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○安居院先生頌徳碑〔原文は漢文〕枢密顧問官(すうみつこもんかん)正二位勲一等伯爵(はくしゃく)松方正義(まつかたまさよし)篆(てん)額(がく)縕袍(うんぽう) (どてら) を 衣(き)、 孤(こ)貉(かく) (皮ごろも)を恥じず、強(ごう)毅(き)清(せい)貞(てい)、曠達(こうたつ)(心が広くこだわらない)雅淡(がたん)、気骨(きこつ)稜稜(りょうりょう)、眼光(がんこう)人(ひと)を射(い)る、是(これ)先生の風姿(ふうし)也(なり)。先生姓(せい)は藤(とう)、諱(いみな)は義(よし)道(みち)、字(あざな)は蘆(ろ)翁(おう)、乾坤齋(けんこんさい)と号(ごう)す。水戸の高士南蘋(なんぴん)翁、撰(せん)する所なり。其(その)詩に曰く。乾坤(けんこん)鑿破(さくは)一芦穿(いちろせん)、独沈清靡(どくちんせいび)両儀連(りょうぎれん)、遺却(いきゃく)万(まん)延年物(えんねんぶつ)老(ろう)、芦(ろ)翁(おう)独化(どくか)覚(かく)先天(せんてん)。蓋(けだし)先生晩年、翁の高雅を慕い、翁(おう)亦(また)先生の卓量を聞き、遥かに徳友と為す也。先生幼にして慧(けい)敏(びん)、長じて宏(こう)志(し)を有し、家を治むるを屑(いさぎよ)しとせず、二宮先師に就(つき)教(おしえ)を乞(こ)う。説を聞きて歎服(たんぷく)し、自ら謂(おもえら)く、われよく夫子(ふうし)の道(みち)を弘(ひろ)めんと。遂(つい)に弟(おとうと)浅田(あさだ)氏(し)と志(こころざし)を勠(あわ)せ出遊(しゅつゆう)し、兼(かね)て三社奉(さんじゃほう)楽(がく)信徒を募(つの)り、万人講(まんにんこう)と称(しょう)し、衆を得ること数万。弘化四年始(はじめ)て遠州(えんしゅう)石田村に至る。神谷(かみや)氏(し)を主(しゅ)とし、遠近(えんきん)其(その)教(おしえ)に従う。号して報徳社という。嘉(か)永(えい)四年浅田氏勢州(ぜいしゅう)に歿(ぼっ)し、六年癸(みずのと)丑(うし)、門人岡田、山中、神谷、中村、内田、松井、竹田、諸氏を率(ひき)いて、日光に行き先師に謁(えっ)す。先師見て大(おおい)に善を称す。是(これ)より先生駿遠を家とし、過(すぐ)る所、遊惰(ゆうだ)を励(れい)し、奢侈(しゃし)を誡(いまし)め、善行を賞し、窮(きゅう)寡(か)を恤(あわれ)む。商に農に、これを誘うに忠信守分(しゅぶん)を以てし、是(これ)を誘(いざな)うに積(せき)小(しょう)為(い)大(だい)を以てす。特に稼穡(かしょく)(農業)に精(くわ)しく、挿秧(そうおう)、縄(じょう)規(き)を以てし、千(せん)頃(せい)一望、棊局(ききょく)(碁盤)の如し。耕種改善靡(び)然(ぜん)(なびき従うさま)風(ふう)を為(な)し、大にして邑(むら)を興(おこ)し、小にして家を起す。報徳二州に聲(せい)振(しん)す。是(これ)に於(おい)て、本州(ほんしゅう)(遠州)業を受る者六十余邑(よゆう)、毎歳(まいとし)一次大会、道義を講演し、徳(とく)教(きょう)遂に東海六州に及ぶ。恵沢(けいたく)今に至りて益(ますます)広きを加う、皆先生の力也。社徒歳(さい)次(じ)例として太(たい)廟(びょう)を諧(かい)し楽(がく)を奏(そう)し、万人講(まんにんこう)緒(しょ)を継(つ)ぐ也。文久三季八月十三日、門人浜松田中氏家に卒(そつ)す。年七十五。玄忠寺に葬り、謚(おくりな)を弘道(こうどう)先生(せんせい)と曰(い)う。善(よい)哉(かな)、報徳(ほうとく)を道(みち)と為(な)し、至誠(しせい)を本(もと)とし、勤労(きんろう)を主(しゅ)とし、分度(ぶんど)を体(たい)とし、推(すい)譲(じょう)を用(よう)とす。世(せ)運(うん)澆(ぎょう)季(き)(末の世)徳(とく)教(きょう)陵(りょう)夷(い)(すたれ衰えること)、逸(いつ)楽(らく)風(ふう)を為(な)す。斯道(しどう)に拠(よら)らずんば、誰(だれ)か能(よく)之を免(まぬが)れん。本州諸邑(しょゆう)先生より蚕(さん)興(こう)聞く有り。其(その)幸(さいわい)既(すで)に勝(まさ)るべきか。今(いま)茲(ここ)に、門人耆(お)い旧多く世に就き、建(けん)碑(ぴ)未だ成らず。小野江副社長之(これ)を慨(なげ)いて、本社に提議す。僉(みな)之(これ)を善(よ)しとし、乃(すなわ)ち相(あい)謀(はか)って功(こう)を起(おこ)す。地を本館境域に卜(ぼく)し、銘(めい)を余(よ)に嘱(しょく)す。銘(めい)に曰(いわ)く。卓彼徳行勇與仁(かのとくぎょうゆうとじんにたくし)、教而不倦化斯民(おしえてしみんをかするにうまず)、希言自然(まれにいえばしぜんと)穿乾坤(けんこんをうがち)、諧謔縦横(かいぎゃくじゅうおう)入天真(てんしんにはいる)。清談間処(せいだんかんしょ)対棊局(いきょくにたいし)、揮弄翰墨別養神(きろうかんぼくべつにしんをようす)、不治一家(いっかをおさめず)治万家(まんかをおさむ)、君子人乎君子人(くんしじんかなくんしじん)。 明治三十八年六月 遠江国報徳社長勳六等岡田良一郎謹梨本宮家令兼内大臣秘書官従五位勳六等日高秩父書
2024.01.15
血糖値スパイクを予防しよう ──糖尿病になる前に対策を!血糖値ってなんだろう?血糖値は、ブドウ糖(グルコース)の血中濃度を指します。ブドウ糖は体内に取り込まれると、血中でその濃度を変化させます。このブドウ糖の血中濃度の変化(血糖値の変動)は、以下のようなメカニズムになっています。米やパンなどの穀物に多く含まれる炭水化物(糖質)を食べると、まず口の中で細かく嚙み砕かれながら唾液で分解されます。次に食道・胃を通り、最終的に小腸でブドウ糖に分解、吸収され、血液中に取り込まれます。その結果、血中のブドウ糖濃度が上がります(血糖値の上昇)。血中のブドウ糖濃度が上がると、膵臓(すいぞう)でインスリンというホルモンが作られ、血管内に分泌されます。インスリンは血液中のブドウ糖を取り込むよう細胞に働きかけます。インスリンの働きを受けて、最初に肝臓でブドウ糖が蓄えられ、残りが筋肉や脂肪などに取り込まれます。これによって血中のブドウ糖濃度が下がります(血糖値の低下)。インスリンの働きによって血糖値の上昇が抑えられますが、インスリンの分泌量が少なかったり(インスリン分泌不全)、インスリンの働きが悪かったり(インスリン抵抗性)して、血糖値が下がらない状態が慢性的に続くのが糖尿病です。血糖値の乱高下が血管にダメージを与える食前・食後など生活を通して変動する血糖値。通常はこの変動の波がゆるやかですが、食後の血糖値が急上昇と急降下を起こす状態を「血糖値スパイク」といいます。スパイクは「とげ」を意味しますが、血糖値のグラフを見るとまさに「とげ」のような形になっています。膵臓(すいぞう)の老化や肥満などによってインスリンを分泌する能力が衰えると、分泌量が減ったり、分泌するタイミングが遅くなったりします。すると、細胞がブドウ糖を取り込むことができず、血糖値の急激な上昇を招きます(食後高血糖)。さらに急上昇した血糖値を抑えるために、後からインスリンが大量に出てしまうと、今度は血糖値の急降下を招きます。こうした血糖値の乱高下が血管にダメージを与えてしまいます。そうなると動脈硬化を引き起こし、心筋梗塞や脳卒中による突然死のリスクが高くなると考えられています。この血糖値スパイク、健康診断で測る空腹時血糖値の数値には現れないためなかなか発見されず、見逃されやすいという側面があります。食後高血糖にもかかわらず、通常の健診では発見されないケースを「隠れ糖尿病」といいますが、健診の数値が正常な人であっても血糖値スパイクが起きている可能性はあるのです。血糖値スパイクを起こしやすい人の特徴として「炭水化物中心の食事をたくさん食べる」「食べる速度が早い」「運動不足」「血縁者に糖尿病の人がいる」などが挙げられます。日本の糖尿病患者さんは糖尿病予備軍も含めると約2000万人といわれており、6人に1人の計算です。血糖値スパイクも人ごととせずに、早い段階から予防に取り組みましょう。血糖値スパイクを避ける上で大事になるのが「食事」と「運動」です。食事の際に、よく噛んでゆっくり食べたり、食べる順番を工夫したりすることで、小腸での炭水化物の吸収速度をゆるやかにすることが重要です。タンパク質・脂質・食物繊維を含むおかずと野菜を最初に食べることで、炭水化物の消化吸収がゆるやかになり、急激な血糖上昇を予防することができます。また、朝食を抜いた状態で昼食を食べると、血糖値が一気に上がるので、欠食は避けましょう。おにぎりやカップラーメンだけといった炭水化物オンリーの食事をやめるだけでも、かなり改善されます。ただ、炭水化物(糖質)は身体にとって必要な栄養素なので、過度に制限するのは好ましくありません。一定の量は摂りつつ、白米をもち麦や五穀米に、パンをライ麦パンに変えるなどの工夫をするのが効果的です。血糖値スパイクを防ぐには運動も大切です。個人差はありますが、食後1~2時間後に運動を行なうと食後の血糖値や中性脂肪の値の上昇をゆるやかにすることができます。その際は激しい運動ではなく、階段の上り下りやウォーキング程度で大丈夫。糖尿病の途中段階ともいえる境界型糖尿病(糖尿病予備軍)は5~8年続くといわれ、その後糖尿病を発症します。糖尿病になる前の段階であれば、対策することで、糖尿病を回避できる可能性が高くなります。💛血糖値が高く医者に糖質制限+タンパク質強化食を勧められチャレンジしたが、ご飯やパン、麺類の穀物食に代わるものがなかなかない朝、大豆粉のパンケーキを食べると大豆粉には良質なタンパク質(小麦粉8g大豆粉41.6g)が含まれ、大豆イソフラボンも摂取出来る。腹持ちも良い。植物繊維も小麦粉2.5gに対し大豆粉13.7gお通じも良い食前におやつ代わりに菊芋チップスを食べて食後の急激な血糖値の上昇(血糖値スパイク)を抑えるあとしっかり散歩して生活習慣を確立すれば、糖尿病悪化を防げるか、少なくとも進行を抑えることはできよう^_^
2024.01.15
輪島朝市の柚餅子「総本家」、焼けずに残った菓子を避難所で配布…「ゆずの風味で疲れが取れた」能登半島地震で被害を受けた菓子製造販売「柚餅子(ゆべし)総本家中浦屋」(石川県輪島市河井町)は、和菓子を避難所で配布する支援を行っている。中浦政克社長(60)は「少しでも癒やしになれば」と話している。 同社は、輪島市内に複数の店舗を構え、火災があった輪島朝市通り沿いには輪島朝市店と輪島本町店があった。輪島朝市店は全焼。保管倉庫や製造工場を併設する輪島本町店は屋根の一部が落ちたが、商品の多くは無事な状態で見つかった。同社は5日から、避難所などを軽ワゴン車で巡り、一部の菓子を配り始めた。 7日には定番の柚餅子を中心に約1000個の商品を用意し、物資の供給拠点となっている輪島郵便局付近や、市立鳳至小などで配った。避難生活中だった県立輪島高1年の生徒(15)は「ゆずの風味で疲れが取れた気がする。祖母に食べさせたい」と笑った。 中浦社長は「できるだけ配りたい。朝市も復活すると信じている」と話した。10日現在で20日頃まで配れる見込みだという。
2024.01.15
日本代表「股抜き2連発」圧巻ゴール 鮮やかすぎる一撃に称賛止まず「芸術点高い」1-2と劣勢になった日本だったが、前半45分に遠藤と南野が見せた。左サイドから崩すなか、相手ペナルティーエリア前でボールを受けた遠藤は相手の股下を通す絶妙なパスを通す。ボールを受けた南野はエリア内で冷静にコントロールし、シュートを放つとこれも相手の股下を通過してゴールに吸い込まれた。南野先制点圧巻の股抜きシュート中村敬斗が前半終了間際に決めたスーパーミドル!中村敬斗が敵陣中央のスペースで前を向いた南野からのパスを受けると、左からカットインして右足を振り抜き、狙い澄ましたコントロールショットをファーサイドへ突き刺した。久保建英〝トルシエ魔術〟に衝撃「ベンチで見てて、圧倒された感じがあった」1/15(月) MF久保建英(22=レアル・ソシエダード)が後半39分から出場した。1アシストをマークするなど存在感を発揮。「しっかり結果を残せて良かった。コンディションがあまり落ちてないなというのを確認できた」「トルシエ監督に僕たちがやろうとしてることをやられちゃったというか、相手の嫌なことをやって、自分たちのペースでゲームを運ぶということを前半はずっとやられていた。気持ちだけじゃなくて、しっかり戦術もすごいものがあったので、僕はちょっとベンチで見てて、びっくりじゃないけど、すごい圧倒された感じがあった」「Rソシエダードと似たようなところがある。本当にポゼッションがしっかりしていて。中に入ってくる時のワンタッチがうまい。ワンタッチの目の置きどころがうまいから、余裕を持って日本のプレッシャーにも耐えられるし、失わないと思ってるからああいうプレーができる」「見てみたい、どんな練習をしてるのか。そのぐらい完成度が高く、たぶんアジアで僕たちとどっちがポゼッションが上かといったら、1、2を争うと思う」💛英雄、英雄を知るの観(^^)サッカー日本代表は14日、AFCアジアカップカタール2023のグループステージ初戦でベトナム代表と対戦。初戦ならではの独特な雰囲気の中、2失点を喫したが、南野拓実の2ゴール1アシストの活躍もあって4-2の勝利を収めた。グループステージ初戦に挑む日本代表は、GKに鈴木彩艶を起用。最終ラインは右から菅原由勢、板倉滉、谷口彰悟、伊藤洋輝と並び、ダブルボランチには遠藤航と守田英正を据えた。2列目には右から伊東純也、南野拓実、中村敬斗のフランストリオを形成。最前線には細谷真大が入った。試合は少し硬い雰囲気でスタート。なかなかパスがつながらず、静かな展開で進む。それでも、11分に日本が先制点を奪う。左サイドのCKから菅原のシュートのこぼれ球を南野が押し込み、先制点を手にした。これで主導権を握りながら攻め込んでいきたかった日本だが、さほどペースが上がらないと、16分に左サイドのCKからグエン・ディン・バックが見事なバックヘッドを沈め、試合を振り出しに戻されてしまう。さらに33分にもセットプレーから被弾。前半のうちに逆転されてしまった。これで日本も目が覚めたのか、ここから積極的な攻撃を披露。45分に遠藤のパスを受けた南野が巧みなシュートでゴール右に流し込んで同点に追いつくと、前半のアディショナルタイムには中村が鮮やかなミドルシュートを決め切り、試合を再びひっくり返して後半へと折り返した。後半、細谷に代えて上田綺世を投入した日本は、さらなる追加点を奪いに前に出たが、前半同様に集中したベトナムの守備をなかなか崩すことができず。相手に攻められる機会は少なかったが、ゴールをこじ開けられそうなチャンスもあまりなかった。勝負を決定づける得点が生まれたのは85分。途中出場の堂安律、久保建英とつなぎ、最後は上田が右足を振り抜く。これが相手DFに当たりながらゴールに吸い込まれ、大きな4点目を奪った。これで試合は終了。セットプレーから失点を喫する不安定さを見せたが、南野の活躍もあり、苦労しながらも初戦を勝利で飾っている。セットプレーからの2失点を振り返る遠藤航、2失点目は「僕が競り勝てば何も起こらなかった」前半に一時リードを許すなど、予想以上とも言える大苦戦だった。日本代表キャプテンのMF遠藤航(リバプール)は取材エリアで「大変でしたね」と苦笑いまじりに第一声。「きついのは分かっていた。気候(暑さ)もあるし、相手も勢いを持ってやってくる。相手がボールをつなぐことは分かっていたし、そういう分析もあった」と振り返った。 それでも終わってみれば4-2で白星発進。「思った以上に前半はハメづらいところはあったけど、僕らがしっかり個の能力を発揮して前半のうちに逆転したところが大きかった。勝ったところが大事だと思う」と安堵の表情を浮かべた。セットプレーからの2失点については詳しく見解を述べた。1失点目は左CKからニアで相手選手に頭でそらされての失点。遠藤は「相手の11番と15番が2人余っていて、僕が2人を見るようになっていたので、だれがもう一人に付くのか話してハッキリさせようとしていたところで、相手が早めに入れてきた。それで付きにくかった」と、当時の状況を説明した。 2失点目はFKからの失点。「FKはマンツーじゃなくてゾーンで守っているので、下がるタイミングは悪くなかったが、もちろん自分も先に触れれば良かった。(菅原)由勢には走ってきた選手はブロックしてほしいと言いましたが、僕が競り勝てれば何も起こらなかったと思う。改善はできると思います」。原因がハッキリしているだけに、今後の反省材料としていくつもりだ。 元日に起きた能登半島地震の被災者を悼み、腕に喪章を巻いてプレーした。また、試合後は被災地を応援するバナーを持ってピッチを一周。「試合前のミーティングでも森保監督から被災地の話がありましたし、何かチームとしてできることはないかと考えたところで、バナーの掲出と喪章を付けることが僕らにできることじゃないかという話をしていた。被災地のことは僕らも気にしているが、カタールにいるのでまずはサッカーで良いニュースを届けたい」と胸の内を語った。日本代表「被災地に力を」横断幕 試合後に掲げる 能登半島地震犠牲者へ、喪章つけプレー2024年1月14日イレブンは能登半島地震の犠牲者へ哀悼の意を示すため、喪章を着用してプレーした。また、試合終了後には「被災地に力を」と描かれた横断幕を持って、ピッチを1周した。💛テレビでスポーツが見れない時代になっている。有料での独占的な配信のみでしか見れない。アメリカでも大谷選手の活躍は有料の配信でしか見れないという。有料配信の条件次第では、ライブのみかビデオでも試合が見れない、結果もしくは決定的シーンも見れない時代になっているのが、なんともさみしい。世はまさにマモン(*)の支配する時代である。*マモン (Mammon) は、新約聖書に現れる、富を意味するとされる言葉である。また、旧約聖書と新約聖書の間の中間時代の後期ユダヤ教のラビ文献において、不正な財を指して用いられたアラム語の語彙である 。マモンを指すギリシア語 μαμμωνάς は新約聖書の「山上の垂訓」(マタイ)と「不正な管理人のたとえ」(ルカ16:9–13)に出てくる語である。ジョン・ウィクリフ訳聖書では意訳して〔富を意味する〕 richessis という語を用いている。
2024.01.15
弱った心臓そのものを元気にする「心臓リハビリ」 「いきいきウォーキング」で死亡率を下げる東北大学名誉教授で医師の上月正博氏。虚血性心疾患(狭心症や心筋梗塞)の患者さんが心臓リハビリを行うと、行わなかった場合に比べて、その後の心血管病による死亡率は26%低下し、再び入院するリスクが18%低下するあらゆる入院が25%減少し、心不全による入院が39%減少する心臓リハビリを行うことで血管が広がり、体の隅々まで血液が行き届くようになります。血の巡りがスムーズになるので、結果として心臓の負担が軽くなり、失われた活力が戻ってくる医療界では、すべての病気において「どのような治療(医療技術)を行うのがいいか」を、4つの視点からランクづけしています。4つの視点とは「推奨クラス分類」「エビデンスレベル」「Minds推奨グレード」「Mindsエビデンス分類」というものです。それぞれ3〜7段階の指標があり、このうち「I」および「A」が最高ランクに位置づけられています。心臓リハビリは、急性冠症候群(狭心症や心筋梗塞)、慢性心不全、心臓手術後、末梢動脈疾患、心臓移植後といった数多くの心臓病において「IAAI」という最高級の評価が与えられている◆心臓リハビリメソッドに取り組んではいけない人・不安定狭心症や高度大動脈弁狭窄症、左室流出路狭窄の人・急性心筋梗塞や急性心内膜炎、急性心筋炎、急性大動脈解離などを発症したばかりの人・心不全の病状が不安定あるいは足のむくみ(浮腫)が強い人・重篤あるいは病状が不安定な高血圧症、糖尿病、不整脈などの合併症がある人(空腹時の血糖が250mg/dℓ以上、最大血圧が180mmHg以上あるいは最小血圧が100mmHg以上)・医師より運動を止められている人心臓リハビリメソッドは、もともと心不全の患者さんでも安全にできる運動です。ただし、「急性期」にあたる場合は、医師や看護師、理学療法士などの監視下で、病気の回復程度や心臓の状態を随時チェックしながら行われています。早急に治療を行わなければならないほど心臓の状態がよくない人は、取り組んではいけません。さらに、空腹時の血糖が250mg╱dℓ以上の高血糖である人は、まずは血糖を下げる治療に専念してください。また、最大血圧が180mm以上、あるいは最小血圧が100mm以上ある人も、優先するのは血圧を下げる治療です。心臓リハビリでなによりも大切なことは「有酸素運動」です。ベストなのは「ウォーキング」。心臓リハビリにおいて、歩くことに勝る有酸素運動は存在しません。大切なのは、歩くことを「中程度」の強度で行うことです。毎日30分、あるいは1週間の合計で150〜180分以上の有酸素運動を、「中強度」で行うことが必要だとされています。
2024.01.14
食と栄養「キクイモ」 血糖の急上昇を緩和【元気+らいふ】キクイモはキク科ヒマワリ族の植物で、その名の通りキクに似た花をつけ、土の中にイモ(塊茎(かいけい))ができる。キクイモに含まれる水溶性食物繊維のイヌリンには、糖尿病を改善するホルモンを増やす作用がある由来 キクイモは生でも食べることができ、食感はみずみずしくシャキシャキしています。 キクイモの原産地はカナダ東部です。国内には1800年後半の幕末から明治にかけて持ち込まれ、栽培方法の研究が進みました。強い生命力を持っており、健康食品としても需要があるため、各地で栽培が広まっています。 秋の開花直前に上部の葉が急速に生い茂ります。土の中で伸びる長い茎の先に食用となる塊茎ができ、11月~3月頃に収穫期を迎えます。糖尿病の予防や治療には、食事療法が一番大切です。キクイモに含まれる水溶性食物繊維のイヌリンには、糖尿病を直接的に改善するホルモン(インクレチン)を増やす作用があるといわれています。糖尿病に影響を与えるのはブドウ糖ですが、イヌリンは同じ糖類の中でもリンゴなどの果物と同じ果糖で、エネルギーになります。ブドウ糖の代わりに果糖を含むキクイモを摂取することで、糖尿病患者の血糖値やグリコヘモグロビン値を低下させたという研究があります。 食物繊維は糖や脂肪をゆっくりと消化していく働きがあるので、食後に血糖が急激に上昇するのを緩和していくと考えられています。血糖が上がりにくくなることは糖尿病の食事療法で大切なことです。 また、キクイモによって食物繊維不足の解消にもつながります。食物繊維はがんを予防するという疫学研究が行われています。食物繊維が腸のバリア機能を高めることで、がんを防ぐことが期待できます。 食物繊維の一日の摂取量を増やすことで、乳がんや胃がんの発症率が減少するともいわれます。糖尿病やがんの予防対策に、また、治療中の方もキクイモを試してみましょう。 キクイモの名はキクによく似た黄色い花をつけることに由来し、イモのような形をした「塊茎(かいけい)」を食用とする。生で食べると独特の歯ごたえと、くせのない淡泊な味を楽しめる一方で、火を通すとホクホクとした食感とほのかな甘みを感じることができる。お薦めは、ゴボウのように薄くスライスしてきんぴらにしたり、みそと一緒に漬けたりする食べ方。イヌリンは水溶性食物繊維(多糖類)の一種で、菊芋に豊富に含まれています。糖類の仲間ではあるものの、人間はイヌリンの分解酵素を持っていないため、イヌリンを摂取してもほとんど吸収されずに体外に排出されてしまうのです。摂取したイヌリンは、腸で水分を吸収するとゲル化し、一緒に摂取した糖分や塩分を体外に排出。血糖値の上昇に働きかけてくれるイヌリンを豊富に含むことから、菊芋は今や“健康野菜” “スーパーフード”として大注目されている水溶性食物繊維のイヌリンを継続的に摂取することで、毎日のスッキリをサポート。お腹が重たいと感じる人、ポッコリが気になる人にも、『有機菊芋チップス』はかなりおすすめです。また、イヌリンは腸内で善玉菌の働きをサポートしてくれるので、腸内環境改善が期待できるのも魅力のひとつ。菊芋は糖尿病や血糖値抑制に効果があるの?イヌリンには、糖尿病を直接的に改善するホルモン「インクレチン」を増やす作用があることが示されています。実際に52人の2型糖尿病女性患者において1日10gのイヌリン摂取を8週間施行する調査がありました。その結果、空腹時血糖19.2 mg/dl、HbA1c0.5%の低下が認められました。また別の調査では、49人の2型糖尿病女性患者において1日10gのイヌリン摂取を8週間施行しました。こちらも空腹時血糖15.0mg/dl、HbA1c0.7%、HOMA-IR(インスリン抵抗性の指標)2.2の低下が確認されています。
