撮影日記 0
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DD1611牽引:「パノラマ八ヶ岳号」昭和61年8月、小海線に行ったのはこの時が初めてだったと思います。当時の小海線はキハ52や58ばかりで、特に変わった路線ではありませんでしたし、アンノン族と言われたミーハーどもが集まるところなんか行きたくもありませんでした。たまたま全国的にも貴重になったDD16型が客車を牽くということもあり、何となく連れられていった感じです。「パノラマ八ヶ岳号」は、DD16がヨ+ヨ+ヨ+オハ46+ヨ+ヨという6両編成を牽いて運転されています。昭和60年頃に緩急車の連結が廃止されたため、大量に余剰となった緩急車をこう言ったイベント列車として活用する例が見られ始めた頃だと思います。撮影は、平成61年8月ですが、残念ながら何故か日付の管理がされていませんでした。入場券も購入していませんので、特定できません。前後のコマからするとお盆休みくらいのようです。確か夜行日帰りで行った記憶があるので、1日に2往復していたと思われます。当時は大量に余った客車や緩急車(車掌車)が活用され始めた頃。ヨ8000は1ボックス4人分しか席がなかった筈なので、どのように乗せていたのでしょうかね。貨物列車の廃止で既に貴重な車両になっていたDD1611も動態保存のごとく使用されてきましたが、2021年12月27日に廃車、翌年に解体となったようです。
2023.08.07
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国鉄 城端線:キハ45系?のサボ城端線は、北陸本線高岡駅から分岐して城端駅までを結ぶ富山県内の路線です。若い頃、少しだけですが乗り鉄をしていた時代があり、1度だけ訪問したことがあります。昭和57年8月8日確か一日中雨で、ただ乗って往復しただけのような記憶です。途中も殆ど寝ていたような・・・。車両も撮らずにサボだけ。本当は形式を一緒に入れて撮れば良かったんですがね。古いサッシ窓のようなので、キハ45系のようです。
2023.08.03
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キハ52系・キハ58系:小海線小海線といえば、鉄道の中でも最も標高の高いところを走る高原鉄道としてあまりにも有名です。観光地を控えながらも、自分的には「良く廃止対象にならなかったな。」と思う路線のひとつです。その昔、私が小学生の頃は、長野から篠ノ井・中央東線・小海線を経由して長野の戻る急行「すわ」と、反対廻りで長野から信越本線・小海線・中央東線を経由して長野に戻る急行「のべやま」という一風変わった列車が走っており、関心はあったのですが、あまり訪れる機会はありませんでした。そして、昭和60年に友人のクルマでドライブに行くものの写真は全く撮っておらず、翌年の8月にDD16牽引の「パノラマ八ヶ岳号」なるものが走ることになったため、改めて同線を訪れています。昭和61年8月 小海線にて両勾配のある同線だけに、2エンジン車のキハ58やキハ52が活躍していたようで、列車が来るたびに、両形式が混合で連結されていました。キハ58は冷房車が投入されているにも拘らず、電源を供給するキハ28が連結されていないために冷房が使用できないようで、窓全開で走っていましたね。まあ高原列車ですから、新鮮な空気をいっぱいに吸い込んで旅するのも良いことでしょう。小海線には、ハイブリッド車が走るなど明るい話題も出ています。写真のような「国鉄」の油臭いディーゼルが走っていたのも遠い過去の話になってしまいそうです。せっかく訪れた小海線でしたが、なぜかこの時の撮影記録が全く無く、何処で何日に撮影したのかも判らず、入場券すら購入していません。暑かったかどうかまでも思い出せない、忘れられてしまった記憶の中の風景となってしまいました。※金町のH様の情報により、この撮影区間が佐久広瀬~信濃川上間であることが判りました。情報ありがとうございました。
2023.07.20
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103系:常磐快速線常磐快速線は、上野~取手間を走る路線であり、千代田線との相互乗り入れとなる北千住~取手間の緩行線とは分離されている急行線区間です。本線系統である401系~415系、或いは優等列車等と同じ路線を走る通勤電車となっており、中央快速線と性格的に似ています。通勤型電車としては戦前型国電を経て103系化されており、101系の導入実績はありません。その点では、近代化が遅かった路線と言えます。昭和53年頃? 三河島駅にて愛機のキャノンFTbがしばしばシャッターの走行ムラを起こすようになりました。そんなこともあって、画面の左側が極端に真っ暗になってしまった写真。低窓ですが、方向幕の表示と正面下部に通風孔がないことから、冷房改造車編成のようです。新製配置の無い常磐快速線に、やっと冷房車が配置になった頃でしょうか?昭和57年の5月頃か10月頃 上野駅にて東北新幹線か上越新幹線の開業の前だと思います。高架ホーム12番線には、折り返し成田行きの103系常磐快速電車。もう時代的には後期に入る頃なので、冷房改造が実施されています。その横下には16番線に停車中の583系「はつかり」がいます。583系の長大編成の特急列車は、こうして見ると貫禄タップリですね。この時代は結構な乗車率を誇っていました。残念ながら17番線の列車は見えませんが、さらに18番線には東北本線方面の455系急行列車が停まっています。平成15年5月3日 南柏~柏間にて一気に時代は飛んで、いきなり最晩年です。確か、103系は10両編成、5両編成とも2編成ずつしか残っていませんでした。日中は本数がただ出さえ少ないので、やっとの想いで撮った1枚です。上野駅でアルバイトをしている時代から、常磐快速というのは縁が深い電車でもあったわけですが、とにかく、興味の対象ではありませんでした。山手線、総武・中央緩行線、中央快速線と、ことごとく103系の写真がありません。当時は103系なんてフィルムが勿体無くて写真なんてまったく撮る気がありませんでしたが、いま後悔している一分野です。103系1000番台:常磐緩行線(千代田線代々木公園行き)TOMIX 国鉄103系 エメラルドグリーン 販売が告知されました。通勤者でもグレードにこだわって製品化されることは歓迎ですが高過ぎだろ!こんな金額がスタンダードになってしまうなら、もうNゲージは買わない。送料無料◆セット販売 98534/98536 TOMIX トミックス 国鉄 103系通勤電車 (初期型非冷房車・エメラルドグリーン) 基本セットA(3両)+増結セット(2両) Nゲージ 鉄道模型 【11月予約】9017 TOMIX トミックス 国鉄電車 サハ103形 (初期型非冷房車・エメラルドグリーン) Nゲージ 鉄道模型 【11月予約】98536 TOMIX トミックス 国鉄 103系通勤電車 (初期型非冷房車・エメラルドグリーン) 増結セット(2両) Nゲージ 鉄道模型 【11月予約】送料無料◆セット販売 98534×2/98536/9017×2 TOMIX トミックス 国鉄 103系通勤電車 (初期型非冷房車・エメラルドグリーン) 基本セットA(3両)×2+増結セット(2両)+サハ103形×2 Nゲージ 鉄道模型 【11月予約】
2023.05.21
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103系:鶴見線205系による103系の淘汰が顕著になってきた頃、各線の103系を手当たり次第に撮ってきました。その際、鶴見線にも訪問しています。旧型国電に廃止以来、鶴見線を訪問することがありませんでしたので、103系としては最初で最後の鶴見線訪問でした。撮影は、すべて平成14年5月5日です。国道駅にて旧型時代も含めて、初めて下車しました。国道駅って、何か昭和30年代の映画に出てくる風景のセットのように感じました。写真は645のリバーサルダイレクトプリントですが、あの頃デジカメを持っていたら駅の写真をたくさん撮っていたことでしょう。浅野駅にて鶴見方面から分岐への進入。複線同士の振分線は、奥羽本線の「赤岩」を思い出します。(周りの風景が違いすぎますけど・・・。)浅野駅にて逆光でチョット厳しい写真になってしまいました。しかし、この芝浦支線のホーム、都会にあるまじきカーブですね。安善~武蔵白石間にて高圧線柱を兼ねたうっとしい風景。普通なら腹立たしいのですが、鶴見線らしいという風景でしょうか。鶴見線は、103系が終焉まで残った路線ですが、低窓車のみ残留配置という、ある意味幸運な路線でした。すべてが3両編成運用のためクモハが必要なこと、上り下りで違うタイプの運転台に不都合があったこと、などが考えられると思います。旧型国電 73系:鶴見線【中古】Nゲージ KATO(カトー) 10-1247 101系 鶴見線 3両セット 【A´】 外スリーブ若干の傷み10-1744D KATO カトー 103系 (カナリア) 中間車3両セット Nゲージ 鉄道模型(ZN94057)10-1743D 103系〈カナリア〉 4両セット[KATO]《発売済・在庫品》
2023.05.20
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107系100番台:両毛線民営化以降、高崎地区のローカル運用で永らく活躍してきた107系電車。平成29年9月末にすべての定期運用から離脱し、平成29年10月7日のさよなら運転をもって完全に撤退することになりました。昭和63年、急行形の165系の機器を流用して製造された近郊型の車両で、台車や冷房装置に種車の面影を色濃く残していました。先に誕生し、平成25年3月ダイヤ改正をもって運用を離脱した日光線用の107系0番代から4年半で後を追う形で形式消滅となります。平成20年8月2日 桐生駅にて両毛線を走る4連で、たまたま18きっぷで周遊していた際に乗車したもの。107系に乗ったのはこの時が最初で最後となりました。車内禁煙になってから久しいですが、107系には各ドアの脇に国鉄時代の灰皿が残っており、ロングシートながら喫煙ができる状態であることに驚いたものです。この時代でさえ、とても喫煙できるような雰囲気ではありません。
2023.05.08
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E217系:東海道本線 普通列車平成16年10月、湘南新宿ラインの増発に伴う整理が行われ、横須賀線専用形式であったE217系15連3編成が国府津車両センターに転属、ラインカラーを湘南帯に変更し、東海道本線を走るようになりました。東海道本線も横須賀線も15連を基本としていますが、ご存じのとおり付属編成の連結位置が異なっているため、転属に当たっては組み替えも行われています。その後、一部が横須賀線に戻されたりと変遷がありましたが、上野東京ラインが開業する平成27年3月の改正をもって、東海道本線に残っていた2本のE217系が横須賀線に戻され、約10年にわたる東海道線での活躍に終止符が打たれることになったようです。平成20年8月16日 E217系 F-51編成 小田原駅にて平成19年11月23日 E217系 F-53編成 茅ヶ崎駅にて平成21年2月28日 E217系 F-53編成 横浜~東神奈川間にて平成25年10月12日 E217系 F-52編成 大井町~品川間にて時代的変化は乏しいですが、撮影時期に開きのある最後のコマのみ、運転台窓下部にあった「E217」のロゴが「JR」に変わっています。これは横須賀線の本家E217系も同様の変化となっているようです。横須賀線の帯色が変化した時期と一致しているようでした。最近は東海道方面がご無沙汰になっていますが、新幹線500系や「富士・はやぶさ」などを撮りに行った際は遭遇率が非常に高かったように思います。それでも撮影したものとなるとこの4コマしか見つかりませんでした。マークしていない時に目の前に現れ、乗車してしまう、というパターンが多かったかもしれません。
2023.05.07
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113系(関西色・阪和色):紀勢本線紀勢本線は、昭和53年10月に和歌山~新宮間が電化されましたが、当初は特急「くろしお」のみが電化され、急行「きのくに」や普通列車は電車化できずにDCのままでした。置き換えによって発生した電車が押し出しで紀勢本線にも使用されるようになり、とりあえず普通列車には113系や165系が使われるようになります。紀勢本線の電化区間へは1度だけしか撮影に行ったことがありませんが、その際に113系も3カットほど撮っていたのでご紹介いたします。全部プリントからのスキャンですので、画像がガチガチな点はご了承ください。※撮影は、昭和59年7月6日です。周参見~見老津間にてクハ111はグローブ型ベンチレータの初期車です。1個目が箱型なのは?白浜~朝来間にて下の写真はどちらかが阪和色で、もう一方が関西色だったと記憶していますが、モノクロの印象がどちらも変わらないので分からなくなってしまいました。こういう写真こそはきちんとカラーで使い分けるべきだったなと思います。上の写真は先頭車のみ押し込み型ベンチレータの冷改車、それ以外はグロベン型初期車の冷改車、下の写真はオール初期車の冷改車のようです。113系阪和色はこの時以外に撮影しておらず、カラーで撮らなかったのが本当に惜しまれます。
