全416件 (416件中 101-150件目)
【参拝日:2022年(令和4年)9月29日(木)】 お酒の神社 ※ 公式HPより 祭神:大山咋命(おおやまくいのみこと) 例祭:9月13日 当神社は寛政12年(1800)武蔵国の醸造家の懇請により京都の松尾大社より勧請された神社である。鳥居は文化4年(1807)に建立されており、奉納した醸造家達の名前が彫られている。 御祭神である大山咋命は、太古より醸造の守護神であると共に開拓の粗神として御神徳高き神で、酒、醤油、味噌、麹等の業者及び開拓関係者の信仰厚く霊験顕著で有名である。昭和31年(1956)に東京都酒造組合により現在の覆屋が奉納された。 ※ 松尾神社 〈松尾神社:東京都府中市宮町3-1〉
2022年09月29日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月29日(木)】 東京五社巡り ※ 公式HPより 武蔵国の守り神 大國魂神社は大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]を武蔵国の守り神としてお祀りした神社です。 この大神は、出雲の大国主神と御同神で、大昔武蔵国を開かれて、人々に衣食住の道を教えられ、又医療法やまじないの術も授けられた神様で、俗に福神又は縁結び、厄除け・厄払いの神として著名な神様です。 ※ 大國魂(おおくにたま)神社※ 初めて人形(ひとがた)をやってみました。※ 全身の穢れを人形に移して 〈大國魂(おおくにたま)神社:東京都府中市宮町3-1〉
2022年09月29日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月27日(火)】 ※ 公式HPより 当社の創祀された時は明らかではありませんが、古くからの言い伝えによると貞観年間(清和天皇・859~876年)には既に鎮座していたと云われています。 鎮座地の日本橋室町二丁目付近は、往古は武蔵国豊島郡福徳村(あるいは豊島郡野口村福徳)と伝えられ、農漁家の点在する片田舎だったそうです。 古くは稲荷の祠と呼ばれていましたが、後にその村名をとって「福徳稲荷」と呼ばれました。 また土地の人は神社の森を「稲荷の森」、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。 後の明暦3年(1657)正月8日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。 当時の人々は、この石碑の破片を集め保存したと考えられています。 その碑名の写しは次の通りです。 表 宮戸川邊り宇賀の池上に 立る一里塚より此福徳村 稲荷森塚迄一里 裏 貞観元年卯年 三つき吉祥日 江戸時代の社家であった森村氏の言い伝えによると、源義家公、太田道灌公など武将の崇敬も厚く、後に道灌公は相殿に合祀されました。 徳川家康公は天正18年(1590)8月に初めて当社に参詣され、その後参詣は数度に及んだといいます。 後に、本田忠勝が関ヶ原の戦いの功績により家康公より賜った紙入れを当社に奉納した際、これを東照宮の神霊として祀るように命じ、以来相殿に奉斎されています。 さらに、二代将軍秀忠公は慶長19年(1614)正月28日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛されました。この時、当社古例の椚(くぬぎ)の皮付き鳥居に、春の若芽の萌え出でたのをご覧になり、当社の別名を「芽吹稲荷」と名付けられました。 元和5年(1619)2月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに社地を333坪余と定められました。 当初は近隣一帯が田園であった福徳の地も江戸に幕府が開かれてより商家が軒を並べる繁華街となり、この地も伊勢町・瀬戸物町の二つの町名と変り、その付近を「浮世小路(うきよしょうじ)」と称されるようになりました。その二百数十年の間に数度にわたる火災や境内地一部の上地などにより維新後に至っては40余坪ほどになってしまいました。とは言え、町内の崇敬は厚く、天保の改革により存続の危機に見舞われた際も、一致して再興に力を尽くしました。 明治7年(1847)8月9日、政府により当地の由緒・信仰を認められ「村社」の社格を定められ、社号が福徳稲荷から福徳神社へと変わりました。以後、瀬戸物町を氏子とし、室町・本町・伊勢町・安針町その他に崇敬者を擁し、祭典・営繕維持に尽力しました。 関東大震災後の区画整理により日本橋区室町2丁目4番地に遷座、戦災に遭いながらも、昭和48(1973)年1月に中央区日本橋室町2丁目4番14号に遷座し平成を迎えました。 この間、日本橋界隈は商家の街並みからビル街へと変遷するなかで、当社もその大きな波を避けること適わず、ビルの屋上へと移転しながらも維持されていきました。 平成18年(2006)日本橋室町の再開発による建て替えに伴い、4度の遷座。平成26年(2014)に現在の新社殿が竣工し、江戸時代より続く「日本橋のお稲荷様」として日本橋に行き交う多くの人々の崇敬を集めています。 ※ 福徳神社(芽吹稲荷) 〈福徳神社(芽吹稲荷):東京都中央区日本橋室町2-4-14〉
2022年09月27日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月27日(火)】 ※ 筑土八幡神社 〈筑土八幡神社:東京都新宿区筑土八幡町2-1〉