2024.01.14
伊藤有希が1・2回目とも1位、札幌で今季W杯2勝目「狙って勝てたのは初めての経験」ノルディックスキー・ワールドカップ(W杯)ジャンプ女子個人第10戦が14日、札幌市の大倉山ジャンプ競技場で行われ、伊藤有希(土屋ホーム)が124メートル50、129メートル50を飛び、計230・1点で今季のW杯2勝目を挙げた。1回目、2回目とも1位の好飛躍をマーク。2017年、自身が初めてW杯を制したのも、別会場ではあるものの札幌で行われた大会で、この日と同じ1月14日だった。「そういう日に勝つことができてうれしいし、今までの優勝はたまたま勝てた優勝。今回は狙って勝てた。これは初めての経験で、次のステップにつながる」と喜びに浸った。「地元札幌で絶対勝ちたい思いがあったので、それが出来てうれしい。2本目飛ぶ前に言われて緊張したんですけど、(1月14日が)私が初めてW杯札幌で勝った日なのでそれもあって勝てて良かった」
2024.01.14
カカオが健康寿命延伸 新たな有効成分を確認 明治が研究成果2022年8月8日東京工科大学の応用生物学部免疫食品機能学研究室の今井伸二郎教授、山梨学院短期大学(遠藤清香学長)食物栄養科の萱嶋泰成教授らと行った研究で、カカオ成分の一種である「脂肪酸トリプタミド」の摂取が、生命維持に重要な酵素「サーチュイン」を特異的に活性化させ、ショウジョウバエの寿命を延長することを確認した。サーチュインの活性化は老化抑制や肥満や糖尿病などのメタボリックシンドロームの予防にも有効とされており、今回の研究を通してカカオの継続的摂取が単に寿命を延長するだけでなく、健康寿命延伸につながる効果がある可能性が明らかになった。カカオに含まれる健康成分の中でもカカオポリフェノールは活性酸素を抑えることから生活習慣病への有効性が示されてきた。カカオ成分の一種である「脂肪酸トリプタミド」を添加した餌をショウジョウバエに食べさせた場合、通常の餌に比べ平均寿命が4日、14%程度延びた。これを人に置き換えると81・6歳(日本人男性の平均寿命 厚生労働省令和2年簡易生命表)だった寿命が93歳まで延びる換算となる。またショウジョウバエに壁上り運動をさせると通常の餌を食べた場合よりも、加齢に伴う運動能(筋力)の低下を防ぐ効果も確認されたという。
2024.01.14
「禅」って一体何なんだ!アメリカ人ZEN僧に聞いてみた日本で暮らすアメリカ人禅僧のScott Mangis(スコット・マンギス)さん―ずばり禅とは何なのでしょうか?禅とは、自分自身の存在の真実を探すことです。私達の多くはビジネスカード、パスポート、人種、性別で定義されます。しかし、「私はアメリカ人です」「私は男性です」「私はスポーツが好きです」というのは、ただのラベルであり、真実ではありません。禅はあなた自身の真実へ帰るプロセスです。ZEN is basically searching for the truth of who you are.禅とは、自分自身の存在の真実を探すことです。―どのように自分を探したらいいのですか?禅では自分の心の中にスペースを作ることが大切です。曹洞宗において座禅とは只管打坐(ただひたすら座禅をすること)を指し、臨済宗では公安禅と呼ばれ、これは答えのない問いへ対する問答のことを指します。考えて、考えて、考えて、そのうち考えることに疲れると、ある思考が止まります。これが「悟り」あり、クリアーネスの瞬間です。あなたは、無の境地である悟りを得るのです。座禅と瞑想はよく混同されます。なぜなら、西洋においては「瞑想」は何かを達成するためにすることだからです。一方、座禅には理由はありません。ただ座るのです。万物はひとつであり、私達は仏陀そのものです。座禅は仏性です。座禅を理解しようとする時、座禅はするものではなく、ただ座禅であり、達成するものでも、ゴールでもないのです。 座禅の修行のポイントは、「これはいい考えだ」「悪い考えだ」「いい日だ」「悪い日だ」などのジャッジをすることを辞めることです。心の中に浮かんでくる思考をスローダウンさせることで心にスペースをつくることができます。In “Soutoushu” Zen, Zazen practice is called “Shikantaza”.曹洞宗では、座禅の修行は只管打坐と呼ばれます。“Shikantaza” is meditation without object, anchors or content.只管打坐はいかなる思考もなく瞑想することです。In “Rinzaishu” Zen, Zazen includes contemplating koans.臨済宗では、座禅とは公案について熟考することも含みます。A “KOAN” is a question that cannot be answered with the logical mind.公安は、論理的に答えることのできない問答のことを指します。――スティーブ・ジョブズが禅を愛したことは有名ですが、Googleなどの大企業でも禅のプログラムが取り入れられていると聞きます。なぜ今アメリカ人は禅に傾倒しているのですか?彼らは禅で得られるものをマインドフルネスと呼びます。マインドフルネスは近頃とても注目されていて、去年Time誌では大きな特集が組まれました。最近はGoogleやその他アメリカの多くの企業がマインドフルネスプログラムを取り入れています。 人間はいつでも成長したいという思いを持っています。変化のない日常に至上の幸福を感じる人はいないでしょう。世界を見渡してみても、不幸なことがあります。そしてそれは平和や平穏を探す欲望となります。あなたは「禅をやらなきゃ」「禅がうまくならなきゃ」と欲望を満たしてくれるものを探すのです。彼らは目的を達成するためのツールとして禅を使います。禅をすれば、仕事でもっと成果を出せる、昇進できると思う。しかし、禅の修行を続けていくとエゴは消えていきます。なぜなら、エゴというものは自己と他者の間に発生するものだからです。禅を続けていくと、自己の本質に繋がります。全てはラベルであったということに気づくのです。Mindfullness is growing rapidly in the U.S. at this time.マインドフルネスは近年アメリカで急速な成長を遂げています。――なぜアメリカ人はマインドフルネスという言葉を使うのですか?“ZEN”という言葉よりもマインドフルネスは使うことに抵抗がないからです。多くのアメリカ人は禅を宗教だと信じています。他の宗教を持っている彼らにとっては仏教と信じる”ZEN”という言葉を使うことことには抵抗があるのでしょう。それ故、ビジネスや多く場面で禅は「マインドフルネス」と置き換えられます。 しかし、禅とは宗教ではなく修行なのです。例えキリスト教を信じていたとしても座禅をすることは、あなたを助けてくれます。”ZEN”のために何かを変える必要はありません。座禅は自分の中に平和なスペースを作るための方法です。“ZEN” is not religion but practice.禅とは宗教ではなく修行なのです――人々は、座禅を生活に取り入れるべきだと思いますか?私達は常に脳から電気信号を発しており、これは脳波と呼ばれます。脳波には、γ(ガンマ)波、β(ベータ)波、α(アルファ)波、θ(シータ)波、δ(デルタ)波の5種類が存在し、主にβ波で日常生活を送っています。考えたり、論理的に喋ったり、問題を解決したり、何かを観たり読んだり、ストレスや不安を感じたりする時もβ波がでています。禅修行の一歩は、呼吸法であり、まず呼吸に着目します。呼吸を整えることによって、β波である脳波をα波へ持っていくのです。あなたがリラックスをしてα波の状態になると、革新的なアイデアなどが浮かびます。 α波の次はθ波が出ます。θ波は睡眠の中でも夢を見ている時に出る脳波です。そしてより瞑想が深くなると今度はδ波がでます。これは、夢を見ていないもっとも深い眠りであるノンレム睡眠の時に出る脳波です。δ波は、体力や精神を回復させるためとても重要でで、座禅のもっとも深いステージです。ここまでいくと素晴らしい感覚を味わうことができます。 座禅がうまくなってくると日常生活でも脳波をコントロールすることができるようになります。緊張を強いられる時でも、コントロールができるのでリラックスできるのです。毎日20分間座禅を組むべきだと思います(笑)。1日3回5~8分の座禅を続ければ、あなたの人生の変化に気づくでしょう。If you practice Zazen 3 times per day for 5-8 minutes you will quickly begin to see change in your life.1日3回5~8分の座禅を続ければ、あなたの人生の変化に気づくでしょう。Practicing Zazen moves you out of the Beta brain wave state and into Alpha. As your practice improves you can move deeper into Theta and Delta brain wave states.座禅の修行をすると、まず脳波がβ派からα波に移行します。座禅が上手になってくると、θ波、そしてδ派が出るようになってきます。――なぜ、禅の僧侶になったのですか?よく聞かれる質問ですが、私はいつも「禅僧が私を選んだ」と答えています。21年間海軍にいて、その後は金融業界におりました。国分寺に行きつけのパブがあって、そこのオーナーが座禅会をやっているブランドンに引き合わせてくれました。座禅会に参加するとそこで私の師匠である慈念さんに出会いました。慈念さんと話していると自分の本質に到達したような気がしました。彼が”I could make you a monk”(私が君を僧侶にする) と言ってくれて、今があります。
2024.01.14
睡眠中の脳掃除睡眠中の脳では、老廃物の掃除が行われていると考えられています。①レム睡眠中、細かい脳血管の血流が上がり、脳内で物質が活発に交換される。②ノンレム睡眠中、脳脊髄液により脳から老廃物が排出される。特に、より深い睡眠状態時に排出されやすい。正常な睡眠がとれていない人では、脳内の老廃物の掃除が不十分になります。脳内に老廃物が溜まると、認知症などのリスクがあがってしまうこともわかっています。写経・写仏・写龍会 マインドフルネス瞑想座禅①レム睡眠中は外部からの刺激を遮断する機能が働いているため、ちょっとした物音で簡単に目が覚めるということはありません。身体は寝返りもなくじっとしていて、脳内では活発に考えをまとめたり、記憶を整理し、定着させたりする重要な役割を持っている。②ノンレム睡眠は脳の休息と、細胞の修復を担う「成長ホルモン」の分泌という役割があります。脳が休み、きっと体は寝返っているでしょう。そして特にこの時、幸せホルモンなどセロトニン等の分泌が大切に生成されているわけですね。必ず寝入るときはこのノンレム睡眠が最初です。生物学上、動物やホモサピエンス原始の時代、捕食されないようにすぐ物音で起きて体も反応して逃げられ、または戦うように遺伝子的に組み込まれている。①レム睡眠は無意識に起こります。意識的にこの状態に持っていくのがマインドフルネス瞑想や座禅の感覚に近いんではないかと思います。💛昨年暮れに手術を受けて、2週間ベッド生活で、その間、たまに座禅で眠れぬ夜を過ごした。今年1月9日に退院して5日続けて座禅(半跏フ座)を続けている。次第に時間も長くなっている。三段論法でいうと1 ノンレム睡眠中、脳脊髄液により脳から老廃物が排出される2 座禅でノンレム睡眠状態にもっていく3 座禅中、脳脊髄液により脳から老廃物が排出されるではないかと期待している(^^)
2024.01.14
NHK『光る君へ』初回で躓き、マーケティング失敗か 大河最低の視聴率を記録、狙っていた若い女性層が離反紫式部を〝元祖シングルマザー〟と位置付け、人気女優の吉高由里子(35)が〝情熱的で多感で好奇心旺盛な女性〟を演ずる。しかも十二単や御所など、豪華絢爛な絵巻の世界が舞台だ。明らかに若い女性狙いだが、実際にはその層が全体平均以上に離反し、子供と一緒に見る親世代も少なかった。大河としてレアな平安時代で女性を狙うというマーケティングは外れてしまった可能性が高い。戦国時代ではなく〝平安文化〟で勝負する狙いは斬新で評価できる。しかしそれは送り手の論理に過ぎず、視聴者は物語としての面白さを優先する。〝貴族の出世〟や〝女たちのドロドロ〟は、頭の中でのお話が中心で絵的に地味だ。企業で競争にしのぎを削る役員管理職の反応も薄ければ、若い女性や中年女性の心も今のところ捉えられていない。吉高が登場する2話以降、もう少し派手でわかりやすくストーリーが展開しないと、多くの視聴者に届かないと危惧される。ゴール設定は良かったが、どう実現させるかで失敗とならないことを願うばかりだ。💛「鎌倉殿」はほぼ毎回視聴した。「どうする家康」は当初見たが、途中から興味を失った。『光る君へ』はどうだろうか?平安時代という、戦乱ではない「親ガチャ」と評される、およそ大河ドラマには難しい時代にチャレンジすること自体が素晴らしい。「源氏物語」は何度もチャレンジしては断念している。そもそもラブロマンスを延々と続けるのを読み続けるのは難しい。大河は、むしろ藤原兼家の五男坊、藤原道長がいかに権力のトップにアップするのか、現代の政治や大会社の権力闘争を想起させる点が相似性があり、それを紫式部が優れた観察眼と描写力をもって描くということになるのであろうか。むしろ楽しみ。藤原氏はなぜ権力を握れた?資料No.1『藤原道長の年表』資料番号1、藤原道長が生まれてから亡くなるまでの年表です。道長は『御堂関白記(みどうかんぱくき)』という日記をのこしています。現存する世界最古の自筆の日記といわれています。その日記をもとに、道長が就いた役職の変遷を中心に年表にまとめました。「お父さんの兼家(かねいえ)は摂政と関白を務めたんだね」と飯塚。「天皇が子どものときは摂政として仕事を代行して、天皇が大人になったら関白としてアドバイスをする。天皇の側近という役職ですよね」と豊本。「てことは、もともと藤原氏は天皇に近い貴族だったということだね」と飯塚。「たしか、摂関家(せっかんけ)といって、世襲制で摂政と関白を引き継いでいた“華麗なる一族”ですよ」。scene 04「陣定」での道長の地位「道長って意外と病気がちだよね」。年表を見て飯塚が言いました。「肺や目に持病を抱えていたり、晩年は糖尿病で苦しんだりしました」と角田。「それだけ病気がちな道長が、一族の中でも特に権力を握ったとは思えないけどね」と飯塚が言うと、「摂関家の一族に生まれた道長は、あるポジションを手に入れることができたんです」と角田。「それがこちらです!」と図を見せました。『1004年 陣定(じんのさだめ)に出席した貴族』という資料で、貴族の名が列挙されています。「陣定とは、国の財政や外交、人事など重要な議題を審議し、天皇に意見を伝える国家機関です」と角田。scene 05自分に近い一族をメンバーにした「パッと見て藤原姓が多いね」と豊本。すると、角田が図を覆っていた一部をはがしました。「赤色の人は、道長に近い一族の人。そして黄色の人は、やや近い一族の人を表しております」。半分以上、道長と関わりのある人です。「道長は自分に近い一族をメンバーにすることで、病気がちでも思い通りの政策を進めることができたってことかな?」と飯塚が推測します。「ナイス探究!」と角田。すると豊本が、「でも、まだ決定権は天皇にあるわけですから、権力を握ったとは言い難いんじゃないですか?」と反論します。すると角田が、二つ目の資料を出します。scene 06資料No.2『紫式部日記絵巻』資料番号2『紫式部日記絵巻』。紫式部が書いた日記をもとに、鎌倉時代に描かれた絵巻物です。その中から、一条(いちじょう)天皇に嫁いだ道長の娘、中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)を描いた場面を用意しました。その場面を見て、「これ、何してるんですかね?」と豊本。「机の上に巻物みたいなものが置いてあるから、勉強してるんじゃないの、これ?」と飯塚。すると、「ナイス読み取り!」と角田。「天皇に気に入られるためには、宮中の礼儀作法や文学など、教養を身につける必要があった」と言います。scene 09資料No.3『紫式部日記絵巻』資料番号3、続いての資料も『紫式部日記絵巻』です。今度は、一条天皇と中宮彰子とのあいだに生まれた敦成(あつひら)親王(しんのう)が生後50日目のお祝いでおもちを食べる儀式「五十日(いか)の祝い」が描かれた場面です。「中宮彰子はほほえみながら赤ちゃんを抱っこしているみたいに見えますね。で、手前にいる男の人は、赤ちゃんのお父さん…一条天皇ですかね?」と豊本。すると、「ざんねん!」と角田。「こちらは、中宮彰子のお父さん、藤原道長です」と言いました。scene 10当時は女系社会だった「じゃ、この絵は実家だね。里帰り出産だったんだ」と飯塚。豊本が、「この時代は女系制の社会ですから、たしか、母親のほうの力が強かったみたいですよ。里帰り出産はもちろん、子どものお祝いなど大切な行事は母親の実家で行われたそうです」と言います。「ということは、子どもはこのまま母方の実家で育てて…。あ、おじいさんの道長が育てるんだ」と飯塚。「素晴らしい! 敦成親王は成長するまで皇后さまの実家、すなわち道長のそばで育てられます」と角田。「おじいちゃん、おばあちゃんの近くで孫が育てられて」と豊本。「その孫が天皇になったら…。あっ!」。scene 11子どものころから育てた孫が天皇に「平安時代の政治は、摂関家といわれる藤原氏を中心に政策が決められ、天皇が最終決定する仕組みだった」と飯塚。「道長は、天皇の最終決定権に影響を及ぼすために、娘たちを天皇家に嫁がせ、親戚関係になった」と豊本が続けます。「当時は女系社会。天皇の後継者となる男子が生まれると、母親の実家で育てることになっていた」と飯塚。「子どものころから育てた孫が天皇に即位することになるため、道長は天皇に強い影響力を持ち、絶大な権力を握ることができた」と豊本がまとめました。scene 12資料から読み取れたことは「て、ことかな!?」と飯塚。すると、「そう!…かもしれませんねぇ」と角田。「正解かどうか私は判断できないのでね。ただ、長女彰子が産んだ子どもが、後一条(ごいちじょう)天皇、後朱雀(ごすざく)天皇に、六女嬉子(きし)が産んだ子どもが後冷泉(ごれいぜい)天皇と、三代続けて天皇になっています」と言います。「道長のあとの藤原氏はどうなるんですか」と豊本がたずねました。「このあとは息子の頼通(よりみち)が摂政・関白を担って安泰か…」。そのとき、角田を呼び出すアラーム音が鳴ります。「すみません、次の配達が! 資料置いていきますんで」。そう言うと、モヤモヤした気持ちの2人を置いて行ってしまいました。
2024.01.13
「現代語訳安居院義道」クラウドファンディング あと5時間で終了します新たな支援者は登場していない。支援者62人で終了であろうか?御支援に感謝します。鷲山恭平『安居院義道』現代語復刻版の意義庄七が桜町陣屋から故郷に帰ったのが五四歳、庄七が神谷與平治に報徳仕法を説いた時が五九歳、庄七は現代でいえば定年退職後に決心し報徳伝道に旅立ったのです。庄七は二宮尊徳の直弟子ではなく、基本的に書籍で学び、自分で考え、実践し、検証して報徳の教えを自分のものとしていったのです。このことはまた現代における私たちが報徳を学び、実践する上で、非常に参考になる模範であるように思います。 今回、東北大学名誉教授大藤修氏と東京大学戸石七生准教授が書評を寄せて下さいました。ここに掲出し御礼申し上げます。大藤修先生「鷲山恭平『安居院義道』は報徳運動研究の必読文献ですが、私が研究を始めた頃は入手困難となっており、古書目録を博捜してようやく見つけ購入した経験があります。それだけに、地福さんの御尽力でこの名著を現代語訳して今日に蘇えらせられましたこと、労を多とします。安居院義道は民衆の立場から尊徳の教えを摂取し、近畿地方で見聞した先進的な農業技術とともに報徳の教えを広め、近代報徳社運動の種を蒔いた人物ですので、本書の公刊は報徳運動関係者のみならず、近世・近代移行期の民衆思想史や社会教育史、農業経済史などの研究者にとっても裨益するところが大きいと存じます。「安居院義道の風景」と編者注で関連の文献や資料を紹介されていますので、安居院義道研究を進展させる上でのよき案内となります。」戸石七生先生「安居院義道は、安居院庄七の通称で広く知られ、初期の報徳運動の普及や報徳社の成立に際して大きな役割を果たした人物である。また、我が国の農業協同組合においても、地域振興や農民の組織化の手腕は高く評価され、我が国の農業協同組合運動の祖の一人とされている。だが、同時代人による記録は乏しく、その生涯は多くの謎に包まれている。 安居院義道に関する数少ない出版物の中で、歴史的資料だけではなく、生前を直接知る人々への貴重な聞書きも踏まえて書かれた鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』は、豊富な情報量および重要性において他の追随を許さない伝記と言えるだろう。とはいえ、出版から70年を経て同書もまた古典となった。旧仮名遣いや時代に特有な語彙が障害となり、現代を生きる我々にとって、難解なものとなりつつある。 未曾有の少子化に伴う若年人口の減少、地方の過疎化、新型コロナウィルスの流行等により、現代日本社会は大きな転換点に差し掛かっている。幕末という激動の時代において地域振興に辣腕を奮った安居院義道にも、改めて注目が集まっている。にもかかわらず、その功績に関する最も重要な文献が文体の古さにより広く世に知られないのは残念である。 そこで安居院義道の志を受け継ぐ人々が集まり、報徳運動の研究者地福進一氏による現代語訳の出版が進められることとなった。文体が現代語訳されて読みやすくなったのはもちろんのこと、原典の内容に懇切丁寧な注釈や地図を初めとしたさまざまな参考資料が付け加えられており、安居院義道の活躍した時代や地域を知らない読者にも分かりやすくなっている。これらは、同時代の資料だけではなく、後世の研究者の著作や論文のような二次資料を網羅的かつ丹念に読み込みんで検討を加えるという膨大な学術的作業に裏打ちされたものである。長年報徳運動の研究を続けてきた地福氏だからこそ可能な現代語訳と言えよう。 つまり、本書は古典のリバイバルであるとともに、安居院義道研究の最前線である。今後、安居院義道や報徳運動、また日本の農業協同組合運動や地域振興の在り方について知りたい、研究したいという人々にとっては必読の書であろう。」『現代語 安居院義道』が現代の多くの人々に受けいれられ、また安居院義道の生き方に「一同感心し」、それぞれの人の人生に生かしていただければ、編集者の一人としてこれにすぎる喜びはありません。 「鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を現代語訳するよう勧めてくださった鷲山恭彦大日本報徳社社長、秦野視察の際に案内頂いた宮永均JAはだの組合長、その他ご協力いただいた方々に心から感謝申し上げます。また本書の出版に際して、ご指導・協力いただいたCAMPFIREの皆様、クラウドファンディングでご支援いただいた多くの皆様に心から感謝いたします。
2024.01.13
