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「顔の考古学」設楽博己 吉川弘文館※一度「パレオマニアの吉備国遺物の旅」で扱ったテーマではあるが、加筆訂正してもう一度出す。出来あることならば、専門家の意見を聞いてみたいほどの考察になったと自負している。「池澤夏樹の旅地図」を読んだときに「パレオマニア」の取材方法を知った。少しそれを真似て、一つの遺物をめぐる小さな旅をした。よって、本書の感想は一部のみ。久しぶりに古代吉備文化財センター(岡山市北区花尻1325-3)に行った。センターは吉備の中山の中腹にある。吉備の中山は、様々な古墳や弥生時代の磐座(いわくら)がある聖なる山だ。だからか、此処には神社で1番格式の高い一ノ宮も、日本で唯一ひと山に2ヶ所もある(吉備津神社、吉備津彦神社)し、新興宗教黒住教の総本山も此処にある。何度も来ているので、選ぶ遺物の目処はついている。当然弥生時代。一つ選んで、それが出土した場所に行き、感じたことを書くのが「パレオマニア」のやり方だった。選んだのは、吉備の国発祥で謎の多い「分銅型土製品」である。名前の由来は、江戸時代に使われた秤の重りに似ているためであり、分銅として使われたわけではない。これまでに中国・四国・近畿・北陸・九州から900点あまり出土して、そのうち4割が岡山県出土となっている。私の一番好きなのは、最も最近(弥生時代後期)に作られた、ほとんど縄文時代の土偶のような「顔」のついた土の板だ。くびれがついた小判型。岡山市加茂政所(かもまんどころ)遺跡出土。上半分に表情のみの顔がつく。もうどう見ても、赤ちゃんの顔に見える。しかし、これを赤ちゃんの顔だという研究者はあまりいない。これは「顔」であるということでは意見は一致している。しかし、目が左右対称では無いことなど、つまらない所に注目している。「微笑んでいる」様に見えるのは、「のちに埴輪にも見受けられる『魔除けの効果』」〈辟邪〉を狙ったのだという見方もある。ひとつ発見したのは、普通壊れた形で出てくるのが多いのに、これは完成形で出土したのである。近くから出土したほかの顔付き土製品(時代区分はほんの少しだけ赤ちゃん顔よりも古い)が無表情で、しかも壊れた形で出てきたのと何故か違う。分銅型土製品は、壊れた形で出てくることの方が「正常」なのである。真ん中のくびれで、二つに割れて出てくることが多い。また、まとまって出てくることはなく、住居跡から出土する。500年前のそれは顔さえなくて、抽象的な模様のついた分銅型土製品だった。なんらかの家ごとの宗教行為があったのに違いないと、私も思う。また、私の好きな赤ちゃん顔の土製品は、下がむしろ大きく、ホントの分銅型をしていて、いわゆる普通の分銅型土製品とは違うという指摘もある。弥生時代後期の最終時期の土器として何の意味があるのだろうか?現在の研究では、子どもの枕元に置く魔除けではなく、上に飾り物を刺せる穴もあり、左右に通し穴もあることから、額につけて面のように使ったのでは無いか?という説もある様だ。赤ちゃん顔の土製品にも左右の穴はあったが、飾り物の穴はなかった。また、思ったよりも鼻は高くて、ちゃんと鼻の穴は二つある。くびれは小さい。よって最初から壊さないことを前提にして作ったということだろう。だとしたら、壊して魔物を他所に持っていく効果とは違う祭祀に変化したということだろう。しかし額には付けたのかもしれない。ときは弥生時代後期の中頃(AD150年ごろ?)。ここで何が起きたのか。か^_^目的により、肝心なことは聞かない。資料の場所と出土場所のみ教えてもらった。発掘報告書は売り切れていて無かったが、その場でデジタルで見えるようになっていたので読ませてもらった。出土場所に行ってみた。場所は、文化財センターから吉備津神社に降りて、180号線を西進し、山陽自動車道と交わるところである。その工事中に発見された遺跡なので、今は高速道路の下になっている。東側はすぐ緩やかな、ちょっと見、神南備山(かむなびやま)に近い形の山が迫り、北も山が近くにある。西は足守川がながれ、南にはほとんど小森にしか見えないが、楯築(たてつき)遺跡の小山が見える。弥生時代最大級の墳丘墓にして、最も謎に満ちた弥生の王墓である。元気な子供が走れば30分ぐらいの距離と見た。吉備国中枢祭祀場から生活圏にある、津寺遺跡と併せてこの辺りは、まさしく吉備国の中央地区だった気がする。常に楯築の山を見ながらの生活だったのだ。さて、やっと「顔の考古学 異形の精神史」(設楽博己・吉川弘文館)で言及されている分銅型土製品について述べる。少ししか書いていないので、全面的な考察ではないが、とりあえず最新研究は見ているようだ。土製品はずっと縄文時代と関係ないと言われてきたが、近畿の縄文時代晩期終末の長原式土偶が、近畿姫路市丁・柳ヶ瀬遺跡あるいは総社市真壁遺跡の前期土製品に繋がるのではないか?という研究を紹介している。これにより、縄文土偶が分銅型土製品につながる道が見えてきた。設楽さんは、特に土製品の「顔」の「笑い」の意味について、私と(少し違うが)似ている意見を持っていた。つまり、魔除けの効果(辟邪)を狙ったものではないとする意見である。何故ならば(1)顔があまりにも穏やかで微笑ましい。(2)魔除けの鯨面絵画資料が墓から出るのに対して、土製品は墓からでない。設楽さんは「女性をかたどり、柔和な笑顔をたたえている」「おそらくは出産にかかわる護符のような機能」を持っているのではないか?と考えを述べる。それを補強するもうひとつの要因として、土製品の顔には、一切鯨面(刺青)の表現がない。ナント!赤ちゃん土製品の出た加茂政所遺跡の数百メートル西の津寺遺跡の、しかも弥生時代後期から鯨面線刻土偶が出土しているのである(←知らなかった)。「入れ墨は男子の習慣」だと書いたは魏志倭人伝である。設楽さんは土製品を「女性」だと言うが、私は少なくとも、最終末期に作られた赤ちゃん土製品は「赤ちゃん」だったと思う。赤ちゃんにも入れ墨はもちろんないからだ。赤ちゃんだという根拠は、赤ちゃんの顔だからである。あどけない寝顔のような顔にしか見えないからである。だから、出産の時にも効果を発揮しているかもしれないが、それ以外の時にも効果があるかもしれないのである。私は、やはり、子供を助けるための祭祀だったと思う。同時に子供が助ける祭祀だったのかも知れない。赤ちゃんは眠っている。夢を見ている。幸せな夢を見ている。安心しきっている。これまでも、これからも、病気も飢えも争いも憎しみもない空間が、この赤ちゃん土製品の周りにはあり、それを保証するだろう。集落で行われた豊作を祈る祭り(青銅器祭祀)が下火になるにつれて分銅型土製品も姿を消していった。家々での出土だったことを考えると、村の祭りを司る力は低下して、楯築の王の王国の強力な呪術の力が、人々の生活を守る様になっていったのかもしれない。150-180年に、この赤ちゃん土製品を使って家々で行われた或る秘儀の継承は必要なくなっていったのかもしれない。楯築王墓の儀式の成功の時、赤ちゃん土製品は、まるで家の御守りのように大事に家の隅に祀られていただろう。それは同時に全く新しい時代の曙光を意味する。弥生時代が終わろうとしていた。
2022年02月04日
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古代吉備文化財センターで選んだ遺物のふたつ目は、「袈裟襷文銅鐸」である。2014年に、180号バイパスを建設中に総社市福井で見つかりました。場所は神明遺跡。総社市北側の今は田んぼが広がるところですが、出てきた遺物をみると、総社平野を代表する集落だった様です。その後、この東側南側は吉備国の中枢になるわけですが、弥生時代は未だ一集落だったのでは無いか。銅鐸は山の中腹で見つかることが多い。埋納状態が明らかにならないことがあるが、ここは集落の中で、埋納状態が詳細まで明らかになった。しかも、吊り手に流水紋を飾る珍しい中期の銅鐸だった。使われていた形跡もあり、それが埋納されたということは、長く使われた銅鐸が「何故」「此処に」「いつ」埋納されたのかという「謎」を解く材料がひとつ増えたことを意味する。しかし、未だ謎は解けていない。山の中腹にしろ、集落の中にしろ、楕円形をした穴の中にヒレを上下にして横たえるという形式は、どこでも同じ。ということは、銅鐸をめぐる全国的な「教え」があったということなのだろう。いつ、埋納したのか、ハッキリ分からない。けれども、紀元前後ではないか、とあの頃の発掘担当者は言っていた。と、すると、その150年後に楯築の王の祭りがあったわけだから、その150年間の間に銅鐸の共同体の祭りから、王を弔い、王の神権を継承する方に、人々の関心が移ったと見なくてはならないだろう。発掘地は、5-6年前に現地説明会に行った頃とあまり変わっていなかった。古代吉備文化財センターにある資料しか見ていないので、池澤夏樹の取材よりも遥かに簡単であるが、発掘報告書や博物館の説明書を読むだけで、現地に行って書くだけでは、レポートようし一枚にもならないことがわかった。本になるぐらいの取材旅というのはどんなに大変なのか、逆にわかった気がした。
2022年01月23日
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池澤夏樹「パレオマニア」の取材方法を真似て、博物館で好きな遺物を2つ選んで、その発掘地に行き、記事を書くということをやってみたい。久しぶりに古代吉備文化財センター(岡山市北区花尻1325-3)に行くと、企画展「真金吹く吉備」をしていた。その感想はまたの機会に。何度もきているので、選ぶ遺物の目処はついている。当然弥生時代。ひとつは、コレ。吉備の国発祥と言われる「分銅型土製品」である。名前の由来は、江戸時代に使われたばかりのおもりに似ているためであり、分銅として使われたわけではない。これまでに中国・四国・近畿・北陸・九州から900点あまり出土して、そのうち4割が岡山県出土となっている。私の一番好きなのはコレ。岡山市加茂政所遺跡出土。もうどう見ても、赤ちゃんの顔に見える。しかし、これを赤ちゃんの顔だという研究者はあまりいない。これは「顔」であるということでは意見は一致している。しかし、目が左右対称では無いことなどに注目している。微笑んでいる様に見えるのは、「のちに埴輪にも見受けられる『魔除けの効果』」を狙ったのだという見方である。ひとつ発見したのは、普通壊れた形で出てくるのが多いのに、これは完成形で出土したのである。近くから出土した顔つきのが無表情で壊れた形で出てきたのとちがう。また、この土製品は、下がむしろ大きく、ホントの分銅型をしていて、いわゆる普通の分銅型土製品とは違うという指摘もある。弥生時代後期の最終次期の製品らしく、何の意味があるのだろうか?左右に一般的にある「穴」はついている。現在の研究では、子どもの枕元に置く魔除けではなく、上に飾り物を刺せる穴もあったことから、額につけて使ったのでは無いか?という説もある様だ。この土製品にも穴はあったが、飾り物の穴はなかった。また、思ったよりも鼻は高くて、ちゃんと鼻の穴は二つある。くびれは小さい。よって最初から壊さないことを前提にして作ったということだろう。だとしたら、壊して魔物を他所に持っていく効果とは違う祭祀に変化したということだろう。弥生時代後期の中頃、ここで何が起きたのか。ひとつは、楯築遺跡に繋がる、王の出現だということなのだろうか。私はセンター職員に聞いて、出土場所に行ってみた。場所は、文化財センターから吉備津神社に降りて、180号線を西進し、山陽自動車道と交わるところである。その工事中に発見された遺跡なので、今は高速道路の下になっている。東側はすぐ緩やかな、ちょっと見には神南備山に近い形の山が迫り、北も山が近くにある。西は足守川がながれ、南にはほとんど小森にしか見えないが、楯築遺跡の小山が見える。走って30分ぐらいだろうか。吉備国中枢祭祀場から生活圏にある、津寺遺跡と併せて、この辺りは、まさしく吉備国の中央地区だった気がする。常に楯築の山を見ながらの生活だったのだ。私は、やはり、子供を助けるための祭祀だったと思う。集落で行われた豊作を祈る祭り(青銅器祭祀)が下火になるにつれて分銅型土製品も姿を消したこと、家々での出土だったことを考えると、村の祭りを司る力は低下して、王国の強力な呪術の力が、人々の生活を守る様になっていったのかもしれない。
2022年01月22日
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11月28日造山第二古墳の現説(現地説明会)に行ってきた。とーっても久しぶりの現説、もしかして2年以上ぶり?コレは北側から見た造山古墳。普通の小山にしか見えない。 内容はバリバリの古墳時代の、それも陪塚(ばいちょう)の周辺を掘ったら、埴輪列が出てきたというだけの説明会なのだけど、それでも楽しい。造山古墳は、日本第4位の5世紀前半の巨大古墳。最近、駐車場にやっとビジターセンターが出来たので、ずっと行きたいと思っていたのである。遺物が並んでいるわけではない。 しかし、説明板がとっても「責めていた」!! 楯築遺跡は帥升の墓という説をとり「吉備の王は日本の代表であった」との説を強調している。 「大和は邪馬台国で、吉備は大和に次ぐ投馬国という大国であった」いやあ、私もその可能性はあると思うけど、言い切っていいの? その他の説明も責めている。(作成は岡山市教育委員会だよね‥‥) 大和は東、吉備は西を統べる王だったのではないか? なかなか‥‥。 まぁここら辺は私之関心外なので‥‥。 コレが現説の略図。 造山第二古墳の全体像 発掘自体は単純なので、テープの一分ほどの説明のエンドレスだった。 今回の発掘で第二古墳の埴輪列だということがハッキリした、ということが一点。 しかしながら、あまりにも埴輪列が墳墓から離れている。この間の平地に何かあるのではないかということが一点。それは来年の話らしい。 右端が第二古墳、左端が現説場所である。 ここから少し行くと、直弧文の墓のあった千束古墳がある。3、4年ぶり?再来年完成の、整備事業之真っ最中でした。
2021年12月03日
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昨晩(5月4日)、NHKの「ミステリアス古墳スペシャル」という番組を偶然見た。知らなかったが、第三弾らしい。 全国の「珍しい」古墳を取り上げて、ゲストが素人目線でその魅力を語り、地元の専門家が解説し、松木武彦さんが番組内でコメントするというもの。 (NHK WEBより) 放送 2021年5月4日(火)午後10時〜10時45分[NHK総合] 全国に15万もあるという古墳。そこには古代の謎と驚きがいっぱい。今回のテーマは不思議な姿形。選び抜かれた5つを紹介しながら、おすすめナンバー1の古墳を決定する。 古墳には謎と驚きがいっぱい。今回は不思議な姿の古墳を大特集。茨城の真っ赤な壁画が描かれた古墳。九州に多い壁画古墳がなぜ関東に?前方後円墳の本場・大阪になぜかひょうたん型古墳、四国・香川には古代の最先端技術で作られた石積み古墳、埼玉には横穴が岩壁いっぱいに掘られた古墳マンション、和歌山には怪人ハニワに守られた緑石の古墳。謎から知られざる古代が浮かび上がる。この番組を見ればきっと古墳に行きたくなる! 【司会】恵俊彰、赤木野々花 【出演】武田双雲、ウルフルケイスケ、堀口茉純、国立歴史民俗博物館教授…松木武彦 不思議な古墳を大特集 [1]虎塚古墳/茨城県ひたちなか市 地下に眠る赤い模様のミステリー 九州の豪族が大和王権の命を受けて攻めてきた。 石室の外から多くの副葬品が発見されたことから、石室が何者かによって乗っ取られたのではないか!? [2]金山古墳/大阪府河南町 可愛すぎる!なにわのひょうたん型古墳「金山古墳」 2つの丸い古墳がくっついたものは全国でも唯一ここだけ。 石室とその手前の通路に棺が。 [3]吉見百穴/埼玉県吉見町 山肌が穴だらけ!謎だらけ! 穴は全部で219個あり、棺が置かれていた跡も残っている。 [4]野田院古墳/香川県善通寺市 石造りの巨大バースデーケーキ!?基礎から表面まで石だけでできている 瀬戸内海は交通の要所。高句麗の影響? [5]石橋千塚古墳群/和歌山県和歌山市 200基以上の古墳がある 天王塚古墳…巨大石室がある。怪人が守る青井地下王国! 大日山35号墳…翼を広げた鳥型埴輪、両面人物埴輪などの埴輪が興味深い古墳満載! 虎塚古墳は、ほとんど熊本の装飾古墳そのままの内部である。海から来た熊本勢力が作ったのだろうと言われている。 河南町の金山古墳は、以前行ったことがある。その墳頂から観た河内の町の雨と晴れ間のスペクタルは忘れられない。 その他、セレブの墓のタワーマンションかという表現で吉見百穴古墳群。 讃岐地方独特の石積み古墳(全てカンカン石とは初めて知った)の野田院古墳(写真)。←コレは行ってみたい。 そして、美人の学芸員のいる紀伊風土記の丘の石橋千塚古墳群の荘厳な天王塚古墳は、整備されたならば是非とも行きたい!
2021年05月05日
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26日(土曜)、NHKEテレにて「誕生 大和王権」が放映された。弥生時代から古墳時代にかけての、一般視聴者には目新しい情報がわかりやすく解説された。それを私の責任に於いてメモした。MCは松木武彦歴博教授。 ・箸墓古墳は、炭素14年代法によって(240-260)の間に限定された。 ・ミューオン(宇宙線)を使っての箸墓古墳へのレントゲンを試みている。まだその途中らしい。(←てっきりもう済んでいるのだとばっかり思っていた) 箸墓古墳葬られた人は? (1)卑弥呼? (松木武彦も此方をとっているらしい) (2)大和王権初期の大王(崇神?)の2通りがある。 ヤマト王権とは? 日本最初の中央政府である‥‥現在日本政府の直接の原型であり、とても重要だ。3-4世紀成立。葺石(出雲)・特殊器台(吉備)・鏡(北九州)・積み石(香川)などの特徴があり、統合国家の成り立ちを示している。 この古墳の在り方自体が何を証明するか? 「地域同士が武力統一戦争なしの国家形成をした」(松木武彦) 「この成り立ち自体が、今の日本社会の在り方に大きな影響を与えている」 (楯築墳丘墓の祭祀予想図) どのようにできたか? 「北部九州、吉備・瀬戸内海の東部・」「吉備・畿内」「伊都国中心」「河内・東海」等々いろいろ諸説ある。 (纏向遺跡の想像図) 何故突如、できたか? 出雲は?見せる古墳をつくった。 糸島 いとこく 平原王墓形は小さくなったが、出土遺物はすごい。鏡40枚。アマテラス信仰 吉備 楯築墳丘墓 箸墓土器は吉備の土? 箸墓前夜に何が起きたか? 倭国乱が起きた。 しかし戦争の証拠はほとんど見つかっていない。 乱れていたのは、気候変動なのではないか? 弥生末期は、大雨の未曾有の混乱があった? 災害の影響を受けにくかったのがヤマトなのでは? 洪水が受けにくく、列島各地から川から行きやすい。だから拠点を纏向遺跡にした? 3世紀前半の王宮が発見された。 「箸墓古墳は最初の大きなメディア。亡き王を神々の世界に返す、そして我々を見守ってくれる。そういう儀式をした。最初の国家的儀式の始まりなのでは?国ができるときのポイントになったのでは?」(松木)200年後に大山古墳。その形はずっと続いた。 会津 杵が森古墳(前方後円墳)が箸墓古墳の1/6で、箸墓から間もない頃作られた。同じ設計図で作られた。 他に同じ設計図の古墳はどのくらいあるのか? 吉備 しじかいさんのうじ古墳 浦間茶臼山古墳1/2 数年以内に22基の同じ設計図古墳ができた。連合の証として、古墳を作らせたのか。首長は参加に入ることで、ギブアンドテイクがあった。 ヤマトはモデルチェンジしながら、その設計図を渡した。 網野銚子山古墳 雷神山古墳 宝来山古墳 等々が相似形 前方後円墳 全国で約400基 古墳作りに必要な土木技術 測量・築堤技術で稲作は進んだ。平和と豊かさ 古代の民の叡智は箸墓から始まったのでは?
