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(C)2003 WOWOW INC「センセイの鞄」(Amazonプライムビデオで鑑賞)月子(小泉今日子)は37歳でひとり暮らし。ひとり美味しいツマミと日本酒を楽しむマイペースな女性。ある日、行きつけの居酒屋で声をかけてきた初老の男性(柄本明)、それは高校時代の国語の担任だった。歳の差30以上、でも酒の肴の好み、人との距離の取り方、頑固な性格、よく似た2人はしばしば共に時を過ごすようになる。そしていつしか月子の中には、「センセイ」へのおさえがたい愛情が芽生えていた…。2003年作品。監督 久世光彦 主演小泉今日子, 柄本明, 豊原功補 助演俳優モト冬樹, 竹中直人, 木内みどり, 樹木希林 (感想)出逢って二年間でゆっくりと恋愛感情が芽生え、三年間でゆっくりと恋人まで昇華する。樹木希林がほとんど老けメイクなしに男の元妻を演じ、柄本明の妻が死亡した次の日に観終えた。加藤治子が思いもかけず若く、やる気のない宿の女将ながら二人の関係に興味津々な様を演じる。何か、運命のモノのようなものを感じる鑑賞でした。15年前のこの作品で小泉今日子は等身大の女を演じ、センセイと死に別れて以降、15年後には今の小泉になっているだろうなと自然と思わせる演技をして絶品である。映画作品でも全然おかしくない。37歳の女性とおそらく70歳くらいの男との恋愛はこんな純情なものになりうると思わせる、いい作品だった。
2018年10月30日
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こんな映画作りも出来るんだ、感心した。監督 : 前田哲 脚本 : 小林弘利 原案 : 黒田恭史 出演 : 妻夫木聡 、 原田美枝子 、 大杉漣 、 田畑智子 、 池田成志 、 戸田菜穂 4月、6年2組の先生は宣言する。「この教室で豚を飼って、みんなで食おうと思います」26人の子供たちは(最近の小学生って、26人学級なんですか?私のときは45人学級だったような‥‥‥)最後の『食う』というところをどれだけ重く受け止めたのかわからないが、「かわいー!」の一点で団結してその提案に乗る。どこまでプロットか、どこまでドキュメンタリーなのかわからない。当初はもっとドラマを想定していたのかもしれない。けれども途中で、うまくなじめない転校生のことや、PTAの苦情や、女の子のPちゃん連れ去り事件などが起きるけれども、さらっと流れて盛り上がらない。転校生の女の子は唯一の演技経験者のように思えるが、途中から全く1/26として扱っている。むしろ26人の中で存在感を浮かび上がらせるのは、他の子供たちなのであった。卒業まで150日をきったある日、Pちゃんをどうするのか、学級会議が開かれる。子供たちに渡された脚本は、結論を自分たちで決めろ、というものだったという。非常に質の高い民主的な議論が始まる。何が質が高いのか。彼らの理論か。いや、違う。感情の堂々巡りをしていたと思う。あまつさえ場外乱闘さえ始まった。しかし凄いのは一人ひとりが立派な『自分自身の意見を持っていてそれをきちんと表明できた」ということだ。先生はその間ずっと黙っていた。先生は途中でコメントを出すけど、それで教室の空気は動いたりはしない。映画を観る前、私は結論を持って臨んでいた。一応言っておくと、「食べるべきではない」ということだった。確かに、人は豚肉を食べて生きている。けれども予告を見る限りでは、あれは豚肉ではない。ペットだ。ペットは食べることはできないだろう。終わってみていえるのは、私の事前の考えは26人が真剣に考えた経過にはとうてい及ばなかった。ということだ。私の同僚の女性は「今年のベスト映画だ」と言っていた。彼女は「食べるべきだ」という意見です。大人の議論をしばらくしましたが、『難しいね』ということで終わってしまいました。子供たちはやはり難しい課題に取り組んだのです。彼女の言うには、最後の決を採ったときに、実はあの男の子は『殺さない』派に変わっていたのではないか、という意見でした。その可能性はあります。でも、じゃあ誰が『殺す』派に?これは食育、だけの映画ではない。日本では大変遅れていて、世界では常識となっている教育、自分で考える力をつける、という教育である。『人間は何のために生きているの?』と問わずにはいられない映画である。さて、今年はこれで映画は見納め。日比谷の派遣村の様子17時30分から夕食はじまりました。力そば、バナナ、かやくご飯に長蛇の列。ただいま入村者約120、相談件数30。やはり状況を反映した様相であります。明日の朝食は9時からの予定です2008年12月31日(水) 17:46 JST 年の瀬に私の方はやっとゆっくりしました。(掃除できなかった !)お昼は水島喜楽園でラーメン。ずっと280円(税抜き)を守っていたのに、340円(税抜き)に値上げしていた。けれどもいつものようにこってり、チャーシューも三枚の美味しいラーメンで、ごった返していました。
2008年12月31日
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これは良家の子女の嗜みですのよ監督・脚本 : 佐藤嗣麻子 出演 : 金城武 、 松たか子 、 仲村トオル 、 國村隼 、 高島礼子 (goo映画より)北村想原作の同名の小説を20年の構想期間を経て映画化。第2次世界大戦を回避した架空の日本を舞台に、富める者から金品を奪う怪人20面相の正体を明かしていく。名探偵、明智小五郎(仲村トオル)は、サーカスの曲芸師、平吉(金城武)を<K-20>だと疑い、捜査するが‥‥‥。当たりでした。エンタメですが、手を抜かずに細かいところに拘っているし、格差社会でヒーローはいかにあるべきか、楽天的に答えを出していて、とても気持がいい。例えば、戦後すぐのバラック小屋がVFXが駆使されていて、違和感なく再現されている。懐かしいような雰囲気を出すとともに、変なところで現代的な部分もある。赤くない東京タワー、バベルの塔の日本版ともいうべき羽柴ビルの建たずまい、1949年という設定ながらも戦争がなかったためか、車の交通量は多いし、無線通信機も発達している。「三丁目の夕日」で培われた技術と職人魂をふんだんに使っていい背景を作っていた。松たか子がいい。華族ながらも、羽ばたく直前のおてんば娘を演じていて、現在の彼女のキャリアに合ったいいキャスティングだと思う。一方男優陣は國村隼がいい味を出していた。金城武は「リターナー」を思い出す演技。怪人二十面相の正体はそうそうに判ってしまうけど、(えっ、私だけ?)まあそれはお愛嬌。ちゃんと伏線を張っているし、種明かしに無駄な時間は使っていないし、いいテンポで物語が進みます。「水曜日のシネマ日記」さんが「明るい『ダークナイト』」といっており、全面的に賛成したい。黒ずくめの変装、体重負荷に十分に耐えうる飛ぶための道具立て、主人公と裏表の関係になる展開、そして最後に『ダークナイト(闇の騎士)』として再出発する辺り、もしかして佐藤監督は『ダークナイト』の脚本を見て、この映画の脚本を作ったのではないかと思ったぐらいでした。ハリウッド版と違って、見たあとに元気になれる映画です。大人独りで見ても楽しいし、家族で見ても大丈夫、正統お正月映画です。
2008年12月26日
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2008年度日本インターネット映画大賞日本映画部門に投票します ・選出作品は5本以上10本まで ・持ち点合計は30点 ・1作品に投票できる最大は10点まで--------------------------------------『 日本映画用投票フォーマット 』【作品賞】(5本以上10本まで) 「 おくりびと 」 5点 「 ぐるりのこと 」 5点 「 母べえ 」 4点 「トウキョウソナタ 」 4点 「闇の子供たち 」 3点 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」 3点 「 クライマーズ・ハイ 」 2点 「 歩いても、歩いても 」 2点 「 釣りバカ日誌19 」 1点 「 マジックアワー」 1点【コメント】 リンク先の記事を見てください----------------------------------【監督賞】 作品名 [ 橋口亮輔 ] (「ぐるりのこと 」)【コメント】 20世紀から21世紀にかけて、何か課題があったはず。そのヒントがここにあるような気がする。【主演男優賞】 [ 本木雅弘 ] (「おくりびと」)【コメント】 発案と納棺師とチェロへの努力と安定した演技力の総合的評価です【主演女優賞】 [ 吉永小百合 ] (「 母べえ」)【コメント】 どんな年齢の役をしようと、この品の良さは、無くならない。凄いことだ。【助演男優賞】 [ 該当なし] (「 」)【助演女優賞】 [ 樹木希林 ] (「歩いても、歩いても」)【コメント】 人間歳をとるごとに凄くなる人がいる。【新人賞】 [ アヤカ・ウィルソン ] (「バコと魔法の絵本 」)【コメント】 あの天真爛漫さがもしかしたら、演技かもしれないと思うと、ぞくぞくする---------------------------------【勝手に○×賞】 [TVドラマ賞] (「風のガーデン」)【コメント】 生まれて初めて最初から最後まできちんと見た日本のドラマです。 すごい演技があります。見てない人は必見。
2008年12月23日
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TVドラマをリアルタイムで最初から最後まで見たのはもしかしたら生まれて初めてかもしれない。HDD録画機のおかげなのであるが、そもそも私は日本のTVドラマや多くのTV番組を日常見ない。そうやって映画と読書の時間を確保してきた。(得たものも大きいが、失った物も幾つかはある)「風のガーデン」が歴史的な大傑作だとは思わない。幾つかの偶然が重なってこのドラマを見ることが出来たのだ。録画機の購入。主人公と同じすい臓がんで今春父を看取ったこと。倉本「北の国から」のファンだったこと。そして第一回放送直前に緒形拳がガンで死亡し、遺作になったこと。非常に素晴らしい作品だった。最初貞美(中井貴一)が余命を知ってほとんど取り乱さなかったことに物足りなさを感じたのは確かだ。重松清の小説では告知前に文字通り身悶えていたし、映画「象の背中」ではトイレの中で身悶えるシーンがある。韓国映画の中では珍しく大げさな表現のない「8月のクリスマス」でも酔いつぶれる場面と、夜中に独り泣く場面がある。貞美は若い恋人茜(平原綾香)を突然抱きしめたくらいで、ほとんど葛藤を見せない。どうやら作者は意図をしてそういう映像を作っていたらしい。父貞三(緒形拳)が息子の余命を知って姉のところに相談に行く。たんたんと話す貞三であるが「私はいま混乱しています」という。説得力のある演技だった。普通ドラマの山場となるようなところを、映像としていつもあっさりと流してしまう。貞美と貞三の森の中での和解の場面がある。どうやらリハーサルなしの一発撮りだったらしい。緒形拳の肩にずっとトンボが止まっていた。なんとも自然で凄い場面だった。最終回は、貞美が緒形拳に、そして私の父に重なって見えて仕方なかった。泣きはしない。けれども次の日に長いドライブの途中に不覚にも‥‥‥。「私は娘に何もしてやれなかった」「これからお前の闘っているさまを娘に見せるのじゃないか」「‥‥‥そうですね、ホントそうですね」(この場面、緒形直人なんかはぼろぼろ泣きながら見ていたのではないか)本当の終末医療をすれば、なくなる一ヶ月前まで娘とバージンロードを歩くことが出来るのか。貞美は麻酔医という設定だったので、そのような展開も受け入れたのではあるが、私の父との比較ではあまりにも違っていて(父は4ヵ月ほんとに苦しんだ)、もう少し研究したい。明日はわが身ではある。しかし、これが日本のテレビドラマだといっていいのだろうか。ずっと韓国ドラマを見てきたので、最後の最後まで二転三転のドラマがまるきりなく、むしろ起承承結というドラマの作り方、しかしじっくりと見せる作り方にずっと唸りとおしだった。韓国の人に見せてみたい。どんな反応を示すだろうか。
2008年12月20日
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DVD 震度0(ゼロ)監督: 水谷俊之出演: 上川隆也 / 國村隼 / 渡辺いっけい / 西村雅彦 / 余貴美子映画ではなく、特別ドラマらしい。上川隆也が若手のキャリア警察官を演じる。非常に原作(横山秀夫)に忠実。けれども、原作ではわかりにくかった時系列と人間関係が、映像にするとすっきりした。一方では、胃がいたむような心理合戦は鳴りを潜めた。どちらがいいか。DVD 長い長い殺人監督: 麻生学出演: 長塚京三, 仲村トオル, 谷原章介 原作(宮部みゆき)に忠実。ストーリーとしては、それぞれの登場人物がそれなりに頑張っているし、話は途中で二転三転するし、小説を読むぶんには面白かったのであるが、映像にすると「コレ」というものがなかったのに気がつく。DVDで十分。劇場映画にならなくて良かった。ただ、最後のどんでん返し、そういえば「容疑者Xの献身」でも使われていたよなあ。あの原作がどこかで既視感があったのはコレだったのか。DVD さよならみどりちゃん監督 古厩智之脚本 渡辺千穂 星野真里 西島秀俊 松尾敏伸 岩佐真悠子 諏訪太朗 初めて抱かれた日にゆうこちゃんはユタカから「オレ彼女がいるんだよね、沖縄に‥‥‥」といわれる。「断れない女」ゆうこちゃんに私は心の中でずっと、叫び続ける。(その男はやめとけ‥‥‥)古厩監督はどうやっらずっと「断れない人間」、優しくて優柔不断なけれども繊細な人間を描いていくのだろう。名作「まぶだち」も「お前のことを思ってやっているんだぞ」と精神的に追い詰める指導を続ける中学教師と生徒の物語だった。最近の「ホームレス中学生」にしても意味のわからない突然のホームレス状態をそのまま受け入れてしまった中学生の物語だった。断れない状況から、断る勇気まで、自分を主張できる人にはわからない長い長い物語がある。時にはドラマが、時には感動が、時には悲劇があるのだろう。ゆうこちゃんの場合は果たして断ったのだろうか。それは最後のカラオケユーミンの「14番目の月」にすべてが書かれている。西島秀俊が、自分勝手で、平然と女を自分の思い通りにする、ハンサムな男をうまく演じている。こんな男ならば「蟹工船」の監督浅川も存在感を持って演じることが出来るかもしれない。