2022年09月27日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月27日(火)】 ※ 公式HPより 善國寺が創設されたのは、桃山時代末の文禄4(1595)年で、今からおよそ400年を遡る。 初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方である。 上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。 上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。 そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。 それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となられた。 ここに毘沙門天を奉安する、名刹・善國寺が誕生したのである。 徳川家の中で、法華経への信仰が厚いといえば、それは黄門様で有名な水戸光圀公である。 光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文10(1670)年に焼失した当山を麹町に移転し、立派に再建されたのである。 この縁由により、爾来当山は徳川ご本家、並びにご分家の三郷のうちの田安・一橋家の祈願所となったのである。 当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政4(1792)年の火事により、当、神楽坂へ移転してきた。 今から約二百年前のことである。 尚麹町の遺跡は、今の日本テレビ通り、麹町三丁目交差点の脇の歩道に建てられている黒御影の『善國寺谷跡』の石碑により、往時を偲ぶことができる。 毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門天》の威光は倍増していった。 当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に移転するなど、除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。 明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。 特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。 昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には地元各位を始め、有縁の方々のご賛助により、威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである。 毘沙門天は、インド出身の神様で、仏様、ないし仏法を守る役目を担い、四天王の随一として北方守護を司る。 また、多聞天とも号し、文字通り、参詣者の願い事を《多く聞いて》下さり、七福神のお一人として、日々福を授けて下さっている。 ※ 神楽坂毘沙門天 善國寺 〈神楽坂毘沙門天 善國寺:東京都新宿区神楽坂5-36〉
2022年09月27日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月27日(火)】 ※ 公式HPより 江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いでした。明治の新国家が誕生すると、明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていました。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っております。 現在広く行われている神前結婚式は、当社の創始によるものであり、今も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。 「東京のお伊勢さま」と称され親しまれている東京大神宮は、伊勢神宮(内宮と外宮)の御祭神である天照皇大神と豊受大神、さらに倭比賣命を奉斎しています。また、天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る造化の三神があわせ祀られていることから、縁結びに御利益のある神社としても知られ、良縁を願う人たちのご参拝も多く、その御神徳は実に広大無辺といえます。 家内安全・商売繁昌・厄除開運・良縁・交通安全・学業成就など所願の成就をご祈念ください。 ※ 東京大神宮 〈東京大神宮:東京都千代田区富士見2-4-1〉
2022年09月27日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月27日(火)】 ※ 公式HPより 築土神社は940年(天慶3年)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりで、江戸城築城後の1478年(文明10年)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬された。 1994年(平成6年)5月、社殿老朽化に伴い社殿・社務所の大改築を実行し地上8階(地下1階)建てのビルが完成(千代田区都市景観賞受賞)。社殿もコンクリート壁の現代的な神社となった(この時、境内にあった末社の木津川天満宮より築土神社の「相殿(あいどの)」に菅原道真公を配祀)。ビル名は「アイレックスビル」と名付けられたが、「アイレックス」とはモチの木を意味し、かつて築土神社が九段坂からモチの木坂に至る田安の地に鎮座していたことにちなんでこの名が付けられた。参道入口にはビルのシンボルとしてモチの木が植えられている。 ※ 筑土神社 〈筑土神社:東京都千代田区九段北1-14-21〉
