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これが、エッセイとなるのか?気になる記事があり、思いつくままに書いてみた。国民年金の納付期間の延長、岸田総理「何ら決まったものではない」 約100万円の負担増との野党指摘に (msn.com) 上記の記事で“厚生労働省が、自営業者などが加入する国民年金の保険料を納める期間を45年間に延長した場合の効果を試算した案を示すとしていることについて、岸田総理は年金改革の内容は「現時点で何ら決まったものではない」と強調しました。立憲民主党 源馬謙太郎 衆院議員「厚労省が国民年金の納付期間を60歳までから65歳まで、5年延長した場合の効果を試算するという話が出てきました。5年延長すれば、新たに100万円の、約100万円の負担増になります」“という一文があった。試算した案を示すとは、無駄なことをするものである。国民年金の保険料を納める期間を45年間に延長した場合の効果を試算するというのは、仕事のための仕事に思える。現行法にあるがままでやって、それで納付額が足りなければ、年金保険料を上げれば良いだろうと思える。年金保険料を上げることに異論や躊躇があるならば、税金投入など考えた方が良い。なぜか?寿命は延びないからである。現在、長生きしている人が多いようだけれど、これから後も日本人の寿命が延びていくとは限らない。寿命は現在が最長で、今後、短命になっていくかもしれないのだから。少子高齢化ではあるけれど、高齢化していく人は今後減っていくのである。一時的、といっても20年ほど年金支給総額が増え、支払いに不安を生じることが出てくるかもしれないが、その時には、事前に税金投入、税金徴収をすればよいと思う。厚生労働省が試算を繰り返し無駄な労働をしている時間があるならば、その労力をほかに向けて、住みよい保険制度を推進してもらえれば良いと思う。
2024.04.18
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エッセイ「人間50年、その後…」⑱ 夏まゆみさんが亡くなった。ガンとのこと。ご冥福をお祈りいたします。いろいろと思いあぐねて大みそかのNHK紅白歌合戦で特別枠にて夏まゆみさんを特集できないかな?と思った。ニュースでも取り上げられていたけれどモーニング娘。とAKB48に関与したことがあり、これらのグループを人気者に仕上げた立役者の一人が彼女でもあった。ゆえに、今のNHK紅白では見ることのなくなったモーニング娘。のハロープロジェクトとAKB48グループのコラボをして追悼していただければ、一世を風靡した時を知り、ともに過ごした大人たちは懐かしみ歓喜するのではないだろうか。病に倒れ亡くなってしまったけれど、その病のことを公表せずに立ち消えた。葬儀を終えて公表されたことはなんという矜持をお持ちの方だったかと。人間、物心がつくのはいつ頃からだろうか?早くて3歳?4歳から5歳くらいだろうか。その頃から徐々に人間に成長していって、人なりの人格が出来上がるのが10歳前後なのではと考える。私は10歳の頃に初恋をして(幼稚園児の時に手をつないで帰った女児はいたけれど)、いろいろな経験を重ねてきたが、それまでの子供=児童の頃の記憶はなかったりあいまいだったりする。人間として生きとし生きて50年を過ごせば60歳という気がする。そう思えば夏まゆみさんも”人間50年”で終えたとなるわけでシニアとしての生きざまを刻むことが出来なかったことは残念であるけれど、功績は遺せたのではないだろうか。NHK紅白の第二部21時開始のステージでモーニング娘。’23で2曲、AKB48で2曲とコラボしてくれたらとても嬉しく思うし、懐かしく元気に夏まゆみさんを偲ぶことが出来るだろう。人知れずこの世を去った彼女を元気よくお送りしたい。
2023.07.08
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エッセイ「人間50年、その後…」⑰ 「衝撃的なこと」先ほど唯一お気に入りブログにある「りぃー子’s SCRAP BOOK」で”実は母が突然末期がんと・・・”という書き込みがあり、あ然としてしまった。90歳ということで、本人に告知するか否か、悩んでおられるようだ。昔、四半世紀ほど前、私が三十路を越えた頃、11月だったかな、母より突然電話があった。聞くと、父が癌であるとのこと。肝臓がん…大酒のみの父は60歳で定年退職して、自動車学校に通ってようやく自動車免許を取得し、農作業に励んでいたようである。その頃、しばしば腹痛を漏らしていたようだが、秋の稲刈りも終え、ようやく医者にかかったところ癌だと判明した。判明したが…余命もそれほどないとのことですぐにでも一度、帰れとのこと。父には「こちらに出張があったから顔を見に来た」という話にした。病室で父にあったのかどうかの記憶はない。ただやはり病院に行ったのだろう。母と子供たち兄妹がそろって医者の説明を聞いた記憶がある。当時でも告知をしている場合もあったように思うけれど、まだまだ本人には伏せておくのが一般的だったようで、父も回復の見込みなく、余命もわずかということで告知しないことになった。その頃、私は売れない役者というか俳優の卵というかアルバイトとエキストラで生活していた(と思う)お正月には帰省し、一時帰宅していた父と新年を祝った。しかし、話した記憶はない。下腹が痛そうで終始さすっていたような気がする。お正月を終えた私は毎年オペラ「椿姫」に助演で舞台に乗っていた。オペラの助演は歌はなくエキストラとしてグラスを配ったり扉を開けたりしたのだ。成人式が本番だったので、その稽古に通ったのだが、東京に戻って二、三日後、昼の仕事先に電話があったように思う。「おとうちゃん、なくなった。早く帰ってき」昼の仕事場に休みをもらい、歌劇団にも連絡した。本番前の通し稽古は休み、ゲネプロから復帰する予定となった。実家に戻り通夜と葬式を終えて、ゲネプロの舞台に駆け込む。どのようにして本番の三日間を過ごしたのだろう。大きなミスはしなかったと思う。りぃー子さんのブログを見て、ふとよみがえった記憶でした。
2023.06.21
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エッセイ「人間50年、その後…」⑯『追憶』“追憶(ついおく)とは過ぎた時間に思いをはせること。ノスタルジア。”(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)スターにあった日を思い出してみたい。【緒形拳】上京して1年目、俳優養成所に通っていた時に新任のマネージャーから仕事をもらった。NHKの単発ドラマへの出演だ。養成所の同期生ふたりと三人での出演。一人はセリフがある工員!。もう一人はセリフのない工員2。私もセリフのない工員3。20代の女優と一緒だったが主役は緒形拳。ワンシーン、数カットの撮影だった。プロフィールに身長175㎝とあった緒形さんは173㎝の私より低く見えた。歳を重ねて縮んだのかな…と思った。初めて見る大スターであった。2008年(平成20年)10月5日逝去。【三国連太郎】地下一階の新宿松竹で映画『親鸞 白い道』(三国連太郎監督作)を見終えてロビーを出ると、地上に上がる階段脇で背中からとてつもない威圧感を出している熊のような人がいた。スタッフらしき人と何かを話していて、階段を上るのに回り込んで何気に顔を確認すると三国連太郎であった。あれはオーラか!とその時、思った。2013年(平成25年)4月14日逝去。【夏目雅子】映画「鬼龍院花子の生涯」の完成披露試写会の舞台あいさつで多くの出演者とともに登壇。あでやかで美しかった……。1985年(昭和60年)9月11日逝去。【島田陽子】2020年3月31日に閉店した渋谷東急百貨店の正面玄関でコツコツコツとタクシーに乗車しようとする島田陽子を見た。夜のライトに照らされて、美しかった。2022年〈令和4年〉7月25日逝去。【梅宮辰夫】新宿、青梅街道のサブナード地下駐車場の入り口から出てきた梅宮辰夫を見かけた。太陽のまぶしさに目をすぼめるしぐさはなんかかっこよかった。 2019年〈令和元年〉12月12日逝去。私が出会ったスターたち。ご冥福をお祈りいたします。