2008年12月17日
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とりあえず観たという記録だけ。監督・脚本 : 河瀬直美 出演 : 長谷川京子 、 グレゴワール・コラン 、 村上淳 カンヌグランプリのご祝儀で好きに撮らせてもらった映画である。「うなぎ」でカンヌを撮ったあとの今村昌平も次の「カンゾー先生」をすぐに撮らせてもらって、イマイチ絞まらないものを作ってしまったが、今度の河瀬直美はそれに輪をかけて「絞まらない」作品を作ってしまった。もともとドキュメンタリータッチで、どこから芝居でどこから本気かわからないような作品を作るのが得意な作家ではあるが、それでも前作は映像の中に緊張感も、テーマもあった。今回はその両方がない。 まあ、映画鑑賞というのは、こういうこともあります。(goo映画より)人生のリセットを求めてタイに着いた日本人女性・彩子が、タクシーに連れて行かれたのはホテルではなく森の中。その川のほとりでフランス人青年グレッグに出会った彩子は、彼が同居するタイ人母子の住む高床式の家に連れて行かれる。言葉も通ぜず、ここがどこかもわからない彩子だが、不安と苛立ちの中でそこで受けた古式マッサージで心の安らぎを得ていく。少しずつ周囲と調和していく彩子は、そこで七つの夜を過ごす
2008年12月10日
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監督 : 福澤克雄 原作 : 加藤哲太郎 脚本 : 橋本忍 出演 : 中居正広 、 仲間由紀恵 、 笑福亭鶴瓶 、 草なぎ剛 、 上川隆也 、 石坂浩二 予告を見る限りでは、スルーするはずの映画だった。膨大な宣伝費にイヤになっただけではなく、中居の演技が、いかにも大仰で、大根演技を見たくなかったからである。けれども、実際に見て、あの演技が大根でないのに驚いた。これだから映画は見てみないとわからない。子供を猫かわいがりするのも、判決を言い渡されたときに全く予想していなかったように驚き、怒るのも、まさに清水豊松と言う、無学で、家族を一人前に養うことだけが夢であった男の半生から来るところなのだ。中居がまさに非常に存在感を持ってそれを演じることが出来たのは、彼の努力ももちろんあるが、やはりキャスティングの妙ともいえる。仲間由紀恵が、豪雪地帯の中、署名を取りに回るところなんか、憲法署名を取りに行った記憶と重なってつい涙ぐんだりもした。(戸別訪問の署名は本当に大変)ただ、気になったのは、この映画のテーマがどこら辺りにあったのか、なぜいま「私は貝になりたい」なのか、なのである。どうもしっくりこないのである。この映画は90歳の御大、脚本家橋本忍のリメイクである。自分の作品には出来るだけ手を加えない主義の橋本がリメイクに踏み切ったのは、映画化当時の黒澤明監督の一言があったからだと言う。「橋本君、あれじゃ貝になれんのじゃないか」と言われたのだ。橋本自身その言葉をどのようにとったのかは明らかになっていない。フランキー堺の前作を見ていないので、私としてはなんともいない。けれども、上告が通って減刑されるとばかり思っていたら突然の「明日処刑になる」と言う宣告。その一日間で、天国から地獄にまっさかさまに落ちたときに書いた遺書で「今度生まれ変わるなら、人間になんかなりたくない。牛か馬か。いやそれでも人間にひどい目にあわされる。いっそ、深い海の底の貝にでも…。貝だったら、兵隊にとられることもない。戦争もない。房江や、健一や直子の事を心配することもない。どうしても生まれ代わらなければならないのなら、私は貝になりたい……」と豊松は書く。そこで描かれるのは、一人の善良な庶民を襲う「戦争の理不尽さ」であり、その結果としての「絶望感」である。それはよくわかる。しかし、最後に妻にあてた手紙で「戦争もない。房江や、健一や直子の事を心配することもない。」と書いてしまったら、妻はいったいどう思うのだろう。それが第一に気になってしまう。貝になりたい、といったときに豊松が思ったのは、塩見岬の底に沈む貝のことだったのだろう。豊松と妻が、行く当てもなくさまよって、まさに心中しようとしたときに、思いとどまった岬である。豊松が急に進駐軍に連行され、小便をするために車から降り、ここから飛び降りようかと一瞬逡巡する岬である。映画の中では高知の南端と言うことになっているが(実際は島根の島らしい)、非常に美しい岬である。貝になりたい、と言ったときに、妻にはわかる符丁があったのかもしれない。いつでも故郷に戻っているよ、いつでもあのときの気持にもっどっているよ、そういう符丁があったのかもしれない。豊松の死の知らせが入る直前の希望に燃えた妻の表情で「完」となるのはそのような意図があったからではないか。豊松は決して家族を裏切っていない。ただ、ただ、絶望していただけだと。それでもこれは残酷な言葉だ。巨匠橋本忍ではあるが、やはりもう少しわかりやすい脚本にして欲しかった。戦争の残酷さはよくわかった。しかし、ただそれだけの映画である。あと、これは監督の責任だろうが、俳優たちのセリフがすべて脚本口調になっていた。「そうか、やはり彼が‥‥‥」というように言葉の途中でセリフがつまる場面が異常に多いのだが、俳優たちがことごとくセリフ口調でそれを言うのである。これは大きな減点だった。
2008年12月05日
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「主人は文学者でした」監督 : 堤幸彦 原作 : 宮崎康平 脚本 : 大石静 出演 : 吉永小百合 、 竹中直人 、 窪塚洋介 、 風間トオル 、 平田満 、 柳原可奈子 、 黒谷友香 、 麻生祐未 、 石橋蓮司 、 ベンガル 、 江守徹 、 大杉漣 、 余貴美子 、 由紀さおり 実はこの夏はひつこいくらい予告が流れていたものだから、刺激されて原作だとされている「まぼろしの邪馬台国」上下巻を買ってしまっている。ところが上巻の途中で、挫折中。自信家で、破天荒なひとだったということは、最初の数ページでわかる。全盲なのに、博識、そしてなおかつ元島原鉄道の社長だったというのだから驚き。もっと学術的な本かと思っていたら、自分の生い立ちや、自分を批判する学者を悪口のいいあいみたいに悪口を言う。全然学術的ではないのである。もちろん、卑弥呼の「ひ」を日と読んだり、火と読んだりせずに、干潟の干と読む件は、さすがに全盲の人が気がつくことだなあ(もちろんそれを実証しているという下巻は読んでいないので、考えの発想の仕方に感心しているのに過ぎないのではあるが)と感心したわけだが、一方では、卑弥呼の時代より五百年後の古事記の記述も、考古学的事実も同等の基礎に置いているのには、ちょっとあきれてしまった。それ以降読む気がうせたのは、そういうわけである。この映画はだから、邪馬台国島原説を説得力持って描こうとしたものではない。することはとうていできない。もうちょっと、九州の遺跡をしっかり見せてくれるかと期待していたのだが、残念だった。あういう男は、好きになれないし、なりたくもないのだが、和子さんが、そういう男にほれていくのは、和子の生い立ちである前段の物語があるから、説得力があった。結局ファーザーコンプレックスだったんですね。だから後半の夫婦愛に説得力がある。夫婦愛としては、成功していたと思う。それにしても、和子役になぜに吉永小百合?確かに、彼女の演技は説得力がある。けれども、映画の大半はほとんど30歳から48歳にかけての物語である。ほかの女優ではダメだったのか。それほどまでにこの年代の女優の質は枯渇しているのか。もちろんハセキョーや仲間幸恵ではダメである。吉野ヶ里遺跡を活用した卑弥呼の里の再現場面で、人々は羽織形式の毛皮を来ていたが、いかがなものかと思う。庶民は基本的には、貫頭着(頭のところをくりぬいた着物)だったと思う。また、宮崎が「ここが卑弥呼の墓だ、ここ掘れ」と言っていたところを最後で前方後円墳の形に見せていたが、九州から前方後円墳が始まったと言うのは、明らかな嘘。それに、あの形だとまずい。後期前方後円墳の形である。せめてホタテ形の前方後円墳にしないと卑弥呼の墓にはならない。結局宮崎康平と言う人は、学者としては後世評価されないと思う。果たして事実かどうかはしらないが、妻和子が葬式の場で、「夫は文学者だった」と言ったのは、非常に正しい評価であった。
2008年11月15日
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ついに「蟹工船」の映画化が決定した。遅きに逸するか、と気をもんでいただけにとりあえずめでたい。監督はSABU。スピード感溢れる展開の「DRIVE ドライブ」のエンタメを作る一方、「疾走」では、地域で疎外された少年と少女の暗い情念と希望を描いた作品も作る。松田龍平主演で「蟹工船」を映画化「テーマはきちんと描きますが、説教くさくはしたくない。エンターテインメントで、ポップな『蟹工船』になると思います」と監督は言う。その意気込みやよし。現代で作る以上、明日からの生活のめども立たないのに、インターネットゲームをしながらネットカフェ難民になってしまう若者の現状にあった映画にするべきだろう。ただ、気をつけて欲しいのは、わかりやすくしようとするのに気を使って、へんな映画にしないで欲しい。「希望を持てない」糞ダメみたいな蟹工船の労働者の気持はきちんとわかった上で映画を作って欲しい。少なくとも俳優たちは綺麗なインターネットカフェに泊まるのではなく、蒲田の1時間100円のインターネットカフェに一晩泊まってほしい。出来たら数日日雇派遣をしてみて欲しい。その上でポップでカルチャーな映画になったらいい。群像劇だから、俳優は松田龍平だけではないだろう。いろんな男たちをきちんと描き分けてほしい。問題は監督官の浅川である。イメージとしては、西島秀俊ではない。あんなに線が細い感じではない。でも彼は映画馬鹿だから、みごとに化けてくれるだろうという期待も持てる。
2008年11月13日
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「いいの?(バイオリンをやめて)あなたのいままでの人生を棒に振ることになるのよ。」「これからの人生の方が長いですから」監督 : 中原俊 原作 : 吉田秋生 出演 : 福田沙紀 、 寺島咲 、 杏 、 大島優子 、 はねゆり 、 武井咲 、 米倉涼子 、 菊川怜 、 上戸彩 、 柳下大 、 京野ことみ 、 大杉漣 、 富司純子 平日の夜のレイトショー。珍しく、むさくるしい男が三人だけの淋しい鑑賞だった。一週間目にしてこれだと配給側は苦しいだろうな、と思う。しかし、作品としては、そんなには悪くなく、むしろいいほうの出来だったと思う。ぶっきらぼうで、集団に染まらない祐樹桃を福田沙紀が存在感を持って演じている。総じて女の子たちはみんな存在感があってよかった。校則に縛られた少し古臭い女子高のなかで、昔「不祥事」があって上演禁止になっている演劇をやろうとする女の子たち。しだいと熱を帯びていく「若さ」を演じている。むさくるしいおっさんが見るべき映画ではない。ぴちぴちの女の子たちが見るべき映画である。完璧に宣伝を間違えている。過去の作品のことはほとんど忘れていた。たぶん今回も少しずつ違うリメイクなのだと思う。だとしたら、あと十数年したら、もう一回中原監督はこの作品を作るべきだろう。そのとき初めて「桜の園」三部作は完成するだろう。
2008年11月11日
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うち、ちょびっと幸せなんや監督 : 古厩智之 原作 : 田村裕 出演 : 小池徹平 、 西野亮廣 、 池脇千鶴 、 イッセー尾形 、 古手川裕子 べつにベストセラーの映画化だから見たわけではない。監督が「まぶだち」(2001)「ロボコン」の古厩智之だからである。ちなみに「まぶだち」はその年のマイベスト3だった。(個人的な経験が影響しています)実に丁寧にロケーションしていると思った。地方都市の普通のいろんな表情を何気なく見せてくれている。全部関西の地方都市かと思ったら、沖縄県浦添市で色々とロケをしていた。中学校の校門、団地の中のうんこすべり台のある公園、海岸沿いの道路、いかにも安そうな借家、一人の世間知らずの中学生が、なんとかひと夏休みくらいは死なないで生きていける。まだ死んでないコミュニティーが存在している社会。学校では、破産して父親に逃げられた兄弟がどのようにして生きていったらよいのか、全く教えてくれない。だから彼らは一人で生きようとする。そして一歩間違えれば、本当に取り返しのつかないところまでいってしまうのである。何度も何度も食べる場面が出てくる。ああ、生きていくギリギリのところで食べることはこんなにも大変なんだなあ、とそいうこことも実感させてくれる。20代後半の池脇千鶴が高校生の役をしているが、なんの違和感もない。実に彼女は役者である。彼女がふと漏らすのが冒頭に書いたせりふである。いい味を出していた。古手川裕子を久し振りに見た。ちょっとむくんだ顔が如何にも不治の病にかかっていそうでよかった。お母さんの顔をしていた。
2008年11月06日