2022年09月27日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 公式HPより 鴻神社は明治6年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といわれておりました。 明治40年4月8日に鴻三社から社号を改め『鴻神社』となり、現在に至っております。 鴻神社では、合祀以前の三社で祀られていた神をご祭神としております。 ※ 鴻神社(埼玉県鴻巣市) 〈鴻神社:埼玉県鴻巣市本宮町1-9〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 箕田氷川神社 〈箕田氷川神社:埼玉県鴻巣市箕田1260〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 箕田氷川八幡神社 〈箕田氷川八幡神社:埼玉県鴻巣市箕田2041〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 日枝神社 〈日枝神社:埼玉県鴻巣市小谷1505〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 真言宗智山派 金乗寺 〈真言宗智山派 金乗寺:埼玉県鴻巣市小谷1507〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 曹洞宗 宝勝寺 〈曹洞宗 宝勝寺:埼玉県鴻巣市小谷1543〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 鷺栖神社 〈鷺栖神社(さぎすじんじゃ):埼玉県行田市門井町1-104〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 愛宕神社 〈愛宕神社:埼玉県鴻巣市下忍〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 〈寺谷稲荷神社:埼玉県鴻巣市寺谷〉
2022年09月16日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月10日(土)】 ※ 平方浅間神社 〈平方浅間神社:埼玉県越谷市平方3604〉
2022年09月10日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)9月10日(土)】 ※ 公式HPより 浄土宗林西寺は、白龍山月照院と号し、成阿等海和尚(覚蓮社成和上人)による嘉暦年間(1326~29)の開山と伝えられています。当初は大善寺と称していました。寺伝によると、当寺は浄土宗鎮西流六派の随一をほこり、藤田持阿の嫡流とされていました。 その後、増上寺第12世源譽存応の弟子であった大善寺第9世然譽呑竜上人の代に、藤田派から白旗派に転じ寺号も大善寺から林西寺と改められました。 ※ 浄土宗 白龍山 月照院 林西寺 ※ 庚申塔も素敵です※ 右 赤沼道 ※ 左 粕壁道 ※ 吞龍上人の墓 〈浄土宗 白龍山 月照院 林西寺:埼玉県越谷市平方249〉
2022年09月10日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月23日(火)】 ※ 公式HPより 大谷場氷川神社の使いはキジです。 『キジの氷川さま』といわれています。 ※ 大谷場氷川神社 〈大谷場氷川神社:埼玉県さいたま市南区南本町1-9-1〉
2022年08月23日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月21日(日)】 歩き疲れてきて、写真がちょい斜めに ※ 御嶽神社 〈御嶽神社:埼玉県さいたま市桜区田島3-28-30〉
2022年08月21日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月21日(日)】※ あれ、木の根元に※ かしわ餅の葉っぱ※ 力石 〈稲荷神社:埼玉県さいたま市桜区田島3-28〉
2022年08月21日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月21日(日)】 力石がうようよあるとの情報があり、参詣 ※ 日月社※ あっ、いたいた 〈日月社:埼玉県さいたま市南区鹿手袋7-13-9〉
2022年08月21日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月21日(日)】 ※ 八幡社 〈八幡社:埼玉県さいたま市南区鹿手袋6-6-20〉
2022年08月21日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月21日(日)】 ※ 第六天社※ 力石 〈第六天社:埼玉県さいたま市南区鹿手袋6-4-11〉