2023.06.15
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エッセイ「人間50年、その後…」⑮《離婚届》遠い遠い昔のこと……。今から50年くらい前のことだろうか、年端もいかない頃をすぎてか、おばさん三人に取り囲まれて書いた覚えがある。場所は繁華街、駅前の長いアーケード商店街の中ごろにあった飲食店で丼(どんぶり)を食べた時、何かわからなかったが、「ここに大人の字でおっちゃんの名前を書いて」と言われ、三人のおばさんが見守る中、力を込めて書いた。(と思う)「やっぱり男の子は違うな、しっかりした字を書くわ」なんて言われて、ざわざわした気持ちのまま丼をかきこんだ(と思う)。おばさん三人はうちの母とはす向かいの家のおばちゃんと4軒ほど先のおばちゃんであった。近所の仲良し3人組だ。おっちゃんの名前は4件ほど先のおばちゃんの旦那さん。旦那さんは中肉中背よりやや大きくかたい肉でおおわれている丸っとした顔は赤黒く、めったに見ない背中には大きな紋々(もんもん)があった。(紋々=入墨)しばらくして、4軒ほど先のおばちゃんはいなくなった。その家にはおばあさんと旦那さんと年子の兄弟二人がいた。兄弟たちとは特に仲が良かったわけではないけれど、母親同士が仲が良かったため、遊んだ記憶がある。ただ、おばちゃんがいなくなって4軒ほど先の家にはいかなくなった。自然と疎遠になったと思う。近所なのに彼らの存在を忘れていたけれど、中学生の時に、2度交渉があった。私が中学2年の時、4軒先の家の兄のほうが中学1年だった。中学の帰り道、その兄と何があったか覚えていないけれど、上級生・中学3年のヤンキー女子に絡まれた。かわいらしくてイケテル上級生で顔だけ見知っていて、密かに好意を持っていたのに、ガンをつけられて「こいつ(兄)に、かまうんじゃねえぞ。ただじゃおかねえからな」なんて脅された。もう一度は中学三年生の時、弟の方だ。こちらは原因がわかる。名前を呼び捨てにしていたからだ。弟は舎弟のような同級生二人を引き連れて徘徊していた。弟を見かけると昔のよしみで呼び捨てで名前を呼んでいた。弟は格好がつかなかったんだろう。先輩にあたる三年生の悪ガキどもに頼み、その悪ガキどもが私をシメに来た。なぜか場所は小学校の裏庭、5~6人に囲まれて、威勢のいい悪ガキ一人とタイマンすることになった。やむなく虚勢をはっただけの私は勝てるわけもなく、最後には土下座をし、その土下座した頭を踏みつけられた。それで許してもらえることもなく、同級生の一人を呼び出し連れてくる使い走りをさせられた。同級生の一人は子供の時のそろばん塾の仲間だった。呼び出しに応じた彼がそのあとどうなったかは覚えていない。弟の名前は呼び捨てにしないという約束をさせられた。時を経て、婚姻届けを書くときに、記憶の底にしまい込まれたおばちゃんたちと名前を書いたことを思い出した。あれが離婚届だったという確証はないが、3人が見守る中で書き、褒美なのか丼をほおばった記憶が浮上した。
2023.06.08
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エッセイ「人間50年、その後…」⑭私のアイドル史今から50年ほど前になるだろう、どうして買い始めたのかわからないけれど、小学5年生になった私は芸能月刊雑誌「明星」「平凡」を買っていた。テレビで、真理ちゃんこと天地真理の番組を見ていたが南沙織が「十七歳」でデビューし、小柳ルミ子の「私の城下町」もヒットしていた。郷ひろみの人気と「ひなげしの花」のアグネス・チャンが特典ポスターとして付録についていた記憶がある。幼い頃、気になっていた女の子がいたようだけれど、初恋の相手を認識したのも小学5年生のこのころ。「明星」「平凡」の読者相談のコーナーで“告白できなければ男じゃない”といったコラムに触発されて告った。結果は返事をもらえないまま、バレンタインデーにチョコを渡したり、とんちんかんな行動をしていた。さて、私の初めてのアイドルとしてはとびぬけた輝きを持った桜田淳子であった。森昌子を輩出した「スター誕生」を知り、毎週欠かさず見るようになって生まれた新人が桜田淳子であった。山口百恵の記憶はない。桜田淳子はレコード大賞最優秀新人賞を受賞し、翌年、新設された(と思う)2年連続活躍した期待の新人に贈られる金の鳩賞も受賞した。演歌調の歌を歌う森昌子に対し、明るく明るくポップスを歌う桜田淳子は彼女の歌詞にもあるように正しく天使であった。森昌子・桜田淳子・山口百恵の花の中3トリオは日本中の大人気アイドルだったと思う。レコードは買わなかった。レコードプレイヤーはあったのかな?ステレオはなかったと思う。しかし、映画は見に行った。トリオが出た映画は家族で、桜田淳子主演の映画は一人で見に行った。ダントツの人気を誇った桜田淳子であったが、いつしか、山口百恵が映画のみならず楽曲でもトップに顔を出し、三浦友和とのゴールデンカップルを解消して別の相手役を持つ頃になると、歌手としては唯一無二の存在となっていた。百恵ちゃんのターニングポイントはドラマでは「赤い疑惑」であり、楽曲では「プレイバックPart2」であろう。そんな時流だったのか、なぜか山口百恵だけが私の地元の市民会館に単独コンサートを開き、高校生だった私はおこづかいをはたいて初めて生の芸能人を見に行った。小さい市民会館で真ん中よりやや前目の席だったので百恵ちゃんの顔は良く見えた。ロングスカートの彼女は素敵に見えたけれど、黒の革の上下のパンツ姿は太ももがパンパンだった。若手アイドルが公演に来たのは後にも先にも彼女くらいだった気がする。少し戻るが小学生から中学生にかけて大ファンだった桜田淳子であったが、金の鳩賞のあとは百恵ちゃんの人気や次から次へと出てくるアイドルラッシュにかすんでいったのかもしれない。「スター誕生」はその後も見ていて伊藤咲子のデビュー「ひまわり娘」で声量のある歌声に惚れ「木枯らしの二人」にしびれた。こうして題名がすらすらと出てくるあたり、相当見聞きしていたんだなと思える。その後、誰かいたような気がするけれどその娘の記憶は抜け落ちていて、いつしか「スター誕生」を見なくなった。ゆえにピンク・レディーのオーディション時は知らない。日本中を席巻した「ペッパー警部」で一躍トップに躍り出たピンク・レディー。私はミーちゃん派であった。ピンク・レディーを生で見たことはないけれど、解散して後、ソロで歌っていたミーちゃんを見に行ったことはある。何人もの名をあげたけれど、私のアイドル史としては桜田淳子の次は榊原郁恵であった。榊原郁恵も高田みずえと清水由貴子の三人娘の一人だった。ころころした感じの榊原郁恵の何が良かったのかよくわからないけれど彼女のシングルは買った。アイドルで初めて買ったレコードであった。やはり郁恵ちゃんの笑顔がよかったのではないかと思う。桜田従子のレコードは買ったことはなかったけれど彼女が出した書籍のようなものは買い、日記なのかエッセイなのか、いまでいうブログのようなものを誌面で読んでいた。さて、郁恵ちゃんのあとは芳恵ちゃんである。柏原芳恵の「春なのに」も買った。このころには家にステレオがあった。彼女の切なそうな顔に惹かれたのかもしれない。こうしてみると、小・中学生で桜田淳子、中学生で榊原郁恵、高校生で柏原郁恵と変遷してきたようだ。そして、大学生になると中森明菜となる。「少女A」でのブレイクで良く知られるようになり私も知った。「セカンド・ラブ」で明菜にはまりアルバムを買い、シングルも買った。ただ、マッチ(近藤真彦)とのいざこざで興味をなくしていった気がする。いつまでファンだったのかなぁ…。