2023.04.28
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101系1000番台:武蔵野線武蔵野線は、厳密に言いますと東海道本線の鶴見~府中本町~南浦和~新松戸~総武本線の西船橋までを結ぶ本線と、大宮操車場を結ぶ支線(西浦和及び武蔵浦和を結ぶ路線)、さらに南流山から北小金及び馬橋を結ぶ連絡路線、新小平から国立を結ぶ路線すべてを含んでいます。ただし、ここでは一般的には貨物専用線を含まない、府中本町~西船橋ということで整理しておきます。昭和48年4月1日、府中本町~新松戸間が開業しました。運転当初から接続駅を除き、自動改札が国鉄で初めて登場したことでも知られています。武蔵野線では、騒音防止のために「新秋津~新小平~西国分寺」間に設けられた長大な隧道(トンネル)を走らせるため、列車火災防止のための難燃化対策(A基準)を施した車輌を用意する必要がありました。それが101系1000番台で、全車とも改造により誕生しています。首都圏を走る101系の中では特異たる存在のため、武蔵野線の専用車輌ということができると思います。開業以来、その特殊性から長らく同系が頑張っておりましたが、寄る年並みには勝てず、103系や青梅・五日市線との共通運用の201系に後を譲り、引退しています。当時、あまり通勤型の写真は撮っていなかったので、残っている写真はほんのわずかですが、今日はその中から2枚をアップいたします。昭和56年5月 府中本町駅にて セミ判(6×4.5)の試運転のとき、南武線の撮影の帰り道に撮ったものです。そろそろ101系の存在が貴重になっていた頃なので、駅撮りではありますが取り敢えず撮っておいたのだと思います。セミ判でもあり2L判のプリントでも非常にシャープに写っていますので、返ってくたびれた前面の外板の状態がハッキリと写ってしまい、痛々しく感じます。昭和60年4月14日 南流山駅にて昭和60年につくばで開催された、科学技術博覧会の開催記念運転で運行される快速「奥久慈」号に使用されるC56160の回送を撮りに行ったときに撮影したものです。ある意味暇つぶしで撮ったようなものですが、武蔵野線の写真もほとんど撮ったことがありませんでしたので、貴重な写真になってしまいました。武蔵野線が開業した当初(府中本町~新松戸間)、電車が空いていたので良く往復して遊んでいました。今でこそ8分おき程度に運行されておりますが、開業当初は1時間20分も間隔の開く時間もあり、行った先からなかなか帰ってこれなくなることもありました。今となっては遠い思い出になってしまいました。
2023.04.24
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107系0番台:日光線かつて、国鉄時代は多様な車両が往来した日光線。国鉄は東武鉄道との日光争奪戦に破れ、都心から乗り入れを行っていた優等列車も、165系急行「日光」を最後に姿を消しました。臨時列車では、特急「日光」や愛称付きの快速列車も走りましたが、平成になってからは集約臨等の団体列車を除き、165系から機器流用を行った107系のみとなっていました。107系は、昭和63年に誕生した車両で、機器流用は行っていますが、車籍上は新車扱いとなっています。1M方式でMc+T'cの2連を組み、0番台が日光線用、100番台が両毛線等の高崎地区用となっています。平成21年5月23日 大宮総合車両センターにて クハ106-1登場時はグリーンの「N」をイメージしたラインが入っていましたが、これをレトロ調のクリーム+マルーンに塗色を変更しました。営業運転にさきがけ、ふれあいフェスタでお披露目されたシーンです。その後も含めて、日光線内での撮影は一切したことがなかったんですが、この塗装変更リニューアルからわずか4年足らず、まさか205系への置き換えが発表となりました。この写真だけで満足する訳にも行かず、最後のつもりで撮影に行ってきました。以下、撮影は平成25年1月13日です。838M 今市~下野大沢間にて835M 下野大沢~今市間にて837M 文挟~下野大沢間にて840M 下野大沢~文挟間にて撮影地などが良く分からず、とても満足のいく写真は撮れませんでした。実はこの時、カバンの中にデジイチを入れ忘れていたことに気付かず、さらに、カバンに入れたままになっていたサブのコンデジはバッテリ切れ寸前で、バッテリを消耗しないように非常に気を使いながら撮影を続けるという遺恨を残した日でした。
2023.04.08
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115系湘南色:両毛線※本記事は、2018-03-22に投稿したもので、当時の表現になっています。平成30年3月のダイヤ改正で、JR東日本高崎支社管内の115系がすべて定期運用から外れることになりました。平成30年3月21日の「ありがとう115系(ツアー)」をもって完全に撤退となり、残すは新潟地区のみとなります。東海道本線や東北・高崎線から211系が撤退した際、特に寒冷地型については改造なしで編成を短縮し、そのまま高崎地区に転用するものだとばかり思っていましたが、予想は見事に外れ、中央本線を含む長野地区への投入が優先され、むしろ高崎地区は最後発になってしまいました。おそらく、新潟地区へは新鋭のE129系の投入で終わるのではないかと思っています。平成20年8月2日 小山駅にて 115系1000番台 両毛線 444M東北新幹線400系の引退を前に、「つばさ」の写真を撮りに行った際に撮影したものです。この115系普通列車で、次の目的地である桐生まで乗車しました。高校時代や仕事で新小岩に通ったところは、良く東北・高崎線を利用したものでした。当時は115系オンリーであり、味気のない車両でもありましたが、久し振りに乗った電動車のモーター音に懐かしさで一杯になりました。昭和62年3月19日 岩舟~大平下間にて 115系4連 普通列車ずっと時代を遡り、民営化直前の頃の写真です。この日、EF5889牽引の団体列車が珍しく両毛線に入線することになり、友人と撮影に行った時のものです。写真は団臨の前走りとなる両毛線の普通列車を撮影したものですが、この当時は殆どが115系だったように記憶しています。付属編成4連も両毛線では基本編成となります。上野口では殆どが冷房化されてきましたが、冷房化から外れた115系は高崎地区のローカル仕業へと都落ちしていました。非冷房車でシールドビーム化されていないオリジナル仕様は既に貴重になりつつあり、運転台窓下に取り付けられた銀箱も懐かしい記録です。※小山電車区の115系の変遷について、非常に詳しく調査し、紹介した動画を作成していただき、本ブログでご紹介しております写真も使用していただきました。115系に興味ある方は必見です。旧型国電 70系:両毛線(クハ76)
2023.04.06
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113系:東海道本線 普通列車既に全廃となって久しい東海道本線の113系ですが、今回は懐かしい113系時代の普通列車の写真をご紹介いたします。普通列車は撮影の対象から外れており、それほど枚数は撮影していませんでしたが、珍しい写真も撮っていました。昭和54年頃 品川駅にて 113系 静岡車品川止まりの臨時列車でしょうか。品川駅へ到着後、田町電車区へ回送されるシーンです。当時の東海道普通列車は、田町・国府津・沼津各区の車両が東京駅へ乗り入れしていましたが、このうち沼津区の編成はグリーン車無しのモノクラス編成でした。したがって、時刻表でも区別が付いたようです。しかも、かなり遅くまで冷房改造されずにいたため、ご覧のように原形のグローブ型ベンチレーターずらりと並ぶ壮観な編成を見ることができました。昭和55年8月 東京駅にて 113系 クハ111非冷房車夕方撮影のためブレてしまって、所属や車号表記が判別できません。押し込み形ベンチレーターに原形非冷房であることから、113系の初期車と思われます。この当時、房総系のスカ色では見られたタイプですが、東海道本線東京口では冷房化の促進が急速であり、あまりお目にかかれないタイプでした。昭和56年2月1日 根府川~早川間にて付属編成が非冷房4連。おそらく111系と思われますが、基本編成は113系新製冷房車のようです。付属編成は静岡車と考えられますが、このような混結運用があったのか?詳しくは知りません。昭和58年7月24日 戸塚~保土ヶ谷間にて 113系冷房改造車この頃になると、東京口の湘南電車は静岡車を除いてほぼ100%冷房化されていたと思います。冷房化に際してはヘッドライトのシールドビーム化も実施されているため、冷房改造初期のデカ目のままの車両もなかなかお目に掛かることは出来ませんでした。この列車もデカ目でなかったらシャッターを切っていなかったことでしょう。昭和59年3月23日 東海道本線 保土ヶ谷~戸塚間にて 111系 静岡車一番上の写真から7年、沼津区の111系非冷房編成がまだ残っていました。後部の方を良く見ると、何両か押し込み形ベンチレーターの113系初期車が混結されているようです。EF58牽引荷物列車の写真を撮るために構えていたのですが、思わぬところで貴重な列車を撮ることができました。昭和54年5月 大船駅にて 113系 湘南色・スカ色混結画像を大きくしていただけると判るかもしれません。最後部の次に連結されているモハユニットがスカ色となっています。昔から東海道本線では良く見られたようですが、写真ではあまり捉えたことがありませんでした。昭和56年8月21日 富士駅にて当時、旧型国電に没頭していたので、新性能車である113系や115系などは眼中になかったわけですが、混色編成というデザイン感覚を麻痺させるような編成というのは放っておけない存在だったため、乗り継ぎの合間に見た同列車だけは撮影していたようです。先頭車のクハ111ですが、おそらくは横須賀線あたりで使用されていた初期113系で、窓周りを見る限り0番台で間違いないでしょう。横須賀線・総武快速のスルー運転により、冷房車や冷房準備車が優先配置となり、本格的な改造を要する基本番台を手放して都落ちさせたのではないかと思われます。連なる車両はモハ111系となっており、グローブ型ベンチレータを搭載しています。北方面に住む私としては、あまり出逢える機会が少なかった車両でもあり、記録としても希少なものとなります。クハ111の方向幕は未だ準備すらされていないことから、短編成化に合わせて取り急ぎ手当てしたような様子も見て取れますし、なかなか面白いものではないでしょうか。悲しいことに、当時はフィルム現像も自分で行っていたため、カラーでないのは残念なところです。昭和54年5月頃 品川駅にてこの写真は、未だ東海道線と横須賀線が分離運転する以前の写真です。この列車、東海道線の普通列車なのですが、編成は南フナの横須賀線用の113系1000番台です。ラインカラーでない車輌を使用するときは、基本的に線名表示シールを貼って誤乗防止策を施すことが多いですが、101系や103系はともかく、113系や115系ではそのようは措置はあまり見たことがありません。この写真の列車も、線名表示はしていないものの、行先札が貫通路の窓の内側から架かっています。しかし、これでは小さ過ぎて一目では判りそうもありません。また、この列車の特筆すべきところは、通常品川始発の場合、7・8番線の始発ホームから発車するのですが、このホームは通常の東海道・横須賀線が発着する番線なのです。そして、貫通路にぶら下がっている行先表示も、どうもプラスティック製のきちんと作成されたもののようです。さらに、付属編成を連結するとグリーン車の位置が違ってしまうためか、基本編成のみの11連となっています。行先表示が準備されているところを見ると、私の経験が少ないだけで、もしかしたら良くあった話なのかもしれません。でも、中学1年から高校2年くらいまで品川へ結構な回数の写真撮影に行きましたが、このような措置を見たのはこの1回だけでした。
2023.03.15