2022年08月21日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月21日(日)】 ※ 別所稲荷神社 〈別所稲荷神社:埼玉県さいたま市南区3-7〉
2022年08月21日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月21日(日)】 ※ 鹿嶋神社 〈鹿嶋神社:埼玉県さいたま市浦和区高砂4-9-1〉
2022年08月21日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 ※ 諏訪神社 〈諏訪神社:埼玉県久喜市河原代〉
2022年08月18日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 ※ 花崎鷲宮神社 〈花崎鷲宮神社:埼玉県加須市花崎2-29-3〉
2022年08月18日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 ※ 公式HPより 当神社は文武(もんむ)天皇の大宝3年(703)に多治比真人三宅麿が東山道鎮撫使として武蔵の国下った時に創建したものといわれ[一説には成務天皇6年(136)の創建とも言う]、平安時代初期、醍醐天皇の延長5年(927)に公布された当時の法制の書「延喜式」の中にその名を記されている由緒ある古社である。以来この地方の人々の広い尊崇を集めてきたが、戦国時代の天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵の際、当時今の所より北方数百メートルの正能村(現加須市正能)の地にあった当神社はその兵火にかかり炎上、社殿をはじめ、古記録・宝物など悉く消失した。徳川時代に入り、嘗て根古屋村(現加須市根古屋)に在った騎西城の大手門前に遷座再建されたが、やがて程なくして1627年頃に現在の地に移転鎮座され、今日に至っている。当神社へ江戸時代まで「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守であり、騎西領48箇村の氏神でもあって、広い地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれ、深い信仰を受けていた。このことから、各地に久伊豆社と称する御分霊社が数多く建立されることともなった。なお現在の社殿は本殿と幣殿が文化13年(1816)の建築であり、その外周を飾る彫刻は当時、江戸三名工の1人として言われた五代目後藤師茂右衛門の作である。また、拝殿は明治31年(1898)の修築に成るものである。 ※ 祝誕詣でいただきました 〈玉敷神社:埼玉県加須市加須市騎西 552-1〉
2022年08月18日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月15日(月)】 終戦記念日 月次祭(つきなみさい)に行ってきた。 宮司さんから、終戦の講話がありました。 禰宜さんたちは、この後、埼玉縣護國神社の例大祭:8月15日(みたま祭)に行くようです。 ※ 公式HPより 南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。 伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。 ※ 旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちょうはいでん) 〈旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちょうはいでん):久伊豆神社 埼玉県越谷市越ヶ谷1700〉
2022年08月15日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)8月15日(月)】 終戦記念日 月次祭(つきなみさい)に行ってきた。 宮司さんから、終戦の講話がありました。 禰宜さんたちは、この後、埼玉縣護國神社の例大祭:8月15日(みたま祭)に行くようです。 〈久伊豆神社:埼玉県越谷市越ヶ谷1700〉
2022年08月15日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月24日(日)】 地元の氏神様の例大祭のため、神職をお迎えに行きました。 ※ お迎えなので、車寄せに、ドーン 〈久伊豆神社:埼玉県越谷市越ヶ谷1700〉
2022年07月24日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月17日(日)】 いつも見かけていた神社。 やっと、参拝しました。 ※ 竈三柱神社(かまどみはしらじんじゃ) 〈竈三柱神社(かまどみはしらじんじゃ):埼玉県越谷市増森〉
2022年07月17日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月14日(木)】 ※ 伊草神社 〈伊草神社:埼玉県川島町伊草182〉