明菜も復活した時にディナーショーなど見に行ったけれど、思った以上に声が出なくなっており生歌を聞かせるには精彩を欠いていた。全盛期に聴きたかったなと思えた。女性アイドルばかりで男性はどうかと問われると、小学生の時には西城秀樹を熱唱していた。高校生の時は、アリスのレコードを買い、大学生では安全地帯のCDを買って聴いていた。そして、中森明菜以降、特に誰かにはまったことはないと思ったが、思い出した。オーディション番組が好きなので、アサヤンを見てモーニング娘を応援していたな。初期メンバーに思い入れがあって、福田明日香が脱退の時にはショックを受けた。その後はテレビCMで板野友美を見かけて、この愛くるしい娘は誰だろう?と検索してみるとAKB48に突き当たり、AKB48ブームに乗るようにファンクラブにも入った。しかし、劇場コンサートは一度も当たらず、見に行けず。武道館コンサートを二度ほど見て、初めての東京ドーム公演から数回、東京ドームに行ったくらい。握手会は一度も参加しなかった。けれど、ともちんがソロデビューした際にはソロライブに応募して、子供と二人で二回、見に行った。いずれも子供の名前で当選。私の名前で当たることは終ぞ一度もなかった。そのAKB48に対抗して乃木坂46が出てきたときには乃木坂46なんかAKB48ほどは売れないと思った。しかし、乃木坂46の運営力の強大さ、劇場公演がないのでAKB48ほどメンバーが疲労することもなく、その分クオリティの高いものが提供できるのか、不祥事などでAKB48が叩かれたり、秋元康が手を引いてからはダメダメな組織になっていった気がする。AKB48に関してはJKT48までが栄光であったと思える。その後のアジア制覇の構想はSNH48の運営者の謀反により、ノウハウを盗まれ、断絶した時についえたと思える。AKB48のテコ入れは、ドラフトなど何かと行われたが、全国的知名度のあるピーク時のメンバーが卒業していくにつれ人気は薄らいでいったようだ。乃木坂46も齋藤飛鳥の卒業で初期メンバーが一人もいなくなったので、今後の人気が心配である。横道にそれてしまったが、今のところ私のアイドル史はともちんが最後である。
2023.06.01
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エッセイ「人間50年、その後…」⑬「野球人生」私の兄の同級生にNという男がいた。家も近所、徒歩3分ほどのところに住んでいた。昔は子供の数が多く、向こう三軒両隣、徒歩1分程度で10人以上の子供がいて、うちも兄妹で4人、はす向かいには三人兄弟、さらに隣に二人の兄妹、逆方向に二人の兄弟と隣り合っただけで11人いた。それゆえ彼らとは常に交流があり、親たちも特に母親同士が井戸端会議などで仲が良かった。ゆえに徒歩3分といえどもまったく遊んだことはない。しかし、Nは有名だった。リトルリーグで活躍し、スラッガーとして注目を浴び、近所でNを知らないものはいなかった。もっとも昔は町内に住んでいるものであれば、どこそこの息子、娘としてよくしられていたので、なんの活躍をしていなくてもみな知っていたけれど。とはいえ、Nは町内だけでなく広く知られていた。野球が唯一無二の人気スポーツだった頃なので噂に上ることも多かったのだろう。さて、そのNはどこの高校に行ったかは知らない。甲子園に出ていないのは確かだ。それほどまでの活躍はしていないのに注目はされていて、スカウトなのか入団試験を受けたのだかは知らないが、プロ野球選手になったと聞いた。所属は南海ホークスである。どのような選手であったかは知らない。4,5年は在籍したのであろうか。主に二軍というか二軍でしか出ていないように思う。プロ野球選手に間近であったことがないので、プロ野球選手がどういう体型なのかわからないけれど、Nが引退した後、道端でであったことがある。子供の時以来、久々に見た彼は大きかった。175㎝に満たないくらいの背丈ではあったが二の腕は太く、胸板は厚かった。薄い私の胸の優に倍以上の厚みがあった。太ももはパンパン、はち切れんばかりの太さであった。(太もも回りは55㎝くらいある感じ)。ボディビルダーではないの太ければいいというものではないだろうけれど、パワーヒッターらしく筋肉隆々のようすで高い体温の熱量がじわっと伝わってくるようであった。あれはいつだったろうか。もう十年以上前のこと、帰省した折に母から聞いた。Nが亡くなったと。まだ、若い。それこそ50歳にもなっていなかったと思う。引退後、どのような暮らしをしていたかは知らない。実家は米屋で、引退後、しばらくは米屋を手伝っていたようだけれど、その後、どうしたのか。この話を聞いた時点で、実家の米屋はとうの昔に廃業していた。死因はなんだったのか、覚えていない。聞いたかもしれないし、わからなかったかもしれない。ただ、50年も生きられなかった人の人生を思うと、なんだか…。長生きをしたからといって、何かを成し遂げられるわけではない。けれど、老眼や難聴や白髪を経験することなく、若いままの死はなんだかなぁ、と思ってしまう。老眼となり聴力が低下し白髪も増えつつある私は、さて、どう生きていこうか。
2023.05.23
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エッセイ「人間50年、その後…」⑫今週末サミットが広島で開催される。岸田首相が出身の広島で開催される。サミット参加国の首脳たちが長崎を訪れていたニュースが目に入ったが、長崎・広島と訪れて何を標榜しようとしているのか。あるいは、何か宣言を出したいのか。東日本大震災で福島の原発がメルトダウンを起こしかけて、今なお廃炉にできず、汚染水を増やし続けているように思える。本来なら、この原発事故を受けて、脱原発に向かうべきものだと思えるが、当時の政権は原子力発電を停止しただけ、その後の政権はなすすべもなく、現政権は再稼働、延長使用を行っている。ドイツは脱原発を成し遂げだ、隣国フランスでは原発推進である。1-1-13.jpg (1754×1240) (ene100.jp)電力の構成比をみると国によってずいぶんと異なる。脱原発を遂げたドイツの原発の割合が日本より多いのに、原発をなくせたのである。日本にできないとは思えない。フランスを見ると半分以上の電力を原子力で作っているのだから、脱原発は困難だし、また考えられないのだろうと思える。日本の場合ほとんど稼働していないからこの割合なのかもしれないけれど、だからこそ脱原発へ進みやすいのではないだろうか。太陽光の比率を上げて現在の倍の発電量になれば、原発がなくてもやっていけると思える。さて、岸田首相が就任当初は何かをやってくれる、改善してくれると期待したが、思ったほど活躍はしていない。コロナ禍の対策に追われたということもあるだろうけれど、他国に押されて軍備増強の道を走り始めたと思え、感心しない。戦争反対とは真逆ではないだろうか。こんなにも老人が増え、少子化が進み、社会保障問題が重くのしかかっているのだから、そのことを最優先にすべきだろうと思える。沖縄の基地移転問題も真摯に考え対応すべきである。日米地位協定もドイツで改善されたように日本人と米軍人が平等に扱われるよう改定すべきである。問題山積、難題多し。多くの難問を後世に残していいはずがない。岸田氏が首相になって何か変わった感じがするが、人が変わっただけで、かわっていないことが多い。というより悪化していることがあるのではないだろうか。日本は民主主義社会である。にもかかわらず一党独裁のように自民党が支配しているようなのはいかがなものか。国会議員として国に尽くそうと思っている人が自民党でなければできないと自民党に鞍替えしていくこともいかがなものか。政治信条はないのだろうかと思ってしまう。一部に人気のある野党も褒められたものではない。単独で自民党に対抗できないのであれば、たとえ野合と言われようと薩長同盟のように手を組んで新しい世の中を、新しい政治を目指すべきである。次期政権、次期内閣として40代50代の政治家の決起を期待したい。