日本初の月面着陸へ、探査機「SLIM」が最終準備…誤差100m以内の「ピンポイント着陸」なるか 宇宙航空研究開発機構(JAXA(ジャクサ))は15日、月面探査機「SLIM(スリム)」が高度を下げ、20日未明の着陸に向けた最終準備に入ったと発表した。狙った場所への誤差100メートル以内の「ピンポイント着陸」や傾斜地でも安全に降り立てる独自技術で、日本初の快挙に臨む。 月の上空約600キロ・メートルを飛行中のSLIMは今後、さらに高度約15キロ・メートルまで降下する。20日午前0時頃には、減速を始めて目的地に向けた最後の飛行に入り、約20分後に赤道付近にあるクレーター周辺に着陸する。 鍵を握るのは、飛行中に撮影した月面の画像を使って軌道を自動修正する「画像照合航法」だ。明治大の鎌田弘之教授らが開発した技術で、画像から目印となるクレーターの位置を抽出し、月面の地図データと比べて現在位置を推定する。月探査機、1月20日に着陸挑戦 成功なら世界5カ国目宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発した小型探査機「SLIM(スリム)」が今月20日、月面着陸に挑戦する。現在は月の周回軌道上を飛行中で、20日午前0時ごろに高度15キロから最終降下を始め、約20分後に赤道南側にある「神酒の海」のクレーター付近に降りる。着陸に成功すれば、旧ソ連、米国、中国、インドに続き、世界では5カ国目となる。 スリムの目的は、狙った場所の100メートル以内にピンポイント着陸させる世界でも前例のない技術実証だ。これまで成功した他国の着陸精度は数キロ~十数キロで、「降りやすい場所に降りる」ものだった。月には地球の6分の1ほどの重力があり、日本が探査機「はやぶさ2」で試料回収に成功した小惑星と比べ、着陸だけでも難度は格段に高い。 最終降下の速度は時速約6400キロ。減速しながら約800キロ先の半径約100メートルの円に降りる。JAXAの坂井真一郎プロジェクトマネジャーは「飛行機の数倍の速度で、新千歳空港の上空を通過して、甲子園球場の中にピタッと降りるような挑戦だ」と解説する。
2024.01.13
「もののけ姫」一場面を表現の巨大タペストリー、フランスパビリオンで展示へ…日本初披露2025年大阪・関西万博のフランスパビリオンに、スタジオジブリのアニメ映画「もののけ姫」の一場面を同国の伝統的な織物技術で表現した巨大なタペストリー(縦5メートル、横4・6メートル)が展示されることが決まった。「呪いの傷を癒(いや)すアシタカ」と題するシーンで、巨木がそびえ立つ大自然と主人公のアシタカなどが描かれている。日本で披露されるのは初めて。 制作したのは、タペストリー産業が600年ほど続くフランス中央部の街・オービュッソンにある「国際タピスリーセンター」。スタジオジブリと協力して宮崎駿監督作品のシーンを編むプロジェクトに取り組んでおり、もののけ姫の作品は第1弾として22年に完成した。ふだんは同センターに飾られているが、今回、万博に登場することになった。
2024.01.13
福岡県「首羅山遺跡」、中世寺院の発展に日宋貿易担った「海商」の存在…国史跡指定10年1/13(土)中世の山林寺院跡である福岡県久山町の首羅山遺跡の国史跡指定10年を記念し、調査、研究成果を発表するシンポジウムが同町で開かれた。寺院の発展に、日本最大の貿易港だった博多と中国・宋をつないだ中国の海商の存在があることなどが報告された。 遺跡は福岡平野の東側に位置する白山(288・9メートル)の南側を中心に広がる。白山は中世に首羅山と呼ばれて天台宗や禅宗の寺として栄えた。筑前国続風土記によると最盛期の鎌倉時代には350もの僧坊があったとされる。2013年に国史跡に指定された。 昨年12月のシンポジウムでは、九州歴史資料館の井形進さんが遺跡の山頂地区に残る2基の石塔「薩摩塔」について、「日宋貿易を担った中国人・海商の信仰施設と考えられる」と紹介。遺跡の調査整備指導委員会委員長を務める九州大の伊藤幸司教授(日本中世史)は、と指摘した。 パネルディスカッションでは久山町教育委員会教育課の江上智恵課長が、中世博多の港湾施設遺構「博多遺跡」(福岡市博多区)に残る護岸とされる石積みに着目し、「首羅山遺跡で確認されている石垣と面をそろえた積み方などが似ている」と述べた。博多遺跡の石積みは宋人が築いたとされ、首羅山も宋人の技術や経済力を背景に発展したことがうかがわれるという。 現在、山頂地区では発掘調査が進んでいる。これまで土地の使われ方などが不明だったが、建物の柱跡の可能性がある遺構が見つかっているという。
2024.01.13
手を握り返してきた80代女性に消防隊員「絶対に助けます」…地震発生72時間後に救助能登半島地震では、大阪府内の各消防組織から第1~3陣計645人が緊急消防援助隊として、12日まで被災地に派遣された。特に第1陣は、地震発生から72時間後、石川県輪島市の倒壊住宅から80歳代女性を救助した。現場で指揮を執った大阪市消防局の特別高度救助隊長、田中真也さん(45)が読売新聞の取材に応じ、「女性は、がれきのわずかな隙間にいて奇跡的に無事だった」と当時を振り返った。(土谷武嗣) 田中さんら大阪市消防局の4人は2~5日、緊急消防援助隊の一員として、輪島市内で被災者の捜索と救助を担当。4日午後、堺市消防局の隊員から、倒壊した木造2階建て住宅に住人の高齢女性と次男が閉じ込められているようだ、という情報が入り、2人の捜索を始めた。住宅は、1階部分が押しつぶされており、2階の床をはがして中をのぞくと、梁(はり)の下敷きになった男性が倒れていた。呼びかけに反応はなかったが、もうひとりの女性を捜すため、「助けに来ました」と呼びかけると、近くでうめき声が聞こえたという。 倒れた柱や家具を取り除くと、高さ40センチほどの隙間から、うつぶせになった女性の頭が見えた。隊員が手を握ると、強く握り返してきたため、「絶対に助けます」と声をかけ、救出に取りかかった。 女性の手は冷たく、「早く助け出して体を温めなければ」と気がはやる中、女性が体を挟まれていないことを隊員に確認させた上で、抱えて隙間から救出するよう指示。毛布にくるみ、担架にのせて運び出した。時刻は午後4時28分頃。地震発生から72時間あまりで、生存率が急激に低下するとされるリミットで、女性を市内の病院に搬送できた。 一方、梁の下敷きになっていた男性は女性の50歳代の次男で、亡くなっているのが確認された。2人がいたのは女性の部屋で、田中さんは「地震が起き、息子さんがお母さんを守ろうと一緒にいたのかもしれない」と思いやった。 救出活動中も余震が相次ぎ、「危険と隣り合わせだった」と田中さん。「非常に困難な現場だったが、わずかな隙間が救出につながった。72時間を過ぎていたが、命を救うことができてよかった」と語った。
2024.01.13
「現代語訳 安居院義道」クラウドファンディング もあと14時間で終了します。https://camp-fire.jp/projects/view/710516...「あなたのプロジェクトに支援者が現れました」とCAMPFIRE事務局から連絡があった。62人目の支援者が登場今回、東北大学名誉教授大藤修氏と東京大学戸石七生准教授が書評を寄せて下さいました。ここに掲出し御礼申し上げます。大藤修先生「鷲山恭平『安居院義道』は報徳運動研究の必読文献ですが、私が研究を始めた頃は入手困難となっており、古書目録を博捜してようやく見つけ購入した経験があります。それだけに、この名著を現代語訳して今日に蘇えらせられましたこと、労を多とします。安居院義道は民衆の立場から尊徳の教えを摂取し、近畿地方で見聞した先進的な農業技術とともに報徳の教えを広め、近代報徳社運動の種を蒔いた人物ですので、本書の公刊は報徳運動関係者のみならず、近世・近代移行期の民衆思想史や社会教育史、農業経済史などの研究者にとっても裨益するところが大きいと存じます。「安居院義道の風景」と編者注で関連の文献や資料を紹介されていますので、安居院義道研究を進展させる上でのよき案内となります。」戸石七生先生「安居院義道は、安居院庄七の通称で広く知られ、初期の報徳運動の普及や報徳社の成立に際して大きな役割を果たした人物である。また、我が国の農業協同組合においても、地域振興や農民の組織化の手腕は高く評価され、我が国の農業協同組合運動の祖の一人とされている。だが、同時代人による記録は乏しく、その生涯は多くの謎に包まれている。 安居院義道に関する数少ない出版物の中で、歴史的資料だけではなく、生前を直接知る人々への貴重な聞書きも踏まえて書かれた鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』は、豊富な情報量および重要性において他の追随を許さない伝記と言えるだろう。とはいえ、出版から70年を経て同書もまた古典となった。旧仮名遣いや時代に特有な語彙が障害となり、現代を生きる我々にとって、難解なものとなりつつある。 未曾有の少子化に伴う若年人口の減少、地方の過疎化、新型コロナウィルスの流行等により、現代日本社会は大きな転換点に差し掛かっている。幕末という激動の時代において地域振興に辣腕を奮った安居院義道にも、改めて注目が集まっている。にもかかわらず、その功績に関する最も重要な文献が文体の古さにより広く世に知られないのは残念である。 そこで安居院義道の志を受け継ぐ人々が集まり、現代語訳の出版が進められることとなった。文体が現代語訳されて読みやすくなったのはもちろんのこと、原典の内容に懇切丁寧な注釈や地図を初めとしたさまざまな参考資料が付け加えられており、安居院義道の活躍した時代や地域を知らない読者にも分かりやすくなっている。これらは、同時代の資料だけではなく、後世の研究者の著作や論文のような二次資料を網羅的かつ丹念に読み込みんで検討を加えるという膨大な学術的作業に裏打ちされたものである。 つまり、本書は古典のリバイバルであるとともに、安居院義道研究の最前線である。今後、安居院義道や報徳運動、また日本の農業協同組合運動や地域振興の在り方について知りたい、研究したいという人々にとっては必読の書であろう。」『現代語 安居院義道』が現代の多くの人々に受けいれられ、また安居院義道の生き方に「一同感心し」、それぞれの人の人生に生かしていただければ、編集者の一人としてこれにすぎる喜びはありません。あと十数時間、更なるご支援をお願いします。
2024.01.13
老化防止も 「瞑想」の効用、脳科学が解明2014年11月29日古くからの精神修養法である「瞑想(めいそう)」。世界の主要な宗教で取り入れられ、近年は一般社会でも、座禅やヨガなどが平常心を養い心身の健康を増進させる手段として受け入れられている。瞑想の効用やそのメカニズムが最新の脳科学によって確認されつつある。瞑想を重ねることによって脳の特定の部分の構造や大きさが変化するかつては成人になった後は、脳細胞は増えないし、脳の構造は大きくは変わらないと考えられていた。しかし実際には、バイオリニストが練習を積むと、脳内で指の動きを制御する領域が成長することにみられるように、経験や訓練によって脳は変化する。同様のことが瞑想の訓練を積むことによっても起こるという。瞑想者は自分で精神状態を調整して、ある種の内的な充実感を達成しようとする。こうした訓練が、集中力を高めたりストレス解消になったりするのにとどまらず、脳に生理学的な変化が起こることが、大学などの研究で確かめられつつある。米ハーバード大学の研究グループが磁気共鳴画像法(MRI)を使って、仏教の瞑想法を長期間修行してきた人たちの脳を調べたところ、前頭前皮質の一部(ブロードマン領野9および10)と島皮質における脳組織の体積が、対照群よりも大きくなっていることが明らかになった。脳のこれらの領域は注意や感覚情報の処理といった役割を担っている。この結果は、加齢に伴って脳組織の体積が減る傾向を、瞑想によって抑制できる可能性を示している。被験者のうち瞑想によるストレス低減の効果が高かったグループを追跡調査したところ、不安処理に関連した部位である扁桃(へんとう)体の体積が減少していたこともわかった。瞑想によって、炎症やストレスの要因を分子レベルで低下させられることを示す証拠も挙がりつつある。米ウィスコンシン大学などの研究グループは、仏教の瞑想法の1つであるマインドフルネス訓練を集中的に行うことで、特に瞑想の経験が豊富な人の場合、炎症に関係した遺伝子の活動レベルが低下することを確認した。また米カリフォルニア大学デービス校の研究者は、細胞の老化の抑制に関係した酵素であるテロメラーゼの活動が瞑想をした後で活発になることを見いだした。これは瞑想によって細胞老化の進行を遅らせられる可能性を示唆している。疲れた脳をデフォルトに戻す「集中瞑想」のやり方2016年4月4日「大事なのは継続することなので、どうしても20分やれというわけではないですが、5分の瞑想と20分の瞑想では効果が違うとは言われています。20分のほうがセロトニンの分泌などによりさらなるリラックス効果がある。さらに30分以上の瞑想には脳のネットワークの改善が顕著に見られますが、限られた時間の中で継続するのであれば、無理をせず、通勤時間や夜寝る前の数分で充分価値があります」睡眠中には脳内から“毒素”が洗い流される:米研究チームがメカニズムを解明、アルツハイマー病の治療に光2020/01/14なぜ睡眠中に毒素は除去されるのか?ヒトが眠っているとき、脳はいくつかの状態を経験する。浅い眠り、無意識に陥るような深い眠り、そして夢を見やすいレム(急速眼球運動)睡眠。ルイスの研究はノンレム睡眠に注目している。概して夜の早い時間に起きる深い眠りで、記憶保持との関連が知られている。これに関連して、マウスを対象とした重要な研究が13年に発表されている。マウスが眠っている間に、アルツハイマー病の原因のひとつであるβアミロイドなどの毒素が、脳内から除去されることがわかったのだ。ルイスは、毒素がどのように除去されるのか、このプロセスがなぜ睡眠時にだけ起きるのかに興味をもった。脳の周囲を循環する水のような液体である脳脊髄液がかかわっているのではないかと、彼女は考えた。しかし、睡眠中の何が特別なのかは見当もつかなかった。そこでルイスは、さまざまな変数を同時に測定する実験を考案した。「これらの測定指標が重要なはずだと直感していました。それでも睡眠中にどう変化するか、どのような相互の関連があるのかは、わたしたちにも未知の領域でした」ノンレム睡眠中に脳脊髄液のゆるやかな「大波」が、脳を洗い流すことがわかった。この波がどうやって生じるのかは、脳波を見ることで判明した。ノンレム睡眠に入るとニューロンの活動は同期し始め、脳全体が同時にオン/オフを切り替えるようになるのだ。「まず最初に、すべてのニューロンが静かになる状態が観察されます」と、ルイスは説明する。すべてのニューロンが一時的に発火をやめるため、必要とされる酸素量が減少する。これは脳への血流量が少なくなることを意味する。そして、その空白を埋めるように、脳脊髄液が大量に流れ込む様子が観察された。「素晴らしい研究です」と、ロチェスター大学の神経科学者マイケン・ネダーガードは言う。ネダーガードは、マウスにおける睡眠時の脳内の毒素除去を初めて報告した、13年の論文の筆頭著者である。「脳の電気活動が液体を動かすなんて、誰ひとり想像もしていなかったでしょう。とてもエキサイティングです」アメリカのケンタッキー大学研究結果ヨガ行者の習慣を研究した結果、彼らは毎日2時間の瞑想を行うことで、4時間の睡眠による脳と精神の修復効果が、7時間睡眠を取った場合のそれに匹敵しているということが報告されたのです。また同大ブルース・オハラ博士によると、瞑想はノンレム睡眠の脳活動と酷似しており、不眠症を抱える20人の被験者が瞑想を実践したところ、長く良質な眠りにつくことができたそうです。実は、瞑想はα波が発生することを脳科学は示しています。α波が出て副交感神経が優位となることで、脳内ではセロトニンが分泌されます。睡眠を促すメラトニンは、実はセロトニンから作られており、このセロトニンが不足すると、例え脳の生体時計が正常であったとしても、睡眠・覚醒のリズムが乱れるのはこのためです。ハーバード大学によると、人間は起きている時間の約半分を、実際に取り組んでいる事柄とは別の何かについて考えながら過ごしており、事実、頭の内には毎日5~6万以上もの思考が、無意識に浮かんでは消えているそうです。そしてその思考の9割以上が、昨日の内容と同一であると指摘されています。このいわば「心のおしゃべり」が過ぎると、人間の脳は集中状態よりも4倍近く疲労し、ストレスを生みます。また本来人間の脳はデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という活動を常時行っており、それは意識的な思考外、つまりボーっとしている時にも、睡眠時にも行っています。この「脳のアイドリング」状態が、脳エネルギー消費のなんと80%を占めており、同大学の別の研究によると、眠るよりもさらに深く神経系を休ませ、かつDMNの過剰な活動を抑える有効的な手立てが、他ならぬ「瞑想(メディテーション)」だと言うのです。💛昨年(令和5年)12月下旬に手術し2週間ベッド生活をつづけた。当初不眠に悩まされたが、その後いろいろと工夫して薬に頼ることのないよう試みた。その一つとして座禅(半跏フ座)で数息観(すそくかん)で1~100まで数えたが脳がすっきりするので、自宅に戻り自宅療養中も続けている。夜中2,3回ではあるが、「眠るよりもさらに深く神経系を休ませ、かつデフォルト・モード・ネットワークの過剰な活動を抑える有効的な手立て」であることを実体験する。
2024.01.13
「現代語 安居院義道」クラウドファンディングはあと18時間で終了します!https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show今回、東北大学名誉教授大藤修氏と東京大学戸石七生准教授が書評を寄せて下さいました。ここに掲出し御礼申し上げます。大藤修先生「鷲山恭平『安居院義道』は報徳運動研究の必読文献ですが、私が研究を始めた頃は入手困難となっており、古書目録を博捜してようやく見つけ購入した経験があります。それだけに、この名著を現代語訳して今日に蘇えらせられましたこと、労を多とします。安居院義道は民衆の立場から尊徳の教えを摂取し、近畿地方で見聞した先進的な農業技術とともに報徳の教えを広め、近代報徳社運動の種を蒔いた人物ですので、本書の公刊は報徳運動関係者のみならず、近世・近代移行期の民衆思想史や社会教育史、農業経済史などの研究者にとっても裨益するところが大きいと存じます。「安居院義道の風景」と編者注で関連の文献や資料を紹介されていますので、安居院義道研究を進展させる上でのよき案内となります。」戸石七生先生「安居院義道は、安居院庄七の通称で広く知られ、初期の報徳運動の普及や報徳社の成立に際して大きな役割を果たした人物である。また、我が国の農業協同組合においても、地域振興や農民の組織化の手腕は高く評価され、我が国の農業協同組合運動の祖の一人とされている。だが、同時代人による記録は乏しく、その生涯は多くの謎に包まれている。 安居院義道に関する数少ない出版物の中で、歴史的資料だけではなく、生前を直接知る人々への貴重な聞書きも踏まえて書かれた鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』は、豊富な情報量および重要性において他の追随を許さない伝記と言えるだろう。とはいえ、出版から70年を経て同書もまた古典となった。旧仮名遣いや時代に特有な語彙が障害となり、現代を生きる我々にとって、難解なものとなりつつある。 未曾有の少子化に伴う若年人口の減少、地方の過疎化、新型コロナウィルスの流行等により、現代日本社会は大きな転換点に差し掛かっている。幕末という激動の時代において地域振興に辣腕を奮った安居院義道にも、改めて注目が集まっている。にもかかわらず、その功績に関する最も重要な文献が文体の古さにより広く世に知られないのは残念である。 そこで安居院義道の志を受け継ぐ人々が集まり、現代語訳の出版が進められることとなった。文体が現代語訳されて読みやすくなったのはもちろんのこと、原典の内容に懇切丁寧な注釈や地図を初めとしたさまざまな参考資料が付け加えられており、安居院義道の活躍した時代や地域を知らない読者にも分かりやすくなっている。これらは、同時代の資料だけではなく、後世の研究者の著作や論文のような二次資料を網羅的かつ丹念に読み込みんで検討を加えるという膨大な学術的作業に裏打ちされたものである。長年報徳運動の研究を続けてきた地福氏だからこそ可能な現代語訳と言えよう。 つまり、本書は古典のリバイバルであるとともに、安居院義道研究の最前線である。今後、安居院義道や報徳運動、また日本の農業協同組合運動や地域振興の在り方について知りたい、研究したいという人々にとっては必読の書であろう。」『現代語 安居院義道』が現代の多くの人々に受けいれられ、また安居院義道の生き方に「一同感心し」、それぞれの人の人生に生かしていただければ、編集者の一人としてこれにすぎる喜びはありません。あと十数時間、更なるご支援をお願いします。
2024.01.13
インド最長の海上道路が開業 日本支援、商都ムンバイにインド商都ムンバイに、日本の支援で建設されたインド最長となる海上道路が12日開業し、式典が行われた。中心地がある半島部とムンバイ湾を挟んだ対岸の地域の連結性を高めることで、経済成長に伴う人口過密や慢性的な渋滞に対応する。 国際協力機構(JICA)によると、ムンバイ湾横断道路は2018年に着工した。全長約22キロのうち海上道路が約18キロあり、東京湾アクアラインよりも長い。式典にはモディ首相が出席。今年5月までに行われる総選挙を前に、成果をアピールした。*ムンバイ(マラーティー語: मुंबई, IPA: [mum.bəiː]、英: Mumbai)は、インドの西海岸に面するマハーラーシュトラ州の州都であり、ムンバイ市街県の都市である。インド第2の大都市であり、首都デリーと共に南アジアを代表する世界都市の一つである。1995年、英語での公式名称がボンベイ (Bombay) から、現地語(マラーティー語)での名称にもとづくムンバイへと変更された。
2024.01.13
CAMPFIRE運営スタッフからの連絡「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します残り24時間プロジェクトの募集終了は明日!プロジェクトの募集終了日まで残り24時間となりました。プロジェクトも本当の本当のラストスパートです。
2024.01.13