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ふるい話であるが、今年9月19日、岡山の貴重な単館系映画館のシネマクレール石関が閉館になった。後残ったのは、シネマクレール丸の内の2スクリーンのみで、この映画館をなんとしてでも護りきらねばおそらく見るべき映画の数は三分の二くらい減るだろうと思える。閑話休題、その閉館一日前に地元映画サークルが自主上映会をした。岡山をロケ地にした映画を最期にここで流して閉館を悼もうという企画である。「バージン・ブルース」(1974)万引き常習犯の女子大生と、事業に失敗した中年男の逃避行を描いた異色のロードムービー。監督: 藤田敏八出演: 秋吉久美子 / 高岡健二 / 長門裕之 / 野坂昭如 / 赤座美代子藤田監督はなんとこの年に「赤ちょうちん」「妹」と並んで青春三部作を一挙に公開する。その最後を飾る作品。結局つかみどころのない秋吉久美子を描きたかったそれだけの映画のようだ。ほかの言い方をすれば、「コケティッシュ」な秋吉の魅力が爆発した作品。長門裕之がまるで桑田圭介みたいな顔をして頑張っていた。凡作だとは言った。ところが、岡山県人にとっては、「おおっ」「おおー」の連続になる。後半全くの岡山オールロケ。桃太郎の銅像が登場する前の岡山駅前、後楽園茶屋の風景、そしてなんと建替える前の倉敷駅前、阿智神社に鷲羽山。児島競艇所、そして私はこの時期までこんなのがあるのとは知らなかったのであるが、今は跡形もない児島の流下式塩田の風景。30年前の懐かしい風景やら、かすかに覚えている風景がてんこ盛り。特に駅前の風景などは、この30年間にどこの地方もたぶん変わっていると思う。「駅前再開発」がこの戦後60年の歴史でもあるからだ。カラーで人が動いている。白黒写真で見るのとは違う、なんとも懐かしい風景でこれだけでも見てよかったと思った。ところで、この記事で1000個目の記事になりました。
2008年11月04日
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タイでは上映禁止になったらしい。全く不当だとは思わない。この映画のままだと、まるでタイの警察が協力しているから、幼児売春がはびこり、ひいては生体臓器売買がはびこっているかのように描いている。事実がどうであれ、政府はそれを赦す度量がなかったのだろう。しかし、当たり障りのない物語を作ることでこぼれ落ちる真実の方が多い。この作り方でよかったのだ。もちろん、日本人だけが頑張ったからあの売春組織が摘発されたのではない。ちょっと雑な作り方ではあったが、NGO等のタイの民衆の力であの犯罪が揮発されたというつくりにはなっている。監督・脚本 : 阪本順治 原作 : 梁石日 主題歌 : 桑田圭祐 出演 : 江口洋介 、 宮崎あおい 、 妻夫木聡 、 佐藤浩市 、 鈴木砂羽 今日でDVDで「アメリカンギャグスター」を観た。1970年代初頭、アメリカの麻薬取り締まり捜査官の3/4が逮捕された顛末をひとりの黒人胴元と白人の麻薬取り締まり捜査官の視点から描いた骨太の映画なのである。自国の恥部をきちんと描く。アメリカは時々このような傑作を作ることがある。俳優の演技力、細かな歴史考証、日本映画はまだその辺りでは太刀打ちできない。一方タイの映画界も、これぐらいの映画を作るようになったならば、もちろん他国の映画監督がこのような映画を作る必要はなくなる。しかし、「アメリカンギャングスター」よりこの映画の方が優れている部分ももちろんある。この映画には被害者の視点が満ち溢れて、きしきしいっているのだ。日本人の俳優たちも良かった。けれども、頑張ったのは何よりも、タイの子供たちだ。俳優かおまけの存在感を見せていた。この映画を日本人の監督が日本で作った意義はなんなのか。それはとりもなおさず日本だけではないが、とりわけアジアの大国日本が、この犯罪に力を貸していることの、江口洋介の代表される身を切るような後悔なのだろう。乾いた文体で、一歩ひいた視点でひとつひとつのエピソードを積み重ねていく監督の姿勢はさすがだと思った。ただ、江口洋介はあんなあぶないところで、子供も助けずに一人過去の記憶にふけっていたのはいただけなかった。気持ちはわかるが、もう少しうまい処理をしていたならば、今年の邦画のベストに上げていたのに。
2008年11月01日
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一昨年の「釣りバカ日誌17あとは能登なれ、ハマとなれ」もうやめてしまえ! は見事な石川県観光映画になっていて、思わず「もうシリーズやめてしまえ」と叫んだのであるが、その次の舞台側が郷土岡山に決まり、「釣りバカ日誌18」日本のエーゲ海にいらっしゃい 予想以上にうまく作られていて、三国御大も思いのほか元気で、満足の一作になった。そして今回は、あまりにも筋たてが喜劇映画のワンパターンを踏襲しているという点はあるけれども、その笑いのつぼが近年にない傑作だった。監督 : 朝原雄三 出演 : 西田敏行 、 三國連太郎 、 浅田美代子 、 常盤貴子 、 竹内力 、 山本太郎 特に前半は胃カメラ場面で大いに笑い、後半はその場面を生かして、まさかああなるとは、と言う意外な展開で大いに笑わせた。(サプライズ特別出演あり)今回は人情喜劇の面は薄かったが、派遣の問題、セキュリティー重視で人と人とのつながりが希薄になっている社会を風刺する風刺映画の面で切れ味を持っていたといえる。「築地魚河岸三代目」が松竹喜劇の三代目として名乗りを上げてはいるが、まだまだそんなものに負けてはおられぬ、と言う意気込みが見える。
2008年10月31日
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原作を読んでしまったならば、やっぱりそれがどのように映画になっているのか、気になるのが人情というもので、監督も不器用な男女の交流を描いた「ヴァイブレータ」の廣木隆一だし、少しだけ期待して観にいきました。監督 : 廣木隆一 原作 : 重松清 出演 : 石橋杏奈 、 北浦愛 、 吉高由里子 、 福士誠治 、 森田直幸 原作の幾つかのエピソードを削りながら、うまいこと脚本を作っているとは思う。引きのショットを多用して甲府の町で一生懸命生きている少年少女たちを一生懸命撮ろうとしているように思える。けれども不器用な人間を演じるのは、よっぽどの才能か、よっぽどの演技力が必要で、それをあの少年少女たちに要求するのは無理だったようだ。唯一存在感を自然と見せたのは、「誰も知らない」から大きく成長した少女になった北浦愛のみ。もこもこ雲の絵はイメージ通りだったし、成長した恵美を詳しく描いているのは嬉しかったし、最後はやはり泣いてしまったけれども、ひとつひとつのエピソードにはのめりこめなかった。この調子だと「その日のまえに」の映画化も、大林監督だけど、心配です。
2008年10月26日
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最近見たDVD。シコふんじゃった。(DVD) ◆20%OFF!「とうとうあたしもシコふんじゃった!」監督:周防正行(92年作品)キャスト:本木雅弘 清水美砂 柄本明 竹中直人 田口浩正 もっくんの「おくりびと」を見て、久しぶりにこの映画を見たくなった。普段注目されていない職業やスポーツをまじめに描くと見事なエンターテイメントになるという好例を伊丹十三監督の「お葬式」とともに周防正行監督が示した嚆矢である。やはり面白かった。大学相撲部の世界を通じて、思いと技術と努力のミックスの大切さを伝える。きちんと今でも笑える。丁寧に作られているから、彼らが一生懸命に相撲に取り組みだせば出すほど可笑しくなる。周防監督の次の新作情報はないのか!柄本明 、竹中直人、田口浩正がなんとも若い。本木雅弘は今と変わらない。作品とは関係ない感想だけれども、映画の最後でもっくんは大手商社の就職が親のコネで決まっていたのを蹴って相撲部のために留年してしまう。ところが、92年のこのこのときからバブルがはじけ、超氷河期にはいり、この時期大学を卒業した人たちから就職できずにフリーター、派遣と流れてロスジェネ世代が始まるのではある。この主人公、山本秋平くんは今はどのような人生を送っているのだろうか。なんか気になってしまった。
2008年10月25日
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いまサンクスで買った「謎の白いパン」というものを食べながら書いているのですが、白パンにホイップクリームと甘醤油ソースをサンドしたのだそうです。いったいどこが「その謎を、愛そう。」なのやら……。(普通の白パンでした)。フジテレビがタイアップして、このようにコンビニもタイアップして、そうして観客は若い女性とそれに連れられてやってきた男どもばかり。かくいう私も結局そんな宣伝に連れられて、一応は見ておくかと観たわけです。監督 : 西谷弘 原作 : 東野圭吾 出演 : 福山雅治 、 堤真一 、 松雪泰子 、 金澤美穂 、 柴咲コウ もしも、原作を読んでいなかったらならば、それなりに感動しただろうか……。よくわからない。確かにあのトリックは秀逸ではあるのだが……。堤真一は頑張っていたと思う。しかし、原作とおりにするのだとしたら、原作の弱点であるラストの後味の悪さをもっとわかりやすくするべきだった。ほかにも原作での弱点がいくつかあったのだが、それも全く手つかずに映画化になってしまった。いったいどこが「その謎を、愛そう。」なのやら……。(普通の映画でした)。
2008年10月13日
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天国に行って、天使ガブリエルに出会ったとき、彼はなんといったか知っている?「あのよー」「風のガーデン」を見た。連続ドラマの初回を見たのは、5、6年ぶりかもしれない。緒方拳の遺作と言うこともある。「北の国から」以降はじめて見た倉本聰のドラマということもある。どうやら、ガンで死ぬ男の話と言うことが、最近の経験と重なるということもある。びっくりした。倉本聰が「ER」ばりの情報量の多い脚本を書いている。【脚本】 倉本 聰 【統括プロデュース】 中村敏夫(FCC) 【プロデュース】 若松央樹(フジテレビ)浅野澄美(FCC) 【演出】 宮本理江子(フジテレビ) <出演>中井貴一 (白鳥貞美) 黒木メイサ (白鳥ルイ) 神木隆之介 (白鳥 岳) 伊藤 蘭 (内山妙子) 奥田瑛二 (二神達也) 緒形 拳 (白鳥貞三) 富良野で在宅医療を中心に医者をやっている老先生は14歳の孫息子とイギリス留学から帰ってきたばかりの孫娘と暮らしている。孫息子は知的障害があるが、記憶力と音感は抜群にいい。孫娘はおばあさんとお母さんの残した「風のガーデン」を受け継いでガーデニングをしている。父親は東京の医大病院で麻酔医をしているバリバリの現役。孫の母親は6-7年前に亡くなっている。老先生と息子はどうやら絶縁状態にあるらしい。東京で片時も暇が無い忙しい仕事をしている傍ら、二人の恋人を持っている若先生にガンの兆候が見える。緊張感のある画面がずっと続く。おやおや、日本のテレビドラマってこんなにすごかったんだ。ただ、長い間韓国ドラマを見ているものにとって違いも見える。韓国ドラマは最初の3-4回が怒涛の展開で、そこで提示された「恨」の解決がすべてになる。しかし、日本の場合は「起承転結」ゆっくりと始まるのである。登場人物は出てくるが、それぞれが何に拘っているのか、まだ全然わからない。すい臓がんが今回頻繁に出てくるようだ。このガンは見つかったときにはすでに手遅れであることが多い。レントゲンにもなかなか映らないので、痛みが出たときには進行しているのである。急に血糖値が上がり、私の父親は気になって医者にかかったのに、最初は糖尿病が悪くなったと診断された。半年後痛みがずっと続くので初めてCTを撮ってわかったのである。だから主人公がもし手遅れのガンになったとしても、それはそれで仕方ないだろう。「人は必ず死ぬ。」緒方拳は次回その様に呟くようだ。ちっょと目が離せないドラマが出来た。困ったものだ。
2008年10月09日
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緒方拳が亡くなった。あまりにも突然の死にしばし呆然とする。日本映画界は後もうしばらくしてやっとこの名優の喪失の意味を知ることになるのかもしれない。最近の映画では、なんといっても去年マイ邦画ベストワンだった「長い散歩」が思い出される。誠実だけど、コミニュケーション下手だった男が人生の落とし前をつけるように一人の女の子に相対する。ほかには「蝉しぐれ」で、主人公の一生を決めた「父親の最期」を静かに強く演じ、「隠し剣鬼の爪」では飄々とした悪役をふらふらと演じた。「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌 」が映画の遺作になるのだろうか。こんなことなら映画館で見ておくべきだった。名優のぬらりひょんと言う悪役を。過去の作品では「大誘拐 RAINBOW KIDS(1991) 」「女衒(1987) 」「北斎漫画(1981) 」などが思い出される。そしてなんといっても「復讐するは我にあり(1979) 」だ。大学一年生のとき、映画館で見た。なんの話なのかは実はよくわからなかった。ただ男の「実存」に圧倒されたような気がする。連続殺人鬼なのだが、一方では(当たり前だが)「人間」なのだ。そういう映画を若いときに見ることが出来たのは幸せだった。ご冥福を祈ります。
2008年10月07日