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115系湘南色終焉:上越線平成28年8月、高崎地区に211系短編成車が導入されることになり、107系や115系オリジナル車が置き換えられることになりました。元々211系(1000・3000番台)は小山区や新前橋区に配置されていたので、上野口の211系が整理された時は真っ先に高崎地区の115系を淘汰するものとばかり思っていましたが、予想に反して中央東線・長野地区を中心に置き換えが実施され、新潟地区には新車のE129系を投入するという、全く想像の付かない動きとなっていました。高崎地区の115系は、上野口用の運用と両毛線・上越線・信越本線並びに吾妻線用のローカル運用があります。ローカル運用は、上野口が0番台や300番台が中心であるのに対し、昭和50年代前半頃まで使用されていた旧型国電を置き換えにより新製された1000番台が中心となっていました。平成20年8月22日 渋川駅にて平成23年5月3日 群馬総社~八木原間にて平成20年8月2日 水上駅にて子供が生まれてからは殆ど撮影に遠出することも無くなり、上越線の115系もあまり撮っていませんでした。いつ頃からか良く知りませんが、115系の運用は水上駅で分断されており、高崎~水上間には新潟色は無く、湘南色しか見ることが出来ませんでした。昭和61年8月1日 津久田~岩本間にて上越線の70系乗り入れがなくなったのは昭和51年くらいでしょうか?残念ながら70系新潟色は実物を見たことはありません上野口が4両編成を基本としていましたが、旧型国電を置き換えた115系はクモハ+モハ+クハの3両編成が基本で、単独または×2の6両編成で運転されました。この写真を見ると前3両と後3両の色調が明らかに違っており、既に検査を迎えて上越線に馴染みきっていることを物語ります。平成2年8月26日 非冷房車6連旧型国電を置き換えた115系1000番台は、当時の国鉄の財政状況から新製冷房とはされず、すべて冷房準備車となっていました。※上野口運用車は新製冷房車として竣工。平成2年8月26日 冷房車3連上の写真と同日ですが、既に冷房改造された3連となっています。JRになり、サービス向上も視野に入って来たことと思いますが、全国的にも冷房車が一般的になってきたため、施工せざる得なくなった時代に入って来た頃でもありました。この写真を撮った頃は、まだ初代新潟色の115系が水上を越えて高崎まで運用されており、バラエティー感はありました。しかし、115系ばかりの上越線は魅力も薄く、これらの写真もすべてD51やEF55を撮るための練習ショットでしかありませんでした。※小山電車区の115系の変遷について、非常に詳しく調査し、紹介した動画を作成していただき、本ブログでご紹介しております写真も使用していただきました。115系に興味ある方は必見です。
2023.03.08
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103系 京浜東北線:オレンジ色「京浜東北線」HM付き先にもご紹介いたしましたように、国鉄時代には全国的な車両の転配がありましたので、車両の融通の中で混色編成は良く見られました。京浜東北線の103系も例外ではありませんが、おそらく、オレンジバーミリオンの車両が走っていたのは非常に稀だったと思います。昭和52年頃 西川口~蕨間にてオレンジ編成は確かクモハ+モハ+クハの3連だと思っていたのですが、この写真を見るとクモハ+モハの1ユニット分だけですね。冷房改造が行われたらしく、クーラーの前後に布を張り替えた痕がくっきり出ています。昭和52年頃 蕨駅にてこの写真も同時期に蕨駅で撮ったオレンジ色の京浜東北線です。双方の写真を見て気になったことがあります。それは、当時の記憶で、下の写真は塗り変わったばかりのピッカピカの状態だったと記憶しています。写真でも車体はかなりキレイで、足回りもペイントされてキレイな様子が伝わってきます。しかし、上の写真では、若干写りが甘いのですが、台車を含む下回りがあまりキレイではないようです。ピクトリアル誌にある文献では、中央線に転属する予定の車両を予め工事し、正式に転属するまで使用されていたとなっています。同誌に掲載されている写真もオレンジ3連となっているので、上の写真とはやや状況が異なります。また、転属予定車が数編成あったのかなど詳しいことは分かりません。いずれにしても、当時全く興味を示さなかった国電たちですが、このような混色編成や、ヘッドマーク?が付くというだけでも面白さ・希少さを感じることが出来て、喜んで撮っていた時代の記憶が蘇ってきます。
2023.03.05
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455系:謎の普通列車?「冬将軍」奥羽本線のスイッチバックが廃止になる最後の頃、撮影に行った際に「冬将軍」なる列車を捉えました。平成2年のダイヤ情報の冬期臨時列車の予定表に載っておらず、鉄道雑誌に投稿写真でもあるかと同年2月近辺の写真が載っているDJ4月号や鉄道ファンの5月号を見てみたのですが、この列車に関する記事がありません。本記事は2011年12月にエントリしたものですが、その4年後となる2016年1月に831列車様より乗車記を含む詳細な情報提供をいただきましたことにより、その全貌が明らかになったものです。平成2年2月18日 奥羽本線 赤岩駅にて 455系 臨時快速「冬将軍」山形新幹線の開業により改軌・スイッチバックが廃止になるということで板谷峠を訪れた際、赤岩駅にて偶然に撮影したヘッドマーク付の「冬将軍」です。831列車様の記事によりますと、平成2年2月3日~25日の毎日、福島~米沢間に1往復設定された臨時列車で、途中駅停車無しのノンストップ列車でありながら、快速では無かったようです。時刻表上では無停車ですが、実際には峠駅で運転停車をしたようです。これは追い越しとかではなく、サービス停車だったのかもしれません。『米沢風土ぴあ』というイベント期間と合わせて運転されたようで、パンフレットの頒布もあったようですが、実際にはこの列車の乗車率はあまり良くなかったようですね。ともあれ、この列車の情報をいただくまで謎の列車となっていましたが、思った以上に詳細な情報を掴むことが出来ましたので、非常に助かりました。831列車様には改めまして御礼申し上げます。
2023.02.06
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キハ30+キハ47+キユニ28:山口線 普通列車)令和になって、KATOからキユニ28及びキユニ28を含む急行列車のセットが発売されることになりました。かつてはマイクロエースからも2両セットが発売されていますが、値段が高くて使い道もなかったので買ったことはありませんでした。しかし、最近になってTOMIXやKATOの気動車も手に入れたので欲しくなってしまい、今回は購入を決めています。キユニ28は28両のうち東日本に居たのが5両(水郡線運用?)のみで、殆どが中京~西日本であったため、遭遇の機会はありませんでした。そんな中で唯一写っていたのが山口線でした。山口線は、山陽本線新山口駅と山陰本線益田駅を結ぶ路線。新山口駅は小郡駅が速達「のぞみ」の停車に当たって改称されたものです。山口線と言えば国鉄が全国に先駆けてSL動態運転を行った路線として有名であり、現在でも継続されています。私も昭和時代に何回も足を運んだものですが、12系客車が改装されてからは足が遠のいてしまいました。撮影は「SLやまぐち」やその前後を走る特急「おき」がメインとなり、本数の少ない普通列車は移動に利用してしまうと、まず撮影するチャンスが無かったように記憶しています。そんな状況の中で、撮影場所を探している最中に、偶然にも撮ることができた普通列車の写真が1枚だけありました。昭和59年2月11日 山口線 篠目~長門峡間にて大宮操車場の阪埠(ハンプ)部が廃止になり、余剰人員と化した私は、同期の職員と山陽山陰方面へと旅に出ました。何と言っても、休暇を何日でも連続で取得できるチャンスなんて、それまでありませんでしたからね。1駅間歩いた割には良いロケーションの場所がなく、仕方なく丘の上で待機することとなったのですが、その時に構図合わせで撮った写真がコレです。編成は、手前からキハ30+キハ30+キハ47+キユニ28(実際は後追いなので、編成順は逆)。当時は当たり前にこんな編成ばかりでしたので、別に撮るほどでもないような列車ですが、今になってしまうとキハ47を除いては絶滅。殊にキユニ28については、旧型の荷物車駆逐のために余剰であったキロ28を土台に改造した郵便・荷物合造車でしたが、僅か数年で鉄道郵便事業、そして荷物輸送自体も全廃となってしまうという憂き目に逢った、悲運の車両でした。当時は移動の際も20系気動車は殆ど乗った記憶が無く、キハ30系が多かったように思います。ロングシート主体の普通列車でありながら、マメに車内販売が回ってきた珍しい路線であったことが非常に印象に残っています。6168 キユニ28 首都圏色[KATO]《06月予約》6168 KATO カトー キユニ28 首都圏色 Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 6168 キユニ28 首都圏色【中古】(非常に良い)マイクロエース Nゲージ 国鉄キニ58首都圏色 2両セット A0720 鉄道模型 ディーゼルカーマイクロエース Nゲージ 国鉄キニ28首都圏色 2両セット A0719 鉄道模型 ディーゼルカー[cb]
2023.02.05
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205系0番台:南武線平成28年1月9日、南武線における205系の活躍に終止符が打たれました。最終運転となったのは、山手線からの中間車改造であるナハ46編成でした。南武線の205系は平成元年から運用されており、山手線などからの転入車、そして中間車に運転台を取り付けた改造車がありました。その活躍は実に27年にも及ぶものとなっていました。私自身としては、全く生活に関係の無い地域ながら、武蔵野線開業当初に初めて府中本町まで行き、南武線の存在を知りました。当時はまだ73系4連が活躍している頃でした。その後も利用する機会はありましたが、205系になってからはほとんど縁もなくなってしまい、現場回りの際にほんの少ししか撮影していませんでした。平成22年4月22日 西府~谷保間にて103系が廃止になってからは、南武線はあまり使用していなかったかも。何度か乗った記憶もありますが、写真は撮っておらず、この写真が初めてだったようです。まだそれほど昔のことではありません。雨の中ですが、待ち合わせの時間調整中に線路際で。暗い上に性能の良くないカメラ、傘を差しての片手撮りと、条件は良くありませんでした。平成22年6月9日 西国立駅にてこれも現場回りの帰り道に撮影したもの。この時は改造車を期待したのですが、0番台でした。平成26年3月9日 モハ204-76 大宮駅にてまさかですが、最後の撮影となったのは、大宮総合車両センター入場車でした。でもまあ、中間車を撮る機会もなかったので、これはこれで記録になりました。結果的に改造車の1200番台は撮ることが出来ず、ラストランに行けばなんとか記録できたわけですが、とにかく人混みとかお祭りとか嫌いなので行きませんでした。103系:南武線(最晩年)旧型国電 73系:南武線(立川駅)
2023.01.29
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キハ58系:能登色(七尾色?)国鉄色一辺倒であったキハ58系も、JRになると各社で様々な地域色が発生するようになりました。それは逆に私自身の写欲を削がれた最大の理由でもあったわけですが、そんなことで地域色豊かなキハ58系というのは殆ど撮っていません。今になってみると、そんな個性色豊かだったキハ58系たちも、更なる塗色更新、路線の廃止、果ては車両そのものの廃車という運命にあり、何らこれらに興味を示さなかったことが仇になって返って来たように思います。平成3年2月10日 七尾線 能登中島~西岸間にて現在はのと鉄道になってしまった区間ですね。七尾線にC571+C56160の重連が走るということで、はるばる能登半島まで行った次第。わが人生でも能登半島に行ったのはこの時だけです。写真のキハ58系能登色(七尾色?)も、現実には彼等を撮影するために用意したアングルではなく、この後来るSL列車のためのものであります。練習のために前走りとしてきたものを撮っただけ。当時、七尾線の車両は殆どがキハ58系であり、同じような配色でありながら、急行色と普通色が存在するという異例の路線でした。写真の車両は急行色のようです。その後、七尾線は和倉温泉までの電化、七尾以遠の「のと鉄道」へ切り離しなど大きな変化を向かえ、キハ58系には黄色ベースの新能登色に変更されるなどし、このデザインの車両たちも比較的短期間で解消してしまったようです。