「老いること」が不安になる人、ならない人の「決定的な違い」…40代、50代から備えるには不安を感じやすい人は、自分に起こる変化を必要以上に否定的にとらえてしまう。老化に伴って体に痛みなどが出てきた時も「この痛みがなくなれば幸せなのに」と痛みをなくすことに執着してしまい、「痛みがあるからつらい」と言語化してしまう。もう1つの違いは「自分はできると信じる力があるか」です。「老いることで環境が変化しても、自分なら対応できる」と思えなければ、その環境でも楽しく過ごそう、新しいことをやってみようとは思えない。心理学的には、自分が置かれている今の環境を受け入れる「自己受容」ができていること、自分ならできると信じられる「自己効力感」が、老いることが不安になる人、ならない人の決定的な違いです。自己効力感とは?自己効力感とは、目標を達成するための能力を自らが持っていると認識することを指す。簡単にいえば、「自分ならできる」「きっとうまくいく」と思える認知状態のこと。スタンフォード大学教授で心理学者のアルバート・バンデューラ博士によって提唱された概念であり、英語では「Self-efficacy」と表現されます。自己効力感は心理学的に3つのタイプに分類できる。自己統制的自己効力感自分自身の行動をコントロールすることができる自己効力感のこと。初めての仕事や前例のない問題においても「自分ならできる」と考え、ポジティブに臨むことができる。一般的に自己効力感という場合は、この自己統制的自己効力感を指していることが多い社会的自己効力感社会的自己効力感とは、対人関係の中での自己効力感を指す。これは、乳児期から児童期において最も発達し、大人になっても持続する。社会的自己効力感が高い人は、他者の気持ちに寄り添い、共感することができる。また、周りから敬遠されるような人とでも「自分なら仲良くできはず」とポジティブに捉え、良好な人間関係を構築することができる。学業的自己効力感学業的自己効力感とは、学びや学習することに対する自己効力感を指す。これまでの学業における達成感によって育まれる。例えば、努力をして難関の学校に合格をした、難しい資格をとったなど、学習を通して成果を残した人ほど学業的自己効力感は高まる。学業的自己効力感が高い人は、社会に出てからも難しいスキルやノウハウを習得する必要がある場面でも自らスケジュールを立てて学んでいくことができる。💛ふむ、自分を省みると自己統制的自己効力感はあるが、社会的自己効力感や学業的自己効力感はないな。チャレンジ精神が旺盛になり行動量が増える「自分ならできる!」と信じているため、未経験の分野の仕事やチャレンジングな仕事においても、積極的に挑戦する。困難な状況でも「自分なら乗り越えられるはず」と考え、諦めずに状況を打破しようとする。行動量が増えるため、目標を達成する可能性が高まり、仕事の成果もあげやすくなる。そして、実際に目標が達成できると、さらに自己効力感が高まる好循環サイクルが生まれます。モチベーションの高い状態を維持できる「自分ならできる」と思えることを増やすために自分の能力を常に向上させようとする。そのため、常に向上心を高く持ち、モチベーションの高い状態を保ち続けることができる。💛自分にとって、「自己効力感」は 魔法の言葉(Magic word)の実践と結果から育ったと断言できる。
2024.01.12
食と栄養「落花生」 身近な食材で心疾患予防【元気+らいふ】栄養成分 栄養素は脂質が約50%を占め、そのうち80%が不飽和脂肪酸で、オレイン酸が最も多く含まれます。オリーブオイルにも含まれている一価の不飽和脂肪酸のオレイン酸は、不飽和脂肪酸の中で最も酸化されにくい特性があります。次いでリノール酸も多く、心疾患の予防効果が高いとされています。 ビタミン類では、ビタミンA、C、Kはほとんど含まれていませんが、抗酸化ビタミンである脂溶性のビタミンEやビタミンB群であるナイアシン、葉酸、パントテン酸などが含まれています。特にナイアシン含量は、ほかの豆類や種実類と比べても高くなっています。ナイアシンは、必須アミノ酸であるトリプトファンから生合成されますが、栄養機能食品として、皮膚や粘膜の健康維持を助ける働きを持っています。落花生は約50%が脂質です。脂質が多いと聞くと敬遠しがちですが、脂質はエネルギー源として大切なだけではなく、ホルモンや細胞膜を構成したり、ビタミンA、D、E、Kの吸収を促すなど、重要な役割を担っています。 落花生の脂質は、約20%が飽和脂肪酸、約80%が不飽和脂肪酸です。不飽和脂肪酸はリノール酸が約30%、オレイン酸が約50%で、落花生のオレイン酸は劣化しにくく安定性が高いと言われています。オレイン酸やリノール酸は、悪玉コレステロールを抑制する効果があり、血管の健康を保ち、生活習慣病を予防します。・落花生は高カロリー食品です。食べ過ぎには注意しましょう。1日20~30粒程度、毎日食べるのがおすすめです。・ハーバード大学公衆衛生大学院の研究によると、落花生またはピーナッツバターを1週間に5回、28g(約30粒)摂取した人は、しなかった人に比べて糖尿病の症状が軽減したとされています。この場合、朝食べるのが効果的です。・薄皮付きを食べたほうが健康効果が高まります。料理にも薄皮付きを使うようにしましょう。
2024.01.12
レナード・コーエン - アンセム Leonard Cohen - Anthemレナード・コーエン - アンセム Leonard Cohen - AnthemLeonard Cohen - Show Me the Placeはじめてのレナード・コーエン【必聴名曲5選】カナダのモントリオール出身のレナード・コーエンは、13歳の頃からギターを弾き始め、1950年代には地元のカフェでカントリーなどを演奏していたが、60年代になると詩人・小説家としてカナダで知られるようになる。そして、ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンを世に出したことでも知られるコロムビア・レコードのプロデューサー、ジョン・ハモンドに見いだされ、1967年、シンガー・ソングライターとして最初のアルバムをリリースした。デビュー当時33歳と、歌手としては遅咲きのレコード・デビューだった。彼はもともとユダヤ教徒であったが、仏教にも深い興味を持ち、62歳のときには僧侶になっている。宗教的・哲学的な内容の歌も多い。80歳を過ぎても歌い続けたが、2016年に82歳で死去した。彼をリスペクトするアーティストは数多い。以下はわたしがお薦めする、最初に聴くべきレナード・コーエンの至極の名曲5選です。スザンヌ(1967)Suzanneレナード・コーエンのデビュー・シングルで、フランスではシングル・チャート3位のヒットとなった。これぞレナード・コーエンと言うべき、素朴だが真摯な感情を伝え、心の深い部分が共鳴するような、味わい深い歌だ。ソー・ロング、マリアンヌ(1967)So Long, Marianne1stアルバム『レナード・コーエンの唄(Songs of Leonard Cohen)』からのシングルで、フランスでのみ28位に上昇した。この曲のモデルとなった「マリアンヌ」は、60年代初頭にコーエンが訪れたギリシャの島で出会った実在の女性だ。彼女は「恋人兼ミューズ(芸術の女神)」と呼ばれたほど、レナード・コーエンに多くの作品を書かせる原動力となったという。この曲はそんな彼女に別れを告げる内容となっている。バード・オン・ワイヤー(1969)Bird on the Wire2ndアルバム『ソングス・フォー・ア・ルーム(Songs from a Room)』からのシングル。「電線の上の鳥のように、真夜中に大合唱する酔っぱらいたちのように、わたしは自由になる方法を探したんだ」と歌う、詩的でどこか崇高な美しさを感じる、コーエンの代表曲のひとつだ。フー・バイ・ファイア(1974)Who By Fire4thアルバム『ニュー・スキン・フォー・ザ・オールド・セレモニー(New Skin for the Old Ceremony)』収録曲。ユダヤ教の祈祷文を元に作られた歌なのだそうだ。レナード・コーエンはユダヤ教徒の家庭に育ち、後に禅宗の僧侶になった。ハレルヤ(1984)Hallelujah7枚目のアルバム『哀しみのダンス(Various Positions)』からのシングルで、カナダで17位、フランスで1位と、彼にとって最も売れたシングルとなった。また、ボブ・ディラン、ジョン・ケイル、ジェフ・バックリィなどもカバーが話題になり、広く知られるようになった代表曲だ。
2024.01.12
H2Aロケット打ち上げ成功 情報収集衛星を予定の軌道に投入H2Aロケット48号機が12日午後1時45分ごろ、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられた。政府の情報収集衛星「光学8号機」が予定の軌道に投入され、打ち上げは成功した。
2024.01.12
『報徳』2023年12月号30頁に 愛知県蒲郡市形原町諏訪神社 二宮金次郎像 が掲載されている。像の右に「二宮金次郎顕彰碑」がある。「二宮金次郎『尊徳』は江戸時代のおわりころ西暦1787年神奈川県の農家に生れました。 はやくに父母に死に別れた金次郎は苦労しながら農業について勉強しました。 そして人手にわたった生家復興したことがみとめられ、お金にこまっている藩や生活に苦しむ農村の立て直しをした指導者として有名です。又徹底した実践主義者でむかしから「小を積んだ大と為す」を人生観とし積み重ねた経験から報徳の育徳 積善 節倹 を力行して世のため人のために尽しました。」https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show「現代語訳 安居院義道」クラウドファンディング残り1日で終了します。本書は一般書店では販売しません。入手できる最後の機会になります。
2024.01.12
糖質制限+タンパク質強化食にとりくんでいる。糖質制限について「糖質」は、3大栄養素の炭水化物・タンパク質・脂質のうち、炭水化物の一部で、身体を動かすエネルギー源となる栄養素です。炭水化物は、消化されてエネルギー源として使用される「糖質」と、エネルギーにはならないものの整腸作用や血糖上昇を緩やかにする働きをもつ「食物繊維」に分かれます。「糖質」は生きていくためのエネルギー源を得るために必ず摂る必要がある重要な栄養素ですが、摂り過ぎてしまうと糖尿病、肥満、メタボリックシンドロームにつながる恐れがあり、健康によくないイメージが先行しているかもしれません。糖質を制限する一方で、摂取カロリー自体は大きく減らさないようにすると、結果的に脂質やタンパク質を多く食べてエネルギーを補うこととなります。糖質の中でも特にショ糖は、血糖上昇や肥満を助長する可能性があり、過度な摂取は控えた方が良いとされています。ショ糖とはサトウキビやテンサイから作られる、いわゆる「砂糖」の主成分です。ショ糖を多く含む甘味やジュースは摂りすぎには注意しましょう。糖質を摂取すると血糖値が上昇し、膵臓からインスリンと呼ばれる血糖値を下げるホルモンが分泌されます。インスリンには、タンパク質が分解されてできるアミノ酸に働きかけ、筋肉合成を促す効果があります。インスリンにより筋肉合成量を増やし、基礎代謝を上げるためにも、筋肉の元となるタンパク質の摂取は欠かせません。インスリンとアミノ酸による筋肉合成促進効果により筋肉量を増やす観点からも、タンパク質は必要といえる大豆粉でかしこく糖質制限大豆粉は、生の大豆を粉末状に挽いた粉のことをいいます。小麦粉、米粉に次ぐ第三の粉とも言われており、もちろん風味や使い方のコツなどは異なりますが、小麦粉や米粉の代用品として使うことも可能です。大豆粉製品の多くは大豆を生のまま、まるごと粉砕しています。そのため、例えば同じ大豆で作る豆腐などの加工食品では失われがちな食物繊維なども、そのまま摂取することができます。また、糖質制限ダイエットなどをしている方には小麦や米粉を使うよりも糖質が抑えられて良いといったメリットもあります小麦粉や米粉と比べて糖質量が低いと言われる大豆粉ですが、では具体的にどれほどの違いがあるのでしょうか。 小麦粉(薄力粉) 大豆粉エネルギー 368kcal 440kcal糖質 73.4g 19.3g食物繊維 2.5g 13.7gたんぱく質 8g 41.6g※いずれも100gあたりの目安。製品によって誤差があります。こうして見ると、大豆粉の糖質量は小麦粉に比べて約1/4。しかし食物繊維は約10倍も含まれていることが分かります。なおかつ大豆粉には良質なタンパク質が含まれており、大豆イソフラボンも摂取できるため、大豆粉を使用した料理では、少ない量で腹持ち良く、栄養価の高い食事を摂取することができるということです。さらに、朝に大豆粉を食べると、昼過ぎまで血糖値が上がりにくくなる「セカンドミール効果」があることも報告されています。💛大豆粉は血糖値管理の心強いアイテムである。
2024.01.12
フィットネスに通う高齢者が急増中!・文部科学省実施の平成24年度体力・運動能力調査によると、65歳以上の高齢者の方の運動能力は1998年度から現在まで右肩上がり。・高齢になるほど「週に3日以上(年151日以上)」スポーツを行っている人の割合が高くなっています。70歳以上では、半分以上の高齢者が週に3日以上スポーツを楽しんでいることも報告されているのです。さらに、ジムに所属している年齢を見ると、若年層よりも60代以降のシニアの方の割合が多い傾向があります。💛市の講習を受けて体育館ジムで自転車など運動器具でリハビリしてみようかな総務省統計局は、「デイサービスなどによる機能訓練のメニューに組み込まれているのが大きい」としています。
2024.01.12
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング残り1日現在支援者数61人 目標金額の66% 駿州石田村回復方法の事(淡山論集第一編より摘載) 駿州有渡郡(うどごうり)石田村は戸数三十一戸、村高三百五十六石一斗四升あり。静岡宿を南にへだたること、およそ三十町、南海岸より僅かに十五町、土地は平らで広く水田が多く、当時久能山東照宮の神領に属して、政教が行き届かず村民はぜいたくで家業を怠り産業を治めず、このため次第に借財が増加し、田園の多くは他村へ質地となり、耕作物の収入も、ほとんど村民の所有ではなくなった。しかし村民は平気でこれを憂いとしない。おもうに神領の地で、借財が増加すれば政府が救助する恩典がある。訴訟の事があれば政府が常にこれをかばって、借財を返さなくてもよいことにするとなっている。だから小作人は地主の年貢を滞納し、年々歳々怠納の負債は増殖する。地主は他村に住んでいて、これを責めるが、貧窮し窮迫し、人気もこのようであるのでどうにもできない。債権主はやむを得ずこれを当局に訴えるに至り、数々その厳責を受ける。村民の無残なありさまなのも、またこれを憂いとしないものはいない。 安政四年の初め、安居院先生が庵原郡鳥坂村にあって、報徳の法を行う。府中宿の片羽町に伏見忠七という人がいた。資産家であり、当石田村に田地を所有し、以前からその困難の状況を知る。また鳥坂村にも田地を所有し、報徳の法によって村民の農業が進んで、借財の返済の道が行われ、風俗は日に改良におもむくことを知って、良法であるとし、その番頭を石田村の庄屋石垣治兵衛の家に行かせた。石垣氏が思うに、また借財の督促に来たのかと。心中大いに拒絶する色があり、それが顔色にあらわれる。番頭が言う、「心配しなくてもよい。今日私が来たのは、決して借財の督促のためではない。極めて良法がある。報徳という。その先生を安居院庄七という。今、現に鳥坂村にいらっしゃる。この法に従えば数年しないで村は回復するだろう。よろしくこの人についてその教えを問い、一村あげてこれに従いなさい。これは主人忠七が私を使いによこしてあなたに告げさせるゆえんである」と。石垣父子は共にこれを聞いて、大変喜んで、詳しくその経緯を尋問し、直ちに村内のおもだった者五十七名を集会し、この事を話したところ、皆大変にこれを喜んで、まだ村民に告げるいとまもなく、翌日直ちに鳥坂村におもむいた。伏見忠七の番頭がこれらの紹介を行い、安居院先生に請願した。 その時に先生は上座にあった。七人の者は、遠くに見て。彼は、どてら(厚く綿を入れた広袖の着物)を着た老人ではないか、果してあの老人を先生とするべきか、私たちは、だまされたのではないかと後悔した。しかし先生は、直ちに面会を許さない。面会を断るのに「仕法は容易に行うことはできない、彼らが悔悟していないからだ」と。同行の者は皆、眉をひそめ謝罪して帰る。なお再三おもむいて、ようやく面会を許された。 先生は言った「あなたがたが報徳の道を慕って教えを求めるのは大変賞賛すべきことだ。しかしこの道は容易の事業ではない。まずあなたがたの日常の心掛けを聞こう。あなたがたが天道のために尽すところはどれくらいあるか」、七人の者は答えることができずに黙っていた。先生は言った。「あなたがたが答えることができないのを見れば、今まで天道のために仕える道を尽くしたことが無いものと見える。村が困窮するは当然の事である」と言って他は言われない。七人の者は、終に答えることができないで去った。翌日また往く。先生は教えるに天道をもってする。翌日また往く。先生は教えるに人道をもってする。日々このように教戒があった。遂に前後十八日を積んで、先生はいよいよ報徳の大意を述べた。七人の者は、一日一回ごとにその説の意義のあることに感じて、深く感化されるに至った。この時に当って、石田村の村民は皆言う。「諸君は報徳神に参詣して福を得る方法を伝えられると聞く。どうしてこれを私たちに告げないのか」と。その帰るのを待って、行って詰問する。そこで七人の者は詳しくそのありさまを告げて言った。「私たちは諸君に隠すところはない。先生の言はこのようであったと。実に感服するにたえない。この法に従うならば、必ず村の復興は疑いない。どうか村こぞって先生を招いて、その教えに従いたいと思うが、いかがであろうか」と。ここにおいて村民は大変喜び、皆、その言に従って先生を招く事を決した。七人の者はまた非常に喜び、時を移さずに鳥坂村におもむいて、先生においで下さるように求めて止まない。先生はその事情を察して、この村に臨むことを承諾した。そこで時日を期して先生を迎えることを約束して、村に帰った。 すなわち期日を待ち、行ってこれを迎える。約束の日、約束の時刻より遅延した。先生は大変に戒めて言った。「あなたがたは、今日私を迎えるに、約束の時刻を遅れたことはどういうわけか、私はこれを待って久しい。思うにあなたたちは、帰村の上、村民の評議が変易する所があって遅刻したのであろう。このような状況で、私を迎えても、決して成功しがたい。これはきっと時機がまだ至らないからであろう。神が私を戒めることはこのようである。私がもし行くならば、必ず神意にさからうであろう。私が行こうと欲しても、行くことはできない」と。厳然としてこれを戒めた。迎える者は、大変顔色を失って謝罪し、辞を尽して、ようやく許していただいた。ここにおいて七人は、先生に従って帰村し、石垣家に招いた。直ちに村民を集めて、日夜報徳の教えを聞いて仕法を求めた。先生はすなわち毎戸の家政を調査して借財償却の法案を立てるも、家の資本は貧窮、借財は累積して仕法を立てるべき所が無いようである。先生はそのために屈せず諭して言った、「あなたは衣服・家屋を売り払って負債を償却すべきである。あなたは子女を人に託して、あなたは自ら人の下僕となるべきである。あなたの鍋・釜、あなたの膳・椀、あなたの鋤・鍬、これは皆債主の恩沢に依るものであるから、その不要のものはこれを売却して借財を返済する資本にして、必要なものはこれを保存し、常に債主の大恩を思い、決して壊してはならない」と。その法は、厳重で寛大に処置する所が無く、村民は大変驚いた。あるいは妻女が家に泣くものがあったり、あるいは子を背負って隣村に憐れみを求めるものがあったり、衣服を質にし、家屋を売却しようとするものがあったりして、一村の惨状は語ることができない状況になった。人気は再び挫折し、報徳社を脱しようと欲して村内の境内に会合するものが過半数、昼夜協議して、大変に不穏な状況となった。石垣氏は大変にこれを憂えて、同志と共に力を尽くし、利害得失を説明し、善法の善法たるゆえんを詳しく懇切に諭した。村民はまた心を改めて、挙げてその教えに従い、二心なくその法を遵守するに至った。これにおいて仕法帳を調成し、各債主のもとに至って、等しく年賦償還の承諾を求めた。その法は別に奇術があるわけではない。農業の余力をもって日掛縄索(ひがけなわない)の業を勤め、日夜怠らないでこれを積立て負債の返償にあてることに外ならない。また旧来の悪い風習である凧揚(たこあ)げ、雛祭り、その他諸祝儀飲酒の風、一切これを廃し、年賀の礼は役場において一同にこれを行い、各々積縄一房を持参することを例となし、また一年中、毎朝社長が各戸を回り、その積縄を集め、一手にこれを売却して負債償還の元資とするにある。その法は、一村の赤誠に成り、少しも違納するようなことがないということを認めたので、債主は各々これを良しとし、いずれも速やかに承諾しないものはなく、そればかりか農業奨励のために土台金を寄付するものもあり、肥料を寄付することもあり、無利足金を加入するものもあり、借債の督促は急に止み、一村は皆その法のありがたいことを歓喜し、人気は非常に進み、農業を一途に奨励し、積縄の法もまた怠らない、女、子供に至るまで、子を背負って縄をなうにいたる。これをもって十年で数千金の負債は残らず償却し、なお十年で数千円の社金を積立て得たので、次第に質地を受け戻し、または買戻しを行い、後には遂に他村からの入作地が無くなるにいたる。安居院先生は、当村に在ること三年、教えを親切丁寧に述べ、石垣氏はよくその教えを遵奉し、法を行うこと、数十年一日のごとく、誠心堅固であったため社員は一致してよくその業を遂げ、復興し、富盛の実功を成就することを得た。以来その報徳仕法は四方に伝播し、入社するものは、ほとんど三十余村に及ぶ。これを駿河西報徳社と称する。石垣氏が社長である。明治十三年、社中の諸村が力をあわせて報徳舎を石垣氏の邸中に新設した。 毎年六回この舎において発会し、勧業の業は今まで一日も忘れることが無いという。(以上淡山論集一編、摘載)
2024.01.12
「地面が約4m隆起した」──能登半島地震の地殻変動、産総研が調査結果発表1/12(金)産業技術総合研究所(産総研)は1月11日、2024年能登半島地震に伴う海岸の地殻変動の調査結果を発表した。調査した場所は、石川県輪島市門前町鹿磯周辺。国土地理院の観測データによると、この場所では最大4mの隆起の報告が上がっており、実地調査をしたところほぼ報告通りの隆起を確認できたという。産総研が鹿磯漁港を調べたところ、防潮堤壁面に付いたカキなどの生物が隆起によって水面から離れている様子が見られた。壁面に付いた生物の高度から地震前のおおよその海面を予測できるため、これと地震後の海面を比較。複数地点で調べた結果、その差は3.8~3.9mでほぼ報告通りの隆起を確認したとしている。 鹿磯漁港からさらに北側を調べたところ「波食棚」という平たんな岩棚が、地震による隆起で干上がった様子を確認。波食棚の前方は崖になっており、地震後の海面との高さを比較すると約3.6mの差が見られたという。波食棚は本来、平均海面付近の高さに広がる地形であるが、今回の地震によって階段状の地形「海成段丘」を形成したことが分かったとしている。 能登半島北部沿岸は約6000年前以降に形成したと思われる、3段の海成段丘が分布してたが、今回の地震の影響で地面が隆起し、4段目の海成段丘を形成したことになるという。【解説】「隆起」が“津波の防波堤”に 輪島市では約4メートル「隆起」1/11(木)「元日に最大震度7の地震が発生した瞬間、何が起きていたのか? ポイントになるのは『隆起と津波』です。今回の地震では、能登半島の海岸の非常に広い範囲で『地盤の隆起』という現象が見られています。海のあった場所が陸地となり、新たな砂浜が現れたところや、漁港では船が打ち上げられ、海底だった場所が歩けるようになっていました」「『隆起』の現象ですが、専門家の分析では能登半島の『北側』の非常に広い範囲で起きていたということがわかりました。距離にすると約90キロ、面積では約4.4平方キロメートル。東京ドーム約94個分の範囲の、海だったような場所が『陸』になってしまったということがいえると思います」「『地震後』わずか4秒から5秒くらいの短い時間で、このように海岸がわっと上がってきたということが指摘されています。輪島市では、約4メートル『隆起』したというのも観測で事実になっているのですが、これが、『津波』にも大きな影響を及ぼした可能性があります」「今回の地震なんですが、地震のメカニズムは、『逆断層型』というタイプの地震で、能登半島の『北側』は、海岸線も含めて地面が上に上がるような感じでした。これが、いわゆる“天然の防波堤”のような役割をしたことによって、輪島市など能登半島の『北側』では少し『津波』の被害が抑えられた可能性があると専門家たちはみているんです。一方で、能登半島の『東側』では、こういった大きな『隆起』現象が見られていないんです。そのため、海岸線沿いに『津波』が到達してしまって大きな被害が出た、というふうにみられています」「気象庁が観測できた『津波』は、輪島市で最大1.2メートル以上ということで止まってしまっているのですが、専門家たちが現地調査を行い、『津波』の痕跡を調べました。それによると、4メートル近くに達する場所もあったということで、かなり大きな『津波』が町を襲ったのではないかとみられています。海岸線が変わってしまったことで、今後の漁業などへの影響も心配されるなか、それをどうやって再建していくか、考えるところがあると思います」「能登半島から『津波』が広がり町を襲っていくのですが、地震直後すぐに陸地に押し寄せています。今回の地震は、地震発生後数分で『津波』が陸に到達したとみられているのですが、これは、日本海側で起きる地震津波の特徴なんです。震源が陸地に近い所で起きる地震が多いので、『津波』がすぐにやってきます。なので、場合によっては、津波警報が出るよりも早く『津波』が到達する可能性があります。強い揺れを感じたら、情報を待たずして、高い所に避難するとか、そういった行動が必要になるかと思います」
