですので、やはりこの演奏を積極的に聴きたいという人が集まったことの現れかもしれません。第三楽章が終わったあと、昨日と同様にインバルは指揮台から降りて、さっさと舞台裏に引っ込みました。その後、合唱団がP席に入場しはじめました。合唱団の入場が終わったあと少しして、インバルと、独唱者が入場してきました。きょうは独唱者の入場時に、聴衆のひとりも拍手しないで迎えました。これも昨日とは違うところです。そして第四、第五楽章とすすんでいき、第五楽章から終楽章へのアタッカの部分も、昨日のような信じがたいノイズを出す聴衆は皆無で、静寂と緊張が保たれたまま、終楽章が始まりました。この終楽章が、第一級のすばらしい演奏でした。テンポは、はっきりとはわからないけれど、昨日よりかなり遅いと感じました。じっくりと音楽が歌われていき、自然の息吹を美しく伝えてくれます。これがインバルかと驚くばかりです。初めてインバルの3番に感動しました。今日はおそらくインバルの体調が昨日よりは回復したのでしょう。そしてオケも昨日の演奏に、これではいかん、と自ら奮起したのではないでしょうか。これでこそマーラー演奏の伝統を誇るオケに値する演奏です。(コンミスの四方さんを横で支えた矢部さんの奮闘ぶりも光っていました。)そして聴衆も、良かった(というか、昨日が悪すぎた)です。指揮者、オケ、聴衆の3拍子が揃ってこそいい演奏が生まれるということをあらためて実感しました。・・・それにしても、二日続けての同一演目の演奏会で、二日目が出来が良いのはよくあることだと思いますが、これほど天地の差ほど違うのには、本当に驚きました。天国のベルティーニも、きょうの演奏には「都響よ良くやった」と喜んでいることでしょう。インバル/都響のマーラーは、2008年4月のプリンシパル・コンダクター就任演奏会の8番もすばらしい演奏でした。そして今回の3番も、逆転サヨナラ勝ちの名演。インバル見事です。しかし今回ちょっと気掛かりなのは、3番の演奏途中に間合いをとられたことです。もしも体調が芳しくないのだとしたら、それが一時的なことであってほしいです。お元気に、そして都響と新たなマーラー全集を目指していってほしいです。こまかなことをひとつ。都響のプログラムには、現時点での楽団員の名前が出ているだけで、その日のメンバー表がなく、その日の演奏者がどなたなのかわかりません。そして今回、ポストホルン奏者の名前が出てないんです。ポストホルンが都響の方だったのか助っ人奏者だったのかはわかりませんが、どちらにせよポストホルン奏者の名前はなんらかの形でプログラムに載せても良いのでは、と思いました。
2010.04.07
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3月30日、31日とインバル/都響のマーラー3番を聴きました。両日ともサントリーホールです。 指揮:エリアフ・インバル メゾソプラノ:イリス・フェルミリオン 女声合唱:晋友会合唱団 児童合唱:NHK東京児童合唱団僕がインバルの3番を聴くのは、1994年、東京芸術劇場での演奏会以来です。オケは同じく都響でした。その時、強烈なネガティブな印象が、胸に焼き付いてしまいました。とりわけショックだったのは、第3楽章最後近くでのホルンとトロンボーンの斉奏の楽節(練習番号30~31)の演奏中に、独唱者が入場してきたことです。しかもここで独唱者は、遠慮がちにしずしずと出てくるのではなく、風を切るように実に堂々と登場してきました。その光景が目に焼き付いてしまいました。こういうやり方に出くわしたのはこのときが初めてで、とても驚きました。(その後にも、ごくわずかしか遭遇していません。)この楽節、アドルノが「神の顕現」と呼んだところです。僕としても非常に重要視しているところで、そのあたりの思い入れは昨年の日記に書きました。(この日記の最後にリンクを張っておきましたのでご参照ください。)ともかくこの1994年のときのインバルは、演奏中に独唱者を入場させることで、ここの音楽の意味を意図的に破壊しているのではないか、と僕は感じました。また、ここだけでなく、演奏全体としても、自然というか愛というか、そうした崇高なものを讚美する方向と正反対の方向、そういう崇高なものへの志向性を否定するような方向の音楽づくりが随所に強く感じられ、僕は大きな違和感を抱きました。その音楽づくりがもっとも凝縮された形で僕の心に突き刺さったのは、終楽章の最後近くの静かな金管コラールの直前、フルートソロからピッコロソロに受け継がれるパッセージ(練習番号25)です。ここがまるで、戦禍か何かで廃墟と化した都市の瓦礫の中から立ちのぼるような空虚な響きにきこえ、僕には衝撃的でした。もしかしたらインバルは、何か、「現代社会に生きる我々はもはやマーラーの描いた自然讚美に安穏と浸って暮らしてはいられないのだ」という、現代社会の状況に警鐘を鳴らすというメッセージを込めたのではないかと考えたりしました。果たしてインバルの意図がそのようなものだったのかどうかはわからないし、僕のまったく的はずれな感想なのかもしれませんが、ともかく僕にはそのように聴こえてしまったんです。そしてよりによって3番という、マーラーの中でもひときわ生命肯定的な曲で、そういうメッセージを伝えなくてもいいのではないか、こういう3番は僕は聴きたくない、と思ったものでした。それから16年ぶりです。インバルの3番がそのときと同じような方向を目指すものなのかどうか、いささかの不安を抱きつつ、今回の3番演奏会にやってきた次第です。まず今回は、30日の演奏会(都響第695回定期演奏会)について書きます。ホールにはいって楽器配置を見ると、チューブラーベルは残念なことに舞台上に普通に置いてありました。このベルをスコアの指定通り児童合唱とともに高いところに置く指揮者は本当に少なく、コバケンと、昨年小田原フィルを振った三河正典氏などがその貴重な例です。