2023.05.16
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エッセイ「人間50年、その後…」⑪私の役者人生は24年だった。24歳で上京し、飯のタネの仕事を失う48歳までの24年。3年頑張って目が出なかった帰郷するという親に誓った言葉を反故にして、30歳までには売れたい。たとえ、売れなくても役者で食べていきたいと思っていた。上京を決めたけれど、どこかの養成所に入るあてもなく、軒並み受けた入所試験は惨敗するも唯一受かった養成所に通うことにする。日中はアルバイトをすることにしたので夜間部へ。一番若い同期生は高校卒業してすぐの6歳若いティーンエイジャーだった。世代格差で話がかみ合わないことだらけであったけれど若者文化を教えてもらい吸収していった。丸2年、勉強したが、卒業時に行われる事務所試験をクリアできず所属とはならなかった。プータロー、まったくの無所属、無職(アルバイトはしていたけれど)となった私はあせり、4月にまだ募集していた劇団付属養成所の専科に編入した。それは本科1年、専科2年の2年制の養成所であった。その2年目に編入した私は本科生あがりの若者たちからは演技力ありの者と見られたようで、なおかつ転校生のようでもあり注目と関心を集めた。ただ、そこでの1年の役者修行も実を結ばず、そこの劇団に入団することは叶わなかった。またもやの無所属である。(アルバイトはしていたけれど)昔話をして恐縮だが、役者修行、養成所で勉強しているとセリフを覚えるのが役者の仕事ではないとわかってくる。セリフを覚えるのは当たり前。その後、何をするかだ。主要な役であれば役作りを求められるし、ちょい役であろうとその役にならなければならない。会社員役なら会社員に重役役なら重役に、店員役なら店員に店長役なら店長に、ならなければならない。演技を学び始めた頃、自分のセリフを覚えるのにも精一杯、相手役のセリフを覚えるなんて思いもよらぬことであるが、相手のセリフを覚えていなければ自分のセリフを言えない、即ち、自分のセリフを言いだすタイミングがわからないということが最初にわかる。ゆえに相手のセリフを覚えることはもちろん、複数の人が絡んでいる場合にはその場にいる人たちのセリフを覚えるのは当然である。今日(5月10日)WEBの記事(コラムかな?)を読んだ。<以下、引用>「撮影初日にはすでに木村さんの台本はボロボロ。中に赤線もびっしりでした。自分のセリフだけでなく、共演者のセリフも覚えているんです。そこまでする役者さんは木村さん以外に見たことがありません」(前出・芸能プロ関係者)<以上、引用>木村拓哉「あんな作品…」本人も予見したフジテレビ『教場0』の苦戦 それでも「唯一無二」な存在理由 (msn.com)より台本はボロボロ、中に赤線もびっしり、なのは木村拓哉さんだけかもしれないけれど、共演者のセリフを覚えているのは出演者全員だと思う。台本をもらっていないエキストラはセリフなんて知らないし、覚えることもできないのは当然だと思える。共演者のセリフを覚えているだけで主役を盛り上げようとするのは役者というものを知らない人だと思える。昭和の時代に共演者だけでなく自分のセリフも覚えないスターがいたようだけれど、それはその時代のそのスターにだけ許された行為だと考える。余談になるが、フジテレビ「教場0」の視聴を私はやめた。初回と2回目だけを見た。視聴をやめたのは面白くないからである。なぜ、面白くないか。ドラマが陰鬱である。木村拓哉が主人公であるのに脇に回っているように感じられる。狂言回しなのかもしれないが、それだと木村拓哉の魅力が感じられない。華やかさがない。とにかく暗いイメージで月9というきらびやかなイメージにそぐわない。あと単発ドラマの教場で見ることができた、木村拓哉演じる風間公親の冷たさが冷たいのではなく人命保護などきちんとした理由があっての文言だったということがわかり納得する展開があった。この2回を見るとやたら冷たい指導官というだけで視聴者が感嘆したり納得したりするネタがなかった、あるいはそういう描き方になってなかった気がしたからである。
2023.05.11
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エッセイ「人間50年、その後…」 ⑩チャールズ国王の戴冠式をテレビで見た。たまたま民放でやっていたので、その戴冠の時だけを見た。テレビを見ていて残念だったのは、戴冠式が続いているにもかかわらず、出演者にコメントを求めたり、中継を終えようとしたことだ。あわてて私はNHKにチャンネルを切り替えたが、戴冠式の中継はやっていなかった。それゆえ、また民放に切り替えたが、生放送のバタバタ感が出て、戴冠式の厳粛な雰囲気を伝えるには臨場感(現地で参加している雰囲気)が全くなくて残念だった。天皇陛下でなく秋篠宮様が参列された点について違和感をもっていたけれど、チャールズ国王が在位して8か月と期間が短く、格の上から秋篠宮様になったと聞いて納得した。エリザベス女王の戴冠式には時の皇太子・明仁(あきひと)殿下が参列されたときき、その時の写真を見てさらに納得した。映画『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』のモデルとなったエドワード8世の話が出たが、あたかもエドワード8世の次がエリザベス2世のような話しぶりだったので、エドワード8世の弟・ジョージ6世(映画『英国王のスピーチ』のモデルとなった王)が兄の後を継ぎ、その後、娘のエリザベス2世へと続いたことを明確にしなければならなかったと思う。さて、秋篠宮様と紀子様が戴冠式に参列された。そのお姿に疑問を持った。秋篠宮様がモーニングで紀子様が着物であった。お二人とも洋装か、さもなくば和装か、統一されたほうが良かったのではと思える。秋篠宮様が紋付き袴というのはいかがなものと思えたのか、ならば紀子様は留袖であるべきだという意見もあるようである。正装で式典に参加するにあたり、巷ではちゃんとした(?)結婚式が行われなくなり。何を着ればよいか、正解がわからなくなっているのではないだろうか。そんな風に思えた。かくいう私はいまだモーニングを着たことはない。(C)2011 W.E. COMMISSIONING COMPANY LIMITED. ALL RIGHTS RESERVED.『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』(映画.com)(C) 2010 See-Saw Films. All rights reserved『英国王のスピーチ』(映画.com)「英国王のスピーチ」(マイライフ・マイシネマアルカディア)
2023.05.09
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エッセイ「人間50年、その後…」 ⑨卓球の石川佳純選手が引退した。30歳での引退である。現役を退いて、第二の人生を始まるにはとても良い年齢だと思える。 その昔、映画俳優を志した私は紆余曲折があり、24歳の時に上京した。何の修業もしていないのに上京すれば映画スターになれなくても映画俳優の末席につらなることができると思っていた。ところが、事務所に所属することもできず、エキストラならいくらでも仕事が回ってくるけれど、役付きは望めなかった。映画にエキストラの仕事で参加していた時にエキストラ専門の事務所でエキストラとして活躍している諸先輩を見ていて、30歳過ぎてもこのエキストラという仕事はやっていたくないなぁと思った。売れなくてもエキストラの仕事はしないぞと思ったのだ。30歳までに売れるという夢は叶わなかったが、プライドを持って(?)エキストラの仕事は止めた。仕事の依頼があっても断った。(数回断るとエキストラの仕事の声はかからなくなった)エキストラをやめて30年、しばらくは悪戦苦闘したけれど、俳優として世に出ることはできず、二足のわらじであった役者稼業は12年前に食い扶持である正業(会社員)を失業した時に足を洗った。正業を求めて、これまた悪戦苦闘、職場を転々として現在の仕事に就いた。残りの人生をいかに生きるべきか、これが目下の課題である。 「君たちはどう生きるか」という漫画を読んだことがあるが、漫画を読んでも日常を描いていて本質は汲み取れなかった。(どう生きるかがわからなかった)今年、ジブリで宮崎駿監督が映画「君たちはどう生きるか」を製作・公開する。「君たちはどう生きるか」という本を原作とするのではなく、モチーフ、またはイスパイアされた独自のものらしい。果たして宮崎駿監督の映画を見て、どう生きるかがわかるのだろうか。また、その映画を見て生き方の指針を得たいと欲している自分は何なのだろうか。 思うに、人はどう生きるかがわからないから生きているのだろうか?漫画君たちはどう生きるか/吉野源三郎/羽賀翔一【3000円以上送料無料】(C)2023 Studio Ghibli2023年7月14日公開