2024.01.12
「慢性腎臓病(CKD)は腎臓保存療法(CKM, conservative kidney management) 中心の時代へ」瞑想(meditation,Med)は座禅、ヨガなどで行われているものです。Medによりこれまでの進行が有意に(P<0.05)遅くなる率は1年間観察した74例中42例(57%)です。50%を越えているの、Medは意味がある治療法と考えています。Medの効果はランダム化比較試験で確かめる必要がありますレナード・コーエン(英: Leonard Cohen、1934年9月21日 - 2016年11月7日)は、カナダのシンガーソングライター、詩人、小説家。80歳を超えた後もアルバムをリリースするなど、精力的に活動した。代表曲は「ハレルヤ」(1984年)など。1960年代から禅に傾倒し、ロサンゼルス近郊のマウント・ボールディ禅センターで佐々木承周に師事する2016年11月10日、自身のフェイスブックにて死去したことが公表された。82歳没禅的呼吸法によるストレス低減効果-生理的指標(唾液アミラーゼ・血圧)と心理的指標(POMS・感想)による評価-呼吸法は、東洋の行法として 2500 年ほど前の釈尊の時代『大安般守意経 (だいあんぱんしゅきょう) 』という原始経典にも記されている。呼 吸の出入りを数えながら心を落着け精神統一する瞑想法とされ、現在も坐禅時 に行われている数息観(すそくかん)がこれに当たる。本研究では、坐禅時の呼吸瞑想法である数息観に着目し、そのストレス低減効果を探る。坐禅時に行われる呼吸瞑想法-数息観-(以下呼吸法と言う)の生理的・心理的ストレス低減効果やその影響を、統計分析等の手法を用いて評価する。本研究では、実証研究に裏打ちされた呼吸法の有効性を明らかにする。呼吸法とは、坐禅時に行われる数息観と言う、呼吸の出入りを数えながら腹式呼吸を行う呼吸瞑想法を指す。まず息を長くゆっくりと意識的に呼き、次に短く自然に吸う。その後、少しの間、息を止めて保つ(保息)。この呼吸を繰り返す。インスリン抵抗性 インスリンは血糖値を調節するホルモンで、インスリン抵抗性(インスリンの効能が悪化した状態)が上るとブドウ糖が細胞内に上手く運ばれなくなり、血液中にあふれ出て糖尿病になる。一般的に、高血圧症はインスリン抵抗性を増悪させ、インスリン抵抗性は冠動脈心疾患(動脈硬化性心疾患・狭心症・心筋梗塞等)の原因とされる動脈硬化症との関連がある。冠動脈心疾患患者を対象にした Paul-Labrador らの研究では、 トランセンデンタルメディテーション(TM)の実践により血圧とインスリン抵抗性、血糖値が低下した。TM を実践した群ではインスリン抵抗性の平均値が 0.75 下がったが、実践しなかった群(コントロール群)の平均値は 0.52 上がった。彼らは、TM は心臓神経に肯定的な影響をもたらし、血圧・インスリン抵抗性・心臓神経の調節に有効であり、ストレスへの生理的な反応を調節したと報告している。この血圧の低下とインスリン抵抗性の低下からは、糖尿病患者への応用の可能性も示唆された。頸動脈の内膜中膜複合体厚の低下 コレステロールが動脈の内膜に沈着するアテローム性動脈硬化症は、冠動脈疾患、大動脈硬化、脳卒中等を引き起こす原因となる。頸動脈は動脈硬化が起こり易いが、超音波診断装置(エコー)で観察し易い血管でもある。頸動脈は、内側から内膜・中膜・外膜の三層構造の血管壁からなっている。頸動脈の内膜中膜複合体厚(intima media thickness: IMT)とは、この内側の二枚の膜、つまり内膜・中膜の厚みである。高血圧症患者を対象に TM を用いた Castillo-Richmond らの研究からは、頸動脈の内膜中膜複合体厚(intima media thickness: IMT)が-0.098mm(≒-0.1mm)と有意に低下した。IMT の 0.1mm の増加は急性心筋梗塞のリスクを 11%まで上げるが101、彼らはこの-.098mm の低下は、ほぼ同じ割合で心筋梗塞のリスクを下げると述べている。IMT と脳卒中発病率の相関では、IMT の-0.1mm の低下は脳卒中のリスクを 7.7%から 15%まで下げることに相当し102、IMT の 10%~20%の低下は心筋梗塞や脳卒中のリスクを 33%下げることに匹敵する103との報告がある。彼らは、TM のストレス低減効果が頸動脈アテローム硬化症に有益であり、血圧・心拍数の変化が脈圧の減少に反映して動脈の伸展性が改善され、この改善が IMT の低下に影響する血行力学的効果をもたらしたと述べている。この研究から、TM 実践による IMT の-0.1mm の低下が、頸動脈のアテローム性動脈硬化症に有益であると認められた。冠動脈疾患や脳卒中等の重篤な疾患へつながる血管病変にも、TM のストレス低減効果が示されたと考えられる。高コレステロール血症患者を対象にした Cooper, M.J.らの研究では、TM 実践により血清コレステロール値が低下した。彼らは、TM のリラクセーション効果が、慢性的に過剰になっていた交感神経活動を抑制し、血清コレステロールの有意な低下につながった。この効果は、高コレステロール血症の改善に有益だと述べている。この研究結果から、TM 実践がもたらしたリラクセーション効果が、交感神経活動を抑制し、副腎髄質からのカテコールアミンの放出を調節して、結果的にコレステロールが低下したと考えられる。💛昨年(令和5年)12月下旬に心臓の手術をした。2週間入院し、退院後2週間自宅療養中。入院中、不眠で当初睡眠導入剤を処方してもらったがちっとも効かない。そこで「眠れないのを楽しもう」と考えを切替えクラッシク(ブラームス、ドボルザーク)を聴いたり、お経(観無量寿経)を聴いたり、源氏物語与謝野晶子版や福音書(マタイ書、ルカ書、マルコ書)など聞き流しした。また20代に行っていた座禅(半跏)も行った。数息観(呼吸の数)がある程度できると余分な妄想に悩まされることもなく、息を数えることに集中できるので不眠の時にはすこぶるよい。自宅に戻ってからも、できるだけ睡眠導入剤に頼ることなく、「眠れない時間を楽しもう」とさすがにかけながしにできないで、イヤホンで福音書を聴いている。レナード・コーエン(今日1月12日出会ったばかりだが)は、1996年、臨済宗の和尚となっているだけにあって、その歌は心を落ち着かせる響きがあるようだ。眠れない夜は、コーエンも聞いてみよう。座禅(数息観)も血圧、血糖値、コレストロールのコントロールにもよさそうだ。療養中、続けてみよう。
2024.01.12
心不全に対するリハビリテーション・心臓は血液を肺や全身へ送り出すポンプの役割を果たしています。血液中には酸素や栄養分など人体に必要不可欠な成分が含まれています。それらが神経や筋肉などの細胞に行き届くため、考えたり、呼吸をしたり、運動したりすることができます。心不全とは、「心臓のポンプ機能が低下した結果、呼吸困難、息切れ、むくみなどの症状が出現した状態」です。・呼吸により肺では酸素が血液中に取り込まれます。その血液を心臓がポンプとして筋肉に送ります。筋肉がその酸素を利用し収縮することで体を動かすことができます。このように肺と心臓と筋肉は密接に関連しています。肺の病気でも、心臓の病気でも、加齢とともに筋肉が萎縮してしまっても息切れが出現します。心臓の病気に対して運動を行うのは、肺や心臓の機能が落ちても筋肉の機能を維持・向上させることで症状を改善させるためです。運動能力と関係が強いのは、心臓のポンプ機能の強さより、筋肉量と関係が強いと言われています。したがって、筋肉量の低下が息切れの一番の原因ということです。息切れ ⇒ 安静 ⇒ 筋肉が萎縮 ⇒ さらに息切れという悪循環が生じています。また、長期間安静にしすぎると、筋肉の萎縮だけではなく、筋力低下、肺活量の低下、起立性低血圧(立ちくらみ)、骨粗鬆症など、全身の働きを調節するしくみの異常が起こります。過剰に安静は避けましょう。・① 運動療法薬物療法にて心不全をコントロールされた状態での運動療法が推奨されています。症状が強くなっている場合は運動療法の適応とならないため注意してください。以下に4つの基本項目を紹介します。有酸素運動が安全で効果的とされています。ウォーキング、サイクリング。また、軽い筋力トレーニングやストレッチを併用することがより効果的とされています。息が切れない程度、会話ができる程度の強度とされています。翌日に疲労が残っている場合は強度が強い可能性があります。準備運動(ウォーミングアップ)と整理体操(クールダウン)を含め、1日30分から60分が目標です。連続で行うのが体力的に難しい場合は、午前と午後の2回に別けてもかまいません。週3日から5日、できれば毎日行いましょう。健康メモ(33)「免疫機能を強化するには」(1)血流を上げる酸素や栄養素を体の隅々まで届けるために、血流を上げることは大切です。適度な筋トレと有酸素運動をすることが効果的です。筋トレは①腕立て伏せ(立位でもOK)、②腹筋・背筋運動、③スクワットのいずれかを1日5分くらい行います(日替わりで行うのが効果的です)。きたえる際、特に重視したいのは下半身の筋肉です。お尻と太ももだけで、全身の筋肉の70%程度を占めているからです。これらをきたえることで、効率的に筋肉量を増やすことができます。有酸素運動はウォーキングのほか、ダンス、水泳、踏み台昇降など15分くらい続けられて息が切れない程度の運動です。入浴は眠る1~2時間前までに、ぬるめのお湯(38~41℃)に20~30分つかるとよいでしょう。湯船の中でストレッチをすると、さらに血流がアップします。(2)毛細血管を緩める腹式呼吸や瞑想などを行うと、副交感神経が優位になって、それまで締まっていた毛細血管が緩みます。これにより、締まっていたその先の細胞まで血液が流れることで酸素や栄養素、ホルモンが必要な場所へ届けられ、体のメンテナンスが行われます。 背筋を伸ばして、鼻からゆっくり息を吸い込みます。このとき、丹田(おへその下)に空気を溜めていくイメージでお腹をふくらませます。つぎに、口からゆっくり息を吐き出します。お腹をへこましながら、からだの中の悪いものをすべて出しきるように、そして、吸うときの倍くらいの時間をかけるつもりで吐くのがポイントです。回数は1日5回くらいから始め、慣れたら10~20回が基本ですが、その日の体調に合わせて、無理なく楽しみながらやりましょう。(3)リンパを流すリンパ管は老廃物を回収する働きがありますが、その流れは体の末端から中心への一方通行のため、滞りやすいのです。就寝前に「リンパを流す呼吸法」を試してください。 仰向けに寝て、膝を軽く曲げて立てます。おなかに軽く手をあてます。次におなかを膨らませながら、5秒ほどかけて息を吸います。そして、おなかをへこませながら10秒ほどかけて息を吐きます。これを数回繰り返して、心身のリラックスを感じます。横隔膜の近くには「乳び槽」というリンパのたまり場があり、横隔膜を動かすことで腹圧が変化すると、たまっていたリンパが刺激を受けて流れやすくなるのです。 これにより、リンパ節に待機する免疫細胞もリンパ管をスムーズに流れることができるため、免疫機能が働きやすくなります。(4)睡眠の質を高める 質の高い睡眠によって、自律神経のバランスがうまくとれ、心身の健康が保たれます。また、成長ホルモンなどが十分に分泌されることで、傷ついた細胞が修復・再生され、病気などに負けない体がつくられます。「マインドフルネス瞑想呼吸」が睡眠の質を高めます。仰向けに寝て手足はゆったりと伸ばし、目を閉じます。自然に呼吸しながら、胸やおなかの動きに意識を向けます。息を吸うときに「膨らみ、膨らみ」、息を吐くときに「縮み、縮み」と、心の中で唱えます。余計な考えが浮かんできたら、「今、考え事をしている」と心の中で確認し、その雑念を風呂敷に包んで捨てるところをイメージします。そして、心を落ち着けて「戻ります」と確認し、呼吸に意識を戻します。余裕が出てきたら、意識を全身に広げ、体の隅々で呼吸しているイメージをしてみます。5分くらい続けます。 睡眠ホルモンであるメラトニンは、起床してから15~16時間後に分泌され始め。その1~2時間後に分泌量が最も多くなります。メラトニンは血圧や深部体温を下げ、眠りにつきやすい状態へ導く作用があり、夜は自然で良質な睡眠がとれるようになります。その分泌のタイミングに大きく関わるのが、朝の日の光です。これが目から入り、体内時計がリセットされるのです。朝6~7時に起きた場合、メラトニンの分泌量が特に多いのは23~24時ごろで、その後、朝に光を浴びるまで、メラトニンが効力を持ちます。朝起きたらカーテンを開けて日の光を浴びましょう。
2024.01.12
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング残り1日現在支援者数61人 目標金額の66%六 遠州報徳連代表七人、日光に大先生を訪ねる 嘉永五年(一八五二)の暮、遠州報徳連中は、大参会を岡田無息軒(佐平治)方で開いた。その席上、成滝村の平岩佐兵衛が浮かない顔をしている。聞いて見ると、江戸の旧主が大病で危篤の知らせがあったので、急に行かねばならないが年の瀬を控えて困っていると。これを聞いて岡田佐平治は「それならば一刻も早く行くがよい。困っているのは年越しの心配だろうが、お前の暮賄いなら一、二軒は引き受けてやる」といわれ、この一言に平岩は安心して早速江戸へ出発した。行って見ると、旧主は運よく病も峠を越して快方に向かっていた。これから一路帰国するのであるが、何か無息軒先生にお土産を持って帰りたいと考えた。ところが天なるかな、というべきか、図らずも二宮先生が江戸相馬侯の中屋敷に逗留中と聞き込んだ。まことに好機である。逸してはならないとその二十日に訪問した。「仕法の教導を伺いたい旨を願い出て、門人の伊藤発身(いとう・はつみ)に会い、先生に面会することについて理解は得たが、二宮先生は不在に付き面会はできない」まま、平岩は引きさがった。それから少し間をおいて三十日にも再度訪問したが、「年末多事で取込中であり差し戻し」となってしまった。 明けて嘉永六年(一八五三)正月七日に平岩は三度目の訪問をした。役所の日記には、「暫く話した上、帰国の暇乞いをして引き取った」と書きとめられているが、伝聞するところを総合すると、次ぎのようである。すなわち平岩が玄関に立っていると、ちょうど二宮先生が他所(よそ)から帰られ、ちらりと同人を見かけたので、お供の人に「いずれの人か」と尋ねられる。遠州の人と答えると「それならばその者をちょっとここへ呼べ」となって、運よく平岩は面接が遂げられたのであった。 先生は「遠州には先頃から、我が報徳の道を唱えるものがあると聞く、誰がその先達(せんだつ)であるか、また報徳の道には次第がある、いたずらに口説法だけでは、世の人をあやまることになるから、その重立(おもだ)つ世話人達は、一度当方へ参るように取り次げ」と言われて、平岩はこれまで影にあった報徳が陽(ひ)に向かう事になるので、実に鬼の首をとったような喜びで、韋駄天走(いだてんばし)りの快足で帰って、岡田佐平治に報じたのである。翌年の嘉永六年(一八五三)の春の大参会は、袋井在高部村の高山藤左衛門方に開かれた。無論、当日の主題は、日光行きの相談であって、結局、連中四百十九人の総代として、左の七人が選ばれた。すなわち、影森村・内田啓助、倉真村・岡田佐平治、気賀町・竹田兵左衛門、同町・松井藤太夫、森町・中村常蔵、同町・山中利助、下石田村・神谷久太郎の諸氏である。一行は、同年八月十日連れ立って出発したと伝えられていたが、その行道は、終始同一歩調でなかった。すなわち岡田佐平治組四人は途中分かれて安居院先生の郷里を訪れることとなり、約十日も遅れて日光の地に入り、また竹田組と内田は安居院先生を加えて四人は先発して東郷陣屋を訪れている。それが彼の地の東郷陣屋日記及び日光出役中の日記から裏付けられる。岡田佐平治組一行は、その十三日十日市場の安居院家を訪れ、敬意を表したところ、妻女はなんと勘違いをしたか、言葉も荒く、先生を曲解しているように聞こえた。一行は先生の遠州における大きな功績を賛美して述べたので、自然その態度も改まったが、家庭には反(そ)りが合わない点があったことが印象付けられた。ついで大山に参詣して生家の密正院をも訪れて、先生が諸国へ報徳の道を教諭し、諸人が神のように尊敬して門人も数えられないほどもあると、一種の頌徳文を残している。岡田佐平治、山中利助、中村常蔵、神谷久太郎四人の署名である。なおこの一行はいささか後退したらしく、曽比村に剣持広吉を訪問し、討論数日に及んで、報徳の書類の数巻をも写したりしている。それからその所を辞して、日光の二宮先生がおられる旅館桜秀坊を訪れたのは、九月の二、三日頃であったと思われる。別行動に出た内田啓助は、旗本の室賀美作守知行所の者であるため、その知行所の仕法が念願であって、江戸に出て室賀家から親類関係の相馬家へ依頼し、その所から運動の便宜を得ようとして、日光に向かわずに八月二十二日に東郷陣屋に出頭している。すなわち日記に室賀美作守殿の知行所、遠州影森村名主の慶助と申すものが、郷宿民右衛門方へ着いて、相馬様へご地頭がご縁が有るということで、相馬藩ご家老の熊川左右衛門殿から添え書きを持参し、影森村が極難・困窮であり、なにとぞ永続の道をお指図いただきたい旨を願い出た。そこで富田久助が面会し、いろいろと教諭して、ひとまず同人の止宿は引き取ってもらった事 とあるのが、その状況をよく語っている。また竹田組の方も、近藤領地の仕法方に指導を得ようとしている。同じく江戸で近藤家の指導を受けて伊豆の江川代官の手代の町田時右衛門によって本望を達成しようとし、内田より一日後れて同二十三日にまた東郷陣屋に出頭している。すなわち近藤縫之助殿の知行所、遠州気賀町の大庄屋兵左衛門と同村の藤太夫がご仕法を願いたいと、郷宿民右衛門方に着く事町田時右衛門は昨日出張して来られた。山口村、徳治郎村その外所々へ植え付けさせた木曽の檜の苗を視察した。これは庄屋の兵左衛門が東大夫と同道してくれるように近藤様のご用人から願いも有ったついでに同道して参るよう申し出られたものである。暫く話して、民右衛門へ引き取られた。と記されている。翌二十四日には町田氏と一緒に出頭したので、富田久助氏がまた面会して、ゆるゆると報徳について説明して聞かせ、それから町田氏は一緒に竹田兵兵衛、藤太夫、慶助と日光参拝として出発している。これを受けて日光出役(役目のため出張)中の二十六日の日記には次のように出ている。八月二十六日、天気晴一 町田時右衛が昼前に参上した。同人は二十日に江戸を出発、二十三日に東郷陣屋に着き、二十四日の昼立ち、宮泊りで昨夜日光鉢石宿の紙屋半兵衛方へ宿をとったと申し出があった。外に近藤縫之助殿の領分の遠州の者、室賀山城殿の知行所の遠州の者が同道し、東郷陣屋から当方まで参上したとの事とあることから、先に述べた無息軒一行と同一の歩調でなかったことがはっきりする。それから九月四日には一行全員の顔が揃ったので桜秀坊の事務所に訪れたが、繁忙とのことで二宮先生との面会が得られない、そこで以来引き続いて仕法書を写し取ったりして逗留を続けた。今、日光出役中の日記を書きぬくと次のとおりである。九月四日、曇一、遠州影森村慶助、倉見村佐平治、氣賀町兵左衛門、同藤太夫、森町常吉、同利助、下石田村久太郎、外に安居院庄七が参上し、片岡村の仕法帳を拝見した事九月日、雨一、遠州の面々、今日もご仕法帳を終日拝見に参上された事九月六日、曇、昨夜禅寺山に雪が降った事一、遠州の面々今日も参上し、日光ご神領の雛形帳を拝見された、終日拝見の事九月七日、雨一、遠州の面々、今日ご仕法帳を拝借に参上した事九月八日、朝晴夕曇一、遠州の面々、一同参上し終日ご仕法帳を拝見の事九月九日、晴一、遠州の面々、一同参上し終日ご仕法帳拝見するため参上の事九月十日、曇一、遠州の面々、今日もご仕法帳を拝見するため参上の事九月十一日、晴一、遠州の面々、今日もご仕法帳拝見の事九月十二日、晴一、遠州の面々ご仕法帳拝見終日参上の事九月十三日、晴一、遠州の面々、明日出発に付き、ちょっと先生に面会し理解に及ぶ事九月十四日、晴一、遠州の面々、帰国お暇乞(いとまごい)に参上する、下新田縄索帳を貸渡される。九月十五日、朝雨昼晴一、 遠州の面々、今朝一同出発の事以上のように日記は簡単に要領を記載してあるが、実は一行の遠州出発は八月であり、以来一か月にも及び、気候も遠州の地とは違い、日光山中では雪の降る日もあるので、着る物に困った。そこで二宮先生がご多忙中で面会が得られなければ出直して参りますと伺いを立てると、お役所でもようやく気付かれて会見されるに至ったと聞き及んでいる。また日光出役中の日記に照らして見ると、二宮先生は四月に中風を発病している。それを六月から八月にかけ、無理をして日光神領の回村を行い、なお九月に入っても、回村を続けているから、疲労も加わってきたことは申すまでもない。そのため遠州一行を送り出した翌日の十六日には、再び発病しているから、無理もないことである。一行は日光を去るに臨んで、「報徳安楽談」と「三新田の仕法書」とを原典として頂戴している。以来、遠江国報徳社の宝物として伝えられ、大日本報徳社の浜松館文庫へ納められ珍重されていたが、昭和二十年五月の浜松空襲で、惜しくも浜松館と共に焼失したことは非常に残念でたまらない。その上に主事の横田遠治君も犠牲となって、被害は図りがたい痛ましいものであった。
2024.01.12
『報徳』令和5年12月号20頁に「東遠の茶業 昔と今」戸塚久美子(日本茶インストラクター*)が掲載されている。参加者は「茶の時期には人手が必要で、社員が助っ人に来てくれて、『結』が行われていた」という発言がありました。とある。安居院義道の元値商いにおいても「社員が助っ人に来てくれて、『結』が行われていた」という観点は大切なように思われる。「現代語 安居院義道」95頁に次のようにある。「報徳社中が、酒造家から一駄(酒では三斗五升入(約六十三㍑)二樽を一駄という)の酒を求め、販売を加勢したところ、仕入方の値段が格安となり、百文で買って九十文に売る道理、かえって儲けは一割余りの利益がありました。」元値売りで、大量に販売し、大量にまた仕入れする。すると仕入れ値段が格安になり、そこに利益が生まれる。鈴木藤三郎は、自家の菓子製造業で荒地開拓法を適用し、利益で更によい原料を買い求め、値段を安くして、売り上げを伸ばし、5年で10倍の売り上げを得たという。たえず報徳の精神を実践する態度が素晴らしい。ここに報徳社員の助っ人と自らの更なる実践で「元値商い」が成立する。小野江老の談話を紹介する。「当所に豊田屋源蔵といって燗酒(かんざけ:温かい酒)を売る者があった。平素、実直の人で、その頃報徳先生安居院と申す方が、初めてこの地にお越しの際に、ご理解を聴聞し、毎日話合後のお諭しに感服して、報徳商いを行った。これまでは元手が少なく酒一斗(約十八㍑)ばかりを前借りで求めては、生活していた。次第に店も繁昌し、本人の篤実を気の毒に思って、報徳社中が、ある時、酒造家から一駄(酒では三斗五升入(約六十三㍑)二樽を一駄という)の酒を求め、販売を加勢したところ、仕入方の値段が格安となり、百文で買って九十文に売る道理、かえって儲けは一割余りの利益がありました。その後は酒造家より豊田屋向けに直接に一駄ずつ送り遣わすようになって大いに都合がよくなりました。またその頃、豊田屋に魚屋がかつおを売りにきて、二、三本買って置いていた。魚屋が申すに、今日は荷物も多いから、五本ほど置くので帰りまでに売りさばいてくれるよう頼んで帰り道に立ち寄った所、そのかつおが残らず売りさばかれていた。小店には余りに多分の事だから、いかほどで売ったのかと尋ぬると、一本六百文のかつおを一節百五十文ずつに元値商い(原価のまま販売)したと話したので、魚屋も感心して、それでは手数料もない、気の毒だといって、一本につき百文ずつ値引きしてくれたので、元値売りで二割近い儲けがあった」と。(明治十二年十二月十一日浜松館常会講演)*社会生活の最小単位は家族です。その家族を大事にすることが、市や県や国のことも大事に考えられるベースとなると私は信じます。議員生活と、子育て・介護を両立していく過程が、そのままワークライフバランス(仕事と生活の調和)について考える機会となりました。日々の生活の中で、暮らしの細やかな疑問や課題を放っておかないで、ひとつひとつ着実に行動することで解決していく。それは、これまで私を形づくってくれた「織物」という手仕事を通じて、また「茶の世界」を通じて培われた、私のスタイルなのかもしれません。感性と実践力をもって、社会に奉仕する女性として、活動を促進していきます。「本気ですれば大抵のことはできる。本気ですれば何でも面白い。本気でしていると誰かが助けてくれる。人間を幸福にする為に本気で働いている人間は、みんな幸福でみんなえらい」(明治大正時代の教育者、後藤静香の言葉より)何事にも興味を持って、「本気」でまい進していくのが私のスタイルです。