2021年03月28日
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「考古学ガイドブック」小野昭 シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊5 新泉社 ひとつの遺跡を深く掘り下げるシリーズ「遺跡を学ぶ」の、その別冊の5番目。とうとう「発掘作業」や「概論」を解説する本が登場した。 大学の考古学教科書をわかりやすく解説したような内容。或いは、博物館の図録でよくある小学生向け「発掘とは何か」を10倍詳しくしたような内容。高校生の考古学志望学生には必読文献になりそうだし、大学生にとっても役に立つだろう。私たちのような考古学ファンにとっては、所々に目から鱗の「技術」「考え方」があって、とっても面白かった。 例えば、 ・現代考古学では最新の探査機器や分析装置を駆使しているが、人の目と手の判断はまだ充分必要とされている。地層の中の0.2ミリほどのガラス片が太陽に反射して光るところから火山層の標準を発見したり、堆積層の微妙な違いを指で押して見当をつける技術は機械では無理だ。←発掘現場でいつも感心するのは、ホントに微妙な色の違いでどうして柱の跡が分かるのか、ということ。 ・22pの土器編年のわかりやすい写真解説はよかった。 ・復元模型の例として、群馬県西組古墳時代遺跡と長野県浅間縄文ミュージアムのジオラマを紹介していた。私は中部日本以北の博物館にはあまり行けていないので、これら復元のリアルさと解釈の仕方、文明発達の度合に驚愕した。あゝ日本全国の博物館を巡りたい! 特徴的なのは、21のイシューのうち後半7章は、現代における考古学という学問の課題について、著者の意見を積極的に展開している事だろう。 例えば、歴史記述の問題。多民族国家の外国では特に大きく問題になるが、日本でも問題にすべきだとする。改めて「邪馬台国は、日本国の問題として見るべきなのか?それとも客観的な存在としての歴史として見るのか?そんなことをすれば無責任だと非難されるのか?」 ←私たちは、改めて日本という国家ができる以前の歴史について、考えなければならないと感じた(いや、中世・近世、近代でも未だ日本列島には日本国ではない領土は広く存在していた)。 ←こう言われて初めて「もしかしたら、卑弥呼は魏国の一支国としての意識しか持っていなかったのかもしれない」という視点が生まれた。もちろん可能性に過ぎない。万が一、邪馬台国が魏国とまるきり同じ価値観を持っていた時、縄文から続く銅鐸文化という独自の価値観を発達させた弥生文化が邪馬台国と対立するのは、必然だろう。反対に、邪馬台国が魏の価値観と対立する時には、また違う歴史記述になるだろう。どちらを想定するかで、「歴史記述」は、全く違ってくる。 その他、文化財の保護、国際協力、歴史観等々、広く世界的視点からの考古学を語っていて新鮮だった。
2021年02月15日
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岡山市操山古墳群を久しぶりに歩きました。いつもビジターセンターから上がっていくのですが、初めて護国神社から上がってみました。すると、これまで観たことのない景色が見れたのです。 裏山入り口の比較的急なクネクネ道を上がってゆくと、仏心寺の霊園に辿り着きます。ここが、意外と見晴らしが良い。 そのあと、今まで道を外れるので行っていなかった旗振り古墳に辿り着きました。わりと大きな方墳でした。 ここにある展望台には、説明板がついていて親切です。今回気がついたのは、この操山から海があまりにも近い。ということ。おそらく古墳時代には、山の裾野まで海岸線が迫っていた筈だ。だとすると、多くの古墳は海に面していたことになる。 至る所に、石室の石の加工作りかけがあった。 鬼滅の刃みたいにスパッと切れている石は、何故かお賽銭が置かれている。 6世紀の荻の塚古墳は、羨道も広く、中も人が大勢入れる。 そこから暫く行くと岡山市街を一望する展望台があった。 操山の上に非常に多くの古墳を配置して、その北の裾野は弥生時代有数の遺跡(おそらく古墳時代まで続いた)。こういう土地を私は最近見たことがある。福山市御領遺跡である。聖なる山を配した、小さな王国。それは珍しいことではないのかもしれない。 湊茶臼山古墳にも登ってみた。国際ホテルを右手に見て進むとゴルフ場が左手にある。そこから紅葉の操山がよく見える。古代には尾根続きだったと思えるこのコースを行っていると、そこから左手に見える尾根山の頂に湊茶臼山古墳がある。 そこから何が見えるのか? 操山の麓には田圃は広がっていないと思えるので、おそらく開けたところは海しか見えない筈だ。吉備穴海という、航海ルートの要が見えた筈だ。それに睨みを効かす首長の墓だったのだろうか? 後円部に向かって、左側がちょうど真東になり、22日の冬至に近い日の朝日が遠くの島から登っていた。
2020年12月25日
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御領遺跡スタンプラリーのあと、実は今日のメインイベント、御領の弥生遺跡探索に向かった。 資料は、前回の時に写させてもらった御領遺跡地図である。ここに弥生遺跡の場所と、土器が採取された場所が載っている。 ちゃんと発掘して名前が付いていると思われる馬場遺跡は、おそらく「ひらの保育園」横の、この広い広場だと思える。どう活用しようか、未だ決まっていないのだ。この周りの田んぼと畑を見て回る。畑や田んぼは常に耕しているし、低いところにあるので、もし土器があれば、「邪魔者」として、石ころと共に隅の方に固まっているからである。どうやら幼稚園周りにはなかった。 そこから見える弥生土器が採取されたと言われる山裾を見て回る。家の前になんらかの御神体を祀ってあった。古墳時代や弥生時代と関係あるとは思わないが、ここが「聖なる場所」であるという匂いがプンプンとする。 その御神体より少し東側の溝前にこんな土器があった。明らかに、弥生土器か古墳土器かは判然としないが、土器である。 これは、弥生土器の口縁か、埴輪の部分だろうか。 さらにちょっと西に行って、田んぼの土手の上にこんな、弥生土器らしきものがあった。 地図上では、ヒジヤ川が流れていた小さな谷である。最初の二つは、地図上では「平野」の文字がある辺り。次は「石田」の右下辺りである。 私的には、弥生時代の遺跡を発掘してほしい。 そのあとは、3月の時にはコロナで閉館になっていた「井原市文化財センター古代まほろば館」に入る。平成4年に下稲木町の畑で発見された袈裟襷文銅鐸(明見銅鐸)の埋納祀りのジオラマが迎えてくれた。 埋納状況がわかる貴重な銅鐸である。 その他、木之子町で発掘された、十二区分された全国唯一重文の十二区袈裟襷文銅鐸のレプリカも置いてあった。 とすると、御領の隣のこの井原が、弥生時代では中心地だった可能性もないわけではない。ここには、弥生・古墳時代に限って、予想外の多くの遺物が展示されていた。寺屋敷銅鐸、猿森銅鐸、明見銅鐸、高越遺跡、草足塚西遺跡、鳶が迫遺跡、権現平遺跡、五万原遺跡などの弥生遺跡である。まほろば館自体は閑古鳥がなっているし、古代のまともな図録はないけれども、御領遺跡の成り立ちを考える意味でも、もっと注目するべき地域であり、資料館かもしれない。
2020年12月12日
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12月6日、福山市御領古墳群スタンプラリーに参加させてもらいました。 前回は、弥生時代「かもしれない」前方後円墳の遺跡巡りをしたのですが、この遺跡の1番多い遺構は古墳時代後期の古墳群です。それを見ておきたいと思いました。 上御領中組古墳群を見て、御領のシンボル八丈岩にたどり着く、スタンプラリーコースです。 1番目は上御領中組18号古墳。全長8.3m。天井石の一つの石だけがカンカン石になっている。どういう石質だとこうなるのか?どういう意味があるのか? 次の37号墳にもカンカン石が使われている。全長5.5m。 上御領中組40号古墳。最も新しい古墳。1番大きく立派。左右対称、1番大きな天井石であり、そして加工後に削って化粧をしている手間、当時の首長墓と見られている。十分中に入れる。全長8.2m。高さ1.8m。 円墳。こういうのがたくさんある。 41号墳。向きがこれだけ南西向き。最初期の古墳と見られている。前方に羨道と思しき側壁構造。片袖式石室か。 くぐり抜けができる石室。 道沿いのドライブスルー式古墳。子どもたちが嬉々と登っていた。 そのあと、八丈岩に向かう。 頂上近くに、石室につかおうとしたのか、加工途中さの大石もあった。どちらにせよ、ものすごい労力がいっただろう。と思う。 この辺りには、大きな岩がゴロゴロしいて、奇観でもあり、壮観でもある。弥生から古墳、中世にかけておそらく都市的景観が広がっていると思われる御領遺跡が「一望」できる。 また、遠く山の間からわずかに瀬戸内海、その向こうに笠岡の北木島と白石島が見える(写真の方がハッキリ見えるぞ!山笠を逆さにしたようなのが確か白石島だと思う)。今日のようによく見える日は珍しいという。ただ、ここから見える、ということが重要だと思う。これらによって、この一帯は磐座(いわくら)、神の依代スポットであった可能性が高くなった。 八丈岩は古くは八龍岩と呼ばれたらしい。雨乞いは、ここでなされた可能性が高いだろう。また、龍神信仰の片われが、吉備国西の端の此処でも残っているのが興味深い。 山伏修験者のお社もあった。 金曜日のパン工房さんが出張販売に来ていた。古墳クッキーらしい。前回の古墳弁当といい、こういうのを作ってくれるお店を持っていることが素晴らしいと思う。 これは、なんと勾玉をあしらったコロネとのこと。9時から12時過ぎの良い運動だった。この後、ちょいと弥生遺跡探索に足を伸ばす。そこで小さな「発見」があった。
2020年12月11日
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「考古図録 京都大学総合博物館収蔵資料目録第3号」京都大学総合博物館 写真はカラー。127p。2017年発行。定価1800円。 編集 京都大学総合博物館 発行 (株)アクディブKEI 目次 頁 考古資料の概要 4 第一部 日本 縄文・弥生時代 9 第二部 日本 古墳時代 33 第三部 日本 古代 63 第四部 中国・朝鮮半島 77 第五部 エジプト 101 付篇 各地の文字資料 107 掲載資料一覧 113 京都大学の収蔵資料目録なので、驚きの視点はない。 京都大学が独自に発掘してきた有名遺跡は多い。 私の関心から縄文・弥生・古墳時代だけ記す。 ・国府遺跡 ・北白川遺跡(吉田キャンパスの東側) ・長野県海戸遺跡の縄文土器 ・神奈川県菊名貝塚 ・沖縄県崎樋川貝塚 ・岡山県津雲貝塚 以上が縄文時代。津雲貝塚は京都大学が調査したのか!骨がない。そっちは東大にとられたのだろうか。 縄文から弥生へ。その二つともあるのが、滋賀県滋賀里遺跡である。 唐古遺跡は、流石に遺物が豊富。7頁にもわたって取り扱っている。 須玖岡本遺跡の銅剣やその鋳型、そして甕棺墓。 圧倒的には、椿井大塚山古墳の30面にも及ぶ三角縁神獣鏡、または画文帯神獣鏡、または方格規?四神鏡、四葉座内行花文鏡、である。甲冑、剣やヤリ、鉄鏃、鉄斧などを載せる。 安土瓢箪山古墳の青銅器の数々も。 元稲荷古墳の特殊器台形埴輪と特殊壺形埴輪の現物は、ここにあった。 久津川車塚古墳の石棺の本物もここにある。 なるほど、関西アカデミーの頂点として、優れた逸品は手元に取っておくわけだ。 その割には、ほとんど解説がない。せっかく図録を作ったのだから、これまでの成果を惜しみなく書くべきではないか? 非常に頭にくる。 もうこの博物館には行かない。 「台湾民俗資料 京都大学総合博物館収蔵資料目録第6号」 2019年。カラー75p。確か2200円ほどだったと思う。 編著 岩崎奈緒子 郭美芳 発行 京都大学総合博物館 ほぼ全ての民俗資料に、日本語と台湾語の解説がつく。とても誠実な編集だと思う。改めて、台湾の「民芸」の技術の高さを知る。
2020年11月29日
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せっかく京都に赴いて、一万円以上叩いて図録を持って帰ったので、幾つかを紹介しておきたい。 「向日丘陵の前期古墳」 2004年特別展図録 40p 総カラー 値段500円? 総論、元稲荷古墳、寺戸大塚古墳、寺戸大塚古墳の三角縁獣神鏡、妙見山古墳、北山古墳・五塚原古墳、一本松塚古墳を扱う。本文は都出比呂志、近藤喬一であり、この手の図録としては例外的にわかりやすく、総合的。 乙訓地域の古墳の変遷の表と地図を見てほしい。 盟主墳の断絶と移動が3回起きているのを説明している。 すなわち、4世紀末から5世紀前葉。それ以前には「向日系譜」として、元稲荷、寺戸大塚、北山、一本松原、妙見山、五塚原がある。 そのあと、5世紀末に長岡系譜、山田系譜に移り、 そのあと、6世紀前葉に再び向日系譜(物集女車塚古墳)に戻り、6世紀後半に長岡系譜に移っているらしい。 この3回を、都出比呂志は、箸墓古墳、伝応神陵古墳、今城塚古墳に対応させている。 この図録は発掘時の写真を多量に掲載していて貴重。 また、元稲荷の特殊器台形・壺形埴輪を丁寧に掲載していて嬉しかった。この埴輪が、箸墓古墳や都月1号墳と類似していると都出さんが述べていることに、私としては興奮した。 その他の解説も非常に丁寧。特に、寺戸大塚古墳出土品の解説は勘で含めるようだ。 「常設展示図録 長岡京の歴史と文化」 1984年発行 2011年2度目の改訂版発行 40p 向井市文化資料館編集発行 長岡京の発掘は現在も続いていて、改訂も暫く経つと行っているようだ。そういう意味では誠実な図録である。 早川和子さんが、4枚の再現絵を描いてくれていて、イメージがしやすい図録になっている。また、比較的文字も大きくしようと努力しているし、写真は全部カラーである。長岡京学習の入門編としては最適。 「再現 長岡京」 2001年発行 2015年2度目の改訂版発行 49p 向井市埋蔵文化財センター編集・向井市発行 写真は1色から2色刷りではあるが、情報量は文化資料館のそれよりも遥かに多い。もっとも前著は展示遺物の解説という縛りがあったのに、こちらには無いし、最近の発行なので、更に最近知見を入れることができたからだろう。 「常設展示図録 城陽の歴史と文化財」 2007年発行 40p 1000円? 写真はカラー 城陽市歴史民俗資料館発行 資料館のリニューアルを機に内容を一新したらしいが、芝原古墳の3世紀末の前方後方墳であることの記載がない。非常に見劣りがする図録。
2020年11月26日
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京都旅3日目の3話目にして、最後のレポート。 五塚原古墳は、なんと台風で通行止になっていた。残念。諦める。 そこから元稲荷を目指す途中、桜の園の道に出会う。写真はその一部だが、説明を読んで欲しい。素晴らしいところだと思う。桜の季節に来たいけど、無理だろうなぁ。 元稲荷古墳。向日丘陵の先端に位置する古墳時代前期の乙訓地域で最初に築かれた全長92mの全国的にも数少ない前方後方墳。なんと、特殊器台型埴輪や壺型埴輪などが出ている。3世紀の築造だと予想されている。 登るとものすごく高い。木々はなかったら、伏見まで見えていたらしい。 そこから隣に向日神社がある。奈良時代、718年創建と伝えられている。1422年上棟された本殿は三間社流造で国の重要文化財。 その隣に北山遺跡がある。 弥生時代の高地性集落で方形周溝墓もある。天文館を作る時に発見された。 そこからの眺めが最も素晴らしい!パラノマ式にご想像ください。ニ枚目遠くに見える山は、天下分け目の天王山。山崎の戦いの場だと思う。 長岡京跡の太極殿、小安殿跡に行く。 更には朝堂院跡に行き、そこで昼食の場を聞く。少し遠回りだけど、キッチンタロウを教えてもらう。流石地元の人だ。美味しかった。800円。 西国街道に入ると、古い建物があった。 その家の右手に折り畳み式の縁台がある。これは、前回でも見たが、この地域でしか見たことがない。 また、いかにも京都らしい屋根の形。 愛宕山式灯籠が至る所にあった。火事を防ぐ願いを込めた灯籠らしい。 森本遺跡。 向陽小学校庭にある。職員室への声かけがめんどくさくて、遠くから眺めただけ。 実物は向日文化資料館にあったが、極めて珍しい人面付き壺型土器が出土した。祭祀に使われたと予測されている。弥生時代にしては、あまりにも表情がある。良いのか? 人面土器は後期(紀元前後)の水路から発見された。森本遺跡の人々は、住居を台地に集め、耕作地を低湿地だけでなくやや乾燥した半湿田へも拡大したので、米の収穫量は大変増加したらしい。対策として用水路を作り、そのための矢板は一万本以上用意したという。水路で人面土器が発見されたということは、悪魔をはらい豊作を祈念する祭祀をしていたのか? 弥生時代の遺跡地図。正に長岡京に被るように、延々と弥生時代の遺跡がある。この辺りは、弥生都市とも言って良いほどの人口密度だったのではないか?そうやって、やがて数百年後のに都に選ばれたのである。ここで、今回の旅は終わる。 歩数は2万9千歩を超えた。
2020年11月13日
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向井市文化資料館の展示を、後々写真を見ながら「そうだったのか!」と感心しながら見ている。少し詳しく載せる。 交通の結節点である、この地域でさまざまな「乱」があったことは想像に難くないだろう。 弥生中期の下植野南遺跡の方形周溝墓において、武器制石器が多数出土している。 神足遺跡と硲(はざま)遺跡も中期から後期にかけて発達する。 年表と弥生遺跡地図を見ていると、今回踏破したのは、地図の真ん中辺り、ほんの一部であるとわかる。森本遺跡から稲元古墳にかけてのぐるっと回った辺りである。 南の雲宮遺跡辺りからは、青銅器製作の遺物も出土している。 森本遺跡出土の丸木弓の解説が面白い。坂下克美氏所蔵の弓らしい。他の出土品は直ぐに腐ったのに、素人の坂下さんは丁寧に扱い残ったそうだ。それを正直に書いている。さぞかし本人も本望だろう。 鉄製品も比較的早い時期に使われ始めたようだ。 ちょうど特別展示「乙訓古墳群出現前夜」をやっていて、今日のテーマにぴったり。しかも2日前に行った山城の遺物がたくさん展示され比較されていて勉強になった。 長岡京の展示も充実している。 長岡京から出土した「呪い」土器の数々。 古墳巡りの行き方を尋ねたら親切に教えてくれた。諦めていた寺戸大塚古墳も15分で行けるとわかり行くことにした。行けてよかった。その途中にある、桓武天皇皇后陵。 長岡京を築いた桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏の墓らしい。まだわりと大きい。直径70m、高さ7mの円墳。 そこから竹の小径が整備されている。 途中に寺戸大塚古墳がある。古墳時代前期。全長95mの前方後円墳。後円部は54m。 後円部から三角縁獣神鏡、勾玉、菅玉、刀剣や農工具が出ている。前方部からは円筒埴輪や朝顔型埴輪が出ている。 元きた道を戻る。途中の見晴らしいいところから、五塚原古墳や元稲荷古墳がある鎮守森がよく見える。あのように、山上の飛び出た見晴らしのいいところに前期古墳は作られる。つまり、その時までは古墳は「純粋にひとつの共同体を守るため、見守るための役割」があり、共同体だけがその場所を知っていればよかった。もちろん旅人もその山を仰いで「素晴らしいですね」ぐらいは言ったかもしれない。その後物集女(もずめ)車塚古墳のように平地に場が移る。その時は、既に古墳は共同体だけのものではなく、遠くからやってきて遠くへ伝える旅人にこの国の姿を伝えるシンボルマーク的な役割をになっていただろう。よって、ある程度の大きさ高さが必要とされた。 また、資料館で買った「向日丘陵の前期古墳」を見ると、都出比呂志の説が全面に書かれていて、元稲荷古墳と寺戸大塚、五塚原古墳は、ひとつの系譜の元に作られており、それは箸墓古墳系譜とでも言うべき大和政権と対応しているらしい。やがて乙訓古墳群は長岡系譜にうつり、それは応神天皇陵に連なるところと対応する。そして物集女車塚古墳は継体天皇に対応するらしい。地方豪族と天皇の関係は、ここではそんな風に盛り上がっている。吉備では、また別の風が吹いていることだろう。
2020年11月12日
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京都旅最後。なんやかんやあって3回に分けます!ホテルから見た烏丸の屋根波。 2020年11月3日(火)晴れ 朝のモーニング。8時20分出発。 ある所へ行くために駅まで歩く。何か発見あるかな。 西本願寺前の亀屋陸奥という菓子店に着く。9時前でもちゃんと開いていた。「京都深ぼりさんぽ」に書いていた「切り落とし入り松風徳用袋」を買うためだ。 これのお得用(端片を集める)である。1000円より250円安い。松風は、織田信長と戦った石山本願寺の兵士のために、お店の3代目が兵糧代わりにと考え出したモノらしい。ということは高カロリーなのか。1人じゃ食べられないな。(←家に帰って4回ぐらいに分けて食べている。何故かほとんど切り落とし部分はまずなくて、完成品ばかり。ホントお買い得です!カステラと固菓子の中間、もちもちっとした食感がクセになる) 駅前にある道祖神神社。仲睦まじい彫刻が目印。 京都タワー。顧みるに、こんな朝の天気良い日にタワーを写すのは初めてかも。 京都駅で情報集めて、向日駅に行く。辛い料理で町おこしをしている。 洛外のこんなところでもお地蔵様信仰は続いている。花もお供えも新しい。かえって、盛んな感じさえする。 そのあと歩いていると、祠とは言えないほと、集合お地蔵様があった。 お地蔵様信仰は、此処まで真剣に祀る風習は岡山にはない。関西には多い。何が違うのだろうか。 物集女(もずめ)車塚古墳にたどり着いた。全長43-48mの古墳時代後期の前方後円墳。 築造期に作られた排水溝が、未だ現役で役に立っている。古代人の丁寧で知恵のある仕事である。これを見て以前来たことを思い出した!そうだ、あの時は桂川駅から歩いて、ここから北を踏破したのだ。今回は、ここから南を回る。 後円部に残っている杉の木は、淳和天皇時のものらしい。 横穴式石棺。きちんと発掘している。金銅製の馬具や冠、太刀などが出土。継体天皇に仕えていた有力者の墓だと言われている。 後円部に登ってみた。高い。そして眺めが素晴らしい! 今日は乙訓古墳群という、向日市にある主な古墳を巡ったのであるが、3世紀から始まり物集女車塚古墳の6世紀に終わる、古墳時代の変遷図を巡ったことになった。車塚から南に歩いて行く途中、右手に竹林が見える。あそこにあるのが4世紀の寺戸大塚古墳なんだなと思った。 向日市文化資料館にたどり着く。結果的に、この資料館が今回の旅で1番まともな博物館だった。何度もいうが、「資料館」とか、名前に惑わされてはいけない。 この後に行く元稲荷古墳の石棺蓋が展示されていた。 これは旧石器時代の上野遺跡の遺物展示。最近の発掘の成果らしい。
2020年11月11日
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城陽歴史民俗博物館に着いた!たくさん写真撮りました。 森山遺跡出土の遺物も展示されていた。 芝原古墳群、久津川車塚古墳、森山遺跡の遺物が展示している。しかしちょっと貧相な展示だった。 城陽市の隣の京田辺の同志社大学田辺キャンパス近くが継体天皇が建てた筒城宮の伝承地らしい。歴代天皇との関係は深かったようだ。 車塚古墳の長持形石棺は兵庫の龍山石で作られている。5世紀前半、山城は1番栄えたということだ。石棺は未盗掘だった。しかし、明治27年の工事中の発見ということもあり、十分な科学的調査ができていない。 図録も貧相な割には割高になっていたが、もう来れないと思って買った。昼食はマルシェで買ったパンで済ませた。 長池駅のそばの森山遺跡に急ぐ。もう椿井大塚山古墳には間に合わない。今回は直ぐに道沿いの標識にも気がついた。 綺麗な公園として整備されている。縄文から古墳時代にかけての複合遺跡。弥生後期、古墳時代後期の竪穴式住居もいくつか発見されている。 方形台の遺構は、お墓ではなくて古墳時代豪族の住居跡らしい。ここからは、綺麗に山城地区が見えたことだろう。 長池駅から京都大学総合博物館へ。ルートは写真の通り。 出町柳駅到着。お地蔵さんを祀っているのを2年ぶりに見る。洛内に来たんだ。百万遍交差点の南側に目当ての博物館があった。 京都大学総合博物館。この博物館は、3回目の挑戦。この博物館は通常の博物館の休館日と異なっていていつも見損なっていた。今度こそ、と入ると‥‥ 「ダメ」と言われた! コロナ禍で、予約者しか入れない。しかも、閉館時間を1時間早めたのだという。 「えー!これで三回目の挑戦なんですよ。岡山から来たんです!」 と散々悔しがって、ミュージアムショップだけ入ることを了承させた! なんとかカードが使えたので、散財した。 考古学図録も買えたので、もうここには来ない! 京都大学を散策。 時計台の下の大学の歴史を展示している資料館に入る。 吉田神社を散策。 バスで烏丸四条へ。河原町は人で溢れていた。ただし、以前見た半分は外国人というのと違って、多分ほとんど日本人で溢れていた。 ホテルに入り、地域共通クーポン券2000円分をもらう。これでホテル代は約半分になった。この時期の京都としては、ビジネスホテルだけど2泊で5000円台で泊まれるのだから御の字だろう。ただし、今回交通費は割引は全然使えなかったし、何よりも図録代がかなり高くつく予定なので、今年の旅の総決算的な予算とはなっている。 夕食はここ。お好み焼きでワインを置いているのと、京焼というのを試したくて入る。 京風お好み焼き。新鮮!まるでお好み焼きの皮を被った、茶碗蒸し?或いはシチュー?美味しく頂きました。ワインも良くあっていた。 1日の歩数28824歩。
2020年11月08日
