2003/10/06
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カテゴリ: 国内小説感想
 翻訳ものに食傷したので日本人の書いた小説を読みたくなった。新しく何か読もうとしてその「何か」の幅広さに気が遠くなった。一度読んだ本を読みたくなった。大江健三郎に手が伸びた。あらすじはぶく。


 人殺しの時代だった。永い洪水のように戦争が集団的な狂気を、人間の情念の襞ひだ、躰のあらゆる隅ずみ、森、街路、空に氾濫させていた。僕らの収容されていた古めかしい煉瓦造りの建物、その中庭をさえ、突然空から降りてきた兵隊、飛行機の半透明な胴体のなかで猥雑な形に尻をつき出した若い金髪の兵隊があわてふためいた機銃掃射をしたり、朝早く作業のために整列して門を出ようとすると、悪意にみちた有刺鉄線のからむ門の外側に餓死したばかりの女がよりかかっていて、たちまち引率の教官の鼻先へ倒れてきたりした。殆どの夜、時には真昼まで空爆による火災が町をおおう空を明るませあるいは黒っぽく煙で汚した。


 今回(多分三回目)読んで気になったのは、山奥の村に疎開し、疫病の発生により村人達から隔離された15人の感化院の少年たちのほとんどに名前と個性がないことだ。主人公の「僕」、その弟、「南」と呼ばれる少年、朝鮮人部落の「李」、取り残された少女、そして脱走兵。「南」はとにかくどこか遠くへ、南へと行きたいと願う彼の口癖からついたあだ名であるから、名前を持つのは李一人である。12人の少年たちには名前どころか特別な行動を起こすことさえ許されていない。「僕」の弟の可愛がっていた犬を撲殺するのは「南」だ。終盤、村に戻って来た村長が少年たちに尋問する言葉の中でようやく、留守宅に置いてあった道具を壊した者、仏壇を荒らした者、と個別の悪さがかいま見える。が、やはりそこでも顔は見えない。
 少年たちのリーダー格である「僕」は恫喝と時には暴力で仲間たちの結束を強め、大人たちに見捨てられた状態の中で生き抜こうとする。そしてしきりと連発される「僕ら」。

 長い旅の終りに僕らを待っていた夕食、それがいかに貧しい食物と食器で僕らにあたえられたか。笊三杯の痩せた馬鈴薯と一握りの硬い山塩。僕らは失望しきり、腹をたてていた。しかし僕らには他にすることがなかったから、それをしんぼう強く食べつづけた。僕らは狭い土間と便所とを板戸で隔てている、白い壁と太い横木にかこまれた本堂の湿った畳の上に坐っていた。


「僕」は、庇護すべき存在として自分の弟を、組織内で自分に対抗する力を持った者として「南」を、外部からの協力者として「李」を、そして愛するものとして少女を見ている。「僕ら」は「僕」の延長でしかない。「僕」の意思が「僕ら」の意思であり、彼らを自分はコントロール出来ていると思っている。だが、その誤った思い込みゆえに、弟の可愛がっていた犬が疫病の原因ではないかと言われ始めた時、それを殺そうという、「南」以下の「僕ら」の意思に「僕」は対抗出来ず、目の前で弟の犬を殺させてしまう。弟を庇うよりも全員の命を優先させた判断のようにも見えるが、「僕ら」の意思が「南」の元で統率された時、それまで「僕=僕ら」と傲慢にも思いこんでいた「僕」は突如「僕ら=僕」でもあることに抵抗なく屈してしまい、彼は統率者ではなく集団の中に埋没してしまう。だがそれでも主人公である彼は最後まで「僕」であり続けなければならない。その意思は「僕=僕ら」では既になくなった中では浮き足立ち、「僕」「僕ら」と離ればなれにならざるを得ない。
 村長らの卑怯な恫喝の中、少年達は一時は大人たちへの憎しみをかき立てられ一群となる。だがそのエネルギーは「僕」が生み出したものではない。


「腹が減ったな」僕は嗄れた声でいったが語尾があいまいに消えてしまって、幾たびもくりかえさなければ他の仲間たちに通じて行かなかった。「なあ、腹が減ったな」
「あ?」と南が驚きに幼ない眼をして僕を覗きこんだ。「お前、腹が減ったのか?」
「腹が減ったような感じなんだ」と僕はのろのろいい、その言葉が呪文のように僕の内蔵の感覚を誘いはじめるのを感じた。そしてそれは始めに南、そして急速に他の仲間たちへ感染して行った。
「俺もひどく腹が減った」と南がうわずった声でいった。「こんちくしょう、鳥の肉が残っていたらな」


 逆に自分の発した「腹が減ったな」という呪文により増幅された食欲に負け、仲間たちは温かい握り飯の誘惑に負け、大人たちの軍門に降ることになる。名前を持たされなかった者たちが「僕」を見捨てるのは自明のことだ。彼らは一人一人の人物ではなく、陽炎のようにおぼろげな者としか「僕」に見られていなかったのだから。今度は「僕」などいないように振る舞い、一人一人へと還ればいい。
 おそらくは死んだ弟と、自分を置き去りにして行った仲間たちと、決して相容れることの出来ない大人たちと。竹槍で突かれ内蔵を飛び出させた脱走兵と同じ末路を迎えるであろう、山中に逃げる「僕」を最後に映して物語は終わる。「あいつ戦争が恐くて逃げて来たんだ」「僕は卑怯なやつを嫌いなんだ。傍にいると厭な臭いがするよ」と罵った相手と同じ死に様で死ぬ。あちらは憲兵隊に連れられて病院に行ったのでまだましだ。体力尽きた体で森の中を山狩りの手から逃げ延びることは出来ないだろう。以前読んだ時はもう少し明るい話と思えた。まだ死んでいない主人公に希望を見たんだろうか。「まだ死んでいない」と「これから死ぬ」は同じ意味なのに。


新潮文庫





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Last updated  2004/10/29 01:31:37 AM
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