TRENTINO-Alto Adige ~南チロルの町たち~ 30
EMILIA-ROMAGNA ~エミリア・ロマーニア~ 161
La Costiera Amalfitana ~アマルフィ海岸 105
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イモラの町の中心部から少し、北西に歩いてゆくと、緑の芝生に覆われた公園のような広場があらわれ、その向こうにスフォルツァ家の要塞が見えてきます。ヴェネツィア年代記に、「最高の精神と度胸を持った女、疑いもなくイタリアのプリマ・ドンナ」と記されたカテリーナ・スフォルツァ。彼女の領土の西端にあるこの要塞は、堅固な構えでありながら、どこか優美な美しさがあります カテリーナ・スフォルツァといえば、最初の夫であるリアリオが家臣によって暗殺されたとき、陰謀者たちが彼女の子供を人質にとって降伏を迫ったときにその気迫と機転によって城砦を守ったという話が有名。城塞に立てこもったカテリーナに、子供たちに剣を突きつけて降伏を迫った謀反者に対し、城塞の上に立ち上がった貴婦人はやおらスカートを捲り上げると、「馬鹿者め!子供などこれであといくらでも作れるのを知らぬのか!?」と、大声で怒鳴ったとか・・・「これで」っていったいどれのこと??なんてちょっとドキドキしちゃいますが夫の暗殺の数年前に、父親を暗殺されていたカテリーナ。陰謀者たちは度重なる不幸にうろたえる貴婦人をイメージしていたのかもしれませんが、カテリーナも女性とはいえ、一介の傭兵隊長からミラノ公爵へと成り上がったスフォルツァ家の娘。この、あまりにも想定外だったカテリーナの反撃によって呆然、唖然とする陰謀者たちから無事に子供たちを保護し、その後10年以上にわたって領土を守ってきたカテリーナ。その気概の政治はしかし、弾圧と恐怖をもって領民を苦しめたため、やがてイタリア統一をもくろんで進軍してきたチェーザレ・ボルジアに対し、イモラの民衆は待ってましたとばかりに城門を開き、若き侵略者に対して「リヴェラトーレ(解放者)!」と熱烈歓迎。それを知ったカテリーナはイモラ市民の人質をすぐに絞首刑に処してしまいます。1499年11月25日、イモラの町へ入城したチェーザレ・ボルジアは、カテリーナの重臣ナルドが守るこの要塞を包囲します。領主カテリーナはというと、領国の首都であるフォルリの防衛線をはるために必死で、度重なるナルドの援護要請に応えることができず、ついに12月13日、イモラ城代ナルドはボルジア軍のまえに降伏します。 今では静けさに包まれているこの要塞にも、砲弾が降り注ぎ、兵士たちが駆け巡った時代があるのですね~。チェーザレ・ボルジアも、この橋を渡って入城したのでしょうか。 イモラの要塞を手に入れたチェーザレ・ボルジアはその後、休むまもなくカテリーナの立てこもるフォルリへ攻め込みます。12歳年上の貴婦人に対し、畏敬の念を抱いていたといわれるボルジアの風雲児、チェーザレ。降伏すれば生涯、年金つきの平穏な暮らしを保障するとの申し出をはねつけたカテリーナは、子供たちや宝石といった財産を、3番目の夫の実家であるフィレンツェのメディチ家に預け、フォルリの城塞に立て籠もります。みずから剣を取ってチェーザレ・ボルジアに真っ向勝負を挑んだイタリアのプリマ・ドンナは最後はまたしても見方の家臣に裏切られるという形でボルジア軍にとらえられ、ローマに幽閉された後、2度と再びエミリア・ロマーニャの土を踏むことなく、フィレンツェでその波乱の生涯を閉じます。カテリーナの領土で、最初にボルジア軍に扉をひらいたイモラでしたがその後、ボルジアの没落とともに、周囲の町が次々に復権する中、最後までチェーザレ・ボルジアに忠誠をつくしたのだそうです。この小さな町がそんな歴史の舞台になっていたとは知らず、今までF1でしか知らなかったこの町。。。今ではとっても大きな存在に思えてしまったのであります。
October 17, 2009
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イモラの中心、マッテオッティ広場。広場に面して建てられた、この優美なお屋敷は、代々イモラの領主が住んでいたというお屋敷で、セルサンティ館と呼ばれています。15世紀に建てられたというこのお屋敷、中世のころは「リアリオ・スフォルツァ館」という名前だったそうです。リアリオ・スフォルツァは、ルネサンス時代のイモラの領主様教皇の親戚筋にあたるリアリオは1474年、スフォルツァ家の娘カテリーナと結婚し、彼女の父であるガレアッツォ・マリア・スフォルツァが結婚持参金としてこのイモラとお隣のフォルリの領土を与えたんだそうです・・・・結婚持参金が二つの町。。。いや、今でこそ町だけど、そのころのイタリアだったらどちらも「国」的な扱いだったはず。さすがスフォルツァ家、大きくでましたねぇ、と、ため息結婚当時、まだ11歳だったというカテリーナはやがて、歴史に名を残す女傑として運命に翻弄されてゆきます。24歳のとき、夫のリアリオが家臣によって暗殺。2番目の夫もまた、暗殺。