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夕方からどしゃ降りの雨。おかしいなあ、まだ梅雨じゃないはずなのに。今日も仕事のあと、元気にジム…の予定でしたが、濡れたのでサボりました。いや、本当は昨日のプールでやっぱり疲れていたのかも。寝るのも遅くなってしまったので、本日午後の会議は睡魔との戦いになりました。今日は早く寝なくちゃ。「言葉屋」という児童書が気になっています。こども新聞に連載されていたそうで、今やベストセラー。借りてもいいのだが、ジムの待ち時間用にKindleにある程度本を入れておきたい。節約しなきゃと思いながら、結局買うことも多いので意志の弱さに呆れる。どんな本かな。タイトルからして素敵だ。私も言葉屋さんから言葉を買いたい。もっと語彙を増やして、ありきたりでなく、豊富な言葉を使って表現したい。そんなお店があったらいいなあ。悲しい気持ちを「悲しい」ではない言い方をしたい。相手の言葉に傷付いたとき、本当はどういう気持ちで言ったのか、思いやれるようになりたい。そして傷付かない自分になりたい。お気に入りだった「ヒューマニエンス」という番組が終了してしまったので、今は寝る前は「病の起源」を観ています。タイトルは怖そうですが、ヒトの進化を絡めて説明してくれるので面白い。脳科学の説明も…だいたいそこら辺で眠ってしまうのだが、懲りずに翌日、寝落ちした部分から見直している。最初に観たのは「読字障害」だったのだけれど、学びが多かった。想像以上にこの障害を抱えている人が多いそうだ。左脳の一部がうまく機能しないために読むのが難しくなるのだが、有名なところではトムクルーズがこの障害を抱えている。こうした人たちは右脳は活発に活動しているので、空間認識能力に優れていて、芸術面で活躍したり、設計図を書いたりするのも得意らしい。別に言語に障害があるわけでもなく、理解力は高い。ただ、文字を読むのがとても苦手で、文字が絵に見えるそうだ。トムクルーズは人に読んでもらってセリフを覚えるそうだ。読字障害があるのに読書を楽しめというのは酷な話だ。でもお話を楽しめないわけではないのである。読んでもらえば楽しめるし、理解もできる。と言うわけで、私はますます読み聞かせや朗読に関心を持つようになっている。誰もが物語を楽しめるように。65才になって本当に仕事を引退したら私も読み聞かせボランティアグループに参加しようかと思っている。現在は仕事でやらせていただいているが、ボランティアさんたちとの接触が多く、お誘いもいただいているので、これもライフワークに取り入れたいなあ。読字障害が認識されているのなら、ぜひ私のような空間認識能力障害も認識されるといいなあ。右脳の一部が機能していないのだと思う。例えば地図を読めないのだが、言葉で説明してもらったり文字に置き換えてもらえれば私には大変わかりやすいのである。まあ、人間は多かれ少なかれ凹凸があるものなのだろう。得意分野を生かせればいいのだ。右脳も左脳もバッチリな人を見ると羨ましい限りだが、そういう、人とて悩みはあるものなのである。私がダンスの振り付けをなかなか覚えられないのは、右脳の問題もあるのかもしれない。これは言葉に置き換えるのは限界があるので、人より多く繰り返して筋肉や感覚に記憶させるしかない、というのが結論。それなのにサボっちゃった。明日はジムに行こう。
May 8, 2024
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今月のエッセイのお題が「飲む」になっている。飲むでもいいし、息をのむでもいいし、飲まないでもいいのだが。飲む、というとパッと浮かぶのはお酒。先日、新人歓迎会があった。お酒の苦手な私はひたすらウーロン茶を飲む。ところが、今回の異動先には昔の私を知っている人がいた。「あなた、昔はお酒飲んでいたじゃない?どうしたの?」そ、それは30年くらい前の話だ。飲んでいたというより飲まされていたというか、飲まない選択肢がなかった。20代のころは飲み会が頻繁だったのでいつも酔っ払うほど飲んでいた。もともと強くはないので、瓶ビールなら大瓶二本飲んでしまうともういけない。その場で二日酔い状態、頭はガンガンしてくるし、気持ち悪くなってトイレに行っては吐いていた。日本酒なんか飲んだ日にはもうぐでんぐでん。まっすぐ歩くこともできなくなる。30才を過ぎて決めた。どうしてもお酒を美味しいと思えない。断れないから飲んでいるが気持ち悪くなるだけなのだ。お酒のつまみは好きだが、もう、飲むのはやめようと。嫌いなものを飲む必要がない。