2023.05.04
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エッセイ「人間50年、その後…」 ⑧25年前の結婚式で披露宴をしたホテルから25年キャンドルをいただいた。それから毎年、結婚記念日には灯をともし一年、一年ろうそくを溶かしていった。キャンドルには上部から赤い文字で1,2,3と数字が刻まれていたのだ。今年25という数字の蝋(ろう)を溶かし、キャンドルは役目を終えた。もともとの高さでちょうど真ん中くらいで25となり、白いリボンが25の数字のすぐ下に結ばれていた。キャンドルは末広がりの土台を半分残したまま。しかし、役目を終えたキャンドルは捨てることになるだろう。紆余曲折、いろいろあった25年。コロナ禍で外出することはまれで昨年夏、3年ぶりに帰省したことくらい。とにもかくにも25年を記念して外食くらいは行こうと話している。
2023.04.27
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エッセイ「人間50年、その後…」 ⑦広島でサミットが行われる。コロナ禍での鎖国状態を解き、外国人来日客が訪れる人気都市として広島が上昇中とのこと。広島を訪れる外国人が増えることはいいことだと思う。ところで、広島を訪れる日本人は多いのだろうか。私は広島を訪れたことがある。その時は安芸の宮島なども行ったけれど、広島平和記念資料館も訪れた。記憶が定かでないけれど、大改修の後に行った気がする。もちろん、原爆の被害、原爆のあとの焼け焦げたものや写真の展示やマネキンのようなものを使った展示があったと思うけれど、その時より十年ほど前に見た長崎国際文化会館の原爆資料センターの歴史を感じさせる建物、悲痛な資料の展示に比べると悲惨さや悲愴さを感じにくい小綺麗な感じがした。長崎も今は長崎原爆資料館として建て替わっているので、広島同様、悲惨さを感じる度合いは薄れているのかもしれない。私に子供がいるけれど、幼少期から恐いものには拒絶反応を示し、一切見てこなかった。そのせいか、映画「火垂るの墓」を見ることを拒絶されたし、沖縄をはじめ、広島や長崎の戦火の後を訪れることは否定された。戦争の傷後を見ないと反戦の思いは強くならない気がするけれど、そもそも恐いもの(戦争)を避けるということであれば、それはそれでしかたないのかな、という気もする。ドイツは東日本大震災での福島原発の事故を鑑み、脱原発へ歩みだした。そして今年ついに国内のすべての原発を停止した。日本は原発をやめられない。再稼働し半永久的に使用しようとしている。ニュースでは化石燃料=石炭の消費量がダントツで多いときいた。原発もやめられず、さりとて化石燃料も使い続けるとは、先進国日本としてあるべく姿とは思えない。これは日本の経済・産業が悪いというよりも政治の力がないということだと思える。ドイツの隣国フランスが原発を続け、ドイツに電力が足りなかったら供給することができるからドイツの脱原発は可能なのだというようなことをニュースで小耳にはさんだが、はたしてそうだろうか?原発は危険であるという認識のもとに自然エネルギーでの供給に血道をあげて不退転の決意で尽力してきたのではないだろうか。ドイツはロシアとウクライナの戦火の影響でロシアからのパイプラインによる天然ガスの供給がストップしている。ガス・電気の料金が跳ね上がる中で企業も国も自足する苦難を乗り越えているのではないだろうか。翻って日本はどうであろうか。数多のダムを造り水力発電を行ってきたし、風力発電なども行い、太陽光パネルの設置も行ってきた。ただ、消費量があまりに多く、原発の力を借りなければ足りないという状況なのではないだろうか。電化製品ばかりの日本となってしまった今、消費量を抑えるのは難しいことだろうけれど、計画停電を経験した我々であれば消費量を抑えることは可能なのではないだろうか。また、日本の技術力をもってすれば自動車会社などが研究を重ねるEVや水素自動車を発展させて水素などを使った電力発電が可能なのではないだろうか。近隣諸国、特に韓国・中国・ロシアからは一部ではあるかもしれないが嫌悪され拒絶される状況を見れば、いざとなったら隣国に電力供給を頼めないと悲観するのではなく、他のアジアの国からあるいは欧米の英知を借りて画期的な電力発電を実現すべきではないだろうか。話は広島を訪れるという内容からずいぶんと遠ざかったが、石油という燃料を確保するために戦争が起こったことを考えると電力の自足は必要不可欠であり、それは原子力発電所なしに実現しなければならないものだと思える。広島を訪れる外国人は何を思うのであろうか。【ジブリ】年表!公開年順一覧! - アニメミル (animemiru.jp)
2023.04.25
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エッセイ「人間50年、その後…」⑥物忘れがひどい。昨日の晩御飯が何だったのか?というレベルではなく、趣味である映画に関して、一度見た作品について、まったく記憶がないのである。ストーリーを覚えていないだけならまだしも、見たかどうかさえ記憶にない。映像配信で見たい映画を探し、見始めてみると、既視感があり、待てよと鑑賞記録をチェックするとすでに見ていたりする。見たことを忘れて見たい好みの映画を探して選ぶとすでに見ていた作品であるというのは、好みは変わらないのだな、なんて思う。昔、テレビで洋画劇場なるものが全盛のころ各曜日に映画評論家である解説者、ナビゲーターがいて、その第一人者である淀川長治氏が映画紹介するときには昔見た作品ももう一度見てコメントすると聞いたことがある。若かった私はずいぶんと時間の浪費をするもんだと思った。しかるに私自身、50歳を超えるころから、記憶があやふやになってきた。テレビのNHK―BSのプレミアムシネマですでに見てしまった作品を再放送するときに、未見だと思い見てしまったのだ。しかも、その時にはまったく気づかず映画がクライマックス、終盤になって初めてその映画を見たことに気付いたことがあった。不覚であった。それからというもの配信で作品を選んでも10分ほど見てから、見たことあるかな?となり、調べると見ていたりする。はたまた、人気の作品であり、見なきゃと見た記憶があるのに内容に関しての記憶がなく、良いか悪いかもわからずじまいということが多々ある。人間の記憶の怪しさはこの歳になって実感しているが、政治家が“記憶にございません”といっていることもあながち嘘ではなく、本人の記憶から消え去っているのかもしれない、と思えてきた。私は30歳頃に事務仕事をしていて、4人ぐらいがそれぞれ別の仕事をしていてあれこれ話しているのを聞いていて、それぞれ4人の話を聞き分けていて、聖徳太子みたいだと言われたことがあった。