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このような映画が作られるようになったのは、一つの危機意識の現われなのだろう。けれども、出来ることならリアルな話にして欲しかった。監督 : 瀧本智行 原作 : 間瀬元朗 出演 : 松田翔太 、 塚本高史 、 成海璃子 、 山田孝之 、 柄本明 、 劇団ひとり 、 金井勇太 、 佐野和真 、 井川遥 、 笹野高史 、 風吹ジュン 「国家繁栄維持法」が施行された日本。子供たちは小学校入学時にナノ・カプセルが注射され、その中の誰かが18歳から24歳の間に、国家のために24時間後に死ぬという設定。確率は1/1000。松田翔太がイキガミを公務員として配達する。彼の仕事は本人か家族に確実に配達するだけ。「過度の本人への干渉」は違法ということになっているらしい。24時間の間に自暴自棄になって犯罪を起こそうものなら、残されたものには大きな補償が課される。一方、国家のために死ねば、家族には遺族年金が払われる。そうやって、ありがちな犯罪(国家破壊活動)への防止措置は出来ているという事らしい。とつぜん24時間と言うのがなんとも過酷だ。一応感動話は作っている。けれども、やっぱり漫画原作らしく、どうも薄っぺらと言う感じがしてならない。このような法律が出来ているわりには、社会のありようがそれ以外は全く変わらないというのはリアルじゃない。普通の人々の会話の端々にもっと管理社会としての「恐ろしさ」が見えてもよかった。常に街頭カメラによって主人公を監視している映像は映るのだが、それも現代でもすでに実現していることではある。イキガミが来たときの本人や家族の反応、本人が死を迎えるときの細かな表情の変化、そんなことをもっと演出して欲しかった。当然このような社会になっているとしたら、反対政党や団体はすべて非合法化されているはずである。だから反対運動は地下にもぐっていて、この映画には一切出てこない。ある人間の一つの言葉意外には。ともかくこのような映画ができたことが、この10年間の日本の変化なのだろう。後世日本映画歴史研究者が、たった一行、「この時代を反映して、このような映画も一本作られた」と記述するだけの日本に将来なって欲しいと思う。
2008年10月05日
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私はおろち。人の運命を見守る。少年サンデーを毎週欠かさず立ち読みで読んでいたにもかかわらず、楳図かずおのこの作品(1969年25号~1970年35号に連載された)に関しては、恐ろしいほどに記憶がない。絶対に読み飛ばしていたに違いない。そういえば、「猫目小僧」にしても「漂流教室」にしても、あまりまともに読んだ覚えがない。私はあの絵柄が嫌いだった。何よりも恐ろしかった。と言うわけで、あまり食指は動かなかったのだが、悪い噂は聞こえてこないので、念のために見ることにした。代々続く名門一族、門前家の女主人、門前葵は自信に溢れた銀幕の大女優で、いつも自宅の試写室に篭り、自分が出演した場面を繰り返し見ては満足そうに笑っていた。ある日、葵は試写室のスクリーンに映る自分の顔を見て青ざめる。そして、階上にある“決して開けてはいけない部屋”に駆け込んだ。代々門前家の女は、29歳になると美しい顔が醜く崩れ落ちる運命にあるのだ。美しい女の悲しい運命を、おろちが見つめていた…。(goo映画より)監督 : 鶴田法男 脚本 : 高橋洋 原作 : 楳図かずお 出演 : 木村佳乃 、 中越典子 、 谷村美月 、 山本太郎 、 嶋田久作 出演者はほぼこの五人に絞られ、舞台劇を観るかのように進んでいく。怖くなかった。古い洋館のなかの心理劇。ラストに向かって畳み掛ける悲劇。脚本はうまいし、木村佳乃 と中越典子は頑張っていたと思う。中越典子はいままで甘えべた恋愛べたの弱い女の子の役が多かったのであるが、その印象をうまく生かして見事に脱皮したと思う。姉妹バトルは迫力はあった。けれども監督の意図なのだろうか、バトルの部分、本当はもっと恐ろしく、どろどろしたものにすることは出来たと思うのであるが、どうも乾いたバトルになってしまい、恐怖がなかった。良かったのか、悪かったのか。「美」に対する女性の執着を描いているのだろうか。見る人にとっては恐ろしいのだろうか。私はピンと来なかった。谷村美月、勉学の方は一段落ついたのだろうか、だんだんと映画出演が多くなってきた。「カナリア」で衝撃的なデビューを果たし、そろそろ代表作を手に入れて欲しいものである。
2008年10月03日
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「そんな権威、捨てちゃえっ」総務課長の佐々木さんは一回り年下の上司との面接で「中国大連に支店を作るのであなたの仕事はなくなります」といわれ、その上で「あなたはどういう仕事をして会社に貢献してくれますか?」と突然に聞かれる。「それとも辞められますか?どちらもあなたの自由です。」とも言われる。実質的リストラ勧告である。総務一筋に働いてきて、電車騒音はあるけれども郊外に一軒家を買い、妻と大学生と小学生の息子を育ててきたのだと自負している佐々木さんは、衝動的に辞めてしまう。もちろん会社側としては思う壺である。それまで一方的に上からの命令で機械のように働かせて、「どのように貢献してくれますか?」と突然そう言って中年男を追い詰めるのが、まあリストラ担当の常とう手段なのだろう。佐々木さんは見事に偽装会社勤め人になる。家族には何も言わずに出勤し、背広姿で黙々とハローワークに並び、公園の炊き出しに並ぶ。そこで同じくリストラされた高校の同級生に出会う。そしてもう二度と前の生活に戻れないことを思い知らされるわけだ。前に湯浅誠の「反貧困」の記事でも書いた。現代は一度落ち始めると途中で止まることができない「滑り台社会」なのである。まず「正社員」というセーフティネットから外れる。その次に助けてくれるはずの社会保険のネットも、生活保護のネットも、「穴」がたくさんあいているのだ。ある日、自負心から会社を辞めた男はそうやってやすやすと浮浪者になるかもしれない道に足を踏み出すのである。……ここまでが導入部。監督・脚本 : 黒沢清 出演 : 香川照之 、 小泉今日子 、 小柳友 、 井之脇海 、 井川遥 、 津田寛治 、 役所広司 「行っちゃったな救命ボート。女と子供と若者だけがあそこに乗っている。」リストラされた同級生がぽつりと言う。大学生の長男は生きている実感がわかない生活にイライラしている。「家族の幸せしか考えない、そんなんだから親父はだめなんだ。世界の幸せを考えないと。日本を守っているのはアメリカの軍隊だ。それならば僕がアメリカの志願兵になってどうして悪い。」現代日本には実際は制度はないが、米軍志願兵試験を受けて長男は米軍に入隊する。そしてすぐに戦地の中東に送られる。次男は本音で先生の悪口を言ったら、クラス全員が先生をいじめるモードに入って戸惑ってしまう。学校逃避として美人のいるピアノ教室へ給食費をくすねて通う。妻は「誰か私を引き上げて」といつも思っている。ずっと描き出されるのは、「崩壊する家族」寸前の物語である。浮浪者、戦死、登校拒否、家出。「CURE」や「回路」でもおなじみ、「その次に来るであろう恐怖」をじっくりと見せる。もし佐々木さんが浮浪者にならないで、何とか苦労しながら生きていく道を選ぶことができるのだとしたら、それは曲がりなりにも彼が築いてきた「家族」という貯金のおかげなのだろう。この貯金は足し算ではない。時々引き算も割り算もあるけれども、時々サプライズ的な掛け算もあるのである。
2008年09月30日
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例によって、長い長い前ふりがあります。ほんの五ヶ月前に父親の葬式をしたときに、初めて納棺師なる職業があることを知った。前の身内の葬式は17年前で、そのときにはそういう方は来なかったと思う。そのときは私も知らないうちに何人かで着替えをして化粧を施していた。つまり死に化粧の儀式は秘密の儀式だったのである。しかしこの十数年間で、それは公開で出来る儀式に変わって来ているようだ。今度は私が喪主ではないものの、葬儀屋さんと相談するところから始まった。「「湯灌の儀」というのがあるのですが、頼まれますか? 10万円かかりますが。」と葬儀屋さん。生前父親は恥ずかしくない葬式をするために色々と指示をしていたので、葬式に100万、200万のお金がかかろうと気にしないことにしていた。何しろ初めての経験なので、だいたい葬儀屋の言うとおりにしたのである。やって来たのは、30代ぐらいの女性と若いお兄さんだった。てっきり葬儀屋の誰かがするのだと思っていたら、これを専門にしている人だということ。女性は10年くらいのベテランなのである。聞くと、こっそりとするのではなく、みなさん来て見ていてください、と言う。映画では、納棺師が作業している間はみんな一言もしゃべらないが、実際は「おお、手際がいいなあ」(身体を洗うというから、みんなの前で裸を見せるのかと思ったら、うまいことを裸を見せずに洗ってくれた)とか、「案外死後硬直はしていないものなのねえ」とか「おや、表情が和らいだ」「あの若いお兄さんは何もしないけど、きっとまだ見習いなのよ」とこそこそ話をしながら進むものなのである。この納棺師は介護病院にあるような小さいプールを部屋に入れて身体を洗ってくれた。私はそれがとても嬉しかった。この二年間の父親の楽しみは毎日のお風呂だったと思う。けれども、まだ身体が動いていたときでも、病院では決してシャワーのお風呂には入ろうとしなかった。湯に浸からないと風呂ではない、と言うのだ。一時帰宅の時には思いっきり風呂に入って山のような垢を取りたいと最初の頃はつぶやいていたけど、一時帰宅が出来たころにはもうそんな気力がなくなっていた。最後の一ヶ月は身体を拭く事さえ出来ていなかった。何回かお湯で足を洗ってやったけれども、最後は足をお湯につけることさええらくて怒らせてしまった。「最後のお風呂だよ‥‥‥」私としてはこの湯灌に大きく癒された。最初は高い死化粧だなあ、と思っていたけどれども終わる頃にはプロの技にすっかり感心して、この映画にあるように納棺師に感謝の念が起きるようになっていた。監督 : 滝田洋二郎 脚本 : 小山薫堂 音楽 : 久石譲 出演 : 本木雅弘 、 広末涼子 、 余貴美子 、 吉行和子 、 笹野高史 、 山崎努 この映画は反則である。納棺のときは、死に顔が突然生きていた頃の表情を取り戻す再会のときであるのと同時に、一番身近に死者と話が出来る最初の別れのときなのだ。誰もが経験しているそのときを繰り返し見せられるものだから、泣くな、というほうが無理なのである。ただ、人は生涯に数度しかこのような経験はしない。最近生まれたと思われるこの職業に目をつけた監督は偉いというしかない。脚本的にはこれしかありえないだろうというようなストレートな脚本だった。あまりひねりがなかったのがよかったのだろうと思う。幾つか笑いを誘うような場面も、オーソドックスとはいえ、よかったと思う。主人公を元チェロ奏者にしたのもよかった。この職業は芸術家肌に向いている。妻の理解を得るところもセリフを一切使わなかったのに感心した。終わり方もよかったと思う。
2008年09月20日
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「私は泣くのは初めてだから……、涙を止めるにはどうすればいいんだ?」「大貫さん、簡単です……」監督・脚本 : 中島哲也 原作 : 後藤ひろひと 出演 : 役所広司 、 アヤカ・ウィルソン 、 妻夫木聡 、 土屋アンナ 、 阿部サダヲ 、 加瀬亮 、 小池栄子 、 劇団ひとり 、 山内圭哉 、上川隆也 一代で会社を作り、我侭放題に生きてきた大貫は、持病で入院していた。病院には、患者も医者も看護婦もクセのある者ばかりが集まっていた。その中で唯一、ピュアな心を持っていたのが、交通事故で入院した少女パコ。我侭な大貫だったが、パコの優しい心に打たれ、毎日、絵本を読み聞かせるように。しかし、事故の後遺症でパコの記憶が一日しか持たないと知った大貫は、パコのために絵本をお芝居にしようと病院の人々に呼びかける。(goo映画) 総天然色、おもちゃ箱映画になっているのは、この映画の大筋が絵本にまつわる話だから。けれども中島監督は、いつもこんな感じ。それがいいように落ちる時もあれば、滑る時もある。今回、最初の頃、上川隆也がまるで竹中直人のノリで出てきたときには、少し滑ったかな、と思った。ところが、濃い演技陣に辟易していたころに、今まで見たことのない美少女パコ(アヤカ・ウィルソン)が出てきて、天然ピュアな笑顔で「ゲロゲーロ」と言うものだから、そりゃ変くつの大貫さんだって「あの子の心の中にいたいんだ」と思うようになるでしょ。 芸達者ばっかりで、ある程度の化けぶりには予想がついていたのだが、上川隆也や小池栄子には度肝を抜かれた。彼らには敢闘賞をあげたい。 思いっきり濃い世界。笑いと泣き、それと少しの大人の世界。もう少し観客の乗りが良かったらよかったのだが、私一人で笑っていたのが残念だった。勝ち組の大貫が、やがて弱くてもいいんだ、ときがつく。その他いくつかの人間がこのままでいいんだと気がつく、そんな素敵な物語を内包しながら、ラストはそうかそうきたか、という展開。 私の中では「下妻物語」>「パコと魔法の絵本」>「嫌われ松子の一生」でした。とはいえ、9月1日のテレビで放映しかけた映画「嫌われ松子の一生」は運命に嫌われて福田首相の辞任会見で吹っ飛んでしまッたんだっけ。と、ふと思い出してしまいました。その後の展開は、まるで漫画のように展開しています。きのうは岡山駅前で、3500人を集めて街頭演説をしていたらしいですが、「豚に口紅」NYタイムズが自民総裁選を酷評というように、やればやるほど墓穴を掘っていっているようです。一部報道では、人気のあるうちに総選挙をすることに決まった、日にちは10月26日だとか。‥‥‥そのときにはすべてが白日の下にさらけ出されてもうにっちもさっちも行かなくなっている気がしないでもないですが、どうせやるなら早くやるほうがいいですね。みなさん、選挙には行きましょうね。話がそれました。最後に涙を止める方法、それは「思いっきりなくこと」なんですって!