と言いつつ、40代くらいまでは多少は飲んでいたかな。50代になり、体力が落ちると少しでも飲むのが嫌になってしまった。食べ物に好き嫌いがあるように、飲み物にも好き嫌いがあってもいいだろう。私はソーダ水やウーロン茶が好きなのだ。好きなものを飲んでいればいいではないか。お酒やワイン好きな人の話を聞くと羨ましくなることもある。味がわからないなんてつまらない人生だ。私の好きなソーダ水なんて、砂糖水ではないか。でも、還暦も過ぎてしまい、飲まない生活が続いたので私は本当に飲めなくなった。乾杯の一杯くらい、お付き合いで飲まなきゃと昭和生まれだから思うけれど、その一杯が飲みきれない。周りはどんどんおかわりをしているのに私のコップはなかなか空にならない。もともと水分はよく摂る方なので、これがビールでなければ、もっと飲んでいるのに、時間がもったいない。飲まないせいか、年齢がいったせいか、飲み会の回数は激減。特にコロナ禍で飲み会は制限されたから、機会は減ったまま。なんていうのが私の酒歴史。胃も肝臓も弱い私にお酒は刺激が強すぎる。でもこんなエッセイ、つまらないな。もっと面白いエピソードはなかったかしら。例えば幼いころ、母がミキサーを初めて買ってきてトマトをぶちこんではトマトジュースを作って面白がっていた頃。作るのは面白かったが、酸味の苦手だった私にトマトジュースはドロッとしていて気持ちが悪かった。自分で作っておきながら飲むのに四苦八苦、挙げ句の果てにトマトは大の苦手になってしまった。あ、人前では食べますよ。好き嫌いがあるなんて人に知られたくないですからね。あの頃、オレンジジュースと言えば粉を水で溶かしたもので、殆ど果汁は入っていなかったけれど、子どもはそういう栄養のないものが好きなのだ。カルピスも好きだったなあ。今じゃ、あまり、家庭でカルピスを水で薄めて飲むなんてやらないだろうなあ。学校の牛乳は嫌いだったが、他に飲むものがないので仕方なく飲んでいた。どんなメニューでも牛乳はついてくるのだった。小学校を卒業して、給食はなくなったから、それきりめったに牛乳は飲まない。こどものとき、好きだったのは、炭酸飲料のサイダーだったっけ。これは兄の影響だった。特別の日にしか飲めない貴重な飲み物で、炭酸にむせ返りながらも、兄があんなに喜ぶのだから美味しいに違いないと信じて真似をして喜んでいた。たまに銭湯に行くと飲ませてもらえたフルーツ牛乳も美味しいと感じていた。大人になって、懐かしいから、銭湯でフルーツ牛乳を買って飲んでみた。あれ?こどものときほど感動しないのはなぜだろう?普通の飲み物に思えた。先日、爽健美茶のペットボトルを買って飲んだら美味しかった。なんで?と思ったが、多分、私が玄米茶が好きなので、含まれているせいかと思う。緑茶も紅茶も、嫌いじゃないけど良さがよくわからない。珈琲はサイフォンで煎れたものは美味しい。でも豆の種類まではわからないので、あれは香りを楽しんでいるのだと思う。書いていてなんの飲み物が好きなのかわからなくなってきた。格別に思い入れがあるほど好きな飲み物がないのである。年代別に、想い出とエピソードと共に書いてみたら面白くなるかなあ。あ、GW、終わりましたね。私はみどりの日に出勤したから明日は代わりに休みます。今日もそうでしたが、明日もジムに行くでしょう。なんで行くのかと聞かれたらわからなくなっています。一応健康のためってことにしていますが、私はやはり、下手の横好きでダンスが好きなのだと思います。大きいお風呂もね。
May 6, 2024
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今月のお題は「暑い」である。以下、下書き。地球温暖化の影響で日本の夏は、外出自粛を呼びかけられるほどの猛暑となっている。今や日本は亜熱帯と化している。こどもたちにとって夏と言えばプールが楽しみの一つであろう。でも今や外に出ることは危険なため、学校や保育園でのプール活動が大きく制限されている。そのため、学校用の屋外型プール製造は廃止になっていくと聞いた。なんと、気の毒なことだろう。屋外で泳ぐからこその楽しみがあるというのに。私が小学校に入ったのは五十年以上も昔だが、プールはなかった。設備が他校に比べて遅れていたのである。だから三年生になったとき、プールが完成してみんな大喜びだった。それまでプールと言えばバスに乗って市営プールまで行かなければならなかった。浮き輪で浮かんでいるだけだったが水に包まれ、心身ともに癒され、幸せだった。だから学校のプールにも大いに期待した。しかし、学校に浮き輪は持っていけない。