それこそ頭の後ろに目があるようにその部屋の出来事を把握していたものだが、今ではそんなこともなく、たった一人の話でさえしっかりと聞くのが難しい。記憶の衰えは若い時から感じていて、新人の自己紹介の時に人の名前が覚えられず、こいつはあいつ(昔の友達)と同じ名前だと紐づけて、あいつの名前を思い出しては呼んでいた。今はもう新しい人の名前は全く入らず、呪文のように繰り返し唱えて覚えこむか、電話をかける時には名刺を確認してしまう。 物忘れがひどいというのは、初老(40代)を迎えたひとは感じるものなのだろうか。 最近、配信の映画をがんばって見ているけれど、週末に一日三本見てしまうと、その前に見た作品などは記憶の彼方に行ってしまう。それこそ、見た覚えがあっても内容が出てこない。たまに、そんなことではいけないと評判作や名作を繰り返し見ることがあるけれど、見覚えがなく、また見ても何ら感動を覚えないので、記憶に残らないのか、と思えてしまう。 そういえば、昨年「ロッキーIV」が「ロッキーVSドラコ」として再編集された。そのこともあって配信でロッキーシリーズが見ることができた。「ロッキー」はとても懐かしく45年ぶりの再会、再視聴となった。記憶に残る場面は多く、とても懐かしかった。しかし、45年前の血沸き、肉躍る感動は来なかった。歳をとったということだろうか。続いて「ロッキーII」を見た。こちらも映画公開時には大号泣した作品だ。情緒過多な作品で、お涙頂戴作品としてけなされた思い出がある。こちらも今回の再見では泣かなかった。感性がにぶったのかなぁ、と思えた。続いて、「ロッキーIII」を見た。この作品を見た時は衝撃だった。なぜなら、私の記憶にない作品だからである。私の記憶では今回再編集された「ロッキーIV」がIIIであった。なのに、こんな作品があったなんて。もちろん、ロッキーファンの私は見ている。ん?見ているのかな?映画記録をチェックしてみよう。1982年7月10日に梅田ピカデリー1にてひとりで見ている。ちなみに87点とつけている。もちろん、こちらも感動はなかった。そして映画館で見た「ロッキーVSドラコ」懐かしさはあり、そこかしこに記憶の断片を思い出させるところはあったけれど、ストーリーを覚えているかと問われれば否と答えるしかない。そんな程度の記憶。アメリカとソ連がいがみ合っていた冷戦時代。思えばあの頃が現代より平和だったのかもしれない。(現代はウクライナとロシアの紛争で平和とはいえない)「ロッキー5」はスタローンの息子が登場するがおもしろくない話なので再見はしなかった。ここで、驚きなのが「ロッキーIII」の記憶がまったく抜け落ちていたということだ。漫然と見ているだけでなく映画記録をつけているのに、しかも大大大ファンとなったロッキーの映画なのに。あまりのショックに記憶に自信がなくなった。その昔、淀川長治氏が見た映画も再度見てコメントを言う。むべなるかな。年齢を重ねてしまうと記憶には何も残っていないから、致し方ない。私の記憶も一度しか見ていないものはうさん霧消してしまっているのかもしれない。ストーリーもシーンも記憶に鮮明なものは何度も見ている「カサブランカ」や「プリティ・ウーマン」や「ウエストサイド物語」などである。一度しか見ていないものは印象深いものとしてその感動のみが残っている。 年々記憶には残らなくなっていっているけれど、良い作品は記憶にとどめたい。ロッキー(字幕版)ロッキーII(字幕版)ロッキーIII(字幕版)ロッキーIV(字幕版)
2023.04.18
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エッセイ「人間50年、その後…」⑤ペインクリニックへ行ってから漢方薬を飲み、冷たいものも熱いものも極力避けてきたせいか歯に痛みを感じなくなっていた。時たま、あっと思うようなことはあっても、痛み止め漢方薬が効いているのかと思えた。明日ようやく大学病院の虫歯科にいくというので、あえて冷たい水を口に含む。「痛い!!」痛いのである。ぜんぜん変わってないではないか。ということで、今朝、虫歯科に行った。私はコンサルティング案件とされていた。なので歯科医は虫歯があったとしても治療してますます痛むことがあるかもしれない。ひとによっては痛みが増すのは嫌だから虫歯治療をしないでくれという人もいる。どうしますかと聞いてきた。虫歯があるのに治療しないという意味がわからないと思いながら、痛くなることも覚悟で治療をお願いした。(虫歯治療は地元の歯医者で治療しているので虫歯があることはないはず)仮歯を取り除き、キュィーン、ガリガリと虫歯治療を始めた。キュィーン、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ…キュィーン、ガリガリ…。相当ガリガリやったと思ったら、器具を替えて、ゴリゴリ、ゴリゴリ…。ゴリゴリ…。歯科医「あ、こっちにも虫歯が…」隣の歯も虫歯があったようだ。キュィーン、ガリガリ…。なかなか手ごわそうな虫歯だ。あ、しみるしみる。冷たいを感じる。うわー、しみる。冷たい…。もう30分以上口開けたままだよね。ゴリゴリ、ゴリゴリ…。ガリガリ、ゴリゴリ…。歯科医「口、ゆすいでください」次に横たわると、なんだろう、なにか熱いものが…グワン、グワン、ズーン、グワン、グワン、ズーン。ゴー、と吸入器の水分を吸い取る音がずっと鳴っている。 しかし、「ちょっと噛んでみてください」ずっと口を開けていたので、あご関節がおかしい、うまく噛み合わせ出来ない。それでも数回繰り返すうちに、うまく噛めるようになってきた。歯科医「どこか高いというところありますか?」私「いえ、大丈夫です」歯科医「では、これで終わりです」私「虫歯、治療が終わりってことですか?」歯科医「そうですね。虫歯が何か固いものの奥にあったので、その固いものを取って、神経にずいぶん近いところまで治療したので薬剤を入れましたけど、もし、神経が痛むとか腫れるとか障害が出てくれば次は神経科になります」治療を終えた時には開始から一時間が経過していた。歯型を採るでもなく、治療した歯にいきなり被せて成型してしまうなんて、初めての経験。さすが大学病院だと感心した。その後、続いてペインクリニック科に行ったところ、「そうですか、虫歯があったんですか。であれば、ペインクリニック科ではないかもしれませんね。次回予約を入れて様子を見ましょう。それで、痛みが出なければ予約キャンセルでかまいませんから」と医師に言われる。三か月を超えた歯の痛痒はこれにて終わりを迎えるのであろうか。
2023.04.13
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エッセイ「人間50年、その後…」④つーーーー…冷たい!!冷たい!!それほど冷たくないはずの冷茶が歯にしみる。味噌汁を飲むと、あっつい!! 熱い!!冷たいものを冷たいと感じ、熱いものを熱いと感じる。これは虫歯か?ということで、通いなれた歯医者に行く。 “シャー!!シャー!”歯科医で冷気を吹きかけられる。冷たくはない。トン、トン。トン、トン。歯を小突かれる痛くはない。歯科医は「なんでしょうかね?歯と歯茎に一部欠けたような隙間がありますね。ちょっと塞いでみて」「・・・様子見てください」会計をして帰宅した。手を洗い、うがいをする。「ウーーーーーー!!」痛い、とてつもなく痛い。歯科医に電話すると、本日多忙なゆえ、時間が取れず、我慢できるようなら来週来てくれとのこと。なんなんだ、それはと思いつつ、次週に行くこととした。次週、行ってみたところ、同じ歯医者なのに歯科医が違う。治療してもらった歯ではなく、その隣、一番奥の歯が痛むようだと伝える。一番奥の歯は銀歯が被せてあってレントゲンをとっても何も写らないのだという。被せを取ってみていいかというので、取るようにお願いした。被せをとったところ、歯科医曰く、「ああっ、虫歯になってますね」とガリガリ、キュイーンと治療しだした。