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11月1日(日)腫れ 6時半に家を出て、8時半に京都に着。 久しぶりに新幹線に乗った。(写真は他の日に撮った岡山駅に入ろうとする新幹線) 実は山城(山代・山背)は、京都の北洛と勘違いしていた。平城京(奈良)の山背でした!よって京都駅から近鉄に乗って久津川駅に下りる。そこから順番に遺跡巡りをするのではあるが、 実は時代順に並べるとこうなる。 森山遺跡(弥生−古墳) 芝が原古墳(弥生晩期?) 行けるかわからないが、 椿井大塚山古墳(4c初め) 丸塚古墳(5c前半) 久津川車塚古墳(5c前半) 芭蕉塚古墳(5c半ば) となる。その途中で城陽歴史民俗資料館に立ち寄る。 どちらにせよ、 木津川沿のこの道は京都・近江・日本海に向かう交通の要所であり、奈良からは淀川にも通じている。有力な首長が勃興していては、消えていったところだと思う。 京都駅着。早速乗り換えを誤解して、15分浪費。できた隙間時間で以上をメモした。 芭蕉塚古墳、思ったよりも大きい。 ハンサムのキャラ絵の看板で説明している。こういうのは初めて見る。 墳丘に登頂できた。竹藪の中に、思ったよりもハッキリ古墳の形が残っていた。 そこから少し歩くと、京都府最大級の久津川車塚古墳が見えてくる。 この古墳はJR奈良線を敷いている時に発見された。よって前方部が少し削られいる。この奈良線は、椿井大塚山古墳を丸々削ったことでも有名。しかも重要な古墳ばかり削っている。もっとも、この地域には重要な古墳ばかりなのではあるが。 丸塚古墳はやめて、まだ時間があるので、車塚古墳よりも前の古墳群になる上大谷古墳群を探して、広大な新興住宅地を歩くことにした。この判断が裏目に出る。 しかし、最初は良かった。 この車塚古墳の周りには、非常に緩やかな丘陵が広がっている。洪水を避けるために、古代の人々はこういうところに住居を建てるだろう。遺跡はないが、おそらく近代に人々が住んで破壊尽くされているのだろう。その証拠に、この1番見晴らしがいいところに上大谷古墳群が造営された。と、古墳群を見つけた後に思った。 ところが、古墳群の場所がわからない。 新興住宅を散歩する人2人に道を聞いた。 「最近越してきたのでよくわかりません」 とは、普通は古代に詳しいはずのおじいさん。 越してきたと言っても一年以内なの? 「さア知らない」 とは、30代の男性。 おいおい、この町は貴方たちが住んでいるところなんでしょ? いつも、たとえ自分の家の数メートル先にあっても遺跡の場所を知らない。いつものことなのではあるが、改めて、自分の住居地域の「歴史」に無関心な市民の実態に憤りを感じる。 どうも違うみたいなので、来た道を引き返す。やっと地図を見つけた。そうか、あそこで道を曲がるんだっんだ。30代男性に道を聞いた所から近道があったじゃないか! 古墳公園は三つあり、そのうちの二つに行くことにする。古墳群ではあるが、古墳の名前しか無い。説明板を置いていない。出土品はないのか、少し怒りながら次に行こうとすると、今日最大級の悲劇が起きた。 ベルトの留め具か外れたのである。 もう15年以上使っているからなあ。 小さなネジなので、見つけてまた嵌めれば使える。 ところが、目を皿のようにして地面に這いつくばって、おそらく20-30分探したけど見つからない。 溝の中に落ちたのならば、もう見つけようがない。 たまたまその時持っていたUSBケーブルをまとめる小さな針金を使って応急処置が出来た。これであと三日間凌ぐしか無い。 上大谷古墳群は、古墳時代の墳丘を中心に、丘陵の1番見晴らしがいいところに保存措置をしていた。 17号墳は移築して石室を公開。6世紀後半の円墳らしい。 想像以上の時間を食った。今日は予定では、2時半までには山城地域の古墳巡りを終えなくてはならない。急いで新興住宅地を降りる。駅前で、地域の人たちが感染防止措置(消毒液の設置、体温測定)をしながら、マルシェを開催していた。古代米も、売っていた。 「写真撮って良いですか」 「いいですよ」 「岡山の吉備から来たのですが、赤米や黒米は見たことがあるのですが、みどり米は初めてです。」 「幻の米と言われているらしいですよ」 とのこと。因みに、流石に、各古墳の位置はご存知でした。みどり米180g500円を買う。 芝が原古墳を迷いながら突き止めました。 前方後方墳です。なんと庄内式土器が出てきたことで、弥生末期の築造では無いか?といわれ国指定遺跡になっています。時間がないので、さっさと写真を撮って次に行きます。この時点で、18,000歩の歩数。3万歩超えるかなあ。 柿本人麻呂の「山城の久世の鷺坂 神代より 春ははりつつ 秋は散りけり」の碑が、丘陵をおりた辺りの神社(久世廃寺跡)の前にあった。7世紀後半では、既にこの辺りは「神代から栄えた地域」になっていたのである。 城陽歴史民俗博物館にあったジオラマ。右上が車塚。左が芝原古墳群。下方の更に奥に上大谷古墳群がある。この辺りを歩いた。 城陽歴史民俗資料館を目指す。やはり迷った。大回りしてたどり着く。京都府で、数少ない考古学博物館である。遠くに見える市民センターの4階にそれはある。
2020年11月07日
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めちゃくちゃ面白い「ツイートまとめ」があります。写真付きがホントの面白さなので、そちらに飛んでいただけたらと思います。雰囲気だけは、以下です! 縄文人と弥生人の口喧嘩。時々古墳、旧石器、続縄文。 愛知県陶磁美術館の『YAYOI』展の煽り文句「縄文はもう古い!これからはやよいだ!」に端を発した縄文人と弥生人の口喧嘩、口汚くののしり合いながらなんとなくわかり合うという、そんなまとめ。途中からは古墳時代、旧石器時代、続縄文人がやってきて喧嘩に参加したり、なだめたり、旧石器人はだいたいいじけたり。混沌とするも何とか仲直り。 焼失住居と時代喧嘩は考古の華とばかりに野次馬たちも大盛り上がり! 企画展 古墳 先輩 縄文 議論 考古学 歴史 弥生 - 目次 - 愛知県陶磁美術館の宣伝ツイートに、ならず者「縄文ZINE」が絡んでいき、それに弥生の代弁者「ヤミラ」が応戦。喧嘩が始まる - 古墳王子が縄文人と弥生人をなだめようと参戦。 - 野次馬たちの様子 愛知県陶磁美術館の宣伝ツイートに、ならず者「縄文ZINE」が絡んでいき、それに弥生の代弁者「ヤミラ」が応戦。喧嘩が始まる 愛知県陶磁美術館 @toujibijutsukan 縄文はもう古い!これからは弥生だ! 縄文ブームに弥生時代のスタイリッシュさで一石を投じようとする超意欲的特別展「YAYOI ・モダンデザインーニッポンの美、ここに始まるー」ついに情報解禁!実りの秋は弥生の秋!パレススタイルのように赤く染まるこの季節。君はYAYOIインパクトについて来れるか!? pic.twitter.com/kRyUllpvHy 2020-09-17 14:16:39 縄文ZINE @jomonzine おうおう威勢がいいじゃねえか脱穀野郎!モダンデザインならこっちも負けねえぞ! twitter.com/toujibijutsuka… 2020-09-19 10:14:02 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi うるせえ米くってみろ、飛ぶぞ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-19 19:34:54 縄文ZINE @jomonzine 握ったり炒めたり、海産物乗っけたりしやがって、全然うらやましくねえし! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-19 19:48:40 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 栄養価高くて香ばしいどんぐりはその辺でころころしてやがれ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-20 12:00:11 縄文ZINE @jomonzine は?だいたい東日本の弥生はほとんど縄文と変わらないですけど、おあいにく様。 twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-20 13:28:50 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi なんだ仲間じゃねーか!このウスラトンカチ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-20 13:30:31 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi @fujimicho @feetpull 大人なので、付加条三種とか言いません。 2020-09-20 16:16:58 縄文ZINE @jomonzine だいたいモダンデザインってなんだよ!文様少ないだけじゃねえが!この唐変木!手抜いてんじゃねえ!田おこしでもして寝ろ! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-20 16:56:38 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi やれやれ、火焔土器の文様みたいにしつこいやろうだぜ。銅鐸の音でも聴いて落ち着きやがれ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-20 17:14:16 縄文ZINE @jomonzine いくら金属の音が良くてもよぉ、結局土鈴の乾いた音が一番落ち着くんだよ!馬鹿野郎!銅鐸に下手な絵描きやがって! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-20 18:28:31 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 下手な絵ってなんだい、なんだかよくわかんない文様つけやがって。意味深過ぎるわ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-20 19:31:19 縄文ZINE @jomonzine お前んところの、三角なんとか獣なんとか、すげえカッコいいじゃねえか、コメばっか作ってると思ったら生意気じゃねえか! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-20 21:16:49 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 三角縁神獣鏡だよ!漢字見たことないくせにうろ覚えで褒めるんじゃねえ!照れるんだよ!石包丁なげるぞ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-20 22:39:17 縄文ZINE @jomonzine は?文字がないのはお互い様じゃねえか(使いはじめてたかも知れねえけど)!偉そうにすんじゃねえ!打製石斧投げるぞ! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-21 07:46:04 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi ちょっと石器作りうまいからって、そっちこそ偉そうにすんじゃねえ!旧石器先輩には敵わないんだよ!この野生の豚野郎! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-21 08:54:02 縄文ZINE @jomonzine 簡単に鉄器に心奪われやがって、この尻軽文化野郎! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-21 10:29:45 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 古墳に嫉妬してんじゃねーよ!いいものはいいんだよ!この一万年保守野郎! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-21 12:11:10 縄文ZINE @jomonzine 嫉妬なんてしてねえよ!でかい墓作りやがって、邪魔なんだよ!この一重まぶた!まあ弥生のお墓は控えめで好感持てるけどな。長生きしろよ。 twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-21 13:41:51 縄文ZINE @jomonzine 敬老の日ということで 2020-09-21 15:48:13 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi お前ほど長生きできないっつーの!ていうか、これいつまで続くんだよ!ついにお母さん心配してLINEしてきたじゃねーか、どうにかしろよ!! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-21 17:58:02 縄文ZINE @jomonzine お母さん安心してください本当のケンカじゃなく楽しんでいるだけですので。って縄文と弥生のケンカに親を出してくんじゃねえ!実家の玄関前に落とし穴掘るぞ!この高床式! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-21 18:47:51 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi うちの家族をイノシシかシカみたいに扱うんじゃねえ!ほんとにネズミみたいにしつこい奴だな。森へ帰れ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-21 19:07:43 縄文ZINE @jomonzine ネズミ返しすな! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-21 19:19:58 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi ネズミくらいでびびんな!縄文人だろ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-21 20:07:49 縄文ZINE @jomonzine ネズミにビビってネズミ返し考えたのはおまえらだろう!集落も環壕集落だし、人生守りに入ってるんじゃねえ!この腰抜け野郎! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-22 08:44:50 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi まだ続けるのかよ!まったく持続的な社会とか言われてるだけあるよな。1000年単位ってなんだよ、こっちは100年単位だわ!のんびりしやがって! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-22 11:41:25 縄文ZINE @jomonzine そういえば夕日に照らされた水田とか海に面した棚田とか、めちゃくちゃきれいで、よく日本の原風景とか言われるけど、縄文時代にそんな風景ありませんけど!残念でした! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-22 12:16:08 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi それはそれは残念でしたっ!青銅鏡みたいにキラキラ反射してそれはそれはきれいで神秘的なんですよーだ。一回見に来てみろやアンポンタン!! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-22 15:44:27 縄文ZINE @jomonzine そりゃあ綺麗でしょうね。オレンジから紫のグラデーションや、やがて夜空一面に埋め尽くされる星の瞬きまで水田に反射するんでしょうね!しょうがねえからその風景も日本の原風景の一つだと認めてやるよ!ありがたく思え!このおむすび野郎!転がって穴に落ちろ! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-22 16:22:32 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi なんだよ結局羨ましいだけじゃねえか!どんぐりはお池にはまって困ってろ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-22 16:24:12 縄文ZINE @jomonzine どじょうが出てきてこんにちは、ってそんなわけねえだろ!それに食べてたのはどんぐりだけじゃねえからな!海なら海の山なら山の夏なら夏の食生活してたんだからな!弥生の食卓も教えろバカやろう! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-22 21:09:58 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 突撃で食卓に上がってくんな!ヨネスケか!まあ、種類で言ったら、実は米以外おまえらとそんなには違わねえけどな。貝塚だって作るわ!ただし、ちいさいけどな。狩りだってそんなにはうまくねえわ!言わせんじゃねえ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-23 09:28:39 縄文ZINE @jomonzine 声がちいせえぞ!コメばっかり食って、食のバリエーションがなくなって元気が出ねえんじゃねえか?だいたいヨネスケはおまえらじゃねえかこの米助!まあ縄文にも雑穀あったからな、ヒエは栽培もしてたかも知れないしな。とにかく栄養はバランス良くとって長生きしろよ!弥生人! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-23 10:04:42 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 声がちいさくても銅鐸鳴らせばみんなにハートは伝わるからいいんだよ!そっちこそ温暖化とか寒冷化に気を付けて、たまには移住しろよ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-23 14:14:30 縄文ZINE @jomonzine 自慢じゃねえけど日本の歴史の中でがっつり気候変動体験しているのオレらと旧石器先輩だけだからな。とにかく寒冷化のつらさったらなかっだぜ…。まあ現代の温暖化もどうかしてるけどな…って、ちょっとしんみりしちゃうじゃねえか馬鹿野郎! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-23 19:24:39 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi なに勝手に旧石器先輩と肩ならべてんだよ。最終氷期なめてんじゃねえぞ、この土器エジソンが!! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-24 09:45:43 縄文ZINE @jomonzine 縄文後期の寒冷化はけっこうキツかったんだよ!そりゃあ氷期とは言わねえけどな!おまえらこそ古墳後輩とオレたち縄文人の影に隠れて、存在感が足りてないんじゃねえか!本当はもっと面白いことやってんだろ!なんか見せてみろよこのすっとこどっこい! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-24 10:25:40 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi だったら、おまえがもともと文句つけたこの愛知県陶磁美術館さんの企画展ぜってえ見に行けよな!弥生時代の魅力満載っぽいぞ。って、なんかステマみたいになっちゃったじゃないかよバカやろう! twitter.com/toujibijutsuka…twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-24 12:08:16 縄文ZINE @jomonzine 見に行くのを楽しみにしてるよバカヤロウ!でも流石に弥生さんとこには縄文土器のこういうユニークさはないんじゃないか?弥生時代の土器ってどんな感じだよ!見せてみろよ、この薄毛野郎! twitter.com/yummy_okashi/s… pic.twitter.com/wHf5dzXHyt 2020-09-24 17:35:22 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 無駄にぽよんぽよんしてるし、変な手ついてるし、とにかくおまえらの土器は情報量が多過ぎなんだよ!せめてこれくらいに抑えろっつーの! twitter.com/jomonzine/stat… pic.twitter.com/DtK876evIW 2020-09-25 13:14:00 縄文ZINE @jomonzine は?土器に情報量が多くて何が悪いんだよ!メッセージのない土器なんて土器じゃねえし!って、この土器なんか縄文も入ってるし、親近感湧きすぎじゃねえか!他にもなんか見せろっつーの! こっちももう一個見せてやるよ!どうだ、見ろこのミニ四駆のコースみたいな文様を! twitter.com/yummy_okashi/s…pic.twitter.com/iCkqk9np6K 2020-09-25 22:02:39 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi くそう…たしかにレッツ&ゴーもびっくりのミニ四駆文様だな…。だがしかし、このドレスのようなおしゃれ土器の完成度を見やがれ!くびれのボタンでカジュアルダウンしてるのめちゃくちゃおしゃれ過ぎるだろうが!所詮、深鉢が壺に勝てるわけないんだよ! twitter.com/jomonzine/stat… pic.twitter.com/81iM9Cxr4E 2020-09-26 01:22:13 縄文ZINE @jomonzine なんだよ、すげえの作ってんじゃねえか、出し惜しみするんじゃねえ!これなら縄文人も使いたいよ! でも縄文時代にもドレスのような土器あるからな、はっきり言って着たいのはこっちだ! twitter.com/yummy_okashi/s…pic.twitter.com/yjSljeyvqg 2020-09-26 11:33:58 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 出し惜しみしてんのは、おめえと古墳さんが目立ち過ぎて、注目してもらえねえからだよ!日本中の弥生ラバーズ萎縮しちゃってんじゃねえか。少しは空気読めよ、鼻の穴にトチの実詰まってんじゃねえのか!? ちなみにこれはパレススタイルとかいう高貴な名前の土器だ!赤使いのセンスが斬新過ぎるだろ! twitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/FpIgvBXhUi 2020-09-26 11:55:44 縄文ZINE @jomonzine ずいぶんな名前つけてやがるな、パレスって、まあでも確かにエーゲ海の波の音が聞こえそうな素敵な土器なのは認めるよ!それに「赤」はオレたちのテーマカラーでもあるからな。意外と趣味が合うな。ところで弥生ラバーズってどこにいるんだ?存在するのか?米櫃の底あたりにいるのか? twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-26 14:34:25 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 弥生ラバーズはTwitterのどっかにいるよ!!わたしが友達少ないだけだよ!凹ますんじゃねえよ!あと、趣味が合うのは、当たり前といえば当たり前かもな。おまえらはいわば、うちらのおじいちゃん・おばあちゃんだからな。敬老の日過ぎちゃったけど、一応いつもありがとうよ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-26 15:00:47 縄文ZINE @jomonzine 友達が少ないって、あれ、おかしいな。たしか弥生からだろ、クニという概念が生まれたの。それともあれか、「都会の孤独」みたいなやつか?気取ってんじゃねえよ! あと!ジジイみたいにいたわるんじゃねえよ!でもまあありがとよ、お前らもコメばかりじゃなくて野菜も食えよ。 twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-26 17:53:37 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi クニとクニ同士の争いが嫌になって自分のまわりに環壕掘っちゃった!…ってそんなわけねえだろが!ソーシャルディスタンスとり過ぎだわ! でも、都会の近畿とか九州に比べたら、ぶっちゃけ関東にいると友達作りづらいとこはあるよな… twitter.com/jomonzine/stat… 縄文ZINE @jomonzine せやな、関西は笑いの本場の前に弥生の本場やからな、って、関東弥生人の誇りを持てよ!それか引っ越せ! まあオレらの時代は逆に東日本に偏ってたから気持ちはわかるよ。 twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-27 09:46:52 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi そんなに簡単に引っ越せないんだっつーの!農耕民の気持ちちょっとはわかれ!イノシシ追って宇宙の果てまで行ってしまえ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-27 13:46:25 縄文ZINE @jomonzine 「動かざること農耕民族」って、だからお前らはダメなんだよ!この引きこもり民族!フィールドに出ろ!旧石器先輩を少しは見習え!あの人たちすぐ移動するからな。 twitter.com/yummy_okashi/s… pic.twitter.com/cKSLqcugkR 2020-09-28 09:55:00 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 引きこもりとか言うな!お米の農家さんに失礼だろうが!土下座して謝れ! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-28 12:00:20 縄文ZINE @jomonzine 大変申し訳ございません。つい口がすべりました。いつもお世話になっております。てゆうかお前こそ猟師さんにあやまれ!コメでもくらえ! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-28 12:17:51 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 土下座はこうやるんだよ!こっちこそ申し訳ございませんでしたーっ!! まあでも、山の上でも弥生土器出てきたりするからな。狩猟が得意な弥生人もいたと思うんだよ。何にせよ、まあおまえらの血ひいちゃってるからな。クサレ縁てやつだよな。 twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-28 14:01:08 縄文ZINE @jomonzine くされ縁だと!まったく出来の悪い子孫だな。縁もちゃんと血抜きと内臓の処理をすればくされないかもな! 時代は変わっても少しはオレたちの守ってきたものを残してくれよ! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-28 18:18:16 古墳王子が縄文人と弥生人をなだめようと参戦。 古墳王子 @kotetu2019 まぁまぁ、縄文先輩も弥生先輩もちょっと落ち着いて一緒に登り窯で須恵器でも焼きましょう。 ときどき自然釉がかかって美しいですよ twitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/NQRvJTvs0G 2020-09-28 22:46:21 縄文ZINE @jomonzine 出たな古墳野郎!高見の見物しやがって、須恵器とかいうすえた土器作って、だいたい日本の歴史の中で名前が墓なのお前だけだぞ! twitter.com/kotetu2019/sta… 2020-09-28 23:00:22 古墳王子 @kotetu2019 世界最大級で世界遺産にも認定された墳墓なんだから名前にもするだろ! びっくりして腰抜かしたのか? 