2022年07月14日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月14日(木)】 ※ 公式HPより 五千頭の龍が昇る 建て主は康國典大法師。 四十歳半ばにして不治の大病を患い、ご本尊「三清道祖」と縁起をもたれたのを期に一命をとりとめ、完治されました。 深謝の念と、何人にも神様のご利益にあやかれるお宮を建てたく建造の地を探していたところ、なんと生国の台湾ではなく日本国のこの地にとお告げを授かりました。 聖天宮の名、佇まいや方角もお告げがあり、当時、正面の道、最寄の若葉駅もなかった雑木林のこの地を一から整地し昭和五十六年より着工に至りました。 台湾の一流の宮大工を呼び寄せ、十五年を掛け、平成七年に聖天宮を開廟しました。 〈聖天宮:埼玉県坂戸市塚越51-1〉
2022年07月14日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 私事ですが、2001年(平成13年)2月4日(日)に、結婚式を挙げた神社です。 久々にやって来ました、1人で。 ※ 公式HPより 東参道にそびえる高さ15mの明神型の大鳥居は、木製としては日本最大級の規模を誇る。鳥居中央の扁額に記された社号は勝海舟の直筆によるもの。境内は樹齢500年を超える欅のご神木をはじめとする樹々が生い茂り、葉を揺らす風の音が心地よい。 川越氷川神社の歴史はたいへん古く、古墳文化が伝えられた6世紀、欽明天皇の御代に創建されたと伝える。室町時代に太田道灌が川越城を築城して以来、城の守護神・当地の総社として崇敬され、「お氷川様」と呼ばれ親しまれてきた。江戸時代には藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬された。江戸彫りといわれる精緻な彫刻が全面に施された現在の本殿は天保13年(1842)、当時の城主松平斉典と地域の氏子により寄進された。夫婦と家族の神々を祀ることから「縁結びの神様」としても信仰され、日柄の良い日には白無垢を着た花嫁さんを見ることもできる。 10月中旬に行われる「川越まつり」は氷川神社例大祭の付祭りである。夏には七夕祭や「縁むすび風鈴」、春には小学校に上がる子供たちの交通安全・学業成就を祈願する「ランドセルお祓い式」など、年間を通してさまざまな神事が行われる。緑豊かな境内は参拝者のみならず、四季折々の彩を楽しむ市民の憩いの場所としても親しまれている。 当社には、境内の小石を持ち帰って大切にすると、良縁に恵まれるという言い伝えがあります。「縁結び玉」は身を清めた巫女が小石をひとつひとつ拾い集め、麻の網に包んだ後、毎朝神職がお祓いをして奉製しています。生涯を共にするお相手と巡りあえましたとき、おふたりでお参りのうえ、神社へお戻しください。 縁結び玉の代わりに、おふたりのご縁が長く、堅くつづくよう祈願した特別なお守りを差し上げます。※ 夏のイベント(縁むすび風鈴) 川越氷川神社の境内に、2,000個以上の色鮮やかな江戸風鈴が飾られます。 江戸風鈴には、願いごとを書いた短冊を掛けることができます。 境内に響く涼やかな風鈴の音色をお楽しみください。 ※ 川越氷川神社※ 披露宴をやった会場は、なくなっていました。※ 新しい披露宴会場 〈川越氷川神社:埼玉県川越市宮下町2-11−3〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 川越氷川神社で、朱印をいただくの忘れてしまいました。 ※ 公式HPより 三芳野神社は平安時代に創建され、寛永元年(1624)に川越城内の鎮守として後の城主酒井忠勝によって再建されたといわれています。 「お城の天神さま」として歴代城主や庶民から信仰された三芳野神社。お参りするには、細道の続く複雑なルートを通る必要がありました。 この細い参道こそが、城内にあり一般の人の参詣が難しい様子が歌われている童唄「通りゃんせ」発祥の地であるといわれる所似です。 「お城の天神さま」と親しまれた三芳野神社は、学問の神様と言われる菅原道真(すがわらのみちざね)を祀ることから、合格・必勝祈願・学業成就などのご利益で知られます。 ※ 三芳野神社 〈三芳野神社:埼玉県川越市郭町2-25-11〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 御嶽神社 〈御嶽神社:埼玉県川越市郭町2-15〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 富士見櫓跡の神社。 ※ 富士浅間神社 〈富士浅間神社:埼玉県川越市郭町2-15〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 成田山川越別院は、「小江戸川越七福神第四番 恵比須天(えびすてん)」の寺院です。 鯛を抱いた福々しい相好の恵比須様は「福の神」の代表であり、人々に幸福をもたらすと信じられています。 交通安全のご利益で有名な成田山川越別院ですが、境内には「眼病平癒」「視力回復」を祈願した『開山堂』や、「家内安全」「開運成就」をはじめ「合格成就」を祈願した『出世稲荷』、縁結びのご利益がある『縁結七福弁財天』などがあります。 御朱印は、不動明王の御朱印、関東三十六不動霊場(27番札所)の御朱印、小江戸川越七福神の恵比須天の3種類があり、本堂を正面にして左側の納経所でいただくことができます。 新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、御朱印は当面の間書置き対応となります。 ※ 成田山川越別院 〈成田山川越別院:埼玉県川越市久保町9-2〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 天台宗川越大師喜多院は、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願寺であり、本尊である阿弥陀如来をはじめ、不動明王や毘沙門天等などを祀り、『無量寿寺』と名付けられました。慶長17年(1612)、徳川家康が天海大僧正に喜多院の再興を命じて多くの堂塔伽藍が建造されましたが、寛永15年(1638)1月に起きた川越大火により、現存する山門を除き、堂宇はすべて焼失してしまいました。そこで同年11月、3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)より客殿、書院等を移築しました。客殿や書院には「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と伝えられている部屋があり、これらは、慈眼堂・山門などとともに重要文化財に指定されています。 境内の一角には、川越北田島の僧・志誠(しじょう)の発願により天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立された、日本三大羅漢の一つに数えられる「五百羅漢」が祀られています。 ※ 喜多院(仏蔵院のちに北院から喜多院) 〈喜多院:埼玉県川越市小仙波町1-20−1〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 東照宮といえば徳川家康を祀った日光東照宮が有名だが、仙波東照宮は日本三大東照宮の一つで、喜多院の南側に隣接している。 元和2年(1616)駿府で徳川家康公が没し、その遺骸を静岡から日光山へ移葬する途中、天海僧正によって喜多院で四日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633)建立された。それから5年後の寛永15年(1638)、「寛永の大火」と呼ばれる大火事によって、喜多院山門を残し、焼け落ちたが、徳川家光より喜多院復興の命令が下ると、まず東照宮の再建が行われ寛永17年(1640)に完成した。 漆塗りの極彩色の飾りが鮮やかな本殿・唐門・瑞垣・拝殿・幣殿・随身門(写真左上)・石鳥居と全てが重要文化財に指定されており、社殿の柱には東照宮の名に相応しく立派な彫刻が施されている。本殿内部には家康公の像が祀られ、所蔵の文化財としては拝殿内欄間に徳川家光が奉納した岩佐又兵衛勝以筆「三十六歌仙絵額」、弊殿には県指定文化財である岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した12面の鷹絵額がある。 立派な三つ葉葵の御紋(写真右下)がかけられた拝殿前の入口扉や、歴代の江戸幕府の重臣であった川越城主の銘が刻まれた石灯籠が歴史の重みを感じさせてくれる。 【公開日時】日曜・祝日のみ 午前10時~午後4時 ※ガイドあり ※ 仙波東照宮 〈仙波東照宮:埼玉県川越市小仙波町1-21−1〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 天長7年(830)、喜多院の草創時代から鎮守として勧請し創建されたと伝えられている。また、東京赤坂にある日枝神社は、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。元々は喜多院の境内にあったが、大正13年(1924)に、県道建設のため喜多院の門前に移転した。 朱塗りの山間社流造り、銅板葺で、規模も小さく簡素である。この本殿が寛永15年(1638)の大火後の再建なのか、あるいはそれ以前の建物なのかはっきりしない。日枝神社のすぐ西方にあった多宝塔や、南方の本地堂が焼失したことは明らかなので、再建説も一考の余地はある。しかし向拝の紅梁や木鼻などにかなり古式が認められるので、室町時代末期説も捨てられない。厨子は神輿形をした木造で、中に安置されているご神体は、大山昨神を僧形にあらわしたものだと伝えている。 ※ 仙波日枝神社 〈仙波日枝神社:埼玉県川越市小仙波町1-4-1〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 天長7年(830)伝教大師最澄の弟子、慈覚大師円仁が、芳道仙人の古跡であった仙波の霊場を天皇に奏上。 あらためて一寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院の勅号を賜りました。 この星野山無量寿寺仏地院が中院です。 永仁4年(1296)中興祖師尊海は天台の顕教(法華経)、密教(真言秘密)の教えを広め、関東天台の教寺580余ヶ寺すべて仙波の仏地院に付属し、関東天台の本山の勅許を得ました。 後に、尊海和尚は仏蔵院(北院=現喜多院)、多聞院(南院)も建立します。そして、当山は天台宗関東八箇檀林(今で言う大学院)の筆頭として興隆。 日蓮上人に恵心流伝法灌頂を授けたのも当山です。 人皇106代後奈良院の時、天文6年(1537)北条氏綱が河越城を攻めた際、兵火にかかり当山は灰燼と帰しました。 寛永9年(1632)当山28世尊能が中興しましたが、寛永15年(1638)の川越大火により焼失。翌年の寛永16年(1639)現在地(境内地内)に移動。 享保18年(1733)に本堂を再建しました。 度重なる災厄にも耐え、昭和51年(1976)宗祖伝教大師ご出家得度千二百年慶讃大法会にあたり、当山の歴史と寺域の整備が評価され、天台宗務庁より「天台宗別格本山特別寺」の称号を再び下附されました。 昭和61年(1986)「昭和の文化財釈迦堂」が古い天台様式(比叡山延暦寺西塔の釈迦堂を模す)により建立されました。 平成24年(2012)には、長年懸案だった薬師堂を復興。 堂内に十三仏を祀る永代供養墓(位牌・納骨堂)として建立し、みなさまが当山と新しいご縁で結ばれることを願って、『遊行の会』を発足いたしました。 中院本来の姿である、本堂・釈迦堂・薬師堂の三堂が揃いました。 約1200年前、伝教大師最澄の教えを受けた慈覚大師円仁がもたらした法灯は、今もなお68代続く現住職に引き継がれています。 ※ 天台宗 星野山 無量寿寺 中院(仏地院のちに中院) 〈天台宗 星野山 無量寿寺 中院:埼玉県川越市小仙波町5-15-1〉