2023.01.18
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101系:中央快速線国鉄初の新性能通勤電車として誕生した101系電車。初投入となった路線は中央快速線であり、それまで茶色一色と言えた通勤電車に鮮やかなカラーを採用したのもオレンジバーミリオンが最初です。あまり写真は撮っていませんでしたが、中央快速線の101系時代の写真をご紹介いたします。昭和51年6月6日? 東京駅1番線にて 中央線「特別快速」101系といえば中央線、中央線といえば特別快速ですね。新性能車で「特別快速」という速い列車が注目を集めた時代もありました。101系オンリーだった中央線快速でしたが、山手線や京浜東北線の103系冷房車投入に遅れをとってはいけないため冷房改造が施工されるようになり、特に「特別快速」に重点を置いて運用を組むほど重要視されていました。言わば、首都圏を、そして、全国を代表する国電区間であったわけです。写真は、現在の東京駅の3番線にあたる、当時の1番線です。ポケットカメラでネガにかなり傷が付いてしまったので、画像を修復して掲載しています。昭和54年頃 東京駅にて 101系800番台で編成された快速電車東京駅で折り返し待機中の101系中央快速線です。低屋根の800番台編成で、行先もレアな青梅行きです。現在、このホームは山手線内回りの列車が使用しており、中央快速線はさらに1段高いところへ上がってしまい、雰囲気もかなり違ってしまいますね。昭和55年10月頃 神田駅にて クモハ100-805ほかで編成された快速電車中央線快速の101系は、古くから臨時で相模湖や大月方面への乗り入れを行っていました。トンネル断面の小さい中央本線では、乗り入れる車両は181系を除いて低屋根構造の800番台を使用しました。これは70系・73系の「山ゲタ」時代から続いています。低屋根構造の新性能4扉車は101系の他に例が無く、大変注目を集める存在でありました。昭和56年9月頃? 武蔵小金井電車区にて過去に1度だけ武蔵小金井電車区を訪問したことがあります。101系だらけの電車区内。カラーでないのが残念です。和56年9月28日 保土ヶ谷~戸塚間にて 101系 回送「あまぎ」とかを撮りに行って偶然捉えた写真です。モノクロですが、色の濃さからしてオレンジバーミリオンですね。101系晩年期で、廃車が急ピッチに進んでいた頃だと思います。写真は7両編成で、かなり傷んでいるところから察して、大船工場への廃車回送ではないかと思われます。当時、首都圏における機関車の解体は大宮工場、電車の解体は大船工場と相場が決まっていました。153系の時は東急車輛とかでも解体作業が行われたようですが。中央快速線では昭和54年に201系試作車が誕生し、将来的に全車両を201系化することになっていました。そのため、冷房化に関しては101系改造ではなく、103系を配置することになりましたが、他の路線においても冷房化が急務であったため、103系の方が重点的に転出し、後輩の103系より101系の方が長く活躍しました。
2023.01.11
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103系:南武線(最晩年)昔から新製車が投入されることのない南武線。101系から103系と、都心の国電と同じ道を歩みます。101系の老朽化に伴い、103系が導入されることとなりますが、主に中央・総武緩行線に投入された最終増備車が多く残っていたようです。撮影は、すべて平成14年5月5日です。尻手駅にて武蔵新城駅にて武蔵中原駅にてそれまでは、わざわざ103系の写真を撮り歩くことなど考えられなかったのですが、山手線の205系転出が始まるといよいよ103系廃止の危機感が増し、慌ててあちらこちらの103系を撮りまくりました。南武線では73系や101系時代のイメージが強ったため、103系の写真を撮ったのはこの時が最初で最後となってしまいました。10-1744D KATO カトー 103系 (カナリア) 中間車3両セット Nゲージ 鉄道模型(ZN94057)10-1743D 103系〈カナリア〉 4両セット[KATO]《発売済・在庫品》
2023.01.05
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415系800番台:七尾線(新塗装)七尾線一部電化から長年活躍してきた415系800番台が、令和3年3月のダイヤ改正で521系に全て置き換えられることになりました。過去ログ『415系800番台:七尾線(旧塗装)』において導入時の塗装編成をご紹介したところですが、その後、晩年の塗装を1度だけ撮影したことがありますので、最後にまとめとしたいと思います。平成27年1月23日 金沢駅にて平成27年1月23日 金沢駅にて 859M平成27年1月23日 本津端~中津幡間にて 836M久し振りに訪れた北陸。撮影の拠点が散らばりやすく、七尾線の415系を撮る機会もあまりありませんでした。後発の改造415系だけあって重視していませんでしたが、その車籍を辿ると電車の中でも現役最古参に属する貴重な車両たちでした。
2022.12.08
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165系:普通列車「夜まつり号」昭和55年代前半くらいまで、国鉄から秩父鉄道への乗り入れが盛んに行われていました。通常は「みつみね」や「ながとろ」といった115系による急行列車が一般的でしたが、日本三大美祭及び日本三大曳山祭とされる秩父夜祭のクライマックスとなる12月3日には、臨時普通列車の「夜まつり号」が運転されたことがありました。新前橋電車区の165系7連が使用されたと記憶しています。昭和54年12月3日 上野駅にて 「夜まつり号」リバーサルで暗いところでの撮影のため、残念ながらブレてしまっております。今は無き165系。しかも、グリーン車のサロ165です。この頃の定番ですが、何故か普通列車であるにも拘わらず、グリーン車込みの165系7連が使用されていました。当時、東北・高崎線における急行形車両で運用する普通列車では、既にグリーン車扱いは廃止されていましたので、ヘッドカバー無しの普通車扱いとなっていました。つまり、フルリクライニングで上野駅から秩父までゆったりと乗ることが出来たわけです。ただ、私の記憶では、殆どお客さんが乗っていなかったような・・・。そして1つの疑問。正式には「秩父夜祭」という祭名のようですが、この列車、「秩父」もついていなきゃ、「まつり」が平仮名なんですよね。「秩父夜祭」号で良いと思いますが。駅の表示看板には「夜祭り」と漢字表記になっており、さらに、サボには「号」まだ入っちゃってます。←普通、列車名表現には「号」は付かない。なんとも不揃いで間の抜けた感じもするわけですが、サボ、サロ165、そして板製の案内板と、どれをとっても昭和の匂いのする、懐かしい写真として残っていました。
2022.12.04
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国鉄 釧網本線:普通列車(客車列車)高校時代、試験休みを利用して2年連続で北海道を訪問しています。昭和55年3月に初訪問し、冬の北海道に魅了されたために昭和56年3月にも訪問。この時も釧網本線に乗っています。※撮影は、昭和56年3月18日です。網走駅にてこれから釧網本線を走る普通列車ですが、まだ機関車が連結されていません。本線系統では、殆どの客車列車が緩急車(車掌室:車掌弁を備えた車両)を両端に連結し、非常ブレーキ扱いや列車監視の業務を行うようになっています。しかし、短編成の列車や配置両数の関係で両端に緩急車を連結できない場合もあります。これらは、客車列車を運行する比較的距離の短いローカル線で見ることが出来ましたが、何故かこの釧網本線では良く見られたようです。緩急車を連結しない編成端では後部標識(いわゆるテールランプ:尾灯)を備えていませんので、写真のようなバッテリータイプの標識を引っ掛けて使用していたわけです。関東ではこのようなシーンを見ることはなかなかありませんでしたので、非常に滑稽に感じたものです。実は、周遊券を持っていたので改札開始時間前にホームに入れてもらったんですが、まだ発車まで1時間くらいはあったのではないかと記憶しています。なので、まだ機関車も連結されていないわけですね。しかし、北海道でも3月といえば真冬であり、この時間ですと当然氷点下10℃くらいには下がっていたと思います。暖房装置を持たない客車は冷え切ってしまいますよね。でも、実際に乗ってみて驚きました。真夏のような暑さだったんです。(笑)車内の温度計を見てみると、なんと40℃を指していました。汗だくで列車内にいると、車掌さんが出発前の点検に回っており、「暑いでしょ、まだ発車まで時間があるから、窓を開けていても良いですよ。」って声を掛けられたんです。そんなことで、車両の窓が1箇所だけ開いているんですよね。到着後、折り返しまでに時間があるローカル線では、機関車の交代も含めて、客車を置いて機関区に逃げてしまいます。しかし、北海道の極寒の中で、乗車してくるお客さんに寒い思いをさせないという配慮から、目一杯の暖房を注入してから逃げ帰るわけですね。発車時間まで冷め切らないように、40℃という想像を超えた温度まで上げていくのでしょう。北海道という土地柄、人柄がわかる対応に、小さな感動を覚えました。それは、まだ高校生だった私にも伝わってきました。清里町駅にて網走からの夜行「大雪」に乗る合間、何もやることが無いので、前出の釧網本線に乗って時間つぶしました。途中交換の清里町駅にて、暗くて写るかどうかも分からないのに、無理やりシャッターを切ったのがこの写真。列車がブレてしまって番号すら判読できないのが勿体無いですが、DE10の500番台のようですね。今となっては、DE10が客車が旧型客車を牽くなんて特別に仕立てない限りは無理ですね。この当時はまだ50系客車の配置など無く、旧型客車しかいませんでした。当たり前に良い写真が撮れた筈なのに、見逃していたシーンが多かったかもしれません。この列車に乗っていたとき、原野に沈む大きな夕陽を車窓から見ました。美という感動をあまり知らない年頃でしたが、雄大な自然を目の当たりにして、大人に近づいたような感動を憶えたこと、心が洗われたこと、今でも忘れられません。この時代もまだ混合列車が走っていたという記録を見ますが、残念ながらこの年は1度も出会うことなく、既に廃止されたと思っていました。
2022.12.02
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103系 京浜東北線:クハ103「京浜東北線」HM京浜東北線103系の続きです。旧型国電73系から置き換えられ、スカイブルーがトレードカラーになった京浜東北線。既に懐かしい時代の京浜東北線の103系低窓車ですが、何の問題もないスカイブルーの車両に何故か「京浜東北線」と書いたヘッドマークが付いている変な写真があります。昭和51年頃 蕨~西川口間にてお見せするのに気が引けてしまうようなしょーも無い写真なんですがね・・・リコーオートハーフで撮った写真。大体ブレちゃうんですよ。この時代の1年間はこんな写真ばかりで・・・。1枚目の写真を見てお判りのとおり、行先は表示されていません。なんでこんなに変な設定の103系が走ったのかずーっと謎だったんです。運が良いことに、2007年3月号の鉄道ピクトリアル誌で京浜東北線の特集があり、ここにその経緯が記されていました。簡単に解説いたしますと、昭和50年度第3次債務により阪和線置き換え用の103系冷房ATC準備車を製造、これを下十条電車区へ配置、余剰となる103系非ATC準備車を冷房改造施工後、阪和線へ転出させることになりました。2枚目の写真で冷房改造が行われた様子がハッキリ判ります。この冷房改造完成後に直ぐに転出しなかった組が、転出するまでの間に再度京浜東北線に使用されたのですが、冷房改造と同時に方向幕(行先表示)を阪和線用に交換してしまったため京浜東北線として使用することが出来ず、已む無くステッカーを表示して走ったということです。同誌の記述によれば、ラインカラーが合っているのに、このようなステッカー表示をするのは大変珍しいとされています。ウ~ン確かに。もうちょっとちゃんとしたカメラで撮っていれば・・・と悔やまれる写真ですが、こんなんでも貴重な記録なため、捨てることなく取ってありました。ちなみに、京浜東北線の103系低運転台を撮っておかなければと思った時には既に大量のATC車が投入されており、付属3両側のクモハは遅くまで残っていましたが、クハ側は早めに居なくなってしまったため、低運転台のクハ103の写真はこれ位しか撮っていなかったようです。
2022.11.26