今の季節、弥生先輩は稲刈りとか企画展とかミュージアムのオープン準備で忙しいんだからジャマしないであげてくださいよ! #愛知県陶磁美術館 #朝日遺跡ミュージアムtwitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/HAsBBjnGWv 2020-09-29 07:32:09 縄文ZINE @jomonzine デカさを誇示する発想がロクなもんじゃねえんだよ!本当に大切なのは大きさじゃねえぞ!確かに腰抜かすほどデカくてビビるけどな!弥生野郎は何やってんだ、ミュージアムのオープンと企画展の開催おめでとうじゃねえか! twitter.com/kotetu2019/sta… 2020-09-29 08:48:37 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi ちょ、気付いたら、おまえ、古墳王子になんて口のきき方を…!王子、ご無礼お許しを!こんなやつ、古墳の葺石めっちゃ運ばせて、最後に埴輪にでもしちまってくだせえ。 twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-29 15:11:16 縄文ZINE @jomonzine おい!弥生人のプライドをどうした!簡単にヤマト王権に平伏しやがって、まったく。見ろ、おんなじ人間じゃないか。 あと、陶磁美術館!弥生もいいけど今度は縄文でやってくれよな! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-29 19:31:53 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi しょうがないじゃんか!こっちの立場もわかれよ!古墳さんには強く言えない事情があんだよ。中間管理職の気分だわ。あと、陶磁美術館さんに気安く声かけるんじゃねえ!素焼きなのに弥生土器扱ってくれただけでも感謝しろっての。 twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-29 20:55:00 縄文ZINE @jomonzine 中間管理職弥生課長ですか、クスクス twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-09-29 21:49:54 古墳王子 @kotetu2019 狩猟じゃないんですから、しつこく弥生先輩につきまとうのやめてもらえますか! そんなにケンカしたいなら火の国に送り込みますよ! 筑紫君磐井さんとやり合ってください! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-09-30 07:43:59 縄文ZINE @jomonzine ちょっと弥生は離脱だよ!お前こそ落ち着け!古墳にコーフンしてんじゃねえ! でもな、九州の古墳は嫌いじゃねえからな。石人とか装飾古墳とか、嫌いどころか大好きだよ馬鹿野郎! twitter.com/kotetu2019/sta… 2020-09-30 10:13:23 T_Toki @toki1_ta まあうちの続縄文土器についてたくまさんズでも見てなごみなよ君たち twitter.com/jomonzine/stat… pic.twitter.com/sFLY1JGpWs 2020-09-30 10:31:59 縄文ZINE @jomonzine これは北海道北斗市のクマさんず!諸磯式のイノシシと仲良くしてください! twitter.com/toki1_ta/statu… 2020-09-30 10:50:23 T_Toki @toki1_ta @jomonzine ふだん使うものだからこそかわいいもので飾りたくなる…これは時代を越えた真理ですね… 2020-09-30 10:58:34 古墳王子 @kotetu2019 これは確かにかわいいですね! 縄文時代も弥生時代も小さくて可愛い土製品がたくさんあるから好きなんです! 可愛いものを愛でる気持ちは古墳時代でも埴輪や須恵器で受け継いでいますよ 時代は変わっても心はひとつです! twitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/6bEUmg9JJY 2020-09-30 15:27:49 縄文ZINE @jomonzine なにこれかわゆい。動物がついてるとたいがいほっこりしちゃうね。って、これ復元しすぎじゃ…。 twitter.com/kotetu2019/sta… 2020-09-30 15:35:32 古墳王子 @kotetu2019 縄文先輩、そこは古代妄想ということで夢がある復元にしてみました ちなみに動物じゃないけど弥生先輩のところの朝日遺跡からは銅鐸土製品とかあって、超可愛いんですよ! #朝日遺跡 #弥生twitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/B9IUA43y3D 2020-09-30 18:25:59 縄文ZINE @jomonzine なんだよ、土器で銅鐸作るとか意味わからねえよ!なんか小さくて可愛いし、弥生のこと好きになっちゃうからこういうの見せるのやめろよ古墳小僧! あとかわいいと言えば縄文だからな。見ろこのカエルちゃんと骨人間。どっちも超ちっちゃいんだから。 twitter.com/kotetu2019/sta…pic.twitter.com/0yfSEx2MkZ 2020-09-30 20:03:12 古墳王子 @kotetu2019 何これ可愛い、欲しい、買いたい! でも古墳時代にお金の概念はまだないから、渡来人から手に入れたハサミと交換したい! twitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/Yew4USIRDP 2020-10-01 06:23:39 縄文ZINE @jomonzine ハサミ…鉄…お金…オレたちにはわけがわからないことばっかり言いやがるぜ。多分便利なんだろう。でもそれだけでいいのかと古墳君に問いたい。 でも交換はする。この便利の対極にある道具。一見ヤジリのようでも先が丸く尖りのない誰も傷つけない石器、トロトロ石器と交換だ! twitter.com/kotetu2019/sta…pic.twitter.com/InuQmNbltJ 2020-10-01 08:39:55 古墳王子 @kotetu2019 トロトロ〜!! 石器なのに癒されます 縄文先輩のとこは発想が大胆でそれでいてほのぼのしてたり、なんか自由でいいですね! ぼくたちは便利と引き換えにいろいろ失うものも大きいかもしれません。 視野を広げて海の向こうの大陸と付き合うようになると戦に巻き込まれそうになる予感大 twitter.com/jomonzine/stat… 2020-10-01 14:35:25 縄文ZINE @jomonzine 古墳くん、それが時代ってもんさ。やれやれだぜ。 ってついつい後輩の時代にカッコつけてしまった。 なんだか古墳くんと話していると荒ぶっていた気持ちがどこかに行ってしまったよ。 やれやれだぜ。 twitter.com/kotetu2019/sta… 2020-10-01 19:28:38 古墳王子 @kotetu2019 ぼくも税とかの関係で弥生先輩を守らなくちゃいけなくてつい熱くなってすみませんでした! せっかくだし弥生先輩の復活を願って祭祀やりませんか? ぼくは国宝級の童女を3人連れて行くんで、縄文先輩も女神を何人か呼んでください! twitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/0gB08iRKjp 2020-10-01 21:22:24 縄文ZINE @jomonzine よしわかった。縄文からはこの3人だ! 6人で祈ろう。 イナサク…イナサク… twitter.com/kotetu2019/sta…pic.twitter.com/XNJ06WIYeW 2020-10-02 09:02:37 古墳王子 @kotetu2019 え、ちょ、縄文先輩 女神をお願いしたのにおばあちゃ… なんでもないです! 早く弥生先輩が復活しますよーに! twitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/FUmUhhuIqZ 2020-10-02 16:43:07 縄文ZINE @jomonzine イナサク…イナサク…帰ってこい弥生人… 弥生時代と縄文時代のハイブリットな土偶と一緒に祈ろう。 twitter.com/kotetu2019/sta…pic.twitter.com/4f2jlaKjru 2020-10-02 21:41:12 古墳王子 @kotetu2019 ハイブリット! いいですね! ぼくも3世代ハイブリット装身具持ってきました! 縄文先輩が翡翠で作ってた勾玉を弥生先輩やぼくたち古墳でも瑪瑙やガラス玉で作り続けたんです! これはもう、みんなまとめて勾玉時代でもいいんじゃないでしょうか! twitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/Y9CZSYCCUW 2020-10-03 10:14:00 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 戻ってきたら、王子が争いを鎮めていた…。勾玉時代とは!王子さすがです!わたしは墳丘墓までしか作れませんが、王子の終活の際にはぜひお手伝いさせてください! なんて素晴らしいオチ! twitter.com/kotetu2019/sta… 2020-10-03 12:34:20 atsushi_noguchi @fujimicho また仲間外れ... いつものことだから気にしないけど... #旧石器おじさん twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-10-03 12:55:59 縄文ZINE @jomonzine おかえり弥生人。王子のおかげで気持ちがおさまったよ。 脱穀野郎とか言ってごめん。みんなでおにぎりと鹿肉持って、古墳にピクニックしに行こう。 twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-10-03 15:54:08 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 旧石器おじ…先輩にも声かけようぜ。 ナウマンゾウの陰で泣いてたぜ。 twitter.com/fujimicho/stat…twitter.com/jomonzine/stat… 2020-10-03 16:40:03 縄文ZINE @jomonzine もちろん旧石器のパイセンも一緒に行こうよ!みんなで火起こし競争だ! twitter.com/yummy_okashi/s… 2020-10-03 18:34:24 古墳王子 @kotetu2019 縄文先輩と弥生先輩が仲直りできて嬉しいです! ぼく最近大陸から来た馬を飼い始めたんで、旧石器先輩と続縄文先輩を呼びに行ってきます! @fujimicho @toki1_tatwitter.com/jomonzine/stat…pic.twitter.com/IG8nNp8KKa 2020-10-03 18:40:02 縄文ZINE @jomonzine @yummy_okashi ということで、突発的に始まってしまった縄文と弥生の喧嘩は古墳君の仲裁で無事仲直りということで一旦おしまいです。好きな時代は違ってもお互いにつながっている連続した一つの歴史ですからね。でも、理解できないこと、文句言いたいことがあったらこれからも仲良く喧嘩できればいいな twitter.com/kotetu2019/sta… 2020-10-04 09:49:46 訳あって一時的に匿名 @yummy_okashi 大団円! きっかけになった陶磁美術館さん( @toujibijutsukan )お騒がせしましたー! twitter.com/jomonzine/stat… 2020-10-04 10:16:28 野次馬たちの様子 ももたん @momotan_miffy @hakucho_kyodai @yummy_okashi そうだ!いっそ、縄文ZINEさんとディスり合いイベントなんてどうだろう? 白鳥さんには、情勢に応じて土偶になったり埴輪になったりしてもらうとか。(白鳥さんの埴輪が見てみたい一心) 2020-09-26 17:01:35 YoshiHR @YoshiHR2 @jomonzine 出た~!大木式はやはりカッコ良い 2020-09-25 22:33:14 かぶ @pinekyou @jomonzine 海だったのに干上がっちゃたりして 2020-09-23 19:31:09 かぶ @pinekyou @yummy_okashi 私も最初はケンカだと思ってました 2020-09-23 00:29:02 まーてぃん @myoukei @jomonzine この掛け合いが流れてくるたび「まだやりあってる!」とうけております。 御先祖さま〜 2020-09-23 15:58:42 山本鷹生 Yamamoto Takao @YamamotoTakao3 @yummy_okashi おにぎり vs どんぐりのラップバトルや 2020-09-22 19:09:15 YoshiHR @YoshiHR2 @pinekyou @jomonzine 縄文ZINE 12に収録してほしい。 かぶ @pinekyou @jomonzine 縄文時代と弥生時代の違いがよくわかりますね 2020-09-22 16:26:57 雪うさぎ @VrJQQQDQJKmiLzY @tspfvl @jomonzine テレビで話題になりそうですね ホント、良い。 2020-09-22 02:56:54 オサーン@歩く灯台 @tatsuro_G @jomonzine 毒マムシ系ですな 2020-09-21 23:55:18 ぽにお @ponyo_love191 @jomonzine あーかわいい 2020-09-21 21:11:43 残念蔵之助 @zannankura @jomonzine 縄文太郎「ちょっと高床式したからって褒められるってなんなの」 弥生さん「シンプルすぎるアイデアに文句有る?」 みたいな感じかな 2020-09-21 20:28:53 村松家 @QmWKAbiZaZEMPNC @jomonzine もう目が離せない。 できればずっと見ていたい 2020-09-21 20:10:12 かぶ @pinekyou @jomonzine いつまでも見てられそう 2020-09-21 19:55:49 たーtspfvl @tspfvl @jomonzine うん、このやりとり何? と楽しませてもらってます これも本になりそうですね。 2020-09-21 19:42:07 雪うさぎ @VrJQQQDQJKmiLzY @ponyo_love191 @pinekyou @jomonzine おもしろ過ぎる 2020-09-21 12:29:28 ぽにお @ponyo_love191 @pinekyou @jomonzine 同感 何ならもう愛おしい 2020-09-21 11:15:30 ねこ さん @Neko3_29Q @jomonzine これ、楽しい ずっとわらって見てます 2020-09-21 19:24:03 中津市歴史博物館 @nakahaku_ @yummy_okashi (面白すぎるんで見てる方はいいけど、たしかに永遠に続くわけにもいかず ) 2020-09-21 19:32:38 かぶ @pinekyou @jomonzine 楽しいなー。このやり取り 2020-09-21 10:47:39 雪うさぎ @VrJQQQDQJKmiLzY @yummy_okashi 登場人物が増え、話題が複雑交叉して面白いが、置いてけぼりギャラリーが出始めたか 2020-09-29 21:11:18 怪奇ういろう男 @52915291toru @jomonzine 新しいキャラクターも参入してきて、益々盛り上がって来ました もう、ワクワクが止まらん\(^o^)/ 2020-09-30 07:33:11 YoshiHR @YoshiHR2 @jomonzine 続縄文のT_Toki( @toki1_ta )さん、そろそろ出番では? 2020-09-30 10:19:24 SO-SO @SOSO68464278 @kotetu2019 税… 2020-10-02 12:15:15 古墳王子 @kotetu2019 @SOSO68464278 皆様に税を納めていただいて国造りを進めております 2020-10-02 16:41:35 極東爆音愛好会第弐師団長 @kyokuto_bakuon @kotetu2019 自分が2年前に発掘に参加した遺跡でも非常に小さな勾玉が出土しました。「よくこんな小さいのを見つけられたなあ。」と周りの発掘員も感心するほどの小さな勾玉でした。 2020-10-03 10:25:28 アクアマリン(Aquamarine) @suou2020 @jomonzine 素敵なフィギュア デザインを見ているともっと知りたくなる どこのどちら様? pic.twitter.com/V4JZZWSCip 2020-10-03 10:30:58 古墳王子 @kotetu2019 @kyokuto_bakuon きっと古代の人の宝物だったんですね 2020-10-03 10:54:21 土師はに @hasihaniii @kotetu2019 勾玉時代!よき呼び名…素敵ですね 2020-10-03 11:28:32 atsushi_noguchi @fujimicho ヒスイじゃないけど、勾玉みたいなかたちのルーツは旧石器時代にもあると思うのですよね。東ヨーロッパの後期旧石器時代の事例。湾曲しているのはキツネ、オオカミの犬歯。 出典:Boric and Christiani 2019 Taking Beads Seriously. Paleoanthropology, 2019: 208−23. doi:10.4207/PA.2019.ART132 pic.twitter.com/DQwwYdGbzL 2020-10-03 12:58:40 DD @kimunkamuida262 @jomonzine @yummy_okashi (^^) でもって・・・ 「仲良く喧嘩」で「トムとジェリー」を思い出す私ゃオッさんです(^^;)ゞ 2020-10-04 18:54:43 YoshiHR @YoshiHR2 @kotetu2019 @yummy_okashi @fujimicho @toki1_ta 火お越しのあとは是非皆さんでキャンプファイヤーを。 twitter.com/YoshiHR2/statu… 2020-10-04 09:29:10
2020年10月31日
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そこからしばらく歩く。獣道みたいであるが、30年前までは畑を作っていた生活道路だったようだ。しかも、「こんなところに!」と専門家も驚く五輪塔を彫った石碑が辻堂隣にある。平安時代に遡るようだ。重要な道だった可能性がある。 確かに張田は、近世山陽道の要の場所だった。番所もあったらしい。その上が何故重要な道になるのか。どうやら昔、銅が採れていたらしい。それが何時からなのか?もし弥生時代からだとすると、此処に、王墓が集中するのも宜なるかなとも思う。 【大東第二号古墳】にたどり着く。ホントについ最近、2017年に地権者から「そんなモンならこっちにもあるよ」ということで、測量をすると、円墳らしきものが出現。それを更に伐採整備した。すると、前方後円墳らしき形が!全長約34m。形は1、4号古墳と酷似している。 最も大きな大東大仙山古墳と小さな谷を挟んで東隣に存在。非常に興味深いのは、大東1、2、4号古墳共に、同じ向きに向いている。初期古墳は、後円部が県境方面に向いている。それは何故か?その方向には狭まった古代道しかないのではないか? もう一つ謎がある。後円部南に大きな平坦なテラスがあるのだ。これが、もし「造り出し」の初期形態だとしたら、とてつもなく大きな発見だ。どちらにせよ、発掘しないとハッキリしたことはわからない。前方部とテラスでは、葺石らしきものはほとんど当たらず、後円部だけはぎっしりとあったらしい。昭和時代には、この地で畑や家はなかったらしい。 移動途中、猪の罠があった。一人で来るときには気をつけよう。 大東大仙山古墳の前にある墓地も、実は古墳だった(【大東第三号古墳】)。造成時に石棺が出ている。 それをまとめて、墓地の入り口に祀っていた。 さて、【大東大仙山古墳】である。これだけは、教育委員会が立て看板を作成している。ロマンを蘇らせる会が発見したとハッキリ書いている。【訂正】立派な説明板なので、てっきり教育委員会設置かと思いきや、ロマンの会お手製の説明板でした!すみません。節約のために、設置は自力だったようです。1-4号古墳はだから何もしていない。確かに発掘しないと、確かなことがわからないのは理解できるが、大きさや形など今わかっていることだけでも書いていたら、ここまで来てみる人の参考になると思うのだけどなあ。 元は藪だった。 「最初専門家の方は、前方後円墳とは絶対違うよと言っていたんです」 そのあと、伐採整備してもう一度見せたらしい。 「そしたら、一目見て、間違いないよ!と。頭が柔らかいというか、なんというか。でもハッキリ認めてくれたお陰で、前方後円墳と確定しました」 笑うしかない。 全長47メートル。形で言えば、前方部はバチ型。前期(3c後半ー4世紀)に当たり、備後の前方後円墳としては最古になる。築造時点では、備後で最大の可能性がある。現状では、葺石、埴輪は確認されていない。となっていたが、 なんと参加者の小学生たちが、神社の下を探すと、土器片が見つかった。しかも、なんと弥生土器くさい。!!! 説明者の佐藤さんは興奮を隠せない。 これならば、弥生時代の築造の可能性がある。 ないとは言い切れない。何故ならば、讃岐で、弥生時代の前方後円墳が発見されているからである。それはどういう意味か。 一般的に、前方後円墳は、大和政権が地方豪族を従えるための位置づけの意味があった。大和政権が前方後円墳を指導したのである。しかし、その最初期に置いて、実は備後から「前方後円墳の形が発生した」ということになる。様々な前方後円墳形があって、まだ固まっていないこの古墳群がそれを裏付けることになる、のではないか? と、とうとうと述べたものである。まるで、弥生の王墓を発見したかのような説明だった。 とっても新鮮だった。 今まで参加してきた、古墳巡りは全部教育委員会の説明者であり、基本こんな「ロマン」は人前では語らない。 もちろん、ちょっと「危うい言葉」はいくつも出てきたが、素人の私たちは「とっても楽しい」! 後円部前のこの盛り上がりも墳丘墓の可能性があると言っていた。 御領遺跡は、古墳時代の重要遺跡ではない、ことが少なくともハッキリした。弥生時代でも、非常に興味深い遺跡だった。弥生関係だけでも、まだまだ行けていないところがある。帰って、「御領古墳群こふん弁当」を食べさせてもらった。ものすごい手の凝った企画なのに、みんな買わずに帰っていった。スタッフが残りを食べていた。なんでだろ。 私の興味関心は、楯築の王との関係だ。特殊器台は、少し出ているらしい。それを求めて、神辺歴史民俗資料館に出向く。かなり南側の神辺城の隣にひっそりと立っている。城の荒布櫓跡から、神辺の街並みを見る。 神辺歴史民俗資料館。 そこから、御領遺跡を眺める。 日曜日なのに、誰も観覧していない。「40年間展示資料は変わっていないのではないか」とロマンの会の方は言っていた。しかし、さすがに公立の資料館である。重要な遺物があった。 西中条の愛宕山墳丘墓から、特殊壺片が出ていたのである。少なくとも、少しは吉備影響があることがハッキリした。 また、典型的な分銅型土製品も出土していた。 また、御領遺跡から出土した、船絵画土器のレプリカが展示されていた。山道を車でえっさら登ってきた甲斐があった。 御領遺跡の範囲は、こんなに大きい。これからも期待して良さそうだ。
2020年03月25日
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3月22日(日)に、御領の古代ロマンを蘇らせる会主催の「第四次古代探検隊-弥生の王墓を探せ-」に参加した。ちょっと興奮している。早く御領遺跡全体を全面的に発掘するべきだ。 私の興味関心から少し外れる「古墳探検隊」とあるので、実は参加を躊躇していた。でも行って良かった。正に私の興味関心のど真ん中、弥生終末期(かもしれない)の遺跡群であり、もしかしたら、幾つかの大発見を含んでいるかもしれないのである。 【張田遺跡】井原市高屋との境にある金光教芸備教会で集合して二班に分かれて裏山に上る。丑寅神社の上方にある窪地(猪の堀跡・沼田場)から朱塗りの壺(弥生後期後半)が発見された。埋納されていた祭祀土器の可能性が高い。土器棺かもしれない。非常に興味深いし、この上に重要な古墳がたくさんあることを考えると、更に興味深い。 これは見つかった壺。 【大東第一号古墳】急な斜面を登って行くこと、標高130メートル。前から古墳と目されていた遺跡が、この度、前方後円墳型の古墳と判明した。会が古墳周辺を広く伐採整備したことで判明した。後円部は径約18m・高さ約2.5m、前方部は長さ約12m・幅約1.0m・高さ約1-1.5mといった規模が予測。弥生後期前葉の土器が見つかっている。弥生墳丘墓を改変して古墳を作った可能性もあるが、もともと前方後円墳発生期の古墳の可能性も捨てきれない。 此処から、眺望は非常に良い。 更に上がる【大東第四号古墳】がある。明治期の天神社を後円部とし、全長約35m,1号墳と同じ向きと形である。 神社建立の際に、石棺部は消失しているように思える。ただし、神社の両脇の積み石は、主体部の石槨の転用かもしれないし、石碑の土台も石棺の転用かもしれない。 そのうちの一つは、叩くと高い音がするカンカン石(安山岩)である。石棺の蓋によく使われる。二上山からも産出するが、讃岐からも産出する。つまり、讃岐と此処で繋がる。 弥生後期の特殊土器が見つかっている。10センチの小片ではあるが、復元径を推計すると、40センチらしい。大型器台の可能性がある。表面採取なので、なんとも言えないが、弥生首長墓の可能性も捨てきれない。
2020年03月24日