歯科医は「今日、仮の被せをしましたので、これで痛みがなければ次回、型をとりますね」といった。私はやはり銀歯(の中)が、虫歯になっていたのか、と思った。帰宅して、うがいをすると…しみる。痛い…。どういうこと?冷たさを感じながら一週間が経過。歯科医は虫歯を治療した医師とは違った人だった。(当初の歯科医である)仮歯を被せているけれど、冷たい、熱いをいまだ感じることを伝えると、冷気を吹きかけた。冷気は冷たくない。歯科医は、何かしら神経に触っているんだと思うけれど、冷気で冷たさを感じないのであれば原因がわからない。最悪、神経をとることも可能だけれど、神経はできるならとりたくはない。大学病院のペインクリニックに紹介状を書くから、そちらに行ってくれと言われた。“ペイン・クリニック”ってこれは神経過敏?あるいは年老いたことによる何か?私は不安に陥った。医科歯科大学病院のペインクリニック科へ行った。システム化された受付にまごまごしながら受付を済ませ、ペイン・クリニック科へ行く。初めてのペインクリニック科にドキドキ。患者はそれなりにいる。予約した時間を過ぎて待っていると…何もない。待っていると…待っていると…予約して時間をすぎて40分を経過し、1時間待つようなら窓口に言わなきゃと思い始める。待っていると…窓口に言わなきゃ…で、呼ばれた。歯科医はペインクリニックについて説明し、紹介状を見て、「同封されたレントゲンが古すぎるので、こちらでレントゲン取り直してください」と言われ、すぐさまレントゲンを撮りに行く。ペインクリニック科にもどり待っていると、呼ばれた。歯科医は「レントゲンを見る限り、よくわからないけれど、ひょっとすると虫歯があるのかもしれません。虫歯がある場合は虫歯の治療が終わってからの診療となるので虫歯科に治療予約いれますね」と大学病院の虫歯科はすぐに予約が取れず一か月先になった。それまでは痛み止めの漢方薬を一日三回食前に飲むようにと処方された。虫歯を治療しても痛いからきたのに虫歯の点検をするというのは?ペインクリニックの通常ルートなのだろうか、と思いながら帰宅した。
2023.04.11
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エッセイ「人間50年、その後…」③50歳の時にも感じたが、60歳を過ぎても老け込んだ気がしない。爺さんになった気がしないのである。連綿と続く日々のなかで少しずつ歳をとっているのだけれど、精神年齢というか気分は若いままというか、若い時と変わりない。背が縮み、体のあちこちに痛みを感じ、手のしびれも感じる始末なのに、気分は若いまま。十代、二十代というわけにはいかず、それでも四十代くらいのつもりだから二十年もサバを読んでいることになる。とはいえ、これほどピンシャンと元気でいられるのも六十代の10年ほどかと思い、体の動くうちにあれこれやりたいなと思う。人生何事も始めるに遅いことはない、なんていうけれど、寿命がわかっていれば焦ったり、のんびりしたりできるのだろうが、残された人生の長さは誰にもわからない。時に大病したときに余命宣告されるくらいで、そんなこともなければ、事故や災害で明日突然死んだとしても、今この時に知りようはない。で、あと10年、その後も生きているかもしれないけれど、何をしようか。若い時に挑戦してもなれなかった映画俳優の道をシニアとして目指すということもあるだろうけれど、今更エキストラをやりたいわけでもなく、セリフのないキャストならばこちらから願い下げだ。もう12年も演技をしていない。しまった刀はさび付くように、演技力も落ちているだろう。55歳で引退した高峰秀子さんを見習って演技の道はよしといて、文筆に勤しむかな。小説を書いてみたい気はするけれど、書けるかな。また、書いたとして駄文、駄作であったら書く意味もない。とはいっても否定ばかりしているわけにもいかず、とにかく何かを始めよう。どう生きたって長くてあと二、三十年、長くても四十年は生きられまい。早ければ数年のことかもしれない。中華料理人の陳建一さんが67歳で亡くなったことを知り、67歳だとあと数年だなと思いいたる。さて、何をしようか。 昔、若かりし頃、映画俳優になるのが夢であったけれど実現できなかった時にいろいろと考えて3番目か4番目に喫茶店店主という夢があった。映画のポスターを貼り、雑誌を置き、関連書籍を置いているような喫茶店があったような気がした。私もそのような店をやってみたいと思った。古い作品ではあるが映画ポスターは数十枚持っているし、チラシならば何百枚も持っている。それらをそこかしこの壁に貼って、映画音楽を流してゆったりとした時間を楽しむ喫茶店。子供のころテレビの洋画劇場をインスタントコーヒーのネスカフェを飲みながら見たコーヒー大好きな人間なので、喫茶店、コーヒー店は一挙両得の夢であった。コーヒーもインスタントから始まり、憧れの年上の女性がブラックコーヒーを愛飲していると知りブラック派となり、インスタントではなくドリップして飲んでいたが、初めてのヨーロッパ、フランスで本場のコーヒーという真っ黒なデミタスコーヒーを飲んで驚き、朝食に出されるカフェオレのおいしさにはまり、カフェオレ派・ミルクコーヒー派となってしまった。フランスで飲んだ本物のコーヒーに本物のミルクを入れるカフェオレは日本では飲んだことがない。日本のカフェオレは薄味だった。ミルクもコーヒーも濃度が違うのだろう。ただ、そんな時代も遠くに去り、スタバなどのコーヒー・チェーンが展開すると濃い味のカフェオレやカフェラテが飲める現在である。と書いていた時に訃報が届いた。坂本龍一さんが亡くなった。かねてからがん告知を周知しての闘病ながらに精力的にお仕事をされていた。71歳での死去。やはりあと10年ほどが活動できる期限なのだろうか。映画「生きるLIVING」を見た。ノーベル賞作家カズオ・イシグロによる脚本である。見てみてオリジナル映画「生きる」とは視点が違うと思った。そこで、忘却の彼方にある「生きる」を配信で見てみた。大まかな筋に違いはない。冒頭の部分は新作アレンジで終盤は弔問が一部カットされている。脇役の設定も微妙に違っていた。ただ日本をイギリスに移し、全く同じ内容ではリメイクの意味もないだろうからアレンジされているのだろうけれど、そのアレンジが良いか悪いか。「生きる」を見直してみて、やはりオリジナルが良いと思えた。私の記憶に鮮明に残っているシーンが新作にはなく、オリジナルにはあった。「生きる」の弔問・通夜の席のシーンは長い。そしてここに訪れる通夜の客のワンシーンで私は感動し泣いてしまった。初見の時の印象的なシーンが、ここであった。私はふたたび泣いた。このシーン、この弔問が「生きる」の重要なところだと思う。余命半年か一年か、とにかくあとわずかだということしかわからない。そのなかで、何かしら生きた証を残そうと、懸命に生きようとした「生きる」の主人公。坂本龍一さんも最晩年、懸命に生きようと精力的にお仕事をされていたのかもしれない。ご冥福を祈ります。合掌。『生きる』 4K リマスター Blu-ray【Blu-ray】 [ 黒澤明 ]戦場のメリークリスマス [ デヴィッド・ボウイ ]
2023.04.09