2008年09月18日
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たぶん悪い映画ではない、とかってに予測していた。だって監督・脚本 は「ジョゼと虎と魚たち(2003)」の犬童一心。 主演は「空中庭園(2005)」の小泉今日子 それに共演に最近成長著しい上野樹里 、「それでもボクはやってない 」「硫黄島からの手紙」の 加瀬亮 が出ているのだ。しかも原作は読んでないけど、大島弓子ときたもんだ。 見た結果、大島弓子の大ファンと、ネコの大ファンにはいい映画だったかもしれないが、イマイチな映画であった、と言わざるを得ない。いや、そういう言い方はよくない。特別なストーリーもないエッセイ映画ではあるのだけれども、そういうのは私には合わなかったようだ、と言ったほうが正確な気がする。 大島弓子ファンも、「四谷怪談」をまったく忘れていたら、せめてもう一度読み直して鑑賞に向かうことをお勧めします。確かに彼女の漫画には絵柄とは違う「深い何か」があるとは思う。けれども、それを映画の中で分かるようにしていない。大島弓子の絵がふんだんに出てくるのはうれしいのだけれども、監督はその一つ一つのコマに意味を持たせているということはわかるのだけれども、私は20年くらい前に見た漫画なので内容を忘れてしまっていた。麻子さん(大島弓子)を「天才漫画家」と書く解説にも違和感ありまくり。彼女は天才ではなくて、才能のある、数少ない少女マンガ家の一人にすぎない。天才の冠をかぶせることができるのは、手塚治虫一人だけです。猫も可愛いのだけれども、もう少しグーグーが活躍してくれるのだと思っていた。残念です。よってこの映画、辛口評価です。 でも漫画喫茶で彼女の作品にどっぷりつかりたくなったのも事実。
2008年09月09日
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この映画がはねた午後9時40分、車のラジオの中から福田首相辞任のニュースが流れる。最初の感想は、「まるで漫画だね」。去年の安倍と違って国会運営には迷惑をかけないと言い訳をしているそうだが、総選挙を経ないで三回も首相が変わるということが、迷惑でなくてなんであろうか。結局自分のことか(負け選挙の首相になりたくない)、党と財界のことしか(国民本位の国会運営ではなくて、選挙のことしか)考えていない人であったということです。これで漫画を読んでいる人にはわかりやすくなった。「政界とは、魑魅魍魎の世界である。」監督 : 堤幸彦 原作 : 浦沢直樹 出演 : 唐沢寿明 、 豊川悦司 、 常盤貴子 、 香川照之 、 石塚英彦 、 宇梶剛士 、 宮迫博之 、 生瀬勝久 、 小日向文世 、 佐々木内蔵助 、 石橋蓮司 、 中村嘉葎雄 、 黒木瞳 映画の中では、新興宗教「ともだち」をバックに「民友党」が「大躍進」を遂げる。自ら世界的な細菌テロを起こし、おそらくマッチポンプでそれを救って日本の政治を掌握するのだろう。国民はそれにやすやす乗るというのが、おそらく第二章になるのだろう。(ネタバレだけど御免なさい。けれども、普通に映画を見たならすぐに分る内容だと思う)いやあ、あまりにも「漫画的」です。もちろん、現実も「漫画的」なのだから、これは返って「リアル」なのではないか、見事な漫画風刺ではないか、と言う「反論」はありえるのかもしれない。漫画ならば、ぎりぎりそれはいえるかもしれない。しかしこれは実写映画なのだ。しかも、映像的にギャグは一切入れていない。真面目に作っているのだ。だとすれば、リアルでない映像ならば、この作品は失敗なのである。私のブログをよく知っている人ならば、この記事に写真が載っていないことですぐに私の評価は気がつくと思う。そうです、この作品、世界何10カ国も公開が決まっていて、総制作費60億の大作らしいですが、作品の内容もそういう宣伝も単なる大風呂敷です。合格には程遠い。しかも、一章だけみても何のことかテーマさえ出てこないという状況。何のお得感もない。長い長い序章なのです。一方「ロード・オブ・ザ・リング」を見たときの興奮は未だに忘れない。世界の平和を実現するためにもっとも力のある指輪を捨てるのだ、最も小さくて弱いホビット族がそれを担うのである。それを決意するまでが「旅の仲間」なのだ。いやあ、どきどきした。こっちの第一章、普通のコンビニ兄ちゃんが世界を救うことを決意するまでの物語なのであるが、それ以前の「世界」の構築に失敗しているものだから、共感することができない。たぶんこれは監督だけの責任ではない。原作自体が「リアル」ではないのだろう。ちょっと、長くなりすぎました。けれども、駄作のために、大宣伝して、お金をたくさん使うのを、映画ファンとして看過することができないのです。私は「よげん」する。この三部作は大コケする。基本的に、東宝らしいオールスターキャスト。主役をはれる人間がごろごろ脇役で出て来ます。それにしても、東宝の営業は頑張りました。一体どうしてあれだけの「内容」で、しかも世界的な有名俳優が全くいないという状況の下であれだけの公開国(60カ国だったけ)をゲットしたのか、ぜひとも本を書いて欲しいものです。
2008年09月01日
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労働組合で、DVD「蟹工船」(1953年)の自主上映会があり、見てきました。宣伝をほとんどしていなかったので、4人だけの観客です。なんとこのDVD今年6月に比較的安価で発売されていたようです。なんと俳優の山村聡の第一回監督作品。 音響設備が悪いのか、もともとの映画の録音が悪いのかわかりませんが、音が割れていて東北弁のセリフが聞きにくく、全体評価が正確にできるかどうかはわかりませんが、率直な批評をします。以下ネタばれ全開。こてんぱたんに批判していますので、いやな方は読まないように。2008年06月01日発売蟹工船撮影監督・音楽はそれぞれ宮島義勇、伊福部昭。監督山村聡自身、森雅之、日高澄子、中原「村八分」、河野秋武などの他、現代プロ、前進座、東京映画俳優協会、劇団東芸、少年俳優クラブのメンバーが出演。終わったとたんに観客4人のうち2人は「おえんがあ!」と叫びました。いや、やはり最初から順を追って説明します。「蟹工船」は言うまでもなく小林多喜二の原作。昭和初年のある春。折からの大不況にあぶれた鉱夫、農夫、労働者上りの雑夫たちを乗せた蟹工船博光丸は、ベーリング海の漁場めざして函館港を後にします。戦前の蟹工船は地獄船とも呼ばれ、海のタコ部屋といわれる極度な奴隷労働の世界。消耗品扱いの過酷で非人間的な労働。監督の浅川はSOSを打ちつづける僚船をも漁場に急ぐため無視し、カムサッカの漁場では突風警報をおかして川崎船を操業させ、多数の遭難者を出す。浅川は遭難者のことを気にするでもなく、嵐に消えた船の責任を生き残りの労働者にかぶせます。全体で110分の映像のうち90分はそのような会社の利益の前には、人の命も、国際法も犠牲にするのをいとわない蟹工船のひどさを重層的に描きます。そしてやがてたまりかねた労働者が立ち上がる……。「蟹工船」は当然、群像劇にならざるを得ません。ところが、一人ひとりの中心的なキャラクターがいまいち立っていなくて、一人ひとりがどのような生い立ちで、それに合わせてどのように心情が変わっていくか、描けているようには思えません。一番はっきりしたキャラクターは有名俳優ではなくて、監督浅川の役をした千葉県勝山の網本平田末喜三つまり素人という有様。山村聡はのんだくれの松木という役。いったい彼の作品としての位置は何なのか、さっぱりわからないまま途中退場してしまいます。もう一人の有名俳優の森雅之も良心的な船医の役で、途中退場。鉱夫の悲惨な昔話、もと社長の失業者、学生上がり等のキャラの説明はされますが、それが終盤に生きてきません。確か、論理的なストライキの戦術は学生やストを経験していた労働者が立てるはずなのですが、終盤20分、突然始まり一挙にクライマックスになだれ込みます。本当は、サボタージュを経てストに入り、最終的には組織的なストに入るという原作のように闘争を発展させていたら、ラストはもっと違ったものになったかもしれないのですが、あまりにも雑なラストになっています。全体的にエピソードがブツ切りです。1953年当時は朝鮮戦争の後、レッドパージの嵐が吹き荒れ、労働組合運動は戦後すぐの高揚からは後退していました。やがては三井三池闘争を経て安保闘争へ、労働運動は大きな昂揚期を迎えるのですが、この映画が作られた時はそのはざまにありました。だからあのようなラストになったのでしょうか。原作とは違うのです。なんとも大きな悲劇で終わるのです。「おえんがあ(駄目だ)」と叫んだ所以です。小林多喜二の「蟹工船」の唯一の映画化作品がこれではいけません。原作の最後の1Pを現代だからこそ、描くべきです。それを描くのに、10分。労働者が団結を始めて闘い、一度大きな敗北を喫するまでが30分。もっとテンポ良く編集して最初の70分で現代の大企業の仕組み、日本政府との結託、悲惨な労働実態を、蟹工船の中にぶち込むことは可能だと私は思います。もちろん、映画化でいいところはあります。最初の男たちと、母親や恋人や娼婦たちとの別れの場面は映画だからこそのわかりやすさがあり、蟹工船の中の流れ作業は映像ならではのわかりやすさ、があります。これがカラーになればもっとわかりやすくなるはず。原作はラストに向かってたたみかけるような展開になっており、非常に映画的です。いまこそ、「蟹工船」の映画化を!!
2008年08月12日
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監督 : 押井守 原作 : 森博嗣 脚本 : 伊藤ちひろ 声の出演 : 菊地凛子 、 加瀬亮 、 谷原章介 、 竹中直人 、 榊原良子 、 栗山千明 戦闘機乗りの話である。キルドレ-大人になれない子供-たちは戦争をしている。よくわからないけれども、彼らには日本名がつけられている。けれども住んでいるのは英語圏の外国の町。彼らの基地には日本語の「讀賣」新聞が届けられる。彼らはロストック社の社員だ。どうやら傭兵らしい。新聞を丁寧にたたむ癖のある湯田川が死んだ。しばらくして同じ癖のある飛行機乗りが赴任してくる。しだいとキルドレの正体がわかってくる。これは現代版「ビューティフル・ドリーマー」だ。押井守のこの作品は、「うる星やつら」のラムの「諸星あたるや面堂終太郎やメガネ達と、ずっと一緒に楽しく過ごしたい」という夢から派生した物語である。公開は1984年。まさにクリスマスが恋人たちの一大イベントになったのがこの頃だ。バブルと言う時代が始まろうとしていた。若者はよく分らないけれども売り手市場で、この夢がいつまでも続けばいいと思っていた。大人になんかなりたくないと思っていた。現代の若者も同じく「大人になりたくない」と思っているのではないか。イヤ、なりたくてもなれないのが大人なのだ。家族を持つことができない。いつの間にか、自分の運命がそう決まっている。正規雇用の道が閉ざされているのだから仕方ない。結局、人を殺すか、殺されるか、それしか生きる道はないのだ。飛行機の戦闘だけでしか、空の上でしか、生きる道が見つからない。永遠に死んでも生き返る、その様に運命が決まっている。彼らは生きているのか、死んでいるのか分らない。「ビューティフルドリーマー」から24年、日本の若者はここまで追い詰められた。「君は生きろ、君が運命を変えてくれ」函南優一は草薙水素にその様に囁き、戦闘機に乗る。草薙はキルドレなのに、子供を生んでいた。この映画にもし続編が作られるのだとしたら、それは草薙水素の話になるのだろう。
2008年08月08日
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原作・脚本・監督 : 宮崎駿 製作 : 鈴木敏夫 声の出演 : 山口智子 、 長嶋一茂 、 天海祐希 、 奈良柚莉愛 、 土井洋輝 、 柊瑠美 、 矢野顕子 、 吉行和子 、 奈良岡朋子 どうもすっきりしない。子供向けに作った水準の高いアニメだとは思う。 命を大切に。 約束は守る。と、言うメッセージとともに前半のトロール漁船が描き出す一見綺麗な猟師町の海の底にも非常に多くのゴミが堆積していることを描く。その一方で後半のデボン紀の海をも見せる。 地球環境を守ろう。などと言うメッセージも読み取れなくも無い。中盤の嵐前後描写は躍動感があって素晴らしい。けれどもだ、「千と千尋の神隠し」ほどにはイマジネーションの広がりは無く、「もののけ姫」ほどにはドラマの緊張感は無く、「となりのトトロ」ほどには愛くるしいキャラは生まれず、「ハウルの動く城」ほどには破壊衝動が無くなり一方では何かこそこそやっているような気がする。問題はフジモトである。彼はいったいなにものなのだ?どうも宮崎駿の分身のような気がする。フジモトは今回はポニョを尊重し、当初の計画は棚に上げにしたようだが、とっくの昔に地球に見限りをつけ、この地球の表面を壊して海を再生しようとする。そのためには人類が何億と犠牲になろうと仕方ないと言う立場をとる究極のアナーキストである。(未来少年コナンはそもそもそのような時代から始まった物語だった)「ハウル」は宮崎の絶望感が爆発して収拾がつかなくなった作品だった。今回は宮崎の孫ともいえるポニョが出てきて、彼女が人間の間だけは人類を生かそうとする。そういうラストだと思えなくも無い。あとやはり一夜明けたら嵐のあとなのに全く濁りの無い海がひろがり、今までの町がその底に沈んでいるというのはやはり違和感を感じる。カタストロフィを綺麗ごとに捉える宮崎駿の傾向が顕著だからだ。(「パンダ・コパンダ」「千と千尋」でもある情景)。ただ、今回の場合は理屈がつく。今回の場合は時空の狭間に落ちて、町ごと太古の時代にタイムスリップしたのかもしれない。だからラストのあの瞬間のあとに町は元のところに戻っているのかもしれない。ファンタジーだから、理屈に合わないところは皆オーケーにしよう、と言う主張には組みしない。子供は何回もこの映画を観る。もしかしたら、ものすごく危険な映画かもしれないのである。わざと挑発的な文章を書いています。請う反論。
2008年08月01日