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さて、次に行ったのは、塩津山公園である。ずっと気になっていた、山陰道を通る時トンネル手前から上を見ると見える古墳復元(実際はその下に実物があるらしい)。これは古墳時代前期の塩津1号墳。この地に最初に作られた古墳で方墳だが、四隅突出墓の特徴を残している。 1番期待したのは、ここには6・10号墳と、弥生後期の島根県内最大級(つまり大谷古墳群と同等の40m)の四隅突出墓があるはずなのだ。説明書には、存在は示しているのだが、行ってみても案内板は全然わからない。場所がわからない。古墳と比べてこの扱いはなんなのだ。もちろん藪の中をかき分けしばらく探しましたよ。でも全然かけらさえも見つからない。後でガイドマップをじっくり見ると、場所が微かに確認できた。リベンジ候補。それに隣接する柳・竹ヶ崎遺跡も山陰道でかなり削られたようだが、確認していない。今回下山墳墓群や安養寺墳墓群復元模型も確認できていないので、リベンジするべきだと思う。 車を途中に留めて、中仙寺墳墓群に向かう。駐車場がないというので、かなり遠くから田んぼをテクテク行ったのだが、結局楯築遺跡のように住宅街の丘陵にあり、近くに工夫しながら駐車は出来たと思う。 中規模(含突出27m)の四隅突出墓である。19あったが、二つしかのこっていない。写真は八雲立つ風土記の丘から採っているので、遺物はそこにあるんだっけ。あそこに資料とか揃っているのかなぁ。 そこからテクテク宮山公園へ。4号墳。中規模(含突出30m)の四隅突出墓。 後期の発達したそれで、突出部はシャモジみたいな形をしている。 ここには隣に形のいい前方後方墳があり、 実はその背後の安来第三中学校のところに、出雲で2番目に大きい前方後方墳があった。 また、ここから中仙寺墳墓群も見え、 塩津山墳墓群も見える。この三角形地帯に王陵が固まり、同じ王陵に後代、方墳や前方後方墳を作り、長きにわたって安来王国をつくってきていることがわかる。 この地域は、川と海といくつかの平野に、神奈備山にできるような丘が立ち並び、いかにも弥生王国が出来そうな地域だ。しかも、出雲中心部と肩を並べる四隅突出型墳墳墓群をたくさん作りながら、大谷王国が滅びた後も、滅びた形跡がない。もしかしたら、大和政権の出雲支配の道標役を買って出たのではないか?という憶測も無碍には出来ない感じだ。 ただし、大和政権とは一線を画している。3C後半から4Cにかけて、全国最大級の方墳が相次いで作られている。四隅突出墓の伝統も積極的に引き継ごうという面も見られる。ホントに安来王国は大谷王国を裏切ったのだろうか? また、古墳時代中期から後期にかけて、全国的には激減する前方後方墳が、安来では広がりを見せる。安来王国の位置づけはどうだったのか。 この後、塩津神社古墳を見た。石室だけがのこってある。説明書にもあるように古墳時代後期から終末期に現れた非常に変わった石室だ。 石棺式石室という。土に覆われるべき天井が家形というのが大きな特徴である。かなり複雑な形。この地域の豪族は、土に埋まる前に石室内で儀式をしたのか?ともかく、この地域は、長きにわたって、大和政権の言う通りにはならないぞ、という意識が見え隠れする。 昼になった。米子道は、まだ全面チェーン規制がかかっている。山陰道を帰って、淀江で降りて、久しぶりに妻木晩田のガイドセンターで、新たな図録を買うことにした。 改めてこのジオラマはよく出来ている。 木製品の作り方も、改めてよくわかる。 こじんまりとしているけれども、良いガイドセンターだ。青谷上寺地遺跡のように、大きな展示会を是非して欲しい。図録は、簡便な総合図録しか売っていなかった。とっても残念。1時半、外に出ると雪が降り始めた。鳥取から津山に帰る大回りの道を選ぶ。 大山・道の駅で、蒜山豚で作った生姜焼き定食を食す。あとは、延々鳥取から北へ高速を走り智頭で高速を降りて奈義町へ向かった。峠あたりで、景色が雪景色に一変してヒヤヒヤしたが、道は凍ることなく、なんとか無事に戻れた。判断が良かったと思う。今回は、思わぬ雪で、急ぎ足になったが、温泉はゆったり使えたし、発見もいろいろあって楽しい旅だった。
2020年03月23日
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2020年3月16日 島根の旅 昨晩降り出した雪の影響は、皆生温泉の周りはとりあえずなかった。しかし、米子道が全面チェーン規制だ。困ったことになった。今日中に帰らなくてはならないのだが。朝食は、ホテルらしい格式。ちょうどいい量だった(常備薬を置き忘れた。しょっちゅうである)。 9時出発。前回出雲の旅の時にとりこぼした「安来」(島根県)に行くことにした。あまり時間がない。昼過ぎには帰る体制を取らないといけない。でも、安来の唯一の歴史博物館らしき「安来市立歴史資料館」に赴く。来てみて、わかった。戦国時代の月山富田城跡の真下(白い建物)が資料館なのだ。 この模型を見ると、思った以上にに広大な堂々としたお城だった。戦国時代のお城としては、ピカイチと思う。中世では尼子氏代々の居城として栄え(1467-1566)、尼子氏滅亡以降は毛利氏の山陰地方支配の拠点となる。江戸時代は、堀尾氏が松江城を建てるまで、此処に居たらしい。 帰り、山中鹿介の尼子氏再興を大河ドラマにせよ、と町が全面に力を入れていた。最近の「麒麟が来る」を見ると、可能な気もしてくる。 予想通り、弥生時代展示は両手を伸ばすぐらいしかなかった。吉備器台が出ているのが、特に目を引く。果たして、王墓の祭に吉備特殊器台を使ったのか?だとしたら、出雲大谷墳墓群と同じ扱いということになる。もし、違っていたらそれはそれで考えないといけない。特殊器台がもし「龍信仰」というベースがあるのだとしたら、緩やかな同盟関係にあったとしてみても良いということになる。この資料館に、もし遺物が無くても古代のガイドパンフがあるのを期待していたのだが、それさえも無かった。もちろん図録など一切ない。3人も職員が居るのに、ちょっと情熱が足りないなぁと思う。今回回った博物館で、ここだけコロナのために名前と住所を書かされた。 そのあと、足立美術館の外側だけを見た。あの庭をこの白い箱の中に閉じ込めているのか。太陽光はどうしているんだろう。 荒島駅の近くに、古代出雲王陵の丘というものがあるようだ。そこを目指して行く。資料館で資料が一切手に入らなかったので、そこに行くしかなかった。行くと、ここは目当ての弥生時代ではなく、造山古墳群、つまり古墳時代のものでした。幸いにも、この最初の王陵にガイドマップが置いていた。他の王陵に残っていたのは塩津だけだったので、貴重。このガイドがあるかないかでは、全然違う。どうして安来市立歴史資料館には置いていないのか? 前方後円墳(2号墳、古墳時代後期、50メートル)があるのはわかったが、目当ての前期で1番大きな方墳である1号墳の位置がわからなかった。前方後円墳から出雲地域を眺める。 辛夷の咲く丘陵から宍道湖の中海と、遠く国引き神話の全体像を眺める。 ここで一旦切ります。
2020年03月22日
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2020年3月15日鳥取の旅(2) 9号線通って青谷へ。ここにしかないと思われる図録を買うためだが、きてよかった。先ずは、食事。展示館横の物産館の人に教えてもらって古代米カレーを食べた。コーヒー&カレー五島(青谷4928-1)920円。物産館で貰ったチケットで、食後コーヒーが無料。 青谷上寺地展示館の展示は流石に出払っていて、しょぼいものだったが、それでも面白いものがいくつかあった。 特に、この(実物は鳥取にあった)の籠の複製品は改めて凄いと思う。 実際の遺跡に久しぶりに行く。遠景。 近景。 ホントはアプリで、発掘途中の写真共に見せれるはずだった。ところが上手く作動しない。直ぐに固まる。(後で岡山県に帰って作動させると、なんとか動いたので、アプリもまだまだだけど、青谷の通信環境も良くなかったのかもしれない)説明版と一緒に見せる。 バイパスで米子へ。 米子山陰歴史館は、元米子市庁のようだ。 いわゆる、洋風建築。 妻木晩田の展示があることで行ったのだが、パネル展示だけだった。ガッカリ。 青谷の古代道の発掘様子が載っていた。 ホテル松月に着いた。皆生温泉である。わりといいホテルだが、一泊朝食付きを6600円という安さはコロナの影響ではない。曜日と部屋の位置のためだという。ホテルから伯耆大山を眺める。この時はまだ天気が良かった。 夕食は、高い和食屋はとても手が出せないのだ、安いと思われる居酒屋に入った。 「景気はどうですか」 「全然ダメですわ」 ビールと、おまけのような蟹味噌と、焼き鳥だけで2100円も取られた。親父の生活費だと思って喜んで払う。帰りに、コンビニでビールと美味しいつまみ三点700円を買って帰宅に着く。 6600円だけど、家族風呂サービスがつく。必要ないけど、後学(?)のために入ることにした。勉強になった。 風呂から出ると、ボタン雪が降り出した。皆生温泉周りでさえ積もりそうな勢い。明日、私は大山のそばを通って帰れるのだろうか。
2020年03月18日
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鳥取の旅 2020年3月15日(日)曇りのち雨 8時に家を出て、3時間半車を飛ばして鳥取日市に着いた。智頭から高速自動車道が通っていてびっくりした。 鳥取博物館はちゃんと予定通り「青谷上寺地遺跡の世界」を開催した。 どうやら重要文化財指定遺物記念展らしく、指定された重要文化財がわんさか展示されている。 無料のミニパンフはあったが、1/3ぐらいしか解説されていない。やはり、図録か欲しかった。 それでも、パネル展示の「説明」は、この間の研究成果が非常にわかりやすく書かれていて、とってもおすすめです。私は既に何度も見てきた遺物が多いので、これを見るだけでも意味があったと思う。 その他の気になる展示は例えばこんなもの。まぁ面白かった。脳がまるまる保存されていた骸骨と、青谷にもあった分銅型土製品。 鳥取博物館には、ダイオウイカと70年近く生きた大山椒魚の剥製が展示されている。 博物館の外に出ると、ここは鳥取城跡に建てられていて、仁風荘?という明治建築風の建物が風情を出していた。
2020年03月17日
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かなり迷った。大きな道から中に入ってゆく時の案内板が無いので在る。これは、絶対改善して欲しい。 猫塚。もっと双方中円墳の形が推測出来るかと思っていたら、まるきり崩れていた。古墳時代では、此処にしか無い形。弥生時代最大墳墓の楯築遺跡と同じ形である。 微かに前方部が推測できた。 わずかに、山の下の住居が見えるが、そんなに見晴らしがいいところではない。ここが最初の王墓だとしたら、最初は祭祀の方に重きを置いた可能性がある。 楯築遺跡が工事で壊されなければ比較的綺麗に残っていたのと対照的。これは積石塚の特徴なのではないか?何故積石塚を採用したのか?2つの説があるらしい。一つは、弥生以来の集積墓に起源を持つ。一つは、高句麗や百済の積石塚に起源を持つというもの。私は後者だと思う。しかし、猿真似だった。よって、数世紀ですぐに崩れるものしか作れなかったのだ。猫塚、鏡塚などは前期前半4世紀のものらしい。よって、間に200年もの歳月があって、楯築遺跡との関連はないだろうというのが定説である。つまり、祭祀の関連はないのである。来てみて、私はその思いを非常に強くした。 行けなかったが、鶴尾神社4号墳出土と言われる方格規距四神鏡もこの時期の鏡。鏡の世界は良く知らないのだけど、神獣鏡のようなゴチャゴチャしたものより格が上らしい。 猫塚からしばらく行くと、展望スポットがあって、カップルの車が長いこと停まっていた。 そのあと、完全に崩れている猫塚古墳(前方後円墳らしい)。 小塚古墳等々の積石塚系の古墳を通る。 前期後半の石船塚古墳。前方後円墳で形が残っている。 だけでなく、石棺が綺麗に残っている。頭を置く部分を綺麗に加工していた。この時期には、既に双方中円墳は築かれない。前方後円墳も、かなり前方部が長い、特徴ある古墳だ。石清尾古墳群衰退期らしい。 これが鏡塚古墳。ここから、屋島が綺麗に見える。ということは、海からもこの古墳が綺麗に見えたということだ。 更に10分ほど山道を行くと、北大塚東古墳、北大塚古墳、北大塚西古墳にたどり着く。暫く瓦礫の山があるようにしか見えない。 わずかに前方部がわかる。 ここからの景色の方が、屋島は良く見えた。鏡塚はどうしてこっちを先に頂かなかったのか。余計なお世話だけど。 そこからかなり急なそして石ころだらけの斜面を降りてゆく苦行を経て、おそらく道を間違って大回りして帰途についた。 途中で峰山養蜂場作りの蜂蜜を買う。何か記念が欲しかった。 長いこと歩く。電車で帰りたかったが、それ以上にうどんを食べたかった。県庁前のさか枝に行くと、やはりもう閉まっていた。その他、いくつかのうどん屋は閉まっていた。高松の有名うどん屋は、祝日やらないとか、やっていても2時で閉めるとかだったのを忘れていた。結局駅まで歩くことになる。兵庫商店街に着く。 うどん市場というところが開いていた。 天ぷらをその場で揚げてくれる。シソと玉ねぎのかき揚げ、ゴボウのかき揚げ、そしてかけうどん少で、410円。安いけど、美味しい。天ぷらが美味しい。いりこ出汁が美味しい。 店を出るともうすっかり暮れていた。 この日は約3万3千歩歩いた。
2020年02月29日
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高松駅に着くまでは、「静かなる炎天」の書評に詳しく書きます。 高松駅についた。ホントは7時に家を出るつもりだったので、9時に家を出て11時20分過ぎについたのは僥倖の部類に入る。バスの運転手に感謝。 その足で、県立ミュージアムに足を運ぶ。10分少々で着いて、40分ほどで見て周り、15分で戻る。今日は2つの博物館を回って、山登りさえする。急ぎすぎて困ることは無い。 県立ではあるが、やはり古代は全体の数%しか展示スペースがない。それでも紫雲出山遺跡の弥生時代に戦争が始まったことを証明する石鏃の展示や、石清尾山(いわせおやま)古墳群の猫塚古墳の遺物の展示が目立っていた。 今日は、図録を買う気まんまんでリュックを担いでやってきたのにお店には本図録もなければ、古代歴史関係の図録は一切なかった。「ないんですか?」「本図録は売り切れているんです。」とのこと。この博物館に、古代遺跡を期待するのは、一切やめよう。 昭和町までの切符を買った後に、電車は50分後にしか来ないことが判明。50分の待ち。お昼を食べにうどんやに入る。なるほど、うどんそのものはコシもないし、キレもない。何故それが、本場高松でこんな人がいるのか、不思議だったが、天ぷらが美味しいのである。出汁も良い。香川でうどん屋を流行らせるためには、うどんだけではダメなのである。 ここまで来たら歩いて行った方が早いと判断する。途中で高松市のマンホールを写す。屋島の戦いでの「那須与一扇の的を射る」の図です。高松市立歴史資料館は、昭和町にある。約15分間で着いた。 ここの展示も、古代に関しては県立とそう変わらない。 図録も本図録こそはあったが、古代歴史ものはほとんどなかった。あと確かめていないのは、埋蔵文化財センターだけか。 同じ建物に菊池寛記念館が併設されていたので、この前書評を書いたこおもあり、覗いてみる。歴代芥川賞・直木賞受賞者をずらっと並べているのが印象的。流石に、戦時協力の展示はザット見ただけだが一切なかった。 歴史資料館の受付の方に、石清尾山古墳群の行き方を詳しく聞いて歩いてゆく。石清尾八幡宮神社には、馬の大きな像があった。何故か?ちょっと興味あったが、確かめる時間はない。 資料館受付だけではなく、車を洗車していたおじさんや、タクシー会社に居た運転手など、途中で声をかけながら迷うことなく山登りを敢行する。こういうのが、日本の遺跡巡りでは便利なところだ。韓国のように決して一緒に歩いてくれる人はいないが、要所要所で的確なアドバイスをもらえる。異様に車の行き交いが多い。普通の古墳群の山にはあり得ない多さ。道理でみんな場所を知っているわけだ。時は天皇誕生日。頂上の峰山公園に向けて、4つある駐車場は全部満杯で、子供がうじゃうじゃと遊んでいた。かなり急なハイキング道をあがって行ったおかげで、八幡宮からは30分ほどで公園に着いた。大汗。良い運動。 横穴式石室が見事に残っている石清尾山2号墳。六世紀末の築造。公園から5分という立地とメジャーな姿で国指定になったけど、特異性はない。 そこから猫塚古墳を目指す。これが今日の目玉である。何故か。2世紀の楯築遺跡以来、日本に再登場した双方中円墳という形を見たかったというのが一つ。ここから出土したという副葬品が多様で、紛うことなきこの地域の王墓であったということが一つ。県立ミュージアムでも、歴史資料館でも、出土品のレプリカが展示されていた。銅剣17本、銅鏃8本、筒形銅器3本、内向花文鏡など様々な鏡。ホントに全部猫塚から出たのか?という多さだ。 ところが、迷って、地域の人にも聞いたが「あっちの方ですよ。えっ、案内板ありますよ」という返事。でも、案内板はない。細道を入ったところの古墳の目の前に案内板はある。知らない人は、どうやって此処に来るんだ?と私は言いたい。以下次号。
2020年02月28日
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松木武彦教授の古墳めぐりの3回目は、長野県伊那谷の飯田古墳群を取り上げています。古い古墳や大きな古墳だけが、見るべき古墳ではないことを、松木さんは雄弁に語ります。 古墳時代前期の3-5世紀前半まで、伊那谷には古墳はあまり築造されていません。歴史の表舞台に出てきたのは、雄略天皇(倭王・武)の時代です。長さ76mの塚原二子塚古墳(前方後円墳)が出てきます。それ以降20基の前方後円墳が1世紀の間に築かれるのです。 何故か。副葬品は、かぶと、矢尻、刀などが多い。伊那谷の平地や気候が、馬の成育に向いていて、一大馬の産地になったからだろうというのが、松木さんの意見です。大陸仕込の馬の飼育と訓練が展開されたようです。それに付随して、内陸交通の要所となります。 基礎的な農業生産力が低かったことで、6-7世紀に国府・国分寺に拠点は移り!再び長閑な山間地域に戻ったのだろう、という松木さんでした。 雄略天皇の軍事侵攻政策の一端を垣間見る、古墳の見方で、文字にない歴史が見える。
2019年12月25日
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松木武彦教授の「全国おすすめ古墳めぐり」(「新聞赤旗」金曜日連載)の2回目は、鳥取県淀江の向山古墳群が選ばれました。6世紀の群集墳です。私自身は、直ぐそばに弥生時代の妻木晩田遺跡があるので、3回は来たことがありますが、そんな魅力あるものとは思っていませんでした。松木さんは、「大和政権ができてなりを潜めていた勢力が、それまでの大王とのつながりが薄い継体になって台頭してきたのだ」と言います。同じ丘陵の石馬谷古墳から出土した石馬は、九州の磐井の残党が継いだ可能性があります。そう考えると、四隅突出墓勢力が突然勢力を無くし、300年経ってまた力を蓄えたのだという「物語」も見えてきます。遺跡めぐりは、これだからロマンがある。
2019年12月14日
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そのあと、約2時間かけて信太山駅から弥生文化博物館に行く。一年ぶり。あの時にどこかの店に置き忘れた図録を買い直すのと、新たな図録を買うのが大きな目的だ。突然の台風の雨に見舞われながら、着くと、二回廊下に萱振遺跡の最新研究成果を発表していた。農村遺跡だけど、いろんなところの土器が集まっているらしい。これはこれで山陰土器。吉備土器。地元の土器。和歌山土器。今回の特別展「白兎のクニへ」説明書がとてもわかりやすく展示されていた。それに沿って写真だけで構成したい。図録を買った。今城塚古代歴史博物館とあわせて約1万円、約15冊、約3キロほどの重さになり、リュックがパンパンになった。けれども、図録は目についた時に買わないと、すぐに売り切れになるし、いつ買えるかもわからない。一期一会なのである。五時まで粘って、博物館を出ると、岸和田ではなく、池上町のだんじり練習が続いていた。5人ほどの中学生が、シャンシャンピーヒャラやっていた。岸和田だけではないんだ。この和泉地方は、岸和田の数キロ北にある。少し見てみたかった。京都駅に到着。古い旅館「あずま屋」。近くのフランス料理店でコース料理。カードが使えず痛かった。16426歩
2019年10月06日
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9月22日(日)晴れ9月23日に京都で1日かけて加藤周一生誕100年記念講演会がある。それにかこつけて1泊2日で旅に出た。とは言っても行くところは単純。1日目は、この10年間ずっと行きたかった今城塚古墳歴史博物館と、去年買った図録を無くした弥生文化博物館である。鈍行で行くつもりだったが、少し寝坊したのと、もしかしてギリギリの予定なので、後悔しないように新幹線を使った。結果正解だったと思う。予定より2時間早く摂津富田についたが、今城塚古墳歴史博物館が思ったよりも充実していて、結局3時間以上も滞在したからである。信太山に行こうと思えば、着くのは3時ごろになるだろう。鈍行で行けば間に合わないところだった。摂津富田からは30分近く歩いて行くしか手段がない。延々と住宅地が続く。途中、宮田遺跡という平安時代の農村遺跡があった。今城塚古墳や太田茶臼山古墳があるこの大槻は、古代から広い平野が広がっていたのだろうと想像がつく。少し迷って、「日本で唯一大王墓であり、中への立ち入りが可能な」今城塚古墳についた。最近の報道では、大山古墳(仁徳天皇陵)を押さえて1番人気のある古墳に選ばれたらしい。着くと、家族連れが多い。それもそのはず、ハニワバルコニーが整備されていて、まるで遊園地の如くハニワが並んでいるのである。説明書は上の通り。今城塚古代歴史館。やっと来れた。ボランティアの人が、私1人だけど説明を買って出てくれた。お陰で、突っ込んだところを知ることができた。宮内省が継体稜と比定している太田茶臼山古墳が天皇陵ではない一番の理由は、同時期に仁徳天皇陵があるかららしい。私はそれだけ?と思ったのだが、突っ込まないことにした。時間がないのである。安満宮山古墳は、3世紀中、卑弥呼の時代である。そこから、青龍3年の青銅鏡含めて5鏡出土している。飛び抜けいる。何故か。海人の一族であり、卑弥呼の中国行きの海先案内人を勤めたからではないか?というのがボランティアの説明だった。4世紀末の郡家車塚古墳の副葬品は、これだけの勾玉を集めていて飛び抜けている。これも、いろいろ言ってくれたが忘れた。普通円筒埴輪は、このように焼きムラが出る。しかし、大王墓の埴輪には出ていない。何故か。近くの新池遺跡で登り窯跡が10基も見つかった。この全てが大王墓のための埴輪作りに使われたらしい。高温度で焼くために、焼きムラが出ない。一基5回は使って閉じたらしいので、50回は焼いただろう。館内では、窯の剥ぎ取り保存をしていた。武人の墓(土保山古墳5C)からは、甲冑と漆塗りの弓、盾が出土した。どちらも漆で仕上げており、保存状態が良かったらしい。日本の漆は世界一だとボランティア。革盾も漆で仕上げているので、当初は祭祀用のものかと思ったらしいが、実は漆を塗ると、剣を跳ね返すほどに強くなるらしい。実際使っていた盾だったようだ。王を守る立場の武人だったのだろうとのこと。模様は直線型。「かっこいいでしょ」とボランティアはいうが、それよりも呪術的特性が見えない、この武人の精神のあり様が興味を引いた。今城塚古墳はどのように作ったか。山を削ったのでも、土を持ってきて盛ったのでもない。二重の濠を掘ればいい。後円部の頂上だけ土を持ってくればできるらしい。だから土を固める必要はない。あとは崩れるのを防ぐために河原石をビッシリとひく。大きめの河原石だった。河原石ならば、外から見ると光沢があり、威信効果があったらしい。埴輪職人のエースは、自分の埴輪に二本マストの船をヘラ書きした。サインであると同時に、船はこの王国の財政の源でもあった。円筒埴輪は6000本も立てられた。外に出て、見事に再現した埴輪群を間近に見る。祭祀は、つくり出しではなく、その北側のテラスみたいなところに、盛大な形象埴輪200体を置いた。これほどの埴輪が伏見地震(1596)のために壊れたお陰で保存された。ほぼそのまま再現できたのは、ここだけだ。継体天皇の姿が、この出土と陵墓で浮き彫りになる。見事な古墳と歴史館であり、人気1番になるのもうなずける。歩いて帰り、摂津富田駅前で、大坂のうどん(キツネ)を食べる。とことん普通だった。
2019年10月05日
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久しぶりに岡山市埋蔵文化財センターに来た。大きな展示会もしていないし、報告するようなことはないと思ったら、意外とたくさんあった。建物の意匠は千足古墳石障の直弧文です。 千足古墳石障(仕切り石)の展示は、今は既に無いのですが、以前はなかった石室模型がありました。西田和浩氏の論考ペーパーがあり、天草・宇土半島との結びつきを考察していました。 収蔵展示室には、「発掘された日本列島2019」で展示されている金蔵山古墳(4C後半)の家型埴輪に漏れた埴輪群がありました。 展示室には多くは南方遺跡(弥生中期)の遺物がずらっと並んでいました。分銅型土製品に、農耕儀礼と関係する高床倉庫が描かれている?これは家族祭祀の道具だと理解していたのだが? 九州や四国、近畿から来た土器や、ジョッキ型土器などの変わりものや、南方遺跡土器群の編年などを見る。 びっくりしたのは、南方遺跡のこんな分厚い発掘報告書全3分冊が、800円700円700円で販売されていたこと。安売りセールじゃないらしい。最近の報告書はだいたいこの値段なんだと。技術の革新?つい全部買ってしまった。 南方遺跡発掘報告書より「旭川西海岸平野のほぼ中央に位置する集落遺跡。弥生時代中期を中心とするこの地域を代表する拠点集落であり、山陽東部の弥生中期の土器形式「南方式」の名祖遺跡」
2019年07月29日
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6月4日から始まった県立博物館の「岡山の三角縁神獣鏡」展を観た。とても貧弱な陳列だった。一階を全て使って陳列してるのかと思いきや、通常陳列。一階では、宮山遺跡の宮山型特殊器台がある。文様帯には、巴型や三角の透かし穴とS字状の渦紋をヘラ描きで飾り、その上を赤色塗料で塗っている。特殊器台終わりの時期の極めて派手な特殊器台だ。操山辺りで出土したという袈裟襷文銅鐸も展示している。百間川遺跡という日本を代表する弥生遺跡が近くにある。古代遺跡ではないが、正阿弥勝義(1832-1908)の凄い金工作品を展示していたので、パチリ。まるで本物のようなトンボが止まっていた。明治廃刀令で刀装具職人だった勝義が香炉や置物の金工作品に活路を見出したという。この作品ではないかもしれないが、明治37年のセントルイス万博での一等賞を獲得したらしい。さて、目的の「特別陳列」を観る。なんと3面の三角縁神獣鏡しか展示していなかった。このためにあんな大仰な立て看を各地に立てていたのか!写真撮影不可なので、説明だけ書くと、「本館所蔵」の三角縁神獣鏡は流石に保存状態がいい。同范鏡は京都西山二号墳。三角縁天王日月獣文帯四神獣鏡(総社市秦上沼古墳出土?古墳時代前期個人蔵)数少ない備中出土である。出土古墳の詳細は不明確。戦前出土。同じ鋳型は、京都椿井大塚山古墳から出土。三角縁波紋帯二神四獣鏡(一宮付近出土。前期。個人蔵)江戸時代、吉備津彦神社付近の古墳から出土。中央に鋳型のキズあり。ほかに関連遺物の展示があっただけだった。三角縁神獣鏡は、中国地域87(県内25)も出土しているが、備前20播磨19(この数は中国地域で突出している)に対して、備中は2と楯築遺跡を擁する吉備中央にしてはあまりにも少ない。これは何を意味するのか?弥生中枢部だからこそ、後世の人間が何かの思惑で持ち出したのか?そもそも、弥生から古墳時代にかけて、三角縁神獣鏡などはあまり意味を持っていなかったのか?何度も書いているが、岡山県立博物館の古代遺物の展示は、非常に貧弱である。私は、岡山県、つまり吉備の国は日本有数の古代大国だと思っている。本来なら専門博物館を建てるべきなのである。それが無いのは、ひとえに為政者の教養がないためだ。こんな小さなブログ、何の影響も持たないけれども、何度でもここで叫んでおきたい。ちなみに、今回初めて「岡山県立博物館展示ガイド」を買った。全16ページの薄い400円の冊子。これで岡山県約3000年の歴史を網羅してる。これが、古代だけでなく、この博物館の水準である。情け無い。どこが教育県だ!
