わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年05月26日
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カテゴリ: 伝説、伝承、神話


メドゥーサ信仰の衰退と神殿破壊の事をずっと考えていました。

そしてメドゥーサ信仰は消えたのにナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)は今も広範囲で利用されている。
メドゥーサの蛇眼を護符にしたナザール・ボンジュウを調べていて、ふとギリシャ神話との関連に思うところがあり、自分なりに仮説を立ててみました。

メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 2  パルテノン

アテナイ信仰vsメドゥーサ信仰(ギリシャvsペルシャ)
ペルセウス=アレクサンダー大王 そしてアテナイ神のサジェスト
ナザールボンジュウの遠征

アテナイ信仰vsメドゥーサ信仰
一つは、 メドゥーサが首を落とされアテナイの楯になったと言うギリシャ神話ですが、 それらは、案外元になる史実があったのではないかと思ったのです。

メドゥーサの首は最終的にアテナイの盾アイギスにはめ込まれる。
ギリシャ神話では当然ギリシャ側が正義で、対する怪物は悪です。
信仰で置き換えると、アテナイ信仰が勝利者で、メドゥーサ信仰は負け組。


でも、 実際は アテナイ信仰が勝ったわけではなく、 メドゥーサ信仰のあったトルコがギリシャの手に落ちた事をさしている。と思わ れる のだ。
※ トルコ(当時はアケメネス朝ペルシャの時代)、ギリシャ(都市国家アテナイをさす。)

当時、地に落ちていたギリシャ諸都市、とりわけアテナイの衰退。
マケドニアの王 アレクサンダー大王のおかげで、バルカン半島(現トルコ)の一部の征服権利を勝ち得て奇しくもアテナイは復活できた
一時ないがしろにされ、 ギリシャ神域が破壊された報復を今度はペルシャ側にしたのではないか ?

「アテナイ(アテナイ神)が゜ペルシャ(メドゥーサ神)に勝った!! その 史実をギリシャ神話に刻んだのかもしれない

BC5世紀アテナイはギリシャ諸都市の中でもトップにいた。ところが、 ペロポネソス戦争でスパルタに大敗(BC404)してからギリシャでの主導権も失う。アテナイは領地もどんどん失い地に落ちていた

一方ペルシャ王アルタクセルク2世の勢力はすごく、黒海沿いのエフェソス、ミレトス、プリエネなどの多くの都市がペルシャの支配下に置かれていった。、

アテナイの雄弁家イソクラテスはアテナイのふがいなさを激怒して「ギリシャの危機の書」の中でこう言い放っています。
ペルシャの押し付けた屈辱に終止符を! ギリシャの神域の破壊に復讐を! 王の王(ペルシャ王)のくびきの下につながれた小アジアの姉妹都市を解放に行こう!」

ではどこがそのイニシャチブを握るのか?
アテナイに失望していたイソクラテスはマケドニアのフィリポス2世(アレクサンダー大王の父王)をたきつけるのですが、あっさり王は暗殺され、 まだ20になったばかりのアレクサンダーが王位と後を引き継ぎ、あの大遠征につながります。
結果イソクラテスの望みはアレクサンダー大王により叶えられた。


アレクサンダー大王はギリシャの北部のマケドニア王国の出身(現在のマケドニアは関係ない。)で、むしろギリシャを征服した側の国であるが、 王はバルカン半島をあっさり落とすと処理をギリシャ諸都市に委ね(一部)自らは、アジア遠征に向かってしまいます。
つまり大王は取り返した土地を自分のものとせず、ギリシャに返したのである
。(小アジアの姉妹都市はペシャから解放された。)

こうした中で、「 マケドニアに批判的だったアテナイがアレクサンダー大王に勝利の祝辞を贈っている 。」
想定外な事が起きた? ギリシャ諸都市の歓喜とアレクサンター大王への感謝がそこに見えます。
何しろ自分らは何もせず、バルカン半島をギリシャの手に戻せたのですから・・。

