星とカワセミ好きのブログ

2020.08.13
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私の母方の祖父の思い出と、祖父が原爆、米兵と関わった事について書きます。

1945年7月28日5時、沖縄の読谷(よみたん)飛行場を米軍B24爆撃機「ロンサムレディー号」、「タロア号」など全部で33機が飛び立ち、昼に広島県呉市にある日本海軍戦艦「榛名(はるな)」を攻撃しました。榛名の対空砲火で「ロンサムレディー号」は山口県玖珂郡伊陸(くがぐんいかち)に落ち、「タロア号」は広島県佐伯区八幡(さえきくやはた)に墜落しました。

私の祖父は当時中国憲兵隊司令部に勤務しており、馬に乗って墜落した「タロア号」を見に行ったり、司令部で米兵捕虜に質問したりしたそうです。その後「ロンサムレディー号」機長のカートライト氏など3人が東京の本部に送られ、祖父も本部に報告をするため東京に出張していました。
1945年8月6日8時15分、広島に原爆が投下され、壊滅状態になりました。祖父は広島の状況を確認するため広島に戻り、広島市内にほとんど建物が残っておらず、瀬戸内海まで見渡せたことにショックを受けたそうです。中国憲兵隊司令部の軍人と捕虜の米兵は全て亡くなっており、米兵が居た場所で骨を拾いました。またGHQの命令で、タロア号が墜落して米兵が死亡した場所に、墓標を建てて写真を撮りました。

祖父は、戦争時代の事を一切家族に話しませんでした。私の母親も、何一つ聞いていないと言っていました。祖父が亡くなる少し前、私がぜひ戦争の事を聞きたいとお願いした時、1時間だけ話をしてくれました。ノートにメモを残したのですが、それが私の唯一の記録です。
歴史研究家の森重昭(もりしげあき)さんが「原爆で死んだ米兵秘史」、「爆撃機ロンサムレディー号 被爆したアメリカ兵」という本を出版され、その中に祖父の手記と写真があることを知り、読んでみました。私が海外に住んでいたため知らなかったのですが、祖父は米兵の事について放送局から取材を受けていたそうです。

私が祖父から聞き取ったメモ、祖父の手記から、少し紹介します。
・祖父は大正5(1916)年2月に広島で生まれました。旧制の修道中学校を卒業し、就職をしましたが、昭和12(1937)年の日中戦争が始まった年に徴兵検査で広島11連隊に入隊します。翌年の昭和13(1938)年に馬に乗れるとの理由で東京の憲兵隊に入ります。毎日の勉強は厳しく、法律など寝るのを惜しんで覚えたそうです。隣の建物は、有名な陸軍中野学校でした。成績は2番で、記念に陸軍大臣の銀時計を頂いたとの事で、うちの田舎に置いてあります。
・日中戦争が始まってから、中国の上海、南京、青島など各地に行ったそうです。東京にいるとき、司令部の建物で吉田茂氏を毎日見ていたと言っていました。
・昭和20(1945)年4月20日付で東京から岡山に赴任し、6月1日付で広島の中国憲兵隊司令部に配属されます。
・7月28日に米軍爆撃機B24爆撃機の「ロンサムレディー号」などが呉で戦艦「榛名」の高射砲を浴び、墜落します。生き残っていた捕虜は中国憲兵隊司令部に連れていかれ、祖父は学んだ英語で米兵と話をしてみたそうです。
・7月30日にロンサムレディー号の機長であるカートライト氏など3名を、東京の司令部に連れていく事になり、隊員が汽車で20時間かけて移動したが、途中の大阪駅で汽車を乗り継ぐとき、群衆が米軍捕虜に石を投げつけ、それを防ごうとした隊員にも石が飛んできて大変だったらしいです。
・「タロア号」が江波の高射砲で撃墜され、五日市方面に墜落するのを見た祖父は、自動車が無かったので馬に乗り佐伯区八幡の現場に行き、現状を確認しました。その途中の広島市草津町で米軍捕虜3人を乗せたトラックとすれ違い、街道に集まった町民は万歳と絶叫していたそうです。
・祖父は8月3日、事務連絡のため広島から東京本部に汽車で移動し、4日夕方に到着しました。
・8月6日8時15分に原爆が広島に投下され、祖父はその一報を同日午後4時に本部で聞きました。一報は「今朝8時頃広島に敵機3機来襲、新型爆弾1発の投下により広島市は瞬時にして壊滅せり」でした。
・祖父は広島での状況を報告する命令を受け、8月7日早朝に東京を出発し、9日朝に広島駅の二つ手前の海田市駅に着きました。それより先は広島が被災して不通だったので、徒歩で広島駅に向かいました。広島駅から見る広島市内は一面焼け野原で、その中に点々と逓信病院、福屋百貨店、産業奨励館(原爆ドーム)、光道小学校などの残骸が見える程度でした。焼け野原の向こうに艦船が浮かんだ江田島の海が見えた時は、凄まじい破壊力に愕然としたそうです。死体が炎天下であちこち転がっており、腐敗の悪臭が漂います。夜は死体を焼く火や燐の火の玉が見え、思わず涙ぐんだそうです。
・終戦直後にGHQの命令があり、祖父は佐伯区八幡の「タロア号」墜落現場に行き、米兵供養のため「米軍勇士之墓」と墨書きした6基の十字架を建立し、写真を残しました。その後米兵の骨はアメリカの遺族に引き渡されたそうです。