2019年06月05日
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図録「岡山市立オリエント美術館」何度か訪れているけど、私の興味関心は日本の弥生時代なので、日本でも珍しいオリエントの「考古学博物館」たる所の図録があったことに、今回初めて気がついた。改めて考えると、考古学の研究方法や、世界史的視点を持つこと、そして最近マイブームの人類史的視点を持つという意味でも、とても面白い博物館であるので、オススメです。図録も750円でとても安価。そして充実しています。以下、私的に参考になった所をメモする。・当たり前だが、遺物の写真が綺麗だ。最初の図版はヤギ文の深鉢(テペ・ヒッサール出土)。紀元前3200年頃(新石器時代)。日本の縄文時代に、彩文土器は無かった気がする。鉄を含んだ土を焼いて赤くなった土を溶いて文様とした。どうやって塗ったのか?まるで筆で描いたような細かさだ。オリエントでは、文様に価値を求める。縄文時代は形に求めた。何故か?(←新たな疑問)土器は穀物の栽培の開始から少し遅れて紀元前6000年ごろから始まったらしい。オリエントでは、最初から農耕と共に牧畜も始まっている。・この土器は、安土桃山時代の日本から出土したと言われても、信じてしまうような技術と「美しさ」だ。既に手回しのロクロを使っているし、白い土を溶かした釉薬?(化粧土)で下地をつくっている。しかも、絵柄のヤギ!尾の先が波形にのびて、水の流れに変わっている。紀元前3500年ごろ。イランのテペ・シアルク出土。日本の縄文土器は世界最古だと言われる。しかし、こういう土器を見ていると、本当だろうか?と思わざるを得ない。焼きムラが全く無いこの土器はどのように焼いたのだろうか?他の石製容器の説明によると、焼成土器の前には、木製容器や蔓を編んだカゴ、骨製容器、日干しの土器などと共に比較的柔らかい石を削ってつくった石製容器が利用されていたらしい。紀元前6000年の石製容器を見ると、4本の脚まで付いていて、現代でも使える完成度と美しさだ。疑問符がどんどん出てくる。・BC3200メソポタミア南部のシュメール、BC3000エジプト、都市の成立。図録はその条件に大河の流域で大規模な土木工事が行われて、運河や用水路の発達、それが人口の集約を生みだしたという。一方、縄文時代も既に6000年近い歴史を重ねていたが、都市は出現しなかった。日本の平野では、都市が出現するほどの広さが無かった。それだけに尽きるのかもしれない。人の集約が神殿(宗教)や市場(市場経済)などを作り、それが文字の必要性を生みだした(紀元前3000年)のだとすれば、納得がいく。その逆はない。一定のスケールを伴わないと、文明は作られないのだ。だとすると、現代は過去からいえば、桁の違うスケールになっていると思われるが、新しい文明は出現しているのだろうか?・中期青銅器時代(BC2-BC1.5)に至り、シリアで多く作られた土偶には「顔」がある。輪のような丸い目と、房状の髪が特徴的。神殿に奉納されたものが多いが、詳しい用途は不明。「地母神像ではないかともいわれます」とのこと。この「顔」が、縄文時代や弥生時代にはない(ものが多い)。何故か?というのが、私の疑問だったが、この頃シリアでは、既に明確な「宗教」が成立していたのかもしれない。文明の成立は、文字によって明確な「物語」を用意する。という「仮説」を立ててみたくなった。つまり、文字はそういう役割もある。のである。まだ図録の1/4ぐらいだけど、私の興味関心はこの辺りまで。
2019年01月05日
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「古墳出現期の筑紫・吉備・畿内」近つ飛鳥博物館編2017年秋の特別展の図録。観てはいないが、吉備と名が付いた図録は、そもそも岡山県ではほとんど発行されていないので、興奮して買った。どれくらい興奮したかと言えば、帰って荷物をみたら、いつの間にか飛鳥博物館と弥生博物館の2カ所で一冊づつ買っていたことからも分かる。つまり2冊買ってしまったのだ(誰か余りの一冊所望者はいないかな)。とても面白かった。岡山県在住の私は、高い発掘報告書を所有していないので、足守川下流域の津寺遺跡(中央に大型建物出土)、一軒屋や三本木遺跡(鍛治炉)、加茂A・B遺跡(鯉喰神社墳丘墓の居住地か)などの場所や特徴などは初めて知った。弥生遺跡は目印になるものがないので、カラー航空写真で場所を特定してくれたのはとても嬉しい。しかし、説明はあまりにも簡単でイマイチだった。また、東郷遺跡や萱振遺跡や小阪合遺跡から、失礼ながらこんな小さな墳丘墓や古墳から、特殊器台が出土しているのに驚きを禁じ得なかった。しかも東郷遺跡で向木見という最初期の破片が出たのは何故か?この図録だけではわからない。1番面白かったのは、やはり御大・白石太一郎氏の「倭王権はなぜ畿内に成立したのか」だろう。失礼ながら、根拠のあやふやな推論から面白い結論を導き出していた。炭素年代法によって、箸墓の出現期を3世紀中葉過ぎに想定すると断定。そこから、「(今や、九州か畿内か、ではなく)列島内で最も先進的な北部九州ではなく、明らかに後進的であった畿内大和の地を中心に邪馬台国連合やそれに続く初期ヤマト政権と呼ばれる広域の政治連合か形成され」たのは何故か?と問いを立てる。此処までの論は根拠があると私は思う。氏の大まかな推論は以下の通り。(1)卑弥呼擁立は3世紀初頭。この時の広域連合は、東は畿内、西は北部九州まで。ただし、九州南と四国、山陰地方は除く。(2)この時点で政治連合は、邪馬台国とは別に山陰地域連合と近江・濃尾平野から関東までの連合があったという。3世紀中葉に濃尾連合(狗奴国)と邪馬台国連合が結びつき、それがヤマト政権になった。その直後ぐらいに卑弥呼没す。箸墓の被葬者は卑弥呼以外を考えるのはきわめてむつかしい。(3)伊都国は、一大卒を置いて、貿易の要となり続けた。邪馬台国が何故必要だったか。「鉄資源をはじめとする先進文物の入手ルートの支配・管理権を北九州と争い、卑弥呼が掌握したからだ」と説明する。そして白石氏のここが面白い処なのだが、村上恭通氏の手痛い批判をこのようにかわす。「古墳時代に入っても鉄器の出土量は北九州が圧倒的に多いので、流通機構の掌握を邪馬台国やヤマトがしたわけではない。」という批判は「聞くべき処が多い」としながらも、白石氏は「鉄資源の入手や鉄器生産のセンターの問題ではなく、その成果品の分配権やその分配のあり方の問題」だと説明する。だから、古墳時代になると中国鏡や倭鏡の分布の中心は明らかに畿内に移り、奈良盆地東南部の初期の王墓には膨大な量の鉄製武器が副葬されるようになる。「この大きな変化が生じた理由について納得のいく説明をしていただければ、私の提起しているこの仮説などはいつ撤回しても構わない」と説明する。まるで開き直りである。鉄資源の分配権はどういう力の背景をもって確立したのか?鉄資源はなぜすぐに「邪馬台国」に広がらなかったのか。「鉄資源その他の先進文物」の後の「先進文物」とは何か?これらの説明がないと、氏の仮説は、かなり説得力がない。しかし、魅力的であるし、素人の私としては「これでもいいんじゃないかな」とも思っている。先進文物とは、もしかしたら文物ではなく、信仰だった、つまり当時としては初めて国の規模を迎えつつある倭国の政策イデオロギーだったのではないか?とも私は思う。その中心にいたのが、元投馬国の位置にいた吉備の国だったのではないか?白石氏は、港市国家は長続きせず、最後に勝利を収めるのは内陸部の農業国だという世界史の教訓を引き合いに出す。全然根拠になってはいないが、また投馬国が何処とも全然書いていないが、やはり龍神信仰を確立した吉備国の役割は決定的だったと私は思うのである。
2018年10月31日
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秋日和に恵まれた10月21日、最近散策コースが新設された秦の郷古墳群巡りを友人2人と共に歩いた。10時から始めて3時までの約2万歩。いい運動でした。サントピア岡山総社に車を停めて、先ずは一丁ぐろ(土編に丸)古墳群を目指す。これは秦の歴史の表。これを見て目標としていた一丁ぐろよりも古い古墳・茶臼嶽古墳があるのに気が付き、急きょ、そこにも行くことにした。3世紀末なので、ほとんど弥生時代じゃないか!!7~11号墳の存在に興奮する。このように山の稜線に沿って連続的に墳丘を築くやり方は、朝鮮半島の有名な古墳群に多い。特にこの地域は、高梁川を見下ろす位置に築かれていて、川の運行を管理する人たちの力を背景に築かれた可能性があるだろう。一丁ぐろ古墳群の1号墳も最近発掘されて、大きなニュースになったのだが、実はそれよりも古い古墳時代最初期の古墳が古墳群の最奥部、金刀比羅神社裏に最近発見されていた。茶臼嶽古墳である。前方後方墳。全長約65m。一丁ぐろと並んで、県南最大級の前方後方墳であるだけでなく、古墳時代前期でいえば、前方後方墳として中四国最大級の古墳である。これは後方部から前方部を眺めた処。埴輪片は一切出土せずに、土器片から3世紀後半と比定された。つまり、築造時期は、卑弥呼死亡の頃、ということになる。古墳の規模から推測すれば、卑弥呼の館が何処にあったにせよ、秦盟主の存在は、彼女の意識に登っていた可能性が高いだろう。弥生時代最大の墳丘墓である楯築からおよそ100年後の墓である。其の間に「倭国統一」の大事業があったと私は見ている。この盟主はその一部始終を見ていた可能性が高い。おそらく、秦王国があるとすれば、他の古墳群から隔絶して築かれたこの茶臼嶽がその最初の大王になる。そういう位置づけも、朝鮮半島の古墳群と似ている。竪穴式の石棺はどうやら盗掘されて壊されていたようだ。ここからは高梁川がよく見える。アケビが近くの獣(イノシシ?)によって綺麗に食されていた。そのあと、古墳群最大の一丁ぐろ古墳1号墳にたどり着く。三つの方墳を側に従えて、茶臼嶽よりも少し大きく、全長70mを数える前方後方墳である。埴輪片から4世紀初頭と比定。丸い川原石の葺石がまだ多く残っていた。説明書も目新しい。後方部から前方部を見た処。段差が激しい。初期古墳の特徴である。秦の郷案内図によると、この古墳群30数基は未盗掘である。という。ホントにそうだとしたら、4世紀吉備ひいては日本史解明のための決定打になるかもしれない。案内図は「発掘調査こそ、市政の重要課題だ」と総社市を焚きつけている。思った以上に案内図やガイドマップを大量作成している処を見ると、可能性がなきにしもあらずかな。ここからも、高梁川と秦地区が綺麗に見える。一等地に作られている。風水古墳。説明が一切無いので、時代も形状も不明。どうして風水なのか。友人作成の弁当をいただく。午前中で回れると思っていた私目論見は完全に外れて、まだ半分も歩けていない。山を下りて郷の近くの小山の上にある金子石塔塚古墳を訪ねる。説明板。須恵器、馬具、武器、金銅製の亀甲文板片が副葬してあることから、地位の高いこの辺りの盟主の墓だろうと思われる。6世紀後半の典型的な横穴古墳であるが、玄室と石棺の残りがとっても良い。石棺は、井原市波形で産出する貝殻石灰岩。石棺としては、こうもり塚、江崎古墳と材質が似ているらしく、同盟関係にあったのでは、とのこと。1番びっくりしたのは、奥の一枚岩。一枚も珍しいが、ほとんど平の凄い加工技術、或いは逸品である。ここまで凄いのがあるとは思わなかった。石棺を山の上に運ぶのはいったいどうしたのか、どのくらいの人数が要ったのか話題になった。わかるのは、井原市から船で運び、この入り江に付けただろうということだ。金子池は、人口河道らしい。秦氏の技術である。中央の山の頂に古墳がある。秦氏の氏神社と言われる八幡神社に参る。中四国最古の寺院跡と言われる秦原廃寺の礎石を鳥居の礎石に転用しているらしい。また、この近くにあるはずの茶臼山古墳は遂に見つけることができなかった。また、帰りの途中にある大ぐろ古墳(同じ地域時代にあって、こちらは前方後円墳)も見つけることができなかった。また、そのすぐ近くの上沼古墳からは、卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が出土しているという。この秦の郷は、この10年で発掘調査され、この数年で案内図が作られた、とっても新しい古代ロマンの地である。観光にお勧めする。
2018年10月22日
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次は弥生文化博物館で開催された「弥生のマツリを探る」展である。以下はそのチラシだ。展示意図説明は以下のように書いていた。弥生時代の祭祀。これは大陸から新たに導入された信仰に縄文時代からの伝統が複雑に絡み合うとともに、列島で独自に発達をとげた部分も大きい。描かれた絵画、呪術的文様、銅鐸、銅鏡、 粘土や木で作られたさまざまな造形物など、もの言わぬ出土祭器が発する2000年前のメッセージは読み取れるのか。マツリの場、祭場の姿はどのようなものだったろうか。これまでの研究を踏まえ、弥生人の心に大胆に迫っていきたい。チラシに1部載っているが、正面に「マツリ」を行っているのを、金関怒館長(当時)が監修しながら描いた絵をドンと置く。即ち、シャーマンが鳥の服、鳥の仮面の装いで、祈っている。銅鐸の鐘を鳴らし、鹿の生け贄を捧げ、村の至る所に鳥を模した鳥竿を立てる。住民は「歌舞音曲」を奏で歌い踊りながら参加している。この絵の根拠を以下の展示で紹介する。シャーマンの造形はこれら、人物を描いた弥生土器を基にしている。特に、弥生中期の雁屋遺跡出土の人物の異様な装束は何なのだろう。かなり飾り立てていたのだろうか?股間の⚪︎は、男性器ではなく女性器を表していると確か図録に書いていた。私には、男性器に見えるのだけど。仮面はあまり用意出来なかったようだ。島根県古浦遺跡の朝鮮系土器やト骨があるのは、金関館長が発掘したものなので、借り出されたと思われる。西川津遺跡や堀部第一遺跡の土笛もその関係だろう。鳥がなぜ神の使いとなるのか?私は「魂を運ぶ」機能だけを想像していたが、ここには「穂落神信仰」を書いている。渡り神が落とす稲穂から農耕が開始されたという信仰である。どちらにせよ、そこには豊かさだけを目にしていた弥生人の生活が見える。鹿や魚の自然の恵みも平和な弥生社会が見える。土偶の流行は、縄文と弥生の相剋があったと見る。賛成である。びっくりするのは、亀井遺跡の分銅型土製品。吉備のそれと、全く変わらない。吉備人が来ていたのか。男根型の祭祀については以上の通り。平和な弥生社会。それはやがて大災害と戦争によって、新しい神が登場することを用意して行ったのではないか?龍は水を司る。そして、個として隔絶していた。だから、暴走することもあり、その呪的パワーは普段は縛り付けて「コントロールする」必要があった。それを体現するシャーマンが現れた時、それまでのシャーマンとはまるきり違う人として現れたのではないか?今迄の祭祀は、途絶する必要があった。それはやがて、吉備の特殊器台によって、神に憑依する大王として制度化される。此処に置いて、弥生時代は終わろうとしていた。この「まとめ」の文章で、ひとつ瞠目したのは、弥生晩期の同盟の契機は、「経済的要因もあったかもしれないが、宗教同盟が強かったのでは」と書いている所である。そうかんがえると、確かにすっきりする。新しい視点をもらった、いい展示だったと思う。
2018年09月24日
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8月20日、21日に大阪に行き、古代のふたつの企画展を観てきました。ひとつは、近つ飛鳥博物館の「百舌鳥・古市古墳群に学ぶ 古墳と水のマツリ」展。もうひとつは、弥生文化博物館の「弥生のマツリを探る-祈りのイメージと祭場-」である。百舌鳥は(もず)と読むらしい。(もずちょう)ではない。ところが、府内の人には当たり前の読み方かもしれないが、私のように少し考古学を齧った者でさえ、どっちだったかなと思ってしまうのに、この博物館や図録に、何処にも読み方の振り仮名がつけられてなかった。改善を求めたい。このふたつの企画展、飛鳥博物館の方は写真NOだったので、図録を基に紹介したい。弥生文化博物館の方は、写真はOKだったし、図録も買ったのに、岡山に帰って気がついたのであるが、青春18切符をなくした居酒屋に置いて来たのか、帰りの電車に置いて来たのか、なんとなんと図録が何処にもなかった。切符と同時にこれも痛恨の失敗である。幸いにも、写真にかなり説明書も写した。それらを追記しながら、私の感想も載せたい。「百舌鳥・古市古墳群に学ぶ 古墳と水のマツリ」の博物館開催趣旨は以下の通り。 世界文化遺産登録を目指す百舌鳥・古市古墳群では、これまでの発掘調査や研究により古墳時代の王権や社会の様子を考える上での 重要な情報が蓄積されています。なかでもさまざまな形象埴輪で表現された場面の中に、大王が執り行ったさまざまな儀礼が 再現されているとする研究があり、大王や首長の活動を知るうえで注目される成果といえるでしょう。 今回の企画展では百舌鳥・古市古墳群における最新の調査、研究成果の中から、 水のマツリにかかわる資料を取り上げ、百舌鳥・古市古墳群をはじめとする王権や周辺の集落でとりおこなわれた 儀礼について考えてみたいと思います。これではなんの説明にもなっていないが、飛鳥博物館のメイン展示は巨大な大山古墳(仁徳天皇陵古墳)のジオラマなので、とまれ世界遺産実現がこの博物館の全てのようなので仕方ないのかもしれない。今回展示のメイン遺物は、誉田御廟山古墳の陪塚である狼塚古墳から出てきた「導水施設型埴輪」である。ポスターに復元形態が示されている。狐塚型の不完全な形は、つい最近金蔵山古墳の作り出から出土したもので見た。囲い型埴輪は囲い込んでいなかったし、導水施設(今日よく見たら、導水施設を引き込む穴は開いていた)はなかったが、家形埴輪は出土していた。四世紀末の古墳であり、この狼塚は五世紀前葉らしいから、金蔵山はこの囲い型マツリの初期段階ということになる。そして完成形の一つがコレということだ。出土状況はコレ。囲い型埴輪に囲まれた閉鎖的な空間の中に、玉砂利を敷き詰め、木樋形土製品を中央に置いている。他には不完全ながら多くは囲い型埴輪と家形埴輪が出ている(野中宮山古墳、長屋1・2号墳、野中古墳‥写真)。以上が古市古墳群。百舌鳥古墳群の御廟山古墳(五世紀前葉)からは完成形の家形埴輪を収めた囲い形埴輪が出土しているようだ。綺麗に入口がついているのが、特徴。また、ここからは「円筒埴輪状土製品」が出土した。形状は円筒埴輪に似ているが、小型で表面がナデ調整されている。内部に礫が詰められていて、井戸枠にも見える。(私は水道の通る道のように見える)いったいどのようなマツリだったのか。被葬者が生前、囲い型埴輪のように秘密裡に行っていた水のマツリをなんらかの形で再現するマツリだったのではないか?というのが筆者の意見のようだ。書いていないが、木樋が使われていること、玉砂利があることなどから、「浄水」を得るための、王様だけが出来る「秘技」を使っていたのかもしれない。水のマツリの集落遺跡においての例で纒向遺跡の導水施設が紹介されていた。四世紀前半の施設。木樋(もくひ)や集水枡(ます)が出土。同時に導水施設に先行する溝から見つかった祭祀用木製品、孤文円板等が見つかり、木樋の上に祭祀用土器、また周りからは半島系土器が見つかっている。この一帯が祭祀に関わる場所であった可能性が高い。建物との前後関係を含めて詳細は不明だが、木樋を伴う導水施設として最古段階で、初期ヤマト政権成立期において導水施設のマツリが重要視されていたことがうかがえる。導水施設マツリ以前では、井戸のマツリが行われていたようだ。展示の土器は、大井戸の周りで見つかった銅鐸の文様に類似する流水文のスタンプを押された土器。近くの柱は紀元前52年に伐採されたことが確かめられている。亀井遺跡(弥生時代中期)の井戸を埋める時に入れられた土器からも流水文が。水が再び湧くことを願ったのでしょうか?八尾南遺跡の井戸(弥生時代後期前半)からは、龍の線刻が施された土器が。やはり井戸廃絶時の儀礼のひとつ。水を司る龍信仰がここまで来ていた、しかも後期前半という時期が示唆的。古墳時代以降では、讃良郡条理遺跡(大阪府寝屋川市高宮)の奈良時代中期から平安時代初期の灌漑用の井堰から見つかった、人面墨書土器というものがある。人や鬼の顔を墨書し、疫病や穢れを土器に封じ込め、水に流すことで祓う祭祀行為だと言われている。これだけは、面白かったので、写真に撮らせてもらった。人の顔でも、鬼である。悪意があると思われるのだが、なぜか憎みきれない顔なのだ。現代人の私の感覚がおかしいのだろうか?その他、ここからは底部穿孔土器、絵馬、人形、祭串が多量に出土。牛や馬の骨も出土。五世紀中頃行われたといわれている動物殉葬(犠牲)が、引き続き行われていたようだ。ここまで証拠を揃えられると、人の殉葬はなかったかもしれないが、動物殉葬は広く行われていたのかもしれない。もっとも、骨以外の土馬や絵馬が広まるのではあるが。この図録は、かなり専門家向けに書かれていて、結果、結論が回りくどかったり、わかりにくかったり、ダメだなと思った。
2018年09月23日