市営プールとは違ってそこは水泳の授業なのだ。自由に遊んでいられるわけではないと知り、落胆した。落胆だけではなく、恐怖も感じた。私は顔に水がかかるだけでも怖かったのである。浮き輪がないと怖い。今にも溺れそうな恐怖を抱いた。多少は泳げるという子たちはスイミングクラブに通っているか、親に泳ぎ方を教わっていて慣れている子たちだ。浮き輪で浮かぶことしか知らなかった私のようなこどもたちはバタ足をしろと言われても立ちすくむばかり。友達の水しぶきがかかるだけでもビクビクする有様だった。恐怖で固まっている私を見て、泳げる男児がからかう。「やーい、怖がってらー」水までかけられる。泣きそうになった。プールなんかできなければ良かったのにと学校を恨んだ。その年の夏、私は兄と二人で滋賀県に住む祖父母宅に二週間ほど遊びに行くことになった。兄は毎年一人で行っていたが私も大きくなったので親の許可が下りたというわけだ。行ってみて驚いた。辺り一面、田んぼが広がり、お店など一軒もない。公園もない。読書好きだった私は本屋さんがないことにまず失望した。兄は慣れていたので虫取り網を持って蝉捕りをしたり、田んぼでカエルやオタマジャクシを捕まえたりして喜んでいた。私は虫もカエルも触れず、気味が悪かった。そんな私を見て兄が、誘ってくれた。「ただのプールがあるんだぞ」祖母の自転車に二人乗りをして、でこぼこのあぜ道をガタゴトスピードをあげて走るものだから、転倒した。自分の意思でなくスピードを出され、ひっくり返って痛い思いをするなんてさんざんだ。そんな苦労をして到着したのは確かにプールだった。プールの形をしている。学校のプールと同じく二十五メートルコースのあるコンクリートのプールだ。違うのは水の色だ。学校のプールは管理されていて透明な水だったが、その無料プールは田んぼと同じ深緑色。田んぼの水をそのまま汲んできたのかと思うほど同じだ。そしてカエルまで泳いでいる。衝撃的なプールだった。地元の子たちはそのプールを使わないから管理していなかったのだろう。プールは私たちの貸し切り状態だった。兄は慣れているのでその貯水池みたいなプールですぐに泳ぎ始めた。そして水を怖がる妹が実に面白かったらしい。学校のプールと同じだ。兄は嫌がる私にバシャバシャと水をかけてきて、悲鳴を上げる妹を見て笑う。監視員もいないから兄はエスカレートしていった。それっと私をその深緑色のプールに突き飛ばす。うわっ、こんな汚い水。きれいな水だって怖いのに、なぜカエルのいる田んぼのような水の中に入らなくてはならないのか。抗議する余裕もなく、何度も投げ込まれ、そのたびに私は手足をバタバタさせてもがき、陸に何とか上がる。そして投げ込まれる。この繰り返しだった。何度も投げ込まれてもがいているうちに私は気付いた。怖くないではないか。こんなものが顔にかかったってどうってことない。私の水慣れ体験は実に豪快にスタートした。深緑色の水でも入るとひんやりして気持ちがいい。数日すると私は自分からどんどんプールに入るようになった。最初はばた足をしているだけだったが、気付くと私の横では小さなアマガエルがすいすい泳いでいる。カエルと並んで泳いでいると思ったら可笑しくなった。カエルの真似をして足を広げたり伸ばしたりしてみた。おお、前に進むではないか。これがカエル泳ぎ、平泳ぎか。カエルは私の先生だ。俄然親しみを感じた。触れなかったのが嘘のようだ。私がまったく水を怖がらなくなったので兄は苦笑した。「なんだ、怖がらないのか。つまんねえな」九月、学校のプールが再開した。私は堂々と顔を水につけ、バタ足で前進してみせた。できるようになったということで水泳帽子に付けるリボンももらえた。七月に私をからかって水をかけていた男児が兄同様、驚いていた。「なんで急に泳げるようになったんだ。あんなに怖がっていたのに」だって、私の先生はカエルだもん。私はツンと頭をそびやかし、得意でならなかった。
August 6, 2023