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103系 京浜東北線:クモハ103クモハ103と言えば、大前提が低窓車であることはご存知だと思います。京浜東北線においてはこのクモハ103が必ずと言っていいほど連結されており、特に7+3編成には必須の車両でした。その後増備されることとなるATC搭載車にはクモハがないため、京浜東北線のATC化の準備として、分割編成の6+4化が進むことになります。ここでの大きな動きとして、ATC化できない低窓のクモハ103とクハ103が6+4編成の中間に封じ込められることになってしまったのです。それまで103系なんて通勤車の写真はほとんど撮ったことがありませんが、ちょうど私が高校生になった頃、ATC化で見られなくなってしまう前にとそこそこの枚数を撮影していました。昭和53年頃 西川口~蕨間にてこれは少し時期が外れてしまいますが、クモハ103を流し撮りした写真です。中学生の頃で、まだATCなんて影も形も無かった頃です。前回アップしたときには気が付かなかったのですが、冷房改造されていないのにシールドビームに改造されています。京浜東北線の中では珍しい存在だったかもしれません。昭和55年頃 西川口~蕨間にて昭和55年頃 西川口~蕨間にて昭和55年7月 西川口~蕨間にてこれもシールドビーム2灯になっていますね。1枚目と同じ車両でしょうか?※良く見たら通風孔の蓋の有無が違いますね。昭和56年頃 西川口~蕨間にて昭和56年初頭? 蕨駅にて雪の中で撮ったクモハ103。ATC化に際して7連の内側クハと大宮方のクモハ+モハの連結位置を交換することによりATC搭載クハが両先頭に出ることになり、結果として低運クハやクモハが中間に封じ込められる形となりました。低運クハとクモハは全てがATC非搭載のため、ATC化後は先頭に現れることはなくなってしまいました。
2022.11.25
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103系 京浜東北線:クハ103 ATCタイプ旧型国電73系から置き換えられ、スカイブルーがトレードカラーになった京浜東北線。しばらくは低窓の103系と少数の101系で運用されていましたが、首都圏の通勤車において中央快速線の101系や山手線の103系に冷房車が導入されるようになります。昭和50年頃、小学6年生の頃だったと思いますが、クラスメイトT君が「浦和電車区に新しい京浜東北線が居た!」との情報を得て、みんなで自転車に乗って見に行ったものでした。山手線では先行改造の冷房車が導入されましたが、京浜東北線ではATC化の構想が既に始まっていたためか、先頭車には高窓ATC搭載の新車が導入されました。しかし、当時は身近な通勤車など興味が無いというか、フィルムが勿体ないとまずカメラを向けることはありませんでした。他に撮りたいものがいくらでもあった時代でしたから。そんなことで、京浜東北線の高窓ATCタイプは殆ど写真が残っていません。昭和54年8月 田町駅にて京浜東北線・・・好きというよりは邪魔者と解釈される方が多かったかもしれませんね。この写真なんかてき面ですが、撮った枚数が少ないとなると、こんな光景でも私的に貴重なシーンです。昭和54年頃 蕨~西川口間にて京浜東北線ですが、103系時代のスカイブルーと、山手線のウグイス色との混色編成です。昭和51年頃にも良く見られたのですが、カメラが良くなかったので、良い写真が残っていません。こちらは、ATC化に備えて車両のやりくりがあった頃と考えられます。特に、ATC化=冷房化の促進みたいな図式があったものと考えられます。昔は検査入場のタイミングが合わないと、旧色のまま転属して組成されるケースは珍しくなかったので、比較的このような混色編成を見ることができました。現在ではテープ方式になったためか、あらかじめ整備が終わってから転属、という風に徹底されているようで、特に東日本では混色が見られなくなりましたね。昔は比較的バリエーションの少ない通勤型でしたが、このような編成が走ってくれると、写真を撮る意欲が湧いたものでした。蕨駅にて昭和55年かちょっとビミョーです。昭和56年初頭かもしれません。雪の降った日、姑息にも写真を撮りに出掛けました。まだ貨物駅が稼働している時代です。昭和57年2月頃 下十条電車区にて(再掲)東北新幹線延伸の工事が始まった頃の下十条電車区。103系ATCタイプの電車が一番写っていた写真です。昭和57年 浦和電車区にて(再掲)見慣れない特急形の来客に住民の103系たちもさぞやビックリしたことでしょう。ここからはオマケ画像です。昔は、終点や基点の駅でいわゆる「方向幕」を回転させたときに、普段は見られないようなヘッドマークや行先が出ることがありますので、デジタル式には無い楽しみがありました。まずは、スカイブルーの「赤羽線」です。首都圏にお住まいでない方にはピンと来ないかもしれません。赤羽~池袋間の線路を指し、現在は埼京線としてスルー運転されておりますが、この区間の正式名称は「赤羽線」であります。もう少し時代を遡ると、この区間は「山手線」でした。赤羽線は比較的遅くまで101系が運転されており、赤羽駅で新幹線の工事が始まる頃、一気に103系に置換えになりました。山手線のカナリヤ色101系を使用していた由来から、103系導入時においてもカナリヤ色を使用していましたが、車両が足りないためでしょうか、当初はウグイス色編成や先頭車のみウグイス色といった編成が使用されていました。しかし、スカイブルーの「赤羽線」が運転されたという話は聞いたことがありません。さて、こちらは「根岸線」の表示です。京浜東北線に乗っていると、大船行きなどは特に「根岸線廻りの大船行きです。」という車内放送を聴くことが多いと思います。ご存知のとおり、「京浜東北線」という路線は昔から存在しません。大宮~東京は東北本線、東京~横浜(昔は桜木町)は東海道本線、横浜~磯子経由~大船を「根岸線」と言います。もし、行先表示をしないで横浜~大船を往復する電車があれば、この「根岸線」という表示をする可能性もあったのでしょうが、基本的に横浜始発の京浜東北線というのは聞いたことがありません。とすれば、やはり行先表示をするのが常となるでしょうから、結局は出番がなかったのではないかと思いますが・・・実際にあったという情報も。この写真は、赤羽駅折り返しの電車を見ていたときに回転させていたもので、面白くて撮っておいたものです。これを目撃したのが大人になってからでは、おそらく写真にまで撮らなかったと思います。このあとJRとなり、209系と交代することになります。ちなみに、末期に走っていた205系の京浜東北線、1枚も撮っていませんでした。
2022.11.23
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415系800番台:七尾線(旧塗装)平成3年、七尾線電化に際し、普通列車用に導入された電車が415系800番台。北陸本線では交直流の急行形電車が多数在籍しましたが、客車列車の電車化により余剰車がいなかったため、485系電車の直流化により捻出された交流機器を113系に搭載し、国鉄時代から通しても異色の交直流電車が誕生しました。しかし、113系初期車が種車となっているため既に50年余年が経過し、令和3年3月のダイヤ改正で521系100番台に置き換えが決まったようです。北陸地方へは何度か撮影に行きましたが、必ずしも金沢を拠点として撮影する機会があった訳ではないため、あまり出会う機会がなかった415系800番台。1度だけ旧塗装の写真を撮ったことがありました。平成20年4月22日 415系800番台 七尾線普通列車登場時からの塗装は、先頭車と中間車の色が違うという、ジョイフルトレイン的な趣き。昔から415系を知っている身からすれば、415系とは認めたくない車両でした。ただ、奇抜な塗装故に上手く車両の古さを隠せているな、という感じはします。その後、JR西日本では塗装の合理化が行われ、七尾線では平成22年頃から赤一色へと塗装が変更。七尾線オリジナルの同色は消滅することとなりました。
2022.11.14
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JR東日本 115系:初代長野色国鉄の分割民営化以来、従来からの国鉄色を様々な地方色に塗り替えることが行われました。個人的にはこのようなことは好きではなく、蒸機のみの撮影に終始しており、撮影した機会は殆どありませんでした。そんな中、平成6年に長野地区に設定された「SLアップル号」を撮影するために長野を訪れた際、たまたま115系長野色の写真を撮っていました。平成6年11月4日 信越本線 三才~豊野間にて新長野色がかなり出現してきており、当時まだ現役だった165系&169系の旧色を撮りたかったですが、残念ながらこの115系だったわけです。結局165系の同色を撮ることは出来ず、115系もこの1枚だけでした。そのくらい、既に旧色は激減していたんですね。平成10年の長野オリンピック開催を目指して新長野色へと移行され、この後間もなく、初代長野色は消滅しています。
2022.11.12
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キハ55のサボ:只見線 小出←→会津若松(地元編)災害から見事蘇った只見線。ここ10年位は、自然災害による橋梁の流出などでそのまま復旧を断念→廃止になってしまうローカル線が後を絶ちません。そんな中、巨額を投じて復旧を果たした只見線ですが、その後の経営を考えるとちょっと疑問も残るところです。もちろん、鉄道ファンにとって路線の廃止は悲しいことですが、赤字ローカル線の廃止政策を昭和の時代より経験してきた身からすると、致し方無しという状況をもう十分理解しているつもりです。只見線はその昔、日本でも有数の豪雪地帯で、冬になると急行列車を計画運休したり、直通を分割させて遅れても連絡しないなど、特別な措置で運行されていました。それでもおそらくは直通客などなく、問題が無かったのでしょう。その豪雪のイメージも昔ほどは無くなり、冬ダイヤのような特別な措置はいつの間にか無くなってしまったようです。昭和57年1月、東北線の撮影から上越線の撮影に抜ける際、無謀にも真冬の磐西~只見線を使って移動したことがあります。もうこの頃から温暖化の影響があったのでしょうか、只見線は何の支障もなく走っていました。昭和57年1月4日 只見線ずっとキハ58のサボを撮っていたと思ったのですが、良く考えたら、キハ58系のサボは向かって左側ドアの右上についています。これはどう見ても車体センターの下部。急行塗装でこの位置と考えれは・・・そう、キハ55系ですね。そう言えば、キハ55に乗り、走行音を録音していました。あのテープ、どこに行ってしまったろう。こういうサボの写真は、アップで撮ってしまうと車両の状況を隠してしまいがち。センターについているサボだったら、少し引いて形式と一緒に撮っておきたいもんですが・・・もう、こんな車両も無くなってしまいました。誰の乗り降りも無い静寂なローカル線。どう見ても過剰供給の3両編成だった記憶。エンジン音の響きだけが聞こえる車内で、終点の小出まで乗り通しました。9462 TOMIX トミックス 国鉄ディーゼルカー キハ55形 (急行色・一段窓) (T) Nゲージ 鉄道模型(ZN98898)【予約 2022年9月予定】 Nゲージ TOMIX No:98111 キハ55形ディーゼルカー(急行色・一段窓)セット(2両)[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98111 国鉄 キハ55形ディーゼルカー(急行色・一段窓)セット(2両)トミックス Nゲージ 国鉄ディーゼルカー キハ26形(初期急行色・一段窓)(T) 鉄道模型 847198110 TOMIX トミックス 国鉄 キハ26形ディーゼルカー (急行色・一段窓) セット(2両) Nゲージ 鉄道模型(ZN98893)9463 TOMIX トミックス 国鉄ディーゼルカー キロ25形 (急行色) Nゲージ 鉄道模型(ZN98896)[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 9463 国鉄ディーゼルカー キロ25形(急行色)でじたみん 楽天市場店2469 TOMIX トミックス 国鉄ディーゼルカー キユニ26形 (急行色) Nゲージ 鉄道模型(ZN98900)[鉄道模型]トミックス 【再生産】(Nゲージ) 2469 国鉄ディーゼルカー キユニ26形(急行色)
2022.10.17