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出雲旅に出掛ける前日の5月26日、現地説明会に行きました。先ずはそれを紹介してから、出雲旅レポートをします。倉敷市船穂町柳井原にある、南山城跡(戦国時代)、南山明地古墳群(古墳時代)、南山明地遺跡(弥生時代)の現地説明会にいって来ました。私の関心は弥生時代なので、他の時代については軽く流します。場所は山の北側に天狗山古墳、勝負砂古墳、二万大塚古墳という、五世紀の重要な古墳のある山並みの南側に位置する標高67mの低丘陵。大きな目的は山城の解明なのですが、その中で弥生時代の集落跡も見つかりました。写真は、竪穴住居跡の隣の土坑から見つかった土器。これによって、弥生中期の遺跡(南山明地遺跡)と判明しました。住居底に穴が開いているコップ形土器も、見つかりました。つまり実用土器ではない。ということです。だとすると、この穴も普通の穴ではなくて、墓であり、ここで供献儀式が行われたと見ていいでしょう。こんな早い時代に、しかも小さな土坑墓で、のちの楯築に繋がるような儀式があったことが何よりも驚きでした。鏃は戦争用にはあまりにも小さい。狩り用の鏃でしょう。サヌカイトもあった。讃岐との交流もしていたことの証です。こんなのも出土していたらしい。遺跡の上空写真。ドローンを使ったのかな。最近はこんな写真が簡単に撮れるから素晴らしい。さて、山に上がるぞ!これが土坑の跡。竪穴住居跡。弥生遺跡の北隣に古墳時代の遺構(南山明地古墳群)が残っていました。2ー4号墳を発掘しています。丘陵尾根状に並んで築かれている。直径10、9、14mの円墳です。時期は古墳時代前期後半から中期前半(4世紀末-5世紀初)。1番大きな14号墳が詳しく調べられています。二つの埋葬施設があり、木棺の底に他から運ばれてきた礫が敷かれ、鉄製品(鉾・鍬鋤の刃先・鎌)と滑石製臼玉が副葬されていました。これだけ尾根状に古墳が続いているのならば、山城があった1番眺めの良い場所に墳墓がないわけはない。実はそれはこれから発掘するらしい。築城で壊されているかもしれないが、期待はされる。円墳側から山城を眺める。山城(南山城)について、少し。1582年(大正10)、備中松山城水攻めのあと、秀吉と毛利が講和を結びます。1583年(大正11)、毛利が高梁川以東の城を明け渡します。写真では、川の上側が「以東」になります。高梁川以西に、それまであったこの山城は、その直後にキチンと整備されたらしい。住むためのお城ではなくて、あくまでも兵士が集い、拠点砦のためのお城だったようです。詳しい説明は省きます。この丘陵は、山城に選ばれることからも伺えるように、古代の環状線だ高梁川を監視するためにも、非常に便利なところでした。では、あの弥生遺跡は高地性集落なのか?しかし、円墳の下に集落はなかったと、ハッキリしているらしい。山城の下はまだわからない。吉備の王国の西側集落の拠点が、おそらくこの辺りにあったことを伺わす遺跡かもしれない。
2018年06月10日
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「出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」渡辺貞幸 新泉社大風呂南墳墓、妻木晩田遺跡、吉野ヶ里遺跡と続いてきて、遂に西谷墳墓群が上梓された。弥生末期の重要遺跡の立て続けの刊行によって、倭国統一の概要を探ろうとする編集部の意図を感じる。歓迎したい。青谷上寺地遺跡の刊行もお願いします。以下、勉強になった所をメモする。・西谷3号墳。立石と敷石がそれぞれ二列、裾まわりに2段の犬ばしりの配石。貼石の総数、25000個。・全面の貼石は、遠くから白く光る異様な人口物。見せる墳墓の先駆け。・8つの土壙。第4が王。次に第1。二つとも木槨(木棺の外箱)を含む木槨墓である。しかも第4には副槨まである。第3第8は木槨はない。第8を除いて棺内に大陸由来の朱を敷く。他の4つは未調査(←ナゼ‼︎)・王の葬送祭儀。木槨墓を納めて埋め戻した後に、四本の柱を立て添え柱を添えて、全体をさらに盛り土して整地。主槨の真上に朱彩した石主を置き、周囲に玉砂利を積む。副槨の真上にも主石を置く。ここまで舞台設定をして、大型特殊器台を運んで来た14人の吉備からの客、越から亡命(←土器は越製作でなかった)して来た21人の客、9人の不明客と共に、100人が直会の儀式をして祭儀を挙行した。終わった後にびっしりと土器を中央に集めて、散逸しないようにした。(←ホントに散逸しなかったのか?ナゼそういうことが可能だったのか?そういう意味では、四本の柱の中は、長い長いこと、しかも最後まで絶対触ってはいけない聖なる空間をやり通したことになる。つまり、吉備・越・出雲同盟は破られることがなかったのである。)・第1は、そのあとの祭儀になる。50人ほどが参加。柱は立てられなかった。・棺の中には、木製の鞘と柄を備えた鉄剣一振りと一連のガラス管玉(素材はローマ帝国内産)。第4、第1、他には第2号墳から出土。第1からはさらに総計250の装飾品。特に二つの勾玉(コバルトブルー)の材料は類例のない珍品。舶来品か(←でもこの形の勾玉は大陸にあるのか?この舶来品への拘りは明らかにお妃と見られる女性の個性だろう)朱30キロでは、生口10人分(難波洋三「季刊考古学」135号)らしい。・西谷王朝。3号(第4→第1)→2号→4号→9号。9号の時に前方後円墳と古墳時代開始。一挙に王朝体制の縮小が訪れる。・王朝の都は何処か。矢野遺跡は1番大きい。昔からの拠点集落。特殊器台型土器(胎土は何処?時期は?)も出土。しかし墳墓が見えない。中野美保遺跡には3号と同じ時期の小型四隅突出墓。その下層からは中期中葉に遡る方形貼石墓。山持遺跡(青木遺跡含む)では、外来系土器多量出土。中期後半から後期にかけて大物流拠点。青木遺跡では山陰最古(中期後葉)の四隅突出墓、3号と同じ時期の墓も。若狭土手に登れば、西谷墳墓群を見ることが出来る。出雲王の居館はここだろう。・四隅突出墓は広島県北部の山間地に出現(中期後葉)。三次市殿山38号墳が最古級。墓道が特殊化したのか?鳥取洞の原1号(後期前葉)は、一カ所のみ踏み石状列石が見られる。・西谷3号墓出現以降、大型墳墓は山陰では例外なく四隅突出型になる。3号を頂点とする社会システムが生まれていた。・もともと山陰弥生墳墓では埋葬施設の上から土器が出土。直会の後の後片づけ?の跡。四隅突出型とセットになる。福井市小羽山30号墳も同様の祭儀。3号の後に越に帰郷した人たちの墓だったか。・3号は後期後葉のはじめ。4号は終末期。・安来市荒島駅近くの荒島墳墓群(後期後葉)とは、4号ぐらいまでは並びたつ荒島王朝があった。9号で二つを統一。その直後に凋落。・古墳時代前期に加茂岩倉の前に神原神社古墳、松本1号など、西谷王朝を伺うような位置に出現し、荒島周辺にも古墳前期か三つもできるが、西谷の周りには前期古墳はほぼない。古事記には、ヤマトタケルがイズモタケルを斐伊川の辺でだまし討ちにしているが、西谷王朝の最後の話だったのではないか?・楯築被葬者は3号と同じ時代を生きた。・図57によると、3号は150年くらい。2号は170年くらい。安来の塩津山10号は155年、仲山寺9、10は160年、安養寺は210年ぐらい。4号は210年、9号は240年ぐらいか(この表見て判断しているのでかなりアバウト)。・楯築の立坂型のみしか、出雲から出土していない。しかし、出土地は非常に多く、高橋川沿いから日野川下るルート。そして飯梨川沿いの荒島王朝辺りにも多く出土する(←墓から出て来たのか?)的場遺跡からも出土。特殊器台を運んだルートは、この現在伯備線ルートだろう。・楯築は供献土器が特殊器台のみ、というのはなぜか?お客様は特殊器台のみを使わせたのか?それほどに特殊器台に権威があったのか?それとも、土器は墓に残さない祭祀だったのか。楯築の立石は、祭祀の特殊空間だったのかもしれない。そこに、供献土器を残すのだとすれば、大岩にする理由がつく。しかし、後のヤマト侵攻でそれは荒らされた可能性はある。(←この項全く私見)
2018年05月01日
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「ふしぎな縄文土器」大田区立郷土博物館これは2010年の博物館展示図録である。本屋やamazonでは手に入らない。今年の年始にせっかく訪ねたのに展示替で閉まっていて無理やり図録だけ手に入れた本の一冊である。紐解くと、素晴らしかった。子どもを呼び込むための企画だったと思う。16の縄文土器の謎を解く、という趣向である。ところが、子どもだからと言って全然文章を遠慮していない。尖底とか、かなりむつかしい単語が並ぶ。考古学ファンだけど縄文時代は初心者の私に、もとても興味深い事実が並んでいた。見出し。(1)丸底土器と尖底土器のふしぎ(2)粘土に繊維を混ぜるふしぎー繊維土器(3)背の高い土器のふしぎー東北地方の円筒土器(4)注ぎ口がついた土器のふしぎー片口土器・注口土器(5)顔がついた土器のふしぎー獣面把手・顔面把手(6)波状(山形)口縁土器のふしぎ(7)豪華な装飾土器のふしぎー火炎土器様式(8)焼町土器のふしぎ(9)口縁部に孔(穴)がめぐるふしぎー有孔浅鉢形土器・有孔鍔付土器(10)釣(吊)手土器・香炉形土器のふしぎ(11)双口(双子)土器のふしぎ(12)異形台付土器のふしぎ(13)形象土器のふしぎ(14)その他のふしぎな土器(15)ミニチュア土器のふしぎ(16)オコゲのつき方のふしぎ(1)最初丸底・尖底土器が現れたのは、「効率の良い煮炊きの形が求められた」で、説明できるけど、それがなぜ平底に変わったかは「うまく説明されていない」と明らかにしています。(6)「なぜ煮炊きに使う土器に大きな波状口縁や立体的な造形が必要だったのか?」と問題提起し、「波状口縁はハレ、平口は日常用途」という想定を書いている。それに対する私の感想は複雑である。ただ、「波状口縁土器は全体から見れば少数派」と書いている。関東はそうだったのか?でも東北地方は違うのでは?もし特別な時の、或いは祭祀土器と位置づけていたならば、もっと他の本でそういう指摘があっても良い。その辺りは調べたい。(8)の焼町土器や(9)有孔浅鉢形土器の形を初めて見る。有孔浅鉢形土器の方は、3つの説のうち、炭酸ガスを逃がすための「醸造用容器説」を推している。酒ならば、成分が残るとか調べられないのだろうか?いろんな想像がわく土器だ。(10)釣(吊)手土器・香炉形土器も初めて見た。名前からすると、弥生時代西日本で流行する土器を想像するが、形は全く違う。灯火と香炉の二つの説があり、結論は付いていない。これももっと詳細に土器を調べることで結論はつかないのか?イライラする。この企画展に行きたかった。双子土器、異形台付土器、オコゲのふしぎなど、初めて知ったことが多かった。縄文土器は不思議に満ちているし、ある程度はそれを解明しようとしているし、多くが謎のまま残されている。夢がある。
2018年04月30日
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ブログ仲間のsuzuさんが岡山入りをしたので、かねての念願だったという備前の町の隣の山の頂上にある熊山遺跡を案内した。ついでに、この前訪れた操山の古墳巡りもした。suzuさんは「貴重な」古代好き女史なのである。彼女は当初岡山駅の観光係が提示したブログ記事を示して、最寄り駅から登山口に行くルートを教えてくれたらしい。わたしが「そのコース死にますよ」と言ってもピンと来ていなかったので、わたしが案内を買って出たというわけだ。最近は車で近くまで行くコースがあるけど、ブログのコースとは似ても似つかない。ぐねぐね曲がる長い山路を登ると、遺跡まで500mの駐車場がある。熊山遺跡のwiki概要は以下の通りである。熊山遺跡とは古来より信仰の対象となっていた熊山(508メートル)の山頂付近にある、基底部と3段の基壇で構成された石積みの建造物である。奈良時代前期に建造されたと思われる仏教遺跡である。 この基壇の周囲には室町時代前期頃まで霊山寺という寺院があった。弥生時代以前より原始信仰が行われていた磐座(いわくら)の上に、流紋岩を正方形に組み上げている。 一辺11.7メートルの方形基壇を造り、その上に一段目に一辺7.7メートル、高さ1メートル、2段目に一辺5.2メートル、高さ1.2メートル、3段目に一辺3.5メートル、高さ1.2メートルの方形に石積み築造している。2段目は龕(がん)と呼ばれる仏像などを納める厨子と思われる四角い横穴が4面に開けられている。その横穴は、4面の中央部に高さ65~90センチメートル、幅62~73センチメートル、奥行き90~136センチメートルで造られている。全高は約3.5メートル、各辺の長さは基底部が約12メートル、下段が約7.7メートル、中段は約5.2メートル、上段は約3.5メートルである。基壇の中央には竪穴石室[1]があり、その中に高さ162センチメートルの陶製の五段重ねの筒型容器[2]が納められていた。容器内には三彩の小壷と皮革に文字が書かれた巻物が入っていたと伝えられているが、1937年(昭和12年)に盗掘にあい、現在は行方不明である。なお、筒型容器は奈良県天理市の天理大学に収蔵されている。この基壇の目的については、戒壇説、墳墓説、経塚説などがあった。しかし近年の研究により、遺物や龕の存在などから仏塔であったことが判明している。 1956年(昭和31年)9月27日に、国の史跡に指定された。また、熊山の標高350メートル以上には大小32基にも及ぶ類似の基壇の遺構が確認されている。(以上引用終わり)以前来た時にはなかった、赤磐市教委委員会の説明文も置いていた。昔は北朝鮮の古墳の形に似ているから、古墳時代の渡来人墳墓だろうという説もあったけど、上にあるような「説」に落ち着いているらしい。天理大に収蔵されているという筒型容器は、明らかに「男根」の形をしていて、奈良時代の築造を考えると興味深い。(つまり、縄文時代の男根型石器の信仰が、稲作から遠く離れた山の上で続いているという可能性を思った)近くには無縫塔という頭が卵形で笠を持たない墓があった。鎌倉時代の禅宗から流行ったらしいが、その後各宗派に広がったらしい。この墓は「享保」「文政」の文字を刻みつけているので、何れも江戸時代のものだった。その側の磐座らしき岩の上に椿の花がおちていた。この場所から、長船の町並みが一望できる。きっとこの景観が、この遺跡がここに築造された理由だ(私見です)。こういうことは、ネットで調べてもわからないことだ。実際に行ってみて実感するしかないのである。だから、遺跡巡りは意味がある。そこから岡山市操山まで戻る。前回巡った古墳の写真は、ほとんどない。前回記事を参照して欲しい。二股古墳の隣の藪の中に、今迄知らなかった「名前のない」古墳があった。まあ、この山には100近くの古墳があるのだから、有名古墳以外でもこのようにあるのだ。少し迷って、散策路の真ん中に、横穴式石室の測石らしきものがあった。これも名前無しの古墳。これは、この山で最大規模の古墳。沢田裏山古墳。suzuさんの後ろ姿で、規模がわかる。上はまだ土盛りがあるので、とっても湿度が高い。なんか怪しい。タオルなんかもかけている。この山で、1番美しいと私が思ってる古墳。私は柿の木古墳と呼んでいる。桜は散りかけだった。
2018年04月07日
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「古代史研究の最前線 邪馬台国」洋泉社編集部編研究者12人による、最新の邪馬台国論。私は邪馬台国の所在地そのものには興味はないが、弥生末期の歴史には大いに興味がある。その視点で面白かった点を以下に羅列する。(西川寿勝)・古墳発生直前の墳丘墓(石塚、勝山)の木製品の年輪年代測定法は、200年前後が伐採年。さらには、箸墓は歴博の放射性炭素14年代測定法によると、240ー260年造営であり、魏志倭人伝で卑弥呼が使者を派遣していた頃。・107年、倭国王の師升等、生口160人を献じて請見を願う。147ー188年、倭国大いに乱れ。・書紀、三国史記、魏志武帝記、後漢書から193年前後、中国から朝鮮半島、日本列島にかけて異常気象が起きて(イナゴ発生、疫病多く、霜、等々)、民が半数以上死んで、反乱起こった可能性がある。大和河内の集落衰退、纒向台頭と整合。(編集部)・纒向の大型建物は、三世紀前半で卑弥呼活躍時期と重なる。桜井市は平成24年に纒向学研究センター開設。(松木武彦)・金印(倭奴国)より一世紀中頃までは、倭国の中心は北九州にあった。前方後円墳体制が近畿に作られる三世紀中頃までの200年間に、日本社会の安定的構造が形成されるプロセスがあった。その中で生じたのが、倭国乱であった。・倭国乱に対応する二世紀後半の土器は、庄内1-2式、山陰の鍵尾式、瀬戸内中部の上東才の町式、北陸では漆町3-4群。・二世紀前半の大型墳丘墓は、楯築50m、西谷3号40m、鳥取の西桂見40m、福井の小羽山30号26m。この地域では、それまでの青銅器祭祀が一様に後退する。墳墓の儀礼が青銅器を必要としない、「社会を統合する主要宗教の交代ないしは革新が起こった」ことを意味する。つまり、「古墳時代的宗教による社会の再統合が他地域よりも一歩早く進んだ」(←近畿は未だ青銅器圏内)。内容は、有力者の死を墳丘墓で祀ること。基は中国。楽浪郡を起点として、木槨墓が紀元後1ー2世紀に朝鮮半島を南下する。つまり、これらグループは、「互いに連携しつつ中国と結び、新しい世界観・思想やそれによって立つ権威を見せることで列島での覇権を握ろうとした」可能性が高い。彼らは師升等の活動を反映している可能性がある。・この墳丘墓体制は、二世紀後半には変容する。吉備・出雲は墓が小さくなり、因幡や越では後継者が出ない。丹後には赤坂今井(方形、39m)が現れる。・三世紀前半になると、円形や方形の墳丘に一カ所だけ短い突起をつけた「纒向型前方後円墳」ないし前方後方墳が、近畿、九州、東北南部まであらわれる。円形が60-70mの前方後円墳は奈良盆地東南部に集中、これは「列島の広い範囲を覆う有力者たちの宗教的・政治的連携が、大和を中核ないし頂点として出来上がった状況を反映しよう」。・集団墓から区画墓への変容。「すなわち、多人数からなる共同体全体のまとまりが、そのまま墓に表される習俗から、それまでは共同体全体に埋没していた個々の血縁単位がそれぞれに墓を営む、墓の社会的意味合いが変わった」。これは「古墳」の出現であり、青銅器祭祀の消滅と連動していた。土器の地域間移動が示す人の流動性の高まり、纒向遺跡のような広域センター機能などの「新たな世の」始まり。(赤塚次郎)・二世紀は大変な気象変動期。400年周期で起こる「長周期変動期」が二世紀段階で始まっていた(中塚武「環境の日本史1」)。豪雨・旱魃が長周期で続く。127年は、過去二千年間でも想像を絶する雨量が予測される?(森岡秀人)・紀元前1世紀ごろ「夫れ楽浪海中に倭人あり分かれて百余国を為す。歳時を以って来たりて、献見すと云う」(班固「漢書」)が始めて出てくる弥生時代中期倭国の様子。この頃、唐子・鍵遺跡の楼閣絵画壺、亀井遺跡の計量用の分銅石製品。漢人の往来の可能性。・建武中元二年(57年)、倭奴国が後漢光武帝に朝賀す。「倭国の極南海なり」(「後漢書」5C)東夷の絶域の意識。・107年、師升が生口160人を献じる。資料に初めて「倭国王」が登場。小国王と協力して多数の戦争奴隷を供出。範囲は近畿・東海西部までひろがっていたか。(見返り品は銅製品原料インゴットか)・ヤマト外縁地域の交流が活発、淀川水系から近江南部、近江南部から尾張北部、尾張から北伊勢、丹後と近江湖西の交通網・物資移動ルートあり。湖南起源の手焙り土器の浸透。ここに、倭国乱以前の原倭国の中心がいて、師升はその中心。近江南部の伊勢遺跡はその場所で、卑弥呼共立儀礼の場。そこから纒向に移動。しかし、師升の墓は楯築。(仁藤敦史)・公孫氏189年遼東太守。・魏志韓伝によると、公孫康は楽浪郡を3世紀初頭に南北分割、南に大帯郡を置く。公孫模・張しょうを使わせて、韓と濊の難民を集めて、韓と濊を討つ。このあと、韓と倭国は太帯に属した。2015年5月初版発行2018年3月読了
2018年04月04日
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さて、久しぶりに操山(みさおやま)にきたので、ついでに若干ここの古墳巡りもしてみました。以前の記事の写真と被る所もあるかもしれませんが、この間記事に載せることのできる写真がほぼ無制限になったので、思いっきり写真を載せたいと思います。操山は古墳時代は南に海、北に豊かな川を持った水田広がる大きな弥生邑(代表遺跡は百間川遺跡)を持ち、後世には東側に山陽道が通り、西側に岡山市街がある、岡山平野の交通の要所にあります。おそらく「甘南備(かむなび)山」としてあがめられた聖なる山だったはず。その証拠に、現在大小さまざま百ちかくの古墳が確認されています。この古墳は、名前知らず、道から少し外れたところにあった横穴式古墳。おそらく6世紀ごろの家族墓だったのではないか。今では南側は岡山平野の家々が連なっているけど、昔は海だった。この山がいい目印になったはず。これが金蔵山発掘説明書に載っていた金蔵山周辺の遺跡地図。上の北の網掛け部分が百間川遺跡である。山の南側の山頂には網浜茶臼山古墳、湊茶臼山古墳などの金蔵山に並ぶ大型前方後円墳があります。登山道のまんなかにも、このようにちいさな横穴式石室がある。それを上から写したところ。赤ん坊の身体しか入らないと思う。どういう古墳だったのだろうか。これは、古墳後期の沢田裏山古墳。残りは悪くない。この石をどのように運んだのか。もちろん修羅をつかって人力で運んだのだろう。どれだけの人数が必要なのか。なにしろ、絶対地域の大王の墓ではないのだ。そういう要らない心配をする。石は近くにある。この放り出された石は、刻み目があるので、古墳用に加工された跡なのではないか。もっと大きいむき出しになった石室を見ることができる。八畳岩古墳である。本来は直径15メートル、高さ3メートルほどの本格的な円墳だったとみられている。遺骸を葬った石室は左袖形で全長9メートル。遺骸を安置した玄室が長さ5.5メートル、幅1.6メートル、高さ1.6メートルであり、中型規模らしい。築造時期は6世紀後半とみられている。これだけ大きいと中に入れる。入口から入って玄室を眺めたところ。玄室から入口あたりを眺めたところ。危ないことはまったくない。なにしろ1500年間崩れなかった石室なのである。以前も紹介したことのある二股古墳を紹介する。ここは、遺骸を安置する玄室が二室に分かれていて二股古墳と呼ばれている。墳丘は山寄造(斜面への築造)で、直径10メートル、高さ3メートルほどの円墳だったことが想定されるらしい。石室は左(主)室が長さ5メートル幅1.2メートル高さ1.7メートル、右(脇)室が長さ4.5メートル幅1.2メートル高さ1.3メートル。築造時期は6世紀後半から7世紀初頭に推定。実はこの古墳も中に入れる。脇室は崩れて入れない。主室の奥から入口を見る。石室の石は小さい石をかまして崩れないようにしているみたいだ。玄室を二つに分けるのは異例だが、このような変化があるのは、古墳文化が家族のモノになって個人の主張が受け入れられるようになった証拠だろう。時は西暦600年代、金蔵山から200年が過ぎて古墳時代ももう終わろうとしていた。