2024.01.11
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング残り2日現在支援者数61人 目標金額の66%五、万人講から報徳の開拓へ弘化三年(一八四六)十一月弟の浅田は万人講募集のため東へと向かい、三河(みかわ)国藤川宿に移り、これから遠江(とおとうみ)に入るつもりだが、良い伝手(つて)がない。これを宿の主人に相談すると、同国の長上郡(ながかみぐん)下石田村の神谷與平治(かみや・よへいじ)氏は熱心な敬神家で、毎年伊勢神宮参拝を欠かしたことがない。その都度、毎回宿泊していただいていると推薦された。そこで浅田氏は道を姫街道(静岡県見付町と愛知県御油町を結ぶ街道)をとって本坂峠を越えて気賀(きが)に出て三方原(みかたはら)を横断して神谷家を訪れた。万人講の申し込みは敬神家の神谷氏にはすぐ受け取られ賛成を得た。それから余談に移って、同地方は最近水害や不作の災難をこうむって大変疲弊をしていると訴えられた。浅田氏はそれには良法があると切り出して、相模に二宮先生が出現され、一家の生計を取り直し、貧乏人を豊かにし、衰退した村を復興させつつあると、その仕法のおおよそを説いて善種金の話に及んだ、という。神谷氏は深く耳を傾けてその道をこの地に行われんことを期待した。浅田氏は来年の何月に兄の安居院氏が来て、その道を伝えることを約束してその家を去っていった。そして翌年弘化四年(一八四七)の早春、約束した通りに安居院氏が来て、滞留数日に及んで貧困救済の道、復興の方法を説明し、また農事農耕の方法を示した。村民一同は感嘆しその説明に服し、遂に同三月には下石田報徳社を創立した。これが遠州地方の報徳の第一歩で、結社のパイオニアとなった。(竹村老及び高山氏の「聞き書き」)その規約書と称すべきものを紹介する。義定一札の事(略)岡田無息軒、通称佐平治といわれた人は、掛川の在、倉真(くらみ)村の生まれ、掛川藩難村の仕法を担任し、初代の遠江国(とおとうみのくに)報徳社長を勤めた名高い人である。弘化四年(一八四七)の前後の頃、沢田といわれる土地で、用水に乏しく掘抜き井戸を掘ったと聞いて、一目見てみようと同村の親戚である又六という家を訪れた。その時分、同家ではちょうどロウソクを製造して浜松在、下石田から渡瀬増造という職人を雇い入れていた。渡瀬は最近、下石田では報徳ということが流行して、人々に縄ないをさせてそれを集めて資金として貧乏人に貸し付けると話した。又六はその話に無関心であまり気にかけなかったが、それをたまたま佐平治が見えたのでそれを話した。佐平治は不思議なことと思って、その増造に会って見たが、要領を得ず納得できなかった。更にそれには誰か指導者があるように見えるが誰かと聞いたところ、それが安居院庄七という先生であるとのこと。常に東海道を上下して掛川宿十九首(じゅうくしゅ)町屋六太夫方に宿泊することまでを突き止めた。そこで帰路、中屋へ立ち寄って、そのお客がお泊りになったならば、肴町(さかなちょう)の春日屋まで知らせてほしいと連絡しておいたのである。翌嘉永元年(一八四八)の春、安居院兄弟は関西へ行く途中、中屋へ宿泊した。かねて依頼があったことだから、佐平治のもとに連絡があり、早速これを訪問し、手土産として菓子折りを差し出したところ、言下に叱責してこれを退けたと言われている。安居院先生は、まず佐平治に向かって次の一首を示して、どう考えるか言ってみよと第一を放った。梅の木は根も梅なれば花も梅実も梅なれば枝も葉も梅こんな応対から二人は心中深くご縁を結ぶようになり、遂に安居院・浅田兄弟を倉真村の自宅に招待して、三日間にわたって、報徳の教義と仕法の方法などを論議して、この道が深く時弊を救う良法であることを悟った。それ以来、佐平治は衆に先んじて実践し、模範となり、村人を導き、その年の十二月には牛岡組報徳社の結社を見るに至った。「無息軒翁一代記」には次のように述べている。(以上高山老談話による)「二君(安居院・浅田先生)を家に招いて討論すること連日、夜を徹し、修身・斉家(身を修め、家を整え)財を興し、国を富ますこと、まさしくこの報徳の道に超えるものはないと。以来その書を写してその意義をきわめ、子供たちをひきいて農事に励み、耕作や土を肥やす方法を入念にして、稲を植えるに縄規(じょうき:縄を張って行う「正条植え」)を用い、麦を作るに七踏七転七糞の法(麦作での踏圧と土入れ・追肥)を行うようにして努力を尽した」とある。このような段階から四方各地に報徳の仕法が広められ、いずれも結社となって非常な進展がみられ、後の遠江国報徳社の土台石となったのである。翌年の嘉永二年(一八四九)には安居院先生は佐平治と連れ立って、袋井に住む高部村の高山藤左衛門氏を訪れて、同所の仕法を指示して後の高部報徳社が芽生えた。また同年に気賀宿に気賀社の創立をみている。それは次の記事で知ることができる。「嘉永二年春、浅田勇治郎氏が伊勢におもむく途中、当地の字(あざ)小森、恩田彦右衛門の茶店で休息した際に、話が報徳談に及んだ。恩田はその教えに大変感動し、浅田氏を庄屋の竹田兵左衛門に紹介した。竹田氏はまた報徳が非常にこの地の民に適切な教義であることを思って村人にはかって気賀社を創立した。翌三年浅田氏の実兄安居院庄七氏も来て大いに努力された。ここにおいて完全に基礎が確立した。」と(引佐郡誌上巻)また同二年に駿州大宮宿の鈴木正吉という人の厚い招待で江州へ安居院兄弟は出発された。至るところで報徳の道を励行され、なかなか帰国することもできず、東国の報徳連中からたびたび帰国を促がされた。ようやく九月に江州で兄弟は袂(たもと)を分って、浅田氏は伊賀・河内・京都まで巡られることになり、十月初旬安居院先生はようやく三年目に遠州へ向われた。その随身に江州仁正寺村の黒田清五郎代仁平、遠州気賀小森の恩田彦右衛門三人で駿州江尻の峯村御陣屋の佐野小左衛門まで向われたとある。江州の地にも相当に報徳が伝わったことと思われる。(浅田有信先生秋夕伝抄録)更に嘉永四年の秋には遠州周智郡一宮村片瀬に片瀬報徳社が出来、次いで小笠郡平田村にも平田(なめた)社が結成された。同五年二月に安居院先生は森町の依頼で山中豊作・中村常蔵氏に迎えられ、山中氏方に滞在中激性の間歇熱にかかり、七十日間病床にあった。この病中に山中豊作家の分度を定め、子孫永安の仕法を立て、また森町報徳社結社の仕事が忙しかった。なお、山中氏とは同地の山中勘左衛門のことで、山中豊作とあるのは後に新村をついで利助と改め、その地方の報徳社を統率して活躍された名高い報徳人である。またその兄弟に小野江善六、伊藤七郎平が共に安居院先生に教えを受け、揃って本社の副社長に選ばれている。また同年の頃、安居院先生は富士郡大宮町の富士浅間神社に参詣し、同神社大宮司富士又八郎を訪問し、報徳を説かれた。そこで先生は仕法を求められたので、数日間滞在して仕法を定め実施した。その年、先生は庵原(いはら)郡江尻の峯の陣屋佐野小左衛門方にいた時に、同郡大内村の荒木由蔵、以前相州小田原のある寺の住職だった僧の忠山が同村に住み、詳細に小田原藩の報徳の事を伝聞して、これに敬慕して入門した。安政元年には荒木の手で大内社が成立した。これが後の駿河中報徳社の前身といわれる。ちなみに荒木氏は終始報徳の道に身を捧げ、静岡県庁時代に入って山岡鉄舟に認められ、報徳教師を拝命して、全県下にわたって努力され、安居院先生以後の後継者として一生を捧げている。安政元年(一八五四)のある月安居院先生の足は甲州の万沢村に伸びて、同地の神職の近藤石見の家に身を寄せ、時々村人を集めて報徳を勧め、また軍記物を講じたこともある。先生が勧めたことは、朝起きの励行、縄ないの積立、報徳植として短冊苗代・正条植等がある。なお翌二年も続いて来られたと伝えられている。(同地吉田中知氏談)安政二年(一八五五)のある月には駿州庵原郡小島橘屋小右衛門方にあって、同地方に報徳を伝えたものと思われる。遠州の伊藤七郎平が訪問して教えを受けている。安政三年(一八五六)の正月に先生は、遠州神谷與平治方にあり、羽鳥村の松島授三郎が入門している。松島氏もまた有力な指導者で、後に三遠農学社の社長と仰がれている。なおまた安政四年(一八五七)に先生は庵原郡鳥坂村にあった。府中在石田村石垣治兵衛が先生について教えを受けたいと面会を求めたが受け付けない。懇請すること三か月に及び、次いで仕法開始となり、明治五年に至って仕法は成就したという。後に報徳社に組織されて駿河西報徳社と改められた。(詳細は別頁に譲る。報徳五十五号)文久二年(一八六二)のある月、先生が浜松に在る時に、遠州引佐郡田村の金原孫四郎が訪問して入門した。次いで同村に仕法が行われ、翌年二月には都田社の同志十九人で創立され、金原氏は社長となっている。以上は安居院先生が生存中の遊歴地で、かつ報徳関係を略記したに過ぎない。明治六年には伊勢松坂町に西町報徳社が創立されて、社長に亀山八代次郎がなっている。先生から教えを受けたものと思われるが、その後の発展がどうなったかは分からない。○勢州における報徳の種は浅田氏によってまかれたようで嘉永四年松坂にては田丸領へも広めらたく希望を聞き、また安政四年には藤堂候の家来で茨木理兵衛と言う人が御領分の正業に試したいという旨をもって仕法書類の借用を申し込んでいる。
2024.01.11
高杉晋作の書状、本物だった! 「開運!なんでも鑑定団」で鑑定 まさか... 15万円が2千万円に1/11(木) 昨年令和5年12月に放送されたテレビ東京系の鑑定番組「開運! なんでも鑑定団」で、栃木県小山市粟宮の広告デザイナー石崎隆志(いしざきたかし)さん(56)が所有する幕末の長州藩志士高杉晋作(たかすぎしんさく)の書状が本物と鑑定され、2千万円の鑑定額がついた。4月の小山市立博物館企画展での展示も決まった。石崎さんは「予想以上の高額だったが、売却はせず長く持って大切にしたい」と話している。 石崎さんは歴史好きが高じ、20年ほど前からオークションで骨董(こっとう)品を集めている。高杉の書状は2014年に京都の骨董店主催のオークションに出品された。最低入札価格は15万円だったが、「ダメ元のつもりで」と15万100円で入札したところ落札できたという。 書状は縦約20センチ、横約27センチ。知人宛てで「帰宅するところ重箱を配られました。少々お分けしますので、御晩菜として食卓の端にお加えください」などと書かれている。
2024.01.11
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング残り2日現在支援者数61人 目標金額の66% 四、信心作兵衛を訪れ、万人講へ安居院先生は河内国(かわちのくに:大阪市東部)の杉澤作兵衛の家に身をおいて神道を学ばれた。杉澤氏は、世に信心作兵衛と呼ばれるほどの名高い、神を敬う人で、その深まった力は公益の事業に顕れ、今に伝わっている。なかんずく伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮三社に大燈籠(とうろう)を献じ、毎年各々太々神楽(だいだいかぐら)を奉納する。その当日には各地から多数参集して非常に盛大を極めた。この組織を万人講と唱え、信心の加入者によって成る団体である。先生の兄弟はこの依頼を受けて継承者となって、全国に勧誘を試みる事となった。そこでここに杉澤作兵衛と万人講を概説する。杉澤作兵衛は河内国交野郡(かたのぐん)田口村に住み、親は七左衛門といい、男女六人兄弟の三男に生まれた。その頃、家の借金が加わり生活は困難を極めた。八歳から孝心が厚く氏神に毎日参って助けを祈る。十六、七歳の頃、家族で相談し、兄弟一同奉公に出て、その給金で借金を返し、家計を立て直そうということになった。三、四年で借金は返済でき、八、九年で質入れしていた田畑は請け戻すことができ、安心して生活できるようになった。ここに作兵衛氏は同じ苗字で潰家(つぶれや)だった杉澤作兵衛の家をついで、五、六年努力して家を立て直した。ところが人の世話をして手違いをして責任をとることになった。そこで所有していた家財・諸道具・衣類に至るまで売り払って片づけることになった。そのため急に生活に行き詰って貧苦に陥った。ここに自身が苦難をなめた体験から、他人の難儀(なんぎ)に共感し同情する慈悲心が湧いて、人をも助け我もともに助からんという願望を起した。しかしこれには神様の加護がなくては叶わない。氏神の日参は二十五年も続けたが、更に三社の神並びに京都御所、北野天満宮へ大願をかけ、起請文をささげ、飲酒と日中横臥をしないと二つの事を誓い、里数八十里余の所を三か年三か月にわたって月参を始めた。なおこの大願望は容易の事ではない。石清水八幡宮の神慮を仰ごうとして、道程四里余りの所を日参すること三年に及んだ。ところが寸善尺魔(良い事は少なく悪い事は多い)という通り、少し差支えがあって二、三日怠ってしまったので、更に改めて三年を追加して都合六か年に及んだ。ここで妻はあまりの事に離縁を申し入れた。作兵衛氏が諭しても聴かない。止むを得ず親元に戻すことにした。それでも日参は続けたという。ある年、五畿内(近畿地方の中央部)で干ばつがあり、虫が湧き出した。作兵衛は祈願をこめたお蔭で幸いに平年並みの作柄を収穫できた。そこでこれを感謝して初穂の三升を小さな俵に作って、京都の御所様に献納しようとした。ところが前例がないと一度は退けられたが、役所へ呼び出されてお尋ねをこうむり、多年にわたる信心の次第を一々聞き取られて、奇特(きとく)の志であるとお納めする事ができた。それどころかご褒美をいただいた上、京都御所への出入りを許されることになった。冥加(みょうが)この上ないことであった。 なお万人講の行っていた事業は、従来から行われていたことで、神仏への祈願または報謝の心から、灯籠の建立とか太々神楽(だいだいかぐら)の奉納とか、あるいは代参の派遣とか各地にあったが、あるいは怠慢のため中絶し、あるいは弊害のため支障を来し、一進一退の盛衰もあって連続されず怨みがあった。これに鑑みて思いを凝らし、大小貧富ともに信心の心を集め、誠に清浄の他力を以て三社に高さ二丈三尺余り(約3㍍90㌢)の石灯籠一本ずつを奉納し、昼夜灯を点じ、並びに三社に永代太々御神楽を奉納して神徳に報い、また二人ずつ月参させ、神慮を仰がせて御恩徳を感じさせるように導き、そのほか余ったお金で諸方の壊れた道や橋を補修し、通行人と牛馬の労苦を助けようとした。これが万人講の講元の心得であると述べている。 万人講より普請致し候場所昼夜燈一伊勢大神宮、二丈三尺余の大燈籠 勢州松坂より半道程先信通り道筋上川村と申す所へ相建て候 同一石清水八幡宮へ右同断 山城国石清水八幡宮一の鳥居の前に相建て候 十か年以前建立一神社仏閣に一丈八尺の常夜燈 勢州大燈籠地所同所へ相建て之有り候 十九か年以前建立一南都二月堂へ一丈八尺の常夜燈 南都奈良坂普請所坂の上に相建て之有り候一南都奈良坂並びに般若坂道両所の普請一京都大宮通車道敷石の普請一相州大住郡曾屋村道橋の普請 右の外少々ずつの道橋等の普請方表に数か所出来之有り候 以上が杉澤作兵衛氏の概要で、万人講の組み立ての抄録である。もちろん安居院兄弟の記録によったものであることは申すまでもない。なおその末文には次の記事が載せられている。 「わたくし事、先年上方へ参ったところ、不思議な因縁で万人講の最初から講元に付き添って、奈良に五年余りいました時、ご神慮のご加護があり、誠に心魂に徹し有難い事です。ついては私は相模国(神奈川県)出身ですので、相模国の人々に手をとって講中に加入させたいと存じます。」と弘化二年(一八四五)五月○日を以て浅田・安居院の両署名がある。 万人講は、杉澤作兵衛が晩年に及んで後事を安居院兄弟に託す事になり、これよりその後継者として各地に勧誘を努めた。今その足跡の詳細は判らないが、五畿内から東へ近江・伊賀・伊勢へと延びたらしく、もっとも著しいのは伊賀・伊勢であって、それには報徳をも加えている。また先生の述懐にも南部に五ヶ年余りいたとある。洞察力がある多才の先生の事だから、その地方の農業の進歩は見逃さない。元来、農業面は畑違いであるはずだが、後にはひとかどの農業者として栽培法を説き、稲の正条植え、種の薄蒔き及び茶の栽培のように、これを我が遠州地方に広く伝えた功績は大きい。それらはいずれもこの地方から取り入れられたものと思われる。 それから嘉永四年(一八五一)に弟浅田が伊勢に亡くなって片腕をもがれてしまい、特に報徳の道は、日に月に開拓されて忙しく、したがって万人講を顧みるいとまがなくなったので、同年の冬、これを遠州の報徳連中に相談して助けを頼んだ。ここに報徳社の力に継続されて、次の組織が出来上がった。
2024.01.11
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」クラウドファンディング残り2日で終了します。1月11日新たに2人、支援者が出現した。目標金額の66%になった、感謝します。〇〇様「「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します」プロジェクトプロジェクトをご支援いただきまして誠にありがとうございます。本日残り2日となって2人目の支援者です。残り5日になってから新たな支援者が出現しなかっただけに、本日新たに2人支援してくださることに力づけられます。『報徳』12月号に鷲山恭彦先生が「『報徳開拓者 安居院義道』をめぐるエピソード」の『巻頭言』を寄せられています。そしてその最期を「今回、70年ぶりに『安居院義道』が現代語訳で読めるようになった。「人民の勤耕」の立場に生きた安居院義道の思想と実践は、現代に生きる私たち市民が、自立的・主体的に現代の諸課題と対峙しようとするとき、様々な示唆と励ましを与えるものとなるのではないだろうか。」と結ばれています。出版記念絵葉書として、安居院先生の『報徳』の書や「若き大山御師安居院庄七の像」などのイラスト2枚、さらに今回発掘した「相州御領分図絵」も絵葉書として採用します。出来上がりが楽しみです。プロジェクトの進捗や状況については、プロジェクトページの「活動報告」にて投稿していきます。目標金額達成のためプロジェクトのシェア等、支援者様のさらなるご協力をしていただけますと幸いです。
2024.01.11
『現代語 安居院義道』 クラウドファンディングに本日2人目の新たな支援者が出現した 支援者数61人目 目標金額の66%素晴らしい!!残り2日 となって しっかりとした 支援者の出現に 感動する!大日本報徳社の『報徳』令和5年12月号の鷲山恭彦社長の『巻頭言』は『報徳開拓者 安居院義道』をめぐるエピソード」であった。『報徳開拓者 安居院義道』は、安居院についての唯一の実証的著作なのだが、古い書き方をしていて大変読みにくい。本書の意義を認めて現代語に直して下さった。祖父。恭平が報徳社に関わったのは、明治の終わり頃である。安居院は忘れられた存在になっていた。祖父は安居院に関心を持ったものの、資料も少なく、聞書きも難しくなっていた。集めてはみたものの「内容は貧弱であった」昭和28年82歳「空しく箱の底にしまっておいたのだが、昨年まとめてみたいと一大念願を起して、おいぼれの最後の努力を試みた次第である」出来上がるのを今や遅しと待っていたところ、本を手にして愕然とした。誤植の多さに驚いたのである。『お詫びまでに』と正誤表を作る。意に満たない出版だったが、学会で評価される。奈良本辰也氏は『二宮尊徳』の「あとがき」に「いろいろ参考になったのは.....鷲山恭平氏の『安居院義道』である」と特記された。加茂元照さんは「岡田佐平治と息子良一郎は、義道や尊徳から報徳の理論を学び、掛川を中心に報徳社運動を展開する。しかし後に国政に深く関与することによって、明治、大正、昭和を通じて、その時々の国家的要請、施策と合致した形が目立った。これは、二宮尊徳が後半生を幕臣として藩政改革に参画した性格を受け継いだものと言える」岡田良一郎は、世襲の庄屋である。「庶民自身のための近代思想としては、充分に活用できなかった」それに対抗して森町の報本社は「産業主義的な方向」で打ち出した。これは「安居院義道の指導した方向」であった。 この中から、鈴木藤三郎が出る。そしてこの方向が「浜松地方にホンダ、スズキ、ヤマハなどの新興国際企業の発展を促していく思想の基盤となった」と加茂さんは分析している。「この労作が見事に日本の近代史の欠けていた部分を補い、正しい評価に資したことは、多くの近代史家の論調が、この本の出版を境にしてハッキリ違って来ている点から見ても明らかである」と加茂さんは語る。鷲山先生は「現代語 安居院義道」について次のように結ぶ。「今回、70年ぶりに『安居院義道』が現代語訳で読めるようになった。「人民の勤耕」の立場に生きた安居院義道の思想と実践は、現代に生きる私たち市民が、自立的・主体的に現代の諸課題と対峙しようとするとき、様々な示唆と励ましを与えるものとなるのではないだろうか。」と結ばれている。💛本書は副題として「報徳の師父第三集」と銘打っている。この本は「鈴木藤三郎顕彰シリーズ」の一環にほかならない。「鈴木藤三郎顕彰第二集」「鈴木藤三郎はどのようにして遠州報徳の風土から出現したのか」を考究する「報徳の師父」シリーズ第3集なのである。 本書を通じて「安居院庄七→森町報徳三兄弟→鈴木藤三郎」と受け継がれた「産業主義的な方向」と鈴木藤三郎についても見直される契機となれば、編集者の共同の願いである。
2024.01.11
大友康平さんが1月10日に自身のブログを更新。八代亜紀さんの突然の訃報に悲痛な胸中を吐露した。この日、大友は「もう一度逢いたい・・」というタイトルでブログを更新。「夕方のニュースで、また突然の訃報が入った。八代亜紀さんが、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため死去していました」と2023年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため亡くなった演歌歌手の八代亜紀さんの訃報について言及し「73歳でした、早過ぎます・・」とつづった。続けて「また、“昭和の輝く星”が天に召されてしまいました」と述べ「数々のヒット曲は全て口ずさむことができるほど名曲揃いです」と説明。「数年前、BS11『八代亜紀のいい歌いい話』という番組に出演させていただきました」と回想し「MC時はまるで少女のように無邪気で明るく いざ歌を歌えば一曲で勝負をつけてしまうほどの存在感のある歌唱力に魅了されたのをはっきり覚えています」とつづった。また「番組内では、“ff”と“もう一度逢いたい”をデュエットさせてもらいました」と明かし「一生の宝物です!!」とコメント。「高倉健さんと倍賞千恵子さんが寄り添いながら“紅白歌合戦”を見ているシーンで流れていた『舟唄』は本当に心に沁みました」と述べ「心よりご冥福をお祈りいたします」と追悼した。