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103系3000番台(元モハ72970番台):川越線103系3000番台は、元73系旧型国電の一族であるクハ79600番台とモハ72970番台を新性能(103系)化した車両です。旧型車の車体のみを更新する事例は多々ありますが、車体をそのままに新性能車に改造する例は、国鉄時代にはほとんど見られません。そういった意味では、国電の歴史上でも貴重な車両と言えます。しかも、後年には冷房改造も行われていることが、暫定使用ではなくなってしまったことの事情が覗えます。平成2年1月14日 西川越~的場間にて 3両編成非冷房時代の55編成昭和60年3月、東北新幹線上野開業・埼京線開通に合わせて、直通運転される川越線も全線電化されることになりました。計画当初、埼京線(仮称「通勤新線」)は、大宮~川越間及び大宮~宮原(高崎線)間に乗り入れる予定でしたが、宮原への乗り入れは事情があって頓挫しています。大宮附近には電車区を設置するような用地確保が困難だったことから、川越線への乗り入れは已む無しといったところではないでしょうか。川越線電化にあたり、埼京線への直通電車は山手線の205系化で捻出した103系10両編成を使用し、大宮~高麗川の相互発着電車は103系3連を充てることになります。ここで白羽の矢がたったのが、仙石線の新性能化(103系・105系化)で余剰となった旧型車でした。(まさか、103系化されるとは思いもよりませんでしたが・・・。)改造は、クハ1両はモハ1両と組んで電動ユニット化、もう一方のクハとあわせて3連化され、残ったモハ1両は電装解除の上サハ103系3000番台となり、中央線で使用されることになりました。もちろん、当初は冷房化は実施されていません。平成14年5月3日 川越線 笠幡~的場間にて 52編成平成14年5月3日 笠幡~武蔵高萩間にて 54編成上の2枚の写真は、4連・冷房化された晩年の103系3000番台です。山手線のE231系化に伴って大量に捻出された205系及び臨海高速鉄道の余剰車の購入により、同線の103系3000番台も置換えられることになりました。これは私の推測ですが、川越線の区間運用車は、せいぜい10年程度使用し「そのうち余剰となる103系で賄えば良い」程度に思っていたのが、強力な要望によって電化された八高線の需要が意外と伸びてしまい、必要な車輌数が確保できなくなってしまった。結果、209系の新規導入、中央線からの201系乗り入れで対応するがそれでも足りなく、103系の一般型を半自動化等により最小限確保(3500番台化)し、これに合わせて3000番台と容易に連結可能な中央線のサハ3000番台を呼んで対応した。と、考えております。推測の域を出ない勝手な想像ですが、同僚と再会し、元の4連で最後の活躍をすることができた同車たちは、大変幸運な車両たちであったと思います。
2022.10.04
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JR九州 415系:鹿児島本線 普通列車JR九州では、令和4年9月の西九州新幹線開業に伴うダイヤ改正において、在来線の普通列車等でもダイヤの見直しが行われ、この際、415系鋼製車の運用が消滅してしまったようです。交流区間における交直流型電車の導入経緯は常磐線と同様で、60Hzであることから形式を421系・423系として発展してきました。さらに、冷房化に伴って導入されたのが415系で、こちらは50Hz区間にも使用できる3電源方式が採用されたのは、急行形や特急形の発展と同様です。九州へは3度行ったことがありますが、国鉄時代に訪れた2回については普通列車の写真など全く記録しておらず、直近で訪問した時にはJR東日本の415系鋼製車も既に引退した後でした。そのため、分単位の活動の中で撮れる415系はすべて撮影しておきました。撮影の時系列順でまとめてみます。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-126門司港駅まで乗車してきた811系と。隣に居た415系をまず手軽に。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-337側線に停まっていたヤツを撮っておいたんですが、調べたら既に休車になっていたようです。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-333ゾロ目の333。殆どの編成は100番台の号車番号をそのまま編成番号で使っているようですが、300番台のヤツは00番号にしているようです。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-103そー言えば、九州の415系は一部の窓が1枚固定化されているみたいで、なんだか気持ち悪かったですね。ほんの一部ですが未改造の編成もあるようです。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-203&クハ411-119FJ103編成とFJ119編成併結の8連。良く見るとホワイトのベースが違います。103編成はクリーム、119はアイボリーみたいですが、何で?常磐線からの譲受車ではないので、なんでだろう?他にも留置されている編成がありましたが、構内が広い上に障害物も多く、撮れなかったものが多数ありました。平成24年9月23日 福工大前~九産大前間にて クハ411-119ほか8連九州での初撮影となった415系の走行写真。平成24年9月23日 東福間駅にて クハ411-106この旅で初めての乗車となる415系。とにかく懐かしいと言うか、久し振りの乗車です。写真を撮ってから駆け込みます。クハ411-2102日間居ましたが、1500番台を見たのはこの時だけで、後部は100番台でした。関東の者からすると、常磐線と同じような塗装でありながら、帯色が明るいのでやはり違和感があります。この時点でも国鉄型は貴重になっていたので多くの記録を残すことができましたが、国鉄時代に2回も訪問しておきながら、421系や423系を記録しておかなかったのは非常に残念です。これもデジタル化によるものの結果ではありまけど。
2022.10.02
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キハ130併結:室蘭本線 普通列車キハ130は、JR化後の昭和63年、日高本線用に導入した16m級の気動車。ローカル線での過剰な供給を抑えるために導入した気動車です。コンセプトとしては良かったのでしょうが、実際には塩害や二重窓になっていない点など、不都合が多かったようで、平成11年度から廃車が始まり、平成14年度を最後に全廃となってしまいました。平成2年9月5日 室蘭本線 追分~安平間にて キハ130+キハ22+キハ40室蘭本線のローカル区間です。日高本線では撮影したことが無かったのですが、何故か室蘭本線の普通に併結されているところを写真に捉えています。定期運用だったのか、詳しいところは分かりません。あまり興味がある分野の車両ではなかったので、わざわざ撮りに行く気もありませんでした。しかし、廃車が早まった情報を雑誌から得ていましたので、場所が違えど、この写真を撮っていたことに安心感がありました。
2022.09.29
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185系200番台+165系:高崎線 普通列車185系 新幹線リレー号塗装 復活撮影会(ツアー)185系200番台は、昭和56年末に上野口の165系の置き換え及び「新幹線リレー号」の運転に備えたものとして0番台をベースに誕生しています。全車両が出揃い、昭和60年3月に東北・上越新幹線が上野開業となるまでの間、急行「ゆけむり」「草津」「あかぎ」「なすの」などと共通運用となっていました。さらに、東海道本線ほどではありませんが、115系の不足から夕方の普通列車にも運用されていました。昭和57年5月 西川口~蕨間にて2ドア車による混雑は激しく、高校時代にアルバイトで「急行利用調査」をしていた際も、これらの列車が来る際は乗客整理を手伝わされました。特に上野口の165系による普通列車は、昭和50年3月以降のグリーン車乗務員廃止により、料金を払わずに乗車することができるようになったので、これを狙って早くからホームに並ぶ乗客も見られたようです。写真の普通列車は165系と185系の混成で、列車番号に910Mという表示が出ています。もちろん下り列車に有り得ない番号なので調べてみますと、上りの列車が急行「ゆけむり6号」「草津6号」で、折り返し上野駅17:09発879Mであるということが判りました。私の記憶ではこれ以外に同様の普通列車がもう1本、さらに東北本線の小金井行き(455系)が1本ありました。東海道線では平成25年まで普通列車に運用されていたのとは対照的ですが、極短い期間、上野口でも185系による普通列車が存在していました。なお、信越本線では横軽が廃止となるまで、185系による普通列車が運転されていました。
2022.09.25
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国鉄 豊肥本線:キハ55豊肥本線は、熊本~大分を結ぶ現存の路線です。観光地である阿蘇山を擁した観光路線といえるでしょう。阿蘇の外輪山が非常に険しく、途中の立野ではスイッチバックが見られます。昭和54年3月26日 豊肥本線 立野駅にて キハ55138中学の卒業旅行で九州に行ったとき、高千穂線から高森線にバスで抜けて、豊肥本線の立野駅で撮った写真です。当時もキハ55系の存在は知っておりましたが、首都圏では既に常磐線くらいでしか見ることが出来なくなっていたと思います。高校生時代に上野駅でアルバイトをしていたとき、臨時にの「ときわ」「奥久慈」の中間に連結されていたのを見たことがあります。しかし、中学時代は水郡線のようなローカル線には行ったことがなかったので、初めて間近で見るキハ55に感動した記憶があります。98111 TOMIX トミックス 国鉄 キハ55形ディーゼルカー (急行色・一段窓) セット(2両) Nゲージ 鉄道模型 【9月予約】[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98111 国鉄 キハ55形ディーゼルカー(急行色・一段窓)セット(2両)2469 国鉄 キユニ26形 ディーゼルカー(急行色)(再販)[TOMIX]《09月予約》
2022.09.19
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八高線:キハ35系・キハ20系現在は、高麗川を境にして八王子方面が電化されてしまった八高線。旅客需要の少ない高崎方面は非電化のまま残っていますが、車両はキハ110系に統一されています。そんな八高線も、平成8年3月までは全線が非電化で、キハ30系が我が物顔で走っていました。昭和61年2月4日3両編成。キハ35+キハ35+キハ30です。昭和61年2月4日これもほぼ同じ場所で撮った写真だったと思いますが、当時は撮影区間を記録していなかったので、どの辺りか判りません。手前からキハ35+キハ30+キハ35900番台+キハ30ですね。900番台は好きな形式でしたが、なかなか先頭に立っている写真を撮ることが出来ませんでした。銀色時代に走行写真を撮りたかったんですけどね。昭和52年くらいから塗装化が始まってしまったようです。昭和61年10月9日 東飯能~高麗川間にて現在は電化区間となってしまった区間です。正面からの写真なので形式は判りませんが、手前はキハ30のようです。3両目はベンチレーターが押し込み形になっているので、寒冷地仕様の500番台であることが判ります。この500番台、まともに撮れた写真が無いようです。もっとも、当時はそのような形態差を知らなかったと思います。DD51を撮りに行っただけであり、キハ30系はあくまでもついででしかありませんでした。昭和63年12月6日 高崎線 倉賀野~新町間にて民営化後、高崎線への乗り入れ区間で、もちろん架線下を行く気動車となります。「オリエント急行」を撮影に行った際についでで撮影したもので、特に気にせずアルバムに貼ってあった写真なんですが、良く見たら2両目はキハ20でしたね。全然気が付いていませんでした。この時代は全国的にも北海道を除きキハ20系は絶滅状態にあったと思いますので、まさか首都圏に現役でいるとは思っていませんでした。三脚に据え付けていたので後追いを撮っていなかったのが悔やまれます。平成6年4月30日 丹荘駅にて平成6年4月30日 竹沢駅にて八高線の高麗川駅以南の電化開業及び高麗川駅以北のCTC自動閉塞化により、非電化区間におけるタブレットが廃止になることになりました。また、同時にキハ30系の撤退も発表されたため、それまでDD51牽引の貨物列車を撮影するついでにくらいしか撮ったことのないキハ30系の写真を撮りに出掛けました。以下は組み写真です。平成6年4月30日、明覚駅で定点で撮影したものです。まずは上り列車(画面右側)が到着して退避。そこへ下り列車(画面左側)が到着します。対向の先頭車は500番台ですね。上り列車から受け取ったタブレット(通票)を下り列車にもって行きます。上り列車からタブレットを受け取った下り列車はさっさと出発していなくなっています。そして、下り列車から受け取ったタブレットが、上り列車運転士へ手渡されます。タブレットを受け取った上り列車がやっと発車していきました。今となってはこんな非合理的な方法も、正面衝突を防止する画期的な列車防護方式でした。平成6年5月29日 越生~明覚間にて 4連で、先頭のキハ35は押し込み型ベンチレーターを装備した500番台となっています。八高線にD51が走った日。この場所の奥で線路内にジジィが乱入。大変な騒ぎとなり、永らくイベント列車の運転が無くなりました。当時はまだ電化の話など無く、相模線や八高線、房総ローカルなど、まだまだキハ35系の活躍の場があり、また、西日本のローカル線でも当たり前に使用されていた形式でした。全く珍しいと言う感覚がなく、あくまでもついででしか撮っていませんでした。もう少し形式写真も撮っておけば良かったと思います。