2018年03月26日
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1ヶ月前の2月24日、岡山市操山に行きました。4世紀後半の古墳時代前期、吉備いや倭国を代表する前方後円墳である金蔵山(かなくらやま)古墳の第4次発掘調査の現説(現地説明会)があったのです。過去の現説に関しては、金蔵山幻想2月27日の現説金蔵山現地説明会に詳しい。さて、今回は東側くびれ部に、「島状遺構」が検出されました(写真で〇で囲んだ「島」の部分)。前回までに明らかになった、前方部西側の造り出しに続いて、吉備の古墳祭祀を見る上で、貴重な発見です。写真の人物のいる上のあたりが、前方後円墳の墳丘です。こうやって見ると大きいことがわかる。私は研究者ではないので、発掘経過や細かい遺物や、詳細な見解は無視します。私の視点は、この時代の大和政権との関係、祭祀のイメージと歴史、そして出来ることならば、吉備王国の概観です。以前は「前方後円墳に最初から前方部祭祀などは無かったのだ」という意見を聞いてかなり混乱したのですが、今回の説明では「前方後円墳の祭祀は、前方部の祭祀から、4C後半ごろから始まる造り出しと島状遺構を利用する祭祀に変化した」と規定されました。これで、前方後円墳のそもそもの形の成り立ちが、墓をつくる後円墳と人々を招き入れて祭祀を行う前方部よりデザインされたと、私が思っている想定は、変更しなくてもよくなりました(確定したわけではない)。この形象埴輪の登場と、島状遺構、造り出し祭祀の登場は、そもそも同時に起こったのか。わかるのは、金蔵山古墳と機内古墳の祭祀の変化は、ほぼタイムラグがなく同時に起こったということです。つまり、この金蔵山の埋葬者は、かなり機内大和政権とつながりが緊密だったということになります。上の写真は島状遺構の形を確認するためのさまざまな発掘成果を説明しているところ。もともとある岩を利用していたり、葺石を張り付けていたり、説明はあったようだが、あまり私は関心はなかったので適当に写真を張り付けます。今回は展示していないですが、今まで島状遺構の反対側にある造り出しからは図にあるような形象埴輪が出土しています。今回出土した埴輪は、墳丘から転落したとみられる円筒埴輪、朝顔形埴輪のほか頭頂部からのものとみられる直径70センチほどもある大型の円筒埴輪、笠の直径が1メートル近い大型の蓋形埴輪などが出土。島状遺構上からは、小破片しか出ていませんが、柵形埴輪、蓋形埴輪。注目すべきは、溝状部分から柵形埴輪、囲形埴輪、家形埴輪が集中していること。どうももともと溝部分に配置していたようだ。そういうことを含めて、初期の形象埴輪祭祀の解明に貢献する発掘になったようだ。造り出し祭祀と島状遺構祭祀の違い。その解明は、文字資料のほとんどない「古墳時代」初期における、さらに言えば弥生時代の直後の時代の雰囲気をつかむうえでも興味深い。この発掘は、吉備でも珍しい(国指定を目指す)調査発掘です。めでたく国指定になることを願ってやまない。
2018年03月25日
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「日本海を望む「倭の国邑」妻木晩田遺跡」濵田竜彦 神泉社私が妻木晩田(むきばんだ)遺跡を初めて訪ねたのは、国指定遺跡になる直前の98年の夏だったと思う。中国山地を越えると、右手に見事な伯耆富士大山が聳えているのに気がつく。その目下に孝霊山。その麓に、発掘作業が終わったばかりの四隅突出墓が現れた洞ノ原地区を抱えた「日本最大級の弥生遺跡」があった。その墓の特異な形に驚き(私はまだバリバリの考古学ファン初心者だった)、更にはそこから見える弓ケ浜半島の美しさに、私は一挙に弥生時代に戻された。表紙の写真がそれだ。この景観は遺さなくてはならない。説明員ではないが、当然そう思った。あれから約20年。何度ここを訪れたことだろう。今ふと気が付いたが、私はこの遺跡とともに、考古学ファンとして育ってきたのだ。幾つかのシンポも聞き、遺跡も整備され、幾つか報告書や関連本も読んだ。ただ、このシリーズから本が出るのはまだ先だと思っていた。まだ発掘中と聞いていたので、それが済むまではと諦めていた。ここにはこの遺跡のおそらく最先端の知見がある。カラー写真豊富でわかりやすい。発刊を大いに歓迎したい。全てがわかるまで、まだ数十年かかる。こういう普及本で、先ずはこの遺跡の価値を知らしめて欲しい。これが出るということは、そろそろ青谷上寺地遺跡も検討されているかもしれない。この本には、当時盛んにされていた「弥生都市」という言葉や、この地方の王国の「首都」だという表現はされていない。「国邑」といい、「村」といい、「中核遺跡」と表現されている。妻木晩田クラスの遺跡が、全面保存はされなかったが続々と見つかったからだろう。むしろ、それらの遺跡との関連や違いをこれからまとめていかねばならないだろう。以下、新しい知見並びに重要だと思った部分をメモする。○国引き神話に大山が登場するように、出雲地域と鳥取県西部とは結びつきが強い。○「出雲国風土記」で大山を「火神岳」と呼ぶ。有史の噴火の記録はない(最終は一万年前)。当時何かの「伝説」があったのか。○紀元0年 妻木晩田村の始まり、170年(後期後葉)最盛期(この頃倭国大乱)、210年(終末期前半)集落規模縮小、239年卑弥呼魏へ遣使 、(終末期後半)集落規模再拡大 、280年(古墳前期前葉)村の終焉○松尾の絵画土器により、中期後葉に、村に祭祀を行う者、戦闘を指揮する者がいたことが見通せる。○大山山麓には中期後葉から後期前葉にかけて、妻木晩田のように規模を拡大するところと、青木や越敷山のように規模を縮小するところ、更には茶畑山道のように営みが絶えるところがあった。○洞ノ原は、墳丘下部の埋葬施設は発掘していない。○洞ノ原は2基が一対になるように配置。親子か夫婦か兄弟か。或いは、有力ニグループのリーダーか。○洞ノ原は後期前葉に始まり後期中葉に途絶える。50年から80年ほど継続⁈3世代。その間、小型墳丘墓が11基。子どもの早世はそれくらいはあったのか?○洞ノ原の2号墳丘墓は四隅突出墓は採用せず。その後の1号で出雲との結びつきを強めた。○妻木晩田が最盛期を迎えるのは、洞ノ原が終わり、その南の環濠が埋没した後。○後期後葉になって、「山陰随一の大集落」へ。居住単位に3-5世帯とすると、最盛期は最大で100世帯が生活していた。○環濠埋没後に後期後葉に松尾頭地区に庇付大型掘立柱建物が現れる。○松尾頭地区3区で最大(直径7ー8m)の竪穴住居跡から銅鏡片。この建物は、10回以上拡張や建て替えをしていた。特異である。祭祀をする人物か。ただし、鏡や規模以外は、ここは他の居住単位と変わらない。日常生活において、他の村人との大きな差はなかったのでは?○仙谷墳丘墓群は後期中葉から終末期前半、そして古墳前期に作られた。東丘陵の3号(方系)、西丘陵の1号(四隅)、東丘陵2号(四隅)、5、6、7号と作られた。1号こそが、妻木晩田を最盛期に導いた立役者だったのでは。四隅突出墓が採用されていることから、出雲との関係を背景に強力なリーダーシップを発揮していたのか。○妻木晩田で鉄器製作はされていただろう。越敷山では、後期中葉から後葉の住居一棟につき1、2点の小型砥石が出土。小型鉄器が各世帯レベルに普及していた証拠。○山の上に暮らす利点。土地や資源をめぐる他集団との争いを回避。洪水・水害のリスク回避。燃料資源や建築木材。大規模集落では、建築資材の安定供給は欠かせない。よって、数が後期後葉にピークを迎えたとき、資源を再生産する仕組みが機能しなくなり、人口が減ったのではないか。○仙谷では1号以降、四隅突出墓の築造は途切れる。出雲との関係は薄れたかもしれないが、管玉の生産はしていて、その産地が松江市花仙山の碧玉。○洞ノ原のそばに、古墳前期後半から中期前半の古墳(晩田山3号墳は前方後円墳)があるが、洞ノ原墳丘墓群を避けているので、妻木晩田村ゆかりの人たちだったと推測。おそらく、洞ノ原から見渡せる何処かに妻木晩田村の末裔たちが暮らした集落があるはず。2017年9月28日読了
2017年10月01日
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岡山市立オリエント美術館の企画展「カミとヒトのものがたり」に行って来た。これは東京の古代オリエント博物館の企画展との共催で、東京は9月16日から、11月12日まで開催予定。 私の関心は、あくまで日本の弥生時代前後だから、見るべき遺物は中国までだとずっと思ってきた。しかし、岡山県には残念ながら、本格的な歴史博物館がない。それがずっと不満だったが、最近オリエント美術館も面白いのではないかと思うようになった。歴史の古いオリエントの考古学的遺物を見ることで、日本の遺物の価値や位置が見えるような気がするからである。比較考古学という視点で見れば、ここは隣県にはない非常に優れた考古学博物館になっている。今回の企画展は、とても参考になった。 世界中のヒトの歴史では、神話が先ず存在する。科学が発達する以前、世界の始まり、英雄列伝、女神、豊穣の神々、モンスター、死や来世などを、ヒトは神話によって説明してきた。 英雄列伝に関して言えば、いま読書中の「千の顔をもつ英雄」(ハヤカワ文庫/J・キャンベル)で詳しく展開したいが、それ以外の世界の概観を見るにはもってこいの企画展だった。もはや、私にとってここは美術館じゃない。博物館である。 実は私はひとつの仮説を持って、この企画展に臨んでいる。それは、 日本の神には、顔がないのではないか? 反対に言えば、世界の神々は顔を持っているのではないか? 今回の展示で、日本の最も古いそれは古墳時代の表情を持たない相撲力士の埴輪のみなので、参考にならないが、世界のBC3000年代からの神々の造形が展示されてあって、私はある程度の感触を得ることが出来た。 世界最初期の文明メソポタミアで、文字が発明されて、神話や叙事詩が記録されたのが4600年前。この頃の土偶は、メソポタミアも豊かな乳房と臀部が強調され、顔を持たない女性土偶だったり、眼だけが強調されたBC1600の眼の偶像だったり。 しかし、BC1800の円筒印章には、創造神の1人エアがハッキリ形作られている。個性のあるものがたりと共に、神もヒトとして登場する。顔の輪郭はまだハッキリ見えないが、明らかに人間だ。 BC1000のエジプトのシュウに至っては、顔に表情さえあるような気がする。 エジプトでは、BC3000ごろから既に、王は人の形をしている。ナルメル王は最初期の王であり、上端には牛の女神バトがいる。 アフロディーテは、ギリシャ含めて、人間の理想の姿がそのまま女神を体現している。 インドでは、BCの遺物を見つけることが出来なかったが、AD1-3にかけて、見事なハッキリした浮き彫りが何件も残っていた。もうこの頃には、明らかに神の姿は人間そのものだ。 中国では、なかなかBC前後で、神の姿が人間である証拠が探せなかった。これからの課題としたい。 そして、縄文から弥生にかけて、更には古墳時代も含んで、私は明らかな神の姿を描いた造形や絵を見たことがない。遮光土偶等々の縄文土偶は、何か。あれがもし、神々だとしたら、それこそあの顔形そのものが何故あそこまでハッキリ描かれたのか?が問題となるだろう。果たして、土偶は人間なのか?果たして土偶は神なのか? 弥生の明らかな神格「龍」は、決してハッキリ描かれることがない。縄文から弥生にかけての、人々の造形技術は証明されている。私は決して技術的に描けなかったわけではないと思っている。描かなかったのだ。 日本人の神の形がハッキリせずに、外国人の神の顔がハッキリするのは、何故か。 牧畜民族か、稲作かの違いではない。自然をある程度克服してコントロールしていたか、それともそのまま受け入れていたか、の違いではないか。コントロールする過程で、英雄は外国では生まれたが、弥生時代まで、日本では生まれなかった。しかし、豊穣と生殖の神様を敬う意識だけは生まれていた。ハッキリえがくと、災いが全国で起きたのかもしれない。縄文時代は、牧畜をしなくても一万年以上暮らしていける、豊穣の国で生まれた以上、英雄は必要なかったのでは。全ては、受け身の民族特有なのか。 或いは、文字を持っている民族の神は人間に似るという、仮説が立つかもしれない。文字が、つまり他人に言葉で明確に「説明する」という行為が、神を人間化する? 要検証。 現代の若者は、特有の神様の顔を思い浮かべなくても、「頂きます」「ご馳走さま」で、手を合わす。大多数の若者が、「幽霊はいる」「霊はいる」と現代でも思っている。しかし、テレビの特番を見ると分かるが、そこに明確な顔はない。日本の神々に顔がついたのは、仏像以降かもしれない。日本の神様には、顔がない。顔をつくることは、ウソをつくことだったのかもしれない。
2017年08月19日
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さて、昼食は吉備路もてなし館で、もてなし定食(赤米)。ご飯は古代米である。総社では最近大量につくっている。もち赤米の食べ方、ならびに効能について書いていた。400グラム、600円。少し迷ったけど、今回は購入はあきらめる。お店には、近くの軽部神社のオッパイサブレも置いている。お乳の霊験灼かな神社である。そのあと、総社埋蔵文化財学習の館に行く。3~4回目の訪問だが、今回この展示は初めて見た。館の人に詳しく説明してもらった。5~6世紀の狩谷遺跡。発掘当時、丁寧に発掘したので、管の場所が埋納当時のままに再現できた。すると、首飾りでは無いということが分かったらしい。こんな飾りだったようだ。これは朝鮮系の飾りらしい。高梁川の西側。この辺りは、秦氏の遺跡が多く出土しており、渡来人の影響は大きかったと言われている。ちょっと面白い。帰りがけに、秦歴史遺産保存協議会の冊子が三冊も出ていて、フリーペーパーだったので、もらってきた。興味深いのだ、是非今度探検しようと思う。作山古墳の築造当時の模型埴輪も展示していた。見たかったので、嬉しかった。この学習の館は、小さいながらも、展示品は充実している。絵画土器の優秀なものが多く、刺青顔の絵は見たことの無いものもあった。また、この龍の絵は見たことの無いものだった。鹿の絵もかなり抽象的だ。このあと、吉備埋蔵文化財センターにも行く。そこで、このような土偶作品も見た。幾つか例外があるけど、古代絵画の大きな特徴は、抽象的である、ということだ。それは技術がなかったのだ、とずっと思ってきた。しかし、違うのでは無いかという気がしてきている。古代では、絵画や造形は、具体的な人に似せては「いけなかった」のでは無いか?「忌み」だった?だから、あったとしてもこんなにも「表情がない」のだ。似せてしまうと、魂が宿り、災いが起きてしまったのでは無いか?土偶は、全て割れて存在する。それと、関連するのではないか。 というようなことを、初めて思って遺物巡りをした久しぶりの考古学の旅でした。
2017年07月18日
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今年1番の猛暑日に、ずっと懸念だった作山古墳を見た。造山古墳(全長360m)については、何度も登ったのだが、作山の方は真剣に登ったことがなかった。前者は全国第4位、後者は全国第10位。古墳時代は、守備範囲では無いけれども興味が全く無いわけでは無い。 全長282m。5世紀中頃築造。造山のあとに作られたと言われている。 写真の空撮を見ると、かなり禿山に見えるので、そのつもりで行ったらかなりの草茫々だった。20数年前に総社に住んでいた時は、こんな風だったと思う。この時に行けば、埴輪列が直ぐに分かったのかもしれない。とりあえず、草を分けて、たいへん珍しいという造出(つくりだし)を見にゆく。草茫々で、よくわからない。西側のみに、造出ともう一つ造出状の方形突出部があるらしい。他の古墳には例が無いらしい。作りかけて止めたものかもしれない。後円部に向かう途中に、土の道に、明らかに埴輪土器が埋まってあった。展示ではない。日本の整備された古墳で、こういうのが残っているのは非常に珍しい。現在残っている埴輪列を見る限り、少なくとも5千本以上の埴輪が並べられていたらしいので、歩けば土器が残っている割合はかなり高いと思われる。ちなみに未発掘古墳である。 頂上からは、木に阻まれて特別な景色があったかはわからなかった。造山も見えるとは思えない。国分寺は良く見えるが、これは後代の建築。 おりて行って、埴輪列があるという場所に行こうとしたが、草木高くて、とても行けなかった。そのそばで見つけた土器片。 作山は自然丘陵を削ってつくるやり方である。しかし、写真の右側が作山で、左が残された丘陵である。本来なら取り除く前方部全面が削られていない。これは、5世紀中頃、吉備国に政変が起きて、途中で造成中止になったのでは無いか?と言われている。(大和の吉備征服の事件の名残りだろうか) 因みに、「盗掘された大きな穴は存在しないことから、古墳の主は今も後円部の中央の奥深くに眠っているものと思われる」という説明書もある。そもそも墓は存在しない可能性もある。それを含めて、未調査の大型古墳である。X線調査とかで、何かあるかどうかだけでも調べることはできないのか? 続く。
2017年07月17日
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4月16日、初めて造山古墳まつりに来た。後ろの山が全国四位の古墳、造山古墳である。晴れて良かった。 古代食の試食が出来る! 野蒜やドングリ、鹿肉など初めて食べた!美味しかった! ドングリで食べることの出来るのは、マテバシイの実だけらしい。皮を向いてお湯で茹でる。もっと苦いのかと思いきや、ほとんど芋!これは確かに主食にできる。 クッキーも作られていた。 ドングリ茶はあっさりしていてとても美味しい。 椎の実ケーキは、なんと二枚100円!このまつりは地域主催の自治体まつりのようで、催しは全部小学生や地域の人々が登場する。だから、営利を求めないので、とっても安い!しかも、工夫している。古代食がこんなに食べれたのは初めてである。私の興奮を察して欲しい。 千足古墳の直孤紋を模したチョッコモンも何と100円。実は帰ってじっくりとみたのだが、この再現度にはビックリ!小さなチョコなのに、本物そっくりの模様を作っている。すごい!すごい!絶対販売するべきだ。 猪肉を入れているという古墳カレーは300円。ちゃんと前方後円墳にご飯をくりぬいている。私ならば、倍の値段でもOKだ。 古墳寿司。加茂学区の愛育委員会が作っていた。当然前方後円墳に形をくり抜いている。あっ、岡山名物のまつり寿司です!菜の花や飾りになんと桜の花までいれていた。お母さんたちが頑張った成果。400円。 ちゃんと学習コーナーでは、塩を作って展示。藻塩で作ったという。藻が残った塩などを試食させてもらった。ミネラルいっぱいで美味しい。赤米のおじやに入れるとさらに美味しかった。最終的には真っ白になるらしい。それでもやはりミネラルいっぱいで、きちんと味がついていた。 暑かった。でもすごかった。
2017年04月16日
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この冬、岡山県立博物館で開かれていた「とっとり弥生の王国 妻木晩田と青谷上寺地」展の紹介の続きです。説明版を見る方が、私のつたない解説よりもためになると思うので、ぜひ読んでください。若干感想だけ付け足しておきます。中期から後期にかけての漁労民の道具の共通性は、土器ほどの村の共同体の縛りはないが、同じ技術を共有する「文化」の交流があったことを示しているだろう。地図を見ると、朝鮮半島にあまり類例がないのが気になるが、まだ未発掘の場合もあり得るし、ごっそりその「文化」を持った人々が「ボートピープル」のように移ってきた可能性もある。中期から後期まで約500年も長い間の出来事である。説明には青谷の木製技術の高さのみが、書かれていて、それはそれで重要な私的なのだけど、もう一つ重要なのは、なぜ高杯の下の部分に必要以上の意匠が施されたのか、ということだろう。日本人の美意識は、その後着物の裏地まで続くことになる。目に見えるところに意匠を施すのは、中国でもする。しかし、見えないところにするのは、もしかしたら日本人の発明なのではないか。この籠の技術は、現在では使われていない編み方も含めて、弥生人の「能力」が決して現代人よりも劣っていたわけではないことを如実に示すだろう。復元品を写真ではなく初めて見て、ものすごい迫力があった。作った人は人間国宝にしてもいいぐらいだ。この壺は、山陰の朝鮮半島との交流の証拠ではある。山陰の鉄器の数は突出している。そのことは覚えておかなくてはならない。有名な額に穴のある骸骨以外に、殺傷痕のある骨はいくつか展示されていて、そこから「殺りく」のむごさが見える。そんなこんなで「弥生時代の最重要遺跡」であることは間違いない、貴重な展示会でした。
2017年03月04日
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