2024.01.11
「「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します」のクラウドファンディング あと2日現在、支援者数60人 目標金額の64% です。◎相州北秦横曽根村難村取直し相続手段帳 相州大住郡北秦横曽根村仮趣法帳 右の村は前々より困窮していたところ去る天保四年(一八三三)、七年(一八三六)二度の大凶荒(天保の大飢饉)につき、暮し方初め全て極端にさしつまり、立直しの手段方法も尽き果てて一途方に暮れていた所、当村の庄兵衛老人(百姓代)が日頃村を善くする事を心がけていたが、ふと十日市場の(安居院)庄七に出会い、話の中で、庄七は二宮先生の大名を聞いて善道の大意を聞きたいと八か年以前より心がけていた所、幸いに庄七は去る天保十三年六月に野州の桜町陣屋へ出かけて、小田原領中沼村の伝蔵の取次ぎで先生へ一家取直し相続その外についていろいろと教えを受けて心から感服して、七月二十六日まで逗留し、同日いとまを申し上げて帰国したとのことであった。さっそく横曽根村の庄兵衛は村方へ一同相談したが、すぐには判断できないということでその年も過ぎた。翌天保十年二月から庄七は村に来て、庄兵衛も含めて村方の大小一同と話し合い、二宮先生の理解も段々進み、十月まで毎月三度ずつ来て参り説き聞かせた所、村方名主伴右衛門、市右衛門、吉左衛門、吉蔵、惣右衛門の五人をはじめ、村中一同恐れ入ったと感心し、御趣意に基いて毎日毎日農業は申すに及ばずその外何事に限らず、村の為に成ることを工夫して精を出し、あるいは米作りのお初穂、あるいは山かせぎ、あるいは縄ない・むしろ織り、あるいはわらじ作りなど、農事の間、朝夕励みました。村立直しの趣法を組み立てたいと思っても、その目標がなくては成就しがたいから、まずは人々が自分の身の分限をよくわきまえてほしい。たとえば木は同じ杉であっても桶屋が一升樽を作れば、一升樽に成る所が則ち身の分限である。三升樽を作れば、三升樽に成る所が身の分限である。五升樽を作れば、五升樽に成る所が身の分限である。壱斗樽を作れば一斗樽に成る所が身の分限である。また曰く、水六尺五寸の大桶を作れば、大桶に成る所が身の分限である。一升樽、二升樽、三升樽五升樽、一斗樽それぞれ大樽の積りをしようとしても十分に及ばない。だから他念がない。他念がないため生涯それぞれ八分に入れて置く時はこぼれて散る憂いがない。そうであれば横曽根村に住む者は村高五十七石、家数潰れも合わせて二拾二軒、一軒当り二石五斗九升一合に当る。これが天性自然である。その余は農間期に朝夕よく励んで働いて、天道の正理を恐れて、各々本業を尽し、百姓を相続したいものである。もし分を失えば貧苦や艱難を免れない。その根元を考えるに、人は皆天地の間に生れて、天地のめぐみを得て、天地の間に住みながら、どうして天地に従わないでよかろうか。いよいよ慎んで守る時は安楽自在を得る事は疑いがない。聖語(中庸)にいう。天命、これを性という。性にしたがう、これを道という、道を修める、これを教えという。道というものは少しも離れてはならない。離れることができるものは道ではない。右は相州大住(おおすみ)郡北秦横曽根村の人々が困窮難渋し、去る天保の二度の大凶荒飢饉について暮し方が差しつまり、このまま差し置いてはつぶれるほかはない途方にくれ、よんどころなく村中一同が相談の上で村役人惣代を以て御地頭所へお願いに上り、助成の米、金は左の通りです。一お米 一お金右の通り拝借仰せつけられ、下されました。村内一同助かり、皆が露命をつなぎました。誠に有難くしあわせに存じます。去る酉年より今卯年まで年々割済を以て返納いたしましたが、まだ村の立直しについては途方に暮れています。このたび庄兵衛の取持ちで二宮先生のご理解を承って一同感心した事は前文の通りです。人々が分限分内をわきまえて天命に基けば貧窮の憂いを免れて富貴も一段と進むことと互いに励んで、農業に一生懸命精を出して働き、農業のあいまに朝夕縄をないむしろを織り、わらじを作り、村の為になるようにと一心に努力していきたいと、村中一同連印し捺印する次第、次の通りです。発言人 姓名 印 名 主 同 印組 頭 同 印 百姓代 同 印総百姓 同 印 取次人 同 印 二宮金次郎様聖語(論語・学而)に曰く、過ちては改めるに憚(はばか)ることなかれ、とのたまえり。中庸に曰く、果たしてこの道を能くすれば、 愚と雖も必ず明らかに、 柔なりと雖も必ず強し。今回、村の取直し、百姓相続の趣法組立てのことは当二月からご指導を頂き承服している所です。村が前々から困窮難渋し、あるいは潰れ、あるいは退転しているその根元はそれぞれ本業を怠り、終に身の分限を失い、おごりにふけるためです。もっとも貧富は時により変化しますが、一村同じ所に生れることは、前世の宿縁で、万代変わらない仕合せなことです。そこで村内で申し合せ、潰れ百姓や非常に困窮する人、今日の暮し方に差し支える者が相互に助け合い、取直しを申し合せ、常々何事に限らず全て倹約を宗とし、酒を止めその器物を売払い、煙草を止めその道具を売払い、質素な服を用いその余の服を売払い、質素な器を用い余の器を売払い、神事を厚くし長ずるを禁じ仏事を厚くし長ずるのを禁じ、伊勢太々講は驕奢を禁じ・・・・吉礼凶礼全て本源を厚くし弊風驕奢を省き節倹を尽し、潰れ百姓相続したい段、窮民撫育のため勤労し、家政を取直し、子孫に相続するため本業に精出し、暮し方の驕倹その外何事によらず共々勤め行いたい事です。 日々につもる心のちりあくた あらい流して我を尋ねん 飯としる木綿着物は身を助く 其余は我をせむるのみなり恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども年々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども月々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども日々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども時々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども刻々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめば終に父母祖先の徳を滅じてその身子孫の徳を失うなり勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども年々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども月々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども日々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども時々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども刻々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身有れども天命その身子孫徳を得るなり聖語(中庸)に曰く、天の命ずるこれを性といい、性にしたがうこれを道といい、道を修めるこれを教えという。道はわずかな間も離れてはいけない。離れられる道は道ではない。曇らねば誰が見てもよし富士の山 生れ姿で幾世経るとも聖語に曰く、過てば則ち改めるに憚るなかれ。 日々に積る心の塵芥 洗い流して我を尋ねん聖語に曰く、君子は必ずその独りを慎しむ 山寺の鐘つく僧の起伏しは 知らで知りなむ四方の里人湯の盤の銘に曰く、まことに日に新たに日日に新たにまた日に新たなり 古の白きを思い洗濯の返す返すも返す返すも富貴・貧賤・善悪・邪正とも 蒔種と生たつさまは異なれど 実法は元の種となりぬる 蒔種のすぐにそのまま生いたちて 花と見るまに実る数数 天地や無言の経を繰り返し後に語(論語・陽貨)に曰く、天何をかいうや、四時行われ百物生ず、天何をか言うや。儒者同じく語る。経(般若心経)に曰く、色則是空、空則是色。(完)
2024.01.11
「「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します」のクラウドファンディングが暫く新たな支援者が出現していなかったが、60人目となる支援者が現れた。〇〇様「「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します」プロジェクトをご支援いただきまして誠にありがとうございます。60人目のご支援感謝します。カウント5日目くらいから、新たな支援者が現れず、59人、目標金額の62% で終了するのかなと思われただけに新たな支援者の出現に感激しました。目標金額に達しなくても、本書は出版し、大学図書館・公共図書館に寄贈します。また出版記念絵葉書をより魅力的なものにするべく、調整中です。プロジェクトの進捗や状況については、プロジェクトページの「活動報告」にて投稿していきます。目標金額達成のためプロジェクトのシェア等、支援者様のさらなるご協力をしていただけますと幸いです。
2024.01.11
糖尿病の人に「糖質制限ダイエット」は良い? 植物性食品を取り入れると成功しやすいことが判明糖質制限は、植物性食品を取り入れると成功しやすいという研究が発表された。低糖質の食事をしていても、動物性のタンパク質や脂肪を食べすぎている人は、効果を期待できない。全粒穀物・野菜・大豆・豆類・ナッツ類・果物などの植物性食品を食べることが勧められている。日本でも、糖尿病の人のための食事療法として一般的に、エネルギー比で、炭水化物は50~60%、タンパク質は20%エネルギー以下を目安にして、残りを脂質からとるのが良いとされている。糖質を制限する食事スタイルが、糖尿病の人の血糖管理に効果があるという報告が発表されている。 もっとも血糖値を上げやすいのは糖質なので、糖質を制限することで、食後に血糖値が上がりすぎるのを抑制しようというのが、「糖質制限ダイエット」の考え方だ。米オハイオ州立大学発表。 研究には、心臓病や脳卒中のリスクを高める要因であるメタボと判定され、2型糖尿病のリスクの高い、平均年齢が41.3歳、体格指数(BMI)の平均が39.3の16人の男女が参加した。 4週間の糖質制限ダイエットにより、参加者の半数以上(男性5人、女性4人)は、摂取エネルギーは同じで体重が変わらなかったにも関わらず、メタボリックシンドロームから離脱するのに成功した。 「短期間でも低炭水化物の食事を行うと、代謝異常が改善されるという結果になりました」と、同大学人間科学部のジェフ ヴォレック教授は言う。 「ただし、今回の研究に参加したのは、メタボリックシンドロームのある肥満の人であり、低炭水化物の食事がすべての人に勧められるかは不明です」。 「この食事スタイルをどのように行うと効果があり、どのような人に勧められるかを、今後の研究で解明する必要があります」としている。研究グループは、参加者に期間をおいて、▼中炭水化物(炭水化物32%、脂肪48%)、▼高炭水化物(炭水化物57%、脂肪23%)などの3つの食事スタイルに取り組んでもらった。 どの食事パターンも、エネルギー量が同じになるように調整してあり、20%のタンパク質が含まれていた。 その結果、糖質制限を1ヵ月続けた場合、さまざまな検査値が改善することが明らかになった。中性脂肪値は低下し、コレステロール値も改善した。 糖質を制限することで、血糖値も改善し、脂肪燃焼の効率も良くなることが示された。血圧やインスリン抵抗性については変化がみられなかった。 「今回の研究は、体重が減少しなかった人でも改善がみられたのが特徴です。ただし、炭水化物を減らすダイエットの効果と安全性については、研究者のあいだでもさまざまな意見があり、長期的な安全性については確かめられていないことに注意する必要があります」と、ヴォレック教授は指摘する。米チューレーン大学も、糖質制限ダイエットは、血糖値が高めで肥満のある糖尿病予備群の食事療法として有用である可能性があるという研究を発表している。 研究グループは、糖尿病の治療を受けておらず、HbA1cが6.0%~6.9%と高めの、40歳~70歳の男女150人を対象に、6ヵ月間のランダム化比較試験を実施した。参加者の体格指数(BMI)の平均は35.9で多くは肥満だった。 その結果、糖質制限ダイエットを行った群では、HbA1cは0.23%、空腹時血糖値は10.3mg/dL、体重は5.9kg、それぞれより減少した。 「血糖値が高めと指摘された、肥満のある糖尿病予備群で、薬物療法を受けていない人では、極端な糖質制限は勧められないにしても、糖質制限はある程度、有用であることが示されました」と、同大学公衆衛生学のキルステン ドランス氏は言う。ハーバード公衆衛生大学院 全粒穀物・野菜・大豆・豆類・ナッツ類・果物などの植物性食品には、食物繊維・タンパク質・ビタミン・ミネラル・抗酸化物質などが多く含まれているとしている。 「植物ベースで糖質が少なく、植物性のタンパク質と脂肪で構成される糖質制限ダイエットは、もっとも体重を減らしやすいという結果になりました」と、同大学院栄養学科のビンカイ リュー氏は言う。
2024.01.11
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版しますあと2日で終了します。 四、信心作兵衛を訪れ、万人講へ安居院先生は河内国(かわちのくに:大阪市東部)の杉澤作兵衛の家に身をおいて神道を学ばれた。杉澤氏は、世に信心作兵衛と呼ばれるほどの名高い、神を敬う人で、その深まった力は公益の事業に顕れ、今に伝わっている。なかんずく伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮三社に大燈籠(とうろう)を献じ、毎年各々太々神楽(だいだいかぐら)を奉納する。その当日には各地から多数参集して非常に盛大を極めた。この組織を万人講と唱え、信心の加入者によって成る団体である。先生の兄弟はこの依頼を受けて継承者となって、全国に勧誘を試みる事となった。そこでここに杉澤作兵衛と万人講を概説する。杉澤作兵衛は河内国交野郡(かたのぐん)田口村に住み、親は七左衛門といい、男女六人兄弟の三男に生まれた。その頃、家の借金が加わり生活は困難を極めた。八歳から孝心が厚く氏神に毎日参って助けを祈る。十六、七歳の頃、家族で相談し、兄弟一同奉公に出て、その給金で借金を返し、家計を立て直そうということになった。三、四年で借金は返済でき、八、九年で質入れしていた田畑は請け戻すことができ、安心して生活できるようになった。ここに作兵衛氏は同じ苗字で潰家(つぶれや)だった杉澤作兵衛の家をついで、五、六年努力して家を立て直した。ところが人の世話をして手違いをして責任をとることになった。そこで所有していた家財・諸道具・衣類に至るまで売り払って片づけることになった。そのため急に生活に行き詰って貧苦に陥った。ここに自身が苦難をなめた体験から、他人の難儀(なんぎ)に共感し同情する慈悲心が湧いて、人をも助け我もともに助からんという願望を起した。しかしこれには神様の加護がなくては叶わない。氏神の日参は二十五年も続けたが、更に三社の神並びに京都御所、北野天満宮へ大願をかけ、起請文をささげ、飲酒と日中横臥をしないと二つの事を誓い、里数八十里余の所を三か年三か月にわたって月参を始めた。なおこの大願望は容易の事ではない。石清水八幡宮の神慮を仰ごうとして、道程四里余りの所を日参すること三年に及んだ。ところが寸善尺魔(良い事は少なく悪い事は多い)という通り、少し差支えがあって二、三日怠ってしまったので、更に改めて三年を追加して都合六か年に及んだ。ここで妻はあまりの事に離縁を申し入れた。作兵衛氏が諭しても聴かない。止むを得ず親元に戻すことにした。それでも日参は続けたという。ある年、五畿内(近畿地方の中央部)で干ばつがあり、虫が湧き出した。作兵衛は祈願をこめたお蔭で幸いに平年並みの作柄を収穫できた。そこでこれを感謝して初穂の三升を小さな俵に作って、京都の御所様に献納しようとした。ところが前例がないと一度は退けられたが、役所へ呼び出されてお尋ねをこうむり、多年にわたる信心の次第を一々聞き取られて、奇特(きとく)の志であるとお納めする事ができた。それどころかご褒美をいただいた上、京都御所への出入りを許されることになった。冥加(みょうが)この上ないことであった。 なお万人講の行っていた事業は、従来から行われていたことで、神仏への祈願または報謝の心から、灯籠の建立とか太々神楽(だいだいかぐら)の奉納とか、あるいは代参の派遣とか各地にあったが、あるいは怠慢のため中絶し、あるいは弊害のため支障を来し、一進一退の盛衰もあって連続されず怨みがあった。これに鑑みて思いを凝らし、大小貧富ともに信心の心を集め、誠に清浄の他力を以て三社に高さ二丈三尺余り(約3㍍90㌢)の石灯籠一本ずつを奉納し、昼夜灯を点じ、並びに三社に永代太々御神楽を奉納して神徳に報い、また二人ずつ月参させ、神慮を仰がせて御恩徳を感じさせるように導き、そのほか余ったお金で諸方の壊れた道や橋を補修し、通行人と牛馬の労苦を助けようとした。これが万人講の講元の心得であると述べている。 万人講より普請致し候場所昼夜燈一伊勢大神宮、二丈三尺余の大燈籠 勢州松坂より半道程先信通り道筋上川村と申す所へ相建て候 同一石清水八幡宮へ右同断 山城国石清水八幡宮一の鳥居の前に相建て候 十か年以前建立一神社仏閣に一丈八尺の常夜燈 勢州大燈籠地所同所へ相建て之有り候 十九か年以前建立一南都二月堂へ一丈八尺の常夜燈 南都奈良坂普請所坂の上に相建て之有り候一南都奈良坂並びに般若坂道両所の普請一京都大宮通車道敷石の普請一相州大住郡曾屋村道橋の普請 右の外少々ずつの道橋等の普請方表に数か所出来之有り候 以上が杉澤作兵衛氏の概要で、万人講の組み立ての抄録である。もちろん安居院兄弟の記録によったものであることは申すまでもない。なおその末文には次の記事が載せられている。 「わたくし事、先年上方へ参ったところ、不思議な因縁で万人講の最初から講元に付き添って、奈良に五年余りいました時、ご神慮のご加護があり、誠に心魂に徹し有難い事です。ついては私は相模国(神奈川県)出身ですので、相模国の人々に手をとって講中に加入させたいと存じます。」と弘化二年(一八四五)五月○日を以て浅田・安居院の両署名がある。 万人講は、杉澤作兵衛が晩年に及んで後事を安居院兄弟に託す事になり、これよりその後継者として各地に勧誘を努めた。今その足跡の詳細は判らないが、五畿内から東へ近江・伊賀・伊勢へと延びたらしく、もっとも著しいのは伊賀・伊勢であって、それには報徳をも加えている。また先生の述懐にも南部に五ヶ年余りいたとある。洞察力がある多才の先生の事だから、その地方の農業の進歩は見逃さない。元来、農業面は畑違いであるはずだが、後にはひとかどの農業者として栽培法を説き、稲の正条植え、種の薄蒔き及び茶の栽培のように、これを我が遠州地方に広く伝えた功績は大きい。それらはいずれもこの地方から取り入れられたものと思われる。 それから嘉永四年(一八五一)に弟浅田が伊勢に亡くなって片腕をもがれてしまい、特に報徳の道は、日に月に開拓されて忙しく、したがって万人講を顧みるいとまがなくなったので、同年の冬、これを遠州の報徳連中に相談して助けを頼んだ。ここに報徳社の力に継続されて、次の組織が出来上がった。 ◎三社(さんしゃ)燈(とう)籠(ろう)万人講(まんにんこう) 三社(さんしゃ)燈(とう)籠(ろう)万人講(まんにんこう)永代(えいだい)太々(だいだい)御(おん)神楽(かぐら)金元(かねもと)立(たち)仕法帳(しほうちょう)伊勢(いせ)春日(かすが)八幡(はちまん)三社(さんしゃ)燈(とう)籠(ろう)万人講(まんにんこう)、並(ならびに)永代(えいだい)太々(だいだい)御(おん)神楽(かぐら)之(の)儀(ぎ)者(は)、河内国(かわうのくに)杉澤(すぎさわ)作兵衛(さくべえ)君(くん)発起(ほっき)、其(その)趣旨(しゅし)者(は)、世人(せじん)三社(さんしゃ)之(の)御(おん)徳(とく)を崇敬(すうけい)、太々(だいだい)御(おん)神楽(かぐら)古来(こらい)より連綿(れんめん)と行(おこなは)れ候(そうら)へ共(ども)、悲(かなしい)かな貧家(ひんけ)の者(もの)太々(だいだい)御(おん)神楽(かぐら)奉(ほう)献(けん)と申(もうす)事(こと)は甚(はなは)だ稀(まれ)にして当世(とうせい)の形体(さま)貧民(ひんみん)をよばざるが如(ごと)し。依(より)て世(せ)界(かい)一(いっ)統(とう)奉献(ほうけん)相(あい)成(なり)候(そうろう)様(よう)講中(こうちゅう)を取結(とりむす)び、半途(はんと)にして杉澤(すぎさわ)君(くん)死(しに)退(しりぞ)き、相州(そうしゅう)安居院(あぐい)庄(しょう)七(しち)浅田(あさだ)勇次郎(ゆうじろう)兄弟(きょうだい)の君(きみ)、杉澤(すぎさわ)氏(し)の志(こころざし)を継(つ)ぎ年々(ねんねん)御(おん)神楽(かぐら)奉献(ほうけん)専(もっぱ)ら世話(せわ)中(ちゅう)、嘉永(かえい)四亥(いの)年(とし)浅田(あさだ)君(くん)死(しに)退(しりぞ)き、安居院(あぐい)君(くん)一人(ひとり)と相成(あいなり)世話(せわ)行(いき)届(とどき)難(がた)く、暫時(ざんじ)休(きゅう)年(ねん)国中(くにじゅう)の講中(こうちゅう)へ相達(あいたっ)し候得共(そうらえども)、其(その)儘(まま)廃(はい)せし事(こと) を深(ふか)く歎(なげ)き、報徳(ほうとく)連中(れんちゅう)へ相談(そうだん)の趣意(しゅい)一同(いちどう)感服(かんぷく)、則(すなわ)ち報徳(ほうとく)連中(れんちゅう)世話人(せわにん)と相成(あいなり)、永代(えいだい)御(おん)神楽(かぐら)奉(ほう)献(けん)の基本(きほん)仕立(したて)左(さ)に組立(くみたて)、弥(いよいよ)成就(じょうじゅ)の上(うえ)者(は)右(みぎ)講(こう)鑑札(かんさつ)信心(しんじん)の人(ひと)へと相(あい)譲(ゆず)り貧富(ひんぷ)に抱(かか)はらず御(おん)神楽(かぐら)奉(ほう)献(けん)、大(だい)神(じん)宮(ぐう)に御(おん)恩(おん)徳(どく)を報(むく)ひ奉(たてまつ)り善人(ぜんにん)多(おお)からんことを希(ねが)ふ而(の)己(み)。(略) このようにその時代は順番制で交替したものであった。後に明治初年に遠江国報徳社の所管に移して、行事は毎年三月二十三日に代参人二名を派遣して太々神楽を奉納し、各社員は東西より参加して盛んであった。またその機会において代参人は松坂にある西法寺に仏供料(ぶつくりょう)を納め、浅田氏の墓参を行った。 それからは万人講金も千百九十円に達し、年々行事を務めてもなお増額の計算となったが、明治三十九年に安居院先生顕彰碑の議論が起ってこれに転用された。今、万人講保存備金として掲げるものは、大変少額となった。とくに近年になっては奉納金もけた違いの額になったようで、昔の万人講の優位は、今は全く見受けられない。先人に対して済まないような気持ちでいっぱいである。
2024.01.11