3番目の夫は病死。息子に代わって領主を務めざるを得なかったカテリーナは、その抑圧的な政治で領民の心をつかむことができず、やがてチェーザレ・ボルジアによって支配権を奪い取られてしまいます。 このお屋敷は、そんな激動の15世紀末~16世紀を、静かに見守ってきたのですネ。建物の2階部分には、燭台の形をした照明が並んでいて、その下にはトスカーナ風といわれる線の細い、優美なポルティコ(柱廊)がつけられています。夕暮れのマッテオッティ広場でしばし、中世に思いを馳せてみましたが、この照明に明かりがともる夜の広場はまた、もっと幻想的で美しいのではないかと思いました 広場の北側を貫く、エミリア街道です。昔ながらの街道筋の雰囲気がただようトコロですが、もう少し、カテリーナとチェーザレ・ボルジアの時代に浸ってみたくて、町の北西部に残る、スフォルツァ家の要塞に行ってみたいと思います。。。
October 16, 2009
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サンマリノの共和国宮殿の壁に、見覚えのある紋章を発見中央の交差する鍵をはさんで右上に赤い雄牛、その下と対角にフランス王家をあらわす百合の紋章。チェーザレ・ボルジアの紋章です。サンマリノの歴史は4世紀までさかのぼることが出来るそうですが、その長い歴史の中で、実は2回ほど侵略されています。そのうちの1回が西暦1502年のチェーザレ・ボルジアの進軍によるもの。わずか6ヶ月ほどの支配の後、サンマリノは再び独立を宣言するわけなのですが、そんなわずかな期間の降伏を、わざわざこうして残すものなのでしょうか?なんて書いてあるのかがわかればいいんですけど、まったくチンプンカンプン どなたか、わかる方いらっしゃったら教えていただきたいです~。実は今回の旅のテーマである、エミリア街道について色々調べているうちに、チェーザレ・ボルジアという人間について少しずつ興味を持つようになりました。塩野 七生さんの「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」という本には、隣国のウルビーノへの電撃的な攻略については詳しく書かれているのですが、サンマリノに関してはあまり触れられていませんでしたし、私自身、あまり気に留めていなかったので、ココに来てこんな大きな紋章を見て、再び疑問と興味がわいてきてしまったというワケなのであります。なんだかマニアックな話なんですが(笑)、ちょっと気になる、チェーザレさんのステンマなのでした。。。
October 9, 2009
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リミニの市内循環バスに乗って、旧市街へ。町の中心である広場を目指します。ふと見ると、右手、車窓からアウグストゥス門が見えましたあの門が、リミニとローマとを結ぶフラミニア街道の起点。そう、リミニはエミリア街道だけではなく、フラミニア街道の起点でもあるのです一緒にバスに乗っていた観光客はぞろぞろとここで下車してゆきます。お目当ての広場はこの門をくぐって数十メートル歩いたところだからです。私は、まずはエミリア街道の起点であるティベリウスの橋に行くつもりでしたので、もう少しバスに揺られて。。。。 堅固な城壁が見えたところでバスを降りました。外国のバスって、次の停留所の案内とかしてくれないですよね、だからドキドキしちゃいますこの城壁が、リミニ領主、マラテスタ家のお城、ジスモンド城です。13世紀から15世紀にかけてリミニを治めてきたマラテスタ家は、学芸を奨励し人文学者たちを保護する反面、残虐な一面を持っていたことでも知られています。このお城を設計したジスモンド・マラテスタにも、最初の奥さんと離婚した後、2番目の奥さんを毒殺、3番目の奥さんを絞殺して、最後に愛人と結婚したというエピソードがありますソコまでして結婚した愛人というのもスゴイですよね。 私だったら眠れないわ・・・なんて、そんな小心者だったらそもそも愛人にすらなれないけど残酷さ、冷酷さというものは目の当たりにし続けると感覚的に麻痺するものなんでしょうか、代々受け継がれた残虐性によって、リミニの民衆に見放されたマラテスタ家はやがて、時代の風雲児、チェーザレ・ボルジアにその城を明け渡すことになります。 ジスモンドの後を継いだパンドルフォ・マラテスタは、自らの暴君ぶりが災いして民衆から憎まれ、ボルジアの足音が聞こえてくると夜逃げ同然にヴェネツィアへ亡命し、チェーザレ・ボルジアは剣も砲弾も使うことなく、リミニへと入城する。。。古代ローマの二つの街道が交差する町、リミニはまた、歴史が交差する場所でもあったのですね。参考図書:塩野 七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」↑マンガで読める!チェーザレ・ボルジア伝記。
September 25, 2009
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