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どの年代の人々も今年のコロナ禍は辛かっただろう。 この夏は東京の感染者数が五千人を超える日々が続いた。ネットニュースが怖くなり、それに付随してメールを見るのも怖くなった。電話も郵便受けも怖い。 テレビは壊れていた。オリンピックなのだから買えばいいのにと周囲から言われたが、実はテレビも怖いのである。 娘と食事を一緒にするのも気が進まない。それが理由ではないが、娘はこの夏に家を出た。いないのは寂しいが私はもう何も受け付けない。しかし、仕事には行っていた。 友達と電話で話していても止めどない愚痴を聞かされる立場を思うと、申し訳なくなる。 電話カウンセリングというものを受けてみた。お金を払うわけだから愚痴を言ってもいいのかなという思いだった。私が何もかも怖くて動けないのはエネルギーが枯渇しているからではないかと言われた。エネルギーを補給したらいいらしいのだが、仕事以外は引きこもらざるを得ない。 家でできることをやってみた。 ジムに行けないのでオンラインフィットネスを始めた。 パソコン画面の向こうからインストラクターが満面の笑みを浮かべながらテンション高く、ダンスやヨガ、体操をやってくれる。リビングの一角でヨガマットを敷き、動いてみる。 インストラクターの笑顔には癒された。この人たちもまさか、こんなふうに機械を挟んで運動を教えることになるとは思わなかっただろうし、どういう生徒がどのように反応しているのかわからないのだから不安だろう。笑顔を向けるというのは受けている側の不安を思いやってくれているからに違いない。ありがたく笑顔をいただき、ドスドスと床を壊しそうな音を立てながら真似をして必死に踊った。汗をかくというのはストレス解消に大きな効果をもたらす。 しかし、本格的な運動をオンラインでやることの限界はわかった。 家の中の運動だけだったので三ヵ月で三キロ体重が増えてしまった。昨年同様のコロナ太りである。 緊急事態宣言の明けた十月。ずっと籠の中にいたようなものなのでいきなり扉を開けられても動くに動けない思いだ。しばらくは行動制限もかからなくなるだろう。そんなことを言うと都知事がまた怒るだろうけれど。 精一杯の反抗でツイッターにつぶやいたにわか川柳。 自粛続け 咲き誇る百合に目を背け コロナ脳 風邪はひかぬが心病む 気が付けば 孤独に自粛 我一人 オリンピック 神風吹いて デルタ株 デルタ株 オリンピックで 黒メダル 自粛して 外飲みやめたら キッチンドリンカー いつもは反応のない私のツイッターだがこの川柳はいつものつぶやきより注目を集めた。少し面白くなった。愚痴を長々というより濃縮して皮肉を込めて川柳を作る方がエネルギーの使い方としては良いのではないか。少しずつ元気になってきた。
October 10, 2021
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「引き出し」のテーマ第二弾です ヌンチャクとフラ 日頃から本能と感情に任せて生きている。過去のできごとが脳の引き出しに時系列関係なくごちゃごちゃに詰まっている。ふだんは意識していない。だが、ふとした感情をきっかけに、過去のできごとがパッと飛び出してくる。 たとえば、ジムでフラダンスを習っているときのことだ。 最前列で踊ると先生の動きがよく見える。後ろにいると見えにくいので真似をするのが難しい。初心者ほど前へいくとよいのだが、そうはなっていない。最前列の人が間違えると後ろの人たちが釣られるからだ。 でも空いていると最前列に行ってしまうことがある。やはり近くで先生を見たいのが本音だからだ。 これはたいてい後悔する。間違えるくらいならいいのだが、集中力が途切れると全然違う動きをしていることに前に人がいないが故に気付かない。周囲の失笑で我に返る。一人でターンをしていたり、前後交互にステップを踏むべきときにどんどん前進したり・・・。 そういうときはたいてい恍惚としていて音楽と共に別世界に入っているのだ。前に人がいればそこまで気付かないことはない。視覚で気づくからだ。 こんなことが子どものときからあった。 最高の恥は中学一年生の休み時間だ。 その頃、ブルース・リーのカンフー映画が流行っていたので観に行った。ブルース・リーがヌンチャクを振る姿の格好いいことといったら、初めて観る中学生には衝撃的だった。 日曜日に映画を観た翌日、月曜日の休み時間のことだった。まずいことに最前列に座っていた。私の前には黒板だけ、頭の中はヌンチャクのシーンだけ。黒板とヌンチャクの二択だ。当然ヌンチャクを選ぶ。 ああ、ブルース・リー。ヌンチャクをこんなふうに振るんだっけ。そう、大振りに素速く腕を回転させる。思い出しながらそこが教室だということを忘れ、腕を振り回し始めた。もっと速く、もっと回転させて! 自分のエアヌンチャクに恍惚としてきた。 締め括りに 「アチョー!」 声を上げて完結。 笑い声ではっとした。振り返れば男子たちがおなかを抱えてゲラゲラ笑っている。抱腹絶倒状態だ。 どうしよう。あれはブルースリーのヌンチャクだと説明するわけにもいくまい。 ヌンチャクには見えなかったようで私は突然踊り出したということになってしまった。 