さて配られたプログラムを見ると、紙がはさまれていて、コンマスは当初の矢部さんから四方恭子さんに変更、となっています。矢部さんは体調でも崩されたのだろかと思いましたが、オケが入場してきたのを見ると、矢部さんはトップサイドに座っていらっしゃいました。変更の理由は不明です。オケの入場とともに、合唱団がP席部分(舞台とパイプオルガンの間の席)に入場してきました。第一楽章の開始前に合唱団が入場するのはかなり珍しいです。全曲を集中して一気に演奏しようと言う意気込みがなければしないことでしょうから、これはインバル相当気合いが入っているなと思いました。P席の前2列に児童合唱が座り、そのうしろ3列に女声合唱が座りました。そしてP席最前列の中央は一つだけ座席があけてあります。独唱者が座る場所でしょう。その独唱者はまだ登場せず、インバルだけが登場し、いよいよ演奏開始です。第一楽章が始まりました。これがものすごい速さ!オケはいささかついていけず、ティンパニーは1箇所かなり目立つところで入り損なって抜け落ちたり、木管のアンサンブルが結構乱れがちになったり、浮き足だった感じでした。続く第二楽章も相当な速さで、落ち着きがありません。ようやく第三楽章は通常範囲のテンポになりました。そしてポストホルンはうまいし、これで演奏が落ち着いてくるかと思ったのですが、なんだか今ひとつしっくり来ません。。。さらにこの日の聴衆には無神経な人がいて、ポストホルンが美しい歌を歌っているときに飴の包み紙をがさがさとあける音が響き渡りました。やれやれ。第三楽章最後近く、演奏中での独唱者入場はなく、ちょっとほっとしました。第三楽章が終わったあと、異変が発生しました。インバルが指揮台から降りて、舞台裏に引っ込んでしまったんです。これは異例なことです。前もって合唱団を演奏開始前に入場させておいたくらいですから、もともとはここで引っ込むつもりはなかったことでしょう。それが何らかの理由(体調不良など?)が発生して、裏に引っ込んだのだと思います。オケ、合唱団、聴衆の皆が待つこと2~3分でしょうか、ようやくインバルが再登場してきました。それとともに独唱者がP席部分に現れました。このとき、聴衆の若干名から拍手がおこってしまいましたが、すぐに鳴りやみ、あとはずっと静かなうちに独唱者が最前列中央に到着しました。このあと第四楽章ですから、独唱者は座らず、立ったままです。そしてここからの第四、第五、第六楽章はアタッカでと指定されています。アタッカの緊張感を保つためには合唱団の起立・着席のタイミングが重要で、指揮者の工夫が現れるところです。今回のインバルは、合唱団の起立のタイミングは第四楽章の終わり近く、独唱者が歌い終わる少し前でした。そして着席のタイミングは、第五楽章の最後近く、児童合唱が最後のビンーバンーのフレーズを歌い始める直前の約2小節の休み(練習番号10の冒頭部分)のときでした。以前書いたように、この着席のタイミングはシャイーがやっていた方法で、僕がもっとも理想的と考えているタイミングです。(なお合唱団が座るときに独唱者も一緒に着席しました。)この着席のタイミングは、いうまでもなく、第五楽章から第六楽章へ、静寂と緊張感を最大限にたもったまま移行するための方法です。インバルはそれを目指した。ところがところが、この大事なところでも、またまた飴の包み紙をがさがさあける音がホール内に響き渡ってしまいました。いくらなんでも、ここで飴を出しますか?!勘弁してほしい。。。そして終楽章。各奏者は一生懸命弾いているし、管の首席の皆さんなど、かなりいい音を出していて、部分部分では感心します。そして16年前に僕が感じてしまったような意図的な否定的メッセージ性は、さいわいにも感じられなかったです。しかし、それなら良い演奏だったかというと、音楽が何故かまとまらず、ちっとも盛り上がらないんです。そしてそのまま、曲は終わってしまいました。。。これほど自然の息吹が感じられない3番は、ちょっとないほどです。どうしたことでしょうか。16年前とは違った意味で、またしてもがっかりしてしまいました。やはりインバルに3番は合わないのだろうか。。。結局きょうのインバルは、気合はすごくはいっていましたが、体調がものすごく悪かったのではないかと推測します。きっとそのために、オケのアンサンブルが乱れてしまったのではないでしょうか。インバルが指揮する都響のマーラーは、いつもはすごくアンサンブルがぴしっとしているのに、今回ほどぴしっと決まらないのも珍しいことです。(と言っても、すごく目立つミスは第一楽章のティンパニの落ちくらいで、あとは大きな乱れはないのですが、ともかく音楽がまとまらず、ふくらまないんです。)そして悪循環的に、一部の聴衆の無神経なノイズが、事態をさらに悪化させてしまった。そういう演奏会でした。・・・これでは明日も期待できないなぁ。都響とともに3番の超名演を聴かせてくれたベルティーニも、草葉の陰で泣いているのでは、、、などと思いながら、足取り重く帰路につきました。ところが、ところがです。翌31日の演奏会は、これとまったく違いました!!これについては改めて近いうちに書きたいと思います。------------------------------------------------なお、第3楽章演奏中での独唱者の入場については、2009年12月6日の記事「井上道義/OEK&新日フィルのマーラー3番その1金沢公演」を、また合唱やチューブラーベルの配置、および合唱団の着席のタイミングについては、2009年11月9日の記事「小田原フィルによるマーラー3番」および、2009年12月10日の記事「井上道義/OEK&新日フィルのマーラー3番その2富山公演」を、ご参照ください。
2010.04.05
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