2022年07月13日
コメント(0)
【訪問日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 明治の初めに廃院となったそうです。 南院跡地の看板には、「明治二年の神仏分離令により廃仏毀釈運動(寺院・仏像の破壊)が起こり廃絶」とあります。 ※ 南院(多聞院)跡 〈南院(多聞院)跡:埼玉県川越市小仙波町〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 光西寺は、永禄九年(1566)に石州浜田(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていた。 天保七年(1836)、藩が日本海の竹島を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を行って、幕府の政策に違反した。事が露見し、藩は外様大名ならばお家改易になるところ、徳川家の親藩の故をもって、重臣数人が責任をとって切腹し、船頭(今の船長)が処刑されて、奥州棚倉(福島県)に左遷転封されたので、家臣ともども光西寺も移転した。 棚倉在城三十余年、幕末の危機に直面した幕府は、藩主松平周防守康英公の英才と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に転封させ国内国外の重要任務の責任者とした。時に慶応三年、光西寺も家臣とともに移転し南町養寿院門前に仮寺を求めた。 その翌年は明治元年、所謂明治維新となったので、寺領も寺の建立もならず暫く大正の末現在地に小堂を建立したのである。藩についてきた寺ということで士族寺とかお伴寺とよばれている。 ※ 浄土真宗本願寺派 光西寺 〈浄土真宗本願寺派 光西寺:埼玉県川越市小仙波町5-4-7〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 仙波氷川神社 〈仙波氷川神社:埼玉県川越市仙波町4-19-1〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】※ 仙波愛宕神社 〈仙波愛宕神社:埼玉県川越市富士見町33-1〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 今日はたまたま、初山の祭礼 ※ 公式HPより 川越市では、毎年7月13日(日付は毎年固定)に仙波浅間神社で初山が行われます。初山とは、過去1年間に結婚した花嫁や赤ちゃんを連れて仙波浅間神社でお払いをして、健康で元気に過ごせるようにと祈る行事です。 その際、赤ちゃんのおでこに朱印を押してもらい無病息災を祈ります。 新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、2022年の初山は赤ちゃんのおでこに朱印を押す行事は行われません。 境内では、囃子保存会の演奏のほか、業者によるあんころ餅の販売や露店も若干出店しています。 ※ 仙波浅間神社 〈仙波浅間神社:埼玉県川越市富士見町21-1〉
2022年07月13日
コメント(0)
【参拝日:2022年(令和4年)7月12日(火)】 ※ 公式HPより 川越八幡宮は、第六十八代後一条天皇の時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創始されました。 長元元年(1028)、下総国(千葉)の城主前上総介平忠常は朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従わせ、大軍を起こして武蔵国に攻め入りました。この乱は長元の乱と言われ、3年に渡り鎮圧できませんでした。有力武士だった甲斐守源頼信が長元3年に平忠常追討の綸旨を賜りました。 源頼信は当地で必勝祈願を行い、敵陣に斬り込んだところ、忠常の軍勢はたちまちに乱れました。そして三日三夜の間、追討してついに乱を平定しました。 頼信は神様の御神威に深く感謝して、すぐに当地に八幡宮を創祀しました。 以来、「勝負の神様」として崇められ、特に今日では受験生やスポーツ選手による必勝祈願が多くございます。また、境内には天皇陛下生誕(昭和8年12月23日)を記念して植樹したご神木「縁結びイチョウ」をはじめ、足腰健康にご利益がある相撲稲荷神社があることから多くの観光客が訪れています。 尚、朱塗りの灯篭が並ぶ参道は川越市の「都市景観ポイント賞」に、さらに宮司家門は「都市景観重要建物」に選ばれています。 ※ 川越八幡宮 〈川越八幡宮:埼玉県川越市南通町19−1〉
2022年07月12日
コメント(0)
全416件 (416件中 101-150件目)