卒業するまで『桃太郎音頭』と呼ばれ続けることに耐えねばならなかった。それまで気取り屋やのお嬢さんと言われることもあったのにそのイメージはガラガラと崩れた。今の言葉で言うなら女子力ゼロに落ち込んだ瞬間だった。 桃太郎音頭の汚名を着せられ、運動会のクラス応援団長までやる羽目になった。まさか音頭を踊るわけにもいかず、ポンポンを持ってチアガールまがいのことをやけくそになってやっていたのを思い出す。 四十年以上の月日が流れ、未だに私は最前列は苦手だ。前に誰かいないと脳の引き出しがまた勝手に開くかもしれない。さすがにフラダンスなのにヌンチャクを振ることはないけれど、何をしでかすかわからない。 いや、フラダンスは優雅に踊りたいのだが、脳の引き出しから何が突然出てくるか自分でも恐ろしいのである。 自分では恐ろしいが周りは可笑しくて仕方がないようで、これは中学生のときと変わらない。格好悪い。ブルース・リーにもなれなかったが、優雅にも程遠く残念である。
May 2, 2021
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エッセイ下書きです。 今回お題が「引き出し」 引き出しと机 昔から整理整頓が苦手だった。 子どものころはよく母に怒られていた。机の上も引き出しの中もぐちゃぐちゃになっていたからだ。 「今日は引き出しの中を徹底的に整理しなさい」 せっかくの日曜日なのにとがっかりするものの、まだ小学校二年生の女の子が母親に逆らえるわけもない。 引き出しを開けてみると紙だらけだ。書き散らした作文や物語りがグシャグシャになって順不同になって押し込まれている。鉛筆や三角定規、コンパス、バラバラになったクレヨンなどと同居している。 この物語は面白いなあ。続きはどうしよう。魔女が出てくるのもいいかな。 いつの間にか自分の作品に見入って意識は別世界へ飛ぶ。 ぼーっと座り込んで手を動かさない私に腹を立てた母が怒って引き出しを床にぶちまける。 「今度ぼーっとしていたら」 鬼の形相の母を無表情に見上げる。 「また全部ひっくり返すからね」 そして少し片づけるとひっくり返され、作業はエンドレスに続く。さすがに私も物語の世界には居られず涙をポロポロ流す。どんどんひっくり返されるので私の手には負えなかったのだ。 黙って泣くだけの私を見かねた父が声をかけに来た。 「だいぶ片付いたなあ」 慰めているらしいが、片づけだす前よりひどいことになっているのはわかっていた。 「こんなに片づけたんだから、多摩湖へ行こうか」 父はニコニコしていた。時は昭和だから、母も父には表向き逆らえない。 仏頂面の母を置いて父と兄と三人で電車に乗り、多摩湖へ出かけた。机も引き出しも散らかった紙も放り出したまま。 多摩湖で買ってもらった焼きトウモロコシは甘くてしょっぱい。醤油のせいか涙がまだ残っていたのか。 放り出された引き出しがどうなったか覚えていない。怒りながらも母が片づけたのだと思う。 その四年後、母が子宮筋腫の手術をするため、二週間ほど入院した。 六年生になっていたが、私の片づけ、掃除力は相変わらずだったので、兄が担当することになった。 兄の掃除は面白かった。なんでもかんでもテーブルの上に上げてしまう。ゴミ箱でもスリッパでも。床の上から徹底的に物をなくしてから、掃除機をかける。だから床の上はきれいなのだが、テーブルの上に上げたもののことは気にしない。豪快な掃除だった。おかげで家の中は一応片付いていた。私の机を除けば。 四十年近い年月が流れ、あの時に助けてくれた父も兄も鬼籍に入ってしまった。私も還暦を迎えようとしている。 悲しい時には父の言葉を思い出す。 「よく片づけたなあ」 片付いていなかったのに。父は私が頑張っていると言いたかったのだろう。ひっくり返されても抵抗せずに泣いていた私を励まそうとしてくれたのだろう。 できない私のために豪快に掃除をしてくれた兄の笑顔も思い返される。 仕事をしながら我が子を育てるのは要領の悪い私には辛いことが多かった。いつもいつも片付かない。 散らかしながら、オロオロしながら、泣きながら必死で生きてきたと思う 父はきっと言ってくれる。 「よく頑張ったなあ」 兄も笑ってくれるはずだ。 引き出しを放り出したまま、多摩湖へ行ってしまったけれど、黙って後始末をしてくれた母がいたからこそ多摩湖へ行けたということに書きながら気付いた。 少しは私も進化したようだ。
April 21, 2021
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