ペルセウス=アレクサンダー大王 そしてアテナイ神のサジェスト
ギリシャ神話の中のペルセウスの冒険のメドゥーサ退治ですが、これはある意味アレクサンダー大王の遠征の成功に繋がる気がします
ペルセウスがアレクサンダー大王だったと考えてみると解り安いです。

ペルセウスの成功の鍵はアテナイ神の存在 です。
神話では、アテナイがその力を見せる為にペルセウスの物語の要所要所でサジェストする。
それはアテナイ神の存在をアピールしているかのよう。

ペルセウス物語は、もしかしたらアレクサンダー大王への祝辞であったのかもしれません。
でも執拗な物語の中のアテナイの存在。
それは、現実に重ねて・・。 アレクサンダーの活躍は「アテナイ神のおかげですよ」と暗に語っている 風にも読めます。いや。そう語っているのかもしれない。ぽっ

最古の歴史書と言われる ヘロドトス(BC485~BC426)の「歴史」は、現在はかなり信憑性がなくなってきているらしい。
「ヘロドトスの悪意」として、 歴史的事実がかなり歪められて語られている事がわかって来 たから だそうだ。

ギリシャの歴史は、ギリシャ側でない角度からも見ないと真実にたどり着けないようですね。


ナザールボンジュウの遠征
もう一つ。 ナザールボンジュウのメドゥーサの蛇眼がなぜイランまで渡っているのか?
それはいつ頃広まったか? です。


確信は持てていませんが、 アレクサンダー大王の遠征にともなって広がったのでは? と考えてみました。
ひょっとするとそれ以前のアケメネス朝ペルシャの可能性もありますが、アレクサンダー大王の遠征、征服後の各国諸都市にとった彼の行動から考えると彼以後は考えられないからです。

彼の没後の帝国解体からヘレニズム文化が始まります。その時はすでにメドゥーサ信仰は途絶えていたと思われる事もあります。

アレクサンダー大王は征服後も各諸都市にほとんど変わらない自由を与えています。
言語も文字も宗教さえも、ペルシャを押しつける事はせず、各諸都市の文化伝統を非常に重んじて慎重に取り扱っています


彼の遠征が成功したのはそうした文化尊重があり、とりわけ地方のエリート層の協力? 見方につけたからだとも考えられます。
(そうすることでこそ安定した政権が望めると言う教育を受けていたからかもしれませんね。)

彼の治世はとても短いので、「短期間」と考えるとやはり無理があるように思われますが、遠征に加わった者の中にメドゥーサのお守りを持っていた者いたかも?
それが友好的な征服と遠征の過程で広がって行ったかも?

アレクサンダー大王の遠征は、異文化交流の橋渡しになったと考えられるからだ。

下はギリシャ、アテネのアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿
アクロポリスにあるパルテノン神殿 3
パルテノン神殿はアテナイ神を祭る神殿です。
(BC438~)現在残る神殿はペルシャ戦争(BC492~BC449)後に建築されたもの。
破壊などにあい、修復、増築などを繰り返している。
※ 現在も修復工事中ですし、外から眺めるだけです。

長さ68.7m、幅30.6mの周ドーリア式神殿。  ユネスコの世界遺産文化遺産)に登録。
アクロポリス、パルテノン神殿 1
アテナイ神は知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一人 で、アルテミスと並んで処女女神として有名。

起源的には、ギリシア民族がペロポネソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した 城塞都市の守護女神 であったと考えられている。

女神を都市の守護者とする崇拝は、ギリシア全土に及び、有力な都市でも中心となる丘上には必ず女神の神殿があったとされる 。(女神アテナイの話は次回に)

下はアクロポリスの向かいにあるフィロパポスの丘より撮影。
アクロポリスにあるパルテノン神殿 2


アレクサンダー大王は私が好きなキャラです。彼の話は、いつか特集をするつもりで温めていたので、こんな所でサブ的に登場では不本意です。良い関連写真が見つかったらきちんと主役で取り上げる予定です。






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Last updated  2017年12月02日 22時13分28秒
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