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ありふれた家庭の、長男の命日に集まった妹夫婦と二男夫婦と父母の2日間。監督・原作・脚本・編集 : 是枝裕和 出演 : 阿部寛 、 夏川結衣 、 YOU 、 高橋和也 、 田中祥平 、 樹木希林 、 原田芳雄 それだけを映すことが果たして映画になるのかと言うと、十分価値のある一作になった。戦後小津の作品が次々と迎えられたのと同じように、いろんな感情を呼び起こす。しばらく離れていると、肉親といえども、どことなくよそよそしい。けれども、言葉はかわさずとも、判る事はある。それぞれが我がままで、それぞれが思いやる。家族の中の秘密。意地の張り合い。嫁と姑。姑と婿。歩いても、歩いても、いつも少しだけ間に合わない、でもちょっとした坂道の上には穏やかな風景が広がるのではある。画面が緊張している。退屈さは全くない。夏川結衣の表情を抑えた怒り顔にドキリ。樹木希林の清濁呑み合せた演技には脱帽。あの難破船は何か意味があったのだろうか。
2008年07月30日
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映画を観た、と言う感じがした。興奮した。監督・脚本 : 原田眞人 原作 : 横山秀夫 脚本 : 加藤正人 、 成島出 出演 : 堤真一 、 堺雅人 、 尾野真千子 、 高嶋政宏 、 山崎努 昔、新聞記者になりたかった。理由は本が好きだから、それに関することで食っていきたかったから、という単純なもので、小説家にはなれないだろうから、可能性がまだ高い新聞記者「にでも」なろうとしたわけだ(^_^;)。就職試験で一顧だにされなかった。当たり前である。ただ、大学時代に新聞作りをした。そのとき、創作活動である小説家の類とはまったく次元の違う職業であることには気がついた。ともかく「足で書け」といわれた。映画の中で、現場の記事が間に合いそうにない段階で、共同通信の記事をテレビ放送を見ながら加工して書こうとしているのを、悠木が「そんなみっともないマネはするな」と罵倒する場面がある。自分の目で見た事実でもって勝負する、それが記者魂である。だからこそ、「雑感」をめぐる悠木と現場記者と局長たちとの葛藤が生まれるのであり、映画はうまく描いていたと思う。「日航全権悠木」と黒板に書かれた文字をめぐるエピソードは映画ならではの処理であり、素晴らしい。冒頭の雑然とした新聞社の雰囲気は、見事だった。あれは映画魂をくすぐられる。新聞は時間との闘いである。そして、心を動かす「事実」には振り回される。いわゆるスクープネタに関しては、最終的には新聞社一致団結して「抜こう」とする。「事実」には振り回されるが、「事実」の持つ力を信じているからこそ、でもある。最後の堺雅人が読み上げる、落ちていく飛行機の中で書かれた父親の遺書のことは、誰もが覚えている。あのあと悠木がどのような行動をとったかは、分らないが、あの記事をいかに読者に届けるか、頭の中でイメージして、それを作る快感に浸りたいと思ったということだけは確かだろう。原作は大好きな一作である。現代の新聞記者小説ではこの作品がベストだと思っている。映画ではいくつか設定を変えている。悠木は社長の私生児だとにおわすようなところがあり、社長(山崎務)の性格描写にかなり時間をかけている。それもラストに向けての伏線であり、納得は出来る。原作で、最後のヤマとなる遺族感情を逆なでにする投稿の掲載の是非についてのエピソードはすっかり抜け落ちている。その代わり、ダブルチェックに異様に拘る悠木のエピソードを入れている。(わざわざニュージーランドロケまでする必要はないとは思うが)全体的に原作の泥臭さは薄れ、すっきりとテーマが見える作品になった。尾野真千子をよくぞ起用した。彼女は化けると思う。堤真一、堺雅人、山崎努はさすが、である。
2008年07月19日
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監督 篠原哲雄 原作 藤沢周平(「時雨みち」) 脚本 飯田健三郎、長谷川康夫 キャスト 田中麗奈、東山紀之、篠田三郎、檀ふみ、村井国夫、富司純子うーむ、悪くはないんだけどなあ。少し冗長に撮りすぎという感じがする。藤沢周平ファンにとっては、おなじみの展開。たとえば、山桜の場面をあれほど何度も繰り返す必要があったのか。東山の牢の中で端正に座っている場面をあれほどずっと描く必要があったのか。それを「丁寧に」ととるか「冗長に」ととるかはまた人それぞれなのだろうけど。それぞれはよく演じているという感じがするのだけど、「演じている」と思ってしまうのは、やはりその映画に入り込めていなかったんだろうな。
2008年07月16日
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浮気症でいい加減な男と、何事もきちんとしないと気のすまない女が、何の因果か夫婦となった93年からの10年間を描く。監督 : 橋口亮輔 出演 : 木村多江 、 リリー・フランキー 、 倍賞美津子 、 寺島進 、 安藤玉恵 、 八嶋智人 、 寺田農 、 柄本明 夫婦の機微は知らない。けれども私はリリー・フランキーの気持ちに寄り添った。私は浮気症ではないが、いいかげんな男だからである。だから冒頭近くの夫婦喧嘩では一人で笑っていた。妻の翔子は「今日は早く帰ってくる日だったでしょ」と詰める。夫のカナオはしどろもどろに返事。翔子「あなたが約束を守らないから、決まりを作ったのよ」「……いいわ。今日はする日だからしましょ」「えー、なんだかなあ。それじゃあ口紅を塗って。」「なんでそうなるの?いいわ、次の時には塗ることにする。」「……いや、そんな風に決めるんじゃなくて……」周りは静かだったので、一人うけている私は見事に浮いていました。木村多江は当たり前として、リリー・フランキーがここまで味のある演技をするとは思っていなかった。いや、あの優しさは彼の「地」なのだろうか?嵐の日の彼のように女性を抱きしめることができる男でありたいと願う私でした。93年はバブル崩壊の真っただ中。羽振りの良かった不動産屋の兄(寺島進)はあっという間に借金だらけになる。連続幼女誘拐殺人事件や園児殺害事件、地下鉄サリン事件、池田小児童殺傷事件、時代は凶悪な事件がだんだんと増えていく。加瀬亮、片岡礼子、新井浩文等、演技派がそれぞれの被告を演じて、ワンシーンながら強烈な印象を残す。法廷画家のカナオは、ただただ被告や証人の姿を見つめる。だらりと腕を下げて証言をする被告。足首まで宝石で飾りながら証言席では泣き崩れる被害者の母親。悪態をついて退廷を命じられる死刑判決が下った被告。その一瞬の姿を絵に落とすカナオ。凶悪犯罪が続いた10年ではあるが、カナオのカメラアイを通して、わたしはあの事件の本質をまだ本当は知らないのかもしれない、と思うようになった。事件の本質がわからないと、宮崎勤や、サリン事件の犯人や、池田小児童殺傷事件よりひどい事件は次々と起こるだろう。秋葉原事件もしかり。哲さんが「橋口亮輔監督は、イラクで人質になった日本人が帰国したときに空港で若い女が笑いながら「自業自得」というプラカードを掲げていた光景にショックを受けたこともこの映画を撮る動機のひとつであると語っている」と書いている。だ、とすれば、翔子とカナオの夫婦の再生が、これらの事件の被告たちの再生に、これらの事件を生んだ時代背景の再生に、一役買うかもしれないと、監督は考えているのかもしれない。うん、いい映画だったと思う。
2008年07月01日
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族譜には書いています。壬辰倭乱のときは日本人は残酷で暴力的だった。その後の朝鮮通信使のとき、日本人は礼節的で勤勉だった。真面目で勤勉な日本人がいつ暴力的で残酷になるのか教えましょうか。それは「愛国心」です。愛国心の名の下、真面目で勤勉な日本人は残酷で暴力的になっていくのです。だいたいこのような意味のセリフが最後の方にあります。青年劇場の「族譜」を観劇してきました。族譜(チョッポ)とは、韓国朝鮮で一族の代々の当主が、家系図とともに、それぞれの時代のできごとを書き残し子々孫々に伝えるもの。 人の生死だけでなく、結婚だけでなく、どのように出世したか、どのように生きたかが記されている。この「族譜」の第2部は原作を大幅に膨らませて、族譜のために死を選んだ薛鎮永(ソルヂニョン)の娘が一族の族譜の物語を谷六郎に聞かせる。脚本のジェームス三木がこの演劇の狙いを述べている。日清、日露戦争に勝った日本は、朝鮮を保護する名目で支配下に置き、併合して日本の領土にした。朝鮮人はみな日本人にされた。 太平洋戦争に勝ったアメリカは、日本を保護する名目で支配下に置き、極東の防波堤として米軍基地を各地につくった。 さすがに日米併合はできなかったが、もっと巧妙な手段で、日本人はアメリカ人にされつつあるのだ。 行儀のよかった日本人が、歩きながらホットドッグを食っている。千年以上もタテ書きであった日本語が、公文書もメールも、ヨコ書きに一変した。街を歩けば喫茶店もバーも企業名も車の車種もみな英語である。幼児のころから英語教育に熱中し、国語力の衰退は目を覆わんばかりだ。 湾岸戦争の戦費百億ドル負担、イラクへの派兵、米軍基地の移転費負担、軍隊を持たないはずの日本が、日米合同軍事演習をやっている。それを合法化するために改憲をもくろむ。失敗つづきの衛星打ち上げも、軍事目的であることが明らかになった。すべてはアメリカの世界戦略の片棒担ぎである。 更にいえば裁判の陪審員制度、意図不明の道州制と、アメリカのいいなりで、首相になりたい政治家は、アメリカ詣でをしてゴマをする。日本人は無邪気なのか鈍感なのか。寄らば大樹の陰と思っているのか。 ご覧に入れる芝居のテーマは『国家とは何か』である。思い切り想像力をふくらませて戴きたい。こんなに熱い人だとは思っていなかった。一昨年の韓国旅行のときに大田(テジョン)で見た教育博物館での生徒に書かせたのであろう小さな石に墨で書いた「皇国臣民誓詞之石」のことを思い出す。創氏改名がこの演劇のテーマである。最初は強制ではない、といって通達が来る。「内鮮一体」のもと、一般人も日本名で登録できるようになったのだから、喜ばしいだろう、と話を持ちかける。あくまでも拒否していると、やがてはいろんな圧力をかけてくる。陰険な圧力である。帰りに国労の人と一緒になった。彼の感想は「国鉄民営化のときでもそうだった。あいつらは、国会答弁でものらりくらりといいようなことを言いやがるが、やることは汚いんだ。昔から日本人のやることは同じだよ」なんとも、国労らしい感想でした。
2008年06月26日
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この五月に死んだ父親は小さな畑を残した。畑仕事が趣味の一つだった彼は、最期の日々にいろいろ種付けをして、半年の間に食べきれないほどのキャベツやら、ブロッコリーやら、いろんな花を実らせた。死んだときには白い紫蘭が満開だった。(この花の名前がずっとわからなかった。)「畑の草取りを必ず10日ごとにすること。」それならば、一時間ほどですむし、手間もかからない、と言うのが彼の遺言だった。結局いまは二週間に一回ぐらいの割合で、草取りをしている。私は畑仕事はしたことがない。だから彼もしろとは言わなかった。だけども、ただ草取りをして畑を管理していると、やはりなんか植えたくなるのが人情と言うものだ。私は畑の一部を鍬を持って耕し、でこぼこの床を作って、アスパラとひまわりと、コスモスの種を植えた。それが五日前。毎日ジョロで水を遣る。芽がずっと出てこない。この二三日の雨で、やっと花の芽が出てきた。嬉しい。死んだ父はそうやって魔術を使って息子を動かしている。「西の魔女が死んだ」を観た。監督・脚本 : 長崎俊一 出演 : サチ・パーカー 、 高橋真悠 、 りょう 、 大森南朋 、 高橋克実 題名から受ける印象とは違い、人の死をどう受け止めるか、がテーマではない。珍しくミニシアターが満席近い。八割がたが老若女性である。けれども男には難しい映画ではない。そうか。こうやって、子供は大人になっていく練習をしていかなくちゃならないんだ、と男女ともに教えてくれる映画である。有名な原作である。読んでいる人は多いと思う。私も読んでいる。映画は驚くほど、原作に忠実だった。それはマイナス点ではない。原作のイメージを壊さないで、忠実に描くということが如何に難しいことかを映画ファンならばよーく知っている。内容は西の魔女こと、おばあちゃんとクォーターハーフの舞とのほとんど二人芝居であるが、出てくる登場人物が皆納得の配役なのだ。特におばあちゃんをやったサチ・パーカーは素晴らしかった。そうなんだ、おばあちゃんはこのように、歌うようにいつも話して、本当にやさしく舞のことを考えてくれる人だったんだ。登校拒否にはいった舞に一番必要なことを次々と舞に働きかける。原作の通りだけど、映像で、あの家とその周りの自然を感じることが出来て幸せだった。魔女修行の第一弾は、規則正しい生活のプランを立てて、それを実行するということ。本当だ。それは本当に難しい。けれども、もっと難しいことを、舞は発見し、おばあさんは舞に働きかけ、そして自分で見つける。死んでゆく物語ではない。生きてゆく知恵を見つける物語である。
2008年06月22日
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「こいつがブリになるかは、まだだあれもわかっちゃいません。けれども、ブリになれた日にはこの男が三代目になると決めました。」「男はつらいよ」「釣りバカ日誌」に続く松竹喜劇の三代目として期待を掛けられている本作。築地をうろうろする玄人まがいのお客よろしく、品定めに観てみた。監督 : 松原信吾 原作 : はしもとみつお 出演 : 大沢たかお 、 田中麗奈 、 伊原剛志 、 森口瑤子 、 柄本明 、 伊東四朗 案外と楽しめる人情劇になっている。予想外に大沢たかおが、人が良くて、明るくて、舌だけは玄人びっくりと言う主人公をはまり役で演じている。田中麗奈が江戸っ子の娘でなおかつキャリアウーマンという役どころをすんなりと演じていて、それぞれの脇役も良くて、一番重要なキャラはきちんと立っている映画になった。いわゆる人情劇である。佐野史郎がうまいこと商社のいやな上司を演じていて、大杉蓮と久しぶりの森下愛子がいい味を出していて、泣笑いという人情劇をきちんと出した。しかし、あまりにもそつがなくて、脚本は予定調和で意外性がない。笑いを取ろうとしたところは見事に滑っていて、伊東四郎が言ったように、「こいつがブリになるかは、まだだあれもわかっちゃいません。」と言う状態である。一応シリーズ化は認めてやろうと(えらそうに)思った。これから築地は石原都政の下で、豊洲への移転と言う「大事」が控えているのだが、それを映画でどのように描くのか、それでブリになったかどうか、決めていきたい。冒頭に築地の風景の中「2016年東京オリンピック」のポスターが貼られていたのは、気になるところではある。
2008年06月14日