・終戦後、公職追放命令が出たので祖父はおもちゃ屋を開き、子供5人を育てました。岩国城の祭りでは、乗馬ができる祖父が兜、鎧を身に着けて侍の恰好をし、馬で街を巡ったそうです。
・戦争の事は何一つ一切言わない祖父でしたが、遺言には、祖父が持っていた戦争関係の資料とレコードは孫の私にと書いてあり、田舎に保管してあります。レコードは歌謡曲、洋曲、映画のテーマ曲などありました。祖父は皆の前で英語の歌を歌うことがあり、アメリカに興味があったのだと思います。

・祖父は原爆手帳を持っていました。病気もありましたが、90歳で亡くなりました。


↑ 私の祖父と岩国基地のキーフ少佐。
1998年7月29日、中国憲兵隊司令部跡地に設置された米兵被爆死者慰霊銘板の除幕式。


↑ 2016年9月3日に私が撮影した米兵捕虜慰霊の銘板。広島市中区基町12-8、宝ビル北側。


↑ 中国憲兵隊司令部の被爆後の写真。


↑ 原爆で死んだ米兵秘死/森重昭/光人社/2008年8月11日発行。


↑P1 出撃の半年前に撮影したロンサムレディー号の乗組員。(フランシス・ライアン氏提供)


↑P2 1945年7月28日、呉港外の江田島小用沖に繋留中、米空母艦載機の攻撃を受ける戦艦「榛名」。この日日本軍によってロンサムレディー号とタロア号のB24爆撃機2期、艦載機20機の米軍機が撃ち落とされた。

↑P.3 祖父が撮影した写真。
1945年7月28日、B-24爆撃機タロア号が墜落した広島市佐伯区の現場(藤田明孝氏撮影)。



↑ P.4 呉空襲で戦艦「榛名」が撃墜したロンサムレディー号と同型のコンソリデーテッドB24。


↑P.5 ロンサムレディ号の胴体には、大海原で助けを求める全裸の孤独な貴婦人の絵が描かれていた。(デイビッド・H・ロジャース氏提供)


↑ P.6 祖父が撮影した写真。
1945年7月28日に飛行機が撃墜されて以降、広島市佐伯区の墜落現場に建てられたB24爆撃機タロア号の搭乗員マービン、カークパトリック、アリソン、パシフィールド、ジョンストン、フォールスの墓標。土葬されており、戦後、米軍が遺骨を持ち帰った。(藤田明孝撮影)



P.7 広島に原爆を落としたエノラ・ゲイ。1945年8月6日午前1時45分にデニアン北飛行場を出撃し、8時11分に広島上空に到達、同15分に原爆を投下した。爆発直後テニアン基地に攻撃成功を打診し、午後1時58分、無事基地に到着した。



P.7 テニアン基地に帰還したエノラ・ゲイの搭乗員と地上整備員。2列目中央の飛行服を着用しているのが機長のボール・ちべっつ陸軍大佐。エノラ・ゲイとはチベッツ大佐の母親の名前であり、機体の守り神として機首の横に記されていた。エノラ・ゲイの12人の搭乗員全員がアメリカ政府より表彰された。



P.8 広島上空に出現したキノコ雲。エノラ・ゲイは8月6日午前8時15分に9,600メートルの高度から原爆を投下した。原爆は投下から43秒後に広島上空約600メートルの高さで激しい閃光とともに爆発し1秒後に直径280メートルの火の玉が出現、キノコ雲は高さ約1万メートルの成層圏の下端にまで達した。



P.8 コンクリートの建物以外、何も残っていない原爆投下後の広島の惨状。1990年5月15日の厚生省(当時)の発表によると、広島の被爆死者数は20万1990人、長崎9万3966人で、合計29万5956人が原爆の犠牲となった。


P.18 米兵捕虜搭乗機墜落地点(1945年7月25~28日)
①B-24ロンサムレディー号、②B-24タロア号、③SB2Cヘルダイバー、④TBMアベンジャー。



P.132~133 中国憲兵隊司令部で何があったのか。


P.133 祖父(藤田明孝)が写真と記事に紹介されている。


P.134 中国憲兵隊司令部後に設置された被爆死した米兵捕虜慰霊の銘板。 


P.137 被爆当時の基町一帯の軍事施設の配置。


P.137 中国憲兵隊司令部の場所。 爆心地から400m。
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↑ 爆撃機ロンサムレディー号 被爆死したアメリカ兵/トーマス・C・カートライト/訳者:森重昭/日本放送出版協会/2004(平成16)年7月25日発行。


P.122~123 


P.122 中国憲兵隊司令部跡地に掲げられた記念の銘板。ロンサムレディー号の6人を含む全部で11人の原爆犠牲者の冥福を祈るものである。これは広島の森重昭氏が発案し、何人かの浄財の提供を受け建立された。(写真提供:森重昭氏)



P.194~209 祖父の手記。
証言 原爆による被害前後の中国憲兵隊司令部追憶記/元中国憲兵司令部勤務憲兵准尉/藤田明孝

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2020年8月7日 朝日新聞朝刊。 原爆ドームと平和記念公園周辺(4枚を1枚に合成)
8月6日午前、広島市中区 上田幸一撮影。



↑ 爆心地(島病院)、広島市役所、広島県産業奨励館(原爆ドーム)

↑ 本川国民学校。
広島県商工経済会(現広島商工会議所)の建物屋上から南側を撮影したパノラマ写真(1945年9月)。





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最終更新日  2020.08.31 20:41:07
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