八代亜紀さん死去、73歳 自身初の男歌「舟唄」秘話、もともとは美空ひばりさんへの提供曲だった「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られる昭和を代表する歌手の八代亜紀さんが、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため、亡くなっていたことが分かった。73歳だった。所属するミリオン企画が9日、公式サイトで発表した。葬儀・告別式は、八代さんの強い意思で8日に所属事務所スタッフのみで執り行った。後日、お別れの会を開く。 所属事務所によると、八代さんは8月に膠原病の一種で、指定難病の抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎を発症し、急速進行性間質性肺炎を併発したため、活動休止を発表。9月に入院し、2024年の活動再開を目指して闘病生活を送っていた。 八代さんの代表曲と言えば、「舟唄」(1979年)と、「雨の慕情」(1980年)。「舟唄」は阿久悠さん作詞、浜圭介さん作曲。自身初の男歌で同年、初めて紅白歌合戦の大トリを務めた思い入れの強いナンバーだ。「この歌は机の中に埋もれていたのよ」(八代)。当時の所属レコード会社のテイチクが「これまでの楽曲の『行かないで』『待っています』とは違う、阿久先生から見た八代亜紀の女心を書いてほしい」と依頼。数日後に何十曲の詞が阿久さんから用意されたが、テイチクは「今までもこういう歌はありました」と全てをボツに。阿久さんが激怒し、机の引き出しから「これはどうだ!」と置いたのが「舟唄」だった。 もともとは美空ひばりさんの曲を書く雑誌の企画で作ったものだったが、運命のいたずらで八代さんのもとへ。同曲について「私の初めての男歌になった。この歌の力はすごい。私にとってはクラシック(=芸術音楽)と同じ(高貴なもの)です」と評するほどだった。
2024.01.11
ペットボトルの水に「凄まじい量のプラスチック」が含まれていると判明1/10(水)学術誌「米国科学アカデミー紀要」に掲載された論文によると、平均的なペットボトル入り飲料水1リットルには約24万個の粒子が含まれており、そのほとんどが「ナノプラスチック」であることが判明した。これらは1マイクロメートル(=0.001ミリメートル)以下のサイズの粒子だ。過去数年間、科学者たちは「マイクロプラスチック」(サイズが1マイクロメートルから半センチメートルまでのプラスチックの破片)に注目してきたが、これはいたるところで見つかっている。プラスチックの小さな破片は、深海や南極の海氷、人間の胎盤の中からも見つかってきた。これらは土壌や野生生物の中にも潜んでいる。マイクロプラスチックは、私たちが口にする食品や飲料水にも含まれているのだ。実際、2018年には、ボトル1本の水に平均325個のマイクロプラスチックが含まれていることが発見された。だがコロンビア大学の研究者たちはこのほど、ナノプラスチックも脅威となることを発見した。同大学の化学教授で、発表された論文の著者の一人であるウェイ・ミンは次のように語る。「マイクロプラスチックが人間の健康にどのような影響を与えるにせよ、ナノプラスチックはより危険であると言えるでしょう」ペンシルベニア州立大学ベーレンド校のシェリー・メイソン教授によれば、プラスチックは「皮膚に似ている」。水や食べ物を含むあらゆる物質に触れて、プラスチックは剥がれ落ちるものなのだ。「私たちの皮膚は常に剥がれ落ちています。プラスチック素材も同じです。常に剥がれ落ちているのです」マイクロプラスチックを見つけるために従来使われていた手法は、それよりさらに小さな粒子を見つけるには適していない。そこで前出のミンは、2つのレーザーをサンプルに照射し、異なる分子を観察する方法を共同で考案した。研究グループは3種類のボトル入り飲料水のサンプルから、7種類のプラスチックを特定している。この研究には参加していないが、プラスチックがボトル入り飲料水に含まれていることを特定した最初の研究者の一人であるメイソンは、「これは本当に画期的なことです」と語る。この新しい研究は、ナノプラスチックがいかに広範囲に及んでいるかを示し、健康への影響を評価する出発点になるのだ。「水のサンプルを見て、プラスチックが目に見える形で入っていれば、多くの人はその水を飲む気になれないでしょう。しかし、混入しているけれど目に見えないプラスチックこそが最大の懸念であることに、人は気づいていません」
2024.01.11
慢性心不全のリハビリはどのように行うの?~リハビリの効果や注意点とは~心不全とは病名ではなく、何らかの原因で心臓のはたらきが不十分になることでさまざまな症状が起きる状態のことを指します。急激に心臓のはたらきに問題が起きた場合を“急性心不全”、心不全の状態が長期間にわたって続き次第に進行していくものを“慢性心不全”といい、どちらも息切れや動悸、むくみなど多岐にわたる症状が現れます。心不全の治療は、高血圧や弁膜症といった原因疾患の治療のほか、さまざまな薬剤を使用して行いますが、なかでも慢性心不全に対してはリハビリの有効性が示されています。慢性心不全の状態を改善させるには、運動療法を含む心臓リハビリテーションが重要になるとされています。心臓リハビリテーションは入院中から始まり、退院後は3か月程度(最長で5か月)、週1~3回程度通院で参加し、在宅リハビリテーションに移行するのが一般的です。具体的な内容は以下のとおりです。運動療法心電図を見ながら、患者の状態に合わせて歩行、自転車こぎ、軽い筋トレ、体操などを行うことで、運動能力(体に酸素を取り込む能力)が増加し、心不全の症状緩和が期待できます。そのほか、同時に患者の体力把握のために、運動負荷試験(運動中や運動後の酸素消費量、心電図などのデータや症状から心臓の状態を見る検査)を行うこともあります。心臓リハビリテーションの中でも、特に運動療法を行う場合は注意が必要です。心不全患者は心臓のはたらきが低下しているだけでなく、筋肉の萎縮や筋力の低下が起こっている傾向があるため、安全かつ効果的に行うために患者ごとに適した運動量や方法を決めていくことが重要です。そのため、新規に運動療法を始める際は医師による“運動処方”に基づいて、医療スタッフの付き添いのもと、心電図モニターを付けて運動を行う必要があります。最初の1~2週間は5分程度の歩行を2~3回繰り返すなど、軽い運動から始め、症状の悪化や体重増加といった異常がないかを確かめながら徐々に運動時間や量を増やしていきます。運動メニューは適切か、病状に問題はないかを定期的に医師がチェックします。そのほか、明らかに息切れが強い、足にむくみが見られる、体重が短期間で2kg以上増えたなどの場合は、心不全が悪化している可能性があるため、運動を中止して医師の判断を仰ぎましょう。
2024.01.10
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版しますクラウドファンディングは、終了まであと3日です。現在、支援者数59人です。安居院義道 三、野州に報徳を聞き大転換安居院先生は、はるばると野州(栃木県)にまで下って二宮金次郎に接近したものの面会は断られ、希望した安い金利での借金を持ち出す機会もない。ただ衣食住の心配はなく、少しひまはある。そこで「二宮とは何者なのか」との研究心が湧き起ってきて、朝夕出入りする来訪者への対談や門人達への説話を立ち聞きする。初めは金貸しの親方くらいに想像していたのが、大きな見当違いでとても大きな衝撃であった。今その時の説話のどのような要点が衝撃を与えたのかは分からないが、おそらくは天理人道から説き来って、治乱興亡の経綸(国の秩序を整える)に及んで、難村の復興や困窮した民の救済に至る未だ発見されていない実際論であり、人の為、世の為にその身を忘れて全精神を捧げるこれまで聞いたことも見たこともない偉大な聖賢であったことに心が打たれたであろう。つらつらと自分の過去を回顧し反省すれば以前の生活は全く誤っていた。天地や神明に背き、人道を無視し、私利私欲に凝り固まった鳥や獣の姿であったことに想い致って、懺悔せずにはいられない。まるで月が雲を離れてコウコウとした光を放つように、長い眠りから、さめて心機の一大転換を起した。 まず第一に念頭に起ったのは、世の中の人は余りに金にとらわれ過ぎている。自分は金はいらない。自分のような者が金を持ったところで、正しい金の用い方を知らない。それに金を持たしたところで、金を殺してしまう。芸のない事だ。第二に浮かんだことは、しかし自分は金はいらないが、金があったら、二宮先生に差し上げたい。先生は古今独歩の金遣いの名人であるから、と。 このように心機が一転して、当初の借金問題はひっこんでしまった。しかしなおこの機会により多く二宮先生の説諭を聴かなければ、門人にも学ばなければ、また仕法の組み立ても知りたいと、仕法書類の写し取りなどに魂を打ちこんで、遂に借金の件は口にも出せず、また二宮先生にも面会しないで、十八日目に引き上げて郷里に帰った。(竹村篤老、高山藤七郎聞書) この聞き書きは桜町陣屋の七月二十六日の条とほぼ合致する。すなわち 一、「相州(そうしゅう)浦賀(うらが)宮原啓三郎、宮原治右衛門、伝右衛門、同(どう)大(おお)磯(いそ)宿(しゅく)茂兵衛、十日市場(とおかいちば)磯(いそ)屋(や)庄(しょう)七(しち)、豊田村(とよだむら)吉左衛門、甲州(こうしゅう)都留郡(つるぐん)小(お)沼(ぬま)村(むら)年寄(としより)忠兵衛、昨夜より御(ご)陣(じん)屋(や)へ罷(まかり)越(こし)居(おり)同(どう)道(どう)罷(まかり)帰(かえり)候(そうろう)事(こと)」 安居院先生が野州に下って得たものは、金の宝ではなかった。大きな収穫は、破れた自分の魂の取戻しであった。過去は全く空で一切が無である。一切を忘れ万事を葬り、未来を求めなければならない。生身の人間は口に利口な事を言っても世間の風に吹かれるともろい。よし一遍死ぬ、そしてよみがえるのだと、覚悟がきまった。いわゆる大死一番のすぐれた真理に到達した勝利である。この生まれ変わった姿は実に安居院先生五十四歳の時であった。顧みると先生の過去五十余年は不可解の人、疑問の人でもあった。ここに一切を清算して先生の真骨頂があきらかに顕現する。 自宅に帰ってからの先生は米の搗(つ)き売りを始めた。もともと米屋を営んでいたことだから別に不思議はない。しかし不思議なことは表戸を締めて、中でコトンコトンと米を搗く。それを裏口で売る。近所の人が「しばらく不在であったが、いつ帰った。また表戸を締めて何をするのか」と尋ねると、「所用があってよそへ出ていたがようやく帰って来た。これから米の搗き売りを始めるからよろしく頼む。表戸を締めているのは、この庄七は失敗してどん底から立ち上がらなければならない。世間では開店時は表を景気よく飾り立てて出発するが、いったん経営状態が悪化すると戸を閉めるのが型どおりだ。それを考えて次第に景気がよくなれば表戸を一つずつ開ける」と答えた。大死一番、一度死んで生れ変わって全力を尽くすということを、実践に移したのである。 その商売のやり方を元値商(もとねあきない)という。玄米一俵の仕入原価を白米として同一の値段で売る。一般の商業経済論からは全然商売にはならないと、一笑に付せられるかもしれない。家賃や食費、手間は勘定には入れない、ただ空の俵、糠(ぬか)、小米が純益となる細かい利潤が成り立つ。売る米は水で増やさず糠も足さない、ます目も正しく値段も安い。次第に人々が聞き知って遠くから買いに来る。そんな人たちに言われて店の戸を開けるようになって、暮れになって勘定すると十両の利益が出たという。そこで先生は、世の中の人は高く売れば儲かると言い、安く売れば損をすると思う、しかし高値で売る店はお客が減る、安く売るようにする店はお客が増える、譲って損なく奪って益なしの教訓を得た。そこから「合うようにしても合わぬ、合わぬようにしても合う」の格言のようなものを案出して、自分のそろばんを強く握って利益が出るようにしても思ったほどは儲からない、お客にそろばんを預けても、お得意様を大事に扱えば店は栄える。また商法は売って喜び、買って喜ぶ、双方共々喜ぶのが極意であると、大悟し徹底したことを説いている。 いったい元値商(もとね・あきない)の本質は不可解なものであって、あるいは米商売であれば応用されるかも知れないが、取り扱う品物によっては、仕入値で売れば暮しが立てられない心配がある。淡山先生は入費を差し引くといい、高山老は副産物利得の奉仕的と言われた。元値商を原価販売とすれば利潤はどこにあがるのか。要はお客本位の物の取次ぎ役に立ち、打算的でなく利益を独占しないことを奥義とし、後の薄利多売主義に替わるように思われる。この主義が後には我が遠州各地に広まって、至る所に報徳店が現出する。(岡田淡山著「富国論」中勧商章参照) このように一念発起して一家の生業をとったものの、悟りきった人の考え方と在来の営利に汲々とする風俗とは両立しない。ここに到って安居院先生は決然として一家を捨てて周遊の旅について、一家を廃して万家を興すと豪語し漂然(ひょうぜん)として、郷里を去った。(岡田淡山老師談) 〇元値商の歌売る人は成丈(なるだけ)安く買い出でて上手をいふて高く売るらん買方の心は誰も同じ事、値も格好で品のよひのを雑費やら懸けたほれやら引き去って、その値で売れば同じ事なり現金で元値限りに売るときは皆下げ銭で足はいとはじ現金で元値限りに売る時は、皆下げ銭で遠くから来る安心なこの商売の味ひをしらねば、急に取りてかかれず
2024.01.10
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版しますクラウドファンディングは、終了まであと3日です。現在、支援者数59人です。安居院義道 二、安居院家を継いで商人となる 先生は長じて同郡曾屋村(秦野市曽屋)十日市場の安居院(あごいん)家に婿入りしてその家を継いだ。同家は磯屋と称して代々穀物商を営んでいる。それがどんな縁からか、いつ頃か、また何歳か全くわからない。その妻を「ヒサ」といい、すでに先夫藤吉との間に数人の子があったと伝えられるから、相当の年配になってからのように推定されるが、この前後の経歴は全く不明である。これより一商人として家業に従事したことと思われるが、元来慧敏(けいびん=知恵があり気が利く)といわれる多芸の才物であったから、壮年時代は特に鋭気満々として、空しく一草蘆(そうろ:草ぶきの庵)に起き伏しすることをいさぎよいとしないで、常に一攫(いっかく)千金を夢見る山気があった。そのためその考えから出発し、たどった道は米相場であった。これは修験の家に生まれて陰陽説の信奉、気候風土の物産や物価に影響する等の天文記、安居院先生の没後に遺物として残された玉手箱(著作物)に結びついて考えられる。しかしこの手筋は一般に金儲け猛者(もさ)連の着眼する常道で、新発見でも天外からの福音でもない。ちょうど賭博(とばく)をする者が金にのみ眼がくらんで、自分だけは当たることだけ思い込んで、外れたら損をすることの分別が見忘れているのと同じである。さすがの先生といえども、また一直線に突進して浮き身をやつして、一進一退、虚々実々の場面にしのぎを削った。時には面白おかしく鼻高々の面もあったことと想われるけれども、いつまでもそうは甘くはない。遂には一敗地にまみれて大きな傷を受ける破目に落としいれられた。そして「しまった」と気づいた時は、自分の金銭を失くしたのではなく、養家の財産をすっかりなくしてしまった。しかし申し訳がないからと腹を切る気にもなれず、運が悪いからだと自己弁護に都合のいいふうに解釈し、もし金があったら取り返せそうな気がする。誰か資本を貸してくれる人はないか、最後の一戦に運命を賭けてみたいと念じていた。そんな時、天保十一年(一八四〇)になって報徳二宮先生は、小田原領内曽比・竹松の二村に報徳仕法を行い、負債整理や荒地開墾など難村衰村の立て直しにあずかる。安居院先生は仕法事業の性質は知らない。また深く究めるほどの興味は起こらない、そのうちに利息の安い金を貧乏人に貸す一事だけは天来の福音と感じて受け取った。しかしまた他面には今のようなセチ辛い世の中に利息が安いことなどあるはずがない。それを貸すということがわからない。事によると、二宮という者は大山師で、一芝居うつのではないかと疑った。しかし自分は二宮に用があるのではない。金を借りることが目的だ。よし一つ頼もうと決心した。その時二宮先生は小田原領におられない。野州(栃木県)桜町陣屋にあると聞いて、はるばると同地に向かった。すなわち陣屋日記の条に一、 相州十日町市場磯屋庄七と申す者、田蔵をたよって罷り越し候事と記載されている。また別日記の二宮先生の子息尊行氏二十二歳の時の筆記にも、田蔵の上に中沼村を加え、その末文に「始めて来る」と付け加えられている。 安居院先生は陣屋に行き、早速二宮先生に面会を求めたが、公務多忙のためと即座に拒絶されてしまった。 それは陣屋としては誠に無理もないことで、その当時、二宮先生は老中水野忠邦より、江戸表へ出府するように命令されていた。続いて利根川分水路印旛沼掘割工事の検分を仰せつけられ、後には幕府の役人に取り立てられ、御普請役格(ごふしんやくかく:土木工事係)を拝命するというを拝命するという、一世一代の光栄の出世時代に遭遇して内外実に大変多忙な時であって、それらは七月二十六日の陣屋日記に照らして逐一次第がうかがわれるからである。 このような場合であったから、先生に対して面談の余裕はない。しかし郷土の方から尋ねて来た情義で門前払いも忍びない。「まあ当分、風呂番でもさせておけ」といわれ、それから雑用をしながら面会の機会を待って、暫く陣屋に厄介になっていた。後に二宮先生はかいま見られて「彼は風呂の焚き方を心得ている」と言われたと伝えられている逸話がある。 この安居院先生と報徳のつながりについては次の一説がある。「その頃、竹松村の隣村に安居院庄七という人がいた。先師が、曽比・竹松の二村に取り直し仕法取り調べのため出張されると、筆算するべきものが多いことから、この庄七氏を書記に命じた。氏はもとより英才かつ志あり。師の教諭を聞いてよく筆記し、仕法の書類を多く書写し、厚くその教えを信じ、よくその意を理解した。事が終わって後に伊勢神宮に詣でて、帰路この教えをもって駿遠二州に遊ぶ、二州にこの道が伝播したのは全く庄七氏の力である、云々」(福住正兄著「富国捷径」首巻)「時に翁その隣村にあり。子弟に授くるに法書(手本となる仕法書)を以てす。先師その能筆を聞いて、挙用して書記役とする。弟の浅田勇次郎もまた随(したが)う。兄弟は昼夜先師に親しんで会得することが大変多かった。翁が一代の経営は既にここに基づく、云々」(雑誌報徳二十三号)とあることから、安居院・浅田兄弟の書記採用説が伝えられるが、我が遠江地方において先輩の伝える所では聞くところがない。桜町陣屋訪問の記事のように全く報徳には親しみも見えない、また二宮先生も未見の人のように面会も許されないと伝え、後の嘉永六年遠州七人組の日光訪問が初会見であったように伝えられている。(竹村篤氏・高山藤七郎老「聞き書き」による)また足柄下郡曽比竹松の仕法地について調べてみたが、安居院先生の関係は見つからない、また先生がその隣村に住んでいたとあるが、郡が大住郡と足柄郡との違いもあって理解しかねる。 本社理事、故神谷喜源治氏は、安居院先生は初め能筆ではなかった、筆道の研究にふけったのは晩年の五十余歳からである、能筆であったのは弟の浅田氏であって、あるいは同地仕法の手伝いに出たのは同氏であったかと思われる、と語られた。なお、筆者(鷲山恭平)の意見として述べれば、浅田氏が近江・伊勢地方において早くから報徳を説かれた所から、その資料はいずこから仕入れたか判然としていないが、必ずや小田原領の仕法から学んだより外にない、と思う。【編者注】「富田高慶先生との対話」(『富田高慶報徳秘録』所収)に次の一節があり、それからすると安居院先生は、小田原の曽比・竹松の報徳仕法の際、二宮先生の村民への教戒を聴聞しており、また仕法書の書き写しをしていたようである。「安居(院)は、旧大山御師なりと云う。曽比・竹松の両村御趣法御施行の頃、故先生が村民一同ヘ御教戒為されたる所を、障子(しょうじ)の外にて立ち聞きした人物で、御趣法はその頃、筆記に頼られていたのを幸いに写し置き、その御趣法に感じて、駿遠地方に説諭し、回られたり」
2024.01.10
プルーンに含まれる栄養素と正しい食べ方!食べ過ぎには注意プルーンは鉄分が豊富なイメージが強いですが、実はそれほど多くの鉄は含まれていません。ドライプルーン100gに含まれる鉄分は、わずか1.1mg。同じドライフルーツのあんずや干しブドウと比較しても、半分以下ほどしか含まれていません。しかしプルーンには、鉄分以外に健康や美容に嬉しい栄養素が豊富に含まれます。プルーン100gに含まれる食物繊維は、7.1gです。食物繊維には水溶性と不溶性の2種類があり、プルーンにはこれらが50%ずつの割合でバランス良く含まれています。1 食物繊維水溶性食物繊維は、吸着性のあるネバネバとした形状です。胃腸内をゆっくりと移動しながら小腸でコレステロールや胆汁酸を吸収し、便の動きをスムーズにします。さらに糖質の吸収を穏やかにして、食後血糖値の急な上昇を抑えてくれます。プルーンに含まれる水溶性食物繊維の一種「ペクチン」は、LDL-コレステロール値を低下させる働きがあり、生活習慣病予防にも効果が期待できるといわれています。不溶性食物繊維はその名の通り水に溶けず、水を吸収して膨らみます。便のカサを増やすことで腸を刺激し、排便を促します。また不溶性食物繊維は、乳酸菌やビフィズス菌など体に良い作用をもたらす善玉菌のエサとなります。善玉菌が増えることで、悪玉菌の増殖を抑制し、腸内環境を整えてくれます。2 β-カロテンとビタミンAプルーン100gにはβ-カロテンが1100μg含まれます。β-カロテンといえばプロビタミンAで、体内で必要とされるときにビタミンAに変換されます。ビタミンAの効果以外に、β-カロテンは単独でも抗酸化作用や免疫力賦活作用があることが知られています。プルーン100gに含まれるビタミンA(レチノール活性当量)は、100μgです。ビタミンAは油に溶けやすい「脂溶性ビタミン」の一種で、肌や髪、目の機能を正常に保つために重要な栄養素です。ビタミンAが不足すると、目が乾燥しやすくなるだけでなく、さまざまな視覚障害の原因にもなります。例えば、角膜や目の粘膜が傷つくことによる視力の低下、暗いところでものが見えない「夜盲症」などのリスクが上がります。またビタミンAは、肌や髪の乾燥も防ぎ、ハリのある健康な状態を保ちます。コラーゲンの分解を遅くする効果もあり、アンチエイジングにも効果的です。3 ビタミンKプルーン100gに多く含まれるビタミンKは、92μgです。この数値はフルーツではトップクラスです。ビタミンKは、血液の凝固促進や骨の形成・強化に効果的な栄養素です。人の身体はケガをして出血しても、時間が経つと血液が固まってカサブタとなり、自然と血が止まります。このように血が止まるのは、「血液凝固因子」というタンパク質が血液を凝固させているからです。ビタミンKは、体内で「血液凝固因子」を作る材料となります。また、ビタミンKは骨芽細胞中の「オステオカルシン」というタンパク質を活性化し、カルシウムを骨に沈着させます。他にも、コラーゲン生成を促して骨質を改善する働きもあり、骨の健康維持を助けます。そのため閉経後のホルモンバランスの乱れや老化によって起こる骨粗しょう症の予防に役立つでしょう。4 カリウムプルーン100gに含まれるカリウムは、730mgです。ドライフルーツは青果より水分が少なくなっている分、栄養素が濃縮されていることが多いです。他のドライフルーツのカリウム含有量もおおよそ同じようなレベルですが、プルーンの良さは単独でも、料理の具材でも美味しく食べられるということでしょうか。カリウムは、細胞内液の浸透圧を調整して一定に保ち、体液のpHバランスも調整する栄養素です。身体の余分な水分や塩分を排出するため、塩分を摂りすぎた際の体のむくみを防止することが期待できます。5 マグネシウムマグネシウムは多くの酵素を活性化し、生命維持に必要なさまざまな代謝に関与する重要な栄養素です。プルーン100gには40mg含まれます。マグネシウムはカルシウムとともに、筋収縮を制御したり、血管を拡張させて血圧を下げたり、血小板の凝集を抑えて血栓が作られづらくする働きをします。また、骨や歯の形成にも欠かせません。6 ポリフェノールプルーン100gに含まれるポリフェノールは、184mgです。そのうち「ネオクロロゲン酸」という種類が71%(約130.6mg)と高い割合を占めます。「ネオクロロゲン酸」は、抗酸化作用の高いポリフェノールの一種で、アンチエイジング効果が期待できます。老化の原因となる活性酵素から身体を守り、肌や髪などを若々しく保ってくれるでしょう。
2024.01.10
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