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前回の「有頂天ホテル」は私としては珍しく大笑いをしたのではあるが、その年のマイベスト20からは外した。私は三谷幸喜の作品とは、相性がよろしくない。私の求める笑いとたぶん違うのだろう。私の求める笑いとは、結局悔しいことに、松竹喜劇なのだろうと思う。泣いて笑う。笑って泣く。そうして「明日からガンバロウ」という感想をついつい持ってしまうという作品群である。三谷監督はドライなのである。もちろん、喉がひりひりするような乾燥しきった笑いではないのではあるが、どうもあわないのである。監督・脚本 : 三谷幸喜 出演 : 佐藤浩市 、 妻夫木聡 、 深津絵里 、 綾瀬はるか 、 西田敏行 ‥‥‥と言う前振りをなぜしたかと言うと‥‥‥ご明察。この映画に限って言えば、私と相性があったのである。結局、どこがよかったかと言うと、「全編映画への愛に溢れている」のだ。CMにも出てくる佐藤浩市がナイフを舐める仕草。あれがまさかああいう形ででて来るとは。映画作りの面白さがうまく出ていた。監督も映画を愛しているし、私も愛している。この作品に関して、相性があうのは当然であろう。「次のマジックアワーを待っているのは、実は私もなんだよ」というキメセリフが、ストンと落ちた。「明日もガンバロウ」と言う気持ちに素直になれた。
2008年06月12日
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「総括を求める」「異議なし!」監督・製作 : 若松孝二 音楽 : ジム・オルーク ナレーション : 原田芳雄 キャスト 遠山美枝子 坂井真紀 重信房子 伴杏里 森恒夫 地曵豪 坂東國男 大西信満 植垣康博 中泉英雄 青砥幹夫 伊達建士 山崎順 椋田涼 行方正時 川淳平 坂口弘 ARATA 永田洋子 並木愛枝 吉野雅邦 菟田高城 寺岡恒一 佐生有語 大槻節子 藤井由紀 金子みちよ 安部魔凛碧 小嶋和子 宮原真琴 前沢虎義 辻本一樹 加藤能敬 高野八誠 加藤倫教 小木戸利光 加藤元久 タモト清嵐 あさま山荘管理人 奥貫薫 本当はもっとたくさんの登場人物がいるのだが、紙面の関係で省略。左側が実名。右が役者名である。最初「ほとんど事実をもとに作られている」という意味のキャンプションが入る。じっさいこのあと、生存者の手記もいくつか読んだが、相当事実をもとに作られているようだ。若松孝二監督は、かつて連合赤軍の近い所にいたらしい。そして現在も少なくとも心情的には、彼らの主張に寄り添っているのだろう。だからこそ、ひたすら権力側の視点から撮られた「突入せよ! あさま山荘事件 (2002) 」には嫌悪感を抱いたのだろうし、前史も後史も省略した「光の雨 (2001) 」にはNOを示したのだろう。ひたすら事実に立脚し、よくわからないところは想像力で補い、赤軍メンバーたちのありのままをさらけ出すように、描ききろうとしたのだろう。それは植垣康博(元・連合赤軍兵士)が「実際に起こった事実を映画化するとき、なによりもそれを歴史的に描くことだろう。実際、「連合赤軍」をそれ自体として、歴史的背景を抜きにして描くことほど馬鹿げたことはない。それでは、連合赤軍がなぜ誕生し、どうして自滅としかいいようのない結果に至ったのかを考える糸口さえつかめない。その点で、若松さんの『実録・連合赤軍』は、歴史的な流れをていねいに追求している。ともすれば、「仲間殺し」だけが強調される連赤が、けっしてそれを目的にしていたわけではないことを、全体の流れの中から明らかにしようとしていること、しかも敢えて実名を出すことによって、それぞれの人物がどのように振る舞い、生きようとしたかを描こうとしていることが最大の特徴ではないかと思う。これは、赤軍派、特にその後の日本赤軍と関わりを持っていた若松さんだからこそ出来たことだろう」公式HPよりとコメントしていることでもうかがい知ることができる。しかし、監督の意図はどうであれ、あの時代に思い入れのある人の感想はどうであれ、作品の中で圧倒的な迫力をもつのは、あさま山荘事件に至る直前の約四ヶ月の軍事合宿における「総括」→「自己批判」→リンチ殺人の「仲間殺し」に至る過程なのである。この作品は結果的に、見事に連合赤軍の「墓標」になっている。浅間山荘にたてこもっていた時、あさま山荘管理人(奥貫薫)が「せめて私が元気なことを外の人たちに知らせたい」という。坂口弘( ARATA)は「奥さんが元気なことはすでに権力側は承知しています。それでもあのようにご家族の声で呼びかけるのは、私たちに聞かせたいからではなく、権力側のプロパガンダなのです。彼らが消したいと思っているのは、"革命"であり、私たちの主張なのです。だから奥さんの姿声を外に出すわけにはいきません。」と紳士的に言うのである。その限りでは、坂口の情勢認識は正確だったといえると思う。しかし、本質的に言えば、その場さえしのげばプロパガンダは凌げると思った坂口の認識はあまりにも甘かった。私は彼らたちに声を大にして言いたい。結果において、坂口たちや、ひいては永田洋子や森がしたことは、日本のあらゆる「運動」に決定的なマイナスイメージを与えたことを、今死刑判決を受けて服役している坂口や永田に、本来的な意味で徹底的に「総括」して欲しい。(もちろん彼らが全然していないということではない)その深刻なマイナスイメージとは例えばこのように植え付けられた。1972年2月28日。今から考えると、どうして日本全国ほとんどの小学校がこんなことを許したのか、仕掛け人はだれなのか、不思議でならないのだが、小学6年の私は、先生の「取り計らい」で浅間山荘事件の顛末を生放送で、学校のテレビで見ていた。つくづくこの事件の影響は甚大だった。その後の仲間殺しが明らかになることも影響し、子供の心に逆らえぬある観念が植え付けられた。「連合赤軍=共産主義者はこわい。」「学生運動にはかかわらないほうがいい」その観念はその後20~30年は生き続け、大学生になると「しらけ世代」の思想的背景となる。「超人類」とか「バブルで浮かれる若者」という姿にも変わっていき、バブル崩壊でそれどころではなくなるまで続いたと思う。私が79年に大学に入ったころ、「ブント」や「中核派」は細々と生き残っていた。そしてその頃、学費値上げ反対闘争や生協設立運動も起こっていのだが、九割がたの学生は「しらけ」て逃げて行った。それを知ってか知らずか、相変わらずの「学生運動家たち」は難しい単語を並べ、「自主管理自主運営貫徹」とか、あるジェンダー「差別発言事件」では「総括文章」を求める集会が何度も持たれたりしたのである。(詳細は省略)彼らに確かに連合赤軍事件の責任はなかったかもしれないが、彼らはあの事件の教訓を結局一つも汲んでいなかった。同じころ、海を隔てた韓国では、民主化闘争が闘われ、その8年後には選挙による平和的な独裁政権の打倒を実現した。私の大学でも、自主的なハングル講座は企画されていたのだが、みんな「北」に行くための講座であった。日本の学生運動の病理は深い。それを全面的に明らかにするつもりなど毛頭ない。ただ、この事件の影響は甚大であったということだけを強調したい。彼らは一体どこで「誤った」のか。純粋に映画を見て、思ったことがある。1969-1972連合赤軍と「二十歳の原点」というサイトに坂口弘の「謝罪と闘争宣言」という文章が紹介されている。そこで坂口は「誤り」の原因をいろいろとつらつらと述べている。私は違和感を持った。あれは政策路線上の誤りだったのだろうか。 映画を見て、「総括」の過程で死人が出た後は、一線を越えてしまい、違う世界に行った感があるが、そこに至るまでは、私は既視感のある風景を見ていた。「総括しろ!」「自己批判しろ!」「それでも総括といえるのか!」「分かっていないねえ」「何をどうして総括したらいいかわからないだと!それは自分で考えろ!」「異議なし!」これは今現在も日本のあらゆる組織で行われているパワハラ、あるいはいじめの景色と非常に似通ってはいないか。最初は些細なことから始まる。軍事演習に水筒を持ってこなかった永田洋子(並木愛枝)たちのグループに「総括」が求められたのだ。永田は屈辱を感じながら、みんなの前で「総括」の表明(のみ)をする。そして次は永田がもう一つのグループに「指摘」する。遠山美枝子(坂井真紀)の長い髪や化粧や指輪は軍事演習をする態度ではない、共産主義者ではないと言う。もう一つのグループ長である森恒夫(地曵豪)は遠山の総括を約束する。このようにして徹底的な「総括」の連鎖が始まる。中間管理職の「成果のみしか見えていない」言動が、集団の非常に追い詰められている状況の中で、一つの閉じられた空間の中で、さらに追い詰めるのである。まじめな部下は、上司が悪いのだと決して口に出しては言えない。閉じられた空間の中では、本気で「自分が悪いのだ」と思ってしまうし、周りもそう思う。このような過程で、潰れていく、精神を壊したり、会社を辞めていく人たちを私は何人も見てきた。映画の彼らは追い詰められて秘密裏に軍事演習をしていたので、外に助けを求めていくすべはなかった。それでも最後には何人もの脱走者が出る。すでに10数人の仲間の死に加担した後ではあるが。事実彼は叫んだらしいが、最後のほうで当時高校生だった加藤元久(タモト清嵐)の叫ぶ「おれたち、勇気がなかったんだよ!」が、最も一番大きな「総括」であった。森と永田は間違っている、と声を出すこと。外に助けを求めること。その二つこそが、その二つしか、反省すべきことは何もない。連合赤軍事件は、極めて日本的な構造の中で挫折していったのである。この映画監督はそこまで思ってこの作品を作ったのだというようには私には思えなかった。時々流れる叙情的な音楽には辟易した。しかし、映像の力は大きい。観てみてよかった。いろいろなことを考えさせる映画である。
2008年06月07日
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たけ蔵、民は君主を必要としているのか?監督 : 樋口真嗣 脚色 : 中嶋かずき 出演 : 松本潤 、 長澤まさみ 、 宮川大輔 、 阿部寛 、 椎名桔平 、 甲本雅裕 、 生瀬勝久 、 古田新太 、 上川隆也 、 高嶋政宏 、 國村隼 今日はいままでの鬱憤を晴らすかのような怒涛の映評四作品同時アップです。長澤まさみは、東宝子飼いのアイドルスタートして、純粋培養されてきた。さすがに磨かれたスターだけあって”華”がある。特に今回のような男装のお姫様、とかの少し変り種の役柄では彼女の「冒険心」が出て、いい結果が出るようだ。(例えば「世界の中心で愛を叫ぶ」)「椿三十郎」と言う黒澤リメイクでは、全く同じ脚本と言うことにチャレンジして見事に失敗したけれども、今回のリメイクは中心にうまいこと長澤まさみが座り、冒険活劇をその周りに配置して、黒沢の男っぽい映画とはまた違った娯楽映画が出来たように思う。長澤まさみはがんばっていると思う。本来は恋をしたい年頃なのに、国の再興が使命のお姫様という立場を必死に演じていた。最初の第一声が素晴らしかった。あれでお姫様だなと言うことを見事にわからせた。どのような政治をしても結局民を苦しめるだけでないのか‥‥‥。民を信頼しないで、どうして政治が出来ようか。等々と悩み、決断するところ。こういうテーマをさらりと出すところも娯楽映画として必要な要素だろう。実は演技的には後もう一皮向けて欲しかったところなのだが、まあ一応、ここまでやったんだからいいということにしよう。松本潤はどうでもよかった。阿部寛 、 椎名桔平はさすがの貫禄である。宮川大輔が自分の役割をわきまえてきっちりと仕事をしていた。リメイクでも、ここまで大幅に変えてくれると、もう前作と比較しようと言う気にはならない。単純に楽しめてよかったと思う。
2008年05月11日
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哲さんが案外高い評価をしていたので、それにすがって観てみた。基本的にはテレビドラマの映画化は見ないことにしている。試しにDVDで「アンフェア」の劇場版を見たけれども、全くの薄味だった。 それに比べるとこちらはまあまあ頑張っている。映像的にも、東京シティマラソンをまったく違和感なく映画に組み込んでいるし、犯人が捕まるまでの息もつかせぬ展開はなかなかの編集技術である。(一方で犯人が捕まってからはこの映画の肝とはいえ、あんなに時間をとるべきでなかった。いや、あれほど時間をとらないと今の観客には問題の所在がわからないと脚本家は思ったのかもしれない。)監督:和泉聖治出演:水谷豊、寺脇康文、鈴木砂羽、高樹沙耶、岸部一徳、木村佳乃、西村雅彦、原田龍二、松下由樹、津川雅彦、本仮屋ユイカ、柏原崇、平幹二朗、西田敏行テーマはいまどき珍しい社会派映画である。イラク戦争のときの「自己責任論」をここまで正面にすえた映画はいままでにはない。なによりも、テレビ朝日がバックにある割には、堂々と「マスコミ批判」をしている。そして「マスコミに乗っかってしまった国民自体の批判」もしている。これはたぶんテレビドラマでは出来なかった領域であり、7年越しでやっと映画の脚本になったという製作者側の意図もその辺りにあったのだろう。しかし、そうはいってもやはりご都合主義的な展開は否めず、合格作品とは言いがたい。
2008年05月11日
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乙女千感ヤマトさんからこの前テレビでも放映された周防監督の映画「それでもボクはやってない」にTBをいただいたので、昼休みの時間にコメントをしました。思いがけず長くなった。当時は書くのがはばかれたが、今は内容をぼかせば、書いてもいいのではないかと思い、少しコメントを加筆訂正して、記事にします。この映画は「99.9%の刑事事件は被告が有罪である。」という厳然たる事実を前に、それを説得力を持って描いていました。だから問題は「痴漢に間違われないようにすればいい」ということではないのです。去年この映画を見た後、たまたま名誉棄損で起訴された事件の控訴審の傍聴に行きました。一審では限りなく白に近い判決が出たので、今度は逆転できる、と数人の証人を用意して出向いたのに、冒頭裁判官は「聞く必要がない。次回で結審する」とのたまうのです。弁護士が「必要だから証人を出しているのだ」とめずらしく何度も食い下がりましたが、無駄でした。証人を採用するかどうかは裁判官の決裁事項なのです。1000人ほどの署名を集めては行きましたが、それでも世間的には全く無名の裁判です。新たな証拠が上がらず、裁判官の意向が一回目で知れたわけですから、この裁判に勝ち目はありません。事実負けました。被告の意向もあり、控訴はあきらめました。だって、次の高裁はそのたびごとに東京に出向かないといけないのです。しかも、ほとんど逆転判決は望めません。確率がモノを言っています。被告が「萎える」のももっともです。あまりにも悔しい。確かに罰金五万円の軽い不当判決です。でも払えば済むということではありません。一生前科一犯という汚名がついて回るし、支援している側からいえば、「労働組合を作った人間に対する嫌がらせで名誉棄損発言をしたとでっち上げた」事件であって、許すことができないのです。あの裁判官は、万が一にも無罪になることは避けたかったのでしょう。明確に感情で判断しています。ああいう裁判官がうようよいるのです。あの映画の前半にでてくる「有罪だという確証が得られなければ、その人は無罪なのです。恐れるのは無罪の人を有罪にしたのではないか、ということだけです。」という裁判官が途中で転勤(左遷?)させられて、小日向文世に変わり彼は「無罪だという確証が得られなければ、その人は有罪である」という原則で動きます。無罪判決は絶対上からは、いいようには見られない。だから、出世を考える人は無罪判決は出さないのです。あの映画で描かれていることは現実です。これから、陪審員制度ができた時は、選ばれた人はこの映画を必ず見るように運動をする必要があるのかもしれません。