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エッセイ「人間50年、その後…」②四半世紀勤めた職場を離れ無職。転職活動するには歳を重ねすぎていた。何社も何社も履歴書を送り、面接に呼んでもらっても反応はなく、失業保険が終わろうとしていた。給料は安い、しかし、そんなところでさえ「お前を雇ってくれる会社なんてない」とあの社長に断言された私は立ち上がる気力も高給を求める意欲も失くしていた。もう、どこにも就職できないのではないかと思い始めていた。その時、一本の電話が鳴った。急だがなるべく早く面接に来いと。働けるならどこでもいいと思えるほどの状況の中、一次、二次と面接を終え、採用された。その給料では家族が暮らしていくには足りないなんて気づかないまま就職した。というよりも「お前を雇ってくれる会社なんてない」という呪詛とも思える言葉の影響で25万円という固定給が救いに思えた。家のローンを考えると、たぶん、かつかつであったであろう。とはいえ、職場を手に入れた私は安心をとりもどし、働いた。 新しい職場で一年を過ぎたある日、義父から「それで暮らしていけるのか?」と問われた。娘のことを心配しての一言だったのだろう。そこで初めて家計が火の車ならぬ焼け跡になりつつあることを知った。働きながらの転職活動が始まる。業種は問わず、現状よりもプラス5万円の給料をもらえるところを探した。高給料のところはあっても書類選考落ち。面接まで行ったところで募集条項は絵に描いた餅、安い給料でいいならというところがあったりした。いいところは見つからず、転職活動をしてから半年が経とうとしていた。都内での仕事はあきらめ他県でも職を探した。その結果、通勤時間がかかり県外になる企業で面接となった。社長面接で「うちの会社良くないよ。それでも来る?」なんて言われた。いろいろと危惧するところはあったけれど、現状プラス5万円の給料に惹かれ、転職した。 転職をしてみると独特な会社の雰囲気。従業員はみな過重労働を強いられていた。ワンマン会社であった。もちろんベテランはうまく対処していたけれど、違和感を感じた私は馴染めなかった。実態はどうだったのか。私はブラック企業だったと思っている。当初は歓迎してくれていた従業員たちは会社になじまない私を異分子とし誰も近づかなくなっていた。早くも転職を考えていたけれど、半年は勤めないと失業手当がもらえない。我慢の日々だった。なんとか半年を迎えるころ、会社の方が先に見切りをつけた。話し合いの末、退職届を出した。次の日から退職までの一か月、それまでの業務をはずされ、一日中ひたすら入力業務をする小部屋に移動になった。来る日も来る日も朝から晩まで入力、入力、入力…。退職した私はまた無職となってしまった。転職を繰り返すうちに50歳を過ぎ、ミドルの仕事を求めるには難しくなっていた。 ハローワークに通い、転職サイトに登録し、ネットで検索する日々。履歴書も職務経歴書も書き直し転職サイトで添削してもらう。応募数は前々回をはるかにこえて、前回もこえて数百社。たまにある面接も十社を越えていた。最初に応募したインド人経営の会社の感触が良く、そこに就職できるのではと思ったけれど、使わなくなっていた英語への苦手意識が仇となった。社長面接用の英語でのレジュメをダイジェストにしてしまった。英語でのインタビューも心臓バクバクで思うようにしゃべれなかった。それでも結果発表を心待ちにした。返答は当初予定の一週間から二週間に延ばされ、転職アドバイザーにせっついて得た回答が不採用だった。思うに、私の評価はイマイチで、後に来た有望な人が内定を承諾することを待っていたのだと感じた。落ち込んでもいられないので毎日毎日ネット検索の日々で新規募集を見込んでハローワークに通う日々。いつまでたっても家にいる父親をこどもは「いつまでいるのか、早く仕事に行ってくれ」と思っていたようだ。 働けるところがあるなら、私も早く働きたい。ハローワークに紹介され、年齢不問で募集している会社に電話しても、募集要項はそのように出していますが三十代から四十代が良いと言われる始末。それならせめて応募者に明示しない形で希望年齢層を出しておいてくれと思った。実際、年齢不問でもターゲット層を告げている会社は多い。 そんなこんなで悪戦苦闘の日々、失業保険が切れる直前に現在の会社に内定をもらえた。
2023.04.06
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「高峰秀子ベスト・エッセイ」(高峰秀子・著、斎藤明美・編/ちくま文庫)を読んでいる。この本を読んで驚いたのは高峰秀子さんが55歳で女優を引退したということだ。55歳と言えば当時の定年の年齢であるから不思議ではないけれど、老いて盛んというか70歳代で活躍する近頃の俳優諸氏を見るに生涯現役が当たり前のような気がしていたので、大いに驚いた次第である。これまた驚いた理由には私自身がその歳をすでに通り過ぎてしまったせいもある。財もなく悠々自適に暮らすわけにもいかない私は還暦を過ぎても働かざるを得ない。大女優として40年以上働いてきた高峰秀子さんだからできた引退とも思えた。そして、また小さな驚きであるが彼女の引退作品「衝動殺人 息子よ」を映画館で見ている。さて、『人間50年、その後…』と銘打って書き始めたけれど、49歳でその生涯を終えた織田信長を意識していて、48歳で職をなくして路頭に迷い役者の道もあきらめた我が人生の一つの終焉を重ねたものである。 私は二度目の死を考えていた。一度目は中学三年14歳の時である。高校受験を控えた夏が始まるころ、ふと、死を思った。その時より前に読んだのか、後に読んだのか定かでないけれど「二十歳の原点」という自殺した女子大学生の日記を書籍化したものに感化されていた。衝動は突然、うっすらと考えていた自殺というものが顕在化して発作的に死を実行しようと考えたのだが、その実行を思うと恐ろしくなり、何気ない母の声掛けで我に返ったように翻意した。その時の委細については、もう記憶になく、なにゆえに実行しようとしたのか、また何があって実行をやめたのか判然としない。ただ、その時も、その後も、一度死を考えた私は生涯二度と死を考えることなどないと考えていた。ところが、である。 地方から映画俳優を目指して上京し、渋谷の混雑に人酔いして山手線に乗る気がしなかった。なぜか、ふと思いつき南口バスターミナルからバスに乗ればとバス乗り場を探した。バスターミナルの乗り場は停留所がそこかしこに広がり、ほぼ中央に位置するところに新宿行きの乗り場があった。雨上がりでわずかな水たまりが点在していた。私は、数人のバス待ち客の最後尾に並んだ。バスが到着すると水たまりをぴょこんぴょこんと飛び越えて駆けてくる若い女性がいた。夕暮れの太陽が彼女を照らし輝いて見えた。思わず身を引いて彼女を先に通した。彼女のまなざしは私をとらえ前後の椅子に腰かけた時には彼女の手を握りしめていた。遠い昔の余談はこれくらいにして…、それから四半世紀、あちこちいくつものバイトを転々としてなんとか暮らしていける時給を稼げる会社にバイトで入った。俳優として売れることも、生活することもできずにいたが、バイトでの仕事ぶりが認められ売れたら辞めたらいいと促され正社員となって日夜働いた。オーナー中小企業だったので、ワンマンがたたり、倒産の危機を何度も繰り返し、とうとう耐え切れなくなり店じまい。私は、辞める時には最後のひとりと考えていた。その会社の社長に、宴会の席で残党社員10人ほどの前で社長は「俺はお前を認めていない。何十年も一緒に仕事してきたけれど、ぜんぜん仕事できていない。いつまでいるんだ、さっさとやめろ!お前なんてな…」と私に暴言を吐いた。私に味方する人は誰一人いない。社長の暴言よりも、誰もかばってくれなかったことに悲しみ傷ついたのかもしれなかった。私は立ち直れず、家族があるにもかかわらず、初めての時のように、この世から消えてしまいたくなった。死。死を意識した。再び自死を考えたことに震えおののき私は壊れた。 映画だけが頼りなのか、さりとて実写を見る気にはならず、ジブリならと公開中の「コクリコ坂から」を見た。その映画を見た私はさめざめと泣いていた。映画が終わると苦しみは拭い去ったのか、心痛い苦い思いはあれど、死へと進む気がなくなっていた。映画が、アニメが私を救ってくれた。宮崎駿監督が救ってくれたと思っていたが、宮崎駿監督は脚本のみで監督は宮崎吾郎さんだった。ありがとう、感謝いたします。木下惠介生誕100年::衝動殺人 息子よ [ 若山富三郎 ]二十歳の原点(新潮文庫)【電子書籍】[ 高野悦子 ]コクリコ坂から [ 長澤まさみ ]
2023.04.05
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