2022.09.18
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185系0番台:東海道本線 普通列車185系 新幹線リレー号塗装 復活撮影会(ツアー)185系0番台は、昭和56年に東海道本線の153系急行列車を置き換えるために誕生した車両で、その後特急「踊り子」として運用されますが、車両が出揃うまでは急行「伊豆」はもちろん、当時は多数あった普通列車にも運用されていました。元々2ドア車による混雑は不評であり、時代とともに3ドア車が増備され、185系による普通列車は姿を消しました。東海道本線では、朝の1本のみ185系による普通列車が存置されていました。普通列車でありながら全車リクライニングシートの訳ですから、タダでグリーン車に乗れるようなものです。早朝にもかかわらず人気がありました。平成20年1月26日 早川駅にて平成20年8月16日 早川駅にていずれも「富士」「はやぶさ」の写真を撮るために陣取った場所ですので、後追いでしか撮っていません。次の根府川駅では後発の特急「踊り子」に抜かれるため、185系の種別違いの並びを見ることができました。昭和56年5月 田町駅にて 829M185系が登場してまだ間もない頃です。もちろん///のストライプ塗装です。829Mは朝方の小田原行きのようです。この時代は「普通」の幕が白地でした。平成25年3月の改正では、185系による普通列車運用が解かれたことにより、東海道線東京口の普通列車はすべて4ドア車化されることになりました。
2022.09.16
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103系:赤羽線赤羽線は、東北本線赤羽駅と山手線池袋駅を短絡する路線を指します。元々は赤羽~池袋~新宿~品川間において「山手線」として開業した経緯があり、のちに池袋~田端間が開業したことで池袋~赤羽間が支線のようなかたちで残りました。赤羽線は営業規則上の正式な名称ではなく、山手線として定められていましたが、昭和47年に正式に「赤羽線」という独立した路線名になりました。前記事で赤羽線の101系をご紹介いたしましたが、今回は103系化後の写真をご紹介したいと思います。昭和54年8月頃 赤羽駅にて 103系 カナリヤイエロー編成赤羽線は比較的早くに103系化されました。編成が少なかったこともあったのでしょう。101系時代にも103系ウグイス色車が代走されたのを見たことがありますが、オールウグイス色が普通であり、このようなオールカナリヤイエローの編成はこの時代以降くらいでした。昭和54年8月頃 赤羽駅にて 103系 混色編成むしろこんな混色編成の方が一般的だったような記憶があります。中間車は全部非冷房車。埼京線と直通運転が始まるまでは8両編成でした。違和感がありますが、フツーに走っていました。昭和56年 赤羽駅にてこの頃になると、新幹線関連の工事が始まって来たようです。赤羽線は5番線のみの1本折り返し使用であり、反対側の6番線は、赤羽線を経由して大宮方面に抜ける下り貨物列車の専用通過線として使用されていました。しかし、この写真を見る限り、昭和54年には既に貨物通過線は撤去されているため、おそらく昭和53年10月ダイヤ改正辺りで貨物の通過扱いは解消されてしまったものと思われます。この後、東北新幹線の工事と共に、埼京線としての直通運転を行うため、赤羽駅として最初の高架工事が行われることになります。
2022.09.05
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キハ22・キハ40:室蘭本線室蘭本線を行く普通列車。特急街道でありながら、普通列車は超ローカルです。昭和63年6月24日 有珠~長和間にて 普通列車 キハ40×3連昭和の末期、既にキハ22は殆ど消え去り、キハ40系が台頭していました。平成2年9月9日 静狩~旭浜間にて キハ40250+キハ22道内からはキハ22も殆ど消えていましたが、一部函館に残ったキハ22が最後の活躍をしていました。平成2年9月9日 静狩~旭浜間にて キハ22317単行同日撮影した普通列車。本線にあるまじき単行です。これが道内で撮影したキハ22最後の写真だったかと記憶しています。
2022.08.26
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401系(ローズピンク):常磐線都心に最も近い交流区間は、ある特殊な事情から。無煙化にあたってどうしても必要になったのが交直流型の近郊型電車。そのために開発されたのが初の新性能近郊型401系電車です。カラーリングはローズピンクを採用し、その後に誕生した交直流型のカラーのベースとなります。交直流型電車の発展は近郊形も急行形も共通しており、初期車→出力増強→3電源方式となっています。この流れが401系→403系→415系に当てはまりますが、近郊形に関しては初期車が153系初期車と同様に低運転台で登場しており、踏切事故対策から高運転台に形態が大きく変更されている点が、急行形に見られない特徴となっていました。昭和54年3月頃 上野駅にて クハ401 低窓車401系登場時から活躍していた車輌です。地味な「赤電」群の中で唯一関心があったスタイルで、近郊型でありながら153系初期車と同じマスクを持った異端的なスタイルが好きでした。昭和55年頃 上野駅にて クハ401 低窓車 シールドビーム改造車401系初期車に廃車が出始めた頃でしょうか。段々見かける機会が少なくなってきたように思います。4連×3で組成されることが多く、中間に入ってしまうと撮れなくなってしまうのが難点でした。運良く低窓車に出逢ったものの、残念ながらシールドビームに改造されていました。一部は塗装変更後も残りましたが、やはり非冷房車であることが災いし、早いうちに廃車の対象となりました。昭和54年頃 尾久駅にて番号がハッキリしないのですが、グローブベンチレータで箱型のものが付いていないことから、401系に属するクハ401のようです。この時代、この時間には、尾久客車区の一番ホーム寄りの発着線に常磐線赤電が停まっていました。ネガのコマ重なりでプリントされなかった画像がフィルムスキャンで蘇りました。赤電は昭和60年のつくば万博の前まで走っていましたが、昔はあまり好きな色でもなかったし、地味過ぎて興味の対象にはなっていなかったため、殆ど写真が残っていません。[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1771 415系500番台(常磐線・国鉄標準) 4両増結セット【特別企画品】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1770 415系100番台(常磐線・国鉄標準) 4両基本セット【特別企画品】
2022.08.17
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キハ38:八高線キハ38気動車は、老朽化したキハ35系を置き換えるため、同系の改造名義で誕生した気動車です。トイレ付き0番代が4両、トイレ無し1000番代が3両の、計7両が登場しています。登場当初は八高線で使用され、カラーはキハ38専用の気動車としては特徴のある塗装となっていました。平成2年1月24日 八高線 高麗川~東飯能間にて現在は電化されてしまった区間を行く気動車列車。外観からは判りにくいですが冷房付車両で、冷房装置は2階建てバス用のものを搭載しているらしいです。平成6年4月30日 八高線 明覚駅にて現在も非電化のままの区間。タブレット時代末期の八高線での記念撮影。長らく八高線で活躍した同車ですが、平成8年に高麗川以南が電化され、これに合わせて以北の非電化区間にもキハ110系を投入。働き場所を無くしたキハ38は、一同久留里線へと旅立ちます。その久留里線にも新性能化の波が押し寄せ、JRからは姿を消してしまいました。その際、2~4、1001、1002は平成26年にミャンマーへ輸出、1003は水島臨海鉄道に譲渡され、現役で運用されています。さらに、水島臨海鉄道では令和4年度にこの塗装に復元が行われ、話題となっています。
2022.08.16
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101系:赤羽線赤羽線は、東北本線赤羽駅と山手線池袋駅を短絡する路線を指します。元々は赤羽~池袋~新宿~品川間において「山手線」として開業した経緯があり、のちに池袋~田端間が開業したことで池袋~赤羽間が支線のようなかたちで残りました。赤羽線は営業規則上の正式な名称ではなく、山手線として定められていましたが、昭和47年に正式に「赤羽線」という独立した路線名になりました。現在は「埼京線」の一区間として案内されていますが、「埼京線」という名称も正式な路線名ではなく、大宮~武蔵浦和~赤羽間は東北本線、赤羽~池袋間は赤羽線、池袋以南は山手線となります。昭和48年頃 板橋駅にてこの時代、山手線は既に103系化されていましたので、101系のカナリヤイエロー車は赤羽線の専用車両でした。しかし、元々は山手線自体がカナリヤイエローの101系により新性能化されましたので、ある意味、赤羽線に使っていた車両がオリジナル車であると言えます。昭和52年頃 赤羽駅にてこちらは赤羽駅で撮影したものです。101系の運用もそろそろ終盤となった頃でしょうか?短区間の折り返し運転のため、首都圏では珍しいタイプの方向幕が使用されていました。山手線及び京浜東北線のATC化を目的とする103系の増備が急ピッチで展開されており、一方で首都圏に残る73形の新性能化も行われており、非ATC車や101系の置き換えが実施されていました。赤羽線に残った101系もATC車に置き換えられることになり、昭和53年2月いっぱいで101系運用が消滅しています。
2022.08.07
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国鉄 胆振線:キハ22胆振線は、室蘭本線の伊達紋別と函館本線の倶知安を結んでいた83.0kmに及ぶ路線です。歴史をを辿ると、大正9年11月15日に京極軽便線として開業ということですから、昭和40年代に開業したローカル線の多い北海道の中ではかなり歴史のある鉄道ということになります。その後、胆振鉄道、胆振縦貫鉄道が開業して全線が結ばれ、昭和19年7月1日に買収、胆振線となります。北海道の鉄道に夢中になっていた頃、1度だけ胆振線に乗車したことがありました。昭和58年9月6日 京極駅?にて キハ22253実はこの写真、胆振線には間違いないのですが、どの駅で撮ったか不明だったのです。胆振線では途中の比較的大きな駅(←と言ってもみんなローカルですが・・・)では数分ずつの運転停車がありました。このときも、途中の新大滝駅、喜茂別駅、京極駅で入場券を購入しておりますので、このうちのどれかの駅だと思います。その後、読者の方から情報をいただきまして、京極駅ではないということが分かりました。このような写真を撮る場合、大体は駅名標が入るように撮るものですが、さすがにこのロケーションではそのような都合の良い構図は望めませんよね。今だったらデジカメで時間を記録できますから、難なく判ってしまう訳です。便利な世の中になりました。函館山線で特急「北海」や急行「ニセコ」を撮る際、わざわざ乗り鉄を兼ねて踏破した区間ですが、昭和59年6月に廃止が承認され、2年後の昭和61年10月末をもって全線が廃止となっています。時刻表ネタ 昭和55年 国鉄胆振線 循環急行「いぶり」
2022.08.04