2008年03月04日
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この映画に期待したのは、映画としての完成度ではない。先週「デスノート」について語ったので、どのように決着がついたのか一応確かめておきたかっただけ。よって、確認しておきたいことは以下の三つだけだった。この映画でL(エル)は、デスノートを使うか。前作でデスノートは焼却処分にしたとなっていたので使うはずがない、という人もいるかもしれないが、いつ焼却したかは語られていなかった。しかもあのノートは紙の切れ端に書いても、効力を発するのである。でも使ってしまったら前作のラストはなんだったのだ、と言うことにはなるけれどもね。Lは本当に死んでしまうのか。もし死ななかったら、あの映画のラストは何だったんだ、と非難轟々だというかもしれないが、けれどもなんでもあり、というのが続編ものの伝統ではある。そうやって、人気が出た主人公のシリーズ化というのも過去ないわけではない。(「ゴジラ」シリーズ、「男たちの挽歌」)監督が中田秀夫に変わったが、彼の持ち味は出るのか。ということである。結果はどうであったか。すみません、以下はある意味ネタばれです。 L change the WorLd監督 : 中田秀夫 出演 : 松山ケンイチ 、 工藤夕貴 、 福田麻由子 、 南原清隆 、 福田響志 、 佐藤めぐみ 、 平泉成 、 藤村俊二 、 鶴見辰吾 、 高嶋政伸 基本的に今年の邦画を全然代表しないB級作品なので、私の言を信じて、ネタがばれてもいいわ、という人だけ以下の文を読んでください。中田監督はなぜこの作品を引き受けたのだろうか。「デスノートの世界とは全く違った世界を作りたかった」と監督は言っているらしいが、それはこういいかえることができる。「デスノートはあれだけで完結した作品である。配給は金もうけのために三匹目のどじょうを狙って、私に白羽の矢が立った。けれども、あの世界以上のものを作るのはそもそも無理だ。しかし私も次回作のために、お金はほしい。どうせどんなB級作品を作っても、あれだけのキャラクターならば、そこそこ儲かるだけの宣伝はするだろう。それならば、キャラのみを変えてB級作品を作ればいい。それからともすると、あの前作で天才待望論的な作品世界を作ってしまった。小泉待望論なんかを見ていると、そんな世の中はあぶなかしくて見ていられない。私はそれも壊したい。」もちろん、まじめにそういうテーマに取り組むという手段もあったのでしょうが、中田監督は映画業界を熟知しているので、えらい目をしてまじめに取り組めば取組むほど、その映画は売れなくなるということをよく知っていたわけです。だから、あえて突っ込みどころ満載のB級映画を作って、一番最後に付け足すように、「よく覚えておくんだ。天才一人で世界を変えることなんかできないんだよ」とエルに言わせるわけである。(紋切型でまるで説得力がないセリフであるが、松山ケンイチ人気で映画館に足を運ぶ若者にとってはそのぐらいで十分説得力はあるのである。)これで配給も利益が出るし、中田監督も次回作が作れる、しかも若者の天才あるいは英雄待望論に少しだけストップをかけることができる、三方丸くおさまって万々歳ということである。B級作品万歳。中田監督はつくづく「大人」である。だから中田ホラーは今回はほとんど封印されている。そういうわけで、今回冒頭前作の「デスノート」の映像はふんだんに出るが、そもそもデスノートの世界観を壊すことが目的なので、当然ノートは使われない。ただ、私自身はひそかにノートは使わないが、次のからくりは使ってほしいと思っていた。デスノートにより、エルは23日後に死ぬことが決定していた。それは言いかえれば、23日間は「絶対に死なない」ということと同議である。それを使ってエル自身が絶対に死ぬようなところにわざと赴き状況を逆転させるというからくりである。けれどもそれさえ使われなかった。それぐらい使ってよ、と私は思う。そうでないと冒頭デスノート世界が映像として出た意味がないじゃん。でもそれぐらい徹底しないと「デスノート」の世界は壊れないのかもしれない。だから、よって、結局、エルは死ぬのである。まあいいんだけどね。脚本はむちゃくちゃだったけれども、松山ケンイチ 、福田麻由子も持ち味をきちんと出していて、気持ちよかった。工藤夕貴は別人に思えるくらいに役になり切っていたと思う。高嶋政伸は脚本がむごかったので、頑張っているんだけど、説得力がなかった。存在感が出ていたのは、工藤夕貴ら人類抹殺計画に賛同している若き女性テロリスト佐藤めぐみの「行っちゃっている」演技である。かわいらしい女の子が狂信的になり、残酷になると本当に怖い。これだけはホラーだった。彼女、どっかで見たなあ、みたなあ、と思っていたら、なんと「ちりとりてん」のA子だった。びっくり。正反対の役だ。まだ映画にほとんど出ていないので、これから注目。ところで、今秋の少年ジャンプで「デスノート」特別編が掲載されていた。夜神月が死んで三年後の物語である。キラもどきが出現してニアが退治するという筋書きだ。結局この特別編でわかったことは、もう二度と第三部「デスノート」はありえないということだ。なぜなら、デスノートの存在はニアだけでなく、FBIも日本の警察も何人も知れ渡っていて、今回ニアが簡単にキラもどきを退治できたように、今度デスノートが出現しても普通の展開ではデスノートは使えなくなっているからだ。今度使えばありえるのは、ハルマゲドン、デビルマンの世界になる。キラ軍団が出現して、戦争になるだろう。この物語の魅力である、頭脳戦にはならない。そんなマンガを描いても意味はないだろう。結局「デスノート」はそのような際もののとして、マンガの歴史に埋もれていくのが、真っ当な展開と言うものだ。
2008年02月13日
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雪が降っています。正月明けからこの方、土日月毎に大小含めて降っています。でもこれは特別異常気象ではない。ほんの20年ぐらい前までは、比較的温暖な岡山でもこれが毎冬の風景でした。 無音で降り積もり、景色が変わっていくのを眺めていると、日本に生まれてよかったな、と思います。昨晩「デスノートthe Last name」をテレビをしていて、なんとか後半の一時間を見ました。改めて、漫画版よりは金子修介監督の映画版のほうが、言いたいことを全部言いつくした優れものであるということを認識しました。物語の筋は、「人の死を決定づけるノート“デスノート”。退屈な死神が人間界にノートを落とし、拾ったのは世界に退屈しているエリート大学生、夜神月。」(goo映画より)そして、月と天才探偵「L」との頭脳戦がはじまるわけです。昨年映画「デスノート」前後篇が公開されて、漫画版も店で品切れ騒動を起きるぐらいヒットしたとき、前と後の間に私も漫画版を全巻読み終えました。でも、感想を早く書かなくっちゃと思いながら、ほったらかしにしていました。書きたいことが多くて、めんどくさくなったからでありません。これほどまでに若者に支持され、セリフが多く緻密な物語のように一見思えるのだけれども、読み終えた感想は、「なんて薄っぺらな漫画なんだ」ということでした。人気に後押しされて一応手塚治虫漫画大賞の選考作品にはなりましたが、何の賞も取りませんでした。当然です。若者は二手三手先を読む理知的な展開に翻弄され、ゲーム慣れをしたものでも「すごい作品だ」と感心していたようです。あるいはテーマとして、「正義の殺人は成り立つか」ということをほ掲げていたので、なんか深いものがあると勘違いしていた人もいるようです。結果はちゃんちゃら可笑しいものでした。先が読めないのは当たり前で、物語の途中でどんどん「デスノート」のルール「付け加え」があるのです。最初から「顔と名前を思い浮かべながら名前をノートに書けば、その人の死は自由に操ることができる」というだけのルールのままで通したならば、誰でも最後の結末は予測することができたでしょう。でもあのようなルール変更があれば、たとえ50手先を読むことができる将棋の有段者でも結末を予想することはできなかったに違いありません。じゃあ、テーマ的に深いものがあるか、ということなのですが…。テーマは昔から何度も何度も問われた古臭いものです。夜神月(ライト)は言います。「正義さえあれば、殺人は許される。法律で裁くことができていない悪は無数にある。(証拠不十分で釈放された殺人鬼、汚職代議士等々)。選ばれしものなら、彼らを殺すことは許されていい。そのあとにこそユートピアは来るはずだ。その証拠に私がキラによる裁きを始めてから犯罪率が70%も下がったではないか」これは、ドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフが「戦争で多くの人を殺したナポレオンは英雄である。選ばれた優秀な人間は人を殺すことができる」といって金貸し老婆を殺したこととほぼ同義の考え方だろう。古臭いけれども、これはこれで本当に重要な問いだ。私の「罪と罰」観であるが、ラスコーリニコフは最後の最後まで、老婆に対する罪を自覚していなかったと思っている。だから、実はいまだにこの問いに対する答えは出ていないのである。(もし出ているのなら、「正義の戦争」に対して誰もが明確に肯定あるいは否定をすることができるだろう)では漫画版では、その問いにどうこたえているだろうか。実はほとんど答えていないのである。もちろん、問いを発した主人公の夜神月は最後には死ぬ。しかし、なぜ死んだのか、あたかも「ゲームに敗れたから死んだのだ」としか取れないような終わり方なのである。もっとひどい取り方は「弱い者は死んでいい」というようにさえ取れる。原作者は、答えを放棄している。あるいは、とんでもない考えの持ち主なのだろう。しかし、映画版は違う。敵役の天才探偵「L」は、デスノートを二冊とも焼却処分にしているので、結局正義の殺人自体を否定したという形になっている。夜神月の父親で警視の夜神総一郎は、息子の問いに対してこのように答えている。「確かに法律は完全じゃない。けれども人類の歴史の中で、ここまで努力して完全なものに近付ける努力をしてきた。それを否定するおまえは間違っている」と。紋切ではあるが、とりあえず、法治思想の最良部分であろう。これは漫画の原作者よりも、映画の監督のほうがよっぽと「大人」である、ということの証なのだろうと思う。さいきん、テレビは数年ごとに「幼児化」してきている。倖田來未の羊水発言にしてもそうだ。代議士の発言じゃないのだから、きちんとした謝罪は必要だろうが、「次の犠牲者を探す」的な取り上げ方はどうかと思う。問題はこのテレビの視聴率至上過ぎの考え方だろう。あるいは、あのような漫画が売れる、ということなのだろう。漫画版「デスノート」は去年のフィーバーがうそのように今は店の本棚に普通の漫画と同じように並んでいる。読者は結局、「デスノート」の底の浅さを見破っていた。と、私は思いたい。この並び方に私は今は微かな「希望」を抱いている。
2008年02月09日
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世評があまりにも高いので、私は最初から冷静に、辛口でいこうと決心していた。監督・脚本 : 山田洋次 出演 : 吉永小百合 、 浅野忠信 、 檀れい 、 志田未来 、 戸田恵子 、 坂東三津五郎 特高役の笹野高史が土足で野上家に上がりこみ、調度品や蔵書を足蹴にする。江戸時代がかかったような縄掛けでドイツ文学者野上滋を縛り上げる。美しい妻と12歳と9歳の娘が見守る中、彼は「父べえは大丈夫たから‥‥‥きっと早く帰ってくるから‥‥‥」とやさしくいい、長女の志田未来が気丈にも頷く場面から、ずーーーと、作品の四分の三は泣きっぱなしだった。とても冷静な批評など出来そうもありません。(^_^;)最近気がついたのですが、私の生涯ベストの中に「レオン」があるし、去年は「パンズ・ラビリンス」がよかったし、小説では重松清のいじめモノではいつも少女が気丈に立ち向かうタイプの小説にやられてしまうし、気丈な少女が困難に立ち向かうというタイプの物語に弱いようです。タダ、泣かせ泣かせの連続で、情感のみに訴えたお涙頂戴映画だという批判は当たりません。日常をリアルに描きこむことの中から、普遍的な「何か」が浮かび上がるようになっていたはずです。声高には叫んでいないけれども、至る所で現代に繋がる場面があります。それは個人個人が見つけて欲しい。最後の病室の場面は、山田洋次には珍しい終わり方でした。珍しく厳しい終わり方だったように思えます。私は約20年前の「息子」という映画を思い出しました。この作品では、父親の三国連太郎の死が近いと言うのは誰にも明らかなのですが、最後は親子が囲炉裏を囲んで仲良くしている幻想がふいと消えた場面で終わるのです。父親が死ぬ場面はついに映らなかった。結局この違いがこの20年間の日本の変化なのかもしれない。そのようにあの最後の言葉をとることが出来るのかもしれない。或いは、個人的には、私としては、生き残るものと死にゆく者の思惑はそのようにすれ違うのだとも、とりました。それは私も覚悟しなくてはならない。けれども私は決して戸田恵子が間違っていたとは思いません。
2008年02月03日
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