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国鉄 101系カナリア色:試運転電車国鉄・JRの電車については路線・形式ごとにまとめをしていますが、国鉄101系の写真で路線に属さないものが1枚残っていますのでご紹介したいと思います。昭和59年頃? 新宿駅?にて?ばかりのデータになってしまいますが、新宿駅で撮影したと記憶しています。101系の活躍も終焉期を迎えており、南武線や鶴見線が最期の活躍の場所になっていたと思われます。方向幕が「試運転」を表示しています。新宿に居たことからすると、大井工場からの出場車と思われます。クモハ+モハのユニットにクモヤが連結された3連となっており、写真のクモハが大崎方であったと記憶しています。運転席の通風孔からコードが伸びていますが、過去ログでご教示いただいたことがあり、これは可搬型のATS-S装置だということです。国鉄時代の電車区間では殆どがATS-B型のみの装備であったようで、本線系を自走する際にこのような措置が取られていたということです。おそらくは出場を兼ねた試運転であると思われますが、工場と配置区を自走する際、回送される線区によってこのような措置が必要となったようです。
2022.07.29
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415系(塗装変更後):常磐線E531系化が完了して久しい常磐線上野口の普通列車ですが、その昔は国鉄型の鋼製車が殆どを占めていた時代が長く続きました。過去ログ『415系(ローズピンク):常磐線』昭和60年に開催された科学技術博覧会(つくば万博)を契機として、長距離電車の15両化、赤電からの塗装変更が実施されています。どちらの塗装もあまり好きではありませんでしたが、やはり常磐線の普通電車と言えば赤電であり、塗装変更後は殆ど写真を撮ろうという気にはなれず、記録も殆どありません。平成元年5月5日 荒川沖~土浦間にて 415系 下り普通列車かなりピンが甘いようですが、なんでこんなアングルで撮ったのか謎です。この頃になると、403系以前の車両は殆どなくなり、1500番台が出揃ってきていたんじゃないかと記憶しています。平成19年1月12日 藤代~取手間にて 415系 1391M平成19年2月12日 藤代~取手間にて 415系 1396M415系は上野口から撤退することになり、鋼製車の活躍も末期となった頃です。この2枚は鹿島鉄道の撮影帰りに撮影したもの。古い401系や403系が無くなり、殆ど興味も失せてしまっていましたが、415系も経年の割には比較的に早く姿を消してしまったような印象があります。415系は初期車が冷房付きの旧型スタイルで特徴があったのですが、当時はそのことを知らなかったので、特に記録することもできず、気が付いた時には既に廃車になった後でした。[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1771 415系500番台(常磐線・国鉄標準) 4両増結セット【特別企画品】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1770 415系100番台(常磐線・国鉄標準) 4両基本セット【特別企画品】
2022.07.18
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101系:南武線イベント列車「ドラえもん号」昭和55年11月、かわさき市民祭りの実施に合わせて、イベント列車「ドラえもん号」が運転されました。昭和55年11月2日 矢向駅?にて 101系「ドラえもん号」新性能化が完了したばかりの頃の南武線。使用車両も一般車両と共通の101系6両編成が使用されました。かなりのコマ数を撮影したのですが、良い写真がなかったのでスキャンしていません。運転の経緯等は、下の記念入場券に記されていますのでご参考まで。101系:南武線
2022.07.13
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キハ40:石北本線北海道の新旭川と網走を結ぶ主要路線である石北本線。かつて、北見や網走への主要ルートは旭川から現在の富良野線や根室本線、そして池田から旧地北線を経由していたものですが、滝川~富良野間の短絡によって利便性が増し、優等列車も走っていました。そして、新旭川~遠軽間の開通により、現在に至るまで特急列車の走る路線となっています。都市間輸送を担う重要路線として、特急列車や急行列車が多数設定されていましたが、路線の中間ではおおよそ人が居住しない地域を走っているため、普通列車の設定本数が非常に少なく、特に上川~白滝はかなり以前から1日1往復しか普通列車を設定していない超過疎路線となっていました。北海道には11回も渡道していますが、道央は夜行列車の夜中の通過時間になってしまうため、殆ど撮影したことがありません。特に旭川~遠軽間では列車での移動による撮影はほぼ不可能と言って良いと思います。そのような過去の撮影の中で、1度だけフェリーにより釧路に上陸し、釧網~石北を走破したことがあります。その際、時刻表を見ながらできるだけ撮影を挙行し、数少ない普通列車の写真を1枚だけ撮影していました。平成3年7月8日 丸瀬布~下白滝間にて キハ40単行による普通列車どの地点でどちら向きの列車の写真を撮ったかすら、記録をしていなかったので全く分かりません。何故ここでシンプルに真横から撮影したかと言えば、初めて見た一面に咲くジャガイモの花がすごくきれいだったから。何故線路に近づかなかったかと言えば、道が無かったからに他なりません。※撮影地は、金町のHさんがGoogle mapから探し出してくださいました。この区間では何度も列車に乗って通過していますが、殆どが夜行列車であり、また、今思い起こせば殆どが冬季でした。一度だけ特急「オホーツク」で昼間に通ったことがありましたが、やはり季節が違っていて、初めて見たスケールの大きなジャガイモ畑は圧巻でした。今でも取り敢えず特急列車が複数設定されていますが、やはりその状況はかなり厳しいようなので、本線と言えども路線維持はかなり難しいと思われます。
2022.07.06
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101系:南武線73系などの旧型国電は、昭和50年代に入ると急速にその姿を消すようになります。もちろん、主要路線である中央快速、中央総武緩行、山手線、京浜東北線などは昭和40年代に新性能化されていますが、周辺路線は昭和55年頃から新性能化が始まっています。南武線では昭和55年くらいから101系化が実施されたと記憶しています。冷房化が急がれている都心の路線を整備するため、103系冷房車が急ピッチで製造されていました。これにより余剰となった中央快速線や中央総武緩行線101系を南武線に投入することなり、そのためにラインカラーがカナリアイエローになったようです。昭和55年11月2日 尻手駅にて 101系混色編成新性能化が完了してからまだ間がない頃だと思います。中央快速線や中央総武緩行線からの転属車で賄っていますので、このような混色編成も良く見られたようです。昭和57年5月 撮影場所不明 101系南武線セミ判(6×4.5判)の試運転のときに撮影したものです。撮影場所は全く覚えていませんが、小田急線の登戸附近で撮影をしていますので、これも登戸附近ではないかと思われます。それにしても、のどかな風景ですね。101系は平成2年くらいまで走っていたようですが、最後に残っていたのは冷房改造車であるため、写真のような非冷房車は早々に姿を消してしまったようです。
2022.06.24
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103系1000番台:常磐緩行線(千代田線代々木公園行き)千代田線が常磐線に乗り入れ運転を行うようになったのが昭和46年。そして、私が開業したばかりの武蔵野線に乗るようになったのが昭和48年でした。未だ小学4年生の頃でしたので、初めて見た常磐緩行線と言うのは異質の鉄道に見えました。地下鉄車両が国鉄線を走っているわけですから。営団の6000系は衝撃的なスタイルに見えました。乗り入れ開始から営団6000系と共に国鉄の103系1000番台が使用されており、当時の写真として1枚だけ記録が残っていました。昭和48年頃 新松戸駅にて 103系1000番台行き先は、今では懐かしい「代々木公園」行きです。当時は未だ小田急線へはつながっていませんでしたので、代々木公園←→我孫子を往復しておりました。(もちろん、綾瀬や霞ヶ関など途中折返しもありました。)103系よりは、むしろ6000系の方が斬新で非常に興味はありましたが、当時は写真が非常に高価だったので、ほとんど撮ることはできませんでした。列車本数もかなり少なかったように思います。その後、103系1000番台を撮ろうと思えばいくらでも撮れた筈なのですが、とにかく通勤形には興味はありませんでしたし、増してや常磐線にはあまり良いイメージがなかったので、特急以外はほとんど撮ることがなく、気が付けば103系1000番台の快速充当時代すら撮ることなく引退してしまいました。【中古】マイクロエース Nゲージ 103系1000番台千代田線基本6両セット A0770 鉄道模型 電車【中古】マイクロエース Nゲージ 103系1000番台千代田線増結4両セット A0771 鉄道模型 電車
2022.06.21
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国鉄 天北線:キハ22・キハ40天北線は、宗谷本線の音威子府駅からオホーツク海側に向って分岐し、南稚内で元の宗谷本線南稚内駅へ至る、比較的距離の長いローカル線です。途中の浜頓別駅では興浜北線が分岐、その他には接続する路線がありません。天北線は他の路線とはやや性格が異なります。最果ての地、稚内へと至る重要路線である宗谷本線の迂回ルートとしての役割があり、悪天候などによりどちらかが不通になったとしても、生きている方の路線を使用して運転を続けることが出来ます。現に、私が初めて稚内を訪れた際、悪天候により両線とも不通となりましたが、翌日の急行「天北」を宗谷本線経由として運転を再開、これに乗車したことがあります。特に冬場においては、このような運転が行われることがあったようです。昭和63年6月25日 天北線 曲淵駅にて時間調整中のキハ22首都圏色車を撮影。昭和63年6月25日 天北線 芦野~猿払間にて キハ22237雄大なスケールにキハ22の単行が溶け込む。昭和63年6月26日 天北線 撮影地不詳「北海道といえば牧場」というようなイメージがあったので、モーモーちゃんたちをいれてパチリ。実はココをレンタカーで走っていったら、ビックリした牛たちが怒涛の如く逃げて行ってしまい、落ち着くのを待つまで大変だったんです。モーモーちゃんたち、驚かせてゴメンネ!昭和56年3月 稚内駅にて キハ2222あまり車番とかって、フィルムが勿体無くて撮らなかったんですが、こういうの見ちゃうと嬉しくなってつい撮ってしまいます。今となっては遠い思い出。浜頓別経由と言えば、もちろん天北線です。北の果てで出会った、おもしろい名前の気動車です。天北線も赤字ローカル線と言う名に漏れずに特定地方交通線となり、平成元年4月を以って廃止となっています。
2022.06.10
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103系(低運転台):横浜線今では想像が付かないかもしれませんが、横浜線は昭和50年代半ばまで茶色い電車が走っていました。103系も比較的に早くから導入されましたが、根岸線で同居している京浜東北線と比較すると、何故か見劣り感がありました。昭和55年3月頃 横浜線 八王子駅にて73系を置き換えて間もない頃だと思いますが、元々早いうちに103系が導入されていた横浜線では、京浜東北線と同じスカイブルーの車両を使用することが多々あったため、ヘッドマークタイプの「横浜線」という線名表示を掲げていました。誤乗防止の措置かと思われます。当時の中央線「特別快速」と同じようなデザインのヘッドマークは、103系に非常に似合っていたと思いました。そのような写真を撮っておきたかったところですが、この時撮った103系は直に車体に塗装したようなタイプで、文字もショボイです。よく、転属直後で塗装変更が間に合わないときに使われるタイプの表示でした。多分、山手線のお古ですね。しかも、1両目と2両目以降で明らかに色が違って見え、非常に古い汚い感じがしました。山手線や京浜東北線ではそろそろ冷房車が普及しだしてきた頃でしたので、余計に古く感じたのでしょう。写真は八王子駅ですが、階段部分にしか屋根が無く、今とは比較できない程ローカル感がありました。
2022.06.09
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